逆耳順耳 - BiG-NET

小 言 幸 兵 衛 の意 地 悪 ウオッチング
「 逆 耳 順 耳 」 『 蒼 蒼 』 1 98 4 年 8 月 ~
1 9 8 4 年「 文 史 哲 」帝 国 主 義 万 歳 1 9 8 4 年 8 月
月
第 1 号 :武 漢 事 件 特 ダ ネ 不 始 末 1984 年 10
第 2 号 :「 今 後 は 軍 事 に 注 意 す べ し 」 1984 年 10 月
第2号
1985 年 煙 幕 が 毒 ガ ス に 化 け た 化 学 戦 の 怪 1985 年 1 月
た ま し い 瑕 疵 1985 年 1 月
1985 年 1 月
第 3 号 :大 躍 進 の 帰 結 と し て の 餓 死 者 は 1500 万 を 超 え る
第 3 号 :台 北 と 北 京 か ら の 賀 状 1985 年 3 月
申 す 1985 年 3 月
第 4 号 :統 計 年 鑑 に も の
第 4 号 「 七 千 人 大 会 講 話 」 を め ぐ る 毛 vs 劉
台 湾 の 小 説 が お も し ろ い 1985 年 7 月
号 、魂 に 触 れ る 毛 沢 東 批 判
た 話 1985 年 12 月
第 5
1 9 8 5 年 7 月 第 5 号 、胡 喬 木 の 変 身 1 9 8 5 年 7 月 未 発 表 、
第 6 号、中隊長が連隊長に化け
未 発 表 、 1985 年 7 月 戸 川 芳 郎 「 矢 吹 説 を 支 持 し て 「 包 乾 児 」 を 論
第 5 号 //1985 年 9 月 戸 川 芳 郎 「 包 乾 制 」 と 「 折 実 単 位 」
1986 年 基 本 建 設 は イ ン フ ラ か 1986 年 1 月
年 1 月
1985 年 3 月 第 4 号 、
第 5 号 、 腑 に 落 ち た 話 1985 年 7 月
恐 ろ し き も の 、 幽 霊 、 日 本 語 、 中 国 語 1985 年 9 月
ずる
第 3 号 :『 初 冬 の 中 国 で 』の い
第 7 号 、G N P を 解 せ な い 朝 日 新 聞 1 9 8 6
第 7 号 、 ク ル ク ル 変 わ る 統 計 の 怪 1986 年 1 月
末 記 1986 年 5 月
第 6 号
第 7 号、記念パーティ始
第 9 号 、 半 可 通 の 学 術 交 流 1986 年 5 月
第 9 号 //こ の 文 に 対
して、匿名氏の反論と竹内實教授のコメントがあり、その後橋本萬太郎教授から激励の
書 簡 を 頂 戴 し た 。 な お 、 11 号 に 高 島 俊 男 氏 の 支 持 表 明 あ り 。 上 海 コ ミ ュ ー ン を 扼 殺 し た
の は 誰 か 1986 年 7 月
第 1 0 号 / / 11 号 に 渡 辺 一 衛 教 授 の コ メ ン ト あ り 。 中 国 人 留 学
生 ・ 楊 中 美 を ス カ ウ ト し た 米 国 学 者 1 9 8 6 . 1 2『 蒼 蒼 』 、 文 化 大 革 命 の 重 要 事 件 を 明 か す
「 周 恩 来 日 暦 」 の 威 力 1 9 8 6 . 1 2『 蒼 蒼 』
毛 沢 東 逝 去 10 周 年 記 念 に な ん と な く 『 蒼 蒼 』
第 11 号 1 9 8 6 年 9 月
1987 年 中 国 映 画 に 見 る 二 つ の 対 照 的 な 香 港 イ メ ー ジ 1987.4『 蒼 蒼 』 、 文 化 大 革 命 の 火
付 け 女 ・ 聶 元 梓 の 肩 書 が 問 題 に な る 根 拠 1 9 8 7 . 4 『 蒼 蒼 』 、『 レ ッ ド ・ メ ッ セ ー ジ 』 を 読
む 楽 し さ 1 9 8 7 . 6『 蒼 蒼 』 、
「 闘 争 」と「 運 動 」の 逆 転 1 9 8 7 . 6『 蒼 蒼 』 、
「 一 言 葬 邦 」1 9 8 7 . 6
『 蒼 蒼 』 、追 悼
橋本萬太郎教授
1 9 8 7 . 8『 蒼 蒼 』第 1 5 号 追 悼
阿部善雄教授
1987.8
『 蒼 蒼 』 第 1 5 号 、 タ イ セ イ と セ イ ド の す れ ち が い 1 9 8 7 . 1 0『 蒼 蒼 』 、 元 『 人 民 日 報 』 副
編 集 長 王 若 水 に 対 す る 微 細 な 誤 解 を 正 す 1 9 8 7 . 1 0『 蒼 蒼 』 、日 本 語 ハ ン セ イ と 中 国 語「 検
討 」の 間 1 9 8 7 . 1 0『 蒼 蒼 』 旅 先 で 司 馬 遼 太 郎『 長 安 か ら 北 京 へ 』を 読 む 1 9 8 7 . 1 2『 蒼 蒼 』 、
改 革 と 開 放 の イ デ オ ロ ー グ 蘇 紹 星 解 任 の 背 後 に 保 守 派 の 陰 謀 あ り 1987.12『 蒼 蒼 』 、 政
治 の 民 主 化 「 差 額 選 挙 」 の ツ イ は 何 で し ょ う ? 1987.12『 蒼 蒼 』
1988 年 交 通 公 社 の ガ イ ド ブ ッ ク 『 中 国 』 へ の 不 満 1988.2『 蒼 蒼 』 、 中 国 職 員 労 働 者 の
定年、
「 離 休 」 と「 退 休 」 の 違 い は ? 1 9 8 8 . 2『 蒼 蒼 』 、 老 酒 の 正 し い 呑 み 方 あ る い は 再 び
ガ イ ド ブ ッ ク に つ い て 1988.4『 蒼 蒼 』 、 近 ご ろ 気 に な る 中 国 語 の 原 音 主 義 表 現 1988.4
『 蒼 蒼 』 、 ノ ー メ ン ク ラ ツ ー ラ の 中 国 版 「 幹 部 職 務 名 単 制 」 は 安 子 文 が 作 っ た 1988.4
『 蒼 蒼 』 、 G N P 格 差 に 対 応 し た 中 国 人 と 日 本 人 の 生 命 の 値 段 1988.6『 蒼 蒼 』 、 中 薗
英 助 『 何 日 君 再 来 物 語 』 を 読 む 1988.6『 蒼 蒼 』 ゼ ン ジ ン ダ イ の 略 称 は 「 全 人 代 」 か 「 全
矢吹晋『逆耳順耳』
1
人 大 」 か 1 9 8 8 . 6『 蒼 蒼 』 、 ソ ウ ル 日 記 ( 1 9 8 8 年 6 月 ) 1 9 8 8 . 8『 蒼 蒼 』 、「 矛 盾 に 着
目 せ よ 」 / 論 文 の 読 み 方 一 つ の ケ ー ス 1988.10『 蒼 蒼 』 、 具 眼 の 士 あ り / 『 現 代 中 国 の
歴 史 』 の こ と 1988.12『 蒼 蒼 』
1989 年 中 国 民 航 の サ ー ビ ス は な ぜ 悪 い の か 1989.2『 蒼 蒼 』 、 人 民 公 社 の 「 生 産 大 隊 」
「生産隊」
「 生 産 小 隊 」の 区 別 1 9 8 9 . 2『 蒼 蒼 』 、北 京 日 記( 1 9 8 9 年 3 月 )1 9 8 9 . 4『 蒼
蒼 』 、 ア メ リ カ 日 記 ( 1 9 8 9 年 4 月 ) 1 9 8 9 . 8『 蒼 蒼 』 、 台 湾 日 記 ( 1 9 8 9 年 8 月 )
1989.12『 蒼 蒼 』 、 ソ ウ ル 再 訪 ( 1 9 8 9 年 9 月 ) 1989.12『 蒼 蒼 』
1990 年 ウ ル ケ シ が や っ て き た 1990.2『 蒼 蒼 』 、 歴 史 の 誤 解 を 流 布 す る 文 化 大 革 命 ド キ
ュ メ ン タ リ ー も の に ご 用 心 1 9 9 0 . 4 『 蒼 蒼 』 、『 君 よ 憤 怒 の 河 を 渡 れ 』 が 中 国 で ヒ ッ ト し
た 理 由 1 9 9 0 . 4『 蒼 蒼 』 、田 舎 者・戒 厳 部 隊 兵 士 の 泥 縄 の 北 京 市 市 街 区 地 図 の 作 り 方 1 9 9 0 . 4
『 蒼 蒼 』 、ニ セ モ ノ を つ か ま さ れ た 月 刊 A s a h i 1 9 9 0 . 6『 蒼 蒼 』 、書 評 の 鑑 / 高 木 誠
一 郎 仁 兄 へ の 手 紙 1 9 9 0 . 6『 蒼 蒼 』 、天 安 門 に 最 期 ま で い た カ メ ラ マ ン / 抱 腹 絶 倒 の 珍 問
答 1990.8『 蒼 蒼 』 、 天 安 門 事 件 1 周 年 / 馬 脚 を あ ら わ し た 或 る 勇 敢 な 若 者 1990.8『 蒼
蒼 』 、1 9 8 9 年 6 月 4 日 未 明 天 安 門 広 場 を 見 届 け た ジ ャ ー ナ リ ス ト 1 9 9 0 . 8『 蒼 蒼 』 、
再 び ニ セ モ ノ に つ い て / 贋 作 人 は 元 中 共 中 央 党 校 の タ ダ の 工 作 員 ・ 呉 健 民 1990.10『 蒼
蒼 』 、 松 本 重 治 先 生 を 追 悼 す る 1 9 9 0 . 1 0『 蒼 蒼 』 、 ア ジ ア ・ ウ ォ ッ チ 専 門 調 査 員 マ ン ロ
ー と 狸 穴 で 天 ぷ ら そ ば を 食 う 1 9 9 0 . 1 2『 蒼 蒼 』 、 朝 日 新 聞 社 内 報 の 伝 え た 真 実 と 本 紙 の
伝 え た 虚 報 1990.12『 蒼 蒼 』
1991 年 論 説 委 員 の 論 理 と 見 識 / 三 た び ニ セ モ ノ に つ い て 1991.4『 蒼 蒼 』 、 3 8 軍 、 2
7 軍 、6 3 軍 は 幽 霊 部 隊 で は な か っ た 1 9 9 1 . 4『 蒼 蒼 』、
月 『 蒼 蒼 』 第 39 号 、
1 9 9 1 年 8 月 『 蒼 蒼 』第 3 9 号 、
1991 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 39 号 、
現金嫌いの毛沢東
認めた真実
1 9 9 1 年 1 2 月『 蒼 蒼 』第 4 1 号 、
老眼とワープロ辞書
号 、
私のワープロ体験
6 月 『 蒼 蒼 』 第 44 号 、
1 9 9 2 年 2 月『 蒼 蒼 』第 4 2 号 、
杜撰極まる『世界経済白書』
1 9 9 2 年 6 月『 蒼 蒼 』第 4 4 号 、
南方改革派が漏らしたこと
常 化 20 周 年 ・ 個 人 的 な 体 験
期待してます衛星放送
1992
1992 年 4 月 『 蒼 蒼 』 第 43
所得ランキング
1992 年
私
珠海はシュカイかジュカイ
1992 年 10 月 『 蒼 蒼 』 第
1992 年 10 月 『 蒼 蒼 』 第 46 号 、
日中国交正
1992 年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 47 号
地 下 経 済 と 第 二 経 済 1993 年 2 月『 蒼 蒼 』第 48 号 、
1993 年 2 月 『 蒼 蒼 』 第 48 号 、
矢吹晋『逆耳順耳』
何新騒動その後
皇 甫 平 の 得 た ボ ー ナ ス 1992 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 45 号 、
か 1992 年 10 月 『 蒼 蒼 』 第 46 号 、
1993 年 、
1 9 9 1 年 1 2 月『 蒼
1 9 9 2 年 2 月『 蒼 蒼 』第 4 2 号 、
の ワ ー プ ロ 体 験 ・ そ の 2 1992 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 45 号 、
46 号 、
事件の主役たちも
1991 年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 41 号
1992 年 、 煽 情 主 義 の 陥 穽 ─ ─ NHK 林 彪 事 件 の お 粗 末
年 4 月 『 蒼 蒼 』 第 43 号 、
1991 年 10 月 『 蒼 蒼 』
1991 年 10 月 『 蒼 蒼 』 第 40 号 、
『周恩来選集』と日中学術交流
内 山 書 店『 中 国 図 書 』を 褒 め る
天安門事件 2 周年蛇
海部総理の歓迎のされ方
第 40 号 、
蒼 』 第 41 号 、
1991 年 8
ト ウ ・ シ ョ ウ ヘ イ に つ い て 1991 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 39 号 、 香
港マスコミへの何新報復宣言
足
W K さんへの返書
天 皇 の お 言 葉・抄 記
初 め て の イ ギ リ ス 1993 年 4 月 『 蒼 蒼 』 第 49 号 、
2
手 抜 き 監 修 ・ そ の 1 1993 年 6 月 『 蒼 蒼 』 第 50 号 、
『 蒼 蒼 』 第 50 号 、
手 抜 き 監 修 ・ そ の 2 1993 年 6 月
デ ン ・ シ ャ オ ピ ン 1993 年 6 月 『 蒼 蒼 』 第 50 号 、
の 真 相 ( 転 載 、 国 際 貿 易 新 聞 ) 1993 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 51 号 、
を 味 わ う 1 9 9 3 年 1 0 月『 蒼 蒼 』第 5 2 号 、
53 号 、
1994 年
「 空 白 の 3 時 間 」裏 話
ゼ ロ の 意 味 1 9 9 3 年 1 0 月『 蒼 蒼 』第 5 2 号 、
お 詫 び と 訂 正 1993 年 10 月 『 蒼 蒼 』 第 52 号 、
載 )1993 年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 53 号 、
天安門広場
X 氏 が 読 む 『 北 京 の 長 い 夜 』 (産 経 転
田 中 忠 仁 さ ん へ の 手 紙 1993 年 12 月 『 蒼 蒼 』 第
鄧 小 平 族 譜 1993 年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 53 号
『 鄧 小 平 文 選 』 を 読 ん で 気 に な る こ と 1994 年 2 月 『 蒼 蒼 』 第 54 号 、
S S (佐 藤 慎 一 )様
1994 年 2 月 『 蒼 蒼 』 第 54 号 、
『 蒼 蒼 』 第 54 号 、
私 信 丸 尾 常 喜 様 1994 年 2 月
毛 毛 会 見 記 1994 年 4 月 『 蒼 蒼 』 第 55 号 、
帰 国 報 告 を 聞 く 1994 年 4 月 『 蒼 蒼 』 第 55 号 、
て 1994 年 6 月 『 蒼 蒼 』 第 56 号 、
「 腹 に 落 ち ぬ ま ま 」 1994 年 6 月 『 蒼 蒼 』 第 56 号
む と 元 気 が 出 る 1994 年 8 月『 蒼 蒼 』第 57 号 、
『中国・次の超大国』を読
ウ ェ ー ド と ジ ャ イ ル ズ に つ い て 1994
鄧 小 平 の 出 自 1994 年 10 月『 蒼 蒼 』第 58 号 、
氏 に 答 え る 1994 年 10 月 『 蒼 蒼 』 第 58 号 、
蒼 』 第 58 号 、
香港専門調査員の
『 ワ イ ル ド・ス ワ ン 』の 著 者 名 に つ い
『 漂 流 す る 日 本 』 を 読 む 1994 年 6 月 『 蒼 蒼 』 第 56 号 、
年 8 月『 蒼 蒼 』第 57 号 、
私信
長尾光之
大 哥 大 ・ 蛇 頭 ・ 面 的 1994 年 10 月 『 蒼
毛 沢 東 盗 聴 器 事 件 は な ぜ バ レ た か 1994 年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 59 号 、
『 中 国 統 計 年 鑑 』一 九 九 四 年 版 1994 年 12 月『 蒼 蒼 』第 59 号 、
産業連関表一九九〇
年 1994 年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 59 号
1 9 9 5 年「 鄧 小 平 の 私 生 活 」1 9 9 5 年 2 月『 蒼 蒼 』第 6 0 号 、 フ ォ ー マ ー ・ パ ラ マ ウ ン ト ・
リ ー ダ ー 1995 年 2 月 『 蒼 蒼 』 第 60 号 、
一 天 不 如 一 天 1995 年 4 月 『 蒼 蒼 』 第 61
号 、 キ ョ ー チ ン と ゴ ー チ ン 1995 年 4 月 『 蒼 蒼 』 第 61 号 、
第 62 号 1995 年 6 月 、
三浦徹明「矢吹説批判」
未 完 成 製 品 の 販 売 か 1995 年 6 月 『 蒼 蒼 』 第 62 号 、
サ ・ テ ン 1995 年 6 月 『 蒼 蒼 』 第 62 号 、
「 四 世 代 一 七 人 」 の 意 味 1995 年 6 月 『 蒼
蒼 』第 62 号 、リ ハ ビ リ テ ー シ ョ ン 1995 年 6 月 『 蒼 蒼 』 第 62 号 、
胸 を 借 り て 1 9 9 5 年 8 月『 蒼 蒼 』第 6 3 号 、
テレ
畏友三浦さんの
中 国 の 旅・1 9 9 5 年 9 月 国 家 体 制 改 革 委
員 会「 東 西 部 協 調 発 展 組 」の 戦 略 T 字 型・π 字 型・目 の 字 型 内 陸 発 展 戦 略 世 界 女 性 会
議 ゴ ビ の 砂 漠 天 地 で 羊 を 食 う 1 9 9 5 年 1 0 月『 蒼 蒼 』第 6 4 号 、
年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 65 号 、
天 声 人 語 の 博 識 1995
李 登 輝 会 見 記 1995 年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 65 号 、
プ 記 事 の 中 の 姓 の 誤 り 1995 年 12 月『 蒼 蒼 』第 65 号 、
スクー
雲 の 上 ・ 土 匪 ・ 高 雄 黒 輪 1995
年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 65 号
1996 年
OAB
for 1 9 9 5 1996 年 2 月 『 蒼 蒼 』 第 66 号 、
『 蒼 蒼 』 第 66 号 、
丸 尾 常 喜 「 秋 老 虎 と 小 春 陽 」 1996 年 2 月 『 蒼 蒼 』 第 66 号 、
蘭 の ナ ロ ー ド ニ キ 1 9 9 6 年 4 月『 蒼 蒼 』第 6 7 号 、
『 語 録 』 1996 年 4 月 『 蒼 蒼 』 第 67 号 、
月 『 蒼 蒼 』 第 68 号 、
室
個 酒 1 9 9 6 年 4 月『 蒼 蒼 』第 6 7 号 、
『 鄧 小 平 文 選 』 キ ー ワ ー ド の 研 究 1996 年 6
リ ン ボ ー 先 生 の 台 湾 話 1996 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 69 号 、
塵 1996 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 69 号 、
矢吹晋『逆耳順耳』
太 旧 道 路 1996 年 2 月
看破紅
『 参 考 資 料 』 1996 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 69 号 、
ホ
3
ー ム ペ ー ジ の 可 能 性 1996 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 69 号 、
『 蒼 蒼 』 第 70 号 、
野 郎 自 大 の 用 心 棒 1996 年 10 月
杜 潤 生 老 会 見 記 1996 年 10 月 『 蒼 蒼 』 第 70 号 、 メ ー ル に は ま っ
て さ あ た い へ ん ?1996 年 12 月 『 蒼 蒼 』 第 71 号 、 中 国 映 画 祭 19961996 年 12 月 『 蒼 蒼 』
第 71 号
1997 年 岩 波 版 『 原 典 中 国 現 代 史 』 絶 版 事 件 、
書 評 『 毛 沢 東 最 後 の 女 』 [追 記 ]1997 年
4 月 『 蒼 蒼 』 第 7 3 号 、 蛇 頭 と い う こ と ば 1 9 9 7 年 4 月 『 蒼 蒼 』 第 7 3 号 、「 謀 略 」 と い
う こ と ば 1 9 9 7 年 4 月『 蒼 蒼 』第 7 3 号 、
ホ ー ム ペ ー ジ 作 り 1 9 9 7 年 8 月『 蒼 蒼 』第 7 5
号 、 ホ ー ム ペ ー ジ の 容 量 1997 年 8 月 『 蒼 蒼 』 第 75 号 、 暴 挙 を 怒 る 1997 年 8 月 『 蒼
蒼 』 第 75 号 、 黒 五 類 1997 年 10 月 『 蒼 蒼 』 第 76 号 、 身 長 が 2 セ ン チ 縮 ん だ 話 (台 北
で の 出 来 事 )1997 年 10 月『 蒼 蒼 』第 76 号 『 中 国 酔 い 語 り 』1997 年 12 月『 蒼 蒼 』第 77
号 ケ ガ 余 聞 1 9 9 7 年 1 2 月 『 蒼 蒼 』 第 7 7 号 、『 蒼 蒼 』 映 画 「 悲 情 城 市 」 と 『 悲 情 城 市 の
人びと』
1 9 9 8 年 2 月 1 0 日 、 7 8 号 、『 蒼 蒼 』「 鄧 小 平 伝 説 」 1 9 9 8 年 2 月 1 0 日 、 7 8 号 、『 蒼 蒼 』
佐 藤 慎 一 仁 兄 へ の 手 紙 、牛 市 ・ 熊 市 ・ 朱 市 、朱 鎔 基 の 記 者 会 見 1 9 9 8 年 4 月 1 0 日 、7 9 号 、
『 蒼 蒼 』 死 而 後 已 、鬼 神 探 し 、も し か し た ら 、
『 甦 る 朝 河 貫 一 』あ と が き 1 9 9 8 年 6 月 1 0
