現代民主政治の危機と「言葉のお守り的使用法」

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で置かれ、それでいて改憲によって戦争ができる﹁普通
他国を貶し日本の素晴らしさと特殊性を説く本が平積み
いつ頃からだろうか、書店に足を運ぶと一昔前では予
想だにしなかった風景を目の当たりにするようになった。
慰安婦問題を再燃させ、二〇〇七年には米下院公聴会で
歴史認識についての閣僚発言を世界的に発信したことで
を浴びせる。第一次安倍政権時代に慰安婦問題をめぐる
るいは自紙の責任逃れのために、あらん限りの罵詈雑言
を排撃するために、あるいは部数を稼ぐために、またあ
の国﹂になることを謳う週刊誌が並ぶ、そんな風景だ。
歴史修正主義と名指しされたある大新聞などは、その火
それら言葉が向けられる対象は、日本の隣国、従軍慰安
した﹁暴支膺懲﹂などのスローガンもしだいに出始めた。
は﹁鬼畜米英﹂とともに大日本帝国陸軍がさかんに使用
の見出しも目立つ書籍で一線を越えた出版界の一部には、
韓本 ﹂や﹁ 嫌中本 ﹂と並んで﹁ 素晴らしい日本 ﹂など
権﹂を得つつあることに、筆者は危機感を覚える。
﹁嫌
これら罵詈雑言は二〇〇〇年以降、インターネット上
ではなじみの風景だったが、活字メディアでも﹁ 市民
付け役であったことを隠し通すのに必死だ。
婦問題をめぐって記事の一部を撤回した朝日新聞、そ
もはや読書人の伝統を守ろうなどという矜恃もかなぐり
︵1︶
して戦後民主主義を牽引してきたリベラルたちだ。
﹁敵﹂
いった大見出しが躍っている。ネット上では、かつて
店頭に並んでいる書籍や雑誌、そして通勤に使う電車
の車内中吊り広告には﹁反日﹂や﹁国賊﹂
﹁ 売国奴 ﹂と
五野井 郁夫 (高千穂大学経営学部准教授)
現 代 民 主 政 治 の 危 機 と﹁ 言 葉 のお 守 り 的 使 用 法 ﹂
15
8
捨てているかのようだ。
を果たす発話内行為の表現からなる文章を、鶴見は準表
現的命題と呼んだ。
者のある状態の結果として述べられることで、その言葉
たとえば﹁むこうにゆけ﹂や﹁○○はいい﹂など、発話
張的命題である。後者は主張として使う場合以外の用法、
験か論理かのいずれかによってその真偽を確かめうる主
﹁丸ビルは東京にある﹂や﹁一たす一は二﹂といった実
同論文で鶴見は、言葉の使い方には大別して主張的と
表現的のふたつがあるとの説明からはじめる。前者は
使用法について﹂である。
学﹄創刊号︵一九四六年五月︶に発表した﹁言葉のお守り的
したある論文を思い出す。それは鶴見俊輔が﹃思想の科
民主主義論を研究していると、民主主義の崩壊過程も
﹁反日﹂
﹁国賊﹂
﹁売国奴﹂などの言葉の使用について検討
主張的命題と混同されて、使われていたという。
張的命題は、太平洋戦争中には﹁一たす一は二﹂という
れるものであり、たとえば﹁鬼畜米英﹂のようなニセ主
命題と呼ぶ。これは意味がはっきりしないままに使用さ
がい﹂に過ぎないのだ。この命題を、鶴見はニセ主張的
主張的命題の﹁身がまえ﹂をしながらも実際には﹁見ま
に過ぎない。それでも一見すると主張的命題のように見
者が米英を嫌って攻撃しようとする状態を表現したもの
げる。この命題は事実かどうかではなく、同命題の発話
その事例として鶴見は﹁米英は鬼畜だ﹂という命題を挙
﹁ お 守 り 言 葉 ﹂と現 代 政 治でのその復 活
を通して、呼びかけられる相手方に何らかの影響を及ぼ
このニセ主張的使用法のさいたるものこそが﹁言葉の
お守り的用法﹂であり、人々が意味をよく分からないま
ここで重要なのは、本来は実質的に準表現的命題とし
ての働きをするものでしかないにもかかわらず、主張的
す役割を果たすものだ。とりわけ言葉を使用する人間の
ま言葉を使う習慣のことをさす。たとえば﹁翼賛﹂とい
ある状態の結果として述べられ、その言葉の使用を通し
うお守り言葉は、大日本帝國憲法の告文にある﹁臣民翼
えるものの、実際には主張的命題ではないため、これら
命題の外観をよそおう言葉の使用が多くある点である。
て、呼びかけられる相手方に何らかの影響を及ぼす役目
1 5 分 で 読 む 現 代 民 主 政 治 の 危 機 と「 言 葉 の お 守 り的 使 用 法 」
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1.
