20 世紀日本の戦争史読む年表-1 H28.12.28 改訂

20 世紀日本の戦争史読む年表-1
H29.1.28 改訂
*は軍紀違反
(ペリー来航と近代日本の始まり)
嘉永 6 年 6 月 3 日(1853 年 7 月 8 日)
マシュー・ペリー率いる 4 隻の艦隊が江戸湾の浦賀沖に姿を現し、江戸幕府にアメリカ大統領の親書
を手渡し、通商のため開国を求めた。当時のアメリカ海軍において、ペリーは准将として臨時に東インド
艦隊提督に任じられていた。
アメリカはシナに石炭を求め、経済進出を図ろうとしていたが、その中継基地としてペリーが目を付け
たのは横須賀で、そこを占拠しようと考えていた。一部に言われている「捕鯨中継基地のために開港を迫
った」というものではなかった。
当時、日本の流通は海運によっていたから、4 隻の艦隊が浦賀沖に居座ると、食糧などの荷を積んだ船
が江戸湾に入って来ることができずに江戸の住民が飢えることになるため、鎖国政策をとってきた幕府
はその対策に大いに頭を悩ませた。幕府は長崎に廻航するよう求めたが、ペリーに拒否されたため、翌年
までの猶予を求めた。
このときは、ペリー艦隊は浦賀一帯の測量をしただけで同月 12 日に引き上げた。
その後、幕府は半年後のペリー艦隊再来に備えて、艦隊が江戸湾奥深く入ることのないよう、品川沖合
の御殿山を削って砲台6基の造営にとりかかった(お台場)
。
嘉永 7 年 1 月 16 日(1854 年 2 月 13 日)
ペリーが軍艦 7 隻を率いて再来日。浦和沖に停泊し、条約の締結を求めた。2月にはさらに1隻が増え
て計8隻の軍艦で江戸の街を威圧し、開港を迫った。このとき、お台場の砲(5門が完成していた)は抑
止力として働いた。
同年 3 月 3 日(1854 年 3 月 31 日)
アメリカに迫られて幕府が日米和親条約を締結。
その内容は、ペリーの要求通り、下田及び函館の開港、下田をアメリカ人の居留地とすること、アメリ
カへの片務的最恵国待遇などであった。
安政 5 年 6 月 19 日(1858 年 7 月 29 日)
江戸幕府がアメリカとの間に日米修好通商条約(全 14 条)を締結。下田に滞在する総領事ハリスから
要求され、同幕府は尊王攘夷運動の高まる中、新たに神奈川、江戸、兵庫、大阪など6港の開港・開市に
応じた。
次いで、イギリス、ロシア、オランダ、フランスにも迫られて、幕府は同様の修好通商条約を締結。こ
れらはみな治外法権や開港地駐留権を設定し、わが国に関税自主権を持たせない、などの不平等条約で
あった。
当時、日本はオランダと交流の歴史があり、ロシアから開国を迫られていた。そこにアメリカが参入し、開国を
迫った。その頃の世界の大国はイギリス、フランス、ロシア、オーストリア、プロシャであり、英仏連合軍がトル
コとともにロシアを相手にクリミア半島で戦争をしていた。
日本からすれば未だそれほどの大国ではなかったアメリカがちょうどいい国交締結相手国であったため、まず初
めにアメリカと修好通商条約を締結した。
なお同年、清朝も、黒竜江以北の沿海州に植民を行って事実上占領したロシア帝国により、アムール州とウスリ
1
ー川以西の沿海州の割譲、また、ウスリー以東の沿海州の共同管理地化という内容の屈辱的な璦琿条約を締結させ
られた。
万延 2 年(1861 年)
ロシアの軍艦ポサドニック号が「修理のため」と称して浅茅湾(対馬)に投錨し、芋崎を占拠した。
対馬藩は対応に苦慮したが、5 月には幕府外国奉行の小栗忠順が派遣され、7 月にイギリス公使オール
コックを介して対抗のためイギリス軍艦が測量を名目に近くの吹崎沖に停泊してロシア軍艦を威圧した。
これによりロシア軍艦が退去した。
国内に攘夷運動が高まるが、文久 3 年 7 月 2 日(1863 年 8 月 15 日)の薩英戦争、元治元年(1864 年)
8 月 5~7日の長州と英仏蘭米連合軍との間の馬関戦争における敗戦によって、攘夷の急先鋒であった薩
長両藩もそれが非現実的であることを知るようになった。
慶応元年(1865 年)
締結された日米修好通商条約に孝明天皇が勅許を出したことにより尊皇と攘夷は結びつかなくなり、
攘夷の力が失われた。
土佐藩の坂本龍馬らの仲介があって、薩摩藩と長州藩は和解、倒幕の密約を結ぶ。後、西の諸藩
が倒幕の元に結集し、倒幕運動へ。
慶応 3 年 10 月 14 日(1867 年 11 月 9 日)
江戸幕府第 15 代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏=大政奉還。
慶応 3 年 12 月 9 日(1868 年 1 月 3 日)
王政復古。明治新政府成立。→慶応 4 年(1868 年)3 月 14 日、五箇条の御誓文が公布された。以降、
日本は欧米帝国試技国が東アジアにおいても鎬を削る国際社会の中で、列強に伍して自立自存の道を歩
みだした。
(明治)
(近代日本の軍制)
2 年(1869 年)7 月
兵部省が設けられる。兵制確立の急務を提唱した大村益次郎が兵部大輔に就任。
3年2月
国交を求める外交文書を携えた佐田白茅、森山茂が朝鮮に渡るが、国王との面会を拒絶されて帰国。
明治政府は、ロシアの脅威から朝鮮の近代化を望んでいた。そこで、対馬藩を通じて外交文書を送った
が、清朝の臣下を自認する朝鮮は、日本からの文書に「皇」
「勅」とあったことから「日本の属国になれ」
と意図していると解し、受領を拒否していた。そこで、誤解をとくため政府から佐田、森山の両名が派遣
された。それでも、朝鮮国王は頑なに受領及び両名との面会を拒否した。その扱いが非礼であったため佐
田は憤慨し、帰国後、征韓の建白を行った。
→西郷が「自ら朝鮮に出向いて国王を説得する」との考え(俗に「征韓論」と呼ばれる)に至り、遂に
は下野。やがて「西南戦争」
(明治 10 年)に繋がった。
3 年 10 月
兵制として、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式とする太政官布告が公布される。
4年8月
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政府直轄の近衛都督に就任していた山縣有朋が旧藩の常備兵を徴集して東北、東京、大阪、鎮西の 4 鎮
台を設置。
4 年 11 月 12 日
岩倉具視を正使とする総勢 107 名の使節団がアメリカ及びヨ~ロッパ 12 か国の視察に出発。団には伊
藤博文、木戸孝允、大久保利通という明治政府首脳が参加し、帰国は 6 年 9 月 13 日という長期のもの
で、これは当時としては画期的なことであった。伊藤らは米欧の政治経済、文化、教育などさまざまなこ
とを学び、近代国家建設に結びつけた。
この年には、すでに仏・独・米三国に公使を送っていた。
同月
台湾に漂着した琉球の漁船に乗り組んでいた漁師 54 人がその地で惨殺されるという事件が起きた。清
国が謝罪にも賠償にも応じなかった。その後政府は駐厦門米国領事ルジャンドルを外務省顧問に迎え入
れ、その助言により、明治 7 年 5 月、西郷従道を司令官とする軍を派遣して台湾を鎮定した。
→清国が依然謝罪に応じないため大久保利通が交渉に乗り出し、最終的に、日本の台湾出兵を正式に
認めさせるとともに謝罪と 50 万両の賠償金を勝ち取った。
なおルジャンドルは、政府に対し次のような意見書を提出した。
「北は樺太から南は台湾に至る一連の列島を領有してシナ大陸を半月形に包囲し、さらに朝鮮と満州
に足場を持たなければ、日本の安全を保障し、東亜の時局を制御することはできない」
この建言が日本におけるその後の北方政策及び大陸政策の基本となっていった。
5年2月
兵部省が陸軍省、海軍省に二分される。陸軍省内に参謀局を設置。国内に陸軍根拠地として4鎮台を設
置。
この年、学制を定めた。また、東京―大阪間に電信を開通させ、東京―横浜間に鉄道を開通させた。
6年1月
徴兵令公布。同時に2鎮台増設し、6鎮台とする(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)
。鎮台は
主として国内治安維持の任務を担うもので、各鎮台の兵力は歩兵 14 個連隊を基幹とする約 3 万 1 千名で
あった。なお鎮台は、21 年に師団と改称された。
7年
ロシアの南下政策に備えるため北海道に屯田兵制度による兵団が設置された。兵員は全国から募集さ
れ、1戸あたり5ヘクタール(5町歩)の土地と兵屋の支給を受けて、普段は極寒の荒れ地の開墾にあた
った。
9 年(1876 年)
海軍が根拠地として鎮守府を横浜に仮設。明治 17 年にこれを横須賀に移設。その後、呉、舞鶴、佐世
保にも設置した。
2月
日本は朝鮮が独立して共に西洋列強に対抗する国になることを願い、同国との間に日朝修好条規が締
結された。同条約は第 1 条で「朝鮮王国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有する」とうたってい
た。
当時の国際社会においては、朝鮮は清国の属国と捉えられていて西洋諸国は朝鮮を独立した交渉相手
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として認めていなかったから、まさに同条約は画期的なものであった。
朝鮮では、1863 年 25 代国王哲宗が後継ぎのないまま亡くなった。その母の趙大妃が趙一族傍系王族興宣君の第
二子を後継王に指名し、高宗が 11 歳で 26 代国王として即位した。高宗の母趙大妃が摂政に就き、
「大院君」と呼
ばれた高宗の父・興宣をはじめとする趙一族が政治の実権を握ることとなった。
大院君は、内政としては王室の権威回復を軸に徹底して旧来の儒教的な王政の復古とその強化に努める政策を推
し進め、外政としては、鎖国攘夷主義・清朝への忠誠外交をとった。このため、朝鮮国は近代化から遅れをとるこ
とになった。
高宗は 3 年後、閔妃と結婚したが、その後も政治に関心を持たず、酒色に溺れるばかりであった。そこで、閔妃
が次第に政治に介入するようになった。これにより閔妃の一族が大院君に対抗する勢力として大をなし、ついに
1873 年、宮中クーデターにより摂政であった高宗の父・大院君を失脚させ、閔妃は 21 歳にして政権を握った。そ
の後、閔妃の一族が政治の要職を占めるようになった。
これに対し、宮廷を追われた大院君は、復帰を求めて激しい政治運動を展開し、閔妃側と大院君側は熾烈な権力
闘争を繰り広げた。
閔妃一族は開国政策をとり、朝鮮が日本と対等の立場に立って日本との間に日朝修好条規を締結したものであっ
た。続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどとの間にも修好条規が締結された。
以降、朝鮮国内で親日勢力と親清国勢力とが抗争し、これに半島に不凍港を求めて領土拡大に野心を隠さないロ
シアと、ロシアを警戒するイギリスとが加わって策動し、政治的な動きが複雑多岐を極めた。
歴史を遡れば朝鮮は、1392 年、高麗朝の武将であった李成桂がクーデターにより高麗の王位を簒奪し、明から「朝
鮮」の国号を賜って成立した。その際、李成桂は国王はじめ王族を一人残さず皆殺しにした。朝鮮王に封じられた
李成桂は、軍が反乱をおこすことを恐れて正規軍を持たず、国防を明に任せ、その朝貢国として存立を図ってきた。
明が清になっても、その関係は同じであった。
清国は、日朝修好条規は中華秩序を乱すものだと捉え、朝鮮王国は属邦であると主張して、日本に対し、その破
棄を求めるようになった。
10 年(1877 年)2 月
西郷隆盛が鹿児島県内に数多く設立した私学校に集う 2 百余名が政府への不満から、西郷隆盛をかつ
いで武装蜂起=西南戦争起きる。7 年 2 月に前参議・江藤新平により引き起こされた佐賀の乱に続く内乱
であった。
政府軍は、正統性を誇示するため総督に有栖川熾仁親王を据え、参謀に山縣有朋陸軍中将と川村純義
海軍中将を就けた。有栖川親王は天皇の名代ということであった。
以来、わが国の政府と帝国陸海軍においてはリーダーシップに関して、総大将は権威があればよく、実
戦は参謀が中心になるという考え方が定着した。その結果、参謀本部が各軍参謀についての人事権を持
つこととなり、それは 68 年後の日本の敗戦まで続いた。
陸軍はまず 3 個旅団を編成し派遣し、海軍も軍艦 19 隻、将兵 2,200 余名を派遣して鎮圧にあたった。
→9 月 24 日、西郷の自刃により終結。両軍の死者は、1 万 3 千名余に及んだ。
11 年(1878 年)
陸軍省参謀局が独立し、参謀本部となる。
それまで統帥権は太政大臣に属し、陸・海軍卿の管轄下にあったが、政府は国軍が自由民権運動を展開
する政治勢力と結びつくことや議会開設により進出が予想される反政府勢力が軍の行動に制約を加える
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ことを恐れており、このような政治闘争から国軍を隔離すべきであるとの要請が、天皇に直属する参謀
本部設置を容認する背景があった。
こうした政治情勢を利用して、陸軍を自己の権力掌握の基盤とするという己が権力の拡大・保全を図る
ために参謀本部の独立を推進したのが山県有朋で、設置後初代本部長に就任した。
しかし、こうして設置された参謀本部は、政治の統帥への関与を拒絶する本性をもつため、外国との戦
争において必要不可欠な政治と軍事の一体化=政略と戦略の統一ができなくなるという大問題を抱えて
いた。
この年、海軍内に存在した海兵隊が、陸軍への吸収を恐れて廃止され、かろうじて海軍陸戦隊として残
った。
12 年(1879 年)
琉球藩(廃藩置県の際、琉球王国が廃止され、設置された)を沖縄県とする。これに清が反発。
13 年 10 月 25 日
「君が代」が国歌としての体裁を整える。古来広く祝賀の際に主賓に向けて歌われた寿歌に林広守が作
曲し、ドイツ人エッケルトが和声を加えたもの。→26 年 8 月、文部省が官報で告示した「祝日大祭日歌
詞並びに楽譜」に収められ、以後事実上の国歌として演奏されるようになる。
15 年 1 月 4 日
軍人勅諭公布(2700 字、福地源一郎、西周らによる)
。冒頭に「我国の軍隊は世々天皇の統率し給う所
にぞある」とされたが、歴史的には正しいとはいえない表現であった。
なお、14 年度の貿易収支が黒字となった。関税自主権が奪われたなかにおいても、日本人が着々と「富
国」に努力した結果であった。
15 年 11 月
陸軍大学校が開設するべく条例が制定された。その目的は清国との戦争に備えてドイツ式の近代軍を
建設しようとしていた陸軍がこれを運用できる参謀を養成することにあり、ドイツ帝国陸軍大学校をモ
デルとして、教官にドイツ(プロシャ)からメッケル少佐を招き、18 年に開校した(3年制)
。
教育内容は参謀実務が中心で、情報収集・分析や指揮官又は行政官としての教育はなかった。
この頃から、陸軍はドイツ式諸制度を導入した。
22 年 2 月 11 日
大日本帝国憲法発布(公布は翌 23 年 11 月 29 日)。
「天皇は国の元首にして統治権を総覧する」
(第4条)とともに「統帥権」並びに「常備軍編制及び常
備兵額決定権」を有すると規定された(第 11 及び 12 条)
。
なお、天皇の統帥大権は行政権の範疇外となっており、組織上天皇に直属する統帥部=陸軍参謀本部又
は海軍軍令部(軍令部については明治 26 年の独立後)に賦与されていた。これは「統帥権の独立」と称
された。
同様に、天皇の常備軍編制及び常備兵額決定権=編制大権も統帥権と同じく原則的には行政権の範疇
外と看做されていた。→統帥部及び陸海軍は政府及び一般からの統帥に対する容喙を峻拒する慣習、伝
統が確立。
また、陸海軍省官制に定める規定によって、陸海軍大臣は現役大中蒋でなければならないとされてい
た。
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同日、
「皇室典範」が成立(制定当初は皇室の家法という性格が与えられていたため、公布は明治 40
年)
。この典範は、憲法とは独立の法規(第 74 条 皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せず)で
あり、不文法として成立していた「皇位継承」について、井上毅が主導し、
「不文の基準である皇位継承
が文明の進展による様々の変化・動揺が起こってもその影響を防ぐ」目的で言語化されたものである。同
典範において言語化された皇位継承の 3 大原則は次のとおり。
1 皇祚を踐むは皇胤に限る
2 皇祚を踐むは男系男子に限る
(第 1 条 大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す)
3 皇祚は一系にして分裂すべからず
22 年 3 月 7 日
参謀本部陸軍部が参謀本部と改称され、そのトップは参謀総長となる。参謀総長は海軍の軍令部も管
轄した。
22 年
徴兵制度が採用された。しかし、実際の徴兵率は平時において 2 割に満たなかった。その状況は昭和
12 年(1937 年)まで続いた。
23 年(1890 年)10 月 30 日
教育勅語発布。
近代国家を目指して欧米の模倣が行われてきたことから、日本人のよりどころが失われつつある、と
県知事たちが危機感を抱き、地方長官会議において同年 2 月 26 日「徳育涵養に関する決議」が提出され
た。これを受けて、欧州事情に通じていた官僚の井上毅が原案を起草した。
その際、井上が注意したことは、①特定の宗教に導かない、②哲学上の議論をしない。③政治的なこと
は一切入れない。④儒教臭を入れない。⑤洋学臭を入れない。⑥「~してはいけない」という表現形式を
とらない、の 6 点であった。
[教育勅語に掲げた 12 の徳目]
1.親に孝養をつくそう(孝行)
2.兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)
3.夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)
4.友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)
5.自分の言動をつつしもう(謙遜)
6.広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)
7.勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)
6
8.知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)
9.人格の向上につとめよう(徳器成就)
10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)
11.法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)
12.国難に際しては国のため力を尽くそう、それが国運を永らえる途(義勇)
この教育勅語は、大東亜戦争敗戦後の昭和 22 年、GHQ の指令に基づき制定された教育基本法公布の際
に廃止された。
11 月 29 日
第 1 回帝国議会開催。帝国憲法のもとにおいては、内閣は議院内閣制ではなく、元老が推挙した者に
天皇から組閣の大命が下る、という仕組みであった。
24 年(1891 年)5 月 11 日
大津事件起きる。
シベリア鉄道起工式臨席を目的としてウラジオストークに向かい、前年 10 月、ロシア皇太子ニコライ
(後のニコライ 2 世)が首都ペテルブルグを出立しウィーンを経てトリエステから軍艦に乗り込んだ情
報を得た政府が、ロシア側と交渉してロシア皇太子の訪日を実現させた。
日本は、ロシアがシベリア鉄道を使って朝鮮半島~日本へと攻めてくることを恐れていた。そこで、友好のため
に皇太子を招いたものであった。しかし、巷では“ロシア皇太子一行は、日本偵察のために訪れた”との風聞が広
まっていた。
琵琶湖遊覧を楽しんだロシア皇太子が大津に来たとき警備にあたっていた警察官・津田三蔵が突然切
りつけた暗殺未遂事件。皇太子は負傷し、神戸に停泊中のロシア軍艦において治療を受けた。
明治天皇は、治療中の皇太子を見舞うため同艦を訪れた際、そのままロシアに連れて行かれるかも知れ
ないと危惧する周囲の反対を押し切って、決然とロシア船に乗り込まれた。
この事件によるロシアの報復を恐れて、外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任をとって辞職
し、6 月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。
なお、ロシア皇太子は東京へ向かう日程をキャンセルし、予定どおりシベリア鉄道起工式に臨席した。
26 年
海軍側の不満から軍令部が独立し、海軍軍令部となる。トップは軍令部長。
26 年 5 月
大本営設置(構成員は武官のみ)
27 年 7 月 16 日
日英通商航海条約が締結された。これにより、領事裁判権が撤廃され、対等の最恵国待遇が獲得され、
また関税自主権の一部が回復された。
日本は江戸幕府時代に締結させられた不平等条約の改正を幾度となく試みてきたが、いずれも失敗し
ていた。前年 2 月に外相・陸奥宗光が歴史的な演説を行い、伊藤首相のリーダーシップのもと、ようやく
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実現にこぎつけた不平等条約改正の第1弾であった。調印は、日清戦争開戦の半月前のことであった。
この後、他の 14 カ国とも同内容の条約を締結することとなった。
なお、関税自主権が完全に回復されたのは明治 44 年(1911 年)のことであった。
(日清戦争へ)
李氏朝鮮では、1873 年、国王高宗の父・大院君の長男・李戴先がクーデターを起こしたというデマを
機に、攘夷を主張する大院君を失脚させた閔妃が日本軍に倣うべく大規模な軍制改革を行うなどをはじ
めとして、復古主義・鎖国攘夷主義を改めた。
その一方で、勢力を伸ばし閔氏一族は自らの一族の繁栄を図る政治を追求した。
15 年(1882 年)7 月 23 日
朝鮮で大院君が閔妃暗殺を図って、軍隊に反乱を起こさせ、閔氏一族を殺害しようと王宮を襲撃した。
その際、日本の公使館をも襲撃させ焼き払った。このため花房義質公使は公使館を放棄して長崎に逃げ
帰ったが、堀本大尉他数十名の日本兵が死傷するとともに、朝鮮在住の日本人が多数殺害された。=壬午
事変。
公使館襲撃事件は、日本の指導の下に進められていた軍制改革に不満な兵士たち(軍営統合により退役
させられていた旧式軍の軍人たち)の不満によって起こされたとも言われている。
軍制改革以前の朝鮮国の兵力は僅か 2 千数百名でしかなかった。
この事変に無関係であった清国政府が“朝鮮には清国の宗主権がある”との立場から大軍を派遣して
ソウルを占領し、閔氏政権を復活させ、大院君を天津に拉致した(3 年間幽閉)
。
自国将兵を殺され、公使館を焼かれた日本も派兵して朝鮮政府と交渉し、賠償金を支払わせるととも
に日本公使館護衛のため1個大隊の駐兵権を認めさせるなどした。
清国としては、どうしても朝鮮を属国にしておきたい事情があった。
16 年 (1883)年 8 月、ベトナムの保護権を巡って清仏戦争が起こった。清国はベトナムに対して宗主権を行使し
てきたからである。翌年フランスが台湾海峡を封鎖したため大規模な戦争になり、結果は清国の敗北に終わった。
1885 年 6 月締結の清仏間の条約によって、フランスはベトナムを植民地とした。なお、フランスは、1987 年に
はカンボジアを仏領インドシナに編入した。
清国は、朝貢国であった琉球を日本の領土とされた(明治 12 年)のに次ぎ、この敗戦によりベトナムをも失った
ため、そのかわりに朝鮮を属国として扱う方向に向いた。
同年 10 月
清国と朝鮮国との間で「清国朝鮮商民水陸貿易章程」が調印された。そこでは李朝が清国の属国である
ことが明記された。これにより、日本が朝鮮国を対等の相手として結んだ日朝修好条規(1876 年締結)
の意義がほとんど無に帰してしまった。
17 年(1884 年)
日本が公使館護衛のための駐兵を1個大隊のから1個中隊に減じるとともに、未払いの賠償金を朝鮮
政府へ還付することとした。これは、開化派の立場を有利にしようとの意図の下に行われたが、却って守
旧派を勢いづけることとなり、守旧派は一層清国への傾倒を強くする結果をもたらしたた。
12 月 4 日
親日派の朴泳考、金玉均らの独立党が、形勢を逆転すべく武力行使により親清国の閔氏政権要人 6 人
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を殺害することにより閔妃を失脚させ親日政権を樹立、清国の宗主権を否定した。これは、清国がフラン
スとの戦争のため、駐朝鮮の清国軍が半減した間隙を縫って行われた。金玉均らは、竹添駐朝鮮公使らの
支援を当てにしていた。
しかし、朝鮮を属国とみなしている清国は、親日政権ができることを許さず、袁世凱率いる 1500 人の
軍隊を派遣し、王宮を攻撃した。国王から護衛を要請された日本軍は清国軍に応戦したが、朝鮮軍の一部
が清国兵と内通したため清国軍に敗れ、朴泳考、金玉均らと竹添公使らは辛うじて脱出した。
この戦闘の際、日本人居留民、とくに婦女子 30 余名はソウル明洞の各所で清兵により凌辱された挙句虐殺された。
仁川の日本領事館に逃げ込んだ金玉均らは竹添公使から軽視され、日本民間人の協力を得てようやく
長崎に亡命した。
清軍によって閔氏政権が再建され、親日派を徹底的に弾圧した。このとき日本公使館も焼き討ちにあっ
た。
さらに袁世凱は漢城在住のシナ民間人を使って日本人居留民を襲撃させた。これに朝鮮人も加わって、
日本人居留民を男女老若の区別なく殺傷、婦女暴行を働き、商店や家屋から略奪を行った。これらにより
日本の外交官、兵士、居留民 40 人以上が殺された=甲申事変。
18 年(1885 年)1 月 9 日
日本と李朝との間に日朝講和の漢城条約が締結。朝鮮国が日本に謝罪し、日本公使館の再建費用を負
担することなどを内容とした。
4 月 18 日
日(伊藤博文)清(李鴻章)間で天津条約が締結。
事変に伴う被害賠償等要求のため、日本は伊藤博文を派遣し、清国全権大使・李鴻章との交渉に当たら
せた。その内容は、清国は日本人虐殺に関係した清国将校を処罰すること、双方の軍隊が朝鮮から 4 カ
月以内に撤退すること、今後朝鮮に出兵するときには、両国が互いに相手国に通知することであった。
しかし、その後も清国は、商人を装う兵士 1200 余人とともに袁世凱を通商事務全権委員の名目で漢城
に残し、朝鮮政府への干渉を止めなかっただけでなく、約束の清国将校の処罰をうやむやにした。また、
商売をする清国人を保護する一方、朝鮮と日本の商人の活動を不当に差別した。
これらの経過の中で日本政府・国民は、清国の不誠実な対応並びに朝鮮人に対し、道徳心の欠如という
面から不信感・不快感を募らせた。
こうした中で、同年発表されたのが福沢諭吉の「脱亜論」である。福沢は次のように説いた。
「シナは条約を結んでもすぐに破ってしまう無法の国である。朝鮮人は、強いものになびく事大主義で、まとも
に付き合うことはできない。この上は、シナや朝鮮に対して、西洋諸国と同じように国際法秩序に基づく付き合い
をしていくほかはない。
」
それでも福沢は金玉均らの独立党の志士に金銭的な支援をしつづけ、明治 24 年(1891 年)揚子江で清国人が起
こしたキリスト教宣教師殺害事件の折り、西洋列強が連合して上海を占領しようとしていた知らせに接して「日本
はシナと列強の仲介役を買ってでるべきだ」と提言した。日本が、シナが損害を免れるよう計らえば、日本とシナ
とのあいだにある悪感情は消えるだろうと福沢は期待していた
こうした情勢の中、ロシアが南下の動きを見せたことから、これを警戒したイギリスが介入しようとし
た(4 月 15 日に巨文島に上陸を開始し、23 日には同国アジア艦隊のほとんどが終結を完了→宗主国であ
る清国に通報)。このため、ロシア側は閔妃を懐柔して対抗、以降、閔氏政権は親露政策をとり始めた。
9
清国が英露両国に働きかけたことにより巨文島から英アジア艦隊が退去したのは 2 年後のことであっ
た。
19 年(1886 年)8 月 1 日
北洋大臣(シナ河北 3 省の通商、外交、防衛を担当)李鴻章は、自分が建設した清国海軍の軍艦 4 隻
(定遠、鎮遠、済遠、威遠)を率いて示威航海のため来航し、長崎港に入港した。
13 日に上陸した清国水兵が遊郭でトラブルを起こし、遊郭の備品等を破壊したため駆けつけた警官に
逮捕された。これを機に不穏な空気が漲るようになっていた。
8 月 15 日
長崎丸山事件が起きる。
交番の前でわざと放尿した清国水兵に注意した巡査が袋叩きにされ、巡査に加勢した市民と清国水兵
との間で大乱闘になった。止めに入った警察官と清国水兵とが斬り合う事態になり、双方が 1 名ずつの
死者を出し、計 80 名近い負傷者を出した。
清国が賠償を求めて来、日本は止む無く応じると、清国代表の李鴻章は自国兵の死者を 8 人と言い募
り、
「狼藉を働いた日本人」の処罰を要求した。日本は、折れてその呑み、現在のカネで数億円の賠償金
を払い、4 人を禁固刑に処した。
→日本国内の反清感情を大いに刺激し、後の日清戦争を引き起こす両国対立の背景のひとつに。
(日清戦争と朝鮮半島)
明治 24 年(1891 年)ロシアが不凍港を求めてシベリア鉄道建設に着手したことから、国内では、ロシアの脅威
が朝鮮半島に及ぶ前に朝鮮を中立国とする条約を各国に結ばせ、中立の保障のため日本の軍備を増強すべしという
論議が高まっていた。
1860 年、崔済愚が西学であるキリスト教に対し、儒教・仏教・道教を一体とし、
「万民平等」を掲げた新興宗教・
東学を起こす。朝鮮政府は東学を邪教とし、教祖・崔済愚を処刑した。高弟のが二代目教祖となって武力蜂起した。
27 年(1894 年)2 月
全羅南道で農民間に浸透していた新興宗教団体・東学の二代目教祖・崔時亨が中心になって農民たちが
徴税の仕方に反発し、
「尽忠報国」
「掃破倭洋」を掲げて蜂起し、5 月には全羅道の道都、全州を制圧した
(東学党の乱)
。
5 月 31 日
乱を鎮圧するため朝鮮政府が清国に派兵を要請。その陰には京城駐在公使・袁世凱の工作があり、袁世
凱は乱に乗じて出兵し、半島に支配権を確立しようと暗躍していた。
6月2日
伊藤内閣が、清国が朝鮮に出兵すれば日本も出兵することを閣議決定(天津条約が根拠)
。これは、清
軍が朝鮮半島を占領することを恐れたものであり、そのためには朝鮮が独立することを求めていた。
これには、3 月に朝鮮開化派の代表で福沢諭吉らと親交のあった金玉均が上海で殺されたことが影響していた。
金玉均が東学党の乱に呼応することを恐れた李朝政府が金を上海に誘い出して命を奪ったからである。
6月6日
清国が乱を鎮圧するための派兵を日本に通告し、歩兵2千人に山砲8門をつけて派遣した。
翌日、日本政府は邦人を保護するためとして、清国に派兵を通告。
10
6 月 11 日
日清両国の出兵を恐れた東学党軍は李朝政府と和約を結び、解散した。しかし、すでに戦時体制をとっ
ていた日本は、通告通り混成旅団の派兵を実行した。翌日、同旅団が仁川に到着した。
6 月 16 日
日本政府は清国政府に共同して朝鮮の内政改革に努力することを提案したが、22 日、清国はこれを拒
否。
同日、日本は天皇ご臨席の会議で、清国との間に朝鮮内政改革協定ができるまでは撤兵しないことを決
定した。そのうえで 25 日に、仁川の部隊を首都・漢城南方の龍山に進出させた。翌 7 月には、清国政府
に対し、撤兵を要求した。
7 月 23 日
龍山に進出していた日本軍が李朝王宮を包囲し、李朝政府を支配していた閔氏一族を実力で追放した。
国王高宗が父・大院君を復権させ、以後、金弘集政権の開化派が、国政を行うこととなった(甲午改
革)
。
7 月 25 日
大院君が清国との宗属関係を廃棄し、公使・大鳥圭介に牙山にいる清国軍を排除するよう要請。
同日、豊島沖で日本の連合艦隊所属の巡洋艦3隻が清国の軍艦 2 隻(巡洋艦「済遠」及び「高陞」)と
遭遇した。済遠号は日本の巡洋艦「吉野」と海戦の上、損壊を受けて逃走した。
高陞号は、イギリスの船を清国がイギリス人船長を含め借り上げたもので、東郷平八郎司令官が人見大
尉に同艦の臨検を命じ、その結果、戦争準備のため清国兵 1100 名及び大砲を輸送している途中であるこ
とが判明した。
イギリス留学時に国際法を研究していた東郷司令官は、船上で再度国際法を確認の上、英国船員に「艦
を見捨てて離れる」よう信号を発した。臨検時、イギリス人船長は人見大尉に随航すると答えていたが、
清国兵の脅迫により艦を去ることはできなかった。三回の警告によっても事情はかわらなかったので、
遂に東郷司令官は高陞号への攻撃を命じ、壊滅的打撃を与えた=高陞号事件。
イギリス本国においては日本への反感が高まったが、日本は国際法を踏まえた行為である旨主張した。
それに対してイギリスの国際法学者 2 名が“東郷司令官の攻撃は国際慣例に則ったもので、何ら落ち
度はない”との声明をだした。これにより、清国は侵略行為を行っていたとして非難の対象となる一方
で、日本は国際法を守る国であることを世界に印象づけた。
8月1日
日本政府が正式に清国政府に宣戦布告。
→陸軍は 9 月 16 日平攘を落とし(李鴻章が育成した淮軍が壊滅)
、10 月 24 日に鴨緑江を越え、11 月
21 日に旅順を陥落させ、南満洲から遼東半島一帯を占領。
海軍の連合艦隊も 9 月 17 日、黄海海戦で清国北洋艦隊に完勝した後、残存敵艦隊を威海衛(山東半島)
港に封じ込めた。
翌 95 年 1 月には陸軍が威海衛を包囲、北京にも迫ろうとした。これにより威海衛港内の北洋艦隊提
督・丁汝昌が降伏。
11
この戦争で日本は負ける可能性もあり、その場合は朝鮮への影響力を失うことはもちろんのこと、国土
を切り取られることになる恐れがあった。欧米各国も日本に出兵反対の態度を示した。この時点でもし
欧米列強が介入していたら日本は危なかった。
開戦には明治天皇は「閣臣らの戦争にして朕の戦争にあらず」と反対の意向を示されたが、
“自分の国
は自分で守らなければ帝国主義の時代を生き抜くことはできない”として開戦を断行したのは陸奥宗光
だった。
開戦にあたり、明治天皇は反対であったが、閣議決定されたことについて拒否権を発動すれば、帝国憲法が崩壊
することから、不本意ながら御名御璽をされた。
北京攻略を巡って伊藤総理大臣(反対)と山縣第一軍司令官が対立したとき、明治天皇は侍従長・徳大寺実則を
遣わして和平の意を伝えられ、その意を戴して、伊藤総理も山縣司令官も北京を落とさず和平条約を結ぶこととし
た。
(以上、倉山満「保守の心得」扶桑社新書より)
大変な決断の上で開戦をした日本は国を挙げて戦った。しかし清国は、西太后派と光緒帝派とが権力闘
争を繰り広げており、その一環でしかなかったうえ、その軍隊も開明的官僚の李鴻章が自己の支配下に
建設した海軍(北洋艦隊)と陸軍(淮軍)が戦ったのみであった。
なお、日本軍の軍人・軍属の死者は台湾平定戦も含めて約 1 万3千人だったが、その殆どの 1 万 2 千
人はコレラ(5 千人以上)
、脚気(約 4 千人)、赤痢、腸チフス、マラリアによる病死で、戦闘によるもの
は 1400 余人に過ぎなかった。
脚気については、当時、その病因が不明であった。海軍では、原因究明のために研究を行い、食事療法で脚気を
防ぐことを発見した。しかし、陸軍においては、陸軍軍医局の医師たちは脚気の原因を病原菌によるものと考え、
食事療法を真っ向から否定した。これが、後の日露戦争の際、動員兵力 110 万人の内、21 万人以上が脚気により倒
れる(死者は 2 万 7 千 8 百人)ことにより、陸上戦で苦戦を強いられる大きな要因となった。(渡部昇一「日本の
歴史」第 5 巻より)
28 年(1895 年)4 月 17 日
下関条約締結。この条約において清国は、①朝鮮の独立を承認、②遼東半島と台湾の日本への割譲、③
軍事賠償金 2 億両の支払い、④最恵国待遇及び 4 か所の開港と日本租界の設置・承認、⑤通商航海条約
及び陸路交通防疫条約締結の約束を行うこととなった。
台湾については、清国の李鴻章は交渉相手の大久保利通に対し、
「化外の地」であるとして、何ら領有権に拘るこ
とはなかった。
また、④に基づき、その後日本は重慶、蘇州、杭州に租界を設け、領事館を置いた。さらに翌 96 年に締結された
通商航海条約に基づき天津、上海、漢口(現在の武漢)にも租界、居留地を設け、多くの日本人が進出した。
しかし、清国は「以夷征夷」政策を採り、露仏独三国に遼東半島の日本への割譲に異を唱えるようしむ
けた。これが功を奏し、満洲への南下を企図していたロシアは仏独を誘って 4 月 23 日、条約批准書交換
の予定地である芝罘に軍艦を集結するという武力示威を行って、日本政府に対し遼東半島を清国に返還
するよう勧告した(三国干渉)
。
未だ露仏独三国に対抗するだけの軍事力のない日本は 5 月 9 日、
三国に遼東半島を返還する旨回答し、
清国からは3千万両の代償を得ることで涙を呑んだ。
このとき「露仏独三国に譲歩しても清国に対しては一歩も譲るべきではない」として政府内をまとめたのは陸奥
宗光で、
「当時何人を以てこの局に当たらしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す」との言葉を残した(
『蹇
12
蹇録』
)
。
三国に譲歩したことから、日本国内では「臥薪嘗胆」という言葉が流行り、民族意識が一挙に燃え上がった。
清国では、この敗戦を機に変法自強運動が起こり、1898 年 6 月 12 日光緒帝が「明定国是」の勅令を発し、康有
為を重用して戊戌維新を推し進めた。しかし、これも西太后派による 9 月 21 日のクーデター「戊戌政変」によっ
てあえなく潰える。康有為らは日本に亡命。なお、日本との条約締結にあたって露独仏三国に頼ったことで、清国
は西洋列強につけいられ、この後次々と領土を蚕食されることとなった。
弱体化していることが明らかになった清国に対し、列強が圧力をかけ、2 年後の 1897 年(明治 30 年)
ドイツが遼東半島の青島、膠州湾を租借した。
ロシアもこうした動きを見て、清国への領土拡大を図った。そのため、ロシア皇帝は自ら清国がフラン
スの銀行から賠償金支払いのための資金を借りる仲介の労を取り、李鴻章に莫大な賄賂を贈って翌年「露
清密約」を結び、清国領土内に東清鉄道を敷く権利を得た。
東清鉄道は、シベリア鉄道をウラジオストックまで早期に延伸させるための鉄道であった。→2 年後の 1897 年に
着工
さらに、1899 年に日本から返還させた遼東半島を租借条約により譲り受け、旅順港という不凍港を手
に入れた。その後、ハルビンから大連に東清鉄道の支線を敷く権利をも得た。その結果、満洲で急激にロ
シア化が進み、実質上全域がロシア領土になってしまった。また、同地に大要塞を築き、南下への足がか
りをつくるとともに朝鮮半島への影響力を強めた。
独、ロだけではなく、後にイギリスは威海衛を、フランスは南支那の広州湾をそれぞれ租借地の名目で
奪い取ったうえ、さらにフランスは海南島、雲南、広西などで勢力を伸ばし、イギリスも香港防衛を口実
にして九龍半島と周辺諸島を租借した。
このように、清国は「以夷征夷」政策を採った結果すっかり蚕食され、より大きな代償を払わされるこ
ととなった。
(日清戦争後の朝鮮半島情勢)
朝鮮半島においては親日派が三国干渉に屈した日本をみて動揺し、金弘集らが進めた国政改革は頓挫
した。国王高宗も、日本を低く見ていたから、独立をかちとってくれた日本と対等に付き合うことを快し
としなかった。
28 年(1895 年)7 月 6 日
こうした情勢の中、勢力を拡大した閔妃らは、ロシアの庇護を受けようとしてロシア公使ウェバーに近
づき、ソウルにロシア軍を導きいれ、親日内閣を倒してクーデターに成功した。
閔妃らは反対勢力の武装解除を行い、以後、巫堂ノリという呪術儀式に熱中し、布施の形で国庫の 6 倍
以上の金額を浪費した。これらの政策は大院君ら反対派勢力の反発を買うこととなった。
10 月 8 日
日本軍守備隊及び朝鮮訓練隊兵士に日本人壮士が加わって景福宮に侵入し、王宮を占拠。さらに宮内で
閔妃を探し出して暗殺した(乙未事件)
。
閔妃殺害を日本に働きかけたのは朝鮮の軍部協弁・李周会、朝鮮訓練大隊長・禹範全らで、大院君の内諾を得て、
朝鮮宮内府顧問・岡本柳之助に打診をしてきたのであった。
彼らは直ちに漢城(ソウル)郊外の孔徳里に隠棲していた大院君を連れだして再び執政として擁立し、
13
閔氏一族の国政関与の道を断った。直ちに第 4 次金弘集内閣が組閣され、日本公使と日本人顧問官の指
導の下、親衛隊の設置、平壤及び全州に鎮衛隊設置、漢城市内に小学校設置、太陽暦採用、断髪令の公布
などの改革を推し進めた。
閔妃殺害には着任したばかりの三浦悟楼公使が関与しているのではないかと疑われて解任され、軍人ら 47 名と
ともに日本国内に召喚されて裁判にかけられたが、後、証拠不十分として免訴となった。なお、三浦悟楼は前任の
井上馨(1895 年 9 月離任)に替わって赴任したもので、政治には素人の武官あがりであった。
翌年、断髪令の公布を契機として各地で農民による武装蜂起が発生し、親衛隊はその鎮圧のため地方に
派遣された。
また、閔妃殺害への関与を疑われたため日本の威信が低下し、日本は、仮契約をしていた京仁鉄道の敷
設権を反故にされた。
こうした情勢に乗じたロシアは巨済島にも拠点を築こうとし、小村外相の抗議にもかかわらず、基地の
建造を強行した。
11 月 29 日
金弘集内閣が断髪令を発布。国王自らも断髪した。しかし、その後、支持基盤が脆弱だった政権に反対
派が約 2 千名を集め、暴徒となって政府に押し寄せた。その裏には閔妃の一族・閔泳駿らの画策があっ
た。
29 年(1896 年)2 月
親露派がクーデターを起こした。親衛隊が農民による武装蜂起鎮圧のため地方に派遣されている間隙
をついたもので、ロシア軍がこれに合わせて王宮に突入し、朝鮮国王・高宗を王宮から連れ出してロシア
公使館に幽閉し、それまでの施政の大転換を行った。
このとき高宗は金弘集ら主要閣僚の処刑を命じ、数人の閣僚は逃げたが金弘集はそれを潔しとせず、民
衆に撲殺され、死骸はズタズタに引き裂かれた。
以降、高宗は 1 年間ロシア公使館内で政務を執たが、完全なる親露政策であった。
7月
「自国はロシアによって屈辱的な外交を強いられており、朝鮮国とは名ばかりだ」と開化派官僚を中心
に独立協会が結成され、独立機運を高め、12 月には国王をロシアから取り戻そうとする事件(韓善会事
件)が発覚した。独立協会には、後に首相となる李完用や、戦後に大統領となる李承晩の姿があった。
30 年(1897 年)2 月
独立協会の運動に押されて高宗が王宮に戻。→同年 10 月国号を「大韓帝国」と改め、皇帝を称した。
この年の 5 月、ロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式が行われたが、その裏舞台ではさまざまな秘密外交が繰り広げ
られた。
6 月、日露間で「山縣-ロバノフ協定」が締結され、両国は朝鮮での電信架設権を互いに認め合った。また、朝鮮
人による軍隊が組織されるまでは、両国の軍隊を朝鮮要所に駐屯させることなどで合意した。
同じ頃、清露間で「李鴻章-ロバノフ秘密協定」が締結され、清国は既に完成したシベリア鉄道に通じる西シベ
リア鉄道建設権をロシアに与えることを条件に、日本を対象としてロシアと相互軍事同盟を結んだ。これは清国が
日本への賠償金 2 億テールフランスとロシアから借りることへの代償であった。
李朝政府もロシアに特命全権大使を派遣し、国王の護衛と安全保障、軍事財政問題に携わるロシア人顧問の派遣
などの援助を取り付けた。
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また、10 月には軍の編成と訓練にあたるロシア人将校とロシア大蔵省から派遣された財政顧問を正式に任命し、
それまでの日本人顧問と入れ替えた。これにより李朝政府は日本の影響力を完全に遮断することに成功した。
大韓帝国内では、独立協会に対抗して皇国協会が結成され、両派が構想を繰り広げた。このため、両団体とも危
険団体として翌 1898 年 12 月 25 日に皇帝勅命によって、解散させられた。なお、独立協会の活動はその後、一進
会などへと継承された。
朝鮮半島や満洲に支配の手を延ばすロシアの動きを眼前にして、開国後 30 余年の小さな島国にすぎな
い日本は、朝鮮におけるロシアの政治的・軍事的勢力を排除することなしには、朝鮮保護国化への道は開
けないこと、また、力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に生き残る方策はないことを思い知らされた。国
内では、同盟相手をどこにするかにつき、親ロ政策を主張する伊藤博文らの元老と、親英政策を主張する
桂太郎首相や小村寿太郎らの外務省幹部が意見を闘わせた。
(台湾統治)
28 年(1895 年)5 月
日本による台湾統治が始まる。台北に総督府を置き、陸海軍の大将又は中将を総督として派遣した。
初代は樺山資紀。桂太郎、乃木希典に続く第4代目の児玉源太郎が行政機構の大改革をはじめ大きな成
果を上げた。
日本政府は、当初から台湾の発展のため多額の資金を投入した。台湾総督府の初年度予算は、一人当たり 3 円 16
銭で、日本国内の 2 円 27 銭より多かった。
31 年第 4 代総督児玉源太郎によって起用された民生局長後藤新平は、道路・鉄道・水道などのインフラ整備に力
を注ぐとともに、衛生環境と医療を画期的に改善した。このため、台北市内は、東京よりも早く下水道設備が完備
された他、疫病の地として知られた台湾から疫病が一掃された。
また医師の後藤は、その知識を生かし、清朝時代からの悪弊であるアヘン吸引の減少を計画的に進めた。これに
より、人口の6%(約 17 万人)に上ったアヘン患者は昭和 16 年には 0.1%にまで減り、ほぼ消滅した。
さらに後藤は、世界的に需要の見込まれた製糖業の発展を図るため、新渡戸稲造を呼び寄せた。新渡戸はヨーロ
ッパなどの製糖業を視察した後、34 年台湾総督府民生部殖産課長に就任、
「製糖業改良意見書」を書き上げた。こ
れが採用され、さとうきびの品種改良などの方策により、数年のうちに生産高は 3 倍にもなった。
製糖業は台湾経済の成長に大いに寄与しただけでなく、戦後も 1960 年代まで台湾経済を支え続けた。→平成 11
年 5 月 22 日に台湾人の手によって、後藤新平と新渡戸稲造を称える国際シンポジウムが台南で開催された。
児玉が総督を務めた 8 年間に、西部縦貫鉄道の整備、基隆港築湊、通貨・度量衡制度の整備、統計制度の確立、
台北医学校の設立、土地所有の権利確定などの諸政策を次々実施し、これらの事業経費は 6 千万円にのぼった。因
みに明治 31 年当時の国家予算は 2 億 2 千万円であった。
児玉の死後、藤沢市江の島に児玉神社が建設された際、11 万円の予算のうち国内で集まったのは3千円であった
が、この話が伝わると台湾の人々はたった 2 週間のうちに残りの金額を全額集めた。
日本統治時代の大事業として、灌漑用の地下ダム「二峰圳」がある。台湾南部の屏東県において、豊富な伏流水
を農業用水の水源として活用しようと、土木技術者の鳥居信平が工事の指揮をとった。大正 10 年 6 月に着工し、
同 12 年 5 月に完工、総工費は約 65 万 1500 円であった。
同ダムの構造は地下に堰堤を設けて伏流水を堰きとめるもので、一日あたり雨期なら 12 万立方メートル、乾期で
も約 3 万立方メートルの供給量を保って、128 平方キロメートルの流域を潤し、今でも 20 万人の住民に恩恵を与え
15
ている。最近では、海岸部の緑化のために活用が図られている
さらに大規模な嘉南大圳は、二峰圳の技術を生かしたもので、土木技術者の八田與一が監督し、大正 10 年から 10
年をかけて建設された灌漑施設である。灌漑ダムの烏山頭ダムはロックフィル式で、堰堤の長さ 1273m、頂部幅 9
m、高さ 56mで、総貯水量 154 万トン、湛水面積 1300ha を誇る。給排水路は総延長 1 万6千 km に及び、香川県
の広さに相当する 15 万町歩の嘉南平野を潤した。総工費は 5545 万 9000 円(今日の貨幣に換算すると5千億円以
上)で、そのうち約半分を台湾総督府が、残りは嘉南大圳組合が負担した。
完成時、世界の土木界を驚嘆させた嘉南大圳は、洪水、旱魃、塩害に悩まされた台南の平野を沃野に変えた。八
田與一は、いまも台湾の人々から「嘉南大圳の父」と仰がれており、ダムの傍にその銅像が建てられている。
日月潭を巨大ダム・観光地としたのも日本統治時代の成果である。その目的は電力供給事業であった。日月潭は、
いまは 7.73 ㎢の広大な観光湖として有名であるが、元々は深山の中の湖であった(広さ 4.55 ㎢)
。
大正 7 年(1918 年)
、当時の台湾総督・明石元二郎(日露戦争に論功のあった海軍大将。大正 8 年 10 月病没)が
水力発電所を建設するため、台湾で最も長い川である濁水渓から地下導水路で水を引き、低地に長大な堰堤を築い
て巨大ダムとする計画を立てた。
翌年、台湾電力株式会社を設立し、建設を開始、途中資金不足などで中断があったが、昭和 3 年(1928 年)計画
を再開してその 6 年後にようやく完成させた。これにより、10 万キロワットの発電所が完成したが、工事費は 6,800
万円、当時の台湾総督の年間総予算額を超える大プロジェクトであった。
明石元二郎総督は、そのほか、高雄港の建設をも成し遂げ、台湾に大きな足跡を残した。
総督府は教育の普及にも力を尽くし、就学率は 92%にも達した。昭和 3 年には台北帝国大学が設立されたが、こ
れは大阪帝大より 3 年、名古屋帝大よりは 11 年も早かった。
総督府はまた、初等教育にも力を入れた。昭和 10 年(1935 年)頃、当時の清水公学校(小学校に相当)で学ん
だ蔡焜燦は当時課外学習用に使われた『綜合教育讀本』の復刻版に寄稿した一文の中で、当時を振り返って、同校
には立派な校内有線放送の設備があり、放送のために 400 枚ものレコードが備えられていたことを紹介し「当時日
本全国の小中学校、旧制高校以上の学校にも我が清水公学校のようなソフトの設備がなかったことを述べたい」と
誇らしげに書いている。
このような日本統治下の台湾に生まれ育ち、後に選挙で総統に選ばれた李登輝(総統就任は 1988 年 1 月 13 日)
氏は、インタビューの際、
「当時の日本人が理想とした人間像を注ぎこまれ、結晶化したのが自分である」と語った。
この言葉は、日本統治の結果として築かれた日本人と台湾人との関係がどんなものであったかを示すものといえよ
う。
(ハワイ併合と当時の国内政治・軍事状況)
西へ西へと「開拓」を続けてきたアメリカ人は 19 世紀後半、遂にハワイに達した。サトウキビを栽培
する米人農家が発言権を増し、1893 年 1 月 16 日、ドールらがクーデターを起こして女王リリオカラニ
を幽閉し、翌日ハワイ臨時政府を樹立するとともに王政廃止宣言を発した。→1894 年 7 月 4 日には、ド
ールがハワイ共和国の初代大統領に就任。
ハワイには日本人も相当数移住していたので、日本政府は、クーデターが起きたとき邦人保護を名目に浪速(艦
長は東郷平八郎)など軍艦 2 隻を派遣した。このときハワイの牢獄を脱獄して同艦に泳ぎ着いた邦人青年がおり、
東郷艦長は彼を保護して、クーデター政府からの再三の引き渡し要求を断固拒否した。軍艦内は治外法権であって、
16
邦人保護の正当な権利があることを熟知していたからであった。
米国との関係が悪化することを恐れた外務省がその青年の引き渡しを指示した。引き取りに来た領事館員に対し
て東郷艦長は“自分は彼をクーデター政府の獄吏に引き渡すのではない。(日本人である)あなたたちに引き渡す
のだ”
31 年(1898 年)
陸軍に内部の教育機関を統括する教育総監部が新設される。
同年 6 月 30 日
大隈内閣が発足。大隈重信と板垣退助が大同団結し、憲政会が結成され、議会で議席の 9 割を占める
に至った。このため伊藤首相が元老会議に諮って成立したもの。組閣前から猟官運動が盛んになり、各省
庁の次官や局長ポストが民権派の闘志に投げ与えられた。
8 月 12 日
アメリカのマッキンリー大統領がハワイ併合(ただし保護領。実際に国土に編入したのは、1954 年。
北人人口が原住民や日系移民の数を上回り、選挙で白人の勝利が確実になってからのこと)を宣言した。
これに対し、大隈首相が「
(ハワイに対し)人種が同じだとして連邦制の構想まであって友好関係を持
ち、移民を進めてきた日本としては、認められない」と強硬な外交文書をアメリカに送り、異議を唱えた。
アメリカ大統領マッキンリーは激怒したが、大事には至らなかった。
アメリカはこの年スペインとの戦争に勝利して、フィリピンを併合していた。また、ハワイ併合の余勢を駆って
同年内にグアム、サモア、ウェークなどの島嶼を相次いで我がものにした。
開国以来、元老たちは朝鮮半島の安定化を最優先課題とし、できるだけ他のもめごとには関わらないようにして
きた。日清戦争という危機を乗り越え、ロシアの脅威に備えている時期に大隈内閣は、太平洋の問題にいきなり口
を出し、アメリカとの戦争も起こしかねない危機を招いた。
このように大隈重信と板垣退助には、国家基本政策への理解がなく、閣内で内紛が多かったため、大隈内閣は組
閣 4 か月にして総辞職した。
(義和団事変)
32 年(1899 年)
清国で義和団の乱が起こる(義和団事変=北清事変)。
義和団は山東省におけるドイツの強引な進出に対する排外感及びキリスト教に改宗したシナ人への反
感から漢人の農民が起こした乱で、
「扶清滅洋」を掲げて進軍し、翌 33 年(1900 年)には北京に侵入し
た。北京では、各国公使館を包囲し、日本、ドイツの外交官を殺すなどの破壊運動を行った。
このとき、清国正規軍を巻き込んで鉄道破壊と外国人排斥の大暴動が起こった。義和団の一部は満洲か
らロシアを追い出すチャンスと捉えてブラゴヴェシチェンスクを占領した。
この乱を‘外国勢力を駆逐する好機’と見た清朝政府内の排外主義の大臣たちに乗せられた西太后によ
り、同年 6 月 21 日、列強に宣戦布告を行った。これに対し、対外問題で手をとられていた米英を除き日
本とロシアを主力とする8カ国連合軍が出兵した。
ロシアは 7 月に 17 万 7 千の兵力で 6 方面から満洲に侵攻し、ブラゴヴェシチェンスクを義和団に占
領された報復として、当地に移り住んでいた清国人 3 千~2 万 5 千人を虐殺してアムール河に死骸を投
げ込むなど、各地で虐殺を繰り返した。
その光景は日本人:石光真清が書き残しており、国内では、「清ではもはやロシアを止められない。これに対抗
17
できるのは日本しかない、というロシアへの恐怖心が高まった。
ロシアによるこれらの行為や満洲占領に対して、清国や英米両国も抗議したが、ロシアはこれを無視
し、結局全満洲を占領した。
8カ国連合軍のなかでも目覚ましい働きをしたのは、柴五郎中佐率いる日本軍で、多大の犠牲者を出し
ながらも紫禁城に迫り、清国軍を説得して無血開城させたうえで北京を占領(西太后らは西安に逃れる)
のうえ、乱を鎮圧。
1901 年 3 月に締結された北京議定書(辛丑条約)により、列強の守備隊が北京郊外に配備することと
なる。日本の支那駐屯軍は、当初兵力 2 千であった。
このとき、白人兵はシナ人に蛮行を働いたが、柴五郎中佐率いる日本軍は極めて軍紀が守られていて、市民から
賞賛された。
後に日本は天津還付に関する数次にわたる交換公文(明治 34 年)において、駐屯軍が「教練、射撃又は演習をな
す自由を有する」ことを認められていた。
ロシアは既に 1895 年の「露清密約」によって東清鉄道(ウラジオストークから満洲里間。当初のシベ
リア鉄道の一部)及びその支線としてハルビンと遼東半島を結ぶ鉄道の敷設権を清から得ており、翌年
建設に着手するなど多大の投資をし、その中心都市ハルビン建設にも巨費を投じていた。
義和団事件後ロシアは、東清鉄道を義和団から守るという理由でシベリアから大軍を南下させて居座
り続けた。
33 年
自由民権運動をバックに力をつけてきた議会・政党勢力の軍事費削減攻勢に対する処置として、山県
有朋首相ら藩閥勢力は、二つの歯止めをとった。
① 任用令を定め、政治が役人の人事に容喙できる範囲を限定した。
② 陸海軍大臣は現役武官に限るとした(陸海軍大臣現役武官制)
。
同年、伊藤博文が板垣退助と配下の官僚を糾合して立憲政友会を組織(幹事長:原敬)
。
(ロシアの東進と日露戦争)
33 年(1900 年)11 月 13 日
ロシア政府は、18 項目からなる対清要求をまとめた。義和団事件最中のことであった。
① 万里の長城以北の清国領土から諸外国の権益を排除する。
② 満州の防衛はロシア軍の手にゆだねる。
③ 満州の領内では、ロシアの了承なしには 1 名の清国官吏も任命できない。
という内容だった。条約案として突きつけられた清国は直ちに日本に頼るべく通知し、日本はロシアに
対し抗議を行った。他の列強も追随。
34 年
義和団事変後、満洲に居座ったロシアが朝鮮をも占領するかどうかは、日本にとって存亡の危機に関
する重大事であった。そこで、ロシアに対し、朝鮮半島に出てこないよう求めて話し合いがつくかどう
か、同盟を結ぶとすればその相手はロシアか英国かというのが日本の外交政策の重大マターであった。
小村外相は、同盟相手としてロシアを選ぶ場合と英国を選ぶ場合との利害得失を論じ、日英条約が有
利であるとの意見書を提出し、これが政府の方針として採択された。
35 年(1902 年)1 月 30 日
18
日英同盟締結。
ロシアは既に満洲を手中に収め、次に朝鮮半島から日本へと南進の野望を持っていた。日英同盟は、そ
のロシアと国運をかけて戦うことが避けられない日本と、シナ及びインドにおける権益をロシアの南下
政策から守るため、東洋におけるパートナーを必要とする英国との利害が一致して締結されたものであ
る。
この同盟については、桂太郎首相、小村寿太郎外相が、伊藤博文、政友会(ロシアとの協商関係を叫んだ)の反対
を押し切り、推進した。
英国は、義和団事変における日本の対応を高く評価していたので、ロシアに対抗するパートナーとして
日本を選んだ。
当時のイギリスは、工業生産においてアメリカに首位の座を奪われ、ドイツにも追い上げられていた。(例えば、
ドイツの銑鉄生産は飛躍的に伸びており、1879 年から 1912 年までの 33 年間に 8 倍になって、その時点ではイギ
リスを追い抜いた)
また、トランスヴァール共和国(南アフリカ)で発見された金鉱の領有や、そこで採掘のため働くイギリス人技
師の待遇を巡って、2 度のボーア戦争を起こし(1880~81 年、1899~1902 年)
、総計 45 万の兵力を派遣したが、
4 万 5 千もの損害を被った。その間、
「ボーア人虐待」として世界中から非難を浴び、国際的にも孤立していた。
東アジアにおいても、ロシアの南下政策によりシナの権益を守る上で脅威を感じ、その対応にも追われていた。
当時、英国の極東艦隊は上海を中心に 4 隻の戦艦を保有していたが、ロシアの極東艦隊は 5 隻であった。これに
ロシアの友好国フランスの戦艦 1 隻を加えれば、極東海域では英国は絶対的に劣勢となる。そこで英国としては、
5 隻の戦艦を揃えた日本との同盟が必要となった。また、1897 年からドイツが建艦を始めたため、日英同盟が成れ
ば、対抗して極東配備の戦艦を一部ヨーロッパに回すことも可能になるとの思惑もあった。
ドイツも日英両国に同盟を働きかけた。その狙いは日英を提携させてロシアを牽制すると同時に、ロシアの勢力
をヨーロッパ方面から極東に向かわせ、また露仏同盟の一方が極東にしばられれば、宿敵フランスを孤立させるこ
とも可能になるというところにあった。
日英同盟はこののち 20 年間、日本の安全と平和に大いに役立った。後の日露戦争の戦費も、英国を足
がかりに調達した。38 年 8 月の改定時には適用範囲はインドにまで拡大され、防御同盟から攻守同盟へ
と内実を変えるとともに、イギリスは日本の韓国に対する保護権を承認した(のち、日韓併合に至った
44 年の第 3 回改定時に削除)
。
この頃のロシアは GNP で日本の 8 倍、世界一の陸軍国であり、東方への野心をむき出しにしていた。明治 33 年
末に満洲を制覇したうえ、朝鮮半島へ進出する機会をうかがっていた。
1891 年にシベリア鉄道の敷設工事に着手したロシアに対抗し、イギリスは、インド~ペルシャ間などの鉄道(ア
ジア貫通鉄道)を計画して、通商の確保を狙っていた。シナにおいても北方に鉄道敷設を計画したが、これは 1898
年ロシアに阻まれた(英露協商)
。ドイツもトルコからペルシャに至る鉄道敷設権を獲得していた。経済的利益を追
求する大国の競争は熾烈であった。
36 年(1903 年)4 月
ロシアが日本などに約束した満洲に駐留させている軍の撤兵について、8 日を過ぎてもこれを履行しな
いばかりか、満洲における自国の権益を守るため、7 カ条の要求を清国につきつける。
19
21 日、日本は伊藤・山県の両元老、桂首相、小村外相の 4 者会談を開き、ロシアに対して「満韓交換
論」=満州における満洲におけるロシアの権益に日本が口を挟まない代わりに、朝鮮半島から手を引か
せる=によって話し合いで解決しようと決める。
5月
ロシアが大韓帝国から鴨緑江河口の漁港・竜岩浦を租借し、兵営を建設していることが判明。目的は森
林開発にあったが、さらに鉱山発掘権、材木伐採権をも手に入れた。ロシアによる朝鮮支配が現実のもの
となってきた。
6 月 23 日
日本が御前会議でロシアと本格的に交渉を始めることを正式決定。
8月
日本はロシアに対し「ロシアが満洲、日本は朝鮮の特殊権益を相互に認め合う」
(満韓交換論)という
苦肉の提案を申し入れた。ロシアは 10 月に漸く回答したが、満洲には触れないばかりか、なお朝鮮領土
の軍事利用の禁止などを求めるばかりであった。同月、ロシアは兵力を満洲南部に移動させた。
これに対し、ロシアは旅順に極東総督府を新設しており、その総督に日本との交渉を行わせ、日本から
の修正提案に対して不誠実な対応を繰り返した挙句、日本の妥協案を蹴って、極東方面の軍備を強化し
たばかりでなく鎮海湾に軍港を借りる上、北緯39度線より北をロシア領、それ以南を日本領として分
割統治したいという意思表示をした。
ロシアの野心は、満洲、朝鮮を領土とするのは当然のこと、その先には日本を見据えていた。
開戦直後、ロシアのウィッテ大臣会議議長(首相にあたる)は、日本との戦争の講和条件を英国大使に次のよう
に述べていた。
「満洲、朝鮮の併合の他に、日本の艦隊所有を禁止するなど、永久に戦闘力を奪うことだ」
日本としても国防上、見過ごしえない状況となった=「満洲は押さえられたが、朝鮮の支配権だけは渡
せない」として、開戦論が力を得た。万朝報(主宰:黒岩涙香)などのマスコミも反戦論から主戦論に転
じ、
「ロシア討つべし」との国内世論が盛り上がった。
折しもイタリアに発注した巡洋艦 2 隻が完工し、日本へと回航しはじめた。
外務省や録海軍の中堅層においても開戦を主張する勢力が主流を占めるようになった。
12 月
日露関係緊迫を受けて山本権兵衛海軍大臣が第 1 艦隊、第 2 艦隊の計 55 隻の軍艦を擁する連合艦隊を
編成、司令長官には冷静沈着で実戦経験豊富な舞鶴鎮守府司令長官の東郷平八郎を充てた。高陞号事件
の際にみせた東郷の決断力を買っての人事であった。
参謀の有馬良橘は、旅順の防備が整わないうちに同港の出口に商船を並べて沈め、旅順艦隊を出られ
なくする閉塞作戦を献策した。しかし、東郷はなかなか同意しなかった。そのため、この間にロシア側は
旅順港防備体制を万全に固めた。
37 年(1904 年)1 月 12 日
御前会議において大山巌参謀総長が開戦を進言したが、明治天皇の和平のご意志により、16 日に再度
ロシアに口上書を送付し、回答を督促した。しかし、ロシアはこれを無視し、極東の軍備増強を開始した。
→2 月 4 日に日本政府は軍事行動を起こすこと及び国交断絶を決める。
2月8日
20
日本海軍が旅順のロシア艦隊を奇襲し(仁川沖海戦)、勝利する。
2 月 10 日
日本はロシアに対し、国運をかけて宣戦布告を行い、日露戦争開戦。
開戦に先立つ御前会議において明治天皇は、内心戦争に反対である御意思を託し、
「よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
と詠まれた。
同月、政府が戦費調達のため日銀副総裁・高橋是清を英米に派遣し、ロンドンとニューヨークで外債を
発行する権利を得た。また、講和条約締結に備えて、米大統領 T.ルーズベルトにその仲介を頼むべく、ハ
ーバート大学留学中同級生であった金子堅太郎を訪米させ、頻繁に同大統領に接触させた。
2 月 19 日
東郷連合艦隊司令長官が漸く旅順港閉鎖作戦を決断。同月から 5 月にかけて 3 次にわたり閉鎖作戦が
敢行されたが、いずれも陸上からの集中砲火に阻まれて目的を果たせなかった。
4月7日
戦地から軍馬の貧弱さが露呈するような報告が寄せられていたため、この日の宮中午餐会において天
皇が“馬匹改良のための組織をつくるべし”旨の勅諚が下された。→桂総理大臣直轄下に「臨時馬政調査
委員会」が設置される。以降、さまざまな馬匹改良がなされていった。→38 年には帝室御賞盃レースが
始まった。これは馬匹改良の一環で、後に『天皇賞』レースとなった。
4 月 10 日
ロシア艦隊の旗艦「ペトロパブロフスク」が旅順外で触雷して沈没。マカロフ司令官も艦とともに水没
死した。2 日後、ニューヨークで講演した金子堅太郎は、マカロフ司令官を称えて、卓抜した戦術家を失
ったことを惜しみ、冥福の言葉で講演を締めくくった。
4 月末
黒木為楨大将率いる第 1 軍朝鮮半島から鴨緑江を渡河して満洲に攻め入った。
5月2日
ロシア軍旅順要塞攻略のための第 3 軍が編成され、司令官に乃木希典をあてる。
この時点で参謀本部は旅順要塞を見くびっていた。すなわち「防備はシナ時代の旧式野堡に多少の散
兵壕を増築せるのみ、永久築城なしと思う」
(谷寿夫「機密日露戦史」より)といった程度の認識であっ
た。
5月5日
奥保鞏司令官率いる第 2 軍が遼東半島に上陸し、半島のロシア軍を押し返しつつ西側を北上した。
5 月 15 日
連合艦隊は 3 度目の旅順港封鎖作戦に失敗しただけでなく、巡洋艦吉野が濃霧の中航行中に後続の巡
洋艦春日と衝突して沈没。さらに旅順港封鎖に任務についていた第 1 艦隊の戦艦初瀬が機雷に触れて大
破、数分後に戦艦八島も触雷し、両艦とも沈没。約 500 人の犠牲者を出した。
その後も 17 日までに駆逐艦など 3 隻が相次いで衝突、触雷、座礁した。その結果、戦わずして戦艦 2
隻を含む 8 隻を失うに至った。海軍上層部は激しく狼狽し、急きょアルゼンチンから購入したばかりの
装甲巡洋艦 2 隻を充当して何とか戦闘態勢を維持した。
5 月 27 日
21
遼東半島上陸の第 2 軍が南山でロシア軍を破る(死者 4380 余)
。
6 月末
新たに編成された第 4 軍(野津道貫司令官)が遼東半島から北上して 1、2 軍に合流。
8 月 10 日
黄海海戦。
旅順港のロシア艦隊は、前日、日本軍の砲撃により 2 艦が損害を受けたため、不退転の決意で旅順港
を脱出した。決戦兵力は戦艦 6 隻、巡洋艦 4 隻、補助艦を含め計 18 隻であった。この出撃は 6 月 23 日
に続く 2 回目のもので、そのときは、5 月時点での損害にもかかわらず連合艦隊の士気が高かったため、
一戦も交えず旅順港に逃げ帰っていた。この弱腰に怒った極東軍総司令官アレクセーエフは憤慨し、皇
帝の勅命を取り付けて再度の出撃を厳命し、この日の海戦となった。
待ち受けた連合艦隊は戦艦 4 隻、巡洋艦 15 隻で、丁字戦法によりロシア艦隊を迎え撃った。ロシア艦
隊は最初からウラジオストック港へ逃げる作戦で日本軍の攻撃をかわし、南東に向け逃れた。
追撃した連合艦隊がロシア艦隊に追いついたのは夕 5 時半で、猛烈な砲撃戦を挑んだ。
6 時半、連合艦隊旗艦三笠の 12 インチ砲の砲弾がロシア艦隊の旗艦「ツェザレーヴィチ」の司令塔付
近で炸裂し、司令長官ヴィトゲフトは吹き飛ばされ、同艦は操舵不能となって自軍艦隊の列に突っ込ん
だ。このため、ロシア艦隊全艦が大混乱に陥ってウラジオストック港への脱出を諦めて敗走した。
旅順港に逃げ帰ったのは 9 隻であったが損傷が激しく、出撃不能となっていた。他の 9 隻のうち 7 隻
は中立国にて武装解除され、2 隻は逃走中に自爆した。ここにロシア旅順艦隊は完全に消滅した。
8 月 14 日
連合艦隊第 2 艦隊(司令長官は上村彦之丞中将)が蔚山沖海戦で、黄海海戦に敗れた旅順艦隊と合流
すべく南下したウラジオストーク艦隊と戦い、1艦を撃沈した上、2 艦に壊滅的打撃を与えた。
その海戦までにウラジオ艦隊によって、日本軍の海上輸送船は十数隻沈められており、日本海軍の将兵はその恨
みを忘れずにいたが、上村司令長官は、沈みゆく敵艦から海に飛び込んで波間に漂う敵兵を「悉く救助せよ」と各
艦に命じた。各艦が漂流者全員 626 名を救助した後、さらに上村司令長官は部下が復讐の念を持って虐待的行為に
走ることを恐れ、
「捕虜を厚遇せよ」との命令を出した。このため艦上では、日本海軍の将兵が負傷した敵兵を手厚
く厚遇した。
8 月 19 日
日本陸軍第 3 軍(司令官・乃木希典大将)が旅順攻略戦第 1 回総攻撃を開始。防備を固めた要塞は堅
固で、徒に戦死者を増やすのみの悲惨な状況であった。6 日目の 24 日夕、遂に乃木司令官は攻撃中止の
命令を下した。死傷者は日本軍が 15,860 人、ロシア軍が約 1,500 人で日本軍の戦闘史上最多の損害であ
った。
敗因は砲の性能の低さ(旧式の青銅砲)と砲弾の過少(1門あたり 400 発=乃木軍の希望の半分)に
あった。
8 月 30 日~9 月 4 日
遼陽会戦で、大山巌満洲軍総司令官率いる 13 万の日本軍(第 1,2,4 軍)がクロパトキン率いる 22
万のロシア軍と総力戦を戦い、勝利を得る(死者 5550 余)
。
この戦いで南部の第 2,4 軍は陣地に拠る敵軍に前進を阻まれ苦戦に陥ったが、黒木為楨大将率いる第
1 軍(2 個師団)が未明に渡河迂回作戦をとって東北側から敵側面をつき、4~5 倍の敵兵力と 4 日間互
22
角に戦った。このためクロパトキンは日本軍を過大評価する誤りを犯し、3 日夜全軍が一斉に退却、北方
に逃れた。翌 4 日日本軍は遼陽を占領した。黒木軍のとった渡河迂回作戦は千古不滅の名作戦と称えら
れている。
なお、ロシア軍の最重要陣地・首山堡の攻撃に当たったのが第 2 軍の第 3 師団歩兵第 34 連隊第 1 大隊
である。橘中佐率いる第 1 大隊は早朝から敵陣に突入し、激戦の末、首山堡南方陣地を占領した。ロシア
軍は大軍を投入して逆襲し、少数かつ孤立無援の第 1 大隊は悪戦苦闘に陥った。第 2 軍はついに高地を
奪還され、第 34 連隊のほとんどが死傷して大打撃を受け、橘大隊長も壮烈な最期を遂げた。しかし、第
2 軍の奮闘が第 1 軍の渡河迂回作戦を成功させ、この会戦の勝利を導いた。
橘中佐は、誠の心を持って部下と苦楽をともにする名隊長として慕われていた。その死は軍人の鑑として全国民
が哀悼し、広瀬武夫海軍中佐(旅順港封鎖作戦の際、戦死)とともに「軍神」と称えられた。
ロシア皇帝が戦況の不利を挽回するため、10 月、バルチック艦隊の極東への回航を決める。
9 月上~下旬
旅順攻略戦第 1 回総攻撃の失敗に懲りた陸軍が、28 センチ榴弾砲 6 門を前線に配備。
10 月 15 日
ロジェストヴェンスキー司令長官率いるバルチック艦隊がバルト海の軍港リバウを出港し、長途ウラ
ジオストック港に向かった。→翌年 4 月 14 日ベトナムのカムラン湾に到着し、ロシア第 3 太平洋艦隊と
合流して計 50 隻(うち戦艦 8 隻)の大艦隊となって極東に船首を向けた。
10 月 26 日~11 月 1 日
旅順攻略戦第 2 回総攻撃を決行するも失敗。日本側の死傷者は 3830 人、ロシア側は 4532 人だった
(
「明治卅七八年日露戦史」より)
。
11 月 26 日
旅順要塞東北正面の永久 3 堡塁に対し第 3 回総攻撃を開始。しかし、死傷者続出のため戦略を転換し、
旅順港を見下ろす二〇三高地(その攻略については海軍から矢の催促が来ていた)に主要攻撃目標に切
り替え、第 1 師団に攻撃を命じた。
12 月 5 日
多くの犠牲者を出しながら日本軍が二〇三高地を陥落させた。しかし、それまでの戦闘で 16,938 人も
の死傷者を出しての勝利であった。乃木司令官自身の二人の息子もこの戦争で戦死していた。
38 年(1905 年)1 月 1 日
旅順を守るロシア軍 A.ステッセル司令官が遂に降伏の申し入れをした。ロシア軍のコンドラチェンコ
旅順要塞司令官は、日本軍の砲撃により戦死したが、日本軍はその後、戦場地の東鶏冠山に、最後まで立
派に戦った彼を称えて石碑を建てて顕彰した。
しかし日本軍の戦死者は 15,400 人、負傷者は 44,000 人にのぼった(ロシア軍の死傷者は 31,000 余
人)
。
東京の軍本部は 6 万に近い死傷者を出した乃木に対して批判的であったが、海外の軍事関係者は、近
代的な永久要塞を攻略した乃木の力量を高く評価した。
1 月 25 日
奉天南に布陣していたロシア軍が黒溝台付近の日本軍左翼(第 3 軍)を攻撃。抗戦した日本軍は何と
か撃退したが、9,000 余人の死傷者をだした。
23
2 月 20 日
大山巌総司令官が総攻撃の命令をだした。・・・奉天会戦。
2 月 22 日、右翼の第 1 軍(鴨緑江)が進撃開始。27 日、左翼の第 3 軍がロシア軍の背後を衝くように
前進。これによりロシア軍が右往左往しだしたところへ日本の第 1、2、4 軍が中央から攻撃をかけた。
3月9日
クロパトキンが自軍に退却を命じ、日本軍は翌 10 日、奉天を占領。以降、四平街付近で両軍が対峙。
日本軍は勝利を得たが、戦死者は 16,500 余人、負傷者は 53,500 余人、捕虜 400 人に達した(ロシア軍
は戦死者 8,700 余人、戦傷者 51,300 余人、失跡 29,300 余人、ただし、大半は捕虜)
。
しかし、停戦までに開通したばかりのシベリア鉄道によって極東に派遣展開されたロシア兵力は 130
万人に達していた。にもかかわらず、国内世論は言うに及ばず、参謀本部も連戦連勝のため楽観論に支配
されていた。
そこで、児玉総司令部参謀長は国内の楽観論にカツを入れるため急遽東京に戻り、アメリカのルーズベ
ルト大統領に対して予定通り講和仲介の働きかけを行うよう参謀本部と直談判に及んだ。東京駅頭まで
出迎えに来た長岡外史参謀本部次長に対し、児玉は“火をつけて消さないのはバカの証拠だ”との趣旨の
ことを叫んだという。
アメリカ仲介による和平交渉の道を探り始めたが、ロシアには講和に応じる気配が全くなかった。兵力
に余力があったうえ、バルチック艦隊が太平洋に向かっていたからである。ロシアは、同艦隊が日本艦隊
を破って制海権を奪えば、満洲の日本軍への補給を遮断でき、勝利が得られると期待していたのである。
この間、日本政府は欧米の世論を味方につけるため、アメリカにはハーヴァート大学でルーズベルト大統領と同
窓であった金子堅太郎を、ヨーロッパには末松謙澄を派遣し、ロシアとの戦争の目的を説明するとともに「黄禍論」
への警戒を除去するよう各地で講演、記者会見などを行わせた。二人は対日友好世論の形成にかなりの成果を上げ
た。
5 月 27 日
日本海海戦。この海戦で日本艦隊がバルチック艦隊を殲滅。艦艇の数は、日本艦隊が戦艦 4 隻、巡洋艦
20 隻、駆逐艦 21 隻など計 47 隻で、バルチック艦隊は戦艦 8 隻、巡洋艦 11 隻、駆逐艦 9 隻など計 39 隻
で、隻数としてはほぼ互角であったが、開戦後 30 分で勝負がほぼ決した。
バルチック艦隊の旗艦スウォーロフは大火災を起こして戦列から離脱し、司令長官ロジェストヴェン
スキ-は瀕死の重傷を負い、戦艦オスラービャはじめ 4 隻、仮装巡洋艦など 2 隻が沈没した。
同艦隊は巡洋艦 1 隻と駆逐艦 2 隻が翌日ウラジヴォストークに逃げ込んだのみで、29 隻のうち 22 隻
が撃沈、自沈ないし捕獲された。
しかし、旗艦「三笠」
(司令長官:東郷平八郎)も 26 発被弾し、死傷者は 112 名を数えるほどの激戦
の上での勝利だった。艦船の損害は水雷艇 3 隻だけであった。
この海戦で日本はバルチック艦隊を撃滅したとはいってもほぼ国力が尽きていた。大陸における日露
の兵力格差も 2~3 倍になろうとしていた(このことは日本国民には未だ知られていなかった)。2 年に
わたる戦争における日本軍の戦病死者は 12 万人を数え、当初 5 億円と見積もられた戦費は 23 億円に達
した(政府は内債 8 億円、外債 7 億円を発行して戦費を調達したが、これは平常時の予算 5 年分に相当
するほどの借金をしたことになる)
。
外債は、日銀副総裁在任のまま同盟国・英国に渡って募集にあたった高橋是清の活躍により、英米のユ