日 、 8 0 号 、『 蒼 蒼 』 米 国 C N N は 誤 報 を 訂 正 し た け れ ど 1 9 9 8 年 8 月 1 0 日 、 8 1 号 、『 蒼
蒼 』 「 八 人 組 」「 ヘ ビ ア タ マ と ア タ マ ヘ ビ に つ い て 」 1 9 9 8 年 1 0 月 1 0 日 、 8 2 号 、『 蒼
蒼 』 『 北 京 週 報 』 と の 和 解 1998 年 12 月 10 日 、 83 号
1 9 9 9 年 『 蒼 蒼 』「 日 中 関 係 の 冬 - - 春 遠 か ら じ 」 1 9 9 9 年 2 月 1 0 日 、 8 4 号 、『 蒼 蒼 』 恥 の
上 塗 り の 話 、『 現 代 国 有 企 業 I I 紹 介 』 1 9 9 9 年 4 月 1 0 日 、 8 5 号 、『 蒼 蒼 』 北 京 取 材 随 行
記 ( 9 8 年 11 月 ~ 1 2 月 ) 1 9 9 9 年 6 月 1 0 日 、 8 6 号 、『 蒼 蒼 』 眼 底 出 血 、 毛 沢 東 秘 録 ・ そ の
時 代 と 私 1 9 9 9 年 8 月 1 0 日 、 8 7 号 、『 蒼 蒼 』 劉 賓 雁 の 「 告 別 」、 シ ョ プ ロ ン ・ ピ ク ニ ッ
ク 1 0 周 年 1 9 9 9 年 1 0 月 1 0 日 、 8 8 号 、『 蒼 蒼 』 書 評 ~ ベ ン ジ ャ ミ ン ・ ヤ ン ( 楊 炳 章 ) 著
『 鄧 小 平 ・ 政 治 的 伝 記 』 1999 年 12 月 10 日 、 89 号
2 0 0 0 年『 蒼 蒼 』 「 人 民 元 切 下 げ 騒 動 か ら 朱 鎔 基 辞 任 憶 測 ま で 」 2 0 0 0 年 2 月 1 0 日 、
『蒼
蒼 』 「 台 湾 の 総 統 選 挙 、『 読 売 新 聞 』 座 談 会 発 言 」 2 0 0 0 年 4 月 1 0 日 、『 蒼 蒼 』 「 尋 租
rentseeking, 朝 日 新 聞 の 台 湾 報 道 」 2000 年 6 月 10 日 、
『蒼蒼』 「人民元切下げ騒動と
『 日 本 経 済 新 聞 』D V D ロ ム 」 2 0 0 0 年 8 月 1 0 日 、
『 蒼 蒼 』 「 北 京 日 記 2000 年 8 月 (上 )」
2000 年 12 月 10 日
2 0 0 1 年『 蒼 蒼 』 「 北 京 日 記 2 0 0 0 年 8 月 ( 下 ) 」2 0 0 1 年 2 月 1 0 日 、
『 蒼 蒼 』 「 米 中 関 係・
天 安 門 文 書 」2001 年 4 月 10 日 、
『 蒼 蒼 』 「 上 海 の 職 場 人 間 学 ほ か 」2001 年 6 月 、第 99
号 、『 蒼 蒼 』 「 歴 代 総 理 の 靖 国 参 拝 」 2 0 0 1 年 1 0 月 、 第 1 0 1 号 、 / / 「 靖 国 合 祀 経 過 に つ
い て の 資 料 」 2001 年 10 月 、 第 101 号
2 0 0 2 年 『 蒼 蒼 』 第 1 0 3 号 2 0 0 2 年 0 2 月 1 0 日 忽 然 中 産 、『 蒼 蒼 』 第 1 0 4 号 2 0 0 2 年 0 4
月 1 0 日 戴 國 煇 追 悼 ( 上 ) 、『 蒼 蒼 』 第 1 0 5 号 2 0 0 2 年 0 6 月 1 0 日 戴 國 煇 追 悼 ( 下 ) 、『 蒼
蒼 』 第 1 0 6 号 2 0 0 2 年 0 8 月 1 0 日 い ま 横 浜 市 立 大 学 で - 1 - 、『 蒼 蒼 』 第 1 0 7 号 2 0 0 2 年
1 0 月 1 0 日 い ま 横 浜 市 立 大 学 で - 2 - 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 誤 報 の 連 打 2 0 0 2 年 1 2 月 1 0 日
矢吹晋『逆耳順耳』
4
資 料 :北 京 発 大 誤 報
2003 年 『 蒼 蒼 』 第 109 号 2002 年 2 月 10 日 新 聞 記 者 の 日 本 語 能 力 /ご 先 祖 遠 藤 正 範 の こ
と / 毛 沢 東 生 誕 1 0 9 年 2 0 0 3 年 2 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 笑 え ぬ 笑 い 話 / 楊 中 美 著 『 胡 錦 濤 』
の 蛇 足 / 中 国 指 導 者 の 不 人 気 ワ ー ス ト 5 2 0 0 3 年 4 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 百 年 樹 人 / 大 学 つ
ぶ し に 抗 し て /中 国 語 入 試 ミ ス 事 件 2003 年 6 月 、
『 蒼 蒼 』逆 耳 順 耳 中 国 総 研 よ び か け / 女
紅 軍 鄧 六 金 / 人 民 元 問 題 2 0 0 3 年 8 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 中 国 ・ 北 朝 鮮 関 係 の 真 相 2 0 0 3
年 1 0 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 映 画 「 延 安 の 娘 」 2 0 0 3 年 1 2 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 映 画
「 味 D r e a m C u i s i n e 」 2 0 0 3 年 1 2 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 保 守 派 林 治 波 の ア ナ ク ロ ニ ズ
ム 2003 年 12 月 2004
2 0 0 4『 蒼 蒼 』逆 耳 順 耳 腹 に 納 め る 話 2 0 0 4 年 5 月 、
『 蒼 蒼 』逆 耳 順 耳 現 代 中 国 治 国 論
紹 介 2 0 0 4 年 7 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 威 海 劉 公 島 海 戦 記 念 館 2 0 0 4 年 9 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳
順 耳 甦 る 大 化 の 改 新 ( 1 ) 2 0 0 4 年 11 月 、
2 0 0 5 『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 甦 る 大 化 の 改 新 ( 2 ) 2 0 0 5 年 1 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 甦 る 大 化
の 改 新 ( 3 ) 2 0 0 5 年 3 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 甦 る 『 入 来 文 書 』 ( 1 ) 2 0 0 5 年 7 月 、 『 蒼 蒼 』
逆 耳 順 耳 甦 る 『 入 来 文 書 』 ( 2 ) 2 0 0 5 年 9 月 、『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 甦 る 『 入 来 文 書 』 ( 3 ) 2 0 0 5
年 11 月 、 『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 甦 る 『 入 来 文 書 』 ( 4 ) 2 0 0 6 年 1 月
矢吹晋『逆耳順耳』
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『蒼蒼』第一号、一九八四年八月一五日、逆耳順耳
「文史哲」 帝国主義万歳
私感中年のさえない語学教師、 近年とみに愚痴が多くなってきた。小言幸兵衛、今日
は 中 国 語 辞 書 に 八 つ 当 た り だ 。こ れ ま で さ ん ざ ん お 世 話 に な っ て き た の で 、 お 礼 参 り と い
こう。
「辞書にこう書いてあります」 と胸を張って堂々と断言するわが学生諸君はまことに
屈託がない。教師の言を無視し、 辞書の権威を重んずること、 あたかも裁判官の如し。
かくも無視されたからには、 一矢を報いないわけにはいかない。
例1
「信貸」 の意味
① 倉 石 武 四 郎 署『 岩 波 中 国 語 辞 典 』( 一 九 六 三 年 )の 六 一 一 頁 を 開 く と 、 3 〔 名 〕 信
用 貸 し 、と あ る 。品 詞 は 名 詞 、 上 つ き ル ビ の ラ ン ク 3 は 「 学 術 そ の 他 の 専 門 の こ と ば で 、
一般には広く使用されていないもの」 と説明されている。
② 香 坂 順 一 、太 田 辰 夫 共 著『 現 代 中 日 辞 典 』
( 光 生 館 )の 一 九 六 一 年 初 版 に は こ の 語 彙
は収録されておらず、六五年増訂版の八四七頁に「信用貸しする」と出ている。
③ 愛 知 大 学 中 日 大 辞 典 編 纂 処 編『 中 日 大 辞 典 』
(一九六八年、 大安) の一六○五頁頁
[旧版] を開くと、 やはり「信用貸し」 とある。
④ 香 坂 順 一 編 著『 現 代 中 国 語 辞 典 』
( 光 生 館 、 一 九 八 二 年 )の 一 四 二 三 頁 を 開 く 。 〔 名 〕
( 経 ) 億 用 貸 し 、 ク レ ジ ッ ト 、 と あ る 。( 経 ) は む ろ ん 「 経 済 」 用 語 の 意 で あ る ( こ
の 辞 典 は 実 に 奇 妙 、事 実 上 は 後 掲 の『 現 代 漢 語 詞 典 』の ホ ン ャ ク に す ぎ な い の だ が 、 「 信
貸 」 は 孫 引 き ら し い )。
と こ ろ で 日 本 語 の 「 信 用 貸 ( し )」 と は 「 借 主 を 信 用 し て 、 担 保 な し で す る 貸 付 」
(岩波国語辞典第三版五六一頁)である。中国語の「信貸」は「信用貸款」をつづめたも
のであるから日本語の信用貸の意も含まれないとはいえないが、現在一般に用いられるの
はこの意味ではない。サラ金やマネーショップを連想させる訳語はどうみても納得しがた
い。 日本の辞書が頼りにならないとすれば、中国の辞書にあたってみよう。
⑤ 『 現 代 漢 語 詞 典 』 ( 北 京 商 務 印 書 館 、 一 九 七 八 年 初 版 、 八 三 年 第 二 版 、第 三 九 次
印刷)の一二八五頁を調べる。
「 銀 行 存 款 、 貸 款 等 信 用 活 動 的 総 称 。 一 般 指 銀 行 的 貸 款 」 と あ る 。「 銀 行 の 預 金 、 貸 出
しなど信用活動の総称。一般には銀行貸出しを指す」――これが現代中国の「信貸」の通
常の用語法である。
同 じ 辞 書 の 五 八 七 頁 で「 金 融 」を 引 い て み よ う 。
「 指 貨 幣 的 発 行 、 流 通 和 回 竜 、貸 款 的
発 放 和 収 回 、 存 款 的 存 入 和 提 取 、匯 兌 的 往 来 等 経 済 活 動 」
( 貨 幣 の 発 行 、 流 通 と 回 収 、貸
出 し の 実 行 と 回 収 、 預 金 の 預 入 れ と 払 戻 し 、 為 替 の 往 来 な ど の 経 済 涜 動 を 指 す )。
か く て 信 貸 と は 、結 局 銀 行 活 動 の 縛 称 で あ る か ら 、日 本 語 の 金 融 と い う 訳 語 が ふ さ わ し
矢吹晋『逆耳順耳』
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い 場 合 が 多 い 。 た と え ば 「 財 政 、 信 貸 的 平 衡 」 と は 、 財 政 ( 収 支 )、 預 金 の 預 入 れ と 貸 出 し
の均衡のことである。サラ金まがいの信用貸しではないのである。
巨人・倉石武四郎という親ガメがこけたら、子ガメがこせ続けたわけ。孫引きはまこと
におそろしい。ここで親ガメ、子ガメを笑うことが私の本意ではない。この現象の背後に
は、 現代中国の社会科学の分野からの研究の空白という恐るべき事実が存在している。
日本の大学の現代中国研究は文史哲、すなわち文学・歴吏・哲学に極端に偏重していて、
社会科学の研究は市民権を得ていない。中国研究における「文史哲」帝国主義こそ誤訳の
真
犯 人 だ 。[ 独 断 と 偏 見 、 牽 強 付 会 に す ぎ ま す か ね ? ]
例2「浮誇」と「浮誇風」
八 三 年 秋 に 出 た あ る 翻 訳 書 に「 大 躍 進 の と き 、浮 か れ き っ て 中 国 人 は ― ― 」 と い う 訳
文 が あ っ た 。ハ ハ ア ま た お い で な す っ た 、と す ぐ 察 し が つ い た 。倉 石 の 一 七 二 頁 を 開 く と 、
①〔 形 〕う わ つ い て い る 、上 っ 調 子 な 、と あ る 。訳 者 は お そ ら く こ の 訳 語 で「 浮 誇 」 の
意味をつかんだのである。
念のためにほかの辞書もみておく。
② 香 坂 、 太 田 一 七 二 頁 。 「 誇 張 す る 」。
③ 愛 知 大 学 四 七 二 頁 。「 実 力 が な い の に 自 漫 す る 、 軽 薄 で え ら そ う に す る 、 生 意 気 な 」。
④ 香 坂 三 六 四 頁 。〔 動 〕 表 面 だ け を 飾 る 、 お お げ さ に す る 、〔 形 〕 お お げ さ で あ る 、 う わ
べだけ立派である。例「語言浮誇」――言葉がおおげさだ。
⑤ 現 代 漢 語 三 三 六 頁 。 「 虚 誇 、 不 切 実 。 例 、 語 言 浮 誇 」。 こ こ で「 虚 誇 」と は「( 言 談 )
虚仮誇張」
( 一 三 ○ ○ 頁 )で あ る 。 ま た「 切 実 」と は 「 切 合 実 際 、 実 実 在 在 」
(九二四頁)
である。浮誇とは、話がウソになるほど誇張すること、実際とあわないほど話を誇張する
こ と 、 で あ る 。 日 常 生 活 に お い て 虚 言 癖 の あ る 人 物 を 形 容 す る の に よ く 用 い ら れ る 。〔 カ
ゲの声、 お前の言動は浮誇なりや否や?〕
さ て 、 浮 誇 の 作 風 を 「 浮 誇 風 」 と い う 。「 浮 誇 風 」 は 「 高 指 標 」 ( 高 す ぎ る 指 標 )、「 瞎
指揮」
( メ ク ラ 指 揮 、差 別 用 語 ? デ タ ラ メ 指 揮 な ら い か が )、
「 ”共 産 風 ”」の 三 つ と 並 ん で 、
大躍進を特徴づける形容句として頻繁に用いられている。たとえば一九八一年の「歴史決
議 」 に も 当 然 登 場 す る 。 ま あ 、「 ホ ラ 吹 き 風 」 あ る い は 大 ボ ラ 風 」 と い っ た ニ ュ ア ン ス で
あろうか。現代中国論において大躍進とその後遺症の占める比重は大きい。その間の事情
を特徴づける基本語が前述訳書のごとく扱われた事実、それを支えた辞書の欠陥に私は腹
を立てているのである。
例3 含意は「したごころ」か
あ る と き あ る 学 生 が 「 こ の 変 化 の シ タ ゴ コ ロ と 内 容 は … 」 と 訳 し 始 め た 。原 文 は 「 含
意 」 で あ る 。「 辞 書 を こ ま め に 引 く よ う た し か に 強 調 し た け れ ど 、 ガ ン イ は ガ ン イ な ん で
す か ら 意 味 の わ か る も の は 引 く こ と な い で し ょ う ! 」と 私 が ど な る 。
「わからないから引い
たのです。倉石の二一六頁に《したごころ》しかありません」と学生が弁解につとめる。
私は驚いてその頁をのぞきこむ。 なるほど学生のいうとおり、 2 〔名〕 したごころ、
である。上つきルビのランク2は 「文学作品などに現われることば」である。 まず「含
矢吹晋『逆耳順耳』
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意 」 と し 、そ れ か ら 文 学 作 品 な ど に お け る 場 合 は し た ご こ ろ 」 と 文 学 的 に 解 釈 し た ら よ
い 。 い き な り 「 文 学 か ぶ れ 」 は 困 り も の 。( 初 出 『 蒼 蒼 』 第 一 号 、 一 九 八 四 年 八 月 一 五 日
発行)
武漢事件特タネ不始末
変身・ニュー 『朝日ジャーナル』が武漢事件を扱っていましたよ、 と教えてくれる人
があって、半年前の同誌(八四年四月二七日号)をめくってみた。失望の念を禁じえなか
った。新聞がなく旧聞にすぎなかったのである。
――陳再道武漢軍区司令官が一七年後のま、初めて一部始終を月刊誌『老年報』で明ら
か に し 、 武 漢 事 件 の 真 相 を 語 っ た 。毛 主 席 自 ら が 調 停 役 を 務 め 、周 総 理 が 二 回 も 武 漢 に 飛
んだという新事実もつまびらかにされた。
疑問1
月刊誌『老年報』とは何か? 中国語の「報」とは日本語の「新聞」 のこと、
「月刊誌の新聞」とはハテハテ何でございましょう?
『中国発行定期刊行物目録』で調
べてみると、
『中国老年』
(中国老齢問題全国委、
[ 年 間 購 読 料 は 船 便 で ]三 ○ ○ ○ 円 )と あ
る 。 ネ タ 元 は お そ ら く こ の 雑 誌 だ ろ う と 見 当 を つ け て い る う ち に 、 香 港 誌 『 鏡 報 』( 八 四
年 七 月 号 )に 転 載 さ れ た 陳 再 道「 武 漢 ”七 ・ 二 ○ 事 件“ 始 末 」が 目 に と ま っ た 。出 所 は ほ
ぼ 確 認 さ れ た 。こ こ で 疑 問 に 思 う の は 、
『 朝 日 ジ ャ ー ナ ル 』の 報 道 が ① 原 掲 載 誌 名 、② そ の
原題を正確に記さないのはなぜか、である。短いコラムならスベースの節約といった事情
があろう。だが、これは六ベージにわたる大記事なのである。
疑問2
「一七年後のいま、初めて」と『朝日ジャーナル』は書いているが、果たして
初 め て な の か ? 卒 読 し て す ぐ 気 づ い た の だ が 、 こ の 文 章 ど こ か で 読 ん だ 記 憶 が あ る 。『 革
命史資料』第二号(八一年九月刊)である。この『資料』の編者は中国人民政治協商会議
全国委員会文史資料研究委員会で、公開の出版物である。 つまり「初めて」 ではなく、
転載てあり、 表題も全く同―てある。
疑問3 毛主席と周総理についての「新事実」は果たして新しいのか? 趙聡『文革運動
歴 程 述 略 』 第 三 巻 六 〇 頁 を 開 い て み よ う ( 七 五 年 三 月 刊 、 香 港 )。 趙 聡 は 広 州 出 版 の 『 文
革通訊』第一四期(六八年四月)など紅衛兵資料をもとに毛沢東監禁の一コマを描いてい
る 。 ま た 『 毛 沢 東 著 作 年 表 』( 上 巻 、 年 表 編 、 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所 、 八 一 年 三 月 刊 )
は 、 趙 聡 の 資 料 を 再 整 理 し つ つ 、中 国 の 公 表 文 献 で 毛 沢 東 監 禁 事 件 を 確 認 し て い る 。 「 毛
主席が華北、中南、華東地区を視察していた時、林彪反党集団と”四人組” は (中略)
武 闘 を そ そ の か し て 、毛 主 席 の 宿 舎 に お し よ せ 、主 席 の 安 全 を お び や か し た( 中 略 ) 周 総
理は自ら警備の戦士をひきつれて北京から外地へはせつけて毛主席を守った」――これは
空 軍 航 空 兵 某 部 ほ か の 周 恩 来 追 悼 記 の 一 節 で あ る (『 懐 念 敬 愛 的 周 総 理 』 三 二 五 頁 以 下 )。
こ の 文 章 は 毛 主 席 の 安 全 を お び や か し た 主 体 を「 林 彪 集 団 と 四 人 組 」と し て い る が 、 こ の
箇 所 を ま ず 「 悪 者 は 」 と 読 み 、 つ い で 「 陳 再 道 ら は 」 と 解 読 し 、「 外 地 」 を 「 武 漢 」 と 読 ん
だ の が 「 毛 沢 東 著 作 年 表 』 の 筆 者 中 村 公 省 の 眼 識 な の だ ( 上 巻 二 七 四 ~ 五 頁 )。 な お 、 中
村はこの発見を「毛沢東の武漢監禁と劉少奇の北京監禁」としてエッセイにまとめている
(『 現 代 の 眼 』八 一 年 五 月 号 、中 国 特 集 )。 ヒ マ を も て あ ま し て い る 中 年 語 学 教 師 と 違 っ て
矢吹晋『逆耳順耳』
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外報部の敏腕記者が多忙きわまりないことは百も承知だ。記者の取材不足を責めているの
ではなく、資料および分析結果の供給流通体制の重大な欠陥を暴露したいのである。昨今
の中国の出版事情は百鬼夜行、八仙過海なのであって、いかにヒマ人であっても自分の研
究対象の資料でさえ十分フォローしきれないのが実情だ。
か く な る う え は M C M C す な わ ち Modern China Material Center を 設 立 し な い こ と
にはどうにもならぬ。猛暑のなかで実情を憂い戦慄しなった畏友諸氏と構想を語りあうう
ちに、架空予算はなんとン十億円にふくれあがった。さあどうする?