われたことからも時代によって違う政治傾向を意味して
中戦争時の一党政治体制創設のための運動にかぶせて使
党の立場を守るために使用され、さらに昭和になると日
つようになる。それが大正デモクラシー期に各政党が自
とは少ない﹂であろうが、
﹁ 言葉のお守り的用法がさか
かぶせるとしても、その言葉そのものにまどわされるこ
て大衆の利益に反する行動の上に何かの正統的な価値を
とらえる習慣を持つならば、誰か 動する者があらわれ
鶴見は説く。つまり﹁もし大衆が言葉の意味を具体的に
らば、それはある種の社会条件の成立と関係していると
いたものの、いずれの時分も同じ言葉、同じシニフィア
んなことは、その社会における言葉のよみとり能力のひ
贊ノ道ヲ廣メ﹂によって、お守り言葉としての効能を持
ンなので、人々はその意味を吟味せず受け入れた。
︵鶴見、同上︶
。
くいことと切りはなすことができない﹂
これは政権の顔色窺いをしての自主規制やラ・ボエシ
︵ちくま学芸文庫、二〇一三年︶
とのよう
の﹃自発的隷従論﹄
﹄のマストロ
を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場
言葉のお守り的用法とは、人がその住んでいる社
会の権力者によって正統と認められている価値体系
られる側にもさほどはっきりとせず行われる。
なり、お守り言葉はその使用者にも、あるいは呼びかけ
ロデューサーに拝跪するあの情けないワンシーンとは異
さらにお守り言葉は以下のような意図を持って行われ
ると鶴見は定義している。
な自覚的な平伏や忖度、たとえば﹃
をまもるために、自分の上にかぶせたり、自分のす
記号論集﹄筑摩書房、一九九二年、三九〇頁︶
。
社会で自分にふりかかりやすい災難からまぬかれること
ようとする人々から自分をまもることができるし、この
同じように﹁これさえ身につけておけば自分に害を加え
る仕事の上にかぶせたりすることをいう︵﹃鶴見俊輔
ヤンニ扮する主人公の映画監督グイドが出資者であるプ
8
½
ようするにお守り言葉とは、われわれが寺社仏閣でさ
したる決断も意識もなしに買い求め身につけるお守りと
集
そして﹁ 鬼畜米英 ﹂などと同時期に使われた﹁ 売国
奴﹂や﹁非国民﹂のような言葉の用法がさかんになるな
3
10
の間、これらのお守り言葉は思想の自由や政党政治、拝
付与する効果を持ったのだ。また総力戦に突入するまで
ができるという安心感 ﹂
︵鶴見、三九四頁︶
をその使用者に
。
による 動にうごかされはしない︵鶴見、同上︶
をきいて諒承する人々なら、はじめからお守り言葉
己弁護をこころみても無駄である。理屈による弁明
際して﹁その成功を祈る意味で、魔よけとして、あるい
ることを想起させる。この天皇機関説事件を大きな変わ
けだし、その通りである。この記述はネット右翼らに
史料を提示して理性的な説得を試みてもほぼ徒労に終わ
金主義、享楽主義などとは両立しないものとは考えられ
はその事業の上に、あるいはその思想の上に、この言葉
り目として、穏健な自由主義者たちは﹁共産主義者の仲
ておらず、多種多様な人々が自身の計画や事業の実行に
︵鶴見、同上︶
のだった。
をかぶせた﹂
︵鶴見、三九五頁︶
のだった。
まもることを禁じられた﹂
間入りをすることをよぎなくされ、お守り言葉で自分を
お守り言葉の使用は昭和初期に至るまでゆるやかであ
