日本におけるブロードバンドの 普及要因とアンバンドル規制の役割

日本におけるブロードバンドの
普及要因とアンバンドル規制の役割
Factors for Diffusion of Broadband and
Roles of Unbundling Regulations in Japan
田 尻 信 行†
Nobuyuki TAJIRI
あらまし
となっている.しかし,なぜ政府はブロードバンドの
日本は世界でも有数のブロードバンド大国となった
普及を推進しようとするのであろうか.ブロードバン
が,現在のブロードバンドの普及をもたらした主たる
ドの効用については様々なことが語られているが,経
要因としては,市場競争,競争政策,物理的通信イン
済学的に言えば,ブロードバンドが①供給面での生産
フラ,NTT の経営判断,ブロードバンドへの潜在的
性の向上,②需要面での消費者の効用の増大,③①②
需要の大きさを挙げることができる.政策に関して言
による社会全体の厚生の増大をもたらすことが,それ
えば,米国等で効果が乏しいと言われたアンバンドル
を普及すべき理由であると考えることができる.した
規制は,日本では,特に DSL の普及という点で効果
がって,その国のブロードバンドの普及の成否は,本
的であったと考えられる.
来,各国の社会全体にどれだけの厚生の増大をもたら
したかによって判断すべきであるが,実際にそれを計
1 はじめに
測するのは困難であり,国ごと,地域ごとのブロード
バンドの普及率(例えば人口100人当りのブロードバ
近年,日本ではブロードバンドが急速に普及した.
ンド加入者数)の大小により判断するのが一般的と
数年前までは IT 分野での我が国の遅れが喧伝され,
なっている(注1).
ブロードバンドの普及が大きな政策課題の一つとなっ
さて,現在,世界のどこの国でも,程度の差はあれ
ていた.しかし,その後状況は大きく変化し,現在,
ブロードバンドが普及する途上にあると考えられる
ブロードバンドの加入者数は2,000万を超え,速度と
が,ある国のブロードバンドがどれだけ普及するかを
価格の面でも世界最高水準となる等,日本は世界でも
決めるのは,ブロードバンドへの需要と供給である.
有数のブロードバンド大国となっている.
ブロードバンドの普及を促す要因を見出し,普及を促
我が国でブロードバンドの急速な普及をもたらした
すための政策を検討するには,需要と供給に分けて考
要因については,既にいくつかの文献が述べている
えてみることが有益である.
が,ブロードバンドの普及を目指した政府にとって,
普及において政策がどのような役割を果たしたか,政
2.1 ブロードバンドの需要
策以外の要因はどれだけ普及に貢献したかを評価する
一般に,財・サービスへの需要の大きさは,当該
ことは有意義であろう.本論文では,こうした点を念
財・サービスの価格,代替財・補完財の価格,消費者
頭に置き,我が国におけるブロードバンドの普及要因
の所得水準と選好によって決まると説明される.ま
について改めて整理・分析を試みるとともに,特に日
た,社会全体での需要を見る場合,所得水準とユーザ
本で導入されたアンバンドル規制の役割について論ず
の選好については利用者の属性(能力,所属する社会
る.
集団等)によって異なってくることを念頭に入れる必
要がある.更に,通信サービスへの需要は派生需要で
2 検討の視点
226
あることから,ブロードバンドへの需要の大きさは,
本来需要の大きさ(例えばブロードバンド上のコンテ
ブロードバンドの普及は,日本だけでなく,先進
ンツ,アプリケーションへの需要)にも左右されるこ
国,途上国を問わず世界各国で昨今の大きな政策課題
とを考慮する必要がある(注2).ブロードバンドへの需
†早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員助教授
(注1)国際的に広く認められたブロードバンドの定義は存在
しない.ITU[2005]では,少なくとも片方向で256kbps
以上の伝送速度のものをブロードバンドとしているが,
FTTH の加入者も片方向256kbps の回線の加入者も同じ1
人の加入者となる等,その国で利用できるブロードバンド
の回線速度等が問われないことに留意する必要がある.
(注2)なお,通信サービスへの需要は「加入需要」と「通信
需要」に分けられるが,本論文はブロードバンドの加入に
関するものであり,この節で扱っているのは基本的に加入
需要に関することと考えてよい.
要を決める要因としてはこれらすべてを含める必要が
する政策を考える上でまず重要と考えられる.
あるが,こと政策的観点から見た場合,政府がこれら
市場競争については,ブロードバンド市場における
をコントロールすることは(少なくとも短期的には)
競争が価格の低下,サービス向上,ブロードバンドの
容易でないと考えられる.
供給量の増大等をもたらすものであり,ブロードバン
他方,ブロードバンドへの需要が社会的にあるべき
ド普及に大きな役割を果たすと考えられる.
水準に達していないため,ブロードバンドの普及が十
市場競争がこのような効果をもたらすためには,市
分に進んでいないとの議論がある.例えば,我が国の
場への参入・退出が容易に行われ,競争も公正かつ有
e-Japan 戦略Ⅱ(2003年)においては,ブロードバン
効に行われることが,市場競争が活発化しその機能を
ドの利用可能環境に見られるように IT 基盤(=供
十分に発揮する上で重要である.その意味で,政府に
給)は整備されたものの,IT の利活用が不足してい
よる競争政策のあり方が大きな意味を持つ.
るとの認識が示されているが,この認識は,ブロード
そればかりでなく,その国での物理的な通信インフ
バンドの需要に即して言えば,望ましいブロードバン
ラの状況も,市場競争とそれを促す競争政策,ひいて
ドへの需要水準と比較して現実の需要水準が不足して
はブロードバンドの普及を決める上で重要である.ブ
(注3)
いる,と言い換えることもできる
.もしブロード
ロードバンドを提供するために必要な物理的な通信イ
バンドへの需要が不足しているとすれば,それは市場
ンフラ,とりわけユーザ宅までのアクセス回線の設置
が不完全なためと考えられる.具体的には,①情報の
には費用と時間を要するため,それが設置されている
不完全性・非対称性(ユーザがブロードバンドの便益
か否か,設置されていないとしても新たに設置するこ
について情報を知らない,誤った情報を持っている
とが容易か否か,という点がブロードバンドの供給に
等)により利用者がブロードバンドの便益を知らな
お い て 重 要 な 前 提 条 件 と な る か ら で あ る.ITU
い,②ブロードバンドには需要面での正の外部性があ
[2005]によると,2004年における世界のブロード
り,市場機構による価格水準では社会的に望ましい水
バンド加入者の大半は DSL(全体の62%)とケーブ
準を下回ってしまう,等の理由が考えられよう.これ
ルインターネット(同32%)を利用しているが,そ
らを解消する政策手段としては,一般国民へのブロー
れは前者が固定電話網,後者が CATV 網という既に
ドバンドの便益の周知,アクセス手段に対する補助等
加入者宅まで設置されたネットワーク設備を利用する
が考えられる.しかし,例えばブロードバンドの便益
ため導入が容易であることによると考えられる.ま
に関する情報の不完全性・非対称性の問題は時間とと
た,アクセス回線等の物理的な通信インフラの設置状
もに緩和されていくであろうし,
「ブロードバンドの
況等は市場競争のあり方や採るべき競争政策にも影響
本来あるべき需要水準」というのは一つの願望の表明
を与える.例えば,固定電話網が十分整備されていな
であるとの一面があることも否定できない.需要の不
ければブロードバンドの普及が制約されるし,固定電
足が実際にどれだけ存在しているかを客観的に把握す
話網と CATV 網の普及度の相違によってブロードバ
ることは困難であり,ブロードバンドの普及が現実に
ンド市場における DSL とケーブルインターネットの
進んでいる状況において,これをどこまで問題とすべ
間での市場競争のあり方,競争政策のあり方も変わっ
きかについては疑問の余地もある.
てくる.更に,特に今後を考えた場合,既存のアクセ
ス回線を用いないブロードバンド用の物理的通信イン
2.2 ブロードバンドの供給
フラ(例えば,無線,光ファイバー)の設置がどの程
むしろ,ブロードバンド普及が十分でないと言われ
度容易なのかという点も重要であり,この点で,設置
る時に問題となるのは供給側の事項が多いと思われ
を円滑化するための政策(例えば,線路敷設権の付
る.すなわち,需要が十分に存在するのに(あるいは
与,周波数の割当)がブロードバンドの普及を政策的
存在するはずなのに)供給が十分に行われていないと
に推進する観点から必要になる.
