Nara Women's University Digital Information Repository Title 廃都後の平城宮: 奈良時代末から平安時代初期までの平城旧宮 Author(s) 山本, 崇 Citation 山本崇:都城制研究(6), 都城の廃絶とその後, pp.63-76 Issue Date 2013-03 Description URL http://hdl.handle.net/10935/3515 Textversion publisher This document is downloaded at: 2015-02-01T02:43:34Z http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace 廃都後の平城宮 −奈良時代末から平安時代初期までの平城旧宮− 山本崇(奈良文化財研究所) はじめに 山背遷都後の平城宮京をめぐる主要な論点は、舘野和己氏が、 「平城京その後」 宮その後」なる論考により、関連する史料を提示した上で、検討を加えられている 「平城 ( 1 )。舘 野氏の議論は、従来あまり注目されることのなかった廃都後の旧京に検討を加えた点で注 目される。 遷都から数十年を経た 9世紀後半の平城旧京は、 )」という 「都城道路、変為二努田畝一ー(2 著名な史料が伝えるように、条坊道路とその側溝からまず水田化がはじまり、それは宅地 内へも順次進んでいったらしい。このようにして庄園化した旧京は、王家にゆかりのある 所領として維持管理がはかられた。その具体的な様は、内蔵寮による天皇家産の集積を論 じた古尾谷知浩氏の議論のほか、梨原庄を平城京の水田守として位置づけた吉川真司氏の 論考などにより明らかにされつつある(3)。旧京の管理は、舘野氏が京職によるものと推定 )、王家領の伝領の問題として理解されている。 されたが、橋本義則氏の批判を踏まえ(4 これに対して、平安時代初期の平城旧宮をめぐる議論は、第一次大極殿院地区(中央区) I I-1期遺構に比定される平城太上天皇宮(平城西宮)とその伝領を中心に進められてき のI )。また、平城系王族の活動が主要な論点としてあげられる(6 )。ところが、平安時代初 た (5 期の平城旧宮全体をみわたした議論は低調で、発掘調査成果の検討による遺構に即した検 討は、充分に行なわれているとはいい難いのが現状である。 以下、屋上に屋を架す感は否めないものの、本報告の前半では、発掘調査の成果と文献 史料にとくに豊かな平城宮中央区の変遷を、廃都後の宮という観点からあらためて整理す )。次いで後半では、 9世紀前半の平城宮の建物配置について、発掘調査 ることとしたい(7 成果の概要を提示し、平城西宮の実態、を明らかにできればと考える。 1.平城西宮の変遷 ( 1 ) 称徳天皇の崩御と西宮の解体 神護景雲 4年 (7 7 0 )8月、称徳天皇は西宮寝殿で没した。この後の七七日の法会までの関 係記事を掲げる。 発巳、天皇崩二子西宮寝殿一。春秋五十三。 一七→、於三東西大寺 諦経。 4 於一元興寺諦経。 寺ー設斎意。 (中略)丁酉、 (中略)是日、白土天皇崩→愛登二 (中略)乙巳、二七。於て薬師寺一諦経。 (中略)己未、四七。於三大安寺−設斎意。 (中略)笑酉、六七。於三西大寺一設斎罵。 (中略)壬子、三七。 (中略)丙寅、五七。於二薬師 (中略)辛巳、七七。於二山階寺一設 円 ベU ハhU 斎意。諸国者、毎レ国屈J青管内僧尼於金光・法華二寺一、行道・転経。 ( 後 略 ) ( 8 ) 『続日本紀』は、没日を笑巳( 4日)と伝える。ところが、一七日の法会は丁酉( 8日)に 行なわれ、その間隔が著しく短いのに対し、二七日の法会以降は、乙巳 ( 1 6日)・壬子( 2 3 日)・己未( 3 0日)・ 9月丙寅( 7日)・突西 ( 1 4日)とほぼ 7∼8日ごとに法会が行なわれ 2 日)の七七日の法会は、 ており、結果、 9月辛巴( 2 『続日本紀』の伝える公式の没日で ある 8月笑巳( 4日)を起点に 4 9日目に挙行されている。以上からすれば、実際の没日は、 2日の夜半から 3日の未明ではないかと推測する( 9 )。この後、称徳天皇の西宮やその南に 推定される法王宮は史料にみえず (10)、宝亀から延暦年間にいたる聞の中央区の利用状況 は詳らかにし得ない。 西宮に比定される第一次大極殿院地区 E期宮殿の建物は、柱抜取穴出土土器により、 2 時期に分類することができる。 1つは、 E期の正殿にあたる SB7 1 5 0 と西脇殿 SB1 7 8 7 0 であり、もう 1つは、脇殿的に配置される SB6 6 6 6・SB7 1 5 1・SB7 1 5 2・SB1 7 8 74・S I I B1 8 1 4 0である。前者からは平城宮土器 Vが出土するのに対し、後者からは平城宮土器V 古段階が出土している ( 1 1)。このことは、 E期宮殿施設の解体が、称徳天皇の西宮終意段 階に近い宝亀年間から延暦初年までの時期と、それより降る平安遷都前後頃以降の時期の、 少なくとも 2時期に行なわれた可能性を示している。してみれば、 E期の宮殿施設の建物 の一部は、平安時代初期まで維持管理されていた可能性があり、この点が、平城太上天皇 が平城宮を居所と定める前提条件となったとも考えられる。