村山元英シアトル大学

歌舞伎を語る
シアトル大学教授/千葉大学名誉教授
東音
村山
元英
日米文化の“架け橋”としての、歌舞伎の本質的な意味をこの機
会に考えてみたい。
「日米の架け橋」としての歌舞伎の意味を、歌舞伎をする役者、
観客、舞台、邦楽(義太夫・長唄・清元・常磐津,お囃子など)、衣
装、座元(主催者・劇場)などの個別の視点でくくることもできる。
だが、現代のアメリカに生きる者たちにとって、
「日米架け橋」とな
る歌舞伎の本質は、
「見る・見られる関係の自己主張」であり、拘束
や差別の歴史環境や社会構造の苦難を乗り超えて個人主義を貫くパ
ラドクシカル(逆説的)な社会的正義(Social Justice)の人間モ
デルを“性の開放”と“抵抗の精神”を下敷きにして自己表現する
ものである。
アメリカで自己主張できる人間モデルを、歌舞伎の中の人間モデ
ルとして仮に置き換えてみよう。そのためには、まず歌舞伎の本質
を多面的に知ることである。
日本文化としての歌舞伎の本質を要約すれば、(1)役者が中心
(能力型個人主義)
、(2)家芸の継承(文化型集団主義)、(3)舞
台と観客(交流型市場主義)
、(4)異種の演技・様式を包含(多文
化混交主義)
、(5)季節感を取込む(変革成長主義)である。
上記の括弧内に要約された、歌舞伎への本質的思考は、部分と全
体との間を往復し、個と普遍とが重なる意味での、歌舞伎芸道の真
髄として理解してもらいたい。ちなみに、私なりの以上の歌舞伎の
本質的解釈を、「国際経営学」や「企業文化戦略論」の講義科目の中
に盛り込んで、シアトル大学のMBA学生に教えると、その講義は
グローバル経営への根源的理解の道筋となる。
そうした講義が面白いとする学生からの反響は、歌舞伎そのもの
が“面白い”(奇想天外、逆説的真理、性の倒錯、醜悪美、荒神人性、
不条理の条理、反逆の思想)という歌舞伎の本質を鏡効果的に表象
しているようでもある。
私も含めてアメリカで生きる者たちは、“もう 1 つの”歌舞伎とな
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る現実的生活リズムを気がつかないままに日常演じている。それは、
「残酷なる愛」と共生する現場の宿命観である。
歌舞伎の精神は、「残酷なる愛」を「崇高なる愛」に昇華させる方
向に沿って劇化されてきた。いいかえると、徳川幕府からの歌舞伎
への歴史的弾圧から逃れるべく、その折り目折り目で残酷から崇高
への愛の転換を、江戸の町人文化の形成に求めらてきた。そこに、
歌舞伎の精神である“慰み”(日常の苦労を忘れ、非日常性の歌舞伎
の娯楽性・好色性・悪態を楽しむ)が誕生した。
歌舞伎はその時代の社会の仕組みを反映してきた。同様に、アメ
リカ人生に歌舞伎的要素があるとしたら、思いがけない悲劇の中に
も生きる洒落をつくり、風流を見出し、そして善悪未分離や不合理、
さらには不幸なることを宿命的に洞察し、その現実を泣き笑い吹き
飛ばす自己を知ることである。こうした現実を生の形にするわたく
しどもの日常性への覚悟が、歌舞伎の源泉である。歌舞伎の中に途
上する人間モデルは、「残酷にして・崇高なる愛」のメッセージを、
そうした覚悟のわたくしどものアメリカ人生に伝えてくるはずであ
る。
かっては、歌舞伎と吉原とは同じで位置づけで、政治的に悪所と
して扱われてきた。だが、歌舞伎も吉原も隔離された空間で浮世離
れした幻想の世界、即ち、理想郷を性の開放と批判の精神で作り出
してきたことにはまちがいない。考えられることは、アウトローに
傾くものたちの、伊達や意気地、無頼の徒らの反逆のどろどろした
庶民のエネルギーが人間性を無視した身分差別の権力者への抵抗の
心情となり、歌舞伎の芸能文化性を磨き上げてきた。しかし今では
歌舞伎は現代の古典芸術となり、人間国宝を輩出し、日本が誇る世
界に類のない総合芸術となった。
例えば、1 人の役者は 1 人で 3 役(セリフ声楽、シバイ演技、オド
リ舞踊)を同時に演じる「役者の芸尽くし」は、日本製品を比類な
き世界の商品に磨き上げた「モノづくりの技尽くし」に匹敵する。
ついでに例外を含めて言えば、役者の資質は「1芸・2 顔・3姿」と
されてきた。同様に、経営者の資質は、「1 専門の芸・2組織の顔・
3行動の姿(全人格の魅力)」ともいえる。
そうした役者の演じる型は、特定化された人たちの現場を共有し
てきた歴史の真実であり、時と場が織り成す演技の積み上げで固ま
る。その文化特性は、「芸の継承が家の継承」と半ば神秘的に共生し
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ていることである。このことは、持続するトヨタのグループ経営に
ついても当てはまる。
歌舞伎の演技の型が決まる前には、「見る・見せる関係の」リズム
がある。リズム(生きている実感)が型(行動の形)をつくる。そ
のリズムを“気持ち”(感性)と言い換えると、「型と気持ちの関