り、社会的義務の次元にはならなかったという。満州事
これ以後、お守り言葉の独占的傾向は強まり、このお
守り言葉の独占こそが、理論的に破綻していると考えら
らざるを得なくなり﹁ 人道主義は第五列︵敵国のスパイ︶
変を境にしてしだいにその用法を狭めていき、好戦的思
想を持つ者たちの言葉へと変貌を遂げていった。そして
れる思想や極めて残酷な主張であっても﹁八紘一宇﹂や
達吉は﹁一身上の弁明﹂演説を行い理路整然と自説の正
だ﹂という説や﹁玉砕﹂がまるで当たり前のことである
︵2︶
一九三五年の天皇機関説事件が分水嶺となる。右翼のお
﹁肇国の精神﹂などのお守り言葉のもとでは首を縦に振
当性を説いたが、鶴見はこの美濃部の手法について、以
かのように、時代の空気を規律してゆくことになる。
︵3︶
守り言葉を用いた攻撃に対して貴族院本会議場で美濃部
下のように述べている。
もともとお守り言葉による攻撃は人々の心を情動を
とおしてうごかすのだから、これに対して理屈で自
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レッテル貼りを平然と行うことも日常茶飯事になってき
た。
晶の夜﹂を端緒とする一連の人種・民族迫害が待ちかま
イムを助長するものであり、同行為の延長線上には﹁水
度合いを増しつつある。これらはさらなるヘイト・クラ
デモによる行政や企業、個人への脅迫は、その過激さの
﹁殺せ﹂と殺人を
るヘイト・スピーチをわめき散らす
する集団や個人を攻撃し、差別や暴力行為、果てには
になった。人種や国籍、ジェンダーなど特定の属性を有
でくすぶっていた差別主義者が路上に出現し目立つよう
このお守り言葉が、近年にまた見受けられるように
なった。それとともに、この数年来、日本ではネット上
われわれの歩んできた近代とはお守り言葉とは距離
を と り、 マ ッ ク ス・ ウ ェ ー バ ー が い う と こ ろ の﹁ 魔
であろう。
潮の到来は、まさに近代以降の民主主義にとっての危機
ては沈黙を強いられ、沈黙の螺旋が出来するといった風
れ、政府にとって都合の悪い過去や現在の出来事につい
ている。多元的なものの見方やリベラルな言論が封殺さ
ともにとっくに葬り去られたはずのお守り言葉が復活し
の右傾化によって歴史修正主義が息を吹き返し、それと
り言葉の使用による右傾化が同時進行しつつある。一連
を通じたお守り言葉と差別主義の伝播
えている。
化﹂する過程であったはずだ︵﹃職業としての学問﹄岩波文
出版物と
さらに悪いことに、一国の副首相がナチスを引き合い
に出して﹁あの手口を学んだらどうか﹂と公言してはば
庫、一九八〇年、三三頁︶
。だが、こんにち見受けられるの
からない時代だ。国会議員はネット右翼が好んで使うお
は、近現代史の歴史の教訓などまるで学ばなかったかの
いまの日本政治では民衆レベルでの下からのお守り言
葉の使用による右傾化と、政治レベルでの上からのお守
守り言葉を日々の発言のなかに進んで多用し、人権や民
ような振る舞いや発言をし、人々が再び反知性主義と陰
法からの世界解放﹂
、 す な わ ち 迷 妄 な ど か ら﹁ 脱 魔 術
主主義をまともに論じようとしただけで、一国の首相や
謀論の渦のなかにのめり込んでゆく﹁再魔術化﹂という
S
N
S
各自治体の首長がネガティヴな意味を込めて﹁左翼﹂の
2.