日本の宝クジ程度
の 賞 金 で は 当 て た と こ ろ で 間 に あ わ ぬ 。(『 蒼 蒼 』 二 号 、 1 9 8 4 年 1 0 月 2 5 日 発 行 )。
今後は軍事に注意すべし
『 党 史 研 究 』と い う 雑 誌 が あ る 。 八 ○ 年 に 創 刊 し て 八 二 年 ま で は 「 内 部 発 行 」 で あ っ
た が 、八 三 年 か ら は「 国 内 発 行 」と な り 、 い く ら か 「 公 開 度 」 が 増 し た が 、 ま だ 「 公
開発行」には至っていない (双月刊で版元は中共中央党校出版社) [一九八六年から公
開 発 行 と な っ た ]。 こ の 雑 誌 の 八 三 年 六 期 ( 一 二 月 二 八 日 刊 ) の 巻 頭 に は 、
[おそらく毛
沢 東 生 誕 九 ○ 周 年 を 一 記 念 し て ]、 「 政 権 是 由 槍 杵 子 中 取 得 的 」 ( 一 九 二 七 年 八 月 七 日 )
が 掲 げ ら れ て い る 。鉄 砲 か ら 政 権 が 生 ま れ る 、と 説 く 毛 沢 東 思 想 の 原 型 で あ る こ の 語 録 は 、
上 海 ク ー デ タ ( 二 七 年 四 月 一 二 日 )、 武 漢 政 府 崩 壊 ( 二 七 年 四 月 一 七 日 )、 馬 日 事 変 ( 二 七
年五月二一日)とうち続く中共の軍事的敗北のなかで開かれた 「八・七緊急会議」 にお
ける発言記録である。 この重要語録が 「国内発行」誌において公表されたのが八三年一
二月である事実に注目してほしい。
と こ ろ で 、 わ が 日 本 の 『 毛 沢 東 集 補 巻 』第 二 巻 ( 蒼 蒼 社 、 八 四 年 二 月 ) の 二 九 七
頁を開いてみよう。 「在緊急会議上的発言」 (一九二七・八・七) がきちんと収録され
ているではないか。 サスガなのだ。 しかも、 このテキストは 『党史研究』 のテキスト
よりも良質である。第二巻には、①国民党問題、②農民問題、③軍事問題、④組織問題、
の 四 項 が 収 録 さ れ て い る が 、 『 党 史 研 究 』の テ キ ス ト は ② ③ の み で あ る 。蒼 蒼 社 版 の テ キ
ストがベターであるのはなぜか。 さる奇特な御仁が唐つ国まで足を運び、 革命歴史惇物
館に陳列されている資料をガラスケース越しに一宇一字丹念に筆写してきたからである。
本家本元よりもいいテキストを提供してくれた関係者の努力には全く頭が下がる。 しか
もこの成果は一例にすぎない。空白に近い現代中国研究の世界にも一筋の光は見えて
き
た ( 仕 事 を ホ メ た の か 、 仲 間 ボ メ に す ぎ な い の か 、 読 者 よ ご 賢 察 あ れ ! )。
閑話休題。毛沢東④言を聞こう。
「これまでわれわれは孫中山が専ら軍事運動をやっていると悪口を言ってきた。 われわ
れはまるで逆であって、軍事運動をやらず、専ら民衆運動をやってきた。蒋介石、唐生智
は 鉄 砲 を 持 っ て 立 ち 上 が っ た の に 、 わ れ わ れ の ほ う は 持 っ て い な い 。― ― 湖 南 の 今 回 の 失
敗〔 馬 日 事 変 を 指 す 〕 は 完 全 に 書 生 主 観 の 誤 り に よ る も の と い う べ き で あ る 。今 後 は 軍 事
に非常に注意しなければならない。政権は鉄砲から生まれることを知らねばならぬ」
「書生主観の誤り」 とはいい表現だ。小生なぞ 「書生主観の誤り」ばかり重ねてきた。
倒1 文化大革命に共鳴し、 ロが酸っぱくなるほど語りあったものだが、 ついに解放
矢吹晋『逆耳順耳』
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軍 の 動 向 の 分 析 ま で は 及 ば な か っ た( 羅 瑞 卿 逮 捕 、 八 期 一 一 中 全 会 の 背 景 、三 支 両 軍 の 功
罪 な ど )。
例2 五八年一○月の台湾海峡の危磯については 「米蒋集団の挑発」説を疑ってもみな
かった。
例3 六九年三月、 中共九全大会を一ヵ月後に控えて珍宝島 (ダマンスキー島) 事件
が 発 生 し た が 、 そ の 背 景 は 何 か 。 三 年 に わ た る 「 深 wa 洞 」 ( 深 く 洞 を 掘 る ) の 政 治
的効果、経済的損失。
例4 七○~七一年の林彪事件前後の解放軍の状況はどうであったか。
例5 七六年四月の天安門事件、 同一○月の四人組事件の際、 軍はどう対応したのか。
岡6
国防第三線建設」 (大三線、小三線) の経済的得失、 など。
要するに私は毛沢東の言――政権は鉄砲から――を四九年革命の説明原理としかみてい
なかったのである。 八路軍は革命軍から国防軍に発展しつつあるとみるだけで、 その治
安 軍 と し て の 側 面 、 治 安 軍 と 国 防 軍 、革 命 軍 と 国 防 軍 の 矛 盾 対 立 を ほ と ん ど み て い な か っ
たのである。軍事分析を欠く中国政治論が児戯に等しいことを教えてくれたのが中国の政
治 の 転 変 で あ り 、 そ し て 陳 独 秀 に よ る ”右 翼 日 和 見 主 義 ”を 総 括 し た 毛 沢 東 発 言 な の で あ
っ た ( い き な り 寝 首 を か か れ た 衝 撃 が 生 々 し い で は な い か )。
『 毛 沢 東 軍 事 文 選 』( 内 部 本 ) と い う 本 が 中 国 で 行 な わ れ て い る こ と が 『 党 史 研 究 』 八
三 年 六 期 三 二 、三 六 頁 )か ら 知 ら れ る 。同 書 』六 五 二 頁 の 引 用 か ら し て こ の 『 軍 事 文 選 』
の 厚 さ 、解 放 後 を カ バ ー し て い る こ と が 推 察 で き る 。 『 中 共 党 史 主 要 事 件 簡 介 』 ( 下 巻 )
という面白い本も友人の好意で見せてもらった (中国人民解放軍政治学院党史教研室編、
四 川 人 民 出 版 社 、 八 三 年 、 内 部 発 行 )。 こ の 本 の 一 九 四 頁 を 開 く と 、 彭 徳 懐 国 防 部 長 名 で
発表された 「台湾同胞に告げる書」
( 五 八 年 一 ○ 月 六 日 、 な お 二 五 日 に 再 論 )は 実 は 毛 沢
東 が 執 筆 し た と 明 記 し て あ る 。 と す れ ば 、 台 湾 海 峡 の 危 機 を 説 く こ の 手 紙 も『 軍 事 文 選 』
に収録されていよう。同じ内容でも執筆者によって読み方が変わりうる。 さあ、 さあ、
この 『軍事文選』 からほかに何が飛び出してくるのか[その後、蒼蒼社から復刻版が発
行 さ れ た ]。建 国 三 五 周 年 、国 慶 節 の 軍 事 パ レ ー ド は 「 遠 程 戦 略 導 弾 」 や 「 反 担 克 導 弾 」
の英姿を示したが、 これらの武器の政治的意味の解読はわれわれの研究対象でなければ
ならない。
(初出「蒼蒼」第二号、 一九八四年一○月二五日発行)
煙幕が毒ガスに化けた化学戦の怪
侵略戦争が歴史の汚点であること、毒ガスが汚点のなかの汚点であること、 いうまで
もない。 だが、 単なる「煙幕」を「毒ガズ」 と誤認して大きく報道し、 誤報の責任を
写真提供者に帰す大新聞の論理は、ハレンチきわまりない。報道の一大汚点として特筆大
書に値する。
『 朝 日 新 聞 』 八 四 年 某 月 某 日 (後 述 の 訂 正 記 事 に こ の 日 付 な し !) の 奇 妙 な
「 毒 ガ ス 」 現 場 写 真 を 見 た 数 日 後 、 情 報 通 の あ る 友 人 が 、 1.毒 ガ ス の 比 重 は 重 い こ と 、
2.毒 ガ ス は 山 地 で 閑 い ら れ る の が 多 い こ と 、 3.毒 ガ ス を 用 い る 際 は 味 方 の 兵 士 が 被 害 を 受
けぬよう十分注意すること、 などは最小限の基礎知識、 と教えてくれた(私は昔友人た
ち と 共 訳 し た 『 中 国 軍 事 教 本 - - - 人 民 戦 争 の 軍 事 学 」龍 渓 書 舎 、 一 九 七 六 年 、 を 思 い 出 し 、
矢吹晋『逆耳順耳』
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第 七 章 第 三 節「 化 学 兵 器 の 防 護 」を め く っ て み た 。 こ の 箇 所 の 訳 者 は 畏 友 鈴 木 博 で 、現 在
は 北 京 放 送 の 「 外 国 人 専 家 」 で あ る 。 以 上 余 談 )。
十一月十四日、 『朝日新聞』 は誤報を事実上認め、 訂正した。 しかし、 謝罪はし
なかった。 「訂正の論理」 は以下のごとくである。
見 出 し は 「 日 本 軍 の " 化 学 戦 " の 写 真 gan 湘 作 戦 と わ か る 」 て あ る 。 「 毒 ガ ス は こ
こで 「化学戦」 とボカされ、 あたかも作戦地が不詳であったかのごとき書き方だ。
訂正記事を読んでみよう。
「……旧日本軍による化学戦の写真…が、 当時の南昌攻略作戦に参加した元将校によ
って公開されたが」 (コメント、 元将校の写真帳を新聞が公開した事実が重要なのであ
っ て 、 問 題 は 元 将 校 が 公 開 し た こ と で は な い は ず )、「 こ の 写 真 は 、 元 将 校 A さ ん の 記 憶
する南昌作戦ではなく、 …贛湘作戦の際に…撮影したものであることが分かった」 (コ
メ ン ト 、 南 昌 作 戦 を 贛 湘 作 戦 と 作 戦 地 の 訂 正 を 強 調 )。
「この写真は、 ……新牆河に煙
幕を展開…の説明つきで、 昭和一四年十月十五日号の 『サンデー毎日』 にも掲載されて
い た 」 ( 傍 点 は 筆 者 。 「 毒 ガ ス 」 で は な く「 煙 幕 」 に す ぎ ず 、 し か も 四 ○ 年 以 上 も 前
に 週 刊 誌 に 載 っ た も の で あ る )。
一大スクープが実は 「毒ガス」写真ではなく、 「煙幕」 にすぎないのであり、 しか
も『サンデー毎日』 に載っていたというオチがついたのであるから、 誤報の責任者は当
然謝罪すべきであろう。
だ が 、 こ の 記 事 は こ う 結 ん だ の で あ る 。 「 写 真 を 提 供 し た A さ ん は 、 ”南 昌 攻 略 の 際
の修水渡河作戦で私が目撃した毒ガス作戦の光景と写真帳の写真はあまりにもよく似てい
た。しかし、写真が別の場所で撮影されたとわかった以上、私の記憶違いだったと思う”
と い っ て い る 」。
Aさんの錯覚は事実によってすてに明らかである。 ここで 「私の記憶違いだったと思
う」 とAさんにいわせることにどんな意味があるのか理解に苦しむ。 それは記者とAさ
んのいわば紙面以前の (あるいは以後の)対話であるにすぎまい。 いま問題なのはAさ
ん の 言 の 当 否 を 確 認 す る こ と な く ( ウ ラ を と ら ず に )、 大 ス ク ー プ に デ ッ チ 上 げ た 誤 報 の
責任なのだ。 「といっている」 とAさんに全責任をかぶせて、 記者は責任逃れとはあい
た口がふさがらぬ。
突発事件の緊急報道ならいざ知らず、話は四○年昔の写真である。記者がまともに取材し
さえすれば確認の時間と方法はいくらでもあったはず (軍事オンチの大学教授を訪ねた
の は 記 者 の 不 覚 で あ っ た )。 に も か か わ ら ず 誤 報 し て し ま っ た ら 、 過 ち を 改 む る に は ば か
る な か れ 、 で あ る 。 率 直 に 謝 罪 す る ほ か あ る ま い 。 論 理 の ス リ 替 え は 、( 社 内 世 論 対 策 に
は な り う る か も 知 れ ぬ が )、 読 者 を デ マ す こ と は で き な い 。( 初 出 『 蒼 蒼 』 第 三 号 、 八 五
年一月一日発行)
清岡卓行 『初冬の中国で」 のいたましい暇庇
敬 愛 す る 詩 人 清 岡 卓 行 が 『 初 冬 の 中 国 で 』( 青 土 社 、 一 九 八 四 年 九 月 刊 ) と
題する新詩集において試みた手法
矢吹晋『逆耳順耳』
についてこう語っている。
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----- こ の 手 法 と は 、 作 品 の り ア リ テ ィ の た め に 、 中 国 語 の 単 語 ま た は 語
句を原音のルビつきで適宜に、 ただし最小限に挿入するやりかたである/中国
語の挿入において、 単語がキーワードに近く用いられている詩が三編あり、 単
語または語句が雰囲気を助勢する効果物のように用いられている詩が六編ある
/ 私 は 自 分 の こ と な が ら 、お や お や こ の 人 は 中 国 に ち ょ っ と の め り こ ん て い る ぞ
と 思 っ た (『 朝 日 新 聞 』 八 四 年 一 ○ 月 一 五 日 ) 。
―――中国語の単語が原音のルビつきでキーワードに近く用いられている三
編の詩では、 その単語が題名そのものにも、 あるいは題名の一部にもなってい
る / こ う な る と 、 詩 に こ の 原 語 〔 「 窰 洞 ( ヤ オ ト ン ) 」を 指 す 〕 を 原 音 で 用 い
る よ り ほ か は な い / こ こ で も 、 京 劇 の 長 い 伝 統 に 敬 意 を 表 し 、稽 古 場 と は い え 舞
台 の 実 感 に 執 す る か ぎ り 、令 羽 子 ( リ ン ツ ) と い う 原 語 を 原 音 で 用 い る よ り ほ
かはないと思われたのであった(同紙、一○月一 六日)。
―――和語と日本語化した漢語で織りなされるのが原則である日本の現代詩
に お い て 、ふ つ う の 日 本 人 に な じ み の な い 中 国 語 の 単 語 や 語 句 を 原 音 の ル ビ つ き
で 挿 入 す る と 、 そ れ が 仏 語 や 英 語 な ど ほ か の 外 国 語 に は な い ”新 鮮 な 懐 か し さ ”
と で も い っ た 魅 力 を 示 す こ と が あ り う る こ と は す ぐ 想 像 で き よ う( 同 紙 、 一 ○ 月
一七日)。
日本語と中国語のビミョーなところでいつも悩まされている私は早速この詩集にとびつ
い た 。最 高 級 の 芳 醇 な ブ ラ ン デ ー に 酔 う が ご と く 時 を 忘 れ て 読 み 進 ん だ の だ が 、 九 七 頁 に
至って、勤務先の某食堂の水のごとき茶を飲まされた感じになった。
――――鸚鵡含愁思という杜甫の起句に「インウーハンチョゥシー」とルビがふられ、
― ― ― 聡 明 憶 別 離 と い う 承 句 に「 コ ン ミ ン ィ ー ピ エ リ ー 」と ル ビ が ふ ら れ て い た の で あ る 。
「 鸚 鵡 含 愁 思 」 は 詩 人 が 天 壇 の 回 音 壁 で「 片 言 の 中 国 語 で 言 っ て み た 」 五 言 で あ り 、 「 聡
明 憶 別 離 」 は 「 電 話 の 声 の よ う に で は な く 、 風 の よ う に 伝 わ っ て き た 」「 ふ し ぎ な 音 波 」
で あ る 。だ か ら こ そ な ん と も ム ザ ン な の だ 。詩 人 は そ の と き「 恍 惚 と な っ た 」 由 だ が 、 私
はここで恍惚からさめた。
中 国 語 の「 思 」は「 シ ー 」で は な く「 ス ー 」で す よ 、 こ の 単 純 き わ ま り な い 、 児 戯 に
も 等 し い 教 学 工 作 こ そ 私 の 職 業 だ が 、わ が 学 生 諸 君 は 容 易 に そ れ を の み こ ん で 下 さ ら な い 。
二年生になっても相変わらずスーをシーにまちがえる学生をつかまえて、大声で怒鳴りち
らし、自己嫌悪に陥り、ショーチューを飲むのが私の生活である。
「 ス ー 」を「 シ ー 」に ま ち が え る の は な ぜ か 。日 本 で 行 わ れ て い る 圧 倒 的 多 数 の 教 科 書
が 中 国 で 定 め ら れ た ロ ー マ 字 表 記( ピ ン イ ン と い う )を も ち い る か ら だ 。 こ の 場 合 「 思 」
は si と ル ビ が ふ ら れ る 。 シ - は xi で あ る 。
ヨ ソ の 学 生 の こ と は 知 ら ぬ が 、わ が 学 生 諸 君 に 関 す る か ぎ り 、英 語 を 学 ぶ の が 精 一 杯 で
あ っ て 、第 二 外 国 語 を や る 知 的 キ ャ パ シ テ ィ は ほ と ん ど な い よ り に 見 受 け ら れ る 。 そ う い
う学生(率直にいえば英語もロクロクできぬ学生ということ)に対して、英語と似るがご
とく、 似ざるがごときピンインは百害あって一利なしだ、 と私は確信している(と書き
矢吹晋『逆耳順耳』
12
た い と こ ろ だ が 、 浅 学 非 才 の 身 を 反 省 し 、 こ こ で 声 を 小 さ く す る )。
中国人がまず耳から音をおぼえ、 そのあとで音を整理し、 思い出す手段としてピンイン
をもちいるのはきわめて有効であろう。 同じことは、 まず耳から音をおぼえる、英語を
知 ら ぬ 日 本 人 中 国 語 学 習 者 に つ い て も 、 あ て は ま る 。事 は ロ ー マ 字 に ト コ ト ン 慣 れ て い る
欧 米 人 に も あ て は ま る か も し れ ぬ 。 し か し 、わ が 教 室 で は オ ー ラ ル ・ ア プ ロ ー チ に は 限 界
があり、学生は共通一次のおかげで英語に汚染されており、最後に最も遺憾なことだが私
は教育意欲をほとんど失いかけている。
話をもとに戻そう。大詩人の意欲作において、 「思」 が 「シ-」 となり、 「聡明」
が 「 ツ ォ ン ミ ン 」 で な く 「 コ ン ミ ン 」 と な り は て た の は 、 ロ ー マ 字 si congming を 英
語 風 に 読 み ち が え た と し か 考 え ら れ な い 。 画 竜 点 睛 を 欠 く こ の ミ ス の な か に 、 1.平 均 的 日
本 人 ( 学 生 、 編 集 者 、 校 正 者 ) に と っ て の ビ ン イ ン の 難 点 、 2 .「 中 国 に ち ょ っ と の め り こ
んでいる」 ほどの高級知識人の中国語理解の限界を感じて淋しくなった次第である。
(初出『蒼蒼』第三号、 八五年一月一日発行)
大躍進の帰結としての餓死者は 一 五○○万を超える
一 九 八 三 年 秋 に『 中 国 統 計 年 鑑 八 三 年 版 』
( 八 三 年 一 ○ 月 )が 発 売 さ れ 、年 次 別 の 総 人 口
数 字 が 得 ら れ る よ う に な っ た 。 北 京 発 ロ イ タ ー 電 は 、毛 沢 東 生 誕 九 ○ 周 年 記 念 と 結 び つ け
て、 「大躍進政策の失敗によって、 一九五九~六一年の三年間に一二○○万人から二四
○ ○ 万 人 も の 公 民 が 餓 死 な ど に よ っ て 死 亡 し た 」 と 報 じ た 。こ の 前 後 そ し て そ の 後 、餓 死
者数をめぐる記事がマスコミにしばしば登場した。
同 年 鎧 は 実 は 二 冊 目 で あ り 、 こ れ に 先 立 つ 一 九 八 一 年 版 が あ る ( 八 二 年 一 ○ 月 )。 た
だし八一年版は四九、 五二、 五七、 六五、 七八、 八一の各年の数字しか示さなかった。
五八、 五九、 六○、 六一年の動向は八三年版を待たねばならなかったわけだ。 八四年
九 月 一 二 日 、 中 国 の 国 家 統 計 局 ス ボ ー ク ス マ ン は A P 通 信 の 記 者 に 対 し て「 大 躍 進 期 に 人
為的要素と自然災害によって、 一○○○万以上が餓死した」 と改めて強調している (む
ろ ん 、 こ の 会 見 は 「 文 革 の 徹 底 否 定 」 の 政 治 的 文 脈 で 理 解 さ る べ き だ )。
『九十年代』誌八四年一○月号 (牧夫論文) は同年鑑の死亡率を当時の人口数に乗
ずることによって五八~六一年の死亡者数を一五二八万と計算した。 また 「市」 の死亡
率 を 「 市 鎮 人 口 」 に 、 「 県 」 の 死 亡 率 を「 郷 村 人 口 」に 乗 ず る こ と に よ っ て 、 計 一 五
三五万の数字を得た。
ついで 「市」 と 「県」 の自然増加率を 「市鎮総人口」 と 「郷村総人口」 にそ
れぞれ乗ずることによって計算上の増加数を算出し、 現実の人口とのギャップを餓死者
とみて、 五九年三○三万、 六〇年一一八六万、 六一年六○六万、 計二○九五万と計算
している。
五九、 六○年には農村から都市へ、 六一年には都市から農村へ、 大量の社会的移動
が 生 じ て お り 、 行 方 不 明 者 の た し ひ き 計 算 は そ う 易 し く な い 。数 字 に 弱 い 小 生 は 牧 夫 論 文
の フ ォ ロ ー ア ッ ブ に 半 日 費 し た 。半 日 か け て 一 五 〇 〇 万 を 超 え る 死 を 確 認 し 、「 草 菅 人 命 」
矢吹晋『逆耳順耳』
13
(『 漢 書 ・ 賈 誼 伝 』) と つ ぶ や い た 。
近着の 『九十年代』誌一二月号は在トロントの華人学者陳金永の投書を掲げ、牧夫論
文の欠点を補正している。
① 「 市 」 と 「 市 鎮 」、 「 鎮 を 含 む 県 」 と 「 鎮 を 含 ま な い 県 」 を 混 同 し て は な ら な
い (私は八一年版の 「城鎮人口」 と八三年版の 「市鎮人口」 の異同を確認するのにま
た も や 半 日 か か つ て し ま っ た 。 こ う い う 有 様 な の で 現 代 中 国 論 の 大 著 完 成 へ の 道 は 遠 い )。
②計算の基数としては年末人口ではなく、 年央人口とするのがよい。 なぜなら死亡率
は当年の死亡者数を年央人口で除したものだからである。
3.アメリカの人口学者A.J.Coaleの研究によれば実際の死亡率は『統計年
鑑 』 の 公 表 数 字 よ り も 高 く 、 と り わ け 五 三 ~ 六 四 年 に お い て は そ う で あ る A.J.Coale,
Rapid Population Change in China,1952 -1982, 1984)
以上の三点から陳金永は死亡者をこう計算している。
1. 『 統 計 年 鑑 』 の 死 亡 率 に 基 づ く 場 合 。 五 八 年 七 七 万 、 五 九 年 二 五 二 万 、 六 ○ 年
九七六万、 六一年二二七万、
計一五三二万となる。
2 . A.J.Coale の 推 計 死 亡 率 に 基 づ く 場 合 。 五 八 年 九 一 万 、 五 九 年 二 八 六 万 、 六 ○
年一三二一万、 六一年一三二一万、 計一七九七万となる。
3.都市と農村に分けた計算は与えられた数字の定義の範囲が異なるため不適当である。
われわれは結局、大躍進期の餓死者を一五〇〇~一八○○万ととらえておけば大過ないと
い う わ け だ 。南 無 阿 弥 陀 仏 !