係」は、気持ちを包み込むところに型があるといえる。だが、「型か
ら気持ちを知る」者たちもいるだろう。
アメリカでのトヨタの成功も、現場の気持ちを型にしたこの型の
文化を基点としている。トヨタも歌舞伎も、その型とは部分であり、
全体の 1 部である。だが、その部分として磨き上げた個が普遍化す
る。と言うのも、部分に込められた個の気持ちが世界的共感の体系
となり、分かち合える情緒や人間感性となるからである。崇高なる
感動や共通の気持ちを型にする個がそれぞれ普遍化する能力をもつ
と、その個の組み合わせが「相手を生かせば・自分がより生きられ
る」歌舞伎劇となり、企業文化のトヨタ生産方式となる。
シアトルは日本文化を楽しむ「秋まつり」や「春まつり」が隆盛
である。シアトルの日系文化の祭りを歌舞伎に“見立て”てみよう。
そこでの発見は、参加者たちの一様の努力が、「日本文化の気持ちを
如何なる型にかして」
、「アメリカで自己表現しようか」という苦心
の過程である。日本文化の精神を、アメリカの現地行動につくりか
える型の模索が、逆に、シアトルで新しい文化の型と現地的精神を
創始することもある。
だが、その一方で変容する日本文化はそれはそれとして、文化起
源となるリズムの根源、即ち、ここで言う歌舞伎の精神が、束縛に
向けての「自由な感性」と「抵抗の心情」を基底とする“遊び心”
(創造の哲学)や“風流”(異端文化)が、アメリカ文明の創造的破
壊の過程と、どの程度、あるいは、どのように重なり合い、相互交
流と相互理解されているだろうかという問題認識は、否定できない
現実問題である。
例えば、今回の演目である、『鷺娘』の女役(女事型)と『石橋』
の立役(荒事型)である。前者は女性の妄念や執念を型にする。後
者は獅子の子育てへの非情な愛、即ち、人間の中に残された動物的
精気を仏教説話的理念に絡めて型にする。
『鷺娘』を演ずる女形(おやま)は、男がどこまで男を捨てて女
になり切れるかという課題への挑戦である。その女性像は、女が女
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としての描く女性のイメージではなく、男が求める幻想の女の美的
イメージである。ましてや、鷺が娘に変身し恋の猛火に焼け死ぬ狂
言には、役者が舞台に身体性の花を咲かせる演技で、どろどろした
女性の妄念と妄執の世界から「崇高なる愛」の形へと転換する好色
の美学に秘められた無常観が面白い。
つぎに、『石橋』についていえば、この演目は「能の世界」(武家
文化)を取り込んだ、「歌舞伎の世界」(町人文化)の生き残り戦略
の現れである。能の固まった芸術性を、歌舞伎の柔軟多様な芸能性
とに結びつけ、歌舞伎の芸道(例えば、『役者論語』
)にも武士道的
な精神と型の所在を主張し、幕藩体制下の監視規制を和らげると同
時に、武士階級への市場拡大の試みや、武家社会への苦言か提案と
しても『石橋』の演目の誕生は理解できる。もちろん、歌舞伎の現
実的生き残り戦略は、過去の世界(例えば、『太平記』
・『保元物
語』・
『義経記』など)と現代の流行(例えば、金平浄瑠璃・俄な
ど)を大胆に吸収するところにあるので、能の歌舞伎化に限らず、
人形浄瑠璃からの歌舞伎への転合も多くある。
今回の『石橋』の紹介にあたり、松竹さんは『連獅子』の部分を
つけたししたものと思われる。獅子事は、歌舞伎踊りの圧巻で他に
類を見ない迫力があり、役者親子の襲名披露などでもかよくお目に
かかれる。千尋の谷に突き落とされたわが子(獅子)が親の力を借
りずに独力で這い上がったきたとき、その親獅子の感動がその子獅
子と一緒に獅子舞踊を演じる。その歌舞伎の精神は、「残酷にして崇
高なる」教育愛としてアメリカでも共通理解されるものと期待した
い。
最後に、国際交流基金(日本本部と米国西海岸地区)が、歌舞伎
を構成する全体要素に目配りして、松竹株式会社を巻き込んでの今
回の「歌舞伎講演と演技紹介」の海外企画をされたことに、謹んで
感謝したい。
出演する役者(中村京蔵・中村又乃助)も本プロジェクトに相応
しい実力者で、松竹さんが厳選された名うての方々である。音の世
界(長唄の声:吉村伊千四郎・吉村伊四乃助、糸:杵屋正園・杵屋
六治郎、お囃子:笛の田中傳太郎・鼓の望月太州・望月太喜十郎)
も、それぞれ専門分野では名門の家柄(梨園関係者)であり、1 人で
何人前もこなせる芸達者たちである。
そして裏方の伝統を支えてきた役者衣装の新井久美子、床山(鬘
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や髪結い)の宇田川雄一、大道具の塙博康、舞台監督の井口祐弘、
制作プロジューサー中野正夫(松竹)の参加は、本プロジェクトを
より本格的なものにしてくれた。
シアトルで歌舞伎と出会えた感動を、私の中の歌舞伎物語として、
日本とアメリカに、世界に、そして後世に語り伝えたい。
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