Title Author(s) Citation Issue Date Type 製法転換期のクロル・アルカリ産業における利益獲得戦 略 青山, 允隆 一橋研究, 33(3,4合併号): 13-28 2009-01 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/17989 Right Hitotsubashi University Repository 13 製法転換期のクロル・アルカリ産業における 利益獲得戦略 青 山 允 隆 1.はじめに 本論文の目的は,差別化が困難なコモディティ製品において利益を獲得する ための戦略を探索することにある。より具体的には,コモディティ製品によっ て利益を獲得する方法として従来議論されてきた,①コストリーダーシップ戦 略や②独占的な市場地位の獲得,③ライセンス供与の戦略などを採り得ない特 性を持った産業を分析対象とし,従来議論されてこなかったコモディティ製品 による利益獲得戦略を探索することが本論文の目的である。結論を先取りする ならば,本論文で分析対象とした製法転換期のクロル・アルカリ産業において は,製造工程の生産性を向上させる技術を開発した企業は,その技術革新を競 合化杜に積極的にライセンス供与し,それらの供与先に継続的に高付加価値な 補完財を提供することで利益を獲得していたことが示される。 本論文では,1973年から1980年代後半までのクロル・アルカリ産業を事例 として取り上げる。この産業は,塩素と苛性ソーダと水素の、標準化されてお り差別化が困難な三つの基礎化学晶を生産する産業である。この産業において は,製造工程において用いられていた水銀が公害問題を引き起こしたために, 1973年から2度にわたって国策的に製法転換が行われた。製法転換は国策事 業であったという側面から,技術開発企業が高効率な新技術を独占し,コスト リーダーシップ戦略を採用することは困難であり,またライセンス料を独占的 な高価格に設定して利益を獲得することも困難であった。また,技術革新によっ てもたらされたコスト優位性を駆使して,価格を下げることで独占的な市場地 位を獲得し,利益を獲得するのも困難であった。クロル・アルカリ製品はどれ も危険物で輸送が困難であり,輸送費がかかる。そのために,生産地と用途先 との間はパイプで連結されており,価格を下げて競合から顧客を奪うのも非常 14 一橋研究 第33巻3・4合併号 に困難であった。本論文では,この製法転換期に新製法を開発した企業がどの ようにして利益を獲得し.たのかという点に注目する。 このような特性をもつ産業は一見すると特殊なように思われる。しかし,クロ ル・アルカリ産業と同様に輸送が困難な製品については,固定的な取引が行わ れている場合は他にも多く存在しうる。また,危険物に関して言うならば,そ の生産活動の社会的な責任がとりわけ強いために,政府がそれらの企業活動に 積極的に介入してくる可能性が高い。そのため,政策的な制約条件を考慮して 戦略立案を行わなければならない危険物産業は他にも多数存在するだろう。こ のように,クロル・アルカリ産業と類似の特性を持った産業は複数存在すると 考えられる。その点において,差別化が困難なコモディティ製品で利益を獲得 するための戦略を考察する上で,このように多くの企業に共通しうる制約条件 を考慮して経営学的な分析を行う余地は多分に存在すると考えられるのである。 2.既存研究の検討 これまでのところ,コモディティの戦略論を体系的に論じた研究は存在しな いけれども,コモディティの戦略について考察する上で参考になる戦略論的な 知見はいくつか存在する。コモディティ製品を展開する上で有効な戦略として 考えうるものとしては,porter(工980)のコストリーダーシップ戦略が挙げられ る。P0ft・r(1980)は,同業他社よりも低コストを実現することで,業界内に強 力な競争要因が現れたとしても平均以上の利益が得られると説明している。そ のような競争優位の源泉としては,コスト削減のための企業活動全般が関わる。 p・・t・f(1980)では,単位生産量を増やすことで経験効果を蓄積したり,最適規 模の工場に積極的に投資することで規模の経済を獲得したり,間接諸経費を削 減したりすることを揮じて競争優位を獲得すべきであると論じられている。 