グスタフ・カッセル『社会政策』 - cirje

CIRJE-J-259
グスタフ・カッセル『社会政策』
(翻訳および解説)
東京大学大学院経済学研究科
石原俊時
2014年4月
CIRJE ディスカッションペーパーの多くは
以下のサイトから無料で入手可能です。
http://www.cirje.e.u-tokyo.ac.jp/research/03research02dp_j.html
このディスカッション・ペーパーは、内部での討論に資するための未定稿の段階にある論
文草稿である。著者の承諾なしに引用・複写することは差し控えられたい。
CIRJE‐J‐259 グスタフ・カッセル『社会政策』 (翻訳および解説)石原俊時 2014 年 4 月 Abstract This is a translation of Cassel’s “Socialpolitik”(1902). Today this book is almost forgotten even in Sweden. But it had a great influence on public opinion in those days. We should pay attention to following four points in Cassel’s discussion in this book. 1) Cassel criticizes (Manchester) liberalism. Market mechanism does not always function automatically. If man lets market behave freely, it leads often to degeneration in mankind rather than progress. So man has consciously to set up preconditions for full performance of market. According to Cassel, cooperative movement and labor movement can play a very important role in this context. State is also a bearer of such a role in complement. 2) On the other hand, he criticizes socialism such as Marxism. Even if man could abolish profits and distribute them among proletariats, man could not eradicate poverty in the society. Our wealth is too meager to give every member an enough portion. In addition such distribution can lead to exhaustion of capital for following economic growth. So we can become even poorer. 3) Cassel, in this way, emphasizes importance of economic growth. For him, social policy is policies for solving social problems through economic growth. Social policy is not a cost but a productive factor for the society. This means that social policy is benefit both for capitalists and for working class. So man can take social policy as an important means to overcome class conflicts and realize national solidarity. 4) We can take so‐called Swedish model as a vision for harmonious society through economic growth. Moreover we can also notice prototype of solidarity wage policy and active labor market policy in policies which Cassel proposed for economic growth in this book. It is plausible that we consider Cassel’s social policy as one of historical origins of Swedish model. カッセル『社会政策』について カッセルと『社会政策』 ここに全訳したのは、1902 年に出版されたグスタフ・カッセル(Gustav Cassel 1866‐1944)
の『社会政策』1である。カッセルは、1920 年代に貨幣・通貨問題の専門家として国際的
に活躍し、当時世界で最も有名な経済学者であった。それゆえ現在でも、ケインズ(John Maynard Keynes 1883‐1946)やストックホルム学派に敵対し、台頭する労働組合運動や生成
途上にあった福祉国家を強烈に批判した者として、むしろ守旧的・保守的な人物としての
イメージが強いであろう。しかし、カッセルは、第一次世界大戦以前には、政治・経済の
幅広い問題で論陣を張った左派の論客として知られていた。特に彼がそのような存在して
社会に注目されるようになったのが、この『社会政策』であった。 カッセルは、1866 年にストックホルムで生まれた。父は卸売商人のオスカル(Oscar Cassel 1830‐1917)、祖父は裁判官・高級官僚として有名なカール・グスタフ(Carl Gustaf Cassel 1783‐1866)で、豊かなブルジョワ家庭に育った。85 年にウプサラ大学に入学し、数
学を専攻した。有名な数学者ミッターグ=レフレル(Magnus Gustaf MIttag‐Leffler 1846‐1927)
の薫陶を受け、95 年には博士号を取得した。カッセルの弟子であるグンナル・ミュルダ
ール(Gunnar Myrdal 1898‐1987)が指摘するように、日頃から統計書を愛読し、数字による
裏付けを重視し、生涯において合理性や論理一貫性を追求していった姿勢は、このような
数学者出身であることにもよるであろう2。 そもそもカッセルが学生時代を送った 1880 年代は、スウェーデンでは、いわゆる文化
急進主義(kulturradikalism)の運動が大学を一つの中心的な舞台として吹き荒れた時代であっ
た。この運動は、文学、美術、さらには自然科学、社会科学など殆どすべての文化領域に
おける刷新を目指した。例えば、文学では、ストリンドベリィ(August Strindberg)やイェイ
ェシュタム(Gustaf av Gejerstam)などを旗手とする自然主義文学の勃興があった。新マルサ
ス主義の社会運動家として名をあげた若きクヌート・ヴィクセル(Knut Wicksell 1851‐1926)
も、この文化急進主義を代表する人物であった。 1
Cassel,Gustav, Socialpolitik, Stockholm 1902. 2
Myrdal, Gunnar, ”Gustav Cassel(1866‐1944)”, i: Schumpeter, Joseph A. samt Heckscher, Eli F. et.al., Stora nationalekonomer, Stockholm 1953, s.346. i この文化急進主義は、フランクリン・バウマー(Franklin Baumer)の言う新啓蒙主義の思想
潮流に属し、イギリス功利主義、哲学的急進主義、フランス・ポジティヴィズム、ドイツ
青年ヘーゲル派などと流れを同じくしていたと言われる。18 世紀の啓蒙主義と同様に、
形而上学や宗教的伝統を嫌い、実験や調査あるいは科学を重視した。しかし、18 世紀の
啓蒙主義とは異なり、フランス革命や産業革命を経た社会変動がその取り組むべき対象と
なった。こうして社会の諸問題に積極的に取り組み、理性や合理性に基づいた調和的な社
会発展の実現が標榜されることとなる。その主要な担い手となったのが、学生たちであっ
た。当時、学生数の増加を要因として大卒プロレタリアート(akademiskt proletariat)といっ
た言葉が生まれたように、将来の特権的な地位に対する展望が揺らぎ、不満を蓄積してい
たのである。こうして学生たちは、旧来のあらゆる権威に反抗し、民主主義の発展に希望
を持つようになる一方、大学の外に向かい、社会問題の現場に赴き、当時興隆しつつあっ
た労働運動とも接触することとなった3。 カッセルについても、ヴィクセルほどではないにしてもこうした文化急進主義の影響は
否定できない4。しかし、彼が社会問題に本格的に取り組みようになったのは、博士号を
とっても大学で常勤職につけず、ストックホルム大学(Stockholms högskola)や高等学校など
で数学を教えるかたわらに、鉄道運賃や累進税の問題に関心を持ち、論考を発表するよう
になった 90 年代半ばのことであった。当初は、合理的かつ最適な解法を見出すという数
学的な関心からであったとも推測されるが、ついには社会問題を解決するため、専門を変
えて経済学を本格的に学ぶことを決意するに至った。そうした彼の望みをかなえ、ドイツ
への留学を可能としたのが、ロレーン財団(Lorénska stiftelsen)からの奨学金であった。この
財団は、文化急進主義の影響の下、ドイツの社会政策学会やイギリスのフェビアン協会を
モデルとして、科学に基づき社会問題を調査し解決していく道筋を探求することを目的と
して 1885 年に設立された団体であった。5 3
文化急進主義については、とりあえず石原俊時『市民社会と労働者文化』木鐸社 1996 年,283‐287 頁を参照。 4
カッセルへの文化急進主義の影響を指摘しているものとして、例えば、Carlson,Benny, ”Gustav Cassel”, i: Jonung,Christina & Stråhlberg, Ann‐Charlotte red., Ekonomporträtt. Svenska ekonomer under 300 år, Stockholm 1990,s.154. 5
この財団の中心人物であった劇作家アンネ・シャルロッテ・レフレル(Anne Charlotte Leffler 1849‐
1892)は、カッセルの師である数学者ミッターグ=レフレルの妹にあたる。ヴィクセルも経済学者
として自立していく過程において、この財団から奨学金を得たことが大きな意味を持った。この財
ii こうして彼は、1898 年から 99 年にかけてシュモラー(Gustav Schmoller)やワグナー
(Adolph Wagner)の講義に出席した。この地で講壇社会主義の影響を受ける一方、早くも労
働価値説のみでなく限界効用説も形而上学的な理論であるとの姿勢を明確にし、それらの
価値の本質をめぐる議論抜きに、直接価格形成の議論から経済学体系を構築することを決
意した。それは、後に主著『社会経済の理論』6に結実する。他方、1901 年と翌年の夏に
は、財団の奨学金を得てイギリスに遊学し、ウェッブ夫妻と交流し、その影響も強く受け
るようになった。 このような経済学徒としての徒弟修業を経て、1902 年にいくつかの講演を下敷きとし
て一般向けに書かれたのが、この『社会政策』であった。彼の議論は、当時大きく注目さ
れ、この本も 1923 年に第 3 版が出版されるなど、長きにわたって読まれる書物となった。
次に、この書物がどのような歴史的背景をもち、さらにはどのような状況の中で受容され
ていったのかを見てみよう。 歴史的背景 スウェーデンは、少なくとも 19 世紀半ばまではヨーロッパの辺境にある「小農の国」
に過ぎなかった。しかし、1870 年代に工業化の本格的展開を迎えることとなる。国際自
由貿易体制の下で、まずは豊富な天然資源に基づき、製材業や鉄工業といった輸出工業が
勃興した。19 世紀末には、都市化を背景にした繊維・衣服・食料品産業などの消費財産
業も繁栄するようになり、恵まれた水資源を背景とした水力発電による電力の普及や農業
の機械化とあいまって新たな基軸産業として金属機械産業も成長するに至った。 このように 19 世紀末には、工業化・都市化が進展するなかで、都市の劣悪な居住環境
や労働環境、危険な階級としての労働者階級の形成に伴う社会秩序の危機などが「社会問
題(sociala frågor)」として注目されるようになった。1879 年にはスウェーデン初の大規模な
労働争議として知られるスンズバル(Sundsvall)ストライキが起こった。70 年代に都市の手
工業熟練労働者を担い手として労働組合運動が生成すると、80 年代には工業労働者や不
熟練労働者にも広がり、80 年代末には全国組織が成立するまでに発達した。1898 年には、
ナショナル・センターとして労働組合全国組織(LO)が成立する。さらに同時期に社会民主
団の歴史的役割については、Wisselgren,Per, Samhällets kartläggare, Lorénska stiftelsen, den sociala frågan och samhällsvetenskapens formering 1830‐1920, Stockholm 2000 を参照。 6
Cassel, Gustav, Theoretische Sozialökonomie, Leipzig 1918. iii 主義運動が活動を開始し、89 年には労働組合を主要な基盤とする社会民主党が結成され
た。こうして社会民主主義運動と労働組合運動は、手を携えて発展することとなる。そし
てこのような労働者階級の組織化の進展に対抗し、使用者団体が設立され、自由主義政党
や保守主義政党も結成された。 他方、1866 年には身分制議会が廃止され、二院制議会が成立した。しかし、両院とも
選挙権は財産や所得で厳しく制限されていた。そのため、地域社会では、一人で複数票の
地方議会選挙権をもつ富裕層と、一票あるいはそれを持たず政治的意思決定の場から排除
された下層中間層および労働者階級との対立が生まれるようになる。いわゆる、「お偉方
(herrar)」と「民衆(folk)」の対立である。それゆえ、普通選挙権の要求は労働者階級や社会
民主主義労働運動のみに留まらず、下層中間層をも主要な担い手とする自由教会運動や禁
酒運動にも共有された。そうした中で社会民主主義労働運動とこれらの運動は「国民運動
(folkrörelser)」と呼ばれ、メンバーを相互に重複させつつ合わせて国民の 3 分の 2 が関わっ
たと言われる大勢力に発展し、民主化を求める大衆動員を進めていった。スウェーデンで
は、議会改革によって成立した財産や教養に基づくブルジョワ・名望家支配体制を突き崩
そうとする動きが、自由主義と社会民主主義勢力、下層中間層と労働者階級の協力の下で
展開したのである7。 また、19 世紀から 20 世紀にかけての世紀転換期は、帝国主義の時代でもあった。帝国
主義列強が相互に対立の様相を深める中で、スウェーデンもその動きから無縁ではなかっ
た。 例えば、移民問題があった。19 世紀半ばに発生し、その後、一時期落ち着いていたか
に見えたアメリカへの大量移民が、再び活発となったのである。19 世紀半ばの大量移民
は、むしろ農村過剰人口が整理されるとして歓迎される向きがあった。しかし、世紀転換
期の大量移民は、国家存亡にかかわる問題として重大視された。それは、帝国主義列強の
狭間にあって国家の自立を維持するためには、国防や経済的自立(工業化の推進)が不可
7
「国民運動」の展開については、例えば、前掲拙著を参照。この『社会政策』で取り上げている
運動は、労働組合運動の他に、協同組合運動であるが、これも「国民運動」に数えられることが多
い。1899 に協同組合運動の全国組織(Kooperativa förbundet)が結成されたように、この世紀転換期は
協同組合運動(特に消費協同組合運動)の勃興期でもあった。この時期の協同組合運動については、
例えば、Kylebäck,Hugo, Konsument‐ och lantbrukskooperation i Sverige. Utveckling, samarbets‐ och konkurrensförhållanden före det andra världskriget, Göteborg 1984 を参照。 iv 欠なのであるが、移民の多くがその主要な担い手となるべき若い男性であったので、それ
らが不可能になるかもしれないと危惧されたのである。 20 世紀初頭、政府はアメリカへの移民の実態と原因を解明すべく大規模な調査を組織
した。農業生産方法や技術・農地制度、工業生産におけるアメリカとの比較など、調査や
それに基づく分析は広範な領域に及び、1908 年から 13 年までに全 22 巻の報告書にまと
められた。そこでは、スウェーデン農工業における、生産力の発展における遅れや産業構
造・制度の歪みが指摘されると同時に、スウェーデンから人口を引き寄せる要因としてア
メリカの経済発展の在り方が問題にされ、アメリカ的な大量生産方式が目指すべき一つの
モデルとして注目されることとなる8。 また、1905 年にノルウェーとの同君連合が解体した。スウェーデンは、ナポレオン戦
争の際に、中世以来支配下に置いていたフィンランドをロシアに奪われたが、ナポレオン
に加担したデンマークからノルウェーを切り離し、同君連合として組み込むことに成功し
た。ノルウェーの独立は、バルト海を囲む広大な地域を支配したかつての「バルト帝国」
の栄光を完全に喪失したことのみではなく、東にフィンランドへの圧政を進めるロシア、
南に台頭著しいドイツ、そして西にノルウェーと友好関係を結んでいたイギリスの脅威に
直接さらされるようになったことも意味した。 帝国主義列強の直接的脅威に対して、まず課題として掲げられるようになったのが、国
民的な連帯であった。社会問題の顕在化や「国民運動」の台頭に見られるような政治的・
社会的対立を克服し、国民が一体となって生産力を増進し、国家としての自立を維持しな
ければならないのである。移民問題の解決もそこに求められた。そうした課題を積極的に
主張したのが、新保守主義と呼ばれる保守主義改革派であった。彼らは、むしろ保守主義
の主導の下に選挙権改革を行い、社会政策を展開し、国民統合を成し遂げることにより、
これらの課題を解決しようとした。「地政学(geopolitik)」の提唱で名高い政治学者・政治
家のシェレーン(Rudolf Kjellén 1866‐1922)は、この潮流を代表する人物であり、彼はまた、
8
例えば、国家的問題としての移民問題の認識については、Sundbärg,Gustav, Emigrationen, 1‐2m Uppsala 1906,1907 を、 Kilander,Svenbjörn, Den nya staten och den gamla: En studie i ideologisk förändring, Stockholm 1991、アメリカ的生産様式への注目については、移民調査委員会の報告書のうち特に
Betänkande i utvandringsfrågan och därmed sammanhängande spörsmål, Bil.15, Arbetsmetoder i Amerika, Stockholm 1915 を参照。 v 戦間期に社会民主党が福祉国家建設のシンボルとして掲げることとなる「国民の家
(folkhem)」を、それに先行して唱えたのであった9。 このように、一方で政治的民主化を求める「国民運動」の台頭があり、他方で保守主義
改革派による国民的連帯の提唱があった。「国民」の支持を求める左右それぞれの側から
の公論への訴えが進展する中で、いわば市民的公共性の拡大ともいえる言説空間が生成す
ることとなる。そこでは、社会民主主義、自由主義者、保守主義など多様な政治的スタン
スをもつ様々な社会層が参加し、議論を展開した。例えば、官僚、政治家、大学教員や在
野の知識人、さらには労働者が加わり、官・民・学の交流を進めた。議論は、国家の在り
様(あるいはスウェーデン的なるもの)の見直しと確立、国民的生産力の増進、社会問題
の解決といった三つの課題に焦点を置くようになる10。 例えば、ロレーン財団は、国家官僚、大学教員、在野の知識人を組織して数々の社会調
査を行い、社会科学図書館を設立し、講演・教育活動を展開した。このように官・民・学
が交流する中で目指されたことは、科学に基づき社会問題の実態を把握し、その解決を見
出すことであった。その後継組織にあたり、1903 年に設立された社会事業中央連盟
(Centralförbundet för socialt arbete)は、様々な社会問題を総体として捉え、社会に存在する
物的・人的資源を効率的に活用し、それを解決することを目指した。そのため、民間の自
発的諸団体のみならず、地方自治体や国家など様々な福祉供給主体を動員しようとした。
活動の中でも重視されたのが、異なる階級や政治的立場であっても、社会問題について広
く議論する場を形成しようとしたことである。実際、その機関誌である『社会時報(Social Tidskrift)』には、自由主義陣営に属する者はもちろんのこと、新保守主義の旗頭の一人で
あるモーリン(Adrian Molin 1880‐1942)がしばしば寄稿する一方、社会民主主義党の国会議
員でもあった経済学者ステッフェン(Gustav Steffen 1864‐1929)や後に首相・外相となる若き
日のサンドレル(Rickard Sandler 1884‐1964)も論説を執筆していた。カッセルの『社会政策』
は、この社会事業中央連盟のバイブルとも見なされていたのである11。では次に、この著
9
シェレーンと新保守主義については、石原俊時「もう一つの国民の家(上)(中)(下)」『立
教経済学研究』第 51 巻第 1・3・4 号、1997‐98 年を参照。 10
この点については、とりあえず、石原俊時「スウェーデン福祉国家における正統性の危機」木村
靖二他編『現代国家の正統性と危機』山川出版社 2002 年を参照。 11
Olsson, Aven,E., Social Policy and Welfare State in Sweden, Lund 1990, p.64. 社会事業中央連盟については、
石原俊時「福祉国家のオルターナティヴ」高田実・中野智世編『近代ヨーロッパの探求 15 福祉』
ミネルヴァ書房 2012 年を参照。 vi 作におけるカッセルの議論の特質を、その歴史的位置づけに焦点を当てて検討してみるこ
ととする。 市場と「生産的社会政策」 本文中に見るように、カッセルは、自らの立場「社会政策」を、(マンチェスター主義
的)自由主義と(科学的)社会主義に対置している。後者の社会主義に対しては、例えば、
労働全収益権の議論に対し、資本・賃労働関係を揚棄し、利潤をなくして労働の成果をす
べて労働者階級が得るようにしても、社会問題は解決しないと批判する。全体のパイが増
えない限り、単に貧困を全体で分かち合うだけであり、その上、今後の経済成長に不可欠
な資本を食いつぶしてさらなる貧困を招きかねないからである。カッセルにとって経済成
長があってこそ、はじめて分配の問題も解決できるのであった。一方、マンチェスター主
義的自由主義への批判は、市場における自由競争が自動的に進歩につながるという考えを
拒否することに基づく。彼にとり、進歩とは、「機能的適応」の過程を促すことで「経済
的淘汰」を意識的に推進することに他ならなかった。市場メカニズムの機能を十全に発揮
させ経済成長を推し進めていくには、そのための前提条件を意識的に作り出していかねば
ならないのである。 このようにして実現する経済成長は、私的所有権や市場経済の枠組みを維持することを
前提にして、諸階級が相互に利益を享受していくプロセスでもあった。その意味でカッセ
ルの社会政策論を、国民的連帯の実現と社会問題の解決という課題を経済成長の推進によ
って実現していくというビジョンの提示と見なすことができよう。カッセルの『社会政策』
は、世紀転換期の市民的公共性の拡大という状況の中で、諸階級・諸利害を糾合してヘゲ
モニーを獲得していくための一つの方向性を示したのである。彼の経済学者としての半生
を振り返った自伝『理性に仕えて』の表題でも窺えるように、理性によって狭隘な階級的
な利害や偏見を克服し、全体善の所在を客観的に明らかにすることが生涯における彼の信
条であった12。同時期に、彼の議論が影響力を持ったことの一つの根拠がここにあると思
われる。 一方、カッセルを含め、当時のスウェーデンの経済学にドイツ講壇社会主義の影響が強
かったことが指摘される。一つには、同じ後発資本主義国として、近代化・工業化を推進
12
Cassel,Gustav, I förnuftets tjänst. En ekonomisk självbiografi, Del.1, Stockholm 1940, Förord. また、
Carlsson,Benny, a.a., s.154‐55 を見よ。 vii するに当たり、古典派経済学が主張するような先進資本主義国との自由競争の下では、自
国の幼弱な産業資本が立ち行かないといった事情や、先進資本主義国で顕在化している深
刻な社会問題の状況に眼を向けざるを得ないといった状況があるであろう13。例えば、カ
ッセルについても、社会政策をマンチェスター主義的自由主義でも科学的社会主義でもな
い第三の道として位置づけたことに、講壇社会主義の影響を見て取れる14。しかし他方で
は、この書物の序文で書かれているように、ウェッブ夫妻の議論の影響も無視することは
できない。協同組合や労働組合の積極的位置づけや「機能的適応」といった進化論的な視
角はその影響であることが推察される15。 ここで注目されるのが、経済学史家イェニィ・アンデションが、社会政策をコストとし
て見ず、それと経済成長との有機的な相互関係の存在を強調する「生産的社会政策
(productive social politics)」の思想的起源をドイツ講壇社会主義に求め、それがカッセルを
はじめ 1930 年代以降のスウェーデン社会民主主義労働運動による福祉国家建設につなが
ると考えていることである。彼によれば、この思想潮流には、イギリス・フェビアニズム
やオーストリー・マルクシズムも含まれた16。ウェッブが「国民的効率(national efficiency)」
13
スウェーデンにおけるドイツ歴史学派経済学の影響については、とりあえず、Syll, Lars Påhlsson, De ekonomiska teoriernas historia, Lund 1999, s.179‐184. 次の論文は、第一次大戦後のスウェーデンの経済学
の展開を脱ドイツ化という観点から扱っている。Sandelin,Bo, "The De‐Germanization of Swedish Economics", i: History of Political Economy, vol.33, no.3, 2001. 14
例えば、Carlson,Benny, ”Wagner’s Swedish Students: Precursors of the Middle Way?”; Journal of the History of Economic Thought , vol.25:4, 2003 を参照。 15
ウェッブ夫妻の議論については、江里口拓『福祉国家の効率と制御 ウェッブ夫妻の経済思想』
昭和堂 2008 年を参照。江里口は、以下の論文で戦間期のスウェーデンの経済思想へのウェッブ夫
妻の影響を指摘しているが、この書物に見られるように、社会問題への関心の高まりもあってフェ
ビアニズムのスウェーデンへの影響は既に世紀初頭に顕著であった。江里口拓「ウェッブ夫妻とス
ウェーデン福祉国家‐「国民的効率」構想からレーン・メイドナー・モデル」『(愛知県立大学)
社会福祉研究』第 12 巻,2010 年. 例えば、フォン・コック(G.H.von Koch)は、19 世紀末から協同組合
運動や様々な社会改良運動に取り組み、20 世紀初頭のスウェーデンにおける自由主義的社会改良
を担った中心人物の一人であるが、彼がそうした活動を始めた一つの契機は、1890 年代半ばでイ
ギリスにおけるセツルメント運動やウェッブなどフェビアニズムに出会ったことであった。
Wirén,Agnes, G.H.von Koch. Banbrytare i svensk socialvård, Stockholm 1980, s.57, 60. 20 世紀初頭の自由主義
的社会改良については、前掲拙稿「福祉国家のオルターナティヴ」を参照。 16
Andersson,Jenny, "A Productive Social Citizenship? Reflections on the Concept of Productive Social
Policies in the European Tradition", i:Magnusson,Lars & Stråth, Bo, A European Social Citizenship? Future viii の議論を展開したことが想起すべきであろう。彼らの議論の背景にも、やはり相互に対立
する帝国主義列強の中でイギリスがその覇権を維持する道をどこに求めていくかという問
題状況があったと思われる。そこでも国家の存立と社会問題の解決が、経済成長と結びつ
けられたのである。この点では、カッセルと問題意識を共有する部分があったと言えるか
もしれない。アンデションの議論からすれば、カッセルの議論は、このような「生産的社
会政策論」の国際潮流に位置づけられることとなる。共通の問題状況としては、第二次産
業革命、階級対立、民主化、帝国主義的対立などを考えてみるべきかもしれない。あるい
は、そこに階級利害を超越することを標榜する科学主義を加えて検討することが今後の課
題となろう17。 ところで、カッセルにとっての経済成長は、例えば、労働組合による標準条件の追及を
通じて、企業の経済的淘汰を促し、生産性・効率性を向上させていくと同時に、より広範
な層が高賃金を享受できるようにすることによって国内市場を拡大していくという見通し
に基づいていた。つまり、大量生産と大量消費を相互的に実現することにより経済成長を
進展させようという議論である。本書の随所で表れているように、アメリカの経済発展が
そのような議論の一つのモデルであった。この点でいえば、カッセルの『社会政策』は、
スウェーデンにおけるフォーディズムの黎明を示す議論と見なすこともできる。 実際、1905 年の金属・機械産業の大ロックアウトは、スウェーデン初の全国協約につ
ながり、最低賃金がそこでは定められることとなる。さらに 1906 年には、労働組合全国
組織(LO)とスウェーデン使用者連盟(SAF)の間でいわゆる 12 月の妥結が成立し、それを契
機として、労働組合の団結権を使用者が認めると同時に、使用者の経営権を労働者が認め
るという秩序が労使関係の中で確立していく。スウェーデンでは、早期に労働者の団結権
が社会的に承認され、集団的労使関係が展開していたのである。そのような状況が生じた
Precondition in Historical Light, Brussel 2004. このような生産的社会政策の思想潮流に属する者として、
カッセルと 1930 年代から戦後期に社会相を務めたメッレル(Gustav Möller)を取り上げて論じている
ものとして、Friman,Eva, “Växt för välfärd: Den ekonomiska expansionens löften kring sekelskiftet”, i: Hatje, Ann‐Katrin, red., Sekelskiftets utmaningar. Essäer om välfärd, utbildning och nationell identitet vid sekelskiftet 1900, Stockholm 2001 がある。 17
この点に関して、社会発展を科学によって統御していく、いわゆる「社会工学(social ingenjörskonst)」の生成・展開をめぐる議論に注目すべきであろう。例えば、Östlund,David, Det sociala kriget och kapitalets ansvar. Social igenjörskonst mellan affärsintresse och samhällsreform i USA och Sverige 1899‐
1914, Stockholm2003; Björck,Henrik, Staten,Chalmers och vetenskapen. Forskningspolitik formering och sociala ingenjörer under Sveriges politiska industrisering 1890‐1945, Nora 2004 を参照。 ix 背景として、カッセルの議論のように、労働組合の果たしうる積極的な社会的・経済的役
割を強調する議論が展開していたことを無視できないであろう18。他方では、移民調査に
見られるようなアメリカ式生産様式への関心は、テイラーリズムの導入の試みにつながっ
ていった。そして 1938 年のサルトシェーバーデン(Saltsjöbaden)協約に始まる労働環境協約
や労働研究協約などの一連の SAF と LO 間の中央協約は、中央集権的な労使交渉システム
の成立を物語るだけではなく、経済成長を進めるうえで労使が協力していくことに合意が
成立したことを意味した。こうして、しばしば指摘されるような連帯賃金制度と積極的労
働市場政策といった労働市場の構造的枠組だけではなく、テイラーリズムを企業レベルに
どのように導入していくかといった企業レベルでも労使協調して生産力を増進する制度的
枠組が形成されることとなった。スウェーデンにおけるフォーディズムの生成・展開は、
様々なレベルで互いに協調して国民的生産力を増進しようとする労使関係の枠組の成立を
抜きにして理解することはできない19。 この『社会政策』では労働組合運動による標準条件の追求の意義が強調されているが、
それは LO による連帯賃金政策を想起させるし、国家による職業教育政策の必要性の指摘
は、積極的労働市場政策を連想させる。それゆえ、カッセルの『社会政策』は、このよう
な労資協調の核心に経済成長を置くことのみでなく、その制度的枠組みに関しても、スウ
ェーデン・モデルの思想的起源として検討されるべきであると考える。 しかし、カッセル自身は、先に述べたように、第一次世界大戦後にはむしろ右傾化し、
社会民主主義労働運動やそれを担い手とする福祉国家に敵対していく。彼は、20 世紀初
頭では旧来の自由主義を批判し、国家の積極的な役割を位置づけた「新自由主義(new liberalism)」の旗手の一人であったのだが、戦間期には、労働組合運動を敵視し、福祉国
18
例えば、Bagge,Gösta, De svenska fackförbundens och fackföreningarnas organisation, Stockholm 1906; Söderberg,Ernst, Svensk arbetarrörelse, Stockholm 1907; Heckscher,Eli, Industrialismen, Stockholm 1907, s.23‐43; スウェーデンでは、使用者団体の全国組織が早くから労働組合との団体協約締結路線を採用し、実
際に労働市場で団体協約が普及していったことについては、例えば、Lundh,Christer, Spelets regler. Institutioner och lönebildning på den svenska arbetsmarknaden 1850‐2000, Stockholm 2002, s.106‐120; Nycander,Svante, Makten över arbetsmarknaden. Ett perspektiv på Sveriges 1900‐tal, Stockholm 2002, s.21‐31 を
参照。 19
この点については、石原俊時「企業から見たスウェーデン・モデル(1)」『経済学論集』第 74 巻
第 3 号,2008 年を参照。 x 家の生成に伴い強大化する国家に立ち向かったスウェーデンにおけるネオリベラリズム
(neoliberalism)の源流の位置を占めるに至ったのである20。 その場合に考慮すべきは、彼が何よりも市場の機能を重視したことであろう。先に述べ
たように、それは市場に任せておけばすべてのことがうまく解決されるということではな
い。市場の望ましい働きは、意識的にそのための制度的枠組みを整備しない限り実現しな
いのである。それゆえ、『社会政策』では、協同組合運動や労働組合運動や国家の役割が
強調されたのである。市場において協同組合運動や労働組合運動の地位を高め、その然る
べき機能を発揮させるとともに、国家にはそのような市場の自律的な秩序形成の動きを支
え補完する役割が与えられたわけである。しかし、1920 年には初の単独の社会民主党政
権が成立したように、第一次世界大戦後には労働運動は社会的にも確固たる地位を築き、
戦後不況の中で深刻な失業問題が現出する中で、むしろ市場の健全な働きを阻害している
と思われるようになった。さらに 1930 年代になり社会民主党政権下で福祉国家建設が積
極的に進められると、国家が市場の健全な働きを補完するに留まらず、それに介入して意
識的に操作していこうとする傾向は顕著になっていった。 彼自身、自伝の中で次のように語っている。「今世紀初頭、ここスウェーデンでは、
なお化石化して時代遅れとなったブルジョワジーと戦いつつ、労働組合の正統性を主張す
る必要があった。今や、こうした正統性は自明なこととなり、誰もが、スウェーデンでそ
うであるような労働市場の組織化が不可欠であることを理解している。それゆえ、[目指
すべき政策の]重心は、諸組織の権力行使が必要な限界のうちに維持され、経済的可能性
や進歩を促すものとは何なのかについてのはっきりとした理解の下に導かれるようにする
ことに移るのである。」21こうして戦間期になると、市場の健全な機能を確保するには、
強大化した労働運動や国家の力を抑え込み、諸主体間の新たなバランスを実現していかね
20
カッセルのみでなく、経済史家ヘックシャー(Eli Heckscher)も親労組の立場から反労組・反社民の
立場に転向した。両者の転向については、Carlson,Benny, Staten som monster. Gustav Cassels och Eli F Heckschers syn på statens roll och tillväxt, Lund 1988 を見よ。第一次世界大戦後、カッセルは賃金の下方
硬直性など資本形成を損なうものとして反労組の議論を展開することとなるが、それは、国際的に
も大きな影響を与えた。ドイツでは 1920 年代に「カッセル論争」と呼ばれる論争が起こったが、
それはドイツにおいて新自由主義(neoliberalism)的思想が生成してくる出発点として注目されて
いる。雨宮昭彦『競争秩序のポリティクス‐ドイツ経済政策思想の源流』東京大学出版会 2005 年, 第 1 章。新自由主義(neoliberlism)の歴史的起源については、権上康男編『新自由主義と戦後資本
主義‐欧米における歴史的経験』日本経済評論社 2006 年を参照。 21
Cassel, I förnuftets tjänst, s.48. xi ばならないこととなる。このようにカッセルの転向の背景には、状況の変化によって対す
べき敵が変化したことがあり、彼自身にとり守るべきものは一貫して市場の機能であった
と想像しうるのである。いずれにしろカッセルの思想的特質を、その転向を含めて長期的
スパンで捉えようとすれば、この『社会政策』は、初期における彼の思想的立場を明確に
しつつ、生涯にわたる一貫した思想的特質を探る上で、彼の数ある著作の中でもまず検討
すべき書物ではないかと思われる22。 カッセルの『社会政策』は、どちらかと言えば、本国においてさえ忘れられた著作であ
る。しかし、以上のように様々な点から見て歴史的に興味深い位置を占めている。ここに
翻訳した所以である。これにより、少しでもカッセルあるいはスウェーデン福祉国家の歴
史的形成過程への関心を喚起することができれば幸いである。 [本翻訳は、科学研究費補助金・基盤研究(C)・課題番号 26380420 および科学研究費補助
金・基盤研究(B)・課題番号 25301045 による研究成果の一部である] 22
次の論文は、「生産的社会政策」の思想的起源としてカッセルにも言及している。しかし、国家
社会主義の系譜に位置づけて一面的に国家の役割を強調する文脈で取り上げることは誤解を生むで
あろう。宮本章史・諸富徹「『社会的投資国家』の経済思想‐スウェーデンにおける積極的労働市
場政策の思想的系譜」『思想』第 1047 号,2011 年。カッセルにとっては、本文中で見たように、市
場の十全なる機能の実現が課題なのであり、まずは市民社会の中の自発的諸力(協同組合や労働組
合)によって市民社会の中で自律的解決がなされることを目指すべきであり、国家はあくまでも補
完的役割を果たす存在なのである。 xii G.カ ッ セ ル 『 社 会 政 策 』
目次
2
序.
3
Ⅰ.
社会主義、自由主義および社会政策
Ⅱ.
協同組合政策
17
Ⅲ.
労働組合政策
34
Ⅳ.
公的社会政策の任務
47
Ⅴ.
高賃金の経済
65
Ⅵ.
社会的進歩の経済的可能性
78
凡例
・原書には注はないので、文中の注はすべて訳注である。
・原書でイタリックの部分は、ゴシックで表記した。
・原語表記が必要だと思われる語句については、その語句の後に括弧をつけて原語を付し
た。
・[ ]で囲まれた語句は、原文にはないが、文脈や意味をわかりやすくするため、言葉を
補った語句である。
・原文において引用符で囲まれた語句については、引用符の代わりに括弧(「 」)をつけた。
・人名については、日本語名のあとに欧文表記と生没年を付記した。文脈において説明が
必要とされる人物にのみ、注で最低限の説明を加えた。
・原語”organ”は、文脈によって「機関」あるいは「器官」と訳し分けた。
1
1
序
イェーテボリィ(Göteborg)の自由主義クラブ1と実業クラブ2に所属する人々の招きで、私
は、1902 年 2 月に社会政策についての 6 回の講義をした。そのうちの一部は、イェーテボ
リィの勤労者協会3で労働者を前にして繰り返された。拡大された形で、これらの講義は、
コペンハーゲン大学での私の授業に組み入れられた。それらは、[このように]さらに一般
の者に対して、書物の形をとって提示されることとなった。この本の成り立ちからして、
この本は、最大限広い読者層に向けられているのである。
以下のページにおいて、社会政策についての完全無欠の議論が体系的に展開されている
ように期待してはいけない。私は、今現在の社会政策諸運動において最も重要であると考
えている所をいくつか取り上げ、その内容や目的を明らかにし、それが社会発展を目指す
活動において担いうる力や意味を検証しようとしただけである。
私は、文献の参照でこの本を重くしようとは思わなかった。最初の講義に関しては、私
の本『労働全収益権』4を参照して欲しい。二番目の講義については、主にベアトリス・ポ
ッターの『イギリスにおける消費協同組合運動』5、三番目の講義については、ウェッブ夫
妻の『産業民主制論』6に拠った。最後の二つの講義は、最も重要な資料については典拠を
示してある。
1902 年 5 月コペンハーゲンにて
1
G.カッセル
Frisinnade klubben. 自由主義系の政治団体。自由主義の政治運動においては、1900 年に議
会政党(Liberala samlingsparti)が成立する一方、1902 年に議会外活動を展開する全国組織
(Frisinnade landsföreningen) が 設 立 さ れ た 。 例 え ば 、 Rönblom,Hans-Krister, Frisinnade
landsföreningen 1902-1927, Stockholm 1929, Kap.3 を参照。
2
Börssällskap i Göteborg. 商人や海運業者が中心となり、1894 年に設立された議論クラブ。
当時この団体もどちらかといえば自由主義色の強い団体であった。Ramn,Axel, Börssällskap i
Göteborg 1894-1924, Göteborg 1924.