24
ダヤ人大富豪が大量に購入してくれた。日本の艦船も英国製で、英国は戦争中、日本に支払いの目途が立
っていなかったにもかかわらず、竣工した艦船を引き渡してくれるほど協力的であった。
アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が、日本に最も有利な時期を選んで日露間の講和を仲介し、
講和会議がはじまった。
日本側全権大使の小村寿太郎に対し、ロシアは「この戦争には勝者も敗者もない。したがって一寸の土
地も1コペイカの金も渡さない」と主張したため、交渉は困難を極めた。
ロシアの全権大使であったヴィッテ蔵相は、アメリカに到着するや、行く先々で「日本は開国 40 年にして清国を
破り、我がロシア陸軍を制圧し、海軍艦隊を壊滅させた。このまま放置すればどこまで強大になるか想像もつかな
い。もし、我が国が賠償金を払えば、日本はそれを全て軍備に回すに違いない。そうなると太平洋は日本の勢力下
におかれ、ひいては欧米の白人支配を脅かすことになる。我々は監視をゆるめてはならない」と演説した。そのた
め、白人ジャーナリストの日本人を見る目がすっかり変わってしまった。
交渉のテーブルを用意したアメリカは、もし日本が巨額の賠償金を手にすればそれを海軍増強に回す
だろうと観て、日本の要求を抑える側に回った。ロシア全権・ヴィッテの演説が功を奏したのである。
7月
日露戦争における日本の戦勝に感激し、民族意識を触発された孫文が、世界遊説から根拠地とする日
本に戻った。東京で留学生らと革命運動結社「中国革命同盟会」を結成。
7 月 27 日
桂首相と W.タフト米国特使(陸軍長官で後に大統領)が会談し、お互いの権益を認め合った。その内
容は公開されなかったが「桂・タフト協定」と呼ばれる。
①
日本は、アメリカの植民地となっているフィリピンに対して野心のないことを表明する。
②
アメリカは、日本の韓国に対する指導的地位を認める。
③
極東の平和は、日・米・英三国の事実上の同盟によって守られるべきである。
8月
第 2 次日英同盟締結。イギリスの要求により、条約の適用範囲にインドを加え、代わりに日本は韓国
に政治的影響力を及ぼすことが承認された。
8月9日
アメリカの仲介により、ポーツマスにおいて日本(全権大使:小村寿太郎外相)とロシア(全権大使:
セルゲイ・ウィッテ元蔵相)との間で講和条締結交渉が始まる。
戦争中、多くの命が失われたこともあって、マスコミなどは、ロシアに対し大きな賠償を求めよと声高に叫んで
いた中、この講和会議が開催されたが、これに先立って、後藤新平(当時、台湾総督府民生局長)が政府に対し、
先見性に満ちた次の意見書を提出した。
「領土の割譲や賠償金といった、所謂物質的所得がこの戦争の終局の目的なのか」、「いや東洋の長期的な平和で
はなかったか」
、
「一戦して必ず金を取り、土地を取るようなことは、十年、二十年後、臥薪嘗胆と捲土重来を期す
新ロシアと戦争に至ったとき、果たして利あるか、害あるか」
、
「まったく何も取らないという決心をもって、まっ
たく何も取らないよう奮闘せよ。それが無形の大所得を勝ち取る道である」
次の点では、小村は合意をかち取ることができた。
① 韓国に対し、日本が指導、保護、監理する権利をロシアが認める。
25
② 日露両軍が満洲から撤退する。
③ ロシアが有する清国・遼東半島の租借権を日本に譲る。
④ ロシアが満洲に敷設した東清鉄道南部支線のうち長春-旅順間及びそれに付属する利権を日本に
譲り渡す。
しかし、賠償金の支払いと樺太の日本への割譲については最後までロシアは譲らなかったため、交渉
は暗礁に乗り上げ、ウィッテは帰国の船便まで予約した。小村も締結を諦めかけた。
8 月 28 日
伊藤博文や桂太郎首相ら日本側は、
「満蒙問題さえ解決できれば領土や賠償金に拘らなくてもよい」と
判断し、小村全権大使に交渉継続を命じた。これに基づいて小村は講和の努力を続け、ロシア側は賠償金
の支払いについては拒否したままだったが、樺太の割譲については応じる旨回答し、ようやく最後の妥
協が成立した。
9 月初め
日露講和条約=「ポーツマス条約」が締結された。
なお、日本の新鋭艦隊がロシア艦隊を完膚なきまでに打ち破ったという体験は、海軍に優秀な大型艦船があれば
海上戦闘に勝てる(大艦巨砲主義)として染みつくこととなり、アメリカに負けるまで変わることがなかった。
[日露講和条約の内容]
1.大韓帝国における日本の政治的、軍事的、経済的優越の承認
2.日露両軍の満洲からの撤兵
3.旅順口、大連と、その付近の領土及び領水の租借権(露清間の協定では租借期間は 25 年)並びに
長春-旅順口間の東清鉄道支線の日本への譲渡(露清間の協定では 36 年後に清国が買い取れること
になっていた)
4.北緯 50 度以南の樺太の日本への譲渡
5.日本海・オホーツク海・ベーリング海など、ロシア沿岸(とくに沿海州)漁業権の日本への許与
なお、戦費賠償要求は拒否された。
(注) 1 日本は大韓帝国を保護国とした。
3の租借地は、ロシアが 1898 年に清国から 25 年の期限付きで獲得したものであり、東清鉄
道支線の使用期限は 1940 年の予定であった。しかし、明治 41 年 9 月 25 日、第 2 次桂内閣は、
閣議で満洲の現状を永遠に持続させるとの方針を決定。
4
南樺太はその後目覚ましい発展を遂げて地方自治も進展し、中心都市豊原市は昭和 12 年
7 月市制施行を認められた(昭和 16 年末の人口は3万7千人に達した)。
昭和 20 年 8 月 9 日、日ソ中立条約を破って満洲に攻め入ったソ連軍は、日本降伏後の 8 月 24
日、南樺太の占領を開始し、多くの日本人が住みなれた土地を失うこととなった。
この講和内容は、国内では「予想外の譲歩」として受け止められ、憤激の嵐が沸き起こり、新聞はこぞ
って小村全権を激烈な言葉で非難した。
樺太は、千島列島との交換条約でロシア領になっていたとはいえ、国民の間には「南樺太は元々日本の領土だっ
たから、ロシアから領土も賠償金も得ることができなかった」と、ポーツマス条約への不満が高まり、有力新聞も
26
これを煽った。
このため、国内では各地で暴動が起きた。その一つが 9 月 5 日に起きた日比谷交番焼討事件である。また、東京
の在住の外国人やキリスト教会に対する乱暴を働くという事件も起きた。これには講和を仲介した米大統領が激怒
した。
日露戦争の勝利がギリギリのものであり、日本に戦争を続ける余力がもうなかったことを知らない民衆が、講和
の仲介をとったアメリカへの不満から日比谷のアメリカ大使館や教会を襲撃する事件を起こした。このため、日本
に好意的で、講和条約の調印に尽力したアメリカにおける親日的感情が一転してしまった。
それだけに、次第に「満鉄を中心とする利権だけは手放せない」という国民的気分が醸成されていった。→大正
末年から昭和の初めには、松岡洋右満鉄副総裁(後に外相)が「満蒙は日本の生命線である」と主張するようにな
った。
一方、アメリカでは、それまで日本に友好的であったクロニクル紙(サンフランシスコ)が 9 月中旬、一転して
「黄禍に対して戦おう」との大々的な反日キャンペーンを始め、ここから反日気分が全米に拡がっていった。背景
にはアメリカの対日戦略の転換があった。
しかし、日露戦争における日本の勝利は世界を驚嘆させ、特にロシアに占領されたり、圧迫されていた
フィンランド、ポーランド、トルコなどの国々を大いに力づけた。これらの国々はいまも親日的である。
それだけでなく、列強の植民地にされていた被抑圧民族を感動させ、独立の夢へと駆り立てた。日本の勝
利は、いわば世界史的な大事件であった。
この戦争において日本は国際法を厳格に遵守した。戦場には必ず国際法を専門とする学者を従軍させていた。そ
の姿は水師営の会見を写した写真にも残されている。
なお日本の軍人は極めて紳士的であった。水師営の会見において乃木将軍は、敵のステッセル将軍の名誉を守っ
て帯刀を許し、後に同将軍がロシアの軍法会議で死刑の判決を受けたときには、将軍の戦い振りを称えて死刑の取
り消しを求める嘆願書をヨーロッパの諸国に送った。これによりステッセルは死を免れた。
東郷元帥も、負傷した敵将ロジェストヴェンスキー将軍を入院先の佐世保の病院に見舞っている。
開戦間もない頃、幸徳秋水は日露戦争について「日露戦争はその実露英の戦争なり。露国シベリア鉄道に対する
英国のアジア貫通鉄道の競争なり。日本はただ、英国の傀儡にすぎない」との欧米外交家の観方を紹介している(
『平
民主義』明治 37 年 4 月 3 日)
。
近年、日露戦争は「第ゼロ次世界大戦であった」と言われるようになってきている。
翌 39 年に「日露戦史」編纂のため大山巌参謀長名で「日露戦史編纂綱領」が発出された。その注意文
書の中で、作戦面などの肝心の所については「軍の内情暴露の嫌がある」との理由で記述を禁止した。こ
のため、後世に伝えておくべき戦争遂行のさまざまな実態が戦史から欠落してしまった。
(日露戦争後の国際関係)
38 年(1905 年)10 月 11 日
アメリカとの間に、桂・ハリマン仮条約締結。
日露戦争終結後まもなく、アメリカの鉄道王ハリマンが来日し、
「南満洲鉄道を日米合弁事業として共
27
同で満洲経営にあたろう」と提案した。井上馨が伊藤博文や桂首相に働きかけた。
桂内閣はこれに応じて、日本がロシアから獲得した満洲の鉄道権益をアメリカと共同経営する予備的
覚書(桂・ハリマン協定)を締結した。
しかし、ポーツマス条約をまとめて帰国した小村寿太郎外相が「ハリマンと対立するモルガンとの提携
を選ぶべきだ」と猛反対し、桂首相がその意を受け入れて、日本政府は上記仮条約を破棄した。
一旦締結した覚書を破棄されて、ハリマンは激怒し、またアメリカ国民も日本に対し強い敵愾心を抱くこととな
った。政府がハリマンとの仮協定を破棄した理由は、アメリカ政財界に強い影響力を持っていたモルガンに配慮し
たからであった。
「アメリカにも分け前をよこせ」と日本に迫ってハリマンが儲けるのを、モルガンは好まなかった。
もしハリマンの提案が実現されていれば、日本はロシアの脅威にアメリカと共同であたることができ、後年、シ
ナへの経済進出を図るアメリカとの対立や蒋介石政権の反日政策も回避できたのではないかという観方もある。
日清戦争後から、政府により「清国の保全・改革援助のため日本勢力の扶植が必要」として奨励された
シナへの移民が、38 年末で 11,000 人を超える。その中にはシナ人のための教育文化事業を行った者も多
く、東文学堂(明 32、天津。明 34、南京)
、東文学社(明 34、北京)、留東高等予備学堂(明 38、上海)
などが相次いで設立された。清国で漸く設立された公立学校の教師として招聘された日本人は、当時5
~6百名に及んだ。日本人教師が赴任した学校は都市部だけでなく、四川、雲南、陝西、貴州など辺境の
地も含まれていた。
彼ら日本人教師は、アメリカによる日本人教師排斥運動の影響や辛亥革命後の教育組織改革により、大
半が帰国した。
39 年(1906 年)4 月 24 日
満洲において「日本の軍部が軍事的動作によって外国貿易に拘束を加え、満洲の門戸を閉鎖している」
として、駐日イギリス大使マクドナルドから伊藤博文あてに抗議の書簡が届けられる。
これを受けて、政府は軍部に満洲軍政署の廃止と早期撤兵を迫るため、5 月に「満洲問題協議会」を開
催したが、寺内正毅陸相、児玉参謀部次長が反対した。これに対し韓国総監に就任した伊藤博文が「満洲
は清国領土であり、わが国の主権が行われる道理がない」と説いた。
この説得により日本は早期撤兵に踏み切ることになり、ロシアから獲得した満洲の権益は新たに設立
される鉄道会社が引き継ぐことになった。また、8 月に満洲軍政署を廃止し、総督府に代わって旅順に関
東都督府が置かれた。
関東都督府には民生部と陸軍部が置かれ、陸軍部はポーツマス条約に基づき、鉄道守備隊として、1キ
ロにつき 15 人、総計 14,419 名の守備兵をおけることになった。この陸軍部(満洲軍)が、大正 8 年(シ
ベリア出兵を行っているとき)関東都督府を廃止して関東庁を発足させた際に独立して「関東軍」となっ
た。
11 月
南満洲鉄道株式会社設立(資本金2億円。以下「満鉄」と記す。初代総裁は後藤新平)
。満鉄は長春―
大連間の鉄道(旧東清鉄道南満洲支線)及び安東―奉天間の軽便鉄道(安奉線。日露戦争中に建設された)
の経営及びその付帯事業の他、鉱業、水運業、電気業、倉庫業、附属地での家屋の経営などさまざまな事
業を行った。政府出資の1億円は、ロシアから譲渡された鉄道と撫順・煙台の炭鉱という現物支給であっ
た。
28
満鉄初代総裁・後藤新平は、ロンドンで社債を発行し、2 億円を調達し、計 4 億円(当時の日本の国家予算
と同額)で事業をスタートした。
満鉄はその後、満洲の軍閥政権が敷設した鉄道を次々に買収した。また帝政ロシア時代に敷設され、ロシア
革命、辛亥革命を経た後はソ連政府と北京政権(満洲国成立後は事実上、満洲国政府)とが共同経営していた
東支鉄道(北満鉄路)を満洲国が買収した(1935 年)ため、満鉄が管理した鉄道は約7千キロに及んだ。
これら鉄道の軌道幅は当初狭軌であったが、満鉄は突貫工事により半年で標準軌に引き直した。
満鉄はまた、会社所有地のシナ人居住者から租税を徴収し、会社の行政権に服せしめた他、沿線の土地買収
を行って、所有地を拡大した。清国政府は対抗策として、満鉄に土地を売る者を「国土盗売罪」に当たるとし
て摘発した。
土地買収のための調査を行う組織として、満鉄内に調査部が置かれた。その後は、風俗調査や民族調査を行
い、さらには地質研究所や産業試験所も設置されて獣疫研究や衛生研究なども行われて組織は肥大化した。
昭和に入ると、内地で内務省や軍部とうまくいかずにあぶれた共産主義を奉ずる人たちが流れ込んできたた
め、同調査部は、共産主義者、心情左翼の巣と化した。
なお、満鉄の事業地や利権並びに、そこで働く日本人を守るという名目で日本陸軍に関東軍が設置さ
れた。
12 月
日露講和条約に伴い、清国との間に北京で日清条約を締結。
清国は、日本がロシアから譲渡された権益(遼東半島の南端に位置する関東州の領有権及びハルピン以
南の鉄道=南満州鉄道の経営権)を承認するとともに南満州鉄道沿線の日本軍駐屯地から 20 里以内の清
国軍の立入り禁止並びに清国側による同鉄道平行線の敷設の禁止を承認した。
なお、日本は清国に対し、戦場を借りた「戦費」として 150 万円を支払った(ロシアも 200 万ルーブ
ルを支払い)
。
(満洲について)
満洲は、清国をつくった満洲族が住んでいた地域である。満洲族が大陸を支配した後は、満洲族の多くが北京近
くに移住したため、満洲には清国の主権があるものの、人口が減り、馬賊の跳梁する無法の荒野となっていた。
自力では取り戻せなかった満洲を取り戻してくれた日本に、清国は感謝の念を持っていたから、南満洲鉄道の譲
渡を認めたうえ、それを経営し守備するため、線路や駅周辺の付属地に日本人の居住ばかりか日本軍の常駐や自国
側による同鉄道平行線の敷設の禁止まで認めたものである。
40 年(1907 年)4 月
帝国国防方針決定。その内容は、
「日本は満洲と朝鮮半島に獲得した権益を維持拡張するとともに、アジアの南方に発展する南北併進
策を国家施政の大方針とする。この日本の国利国権を侵害すると予想される敵はロシア、ついで米国、ド
イツ、フランスである。
これらの敵に対しては、攻勢戦略により海外に打って出て撃破する。ロシアに対しては(中略)作戦の
進捗によりウラジオストックを攻略する。米国、ドイツ、フランスに対しては、まず東亜に所在する敵海
上勢力を撃破し、その後の作戦は臨機に定める。
このために、陸軍は野戦師団、予備師団各 25 個師団(戦時は 50 個師団)
、海軍は戦艦 8 隻、巡洋艦 8
隻を基幹とする八八艦隊を建設する。
29
軍事費比率は 30%以上とする。
」
というものであった。
これは、ロシアの復讐を恐れる陸軍が師団拡張策を求めたことから策定されたものであり、海軍は、予
算獲得競争で陸軍に負けたくないという対抗心から、アメリカを仮想敵国として八八艦隊の建設を要求
した。
この国防方針の構想は、北(ロシア)南(アメリカ、ドイツ、フランス)併進を出発点とした国家戦略
に問題があった。南進は場合によってはイギリスとも対立する危険性があり、主要国すべてを敵に回し
かねない内容であったからである。
また、陸海両軍の思惑・意図が盛り込まれたにすぎず、国防上の国家的基本政策は認知されず、まして
何ら打ち出されていなかった。策定責任者の山縣が、
「陸海両軍の首脳と総理大臣との協議を経る」とい
う手続きを回避して、両統帥部のみで国防方針案をつくらせたからである。結果として、この国防方針
は、政・軍の合意形成に失敗することとなった。
そのうえ、陸海軍対立の歴史があるにもかかわらず、両軍の戦略・作戦の基本を統一するための方策と
して、統合参謀本部を設置することは全く採用されなかった。
帝国国防方針の原案は参謀本部の田中義一中佐(日露戦争時、満洲軍総司令部作戦主任参謀)が、政府の関与を
排して書いた。田中中佐は「国防方針というものは、政治の従属物であるそのときどきの内閣の判断によって影響
を受けるものではなく、それらを超越する不動の存在でなければならない」と考えていた。
同中佐と気脈を通じる山県元帥(枢密院議長)が推進し、私案として天皇に上奏した。早くも軍事が政治に優先
する第一歩が踏み出される事例となり、全てに軍事が優先する嚆矢となった。
天皇は元帥会議に諮るよう指示し、その賛同の後、陸海軍の両統帥部長に審議を命じた。両統帥部長の奉答後、
天皇から当該私案を閲覧された西園寺首相は、
「きびしい国家財政の状況から漸進的に整備したい」と奉答したもの
の、1 ヶ月間閣議にも諮らず、誰とも相談しなかった。これは、政府との協議なしに所要兵力の整備方針を進めた
山県への抵抗(実質的拒否)であったが、結局同方針は決定された。
海軍が仮想敵国をアメリカとしたのは、同国がグアム、ウェーキ諸島を領土編入したうえ、日系人の多いハワイ
をも併合し、日米両国が西太平洋で対峙するようになったほか、アメリカ各州で日系移民への排外運動が強くなっ
たためで、海軍は軍備拡充を急ごうとした。
ただし、当時の国家財政は全くゆとりがなかった。当時の国家予算は約 4 億円であったが、日露戦争中の臨時軍
事費は 17 億余円で戦争関係費用を加えると計 20 億円近くに達していた。そのために英米市場で調達して返済を迫
られている外債は 10 億円を超えていた。
以降、国防方針について政府は、方針が予算化される段階で初めて関与が認められることとなった。
なお、この頃から参謀教育機関として統帥部である参謀本部(軍令部門)に人材を供給する役割を担う陸軍大学
校の出身者が、陸軍省(軍政部門)に進出し始め、41 年には陸大 1 期生の長岡外史が陸軍省軍務局長に就いた。以
降、軍務局長のポストを陸軍大学校の出身者が独占した。すなわち、陸軍大学校出身者が陸軍省の有力ポストを占
め、軍令と軍政との両方に影響力を行使する状況が始まった。
社会にも軍国ムードが高まり、
「日本軍の向かうところ敵なし」という思い上がりが、軍の将校・一般国民共通の
固定観念となっていき、軍内では精神力を重視して科学技術や物質力を軽んじる独特の気風が高まっていった。
40 年 6 月
30
日仏協約が成立。これは、日露戦争後、欧州で勢力を急速に拡大したドイツに対抗するため、日露の接
近を策したフランスが日本との結ぼうとして成立したものである。
[内容]
日本はインドシナにおけるフランスの領土権を尊重し、同時に清国南部におけるフランスの特殊
権益を承認する。フランスは、日本の満洲、蒙古並びに台湾対岸の福建における特殊権益を承認す
る。
7月
日露協約が成立。日露間の関係は再戦を考えるほど良くなかったが、両国とも財政が窮迫していたう
え、ロシアには革命運動の激化という事情も重なっていた。そこへ英仏両国から対独のために協調すべ
きという働きかけがあって、第 1 回の日露協約が締結された。
本協定の内容:両国の領土保全、清の独立と領土保全・機会均等
秘密協定
:①南満洲(長春以南)における日本の、北満洲におけるロシアの勢力範囲をそれ
ぞれ承認する。
②韓国における日本の自由行動、外蒙古におけるロシアの特殊権益をそれぞれ承
認する。
日露協約は以降、1916 年の第 4 回まで更新された。
1912 年の第 3 回日露協約においては、清朝崩壊後、中華民国の支配下にはいることを望まない皆にモ
ンゴルについて、北京を南北に通る線の東は日本の、西はロシアの勢力圏とするという秘密協定が結ば
れた。この協約がベースになって、後に日本の勢力圏は内モンゴルに、ロシアの勢力圏は外モンゴルに分
裂することとなった。
日本は日英同盟のほか、フランス、ロシアとも提携することによって極東における国際的地位を著しく
強化し、アジアではもちろんのこと、世界的にも一等国の仲間入りをすることとなった。英仏露日がドイ
ツを包囲する形が生まれた。
9月
山縣の意を受けた寺内陸相が、統帥事項に関する総理大臣の関与を排除するため、軍令制度を設けた。
伊藤元首相とと西園寺首相(39 年 1 月就任)は、憲法 55 条の、国務大臣が天皇を補佐し、国務に関する
詔勅に副署する、という規定に違反するとして反対したが、山縣が押し切って、天皇の裁可を得た。
その結果、統帥事項に関しては陸海相が独自の立法権を有することから、総理大臣に対する陸海相の
立場が強化されることとなった。
41 年
参謀本部が改組され5部2課制となった。しかし、日露戦争で最大の問題であった兵站に関しては、作
戦部門と輸送部門とに分かれたままで、その全体を所掌する部が設置されなかった。以来、作戦が兵站支
援の可否を無視して独走する危険性は残ったままであった。
また、寺内正毅陸相は参謀本部の権限を作戦計画と作戦に伴う兵站など 10 項目に狭め、そのほかの大
部分を陸軍省の所管として同省を優位におく制度改正を行った。軍実力者の権力掌握の思惑により、軍
事組織・制度が歪められる端緒となった。
45 年(1912 年)4 月
陸相に就任した上原勇作が西園寺首相に対し、田中義一軍務局長が進めてきた 2 個師団増設路線を実
31
現するよう迫った。西園寺は行財政整理を主要政策とし、かつ海軍の軍備を優先する考えだったため、陸
軍の要求を拒否した。
その年(大正元年)の 12 月 2 日、上原陸相が辞表を提出し、陸軍が後任を出さなかったため、西園寺
内閣が総辞職した=軍部大臣現役武官制の弊害の現れ。
大正 2 年(1914 年)2 月
山本権兵衛内閣成立。山本首相は、陸軍の猛反対を押し切り、議会の要求を受け入れて軍部大臣現役武
官制の廃止を閣議決定し、上奏した。同月 10 日に裁可。これにより、大・中将であれば、予備・後備役
将官であっても陸海軍大臣になれる道が開かれた。
政治によって組織全体の権限が侵されることを恐れた陸軍部内では、組織改正を行って参謀総長の地
位を高め、陸軍大臣の職責を狭くした。
大正 3 年(1915 年)7 月
防務会議(同年 6 月発足。メンバーは総理大臣(議長)、外相、蔵相、陸海相、陸海両統帥部長)にお
いて、海軍について戦艦 8 隻、巡洋艦 4 隻を整備する充実計画が認められた。陸軍については、翌年 5
月の同会議において、2 個師団増設に必要な継続費が承認された。
明治 40 年の帝国国防方針で決定された八八艦隊と 25 個師団の建設が、その一歩を踏み出した。
防務会議は、国防全般に関して政戦略を調整する場ではなく、軍備の大要を財政の関係から調整する
機能にとどまった。のち、軍備縮小の時代になると有名無実の存在となり、11 年 9 月に廃止された。
(日本人移民を巡る日米関係)
明治 39 年(1906 年)4 月 18 日
アメリカ・サンフランシスコ市で未明、大地震が起き、死者 500 人(後世の研究では約 3 千人)、市民
40 万人のうち 22 万 5 千人が家を失うという大きな被害(推定被害額は 524 百万ドル)を受けた。
日本政府は国家予算の千分の一にあたる 50 万円の援助金(2005 年時点換算で約 600 億円)を贈った。
ところが、市長がとった措置は、校舎の不足という理由により公立学校に通うアジア系学童(うち日本人
は約 100 名)を全員市外の東洋人学校に隔離するというものであった。これにはルーズベルト大統領も
大いに驚き、市長に直接電話を入れて反対の意を表明したほどであった。日本国内では当然、対米感情が
悪化した。
アメリカでは以前から移民問題が表面化していた。
カリフォルニア州で白人労働者が東洋人の移民排斥運動を始めた。これが連邦議会にも及び、1882 年「シナ人締
め出し法」が成立した。シナ人移民受け入れを 10 年間保留とした。1902 年にはシナ人の移民保留を無期限延長し、
帰化権をもはく奪した。
明治 18 年(1885 年)
、日本政府はハワイ政府と移民条約を締結し、1900 年頃にはハワイへの移民は 8 万人に達
した。本土のカリフォルニア州への日本人移民については、1898 年にハワイがアメリカに併合されてからは、ハワ
イからの流出を含めて移民が急増し、1910 年までには 7 万 4,100 人に達した。
彼らは低賃金でよく働いたが、アメリカ国民に成りきらず、いつまでたっても天皇の臣民だと観られていたため、
北人労働者の脅威となるとともに白眼視された。こうして 1900 年からカリフォルニア州で日本人排斥の動きが起
こって年ごとに強くなり、日米間の緊張を高めた。1905 年にはサンフランシスコ近辺の労働組合代表者が「アジア
人締め出し連盟」を結成した。
32
日本人移民排斥のテコとなったのは、1894 年連邦裁判所における日本人帰化申請却下の判断で、理由は「申請者
が黄色人種であるから」ということであった。
この日本人排斥運動は特にアイルランド系移民によって激しく展開された。その理由は、アイルランドでは、イ
ギリス統治下において飢饉(ジャガイモ飢饉)に見舞われ、150 万人ともいわれるほどの死者が出た。飢饉やイギ
リスの過酷な統治から逃れてアメリカに移住したアイルランド系移民は、当然のこと、イギリスを憎んでいた。
「日
本は(憎き)イギリスと同盟を組んだ」というのが、アイルランド系移民が激しく日本人移民を迫害した理由であ
った。
40 年(1907 年)
前年のサンフランシスコ大地震関連復興資金の不足から、金本位制を採用していた(1900 年に移行)
アメリカは恐慌に見舞われる。
この恐慌は、直接には、復興資金にあてるための金の流出を恐れたイギリスが金利を引き上げたことに発した。
その影響は、日本にも及び「日露恐慌」と呼ばれた。日露戦争の戦費を外債に頼ったことから、その返済などの需
要に応えるための資金が不足して「カネ不足」となったからである。
同年、アメリカがロシアを破った日本の海軍力にフィリピンを奪われる可能性ありと脅威を感じ、海軍
が対日戦略案を作成した=オレンジ計画。
既にアメリカは、日英同盟の翌々年(1904 年)
、日本の侵攻に備えて西海岸最北のワシントン州のコロンビア河
口に砲台を連ねた要塞を造っていた。
当時のアメリカでは日本を念頭に「黄禍論」が叫ばれていたが、陸海軍内同調者の中には、後に海軍省次官を務
め、その後大統領になる F.ルーズベルトの名があった。
その頃のアメリカの軍備は、陸軍が約 6 万人で、日本の 20 万人に比べ著しく小さかった。海軍も大西洋防衛に主
力がおかれ、日本の方が優位だったので対日戦略案を立てる必要があった。歴史家のホーマー・リー(荷馬李)が
「日米開戦は不可避だ」とする分析を行ったことがきっかけとなって、日本を仮想敵国とするオレンジ計画が作成
された。
日本の方も、満洲問題でアメリカに警戒感を抱いていた。アメリカは満洲における地位を高めるため、大量のア
メリカ資本を投入し、その代償として清の国内市場を狙いとする「ドル外交」を展開した。
それらにより日米両国において、それぞれ「日米未来戦争論」が生まれることとなった。
41 年(1908 年)10 月
アメリカ合衆国艦隊「ホワイトフリート」が横浜に寄港した。これは、日本に対する示威行動であった。
アメリカとの衝突発生を恐れる日本は同艦隊を、朝野をあげて歓迎した。これにより両国に友好的感情
が生まれ、同年 11 月 30 日、高平―ルート協定となって結実した。
[高平―ルート協定の概要]= 協定締結時点における領土の現状の相互承認
・清の独立及び領土保全、自由貿易及び商業上の機会均等=「門戸開放政策」
・アメリカによるハワイ王国併合とフィリピンに対する管理権の承認
・満洲における日本の地位の承認
この協定により、アメリカは暗黙のうちに日本が満洲南部を支配し、韓国との併合をめざすことを承認
し、日本はハワイ、フィリピンに対する領土的野心がないことを明らかにするとともに、カリフォルニア
への移民を自粛した。
強大なアメリカ海軍の実像を目にした日本海軍は、その後、海軍力の増強に懸命になっていった。
33
42 年(1909 年)
アメリカのジョン・ヘイ国務長官が、主要国(フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、日本、ロシア)
に対し、清国の主権の尊重と清国内の港湾の自由使用を求める通牒を発した。
これは、1885 年のベルリン会議で認知された門戸開放政策を持ちだしたものである。
アメリカは以前から大規模な市場を持つ中国大陸への進出を狙っていたが、前年にハワイを併
合し、米西戦争によってフィリピン・グァム島を獲得した結果、東アジアにおける主要勢力の一つとなっ
て、次には、ヨーロッパ列強によるシナ分割が激しくなり、日本がそれに参加しようとしているのを黙っ
て見過ごすわけにはいかなかったのである。
(日韓併合へ)
37 年(1904 年)2 月
日韓議定書調印。これは、日露開戦にあたり中立を宣言しようとした韓国皇帝に対し、いかなる事態に
おいても実力をもってロシアから韓国を守ろうとした日本が、調印を迫ったもので、①韓国政府は日本
政府の施政改善の忠告を受け入れる。②第三国の侵害もしくは内乱のため韓国皇室の安寧あるいは領土
の保全に危険ある場合は、日本政府は速やかな臨機の措置をとり、韓国政府はこれに十分な便宜を供す
る、というものであった。
その後、日露戦争中の同年 8 月に調印された第 1 次日韓協約において、①日本政府の推薦する日本人
1 人を財務顧問に、外国人 1 人を外交顧問にする。②韓国の外交は日本が担当し、施政を観察する日本人
駐剳官を設置する、ということが決められた。
8月
東学の流れを汲む李容九らが、日本のような立憲君主制の確立を目指して「一進会」を結成。→翌年に
は会員数は 26 万人に達し、通訳や鉄道・道路工事の使役、情報活動など日本軍への支援を行った。
一方で一進会に対しては、
「売国奴」とと罵り、襲撃を行う動きもあった。
38 年(1905 年)11 月 17 日
第 2 次日韓協約(乙巳条約)調印。
日露戦争の最中においても、韓国皇帝高宗がロシアに密書を送って手を結ぼうとする動きをしていた
(同年 3 月及び 7 月。なお、10 月には英米両国にも密書を送った)ため、日本はロシアとアメリカの了
解のもと、韓国統監府を設置して実質的に韓国を保護国とし、その外交権を取り上げるというものであ
った。
1、日本の統監が韓国に駐留する
2、韓国と列国の外交は東京で行われ、韓国の在外外交機関は全て廃止する
まもなく、初代統監・伊藤博文がソウルに赴任した。これに抵抗して、閔泳煥(閔妃の甥で侍従武官長)
や趙秉世(前議政大臣)らが抗議の自決をした。しかし、高宗自身は「今回の保護国化は(従来のシナか
ら)日本へと変わるだけだ。外交権の喪失などやむを得ないのではないか」と述べたと伝えられている。
40 年(1907 年)6 月
オランダのハーグで開催された第 2 回万国平和会議に韓国の高宗が密使を送 3 人の密使を送った。彼
らは英米仏露各代表のもとを訪れ、自分たちを韓国代表として会議に出席させるよう求めた。それは会
議の場で「①第 2 次日韓協約は無効だ。②日本が韓国で行っている保護政策は不法である」ことを訴え
るというのであった。メディアに向けた演説会も行った。
34
しかし、既に第 2 次日韓協約を承認していた各国は韓国を相手にせず、結局密使は会議にも出席でき
なかったが、日本国内世論と伊藤統監の受けた衝撃は大きかった。高宗が密使を送るという情報を事前
につかんでいた伊藤統監は、高宗に対し警告をしていたからである。
伊藤統監は高宗にこの責任を追及したが、このまま韓国の独立を維持したまま改革を進めても、いずれ
再び国際的な騒動を起こすであろう、との憂いを持ちつつ失意のうちに 6 月に統監を辞任した。山縣有
朋らが推進する併合政策を容認するようにもなった。
韓国の李完用以下全閣僚も高宗に退位を迫ったため、高宗は 7 月 20 日退位させられて皇太子の純宗に
譲位した。
40 年(1907 年)7 月 24 日
第 3 次日韓協約が調印され、韓国政府は法令制定、重要行政処分、高等官吏任免において日本人統監
の承認を必要とすることが盛り込まれた。伊藤の考えを引き継いで、韓国の内政権を接収するに至った
ものであった。
同時に日本人顧問は廃止された。これにより、統監の推薦する日本人多数が韓国官吏に任命されるよう
になり、統監の同意のない外国人の任用は禁じられた。
以降、統監の指導のもと韓国の財政、税制が改められた。しかし、韓国人官僚間には汚職が横行し、国
の財政窮迫は一向に改まることがなかった。
8月
韓国軍隊が解散された。
これを機に各地で「衛正斥邪」を掲げる両班の儒者や下士官たちの伝統的な守旧思想に頼る抗日反乱武
装闘争=義兵運動が起こった(韓国軍の士官たちはほとんど加わらなかった。軍人には日本から十分な
給付金が支給されたからである。
)。彼らは、日本人や一進会会員たちを虐殺して回った。また、資金に枯
渇すると韓国人を襲撃して略奪や強姦を繰り返した。
3 年間にわたる義兵運動に加わった人員は延べ 14 万人に達するとされているが、大規模な武力を形成
するに至らず、日本の駐留軍 2 千数百名によりすべて鎮圧された。
他方、共和主義的な思想を持つ愛国啓蒙運動が起こったが、その中心となった前年設立の大韓自強会
であったが、言論・啓蒙によって国民の連帯を生み出すことはできなかった。
それにひきかえ李容九をリーダーとする一進会は 1904 年以降、日韓合邦運動を進め、ロシア排撃の立
場から日露戦争時に日本軍が進めた鉄道建設に協力し、
「日韓攻守同盟の強化」を主張した。同会は次第
に多くの人たちの支持を集め、会員数は統監府資料によれば 14 万人、実際には 20 万人以上に達したと
推定されている。
41 年(1908 年)12 月 4 日
一進会の李容九が「日韓の合邦を要求する」との声明を発表した。それは、国力の乏しい韓国はいった
ん外国の保護下にはいった上で、近代化を進め、独立へと向かうしかない、との認識に立つものであっ
た。
42 年(1909 年)7 月
日本政府が日韓併合の方針を閣議決定。
京城で、日本政府が医療専門学校やその附属病院を開設し、医師、看護師、衛生師の養成に乗り出した。
それまでの韓国の衛生状態は劣悪で(フランス人宣教師ダレ著「朝鮮事情」
)、医療機関の整備も全くなさ
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れていなかった。
8月
古くから清・朝鮮国境紛争地帯だった間島に韓国政府から要請を受けた形をとって統監府臨時派出所
を設置し、事実上韓国の領土権を主張する政策をとった。間島には古くから朝鮮人が居住して大部分が
農業に従事していた(約 10 万人)
。その狙いはロシアの再進出に備えて日本の拠点を築くことにあった。
9月
間島において日清両軍が衝突。その解決策として日本が間島の領土権で譲歩する代わりに清国は満洲
における日本の権益を確定・承認することで「日清協約」が成立した。
これに脅威を感じたロシアがアメリカに接近した。→東清鉄道のアメリカへの売却意思を固める。
10 月 26 日
日韓併合反対を唱えていた伊藤博文枢密院議長(6 月に韓国統監を辞任)がハルピン駅頭で安重根に射
殺される。→日本は反日義兵討伐作戦を展開。
伊藤は、
「朝鮮人の日本への同化」である併合よりも、保護国化が妥当だと考えていた。
伊藤を射殺した安重根は死刑判決を受けた後に、
「我が仁をなすの弱きは、韓国人の罪なり。…伊藤公にはまった
く私怨はなく、公にも家族にも深くお詫び申し上げたい。
」と懺悔した。
(
「わが心の安重根」より)
これを機に、国内では世論が韓国併合に傾き、韓国においても第 2 代皇帝・純宗が日本に対し併合を
請願し、最大の政治団体である一進会、首相の李完用などがこれに賛成するなど、併合に応じる動きが進
んだ。
12 月
アメリカが清国への借款供与により東清鉄道を買い取らせ、その鉄道を賛同国により共同経営する提
案を行った。これに反発したロシアはアメリカとの提携を断念し、日本と友好関係を結ぶ方に傾いた。
アメリカの提案は朝鮮半島一帯の日ロシの情勢を全く理解しないものであり、ロシアだけでなくヨー
ロッパ諸国も一斉に反発した。
同月、日韓併合後は一進会に内閣をとってかわられるのではないかと懸念していた韓国総理大臣李完
用が李在明に襲撃され重傷を負うという事件が起きた。これにより、日韓併合の動きは一層止めようが
なくなった。
43 年(1910 年)7 月
日露が、
「満洲における日本の権益確定と日本による韓国の併合」で基本的な合意をみて、第 2 次日露
協約を締結。
8 月 22 日
日韓併合条約(寺内正毅統監と李完用首相との間で締結された「韓国併合に関する条約」)が締結され
た。これは、国際間の手続きを一つ一つ丁寧に進めた結果であり、欧米の主要国もこれを支持した。ただ
し、韓国民の支持と協力はほとんど得られなかった。
日本は韓国をできるだけ平等に扱うように図らった。皇帝であった純宗を昌徳宮李王として遇し、末代まで王家
を名乗ることを認めるとともに、世子の地位の継承も認めた。また、両班で功績のあった人のうち 6 人を侯爵、7 人
を伯爵、22 人を子爵、45 人を男爵にした。さらには世子の李垠に皇族の梨本宮から方子女王を嫁がせた。すなわち
韓国王室を日本の皇族と同等に扱ったのである。同時に韓国人にも日本人と同等の法的地位が与えられた。
このような平等の関係は、欧米諸国とその植民地との間では全く例がなかった。アメリカはハワイのリリオカラ
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ニ女王を幽閉し、後に滅亡させた。イギリスはビルマ王朝の男子を流刑や処刑としたうえ、女子をインド兵に与え
た。シナの王朝が朝鮮王族に己が王女を嫁がせたことも全くなかった。
(渡部昇一「韓国にはもうウンザリです」WiLL
2015 年 5 月号より)
また、併合に協力してきた一進会は、解散させられたが、約 100 万人にも及んだ会員に対して解散費として下附
された給付金は僅か⒖万円で、一人当たりの報酬は 15 銭にしかならなかった。会員は李容九や日本を恨んで解散に
応じた。
日本政府は韓国統監府を朝鮮総督府に改め、以降、教育制度の整備を行ったほか、朝鮮半島内において
多大の投資を行った。
日韓併合にはロシアだけでなく英米も賛成し(05 年、桂-タフト協定及び日英同盟)、他のいずれの国からも批
判や抗議は出なかった。この併合は英米では colonization=植民地化ではなく、annexation=合邦と呼ばれた。な
お併合により 1897 年に清国の宗主権から離れて成立した「大韓帝国」は、13 年でその幕を閉じた。
併合の 35 年間に日本の治世はどんなものであったかについては別項「日韓併合下における朝鮮半島の
発展」に記載しているが、それは決して「植民地支配の収奪」などではなく、むしろ日本は膨大な国費を
つぎ込み、終始、投資過剰の赤字経営であった。赤字分は日本からの交付金で賄われ、その額は毎年約
1200 万円にのぼった。
1900 年前後から日本の敗戦までに日本から投入された資本を累積すると総額 80 億ドルにのぼった。
その結果、北部には大規模な工業地帯が築かれ、南部は資本主義的な商業が大きく発達し、米産も飛躍
的な伸長を遂げた。人口も併合時の 1312 万人から 1945 年の 2512 万人へと倍増している。
西洋列強がアジアで行った植民地経営とは全く異なる姿をみることができる。
朝鮮人の全てが併合に賛成だったわけではなく、反日ゲリラも存在し、1919 年 3 月 1 日、高宗の死を
契機に独立運動として三・一暴動が起きたが、死者 553 名を出して鎮圧された。以後は、そのような暴
動は全く起こらなかった。
なお、併合により日本人となった朝鮮人は日本軍の兵員募集にも積極的に応募して日本軍人となり、大
東亜戦争時点でその人数は 24 万人であった。
(清国滅亡と大陸の混乱、ロシアの脅威)
44 年(1911 年)10 月 10 日
シナ大陸、武昌で新軍(洋式陸軍として編成された清国の軍隊)の部隊が武装蜂起した。
これは、満州族に支配されていた漢族の地方豪族で、議会(諮議会)議員となっていた「郷紳」たちが
「滅満興漢」を叫んで中央政府の権威を否定し、次々に独立を宣言した革命であった(清朝崩壊=辛亥革
命と呼ばれる)
。
清朝最後の皇帝溥儀は宮城である紫禁城を追われ、日本公使館に逃れた。溥儀は父祖の地である満州に
戻ってそこで皇帝になることを望んでいた。
革命の狼煙を上げては何度も失敗して国外逃亡していた孫文は、当時の滞在先であったアメリカ、コロ
ラド州デンバーで革命勃発を知り、パリに立ち寄った後、1911 年暮れに上海に戻った。帰国した孫文は
南京に駆けつけ、臨時大総統に選ばれた。
もともと郷紳たちや帰国留学生たちに、清朝打倒の火をつけたのが孫文であった。
1906 年2つの革命団体が合同して革命団体「同盟会」が生まれ、同盟会は孫文が提唱していた「駆除韃虜、恢復
中華、建立民国、平均地権」の 4 項目を綱領に採用した。
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孫文はこれを、民族(満洲人を駆除、中華の回復)
、民権(民国の建設)
、民生(地権の平均=産業発展に伴う地価
の値上がり分を国家財政に吸収すること)の三大主義に整理して「三民主義」と名付けた。
その後、孫文が主導する同盟会は、満洲人王朝の打倒と共和制の自立を掲げて、武装放棄したり、反清組織に資
金提供したりしたが、ことごとく失敗した。このため、孫文は身の危険から国外に脱出した。
孫文は客家の出身で、客家秘密結社のネットワークや華僑の出すカネを基盤にしていた。はじめはハワイで客家
のネットワークを利用して現地の人々を動員したが、その後は、梅屋庄吉(日活の創始者で、私財 2 兆円を提供し
た)
、宮崎滔天、頭山満などの日本人から莫大な資金援助を受けた。
アメリカの滞在先で武昌での新軍部隊の武装蜂起を耳にした孫文が先ずパリに行った理由は、帰国後の活動資金
を得るために、ヨーロッパ滞在中の梅屋庄吉を探すためであった。しかし、梅屋庄吉には会えないまま帰国した。
革命がなった理由は、清国が財政難から 1911 年 5 月に地方鉄道の国有化を決定したことに端を発した。この政策
は、各地で産業発展の基礎となる鉄道を、自前で敷設しようとしていた郷紳層と真っ向から対立し、各地で鉄道国
有化に反対するストライキや暴動が発生した。これによって停滞していた同盟会の活動が息を吹き返し、革命への
宣伝活動に弾みがついた。
騒乱のさなかに武昌で起こった新軍の蜂起が起爆剤となって、各地で実権を握る郷紳たちが次々独立を宣言し、
清朝崩壊に至ったものである。
新軍や郷紳たちには指導者がいなかったから、清朝の討伐軍が来る前に指導者を選ぶ必要があり、やむを得ず、
それまでは鎮圧側に立っていた清朝の武漢司令官・黎元洪を革命軍の統領にした。
黎元洪は、清朝の討伐軍・袁世凱と交渉の末、休戦・事態静観することで一致した。そこに孫文が帰国してきた
ので、とりあえず、孫文を臨時大総統、黎元洪を副総統とすることになったものである。
同年、北京で精華学堂(現:精華大学)が設立された。精華学堂は、アメリカ政府が義和団の乱の対米
賠償金から資金を拠出して、シナ人が米国へ留学するための予備校として設立されたものである。
第一次大戦後になってアメリカは、同学堂を利用して、シナ人による排日テロを背後から支援し続け
た。
シナ大陸では第一次大戦後、日本の影響力が高まったので、1899 年のヘイ国務長官通牒に明らかなように元々シ
ナ市場に野心のあるアメリカは、武力ではなく、文化事業、キリスト教宣教などを手段として、非軍事的方法で日
本に対し揺さぶりをかけた。精華学堂設立も日シ間の離間を図るひとつの手段だったのである。
45 年(1912 年)1 月 1 日
18 省のうち 14 省が独立を宣言し、南京を首都として中華民国を樹立した。臨時大総統に祭り上げら
れた孫文は、南京で行われた就任式において
「漢、満、蒙、回、蔵の諸地を合わせて一国とし、漢、満、蒙、回、蔵の諸族を合わせて一人としよう」
。
との演説を行った。これは辛亥革命後に独立の動きを見せ始めたチベットやモンゴルなどの少数民族を
中華民国に引きとめようとして「五族共和」の理念を唱えだしたものであったが、孫文自身「漢族を以て
中心となし、満蒙回蔵四族全部我らに同化せしむ」という中華ナショナリズムを宣言していた。
2月
近代化した軍備を誇る最大軍閥の袁世凱が、隆裕皇太后と幼少の宣統帝(溥儀)に対して清朝皇帝一族
の権利を守ることを条件に退位を迫り、これを受け入れた隆裕皇太后が皇帝の退位と共和国樹立を宣言
する詔勅を発することによって清国が滅亡した。
ただし、名目的に清朝を背負う立場だったので、自己の保身のために皇帝一族を紫禁城に住まわせて臣
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下の礼をとっていた。また、満洲においては清朝の軍人と施政は以前のままの形で残されていた。したが
って、八旗兵出身の軍人や将軍が当然のごとく秩序維持にあたっていた。
袁世凱が 3 月に北京を首都とした中華民国(以下「中華民国北京政府」又はたんに「北京政府」と書
く)の臨時大総統を名乗った。その結果、南京と北京の両方に「中華民国」が出現した。
溥儀は、政府から多額の歳費を給付されて紫禁城内に 12 年間留まっていた。これは、清朝時代に同盟者であった
チベット族やモンゴル族を、旧体制を利用して漢民族国家の圏内に繋ぎとめておくための措置であった。
袁世凱が大総統になった後のシナでは、都市部で排外機運が強くなっていった。
(その後のシナの政情)
南京・中華民国臨時大総統の孫文は、その地位を袁世凱に譲るとともに、参議院を率いて北京に移り、
自ら希望して鉄道大臣(全国鉄路督弁)に就任した。これにより、中華民国は北京において一時的に一本
化した。
中華民国北京政府は二院制で、
国会で正式に総統に任命されることを期待した袁世凱は 12 月から翌 13
年 2 月にかけて国会議員選挙を実施した。しかし、その目論見は外れ、反袁世凱の同盟会(国民党に改
称。理事長:孫文、実質的な指導者:宋教仁)など共和派が勝利し、国民党の実質的な指導者である宋教
仁を首相に選出した。
首相の宋教仁は、独立を願う各省長官の意向を汲み、地方分権を進める憲法草案を発表した。しかし、
各省の独立を嫌う袁世凱は宋教仁を暗殺し、さらに武力によって第一党の国民党を弾圧した。このため
孫文は、反袁世凱の第二革命を企てたが失敗に終わり、1913 年、東京に亡命した。
孫文は、シナの混乱を憂える梅屋庄吉、宮崎滔天ら日本人の支援を得て、翌年、東京で中華革命党を結成した。
その後も、頭山満、内田良平といった右翼が孫文を支え、梅屋庄吉などが資金援助を行った。
(大正)
(軍部の政治的影響力の増大)
大正元年(1912 年)11 月 22 日
日露戦後もロシアの脅威は変わらないとする陸軍大臣上原勇作が、辛亥革命の影響を懸念して朝鮮に
2 個師団増設の要求を出した。西園寺首相(立憲政友会)はその軍費に財政上耐えられないと、これを拒
否した。2 日後、上原陸相は単独で天皇に辞表を提出した上で、
「師団増設を認めないなら後任を出さな
い」と迫った。西園寺は陸軍閥の元老・山縣有朋に後任の陸相を推薦するよう要請するも、山縣は 1 個師
団とするか 1 年先延ばしするかの妥協案を提示するのみで、推薦を断った。
12 月 5 日
事態打開に窮した西園寺は政権を投げ出し、内閣総辞職となった。陸海軍大臣現役武官制の弊害が最
初に現れた事件であった。
このとき軍務局長になっていた田中義一は強硬な姿勢を崩さず、元勲たる山縣有朋や桂太郎が仲裁に
動いても、その調整・妥協に応じなかった。軍が元老を上回る政治的パワーになったのである。以降、元
老の指導力は限定的なものになっていった。
同月 21 日、桂太郎が 3 度目の組閣。国民からは陸軍の言い分を通すための首相就任と見られ、反桂・
反軍の機運が高まった。
2年2月5日
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立憲政友会の尾崎行雄による桂太郎攻撃の演説。これに刺激された群衆が国会議事堂を取り囲んで政
府を攻撃。桂首相は議会を停止して対抗したところ、10 日には群衆が暴徒化し、軍が鎮圧に当たって死
傷者が数十人に上った。暴動は関西にも飛び火したため、20 日、桂内閣は総辞職した。初めて、民衆の
力が政権を倒す例となった。この頃から国民の間に嫌軍の空気が強くなった。
同日、立憲政友会の山本権兵衛内閣が成立。
6月
木越陸相の決断により、軍部大臣の補任資格から「現役大中将」という表現の 24 文字を削除した。し
かし、軍部内からの風当たりは猛烈で(特に強かったのは宇垣一成陸軍軍事課長と参謀本部)、木越陸相
は心労から在任半年で辞任した。
7月
従来陸軍大臣主管であった事項の多く(海外派兵、国内治安のための兵力使用など)が参謀総長の主管
に移される。また、教育総監も独立性を高めたため、将官の人事は陸軍大臣が参謀総長及び教育総監と協
議を経て行うことになるなど、組織内での協議事項が増えた。
以降、肥大化していった軍部内では協議・根回しを要する事項が増えて、組織のみならず戦略思想も硬
直化していった。
9月
第1次南京事件。阿部守太郎外務省政務局長が暗殺される。
(第 1 次欧州大戦参戦と対支「21 カ条要求」
)
大正 3 年(1914 年)6 月 28 日
サラエボで、皇太子をセルビア人に射殺されたオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに対し、宣戦
布告。これに対し、セルビアを支援するロシアが総動員令を発令。→オーストリアの同盟国ドイツがロシ
ア、フランスに宣戦して中立国ベルギーに侵攻。これに怒ったイギリスがフランスに与して参戦、また、
ブルガリアがドイツに味方してドミノ倒しのように第一次欧州大戦が勃発した。
その後、イギリスは日英同盟を根拠に 8 月 3 日、日本に対し参戦を求めてきた。イギリスのグレイ外
相は「日本は帝国主義と拡張主義の野心を持つ」として日本の参戦に消極的であったが、チャーチル海相
が「日本を仲間として歓迎すべき」と外相に忠告し、その結果日本に対し、太平洋を航行するドイツ武装
商船の探索(事実上の参戦)を求めることとなった。
イギリス外務省としては植民地インドが日本に脅かされるのを恐れていた。当時、インド総督を殺害して逃げて
いたビハリ・ボースを日本人・相馬黒光らが匿い、助けていたため、イギリスは「インドを独立させる運動に日本
が加担しているのではないか」と疑っていたからである。
これに対し、この年 4 月に 2 度目の首相に就任した大隈重信は 8 月 7 日、臨時閣議を開催し、議会に
おける承認も受けずに参戦を決定した。
最も参戦を強く主張したのは英国公・大使の経験の長い加藤高明外相で、反対したのは元老・山縣有朋だった。
病床にあった元老のひとり井上馨も、大戦を「天佑」として大隈首相や山縣有朋に英仏露との団結によりアジアで
の利権の確立を求めた。大隈首相は軍統帥部との協議をしなかったばかりか御前会議にもかけずに、参戦の方針を
決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は、政府と軍部との関係悪化を招くこととなった。
日本政府が参戦を決めた裏には、日本の参戦を望んでいたイギリスの軍事筋が日本側に“地中海に日本の駆逐艦
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を派遣すればドイツ権益地域の山東半島を日本に与えよう”との甘言を使ったということがあった。
8 月 15 日
日英同盟に基づき、日本政府がドイツに対して最後通牒とも言うべき勧告を行った。回答期限を1週
間としたが、ドイツは無回答の意思を示した。
この際、山県有朋は大隈重信首相に「今日まで親交国たるドイツに対して、あまりに穏当を欠く処置ではないか」
と苦言を呈した。山県は、ドイツが敗北してもドイツ帝国が残るなら永久に恨みを買うことになりかねないし、連
合国側ではロシアがアジアに向かって「大発展を計画する」に違いないと分析していた。また、明確な対シナ政策
のないままに日英同盟に傾斜して欧州における力の均衡を軽視するのを危惧し、むしろ中華民国北京政府の信用を
回復して日シ関係を強固にすべきだと説いた。
しかし加藤外相は山東半島の権益に期待をかけ、山県の警告を無視して膠州湾への攻撃を決定した。
8 月 23 日
日本がドイツに宣戦布告をし、第一次欧州大戦に参戦。
9 月、日本は 5 千のドイツ軍守備隊が守る青島を 2 万 8 千の兵力で攻め、11 月、ドイツ軍要塞を攻略
した。
敗けたドイツ軍の捕虜約 4,600 人は内地の収容所に送られ、5 年間の捕虜生活を送った。この間、日本はハーグ
協定を厳守し、捕虜を丁重に扱った。
10 月、日本海軍がドイツ領南洋諸島を占領。
11 月 4 日
イギリスの駐日大使グリーンが加藤外相に 3 個軍団(15 師団)に相当する日本陸軍の派兵を要請して
きた。これに対して日本は「国防の性質に遭わない目的のために軍を遠く国外に出征させることは趣旨
に反する上、日本の国防が空白になる、としてまた軍の輸送には船舶 200 万トンの準備が必要であるが、
現実には困難だ」としてこれを断った。
ドイツを駆逐したこの時時点で日本は国防を心配するような情勢ではなく、その真意は、大戦の間隙をついて、
東亜で利権を獲得することにあった。
海軍の地中海・バルト海への派遣を求めたときには、日本は国内世論の反対からこれを拒否した。しか
し、イギリスからの再三の要請があったため、日本は 17 年(大正 6 年)3 月、旗艦の巡洋艦「明石」と
駆逐艦8隻からなる第二特務艦隊を地中海に派遣し、ドイツの潜水艦 U ボートの攻撃から連合国 26 カ
国の商船や、兵員・兵器の輸送船などを護衛した。
約 1 年半の間に護衛した船舶は 788 隻に上り、
「地中海の守り神」と称えられた。ただし、ドイツの潜
水艦とイギリス商船との間に入って沈められた日本の駆逐艦もあった。
マルタ島には、17 年 6 月に U ボートの魚雷攻撃を受けて沈没した駆逐艦「榊」の戦死者 59 人と、そ
の後の戦病者を含む 71 人の墓碑が存する。同島では、
「礼儀正しかった日本人は非常に尊敬されていた」
(ミフスッド在マルタ日本名誉総領事の証言)
一方、日本の商船団は世界の海を駆け回って食料や軍需物資の輸送にあたった。海運業界には巨額の利
益を得た「大正成金」
(鈴木商店、神戸内田汽船など)が出現した。また日本は、ヨーロッパ諸国の生産
が戦争のため落ち込んだことから、鉄、銅、綿製品や船舶の受注を受けて輸出し、政府財政も好転し、日
露戦後の債務国(約 20 億円)から大戦後には約 27 億円もの債権国となった。
41
軍備の面からみれば、ヨーロッパ諸国は先端兵器の開発に力を注ぎ、ドレッドノート級戦艦や戦車など
を産んだ。これにより、石油を動力源とする戦艦と巡洋艦の時代となったが、戦火から遠かった日本は軍
備の近代化に後れをとった。
戦後、日本は大陸(山東省)や南洋諸島(カロライン諸島、マーシャル群島)のドイツの利権を受け継
ぐこととなった。
これによってドイツは、シナとの巨額の貿易が全く無くなり、また太平洋における足がかりも全く無くなったた
め、日本に対して恨み骨髄に達した(特に軍部)
。
後に(昭和 10 年頃)ドイツ参謀本部は、蒋介石の要請に応じてシナに参謀長クラスの高級軍人(ゼークトやファ
ルケンハウゼンのような日本でいえば参謀次長や参謀総長を歴任した人物)を多数送り込んで国民党軍の訓練を行
い、武器の援助を行った。これは戦略重要物資とのバーター取引として行われた(後述、昭和 12 年 8 月「上海事
変」の項)
。
また、対日戦の作戦をも授けた。それは、上海の近郊における 2 千を超えるトーチカ(コンクリートで固めた要
塞で「ゼークト・ライン」と呼ばれた)の建設であり、武器の援助としては量的にもさることながら、優秀な軽機
関銃(チェコ機関銃)及びドイツ製手榴弾の提供であった。そのため、日本軍は装備面で大きく遅れをとり、支那
事変時の上海戦では、多大の犠牲を出すこととなった。
大正 4 年(1915 年)1 月 18 日
大隈内閣(第 2 次)が、中華民国北京政府(元首:袁世凱大総統)に対し「21 カ条の要求」
(1~4号
計 14 か条の要求と5号 7 か条の希望条項)を行う。
成立したばかりの中華民国北京政府が、日本が占領した「青島から撤退するよう」求めてきたが、日本
にとっても、清国との間に締結した条約に基づく遼東半島の租借期限等について同政府と確認しあうと
ともに、ドイツから獲得した山東省の権益を同政府に認めさせる必要性を感じていた。
日本にとって、旅順・大連の租借期限、満鉄権益期限を半永久的に変えることは国家的課題であった。
ちょうどその頃は、欧米勢力が一時的にアジアから後退していた時期であった。
中華民国北京政府と交渉していた加藤高明外相は、予て日露戦争の勝利により獲得した遼東半島の租借(期限 25
年であったが、あと 3 年後に期限が迫っていた)及び南満洲鉄道の経営権(8 年後に期限が迫っていた)が大正 12
年に切れることを憂慮していた。そこで、前任の駐イギリス大使を離任の際、その延長につきイギリスの了解を得
ていた。政府も、満蒙分離運動が幾度も失敗したことの挽回を図りたいと考えていた。
加藤外相としては最初、ドイツから獲得した山東省を条件付きでシナに返還し、その見返りに満州における権益
を認めさせる考えであった。しかし、青島攻略後、さらなる権益拡大を求める国内世論が高まり、外務省にもさま
ざまな要求が持ち込まれて、加藤はマスコミなどの論調に配慮せざるを得なくなって、本要求に至った。
しかし、
「重要な外交文書は元老が閲覧する」という慣例を破っての外交行為であった。
(概要)
第 1 号 (4 カ条)ドイツが山東省に持っていた権益を日本が引き継ぐことを求める
第 2 号 (7 カ条)
・旅順・大連を中心とする関東州の租借期限、満鉄安東線の権益期限を 99 年間に延長する。
・吉長鉄道の管理経営を 99 年間日本に委任する。
42
・日本人に南満州及び東部内蒙古における土地の賃借権又は所有権、取得権、自由往来権、業務従事
権 、鉱山採掘権を認める。
・同地方で政治・財政・軍事の顧問教官を要するときはまず日本に協議する。
第 3 号 (2 カ条)漢冶萍公司の日中合弁化を求める
第 4 号 (1 カ条)福建省の港や島を他国に割譲しないことを求める
第 5 号 (7 カ条)希望条項
・日本人の政治・経済・軍事顧問を受け入れること
・日支合同の警察を設けるか又はシナの警察に日本人を雇用し警察機構の刷新を図ること
・2 本の鉄道敷設権を認めること
・日本からの兵器供給又は日中合弁の兵器廠設立に関すること・・・他
この要求を奇貨として、中華民国北京政府の袁世凱は日本の影響力の排除を図った。日本の要求に対し
て中華民国政府は抵抗し、4 月末までに 25 回に及ぶ交渉を行いつつ、日本の要求内容を全てアメリカに
洩らし、日本の姿勢を利用することにより欧米列強の干渉を期待し、また国内の反日世論を煽った。しか
し英仏は動かず、アメリカも単独で干渉するつもりもなかった。
この間、日本も列強に要求内容を伝えて理解を求める努力をしたが、5号については公表せず、隠そう
とした。これが、シナを通じて列強に伝わり、日本の領土的野心が疑われた。
日本の対応が後手に回り、中華民国政府が発信する誇張された情報がどんどん拡散していって、後世に
火種を残すこととなった。
交渉の結果、第 5 号 希望条項(7 カ条)は 1 条を除き棚上げすることとなり、それ以外の 16 カ条に
ついて、大総統袁世凱自身が「国民の理解を得やすくするため最後通牒を出すよう」、日本の日置益公使
に求めてきた(東郷茂徳=後の外相=が日置益公使から直接聴取した)。
袁世凱自身が日本に対し最後通牒を出すよう求めてきた理由は、政敵である地方の有力軍閥から自分の立場を守
るためであった(アメリカ人で上海副領事を務めたラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸
中国の真実』にも同様の
記載がある)
。
この求めを受け入れた日本は、5 月 7 日、受諾するよう最後通牒を出し(その前日の 6 日、公明正大に
通牒の内容を英米露仏4カ国に通知していた)、さらに多額の借款供与を約束した。
5月9日
北京政府が 16 カ条の受入れを承諾した。
これにより 5 月 25 日に条約として調印されたが、各条項の結果と概要は次のとおりであった。
第 1 号については、ドイツとの交渉により日本はその権益を引き継いだ他、連絡鉄道敷設において借
款優先権を得た。
第 2 号については、関東州の租借期限(20 年のうち残り3年)、満鉄権益期限(20 年のうち残り8年)
はともに 20 年から 99 年に延長され、その他南満洲及び東部内蒙古において既成事実となっている日本
の特殊権益(日本人による土地の賃借権又は所有権、日本人の居住及び営業権、鉱山採掘権)が確認され
た。
第 3 号については、日中合弁となったときは、北京政府はこれを承認し、日本の同意なしに公司を没
収したり、国有にしたり、外資を入れることはしないとされた。
43
第 4 号については、大総統令による声明で要求通り認められた。
第 5 号については、あくまで希望条項であったため、日本は大幅に譲歩し、第 20 条を「福建省沿岸に
外国又は外資による北京政府の軍事施設をおかない」と修正したのみで妥結した。その他の条項は、すべ
て留保となった。
この 21 カ条要求について、当時の新聞は「異議なき至当の要求」
(東京朝日)、
「日支両国の幸福」
(大阪毎日)な
どと報じていた。
日本の行った「要求及び希望」内容が一方的・強圧的なものかどうか、注目すべきことがある。この時期、日本に
亡命していた孫文は、日本から革命への支援を得るために、次の条項を日本に提案していた。
・兵器はすべて日本と同式にする
・シナの軍と政府は、外国人を招聘する場合は、日本人を優先させる
・港湾、鉄道、沿岸航路経営のため外国資本を必要としたり、合弁を行ったりする場合はまず日本と協議する
これを見ると、日本の要求の原案は孫文が提案していたといえる。
第 2 号の「99 年間の租借」については、イギリスによる香港の租借期限が 99 年だったことからみても、一概に
不当とはいえない面もあるが、中華思想のシナ側からみれば、日本が英米と同じ発想をすることは許せないという
ことであろう。
また、第 3 号の「漢冶萍公司(シナ最大の製鉄合弁会社)を日支合弁とすること」との要求は既に仮契約が終わ
ったものであった。日本が八幡に最初の製鉄所を計画したとき、当時の漢冶萍公司社長が大冶鉄山の鉄鉱石の供給
を申し出、これにより日露戦争時の膨大な鉄鋼需要に応えることができた。
日本は 1899 年以来巨額の投資・借款を供与してきたが、辛亥革命後は、革命軍による没収の動きや国有化の動き
もあって、年間 30 万トンもの鉄鉱石をここに依存していた(大正 3 年時点)日本としては、安定供給に不安があ
った(日支合弁化の要求は、同公司の好意への配慮が足りなかったという指摘もある)
。
日本の要求に対し、東京にいたシナの留学生約2千人が 2 月 11 日、激しい反対運動を起こした。それだけでな
く、憤慨して帰国した 13 省の留学生たちは、同月 25 日に自国で「国民対日同志会」を結成して、日本商品の不買
運動などを展開した。
その背景には、当時最有力の排日団体であった「湖北全省商界外交後援会」が日本側要求の内容を次のように書
き換えて、シナ人の反日感情を煽った。
・南満洲の警察と行政権を日本に譲渡する
・中華民国北京政府の陸海軍は必ず日本人を教官とする
・シナの学校では必ず日本語を教授する
・シナに内乱あるときは日本に武力援助を求め、日本もまたシナの秩序維持に当たる
・シナの石油特権を譲与する
・シナ全部を開放し、日本人に自由に営業させる
つまり上記団体は捏造した説明書を流してプロパガンダを行っていたのである。
日本からの借款を元手に皇帝に上り詰めた袁世凱は、その後 5 月 9 日を「国恥記念日」と定め、国恥
記念唱歌「日本打倒の歌」までつくって、排日・侮日運動を激化させていった。これにより、シナ民衆の
間に日本への敵愾心が固定化された。
日本の国会においても、同年6月、希望条項としての第 5 号中の 2 カ条=・中華民国北京政府が日本
44
から軍事顧問等を受け入れること及び・2 本の鉄道敷設権を認めること=が「中華民国北京政府を日本
の属国であるかのように扱っている」として問題になった。
野党・政友会の原敬が「親愛なるべき支那の反感を買い、また親愛なるべき列国の誤解を招いた。支那の同情を
失い、列国の猜疑を深からしむれば、日本は将来孤立の位地に立つ。いかなる強国といえども列国の間に孤立する
ことはできぬ」と対支外交について政府を弾劾した。
また 5 年後の「五・四運動」によって「21 カ条の要求」が蒸し返されたことから、アメリカをはじめ
とする西欧諸国が日本に対し圧力をかけた結果、6年半後のワシントン会議の場を借りた 2 国間協議に
おいて、日本は山東省で得た利権及び第 5 号 7 カ条の要求を放棄した。
この「21 カ条の要求」は、その後何かにつけて国際社会で日本を非難し、日本を追い詰めていく材料
を与えた。
「シナ側をして乗ぜしむ機会を与えた」と悔やまれている。
(中西輝政「大正外交の萎縮と迷走」
産経・新地球日本史 96)
(シナの混乱と西原借款)
大正 5 年(1916 年)10 月 9 日
寺内正毅内閣が成立。
「21 カ条の要求」は加藤外相の独走とみた元老西園寺公望から不興を買ったこと、与党が勝利した総選挙におい
て内務大臣が大規模な選挙干渉を行ったこと、及び 2 個師団増設を巡って貴族院と対立したことから大隈重信内閣
が総辞職し、元老山縣有朋の推挙を受けて、寺内内閣が成立した。
シナでは、国会弾圧に成功した袁世凱が 1915 年秋、自ら皇帝即位宣言をした。その目的は中央集権強化にあっ
た。しかし、12 月に軍隊を持つ地方長官が相次いで反旗を翻したため、80 日後にこれを取り下げ、失意のうちに
16 年 6 月世を去った。
袁世凱が死去後、副総統の黎元洪が昇格したものの、自分が呼び寄せた張群によってクーデターを起こされ、追
放された。このとき天津に逃れた段祺瑞が手勢をまとめて反撃し、張群を北京から追い出して国務院総理に就任し
た。
しかし袁世凱の部下たちが各地で武装集団を形成して新たな軍閥となり、シナ全土が収拾のつかない混乱状態に
陥った。
先ず北洋軍閥が段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂し、満洲には張作霖、山西省には閻錫山、広東には陳炯
明、広西省には陸栄廷、雲南省には唐継堯などといった具合であった。
このように政治情勢が安定しない中、郷紳たちや地主たちが防衛のために自力で軍隊を養うこととなり、その中
から各地に軍閥が形成されていった。
大正 6 年(1917 年)
欧州大戦により、アメリカは参戦国に大量の武器や物資を売りつけ、大正期前半のわが国は特需景気
に沸いていた。また、英仏から求められて国債を引き受けていた=戦費貸付。
食糧不足が深刻となったドイツは海上封鎖を打開するために潜水艦による民間船舶への無差別攻撃を
開始した。
アメリカでは、自国の船舶も攻撃され、次第に被害が大きくなってきたことから、参戦の声が高くなっ
45
てきていた。
1月
第 1 次大戦への参戦を求められた北京政府が参戦の条件としてアメリカに経済的援助を要請したが、
アメリカはこれを拒否した。
日本はこれを好機として段祺瑞国務院総理に接近し、
「王道外交」の名の下、シナとの経済共同体構築
を構想した。
シナでは、日本の援助を得た段祺瑞が大戦への参戦を国会に上程しようとして反対にあい、黎元洪大総
統が段祺瑞を罷免した。これを見た張作霖はじめ段祺瑞派の各地の省長や督軍が対抗して独立を宣言し
たため、黎元洪が徐州の実力者・張勲を呼び寄せた。
しかし、張勲は北京に着くや否や直ちにクーデターを起こし、黎元洪に迫って国会を解散させた後、7
月に宣統帝の復辟を断行した。意表を突かれた黎元洪は日本公使館に逃げ込み、段祺瑞は天津に逃れた
のち手勢をまとめて反撃し、武力で張勲を倒し共和制を回復した(総統代理 馮国璋、国務院総理 段祺
瑞)。
けれども段祺瑞と馮国璋が暗闘を続け、南方においては護法のためにつくられた広東軍政府も実態は四分五裂し
ており、シナ国内の混乱はその後も続いた。
段祺瑞の下で、親日派の曹汝霖らが要職に就き、南方の反乱軍を平定するための軍備強化費用の援助を
日本に求め、寺内首相の懐刀と言われた民間人の西原亀三に 3 千万円の借款を相談した。
西原は、混乱したシナにおいて信頼できる政権は北京の段祺瑞政権だけだとみるとともに、この借款を
21 カ条要求でこじれた両国関係の改善策と考えていたので、寺内首相に働きかけ、寺内内閣は借款供与
に応じた(
「西原借款」
)
。寺内も、南方を地盤とする孫文は信用ならないとみていたため、北洋軍閥政権
である段祺瑞政権を援助し、これにより居留民の保護と経済的権益を確保しようとした。
政府は、交通銀行、興業銀行、朝鮮銀行、台湾銀行からそれぞれ資金を調達し、17 年 1 月 20 日の借款供与を含め
ると、合計 8 件、2 年間で合計 145 百万円(現在の価値では約 2 兆円)という巨額の借款を供与した。最後の 3 件
は寺内内閣総辞職後 7 日後の 7 年 9 月 28 日であった(翌日、原内閣が成立)
。
この最後の 3 件のうちのひとつ「鉄道借款」によって、山東省鉄道での駐留継続、鉄道に日本人を聘用、鉄道の
将来的な日支合弁経営などが合意され、21 カ条要求問題のうちの山東省部分が実質的に解決した。
しかしその後、段祺瑞が南方政権平定に失敗したため、段祺瑞政権への借款供与は5千万円の銀行借款
が返済されただけで、残りは全額未回収のまま終わった。一方で、日本の段祺瑞への資金援助は、その政
敵であった蒋介石の恨みを買っていた。
蒋介石の振武学校時代の同級生で義兄弟の関係にあった張群の仲間が袁世凱に殺されており、その袁世凱に連な
る政権である段祺瑞を日本が援助したからであった。
以後も、段祺瑞、張作霖、汪精衛らは日本と組み、広東軍政府の呉佩フ、蒋介石は英米の援助を受け、
やがて成立する共産党政府はソ連(革命後)の援助を受けるというふうに、シナの混乱はその後も続いて
いくことになる。
4月6日
アメリカが欧州大戦に参戦するためドイツに宣戦布告。12 月には、ドイツとの関係を断たなかったオ
ーストリアに対しても宣戦布告した。
ウィルソン大統領は連邦議会に参戦を提案していたが、上下院とも圧倒的多数によってこれを承認した。
46
その理由は、自国の船舶をドイツの U ボートから守ることにあったといわれるが、それよりも英仏などへ戦費と
して貸し付けた銀行の債権を守ることの方に大きな意味があった。
この参戦により、アメリカは大戦終結までに(遠く離れたヨーロッパ大陸で)13 万人もの戦死者を出した。その
数は、欧州諸国の比ではないものの(戦死者合計 850 万人と言われる)アメリカ国民の間に永く傷を残し、厭戦気
分が漲った。
10 月~11 月
長引く欧州大戦を戦う英仏両国においては財政逼迫、資源枯渇の状態に陥り、翌年意予想されるドイ
ツ軍の大攻勢にも対処できないできない状況となった。そのため、同年 10 月にはフランスからセルビア
方面への派兵要請が、11 月には再びイギリスからロシア方面あるいはメソポタミア方面への派兵要請が
あった。
しかし、日英同盟の適用範囲がインド以東であったことなどから、日本はこれらの要請をすべて断り、
したがって大きな犠牲を払うこともなかったため、日本は連合国の諸国から「連合国内の戦勝国」とみな
されることはなく、
「火事場泥棒的に(遼東半島での)利権を手にした」と受け取られた。このためイギ
リスは「日本は東亜における地盤強化のみに腐心している」と批判し、反感を募らせた。このことが、後
年の日英同盟廃止につながったとも言われる。
既に参戦したアメリカも日本に派兵を求めてきていた。アメリカと日本は、シナ大陸における権益を
めぐって対立しており、日本が派兵を拒否し続ければ、戦後に連合国内で孤立し、アメリカの外交攻勢に
晒されるだけでなく、日英同盟にも重大な影響が出ることが予想された。このため、参謀本部も欧州出兵
についての研究を行って、10 月に「欧州出兵に関する研究」を政府に提出した。
それによれば、東方(ロシア)への出兵は可能というもので、ロシア解体の危機と露独単独講和の恐れ
の払拭を前提に、
「連合国は日本に戦費や軍需原料の供給において便宜を与える。シナを補給策源地とし
て認め、シベリア鉄道などを日本軍の管理下に置く」などの条件を挙げていた。
しかし、政軍首脳には日本の国家意思を決定する動きは見られず、国運を賭けて欧州出兵を支持する
者は少数であり、日本が派兵問題で行動をとることはなかった。
(米の影響力の増大、ロシア革命とシベリア出兵)
大正 6 年(1917 年)3 月(ロシア暦 2 月)
ロシアの首都ペテルブルグでデモをきっかけに「皇帝による専制の打破」を叫ぶ大暴動が発生し、皇帝
ニコライ 2 世が退位。後継者のミハイル大公も皇位継承を辞退し、ケレンスキーら貴族により構成され
る立憲民主党と社会革命党によって臨時政府が樹立された(2 月革命)。
しかし、ケレンスキーは革命後の混乱をまとめきれなかった。そこへスイスに亡命中の共産主義者レー
ニンが急ぎ帰国し、臨時政府との対立を打ち出し、労働者や反乱兵士らによるソビエト(評議会)への権
力集中を訴える。レーニンの帰国に際しては、対戦国のロシアを打倒するためドイツが支援をした。
→11 月 7 日(ロシア暦 10 月 25 日)にトロツキー率いるソビエト軍事革命委員会が臨時政府の拠点冬
宮を制圧。翌日、レーニンが社会主義国家建設を宣言した。
(ロシア革命)
レーニンは「資本主義のもとでは戦争は不可避」のものとみなし、
「戦争を起こすことによって資本主義政権が転
覆し、社会主義が全世界で勝利を得た場合にのみ戦争の廃止が可能となる」との理論を唱えていた。その「敗戦革
命論」が 10 月革命の勝利を得た。→19 年には第 3 インターナショナル(コミンテルン)を結成し、全世界の社会
主義革命を指導する。
47
11 月 2 日
シナ問題についての協議を行ってきた米国国務長官ロバート・ランシングと石井菊次郎特命全権大使
との間で「石井・ランシング協定」が成立した。
この協定において、米国は日本がシナにおいて有している特殊権益(具体的には満州・東部内蒙古に対
する日本の利益)を認める一方、シナの領土の保全・門戸開放・商工業に関する機会均等が確認された。=
米国は、日本のシナへの進出に歯止めをかけ、対独戦に専念することができるようになった。
[交換公文の趣旨]
「合衆国及び日本国両政府は領土相近接する国家の間には特殊の関係を生ずることを承認す。したがって、合衆
国政府は日本国が支那において特殊の利益を存することを承認す。日本の所領に接壌せる地方において殊に然りと
す」
7 年(1918 年)1月
アメリカのウィルソン大統領が「14 か条宣言」を発した。その主要なものは次のとおりであった。
1
「秘密外交の禁止」…大戦中に英仏伊日など主要国が締結した約束をすべて元に戻すことを求める
ものであった。
2 「航海の自由」…イギリスや日本の海上覇権を認めず、アメリカ船舶は自由に大西洋や太平洋などの
公海上を航行することをものであった。
3 「民族自決」…主権国家を持たない少数民族に対して、その意思と能力があれば主権国家を持つべき
だとするもので、世界中の少数民族や植民地の武装蜂起を煽ることとなった。
4 「バルカン半島と中東の新秩序構築」として、ハプスブルグ帝国とオスマン・トルコ帝国を否定する
ものであった。
3月
ドイツがソビエト政府と講和条約(ブレストリフスク条約)を結ぶ。→3 月 21 日、ドイツが西部戦線
に大攻勢をかけ、英仏両軍が撤退を余儀なくされる。一方、ロシアでは、過激派勢力が一段と強くなった。
→英仏両国はアメリカに援軍を要請する一方、ドイツに再度 2 正面作戦を強いるため、アメリカとイ
ギリスの同盟国日本に対し、シベリアに出兵してドイツ軍を牽制することを要請した。その際、日本に対
してはシベリア鉄道の占領を認めるとの「ほうび」をちらつかせた。