平城太上天皇宮にあたる E期 内郭の築地塀は E期築地回廊と同規模で造営されており、それを踏襲した可能性が指摘さ れる点も、建物の残存から理解可能かもしれない。 ( 2 ) 史料からみた平城宮の解体 長岡京の造営は、平城京からの遷都のみならず難波宮の廃止を意図したものであること は古くから指摘されており、とりわけ大極殿や朝堂院などの中心殿舎は難波宮から移築さ れたことが明らかにされている ( 1 2)。このことは、平城宮の解体を考える上でもきわめて 重要な事実であり、平安時代初期の平城旧宮を考える基本的な前提となるものであろう。 (7 8 4 )1 1月の長岡遷都後はじめて、翌 4年 (7 8 5 )8月、桓 関連史料を確認する。延暦 3年 武天皇は平城旧宮に行幸し翌 9月まで滞在する ( 1 3)。この行幸は、朝原内親王の斎宮群行 の儀式を平城!日宮で行なうためのものであった (14)。朝原内親王のト定は延暦元年( 7 8 2 )8 月のことと伝え (15)、以後、初斎院相当の施設にて潔斎したと推測されるが、朝原の初斎 院もまた奈良時代前半の井上内親王と同じく、佐紀池周辺に営まれた可能性がある ( 1 6 。 ) 平安時代の儀式次第からすれば、斎宮群行の儀式は八省院の大極殿と小安殿を用いて行な われるものであり、平城宮第二次大極殿院の大極殿と大極殿後殿が、その儀式の場の候補 となる。 長岡宮の第二次内裏(東宮)は、平城宮の瓦が出土していることから推して、平城宮の資 材を用いて造営されたとみられ、その造営は、延暦 8年 (7 8 9 )2月にみえる「移レ白土西宮→ -64- 始御二東宮−」とかかわるらしい (17)。してみれば、延暦 4年の桓武天皇平城行幸の段階に は、平城宮内裏の建物は残存していたとみる余地が残る。さらに、儀式での利用を推測す るならば、第二次大極殿院の解体も未着手であったと考えられる。 0年( 7 9 1 )9月、平城宮の諸門は、長岡宮へ移築された。 延暦 1 甲戊、仰二越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊橡等国.、壊二運平城宮諸門一。 以移二作長岡宮一失。 (綿) ( 1 8 ) 門の移築は、越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊橡の 8箇国が担っている。 一方、 『拾芥抄』宮城部所引或書には次のようにみえる。 或書云、延暦十二年正月甲午、遣二使於山背国葛野宇太村地一。為三遷都一也。始造二山背新 宮一。同年六月庚午、令三諸国造二新宮諸門−。尾張・美濃二国造二段冨門−、伊福部氏也。越 、海犬耳氏也。丹波国造三偉塞門一、 前国造二美福門一、壬生氏也。若狭・越中二国造二安嘉PL 猪使氏也。但馬国造三藻壁門一、佐伯氏也。播磨国造二待賢門一、山氏也。備前国造二陽明門 、 4 若犬耳氏也。備中・備後二国造二達智門一、丹治比氏也。阿波国造三談天門一、王手氏也。伊 与国造三有芳門一、建部氏也。 ( 1 9 ) この史料にみえる門造営にかかわる諸国が平安宮宮城門の造営国と共通することから、 0)。宮城門の解体と移築をう この史料にみえる諸門は宮城門であったと推測されている( 2 1年( 7 9 2 )2月には、 け、延暦 1 「率二諸衛府一、守三平城旧宮ー。 J とみえ、諸衛府に平城旧宮 を守らせている(21)。平城旧宮の治安維持をはかったのであろう。 以上、文献史料から窺われる山背遷都後の平城宮の状況は、上記の通りである。第 1節 で遺物の年代観により、 E期宮殿施設の解体が一部は延暦年間以降に降る事実を確認した が、平城旧宮の解体がゆるやかに進行したことは間違いないと思われる。 ( 3 ) 平城太上天皇宮「平城西宮」の成立 (8 0 9 )1 1月には、 大同 4年 「遺二右近衛中将従四位下藤原朝臣真夏・左馬頭従四位下藤原 朝臣真雄・左少弁従五位上田口朝臣息継・左近衛少将従五位下藤原朝臣真本等 、於二摂津 4 国豊嶋・為奈等野及平城旧都一、占一太上天皇宮地−」とみえ、太上天皇宮を設定するため 2)。その 7日後には、 占地が行なわれた( 2 「遣二右兵衛督従四位上藤原朝臣仲成・左少弁従五 位上回日朝臣息継等一、造一平城宮−。」とみえ、造営のための官人が派遣され、平城旧宮の 3 。 ) 修造がはじめられる( 2 1 2月には、平城太上天皇は大和に行幸する。 乙亥、太上天皇、取二水路一、駕二双船一、幸二平城−− o 子レ時、宮殿未レ成、権御二故右大臣大 中臣朝臣清麻呂家ー。(2 4 ) このとき、平城宮の造作が完成していないため、仮に大中臣清麻呂の家を御在所とした 5)。この後、摂津・伊賀・近江・播磨・紀伊・阿波の 6箇国の米稲を平城宮造営料 という(2 6)、畿内諸国の雇工・雇夫 2 5 0 0人を平城宮造営に充てるなど( 2 7)、太上天皇宮の に充て( 2 造営を支援する政策が矢継ぎ早に策定されている。また翌年の正月には、参議藤原真夏を FhU FO 造平城宮使に任じ、宮の造営を監督させた(2 8)。翌大同 5年 (8 1 0 )4月には造営はほぼ一段 落したようで、磯野王・藤原真夏ほか l l名に叙位が行なわれている(29)。また、同年 9月 0 。 ) には、大和国田租と地子稲が平城宮雑用料に充てられている(3 平城太上天皇の遷都を端的に示す史料を掲げる(31)。 天皇遂伝レ位、避二病於数処一、五遷之後、宮二子平城一。而事恭二釈重→、政猶煩出。尚 侍従三位藤原朝臣薬子常侍二雄房一、矯託百端、太上天皇甚愛、不レ知二其好一。遷二都 平城一、非二是太上天皇之旨一。 従来の研究によると、 「五遷」は、平城太上天皇の宮地が定まるまでに候補地を転々と し、ようやく 5箇所目で(あるいは 5回の遷御を経て)居所が定まったと理解された。 「五遷」 の具体的な地は、東宮、右兵衛府、東院のほか、摂津国豊嶋・為奈等野、平城旧京の大中 臣清麻巴の家などが候補としてあげられ、 5回の遷居を経て平城旧宮を居所と定めたとい う。また、春名宏昭氏は、力点は異なるものの、内裏、東宮、右兵衛府、東院、平城旧宮 を「五遷」の地と理解された。太上天皇宮「五遷」は、太上天皇権力の脆弱さを示す史料 2 。 ) と理解され、奈良時代以来の太上天皇制の終震を準備する前提とみられてきた(3 留意すべきは、 「五遷J の意味である。 「五遷」は、和銅元年( 7 0 8 )2月の平城遷都詔に みえる語句で(3 3)、詔には「昔殿王五遷、受二中興之号一、周后三定、致二太平之称−。安以 遷ー其久安宅ー」と記される。すなわち、殻の始祖湯王が主主を都と定めてから 1 9代盤庚に いたるまで、 1 0代仲丁が|敬、 1 2代河亘甲が相、 1 3代祖乙が邪、 1 9代盤庚が再び毒を都を 4 。 ) とし、それが興隆の時期に重なるという故事にもとづいている(3 「五遷」は中国古代 の故事にもとづく文飾とみるべきで、平城太上天皇の遷居の回数ではなく、まさに平城遷 都を象徴する文言と理解すべきであろう。 ( 4 ) 王家家産とその伝領 平城太上天皇は、その居所である平城西宮のほかに、平城旧京に点在する王家家産を管 理していたとみられる。以下、列挙しつつ検討する。 越田離宮 越田離宮は、平城旧京東南隅に設定された離宮で、もと平城京の京域として設 定された「左京十条」に由来する京南国を周辺所領とし、 「五徳池(越田池)」なる苑池が 5)。いわゆる平城上皇の変の際、平城太上天皇は「大和国添上郡越田村」 付属していた(3 にいたり、嵯峨天皇側の軍勢に行く手を阻まれて平城宮へ引き返した(3 6)。戦時とはいえ、 平城太上天皇の行列はやみくもに進んだのではなく、平城旧京の南端に位置する離宮を目 7 。 ) 指したものであろう(3 越田離宮は、その存在を明確に示す史料に乏しいが、断片的な史料から推測が可能であ る。二条大路木簡の中に「越田瓦屋」や柴の進上がみえ(3 8)、皇后宮との深い関係が認めら れる。また、 『類衆三代格』によると、 勅 京南田甘f t 町 -66- 右奉二為 藤原皇太后一、毎年忌日、講7二説党網経ー料、永入二山階寺ー。 京南田十町 右奉二為 藤原皇太后一、於二法華寺浄土院一、白二忌日初一逮 τ子七日一、毎年請三屈浄行僧十 人一、礼二拝阿弥陀仏−料、永入二法華寺−− o 天平宝字五年六月八日 なる孝謙太上天皇勅が掲げられている(3 9)。王家ないし光明皇太后との深い関係をもとに して、光明皇太后崩後の天平宝字 5年 (7 6 1 )6月、周辺所領の一部は、山科寺(興福寺)と法 華寺阿弥陀浄土院に施入された。山背遷都の後に離宮として維持管理されていたかは詳ら かにし得ないものの、平城旧京周辺の王家領として、その実態をとどめていたのであろう。 楊梅院 楊梅院は、宝亀年間に東院地区に造営される楊梅宮に由来する(4 0)、旧宮内の王 家離宮であろう。延喜 2年 (9 0 2 ) 1 2月 2 8 日太政官符案によると、 「田村地者、楊梅院申二 請官符ー亦同領知」とみえる(41)。吉川聡氏は、ともにみえる佐伯院の買得時期が宝亀 7年 ( 7 7 6)であることから宝亀年間と推測したが(4 2)、宮内離宮である楊梅宮が太政官符を請け 家産の集積を行なったとは考え難いことから、領知の時期は、むしろ山背遷都後の事実を 示すと考えるべきであろう。いずれにせよ、内蔵寮の出先機関として活動する勅旨梨原庄 とは別の王家家産楊梅院が、先行して同様の機能を果たしている点が注目される。 平城西宮 本節の最後に、平城太上天皇宮(平城西宮)の伝領についても、検討しておく。 天長元年( 8 2 4 ) 7月、平城太上天皇が崩じ(4 3)、その 1箇月余り後には、嵯峨太上天皇の勅 により、 「弘仁元年権任・流人等 J、すなわち平城上皇の変に連坐した官人が入京を許さ れている(4 4)。翌 2年 (8 2 5 )1 1月 2 3日の宣旨によると、 平城西宮事 右奉レ 勅、件宮者、 先太上天皇之親王等、須下任三其意ー左レ之右上レ之。 天長二年十一月廿三日 左近衛大将藤原朝臣奉 5 。 ) とみえ、平城西宮の処分を平城太上天皇の親王に任せる旨の宣旨が発給された(4 「先太上天皇之親王等J とは、高丘親王のほか阿保親王と巨勢親王を指すが、あるいは 6)。弘仁 1 3年 (8 2 2 ) 上毛野・石上・大原・叡磐の 4人の内親王も含まれている可能性もある(4 4月、平城太上天皇が結縁濯頂をうけたとき、高丘親王は出家入道して東大寺に住したと 考えられており(4 7 )、佐伯有清氏は、平城西宮の管理は、天長元年に大宰権帥から l 帰京し 8)。