大阪YWCA「聖書を読む会」説教 「十字架 ~十字架から降りてみろ!~」

大阪YWCA「聖書を読む会」説教
「十字架❶~十字架から降りてみろ!~」
マルコ 15 章 21~32 節
❶【弱くなった王】
ゴルゴタの丘に3本の十字架の木が立てられました。イエス様を中心にして一
人は右、一人は左に十字架につけられました。イエス様は「茨の冠」をかぶら
れ、十字架に上られました。
「冠」をかぶったということは、この方が「王」
であることを教えています。茨という言葉を聞くと創世記を思い出します。
「お
前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前に対して、土は茨とあざみを生
えいでさせる。
」
(創世記 3:17~18)
。つまり、キリストが茨の冠をかぶった
ことは、私たちの呪いをかぶったことを意味します。
「罪状書きにはユダヤ人
の王と書いてあった。
」
(26 節)とあります。それが、彼が処刑される罪だと
いうのです。しかしイエス様は、
「自分はユダヤ人の王だ」とは一度も言った
ことがありません。それはユダヤ人たちがイエス様に王様になってほしいと勝
手に期待し、イエス様が彼らの期待を裏切ったという罪なのです。期待が大き
ければ大きいほど、人は期待が裏切られたときに絶望するものです。弟子たち
や群衆やユダもイエス様に期待しました。しかし、イエス様は彼らの期待を裏
切りました。それが十字架です。期待とは「偶像」です。十字架は偶像を破壊
するものです。だから群集は怒り、ユダは絶望して自死したのです。私たちも
人生や、周りの人に多くの期待をします。しかし何度も何度も期待は裏切られ
ます。その度に怒りが出てきますし、希望は消え、投げやりになります。
「自
分の思い通りにならない、自分の願いを聞いてくれない、自分の欲しいものを
くれない」といって人は恨みを持ちます。その罪を黙って負うのです。だから
この罪状書きはあなたの罪なのです。
●私は神学校に行っている時に、どうしても赦せない人がいました。その人が
何とか変わってくれるように祈ったのですが、変わりません。期待が大きいほ
ど絶望も大きくなりました。私は怒りでいっぱいになっていました。神様にい
つも暴言を吐いていました。
「あなたは何でも出来るし、すべてを持っている。
それなのにどうして私の願いを聞いて、あの人を変えてくれないのですか。
」
私は毎日1時間祈りました。これを乗り越えなければ牧師になれないと思った
からです。半年ほどたった時、私の前に十字架にかかったキリストが現れこう
言われたのです。
「私はお前に、赦しも、命も与えた。私の衣も与えた。見な
さい、私は裸である。もうお前に与えるものは何もないのだ。赦してほしい。
」
怒っていた私を叱るのでも裁くのでもなく、キリストは私に「ごめんなさい」
といわれたのです。その時、自分の罪を知り、キリストの大きな愛で満たされ、
私の中の怒りは消えてしまい、飲み込まれてしまったのです。
1
あなたが安心して近づけるように、キリストは弱くなりました。あなたが怒り
と憎しみを出せるように弱くなったのです。強い者は、あなたから奪うのであ
って、あなたが奪うことは出来ません。弱いからこそ安心して奪えるのです。
弱いからこそ怒りをぶつけられるのです。さあ、今、あなたの怒りと呪いと憤
りと悔しさを私にぶつけなさい。さあ、私からすべてを奪っていきなさい。私
の命と赦しを奪いなさい。そのための私は弱くなったのです。
❷【キリストはすべての罪人の隣におられる】
「また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、もう一人は左に、十字架
につけた。
」
(27 節)この二人は全人類の象徴です。人は皆罪を犯して、死ぬ
からです。だから彼らはあなたの象徴です。キリストは罪人であるあなたと共
にいてくださるのです。死の隣に命がおられ、地獄の隣に天国の門は開いてお
り、赦しはあなたのすぐ側にあるのです。栄光などあるはずはないと思うよう
な所(ゴルゴダ)に神は共におられます。こんな人と共に神はおられないと思
うような人(強盗)と共にも、神はおられます。死とは命そのものである神か
ら最も遠ざかったところです。そこにも神は一緒におられます。あなたがどん
なに神から離れていても、神はそこにおられます。
・
「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そ
のわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
」
(イザヤ 53:6)
「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」とありますから、この二
人の盗賊の罪、兵士たちの罪、祭司長や、律法学者たちの罪、ピラトや、移り
気な群集の罪、そしてあなたの罪、全世界の人の罪を神はキリストに負わせた
のです。キリストはすべての人の罪を負いました。そして十字架の上からこう
祈りました。
「父よ、彼らをお赦しください。
」だから既にすべての人は赦され
ているのです。
●聖書の中にこんな箇所があります。
「宴会を催す時には、むしろ貧しい人、
体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば
その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。
」
(ルカ 14:13~14)
。
そのすぐ続きの個所で神様は天国の宴会にそのような人たちを招いたと書か
れています。
「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、
目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」
(ルカ 14:21)
。
体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人というのは「お返しが出来
ない人」というのが分かります。それは私たちも一緒です。親の愛を返せませ
ん。昨年、私は父を亡くしましたが。何の親孝行もできませんでした。他人は
救ったのに、親は救えませんでした。他人には走り回ったのに、親の為には何
もできない自分が悔しくて、情けなくて泣きました。イエス様はお返しが出来
2
ない人を天国に入れてくれるというのです。だから恩を返せないこと、人を愛
せず、助けることができなかったことを悲しんではならないというのです。あ
なたは天国に招かれているということなのです。私はここを読んで、善い行い
が出来なかった人、礼拝に来れなかった人、貰うばかりで神様に献金しなかっ
た人、教会を去って行った人たちの為に執り成しの祈りをしようと思いまし
た。いろんな人が教会を去って行きました。私に借金を押しつけて去って行っ
た人、裁判を起こすと言って怒って去って行った人、黙って去った人、
「いろ
いろと良くしたのに」と腹が立つこともありました。でも神様は彼らを天国に
入れるといわれるのです。どうして私が入れないことができましょう。だから
返せないことに腹を立てるのではなく、むしろ神の愛と寛大さを喜びましょ
う。
「主よ、どうかこの人たちも天国に入れて下さい。あなたはお返しの出来
ない人を天国に入れてくれる寛大な方なのですから。彼らは神の国の門をくぐ
り、キリストの前に立つ時、涙するでしょう。そしてこう言うでしょう。こん
な私も入れてくれるのですか。私は何もお返しできませんでした。彼らはその
時初めて、キリストの寛大さに気づくでしょう。
」
だから、もはや誰も、自分は神に見捨てられているとか、神は私を赦して下さ
らないと言えません。なぜなら、恩を返せなかったあなたに、既に天国の門は
開いているのです。何もお返しできないあなたは天国に招かれているからです。
御自分を信じる者にも信じない者にも、返せた人にも返せなかった人にも、朝
から働いた人にも働きが無かった人にも、どんな人も赦し、天国の門を開いて
入れてくださる方であるキリストの愛と寛大さを、全ての人が知り、賛美しま
すように。
❸【十字架から降りないキリスト】
イエス様の十字架を見て、多くの通りかかった人、祭司長、律法学者、十字架
についた強盗たちがみな同じような言葉でののしりました。
「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。
『お
やおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみ
ろ。
』
」
(29~30 節)
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエ
ルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。
」
(31
~32 節)
彼らは「十字架から降りるメシア」を見たいのです。
「神殿を三日で建て直す
メシア」を見たいのです。彼らは弱いメシアは見たくないし、メシアだと認め
たくないのです。
「十字架から降りること」が救いだと思っています。
「十字架
にかかることは」救いではないと思っています。そしてわれわれすべての人間
もそのように思います。十字架とは「苦しみ、無力、敗北、恥、手も足も出な
いこと、行き詰まり、どうしようもなさ」です。そして私たちの人生でそのよ
3
うな事態が起こった時、私たちはそのような状況は救いではないと思います。
救いとは問題がなくなること、問題がある人がいなくなることだと思ってしま
います。病人が癒され、足りないものが与えられること、弱い者が強くなり、
小さいものが大きくなること、だとは思っていないでしょうか。それを救いだ
と思い、そうなるように祈ります。でも本当でしょうか。イエス様は私たちに
「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」
(マルコ 8:34)といわれ
ました。十字架を負うとは、不自由になって従え、苦しんで従え、恥をかいて
従えというのです。十字架を背負えといわれたのであって、十字架を降ろすよ
うには命じられませんでした。だからキリスト教徒の目標は十字架につくこと、
十字架を負うことにあるのであって、そこから降りることにあるのではありま
せん。
どんなに馬鹿にされても、この方は十字架から降りようとはしません。できな
いからではなく、しないのです。
「私が父にお願いできないとでも思うのか。
お願いすれば父は12軍団以上の天使を今すぐ送って下さるであろう。しかし
それでは必ずこうなると書かれた聖書の言葉がどうして実現されよう」
(マタ
イ 26:54)とあるからです。もし、ここから降りてしまえば、人間の罪は消