名目はソビエト政府赤軍の捕虜となっていたチェコ軍が反乱を起こし、ロシア軍と戦っていたので、こ
れを救出するためということであった。アメリカのウィルソン大統領は、日本のシベリア出兵には消極
的であった。
5月
16 日に北京政府との間に日支陸軍共同防敵軍事協定を、19 日に日支海軍共同防敵軍事協定を締結。
6 月 29 日
参謀本部田中次長と宇垣第一部長により練られた新帝国国防方針決定が天皇の裁可を得た(仮想敵国
は、露、米のほか新たに支を加えた)
。基本認識は、これからの日本は米露支三国を同時に敵として戦う
長期間の消耗戦になる。その総力戦を戦うには国防資源の自給自足が決定的に重要となり、これを求め
て満洲からシナ本土を勢力下におくことが必要不可欠となるというものであった。このため、それまで
48
の南北併進策にシナ本土への進出が加わり、国家戦略の対象地を東亜全域に拡大した。
このとき陸軍は兵力について質を重視する方針により戦時 50 個師団から 41 個師団基幹に減らした。
一方海軍は 8 隻の戦艦隊を 2 艦隊と巡洋艦 1 艦隊基幹(八八八艦隊)に増やした。また、米国を敵とす
る場合における作戦綱領が具体的に規定された。
当時の日本は第 1 次大戦のおかげで輸出が伸びて、同年の輸出額は 20 億円に達した(大正 3 年時は 6 億円)
。そ
のため国内は好況に沸き、財政的に豊かであった。
ただし、この後、陸軍内には日本の国力では総力戦体制を築くことが不可能だという現状維持派が台頭した。→
11 年 7 月の「山梨軍縮」
(約 62,500 名の兵員と約 12,000 頭の馬匹を削減)へ。
7 月初め
アメリカがシベリアへの出兵を決定。8 日、ソビエト政府赤軍からシベリアに取り残されていたチェコ
軍(約 5 万人)を救出するということを名目にして、日本にも同調するよう求める。
7 月 12 日
閣議でシベリアに出兵することを決める。→元老会議、次いで 6 月に設置された外交調査会(総裁:寺
内首相。委員は外相、内相、陸相、海相、枢密顧問官 3 名(牧野、平田、伊東)政友会・原総裁、国民党・
犬養総裁)の承認を経た。
英米両国からの強い要請を受けて加藤高明(当時、東京日日新聞社主)や枢密顧問官・伊東巳代治(東京日日新
聞の前社主)らが新聞を使って国民の間に好戦的な気分を盛り上げた。
外交調査会は一貫した外交方針を打ち立てることを目的として寺内首相の発案で設けられ、外交上の
最高国策を審議する機関であった。→11 年 9 月に廃止されるまで 5 年 3 か月存続した。
この外交調査会には憲法 55 条(国務大臣が天皇を輔弼する)違反の可能性のほか、両統帥部長が入っ
ていないなどの問題があった。→シベリア出兵の具体策について、田中義一参謀次長は陸軍省の部局長
を委員とする軍事協同委員会を組織して本格的な準備を進めた。
=組織が複雑化するばかりで、国家として一貫した継続的な意思決定を行う組織が依然としてつくら
れていなかった。
8月2日
政府がシベリアに出兵することについて、天皇が裁可。
議会で出兵の諾否について議論が闘わされたが、寺内首相は多数を占める政友会党首の原敬の取り込
みを図って彼を外交調査会に招いたために、寺内の意図とは逆に原の発言力が増し、その声に押される
ように政府が出兵を決めた。原の対外姿勢は万事「対米追従」であった。
その背後には、ロシア革命が日本に波及することへの恐怖感もあった。
兵力は、英仏が連合軍 5,800 を編成し、アメリカ 7,000、そして日本の兵力はアメリカとの協議で 5,000
とされていた。ウィルソン大統領は、日本の軍事力の浸透を危惧して日本の兵力を少なく抑えた。
このとき「訳のわからぬ出兵など国を危うくする」と出兵に反対した野党・政友会の原敬も、ロシア革命勃発時
には「露国に革命起こり露帝退位せりという。退位に至れるは真に大政変と言うべし」と日記に書いていた。
第 1 次大戦景気により、物価が上昇していたところ、
「シベリア出兵となれば兵糧としてコメが徴発され、不足す
る」という観測から、約 1 カ月前から米商人たちがコメを買い集め、1 年前に比べて米価は 2 倍に上がっていた。
それが大きな噂となり、7 月 23 日、富山県魚津町で数十名の鉄道開通により職が減っていた艀業者の妻たちが米屋
49
に押しかける事件が起こった。それが 8 月 2 日、同県西水橋町において2百人足らずの主婦が庁内の有力者や米屋
に押しかける事件を誘発し、やがて全国で 70 万人を動員する「米騒動」に発展した。12 日夜、神戸では鉄材や船
舶の売り買いで財をなした鈴木商店を暴徒化した約 250 人が襲い、本社に放火して全焼させる事件が起きた。
このため政府は軍や警察を動員して鎮圧に当たって約 2 万 5 千人を検挙し、他方、新聞の米騒動報道を禁止する
とともに外国産米を市場に放出するなどした。これにより 8 月末、騒動はようやく沈静化した。
新聞に煽られて国民はシベリア出兵を支持したものの、生活も大事だということから起こった騒動であった。
陸軍は、主力として関東都督府陸軍部(満洲軍)の 2 個師団によりシベリア派遣軍(兵力は約 12,000)
を編成し、8 月 12 日、ウラジオストックに上陸させる。派遣軍は、満洲里からチタに侵入した後、9 月
2 日にバイカル湖以東のアムール鉄道全線を制圧し、チェコ軍救出のため治安と交通の維持にあたった。
その後も陸軍は兵力を増強して、総兵力は翌年 11 月末時点で 7 万3千に上った(アメリカの 10 倍近
かった)
。
他国が撤兵し、国際世論から非難を浴びるようになった後も、陸軍は兵を引こうとはしなかった。政府
はこうした陸軍の独走を阻止する具体的な手は打たずに、陸軍の行動をそのまま放置してしまった。 =
満洲事変とシナ事変の際に、政府が陸軍に引きずられる原型
9月4日
米騒動に強権的にしか事態収拾のできなかったために批判が集まった寺内首相(陸軍出身)が辞意を
表明。元老山縣有朋が後継に西園寺公望を指名するも、西園寺はこれを断り、政友会総裁の原敬を推薦し
た。
9 月 29 日
初の政党内閣である原敬内閣(政友会)が成立。国民は、大戦特需による好況を背景にして花開いた
「大正文化」のなか、政党内閣の誕生を熱烈に歓迎した。
国民の期待を集めた原であったが、山縣有朋を筆頭とする軍閥、薩長藩閥との折り合いをつけるのに腐心し、大
正バブル後の不景気克服の手を打てず、また、普通選挙の実施やシベリアからの撤兵も実現できなかった(選挙
法については翌8年の改正で投票権を有する者の資格を年額 10 円以上から 3 円以上に改め、有権者を拡げるにと
どまった)
。
そのため、国民の間に不満が高まり、3年後の大正 10 年 11 月 4 日に中岡艮一により暗殺された。なお、原の
頭を押さえていた山縣有朋が死去したのは、その僅か3か月後だった。
この年、東京帝大に新人会が発足。以降、高等教育機関内に社会科学研究会が組織されていった。→13 年 9
月、学生社会科学連合会(学連)が結成される。15 年 1 月には京大事件として最初の治安維持法違反者 37 名が
検挙された。
11 月 9 日
ドイツでも共産革命が起こり、皇帝ウィルヘルム 2 世がオランダに亡命し、ドイツ帝国が崩壊。アメ
リカが直ちに交戦国に対し停戦を提案。
11 月 11 日
ドイツ帝国崩壊の後成立したワイマール共和国代表が連合軍との停戦協定に署名することにより、第
1次世界大戦が終結した。
欧州を中心に、国民を総動員する戦いが行われたこの大戦では 850 万人を超す戦死者が出る一方、各国は飛躍的
50
な兵器の近代化を果たした。
大戦終結を機に世界的な軍縮の機運が生じてきたが、日本でも以降「反軍」的風潮が高まっていった。
大正 8 年(1919 年)1 月 8 日
連合国勝利の立役者であるアメリカのウィルソン大統領が民族自決主義・シナにおける機会均等など
を含む「14 か条の平和原則」を発表。
ウィルソンの提唱は、イギリスに対する海洋覇権への挑戦であるともに、シナにおける日本の影響力
の阻害であり、一方で生まれたばかりのソ連を援けることとなった。
1 月 18 日
パリ・ベルサイユ宮殿に戦勝国が集まり、講和会議(ベルサイユ会議)が始まる。ウィルソン大統領が
国際連盟結成のための委員会議長に就任した。
2 月 13 日
ベルサイユ会議国際連盟委員会において、日本が連盟締約国における人種差別撤廃規定を設けるよう
提案した。
日本の提案は、アメリカ、オーストラリア、イギリスなど国内に奴隷制を残している国や、黒人を人間
扱いしていない国にとっては、驚天動地のことであり、到底容認できないとして強硬に反対し、提案の撤
回を求めた。この時点で日本はいったん引き下がった。
(コミンテルン結成と朝鮮における三・一独立運動、シナにおける五・四運動)
3 月1日
朝鮮半島で抗日機運が高まり、独立運動が起きる=三・一独立運動。
当時の朝鮮は併合前から比べると格段に生活レベルが高くなっていた。コメの収穫高は、併合前(1909 年)の
745 万 7,916 石から、前年(1918 年)の 1,529 万 4,109 石へと 2 倍以上に増加していた。そういう余裕がうまれ
た中での独立運動勃発であった。
この運動は、100 万人の信徒を集めていた天道教の教祖孫秉煕を中心とした信徒 33 名が連署した「韓
国独宣言」を宣布し、タプコル公園に集まった学生数千が「韓国独立万歳!」を叫びながらソウル市内要
所を練り歩いた。1 月に死去した高宗の死は脳溢血によるものであったが、人々の間に“国王の死は毒殺
による”という噂が広まり、多くの国民が関心を持っていた。
天道教信徒のデモは、3 月 3 日の高宗の国葬に向けてソウルに集まっていた 20 万人もの人たちに火を
つけることとなり、デモの機運はたちまち朝鮮全土に広がっていった。日本人子弟が暴行を受け、女性が
強姦、輪姦されるという事件も起きた。
アメリカ人宣教師ホーレス・アレンなどの外国人宣教師が、政府反対者を庇護したが、独立運動を推進
した人たちは、独立後、どのように朝鮮政府を運営していくか、ということを一切考えていなかった。
運動は約半年後に鎮圧されたが、朝鮮総督府の調べでは参加者は 106 万名、死者 553 名、負傷者 1,409
名に達した。
(この項「
『反日思想』歴史の真実」拳骨拓史著、扶桑社による)
3 月 2~6 日
ロシアで政権を奪取して間もないロシア共産党(ボルシェヴィキ)の指導者レーニンが世界中に呼び
かけ、モスクワに世界 21 カ国の共産党代表が集まって、世界共産主義革命を目指すコミンテルンの創立
51
が決議された=第 1 回大会。以後、コミンテルンはボルシェヴィキの指導により、運営された。
以降、コミンテルンは 1943 年に活動を終えるまで、世界中の社会主義政党・団体に影響力を行使し、
世界共産主義革命を起こすべく指令を発し続けるとともに様々な策動を行った。
4 月 11 日
ベルサイユ会議において日本(牧野伸顕元外相)が再度、国際連盟規約の中に人種差別撤廃規定を設け
るよう提案し、採決を求めた。その結果、提案は出席 16 か国中 11 か国の賛成(殆どが小国。反対は英、
米、ポーランド、ブラジル、ルーマニア)で可決された。
ところが、議長のウィルソン大統領は「重要問題だから、全会一致でなければならない」として、この
採決を無効とした。日本国内ではアメリカへの不信感が高まった。
4 月 12 日
政府は満洲の行政機関である関東都督府を関東庁(位置づけは日本の役所)に改組するとともに、陸軍
部(満洲軍)を独立させて関東軍とし、陸軍の直属とした。
これは、2 年前のロシア革命及び前月のコミンテルン結成以来、大陸で排日・反日活動が活発化し、政
情が不安定になったことへの対応策であった。
関東軍の設立目的は旅客の安全と満鉄附属地の治安維持であり、兵員数は鉄道の距離1km あたり 15
人と定められていたので、数千人程度であった。
4 月 30 日
ベルサイユ会議において、ドイツが山東省に持っていた権益の日本への引渡しが承認された。また、日
本は太平洋におけるドイツの旧領土で赤道以北に位置するマリアナ群島(ヤップ島、パラオ島、トラック
島など)
、カロリン群島、マーシャル群島の信託統治権についても承認された。日本はパラオに南洋庁を
おいて、甘藷や水産物など産業開発を行って南太平洋進出の拠点とした。
会議半ばで、シナ北京政府の代表(顧維均)自らも戦勝国であることを理由として日本に対し、山東省
権益を直接返還することを求めた。これが原因で日シ間が紛糾し、北京政府の代表は調印を拒否して帰
国した。
段祺瑞政権もドイツに対して 2 年前(1917 年 8 月 14 日)に宣戦していた。
5月4日
北京他で、4 年前の日本による「21 か条要求」弾劾運動が始まり、各地に拡がっていった=「五・四
運動」
。天安門広場からデモが繰り広げられ、すぐに暴徒化した。
ウィルソンの民族自決主義発表から 4 か月、国際共産主義組織コミンテルン結成後僅か 3 カ月後のこ
とであった。それらはシナ民衆のナショナリズムを煽り、反日活動を著しく刺激した。
都市の知識人や学生を中心としたシナ民衆の反日運動の原点は「シナは戦勝国であるから、日本との
21 カ条条約は破棄されるのが当然で、ドイツが山東省に持っていた権益はシナに返されるべき」との思
いであったが、そうしたシナ民衆を指導していたのは、北京大学に集まって過激に儒教を批判し、共産主
義への憧れを持ち、3 か月前に結成されたコミンテルンの組織目的に共感した陳独秀や李大釗などであっ
た。
北京政府は主要な学生を逮捕したが、暴動は沈静化せず、全国へと広がっていったため、学生を釈放せ
ざるを得なくなった。
6 月 28 日
52
北京政府がヴェルサイユ条約の締結国に参加することを拒否した。これは、国内の不満を反映した選
択であった。
このため、学生たちはデモに自信をつけ、反日運動を「愛国運動」
「一名文化運動」などと呼び、以後
過熱化していった。
翌年 2 月以降は、とくに内蒙古や満洲をめぐってシナ各地で排日運動が激化した。その背後には、ア
メリカ(宣教師が主体となった)の支持ないし働きかけがあったことから、原敬首相(大正 7 年 9 月 29
日就任)は「満蒙問題は日米問題だ」と嘆いた。
19 世紀末にハワイ、グアムを領有化したアメリカは、シナに対してはイギリスなどに後れをとっていた。しかし、
経済進出を図るべく貿易を拡大し、1910 年代には対シナ貿易を急拡大し、この時点では既にイギリスを抜いてお
り、これを一層伸ばそうとしていた。
1919 年におけるシナの貿易額の各国別割合をみると、日本は 34%、アメリカは 16%、イギリスは 9%であった
が、日本の同割合はこの年を境に急落した。以後その傾向が続き、1932 年にはアメリカはついに日本と並んだ。
(東
亜研究所「列国対支投資額と支那国際収支」=宮脇淳子「真実の満洲史」による)
この「五四運動」の裏にはコミンテルンだけでなく、駐シナ・アメリカ公使ポール・ラインシュの工作や欧米の
キリスト教会牧師らによる扇動があったとの指摘もなされている。キリスト教会牧師らは、布教活動を支援するア
メリカ経済界の先兵となって、シナ民衆を煽り、日シ間の離隔を企図して、対シナ貿易を一層拡大しようとしてい
た。
この頃、満州においては、関東軍の支持を得て勢力を拡大してきた馬賊上がりの張作霖がほぼ支配権
を確立していた。
その後、張作霖は中央に覇を唱えようと繰り返し北京に侵攻し、窮地に陥ると関東軍に救いを求めるということ
を繰り返した。
張作霖は過酷に税を取り立て、ことごとく軍備に対ぎこんだ。このため満洲の民心は荒れ、張政権と張を支持す
る日本への怨嗟の声が満ちるようになった。
7月
ソ連外務人民委員代理(外務次官に相当)のレフ・カラハンが、ロシア帝国時代に清朝との間に締結さ
れた北京条約等の即時・無条件撤廃を表明(カラハン宣言)するともに、日本との間の秘密協定を暴露し、
日露協約も無効とした。ソ連はこれによってシナ人の反日感情を煽り、シナ民衆に日本を敵視するよう
に仕向けた。
カラハン宣言の目的は、北京政府を揺さぶり、シナ民衆にソビエト政権や共産主義への支持、共鳴を拡
げるとともに、日本を国際社会で孤立させることにあった。
同宣言は、反帝国主義・反日運動を掲げるシナ民衆にナショナリズムを煽ることとなり、また軍閥打倒
を訴える孫文に大きな影響を与え、後(1924 年)の第一次国共合作につながった。
(シベリア撤退)
大正 8 年(1919 年)夏
初の政党内閣の中で陸相となっていた田中義一が、参謀本部独走の芽を摘むため、天皇の直属機関で
ある外交調査会を巧みに使って、参謀本部が作成したシベリア作戦要領を否決させた。同作戦要領は、対
米・対シナ戦争も辞さずとの内容を含んでいたからである。
53
田中陸相は、また、植民地総督を文官にするなど、官制改革も行った。この頃は、政党が軍部に対して
ある程度抑止力を発揮することに成功していた。
明治 39 年、当時陸軍中佐の身でありながら山縣有朋に引き立てられて帝国国防方針をまとめた田中は、参謀次長
に昇進後、政友会総裁原敬に近づき、原内閣で陸軍大臣に上り詰めた。後に民政党に接近して政界に進出した宇垣
一成ともども、明治天皇の軍人勅諭にある「軍人は政治に近づくべからず」に反する行為であった。
しかし、田中は上記にみるように、また宇垣は 4 個師団削減という大リストラを断行したことなどから、陸軍中
堅将校からは反感を買った。
大正 9 年(1920 年)1 月
シベリアに出兵していたアメリカが、チェコスロバキア軍救援の目的を達したとして撤兵した。しか
し、日本の軍部は追随しようとしなかった。
3月2日
原内閣が、シベリア出兵目的を限定し、守備地域も縮小して継続する方針を決めた。
「ウラジオ方面が過激派の手中に帰しており、進んで北満洲に侵入してくる恐れもある。これら地方の
交通、治安の維持、満洲・朝鮮に対する過激派の行動を防止し、形勢を観るため、樺太に対する防衛上の
要地たるニコラエフスクに陸海軍守備兵を置く」
3~5 月
3 月 12 日に、ニコライエフスクで日本のシベリア派遣軍がパルチザン本部を包囲・攻撃を開始したこ
とから、逆襲にあい、日本軍守備隊や日本人居留民が集団自決した事件や、パルチザンによる日本人俘虜
ならびにロシア・サハリン州住民数千人の虐殺事件(尼港事件)が起きた。
4月
日米協議において、両国がシベリアからの撤兵を決める。→米英仏などは全て撤兵。
これは前年秋、①ロシアにおいてボリシェヴィキが優勢となり、出兵した国では撤兵の機運が高まった。②朝鮮
半島において三・一独立運動が起こり、③シナにおいては五四運動が起こって、日本の大陸進出に対する反対運動
が高揚したことに対する措置であった。
これに対し、参謀総長上原勇作が、
「政府が軍の派遣・撤兵を決めることは統帥権干犯だ」として反対
し、4 月 4 日夜にシベリア派遣軍が総攻撃をかけ、ウラジオストークやシベリア鉄道沿線部を制圧。上原
は、シベリアに日本の傀儡政権をつくろうとしていた。
その結果、日本だけがシベリアに駐留することとなり、国際批判を浴びた。なお、6 月 1 日、閣議はチ
タ、ハバロフスクからの撤退を決定したが、上原はこれにも反対。→以降、統帥権をめぐって、政府と参
謀本部が対立。
この年の 11 月、レーニンはモスクワ共産党細胞書記長会議において「資本主義国家間の矛盾対立を利
用して、これらの諸国を互いにかみ合わせることが基本的原則だ」と発言した。
11 年(1922 年)10 月
英米が見切りをつけて早々と撤兵したのに対し、日本は「東部シベリアに反共緩衝地帯を築く」という
野心を持つ軍部に押されて、ソ連軍のゲリラと戦い続けたが、ようやく撤兵した。
この出兵は内外の批判を買った上、何ら得るところもなくに撤兵するまでに 3500 名の犠牲者を出し、
戦費も 9 億円に上った。
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(シベリアのポーランド孤児救出)
ポーランドは 1795 年 10 月、ロシア、プロイセン、オーストリアに 3 分割された。ロシア領内ではポ
ーランド愛国者が幾度となく祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられ、家族ぐるみ流刑地のシベリ
アに送られた。
第一次大戦終結後の 1919 年、ポーランドがようやく独立を認められた頃、ロシア国内は革命、反革命
勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十
数万人のポーランド人がいた。その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。とくに親を失っ
た子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
1919 年 9 月、せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願いから、ウラジオストク
在住のポーランド人によって、
「ポーランド救済委員会」が組織された。
しかし翌 20 年春にはソビエト・ロシアがポーランドに対して戦争を始めたため、唯一の帰国ル-トで
あるシベリア鉄道が使えなくなり、孤児たちを送り返すことは不可能となった。救済委員会は欧米諸国
に援助を求めたが、ことごとく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請することを決定した。
大正 9 年(1920 年)6 月
救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史が来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、
援助を懇請した。
女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わずか 17 日後には、シベリア孤児救済が決
定された。独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考えれば、驚くべき即断で
あった。
日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか2週間後には、56名の孤
児第一陣がウラジオストクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌 21 年7月まで5回にわ
たり、孤児375名が来日。さらに 22 年夏には第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童
が来日した。
合計765名に及ぶポーランド孤児たちは飢餓と病気で衰弱しきっていたが、受け入れた病院の看護
婦たちはつきっきりで看病し、一人の死者を出すこともなかった。習慣や言葉が違う孤児たちを世話す
るには、ポーランド人の付添人をつけるのがよいと考え、日赤は孤児10名に 1 人の割合で合計65人
のポーランド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮まで行った。21 年 4 月には皇后陛下(貞明皇后)
も日赤病院を訪れて孤児たちを接見した。
病気治療や休養により健康を取り戻した孤児たちを日本政府は、第 1 次はアメリカ経由で、第2次以
降は日本船により8回に分けて順次、直接祖国ポーランドに送り返した。
こうした日本の厚意をポーランドは忘れておらず、今もヨーロッパ随一の親日国となっている。ポーラ
ンド政府は阪神大震災の後、
平成7年の夏休みに被災地の小中学生 30 名を招待し、
東北大震災の後には、
平成 23 年の夏休みに岩手県、宮城県の中高生 30 名を招待した。
(大戦後の列強の動向)
大正 10 年(1921 年)4 月 8 日
田中義一陸相の発案で、東方会議を開催することを閣議決定。
55
これは、批判の強い山東省の権益返還問題などロシア・シナ政策についての方針を決めるため、東京に
閣僚・外務省首脳陣、シナ公使、軍部首脳陣を集めて会議を開こうとしたもので、原敬首相も賛成した。
4月
広東を拠点に孫文が3たび国民党政府を樹立し、自らは大総統となる。孫文はレーニンの支援
を得ていた。
5 月 15~25 日
東方会議が開催され、①シベリア出兵の中止(ただし、北樺太占領は継続)、②奉天軍閥の張作霖を支
援するが、中央進出には加担しない、③21 か条要求のうち、米英仏との 4 カ国共同借款の障害になるも
のは事実上放棄する、などを決めた。
5 月 30 日開催の原首相、元老山県有朋会談により、参謀本部もこれに従うことが合意される。しかし、
その後原首相が暗殺されたこともあって、参謀本部がサボタージュを行ったため、シベリアからの撤兵
は遅延した(翌 11 年に漸く撤兵)
。
7月
上海において、コミンテルン指導・資金援助の下、シナ共産党が結成された。中心メンバーは
いずれも北京大学の教職員の陳独秀(文科長)、李大釗(図書館長)、毛沢東(図書館司書)らで
あった。
同党の伸長、時々の中央政府との抗争、自己保存のための諸戦略などを通じて、その後、日シ
関係に大きな影響を及ぼしていくこととなる。
7 月 11 日
アメリカのヒューズ国務長官が日英仏伊4国に対して、軍備制限と極東問題(シベリアを念頭におい
たもの)を討議するための国際会議の開催を提案した。
7 月 27 日
アメリカの思惑に対抗してイギリスが日米英による3国の非公式会議を提案。その意図は日英同盟を
更新して日本の軍事力を自国の極東権益維持のために使おうというものであった。
8 月 23 日
イギリスの意図を見破ったアメリカが3国による会議を拒否し、4国による軍縮会議をワシントンで
開催するよう正式に提案してきた。アメリカとしては日英が同盟を強化して大きな軍事勢力になること
を好まず、両国を離間させたかった。
これに日本は即日、参加する旨回答した。
10 月
日本がやっとシベリアから全軍を撤兵。これは、政党政治家や社会運動家の中から軍閥攻撃、二重外交
批判の声が起こり、
「参謀本部廃止論」まで唱えられるようになったことや、欧米諸国もずるずると駐兵
を続ける日本の野心を非難するようになったため、漸く兵を退く決断をしたもの。
10 月 27 日
陸軍の中枢を担うスイス駐在武官の永田鉄山、ロシア大使館付武官の小畑敏四郎、欧州世界大戦後の
状況視察旅行中の岡村寧次(いずれも陸軍大学校 16 期生で陸軍少佐)の3人がドイツのバーデンバーデ
ンで落ち合い、陸軍の改革を誓いあう。
彼らは第一次大戦を通じて飛躍的に発達した兵器を見、またそれが人的にも物的にも国民を総動員し
56
ての闘いであったことを実見して危機感を持ち、こうした総力戦で勝利を得るためには軍の大幅な改革
とともに食糧やエネルギーの自給の確立なども含めた国家改造が必要であることを実感し、その方向で
軍の中に優秀な人材を養成しようと誓いあった=“参謀本部による国家改造主導”の思い。
その後、陸大閥が次第に軍事テクノクラートを形成していった。
当時の政・官界には、第一次大戦後の世界を見据えて日本の将来を構想する人材がほとんどいなかった。また、
軍部においても、未だ藩閥支配(陸軍においては長州閥)が残っていて、近代的な軍事体制を構築できる情勢には
なかった。永田らの「誓い」には「藩閥支配の打倒」も含まれていた。
帰国後、永田らは陸大 16 期生を中心とした「二葉会」を結成した。同会は、昭和 4 年には若手軍人による「木曜
会」との合併を果たし「一夕会」となり、ここに上記3人の他、板垣征四郎、東條英機、山下奉文、石原莞爾、武
藤章ら陸軍の中堅リーダーのほとんどが結集した。
この会合は後の東京裁判において「バーデンバーデンの密約」と名付けられ、日本における総動員の導入を図っ
たとされた。しかし、実際には「総動員」が検討されることはなかった。総動員となれば徴兵率を独仏並みの 6 割
に引き上げねばならず、そうなると男子労働人口が不足することとなって、その痛みに社会が耐えられないと考え
られたからであり、総動員よりは海軍の強化という判断に落ち着いた。
11 月 4 日
原敬首相が東京駅構内で中岡艮一により刺殺された。裁判により中岡は無期懲役の刑を受けたが、捜
査段階において背後関係が明らかにされることはなく、暗殺事件に対する安易な流れができ、後世に禍
根を残した。また、中岡は 3 度もの大赦により早くも昭和 9 年には釈放された。
(ワシントン軍縮会議)
大正 10 年(1921 年)11 月 12 日~11 年 2 月 6 日
米国の提唱により同国内では初めての国際会議であるワシントン会議が開催される。米国の狙いは、①
西太平洋海域、特に戦略的に重要な島々の防備に関する日本海軍の拡大を阻止、②中国における門戸開
放政策の継続を日本に正式に受け入れさせる、③日本に対して劣位に立たない海軍軍備比率で合意、④
日英同盟を廃止させ、米英間の緊張を排除する、ことなどにあった。
この会議を前にして、東洋経済新報主筆の石橋湛山は、同誌において、次のように訴えた。
「小欲を棄て、大欲につけ。即ち、満洲や山東省で得た権益その他支那が我が国から受けつつありと思っている
一切の圧迫を棄てよ。また、朝鮮や台湾に自由を許せ。」さすれば、「英米は困るだろう。支那をはじめ世界の弱小
国は一斉に我が国に信頼の頭をさげるであろう。今この覚悟をすれば我が国は救われるし、それが唯一の道である」
と主張した。
その主張は、当時日本が支那や西洋列強と協調していくため貿易立国で行くべき、という提案であった。すなわ
ち石橋の論は、
‘朝鮮や満洲における権益を守り続けるためには隣接する地域の安定が必要になり、それには際限が
ない’と、まさに後年の「北支工作」を予想するものといえる。しかし、山東省で得た権益の返還と支那の政府機
関への日本人顧問招聘要求を除き、政府・財界を動かすには至らなかった。(この項、週刊東洋経済 2009.4.25
P74~75 による)
日本は、この会議に幣原喜重郎を全権大使として参加した。
親米派の幣原全権は、アメリカから強く迫られて日英同盟の解消に同意し、12 月 13 日、日英同盟が廃
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棄され、代わりに、日、英、米、仏四カ国の協定が成立した。これは、日本を孤立させようとするアメリ
カ外交の成果であった。
日英同盟がある限り日英両軍の艦隊と戦っても勝ち目がないと考えていたアメリカは、同同盟の廃棄によって日
本に勝てると考えて対日戦略を組み換えて、日、英、米、仏四カ国協定を提案した。その主旨は、四カ国が太平洋
上の島嶼について現状を維持すること、及び仮に紛争が生じた場合は共同で会議を開いて調整するということにあ
った。
日英同盟の廃棄についてイギリスは、対独関係からみて躊躇するものの、新興国アメリカのもの凄い興隆を見て、
アメリカとことを構えることは不可との判断から自らその廃棄を提示した。
英国外交筋と親しい幣原は、
「国際平和は二国間の同盟ではなく、国際条約秩序の尊重と国家間の善意と協調とに
より守られるべきだと信念を持っていたので、進んで日、英、米、仏四カ国条約を受諾した。
その結果アメリカは、日本を仮想敵国としたオレンジ計画を初めて整合性を持って完成させた。その戦略は、太
平洋の島々を一つ一つ奪取しながら前進していくという、後年太平洋戦争で採られた戦略であった。
日本はこの時点で、日英同盟を維持しつつアメリカとの関係を保持する国策を探るべきであった。
大正 11 年(1922 年)2 月 4 日
日、英、米、仏、伊、蘭、ベルギー、ポルトガルの8カ国に未だ政情の安定しない中華民国を加えて、
九カ国条約が締結された。主たる内容は、シナにおける主権尊重と(各国による)門戸開放、貿易の機会
均等であり、中華民国にも自助努力を求めていて、その結果、米国の門戸開放、機会均等の主張が法的根
拠を持つこととなった。
条約締結に際し、日本は米国との間に結ばれていた石井・ランシング協定の廃棄に合意した。
この「九カ国条約」は中華民国の政権が安定せず国境も定かでないため、国境を明確に定めないまま、その領土
保全を認めた。これにより、清朝に忠誠を誓ったモンゴル人、満洲人、チベット人、回教徒トルキスタン人らの種
族がその独立権を、漢人の共和国に譲渡したものと推定された(ブロンソン・レー著『満洲国出現の合理性』
)
。
同時にアメリカは、日本に対してシナ大陸からの全面撤退を迫る根拠を持つこととなった。これは、昭和 16 年 11
月、日米開戦の引き金となったハル・ノートにおいて主要な事項としてアメリカから「日米交渉継続の条件」とし
て提示された。
こうした一連の条約締結や日米間の合意の変更は全てアメリカの主導で行われ、日本は内田康哉外相及び幣原全
権に外交センスが欠けていたために、唯々諾々と従った。また、国際共産主義運動を推し進めるソ連への警戒を全
く欠いていたから、以後の国際問題への対応を難しくした。
また、中華民国北京政府のとの 2 国間協議において、最終的に幣原全権大使が譲歩し、日本は山東省
で得た利権をシナに返還し、21 カ条要求第 5 号 7 カ条の要求を放棄した=山東還付条約(同年 6 月 2 日
発効)
。この条約において、青島は自由貿易港として、外国人の自由な居住と営業が認められた。これに
より 11 年末までに日本軍の撤退、租借地及び公有財産・青島税関の返還が完了し、12 年 1 月 1 日に山
東鉄道が返還された。
併せて、満洲にある北京政府の政府機関への日本人顧問の招聘要求も取り消された(満洲における日本
権益の 99 年への延長は、北京政府の側の撤廃要求にもかかわらず維持された)
。これらにより、シナへ
の進出には大きな制約が加えられた。
なおアメリカの委員から、日清戦争後に締結された露清密約に軍事同盟があったのかを問われた顧維均全権代表
は、それを渋々認めた。しかし、これに対して日本側はそれ以上何も追求することはなかった。清国領土保全の意
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味もあった日露戦争を必死で戦っている日本の背後を清国軍が突いてくる可能性があったための条約であったに
もかかわらず、である。
さらに同会議において、日、英、米、仏、伊の5カ国の間で海軍主力艦の制限を定めた軍縮条約が締結
された。
主力艦の保有比率は総排水量で英・米の各 5 に対し、日本は 3、仏・伊 1.67 とされた。
これにより、日本は八八艦隊計画(戦艦 8 隻、巡洋艦 8 隻を基幹とする海軍建設)の最終段階におい
て艦船の建造計画を阻止された。イギリスも大戦による財政疲弊の中でアメリカとの対等軍備に甘んじ
るという屈辱を味わわされた。
シベリア出兵の失敗から反軍ムードにあった国民は、これを歓迎した。一方、完成間近の大戦艦数隻を
スクラップにせざるを得なかった海軍艦隊派の恨みは深かった。しかし、日本政府には八八艦隊を整備
するに耐えられる財政的余裕は全くなかった。
加藤友三郎首席全権(海軍大臣)は、もし八八艦隊ができあがった時点では、維持費も合わせると全国家予算を
注ぎ込んでも間に合わないことがわかっていた。そこで国家財政の健全性からみて軍縮の必要性を痛感し、条約に
調印した。ワシントン会議に出席した列国の代表を見て「陸海軍大臣は現役武官でなければ」という考えを改めた。
軍縮条約締結を機に、国内では嫌軍の風潮が一層高まった。国民党の西村丹次郎が、陸海軍大臣を軍出
身者以外からも登用する議案を提出。→3 月 6 日満場一致で可決するも、高橋是清首相も次の加藤友三郎
首相も軍の抵抗により実現できなかった。
軍縮条約の締結により、海軍費は 5 億円弱(国家予算の3~4割)から 2 億 8 千万円(大正 12 年)に
減らした。そのため建造中の軍艦を廃棄処分にするほどであった。
その後、保有軍艦の数量に枠をはめられた海軍においては、その戦術が、以降、海戦において味方の損害を1隻
でも少なくし、相手の軍艦の数を減らす、という発想につながっていった。
陸軍に対しては、11 年 2 月の山縣有朋の死以来、国民の間に軍批判の声が高まるようになり、海軍の
軍縮成功を観て、陸軍にも軍縮を求めた。
11 年 7 月
山梨半造陸相が、将校 2,268 人、准士官以下 57,300 人(5 個師団相当)
、馬匹約 13,400 頭を減らして
3,600 万円(15%)を節減。山梨は、短期決戦思想を前提とした常備師団数を維持しながら、軍備整理を
行った。ただし、実行された近代化は、13 年間で書く中隊に 6 挺の軽機関銃を装備するというものに過
ぎなかった。
(その後の軍縮)
大正 13 年に成立した護憲三派連合による加藤高明内閣において、宇垣一成陸相は 14 年に、10 個飛行
中隊の増設、各 2 個戦車隊・高射砲隊の新設、軍用科学研究設備の改善などを目的として、大隈重信政権
時代に増やした師団数(20 個師団)を 4 個師団も減らすという大規模な軍縮を行った。
これには、軍縮に名を借りた陸軍の若返りの側面もあったが、出世の道を遮られ、大尉や少佐で予備役
に編入された軍人たち激しく反発した。整理を免れた軍人も大戦後のインフレのなか生活は苦しく、士
気は沈滞した。青年将校たちも、軍縮一辺倒の流れの中で肩身の狭い思いをし、マルクス主義文献に目を
通すものが現れる一方、一部の若手将校(西田税など…)はソ連の誕生やシナ革命に危機感を持って右翼
思想家(北一輝など)に感化され、グループをつくって国家改造を目指した。
肝心の陸軍の近代化は、国家財政の窮迫化により遅々として進まず、国際的には大きな後れをとること
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になった。
この後、軍政改革思想は、宇垣の後任の南次郎陸相に引き継がれ、永田鉄山ら(統制派)に影響を与え
ていった。一方現状維持派は荒木貞夫中将や真崎甚三郎ら(皇道派)に継承された。この二つの思想の対
立は、陸軍の国防政策と軍備から一貫した継続性を奪い、混乱させ、やがて二・二・六事件のきっかけと
もなっていった。
このように、陸軍においては組織自体が方向を見失い、迷走を始めることとなった。そして強力な政治
的リーダーシップを持つ指導者が現れないまま、欠陥を持った組織(陸軍・参謀本部)が歴史の主役とな
っていった。
(黒野耐「参謀本部と陸軍大学校」より)
大正 12 年(1923 年)2 月
帝国国防方針再改定。
11 年 2 月に終了したワシントン会議の結果を受けての方針変更であったが、国家として統一した国家
戦略を明示することはできなかった。
陸軍は対数国戦争論を主張したが敗れ、海軍の主張どおり米国を想定敵国とした。しかし陸軍において
は、ソ連が主要な想定敵国であるという考えに変化はなく、したがって参謀養成の陸軍大学校における
教育内容も従前どおりであった。それが対米戦を前提とした内容に変わったのは、対米開戦 2 年後の昭
和 18 年になってからのことであった。
同年
陸軍大学校の任務が変更され、高等用兵に関する教育だけでなく、学術研究も行うこととされた。しか
し、内容的には変化がなく、戦争の形態や様相が変化したことに対応した政略や戦略の研究には目が向
けられなかった。
また、1 年間自由に研究し、論文を提出することとする専攻科が設置された(定員 10 名)
。その目的は
将軍となる人材を養成することにあったが、学生を指導する適切な教員を配置できないという問題があ
った。その後、この専攻科は昭和 7 年に中央部の方針により廃止された。修了者の成績を考慮して高級
指導者・参謀に任命する制度を確立できなかったからであった。
(コミンテルンの策動と日本の対応)
大正 11 年(1922 年)7 月
秘密裡に日本共産党が結成され、コミンテルン第 4 回世界大会において加入が認められた。
同党の正式名称は「コミンテルン日本支部日本共産党」で、コミンテルン本部との関係は民主集中制の
組織原則で結ばれ、コミンテルンの方針には絶対服従とされており、日本に共産主義革命を起こすこと
を目的とした。
コミンテルンは早速、世界共産主義革命をめざす一環として、生まれたばかりの日本共産党に対し、綱
領の草案として、
「天皇制」打倒などを内容とした「22 年テーゼ」を発した。
「22 年テーゼ」における主な項目
天皇制の廃止
貴族院の廃止
現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止
労働者の武装
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朝鮮、シナ、台湾、樺太からの軍隊の撤退
天皇及び大地主の土地の没収とその国有化
この年の 12 月ロシアでは、ソビエト政府が、これを発展継承した「ソビエト社会主義連邦共和国(ソ
連)
」の成立を宣言した。
12 月
孫文が、ソ連が派遣したヨッフェと会談し、ソ連の援助を受け入れる秘密協定を結ぶ。→翌月に「孫
文・ヨッフェ宣言」を発表し、
「国民党が掲げる民生主義と共産主義が相いれないというのは誤りである」
とした。以降、孫文は指導者の受け入れ等、容共路線をとったため、シナにおいて共産主義並びにとくに
日本を対象とした排外主義思想が一気に広まった。
大正 12 年(1923 年)3 月
孫文の指導により前月、成立した広東・国民党政府が「一切の不平等条約等を解消する」ことを標榜し
て、21 カ条条約残余の条項全部の破棄をするよう要求してくる。日本政府はこれを拒否したが、シナ全
土に「旅順、大連を取り戻せ」と要求するデモが広がった。
このデモは従来の「排日」から「抗日」をスローガンとしていた。この抗日運動はコミンテルン工作員に指導さ
れたもので、以降、シナ各政権の指導者は「抗日」を掲げないと、支持を得られない風潮になっていった。
孫文もロシア革命に大きな関心を抱き、1917 年のカラハン「対シ宣言」に強い影響を受けて、連ソ容共に向けて
走り出していた。同時に日本の 21 カ条要求を批判するようになった。
1 月に上海でコミンテルン代表ヨッフェとの間に共同宣言を出し、この年の 8 月には、近代的軍隊をつくるべく
蒋介石をモスクワに派遣していた。また、11 月に支援者である犬養毅あての手紙には「ソビエト主義とは、ほかで
もない孔子の説くところの『大同』である。大同の世界は理想社会ではないか。日本もソビエトと同盟せよ」とま
で書いて犬養を困惑させた。
4月
大正 6 年締結の石井・ランシング協定が廃棄される。これは、ワシントン会議で締結された九カ国条
約を受けたもの。
9月1日
正午前、関東大震災が起きる(M7.9)。折からの強風に煽られて大火災が起き、被災者数 190 万人、死
者・行方不明 10 万5千人、負傷者 11 万人弱で、死者のうち 9 万人以上は火災による焼死者であった。建
物の被害も甚大で、全壊 12 万戸、半壊 10 万 2 千戸、全焼 21 万 2 千戸に及び、被害総額は当時の国家
予算の 4~7 倍に当たる 55~100 億円に達するという大きな被害を蒙った。
当時の国家財政規模は 20 億円、日銀券発行額は 15 億円に過ぎなかったから、被害の甚大さから数年
間は、日本は外国のことにかかわる余裕がなかった。また、昭和恐慌の遠因ともなった。
折しも前月 24 日に加藤友三郎総理大臣が急逝した直後の災害であったが、震災の翌日成立した内閣に
おいて山本権兵衛首相は内務大臣に後藤新平を起用した。後藤は、外債を発行するなどして復興に努め、
比較的短期間で復興を果たした(東京市も市債を発行)
。この外債を完全に返済したのは大東亜戦争敗戦
後のことだった。
その日の夕刻から「朝鮮人が武器を持って暴動を起こし、井戸に毒を入れてまわるらしい」といううわさが流れ
だし、日本人が自警団を結成、朝鮮人と見るや集団で撲殺するなどした。その被害者は約 6 千人を超えると伝えら
れているが、近年以下のように、それは成り立たないという新説が提示された。
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東京及びその周辺の朝鮮人居住者:9,800 人。政府が保護・収容した朝鮮人:9,797 人、殺害されたと確認した朝
鮮人:233 人。震災による直接の罹災死亡者:1,900 人(日本人罹災者との同比率での計算による)。
したがって虐殺された朝鮮人は推定 800 人前後となる(工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」
』
。
なお、4 年前の三・一運動に端を発して、国内においても一部朝鮮人と日本人社会主義思想家らが革命を起こそう
という動きがあり、その決起はその年の 11 月 27 日に予定されていた。大震災が起こったため、彼らはその混乱に
乗じようとしていたとの説が根強くある。事実、朝鮮人による集団暴行の事実を示す記事や目撃談も数多くあり、
したがって自警団はありもしない流言飛語で動いていたわけではなく、まさに自警行為だったとの指摘がある。
日本は大戦前の金本位制を復活していないただ一つの国であったため、円が投機の対象となり、大震災
前の対ドル平価 100 円につき 49 ドルであったのが、翌年には 38 ドルにまで下がった。
12 月 27 日
虎ノ門事件起きる。帝国議会開院式に臨席するため御召自動車内の皇太子(摂政)を 24 歳の難波大助
がステッキに仕込んだ散弾銃で狙撃した。皇太子は難を逃れたが、同乗の入江為守東宮侍従長が飛び散
ったガラス片により軽傷を負った。皇太子はその後、平然と開院式に臨み、何事もなかったように振る舞
ったと言われる(宮内大臣牧野伸顕日記)
。
犯人の難波大助は共産主義者で、その父親は現職の衆議院議員であった。動機は、関東大震災の混乱に
乗じて惨殺された大杉栄、無政府主義者、共産主義者らへの弾圧に憤慨したことで、難波大助は父親とも
反目していた。
翌 13 年 11 月 13 日に死刑判決を受けたとき、彼は「日本共産党万歳、ソビエト共和国万歳」と叫び、2 日後に
処刑された。
恐懼した山本権兵衛首相はその日の内に全閣僚の辞表を提出し、皇太子の優諚にもかかわらず間もな
く総辞職した。皇太子の意思から離れて警視総監、警視庁警務部長が懲戒免職となるなど関係者総ざん
げの事態となった。
陸軍内ではこの事件を機に上原勇作元参謀総長と宇垣一成陸軍次官とが対立し、以降、上原系は皇道派
(荒木貞夫、真崎甚三郎…)と呼ばれるグループを形成するようになった。→下剋上の気風が醸成され
る。
大正 13 年(1924 年)
1月7日
清浦奎吾内閣が成立。貴族院議長であった清浦は閣僚全員を貴族院から選んだため、政党から反発を
買い、野党の憲政会や立憲政友会が第 2 次護憲運動を起こしたため、同内閣は 6 月 10 日、総辞職に追い
込まれた。その後には立憲政友会の加藤高明が首相となった。
1 月 20 日
シナでは、広東で開催された国民党第一次全国代表大会において、孫文が「連ソ」
「容共」
「扶助工農」
の方針を明示した(第一次国共合作)
。これにより、共産党員は個人として国民党に加入し、国民党員と
しての活動が認められることとなった。
日本人支援者から「ホラ吹きだ」と見放されていた孫文に、コミンテルンから派遣されたマーリンがアプローチ
し、孫文が無節操に応じた結果であった。
4月
アメリカ両院で新移民法が可決される。1890 年を基準年として各国からの移民数が定められたが、日
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本だけは帰化不能外国人とされ、移民許容枠から排除された。
従来、シナ人、インド人などアジア人は「帰化不能外国人」として移住を認められていなかった。日本人だけは
列強扱いで例外とされていた。しかし、法案提出時に排日派の議員が上記条項を潜り込ませた。埴原駐米大使は「こ
の法案が提出されれば、日米間に重大なる結果を及ぼす」との書簡を米政府あて送ったところ、議会の反日派が「恫
喝だ」と騒ぎ立て、議会通過後、クーリッジ大統領がやむなく署名したという経緯があった。
これに対し国内では抗議活動が高まった。クーリッジ大統領が署名をした日の 5 日後(5 月 31 日)に、
東京の米国大使館隣地で男が抗議文を残して割腹自殺し、8 日後には東京で頭山満らによる「国民葬」が
執り行われ、その後、米国政府に対する抗議デモが起きた。
さらに新移民法が施行された 7 月には主要新聞社 19 社が抗議の宣言を出し、東京で開催された「対米
国民大会」には 1 万人余の民衆が集まり、
“対米開戦”が叫ばれるなど反米機運が一気に高まった。
この反米機運は、5 年前の国際連盟規約への人種差別撤廃条項制定提案がアメリカによって退けられて以来のも
のであり、日本人移民差別によってピークに達した。
昭和天皇は後年、
“
(先の大戦の)原因を尋ねれば、遠く第 1 次大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の
主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し、加州移民拒否のごときは日本国民
を憤慨させるに十分なものである。
・・・かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、これを抑え
るのは容易なものではない”と述懐された(昭和天皇独白録)
。新渡戸稲造は、アメリカ人を妻に持ちながら「二度
とアメリカの地を踏まぬ」と憤慨した。
しかし、アメリカに追随して日本人移民を排除する動きは他国にも広まり、オーストラリアが白豪主義
をとった他、カナダやニュージーランドが日本人移民を拒否するようになった。
こうして人口増大が激しいが、資源に乏しい日本としては、米英のブロック経済に対抗して経済の自立を図るた
めにも、移民の面を考えてもおのずと目は満洲に向いていった。
6 月 11 日
護憲三派の支持を受けて加藤高明内閣が成立。普通選挙法を成立させて民主的議会政治が定着し、以
来、内閣が総辞職すると野党第一党の党首に大命が下るという「憲政の常道」が慣例化した=(戦前にお
ける)日本型の民主政治。
大正 14 年(1925 年)4 月 22 日
治安維持法公布。この法律は、同年 1 月に政府がソビエト連邦政府を国家として承認したこと、並び
にレーニンの呼びかけで発足したコミンテルンが 11 年(1922 年)12 月に 22 年テーゼ(日本共産党に
対する指導理念で、天皇を君主とする国家体制の打倒及び私有財産制の否定を掲げた)を発出したこと
を受けて、国内活動家が共産主義革命を起こそうとするのを防止せんがために制定されたもので、最高
刑は懲役 10 年であった。
なお、この年以降 10 数年間、共産主義の外国文献は極めて数多く翻訳・出版された。その状況は「神田の本屋街
で、平積みの新刊本は皆、マルクス、レーニンばかり」
(清水幾太郎)というほどであった。このため、共産主義に
関する知識は、学界、官界、軍のインテリたちの間に蔓延し、農民や都市の労働者の間にも広まった。
とくに 29 年世界大恐慌以降は、日本も極度の不況に陥り、その惨状を体験したインテリの多くは「ソ連型の計画
経済のみが日本経済を救済する」と信じるようになった。
10 月
北京で開催された列国関税会議において、日本代表の幣原外相はシナの対日感情の改善と友好関係の
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推進を目的として「中華民国北京政府の関税自主権を容認する」と宣言した。この発言は、列国が協調し
て対処するとしていたワシントン体制の精神に反するものと受け取られ、同体制がシナをめぐって崩壊
していく重大な起点となった。幣原外相は国際協調の真の意義を理解していなかった。
この年、5 月に上海で起こった 5.30 事件に端を発し、日系、英系紡績工場でゼネストが起こり、以降反日、反英
の労働運動がシナ沿岸都市に波及していた。そのような状況下、北京政府に対抗し、7 月に汪兆銘が国民党主席と
なって広東で中華民国国民政府が組織されていた。幣原外相の宣言は混とんとしたシナの政治状況の中での「抜け
駆け」的独善行為だとみなされたのである。
(昭和)
(昭和初頭の日本とシナ)
1 日本
関東大震災後、大不況に見舞われる中、与党の憲政会と野党の立憲政友会とが政争に明け暮れ、
政治は混迷の度を増していた。
投機の対象となって下がったままであった円が大正 15 年に急騰し、8 月には平価 100 円につき
48 ドルまで値上がりした。このため回復しかけていた国際収支は急激に悪化し、不況から脱する
ことがいよいよ困難になった。
2 シナ
シナでは各地に軍閥が割拠する中、大正 14 年 7 月、広東で汪兆銘が中華民国国民政府を樹立。
15 年 7 月、蒋介石が「反帝・反封建」を目的とした国民党革命軍を創設(前年、広東で開催され
た国民党一全大会の決定に基づくもの)
。9~11 月にかけて、漢口、漢陽、九江、南昌を占領。翌
年1月蒋介石が国民党革命軍総司令官となり、北洋軍閥を討伐する目的の北伐軍の主力となった。
汪兆銘を首班とする国民政府は武漢に移転した。
一方北洋軍閥は、北伐軍との対抗上、同年 11 月大同団結し、張作霖(奉天出身の元馬賊)を安
国軍総司令に推戴した。→北京で中華民国軍政府樹立、張作霖は北方安国軍大元帥に就任。
なお、当時のシナにおいては、兵士の質が悪く、軍閥の私兵はもちろん、国民党革命軍といえど
も匪賊と変わらぬ存在であり、民衆への略奪や暴行は日常茶飯事だった。
(南京事件と日本の軟弱外交)
昭和 2 年(1927 年)3 月 24 日
北伐を始めた国民党革命軍が南京を占領し、租界を武力接収。このとき、同革命軍が最大の標的にした
のはイギリスで、同国領事館をはじめ日・米の領事館への襲撃を手始めに各国租界の商店、企業などを焼
き討ちし、略奪し、居留民を暴行、虐殺した。イギリス人が 3 名殺された他、米伊仏デンマークの各国人
も 1 名殺された(第 2 次南京事件)
。
日本に対しては、国民革命軍約 200 人が日本領事館(領事:森岡正平)を襲った。領事館では防備兵
力が少ないことを理由に無抵抗主義で対処した。揚子江に停泊していた日本の駆逐艦から救援のため城
内に向かった荒木大尉以下水兵 12 名も、領事・森岡正平の求めにより城門で武装解除された。
このため国民革命軍兵士は館内に乱入し、警察署長木村三畩の所持品を奪った後、左腕に貫通銃創を負
わせ、居合わせた陸軍武官根本博少佐に重傷を負わせた後、略奪の限りをつくした。館内の物品を略奪は
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勿論、男女の別なく衣服を奪い、所持品を奪った。さらに、病気で寝ていた領事森岡正平の布団、寝巻ま
で剥いでいった。
また、
3次にわたる襲撃により森岡領事夫人はじめ 27 人もの女性が薪炭庫で輪姦された。荒木大尉は、
責任をとって自決した。
もちろん森岡領事は本国に報告したが、当時の外務省広報では、
「わが在留婦女にして凌辱を受けたる
もの一名もなし」と書かれてあった。
この事件に怒ったイギリスの司令官は日本、アメリカの司令官と緊急会議を開き、報復攻撃を呼び掛け
た。アメリカはこれに応じたが幣原外相は断り、海軍に対し「シナ側を刺激するな」との訓令を発した。
3 月 25 日
揚子江に停泊していた英米両国の艦隊が報復砲撃し、シナ側に多大の犠牲者を出した。しかし、日本の
駆逐艦は、幣原外相からの命により英米両艦隊の応戦に参加しなかった。
揚子江においても、国民革命軍が日清汽船の客船に乱入してこれを破壊し、日本の駆逐艦を目標として
射撃したため戦死者 1 名が出たが、なお、日本の駆逐艦は応戦しなかった。この後、日本の軍艦は英米両
国との協調砲撃に加わらず居留民を見捨てて揚子江を下流に向け逃げ帰った。
上海の矢田総領事はこの事件について 3 月 28 日、蒋介石総司令に抗議をし、日本政府は 11 日、英米
仏伊各国とともに武漢国民政府に謝罪と責任者の処罰を要求したけれども、一方的に居留民の引き上げ
を決めた。これは、支那共産党など反日勢力から見れば「弱腰」に映り、シナの革命運動の矛先は一気に
日本へと集中していった。
この事件は、昭和金融恐慌のさなかに起きた。コミンテルン 1926 年 12 月決議に基づいて、武漢政府のロシア人
顧問ボロジンを通じて秘密裡に国民革命軍江右軍の共産党員林祖涵(第六軍政治部主任)および李富春(第二軍同)
に指示され、総指揮・程潜をも抱き込んで引き起こされた事件と見られている。その目的は、あえて外国の干渉を
誘って外国軍が蒋介石軍を倒すことにより、共産党軍が政権を奪い取ることにあった。
事件で被害を受けた英国は背後にコミンテルンありとして、北京でも同様の事件が起きることを憂慮して同地の
安国軍総司令部に厳重かつ然るべき措置をとるよう勧告した。
4 月 6 日、北京を支配していた張作霖が、英国と同じ疑いからソ連大使館を対象に搜索を行なって大量の文書を
押収するとともに、ソ連人 23 人を含む 74 人を逮捕した。このとき、ソ連大使館内に潜んでいた共産党員・李大釗
(五・四運動のリーダーの一人)を捉え、直ちに銃殺した。
同総司令部は、押収された極秘文書の中に次のような内容の「訓令」があったと発表した。
①
外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令
②
短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること
③
在留日本人への危害を控えること
④
排外宣伝は反英運動を建前とすべきである
5 月 27 日、英国もロンドンのソ連通商代表部を捜索し、文書を押収した後、対ソ国交を断絶した。断固たる措置
をとったイギリスやアメリカの目から見れば、対シ宥和政策をとった日本の行動は、自分だけいい子になって権益
を独り占めしようとたくらんでいるように見えた。この事件後、両国は密かに共同して対シ接近を図り、シナを反
日に駆り立てるよう画策し始めるようになった。
4月3日
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漢口でも、武器を持った民衆が日本租界を襲う事件が起きた。発端は、シナ人から暴行を受けた日本人
水兵が日本料理店に逃げ込んだところ、シナ人暴徒が日本料理店までも破壊し尽した。その上、
「日本人
水兵がシナ人を殺した」というデマが流され、数千のシナ人暴徒が日本租界を襲撃し、産後間もない日本
人女性を暴行死させたり、掠奪を行ったりした。日本側は陸戦隊を出動させてようやく鎮圧した。
これは、共産主義者に扇動され、租界回収の目的を持った暴動であった。
蒋介石は共産党勢力に危惧を抱き、
4 月 12 日、
上海で反共クーデターを起こして共産党員や労働者を大量虐殺し、
翌月、南京で国民党革命軍政府=南京政府を樹立した。
広東から移転していた共産党色の強い武漢政府も、国共合作をした共産党の企図するものが共産革命であること
に気付いて、7月にボロジン以下 140 名に及ぶソ連の政治・軍事顧問を解雇追放した。
反共の張作霖は、6 月に北京で中華民国軍政府を組織し、陸海軍大元帥に就任した。出身地満洲に対するその支配
は、過酷な税制と紙幣の乱発によって軍備の増強に専念するもので、また、馬賊の跳梁などによって、満洲の人々
は塗炭の苦しみの中に生きざるをえなかった。
4 月 18 日
蒋介石率いる国民革命軍が北上の動きをみせたことから、イギリス公使が居留民保護のために 2 個師
団増派を提議したが、本国から融和策を指示されていた芳沢公使は、いまだその必要がないと断った。
英米両国への協調を拒み事件の責任追及を行わなかった幣原外相は、日本国内で「軟弱外交」との批判を受けた
だけでなく、英米両国からも「日中の陰結」を疑われて日本は孤立した。
この年のクリスマスに英国が BBC 放送で対支政策の変更を発表したのを皮切りに、以降英米両国は対中政策を
転換し、日本以上の対支宥和政策をとるようになり、シナでの日本の孤立は深まった。
政友会総裁・元陸軍大将の田中義一は、
「幣原のような軟弱外交はダメだ」として若槻礼次郎民政党内閣を攻撃し
た。
南京の国民党革命軍政府は日本が事件への責任追及を行わなかったことから、かえって日本を侮り、反英から反
日へと政策を変え、ナショナリズムの高揚を図った。=シナには寛大な態度で対することは通用しない。
したがって日本は、シナの対外排斥運動がいずれ山東半島、北京そして満洲へと向かうことを予測して、英米両
国と深く提携し、断固居留民の安全のために報復をするべきであった。
3 年間に及ぶ幣原外相の「対中宥和外交とその硬直した姿勢」を見て、陸軍の中には、
「もはや内閣の意向に反し
てでも満洲における権益を守らねば」という機運を一挙に固めてしまうこととなった。また、国民の間にも国民党
革命軍政府や北京政府を懲罰すべきという雰囲気が醸成され、軍の行動を支えることともなった。
4月 20 日
金融恐慌への対処を政友会から指弾されて若槻内閣が総辞職。後任に政友会総裁・元軍人の田中義一が
首相に就任、従来の幣原外交路線を改めるべく自ら外相も兼ねた。
5 月 27 日
田中内閣が外務省、軍関係者、シナ駐在の公使・総領事などを集め、東三省の日本人居留民約 2 万人を
保護する名目で陸海軍を派兵することを決定した(第 1 次山東出兵)。これは、蒋介石の北伐軍が山東省
済南に迫ったためであった。
陸軍中央部は翌日、在満の歩兵第 33 旅団を派遣することとし、6 月 1 日、上陸を完了した。
これは現地居留民保護を目的とし、英米仏伊諸国に説明をしたうえでの出兵であり、各国もシナ民族主
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義の伸長を恐れて歓迎した。ただし、英米などは山東省以北に自国の権益が少なかったため、列国支持に
よる日本一国での出兵となった。これは幣原軟弱外交のツケを払わされたものとなった。
その直前、南京、漢口での日本人を目標とした事件があったため、山東省において南京事件のような事態が再発
するかもしれないとの恐れがあった。
日本の出兵は、張作霖軍(北京)、蒋介石の国民党政府(南京)、武漢の3政府にも理由を通達した上でのことで
あったが、3政府ともこれに抗議した。その後、北伐軍は山東省に入ることなく張作霖軍と決戦を挑み(7 月末~8
月初め)
、大敗して撤兵したため、日本も兵を引いた(9 月初め)
。
同日の会議において、南京、漢口事件の再発の場合を予測し、その対応策を決めた。この会議は「東方
会議」と呼ばれた。その結果、東三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)のシナからの分離を主張した外務次
官・森恪の満蒙政策強硬論が色濃く反映された結論が出された。
7月8日
田中内閣が閣議で在満第 10 師団の残余と第 14 師団の一部他の増派を決定。その理由は、北伐の南軍
と張作霖の北軍との軍事衝突の恐れが強くなり、歩兵第 33 旅団が済南に進出できなくなる状勢に至った
からであった。増援軍は同月 12 日、青島に上陸した。
7 月7日
東方会議の結果まとめられた「対支政策要綱」が発表される。
第 5 条では「自衛のためには武力行使を辞さない」
、第 7 条では「支那本土と満蒙とは自ずから趣を異
にする」と、東三省があたかもシナから独立しているかのような表現をとり、日本は満蒙に「特殊権益が
ある」
、第 8 条では動乱が満蒙に波及し日本の権益が侵害される恐れのあるときは「機を逸せず適当の措
置に出づるの覚悟あるを要す」とあり、満蒙に積極的に関わっていくという政策であった。
この満蒙積極政策が、後の軍閥政治のスタートとなった。
民間でも北一輝「日本改造法案大綱」や大川周明が理論的主柱となって、軍人らに影響を与えた。
「日本改造法案大綱」は、レーニンのクーデター理論を内包し、国際的現状支配勢力の打倒を叫び、反資本主義
的内容を持ったものであった。北の思想は、天皇を奉るとはいうものの私有財産制の否定、国家による市場介入の
容認、暴力による革命を唱えるなど共産主義と変わらぬものであり、
「偽装右翼」であった。
大川周明は「日本主義」の立場から八紘一宇、万民平等の精神革命並びに世界の現存秩序に対立して資本主義的
経済・文化への反抗を説いた。
北と大川によって少壮青年将校の錦旗革命論が思想的に信念づけられていくこととなった。
マスコミがこの「対支政策要綱」を誇大に伝えたため、以降に起こった「田中メモランダム」の対日陰
謀に繋がるとともに、前月の(第一次)山東出兵とも相まって、シナにおいて反日運動が起こった。
満蒙積極政策に異議を唱えていた中野正剛は、後にその著「田中外交の惨敗」
(昭和 3 年 12 月発行)の中で、次
のように書いた。
「今や日支両国の関係は相互の国民的憎悪にまで深入りしている。そもそも田中内閣の現代支那に関する認識不
足と政治道徳観念の欠乏とに職由する」
「第二次山東出兵が支那の国民思潮の動きと相反発することを認識した。故にその収拾如何によりては、それが
重大なる排日運動として展開すべき危険性あることを力説した」
「(支那)国民党の運動は支那の均斉的環境が生んだ当然の歴史的発展である…」
7 月末~8 月初め
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シナで北伐の南軍と北軍が衝突し、南軍が大敗。その責任をとって、南軍を率いる蒋介石が下野し、北
伐の見込みが立たなくなった。これにより、日本は出兵の目的が失われた。
8 月 24 日
閣議で山東省派遣日本軍の撤兵を決定し、9 月初め日本軍の撤兵を完了した。
(当時のシナ大陸での動き)
8月
済南を迂回して 7 月末から張作霖軍に挑んでいた北伐軍が大敗を喫し撤兵。8 月 13
日、北伐の見込みが立たなくなったことから蒋介石が下野。
9月
南京国民党政府と武漢政府が合同。これにより、第一次国共合作が終りを告げた。
以降、国民党に対抗することが困難になった共産党は、国民政府内部に入り込んで政権の内側
から赤化する戦略を諦め、
「紅軍」の建軍を目標に農民・労働者中心に勢力拡大を図り、広東を
始め各地に「ソビエト区」の建設を進めていった。
10 月 4 日
南京政府が北京政府討伐を発令。同月、毛沢東が井崗山にソビエト政府を樹立。
10 月
満鉄総裁に特任された山本条太郎が外相代理として張作霖と直接交渉し、
「山本・張作霖密約」を締結。
満蒙における 5 本の鉄道の建設を満鉄が請負い、その代金は借款にする、というもの。5 本の鉄道は、対
露作戦発生の場合、朝鮮東北部及び南満洲から北満洲のハルピン及びチチハルに向かって作戦を実行す
るための戦略鉄道であった。
なお、この密約には、満鉄併行線敷設禁止区域の拡大、日満経済同盟及び攻守同盟も含まれていた。
11 月 5 日
当時下野の後、来日していた蒋介石が、北伐再開時における日本政府の支援をとりつけるため田中首相
に面会。このとき蒋介石は、日本が蒋介石政権を支援してくれるなら見返りとして、
「満州における日本
の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証する(=事実上の満州国建国承認)」と約束した。
しかし、田中首相は「シナの内部分裂の状況から見て統一は難しいのではないか」
「日本が関心を持っ
ているのは北伐ではなく満州での治安維持である」と述べ、蒋介石に北伐を急がず、長江以南を固めるよ
う勧めた。日本はシナの内戦が満洲にまで及び、日露戦争で得た南満州鉄道などの権益が損なわれるこ
とを恐れていたからである。
蒋介石は上記発言を行った田中首相に対して恨みを残し、東方会議の目的についてもこれを邪推し、国
際的な悪宣伝を行うようになっていった。
(⇒「田中メモランダム」)
帰国後、蒋介石は翌年 1 月に総司令に復帰し、4 月には北伐を再開した。
12 月
「日中の陰結」を疑ったイギリスが「クリスマス・メッセージ」を発し、中国政策の大転換を図り、日
本以上のシナへの宥和に踏み切る。これは、過激化するシナのナショナリズムの標的になることを避け
るためであったが、日本政府はそれに気づかなかった。
田中首相は、イギリスとの共同出兵など列国提携の再建をめざしたが、“時すでに遅し”だった。
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(昭和金融恐慌)
昭和 2(1927 年)年 1 月
震災手形(鈴木商店などの政商が振り出した不良債権が、関東大震災後、日銀により「震災手形」とし
て認められていたが、未済額が 2 億円余という巨額に達していた)を処理する法案が議会に出され、議
会は紛糾した。
3 月 14 日
片岡蔵相失言→東京渡辺銀行が休業に追い込まれ、取り付け騒ぎが他銀行にも波及した。いわゆる昭和
金融恐慌の始まりである。
国民から非難を浴びている鈴木商店の資金繰りも悪化する一方で(その後、4 月 2 日に倒産)
、同社に
多額の融資を行っている台湾銀行の資金繰りも行き詰り、これらから、4 月 8 日第六十五銀行が休業し
た。
4 月 14 日
南京事件への対応が軟弱だと囂々の非難を浴びていた若槻首相は、片岡蔵相の失言「本日(3 月 14 日)
東京渡辺銀行が破たんした」に起因した取り付け騒ぎの責任を追及されたことから、経営危機に陥って
いた台湾銀行を救済しようと緊急勅令を奏請した。
4 月 17 日
天皇の諮問を受けた枢密院が緊急勅令案を否決したため、若槻内閣が総辞職。これにより、台湾銀行は
翌 18 日に休業に追い込まれ、その余波で休業する銀行が続出して猛烈な取り付け騒ぎが起こり、株式相
場も大暴落、国民はパニック状態に陥った。
4 月 20 日
田中義一内閣が発足。金融恐慌対策を担う大蔵大臣には、既に政界を引退していた高橋是清を起用し
た。
3 度目の大蔵大臣就任を引き受けた高橋蔵相は内閣発足の翌日、21 日間のモラトリアムを緊急発令す
るとともに、18 日から休業していた台湾銀行に対し国家予算の半分に及ぶ総額 5 億円もの特融をもって
救済する、という非常手段によって見事に金融恐慌の幕を閉じさせ、就任 45 日後の 6 月 2 日に蔵相を辞
任した。
(コミンテルンの影響)
田中義一首相は、就任後、各省次官や府県知事らを次々に更迭した。それには党利党略や情実人事がか
らんでいた。3 年 5 月には実業家として悪評も多かった久原房之助(日産コンツェルン創始者。衆院当選
1 回)通信相に抜擢した。これには批判が多く、田中政権への不信が高まった。
一方で、一旦解党した日本共産党が再興され、2年 6 月、新執行部の徳田球一、福本和夫らがモスクワ
を訪れた。
彼らに対し、コミンテルン本部は 27 年テーゼと呼ばれる指令を与えた。徳田らが持ち帰ったテーゼの
内容は、①天皇制の廃止、②天皇、地主、政府及び寺社の領地の没収、と言った、極めて現実離れして攻
撃性の高いものであった。
彼らは帰国後、
「ブルジョア政府を転覆してプロレタリア独裁政権を樹立する」という目標を掲げ、労
働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟を主力として猛烈な非合法革命活動を展開し始め
69
た。そのため、党の大物には離党するものが相次ぐほどであった(堺利彦、荒畑寒村、山川均など)
。
当時は昭和金融恐慌の最中であり、巷の書店はマルキシズム関係の書籍が溢れていた。それらの書籍は
改造社が出版した。同社の山本実彦社長は大正 10 年代に編集方針を社会主義へと改め、共産主義信奉者
を社員に採用し、大森義太郎、向坂逸郎ら共産主義者に執筆を依頼した。昭和 3 年には、
「マルクス・エ
ンゲルス全集」を公刊した。
その影響を受けて学生運動も左傾化し、これと連携してシナ人留学生の間にもマルクス主義を研究す
る社会科学運動がはやるようになった。
3 年(1928 年)3 月 15 日
内務省が共産党関係者の一斉検挙を行った。起訴収容されたものは 530 名にのぼり、取り調べを受け
た者は 5 千名以上であった。
この検挙は社会に大きな衝撃を与えたが、徳田ら共産党関係者は直ちに党の再建闘争を始めた。
6 月 29 日
田中内閣は、治安維持法の改正を緊急勅令という形で枢密院会議に諮った。会議では反対意見が噴出し
たが、結局法抵触者に対する最高刑を死刑に改めるという政府案は賛成多数で可決された。
しかし、実際には昭和 20 年に同法が廃止されるまで、死刑に処された者は一人もいなかった。
逆に、検挙に行った警官が共産党員の所持していたピストルに撃たれて死亡ないし重傷を負ったケースは少なく
とも 50 人を下らないと言われている。
10 月
東京で「シナ共産党日本特別支部」が結成され、本国の共産党の指示の下、対日工作を担当した。
4 年(1929 年)4 月 16 日
共産党関係者の第 2 次一斉検挙。290 余名が起訴された。→共産党関係者による執拗な党再建運動に
対し、翌 5 年 2 月から半年にわたって第 3 次大検挙。400 名以上が逮捕された。けれども共産党再建の
運動が途絶えることはなかった。
→以降、共産党関係者への弾圧が続けられ、大量の学生、青年、無産者階級の指導者が逮捕されたが、
多くは獄中で「転向」した。その数は昭和 10 年時点で約 6 万人と言われた。彼らは、表向き「転向」し
たとはいうものの、その後、中央官庁や民間会社等の第一線で活躍し、
「現状打破、革新、資本主義打倒、
進歩的政策」などを意識して社会活動を行っていた。
(済南事件)
昭和 3 年(1928 年)4 月 7 日
1 月に国民党革命軍総司令官に復した蒋介石が、約百万の軍隊で広州を出発し、北伐を再開(第2次北
伐)し、4 月下旬、約百万の張作霖軍が陣取る済南を包囲した。
このため、田中内閣が再び山東省への出兵を決定し、支那派遣軍を編成した。
4 月 26 日
第 6 師団の先遣隊 6 千人が山東省に展開した(第 2 次山東出兵)
。
5月1日
国民党革命軍が張作霖の部下である北軍・張宗昌が撤兵すると、10 万人の国民党革命軍が済南に入城。
済南が戦場となる恐れが高まったが、同軍は日本軍に対し、居留民の安全を保障するから防御設備を撤
70
去してほしいと、要請した。
済南は、1904 年自主的に外国に開市したため、外国人居留者が増え、シナ有数の商業都市、国際都市となってお
り、日本人居留者もこの時点で約2千人近くに達していた。
5月2日
日本軍が防御設備を撤去すると、翌日から国民党革命軍が済南城内 1,810 名の日本人居留民に対し、
略奪を始め、約百人の日本人が虐殺、凌辱、略奪といった被害を受けた=済南事件。
このときの虐殺の仕方は酸鼻を極めた。このため日本国内では陸軍を中心に「暴支膺懲」の声が沸きあ
がり、田中外交に対し「腰抜け外交」と憤りの声が高まった。
事件直後、現場に居合わせた南京駐在武官・佐々木到一中佐は「偶然死体の験案を実見したが、酸鼻の極みであ
った。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女子はすべて陰部に棒
が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば白骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったよ
うな始末である。
」との手記を残し、外務省公電に明記された。
参謀本部編纂の『昭和三年支那事変出兵史』にも、日本人居留民の被害人員 400 で、概要は死者 12、負傷後死亡
2、陵辱 2、略奪被害を受けた戸数 136、生活の根底を覆されたもの約 280 との記録が残されている。
この事件は、蒋介石に「日本軍がシナ人を虐殺している」との出自不明の情報がもたらされ、激怒した蒋介石が
国民党軍を動かしたとも言われる。
一方で、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下 16 名が殺害されるという事件が起き、シナ側はこれを
重く見て、
「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。
5月4日
田中内閣がさらなる増派を決定。→5 月 9 日に第 3 師団に山東派遣が命じられた。
(第 3 次山東出兵)
。
5月7日
日本軍は国民党軍に対し暴虐行為に関与した高級武官の処刑を含めた「善処」を要求するも、拒否され
る。そこで、日本軍は 8~9 日にかけて北伐軍を攻撃し、本格的な戦闘となった。済南城を砲撃して(目
標は国民党軍司令部と城壁)国民党軍を遁走させ、11 日に城内を占拠した。
その結果、北伐軍は済南を迂回して北伐を続行することとなったため、蒋介石はこの事件に激しい怒り
を持ち、日本と中国との間には抜き差しならぬ敵対関係が発生した。
この事件に関し駐華米国大使マクマリーは田中外交を肯定的に評価し、次のように述べた。
「日本軍が、済南の居
留民に適法な保護を与える過程で起こった事態は、神の恩寵がなければ、上海か天津で我々アメリカ国民に起こっ
たかもしれないことと少しも変わらないはずのものだった」と。
また、当時の有力外字紙は、次の理由から日本軍の行動を支持した。
・日本人と日本権益の保護のためと目的が明確であった。・規律が正しかった・(当時の)国際常識からすれば妥
当であった・展開・撤収が迅速であった
・華北の「京津タイムス」は、
「日本軍がいなければ外国人はことごとく殺戮されただろう」と報じ、英紙「デイ