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セで行われたニコニコ超会議 では総理が迷彩服を着用
雑誌や新聞にくわえて、この一〇年ほどの情報通信技術
こんにちの右傾化した者たちや差別主義者の間でのお
守り言葉の流布には特徴がある。かれらの多くは、一部
言葉によって作られた﹁気分﹂をリアルに持ち込むこと
も、ネット上や雑誌・書籍媒体上で流通しているお守り
総理という画によって損なわれる日本のイメージより
現象である。
の進展と普及によって可能になったソーシャル・ネット
の方が、かれのなかで勝ったのだ。政治家の﹁演技の巧
魔術化﹂を助長している。
オンライン上での無制限のフィルタリング機能が、
﹁再
る情報だけを選択し、向き合いたくない情報を遮断する
上げられる。さらにネット上で自身にとって﹁快﹂とな
れる者たちの群れであり、そこで日々お守り言葉が練り
ス上での新たな紐帯によって出現したネット右翼といわ
実の判断認識を歪めるのである。差別主義者の群れの一
して通常越えてはならない一線を軽々と越えるほどに現
このように特にネット上でのお守り言葉に られた群
れのなかで生じる﹁集団極化﹂は、一国の首相が文民と
年、一〇一頁︶
は、ついにこの次元にまで堕したのである。
︵苅部直﹃ヒューマニティーズ 政治学﹄
︵岩波書店、二〇一二
劣﹂
コニコ動画 ﹂でインターネット党首討論会が行われる
現象によって歯止めが利かなくなってしまったところが
ス・ピーチを路上で行うようになったのも、ネット上と
出版物上でのお守り言葉の復活が助長する﹁集団極化﹂
部が、ネットとリアルの区別がつかないほどに、ネット
上の観念連合をそのまま現実世界へと持ち込み、ヘイト
ことになったおりに、
﹁私のホームグラウンドだ。時間
大きい。
化 ﹂現象が生じる。安倍総理が先の参議院選挙で﹁ ニ
くわえて同様の思考を持つもの同士が結びつき、歯止
めが利かなくなることで、より極端へ向かう﹁ 集団極
ワーキング・サービス︵
︶
などのサイバー・スペー
して戦車に乗って登場した事件があった。戦車に乗った
2
があれば、見るように ﹂と自信をみせた発言をしたの
も、ネット右翼らによるオンライン上でのお守り言葉を
使った応援があればこそである。昨年の 月に幕張メッ
5
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S
N
S
し、現在でもまだ多数派だ。
峙すべきか。人々の発言や行動を萎縮させる草の根右翼
では、出版物とネットを媒介として草の根からふくれ
あがり集団化した者の群れと、われわれの社会はどう対
ましてや出版社や新聞社サイドの忖度や、ネット上での
ことも容易に予想しうるため、過ぎこしはかなり先だ。
かでお守り言葉として引き続き消費され続けるであろう
お 守 り 言 葉の復 活 と再 魔 術 化 、忖 度 、迎 合
による数々の差別主義的行為や、お守り言葉の隆盛に対
無制限フィルタリングと集団極化が日々進行しているな
まず、一過性だろうから﹁相手にしない﹂とする立場
については、現在の差別主義者を生み出す出版とネット
して、とりわけ普段から世の中を批評し、提言を行って
かでは、自浄作用も望めない。また、相手を利するに過
いる、いわゆる知識人と呼ばれる人々は、どう考え、行
ぎないとの立場は、奇しくもインターネット掲示板﹁
り合うとかえって相手を利するだけだから﹁嵐が過ぎる
そういった右傾化は一過性のものであるし、まともに取
をするという明らかに一線を越えた群れが出来しても、
い韓国人も殺せ﹂と書かれたプラカードを手にデモ行進
別に反対した人が殴られても、街中で﹁良い韓国人も悪
も、街頭で情宣をしているネット右翼に勇気を持って差
い﹂ことである。文字媒体がお守り言葉で れかえって
目下のところ、知識人とされる者たちの多くがとって
いる選択肢は﹁嵐が過ぎるのを待つ﹂か、
﹁ 相手にしな
て不作為であった結果が、現在のヘイト・スピーチやヘ
せに対して、メディアや知識人の多くが知らぬふりをし
主義者らが京都の朝鮮学校の子どもたちを狙った嫌がら
て幾度となく学んできた。近年でも、二〇〇九年、差別
さらには景気後退局面でナショナリズムが排外主義へ
と転化し暴発するのを、われわれは歴史の苦い経験とし
果、現在も差別主義の温床となっている。
と同様だ。なお、同掲示板は﹁荒らし﹂が放置された結
する者も﹁荒らし﹂だから﹁相手にしない﹂という発想
ちゃんねる﹂で乱暴な書き込みをする﹁荒らし﹂に反応
のを待つ﹂という回答は、幾度となく繰り返されてきた
2
空間が、日本語という最も閉じたナショナルな装置のな
動しているのだろうか。
3.