いうことである.特に,所得水準に大きな差がないは
以上から,ブロードバンドの普及の推進を考える際
ずの先進国間でブロードバンド普及率に差異が生じて
には,特に,市場競争とそれを促す競争政策,そして
いることは,この点に大きな理由の一つがあると考え
物理的通信インフラという供給面に注目することが有
られる.
益と考えられる.
ブロードバンドの供給に関しては,人為的に操作す
なお,市場競争と競争政策について,近年の議論を
ることが困難な技術や地理的条件(例えばその国の人
踏まえて以下の点を補足したい.ブロードバンド市場
口密度等)を与件とすれば,市場競争とその環境を作
での競争について,しばしば設備ベース競争(facility-
り出す政府の競争政策がブロードバンドの普及を推進
based competition)とサービスベース競争(service-
(注3)なお,ブロードバンドへの需要が派生需要であること
を考えれば,e-Japan 戦略Ⅱで示されている利活用の不足と
は,本来需要の分野で供給面を含め何らかの問題があるた
めにブロードバンドを含む IT への派生需要につながってい
ないとも言い換えられる.むしろ,こちらの性格の方が本
論で述べた点よりも強いではないかと筆者は考えている.
実際,e-Japan 戦略Ⅱで提唱されている IT 利活用推進のた
めの医療・食等先行7分野での取組みの多くは,様々なニ
ーズに応えるためのそれら本来需要の分野における供給面
での取組みである.
227
based competition)という区分がなされる(注4).前者
は,自前の設備を構築してサービスを提供する事業者
同士が競争するものであり,後者は,自ら設備は設置
万
2,500
FTTH加入数
2,000
DSL加入数
せずに別の事業者の設備を借りてサービスを提供する
事業者が,その設備を保有する事業者や,同様に設備
を借りてサービスを提供する事業者と競争するもので
ケーブル加入数
1,500
1,000
ある.
500
も存在しているが,一般に設備ベース競争の方が望ま
2
月
1
月
月
6
9
月
月
2
5 月
年
3
月
0
9
1
6
2
0
2
0
0
1
2
4 月
年
3
月
月
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3
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3
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6
9
9
月
0
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年
2
0
0
2
0
に不可欠となる加入者までのアクセス回線設備等のほ
2
1 月
年
3
月
-
しいとされる.しかし,通信サービスを提供するため
1
ブロードバンドについては,いずれのタイプの競争
出典:総務省
とんどを既存事業者が保有し,それ以外の事業者が同
図1 日本のブロードバンド加入者数の推移
様の設備を建設して対等に競争を行うことが困難と
なっている現状を踏まえ,既存事業者が保有する不可
欠な通信設備の開放を政府が義務付け,他の事業者は
韓国
自ら設備を設置することなく低廉な接続料金で既存事
オランダ
業者の回線設備を利用できるようにするアンバンドル
アイスランド
規制が先進国のほとんどを含め世界の多くの国で採用
香港
デンマーク
スイス
カナダ
されている.特に,加入者宅までのアクセス回線につ
イスラエル
いてアンバンドル化する「ローカル・ループ・アンバ
フィンランド
ンドリング(LLU)
」により,DSL 市場においてサー
ノルウェー
台湾
ベルギー
日本
ビスベースの競争が行われている.これについて,例
スウェーデン
えば,米国ではブロードバンド普及への効果を否定的
シンガポール
に見る専門家が多く,アンバンドル規制が2003年以
英国
0
降緩和された.競争政策を考える際には,このような
設備ベース/サービスベース競争の視点,そしてアン
バンドル規制の是非についても考慮することも必要と
DSL
ケーブル
その他
米国
フランス
5
10
15
20
25
出典:ITU[2005]
図2 人口100人当りのブロードバンド加入者数
(世界上位国.2004年)
考えられる.
3 日本のブロードバンドの普及状況
日本
0.07
韓国
0.08
台湾
0.18
アイスランド
0.2
日本におけるブロードバンドの普及の分析を試みる
スウェーデン
前に,日本でのブロードバンドの状況を見ておこう.
オランダ
0.73
フィンランド
0.73
まず,ブロードバンドの利用可能世帯数について
は,e-Japan 戦略(2001年1月)が,
「5年以内に少
なくとも3,000万世帯が高速インターネットに,1,000
万世帯が超高速インターネットに常時接続可能な環境
を整備する」との目標を掲げたが,2005年3月末時
点において,DSL が4,630万世帯,ケーブルインター
ネットが3,310万世帯,FTTH が3,590万世帯と,日本
の総世帯数(5,034万世帯)の大半でブロードバンド
が利用できるようになっている.
次 に, ブ ロ ー ド バ ン ド の 加 入 者 数 に つ い て は,
0.25
米国
0.49
香港
0.83
カナダ
1.05
マカオ
1.16
ベルギー
1.22
イギリス
1.35
シンガポール
1.59
イスラエル
3.25
デンマーク
3.27
スイス
3.35
フランス
3.67
ノルウェー
6.26
オーストリア
6.51
0
1
2
3
4
5
6
図3 100kbps 当りのブロードバンド料金
(米ドル換算.2004年)
2000年の段階では,米国で約430万(6月)
,韓国で
228
7
出典:ITU[2005]
約300万(10月)のブロードバンド加入者があった(総
が進み,2005年12月末現在,DSL,ケーブルインター
務省[2000]
)のに対し,日本では約50万に過ぎず,
ネット,FTTH の合計の加入者数は約2,200万になっ
その大半がケーブルインターネットの加入者であっ
ている.
た.しかし,図1から分かるとおり,日本のブロード
図2は2004年のブロードバンドの人口100人当り加
バンドは2001年後半から DSL を中心に本格的に普及
入者数を国際的に比較したものである.日本は100人
(注4)モード間競争(inter-modal competition)
,モード内競
争(intra-modal competition)という分類もある.これは異
種技術(例えば DSL とケーブルインターネット)間の競
争か同一技術内の競争かの区分である.
当り14.9人となっており世界第12位である.
(注5)
②破壊的な競争事業者(disruptive competitors)
,
しかし,この順位に対して,現在の日本でこれを問
③強力な規制,④政府の直接介入(政府資金の提供
題にする声は耳にしない.図2のブロードバンドの国
等(注6)),⑤需要,⑥地理及び人口属性を挙げている.
際比較は,少なくとも片方向256kbps 以上の回線の加
Ida[2006]は,①競争政策の意図せざる成功(NTT
入数を一括してブロードバンド加入数としたものであ
が分離分割されなかったことにより光ファイバーの全
り,各国間での回線速度や価格等の相違を区別してい
国整備が進展),②競争政策の意図通りの成功(NTT
ない.日本はブロードバンド技術の中で現在最も高速
地域網の徹底的な開放政策,特に LLU とその低料金
の FTTH が世界で最も普及している国であり,また
での提供),③能力と意欲を持った新規参入者の登場
他国に比べて高速の ADSL サービスも提供されてい
(特に,ADSL でのソフトバンク BB,光ファイバー
る等,品質面において他国より優れていると考えられ
でのケイ・オプティコム),④ NTT の不承不承なが
る.価格に関しても,図3から分かるとおり,ブロー
らの真摯な経営努力(生き残りをかけた内圧による構
ドバンド・サービスの通信速度100kbps 当りの料金に
造改革,主に人件費削減)の4点を掲げている.
おいて日本が0.07米ドルと他国に比べて格段に低廉な
池田[2003]は,特に DSL の普及について,確か
ことが分かる.
に①アンバンドル規制の成果であるとしながらも,日
このように,日本は2000年ごろまではブロードバ
本での特殊要因が複合した結果だとし,その最大のも
ンドの普及で米国等に遅れをとっていたものの,その
のとして②ソフトバンクが世界に例を見ない低価格で
後僅か数年で,利用可能世帯数,加入者数,品質,料
DSL サービスを開始したこと,また③ NTT に対す
金のいずれの面でも急成長し,世界有数のブロードバ
る規制(加入者線のコロケーション義務のみならず中
ンド大国へと成長したと言える.