リーテレグラフ」も「シナ人は略奪と殺人をあたかも天賦の権利であるごとく、暴行を繰り返している」
「日本人
の忍耐にも限度がある」と書き、日本に対して同情的であった。
蒋介石軍により、居留民が悲惨な目にあった後も、田中内閣は北伐を続行する蒋介石の味方をし、満洲
軍閥の張作霖に対し北京から引き揚げるよう勧告した。
71
その後、軍事当局交渉、次いで外交交渉を経て、日本軍が山東省から撤退する旨の協定が翌昭和 4 年 3
月 28 日に締結され、同年中に日本軍は撤退した。しかし、シナ側には、外交官殺害事件が不問に付され
たこと、損害賠償が棚上げになったことから、協定への不満が残った。
3次に亘る山東出兵あたりからシナ全土で激しい抗日・侮日や「日貨排斥」運動が繰り広げられるよう
になった=シナの排外運動のターゲットが日本に集中した。第 2 次南京事件以降の昭和2~3年頃が日
本にとって歴史の大きな曲がり角であったといえる。
(張作霖爆殺事件。北伐成る)
3 年(1928 年)6 月 4 日
国民党革命軍との戦いにおいて敗北が決定的となった奉天軍を率いる張作霖は、日本政府からの勧告
を受けて北京を明け渡した(蒋介石軍による北伐が完了)。本拠の奉天に戻る途中、張作霖は京奉線と満
鉄線とのクロス地点・皇姑屯で午前 5 時 5 分、列車ごと爆破されて致命傷を負い、数時間後病院で死亡
した。
翌日の新聞では、便衣隊の仕業と報じられたが、南京政府や英字紙、華字紙などは、「日本軍の犯行」
と決め付けた。
奉天省長・臧式毅は張作霖の死亡を伏せて“負傷”と発表し、息子の張学良を呼び戻した。張作霖の死亡が発表
されたのは 2 週間後の 6 月 21 日であった。
後のリットン報告書は、この事件について「神秘的な事件」としか書かなかった。
この事件の首謀者については、後の東京裁判において元陸軍省兵務局長(少将)の田中隆吉証人が「張作霖爆殺
は、関東軍高級参謀河本大作大佐の計画、東宮鉄男大尉の指揮によりクロスする上部線路に仕掛けた爆弾を、下を
走る列車の通過時に爆発させることにより実行されたものである」と証言し、これが定説となっている。河本大佐
は警備上の監督不行届きで行政処分を受けていた(なお、河本大佐本人は東京裁判当時、中華民国の収容所に収監
されたままで、証人台に立つことはなかった)
。
しかし、同証人は米軍に保護され取り込まれており、裁判では、検察側に都合のいいように準備され、翻訳され
た文書をそのまま証言させられていた可能性が高い。
なお、東京裁判当時、河本大作は南京の監獄に収容されていたから、本人を法廷に出廷させて証言させれば、前
記証言が正しいか否か判断できたはずであるが、証言の機会が与えられなかったことは不自然である。
[張作霖爆殺事件についての関東軍の目的(東京裁判における田中隆吉証人の証言から)]
張作霖が国民党革命軍に追われて満洲に入ると、日本の租借権益に厄介な問題が生じる恐れがあった。そこで悶
着の種になる張作霖をシナ人の犯行にみせかけて始末し、それを口実に部隊を出動させて一挙に満洲を占領した上、
息子の張学良を新しい主権者に押し立てて南京国民政府から分離した王道楽土をつくろうとした。しかし、6 月 21
日に張作霖の死亡が発表されるまでに張学良が奉天に戻って態勢を整え、関東軍の動きを封じた。
当時、関東軍司令官村岡長太郎や参謀長斎藤恒、河本らは、国民党軍と張作霖率いる奉天軍とを武装解除させる
ために、日本の主権外で軍事行動をとることを認めるよう軍中央に申し出ていた。田中義一首相や白川義則陸相は
これに反対し拒否、軍中央では、荒木貞夫参謀本部作戦部長が河本らの支援者だったと言われている。
なお、昭和 29 年文芸春秋 12 月号に河本大作の「手記」として、
「私が張作霖を殺した」という一文が発表された
が、同大佐は前年中華民国・太原の収容所で獄死しており、当該「手記」は、義弟・平野零児が「河本の口述を基
にして筆録したもの」であることを平野自身が明らかにしている(昭和 31 年特集文芸春秋 12 月号)
。ただし、こ
72
の平野零児は「嘘つき」として親族からも相手にされないような人間であった。
また、
“実行犯”とされる東宮鉄男大尉については、その手記が残っており、事件前の 4 月 17 日に「京奉線遮断
準備計画を出す」
、5 月 23 日には「皇姑屯の地形偵察に行き…」などの記述が見られるが、肝心の 5 月 28 日から 6
月 9 日までの分が欠落していて、実際のところは不明である。このように「日本軍犯行説」には伝聞が多い。
この事件について河本グループの一員が所有していた 61 枚の写真が山県新聞資料室に残されている。事前に計
画を知っていた者が写したもので、爆発の前からその瞬間、以降の現場検証や張作霖の葬儀の様子までが撮影され
ている。その中の 1 枚は張作霖が乗っていた車両の爆発後の写真で、車両中央部の天井が吹き飛ばされているもの
の車台には損傷がない。交差地点で上部線路に仕掛けた爆弾を破裂させたとした場合、走行中の列車特定車両の特
定部分を狙いどおりに爆破するのは至難のことである、という指摘もがなされている。
河本自身は、事件の 1 カ月半前、張作霖爆殺を仄めかす手紙を参謀本部の友人に送っていた。本来なら隠すべき
ところを、隠すような犯罪ではないと考えていたと推定される。現場には、国民党軍の便衣兵の犯行に見せかける
偽装工作の物的証拠が残されていたが、ずさんなものですぐに関東軍による偽装だとわかるような物的証拠であっ
た。なぜそのようなものが現場に残されていたのか、この点にも不自然さが残る。
事件後、河本は同志たちやエリート幕僚集団「二葉会」のメンバーから喝さいを送られていたが、当人はこの事
件故に予備役に編入され、その後は満鉄や中国炭鉱の役員になった。
一方、ロシアの歴史家ドミトリー・プロホロフが 2000 年、モスクワで出版した「GRU 帝国①」の中で、ソ連時
代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果、
「張作霖の爆殺は、ソ連の特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と断定する説を発表した。なお、張作霖は強硬
な反ソ、反共主義者であった(以上「正論」平成 18 年 4 及び 5 月号所収)
。
この説を裏付ける資料として、イギリス情報部極東課が事件直後本国に送った 2 度の報告がある。それは、
「張作
霖が乗った列車の爆破はソ連特務機関の仕業だ」と報じており、2007 年に公開された(W106,5750)
。
この報告書の中に内田奉天領事が作成した報告書に記載された事件後の現場見取り図がある。内田領事が何らか
の目的でイギリス特務機関に渡したものと推定されるが、それを見れば、上部を走る満鉄線の欄干が垂れ下がって
おり、その橋脚が大きな損傷をうけているものの、下を走る京奉線の線路には損傷がないことがわかる。
したがって、
「関東軍が仕掛けたとされる」爆弾の威力は張作霖が乗っていた車両の天井を吹っ飛ばすほどの威力
はなかったのではないか、車両自体の天井に強力な爆弾がしかけられていて、車両天井だけでなく、上部の満鉄線
の橋梁まで吹っ飛ばしたのではないか、という可能性の方が大きいことが浮かび上がってきた。
張作霖は反ソであるとともにどちらかといえば親日的だったため、関東軍は張作霖の野望に手を焼く一方で、シ
ナ語に堪能な町野中佐を顧問として張作霖に張り付け、寝食を共にさせて身辺を守らせた。張作霖も自分の言い分
を日本の中枢に伝達してくれる同中佐を信頼していた。また、関東軍は大正 14 年 12 月ソ連諜報機関の秘密支援を
受けた郭松齢が親分の張作霖に対し反乱を起こしたとき、その進軍を止め、結果として張作霖を助けた。後に郭松
齢は関東軍に捕えられ、射殺されたと言われる。
張作霖の反ソ的行動については、東支鉄道使用料の不払いがある。東支鉄道を利用して大量の兵員や装備を輸送
しながら、ビタ一文払わなかっただけでなく、遂に 1926 年(大正 15 年)1 月 22 日、イワノフ鉄道管理局長を逮
捕して同鉄道を乗っ取ってしまった。また、同年春にはシナにおけるソ連代表カラハンを「ソ連代表とは認めない」
として国外退去を要求したのである。ソ連が特使を派遣して懐柔工作を行ったが、張作霖は一顧だにせず、さらに
反共姿勢を強化した。すなわち同年 9 月には東支鉄道及び同鉄道に付随する一切の不動産・動産を接収してしまっ
73
たのである。
このため、同月スターリンは軍特務機関のフリストフォル・サルヌィンに命じて、奉天の張作霖宮殿に爆発物を仕
掛けて張を爆殺しようとしたが、張は事前にこれを察知して、爆発物が持ち込まれた時点で工作員 3 人を逮捕した
ため、爆殺は未遂となったことを白系ロシア人移民バーラキシンが自著の中で明らかにしている。
さらに張作霖は、1927 年(昭和 2 年)3 月 4 日に起こった南京事件について、
「その背後にシナ共産党・コミン
テルンあり」として 4 月 6 日、北平のソ連大使館に部下を踏み込ませ、大量の文書を奪った(前述)
。
また張作霖は、同年、満洲に亡命中の白系ロシア人武装集団を支援して、約 90 回もソ連領内に侵入・攻撃をし、
反革命政権「満洲共和国」を建設しようとした。
スターリンは、これらのことからソ連の特務機関に命じてソ連単独あるいは関東軍と相通じて張作霖爆殺を行っ
た、ということも考えられる。
なお、
「マオ」の著者ユー・チアンも、同書の中で、プロホロフからの引用だと断った上で、
「スターリンの命令に
基づいてナウム・エイティンゴン(後にトロツキーの暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけた
ものだという」と強く主張した。
最近の研究では、1 年前に国民党に入党し、共産党にも近づいていた息子・張学良がソ連側と内通して、父親の爆
殺に関与していた可能性が高いとの指摘もある。
関東軍犯行説との関連については、当時の関東軍の若手将校や、満鉄調査部の中には、多くの共産主義信奉者が
数多くいた。関東軍の中のコミュニストが反共の張を消す目的のソ連諜報部に協力した可能性も考えられないでは
ない。
6 月 15 日
国民党革命軍が北京に無血入城し、北伐が完了した(済南は回避した)。国民政府は直ちに「不平等条
約」の廃棄を宣言し、日本に対して日清間で結ばれた諸条約の無効を通告した。また、北京を「北平」に、
直隷省を「河北省」に改称した。
7 月 3 日~11 日、国民党革命軍が堅固に造られた清朝乾隆帝や正太后の陵墓をダイマイトで破壊し、
副葬品を略奪しただけでなく荘園を略奪放火するなど恣の狼藉を働いた。蒋介石は、軍の中の下級責任
者を裁判にかけたが、極く軽い刑罰を科しただけだった。
これに衝撃を受けたのが天津に避難していた元皇帝の溥儀で、皇帝への返り咲きを望んで日本に頼ろうとし始め
た。しかし、日本政府は家庭教師の R.ジョンストンに「もし、関東洲に溥儀が来るようなことになれば、日本政府
としては困惑する」という旨を伝え、全く相手にしなかった。けれども日本軍が溥儀を匿い、天津で保護した。
10 月、蒋介石が国民政府主席に就任。しかし、その実効支配地域は山東半島以南、浙江省以北の沿海
部だけで、シナを統一したとまでは言えなかった。それ以外の各地には軍閥が蟠居し、少数ながら毛沢東
を代表とする共産軍も敵対勢力として存在していた。
[当時の主な軍閥]
満洲~北京:張学良、山西省:閻錫山、甘粛省:馮玉祥、河南省:呉佩孚、安徽省:孫傳芳など。このうち張学
良は、日本側からの工作に応じず、東北軍閥として生きるのではなく、北伐軍と講和する道を選ぶこととなる。
この年(昭和 3 年=1928 年)の 8 月 28 日、パリ不戦条約が締結された。
同条約は、フランス外相ブリアンが不戦条約としてアメリカ国務長官ケロッグに提案したもので、ケ
ロッグは、
「平和を掲げることは、大統領選挙を控えて、アメリカ国民の人気を得ることができる。また、
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ブリアンの提案はいかなる実際上の効果もない点で無害である」という観点のもとに、これに応じるこ
ととし、米英仏をはじめ 50 カ国の署名により締結された。
しかし、調印に当たり、主要国は自国の立場をしっかりと確保した。まず提案者であるフランスは①自
衛のための武力行使、②国際連盟の義務から生じる戦争、③ロカルノ条約(独、仏、白間で国境を尊重し、
それを英、伊が保障した)のための戦争を合法化し、アメリカはモンロー主義と自衛権を留保し、イギリ
スは英連邦・本国が利害関係を有する特殊地域(エジプト、ペルシャなど)を防衛する権利を保有した。
その上、不戦条約は、その規定に違反した国への制裁規定が全くなかったため、何らの戦争抑止効果もな
かった。
このとき、同条約に参加した日本も、アメリカのモンロー主義、イギリスの特殊地域防衛にならって、日本が満
蒙に有する権益の防衛について特殊宣言を行っておけば、後年満洲事変における日本の立場はずいぶん有利になっ
たであろうし、また、軍が満蒙を越えて北支工作をするのを抑える強力な根拠となったであろうという指摘がある。
(「正論」2011 年 11 月号の岡崎久彦「21 世紀の世界はどうなるか」
(連載第 6 回)より)
このときの政権政党は政友会で、野党の民政党は批准については頑強に抵抗した。
(張学良の国民政府への帰順。その後の満州の状況と日本の対応)
昭和 3 年(1928 年)12 月
張作霖の息子・張学良が国民政府に合流。蒋介石は張学良を東北辺防総司令官に任命した。
張作霖爆殺当時、北京近郊にいた学良は炊事兵に変装して満洲に潜入、父のサインを真似て命令書を発出し、父
の存命を装っていた。父の死を公表したのは、後継体制を固めてからの 1928 年 6 月 21 日であった。
近年公開された蒋介石日記によれば、張学良は、父・張作霖が爆殺された以前から国民党に秘密入党していたこ
とが明らかになった。
以降、張学良は満洲全土に青天白日旗を掲げさせ、満洲が国民政府治下の中華民国の一部であることを
鮮明にし、また、南満洲鉄道に併行して新たな鉄道を建設して安価な輸送単価で南満洲鉄道に対抗する
など、住民組織「国民外交協会」と連携して、現地の日本人(当時、20 万人以上の日本人居留民がいた)
を圧迫するとともに、あらゆる反日策をとっていく。
ただし、張学良が真っ先にやったことは在満洲ソ連領事館の襲撃・略奪で、ソ連軍とも戦火を交えた(奉ソ戦争
ないし張ソ戦争)。中華ナショナリズムの矛先をイギリスからソ連に変えたのである。しかしながら、すぐにソ連
軍の反撃にあって撤退した。以降、蒋介石とともに反日を明確にしていった。
この時点で張学良が指揮する正規軍は 268 千名だったが、満洲鉄道の警備と在留邦人の保護を目的と
する関東軍は 1 万 400 名に過ぎなかった。
国民政府は首都を南京と定め、中央銀行を設立、欧米との間に関税自主権も回復した。その後、日本も
昭和 5 年 5 月には南京の国民政府を承認した。
その後、南京国民政府は、満洲で日本人に土地を売ることを禁止する法律や、日本人の土地利用を禁止
して鉱山経営も厳禁にする法律の制定、さらには、百万人近い朝鮮人農民(日本国籍を有していた)を全
部満洲から追い出すことをも議論していた。また、国民政府はシナに進出している日本企業が全く営業
できないようにする政策もとった(これらはすべて国際法違反で重大な排日攻撃であった)。
国民党内では、権力闘争が収まらず、混迷の度を増していた。翌々年(1930 年)7~12 月にかけて、蒋介石の軍
が、反蒋介石の閻錫山・汪兆銘ら(同年に北京で「党の再建」と称して新たな国民政府を組織していた)の軍と戦
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い、張学良軍を味方につけることによって、これに勝利し、漸く内戦が収まった。この会戦での死傷者は両軍併せ
て 30 万人。内戦 7 年間での犠牲者は、一説では一般住民も含めると3千万人に及ぶとされている。
蒋介石は 1930 年 12 月から共産軍に対し包囲討伐戦を断行。以降シナは支配者階級と被支配者階級とが凄惨な戦
いを繰り広げる「国共内戦」の時代に入る。
その最中、広東を拠点に分派活動を強めていた孫科(孫文の長男で親日派)に迫られて、蒋介石は 1931 年 12 月、
一時党主席を辞職する(下野)させられる事態もあった。
毛沢東、朱徳らが 1931 年 11 月、瑞金で中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立。→しかし、蒋介石による討伐
戦に耐え兼ね、共産軍は 34 年、瑞金を放棄し、1 万 2 千キロを敗走して 36 年に延安へ逃げ込んだ。この後、毛沢
東の共産党は「抗日」
「反日」を利用して国共内戦を戦い抜いた。
4 年(1929 年)3 月
石原莞爾が関東軍参謀に着任。凶弾に斃れた原敬元首相と同じように「満蒙問題は日米問題」と見てい
た石原は、その解決案を練った。
「満洲を独立させ、五族協和・王道楽土を建設することが第一段階であり、その後にアメリカとの世界
最終戦争を行うことが満蒙問題の解決策である」と主張する石原莞爾に、その後に着任の板垣征四郎や
軍務局の永田鉄山らが同調した。
7月
関東軍内で石原参謀の考えを基に、関東軍満蒙領有計画が密かに進んでいた。
[石原莞爾「満蒙問題解決案」全3項]
第1項 満蒙問題の解決は日本の活くる唯一の道なり
第 2 項 国内の不安を除く為には対外進出によるを要す
第 3 項 満蒙の価値
(イ)略
(ロ)満蒙問題を解決し得ば支那本部の排日亦同時に終焉すべし
満蒙問題の積極的解決は単に為に必要なるのみならず多数支那民衆の為に喜ぶべきことな
り。即ち正義の為め日本が進んで断行すべきものあり。
歴史的関係等により観察するも漢民族よりも寧ろ日本民族に属すべきものなり
(石原莞爾の考え)
東亜連盟構想:欧米の覇道的な世界政策に対抗するため、日本、支那、満洲、蒙古を中心に東アジアの諸国・
諸民族の水平的連合をつくる。
満蒙領有論:支那問題・満蒙問題は対支問題に非ずして日米問題である。支那への進出を狙うアメリカとこれに
対抗する日本との戦争はいずれ避けられぬものとなり、日米戦争は世界最終戦争となる。世界最終戦争としての
日米戦争を戦うためにこそ満蒙領有が必要なのである。
支那人が近代国家を独力で作れるかは疑問である。
満蒙は満洲及び蒙古人のもので、満洲及び蒙古人は漢民族よりもむしろ日本人に近い。日本の努力が減退すれ
ば、満蒙も支那と同じく混沌状態に陥る。
昭和 15 年に石原は「世界最終戦争論」として出版した。
この頃、国家改造運動の影響を受けて、陸軍内部では、満洲の権益を確保し、ここに強力な占領内域を
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つくることが共通認識となる。
7月2日
田中義一内閣が総辞職。
その原因は、第一に田中首相の張作霖爆殺事件に関する方針が一貫していないことにあった。
田中は、前年 10 月に同事件の真相解明のための特別委員会を作らせていた。同委員会に対して同月 23
日関東庁から関東軍高級参謀河本大作が計画し、実行したことを裏付ける報告があった。そこで田中は
12 月、閣議を経ずに天皇陛下に拝謁し、張作霖爆殺事件について関係者厳罰方針を上奏した。
これに閣僚の多くが猛反発し、陸軍も関与を認めた場合の国際関係への悪影響を恐れ、事実公表には絶
対反対と抵抗した。この年の 1 月から始まった帝国議会においても、立憲民政党が「満洲某重大事件」と
して政府を攻撃し、田中は四面楚歌に陥った。
このため 6 月 27 日の上奏の際には前言を翻し、
「関東軍の警備上の問題」として関係者の行政処分で
済ませる方針に切り替え、その旨上奏した。
田中首相のこの発言に対し、天皇は「もう話を聞くのはいやだ」と強い不快感を示され、そのお怒りを
予想していなかった田中は恐懼、落涙した。
第二には、相次いだ疑獄事件についての責任を問われたことであった。
代わって民政党の浜口雄幸内閣が成立した。なお田中義一は、天皇の信頼を失ったことを苦にして、そ
の 3 ヵ月経たないうちに亡くなった。
天皇は、田中に対して厳しい言葉を発したことを悔やまれ、以降、上奏の際に面と向かって批判するこ
とを避けるようになったと言われている。
(主な疑獄事件)
陸軍大臣をも経験した朝鮮総督・山梨半造(2 年 12 月就任)らによる米穀取引所開設に絡む収賄
容疑が毎日のように新聞に載るようになり、遂に検挙された。→本人は無罪となったが、当地では
「もっとも悪名高い総督」と言われた。
前賞勲局長・天岡直嘉が収賄を行ったという「売勲事件」で検挙される。→大審院で有罪確定。
鉄道会社への免許や便宜供与で現役の鉄道大臣・小川平吉が収賄を行ったという「五私鉄疑獄事
件」で逮捕される。→大審院で有罪確定。
政権党・民政党を攻撃する前政権党・立憲政友会との対立が高まる中で、同年 8 月頃から、汚職の
話題が新聞を賑わすようになり、国民の政治不信が高まっていった。
それらの記事が掲載されている新聞をご覧になって天皇も、信頼すべき要人の不始末に宸襟を悩まされ、執務室
でお一人のときは入室してきた侍従長への対応もできないほど悄然とされていたとの記録が残っている。
昭和 3 年に初めて行われた普通選挙においては、有権者が一挙に4倍に増えたことから、カネで票を買うことが
横行し、当選した国会議員の見識も決して高かったとはいえず、当時は両政党とも腐敗していた。
お互い(のスキャンダル)を攻撃しあうという二大政党制の悪い面がこのとき出たという面もあった。また、政
治不信の風潮が起きた背景には、大衆社会の出現に加え、左翼イデオロギーによる「反議会キャンペーン」もあっ
た。
こうした政情の中で、それまで嫌軍の風潮の中、軍服を着て電車に乗ることにも気がひけていた軍
人たちが政党政治への不信・憂国を盾に勢いを伸ばした。
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(コミンテルンの策動)
同年(1928 年)7 月 17 日から 9 月 1 日にかけて、コミンテルン第 6 回大会がモスクワで開催され
た。
その決議において「世界革命闘争を任務とするプロレタリアートは全ての戦争に、無差別に反対す
べきではない。世界共産主義革命の見地に立って詳細に検討しなければならない」、
「自国政府の失
敗と、戦争が反ブルジョワ的内乱戦たらしめることとを活動の主目的としなければならない」、「プ
チ・ブルの提唱する戦争防止活動を拒絶しなければならない」、「国際ブルジョワジー覆滅の為にす
る革命のみが戦争防止の唯一の手段である」との宣言がなされた=「(自国を帝国主義戦争へと導き)
敗戦(によって)革命(を成し遂げる)
」論。
この理論は、後に尾崎秀美などの革命家に大きな影響を与えた。
9月
シナで流布していた“田中義一が上奏した国策案”=「田中上奏文」
(英文名「田中メモリアル」)なる
ものを、日本政府が入手するとともに、国民党政府がそれを第 3 回太平洋会議に提出しようとしている
との情報をつかんだ。
「田中上奏文」は4万字に及ぶ長文で、内容は、
「満蒙に対して積極策をとり、傀儡政権を作った後、いかに経営
していくかを具体的に示し、アジアを、そして世界を支配するという計画」が書かれていた。
ただし、9カ国条約に対する打開策協議の会議に死んだはずの山県有朋が参加しているなど明白な誤りがいくつ
かあった。そこで、国民党政府が太平洋会議に提出すれば、日本政府はこれが偽書であることを同会議の場で暴露
するつもりであった。しかし、国民党政府は提出を見合わせたため、日本政府は国民党政府外交部に対し、事実無
根として取締りを要請した。
これに応じて国民党政府は 5 年 4 月 12 日、機関誌「中央日報」紙上に「田中上奏文」の誤りを報じた。
しかし、国民党政府は偽書と認識しながら、その後もアメリカを対日戦争に向かわせるため、
「田中上奏文」を組
織的に流布した。昭和 6 年、上海の英語雑誌「チャイナ・クリティク」に英語版を掲載したのをはじめとして、同
誌から転載された小雑誌をアメリカ国内だけでなくヨーロッパや東南アジアで大量にばらまいた。コミンテルンも、
同年「コミュニスト・インターナショナル」に全文掲載し、ロシア語、ドイツ語、フランス語で発行して日本を「世
界征服をめざしている」とのイメージを広めた。
そのため、満洲事変の勃発によって、欧米においても「田中上奏文」が注目され、また、シナ事変勃発後にも日本
の侵略意図を宣伝するために活用された。
この「田中上奏文」の日本語の原文は存在しない。同文書は、昭和 2 年 6 月に開催された東方会議の目的(対シ
ナ対策の検討)を曲解して捏造されたものでで、その原型は、孫文の側近であった戴天仇が書いた『日本論』
(1928
年)に既に述べられている。実際の文章は共産主義者の王梵生によって書かれたとの説がある。
(世界大恐慌と日本の対応)
金本位制をとっていたヨーロッパ主要国は、第一次大戦勃発時に戦時資金を確保するためこぞって
金本位制から離脱した。日本も 1916 年に、またアメリカも 1917 年 6 月、金本位制を廃止するととも
に金輸出を禁止した。これにより日米両国は空前の好景気に沸いた。
しかし、大戦終了後にアメリカはすぐに金本位制を復活し、1922 年 4~5 月にかけてのジェノヴァ
会議において主要国が一日も早く金本位制に戻るよう決議もなされていた。
78
28 年にはフランスが金本位制に復帰したため、5 大国の仲間入りをした日本が批判の矢面に立たさ
れ、国内では金輸出の解禁をめぐって議論が闘わされた。
為替相場の不安定ぶりに悩まされた金融界と貿易関係の業界からは、金解禁を行って為替相場を安
定させる事を望む声が上がり、東京・大阪の両手形交換所と東京商工会議所が政府に対して「金解禁即
時断行決議」を突きつけていた。
これに対して、鉄鋼業などの重工業関係者では、デフレーションと外国製品の輸入価格の下落を恐
れて金解禁に反対する意見も上がっていた。旧平価のままで金解禁を行うと、為替相場を異常に高騰さ
せて輸出を不振に追い込み、国内には安い輸入品が入ってデフレーションが発生する事は明らかであっ
たからである。
経済ジャーナリストである『東洋経済新報』の石橋湛山は、金解禁自体には賛成するが、こうした危
惧を払拭するため平価切下げを行った上で金解禁を行うべきであるとする「新平価解禁論」を唱えた。
これには高橋亀吉・小汀利得らも同調した。金解禁を行った諸国は、例外なく事前に平価の切り下げを
行って自国経済の混乱を回避していたからである。
アメリカ経済の動向を危惧する三菱財閥の各務鎌吉らも旧平価での金解禁に強く反対した。一方、
三井財閥の池田成彬を中心とした金融界はこれ以上の金解禁の遅延は許されないとして金解禁を支持
した。
田中義一首相のときは、これらの情勢を勘案するともに、第一次欧州大戦バブル崩壊や関東大震災
による長期不況を公債発行などの積極財政で乗り越えるためには、金解禁をしない方がいいとの方針で
いた。
4 年(1929 年)7 月
浜口内閣成立。大蔵大臣に起用された井上準之助(元日銀総裁)は、為替相場を回復させるため、いち
早く「旧平価による金解禁」の断行と、併せて既に大量に発行した貨幣を減らし、金貨・金地金を増やす
ために緊縮財政を行うこと並びにその準備段階として、財政規模の縮小方針を表明した。
井上蔵相は「恐慌など 10 年に一度は起きるもの」とウォール街での株価大暴落を軽視していた。
10 月 24 日
ニューヨーク、ウォール街の証券取引所で株価が大暴落。以降、同国内では銀行の倒産が相次ぎ、卸売
物価は 2.3%下落したのをはじめ 1,300 万人もの失業者を生むほどの大不況に陥った。その余波は、ヨー
ロッパをはじめ世界中に及んでいった。
11 月 21 日
浜口内閣が「来年 1 月 11 日をもって、旧平価による金輸出解禁を行う」旨を発表。前月のウォール街
株価大暴落の影響が定まらない中、政府は当時のグローバルスタンダードに固執して「金本位制」への移
行を宣言し、為替相場を維持するためにデフレ政策を取った。
同時に国会議事堂の建設を中断するなど、徹底した緊縮策をとり、公務員の給与も削減された。
5 年(1930 年)1 月 11 日
井上蔵相の主導により、濱口内閣は旧平価(金 2 分=1 円=0.49875 ドル)のまま金本位制をとり、金
輸出を解禁した。
この後、すぐに金と正貨が海外に流出するとともに、株価が暴落し、物価も 10%下落した。金解禁か
ら半年で日本の国内卸売物価は 7%下落、対米為替相場は高騰し 11.1%の円高となった。
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6 月 17 日
アメリカで、関税を課す法律(ホーリー・スムート法)が制定された。同法は 3,300 品目の輸入品に対
し単純平均で 41%の高関税を課すもので、賠償金の支払いに喘ぐドイツをはじめヨーロッパ、南北アメ
リカも大不況に陥り、
「世界大恐慌」と呼ばれた。
アメリカでは 1933 年の名目 GDP が 1919 年に比べて 45%減少し、株価は 80%以上下落。工業生産は平
均で三分の一以上低落、1,200 万人に達する失業者を生み出し、失業率は 25%に達するほど深刻な不況
だった。アメリカ経済は第 2 次世界大戦による特需によるまで、デフレから脱することができなかった。
一方でソ連は計画経済の成功を大々的に宣伝し、世界の知識人の間は「資本主義の限界と社会主義時代の到来」
を口にするようになった。
日本も例外ではなかった。日本の国内市場は縮小し、輸出産業は円高によって国際競争力を失って不振
に陥り、日本経済は二重の打撃を受けることになった。
特に当時対米輸出品目といえば生糸のみであったため、米国の絹製品需要が急激に落ち込んだこと、絹
糸に 100%の関税が課されたこと及び米国で人造絹糸・レーヨンが発明されたことにより、養蚕農家は壊
滅的打撃を受けた。
激しいデフレが起き、中小企業の倒産が相次ぎ、失業者が町にあふれ、賃金カットや不払いなど、経済
は危機的状態に陥った。折角大学を出ても(当時の大学進学率は数%)就職口が容易にはみつからない状
態となった(文系の就職率は約3割)。=昭和恐慌
日本繊維業界は代わりに綿織物の輸出に力を入れるようになったため米国内の綿紡績業界との摩擦を生んだ。
ヨーロッパでは、翌 31 年 5 月、オーストリア最大手のクレディト・アンシュタルト銀行が倒産し、ドイツでは 31
年 7 月にダナート銀行が倒産に追い込まれ、同国政府は連鎖倒産を防ぐため全ての銀行に一斉休業を命じた。
金融危機が波及したイギリスは、恐慌対策として 1931 年 9 月に金本位制を放棄し、32 年 3 月に輸入関税法を導
入し、さらに同年 7 月、英連邦全体で関税ブロックを設けた。アメリカもラテン・アメリカ諸国と組んでブロック
経済体制を築こうとした。こうして世界中が金融危機に陥った。
国民が窮迫したドイツでは、ベルサイユ体制に対する不満(賠償金の支払い拒否)とコミンテルンの脅威への対
抗を掲げるヒトラーに率いられて 1920 年に結党した国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が台頭し、全体主義
的傾向を強めていた。
自給能力の乏しい日本も、同年(32 年)12 月、金本位制を止め、金輸出禁止の体制に戻して不況からの脱出を図
ったが、とくに農民は窮乏から解放されることはなかった。
国民の怨嗟の的となった浜口首相は同年 11 月 14 日、東京駅内で狙撃され、翌年 4 月辞任した。なお、
井上蔵相は後に血盟団に暗殺された。
→昭和 7 年 5 月に誕生した犬養政友会政権は再度、金輸出禁止策をとった。
(ロンドン軍縮条約と「統帥権干犯」問題)
5 年(1930 年)1 月 21 日~4 月 22 日
ロンドンで補助艦艇に関する軍備制限会議(日本側全権大使は若槻礼次郎)が開催された。国別保有比
率を巡って米英案と日本案とが対立したが、議論の末、巡洋艦の保有量は、英・米各 100、日本 69.75、
潜水艦の保有量は、日・米ともに 52,700t で合意が成立した=ロンドン軍縮条約。
幣原外相を中心に浜口首相(民政党)は、日本が反対を貫いて孤立することを恐れ、軍令部長の反対を
80
押し切ってその合意を受け入れ、軍縮条約が締結された。同条約における保有量、一部艦艇の大きさなど
については、交渉の過程で軍令部に協議することなく軍事行政責任者の判断によって決定された。
その背景には、アメリカ初の世界恐慌の波及によって深刻化していた昭和恐慌から脱するため、政府と
しては緊縮財政をとらざるを得ないという事情があった。
しかし軍令部(加藤寛治軍令部長などの艦隊派)は「英・米各 100 に対し、日本は大型巡洋艦 70、潜水
艦 7.8 万トンは譲れない」として不満であった。そこで艦隊派は既に引退し「海軍の神様」的存在であっ
た東郷元帥に意見を求めると言う愚を犯した。東郷元帥は「帝国国防方針からすれば、日本いずれアメリ
カと戦争することになるのだから」と言って軍縮に反対の意向を示し、退かなかった。
これに勢いを得た加藤軍令部長が軍内部で確立された帷幄上奏権に基づいて「政府の独断専行と統帥
権干犯を糾弾する」との上奏文を作成の上、天皇に上奏しようとしたが、鈴木貫太郎侍従長・奈良武次侍
従武官長により 2 日遅らせされ、辞表を提出した。
4 月 25 日
この条約批准案の承認が求められた5月の帝国議会において、政友会(鳩山一郎と党首・犬養毅)は
「一方的に軍縮を約束してきたことは、天皇の統帥権を干犯するもの。」
として浜口民政党内閣を攻撃した。これに枢密院議長倉富勇三郎も同調する動きを見せ、こうした反対
論が軍令部や右翼団体を巻き込む騒ぎになった。幣原外相は「国際協調を重視する」旨述べるばかりで、
財政力不足の実情を説明し、国民を説得するという努力を怠った。
(注)大正 11 年に調印されたワシントン海軍軍縮条約締結の際は、軍縮条約締結が「統帥権干犯」
などと問題になることはなかった。
世論は浜口内閣を支持したため、海軍内では財部海軍大臣が事態収拾に当たり、調整の結果、
一応の決着がついた。
10 月 2 日
ロンドン軍縮条約の批准が成る。元来、議会中心主義を掲げる民政党であったが、浜口首相は、世論の
支持を背景に元老や内大臣の了承を取り付け、天皇大権まで持ち出して、漸く批准に漕ぎつけた。
政友会による政府攻撃は、3 年秋のパリ不戦条約批准国会当時、政権党であった政友会に対し野党であ
った民政党が頑強に反対したことへの意趣返しともいえるもので、幹事長の森格が先頭に立って「政党
が相手を攻撃するためにはあらゆる屁理屈をこねる愚」を重ね、枢密院(当時、副議長)の平沼騏一郎が
これに拍車をかけた。
この政友会の動きに呼応して北一輝ら民間右翼が政府攻撃を煽った。これに陸海軍が同調し、政府をな
いがしろにする気分を軍部内に充満させ、やがて陸軍の少壮将校の間に満蒙問題の解決と、国内改造と
を国家革新の不可分の問題として取り上げさせる政治的な基本線となって、一部将校の間に同志的結合
を生み出させた。
→秘密裏に桜会が結成された(昭和 6 年 5 月頃には会員約 150 名と言われた)
。
桜会をリードした一人は橋本欣五郎中佐で陸大出のロシア畑参謀将校であった。トルコへ観戦武官として派遣さ
れて以来、ケマル・パシャ(アタチュルク。トルコ共和国初代大統領)
、トロツキー(ロシアの革命家。スターリン
の政敵)に心酔していた。桜会結成の目的は、軍主導による国家改造を実行することであった。
また、新聞も政友会に同調して政府攻撃を煽ったため、右翼青年が浜口首相を襲って重傷を負わせる事
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件(11 月 14 日)が起きたりした。浜口首相は一命をとりとめたものの大手術を受けて長期入院となり、
代わって幣原喜重郎が臨時首相代理を務めた。浜口は翌年 3 月上旬、首相に復帰したものの翌月再入院
となって総辞職した。→約 5 か月後に不帰の客となった。
軍縮条約をまとめて帰国した若槻礼次郎全権大使を国民は大歓迎したにもかかわらず、2 大政党は軍縮条約を政
争の具にし、軍部の不満を高め、その増長を助長した風潮は後に関東軍が満洲事変を引き起こす底流となった。
なお、翌年 2 月 23 日の帝国議会において、臨時首相代理の幣原喜重郎はロンドン軍縮条約について「天皇陛下が
結ばれた条約なので有効です」との答弁をし、野党から「天皇陛下に責任を持っていく(神聖不可侵である天皇に
責任が及ばないよう、実際の権力は政府が行使するという原則=憲法第 3 条=を侵す)
」と強い批判を浴びた。
批准に至る間、海軍省は軍令部(辞任した加藤軍令部長の後任は谷口海軍大将)を説得し続け、漸くそ
の同意を取り付けたものの、軍令部との間で「海軍兵力に関する事項については、海軍大臣と軍令部長と
の意見の一致を必要とする」旨の覚書が交わされ、以後、条約締結派(海軍省)と艦隊派(軍令部)との
間に深刻な対立が残ることとなった。
こうした覚書の存在は、むしろ陸軍に大きな影響を与え、将来に禍根を残すこととなった。
すなわち、陸軍大学校の教科書として昭和 7 年に編まれた「統帥参考」
(著者は村上啓作)の中に非常
大権の項が設けられ、戦時や国家事変の折は兵権を行使する機関は軍事上必要な限度において、軍が直
接に国民を統治することができると定められた。非常大権は大日本帝国における統帥権の中でも究極の
緊急避難措置とされ、統帥権について、次のように記載された。
「統帥権の本質は超法的なり。議会はこれを論難する権利を有せず。幕僚は憲法上の責任を有せず。兵
権は直接に国民を統治できるものとす…。
」
「統帥権干犯」をめぐっての党利党略による政党間の対立は、政党政治が終焉を迎え、国家が危機に陥
る端緒となった。
同時に、軍部及び北一輝ら民間右翼は「英米一体論」(英米は一体で敵である)を唱え、後に国を対英米戦へと
向かわせた。
このころの英米は、むしろ対立の状況において英米日の三国でソ連や蒋介石を抑え込もうという枠組みをつくろ
うとしていた。元外務大臣・国際連盟日本代表の石井菊次郎は「英米は仮想敵国に等しいような敵対関係にある。
いずれは両国が日本にすりよるような時が訪れる。そのときに日本は両方と仲良くすればいい」と的確に判断して
いた。しかし、北一輝らは世論を煽って英米が敵だ、ということにしてしまった。(倉山満「大間違いの太平洋戦
争」KK ベストセラーズ)
「統帥権」という利剣を振りかざした軍部や北一輝ら民間右翼はやがて暴走していき、
「軍部による圧
政」ともいうべき事態を招くこととなる。→2 年後、五・一五事件が起き、政党政治が終焉を迎えること
になる。
(三月事件起きる=少壮将校が軍政を目指す起点)
6 年(1931 年)3 月
3 月事件起きる。秘密結社「桜会」を結成した橋本欣五郎中佐(参謀本部露西亜班長)、根本博少佐(同
中国班長)
、長勇少佐、田中清少佐ら陸軍の幹部は、
「我が国の前途に横たわる暗礁を除去せよ」との主張
の下、大川周明らが大衆を動員し、国会周辺で大騒動を引き起こして、これを機に宇垣陸相ら軍首脳部を
利用しての国家改造を実現しようと画策した。
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これに小磯国昭軍務局長らも参画したが、計画は決行直前に撤回された。宇垣陸相を首班とする軍事政
権を樹立させるという運びであったが、実際に兵力を握っていた第 1 師団長の真崎甚三郎が反対しただ
けでなく、宇垣自身も反対したと言われる。
参謀本部の中枢人物が政府転覆を画策したこの事件は、同年 8 月、元老・西園寺、首相、内大臣、侍従
長らの耳にも届き、驚愕させられたものの、全く追及されることもなく闇から闇に葬られた。
この事件はその後の歴史に深刻な意味を持つものであった。陸軍はこのクーデター未遂事件をひた隠
しに隠し、ただの一人も処分することはなかったが、皇軍自滅へのスタートとなり、軍の中に「下剋上」
の気風が蔓延していった。
以降、関東軍内の板垣征四郎、土肥原賢二、花谷ら、参謀本部内では橋本欣五郎、重藤ら、民間では大
川周明、河本らが満蒙問題の解決に向けて周到な準備、計画を進めていき(大川周明「五・一五公判廷に
おける陳述」
)、やがて十月事件(未遂)に至った。
それは、6 年 10 月 22 日を期して、参謀本部長勇少佐、田中清少佐ら約 120 名の将校に大川周明門下、
西田税、北一輝らが指揮下の兵を動員して政府を乗っ取り(首相を斬殺、警視庁占拠、陸軍省・参謀本部
包囲)
、国家改造を目指すというものであった。
(満洲事変と満洲国建国)
満洲は万里の長城の北に位置し、もともとシナの漢族にとっては化外の地であった。その満州に住んで
いたのが満洲族である。その満洲族がシナの中原を制圧して清王朝を樹立後、大挙して万里の長城以南
に移住し、漢人に対しては流入を禁止する「封禁令」をだしたため、満洲一帯は人口が減少し、荒れ放題
の土地となっていた。
清王朝が華北5省の住民に限り満洲への移民を解禁したのは 19 世紀末のことであった。それでも 20
世紀初めの頃の満洲の人口約 1,700 万人(1907 年)のうち移民人口は 100 万人程度だったと推定されて
いる。
1899 年に起こった義和団事件の混乱に乗じ、ロシアが満洲を占領し、朝鮮半島にも足掛かりを確保し
てこれをも支配しようとした。
ロシアに脅威を感じた日本は英国と同盟を結んで、国運を賭けてロシアと戦争をし、満洲及び朝鮮から
追い出して、満洲鉄道の経営権を手にした。その沿線警備のために日本は軍の駐留が認められ、関東軍を
設置した。その関東軍は満洲鉄道警備のためシナ人による保安隊をつくった。
その頃(明治 40 年=1907 年)1 月、シナ革命を目指す孫文は亡命先の東京で、次の演説をした。
「革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもしシナ革命を援助してくれるなら、成功の暁には満蒙を謝礼とし
て日本に譲ってもよい」
当時の陸軍参謀長長谷川好道大将に対しても、
「シナの革命を援助してくれれば、成功の暁には全満州を天皇に譲
ってもよい」と交渉を持ちかけてきたという記録も残っている(黄文雄著「捏造された日本史」日本文芸社)
。もと
もと漢族にとっては、満洲は自分たちのものではなかったからである。
辛亥革命後は華北・華中では、地方軍閥同士による戦乱が激しくなり、自然破壊が進むとともに匪賊が
跋扈し民衆の生活は常に危険にさらされるようになった。そのため、華北の農民が大挙して満洲に流入
した。その数は年間 100 万人と言われている。日本も満洲への移民政策をとったが、漢人の流入人口に
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比べると物の数ではなかった。その結果、満洲の人口は 1931 年の満洲事変直前には約 3,300 万人に増加
し、うち漢人の占める割合は 80%以上だったと推定されている。
急速に人口の増えた満洲ではあったが、中華民国はじめシナのいずれの政権の力も及ばず、国際法的に
は「無主の地」と言えた。そのような状態での中、保安隊の隊長からのしあがって軍閥の長となった馬賊
出身の張作霖が満洲を支配するようになり、彼ら漢人は「満洲は漢族のものだ」と主張し始めるようにな
った。
1927 年 6 月、北京で支配者となった張作霖の軍閥政府は、軍備の強化のため、民衆から過酷な税を取
り立て、その 8 割を軍事費に使って 22 万の兵力を養い、民生の向上を図ることはなかった。文治派官僚
の王栄江が昭和 3 年(1928 年)に辞任した後は、張父子の軍閥政府は地域紙幣「奉天票」を乱発し、そ
の価値が暴落をつづけた。
日本の特殊権益とされていた鉄道や鉱山・商工業経営に対しても、張作霖の軍政府は圧迫・妨害を続け
た。また、日本人居留民が掠奪に遭ったり、商租権を侵害されたりなどしていたが、張作霖軍政府はもと
より、日本政府もこれを守るための特段の手だてを講じなかった。
張作霖が同年(1928 年)6 月 4 日に爆殺された後、27 歳で満洲の実権を握った張学良は、日本の権益
を満洲から叩き出そうと「国権回復運動」を一層強めた。
張学良の地方政府や同地のシナ人が日本に対して行ったことは大略以下のとおりである。
日本の旅順・大連租借権は本来 1923 年で期限切れになるはずだとして、
「旅順・大連回収運動」
を展開した。
武装警官に日系の工場を襲わせて閉鎖を命じた上、設備を破壊した。
日本人による鉱山採掘を禁止して坑道を破壊した。
60 にも及ぶ法令を発して、日本人(とくに併合により日本国民となっていた在満朝鮮人)への土
地・家屋の商租禁止及び以前に貸借した土地・家屋の回収を図ったり、日本人への土地貸与を売国罪
として処罰したりした。
日本政府からの借款(当時 1 億 5 千万円)に対する利子不払い、日本人移民への各種不当課税な
どが常態化していた。
日本人による森林伐採権を否認した。
関東軍の駐兵権を条約上無効として、撤兵要求を行った。
南満洲鉄道の運行妨害、駅や列車に対する強盗、電線の略奪
1930 年には、米英から資金援助を得て南満洲鉄道に並行する線路を建設した(明治 38 年の日清
条約における禁止条項)
。目的は、安い乗車賃の鉄道を並行して走らせることにより、南満洲鉄道の
経営を破綻させることにあった。
張学良政権のこうした姿勢から、排日・侮日運動が活発化した。当時満洲には移民などによって 20 万
以上の日本人居留民がいたが、日本人子弟へのイジメや巡警による暴行事件、日本企業に勤めるシナ人
への脅迫事件が頻発し、これらの事件や日本人経営鉱山の爆破などのニュースなどは内地でも新聞に掲
載され、そのため現地日本人居留民の危機感は高まるばかりで、武力による解決もやむなしという意見
が強まった。
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これら日本国民や日本人居留民への権利侵害事件は数多く、
「懸案三百件」とも言われたにもかかわらず、日本政
府は抗議も国際世論に訴えることもせず、たんに張学良政権に調査を依頼したのみであったが、同政権は「事実無
根」と回答しただけであった。南京の蒋介石政権も張学良軍閥政権に任せて何らの対応策をとろうとしなかった。
当時の日本国民だれもが
「もし日露戦争で日本が勝利しなければ満蒙はロシア領になっていた筈で、この戦争にシナの政府は何
も貢献しなかった。にもかかわらず、いまになってシナ(張学良軍閥政権)が『国権回復運動」を呼号し
て、日本が『10 万の生霊、20 億の国費』を費やして国家の存立を賭けて戦って勝ち取った正当な権益を
攻撃し、日本人が長年にわたって開拓したものを無償で返せというのは許せない」
と考えていた。日本のマスコミも、大勢としては、満蒙問題の根本的解決のためには武力行使もやむを得
ないとの論調が主流であった。
そのうえ、満蒙現地においては既に共産主義運動が広まっており、背後で排日運動を拡大すべく策動し
ていた。またソ連は 1928 年に始めた第 1 次 5 カ年計画に沿って西部シベリアを開発し、特別極東軍も整
備していた。
こうした情勢から、陸軍中央部の中堅層は、昭和 4 年ごろには「満蒙問題解決のためには、軍の実力を
持って、張学良軍を満蒙から駆逐しなければならない。外交では到底解決できない」という結論に達して
いた。張学良は親ソであったから、対ソ戦略上も、満洲全域からソ連軍を追い出し、日本の国防線を黒竜
江から大興案嶺にわたって設定する必要があった。
しかるに昭和 4 年 7 月に政権に返り咲いた民政党(浜口雄幸首相)は、またも外相に協調外交を旨と
する幣原喜重郎を起用した。同外相は満洲及びシナ全土における排日・侮日運動に対してシナ側の善意
と公正とに期待し、一貫して寛容な態度をとり続け、国民に我慢を強いていた。
これに対しては、軍部、現地の日本人(官民とも)のみならず国内の外交界を含む有識層から「かかる
寛容主義は懸案の解決に資せないばかりでなく、かえってシナ側からの侮蔑を招く」と批判が噴出し、国
民からは「軟弱外交」との声があがっていた。
幣原外相や外務省先輩の加藤高明元首相は旧財閥系の声を重視し、英米との協調を第一義としていた。これに対
し、シナ大陸に進出したのは新興財閥(久原房之介、鮎川義介ら)が主で、彼らは軍部を後押しし、マスコミ工作
を行って政府に「軟弱外交」との批判を浴びせた。
一方で、国民や軍人の間には、金輸出解禁策をとってから深刻化した不況(昭和恐慌)から抜け出せな
い政治への不満、批判も高まっていた。
日本敗戦後の東京裁判のとき、満州事変について当時の関東軍次席参謀・石原莞爾は次のように証言した。
「一触即発あたかも噴火山上にあるままに放置されていた」
「単なる外交交渉による日本権益の保持は期しがたか
った」と述べたうえで、次のように指摘した。
「日本が満洲より全面撤退したなら、単に権益を失うだけでなく、ソ連が満洲に進出し、日本全体がその国防を
全うしえない…」
内外のそのような情勢の中、張学良は配下の軍を満洲にあるソ連総領事館に踏み込ませて秘密書類を
略奪したうえ、1929 年(昭和 4 年)7 月には蒋介石から命じられて、ソ連が所有していた中東鉄路を接
収し、満洲東部、東北部、西北部に軍を結集した。対対したソ連は数十機の爆撃機と地上部隊数個師団を
投入してアムール河を渡河し、三方から張学良軍の拠点を攻撃した。ソ連空軍の威力は絶大で、張学良軍
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は潰走を重ねた挙げ句降伏した。
観戦武官を派遣して戦況を視察していた日本軍はソ連軍の充実ぶりに大きなショックを受けたという。そして、
ウラジオストックからの空爆の可能性(直接攻撃)に気付くこととなった。
その後も満洲情勢は悪化の一途をたどり、日本人が営業したり日々働くことが難しくなってきて満鉄
付属地の中に逃げ込んできたり、満鉄の枕木が引き抜かれたりする事件が頻発した。日本人経営者は日
本総領事館に訴えたが、満洲地方政権の張学良は、
「南京国民政府と話をせよ」と事実上交渉を拒否した。
上述の組織的な排日・侮日運動とその根底にある侮日思想が在留邦人と日本の権益に及ぼした被害の証拠、支那
共産党の策動とそれに対して日本側が払った努力の証拠、また日本政府が次々と可能な限りの譲歩的・融和的な手
を打ったその努力を示す声明や交換文書の類は、後の東京裁判において弁護側から提出されたが、
“それは元来自己
弁護的な性格を有しているのだから”という理由でほとんど(7 点を除き)却下された。
6 年(1931 年)6 月 19 日
陸軍中央部が、武力による張学良政権駆逐、親日政権樹立を骨子とする「満洲問題解決方策の大綱」を
決定する。ただし、武力解決の時期は翌春以後とし、それまで、シナにおける排日運動から生ずる紛争に
は巻き込まれぬよう隠忍自重するという趣旨であった。一方、関東軍は「対米、対ソの考慮上、実施の時
期はなるべく速やかなることを要する」と考えており、同軍参謀部は同年 8 月、参謀本部に対し、いまの
方針では得るところがない。
「米国の武力、経済圧迫など恐れる必要がないなら、何故断然たる決心をと
らないのか」と反駁進言した。
満洲事変を企画立案・推進した関東軍次級参謀・石原中佐は 5 月ごろに「満蒙問題私見」をまとめ、そこでは「満
蒙の価値は朝鮮統治、支那指導の根拠」であり、
「解決の唯一の方策は之を我領土となすにあり」とし、軍部が「謀
略をもって機会をつくり」
、
「関東軍が好機に乗じて動く」としていた。
(実際は陸軍中央部の強硬な反対により、日
本と一体関係の満洲建国→独立となった)
6 月 27 日
中村震太郎大尉殺害事件がおきる。対ソ戦に備えて、地図作成のため興安嶺東側地帯の調査にあたっ
ていた中村大尉が随行の 3 名とともども興安屯墾第三団長代理・関玉衡に捕らえられ、殺害されて焼き
捨てられた。
南京の重光公使が中華民国政府外交部に厳重抗議を行ったが、外交部長から「日本軍の捏造」と責任転
嫁され逆に排日宣伝を展開されたため、外交的な信頼関係は完全に断たれてしまった。
7月2日
万宝山事件が起きる。長春郊外の万宝山で、この地に入植した朝鮮人農民約 200 人(日韓併合により
日本国民となっていた)がシナ人農民に襲撃され、多数の死傷者が出た。この事件に端を発して、日支双
方の警察隊が出動(日本側は、日本国籍をもつ朝鮮人の保護を出動の理由とした)するなか、日本側警察
隊が武力でこの紛争を抑え込んだ。
この事件について朝鮮の新聞は「中華民国政府による不法行為」と報道し、著しく朝鮮の世論を激昂さ
せた。このような情勢の中で、仁川に端を発した反シナ暴動は朝鮮全土に波及し、とくに平攘では数千人
の朝鮮人群衆がシナ人街を襲い、127 人のシナ人が殺された(リットン報告書による)。
当時、在満朝鮮人は約 100 万人であったが、現在の吉林省東部、豆満江河口付近のシナ側(当時「間島」と呼ば
れていた)に住み着いた朝鮮人だけでも 60 万人いた。彼らに対し、コミンテルンが組織化を図り、中国共産党の指
導下に組み入れた。その指導の下、間島の朝鮮人はシナ人に対し、さまざまな紛争を起こした。シナ人との紛争は
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昭和 3 年以降の 3 年間で 100 件を超えていた。
昭和 5 年 5 月、中国共産党指導の下、間島の朝鮮独立運動派が貧農層を組織して武装蜂起した。張学良の東北政
権はこの暴動を日本帝国主義の手先と考え、弾圧した。
6 年 2 月、国民党は「鮮人駆逐令」を発して、朝鮮人を満洲から追い出そうとした。このため行き場を失った朝鮮
人農民は万宝山に入植しようとし、21 カ条条約中の「土地賃借権」を盾に農地を借りようとしたところ、政府が地
主に対して「朝鮮人(=日本人)に土地を貸せば罰する」として貸さないよう圧力をかけたため、地主と朝鮮人農
民との間に争いが起こり、吉林省の警官隊が朝鮮人農民に繰り返し退居を求めていた。
万宝山事件はこうした経緯から起きたものである。これには、日本の世論も沸騰し、政府に対して断固たる対処
を求めた。
8月
日本政府は中村大尉殺害事件を公表。万宝山事件の直後だけに日本の世論は沸騰し、中華民国非難一
色になった。
中村大尉殺害事件と万宝山事件との 2 つの事件は、満洲事変の直接の引き金となった。
この頃、満洲の日本総領事館における未解決の懸案は 370 件にものぼり「日支懸案 370 件」といわれ、
毎日のように内地の新聞にも出ていた。
それでも、幣原外相は中華民国に対して断固たる措置をとろうとしなかった。また国会議員も、ロンド
ン条約批准をめぐって「統帥権干犯」問題で2大政党が対立し、政争に明け暮れて足を引っ張り合い、恐
慌対策や満洲における問題に無為無策のままであった。
在満邦人は多くの結社・団体をつくっていたが、そのうちの満洲青年同盟が「日本政府恃むに足らず」
と関東軍に対し直接「何故、立たないのか」と強談判を繰り返すようになった。彼らは“日本の治外法権
や旅順・大連を放棄しても、日満共同の独立国をつくる」ことを主張した。
これに対し石原莞爾など関東軍幹部は、日本に離反的態度をとり続ける張学良地方政権の覆滅する用
意がある旨答えた。
国民も、政党政治よりは軍に期待をかけるようになっていった。
9 月 10 日及び 11 日
天皇は安保海軍大臣及び南陸軍大臣を召して、満州における軍機の維持、粛清を求められた。その頃、
参謀本部の中枢が関与したクーデター未遂事件(三月事件)が発覚し、また、関東軍の一部が謀略を画策
しているとの情報が外務省を通じて天皇にも伝わり、軍部の不穏な動きを危惧されたからである。
9 月 15 日ごろ
陸軍首脳が外務省を通じて関東軍の動きを知り、南陸軍大臣と金谷参謀総長が参謀本部第一部長の建
川美次を呼んで、現地に飛んでこれを中止させるよう命じた。建川は現地の軍と気脈を通じていた一人
だった。建川は 18 日の午後、奉天に入り、関東軍首脳の接待を受けたが、説得をしないまま寝入った。
9 月 18 日
夜 10 時過ぎ、奉天郊外の柳条湖付近で満鉄線が爆破された。付近で夜間演習中の独立守備第二大隊第
三中隊は、張学良軍の仕業と見て直ちに行動を開始し、現場から 800 メートル離れた同軍の兵営(北大
営)を攻撃した。奉天特務機関からは関東軍参謀長に緊急電が発せられた。
(柳条湖事件)
関東軍(司令官は本庄繁中将。参謀長は三宅光治少将。奉天特務機関長は土肥原賢二=東京出張中)は、これを
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張学良指揮下の東北辺防軍の行為であるとしたが、実際は独立守備第二大隊の将校が行ったものであった。首謀者
は高級参謀板垣征四郎大佐と次席参謀石原莞爾中佐。
板垣大佐が独断で直ちに独立守備隊第二大隊及び第二十九連隊に出動を命じ、現場近くの東北辺防軍
の兵営・北大営に総攻撃を命じた。東北辺防軍は無抵抗で敗走し、関東軍は直ちに北大営を占拠した。
(翌
朝には奉天を占領)
旅順の関東軍司令部では、石原中佐が起案する電文を本庄中将が決済して次々発信した後、軍司令部が
ノンストップの列車で翌日奉天に進出し、奉天特務機関長・土肥原賢二大佐が臨時市長に就いた。その後
も関東軍は進撃を続け、長春、営口の各都市を占領するなど、石原中佐の水際だった指揮により、ほぼ 3
日で満洲中央部を制圧した(満洲事変勃発)
。
当時の関東軍は約 1 万 4 千人だったのに対し、張学良の東北軍は 22 万と言われていた。事件がおきたとき、張学
良は主力 11 万余りを率いて北平におり不在で、残留部隊は各地に散在していた。張学良は東北軍に対し、不抵抗・
撤退を命じた。これは、当時共産党包囲掃討作戦に集中していた蒋介石の方針によるものであった。
関東軍と東京の陸軍省・参謀本部とは方針に違いがあった。参謀本部は北満洲には軍を進めないよう伝えていた。
しかし、現地の関東軍はソ連南進の防波堤を築くため北満洲に進軍した。スターリンは日本軍と戦うことを恐れて
ソ連軍を退かせたため、関東軍は易々と満洲全域を勢力下におくこととなった。
事変の中心人物・石原中佐は“第一次大戦後、世界の東西において米国と日本が覇者となり、日本は米
国との間で「最終戦争」を行わざるを得なくなる。そのためには『満洲領有』により国力を溜めることが
不可欠だ”と考えて、この事変を主導した。しかし、陸軍参謀本部の建川幸次郎作戦部長も関東軍の望む
「満洲領有」に反対の意思表示をした。
関東軍が独断専行した非は責められて当然だが、張学良による満洲統治は反日であるとともに、ソ連の東進意欲
に対しては何の備えもしようとしていなかったから、事変の目的は日本人居留民を保護することにとどまらず、日
本民族の生存権をかけてソ連の軍事的脅威をはねのけるための行動でもあったといえる。
他方、関東軍は米英ソなど諸外国の反応については、甘く見ていた。
9 月 19 日
幣原外相は、新聞報道により、初めて事件を知った。何事も不干渉、現地解決主義を貫いてきたことか
ら、事前に情報が入らなかったためである。
若槻内閣は直ちに閣議を開催し、「不拡大」の方針を決め、午後、天皇に「現在以上、拡大させない」
と奏上した。
9 月 20 日
朝鮮駐屯軍の林銑十郎将軍は、関東軍参謀と意を通じた自軍参謀に引きずられて出兵を決意し、翌日満
洲国境を越え(=軍紀違反)
、満洲東部を確保した。
朝鮮駐屯軍の越境出兵は、関東軍参謀原莞爾・板垣征四郎と朝鮮駐屯軍の神田正種参謀とが謀ったもので、ガラ
空きになった南満洲(在留邦人が多い)の空隙を塞ぐためとしていた。なお、当時の新聞は林銑十郎将軍を「越境
将軍」としてもてはやした。
この頃の新聞や野党の立憲政友会は、関東軍の軍事行動に拍手喝采していた。
9 月 21 日
陸軍省及び参謀本部は現地軍との板挟みにあって動揺を重ねる中、あくまで全満洲の占領を目指す関
東軍が吉林への出兵を敢行した。
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吉林は満鉄守備の任務から外れるものであったため、軍法により死刑を宣せられる可能性もあることを恐れて、
本庄司令官は躊躇したが、板垣たちの膝詰め談判に押され、ついに出兵に踏み切った
陸軍中央は関東軍、朝鮮駐屯軍に対して事変拡大を抑えようとすることはなかった。
(諸外国の反応)
ソ連は、5カ年計画の推進に余念がなかったため、関東軍がチチハル、ハルビンを占領しても中立不干渉の声明
を発表した。これが関東軍の発言力を高め、陸軍中央部や日本政府が現地解決を認める大きな一因となった。
アメリカの世論が一気に反日一辺倒になった中で、当時アメリカの上海副領事をしていたラルフ・タウンゼント
は事変 2 年後の 1933 年に出版した「暗黒大陸
チャイナの真実」の中に次のように書いた。
「在チャイナの米英の官民の大勢はこうである。
『我々が何年もやるべきだといっていたことを日本がやってくれ
た』
。確かに、条約、協定、議定書などに従えば、日本が満洲を占領したのは悪い。しかし、味方を変えれば、日本
は正しかったともいえる。いくら条約を結んでも日本の権益を不安に曝すシナ人の妨害行動は収まらなかった。何
年も前からチャイナの当局は略奪行為を黙認し、反日プロパガンダをし、
(満鉄線の)線路に石を置き、日本人を狙
撃・殺害した。このようなことが起きていたことをアメリカに住む人々は知らない。新聞に載るのは、宣教師や上
級外交官といった、チャイナにおもねっている連中からの情報ばかりだからだ。しかし、シナにいる数千の米英人
は、日本人と同じ苦悩を味わっているから、気持ちがよく分かる大半は内心、日本を応援したと思う。
」
彼はさらに「チャイナにいる外国人でシナ人に同情する者は宣教師以外にいない」とも書いた。宣教師は布教を
有利にするため本国に対し、シナ側に立った情報ばかりを流していたからである。
また、永年溥儀の家庭教師を務め、推移をつぶさに見ていたレジナルド・ジョンストンは著書「紫禁城の黄昏」
の中で次のように書いている。
「シナの人々は、満洲の領土からロシアの勢力を駆逐するために、いかなる種類の行動をも、全く取ろうとはし
なかった。
もし、日本が 1904 年から 1905 年にかけての日露戦争でロシア軍と戦い、これを打ち破らなかったならば、遼東
半島のみならず満洲全土も、そしてその名前までも、今日のロシアの一部となっていたことは、全く疑う余地のな
い事実である」
「日本は、1904 年から 1905 年、満洲本土を戦場とした日露戦争で勝利した後、その戦争でロシアから勝ち取っ
た権益や特権は維持したものの、
(それらの権益や特権が従属する)満洲の東三省は、その領土をロシアにもぎ取ら
れた政府の手に返してやったのである。その政府とは、いうまでもなく満洲王朝のことである。満洲王朝の政府を
「シナ政府」と表現するのは、専門的に言えば正しくないだろう。
この事変についての報道は、まず NHK がラジオ体操の時間に、これを中止して報じ、その後も臨時ニ
ュースにより頻々と戦況を報じた。これに脅威を感じ、新聞も負けじと号外を頻発した。新聞は次第に軍
から情報を提供してもらって記事に載せるようになり、短時日で「御用新聞」化した。朝日、東京日日
(現・毎日)両紙の報道合戦もエスカレートし、両紙とも大付録や映画、写真展など大宣伝を行った。
朝日は事件直後、事変に批判的な記事を書いていたが、在郷軍人会による猛烈な抗議・不買運動を受けて社論を
大転換し、以降は軍に迎合する記事ばかりを載せるようになった。
政府の不拡大方針に反して暴走する関東軍を、当時の国民世論は熱狂的に支持した。シナの不法行為に断固たる
措置を取らない幣原外相の方針にフラストレーションがたまっていたからである。
89
関東軍の暴走を止めようとした奉天総領事代理の森島守人ですら、のちに次のように書いた。
「(幣原外相は)あまりにも内政に無関心で、また性格上、あまりにも形式的論理にとらわれすぎていた。満州に
対する幣原外交の挫折は、要するに内交における失敗の結果であった。世間では、幣原が柳条湖事件を惹起したの
だと言われていた。
」
9 月 21 日(前項と同日)
国民政府が柳条溝事件を国際連盟に提訴し、国際連盟は 23 日、緊急理事会を招集した。
[国民政府の要求内容]
1 事変の拡大を防ぐための措置
2 事態発生前の状態に戻らせるための措置
3 国民政府に与えられるべき損害賠償の程度と性質を定める措置
これに対し日本側は、問題解決は直接交渉によってよるべきだと主張し、翌日、両政府は緊急理事会に
おいて議論を戦わせた。
満洲事変勃発直後からシナ民衆のナショナリズム高まり、南京では学生たちが真っ先に請願行動を起
こし、日本に対する政府の弱腰に抗議して外交部のビルに乱入し、王正廷部長を殴打して重傷を負わせ
た。同部長は9月 30 日に辞職した。
当時、シナの新聞や世論では「腐敗分子を一掃して、命がけで日本と闘え。必ずや日本軍を撃退して満
洲を回復できる」という主戦論が大勢であった。日本との戦争に勝てるとした根拠は、①人口及び兵員動
員数において優っている、②領土の広さ、資源の豊富さでの優位、③対日戦を始めれば、シナにおける列
強の基本的利益が脅威にさらされるので、日本に対して干渉するに違いない、などであった。
蒋介石は、日本と話し合いをして解決に至ったとしても、反蒋介石側地方政権や共産党から「売国奴」
との誹りを免れないことから、国際世論に訴えて日本をけん制する=国際連盟に提訴する、という方策
をとり、人々の関心を国際連盟に向けさせ、ひいては自己政権の安定・拡大を図った。
9 月 22 日
新聞各紙が朝鮮軍の越境出兵をもてはやしたため、陸軍中央も関東軍の非を責めることを止めた。ま
さに現地軍の不軍紀、下剋上が制止できないほどになってしまった。
天皇は若槻首相をお召しになり、事態の不拡大という閣議の方針を貫徹するよう努力すべきと、諭さ
れた。このご発言は、幣原外相の不拡大の外交方針を側面から支えるものであった。
同日、関東軍は幕僚会議を開いて、若干の方針転換を決める。出席者は三宅光治参謀長、板垣征四郎高
級参謀、石原莞爾参謀などで、従来は軍が満洲領有を企図していたところ、爾後は親日的な「独立国家」
をつくることとした。
参謀本部が石原らに対し「清の廃帝溥儀を首長とする親日政権を樹立すべきである」と主張したため、関東軍と
しては国際世論の批判を避けるとともに、陸軍中央からの支持を得るため、傀儡政権樹立の方向へと方針転換した
ものであった。石原らは、日本の保護下に満蒙を独立国家にするという解決策を出した。
現地では、事変勃発直後、反張学良の有力者が「軍閥打倒」
「悪税撤廃」をスローガンにして立ちあがり、関東軍
がこれらに協力することにより、各地に政権を樹立した。9 月 24 日に奉天地方自治維持会(委員長は袁金鎧)
、26
日には吉林省臨時政府(主席は煕洽)
、27 日にはハルビンで東省特別区治安維持委員会(委員長は張景恵)が組織
され、熱河省主席の湯玉麟、東辺道の子芷山、黒竜江省の張海鵬をはじめ遼寧省、ハルピン市などの地域軍閥・実
力者も中央政府からの独立を宣言し、張学良から袂を分かった。
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関東軍は張学良を満洲から追放した。
朝鮮半島の人たちは事変を大いに歓迎し、それまでの反日の機運は一気にやわらげられた。明日をも知れぬ生
活に追いやられていた在満の旧朝鮮人小作人たちも、日本が満州を瞬く間に制圧したことで、親日へと転化した。
9 月 24 日
幣原外相が「関東軍の出動は軍事占領が目的ではなく、在留邦人と南満州鉄道に対する脅威が除かれ次
第、満鉄付属地内に撤兵する」との声明を国際的に発表した。
この声明によって、国際連盟の対日批判は一気に和らいだ。
しかしながら、この後、若槻内閣は関東軍に対して断固たる制止の姿勢をみせず、満洲方面の陸軍部隊
の安全を期するという名目で所要の戦費を追認した。それだけでなく、若槻首相は、関東軍・朝鮮駐屯軍
両軍の責任者を厳罰に付することなく、天皇にはお詫びを申し上げただけで決着させた。
奉勅命令を受けることなしに関東軍が兵を動かし、朝鮮駐屯軍も越境出兵したことは陸軍刑法においても死刑に
該当する行為であったが、軍中央部は参謀の石原莞爾と板垣征四郎らの独断による行動を追認して、天皇の御嘉賞
の言葉を与えたのである。この事変を機に民間右翼と陸軍将校たちが結びついていった。後に起きた、昭和6年 10
月の十月事件、7年2~3月井上日召傘下の血盟団員による要人暗殺はその延長線上の事件であった。
軍における首謀者であった石原は中将に、板垣は大将そして陸相に、また朝鮮駐屯軍の林銑十郎将軍も首相にま
で上り詰めた。
若槻首相(民政党)は、軍に対抗できる政党政治をめざし、犬養政友会総裁と協力して内閣をつくろうとしたが、
昭和恐慌対策に関する政策を巡って両党の対立が激しくなり、軍を抑えられないまま、12 月の総辞職の日を迎える
こととなる。
9 月 30 日
国際連盟理事会は、日本政府が 24 日に外相名で「事変不拡大、関東軍の早期撤兵」の声明を出し、以
降軍事的動きを控えたことを受けて、日本政府を信頼し、日シ両政府の通常国際関係回復に期待して一
旦閉会した。
10 月 8 日
9 月 24 日の幣原外相声明にもかかわらず、関東軍参謀・石原中佐作戦指導の下、関東軍の爆撃機 12 機
が張学良の根拠地である遼寧省錦州を爆撃。偵察機には石原自身も搭乗し、手に火傷を負った。
満洲全域を勢力下においた関東軍としては、残るは張学良が拠点を移していた錦州だけであった。関東軍は「張
学良は錦州に多数の兵力を終結させており、放置すれば、日本の権益が侵害される恐れが強い。満蒙問題を速やか
に解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表。
しかしながら日本に対する国際的な非難が高まり、アメリカが九カ国条約に違反するものだとして日
本の行動を非難したことから、再び国際連盟理事会が召集された。また、国内でも非難の声が起きるとと
もに、幣原外相の国際協調主義外交は決定的ダメージを受けた。
10 月 12 日
朝日新聞が社論を転換。事変勃発以来、軍部批判を展開していた(大阪)朝日新聞は、在郷軍人会が関
西で不買運動を起こしたため、事変拡大を煽る方向へと方針を転換した。
既に東京日日新聞は 10 月 1 日の社説を初めとして、痛烈に政府の不拡大方針を批判していた。
軍部は、この後もマスコミを味方につけるべく工作をし、次第にマスコミが国家の宣伝機関化した。
10 月 24 日
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国際連盟理事会が日本に対し、日本軍が満鉄付属地に撤兵する勧告案を討議した。日本は拒否権を行
使したが、満洲事変の経緯について加盟国を納得させる説明をできず、決議案については、日本だけが反
対した(全会一致とならなかったため、否決)。
幣原外相は「我が国の従来曾て国際信義を破りたることなき態度と我が国民性を(諸国が)了解し(てくれるで
あろうから我が国は)
、極めて着実にして毫も宣伝がましき行動に出でず(出る必要はない)
・・・。
」と発言した。
国際社会に対してあまりにも甘い認識であった。
10 月 26 日
政府が「シナ側の排日運動が収まらない以上は、…撤兵はできない。」とする声明を発表した。不拡大
方針をとってきた政府(=幣原外相)も、現地軍の相次ぐ冒険的作戦成功という既成事実に便乗するよう
になってきて、軍部の満洲独立計画に引きずられて出した声明であった。
10 月 27 日
事態を危惧された天皇が牧野内大臣に“経済封鎖を受けたときの覚悟、もし列強を相手として開戦し
たときの覚悟とその準備について陸海軍大臣に質したい”旨を述べられる。それほど事態は悪化してい
た。
10 月末
関東軍が正式に、満洲西部、北部の制圧につき許可を求めるが、参謀本部は不拡大方針を示す。
石原は、2 万の兵力の馬占山軍に対し、兵を小出しにしてわざと負けさせたうえ、朝日新聞と通じて世
論を煽った。拡大派の陸軍大臣・南次郎は関東軍増派の命令を出す。→2 万の第 2 師団(多門二郎中将が
統率)が馬占山率いる軍を昴々渓で破り、チチハルに入城。
こうした関東軍の行動を日本の世論は支持したため、11 月には社会民衆党も満洲事変支持を議決した。
これらにより、
「法と正義による支配」を訴えてきた幣原外交が破綻した。
11 月初旬
土居原特務機関長が天津日本租界に仮寓する元清朝皇帝・溥儀を訪ね、祖先発祥の地に戻るよう求め、
応諾すれば、関東軍はいずれ帝位復帰の実現を図る旨、約束をした。数日後、関東軍の手引きにより溥儀
はひそかに天津を脱出して満州に入り、旅順に移った。
(溥儀について)
1912 年 2 月、廃帝とされた溥儀はその後も北京に留まっていたが、1924 年に馮玉祥らが起こしたクーデター(北
京政変)の際、難を逃れるため北京の日本公使館に身を寄せた(11 月。芳沢兼吉公使が受け入れた)後、日本政府
の計らいにより翌年 2 月から天津に住んでいた。この間、国民党正規軍が北京東陵を爆破して西太后の遺骸を冒涜
した(1928 年)ことを深く悲しむとともに激しく怒り、復辟への決意を固めていた。
11 月末
錦州攻略直前で幣原外相の要請を受けた金谷参謀総長が天皇の命を取り付けて「一歩でも進めば軍法
会議で死刑だ」と関東軍に錦州から退き奉天に戻るよう告げた。そのため、錦州制圧の寸前で関東軍は軍
を引いた=政治が軍の行動を抑えた例。
これにより、国際社会での日本の立場は劇的に良くなった。
12 月 10 日
国際連盟が調査を行うことを決定し、その代償として(留保条件)日本に満州における匪賊討伐権を認
めた。これをもって当時の朝日新聞や毎日新聞は「日本外交大勝利」と書き、沸き返った。
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この決議の際、国際連盟は日本を侵略国と決めつけることはなかった。
12 月 11 日
こうした中、若槻民政党内閣が総辞職した。これは、同内閣の先行きが長くないと見た安達内相が、政
友会との協力内閣構想を若槻に迫ったことなどから、是としない若槻が政権を投げ出したものであった。
外相を務めていた幣原は、満州事変の処理に失敗して国民からの支持を失っていたことから、その機会
に下野した。
12 月 12 日
元老・西園寺の推薦により、野党第一党の立憲政友会総裁・犬養毅内閣が成立した。
その前日、天皇は西園寺に対し、
「軍部が国政、外交に立ち入って、かくのごときまでに押し通すこと
は、国家のためにすこぶる憂慮すべき事態で、自分はすこぶる深慮に堪えない。この自分の心配を十分犬
養に伝えほしい」と言われた。
(昭和天皇実録より=要約)
首相に就任した犬養は、青年将校に人気のある荒木貞夫を陸相に起用した。以降、政府の対外政策は積
極政策に転換し、荒木陸相は満洲占領を中央において推進しようとした。→閣議の承認を経て 1 個師団
の増派を決定。…→翌年初めには、日本軍は満洲全土をほぼ手中に収めた。
その翌日、蔵相に高橋是清を起用した犬養内閣は金解禁を停止した。以降、高橋蔵相は永年の不況を回
復軌道に乗せた。
7 年(1932 年)1 月
国際連盟が満洲事変調査のための調査団を組織=リットン調査団(委員長は英国元インド副総督のリ
ットン卿。他に米国・元大統領副官のマッコイ将軍、仏植民地軍総監のクローデル将軍、元ドイツ領東ア
フリカ総督のシュネー、元駐独イタリア大使のアルドロヴァンディ伯爵の4人)を組織した。
(事変によって大きく変動したシナの政情)
1931 年 11 月
シナ共産党の毛沢東が江西省瑞金で「中華ソビエト臨時政府」の樹立を宣言した。
同党は翌年 4 月に同政府の名において日本に対する宣戦布告を行った。シナ共産党は、蒋介石
の日本に対する「不抗日」を非難することで世論を巻き込み、蒋介石への有力な攻撃手段とした。
すなわち同党は満洲事変によって、シナの政治を国民党と争う絶好の機会を得たのである。
12 月
首都・南京に、中国共産党・コミンテルンに扇動された学生をはじめ 10 万人以上の激しいデモ
が連日国民党本部に押しかけ、
「抗日救国」を掲げて政府の対応を軟弱として非難するとともに「蒋
介石が直ちに中央軍を率いて北上し、日本に抵抗するよう」要求した。
この後、学生たちが国民党本部に乱入し、また同党機関紙の中央日報社屋を破壊しようとして軍
警と衝突して、30 名以上の死者が出るという事件も起こった。コミンテルンにとっては、関東軍
の行動は、ソ連にとって大きな脅威だったからである。
北京においても、30 万人以上の市民が抗日救国大会を開催し、20 カ条の決議が採択され、国民
政府に対し即刻日本と開戦し、ただちに国際連盟から脱退するよう強く求めた。当時シナの民衆は、
国際連盟のシナに対する態度が侮辱的だという印象を受けていた。
6 年 12 月 28 日
シナ大陸におけるこのような情勢の中、政府の不拡大方針にもかかわらず、関東軍は内閣との対立を続
93
け、戦線を拡大、張学良の根拠地・錦州を攻撃した。→遂に 1 月 3 日、占領。国際社会、ことに米国は激
しく憤激した。ていた。
その後も独断越境した朝鮮駐屯軍の増援を得て、管轄外の北部満洲に進出し、翌年 2 月にはハルピン
を占領し、東北三省を制圧してしまった。