( 初 出 『 蒼 蒼 』第 三 号、 八 五 年 一 月 一 日 発 行 )
台北と北京からの賀状
昨秋、 台湾から来られた客人のお相手をして大陸の政治経済、 台湾の政治経済を一夕
話 し 合 う 機 会 が あ っ た 。別 れ 際 に 私 は 小 著『 二 ○ ○ 〇 年 の 中 国 』 を 進 呈 し た 。客 人 氏 は 海
関の検査を危惧した。私はこの本の第一部第二章はかつて国民党の 『中央日報』 に翻訳
されたことがありますから、 それを言えば何とかパスするかも、 と付け加えた。
年が明けて客人氏の友人から賀状が届き、 本は没収された由であった。 あの本のどこ
かに 『中央日報』 一九八一年五月四日から九日にかけて計六回訳載、 訳者は林耀川氏と
書 い て お け ば 良 か っ た の だ ろ う か 。 い や そ れ は な い で し ょ う 。あ の 翻 訳 は 私 の 了 解 は 得 て
いないのだ。 もし申し入れがあったとすれば、私は即座に断ったはずなのだから。
私 の 書 い た も の が あ ろ う こ と か 『 中 央 日 報 』 に 載 っ た と い う こ と で 、顔 色 を 変 え た 人
がいた、 という話を聞いたのは後日である。 その新聞をだしている政府が同じ内容のも
のを没収した事実をここに書きとめておく。
も う 一 通 の 賀 状 は 北 京 か ら 届 い た 。小 著 三 一 頁 の 「 包 乾 到 戸 」 は 「 包 幹 到 戸 」 の ミ
ス・プリではないか、 とのご指摘である。小著にはたしかにミス・プリがあるが、 幸い
これはミスではないのだ。
いま書名はあげないが、 この四文字が書いてある日本の本
は 、 お そ ら く 大 部 分 が 「 包 乾 到 戸 」 で は な く 、 「 包 幹 到 戸 」と 書 い て あ る は ず だ 。 ヒ
マな (といって悪ければ私の言を信じない) 読者はぜひ調べてみてほしい。 わが友人氏
矢吹晋『逆耳順耳』
14
が私の間違いと錯覚したのもムリからぬ。正解を最初に教えてくれたのは、友人のK氏で
あ る 。 た だ し 氏 に は そ の 理 由 は 明 ら か で な か っ た 。氏 は そ の 話 を 中 国 で 聞 い た 。そ の K 氏
のヒントをもとに私の考証が始まった。
正解を確認する手掛りは二つ見つかった。
一 つ は 、 北 京 放 送 だ 。b a o g a n r d a o h u の g a n r は 四 声 で は な く 、 一 声 に 読 ん で い る 。
これもヒマな (ただし中国語の聞いてわかる) 読者はよく聞いてほしい。私は夜九時に
なると周波数を合わせてあるラジオのスイッチを入れる習慣があり、 気づいたのである。
もうひとつば、 『現代漢語詞典』 三六頁「包干児」 の説明である。
「対一定範囲的工作保証全部完成」 とある。 しかもピンインは、 やはり一声だ。 も
し 「幹」 なら四声のはず。
(初出 『蒼蒼』第四号、 八五年三月一一日発行)
《迫記》 この 「包乾」解釈に対して、東大中国哲学科の戸川芳郎教授のコメントが
寄 せ ら れ た 。 戸 川 芳 郎 「 矢 吹 説 を 支 持 し て 『 包 乾 児 」 を 論 ず る 」 (『 蒼 蒼 』 第 五 号 )、 同
「『 包 乾 児 』 と 『 折 実 単 位 』」『 蒼 蒼 』 六 号 )。
『中国統計年鑑』 にもの申す
『 中 国 統 計 年 鑑 』八 三 年 版 は 八 三 年 一 ○ 月 に 発 行 さ れ 、 私 は 八 三 年 末 に 東 京 で 買 い 求
めた。八四年版は八五年初めになってようやく北京から直接届いたものを借りることがで
き た ( 東 京 の 本 屋 て は 一 月 末 現 在 未 発 売 )。奥 付 を 開 い て 驚 い た 。 八 四 年 八 月 刊 で あ る か
ら 前 年 よ り も 二 カ 月 も 早 く 出 た は ず な の だ 。国 慶 節 三 五 周 年 の た め 馬 力 を か け た の だ ろ う 。
不可解なのは折角早く出したものがなぜ読者の手元に届かないのかだ。巻頭に一六頁にわ
たる四色刷りのグラフを用意したのはよいとして、 その色合わせが出来ていない。 七頁
の 貨 物 取 扱 量 の 構 成 な ど 色 が 間 違 っ て い る の を 見 る と 、刷 り 直 し を し た よ う に も 思 え な い 。
「時は金なり」 のスロ一ガンが依然出け声にとどまっているのは、 由々しいことだ。基
本的な統計書が四カ月も遅れるようでは「情報革命」も何もあったものではない。
第 二 の 不 満 。 八 三 年 版 の 一 ○ 五 頁 に は 、 出 生 率 、 死 亡 率 、自 然 増 加 率 が 出 て い る が 、
八○年の項が脱落している。 八四年版で埋められたのはよいとして、 何の断りもない。
第三の不満。 『蒼蒼』三号で八一年版の 「城鎮人口」 と八三年版の 「市鎮人口」
の違いについて触れた。 この両者をともに 「都市人口」 と訳すような骨太な (粗雑な、
と読むべし) 議論では中国論は発展しない。 たとえば館龍一郎・小宮隆太郎・宇沢弘文
『中国経済―――あすへの課題』 (東洋経済新報社. 八四年) 所収の香西泰論文は、 八
一年版では八一年の都市人口一億三八七○万人、 八三年版では二億一七一万人と書いて
い る 三 一 一 ○ 頁 )。
「都市人口」 が六三○○万人も違うとは、 どういうことか。 正解は前者は 「城鎮人
口 」、 後 者 が 「 市 鎮 人 口 」 だ か ら だ 。 前 者 に は 「 鎮 ( 町 )」 の 人 口 が 含 ま れ ず 、 後 者
に は 「 鎮 」人 口 が 含 ま れ て い る 。実 は 『 中 国 統 計 年 鑑 』 に は 最 低 限 の 説 明 は 与 え ら れ て
いるが、甚だわかりにくい。素人には到底歯がたたないはず。 この場合、 『現代漢語詞
典』も役に立たない。 ヒマ人は確認されたし。 (初出 「蒼蒼』第四号、 八五年三月一
矢吹晋『逆耳順耳』
15
一日発行)
「 七 千 人 大 会 講 話 」 を め ぐ る 毛 vs 劉 鄧
大躍進の失敗を毛沢東なりに自己批判したものが六二年一月三○日のいわゆる 「七
千人大会講話」 であることは周知の事実。 ここで毛が 「民主集中制」 を熱っぽく語り、
社 会 主 義 建 設 に は 「 大 き な 盲 目 性 」 が あ る 、社 会 主 義 経 済 は 「 い ま だ 認 識 さ れ ざ る 必 然
の王国」 である、 と論じたことは多言を要しない。
この講話は当時党内レベルでは
広 く 伝 達 さ れ た も の の 、 公 開 発 表 に は 至 ら な か っ た 。 四 年 後 の 六 六 年 二 月 、「 有 的 地 方 領
導 同 志 」が こ の 講 話 を 「 県 、 団 ( 連 隊 ) 級 以 上 の 党 員 幹 部 」 の 学 習 に 供 す る た め 、党
内文書とするよう毛沢東に提案した。
毛 は こ の 提 案 に 同 意 し 、 こ う コ メ ン ト し た 。 「 こ の 問 題〔 民 主 集 中 制 〕 は 大 き い と
思う。民主集中制を真に実現するには、真剣な教育、実験、 普及を経なければならない。
また長期に反復して行うことによってはじめてそれを実現できよう。 さもなければ大多
数 の 同 志 に と っ て 、 終 始 一 つ の 空 論 に す ぎ な い 」。 こ の と き 毛 は 講 話 の な か に つ ぎ の 一 句
を付加することを忘れなかった。 「覆された反動階級は、 まだ復辟を企図している。 社
会 主 義 社 会 に あ っ て は 、 な お 新 し い ブ ル ジ ョ ア 分 子 が 生 ま れ う る 。社 会 主 義 の 全 段 階 を 通
じ て 階 級 と 階 級 闘 争 が 存 在 し て い る 。 こ の 階 級 闘 争 は 長 期 か つ 複 雑 で 、時 に は 激 烈 で さ え
あ る 」。
むろんこれは八ヵ月後の、 有名な 「八期十中全会テーゼ」 (六二年九月) の一節
である。 このテーゼの形成過程が文革の発動を解くカギの一つとされてきたが、 「七千
人 大 会 講 話 」の 原 文 に は 存 在 せ ず 、 そ の 箇 所 は 六 六 年 二 月 に 挿 入 さ れ た も の で あ る こ と が
後掲の新資料で明らかになった。
そ の 四 か 月 後 に あ た る 六 六 年 六 月 二 二 日 、劉 少 奇 、鄧 小 平 は 毛 沢 東 に こ う 提 案 し た 。今
年の七月一日は建党四十五周年にあたりますが、これを機会に主席の「七千人大会講話」
を公開発行してはいかがでしょう?
「各級党委員会と幹部が党の民主集中制を貫徹し、
民 主 主 義 を 発 揚 し 、 工 作 を 改 善 す る 助 け と な り ま し ょ う 」。
こ の 提 案 を 受 け て 毛 沢 東 、 〔 講 釈 師 風 に い え ば 〕 グ ッ と 詰 ま っ た ご と く で あ る 。劉 鄧
の重大提案を放置すること一週間以上、 建党記念日の前日たる六月三○日になってよう
や く 劉 鄧 に 返 事 し た 。「 考 慮 し た が 、 あ の 講 話 は い ま 発 表 す る の は 時 宜 に 合 わ な い 」(『 関
於 建 国 以 来 党 的 若 干 歴 史 問 題 的 決 議 注 釈 本 』 内 部 本 五 一 六 ~ 六 頁 )。
かくて 「七千人大会講話」 は七八年の建党五七周年まで公表されるに至らなかった。
しかもこの公表テキストは、 当時の華国鋒体制の路線を反映して 「階級闘争論」 を付加
したままであった。すべて派の大将華国鋒らしい 作風ではある。
以上の経緯からわかるように劉鄧ラインは、 まず地方党組織から提案させて、 党内世
論をもりあげ、 ついで建党記念日に事寄せて公開発行し、 人民世論を盛り上げる――す
なわち毛沢東の言論によって毛自身を束縛せんと意図したものと解してよい。虚々実々の
攻防の一コマであった。
毛vs劉鄧のやりとりをみていると同床異夢の心理劇の迫力
を感じさせられドキトキする。
矢吹晋『逆耳順耳』
(初出 『蒼蒼」第四号、 八五年三月一一日発行)
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台湾の小説がおもしろい
私 の 若 い 友 人 た ち の 努 力 で 『 台 湾 現 代 小 説 選 』( 研 文 出 版 ) が 出 始 め た と 思 っ た ら 、
アッという間に全五巻にふくれあがったのは近来の快挙だ。私は既刊三冊のうち一冊も読
ん で い な い 怠 惰 な 野 次 馬 だ が 、三 巻 に 陳 映 真「 山 道 」が 収 め ら れ て い る こ と を 知 り 、 以 前
こ の 短 編 を 読 ん だ と き 、書 き 付 け た メ モ を 思 い 出 し た 。 そ の ま ま こ こ に 書 き と め て お く ―
――
い ま 台 湾 の 小 説 が お も し ろ い 。陳 映 真 の 「 山 路 」 が そ の 一 例 だ 。 ヒ ロ イ ン 蔡 千 恵 は
映 画 「 わ が 青 春 に 悔 な し 」の 原 節 子 の い わ ば 分 身 で あ り 、高 度 成 長 以 後 の 彼 女 を 描 い た 感
がある。 一九四七年のある政治事件で息子を銃殺された貧家に老父母と幼弟が取り残さ
れ た 。わ が お チ エ さ ん は「 故 人 の 妻 」を 名 乗 っ て 、こ の あ ば ら 屋 に 住 み 込 み 、 そ の 生 活 を
支える。炭砿婦、 炭車押し、 石炭運びの苛酷な労働のなかで女盛りが過ぎていく。だが
苦 労 の か い あ っ て 「 幼 弟 」は そ の 後 大 学 を 出 て 会 計 士 の 職 を 得 る 。彼 女 は い ま 弟 夫 婦 と と
も に 台 北 の 高 級 住 宅 地 で 快 適 に 暮 ら し て い る 。 こ の 平 和 な 生 活 は あ る 日 突 然 崩 壊 し た 。同
じ政治事件で終身刑を受けていた元恋人、 この七、 八年すっかり忘れていた男性が釈放
さ れ た の で あ る 。新 聞 で そ れ を 知 っ た 日 か ら 彼 女 は「 生 き る 意 欲 を 全 く 失 う 」 奇 病 に と り
つかれ、 三カ月後に衰弱死した。 まだ五十幾つだった彼女の残した遺書は典雅な日本語
で書かれていた。 「もし大陸の革命が堕蒲してしまったのなら、 あのかたが亡くなり、
あなたが半生拘禁されていたことよりも、 もっと苛酷な徒労になるのかしら。 わたしは
あなたの出獄によって資本主義商品に馴化された家畜のような生活を反省させられたので
ご ざ い ま す 。命 あ ふ れ る 森 林 は も う わ た し の も の で は な く な り ま し た 」。二 ・ 二 八 事 件 の 犠
牲者の墓を建てた話が検閲を免れたのは台湾の 「民主化」 を示すものであり、 注目され
る。―――
実はこの短文、私がワープロで書いた最初の文章なのである。 あの時は半
日近くかかったものだが、 いまならどんなにゆっくり書こうとしても二十分はかかるま
い。
(初出『蒼蒼』第五号、 八五年七月一五日発行)
腑に落ちた話
「彼は英和辞書を毎日二頁ずつ暗記した。 そして暗誦したものは、 一枚ずつ食べるか
破り捨てていき、 ある日、ついにカバーだけになったので、 それを校庭の西隈の若桜の
根 元 に 埋 め た の で あ っ た 。貫 一 は 皆 に ”辞 書 喰 い ”と い う あ だ 名 を 奉 ら れ て し ま っ た 。 こ
のことは、 朝河自身ダートマス大学時代の級友たちにも、 問われるままに語ったことが
あ る ら し い 。 母 校 の 中 学 校 で は 、 そ の 桜 の 木 を ”朝 河 ざ く ら ” と よ ぶ よ う に な っ た 。 ち
なみに彼より十八年おくれてこの中学校を卒業した久米正雄は、覚えこみもしない辞書の
各頁を食べてしまい、 そのカバーを先輩のまねをして埋めたというが、 久米の茶目気が
遺憾なく発揮された話としておもしろい(
」阿部善雄『最後の日本人――朝河貫一の生涯』
八 、 九 頁 )。
私 は 朝 河 、 久 米 の 中 学 校 の 後 身 で あ る 福 島 県 立 安 積 高 等 学 校 に 学 ん だ( 県
立中学でありながら明治二十年代にイギリス人教師を雇っていたほど、 ヒナにはまれな
矢吹晋『逆耳順耳』
17
ナ ウ イ 学 校 だ っ た の で す よ )。 そ し て こ の 伝 説 を よ く 聞 か さ れ た も の そ あ る 。 一 昨 年 阿 部
氏の本が出て、 この話が気になっていたところで最近こんな文章にぶつかり、 ハタとひ
ざを打った次第。
「成斎 〔西依成斎〕 はその節用集 〔現在の小百科全書みたいなもの〕 を抱へ込ん
で、狗児のやうに鎮守の社殿の下に潜り込んだ。 そして節用集を読み覚えると、 その覚
えた個所だけは紙を引拗って食べた。書物を読み覚える頃には、腹もかなり空いてゐるの
で 、節 用 集 は そ の 侭 飯 の 代 り に も な っ た 訳 だ 。 で 、 十 日 も 経 た ぬ 間 に 、 と う と 大 部 な 節
用 集 一 冊 を 食 べ て し ま っ た と い ふ 事 だ 」 ( 薄 田 泣 董 『 完 本 茶 話 』、 冨 山 房 文 庫 、 上 一 三
六 頁 )。
こ の 一 節 を 読 ん で 、 ま さ に 「 腑 に 落 ち ぬ 」状 態 か ら 解 放 さ れ た の だ か ら 、 「 腑 に 落
ち た 」( ? ) こ と に な る の で あ ろ う か 。つ ま り 覚 え る の は 当 時 の 感 覚 で は 頭 で は な く 「 腑 」
で覚えたのであり、 それを食べたのは 「腑」 にしまい込むことによって忘れるのを防ぐ
た め で あ っ た と い う の が 、 私 の 「 大 発 見 」 で あ る ( 知 る 人 ぞ 知 る で し た な 。)( 初 出 『 蒼
蒼』第五号、 八五年七月一五日発行)
《追記》阿部善雄氏は一九八六年五月一○日、
急 性 心 不 全 の た め 急 逝 さ れ た 。 『 駈 け る 入 り 農 民 史 」 ( 至 文 堂 、 一 九 六 五 年 )、
『目
明し金十郎の生涯』 (中公新書、 一九八一年) は、 わが故郷の近世史、 わが精神的ル
ーツである。
魂に触れる毛沢東批判
『百姓』 の社長陸鏗の胡躍邦インタビュー (第九七期、 六月一日刊) は、 こちら
がハラハラするような質問を胡躍邦にぶつけて、 大陸の監獄で二二年を生きた老ジャー
ナ リ ス ト の 反 骨 精 神 を 遺 憾 な く 発 揮 し て い る 。陸 は 王 若 水 に 会 い た い 、 し か も 王 に 迷 惑 の
か か ら な い よ う に 、 と 条 件 を つ け る 。胡 耀 邦 曰 く 、 王 若 水 で あ ろ う と 王 若「 火 」 で あ ろ
うと、 同志なのだから、 アンパイしてあげましょう。 かくて王若水の健在ぶりは確認さ
れ た の だ が 、 こ の 王 若 水 、最 近「 智 恵 の 痛 苦 」 な る エ ッ セ イ を 『 青 年 論 壇 』三 月 号 に 書
い た (『 争 鳴 』 六 月 号 に よ る )。 一 九 七 二 年 王 若 水 は 周 恩 来 の 極 左 批 判 の 指 示 に 基 づ い て 、
紙 面 の 編 集 を 始 め た が 、 ま も な く 張 春 橋 、姚 文 元 か ら 叱 責 さ れ る 。そ こ で 王 若 水 は 毛 沢 東
に 直 訴 状 を 書 い た 。あ に は か ら ん や 、 王 若 水 を 初 め と す る 『 人 民 日 報 』編 集 部 の 幹 部( 胡
績 偉 を 含 む ) は ま た も や 逆 に 叱 ら れ 、「 極 左 批 判 」 批 判 が 毛 沢 東 の 指 示 に よ る も の で あ る
ことを思い知らされた。 王若水の 「痛苦に満ちた思索」 はこのときに始まった。 王若
水が熱烈に擁護してきた文化大革命とはいったい何であったのか、 「晩年の誤り」 にす
ぎないとして可能な限り責任を回避させてきた毛沢東評価は果たして正しいのか、 王若
水 の 疑 惑 は 深 ま る 一 方 で あ っ た 。文 革 の 責 任 を 林 彪 、 四 人 組 に か ぶ せ る だ け で は い け な い 、
毛沢東と周恩来の矛盾に触れずに、 単に四人組が周恩来を打倒しようとしたと説くがご
ときは、 正当な文革評価とはいいがたい、 というのが王若水の毛沢東再批判の骨子らし
い。 「四人組ではなくて、毛沢東を含めた五人組ではないか」 とは西側ではかねて行わ
れてきた議論であるが、 王若水の証言はこの議論を裏付けた形である。
矢吹晋『逆耳順耳』
18
しかも王若水は八三年秋、 「反精神汚染」 のなかで、胡績偉とともに批判され、解
任された経緯が、 七二年の右傾批判と酷似しているとして胡喬木、 deng力群ら保守
派 に 一 矢 を 報 い て い る ら し い の で あ る か ら 、 こ の 論 文 は 見 逃 せ な い (「 知 恵 の 痛 苦 」 は
香 港 『 鏡 報 』 五 月 号 に 転 載 さ れ て い ま し た )。
毛沢東の前妻賀子珍の発言も面白い。 五九年の廬山会議の際に、解放後初めて江青夫
人の目を避けて(?) 毛沢東に会ったとき、 毛はその直前に彰徳懐を怒鳴りつけた興奮
さ め や ら な か っ た 。賀 は そ の 罵 声 を 直 接 聞 い て い る 。 「 潤 之 、 お べ っ か 使 い よ り は 、 ウ
ル サ イ ば あ さ ん の 方 が あ り が た い と 思 う け れ ど … … 。 魏 徴 の よ う な 人 は 得 難 い ば ず よ 」。
「 お 前 は 中 央 に い な い か ら 、事 情 を 知 ら ん 」― ― ― こ れ が 毛 沢 東 の 答 え で あ っ た( 原 載『 文
匯 星 期 増 刊 』、 『 争 鳴 』 六 月 号 に よ る )。
林 青 山 ら が 六 四 年 五 月 二 九 日 に 発 表 し た 「 一 分 為 二 と 合 二 而 一 」 は 、中 央 党 校 校 長
楊 献 珍 の 失 脚 の 直 接 的 原 因 と し て 、文 革 前 夜 の 理 論 闘 争 の 一 コ マ と し て 重 要 で あ る 。 こ の
林 青 山 が『 社 会 科 学 評 論 』
( 八 五 年 一 期 )に 、 か つ て の い き さ つ を 書 い て い る ら し い 。 六
四年六月中旬のある日、毛沢東は中央党校の 「学員」 全部と講師以上の教員を人民大会
堂 に 呼 び つ け 接 見 し た 。毛 沢 東 は 会 場 に 入 る や 、第 一 列 に 並 ん だ 中 央 党 校 正 副 校 長 、 学 員
代 表 ら と 一 人 一 人 握 手 し た 。楊 献 珍 の 前 に 来 る や 、 知 ら ん 顔 し て 飛 び 超 え 、次 の 艾 思 奇 と
に こ や か に 握 手 。人 々 は 期 せ ず し て こ の 尋 常 な ら ざ る 挙 動 に 注 目 し た 。 「 私 の 脳 裏 に は ピ
ンと来た。 これは不吉な兆しではないのか。 楊献珍老と関係の密接な人はみな楊老のこ
れ か ら の 運 命 を 危 惧 し た 。 『 光 明 日 報 」が 皮 切 り の 文 章 を 発 表 す る や 、 中 央 党 校
哲学
教研室のすべての力がこの批判運動に投入された」
( や は り ネ タ 元 は『 争 鳴 』 六 月 号 )。私
の記憶によれば、王若水はこの論争において批判派の急先鋒であった。私はこのとき王若
水の名を覚え、 その論理に共感したのであった。 これら三つのエピソードは五九年、 六
四 年 、
七 二 年 に お け る 毛 沢 東 の 「 皇 帝 」 作 風 を 示 し て い る ( 悲 し い 哉 )。
(初出 『蒼蒼』第五号、 八五年七月一五日発行)
胡喬木の変身
胡耀邦が八五年二月八日に中央書記処会議で発言した「党の新聞工作について」は、
『 人 民 日 報 』 四 月 一 日 付 で 公 表 さ れ た 。『 光 明 日 報 』 に は 翌 一 五 日 付 で 転 載 さ れ た 。 そ の
内 容 は 日 本 の 新 聞 で も 大 き く 紹 介 さ れ た 。た と え ば『 朝 日 』は 「 中 国 に 民 間 紙 い ら ぬ 」 「 胡
耀 邦 総 書 記 が 社 会 主 義 報 道 で 見 解 」「 マ ス コ ミ ” 自 由 化 ” に ク ギ 」 と 北 京 特 派 員 電 を 掲 げ
た。 この胡耀邦発言は民主化の旗手のものであるだけにとりわけ注目された。 ただ、 私
に は 同 じ『 光 明 日 報 』の 二 日 前 の 記 事 、 す な わ ち 一 三 日 付 一 面 の 左 下 に 罫 で 囲 ん で 掲 載 さ
れ た 政 治 局 の イ デ オ ロ ー グ ・ ナ ン バ ー ワ ン た る 胡 喬 木 (「 建 国 以 来 の 若 干 の 歴 史 問 題 の 決