継系の光ファイバーも指定電気通信設備に指定され,
しかもそれらの料金が世界最低水準に設定されたこ
4 日本のブロードバンドの普及要因に係る先行研究
と,そしてそれに NTT が協力したこと)を挙げてい
る.
前節で述べた日本でのブロードバンドの急速な普及
これらで挙がっている各事項(供給側のものが多
については,競争政策の成功,ソフトバンク BB 等の
い)は,多かれ少なかれ我が国でのブロードバンドの
従来よりも破格の低価格での市場参入等がその要因と
普及に寄与していると考えられる(注7)が,これらの研
して挙げられることが多い.
究は,現象の叙述にとどまっていたり,挙げられた要
例えば,平成15年情報通信白書は「
(日本におい
因とブロードバンド普及との因果関係が十分明確に記
て)ブロードバンドが急成長を遂げた背景には,早期
述されていなかったりする等,やや物足りない感もな
より進めてきたブロードバンドに関する競争政策,振
いではない.本論文では,次の第5節で,これら先行
興政策の結果,事業者間の競争が進み,世界で最も低
研究の成果も念頭に入れつつ,第2節で述べた,市場
廉な料金で高速サービスが実現していることがある」
競争とそれを促す競争政策,そして物理的通信インフ
と述べている(総務省[2003]
)
.
ラという点を中心に,日本でブロードバンドの普及を
ITU[2003]は,①市場への新規参入,②料金低下
もたらしたと考えられる主な要因を取り上げて説明を
と伝送速度の向上を日本でのブロードバンドの普及の
試みる.そして,第6節において,政策としての是非
ポイントとして挙げている.
が論じられることの多いアンバンドル規制について,
趙[2003]は,日本と韓国のブロードバンド普及
日本で導入された同規制が果たした役割を論ずる.
を比較し,両国の事例に共通する重要な普及要因とし
て,①事業者間の価格・サービス競争,②政府の役割
(事業者を競争させる供給面での政策は有効,需要面
での政府のリーダーシップ(IT 教育,電子政府等))
等を挙げている.
5 日本におけるブロードバンド普及要因
5.1 市場競争:低価格での新規参入と各事業者間の
顧客獲得活動
Fransman[2006]は,日本と韓国でブロードバン
我が国では,ブロードバンド市場へ事業者の新規事
ドが大きく普及した要因として,①強力でイノベイ
業者が参入し,その後既存事業者である NTT を含め
ティブな既存事業者(例えば NTT の研究開発力),
た事業者間で激しい競争が行われたことにより,価格
(注5)Fransman はこの語に関して,
「破壊的競争とは既存事
業者の競争相手の事業者が非常にアグレッシブで,コスト
に満たず短期的に損失を出すような価格を設定するものと
定義付けられるかも知れない.このようにしてこれら競争
事業者が期待するのは,市場シェアの確保とおそらく競争
相手の排除である.長期的には,より利益の出る価格を付
けることができるよう期待している」と述べ,その例とし
て日本の YahooBB!(ソフトバンク)と韓国の Hanaro を挙
げている(Fransman[2006]
)
.
(注6)ただし,Fransman は特に韓国について述べており,
日本において果たした役割については微妙だとしている.
(注7)なお,辻[2005]は,日本での ADSL による消費者
余剰の増分(2001年4月∼2004年12月)を590億円と推計
し,各年度における制度(規制緩和),競争,技術,その他
の寄与度を測っている.これによると,寄与度では競争が
最大であり,次いで制度(規制緩和),技術,その他の順と
なっている.
229
の低下,回線速度の高速化,そして加入者の増加等が
NTT 西日本の B フレッツの半額以下の月額5,500∼
もたらされ,全国でブロードバンドが急速に普及して
6,500円でサービス提供を開始した(注9).これらの動
いったことは,第4節で述べた先行研究が指摘すると
きに対抗して,NTT 東西も,FTTH の本サービスと
ころであり,疑問の余地はないであろう.
して「B フレッツ」(2001年8月開始)の値下げを敢
中でも,ソフトバンク BB が従来よりも大幅に安い
行した.このように,FTTH では,各事業者は顧客
破格の料金で ADSL を大々的なキャンペーン活動の
獲得を狙った様々な販売促進キャンペーンを展開し
下に販売したことは多くの人に記憶されている.日本
た.FTTH 市場において,設備ベース競争を軸に,
で は ADSL サ ー ビ ス が1999年 か ら 提 供 さ れ て き た
NTT と電力系事業者等との間での激しい競争が行わ
が,この当時は1.5Mbps で月額5,000∼6,000円程度で
れるようになった.
あった.これに対し,ソフトバンク BB(当時 BB テ
なお,FTTH 市場における競争は DSL 市場におけ
クノロジー)は2001年8月,5.2で述べるアンバンド
る競争とも関係している.FTTH は DSL に比べて回
ル化された NTT 東西の設備を用いて8Mbps・ISP
線速度が速く,DSL の上位にあるサービスと考えら
料金等込みで月額約3,000円と,従来の半値近い金額
れるが,それでも同じブロードバンド・サービスとし
で提供する ADSL サービス「Yahoo!BB」の提供を開
て,DSL と FTTH は互いに代替関係,すなわち競争
始した.この破格的と言える月額料金の設定に加え,
関 係 に あ る. し た が っ て,DSL 市 場 で の 競 争 が
更に高速の ADSL サービスの提供,低廉な料金での
FTTH サービスの価格の低下等につながった面もあ
050-IP 電話サービスの提供,街頭での ADSL モデム
ると考えられる.例えば,NTT の2001年8月の B フ
無料配布,工事費無料等の活発な営業活動を行い,同
レ ッ ツ 提 供 開 始 時 に は, 従 来 の 試 験 サ ー ビ ス が
サービスは爆発的な人気を博した.この結果,ソフト
10Mbps で月額13,000円だったものを6,100円に引き下
バンク BB は ADSL 市場でのシェアを伸ばし,結果
げたが,既述のとおりソフトバンク BB が大幅に安い
的に NTT 東西の合計にほぼ匹敵する三十数%のシェ
料金で ADSL(Yahoo!BB)を提供開始することになっ
アを握るようになった.また,この前後に,ソフトバ
たことも影響したと考えられる.
ンク以外の事業者(イー・アクセス,アッカ・ネット
このような DSL, FTTH 両市場での激しい競争が
ワークス等)もアンバンドル化された NTT 東西の設
日本のブロードバンド普及に貢献したのは先行研究が
(注8)
備を用いて ADSL 事業に参入し
230
,NTT 東西も含
指摘するとおりであり,ソフトバンク BB 等の「破壊
めて,Yahoo!BB に対抗した価格の引き下げ,各種販
的競争事業者」の事業展開はその大きな契機となった
促キャンペーン等の展開等,激しい顧客獲得競争を繰
と言える.しかし,このような競争事業者の事業展開
り広げた.
のあり方は,単に偶然あるいは日本だけの例外として
このような競争の効果はブロードバンド加入数に表
済まされるものではない.以下で述べるブロードバン
れた.ソフトバンク BB の参入以前においても DSL
ド市場の特徴を踏まえれば,市場の立ち上げ期に多額
加入者は毎月数万∼十数万人のペースで増加していた
のコストを払ってでも多数の顧客を取り込む戦略は,
が,Yahoo!BB 登場後の2001年9月から2004年前半ま
一定の合理性を持ったものだったと考えられる.
で毎月概ね30∼50万人のペースで新たに DSL に加入
日本のブロードバンド市場は寡占的市場である.総
するようになった.