板垣、三宅、石原ら関東軍参謀は、本庄繁軍司令官を押しきるだけでなく、政府の決定をも無視して戦線を拡大
し、東北三省制圧以降は、勝手に国策を決定して実行するようになった。
7 年(1932 年)1 月 7 日
アメリカ、スチムソン国務長官による政府見解「スチムソン・ドクトリン」が日中双方に伝えられる。
「アメリカは、合衆国のシナにおける条約上の諸権利と、中華民国の主権、独立、領土的・行政的保全
にかかわるもの、或いは門戸開放政策として知られる合衆国の対シナ外交政策にかかわるものを含む合
衆国国民の条約上の諸権利を損なういかなる条約ないし合意も合法と認めない。また、パリ条約の条項
に反した手段で作られるいかなる状況、条約、合意も認めない。
」
これは、関東軍による錦州攻略、戦線拡大にアメリカが不快感を示したものであり、日米関係が決定的
に悪くなった。
この声明は、ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)に違反するいかなる行動をも認めず、シナへの軍事行動
によって生じた条約やシナ大陸における勢力圏の変化を承認することを拒否するものであった。同時にこの見解は
アメリカのシナにおける条約上の権利・権益を侵害するような取り決めを認めず、シナ政策における「門戸開放政
策」の方針を確認したうえでの日本による満州への軍事行動非難であった。
この見解は、シナに宣教師を派遣していたキリスト教団体が布教活動の存続・拡大を求めて国務省に圧力をかけ、
これにスチムソンが屈してなされたものと言われている。
(古荘光一「誰が「南京大虐殺」を捏造したか」
しかし、満洲国を支配下においていた関東軍は、アメリカのシナにおける条約上の権利・権益侵害を全く行って
はいなかった。
1月8日
関東軍の軍事行動を称える詔勅が発される。
2 月 29 日
リットン調査団が来日。天皇、皇后両陛下及び雍仁親王らが 3 月 3 日、リットン卿らのために午餐を
催し、歓迎された。国内世論も概ね好意的であった。しかし、水面下で満洲独立工作を行っていた関東軍
は調査団を快く思わず、既成事実をつくろうと、3 月 1 日に満洲国建国宣言を発せさせた。→(満洲国建
国宣言の項へ)
調査団は、その後、上海、南京、北京を歴訪し、蒋介石と会い、聞き取り調査を行った。
満洲では 4 月下旬から 6 月初旬までの 3 ヶ月に亘って調査を行い、この間、張学良にも会った。
その後、同調査団は 8 月から北京で報告書の作成に当たり、9 月 30 日に日本政府(外務省)に手交の
上、10 月 2 日に公表した。
(以下、後述)
(金輸出再禁止とイギリスの反日感情)
6 年 9 月 21 日
イギリスが金本位制から離脱。これは金本位制の下で、為替の暴落が起きると見た大手銀行や投機筋は
一斉にドル買いに殺到し、金が大量に流出した。そこで政府としては貨幣を縮小するか、金本位制から離
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脱するかの選択を迫られたが、貨幣を縮小すると深刻なデフレに陥ることになるため、あっさりと金本
位制から離脱することを選んだのであった。
昭和恐慌の中、大量の外債を抱えていた日本でも同じことが起こり、対ドルで円の暴落が起きると見た
大手銀行や投機筋は一斉にドル買いに殺到し、金が大量に流出した。
ドル買いの主力はアメリカのナショナルシティ銀行(現在のシティバンク)で約 37%であったが、住友、三井、
三菱各銀行(8.6~7.2%)のほか、三井物産(5.5%)がこれに追随した。
大手銀行や投機筋は、9 月末から約 2 か月の間に 5 億円以上を投じてドル為替を買って、5 億円以上の金を買い
占めたことが世間の非難を浴びた。発端は、三井銀行が横浜正金銀行から 4300 万円余りの金を買ったことで、そ
の理由は外債の利払いに充てるためで、通常の銀行業務の一環に過ぎなかったが、政府は金本位制採用政策の失敗
を財閥批判にすり替えたものであった。
当時は経済が堅調であった 3 年前と比べ、
世界大恐慌の煽りを受けてこの年は卸売物価が 32.4%も下落しており、
昭和恐慌のボトムであった。国民の怨嗟の声は政府に対する他、国民が生活に喘ぐ中で私利を追求した大手銀行に
も向けられた。
10 月 17 日
軍隊を直接動かし、要所を襲撃して首相以下を暗殺しようと計画していた桜会グループ橋本欣五郎・
長勇・田中弥・小原重孝・和知鷹二・根本博・天野辰夫といった中心人物が憲兵隊により一斉に検挙され
る=十月事件(決行日を 10 月 24 日としていた)
。民間からは当初、大川周明ら、後に北一輝、西田税ら
が参加していた。桜会グループは、私利私欲に走って国家に大損害を与えた大手銀行をもその標的にし
ていた。
橋本欣五郎中佐ら陸軍中堅幹部の一派が、3 月のクーデター未遂に続き、再びクーデターを計画していた。
陸軍は軍法会議を開かず、橋本中佐を重謹慎 25 日、長勇少佐を謹慎 10 日とする実に軽い処分で済ま
せた。重謹慎期間中、両名は料亭で痛飲していたという。
11 月 2 日
赤松克麿と彼が率いる社会民衆党社会青年同盟員 30 名が三井銀行営業部に乱入する事件が起き、更に
右翼や左翼による他銀行襲撃の噂も囁かれた。
12 月 11 日
金輸出禁止を唱えて井上蔵相と対立していた内務大臣安達謙蔵が、党内からの孤立をきっかけに閣議
をボイコットし、内閣が崩壊。
満州事変勃発を機に井上蔵相の部下・青木一男が「国家の非常事態を理由として」金本位制離脱を進言していた
が、井上は全く耳を貸さなかった。その末の安達内相による造反であった。
12 月 13 日
犬養毅内閣が成立。大蔵大臣には昭和金融恐慌を抑え込んだ高橋是清を起用した。
高橋はその日のうちに金輸出を再禁止した。これにより為替相場は暴落し、金を買いすぎていた三井、
三菱、住友の各財閥も窮地を脱することができた。
翌年には日銀の貸出金利を 3 次にわたって引下げ、低金利政策を推進した。また、総額 20 億円を超え
る財政至上最高額の予算案をつくり、歳入不足は日銀引受けによる赤字公債で補填した。
後のケインズ理論を先取りしたと評される積極財政によって、実質経済成長率が 0.4%(昭和 6 年度)
から 7 年は 4.4%、8 年は 10%と跳ね上がった。円安により輸出も増大し、日本は世界恐慌からいち早く
95
脱出した。
為替レートは、それまでの 100 円=45~50 ドル、100 円=30~50 ポンドが、翌年には 100 円=20~30 ドル、30~
25 ポンドとなった。
対円でポンドが急上昇したイギリスでは、綿製品業界が輸出量で首位の座を日本に奪われて凋落し、猛烈な対日
非難が起きた。英国産業連盟は「日本の競争の脅威」と題する報告書を出して、日本の円安誘導を「不公正貿易」
として糾弾した。イギリスの反日感情は、後にアメリカを動かして、次第に世論を反日へと向かわせた。
(第一次上海事変)
7 年(1932 年)1 月 8 日
陸軍始観兵式を負えて皇居に戻られる儀仗行列に沿道から手榴弾が投げ込まれる事件が起きた=桜田
門事件(犯人は朝鮮人、李奉昌。後に死刑)
。天皇は無事であったが、行列の近衛兵 1 人、馬 2 頭が傷つ
けられ、責任を感じた犬養首相は直ちに閣僚の辞表を取りまとめて即日提出した。→天皇の意向により
後日取り下げられる。
この事件についてシナ国民党の機関紙である民国日報が報道の中で「惜しかった」旨記載したため、国
内では非難の声が渦巻き、現地の情勢も決定的に悪くなった。
1 月 18 日
上海三友実業会社の前で、日蓮宗僧侶と信者 5 人が中国人に襲われた(1 人死亡、2 人重傷)
。桜田門
事件を報じた民国日報の記事により、シナ人の侮日感情と日本人居留民との反感により、険悪なムード
の中での事件であった。
三友実業社は共産党系の抗日拠点といわれていた。後に上海公使館付陸軍武官田中隆吉少佐が証言したところに
よれば、自分の愛人である川島芳子(清王室・粛親王の第 14 王女=東洋のマタハリと呼ばれていた)を使い、が三
友実業社の職員を買収して僧侶らを襲わせたものだと言われる。その目的は、柳条湖事件から世界の目を他にそら
すためで、同事件の首謀者板垣征四郎大佐らの依頼によるものだったとされる。しかし、田中隆吉の証言意外に何
ら証拠はない。
20 日に一部日本人青年が三友実業社を襲撃したりしたため、日頃シナ人に反感を抱いていた日本人居
留民が「排日運動を殲滅するべし」という決議を行ってデモをするなどにより、次第に上海周辺が騒然と
なる。
この騒動が大きな事変につながった理由は、その直前 1 月 8 日に東京・桜田門付近で起きた天皇暗殺未遂事件(桜
田門事件)について、シナ国民党の機関紙が「惜しかった」と論評したことにあったと言われている。
1 月 26 日
村井総領事が上海市長に対し、18 日の事件について陳謝と加害者処罰及び抗日団体の解散などを要求。
市長が最終的にその要求を受入れたことから、それを憤慨した学生等が大挙して市役所を襲って暴行。
支那人避難民が日本人居留地に入ってくる。→上海市工部局が戒厳令を発布。
1 月 27 日
日本を含む列国が協議を行い、共同租界内を分担警備することを決める。日本海軍陸戦隊は夜半、軍艦
から 1, 400 名を上陸させ、総勢 2700 名で警備に就いた。
1 月 28 日
上海市参事会が非常事態宣言(戒厳令)を出す。
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上海郊外に野営していた国民党軍第 19 路軍(広東の軍で 3 個師団、約 3 万 6 千人。蔡廷諧が指揮する
私軍であり、南京政府の統制には服していなかった)が日本海軍陸戦隊(1,400 人)を突然銃撃し、日本側
に 90 余名の死傷者が出た。=第一次上海事変
海相・大角岑生が陸相・荒木貞夫に協力を要請し、両軍が共同作戦をとることで合意した。
日本海軍は、
「今回の上海事変は反政府の広東派及び共産党などが第 19 路軍を使嗾して惹起せしめた
というべきである。
(かかる軍隊は)世界の公敵というべきで、我は第 19 路軍のような公敵に対して自
衛手段をとっているに過ぎない」旨の声明を出し、日本側の正当性を訴え、直ちに開催された閣議におい
て派兵を懇請した。
この事件に大阪朝日、東京日日の東西 2 大新聞が、
「進撃」
「爆撃」…と軍を後押しして国民の熱狂を煽
った。
政府は国際社会の手前、上海での軍事行動を最小限にとどめたかったが、陸軍は政府が新聞を味方に付
けて、政府に派兵を要求した。
1 月 31 日
閣議において決定された派遣軍である第 3 艦隊の巡洋艦 4 隻、駆逐艦 4 隻、航空母艦 2 隻(加賀・鳳
翔)及び陸戦隊 7 千人が上海に到着した。
さらに日本政府(犬飼毅首相)は、2 月 2 日に金沢第 9 師団及び混成第 24 旅団の派遣を決定、第 9 師
団は 2 月 13 日、上海北方の呉淞に上陸。
国民党軍は第 5 軍(指揮官は張治中)を編成し、2 月 16 日、作戦に加わった。
2 月 18 日
第 9 師団長が、第 19 路軍に対し列国租界から 20km 撤退することを要求するも、拒否されたため、20
日に総攻撃を開始。しかし、第 19 路軍・国民党軍(ドイツ軍人の顧問・ゼークトによって鍛えられた軍
団)
・第 5 軍からなるシナ軍はナショナリズムの高揚もあって、抵抗は熾烈を極め、第 9 師団は大きな損
害を受けた。第 9 師団だけでは無理とみた日本陸軍は政府に 2 個師団の増派を求めた。
2 月 23 日
陸軍の要求に抗しきれず、閣議で 2 個師団の増派を決定した。
陸軍は翌 24 日に第 11 及び第 14 師団の2個師団からなる上海派遣軍(派遣軍総司令官は白川義則大
将)を編成した。この際、天皇は特に白川大将を招じ、上海だけで戦闘を切り上げるよう、特に要請した。
27 日に増派された第 11 師団が 3 月 1 日、国民党軍の背後に上陸し、以降、戦局は日本軍が優位に立
ち、同日、第 19 路軍が退却を開始。日本軍は国民党軍の拠点チャペイを攻撃、占領。
3月3日
陸軍の中には、南京まで進撃せよと主張もあり、参謀本部は追撃の指令を出したが、白川総司令官は天
皇との約束を守って総司令官の権限で戦闘を中止し、停戦に至った。
(このことを知った天皇は「本当に
白川はよくやった」と喜ばれた。
)
一連の戦闘で、日本側戦死者 769 名、負傷 2322 名。国民党軍側の被害は 1 万 4326 人であった。36 日
間の戦争によって上海全市が約 15 億6千元の損害を蒙った。シナ側住民の死者は 6080 人、負傷 2 千人、
行方不明 1 万 4 千と発表された。
その後、イギリスのケリー・シナ駐留艦隊司令長官の計らいにより旗艦「ケント」船内で行われた。日
本側代表・松岡洋右の下には強硬外交を要求する陳情団が押し寄せたが、イギリスの好意と重要性を理
97
解していた松岡は一切耳を貸さずにイギリスを仲介役とした和平に持ち込んだ
停戦後、蒋介石は、日本軍相手に奮戦した蔡廷諧率いる第 19 路軍(戦闘で疲弊していた)に対し、論功行賞を施
すべきところ、蔡廷諧らの思惑を無視して福建省に配置換えした。これを不服とした蔡廷諧ら第 19 路軍は福建省
内で反蒋介石の旗印を掲げた。期したとおりに事が運んだと見て蒋介石は、国民党の大軍を差し向け、蔡廷諧軍を
攻め、蔡廷諧は敗れて国外逃亡した。
自分の支配下にない軍事力は解体する――というのが、蒋介石が一貫して持ち続けてきた方針であった。
4 月 29 日
停戦交渉中のこの日、上海日本人街の虹口公園で行われた天長節祝賀式典に際して、朝鮮人の独立運
動家・尹奉吉が爆弾を爆発させ、河端貞次上海居留民団行政委員会会長が即死し、白川上海派遣軍総司令
官、野村吉三郎中将(右目失明)
、村井総領事、重光公使(左足を失う)らが重傷を負った。天皇の意向
を守って停戦を決断した白川総司令官は 5 月 26 日、病院で死亡した。
5月5日
米英その他の国の斡旋により上海停戦協定が成立。日本海軍陸戦隊が撤退するとともに外国人居住地
域の北・西、南へ 15 マイルを非武装地帯とし、この地帯における軍事施設の建設・設置を禁じるととも
に、シナ人警察官からなる中国保安隊によって治安維持が行われることとなった。
(テロ事件の頻発と政局)
7 年(1932 年)1月
前年 12 月に成立した立憲政友会・犬養内閣は、高橋是清元首相を大蔵大臣に起用して恐慌を収束させ
たことについて民意を問うべく、衆院を解散した。
2 月 20 日投票の第 18 回総選挙では立憲政友会が 301 議席を獲得して圧勝し(定数 466)
、以降、犬養
内閣は金輸出の再禁止を行って、恐慌対策に取り組んだ。しかし政府は、前年起きた満州事変事後処理の
主導権を現地の関東軍から奪還することができなかった。
このころ巷では、朝日新聞や諸雑誌が「強くて清廉な軍人が腐った世の中を改めてくれる」という論調
の記事を連発し、政党政治不信・軍部への期待という風潮を生みだした。
『婦人公論』の表紙を本庄繁関
東軍司令官や荒木貞夫陸軍大臣が飾るような異様な時代であった。
政府は、関東軍に引きずられて後に国際連盟を脱退する方向へと歩み続けることとなる一方、恐慌克服のための
財政政策の効果が庶民レベルにまで浸透するには時間がかかり、7 年初めの時点では窮迫した国民の不満の矛先は
当の犬養自身に向けられていくこととなった。→五・一五事件へ
2~3 月
井上日召に率いられた血盟団員(三上卓中尉、古賀清志中尉、小沼正ら)が「一人一殺」「一殺多生」
の指令を受けてテロ事件を起こした。2 月 9 日、前大蔵大臣の井上準之助が小沼正により、また翌 3 月 5
日、三井財閥の団琢磨が菱沼五郎により射殺された(血盟団事件)。
井上日召は 3 月 11 日に自首し、関係者 14 人が逮捕された。血盟団の暗殺リストには、政財界の要人
のほか、元老・西園寺や内大臣・牧野ら宮中側近も含まれており、彼らは天皇を中心とする全体主義国家
を目指していた。
しかし、現実の天皇は、陸軍の跋扈を大変憂慮し、一時は不眠状態であった。にもかかわらず、彼らは、
天皇ご自身がどんなお気持ちでおられるかを全く考えていなかった。
98
こうしたテロは、腐敗した政党政治に対する不満から生じたとされているが、昭和 4 年秋ニューヨー
ク発の世界大恐慌、5 年 1 月の日本政府による金輸出解禁に起因する大不況に喘ぐ国民の怨嗟が表面化
した事件であった。
三上中尉たちの危機感は、左翼青年の認識、暴力革命による体制打倒をめざす共産主義とさして変わり
はなかった。当時は、マスコミをはじめ国民の気分は軍に期待して社会改革を求めるというものであり、
それには共産主義思想が少なからず影響していた。
裁判が始まるとマスコミは、これら被告の陳述を同情的に報道し、そのため全国から 30 余万通の減刑
嘆願書が寄せられた。
5 月 15 日
五・一五事件起きる。
午後 5 時過ぎ、海軍中尉三上卓、同古賀清志、同中村義雄ら海軍将校6名と陸軍士官学校候補生 11 人
及び橘孝三郎率いる農本主義団体員らが国軍の兵器を勝手に持ち出して、首相官邸、牧野伸顕内大臣邸、
警視庁、政友会本部、三菱銀行、変電所などを襲い、手榴弾を投げ込むなどした。上海事変停戦協定成立
10 日後のことであった。
首相官邸を襲った海軍将校 5 人は、話し合いを求めた犬養毅首相を、問答無用と拳銃で暗殺した。
犬養は、満洲国は傀儡政権であり、これをつくった関東軍のやり方が余りにも乱暴すぎるとみていて、蒋介石政
権の下での親日政府という形にする方が国際的な批判を浴びないと考え、軍部の圧力にも拘わらず独立国として承
認することを拒否していた。
当時、世界恐慌に端を発した昭和恐慌のなか、金輸出解禁による混乱、そして再禁輸、その中での大手銀行の私
利追求、政党の露骨な党派的動きなどへの国民の不満が高まっていた。
軍の中には天皇親政による国家改造を望むものが少なくなく、特に農村出身の者が多下士官の一部が、農産品価
格の下落による農村の疲弊に憤りを覚え、愛郷塾(橘孝三郎が地元茨城県に設立していた)を中心とする農本主義
団体員らとともに「堕落せる政党、財閥、特権階級が形成している醜悪な政治権力を破壊し、建国精神に基づいた
政治の行われる皇国日本」を、暴力によってつくろうとしたものであった。
事件の 3 日後、陸軍士官学校入学以来、長く軍務に就いて歩兵第 3 連隊第 6 中隊長で同年代の陸軍将校と交流の
ある雍仁親王(秩父宮)が天皇と会談の場で、
「天皇親政、憲法の効力停止」を訴えた。雍仁親王が陸軍将校の全体
主義的発想に影響を受けていることを憂慮した天皇は、奈良侍従武官長を召して“荒木陸相に親王を他所に転補す
る必要がないか協議するよう”仰せられた。
次期首相について、天皇は①ファッショに近くない人格高潔の者、②国際関係を円滑に進める者、③事
務官と政務官との区別を明らかにする者、の3点を希望された。熟考した元老・西園寺はかつてジュネー
ヴ軍縮条約の全権大使を務めた 77 歳斎藤実を推挙した。斉藤は、海外にも知己の多い国際派として知ら
れていたが、明治末から大正初期にかけて海軍大臣を務めた軍人であり。憲政の常道から外れる人選で
あった。
5 月 26 日
元海軍軍人・斎藤実が首相に就任し(外務大臣も兼務)
、政党内閣の終焉となった。
斎藤首相は荒木陸相、真崎参謀次長(皇道派で荒木の盟友)を留任としたが、関東軍の人事を一掃し、
満州事変の首謀者・本庄繁司令官以下、石原莞爾参謀らを更迭した。
斉藤内閣にとって最大の懸案はリットン調査団の報告書が作成されつつなかで、国際連盟を舞台とし
99
た各国との協調であった。しかし、7 月 6 日、外相に起用された内田康哉(3 度目の外相就任は、就任早々
「国を焦土と化しても(満洲問題で)一歩も譲らない」と強硬論を吐き、議会を唖然とさせた。
大正 7 年に始まり昭和 7 年 5 月に終わった政党政治時代に、軍部は政党に対する防衛反応として、軍
部大臣現役武官制を武器として使うようになり、また、統帥権独立を声高に叫んで自己の地位を高めた。
なお、事件を起こした青年士官たちを裁く軍法会議裁判官の許に百万通に及ぶ減刑嘆願の手紙が殺到
した。
→翌 8 年 11 月の海軍軍法会議で最高刑が禁固 15 年という寛刑がくだされ、しかも恩赦(皇太子殿下
がお生まれになったため)により多くは刑期満了前に釈放された。
…処分が軽すぎた=テロリズムの凶悪さに国民が真剣な警戒を抱かなかったという禍根を残すことと
なり、このテロは日本の政治に計り知れない悪影響を及ぼした。
(その後のテロないしクーデター関連事件)
昭和 8 年 7 月 10 日 神兵隊事件=愛国勤皇党党首天野辰夫、日本生産等青年部長鈴木善一らを中
心として「昭和維新革命」計画を進めていた右翼団体代表 49 名が逮捕された。彼らは、斉藤
内閣を打倒し、神武肇国の王政を復古し、昭和皇道維新を断行しようとするもので神兵隊と
呼ばれた。
昭和 9 年 11 月 14 日
埼玉挺身隊事件=政友会関東大会に出席中の鈴木総裁以下の幹部を暗殺し
ようとした計画が未然に発覚、検挙された。血盟団に事件の系統に所属する一派の計画で、
これらのテロ計画は政党政治家をいよいよ萎縮させることとなった。
同月
士官学校事件=士官学校を中心としたクーデター計画が未然に発覚した。このときも三
月事件、十月事件同様、事件内容は闇から闇に葬られた。
11 月 25 日
高橋蔵相が日銀による歳入補填国債の直接引き受けを断行。
これは、これ以上、不況を続けてはならないとの考えからの金融政策であり、国民に「貨幣量が増えていって景
気が回復する」という期待を抱かせるものであった。以降、日本経済は順調に回復軌道に乗り、物価も株価も上昇
していった。
(上念司「経済で読み解く大東亜戦争」KK ベストセラーズより)
(満洲国建国)
7 年 2 月 16 日
満洲の各省代表の他、満蒙青年同盟、在満モンゴル人や朝鮮人の代表など 700 人が瀋陽(奉天)に集
まって満洲国建国をめざす全満建国促進運動連合大会が開催された。
張景恵、煕洽、馬占山、臧式毅の満洲4巨頭は瀋陽市長の別邸で建国会議を開き、建国の原則と大綱を
決めた。国体・政体については結論が出なかったが、熱河省の湯玉麟、内モンゴル盟長のチメトセムビル、
ホロンブイル副都統の凌陞を委員として加え、張景恵を委員長とした東北行政委員会を結成した。
モンゴル人が住んでいた遊牧地に漢人が押し寄せてきたのは 20 世紀の初めであり、その一人、張作霖が開墾した
ばかりのモンゴル草原を地盤として勢力を伸ばした。しかし、1911 年 11 月に辛亥革命が起きるとモンゴルは漢人
の支配を嫌って 12 月に独立を宣言した。そのときモンゴルが頼りにしたロシアは、日露戦争後日本と結んだ密約
のため、北モンゴルの地域だけ支援すると回答し、結局外モンゴルだけがロシアの勢力下に入った。
内モンゴルは独立を果たせずに中華民国にとどまったが、軍閥が勝手に満蒙開拓を推し進めたため、モンゴル人
100
の牧地は減少し、生活も疲弊するばかりであった。そこで、モンゴルの独立を願う人々は日本に協力することとな
ったのである。
3月1日
東北行政委員会が、中華民国からの独立と独立国家・満洲国建国を宣言(首都は長春→新京と改名)。
裏には、関東軍の工作があった。
世界の耳目が上海事変に向いている間のことであった。
3月9日
関東軍参謀ら(板垣征四郎、石原莞爾、関東軍奉天機関長・土肥原賢二が中心)が元清朝の宣統帝(溥
儀)を後押しして元首(官名は執政)とした。→昭和 9 年 3 月1日、溥儀は帝位に就き、満洲国は帝政
となった。辛亥革命によって紫禁城から追い出された溥儀は、父祖の地である満州からロシアを追い払
った日本の助けを得て、彼の希望どおりに満州族の國の皇帝になったのである(レジナルド・ジョンスト
ン「紫禁城の黄昏」
)
。
[満洲国の根本理念等]
国体:民本主義
国旗:赤・青・黒・白・黄色の新五色旗
綱領:王道楽土の建設及び五族協和
国花:蘭
(五族=漢人、満洲人、モンゴル人、日本人、朝鮮人)
なお、溥儀は執政に就任する直前に、秘密裏に本庄繁関東軍司令官あての書面に署名していた。その内容は、以
下の 4 項目であったが、戦後になるまで公開されることはなかった。
① 満洲国は国防及び治安維持を日本に委託し、その経費は満洲国が負担する。
②
満洲国は、日本軍が国防上必要とする鉄道・港湾・水路・航空路などの官吏敷設を日本又は日本が指定す
る機関に委託する。
②
満洲国は、日本軍が必要とする各種の施設を極力援助する。
③
日本人を満洲国参議に任じ、その他の中央・地方の官署にも日本人を任用し、その解職には関東軍司令
官の同意を必要とする。
6 月 14 日
立憲政友会と立憲民政党が共同で満州国承認決議案を提出し、全会一致で可決された。これは、両党が
満洲国の即時承認を求めていた関東軍に取り入って、政権を取ろうとしたことから生まれた決議であっ
た。国民の多くも満州国建国を熱狂的に支持した。これにより、斉藤内閣の満州国不承認政策が大きく揺
らいだ。
(シナ、ソ連の対抗策など)
事変後の満洲の発展は目覚ましかった。長城以南の大陸では依然として政治的混乱が続いていて民衆
の生活は安定していなかったから、
「日本人が満洲に天国をつくってくれた」としてシナ人(漢族)が大
挙して満洲に流れ込み、満洲の人口は増える一途だった。
こうした実情を見たアメリカの外交官(上海副領事)ラルフ・タウンゼントは、著書「暗黒大陸・中国の真実」に
「満洲は日本人に任せておけばよい。列強は口を出すべきではない」、「列強の植民地経営に比べ、日本の方が寛大
101
でうまくやっている。わがアメリカは介入すべきではない」と書いた。
このようなことを書いたため、日米開戦を機にタウンゼントは利敵行為を理由に 1 年間の獄中生活を余儀なくさ
れた。
日本が投資を進めることにより発展を続ける満洲の状況は、蒋介石や毛沢東にとっては、決して許され
るものではなく、日本への敵意を高めた。
また、キリスト教に比較的(蒋介石に比べて)寛大とみられていた張学良が満洲から追い出されると、
在シナのアメリカ人宣教師たちは日本を敵視するようになった。
そこで、蒋介石は、アメリカ政府を動かすためにアメリカ人宣教師たちを利用しようと考え、国内にか
かえる様々な問題について相談するとして、アメリカ人宣教師たち集会を持ち、福音伝道者 S.エディを
毎年シナに招いて宗教キャンペーンを張らせた。蒋介石夫人・宋美齢も南京の自宅に毎週アメリカ人宣教
師を招いて祈祷会を開いた。招かれたアメリカ人宣教師たちはこぞって蒋介石支持派に転じた。
後、アメリカ人宣教師たちは嘘の情報を流してアメリカ世論を操作することに利用された。
→1937 年 12 月 17 日の項目参照
7 年(1932 年)4 月 26 日
中華ソビエト共和国(前年 11 月に、瑞金において成立していた。)が、同国臨時政府の名により日本に
対して「宣戦布告」を発した。
「日中戦争」について「15 年戦争」との呼称は、シナ共産党・コミンテルン側から見た場合に相応しい。
5月
日本共産党幹部、片山潜、野坂参三、山本懸蔵がコミンテルン幹部と討議の上、日本における共産革命
実現を目指す「32 年テーゼ」を決定。全文は「赤旗」7 月 10 日号に掲載された。
「帝国主義戦争反対。帝国主義戦争を内乱に転化せよ」
「ソヴェート同盟とシナ革命を守れ」
「革命的階級は反革命的戦争(=対ソ戦争のこと)の場合は、ただ自国政府の敗北に努めよ」
…つまり、共産党の「反戦」は、あくまで共産主義国・ソ連のための「反戦」であった。
日本の「革命」については、満洲事変後の日本の情勢をブルジョワ民主主義革命の段階と規定し、満洲
事変を通じて国内を内乱に導き、プロレタリア革命への客観的・主体的諸条件を熟成させていき、その条
件成熟時をもって一気に共産主義革命に至らしめることをスローガンとした=「二段階革命論」。
それは、ロシア革命におけるケレンスキー三月革命とボルシェヴィキ十月革命の方式を採用したものであり、こ
の新綱領を理解した日本の共産主義革者らは、戦争反対闘争から敗戦革命の方向へと戦術転換を行った。
→同年 10 月 6 日、コミンテルンからの資金が途絶え、一部共産党員が東京市大森区(現:大田区)で
日本初の銀行強盗事件を起こした(大森銀行ギャング事件)
。
6~12 月
蒋介石は日本との戦争の意思を内に秘めて、密かにソ連との国交樹立の交渉を行い、この年(1932 年)
の 12 月、中華民国南京政府・ソ連両国の国交が樹立された。
蒋介石にとってソ連との国交は、①ソ連から建設同意を取り付けて東トルキスタン(新疆)道路建設に結実し、
「援蒋ルート」のひとつ「ロシアルート」として 36 年から 40 年まで膨大な量の軍需物資搬入を可能とした。また、
②1937 年 8 月の上海事変時(日中全面戦争突入)に、ソ連と不可侵条約を締結し、大量の武器弾薬、航空機、車両
等の軍事援助を受けることにもつながった。
102
ソ連としても、蒋介石の軍が日本と戦争をすることは望むところであった。
7月
オタワで、イギリス連邦経済会議が開かれ、英帝国内では無関税又は特恵関税とするが域外からの商
品には高率の関税をかけることを決めた=オーストラリア、ビルマ、マレー半島、香港、エジプトも含め
て世界の四分の一に及ぶブロック経済化が決定された。
その結果、日本、ドイツ、イタリアなど資源のない国は、ニューヨーク初の恐慌から生じた経済不況の
中、一層の苦境に陥ることとなった。日本では、とくに農村部の疲弊が厳しさを増した。
(満洲国承認とリットン調査団報告)
昭和7年(1932 年)
7月
リットン調査団が再来日。一行は満洲帝国に対する国内の雰囲気が一変しているのに驚いた。シュネ
ーは、
「見聞録に」
“日本の対外政策があまりにも国内政局の動きや、国民世論によって左右され過ぎてい
るとの印象を受けた」と記した。
9 月 15 日
日本国と満洲帝国を承認し、両国の間に次の 2 条からなる日満議定書が取り交わされた。その際、先
の秘密文書(溥儀が署名した前記文書)の内容が確認された。この満洲帝国承認は、軍部の要求や承認を
急かせるマスコミ・世論があったとはいえ、内田康哉外相の主導によりなされたものであった。
① 日本人が持っていた全ての権利と利益を無条件で承認する。
②
日満両国による共同防衛を約し、日本軍が満洲国内に駐屯する
こうして張父子による政権に代わって満洲人による政権がうちたてられ、独立国家としての満洲国が
成立した。同国は法律を整備し、通貨制度を確立した。
この満洲国承認は、同国承認に反対していた犬養首相が暗殺されてから、僅か 4 ヶ月後のことで、朝日新聞をは
じめとするマスコミは「早く承認せよ」と急かし、国民も同調して合唱する中でなされたものであった。
そのタイミングは、満洲事変に対するシナ国民政府の提訴に基づき国際連盟が組織したリットン調査団の報告を
正式に受け取る半月前であった。
対外的には、旧政権が残した合法的な契約は全て継承し、これを履行することを宣言した。したがって
シナ政府もいずれの第三国も、満洲国の出現によって何物をも失うことはなかった。ただし、翌 8 年 6
月、満洲国は税収と塩税収入の全面管理政策を発表し、イギリス人税務管理官を国外退去させた。
従来シナ国民政府の税収の三分の一は満洲からのもので、それが英国の借款の大部分を保証するものであった。
これにより英国は、日本の誠意(=国際上の義務を果たすか)を疑い出すこととなった。
最終的に世界で同国を承認したのは 23 カ国であった(当時の独立国家は約 80 カ国)
。
なお、国民党政府は、翌 9 年 12 月、満洲帝国との間に通郵・電信協定、設関協定及び鉄道に関する協定を結び、
貿易も行った。また、日本に対しても敦睦令を発した。
アメリカは「満洲と支那の門戸を開放し、
(関東軍が)長城以南に進出しなければ米国は満足(ピットマン上院議
長)
」とした。
満洲国との間で国境紛争を繰り返したソ連も、事実上同国を承認していた。また、南京の蒋介石政権も満洲国と
103
通商協定を結び、郵便物が相互に届くようになった(事実上の承認)
。
在満日本人は、全人口の僅か 2%であったが、以降、日本は満洲に大々的な投資を行い、10 年足らず
の間に、豊満ダムを建設するなど産業基盤整備を図り、さらには航空機まで製造する近代産業国家に発
展させた。後に満洲産業開発 5 カ年計画がスタートしたとき(昭和 12 年)
、その総予算は同年の本国の
歳出予算の 2 倍近い規模であったため、
貧困にあえぐ東北地方の人々が反対の声を上げたほどであった。
長城の南は内戦の混乱のなかにあったが、満洲は平和で経済発展も目覚ましかったので、年に百万人の
漢族や蒙古人が満洲国に流れ込んだ。このため、当初 3 千万の人口も、昭和 15 年には約 4,200 万人に増
えた。
(満洲国のち満洲帝国の政治体制)
国務院の長である総理大臣(初代は鄭孝胥)のすぐ下の総務庁長官には日本人が任命されて実質的な権力を握り、
実際の行政を担当した。総務庁は満洲国の中枢神経のような役目を果たし、総務長官主宰の下で日系の各部総務司
長(又は次長ないし処長)などが参加して開かれる定例事務連絡会議で満洲国の政策が実質的に決定された。定例
事務連絡会議は官制上なんら根拠のない会議であった。
すなわち満洲国のち満洲帝国では日本人の総務長官が国政上の機密や人事、財政を掌握し、各処に配置された日
系官吏の手によって重要政務が決定・推進された。なお、立法院は関東軍の方針により開設されなかった。
日本人官吏に対する任免権を持っていたのが関東軍(その中心人物は首席参謀・板垣征四郎、その下で実際に事
を運んだのは満洲事変にも加わった参謀・片倉衷大佐)であった。片倉は総務庁人事を根本的に刷新し、内地から
星野直樹(大蔵省)
、椎名悦三郎(商工省)ら各省の官僚を呼び集めて総務庁を中心とした統治機構を作った。
このように関東軍が日本人官僚の任免権を持ち、それら日本人官僚によって満洲国を実質支配した=「内面指導」。
翌 8 年 8 月 8 日、斉藤実内閣が「満洲国指導方針要項」を決定。そこには「満洲国に対する指導は、関東軍司令
官兼在満洲国大使の内面指導の統括の下に主として日系官吏を通じて実質的に之を行わしむるものとす」と書かれ
ていた。
一方で、関東軍の援助の下、満洲青年連盟などが満洲国協和会を設立した(7 年 7 月 18 日に設立委員会を開催、
同 25 日に発会式。名誉総裁は溥儀、名誉顧問は本庄関東軍司令官、会長は国務院総理大臣鄭孝胥)
。関東軍は満洲
国協和会が国民大衆の支持を獲得して、政府を指導するような勢力となることを期待していた。しかし、協和会の
経費は国庫補助金から出たこともあって真の指導力は関東軍が握っていたから、昭和 9 年の組織改正で創立以来の
満洲青年連盟系メンバーが傍流におしやられてしまった。その後、11 年の組織改正によって協和会は国家動員組織
となり、日本における国家総動員体制のモデルとなった。
関東軍の指導の下、満洲国を日本に負けない近代国家に育てることを目的として昭和 10 年「産業開発五か年計
画」を練り上げ、翌年には予算もつけた。11 年秋には、その計画の実現を期すために商工省のエース的存在だった
岸信介を実業部総務司庁として招いた。
就任した岸は日本産業(日産)の鮎川義介に働きかけ、同社を丸ごと満洲に移転させることに成功した。
(経済発展)
満洲国のち満洲帝国の経済建設の主役は満鉄で、鉄道だけでなく鉄鋼、炭鉱、液体燃料、化学工業、電気などの
企業も経営した。昭和 11 年に始まった産業開発計画の最初の 5 年間における日本政府による対満投資は当時の金
額で 11 億 61 千万円に上ったが、そのうちの 80%は満鉄への投資であった。
次の 5 年間は支那事変の時期と重なったため、日本は軍需産業の原料を満洲に求めた時期で、計画の拡大・修正
を重ねたが、資材不足に悩みつつも、総額 50 億円に達した日本からの投資によって、鋼材は計画の 2.6 倍、石炭は
104
1.8 倍、電力は 2.4 倍を達成し、重工業の基礎を築いた。ただ、農業部門は大豆などの生産が停滞した。
昭和 17 年から 20 年にかけては、石炭、農産物、軽工業に重点が置かれ、18 年には農工業総生産額が空前の水準
に達した。
こうした経済建設のため、満鉄が 3 億 5500 万円、三井、三菱他の財閥も 1 億 2500 万円に及ぶ投資行った。これ
により、新京や奉天、ハルビンなどは急ピッチで近代都市に生まれ変わった。
満鉄の本業である鉄道については、満鉄は昭和9年に時速 130km を誇る新型蒸気機関車を開発し、10 年 9 月に
は大連―ハルピン間に特急「あじあ号」を走らせて両都市を 14 時間で結んだのをはじめ、釜山―奉天―北京間を
急行「大陸」で結ぶなど、満洲全土、朝鮮半島に鉄道網を張り巡らせた。張作霖や張学良が造った鉄道(満洲国が
国有化し、満鉄に経営を委託)も含め、昭和 20 年には、総延長は満洲だけで 12,493 キロに達した。
また、満鉄は大連港に 7 億 9 千万円の投資を行って、大連港を整備の上、上海、広州、青島、香港を結ぶ定期航
路を開設した。学校、病院、公会堂などの都市建設にも 4 億円を投じた。
こうして 13 年半の間に築かれた生産設備やインフラは著しく近代化されたものであったため、日本の敗戦後、国
民政府軍と共産党軍によって奪い合いになった。毛沢東が「シナ全土を国民政府軍に奪われても、満洲さえ手中に
すればいい」と言ったことは有名である。
先に満洲を抑えたのは共産党軍で、国民政府軍を追い出して中華人民共和国を打ち立てた後も貴重な生産拠点と
なり、同国を支え続けた。鄧小平が「改革開放」路線を打ち出さざるを得なかったのも、満洲帝国の遺産であった
生産設備が老朽化して使えなくなったからであった。
(教育)
満洲帝国は、それまでの中華民国学制に代えて昭和 12 年新学制を公布し、教育の充実に力を注いだ。初等教育に
ついては、国民学校の昭和 16 年には 45%に達した。
高等教育については、民族協和を国是とする満洲帝国の指導者たるべき人材を養成するため、関東軍と陸軍省が
主導して昭和 12 年 8 月、建国大学令が公布され、建国大学は翌年度から学生が募集した。学年定員は 150 名で、
うち日系は 75 人、満洲系 50 人、朝鮮系・モンゴル系などが 25 人とされた。日系採用の 75 人に対しては 1 万人の
応募者が殺到した。
満洲帝国の公用語は、中国語(北京官話)
、モンゴル語と日本語の三つで、将来的には日本語を共通の言語としよ
うとしていた。
宗教の分野については、関東軍が要望したために皇帝溥儀は 2 回目(昭和 15 年)の訪日の直前、天照大神を奉祀
する建国神廟を創建した。この後、満洲各地に日本の神社が建立され、満洲帝国国民に対してこれを拝むことが強
制された。日本側はそこまで望んでいなかったようであるが、適切であったかについては疑問である。
(石油探査の失敗)
アメリカに石油を依存していた日本は、満洲で油田探査を行ったが、遂に発見することはできなかった。いまの
大慶油田は、当時スタンダード石油会社が発見していたがずっと秘密にしていた。戦後、1959 年に中国がハルピン
西北方 160km の地点で大油田を発見し、76 年以降毎年 5 千万トンを算出している。
もし、この油田を満洲帝国が発見していれば、日米対決の様相は大きく変わっていたであろう。
105
(移民計画と土地の買収)
国土が狭く人口の多い日本は、国土の広さの割には人口の少ない満洲への移民を目指した。そこで、満洲国は昭
和 11 年 8 月、
「20 年後の総人口を 5 千万と想定し、その 1 割に当たる 500 万人を日本人移民とする計画」をたて
た。政府が農民から土地を買い上げて、そこに日本人移民を居住させるというものであり、もともと遊休地などな
かったことから、日本の独断的な発想であり、
“王道楽土の建設”
、
“五族協和の国是”となった面は否めない。日本
からの移住者は一時 150 万人に達した。
農地開拓のため、
「満蒙開拓団」が日本国内で募集され、満洲に送り込まれた。終戦の時点で満蒙開拓団員の総数
は約 27 万人で、軍事的配慮から北満に配置されたが、昭和 25 年 5 月に壮年男子は根こそぎ戦場に動員され、残っ
た満蒙開拓団員約 22 万人であった。日本敗戦後のソ連軍による侵攻によって極めて悲惨な目にあうこととなった
のはその人たちであった。
(人口の増加)
日本人移民計画は予期したほどには進まなかったけれども、満洲の目覚ましい経済発展を目にして、漢人が毎年
100 万人のペースで流入した。彼らから見て満洲は「ワンダーランド」であったからである。
そのため満洲国建国の時点で 3400 万人だった人口は、10 年後の 1941 年には 4300 万人に増加していた。同年満
洲帝国と華北政府は移民協定を締結し、その後も同じペースで漢人労働者が満洲帝国に移住し、安定した生活の糧
を得た。
これらの事実は何よりも、満洲帝国が近代国家に急成長を遂げたことを物語るものであろう。
9 月 15 日(満洲国承認日)
東京では、夕刻、満洲国承認祝賀の約 4 万人の旗行列が宮城二重橋前広場において万歳三唱を行った。
しかし同日夜、満洲の撫順炭鉱において、
「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊の大群が同炭鉱を襲撃した。
炭鉱職員でつくる防備隊員や自警団が懸命に防戦したが、ゲリラは施設に火を放つともに日本民間人 5
人(炭鉱職員 4 人とその家族の女性 1 人)を惨殺した。遺体は耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬか
れていた。夫の遺体を見た妻は錯乱状態に陥るほどであった。(楊柏堡事件)
9 月 16 日
撫順炭鉱を守る関東軍の独立守備隊が反撃し、抗日ゲリラに通じていたとされる平頂山集落の住民(多
くは炭鉱で働いていた労働者)を殺害した。
(平頂山事件)
後の戦犯裁判では、事件と関係のない元撫順炭鉱長ら 7 人が死刑となった。
9 月 30 日
リットン調査団の報告書が日本側に手交される(翌 10 月 1 日に公表)。
報告書は「満洲は名目上中華民国の領土であっても、事実上その主権が及ばない特殊地域である」とい
う認識を示した上で、満洲における日本の権益を認めたが、
①日本軍の行動は正当な自衛手段とは認められず、
②満洲国は自発的に独立したものとは認められない、
とした。その上で、日本を含む「すべての軍隊の撤兵と外国人の協力による特別憲兵隊の創設」を勧告し
ていた。
なお同報告は、日本を「侵略国」と決めつけることはなく、
「シナにおける排日運動が満洲事変を誘発
106
した原因」であるとしたほか、日本の権益をすべて認めていた。
他方中華民国に対しては、
「蒋介石政権は国民党の一機関にすぎない」としたうえで、ボイコットを不
法行為とし、
「責任の半分はシナ側にある」
「国家主義的、外国に対し憎悪の思想を学校で教えている」な
どとして厳しく咎め、満州に自治政府を設立すること、主権はシナにあるものの複数の外国人顧問を任
用し、そのうちの多数を日本人が占めることを提案した。
このようにリットン報告書は、どちらかと言えば日本寄りの内容で、まさに妥協案だった。そのため、
シナの知識階級もリットン調査団の報告に非常な不満をもち、国民政府が国際連盟を脱退して抗議の意
思を示すよう要求した。
ところが、朝日新聞をはじめとする日本のマスコミはこの「報告書」を狂ったように反日文書だと糾弾
し、煽られた国民は同文書を蛇蝎のごとく毛嫌いし、リットンと国際連盟への敵視を始めるようになっ
た。
このときに「国際連盟脱退」に最も反対していたのは、日本にとってソ連が最大の脅威であると考えていた陸軍
皇道派の軍人たちであった。彼らは英米を敵に回すなれば海軍を充実させなければならず、そうなるとソ連に対抗
する軍備が手薄になる、との理由からであった。
一方シナでは、このリットン調査団報告書は反蒋介石の地方軍閥に格好の蒋介石攻撃手段を与えた。
当時の蒋介石国民政府の直接的な統治範囲は揚子江流域に限定され、その他の地方は地方軍閥の実質支配下にあ
った。すなわち、山西省の閻錫山、山東省の韓復榘、甘粛省の馮玉祥、河北省の宋哲元、広西省の李宋仁、雲南省
の龍雲、綏遠省の傳作義、満洲の張学良である。
共産党による抗日は、このような情勢の中で主張された。それは、全国の民衆からの支持を獲得する有効な政治
スローガンであり、地方軍閥と同じように、直接日本軍と戦うことなく蒋介石を攻撃しつつ自己の勢力を伸ばす方
便として主張された。
10 月 11 日
政府は、国際連盟首席全権大使に元満鉄総裁・松岡洋右を任命した。英語に堪能な松岡ではあったが自
己顕示欲が強かった。
12 月 8 日
国際連盟総会において首席全権大使の松岡が「十字架上に立たされる日本」と言われる演説を行っ
た。松岡は国益を主張する線で国内をまとめ、そのうえでイギリスを中心とする国際連盟と仲良くして
行こうと考えており、日本の世論に再考を求める意味合いのものであった。連盟に松岡の演説を聴きに
行った石原莞爾は「これでいいのだ」と一言も話さずに去ったが、国内では松岡の思いは強硬論に掻き
消された。
この時点での松岡は、イギリス重視外交の重要性を認識していた。イギリスのサイモン外相も「国際連盟の顔
を立ててほしい」という立場から松岡演説を正当に評価した。
国内では、新聞がリットン報告書の本意を正しく伝えてはいなかったため、世論は脱退論一色で、連盟脱退決
定までの間、すべての新聞が「早く連盟を脱退せよ」と政府を焚きつけた。朝日新聞などは関東軍の「声明」を
でっち上げることまでして世論を煽った。
内田外相も審議の過程で松岡に強硬姿勢を執るよう訓令を出していた。斉藤実首相は世論の暴走に抗すること
ができず、態度を決めかねていた。
12 月 19 日
107
全国の新聞 132 紙が一斉に国際連盟脱退を促す共同宣言を発表。同宣言は、日本に理解を示していた
リットン報告書を「日本の立場に全く無理解」と悪罵した。反対者は東洋経済の石橋湛山と時事新報に在
籍していた伊藤正徳のみで、同報告書の内容を正当に分析する人が殆どいないという状況であった。
こうした新聞界を軍部もうまく利用していた=陸軍は陸軍報道部をつくってメディア対策を行った。
8 年(1933 年)2 月 17 日
脱退をちらつかせながら国際連盟当局に譲歩を迫っていたものの、効果がないとみた松岡全権大使が
外務省に次のように打電した。
「事ここに至りたる以上、何ら遅疑する処なく断然脱退の処置を執るにあらずんば、徒に外間の嘲笑を
招くべきと確信す」
2 月 20 日
日本政府が「リットン報告書が採択された場合には国際連盟を脱退する」ことを閣議決定。リードした
のは内田康哉外相であった。
2 月 24 日
国際連盟総会が開催され、リットン報告を基調として、満洲国の不承認と「日本軍の満鉄附属地への期
限付き撤兵」に関する理事会決議を賛成 42 票、反対1票(日本)で採択した(棄権した国は 13 か国で、
その多くは反米の国々)
。ただし、日本を「侵略国」とする宣言はなかった。
[国際連盟理事会決議について]
(根拠) 九カ国条約及び不戦条約
(参考) 国際連盟は 35 年のエチオピアへのイタリア軍侵入、39 年のフィンランドへのソ連軍侵入
を侵略と規定し、イタリアには経済制裁、ソ連には除名を以って対処した。
なお、満洲事変以降の日本の戦争を「侵略戦争」と定義したのは、東京裁判においてであっ
た。
これに先立つ前年の国際連盟理事会においてシナ国民党政府・顧維均代表が「田中上奏文」
(昭和 4 年 9 月の項参
照)を持ち出し、
“日本は、そのシナリオどおりに世界征服をもくろんでいる”と論難した。
同文書が全く存在しないものであることから、日本の松岡代表はその真贋問題に持ち込み、対抗したが、却って
シナ側のプロパガンダに利用され、大陸での日本軍の行動がクローズアップされることとなった。
連盟脱退に関し、陸軍の中には対ソ防衛の点から懸念を示す声もあったが、内田外相は議会演説で世論を煽り、
リットンや国際連盟を挑発した。斎藤首相、内田外相には、国際社会への日本の立場を十分に説明することなく、
一切の妥協を排して国際的に孤立する道を選んだ責任が問われる。
松岡代表は訓令に従って用意した宣言書を読み上げた後、満場注視の中、退場した。
国民から大人気を博し、ニューヨークなどを回って 4 月 27 日帰国した松岡は、国民から凱旋将軍のよ
うに迎えられた。
この間、松岡はニューヨークで「連盟脱退は吾輩の失敗だった。帰国後は郷里に帰って謹慎するつもりだ」旨告
白したことを文芸春秋誌が掲載した(この当時の文芸春秋はひとり反軍部であった)
。松岡は帰国後、新聞がリット
ン報告書の内容を正しく報道していないかったことに激怒した。
3月8日
日本政府が国際連盟脱退を決定。
3 月 27 日
108
日本政府が国際連盟に脱退を通告。以降、日本は孤立化の道を歩むことになった。
この日、天皇は次の詔書を発せられた。天皇は内心脱退に不本意であられたのである。
「国際平和の確立は朕常に之を希求してやまず。
(中略)今や連盟と手を分かち帝国の所信に従うと雖
も、もとより東亜に偏して友邦の誼を疎かにするものに非ず。いよいよ信を国際に篤くし、大義を宇内に
顕揚するは、夙夜朕が念とするところなり」
この年、ドイツも国際連盟を脱退。37 年には、イタリアもエチオピア併合問題を巡って脱退し、同連
盟は急速に形骸化した。
(熱河作戦~塘沽停戦協定へ)
蒋介石は、表面上は共産軍討伐を第一目標としながら、裏では秘密組織を使い、万里の長城の南側から
撹乱分子を満洲に送り込み、様々な工作を行った。このため、関東軍はその鎮圧に手を焼いていた。
また、上海ほか各都市で日本人殺傷事件が相次いでいたが、日本政府は有効な対応策を取れずにいた。
一方、関東軍により満洲を追われた張学良が 4 万の東北軍を募って熱河省(万里の長城の北で、もと
もとモンゴル人の遊牧地)に侵入し、“反満抗日”の策源地としていた。
これに対して、溥儀以下満洲人たちが「熱河が入っていないと満洲にならない」と言いたてた。
8 年(1933 年)1 月 2 日
国際連盟を敵に回すような国内情勢の中、山海関で関東軍と張学良軍が衝突し、関東軍が山海関を占
領するという事件が起きた。
関東軍は、満洲国の安全を図るため、熱河省を支配下におこうとする作戦(熱河作戦)をたてた。
熱河省は張作霖の地盤となっていたが、もともと清朝皇帝一族の領地であったため、元清国皇帝・溥儀には「父
祖の地を取り戻したい」との思いがあった。
そのまま残しておけば、張作霖巻き返しの拠点となるというので、関東軍は溥儀以下満洲人たちの思いに同調し
て、熱河省回復作戦を企図したものである。しかし、駐支公使の有吉明などは「熱河に軍事作戦を展開したら、国
際連盟も(日本に対し振り上げた手を)引くに引けなくなる」として反対意見を具申したが、聞き入れられなかっ
た。
天皇は、国際協調の致命傷になりかねないとして、熱河作戦が発動されることのないよう、心を砕か
れた。しかし、天皇の命令をも無視しかねない関東軍将校によって、天皇の威信に傷がつくことを恐れ
て、元老・西園寺も侍従長・奈良も手を拱くばかりであった。
熱河作戦発動の裁可を与える際に天皇は、シナ本土に侵入しないようにと堅く注意された。
2 月 23 日
関東軍が熱河作戦を開始。国際連盟がリットン調査団の報告書の採択などを審議する総会開催の前日
であった。これは、国際連盟に喧嘩を売る行為に等しかった。
川原侃少将率いる関東軍機動部隊が同作戦遂行に当たった。
対する蒋介石軍は、各国の同情を買いつつ、地方軍閥を日本軍と闘わせ、その勢力を弱めようとした。
張学良の東北軍が関東軍と闘ったが、同軍はたちまち長城の南に敗退した。このため張は軍の役職を辞
任・下野し、張作霖時代から続いてきた奉天軍閥は解体した。しかし、そのために共産ゲリラ勢力が拡大
し、急ぎ北上したものの蒋介石はかえって窮地に陥ってしまった。
関東軍は 3 月 5 日、省都・承徳に入城し、市民から大歓迎を受け、軍事的には成功したとはいうもの
の外交的には大失敗の作戦であった。
109
天皇も「
(いまの)対支政策は共匪を助けるに等しい。対支方針を寛大にして国民党政府の共匪対策を
容易にしてはどうか。参謀本部の意向を尋ねてみよ」と侍従長に言われるほどに憂慮していた。この後も
天皇は、関東軍が万里の長城を乞えてシナ国民党政府領内に進出することのないよう、繰り返し注意さ
れた。
3 月中旬、国民党政府軍は何応欽率いる 20 万の中央軍(第 29 軍)の兵を直隷地区に進出させ、下旬
には 7 千の兵を長城線の北に進めさせた。
これは、関東軍が長城を越えられないことを見越しての行動であったが、武藤信義関東軍司令官は、国
民党政府軍を迎撃し、苦戦の末、4 月に万里の長城の線を確保。
5 月 3 日、関東軍司令官は第 6 師団、第 8 師団に長城を越えての本格的な南下進攻作戦を命じた。こ
れには天皇が激怒された。
中旬には関東軍は玉田、密雲、懐柔などの要衝を占領し、さらに北京郊外の通州を占領した。戦火を避
ける難民は続々と北平に流れ込み、北平はパニック状態となった。
この長城以南への侵攻には、批判が多い。
蒋介石は 5 月 3 日、行政院駐平政務整理委員会を設置し、知日派の黄郛を委員長に任命した。→事態
収拾のため、5 月 30 日、塘沽で停戦会議開催。このときのシナ側代表者は、黄郛、何応欽、張群、黄紹
乾の 4 人であった。
5 月 31 日
関東軍参謀副長・岡村寧次少将と国民党政府軍事委員会北平分会総参謀・熊斌中将との間で塘沽停戦
協定が締結され、満洲事変は終結した。
シナ側における条約の締結担当は行政院であったが、肝心の行政院には何の相談もなく、結果を電文で
報告しただけであった。
こうしたやり方で協定締結が進められたのは、蒋介石に協定を守る気が全くなかったからであった。
この協定により、満洲帝国は熱河省を回収することに成功し、万里の長城が同国と国民党政府支配圏と
の分離境界線となった。また、国民党政府が事実上満洲帝国を承認したこととなり、日本の満洲支配が一
応安定した(満洲事変の落着)
。そのうえで、長城線の外側、河北省北東部(人口約 400 万)に東西 200km、
南北 100km の非武装地帯を設けた(後にここに冀東防共自治政府が樹立された)
。
この地帯の治安にシナ兵の「進入」及び一切の「挑戦撹乱行為」が禁じられており、その監視について
は反日的でない保安隊が担当することとし、関東軍は長城の北側に帰還した。ただし、同協定により関東
軍は非武装地帯を「視察する」権限が与えられていた。
この協定はシナ側においては、ナンバー2の指導者であった汪兆銘が主導して締結に至ったものであ
るが、シナの世論は厳しくこれを批判した。
汪兆銘は「シナも復興には 20 年かかるから、今、日本と妥協して復興を待つのはやむを得ない」との考えであっ
たが、たとえば、上海市民団体連合会は「全国民衆は命がけで抵抗しているのに、汪兆銘は売国的な塘沽停戦協定
に調印した。これは、売国の汚名の上にさらに汚名を加えたものだ」との通電を発して汪を厳しく批判した。
国民党軍は、これ以降、共産軍の掃蕩作戦に向かう。しかし、蒋介石は 6 月 6 日の日記に「このたび
の停戦によって恥辱を蒙ったいま、われわれは臥薪嘗胆、
(中略)10 年以内にこの恥辱をそそがねばなら
ない。
」と書いた。
110
(塘沽停戦協定とその後)
(1)日本軍がこの線にとどまっていれば、日本の「シナ侵略」はなかった。
(2)英米やソ連が蒋介石政権を支援しなかったら、23 カ国の承認を受けた満洲帝国は安定した独
立国として成長していった可能性が高い。
[非武装地帯の実情]
保安隊に、関東軍は日本の傀儡であった現地の土匪部隊を転用させ、その数は 7 千人にも及んだため、国民政府
の同地帯(戦区)行政にとってはこれが大きな障害となった。
同地帯内においては、傀儡保安隊と結託した日本人、朝鮮人、シナ人が日本軍憲の威光を笠に着て、賭博場を経
営したり、麻薬を販売したりした。また、
(正規の関税を支払わない)密貿易を大々的に行った。とくに同地帯東部
は無法地帯化した。こうした状態に対して、シナ内部だけでなく、海外からも厳しい非難の声が上がった。
(満洲事変後の国内情勢)
議会第一党の立憲政友会は 7 年 11 月ごろから斎藤内閣の倒閣工作を進め出した。軍人から政権を奪い
返し、
「憲政の常道」を復活させるためである。8 年 1 月には立憲政友会鈴木喜三郎が大蔵大臣の高橋是
清に辞任を求めた。それにより、内閣総辞職に追い込むためである。高橋は予算成立への協力を条件にこ
れに同意した。驚いた斎藤首相は、高橋に翻意を求め、同年 4~5 月の政局は大揺れとなり、以後、政府
と議会との関係が悪化した。
政局混乱の中、首相の座を狙う枢密院副議長平沼騏一郎(元大審院検事総長)を中心とする勢力が倒閣
に動きだした。
満洲では関東軍が国内からは抑えの利かない存在になるとともに、国内では陸海軍がともに政治的に
その影響力を拡大していった。
8 年(1933 年)6 月 17 日
大阪市の天神橋筋六丁目交差点でゴーストップ事件(天六事件ともいう)起きる。慰労休暇中の中村一
等兵が信号を無視したとして、これを咎めた戸田巡査が派出所まで連行した際、中村一等兵は「軍人は警
官の命令には従わない」と主張したため、つかみあいの喧嘩になり、両名とも負傷。見物人の通報により
憲兵隊が駆けつけて中村一等兵を連れ出し、その場は収まるが、2 時間後、憲兵隊が「公衆の面前で帝国
軍人を侮辱したのは断じて許せない」と曽根崎署に抗議。
これに端を発して、軍部と内務省との対立になる。最終的には、警察側が折れたとされ、この後、現役
軍人に対する行政措置は憲兵が行うこととされるようになり、軍部が法を超えて次第に国家の主導権を
持つにいたるひとつのきっかけとなった。
8月
関東軍が人事を一新。これは、軍部による満洲国への組織的進出と日本政府内での満洲国統治に関する
発言権強化を目指すもので、司令官が大将に格上げされ、武藤信義大将が(参謀長も中将に格上げされて
小磯国昭中将が)任命された。関東軍司令官は、満洲派遣特命全権大使と関東庁の長官をも兼務した。
東京の参謀本部で関東軍を支えたのは、永田鉄山、岡村寧次、小畑敬四郎、東条英機ら陸士十期代の幕
僚で、陸相に荒木貞夫をかつぐことにより合法的に権力を握ろうとした。一方、陸軍内部の桜会も同様の
動き。
111
…昭和陸軍の軍人たちの間では、軍事力は他国を支配する有力な武器と信じられた。
この後、渡辺錠太郎教育総監、永田鉄山陸軍省軍務局長らが中心となる統制派と、天皇を現人神と信じ、天皇親
政による国家をめざした皇道派(対ソ戦論者で、荒木貞夫や真崎甚三郎をかついだ)との対立が激化。
(→昭和 10
年 8 月皇道派将校相沢三郎による永田鉄山斬殺事件へ)
10 月
海軍軍令部(部長は伏見宮博恭王)が「軍令部部長」を「軍令部総長」と改称し、陸軍の参謀総長と同
格の地位に引き上げ、それまで海軍大臣の権限とされていた事項を大幅に軍令部に移管させた。大角海
相(条約派)が伏見宮(艦隊派)に屈服するという形で決着したが、以後、艦隊派が部内を制覇し、十年
後の日米戦争へと進んでいった。
翌 9 年、海軍は「海戦要務令」を改訂した。既に 16 年以上前の第 1 次世界大戦において兵器としての
航空機、潜水艦が登場して新しい戦略が考慮されてしかるべきであったが、依然として艦隊同士の決戦
を念頭においていて、航空機も潜水艦もその艦隊を補助するものしての位置づけは変わらなかった。そ
の後、航空機と潜水艦の性能が著しく向上したにもかかわらず、海軍は要務令の改訂を行わなかった。
9 年(1934 年)2 月
1 月 19 日から時事新報に掲載の帝国人造絹糸株売買を巡る連載を機に、立憲政友会の一部や少数野党
の議員が政府を追及し、検察も商工相や鉄道相、大蔵事務次官、帝人社長、台銀社長らを検挙(帝人事
件)
。そのために政局が混迷し、5 か月後の 7 月 3 日、斎藤内閣が総辞職。
後継首相選びにあたる元老・西園寺に対し天皇は、憲法の精神を遵守すること、外交・内政両面で無理
をしないことという条件(穏健路線を継承する人物)を示され、海軍穏健派の岡田啓介大将が推挙され
た。
なお、事件そのものは検察によるでっちあげで、3 年後、被告 16 人全員に対し、無罪の判決が下りた。
7月8日
岡田啓介内閣成立。
満洲問題一色の中、成立した岡田内閣に対し、陸軍は対満政治機構の改革案を示した。その骨子は
1、中央に対満事務局を設け、その総裁は陸軍大臣兼務とする。
2、対満政策に関する一切の事務は総て内閣総理大臣の直裁事項のなし、この対満事務局において統括
処理する。
3、対満事務局を構成する部、課には現役の大、中、少佐及び大尉級の武官を配置し、その事務を統括せ
しむ。
4、(駐満全権大使=関東軍司令官兼務の官制を改めて)外務大臣の外交指揮権を内閣総理大臣の管轄
に移すとともに、関東軍司令官に軍事、外交、行政、一切の現地政策を統一実施させる。
5、駐満全権大使の下に在満行政事務局を置き、事務局総長は関東軍参謀長の兼任、警務部長は関東軍憲
兵司令官、監理部長は関東軍交通監理部長の兼任とする。
というもので、対満政策に関する軍事、外交、行政及び産業経済一切の指導権を陸軍省及び関東軍に掌握
するための「改革」案であった。
これに対し、拓務省は“満洲に関する政治、外交、経済はじめ一切の指導監理を陸軍大臣を総裁とする
対満事務局に統括し、現地においては日本政府の実権を陸軍に渡すと同様の結果を招来する”として猛
烈に反対して譲らず、岡田首相の裁定に委ねられることになった。
112
10 月
陸軍省新聞班がパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を出版。これは、陸軍がその願望「日本は
高度国防国家になるべき」ということを謳い合法的に政党政治の中で影響力を行使することを指向した
ものであった。
10 月 16 日
陸軍の圧力に屈した岡田首相が臨時閣議を開き、陸軍提出の対満政治機構の改革案を原案通り決定し
た。
これにより、陸海軍大臣現役武官制の確立と相まって軍閥独裁政治への強固な基礎が成立し、以降、陸
軍が事実上政権に対する生殺与奪の実権を握ることとなった。
(三田村武夫「大東亜戦争とスターリンの
陰謀」
)
12 月
日本政府が満洲帝国内の行政機関を統合して対満事務局を設置するとともに、関東庁を廃止。この機
構改革によってそれまで日本の外務省、拓務省がもっていた在満行政権のほとんどを関東軍司令官が統
括することとなった。対満事務局には日本の大蔵、外務、内務、拓務、商工、陸軍などの局長をもって構
成する参与会議が付設され、各省の満蒙に関するエキスパートが集められた。すなわち、日本政府が総体
において満洲帝国統治に参画し、政策調整にあたることになった。
(軍縮条約からの脱退)
第 1 次大戦後の好況に陰りの見え始めたアメリカで関税を一挙に高めるホーリー・スムート法が成立
したことから、1929 年 10 月 29 日ニューヨーク株式市場で株価大暴落が起き、これに端を発した大不況
が全世界に波及して 1930 年代前半の国際情勢は混沌としていた。
これに対抗してイギリスは 32 年 2 月、オタワで大英帝国諸国が集い高関税障壁を巡らすことを決め、
ブロック経済体制をとった。これにより世界第恐慌は一層悪化した。
ドイツではヒトラーが台頭し、32 年になるとナチス党と共産党がそれぞれ暴力組織を動員して血みど
ろの戦いを繰り広げた。ヒンデンブルグ大統領は 33 年 1 月、第 1 党であるナチス党を中心とする内閣を
つくらせ、ヒトラーが首相に就任した。ヒトラーはいち早く経済復興を果たそうとする一方で、2 月の国
会議事堂放火事件を機に国家人民党と連立内閣を組み、3 月 8 日に共産党を国会から追い出した。
3 月 23 日に全権委任法を成立させて、全ての権限がナチス党に集中するようにしたヒトラーは、6 月
には社会民主党の活動を禁止した。唯一残っていた中央党も 7 月に自主解散し、ここにヒトラー率いる
ナチス党がファシズム体制を確立した。
アメリカでは、有効な恐慌対策をとれないままフーバー大統領が 32 年退任し、同年の大統領選におい
て勝利したフランクリン・ルーズベルトが就任(33 年 3 月)後、程なくソ連を承認して(12 月)
、アメ
リカ資本がロシアに参入しだすとともに、ソ連もアメリカ国内にエイジェントを送り込んだ。アメリカ
の戦略は政治的にイギリスと友好関係を維持しつつ、これを凌駕することにあった。
ルーズベルト大統領1~2期目の特記事蹟を略記する。国内経済対策としては、失業率が 25%にも達していた
「大不況克服のため」ニューディール政策を実行した。
1933 年 3 月
就任早々、重慶の蒋介石政権へのテコ入れのため、国務省の反対を押し切って重慶国民政府に 5,000
万ドルを融資
6月
軍縮条約が有効ななかで海軍大増強計画を発表
113
11 月
ソ連を国家として承認し、外交関係を樹立→34 年 9 月、ソ連が国際連盟に加入
1936 年 6 月
海軍作戦部長 W.H.スタンレイにハワイ、オアフ島に住む日系人の行動を監視せよとの命令を出す
1937 年 1 月
民主党員 J.デーヴィスをソ連に派遣。スターリンの信頼を得るよう命じていた。
その後、ルーズベルトは大統領選に 4 回当選し、4 期目就任数カ月で現役大統領のまま脳内出血で死去した
強大な陸軍を擁するソ連はドイツが英仏両国と共食いすることを狙い、その間に東欧に勢力を拡大し
ようとしていた。
英仏両国は、ドイツの矛先がソ連に向かえば東欧諸国の多少の犠牲はやむを得ないとの考えであった。
東アジアについては、ソ連は日本を恐れており、そのためにシナを重要視し、蒋介石に肩入れしつつシ
ナ共産党を育てようとしていた。
こうした情勢の中、綿布等の輸入が激減し、不況に苦しめられることとなった日本では「持てる国」米
英仏よりも、
「持たざる国」でありながら経済的に回復の早いドイツと結ぼうという気運が高くなるとと
もにアジア主義者の声が強くなった。また、政党政治が国民の不信を買う中で軍部が独自の動きをとる
ようになっていた。
陸軍では荒木貞夫陸相と真崎仁三郎参謀次長を領袖とする皇道派が高級将校の人事を独占する一方で、
海軍は国際連盟脱退後の国際緊張を煽って、ワシントン、ロンドン両軍縮条約からの脱退を策し、軍備増
強予算の獲得を狙っていた。
9 年(1934 年)9 月
陸軍軍務局長に武藤章が就任。武藤は、周りに共産主義から転向した者をブレーンとして集めた。以
来、陸軍省の部局に転向者が召集将校として起用されるようになった。
10 年(1935 年)1 月 22 日
広田弘毅外相が第 67 帝国議会で「不脅威・不侵略」の外交原則を打ち出す。これは、中華民国・国民
党政府から好感を持って受け止められて、日中関係も改善の方向に向かう。
→同政府は 2 月 27 日、日貨排斥を取り締まる方針を決定。5 月には日中双方が公使館を大使館に格上げ
し、それぞれ大使をおいた。
3月
中華民国・国民党政府から各国に援助依頼があった際、イギリスは、日英共同借款を提案したのに対
し、大蔵省は「財政上の理由」によって反対し、重光外務次官もイギリスへの警戒感からこれを拒否。と
くに重光は借款を成立させないようシナ駐在・有吉公使に訓令した。→イギリスは上海為替相場の安定
に寄与したことにより感謝されたが、協力しなかった日本は反感を持たれた。
アメリカでは、この年、元駐中華民国大使ジョン・A・マクマリーが「平和はいかに失われたか」を発
表して、日本を敵に回す誤りを指摘したが、中華民国の潜在性に大きな期待をかけていた国務省アジア
部長スタンリー・ホーンベックはこれを握りつぶした。以降アメリカは中華民国と組んで日本を窮地に
追い込む外交戦略をとっていった。
12 月 9 日
第 2 次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉において、海軍(艦隊派)やこれを後押しする立憲政友会の
突き上げもあって、日米英仏各国の軍備共通を求めたが、不調に終わったため、政府はワシントン、ロン
ドン両軍縮条約からの脱退を決意。
114
以降、陸海軍とも軍備拡張に走る。これを抑える役割を担ったのが大蔵大臣・高橋是清であり、国会議
員は世論と民間右翼に同調するだけの体たらくであった。
→11 年 1 月、ロンドン軍縮会議から脱退。
昭和 11 年(1936 年)1 月 15 日
日本が第 2 次ロンドン海軍軍縮会議から脱退。イタリアもエチオピア侵略のため脱退し、その結果同
会議は 3 月 25 日、英米仏 3 か国だけで第 2 次ロンドン海軍軍縮条約を締結した。
海軍軍縮条約破棄を通告した日本は、2 年後に無条約状態となった。
その後、日本は昭和 12 年度~17 年度を計画年度とする第 3 次海軍軍備補充計画を樹て、艦艇建造費を
8 億余円に(第 2 次計画から倍増)
、航空隊整備計画を 7 千 5 百万円に(同 2,27 倍)にした。戦艦大和、
武蔵や空母翔鶴、瑞鶴の建造もこのとき計画された。
(軍部の力の増大と内部対立)
昭和 9 年は東北地方において冷害による記録的な凶作に見舞われ、いくつかの小村では飢餓に直面す
るなど深刻な状況にあった。生まれた子供は育たず、老人は飢え死にを待つだけという村落も少なくな
かった。娘たちの身売りも多かった。
貧困の中から兵士になった者の中には、農村の窮状を理解せず政争に明け暮れる政治に対して不信感
を持ち、国を憂える者が増えていった。
陸軍内の中堅リーダーが集った「一夕会」は、満洲防衛・対ソ連戦略を巡って、小畑、荒木らの皇道派
とこれに組しない永田・東條ら(統制派)とに分裂し、対立が深まっていた。
陸軍の一部に貴族院議員・美濃部達吉が説いてきた天皇機関説を排撃する空気が大きくなってきた。こ
れは、軍部ファシズムの台頭とともに国体明徴運動の中で起こり、昭和 10 年 1 月には顕在化した。
天皇機關說とは、大日本帝国憲法下で確立された、天皇に関する憲法学説であり、明治 45 年刊行の「憲法講話」
において、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を
得ながら統治権を行使すると説かれていた。
一方、上杉慎吉ら君権学派は、天皇には政治的な制限はない、と主張していた。天皇を絶対視する天皇主権説は
学会の異端でしかなく、論争そのものは美濃部の学説が学会の通説となっていた。
10 年(1935 年)2 月 19 日
菊池武夫議員(陸軍中将)が、貴族院本会議において天皇機関説を説いてきた美濃部達吉議員(東大教
授・憲法学)を「緩慢なる謀反であり、明らかな反逆である」と弾劾する演説を行う。
2 月 25 日
美濃部達吉議員が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易に説明する釈明演説を行ったが、軍部や右
翼の美濃部議員攻撃はかえって強まった。
野党政友会も、これに乗じて一木喜徳郎枢密院議長(元々天皇機関説の提唱者)や内閣法制局長官金森
徳次郎を失脚させ、岡田内閣打倒・政権奪取を目論んだ。事態収拾のため政府は陸軍大臣の要求をのん
で、美濃部達吉の著書 3 冊を発禁処分にした。
しかし、天皇ご自身は美濃部学説を支持し岡田首相に「(天皇は国家の最高機関であるから)機関でい
いではないか」と漏らされた。
天皇主権説は、天皇を唯一、絶対、無制限の権力とし、閣僚と議会の役割を軽視するものであったから、議会で
の天皇機關說排撃は、政党自身が政党の権限を狭めるもので、
「自殺行為」に他ならなかった。
115
その後、美濃部達吉博士は世論に抗しきれず、同年 9 月 18 日に貴族院議員を辞職し、以降、言論の自
由を脅かす風潮が一気に強まっていった。また、先の見えない政友会領袖の久原房之介は、新聞紙上で
「
(天皇を平和主義に導いている)重臣ブロックを更生するため、一路邁進する」などと天皇側近批判を
煽った。
昭和天皇も「こうした重臣ブロックとか宮中の陰謀とかいう嫌な言葉や、これを真に受けて恨みを含む一種の空
気が醸し出されたことは、後々まで大きな災いを残した。かの二・二六事件もこの影響を受けた点が少なくない」
と回顧された。
6月
こうした空気に耐えかねて内大臣牧野伸憲が辞職の意をもらし、遂には、この問題が一段落した
7月
予ねて陸軍内部で皇道派の締め出しを図ってきた林銑十郎陸軍大臣は、さきに軍務局長に永田鉄山を
起用したのに続き、その総仕上げとして、この日真崎甚三郎教育総監を罷免した。真崎は「統帥権干犯だ」
との怪文書を撒いて抗弁した。
第一次大戦でドイツ・オーストリアが敗れてからは、統帥権が独立しているのは日本とハンガリーだけになってい
た。したがって日本の参謀本部も既に時代遅れの存在となっていて、後に総力戦となった大東亜戦争では、戦争指
導上決定的な弱点(参謀本部の権限が強すぎて、陸軍のトップが強力なリーダーシップを発揮できない)となって
いた。
8月3日
天皇機関説排撃・岡田内閣打倒の波が収まらないため、政府が第 1 次国体明徴声明を発する。
「天皇機
関説は国体の本義に反する」とした。
8 月 12 日
統制派の首領格であった永田鉄山軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐により局長室内において日本刀で
斬殺される。これは皇道派の軍人たちが、前月の真崎甚三郎教育総監罷免は永田軍務局長の差し金によ
るものだと思ったことから起きた。
なお、永田は石原莞爾を関東軍から参謀本部に異動させ、この日が石原の赴任した日であった。永田の
いない参謀本部で、石原はその存在感を十分に発揮することはできなかった。
この事件を機に両派の対立が一層激しくなり、陸軍は「バラバラになって滅茶苦茶になった」
(統制派、
軍務局政策班長池田純久)
。
永田鉄山は、陸軍統制派の創始者であり、東大の教授とも対等に会話ができるほど知的レベルの高い軍人であっ
た。教育学を専門に勉強して軍隊教育についての著作もあり、
「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評さ
れた。
彼は、軍の一元的統制による国家改造を目指す一方、
「関東軍の満洲国に対する内面指導を早く打切り、朝鮮は軍
備と外交を除き自治を許す方向にもってゆくべき」という、当時としては画期的な私見を持っていた。
反面で永田は、
「国家総動員体制」
「総力戦体制」を目指すため、陸軍機密費を使って「君側の奸を除く」
「重臣排
除」を叫んで政権を奪取しようとするクーデター方式を最初に考えた人間でもあった。その主張は、経済を官僚や
軍官僚の下に置こうとするもので、社会主義であった。
10 月 15 日
政府が第2次国体明徴声明を発し、さらに踏み込んで、天皇機関説は取り除かれるべき旨述べ、一連の
116
事件に終止符を打った。
しかし、天皇機関説は政争の具にされ、明治憲法のもとにおける立憲主義の政治理念は公然と否定され
ることとなった。
なお、国体明徴運動の理論的意味づけを行うために、文部省は学者たちを結集して昭和 12 年図書「国
体の本義」を編纂した。
「国体の本義」冒頭部分
『大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不
易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝
の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本
であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。
』
12 月 26 日
内大臣牧野伸憲が正式に辞職した。後任の内大臣には斎藤実が就任した。
(北支工作)
10 年(1935 年)5 月
河北省東北部での勢力拡大の機を窺っていた関東軍は,匪賊・孫永勤軍の停戦地域での活動や、5 月 2
日深更、天津日本租界で親日新聞を発行していた社長 2 人(シナ人)が殺害された事件など大小 50 余り
の排日・事件が続発したのを利用し,支那駐屯軍司令官梅津美治郎の部下・酒井隆天津軍参謀長(大佐)
及び高橋武官は、5 月 29 日河北省政府を訪れ、武力示威をもって中華民国政府代表・軍事委員会北平分
会主任何応欽に迫り、以下の要求を行った。
1.蒋介石の対日二重政策の放棄
2.河北省主席の罷免と国民党諸機関の撤退
3.国民党中央軍の河北からの撤退
翌 30 日、天津軍は河北省政府の門前に装甲車、大砲、機関銃などを配備して威嚇した。
驚愕した国民政府は広田外相に斡旋を要請したが、広田は 6 月 1 日「本件は停戦協定に関連する軍関
係事項なので、出先軍と交渉せらるべし」として外交交渉を拒否した。
6 月 4 日の再会談において何応欽は河北省主席の転任を回答したが、酒井は満足せず、罷免を迫った。
さらに酒井は 6 月 9 日期限つきの回答を迫り,何応欽は 6 月 10 日口頭で受け入れを伝えた。
翌 11 日、高橋武官はシナ側の承諾事項として 9 項目を列挙した覚書きを何応欽に送り、さらに 3 項目
の付帯事項を付け加えて承認を迫った。遂に何応欽は 7 月 6 日付けで「6 月 9 日酒井参謀長提出の各事
項は全て承認し、自主的にその遂行を期する」という一行の文書を北平の高橋あて送った(ただし、付帯
事項については何ら触れられていなかった)。・・・梅津=何応欽協定と言われるが、協定の体裁をなして
いなかった。
付帯事項=①日支関係を害する人物や機関の河北省進出禁止、②省、市の職員任命に当たって、日
支関係を悪化させるような人物の選任禁止、③約束事項の実施につき、日本側は監視、糾弾の措置を