3
Arbetareinstitut. スウェーデンでは、1860 年代以降、中間層を担い手として主に労働者階級
に対する啓蒙・教育活動を推進した勤労者組合が各地に設立された。石原俊時『市民社会と労働
者文化』木鐸社 1996 年,91-93 頁を参照。
4
Cassel, Gustav, Das Recht auf den vollen Arbeitsertrag, Eine Einführung in die
theoretische Ökonomie, Göttingen 1900.
5
Potter, Beatrice, Cooperative Movement in Great Britain, London 1891.
6
Webb, Sidney&Webbe, Beatrice,Industrial Democracy, Vol.1-2, London 1897.
2
Ⅰ.社会主義、自由主義および社会政策
社会主義と社会政策
思考の中で理想社会を作り上げることは、現行社会状況の過酷な現実になすすべもなく
苦しんでいる人間にとり、いつの時代にもお気に入りの作業(sysselsättning)であった。
そこにおいては確かに、しばしば現実よりも高貴で生きていく上で必要なものが備わった
人間を前提としてきたが、しかし、重点はいつも、我々皆により大きな幸せを確実に与え
てくれるような社会の組織形態を見出すことに置かれた。そして、常にまず公権力、ある
いはそう呼ぶのがお好みならば国家に眼差しを向け、この社会機関の刷新をもって社会全
体の再生を約束したのである。
近代においては一連のそうした社会設計が、詩の形をとったトーマス・モア(Thomas
More)の『ユートピア“Utopia”』(1516)をもって始まった。そこでは、ある島「ユートピ
ア」において高度に発達した人間が、強力な国家件権力によって規制された共産主義的生
活をどのように送っているかが描かれた。この本に倣い、同様な理想の未来国家を叙述す
るすべての試みは、「ユートピア」と呼ばれることとなる。一世紀後、カンパネッラ(Tommaso
Campanella 1568-1639)は、南イタリアのありったけの情熱をもって、
『太陽の国”solstat”』
における素晴らしい生活を描いた。そこでは、国家権力は、生産や消費を支配するだけで
なく、私生活のすべての神聖な領域まで手をのばし、種を改良するために生殖まで介入す
る。19 世紀になって、そうした社会小説が無くなったわけではけっしてない。現世代が最
もよく知っていると思われる、近年書かれたベラミー(Edward Bellamy 1850-1898)の『省
みれば』7を想起すればよいであろう。
詩の形態での国家理論の他に、様々な形での新しい社会秩序の提案があり、そのうちに
は、小規模な実験社会の設立によって実践に及んだものもある。それらの提案に特徴的な
のは、殆ど常に社会を数百人あるいは数千人のグループに分け、グループ内でお互いのた
めに労働することで生きていくために必要なものすべてあるいは本質的部分は自給しうる
と考えていることである。そうしたグループは、既にイギリスのジョン・ベラーズ(John
Bellers 1654-1726)が 1695 年に提案している。それによれば、
[間に入る]商業を排し、生
産をよりよく調整できるようにすることで、消費の共通部分で大きな節約が可能となるは
ずであった。フランスでは、フーリエ(F.M. Charles Fourier 1772-1837)が、19 世紀初めに、
300 から 400 家族が構成し、農業や手工業を営み、自身が使用するものすべてをなるべく
自身で生産する社会、すなわちファランジュ(fallanger)に人々を組織することを唱えた。そ
7
Bellamy,Edward, Looking Backward,2000-1887, Boston 1889.
3
の社会の者は、一つの大きな建物(Phalanstère)に居住し、他の面でも消費の共同性を推
し進めるのである。そうしたファランジュの設立が試みられたが、失敗してしまった。そ
のいくらか後に、カペ(Étienne Cabet 1788-1856)が、広く読まれ、様々な言語にも翻訳さ
れた社会小説『イタリアへの旅』をひっさげて登場した。カペは、1848 年に北アメリカの
イリノイにコロニーを設立することでその原則を実現したが、彼自身や彼に近い者は、ま
もなくそこを脱退してしまった。今日でさえも、アメリカには、いくつかの「イカリア・
コミューン(ikariska kommuner)」8が存在している。カペの社会理念は、そのすべてのメ
ンバーが、男であれ女であれ、一日数時間働く義務を負うという自発的結社である。生産
物はすべての者の間に均等に配分され、消費において、着る物が完全なユニフォームであ
るように規制されている。こうして見ると、何と共産主義的な社会なのではないか。
それ以後の発展全体にとり広範囲にわたって大きな意味を持こととなったのが、イギリ
スの工場経営者であり社会主義者ロバート・オウエン(Robert Owen 1771-1858)の活動であ
る。後に、我々はこの注目すべき人物とその思想を扱うこととなる。しかし、ここでは、
彼の共産主義的なコロニーについて想起しておかねばならない。オウエンは、既に 1817 年
に当時の恐慌に際して、失業者を集め、すべての職業が各グループで代表されるように組
織することを提案した。そうすれば、グループのメンバーが互いのために生産すれば、各
グループが自給自足しうるようになるはずである。こうした単純で自然な方法により、失
業を終わらせることとなる。こうした発想は、さらにオウエンをして、すべての社会問題
の解決は、社会を小規模の自給的なコミュニティに分割してしまうことにあるという考え
に進ませた。彼はまさしく行動の人であったので、すぐに自分のプログラムを実践に移し
た。1824 年に、北アメリカのインディアナ州に「ニューハーモニー」というコロニーを設
立した。続いて同様の試みをメキシコやイギリスでも行った。しかし、すべての企ては失
敗に帰した。唯一成功し、一時期繁栄したコロニーもあったが、外的な要因により没落し
てしまった。それはアイルランドのコロニーであるララヒン(Ralahine)であり、イギリスの
慣例に倣い土地を借地していた。[しかし、]地主は財産を失い、信用供与者が財産を処分
した。そのため、コロニーに入植した者は、自分が土地改良に注ぎ込んだ代償を得ること
が出来なかったのである。
こうした一連の古来のユートピア的で実験心に富んだ社会主義者全体に共通しているこ
とは、社会問題全体の解決を唯一の組織形態の中に求め、社会のすべての機能を一つの社
会機関の中に押し込もうとしたことである。確かに、彼らは、旧来の国家の活動にはごく
わずかの意味しか見出さなかったのであり、それゆえ、新しい「コミュニティ」の枢要な
任務がその社会を経済的に統御することとなった。しかし、とにかくもこのコミュニティ
は、生産も分配も取り仕切り、生産者と消費者という全く異なる利害を背負い込まねばな
らなくなったのである。
8
カペの構想したユートピア「イカリア(Icaria)」をモデルとして創設されたコミュニティ。
4
古き社会主義の中には、社会がその多様な役割を充足ためにはなお一層多くの異なる機
関(organ)が必要であることを理解するための眼差しが殆どない。社会の形態についての理
論は、依然として極めて未発達であり、明らかに主にこの欠陥のために、すべての学派は
それらの役割を担う力のある現実的で持続的な社会組織を作り出せなかった。また、[その
後の]それに続く実り多き発展は、社会学的理解の視野の拡大や深化と共に進んだのであ
る。
こうした発展は、本質的に分化の過程(differentieringsprocess)であった。社会問題を様々
な側面から把握するようになったのである。専門化が進み、ある者は消費者を組織化する
ことにすべての注意を向け、またある者は生産者としての労働者を社会的単位として結集
することを自己の任務とした。当初、彼らは、こうした試みを、共産主義的未来国家を最
終目標とする唯一の組織を想定して行った。しかし、次第に、こうした曖昧な像は後景に
退き、自身で行う実際的な社会的組織活動が、重要でかつ自立的な意味を獲得するに至っ
た。社会主義的努力は、これにより多面性と広がりをもちながら、同時に確固とした地に
根づいた基礎を得た。人は、ユートピアから撤退し、天から降りてきて、手に入れ享受す
るだけとなっている王国を、無駄に待つばかりの状況から脱した。しかしまた、一挙に理
想社会を作り上げる実験からも、天命として社会主義国家を宣言することからも抜け出た。
それに代わり、下から、最も深い基礎から未来の豊かなそして多様に組織された社会を築
き上げ、そのような社会建造物が求める人材を養成するという果ての知れぬ地道な作業が
現れることとなる。
我々は、次のいくつかの章で、こうした組織活動のうちで最も重要な領域をいささか詳
しく扱うこととなる。しかし、その前に我々は、「科学的社会主義」と好んで呼ばれる、社
会主義のもう一つの方向性について眼を向けねばならない。
この方向性全体における中心的な要素は、「労働の全収益に対する権利」という考えであ
る。「原始状態」においては、各人が自分で必要なものを生産していたので、労働者は、自
己の労働の産物全部を好きにすることができたと論じられる。しかし、それを現行社会に
おいてはそうすることができないのである。今日では、地主や資本家が、労働者から彼の
労働の産物の大部分を奪い取り、それによってレント(ränta)と呼ばれる不労所得で生活す
るようになっている。これこそが、労働者の劣悪な状況の本来的な原因なのであり、社会
問題の解決は、各自に自己の労働の果実をすべて保障するような社会においてのみ実現し
うるのである。しかし、それが可能であるのは、すべての物質的生産手段を引き受け、そ
れによって不労所得の原因そのものを根絶した社会主義国家のみである。こうして「労働
の全収益に対する権利」は、ある必然的な論理をもって、近代的社会民主主義の理想であ
る社会につながっていく。
しかし、今や、我々の時代においては、最も単純な生産物でも多くの多様な労働者を必
要とする。それゆえ、最終生産物の価値を、生産へ寄与した大きさに従い、生産に協力し
たすべての者のあいだで配分しなければならない。しかし、これは容易なことではない。
5
1冊の本を仕上げるのに、作家、植字工、印刷屋、印刷機械を操作する労働者、そのほか
数多の協力者がどれだけ寄与したのかを言うのは、当然不可能である。個人の労働のすべ
ての果実について語ることが意味を持つにはそれぞれの貢献の重要性を計測する何らかの
方法を見出さねばならない。こうした目的のために、1時間の標準労働を一つの単位とし、
より難しい熟練・技能を必要とする労働は1時間あたりそれより1単位以上の数値が与え
られるような、一種の貨幣計算のシステムが考案された。このようなシステムの助けによ
り、ある商品を生産するのにどれだけの「標準」労働時間がかかるか計算できるようにな
り、そしてその時間数をその商品の価格に設定しうるようになった。同時に、各労働者は、
働いた標準労働時間数についての受け取り(anvisning)を渡されることとなる。労働者は、
その受け取りで、今日貨幣で購入できるように、国家の倉庫で買い物ができるのである。
このようにして、労働者は自己の労働の成果に完全に対応する価値のものを手に入れるこ
とは明らかである。
こうした「労働貨幣」のシステムは、ロバート・オウエンにより、1820 年のパンフレッ
トの中で展開された。オウエンはまた、1830 年代の初めに、ロンドンに「労働銀行」を設
立して自己のシステムの実現を試みた。しかし、十分納得できるように、この銀行は、ま
もなく潰れてしまい、オウエンは、損失を支払わねばならなかった。こうした貨幣システ
ムやそれに基づく社会主義国家[についての議論]は、19 世紀半ばにロートベルトゥス
(Johan K. Rodbertus 1805-1875) によって理論的な進展を見た。こうした仕事は、科学
にとり間違いなく大いに有益である。というのも、「労働の全収益」によって何が意味され
るのかが明確となり、それに対する科学的な批判が可能になるからである。
初めにこう言うべきであろう、異なる種類の労働を比較する際に用いる還元の基準は、
基本的には恣意的に定められた賃金の基準に他ならず、それ自体、生産に関わる主体が技
術的にそれぞれどれだけ貢献したかを計算するという解けない問題に対する解答になって
いない。このようにして得る労働の全収益の権利は、どのような場合でも現実のものでは
なく、形式的なものに過ぎない。
そうするとここで決定的な問に至る。すなわち、こうした権利は維持することができる
のであろうか。この問に対しては、はっきりと否と答えねばならない。まず第一に、各労
働者に労働の全収益の権利を与えることはできない。というのも、良好な土地を耕作する
者は、同じ労働でも、劣悪な土地を耕す者よりもはるかに多くの収穫をあげることができ
るからである。[同様に]より優れた機械で、あるいはよりすぐれた技術的指導の下に作業
する者は、同じ労働で、より恵まれない条件で作業する者よりも多く生産することが出来
る。もし今、例えば、すべての農業労働者が最も恵まれない条件での農業経営で生産され
る場合にしたがって賃金を支払われるならば、社会主義社会は、豊かな土地にメリットを
生むこととなる。こうして個人にそのメリットが帰属することとなるが、それが地代の本
質的な源泉なのである。社会全体にとり、こうしたレントを少数の者の特権としておくの
ではなく、社会としてこれを維持し、メンバー全員が享受するようにすることは考える限
6
り最高に有益であることは当然である。しかし、各労働者の労働の全収益を得る権利は、
そのことによっては弁護されない。どのような社会形態となっても経済的に不可能なので
ある。
第二に、社会は全体として、毎年自己の労働の果実全部を消費しつくすことはできない。
というのも、人口は増加し、技術は進歩し、生活に対する要求がいや増す中で、社会的生
産は、毎年ますます多くの資本を必要とするようになっているからである。毎年の労働の
収益から増加する資本の分を取り出すこと、つまり、社会は、労働の生産物全体からその
一部を取り除くことが必要なのである。
我々は、ここで永遠で絶対的な経済法則と出くわす、それは我々が今や押しなべてつき
従うものであり、大胆さをもって設計した社会形態を持ってする他は打ち砕くことはでき
ないものである。我々は、当初から労働の全収益に対する権利を「自然的な人権」の一つ
として表明し、この権利が全く自明のことであるようにイメージするように努めた。しか
し、すぐにそうした標語を捨て、自己の要求の間尺をあわす必要がある、というのも、こ
うした要求は経済の基本諸原則と矛盾するものであり、それゆえ、労働の全収益権という
のは全くの幻想であることが誰にとっても明白であるからである。
これにより、今や、いわゆる科学的社会主義自体の運命は決まっている。しかし、この
方向性について若干付け加えることが残っている。とりわけ、ドイツや、残念ながら精神
的にそれに依存する北欧の労働運動の中で最高の権威であるカール・マルクス(Karl Marx)
を、旗印に掲げる者の代表者についてである。
ドイツの平均的な市民が社会民主主義に接近する感情は、最も激しい憎しみ以外のもの
ではない。彼は、同様に、「科学的」社会主義が発展したのがドイツ的土壌の上であったこ
とや、社会主義についての最も洞察に満ちた思想家であるカール・マルクスがドイツ人で
あるといった、ナショナルな誇りの感情を膨張させている。それでは、そのことがこの頻
繁に用いられる科学性とどのように関係しているのか。もう少し詳しく検討してみよう。
マルクスを社会主義理論家として何より特徴づけるのが、もちろん彼のカタストロフ理
論であり、価値論である。カタストロフ理論は、小経営が大経営に打ち負かされ、小資本
が大資本によって淘汰され、ついには産業全体の指揮が少数者の手に集中してしまうとい
う考えに基づいている。そうした状況から発展し、大多数の無所有のプロレタリアートに
少数の強力な資本家が対峙するようになる。そうなると革命が自然と当然のように起こる
こととなる。「搾取された者が搾取者を搾取する」とマルクスはうまい表現で表している。
こうして、社会主義未来国家が事実となる。
今や、確かに近代産業において、多くの領域で強い集中の傾向があることは否定できな
い。なるほど、トラストの存在が、ひと目でわかる格好の証拠である。しかし、そうした
観察を一般化し、さらに経済生活全体に当てはまることとすることは誤りである。最も重
要な生産部門である、農業に関しては、集中の傾向は全く現れず、むしろその逆の傾向な
のである。
7
マルクスのカタストロフ理論についてここでさらに検討することは意図するところでは
ない。そのことは、ベルンシュタイン(Eduard Bernstein 1850-1932)のような現代の社会
主義者が既にやっていることである。私はただ、その科学的なアピールにも関わらず、す
べての重要な面でユートピアのスタンプが押してあることをはっきりさせたいだけである。
ユートピアの最も重要な特徴は、ただ手に入れるだけとなっているとして、来るべき未
来国家を座して待つことであることはご承知であろう。このように奇跡を信じることは、
人間を空想の中に追いやり、行動力を奪うものである。それは、定まった、実際的な目標
のために計画的に活動することへの関心を失わせ、原因と結果の間の必然的な相関や、堅
実な努力なしに偉大で活力に富むものをこの世に生み出すことはできないことを忘れさせ
るのである。奇跡を信じることは、こうして自己の力に対する自信を失わせることにより、
生活のすべての領域において、道徳を混乱させる深刻な要因となる。
マルクスにあっては、未来の革命、すなわち大カタストロフは、奇跡であった。彼の支
持者が期待した王国は、
「自身で生産手段を引き継ぐ」社会主義国家であり、それは当然そ
うするようになっているのであった!それを一貫させると、こうした考えは全くネガテイ
ヴな革命政策につながることとなる。すなわち、できる限りカタストロフの到来を早める
ことのみであり、それには、ただプロレタリアートがより一層増大し、ますます悲惨な状
況に陥り、富が一層少数者に集中することだけが必要となる。こうして社会民主主義者は
行動しないーなんと幸運なことか!それに加え、彼らは、余りにも賢明で、余りにも実践
的であるが、余りにもマルクス主義的でなかった。彼らは、実にすぐれた組織活動を行っ
てきたのであり、労働組合運動だけでも想起してみればわかるように、ますます実際の政
策に影響力を持つようになっている。常にドイツの社会民主主義者の会議では、党はどれ
だけ積極的に政策活動に関与するべきなのかが議論されている。とはいえ、全く消極的な
革命主義戦略、すなわちカタストロフ理論の戦略の代表者がいないわけではけっしてない。
「ミルラン問題」9をめぐる議論がさらに白熱している。すなわち、社会主義者は、ブルジ
ョワ政党の代表者とともに政権に参加することが許されるのかという問題である。しかし、
ミルランが内閣ポストにあることが労働者の積極的かつ直接的な利益をもたらしうること
を全く考慮せず、その問題に対し否と答える者がますます増えている。
概して、社会主義の脅威が存在するならば、それは、純粋な消極主義にある。我々は、
できる限りすべての力を結集し、積極的な組織的・政治的活動を展開する必要がある。ユ
ートピア的方向性は、より多くの節約や労働者の家計をもっとうまくやりくりすることと
いった、些細な手段で得られる多くのことに対する関心を失わせる。自己の考えを常に来
9
フランスのブルジョワ内閣に社会主義者(Alexandre Millerand 1852-1943)が 1899 年に入閣
したことは、ベルンシュタインをめぐるドイツ社会民主党内の争いとあいまって、国際社会主義
運動の中に激しい動揺や対立を招いた。例えば、J.ジョル『第二インター 1889~1914』木鐸社
1976 年、第 4 章を参照。
8
る社会主義社会に向けている者が、労働者家庭におけるより合理的な調理とかいったもの
を取りに足らないと見なすであろうことは、至極当然である。そこに脅威がある。我々は
既にこの国において社会主義的ユートピアの効果をたどることができると思われるし、マ
ルクス主義の方向性が一層労働者の間に広まったならば、もっとそうした状況となること
は確かである。ここで得に我々が注目しなければならないことは、労働者家族の家計にと
り計り知れぬほど意味を持つ禁酒運動を、わが国の社会主義の労働者機関誌が支持してい
ないことである。
マルクスの価値論は、科学としての要件から見ると、カタストロフ理論よりもお粗末な
ものである。この価値論は、根本的には労働の全収益権を表現しているものに他ならない。
しかし、我々が見たようにそれはかなり単純な議論ではあるが、ストレートにそれを主張
するのではなく、マルクスは、ヘーゲル(G.W.F. Hegel 1770-1831) 的な語句を取り混ぜ、
従来の経済学から価値についての議論を借りて、神秘のベールで覆った。マルクスは、そ
れぞれの生産物の価値は、生産に投入された労働量によって規定されるというテーゼから
出発する。この出発点により、地主と資本家は、元来、労働者より労働の生産物のすべて
の価値より一部を剥奪することによってレントを得ていることが明白である。その結論に
到達するために、大きな科学的装置は必要ない。それに対し、科学を標榜する者は、出発
点であるテーゼについて何らかの現実的証拠を示すことが期待される。しかし、その後、
それをマルクスに求めた者は徒労に終わった。彼が与えているものは、スコラ学者の最も
熟達した討論者に匹敵するような、美辞麗句に過ぎない。それ以外は、価値はそれに必要
な労働と等価であるという文言に見るような、古きドグマの権威に完全に寄りかかってい
る。しかし、近年の研究により、このドグマは、元来イギリスの経済学者リカードゥ(David
Ricardo 1772-1823)の価値論に対する誤解によって生じたのだということが科学的に示さ
れている。そうしたリカードゥ価値論の誤った解釈に責任がある最たる人物が、オウエン
の弟子であるウィリアム・トムソン(William Thompson 1775-1833)である。それゆえ、あ
る面では、このトムソンを「科学的」社会主義の草分けとして称えはじめている。しかし、
彼の業績は、もっぱらオウエンの思想に基づくユートピアに過ぎない。労働価値説はまも
なく化石化し、リカードゥの権威を参照するために必要と見なされたドグマとなった。如
何なる批判的検討もなしにそうしたドグマを鵜呑みにし、明らかに誤った根拠に基づき曖
昧模糊としか見えない理論を構築したところに、マルクスが「科学的」社会主義の最たる
代弁者であると呼ばれる理由がある。こうした社会主義の科学性をどれだけ信頼できるか
は、各自、以上に述べたことにより判断しうるであろう。
しかしながら、こうした批判全体は、それ自体社会主義の核心を捉えているわけではな
い。社会主義者や彼ら経済学批判者の多くが、社会主義の価値論に大いに意味があると言
いたいとしても、実際は、価値論が根底においては、獲得すべき経済生活の社会主義的理
解と何ら関わりがないということである。こうした理解にある基本的な考えは、我々が生
産するものは、孤立した人間の労働の成果ではなく、社会的活動の成果であるということ
9
である。こうした基本的な観察と、各々の労働者の生産における配分を計算することとは
整合しないであろう。そもそも、社会主義の歴史において大きな役割を果たしてきた「労
働の全収益権」という考えは、深く考えてみると、その最も核心的な本質と相容れない。
このことは、それゆえ、いわゆる社会主義的価値論についても大きく当てはまる。それは、
もちろん、労働の全収益権の一表現であるが、結局、経済的社会生活に対して新しいより
広い視野を提供しようとする、浅はかな考えかトンチンカンな学説に過ぎない。
もし社会主義が、こうした点において、外皮であり皮相にすぎないものすべてを捨て去
ることができるのならば、かつてなく自己の目標について明確さを獲得することは確かで
あろう。その時にはまた、社会主義の真の核心が、いかにわずかしか近代的な社会政策と
変わらないことがわかるであろう。というのも、社会政策という名の下にここに集めたす
べての努力は、我々が生産するものは皆、社会的労働の成果であり、それゆえ、それへの
協力により労働の収益から各人がどれだけ要求しうるとはいえないという、共通の基本的
考えから出発しているからである。それゆえ、権利としての分配問題は存在しないことと
なる。社会政策は、それに代わり目標として目的合理的な分配を掲げる。社会政策は、社
会の収入全体を分配し、経済的社会生活全体を導く中で、各人が人格の諸能力を最高度に
発展させることを保障することを求めるのである。こうした目標は、自明の目標である人
間の幸福の唯一の客観的表現であるばかりではなく、常に個人や社会の生活をより豊かな
ものにしていく手段なのである。
我々、社会政策の旗を掲げて活動する者は、こうした目標が現在既に存在する諸力を活
用してしか実現しえないということを認識している。我々は、その者が自ら働くことで、
そして与えられた任務をやり遂げていく中でいかに人格を成長させていくかを見てきた。
それゆえ、なるべく広範な民主主義的基礎に基づくべきであり、けっして上からの恣意的
な介入に頼ってはならないことを理解している。我々は、社会を既に完成したものとして
実験を試みるのではない。というのも個人も社会も成長しなければならないと理解してい
るからである。千年王国であろうがカタストロフであろうが、奇跡には何らの期待もしな
いが、はっきりと定まった明確な目標のために少しでも前に進む活動を歓迎する。これら
すべての点で、我々は従来の社会主義と画然と袂を分かつ。現代の社会主義が同じことを
し、あらゆるユートピアから自己を切り離すほど、それは社会政策に近づくのである。
しかし、それゆえさらに、社会主義は、国家を唯一の救済する力として過信することを
やめることが求められる。国家は、もちろん、社会がそれによって自己の目的を実現する
多くの器官(organ)のひとつにすぎないのである。より高度な社会発展は、それぞれ多くの
役割を担う、より多様な器官を生み出すのであり、特に経済的な役割については、それは
国家が担うより数段優るのである。国家と社会をない混ぜにし、様々な社会の利益を国家
の任務とするのは、[社会発展の]全く幼弱な段階でのことに過ぎないのである。人生や歴史
について幾ばくか学んだ者ならば、目的にそって手段を選ぶことや、特別な場合に公的権
力、法制化の手段を利用するのであり、[国家とは]別の社会的生成物である、労働組合、
10
カルテルおよびトラスト、あるいは消費者の代表などを頼りにすべきことも理解できる。
以下での我々の任務は、こうした近代の社会的器官の最も重要なもののいくつかを特徴づ
け、一般的な形でそれらにかかわる政策を概観し、それらの活動の範囲を示すこと、しか
しまた、現在可能な限りで、それらの有用性の限界を画し、国家とコミューンの接する点
を見出し、そのようにして、公的な社会政策の最も重要な任務を明確にすることである。
自由主義と社会政策
社会政策のプログラムは、もし古い、いわゆる自由主義経済と新しい方向性とをはっき
りと区分するならば、より明確で鮮明に現れてくるであろう。
自由主義経済の基礎を築いた者として、通常アダム・スミス(Adam Smith 1726-1790)が
挙げられるが、この学派は、もちろん、他の大きな思想潮流と同様に一人の人物によって
作り上げられたとはいえない。アダム・スミスは、その主著『国富論』(1776 年)によって、
中世以来の強力な国家の保護の下での強制のシステムや、あらゆる経済関係に対する果て
しない規制を激しく攻撃し、個人のイニシァティヴや行動に最大限の余地を要求した。彼
がまいた種は、良好な土壌に根づき、対外のみならず国内についても、イギリスの交易政
策の広範で抜本的な改革という果実をもたらした。徒弟制度の規制により、究極的には特
定の営業に関する独占を意図したギルド制は、今や没落せねばならなかった。それは、確
かにイギリスの経済生活のごく一部しか支配していなかった。というのも、新しく興った
工業は、旧来の立法の外にあったからである。しかし、まもなく 19 世紀初頭の数十年に、
自由貿易主義者は国内の政治に決定的な影響力を持つようになり、完全なる営業の自由が
導入されることとなった。フランスにも革命を通じて到達して自由主義経済の基本原則が
普及したのに続き、今やヨーロッパ全体にも及んだ。営業の自由は、当然のことながら、
絶対的なものではない。というのも、例えば、医者や薬剤師など特的の職業には、それに
相応しい技能を有していることの証明書が要求される。しかし、これらの制限は、かつて
のように少数者の特権を守るためのものではなく、一般の利害のために行われるのである。
自由主義経済の勝利がもたらした転換は、対外交易政策の分野において、特にイギリス
では一層徹底していた。自由貿易の思想が、かつてどれだけ没落した思考様式と鋭い対照
性を持ったのかを理解するには、ヨーロッパ諸国のかつての交易政策が、常に競争相手を
打ち負かすことを目標とし、しばしば文字通り暴力で相手を打ちのめすことでそれを実現
しようとしたことを想起すれば、はっきりとわかるであろう。そうすることによってのみ
自国の商業が繁栄しうるというのである。こうした野蛮な考えから人類を解放したことが、
自由主義経済の文化的発展における不滅の貢献である。
イギリスにおいて、この新しい理論が、最も早く現れ、最も完全に実行に移された。1786
年のフランスとの通商条約や 1820 年のロンドン商人の議会への関税引き下げの請願が、そ
の最初の成果を示す。
11
それに続く数十年の間に、すべての保護関税は徐々に撤廃された。最も長きにわたり、
最も激しかったのが、穀物関税をめぐる闘争である。1838 年にマンチェスターで、その少
し前に設立された団体に倣い、関税撤廃団体が結成された。メンバーの中では、リチャー
ド・コブデン(Richard Cobden 1804-1865)とジョン・ブライト(John Bright 1811-1889)が
最も有力であった。まもなく、この団体とこれと同様の地方団体が集まり、穀物関税に反
対する大規模な連盟が成立した。そして、強力な弛まぬアジテーションを展開しつづけ、
ついには 1846 年に目標を達成した。
こうした活動の理性的なるものや公正さのみならず、激しい長きにわたる闘争により、
自由貿易の思想は、イギリスの国民に強い影響力を持つに至った。まもなく、もし国家が
特定の利害を保護したり優遇したりせず、経済生活への如何なる介入からも完全に離れる
ならば、国家の経済的利益を最も満足させるのだということは、反論し難い教義として立
ち現れることとなる。しかしながら、いつもそうであるように、豊かな思想もドグマに化
石化してしまう。「自由貿易」は、深く思慮することなく、社会のすべての状況に適用しう
るような公式となってしまった。非介入政策は、まったく不適当な適用範囲を与えられて
しまった。既に工場法への第一歩を踏み出した時に、自由主義の空論家は、国家が自由競
争に介入して霍乱しないように、児童労働の規制に対して反対した。こうした同様の行き
過ぎを、マンチェスターの指導者の一部や、イギリスやアメリカの理論経済学者の一部に
も 指 摘 で き る 。 こ の よ う に 特 徴 づ け ら れ る 理 論 的 方 向 性 が 、「 マ ン チ ェ ス タ ー 学 派
(Manchesterskolan)」と名づけられるのである。
ドイツでは、自由貿易思想は、ナポレオン戦争後の再生の時代に既に第一歩を踏み出し
た。しかし、本来のドイツ自由貿易主義の党派というならば、1848 年までは存在しない。
この党派の主要な機関は、いわゆる国民経済会議(folkhushållningskongressen)10で、1860
年代にドイツの政治に重要な役割を果たし、国家の政治的・経済的統一、概して近代国家
への移行に大いに貢献した。しかし、この党派にとっても、自由貿易はドグマとなり、国
家が経済に介入しないという要求は抽象的な原則となって、どのような個別ケースでもそ
こから実際に適用される政策が導き出されうると考えられるようになった。現実の生活を
調べるのではなく、一般的な仮説で満足してしまった。そのため、例えば、法の下での平
等が実現すればすぐに、あらゆる人間の間での平等が実現しうるのだと信じ、階級格差の
深刻な意味を見過ごしてしまった。
1872 年に、主に大学に属する経済学者によって社会政策学会が設立されたことは、こう
した理論的一面性への反抗として捉えられる。この団体は、自己の最大の任務を適切な調
査を行い、経済的・社会的諸問題を判断するのに信頼しうる事実を集めることに置き、こ
10
Volkswirtschftlicher Kongress あるいはドイツ経済者会議(Kongress deutscher Volkswirte).