議」の起草責任者)の文章のほうがはるかに興味深く思われた。 それは 「経済改革問題
を哲学面から解明することについての初歩的思索」 という一文である。 四○○字三枚強
の短い文だが、 二つの部分に分かれている。
一、 経済改革には哲学面から考察すべき問題が少なくとも四点ある。
矢吹晋『逆耳順耳』
19
① 社 会 の 歴 史 の 段 階 性 の 問 題 。社 会 主 義( 共 産 主 義 ) は 二 つ の 段 階 だ け で あ る の か 、
それとも若干の段階があるのか、 あるいは二つの段階がそれぞれ若干のサブ段階に分か
れるのか。 「これは経済、 政治、 社会、 道徳等の発展の実際状況の研究から出発すべ
き で あ り 、 マ ル ク ス ・ エ ン ゲ ル ス の な ん ら か の 想 定 か ら 出 発 し て は な ら な い 」。段 階 の 変
化は改革の問題なのか、 革命の問題なのか。 これに関連して資本主義、封建主義の各発
展段階およびこれらの発展段階における民族的特殊性の問題を分析しなければならない。
② 社会主義社会の生産力と生産関係の矛盾の問題、 下部構造と上部構造の矛盾の問
題 。精 神 労 働 と 肉 体 労 働 、都 市 と 農 村 、 二 種 類 の 公 有 制( 集 団 ・ 全 人 民 ) の 矛 盾 の 問 題 、
「これらの問題はすでにマルクス・ エンゲルス ・レーニン・スターりンの想定あるいは
論断とは違っており、 新旧の歴史的事実から出発してこれから問題を分析する必要があ
る。このほか分業の問題がある。 すなわち理論的・実践的に分業を消滅しうるのか、 消
滅すべきなのか、 あるいは性質と形式において変化するだけなのか。 いわゆる労働力の
所有制の問題があり、 分業はまた人間の全面的発展をいかに理解するかという問題とも
関 わ る 。以 上 の 問 題 を 検 討 す る 際 に は 、 コ ン ピ ュ ー タ ー ・ ロ ボ ッ ト の 普 遍 的 な 採 用 以 後 の
状況をにらんで行わなければならない。国家あるいは”管理処”の機能は社会主義社会で
は 拡 大 す る の か 、縮 小 す る の か[ こ れ は 当 面 の 具 体 的 国 際 問 題 に 関 わ る 〕、複 雑 化 す る の か 、
単純化するのか、専門化するのか、 それとも普通化するのか。 コンピューター・ネット
ワークの発展によっていかなる変化が生ずるのか。
③ 社 会 主 義 社 会 の 各 法 則 の 相 互 関 係 あ る い は 法 則 の 体 系 〔「 規 律 系 統 」〕 の 問 題 。
④ 社会主義制度下の全人民、集団、個人の相互関係。 「生産責任制にはなぜこのような
優越性があるのか。―――これは社会における個人の積極的作用という倫理性の問題に関
わっている。 ここから分かるように、 社会主義社会は一つの大カルテルのもとにあらゆ
る 労 働 者 が そ こ で 働 く と い う 構 想 は 非 現 実 的 で あ り 、 不 可 能 で あ る 。生 産 責 任 制 は 計 画 経
済 の 旧 い 枠 を 変 え た だ け で な く 、 生 産 手 段 公 有 制 の 旧 い 枠 を も 変 え た 。こ こ に は 根 本 的 な
問 題 が 含 ま れ て い る 」。
二 、 社 会 科 学 工 作 者 は 「 控 制 論 ( サ イ バ ネ テ ィ ク ス )」、 「 信 息 論 ( 情 報 論 )」、 「 系
統 論 ( シ ス テ ム 論 )」、 「 人 工 智 能 ( a r t i f i c i a l I n t e l l i g e n c e )」 を 学 習 、 宣 伝 、 応 用 し な
ければならない。 マルクス主義を発展させるには科学上のこれらの重大な発展を離れて
は考えられなど。 これらはすべて高等数学に関わるが、 おそらく多くの同志はこれにた
い へ ん う と い で あ ろ う 。「 要 す る に こ れ は 哲 学 と の 関 係 が 密 接 に あ る ば か り で な く 、 経 済
学 、 と り わ け 経 済 予 測 、 技 術 経 済 、指 導 性 計 画 、 社 会 主 義 市 場 な ど と も 密 接 に 関 連 し て
い る 。 「 模 糊 邏 輯 」( f u z z y l o g i c )、「 模 糊 数 学 」 ( f u z z y m a t h e m a t i c s ) も 同 じ で あ る 。
ど う や ら 保 守 派 胡 喬 木 は 開 明 派 胡 耀 邦 と 役 割 分 担 を 変 更 し た か に み え る 。
(一九八五年七月執筆、未発表)
恐 ろ し き 」、 も の 、 幽 霊 、 日 本 語 、 中 国 語
暑 い 夏 休 み だ が 、 避 暑 地 へ 行 く よ う な 優 雅 な 身 分 で は な い か ら 、寝 そ べ っ て 『 鄧 小 平
矢吹晋『逆耳順耳』
20
文 選 』 を 読 む 。 引 用 の 必 要 を 感 じ て 、 念 の た め 「 東 方 書 店 +北 京 外 文 出 版 社 (共 同 出 版 )」
の邦訳書を開いて驚いた。
「 軍 隊 を 整 頓 す る 任 務 」( 一 九 七 五 年 七 月 一 四 日 ) の な か に 吹 の 一 節 が あ る 。
例 文 ①「 一 部 の 部 隊 の 派 閥 性 は 逆 に ま た 地 方 に ま で そ の 影 響 が お よ び 、 地 方 の 派 閥 性
の 問 題 を 解 決 す る う え で 妨 げ と な っ て い る 。左 派 支 持 の 部 隊 が 地 方 か ら 引 き 揚 げ て し ま い 、
人 間 は す で に 離 れ て し ま っ て い る の に 、 そ の 影 響 が ま だ 残 っ て い る わ け だ .地 方 の 問 題 が
軍 隊 と か か わ り が あ る と い う の は そ の た め で あ る 」 ( 二 六 夏 )― ― ―「 部 隊 の 派 閥 性 」が
「 地 方 の 派 閥 性 」を も た ら し て い る 、
「 地 方 の 問 題 」 は「 軍 隊 と か か わ り が あ る 」 と い う
わけだ。 ここで日本語「地方」 と訳された箇所の原文は中国語 「地方」である。 この
訳は正しいか? おそらく誤訳である。鄧小平のいわんとするところは 「部隊の派閥性」
が (中央に対する地方ではなく) 「部隊以外の世界に対して」派閥性をもたらしたと指
摘しているのだ。
「 軍 隊 と か か わ り が あ る 」の は ( 中 央 に 対 す る 地 方 で は な く )
「軍隊以外
の問題」とである。
例文②「地方の派閥性解消を援助して、大衆の団結をうながすよう軍隊の同志に要求
し て も 、 な か に は こ の 方 針 を 実 行 に 移 さ な い 者 が い る 」( 二 七 頁 ) ― ― ― 「 軍 隊 の 同 志 」
に対して 「軍隊以外の一般社会の人々」 の派閥性解消を援助するよう求めたのである。
例文③「指導グループの軟弱、怠惰、 散漫といった問題は地方にも、 軍隊にもある
……これらの問題は、 地方においては最近わりに速やかに、よく解決されているが、 軍
隊 で は や や 遅 れ て い る 」 ( 三 七 頁 )― ― ― 「 地 方 」 と「 軍 隊 」が 対 に な っ て い る こ と は
明らかだ。
例文④「軍隊があまりにも多く地方所有の家屋、 土地を占有していることに、 地方
の人はかなりの不満を持っている。 返すべきものは返すのが当然である。家屋、 土地の
うち、 地方がかって使っていなかったので、 軍隊が使うことにしたものもあるが、 強制
的 に 占 有 し た も の も あ る 」 ( 二 九 頁 ) - - - - -「 軍 隊 」 が 「 非 軍 隊 」 所 有 の 家 屋 、 土 地 を 「 占
用・占有」 したのである。
「 軍 隊 は 教 育 ・ 訓 練 を 戦 略 的 位 置 に 高 め る べ き で あ る 」( 一 九 七 七 年 八 月 二 三 日 ) 。以 後
紙幅がないので頁数のみ記す。 九一、 一二〇、 一二一、一二二、一二四頁に見える。
「 軍 隊 の 精 鋭 ・ 簡 素 化 を は か り 、 戦 闘 力 を 高 め よ う 」( 一 九 八 ○ 年 三 月 一 二 日 ) か ら
例を一つあげれば三八二頁にある。
「軍事委員会の座談会における講話」
(一九八二年七月四日) の例は五五五頁にある。
以 上 の 例 文 に お け る 中 国 語 「 地 方 」 を 日 本 語「 地 方 」 と 置 き 換 え る だ け で は 、意
味が通じないですね。 この訳書は 「中共中央マルクス・エンゲルス・レーニン・スター
リン著作編訳局」 によって翻訳されたことが明記されており、 訳者として陳弘氏以下一
○人の中国人、 「翻訳更訂」 として川越敏孝、 富張繁両氏の名がある。 「権威ある編
訳局訳だからといって鵜呑みにはできないこと、 お分かりでしょうか。 まことに遺憾な
がら私の友人たちの訳した『鄧小平は語る』 (上下巻、 風媒社、 一九八三年) も、複
数の訳者がすべて全く同じ誤りを犯している。もって現代中国論の弱点が知られる。
矢吹晋『逆耳順耳』
21
こ の 弱 点 が ど こ に 由 来 す る か 、読 者 諸 兄 の ご 賢 察 に 待 つ ほ か な い が 、戦 後 四 十 年 の 「 時
の流れ」 が誤訳の真犯人であるかもしれない。
『 日 本 国 語 大 辞 典 』縮 刷 版 、 第 七 巻 ( 昭 和 五 五 年 一 ○ 月 刊 ) の 三 八 七 頁 を 開 い て み
よ う 。 「 ち - ほ う〔 地 方 〕 ③ 旧 軍 隊 で 、兵 営 外 の ”一 般 社 会 ” を い う こ と ば 」 と あ る 。
『学研国語大辞典』一二三七頁には、 同じ説明のほかに例文まである (丸山真男『超国
家 主 義 の 論 理 と 心 理 』 か ら の 一 文 で あ る )。 然 り 、
「中国屋の日本語知らず」 というお話
で あ り ま し た 。
ユ ー レ イ も コ ワ イ が 、
コ ト バ も コ ワ イ で す ね 。
(初出 『蒼蒼』第六号、 八五年九月九日発行)
中隊長が連隊長に化けた話
今年 [一九八五年] も関係者のたいへんな努力を経て、
「中国映画新作フェスティバ
ル 」が 行 わ れ た 。 私 は 友 人 か ら 前 売 り 切 符 を わ け て も ら い 、三 日 間 通 い 、六 本 全 部 を 見 た 。
それらはそれぞれに面白く、 大いに得るところがあったと感謝しつつ、 「解説」 に小言
を い う 。 プ ロ グ ラ ム の 二 ○ 頁 で 中 国 映 画 界 に く わ し い と お ぼ し き 人 物 が「 戦 場 に 捧 げ る 花 」
を解説している。
「 物 語 は 連 隊 長 梁 三 喜 、小 隊 長 革 斤 開 来 の 所 属 す る 第 九 連 隊 に 新 し い 政 治
指 導 員 趙 蒙 生 が 配 属 さ れ て き た こ と に 始 ま る 」。
映画のヒーロー梁三喜は果たして 「連隊長」 であろうか。映画のなかでは 「連長」
「 連 長 」 と よ ば れ て い る 。「 連 長 」 が 新 任 の 「 指 導 員 」 た る 趙 蒙 生 を 部 下 に 紹 介 す る シ
ーァがあるが、 部下たちはざっと百人前後であったろう。 これは 「連隊」 でなく、「中
隊 」な の で あ る 。 「 連 隊 」 は 「 中 隊 」よ り 二 階 級 上 で あ る 。 つ ま り 、 「 排 」= 小 隊 、
「連」=中隊、 「営」=大隊、 「団」=連隊、 「師」=師団、 「軍」=軍団、 となっ
ているのであるから、 中隊と連隊では大違いなのである。
部 下 た る 兵 上 の 数 が 一 桁 ち が う だ け で は な い 中 国 の 人 民 解 放 軍 に お い て 、「 中 隊 」 が
いかに重要な位置を占めているかを知るには、 たとえば 「南京路上好八連」 を想起すれ
ばよい。 まさに 「連」 こそが解放軍の基層単位なのである。 したがって、 そこに 「政
治指導員」がおかれている。
この 「政治指導員」 あるいは略して 「指導員」 とは、 なにか。 『辞海』の説明を聞
こう。 「解放軍の中隊レベルの政治工作人員であり、 中隊長と同じく全中隊の首長であ
り、 全中隊の工作に共同で責任を負うo上級政治機関、上級首長、 当該中隊党支部の領
導 下 で 、 党 支 部 工 作 と 政 治 工 作 を 行 う 」。
この説明から明らかなように、 解放軍の中隊には党支部がおかれており、 軍の政治工作
にとって指導員は中核的役割を果たしているわけである。
「 営 」す な わ ち 大 隊 に は 「 政 治 教 導 員 」が い る 。 大 隊 党 委 員 会 ( 党 支 部 で は な い ) の
下 で 政 治 工 作 を 行 う 。 そ し て 「 団 」す な わ ち 連 隊 レ ベ ル 以 上 の 政 治 工 作 は 「 政 治 協 理 員 」
に よ っ て 行 わ れ る と さ れ て い る が 、 こ の 用 語 は 頻 繁 に は 使 わ れ て い な い よ う で あ る 。「 団 」
に は 「 政 治 処 」が お か れ 、 「 師 」 レ ベ ル 以 上 に は「 政 治 部 」 が お か れ て い る 。 そ こ に
は当然「政治委員」がいよう。
以 上 を 整 理 す る と 、連 = 中 隊 = 指 導 員 、 営 = 大 隊 = 教 導 員 、 団 = 連 隊 = 協 理 員 、 師 = 師
矢吹晋『逆耳順耳』
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団=政治委員、 軍=軍団=政治委員、 となるであろう。
「連長」をなんとなく「連隊長」 と置き換える無神経さが気になるのだ。もう一 つ。
「 司 令 官 役 の 童 超 は … … 」と あ る が 、 こ れ も い さ さ か 暖 昧 で あ る 。解 放 軍 の 立 て 直 し 役 を
示 唆 し て カ ッ コ イ イ 役 割 を 与 え ら れ て い る こ の 人 物 は 「 軍 長 」す な わ ち 軍 団 長 な の で あ っ
て、 「司令官」 の位はもう少し上なのである。
以前、KACHO という日本紹介の映画を見たことがある。 カチョーこそ会社国家・
日本の花形。 カチョーがビジネスを支えているからこそ、 この映画が作られた。解放軍
に お け る 中 隊 長 ・ 指 導 員 の 機 能 を 理 解 す る に は 、課 長 、 課 長 補 佐 を イ メ ー ジ し て み て は ど
う か 。( 一 九 八 五 年 一 二 月 執 筆 、 未 発 表 )
基本建設はインフラか
中 国 で い う 基 本 建 設 と は 、イ ン フ ラ で は な い の で す よ 、と 私 は 口 を 酸 っ ぱ く し て
学 生 に 語 っ て い る の だ が 、私 の 声 は 空 し く 消 え て 行 く 。そ こ で ま た 書 く 『
( 中国語』
85 年 8 月 号 で も 書 い て い ま す )。 『 エ コ ノ ミ ス ト 』 85 年 11 月 26 日 号 の 34 ペ ー
ジ を 開 く と 、 か の 有 名 な 都 留 重 人 氏 が こ う 発 言 し て い る 。 「 現 在 、 基 本 建 設 ----わ れ わ れ は イ ン フ ラ ス ト ラ ク チ ャ ー と い っ て い る の で す が -------- は 大 体 に お い
て 国 家 な い し 省 の 管 轄 下 で し ょ う 。交 通 機 関 と か 港 と か が ち ゃ ん と 足 並 み そ ろ わ
な い た め に ネ ッ ク に な る 」。い ま や 日 本 初 の ノ ー ベ ル 経 済 学 賞 の 有 力 候 補 に 擬 せ
ら れ て い る 都 留 教 授 が イ ン フ ラ と 企 業 の 設 備 投 資 を 混 同 し た と し た ら 、ノ ー ベ ル
賞 が 逃 げ て い こ う 。だ が 、基 本 建 設 と い う 中 国 語 を 勝 手 に キ ホ ン ケ ン セ ツ と 読 み 、
基 本 に な る 建 設 な ら ば イ ン フ ラ と 同 じ で あ ろ う 、と 手 前 勝 手 な 解 釈 を し て 、そ れ
が 堂 々 と 天 下 の『 エ コ ノ ミ ス ト 』に 掲 載 さ れ る 。こ う い う 奇 妙 キ テ レ ツ が 横 行 し
て も 、誰 も 何 も い わ な い 。こ う い う 土 壌 に お い て 真 の 中 国 経 済 論 が 成 立 す る で あ
ろうか。
[追 記 ]イ ン フ ラ は 「 基 礎 設 施 」 と 訳 さ れ る 。 (初 出 『 蒼 蒼 』 7 号 、 86 年 1 月 26 日 )
GNPを解せない『朝日新聞』
八つ当たりのついでに、 『朝日新聞』 の悪口を。 九月の党全国代表会議で、 趙紫陽総
理が第七次五カ年計画への《建議》説明したとき、 「国民生産総値」 という言葉が含ま
れ て い た 。 『 朝 日 新 聞 』( 八 五 年 九 月 一 九 日 ) は 、 こ れ を 「 国 民 経 済 生 産 総 額 」 と 訳 し
た( 北 京 一 八 日 - 加 藤 特 派 員 電 )。
その一節を引用すると 「趙首相はさらに国民経済の
安 定 的 発 展 を 強 調 、今 後 五 年 間 の 成 長 目 標 に つ い て 、 〈 国 民 経 済 生 産 総 額 の 年 平 均 伸 び 率
を 七 % 、 農 業 は 六 % 、 工 業 は 七 % 〉 と の ガ イ ド ラ イ ン を 示 し た 」。
東 京 の デ ス ク は 、 こ れ を 見 出 し に 使 い 、「 生 産 総 額 = 七 % 、 農 業 = 六 % 、 工 業 = 七 % 」
と罫線で囲んだ。
実 は 私 は ま ず こ の 見 出 し に 驚 い た の だ 。「 生 産 総 額 」 と は い っ た い 何
で あ ろ う 。経 済 を 勉 強 し て い る 省 に と っ て こ れ は 大 き な 衝 撃 で あ っ た 。 二 度 読 み 返 し て あ
る程度の察しがついたところで、通信社に勤める友人から電話が入った。まもなく原文
矢吹晋『逆耳順耳』
23
(「 国 民 生 産 総 値 」) が 入 り 、 私 の 予 感 は 的 中 し た こ と が わ か っ た 。 こ れ は 日 本 語 の 「 国
民 総 生 産 」 す な わ ち G N P の 中 訳 な の で あ る 。 私 が こ の 訳 語 を 確 認 し た の は 、『 中 国 統 計
年 鑑 一 九 八 三 年 版 』 ( 一 九 八 三 年 一 ○ 月 刊 )の 付 録「 主 要 統 計 指 標 解 釈 」の 頁 に よ っ て で
あ る 。 あ の こ ろ 盛 ん に 「 社 会 総 産 値 」(「 社 会 総 生 庶 額 」) の 限 界 が 自 覚 さ れ 、 「 国 民 生 産
総値」というブルジョア的概念との異同が公的な場において初めて検討されたということ
なのだ。こういうコメントが日本の中国ジャーナリズムにあったかどうか、知りたいとこ
ろ で あ る 。( 初 出 『 蒼 蒼 』 第 七 号 、 八 六 年 一 月 二 六 日 発 行 )
クルクル変わる統計の怪
一九八五年七月号を創刊号として、
『 中 国 統 計 月 報 』が 月 刊 で 出 る よ う に な っ た の は 喜 ば し
い。
「 実 事 求 是 」が 大 切 で あ り 、大 い に 期 待 さ れ る 。 と こ ろ が わ が 友 人 、 早 速 困 り 果 て た 。
数 字 か 食 い 違 う の で あ る 。 創 刊 号 の 六 三 頁 で 「 中 国 の 輸 出 」 を 見 る と 、「 海 関 統 計 の 数 字 」
と し て 、 上 表 第 一 欄 の 数 字 (表 ▲ 省 略 )が 出 て い る 。 単 位 は 億 ド ル で あ る 。 と こ ろ が 翌 八 月
号の数字は上表第二欄のごとくである。 そして九月号をみると、第三欄のごとくである。
一 九 八 三 年 後 半 か ら 約 二 カ 年 の う ち 、 一 致 し て い る の は 、八 三 年 一 ○ 月 、 一 二 月 、 八
四年二月、一○月、 八五年四月、 五月の八カ月にすぎない
残 り の 食 い 違 い 月 は 、 七 月 と 九 月 が 一 致 し て い る も の ( 八 四 年 一 二 月 ま で )、 七 月 と
八 月 が 一 致 し て い て 九 月 に な っ て 変 わ っ て い る も の ( 八 五 年 一 ~ 三 月 )、 の 二 種 類 に 分 け
られる。
これは一体どうしたことなのか、 国家統計局の回答あるいは具眼の士のご教
示を得たいものである。
(初出 『蒼蒼」第七号、 八六年一月二六日発行)
記念パーティ始末記
中 村 公 省 の 五 臓 六 腑 の 一 部 が キ リ キ リ 病 み だ し た の は 、 二 月 の 初 旬 で あ っ た か 、中 旬 で
あったか。彼はこのムシをかねて養っていて、ムシは主人に対してシグナルを送るのであ
る --一 《 過 労 な る べ し 。 休 ま れ た し 》 静 養 ど こ ろ か 、 三 月 末 の シ ン ポ ジ ウ ム 準 備 と 『 毛 東
沢集補巻』の最終巻『毛沢東著作年表』の出版のために、キリキリ舞いの忙しさは加速す
るばかり。しかも中村の助手たるK夫人が、病いに倒れた単身赴任の夫の看病のために、
東京を離れる次第となった。しかし、最大の伏兵は最後まで姿を現さなかった。それは何
か 。 < 雪 将 軍 > で あ っ た .シ ン ポ ジ ウ ム の 当 日 、私 は 午 前 十 一 時 前 に 家 を 出 た 。私 の 住 む 玉
川学園から会場の四谷までは一時間半あれば十分である。私は中村の指示した時間よりも
三十分早く着く予定で家を出た。電車は新百合ケ丘で急行に乗り換えたあたりからノロノ
ロ 運 転 に な り 、 一 時 間 以 上 閉 じ 込 め ら れ た あ げ く 、多 摩 川 を 渡 っ た と こ ろ で 完 全 ス ト ッ プ 、
着 い た の は 急 行 停 車 駅 で は な い 狛 江 で あ っ た 。 「 運 転 再 開 の 見 込 み は あ り ま せ ん 」と の 冷
たいアナウンスのみ。
誰もが公衆電話を探す。長蛇の列.近くの喫茶店に入ろうとする
が 満 席 、や む な く 別 の 電 話 を 探 し 、 つ い に 店 じ ま い し よ う と し て い た 八 百 屋 の 店 先 で 冷 た
い 雪 に か じ か ん だ 指 で 会 場 の ダ イ ヤ ル を 回 す 。さ て 、間 に あ わ ぬ と の 連 絡 は つ い た も の の 、
これからどうする?
