ベルギー「2014 年法」成立の背景をめぐる一考察 ―子どもが「死」を理解するということー 牧田 満知子 (兵庫大学生涯福祉学部教授、比較社会福祉政策) はじめに ベルギー政府は2014 年3 月、 世界ではじめて年齢による制限を排した 「安楽死法」 を成立させた。 「2014 年法」である。同法は、しかし未成年者の場合には、成人に認められている「精神的苦痛」は認めてい ない。さらに、 「安楽死」を要請できるのは、患者に正常な判断能力があり、かつ患者の苦痛が激しく「死」 が避けられないほど末期であることを条件としている。成人の「安楽死」と比すると、その緊急性、切 迫性において相当重篤であることが要件となっているが、それでも「安楽死」を自らの権利として要請 するのは、18 歳以下の子ども、否、幼い子どもであることもあり得る。しかし、彼らが「安楽死」を希 望した時、彼らが正常な判断力を持ち、迫りくる「死」を冷静に認識できているのかどうかを誰がどの ように判断するのだろうか。ELG(End of Life Research Group)の研究者達への聞き取りを通して、 「子 どもの『死』の理解」について考えてみた。 (※ベルギー「安楽死法」は 2002 年 5 月に成立し、2005 年 11 月の改正を経て 2014 年の現行法に改 正された。本稿では 2002 年「安楽死法」等と区別するため、現「安楽死法」の通称「2014 年法」を用 いる) 1.近年のヨーロッパの趨勢 近年、とりわけこの 20 間、ヨーロッパでは緩和ケアの飛躍的な発達、および幅広い治療法の開発に よって、 「死」をとりまく状況に変化が生じている。変化は医療そのものに限らず、 「医師と患者の関係」 「患者の権利」などこれまでの医療におけるパターナリズムにも矛先が向けられ、こうした関係性に反 旗を翻す患者側の人権意識が、医療や生命倫理の領域でも幅広く受け入れられるような流れが形成され てきている。 この背景として「安楽死」に関する事件が近年多く報道されるようになった事が挙げられる。報道の 多くは悲惨な事例であるが、人々に、それが誰にでも起こり得る日常的な出来事であるということを思 い起こさせた効果が大きい。事件との距離の近さが契機となって様々な議論が沸き起こり、各国はその 対策の検討を迫られ、その議論の中から新しい法案が策定され成立するというプロセスがみられる。 一例として、フランスでは「安楽死法」は制定されていないが、世論では、何としてでも命を永らえ ようとする医療には否定的な見方が多く、人々の間には、苦しみが持続することへの嫌悪、 (苦しむくら いなら)むしろ緩和鎮静の過度の投与による安らかな「死」を望みたいという期待が高まっていた (Marie-Anne BRIEU ,2012) 。スイスへの渡航自殺者も後を絶たず、こうした民意を受けて、政府は 2005 年に「レオネッティ法」を成立させた1)。同法は「安楽死」 (苦痛から免れさせるために意図的積 極的に生命を終焉させること)を認める「安楽死法」ではないが、治療の差し控え( 「消極的安楽死」 ) 、 および苦痛の軽減のための過度の鎮静剤の投与(その結果死に至る「間接的安楽死」 )は認めるというも 2 ので、依然として「安楽死」には否定的な立場をとりつつも、その内容は「安楽死」の容認に向けて大 きく一歩を踏み出すものと言える。 「レオネッティ法」によって容認された「消極的安楽死」は、末期状態にある患者や難病の患者の要 請によって無駄な延命治療を中止するものである。 「尊厳死」とも言われ、本人の意思確認ができれば現 在では容認している国は多い2)。長い間、医療は人命を救うためにあるという大前提がこの問題の足か せとなっていたが、各地に「尊厳死協会」やそれに類似する様々な団体が作られ、今では医療における 選択肢として定着しつつある。 これに対し、 「間接的安楽死」は、本来は緩和鎮静という医療行為を、死に至らしめる可能性を認識し つつ過度に行うことで、結果として患者を死亡させてしまう行為を指すものである。実は「間接的安楽 死」は、定義や法が整備させる以前から、多くの国々で行われていた「意図せざる死」である。しかし、 本当に「意図せざる死」だったのか、あるいは何等かの働きかけがあったのかは、事後に判断すること は困難である。 「間接的安楽死」がとりわけ問題とされるのは、まさにこの点であり、 「安楽死(積極的 安楽死) 」と結果において線引きが困難である点である。 さらに、 「間接的安楽死」は、多くの場合、意識が混濁した状態の患者に対して行われるので「本人の 意思」が確認できないという難点があった。これが犯罪性を否定できないものにしていたのである。 