14
に間違っていると指摘する知識人は、しっかりと抗議の
からの右傾化による差別が行われても、それらを明らか
国内の﹁気分﹂になりつつあるといえる。こうした、上
を送付するようになったが、こうした風潮は現在の日本
育委員会は四月八日になって決定を撤回し、防犯ブザー
全国から抗議の声が殺到したため、最終的に町田市の教
の配布を中止する決定を行うに至った。同決定に対して
情勢などを理由に、地元の朝鮮学校の児童に防犯ブザー
には、東京都町田市の教育委員会が北朝鮮をめぐる社会
右傾化も見受けられるようになった。二〇一三年三月末
いったような上からの右傾化、すなわち行政レベルでの
らの振る舞いを忖度した行政の側が﹁空気 ﹂を読むと
上への出来という下からの右傾化にくわえて、国会議員
しかも現在のお守り言葉と合わさった差別の横行は、
何もネット右翼に限ったことではない。ネット右翼の路
できていなかったことを筆者は今でも悔いている。
となったのは周知の事実だ。あのときにしっかりと対処
として他の政治問題と同様に言及を避け、そのじつは目
者のなかには、
﹁冷静な自分﹂をよそおい演出する手段
さらには、こうしたお守り言葉と差別主義の台頭につ
いて、
﹁相手にしない﹂という点で同じ行動様式をとる
ことを選び取る者たちは自覚的であるべきだろう。
場と外見的には区別がつかないことに、
﹁相手にしない﹂
露悪的に嘆きつつもそのじつ耽 し愉悦に浸っている立
社、一九九九年︶
で描写されている、自身の哀れな境遇を
けれども、この立場はカフカの﹃流刑地にて﹄
二〇〇六年︶
やベンヤミンの﹃複製技術時代の芸術﹄
︵晶文
定に従い殉じるという民主的な立場である。
の選択によって近代の民主政が損なわれるとしても、決
いという選択へのコミットメントを選び取る方途だ。こ
トでしかないようでいて、じつは積極的にコミットしな
主主義への忠誠であり、もし、一見するとデタッチメン
機を尊重するという選択肢だともいいうる。たとえ繰り
なお﹁相手にしない﹂というのは、一見不作為に聞こ
えるが、熟慮の上で近代民主政における意思と決定の契
イト・クライムの横行という事態を招くきっかけの一端
声をあげた市井の人々の数に比して、けっして多くはな
の前の問題をやり過ごそうとする者たちが少なからずい
︵白水社、
返される過去の悲劇の現前となろうとも、それこそが民
かったのである。これも恥ずべきことだ。
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だが目の前の不正義と向き合うことを回避する姿勢
は、怜悧なリアリズムでも、処世術でも何でもなく、最
する素振りをみせる知識人も増えてきた。
こそが処世術であり、望ましいライフスタイルだと肯定
ても、関係ないふりをして上手く世間を渡ってゆくこと
かかりやすい災難からまぬかれることができるという安
ら自分をまもることができるし、この社会で自分にふり
だけをあざとく狙う仕事である。鶴見が指摘した﹁これ
れは、最善ということを無視して聴衆にとって快いこと
一九六七年︶
のなかで﹁迎合︵コラケイアー︶
﹂と呼んだ。そ
しむ態度を、プラトンは対話 ﹃ゴルギアス﹄
︵岩波文庫、
もいやしく恥ずべき行為だろう。特定の問題とは距離を
心感﹂を得ようとして、自分の仕事にお守り言葉をかぶ