務省[2006]によると,例えば ADSL 市場(2005年
DSL のみならず,FTTH の市場においても激しい
12月時点)では,参入している事業者が47社あるが,
競争が行われるようになった.FTTH は NTT が以前
上位5社のシェア(契約回線数ベース)が約96%と
より普及を図ろうと考えていたものであり,実際に
寡占的な市場である.FTTH 市場(同)も同様で,
NTT 東 西 は 他 社 に 先 駆 け2000年12月 に 通 信 速 度
事業者数は計93社だが,上位3社のシェア(同)は
10Mbps で月額料金は13,000円で光・IP 通信網サービ
88.6%である.このような寡占化の理由として,ブ
スの試験提供を開始した.これに対して,設備ベース
ロードバンド市場においては,特に広域で事業展開す
での新規事業者が低価格で市場に参入してきた.ま
る場合,初期段階で設備等に多額の投資が必要で,そ
ず, 有 線 ブ ロ ー ド ネ ッ ト ワ ー ク ス( 現 USEN) が
れが参入障壁になっていることが考えられる.この場
2001年 3 月 に 通 信 速 度 最 大100Mbps の FTTH の 本
合,市場が拡大しようとする立ち上げ期において先行
サービスを月額6,100円(個人向け)で提供を開始し
投資を行うことが有利となる.
た(ただし当時の提供地域は都内の一部に限定).ま
それ以上に,ブロードバンド・サービスでは,事業
た,電力会社系の各通信事業者も2002年春頃から自
者やサービスを替えるために負担する費用(スイッチ
らの設備を用いて FTTH サービスの提供を開始し
ングコスト)が大きいため,利用者はいったんある事
た.特に西日本地域では,ケイ・オプティコム等が
業者のブロードバンド・サービスに加入すると他の事
(注8)この時期,ADSL を提供する事業者数も大きく増加し
た(競争政策研究センター[2004]
)
.
(注9)特にケイ・オプティコムは,一部都市に営業地域を限
定した他の電力系事業者と異なり,当初から営業地域の近
畿地域の大部分でサービス提供を開始した(日経コミュニ
ケーション[2003]).
業者に移行するインセンティブをあまり持たないこと
チングコストにより顧客が他の事業者に移行する可能
が重要と考えられる.
性も小さい,これにより中長期的には十分事業として
ブロードバンド・サービスは,利用者が加入後毎月
採算が取れる,ということになる(注12).
利 用 料 金 を 払 う 形 を と る が, 同 じ 伝 送 技 術( 例:
言い換えれば,このような参入戦略は,大量の新規
DSL 同士)の中では他の事業者との間でサービス内
加入者に見合うだけの巨額の初期費用(設備投資,広
容等に差をつけにくい上,利用者が既に契約している
告宣伝費等)が必要となるので,短期的な財務リスク
サービスや事業者を切り替える場合には大きな費用
を負う必要があるものの,将来,多数の新規加入者を
(スイッチングコスト)を負担しなければならな
獲得することにより巨大な事業収益を確保する,とい
い(注10).スイッチングコストには,利用者が回線設備
う中長期的な視野に立った戦略である.したがって,
を付け替えるための工事費用,切り替え期間中にサー
この戦略を先行して採った事業者にとって(そしてそ
ビスを利用できないことによる機会費用,モデムの取
れに追随して対抗せざるを得なかった事業者にとって
替え費用,ISP 変更によるメールアドレス変更に伴
も),この戦略の成否には,当初予想した多数の加入
う諸費用等があると考えられるが,これらの負担があ
者を実際に獲得できるか,そして短期的な財務リスク
るため,少々月額利用料が下がっても利用者には他事
を乗り切ることができるか,という点がカギになる.
業者に移行するインセンティブが生まれず,既に加入
前者については,各事業者の顧客獲得努力はもちろん
した事業者のサービスへの「ロックイン(lock-in)」
であるが,将来需要の予測が重要な要素であるが,日
(Shapiro and Varian[1998]
)が起こりやすい.
本のブロードバンド市場においては,結果として予想
逆に,事業者にとっては,多少月額利用料の額を引
以上の顧客を獲得できた.また,後者については,通
き下げても,他事業者の既存顧客を奪うことができ
信事業者の財務基盤の強さが競争を勝ち抜くために必
ず,却って自分の既存顧客から入ってくる収益が減っ
要となる.財務基盤が安定した NTT 東西や電力系事
てしまう.引き下げによる新規顧客の獲得は期待でき
業者等はこれを乗り切った.ソフトバンクグループは
るが,これが利益を増加させるかどうかは需要の価格
一時期年間の損失が1000億円を超えるなど赤字を抱
弾力性と他事業者の行動によるので必ずしも保証され
え財務体質の脆弱さが危惧された時期もあったが,
ない.むしろ,事業者としては,スイッチングコスト
2006年3月期の決算で ADSL 事業開始後初めて黒字
のため利用者がライバルに移る可能性が小さいことか
化を果たした.また,DSL 市場での他の新規事業者
ら,月額料金を引き下げるよりも,利用者が最初にブ
であるイー・アクセス,アッカ・ネットワークスは,
ロードバンドに加入する際に,ある程度大きなコスト
それより早く,それぞれ2004年3月期,2003年12月
を負担しても新規加入者を獲得して囲い込むことが重
期に黒字化を達成している。
(注11)
要となる
.実際,ソフトバンク BB 等による新規
参入が起きた後の競争では,加入時の工事費無料化等
5.2 競争政策:政府による競争促進のための取組み
による顧客獲得競争が盛んに見られ,月額利用料の値
我が国のブロードバンド市場において,5.1で述べ
下げ競争はあまり見られていない(総務省[2006]).
たように競争が活発化したのは,政府が短期間のうち
このような市場において,ソフトバンク BB 等の事
に市場での競争を促進するための各種の取組みを積極
業者が採った戦略,つまり,市場の立ち上がりの段階
的に行い,新規事業者がブロードバンド市場に容易か
において,最初に思い切った低価格で参入し,大々的
つ安価なコストに参入でき,事業者間の競争が有効に
な販売促進活動により顧客を獲得する戦略は,価格低
機能するための環境整備を行ったことが大きく貢献し
下等による大幅な新規加入需要が見込まれるのであれ
ていると考えられる.
ば,合理性を持つであろう.すなわち,従来よりも大
特に,ブロードバンド普及に大きく貢献した DSL
幅に低い価格等によって需要が大きく拡大するとの予
に関する相互接続制度が2000年前後に整備され,新
測が立つ場合,普及の初期段階において,設備等への
規事業者による DSL 市場への参入が容易になったこ
多額の初期投資を行い,低価格の設定と販売促進活動
とが大きい.電気通信事業における相互接続は,従来
等で多数の新規加入者を獲得してしまえば,スケール
原則として通信事業者間の協議によって接続条件の決
メリットもあり顧客1人当りの費用が下がる,スイッ
定が委ねられていたが,事業者間の紛争・協議の長期
(注10)依田・安橋[2004]によると,スイッチングコストに
は,①観察可能な物理的・直接的な事業者変更のためにか
かる費用と,②ネットワーク効果やブランド効果のような
観察不能な心理的・間接的な事業者変更のためにかかる費
用がある.なお,同論文では,日本のブロードバンド市場
でのスイッチングコストを計測し,それが高いことを示し
ている.
(注11)依田・安橋[2004]は「こうした割引戦略(筆者注:
ADSL 事業者等の期間限定割引キャンペーン)は,スイッ
チング費用を考慮に入れた顧客獲得競争の観点からは合理
的な経営戦略となる」と述べている.なお,日経コミュニ
ケーション[2003]は,(光ファイバーに関して)「
「…ユ
ーザーは,引っ越し以外で解約することはまずない.一度
加入したら他者に乗り換えることはめったにない」(p.57)
と(筆者注:FTTH 事業者は)信じているからだ」と記し
ている.
(注12)ソフトバンク BB は,ADSL 提供に当り,他事業者と
異なり,日本仕様で機器価格の高い Annex. C でなく,米国
仕様で機器価格の安い Annex. A を採用し,調達コストを削
減し,より低い価格設定を可能にしたと考えられる.
231
232
化が発生したことから,1997年の電気通信事業法改
ケーション制度をはじめとする諸制度を見直した.