同業他社よりも低コストを実現することで競争優位を獲得するという意味で はコストリーダーシップ戦略と同様な論旨であるけれども,生産コストが大き く削減できる技術革新が生じた場合には採り得る戦略が異なる。とりわけ,差 別化が困難な製品を展開する上で,生産工程で生じた技術革新は競争優位性に 大きな影響を与えるだろう。コモディティと類似の特性を持っと思われる,素 材型産業における工程革新を研究したUtt・rb・・k(1994)は,素材型産業における 製法転換期のクロル・アルカリ産業における利益獲得戦略 /5 工程革新は,より複雑な組立型産業に比べて競争優位により直接的に貢献する ことを指摘した。彼は,組立型産業に比べて工程数の少ない素材型産業におい ては,一つの工程で生じた生産性向上の影響がコスト優位に対してより大きい と説明している。このように,生産工程の技術革新を通じて極めて強い競争優 位が獲得できる場合には,コストリーダーシップ戦略において示唆されるよう な,高マージンで生産することで業界内の競争要因に耐える戦略と異なる戦略 も採用しうる。例えば,米国の酸化チタン産業を研究したGhεm舳t(ユ983)は, 新しい製造技術と規模の.経済性を駆使することで,自ら価格を下げ,独占的な 市場地位を獲得することで利益を獲得したE.I.d・p㎝t d・N・m・… &Co.の戦 略を事例として取り扱っている。 また,工程革新を独占することで利益を獲得する方法と異なり,その製造技 術をライセンス供与することでライセンス料を獲得し,利益を得ることも可能 である。とりわけ化学産業においては,自身は製品の製造を行わないエンジニ アリング専業企業が存在するために,ライセンス供与を通じて工程革新を市場 化するための技術取引市場が発達しており,ライセンス供与件数は非常に多い ことがAf0faらによって確認されている(Afof・・t・1.2001)。ライセンス供与 を行う技術を他社が模倣・追従することが困難であれば,論理的にはその技術 がもたらす生産性向上分ギリギリまではライセンス料として徴収することが可 能である。ライセンス料の価格を独占的に設定することができれば,ライセン サーは大きな利益を獲得することができるだろう。 以上のように,コモディティで利益を獲得するには三つの戦略が理論上採り 得る。すなわち,①コストリーダーシップ戦略(高マージン生産)と②独占的 な市場地位の獲得,③ライセンス供与を行う戦略の三つである。 しかし,本論文で分析対象とする製法転換期のクロル・アルカリ産業では, これら三つの戦略のどれを用いても利益を獲得するのが困難であった。以下で は,このような産業でどのように利益を獲得することができるのかという問題 を設定し,探索的な分析を行う。 3.事例分析 クロル・アルカリ産業は,食塩水を電気分解することで,塩素と苛性ソーダ, 16 一橋研究 第33巻3・4合併号 若千の水素の,三つの基礎化学品を生産する産業である。製品はそれぞれ一定 の割合で生産される一方で,需要はその書11合と連動するわけではないために生 産量の調整が難しい。このような特性があるために,一般にクロル・アルカリ 産業は「バランス産業」と言われる。この産業で生産される三つの基礎化学晶 はどれも標準化され,差別化が非常に困難である。そのため。製品差別化を行っ ている企業はこれまでほぼ存在しない’;i。また,売り手と買い手との間に極め て固定的な取引関係が存在することもこの産業の特徴の一つである。 本論文では,特に/973年から1986年までの製法転換期に生じた,工程革新 であるイオン交換膜法技術に関わる戦略選択を分析対象とする。この製法転換 は国策的になされた事業であった。次世代技術を開発することに成功した企業 はわずかであったけれども,後述する特殊な事情から,その技術を独占するこ とで価格競争力を高め,市場地位を高める.戦略を採用したり,ライセンス料を 独占的に徴収したりするのも非常に困難であったという背景がある。 このように,当時のクロル・アルカリ産業は,次世代の製造技術を開発でき たとしても技術を独占できなかったという背景がある。そのため,①高マージ ンでの生産も,②工程革新のコスト低下分で価格を下げることで独占的な地位 を獲得することもできず,また③ライセンス料に関しても独占的な価格設定が しにくい状況だったのである。