えないでしょう。あなたは永遠に呪われ、救われないでしょう。だから、この
方はここから降りようとはしないのです。いや、降りないのではありません。
実はあなたを降ろさないのです。なぜなら、罪を負うということは、あなたを
負うということだからです。キリストには罪はありません。あなたには罪があ
ります。キリストは十字架にかからなくてもいいのですが、あなたは十字架に
かからねばなりません。そこで、あなただけを十字架にかからせないために、
あなたを背負って十字架に上られたのです。あなたが死んでもあなたは復活で
きません。しかしキリストは復活できます。だからあなたを復活させるために、
あなたを背負うのです。あなたを背負って死の海を渡り、あなたを背負って地
獄の中を歩き、あなたを背負って最後の裁きの前にたつために、ここから降り
ないのです。あなたは自分がキリストに背負われていることを知っていますか。
キリストはあなたを背負い、あなたを決して降ろしません。
●マーガレット・パワーズ【あしあと】
『ある夜、私は夢を見た。私は主と共に、渚を歩いていた。暗い夜空に、これ
までの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残され
ていた。一つは私の足跡。もう一つは主の足跡であった。
これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は砂の上の足跡に目をとめ
た。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生で一番辛く、悲しい時だった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。
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「主よ、私があなたに従うと決心した時、あなたは、すべての道で、私と共に
歩み、私と語りあって下さると約束されました。それなのに、私の人生の一番
つらい時、一人の足跡しかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あ
なたが、なぜ、私を捨てられたのか、私には分かりません。
」主はささやかれ
た。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりは
しない。ましてや、苦しみや試練の時に。足跡が一つだった時、私はあなたを
背負って歩いていた。
」
❹【神の分かち合いの愛】
●インド人を飢えから救おうという情熱に燃えて、インドのビハール地方に赴
いたフランス人のイエズス会宣教師がいました。初めのころは本国から充分な
資金や医療や援助物質が届いていたのに、だんだん先細りになり、何年かたっ
たら、ついに全然来なくなったのです。彼は飢えた人々に与える物が何一つな
くなった時、裸一貫のジブンしか残っていないことに気づきました。その日か
ら彼はインド人と共に飢え、時々食卓に供されるパンをみんなと一緒に分け合
って食べるようになりました。彼は初めて真の愛が何であるかを知ったといい
ます。
「彼は飢えた人々に与える物が何一つなくなった時、裸一貫のジブンしか残っ
ていないことに気づきました。
」という文章が心にとまりました。私はこの宣
教師の姿と、キリストの姿がだぶるのです。彼らの求めに応じて、欲しい物を
欲しいだけ充分に与えることも大事でしょう。しかしそれよりももっとすばら
しいのは飢えと痛みを共有し《分かち合うこと》です。
《分かち合い》こそ、
神の愛の姿です。神様は人間の痛み、苦しみ、罪、死を共に担われ分かち合い
ます。そしてご自分の国と聖性さと赦しと命を分けてくださいます。神の名は
「インマヌエル」
(=神はわれわれと共におられる)です。だからこそ、人と
共に連帯するのです。人を背負い、この世を背負います。そこに私たちの救い
と希望があります。
私たちは美味しいものや良いものは分け合いっこします。良いものを分けても
らうのは誰でもうれしいのです。でも、悪いものをもらってくれる者など見た
ことがありません。病気をもらってあげよう、不幸をもらってあげよう、苦し
みをもらってあげようなどという人は見たことがありません。でもキリストは
それをしてくださいます。それこそ完全な愛なのです。だからこの方は私たち
と同じようになって苦しまれるのです。
モンテスキューは「真に偉大なものは人間の上にあるのではない。人間と共に
ある。
」といいました。キリストの偉大さは、遥か天にいまして畏れ多いこと
ではなく、私たちと共におられる神として世の終わりまで私たちのような者の
5
もとにお留まり下さることなのです。
だから恐れよ、去りなさい。神はあなたの敵ではありません。あなたの親友で
す。不信仰よ、去りなさい。神はあなたと共におられます。死よ、お前の勝利
はどこにあるのか。命であるキリストがどこまでもわれわれと共におられるの
です。死の中にまでこの方は降り、死であるお前をこの方は背負いました。死
は命に背負われ、命を回復したのです。
『今、キリストの中で死が終わり、命が始まろうとしています。キリストの中
で古いアダム(わたし)が死に、今、新しいアダム(わたし)が生まれようと
しているのです。
』
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