大河内一男『独逸社会政策思想史・上巻』
(大河内一男著作集・第 1 巻)青林書院新社 1968 年、
33-38 頁を参照。
12
のような方法で一連の貴重な活動を積み重ねた。
以上のような自由貿易思想の歴史を手短に概観しただけでも、その本質的内容を明らか
にするには十分であると思われる。そこで、社会政策がこの思想とどのような点で異なる
のかを見てみよう。あらかじめ言っておかねばならないことは、如何なる理性的な社会政
策も、個人は、まず自分の力に拠るべきであり、彼の面倒を見てくれる政府の存在に慣れ
てはいけないのであり、個人は自活すべきであり、自分のことは自分で考え、社会の中で
一定の所得や地位が保障されるようにするべきであるということについては、自由主義経
済の基本的な考えに反対しないということである。社会政策は、当然のことながら、人格
を構成するあらゆる諸力が最大限に発達するように活動するのであり、その下ではそうし
た諸力が駄目にされるだけである甘やかしの温室政策には敵対するものに他ならない。こ
こまでのところ、社会政策の目標は、自由主義経済と同じである。
しかし、その手段が異なるのだ。
ここで「自由主義経済」という名にこだわるのは、この名が、しばしば使用される他の
名よりも、この学派全体の生活の見方をよりよく示すからである。ここでは、自由主義の
「自由(frihet)」観のことを考えている。その自由観は、先に見たとおり、本質的に形式的
である。自由は、個人が公的権力に課せられる何らの束縛をもうけないという純粋に消極
的な状況の中にあるのである。それゆえ、近代工業労働者は自由であり、使用者と個々の
労働者との契約は、平等な主体間の自由な交渉の結果であるのである。
こうしたものごとに対する形式主義的な見方は、社会政策とは全く無縁である。社会政
策は、現実と向き合い、自由を求めて全力を尽くし、実際に行動の自由を実現しようとす
るのである。しかし、それ[行動の自由]は、選ぶべき二つ以上の可能性があってこそ存
在しうる。使用者の出す条件を受け入れるか飢えるかの選択しかない者にとり、それは単
に選択であって、自由ではないのである。社会政策は、それゆえ、規律化されていない者
に一定の配慮をする形式主義的な自由を、一時的にはメリットがあるかもしれないが、実
際には当てにはならず、如何なる点でも人格や社会の発展にはつながらない場合、相当程
度犠牲にする用意がある。社会政策は、それが公的権力によろうと民間団体によろうと、
もはやもっぱら強制を用いるという後戻りはしない、ただそうした強制がより大きな実際
の自由をもたらす場合にのみ、それに訴えるのである。
極端な自由主義は、すべての権利が集約されたものとして契約された義務を果たすこと
に見るのであるが、それゆえ、「契約の保護」を経済的社会生活に関しての国家の唯一の任
務と考える。こうした空疎な貧しい国家理念に、社会政策は満足しない。国家の有用性を
経済的目的の実施にしかみない過小評価は、自由主義経済の根本的な誤りであり、それは、
国家の過大評価が、社会主義の誤りであった、あるいは一部は現在もそうであることに相
当する。社会政策は、すべての同様な極端なドグマを離れ、こうした面では予め定式化さ
れた理論に固執することをせず、それぞれの個別ケースにおいて、掲げた目標に到達する
には公的権力の使用がどれだけ適当で、どれだけ必要かを調査するのである。各個別ケー
13
スにおいて、国家に頼るのか、近代社会がその基盤とする豊富な他の社会的団体に頼るの
かは、全くの機会の問題である。
それゆえ、社会政策はまた、消費協同組合や労働組合といった新しい社会組織が絶え間
なく形成されてくるのを喜んで見守っている。こうした面で社会生活が豊かであるほど、
それぞれ特殊な目的に適合した機関をよりたやすく見つけることができるからである。自
由主義の社会理念は、各個人が、他の個人と少しも有機的に関連づけられずに孤立して存
在するような全くの原子論的なものである。アダム・スミスは、このように社会構造を最
高のものと位置づけたことでも十分に明らかであろう。彼は、ギルド制の強制的な団体主
義を批判する中で、同じ職業の者が出会うどのような機会さえも危険であるとまで言って
いる。「たとえ娯楽のためでも、同じ職業の者が会えば、仕舞いには一般利害に反する陰謀
や何らかの価格引き上げの合意などに至らないことは稀である」。確かに人々に出会うこと
を妨げることは不可能であるが、法はそれを強制せずとも、少なくとも容易にしないよう
にするべきである。「同じ都市に住む同じ職業の者すべてが、名前と住所を公的記録に署名
するようにする条例は、そうした出会いを容易にする。恐らくさもなければ互いに知らな
いであろう者であるが、同じ職業の者に、他の者とどこで会うことが出来るかを教えるの
である。同じ職業の者に、貧しい者、病人、未亡人と子供などを扶養するため課税する権
利を与える条例は、そうした者を養うのを共通の利害とすることにより、互いに会わねば
ならなくする。」スミスの理想も、如何なる集団もどのようなものであっても共通の利害の
下に結集することのない、互いに離れて孤立して生活する社会なのである。
社会政策の理想は、全く反対である。実際の社会は、個人個人のみでは成り立たないの
である。それに加えて、個人間の様々な連関をとりまとめて様々の社会的単位とし、それ
らを秩序づけて全体のための器官とすることが求められるのである。建物は、石の積み重
ねではなく、壁や床などからなり、壁はレンガや柱、アーチなどから構成されている。同
様にして、社会が社会として機能するためには、そうあらねばならないのである。社会政
策は、それゆえ、最も完全な社会を目指し、最も豊かで多様な社会構成体(boldning)を追求
する。原子論的社会ではなく、高度に組織化された社会がその理想となる。「社会(social)」
の語をそれにつけていることは、まさにそのことを強調しているわけである。
自由主義経済は、自由競争に、個人の福祉にも経済社会生活の公正な秩序のためにも適
用される普遍的な手段を見ている。自由競争において諸力が盲目的にまさに原子のように
活動することが頼るべき調節器なのであり、それゆえ、国家が直接どのように介入しよう
とも、それは不必要であり、むしろ霍乱させるのみとなる。
社会政策は、本質的に経済生活に異なる考えをもつ。自由主義のように[社会を]機械
のように把握する理解を持たず、発展は一種必然的に進むとは信じず、公正であると見な
す方向へ進むように発展に影響を与えられるし、与えねばならないと信じる。それゆえ、
社会政策は、政治的、すなわち、はっきりと認識した目標を実現すように計画的に活動を
積み重ねるものなのである。社会政策は、その名によってそのことを強調している。
14
社会政策の発展理論への態度
恐らく社会政策と自由主義の差は、発展理論(utvecklingsläran)に対する見方の違いに最
も鋭く現れる。この点で、自由主義経済は、科学に対する粗雑な侵害(försyndelse)との名を
免れ得ない。
「自由競争」が、全く自動的に進歩につながるとの理論は、それ自体、ダーウ
ィン(Charles R. Darwin 1809-1882) の生存競争における自然淘汰の理論の一面的で非科
学的な理解に基づき、無批判にこの理論を現実に妥当する領域である自然生活から社会生
活に移し替えているのである。
ダーウィニズムの核心は、もちろん、時代を通じて自然淘汰が進むことによって、ある
適合的な(ändamålsenklig)種が生き残るということである。
[しかし]この種がより高度な
ものであると想定することが、ダーウィンが何よりお仕舞いにしたかった古き神学的な理
解の残滓なのである。発展は、それ自体必然的に進歩を伴うものではない。種が自然淘汰
を通じて到達する適合性とは常に相対的なものであり、その種が生きていかねばならない
環境にすべての器官が相応しいものとなっていくことである。こうした発展が進歩か否か
という問題は、その種が成立していく環境に全くもって依存するのである。社会学的なア
ナロジーを試みる際には、自然史が衰退や退化について語っている事柄を忘れてはならな
い。
とはいえここで、外的自然においては、発展を進歩の方へ導く、すなわち、新しい特殊
技能を身につけ、状況に適した新たな器官を発達させることで、自然の大きな営み
(hushållning)の中に新たな自己の生活の場を見出せるようにするような一般的要因が存在
することを想起しなければならない。新たな場所や、新たな生計を立てる方法を見出そう
とすることは、有機的自然全体を常に分化させることを促す。また、生存競争は、常によ
り大きな、豊かな多様性をもたらすのであり、これを進歩と呼ぶのはもっともなことであ
る。この点においても、発展理論を社会の領域に当てはめようとする際には、我々は自然
から学ぼうとすべきである。
こうした移し替えにはなお相当の慎重さをもってすべきであるが、自由主義経済はまさ
にそれを怠ったのである。社会生活を単に自然生活の一部と見なし、自然科学が生存競争
について教えるところすべてを、そのまま経済競争に当てはめようとすることは不適当で
ある。自然淘汰は、主に二つの方向で作用することを忘れてはならない。すなわち、個体
がとんでもなく過剰に生まれでることとそれらの多くを何ら配慮することなく死滅させる
ことである。そして本質的にこうした二つの要因が作用するのを制限するのが、まさに文
明の際立った特質なのである。
確かに、文明社会においても、特定の社会層において人間が過剰に生まれてくることは
起こる。しかし、こうした過剰は、生理学的に可能である人口増加の限界に近づくことは
ないし、空間的な余裕がなくなるほど出生率が増大するという問題ではない。スペンサー
15
(Herbert Spencer 1820-1903)や他の者の、文明が生殖能力を減退させるという仮説を思い
浮かべればよいかもしれないが、確かなのは、人間は、生殖衝動を減退させて広範囲に他
の領域に関心を向けるようになっていることである。
文明社会において、人間は、競争に負けた人間を殺したりはしない。現代の文化世界に
おいては、生存競争における本来の自然淘汰のわずかな残滓のみが見られるのであり、そ
れも物理的な生活領域に限られる。肉体的に虚弱な者は、肺病などの病気で亡くなるかも
しれない。これにより、強者が一定程度淘汰され、少なくとも種はあまりにも虚弱となる
ことから守られる。こうした相当穏健な淘汰でも、現在は、医学の発達により著しく制限
されている。
経済的領域では、一般的に人々は生命をかけて争わない。もちろん、最下層の諸個人は、
しばしば間接的に彼らの没落の原因となった生活条件に晒されているというのは事実であ
る。なるほど、特にこうした状況は、大いに幼児に当てはまる。しかし、よく知られてい
るように、劣悪な状況におかれた諸階級における人口増大は、より恵まれた階級でそうで
あるよりも制限されるということにならない。それに対し、競争が実際にも生存競争であ
るならば、そうでなければならないのである。
特に、弱者が死滅されないように作用している二つの要因がある。この両要因とも文明
社会に固有なものであり、自然生活と文明社会を本質的に分けるのである。第一は、人道
的な理由から、そこに公的あるいは民間の慈善が現れ、人々を飢えるままにしておかない
ことである。第二に、所有階級に属する者であるならば、レントで生活し、自ら働く必要
がないので、虚弱な者でも、死んでしまうことはないことである。これら二つの文化生活
に固有な状況は、
「生存競争」に深く根づいており、社会の領域での自然淘汰を語る時には、
常に大いに誤解を招いてしまうのである。
マンチェスター学派は、自由競争がそれ自体、まったく機械的に進歩をもたらすと主張
するが、それはダーウィンの学説に何ら根拠を持たない。先に議論を進める前に、とにか
く一度このことを確認することが重要であろう。
先に述べたように、経済の領域では、通常命をかけた争いはしない。本質的に何を争う
のかというと、ある階級、ある職業、ある社会的地位に所属することである。この闘争を
通じて淘汰が行われるが、しかしそれは、本質的には「自然淘汰」とは異なる性格のもの
である。この「経済淘汰(ekonomiska urval)」は、生き残って子孫を残す者を選ぶことでは
ない。それゆえ、それは、直ちに種の改善にはつながらない。経済淘汰が理想とするのは、
社会のそれぞれの場で最も相応しいものを選ぶということである。
しかし、この理想は、文明社会になればそれに近いものが実現するとか、「介入しない」
という古い処方箋によってのみ実現しうるとかいうのは、全くの誤りである。我々は、こ
の点では、常に社会学を皮相なものにする脅威として、人々に広く受け入れられているが、
基本的には非科学的な自然史的現象からの非科学的なアナロジーに対し、格別に注意をし
なければならない。個人が競争をはじめ、続行する外的条件が異なるのであり、経済淘汰
16
は、性格が大きく変わり、
「非自然」なのである。一方は、思慮を重ねて自己の力を養うが、
他方はそうではない。〔一方〕は、名前、諸関係、金などが社会においてもたらすすべての
メリットを持つが、他方はない。そうした状況において、自己の個人的な能力は、それが
公正なものであるとしても、競争においてはけっして唯一の決定的な要因とはならない。
しかし、経済淘汰がその理想を実現するならば、自由主義経済のいう「自由な」競争が、
空言以上のものであるならば、そうであるのである。
社会政策が出発するのは、公正な経済的淘汰の前提が作り出されねばならないのであり、
そのためには意識的な介入が必要とされるという明確な洞察からである。
一定の数の者が何らかの目的のために選ばれる際には、概してその選択は、選択が行わ
れる対象が広いほど、望ましい者となることは明白である。それゆえ、選択対象を狭める
すべての人為的な障害や不必要な制限を撤廃することは重要である。例えば、高級官僚の
任命に貴族を優先するならば、どのような場合も何ら雑念なく、得られる中で最も有能な
人物を採用するという原則に常に忠実である場合にそうであったよりも高級官僚の能力は
時代を経るにしたがい劣化していくことは避けられない。それゆえ、すべての同様の制限
が取り除かれなければならないことは当然なのである。
しかしまた、能力が必要とされる仕事に相応しい人を選ぶために選択の対象の場を拡げ
るように積極的に活動しなければならない。それは、最大限に才能を持つ者にそれを伸ば
し、自己の力を活用する機会を与えることによって、究極的には、すべての社会階級の子
供に最善の保育や教育の機会を与えることによってのみ実現するのである。このような要
求は、民主主義の奥義に明るい光を当てる。平等の要求は、同じ才能を持つ者が同じ発達
の条件を与えるという要求に帰結してのみ、意味を持つのである。しかし、この要求は、
人は、最も効用をもたらす時や場所で各自の力を活用すべきであるという、大きな経済原
則の力にも支えられている。こうした基本的な考えに基づく民主主義は、生産社会の効率
極大化の努力と不可分に結びついているのであり、特権や独占を基盤としたあらゆる社会
形態に対する勝利をもたらすのである。とはいえ、このような近代民主主義は、人格の貴
族主義と対極にあるわけではない。淘汰が階層において下に向かってより広がっていくほ
ど、競争に勝ち残っていったものは、選ばれし者となるからである。
しかし、経済淘汰に関する社会政策の任務は、これに尽きない。既に述べたように、ど
のようなタイプが競争に勝ち残るのかは、競争が起こる諸条件に左右される。それゆえ、
経済淘汰が進歩につながるように、あらゆる領域でこうした条件を整えることが、極めて
重要なこととなる。そこで、社会政策にとり、すべての社会制度や社会現象を評価する際
の導きとなる観点は、次のようになる。〔すなわち〕それが、競争にどのような影響を与え
るのか。〔その下で〕淘汰がどのような方向に作用するのかである。これはまた、以下の部
分で、我々が、今日の最も重要な社会経済的現象である協同組合運動や労働組合運動につ
いて評価するに当たって、何より掲げておきたい観点でもある。
我々は、これまで、「自然淘汰」に最もよく対応する社会の発展過程における諸要因に注
17
意を向けてきた。しかし、忘れてならないのは、自然淘汰とは異なる近代の発展理論は、
発展のもう一つの主要因として機能的な適応(anpassningen)を捉えてきたのであり、こう
した現象もまた社会の領域に相当するものを見出せるのである。使用されることで鍛えら
れ、発達する器官もあれば、使用されずに消滅してしまう器官もあると、古き学説はいっ
ている。このようにして、すべての生きとし生けるものは自己の活動に適応しているので
ある。
近年、この学説は、力学に基づき実験や数学的手法を用いて様々な器官がその役割に適
応することを説明しようとしている「発達力学 utvecklingsmekanik」と呼ばれる新しい科
学において大いに支持されている。経済生活においても、人々は自己に加わる力に適応し
ているということは十分にありえる。当然、そこには、職業に関して純粋な力学的な適応
がある。しかし、そこでは、これとは異なる種類の適応、すなわち、意識的適応が作用す
るのであり、それに社会政策は機械的適応よりも関心を向けるのである。この種の適応は、
もちろん、民衆の教育にとり何よりも重要な手段である。人間は、人生の様々な場でつき
つけられている、あるいはつきつけられるであろう要求を認識していることに、他の生物
との違いがある。それゆえ、人間は、この要求を満たそうと努力するのであり、そのエネ
ルギーが、経済的地位を獲得するあるいは防衛する時ほど、強力に発せられることは稀で
ある。したがって、社会生活全体を、こうした意識的適応が最大限に進められるように形
作り、進歩に向かって実りあるように方向づけていくことが一層重要なのである。
我々は、こうした観点がいかに重要であるのかを、特に労働組合の政策を評価すること
において見出すことであろう。
18
Ⅱ.協同組合政策
ここで叙述しようと思う強力な運動は、イギリスの社会主義者ロバート・オウエンの活
動に出発点を持つ。もし彼が近代協同組合運動の基礎を築いた者といわないとしても、彼
は種をまいたのであり、それが今や芽を出し大木に成長しており、そこには確かに天空の
鳥が羽を休めはしないが、地を踏みしめる何百万もの労働者が身を守る場を見出している。
オウエンの人生で最も重要な時期は、19 世紀の最初の3分の1に当たっている。彼は、
産業革命の始まりを告げた国でその時期に生活していた。産業革命は、自然経済や手工業
から分業と大規模工業へ、自己消費のための生産から市場と呼ばれる不特定の者のためへ
の生産への移行で特徴づけられる。旧来の状況においては、生産と需要の間の一致が成り
立っていた。自己の家計のために生産する農民は、自己の必要とする所を良く知っていた
のであり、それにあわせて営みを調整したのである。確かに、収穫ができず、そのため、
必要を全く満たせないこともありえたが、しかし、少なくとも、何ら消費する見込みのな
いもののために労働を注ぎ込むことはしなかった。経済的諸力が十分にあり、自然的状況
が許す限り、生産と需要を一致させようとしたのである。同様のことは手工業にも当ては
まる。注文された以上のものを生産しなかったのであり、もし市場向けに生産したとして
も、少なくともそれは状況を経験でよく知っている、極めて制限された範囲のことであっ
た。
工業化が起こることにより、従来のような生産を目的意識的に消費の趣くところの下に
制御する条件は消失した。何らかの〔仕組み〕が代わりに組み込まれなければならないこ
とは明らかである。新たな状況の下でも生産と需要を一致させる手段を見出すことは、当
時の社会政策の担い手や経済学者に課せられた大きな任務であった。しかし、概して彼ら
はそのことに眼を向けなかった。ここに解決すべき課題があることに深い理解を示した唯
一の人物が、しばしばそうであるのだが、専門家ではない一介の工場経営者に過ぎない、
ロバート・オウエンなのであった。
純粋に技術的に見ると、工場制は、非常に高度な生産組織である。もちろん分業は進み、
少なくとも従来の生産方法に匹敵するほどであった。各人はそれぞれ満たすべき役割を持
ち、その労働は全体の中にきっちりと組み込まれ、大きな複雑な機械における歯車のよう
であった。オウエン自身そこから他では得難い経験を得た。ウェールズの小商人の息子で
あるオウエンは、10 歳の時から自活せねばならなかったが、尽きることのないエネルギー
をもって、あらゆる機会を利用して知識や熟練を獲得するよう努力した。20 歳の時に、彼
は、マンチェスター最大の綿紡績工場の支配人となり、数年後の 1800 年 6 月 1 日には、ニ
ューラナーク(New Lanark)の大きな紡績工場の経営を任せられるに至る。そこで彼は、極
めて不満足な状況で生活しているため、規律や能力の面で、作業が当然要求されうるより
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もかなり劣っている多くの労働者を見出すこととなる。オウエンは、すぐに何をすべきな
のかを明確にした。すなわち、良き労働を得るためには労働者の状況を改善しなければな
らないのである。それゆえ、彼は、賃金を上げ、労働時間を 1 日 17 時間から 10 時間に短
縮し、10 歳以下の子供を働かすことを禁じた。彼は、労働者に無料で学校、娯楽の機会、
必需品そして住宅を提供した。かくして彼は成功した。数年後、彼は 2,500 人の労働者を
擁する工場主となり、そこでは労働者はモデルとなるような[恵まれた]環境で生活し、
その労働は彼に莫大な収入をもたらすこととなった。
このような私的活動で成功をおさめた組織化の天才が、大きな視野をもって社会全体を
組織することを考え、同時期の大きな経済問題の解決を試みたことは全く自然なことであ
る。既に早くからオウエンは、それ自身でその成員の需要を確定し、生産を主導する社会
主義的コミュ二ティのスケッチを描いていた。後に彼は、前の章で見たように、こうした
社会を実現しようと幾度も試みることとなる。しかし、社会主義的労働者コミュ二ティの
実験に飽くことをしらず全身全霊をもって従事したのにもかかわらず、多大な経済的損失
をこうむり、それらはすべて失敗してしまったように思える。それらが失敗したのは、彼
が、有機的発展をそこに期待せず、完成された社会を作り出そうとしたこと、そして何よ
り本質的には、彼が問題を上から捉えたため、彼が新たに作り出したものには、広範な民
主主義的基礎がなく、それがなければ労働者階級の解放は、現実的で恒常的な意味がない
からである。
こうしたオウエンの社会主義的社会を構築しようとした試みが、まったく意味がなかっ
たわけではない。それにより協同組合の理念が初めて世に出たのであり、その試みが、一
連の「協同組合」的企業の設立を促したのである。それらの大部分は失敗する運命にあっ
たが、それらを通じて、ついには現実に生き残る力をもつ、近代的消費協同組合とその中
央組織が姿を現すこととなる。このような展開は、そのすべての段階においてロバート・
オウエンの思想の養分を吸収したのであり、それゆえ、オウエンを協同組合の父と名づけ
るのには大いに意味がある。
一方、正統派経済学も、独自に生産と需要の一致を実現する問題の解決を提示した。す
なわち、自由競争のシステムにおいては、利潤のみが起動力となるのであるから、生産の
メカニズム全体は、自動的に消費需要に調整される。もし、何かの需要がよく満たされな
い場合、需要が供給を上回るので、無条件に価格上昇を引き起こし、それによって生じた
利潤がその生産を増進させる。それにより価格は再び下がり、最終的には消費が生産諸コ
ストをまかなう水準で需要は満たされることとなるからである。
オウエンが信頼していなかったのは、まさにこうした自動的な調整である。それゆえ、
彼は、自由競争システムにかわって科学的・統計的に需要を確定し、そうした統計的基礎
に基づきつつ、社会的生産全体を統一的に管理するシステムを打ちたてようとした。特に
彼が確信していたことは、自由競争は利潤を根絶することができないということである。
このことを彼は、一般的社会経済学的観点のみならず全くの道徳的観点からも枢要なこと
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であると考えた。「利潤、個人の営みから得られる利潤は、人間的自然において活動におけ
る低級な動機に他ならない」。オウエンの理想は、それゆえ、価格形成の要素として利潤を
完全に消し去ることであった。
これはまた、すべての協同組合政策の合言葉となった。
しかし、この目標を実現するのに、二つの道が開かれた。一つは、ある商品の生産に関
わる労働者が結集し、自分たちで生産を引き受けてしまう、つまり自分たちが使用者とな
ることが考えられた。それにより、さもなければ彼らの眼から見れば不必要な仲介者であ
る使用者あるいは企業の手許に入ってしまう利潤を自分たちが得ることができるのである。
これすなわち、協同組合的生産(den kooperativa produktionen)の道である。
この道の特徴は、利潤が資本家の間で投資した資本量に応じて分配されるのではなく、
労働者の間で実際に行った労働に応じて分配されることである。
第二の道は、目標として利潤の完全なる根絶を目指している。その手段は、協同組合的
消費(kooperativ konsumtion)と呼ばれ、消費者が結集して、自らが消費するものを購入す
る、あるいは自己の計算にしたがって生産者に作らせ、それにより、商品の実際の生産コ
スト以上を支払わないようにすることである。
協同組合のこの二つの道は、理論的に見ても、経済的社会的効果から見ても本質的に異
なるので、本来二つの独立した運動と捉えなければならない。歴史的に与えられている共
通の「協同組合」という名前があるからといって、一方の運動についての判断を延長して、
さらに他方にも当てはまるとするようなことがあってはならない。それゆえ、ここで我々
は、この二つをはっきり分け、それぞれについて別々に扱うこととなる。
協同組合的生産
既に最初の講義で述べたように、近代の社会組織化活動とは、当初から様々な方向より
実際の活動によって社会主義的理想国家の実現を目指す試みであったことがわかる。こう
した観点から、我々は、例えば、フランスの社会主義者ルイ・ブラン(Jean Joseph Louis
Blanc 1811-82)が、生産協同組合を設立しようと労働者の間で積極的に説得して歩いたこと
を理解しなければならない。その第一歩として、彼は、国家が作業場を設けることを要求
した。それは、労働者が訓練を受け組織された時点で、労働者に引き渡されることとなる
はずのものであった。1848 年の革命の年に、ルイ・ブランの理念は憲法制定会議で影響力
を発揮し、そこで 3 百万フランをこのような労働者アソシエーションの設立に補助するこ
とが決定された。しかし、この試みは、何らの成果にもつながらなかった。
既に 1831 年に、パリの医者であるビュシェ(Philippe Buchez 1796-1865)が、いわゆる労
働者生産協同組合(Associations Ouvières)の運動を始めた。即ち、同じ作業所の労働者の間
で作業所の経営を引き継ぎ、自分たちで運営していこうという運動である。ビュシェの掲
げた理念とは、私的使用者を廃し、そのかわりに生産協同組合を作り、自分たちでリスク
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も背負うが利潤も自分の物にするということであった。企業のリーダーはメンバーから選
ばれ、状況に応じてはその望みにより解職された。労働者は、通常の賃金を得る。生じた
利潤は、二つの部分に分けられる。一つは、各メンバーが行った労働に従い分配される。
そのことは、もちろん一般的な賃上げを意味する。もう一つの部分は、組合の資本とされ、
メンバー共有のものとなるが、分配されたり引き出されたりせず、企業の存続を保障する
こととなる。ビュシェは、このようにして共和国の基本理念、自由、博愛、平等を産業の
領域にも実現すると考えた。
こうした協同組合運動に特徴的なのは、洗練された手工業、特に工芸品生産に限られる
ことである。最初のアソシエーションは、宝飾加工の労働者により結成された。彼らは、
工業変革とは無縁の領域に限定することで、ロバート・オウエンが直面していた大きな問
題、すなわち、新しい機械技術に基づく生産形態に対応した組織形態を作り出すという問
題をやり過ごすことができた。
彼らは、また、それにより様々な大きな困難も回避した。というのも、アソシエーショ
ンは大規模である必要はなく、高価な機械や設備にそれ相応の資本を用意する必要もなか
ったのである。こうして彼らが選んだ領域は、労働者の生産組織として相対的に適してい
た。それにもかかわらず、ごく数年はうまくいったが、運動は没落してしまう。
フランスのアソシエーション思想は、まもなくイギリスにも地歩を得た。いわゆる「キ
リスト教社会主義者」の一つのグループが、1849 年に「労働者協会普及協会(The Society for
Promoting Working Men’s Association)」を設立した。この協会は、12 のアソシエーショ
ンを設立したが、すべてフランスのそれと同様に、少なくとも同時期にはなお機械技術が
入っていない職業におけるものであった。そのうち三つは仕立工、二つは製靴工のもので、
二つは建築業に属し、他の四つは、それぞれ、ピアノ製造工、印刷工、鍛冶工、パン製造
工のものであった。3 年あるいは 4 年の間、献身的な努力を続けたが、「キリスト教社会主
義者」は、失望の中で事業をあきらめた。数年の間に、それらの組合は、解散するか、あ
るいは利潤を目的とする小規模な私企業に堕したのである。
1870 年以前に設立された数百にのぼる生産アソシエーションのうち、現在残っているの
はたった三つである。
イングランドの生産協同組合についての統計を見ると、我々は、その運動は、実際そう
であったよりも実り豊かなものであったと思えるかもしれない。しかし、このカテゴリー
で統計に記録されている企業から、生産に従事する労働者による本来の協同組合と異なる
多くのグループを取り除くことを忘れてはならない。まず、消費協同組合によって経営さ
れ、利潤が消費者に還元される企業を除かねばならない。さらに、株式の多くが労働者階
級によって所有されているのだが、通常の株式会社に他ならない企業も取り除かねばなら
ない。その企業に雇われた労働者が一部の株式を有していたとしても、その企業を真の生
産協同組合と見なすには不十分なのである。それに加えて、自己のメンバー以外に労働者
を雇うため、小規模な私的資本主義企業に堕落する傾向が強い、生産協同組合と呼ばれて
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いる企業も除くべきである。生産協同組合を本質的に特徴づけるのは、メンバーのみを雇
用していることと、利潤を労働に応じて分配していることであるからである。自己の理念
に忠実であるならば、メンバーにより取締役や社長も自ら選ぶことも求められる。多くの
企業、特にフィランスロピストによって設立された企業は、こうした要件を欠いており、
生産協同組合のリストから外されるべきである。
このようにして、統計が生産協同組合の名の下に一緒くたにしている数字を腑分けする
と、真に生産協同組合に値するのは、いくつかの、かなり取りに足らないあるいは未熟な
企業に限定されることがわかる。
それゆえ、以下の問題に否応なく直面することとなる。同じ作業所の労働者が団結して
経営を引き継ぎ、自分達によって切り盛りしていくという理念は、ちょっと見ると全く自
然であるのに、それを実現しようとする試みがかくも押しなべて失敗してしまうのはなぜ
かという問である。
こうした生産協同組合が没落してしまう二つの原因をまず挙げられるであろう。
第一の原因は、資本を獲得することの困難である。多くの場合、必要な資本を寄贈する
ことによって事業を開始するのは、外部のフィランスロピストであった。そのような基礎
に基づいていては、大きな民主主義的な運動は発達しないことは当然である。殆どの組合
が事業を始めた際には、ごく限られた資本しかなく、それゆえ、原料は少量のみ、地域の
市場において信用で調達せねばならず、それは、大量に現金で購入する買手が享受する割
引に与れないことを意味した。また、機械や、設備全体についても他より劣ったものであ
った。要するに、競争を不利な条件で始めねばならなかったのである。資本を獲得するた
め、これらの資本主義システムの改革者たちは、破滅的な利子を設定した。それにより、
近代的な協同組合運動の基本原則から大きく離れてしまった。とにかく、この過重な利子
支払いとそれに伴う収益の減少は、最終的には労働者が、賃金引下げや労働強化という形
で背負わねばならなかった。殆どの場合、資本の不足が、非常に早い組合の没落につなが
ったのである。
また、作業所の労働者自身が作業所や生産手段の所有者たるべきであるという考えは、
将来においても見込みがない。近代工業は、多くの場合、労働者一人一人に夥しい資本の
量を扱うことを要求しており、現行社会において、労働者がそれに相当する富を所有しう
るようになることが広がるということは考えにくい。たとえ完全に所有が平等に分配され
た理想社会であっても、そのようなことは不可能である。というのも、産業が異なれば、
労働者は異なる量の資本を所有することとなるからである。また、どのような状況であっ
ても、外部の者が、労働者を雇用するために必要な一部ないし全部の資本を得ることは不
可避である。
生産協同組合企業が没落する、恐らく一層一般的な理由は、企業の取締役における諸々
の困難であった。労働者が自分達の中から取締役を、直接間接に社長や職長を選ぶ工場で
は、どのような状況となるか想像できるであろう。今日、こうした労働者や、もちろん取
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締役までも社長の指揮下にある。彼らの労働はその管理の対象であり、失敗や過ちを犯せ
ば、給料から差し引かれる。一言で言えば、彼らは全体として規律の下にあり、近代工業
企業の成否は、そのことに本質的に左右されるのである。一晩でこうした情景が一変し、
全く逆の関係になったらどうなるか。社長は取締役にかしずくようになる。彼が、取締役
メンバーのやる事を受け入れることを拒否したり、その親戚か友人を解雇したりすれば、
厳しい非難の対象となってしまうことが確かとなる。そのような状況が長持ちしないこと
は当然である。争い、闘争、革命が組織において日常のこととならざるを得ない。企業経
営において何らかの継続性を維持することは不可能である。まさに殆どの生産協同組合が、
こうした困難のために暗礁に乗り上げたのである。いくつかの組合は、メンバーから通常
の権利を取り上げ、無闇に自分たちが働く工場の経営に介入することを妨げることにより
窮地を脱した。取締役は、その際には外部の株主に任されたのであるが、それゆえ、普通
の株式会社と殆ど変わらなくなってきたことがわかろう。
概して、資本の不足か劣悪な経営ゆえに破綻しない場合でも、殆どすべての生産協同組
合は、次第に私的資本主義企業に近づき、協同組合の大原則から離れていくことが特徴的
である。この種の企業は、労働者であった者によって所有されるという点で、少なからぬ
社会政策的な価値を持つ。しかし、しばしばそれらは、小規模で設備の整わぬ企業に留ま
り、暗愚な経営の下に置かれ、現実には労働者に最悪の労働条件を強い、苦汗制度がはび
こるようになってしまっているのである。
このような窮乏化は、決して偶然の現象ではなく、根深い原因に関わるのであり、本来、
協同組合的生産の思想全体に関わる根本的な誤りに拠るのである。
ある協同組合の作業場がうまくいっており、その労働者に通常の賃金以上の待遇を与え
ていると想定しよう。すると、当然新たに労働者がやってきて自分もメンバーとして採用
され、これまでのメンバーと同様の条件を得ることを要求する。旧来のメンバーは、全く
望まないことだとして、断るであろう。我々は、年間大きな利潤をあげているのであり、
それを他者と分かち合いたくないのである。もしメンバーを増やすとすれば、より大きな
利潤を得られるのか不確かであるので、その際には、利潤をより多くの者の間で分けるの
であるから、各自の取り分は少なくなる。または、彼らはこう言うであろう。我々は、現
在生産している体制を殆ど自由に変更できない、それゆえ、より多くの労働者を雇うこと
はできない。こうしてこの組合は閉鎖的となっていき、メンバーであることは、少数者の
特権となっていく。彼らが得ている通常の賃金以上の待遇は、本質的には私的資本主義企
業の利潤と同じ性格を持っている。少数の労働者が、特権の城壁に守られているのであり、
この城壁を打破しない限り、すべての労働者階級が同じ道を歩むようにはできない。
そうしたやり方では労働者階級の解放にはたどり着けないのであれば、そのために協同
組合運動家が大いに情熱をつぎ込み、多大な犠牲を払う協同組合運動の目標とはならない。
少数の参加者にのみ特権を与えることを目指す運動は、真に民主主義的なものではない。
民主主義の本質は、必要な人格的な条件さえ満たせば、誰にでも門戸を開く開放性にある。
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それは、あらゆる領域に当てはまる。「選挙権の範囲」を定めることは、常に特権階級ある
いは閉鎖的な階級を生み出すことである。その範囲をただ広げても、特権の物質的な利点
や道徳的な危険性をより多くの者に広げるだけで、実質的な民主主義はもたらされない。
こうした改革に民主主義の名を与えることは、常に民主主義の概念の狭隘で誤った理解を
後押ししてしまうような危険を一層増大させてしまうこととなるのである。
同じことは、協同組合の領域にも当てはまる。能力ある者やそれに貢献しようと思う者
すべてに門戸を開いていない協同組合は、その名を担うに値しない。それを「協同組合」
と呼ぶことは、ただ協同組合の本質についての誤った像を普及することにつながるだけで
ある。
しかし、まさに労働者の生産協同組合は、開放的でありえない。一般に、ある商品の需
要は限られているが、生産能力はそうではない。もしある生産協同組合が、その職業の熟
練労働者すべてに門戸を開いているとすると、たやすく生産は需要を上回るであろう。特
にそのことは不況期に当てはまることは想像に難くない。多くの生産協同組合が、メンバ
ーに仕事を確保するため、仕事が不足している時に設立されているのが事実である。しか
し、今や、ある商品の過剰生産や過少消費は、この商品をより多く生産することでは良く
ならないことは明白である。メンバーに仕事を与えることを目的とした組合は、実際のと
ころ、生産物は、需要があるかどうかにかかわらず、労働を投下したことにより価値をも
つとする、マルクスの価値論で見たのと同じ運命的な経済学的誤りを犯している。事物の
本性において、すべて物を作る際には人間の必要を充足することが意図されねばならない。
労働、「仕事」は、そのための手段に過ぎない。手段を目的とするならば、経済学のすべて
の論理が逆転してしまう。そうした誤りが実際にもたらす帰結から免れることができなく
なるのである。
協同組合的生産が概して挫折するのは、こうした出発点自体における原理的な誤りによ
る。それに対し、消費者による協同組合は、開放的となりえるのが普通である。というの
も、少なくとも、大きな消費財については、一般的に好きなだけ購入しうるのである。新
しいメンバーが消費組合に加入しても、メンバーの需要を満たすことは困難にはならず、
むしろ容易になるのである。
購買者間の協同組合は可能であるが、販売者間の協同組合は不可能であるという対比も
言われている。一般的にいって、疑いなく真理である。それゆえ、本来の意味での消費協
同組合のみでなく、農民による肥料などの共同購入や、手工業者の原料の共同購入なども
活発な活動を見せているのであり、自己の協同組合の理念をしっかりと持ち続けているの
である。
しかし、[それだけでは]こうした雑多なものの中に事柄の核心を見出せない。ここ北欧
で最も盛んな協同組合である、酪農組合(andelsmejerierna)を考えてみれば十分である。そ
れは、メンバーである牧場からのミルクを共同で加工し販売するという、疑いようのない
販売者の組合である。しかし、協同組合としての可能性の有無を決める深遠な違いが存在
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する。我々は、酪農が営まれている様々なアソシエーションの形態を検討することによっ
て最も事態を明らかにすることができるであろう。どのような場合でも経済団体の性格を
規定するのは、利潤が分配されている基本原理にあるということを想起すべきである。ま
ず酪農は、各自が投下した資本に応じて利潤を分配する資本家の集まりによって経営され
うる。これは、通常の株式会社の一種である。そうした企業は、開放的とはなりえない。
うまくいっているならば、株価は額面を超えて値上がりするのであり、旧来のメンバーは、
自分達と同じだけ出資しようといっても、新たな参加を許容できない。この場合、資本の
供給は、それが活用されうる可能性に比して全く制限される。組合は閉鎖的となり、企業
は、少数の選ばれた者のための特権となる。[また]酪農は、雇われている労働者の組合に
よっても営まれうるのであり、その場合、利潤は、各自が行った労働に応じて分配される。
これは、生産協同組合の一種である。そのような組合も開放的ではありえないことは、既
に見たとおりである。労働力の供給は、ここでも需要に対して無制限である。さらに、酪
農が、消費者の団体によって営まれることも考えられる。その場合、利潤は、各メンバー
の購入分に従って分配されるのであり、組合は、より安価に商品を購入することを目的と
している。これは、消費協同組合である。それは、一般的にいって、開放的でありうる。
というのも、メンバーが増えれば、ミルクをより多く購入すればよいからである。しかし、
ミルクの供給が、消費よりもはるかに制限されていることを考えてみよう。消費協同組合
が、近隣地域のすべてのミルク供給者と長期の契約を結んでいるとすれば、より多くのミ
ルクを得るには、コストを上げるか、品質が著しく劣化したミルクに満足するしかない。
その場合、この組合のメンバーは、自分が特権的な地位にあることを感じるようになり、
その特権を組合への参加を望む他のミルク消費者と分かち合うような気になりようがない
ことは確かである。最後に、酪農がミルク供給業者によって協同組合的に営まれている場
合を考えてみよう。その場合、利潤は、供給したミルクの量にしたがって利潤が分配され
る。それによって、ミルクに対しより高い代価を得ることが目指される。そうした組合は、
良質なミルクを供給しうる状況にあり、その他に組合の条件を満たすならば、誰に対して
も門戸を開放しうることは明らかである。このことは、究極的には、ミルク供給業者のグ
ループが、ここで問題になっている商売で遭遇する様々な要因により、厳しく制限されて
いるからこそ可能となる。ミルクの供給に比して、資本、労働、ミルクあるいはバターの
消費者の供給に関しては、実際には制限されていない。厳しく制限されている要因、その
他に比して最も希少である要因が、開放的な協同組合にとって最も良い土壌を提供するの
は、事の理である。というのも、その要因は常に活用される場が残されているからである。
ここに、協同組合企業の先行きにとり最終的に決定的な試金石が見出される。
協同組合的消費
協同組合運動のこの分野は、協同組合的生産と同様に、ロバート・オウエンの実験をモ
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デルとして小規模な共産主義社会を建設しようとする試みに由来する。問題がそこに至る
手段であるということはもちろんである。オウエンの活動の側らにいて、その弟子達が協
同組合の最も困難な問題に対する解決のプランを得ることになった。ニューラナークでは、
そこで働く労働者のために店を作った。そこでは、商品を大量に仕入れ、自分のための利
潤ぬきで販売したのである。オウエンは店賃も無料にしたが、利潤として店で働く従業員
の賃金に支払う分のみは見込んだのである。それは、労働者が、必需品を大量に共同で購
入することによって、これ以上のないメリットを得られることを確信する機会となった。
「自給的コミュニティ」の実現のために活動する社会主義者は、このようにして自己の
コミュニティの第一歩を踏みしめ、その活動を経済生活のあらゆる領域に広げていくのに
必要な資本を獲得していくという考えを持っていた。彼らは、メンバーが各自 1 ポンド(18
クローネ)を出資し、仕入れた品物を通常の市場価格で販売するといった協同組合店舗を設
立していった。投下資金に対する利子を上回る利潤は、上記のような目標のために使うこ
とが意図された。
オウエン自身は、少なくとも初めは、この運動の意義について正しい理解を全く示して
いなかった。それは十分説明のつくことであった。王室や議会の介入によって社会主義社
会の実現を期待していた者ならば、ささやかな資金で始められ、消費者の利害にそって穀
物や小麦粉やベーコンを売るような運動を、一種の軽蔑をもって見下すことを避けられな
かったであろう。
1828 年から 32 年の間に、イングランドにおける最初のかなり活発な協同組合店舗の運
動が展開した。これらの店舗は資本を集め、それで多くの必需品を生産した。しかし、そ
れは、メンバーに仕事を確保するためのものであって、それゆえに自分達のニーズ以上の
物をしばしば生産するようになった。それらは、協同組合的生産の一般的な不可能性に遭
遇して挫折することとなる。出資した資本に応じて利潤が分配されると、これらの企業も、
次第に利潤を目的とする閉鎖的な商業団体に堕していったのである。
その後、ロンドンで生成した運動も同じ経路を辿った。1867 年に、この町の何人かの郵
便局員が消費協同組合を立ち上げ、その後それは多角的に事業を営む企業「市民サービス
供給協会(The Civil Service Supply Association)」に発展することとなった。当初、この企
業は利潤を再投資したが、今や普通の株式会社のように、初めに出資した額に応じて配当
が出されている。こうした団体は、当然開放的となりえない。この団体に登録した顧客
40,000 人のうち 5,000 人は、閉鎖的かつ特権的な株主層をなしている。当初 10 シリング(9
クローネ)の出資で 1 株であったが、今や 125 ポンド(2,250 クローネ)の価値を持つ。これと
同様の団体が、陸海軍の消費協同組合であり、そのヴィクトリア・ストリートにある品揃
え豊富な店舗は、訪れた者が注目しないわけにいかない場所となっている。
1844 年 12 月のある晩に、イングランド北部のロッチデール市の裏通りに小さな協同組
合店舗が開店した。28 人のどこにでもいるようなランカシャーの労働者が集まり、共同で
小麦粉、バター、砂糖などを購入しようとしたものであった。彼らは、各自 1 ポンドを出
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資し、それゆえ、資金が 28 ポンド(500 クローネ余り)集まった。当初、店は土曜日と月曜