以下では,このような状況にあったクロル・ア ルカリ産業では,イオン交換膜法技術を開発した企業はどのようにして利益を 獲得しているのかという点に注目して分析を行う。 ここでの結論を先取りするならば,技術開発企業はイオン交換膜法で製品を 生産する際に必然的に必要になる消耗品である,。イオン交換膜素材を販売した り,メンテナンスサービスを提供したりすることで利益を獲得していた。その ために,技術開発企業はライセンス料収入では十分な利益が獲得するのが難し かったにもかかわらず,競合他社に積極的にライセンス供与を行っていたので ある。 以下では,まず製法転換の概要と製造技術間の比較を示す。そして,.当時の 時代背景を明らかにすることで,上述の通りコモディティ生産者が採り得る一 般的な戦略がこの産業では採り難かったことを明らかにする。次に,技術開発 企業がどのような戦略を選択したのかという点について詳細に説明を行う。 製法転換期の一クロル・アルカリ産業における利益獲得戦略 ユ7 3−1 製法転換と技術の概要 本論文で分析対象とする1973年から1986年までの10余年の間に,クロル・ アルカリ産業のほとんどの企業が二度にわたって製造設備を異なる製法の設備 に転換せざるを得ない状況におかれた。本論文ではこの二回にわたる産業規模 の製法の転換を合わせて「製法転換」と呼ぶ。実際には,この「製法転換」は, 当時の通産省が1973年から1977年までの問にクロル・アルカリ産業の全企業 が水銀法から.隔膜法へ転換することを実質的に強いた「第1期製法転換」と, 1977年から1986年までの間,隔膜法から技術的により優れたイオン交換膜法 へ,クロル・アルカリ各社がほぼ自主的に転換を進めた「第2期製法転換」の 二つの時期に区分できる。 第!期製法転換は,形の上では規制ではなく行政指導ではあったものの,ク ロル・アルカリ各社にとってはほぼ強制に近い行政指導であった。そのような 指導がなされた背景には,当時の公害廃絶のための社会的な風潮がある・1960 年代半ばから,日本国内では企業が排出する有機水銀に起因する水俣病が社会 問題となっていた。当時生産工程に無機水銀を使っていたクロル・アルカリ産 業は,そのような社会的な風潮の中で,実際には水俣病の原因となる有機水銀 は用いていなかったにもかかわらず,水銀の使用を差し止めるよう行政指導が なされたのである。当時,水銀法に代わる製法は,水銀法よりも低効率な隔膜 法しか存在しなかった。さらに,第1期製法転換当時,日本国内のクロル・ア ルカリ各社の設備はほぼ100%水銀法であり,隔膜法の技術蓄積も無かったた めに米国の技術導入に頼らざるをえなかった。 第/期製法転換中に,隔膜法に代わる次世代のクロル・アルカリ製造技術と して注目され始めたのがイオン交換膜法である。第1期製法転換の行政指導が 始まった1973年から国内の各社はイオン交換膜法技術の開発に乗り出し, 1970年代後半には商業利用できる水準の技術を開発することに成功した企業 が現れた。第1期製法転換完了の後に,低効率な隔膜法から高効率なイオン交 換膜法へ各社は漸次転換を行った。これが第2期製法転換である。 本論文で分析対象とするのは,主にこの第2期製法転換期に,次世代技術で あるイオン交換膜法の技術を開発した企業がどのような戦略を採用したのかと いう点であ孔直感的には差別化が困難なコモディティ製品を製造する企業に とって,生産効率を大きく高める技術革新は大きな競争優位性の源泉となりう 18 一橋研究 第33巻3・4合併号 ると考えられる。先行研究の示すとおり,そこでの戦略の定石は,①コストリー ダーシップ戦略か,②独占的な市場地位の獲得か,③ライセンス供与による利 益の獲得かの三つの戦略が採り得ると考えられるだろう。しかしながら,当時 のクロル・アルカリ産業ではそれら三つの戦略のいずれを採用しても十分な利 益を獲得できる状況になかったのである。それらの戦略を採用する際の障壁に ついて議論する前に,隔膜法とイオン交換膜法との問にはどのような違いがあ り,それがどの程度生産効率を高めると考えられていたのかという点を確認す る必要があるだろう。 表1は各製法の製造原価を比較したものである。金利込製造原価の項目に明 らかなように,各製法問では製造原価が大きく異なっており,とりわけ隔膜法 とイオン交換膜法一とではその生産性に大きな違いがあることが分かる。 