親王宅の利用形態は不明で、 た阿保親王ないし、巨勢親王が担ったと推定されている(4 i l l-2期に属する遺構も必ずしもまとまったものとはいえない。 (8 3 5)にいたり、平城西宮を維持するための土地を下賜した記事がみえる。 承和 2年 (前略)平城旧宮処水陸地冊余町、永賜二高岳親王−− o 親王者、天推国高彦天皇第三子也。大 同年末、少登三儲貢t−、世人号日二跨居太子ー。遂遭二時変 失レ位、落髪披絡、住一二子東寺− o 4 この地は、平城西宮の周辺で、おそらくは佐紀池を含む地域を指すと推測される。井上 -6 7一 和人氏によると、平城宮は大垣内で約 1 0 3 .5(条里)町を占め、 4 0町余は、宮の 4割程度の 広さにあたる。ところが、 平城旧京中勅旨田冊町、返二賜ヨミ品高岳親王及正五位上紀朝臣種子・正五位下大原真人全 0 ) 子・宏位藤原朝臣乙名子ー。弁賜二興福寺宿院ー各有レ数。( 5 とみえ、承和 2年に賜った地も貞観 4年 (8 6 2)以前には収公されていたらしく、このとき、 高岳親王と正五位上紀朝臣種子・正五位下大原真人全子・克位藤原朝臣乙名子らに返し賜ら れた記事がみえる。収公の時期は不詳といわざるを得ないが、前年に高丘親王が入唐した こととかかわるかと推測される。平城西宮は、周辺所領の経営という側面は維持された可 能性があるが、宮は退沫を余儀なくされ、それとともに関連寺院の周辺所領としての性格 を強めていくかと思われる。 2.平安時代初期の平城宮 本節では、発掘遺構と文献史料から窺われる知見を整理し、平安時代初期の平城宮の実 体を明らかにすることを課題としたい。 ( 1 ) 遺構からみた平安時代初期の平城宮 本項では、平城宮跡の発掘調査で検出した遺構を素材に、平安時代初期の平城宮を検討 する。奈文研の『平城宮発掘調査報告』及び単年度ごとの調査成果を『平城宮跡発掘調査 部発掘調査概報』 『奈良国立文化財研究所年報』 『奈良文化財研究所紀要』などの略報告 1 。 ) の記載によりつつ、整理してみたい( 5 なお、年度ごとの略報告の段階では、すべての検出遺構が報告されている訳ではないこ と、平安時代の遺構は、奈良時代後半の遺構と検出面が同一である場合が多く、遺構の時 期比定は造営方位・造営尺・建物の規模や出土遺物を主たる根拠とする暫定的なものとな る場合もあり、正報告の刊行などを契機とした今後の検討の余地が残されていることをご 了解いただきたい。 4概報』『 5 7概報』『紀 第一次大極殿院・中央区朝堂院地区(『平城報告 XI』『平城報告刃直』『 5 要2 0 0 6』 ) び 、 第一次大極殿院地区・推定大膳職の遺構変遷は、 1 9 8 2年)、 『平城報告 XI』 ( 『平城報告沼山 ( 2 0 0 5年)、 『平城報告 E』 ( 1 9 6 2年)及 m 『平城報告刃 』 ( 2 0 1l年 ) の考察で検討の組上に載せられている。この地の I I I-1期遺構を平城太上天皇の平城西宮 に比定する理解は『平城報告 XI』以来一貫しており、後述するように、平城宮内のほかの 地区の遺構の状況と比しでも鉄案と思われる。なお、近年の報告書『平城宮木簡七』にお いて、井戸 SE9 2 1 0はE期(平安時代初期)の井戸と時期を改めた( 5 2 。 ) 一方、中央区朝堂院は、東半の調査がほぼ終了しているが、平安時代初期の建物はほと 3715は 、 3時期の溝のうち溝 B んと、報告されていない。この地区の東辺の基幹排水路 SD に宝亀 9年 (7 7 8)の年紀をもっ木簡を含み、平城宮土器 Vに属する土器が大量に投棄される 0世紀に降ることが確認され ほか、溝 B廃絶後に溝 Cの存在が指摘される。溝 Cの廃絶は 1 -68- ている( 5 3 。 ) 3825は、佐紀池から流下する溝として平安時代に これに対して、西辺の基幹排水路 SD も機能したと判断されるものの、もっとも新しい紀年木簡は、天平神護元年(7 6 5 )4月の但 馬国の荷札であり、平安時代に降る紀年木簡は認められない( 5 4 。 ) I I』『平城報告)姐』『平城報告刃V』 『5 6概報』『5 9概報』 内裏地区と東区朝堂院地区(『平城報告V 『 6 0概報』『 6 3概報』『紀要 2 0 0 3』 ) 内裏地区の遺構は、 『平城報告)佃』 ( 1 9 9 1年)におい て 、 8時期の変遷が示されており、山背遷都後は四期( 2小時期に細分)にあたる。平城宮 廃絶に際して、内裏築地図廊は解体して長岡宮に移築されるが、築地本体はそのまま残さ れ、井戸 SE7 9 0 0も引き続き利用できたことから、 V I I期には 3 0棟の建物が少なくとも 2 時期にわたって建てられた。 東区朝堂院の遺構は、平安時代にはまとまりを欠き、出土遺物もさほど多くない。 東院地区(『平城報告 YN』『5 7概報』『 1 9 9 3概報』) 東院地区の南端に位置する東院庭園の 遺構変遷は『平城報告 x v』 (2003年)において示され、苑池の埋没が 9世紀末から 1 0世 紀初頭頃まで降ると推測されること、一部の建物が残存することが指摘された。また、東 院南門 SB1 6 0 0 0 Cは、平安時代初期まで残存するとされる。 なお、東院地区の中心施設は宇奈多理神社北方の丘陵部に展開したと推測されている。 