いまやタクシーも動いていない。ようやく空席のできた喫茶店で熱いコーヒーを一杯。
矢吹晋『逆耳順耳』
24
これはうまかったですね。右往左往しているわが隣人の姿を見ていると妙に落ち着いてき
ます。わが家と新宿の中間ですが、行くに行けず、帰るに帰れず。狭い喫茶店に居座るに
もいかず。そのうちに用賀から都心への地下鉄は動いていることがわかりました。ではそ
こまでどういくか。ともかく世田谷街道へ出てみました。タクシーはやはりない。そこで
思いきってノロノロ運転のトラックを呼びとめ、乗せてもらう。環状八号線までいけば、
用 賀 は す ぐ で す 。や れ や れ と 思 っ た の も つ か の 間 、道 路 の 渋 滞 は ま す ま す ひ ど く 、 三 十 分
乗せてもらったのに進んだのは五百米ほどにすぎないありさま。
親切な運転手さんに感謝しつつも、少し歩いてみる。道路地図を見せてもらったので、
地理がのみこめたからです。雪道を歩くこ二時間余り、 ついに用賀に着く。三時半です。
万 歳 と 思 い き や 、 駅 が 大 混 雑 し て い ま す 。「 い ま し が た 電 車 は 全 面 ス ト ッ プ し ま し た 」 と
の説明。そのうちバスなら動いているとう話が耳に入りました。そこでバス停までまたし
ば ら く 歩 く 。 つ い に 満 員 の バ ス が き ま し た 。と も か く 乗 れ ま し た 。渋 谷 に 着 き 、地 下 鉄 に
乗り、会場に着いたのは、 シンポジウム終了直前の五時十分前。延々六時間、 こうして
私 の「 小 さ な 長 征 」が 終 わ り ま し た 。道 中 脳 裏 に 浮 か ん だ の は 、毛 沢 東 の 詞〈 雪 〉で あ り 、
「 北 国 風 光 、千 里 泳 封 - - - - - - - - - 」の キ リ リ と し た 寒 さ と 東 京 の 牡 丹 雪 一 の 重 さ の 対 照 で し た 。
さてシンポジウムの司会の役目は竹内實先生が代わって下さったので、 これは意図せざ
る よ い 結 果 と な っ た わ け で す が 、問 題 は パ ー テ ィ の 出 席 者 の 足 の こ と 、会 費 の ア シ の こ と 。
私 自 身 は シ ン ポ ジ ウ ム の 議 論 は と も か く( 失 礼 ) 、酒 は 飲 も う と い う 精 神 で 歩 き つ づ け た
次第ですが、西武線では衝突事故が発生したという大混乱の当日でしたから、足の便のよ
い方々、あるいは心掛けがよく煎夜から都内に待機しておられた方々を除けば、参加でき
な か っ た こ と は 皆 様 の ご 推 察 の 通 り で あ り ま す ( さ す が に パ ネ リ ス ト は 全 員 参 加 で し た )。
そこで出版の完成を祝い、関係者の労をねぎらい蒼蒼社を激励鞭撻するはずの会が思わ
ぬ結果を招きました。出席ご予定で出席出来なかった方々の会賛分ン十万がそっくり赤字
と な っ た わ け で す 。 こ の 赤 字 は 主 催 者 た る「 愛 読 者 、発 起 人 有 志 」が 引 き 受 け る べ き で す
が、それはそれ、タテマエと実際がちがうのは天下のジョーシキでございまして、蒼蒼社
のツケとなっています。 ケジメをつけないと落ち着かぬという奇特な方からの会費送金
もいくつかありましたが、 そこまでお心配りを期待するのも、 ヒジョーシキ。というこ
と で 、い ろ い ろ と な い 知 恵 を し ぼ っ た 結 果 、シ ン ポ ジ ウ ム の テ ー プ を 起 こ し 、
『 蒼 蒼 』の ス
ペシャル・イッシューとして小冊子にまとめ、カンパくださった方々にお送りしようとい
う 妙 案 が 登 場 致 し ま し た 。 い ま そ の ブ ッ ク レ ッ ト を 編 集 中 で す の で 、ぜ ひ ご 一 読 願 い た く
ご案内申し上げます。
夜のパーーティはにぎやかな談笑のうちに終わりましたが、 そ
の席上「蒼蒼社はいい仕事をしたけれども、 これでつぶれるのか、 これからどうするの
か 」と い う 点 に 話 題 は 集 中 し ま し た 。パ ー テ ィ の 席 で 配 布 さ れ た 期 待 の 一 千 万 円 宝 く じ は 、
ど う や ら さ し た る 成 果 は な い よ う で し た 。『 蒼 蒼 』 9 号 、 1 9 8 6 年 5 月 2 6 日
半可通の学術交流
さ て 次 は 例 に よ っ て 、苦 言 を ひ と く さ り 。
「 異 文 化 へ の 適 応 と 創 造 ---中 国 の 西 洋 哲 学 事 情
矢吹晋『逆耳順耳』
25
か ら 」 と い う エ ッ セ イ が 『 朝 日 新 聞 』 に 載 っ た (一 九 八 六 年 一 月 七 日 付 夕 刊 ) 。 あ る 西 洋
哲学の研究者がある学術交流のために北京を訪れた印象を記したものである。
言語的制約の問題は思想の内奥にまで及ぶであろう。戦前にドイツでハイデッガーの講義
を 聞 い た と い う 七 十 七 歳 の 楊 教 授( 西 洋 古 典 )に 、ハ イ デ ッ ガ ー の 主 著 ”Z e i n u n d Z e i t " の
表題をどう訳するかと尋ねてみた。日本では『有と時』および『存在と時間』という二種
の邦題がある。
( 中 略 )ハ ィ デ ッ ガ ー の い う ”Z e i n " は 中 国 語 の " 有 " に は な ら な い の で あ る 。
で は " 存 在 主 義 " は 日 本 で い う ”実 存 主 義 " の 術 語 と し て 定 着 し て い る の で 、 こ れ も " ザ イ ン ”
の 訳 語 に は 使 え な い 。 楊 教 授 は 考 え こ ん で し ま っ た 。同 席 の 若 い 孫 助 教 授( 独 文 学 )も 困
った。そこで北京大学の哲学の老大家、洪教授に電話で尋ねることにした。しかし結局は
電 話 の 向 こ う で も 、 考 え あ ぐ ね る 声 が ひ び く だ け で あ っ た 」。
私はこの文に接して首をひねった。まず楊教授、孫教授、洪教授はなぜ姓だけなのか。
これは失礼ではないか。それに名前まできちんと書いてあれば、あとで確かめるすべもあ
ろ を と い う も の 。 「 ハ イ デ ッ ガ ー の 講 義 を 聴 い た 」こ と さ え あ る 老 教 授 が そ の 主 著 さ え 訳
せないということがあるだろうか。
「 独 文 学 の 若 い 教 授 」が 困 っ た と い う の は ほ ん と う だ ろ
うか。そしてわざわざ電話で尋ねた「北京大学の哲学の老大家」が「考えあぐねただけ」
というのはほんとうだろうか。 これではまるで、三人の中国人教授はアホウではないか。
『辞海』をちょっとめくってみよう。 ハイデッガーについて一七字二一行の説明がある。
"Zein und Zeit"は『 存 在 与 時 聞 』と 訳 さ れ て い る 。 「 存 在 主 義 」す な わ ち 実 存 主 義 の 項 目
を 引 く と 、「 生 存 主 義 」 と も 訳 す と あ り 、 キ エ ル ケ ゴ ー ル 、 ニ ー チ ェ 、 フ ッ サ ー ル 、 ヤ ス
パ ー ス 、 ハ イ デ ッ ガ ー 、 マ ル セ ル 、 サ ル ト ル 、ボ ー ボ ワ ー ル な ど の 名 と そ の 特 徴 が 完 結
に 説 明 さ れ て い る 。 ハ イ デ ッ ガ ー の 主 著 を 『 存 在 与 時 間 』 と 訳 し た こ と 、「 存 在 主 義 」 の
説 明 が 適 当 で あ る か 否 か は シ ロ ゥ ト た る 私 の 関 心 の 外 に あ る 。 『 辞 海 』と い う の は 、ご く
フツーの辞書なのであり、それに書いてある程度のことが専門家に分からないはずはある
ま い と い う の で あ る 。な お 、
『最新日中外来語辞典』
( 東 方 書 店 、 一 九 八 五 年 )で「 ザ イ ン 」
を引くと、 「存在、実存、 実体」という訳語が見える。
こ の 話 を マ ク ラ に し て 、筆 者 は「 国 際 学 術 交 流 と は 、最 終 的 に は 異 文 化 間 の“ 適 応 性 ”
と ”創造性” との交流に他ならない」と格調高く説いているのであるが、全くシラケま
す ね え 。ご く 単 純 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン さ え お ぼ つ か な い と 推 測 さ れ る 状 況 で 、な に が「 学
術交流」ですか。 こういう「学術交硫」がいかなる「成果」を生むのか興味津々ですね。
ヘーゲルを「黒格爾」と表記するのをみたとき、誰でも最初はカルチュア・ショックを受
け る も の 。そ の 先 が 問 題 な の だ 。 シ ョ ッ ク を 受 け た 話 に 一 般 論 を つ な い だ だ け で な ぜ 大 新
聞 の 文 化 欄 の 記 事 に な る の か 、 私 に は 理 解 で き な い の で あ る 。『 蒼 蒼 』 9 号 、 1 9 8 6 年 5 月
26 日
上海コミューンを扼殺したのは誰か
『 蒼 蒼 』 10 号 、 1986 年 7 月 26 日
一 九 七 六 年 の 暮 れ 、 フ ラ ン ス か ら 日 本 を 訪 ね た 漆 豪 ( 陳 慶 浩 )と 会 い 、李 一 哲 大 字 報
について話を聞き、さらにこの大字報に対して彼自身が校注を付した本を出版しているこ
とを教えられた。翌七七年一月に神田の書店でこの本を買い求め、改めて深い印象を受け
矢吹晋『逆耳順耳』
26
た こ と を い ま で も 記 憶 し て い る ( 李 一 哲 著 、漆 豪 校 注『 関 於 社 会 主 義 的 民 主 与 法 制 』香 港
和 尚 打 傘 出 版 社 、 七 六 年 六 月 刊 )。 こ の 本 を 読 ん で 考 え た こ と を 私 は 「 中 国 社 会 主 義 の 光
と 影 」に 書 い た ( 拙 著『 二 ○ ○ ○ 年 の 中 国 』所 収 )。間 も な く こ の 大 字 報 の 邦 訳 が 出 た ( 山
田 侑 平 、 小 林 幹 夫 訳 、 日 中 出 版 社 、 七 七 年 )。 こ の 訳 書 は フ ラ ン ス 版 か ら の 重 訳 と い う フ
レコミであったが、実際には中文からの訳であった。
一 昨 年 、 渡 辺 一 術 「 情 報 化 社 会 主 義 論 」( 論 創 社 、 一 九 八 四 年 五 月 ) が 出 た が 、 著 者
は二三度しか会ったことのない若い友人の私にわざわざお送り下さった。早速《第四章、
中国「社会主義」論》を開き、 《 ”解放”直後の中国) 》の解放に “ ” がついてい
る の に 感 心 し た り 、 《 中 国 「 社 会 主 義 」 ( 官 僚 制 社 会 主 義 )》 と い う 規 定 に う な ず い た り
した生けだが、著者が李一哲大字報の論評を七六年十月号の「方向感覚」に発表している
ことを知るに及び、その方向醸覚の鋭さに脱帽した。
渡辺一衛はいわば「業余の中国研究者」である。元来は素粒子論を専攻した物理学者
で あ り 、本 職 は 東 京 医 科 歯 科 大 学 の 教 授 で あ る 。彼 は 現 代 社 会 主 義 の ア キ レ ス 腱 を「 情 報 」
と「人権」とズバリ抉決する。この観点から中国「社会主義」を物理学者の冷静な頭脳と
社会主義への熱い心で観察し続けた。 こうした彼の目に映じたのは、 トロツキスト鄭超
麟 で あ り 、文 学 者 胡 風 で あ り 、五 七 年 右 派 の 譚 天 栄 、林 希 令 羽 、中 国 の 春 の 魏 京 生 、劉 青 、
徐文立、省無連の楊曦光、反出身論の遇羅克、文革中に死刑になった張志新、林昭であっ
た。
私 は 七 九 年 に『 中 国 ト ロ ツ キ ス ト 回 顧 録 』を 翻 訳 し 、そ の 前 後 か ら よ う や く 反 体 制 、非
体制の活動家にも少し注意を払うようになったが、まだまだ興味本位であり、渡辺一衛の
ような確固たる視点は持つに至っていない。実は、彼のこのような眼力は付け焼き刃とは
無縁なのであり、相当の年季が入っているのだ。彼は永らく思想の科学研究会の会員であ
り、思想を科学することについての訓練を積み、その方法論をもっている。物理学者とし
ての自然科学の方法論とは別に、思想の科学の方法論をもっているという意味では、渡辺
一衛は「業余研究者」であるどころか、まさに中国屋が逆立ちしてもマネのできないプロ
フェショナルなのだ。
ひるがえって私自身を含めて、中国屋たちの方向感覚の鈍さ、方法論夷狄の欠如はま
さにアマチュア以下というべきであり、それはほとんど趣味か道楽のレベルでしかない。
さて渡辺一衛のようなサムライが文化大革命の研究に取り組むとどうなるか、 その
答 え が 二 つ の 論 文 に 示 さ れ て い る 。第 一 論 文 は 、
「 湖 南 文 革 と 省 無 連 」で あ り 、第 二 論 文 は
「上海コミューンの希望と挫折」である。それぞれ加々美光行編『現代中国の挫折――文
化大革命の省察Ⅱ』 アジア経済出版会、 一九八五年三月刊) 、 同『現代中国のゆくえ
――文化大革命の省察』 (同、 一九八六年三月刊) に収められている。
第一論文の結論に近い箇所で渡辺はいう。
《「 中 国 は ど こ へ 行 く 」は「 社 会 主 義 」中 国 の
体 制 の な か で 新 し く 出 現 し た 支 配 の 構 造 を 、“ 官 僚 階 級 の 支 配 ” と し て 明 確 に 把 握 し た と
いう点では正しかった。しかし (中略) その中核を周恩来を頂点とする実務派官僚たち
と と ら え た の は 果 た し て 妥 当 で あ っ た ろ う か 》《「 社 会 主 義 」 官 僚 権 力 の 中 枢 を 実 質 的 に 握
矢吹晋『逆耳順耳』
27
る の は 、実 は ”革 命 ” を 呼 号 す る イ デ オ ロ ギ ー 官 僚 た ち で あ っ て 、実 務 ・ 経 済 官 僚 で は な
い。 つまり「紅」であって「専」ではない。
こ の こ と は 無 意 識 的 に 人 々 感 じ と ら れ る よ う に な る 》。 こ こ で 渡 辺 が イ デ オ ロ ギ ー 官 僚 と
い う の は 、〈 毛 沢 東 ・“ 四 人 組 ・ 林 彪 ら 、 つ ま り 文 革 派 そ の も の 〉 で あ り 、 李 一 哲 の 一 人 た
る王希哲はこの点を見抜くに至ったと分析している。
第二論文は上海コミューンの研究であり、コミューン理念の提出、実権派権力の破壊、
一 月 革 命 の 嵐 、 コ ミ ュ ー ン か ら 革 命 委 員 会 へ 、コ ミ ュ ー ン 挫 折 の 根 拠 、と い う 筋 書 で 上 海
コミューンの実像に肉薄している。
私 は 一 九 七 五 年 に 上 海 コ ミ ュ ー ン に つ い て 少 し 書 い た こ と が あ る (「 継 続 革 命 と 毛 沢
東 思 想 - - - - 上 海 コ ミ ュ ー ン の 意 味 す る も の 」『 国 家 論 研 究 」 第 七 号 、 一 九 七 五 年 ) 。 当 時
私は張春橋の説明にあわせてすべてを説明するような没主体的態度であったから、見えて
いなかった部分が少なくない。渡辺の分析から教えられたところは少なくない。
さ て 、 コ ミ ュ ー ン 挫 折 の 根 拠 と し て 渡 辺 は 、こ う 指 摘 す る 。 《 そ の も っ と も 根 本 的 な
理由は、 「コミューン」の理念による、下から上へと社会意志を構成するという原則と、
毛沢東の権力意志とはもともと互いに相容れえないものだったからである、といえるであ
ろう。
( 中 略 )完 全 に 公 平 な 選 挙 制 に よ っ て 権 力 が 構 成 さ れ た と き 、そ れ が 毛 沢 東 の 意 志 に
沿うものになるであろうという保証はどこにもなかった。そして事実紅衛兵たちの行動に
よって、それが現実のものになりそうな危険が見え始めたとき、毛沢東は直ちに、自らの
提 唱 し た「 コ ミ ュ ー ン 」の 理 念 に 背 を 向 け た の で あ っ た 》 《 造 反 派 の 管 理 能 力 の 欠 如 、そ
して造反派同士の権力争いも、
「 コ ミ ュ ー ン 」の 不 可 能 性 を 示 す 、第 二 、第 三 の 理 由 と い え
るであろう。 (中略) この管理能力の不在は、単に技術的なものというよりは、むしろ
人 間 的 な 信 頼 関 係 の 欠 如 に よ る と み る べ き で あ ろ う 。( 中 略 ) 造 反 派 の 「 赤 衛 隊 」 に 対 す
る勝利は、
「 道 理 」に よ る も の で は な く 、暴 力 に よ る も の に す ぎ な か っ た 。ま じ め な 労 働 者
た ち は む し ろ「 赤 衛 隊 」に 近 い 人 た ち で あ っ た 》 《 反 対 す る 側 は 自 立 性 が 高 い だ け 、相 互
の対立もよりはげしくなる。日本の新左翼運動の場合と同様であろう。自立した造反派が
「 連 合 し て 」社 会 構 造 を 立 派 に 管 理 ' 運 営 す る な ど と い う こ と は 、ほ と ん ど 望 み え な い と い
う こ と が 、 こ う し て 明 ら か に な っ た の で あ っ た 》。
こ こ ま で は 実 に 明 快 な 分 析 で あ る が 、最 後 に「 軍 の 問 題 」で 、達 人 の 手 元 が い さ さ か 狂
ったごとくである。通称『万歳』乙本の六七年一月二十七日付けの「葉剣英伝達」による
毛沢東発言を葉剣英自身の発言と誤解してしまったのである。 この結果、 「軍をただ自
己 の 支 配 の 手 段 と し て の み 使 お う 」と す る 毛 沢 東 と 、
「 軍 内 部 の 革 命 は 必 ず や る の だ が 、少
し あ と へ 延 期 」し よ う と す る 葉 剣 英 、 の 対 立 と い う 構 図 を 描 い て し ま っ た 。実 際 に は 、支
配のために軍を使う毛沢東が同時に軍内部の革命を延期しようと指示していたのであった。
このような大きな勘違いをなぜ犯したのか。彼は自分の理論に忠実であり、そのフレー
ムにふさわしくない事例をあてはめてしまったのではないか。 こういう論理的一貫性は
いかにも科学者にふさわしい。彼は第一論文の結論として、官僚権力の中枢を実務・経済
官僚では広くイデオロギー官僚とみる視点を提起した。この視点に基づいて、葉剣英=実
矢吹晋『逆耳順耳』
28
務 官 僚 = 専 、毛 沢 東 = イ デ オ ロ ギ ー 官 僚 = 紅 、と 認 餓 し た 。 こ こ か ら 紅 衛 兵 に と っ て の 敵
は、周恩来やその助手としての葉剣英ではなく、むしろ「革命を呼号する毛沢東、林彪」
であるという図式が広立する。上海コミューンに死を宣告する役割は、どうしても毛沢東
が担わなければならない。 こうして悪役毛沢東に対して、よりりべラルな存在としての
「 実 務・経 済 官 僚 」の 役 割 に た ま た ま 葉 剣 英 が あ て は ま る か に 見 え た 、 の で は な か ろ う か 。
私 自 身 は 毛 沢 東 は 最 後 ま で コ ミ ュ ー ン に こ だ わ り 続 け た と 読 む 。 『 万 歳 』丁 本 に お け る
張 春 橋 の 伝 え る 毛 沢 東 発 言( 六 七 年 二 月 ) に は 、死 児 の 年 を 数 え る 母 親 の 姿 が 浮 か ぶ 。 コ
ミューンの死亡理由は渡辺の挙げた理由のほかに (渡辺が深く考え続けながらなお保留
し て い る 問 題 、す な わ ち ) 決 定 的 な 要 素 と し て 軍 の 反 対 が 挙 げ ら れ な け れ ば な ら な い 。し
たがってあえて対立を明確にする形でいえば、葉剣英らの軍事委員会副主席グループこそ
が上海コミューンを捉殺した真犯人だというのが私のここでの仮説である。
中 国 人 留 学 生・楊 中 美 を ス カ ウ ト し た 米 国 人
『 蒼 蒼 』第 一 二 号〔 八 六 年 一 二 月 五 日 発
行〕逆耳順耳、八六年八月執筆
香 港 の 雑 誌『 中 報 』
( 八 六 年 七 期 )に 楊 中 美「 古 今 中 外 博 士 之 雑 論 」と い う エ ッ セ イ が 載 っ
た。中国の博士制度の淵源と性質、中国博士制度の演変と異変、新学と洋博士の興起、日
本博士制度の優劣長短、中国新博士制度についての雑談、の五節からなる。真面目な学者
というのは、軽い随筆を書いても古今中外の文献を渉猟し、いささかも手を抜くことがな
い。爪のアカでも煎じて飲むべし、と自らにいいきかせ熟読しようとするが、時は盛夏、
舟をこぐばかり。楊中美によれば、中国の留学生のなかで最初に博士号を得たのは物理学
博 士 を と っ た 李 耀 邦 で あ る 。彼 は 一 九 〇 三 年 に ア メ リ カ・シ カ ゴ 大 学 に 留 学 し 、
Ryerson
のもとで電子学を研究した。そして「以密立根方法利用固体球粒測定E値」という(私に
はまるで理解できない)テーマで学位をとり、アメリカ物理学界で高く評価されたのは、
一 九 一 四 年 で あ っ た 。 こ こ で 愛 国 心 ? 愛 郷 心 ? を 刺 激 さ れ 、 阿 部 善 雄 『 最 後 の 「 日 本 人 」』
をめくる。朝河貫一は一八七三年生まれ、一八九五年アメリカに留学した。エール大学で
「大化の改新の研究」により博士号を得たのは一九〇二年のことであった。一二年早いで
すねと鼻を蠢かそうというのではない。
さすがアメリカの専門家は目が高いと楊中美スカウト事件を紹介したいのである。楊中美
は中国人留学生でいま東京の某私立大学の博士課程に籍を置いている。私は二年ぐらい前
に知り合った。香港誌『争鳴』に「胡耀邦評伝」を連載しており、八六年八月号はその九
回目、話は彼が華北野戦軍第一兵団政治部主任に任命さたところまで来た。楊中美の評伝
は 古 今 中 外 初 め て の 本 格 的 な 胡 耀 邦 論 で あ る 。そ の 水 準 の 高 さ を 評 価 し 、英 訳 の 手 配 を し 、
合わせて楊中美の学識をもっと「搾取」するために、ハーバード大学がこの九月から三カ
月間彼に奨学金を出し、共同研究のパートナーとして招いたことを紹介したいのだ。
いい論文を評価する能力、いい論文を発見した場合にスカラシップを即座に出せるシステ
ム ─ ─ こ う い う 点 に お い て わ が 現 実 が ど う な っ て い る か 、読 者 の 方 が よ く ご 存 知 で あ ろ う 。
私はもう断じてヒフンコーガイしないことにする。ここでは楊中美を発見した伯楽が誰か
矢吹晋『逆耳順耳』
29
を 推 測 し て 暑 気 払 い と す る 。楊 中 美 は 私 へ の 電 話 で そ の 人 物 を M A と か M O と か 言 っ た が 、
彼自身アメリカは初めて、その人物についてほとんど知らないようであった。詳しく聞い
ている時間はなかったので、ただ「一路平安」だけを述べた。その後友人とビールを呑み
ながら、
二冊本の著者
R O D E R I C K M A C FA R Q U H A R
に間違いあるまいとの結論に
到達した。かくて楊中美の博士論文が日本の大学の審査をパスする日も近いであろうと勝
手に前祝い、大ジョッキで乾杯というのが、ここでのオチである。
文 化 大 革 命 の 重 要 事 件 を 明 か す「 周 恩 来 工 作 日 暦 」の 威 力 、
『 蒼 蒼 』第 一 二 号〔 八 六 年 一 二
月五日発行〕逆耳順耳、八六年八月執筆
中国人民大学党史系名誉主任・全国党史研究会副会長の胡華教授の来日を心待ちしていた
が、健康上の理由で中止となったのはたいへん残念である。教授主編の近刊書について質
問したいことがあったからである。文革派から「二月逆流」事件と非難された実権派政治
局委員たちと中央文革小組メンバーとの衝突はいつのことなのか?「一九六七年二月一三
日と一六日」説と「一九六七年二月一四日と一六日」説が行われている。まず近年の歴史
書とノン・フィクション(NF)を出版順に並べてみよう。
1
紀 希 晨 「 “ 二 月 逆 流 ” 始 末 記 」『 時 代 的 報 告 』 一 九 八 〇 年 一 月 、 五 五 頁 、 N . F .