正によりルールが確立した.この新しいルールは,透
「コロケーション」とは,NTT 東西以外の提供事業
明・公平な条件による迅速な接続を確保するため,事
者が DSL サービスを提供するための設備を NTT 東
業者間のネットワークの相互接続を義務化するととも
西の局舎内の空きスペースに置くことだが,これに関
に,他事業者の事業展開上不可欠なボトルネック設備
して,NTT 東西事業者と新規事業者との間の空きス
を対象とした指定電気通信設備制度を設けた.後者は
ペース貸借交渉の長期化,NTT が提供する諸情報の
郵政大臣(現総務大臣)が通信サービス提供において
不 明 瞭 さ, 工 事 等 手 続 き の 不 備 等 の 数 々 の 問題が
ボトルネックとなる電気通信設備(指定電気通信設
2000年前後に発覚し,新規事業者が円滑に DSL サー
備)を,それを保有する事業者を特定して指定するも
ビスを提供するための大きな障害となった.郵政省
ので,当該事業者は,法令で定められたルールに基づ
(総務省)は,DSL における競争を推進する立場か
き,指定電気通信設備への接続条件,機能ごとの接続
ら,コロケーションに関するルール(NTT 東西に対
料,接続に必要な情報等を含む接続約款を作成し,こ
する空きスペース情報の掲示義務,工事・保守手続き
れについて郵政大臣(現総務大臣)の認可を受けた上
の策定等)を2000年9月に整備(のち2001年,2002
で,他のすべての事業者に設備を開放する,というも
年に追加)するとともに,NTT 東西に対して事態を
のである.この指定電気通信設備(現在は第一種指定
改善するよう行政指導を行った.
電気通信設備)としては,都道府県の区域毎に,加入
また,郵政省(総務省)だけでなく,公正取引委員
者回線の占有率が50%を超える電気通信設備が対象
会がブロードバンド市場での NTT 東西による行為に
となり,全都道府県で NTT 東西の設備が指定され
関して独占禁止法の立場から対応を行った.2000年
た.
に NTT 東日本に対して ADSL における新規参入を
指定電気通信設備制度は当初固定電話サービスと専
阻害したとして(注14),また2001年には NTT 東西に対
用線サービスを想定したものであったが,NTT 東西
して ADSL に関して不公正な取引を行っているおそ
以外の事業者が DSL を提供する場合,NTT 東西の
れがあるとして,警告を行った.また,2003年には
固定電話回線網(=指定電気通信設備)を利用する必
NTT 東日本に対して「B フレッツ」の提供において
要があったことから,DSL サービスの提供に関して
新規参入を阻害し独占禁止法に違反するとして排除勧
もこの制度が活用されることが意義を持った.具体的
告を行った(これに対して NTT 東日本は受諾を拒
には,2000年前後に,DSL を念頭においた主配電盤
否,審判手続きが始められた).
(MDF)接続等に関する各種の接続ルール(日本に
これに加えて,公正取引委員会と総務省は,電気通
おける LLU 規制)が策定された.この際,NTT 東
信事業分野の競争を促進していくためには独占禁止法
西のメタル回線を共用的に利用することから DSL 事
と電気通信事業法の果たす役割を踏まえつつ,両法を
業者が NTT 東西に支払う接続料を非常に低廉な水準
適正に運用していくことが必要となるとの視点から,
に設定(MDF 接続に伴う追加的な費用に基づき算
2001年11月に「電気通信事業分野における競争の促
出)する等,NTT 東西以外の事業者が容易に事業を
進に関する指針」を公表し,電気通信事業分野におけ
展開できるような形で定められた(注13).これにより,
る競争の一層の促進のため相互に連携しつつ積極的に
NTT 東西の加入者回線を NTT 以外の事業者が DSL
取り組んでいくことになった.
提供のために利用することが可能となり,サービス
更に,ブロードバンドに限ったものではないが,
ベース競争の基礎となった.その後,このアンバンド
1997年から2001年に行われた各種規制緩和や制度整
ル規制は,加入者系メタル回線のみならず,NTT 東
備等(注15)も,ブロードバンド市場における競争環境の
西の敷設する光ファイバー(2000年)
,更に地域 IP
改善に貢献したと考えることができるであろう.
網(2001年)にも拡張され,新規事業者は加入者系,
以上のとおり,市場への新規参入を容易にし,競争
中継系とも自ら伝送路設備を整備しなくとも,比較的
が有効に行われる環境を政府が迅速に整備したこと
安いコストでブロードバンド・サービスを全国的に提
が,競争事業者の参入,市場での競争の活発化,更に
供できるような環境が整備された.
はそれによるブロードバンドの普及を可能にしたと言
これだけでなく,郵政省(総務省)は,DSL の円
える(注16).ただし,このような日本政府の取組みを,
滑な普及に向けて,NTT 東西の市内網を他の DSL
Fransman[2006]のいう「強力な規制」と呼ぶべき
提供事業者が円滑に利用できるようにするため,コロ
か否かについては議論の余地があろう(注17).
(注13)日本のローカル・ループのアンバンドル料金の水準を
EU 諸国(Commission of the European Community[2006]
のデータに基づく)のそれと比べると,ライン・シェアリ
ングの料金ではどの EU 諸国よりも低く,またドライカッ
パ(フル・アンバンドリング)では最も料金が安い EU 諸
国の水準と同程度となっている.
(注14)ただし,対象となった事案の多くは,郵政省による省
令整備や指導文書発出により,解消のための措置が既に採
られていた.
(注15)例としては,第一種電気通信事業者の許可に係る需給
調整条項の廃止(1997年),第一種電気通信事業者の料金
を含めた契約約款の認可制から届出制への規制緩和(1997,
2001年),電気通信事業紛争処理委員会の設置(2001年)
,
5.3で述べる公益事業者の電柱・管路等の使用に関するガイ
ドラインの運用開始(2001年)等がある.
このように,2000年前後に主にブロードバンド市
提供が比較的短期間に可能であった.米国や韓国等で
場での競争促進に政府が迅速かつ集中的に取り組んだ
DSL の普及が先行していたこともあり,普及前から
背景には,ブロードバンドの円滑な利用を求める各界
DSL に期待する声は大きく,総務省「21世紀におけ
や世論の強い要求が政府への圧力として機能したこ
る情報通信ネットワーク整備に関する懇談会」(総務
と,そして,政府自身が経済成長の原動力である IT
省[2000])も,日本でのブロードバンドの普及が本
において他の先進国に劣ることは許されず,ブロード
格 的 に 始 ま る 前 の 段 階 で, 国 内 で の 当 面(2002∼
バンドでの他の先進国への遅れを早急に挽回する必要
2004年)のブロードバンドの主力が DSL になるとの
があるとの認識を持っていたことが考えられる.それ
試算をしていた.
らの具体的な表れの一つが,
「5年以内に少なくとも
ただし,米国等で1990年代後半から商用化されて
3,000万世帯が高速インターネットに,1,000万世帯が
いた DSL の日本での導入は,当時 NTT が推進して
超高速インターネットに常時接続可能な環境を整備す
いた統合サービスデジタル網(ISDN)との干渉の可
る」との目標を掲げた e-Japan 戦略(2001年1月)で
能性があることが問題とされたため,他の先進国に比
あろう(注18).このような点に象徴される意識が政府内
べて遅れた.検討が行われた後,1999年8月に郵政
にあったことが,ブロードバンド普及において有効に
省から NTT 東西に試験的な接続が求められ,その後
働いたと考えられる.
の検証で干渉について一定の条件の下では問題なしと
の結論が得られたことから,2000年9月に DSL サー
5.3 物理的な通信インフラ
ビス提供のための MDF におけるメタル回線の接続に
日本のブロードバンドが,アンバンドル規制等の競
ついて,接続料と接続条件をNTT東西の接続約款に
争政策の下,市場での激しい競争により普及していっ
規定することが郵政省令により義務付けられた.
た背景として,ブロードバンド提供の基盤となる物理
他方,DSL 以外のブロードバンド技術については,
的通信インフラが十分に整備されていたことも挙げる
アクセス回線の設置状況の点で,DSL ほど日本での
必要があると考えられる.これについては,①ブロー
ブロードバンドの急成長をもたらす役割を果たしてい
ドバンドに利用できる既存のアクセス網,②新しい伝
ない.ケーブルインターネットは,1996年に日本で
送手段としての光ファイバー網の2点から見ていこ
最初にブロードバンドを提供したものであり,DSL
う.