「安 楽死法」が何よりも前提とする「本人の意思表示」が、家族や医師の意向で行われる可能性を「間接的 安楽死」はまだ残しており、ベネルクス3国が「安楽死法」の制定に踏み切ったのも、背景に、この問 題を法の下に明確に位置づけるという目的があった。 以上を踏まえれば、 「レオネッティ法」の規定する「意図せざる死」の問題は、本人の明白な自己決定 による要請を受けて行われる「安楽死」より、むしろ危険性をはらんだものとも考えられる。ベネルク ス3国では、 「安楽死」を認めることによる弊害として、 「滑りやすい坂道仮説」(Slippery Slope Hypothesis)という表現を用いて、 「安楽死」が本人の意図を十分汲むことなく、医師による拡大解釈さ えも正当化してしまう可能性があり得ることに警鐘を鳴らしている。 2.ベルギー「安楽死法」の概要 現在「安楽死」を法として規定しているのはベネルクス3国、そしてアメリカの2州(オレゴン州、 ワシントン州)である。これに対してスイスは「安楽死法」という制定はないが、 「刑法 115 条」の解 釈によって「自殺ほう助」が認められているというやや特異な背景をもっている。しかしどの国(州) も「安楽死」を要請する者として幼い子どもを想定していない。唯一オランダが 12 歳という最少年齢 を規定しているのみである。したがってベルギーで「安楽死」要請者の年齢制限をなくした「 「2014 年 法」が成立した事はどれほど大きな衝撃を世界に与えることとなったかは想像に難くない。 「2014 年法」 について述べる前に、ベルギー「安楽死法」の成立の背景を簡単に概観しておこう。ベルギーでは 2002 年 5 月に「安楽死法」が制定された。法案の制定に至るまでの 1990 年代半ば以降、政権与党の思惑も からみ議論は難渋していたが、1999 年の選挙後「虹の連立」政権が樹立された事によって、懸案であっ た「安楽死」に関する法案が元老院に提出され検討されることになった。その後1年余にわたる議論を 踏まえて、2001 年 10 月に元老院において、翌 2002 年 5 月に代議院において可決された(賛成 86 反対 51 棄権 10/ 施行は同年 9 月) (本田まり,2014, p32) 。 ベルギー「安楽死法」は 16 条から構成されている。法の成立に先立って議論されてきた法案の目的 は、 「安楽死」の法的安定性を確保しつつ、半ば闇で実施されていたこの行為に終止符をうつことであっ 3 た。したがって、これまでの慣習的な要素を勘案した要件が規定されており、ベルギーに先立つ数週間 前に施行されたオランダの「安楽死法」 、さらに刑法上の解釈から自殺幇助を是認しているスイスと比較 した場合、いくつかの特徴的な相違点が見られる。 1点目は、 「精神的苦痛」による「安楽死」が合法化されている点である。2点目は、 「安楽死」は必 ず医師によって行われる必要があり、自殺幇助は認められていない点である。そして3点目は、意識の ある時に書かれた事前の意思表明が認められるという点である。以下に順を追って検証していこう。 まず「安楽死」は「第三者により実施される、本人の要請に基づいてその者の生命を意図的に終わら せる行為」 (第 2 条)と定義される(Kidd, 2002, pp182-183、本田まり, ibid) 。ここで言う「第三者」 とは、患者本人と利害関係のない、医療行為にあたる医師である。さらに「実施」される行為であるの で、医師が直接患者に対して生命を終焉させることを意味している。したがって致死薬のみを処方する 自殺幇助は違法となる。 次に、 「本人の要請に基づいて」 「生命を意図的に終わらせる」が、ここには「末期的状態(死期の切 迫) 」は規定されていない。 「安楽死」の実施に関する要件(第 3 条§1)によれば、次の要件の③が該 当するが、死期の切迫は非該当である。 ① 患者が成人で、行為能力があり、かつ「安楽死」の要請時に意識がある ② 「安楽死」の要請が自発的で熟慮されている ③ 患者が医学的に手の施しようのない状態にあり、事故または病気による重篤かつ不治の疾患によ り、恒常的に耐え難い身体的又は精神的な苦痛があり、その緩和が不可能 一方「安楽死」を実施する医師に対する要件(同第 3 条§2)はオランダ法とほぼ同じである。 以上が定義から導き出されるベルギー「安楽死法」の概略である。次に、患者(対象者)の年齢、意 識の有無に分けて検討してみよう。 「安楽死」の前提は本人の要請に基づくものである。しかし、 「安楽死」要請の時点で本人に意識があ る場合と、そうでない場合(意識混濁など)が考えられる(本田まり, 2014, p.32) 。 そうでない場合(意識混濁で意思表示ができない場合「安楽死法 4 条(Kidd, 2002, pp183-184) 」 )は、 患者の事前の意思表明書が有効となる。そこに記載されている一人、または複数の受任者が代理人とし て「安楽死」要請を行うことになる。 