一このような生産性の違いは,主には陰極側と陽極側を分離するための機構と, その分離機構と電極との位置関係の違いか.ら生じている。例えばイオン交換膜 法で用いるイオン交換膜は,膜そのものに穴が開いているわけではなく,膜を 通して特定のイオンのみ選択的に透過する性質を持っている。そのため,電極 と膜の間は,膜が耐えうる限り近い方がよい。一方隔膜法で用いるアスベスト 隔膜は,微小な穴が多数開いている多孔質膜である。膜に物理的に穴が開いて いるために,電解液の流体速度を考慮して電極の設置を行わなければならない。 電解液を通過する電気は隔膜法で生産した方が多く,その.電気が通過する際に 電力のロスがあり,また電解直後の苛性ソーダが低純度であるために後工程で 蒸留処理などを行わなければならない。イオン交換膜法は,隔膜法の持つこれ らの問題点を克服したために,高効率なのである。 このように高効率な製造技術を開発できた企業は,なぜ一般的に考えうるコ モディティ生産者の採り得る戦略を採用できなかったのか。以下の節ではその 理由をより詳細に説明する。 3−2 市場地位向上の困難性 当時のクロル・アルカリ産業においては,市場地位を高めるのが困難であっ た。それは,売り手と買い手との間に極めて固定的な取引関係が存在している ために,価格が極端に低くなりでもしない限り競合企業の市場を奪うのが困難 だったからである。この固定的な取引関係は,クロル・アルカリ製品の特性と, 製法転換期のクロル・アルカリ産業における利益獲得戦略 ユ9 このクロル・アルカリ事業への参入目的によって歴史的に作り上げられたもの である。 妻1製法間の製造原価比較 単位=円ノ㎏ 一’ 一 一 ’ ■■日 水銀法既設. 設備費(億円) 隔膜法→lM法新設 隔膜法既設 一 20∼25 3500川3フO0 3000∼3200 2700…2900 ■ 主要原単位 電力(kWh/t,C12) 蒸気(t/t,C12〕 O,5川O.7 O.3川O,4 2.9川3.1 変動費一 電力・蒸気費 55.7 61.5 45.2 リース料・その他 204 22.4 23.5 計 76.1 83.9 68.7 固定費 減価償却十修繕費 4.5 4.5 9,8 労務費 2.5 2.9 2.5 その他 計 6.O 5.5 4.9 13.O 12.9 η、2 96.8 85.9 製造原価 製造原価 89.1 金利 一 金利込製造原価 89.1 一 96.8 2.O 87.9 ^ 1.』一一吉山^^^仁^自 L l1牲虫’^“ 出所:酊ソーダと塩素』1983年6号より筆者作成 .一一三’ 吊. . クロル・アルカリ産業の生産する製品である塩素と苛性ソーダ,水素はどれ も危険物である。これらの危険物を用途先に輸送するのに単位重量当たりの輸 送コストが非常に高く付く。 クロル・アルカリ産業の事業収益について,株式会社カネカの電解課長であ る林靖二氏は次のように語っている冊。 私の個人的な推察ですが,各社ともペアトン原価十経費十輸送費の製造 原価と,売上による販売価格の差は,1∼2円/kg程度か,場合によって は1円/㎏未満ではないかと思います。つまり,年間10万tの会社で1− 2億円の利益を出一しているのが限界ではないかと考えます。 20 一橋研究 第33巻3・4合併号 ここで言うペアトンとは苛性ソーダと塩素,水素の三物質のことを指してい る。クロル・アルカリ産業においては,個々の製品の原価を割り出すのは難し く,ペアトンコストがその算出に用いられる。世間一般の概算としては,ソー ダ1kg(十塩素O.86kg+水素O.3㎡)を生産するのに, <変動費> 原料塩 …原単位1.5㎏/kg,単価6一円/kg, 9円/kg 電力 …2.3kWh/㎏,単価9円ノkWh, 20.7円/㎏ そめ他 …約3円/kg <固定費> 固定費全体…6∼8円ノ㎏ つまり,製造原価はペアトンで40円程度となる。市況に応じて変化するも のの,苛性ソーダ1kgあたり27円,塩素O.86kgあたり10円,水素0.3㎡あたり 3円程度というのが一般的であ乱これを各製品1kgあたりに換算すると,苛 性ソーダ27円,塩素11.6円,水素10円程度となる。苛性ソーダの価格は平均 して1kgあたり38円程度である旧コ。外販を選択する場合,製造原価との差額11 円ノ㎏の範囲内で製品輸送を行わなければならない。輸送のコストは,ユOt積載 のタンクローリーで100㎞輸送することを仮定すると以下のとおりになる。 ①48.5%濃度(輸送用に蒸気で濃縮)の苛性ソーダを輸送する場合 7.!∼8円 ② 30%濃度(電解直後)の苛性ソーダを輸送する場合 /0.9∼12.5円 この輸送費のうち固定費が4書1」,変動費が6割程度なので,距離が増えるごと に6割輸送コストがかかることとな乱また,塩素は高圧・毒性ガスであるた めに安全対策・充填費用に苛性ソーダの二倍程度コストがかかるけれども,苛 性ソーダと異なり塩素100%であるので実質のコストは半額,つまり苛性ソー ダと同程度の輸送コストとなる。 このように,クロル・アルカリ三品,特に塩素が危険物であり,単位重量あ たりの輸送費が高いために,クロル・アルカリ産業においては製品の輸送にコ 製法転換期のクロル・アルカリ産業における利益獲得戦略 21 ストを多くかけることができないのである。 また,クロル・アルカリ.製品は,多くの産業で中問原料として用いられる基 礎化学品である。とりわけ,塩素を塩化ビニール用に供給したり,苛性ソーダ を合成繊維向けに供給したりするために自家消費目的で参入した企業や,逆に クロル・アルカリ製品の生産からそれらの需要先事業を垂直統合した企業が多 数存在している。クロル・アルカリ産業においては,一製品が危険物であり輸送 にコストがかかるということと,自家消費目的でクロル・アルカリ事業を保有 している企業が多数存在しているということから,生産元と用途先との問にパ イプを連結し,固定的な取引関係をしいている場合が多い。このような,パイ プを連結するなどの物理的な投資を伴う固定的な取引関係が存在する場合には, 多少の価格優位では市場地位を高めることが非常に困難なのである。 この固定的な取引関係によって市場地位を高めることが困難となったことを 如実に表す事例が存在する。1980年代後半に,当時の通産省の指導によって 食塩電解設備を13工場に集約化する方針がクロル・アルカリ各社の間で検討 された。しかし,この工場集約化は実現しなかった。その大きな理由となった のは,塩素・水素の輸送困難性(輸送コストによるコスト高,危険物輸送の問 題)であった=引。この工場集約化が不成立に終わった事例とその原因に明らか なように,クロル・アルカリ産業において.も,輸送の問題と,それに起因する 関係特殊的な投資によって取引関係が固定的となっており,いかにコスト優位 な製法を開発したとしても,市場地位を高めるために生産設備を拡張してゆく という戦略を取ることは困難だったのであ乱 3−3 技術独占の困難性 市場地位向上が困難であれば,ライセンス供与を行い,ライセンス料の価格 を独占的に設定することで利益を獲得することも可能であろう。しかし,その ような技術独占も当時のクロル・アルカリ産業においては困難であっ㍍それ は,クロル・アルカリ製品の主原料となる工業用塩の割当枠を決定するのは当 時の通産省の役割であり,通産省としては技術開発企業に技術を独占されるの は望ましくなかったために,工業用塩の割当枠肖1」減の脅威が独占に対する抑止 力として機能していたと考えられるためである。 製法転換期において,クロル・アルカリ産業の業界団体である日本ソーダエ 22 一橋研究 第33巻3・4合併号 業会で会長を務めた勝村龍雄氏は,製当時の業界の奔走を振り返る著書である 『ソーダ工業製法転換の波濤を越えて』において,この工業用塩割当枠の問題 を次のように言己している。第一期製法転換当時には,「この頃,通産省は転換 促進のため,転換不十分なところには,原料塩の割当を規制するような噂がたっ た。」(勝村,1994,pp.58−59)と説明している。これは、。政府の意向に従わな い企業はクロル・アルカリ製品の生産を制限されるという脅威が業界内で現実 のものとして認識されていたことを表している。また,そのような噂を通産省 側の担当者に問いただすくだりでは,担当者が,「局長も課長も,転換が遅れ ているところでも行政指導にしたがっておれば塩の書11り当てを制限することは できない,といっていたから安心してよい」(勝村,1994,pp.59,傍点は引用 者による)と発言したことを記している。この点においても,裏を返せば行政 指導に従わない企業には工業用塩の書1」当面で不利な立場に立たされるという, 現実的な脅威があったことを示唆している。 