ることも事実だ。それどころか、いじめや差別が横行し
置いて、上手く世間を渡ってゆくのが処世術だと割り切
せる行為も迎合の一種だ。
お 守 り 言 葉の 群 れに 反 転 攻 勢 を か け る 市 民の 政 治
さえ身につけておけば自分に害を加えようとする人々か
りその役を演じる紋切り型の滑稽さは、フローベールが
描写し、それをエドワード・サイードが引き継いだ通り
だ。近頃の書き手や表現者を眺めていると、こうした紋
とまれここまで書いていると、どうもやられっぱなし
な感が強い。だが、お守り言葉によってネットとリアル
切り型たちの多さに驚く。かれらが何を目指しているの
おくことが、かれらにとっての何かしらの﹁生存戦略﹂
で繋がった群れに対する、反転攻勢のかけ方がないわ
けではない。それは﹁戦う民主主義︵ Streitbare Demokratie,
なのであろう。そんなかれらを見るにつけ思い出すの
その知的歴史﹄
︵岩波新書、
て民主主義のエートスを脅かすような集団極化が生じて
︶
﹂である。それは、お守り言葉によっ
fortified democracy
い言い訳をする人々のみじめな姿である。
み対抗するのではない。ハーバーマスが﹃ 事実性と妥
いる人々の群れに対して、やみくもに応報的な徒党を組
社会が危険な方向に傾きつつあるとき、警鐘を鳴ら
すという知識人本来の機能を放棄して自己保身にいそ
一九九一年︶
のなかで描写されている、ナチス時代の苦し
は三島憲一の﹃戦後ドイツ
︱
かは分からないが、少なくとも特定の問題に触れないで
4.
16
︵上・下、未來社、二〇〇二 ︱二〇〇三年︶
で文芸的公共
当性 ﹄
れたカウンターに対する非難については印象論に過ぎず、
存在する。だが、こと新大久保で極右たちに対して行わ
ゆえに、
﹁どっちもどっち﹂と非難を受ける局面も多く
観や集団極化的要素がカウンター側にも見受けられるが
でカウンターを組織することについては、その行動の外
じく近代的な動員の形式をとりつつも民主主義的な目標
動員の形式では近代的であるが、目標設定の点で反民
主主義的である極右政党や排外主義の台頭に対して、同
ことをいう。
として、お守り言葉と再魔術化された群れに立ちむかう
︶
﹂
﹁ 市民社会の自己限定︵ Selbstbegrenzung der Zivilgesellschaft
構造的に不可欠な自制を自らに課す市民社会、つまり
民主的な方途の範囲で徹底した民主主義の実践にとって
で目を閉じて歩くことはできない極右勢力の群れは、普
グを行うことはできないからだ。公共空間で耳をふさい
共空間はオンライン上とは異なり、無制限フィルタリン
する反転攻勢の機会ともなる。なぜなら、路上という公
民主主義の危機ではあるものの、他方で差別主義者に対
たるネット右翼が街頭へと実体化したとき、それは近代
を持たない。だが、仮構的存在として﹁非集合の集合﹂
ネット右翼はネット上では無制限フィルタリングに
よって虚焦点を構成しているため、多元的な声を聞く耳
かせるのを阻止することに成功したのである。
翼たちがヘイト・スピーチというお守り言葉を街頭に響
のだ。アクションの開始から半年を経ずして、ネット右
大久保のコリアンタウンでデモを行うことを断念させた
による身体をはったアクションの結果、差別主義者に新
﹁やつらを通すな! ︵ ¡No pasarán!