本人に意識がある場合、患者が「末期状態である」のか「そうではない」状態なのかという二つの場 合が考えられる。 まず、 「末期状態」での要請の場合には、患者本人の「肉体的または精神的苦痛」が要件として規定さ れている。ここで、 「または」という文言が立法時に議論の対象となり、 「および」にするべきだという 修正案の提示、さらに「精神的苦痛」という主観的な広がりを過度に懸念する多くの否定的な見解が示 された。しかし、結果として「精神的苦痛」のみでも「安楽死」に値するという解釈が合法化された背 景には、 「安楽死」が医師によって行われるものであり、その前提として患者と医師の間に信頼関係が構 築されているという前提があったことが大きい3)。一方、 「末期状態」ではない場合には第二の医師に相 談することになる。とくに「末期状態」ではない患者が「精神的苦痛」という理由で「安楽死」を要請 した場合、その危険性については現在でも強く危惧されている4)。 「安楽死」を要請できる患者の年齢であるが、法的能力のある「成年者または開放された未成年者(16 歳以上で婚姻している者) 」であり、 「要請の時点で意識があること」 (3 条の 1)とされている。 以上、概観してきたように、ベルギー「安楽死法」は長年の試行錯誤を経て構築されたが、 「安楽死法」 を構成する補完体制があることも重要な点として指摘おきたい。 4 2002 年の「安楽死法」の制定にともなって、難病や終末期にある患者の医療上の様々な権利を保障す る「患者の権利法」(The Belgian Act on Patients’ Rights/ 2002 年 6 月制定)、そして患者を介護する家 族をサポートする「緩和ケア法」(The Belgian Act on palliative care/ 2002 年 8 月制定)が制定された。 「患者のケア法」 「緩和ケア法」は、具体的には不治の病や末期がんに遭遇した家族に対し、入院費、治 療費などは健康保険の還付対象であるが、貧しい家庭で一部負担が無理なら全額を保険でカバーする制 度である。末期患者が病院・施設でなく在宅ケアを希望した場合には、介護の家族か知人は1年間の有 給休暇を取得でき、1年後に同じ条件で職場復帰の権利を法律で保障されている。とりわけ終末期に在 宅ケアを選んだ患者の場合、国が医師、看護師、カウンセラーなどの派遣を含んだ費用一切を負担する ものである(谷口長世, 2014.7.1, 84-86) 。 「安楽死法」を支えるこのような三位一体の体制こそが、 「安 楽死法」制定以来、要請者数を増加させていることと無関係ではないだろう。 3.「2014 年法」の成立過程 「2014 年法」の成立過程に話を移そう。ベルギーでは、2002 年の「安楽死法」制定当時から、18 歳 以下の子どもにも「安楽死」を認めるべきではないのかという議論はあった5)。まず、 「安楽死」があく まで医療行為であるなら、なぜ 18 歳以上の成人に限定されるのかという問題が提起された。医療行為 を受ける患者は成人に限らないし、 「耐え難い身体的苦痛」を訴える患者も成人に限らないからだ。さら に意思能力に関しても、婚姻している未成年は 16 歳から「安楽死」の要請が認められているという矛 盾も指摘されていた。 これをオランダの「安楽死法」と比較した場合、オランダが早くから臨床現場の声を掬い上げて法制 化している点が特徴的である。同法では、 「安楽死」は 12 歳以上のオランダ国民に認められており、そ の理解の程度によって 12 歳以上から 16 歳未満、そして 16 歳以上と分けられている。子どもの意思能 力という点に関しても、就学年齢に比例した方法で規定しており、18 歳以下の子どもの場合、本人だけ でなく親、医師、精神科医師、カウンセラーらの協力体制によって結論を導くという方法がとられてい る。難病に苦しむ高校生が「オランダ安楽死協会」に加入している例にも見られるように、本人の意思 能力に大きな比重が置かれている。 こうした隣国の現状との相違、さらに臨床現場から上がってくる、難病に苦しむ子どもの救済措置を 訴える声等も伏線となって、ベルギー上院では 2013 年 1 月から、これらの法案の分析を開始し、未成 年者の「安楽死」 、神経変性疾患(パーキンソン病等)の「安楽死」など、いくつかの論点に沿って法案 を分類、整理した。このうち、2013 年 6 月に提出された未成年者の「安楽死」に関する法案の審議が 2013 年 10 月に開始された。 法案では「安楽死」が必要な身体的または精神的苦痛は、成人に限られる問題ではなく、現行法の年 齢制限は恣意的であるとして、2002 年法を改正し、年齢制限の撤廃を提案した。