日の晩にのみ開けられた。その間、メンバーは仕事を分担し、ある者は売り子を、ある者
は週に 2 ポンドの売り上げを計算する会計係を任された。それは、どこから見てもはなは
だつつましい企業であった。誰も、これが、イングランドのみではなくその他多くの国に
おいても近代消費協同組合として巨大な組織を形成するようになる出発点であったとは想
像もつかなかった。
この「ロッチデールの開拓者」によって設立された組合は、1897 年には 12,775 人もの
メンバーを擁し、6.3 百万クローネの資本、5.8 百万クローネの売り上げ、68 万クローネの
利潤を誇っている。本来の事業の他に、組合は、約 2 万冊を揃える読書室と多くの住居を
持っていた。しかし、この組合は、範例を与えることで一層重要な意義を持った。イング
ランド北部やスコットランド一帯では、ロッチデールをモデルとして協同組合店舗が叢生
している。他の数多くの協同組合の実験が失敗している一方、この運動は、あらゆる障害
や困難を克服する生命力を見せており、実際的な社会政策が基づくべきものが何かを示し
ている。それゆえにこそ、ロッチデール組合は、今日なお我々の特別な注意を引き付ける
のである。
まず、これらの「開拓者」が掲げた目標を見てみよう。それは、「食料品、衣料品等を販売
する店を設立すること」「メンバーのための住居となる家を建てるか購入すること」「失業
者や余りに少ない収入しかないメンバーに仕事を与えるために、組合が定めた品物を生産
すること」
「同じ目的で農業を経営すること」
「出来る限り早く、すべての力を生産、分配、
教育、管理にふりむける組織に移行すること、言い換えれば、共同の利益の下に運営され
る自給自足的なコロニーを設立し、他の組合が同様のコロニーを設立することを助けるよ
うになること」
最後の点は、この近代的な協同組合運動でさえ、当初は、元来の目標として社会主義的
未来国家をどれほど夢見たのかを示している。しかし、運動全体にとって幸いなことに、[実
際の活動の中で]最初の二つの点に注意が集まるようになり、その他すべての目標は後景に
退いてしまった。このようにして、すべての力が、メンバーの需要を満足させる協同組合
的組織を形成することに結集されることとなった。
ロッチデール組合を真の消費アソシエーションにしたのは、利益(vinsten)は各メンバー
の購入額に応じて分配すると規約に定められたことであった。この簡単で一見すると取り
に足らない規定が、実際には利潤の完全なる廃棄を意味するのであり、それゆえ、運動が
大規模な開放的な民主主義に発展していく可能性を示した。このように小売業の利益が購
買者に分配されるならば、利潤を見込まず、商品を原価で販売するのと同義となるからで
ある。始めから商品を原価で販売し、それゆえ、利益はあがらないとした方が簡単である
ことは誰も反対しないであろう。しかし、商売を営む者であれば、これが実際には不可能
であることを知っている。余りにも薄いマージンではやっていけない。損はしないという
ことを確実にするためには、価格を利益があがるように設定しなければならないのである。
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それゆえ、最も簡単なのは、他の小売商で普通である値段をつけ、生じると思われる利益
を各自が購入した額に応じて分配することとなる。
この原則に基づく組合は、当然、閉鎖的であることに関心をもたない。その組合が新し
いメンバーに配分する利益は、そのメンバーが組合にもたらす売り上げの増加分に相当す
るからである。従来からのメンバーは、それによって痛手を被るはありえない。逆に、組
合が出来るだけ大きくなって、売り上げが増進されるほど、より有利に物品を購買する可
能性がでてくるに違いなく、それは明らかに従来のメンバーにとっても利益なのである。
また、イギリスの消費協同組合は、考えられる限りにおいて開放的である。要求されるこ
とは、ただ 1 シリング(90 エーレ)の入会金のみである。入会金を支払うことにより、完全
なるメンバーシップを得られるが、通常、それは購入する権利と公正な利益の配分を受け
る権利のみを意味する。今や、集められた利益はメンバーの管理の下にあり、各メンバー
はその配当すべてを自由にできる(通常 1 ポンド)。こうして、労働者は、選挙権と組合執行
部や他の代表ポストに就任する被選挙権をもつ完全なメンバーとなるのである。この原則
を承認し、入会することを望む者がいれば誰に対しても組織をオープンにしておくのに、
もはや努力の必要はない。
ここで、イギリスの協同組合運動がロッチデールの消費組合から得た最も重要な原則、
合わせていわゆる「ロッチデール・システム」と呼ばれるものをまとめておこう。
1.主に自己資本で店舗を設けること。
2.間違いのない混ざり気のない商品のみを販売すること。
3.商品の重さや長さは額面どおりに提供すること。
4.現行の市場価格を見込み、通常の店舗より安売りはしないこと。
5.信用販売はせず、自らも信用で物を購入しないこと。
6.利益をメンバー間に購入金額に応じて分配すること。
7.メンバーを説得し、利益の配当を協同組合事業に残し、それを資本として活用でき
るように努めること。
8.預けられた資本の利子率は5%(後に4%)に制限すること。
9.利益の 2.5%を教育の目的のために取り除け、それをメンバーの能力開発や向上のた
めに使うこと。
10.民主主義的ルールを適用すること。すなわち、1 人1票。
特に最後のルールが民主主義の運動としての協同組合運動を特徴づけるのであり、通常
の資本主義的企業の寡頭制と鋭く区別される所である。協同組合においては、人格こそが、
本質的かつ決定的な要素として現れるのに対し、株式会社では、この位置を占めるのが金
なのである。この他の側面でも、協同組合運動は民主主義的構成をもっている。通常、雇
われた労働者は、組合の経営陣やすべての選挙から排除されている。組合で働いている者
29
は、同時に組合を支配することはできないのである。この点において、近代的消費協同組
合は、組合で働く者が組合を運営するという原則から出発した生産協同組合とはっきりと
区別される。
前者の[雇われた者は経営から排除される]原則は、イギリスの政治生活を特徴づける
ものである。議会は、民主主義を象徴する存在であるが、そこには国家官僚、すなわち民
主主義の実施者は議席を持つことは出来ないし、発現することはできない。厳格な慣習に
より、彼らはまた、議会選挙で政治的プロパガンダに積極的に加わることは禁じられてい
る。
1844 年にロッチデールで始まった運動は、急速に広まった。1851 年には、イングランド
北部やスコットランドでは、このシステムに倣った 130 の消費協同組合が存在していた。
1863 年に卸売りのために中央組織を設立することにより、運動は飛躍の時を迎えた。この
組織は、後に「卸売協同組合(The Cooperative Wholesale Society)」に発展し、今日ではそ
の名を世界中に轟かせている。この協会は、本部をマンチェスターに置き、消費協同組合
で扱う商品を卸売りしている。協同組合のみがメンバーとなることができ、そのメンバー
にのみ商品を販売している。利益は、各組合の購入額に応じて分配され、そのことは、当
然ここでも、各消費協同組合が卸売協同組合の実価格を維持して販売するように作用して
いる。ここに、卸売協同組合が利潤目的の協会に堕落せず、いかに新しく設立されたどん
なに小規模な消費協同組合でも、メンバーシップを開放する保証が与えられるのである。
それによりそうした小規模な消費協同組合は、メンバーとなると同時に、旧来の消費協同
組合が築き上げてきた大組織のメリットをすべて享受する機会を得るのである。
各参加組合は、メンバー数にしたがい出資し、選挙票数が決められるが、そのことは、
各協同組合のメンバーが直接卸売協同組合のメンバーとなるように作用している。
スコットランドの消費協同組合も同様の協会を 1869 年に設立したが、それは多くの点で
イングランドの卸売協同組合をモデルとして活動している。
これらの[卸売の]組合が、[消費]協同組合運動が元来の生産になるべく近づこうとす
る努力の現われであるのと同様に、それらは活動の中で常にその目標を実現することに努
めてきた。この目標に従い、1872 年以来、必要とする最も重要な商品を生産する自己の工
場を設立し始めた。それにより、さもなければ民間の工場のものとなる利益を確保したの
であり、あるいは「苦汗産業」からある職業を救い出し、労働者に適正な生活条件を保障
した。その他の場合、協同組合は、完全なる労組賃金(fackföreningslöner)を支払うという
基本原則に常に従った。それは、実質的に労働者からなる組合にとり自然な賃金政策であ
った。卸売協同組合の工場は、技術の進展の許す限り、最新で最も性能の良い機械を揃え、
近代工業設備のモデルとなっている。協会は、豊富な資本をつぎ込み、この面では時代の
先端にあり続けている。常に現金で大量に購入し、確固とした既知の顧客層を持つのみな
らず、その他の点でも競争相手である民間企業の殆どに比して利点を持っていることは明
白である。また、卸売協同組合は巨大な事業に発展した。1898 年には、1,000 以上の消費
30
協同組合をメンバーとし、売り上げは 240 百万クローネにのぼった。外国に自己の代理店
を持ち、そこで購入した商品をイギリスに運ぶための自前の蒸気船も所有している。デン
マークからは、バター、ハム、卵などを大量に購入し、イェーテボリィにおいて他に比較
するものがないほどの最大のバター輸出業者は、この卸売協同組合なのである。
ここで疑い深い経済学者は、次のような疑問を発するかもしれない。そもそも、このよ
うに購買システムを整えることが何の利益になるのだろうか。協同組合に従事している者
は、民間商業の従業員ほど良い生活を送れないのであろうか。消費協同組合は、コストに
ついては、概してよく経営された民間小売業と同じようではないのであろうか。私は、既
に自由競争に対して協同組合がもついくつかの利点を指摘した。これらの利点は、また経
済学的メリットでもあるのである。協同組合は、小売業全体の集中を意図し、それにより、
自由競争がもたらす信じられない無駄を考えれば、労働力の著しい節約をもたらす。私は、
最後の講義で、不必要な労働を回避することが経済的進歩にとり唯一の現実的に意味をも
つ手段であることを示すつもりでいる。このことが一度確かなものとなれば、協同組合と
いう小売業のより高度な組織は、現実的で重要な進歩へのステップとして社会経済学から
いっても歓迎されるべきものであることは、もはや疑いようもない。
消費協同組合は、それにもまして、民間企業に比し、経営者に実業界では当たり前であ
るようなとんでもない額の報酬を支払う必要がないというメリットをもっている。そうし
た状況であるのに、最も高い報酬をもって誘われた場所に、協同組合運動から最も優秀な
人材が逃げ出してしまわないことは不思議に見えるであろう。しかしここに、通常の経済
学では考慮されない、協同組合運動家が理念の実現にむけて活動するのを支える情熱とい
う要因を見出さねばならない。そこで想起されるのが、数ヶ月前の晩にコペンハーゲンの
「社会経済学協会(Social-ekonomisk Forening)」でのことである。デンマーク消費協同組
合のための卸売組合会長(Föreståndare)であるエスケセン(P.Eskesen)11が、彼自身が大いに
貢献し指導的な地位にある運動について講演した。その年、13 百万クローネの売り上げが
あったが、彼の給与は 7 千クローネであった。彼が言うには、
「民間であったら、こうした
状況では、6 万クローネ近くの報酬となるであろう。しかし、自分自身と共に成長した活動
から離れることはできない。身体の一部となってしまっているのである。」私は、彼が述べ
た時の簡潔さと熱さを忘れることは出来ない。まさに、新しい理念的諸力が新たな社会を
盛んに作り上げている新世界に、足を踏み入れたようであった。数日前、この人物が亡く
なった知らせがあった。しばしばこれまでにもあったように、なぜ死は最良の者に訪れる
のかと古よりの問を繰り返し、立ち尽くすのみである。
しかし、協同組合運動が今後も実業界で通常支払われるよりも低い報酬でも有能な人材
を引き付けることができるであろう、客観的な経済的理由もある。それは、協同組合運動
が広範な領域からリーダーを調達している状況にある。既にこのことが、良き経済的淘汰
11
この人物については特定できなかった。
31
にとって如何に重要であるのかを見た。どのような小規模の消費組合でも、購入者自身も、
協同組合運動家の広範な層も、事業の正しい運営に関心を持つ。ものごとをよく理解して
いる者が、経営陣に入ることや店舗の運営を任されるように選ばれることは自然である。
彼らの中から最も優れた者が中央の購買組合への代表に選ばれることとなる。この団体は、
そもそも有能なビジネスマンや熟達した協同組合運動家の選ばれた集まりである。[さら
に]彼らの中から最も有能な人物が最も責任あるリーダーの地位に選任されることとなる。
そして、こうした淘汰が、それに相応しい専門知識をもって行われることは確かといって
いよい。協同組合運動が、彼らの多くに大きな実り豊かな活動領域を与えたがゆえに彼ら
の能力は大いに発達をみたのであり、そうでなければ、彼らの人生は、自己の能力が全く
発揮できないような、あるいは全く見出されもしなかったような、つまらない地位に留ま
っていたであろう。下層階級の才能を意味無く犠牲にすることを終わりにすることが民主
主義の大きな使命である。そうした犠牲には、競争の自由というフレーズに惑わされてき
た、これまでの我々にも大きな責任がある。あらゆる才能を社会の中のそれぞれの相応し
い場所で発揮させることが、社会政策の目標である。こうした観点からすると、協同組合
運動は、健全な民主主義のみならず理性的な社会経済に導く大きな重要な存在であるので
ある。
協同組合は、他の面でも消費者に貴重な教育的影響力を発揮している。ここでは、よく
運営された消費協同組合のメンバーとなることによって得る高度な商品知識や、商品を理
性的に消費していくことには言及しないでおこう。ただ、ロッチデール・システムの綱領
が一つの点、すなわち、現金払いの原則を定めたことをのみ強調しておきたい。厳格に守
られるならば、この要求が労働者の家計にとってもつ意味をいくら評価してもし過ぎるこ
とは殆どありえない。もし、我が国において展開し始めている協同組合運動が、このイギ
リスの協同組合の基本原則を脇に追いやるならば、余りにも嘆かわしいことである。
協同組合は、節約を教育するのである。協同組合は、あたかも自動の貯蓄基金のように
機能する。そこで通常の価格で買い物をする家族には、年末にはいくらかの蓄えが残るで
あろうが、それにより喜んで税金や家賃といった大きな支出に立ちむかうことができる。
しかし、それが事業に投資されていれば、次第にそれなりに大きな資本に成長する可能性
もある。こうして、労働者階級に、自分で資本を形成し、自立した地位を獲得する道が開
けるのである。このことは、その他の方法ではいくらやっても駄目であったであろう。こ
れが単なる空想や希望でないことは、イギリスの協同組合が既に約 450 百万クローネの資
本を動かしているという事実からわかる。
協同組合運動は、イギリスに始まりその他の国に広がっている。北欧では、デンマーク
が先頭を行っているが、注目すべきことに農民たちがこれを担っている。その多くの多様
な協同組合企業は輝かしい成果を残していることは、ここで強調する必要がないほどよく
知られている。スウェーデンの労働者や農民は、この兄弟の歩みに追いつくことができる
であろうか。それとも、言われているように、スウェーデン人は、実りある協力をなすの
32
に必要な社会的能力や規律に欠けているというのは本当であろうか。そうだとしたら、我々
は、もっと強力にもっと精魂込めて我が国民がこうした資質を養うよう活動せねばならな
い。
33
Ⅲ.労働組合政策
閉鎖的労働組合政策
協同組合政策で閉鎖的方向性と開放的方向性を区別できたように、20 世紀の労働組合運
動にも、少数者のための特権を作り出そうとする閉鎖的なものと、すべての参加しようと
思う者に協同組合のメリットをもたらそうとする開放的なものの区別を見出すことができ
る。労働組合政策には、古い閉鎖的なものと新しい開放的なものがあり、理論的にも実際
の影響を見ても本質的に異なるので、それらについての我々の評価は結果として大きく異
なることとなる。
閉鎖的労働組合政策は、本質として保護主義的である。対外貿易政策の領域での保護主
義と同様に、この方向性は、独占の形成こそ物質的繁栄にいたる唯一の道であるという旧
時代の経済像に由来する。閉鎖的労働組合政策の直近の起源は、ギルド制である。ギルド
制の一般的傾向は、もちろんのこと、一度自己の職業に属することとなった者のために特
権を形成することである。このことは、他のすべての者を排除する「職業を営む権利」に
よって確かなものとなる。職業に従事する人数を制限し、恒常的に生活が成り立つように
した。このように制限するための窮極の手段は、徒弟に関する強制である。徒弟の数を制
限し、一定年齢以上の入職を禁じ、不当に長い徒弟期間を定めた。例えば、イングランド
では、エリザベス女王の時代に、すべての職業について 7 年の徒弟期間を定めた。アダム・
スミスが、「すべてのギルドやギルド立法の大部分は、競争を回避するために成立した」と
いう時、疑いなく正しい。
ギルド制は崩壊し、それに伴い経済史における中世が終わった、しかし、外皮が朽ちて
も、ものごとに対する新しい見方が深い層にまで浸透するには時間がかかる。ギルド制的
発想法や傾向は、19 世紀前半にイギリスで発達した初期労働組合運動に根強く残っていた。
職業を営む権利の思想がそこには見られ、入職規制の必要性は、これらの古き労働組合指
導者にとり公理となっていた。これらの労働組合は、メンバー各自に自己の職業における
徒弟制に関する厳格な規定を強制することによってこうした制限を実現しようとした。
近代イギリスには、今なおこうした閉鎖的労働組合政策の多くが残っている。例えば、
汽罐製造工・鉄鋼造船工連合組合(ångpanne- och varfsarbetarefackföreningen)12は、造船
所オーナーの 9 割が署名した契約において、徒弟の採用に関する厳格な規定を定めている。
例えば、徒弟として採用される者は、18 歳未満でなければならない。採用後は 5 年間徒弟
として働かねばならない。それゆえ、もし徒弟ではなく、例えば補助労働者(handtlangare)
12
United Society of Boilermakers and Steel Shipbuilders.
34
として働いた場合よりも、はっきりと低い賃金を支払われることとなる。その代わり、き
ちんと職業の技術を学ぶ機会を与えられるべきである。造船所主は、7 人の労働者に対し 2
人以上の徒弟を雇ってはいけない。このような規定は、法律と同様の強い力をもち、若者
が、労働組合が定めたやり方以外でこの職業に入職することは事実上不可能なのである。
多くの小さな職業では、徒弟数は一層厳しく制限されており、労働組合が 10 人の労働者
に対し 1 人以上の徒弟を認めないケースも存在する。
しかし、殆どの労働組合にとり、実際にはこのように職業への流入を制限することは不
可能であることがわかっている。多くの組合が実際に試み、紙面で厳しい要求を突きつけ
た。例えば、植字工(sättarne)である。しかし、その労働組合は都市の大きな印刷業者しか
コントロールが及ぼせないのである。その労組の力の及ばぬ農村の小規模で設備の整って
いない印刷業者では、常に大勢の徒弟が技術習得に勤しんでいる。このことは、当然技術
教育にとり望ましいことではないが、労組にとってはさらに望ましくないことである。と
いうのも、こうして技術を習得した徒弟が都市にやってきて、まともな印刷業者で職を得
ると、労組のメンバーとして認めなければならなくなるからである。しかし、彼らはいわ
ば抜け道をつかって入職をしてきたのであり、初めから良き労働組合精神の下で訓練され
ていない。それゆえ、予め厄介な労働組合メンバーとなることが運命づけられている。労
働組合自身の観点から見ても、徒弟制を考慮したすべての制限的規定がなくなってしまう
方がましであることは殆ど疑いようもないほどなのである。
今日新しい技術的方法の導入によって恒常的に変化にさらされている多くの職業におい
て、徒弟の採用や教育についての何らかの規定をずっと保っていることに見込みのないこ
とは、当然検討するまでもないことである。また、ますます多くの労働組合が、旧来の制
限政策を放棄せざるを得なくなっていることを見ればよい。イギリスの 150 万人の組織労
働者は、まったく制限的徒弟ルールを持っていない。50 万人は、名目上そのようなルール
を持っているが、そのうち 15,000 人程度しか、実際には閉鎖的特権を獲得することに成功
していないと言える。
そこで、より一般的な観点から閉鎖的労働組合政策を評価してみよう。まずは、職業教
育の手段としての徒弟制は、もはやその目的に沿うものではないことを見て取らねばなら
ない。近代的な大工業の状況においては、個人的に技術を伝達する「親方」を欠いている。
何千人もの労働者が働く大工場では、通常、徒弟の教育の面倒を見る時間も関心もないの
が普通である。
したがってこのシステムは、教育学的観点から見て不可能である。徒弟制は、独占を形
成する言い訳として、民主主義の核心とも矛盾している。入職制限の規定によって、ある
グループの労働者を特別に惨めな状態から救出し、適切な生活水準を得るまで向上させう
るかもしれないが、特定の労働者のグループに例外的な地位を保障することは緊急避難で
あって、通常は如何なる状況においても用いられるべきではない。近代的労働運動の目標
は、少数者のために特権を獲得することではなく、労働者階級全体を向上させることなの
35
である。
進化理論から導いた、社会政策の大きな指導的な観点からするならば、閉鎖的な労働組
合政策は、その基準を満たさないことがただちにわかる。職業がそこから採用する対象領
域に対する如何なる制限も、必然的に熟練の水準を押し下げることを意味するからである。
徒弟数を制限する、一定の徒弟期間を要求する、あるいは、徒弟となる最低年齢を定める、
男女どちらかの性に限定するなど、その職業の固有の性格に何ら関わりもないのに入職に
何らかの要求を突きつけることは、押しなべて、ある職業で作用し発生する淘汰の領域を
狭めることとなる。そうなると、時間が経つのにしたがい、その職業が活用しえたであろ
う多くの諸力を排除するようになることは避けられない。それに対して、職業選択を自由
にし、よき民衆教育や職業教育を通じて職業選択を容易にするならば、各人が社会の中で
最も適切な場で活躍することが促され、社会経済学的に最も望ましい方向に事態が向かう
こととなる。
労働組合が現実に入職を厳しく制限することに成功している場合、使用者は、空きポス
トを、わずかな人数の中から選んで補充しなければならない。実際、イギリスのフリント
グラス産業におけるように、使用者は、労働組合が紹介した者を採用しなければ、それを
空席のままにせざるを得ないような事態が起こりうる。そのような状況では、当然淘汰は
機能せず、極端な場合、全く起こらないこととなる。
強力な閉鎖的労働組合においては、努力を重ねるのに最も重要なインセンティヴが欠け
ることを免れることができない。労働者それぞれが、使用者によりともすれば自分が他の
者にとって代わられるかもしれないという意識を持たないならば、情熱は失せ、より高度
な熟練を身につける気力は無くなってしまうのが常である。それゆえ、そこでは、進化の
過程の第二の要因、すなわち適応も、機能しないこととなる。
同じことは、使用者団体にもいえる。新たな労働者を獲得できなければ、新しい競争は
起こりえない。その職業は、その時にはそれほど利益のあがるものではないと思われるが、
旧来の使用者にとっても労働者にとっても、相互に協調している限りにおいて、閉鎖性は
特権をもたらすこととなる。実際、職業における労働者の数を厳格に制限すること以上に、
独占的地位を守る強力な砦はない。しかし、独占的地位は、常に使用者のエネルギーやイ
ニシャティヴを取る力を失わせる傾向を持ち、その点で、職業の技術的・組織的な面で発
展に対する障害となる。
労働市場を支配する閉鎖的な労働者間の協力と、ある生産物を「統御(kontrollerar)」す
る資本主義的組織をもつある職業は、大変近い性格をもつ。[しかし、]前者は、経済的独
占として後者よりも決定的に有害である。というのも、近代的「トラスト」によって行使
される不適切な社会的諸力や、そのリーダーがしばしば獲得する過剰な利益に対しては、
依然として多くの有効な対策を実施することができるのであり、こうした大規模な経済的
結合の形態は、技術的進歩や社会的生産力のより高度な組織化にとって必要なことを認め
ねばならないのである。[また、]たとえ、強力な独占的地位をもっていたとしても、企業
36
経営者は、売り上げを拡大することに常に関心を持つのであり、こうした関心が、経験が
示すように、
「スタンダード・オイル」のような際立った独占であっても、自己の製品の価
格を引き下げることもある。トラストであろうと他のどの経営者であろうと、彼らにとっ
て、コストを最大限に引き下げ、すなわち、もっとも経済的な生産方法を実施し、近代的
技術がもたらす中で最もすぐれた技術を用いることは、何よりも重要であるのである。ト
ラストも、その実現に必要な資金力をもつのであれば、そうした発展の促進に何らかの貢
献をなしうる。
[それに対し]自己の職業において独占的地位を確立した閉鎖的労働組合は、そのよう
な関心を持たない。労働者は、もはや自己の労働力しか売るものがなくなったが、当然そ
れは予め制限されている。労働者は、こうして使用者が売上増大に対して持つのに相当す
る関心を持たないし、価格を引き下げても得るものがない。それゆえ、閉鎖的な労働者の
組合は、何よりメンバーをできるだけ代替不可能にし、それによって各自の労働の価格を
高めることを目指すので、どのような機械技術の進歩に対しても敵対的であり、全精力を
入職規制することに傾けた結果、生産全体を縮小させてしまうに違いない。しかも、彼ら
の利害は、明らかに消費者一般の利害と真っ向から対立するのであり、如何なる場合でも
進歩の障害となる以外にない。社会経済は、それゆえ、断固として閉鎖的労働組合運動の
傾向を根絶しなければならない。
開放的労働組合政策
労働組合は、たとえ入職規制に成功しても、
「自由競争」で得られる水準より高い賃金を
獲得できないというのは、経済学で古くより信じられた事柄である。厳格な徒弟規定を実
施し、使用者がどのような労働も「無資格者(oberättigade)」に任せないように力をふるう
労働組合指導者には、まさにこうした正統的な経済学の学説が当てはまる。この学説は、
ある決まった基金があり、そこからすべての賃金が支払われると考える、いわゆる賃金基
金説に由来している。もし幾ばくかの労働者が、閉鎖的労働組合政策により、賃金の上積
みに成功したならば、その他の労働者の収入は、その分減額されることとなる。(s.62) 唯
一の正当な賃金の配分は、自由競争、すなわち、労働者の移動が何らの労働組合の規制に
よって妨げられない時に成立するのである。その時に得られた賃金は、自然な賃金と見な
される。それ以上のものを労働者の特定のグループが得るとすれば、それは、強力な閉鎖
的労働組合が独占を形成している場合のみとなる。
ここで、この学説がいかに根本的に誤っているのかを詳細に検討することはできない。
全体の論理の中で最も深刻な誤りは、あるグループの労働者が勝ち取った賃金上昇は、他
の労働者の犠牲によって、あるいはとにかく生産における他の何らかの要因を犠牲にして
成り立つという前提であることは疑いない。そこでは、労働者が生活水準を高めることに
伴い、労働の効率が上昇する可能性が忘れられている。そうした可能性は、直前の二つの
37
講義で伝えようと努めたのであるが、経済的および社会的進歩にとって最も重要なモメン
トなのである。
労働組合が、他の労働者を犠牲とすることなく、生活水準を向上させうるという経済的
可能性は、当面は、与件として扱うこととする。ここではまず、労働組合は、入職規制を
せずに生活水準を向上させることができるのか、という問題を検討してみよう。経験が示
すように、このことは全く可能である。すぐ後で見るように、それは、より高い生活水準
を享受することによって、労働者の個人的能力やエネルギーが同時に高まることに拠るの
である。
この点では、理論的な思索による正反対の理解を反駁するのに、ランカシャーの綿紡績
業が、労働組合政策の結果として繁栄したということ以上の例はない。その組合は、何ら
入職規制をすることなく、むしろ自由にしていたのであるが、強力で巧みに活動する組織
の模範とされるようになったのである。
綿紡績業が典型と見なせる開放的労働組合政策とは、当然のこと、誰でもその職業に入
職できるということを意味しない。しかし、労働組合は、この問題でまったく規制を加え
ることを放棄し、使用者に事を任せることを指している。それに対し、労働組合は全精力
を、以下で標準条件の政策(normalbetingelsernas politik)と呼ぶ政策に集中している。標
準条件とは、賃金、労働時間、衛生および安全整備などに関する一定の要求からなり、そ
れらの要求が、おしなべてその職業のあらゆる使用者により充足されねばならない条件で
ある。
標準条件は、使用者がその要求以上のことを実施するのを妨げないという意味では、常
に最低限の要求(minimalfordringar)である。もしそうした動きを禁止する考えに陥った労
働組合のリーダーがいるとすれば、それは、標準条件の政策の本来の意味を十分に理解し
ないことによる、劣悪な労働組合の政策である。最も優れた労働者を引き付けようと、標
準条件で定めた以上の条件を提示する使用者がいつもいるものである。スウェーデンでも、
指導的な工場経営者が、通常の労働者に労働組合賃金以上の給与、例えば、50 クローネの
クリスマス手当(julpenning)を、それによって本当に優れた労働者層を留めおくために支払
うことが普通である。使用者は、女性労働者の中で最も優れたものを引き付けようと、明
るい素敵な部屋を用意し、彼女たちが評価するようなコストのかかる設備を提供するので
ある。経験から、探し当てた有能な労働者がもたらすものと、平均的な能力の労働者がも
たらすものの間の想像もつかない違いを知っている者にとり、殆どの場合、たとえ使用者
がそうした優遇のために大枚をはたいても、良い商売として成り立っているように思える
ことは疑いない。労働組合が標準条件を設定する際には、一般的に、それまで標準的な条
件だと思われてきたものから出発する。しかし、職業全体にそれを厳しく実現しようとす
ると、最も劣悪な経営の使用者に対しても条件を改善することを強制することとなる。こ
のことは、当然、より良好な経営の使用者にとり有利に作用しうる。というのも、それに
より彼らは、不平等な「ごまかしの競争(smutskonkurrens)」から解放されるからである。
38
そのうえ、先に言及したように、一部の使用者は標準条件を上回る条件を提供するように
なると、労働組合がそれまで標準と考えられてきたもの以上を要求していないのに、[それ
ぞれの]新しい労働条件の平均は、旧来の平均よりも上回るようになる。したがって、標
準条件の政策は、既にそれ自身において、労働条件の平均を押し上げる傾向をもつのであ
る。こうした面では、この新しい経済政策は、同じく様々な種類の労働に対する賃金を設
定しようとするが、実際にはしばしば、設定したライン以上に賃金を押し上げることへの
障害でしかない中世の賃金政策と、本質的に全く異なるのである。
もちろん、標準条件を実現していく手段に関しては、その任を全部労働組合が背負い込
む必要がないことは確かである。国家は、そこに法を制定することで登場し、労働者の大
いなる助力となりうる。こうした点で国家がどのような任務を果たすべきかについては、
次章で検討することとする。
そこで次に、社会経済学的観点からこの標準条件の政策の意味を明確にすることを試み
ねばならない。この政策の価値にとり決定的に重要であるのは、前に見たように、経済発
展にそれがどのように影響を与えるかである。しかし、これを検討する際には、標準条件
の労働者への影響と使用者への影響を分けて検討しなければならない。双方において、我々
は、発展のプロセスの二つの主要因である、経済的淘汰と、直面する課題にたいする意識
的な適応に特別に配慮しなければならない。
まずは、ある一定の労働組合賃金を定めると、労働者相互間の競争の条件にどのような
変化が起こるか、これらの変化が競争によって進行する淘汰にどのような影響を与えうる
のかを見てみよう。
「自由競争」、すなわち、労働市場が如何なる労働組合の規則にも拘束されていない場合、
労働者それぞれは、自分以外の他の労働者すべてと職をめぐって競争している。使用者は、
自己にとって最も望ましいと思える者をそこから選ぶが、そこに一種の淘汰が起こる。し
かし、使用者が、得られる最善の労働者を選択することは確実ではない。経験が示すよう
に、彼は、しばしば最も安く雇える労働者を採用しがちである。こうした条件の下で起こ
る競争は、賃金のみならず、他の労働条件にも強い圧力をあたえることを避け得ないので
ある。労働者は、こうした競争においては、ますます生活水準を落とすことを強いられ、
それに伴い次第にそして必然的に、性格を歪められ、情熱を失い、労働能力も劣悪なもの
となっていくのである。こうして興隆を迎えるのが、実際の競争状況を考慮し、最も安価
に仕事をし、文句の少ない労働者が雇われる見込みをもつという労働市場に配慮した、
「よ
り目的合理的な(ändamålsenligare)」タイプである。しかし、そのタイプは、それゆえに
高等なものではない。発展は、この場合、進化ではなく、全く逆の退化である。
そこで、そのような市場において、標準条件を強力に推進していく労働組合が登場する
ことを考えてみよう、すると、淘汰は一変して全く異なる性格をもつようになる。賃金を、
一定の最小限度以下に下がることを得ず、一度使用者がこの賃金を払わざるを得なくなる
と、当然、自己の資金を最大限有効に使うことに全神経を注ぎ込むこととなる。こうして
39
淘汰の全く新しい条件が形成されるが、こうした淘汰が推し進める特質こそ、真の産業進
歩にとって求められるものに他ならない。
このように、標準賃金の政策は、すべての競争を完全に抑圧してしまうことはなく、各
労働者が、他者より惨めな労働条件で満足してしまうことで、自己の労働の価値をより安
く売ろうとして〔相互に〕決定的に害をもたらすような場から、各労働者が、能力におい
て他の労働者より勝ろうとして[相互に]決定的にメリットをもたらす場に、競争を移し
変えることを意味するのである。
こうした競争によって起こる淘汰は、次第により高度な種(en högre typ)を生み出す。こ
のことは、最も衝撃的な形で経験から見て取れる。賃金が何世代にもわたって相対的に高
い水準で維持され、使用者が真に淘汰された労働者のみを使おうとしてきた職業や場所で
は、しばしば、全体として普通の水準よりはっきりと上回る労働者の種類を見出せる。こ
の事実を説明するのに、自然科学上の争点となってきた獲得形質の遺伝(förvärfvade
egenskapers ärftlighet)を持ち出す必要はない。そうした労働者の種類の中ではある伝統が
形成され、それが、労働の性格や生活水準からすると高度な水準のものであることに注意
するだけで十分である。こうした労働者の家庭で育った子供は、既に始めから自分自身の
みならず生活についても高度な要求をもつことに慣れている。彼らは、考えられる限り最
も恵まれた状況で自己の職業についての技能を身につける機会をもつ。このように育てら
れる過程で、両親が獲得した資質は子供に受け継がれ、経済的淘汰がより高度な種の繁栄
をもたらすのである。
健全な社会経済は、それぞれのポストが得られる中で最も有能な人材によって占められ
ることを要求する。もし、あらゆる領域でこうした理想を実現することができるとしたら、
社会的生産の各領域への既存の諸力の最善の配分を実現することとなるであろう。しかし、
当然このことは、生産力をフルに発揮し、人々が最も快適に生活する前提となる。それゆ
え、適材適所は重要な事柄であるであろう。人は、常にこうした問題を私的利害の狭い視
野から見る傾向がある。一般的にいって、あるポストを埋めることが、それが地位の高い
ものであろうと低いものであろうと、究極的には社会の懸案であることを意識することは
たやすい事ではない。標準条件の政策は、産業労働の領域で社会の利害にそった淘汰を我々
に保障してくれることに大きく貢献する。近代的かつ開放的な労働組合運動は、それによ
り、実り多き経済発展を導く重要な存在となるのである。
公的救貧や私的慈善で活動する者は、彼らの世話に身を委ねるしかない、多かれ少なか
れ零落した惨めな者のために何とか仕事を与えようと努力していることはよく理解できよ
う。また、もし労働組合が標準賃金を支払うべきだと要求するために貧民を働かせること
が妨げられるようになるならば、彼らが非常に当惑するようになることもわかるであろう。
しかし、ここでは労働組合の利害が最も重要であり、それが決定権を握るべきである。と
いうのも、それが社会経済全体の利害と合致しているからである。もし、申し分なく有能
な労働者がいるならば、劣った者がポストにつくよりも、彼が就任する方が望ましい。有
40
能な労働者はより多くの仕事をこなすので、生産の観点からすれば、その方が有益なので
ある。そして、如何なる場合でも、両者ともに何らかの形で生活が支えられなければなら
ない。一人が職を得れば、その代りにもう一人を養う約束をすべきである。それゆえ、社
会にとって常に最も能力ある者を従事させるのが利益となる。有能な労働者が皆仕事をし
ている場合のみ、仕事を劣った者にも仕事を与えることが正当でありうる。しかし、この
ことは、使用者が、自分の工場で切実な必要があるならばただちに、ごく普通に行ってい
ることである。
旧来のブルジョワジーの発想と、使用者は個別に各労働者と交渉する権利を持つべきで
なく、仕事を最も賃金の安い労働者に任せてはならないという考えとの辻褄を合わせるこ
とは難しい。しかし、あえて「正しさ」を問題にするならば、理念的な正しさとは、合目
的、すなわち社会の観点から見て合目的であるという以上のものではない、あるいはあり
えないことから眼をそむけてはならない。理念として、労使間の関係において何が正しい
あるいは不当であるかは、この点における社会の利害がどこにあるかに左右される。個別
の賃金交渉が、劣った労働者を勝利者にするような競争を引き起こし、使用者と労働組合
の間の団体交渉がそうした種類の競争を廃し、進歩に資する競争を持ち込むのが明らかな
らば、この問題でどちらが正しくあるいは正しくないかはもはや疑いようがない。
ブルジョワジーの理解が通常そうであるように、このことで労働組合の綱領を前にして
知らぬふりをする必要は基本的にないし、あるいは全くない。というのも、国家の官吏の
任免に際して、競争は能力に関わるものであり、賃金にはかかわりがないというのが自明
のこととされているからである。医者を採用する際に、候補者と賃金をめぐって交渉しな
いのであり、賃金はあらかじめ定めておいて、その賃金で応募してきた者の中から最も有
能な者を選ぶのである。大学で教授の席に、最も安い賃金で講義を引き受けても良いとい
う者を就けるようになったらどうなってしまうのであろうか。こうした競争が考える限り
において最も著しくその職業の水準を引き下げてしまうことは、余りにもたやすく理解で
きることなのである。同様のことが産業の労働の領域で起こらねばならないとしたら、そ
れが適切であると考えるであろうか。
さらに開放的労働組合の政策は、その職業で働く労働者が自分たちに突きつけられた要
求に応えることを常に促進する。労働者各自は、自分を労働組合が設定した標準条件で雇
った使用者に対し、それに見合うような仕事をしなければならないということを当初から
理解している。低賃金で満足するかわりに雑な仕事をして帳尻を合わすようなことは許さ
れないこともわかっている。彼はまた、技を磨き、信頼を得て、その職業で要求される秩
序や几帳面さに配慮した習慣を身につけることに駆り立てられる。ここに、与えられた競
争条件に対する「意識的な適応」が存在する。しかも、今や競争が「自由」ではなく、標
準条件によって規制されているまさにそれゆえに、この適応が正しい方向に作用するよう
になるのである。自由競争の下では、労働者がますます必需品を削ることに慣れ、一層退
化することに陥りがちである。適応は本来、標準条件の政策が厳格に実施される所では、
41
進化への何よりもまして強力な手段となるのである。
ある職業の労働者が、開放的な労働組合政策の圧力の下で到達する高い能力の水準は、
まさに労働組合が、労働力供給を妨げることなく、自己の要求を押し上げていくことを可
能にする前提である。というのも、この高い水準は、その労働者集団全体をそれ自体代替
不可能なものとするからである。それゆえ、そのことは、自分のところの労働者の首を斬
ることができ、ある者が辞めれば、別の者を代わりに見出せるような、ランカシャーの紡
績業者には当てはまらない。しかし、労働者と争議に陥るようなことがあれば、自分の所
で働く労働者全部の代わりを見つけることはできないので、どこかで妥協点を見つけなけ
ればならないことを身にしみて知ることとなる。
労働組合が、通常労働者にもたらす生活水準の向上は、能力の更なる発展の物質的な基
礎を形づくる。満足に食べられず、粗末な身なりをして、不健康で全く快適でない所に住
み、不衛生なままで、空気がよどみ、不規則で不安定な職にしか就けなければ、生理学的
にも、近代工業が必要とするような肉体的・精神的な鍛錬をすることは不可能である。そ
れゆえ、良好な生活条件は、先に言及したように、より高度な種に適応するために不可欠
な前提なのである。
標準条件の政策はまた、労働者のことを考えれば、最善な者の淘汰を意味するのみでな
く、より高度な種への適応のための物質的な基礎であると同時に心理学的刺激を意味する。
したがって、開放的労働組合運動は、発展過程の双方の要因が経済的な進化に役立つよう
に全面的に作用させるように、労働者間の競争のための条件を形づくるのである。
ブルジョワジーの中では、さらには未組織労働者の中では、しばしば労働組合が、労働
者の個人の自由を抑圧するとして非難されるのを聞く。ここに現れているのは、旧来の自
由主義の、あるいは形式主義的な自由の概念の理解である。労働組合が労働者から奪う自
由は、究極的には、彼らが自分の労働力を投売りする自由である。しかし、規制されない
労働市場で自由が濫用されうることを知る者ならば、このような自由を高く評価すること
はできない。自由主義的経済学は、
「自由競争」の下では、市場の状況が許す賃金しか得ら
れないことをおのおのが悟るであろうという前提を出発点としている。経験は、毎日如何
にこの前提が誤りであるかを示してきた。私は個人的にも、労働者が日常的にその職業に
おいて標準より著しく低い賃金しか得られず、懸命に働き続けた挙句、今や全く尾羽打ち
枯らした状況となっているケースを知っている。そのような悲しむべき結果が、わずかば
かりの労働組合の強制によって避けられるのであれば、それによって個人の自由を犠牲に
すると文句を言うべきでないことがわかるであろう。
基本的にいって、もちろん労働組合政策が、本来の経済的目的のために活動を限定する
ならば、それが要求するのは、全く外面的な自由の犠牲に過ぎない。個人の自由の固有の
中心的な領域は、その際には全く手に触れられないままでありうる。労働組合が、この領
域に侵入する場合は、何らかの誤りなのであり、合理的な労働組合政策の観点から審議さ
れねばならない。
42
労働組合運動が、労働者の人格を抑圧し、彼を「群集(massa)」にしてしまうというのは
実際から程遠く、逆に、彼から外面的な自由を奪う代わりに、人格の豊かで殆ど他では得
られない発展の機会を与えるのである。私はここで、単に労働組合が深く及ぼす規律的・
教育的影響のみを考えているのではない。特に組織の中で活動することに伴う喜びを想定
しているのである。そこで労働者は、自分自身でものごとに取り組むことで、工場の機械
的労働が力や関心を一定の方向にはめ込んでしまう事態以上に何かを獲得し、生活の幅を
広げ、人格を成長させる。こうした状況を見たことがある者ならば、近代的労働組合運動
が、単に生産にたずさわる者を育てるのみならず、人間を育てる力を備えていることを知
っているのである。
しかし、標準条件の政策は、使用者にも作用を及ぼす。自由競争、すなわち、労働組合
によって規制されない使用者間の競争においては、しばしば、最も巧みな経営者ではなく、
労働者の賃金を最も安くするのに長じていたり、労働者を躊躇なく過酷に働かせたりする
者が勝利する。標準条件は、こうした「汚い競争(smutskonkurrens)」を終息させ、使用者
の経営能力(duglighet)を競争に勝ち残るための決定的要因とする。労働組合の定めた賃金
を支払わねばならなくなった時に、それに耐えられない遅れた使用者は、没落するのであ
る。言い換えれば、新しい競争環境は淘汰を強制し、社会的生産の指導を、その技術的、
組織的あるいは商業的な巧みさを最もよく備えた者に委ねる方向に発展を推し進める。こ
うした淘汰が、社会の利益に適っていることはいうまでもないであろう。
近年、イギリスのある工場経営者が、1871 年に機械労働者が強制した 9 時間労働の実際
の帰結が、小規模な経営の退場であったことを指摘している。大規模な製靴工場経営者は、
小規模工場の息の根を止める、製靴労働者の高い要求を望まないわけではないともいわれ
る。あちこちで示されていることは、労働組合の強制がもたらす新たなメリットは、劣等
の企業の棺桶に釘を打ちつけることである。これは、もし感傷的な見方を捨て去るならば、
純粋に満足をもって出迎えるべき、強力な淘汰の過程に他ならない。この過程を通じて、
産業は、より大規模で、より技術的に優れた装備をもつ企業に集中していくのである。そ
うした集中は、しばしば、こうした企業の拡大ぬきでさえ可能である。論文「社会経済学
的観点から見たカルテルおよびトラスト」13で、大規模企業の生産能力が、その実際の生産
をどれほど上回っているのかについていくつかの例を示しておいた。マサチューセッツ州
の、数年にわたって2・3千の工場をカヴァーした公的統計によれば、それらは、平均し
て生産可能な量の 50%から 70%しか生産していなかった。そうした状況では、劣等企業に
退場していただき、変わりに大規模で設備の優れた企業に生産能力を活用してもらった方
が経済的に望ましいことは疑いない。
今述べたことは、恐らく、使用者のみならずブルジョワ階級全体にとっても不適当なも
13
Cassel,Gustav, “Kartell- och trustväsendet från socialekonomisk synpunkt”, i: Ekonomisk
Todskrift 1901:12.