とりうる。
日本側は、協定には付帯事項も含まれているとの解釈をとった結果、河北省に駐屯していた国民党軍、
同党幹部などは省外に退去を強要され、政治・軍事全般にわたって日本の発言・干渉が強化された。
117
また、交渉中の 6 月 5 日に察哈爾省の張北で保護証明書を持たずに城門を通過しようとした日本特務
機関の一行 4 名が第 29 軍の歩哨によって拘留される事件が起きた。これに端を発して、関東軍は土肥原
奉天特務機関長に、この機会に宋哲元軍を黄河以南に撤退させるよう指示した。
土肥原は 6 月 23 日、高橋武官とともに第 29 軍副軍長秦徳純を北平の居宅に訪問し、広範な要求書を
提出した。27 日、秦徳純は北平の大使館内に存する陸軍武官室を訪れ、土肥原、高橋と会見し、要求受
諾を内容とする書簡 2 通を手交した。=土肥原・秦徳純協定
これにより、塘沽停戦協定の中立地帯が察哈爾省東部地帯へ拡大されたこととなった。なお、この際国
民政府は、宋哲元の第 29 軍に北平周辺への移駐を命じ、北平と天津の治安維持を託した(8 月 28 日に
天津衛戌司令に任命)
。
7 月 25 日
モスクワでコミンテルン第 7 回大会が開催される。
この大会において「人民戦線戦術」が決定された。スターリンの指令は、全世界で共産主義革命を成功
させることを目指すもので、次のとおりであった。
① ファシズム反対及び帝国主義戦争反対の闘争を当面の主要任務とすること
② 社会民主主義団体その他との統一戦線を樹立すること
③ 従来の画一的国際主義を排して各国の国情に応じた戦略戦術を採用すること
④ 合法場面を利用すること
シナ共産党に対しては、日本(及びドイツ)をその宿敵として位置づけ(その後、ソ連は 5 カ年計画で
軍備を増強)
、国民党と統一戦線を組んで日本と戦うよう命じたものであった。
8月1日
毛沢東が「八・一声明」を発表し、国共内戦の停止と即時に抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。
当時シナ共産党は、蒋介石軍の追討により大陸奥地を北上していたが、殲滅させられる寸前まで追い詰
められていた。この声明の狙いとする抗日民族統一戦線戦術は、その蒋介石の戦力を日本との戦争に向
けさせ、両者が疲弊したスキを突いて共産党が権力を握ろうというものであった。
毛沢東の狙いは当たり、以降、同党指導の下、抗日運動はシナ各地で激しさを増していった。とくに上
海、北平など大都市で、抗日救国を主張する知識人・学生の運動が高まっていき、蒋介石の国民政府はそ
の対応に追われて、共産党軍掃討の力をそがれることとなった。
共産党軍は、国民政府軍の追討を逃れ同年 10 月 19 日、陝西省の新根拠地・延安に入った。
日本の外務省も、コミンテルン第 7 回大会とそれに伴う国共合作の動きに次の声明を発して警戒感を
露わにした。
「コミンテルン第 7 回世界大会は、コミンテルンの今後の活動の目標が日本、ドイツ及びポーランド
であることを明らかにし、なお日本と闘争するため支那共産党を援助すべき旨を担ぎ宣言した。……コ
ミンテルンが如何に各国の内部関係に介入し、現存国家の安寧及び世界平和に対し甚だしき害悪をもた
らしたかは、今次スペインの動乱に就いてのみこれを見るも、その深刻なるに驚かぬ者はなかろう。
」
8月
石原莞爾が参謀本部作戦課長に転任。就任直後、対ソ陸軍軍備の貧弱なことに驚き、次の国策案をつく
ったが、
「北守南進論」をとる海軍の反対で容れられなかった。
「北方の脅威を排除するため重点を対ソ軍備の拡充を指向する。この間シナとの破局を防止し、極
118
力英米との和協を図り、また満洲国の育成強化に専念する」
9 月 24 日
多田駿支那駐屯軍司令官(8 月 1 日づけで梅津と交代)が、蒋政権への武力行使の可能性を示唆しつ
つ、軍の方針として、①北支より反満抗日分子の一掃、②北支経済圏の独立、③北支 5 省の軍事的協力に
よる赤化防止、の 3 点を挙げた声明を発表。
10 月 4 日
岡田啓介内閣が、国民党政府に求める対シナ政策 3 カ条を決定。これは外相である広田の名をとって
「広田 3 原則」と呼ばれた。
①
排日言動を取締り、対日親善政策の採用を実行すること
②
満洲国独立の事実上黙認と満洲国-北支間の経済的、文化的融通・提携を行わせること
③
外蒙接壌方面での赤禍勢力排除のために日本と協力すること
広田外相は、同年 5 月から国民党政府内の親日派の求めに応じ、関係改善についての協議を始めた。国民党政府
は「日中関係の平和的解決、対等の交際、排日の取締」の 3 条件を提示し、さらに満州国の承認取り消しを求めな
いという条件を伝えた。しかし広田はこれに納得せず、この 3 カ条を提示することとしたものである。
同年から翌年にかけて政府は、北支工作を行うなど思いのままに振る舞う軍部を抑えることができない状態とな
っていた。
10 月 7 日
広田は 3 原則の主旨を蒋作賓駐日大使に申し入れたが、国民党政府側は「日本の外務省は軍部の意向
のままに動いている」との認識から、真剣な対応をみせなかった。
蒋大使は同月 21 日広田に国民政府の回答を伝えたが、その漠然とした内容に広田は強い不満を示した。
華北では、梅津=何応欽協定以来、蒋介石の勢力が後退していた情勢に鑑み、関東軍、天津軍は、反蒋介石派で
ある山西省の閻錫山、山東省の韓復榘、河北省の宋哲元(平津衛戍司令)
、商震(同省主席)など華北の実力者に着
目し「自治」の名における国民政府からの分離を計画し、強く推進していた。上記広田 3 原則交渉は、陸軍の強行
するこの華北自治工作に巻き込まれてゆくこととなった。10 月中旬から、関東軍による自治工作は露骨になってい
た。
10 月 29 日
川越茂天津総領事は、宋哲元、商震、北平市長袁良、天津市長程克などに同文の文書を送り、日支国交
を妨害する団体を徹底して取り締まるよう要求した。同日、中井天津軍参謀、高橋武官が宋哲元、
商震を歴訪し、日本軍人に対するテロ事件についての要求書を提出する一方、北平市長袁良の罷
免など3項目を南京に伝えるよう通告した。→国民政府は 11 月 3 日、天津軍から要求のあった
北平市長袁良の辞職を承認し、秦徳純を後任に充てた。
11 月 3 日
国民政府が幣制改革の実施を発表。これは、関東軍の華北分離工作に正面から対立するものと言えた。
この幣制改革は、流通中の多種多様の紙幣を国民政府指定の 4 種類の紙幣に限定し、銀行の保有する現銀を供出
して 4 種類の紙幣と交換することを要求するものであった。日本側は、シナ側による態のよい銀の略奪であると受
け止めたのも無理はなかった。
国民政府の幣制改革を推進したイギリス大蔵省顧問リース・ロスがシナに赴く途中、9 月 10 日東京で広田外相に
119
会見し、シナの国民政府を財政上の破綻から救済するため中央銀行による管理通貨の発行が不可欠であるとして、
日本に協力を要請した。その際、シナ内外債の償還は満洲国も分担し、そのかわり国民政府は満洲国を承認すると
いう試案も提示した。イギリスが満洲国を承認するという含みもあった。
しかし、イギリスの影響力の増大を恐れた広田外相は同月 17 日、重光次官を通じてリースに対し拒否回答をし、
リースは失望裏に 21 日、上海に上陸した。幣制改革のためにイギリスが単独で資金を提供したということから、
蒋介石は決定的にイギリスの側に立つことになってしまった。
広田には、陸軍の一部とのつながりがあり、蒋介石は放っておいても満洲国を承認せざるを得ないだろうという
甘い読みがあった。
11 月 11 日
土肥原奉天特務機関長が北平に赴き、宋哲元に「華北高度自治方案」10 項目を提示。これは、華北 5
省 3 市の自治を求めるもので、首領を宋哲元とし、総顧問に土肥原が就き、軍事、財政、経済、金融、貨
幣、信仰、政治、外交など多岐にわたるものであった。宋は、この要求を直ちに南京に報告した。
同日、南関東軍司令官は約 1 個師団を山海関、古北口方面に集中し、宋哲元など華北実力者を威嚇す
る措置をとった。
この頃から関東軍が東京の参謀本部との意思疎通を怠ったまま、独善的な行動をとることが横行した。
(日露戦争時との違い)
11 月 13 日
国民政府の幣制改革について駐満大使・南次郎関東軍司令官が広田外相に「放置すれば、定刻の国是た
る日本を盟主とする東洋平和確立の基礎を根底から破壊する危険がある」との認識を示し、
「北支工作を
この機会に一挙に断行する」ことを強く上申した。
11 月 20 日
広田外相の命を受け、上海の有吉大使が蒋介石に会い「国民党中央軍の山東、河北への集中を中止する
よう」警告した。蒋介石は「自治制度は承認できない。広田外相の国交改善三原則には同意するが、華北
に問題が起これば、第 2 項、第 3 項はおのずから実行できない」との見解を述べた。
そのため、有吉大使は 22 日、23 日に自治運動に疑義を呈し、同運動強行のもたらす危険性を強調する電
報を本省あて送ったが、本省は自治運動を推進することが三原則交渉に有利との判断を示した。
11 月 25 日
華北で、国民政府の要職を歴任した殷汝耕らが日本の関東軍や北支駐屯軍(首謀者は土肥原奉天特務
機関長)の庇護の下、北平郊外の通州に共和制の冀東防共自治政府を設立、中央からの分離を宣言し、事
態は一段と緊迫。
関東軍にとっては、満洲の治安維持や対ソ戦背面安全のための緩衝地帯として、長城の南に親日政権が必要であ
り、ここに満洲国のような傀儡政権を建てようと、塘沽停戦協定において規定された「視察権」を根拠として工作
を行っていた=「北支工作」と言われる関東軍の独走であり、日本の国をシナとの戦争へと国を誤った大きな原因
となった。
この北支工作は、陸軍中央部の意図にも合したものであったので、中央部はこれを承認ないし、黙認していた。
蒋介石は冀東防共自治政府設立に怒るとともに、こうした親日政権誕生を恐れ、翌日には行政院として
①何応欽を駐平弁事長官に任命し、②宋哲元を冀察綏靖主任に任命するとともに、③殷汝耕の免職・逮捕
を発表した。
120
同日、満洲で満洲国興安北分省長・陸陞(モンゴル系ダフール族の名家出身)はじめ興安北省の主要官僚 4 人が
独立を図ろうとしたとの嫌疑で憲兵に逮捕され、新京に移送されて関東憲兵隊司令官東条英樹少将の決裁で間もな
く銃殺刑に処せられるという事件が起こった。陸陞は、新京で開催された省長会議で土地政策に関してかなり率直
な異見を述べ、任地ハイラルに戻ったとき駅ですぐに逮捕された。関東軍の謀略説が強い。
11 月 30 日
蒋介石が五院院長会議を開催し、日本軍による冀東防共自治政府設立に対抗するため、次の 4 方針を
決定した。
1.情勢が許せば何応欽に駐平弁事長官の職務を遂行させるが、困難であれば北京を含む広大な地
域に冀察政務委員会を設立する。
2.委員は中央が任命し、委員長は宋哲元とする。
3.同委員会は、中央法令の範囲内を逸脱せず、
4.絶対に自治の名義、独立の形態を回避する
日本側は、何応欽の委員長就任に反対した。しかし、蒋介石は何応欽に予定した権限を宋哲元には与えなかった
ため、日本側は、宋哲元の担ぎ出しは根本的な失敗だったことを認識することとなる。
同日、唐有壬外交部長が須磨南京総領事を訪問し、・何応欽の華北派遣、・河北省の実質的な自治を図
り、西南の政治分会のような機関を作るとしたうえで、6 カ条の譲歩案を示した。
①
北支における赤禍防衛の日中共同
②
新幣制の北支に不適当な点の修正その他
有吉大使はこれを高く評価し、しばらく自治運動を停止するよう具申したが、日本側は、この構想が中
央派遣の大官によって実施されることに強い不満を持ち、何応欽が北平に到着しても接触を忌避する方
針を固めた。→12 月 3 日北平に到着した何応欽に華北の日本陸軍、外務関係者は一切面会に応じなかっ
たため、何応欽は幹部と相談し、結局宋哲元の起用以外道はないとの結論に達した。
11 月 1 日
汪兆銘が熱狂的な愛国者に銃撃され、重傷を負う。この後、外交部副部長の唐有壬が暗殺されて、
日本との和平を主張する者が著しく減り、主戦論が主流となる。
12 月
シナ共産党が抗日民族統一戦線を提唱した。
12 月 9 日
北平で 2 千人を超える学生が、華北自治運動反対、日本の華北侵略反対を叫んで集会を持ち、街頭
デモを展開、軍警に弾圧され、負傷者を出した。
12 月 10 日
蒋介石が行政院長に就任し(テロのため重傷を負った汪兆銘に代わったもの)
、外交部長に最も信頼
する張群を任命。翌 11 日、国民政府は、冀察政務委員会委員に宋哲元(委員長)以下 17 名を任命。12
日、宋を河北省主席に任命した。何応欽は北平を離れ南京へ。
12 月 16 日
冀察政権反対の激しい示威運動を繰り返してきた学生たちが、この日、北平で1万を超える集会を
開いて宋哲元軍に阻止され、多数の重軽傷者、逮捕者が出た。
12 月 18 日
冀察政務委員会が正式発足し、河北、察哈爾2省と北平、天津2市を管轄することになった。=関東軍
が主張し、中央の陸軍、外務省も支援した「自治運動」の名による華北の中央国民政府からの分離工作は
(冀東防共自治政府を除き)失敗に終わる。
この後も土肥原奉天特務機関長は、冀察政務委員会への影響力を維持しようと暗躍した。しかし、天津
121
軍はこれに批判的で、独自の北平特務機関を設置して冀察政務委員会を指導するつもりであり、多田司
令官の指示により翌年 1 月 4 日、永見俊徳参謀長(前月、酒井と交代)が土肥原の華北での活動を忌避
する上申書を古荘幹郎陸軍省次官に送った。
11 年(1936 年)1 月
陸軍中央部が、北支工作の行きすぎを是正するため、
「北支処理要綱」なるものの策定を指示するとと
もに、関東軍を主担任から外し、支那駐屯軍にその任務を担当させるため、多田司令官に北平特務機関の
設置を指示した(1 月 11 日)
。北平特務機関の初代機関長には、3 月、松室孝良少将が着任し、土肥原は
第二師団長に任命されて帰国、北支工作から身を引くこととなった。
しかし、その措置は時期的に遅すぎただけでなく、支那駐屯軍はわずかに歩兵3大隊基幹の小兵力であ
ったことから、関東軍はその「支援援助」を口実として北支工作に対する容喙をやめなかった。
シナでは抗日活動が一層高まり、華北・華中の抗日組織が糾合して、同月、上海に毎界救国連合会が成
立した。
2月
冀東防共自治政府が密貿易を公認することにより課税収入を得ようと、6 箇所の査験所を開設し、正規
の4分の1に抑えた関税(査験料)の徴収を開始。そのため、関税収入が主たる収入源だった国民政府は
財政的にも苦境に立たされた。クライヴ駐日イギリス大使は 5 月 2 日、有田外相に冀東密貿易を抗議し
たが、有田は国民政府の関税が高いこと、地方当局が取締まりに熱心でないことを挙げ、これに反駁。
国民政府が同月、密輸の弾圧のため死刑を含む厳しい罰則を施行し、15 日に張外交部長が“日本大使館が日本軍
に対し、海関における密輸取締まりに干渉しないよう戒告すること”を要求した。
冀東防共自治政府における査験料収入は全て通州特務機関の監督の下に置かれ、大半が内蒙工作や保
安隊費用のため杜撰に遣われたので、自治政府の殷汝耕には僅かの機密費しか渡らなかった。
なお関東軍は北支工作をさらに広げる形で、上記冀東密貿易の利益を活動資金として、蒙古から新彊省
にわたる大防共地帯を形成しようともくろみ、満洲国の版図に入らなかった中部内蒙古王族の徳王をた
てた内蒙古工作を進めた。
チンギス・ハーンの子孫である徳王は内蒙古の王族のなかでは傑出した人材であり、昭和 9 年以来密かに蒋介石
の承諾を得て日本の援助を受けていた。日本には多くの若いモンゴル人を留学させてモンゴルの独立と近代化のた
めに尽くさせた。
3月
シナ共産党が新たに「抗日救国宣言」を発し、その一方で 5 月には中華民国が憲法草案を公布した。
5月
関東軍が後ろ盾となって内蒙古軍政府(自治政務委員会・首長は徳王)が成立。関東軍としては高度
の自治をめざしていて、シナからの完全独立ではなかった。
同政府は内蒙古の一部分の独立を宣言し、小中学校や女学校をつくって教育制度を整備し、病院を建て、文化に
も力を入れるなど、内政の充実を図った。
(2.26事件と軍部大臣現役武官制の復活)
11 年(1936 年)2 月 26 日
二・二六事件起きる。第一師団(歩兵第一連隊及び歩兵第三連隊)を中心とし、これに近衛歩兵第三連
122
隊の一部が加わった約 1500 余名の兵が蹶起し、陸相官邸や政府要人の私邸、警視庁などを次々に襲い、
政・軍の中枢機関を占拠し、川島陸相に面会を求めて、皇道派の首領・真崎甚三郎大将を首班とする内閣
の実現を要求した(この際、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監は斬殺され、鈴木貫太郎
侍従長(元海軍軍令部長)も瀕死の重傷を負ったが、岡田首相は身を隠し暗殺を免れた(ただし、秘書の
義弟が本人と間違われて犠牲になった)。リーダー格は野中四郎大尉で、民間における実質上の首魁は、
村中孝次と磯部浅一であった。
高橋蔵相(自宅にいるところを襲われた)は、世界恐慌のさなか昭和6年 12 月に大蔵大臣に就任したとき、不況
対策・疲弊した地方の支援を目的として、対ドルのレート切り下げ・利下げ・通貨供給量拡大・赤字財政の実行に
よって、4 年間で GDP を 32%も増加させた。
軍部からの度重なる軍事予算の増額要求にたいしては、一貫して厳しい姿勢をとった。また、昭和 10 年からは金
利の引き上げなどにより、財政均衡を図る努力をしたが、この事件を引き起こした青年将校はそれらの施策に不満
を持ち、国家財政の功労者である高橋蔵相を問答無用と斬殺した。
斎藤内大臣は、朝鮮総督だったとき、それまでの武断政治を文治政治に改め、朝鮮人と日本人との融和に努め、
外国の知識人からも評価されていた。海外にも知己が多く、駐日大使グルーとも昵懇の間柄だった。斎藤を失った
ことを天皇は大変に嘆かれ、信頼する糊口を殺害されたことに激しく憤られた。後任には宮内大臣の湯浅倉平が就
任した。
鈴木侍従長は自宅で安藤輝三陸軍大尉引きる一隊に襲われて銃弾 4 発を受け瀕死の重傷を負ったが、たか夫人の
機転に救われて生き永らえることができた。鈴木は 11 月 20 日、高齢を理由に辞職した。→昭和 20 年 4 月に請わ
れて総理大臣に就任し、終戦をまとめるという大役を担った。
五・一五事件への断罪が軽かったことから、青年将校たちは「正義を唱えれば民衆の支持が得られ、自分たちの
犯罪も「義挙」に昇格して、超法規的に許され認められる、と信じていた。
この事件の実態は、軍部内の派閥抗争に発するもので、皇道派の荒木貞夫大将や真崎甚三郎大将、川島
義之大将(陸軍大臣)
、山下奉文少将(陸軍省軍事調査部長)
、小畑敏四郎、柳川平助、牟田口廉也大佐ら
が青年将校を唆したと見られている。
午前 11 時過ぎに参内した川島陸軍大臣に、天皇は速やかな鎮定を命じたが、午後に開催された軍事参
議官会議(荒木大将や真崎大将、中将の軍事参議官らも出席)では皇道派の長老主導の下に、決起の趣旨
を認めてしまう「陸軍大臣告示」を発した。
陸軍は、蹶起将校らを原隊復帰させることで解決を図ろうとした=鎮圧側に回った。→同日夜の軍事参
議官らと蹶起将校らとの会談は物別れに終わる。
岡田首相が生死不明の中、臨時首相代理になった後藤文夫が全閣僚の辞表を取りまとめ、天皇に提出し
た。受け取られた天皇は、後刻、最も重い責任者である川島陸軍大臣の辞表が他の大臣と同じであること
に不信の念を漏らされた。
2 月 27 日
内閣が存在しなくなり、閣議も開けなくなった帝都に午前 3 時、戒厳令が敷かれた。
天皇は将校たちの反乱に対し「真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」と断じ、決起した青年将校
らを反乱軍と規定し「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当る」と、断固たる決意を示され(生涯初め
てのご聖断)
、首都には戒厳令が布かれた。鎮圧に手間取っていることを知られると「朕自ら近衛師団を
率いこれが鎮圧に当たらん」とまで言い切られ、自ら事態収拾の先頭に立とうと決意された。
123
8 時 45 分「三宅坂付近を占拠しある将校以下を以って速やかに現姿勢を撤し各所属部隊の隷下に復帰
せしむべし」とする奉勅命令を裁可した。
奉勅命令をいつ発動するかについては、参謀本部の判断に任された。参謀本部では石原莞爾が主導して
鎮圧の態勢が進み、反乱軍への攻撃準備に着手した。
2 月 28 日
午前 5 時、奉勅命令が発動された。目的を知らされないまま将校たちに率いられて「決起」してきた兵
たちは奉勅命令を耳にして、急速に戦意を失い、将校たちも自決して下士官兵を原隊に帰還させる意思
を固めた。
陸軍大臣川島義之と陸軍省軍事調査部長山下奉文が侍従武官長本庄繁に謁を乞い、首謀者一同は自決
して罪を謝し、下士官以下は原隊に復帰させる故、自決に際して見届けの勅使を賜りたいと願い出たが、
その言上を受けた天皇は、
「それでは逆賊に名誉を与えることになる」との思いから非常なご不満を示さ
れ叱責した。その上で天皇は「直ちに鎮定すべく厳達せよ」と厳命された。
しかし、一旦は自決して帰順する意思を示した「決起部隊」の将校たちは、午後態度を翻して決戦する
姿勢をあらわにした。
2 月 29 日
「決起部隊」に対し投稿を促すラジオ放送が始まって、下士官は激しく動揺し、将校たちも投降に傾い
て行った。その中で安藤輝三大尉率いる歩兵第 3 連隊第 6 中隊は最後まで徹底抗戦の構えを崩さなかっ
たが、直属上官からの説得を受けて、午後 3 時ころ銃を置いた。安藤大尉は銃で自決した。
反乱軍は武装解除され、皇道派将校たちの反乱は4日間で終結した。この間、天皇は一度もぶれずに断
固とした処置を命じられ、かくして、クーデターによる政変は防がれた。
皇道派の首領・真崎大将も逮捕された(後述の裁判で 1 年 3 カ月間投獄された)
。
皇道派は従来、対ソ戦を主張していたけれども、この事件について外国武官による本国への報告の中には「これ
は偽装された共産革命である」というものもあった。事実、首相官邸と朝日新聞社襲撃を担当した栗原安秀中尉が、
決行 1 週間前にソ連大使館の人間と会っていることが当時から噂されていた。
また、第一師団が満洲に移駐されることが決まったことが同師団若手将校の焦りを誘った、との指摘もある。
岡田首相が無事救出され、閣議も再開されるようになって、漸く政府は平時に戻った。
事件後、総辞職した岡田首相の後継には、最初貴族院議長の近衛文麿が推挙されたが、健康面での不安
を理由に近衛は拝辞した。木戸内大臣と西園寺公望は対中融和策を推進した外交官で軍部と渡り合った
経験もある広田弘毅を推挙した。
新首相となる広田弘毅は、組閣に当たって外相に吉田茂、開拓相に東京朝日新聞副社長の下村宏、海相
に永野修身らに入閣を求めた。しかし、陸相就任を求められた寺内寿一大将(統制派)は「顔ぶれが気に
入らないから入閣しない(吉田と自由主義的な東京朝日新聞の下村のこと)
」とこれをはねつけ、一旦組
閣は頓挫した。
3月9日
組閣が急がれたので、やむを得ず広田は吉田と下村を名簿から外し、ようやく夜に、広田は閣僚名簿を
提出し、広田を首班とする内閣が成立した(~12 年 1 月)。
その際、軍部に押し切られて陸軍大臣には寺内寿一、海軍大臣には永野修身と、現役の軍人が就任し
た。この組閣を境にして文民統制の原則が崩れ、陸軍が支持しない内閣は成立困難となった。外相には中
124
国大使の有田八郎を、大蔵大臣には省内から馬場鍈一を起用した。
元老・西園寺公望は、近衛文麿に首相就任を打診したが、病気を理由に辞退された。そこで当初は全く考えて
いなかった広田弘毅を推薦奏上することとした。
中央の経験がないままに陸相に就任した寺内寿一は、事件後の粛清人事を梅津次長に任せたため、その後、梅
津は省内で絶大な権力を持つにいたった。
二・二六事件の後、熱狂的に反乱軍を称えた国民は、その後も陸軍の政策や軍事行動を支持し続けた
(例外:桐生悠々「他山の石」
)
。政府要人は、新聞と世論の大勢、軍部若手の突き上げに対抗しなくなり、
無策のまま世論に流された。
以降、皇道派が一掃された軍部(統制派と呼ばれているが、そのような派閥は存在しなかった)は、天
皇を思いのままに動かし、元老、内閣、議会、新聞界すべてを支配下に収めて日本国全体の生殺与奪の権
を握ったかのように振る舞った。
また、高橋是清の後継大臣となった馬場蔵相は、軍事予算の歯止めに腐心した高橋財政の牽引役であっ
た賀屋主計局長、石渡主税局長、青木理財局長を更迭した。
馬場は、軍備拡張という軍部の要求に引きずられて「日銀の直接国際引き受け」制度を悪用した大量の
国債発行に走り、その資金を惜しみなく軍事費につぎ込んだ。こうして軍備拡張は歯止めが利かなくな
った。
馬場財政により、国債の日銀保有比率が高橋蔵相後期の約2%から 1930 年代後半には6~7%へと一
気に上がってインフレ率も 10~15%にまで上昇したため、国民は物価高に喘ぐこととなった。
4 月下旬
陸軍が「粛軍」=「軍人の思想が混迷する中、命令権を持つ現役将官でなければ陸相は務まらない」を
理由に軍部大臣現役武官制を提案した。大正 2 年に「弊害が大きい」として、山本権兵衛内閣がやっとの
思いで廃止した制度の復活である。
二・二六事件の後だけに、広田もあまり深く考えずにこれを了承し、閣議でもあまり議論にならなかっ
た。
4 月 28 日
反乱軍青年将校らに対する軍法会議(裁判長は磯村年、松木直弼両予備役将校)が開始された。
→7 月 5 日
二・二六事件で決起した反乱軍青年将校らに対する裁判の判決が降りた。判決内容には寺
内陸相の裁量も大きな影響があり、五・一五事件のときよりはるかに厳しいもので、参加した将校はほと
んどが死刑となった。しかし、かれら青年将校を寄せ付けていた上長者(荒木貞夫、真崎甚三郎ら)はひ
とりも罰せられなかった。これには、軍内部でも不当な裁判との観方があり(藤室良輔裁判官、今村均前
第一師団旅団長など)
、処刑された青年将校遺族の大部分が、裁判に当たった人たちを呪った。
1 週間後、死刑宣告の青年将校・磯部淺一ら 15 人が銃殺刑に処せられた。翌年 12 月 8 日までに、連
座した民間人 2 名(北一輝、西田税)も含め、銃殺刑に処せられた人数は 19 名にのぼった。
これを機に、陸軍主流派(統制派)は、事件を起こした青年将校に肩入れしていたとして皇道派の軍人
約3千人を粛軍人事という名目で中央から追い出し、陸軍から身を引かせた。真崎大将の実弟・大湊要港
部司令官・真崎勝次少将も予備役に編入された。
その結果、皇道派は壊滅状態となり、陸軍は主流派の東條英機、南次郎、武藤章、池田純久、小磯国昭、
影佐禎昭らが主導権を握った。
125
主流派はシナなどに対する強硬派が多く、後に起きたシナ事変において、国を抜き差しならない事態に
追い込む一因となった。政府の方針に批判的な人は過激右翼のテロに怯え、言論の自由も侵害されてい
った。
後の東京裁判において、真崎大将を戦争犯罪人とするか否かを調査したロビンソン検事は「真崎は二・二六事件
の被害者であり、あるいはスケープゴートとされたもので、事件の関係者ではない」と書いた。
実際、翌年の盧溝橋事件勃発 1 カ月後、真崎勝次は牧野内大臣に対し
「もし蒋介石政権が崩壊すればシナは赤化する。その間、列強も蒋介石を支援・操縦するであろうし、支那事変
の解決は簡単なものではない。
一部の陰謀群に引きずられて、何事の定見成案もなく妄進長駆せば、身を抜き差しならぬ泥中に没し、立ち往生
の姿勢に陥りたる時に列強の袋叩きに遭い、光輝ある皇国の前途に不安低迷することは火を見るより明らかなり」
との意見書を提出した。
(この項、正論別冊第 15 号所収・平間洋一「
『本土決戦』
『一億玉砕』を叫んだ敗戦革命論
者たち」による)
5 月 18 日
陸海両省の官制が改正され、軍部大臣現役武官制が復活した。
6月
帝国国防方針が改訂された。
この国防方針改訂は、この年の 1 月 23 日、日米が無条約状態に入るのを見越して「対米自主軍備」を早急に推進
したい海軍から提案されたが、ソ連だけを想定敵国とするよう主張し、対ソ陸軍軍備の増強を優先しようとする参謀
本部石原二課長の構想と相反するもので、調整は難航した。石原は途中でさじを投げ、西尾寿造参謀次長(二・二六
事件後に就任)に任せた。
陸海両軍調整の結果、米ソ両国を主要想定敵国とする対一国戦・短期決戦の思想で制定された。
海軍は、陸軍と同じくらいの軍事予算がほしかったからであり、以降、海軍は 6 年前ロンドンで締結さ
れた海軍軍縮条約を無視して、大和級の超大型戦艦の建造を含む軍備の拡張に乗り出した。建艦目標は、
主力艦 12 隻、航空母艦 10 隻、巡洋艦 28 隻を基幹とするものであった。
一方、陸軍の兵力は 50 個師団を基幹とするものであった。
また、このとき、支那と並んでかつて同盟国であった英国が想定敵国に加えられた。
なお、用兵綱領の第 3 項「米国を敵国とする場合の作戦」においては、
「
(作戦の初期の目的を遂げるため)海軍は東洋にある敵艦隊を撃滅して東洋海面を制圧するととも
に、陸軍と協力してルソン島及びその付近の要地並びにグアム島にある敵の海軍根拠地を攻略し、敵
艦隊の主力東洋方面に来航するに及び機を見てこれを撃滅す。
陸軍は海軍と協力して速やかにルソン島及びその付近の要地を攻略し、また海軍と協力してグアム
島を占領す。
」
とあり、ハワイ作戦などはまったく考えられていなかった。
6 月 30 日
石原莞爾参謀本部二課長の手になる「国防国策大綱」が参謀総長と陸軍大臣の承認を得た。それは、日
本が東アジアの指導者となるための最大の敵を米国と認識し、それには米英ソと対抗できる国力を建設
して持久戦争を戦い抜き、きたるべき決戦戦争に備えるための段階的な施策を示したもので、20 年~30
126
年を視野に入れた長期的な政戦略であった。この大綱は以降、参謀本部の中心的課題となった。
その成立を見越して既に同月 5 日、参謀本部の組織を改正した。第二部の重要業務であった情勢判断
を新設の第一部二課に移した。しかし、これは本部内にしこりを残し、後のシナ事変において第二部が石
原の意見(不拡大)に強く反対した原因となった。
8月7日
5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)において国防国策として「国策の基準」が定められた。
これは、国防方針改訂と並行して検討されたもので、初めて南進政策を明記した。しかし、これも南北
併進という玉虫色の決着で、陸海対等軍備建設に象徴される陸海軍の対立を浮き立たせただけに終わっ
た。
この「基準」には、日本による植民地解放の方針が「東亜における列強の覇道政策を排除し、真個共存共栄主義
により互いに慶福を分かたんとするは、即ち皇道精神の具現にして、わが対外発展政策上常に一貫せしむべき指導
精神なり」とあった。後の東京裁判においては、これをもって「日本は侵略戦争を計画した」ものと判断され、当
時の首相であった広田弘毅が死刑の判決を受けた。
しかし、その後4半世紀も経たない 1960 年に国連総会は、植民地解放闘争の「戦士」を適法と認め、民族自決推
進のための「破壊活動」それ自体を容認することとなった。
8 月 15 日
広田内閣が 20 年間に移民住居を 100 万戸建設するという「満洲開拓移民推進計画」を決議し、1936
年から 1956 年の間に 500 万人の日本人を移住させるとの計画をたてた。この政策は、関東軍による農業
移民百万戸移住計画に基づくもので、国策に裏打ちされた入植者の大陸への送り込みが図られた。
移民については、北米アメリカ、南米ブラジルや南米諸国への日本人移民の入植移民数に段階的制限が
加えられるようになったこと及び昭和恐慌による当時の地方農村地域は疲弊と困窮をきわめていたため
窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者らの強い移民志向があったことから、満洲事変以降、満洲への
移民が本格化した。
日本政府は、1938 年から 1942 年の間には 20 万人の農業青年を、1936 年には 2 万人の家族移住者を、
それぞれ送り込んでいる。
11 月 26 日
陸軍省が「軍備充実計画の大綱」を策定。17 年度までに 41 個師団と 142 個飛行中隊を整備し、満州
と朝鮮へ 13 個師団を配備する計画が決まる。これにより、参謀本部石原第二課長が構想した極東ソ連軍
に対抗するための軍備拡張が認められることとなった。
12 年 5 月
重要産業五カ年計画が決定される。これは、参謀本部石原第一部長(同年 3 月 1 日づけで昇任)が参
謀本部の外郭団体・日満財政経済研究会に作成させた日満産業五カ年計画を政府計画としたもので、基
礎産業を 2 ないし 3 倍に、飛行機生産を 10 倍にすることをうたうなど、日本の産業構造を軽工業から重
工業に転換させようとする野心的な計画であった。
同計画の中の満洲での軍需産業の拡充については、これを独立させて満洲産業五カ年計画を策定し、
内地にさきがけて実行した。
(シナにおける情勢逼迫)
11 年(1936 年)5 月
127
広田内閣が支那駐屯軍を 2 千から 5 千に増強した。北平南郊の交通の要衝・豊台への駐屯もこのとき
始まったが、これ自体がシナ側の疑惑を招いた面もあった。
駐屯軍増強の理由は、前年 10 月に延安を新根拠地とした共産軍が、2 月に黄河をわたって山西省の 3
分の1を占領した(国民政府の閻錫山の要請により 5 月に撤退)ことに端を発し、日本にとっては、その
ような動きが“平津、北寧沿線の日本人居留民 1 万3千人に脅威を与える”として執られた措置であっ
た。
なお、5 月 5 日にシナ共産党は、中華ソビエト共和国中央政府の毛沢東及び軍事委員会主席の朱徳の名により国
民党に対して、
「1カ月以内の停戦と一致抗日」を呼びかけていた。
しかし、一面北支工作中止後も現地に口を出す関東軍から“支那駐屯軍が弱体で現地における反日活動
を監視できない”との批判を封じる狙いもあった。一方、国民政府・地方政権としての冀察政務委員会に
とっては、これは大きな脅威であった。
なお、ソ連も 3 月に外蒙古と相互援助協定を締結し、外蒙古が第三国から攻撃の脅威を受けたときは、
両国は必要なあらゆる手段をとることを約していた。
対支政策(特に北支問題の解決)については、広田内閣は、南京中央政府を交渉の相手とするようにな
った。しかし、蒋介石は、7 月 13 日の国民党の第 5 期2中全会で「いかなる国といえども我が領土主権
を侵すものは絶対に容認しない。そのとき我々は最後の犠牲を惜しまない」と決意表明した。
8 月 11 日
広田内閣が外務、大蔵、陸軍、海軍4省間で「対支実行策」
「第 2 次北支処理要項」を決定したが、
「冀
察二省の分治完成に専念し・・・」とあるように、さきの蒋介石の決意表明を理解したうえでのものではな
かった。
8~9 月
シナで日本人テロ事件が相次ぐ。
8 月 24 日 四川省成都で大阪毎日新聞特派員・渡辺洸三郎と上海毎日新聞記者深川敬二がシナ人
デモ隊に襲撃され殴殺される。
9 月 3 日 広東省北海市で丸一洋行社が第 19 路軍兵士に襲撃され、店主・中野順三が殺害される。
9 月 4 日 漢口で日本領事館勤務の巡査・吉岡庭治郎が白昼狙撃され死亡。これらの事件について
国民政府は取り締まる意思も能力もなかった。
このため日本国内では、日本軍自らが出動する以外、日本人居留民を保護できないとの空気が醸成され
るようになっていく。しかし、日本政府は諸事件の善後処理、日支防共協定締結、シナ側の反日運動取締
まりのため、中華民国大使・川越茂をして国民政府外交部長・張群と国交調整交渉にあたらせた。
9 月 15 日から南京で両者の交渉が始まり、川越は排日取締り、共同防共問題、輸入税軽減問題など 7
項目の要求を出したが、張群は断固としてこれらを拒否したほか、塘沽・上海両停戦協定の取り消し、冀
東偽組織の解消、冀察・綏遠偽軍及び匪賊の消滅などを要求した。
張群は、第 1 回会議で満洲事変以後の侵略活動に絶大な危惧と不安を持っていることが国交調整の最大の課題で
あることを明言し、日本の姿勢そのものの解決を迫ったが、日本側は国民政府の対応の重大な変化を十分に認識で
きなかった。
9月1日
128
支那駐屯軍田代司令官が利権獲得のため冀察政務委員会宋哲元委員長に迫って、天津-石家荘間鉄道
の開設、龍煙鉄鉱の開発、塘沽付近の築港、定期航空事業の開始などにつき諒解に達した。しかし、国民
政府外交部は 11 月 21 日“これらはすべて中央の統括事項である”として承認を拒否した。
10 月
支那駐屯軍が豊台(北平南郊)で、7 千人を動員して 10 日間の大演習を行った。これに対し、国民政
府外交部は須磨南京総領事に「住民 2 千人が家から追い出されたり、破壊されたりして宿所を失った他、
物資を徴発されたり、稲を刈り取られたりして大損害を蒙った」と抗議。
11 月
綏遠事件起きる。徳王が率いる内蒙古軍が、綏遠省東部の奪還を企図して雑軍を率いて国民政府綏遠省
主席で軍閥・傳作儀の軍を攻撃したところ、蒋介石は中央軍など 20 数万の軍を北上させて傳作儀軍支援
態勢をとり、自らは西安に進出した。内蒙古軍は傳作儀軍に大敗し、その根拠地・百霊廟を占領された。
内蒙古軍を指導したのは関東軍の田中隆吉参謀であり、関東軍の飛行隊も参加していたことから、シナ
では「中華民国軍による関東軍撃滅」と喧伝された。
シナの軍隊が抗日作戦で勝利を収めたのは初めてのことであったので、支那共産党がここぞと工作を
行って、
「国民党と共産党が合作すれば日本に勝てる」=「日本恐れるに足らず」との機運を高めた。
このため蒋介石も、世論に押されて対日攻撃を宣言する事態にすら発展し、国民政府内では張=川越会
談の中止を求める声が圧倒的になった。→国交調整交渉が決裂。
当時、反蒋派勢力にとって「反日・抗日」は格好の大義名分。6 月に起こった広西(李宗仁)
、広東(陳済棠)に
よる国民政府への「抗日戦争実行要求」に加え、この事件後は、西北軍の馮玉祥と山西軍の閻錫山は「反蒋抗日」
を呼号し「中華安国軍」を組織して独立を宣言した。
一方、同月、上海、青島において日系紡績工場で大規模な労働争議・暴動が起こった。上海では日本側の要請に
より、抗日救国会のメンバー7 人が逮捕され、青島では日本海軍陸戦隊の一部が要所を強制捜査し、罷業の背後関
係者と見られるシナ人を直接逮捕したり、証拠書類を押収したりした。これらは張国民政府外交部長から厳重な抗
議を受けた。
蒋介石側は、9 月に反蒋派勢力のうち西南派を屈服させ、綏遠事件で大挙中央軍を北上させた際には北支軍閥に
対する統制を強化したものの、敵の多い状態はなお続いていた。
このような情勢の中、崩壊寸前の支那共産党としても、
「反日・抗日」により蒋介石の矛先を日本に向けさせたか
った。
12 月
参謀本部作戦部長の石原莞爾が関東軍に出張して、
(日満を通じる重要産業 5 カ年計画の推進による)
対ソ軍備の充実が急務との見地から、内蒙古工作の中止を求めたところ武藤章参謀は「石原さん、我々は
あなたが満洲事変をおやりになったのを真似しているだけですよ」と答えて石原を黙らせたという。
(日独防共協定締結)
11 年(1936 年)11 月 25 日
日独防共協定締結(駐ドイツ大使館付武官・大島浩がリッベントロップ外相と親交を深め、推進した)
。
この協定締結は、前年 7 月に開催されたコミンテルン第 7 回大会において、
“全世界の共産主義革命を
めざす、当面、日本及びドイツが「コミンテルンの敵」である”との宣言がなされ、コミンテルンが支那
129
共産党に抗日人民戦線運動を起こすよう命令したことに対抗するものであった。即ち、あくまでソ連に
備えるための協定であるとともに、蒋介石政権に軍事顧問を送っているドイツにシナから手を引かせる
狙いを持つものであった。
この年の 2 月、イスパニアに人民戦線政府アザーニャ内閣が誕生し、内乱が勃発していた。これには、コミンテ
ルンが深く関わり、人民戦線軍を仕切っていた。同年 9 月イスパニア国家主席に就任したフランコは、
「共産主義の
輸出」というスターリンの野望を断つため、独・伊の支援を受けて人民戦線軍と闘った(スペイン内戦=ソ連対独・
伊の代理戦争)
。スペイン内戦は 3 年後(1939 年)3 月フランコ軍がマドリードを占領することにより終結し、イ
スパニアは翌月の 4 月に防共協定に参加した。
この防共協定締結に向け積極的な軍部に対し、外務省は反対であったが、2.26 事件以来高まった軍部
の発言力に抗しきれなかった。しかし、有田八郎外相は、イギリスとの外交関係悪化に対して十分な配慮
をし、またソ連をも不必要に刺激しないよう「なるべく漠然とした条約にせよ」と指令した。その結果、
条文は以下に見るように至極防衛的な内容となった。
もし、外相に吉田茂が起用されていれば、日独防共協定締結は、ありえない選択だったと言われている。
ドイツにおいても国防軍が日本との協定締結に反対していた。英独関係を悪化させるとの理由からであった。し
かし、駐英大使リッペントロップが「日独接近は(イギリスに対して抑えがきくこととなり)英独関係に良い影響
をもたらす」と主張し、ヒトラーに協定締結に踏み切らせた。なお、当時まだドイツは満洲国を承認しておらず、
7 か月前の 4 月には、蒋介石に 1 億マルクの援助を約束していた。
この協定を世界史的に見れば、スターリンが画策する「共産主義の輸出」対して初めて防共の同盟が試みられた
という点で注目に値するものではあったが、列国の反発は予想以上に大きかった。ソ連は成立寸前の日ソ漁業条約
の改定の調印を拒否し、後の東京裁判において、検察側からこの防共協定締結はソ連に対する侵略行為であるとの
主張がなされたほどである。
当時、米・ルーズベルト大統領はこうしたソ連の動きを容認し、英国及び蒋介石政権も日本の置かれた立場に冷
淡であった。また、イギリスも日英協議に応じなかったほどで、西園寺をして「ほとんど十が十までドイツに利用
されて、日本は寧ろ非常な損失をしたように思われる」と言わしめたほどであった。
[日独防共協定]
第1条 締結国は共産「インターナショナル」の活動に付相互に通報し、必要なる防衛措置に付協議
し且緊密なる協力に依り右の措置を達成することを約す(対コミンテルン活動の通報・協議)
第2条 第 2 条 締結国は共産「インターナショナル」の破壊工作に依りて国内の安寧を脅さるる第
三国に対し協定の趣旨に依る防衛措置を執り又は本協定に参加せんことを共同に勧誘すべ
し(第三国の加入要件)
[付属議定書]
(イ) コミンテルンの活動に関する情報交換と防衛措置について協力すること。
(ロ)
日独両国はコミンテルンの破壊工作を助長する者に対し、現行法の範囲内で厳格な措置を
とること。
[秘密付属協定](抄)
第 2 条 締約国は相互合意なく、ソビエト連邦との間に本協定の意思に反した一切の政治的
130
条約を結ばない(対ソ単独条約締結の禁止)
12 月
戦艦「大和」の建造が開始される。建造のための予算は、ワシントン、ロンドン両軍縮条約脱退後とは
いえ世界への公表がはばかられたので、小型戦艦建造のためのいくつも予算を集めて建造が始まった。
完成は 16 年春。
(西安事件とその影響)
11 年(1936 年)12 月 12 日
西安事件起きる。
当時、シナ共産党は瑞金から逃避行を重ね(「長征」)
、ようやく 10 月に延安に辿り着いたところであり、その兵
力は当初の 30 万から 4 万人足らずに激減していたと言われている。
蒋介石は、共産軍の長征を殲滅の好機と見ており、内蒙及び西北の中央化を目指して、共産軍を含めて「剿匪軍
事計画」による全国統一の美名のもと、張学良に対し、旧東北軍をしてその討匪に当たらせ、総攻撃を命じていた
(これには、20 万の旧東北軍を消耗させようとの意図があった)
。11 月 12 日には、蒋介石が自軍の飛行機約 200
機に出動を命じてその戦闘に加わるほどの激戦が行われた。しかしその後は、張学良軍はまともに共産軍と戦おう
としなかった。
蒋介石が張学良に共産軍の陝西省根拠地を覆滅するよう督励すべく西安に乗り込み(12 月 4 日)
、張
を激しく叱責したところ、その 2 日後のこの日、逆に張学良と楊虎城が蒋介石を捕らえて軟禁すること
により、この事件が起きた。
張学良は、蒋介石を 2 週間にわたり軟禁し、内戦の停止、救国会議の即時開始など 8 項目を懇請した。
蒋介石説得に失敗した張学良は、中国共産党、南京中央党部、国民政府をはじめ各方面に当該 8 項目
の趣旨を打電し、共産党に救援を求めた。この 8 項目は日本を直接の対象とはしていなかったが、総合
してみれば抗日の実現を目標としていることは明らかだった。
他の地方軍閥同様、張学良が率いる東北軍も、共産軍との内戦よりも抗日戦を望んでいた。張学良自身、すでに 4
月 9 日、秘密裏に周恩来と会談、内戦の停止で一致していた=以後事実上の休戦状態。
中国共産党(西安に来たのは周恩来、葉剣英ら)は、蒋介石を殺す方針で、モスクワに承認を求めた。
一方イギリスも、宋子文(蒋介石の妻である宋美齢の弟)が支那財界の混乱を防止するためイギリス系銀行に援
助を求めた(13 日)ため、背後にあって一挙にシナの金融・経済を独占しようと目論んでいた。
事件が起きた日の 2 日後(14 日)
、イギリス系ユダヤ人の W.ドナルド(ニューヨーク・ヘラルド紙記者。張学良
の顧問であると同時に南京政府の顧問で、宋美齢の愛人)が宋美齢から託された蒋介石及び張学良宛 2 通の手紙を
携行し、宋美齢を伴って洛陽から西安に飛んだ。張学良宛の手紙には、
(蒋介石を殺す)考えを改めるよう書かれて
いた。アメリカ、イギリスとも、この機を逃さず積極的に南京政府を援助することを決心していた。
スターリンは、周恩来、葉剣英らに対し、抗日戦のために第二次国共合作を行わせることを条件として
蒋介石を開放するよう指示し、張学良と蒋介石との周旋に当たらせた。
12 月 25 日
張学良は国民党政府に対し、①対日軍事宣戦、②満洲(東北の4省)の失地回復、③容共政策の回復と
いう3点を通告し、蒋介石を開放した。またソ連で事実上の人質となっていた蒋経国が帰国を許された。
壊滅寸前だったシナ共産党は、この事件で息を吹き返し、第二次国共合作を果たして、その後の主導権
131
を握ることとなった。
以後、国民党軍からは共産軍と戦う姿勢が失われたばかりでなく、国民党内では親日派が後退して(張
群外交部長が罷免される)
、親ソ派が台頭していった。
シナ全土に反日の大合唱が強まり、
「日本と戦っても勝てない」と考えていた蒋介石への圧力が高まっ
た。これにより、広田内閣の対中交渉は完全に暗礁に乗り上げた。
毛沢東の狙いは日本軍と国民政府軍を戦わせ、共倒れさせることにあり、この西安事件により、のちの
日中戦争は不可避になった。それほど後世に大きな影響を残した事件であった。しかし、当時の日本人は
その重大性にほとんど気が付いていなかった。
蒋介石軍による掃討作戦を免れた共産党軍は、
「国民革命軍・八路軍」として力を蓄えた。翌 12 年 5 月には延安
で支那共産党全国代表者会議が開催され、毛沢東は「幾百万、幾千万の大衆を抗日統一戦線に引き入れるために戦
え」と呼び掛けた。
同年 7 月、蒋介石は廬山に全国から各将領、各界人氏を集め政治・軍事問題を話し合ったが、このとき、共産党
代表の周恩来も招いて行政院各部長と協議させた。
[西安事件の影響を受けての対シナ政策見直しの動き]
参謀本部戦争指導課(課長は石原莞爾)が 12 年 1 月 6 日付けで「対支実効策改正意見」を作
成。華北の特殊化・分治を否定する意向を明らかにし、
「従来の帝国主義的侵寇政策を放棄」する
ことが必要である、とした。
12 年(1937 年)1 月 27 日
第 70 回帝国議会開会劈頭、浜田国松代議士(政友会)が軍部の横暴について質問を行ったところ、寺
内陸軍大臣が軍への侮辱だとして議会解散を求めた(「腹切り問答」と呼ばれる)
。
この解散要求に永野海軍大臣が、せっかく取った予算が流れることを恐れて反対。決められずに窮した
広田首相は総辞職を選んだ。
元老・西園寺が、軍を統制する切り札として、広田内閣時代に 4 個師団廃止などの軍縮を断行した宇
垣一成を指名しようとした。しかし、石原莞爾作戦部長代理をはじめ陸軍が「宇垣は三月事件に関係して
いた」との理由をつけて、その排撃に動いた。陸軍の政策要求が通らなくなることを恐れたからである。
杉山元教育総監が宇垣に「大命を拝辞して欲しい」旨「忠告」の上、湯浅内大臣が軍(梅津陸軍次官、
石原参謀本部第一課長ら)に気を使って、予備役の宇垣一成を現役に戻すための勅旨を出そうとしなか
った。このため宇垣は拝命受諾を断念し、石原が望んでいた林銑十郎が新首相に就任することとなった。
杉山教育総監は陸相に就任した。
衆議院が内閣を潰し、軍首脳が次期首班を左右した。
2月2日
林銑十郎内閣が成立。3 月 3 日に就任した佐藤尚武(前駐仏大使)外相は、国民政府統治のシナを普通
の統一国家として認識し、軍事力による威嚇を武器とするような高圧的な外交を排除するとともに、平
和的交渉を徹底させようとした。
上海駐在の楠本実隆陸軍大佐と本田忠雄海軍少将も、2 月 18 日、強硬政策をもって臨むのは実現不可
能で、
「打倒蒋介石」あるいは「北支5省の中央離脱」などの旧い観念を排して堂々と中央政府を相手と
して進むべきであり、
「シナに対し恫喝により我が意を押しつけんとする時機は既に去れり」と進言した。
132
外務省東亜一課が 2 月 10 日新しい「対支実効策」、
「第 3 次北支処理要綱」を起草。
これらの新気運を総合する形で 4 月 16 日、外、陸、海、蔵の4相間で「対支実効策」、
「北支指導方策」
を決定。佐藤外相は、満洲国問題に触れない範囲であれば、日本側は譲るべきは譲って国民政府を相手と
した国交正常化に強い意欲を持っていた。
新対支実効策では、
「北支の分治を図り、もしくは支那の内政をみだすおそれあるが如き政治工作は之
を行わず」
、
「南京政権並びに同政権の指導する支那統一運動に対しては公正なる態度を持ってこれに臨
む」と、180 度の転換をした。
「日支軍事同盟の締結」や「最高政治顧問の傭聘」といった項目は全て消
滅されていた。
しかし、こうした動きには関東軍(3 月 1 日に板垣参謀長が転出し、後任には東條英機中将が就任)が
強い不満をもった。
また、この頃参謀本部が「重要産業拡充計画 5 ヵ年計画」を策定(3 月 1 日就任の石原莞爾作戦課長の
主導)
。この計画において、飛行機や工作機械の製造に必要な基礎資源は内地及び満洲国から取得するこ
とができたが、鉄鉱石及び原料炭については、北支に依存せざるを得なかった。=北支が満洲国にとっ
て、対支防衛の緩衝地帯であり、対ソ防衛の戦略的要衝であるとともに日満両国の存立上経済的に不可
分の地域であることが確認された。
以降、北支の軍事上及び経済上の重要性に関する認識が指導層に定着。
「重要産業拡充計画 5 ヵ年計画」抜粋
飛行機 1万機
工作機械 50万台
液体燃料
造船
3.8 倍)
(同
鋼材
93 万トン(昭和11年の 1.7 倍)
1千万トン(同
2.7 倍)
635 万トン(同 15.6 倍)
人造石油のこと。しかし技術が確立していなかったため、政府による実施計画では著しく減額された。
日本国内の原油生産量は昭和 13 年の 40 万余トンが最高の生産量で、当時の需要量 500 万トンの 10 分の
1 にも満たなかった。
石炭 1 億1千万トン(同
2.0 倍)
3月
日華貿易協会会長児玉謙次(横浜正金銀行頭取)を団長とする財界使節団(宮島清治郎日清紡社長、石
田礼助三井物産常務、藤山愛一郎日本糖業連会長らで構成)が上海、南京を訪問。
18 日、シナ側との懇談会の場において、河北を無政府状態に導いた日本の行動=公然たる密輸、三白
(銀、モルヒネ、糖)の横行、堂々たる賭博=が厳しい非難を浴びた。
しかし、数ヶ月後の支那事変勃発の頃には、天津を中心に日本の紡績業が急激な進出を見せるとともに、冀東地
域の貿易でも有力輸入商による取引が優勢になっていた。
3 月 31 日
2 月 2 日に就任したばかりの林首相が 12 年度予算を成立させた直後に、特段の理由無く議会を解散
(
「食い逃げ解散」と呼ばれる)
。政党と議会を軽視する行為であった。→4 月 30 日総選挙。結果は奮起
した政友会と民政党が圧勝し、併せて全議席の 75%を占めた(社会大衆党も 36 議席と倍増した)
。
その結果、二大政党が倒閣に動き、世間も林内閣の囂々の非難を浴びせる中、陸軍にも見放された林首
相は 5 月 31 日に退陣した。
133
後任の首相候補に元老・西園寺公望は「最後の切り札」として、それまで大命拝受を固辞していた近衛
を推挙した。
6月4日
近衛文麿が首相に就任。
25 歳で貴族院議員となり、その 2 年後「英米本位の平和主義を排す」との論文を発表する一方、軍閥政治の傾向
に批判的で、平等思想を持ち、教育問題にも熱心であった近衛の登場を世間は「暗闇に一条の光」として歓迎した。
ただし、近衛は満洲事変後、陸軍中枢に近づき軍部の政界進出を許容する言動もあり、八方美人的な側面もあった。
政治への不信の中で国民が近衛に現状打破の期待をした背景には、国債大量発行によるインフレから生じた物価
高とその結果としての生活苦があった。
近衛首相は外相に広田弘毅を起用し、対支政策については「広田三原則」
(10.10.4)を踏まえ、昭和 11
年 8 月 1 日決定の「対支実効策」
、
「第二次北支処理要綱」を採用し、4 月 16 日に外、陸、海、蔵の4相
間で決定された「対支実効策」
、
「北支指導方策」を捨てた。
対支政策について元々近衛は、
「我が国としてはあくまでシナの主権を尊重し、列国と力を合わせてシナの開発に
取り組むべき」
(大正 10 年、憲法研究会代表としての発言)との考えであったにもかかわらず、時計の針を逆に進
めたのである。
関東軍は早速、4 月 16 日の「対支実効策」を「無知の支那民衆に対し、日本与しやすしとの感を与え
更に排日侮日の結果を招来す」と批判し、6 月 8 日には東条参謀長が、対ソ作戦の見地からみれば南京国
民政府に「一撃を加えて再び立つ能はざらしめる」のが最も有利な対策であると、対シナ政策の再検討を
するよう上申し、この旨中央(次官、次長)に電報を打った。また同月 16 日に上京して、堀内外務次官
らと会談し、内蒙工作は従来どおり行うこと、冀東自治政府の早急な解消には反対であることなどを申
し入れた。
近衛首相は翌年 8 月内々に主宰し始めた政治勉強会「昭和研究会」を 11 年 10 月に正式発足させ、多
くの人を周りに集めた。
また、近衛は組閣と同時に政治幕僚会議ともいうべき「朝飯会」をつくり、意見交換を行った。その中
には人知れず共産主義を身に着けた例が多かった。典型は尾崎秀美であり、かれは朝日新聞社上海赴任
歴(昭和 2 年~7 年 2 月)をもとに当時の月刊総合誌「改造」「中央公論」などに数々の記事を発表し、
シナ通として名を馳せていた。近衛はその尾崎をスカウトして同 11 年 7 月、内閣顧問として処遇した。
朝飯会のメンバー人選にも尾崎秀美が中心的な役割をし、彼らはブレーンとして近衛内閣の政策方針
決定に影響を与えた。
尾崎は上海駐在時、密かに E.スノウ、A.スメドレー、R.ゾルゲらコミンテルンのエージェントと連絡を取り合っ
ており、本人も自認する”忠実な共産主義者“で、ゾルゲが 9 年春、在東京ドイツ大使館員として日本に赴任してき
たときに連絡を復活し、宮城與徳(アメリカ共産党員で、コミンテルンの指令によって来日した)と協力して巧妙
かつ大胆な秘密謀略活動を開始していた。
朝飯会のメンバーは、当初は蝋山政道、平貞蔵、佐々弘雄、笠信太郎、渡部佐平、西園寺公一、尾崎秀美で、後に
松本重治、犬養健を加えて構成された。
(この項、三田村武夫「大東亜戦争とスターリンの謀略」より)
6 月 21 日
イギリスのカドガン国務次官補が駐英大使吉田茂に南京国民政府への借款に共同して供与することを
提案。
134
中華民国においては、幣制、税制が全く確立していなかった。また、経済の悪化により銀の流出も激しくなって
いた。そこに目を付けたイギリスのチェンバレン外相はリース・ロスを派遣して、幣制改革、銀本位制の導入を提
案し、必要な資金の借款を仄めかせて影響力を強めようとしていた。イギリスは既にヨロッパ、アフリカ、中東に
おいては著しく政治力を弱めていたが、インドやシナにおける権益だけは失いたくなかった。
イギリスは日本に対して、共同でシナをまともな銀本位制にしようと、日英が後ろ盾となって銀と交換できる通
貨を発行させようとした。その条件としては、満州国承認、日英不可侵条約の締結をちらつかせていた。
ところが、海軍は「英米を仮想敵国とした軍備増強」に拘り続け、広田外相は日英同盟廃棄以来のイギリス敵視
から、同国の提案に乗ろうとはしてこなかった。
ジョージ 6 世の戴冠式に参列するため、5 月にロンドンを訪れた孔祥熙財政部長は、民国の幣制を確立して財政
基盤を強化するため借款の供与を要請し、イギリスはこれに応じることとして、日本に参加を正式に要請したもの
であった。
国民政府も、この時期は政権運営に自信を持ち、6 月 30 日、汪兆銘外交部長は全米向け放送で、自国の統一を誇
った上で「我が国民に必要なのは平和と秩序である」と訴えた。
南京駐在の川越大使は 7 月 5 日、従前から対シナ問題に関するイギリスのイニシアティヴを一貫して
拒否してきた広田外相に「参加する以外に日本の採るべき道はない」と上申する意見電を打電した。
イギリスと対等の立場に立つためには 1000 万ポンドの長期資金提供が必要であったが、日本はその負担に耐え
うるかどうか当の川越も心配していた。この電報が本省に到達したのは翌 6 日、蘆溝橋事件勃発の前夜だった。
結局、日本はイギリスの提案を退けたため、同国との関係は決定的に悪くなった。
同月
アメリカでは、ルーズベルト大統領が国務省内の組織ソビエト部を廃止=ソ連への警戒心を緩めた。以
降、スターリンの放ったスパイが大量にアメリカに入り、3 年後には政府内の要職に就くまでになった。
(支那事変)
12 年(1937 年)7 月 7 日
蘆溝橋事件起きる。
北京(当時は北平)郊外の豊台に駐屯していた支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊第八中隊が蘆溝橋付近
において演習を行っていたところ、夜 10 時 30 分頃、昼間国民政府第 29 軍の姿があった方角から何者か
が発砲し、同中隊は実弾数発を受けたが、演習中ゆえ実弾を用意していなかったこともあり、清水中隊長
は「上官の命令がなければ応戦できない」として穏忍自重した。
点呼により同中隊の伝令が一人行方不明であった。報せを受けた第三大隊は翌 8 日午前2時に蘆溝橋
付近で第八中隊に合流した(この時点では伝令は無事帰隊していた)
。3 時 25 分に龍王廟付近から3発
の銃声が聞こえたため、連隊長の牟田口廉也大佐が攻撃命令を出した。
(しかし、調停のため攻撃は中止
された)
同日 5 時過ぎに龍王廟付近から一斉射撃を受けたため、牟田口連隊長の命令下、日本軍(第三大隊、
500 人)は 5 時 30 分に至って漸く応戦を開始し、なし崩し的に戦闘が始まった。
この日の交戦で第三大隊は死者 10 人、負傷者 30 人の被害を出し、シナ側(第 29 軍)は死傷者 180 人
(うち死者 60 人)に達した。=「支那事変」勃発
1900 年の義和団事件鎮圧の後、北京議定書により北京近郊には日本だけでなく、アメリカ、イギリス、フランス、
135
イタリアが戦車、大砲、機関銃を装備した部隊を駐屯させて、軍事演習も行っていた。
日本軍は、居留民保護のため天津に軍司令部をおき、北京近郊にも駐屯していたが、駐留軍の兵力は 5 千 6 百に
過ぎなかった(内地海外合わせた総兵力は関東軍も含め 25 万)
。これに対し、北支に展開する国民政府 29 軍は 18
万(国民政府軍の総兵力は 225 万)
、ソ連軍も 40 万が極東に配備されていた(総兵力は 130 万)
。つまり、シ・ソ
両軍の 14 分の 1 の兵力しかなかった。このような状況下で日本軍が紛争を起こすことなど考えられないことであ
った。
日本軍の演習は空砲により行われていた(東京裁判において弁護側から提出された駐屯軍参謀長・橋本群中将の
口述書による)
。蘆溝橋付近の龍王廟などには、冀察政務委員会委員長・宋哲元将軍が指揮する国民政府軍第 29 軍
所属の部隊が配備されていた(ただし、宋哲元は当時、経済的な問題を巡って日本軍と国民政府とが対立する狭間
で極めて困難な立場にあり、そのため故郷の山東省に帰っていて、天津に戻ったのは事件が起こった後の 7 月 11 日
だった)
。
7 月 7 日の発砲以降も、日シ両軍の中間地点から両軍に向け不審な発砲があったが、双方とも射撃を行った形跡
は認められなかったので、第三者の策謀ではないかと認識された=同じく駐屯軍旅団長・河辺正三大将の口述書に
よる。
)
当該演習は、査閲の予行演習で、明治 34 年の交換公文においてその自由を認められていた。日本軍は 7 月 4 日に
6 日、7 日、9 日、10 日に昼夜空砲を使用して演習を実施することを国民政府の地方当局に通知していた。
最初に発砲したのは、日支両軍の衝突を起こさせて共倒れにさせようとする支那共産党の指令による第 29 軍内
の共産分子の挑発行為だったというのが現在では定説になっている。なお、第 29 軍には副参謀長・張克侠をはじ
め多数の共産党員やシンパが潜伏していた。同軍第三大隊長をしていた金振中は、その後シナ共産党軍に身を投じ
た。
6 日の時点で第 29 軍第 110 旅長の何基澧は「もし日本軍が挑発してきたら、必ず断固として反撃せよ」と部下に
命じていた。何基澧もシナ共産党の影響を受けた指揮官であった。
(坂本夏男「蘆溝橋事件勃発維持における牟田口
連也隊長の戦闘開始の決意と命令」より)
五四運動以来、うち続く内戦の中、当時のシナには「反帝国主義」
「抗日」気分が充満し、日本に対する主戦論が
時代のうねりとなっていた。そのなかで蒋介石はシナが一つにまとまっていないことなどから「日本と戦争をして
も勝てない」とみて自重していた。
しかし、シナ共産党は「このままでは国民党軍に滅ばされてしまう」と、危機感を抱いていた。すなわち前年 12
月の西安事件解決の際、蒋介石に承諾させた「国共内戦を停止し、抗日戦に全力を傾注する」という条件にもかか
わらず、蒋介石が様々な要求を出してきて、再度軍事攻撃を受ける可能性が高かったからである。これを打開のた
めには、国民党軍と日本軍を戦わせて、双方が疲弊している間に追い詰められた共産党を延命させ、力を伸ばすと
いうのが最善の方策であった。
このような状況をエドガー・スノウは「中共雑記」
(1964 年)に次のように書いている。
「1937 年 6 月には蒋介石は、…再度紅軍の行く手を塞ごうとしていた。
(共産党は)今一度完全降伏するか、包
囲殲滅を蒙るか、または北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態となったかにみえた」
この盧溝橋事件によって、蒋介石は日本との対決を回避して共産党を殲滅するなどということはできなくなり、
シナ共産党は生き延びることができた。
7月8日
136
遠く離れたシナ共産党の本拠・延安から党中央委員会の名で、
「各新聞社、各団体、国民党、国民政府、
軍事委員会及び全国の同胞諸君」にあて長文の電報が大量発信された(中国共産党の公式史には「78通
電」として特筆されている)
。
「7 日夜 10 時、日本軍が攻撃してきた。・・・日本侵略者に一時的な平和や安堵を求めるな。・・・第 29 軍
全軍動員して前線に赴き応戦せよ。
」加えてスローガンとして「国共両党は親密に合作し、日本侵略者の
新たな侵攻に抵抗し、中国から追い返そう」
また、同日中に毛沢東ら軍事指導者 7 人の名前で蒋介石に対し、
“全国総動員を実行して北平・天津を
防衛し、華北を防衛して失地を取り戻されることを願う”趣旨の電報が発信された。第 29 軍司令官・宋
哲元に対しても同旨の電報が発せられた。
この電報は、8 日に日本軍が応戦したのを確かめたうえで発せられたものであるが、事前に準備されていたこと
を示すものとしか考えられない。
文中「7 日夜 10 時、日本軍が攻撃してきた。
」とあるのは作為と考えられ、日本軍が反撃を開始したのは上述の
通り、8 日午前 5 時 30 分である。
なお、支那駐屯軍情報部北平支部長・秋富大佐によれば、事件直後の深夜、北京大学と思われる通信所から延安
の中共軍司令部通信所に緊急無線で呼び出しが行われ、
「成功了」と 3 回連続反復送信していたのを天津の特殊情
報班通信手が傍受していた。その時は、それが何を意味していたのか分からなかったという。
また、事件発生まもなく、コミンテルンは支那共産党に対し、①あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に
導くこと、②下層民衆を扇動して国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち至らしめること、③紅軍は国民政府軍
と協力する一方、パルチザン的行動に出ること、④この目的貫徹のためあらゆる手段を利用すべく、局地解決や日
本への譲歩によってシナの解放を裏切る要人は抹殺してよい(以下略)
、という指令を発した。
一方、蒋介石も「日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべきであろう」と日記に記して抗日の姿勢を鮮
明にした。事件直後、蒋介石は米英仏ソに駐在する大使宛てに「日本と開戦した場合、いかなる援助が得られるか、
駐在国の意向を打診し、至急報告せよ」と発電した。蒋介石は、日本に勝つためには日米間に戦争が起きることを
望んでいたのである。なお、この電報は日本側に傍受・解読されていた。
蒋介石は、日本側の非を訴えて国際世論を味方につけるための機関として、国民党内に国際宣伝処を設けた。
同日、事件勃発の報を受けた日本陸軍参謀本部が、総長名で支那駐屯軍司令官に対し、
「事件の拡大を
防止するため、さらに進んで兵力を行使することを避けるべし」と指示した。
このとき参謀総長は閑院宮であったが、いわば「お飾り」的存在であって、実質的な責任者の参謀次
長・今井清は病気療養中(翌年 1 月に死去)
。現地の支那駐屯軍司令官・田代皖一郎も同じく病気で危篤
状態にあった(事件発生 9 日後の7月 16 日に死去。後任には香月清司が就任)。
今井に代わり責任者を任じる参謀本部作戦部長(第一部長)石原莞爾は、第一報を受けて「困ったことになった」
と困惑の言葉をもらしたが、その基本的な考えは「ソ連への警戒に専念すべき」「蒋介石と手を組んで、大陸の安
定を図るべき(=真の敵であるアメリカに対するべき)だ」「戦うよりは居留民を引き上げて、補償金を払う方が
安上がり」ということだった。したがって、戦闘を拡大し、蒋介石相手の泥沼に踏み込むような戦争にはもとより
反対で、戦備の面からも、国力が 10 倍になるまで戦争をすべきではないと考えていた。陸軍における当時の戦争
計画は、昭和 17 年までに 41 個師団をつくるというものであったが、弾薬の整備は 7.5 師団が 3 カ月戦う(1会
戦)分しかなかったからである。
当時の日本が国家意思として、自ら戦争を仕掛けることなどありえなかったのである。
137
しかしながら陸軍・参謀本部内では、意見が真っ二つに分かれていた。
武力を行使してこの際北支の問題を一挙に解決しようとする拡大派は、杉山陸相、田中新一軍事課長、武藤章
第三課長。また、関東軍が事変に異常な関心を示し、植田謙吉司令官、東條英機参謀長、今村均参謀副長以下が、
朝鮮軍においては小磯司令官も、中央に決断決行を求めた。
一方、早期に事態を収拾すべきという不拡大派は、石原第一部長、河辺第二課長、柴山軍事課長で、軌道に乗り
つつあった重要産業五カ年計画が頓挫し、北辺の防備が遅れることを恐れていた。
石原第一部長は不拡大の方針を決め、閑院宮参謀総長を動かして、支那駐屯軍に対して武力行使を避け
るように指示した。
7月9日
日本は、臨時閣議で不拡大方針を確認。これを受け参謀本部次長今井将軍は、支那駐屯軍参謀長宛に
「蘆溝橋事件解決の為対支折衝方針に関する件」として打電し、国民党軍の永定河西岸への撤退と国民
政府軍に対しては将来的な所要の保証及び責任者の処罰を要求することで事件の解決を図るよう指示し
た。
この閣議は、シナ側に中央軍北上の気配もあったため、杉山元陸相が兵力の少ない支那駐屯軍が不測の事態に不
覚をとらぬよう、内地 3 個師団の派兵を求めたことから開かれた。しかし、広田外相が反対し、
「不拡大」を決めた
ものである。
これに関し、10 日付の朝日新聞は「北支駐屯軍の演習
条約に基づく権利」
、大阪朝日新聞も「わが軍の応戦は全
く自衛手段」
「演習は条約上の権利」との見出しを掲げて報道した。
大阪朝日新聞は天声人語欄においても、
「日本が穏健政策に立還ればすぐ図に乗って来る。グワンとやられてやっ
と引っ込む」
(7 月 9 日付け)、
「もともと我方から仕かけたことでなく、また仕かけるいはれもない小競り合いだ。
向ふが引込みさへすればそれで事態は収まるのである」
(7 月 10 日付け)などと、わが国の正義を主張し、むしろ
不拡大方針で臨む軍の尻を叩いていた。
実際、同日蒋介石は総動員を出して 2 個師団の北上を命じ、また配下全軍を攻撃配置に移動させた。
7 月 10 日
参謀本部首脳会議において、巻き返しに出た武藤作戦課長らが 3 個師団動員案を提案し、他の部課長
も賛成したため石原作戦部長もしぶしぶ同意した。
不拡大派の将校は翌早朝、外務省東亜局に電話し内々に「今日の閣議で陸相が 3 個師団動員案を提案
するが、外相の反対でこれを葬ってほしい」と申し入れた。石井猪太郎東亜局長は呆れつつ外相に「動員
案を止めていただきたい。シナ側を刺激することは絶対禁物です」と進言した。
7 月 11 日
近衛文麿首相は首相官邸で、首相、蔵相、陸相、海相、外相による協議を行う。
蒋介石軍の動きを察知していた陸相が、再度関東軍編成の2個旅団、朝鮮第 20 師団、内地から 3 個師
団を派兵する(支那駐屯軍に編入)他、陸軍航空隊を華北に増援する方針を提案した。
広田外相は、石井東亜局長の進言にも拘わらず、増援部隊の派兵に条件を付けるだけであっさり了承
し、3 個師団派兵が決まった。また、今次事件を「北支事変」と呼称することを決めた。
広田外相の付けた条件は、(1)居留民保護と現地日本軍の自衛安全の必要が生じたときに限る。(2)内地部隊
の動員は将来の心づもりという了解のもとに同意する、という消極的なものに過ぎなかった。
午後、支那駐屯軍から、シナ側現地当局が日本側の要求を全面的に受諾した旨の報告を受けた陸軍で
138
は、一応事件の解決をみたものと受け止めるなど不拡大・現地解決の期待が高まり、内地 3 個師団の派
兵を見合わせた。
にもかかわらず、午後 6 時 24 分風見書記官長が五相協議で合意をみた北支派兵に関する政府声明を発
表。これは「支那撃つべし」の世論に引きずられてのものであり、派兵を「自衛権の発動」とした。
風見書記官長は、陸軍次官梅津美治郎の意を体した柴山軍務課長の推薦で就任したが、元は信濃毎日新聞社の記
者であった。その当時、風見は「女工哀史」に見られる状況から発した過激な労働争議の支援をするとともに、
「共
産党宣言」を最大級の賛辞をもって紹介していた。後に、尾崎秀美とともに昭和研究会の中心メンバーとなった。
戦後は、衆議院議員(社会党)ととなり、日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長などを歴任した。
近衛首相は天皇に上奏後、総理官邸に言論界(午後 9 時)、政界(午後 9 時半)、財界(午後 10 時)の
代表を集め、政府の方針遂行に理解と協力を求めた。近衛は、世論を煽ることで政治を動かそうとしてい
た。これは、現地における停戦交渉の努力を無にするものであり、石井東亜局長は、
「首相らの動きは野
獣に生肉を投じた」と表し、嘆いた。
事実、現地では、断続的に日シ両軍の戦闘が続く中、北平特務機関長松井久太郎大佐の尽力により、国
民党第 29 軍副軍長との間で停戦協定が調印された。
協定第1項には「第 29 軍代表は遺憾の意を表明し、軍を永定河西岸に撤退させるとともに責任者を処
分し、将来責任を以って再びこのような事件の起きることを防止することを声明する」と、また、協定第
3 項には「事件はいわゆる藍衣社、共産党、その他抗日系団体の指導に胚胎すること多きに鑑み、将来こ
れが対策をなし、取り締まりを徹底す」と明記されていた。その内容は、日本側には何ら非がないことを
明らかにしたものであった。
これにより軍事衝突は一旦落着し、日本軍が撤退した。
その後、協定破りの行為がたびたび発生したため、再発防止対策等の具体化作業が始められ、同月 19 日に細目協
定が成立した。
なお第 29 軍軍長・宋哲元は、この事件においてシナ側に責任があることを認めた停戦協定を蒋介石にすぐには報
告せず、22 日になってやっと報告した。
一方、この日コミンテルンは、シナ共産党宛「日支全面戦争に導け」を骨子とする指令を発した。それ
は、以下のように日シ両軍の局地的な衝突を全面戦争に発展させるよう仕向けるものであった。
1.あくまで局地解決を避け、日シの全面衝突に導かねばならない。
2.右目的貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によってシナの解放運動
を裏切る要人は抹殺してもよい。
3.下層民衆階級に工作し、彼らに行動を起こさせ、国民政府として戦争開始のやむなきに至らしめね
ばならない。
4.党は対日ボイコットを全シナに拡大し、日本を援助する第三国に対してはボイコットをもって威
嚇せよ。
5.党は国民政府下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければな
らない。
7 月 13 日
陸軍中央部は、不拡大方針を堅持し問題を局地的に解決する主旨の「北支事変処理方針」を採択し、天
皇に上奏裁可を経た後、支那駐屯軍に示達した。
139
[北支事変処理方針]骨子
陸軍は今後とも局面不拡大、現地解決の方針を堅持し、全面的戦争に陥るごとき行動は極力これ
を回避する。是がため国民党第 29 軍代表の提出せし 11 日午後 8 時調印の解決条件を是認して是
が実行を監視す。
しかし、陸軍内では拡大派と不拡大派とに分かれて、連日紛糾していた。
拡大派 杉山元陸相(この折、天皇に「1カ月で片付く」との情勢分析を上奏。)
、梅津美治郎陸軍次
官、武藤章参謀本部第三課長(石原莞爾作戦部長の部下)、田中新一陸軍省軍事課長、佐藤賢
了同課員、関東軍
<この機会に武力を発動し、前年以来停滞していた日シ間の懸案を一挙に解決しようとした。
杉山元陸相、武藤章第三課長が特に強硬に主張した。>
不拡大派 多田駿参謀次長(8 月赴任)
、石原莞爾参謀本部第一部長他、河辺第二課長、柴山陸軍省
軍務課長ら若手幕僚
<対ソ軍備の充実が第一の課題であるという方針及び満洲国建国の五族協和の精神に反す
る。強硬策は、抗日を煽り、長期戦で日本は疲弊するだけなので、早期に事態を収拾すべき>
石原の国家戦略の根底には、日支共同体制をつくらなければ、ソ、米、英と総力戦を戦う基盤を築けないという
考えがあったが、そのような大綱を策定する前にシナ事変が始まってしまった。
政府内においても事変勃発以来、対応策について意見が二分し、近衛内閣も内地 3 個師団の派兵につ
いては、この後、動員・中止の決定を 3 度も重ねた。
同日、蒋介石は盧山で共産党の周恩来と会談し(3 月、6 月にも会談を行っていた)
、対日作戦を決定す
るとともに共産軍の改編に関して協議を開始した。
(→8 月 22 日、国民政府軍事委員会が共産軍の第八路
軍への改編を発表。
)また、国民党軍を大挙北進させ、日本の北支駐屯軍を包囲する態勢をとった。
なお、この日の夜現地では、日支両軍の中間地点で拳銃を撃ち爆竹を鳴らす行為があり(中国共産党に
共鳴する学生たちが行ったという説が有力視されている。)、これをきっかけに再び両軍が射撃を交わす
事態が発生した。
7 月 17 日
近衛首相が招集した五相会議において、両軍代表による停戦協定の交渉期限を 19 日と決定。政府は、
1千万余円の予備費支出を決める。
同日、日本の不拡大方針を欺瞞とみた蒋介石は、政治、経済、教育など広く各方面の名士を集めた盧山
談話会において、
「我々は戦争を欲しないが、第 29 軍の現在の駐屯区域に対していかなる制限をも甘受
しえない」旨の「生死関頭」の声明を発表し、11 日締結の停戦協定をひっくり返した。
この声明は、
「抗日」によって蒋介石政権を打倒しようとする勢力(共産軍や各地の軍閥)に対抗する
ため、それ以上に「抗日」の姿勢を示すことにより、反対勢力を抑えようと意図したものであったが、国
民政府が日本との戦争継続姿勢を明確にすることとなった。
→19 日までに蒋介石軍は、30 個師団(約 20 万人)を北支に集結させた(うち約 8 万は、北平周辺に配
備)