審議さ中の 11 月 6 日 には、ベルギーの小児科医 16 人が「終末期に耐え難い苦痛を耐え忍ぶ子ども達」の現状を訴え、医療の 現場で法的に灰色とされる領域を取り除くためにも子どもの安楽死を合法化してほしいと元老院へ連名 で公開書簡 を送付した事件が大きく報道されるなど、世界的にも関心を集める審議となった(中村雄 二,2014,p.34) 。結果、同法案は、両院での審議を経て、賛成 13 反対4という圧倒的な容認派の勝利と なって、2014 年 2 月 13 日に可決され、3 月 22 日から施行された。 「2014 年法」は、未成年者の「安楽死」の要件として、正常な判断能力、末期であること、専門家の 判断、保護者(法定代理人)の同意を求めることを規定した(服部有希, 2014) 。ここで留意すべきは、 5 適用対象が末期患者に限定されたことである(2002 年「安楽死法」第 3 条第 1 項§1 の改正) 。この規 定からは、成人には認められている「精神的苦痛」のみの要件は認められない。 さらに、 「安楽死」を実行する第三者である医師には、正常な判断能力の有無に関して、詳細なエヴィ デンスの提示が求められるものとなっている。まず、主治医の義務として、未成年者の「安楽死」につ いて、児童精神科医師または心理学者への相談が規定されている。相談を受けた者は患者の正常な判断 能力を確認し、証明書を作成する。主治医はその相談の結果を患者本人及びその保護者(法定代理人) に通知する。その上で、主治医は、患者の保護者(法定代理人)に対し、病に関する渉猟し得る全ての 情報を提供し、保護者(法定代理人)と協議し、その者の同意を確認しなければならない(2002 年「安 楽死法」第 3 条第 1 項§2 の改正(服部有希, 2014) ) 。 以上からも理解されるように、 「2014 年法」は、実は子ども自身の意思がストレートに反映される 構造にはなっていない。異を唱える論者の多くは、 「安楽死」が保護者(法定代理人)の意向によって左 右される危険性を指摘している。また、子どもと継続的に接触があるわけではない心理カウンセラーや 児童心理専門家が、難病で苦しむ子どもの意思表明をどこまで正しく判断できるのか、判定方法を疑問 視する声も多くある6)。 4.聞き取り調査 ベルギーでは 2002 年の「安楽死法」施行以来、順調に、と言えるような「安楽死」の増加が見られ る。2003 年当初はまだ 235 人であったが、2012 年には 1432 人、2013 年は 1807 人となり、さらに増 加が予想されている(中村雄二,2014,p.34/ Commission federale2011,2014) 。しかし 20 歳以下の「安 楽死法」による死者は、2002 年~2006 年までに4件、2007 年~2011 年までは 0 件である。そして「2014 年法」が 3 月に制定されて以来、18 歳以下の子どもの「安楽死」はまだ皆無である。一般的な理解とし て、ある問題が実際におこり、その解決に向けての試行錯誤から、法案の改正や新しい法案の提起が行 われるが、ベルギーの場合は必ずしもそうしたプロセスを経ていない。隣国オランダの「安楽死法」に おける 12 歳という年齢設定、そして臨床現場から頻繁に寄せられる問いかけや連名による嘆願書など から、 「起こり得る」という可能性に焦点をあてて議論が行われた経緯は、すでに述べてきた通りである。 幸いなことに子どもの「安楽死」の要請は未だ行われていないが、このことは、難病の子ども達の「死」 に対する問題意識がないこと、 「安楽死」という手段を考えていないことを意味しない。否、外部と遮断 され、日々病と向き合っている子ども達は、年齢より相当早熟に、生命や死について理解しているとも 言われる。では、十分な判断能力はどう判断されるのだろうか。 以下に4人の協力者を得て、①子どもの「病気」 「医療」に対する不安、②親の抱える不安、③子ども の「死」に対する理解、について、それぞれ患者本人や親との接触から得られた経験に基づいて自由に 話してもらった。4人はそれぞれベルギー厚労省生命倫理部の研究者2名、およびベルギー生命倫理研 究グループ(ELG)の医療関係者2名である。彼らは直接、間接的に難病の子ども達やその親たちと交流 しており、これまでの関わりから得られた情報を語ってもらい、逐語訳から概念を抽出し、以下の3つ の質問事項にあてはめカテゴリー化した。語られた情報源は 5 歳男子(白血病) 、7 歳女子(同) 、8歳 男子(不明) 、10 歳女子(脳腫瘍)である。必ずしも切迫した末期状態の子どもばかりではなく、また 会話が交わされていた時点では、落ち着いた状態であったことがうかがえる。今回の「2014 年法」に批 判的な見解を持つ者も含まれている。 6 1)子どもの「病気」 「医療」に対する不安 ・病名を知らされない不安 ・苦しむことへの不安 ・痛みへの不安 ・自分の意思を表明できない苛立ち ・治療の意味がわからない不安(なぜこの治療が必要なのか。