クロル・アルカリ製品は幅広い産業の中間原料として用いられる生活必需品 であ乱「競争激化によって供給が不安定化することは政府としては避けたかっ た」と,当時の三井東圧化学において食塩電解事業に携った,現・日本リフォー ム株式会社の相川洋明氏は説明している冊。 このような背景から,技術開発企業にとっては,技術独占をすることは現実 的には困難であったと考えられる。 以上のように,当時のクロル・アルカリ産業では,①製品が危険物であるた めに輸送コストがかかり,また自家消費目的で事業参入を果たした企業が多い ことから,売り手と買い手との間に固定的な取引関係が存在しており,市場地 位を高めるのが困難であった。また,②工業用塩の割当枠を政府が決定してい たために,クロル・アルカリ製品の供給の安定性を最優先したい政府の意向と 反しかねない技術独占は,現実的には不可能であると業界内で考えられていた。 そのため,技術開発企業がイオン交換膜法技術を独占し・,その技術がもたらす コスト優位性を以ってコストリーダーシップ戦略を採用するのは困難であった。 また,ライセンス供与を行い,ライセンス料を独占的な価格に設定することも 困難であった。さらには,技術独占がたとえ可能であったとしても,独占的な 市場地位を獲得することで利益を獲得するのも固定的な取引関係が存在したた めに困難であった。このような状況で,技術開発企業はどのように利益を獲得 製法転換期のクロル・アルカリ産業における利益獲得戦略 23 したのであろうか。 3−4 技術開発企業の利益獲得戦略 前節までで確認したような難局において,技術開発企業はどのようにして利 益を獲得したのであろうか。ここでの結論を先取りするならば,技術開発企業 は,技術のライセンス供与を積極的に行い,さらに,電解槽のライセンス供与 を行う際に,他社には模倣が困難な膜素材技術や電極の加工技術を保持してお き,摸索材を消耗晶として販売したり,電極のメンテナンス事業として別個に 利益を上げたりすることで,ライセンス供与を行うほどそれらの補完財の買い 手も増えるというメカニズムを作り上げたのである。以下ではその事業成功の 論理をより詳細に説明する。 クロル・アルカリ産業の生産設備である食塩電解槽は,分解が容易で生産量 に合わせて設備の規模を調整できる設備である。そのため,製品差別化の程度 が低いこととも相侯って,この産業の参入障壁はさほど高くはない。この産業 には自家消費目的の企業が多数参入しており,技術開発企業にとっては潜在的 なライセンシーの数が多いのである。図ユはクロル・アルカリ産業の製法転換 半時の等規模換算企業数を表したものである。この図からも当時のクロル・ア ルカリ産業に参入していた企業の多さが読み取れる。 技術開発企業は,これらの多数の潜在的なライセンシーに対して,テストプ ラントの見学会を開催したり,技術開発の進捗状況などを業界団体の会合で情 報共有したりすることなどを通じて,積極的にライセンス供与を行ったのであ る。図2は技術開発企業が電解槽を供給した供給先リストである。日本国内の 食塩電解設備は,このようにして国内の技術開発企業が開発した電解槽を導入 することで製法転換を行ったのである。 先述のとおり,クロル・アルカリ製品を生産する設備には,どの製法を採用 しても必ず,陰極側と陽極側を分離するための分離機構が必要となる。そして それらの分離機構,とくにイオン交換膜法におけるイオン交換膜素材は,生産 活動を続けると共に劣化する消耗晶である。また,電極と膜の間の調整がかな りの高精度で行われなければ,生産効率は大幅に低下するのもこの製法の特徴 である。そのため,生産活動を続けると共に膜だけでなく電極のメンテナンス を行う必要もある。技術開発企業は,ライセンス供与を積極的に行うことで, 一橋研究 第33巻3・4合併号 24 これらの膜素材の販売やメンテナンスサービスを供給するための販売チャネル を形成したのである。 図1 クロル・アルカリ産業の等規模換算企業数(1975年∼1987年) 等規模企業数 30 25 20 15 10 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 出所:公正取引委員会HP(lt印=〃㎜.jftc四一jp/) 電解槽の寿命は15年弱であるのに対し,膜素材の寿命は2年程度である。 電解槽を一度他社に導入すると,最低でも7回は膜の販売が伴う計算となる。 