。また、国民政府は同月 19 日ソ連から援助を受けるべく交渉を開始。→8月 21 日相互不可侵条約を
締結して援助を受けるに至った。
140
蒋介石声明の裏には、日本側が日本軍に対して射撃を加え、もっとも抗日意識の強い部隊であった第 29 軍所属第
37 師を河北省南部に撤退させることを求めていたことがあった。
19 日、蒋介石は現地で独断的な妥協が成立することを恐れ、「現地での停戦協定は認めない。日本は南京の中央
政府と交渉しなければならない」と日本に通告してきたが、深夜、第 29 軍代表が橋本支那駐屯軍参謀長を訪問し、
11 日付け停戦協定第 3 項の細目実施を誓約文として申し出た。なお、同軍軍長・宋哲元が 11 日付け停戦協定を中
央に上申したのは 22 日で、19 日の誓約文については、報告しなかった。
① 共産党の策動の徹底的弾圧
② 冀察の範囲内での排日的色彩を有する職員の取り締りなど。
関東軍の方は、シナに対して積極的経略を進める好機と認識し、19 日から 24 日にかけて次々と時局
展開策を上申した。
① その概要は、河北、山東 2 省の華北政権を南京政権から分離した地方政権とし、独立自主性を与えて日満
と軍事的政治的に強固に結合させ、青島、済南、石家荘、張家口などの要地に日本軍の駐兵権を獲得して、
指導機関として北平に大特務機関を設置する。華北の鉄道などは興中公司が支援し、同公司と進出する日
本産業資本によって鉄鉱、石炭、羊毛など重要資源を開発する、などであった=第二の満洲国を目指して
いた。
② 現地の日本軍は意気盛んではあったが「シナに対しては、戦わずとも威嚇すれば従来のように事は成就す
る」との甘い考えでおり、局部的衝突を全面戦争に発展させることまでは考えていなかった。
7 月 20 日
条件付きで内地 3 個師団を動員することを閣議決定(参謀本部は内地師団動員を一時見合わせた。)
。
これには石井東亜局長が憤激し、広田外相に辞表を叩きつけた。
その後も近衛首相は、国会で「局面不拡大のため、平和的折衝の望みを捨てず」と言い続けた。その一
方で、陸軍が要求していないにもかかわらず同月 26 日には 9700 万円の第一次北支事変費予算案を閣議
決定した。
このため近衛首相は「ポピュリストの典型」とも評されるが、近衛首相は軍事予算を手当てする一方で、局面不
拡大のために宋子文を通じて蒋介石と和平工作を行い、それが効を奏したので宮崎龍介を特使として上海に送るこ
とを決定した。
しかし、これを快く思わなかった陸軍強硬派が 8 月 4 日に宮崎特使を神戸で拘束して東京に送還したため、この
和平工作は立ち消えとなった。この送還事件については、杉山陸相の関与が推定されるため近衛首相は、杉山陸相
に強い不信感を抱くようになったと言われる。
この頃、近衛首相のブレーンであった元朝日新聞記者・尾崎秀美らは、「断固シナを制すべし」「蒋介石を無視し
親日のシナをつくれ」などと主張しており、近衛首相は彼らの影響を受けていた。
7 月 30 日
天皇が近衛首相を招かれ、自ら不拡大の舵をとるべく「この辺で外交交渉により問題を解決してはど
うか。
」とお言葉を掛けられた。しかし、その前日現地・通州で起きた邦人惨殺事件により、天皇のお気
持ちは無に帰した。
(後述)
(シナ側の継戦策動と日本の対応)
1935 年夏のコミンテルン第 7 回世界大会において「日本帝国主義打倒」
、
「抗日救国」及び「失地回
141
復」などのスローガンを掲げ、抗日民族統一戦線を構築する方針が打ち出され、コミンテルン及びシ
ナ共産党はシナ本土、満洲、朝鮮、台湾、日本本土などをつなぐネットワークを構築していた。
盧溝橋事件突発の直後、シナ共産党は直ちにこのネットワークを利用し、シナ事変を早期和平に持
ち込もうとするシナにおける滞日和平派の活動を妨害、打倒するなどの目的を以って対日諜報団を設
立した。
12 年(1937 年)7 月 15 日
シナ共産党が国共合作宣言を内外に公表。
7 月 21 日
蒋介石の国民党政府がソ連と相互不可侵条約を締結すると同時に南京で戦争会議を開催し、日本に対
して戦争の手段に訴えると公式に採択した。また、翌 22 日には支那共産党軍を編入し八路軍として国民
党政府軍の一部として、日本との戦争の体制を内外ともに固めた。
蒋介石は、戦況が不利になるにつれて、乗り気ではなかった共産党との共闘交渉に前向きになっていった。これ
に乗じた共産党は人事問題などでも要求をエスカレートしていった。
7 月 22 日、23 日
冀察政務委員会当局が蒋介石声明を受けて反日の姿勢を顕わにし、抗日愛国書籍・雑誌の禁止、藍衣社
その他秘密機関の弾圧、大学などへの警察の分駐などを実施した。以降、第 29 軍もこれにならった。
7 月 24 日
郎坊事件起きる。北平-天津間の要衝・郎坊駅で切断された電線を修復した日本の増援軍が、その直後
国民政府軍から射撃を受けた。翌日、両軍は交戦状態となり、日本軍は同地を占領した。
7 月 26 日
広安門事件起きる。事前通告をし、承諾を得た日本軍が在北平邦人を保護するために北平城内に入った
ところ、
城門を閉ざされ、
その一部が城壁の上の国民党軍第 29 軍から砲火を浴びせられる事件が起きた。
日本軍は 27 日正午を期して総攻撃実施を決定(28 日正午に延期)する。
7 月 27 日
前記2事件の報告を受け、近衛内閣は「シナ側は解決条件を、誠意を以て実行する意思がない」と認め
て緊急閣議を開催し、内地 3 個師団(第 5、第 6、第 10 師団)の動員派兵を決定し、支那駐屯軍に編入
のうえ同軍に「平津地方の支那軍を庸懲し、同地方主要各地の安定に任ずべし」との新任務を付与した。
この任務において作戦は、河北省北部に限定されていた。
翌日、近衛内閣は揚子江流域の日本人居留民に引き上げを訓令した。当時、シナ側の反日機運は頂点に
達しており、蒋介石も、いよいよ抗日戦の決意を固めていた。
7 月 28 日
日本の支那駐屯軍は「平和的解決にあらゆる方策を尽くしたが、いまや戦闘をなす以外にない」という
声明を出し(=開戦を通告)
、国民政府第 29 軍掃討作戦を開始した(華北総攻撃)。
この際、北平郊外・冀東防共自治政府の首都通州で、日本軍機が同自治政府の下部組織・通州保安隊の
兵舎を誤爆し、数人の死者が出るという事故が起きた。支那駐屯軍の通州特務機関長がただちに冀東防
共自治政府と遺族に陳謝して一応の終結をみ、日本軍は北平に向けて進軍を開始した。この日、通州のラ
ジオ放送は、盛んにシナ軍の全面戦勝を放送していた。
支那駐屯軍は南苑の第 29 軍を駆逐して同地を占領し、北平方面に退却した敵については駐屯軍歩兵旅
142
団が殲滅、北平から天津までを制圧した。
これらの戦闘で第 29 軍は 5 千余人が戦死し、北平にいた宋哲元は夜、保定へと脱出したため、北平は
戦火を免れた。
このとき北平を占領した日本軍は不法行為を寸毫も犯さなかった。そのため、36 年前の義和団事件時
に白人兵が蛮行を働いたことを記憶している古老から、「日本軍司令官の銅像建立」の建議が起こった。
(通州における日本人居留民虐殺事件とその後の国内の状況)
7 月 29 日
通州の市民を守っていた冀東防共自治政府保安隊に国民党軍が加わって日本人や日本の守備隊及び特
務機関を襲い、細木繁中佐らを殺した後、日本人居留民、朝鮮人(日本国籍)を婦女子に至るまでなぶり
殺しにした(現地の日本人 385 名のうち、幼児 12 名を含む 223 名が言語を絶する態様により虐殺され
た)
。=通州事件。
当時、冀東防共自治政府の保安隊が約3千人、国民党第 29 軍の一部が城外に駐屯していた。日本軍(支那駐屯軍)
が通州に守備隊約 100 人を残して蘆溝橋事件解決のため移動した隙に、日本人居留民を守るべきはずの保安隊が国
民党第 29 軍の宋哲元に通じて守備隊を攻撃して殲滅させた後、日本人居留民や半島出身者(当時は「日本人」
)を
襲い、見つけ次第拷問し惨殺した。
後の東京裁判における目撃者証言(宣誓供述書)では、保安隊員らはほぼすべての女性を強姦した上に死体に凌
辱を加え、喫茶店の女子店員の生首をテーブルの上に並べ、殺した子どもの鼻に針金の鼻輪を通すなどした。また、
男性の遺体には首に縄を付けて引き回された跡があったなど、日本人にとっては想像を絶する殺し方をした。
(天津歩兵隊長・支那駐屯歩兵第二連隊長 萱島高 陸軍中将、通州救援第二連隊歩兵隊長代理 桂鎮雄 陸軍少佐、
支那駐屯歩兵第二連隊小隊長 桜井文雄 陸軍少佐。これらは、
「シナ人の暴虐の事実が明らかになると連合国側に不
利になる」との判断から却下された。
)
2016 年 7 月に復刻出版された「通州事件
目撃者の証言」
(自由社ブックレット)に佐々木テン女の証言が全文
掲載されている。同女は、シナ人と結婚し、通州にシナ人女性として住んでいて、事件の一部始終を見て支那人を
信じられなくなり、離婚・帰国後、大分県南海部郡に住み、晩年、通っていた西本願寺は因通寺住職・調寛雅師に
重い口を開いて、証言をした。日本人は老若男女を問わず、記載に堪えないほどのひどい殺し方をされた。佐々木
テン女もあまりの衝撃に耐えられず、永く口をつぐんでいたものである。
その他、事件発生の日通州安田公館に居て、九死に一生を得た浜口茂子氏や当日通州に居て、必死に逃亡した同
盟通信社北支特派員 安藤利夫の手記並びに事件後、通州の街に入り、惨劇を報じた当時東京日日新聞天津支局詰
め 橘善守氏の手記も残されている。
また、事件を目撃した外国人では、フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズが、著書「中国の戦争宣伝の内
幕」
(芙蓉書房出版)の中で、居留民に対する集団屠殺の実態を記した後、次のように書いている。
「世界はこれらの非道行為を知らない。もし他の国でこういうことが起きれば、そのニュースは世界中に広まっ
て、その恐ろしさに縮みあがるだろう。そして、殺された人々の国は直ちに行動を起こすだろう。しかし、日本人
は宣伝が下手である」
この事件は、前日の誤爆事件に対する報復というよりは、国民党軍に入り込んだ中共工作員に先導され
て(初めは黒服の学生らしい一団であった=同盟通信・安藤特派員及び佐々木テンの証言。)保安隊3千
人と国民党軍が起こしたものであり、予め計画されたものと推測される。佐々木テンの証言によれば、黒
服の学生らしい一団の所業が最も残忍であったという。
143
の暴動をはじめ、7 月 11 日の停戦協定を度々踏みにじって頻発した反日行動に対し、国内では大手新
聞社も連日報道し、
「暴支膺懲」が国民的スローガンとなった。しかし、通州事件が支那共産党の工作に
よるものだとの認識は全くなかった。
それでも政府は事を荒立てることなく、済ませようとしていた。しかし、陸軍内部においては、シナを
徹底して叩き、全土を制圧した上で仮想敵国のソ連との戦時体制を組むべきだとの「一撃論」者=拡大派
が優勢になった。
同日、支那駐屯軍が北平及び天津を制圧。北平入城の際、軍律の保たれた同軍は、北平市民から畏敬の
念をもって迎えられた。
7 月 31 日
近衛内閣が、4 億余円の第二次北支事変費予算を追加決定。
8月1日
天皇陛下から外交交渉を示唆されたことを受け、参謀本部の石原作戦部長、多田参謀次長の 2 人によ
ってつくられた中華民国との和平案(停戦条件)を近衛内閣が決定した。
内容は、国交調整案と停戦交渉案とからなっており、満洲事件の後に日本が獲得した権益の殆ど一切を
放棄しようとする画期的なものであった(交渉の担当者に元上海総領事・在華紡績同業会理事長の船津
辰一郎が指名されたため「船津和平工作」と呼ばれる)
。
[国交調整案]
1 中華民国は満洲国を承認或いは黙認すること。
2 日支防共協定を締結すること。
3 日本機の自由飛行を廃止する。
[停戦交渉案]
1 塘沽停戦協定、梅津=何応欽協定、土肥原・秦徳純協定その他従来の華北に関する軍事諸協定
は一切廃止する。
2 塘沽停戦協定において設定された非武装地帯に北平、天津を含ませる。
3 冀東・冀察両自治政府を解消する。
4 日本駐屯軍の兵力を事変前に戻す。
5 中華民国側は反日運動を取り締まる
8月5日
政府は外務、陸海軍大臣の同意を得て、この停戦交渉案により国民政府と交渉することを決めた。交渉
の担当者に在華紡績同業界理事長船津辰一郎が指名された。
広田外相はこの和平案を「公正無私」と自負した。従来の華北に関する軍事諸協定は一切廃止及び華北での既得
権をほとんど放棄しようとする画期的なものであった。ただし、華北の核心である北平、天津両都市を編入して、
満洲国と接する広大な地域を非武装地帯とし、華北 5 省の勢力圏化を図ろうとしたとみられてもやむを得ない面も
あった。
8月9日
144
前述の和平案をもとに上海で、川越大使と国民政府外交部亜州司長・高宗武とが会談した。しかし、ま
さにその日、南京で海軍陸戦隊の大山中尉射殺事件が発生した(後述)ため、高宗武は南京に戻り、交渉
は中止されることとなった。
この日には、引揚訓令を受けた在南京日本人居留民が海軍の保護のもとに上海に集結していた。
(第 2 次上海事変~全面戦争へ)
昭和 7 年 5 月の第 1 次上海事変後、同月 5 日に成立した上海停戦協定に違反して、昭和 10 年から上海
では、中華民国は非武装地帯に塹壕や 2 万を超えるトーチカなどにより上海を半円形に囲む陣地を構築
し、同 11 年からは保安隊に偽装した 15 万以上の国民党中央軍を集結させていた。
上海停戦協定においては、①日本海軍陸戦隊が撤退すること、②外国人居住地域の北・西、南へ 15 マイルを非武
装地帯とし、この地帯においては、日支双方、軍事施設を建設・設置してはならない、と定めていた。同協定には、
日中両国の他、米・英・仏・伊からも委員が加わって、監視のための共同委員会が設置された。
国民党中央軍上海集結の経緯をさかのぼれば、蒋介石によるドイツ軍事顧問団受入れに行きつく。
1927 年、蒋介石は、広東・広西に割拠する軍閥並びに江西省瑞金に根拠地を置くシナ共産党軍を制圧するため、
ドイツからマックス・バウワー大佐を招き、彼が提出した意見書に感化されて、ヒトラーとナチス党に深く心酔す
るようになった。
そこで、ドイツに調査団を派遣し、人材(技師、医師、行政官、警察の専門家、軍事教官)をスカウトし、顧問団の
要員とした。その目的は①国内統一用の軍事力構築のため、②また、予想される日本との軍事衝突に備え、軍備を
刷新することにあった。
ドイツの方も 1929 年からシナへの武器輸出を始めた。シナで売却に携わったドイツ企業の筆頭がカロヴィッツ
社とシーメンス社であった。
バウワーが戦地で病死した後も蒋介石は引続き軍事顧問団を受入れ、1933 年からは、元ドイツ軍参謀総長などの
要職にあったゼークトを、
ゼークトが病気により帰国したため 35 年 3 月からはファルケンハウゼン将軍を招いた。
ゼークトは、第 1 次大戦後のベルサイユ体制下、戦車と航空機の保有を禁じられたドイツ国防軍の将軍として、
少数ながらきわめて優秀で有事には一挙に数倍に膨張も可能という精強な軍隊を育成したことで知られている。
1935(昭和 10)年 2 月、国民政府はドイツ式の軍備を拡充するため、ドイツ参謀本部と秘密裡に「ハプロ協定」
を締結した。同条約に基づき国民政府は、戦車、臼砲、銃など武器の供給を受けるとともに軍事顧問団に陣地構築
や兵員配備の面で、対日作戦の指導にあたらせていた。なお、ドイツ参謀本部は、この協定を外務省(つまりヒト
ラー)には知らせていなかったという。
同年春、赴任直後のファルケンハウゼンは早くも蒋介石に対し「今こそ対日戦争に踏み切るべきだ」と進言した。
蒋介石はこれを受け入れはしなかったが、将来の決戦に備え、上海近郊に前記トーチカ群など堅固な陣地を構築し
た。それは、非武装地帯にも及んでいた。また、湖南省においてもベンツのトラック工場を建設した。
その構想は、ここを拠点に上海駐屯の日本海軍を殲滅し、救援に駆けつける日本陸軍をも撃破するという作戦で
あった。
ドイツ側が見返りに受けたのは、国内では全く産出されないタングステン・アンチモンなど戦略的工業原料の供
給であった。タングステンは、砲弾の弾頭や工作機械の切削刃に欠かせないものであり、シナは一大産出国であっ
た。
ドイツによる国民政府への軍事的援助は、日独伊三国同盟締結後の 1940 年(昭和 15 年)10 月まで続いた。逆に
145
いえば、三国同盟の同盟国・ドイツは、日本政府の戦争相手である蒋介石の国民政府を日中戦争開始後も 4 年間援
助し続けたのである。
この国民政府とドイツとの親密な関係は、1941 年(昭和 16 年)7 月、ドイツが日本の傀儡政権である汪兆銘政
権を承認したことによって漸く終わりを告げた。
ドイツ軍事顧問団の指導による軍事改革の模範として設置され、ドイツ製の武器で装備された「教導総
隊」としての蒋介石直属の国民革命軍第 87 師、第 88 師、第 36 師は、盧溝橋事件勃発の翌月(8 月)初
めから、非武装地帯に侵入した。
同軍は、上海から南京までの揚子江下流地域に構築したドイツ式の防衛陣地を拠点として、上海郊外を
主戦場としてプロシャ式動員奇襲により日本軍を殲滅し、次いで日本人居留民を殲滅することを目的と
していたが、石原莞爾ら参謀本部中枢は、そのような可能性を全く予期していなかった。なお、上海の攻
防戦には 74 名のドイツ人軍事顧問が参加したという。
(日本側の居留民防衛態勢)
上海租界地には、3 万余の居留民が居住していた。日本が居留民を守るために配備していたのは海軍特
別陸戦隊(2,500 人)だけであった。
上海には、自国民を守るため日本の他にも米軍約 2800 人、英国軍約 2600 人、仏軍約 2000 人、伊軍約 800 人が
駐留していた。
12 年(1937 年)8 月 9 日
停戦交渉案を携えた川越大使と国民政府外交部亜州司長・高宗武と上海で初会合を行った。
同日夕刻、海軍上海陸戦隊の大山勇夫中尉の乗った車が虹橋飛行場付近の非武装地帯において「何者と
も知れぬシナ人」に銃撃され、大山大尉及び運転していた斉藤水兵が即死した。
この事件発生のため高宗武は南京に戻り、日シ間の停戦交渉は中止された。
共同租界西部には日本人経営の紡績工場があり、陸戦隊は若干の兵力を派遣して警戒に当たっていたが、大山中尉
はその警備責任者であった。
ユン・チアン著『マオ』によれば、この事件は張治中南京上海防衛隊司令官が蒋介石に日本軍攻撃を決断させる
ために仕組んだ事件であることが述べられている。なお、張治中は、最近の資料発掘により、コミンテルンのスパ
イであったことが判明している。
8 月 10 日
この日、大山勇夫中尉らの射殺事件について日支共同の公式調査が行われた。大山中尉は全身に 30 発
以上の銃弾を打ち込まれた後、死体に対し頭部・腹部などに刃物・鈍器により損傷を与えられたと検分さ
れた。また同中尉の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたことも判明した。→日本軍に報復の声が高
まった。
同日、ノルウェー総領事の主唱により、領事団による国際委員会が開かれ、席上、日本代表が事件の詳
細を発表し、国民政府の保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきで
あると提案し、上海市長は実現する為にできる限りのことをすると約束した。
8 月 11 日
上海市長が日本領事に電話をかけ、
「自分は無力で何もできない」と通報した。危機を感じた日本海軍
146
は同日夜、陸戦隊 1 支隊3千人を予防のために上陸させた。
8 月 12 日
この日の時点で上海周辺には、ドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製の武器を装備した国民革命軍
第 87 師、第 88 師、第 36 師が終結し、背後には第 15、第 118 師なども控えていて、総兵力は約 15 万に
達した(総司令官は張治中将軍)。北平付近の第 29 軍と異なり、よく訓練された近代装備の精鋭部隊で
あった。
同軍は、日本総領事館と商社の電話線を切断。翌日には、租界から外に通じる道路をすべて遮断した
後、租界内に日本海軍陸戦隊をはじめ居留外国人、上海市民を閉じ込めた。
日本政府は 8 月に入ってから揚子江沿岸の居留民 2 万人を帰国させていたものの、まだ 1 万人が租界
内に残っており、国民党軍が乱入すれば、通州のような事件が起きることは容易に想像できた。
上海の海軍特別陸戦隊から 5 個師団派遣要請があったのに対して近衛内閣は、朝の閣議で陸軍 2 個師
団の派遣を決定するとともに、山東半島(青島)
、北支への派兵についても準備することを決めた。
この閣議において、米内光政海軍大臣が「海軍陸戦隊だけでは、蒋介石の国民党軍による攻撃から万余
の居留民を守ることは困難である」として陸軍の出兵を強く要請し、派兵に反対する賀屋興宣を怒鳴り
つけた。
参謀本部の石原完爾作戦部長はじめ陸軍は出兵には慎重だったが、近衛首相が米内海軍大臣を支援し
たため陸軍の出兵が決定し、北平の軍を出動させることした。なお、この日現在で上海における日本の総
兵力は、海軍内での増援により海軍陸戦隊 4 千名強であった。
8 月 13 日
午後5時前、国民党軍第 88 師の部隊約 2,200 人が、日本人街のある虹口地区の北、八字橋から日本海
軍陸戦隊を殲滅すべく先制攻撃し、両軍の間に本格的な戦闘が開始された。
日本海軍陸戦隊は国民党軍第 88 師の猛攻に耐え、八字橋付近の戦闘は時間以上にわたり、午後 11 時
過ぎ漸く敵を撃退した。
国民党軍は非武装地帯に塹壕や2万のトーチカなどにより上海を半円形に囲む陣地の構築、15 万の軍隊の集結な
ど準備を整えていたから、その攻撃は、日本軍及び日本人居留の殲滅を企図して、周到に作戦の立てられた戦争行
為であった。
国民党軍南京・上海防衛司令官を任ぜられていた張治中は、ソ連諜報組織の上級幹部でもあった。日本軍に対す
る総攻撃は、蒋介石による命令によってなされたものではなく、スターリンの命令によって「日本軍が攻めてきた」
との偽情報を流したうえでの攻撃であったとも言われている。
この開戦について中華民国近代史研究家の第一人者イーストマン教授(アメリカ・イリノイ大学)は、蒋介石主
導説をとり、8 月 7 日に軍幹部を集めた会議で日本との開戦を決意したであろうと推定している。大量の航空機・
戦車をはじめ武器弾薬の供与を受けるためソ連と中ソ不可侵条約を締結しようとする交渉開始も大詰めの段階に
入っていて(同月 21 日)、
「日本軍と戦ってもソ連などの支援を受けることができる」として開戦を決意したとの
推定である。
同日、政府は急遽閣議を開催し、2 個師団(第 3、第 11 師団が基幹、計約 2 万人)からなる上海派遣
軍の編成・急派を決定した。その任務は「上海並びにその北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべ
し」というものであった。司令官には、松井石根大将(2 年前の昭和 10 年に退役し、予備役に編入され
ていたところを起用された)を充てた。
147
松井石根大将は、元々熱烈なシナ革命の支援者で、孫文、王精衛、蒋介石、張群ら志士たちと厚い親交を交わし
ていた人物であった。
約 15 万のシナ軍を相手とする約 2 万人の 2 個師団では、余りに過少であった。兵を出し渋ったのは参謀本部作
戦部長の石原莞爾で、全面戦争を恐れたからであり、当初は上海への派遣自体に反対した。
この閣議の場で米内海相は「南京を占領すべし」と唱えた。これには、広田外相も杉山陸相も反対した。
他方、近衛首相は蒋介石主席と和平会談を行うため、石原莞爾を伴って南京に赴く準備に入った。
8 月 14 日
国民党軍の爆撃機が日本の軍艦(旗艦出雲ほか)
・船舶や海軍陸戦隊などに爆撃を加えた際、日本軍の
反撃を受けて迷走し、日本領事館の存する日本租界や周辺のフランス租界、国際共同租界にも爆弾を落
とし、大惨事を引き起こした(当時の新聞報道によれば、死傷者合計は 3,600 人以上にのぼった)。
フランス租界や国際共同租界(パレス・ホテルとキャセイホテル前の路上及び大世界娯楽センター)に落とされ
た爆弾によって、外国人を含めて 1700 人以上が亡くなり、1800 人以上が負傷した(トレヴェニアン著「シブミ」
にも記載)
。
民間人に2千人近くの死者が出たことについて、国民党政府も遺憾の意を表明した。
8 月 15 日
政府が蘆溝橋事件に関する政府声明を発表。同時に日本の戦争目的が「日満支三国間の提携融和」にあ
ることを闡明した。
「南京政府は排日抗日を以って国論昂揚と政権強化の具に供し…赤化勢力と苟合(こうごう)し
て反日侮日愈々甚だしく、以って帝国に敵対せんとする気運を醸成せり。近年幾度か惹起せる不祥
事件何れもこれに因由せざるなし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔
に選びたるに過ぎず、通州における神人共に許さざる残虐事件の因由亦茲に発す。更に中支那に於
いては支那側の挑発的行動に起因し、帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々と
して建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已む無きに至れり。
帝国としてはもはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲し、もって南京政府の反省を促す
ため、今や断固たる措置をとるのもやむなきにいたれり」=「暴支膺懲声明」
同日、第 3 師団(名古屋)と第 11 師団(四国)に動員命令が下り、上海派遣軍が編成された(司令官
は松井石根大将)
。ただし、同派遣軍が上海に到着するのは 23 日と見込まれた。
午後 7 時半、米内海軍大臣が総理でもないのに立場をわきまえず「頑迷不戻な支那軍を膺懲する」と
のラジオ演説を行った。
南京最後の引揚者 146 名は、この日、列車で青島に向かった。翌 16 日、南京の日本大使館が閉鎖され、
館員は全員退去した。
この日、国民党政府も対日抗戦総動員令を発令した。直ちに大本営を設置するとともに、蒋介石が陸海
空軍総司令官に就き、対日全面戦争の体制を完備した。
→日シ両軍が全面的な戦闘に突入(ただし、両政府とも宣戦布告なし)=第二次上海事変
(日本政府が蒋介石国民政府への宣戦布告を行わなかったことについて)
上海派遣軍司令官に任命された松井石根大将は、宣戦布告を行うと同時に第三国にもその旨報せ
ることを主張したが(米内海軍大臣も同調)、陸海軍の上層部が反対した。これは、1935 年(昭和 10
148
年)にアメリカが「中立法」を制定していて、日本がシナに対し宣戦布告をすれば、中立国たるアメ
リカから戦略物資(とくに、軍用機用のハイオク・ガソリン)の供給がストップすることを恐れたか
らである。
石原莞爾ら参謀本部中枢は、
“このような事態になっても、蒋介石とは同盟ができるはずで、いずれ共
同してソ連やアメリカと戦争をすることが可能である”と考えていた。
8 月 17 日
近衛内閣が「不拡大方針の放棄」、戦時体勢上必要な諸般の準備対策を講じることを閣議で決定する。
しかし、現地では午前 8 時から日本人租界の都区部から熾烈な攻撃を仕掛けた。陸戦隊の防戦は 16 時
間に及ぶなか、多くの将兵が戦死した。在留邦人も土嚢づくりや炊き出しによって陸戦隊の奮戦を支援
した。
陸戦隊を救ったのは、鹿屋海軍航空隊による台湾台北基地から、並びに木更津海軍航空隊による長崎大
村基地からのシナ本土への渡洋爆撃であった。多くの犠牲を出しながらも南京などの飛行場爆撃に成功
し、制空権を握った。
こうした日本軍の対応について、反日親中的なニューヨークタイムズですら「上海の戦闘状態に関しては証拠が
示している事実はひとつしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、敵の挑発の下で我慢と忍耐
力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。しかし、日本軍はシナ軍によって文字通り衝突へと
無理やり追い込まれてしまったのである」と書き(8 月 31 日)
、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは「チャ
イナ軍が上海地域で戦闘を強要したのは疑う余地がない」
(9 月 16 日)と書いた。
8 月 18 日
イギリス政府が両国に「日支両軍が撤退するなら、国際租界等に居住する日本人の保護に責任を持つ」
と通告。フランス政府もこれを支持(アメリカ政府も戦闘中止を要求していた)
。
しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府はこれを拒否、全面的な戦争に踏み込む。列強各国
は中立を表明した。
同日、天皇は事変の長期化を憂慮し、参内した陸海軍大臣に「諸方に兵を用ふとも戦局は長引くのみな
り。
(中略)速やかに時局を収拾するの方策なきや」とご下問をなされた。
8 月 21 日
国民党政府はソ連との間に中ソ不可侵条約を締結した。この条約は、数か月前から交渉が続けられて
いたもので、コミンテルンが国民党政府軍と共産党軍とに抗日統一戦線を作らせ、蒋介石に日本との戦
争を決意させるために企図した、まさに切り札的方策であった。
蒋介石は、この条約締結に自信があったからこそ、前月の盧溝橋事件の際の日本への対応に強気で出ることがで
きたといえる。
それは軍事同盟的性格のもので、付属する秘密協定[ソ支軍事密約]の内容は「国民党政府は 39 年 9 月
までに航空機 985 機、戦車 82 両、大砲 1,300 門以上、機関銃1万 4 千丁以上、ライフル 15 万丁、砲弾
12 万発、銃弾 6 千万発、トラクター1500 台などの供給を受け、代金の半額をソ連国立銀行に共託する」
、
「志願兵という形でのパイロットや各部門の技術者の派遣を受け、その俸給は国民党政府が支払う。」、
「国民党政府はシベリア鉄道とシナを結ぶ鉄道敷設権その他北支における利権をソ連政府に付与する」
というものであった。ソ連は直ちに航空機 4~500 機と操縦士、教官を送りこんだ。
蒋介石は米英からの支援金を、その支払いにあてるつもりであった。
149
ソ連が何より恐れていたのは、ヒトラーが率いるドイツであり、2 面作戦を強いられないようにするためであっ
た。
ソ連の目的は、国民党政府軍が抵抗を続けて日本軍をシナに釘付けにしておき、日本軍がソ連に攻め込むのを防
止するとともに、日本軍との戦闘で国民党政府軍が疲弊しきれば、シナ共産党軍が国民党政府軍を叩き潰し、それ
によりシナの共産化を図ることも可能になるという 2 点であった。そのため国民党政府への援助も必要最低限のも
のであった。
一方、シナ共産党は 8 月 20 日から 25 日の間延安の洛川県で中央会議を開き、毛沢東が起草した「抗日救国十大
綱領」を採択し、
「日本帝国主義の打倒」
「全国的な軍事と人民総動員」を呼びかけた。
しかし、その裏で毛沢東は、八路軍の主要任務は「(共産)軍の勢力を拡充するとともに、敵の後方に党の指導す
る抗日遊撃根拠地を建設することである」と指示した。すなわち、宣伝面では懸命に抗日を叫びながら、政治的な
利益を掠め取ることを党の基本戦略としていたのである。
(
「抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか」
(謝幼田著、
草思社)による)
その後ソ連は、13 年(1938 年)3 月と 7 月に2つの通商条約を国民党政府との間に結び、総額 1 億ドルの対中
借款を提供して同政府の軍事物資の購入を支えた。また、14 年 6 月にも新たに 1 億 5 千万ドルの借款条約と 1,460
万ドルの軍事物資供給条約を結び、大量の航空機、戦車、銃砲を提供するとともに軍事専門家 3,665 人を送り込み、
対日戦にも参加した。この援助は 17 年に始まったアメリカによる蒋介石政権への援助が行われるまで続いた。
そのソ連を最大の敵とするドイツは、1936 年 11 月の日独伊 3 国防共協定締結にみられるように、日本にソ連を
軍事的に牽制するよう求めていた。蘆溝橋事件が発生したとき、ドイツがベルリンの日本大使に「日本がシナとの
武力衝突を続ければ、ソ連に漁夫の利を得させるだけだ」と強硬に抗議したのも、その表れである。ドイツとして
はソ連への対抗上、日本とシナが戦争状態にならないことが必要であり、そのため蒋介石政権への援助を大幅に縮
小した。
3年後ドイツとソ連は凄まじい独ソ戦に突入した。
一方の米・ルーズベルト大統領は、2 カ月前に中立法を制定して、戦争当事国への援助を自ら禁じているにもか
かわらず、
「南京国民政府は中立法の対象としない」として、蒋介石政権への資金や武器の援助を開始した。その総
額を現在のカネに直すと 5 兆円を超える額であった。蒋介石政権のロビー活動によって、この中立法違反は国民か
ら黙認された。
翌 22 日には蒋介石は共産党軍(紅軍)を国民革命軍第八路軍に編入した。一方、共産党は 25 日、
「抗
日救国十大綱領」を発表して抗日の戦意を煽った。
8 月 23 日
朝、特別陸戦隊 1,400 名(横須賀、呉)が上海に到着し、直ちに橋頭堡を築いて全身を始めた。翌日夜
には、佐世保の特別陸戦隊 1,000 名も加わり、総兵力は 6,300 名になった。しかし無数のトーチカに立
てこもるシナ軍の防御は堅く、戦死者が続出して苦戦を強いられた。
8 月 28 日
上海派遣軍の 2 個師団(第 11 師団及び第 3 師団)が、艦砲射撃の支援の下、上海北部沿岸・呉淞付近
150
に上陸を果たした。以降、同軍は戦闘に参加するもシナ軍から頑強な抵抗に遭って、非常な損害を蒙む
り、死体の収容もできないほどの苦戦に陥った。また、生水を飲んだ兵士にコレラが蔓延し、戦力は著し
く低下した。
8 月 31 日
上海派遣軍松井司令官が、シナ側が最精鋭部隊(陳誠軍)を投入していることを報告し、派遣軍を最小
限 5 個師団に増強することを要請する。
これを受けた積極派の杉山元陸軍大臣、梅津次官、武藤章参謀本部第 3 課長らが政府に働きかけて、
支那駐屯軍を廃止し、寺内寿一大将を司令官とする北支那方面軍・第 1 軍、第 2 軍を編成した。
同軍には「敵の戦争意思を挫折せしめ、戦局集結の動機を獲得する目的をもって敵を撃滅すべし」との
任務が下された。=政略目的の出兵から戦略目的の出兵への転換。陸軍内を掌握した梅津次官とその一
派は、武力で一撃すれば、事変は簡単に片付くとみていた。
9月2日
閣議において、
「北支事変」
(7 月 11 日決定)の呼称を「支那事変」と改めた(「日華事変」とも言われ
る)
。
この事件を発端とした戦争状態は、日中両国が宣戦布告をしないまま推移したが、4 年後の昭和 16 年 12 月の日
米開戦と同時に蒋介石が日本に対し宣戦布告を行った。その後、昭和 20 年 8 月に日本が降伏するまでの 8 年間続
いた。
9 月上旬
近衛首相は、軍に先手を打って国民の歓心を買おうとして日比谷公会堂で演説し、
「正義人道のために、
彼に一大鉄槌を加える必要に迫られるに至った」と大言、国民の喝采を得た。
9 月 11 日
政府はさらに 3 個師団(第 9、第 13、第 101 の各師団)増派の命令を発令。結果的には、
“やってはい
けない戦力の逐次投入”となった。
このとき、参謀本部の石原莞爾作戦部長、石射猪太郎(不拡大派)は増派に反対で和平案を主張したが、その意
見は通らなかった。ただし、重囲に陥っていた支那駐屯軍の不利な態勢をみれば、作戦部長として出兵、救援を認
めないわけにはという弱みもあった。そこで、石原莞爾は作戦部長の辞任を申し出た。
9 月 28 日、梅津次官の支持を得て武藤章軍務局長は石原を更迭し、関東軍参謀副長への転出異動が発令された
(同軍参謀長は東條英機)
。石原の影響の強かった戦争指導課が作戦課に吸収され「班」に(班長の高嶋辰彦はじめ
堀場一雄、秩父宮雍仁親王らは、戦争不拡大論者)
。
この再編により、参謀本部という軍中央部に近視眼的に事態を見る者が多くなり、以降、意思の統一と現場の統
制が取れなくなっていった。
この増派 3 個師団は、9 月下旬から 10 月初めにかけて上海、呉淞方面に上陸し、戦線に参加した。し
かし、準備が間に合わず、弾薬とくに砲兵の弾丸が不足していたため、白兵突撃に頼ったため、多数の損
害を出した。
海軍も、9 月 10 日に第二連合航空隊が上海に進出し、同月下旬には南京方面までの制空権を確保した。
また、10 月 20 日には、第三艦隊と第四艦隊とで支那方面艦隊を編成。
(陸海軍の不一致)
シナ事変の渦中にありながら陸海軍首脳間の感情は疎隔しており、それが
151
前線にも波及していた。北支の青島では、陸海軍の両部隊が機関銃を向けあ
い、闘争寸前となる事態が起きた。当時の両軍の責任者、陸軍は板垣征四郎、
海軍は豊田副武、いずれもその責任を問われることもなく事件後、栄職に転
じた。すなわち、板垣は陸軍大臣に、豊田は第 2 艦隊司令長官になった。
一方、シナ軍は兵力を続々と投入し、75 万の大兵力となった。
9 月 12 日
蒋介石の国民政府が国際連盟に日本の軍事行動を提訴。
9月
シナ共産党は、国共内戦を中断し、国民政府の指導下で日本と戦うことを確認し、同政府が掲げる「三
民主義」を受けいれた。また、前月、国民革命軍第八路軍に編入された紅軍の名称を、国民革命軍第八路
軍及び国民革命軍新四軍に改称した。
とはいえ、共産党軍と国民革命軍とは支配地域の拡大を巡り衝突を繰り返し、1941 年 1 月、安徽省南部で起こっ
た大規模な軍事衝突の結果、新四軍は壊滅した。
9 月 27 日
国際連盟総会の付託を受けた諮問委員会が日本による無防備都市爆撃を非難する決議を採択。
10 月 5 日
F.ルーズベルト大統領がシカゴで「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子を含む一般市民
が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮される状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他
国に蔓延する恐れがある。これらの国は国民の共同行動によって隔離されるべきである」と日本、ドイ
ツ、イタリアを伝染病患者に例えて非難し、
「アメリカは平和を追及する試みに積極的に参画する」と何
らかの介入を示唆する演説を行った。
第一次大戦で甚大な犠牲を強いられたアメリカは、この演説以降、徐々に風向きを変えていった。
10 月 6 日
国際連盟総会において、
「日支間の衝突は九カ国条約加盟国の会議で解決すべし」という諮問委員会報
告が採択される。同日、アメリカ国務省は「中国における日本の行為を、九カ国条約とケロッグ-ブリア
ン条約違反とみなす」との声明を発表した。
これを受け、11 月 3 日からブリュッセルで九カ国条約加盟国による会議が開催された(日本は当該解決策を否認
し、不参加)。しかし、国民政府が要求した日本に対する経済制裁措置は決議されず、「各国代表は条約の規定を無
視する日本に対し、共同態度を採ることを考慮する」と宣言が採択されただけで、会議は無期限休会に入った。
10 月 10 日
日本軍が国民党軍の防御陣地「ゼークトライン」
(国民党軍がドイツ人軍事顧問ゼークトの指導により
建設したトーチカによって構成されたもの)に攻撃をかけ、ドイツからの援助を受けた国民党軍の優秀
な武器に多大な犠牲を出しながらも、2 日後にこれを突破した。
10 月 20 日
速やかに戦闘を終結させるため、日本軍はさらに柳川中将率いる第 10 軍(第 6、第 18、第 114 各師
団)を編成し、投入することを決める。
10 月 23 日に国民党軍が退却を始める。26 日には第 9 師団が要衝・大場鎮を陥落させ、11 月初め蘇州
152
河を渡河した。しかし、同師団のこの間の戦死者は 3,833 名に上った。
11 月 5 日
第 10 軍が杭州湾(金山衛周辺)上陸に成功し、上海の空に「日軍百万上陸」のアドバルーンを上げて、
上海後方の揚子江南岸に上陸した第 16 師団(華北から転用された)とともに国民党軍を3方向から攻撃
した。
11 月 9 日
蒋介石は国民党全軍に上海からの撤退命令を下した。国民党軍は 11 日から退却をはじめ、上海後方の
堅固な防御陣地を放棄し、南京に向けて全面的に潰走した。ここに至って、長期戦に持ち込んで外国の介
入を招こうとした蒋介石の目論見は崩壊した。
11 月 12 日
日本軍が上海を完全に制圧。
これを期に陸軍が上海派遣軍と第 10 軍とを統合し、
中支那派遣軍とした。
総司令官には上海派遣軍の松井石根大将を充てた。
松井総司令官も東京の参謀本部・多田次長らの不拡大派も国民政府との交渉に持ち込むべきだとの考
えが強く、軍を嘉興と蘇州を結ぶ南北の線東側にとどめるとした。
上海戦において日本軍は漸く勝利を得たものの、戦死 10,224 人(防衛庁調べ)
、負傷 3 万余人の大き
な犠牲者を出した。なお、国民党軍の戦死・重傷者は、装備の近代化にもかかわらず、兵士の訓練がなさ
れていなかったため、約 30 万人に及んだ。
11 月 20 日
戦時に設置することとされている大本営が開設され、陸海軍大臣が統帥部の一員となって大本営に参
加することとなった。
支那事変発生以来、政府には現地の情報が入らず、作戦上圏外に置かれていた近衛首相は、大本営を設置して主
要閣僚とともにこれに参画することにより国家意思を決定する最高戦争指導機関をつくることを求めていた。
しかし、陸海軍統帥部はこれを拒否したため、陸海軍大臣が大本営に参加することによって政府と統帥部との連
絡協調を図ろうとする目的の組織となった。従って、陸海軍間の戦略も統一されず、それぞれの省部の統帥関係の
事務が一元化されただけに終わった。
11 月 24 日
政府と大本営の取り決めにより大本営政府連絡会議が設置され、第 1 回の会議が開催された(構成員
は、両統帥部長、陸海軍大臣、総理と所要の閣僚)
。参謀本部と海軍軍令部が漸く妥協して政府と大本営
との連絡会議という形で実現したものであったが、法制的には権威がなく、両者の意見が合わなければ
開催されることがないという、形骸化したものであった。
この連絡会議は大東亜戦争終了時まで続くこととなったが、政治と軍事を一元化する、簡素で効率的な
国家意思決定組織が必要な時代に、統帥独立の壁が立ちはだかっていた。
(内蒙方面への進攻と自治政府の樹立)
蘆溝橋事件以来の関東軍の強い上申に押し切られる形で、参謀本部が 8 月 9 日、支那駐屯軍及び関東
軍に察哈爾進攻作戦の実施を指示。
なお、青島方面への派兵も準備されたが、8 月下旬から 9 月にかけて平和裏に在留日本人・外交官の引
上げを完了したため、派兵は実行されなかった。
12 年(1937 年)8 月 31 日
153
寺内寿一大将を司令官とする北支那方面軍が編成される。
9月4日
寺内大将指揮下の第 1 軍と第 2 軍が天津に到着。ただちに河北省の省都・保定を目指して進撃を開始
した。別働隊として第 5 師団(師団長は板垣征四郎中将で東條参謀長の前任者)は山西省に向かった。
山西省陽高攻略の際、日本軍は強引な戦法をとったことと頑強な抵抗のため 140 人からの死者を出すという大き
な損害を被った。9 月 9 日、陽高に入城した日本軍(部隊名不詳)は、虐殺事件を引き起こした。その数 350~500
人といわれる。察哈爾作戦では捕虜虐殺が多かったと言われている。
関東軍も 3 個旅団の兵力で察哈爾兵団(東條参謀長が直接指揮)を組織して、察哈爾省張家口方面へ
進撃を開始し、同地を占領した。ここで北上してきた第 5 師団と連結し、さらに進撃し 9 月 13 日には大
同を占領。
両軍はさらに戦線を拡大して山西省北部に進入しようとしており、板垣は関東軍と同じ構想を持っていて 19 日、
「北支においては概ね綏遠-太原-済南-青島の線を占め、ここに包含する資源を獲得し、そこに住む一億民衆を
同僚として新北支政権を結成するを可とす」との見解を私信として各方面に送った。
なお、第 5 師団三浦旅団は9月 25 日平型関で林彪指揮の八路軍と国民党軍との連合軍の待ち伏せに遭い、大損害
を受けた(死傷者は 7,000 人を超えた)
。
その3日前に、第 2 次国共合作が成立していた。→10 月 12 日には国民政府軍事委員会が周恩来の要請を受けて、
江南で四散していた共産軍遊撃隊を国民革命軍新編第四軍とする編成を行った。
北支那方面軍第 1 軍は、9 月 24 日に保定を占領し、なおも追撃して 10 月 10 日には石家荘を攻略、さ
らに 10 月 2 日から山西省太原攻略を開始した(11 月 8 日に攻略)
。また関東軍は 10 月 17 日、包頭を占
領した。しかし、これにより参謀本部が指示していた「保定まで」という追撃限界線は早くも空文となっ
た。
関東軍は占領地の拡大と同時に現地政権を樹立した。即ち、張家口では 9 月 4 日に察南自治政府、大
同では 10 月 15 日に晋北自治政府、綏遠では 10 月 27 日に蒙古連盟自治政府を樹立した。さらに関東軍
はこれら3自治政府を統合して 11 月 22 日蒙彊連合委員会を結成させた。
内蒙古の徳王は、蒙古独立を究極の目標としており、翌 13 年 10 月に訪日し天皇に拝謁した後、板垣陸軍大臣に
蒙古の独立建国を訴えた。しかし、かつての満洲青年連盟理事長・当時蒙彊連合委員会最高顧問金井章次がこれを
否定(蒙彊地域の一体的支配をめざしていた)したため、14 年 9 月徳王を主席とする蒙古連合自治政府が誕生する
こととなった。
華北においても、北支那方面軍が将来南京政府に替わる新支那中央政府を目指して工作を行い、12 月
14 日北平で中華民国臨時政府を樹立し、政府要人には従来国民党から冷遇されていた人たち(軍閥時代
の政客が多かった)を迎えた。臨時政府は翌年 1 月には冀東防共自治政府を吸収した。
12 年末までに日本軍の占領地域は黄河北岸と山西省北半を含む広大な地域に広がった。華北戦線に投
入した兵力は約 37 万(歩兵)に達したが、砲兵、戦車、飛行機などの近代兵器質量とも弱体だった。な
お関東軍の兵力はその後も増強され、昭和 16 年には 70 万になった。
(支那事変勃発後の国内の動きと停戦工作)
12 年(1937 年)9 月 5 日
近衛首相が第 72 帝国議会の施政方針演説で、不拡大方針を終了し、速やかにシナ軍に徹底的打撃を与
え戦意を削ぐ必要を訴え、
「短期決戦が得策だが、長期戦も辞さない」旨述べる。
154
→同月 9 日に「国家精神総動員実施要領」を提起。11 日から国家精神総動員運動が開始される。
9 月 10 日
臨時軍事費特別会計法が公布=支那事変が日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と同列の戦争と決定さ
れた。第 72 帝国議会では、20 億円を超える臨時軍事費が承認された。
この頃、近衛首相のブレーンであった元朝日新聞記者・尾崎秀美らは、
「南京占領の作戦をやるべし」と戦線拡大
の主張をし、軍部にも影響を与えていた。
9 月中旬
対ソ戦への備えを重視し、シナへの増派に反対していた石原莞爾が、参謀本部作戦部長辞職を申し出。
その裏には、対シナ強硬論を張っていた武藤章作戦課長の画策があった。
→9 月 27 日、関東軍参謀副長に転出。
10 月
政府内に企画院が設立される。
これは昭和 10 年 5 月に設立された内閣調査局が 12 年に入って企画庁、
そして企画院と改組されたものであったが、議会の立法とは別に国策をたてるという発想から出た強大
な権限を持つ経済統制の中枢機関であった。
内閣調査局設立当時、
「民間の有能な人材」を集めるとして採用された高等艦職員の中にすでに共産主
義思想の前歴者があり、企画庁、企画院と改組されたときさらに多数の共産主義思想に染まった者や親
軍部・右翼社会主義の者が流入した。
後の企画院事件で逮捕されたこれら職員は「管理たる身分を利用し重要な国家事務を通じて共産主義の実現を図
るべく愛協力して」「社会主義体制の基礎を確立すべき諸方策を先ず国策の上に実現せしめ、もって国家の自己崩
壊を促進すべく企図し」て活動した。
(企画院事件記録より)
同月、国民精神総動員中央連盟が成立。
10 月 21 日
日本は英米仏独伊 5 か国に対して日支和平交渉のため第三国による好意的な斡旋を受け入れる用意が
あることを伝える。→ドイツがこれを受け入れたので、同月 27 日、駐華ドイツ大使トラウトマンを仲介
者として蒋介石政権との和平工作を開始(トラウトマン工作)。
11 月 2 日
トラウトマンを介して、日本政府は 7 条件を示して停戦を申し入れた。
①
内蒙古に自治政府樹立
②
満洲国国境に接する華北の行政権を南京政府に返還し、非武装地帯とする
③
上海の非武装地帯を拡大する
④
中華民国は抗日政策をやめる
⑤
共同して防共にあたる
⑥
関税率の引き下げ
⑦
外国権益の尊重
11 月 5 日
日本の和平案を聞いた蒋介石は「戦闘が激しい中で調停が成立するはずがない」と回答を保留し、日本
側に停戦を求めた(=事実上の拒否。蒋介石は、もし日本の和平案を受け入れれば、共産党からの攻撃が
激しくなって共産革命により政権がつぶされることを懸念していた。)。国民党軍については、杭州から
155
西方に撤退させた。
蒋介石は、同月 3 日からブリュッセルで開催されている国際連盟主導の九カ国条約会議で、日本に対
する経済制裁が出され、情勢が変わることに期待していた。
11 月 7 日
日本が“海軍と協力して敵の戦争意志を挫折せしめ、戦局集結の動機を獲得する目的をもって上海付
近の敵を掃討するため” 上海派遣軍と第 10 軍とにより中支那方面軍を編成した(司令官は、松井石根
中将)
。
この日の段階では、蘇州と嘉興を結ぶ線を制令線として定め、これを超えない範囲でシナ軍に打撃を与
える作戦であった。
トラウトマンを仲介に和平工作を進める一方で中支那方面軍を編成し、南京攻略を実行するためであり、それは
米内海相を中心とする海軍の圧力によるものであった。
11 月 15 日
九カ国条約会議が閉会。蒋介石にとって有利な成果はなかったため、蒋介石は落胆した。
11 月 20 日
日華事変の打開を図るための体制整備のため、旧大本営(日露戦争のときに設置されていた)を廃し、
新たに大本営が設置される。
それは、戦時の最高統帥機関であって、組織は陸軍部と海軍部とに分かれており、大本営陸軍部(海軍
部)は、参謀総長(軍令部長)
、参謀本部(軍令部)の主要職員を動員した司令部組織に陸軍大臣(海軍
大臣)が陸軍省(海軍省)の主要幹部を従えてこれにくわわったものであった。しかし、大本営の執務場
所は、従前通りの参謀本部、軍令部または陸軍省、海軍省であり、執務要領も以前と変わらず、設置目的
を達したとはいえなかった。
この際、大本営と政府との申し合わせにより、両者の関係を調整するために戦争指導に関する国家意志
の実質的決定機関として、大本営政府連絡会議を設置(メンバー:政府側は、首相、外務大臣、陸軍大臣、
海軍大臣で、時により大蔵大臣、企画院総裁、副総理格の無任相が加わった。大本営側は、陸軍参謀総長、
海軍軍令部長を正メンバーとし、時により参謀次長、軍令部次長が加わった)。これは便宜的な措置であ
って、法的機関ではなかった。
大本営連絡会議は戦争指導の権限を一手に持っていたものではなく、あくまで連絡会議でしかなかった。また総
理大臣は、陸海軍の対立や統帥部と現地軍の意見の対立に関して法的に全く無力であった。
なお、政府の行政に関する最高意志の決定は、閣議の決定を必要とするため、政府は連絡会議決定事項中、統帥関
係を除いた部分についてあらためて閣議決定の手続きを行った。その決定はまったく形式的なものであり、国家権
力は、従来通り各大臣や軍の首脳に与えられた職務権限の中に分散していた。
その結果、戦争指導に必要な絶対的な権力の統一性は発揮されず、ずるずると戦争の泥沼に陥っていった。
(南京攻略~戦線の拡大。
「大東亜戦争」へ)
人口約 100 万人を擁した南京では、上海戦において日本軍が兵力を増強した頃から市民が逃げ出し、
人口は激減していた。12 月初旬には、その数、約 20 万人となっていた。
国民政府内では、10 月 29 日蒋介石が長期抗戦のため重慶への遷都を主張(11 月 17 日に決定)
。→同
政府主席林森が 1 千名の官僚とともに 11 月 20 日南京を離れ、26 日重慶に入った。
12 年(1937 年)11 月 19 日
156
第 10 軍が突如、嘉興と蘇州を結ぶ南北の線を越えて南京を目指し進軍を開始。上海制圧からわずか 1
週間しか経っていなかったが、柳川司令官は「敵がバラバラになっている今こそ南京を陥とす唯一のチ
ャンスだ」との考えであった。
松井総司令官はこれを抑え込もうとしたが、第 10 軍の進軍は速く、止めるのが困難になった。
同日、蒋介石は「南京死守」を唱えていた唐生智を南京防衛の衛戍司令官に任命した。その後、蒋介石
はソ連にさらなる援助を要請するとともに、アメリカにも支援を要請した。
11 月 22 日
中支那方面軍松井司令官が「事変解決のためには首都南京の攻略は第一義的意義がある」として南京
攻略を上申した。
松井司令官は、戦いは勢いなので、この際勝ちに乗じて一気に首都を攻略すべきとの考えに変わったのである。
参謀本部では、堀場一雄が「按兵不動論」=首都南京の前でいったん兵を止めて交渉に入ろうとの案=
を提唱したが、近衛文首相、広田外相、杉山陸相は一顧だに与えず、和平案を葬り去った。
11 月 24 日
第 1 回大本営政府連絡会議が開催され、支那事変の対応を協議した(以降重要な事案はこの会議にお
いて決定された)
。
この会議で多田駿参謀次長は、首都制圧は蒋介石の面子を潰すから、その前に和平交渉を行うべきだと
の考えの下、南京攻略に強く反対した。しかし、参謀本部下村定作戦部長(石原莞爾の後任)の強い実行
論と現地第 10 軍の強い具申に抗することができなかった。
12 月 1 日
日本軍司令部(大本営)が中支那方面軍に南京攻略を命令。トラウトマンに和平工作を仲介している段
階であったが、司令部としては「南京を陥とせば和平に持ち込める」という思惑があった。
12 月 2 日
蒋介石が軍幹部を招集して和平について協議し、日本の和平案を受け入れる方向を決めた。ただちに
ドイツ大使トラウトマンと会い、領土主権を条件に停戦を受け入れる旨伝え、停戦の労をとるよう依頼
した。
12 月 7 日、トラウトマンの意を受けたディルクセン駐日大使が広田外相に面会して、蒋介石が和平を望んでいる
ことを示す内容の国民政府との覚書きを提出した。
日本軍の進撃に舞い上がっていた広田外相は「最近の偉大な軍事的成功により、1 ヶ月前に起草された基礎の上
で交渉を行えるかどうか疑問である。陸海軍の意見も得て検討した後返答する」と発言し、
「貴国並びに貴大使の好
意に深謝する」とのみ回答した。
トラウトマン和平案に対し、参謀本部内では本間雅晴第二部長らが「直ちに和平が実現しなければ日本は破滅す
ることになる」と和平工作を行い、その結果、外相、陸相、海相は会議で一旦同意を確認した。
しかし、翌8日朝、米内海相らを中心とする海軍側が前日の約束を反故にし、近衛首相も総辞職を仄めかしてト
ラウトマン和平工作の受け入れを拒んだ。
12 月 4 日
現地第 10 軍と上海派遣軍とが競うように進撃した結果、国民党軍約 10 万が守る南京防衛外郭陣地を
突破。この際日本軍には組織的な兵站がなかったため、食料を軍票により現地調達したが、これは「略奪」
とみられても仕方なかった。→8 日には国民党軍が拠るのは烏龍山砲台、紫金山、雨花台の3高地のみと
157
なった。
国民党軍は、撤退の途中で戦いには無関係の村民を連れ出し、その後を焼き払った(焦土作戦。その AP 特派員
マクダニエルの目撃談は、南京に残っていたミニー・ヴォートリンの記録「南京事件の日々」に記されている)
。
12 月 7 日
中支那方面軍松井司令官が南京攻撃を前に全軍に「不法行為等絶対に無からしむるを要す」等を厳命
した。
同日、蒋介石が唐生智に南京防衛の指揮を託し、夫人とともに飛行機で南京を立ち、重慶に向かった。
12 月 9 日
松井司令官が和平開城の勧告文を飛行機で場内に散布。回答期限を翌日正午とした。
同日、南京在住の 15 人の外国人によって組織された南京国際安全委員会から、蒋介石に対して“シナ
軍が南京からの平和的撤退を求める=日本軍の南京無血入城を認める”休戦協定案が提示されたが、蒋
介石はこれを拒否した。
これを受け唐生智南京衛戍司令官は、総数約 7 万の各部隊に南京城内外陣地の死守を命じ、
「違反者は
厳重に処分する」と通達した。
ほとんどの戦争においては、市民を巻き添えにしないため軍隊は市外に出るものであり、北京でも武漢
でも、そうした措置がとられたが、唐生智司令官はそのような配慮をしなかった。それだけでなく、翌日
にかけ市内南西部や城壁の外に立地する貧民の家々も焼き払った。
12 月 10 日
回答期限を過ぎても回答がなかったため、松井司令官が南京への総攻撃の命令を発する。
若いころから孫文の大アジア主義に傾倒し、蒋介石が日本の陸軍士官学校に留学した時親身になって世話をした
こともあり、根っからの“親中派”であった松井司令官は、総攻撃に当たって全軍兵士に「南京攻略要綱」を配り、
「首都南京を攻めるからには、世界が見ているから決して悪事を働いてはならぬ」と軍紀維持を徹底させた。
中支那方面軍南京3方面から攻撃して軍を進め、南京防衛の国民党軍との間に激戦が展開された。
同日中に第 9 師団第 36 連隊(連隊長脇坂次郎大佐)が高さ 20 メートルの城壁をよじ登って光華門の
一部を確保した。そのことは従軍記者によって伝えられ、翌日の日本の新聞を華やかに飾って、国民の戦
勝気分を沸かせた。
この後、激戦は3日間続き、両軍とも多数の死傷者を出した。
12 月 12 日
第 6 師団(熊本)などが雨花台陣地を突破して中華門に突撃を行い、激戦の末ついに攻略。
同日午後 9 時、南京防衛の任に当たる唐生智司令官は全軍撤退を命じ、部下及び一般市民をまったく
無対策のまま日本軍の前に置き去りにして副司令らとともに逃亡し、南京市の全ての城門を閉鎖したう
え揚子江の対岸に渡った。
このため南京の国民党軍は大混乱に陥り、城内から逃げようとする部隊が続出し、南京城北部では、こ
れを阻止する部隊(督戦隊)が前線に戻そうとして射撃を加えて味方兵士を大量に殺した。
逃げ場を失った国民党軍兵士は、日本軍に攻撃をかけて双方に死傷者を出した他、何の目処もなく揚子
江に逃げ入って無駄死にする兵士が続出するなど、国民党軍は組織的な抗戦や整然とした降伏行為がと
れなかった。
南京陥落の前日の午後から夜にかけてこうしたことが起こったことは、(日本軍を虐殺者呼ばわりした)アイリス・
158
チャンの著書「ザ・レイプ・オブ・南京」にも事実として書かれている。
12 月 13 日
日本軍は、第 16 師団が国民党軍紫金山陣地を攻略後、揚子江岸の下関に達して退路を断ち、第 6 師団
は城内に入って南京を攻略した。
このとき、数千の国民党兵士が南京城内(面積:約 40 平方 km。世田谷区の約 2/3 で、山手線内の広
さ)に南京国際安全委員会が儲けた安全区(広さは 3.9 平方キロ。東京都中央区の半分弱)に逃げ込み、
武器を隠し、平服に着替えて避難している市民にまぎれこんだ=便衣隊。安全区とはいっても柵も何も
なく逃亡兵は容易に潜入することができた。
また、シナ側の軍から日本の各部隊の人数をはるかに上回る投降兵が出た。これらのことは日本軍にと
って不測の事態であった。その中には攪乱目的の偽装投降兵が紛れ込んでいる恐れもあるため、処置を
誤れば自軍が危機に陥るので部隊長は大いに悩んだが、陸軍中央や中支那方面軍からは指示がなかった。
そのため、投降兵の処置は現場の指揮官に委ねられた。
翌日から 3 日間、日本軍は南京市民に紛れ込んだ国民党兵士「便衣兵」の中で反抗的な者の掃討を行
った。これは、軍とともに入場した百数十名の日本人記者やカメラマンが取材する中で行われた。また、
南京国際委員会を構成する外国人も日本軍の行動を注視していた。
12 月 14 日
南京国際安全委員会から南京に入った日本の外交官に手紙が届いた。その冒頭に「我われは貴砲兵部
隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝している」と書かれていた。
16 日付の東京朝日新聞も現地記者からの報告としてこの日の様子を「14 日午前、表通りを走る自動車
の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京にいるような錯覚を起こす。住民はいないと
聞いた南京市内には尚数十万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返している。兵隊さんが
賑やかに話し合って行き過ぎる」と書き、市内の平静さを伝えた。
12 月 17 日
日本軍が南京入城式を行う。
入城式は残兵による混乱を避けるため外国人には知らされず、安全区外の国民政府が使っていた庁舎で行われた
が、整然と行進する日本軍の写真は「南京攻略戦写真帖」
(防衛研究所戦史研究センター所蔵)に残されている。
翌 18 日には南京故宮飛行場で陸海軍合同慰霊祭が挙行された。この南京戦だけで日本軍の戦死傷者は
6,177 人に上った(南京戦史による)
。なお、司令官が逃亡した中国軍は約 2 万 9 千人の戦死者を出して
いた(同資料集による)
。
12 月 23 日 日本軍が南京市民を組織して南京自治委員会を作り上げる。治安も回復。
→13 年 1 月 1 日に南京自治委員会発会式を挙行。
13 年 1 月中旬 日本軍が南京市民に大量の米と小麦を配給する。
同年 2 月 7 日 日本軍が南京城内で上海派遣軍慰霊祭を挙行し、松井大将(中支那方面軍司令官)
が「涙の訓示」を行う。上海戦以来、日本軍の戦死傷者は 4 万 6 千 5 百人に達していた。
日本軍の南京入城後から翌年 1 月末までの約 2 か月間、日本軍が南京市民 30 万人を虐殺したとの説
があるが、その点については、別項「
『南京大虐殺事件』について」に記載。
1970 年代以降、中国政府が「30 万人虐殺説」を喧伝しているが、その存在を証明するに足る証拠・
159
証言は全く示されていない。この点、信ぴょう性に著しく欠けると言わざるを得ない。
比較するならば、7 月 29 日に起きた通州事件(日本人 223 人が虐殺された)については、前記のと
おり幾つもの証言が残っている。
そもそも時の蒋介石政権は、数百回の記者会見において一度もこのことを国際社会に訴えなかった。
なお、投降兵の処置については、次のとおりであった(産経新聞連載「ふりさけみれば」引用の南京
戦史編集委員会編「南京戦史」及び防衛研修所戦史室著「戦史草書 支那事変陸軍作戦<1>」による)
南京城北方、幕府山砲台を占領した第 103 旅団(約 2200 人)に投降者約 14,000 人
・・・非戦闘員と見られる約 6,000 人を解放し、約 8000 人を収容所に収容。ただし、火災派
生により、半数が逃亡。残り約 4000 人を揚子江対岸に逃そうとするも、パニックに陥って刃
向かってくるように見えた投降者に機銃掃射。これにより約 1000 人が死亡し、残りは逃亡し
た。
第 66 連隊に投降者 1,600 人余・・・全員銃殺された。
第 38 連隊に投降者約 7,200 人・・・収容所に収容
第 45 連隊に投降者約 5,500 人・・・武装解除の上全員解放
これらにより処断されたシナ軍将兵らの数は約 16,000 人とされる。
(南京攻略後の戦況)
年末の時点では、華北においても関東軍が蒙彊政権を、北支那方面軍が中華民国臨時政府を完全に掌握
していたので、日本軍は河北省はじめ山西、山東、察哈爾、綏遠など華北の広汎な地域で鉄道沿線地帯を
占領していた。その後も北支那方面軍の進撃は続き、12 月 23 日には黄河を渡河し、27 日に済南を占領、
さらに 1 月 11 日には要衝である済寧を占領した。
一方で、第 2 次上海事件以後の戦闘において日本軍の戦死者は、13 年 1 月末時点で4万人以上に達し
ていた。
なお、12 月 12 日、揚子江の南京上流付近で日本海軍航空部隊が、米砲艦パネー号他3隻を撃沈し、死
者3人、負傷者 48 人をだすという事件が起きた。後に誤爆であったことが判明したため、広田外相は迅
速な対応を指示し、山本海軍次官がグルー大使を訪れ深く陳謝した。同大使は容易に納得せず、米国内で
は対日感情も悪化したため、駐米大使・斉藤博はラジオの時間を買い切り、全米に向けて陳謝した。事件
は翌年 4 月 22 日、わが国が 220 万ドルの賠償金支払に応じることにより漸く解決した。
12 年(1937 年)12 月 21 日
閣議において新和平条件が決定された。これは、連戦連勝に酔う日本の国民世論(和平無用論や新政権
樹立論)を反映して、拡大派のまき返しにより作成され、閣議に付されたものであり、11 月 2 日の和平
条件と比べると一転して国民政府側にとって厳しいものに変わっていた。
1 満洲国の正式承認
2 容共・抗日・反満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力すること
3 華北を非武装地帯とし、特殊地域化すること
4 資源開発・関税・交易等あらゆる面で、日満支 3 国間に密接な経済協定を締結すること
5 賠償金の支払い
160
(1と5を新たに加え、2を本質的に変えた。)
12 月 23 日
広田外相はディルクセン駐日独大使に前日閣議で承認を受けた新和平条件を提示。
ディルクセンは「国民政府がこれを受入れることはありえないだろう」と語り、回答期限を年明けの 13
年 1 月 5 日まで延期することを提案し、広田外相はそれを承認した(後に同月 15 日に変更)
。
新和平条件は 12 月 26 日にトラウトマン駐華独大使からシナ側に伝えられ、国民政府最高国防会議で
討議されたが結論は出なかった。汪兆銘らは和平を主張したからである。
しかし、蒋介石はますます抗日の意志を固め、行政院長を辞職する(後任は孔祥煕)一方、米ソ両国に
強く援助を求めていくこととなった。
これを受けてスターリンは、12 月 31 日、
「盧溝橋事件以前の状態に戻すという条件でなければ、応じ
るべきではない」と蒋介石に打電した。
12 月 24 日
閣議において事変対処要綱を決定し、華北の経済開発方針を確定。これは、
「日満支提携共栄実現の基
礎を確立する」ことを同地域の開発目標とし、そのためシナの現地資本と日本の資本、技術を結合させ、
経済各部門を開発整備し、秩序の維持、民衆生活の図ろうというものであった。同時に、華北経済の開発
と統制のため、国策会社の設立も謳った。
13 年(1938 年)1 月 6 日
内閣書記官長風見章が参謀本部との打合せをしないまま「支那側に和平の動きがあるが、真に反省を示
さない限り、断固として初期の目的に邁進する」との談話を発表。
近衛首相は、蒋介石政権が和平を求めてこないなら、親日的な政権の成立を助長し、それと交渉して戦
争を終わらせようと考えていた。
1 月 11 日
参謀本部の要請で和平条件を討議するため枢密院議長も出席しての大本営御前会議(日露戦争以来初
めて)を開く。政府やジャーナリズム、一般国民の風潮は、
「蒋介石を相手にしなくても、シナを屈伏さ
せられる」
、というものであったが、参謀本部は長期戦に対する戦力の限界を考えて停戦を実現させたく、
和平策を担保することを目的としていた。というのは、当時の陸軍は、内地の 13 個師団のうち既に 12
個師団をシナ戦線に動員し、残るは近衛師団を含む2個師団だけになっていたからである。
閑院宮載仁参謀総長が「敗者である国民政府をこれ以上鞭打つべきではない」旨の発言。会議では、梅
津=何応欽協定や治外法権、租界、駐兵権などの放棄も考慮して、ドイツの仲介による早期講和を求める
支那事変処理根本方針を決める。
<支那事変処理根本方針の概要>
満洲国及び支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、これを核心として世界の平和に貢献する。
支那(蒋介石政権)に対しては、次のことを求める(主要事項)
① 満洲国の承認
②
排日・反満政策の放棄
③ 華北における共存共栄を実現
④
防共政策の確立
⑤
所要の賠償(金額の明示はなし)
1 月 14 日
国民政府から、和平条件について「より詳細な内容を知りたい」との回答がもたらされる。近衛首相
161
は「シナ側に誠意なし」として交渉の打切りを閣議決定した。トラウトマンに和平の仲介をとるよう依
頼してから 1 カ月も経っていなかった。
1 月 15 日
大本営政府連絡会議において国民党政府からの回答に対する対応を協議。
「シナ側に誠意なし」として
交渉の打切りを主張した内閣側に対し、大本営側は陸海軍とも打切りに反対し、閑院宮参謀総長がシナ
側への再度の確認を主張し、また参謀本部多田駿参謀次長が安易に長期戦に陥ることの危険性を涙なが
らに訴え、和平交渉の継続・撤兵を主張した。
しかし、近衛首相、杉山元陸軍大臣、米内光政海軍大臣はシナの戦況を甘く見て和平による撤兵論を退
け、
「大本営の主張は政府不信の表明だ」との発言をしたため、統帥部が政府に対応を一任することで収
拾が図られ、遂に和平交渉の打ち切りを決定=トラウトマン氏の斡旋による和平交渉が挫折。
政府と統帥部の関係が逆転していた。近衛文麿首相自身拡大派であったが、朝日新聞記者尾崎秀実や西園寺公一
を中心とする顧問団が近衛の後ろで糸を引いたと言われている。
政府側は、内蒙、華北に樹立された自治政府に期待をしていたが、統帥部としては、シナに展開している 70 万の
兵力が大陸に釘付けになって、対ソ戦の備えが疎かになるのを恐れ、撤兵したかった。この会議を機に政府と大本
営との間に意思の疎隔が生じ、以後大本営政府連絡会議の開催が途絶えてしまった。
その結果、政府は参謀本部を信用せず、両者を仲介すべき陸軍省も参謀本部の方針に反対していたから、意思統
一はほとんど不可能となった。
1 月 16 日
前日の会議の結果を踏まえ、近衛首相は「爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興
支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せむとす」=事実上の
国交断絶。
“現地の新興政権を育成強化して支那事変の解決を図る”=との声明を発表し、5 日前にドイ
ツの仲介による早期講和を求める支那事変処理根本方針を決めたばかりにもかかわらず、講和の機会を
自ら閉ざした。
この声明により、日シ戦争の長期化が確定した。
しかしながら、そこには戦争目的も戦争全体の構想もなく、統帥部の命令も現地軍に無視されて、およ
そ戦争指導の体をなしていなかった。このことは陸軍中央部の首脳や幕僚の資質・能力の欠如を意味し、
そのように無能な将帥都産貿を養成してきた陸大教育と、彼らを要職に登用してきた人事制度の失敗で
もあった。
(
「参謀本部と陸軍大学校」黒野耐・講談社現代新書より)
近衛に対し、この声明を出すよう強く主張したのは、末次信正内務大臣(海軍大将・元連合艦隊司令長官)であ
った。海軍では艦隊派に属し、対米英ソ強硬論を唱えてきた末次を、近衛も木戸内大臣も抑えられなかった。
末次内務大臣もまた、西園寺公一、風見章といった共産主義思想の持ち主に動かされていた可能性が高いと言わ
れている。在野の共産主義思想の持ち主である三木清も、本声明の直後の 1 月 19 日づけ読売新聞に「いよいよ長
期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。それは勿論、新しいことではなく、事変の当初から既に予想されてい
たことである。…これに処していくには強靭な精神が必要である」と呼応し、真っ先に長期戦を支持した。
近衛首相自身は、重慶に拠って「反日」を唱えている蒋介石に対して一撃を与えれば戦争は短期で終わるであろ
うし、日本の占領地で成立しつつある自治政府に期待して蒋介石に代わる政権を樹立すれば懸案は一気に解決する
であろうと読んでいた。
すなわち近衛は、「蒋介石に代わる政権は一層弱体化した政権であろうこと、その結果支那全体が混乱し、また、
162
その攪乱に成功するのが共産党であるに違いないことから、日本がそれを討つ役目を背負わされることとなる。し
かし、共産党の背後にソ連がいるので、その平定には長年月と多大の犠牲を払わざるを得ない」
(外務省局長石射猪
太郎東亜局長の具申)ことが分っていなかった。
天皇も、この後の事態の推移を憂慮し、健康損ねて翌 2 月上旬には寝込んでしまわれ、側近の勧めにより同月 19
日から 3 月 5 日まで葉山の御用邸にて静養を余儀なくされた。
(風見章について)
内閣書記官長を務めた風見章は、
「信濃毎日」記者時代からマルクス主義者であった。その風見章を推したのは
当時、陸軍省軍務課長だった柴山兼四郎大佐で(その後ろ盾は陸軍次官の梅津美次郎)あり、張学良の顧問補佐官
を務めた前歴を持つ革新軍人の中核的存在であった。ちょうど柴山大佐が顧問補佐官のときに張学良は張作霖の政
敵であった蒋介石の国民党に秘密入党し、易幟を敢行した。
(当時のシナの政治情勢)
日本の占領地では関東軍主導の下、日本に協力的で信頼関係の成り立つ自治政府があちこちで生まれつつあった。
12 年 12 月 14 日、北京で王克敏を首班とした中華民国臨時政府が誕生。同政府は近い将来には各地の治安維持政
府を集めて旧来の軍閥政府とは異なる、財界人や実業家を中心とする経済的民衆国家として日本と提携するという
構想を持っていた。
その後、同政府は 13 年 2 月 1 日に冀東防共自治政府を、またその後山西省臨時政府、山東省政府、河南自治政府
をも併合する。
近衛首相の声明は、この中華民国臨時政府に期待を寄せるものであったが、同臨時政府の官僚は、国民党に追い
出された旧北洋政府の官僚たちで、影響力を発揮できる人物はいなかった。また、同臨時政府の命令が効力を有し
たのは河北省、山東省、山西省と北平市、天津市、青島市からなる支配地域のうち都市と鉄道の沿線だけで、広大
な農村には対しては全く効力を発しなかった。したがって、同臨時政府は何の社会的影響力も発揮できなかったた
めに、日本側は大いに失望させられた。
この間、2 月 14 日に日本は中支那方面軍、上海派遣軍、第 10 軍を廃止し、中支那派遣軍を編成した。
3 月 28 日には中支那派遣軍の支持のもとに南京で中華民国維新政府が成立した(行政院長:梁鴻志)
。
日本側は、
「華中の新政権は地方政権として成立したのであり、中華民国臨時政府を中央政権とする合併統一をで
きるだけ速やかに促す」との声明を出した。維新政府の支配地域は、江蘇省、浙江省、安徽省、南京市、上海市で
あったが、同政府にも影響力を発揮できる人物はおらず、その影響力は極めて限られていた。
内モンゴルにおいても、12 年 9 月に察南自治政府(察哈爾省南部)
、12 年 10 月に晋北自治政府(山西省長城以
北)と蒙古連盟自治政府が成立していた。→これらが連合して、14 年 9 月、蒙古連合自治政府となり、モンゴル民
族の復興を謳って蒋介石政府からの離脱を宣言。
これらの親日政権はそれぞれに支配地域のみで通用する通貨を発行していたので、これに国民政府発行の法幣、
日本軍の軍票及び支那共産党の発行する「辺区券」を加えると当時シナには 7 種類の通貨が存在していた。このよ
うな通貨の混乱は、経済活動に多大の不利益をもたらし、人々の生活にも大きな不便をもたらした。
こうして、日本軍はシナの主要都市を占領したが、都市住民の食糧を確保する義務が生じ、そのため農村から必
要な食料を挑発することとなった。この行為はとくに華北の農民の反発を引き起こし、その機に乗じたシナ共産党
が農民の支持を取り付けて勢力を拡大した。20 年 8 月の日本軍降伏の時点で、共産党は1億人もの勢力圏を作り上
げ、そのことが蒋介石の国民政府軍との内戦に勝利する決定的要因となった。
163
他方、アメリカ政府は 1938 年(昭和 13 年)
、ビルマから雲南省を通り重慶に至る「援蒋ルート」を開発し、公然
と蒋介石軍を支援し始めた。
なお近衛首相は、蒋介石がシナを代表していないとしつつも、裏では和平工作を模索し、その条件を示
した。
近衛首相は、前年末に北平で成立した親日政権である中華民国臨時政府に期待し、これが「新秩序建設」の政権
の核になり、3 月に南京に成立した中華民国維新政府を将来的に統合するとの見通しを語っていた。このような考
えを持ちながら、和平交渉を模索していたということは、日本の戦争指導に一貫性がなかったということがいえる。
政府が「爾後国民政府を相手にせず」との声明を出したため、陸軍参謀本部(和平派の多田駿次長、影
佐禎昭陸軍省軍務課長(大佐)
、今井武夫参謀本部支那班長(中佐)ら)が、国民政府ナンバー2の汪兆
銘(国民党副総裁・親日派)に的を絞り、秘書長周仏海、外交部の高宗武らを相手として和平工作を進め
た。日本側の意思は 3 月末には蒋介石に伝えられ、その承認のもと交渉が続いた。