それでよくなるのか) ・良くならないことへの苛立ち ・一人になった時、死んでしまうことの不安 2)親が感じている不安 ・治らないことへの親子の絶望 ・子どもに事実を告げられない葛藤 ・子の介護と仕事との二重苦 ・親子のみの閉鎖的な介護 ・苦しむ子どもを介護することによる精神的苦痛 ・疲弊による自分の病の悪化 ・親としての看取りの重責 ・周囲への秘諾 ・自らの介護への内省(十分に介護してやれていない) ・ 「子どもの死を受け入れること」の受容と葛藤 3)子どもの「死」に対する理解 ・早く楽になりたい ・ 「死後」の世界はある ・みんなに会えなくなる ・自分がいなくなる ・ 「死を受け入れること」の受容と葛藤 考察 逐語訳から取り出された概念は、患者である子ども、および保護者(多くの場合、両親。この事例で は全員が母親であった)が持つ様々な不安を浮かび上がらせるものであった。子どもの表現力には限界 があるためか、母親の抱える様々な不安、そして苦しみが強く表れている点に特徴がある。項目ごとに 検討してみよう。 まず(1)子どもの「病気」 「医療」に対する不安である。ここに表明されている不安の概念は、むろ ん病に関する不安である。特に治療では検査・投薬で何度も注射をうつことになるが、 「これで良くなる の?」と子どもは尋ねるという。脊髄に穿刺する検査もある。それらの痛みに子どもが耐えるのは、 「良 くなる」という無言のはたらきかけだという。しかし、決して良くはならない、否、さらに過酷な苦し みを持続させるだけの投薬や注射である事を、医師も看護師も子どもに説明はできない。次第に子ども は不信感をつのらせる。しかし、治療を拒否すれば、耐え難い痛みや苦しみに苛まれることになる。子 どもは泣きながら治療を受け続ける。残酷な二律背反である。 幼い子どもの場合は苛々し、暴れたり泣き叫んだりする。そのためにまた注射し、眠らせるという治 療が繰り返される。そして次第に子どもは体力を無くし、注射に痛いという反応を示すこともできなく 7 なり、 「安らかに」眠るように亡くなる。 年齢がいくとだんだん寡黙になり、人を避けるようになる子どももいる。本やテレビなどで外界とは つながっているので、 「死」をかなり現実の事として受けとめられるようになる。同じ年代の子ども達が 運動場を走り回って遊びに熱中している時に、絶え間ない痛みと苦しみに一人で向き合っている子ども は、年齢以上に早熟である。子どもは治療の意味、良くなる可能性を、まず身近な親や看護師に尋ね、 彼らから医師へと繋がれる。医師は、時間をかけてわかりやすく説明する能力が求められるが、子ども の求めている答えに納得のいく説明はまず出来ない。 「ことばではない関係、いつも傍で寄り添う関係」 (ELG 医療関係者)によって彼らはこの溝を埋めようと考えるが、早熟な子どもの場合、意味のない残 りの人生を受け入れたくないと「死」を望むことも稀ではない。 次に(2)親が感じている不安はどうだろうか。親の不安は、病気に関する不安、 (治癒しない事を知 っているので)子どもを失う事への絶望感、そして自分自身の介護生活に関する不安の3つに分けられ る。すでに述べてきたように、経済的には手厚く社会保障によって補填されているため、介護の費用に 翻弄される事はない。しかし母親の場合、フルタイムの仕事を持つ人が多く、常に子どもと時間を共有 することができないという後ろめたさから、十分に介護できていないのではないのかとの思いに苦しむ 事実が読み取れる結果となっている。また、子どもと2人きりで過ごす時間は、気がまぎれる要素がな いためか、一層悲しみを掻き立てることもうかがえる。 子どもの遠からぬ死という事実は、当初は酷い絶望感を親に与えるが、親がその事実を受け入れるよ うになるのにそれほど時間は要しない。むしろ親の不安や苦しみは、それを知っていながら子どもに事 実を伝えられない苦しみである。そして「苦しむ子どもを介護することによる精神的苦痛」に集約され ていく。当事者である子どもをケアする体制は整っているが、親へのサポートが手薄いように感じられ る内容である。とりわけ子どもが死亡した後、親に対してグリーフケアなどの方策も講じられる必要が あるのではないだろうか。 (3)子どもの「死」に対する理解に話を移そう。子どもは果たして自らの「死」に対して、その事 の持つ重さを十分に理解できているのだろうか。子どもの判断能力に関しては、調査項目や数値がある わけではなく、主治医、小児精神科医、心理カウンセラーらによる合議で、子どもがどこまで自分の病 気を理解し、それが治癒できないことを理解し、そして「死」をどのようにイメージしているのか、判 断される。