43
のの中でも最も不適当なものであると思える労働組合の戦略を説明するのに役立つであろ
う。使用者は、もし要求どおりの賃金を支払うならば、彼の商売は耐えられないとか、や
っていけないというはっきりした証拠を提示しようとする。それにもかかわらず、労働者
は、賃金引下げは拒絶する。使用者が、他の使用者と同じ賃金を支払えないことを示した
ならば、労働者の解答は全く簡単なものとなる。「もし貴方が経営において劣っているなら
ば、我々はそれをどうしようもない。ただただ努力しなさい、商売を推し進め、それが可
能となるようにしなさい。さもなければ、貴方は終わりであり、その任に耐えない地位か
ら退散することとなる。我々は、その時には、このことをもっと理解してくれる人の下で
働くだけです。」[さらに]職業全体がそのようにうまく運営されないと、他の職業で同等
の熟練をもって稼ぐ額に相当するような賃金を労働者に支払えないこととなる。その場合
の労働組合の使用者に対する姿勢は、以下のようになる。
「我々は、他の職業で同等の労働
者が得るのと同じ賃金を、無条件に要求する。貴方は、このような質をもつ労働をそれよ
り下回る賃金で買いたたく権利はない。貴方が提示した賃金を呑むとすれば、それはまさ
に、貴方が代表する職業に割増金を支払っているようなものである。しかし、こうした援
助政策は、不自然にその職業を生きながらえさせるだけであり、そのうえ、困難の状況の
原因が、まさに使用者間の過当競争あるいは職業の不満足な運営なのであるならば、それ
らの原因自体をそのまま残すこととなるのである。」
標準条件の政策は、最も優れた使用者が勝ち残り、それにより良好な経済が実現してい
くというに正しく淘汰に役立つばかりでなく、意識的適応のあらゆる力を産業の進歩の方
向に活動させることに貢献する。もし、使用者が、賃金を引き下げたり、割り増しの支払
いをせず、あるいは全く代価を与えずに超過時間労働をさせたり、旧式の劣悪な作業所を
使い続けるといったことでは、もはや競争相手に対しメリットを得ることができないと知
るならば、何とか自己の経営能力を高めることによって競争に勝ち残ろうとするに違いな
い。このことを認識すると、適応して近代社会が求める産業の指導者のタイプになってい
く最も強力な刺激を得ることとなるのである。そして、そのような刺激が必要とされる。
というのも、アメリカのF.A.ウォーカー(Francis A.Walker 1840-97)が、社会問題に関
心をもつ者が読まざることを許されない『賃金問題』14で述べているように、「誰もベスト
を尽くさない、というのも、彼自身は、ベストを望まないのが常である」のである。
高い賃金を支払わねばならなくなると、労働を最大限節約することを余儀なくされ、肉
体労働を機械労働に転換していくことにつながる。労働組合は、このようにして、より高
度な技術の発展、ひいては社会全体の生産性の向上に刺激を与えるのである。必要は発明
の母であるといわれるが、高賃金が多くの労働を節約する発明を促進することは殆ど疑う
ことができない。特に我が国に関する限り、そのような発明を待つ必要はない。というの
14
F.A.Walker, The Wages Question: A treatise on wages and the wages class, New York
1876.
44
も、とりわけアメリカのような工業大国において普及している近代的な技術を導入し、適
用するだけでも多くのことが得られるのである。
そこで、こう問う者がいるであろう。それでは、労働組合は、余りにも高い要求を突き
つけてくることはないのであろうかと。もちろん、それはありうることである。そうなれ
ば、当然使用者ばかりでなく、結局労働者、さらには社会全体にとってもこれにまさる害
悪はない。それゆえ、労働組合指導者が常に市場の状況を見渡し、その結果のみを自己の
政策の確かな基礎とすることは重要であると思われる。彼らは、できる限り細部にわたっ
て自分達が代表する職業について知らねばならないのであり、自分達の職業や関連する職
業における労働者の供給状況も、同時に国内市場、さらには時には世界市場における製品
や原料の直近の状況について取引所を通じて把握していなければならないのである。しか
し、当然そうしたことを十分できる人材を見出すことは稀であり、それゆえ、労働組合は、
特に高すぎる要求を突きつけるなどという誤りを犯す危険に晒されている。
しかし、開放的労働組合政策においては、このような誤りを犯すことに対して一定の保
護が存在することを指摘しておきたい。ある職業の条件が、その労働者に課される負荷に
比して高く保たれるとするならば、開放的労働組合政策の下では、結果としてこの職業に
人々が流入し、次第に[労働力の供給]過剰となってしまう。そこで労働組合が、いつも
のように、標準条件以下で働かないように、職のない労働者に補助を与える戦術を採用し、
この戦術が公的救貧や民間慈善の介入を受けないとすると、この労働組合は、まもなくは
っきりと余りにも高い目標を掲げすぎたためたがゆえに基金を使い果たすようになるに違
いない。
さらに、すべての職業が完全に組織化され、開放的労働組合政策の原則に則って運営さ
れることを考えてみよう。そうすると、それぞれの職業は、労働市場の競争の圧力の下に
自己の要求を調整するようになるになるであろう。このことは、実際のところ、社会全体
の労働力を分配して最善の社会的生産を実現するという焦眉の社会政策的課題という困難
な問題を解決することに他ならない。労働力をある職業に集中すると、この職業では開放
的労働組合政策の下で、大規模な賃下げが反応で起きる。それにより、一方では求職者の
流れは別の方向へ向き、他方では製品価格が下がり、当初は製品需要が高まり、ひいては
労働力需要が高まりうるのである。このような状況は、当然均衡の回復に貢献する。また、
社会的労働のこのような組織化は、あらかじめ存在する生産諸力を様々な任務に正しく振
り分けること以上の意味を持つ。それぞれの職業における賃金間の正しい関係を実現する
のであり、労働コストが作用する限り、各製品について正しい価格形成が行われるのであ
る。
こうした大局的な観点から見ると、労働組合が有用か有害かとか、それを抑圧すべきか
否かなどといった馬鹿げた問題は消し飛ぶ。我々にとって、労働組合は、経済的社会生活
の合目的組織化に導く不可欠な要素なのである。
もちろん、こうした評価においては、殆ど理想的な労働組合の組織を念頭においている
45
ことを完全に認識している。実際の労働組合運動は、人間が作り出したあらゆるものと同
様に欠陥をもっていることはいうまでもない。そのことは、スウェーデンのようにこの運
動が発展におけるいまだ全く最初の段階にあるところに当てはまる。しかし、幼弱な段階
での難点をあげつらうのは、安易な批判である。実りある批判というのは、目標を未来に
定め、それを十分把握したうえで現状における典型的なものに力を注いでいかねばならな
い。実際の社会政策は、労働組合に関してその最大の任務を、どのような状況であっても
社会の一大勢力であるこの運動から社会に役立つように力を引き出すことであると理解し
ている。
しかし、なおスウェーデンでは、労働組合の指導者が、実際の所、かなり特別な教育を
必要とするのであり、使用者と匹敵するような難しい責任ある地位であることが理解され
るに至っていない。平均的なブルジョワジーの見るところでは、労働組合の指導者は、依
然として常に「労働者が稼いだ小銭で生活する良心なきアジテーター」なのである。ブル
ジョワジー達は、消費協同組合はその指導者にわずかな報酬しかわたさないと嫌っている
のだが、それと同時に、労働組合の指導者が、何の報酬も受け取らずに、高度な能力を必
要とし際限なく身をすり減らすような仕事をこなしているのを見て言葉もないほどの憤り
を覚えるのが関の山なのである。
スウェーデンでも、社会科学的教養の嘆かわしい不足を示すだけの、そうした労働組合
運動に対する狭い見方を脱する時にあるように思える。我々は、そうした状況から労働組
合政策を真の研究および体系的な教育の対象に移していかねばならない。誤解をなくし、
労働組合が満足に機能するようにするには、その指導者にそうした任務を果たすための教
育機会が与えられねばならない。しかしそれのみでなく、底辺の労働者に至るまで労働組
合政策の基本を明確に理解させる必要がある。労働組合政策についての科学的講義が、労
働者協会(arbetareinstitut)や講義協会(föreläsningsföreningar)15などの教育の一環として
規則的に行われるのが望ましいであろう。将来使用者となる者に対しても、工科大学や商
科大学で同様の教育が与えられるべきである。広く一般大衆といえども、その意見は労使
対立において大きな意味をもつのであり、直接かかわりのない者でも、望むにしろ望まな
いにしろ今日で最も重要な現象の一つであると評価している運動に、もはや無縁ではいら
れない。ブルジョワ諸階級が労働者の考えを知り、その政策の基本を理解することの意義
は、評価しても評価しきれない。国民の一方が他方の究極的利害や正義の理解に全くわか
ろうとしないことほど危険なものはない。こうした懸隔に架橋することは、社会科学の最
も重要な任務の一つである。
15
労働者協会及びスウェーデンにおける民衆教育(folkbildning)の二つの潮流については、石原
俊時『市民社会と労働者文化』, p.278-98 を参照。
46
Ⅳ.公的社会政策の任務
我々はこれまで、協同組合運動および労働組合運動それぞれを扱い、それらの活動のあ
り方の最も特徴的な点を示そうとしてきた。そこで、これらの運動がどのように協力すれ
ば、それぞれ統一的な社会経済政策のための機関となりえるのかについて検討してみたい。
そしてまた、これらの機関の有用性にはどのような限界があり、とりわけどの時点で社会
の公的機関である国家やコミューンが、社会政策の目標を実現するために乗り出さねばな
らないのかについても検討してみたい。このようにして、国家やコミューンにとっての正
当な社会政策的活動領域とは何かという問題を、少なくとも最も重要なケースにおいて、
大まかに解決することが可能となるのである。[その際、]我々は、もっぱら合目的性のみ
に配慮し、あらかじめ何らの一般的な理論に拘泥しない、全くの実際的な問題として扱う
立場を堅持しなければならない。
この講義でこのように定めた課題を解決するためには、まずは、社会の経済政策にとっ
ての一般的な目標とは何か、という問題に答えなければならないことは明らかである。こ
れは難しい問題である。最初に、自由主義学派(den liberala skolan)がこれにどう答えよう
としたのかを見てみよう。
この学派は、自由競争によって何に到達しようとしたのか。言うまでもなく、まず何よ
り商品価格の平準化であり、少なくとも同じ市場で同じ商品に異なる価格がつかないこと
を望んだのである。自由競争はまた、事業者の労働に対する適度な代償を当然確保しつつ
も、生産コストを引き下げるであろう。というのも、通常より低いコストで生産しうる者
が特別な利潤を得られる一方、消費者は、どのような生産者であっても、何らかの仕方で
自己の製品を独占し、それにより標準的な生産コストを越えて得られるような理由なき利
潤に対し、何ら金を支払う必要なくなるからである。それに加え、自由競争の下では、各
自が最も知られた生産方法を用いるので、そうした面では、生産コストの差は次第に消失
するのである。
他方、余りにも激しい競争の結果、生産コスト以下で販売されるということもない。も
し、生産しても損失を出すばかりの状況まで、何らかの状況の中で価格が下がったら、企
業の中には直ちに撤退する者が現れ、そうすると、価格がまもなく正常な水準に復帰する
のである。他所から、例えば国家から補助金や優遇処置の形で援助が与えられる場合のみ、
立ち行かない産業は維持される。しかし、そうした優遇政策はどのようのものでも、自由
競争の下では完全に排除される。
こうして同一商品・同一価格そして価格と生産コストの一致こそ、自由主義経済が自己
の政策に掲げる第一の目標であった。
しかし、賃金も価格であり、自由競争は、同一労働・同一賃金となるように、労働市場
47
においても価格を平準化する作用をもつべきである。もし賃金が場所によって異なれば、
労働者は賃金のより高い所に集まるので、賃金は最終的には全職業で同一となるにちがい
ないと考えられた。
このように、同一労働・同一賃金は、自由競争の政策の第二の目標である。
また、異種労働間の賃金の違いは、自由競争の下では、ストレスや快適さの差、あるい
は熟練を身につけるためのコストの差などに相当する度合いを除き、平準化されるに違い
ない。それに加え、特殊な才能を必要とする職業は、そうした才能の珍しさに応じて、よ
り高い賃金となるであろう。一言でいえば、労働は、商品と同様に、自由競争の下で定ま
った市場価値に応じて代価が支払われるべきである。
さらに、自由競争の結果、賃金はいつも、労働の生産コスト、即ち、労働者が物を食べ、
再生産していくためのコストをカヴァーするにちがいないとも主張する。もし賃金がこれ
以上に下がれば、もはや過去と同様に、家族を形成し、子供を養う状況ではなくなるであ
ろう。それゆえ、労働者の数は減少し、賃金は労働力供給が減るため再び上昇することと
なる。
自由競争によってもたらされる第三の主要な結果は、賃金が労働の再生産コストをカヴ
ァーするのに十分になることである。
もし、これらの三つの条件が満たされれば、社会全体の経済はうまく軌道に乗ることと
なる。社会の生産諸力は、消費者のニーズ、すなわち需要になるべく対応するように配分
されることとなる。この需要自体、誰でもそのコスト全部を進んで支払うような、最も重
要な需要がまず満たされ、そうでないものは後景に退くように調整される。社会的労働の
全生産物は、それぞれがこの社会的労働における貢献の度合いによって高い賃金が支払わ
れるという基本原則に従い、配分されることとなる。
このような結論は、概ね正しい。自由競争の理論家が目標に定めた三つの点を実現でき
るならば、社会の経済的運営における理想を最も本質的な所で実現したこととなる。この
点では、旧来の自由貿易学派〔frihandelsskolan 前出の「自由主義学派」と同義と思われ
る〕は、どの時代にも当てはまる目標を示したことで大きな貢献をした。
しかし、彼らは、手段について誤りを犯した。彼らにとっての万能の手段である自由競
争では、上に掲げられた価格形成における三つの条件のうちどれ一つとして実現するには
不十分であるように思える。
何らの規制もされない競争は、その内的な必然性により、独占を形成する結果に終わる
に違いないからである。競争がまさしく自由であると、実際には、如何なる企業もそれに
耐えられないことが殆どである。というのも企業は互いにつぶし合うからである。その過
程の中で合併を余儀なくされるが、その目的はいつも、競争を制限し、全体の中の一角に
過ぎずとも独占を作り出すことにある。(先に言及した筆者の論文「カルテルとトラスト」
を参照。)
このような独占形成は、一定の条件の下では、特に過剰な競争のために生産コストを下
48
回って商品を売らねばならない状況の時には、経済政策上でも有用な道具となりうる。そ
の限りでは、独占形成は、この研究においては協同組合や労働組合と並ぶ位置を持つ。し
かし、それはまた濫用されると、生産コストをはるかに上回る価格上昇をもたらし、社会
の利害に真っ向から反するものとなりうるのである。
しかしながら、たとえそのような合併の可能性を脇に置いたとしても、「自由競争」の社
会は、個人に独占を形成して得られる優先権や特権の誘惑を与え、自由競争の言説を単な
るフレーズに過ぎなくしてしまう。資本が既に全く不平等に配分されているのであるから、
競争は初めから不平等である。大きな資本を自由にできる者は、そのことで著しく有利な
位置にあることが普通であり、容易に競争を無意味にしてしまうのであり、消費者に対し
て自分が主人となることができるのである。さらに、その性格上、独占であらねばならな
い多くの企業がある。鉄道、路面鉄道、水道、ガスなどの企業は、しばしばその業務に伴
い独占の地位にあり、コストを大きく上回る価格設定をして、不当な利益を得ないように
約束させられていることもある。
いわゆる自由競争が、価格を生産コストに見合うような水準に導く十分な保障とならな
いことも明白である。同様にして、自由主義の形式的な自由は、その同一労働・同一賃金
の実現にも不十分である。労働者は、実際には、その理論が想定しているような移動性を
持っていない。先に注目したように、単に無知のためのみでなく、[移動するための]資金
や進取の気性の不足、あるいは大勢の家族のためなど、様々な理由で拘束されていて、す
ぐ近くで稼げるよりもずっと低い賃金で一生満足する大勢の労働者がいる。それゆえ、あ
る種の労働は自由な個人間の競争においても統一的な市場の商品となっておらず、完全な
市場価格を実現できないのである。
しかし最悪な欠陥は、プログラムの最後の点、すなわち、賃金が労働の再生産コストを
カヴァーするということを考慮した時に現れる。賃金が余りにも低く、家族を養う上で、
子沢山でなくとも子供たちを自分と同じ地位にまでさえも育てることができないというこ
とはめずらしいことではない。そうした場合、労働力はもっとたくさんの子供を養える所
へ移動するので、労働者の数やそれに伴う労働力供給が減少するという自由主義の経済学
の理屈は、誤りである。しばしば、賃金は、労働者が自己の労働力を維持するのに必要な、
生存最低限度をも下回るのである。
ここで二つのケースが考えられる。どこからか不十分な賃金を補填するのか、全くしな
いのかということである。
不十分な賃金を補填するたくさんの形態がある。散々努力しても働いて生活を維持でき
ない労働者を救済する、民間慈善や公的救貧が大規模に展開している。最も良く知られて
いる例であり、最も厭わしい例を、19 世紀初頭のイギリスの救貧が示してくれる。1782 年
のいわゆるギルバート法(Gilbert Act)により、救貧当局は、必要とするものには仕事を与え、
その賃金では不十分である場合には援助をしなければならなくなった。次第に、家族の大
きさにより各個人の生活のニーズについての基準が形成された。そうして計算された標準
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額に賃金が届かない場合、救貧によって補充されることとなったのである。こうしたシス
テムの帰結は、破滅的なものであった。一方では、自分で配慮し努力することが無くなり、
加えて、たくさんの子供を抱えてももっとうまくやっていけるはずであった労働者家族の
さらなる没落が起こった。責任感情というものが全くなくなってしまい、特に未婚の女性
が、補助欲しさに子供を作るといった事態にまで至った。他方では、救貧法委員会の表明
(1834 年)によると、
〔労働力が〕本来の経済的メリットがある所から、救貧の最も手厚い所
へ移動するなど、全国規模での産業構造の歪みが生じた。
今日でも、慈善や救貧、特に民間慈善は、不十分な賃金を補うのに、しばしば同様の罪
を犯している。それは、
〔そのような慈善により〕まさに貧しい労働者に生活必需品を実際
のコスト以下で提供する場合、必ず起こっている。それによって得るものは、ある使用者
に、支払う賃金分以上に、労働力が提供されるという形で補助金を与えることに他ならな
い。このようにして、使用者は、依然として賃金を低水準に抑制しておき、恐らくさらに
引き下げることも可能となるであろう。慈善の祭壇に捧げられる物は、一部の使用者に利
益をもたらすか、あるいは、競争が十分に強ければ、生産物の価格を実際の自然な生産コ
スト以下に引き下げることにつながることとなる。どちらにしても、この種の慈善は、労
働者にとって直接有害であり、ある社会の経済全体に大きな損害を与える。それゆえ、真
の慈善の試金石は、常にそれが金を与えるか否かとなる。
しかし、不十分な賃金は、他の方法、すなわち労働者の係累からも補充されえる。女性
や児童の労働に関しては、こうしたことは普通である。女性が、はした金で身を粉にする
ことは珍しくない。その場合、彼女の生活は、一部、恐らく大部分を両親か夫によって支
えられている。そうした援助なしには、使用者が望み、今は享受しているように仕事がで
きないし、きちんとした服装もできないし、良き振舞ができないのであり、それがなけれ
ば、使用者は、そうしたことにかかるコストを給与として十分支払う必要があるのである。
子供がある職業において徒弟として教育を受けている時には、もちろん、教育それ自体
がその労働に対する一定の代価と見なせる。しかし、〔子供が〕将来において何ら有益とな
ることを学ばずに労働に従事する際には、少なくとも自分が生活していくのに十分である
賃金を受け取るように要求せねばならない。というのも、さもなければ、不足分を両親が
負担せねばならないからである。使用者は、そうした子供の養育費を払わせているので、
いわば、両親の援助の下に事業を行っていることとなる。
その他にも、不十分な賃金が補充されないケースが存在する。もし一部の労働者がその
ように十分な賃金を得られなければ、彼らは次世代を、現行世代と同等の活力があり、教
育を受けているようには育てることができないし、さらには同程度の人数も育てられない
のであり、そうした状況で労働し続けるならば、世代を重ねるにつれ、退化していくのに
違いない。19 世紀のイギリスや大陸における手織り工の歴史は、そうした退化の恐るべき
例である。そのような種類の労働者が死滅するまで長い時間がかかるかもしれない。しか
し、退化が起こるには、世代ごとに生活の必要の規準が低下していくことだけでよい。そ
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の過程では、当然、次第に有能さや産業にとっての価値が失われていくことは避けられな
い。
残念ながら、賃金が生活するのに十分でなく、しかもそれが何ら補われていないことの
例の枚挙にいとまがない。そうした劣悪な賃金の労働者は、もちろん、それで飢えて死ぬ
ことはないかもしれないが、そのような賃金で営まれる生活は、彼が強いられる労働を支
えていくのに十分ではないので、必要以上に早く肉体を摩滅させるのである。それでも仕
事が続けられなくなると、その産業から追い出されるが、新しい元気な人的資源
(människomaterial)が採用され、彼と同じ扱いで働かされることとなる。
幾ばくでもこのようにして十分な賃金を支払わない産業はどれも、賃金を支払うことに
よって与えるよりも多くの生命力を社会から奪い、不払いの労働で栄養を得るという、社
会の他の部分を犠牲にして生きる寄生虫(parasit)のようなものである。自然における寄生虫
と同様に、経済界において、進歩をもたらすあらゆる刺激を奪い、しばしば、寄生のため
に完全なる退化をもたらす。自分の力で存立することを強いられず、他からの安い労働力
に依存することに慣れた職業は、そのことにより、経済的・技術的進歩への最たる起動力
を奪われるからである。それゆえに、中でも最も技術的に遅れた職業ではどこでも、労働
者を最も劣悪な条件で働かせていることがわかる。
労働者の再生産コストをカヴァーする賃金を支払うという要件は、もちろん、基本的に
産業の他のどの領域でも自明と見なされることに他ならない。誰も、燃やしている石炭以
上に、蒸気機関の出力を上げることはできない。自分の馬で何かを得ようと思う馬主は、
まずは馬を食わせることに配慮せねばならない。他の誰かが彼が馬を養うのを助けてくれ
ることを当てにはできないのである。加えて、馬小屋で食べさせる餌を調達すれば十分で
はなく、馬自身も調達せねばならない。どのような経営者も、それらをただで調達できる
とは考えていない。馬を計画的に増やしていけるほど大きな馬小屋を持つならば、それに
見合うコストがかかることを認めねばならない。さもなければ、古い馬が駄目になるたび
に、新しい馬を購入せねばならないであろう。
何ゆえ、人間を働かせる者が、
[馬の場合と]異なる扱いを許されるというのであろうか。
健全な社会経済ならば、どの産業に対しても、使用している労働が維持されるように支払
いをし、消費している人的資源が補填されることを求めないことがあろうか。良き教育を
うけ、成人した男性労働者の再生産コストは、取るに足らないものではない。平均して 5,000
クローネに上ると想定される。常にそうした労働者を利用しうる経営者は、実際、社会の
他の部分から莫大な補助金を受けているようなものである。必要な新しい人的資源を育て
られるような賃金を労働者に支払うならば、消費した資源を補填しているのである。それ
ゆえ、その時には、やっとそうすることで、産業は、社会から抜き出したものと同じだけ
を返却しているのである。
北米における奴隷制の廃止直前まで、奴隷主は、自ら新しい奴隷を養うか、その完全な
る再生産コストに相当する値段で購入しなければならなかったはずである。しかし、必ず
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しもそうでなかった。奴隷貿易が依然として許されている限り、一般的にいって。アメリ
カで奴隷を育てるよりも、アフリカから新しい奴隷を輸入する方が安上がりであったので
ある。他から不払い労働力を調達することができたので、実際の労働力の再生産コストす
べてを支払うのを免れたわけである。
もし新しい労働力を他から調達できないとすれば、不十分な賃金は、無条件に労働者の
漸次的な摩滅や、退化につながる。同様の現象を農業にも見ることができる。農業経営者
が、もし毎年肥料をまくなどして施す以上の養分を、作物の収穫によって土壌から奪うな
らば、土壌が養分を失ってますます痩せていくことを避けられない。ユストゥス・フォン・
リービッヒ(Justus von Liebig 1803-73)は、そうした農業のやり方を略奪農法(rofdrift)と名
づけた。略奪農法により、広大な実り豊かな土地が、もはや住民を養えないまでに痩せ細
ってしまうのである。それは特にかつてのイタリアに当てはまる。最近まで北アメリカで
は、略奪農法は大規模に見られたが、今や全く合理的な農業のやり方に転換されてしまっ
た。確かに略奪農法によって土壌は劣化するのであるが、何年か通常に肥料を施していれ
ば、完全に作物を育てる力を回復できる。けれども、いったん最も貴重な資源である人的
資源を、何世代にもわたって略奪農法にさらしてしまうと、そうした一部の労働者の能力
を完全に回復させることははるかに困難なことである。
このような寄生虫、すなわち実際に代価を与えるよりも労働を消費する産業の存在は、
単なる怒りの対象であるのみならず、社会の最も基礎的な経済的利害にも反している。寄
生的職業は、実際の生産コストを下回るような、不自然に安い価格で商品を供給し、社会
の生産諸力を誤った方向に引きつける。この面において、他者を犠牲にして特定の産業を
促進する国家補助と同様の効果を持つ。それは社会全体の運営を誤りに導き、社会的労働
の成果を縮小させるのである。
不十分な賃金は、さらに一層労働能力を引き下げることによって悪影響を及ぼす。次章
では、栄養が行き渡り、快適な生活をしている労働者が、肉体的にも、知的にも、道徳的
にも、如何に卓越したものであるか、それゆえ、純粋に経済的に見ても、彼がどれだけ価
値あるものかを見るつもりである。こうした労働者が十全に効率性を発展させることを妨
げ、時には、既に現在そうである水準に次世代が発展させることを妨げることにより、低
賃金は、社会の経済的生命の根源そのものを駄目にしているのである。
自由競争は、我々が今検証したように、三つの点のどれをも保障するものではないこと
がわかる。それは、一般的に、独占価格を支払わねばならないような事態に対する防御を
与えないし、経営者を生産コスト以下で製品を売らねばならないような事態からも守らな
いし、自由主義経済学者が見込んでいるように、労働を唯一の市場価格をもった同型の商
品としないので、労働者にそれで現実に生きていけるような賃金を保障しないのである。
それゆえ自由競争は、自由貿易主義者の考えている目標、すなわち、社会全体の生産お
よび消費を経済的に正しく導くことを実現するには、まったくもって不十分である。この
目標に到達するためには、何か「介入しない」こと以上のことが求められるのであり、目
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的意識的な社会政策が必要となるのである。その際、もちろん、社会政策は、自由である
こと、個人のイニシャティヴ、競争を活用することの重要性はもちろん、常に進行する分
化の過程によって社会が利用しうるようになる社会的構築物すべてを活用していくことの
重要性を理解するものである。
自由競争社会では、大きな自然的な利害集団である消費者と生産者の間に、生産を主導
し、生産物の販売先を見出すことを任務とする、一言でいえば、生産に関わる多様な要素
と消費者の双方を結びつける紐帯である企業家(föteragarne)が立っている。この中間集団
は、販売価格と生産コストの差額によって生活している。企業家それぞれにおいても、[企
業家]全体においても、そうした差額をできるだけ大きくすることに関心があるのであり、
そのために独占を作り出し、その地位を利用しようとする。
消費者の利害は全く反対である。商品価格が実際の生産コストまで引き下げられること
を要求するのである。企業家によってなされた労働は、今や賃金と共に支払われ、生産コ
ストに含まれる。しかし、本来の企業家の利益は、すべての独占利潤と同様に、消費者の
ために保存され、その間で分配されるべきである。消費協同組合は、まさにこの目標、す
なわち、社会経済の第一の主要な要求を実現するための手段として社会政策的に意味を持
つのである。消費協同組合により、消費者は、本来の生産者と彼らを隔てる不必要な媒介
物を廃し、自分自身で生産を消費に一致させるという任務を引き受けることとなる。協同
組合運動は、こうしてまず需要を認識して組織し、社会の生産諸力をそれに直接役立つよ
うに編成し、それらに特殊な経済的組織の形を与えることを目標とする。
とはいえ、もちろん、一人が同時に消費者であり生産者であることが普通である。生産
者としては、かなり異なるより特殊な利害をもつ。この利害を守るため、生産者のそれぞ
れのグループは、自己の代表をもつ必要がある。これが、労働組合の役割である。労働組
合運動は、標準条件の政策を追求することにより、同一労働・同一賃金という社会経済の
第二の主要な要求を実現することに努力するのであり、これにより、ある職業や部門の労
働を、大きな領域において統一的な価格をもつ同型の商品とするのである。この価格を決
めることは、殆ど労働組合の役割となる。消費者組織は、様々な種類の労働の価値を計量
することはできない。それができるのは、生産コストに対応することだけである。しかし、
「生産コスト」は予め決まっているものではなく、様々な生産者グループの多様な要求の
現われであり、彼らが決めねばならなかったものであることが想起されるべきである。こ
れまで見たように、開放的な労働組合の政策は、こうした要求が余りにも高く設定される
ことを妨げる保障となる。すべての職業が、単に形式的ではなく実際に開放的にそうなり、
入職がその人の能力以外によって妨げられないようになるならば、ある職業の賃金は、恣
意的には決まることはなく、市場の状況、競争によって規制されることとなる。しかし、
各職業の自己の代表以外の誰も、それぞれの職業のことを考慮して市場の状況を判断する
ことはできない。それゆえ、この機関は、社会の合理的な経済組織にとって不可欠な要素
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となるのである。
消費者の組織は、様々な職業の代表として労働力の価格を規定する労働組合に対し、様々
な職業の労働力を購入する大口の買い手でもある。このようにして、協同組合運動と労働
組合運動は、社会的組織における一つの要素として互いに補完しあっている。そのうちど
ちらかが他者ぬきに存立することはできないのであり、それゆえ、どちらが最も重要な存
在であるとはいえないのである。
先に述べたように、各職業の賃金は、競争によって決定されねばならないが、それは、
自由競争ではなく、開放的労働組合政策によって規制された競争によってである。しかし
ながら、このような競争やそれによって生じた市場の状況が、常に然るべき結果をもたら
すとは限らない。〔というのも〕如何なる状況においても満たされなければならない、無条
件の要求が存在する。すなわち、労働者が自分の賃金によって生活できるということであ
る。言い換えれば、賃金が労働自身の再生産コストを下回ってはならない。労働組合が、
賃金が労働の再生産コストをカヴァーしないような状況から、職業ごとに今や次々と脱出
していることに貢献してきたことは疑いない。しかしここで、それによりそこではその課
題を解決できないと思われる労働組合運動の一つの弱点に突き当たる。というのも、特に
寄生的状況に陥った職業が、例えば、裁縫業のように、何ら特別な教育をうけていない労
働力をあらゆる方面から引きつけているのであり、そうした職業で労組を組織することは、
経験から見て、殆ど望みえないことだからである。
それゆえにこそ、最も急進的な近代的な社会政策家は、国家がこの点で介入し、法制化
により、これ以上如何なる労働も低く支払われてはならないという最低賃金を定めるべき
だと要求しているのである。当然、こうした成人男子労働者の最低賃金は、標準的な大き
さの家族を含めて生存最低限に相当するものになるであろう。
まずは、こうした要求が、社会主義者による国家がすべての賃金を規制すべしとの要求
と本質的に異なることに注意を向けねばならない。最低限を定めることと、それぞれの職
業で賃金を等級化することとは別のことである。前者は、一定の絶対的な人間の必要性に
配慮するのであり、国家がそれを定めることは比較的容易である。後者は、様々な職業の
社会経済的意義を秤量することで、市場の状況に配慮してなされる。それは、国家にしろ、
如何なる消費者団体にしろ、全く不完全にしかできないことである。既に見たように、各
職業の代表の協力の下でやっと可能となるのである。こうした結果は、すべてを国家に委
ねる、古き教条主義的な社会主義者には矛盾に満ちたものに思えるに違いないことはよく
理解できる。同様にして、純粋な社会主義国家は、我々が労働組合の存在を回避できない
という事実の前に頓挫することは確かなのである。
法定最低賃金の要求は、理論的に見ると、全く妥当なものである。しかし、同様の賃金
規制を実際に遂行できるかどうかは別のことである。この点、オーストラリアの最新の法
律は、興味深い。ヴィクトリア州は、1896 年に先頭に立って、工場法において賃金につい
ても規定を導入した。南オーストラリアは、1900 年 12 月の法律でこれにつづいた。けれ
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ども、これらの法律は、我々がここで使った意味での一般的最低賃金を定めたわけではな
い。むしろ、労使代表が締結した特別な合意に対して立法による権威を与えることを意図
したものである。ヴィクトリア州の最初の法律で問題にした六つの職業のそれぞれには、
労使代表に1人の中立の立場の人物を議長として加えた5人からなる賃金委員会(wages
board)が設置された。それぞれの委員会は、各々の職業の賃金を定めるが、それ以後、その
賃金を下回ることは許されないので、法定の最低賃金として機能するのである。しかし、
(例
えば、)何者も週 2 シリング 6 ペンス(約 2.25 クローネ)以下の賃金で工場では働いてはなら
ないとの一般規定を定め、絶対的な最低賃金を導入したとしても、それは実際には子供と
徒弟にしか意味をなさないのである。南オーストラリアでは、同様の最低賃金が週4シリ
ング(約 3.60 クローネ)と定められた。さらにいえば、法律の対象となったのは最も「苦汗
労働(utsvettade)」の著しい職業であったので、この法律は、ある程度、概して一定以下の
賃金であってはならないという法的禁止の性格を持った。
こうした法律の効果について確かな評価をすることは、決して容易なことではない。ヴ
ィクトリア州が、1900 年には既に賃金法の適用範囲を 21 の新たな産業に広げたという状
況は、ともかくも当初の試みの成果が期待に概ね沿うものであったことを語っているであ
ろう。しかし、特に工場監督官の報告するところでは、この法律は多くの不都合を伴った
のであり、その適用に当たっては多大な困難に立ち向かわねばならなかったことも明らか
である。とりわけ先に述べたように、国家が労働組合の支配する領域に介入し、様々な職
業における賃金を秤量することを期待できないのである。法律によってすべての職業に当
てはまる絶対的な最低賃金を定めることに満足すれば、事態はもっと容易になるであろう
し、そうなる可能性があるのであり、またありえそうなのである。
とにかく、如何なる国家による賃金政策への直接的介入も大きな困難を伴うのであり、
特に法律の遵守を監督することを考えると、法律による最低賃金の制定を実際的な社会政
策とすることがなお一層できないと思われる。しかしながら、先に見たように、賃金が一
部の者にしても現実の生存最低限よりも下回ることを防止するという目標は、よき社会経
済にとって根本的な意味をもつのであるので、現状に満足したり、事態を流れるままに放
置しておいたりすることはできないのである。他の手立てを探さねばならない。
協同組合運動は、多くのケースで、
「苦汗労働の」職業を正常な状態に引き上げる際には、
非常に有用であることを示してきた。消費協同組合は、彼らのために働くものは賃金で生
活しうるという原則を常に守ってきた。それゆえ、自由競争がそれ以下の水準に賃金を押