2 0 0 6年度以降継続調査が進められているところで、一部平安時代に降る遺構も略報告され ているが、遺構変選の詳細は、今後の総括的検討に侯ちたい。 馬寮地区(『平城報告 X I I』・『平城報告 YN) 』 馬寮地区の遺構変遷は『平城報告 X I I』( 1 9 8 5 年)において示され、第 V期を平城太上天皇の時期とみる。 SB6 4 1 0の柱堀方から平城宮 土器V I• V I Iの土器が出土していること、 SE7 1 1 0・SK6155から奈良時代中頃の土器に混 じって平城宮土器四までの土器が出土している。広廟付きの建物が多いことも平安時代に 入っていることの根拠とする。北半部の建物配置は第 N期までと基本的な変化は認められ ず、規模は縮小しているものの馬寮的な性格の官街であると理解する。 東区朝堂院南の官街(『平城報告沼山『 1 9 9 4概報』) 奈良時代後半の推定兵部省・式部省・ 神祇官にあたるが、平安時代に降る遺構はほとんど報告されていない。 宮城門と大垣(『平城報告医』『5 5概報』) 宮城門は礎石建ち基壇建物であり、基壇の多く が削平をうけているため、遺構から廃絶年代を検討することは困難である。その点で、東 院の南門 SB1 6 0 0 0 Cが残存するとする調査知見は特記される。また、朱雀門基壇北端に設 けられた東西塀 SA 1 8 1 2は、門撤去後の閉塞施設の可能性があり、旧宮域内への出入りの 制限を示す可能性がある。当面、宮城門の撤去時期は、延暦 1 0年 (7 9 1 )9月に長岡宮へ移 築された門が宮城門であるとする先学の指摘による。 以上、平城宮跡の発掘調査で検出した遺構を公表資料から概観してきた。ここから知ら れる平安時代初頭の平城宮は、図に示した通りであり、ここでの結論はこれに尽きる。 -69- T J . . . − 」 ・ 一 ~ 1 P : t ・ ・ 1 ] j 「 二; i ・-~H I-:-~ ! ;• . " ' I − 一一三\L . −−−…….. I . q 一一一一一育一一一一員。鴨 図平安時代初期の平城宮 ( 2 ) 史料からみる弘仁年聞の平城宮 本項では、弘仁年間の平城太上天皇宮にかかわる史料を確認しておく。 前述の天長 2年 (8 2 5)宣旨によると、平城太上天皇の居所は、平城西宮と呼ばれた( 5 5 。 ) 1 0)に「擬ー遷都_ J したとき、宮には官人が供奉しており、 弘仁元年( 8 「分局」ないし「二 6)。史料から窺われる供奉官司は、外記と左馬頭であるが、いわゆ 所朝庭」と称された( 5 7 、 ) る平城上皇の変において、その東国入りに「凡其諸司弁宿衛之兵、悉皆従罵」とみえ( 5 断片的な記載から、中納言藤原葛野麻日・左馬頭藤原真雄・大外記上毛野穎人・正四位下藤 原真夏・従四位下文室綿麻日等の平城宮駐在が知られる( 5 8 。 ) 平城宮への諸司の供奉は、平城上皇の変の後、出家した平城太上天皇に対しでも続けら (8 1 1 )、平城宮の太上天皇宮を警護する諸衛の官人が自由に出入りして宿衛 れた。弘仁 2年 を勤めない事態をうけ、平城宮に勤務する参議に督察を加えさせたが、 9月には 7月の勅 を改め、近衛少将以上に監督させることとした( 5 9)。参議ないし近衛次将による監督は、 「(侍二)平城宮−諸衛官人」とあるように衛府の官人を対象とするものと思われ、官人一般 に及ぶものではない点は留意する必要がある。また、これらの史料により、平城宮に公卿 及び近衛次将が常駐していたことが知られるが、わずか 2箇月にて勅が改められているこ -7 0- とからすれば、あるいは公卿の常駐は日常的ではなくなりはじめていた可能性がある。 0 )、平城宮に置かれた官 さらに、橘嘉智子立后にともなう供奉官司の増置の史料から( 6 司の一端が窺われる。 太政官符 応レ補二充造酒可酒部一事 合六十人〈元舟人。 今加ー廿人一。) 右、得二宮内省解ーイ岳、造酒司解俗、案二職員令一、酒部数六十人。而去大同二年減二廿人一定 二冊人一。今分二配平城宮井皇后宮一、無レ人二充奉一、毎事難レ堪。望請、依レ令被レ給二六十 人一、将レ済二公事ー者、右大臣宣、奉レ 勅、依レ請。 弘仁七年六月八日(61) 太政官符 応レ増二加水部十三人一事〈並名負雑色人) 右、得二宮内省解ーイ岳、主水司解倍、水部員冊人。今供二奉御井平城宮皇后宮一、而其数少。 不レ足二充用一。望請、増二加件員数一、将レ令レ直二皇后宮ー者、中納言従三位兼行兵部卿藤原 朝臣縄主宣、奉レ 勅、依レ請。 弘仁七年九月廿三日 ( 6 2 ) 品部の増員から窺われるように、宮内省被官の造酒司の酒部や主水司の水部が平城宮に 分配されていた。現在知り得る史料から窺われる官人の平城宮供奉の事実は、上記に限ら れる。このほかの宮内省被管宮司が供奉していたか否かは詳らかにし得ない。これととも に女官が仕えたことは容易に推測されるものの、その実態はこれまた不明で、ある。 4年( 8 2 3)嵯峨天皇の譲位 なお、諸司の供奉が弘仁年聞を通じて継続したことは、弘仁 1 に際して、平城太上天皇が尊号辞退と諸可停止を請う書を奉ったことからも窺われる(6 3 。 ) ところが、この辞退は受け入れられず、 「諸司」の停止は、太上天皇の崩御をまたねばな らなかったのである。 ( 3) 小 結 本節では、まず 1項において、平城宮跡の発掘調査で確認されている平安時代初期の遺 構を集成し、概してそれらは集中する傾向にあることを指摘した。