もし子どもが「安楽死」を希望した場合には、この結果をもとに、主治医が母親と合議し、 最終的な決定が下されることになる。 子どもの「死」の理解のうち一番多いものは「早く楽になりたい」 、つまり「死」はもうこれ以上苦し まなくていい世界という理解である。幼い場合はみんなに会えなくなる事だと考えているが、これは周 囲から得られた情報の理解であろう。少し年齢がいくと、 「死にたくない」という強い否定の気持ちと同 時に、 「死後の世界」の存在を強く思い描き、自分の人生に意味を持たせようとする様子がうかがえる。 病院には牧師も訪問する事も多く、それがより「死後の世界」への憧憬をあおっていると受け止められ ている。しかし、その事により心が平穏になるのであれば、それは治療のひとつとして意味があると思 われる(ELG 医療関係者) 。 5.無用の苦しみ 調査からは、苦しみが何も結果として意味をなさないこと、そればかりか単に死ぬまで苦しみ続ける その時間にも何も意味を見いだせないこと、この「無用の苦しみ」に対するいらだちが読み取れる結果 8 となっている。さらに、苦しむ子どもと同時に、親の苦しみも強く吐露される結果となっているが、両 者の苦しみはどのように違い、また共通のものなのだろうか。ここで精神的苦痛、とりわけ強い身体的 苦痛にともなう精神的苦痛というものを考えてみよう。 身体的苦痛は、急性期のものであれ慢性期のものであれ、 「痛み」を感じている当人(子ども)にのみ 存在するものだ。それを当人が他者(親・医師など)にどのように表現しても正確には伝わらない。池 辺はこの苛立ちを、モリスの言説から次のように説明している(池辺寧、2011, p.6) 。痛みがひどいか らといって沈黙してしまえば、 「痛み」の中でさらに孤立してしまうことになる。孤立すれば「痛み」は さらに増大する。身体的な苦しみに泣く子どもは、この二律背反におかれることになる。親や医師とは 決して共有することのできない子ども自身の「痛み」は、 「ひどい痛みに襲われているときの孤独にまさ る孤独はおそらく存在しない」 (Morris,1998, p.63)と言われるほどであると。 人には決して理解してもらえない痛みを抱えた孤独感は、むろん年齢を選ばないが、人生の経験の浅 い、否、人生のほとんどが家庭の中の生活であったような子どもにとって、どれほど恐ろしいものであ るかは想像に難くない。さらに夜、病室に一人置かれ「痛み」に向き合う時、彼(彼女)の感じるであ ろう恐怖はどれほどのものであるだろう。 モリスの「痛み」の洞察に対し、レヴィナスは、 「痛み」に苦しむことそれ自体に意味は見いだせず無 用であるとするが、むしろ「私」 (母親/ 子ども)と他者(母親/ 子ども)の関係性のなかに、 「苦しみ」 を媒介として、意味が見出せるのではないかという視点を提示する(熊野純彦, 1999, pp116-117) 。 「私は他者との関係において、逃れ難く無限な「責め」のうちに置かれることで、人称的で唯一的な 「私」となる」が、このことは「・・・ 「他者」の悲惨と苦しみによって、 「私」が必ず傷を負うことを 意味している」のである。しかし、 「この悲惨さのうちに、私と他者との間には、レトリックを超えたあ る関係がある」のである。 つまり、個人(ここでは子ども)が発する原初的な「痛み」の表現(うめき、叫び声など)は、他者 (ここでは親・医師ら)に「責め」と同時に「掩護の可能性」を引き起こし、それを聞いた者に「苦し み」に対する間―人間的(inter-human)とよび得る倫理的観点を開くというのである。ここには、 「痛 み」に苦しむ他者に無関心ではいられない、関わらざるを得ない者の「苦しみ」に焦点があてられてお り、他者の苦しみを苦しむ私の中に、レヴィナスは意味を見出すのだ。 「苦しみに苦しむこと、他の人間 の無用な苦しみに(私が)苦しむこと、他者の正当化できない苦しみに対する私の正当な苦しみ」が、 苦しむ本人と根本的には異なる「苦しみ」であるものの、他者のために「苦しむ」ことによって、私の 「苦しみ」もまた意味を持つことになるとレヴィナスは説明する。 レヴィナスのこの言説を、難病の子どもを介護する親の立場に置き換えて考える事は可能だろう。親 は子の生命を護るという責任を負っている故に他者ではない。しかし、それゆえに、子どもの「苦しみ」 を「苦しむ」 。子どもに対する愛は一層その「苦しみ」を増大させる。それこそは「耐え難い精神的苦痛」 であろう。 「苦しみ」の源が医学で対処できる「痛み」であれば、現在では緩和ケアの進展によって「耐 え難い苦痛」から人々は解放されたと言える。しかし、それは根本的な「苦しみ」の解消ではなく、治 癒を約束するものでもなく、あくまで終末期の QOL を維持するためのものである。このことの意味も また、人生の経験の長短によって理解の度合いは違ってくるだろう。