が本格的に普及する前の2000年ごろまでは加入者の
ほとんどを占めていた.しかし,ケーブルインター
5.3.1 既存アクセス網:NTT 固定電話網の全国的
整備
ネットは主に CATV 加入者に提供されるサービスで
あり,ブロードバンドの普及が始まった2000年度末
日本のブロードバンド普及のプロセスにおいて
でのケーブルテレビ(自主放送を行う許可施設)の世
DSL の普及が果たした役割は非常に大きかった.全
帯普及率は21.8%に過ぎず,CATV の提供可能地域
体の加入者数の伸びが最も大きかったのは2002年後
も限られていたこと等から,ブロードバンドの成長の
半∼2004年前半であり,この時期に新規加入した数
中核的存在になり得なかった.ケーブルインターネッ
は2005年末における総加入者数の半分以上を占める
トの加入者数は現在まで一貫して増加しているもの
が,この時期のブロードバンド加入者数の増加分をプ
の,ブロードバンド全体の加入者数に占める割合は
ラットフォーム別に見ると,DSL が最も多く毎四半
年々少しずつ減少している(現在は約15%).
期の増加分のうち概ね70∼80%強を占めていた.
また,FTTH については,以前から将来のネット
このように,DSL が日本のブロードバンドを牽引
ワークの本命と言われてきたが,回線設備を加入者宅
した背景としては,当時の日本では短期間のうちに全
まで新たに設置する必要があり,それに費用と時間を
国の加入者にサービスを提供可能なアクセス回線が既
要することから,迅速かつ安価にサービスを提供でき
に整備されていたのは事実上 DSL だけであったとの
るものではなかった.もっとも2004年以降,高速通
事情がある.すなわち,加入者までのメタル回線を含
信サービスへのニーズの高まり等に対応して一般に本
む固定電話網は全国津々浦々で整備済みであり,この
格的に普及し始め,2005年以降は FTTH 加入者数の
アクセス回線を利用すれば全国の家庭等への DSL の
増加は DSL 加入者数の増加を上回るようになり,加
(注16)この他,ブロードバンドの供給を促すための政策とし
て,光ファイバー等の物理的ブロードバンド・インフラ整
備への予算・税制措置等による支援がある.日本でも光フ
ァイバー,DSL 等に対して各種の支援措置がとられてきた
が,これらがブロードバンド普及にどの程度の効果を持っ
たかについては別途研究が必要であろう.
(注17)Fransman 自身,規制の強さを直接的に測る術はなく
間接的な証拠に頼るほかないと認めており,英国 OFCOM
の取組みから見た日本の特徴と,日韓と欧米諸国との間で
の行政機関と規制機関の一体・分離の違いがあることを述
べるに留まっている.
(注18)なお,政府が e-Japan 戦略を策定し,その下での取組
みが行われたことによりブロードバンドの普及を成し遂げ
た旨の見解も時に見られる.しかし,接続規制等ブロード
バンドに関連する主な競争政策の多くは e-Japan 戦略の策
定前から行われていること等を考慮すれば,e-Japan 戦略の
下で新たに行われた取組みがブロードバンドという通信イ
ンフラの普及に与えた効果については,慎重な評価を下す
べきであろう.
233
入者総数でもケーブルインターネットを超えた.現
ン」の運用が開始された.
在, 日 本 は FTTH 加 入 者 数 で 世 界 の ト ッ プ で あ
る(注19).
5.4 その他の主な普及要因
更に,無線ブロードバンドである FWA は,既存の
5.1から5.3で説明した市場競争とそれを促す政府の
固定のアクセス回線を使用せずともブロードバンドが
競争政策,物理的な通信インフラの状況によって,日
容易に提供可能な技術として存在しており,2001年
本におけるブロードバンド普及のかなりの部分が説明
にスピードネット社が提供を開始したが,サービスは
で き る と 考 え ら れ る が, そ れ 以 外 の 要 因 と し て,
提供開始時期が予定より大幅に遅れたこと,技術的に
NTT が下してきた経営判断と,高速かつ常時接続・
も限界があったこと等から,結局,ピーク時で3万
定額制インターネットであるブローバンドへの潜在的
強,2005年末で約2万の加入者しか得られていない.
需要の大きさが,結果として日本のブロードバンドの
各家庭等の電力線を利用した電力線通信(PLC)は,
普及に大きな役割を果たしたと考えられる.
他の無線への干渉の懸念等の問題があったため,現時
点ではまだ商用化までに至っていない.
5.4.1 NTT の経営判断
このように,ブロードバンドを容易に展開できる物
既存事業者であり日本の電気通信をリードしてきた
理的通信インフラで,全国的に整備されていたのが日
NTT が下してきた経営上の判断が,日本のブロード
本では固定電話網だけだったことで,ブロードバンド
バンドの普及に影響を与えたと考えられる.
の早急な全国的普及を目指す上での DSL の重要性が
その一つは NTT の光ファイバー網構築への強いコ
高まったと言える.そこで競争導入を促し,ブロード
ミットメントである.FTTH 普及を含め,光ファイ
バンドの普及を進めるとの意味で,日本での LLU を
バー網の構築に関する NTT の積極的な取組みについ
はじめとするアンバンドル規制やコロケーション義務
ては改めて指摘するまでもない.NTT は,1990年に
化措置等の導入は適切な政策措置であったと言えよ
発 表 し た「21世 紀 の サ ー ビ ス ビ ジ ョ ン 」 に お け る
う.
VI&P 構想で,「2015年までに日本全国のすべての家
庭,オフィスに光ファイバーを敷設する」という,現
5.3.2 NTT と電力系事業者による光ファイバー網
整備
234
在でいう FTTH 化に向けた構想を掲げ,その後今日
まで光ファイバーに関する積極的な取組みを行ってき
このように,既存の固定電話網のメタル回線を用い
た.特に,近年は,固定電話加入数の減少,固定電話
た DSL を中心に日本のブロードバンドは普及して
網の耐用年数経過,インターネット等の IP による通
いったが,既存の固定電話網だけでなく,光ファイ
信の急速な拡大等があり,事業の中心を固定電話から
バーが NTT と電力系事業者によって整備されてきた
FTTH へ移しつつある.
ことも重要な要因であると考えられる.
FTTH での NTT 東西の非常にアグレッシブな姿勢
NTT と電力会社は,公益事業者としての巨大な資
は,最近の市場環境においても見て取れる.5.1で述
金力も背景に,膨大な光ファイバー網をこれまで構築
べたように,ADSL や FTTH 市場で新規事業者が低
してきた.また NTT,電力会社とも,電柱・管路等
価格で参入してきたことで,NTT もそれらと競合す
を自ら保有しており,FTTH をユーザに提供するた
る FTTH サービスの大幅値下げを余儀なくされた.
めの光ファイバー回線についても比較的容易に設置す
こ の よ う な 状 況 で, 光 フ ァ イ バ ー に コ ミ ッ トする
ることができる.このことで,NTT 東西と電力系通
NTT は,それにアンバンドル規制がかけられている
信事業者が比較的容易に FTTH サービスを一般に提
にもかかわらず光ファイバーへの積極的な設備投資を
供することが可能になっているだけでなく,NTT 東
現在まで行い続けている.図4は,光ファイバーに関
西と電力系事業者間の設備ベースの競争を促進すると
す る ア ン バ ン ド ル 規 制 が 始 ま っ た2001年 度 以 降 の
いう形で,光ファイバーへの更なる積極的な投資,料
NTT 東西の設備投資額を示しているが,光化への投
金の下落,更に利用者増といった好循環を生み出して
資額は年によってバラツキがあるものの,堅調に推移
きたと考えることが可能である.