︶
﹂と い う か け 声 の も
︶
とに集まった市井の人々からなる類縁集団︵ affinity group
不当な批判だ。実際の現場ではつねに弁護士たちが立ち
圏の政治的公共圏への結びつきとして示しているように、
会い、非暴力と合法性を担保しつつ民主主義を守るとい
段かれらがサイバー ス・ペース内で遮断してきた耳に逆
らう対抗言論と否応なく向き合わざるを得なくなる。そ
︶
﹂
自己限定のもと差別を許さない﹁人々の壁︵ people’s wall
ての魔法が通用しなくなるネットとリアルが交差する路
れゆえフィルタリングができずお守り言葉がお守りとし
う目標が共有されている。そして、民主的な方途による
が毎回、自発的に築き上げられる。
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術化された人々の群れに対するカウンターは有効な手段
ちろん、同会の当事者らが実名を出すことは、当然のこ
多くの反ヘイト本と出版フェアの企画を行ってきた。も
チと排外主義に加担しない出版関係者の会﹂が設立され、
となるのだ。ハーバーマスが指摘したように言論と表現
とながら身に危険が及ぶ可能性を惹起する。それでも出
上という公共空間においてこそ、集団極化によって再魔
が保たれている限りにおいて、もし人々が民主主義を守
版人らのイニシアティブで自ら﹃
ヘイト! 出版の
ろうとする意志があれば、路上という公共空間はデモク
ラシーのエートスを守り抜く場として、いまだ可能性に
︵ころから、二〇一四年︶
を世に送り
製造者責任を考える﹄
機に対処すべくいち早く立ちあがった。
識人たちも﹁のりこえねっと﹂を組織し、現代政治の危
を選び取り、
﹁人権救済申し立て﹂を行った。心ある知
の職業倫理に照らし合わせていち早く﹁戦う民主主義﹂
政治に危機をもたらす極右の台頭に対処すべく、自身ら
﹁正義の味方﹂として広範に社会的な認知がされ、応
分の社会的責任を負っている日弁連の弁護士らは、民主
らの仕事にかぶせてみせることで、商売として割り切る
たちから滑稽に眼差されていることを十分に自覚しつつ、
身が利用されていることや、お守り言葉に迎合しない者
要が多く存在するためだ。迎合を生業とする者も、自
を生業とする知識人に利用価値を見出す文化産業側の需
を行わずたばかるだけの知識人が消滅しないのは、迎合
ところで身の危険を顧みず人々に真実を語ることを
フーコーはパレーシアとして概念化したが、パレーシア
なおも自己利益の追求のために喜んでお守り言葉をかれ
さらに出版業界も立ちあがった。言葉は媒体を通して
流通する。そしてその中心の一つは間違いなく出版であ
のだ。それゆえ、少なくとも特定の問題に触れないでお
させる上でも、大変重要な試みであろう。
守り言葉へと転化させようとする企てを挫かせ脱魔術化
イト・スピーチだ﹂のように、ヘイト・スピーチをもお
出したことは、ネット右翼が﹁反日による日本人へのヘ
次 は 誰 が お 守 り 言 葉 を 脱 魔 術 化 す るの か
満ちている。
N
O
るがゆえに、出版関係者有志によって﹁ヘイト・スピー
5.