日本側は和平実現の中心的役割を汪兆銘に託そうと考えたが、国民政府側はあくまで蒋介石指導のも
とでの和平実現に拘り、蒋介石は遂に 6 月に、交渉打ち切りを指令。
一方、現地の日本軍(16 個師団、約 60 万)の占領区域は、北京・天津地区と揚子江下流の三角地帯を
中心として、鉄道沿線の大都市を連ねる点と線であり、常に国民党軍と八路軍ゲリラによる遊撃戦の脅
威にさらされていたが、長期戦を唱え戦意の衰えない国民党軍を壊滅する意図を捨てていなかった。
大本営は現地日本軍の意図を汲み、13 年春、国民党軍主力の包囲撃滅、抗戦根拠地の占領と新政権の
育成、和平工作の強化を進めながら、戦争の早期解決を図るため、徐州。漢口・広東作戦を発動する方針
を打ち出した。
3 月 15 日~4 月 7 日
北支那方面軍の第 2 軍(第 10 師団)が中央の許可を得て、国民党軍撃破のため進軍したが、国民党軍
の大部隊の攻撃を受け、局地戦では戦果があったものの苦戦(台児荘の会戦)。
漸く台児荘
(徐州北東)
に達したが結局 4 月 7 日に撤退した。
この作戦による日本軍の損害は戦死 2,300、
戦傷者 5,600 と大きなものであった。蒋介石軍側では、これを「日本軍の戦死傷者2万余で、中国軍に壊
滅された」と喧伝した。
4月7日
日本軍中央部は、徐州付近に国民党軍大部隊(約 50 個師団、60 万)があることがわかったため、これ
に大打撃を与えて抗戦意志を喪失させるため、北支那方面軍及び中支那派遣軍(2 月に新たに編成され
た)計 7 個師団(兵力 20 万)に古都・徐州制圧作戦の命令を下す。
両軍が 5 月 15 日、大部隊の国民党軍包囲網を完成するも、同軍は勢力保全のため部隊ごと解散し、戦
闘はなかった。
5 月 19 日
中支那派遣軍と北支那方面軍とが敵軍の抵抗のないなか進軍を重ねて徐州を占領。その後、同軍は、24
日に蘭封を占領。
国民党軍の抗戦・シナ人の抗日意欲を煽る結果となり、日本軍への挑発が本格化した。
6月6日
北支那方面軍が開封を占領。
164
6月7日
河南省花園口付近で黄河の堤防が爆破され、2 日後、鄭州北部の堤防も砲撃される(11 日、大雨によ
り決壊地点から水が流れ出し河南、安徽、江蘇3省の平原が水没し、水死者は数十万人に及んだ。水没耕
地 1,700 ヘクタール)
。国民党の通信社「中央社」は、これを「日本の空爆で黄河決壊」と報じたため、
各国のメディアも日本を非難した。
しかし、実際は日本軍の進撃を恐れた蒋介石の命により国民党軍が堤防を決壊させたもので、17 日の
フランス急進共和党の機関紙が「国民党による自作自演の愚挙」と報じた。
日本軍に人的被害はなかったが、進撃を一時停止し、華東に迂回した後南進した。
国民党軍による堤防決壊の詳細は、1976 年の「戦史論集」及び 1982 年の「抗日戦争期間黄河決口紀実」
(当時の
責任者であった魏汝霖が明らかにした。
)に記載されている。
水没現場を目撃した J.ベルデンは「このようにして蒋介石軍は 11 都市、約4千の村を水没させ、200 万の農民を
宿なしにしたが、ともかく日本軍を停止させた」と記した。3 年後に同地一帯を再訪したベルデンは見渡す限りの
荒れ果てた土地を目にして茫然とした。事情を聴くと、国民党、蒋介石軍双方の徴税吏が収穫以上の穀物を要求す
るため、農民がみな逃げ出していなくなったとのことだった。
(日本人によるユダヤ人救出-1)
昭和 13 年 3 月、満州と国境を接するソ連のオトポール駅で、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人難
民約 2 万人が満州国に逃れようとしていた。ドイツとの友好にヒビが入ることを恐れた満州国政府がそ
れを拒んだため、約 2 万のユダヤ人は寒さのなか野宿をし、食料も尽きようとしていた。
その報告を受けた関東軍特務機関長・樋口季一郎は、即座に満鉄総裁・松岡洋右に電話を入れ、国境近
くの駅からハルピンまでの特別列車を用意させた。オトポール駅には満鉄の日本人職員が出迎えに行き、
歩けない者は背負うなどして、満鉄駅まで誘導した。
かくして、凍死者約 10 名を除き難民全員が救出された。
後にドイツ政府から関東軍司令長官東條英機の元に届けられ、東條は樋口を呼び出して独断による救
出理由の釈明を求めた。樋口は、自分の行動は人道上間違っていないことを直言し、東條も、これに理解
を示して、ドイツからの抗議を一蹴した。
(国家総動員法、電力国家管理法の発令など国内体制の構築とシナ戦線の拡大)
昭和 13 年(1938 年)3 月
第 73 帝国議会において、新年度予算が議決される。総額 80 億円という大予算で、うち臨時軍事費は
48 億円であった。この後、とくに陸軍は軍事費の獲得に勢力を注ぎ、海軍もこれに負けじと艦船の建造
などを進めたため、臨時軍事費は年々増大した。
その後、軍事予算は、日米開戦の 16 年には 125 億円に達し、国家予算 165 億 4 千万円の 4 分の 3 を超えるまで
に膨れ上がった。
また、このときの議会には国家総動員法、電力管理法も提案され、朝野を挙げての激論が闘わされた。
政友会・民政党の一部は反対したが、左派の社会大衆党(党首:西尾末広)が両党を批判して賛成に回り、
両法案とも会期内に可決されて 5 月から施行と決した。これにより日本社会全体の戦時色が一段と強ま
った。
165
国家総動員法:戦争に伴う深刻な物資不足や労働力不足の中、長期全面戦争に向けて国家の総力を動員
するため、社会、経済、文化などあらゆる領域で政府に統制の権限を与えるための体系的組織法。
電力管理法:基幹産業である電力事業を軍部の管理下に置くこととしたもの
両法案審議の際、民政党の中野正剛や、政友会にあって自由主義グループと称された鳩山一郎ら一部議員は総動
員体制に制限を加えようとの動きを見せたが、左翼・社会大衆党の西尾末広は「近衛首相は、ヒトラーのごとく、
ムッソリーニのごとく、スターリンのごとく大胆に進め」と賛成の演説をした。
西尾が意図したところは、当時の権力層を転覆することであり、そのためにも戦争を歓迎することであった。だ
が、この「スターリンのごとく…」について陸軍が抗議をし、西尾の議員除名を要求した。民政党、政友会は社会
大衆党を快く思っていなかったことから、衆議院は西尾の議員除名を決議した。
また、東邦電力社長の松永安左衛門は電力管理法案を推し進め国家統制を図る中央官僚を「人間のクズ」と呼ん
だことから、軍部や中央官僚から嫌悪され、鈴木企画院総裁から圧力をかけられて引退させられた。
かくして、政界、官界さらには財界においても軍部に逆らえない状況になってしまった。
5月5日
国家総動員法、電力国家管理法を発令。両法の施行により日本は全体主義的な命令経済の国となった
=議会の無力化。→翌年、賃金統制令、国民徴用令などの統制経済及び言論統制実施。
国家総動員法、電力国家管理法並びに 15 年 10 月発足の大政翼賛会を最も歓迎したのは社会大衆党などの社会主
義勢力であった。労働組合、農民団体、婦人団体も近衛新体制を歓迎し、合流していった。国家社会主義者である
北一輝に至っては「(明治)憲法停止論」まで主張した。
(本稿、井上寿一「昭和史の逆説」新潮新書による)
5 月 26 日
近衛首相は1月の声明が誤りであったことに気づき、省内で信頼を失っていた広田弘毅外相と拡大論
を唱えた杉山元陸相を更迭、外相に日支和平に熱心な宇垣一成(5 月 26 日)
、陸相には、陸軍の了解を得
て、意中の板垣征四郎第 5 師団長を据える(6 月 3 日)内閣改造を行った。
蒋介石を評価する一方、大陸への関与は既に国力を超えていると憂慮していた宇垣は、入閣に当たって「国民政
府を対手とせず」声明に「深く拘泥せず」を条件とし、この点、板垣陸相とは支那に関する認識は根本的に対立し
ていた。
なお更迭の前、杉山元陸相は、板垣を牽制するために強硬派の代表的な存在であった東條英機関東軍参謀長を陸
軍次官に据えた。その後東條は、日支和平派の多田参謀次長と対立し続け、自らの辞任と引替えに多田を辞任させ
た。
6 月~
宇垣外相は蒋介石政権の孔祥煕財政部長との間で和平工作を進めつつ、蒋介石に影響力のあるイギリ
ス駐日大使クレーギーと話し合いを重ねた。宇垣は“イギリスと話がつけば、米ソは手出しができない”
と考えていた。しかし、近衛首相には対支和平の意欲が全くなく、また東條陸軍次官の反にもあった。
一方、板垣陸相は土肥原を使って「一流人物による新興政権樹立」を目論む工作を行った。影佐禎昭大
佐と今井武夫中佐らが中心となって、周仏海や高宗武らはを相手として汪兆銘中心の和平策を密かに進
行させていた。それは、汪兆銘らによって、日本との和平を図り、シナの共産化を防ぐ目的で四川及び雲
南の軍隊に依拠して新しい政府をつくらせようとするものであった。
このため、和平に消極的な蒋介石を相手とした近衛改造内閣によるシナ政策には全く統一性がなく、戦
争は徒に深みにはまっていった。
166
6 月 15 日
御前会議において漢口・広東攻略作戦が決定される(実施は同年初秋)
。
これは、近衛首相のブレーンで、武藤軍務局長との間に緊密な連絡があった尾崎秀美(ソ連の工作員)が「漢口
を占領すべし」と軍部をたきつけた結果だった。
尾崎は、月刊「改造」掲載の「長期抗戦の行方」
(13 年 5 月号)で彼は次のように、あくまで蒋介石軍との戦争拡
大を主張した。
「日本が支那と始めたこの民族戦の結末をつけるためには、軍事的能力をあくまで発揮して敵の指導部の中枢を
殲滅する以外にない」
また、
「長期戦下の諸問題」
(同 6 月号)では、和平論を激しく非難した。そして、親交のある陸軍軍人に漢口作
戦をたきつけたのである。
これを受け 7 月 4 日、中支那方面軍隷下に第 11 軍(主作戦担当)
、第 2 軍(側面援護)
、計 9 個師団
(総兵力 35 万)が編入され態勢整備がなされる。
同月、海軍航空部隊が桂林を空爆し、さらに 9 月 28 日には昆明を空爆した。
8 月 22 日
第 11 軍、第 2 軍の両軍に武漢攻略作戦命令が下る。参謀本部(作戦課長稲田正純)、陸軍省(軍事課
長田中新一)は「支那の諸要衝を占領し、蒋介石の死命を制してこれを屈服させる」とその目的を明示し
た。
9 月 29 日
宇垣外相による蒋介石との和平工作の道筋が見えてきたとき、近衛内閣が「対支院」の設置を閣議決定
(板垣陸軍大臣が推進)した。
これは、支那をはじめ東アジアの問題を外務省の管轄から外すという発想から出たものであり、宇垣に
よる折角の和平工作を根底から踏みにじるものであった。
宇垣外相が「対支院」の設置の閣議決定に抗議して辞任。後任の外相には近衛自身が就任した。→「対
支院」構想は 12 月に興亜院として実現。
10 月 9 日
第 21 軍(第 5、第 18、第 104 師団、兵力 7 万)が、国民党軍が諸外国から援助を受けるための要地
であった広東を攻略する作戦を開始。
10 月 21 日
武漢攻略作戦と併行して行われた広東作戦において、第 5 師団がバイヤス湾に上陸して広東を制圧。
10 月 27 日
第 11 軍、第 2 軍が武漢三鎮(漢口、武昌、漢陽)を占領した。シナ国民革命軍は既に 10 月 17 日に武
漢三鎮一帯から撤退していた。
この知らせを耳にした日本国民は「これで戦争が終わる」と提灯行列をして喜んだ。
しかし、この作戦における損害は、第 11 軍で戦死 4,506 名、戦傷 17,380 名、第 2 軍で戦死 2,300 名、戦傷 7,300
名に達しており、内閣情報部と陸軍省は「気持ちを引き締めるべし」との通達を国民に発していた。
井上成美軍務局長は、後に武漢三鎮占領に関し「軍備というものは、国民の生存のためにあるのであって、国家
の政策のためにあるのではない」と陸軍の中国での行動=陸軍は、己が政策のために軍備を利用した=を批判した。
167
翌 11 月、漢口の南の長沙市で日本軍の攻撃を恐れた省長の張治中の命により全市に火が放たれ、100 万戸以上の
人家を焼き払われた(焦土作戦)
。しかし、日本軍は何らの行動も起こさなかった。
11 月 3 日
武漢三鎮及び広東攻略を踏まえ、近衛首相が和平の好機として、
“日満支共栄圏を打ち立てるため、占
領地の経済建設に乗り出す”ことを意図した「東亜の新秩序建設」に向けての「重大声明」
(近衛第 2 次
声明)を発表。その中に「もとより国民政府といえども従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替し
て更生の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるに於いては敢えてこれを拒否するものにはあらず」と
あるように、さきの「蒋介石を相手とせず」声明を修正するものではあった。
しかし、この声明に対して、蒋介石は当然のこと英米などの列国も強く反発した。
(声明の要点)
「国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが壊滅を
見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。帝国の冀求する所は東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に
あり。今次聖戦究極の目的亦此れに存す。
この新秩序の建設は日満支三国相携え政治、経済、文化など各般にわたり互助連環の関係を樹立するを以って根
幹とし、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。
(中略)
惟ふに東亜における新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられた
る光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業
の達成に邁進せざるべからず。茲に政府は帝国不動の方針と決意とを表明す。
」
この「東亜新秩序」建設声明をアメリカは、九カ国条約を基礎とする同国のアジア権益を全面否定するものと受
け止め、以降、日中両国に対する中立政策を一変させた。
なお、
「東亜新秩序」や後の「大東亜共栄圏」の理念は、欧米の植民地となっているアジア諸国の解放にあり、理
念そのものは崇高だった。その標語をつくったのは、尾崎秀美(ソ連の工作員)ら近衛首相のブレーンであり、彼
らはその標語を利用してシナでの戦争を泥沼化させるとともに日本を対米戦争に仕向けていくことにあった。その
目的は、コミンテルンの指令の下、日本が敗戦したとき、その混乱に乗じて革命を起こさせようとすることにあっ
た。
一方で近衛首相は陸軍が進める汪兆銘を担ぎ出すという、一種の謀略にも期待を寄せていた。天皇はこ
れには否定的であった。
陸軍による汪兆銘担ぎ出し工作は、参謀本部今井大佐、軍務課長影佐大佐に民間の犬養健が主導し、シナ側では
高宗武、梅恩平らが中心となって行われていた。
11 月 13 日
陸軍の誘いに乗った汪兆銘が蒋介石と訣別し、重慶を脱出して昆明に移り、そこで日本陸軍側に今後の
行動計画を提示した。その要点は次のとおりであった。
(1) 汪兆銘は蒋介石との関係断絶を声明し、ハノイ経由で香港に到着し、東亜新秩序建設の和平運動
168
を開始する。
(2) 雲南、四川など日本軍の非占領地域に新政府を樹立し、5 個師団から 10 個師団の軍隊を編成し、
さらの日本軍の一部を撤退させ、広西、広東を新政府の地盤に加える。
(3) 上記計画の実現のため、雲南、四川の軍人に反蒋介石を表明させて独立させる。
11 月 20 日
汪兆銘側と日本側との間で秘密裡に「日華協議記録」がまとまる。その内容は、次のとおりであった。
① 日華防共協定の締結(日本軍の防共駐屯を認め、内蒙を防共特殊地域とする)
② 満洲国の承認
③
日本人のシナ内地における居住・営業の自由を承認、治外法権の撤廃、租界の変換を考慮
④ 経済合作に日本の優先権を認め、特に華北資源の開発利用について特別の便利を提供。
⑤ 戦費の賠償を不要求
⑥
協約以外の日本軍は即時撤退開始。2 年以内に撤退を完了。中華民国は本期間内に治安の確立を
保障し且つ駐兵地点は双方合議の上決定
汪兆銘はこの方針の下、蒋介石政権要人や雲南、四川の軍人に対日和平、新政権の樹立を呼びかけた。
なお近衛内閣は、前年 12 月の閣議で設立の方針であった国策会社・北支那開発株式会社を創設した。
以降、日系や日中合弁の子会社・関連会社を設立し、日本の敗戦の時点まで華北に大々的な投資を行って、港湾
(例:塘沽新港)
、鉄道、運河等インフラの整備などを進めた。
陸軍省及び参謀本部も、武漢三鎮及び広東攻略を踏まえて 12 月 6 日、
「昭和 13 年秋季以降対支処理方
針」を決定した。これは、漢口、広東の攻略をもって武力行使に一期を画し、以後は自主的に新支那の建
設を指導することを方針としたもので、占領地拡大を企図せず、占領地を①治安確保を目的とする「治安
地域」と②抗日勢力潰滅施策を主とする「作戦地域」とに区分した。
治安地域:包頭以東の蒙彊地方、北部河北省、北部山西省、山東省の要部、及び上海・南京・杭州の三角地帯
作戦地域:治安地域以外の占領地域
11 月 30 日
御前会議で「善隣友好・共同防共・経済提携(近衛三原則)の理想の下に日満支相携えて進む」ことを
うたった「日支関係調製方針」が承認され国策となる。
(日支関係調製方針の概要)
1 シナ全土にわたる要求
(1) シナの政治形態は分治合作主義をとる=強力な統一中央政府をつくらない
(2)中央政府に少数の顧問を派遣する
(3)シナの軍隊、警察に顧問を派遣、武器を供給する
(4)防共軍事同盟を締結する
(5)シナ全土にわたる航空事業、シナ沿岸の主要海運、揚子江水運は日支協力の対象とする
(6)日本国民の戦争後の損害を賠償する
2
さらに加重される地方的要求
(1)蒙彊
高度の防共自治区域、かつ経済上の日支強度結合地帯と指定。日本は駐兵権と鉄道、
航空、通信、港湾、水路の監督権を持ち、所要の機関に顧問を配置する。
169
(2)華北
経済上の日支強度結合地帯と指定。日本は治安確立まで駐兵権と鉄道、航空、通信、
港湾、水路の監督権を持ち、所要の機関に顧問を配置する。青島を特別行政区域とする。
(3)華中 揚子江下流を経済上の日支強度結合地帯と指定。所要の機関に顧問を配置する。上海、
南京、杭州を結ぶ三角地帯に治安確立まで駐兵権と鉄道、航空、通信、港湾、水路の監督権を
保留、揚子江沿岸特定地点に艦船部隊の駐屯権。上海を特別行政区域とする。
(4)華南 沿岸特定島嶼および関連地点に艦船部隊の駐屯権。厦門を特別行政区域とする。
日華協議記録で「撤兵は平和回復後から 2 年以内」と明記されたのに、国策となったこの日支関係調製方針には
それが抜けていた。これは、軍の要求に近衛が屈した結果であった。また、
・上海、青島、厦門には市政の中枢に日本人が直接参与することを求めること
・分治合作主義の採用
・上海、南京、杭州を結ぶ三角地帯への治安駐兵と鉄道、航空、通信、港湾、水路の監督権
・揚子江下流を経済上の日支強度結合地帯とすること
・顧問の派遣
も協議記録になかったものであり、日本によるシナ全土の独占管理を狙うものだった(これらは陸軍の参謀たちの
ゴリ押しによるものであった)
。
この国策の実行機関として、12 月 16 日興亜院が設置され(総裁は首相)、シナにおいて処理を要する
政治、経済、文化に関する事務、その諸政策樹立に関する事務、シナに関する国策会社、業務の統制に関
する事務などは全て、その管轄とされた(外務省にはシナに関する純外交事務のみが残された)。
興亜院総務長官には柳川平助陸軍中将、下部機関である蒙彊、華北、華中、厦門の各連絡部長官には、それぞれ
各地域で現地政府等の最高顧問として実質上の支配者であった陸海軍の中将又は少将が充てられた=軍主導。
この体制の下、各地域で日本による独占的な管理が推し進められた。例えば揚子江では、列国の船舶を閉め出し、
漢口まで日本船のみの航行を認めた。これは、国際通貨を持たず、軍票によってしか物資を調達できない日本が占
領地経済を円滑に行うための措置であったが、列国の抗議が集中した。
12 月 2 日
蒋介石政権に打撃を与えるため、大本営は、陸海両軍の航空隊に対し「戦略中枢に攻撃を加える」こと
を目的として重慶爆撃の指令を出した。これは、天然の要塞である重慶に対して地上軍による攻撃は無
理と判断したからであった。
→実際の空爆は翌 14 年~16 年の視界の良い春から秋にかけて行われた。
12 月 18 日
汪兆銘の呼びかけに蒋介石側も雲南の軍も応じなかったため、身の危険から汪兆銘が昆明からハノイ
に移った。以降、そこで反蒋活動を行う。
→翌年春、汪兆銘は蒋介石の放った刺客に襲われ、秘書が犠牲となり、自身も重傷を負った。影佐禎昭
大佐に救出されて 5 月、汪兆銘は東京へ。
12 月 22 日
近衛首相が「近衛三原則」
(11 月 30 日閣議決定)を基本とした声明を発表するとともに、新和平
条件を明示する。これは、蒋介石と離反した汪兆銘の重慶脱出に呼応したものであった。
①
支那は満洲国を承認し、日本は支那の独立主権を尊重する。
170
②
日支防共協定の締結。
イ、特定地点への日本軍の防共駐屯
ロ、内蒙を特殊防共地域とする。
③
支那は日本人の居住、営業の自由を容認し、日本は治外法権撤廃、租界返還を考慮する。
④
支那は、北支、内蒙における資源開発において、日本に対し積極的に便宜を供与する
⑤
日本は領土の割譲を求めず、賠償を要求しない(在華居留民の権利利益の損害は除く)
この声明は、日華協議記録を下敷きにしたものであったが、同協議記録において明示されていた「日本
軍の撤兵」問題については後退していた。
三田村武夫はその著書「大東亜戦争とスターリンの陰謀」の中で、本声明を実際に書いた人間について、後の手
記からして尾崎秀美(近衛首相のブレーンにしてコミンテルンのスパイ)だと断定し、尾崎こそが汪兆銘を首班と
する新政権樹立工作の中心人物であったと推測している。
これに対して、重慶の蒋介石は、26 日に声明を発表し、汪兆銘の行動は国民政府とは関係のない個人
的行動であり、内部撹乱の陰謀であると主張し、徹底して日本と闘う必要を訴えた。
蒋介石は、ハノイに亡命中の汪兆銘に対して王外交部長らを派遣して翻意を促したが、汪兆銘はこれを拒絶。逆
に汪はハノイから 30 日、香港の『南華日報』に声明を発し、重慶政府首脳に対して、善隣友好、共同防共、経済提
携を柱とする日本との和平交渉の推進を訴え、自身、近衛声明を根拠として日本と和平交渉に入ることを発表した。
しかし重慶政府首脳は誰も相手にせず、蒋介石は、年明けの元旦に汪の党籍を永久に剥奪し、一切の職務から解
任すると発表した。
12 月 23 日
日本政府が武力を背景に、フランスが実効支配していた南沙諸島の領有を宣言し、新南群島と命名の
上、高雄市の一部に編入した。領有の目的は、リン鉱石の採取にあった。
12 月 25 日
有田外相が外国人記者団に対して、日満支経済ブロックの結成を伝えて、
「第三国の経済活動は、新体
制達成のためには制限される」と表明。
一方で、対ソ戦に備えるため重工業中心の生産力拡大方針を決定していたから、資源など輸入の 40%を頼ってい
るアメリカとの関係改善は常に重要課題であった。この発言は、資源供給元のアメリカに対して、強気に過ぎる発
言であった。
12 月 28 日
蒋介石が、
「東亜新秩序建設声明は、①赤禍防止の名目でシナを軍事的に管理し、②東洋文明擁護の名
目でシナの民衆文化を消滅させ、③経済防壁を撤廃するという名目で欧米勢力を排除して太平洋を独占
しようとするものであり、つまり、日本は東亜の国際秩序を覆し、シナを奴隷化して世界の分割支配を意
図している」と、厳しく日本を批判した。
これにより、近衛首相が汪兆銘に期待して目論んだ「近衛三原則」による 対シナ政策は完全に破
たんし、近衛は辞意を漏らすようになった。
12 月 31 日
アメリカが「条約上の誓約や関係諸国の権利を無視して、日本が極東における『新秩序』を独断的に創
造するような方向に乗り出したことを容認するわけにはいかない」旨の覚書を発表。
「東亜新秩序建設」声明以来の政府首脳の言動がアメリカの反日姿勢を強める中で、日本国内では予想されるア
171
メリカの経済制裁に対して、石油などの資源を南方で確保しようとする「南進政策」が台頭していった。
アメリカはまた同月、シナ国民党工作員及びアメリカ共産党関係者(翌 1939 年 1 月に「アメリカ委員
会」を設立)のロビー活動を受けた国務省のホーンベック極東部長の進言を入れてシナ国民党に 2500 万
ドルの借款供与を決定した。これは、
「対日牽制の意をこめた」ものであった。
既に同年 7 月の時点で、若杉要ニューヨーク総領事は、アメリカにおける反日活動の背後に、アメリカ共産党・
コミンテルンの暗躍があることを正確に分析しており、7 月 20 日付で宇垣外務大臣に対して「当地方における支那
側宣伝に関する件」との機密報告書を提出した。
若杉総領事は、要約するに
「シナ事変以来、アメリカの新聞は『日本の侵略からデモクラシーを擁護すべく苦闘しているシナ』という構図
でシナの被害状況をセンセーショナルに報道している」
「ルーズベルト政権と議会は世論に極めて敏感なので、このような反日活動世論により、どうしても反日的にな
りがちだ」
「アメリカで受けがいいのは蒋介石と宋美齢夫人で彼らは『デモクラシーとキリスト教の擁護者だ』とアメリカ
の一般国民から思われ、その言動は常に注目を集めている」
「日本は日独防共協定を結んでいることから、ナチスと同様のファシズム独裁国家だとみなされている」
「シナ擁護の宣伝組織は大別して、シナ国民党政府系、アメリカ共産党、宗教・人道団体系の3つがあるが、
『反
ファシズム、デモクラシー擁護』が各種団体の指導原理となっている」
「アメリカ共産党系は表向き『デモクラシー擁護』を叫んでいるが、反ファシズム系の結集に努め、その反日工
作は侮りがたい」
「アメリカ共産党の真の狙いは、日米関係を悪化させてシナ事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に対して軍
事的圧力を加えることができないようにすることだ」
と記した後、近衛内閣に対して「ルーズベルト政権の反日政策の背後にはアメリカ共産党」ことを強調し、共産党
による日米分断策動に乗らないよう訴えた。
14 年(1939 年)1 月 4 日
近衛内閣が総辞職。
これは、
「東亜新秩序建設」に向けての声明によっても、蘆溝橋事件の勃発以来、全面戦争に発展した
まま収拾の見通しもない現状に苦悩してきた近衛首相が、遂に政権を投げ出し、退陣したものである。
近衛は「軍人から政治を足り戻すためには、軍人に先手を打って国の運命を打開するに必要な諸種の確
信を行うほかない」と、首相就任後、軍人以上に先走ったものの政治力が伴わず、軍人から赤子の手をひ
ねるようにあしらわれ、破局に向けてのスピードを速めることとなった。
この 2 年間、事態の流れを食い止めようと、政府部内で頑張ったのは、外務省の石射猪太郎東亜局長(満洲事変
不拡大のための策を首相に進言するも容れられずに辞表提出)と、石原莞爾参謀本部作戦部長(漢民族に対し、優
位ではなく平等の相互尊重関係が基本であるとし、華北の主権が中華民国にあることを認めて、華北特殊地域なる
概念を清算すべし、と主張した)であった。
1月5日
枢密院議長の平沼騏一郎が首相に任命され、近衛内閣の路線を引き継ぐ形で平沼内閣が組閣される。
以後政府は、重慶国民党政府との和平を模索する一方で、戦果を拡大して同政府の戦意を喪失させれば
早期和平を引き出せると戦略から戦線を拡大していた。
172
その結果とった作戦は、2 月の海南島占領、3 月 27 日の南昌攻略であった。しかし、それでも重慶国
民党政府との和平もならず、支那事変処理は完全に泥沼に陥ったという意識が高まった。
日本の戦線拡大を重く見たアメリカは、支那事変に積極的に介入するようになり、2 月、重慶国民党政府に対し、
2 千 5 百万ドルの借款(中立法の適用を避けるために、この借款は商取引の形式でなされた)を与えた。重慶国民
党政府はこの資金でアメリカから軍需物資を含む多様な物資を購入し、ビルマルートを経由して雲南省昆明まで運
ばれた。
さらに、アメリカは 4 月、日本の南方進出に対処するため、レインボー作戦と呼ばれる軍事作戦を立案した。ま
た、経済的な対日報復措置としては、日米通商条約の廃棄(14.7.26 ハル国務長官が堀内大使を呼んで通告)とと
もに、東インド(現インドネシア)を植民地としているオランダ及びイギリスとの協同に向け動きだした。
翌年 7 月 22 日に第 2 次近衛内閣が成立するまでの 19 ヶ月は、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政の 3
内閣が政権を担当したが、ノモンハン事件、日米通商条約失効、第 2 次世界大戦勃発(14.9.1)とドイツ
の蘭仏侵攻、日独提携強化問題など外部からの激動に対処するのが精一杯であった。
(ソ満国境における軍事衝突…張鼓峰事件)
外蒙古は、
1921 年、
ソ連の支援を得てシナの支配から免れ独立を果たしていた(モンゴル人民共和国)
。
内蒙古においては、大興安嶺山岳の西側一帯の北東部が満洲国の版図に組み入れられていた。そのた
め、モンゴルと満洲という2国間で国境争いが生じることとなった。
その境界はもともと外蒙古のハルハ族と内蒙古のバルガ族の勢力圏の境であり、あいまいなまま推移
してきたもので、ハルハ族はハルハ川から 20 キロ西を境界と主張し、満洲はハルハ川を境界と考えてい
た。
そのような中でソ連軍は豆満江沿岸の国境で国境侵犯を繰り返し、昭和 10 年 1 月のハルハ廟事件など
紛争が数多く生じた。そのため、日本政府はソ連政府に国境画定を申し入れ、同年 6 月に満洲里でその
ための会議が開かれた。席上、満洲帝国外交部は日本の国策に従い、ハルハ河が国境であると主張した。
会議において日本の主張に柔軟に対応したモンゴル人民共和国ゲンデン首相は、後に(翌 11 年)
、スタ
ーリンにより首相(外相兼務)を解任された。
なお、国境画定がなされた後も国境を巡る紛争は絶えなかった。
11 年(1936 年)
、スターリンはモンゴルに対して本格的な軍事援助に乗り出し、同年 3 月、ソ連とモ
ンゴルとの間に相互援助条約が締結された。
13 年 6 月、ソ連 GPU 幹部のリュシコフがスターリンによる粛清を恐れて満洲に亡命したため、関東
軍は同人を情報収集に利用した。
13 年(1938 年)7 月 9 日
張鼓峰(豆満江河口から約 20km 上流で、満洲領内の同江左岸にある小峰)頂上にソ連軍が陣地を築
き、張鼓峰事件の発端となる。
7 月 15 日
西代理大使がソ連軍に撤兵を要求するも、ソ連側は「張鼓峰はソ連領だ」と主張して、拒否したうえ、
173
却って兵力を増強した。
7 月 17 日
大本営が関東軍第 19 師団に張鼓峰防衛を命じる。命を受けて同師団の 2 個連隊(第 38 旅団第 75 連
隊及び第 76 連隊)が出動した。
7 月 20 日
この事態に対処するための関係閣僚会議において、陸相になったばかりの板垣征四郎が現地軍の増強
を主張した。しかし、外相の宇垣一成は「現地に集結した部隊が越境して攻勢に出る場合は、事前に閣議
の承認を得てもらわないと困る。いまは支那事変の最中故、張鼓峰事件は外交的に片づけた方がよくは
ないか」と思いとどまらせた。板垣陸相は格上の宇垣外相の手前、ここは引き下がった。
しかし、数日後、参内した参謀総長が提出した書類には「備考」として(現地軍の運用は)
「参謀総長
に御委任相成たく」と書かれていた。天皇はこれを見逃さず、当該書類を裁可しないまま侍従武官長を通
じて板垣陸相に「この件に関する拝謁は無益である」と伝えさせた。
にもかかわらず強いて拝謁を願い出た板垣陸相が「宇垣外相も海相も賛成された」と事実と異なるこ
とを述べたことから、板垣に対して天皇は語気を強めて、満洲事変・支那事変勃発時の対応に言及の上、
命令に依らずして一兵たりとも動かさないよう、訓諭された。宇垣は、このときの陸軍の対応に関して日
記に「見様によっては一種のペテン」と書き記した。天皇の激怒を買った板垣は退出後、辞意を表明した
が、翌日、天皇のご配慮による慰留もあり、辞意を撤回した。
7 月 29 日
張鼓峰北方で国境から 1km 満洲領に入った沙草峰をソ連軍(約 10 名)が占拠して陣地を築き始めた
ため、第 19 師団長尾高亀蔵中将が自己の責任で攻撃を命じ、これを駆逐した。しかし、ソ連軍は一旦後
退した後、再び約 80 名の兵力で占拠した。
7 月 31 日
関東軍が早朝、夜襲戦法をしかけ、先ず張鼓峰を次いで沙草峰を奪回・確保した。
8月1日
ソ連軍が戦車、爆撃機を動員しての猛攻撃を開始。これに対し、第 19 師団は、天皇から武力行使およ
び国境を越えることを禁じられていた(専守防衛)ため、国境を越えて反攻することもなく抗戦し、大苦
戦を強いられた。関東軍も戦闘機や戦車等を動かさなかった。
この間、第 19 師団参謀長が軍中枢に外交交渉による解決を求めてきたので、8 月 4 日に駐ソ大使の重
光大使がソ連のリトヴィノフ外相に停戦交渉を申し入れる。
その後もソ連軍は戦車、爆撃機、長距離砲による猛攻撃を続けたため、天皇陛下のお言葉を固く守って
「専守防衛」に徹した第 19 師団の 2 個連隊は、8 月 10 日までに 1,440 名の死傷者を出した。
8 月 11 日
重光大使の巧みな外交交渉により停戦協定が成立し、両軍は「停戦時の線で停止する」と決められた。
それにもかかわらず、この日もソ連軍は猛攻撃をしかけてきたが、遂に日本軍は張鼓峰~沙草峰の線を
守り切った。
この事件でソ連側は、延べ約 1900 台の戦車と延べ約 780 機の航空機を投入したが、人的損害としての
死傷者は日本側の約 2.5 倍の 3,712 人だったと言われている。
8 月 13 日
174
第 19 師団諸隊が豆満江右岸に撤退を完了する。その後、ソ連軍は自らが主張する国境線に沿って、延々
20km もの鉄条網を張り野戦陣地を構築した。
(以上、中村粲「張鼓峰事件」国民会館叢書による。)
(満蒙国境における軍事衝突…ノモンハン事件)
14 年 5 月 4 日
日本人警官 6 名を含む 22 名の国境巡察隊が、ハルハ河を渡って越境してきた約 50 名の兵力のモンゴ
ル軍から攻撃を受けた。巡察隊は応戦してこれを何とか撃退した。
11 日には、モンゴル軍は兵力を増強して再び越境してきた。
これに対しハイラル駐屯の関東軍(第 23 師団:師団長小松原道太郎)は、司令部から示達された「満
ソ国境処理要綱」に基づき、この国境紛争に対処することとし、命を受けた歩兵第 64 連隊第 1 大隊を主
力とする捜索隊(隊長:東中佐)が 15 日にノロ高地付近に進出していたモンゴル軍を駆逐した。これに
より、紛争は一件落着かに見えた。
ところが、同大隊が撤退した後に、モンゴル軍にソ連軍(以下「ソ蒙軍」)が加わった大部隊が重ねて
満洲領内に侵攻してきた。
第 23 師団はこれを撃滅すべく改めて絵約 2 千人の部隊を編成し、東捜索隊と山県支隊に攻撃命令を発
した。
28 日、ハルハ河又付近でソ蒙軍と交戦した東捜索隊は優勢な火力の前に苦戦を強いられた。ソ蒙軍の
強力な戦車隊に、日本兵は数少ない速射砲の他は、サイダー瓶にガソリンを詰めた火炎瓶を戦車に接近
して投げるという戦法で対抗したが、29 日夕、捜索隊の約半数が戦死するという大打撃を受けた。
30 日には、ソ蒙軍がハルハ河又北方の 731 高地付近に侵攻してきた。圧倒的な同軍の装備の前に山県
支隊は苦戦し、多大な損害を出したが、何とか撃退した。
その後、ソ連側はハルハ河を渡河してきて重機火砲も大幅に増強し、西岸に陣地を移動した。関東軍は
部隊を引き揚げた。
(第一次ノモンハン事件)
この衝突事件において関東軍は航空隊を投入し、ソ連軍機との航空戦では圧勝したが、地上戦ではソ蒙
軍に対抗する戦車などの装備なく、兵たちは火炎瓶と日ごとに減っていく速射砲による戦闘を強いられ
た。
6 月上旬
ソ連軍第 57 特設軍団司令官に G.ジューコフが着任。強力な火砲と戦車を次々に投入して大攻勢をか
ける作戦をたてた。
6 月 20 日
一部の自重論を制して、辻正信、服部卓四郎(中佐)参謀らの強硬派が大命のないまま戦車・装甲車両
90 両、火砲 140 門、航空機 180 機を終結させて地上部隊の応急派兵を決める(軍紀違反)
。第 23 師団に
第 7 師団歩兵第 26 連隊、同第 28 連隊、安岡支隊の加わった動員兵力は約 2 万で、その行動要旨は、ハ
ルハ河を渡河して左岸の敵を撃滅し、その退路を断ち、右岸より退却する敵を殲滅するというものであ
った。
対するソ連軍は、総兵力 12,500 ながら戦車・装甲車両 450 両、火砲 110 門、航空機 280 機を擁し、
火力と機動力に勝っていた。
175
7 月 2~3 日
安岡支隊が虎の子の戦車部隊をも動員してハルハ河に架橋して渡河してモンゴル側に攻め入った。
翌日には第 23 師団の主力がハルハ河西岸に渡り、ソ連の強力な戦車部隊を攻撃し、約 100 両を炎上さ
せた。しかし、砲弾が尽きた同部隊は大兵力を動員したソ蒙軍に三方から包囲されることとなる。日中は
40 度を超える猛暑、夜間は厳しい冷え込み、水もなく補給もなく、多数の死傷者を出した第 23 師団は陣
地を支えられなくなり、5 日には東岸に撤退した。敵陣を踏みにじった戦車部隊も占領地を維持できずに
後退した。
7 月 23 日
日本軍は重砲部隊を投入して総攻撃をかけた。しかし、より高地の敵陣に届く火砲は 80 門のうち、46
門に過ぎず、攻撃は頓挫した。第 23 師団の撤退を援護する任務を与えられた第 7 師団歩兵第 26 連隊は、
優勢な敵と全面的に交戦したため、任務を達成したものの戦死傷 400 を超す多大な損害を蒙った=敵を
軽視した司令部の作戦の失敗を前線の将兵が血で償わされた。(第二次ノモンハン事件)
外交交渉での解決を考える参謀本部に対し、関東軍磯谷参謀長が東京に来て更なる兵力投入を申し出、
兵力再編成することとなった。
この間、ソ蒙軍は軍団長のジューコフ中将が兵力の増強に努め、シベリア鉄道のボルジャからトラック
で兵員 5 万 7 千、戦車 840 両、航空機 580 機を終結させて大部隊を編成して大攻勢の準備を進めた。
一方、ソ蒙軍の大部隊編成を過少に見積もっていた関東軍は、僅かに歩兵 1 個連隊程度を増強したに
すぎず、活躍した戦車部隊を解散させ、もはや 1 両も残っていなかった。
8 月 19 日
ソ蒙軍が日本の8~10 倍という大規模な兵力で夜間攻撃を開始。これは、同月 23 日に独ソ不可侵条
約が締結されることになるのを見越して攻勢激化を企図したものであった。
関東軍各陣地は敵の重囲の中、武器、食料の補給もなく崩壊寸前に陥った。しかし、軍上層部は前線の
悪戦状況を把握しないまま、守勢を攻勢に向かわせるべき命令を発した。
24 日、攻撃部隊として動員された第 23 師団歩兵第 72 連隊及び第 7 師団歩兵第 28 連隊などの部隊は
二手に分かれて攻撃前進を開始したがほぼ全滅に近いほどの甚大な損害を受けた(歩兵第 72 連隊は全将
兵 1295 人のうち戦死傷者は兵員 701、将校 52 に及んだ)。
8 月 28 日
第 23 師団主力が所期の目的を断念し、高地の陣地を放棄して撤退した。ずさんな作戦計画をたてた上
級司令官の中には、砲弾が尽きて後退した指揮官に自決を強要する者もあった。
これにより、ソ蒙軍は自軍の主張する国境線の中から関東軍兵士を一兵残らず駆逐し、9 月 3 日で戦闘
休止した。
(第三次ノモンハン事件)
ソ蒙軍のジューコフ司令官は、日本軍について「若い指揮官はよく訓練され、信じられないほどの頑強さで戦う
が、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切り型の行動しかできないようだ」とスターリンに報告したという。
自軍の敗勢を認めざるを得ない関東軍は次期の戦闘に備えて 7 万 5 千の兵力の態勢を整えた。
しかし、
参謀本部は関東軍の意向に反して、戦闘の拡大を望まず、その独走を叱った。
その間モスクワでは停戦交渉が続けられたが、ソ連側は一貫して強硬な姿勢を示し続けた。
9 月 15 日
関東軍は、事件前にソ連が主張していた国境線を承認する形で休戦に応じた。
176
(以上、伊藤桂一「静かなノモンハン」による)
出動兵員 58,925 名のうち、戦死 7,694 名、戦傷 8,647 名、生死不明 1,021 名の計 17,364 名。他に戦病者 2363
名。
ただし、ソ連解体後の新資料の公開により、ソ連側の出動兵力は日本軍の数倍の 23 万で、戦闘による人的損害は、
関東軍の死傷者 17,400 余人に対し、ソ連軍が戦死 3,277 名、戦傷 15,268 名、行方不明 145 名、モンゴル軍が戦死
165 名、戦傷 401 名、合計で 19,359 名と日本を2千名近く上回っていたとされた。
飛行機の損害も、日本 179 機に対しソ連 1673 機、また、戦車の損害は、日本 29 台に対しソ連 800 台以上で、ソ
連の戦車なども旧式のものでしかなかったことが明らかになった。
したがって、実態は日本の方が勝利していたといえるが、日本は情報不足と国際情勢認識のなさから負けたと錯
覚した。
この間ソ連は、ドイツとの間に不可侵条約を締結した(8 月 23 日)
。また、ソ連と手を結ぶことができたナチス・
ドイツは 9 月 1 日ポーランドに侵攻し、第 2 次世界大戦の幕が切って落とされた。
ソ連とドイツとの接近の情報は、既に同年4月にヒトラー生誕50周年記念事業に招かれた白鳥駐伊大使から、
また6~7月には駐独大使館付海軍武官から外務省にもたらされていたが、わが国の外交筋はそれらの情報を全く
重要視しなかった。
9 月 16 日
モスクワで停戦協定が成立し、国境画定についてはソ連側の主張通りに確定した。ソ連は関東軍と停戦
協定を結び、東部国境の安全を確保するや、その翌日(9 月 17 日)ソ連はドイツに呼応してポーランド
に侵攻を開始し、有利な戦略態勢で第二次世界大戦に臨んだ。
[日本側が主張した国境線について]
関東軍はシベリア出兵のときに旧ロシア軍が作成した国境地図を奪って、それに頼っていた。地図ではハルハ河
を国境としていたが、遊牧民は河を境界線とはしないものであった。
なお、関東軍としてはソ連軍による国境侵犯の跳梁を許せば、せっかくできた満洲国を失うことにもなりかねな
い、という危機感があった。
この事件の責任を負うべき作戦参謀の 2 人に対して、軍は軍法会議を開かなかった。両名は一時的に
軽い左遷となったものの、服部卓四郎は翌年 10 月に参謀本部作戦課に栄転となり(作戦班長)
、1 年後の
16 年 8 月には大佐に進級、10 月には作戦課長に昇格した。
辻政信も 16 年 7 月に作戦課作戦班長に呼ばれ、服部を補佐した。こうした人事により、参謀本部は南
進策一色となった。
後年、辻政信は臆面もなく次のように書いた(S28.12.15 号の日本週報)
。
「ソ連の兵力 3 に対して、日本軍 1 ならば戦勝の見込みがあったのだが、このときは 8 対 1 であった。
第 6 軍が大打撃を受けたため、さらに 4 個師団基幹の兵力をもって攻撃することを企図したが中央部の
指導によって中止させられた。
」
(枢軸体制結成へ)
1933 年 1 月、政権を掌握したヒトラーはファシズムの道を走り出した。
1936 年 3 月 7 日、ヒトラーが賭けに出、ヴェルサイユ条約で非武装地帯と定められたラインラントに
177
進駐した。戦争になることを恐れた英仏両国は武力制裁を決断できなかったからで、とくに大英帝国の
国際的な影響力の凋落が明らかになってきていた。
その一方でヒトラーは、来るべきソ連との戦争に備え、日本と軍事同盟を結ぼうと動き始めた。ヒトラ
ーにとって日本は自己の軍事的野望を実現するための、都合のいいパートナーでしかなかった。
11 年(1936 年)11 月 25 日
日独防共協定が締結される。
その附属文書の方に意味があり、そこには「一方がソ連から攻撃(の脅威)を受けた時には、他方はソ
連の負担を軽くするような措置は一切講じない」と定められていた。
12 年(1937 年)11 月 6 日
イタリアを加え、日独伊三国防共協定が締結される。
13 年(1938 年)4 月
ドイツが満洲国を承認。
7 月~
ドイツのリッベントロップ外相(同年 2 月就任)が三国防共協定を軍事同盟に強化しようと日本政府
に迫り、同盟の対象国をソ連のみでなく、英仏にも拡大することを主張した。その狙いは近く予想され
る英仏との戦いに日本を巻き込むことであった。
リッベントロップは、またシナ(蒋介石政権)への武器輸出を禁止し、軍事顧問団も引き揚げさせ
た。
8月
ヒトラー・ユーゲントの 30 人が来日、3 ヶ月滞在。日本国民はこれを熱烈に歓迎し、マスコミ(特に
朝日新聞&アサヒグラフ)も大々的に紹介した。
9 月中旬
ヒトラーがナチス党全国大会において「私はチェコスロバキア内でドイツ人同胞が圧迫されているの
を、いつまでも黙って見過ごしているつもりはない」とチェコスロバキアへの侵攻を示唆した。既にドイ
ツはこの年の 3 月にオーストリアを併合していた。
9 月 29 日
英独仏伊 4 か国の首脳がミュンヘンで行われ、英国首相チェンバレンの主導により、ヒトラーがこれ
以上の領土要求を行わないことを条件に、ドイツ系住民の多いチェコスロバキア領ズデーテン地方のド
イツ帰属を認めることを決めた。
しかし、ヒトラーの野望はこれに終わらず、次の目標をポーランドに定めていた。
10 月
陸軍を退役した大島浩中将(三国同盟の提唱者)がドイツ大使に。→リッベントロップ外相は大島に日
独伊枢軸体制結成を迫り、大島ドイツ大使は白鳥敏夫イタリア大使(元外務省「革新」官僚)とともに三
国軍事同盟締結に向け積極的に動く。
支那事変が全面戦争に拡大し、その対応に追われる中、陸軍内に支那事変解決のため独伊を利用できる
であろうとの希望的観測があったため、ドイツに同調し、三国軍事同盟を締結しようと動いていた。ただ
し、参謀本部内では辰巳栄一(欧米課長から軍務課長)が反対を続けた。
陸軍内で三国軍事同盟に熱心だったのはシナ事変解決を図りながら裏切られた参謀次長・多田駿、陸相・板垣征
178
四郎、桐工作を推進していた沢田茂らであり、ドイツに蒋介石との仲介を期待していた。東條英機は、内蒙や華北
の分離政策を企図していたから、蒋介石との和平には反発しており、したがってドイツ仲介によるシナ事変解決、
シナからの撤兵にも反対していた。当時最も権力を振るっていた武藤章軍務局長も東條と同意見であった。
一方、米内海相、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長、野村吉三郎らを中心とする海軍は石油と鉄
を依存している米英だけでなく、ソ連をも敵対国とすることに反対の立場から三国軍事同盟締結に反対
した。外務省(広田弘毅、吉田茂、東郷茂徳、重光葵ら)も日本が対英米戦に追い込まれることを恐れ、
同盟締結に反対した。
海軍が反対した理由は、海軍力ではドイツは無に等しく、同盟を結んだところで英仏と対抗することはできない
とみなしていたからであった。
若き日にアメリカ駐在を経験した山本五十六は、アメリカの工業力を知っていたため、日本が勝ち抜くことはあ
りえないと考え、ドイツ贔屓の陸軍に批判的だったから、陸軍の三国同盟推進派少壮将校や右翼から命を狙われた。
→8 月 20 日、米内海軍大臣は、山本五十六の暗殺を事前に防ぐため同人を海軍中枢から外し、連合艦隊司令長官に
転任させた。
このため、閣内不一致の状態となり、延々と五相会議が繰り返し開催されたが、政府としての結論がで
なかった。その途中の翌 14 年 1 月、近衛首相が政権を投げ出した真の理由は、この問題を扱いかねたか
らだといわれている。
この年、総力戦体制構築を目的とした報道統制のためドイツを真似て映画法が制定された。これによ
り、日本の映画も娯楽色を極力排除し、国策・軍国主義をうたった映画を強制的に製作させられること
になり、その映画の製作も台本を事前に検閲することや、映画会社(製作・配給元)の許認可制、ニュ
ース映画・文化映画の強制上映義務、また外国映画の上映も極力制限された。ニュース映画の制作は、
合併により生まれた社団法人日本ニュース社のみに制作が許され、「日本ニュース」という国家宣伝ニ
ュースだけになった。
14 年(1939 年)1 月 6 日
ドイツが日本に対し軍事同盟を正式に提案した。
「有事の際は、ソ連のほか英仏も対象とする」という
内容であった。
その前日、首相に任命された平沼には保守派から英米を敵に回すドイツとの同盟締結を阻止する期待
がかかっていたが、陸軍幕僚が大島駐独大使、白鳥駐伊大使に呼応して三国軍事同盟締結への動きを強
めていた。陸軍の目的とするところは、独伊が戦争状態に入った時に、日本も同盟国として参戦すること
を規定する条約の締結にあった。
ドイツとの同盟締結を憂慮する天皇のご意思を察した平沼首相は、有田外相に「英仏を相手にしてまで日独伊防
共協定を強化するよう陸軍から強いられた場合には、自分は君と一緒に辞める」と言っていた。
すでに前年 3 月にオーストリアを併合していたドイツは、この年の 3 月時点ではチェコスロバキアを解体してお
り、英仏との軍事対決のために日本を利用しようとしていた。
一方の日本陸軍は「北進」すなわちドイツと呼応してソ連を攻めることにあった。したがって、日独の思惑は全
く別のところにあった。
同月、ドイツからの提案を受けて五相会義を開催し、激論の末次の 4 条件を付して回答することした。
1、ソ連を主たる対象とするが、状況により第三国(英仏)を対象とすることもある。
179
2、第三国を対象とする武力援助は、行うかどうか、その程度も含め状況による。
3、外部に対しては、防共協定の延長と説明とする。
4、「2」と「3」とは秘密事項とする。
ところが、この修正案を受けた大島駐独大使と白鳥駐伊大使は、これを握り潰し、説得に来た外務省の
特使に対して大島は「こんな案ではとても独伊の同意は得られぬ。無留保、無担保の三国軍事同盟ができ
ないなら、自分は白鳥とともに大使を辞める」と一喝した。
3月
この頃、既に国民生活は窮乏の一途を辿っていた状況の中で、国民精神総動員委員会が設置され、ぜい
たく全廃運動がスタートした。
4 月上旬
政府の訓令に反して大島駐独大使がリッペントロップ独外相に日本の参戦義務に同意の意を、また白
鳥駐伊大使はチアノ伊外相に「独伊が戦争状態に入った時に、日本も同盟国として参戦する」と明言し
た。いわば、現場の暴走であった。有田外相が五相会義の場で両大使の発言を取り消す訓令を出そうと主
張したとき、板垣陸相が両大使の方を持つ発言をしたため訓令は曖昧なものになった。
これに関し、天皇は対英米戦の懸念を漏らされた。湯浅内大臣が「ご叱責には及ばない」と擁護したが、
同月 10 日天皇は板垣陸軍大臣をお召しになり「出先の(独伊)両大使が、自分と関係なく参戦の意を表
明したことは、天皇の大権を犯したものではないか。このような場合に、これを支援したり、閣議で逸脱
したことを言ったりするのは、甚だ面白くないことだ」と、厳しく叱責した。
天皇は欧州の戦争に巻き込まれまいとのお考えであったが、当時陸軍に籍を置く秩父宮は何度も天皇を訪ねて同
盟の締結を進め、そのためお二人の間に喧嘩にもなった。
以後も三国軍事同盟を締結するかどうかについての五相会義は延々と繰り返され、平沼首相在任中の
8 か月足らずで約 70 回にも及んだ。この間、同盟締結に関する三国間の協議は中断されていた。
→議論の結果、大筋では海軍及び外務省が折れて、同盟締結に向け三国間で協議が開始された。しか
し、日独間で条約発動の条件、軍事援助の内容を巡って対立が生じ、交渉が頓挫した。
交渉頓挫の理由は、第 3 条の原案「
(有事には)即時かつ無条件に…武力援助が発生する」を「直ちに協議に入る」
と改めて日本政府案が決定されたためである。
5 月 23 日
三国軍事同盟締結を避けたい平沼首相が極秘裏に首相官邸で米大使館のドゥーマン参事官と会見し、
内々次の提案を行った。その真意はアメリカの仲介による日支和平=戦争終結であった。平沼首相は陸
軍から横やりが入るのを防ぐため、五相会義に諮らず独断で行った。
① 欧州での戦争回避に向け米大統領が英仏に世界会議への参加を打診するなら、日本は独伊に参加を呼
び掛ける用意がある。
② その世界会議では、極東問題も議題となしうる。
③ 蒋介石政権への和平条件を緩和する用意がある。
④ 自分の首相在任中、独伊と軍事同盟を締結することは絶対にない。
ドゥーマン参事官は、この提案に感動し、国務長官あてに長文の速達便を送った。これに対してアメリ
180
カが下した判断は「何ら特別な回答を行わない」というものだった。
その理由は次の 3 点であった。
①
アメリカが和平交渉のイニシアティヴを持つと、かえって日本の地位を有利にしてしまう。
②
アメリカが主導的であればあるほど、日本の軍国主義者たちの逃げ道を広げることになる。
③
どんな和平案も日支双方に妥協を強いることになり、その妥協をもたらしたアメリカが双方の敵意の的になってしま
う。
米大統領からの回答はなく、平沼首相の期待は外れ、落胆した。
この頃、ソ連軍との間で第一次ノモンハン事件が起こった(既述)ほか、イギリスとの関係も悪化して
いた。発端は、天津の英仏租界において 4 月 9 日、親日派のシナ人官吏がテロリストに殺されたことで、
逮捕された容疑者 4 人が自供したため、テロ被害に苦慮する日本側は容疑者の引き渡しを求めた。しか
し、イギリス側がこれを拒否したため、国内の世論(東京朝日新聞、東京日日新聞)が激高し、日本政府・
現地軍に強硬な対抗策を求めた。
6 月 14 日
天津の日本現地軍が英仏租界を封鎖し、出入りするイギリス人の身体検査を始めた。これにはイギリス
世論が日本非難を高め、両政府とも過熱した国内世論を抑えられない状況となった。
(天津事件)
同日及び翌日、事態を憂慮された天皇は板垣陸相及び閑院宮参謀総長らに、不意の事件が起こらないよ
うにすべきと注意し、封鎖解除を考慮すべきとのお考えを示された。
しかし、朝日・日日両紙の論調は強まるばかりであった。その裏には三国軍事同盟締結を急ぐ陸軍がお
り、右翼団体も騒ぎ出して、同盟に反対する重臣や海軍首脳にまで斬奸状が送り付けた。このため、海軍
次官の山本五十六は遺書を書いたほどであった。
(1 月 6 日~6 月 14 日の項「ふりさけみれば」による。)
7 月 26 日
ルーズベルト大統領の命により、アメリカのハル国務長官が堀内大使に日米通商航海条約の廃棄を通
告。
(通告 6 か月後の昭和 15 年(40 年)1 月 26 日に失効)
8月
6 月の天津事件を受けて、日英会談が決裂した。
8月8日
この日開催された五相会議において、ノモンハンで関東軍がソ連軍と戦闘を重ねていることから、板
垣陸相が、三国軍事同盟を至急、留保なしで締結すべきだと力説した。しかし、ドイツの提案はソ連だけ
でなく英仏をも攻撃対象としているため、昭和天皇に、
「留保付き」の念書を提出して裁可を得ているこ
とから、「お上の御允裁を経ている既定方針以外のことを申し上げられない」として突っぱねた。
8 月 11 日
板垣陸相が駐日ドイツ大使と駐日イタリア大使に「最後の手段として、辞職(=倒閣)を賭して(同盟
締結のため)争う決意なので、両国が譲歩によって援助を与えてくれるよう希望する」と常識的にありえ
ない申し入れを行った。
8 月 23 日
独ソ不可侵条約締結(リッベントロップ外相が推し進めた)。
ドイツとしては、日本がシナから容易に手を引けない(=ソ連への抑止力たりえない)ことに失望し、
181
そのために選択した方策で、真の狙いはポーランド侵攻にあった。
しかし、ノモンハンでソ連軍と戦い、甚大な損害を出した日本としては、同条約を締結したドイツの行
為はソ連を共同の敵とする日独防共協定違反であるため、三国軍事同盟締結交渉は打ち切られた。
独ソ不可侵条約締結の際の秘密議定書において、両国はポーランド分割、バルト諸国や東欧について互いの勢力
圏を定めていた。
同条約については、スターリンがヒトラーのドイツにヨーロッパにおける行動の自由を保障したという側面が指
摘されている(西岡昌紀「スターリンのドイツ侵攻電撃作戦」WiLL2013 年 6 月号より)
。
なお、日独防共協定秘密議定書第2条においては、次のように定めていた。
「協定当事国は、この協定の有効期間中は相互の合意なくして、この協定の精神に合致しない性質のいかな
る政治的条約も、ソビエト社会主義連邦との間に締結しない。
8 月 28 日
独伊との同盟締結打ち切りという安堵のうえで、平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して
内閣総辞職を行った。
8 月 30 日
阿部信行内閣発足、陸軍大臣には畑俊六が就任。阿部は元台湾総督の予備役陸軍大将であったが、陸軍
のごり押しによって、大命拝受となった。陸軍大臣の選任については、参内した阿部に天皇が「憲法を厳
に遵守すること」を求めるとともに、
「侍従武官長の畑か陸軍中将の梅津のほかには適任者がいないよう
に思う」と注文をつけられた。立憲君主制の枠組みを逸脱しかねないお言葉であったが、破滅の戦争を回
避したい意思を表明されたものであった。外相には駐米大使館付武官時代に当時海軍次官だったルーズ
ベルト大統領とは旧知の間柄で親米派の野村吉三郎(学習院長、海軍予備役大将)を宛てようとしたが、
野村が現職の任務遂行を理由に躊躇したため、当面、阿部首相が兼務した。
→9 月 25 日に野村が外相に就任し、
「日米両国が固く協力して太平洋地域の平和確立に協力したい」
旨所信を述べた。
(日本における共産革命を目的とする策動)
シナ共産党は、レーニンが提唱した「敗戦革命」を日本において実現するために、14 年 1 月、シナ共
産党東京支部を東京で設立した(支部長は汪叔子)
。この東京支部には、暗殺・爆破を任務とする別働隊
「鉄血青年団」と「破壊隊」を組織し、日本を敗戦に追い込んだところで、一気に武装勢力による権力奪
取を図るための準備を進めていた。
14 年(1939 年)2 月 19 日
不穏な動きを察知した日本の警察がシナ共産党東京支部長汪叔子以下 36 名を検挙。これにより、日
本の敗戦に際して計画されていた破壊工作は未然に防止された。
(この項、江崎道朗「戦前から中国共産
党に操られてきた日本の左翼革命勢力」雑誌「正論」平成 27 年 9 月号より)
(南京政府樹立と三つ巴の内戦)
蒋介石が 14 年 3 月 21 日、特務を使って汪兆銘の暗殺を図った。このとき信任厚かった曽仲鳴
を殺された汪は、日本軍の援助により 5 月 6 日ハノイを脱出して上海に入った。汪兆銘は、日本の
非占領地での新政府樹立という当初の方針を変更し、占領地域内での新政府樹立を余儀なくされた。
182
春から約 1 年間、日本は汪兆銘による中央政権樹立工作と平行して、汪の了解のもと、蒋介石
と和平交渉を香港で開始。この交渉は「桐工作」と呼ばれ、政府承認のもと参謀本部が担当した。
翌年 9 月まで続き、この間、陸軍の関係者は和平がなるか否かに一喜一憂した。
日本側代表 :今井武夫大佐(支那派遣軍総司令部所属。参謀本部から転出した)
、鈴木卓爾中佐
蒋介石側代表:宋子良(宋子文の弟と自称)
日本側の条件は汪兆銘に示したものと同じで、かつ汪兆銘と蒋介石との合作を前提とした。しか
し、宋子文の弟・宋子良というのは全くの偽物であることが判明し(後に中央情報機関である藍衣
社の一員ということが分かった)
、この和平工作は中止された。
14 年(1939 年)5 月 3、4日
海軍航空隊が重慶に爆撃を敢行。蒋介石の国民党軍は高射砲を配置していたため、海軍航空隊爆撃機は
2 千メートルの高空から行わざるを得ず、命中精度は低かった。そのため焼夷弾が繁華街に落下して街は
火の海と化し、市民の死傷者は 6 千人を超えたとされる(重慶防空司令部調べ)
。以降、重慶への爆撃は
18 年 8 月下旬まで延べ 218 回に及び、その犠牲者は計約 1 万人と言われている。
加えて、翌 6 月 14 日、抗日分子の一拠点である天津・英仏租界を日本軍が封鎖したため、日本と英米
との関係が悪化した。
重慶爆撃による被害については異論もある。カール・クロウ(上海イヴニングポスト社社長。親支反日ジャーナ
リスト)は、次のように書いた。
「重慶の街は砂岩で厚く覆われ、深くトンネルを掘って幾つでも防空壕が造られている。したがって空爆は多く受
けたが、人命の損失は驚くほど少なかった」
(1944 年「モルモットをやめたシナ人」
)
5 月 31 日
汪兆銘が日本軍の庇護を受けて南京に新政権を樹立しようと、この日、日本政府に要望書を提出した。
汪はハノイから救出され、周仏海らを帯同して来日し、東京で近衛元首相に会って翌春南京に新政府樹立の決意
を表明していた。
三民主義を奉じる汪兆銘は、国民政府の南京への還都と三民主義による正統性の回復、青天白日旗の使
用を求めた。これに対し平沼騏一郎内閣は、汪に
① 民主々義理論の修正(理由:
「反日抗戦の源泉」)
② 青天白日旗の図案変更(理由:
「重慶の国民政府が使用」
)
を求めるという大きな過ちを犯した。最終的に青天白日旗の上に三角の小旗をつけるという形で決着し
たが、上海や南京市民の多くはこの新国旗を歓迎せず、翌年 3 月の新政権樹立の慶祝日にはこの小旗を
つけなかった。
また、平沼内閣は 6 月 6 日、5相会議において「支那新政府樹立方針」「汪工作指導要綱」を決定し、
その中で新中央政府の構成メンバーに予め「日支関係調製方針」を受諾させることを決めた。
このことは、前年 11 月 20 日汪兆銘との間に秘密裡に交わされていた「日華協議記録」や 12 月 22 日に近衛前首
相が打ち出した新和平条件を棚上げしたと言え、後に汪兆銘が南京政府樹立に向けての日本側との交渉において、
日本側の条件の厳しさに驚くこととなる。
汪が 6 月 15 日の板垣陸相との会談において、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府の名
義取り消しを申し出たのに対し、板垣は「名義は廃止しても実体は存続させる」と言った。そのため、汪
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は両政府の実体を残すなら、中央政府を組織することは延期すると反駁した。
汪は、6 月 18 日に離日した後、北平、上海、広東、香港を巡回して新政権樹立について各方面への根
回しに奔走した。
9 月 23 日
陸軍が南京に支那派遣軍総司令部を設置。
総司令官:西尾寿造、総参謀長:板垣征四郎
隷下に北支那方面軍、第 11 軍、第 13 軍、第 21 軍をおき、中支那派遣軍は廃止。
11 月 1 日
上海において、汪兆銘による中央政権樹立に向けて日本側が汪に対し「調整方針」を予め承認させるた
めの交渉が始まる。
畑俊六陸相(前陸相・板垣は前年 9 月 12 日南京に新設された支那派遣軍総司令部総参謀長として赴任
し、その後任)
、阿南惟幾陸軍次官、武藤章陸軍軍務局長らも、シナの大半の省に特殊権益を認めるよう
迫った(シナ人の心情には全く考慮しなかった=シナ蔑視)。
[日本側の案]
1、蒙彊及び華北要地での防共のための駐兵、南京・上海・杭州三角地帯での治安確立までの駐
兵並びに揚子江沿岸特定地域での艦船部隊駐屯
2、華北における埋蔵資源の開発及び航空事業(シナ全土)
・鉄道(華北)
・主要海運、揚子江水
運などを日支経済工作の重点とする
汪兆銘側は、日本軍撤兵の時期、治安駐兵の範囲、鉄道の管理、通貨の問題などで修正を求め妥協が成
立しなかった。しかし、結局日本側に押されて、それらの要求を受けいれ、12 月 30 日に「日華新関係調
整要綱」
(日華協議書)が成立した。
これにより日本軍は、蒙彊及び山西省北部・河北省・膠済鉄道沿線以北に防共のため、また揚子江下流地域に治
安確立まで駐屯することとなった。
15 年(1940 年)1 月 6 日
汪側の高宗武らは上海を脱出して香港に赴き、日本側の提出条件を暴露して汪政権の傀儡化を全国に
訴えた。その結果、対日抵抗を続ける蒋介石にシナ人の信頼が集まり、日中戦争収拾の道をいよいよ困難
にした。
この時点でシナ戦線における日本兵の戦死者は 10 万に達していた。一般国民の間には「聖戦」論が浸
透して日中戦争の目的が抽象化されつつあった。
「聖戦」論とは、日中戦争はソ連とイギリスによるアジア侵略の手先となった蒋介石政権を懲らしめ、アジア解
放の先駆者である日本が東アジアを防衛する「聖なる戦争」だというもの。国粋主義団体が唱えた。
2月
民政党・斉藤隆夫議員が衆院本会議で「聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を強要し、
『国際正義、道義外
交、共存共栄』など抽象的字句を並べるだけでは、国家百年の大計を誤る」と政府や陸軍指導部の方針に
異議を唱える演説を行い、戦争終結の具体策を示さない政府を鋭く批判した。答弁した畑陸将は「日中戦
争はまさしく『聖戦』であり、10 万人の戦死者もこの使命に殉じたもの」と主張した。
斉藤議員は、陸軍の意向を代弁する代議士から「聖戦を冒涜するもの」との激怒を買い議場は紛糾し
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た。結局は斉藤の演説の 3 分の2が議事録から抹消され、斉藤議員は 3 月 7 日、民政党から議員除名と
なった。
3 月 30 日
汪兆銘の国民政府が北京の中華民国臨時政府(華北政務委員会と改称し存続)や南京の中華民国維新
政府(解体)と合流し、遷都という形で南京に樹立された(以下「南京国民政府」と記す)。同政府は自
らの支配下に軍隊を保有したが、政権としては日本の傀儡政権でしかなかった。
以降、日本軍は大規模な作戦をほとんどやめ、専ら南京国民政府と協力して治安の維持にあたりながら
本格的な持久戦態勢にはいった。
南京国民政府の勢力範囲は、沿岸部はもちろんのこと、北は万里の長城から南は広東・広西に及んだ。面積はシ
ナ本土の 50%弱、近代的工場の労働者数は 90%に達し、シナの民生に安定をもたらした(なお、蒙古連合自治政
府は汪国民政府の管轄下にあったが、高度の自治権を有した)
。
しかし、同政府が掌握したのは都市部と鉄道の沿線だけであり、広大な農村部での行政組織の樹立にはほとんど
失敗した。すなわち、農民を守ることも、農民から食料を徴税の方式で平和裏に調達することもできなかった。こ
のため、南京国民政府は経済的にも自立できず、日本政府がやむを得ず財政的援助を与え、日本側の負担となった。
なお汪兆銘は、1935 年 11 月に銃撃されたときの傷がもとで 1944 年(昭和 19 年)に日本で死去し、その後を継
いで政府主席代理となった汪側近の陳公博は、戦後の国民政府による裁判で死刑判決を受け、処刑された。
南京国民政府成立以後は、米英、ソ連、日本がそれぞれ後押しする重慶の国民党政府(以下「重慶政府」
と記す)、延安の共産党政府及び南京国民政府による三つ巴の内戦となった。この中で親日政権である南
京国民政府の自立は完全に失敗する中、農村部において抗日を以て共産党政府が著しく勢力を拡張して
いった。
日本軍の先導のもと南京国民政府軍が農村から食料を調達するとき、農民は逃げてしまっているので、結局無人
の村から食料を強奪することになり、怨嗟の的となるとともに、農民間での少量の奪い合いも起こって、農村は混
乱・疲弊した。
また、日本軍は農村の抗日武装勢力(共産党軍で正式名称は「国民革命軍八路軍」及び「国民革命軍新四軍」
)掃
討作戦を進めたが、同勢力は武力衝突を避けつつ巧みな遊撃作戦をとったため、一向に戦果があがらなかった。一
方で抗日武装勢力は、日本軍に対する農民の恨みをくみ上げて、広大な農村部をその支配下に収め、勢力を伸張し
た。したがって、後の共産党政権樹立にもっとも貢献したのは日本である、という逆説が成り立つ。
米、英、ソ各国は、沿岸ルート、仏印ルート、ビルマルート、西北ルートなどを通じて蒋介石政権(重
慶政府)への経済軍事援助を強めるとともに日本への軍需物資の供給削減策をとった。
5月
海軍航空隊の支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎中将が「任期中に支那事変を片付けたい」として航空
隊による奥地侵攻を計画。大本営は、これを認め陸海軍共同の航空作戦が実行された。
海軍は、九六式陸上攻撃機(
「中攻」
)130 機を主体として武漢基地から、陸軍は九七式重爆撃機 50 機
を主体として山西省運城基地から 5 月 18 日~10 月 26 日にかけて、四川省重慶の軍事施設を目標にして
爆撃を行った(101 号作戦)
。重慶政府の発表では、軍事施設と民間施設とが非常に入り組んでいたため、
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一般市民に大きな被害を出し、死者は、11,800 人とされた。
この重慶爆撃は、
“非人道的な空襲”だとしてアメリカ(6 月 13 日に非難声明)始め各国の非難を浴び
た。
この後も日本海軍は新型機(中攻の一式陸上攻撃機)の実験と航空作戦の訓練の意味とで一層大規模な
重慶爆撃を行った。
この間、重慶爆撃のための中継地として重視されていた宜昌(揚子江を遡航してくる大型船の終点)を
5 月下旬から攻撃し(宜昌作戦)
、作戦の齟齬もあって、多数の犠牲者を出すとともに徹底的に破壊して、
莫大な戦利品まで焼却破壊してしまったが、6 月 12 日に漸く占領を果たす。
16 年 4 月から日米交渉が開始されたが、その間も 5 月から 8 月にかけて日本陸海軍協力による重慶爆
撃は 102 号作戦として実施された。同年 6 月 4 日の爆撃では防空壕内の避難者が 1,000 人近く窒息死す
る悲劇も起こったとされる。
この爆撃に自ら参加した遠藤三郎第 3 飛行団長は、往復 6 時間もかかる重慶空爆についての有効性に
疑問を持ち、本部に再検討を要請した。
7月7日
奢侈品等製造販売制限令が施行される。その目的は「ぜいたく品」を抑え、生活必需品の製造販売を増
やすことにあった。翌 8 月には国民精神総動員本部によって「ぜいたくは敵だ」の看板が立てられ、傘下
の愛国婦人会などが町を歩く女性のパーマネントや指輪までチェックするようになった。
7 月 16 日
畑陸相が辞任。後継を出さなかったため米内内閣が僅か半年で総辞職。翌日、近衛文麿が組閣の大命を
受ける。→7 月 22 日、第 2 次近衛内閣が成立。外相は松岡洋右、陸相は東條英機が就任。
7 月 22 日
前年末から澳門で参謀本部が蒋介石との間に進めていた和平交渉が最終段階に至った。参謀本部は、汪兆銘も参
加しての和解交渉が 8 月にも開催できると踏んでいた。
澳門で今井大佐、鈴木中佐が進めていた和平工作がようやくまとまり、翌月、長沙において蒋介石と支
那派遣軍参謀長・板垣征四郎との間で和平協議を行う見込みが立った。そこで、両名は帰国して、近衛首
相に会見し、蒋介石あての親書の交付を求めた。
鈴木中佐は、近衛首相の親書を持参して同月 31 日、香港に飛び宋子良に託した。しかし、蒋介石はこ
の和平協議会談を行おうとしなかった。
蒋介石が和平交渉の再開を承諾したのは、日本軍による重慶爆撃や南昌の占領、6 月のドイツ軍によるパリ占領
などによって、前途を悲観していたことによると言われている。
蒋介石が和平交渉に向けての動きを起こそうとはしなかったのは、アメリカが本格的な蒋介石政権支援の意向を
示したためと推測されている。事実、同年 11 月末、アメリカから 1 億ドルの借款を受けることが確定した。した
がって、日シの和平を阻んだのはアメリカがであったと言える。
8 月 20 日
華北地方(石家荘―太原間の鉄道沿線を中心に位置する村々)において八路軍が多くの部隊を動員し、
交通線や小拠点に一斉に奇襲攻撃をかけた(百団会戦)
。これは、一団 800~1000 人の軍団が約 100 団、
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一斉に日本軍の守備地を襲ったもので、戦法は、城壁に囲まれた町は目標から外し、5~10 人の日本兵が
警護している村などを襲い、皆殺しにした他、兵器や食糧を奪った。楡社では、250 人もの日本兵が殺さ
れた。
その目的は、日本軍による宜昌作戦と重慶爆撃によって戦意を失って悲観論に傾きつつある重慶・国民
政府軍の和平ムードを覆すためであったと言われている。
さらに八路軍は、9 月 22 日~10 月1日にかけても第2次攻勢をかけ、鉄道線路、電線、炭鉱設備など
に多大の損害を与えた。
これに対し日本軍は、八路軍の実力を再認識するとともに、報復のため徹底的な弾圧政策をとった。中
国共産党は、これを「三光作戦」と名づけて非難し、民衆の日本帝国主義に対する敵愾心を一層高め、共
産党の勢力伸張を助けることともなった。
9 月 28 日
参謀本部が進めていた和平交渉(桐工作)の継続を支那派遣軍が断念する。同軍及び陸軍中央は非常な
熱意で工作の成果を期待していたが、9 月に入っても一向に進展がなかったためである。
その理由は、蒋介石が“日本側の和平条件が交渉担当者の間で不一致であること及び汪兆銘との合作に関する方
針が不明であること”を問題視したのに対し、日本側が和平条件を変更しない旨伝えたためとされる。
しかし実態は、シナ側において本工作は藍衣社の戴笠の指揮下に行われた対日謀略工作であり、宋子文の弟・宋
子良と称した者も偽者であった。和平のイニシアティヴはシナ側がとっていた。
また、アメリカも蒋介石政権に対し 1 億ドルの借款を与えて全面的に支援することを約束し、日シ間の和平を潰
した。
この後、松岡外相を中心とした政府主導の和平交渉が、銭永銘(上海を中心とする民族資本家の重鎮)
や駐ベルリン重慶政府大使を通じて開始される。
10 月 23 日
省部首脳会議(杉山参謀長、沢田次長、田中第一部長、東條陸相、阿南次官)は、武力を用いてでも南
方問題を解決し、英米依存経済から脱却して自給圏を確立することが「大東亜建設の捷道たると共に、実
に支那事変解決の為残されたる最大の手段」という認識で一致。
参謀本部では和平工作の頓挫以来、支那事変の解決には絶望的になっており、関心が南方に集中していた。
11 月 13 日
御前会議が開催され、
「支那事変処理要綱」が決定される。
「蒋介石政権は、情勢は日本側が不利と見ている」との認識の下に和平基礎条件が決定されたもので、13 年 11 月
30 日に決定された「日支関係調整方針」と比べると、内容、表現とも柔軟かつ宥和的に変化していた。なお、この
時点での支那派遣軍の兵力は 72 万8千人に達していた。
11 月中
日本政府による和平の働きかけに蒋介石側からの回答が到着。条件は「全面撤兵と汪兆銘政権の承認
取り消しを交渉開始の条件とする」であった。参謀本部は全面撤兵に不服であったが、推移を見守ること
とした。
11 月 22 日
日本政府が蒋介石側の要求する条件受け入れを決定。24 日に特使が条件受諾の回答を香港の蒋介石側
特使に届けるも、同特使が既に重慶に出発していたため、日本側は回答を重慶に電送した。しかし、蒋介
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石側からはナシのつぶてであった。
後に、蒋介石側が最終段階で和平交渉を中止したことが判明。その理由は、アメリカが同政権への本格
的な援助を決定したためであった。
11 月 30 日
日本は南京国民政府を中央政府として正式に承認し、日華基本条約を締結。これは、松岡外相を中心と
した政府主導の和平交渉が失敗したため、やむを得ずの決断であった。
同条約は前年 12 月、汪兆銘と日本側との間で作成された日華協議書をもとにしたもので、日本は北支
及び内蒙方面における防共駐兵並びに南支方面沿岸及び特定島嶼における艦船部隊の駐留権を確保した。
蒋介石は、この条約は「日本が夢想していたシナの奴隷化が実現したものだ」と激しく非難した。
なお 3 年後の昭和 18 年、日本政府はシナ各地の日本租界を全て南京国民政府に返還した。
米英は直ちに汪政権を否認し、蒋介石政権に対し、アメリカは 1 億ドル、イギリスは 1,000 万ポンド
の借款を供与すると発表。
蒋介石は 12 月 13 日、ルーズベルト大統領に親書を送り、対日反撃のためアメリカが製造する航空機
の 5~10%、特に日本本土を遠距離爆撃するための「空の要塞」B17 の供与を要請した。ルーズベルト大
統領同月 29 日の炉辺談話で「民主国家の兵器廠の役割を担い、重慶の国民政府に大規模な軍事援助を行
う」旨語った。
この間の 12 月 15 日、イタリア軍がアフリカ戦線で連合軍に大敗北を喫していた。
15 年末から海軍は、在支航空部隊の大編成替えを行い、翌年 10 月以降になると主力を台湾に、一部を仏
印南部と中部太平洋方面に配備。これにより、大陸における海軍航空作戦は漸く終わりを告げ、大陸に残
された海軍機は、少数の小型機のみとなった。
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