していると考えられる.また,総務省[2006]によ
なお,光ファイバーの整備促進には,通信・電気・
れば,FTTH 市場での NTT 東西のシェアが増加基調
鉄道等の公益事業者の保有する電柱・管路等の既存
に あ る. こ れ ら は, 光 フ ァ イ バ ー に コ ミ ッ ト す る
ネットワーク空間を他事業者にも有効活用させること
NTT として,FTTH 市場で設備ベースにより競争す
が有益であり,新規事業者等から明確なルール策定の
る電力系事業者に対抗するには積極的な設備投資が必
要望が出されていたことから,2001年4月から「公
要と判断しているからだと考えられる.なお,NTT
益事業者の電柱・管路等の使用に関するガイドライ
は2004年に発表した中期経営計画の中で,2010年ま
(注19)このように,最近,日本のブロードバンドの中心が
DSL か ら FTTH に 移 り つ つ あ る. こ れ は, 価 格 低 下 や
PtoP 等によるファイル交換に見られる高速な通信へのニー
ズ拡大等の要因によると考えられるが,本論文はブロード
バンド全体としての普及の問題を扱っており,ブロードバ
ンド内での FTTH の比重増大については特に論じないこと
とする.
制・常時接続のインターネットを求める大きな潜在的
NTT東日本
5,000
4,000
設
備
投 3,000
資
額
設備投資総額
3,656
76%
3,342
アクセス網の光化率
84%
81%
3,991
3,778
100%
86%
88%
4,222
4,100
66%
(
億 2,000
円
)
1,000
1,900
1,750
1,430
アクセス網の光化投資額
1,250
740
860
0
80%
ア
ク
セ
60%
ス
網
の
40% 光
化
率
20%
0%
2001
2002
2003
2004
2005
4,000
4,006
3,624
設
備
投 3,000
資
額
(
億 2,000
円
アクセス網の光化率
83%
3,976
3,978
80%
4,629
86%
100%
4,000
50%
)
1,740
1,600
1,400
アクセス網の光化投資額
2,080
1,510
900
0
80%
ア
ク
60% セ
ス
網
の
40% 光
化
率
20%
0%
2001
2002
2003
2004
金体系の問題が関係していたことが指摘できる.日本
の場合,1990年代後半にインターネット(ナローバ
ンド)への需要が急速に高まったが,普及度の水準で
は米国等の先進国にかなり遅れていた.この時期,多
くの論者から特に槍玉に上げられていたのが,NTT
2005
流だったこの時代,インターネット利用で進んでいた
米国の市内通話料金は定額制が多かったのに対して,
87%
67%
1,000
るナローバンドに係る料金,特に電話サービス等の料
た.ダイヤルアップによるインターネットの利用が主
NTT西日本
設備投資総額
特に後者については,ブロードバンドの代替財であ
の電話サービス等における従量制の料金体系であっ
2006(計画)
年 度
5,000
な需要が存在したと考えられるからである.
2006(計画)
年 度
出典:総務省[2006]
図4 NTT 東西の設備投資総額に占めるアクセス網の光
化投資額の推移
日本では従量課金であり,水準もかなり高く,利用者
が意識しないままインターネットの毎月の利用料金が
高額になってしまうこともあった.このようなことか
ら定額制インターネットへのニーズが大きく高まって
いた.これに対して,1995年に NTT も定額料金サー
(注20)
ビス「テレホーダイ」
の提供を開始したが,夜間
限定である上につながりにくくなる場合も多い等不満
が多く,郵政省は NTT に対して定額制インターネッ
ト導入の要請を行った.NTT は再編直後の1999年7
月に定額料金制の導入を発表し,同年,完全定額制の
ISDN サービス,ADSL サービスの試験提供を開始し
た.このサービスにより定額制が徐々に定着していく
でに光サービスへの加入数3,000万を目指す旨表明
が,この時期は ADSL サービスでも月額5,000円代で
し,光ファイバーへのコミットメントを今後も継続す
あり,本格的にインターネットへの需要に応えられる
ることを明らかにした.
ようになったのは,ソフトバンク BB の参入に伴う
逆に,メタル回線を使用する DSL に対してネット
ADSL サービス料金の大幅な低下を待つ必要があっ
ワークの光化を目指す NTT の姿勢が当初消極的だっ
た.
たことも日本での DSL の展開にも大きな影響を与え
たと考えられる.DSL は NTT の推進する ISDN と
の干渉の可能性が問題とされたことで日本での導入が
6 日本におけるアンバンドル規制の役割
遅れた.NTT 東西は ADSL サービスの提供開始では
以上,日本のブロードバンドの普及の主な要因につ
他の事業者に先行していたが,ソフトバンク BB が従
いて説明を試みてきたが,政策上の論点として,アン
来に比べて大幅に低い価格で参入した際に積極的な対
バンドル規制が果たした役割について以下で論じた
応をとらず,DSL 市場でのシェアを徐々に失った.
い.
その結果,日本の DSL 市場は,既存事業者(=NTT
米国のブロードバンドについては,多くの研究者等
東西)の市場シェアが三十数 % に過ぎない世界で最
が,アンバンドル規制によるサービスベース競争は通
も競争的な市場の一つとなったと言えるのではないだ
信事業者によるネットワークへの投資のインセンティ
ろうか.
ブを阻害する等効果に乏しい,としている(例えば
Shelanski[2003]等).
5.4.2 ブロードバンドへの潜在的需要:通信料金体
系の影響
他方,日本で実際に起きた事態を見ると,上述のと
おり,①アンバンドル規制等により DSL でのサービ
本論文はブロードバンドの供給面を中心に論じるこ
スベース競争が活発に起こり,ブロードバンドの普及
ととしたが,それでも日本でのブロードバンドへの潜
が急速に進んだ,②アンバンドル規制等にもかかわら
在的な需要について指摘しておくことは重要と考え
ず,NTT 東西の加入者系光ファイバーへの投資額は
る.それはブロードバンドの普及が急速に進展した背
増加しており,ネットワークへの投資インセンティブ
景には,高速のインターネット,手頃な価格での定額
に悪影響が生じたようには見えない(注21).
(注20)NTT 東西が提供する電話サービス及び ISDN サービ
スの料金プランの一つで,加入者の選んだ特定の電話番号
への通話/通信料金が,夜11時∼朝8時に限りいくらかけ
ても毎月一定額になる.
235
236
これらは,第5節で述べた諸点を使えば,次のよう
に予見していたとは言えまい.しかし,既に述べたよ
に説明することができる.①については,
(a)
CATV
うに,ソフトバンク BB 等の事業者の戦略は,短期的
の普及率が低く(例えば米国との対比において),ブ
な財務リスクを負うとはいえ,スイッチングコストに
ロードバンドに使えるアクセス回線として全国的に普
よるロックインがある市場の初期段階での合理的な戦
及している物理的通信インフラとしては NTT 東西の
略と考えることができるし,何より,日本で行われた
固定電話網しかなかったため,早急に市場競争を実現
アンバンドル規制やコロケーション義務付け等がなけ
するには LLU により DSL 市場でのサービスベース
ればソフトバンク BB 等の新規事業者が全国規模で
競争を起こす必要があった,
(b)政府による LLU を
DSL 市場に参入し,事業を確立することもまた難し
含めたアンバンドル規制,コロケーション義務化等
かったであろうと考えられる.
が,新規事業者が加入者系,中継系とも自前設備を構
仮にアンバンドル規制が導入しなかった場合を想定
築する必要なく比較的安いコストで容易に全国規模で
すると,現在ほどのブロードバンドの普及が実現した
参入し競争することを可能とするかなり徹底したもの
かどうかは疑問である.当初 DSL 市場のシェアのほ
であり,かつそれが短期間に迅速に整備された,(c)
と ん ど を 握 っ て い た の は NTT 東 西 で あ り, そ の
このように整備された環境の下で,新規参入が促さ
FTTH へのコミットメントも考えれば,アンバンド
れ,中でもソフトバンク BB 等が大幅に低い価格でブ
ル規制後の新規参入がなければ ADSL サービスの価
ロードバンド市場に参入し,その後事業者間の活発な
格はしばらく高額のままになっていた可能性は強い.
顧客獲得活動が行われたこと等により非常に競争的な
また,FTTH 市場では実際と同様に設備ベース競争
市場が実現した,
(d)日本におけるブロードバンドへ
が行われたであろうが,基本的には NTT 東西と電力
の潜在的需要が十分に大きかった,ということができ
系事業者が中心の複占的な市場であり,ADSL との
る.