し下げる所では、消費協同組合は、自分でその製品を生産することに着手することも稀で
はなかった。例えば、スコットランドの卸売協会がシャツの生産に乗り出したことが挙げ
られるであろう。力強く発達した協同組合のシステムにも、我々は寄生的な職業に対する
強力な助けを期待できるのである。
国家やコミューンも、自身が使用者として正しい賃金政策に従うことにより多くを正す
ことができるであろう。稼ぎの良い労働に関しては、この領域では概して正しい方向に動
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いている市場の状況にあわせるのが賢明であろう。[しかし、]自由競争が生存最低限以下
に賃金を引き下げるような職業では、市場の状況は、無条件に公的賃金政策の導きの糸と
は認められない。民間の使用者が異常な貪欲さゆえに、あるいは、こちらの方が普通であ
るが、競争の圧力を受けて全く不十分な賃金しか支払わないことは、国家やコミューンが
同じ事をする理由とはならない。もし国家やコミューンが社会機関であるならば、自己の
利害を社会の利害に従属させねばならないし、その政策は、統一的な社会政策の中の有機
的な一環とならなければならない。如何なる社会の機関も、特に労働の効率性を保つのに
必要な生活水準を維持するという枢要な社会の利害に関しては、自己の任務を自覚しそれ
にそって行動することが当然であるので、盲目的かつ無気力に機械的な競争・闘争に巻き
込まれることに身を任せることは、全くそれに反していることなのである。
そのような自立的な賃金政策のための第一の条件は、当然、労働者が生きていくために
何が必要かを知ることである。このことは、しっかりと調査されねばならない。単に一つ
二つの数字を挙げ、あれやこれの賃金は十分であると見なすということでは駄目である。
安易に、実際に一つ二つの職業で支払われているものを比較するだけで終わってしまう危
険があるのでる。これらの実際の賃金が不十分であるならば、当然、そのような比較が明
らかに誤った結論を導くこととなる。全体の中で賃金に関わるテーマのみについて議論す
ることは、概して地に足が着いた議論とならず、混迷に陥りがちである。それに対して、
最低賃金として提案される算定額は、詳細にかつ物品で提示されるべきであり、
[そうすれ
ば]問題全体が全く異なる確かさを得て、無責任な発言に容易に動かされるようなことは
なくなる。その際には、各人は収入の中でそれぞれの特別な品目を守り抜くことを強いら
れる。労働者がはねつけられているのは、一年を通じての金銭の総額などではなく、不純
物の入っていないきちんとしたミルクを子供達に与えることや、衛生や尊厳さに対する最
も簡素な要求を満足させる住宅なのである。
それゆえ当然、最低賃金は、年齢・性・地域などによっても異なるが、一度定められれ
ば、如何なる状況においても国家やコミューンがそれより低い賃金を支払うことは許され
ない。こうしたルールはまた、常勤の労働者のみではなく、押しなべて公的労働に従事す
るすべての者に適用されるべきである。直接公的事業に携っている労働者に制限されず、
請負や調達で公的な仕事に関わるものにも広げられるべきである。
公的機関が厳格にある最低賃金を堅持すると、低賃金労働に依存している産業や企業の
存立を危うくするとして、それに反対する者もいる。それには一理あるが、まさにそれは
意図したことである。既に見たように、労働者に十全な生活コストを支払えないような職
業は、実のところ、社会の他の部分の犠牲なくしてはやっていけない職業なのである。そ
うした職業を生き延びさせることは、社会の利害に合致しえない。感傷的な弱者救済政策
は、産業の立ち遅れや無駄の状況を長引かせるだけであろう。それに対し、高賃金を支払
うことを強制することは、使用者の熱意や発明の才を促進するのであり、一般に福祉をも
たらす道をももたらすのである。公的機関は、今日、大規模な使用者であり、それゆえ当
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然、その賃金政策は市場全体の状況へ著しい影響を及ぼしうる。この影響力を、賃金が生
存最低限を下回るのを防止するという極めて困難であるが重要でもある問題を解決するた
めに、社会が利用すべきであることを誰も否定できない。
賃金について法を定めることは、いってみれば、できればそれに訴えることを避けるべ
き実験である。しかし、それ以外の労働条件を規制するのに法律の助けを利用して大きな
メリットがありうることは否定できない。ことは以下のようになる。それ以外のすべての
条件が法で定められれば、使用者は、この条件の下で行われる労働に対して賃金を決定す
ることが任されることとなる。それにより、労働契約の自由における本質的な要素は維持
される。しかし、賃金を決定すれば、今や自由も終わりとなるのであり、それゆえ、賃金
についての立法は、その他の労働条件についての立法と全く異なる性格を持つのである。
しかし、その場合でも、国家は最低要件(minimalfordringar)のみを規定することは有効
である。もしある職業の労働者が、それを超えてさらにメリットを得ることができるなら
ば、全く喜ぶべきことである。とはいえ、それは常に、直接の利害関係者が交渉するのに
任せるべきことである。しかし、最低要件を実現するためには、通常、労働組合に全面的
に依存するよりも、立法の助けを利用した方が望ましい。というのも、労働組合の活動は
いつも大きな摩擦を生むのであり、それらの要求が実現されるまで、長い時間がかかり、
多大なコストがかかるのである。しかも、労働者の組織は、何より保護を必要としている
最も劣悪な状態にある労働者の状況の多くを改善できないことが普通であるので、目標は
完全には達せられないのである。
こうした基本的な考えに、すべての工場立法が成り立っている。国家は、法律において
労働者の安全や健康のための法則を配慮し、一般的に労働時間の制限を考え、女性や児童
の労働の制限を意図して、最低要件を定める。労働組合がこれらの法律の遵守を監督する
のを手伝うことが、非常に好ましいことであることは間違いない。しかし、法律の助け無
しでは、近代的な労働者保護のどんなにわずかな部分であろうと実現するのに、どれほど
の終わりなき闘争や甚大なる経済的犠牲が伴うことであろうか。一般に当てはまるある要
求が社会の利益のために実現されねばならないことが一度明らかになるとすれば、それが
最小限の摩擦で実現されるようにしなければならないのは当然である。それゆえ、例えば、
今や法律により労働者の団結権は保障されるのが望ましい。というのも、さもなければこ
れをめぐる闘争が起こり、もっとよく利用できたであろう莫大なエネルギーや金銭が無駄
にされるからである。
もちろん、工場立法により国家の社会政策的任務が尽きたわけではない。国家は、ご承
知のように、法律によってのみではなく、隔絶した行政的・財政的な力によって影響力を
発揮することができる。こうした力を、民間諸団体の能力を超えた課題の解決のために利
用しうるのであり、利用すべきなのである。
賃金が労働者の再生産コスト全部をカヴァーすべきであるという原則は、彼自身や家族
を養えなくなったすべての場合に備える保険のために、賃金のうち幾ばくかを残すことが
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できることを要求する。もし地主が、労働者を 40-50 年の間、単に生活を維持するだけの
賃金で雇用していたとすると、その者は、すっかり働けなくなった時には、教区の救貧に
頼らざるを得なくなるのであり、それゆえ、使用者が、自分が利用した労働力に十分な支
払いをしていなかったことは明白である。もしある産業が標準として年に一定件数の事故
や一定数の病気による欠勤日数を見込んでいたとすると、また、季節性のある職業が、一
年のうちの一定部分に仕事を提供できないとすると、賃金が全体としてこれらによって仕
事のない時期のコストをカヴァーしていないのならば、賃金は十分には支払われていない
こととなる。これらのコストは、産業の現実の再生産コストに含まれなければならない。
こうしたことに基づき、近代的社会政策は、高齢者や遺族、労災や病気、そして失業に
対する保険を求めることとなる。こうした保険のジャンルの中でも、とりわけ高齢者や遺
族に対するものには、国家の介入が必要となる。というのも、その課題は、余りにも広範
で、莫大な財政的・行政的資源が必要となるのであり、とうてい労働者の自前の組織で解
決を期待できないからである。労働組合にとっても適当な任務とはいえない。なぜならば、
その保険は何ら特別な職業とは結びついておらず、人口一般を直接対象としているからで
ある。その任務をコミューンに任せるのも適当ではない。高齢者を養うことは、全生涯を
通じて準備されねばならない事柄である。しかし、あるコミューンに帰属することは、現
代社会においてはかなり一時的な状況であり、全生涯にわたって検討すべき課題に結びつ
けることは相応しくないのである。
こうして、国家が労働者の高齢や遺族に対する保険に関与する必要がある。そうした保
険の組織については、ここでは具体的に論じる余地がない。保険の財政的な側面について
は、国家がどれほど援助をすべきなのかについては疑問が出てもおかしくない。例えば、
そうした援助は、産業は労働者の再生産コスト全体をカヴァーする賃金を支払うべきであ
るとの原則に反するのではないかと問うことができる。しかし、少なくとも我が国におい
ては、国家の[財政]手段の多くは、労働者に由来するのであり、国家の労働者保険への
援助は、結局は賃金から捻出しているといえることを想起せねばならない。それゆえ、こ
の問題は次の問題に還元できる。労働者から、恐らくは使用者からも直接金を出してもら
うことと、それとも消費税によって間接的に資金を集めることと、どちらがより適当なの
か。前者は、莫大な行政コストがかかるのであり、労働者にとってむしろ重荷となるであ
ろう。[それに対し]後者の方法は、より快適であり、また全体として見れば公正となる。
コーヒー、砂糖、タバコ、火酒などの商品に課税すれば、例えば、穀物関税が常に伴うよ
うに、国内生産者に対する然るべき貢納を支払うことを回避することとなるのであり、同
時に、ほとんど所得に課税負担が比例するように、税額を秤量することも可能であると思
われる。このようにして資金を集めるとしても、もちろん、禁酒主義者やタバコをすわな
い者の負担が少なくなることは避け得ない。それに対し、大家族の者が、相対的により多
くの支払いをしなければならないことは、家族全体が対象となる保険としては、まったく
正当なことである。
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労災保険は、産業のコスト勘定で直接賄うべき支出に属するのであり、それゆえ、使用
者によって担われるべきである。この支出が工場主に課せられるならば、彼らはそれによ
り、労災のための支出を最小限にするために、自分の工場で出来る限り最善の方策を施す
ことを強制されるとも考えられる。このことは、大きな利点であるが、工場主がそうした
リスクから守られるならば、今いった効果が現れるとは限らない。国家は、この領域では、
法を定め監督することにより、当該者に保険を運営させることを強制することに役割を限
定しうる。しかし、国家が保険の運営を引き受けるならば、その存立はより容易になりう
るであろう。
疾病保険には、被保険者とその状況についてよく知る者によってのみ及ぼすことができ
る十分なコントロールが必要である。それゆえ恐らく、この保険は、労働者自身の疾病基
金によって担われることが最善である。もちろん、その際にも、国家による監督や財政支
援がなされるべきである。
失業保険の問題は、労働者にとって最も意味あることであるかもしれない。この問題は、
本質的には、労働者が[自発的及び非自発的という]二種類の失業に対し身を守らねばな
らないことにより難しくなる。その際には、怠け心やだらしない生活によって、いわば自
発的に失業する場合は除かれる。労働組合が、使用者が提示する条件で働きたくない時に
訴える、他の種類の自発的失業もある。この種の失業は、仕事がない時に起こる純粋に非
自発的な失業と極めて区別しがたい。我々の中では、多くの者が冬季には仕事がなくなる
ことが普通の現象である。その際、労組が定めるよりも低い賃金で仕事が提供されること
もしばしば起こる。もし労働者が働くことを断ったならば、それによる失業が自発的か非
自発的なのかを決定するのは不可能であるであろう。
普通、当然のことながら、失業に対する保険の提案は、本当に仕事が不足して起こる失
業を意図している。自発的失業については、労働組合が最も良く対応できると考えられる。
しかし、既に言及したように、それらの間の境界を引くことは非常に難しいので、すべて
を労働組合や、当然にして労働者それぞれに任してしまうのがより妥当なことであるよう
に思える。如何なる労働組合も、使用者に対する闘争の際にメンバーを援助するために用
いる基金に資金を貯めねばならない。これらの基金が、自発的失業に対する保険として役
立つであろう。もし、仕事が余りにも安い賃金で提供されるならば、労働組合は、当然、
そうした仕事をすることを拒否する完全なる権利をもっている。また、労働者にとり、短
期間の就業を得るために、それまで多大な苦労とコストをかけて実現してきた賃金表に風
穴をあけないようにすることは、経済的に見ても賢明であることがありうる。しかし、こ
れらすべては、労働組合が自ら決定するべきことに他ならないのであり、何か外部から介
入するならば、常に競争を誤った方へ導くのである。しかし、他の組織、例えばコミュー
ンや国家が保険の主体である場合は、それを回避できない。そうした保険機関は、労働者
が提供された仕事をやることを要求するし、さもなければ、援助を支払うことを拒否する。
そのような場合、労働者にとって、当初から自己の組織に払い込んでおけば、ずっと良か
59
ったのである。
また、失業が使用者との対立や仕事の一時的不足によって起こるのであれば、労働組合
が失業保険をすべて引き受けるのが最も適当であると思う。それに対し、普通に一時的に
繰り返し生じる失業に対する保険は殆ど必要ないし、無意味であるようにも思われる。不
確かなことに対するのが保険なのであり、予め起こるであろうことを知っている状況に対
しては、準備をすることなのである。季節的職業において標準的に起こる失業は、もはや、
大勢の者の間で一部の者に降りかかる損害をならすために分散するリスクではなく、通常
に職業のメンバーそれぞれにやってくる困難なのであり、それゆえ、それぞれがそれを負
担するのが最も適当なのである。団結し、組織を設立することは、それぞれの領域で素晴
らしいことであり、[それに伴う]社会的な教育は大いに価値があることである。しかし、
他方では、労働者も何らかの際には自分のことは自分ですることに慣れなければならない。
通常のこととして起こる失業に対する正しい保険は、貯蓄基金(sparkassan)である。可能な
らばどの労働者も自己の資産として何かを所有することは、一般的に言って社会の枢要な
利益であるので、この保険の方法は、一層促進される価値がある。
しかし、その他の偶然による失業については、それに対処するよりも予防することの方
が望ましい。この点では、国家やコミューンは、使用者として大きな重い責任をもってい
る。現行のように、かなりの程度無計画に事業を進めることを改め、この領域でも出来る
限り失業を生じさせないように意識して政策を追求するようにしなければ、この責任を免
れ得ない。既に見たように、例えば、近年、スウェーデン政府は、景気が急速に上向いた
時期において、全くの緊急でもない鉄道建設を推進したが、それは、労働力の供給のより
豊富な時期にズラして行うこともできたのである。そうすれば、その後に起こった失業を
緩和するのみでなく、純粋に民間経済の観点から見ても利点があったことはいうまでもな
い。もし都市で多くの大規模な公共建築事業が一度に実施されると、都市に大量の手工業
者が引きつけられ、その一部しか戻らない。民間の建築活動が盛んな時と同時になると、
特にそうしたことが起こる。まもなく不況が来ると、手の施しようがない失業や悲惨を目
の当りにすることとなる。我々は、公共事業を実施する際には、労働市場の状況に配慮し、
出来る限りそれに合わせることを肝に銘じねばならない。このようにして、社会の公的機
関は、少なからず労働市場[の状況]を平準化し、失業の予防に貢献しうるのである。
最後に、労働組合の活動では十分に対応できないように思え、国家や結局はコミューン
の社会政策が重要な任務を課せられることとなる、さらに一つの領域が思い出される。そ
れは徒弟制(lärlingsväsendet)である。徒弟制は、社会の生産諸力をそれぞれの職業に正し
く配分するのに決定的な意味をもつのであり、最高度に社会的な案件なのである。我々は、
どの職業へ参入するにも、熟練の要求を下げることなく、熟練を獲得する道を平等に開く
ことによって、出来る限り容易にするという政策を取らねばならない。そうした徒弟政策
は、必然的になお一層大きな課題である一般的・基礎的な民衆教育を運営するという課題
に帰着する。この課題を統一的な社会経済政策の一要因として見るならば、直ちに、すべ
60
ての義務初等教育(folkundervisning)をより具体的な目標に向け、わが国民が以前よりもつ
本来的に関わりのないことに気を取られる傾向を促すようなことのないようにすることが
重要であることに眼が開かれるであろう。
このようにして、我々は、社会政策における労働組合の有用性について最も重要な限界
を示してきたように思われる。そこで、同じ観点から協同組合の政策的[有用性の]限界
について明確にし、それを検討することが、国家やコミューンの社会に対する位置やこれ
らの社会機関の諸機能について照明を当てることにつながることを示すこととする。経済
的観点からみれば、国家もコミューンも殆ど消費者組織(konsumentorganisationer)と見な
す べ き で あ る が 、 そ れ ゆ え に 、 ど の よ う な 点 で こ れ ら が 消 費 団 体
(konsumtionsföreningarna)と異なるのかについて見ることは興味深い。
協同組合政策の全活動は、常に消費者の1グループを生産者と結びつけることに向けら
れる。しかし、このグループは、誰でも良いというわけではなく、ある条件を満たしてい
なければならない。
第一に、このグループへの帰属は自発的でなければならない。人々を消費団体に加入す
ることを強制することはできない。したがって、消費協同組合運動は、個人の消費の自由
な意思発現に基づく消費に限定されねばならない。しかし、とはいえ、すべての消費が自
発的であるわけではない。いや、現実はそれとは程遠いのである。もし、照明の当たる街
路を歩いているとすれば、まったく無条件に、何ら自分から働きかけることなく、照明の
メリットを享受している。こうした種類の消費は、民間団体では扱えない。というのも、
街灯に対して支払いをしない者も、それから利益を得ている者も、誰でもそのメンバーに
なれるようにしなければならないのである。こうした社会的消費の性質上、自分が社会の
メンバーとして社会的消費に参加するならば、自ら働きかけることなく帰属することが強
制される、社会的構成物(sociala bildningar)である強制団体であることが求められるのであ
る。国家とコミューンを特徴づけ、他の社会的構成物と区別するものは、個人が否応なく
所属しなければならない消費者の強制組織であるということである。
したがって、次のようにいえる。社会的消費という大きな領域は、常に協同組合運動の
領域から区別されねばならない。この運動の活動領域は、他の面からも非常に強く制限さ
れている。
即ち、第二に、協同組合が生産者と結びつけようとする消費者のグループは、固定した、
国内の、望むべくは地域的な集まりであり、一般的に既知の品物に対する恒常的な需要を
持つものである。変動する消費者は、協同組合を設立できない。マルメー(Malmö)とコペン
ハーゲン間の蒸気船航路は、乗客によっては維持されないのである。同じことは一般的に、
旅行者に役立つことを意図した諸施設にも当てはまる。力強く発展した協同組合システム
が、一国の生産の大部分を引き受けることも考えられる。しかし、輸出を意図した生産の
部分は、必然的に協同組合運動の外にあるのであり、さもなければ、他国の協同組合組織
61
によって担われることとなろう。既に見たように、このことはある程度既に起こっている。
しかし、世界中の消費が協同組合に組織されるまでには、ある程度時間がかかり、それに
加えて、国際商業は、民間の企業活動のための大きな余地を残すこととなる。同じことは、
機械、設備等を、一言でいえば、直接消費されない資本財を生産するすべての産業に当て
はまる。大規模な製鉄所、造船所や機械工場は、結局は、協同組合運動の範囲の外に留ま
ることとなる。消費協同組合は、実験をしたり、新しい領域に踏み出したりしないし、流
行の交替に晒されるような商品の生産にも殆ど携われないであろう。経験の示すところで
は、協同組合は、これまでは、自己の計算で大量に作られる既知の品物を生産することに
満足してきた。
私的な商業活動を一挙に回避することができ、「私的資本主義」がすぐにも消滅するとイ
メージする傾向がある者が常にいることを考えれば、こうした協同組合運動の限界を想起
することは有用であろう。今日の経済現象において、そのような傾向を指摘するものは何
もない。
しかし、協同組合は、活動領域の範囲に関して限界があるのみではなく、この領域にお
いて成し遂げられるものについても限界がある。協同組合は、ご承知のように、目標とし
て利潤の廃棄を掲げているが、それゆえに、生産の源泉になるべく近づいてその目標を実
現しようとする。しかし、どんなにそうしても、なお自然独占を根絶することはできない。
協同組合運動は、自然独占を保持し、それを利用して社会的労働の果実の著しい部分をわ
が物としようとする者を妨げられない。他方、社会政策は、当然ながら目的合理的な観点
から、社会的生産の成果を、生産に何らかの形で貢献した者が得ることを求める。ここに
国家やコミューンの大きなそして重要な役割が存在する。
鉄道を所有する者は、それにより、通常、多かれ少なかれある地域における交通の完全
なる独占の地位を持つこととなる。しかし、[そうした独占は、]アメリカでの状況が示す
ように、鉄道に依存する産業全体に、著しく極めて危険な力を行使できるようになっても
おかしくない。それゆえ、国家が少なくとも重要な鉄道路線を所有すべきであると主張す
る者には根拠がある。例えば、プロイセンでは、投下した資本の利子を上回る国鉄の利潤
は、近年非常に増大し、国家の主要な収入源の一つとなっている。もしこの国鉄の幹線が
民間所有となれば、利潤は、個人の財布に入り、それに相当する額が、そうでなくとも既
に負担が重い納税者にのしかかることとなる。
スウェーデンでは、古のイェスタ王(kung Gösta)16の国家の権利についての健全な配慮は、
無思慮にも、個人が社会の[ものである]森林、水流や鉱山から利益をむさぼるにまかせ
る全く逆の政策に取って代わられてしまった。最近やっと、人々は事態に目覚めて、これ
が劣悪な政策であることに気づいたように見える。今や国家は、大金をはたいて、何世代
16
16 世紀前半にスウェーデンのデンマークからの独立をなしとげたグスタフ・ヴァサ(Gustav
Vasa)のこと。
62
か前の者が愚かにも売り払ったものを買い戻すか、また法律の後援を得て直接的で強力な
社会政策によって安全に保持できるよう努めているのである。
コミューンにも、特に近代的な都市コミューンには、保持すべき独占がある。ここ北欧
では、都市自身によって住民に水道やガス、最近では電気もが供給されることに慣れてし
まっている。
[それに対し]マンチェスター理論の故国では、今なお、一般に「自由競争」
のもとに任せているのであり、世界最大で最も豊かな都市であるロンドンは、今日なお、
自身で水道を供給する権利を持っていない。しかし、ストックホルムでも、依然として路
面鉄道の権利を民間会社に任せてしまっているのであるが、そのことが当然ながら一般へ
の課税につながってしまっていることが理解されている。
しかし、コミューンの社会政策における最悪の誤りは、大都市の土地の著しい値上がり
の利益を個人が貪るに任せていることである。この値上がりは、社会の発展や労働の果実
に他ならない。都市は、公園に大きなコストをかける。すると、近隣の家主は、店子に向
かってこういう。旦那さん、ここは公園となりました。それは貴君にとって大きなメリッ
トですので、もっと高い家賃を払うべきですよね。このようにして、それと関係を持つ店
子は、公園に対して何らかの負担を強いられる。同時に、さらに都市のすべての納税者も
その公園に対して支払いをしていることとなる。このことが不当でないであろうか。公園
で利益を得る者が、それに対し負担をすることは、勿論正しい。しかし、最も正しいのは、
公園を作った者である市に代価を支払うことである。それは、公園を設けたために近隣の
土地が値上がりした分を、都市が確保することによってのみそのことが実現する。
もし市が、市民法に則り、すなわち、予め地主と契約を結ぶことにより、土地の値上が
り分の一部を確保すれば、一般的に正しいことと思うのであるが、一部の者はなお、市は
十分に「リベラルに」振舞っていないと考えるであろう。しかし、そのような私的合意は、
ややもすれば著しい困難に突き当たる。いつも契約に同意せず、次のように考える者がい
るからである。市は、[契約せずとも]ともかくも公園を作るであろうし、そうすればそれ
で利益を得られる。そこでこう問うこととなる。もし、人々にこのような契約を強制し、
利益を得ることに対し何らかの代償を支払わせる強制社会となれば、こうしたことはなく
なるのではないか。もちろん、そうである。このような強制社会の権威に全く自然な内容
を与えることとなるのは、まさにこうした時である。
市は、自己の働きや諸負担の成果である地価の値上がりに対して権利をもっている。ど
のような所有権の哲学的な根拠に拠っても、これ以外の結論には行き着かないであろう。
もし別の見方をするならば、それは、所有権の現実的な経済学的内容に盲目である、形式
主義的な誤解をしていることに他ならない。土地の購入者を考え、彼がある程度、将来、
土地が値上がりすれば、その値上がり分によって一定のプレミアを支払うことを頼りにし
ても仕方がない。これまでと同様に、もし別の者が自己の労働の果実をその者に与えるの
だと考えたところで、彼にはそれに何ら要求する権利を持たないのである。
ある場合は市の土地値上がりに対する権利が有効で、別の場合はそうでないことは不適
63
当であろう。それゆえ、市は、地域のあらゆる土地値上がりの一定部分を確保する権利を
認められるべきである。というのも、そうした値上がりは、市の活動の直接の成果である
か、市の成長の結果として生じるのであるからである。しかも、後者の場合、地価の値上
がりは、結局は都市の拡大が常に一般にもたらす膨大なコストによって制約をうける。
「不労所得(oförtjänsta värdestegringen)」に対するコミューンの課税は、一般にコミュ
ーンの社会政策にとって格別の意味を持つ。特に、そうした課税が十分に高ければ、土地
ころがし(tomtjobberi)と呼ばれるような反社会的な活動を不可能にするであろう。しかし、
それができなくとも、コミューンは、大規模な住宅政策のための財政基盤(materiella
underlaget)を得ることとなる。こうして、我々は、他の何よりも労働者家族の経済全体に
深く関わる問題、すなわち、住宅問題の解決に近づくこととなる。労働者は、大都市で賃
金額を十分上げることができても、土地独占が家賃引き上げという形で得たものを奪われ
るか、そうならないにしても、こうした略奪に対抗するのに、住宅に対するニーズを健康
や尊厳に対する最低の要求を下回るような水準に落とすということとなれば、何の意味も
なくなるのである。住宅問題を、コミューンの社会政策の最たる要素として位置づけるの
は、こうした観点なのである。
64
Ⅴ.高賃金の経済
古くより、高賃金は利益をもたらすか否かが、経済学における争点となってきた。かつ
ては、高賃金は労働者を怠け者にするだけであるとの意見が支配的であった。生活を維持
するのに必要なだけ稼げば、もはやそれ以上働こうとしないだろうからである。もし週 3
日の労働で必要を満たしてしまえば、週の残りを居酒屋で過ごすこととなる。同様の考え
は、しばしば 16、17 世紀のイギリスの経済学者に見られ、サー・ウイリアム・ペティ(Sir
William Petty 1623-87)といった傑出した者でさえ例外ではない。当時の賃金は、多くの場
合、法令や慣習により一定の貨幣額に固定されていたので、この議論は、概して低い生活
手段の価格の利点あるいは欠点をめぐるものとなった。高賃金に反対する者は、政府に輸
出奨励金によって国内では高穀物価格になるよう気をつけ、その他については高課税によ
り、出来るだけ労働者にとって生活コストを引き上げることを躊躇なく要求した。法律の
助けにより、なるべく労働時間を延ばし、賃金を引き下げ、労働者がキッチリと週 6 日働
いても、殆ど生活を維持する以上の賃金を稼げないようにすることさえ提案された。
同じ側から、低賃金は、他の国と同じくらいかより安く生産することを可能にするため
には必要であると主張された。それによってはじめて、輸出が出来るからであった。輸出
は、重商主義の時代には、国富を増進させる主要な手段であったのである。
しかし、別の考えの著作家も存在した。[彼らにより、]高賃金は様々な理由から擁護さ
れた。[例えば、]高賃金は、産業にとって大きな販売領域を作り出す。というのも、国民
の広い層に産業の消費者を生み出すからである。富裕な階級のわずかばかりの消費では、
産業の興隆は不可能であるので、[高賃金が]必要なのである。また、労働者を国内に維持
することを望むならば、高賃金を支払う必要がある。余りに少ししか支払わないと、最も
優れた労働者は、高賃金の国に移民してしまうからである。
この著作者のグループの中で、徐々にではあるが本来の主要な論点が浮上してきた。す
なわち、労働者は、自己の状況を改善できる何らかの見通しをもてば、それだけ勤勉とな
り、よりよく生活ができるならば、それだけ有能になるのである。
この論争のさらなる展開にとって特に重要であったのは、アダム・スミスの権威をもっ
て、高賃金の利点がはっきりと主張されるようになったことである。アダム・スミスは、
この問題を正しく社会経済学の下に照らし出した。すなわち、下層階級の生活条件の改善
は、社会にとって利益であるのか。[という問いである。]もちろん、然りである。という
のも、これらの階級が社会の大部分を占めているからである。大部分の者にとりはっきり
と利益であることが、全体にとっては害でありえない。社会のメンバーの多数が貧困に打
ちひしがれ、悲惨な状況で暮らすならば、その社会が繁栄し幸福であるわけがない。スミ
スは、賃金の労働者に対する影響については、次のように言っている。賃金は、勤勉さを
65
促すものであり、勤勉さは他のどの人間の特質と同様に、それが受ける刺激によって向上
させねばならない。よき生活条件は労働者の肉体的な力を増進し、自己の地位は改善でき
るのであり、ついには富裕にもなれるとの望みは、彼の力を最大限に引き出す。それゆえ、
賃金の低い所より高い所では、常に労働者は活発であり、勤勉であり、機敏である。イン
グランドとスコットランドを、大都市およびその周辺と農村の辺境を比較してみるが良い。
[確かに]スミスは、中には高賃金を得て、怠惰となる労働者がいることも認めている。
しかし、それは例外なのであり、決まってそうなるわけではない。逆に、経験が示すよう
に、高い出来高給に刺激を受けて、死ぬまで働くような危険が存在する。スミスは、高い
食料品価格を熱狂的に称揚することに反対し、安い生活コストにより怠惰な生活を送るよ
うになる者もいるかもしれないが、
「こうした影響が多数に及ぶとか、栄養の行き届いた者
よりも劣悪な栄養状態の者の方が、胸を張って生きている者より打ちひしがれた者の方が、
概して健康である者よりも切れ目なく病気になる者の方が、一般的によく働くなどという
ことは、まったくありえそうもないのである。
」
ロバート・オウエンは、なお一層の情熱をもって高賃金を擁護した。オウエンは彼自身、
けっして豊かにはなれないために、肉体的・精神的に退化する工場労働者を見てきた。栄
養が不足し、過酷な労働を積み重ねるとどうなるかを見てきたのである。すなわち、「魂は
人間らしさを失い、肉体は衰弱する」のである。オウエンは、適応の法則に近づき、教育
や環境の重要性に気づいた。「いかなる善良さも、いかなる凶悪さも、どのような性格であ
ろうと[その性格形成の過程に]適当な手段を用いれば、社会にもたらされうる」のであ
る。さらに彼は、自己の理論を実践に移し、どれだけ妥当性をもつかを試す機会をもった。
ニューラナークの自分の綿紡績工場で、無料の保育、無料の娯楽、安価な必需品、良質の
住宅を提供し、労働時間を短縮した。仲間はいぶかしげに失望の念を示し、敵は彼の没落
を予言した。しかし、4 年もすると、オウエンはこのシステムが実際にもたらした利益を誇
らしく見届けることとなった。彼は、投下した資本に対する 5%の利子の他に 16 万ポンド
の利益を得たのであり、工場の評価額は 50%増加したのである。
そこで「利潤を生みだす者の王(profitmakernas kung)」である彼は、当時の工場主に向
けて一つのプログラムを示し、賢明にも実践的な商魂に訴えた。機械が清潔に保たれ、き
ちんと設置されて整備されている工場と全くそれとは逆の工場を比較してみなさい、と彼
はいう。一方では、どんな作業もスムースに秩序だって進み、良い結果を残すのであり、
全体としてうまくもうけが出るであろう。他方では、故障が起こり、無秩序となり、不満
が増大し、結局損失に終わるであろう。「[本当の機械よりももっと]素晴らしく作られて
いる、生きている機械に対しても[機械と]同様の配慮をすれば、良い結果が得られるの
である。良い状態で清潔に保ち、心を込めて優しく扱えば、その精神の運動は、あまりい
らいらさせる摩擦を経験することはないのであり、あらゆる手を尽くしてそれを十全な状
態にしに、規則的に十分な栄養を与えて心身の維持を心がければ、肉体は労働する状態に
保たれるのであり、摩滅することが妨げられるのである。
」
66
このように重要な議論にもかかわらず、オウエンは、自身がアピールした層にわずかな
支持者しか得ることはできなかった。しかし、高賃金の経済論は、それ以後、次第に実践
の世界のみでなく科学の世界でも認知されていったのである。
高賃金の効果について科学的に理解したことで大いに反響が起こったのは、事態をより
客観的に判断し、より抜本的に調べ上げたことに根拠をもっていたばかりではなく、それ
をめぐっては争いあう事実関係そのものが次第に変化してきたことにもよる。20 世紀の工
業労働者は、17 世紀の手工業者や不熟練労働者とは同じではないのである。労働者を全く
新しい慣習に導き、生活に対するニーズを全く別のものにする、民衆教育が広範に展開し
てきたからである。このことが高賃金の経済の問題にどのような意味をもつのかについて
は、すぐに見ていくこととする。
近代的な経済学の特徴は、眼前にある問題に対して一般的な理論構築に満足せず、精密
な調査により、ものごとが実際にはどうなっているのかを把握することにある。高賃金の
経済についても同様である。高賃金が労働者にどのような影響を与えるのかを本当に知る
ためには、当然、高賃金と低賃金の結果を比較しなければならない。しかし、それには資
料が必要なのであるが、容易には手に入らない。イギリスの国会議員ブラッシー (Thomas
Brassey, Earl 1836-1918)は、こうした課題に対し、特に恵まれた前提条件をもっていた。
彼の父親は、当時最大の鉄道建設業者であり、世界中で工事を行っていた。息子[ブラッ
シー]は、そこで集めた経験を利用し、有名な著書『労働と賃金』17(1872)にまとめた。
彼の主な結論は、労働コスト(arbetskostnad)は、賃金が大きく異なるのも関わらず、概
してほぼ同様であるということであった。1842 年に、彼の父親は、パリからリューエン
(Rouen)まで鉄道を敷設した。そこでは 10000 人の男子労働者(うち 4000 人はイギリス人)
が利用された。イギリス人は、日に 5 シリングの給与、フランス人は 2 シリング6ペンス
をもらっていた。後者は前者の丁度半分である。両者は別々に働いた。しかし、立方メー
トルあたりのコストは、イギリス人のほうが低かった。10 年後にまた別のフランスの鉄道
路線が敷設された。今度は、日にイギリス人が5フラン、フランス人が 2.75~3 フランの
給与を得た。この時は、仕事は、請負で小親方(entreprenörer)に任せられた。それにより、
当然、賃金をできるだけ安くすることが直接的な利益となったのであったが、高くつくイ
ギリス人の労働は困難な職務で用いられることとなった。
ブラッシーは、労働者の生活水準にあまり差がないと考えられる通常の不熟練労働者の
場合でも、賃金に著しい差があるのにもかかわらず、フランス、イタリア、オーストリー、
スイス、スペイン、ドイツ、ベルギー、オランダの間でコストがおおよそ同じであること
を見出した。真の熟練を要するものに関しては、イギリスの労働が通常、最も安上がりな
のである。
イギリスの中でも、ブラッシーは、賃金が高いほど効率が高いことを主張している。同
17
Brassey, Thomas, Earl, Work and Wages, London 1872.