それでも親は「苦しむ」子どもに あらゆる治療、あらゆる緩和ケアを望むに違いない。いや、むしろ早く楽にさせてやりたいという選択 肢も十分に考えられる。 一方、子どもの苦しみは身体的なものと精神的なものの両面から捉えられる。身体的な苦しみは緩和 ケアによってかなりコントロールが可能である。しかし、死ぬまでの残された時間、意図的に痛みを抑 9 えているに過ぎない緩和ケアの意味を子どもは理解しない。治癒の見込みのない治療はただ痛い注射に 過ぎない。子どもはそれを望まない。 精神的な苦痛はどうだろうか。小児科医達が連名で訴えたように、 「一人で苦しんでいる時間」の孤独 は、まだ十分に人格が形成されていない幼い子どもにとっては、恐ろしい時間である。さらに、苦しむ 自分を見て「苦しむ」親の苦しみは、レヴィナスの知見では親自身に「苦しみ」の意味を持たせるもの であるが、子どもには、彼(彼女)自身の苦しみを一層辛いものにさせるものである。親の期待に沿え ない自分、親を喜ばせるどころか悲しませている自分の存在に子どもは苦しむ。しかし、この「苦しみ」 は、治癒の見込みのない、ただ苦しいだけの「無用の苦しみ」とは明らかに異なっていることに我々は 気づく。おそらく子どもは、親の「苦しみ」を通して自ら自身を成長させたに違いない。筆者にはこの 「苦しみ」は意味のある「苦しみ」と考えられるのである。 まとめにかえて 本稿ではベルギーの 2002 年「安楽死法」を概観し、オランダ法と比較しながらその特徴を述べ、 「2014 年法」の策定に至る経緯と、聞き取り調査による臨床現場の声を分析した。さらに、その結果をレヴィ ナスの「無用の苦しみ」の知見を援用して考察を加えた。聞き取りにこだわったのは(そして残念なが ら、臨床現場での直接の聞き取りはできなかったが) 、 「2014 年法」が、子どもの「安楽死」という問題 の持つ深い闇の部分を浮かび上がらせたことにある。すでに私達の多くは、 「耐え難い苦しみ」に置かれ ているのが成人ばかりではないこと、緩和ケアの意味も理解できないまま注射を受け、 「無用の苦しみ」 を生きなければならない子ども達とその親の存在に気づいている。もし「安楽死法」というものが規定 されているのなら、なぜ未成年者には成人に認められている「安楽死」の要請が認められないのだろう かという疑問は、それほど奇異なものとしてではなく、自然に出てくるものだ。本稿ではその問がベル ギーで繰り返し議論されてきた経緯をたどった。 面談調査からは、死期にある子どもは知的成熟度が高いという結果も得られた。ある程度年齢が上に なると、感受性の強い子どもは、苦しむ自分より、親の苦しみに敏感に反応するとも言われる。従って 「2014 年法」が施行されても、1秒でも長く生きてほしいという親の願いが強ければ、子どもはそれを 受け入れる可能性が高い。否、 「2014 年法」の規定では、主治医と保護者(法定代理人)が合議の上「安 楽死」を決めることが規定されており、子どもの意思は反映されないため、子どもはやはり死期を生き ることになる可能性が高いだろう。実際、子どもの「安楽死」は、対象者がいないばかりか、 「安楽死法」 制定以来 14 年余の間に、18 歳~20 歳の「安楽死」者は4名であり、18 歳以下は皆無であるという結 果もあり、おそらく「2014 年法」に基づいて子どもが法の要請を行う可能性は極めて低いだろう。無論、 それが彼らの意思を反映したものであるなら、望ましい結果であると言える。 もう一つの大きな疑問は、未成年、とりわけ幼い子どもに「安楽死」を要請する判断能力があるのか、 さらにそれを誰がどう判断するのかという判定のあり方であった。しかし本稿で論じてきたように、 「2014 年法」で規定されている判断の方法は、少なからぬ者が批判するように、十全とは言いがたい体 制である。難病で重篤な状態にある子どもはそれだけで判断力が鈍ることもある。また幼い子供は親の 影響を受けやすい。こうした不安定で客観的な計測の困難な子どもに初対面で臨む児童心理の専門家、 或は心理カウンセラーは、どのような独自の判断を下すのだろう。 最後になったが、調査を行う過程で明らかになったベルギーの医療制度の手厚さには大いに学ぶべき 点があると思われた。子どもの「安楽死」に限らず、死期の迫った肉親の介護は大変である。その大変 10 さの少なからぬ部分は経済的保障がないという事である。日本ではそのために介護難民ということばさ え生み出されている。ベルギーの「安楽死法」が国民の圧倒的な支持に支えられているのは、こうした 三位一体体制の故であろう。 法は社会の動きに連動し、整合性、妥当性を求めて改正されていく可能性を持つものである。 「2014 年法」は可能性という一つの扉を開いたと考えてはどうだろう。 〈注〉 1)レオネッティ法(Marie-Anne BRIEU (2012))は7項より成る。 ① 理不尽で頑固な対応の拒否 ② 患者による治療拒否 ③ 成人であれば誰でも、将来自らの意思を表明できない場合に備えて「事前指示書」 (リヴィングウィル)を書くことができる ④ 自らの意思を表明できない患者の治療を制限・中止する際の合議プロセス ⑤ ダブル「効果」の原則:もし対応が「死」を早めるものだったとしても、苦痛を軽減することが 処方者の意図 ⑥ 患者の尊厳の保護: 「尊厳は、その人がどのような状況であれ、絶対的かつ比類なき人類の価値を 描くものである」 ⑦ 国際的な倫理原則の保護:自律の原則・慈善の原則・ 「悪意なし」の原則 2) 「治療の差し控え」と「治療の中止」は同義として考えるべきなのか否か、2014 年度の日本生命倫 理学会(10/24,25/2014 於:浜松コングレスセンター)でも議論の的となった。結論としては、同 義ではないこと、 「差し控え」てもゼロではないグレーゾーンが残されている事などが共通理解とな った。 3)医師と患者の関係は親密でなければならない。聞き取り 4)これは ALS など運動ニューロン系疾患、パーキンソンなど神経変性疾患の患者の場合や、事故など による全身麻痺の患者の場合などにおいて、重大な問題として議論される。聞き取り。 5)Dr. Willem Disterman は臨床現場で常に難病の子ども達に接し、この必要性を訴えてきた。また、 ドミニク・ヒアロン医師は集中治療室の責任者として治療に苦しむ子どもを沢山見てきており、大 人に認められた権利が子どもに認められないのは不公平だと言う(野嶋淳, 2014, 12/Feb) 。 6)ベルギー厚労省生命倫理部のウェルテンズ研究員は、まだ子どもが希望を捨てずに治療に前向きに なっている時に、絶望した親が「安楽死」を子どもにそそのかしたり、或は逆に、早く楽になりた いと子どもが願っても、親がそれを認めず治療を強要したりという可能性を危険視している。 〈参考文献〉 池辺 寧 (2011),「痛みの意味と医療」 『医療と倫理』第 9 号. 谷口長世 (2014), 『エコノミスト』 、2014.7.1 中村雄二(2014),『月刊国民医療』2014 年 3 月 1 日、No,314. 11 野島 淳(2014), 「安楽死 18 歳未満も」 『朝日新聞』12/Feb, 2014 朝刊 服部有希 (2014)「ベルギー子どもの安楽死の合法化」 『立法情報』国立国会図書館調査及び立法考査局. 本田まり(2014),「ベルギーにおける終末期医療に関する法的状況」 Marie-Anne BRIEU (2012), 「フランスおよびヨーロッパにおける看取りの実情」ILC 東京大会レジュ メ モリス.D.B (1998)『痛みの文化史』渡辺勉訳, 紀伊国屋書店, レヴィナス, E (1999 )『移ろいゆくものへの視線』熊野純彦訳, 岩波人文書セレクション Commission federale de controle et devaluation de lapplication (2011) ”SIXIEME Dale Commission federale de controle et devaluation de lapplication (2014) ”SIXIEME e la CRenaiRAPPORT AUX CHAMBRES LEGISLATIVES” Annees 2012-2013. CHAMBRES LEGISLATIVES” Annees 2010-2011. Elisabeth Braw (2013) “The Child Killers”, 4/Dec, 2013, Circular Paper. Etienne Montero et Bernard Ars (2004) Euthanasie, Presses de la Renassance, Etienne Montero (2013) RENDEZ-VOUS AVEC LA MORT , ANTHEMIS vie et societe. Kidd (Translation into English) (2002) “The Belgian Act on Euthanasia of May”, 28th 2002. Ethical Perspectives 9 (2002) 2-3, pp182-188. RAPPORT AUX Marie-Anne Paul Schotsmans and Tom meulenbergs (2005) Euthanasia and Palliative Care in the Low Countries, PEETERS-LEUVEN. 12
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