18
くことが文字通り﹁沈黙は金﹂であり、かれらにとって
五野井 郁夫(ごのい いくお)
一九七九年、東京都生まれ。上智大学法学部卒。東京大学大
部准教授、国際基督教大学社会科学研究所研究員。
学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了( 学術博
著書に『国際政治哲学』
(ナカニシヤ出版、二〇一一年)
、
『
「デ
の﹁生存戦略﹂なのである。
そのような﹁生存戦略﹂をとるのは個人の自由だが、
クリストファー・イシャーウッドはキューバ危機当時の
出版、二〇一二年)
、共著に『リベラル
からの反撃』
(朝日新聞社、二〇〇六年)
、
『
「災後」の文明』
(阪
モ」とは何か』
(
士)
。専攻は、政治学・国際関係論。現在、高千穂大学経営学
アメリカを描いた小説﹃シングル・マン﹄のなかで大学
教授の主人公に、他人などお構いなしで自分さえ生き残
波書店、二〇〇八年)などがある。
リティーク 』
(岩波書店、二〇〇六年)
、
『 プルーラリズム 』
(岩
急コミュニケーションズ、二〇一四年)
、訳書に『国家論のク
いわせしめた。筆者もイシャーウッドと同意見だ。臆し
れればいいと発言した同僚に対して﹁滅んでしまえ﹂と
N
H
K
て真実を語ることもせず、不正義を選び取りお守り言葉
を唱えることでしか知識人として生存できない者たちに
は、潔く廃業することを勧めたい。
︽注︾
︵ ︶
﹁暴虐な支那を懲らしめよ﹂を四字熟語にしたもの。
︵ ︶
﹁八紘﹂は天地の八方の隅、つまり全世界であり、
﹁宇﹂は
家をさす。全世界を日本のもとに一つの家とするという意
味。
︵ ︶
﹁建国の精神﹂の意。一九三七年文部省編纂の﹃國體の本
義﹄ではその根幹に据えられた。
1 5 分 で 読 む 現 代 民 主 政 治 の 危 機 と「 言 葉 の お 守 り的 使 用 法 」
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現代民主政治の危機と「言葉のお守り的使用法」・ブックガイド
出版社
筑摩書房
平凡社
東洋文庫
ISBN(978)
書名
著者名
4480747037 『鶴見俊輔集3 記号論集』 鶴見俊輔
―
共同研究 転向 1-6
思想の科学研究会編
本体
価格
刊行
4,800
1992*
3,0003,400
20122013
4480094254 自発的隷従論
ちくま
学芸文庫
エティエンヌ・ド・ラ・ボ
エシ
1,200
2013
慈学社出版 4903425160 美濃部達吉著作集
美濃部達吉
6,600
2007
4480096098 増補 大衆宣伝の神話
ちくま
学芸文庫
佐藤卓己
1,500
2014
420
1980
1,300
2012
岩波文庫
4003420959 職業としての学問
マックス・ウェーバー
岩波書店
4000283281 ヒューマニティーズ
政治学
苅部直
岩波書店
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新版 断腸亭日乗 全7巻
5,0005,400
永井荷風
20012002*
CCCメディア 4484142036 「災後」の文明
ハウス
サントリー文化財団編、御
厨貴、飯尾潤編
1,800
2014
4480096036 アメリカ様
ちくま
学芸文庫
宮武外骨
1,000
2014
岩波新書
4004301585 戦後ドイツ
三島憲一
820
1991
岩波文庫
4003360125 ゴルギアス
プラトン
940
1967
未來社
4624011628 事実性と妥当性 上・下
4624011635
ユルゲン・ハーバーマス
各
3,800
20022003
筑摩書房
4480847126 真理とディスクール
ミシェル・フーコー
2,800
2002
フランツ・カフカ
1,000
2006
ヴァルター・ベンヤミン
1,900
1999
4560071564 流刑地にて
白水u
ブックス
晶文社
4794912664 複製技術時代の芸術
平凡社ライ 4582762686 紋切型辞典
ブラリー
ころから
4907239107 NO ヘイト! 出版の製造
者責任を考える
平凡社ライ 4582762365 知識人とは何か
ブラリー
ギュスターヴ・フローベー
ル
800
1998*
加藤直樹、明戸隆浩、神原元、
ヘイトスピーチと排外主義に加
担しない出版関係者の会編
900
2014
エドワード・W・サイード
840
1998
*は、品切れの可能性があります。
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