2
山 東 省 高 等 学 校 中 共 党 史 講 義 編 写 組 編『 中 国 共 産 党 歴 史 講 義 』下 冊 、 山 東 人 民 出 版 社 、
一九八二年二月、二九一頁
3
中 国 人 民 解 放 軍 政 治 学 院 党 史 教 研 室 編『 中 共 党 史 主 要 事 件 簡 介 』一 九 八 二 年 一 〇 月 、 四
川人民出版社、一九七頁
4* 中 共 中 央 文 献 研 究 室 編 『 関 於 建 国 以 来 党 的 若 干 歴 史 問 題 的 決 議 注 釈 本 』 一 九 八 三 年 六
月、人民出版社、内部発行、三九五頁。同修訂版、一九八五年九月、公開発行、四〇七頁
の記述は旧版に同じ。
5
本書編写組編『中共党史事件人物録』上海人民出版社、一九八三年八月、四三七頁
6* 孫 敦 主 編 『 中 国 共 産 党 党 史 講 義 』 下 冊 、 山 東 人 民 出 版 社 、 一 九 八 四 年 四 月 、 二 三 八 頁
7
房 維 中 主 編『 中 華 人 民 共 和 国 経 済 大 事 記 一 九 四 九 - 一 九 八 〇 年 』中 国 社 会 科 学 出 版 社 、
内部発行、一九八四年一〇月、四二四頁
8* ● 夢 筆 、 段 浩 然『 中 国 共 産 党 六 十 年 』下 冊 、 解 放 軍 出 版 社 、 一 九 八 四 年 一 二 月 、 五 九 二
頁
9
胡 華 主 編『 中 国 社 会 主 義 革 命 和 建 設 史 講 義 』中 国 人 民 大 学 出 版 社 、 一 九 八 五 年 四 月 、 二
八〇頁
10
張 広 信、楊 樹 禎 主 編『 中 共 党 史 事 件 名 詞 人 物 簡 釈 』陝 西 人 民 出 版 社、一 九 八 五 年 六 月、
二二〇頁
11
肖鶴ほか編著『読報詞典』光明日報出版社、一九八五年一〇月
1 2 * 所 国 心 「 中 国 : 一 九 六 七 年 的 七 十 八 天 」『 中 国 』 一 九 八 六 年 四 期 、 一 四 頁 、 N . F . こ
れらの一
二 冊 ( 6 は 2 の 修 訂 版 で あ る が 、 こ こ で は 別 の も の と し て 数 え た ) の う ち 、「 二 月 一 四 日 と
矢吹晋『逆耳順耳』
30
一 六 日 」と 書 い て い る の は 、* 印 の 4 6 8 1 2 の 四 冊 で あ る 。残 り の 八 冊 、す な わ ち 1 2 3 5 7 9 1 0 11
は 「 二 月 一 三 日 と 一 六 日 」 と 書 い て あ る 。 刊 行 の 順 序 を 追 え ば 明 ら か な よ う に 、 123 ま で
「 二 月 一 三 日 」で あ っ た も の が 、4 の『 注 釈 本 』で 、初 め て「 二 月 一 四 日 午 後 」と 書 か れ る
に至った。
『 注 釈 本 』は こ の ほ か に も 葉 剣 英 、聶 栄 臻 、徐 向 前 な ど 軍 事 委 員 会 副 主 席 グ ル ー
プの抵抗を譚震林ら他の政治局委員よりも強調していることに一つの特徴がある。刊行時
点での葉剣英らの影響力の大きさを反映しているごとくである。ここで興味深い事実は、
一四日への日付の変更および葉剣英らの役割の強調をそっくり踏襲し、従来の書き方を改
めたのが、6 の『山東党史』である(実は 2 の八二年版の前に八〇年版があるが、これは
五 六 年 の 八 全 大 会 ま で し か 扱 っ て い な い の で 、こ こ で は 省 略 し た )。八 二 年 版 の「 後 記 」は
八一年一二月になっており、八一年六月の六中全会および歴史決議」までをカバーしてい
るが、この決議の精神を十分に書き込むところまではいかなかったであろう。そのため、
『注釈本』を踏まえて修訂したのが、八四年版であるというわけだ。しかも八四年版は八
二 年 の 一 二 全 大 会 ま で を カ バ ー し て お り 、こ の 意 味 で も 新 し い 。
「 一 四 日 説 」は 8 の『 党 六
十年』でも継承されているが、ここでは「一四日と一六日」をまとめて一括した記述にな
っ て い る 。つ ま り「 一 三 日 説 」が「 一 四 日 説 」に 訂 正 さ れ た 形 で あ る 。と こ ろ が 、 9 1 0 で 、
再び「一三日説」への逆戻りである。しかも 9 の編者胡華は党史研究の大御所である。そ
うか、やはり「一三日説」が正しかったか、と思い直す。この疑問を私は胡華教授に質し
たかったのである。
質問の機会が失われた以上は自分で調べるほかない。あれこれ資料をめくっていたら、ナ
ゾはようやく解けました。
「 周 恩 来 同 志 の 工 作 日 暦 に 基 づ い て( 中 略 )二 月 一 四 日 と 訂 正 し
た。一部の資料の伝えるごとく一三日ではない」と書いたものが見つかったのである。出
所 は 『 文 献 和 研 究 』 八 三 年 匯 編 本 四 五 三 頁 ( 内 部 発 行 )、 筆 者 は 席 宣 、 楊 増 和 で あ る 。 と い
うわけで八四年以降に一三日説を書いているものは、わが胡華教授も含めて不勉強という
ことになる。
さ て 私 自 身 が 共 著『 現 代 中 国 の 歴 史 一 九 四 九 ~ 八 五 年 』
( 有 斐 閣 )で ど う 書 い た か は 、本 屋
で立読みして下さい。
毛沢東逝去十周年の機会に、なんとなく書いておきたいこと
蒼蒼11
号、86.9
中 国 人 民 大 学 の 論 理 学 の 教 師・王 方 名 は 一 九 五 七 年 四 月 一 一 日 、中 南 海 の 毛 沢
東 宅 に 招 か れ た 。彼 は 五 六 年 に 人 民 大 学 哲 学 系 で 論 理 学 を 講 義 し て い た が 、そ の
際に用いたソ連のストロコビッチの『論理学』がどうにも納得できなかった。そ
こで疑問点を「質疑」として人民大学学報『教学与研究』に書いたところ、毛沢
東 の 目 に と ま っ た の で あ っ た 。毛 沢 東 は こ の 学 者 ら( 当 日 招 か れ て い た の は 、彼
のほか周谷城、金岳霖、鄭日+斤、賀麟であった)を相手に哲学談義にふけった
のであった。その回想を王方名は二二年後(『人民日報』七九年一月二日)に書
いているが、その末尾の一段落にいう。
矢吹晋『逆耳順耳』
31
「彼〔毛沢東〕はまず、中国革命は当初はとても困難であり、陳独秀、王明、李
立三、瞿秋白、張国燾らは逃げ出し、中国革命は一つまた一つと失敗した。一九
四 九 年 に な っ て 、い ま す ぐ 長 江 を 越 え る 段 階 に な っ て 、あ る 人 が 千 に も 万 に も 長
江 を 越 え て は な ら な い と 阻 止 し よ う と し た 。越 え る と 米 軍 が 介 入 し 、中 国 に 南 北
朝 が 現 れ る と い う 話 で あ っ た 」「 私 は 彼 ら の 言 い 分 を 聞 き 入 れ な か っ た 。 わ れ わ
れは長江を越えたが、米軍は介入せず、中国には南北朝は出現しなかった。もし
彼 の 話 を 聞 い て い た ら 、 却 っ て 中 国 に は 南 北 朝 が 出 現 し て い た で あ ろ う 」「 そ の
後 私 は わ れ わ れ に 長 江 を 越 え さ せ ま い と し た 人 と 会 っ た 。彼 の 第 一 句 は“ 勝 て ば
官 軍 ”で あ っ た 」「 私 は 彼 の 言 い つ け を 聞 か な か っ た の に 、彼 は 責 め る ど こ ろ か 、
われわれが勝利者であることを認めたのであった」。いま“勝てば官軍”と訳し
た 個 所 は「 勝 利 者 不 応 該 受 責 備 的 」で あ る 。さ て ク イ ズ で あ る が 、「 あ る 人 」「 彼
ら」「彼」(原文「有人」「他們」「他」)とは、一体誰でしょうか?
第 二 ヒ ン ト 。一 九 四 九 年 一 二 月 一 六 日 午 後 六 時 、そ の 人 物 が 遠 来 の 客 を 迎 え て 第
一 声「 あ な た が こ ん な に 若 く 、壮 健 で あ る と は 思 っ て も み な か っ た 」「 あ な た が
た は も う 偉 大 な 勝 利 を 勝 ち 取 っ た の で あ り 、勝 て ば 官 軍(「 勝 利 者 是 不 受 指 責 的 」)
です」。
第三ヒント。四九年一二月の話は伍修権の本(『在外交部八年的経歴』世界知識
出版社、一九八三年一一月)に出てきます。
答 。「 あ る 人 」と は む ろ ん ス タ ー リ ン 大 元 帥 で あ り 、客 と は モ ス ク ワ を 訪 れ た 毛
沢 東 で あ る 。伍 修 権 は 当 時 毛 沢 東 に 随 行 し て モ ス ク ワ を 訪 れ た の で あ っ た 。王 方
名は「不応該受責備的」と書き、伍修権は「不受指責的」と書いているがいずれ
に せ よ 、ス タ ー リ ン の ロ シ ア 語 の 翻 訳 で あ る 。王 方 名 は 毛 沢 東 の 発 言 を で き る か
ぎ り 忠 実 に 報 告 す る こ と は 許 さ れ た が 、そ の 発 言 に コ メ ン ト す る こ と に は 制 約 が
あ っ た に 違 い な い 。む ろ ん 彼 ら は 毛 沢 東 の い う「 あ る 人 」が ス タ ー リ ン で あ る こ
とはよく知っていたのだが、一九七九年一月の時点で「ある人」についてスター
リ ン を 指 す と 注 記 す る 自 由 は 彼 に は お そ ら く な か っ た 。政 治 が ら み 、と り わ け 国
際 政 治 が ら み の 発 言 は と か く ウ ル サ イ の で あ る 。 会 話 か ら 二 二 年 が 経 ち 、『 人 民
日報』に王方名が「ある人」と書いたとき、中国人の読者は(共産党員なら五六
年 に 知 っ て い た で あ ろ う が 、こ こ は 一 般 の 中 国 人 の 話 )そ れ が ス タ ー リ ン で あ る
こ と を 知 っ て い た は ず で あ る 。私 が 推 測 す る 根 拠 は 毛 沢 東 の「 十 大 関 係 論 」が 一
九 七 六 年 一 二 月 二 六 日 に 公 表 さ れ た こ と で あ る 。そ の な か で 毛 沢 東 の 一 九 五 六 年
時点でのスターリン=ソ連共産党批判が明らかにされていたからである。
私 自 身 は お よ そ 十 年 前 に『 毛 沢 東 思 想 万 歳 』で 、彼 の ス タ ー リ ン 批 判 に 初 め て 接
した(話としてではなく、文献で確かめた)。この夏休みに友人からの示唆で、
向 青『 共 産 国 際 与 中 国 革 命 関 係 論 文 集 』( 上 海 人 民 出 版 社 、八 五 年 七 月 )を 読 ん
で 初 め て 、ス タ ー リ ン の 毛 沢 東 評 価 、毛 沢 東 の ス タ ー リ ン 評 価 の 経 緯 を 具 体 的 に
理 解 で き た の で あ っ た 。こ の 本 は ア メ リ カ の 資 料 を も 含 め て 、コ ミ ン テ ル ン と 中
矢吹晋『逆耳順耳』
32
国共産党との関係を実に生き生きと描いていて興味深い。
中国映画にみる二つの対照的な香港イメージ
逆 耳 順 耳『 蒼 蒼 』第 一 三 号〔 八 七 年 三 月
一日発行〕
中 国 映 画 祭 8 6 で は 「 青 春 祭 」 に 始 ま り 、「 野 山 」 に 終 わ る 八 本 を 全 部 見 た 。 こ の 話 を 学 生
相手にすると、やはり大学の先生はヒマなんだとしか受け取ってくれない。それは確かだ
が、そのヒマが欲しいからこそ、安月給の身に甘んじている(いない?)のですよ。中国
を知ろうと志す者にとって映画を見ることが本を読むよりも大事な仕事かも知れないのだ
ということをどうしたら分かってもらえるのか。本に書いてないこと、あるいは本に書い
てはあるが、そのイメージを活字よりもヨリ鮮明に描いた例を挙げるしかない。
たとえば「絶響」は、不遇な音楽家とその息子の屈折した心理を描いたものだが、そのな
かに主人公・區老枢が香港から訪ねてきた旧友とホテルで会食するシーンがある。主人公
は 外 事 局 の お 役 人 か ら 、「 現 在 の 境 遇 に 不 満 は な い ( と 自 分 の 気 持 ち を 偽 る )」 こ と を 条 件
に、旧友との再会を許されているわけだが、話しているうちに、ついホンネが出そうにな
る。それを厳しい視線で制止するお役人の姿──この映画にはこういう形で庶民と権力の
関係を捉えた個所がある。かつて北京大本営発表に騙された苦い経験をもつ日本のオジサ
ンとしては、どこでどのように誤解・錯覚したのか、その道筋を究めたいという欲求をも
っている。その一つの証拠を描いてくれた三五歳の青年監督張沢鳴の勇気に拍手を送りた
い。
この映画には広州の下町の姿がよく写し出されており、私は「緑豆沙」売りの呼び声に聞
き 惚 れ 、生 ツ バ を 飲 ん だ 。昔 香 港 で よ く 食 べ た「 紅 豆 沙 」
「 芝 麻 糊 」な ど の 味 を 思 い 出 し て
のことである。この映画はもともと広東語で作り、あとで標準語に吹き替えたという話だ
が、下町の雑音までは吹き替えておらず、その端々に残る広州語がわが青春を想起させ、
なつかしかった。
この映画でもう一つ私が注目したのは、主人公の息子が父の秘蔵の楽器を売り払い、その
金 で 香 港 に 密 航 し よ う と 企 て た 姿 を 描 い た こ と で あ る 。結 局 は そ の 金 を「 蛇 頭 」
(密航組織
の手配者)に持ち逃げされ、青年の密航は失敗するが、この青年にとっての香港は自分の
生活を選択できる「希望の街」である。この映画は珠江映画製作所だからこそ出来たので
はないか。広州にとって香港はきわめて身近な存在であり、彼らの香港イメージから余り
にもかけ離れたものとして香港を描くとしたら、観衆がそれを許さないであろうことは容
易に想像される。
私はいまこの映画祭に登場したもう一つの香港イメージを想起している。それは「女優殺
人事件」の場合である。殺される美人女優葉恵の恋人沙暁舟のもとに香港から実兄沙之星
が訪ねてくる。この香港のアニキは相当なワルである。父の遺産の大部分が弟宛になって
いることを密かにかぎつけ、弟を香港に連れ出して消してしまい、遺産を一人占めしよう
と企んでいる。また弟の恋人を早速妊娠させてしまう早技を見せ、後に判明したところに
よると、ホテルの女性服務員も騙されて肉体を奪われていた。というわけで、この「港澳
矢吹晋『逆耳順耳』
33
同 胞 」は 、資 本 主 義 的 悪 ?( 女 た ら し 、弟 殺 し ・ 横 領 の 未 遂 )の 権 化 と し て 描 か れ て い る 。
この映画を制作したのが瀟湘映画製作所であることに私は目を向ける。長沙は香港から遠
い。湖南省の党委書記は毛致用であることから知られるように、保守的傾向が強い。こう
した政治的気候が映画の香港像に現れていると見るのが私の独断である。二つの対照的な
香港イメージ──それは開放政策に対するアンビバレントな感情を象徴している、と私に
は思われた。
文化大革命の火付け女・聶元梓の肩書が問題になる根拠、
逆耳順耳『蒼蒼』第一
三号〔八七年三月一日発行〕
文革のノロシを挙げた一人が聶元梓であることはよく知られている。彼女について最近の
本はみな「北京大学哲学科講師」と書いている。たとえば──
資料1
「こうして五月二五日、北京大学哲学科講師聶元梓(中央軍事委員会副主席で、
聶 栄 臻 の 娘 )ら 七 名 が 、学 長 兼 同 大 党 書 記 の 陸 平 を … … 」
( 野 沢 豊 ほ か『 中 国 現 代 史 』三 二
四 頁 、 山 川 出 版 社 、 八 四 年 八 月 刊 )。
資料2
「五月二十五日、康生の指示を受けた北京大学の女性講師聶元梓(五大元帥の一
人 聶 栄 臻 の 娘 )ら が 、学 長 と 大 学 の 党 委 員 会 、北 京 市 委 員 会 を … … 」
( 小 島 晋 治 ほ か『 中 国
近 現 代 史 』 二 五 五 頁 、 岩 波 新 書 、 八 六 年 四 月 刊 )。
資料3
「五月二十五日、康生の示唆を受けたとされる北京大学哲学科講師の聶元梓ら七
人 が 北 京 大 学 学 長 陸 平 ら を 激 し く 批 判 す る 大 字 報( 壁 新 聞 )を 初 め て 貼 り 出 し た 」
(安藤正
士 ほ か 『 文 化 大 革 命 と 現 代 中 国 』 四 四 頁 、、 岩 波 新 書 、 八 六 年 七 月 刊 )。
「紅衛兵運動の指導
者 の 北 京 大 学 講 師 聶 元 梓 の 四 人 が 就 任 し … … 」( 同 上 八 六 頁 )。
文革直後に香港で出た本は「北大哲学系助教」すなわち「助手」と書いていた。たとえば
資料4
「一九六六年五月二十五日、北大哲学系在助教聶元梓(女)帯動下,給北大当権
派 陸 平 等 人 貼 出 了 第 一 批 大 字 報 。」( 趙 聡 『 文 革 運 動 歴 程 述 略 』 第 一 巻 二 二 三 頁 、 友 聨 研 究
所 、 七 一 年 一 〇 月 刊 )。
資料5
「一九六六年五月二十五日、北大哲学系聶元梓、……六助教及学生……、貼出了
第 一 批 大 字 報 … … 」( 司 馬 長 風 『 文 革 始 末 』 上 巻 、 九 九 頁 、 百 葉 書 舎 、 七 一 年 刊 )。
つぎの記述は資料4を踏まえて「助手」と書いている。
資料6
「 二 五 日 、北 京 大 学 で は 哲 学 科 助 手 の 聶 元 梓 ら ほ か 六 名 の 学 生 が … … 」
(竹内実編
『 文 化 大 革 命 』 二 四 頁 、 平 凡 社 、 七 三 年 一 月 刊 )。
「講師」か「助手」
かでまずひっかかり、ついで、なんとなくクサイと感じていたら、ヒントンの本にぶつか
った。
資料7
「一九六六年五月二五日、北京大学の哲学科の幹部の一人、聶元梓が大字報を書
い て 反 逆 の 口 火 を き っ た 。」
( W .ヒ ン ト ン『 百 日 戦 争 』二 〇 頁 、平 凡 社 、七 六 年 一 一 月 刊 )。
つまり、ヒントンによれば彼女は「幹部」なのである。では「幹部」とはなにか。
〔 原 注 〕革 命 中 国 に お い て は「 大 衆 」と い う 言 葉 は ア メ リ カ で
rank-and-file(列 伍 の 者 ) 、
the people (人 民 ) 、 population (住 民 ) な ど と い う 場 合 に 使 わ れ る 。 こ こ で は 「 大 衆 」 と
矢吹晋『逆耳順耳』
34
は学生、大学の教職員、および家族をさしている〔以下、訳者春名徹注。これに対応する
言 葉 が 「 幹 部 」 で あ る 。「 幹 部 」 と は 、 1 「 政 府 で あ れ 共 産 党 で あ れ 、 政 治 活 動 の 分 野 で 、
専 従 か 否 か を と わ ず 、指 導 的 役 割 を 演 じ る 人 」、2「 政 府 雇 用 の 工 業 、農 業 、教 育 の 専 門 員 」
の 二 つ の 意 味 が あ る 。『 翻 身 』 プ ロ ロ ー グ の 原 注 ( 三 )〕( 同 上 邦 訳 六 七 頁 )。 こ こ で ヒ ン ト
ン の 説 明 か ら 分 か る こ と は 、「 大 学 の 教 職 員 」 は 「 幹 部 」 で は な く 、「 大 衆 」 だ と い う 事 実
である。日本の教授会自治などのイメージで中国の大学を類推してはいけないのだ。ここ
で、ヒントンは彼女についてさらにこう書いている。
「聶元梓は「全国最初のマルクス主義の大字報」を掲げた本人である。しかし、彼女は北
京 大 学 に 工 作 組 が 入 っ た 時 期 に 、そ の 一 員 で あ っ た の で 、抑 圧 の 一 端 を 担 っ た も の と し て 、
原 著 者 は『 最 初 か ら の 造 反 派 』と は 認 め な か っ た の で あ る〔 原 著 者 か ら 訳 者 へ の 直 話 〕
(同
上 邦 訳 一 五 二 頁 )。
さあ、聶元梓とは何者か。大学で造反するのは、万年講師だというような発想ではナゾは
解 け な い( つ い で に 括 弧 の な か に 書 き ま す が 、
「 聶 栄 臻 の 娘 」な ど と い う の は ヨ タ 話 で し ょ
う 。私 も ヨ タ 話 大 好 き の ミ ー ハ ー で す が 、歴 史 に は 典 拠 が 必 要 じ ゃ あ り ま せ ん か ね )。疑 問
が 固 ま っ た こ ろ 、答 は 自 ず か ら や っ て く る 。
「 聶 元 梓 、一 九 二 一 年 生 、河 南 滑 県 人 、原 北 京
大学哲学系総支書記」という説明がわが近視眼に飛び込んできた。どこからか?