また 2項において、平 城旧宮に供奉した官司にかかわる史料を検討した。 第一次大極殿院地区の E期宮殿施設が平城太上天皇の平城西宮の比定地である点は、す でに指摘のある通りである。これとかかわり、中央区北方には内廷官可と推測される建物 がみえ、内裏地区にも小規模な建物が確認される。官街では、左馬寮の濃密な遺構が特筆 される。また、東院地区では、南門や建物の残存とともに、平安時代に属する土器が多量 に出土するなど、活動の痕跡が窺われる。 平安時代の平城宮の活動を考える上で、遺物の出土傾向も参考になる。 1つは、平安時 代軒瓦の出土傾向である。現在整理中であり、正確な点数などはさらなる検討が必要とな i ヴ −Eム るが、確認されている平城宮跡から出土する平安時代軒瓦のうちその半数が、第一次大極 殿院を中心とした地域から出土している。ほかに、東区の内裏・朝堂院地区と東方官街地 区がこれにつぎ、東面大垣ないし東院庭園地区、宮西北地域や馬寮地区からも出土が報じ 4)。もう 1つは、緑紬陶器の出土傾向である。緑紬陶器は奈良時代末から確 られている( 6 認され、すべてが平安時代の遺物とみることはできないが、この出土地点も、東院庭園地 区に集中する傾向がみられ、第一次大極殿院地区、内裏と東方宮街地区、宮西北地域から 5 。 ) 馬寮地区にかけての地区でも集中した出土が知られる(6 以上のような、遺構と遺物からみられる 9世紀平城宮は、概して文献史料との関連を指 摘できる点が興味深い。平城西宮とその周辺への集中は顕著であるが、内廷官司のうち、 9 0 0、中央区の SE 水部や酒部は、中央区北方ないし内裏地区に出仕し、内裏の井戸 SE7 9 2 1 0ないし北方の SE3 1 1Bなどを用いたのであろう。平城上皇の変の前後ともに確認さ れる左馬頭の供奉は、馬寮地区の建物の集中に対応する可能性がある。これに対し、逆に 史料に痕跡をとどめない、例えば八省などの官司は、その推定地に平安時代初期の遺構が 乏しい傾向がある。類例に乏しく、憶測の域を超えるものではないが、平城太上天皇に供 奉する官司は、基本的に奈良時代の「本曹」による形で、平城宮での職務を遂行したので はなかろうか。そして、供奉宮司は、衛府や内廷官司など、思いの外限定されていたので はないかと推測される。 なお、平安時代における東院地区の利用の痕跡は、楊梅宮の後身とみられる楊梅院によ るものと考えられ、この地を中心に王家領の維持管理を担っていたのであろう。 結び 以上、平安時代初期の平城宮について、文献史料と発掘遺構、出土遺物の分布をもとに 検討してみた。学報と略報告などの公表資料にのみ依拠した不充分な検討ではあるが、平 安時代初期の平城宮の大方の傾向は、示すことができたのではないかと思う。 本稿の検討は、平城宮跡の 6割 5分に及ぶ未発掘地はもちろん、既発掘地でも東院地区 の中枢部など、近年調査が進行している地区は対象から除かざるを得なかった。また、思 いつくだけでも、野帳・日誌など調査資料の検討、遺物の出土状況の精査などの作業によ り、議論はより確かなものになると予想する。能力を大きく超えるが、いずれも今後の課 題としたい。 注 ( 1 ) 舘野和己「平城京その後」 年)、同「平城宮その後」 (門脇禎二編『日本古代国家の展開』上、思文閣出版、 1 9 9 5 (大山喬平教授退官記念会編『日本国家の史的特質』古代・ 中世、思文閣出版、 1 9 9 7年)。同「廃都後の都城」 (古代都城制研究集会実行委員会 9 9 8年)。同「平城旧京の変遷過程」 『古代都市の構造と展開』 1 (『古代都城廃絶後 山 。 l 門 の変遷過程平成 9年度∼平成 1 1年度科学研究費補助金基盤研究 C( C )( 2))研究成果 報告書』 2 0 0 0年)。 ( 2 ) 『日本三代実録』貞観 6年 (8 6 4 )I 1月 7日庚寅条。 ( 3 ) 古尾谷知浩「平安初期における天皇家産機構の土地集積」 (『律令国家と天皇家産機 0 0 6年。初出 2 0 0 3年)。吉川真司「平城京の水田守」 構』塙書房、 2 (大和を歩く会 編『シリーズ歩く大和 1 古代中世史の探究』法蔵館、 2 0 0 7年)。このほか、堀健彦 「平安期平城京域の空間利用とその支配」 (『史林』第 8 1巻第 5号 、 1 9 9 8年)が、 平城旧京の土地利用、領域編成、空間支配について検討されている。 ( 4 ) 橋本義則「天平十七年大根申請文書の再検討」 (『山口大学文学会志』第 4 9号 、 1 9 9 9 年)。 ( 5 ) 奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査報告 XI−第 1次大極殿地域の調査』 (奈良 国立文化財研究所 3 0周年記念学報第 4 0冊 、 1 9 8 2年)、橋本義則「天皇宮・太上天 皇宮・皇后宮」 (『ヤマト王権の交流の諸相』名著出版、 1 9 9 4年)、同「平城太上 天皇御在所「平城西宮」考」 (『平安宮成立史の研究』塙書房、 1 9 9 5年)など。近 年刊行された奈良文化財研究所『平城宮発掘調査報告 X V I I −第一次大極殿院地区の調 4冊 、 2 0 11年)においても、この見解が支持され 査 2』 (奈良文化財研究所学報第 8 ている。 ( 6 ) 杉本直治郎『真如親王伝研究』 王一行の「入唐」の旅」 (吉川弘文館、 1 9 6 5年)、田島公「真知(高丘)親 0 2号 、 1 9 9 7年)、佐伯有清『高丘親 (『歴史と地理』第 5 王入唐記−廃太子と虎害伝説』 (吉川弘文館、 2 0 0 2年)、春名宏昭『平城天皇』(人 物叢書通巻 2 5 6、吉川弘文館、 2 0 0 9年)など。 ( 7 ) この点は、山本崇「史料からみた第一次大極殿院地区」 (奈良文化財研究所『平城宮 発掘調査報告 X V I I −第一次大極殿院地区の調査 2』前掲)で詳述した。あわせてご参 照いただきたい。 ( 8 ) 『続日本紀』宝亀元年(7 7 0 )8月突巳( 4日 ) ・丁西( 8日 ) ・乙巳 ( 1 6日 ) ・壬子( 2 3 日 ) ・己未( 3 0日 ) ・9月丙寅( 7日 ) ・笑酉 ( 1 4日 ) ・辛巳( 2 2日)条。 ( 9 ) 称徳天皇崩御日と忌日法会の日の翻額については、日付への言及はないものの、土井 郁磨「「譲位儀J の成立J (『中央史学』第 1 6号 、 1 9 9 3年)に指摘がある。 ( 1 0)法王宮職については、瀧川政次郎「法王と法王宮職」 (『法制史論叢第 4冊 律 令 諸 制及び令外官の研究』角川書店、 1 9 6 7年。初出 1 9 5 4年)参照。また、西宮の前面に 法王宮を推定する理解として、金子裕之「平城宮の法王宮をめぐる憶測」 (奈良女子 大学 2 1世紀 C O Eプログラム古代日本形成の特質解明の研究教育拠点編『古代日本と 1世紀 C O Eプログラム報告集 V o l .6 、2 0 0 5年)がある。 東アジア世界』奈良女子大学 2 ( 1 1)田辺征夫ほか「土器J (奈文研『平城宮発掘調査報告 XI−第 1次大極殿地域の調査』 前掲)。ただし、奈良文化財研究所『平城宮発掘調査報告刃直一第一次大極殿院地域 。 円 i 門 の調査 2』 (前掲)の編集過程において、 SB6 6 6 3 の柱抜取穴とされた遺構は柱堀 方を壊す小穴であることが確認されたため、検討対象から除外した。 ( 1 2)岸俊男「平城京へ・平城京から」 (『日本古代宮都の研究』岩波書店、 1 9 8 8年 。 1 9 7 4 年初出)。 ( 1 3 ) 『続日本紀』延暦 4年 (7 8 5 )8月丙戊( 2 4日)条、 9月丙辰( 2 4日)条。 ( 1 4 ) 『続日本紀』延暦 4年 (7 8 5 )9月己亥( 7日)条。 ( 1 5 ) 『一代要記』桓武天皇。 ( 1 6)かつて金子裕之氏は、北池辺新造宮を水上池周辺に比定する理解を示されていたが (金子「平城宮の後苑と北池辺の新造宮」 7 5号 、 1 9 9 6年)、第一次大 『瑞垣』第 1 極殿院西辺の奈良時代前半の整地土から出土した木簡によると、佐紀池周辺付近では ないかと考えている(山本「史料からみた第一次大極殿院地区」前掲)。 ( 1 7 ) 『続日本紀』延暦 8年 (7 8 9 )2月庚子( 2 7日)条。 ( 1 8 ) 『続日本紀』延暦 I O年 (7 9 1 )9月甲戊 ( 1 6日)条。 ( 1 9 ) 『拾芥抄』宮城部第 1 9所引或書。海犬耳氏、若犬耳氏はそれぞれ海犬甘氏、若犬甘氏が、 王手氏は玉手氏が正しいのであるが、いずれも原文のままとした。 ( 2 0)小林清「宮城諸門」 (『長岡京の新研究全』比叡書房、 1 9 7 5年)。 ( 2 1 ) 『日本紀略』延暦 1 1年 (7 9 2 ) .2月笑丑( 2 8日)条。 ( 2 2 ) 『類衆国史』巻 2 5帝王 5 太上天皇大同 4年 (8 0 9 )1 1月丁未( 5日)条。 ( 2 3 ) 『類衆国史』巻 2 5帝王 5 太上天皇大同 4年 (8 0 9 )1 1月甲寅 02日)条。 ( 2 4 ) 『類衆国史』巻 2 5帝王 5 太上天皇大同 4年 (8 0 9 )1 2月乙亥( 4日)条。 ( 2 5)大中臣清麻呂の宅については、岩本次郎「右大臣大中臣清麻日の第」 (『日本歴史』 第3 1 9号 、 1 9 7 4年)を参照。 ( 2 6 ) 『日本紀略』大同 4年 (8 0 9 )1 2月辛卯( 2 0日)条。 ( 2 7 ) 『日本紀略』大同 4年 (8 0 9 )1 2月戊戊( 2 7日)条。 ( 2 8 ) 『公卿補任』弘仁元年(8 1 0)参議従四位下藤原真夏条尻付。 ( 2 9 ) 『類衆国史』巻 9 9叙 位 大 同 5年 (8 1 0 )4月戊子 ( 1 9日)条。 ( 3 0 ) 『日本後紀』弘仁元年(8 1 0 )9月戊戊朔条。 ( 3 1 ) 『日本後紀』大同 4年 (8 0 9 )4月戊寅( 3日)条。 ( 3 2)春名宏昭『平城天皇』 (前掲)、同「太上天皇制の成立j (『史学雑誌』第 9 9編第 3号 、 1 9 8 9年)。 ( 3 3 ) 『続日本紀』和銅元年( 7 0 8 )2月戊寅 ( 1 5日)条。 ( 3 4 ) 『史記』般本紀。なお、今井宇三郎「遷都平城詔」頭注・補注(山岸徳平ほか校注『古 9 7 9年)参照。 代政治社会思想、』岩波書店、 1 ( 3 5)五徳池の西方に離宮の存在を推定した早い事例は、井上和人「平城京羅城門再考」(『古 代都城制条里制の実証的研究』学生社、 2 0 0 2年。