67
じ駅舎で、一方にはロンドン出身のレンガ積み工が日に 5 シリング 6 ペンスで雇われ、他
方、農村出身のレンガ積み工が日に3シリング6ペンスで雇われていた。給料の高い方は、
1人で安い方2人を合わせたよりも1日に多くのレンガを積み上げたのであり、それゆえ、
前者の労働は[後者より]安上がりであったのである。
特に興味深いのは、ブラッシーのインドの労働についての観察である。この国において
は、通常の不熟練労働者の賃金は、鉄道建設が始まる前は、日に4ペンスか 4.5 ペンス(30-34
エーレ)であったが、その後には、6ペンス(45 エーレ)に上がった。インドでは、この飛
びぬけた低賃金のために、普通の土木作業はさらに安くなった。しかし、熟練を必要とす
る仕事はすべて、賃金はより高かった。
[それにもかかわらず]10 キロメートル当たりの労
働コストは、概してインドとイギリスでほぼ同様であった。ブラッシーは、[それゆえ]他
では高賃金が労働者の能力を向上させることを強く信じていたのであるが、そのことをイ
ンドに適用することを望まなかったのである。ヒンドゥー教徒は、余りにも生活に必要と
するところが少ないからである。しっかりとした住居も、きちんとした衣服も望まないし、
食事にいたっては、日に2ポンドの米と付け合せのカレーで満足し、それは週に1シリン
グ(90 エーレ)しかかからない。週1シリング半あれば、比較的贅沢に暮らしといえる。そ
れゆえ、ヒンドゥー教徒は、必要なものを稼げば、さっさと働くのを辞めてしまう。高賃
金は、彼を怠惰にするだけなのである。
高賃金の効果についての問題は、一般的には決めつけられないのであり、その答えは、
民族によっても時代によっても異なる。少ないニーズしかもたずエネルギーも少ない原始
的な民族には、高賃金は何らの効果ももたない。それに対して、高度な生活習慣をもち、
大きな要求をもつ文明化された人々については、高い賃金は、常に一層の努力をすること
につながるのである。フンボルト (Alexander von Humboldt 1769-1859)は、メキシコでは、
人々に働かせるためにバナナの栽培を禁止していると指摘している。バナナがあれば、彼
らはそれ以上に働く必要をもたないのである。それでもなお、依然として労働者に少なき
に足ることを学ばねばならないと説教するものがいる。これらの経験は、要求が少ないこ
との危険性について一つの答えを示しているのではないだろうか。実際、知足安分
(förnöjsamhet)は、東洋では徳目であるかもしれないが、西洋の文化は、生活に高い望みを
もつことに基づいている。快適な家や文化生活の高度な楽しみに価値を置くことを学ばな
い労働者は、我々[の世界に]おいても、賃金が上がれば火酒に使ってしまい、高賃金で
あっても、彼は有能な労働者にはならない。それゆえにこそ、労働者に酩酊以上のものを
生活に求めることに初めから慣れさせることが重要なのである。教育によって真に高度な
要求をもつことを学ばせねばならない。
ブラッシーの本が世に出て既に 30 年になるのであり、今日の大工業にとっての高賃金の
意義について光を当てる必要があるであろう。(s.119) こうした課題をアメリカのシェーン
68
ホフ (Jacob Schoenhof 1839-1903)が、数年前に出した『高賃金の経済』18という本で取り
上げている。シェーンホフが、この問題を提起し、我々の注目を集めたのは当然である。
彼は、25 年間実業の世界に身をおき、ヨーロッパにおけるアメリカ領事としてヨーロッパ
とアメリカの生産方法を比較する豊富な機会を持った。彼は広大な地域を歩き回り、数字
と事実をもって自身の立てた問題に対し答えを見出すために膨大な調査を行った。
以下のことを完全に理解するには、まずはアメリカの工業がその下で発展してきた特別
な条件について調べてみることが必要である。合衆国においては、長い間、無所有の土地
の豊富な供給があった。それゆえ、労働者は、土地を手に入れ耕作することで得るのと少
なくとも同等の賃金を要求することができた。このために、全体的な賃金水準は非常に高
いものであった。こうした状況は、アメリカの工業に様々な経路を通じて決定的な影響を
与えた。
第一に、高賃金は、労働者に大きな消費能力をもたらした。当時は、それに加えて人口
が急速に増大していたので、不特定多数の需要向けに生産する工業が発展する大きな基盤
が生じた。こうした不特定多数向けの大量生産品(massartiklar)の生産は、何よりもまさに
北米の工業を特徴づけることとなっている。このようにして真の大規模工業が成長した。
かくなる発展は、富裕な階級のニーズを満足させるための職業では到達できないものであ
る。というのもそうしたニーズは、余りにも特殊で変動極まりないので、一つの製品で数
百万単位も生産することに力を発揮するような生産のためには、市場として機能しないの
である。それゆえ、あらゆる国で、上流階級向けに生産している工業は、通常、技術的に
見てもっとも発展が遅れていることがわかる。それに対して、アメリカの大量消費は、高
度な機械技術をもち、分業を最大限度まで推し進めた工業にとって相応しい場であったの
である。
第二に、高賃金は、労働節約を強制し、労働者を機械で広範に代替することを促す。こ
の点においても、高賃金は高度な技術の発展につながる。アメリカが発明家の国となった
のも偶然ではない。高賃金を支払わねばならない強制が発明力を促進したのであり、新し
い技術を適用とする熱意を生みだしたのである。特にこの理由で、自動機械の領域での殆
どの進歩がアメリカに由来する。他のどの国においても、この高賃金の国ほど機械が急速
に売れているのを眼にすることはない。技術が進歩するとすぐに、最新のそして最善の機
械を得るために、古い機械を打ち捨てしまうことは、ヨーロッパ人の頭からすると、驚嘆
に値する。高賃金を支払わねばならぬことはまた、労働組織をまったく変えてしまうこと
を推し進めるのだが、これも我々にとって殆ど理解できないものである。労働者に一日に
数ドル余計に払うこととなれば、作業待ちの無駄を 1 分たりとも許せないし、不必要な摩
擦で少しの努力も犠牲にしたくないのは当然であろう。
18
Schoenhof,Jacob, The Economy of High Wages: An Inquiry Into the Causes of High Wages
and Their Effect on Methods and Cost of Production, New York 1893.
69
第三に、高賃金とそれに伴う良好な生活様式は、労働者の個人的資質を改善する基礎と
なり、そのことは、当然のことながら、高度な技術の発展にとり不可欠な前提となる。こ
うした因果関係を、生活の物心両面で辿ることができる。アメリカにおいて、労働者にと
って最も重要な食材は安価であるため、賃金が高ければ、真に良質で適切な栄養をとる機
会がもたらされる。このようにしてアメリカの労働者は、近代的な工業労働が必要とする
肉体的な力とスタミナを獲得する。しかし、賃金は、その他の生活のニーズに対しても十
分な余剰を残す。アメリカの労働者の高い一般的な生活水準は、高い知性と品位をもたら
す基礎となり、それなしでは、いかなる労働の組織化の推進や技術進歩も考えられないの
である。
旧来の議論では、ご存じのように、労働者にとって自己の職業を習得する以上のことは
必要でないとされてきた。依然として存在するこのような理解の代表者として、プロイセ
ンのユンカーやスウェーデンにおける彼らの兄弟が挙げられるのであり、それゆえ、我々
はなおその考えを知る機会をもっている。多くの国、例えばイギリスにおける民衆教育が、
意識的あるいは無為意識的にそのような議論を展開する近視眼的な使用者の強烈な抵抗に
対し闘っていることも事実である。[彼ら使用者によれば、]労働者が教育を受ければ、要
求を増長させてくるのであるので、労働者をもっとも原始的な生活条件の下に保ち、彼に
それ以上の望みを喚起させないようにしておくことのみによって、安価な労働力の豊富な
供給が可能となるのである。
アメリカはこれとは別のコースを選択した。この国は、高度な民衆教育により、高度な
技術が必要とする人材を手に入れることができると悟ったのである。シェーンホフのよう
な人物が、そのアメリカ的な観点からこのことをどのように評価しているのかは大いに興
味深いところである。彼によれば、
「近代的な機械は、安価で劣悪な労働がその導入やアメ
リカ的な労働方法を経済的に正しく適用することの前に立ちふさがる所では、殆ど利点を
発揮できない。今日の機械の改善や科学的発展は、それに対応する条件の下で生活する労
働者の存在ぬきには、成果につながらない。というのも、素早い機械の動作に適切に注意
を払うことは、旧来の労働よりもずっと神経をつかうものなのであるからである。」
今述べた理由により、アメリカの高賃金の労働は、非常に効率が良いものとなり、著し
く賃金が高いのにもかかわらず、労働コストは高いわけではなく、むしろ殆どのヨーロッ
パの国々よりも低いのである。アメリカの工業保護貿易主義者は、好んで、外国の安い労
働と競争するには関税が必要であると主張する。彼らは、言い換えれば、アメリカの高賃
金を守り維持するための工業保護関税を要求しているのである。シェーンホフは、一方で
は、そうした保護はまったく不必要であり、一国の工業は世界市場における競争で高賃金
を支払っているからといって打ち負かされるとは限らないことを示そうとした。このこと
は、まさに高賃金の経済をめぐる論争全体における肝である。というのも、高賃金が、も
し工業の競争能力と全面的に結びつくものであれば、メリットであることは、誰もが疑い
ようのないことであるからである。そうした立場の正しさを示すために、シェーンホフは、
70
主な工業国における賃金コストについての豊富なデータをまとめている。このデータから、
ここで最も典型的な例を選んでみることとする。
まずは、アメリカにおける機械技術と他の国々における手工業の間を比較するデータを
見てみよう。
懐中時計は、今やアメリカでは機械で作られている。シェーンホフが取り上げているケ
ースでは、それにより、いわゆるウォーターバリー19の時計1台につき 50 セント(1.85 クロ
ーネ)の労働コストの節約となった。材料は、工場に板の形で運ばれてくる。すべてのスプ
リング、歯車、ネジ、時計盤などは、自動機械によって作られる。当該工場は 420 人の労
働者を雇っているが、そのうち少なくとも半分は女性である。平均賃金は、週 10.71 ドル(約
40 クローネ)を下回らない。如何に高賃金が低い労働コストと結びつくかを示す良い例では
ないか。それにより技術も向上するのであり、2 台の機械を 2 人の労働者が操作し、1 日 1200
から 1,500 のスプリングを作っている。シュヴァルツヴァルト20では、賃金は週 10-12 マ
ルク(2.40-2.88 ドル)であるが、その作業はより高くついている。アメリカ人の観察者は、
このドイツの工場でのネジの作り方を見て冷笑している。労働者が、新しいネジを作るご
とに材料を設置しており、その度に機械を止めねばならない。アメリカでは、機械は休み
なく動き、そのまとまりが終わるまで完成したネジを吐き出し続けている。
イギリスで「苦汗」産業に数えられているものの中でも、常にサウス・スタッフォード
シャー(South Staffordshier)の釘製造業(spikfabrikation)が常に最も憂うるべき例の一つ
として挙げられる。釘製造は、ブラック・カウントリィ21における家内工業である。夫、妻
そして娘と家族総出で朝 4 時か 5 時から晩遅くまで釘を作り続ける。彼らは、お茶とパン
以上のものは殆ど口にしない。夫婦で週 16 シリング(14.40 クローネ)を稼げばよい方で、
そのうち 2 シリングは燃料代に消える。仕事は、特に女性にとって過酷であり、彼女らは
胸を患い、青ざめ、やせこけている。そこでは家庭生活というものを口にできないのであ
る。
シェーンホフは、この産業の労働者1人当たりの賃金は週 10-12 シリングであり、子供
も働けば 16 シリングとなるとしている。それは、3.87 ドルに相当する。アメリカのピッツ
バーグ(Pittsburg)では、釘を機械で生産している。1人の労働者で 3 台の機械を操作し、
1日に 5 ドル稼ぐ。補助労働者1人が 1 日1.5 ドルであるので、合わせて週 39 ドルの賃金
となり、イギリスの労働者の約 10 倍稼ぐこととなる。しかし、アメリカの労働は 20 倍の
生産性であるので、アメリカの労働コストはイギリスの半分にしかならない。
アダム・スミスが分業の利点の例として、10 人で1日に 48,000 本の針を生産できるよう
になることを挙げている。このことは、ずっと昔に克服された状況である。コネチカット
19
Waterbury. アメリカ、コネチカット州の都市。
20
Schwarzwald ドイツ南西部のバーデン=ビュルデンブルク州にある山地・森林地域。
21
det svarta landet (Black Country) イングランド、ウエスト・ミッドランドの一地域。
71
のある工場では、男性労働者 3 人と機械工 1 人、子供 1 人で操作される 70 台の機械で生産
されている。これら 5 人の労働者は、毎日、300 本の針 25,000 パック、すなわち 750 万本
を生産するのである。シェーンホフは、この労働者の賃金については言及していない。し
かし、次章で触れるアメリカの公的統計によれば、そうした労働者は、1 日に2.5 ドル(9.25
クローネ)を稼いでいる。この例は、賃金がもはや生産物の価格形成と何ら関わりがないこ
とを示す例でもある。もしこの 5 人の労働者の賃金を日に 5 ドル上げても、300 本入りの
パックあたり 10 分の1エーレの労働コストの上昇にしかならない。
アメリカでは、ライフル製造業も完全に機械化された工業に発展した。この部門のある
工場は、6,000 台の機械と 1,400 人の労働者を擁している。平均して労働者1人当たりの機
械台数は 4 台強ということとなる。ライフルの打ち金のみで 131 の作業があると聞けば、
この工場の分業の状況がわかる。ベルリンのルードヴィッヒ・レーヴェ22は、ヨーロッパの
指導的なライフル工場経営者の一人として知られている。彼は、最初からアメリカ式の方
法に取り組んできた。しかし、その際に選ばれた者のみを用いることの重要性も理解して
いた。彼は、そのために通常その職業で支払われる 2 倍の給与を支払ったといわれる。
レールを生産する労働コストは、銑鉄の段階から数えて、アメリカでトン当たり 2.5 ドル、
ヨーロッパで 3.04 ドルである。1 日当たりの賃金は、アメリカでは、ヨーロッパの中では
かなり高いイギリスにおけるよりも 3 分の 2 高い。その差は、働き方の差で説明される。
ドイツやイギリスでは、高度な技術とされるものが、アメリカでそうであるよりも依然と
して普及していないのである。ヨーロッパでは、労働者が移動しつつ、レールを転がし、
加工する。アメリカでは、すべて自動機械が行うのである。「アメリカの圧延工場では、た
だ指揮し、監督する少数の労働者しか見かけない。」
既成服生産部門では、近年、機械技術は著しく発達した。特にそれは、裁断[の工程]
に当てはまる。アメリカの公的統計によると、10 ダースの婦人用のシャツを手で裁断する
時間は 9 時間であった。それが機械でやると、今や 19 分で出来る。シェーンホフは、ベル
リンでは材料を(1 枚の布を)24 に裁断できれば上出来であると考えられていたと述べて
いる。短い机で作業を行うので、時間が無駄となり、製品も端の具合が不均質で、かぎ裂
きもできていた。アメリカでは、45 ヤード(約 40 メートル)の机で 72 に裁断するのだが、
最新技術を適用すると、120 に裁断でき、しかも上質で均等な仕上がりでできるのである。
裁縫工程では、女性が週 6 ドルで従事しているのだが、ベルリンにおいては、長い超過労
働時間を含めてもせいぜい週 2 ドルあるいは2.5 ドルにしかならない。とはいえ、この場
合、単位当たりの賃金は両国で同じである。しかし、アメリカの女性は、アメリカ製の機
械を用いて、やすやすと 1 日に 1200 のボタン穴を裁縫するのである。
そこで、本質的に同じ構造の機械を用いていても、[これまで見た例と]同様にして高賃
金の労働者の方が勝っているという比較の例を見てみよう。
22
Ludwig Löwe 1837-1886,ドイツのユダヤ系実業家。
72
綿工業は、この点では最も重要な例である。ミュール紡績工(熟練男性労働者)は、ス
イスやドイツでは日に 57-66 セント、イギリスやアメリカでは約 150 セント稼ぐ。後者の
二つの国は、おおよそ技術の面でも賃金の高さでも同等である。しかし、ランカシャーは、
最高番手において古くより優越性をもち、ボールトンの紡績労働者は、そうした仕事に従
事して、日に 200 セントを得ている。大陸の使用者は、はっきりとより低い賃金しか払っ
ていないのにもかかわらず、力に勝るイギリスからの競争に対し保護を必要としているこ
とは、高賃金が高労働コストをそのまま意味しないことを如実に語るであろう。
シュルチェ-ゲーファニッツ(Schultze-Gävernitz,Gerhart von, 1864-1943)によって、
様々な国における綿工業についての非常に基礎的で配慮にとんだ調査が行われた23。この調
査によって明らかとなったのは、高賃金の労働の生産能力が、殆ど同じ機械を使用してい
た時でさえ、
[低賃金のそれよりも]著しく大きいということである。ランカシャーにおい
ては、ミュール紡績工 1 人が、2 人の補助労働者とともに 2,000 錘を操作している。しかし、
3 人の補助労働者を従え、2,700 から 2,800 錘を扱っている例も見られた。アルザス地方の
ミュールハウゼン(Mülhausen)では、1,300 錘を操作するのに、紡績工 1 人と補助労働者 4
人が必要とされる。ザクセンの小規模な紡績工場では、1,600 錘に、紡績工 1 人と補助労働
者 5 人が対応している。それに加え、イギリスの労働者を監督する人員は、はるかに少な
くてすむ。イギリスでは、1 人の監督者(uppsyningsman)が、6 万から 8 万錘を監督するが、
アルザスでは 1 万から 2 万錘であり、ザクセンでは 1 万錘、小規模な紡績工場では 3-4 千
錘なのである。
紡績工場のすべての労働者を数え、その数と錘数を比べてみると、以下の数字を得る。
ボンベイ
労働者 25 人
1,000 錘
イタリア
13 人
1,000 錘
アルザス
9.5 人
1,000 錘
ミュールハウゼン
ドイツ(1861)
(1882)
イギリス(1837)
(1887)
7.5 人
20 人
8-9 人
1,000 錘
1,000 錘
1,000 錘
7人
1,000 錘
3人
1,000 錘
国ごとに労働者がどれほど生産しているかを比べることは、生産能力が番手により大き
く異なるため難しくなる。ここでは技術の詳細に立ち入らないため、同じ番手の紡績を、
アルザスとランカシャーの間で比較することに留めておく。一方では機械 1 台当たり 1,764
錘であり、他方では 2,280 錘である。双方とも機械 1 台当たりの錘数を紡績工 1 人・補助
労働者 3 人で操作している。ドイツの工場では、紡績工は週 21.60 マルクの賃金を得てお
23
Schultze-Gävernitz,G.von, Das Großbetrieb – ein wirtschaftlicher und socialer Fortshritt.
Eine Studie auf dem Gebiet der Baumvollindustrie, Leipzig 1892.
73
り、イギリスの工場では 43 マルクである。綿糸 1 ポンド当たりの賃金[コスト]は、前者
において若干高くなる。機械 1 台当たりの生産高は、一方では週 258 ポンド、他方では 333
ポンドとなる。この例は、高品質の綿糸の問題であるが、より粗雑な綿糸の場合でも生産
力や賃金の差は同様か、しばしばもっと大きくなる。
インドの綿紡績業とイギリスの綿紡績業との競争を観察することは、特に示唆に富む。
1880 年代末に、インドの紡績工の週賃金は 21 シリング 3 ペンスであったが、イギリスの
紡績工は 35-40 シリングを得ていた。この差は、インドではイギリスよりも 3.5 倍から 5
倍の人数の労働者が必要となり、ボンベイでの 1 錘あたりの 12 時間の労働による生産が、
オールダム(Oldham)では 9 時間の労働に当たることで説明される。こうした状況の下で、
イギリス人は原綿をインドから持ってきて加工し、完成品をインド市場で売っている。し
かし、インドでも賃金が上がり、労働が改善され始め、それに伴い日々一刻と、インドの
綿工業はイギリス綿工業の好敵手の地位を得つつある。
同様の優越性は、綿織物業にも見られる。ドイツやスイスでは、労働者 1 人が 2-3 台の
力織機を操作し、1日 44-55 セントの賃金を得ている。イギリスでは 3-4 台を扱って 65-83
セントである。アメリカでは、労働者 1 人が 6-8 台を操作し、1日に 90-120 セントを稼い
でいる(1セント=3.7 エーレ)。最後の数字が例外ではないことは、その他の数字からも
見て取れる。マサチューセッツの工場では、1880 年代に 11 人の織布工が力織機 5 台、232
人が 6 台、43 人が 7 台、20 人が 8 台を操作していた。
力織機の台数は、大陸ヨーロッパよりも英米でより急速に増加した。イギリスの増加速
度は、アルザスよりも約 50%速いという。切れた糸をむすびつけるなどが原因で、力織機
を停止しなければならないが、そこに時間のロスが生じる。しかし、このロスは、低賃金
で、したがって劣った労働力を用いている国の方がはるかに大きい。
ボヘミア地方の機械織物工場では、男女の平均賃金は週 124-220 セントで、アメリカで
のそれに相当する賃金の 3 分の 1 に過ぎず、しかも同じ機械を用いている。ボヘミアの手
織工は、もっと低賃金である。その平均賃金は、1884 年で週 92 セントであり、アメリカ
の織布工が 1 日で稼ぐよりも少ない。労働時間は、不当に長く、16-18 時間に及ぶ。この手
織工は、イギリスの労働者が 9 時間、アメリカの労働者ならばもっと少ない時間で働いて
すむところを、週 96 時間働かねばならないのであり、こうした状況は、肉体を摩滅させ、
知的にも退化をもたらすであろう。こうした手織工の生活を叙述することほど、家内工業
についての牧歌的な夢想を雲散霧消させ、大工業が、資本家の観点のみならず労働者の観
点、さらには社会経済全体から見ても如何に進歩であることかを示すものはない。
アメリカで大工業が発展した特に恵まれた条件は、イギリスとアメリカの綿製品のプリ
ント作業を比較するとはっきりとわかる。このプリント作業は、刻み目の入った複数の銅
製のローラーを用いる。一つのパターンにつき、それぞれのローラーで一つの色を担当し、
そこに素材が機械で運ばれてローラーを通過するので、完成されたパターンの柄が一時に
プリントされることとなる。アメリカでは、三つか四つのローラーを用いて日に 50 ヤード
74
の布を 400 枚プリントし、8 つか 10 のローラーを用いるものであれば、同様の布を 250 枚
プリントしている。前者では、20,000 ヤード(18 キロメートル以上)
、後者では 12,500 ヤ
ードの長さとなる。別の工場では、日に 700 枚プリントする所もある。同様の工場のプリ
ント係の労働者の賃金は、日に4.5 ドル(16 クローネ以上)であり、助手は 1.5 ドル(5.5
クローネ)である。しかし、賃金の高さは、製品の価格には何の作用も及ぼさない。もし
この 2 人が 1 日 20,000 ヤードをプリントするとすれば、労働コストは、1 ヤードあたりわ
ずか 0.03 セントとなり、1 メートル当たり 10 分の 1 エーレにもならないのである。
ヨーロッパのプリント業者は、そのように安く仕事ができない。極めて多様な顧客のし
かも移ろいやすい好みに応じて、限りなく多様なパターンを作り出さねばならない。常に
同じパターンを設定して毎日同じ機械を動かすわけにはいかない。しかし、かなり同様な
ニーズをもった購買力に富んだ労働者層のために生産するのが、アメリカの業者がしてい
ることなのである。それゆえ、彼らは、大量に生産することにすべての力を集中しうる。
マンチェスターのトップ企業は、輸出している世界の隅々からどんな注文がきても効率よ
く対応できるように、1 万から 1 万 1 千の刻み目の入った銅製のローラーをストックしてい
た。こうしたことは、当然大きなコストを生む。マンチェスターの労働コストは、実際、
アメリカの 10 倍である。ドイツでは、それよりもなお高いのである。
靴は、現在至る所で機械、それも多くはアメリカ製の機械で生産されている。国による
労働コストの差は、それゆえ、働き方の差に起因するであろう。同じ製品でコストの数値
を確かなものとするため、シェーンホフは、アメリカからやってきて訪問したヨーロッパ
の様々な工場で検証を試みた。それは、婦人用のボタン付きブーツの労働コストと賃金を
確定することであった。その結果は、以下の通りである。このように、労働コストは賃金
と負の相関関係にある。
労働コスト
週賃金(男性)
週賃金(女性)
35 セント
12 ドル
7ドル
イギリス
64 セント
5.76-8.40 ドル
2.83-4.32 ドル
フランクフルト
61 セント
4.32-7.20 ドル
2.16-3.60 ドル
ウィーン
71 セント
4.30-9.60 ドル
4.40 ドル
マサチューセッ
ツ
しかし、
〔このように〕個別なケースに注目したら十分であろうか。ただ世界中を見渡し、
次のように自問してみればよい。一番賃金が高いのはどこであろうか。誰でも同じ答えに
行き着くだろう。機械技術や大規模生産がもっとも発達し、卓越した生産力により遍く世
界市場の覇者として知られている国である。
これらのことは、何よりも高賃金が産業の利害に反していないことを示している。低賃
金が、その国が世界市場で競争しうるための条件であるという古い信念は、永遠に捨て去
75
られたものと見なされねばならない。しかし、ある者は言うであろう、ある国や、特にあ
る産業において支払われる高賃金は、全く異なる理由に基づいた技術的あるいは商業的な
優越性によるのだと。しかし、この議論は、ここで言及したすべての例により反証される。
高賃金は、産業の優越性の結果のみでなく、それと同じくらいその原因なのである。これ
まで見たように、高賃金は大きな、均質的な大量生産製品の市場を作り出し、それに伴い
近代的な大規模生産の条件が形成されるのである。高賃金が、高度な機械技術の進展や労
働の組織化を突き詰めていくことを推進することも見た。最後に、高賃金が、有能な労働
の原因であるばかりでなく、そのための条件でさえあることも見た。高い生活水準は、肉
体的な強さや知的・道徳的な資質の不可欠な基礎であり、それは高度に発達した工業が労
働者に求めることなのである。もっとも高度な質を持った労働は、それへの代償なしには
手に入れられないのである。アメリカの例で示したように、格別に高い賃金を支払っても
利潤は生じるのである。
「アメリカの1ドルは、スウェーデンの1クローネよりも価値が少ない」といった昔な
がらの反対意見を持ち出してきても何の役にも立たない。というのも、第一に、誰もが主
張できるように、その議論は誤っている、というのも我々は現実にアメリカから極めて重
要な食料を輸入しているのであり、それらの食料はアメリカではより安価であるのに違い
ないのである。しかし、全くこのことを抜きにしても、ヨーロッパ向けに輸出するアメリ
カの工場主は、ヨーロッパの工場主と競争して行き着いた価格で製品を販売しているので
あるが、労働者にそうした賃金を支払っているのである。高い賃金にもかかわらず、労働
コストがヨーロッパよりも安くなければ、そうしたことはできないであろう。もちろん、
労働コストを直接調査した場合も、多くのケースは、[スウェーデンよりも、]クローネで
支払うのと同じ数量のドルで給料を支払うアメリカの方が、労働コストは低いことを示し
ている。
加えて、労働者をより有能にするためだけに、彼に良い条件を提供するのではない。そ
れは、恐らく、すべてのことを商売と見ることに慣れた者にとってより納得がいくと思わ
れる次の理由からである。すなわち、競争相手が支払うのに匹敵するような賃金を支払わ
なければ、有能な者をその国に留めておくことはできないのである。確かに、労働者は、
故国に多くの絆によって縛りつけられている。しかし、スウェーデンとアメリカの間のよ
うに、賃金の差が大きければ、アメリカに行ってしまうのである。忘れてはならないのは、
渡航するのが、最も有能で企業心に富んだ者であることである。このようにしてアメリカ
は、毎年毎年我々の最も優秀な労働力を吸収するので、我が国の農業や工業は、残った部
分で何とかせねばならないこととなる。これは、暗い像であるが、農村に出かけて見さえ
すれば、このことを十分確認できる。地域一帯では、若くて有能な者が一掃されている。
農場は最も年老いた者の手で引き受けられ、彼はそこで一人で留まり、農場をできうる限
りの力で切り盛りしている。子供のことを尋ねると、答えはいつも変わらず同じである。
「ア
メリカにいる。」このようにスウェーデンが曝されているほど有害な淘汰のプロセスを経験
76
している国や民族を考えつかない。我々は、多大なコストをかけて自分たちの息子や娘を
育てても、子育てを終え、国家に役立つ仕事に貢献させ、コストを回収しようとしたまさ
にその時、彼らが他の国に引き寄せられるままにしている。このようにして、我々は毎年
この異国に大きな資本を贈り物として与えているのであり、このようにして、我々は、無
料で素晴らしい労働力を提供することで競合する産業に補助を与えているのである。スウ
ェーデンの経済生活にとり、賃金を引き上げ、労働者の生活条件を改善して、有能な労働
者が国内に留まるようにすることは生死にかかわる大事であることは確かである。
しかし、支配層が、出来る限り生活手段の値を上げて、労働者が生活を何とか支えるた
めに働かざるをえないように強制するといった、政治学的・経済学的知恵から逃れられて
いない国では、ものごとをこのように見る上で、条件を整えるまでにずいぶんと時間がか
かるものである。
社会政策全体にとり、高賃金の経済について研究することは、絶対的な根本としての意
義をもつ。というのも、それは、労働者階級により良い生活条件を実現するという社会政
策の最も身近な目標に到達する道を示すからである。その道は、生産を、技術的・組織的
な面で最大限発達させ、労働者をより有能かつ活力あふれる存在に育成していくことに通
じているのである。このことをより明確に示すことが、次の最終章での課題となる。
77
Ⅵ.社会的進歩の経済的可能性
人生において望むべきものがあまりにも不平等に分配されていることが一目でわかり、
贅沢と困窮がしばしば隣り合わせに存在するような現行社会では、貧しき者の間で金持ち
の余剰を分配することで、貧しき者の運命を何とか改善することほど自然なことはない。
これは、社会問題に対する一般的かつ人気がある理解である。こうした理解に基づき、上
流階級の「慈善」の大部分のみならず、貧しい階級による富める者に対する救済の要求が
成り立っている。経済学者が、社会的分配が社会政策の最も重要な要素であると強調する
時、そこに同じ理解が現れている。何よりこうした物の見方は、社会主義者が平等な財産
や所得の分配を要求することにつながっている。
しかし、このような要求がそもそも俗流の社会主義といわれるものに属しており、指導
的な社会主義の著作者の多くは、そうした「平等な分配」に見込みがないことを十分に理
解していることを見るのは興味深いことである。プルードン(Proudhon, Pierre Joseph,
1809-65)からして既に次のように書いている。
「ブルジョワジーが労働者の運命を改善するのは、彼らの収入の一部を放棄することに
よってではない。ブルジョワジーは与えるものをもっていない。国全体の生産は、一人一
日当たり 75 サンチーム以上にならないのである。そうした状況では、何らかの改善が認め
られうるためには、ブルジョワジーは、自ら所有するものをすべて投げ出し、自己の収入
をすべて犠牲にすることが求められるのである。しかし、そうしてみても、せいぜい富の
不平等を悲惨さの不平等に置き換えた以上のことはできない。それに加えて、ブルジョワ
ジーの収入の一部は一国の貯蓄を意味し、次第に資本に転化していくのであり、それゆえ、
労働者の条件の改善は、働くための設備が廃墟となることに結果する。何たる矛盾か。改
善を実現する唯一可能な道は、それゆえ、生産の増進なのである。」
しかしながら、このような理解は、プルードンの議論全体を貫いているわけではなく、
貨幣利子の廃絶[無償信用]に社会問題の本質的な解決を求めるのを妨げられなかった。
同様の種類の矛盾は、現代の社会主義になお残っている。理論的には、かなり一般的に、
平等な分配によって得るものは少ないことを認めているのである。例えば、ベルンシュタ
インは、次のように言っている。
「社会民主主義は、ブルジョワ社会を解体し、そのメンバーを一緒くたにしてプロレタ
リアートにしようとは思っていない、むしろ、不断に労働者をプロレタリアートの社会的
地位から高めてブルジョワジーのそれに押し上げ、ブルジョワ的地位を一般化することを
望んでいるのである。」
あるいは、
「社会主義の反対者に対し、平等な所得分配が大多数の者の所得を変えること
が殆どないという周知の見解に基づき、そのような分配は社会主義が実現しようと思って
78
いることの最も小さな部分でしかないと答えるのが良い。しかし、それゆえに、もう一つ
の方法、すなわち、生産の増進は、一朝一夕に容易に成し遂げられるものではないことを
忘れてはならない。」
その他、背教者ベルンシュタインのみではなく、マルクス主義正統派の第一の闘士フリ
ードリッヒ・エンゲルス(Engels, Friedrich, 1820-95)もそのように述べている。
「社会の生産諸力が我々の状況から見て極めて高い発展段階に到達してはじめて、生産
を高度に増進されることで、停滞や後退を伴うことなく、階級格差を廃棄することが真の
進歩となり、あるいはそれが何らかの永続性を獲得しうることになるのである。
」
しかしながら、社会主義の闘争文書やアジテーションでは、こうした説得的な理解が前
面に現れてこない。確かに、所得の平等な分配の考えを直接押し出してくることは一層稀
である。その分、貧しい階級の悲惨さの原因は、金持ちの奢侈であるといった議論が声高
に主張される。少数の者が国全体の所得の大部分を占めてしまっているので、大多数の者
にはわずかしか行き渡らないというのである。しかし、こうした思考法は、より平等な分
配が国民の広範な層に本質的にこれまでと異なる生活条件を作り出すという前提に基づい
ていることは確かである。
このような主張への反論として、一国の平均所得を計算してみることが興味深い。とい
うのも、この平均所得が、現行の社会の分配を多かれ少なかれ平等化することによって到
達できる限界を示すからである。ものごとを感情抜きに判断し、その最大値であっても社
会進歩にとって必要であるあるいはそれに期待されるものよりも少ないことを示すならば、
金持ちの所得の一部を貧者に移動することは、それ自体、おおよそ本質的な進歩をもたら
さないことであることが明らかとなる。このようにして、平均所得の計算は、実際的な社
会政策の何より重要な問題を正しく判断することにおいて、決定的に重要となる。
しかし、こうした計算をする際に忘れてはならないのは、その目的が、平等な所得を得
た場合、各個人がそれをどのように活用しうるのかを知ることだということである。今や、
国は、収入すべてを使いきることは出来ず、常に一部を資本増進のためにとっておかねば
ならない。このことが、いかなる経済進歩にとっても本質的な条件である。そうした資本
増進がなければ、国は人口増加につれて貧しくなる。もしスウェーデンが、一世代前より
も多くの資本を自由にすることができなければどうなるのかを考えてみればよい。如何な
る社会形態が次にやってこようと、一国の資本を常に増やしていくこと自体が経済的な必
要条件であると見なされなければならない。
一国がどのように生存しているのかを見るためには、我々は、年間のすべての所得から、
資本の増加分を引かねばならない。それゆえ、計算するには、所得のみでなく資本につい
ても、それも出来るだけ詳細な統計が整っている国を選ぶことが必要である。こうした条
件を、プロイセンが最も良く満たしている。そこでは、所得税や財産税の自己申告が義務
となっている。これらの課税のみにとどまらず、毎年詳細な統計も公表されている。プロ
イセンの税当局は、その厳格さと正確さで知られており、これらの統計資料は、実際の状
79
況を全体的にしかも詳細に表していると見なすことができる。
これらの資料やかなりの数の他の統計情報に基づき、1897 年 4 月 1 日から 1898 年 3 月
31 日までのプロイセン国民の所得と富の増加について実際に計算をした。計算は、あまり
にも煩雑なので、ここでは詳述できない。それゆえ、それについては、私の論文「資本形
成と社会主義的分配思想」24を参照していただきたい。その結果は、次の通りである。総所
得は、11,126 百万マルクであり、そこから 2,842 百万マルクの富の増加のための分を除か
ねばならない。残った 8,284 百万マルクは、プロイセン国民がその年度に消費した総計で
もある。この額を国民約 3,200 万人に等しく分配すると、配分額は 260 マルクとなる。こ
の額は、すべての者が平等であれば、各自がそれで生きていかねばならない額ともなる。
それに対し、自立していると見なされる者の収入は約 1,000 マルクであり、それでも良い
暮らし向きの労働者が稼ぐ額よりもずっと低いのである。
もし国民所得を全員に等しく分配するのではなく、年齢や性によるニーズの差を考慮す
るとすれば、この結果の意味についてより明確なイメージを得ることが出来るであろう。
それゆえ、成人男性 1 人を 1 消費単位とし、成人女性を 5 分の 4 単位、子供をより小さな
単位とすることとする。[そのようにして]以下のようなスケールを用いることとするが、
それは、デンマーク統計局の消費統計で使用されているものを単純化したものである。
0-5 歳
6-10 歳
11-15 歳
16-20 歳
20 歳以上
男
1/3
½
2/3
4/5
1
女
1/4
2/5
1/2
2/3
4/5
総消費単位で総所得を割るとすると、1消費単位当たりの額は 363 マルクとなる。すな
わち、成人男性1人が1日 1 マルク(=89 エーレ)で生活せねばならにこととなる。女性であ
れば、80 ぺニッヒ、子供であれば、年齢によるが、これよりも少ない額となる。1日あた
りの額(ペニッヒ)は、年齢・性によって次のようになる。
0-5 歳
6-10 歳
11-15 歳
16-20 歳
20 歳以上
男
33
50
67
80
100
女
25
40
50
67
80
このようにして、もし一国の所得が平等に分配されれば、それぞれの労働者について、
自分と家族が1日どれだけで生活せねばならないかを計算しうる。
当然であるが、そうした計算それ自体は、絶対的に確かなものではない。[というのも]
24
Cassel,Gustav, “Kapitalbildningen och den socialistiska delningstanken”, i: Ekonomisk
tidskrift 1901:3.