プラットフォーム間競争もあまり期待できないことか
また,②のアンバンドル規制にかかわらず NTT の
ら,競争による価格の大規模な低下等の効果,それに
加入者系光ファイバーへの投資額が増加した点につい
伴う需要の拡大が生まれなかった可能性が大きかった
ては,
(e)
NTT 東西が光ファイバー網の構築にコミッ
のではないかと推測される.
トしていた,
(f)電力系事業者が NTT 東西と同じく
アンバンドル規制は日本において当時ブロードバン
設備ベースで FTTH を提供しており,これとの競争
ドが普及するための,十分条件とは言えなかったもの
に勝ち抜くことが NTT 東西にとって必要である,
(g)
の,必要条件であったと言える.ブロードバンドの普
FTTH 市場の競争ではスイッチングコストの存在に
及には他の条件も必要であるが,これら他の条件は,
よりロックインが生じやすく,新規加入者を先に獲得
例えば物理的通信インフラの状況を見れば分かるとお
した方が有利であるため先行投資が重要になる等によ
り,国ごとに異なった状況にある.必要なのは,これ
り説明できるであろう.
ら国ごとの条件を踏まえた上で,最も適切な政策を選
このように,日本は,アンバンドル規制等の導入が
択することであると考えられる.他国で成功(あるい
特に DSL 市場で効果を発揮し,ブロードバンド普及
は失敗)しているからといって,安易にそれを自国に
に関して成功を収めたと言える(注22).もちろん,単純
当てはめることは適切とは言えないだろう.
にアンバンドル規制を行えば,ブロードバンドが普及
なお,日本における光ファイバーのアンバンドル規
するという見方は短絡的であり,第5節で見たとお
制については,NTT は撤廃を強く求めており,2003
り,アンバンドル等の規制がかなり徹底して行われ,
年には政治問題にもなる等,その継続の是非が現在の
かつそれ以外の様々な要因もあって日本ではここまで
通信政策の課題の一つとなっている.確かに,アンバ
ブロードバンドが普及したと言える.
ンドル規制には既存事業者のネットワークへの投資イ
他方,このようなアンバンドル規制の導入が成功し
ンセンティブを弱め,そこからの報酬を低下させる効
たのは,その後たまたまソフトバンク BB の参入,そ
果があることは推測されるが,実際の日本の市場で
の他いくつかの要因が重なったための僥倖に過ぎない
は,5.4.1で述べたとおり,アンバンドル規制にもか
と,日本を例外的存在のように扱う言い方も妥当とは
かわらず NTT 東西の光ファイバーへの投資額は堅調
言えないだろう.確かに,アンバンドル規制等を制定
で,また FTTH 市場での NTT 東西のシェアも増加
した際,政府がその後の展開,特にソフトバンク BB
基調にある.規制の役割は,一事業者の経営の安定だ
のような事業者の参入やその後のインパクトまで十分
けでなく,他の事業者や,消費者余剰を含めたその国
(注21)ただし,米国の1996年通信法がアンバンドル規制によ
り期待した「足掛かり(stepping stone)
」仮説(アンバンド
ル義務化により新規参入がまず起こり,それら新規参入事
業者がその後設備投資を行うようになるとの仮説)は,ア
ンバンドル規制反対派が米国について主張するのと同様,
日本でもあまり成立していないように思われる.例えば,
ソフトバンク BB はサービスベースで参入して数年が経過
するが,自前の回線設備の建設に積極的とは言えない.
(注22)なお,加入者系光ファイバーについてのアンバンドル
規制が,FTTH の普及を促したという効果はまだ DSL ほ
どには十分に見られていない.FTTH 市場の事業者別シェ
ア(契約回線数ベース)を見ると,その大半が NTT 東西
と電力系事業者といった設備ベースの事業者であり,かつ
それらの市場シェアは高まっている(総務省[2006]
)
.
の社会的厚生の最大化にあることから,光ファイバー
ク 整 備 に 関 す る 懇 談 会 第 二 次 中 間 報 告 書
のアンバンドル規制の見直しについては,日本の状況
「2005年へ向けた e-Japan 超高速ネットワーク
を踏まえた慎重な検討が求められよう.
イニシアティブ」.
http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/pressrelease/
7 おわりに
japanese/PDF/denki/001225j60201.pdf
総務省[2003] 『平成15年情報通信白書』.
本論文では,日本に焦点を当て,ブロードバンドの
http://www.johotsusintokei.soumu.go.jp/
急速な普及をもたらした要因について説明を試みた.
whitepaper/ja/h15/index.html
ブロードバンドの普及は日本以外の多くの国でも国家
総務省[2005] 『平成17年情報通信白書』.
目標の一つとなっているが,先進各国におけるブロー
http://www.johotsusintokei.soumu.go.jp/
ドバンドの普及状況を見ても国により相違があり,こ
whitepaper/ja/h17/index.html
れについては,Fransman[2006]が“puzzle”と呼
総務省[2006] 『平成17年度電気通信事業分野にお
ぶように未だ不明確な点も多い.日本にあった条件が
ける競争状況の評価』.
他の国で同様に存在しているわけでなく,日本での政
趙鏞吉[2003] 「ブロードバンドの普及要因に関す
策をそのまま導入することも必ずしも適当ではないと
る一考察―韓国・日本の事例の比較分析」
,公
推察されるが,本論文は,日本を他国との比較を行う
益事業研究第55巻第1号 .
ことを目的としたものではなく,この点の考察は不十
辻正次[2005] 「ADSL 市場での規制緩和の効果―
分である.ブロードバンド普及に関する他国との比較
AHP 分析結果―」,内閣府公共料金分野におけ
等については,日本のブロードバンド普及過程に関す
る規制影響分析検討委員会電気通信ワーキング
るより詳細な研究とともに,今後の研究課題とした
グループ第7回(2005年9月15日)参考資料
い.
2.
今や日本はブロードバンド大国となり,新たに様々
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/koukyou/data/
なワイヤレス・ブロードバンド技術が登場する等,ブ
17data/tu170915-s-shiryou2.pdf
ロードバンドがほぼゼロの状態からの普及を目指した
日経コミュニケーション[2003] 『知られざる通信
数年前とは様々な点で環境が大きく異なっている.現
戦争の真実:NTT,ソフトバンクの暗闘』
,日
在,政府においてブロードバンドを含めた通信・放送
経 BP 社.
の制度に関する議論が行われているが,ブロードバン
Commission of the European Community [2006],
ドに関する現在の政策課題の議論に関しても,本論文
European Electronic Communications
の観点を踏まえつつ,更なる研究が必要となろう.
Regulation and Markets 2005 (11th Report).
http://www.icp.pt/template20.jsp?categoryId=
付記:本稿を作成するに当たり,東京大学情報学環岡
60355&contentId=337332
崎毅助教授,総務省藤野克氏から有益な情報と意見を
Fransman, Martin [2006], Introduction, Fransman, M.
賜った.ここに謝意を表したい.なお,本稿は,財団
ed.,
法人電気通信普及財団平成16年度研究調査助成金の
助成を受けて実施した研究成果の一部である。
Stanford University
Press.
Ida, Takanori [2006], Broadband, Information Society
参考文献
and the National system in Japan, Fransman, M.
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「通信要素のアンバンドリング:
ed.,
その効果と限界」
,独立行政法人経済産業研究
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Stanford University
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http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/
03j012.pdf
依田高典・安橋正人[2004]
「拡張 Shy モデルによ
る日本のブロードバンド市場のスイッチング費
用の計測」
,総務省『平成15年度電気通信事業
International Telecommunication Union [2003],
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http://www.itu.int/osg/spu/ni/
promotebroadband/casestudies/japan.pdf
International Telecommunication Union [2005],
分野における競争状況の評価』別添6.
http://www.soumu.go.jp/s-news/2004/pdf/
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21世紀における情報通信ネットワー
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http://www.oecd.org/document/39/0,2340,en_
2649_37441_36459431_1_1_1_37441,00.html
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237
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(eds.),
American Enterprise Institute
Press.(株式会社情報通信総合研究所ブロード
バンド・サービス研究チーム訳[2005]
『ブ
ロードバンドの発展と政策:高速インターネッ
ト・アクセスに規制は必要か』
,NTT 出版)
238