初出 1 9 9 8年)。 A 斗 & ηi ( 3 6 ) 『日本後紀』弘仁元年(8 1 0 )g月己酉 0 2日)条。 ( 3 7)山本崇「平城京の建設一条坊と条里」 (『季刊考古学』第 1 1 2号 、 2 0 1 0年)。以下、 越田離宮にかかわる理解は、拙稿による。 ( 3 8 ) 『平城京木簡三』 3 5 3 3号・ 3 5 3 4号 。 ( 3 9 ) 『類家三代格』巻 1 5寺田事所収、天平宝字 5年 (7 6 1 )6月 8日勅。京南田の現地比定は、 岩本次郎「平城京京南特殊条里の一考察」 (『日本歴史』第 3 8 7号 、 1 9 8 0年)を参 日 召 ( 4 0 ) 楊梅宮は、宝亀 3年 (7 7 2 )1 2月に初見する(『続日本紀』同月己巳( 2 3日)条)。岩 本次郎「楊梅宮考」 (『甲子園短期大学紀要』第 1 0号 、 1 9 9 1年)参照。 ( 4 1)延喜 2年 (9 0 2 )1 2月 2 8日太政官符案(猪熊信男氏旧蔵文書、平安遺文 4 5 5 1号)。この文 9 6 6 書については、岸俊男「藤原仲麻日の田村第」 (『日本古代政治史研究』塙書房、 1 年。初出 1 9 5 6年)。 ( 4 2)吉川聡「文献資料より見た東院地区と東院庭園」 (『平城宮発掘調査報告 x v −東院 庭園地区の調査』奈良文化財研究所学報第 6 9冊 、 2 0 0 3年)。 ( 4 3 ) 『類衆国史』巻 2 5帝王 5 太上天皇天長元年(8 2 4 )7月甲寅( 7日)条。 ( 4 4 ) 『日本紀略』天長元年(8 2 4 )8月乙酉( 9日)条。 ( 4 5 ) 『類家符宣抄』第 6 雑例天長 2年 (8 2 5 )1 1月 2 3日宣旨。 ( 4 6 ) 『本朝皇胤紹運録』 (『群書類従』第 5輯系譜部)。 ( 4 7)西本昌弘「平城上皇の濯頂と空海」 (『古文書研究』第 6 4号 、 2 0 0 7年)。 ( 4 8)佐伯有清『高丘親王入唐記−廃太子と虎害伝説』 (前掲)。 ( 4 9 ) 『続日本後紀』承和 2年 (8 3 5)正月壬子( 6日)条。 ( 5 0 ) 『日本三代実録』貞観 4年 (8 6 2 )6月辛亥 0 4日)条。 ( 5 1 ) 以下繁雑になるため、発掘調査成果の典拠は、 『平城宮発掘調査報告』『平城宮跡発 掘調査部発掘調査概報』『奈良国立文化財研究所年報』『奈良文化財研究所紀要』を それぞれ、 『平城報告』 『概報』 『年報』 『紀要』と略称して示す。 ( 5 2)山本崇「第一次大極殿院地区の変遷と出土木簡 J (奈良文化財研究所『平城宮木簡七』 奈良文化財研究所史料第 8 5冊 、 2 0 1 0年)。 ( 5 3 ) 『平城宮木簡七』 1 2 1 3 4号 。 ( 5 4 ) 『平城宮木簡七』 1 2 7 9 6号 。 ( 5 5 ) 『類家符宣抄』第 6 雑例天長 2年 (8 2 5 )1 1月 2 3日宣旨。 ( 5 6 ) 『日本後紀』弘仁 2年 (8 1 1 )7月庚子( 8日)条、 9月丁未 ( 1 0日)条。 ( 5 7 ) 『日本後紀』弘仁元年(8 1 0 )g月戊申 ( 11日)条。 ( 5 8 ) 『日本後紀』弘仁元年(8 1 0 )g月戊申 ( 11日)条。 ( 5 9 ) 『日本後紀』弘仁 2年 (8 1 1 )7月乙巳 ( 1 3日)条、 9月丁未 ( 1 6日)条。 ( 6 0)橘嘉智子の立后は、弘仁 6年 (8 1 5 )7月のことである(『日本後紀』弘仁 6年 (8 1 5 )7 -7 5- 月壬午 ( 1 3日)条)。 ( 6 1 ) 『類衆三代格』巻 4 加減諸可官員弁廃置事所収、弘仁 7年 (8 1 6 )6月 8日太政官符。 ( 6 2 ) 『類家三代格』巻 4 加減諸司官員弁廃置事所収、弘仁 7年(8 1 6 )9月 2 3日太政官符。 ( 6 3 ) 『類衆国史』巻 2 5帝王 5 太上天皇弘仁 1 4年(8 2 3 )5月壬申 ( 1 9日)条。 ( 6 4)毛利光俊彦「瓦碍類」 (『平城宮発掘調査報告〉週一内裏の調査 2』奈良国立文化財 0冊、 1 9 9 1年)のうち「平安時代以降の軒瓦J の項。 研究所学報第 5 『平城報告 N』 別表 1、 『平城報告 X¥ 直』別表 1、 『紀要 2 0 0 3』表 1 8、 『紀要 2 0 0 5』表!?など。清 野孝之氏のご教示による。 ( 6 5 ) 『平城報告 E』P L .5 4、 『平城報告 N』P L .4 2・4 3、 『平城報告羽』 fi g 4 1・P L 5 6、 『平 . v』P L .7 7・7 8など。神野恵氏のご教示による。 城報告 x 付記 本稿は、 2 0 1 1年 2月 1 2日奈良女子大学で行なわれた都城制研究集会「都城の廃絶とそ の後」における口頭報告「廃都後の平城宮−奈良時代末から平安時代初期までの平城旧宮」 の発表原稿をもとに成稿したものである。報告の準備に際して、井上和人・大林潤・神野 恵・清野孝之・玉田芳英・中川あや各氏のご教示とご協力を得た。また、報告に際して参 加諸氏からは貴重なご意見を賜った。記して謝意をあらわしたい。 -7 6-
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