80
所得について数億マルク低く見積もったり、資本増加を数億マルク高く計算したりしてい
ることもありうるので、そのために分配額があまりにも小さくなっている可能性があるか
らである。しかし、そうした誤差はとりたてて大きなものではありえないことは言ってお
こう。それは、もし成人男子1人が1日 1 マルクではなく 1 マルク 10 ペニッヒを受け取る
ならば、そこから配分される総所得は、先に想定した額よりも 828 百万マルク多くなるこ
とを指摘すればわかるであろう。この計算では、恐らくそれほど大きな誤りを犯しようが
ないのである。それゆえ、配分額は、実際には 1 日 1 クローネ(1 クローネ=1 マルク 12・
5 ペニッヒ)を超えることはないと大いに自信をもって言える。
こうした計算がスウェーデンではどのような結果をもたらすかについては、そのために
適当なデータを十分持っていないので、確かなことはいえない。しかし、概して、スウェ
ーデンはなおプロイセンよりも貧しい国であると見なせるのであり、恐らくは、スウェー
デンの労働者は、平等な分配で期待できるのはより一層少ない額である。デンマークでは、
配分額は、それより若干高くなるであろう。
こうした検討からわかることは、平等な分配が実現されると、暮らし向きの良い労働者
もより貧しい者に分け与えねばならず、すべての者が分け隔てなくプロレタリアートに転
落してしまうという、衝撃的でかつ抗えない真理である。こうしたことは、理性的な社会
政策にとって目標とはなりえない。労働者が掲げるべき課題とは、当然、労働者階級全体
を、この階級の最上層が享受している水準に高めていくことである。しかし、この目標は、
社会の現行の所得をどのように分配してみても実現できないのである。
一国の国民の平均所得は、先に述べたように、様々な階級間の所得の差を平準化するこ
とによって得られるものの限界を示している。このようにして達成されうる最大限であっ
ても、余りにもわずかであり、追求する価値のないものであるので、社会問題を分配の改
善によって解決することに期待することはどんなに誤ったことなのかがわかるであろう。
できれば、この真理が浸透していくことが大いに望ましい。何にもまして、社会政策をめ
ぐる議論を真面目なものとし、それゆえ実りあるものとするのに貢献するであろう。また、
労働者の劣悪な状況が自己の労働の成果すべてを享受できず、一部を利潤として使用者に
手渡しているためだけのせいにするとか、利潤を廃絶もしくは資本家を根絶すれば、すべ
てがうまくいくなどということをもはや主張できない。
社会問題をめぐるあらゆる議論の出発点として置かねばならない事実、隠すことのでき
ない単純な事実とは、すべての者が良い暮らしをし、もしくは人間らしく生活するために
は、目下の所、余りにも少なくしか生産していないということである。そこから出る結論
は、次のこと以上ではありえない。[すなわち、]社会問題の解決は、社会的生産力の向上
にある。あるいは少なくとも、生産が増進されねば、社会問題は解決できないということ
である。
歴史的にものごとを見て、労働者階級の地位はこれまでどのようにして改善されてきた
のか。富者の余剰を奪い取ることによって実現したのか、あるいは社会全体の生産が増進
81
したためなのか。と問うて見れば、全く同じ結論に至る。まず、労働者の状況が、例えば
19 世紀の最後の 3 分の 1 の間に改善された事実を確認しなければならない。どの社会階級
が、この時期の生産力の巨大な進歩を最も享受したのかをめぐり激しく言い争われてきた。
社会主義者は、労働者は発展の果実の自己の取り分を十分得ておらず、自分よりも上流の
階級に比して、以前よりも立場が劣悪となったと好んで主張する。しかし、労働者は、こ
の発展の果実に預かったことは間違いなく、それもかなりたくさんであったことを、理性
をもった人間であるならば誰も反論しえない。そうだとすると、この労働者階級の所得に
加わった分はどこから来たのであろうか。上流階級の所得からではない、というのもそれ
も増えているからである。そうではなく、すべては生産の増進から来ているのである。人
口1人当たりの社会的労働の収益が 1867 年と同じであったのならば、労働者は、「資本の
収奪(expropriation af kapitalet)」によっても現在そうであるような状況に近づくことさえ
できなかったであろう。このこともまた、生産の増進がすべての進歩の基本条件であるこ
とを、社会問題のアルファでありオメガであることを示している。
実際、人口に対する全生産量[の割合]が、この時期に増加しており、労働者がそうし
た増加のかなりの部分を得ていることを、統計によって十分示すことが出来る。しかしな
がら、ここでは、一般的な総計の数字を並べるのではなく、いくつかの特殊な産業領域を
検討し、発展の経緯をより立ち入って眺めてみることとする。
アメリカの労働省は、最近、「手工業・機械労働者」の統計を公刊し、人間の労働の生産
性が様々な領域で手工業から近代的な機械技術への発展を通じてどのように増進したのか
についての正確な情報を提供している。ここで要約するのは極めて断片的な資料である。
調査は、672 にも及ぶ製品をカヴァーし、それぞれについて、旧来の方法や現在の方法でど
れぐらいの作業時間(時間・分)がかかっているのかを示している(もちろん、10 人の労
働者が同時に 1 時間働くとすれば、10 時間として計算されている)。その他、情報は、各製
品についてのみではなく、それぞれの場合に生産に必要とされる作業についても与えられ
ている。これにより、アメリカの技術の頂点において、現代の生産がどのように進行して
いるのかを垣間見ることができる。それに加え、それぞれの製品や特別な作業については
生産に要求される労働コストも与えられる。これにより、工業発展が各領域でどのような
節約をもたらしているのかがわかる。最後に、旧来の方式と新しい方式で従事する労働者
全員の賃金も表示されている。こうした情報を検討することで、賃金が一般的に上昇して
いるのみではなく、生産のどの領域でどれだけ上昇しているのかについて確認することが
できる。さらに、労働コストが如何に下がっているのかを知ることができるので、新たな
工業進歩によって労働者がどれほどのメリットを受けているのかを明確にイメージするこ
とができる。労働者は、実際、生産者としても消費者としても恩恵を受けてきたのである。
こうした例のないほど豊かな興味深い統計からいくつかの例を取り出してみよう。
近代的な機械技術は農業にも及んでいるが、この分野でも労働コストがはっきりと如何
に引き下げられているのかを見ることは特に興味深いことである。
82
科学の発展が、同時に土地自体の収益性を著しく高める可能性を伴うことが知られてい
る。その高まりは、当面、限界を定めることが不可能なものである。しかし、社会進歩へ
の経済的可能性にとって何よりも重要である事態のこの側面については、ここで詳しく述
べることはできない。
この統計により、(1 エーカーの標準的な収穫と見なせる)1 ブッシェルの小麦の生産を
1830 年と 1896 年の間で比較しうる。耕し、播種し、収穫し、脱穀し、袋詰めするまでを
含んでいる。これらの仕事のすべては、最も進んだ技術によれば、二つの作業に還元され
る。まず、蒸気力で動く機械を用いて土地を耕し、ならし、同時に種をまくのである。こ
の機械は、24 の刃がついていて、それぞれが 10 インチの深さで地面を切り取る。1 エーカ
ーでの全作業は 15 分で終わる。収穫の時期が来ると、収穫機と脱穀機を合わせた複合機械
を用い、同時に袋詰めの作業も行う。これらすべてがただ一つの一連の作業となっている。
この労働方法と旧来の手作業を比較すると、次のような結果がでる。
1830
1896
一日の賃金
50-75 セント
1.5 - 4.5 ドル
労働時間
64 時間 15 分
2 時間 58 分
労働コスト
3.71 ドル
0.72 ドル
過去に必要とされた量の約 22 分の 1 に必要労働を減少させることにより、最高額が 1 日
4.5 ドルで法外といえるほど高く、最低額をとってみても本質的な改善とみなされねばなら
ないほど高い賃金が与えられているように、新技術に関与している様々な労働に対し、多
少の差はあるものの、はるかに高い賃金を支払う状況になっている。同時に、労働コスト
を、かつてそうであったものの一部分に引き下げることにも成功した。労働者の賃金が上
昇したのみならず、労働コストが下がるに応じて、少なくとも彼の最も重要な食材が安価
となった。アメリカが小麦を安価に生産することは、旧世界の農業経営者にもあまねく良
く知られていることであり、彼らはこの圧倒的に優越する競争者に対し保護を求める声を
常に上げている。しばしば、アメリカ人は、古い土地の地味が枯渇しても、常に新しい土
地を得ることができるので、有利なのだと指摘される。これはかつて真実であったが、今
はもはやそうではない。アメリカで、地代を考えないとしても、わが国におけるよりも小
麦をずっと安価に生産できる真の原因は、他の農産物の農業生産者と同様に、合理的な農
業経営と高度な技術にあるのである。
アメリカの統計で示される殆どすべての事例において、賃金は上昇している。しかし、
賃金が下がっているいくつかの例がある。例えば、時計工場の例である。しかし、この件
を良く調べてみると、年老いた、賃金の高い労働者、すなわち時計工が、まったく新しい
より下層の労働者や女工によって代替されていったことがわかる。こうした労働者が、現
在時計工場で稼いでいる賃金は、判断しうる限り、それ以前に彼らが得ていた賃金よりも
83
ずっと高いのである。彼らに関しても、新しい技術は進歩をもたらした。どれだけそうし
た発展が時計工にとってメリットであったのか疑う向きもあろう。しかし、この問いに答
える前に、旧技術での時計生産と新技術での時計生産について、統計が何を語っているの
かを見てみなければならない。ある近代的なアメリカの工場では、1,800 人が働いているが、
その大部分が女性である。仕事は 1,000 以上の様々な作業に分割されている。このような
分業が何を意味し、そうした労働方法が前提とする工場全体の組織が如何に高度に洗練さ
れたものであるかを想像することができる。新旧技術で、この 1,000 台のねじ巻き付きの
懐中時計を生産する労働コストを比較してみよう。手作業では、その量の生産には 241,866
時間が必要であった。工場(の機械労働)では、全体で 8,243 時間であった。時計工は、
週 20 ドルを稼いだのであり、10 時間労働日であるので 1 時間 33 セント得ていたこととな
る。工場での平均賃金は、時間当たり 22 セントであるので、確かに熟練時計工が稼いでい
た金額の 3 分の2にしかならないが、特に大部分が女性であることを考慮するとかなり良
い賃金である。1 時間 22 セントは、1 日 10 時間労働とすると、1 日当たり 8 クローネとな
るのである。こうしたことであるならば、1,000 台の時計生産に関して労働コストの節約は
巨大となる。
[労働コストは]一方は 80,000 ドル、他方は 1,800 ドルであった。このこと
は、こうした[1台当たりの]時計生産の労働コストが、機械技術の導入により、80 ドル
から 1 ドル 80 セントに引き下げられたことを意味する。もちろん、その代わりに工場に投
資した資本に対して幾分の利子を支払わねばならない。しかし、統計はその額については
何ら情報を与えてくれない。しかし、大きな利子コストがあったとしても、全体の生産コ
ストは、旧来の作業所よりも近代的工場の方がはるかに小さいことは、全く確かなことで
ある。
もし時計をかつてのコストのほんの一部で販売できるようになれば、より多数の時計が
売れるであろうことは今や明白である。今では懐中時計を使う習慣は、かつては時計が高
価であったため手に取れなかった人口の広範な層にまで浸透している。しかし恐らくは、
同時に、旧来の時計工の大部分が、それらすべての時計を修理し保全する作業に従事する
ようになっている。工場への発展は、すべての者にメリットをもたらしたのである。
25,000 ポンドの洗剤を製造するのに、手作業であると 432 時間かかった。今やそれが 21.5
時間となっている。新技術は、約 50%の賃金上昇をもたらした。こうした賃上げにもかか
わらず、労働コストは 43 ドルから 3.25 ドルに下がった。こうした事態は、当然洗剤の価
格低下をもたらしたが、それは、もちろん、働く諸階級全体が、以前よりも清潔に暮らし
ていけることを意味する。それゆえ、労働者は、全くはっきりと、生産者としても消費者
としても利益を得たのである。
こうしたことは、一層確かに新聞の発行に当てはまる。1852 年には、4 面の新聞を 1,000
部印刷して平積みするのに 1 日 12 時間で 4 人の労働者が作業をした。その際には、ありふ
れた手動の印刷機のみを用い、1 日当たり 1 ドルから 3 ドルを稼いだ。1896 年には、95 人
が 1 日 8 時間働き、48 面の新聞を 444,000 部印刷して平積みにした。彼らは、このために、
84
六つ折り機 1 台,四つ折り機 6 台、三つ折り機 1 台、二つ折り機 2 台を用いている。職長は
1 日 7 ないし 9 ドル、印刷工は 4.5 から 5 ドル、助手は 3.5 ドル稼いでいる。こうした非常
な高賃金にもかかわらず、それだけの量をこなすための労働コストは、手工業時代そうで
あった額の 17 分の 1 に過ぎない。
ここでは、技術発展が、その職業の労働者に高賃金をもたらすと同時に、製品を安価に
し、より国民の広範な層に普及させる基礎条件であることが端的に示されている。大量に
印刷できなければ、新聞を安く販売することは不可能である。しかし、旧来の方法では、
日刊紙を 50 万部刷ることは到底できない。[できたとしても]安くできないのである。今
やそれができるので、新聞を以前よりずっと安く、しかもよりよく提供できるのである。
既に前の章で、アメリカで如何に既製服が作られているかについて言及した。1860 年で
は、まだ麻織物は手作業で生産され、女性のお針子のみが 1 日 60 セントで雇われていた。
1895 年には、この生産は大規模工業となっていた。その時も女工のみが雇われていたが、
電動の裁縫機械を利用したため、労働時間が若干短くなったのにもかかわらず、賃金は 1
日 1.25 ドルであった。この場合も、もたらされた利益は疑いようもない。しかし、それに
加えて、新しい工場では、裁断工(skärare)が週 20 ドル、幾人かの女性の機械制御係
(kontrollörer)は週 15 ドルも稼いでいる。労働コストは、全体で見ると、半分以下に縮減さ
れた。それに伴い、数百年前には贅沢品であったシャツが国民全体に普及されたのである。
我々は、国民がシャツを着るようになり、清潔に暮らし、新聞を読むようになることを
社会的進歩に期待するのであれば、高度な工業の発展は社会問題の満足のいく解決のため
の絶対不可避な条件であることを認めねばならない。旧来の生産方法の地点に留まってい
るならば、今日でもなお我々は、かつての野蛮の状態に取り残されていたであろう。最も
急進的な民主主義が実現したとしても、人々をそこから救出できなかったであろう。こう
した新技術は、そのほんの一部が開花したに過ぎない。しかし、それによって得た成果は、
他の国々や他の生産領域がどのような方向性を辿らねばならないかを雄弁に語っているこ
とは明らかである。
高度な技術を導入することに対する主要な障害は、労働者がそれにより職を失うことで
ある。しばしば労働者が、特に工業発展の初期の段階で、すべての新しい機械に対し敵対
し、暴力に訴えてまで使用を阻もうとしたのは、そうした恐れのためである。このような
戦術は、現在、もちろん、少なくとも上等な労働組合の中では廃れてしまっているが、労
働組合が、労働節約をもたらすような労働組織の変更を妨げようとすることを見るのは稀
ではない。最近、あるデンマークの繊維工業の工場経営者が、労働者に現行の 2 台ではな
く 4 台を操作することを提案したことについて語っている。我々は、こうした事態がどん
どんと進行しているのを見てきた。イギリスでそうしたことが起こっているし、アメリカ
では 1 人の労働者が 6 台から 8 台の織機を扱っている。しかし、デンマークの労働者はは
っきりと拒絶した。もちろん、彼らは個人的には、提案された 50%の賃上げのために一層
努力しようという気がないこともないであろう。しかし、彼らの理解によれば、労働組合
85
は、如何なることがあっても、必然的に多数の労働者が職を失うような変更に与すること
はない。それゆえ、デンマークでは賃金が低く、非効率な労働が続いている。私的な経済
的観点からすれば、この労働組合が、提案された変更を少なくともその直接的な効果を見
て有害であるとしたことは無理もない。しかし、同時に、こうした労働組合の政策は、す
べての労働から最大限の収益を導き出すという社会の利益に反していると評価されねばな
らない。さらに、誰でもそういうであろうが、結局、この目的のために本来必要とされる
よりも、綿織布をする労働者を多く抱えていることも正しいことではない。
社会進歩の経済的可能性が労働生産性の向上によるとすれば、一定量の労働で最大限の
生産を実行することが我々の努力目標とならなければならないことは当然である。しかし、
明らかにこのことは、最小限の労働量で一定量の生産を行うことと同じである。それゆえ、
どのような労働節約も、人間労働を余計なものとする如何なるものも、社会経済的に見れ
ば、進歩である。この点については、広く普及している物の見方からすると、依然として
はっきりしたことではない。それはしばしば、経済問題についてと同様、ものごとを、社
会の利害からでなく私的利害の観点から見ているためであり、それゆえに、手段でしかな
いものを目的とみなしているためである。個人にとり、職を得ることが肝心なことであろ
うことは、もちろん理解できる。しかし、すべての労働の目的は、人間のニーズを満足さ
せることであり、もし欲求充足ができる限り少ない労働で実現できるならば、利益である
ことは当然である。すべての生産は、消費者の利害にそって行われるのであり、それゆえ、
すべての経済政策の問題を決定すべきなのは、生産者ではなく、消費者の利害なのである。
もちろん、あらゆる労働節約は、少なくとも当座は、少数の労働者を失業させる一定の
傾向を持つ。しかし、これは、いずれにしても最終結果ではない。機械技術が恒常的に発
展し、常に生産のあらゆる領域に波及し、それに伴ってますます多くの労働者が職を失う
とすれば、当然、工業労働者の数は、少なくとも人口の他の部分に比して常に減少するこ
ととなる。しかし、現在は、誰もが知っているように、全く逆の現象が生じている。工業
全体では、常に絶えることなくますます多くの労働者をひきつけており、農業に従事する
者の数は、停滞しているか減少している。農村から人々が、殆ど脅威を呼び起すほど大挙
して都市や大きな工業地域に押し寄せているのである。
このように、工業の進歩は、全体として労働者階級の雇用の機会を減少させる傾向をも
つとは全くいえない。しかしながら、この進歩は概して労働を過剰なものとするので、こ
こには、一見したところ、矛盾があるように思える。その答えは、既に我々がアメリカの
統計数値で示した現象にある。労働を節約することにより、安く生産でき、それゆえ、安
く販売できるようになる。それに伴い、消費は、しばしば殆ど未曾有なほどの増加を見せ
る。こうして、以前と同じくらいかそれよりも多くの労働者が職を得ることが起こりうる
のである。
全体としてみれば、機械技術の進歩が有能な労働者を失職させるような傾向をもたない
ことは、こうした進歩が、至る所で賃金上昇と手を取り合って進行していることからも既
86
に窺えることであろう。というのも、そうした現象は、結局は有能な労働者に対する強い
需要が存在しなければ不可能であるからである。
他方、ある工業分野において新しい機械の発明または作業方法の再組織が、移行段階に
おいて、この工業に従事している労働者に大きな困難をもたらし、時には現実の困窮に至
らしめることもあることを否定できない。こうしたことが起こるならば、社会が介入する
ことは、拒絶できない義務である。社会は、今見てきたように、如何なる工業の進歩によ
っても著しい利益を得るのであり、新たな段階への移行を容易にするために幾分かのコス
トを支払うことは十分できるのである。少数の貧しい労働者のみが全部の負担を背負い込
み、社会が全体として利益を得ることを要求するのは、甚だしく不当なことである。それ
ゆえ、時代遅れな誤った労働組合政策が時にそれをもたらすように、もし工業の発展が、
ある時点で一部の労働者を苦しめたとしても、そうした発展は妨げられるべきではない。
しかし、他方で、労働者は、全体の利益のために不当に苦しんだり、犠牲を強いられたり
する必要はない。社会こそが、進歩のコストを支払うべきである、つまり、失業するに至
った労働者に代償を支払うべきなのである。そうすることは、極めて単純な義務であるば
かりでなく、全くのビジネスである。このようにして経済的進歩の最も重大な障害を取り
除くことにより、社会は、そのコストに倍増する利益を得るからである。当然、こうした
代償は、労働者がなるべく社会的生産において有益な要素として保持される形で与えられ
ねばならない。すなわち、社会は、工業的転換のために、一部あるいは全面的にその職業
で生活できなくなった労働者に対しては、新しい職業を学ぶ時間と機会を得るように配慮
すべきである。労働者が年配のために、もはやそのようにして稼ぐことが出来ないとなれ
ば、状況が変わって不必要となった際に、官吏に年金を与えるように、年金を与えねばな
らない。
これまで見てきたように、第一に、当面は生産されたものは余りに少なく、貧しい階級
の状況に何らかの著しい改善をもたらすに至らないが、第二に、これまで生じた改善は、
本質的には工業の発展に基づいているのであり、如何なる場合でもこの発展なしには改善
は不可能なのである。その他の方法でも、社会発展の経済的可能性は、人間労働の生産性
の向上の中にあるという我々の主張が真理であることが納得できる。
単純な実際的な問題、すなわち、労働者はいかにしてより高い収入を得ることができる
のかという問題に関しては、労働者が、現在、我々の国よりもずっと高い賃金を得ている
国に行き、どのようにしてそれが可能となっているのかを調べるべきであろう。このよう
にすれば、如何にして労働者の経済的地位の向上が可能となるのかについて信頼できる情
報を得ることができるに違いない。しかし、そうした調査は、前の講義で見たように、イ
ギリスあるいは何よりアメリカで支払われている高賃金は、労働の高度な生産性ぬきでは
不可能なのである。そこから、以下のような結論以上のことは、導けないであろう。つま
り、我々は、近代技術が許す限り、労働の生産性を上げねばならないということである。
そうすることなしに、賃金水準をアメリカのそれまで引き上げていくことは全く不可能で
87
ある。スウェーデンでの平均的な工場を取り上げ、そこでのすべての剰余を労働者の間で
分配してしまっても、アメリカの最も優れた工場で、そうした分配なしの状況で労働者が
稼ぐよりもはるかに及ばないであろう。我々が目標としなければならないのは、効率性を
最大限に向上させることである。もし、そのために必要な努力を惜しんだら、時代遅れと
なった生産方法で満足してしまったら、半端な機械で働くことに満足してしまったら、半
分の食事で生活することをよしとしなければならないのであり、所得分配に何らの改革も
なされず、貧しい階級を貧困であることから救出することはできないのである。
こうして労働者が、自己の組織である消費協同組合や労働組合によって自己の地位を改
善しようとする努力は、このような真理を認めることによっても、いささかもその意義を
失うとは思はない。そればかりでなく、それにより、通常そう見る傾向にあるのとは異な
る角度から組織の役割が照らし出される。それらの社会政策的価値の究極的な試金石は、
それが社会の労働の生産性を促進するかどうか、どれだけ促進するのかとなる。それゆえ、
近代社会政策的努力のどのような科学的な取り扱いに際しても、真っ先に考慮さられねば
ならないのも、発展理論の諸観点となる。協同組合運動は、その教育的な影響力、すなわ
ち、国民の家計の重要な部分に高度な労働節約的な組織形態を展開することにより社会経
済的に重きをなしている。開放的な労働組合政策は、労働者のみならず使用者について経
済的淘汰や適応に効果を持つことによりその意義を持つ。
労働者の諸組織が、なるべく早く、進歩の果実の最大限可能な部分を確保する必要性が
あることは当然である。ここでは、労働者がますます多くを得るという耐えざる分配が生
じる。このことは、また、一部は使用者の犠牲において起こるのであるが、苦しむことと
なるのは主に、時代遅れとなった無能な使用者である。彼らは、結局は淘汰の場から退去
せねばならない。そうでなければ、常にますます先細りとなる限界部分で生きていかねば
ならない。しかし、このことは彼らをひたすら一層の努力するように駆り立てる。このよ
うにして彼らも利潤が恒常的に細分化されていく状況から抜け出ることが起こりうるので
ある。
労働運動は、すべての大規模なアジテーションと同様に自身のスローガンが必要である。
それは、「利潤」という言葉であった。利潤は、労働者階級の解放の前に立ちはだかるすべ
ての敵対勢力の結晶とも見なされるようにもなったのである。[しかし]こうした利潤に対
する闘争は、全くの見当違いである。利潤は、それ自体、何らの悪ではない。有害なのは、
不労(lättförtjänta)所得のみである。それが有害であるのは、人々が然るべき貢献をせずに
安穏に生活することを許容するので、社会に役立つための適度な能力発展[の機会]を奪
うためである。当該者が社会に全く有用なことをしていないのに、自然独占のおかげで得
ている利潤は、ことのほか有害である。そのような無目的でそれゆえ有害な利潤がどのよ
うなものでも、労働組合によってであろうが、消費協同組合によってであろうが、労働者
が吸収することとなれば、社会にとって大きな利益となる。しかし、使用者が、たとえわ
ずかなものでも労働者からマージンを得て、その高い個人的な能力により、あるいは全身
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全霊努力を重ねることにより高い利潤を得るようになったとしたら、それは何ら憂うるべ
きことではなく、当然、社会全体にとっても有益なことなのである。
このように見てきたように、工業発展が非常に重要なことであるとすると、次のように
問わねばならない。どうすれば、かくなる発展を最もよく促進することができるのであろ
うか。この講義は、近代的社会政策の努力がどれだけこうした方向性を有しているのかを
明らかにすることを目指してきた。しかし、当然、社会政策以外にも、工業進歩を促すた
めに活用される諸力が存在する。
使用者はこの点で、直接的な自己の利害のみならず、それと同等に社会に対して義務を
負っている。自分の所の生産方式を常に技術進歩に合わせていくのは彼らの任務である。
非経済的で時代遅れな方法に固執していたり、人々を劣悪な技術に基づく機械で働かせた
りする使用者は、発展を妨げているのであり、労働者の生活条件改善の障害なのである。
さらに高賃金が良き経済を意味するのが本当であるならば、賃金引上げに協力するのも
使用者の任務となる。しかし、もし使用者がアメリカ並みの賃金を支払うようになれば、
破産してしまうと反対する者も出てこよう。それは全く正しい!労働の生産性を2倍もし
くは3倍としたぐらいでは不可能なのである。しかし、有能な使用者ならば、[団体交渉で
決まった]労働組合賃金以上のものを支払うことにより、最高水準の労働者を引き寄せる
ことができ、十分元が取れるのである。先に見たように、有能な労働者をめぐる使用者間
の競争により、使用者はより一層の努力と更なる発展に駆り立てられる。このようにして、
こうした競争は、一般的賃金水準の著しい上昇をもたらすが、それに応じた労働コストの
増加は起こらないし、むしろ低下が起こるのである。しかし、これらのことはすべて、同
時に技術や労働の全組織における高度な発展が起こらなければ不可能なことである。
一国全体の生産における技術面での向上は、最高級の技術教育によって大いに促されう
る。ドイツの例が、こうしたことがどのようにして起こりうるのかを最も良く示している。
実際、ドイツの未曾有の発展や、例えば、化学工業や電機工業などのいくつかの部門で獲
得した優越性は、何よりもドイツの卓越した技術教育や自然科学研究への強力な援助に拠
るものであることは、昨今ではあまねく、特にライバル国であるイギリスで認められてい
る。今や、まさに我々はこの例から学び、技術教育を考えられる限り最も貧しい状態に置
こうとしてきた、これまでの近視眼的な節約政策を捨て去る時である。ここにおいて幾ば
くか欠乏は英知を生むということができるかもしれない。我々の工業に資するように教育
を改善することに何らかの犠牲を払うこととなっても、数倍の利益となって帰ってくるの
である。そのコストを否定したり値切ろうとしたりすると、実験が失敗し、国民的労働は
不十分な効率性のままという形となり、高くつくこととなる。
工業におけるのみではなく、農業や概して生産のすべての領域における高度な技術の不
可避な条件は、資本をもつことである。資本形成は、我々にあっては全く不十分である。
下層階級は節約する余裕がなく、上流階級はその気を持たない。スウェーデン人は自己の
分を超えた生活をしているというのは、しばしば言われることであり、繰り返すことでも
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なかろう。しかし、この事実の、余り注目されていない別の側面を主張したい。すなわち、
豊かな階級は、個人的には贅沢に生活を送る余裕を持っているのであるが、国民の貧しさ
に対しては余りにも贅沢に暮らしているということである。社会倫理の観点から見ると、
それは正当なことではない。資本形成は社会的義務であり、当然、大きな所得をもつ者の
みの義務となる。この点で彼らが自己の社会的義務を放棄すれば、社会の利益が非常に深
刻な形で侵害されることとなる。
どのような種類の貯蓄も乏しいと見られ、上流階級の経済的な面での教養が低く、立派
な身なりをした婦人が、自分にも他人にも、着飾ったパーティに「巨額な金をかける」こ
とによって社会に貢献するのだと信じ込ませることに成功しているような国においては、
当然、このようなものごとの見方を浸透させることは難しい。
この点でスウェーデン人は、ことのほか例外的な位置にある。我々のように、自己の資
源に比して贅沢に暮らしている国はない。海峡を渡りさえすれば、デンマークの上流階級
がどのようにシンプルに生活しているのかを見て衝撃を受けるであろう。しかし、デンマ
ーク人は、我々に比べれば豊かな国民であり、国民的生産を非常に高度に発展させるため
の資本には事欠いていない。小さな国であるオランダは、世界の指導的な商業国にのし上
がったが、商人たちは旧来のシンプルな市民生活を守り続けており、それゆえにこそ世界
商業を展開する資本を持ったのである。いつになったらスウェーデンはこのような例から
学び始めるのであろうか。いつになったら、一国の経済生活は、すべての者の献身的な協
力が必要となる大きな重要な事柄であることに目覚めるのであろうか。社会に対する義務
感を呼び起こし、社会政策が成功するための第一条件である社会的な帰属感情を得るのは
いつのことであろうか。
ここで社会政策、その一般的目標、重要な手段についての私の講義を終える。提示した
像は一種の楽観的見方で特徴づけられているという者があれば、それに対して何ら反論は
ない。しかしこの楽観的見方は、一定の予定調和的な世界を信じる自由主義的経済学の信
条ではなく、発展理論の楽観的見方であり、進歩の可能性への確信であり、明るい未来に
向かっての目的意識的な活動に際しての自己の力への信頼である。こうした信条は実り豊
かであり、生きることへの力である。
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