イオン交換膜が開発された1970年代半ばには,未だ膜の寿命は短く,実際に 設備で稼動させてみると旭硝子の膜で3ヶ月,旭化成の膜で半年程度しか持た なかった。価格は1㎡あたり15万円程度であったため,当時はこの膜素材が, 膜素材の開発企業である旭化成や旭硝子に大きな収益をもたらしたものと考え られる冊。 また,膜素材と同様に重要な収入源となるのがメンテナンス収入である。先 述のとおり,イオン交換膜法の電解効率は膜と電極間の最適設計によって規定 される。現在のイオン交換膜法電解槽は,すべて膜と電極との問に空間のない ゼロキヤップ電解槽となっている。電極と膜の間の設置にコンマ以下敷ミリの レベルで誤差が生じるだけで電解効率や膜の寿命が大きく異なるために,この 電解槽のメンテナンス作業は技術開発できた企業でなければ行うのは困難であ 製法転換期のクロル・アルカリ産業における利益獲得戦略 25 孔たとえ高精度で電極を加工する技術を内製したとしても,その技術を獲得 するほうにより多くのコストがかかるために採算が合わないのである。そのた 図2 イオン交換膜法電解槽の国内供給実績一覧 クロール・エンジニアス クロ1」ン・エンジニアス 重1餓鱗鱗:螢菱 昭和塩素・具志川 眺。 2日40 昭和塩素・具志111 9宮5 240 昭和塩素・具志川 9舶 240 大阪曹達・尼崎 日日1 1目20 大阪曹達・尼崎 明2 宮日O =井東圧化学・大牟田 舶3 =井東圧化学・大牟田 =井東圧化学・名古屋 9盟 日1冊O 徳山曹達一徳山 9宮3 1目1040 関東電化工業・水島 9呂3 5四20 東洋曹達・四日市 9日3 5日呂。o 大限曹達・松山 9冊 36720 5醜。 保土ヶ谷化学・郡山 腕4 352日O 鎚4 2940 佳友化学・大分 9目4 147宿O =井東圧化学・大牟田 鯛宮 3420 東亜合成・徳島 目明 31560 =井東圧化単・大牟日目 9舶 13目O 千葉電解・干葉 9目4 1114目O =井東圧化学・名古屋 9宮4 5目30 味の素・川崎 9壇4 3畠帖。 =井東圧化学・名古屋 9君臣 2舳。 極秘 9日4 冊OO =井東圧化学・名古屋 9日9 13呂。 極秘 984 5品日。 =井東圧化学・名古屋 989 冊冊 旭化成{^o11脚。電解槽) 一井東圧化学・大阪 日目4 =井東圧化学・大阪 9日5 7440 =井東圧化学・大阪 9舶 1柵呂O =井東圧化学・大阪 9日6 11100 =井東圧化学・大阪 9舶 3720 東亜合成化学・? 9日5 東亜合成化学・? 蝸5 東亜合成化学・? 9舶 3900 大阪曹達・小倉 鯛5 12120 大阪曹達・小倉 9舶 130目O 大阪曹達・小倉 朋7 960 22320 旭化成・延岡 9乃ノ刀用2ノ肺ノ01 19乃ノ刀用2ノ肺ノ01 16000 電気化学工業1青梅 臼乃 1臼乃 ○柵OO 52000 日本軽金属・蒲原 ○日3/8日 10日3/8日 クレハ化学・錦 ”邑5/90/97 眺5/90/97 10ヰ。oo 31320 岡山化成・水島 1鯛拮一ノ目〃鵬ノ蝸 鯛拮ノ目〃鵬ノ蝸 120000 31320 関東電化工業・渋川 9目。 19目0 住友化学・新島 103丁ノ畠邊ノ目2/93 03〃的ノ目2/93 54000 11目OOO 旭硝子(^ZEO電解糖) 旭化成・大阪’ 9禍 10000 日本カーバイド・富山 9呂。 17000 目2宮。o 鶴見曹達・神奈」■1 932 34000 40200 鹿島電解・茨城 ○舶 3蝸OOO 関東電化工業・水島 ○宮6 11冊O 関東電化工業・水島 9冊 3000 東亜合成化学・? 9目7 東亜合成化学・? 9呂呂 東亜合成化学・? 蝸8 990 南海化学工業・高知 9目3 帖。oo 旧060 関西クロルアルカり・大阪 9胴 桝。oo 蝸3 900 13日直O セントラル化学・神奈川 9目5 帥。oo 保土ヶ谷化学・郡山 34200 芒菱化学・岡山 眺5 12丁OOO 44000 東亜合成化学・? 保土ヶ谷化学・郡山 1560 鐘淵化学・高砂 日目9 13囎OO 信越化学工業・新潟 卵5 鐘淵化学・高砂 蝸。 1目畠40 北海道曹達1北海道 醜5 15000 鐘淵化学・高砂 明1 45240 北海道曹達・北海道 里舶 152000 極秘 9舶 5520 南海化学工業・和歌山 舶6 35000 旭硝子1千葉 9日6 210000 クロー」ン・エンジニアス iBiTAO電解槽) 束ソー 19目2 972 束ソー 19肥 1204 =菱化学・福岡 9日9 40000 旭硝子・鹿島 9目9 124000 旭硝子・鹿島 9舵 極秘 9日5 160000 o Yヨr=[10{2003〕.叩、203山213より筆者作成 26 一橋研究 第33巻3・4合併号 め,多くのクロル・アルカリ生産者は電解槽の供給企業からメンテナンスサー ビスを受けている。例えば,クロリンエンジニァズの電解槽であれば,ライセ ンシーはメンテナンスのために電解槽を分解し,トラック輸送で岡山のクロリ ンエンジニアスの工場まで運び,そこで膜の設置作業などを行うなどの措置が とられている‘刊。このメンテナンスに関して一も,膜素材の販売と同様に代替が きくものではないために,ライセンサーに継続的に排他的な収入を与える重要 な収入源となっている。 4.結論とインプリケーション 本論文においては,コモディティ製品を展開する上で一般的に考えうる戦略 を採り得ない特徴を持った産業においては,どのような戦略を以って利益を獲 得しているのかという問題を設定し,製法転換期のクロル・アルカリ産業にお ける技術開発企業の戦略選択を分析した。そこでは,技術開発企業は国内の同 業他社に積極的にライセンス供与を行い,それらのライセンシーに対して,ラ イセンスーした製造技術を利用すると共に必要となる膜素材やメンテナンスサー ビスなどの補完的な商品を販売することで,それらの補完財を通じて利益を獲 得していたことが示された。 本論文で分析を行ったクロル・アルカリ産業のように,コモディティ製品事 業の利益獲得戦略を検討する余地は未だ多分に残されていると考えられる。コ モディティ製品戦略を展開する上では困難が多いがゆえに,利益獲得には一定 の試行錯誤が必要であり,そのような試行錯誤を経て生じた戦略的知見には他 の領域に応用しうる有益なものが多数ありうる。例えばライセンス供与の戦略 的な利用にっいていうならば,従来は参入阻止のためのライセンシー選択 (G・皿ni,1984)についてや,特許期限切れ後の競争相手を選ぶためのライセン シー選択(R。。k.tt,1990)などについては論じられてきたけれども,本論文で 示されたような,ライセンス供与を通じた補完財の継続販売の議論はなされて こなかったように思われる。 近年の日本の化学企業は,業績低迷から脱却すべく,売上高に占める高付加 価値分野の売上の割合を高めることを通じて,製品を通じて利益を獲得するた めの事業改革を進めている。業績低迷下でのそのような事業再編の過程で,ク 製法転換期のクロル・アルカり産業における利益獲得戦略 27 ロル・アルカリ産業と類似の性質を持っと思われるコモディティ的な化学晶事 業を手放す企業も少なくはない。しかし,本論文において明らかにされた利益 獲得の戦略と同様に,コモディティ製品で,しかも採用することのできる戦略 が大幅に限られていたとしても,十分師一」益を獲得できる可能性は残されてい るのである。 また,そのようにコモディティ製品事業の利益獲得戦略が多岐にわたり,そ の結果として企業問の業績に大きな違いが生じる可能性があるならば,近年の 化学産業における事業構成の改革も一筋縄ではいかない可能性がある。コモディ ティ的な基礎化学晶分野での競争優位性が高付加価値分野における競争展開に 与える影響も無視できないだろう。そのため,一口に事業構成の改革と言って も何を以ってその事業構成が最適かと判断するかについては企業によって大き な違いが生じる可能性が高い。したがって,基礎化学品分野における多様な戦 略展開をより詳細に分析することで本論文における議論をより確かなものにし でいくことや,そのよう’な基礎化学晶分野における戦略展開を踏まえた上で, 化学産業における業績低迷下での事業構成の転換がどのような社会的な相互作 用を経でどのような結果をもたらすのかということなどにっいて分析してゆく ことが今後の課題である。 参考文献 相」l1洋明・大西敏郎・熊谷勲・市坂輝男「隔膜法食塩電解槽のイオン交換膜法 への転換」『ソーダと塩素』,vo1.34,No.6.!983,pp.19−31. 相川洋明「ソーダ関連技術発展の系統化調査」『国立科学博物館 技術の系統 化調査報告』,Vo1.8.2007,pp.ユー51. 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