クイズ
で も や り た い と こ ろ だ が 、も っ た い ぶ ら ず に タ ネ 明 か し を す る と 、
『 陳 雲 文 選( 一 九 五 六 -
一 九 八 五 )』 三 七 五 頁 、 で あ る 。 六 六 年 当 時 四 五 歳 の 「 党 総 支 部 書 記 」 な ら 、 む ろ ん 幹 部 で
あり、哲学系ではヒラ教授などよりはるかに権力を握っていたであろう。彼女の組織力に
こそ壁新聞誕生の秘密があるはず。だからこそ彼女の地位が当時は伏せられていたのでは
ないか。
『 レ ッ ド・メ ッ セ ー ジ 』を 読 む 楽 し さ 、
逆 耳 順 耳『 蒼 蒼 』第 一 四 号〔 八 七 年 六 月 一 〇 日
発行〕
ピ ー タ ー ・ エ イ ブ ラ ハ ム ズ 著 、 田 中 融 二 訳 『 レ ッ ド ・ メ ッ セ ー ジ 』 を 読 ん だ 。「 劇 画 に も 似
たスーパー・ウーマンの冒険活劇」たる本書はストレス解消にもってこいである。
カリフォルニア大学バークレー校の天才的数学教授テディ・呉が結婚式当日失踪する。婚
約者の歴史学者ベス・ハンターがフィアンセを探す冒険旅行に出かける。上海、無錫、北
京、香港、台北、どこでも危機一髪のスリリングな局面にぶつかるが、そのたびにヒロイ
ンは鮮やかに対処する。そして万里の長城では、さすがにヤンキー娘、なんとロマネ・コ
ンティ一九六二年に酔い痴れ、中国情報機関の馬将軍と「西洋式のピクニックの名ごりの
な か に 寝 」 て し ま う の で あ っ た ( 四 一 二 頁 )。
こ の 魅 力 溢 れ る 馬 将 軍 が ベ ス・ハ ン タ ー に 語 る 。
「 中 国 で は 権 力 闘 争 が 進 行 中 で す 。そ れ は
一九四九年いらい、中断することなく続いている状況です。そしてそれはイデオロギーを
最 高 に 重 視 す る 人 び と と 、そ れ を 二 番 目 に 重 ん じ る 人 び と と の 間 の も の で す 。
( 中 略 )わ た
し の よ う に 、イ デ オ ロ ギ ー を 二 番 目 に 重 視 す る 者 は 、中 国 の 発 展 を 最 優 位 に 置 い て い ま す 。
われわれは四人組の失脚いらい主導権を握りました。しかし、闘争は終わったわけではあ
りません。まだ続いています。わたしの役所でも続いているんですよ、ミス・ハンター。
矢吹晋『逆耳順耳』
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そして現在の事件は、勢力の奪回を望んでいるイデオロギー最優先派に有利に作用してい
ま す 」( 四 〇 二 ~ 三 頁 )。
ど う で す 。イ デ オ ロ ギ ー 最 優 先 派 が 優 勢 だ と い う 話 な ん か 、
「 一 月 政 変 」以 後 に 読 む と 、妙
に生々しいじゃありませんか。
ところで、原子力潜水艦の近くで失踪した天才的数学者は誘拐されたのか、それとも自ら
の意志でそれに乗ったのか。行き先は中国なのか、それともソ連なのか。それぞれの理由
は何か。推理小説の説明ほど愚かな試みはないからもうやめるとして、読んでいて気にな
った個所を指摘しておく。
「 そ し て 電 話 を と り 上 げ 、 何 桁 か の 番 号 を 回 し て 、 い っ た 。『 ウ ェ イ ( 唯 = は い ) ? 』」( 三
二 六 頁 )。 ウ ェ イ は ● で あ り 、「 も し も し 」 で す ね 。 ど う し て こ ん な A B C を 間 違 え る の で
し ょ う ね 。「 バ イ オ リ ニ ス ト は 腰 を お ろ し 、『 シ ー フ ( 師 父 )』 と 呼 ん だ 」( 三 五 五 頁 )。 シ ー
フ は 「 師 父 」 で は な く 、「 師 傅 」 で す ね 。
「闘争」と「運動」の逆転、
逆耳順耳『蒼蒼』第一四号〔八七年六月一〇日発行〕
近 く て 遠 き は 日 本 語 と 中 国 語 の 距 離 で あ る 。そ の 例 を 最 近 の 新 聞 か ら 挙 げ て 見 た い 。
『人民
日報』八六年二月二日付社説は「ブルジョア自由化反対の闘争を持続的に健康に展開して
いこう」と題されている。この「闘争」の行方に深い関心をもつ私は、この社説を丁寧に
読む。
「 党 中 央 は … … ブ ル ジ ョ ア 自 由 化 反 対 に つ い て 重 要 文 件 を 発 出 し 、闘 争 の 性 質 、意 義 、
重要性、長期性及びその範囲、重点などの問題を明らかにし、ますます多くの同志が認識
を高め、懸念をなくし、積極的な態度でブルジョア自由化反対の闘争に……」と続いてい
く 。龍 頭 蛇 尾 を 絵 に 描 く が ご と く 、結 論 に 近 く な る と 、そ れ だ け ト ー ン・ダ ウ ン し て い く 。
「 ブ ル ジ ョ ア 自 由 化 反 対 に お い て は 、政 策 の 限 界 に 十 分 注 意 し な け れ ば な ら な い 」
「ブルジ
ョ ア 自 由 化 反 対 に お い て は 、正 確 な 方 法 を 採 ら な け れ ば な ら ず 、政 治 運 動 は や ら な い 」
〔「 不
政 治 運 動 」〕。
こ の「 政 治 運 動 」は 単 に「 運 動 」と 省 略 さ れ る 。た と え ば 、三 月 四 日 付『 人
民日報』
( 海 外 版 )一 面 ト ッ プ は 、小 平 の シ ュ ル ツ 国 務 長 官 会 見 を 報 じ た 記 事 だ が 、そ の 一
節にいう。
「 ブ ル ジ ョ ア 自 由 化 反 対 問 題 に 話 が 及 ん だ 時 に 、小 平 は 客 人 に 対 し て こ う 述 べ た 。
わ れ わ れ は 運 動 を や ら な い〔「 我 們 不 運 動 」〕。四 つ の 現 代 化 を 建 設 す る 過 程 に は 、ブ ル ジ ョ
ア自由化反対の問題が存在するが、これは長期的な事柄である。長期的であるからには、
運動をやることはできず
〔「 既 然 是 長 期 的 、就 不 能 搞 運 動 」〕、わ れ わ れ の 基 本 的 方 法 は 教
育 を 行 う こ と で あ る 」。以 上 の こ と を つ づ め て い え ば 、要 す る に 、
「 闘 争 」は や る が 、
「運動」
はやらない、というのが、現在の方針だというのである。日本語の感覚でいうと、どうも
逆 で は な い か 。 つ ま り 「 運 動 」 は や る が 、「 闘 争 」 は や ら な い 、 と し た 方 が し っ く り す る の
で は な い か と 感 じ な が ら 、『 現 代 漢 語 詞 典 』 を 引 く 。「 闘 争 」 2 と し て 「 大 衆 が 理 を 説 き 、
暴露し、告発するなどの方式で敵対分子あるいは悪質分子に打撃を与えること」とある。
で は 「 運 動 」 は ど う か 。 4「 政 治 、 文 化 、 生 産 な ど の 面 に お い て 組 織 的 、 目 的 的 に 勢 い の よ
い大衆的活動を行うこと」とある。
両者ともに基本的に日本語のそれに似ていることが
わ か る 。 つ ま り 「 敵 対 分 子 」 と は 「 闘 争 」 し 、「 大 衆 的 活 動 」 を 「 運 動 」 と し て 行 う の で あ
矢吹晋『逆耳順耳』
36
る 。「 闘 争 」 と 「 運 動 」 の ニ ュ ア ン ス が 逆 転 し た の は 、 い つ か 、 な ぜ 逆 転 し た の か 。 い う ま
でもなく文革である。文革イメージが「運動」というコトバを蛇蝎の類に変えたのであろ
う。一月政変で党から除名された王若望は『文化大革命大辞典』の編集を意図していたが
(『 九 十 年 代 』 八 六 年 三 月 号 )、 幻 の こ の 本 の 目 次 に は 、 当 然 「 運 動 」 と い う コ ト バ も 収 め
られていたものと私は想像をたくましくしている。
「運動健将」とは、むろん中国の運動選手の一流選手のことである。五段階からなる「運
動 員 等 級 制 度 」 は 、( 1 ) 運 動 健 将 、( 2 ) 一 級 運 動 員 、( 3 ) 二 級 運 動 員 、( 4 ) 三 級 運 動
員、
( 5 )少 年 級 運 動 員 、か ら な る 。こ れ は も と も と 五 六 年 四 月 に 公 布 さ れ た も の だ が 、七
八年七月に修訂公布されている。
「 運 動 」が 政 治 用 語 に な る か ら に は 、
「 運 動 健 将 」も 当 然 、
政治化せざるを得ない。たとえば反「ブルジョア自由化」において、仲間を摘発し、出世
しようとするがごとき、蛇蝎の類を「運動健将」と呼ぶらしい。どこにもいますよね、こ
んな手合いが。
「 一 言 喪 邦 」、
逆耳順耳『蒼蒼』第一四号〔八七年六月一〇日発行〕
もう一つ、
「 北 京 政 変 」が ら み の 話 を 。胡 耀 邦 辞 任 を 決 定 し た 八 六 年 一 月 一 六 日 の「 政 治 局
拡 大 会 議 」は 、そ の シ ュ ッ セ キ シ ャ が 特 に 話 題 に な っ た 。
「 新 華 社 一 月 一 六 日 訊 」の「 拡 大
会議公報」はこの問題についてこう述べている。
「 今 回 の 中 央 政 治 局 拡 大 会 議 に 参 加 〔「 参 加 」〕 し た 者 は ( 以 下 省 略 )」。
会 議 に「 参 加 し た 者 」と「 参 加 」の 文 字 を 使 い 、
「 出 席 」を 用 い て い な い こ と に 注 目 し た い 。
「 出 席 」と は 、
「発言権と表決権をもつメンバーが会議に参加すること」
(『 現 代 漢 語 詞 典 』)
で あ る か ら 、顧 問 委 員 会 や 紀 律 検 査 委 員 会 が 圧 力 を か け た こ の 会 議 の 性 格 上 、
「 出 席 」を 使
うことを憚ったのであろう(香港の雑誌『九十年代』八七年四月号コラム「風向標」は、
こ の 会 議 が 当 初 は 「 生 活 会 」 で あ っ た と し て い る )。 ち な み に 「 列 席 」 と は 「 会 議 に 参 加 す
る こ と 、 発 言 権 は あ る が 、 表 決 権 は な い 」( 同 上 ) と 定 義 さ れ て い る 。「 参 加 」「 出 席 」「 列
席 」、 い ず れ も 日 本 語 に 似 る が ご と く 、 非 な る が ご と く 、 ヤ ヤ コ シ イ で す な あ 。
今、香港の雑誌として『九十年代』を挙げたが、今回の政変報道においては、この雑誌は
『 争 鳴 』と も ど も 、あ ま り 冴 え な か っ た 。冴 え に 冴 え た の は 、例 の『 百 姓 』半 月 刊 で あ る 。
二月一日付一三七期で「中共中央一号文件」をスクープし、同一六日付一三八期で「中共
中 央 四 ~ 六 号 文 件 」を ス ク ー プ し た 。そ し て 、四 月 一 日 付 一 四 一 期 で は 、
「八六年一二月二
七日、王震、薄一波、彭真、余秋里、楊尚昆、胡喬木、力群」の七老人が小平の私邸に押
し掛け、胡耀邦解任を迫った、とスッパ抜いた。
『蒼蒼』五号のこのコラムを読まれた読者なら、この特ダネの背景がピンとくるはず。然
り、
『 百 姓 』の 社 長 陸 鏗 と 胡 耀 邦 の 人 脈 関 係 に よ る も の と 推 察 さ れ る 。陸 鏗 の 迫 真 の 胡 耀 邦
イ ン タ ビ ュ ー (『 胡 耀 邦 と い う 男 』 蒼 蒼 社 刊 の 巻 末 に 採 録 ) は 、 い ま 「 一 言 喪 邦 」 と 評 さ れ
ているらしい。ここで「邦」とは、むろん「胡耀邦」を指す。
さ て 、こ こ ま で 書 い た と こ ろ へ『 百 姓 』四 月 一 六 日 号 、一 四 二 期 が 届 い た 。曰 く「 胡 耀 邦 、
心 を 痛 め 、 涙 を 落 と す 」。 陸 鏗 の 文 で あ る 。
矢吹晋『逆耳順耳』
37
1 98 7 . 8 『 蒼 蒼 』 追 悼
橋本萬太郎教授
橋 本 萬 ち ゃ ん が 急 逝 し た 。驚 き の あ ま り 言 葉 を 失 う ほ ど で あ る 。そ の 昔 、大 学 院
で言語学を学んでおられた橋本さんと経済学部に進学したばかりの私が知り合
う よ う に な っ た の は 、同 級 生 の 帆 足 ま り さ ん に 中 国 語 を 教 え て お ら れ る 姿 を カ ッ
コいいと感じたからであったか。六〇年のことである。
橋本さんとの再会は、一九七二年あるいは七三年、香港においてであった。当時
私は香港大学で広東語を学んでいた。あるとき啓徳飛行場近くのユニバーシテ
ィ・サービス・センターのセミナーの席上、偶然橋本さんの姿をみつけた。隣の
小 柄 な 婦 人 が 橋 本 夫 人 で あ る こ と を そ こ で 紹 介 さ れ た 。わ れ わ れ 三 人 は セ ン タ ー
近 く の 広 東 料 理 店 で 食 事 を し た 。プ リ ン ス ト ン 高 等 研 究 所 に 席 を 置 い て い る こ と 、
中 国 語 各 方 言 の 聞 取 り 調 査 を し て い る こ と 、な ど 研 究 の 話 や 、広 東 料 理 の 話 を し
た よ う に 思 う 。橋 本 夫 人 と は 、覚 え た て の 広 東 語 で 会 話 が で き て た い へ ん 愉 快 で
あった。
一 九 七 五 年 の 春 と 記 憶 し て い る が 、帰 国 し て 定 職 を 得 ら れ 、東 横 線 大 倉 山 に 居 を
定 め ら れ た 橋 本 さ ん の ホ ー ム・パ ー テ ィ に 招 か れ た 。メ ン バ ー の う ち 日 本 人 は 橋
本 さ ん ご 自 身 の ほ か は 私 だ け だ っ た の で は な か ろ う か 。橋 本 さ ん の 交 流 範 囲 の 国
際 性 を 象 徴 し て い る よ う に 感 じ ら れ た 。一 九 八 六 年 、学 習 院 大 学 は 現 代 中 国 に つ
い て の 総 合 講 座 を 開 い た 。そ の お 誘 い に 直 ち に 同 意 し た の は 、敬 愛 す る 橋 本 萬 ち
ゃ ん 、そ れ に ど う い う わ け か 気 の 合 う 小 倉 芳 彦 先 生 と 肩 を 並 べ る( も と よ り 形 だ
けのことだが)ことに大きな誇りを感じたからにほかならない。
橋 本 さ ん と 知 り 合 っ て 四 半 世 紀 だ が 、つ き あ い は そ れ ほ ど 深 か っ た わ け で は な い 。
橋本さんの存在が私にとって大きくなったのは、ちょうど一年前のことである。
『蒼蒼』八号に書いた「半可通の学術交流」に対して、九号掲載のごとき匿名氏
の「抗議」が寄せられた。この「抗議」に対して十号では岡山大学の高島俊男氏
が 私 を 擁 護 し て 下 さ り 、私 と し て は 、そ れ 以 上 の 弁 明 は 控 え た の で あ っ た が 、正
直のところ、匿名氏の「抗議」はかなりこたえたのである。橋本さんが以下の私
信 を 寄 せ ら れ た の は 、ま さ に そ の と き で あ っ た 。『 チ ャ イ ナ・ウ オ ッ チ ン グ 』の
まえがきで「角がとれすぎたという叱責」と書いたのは、橋本さんの叱責を意識
し て の こ と で あ っ た( 小 著 を お 送 り し た と こ ろ 、橋 本 さ ん は ご 高 著 の 中 国 語 訳『 語
言地理類型学』余志鴻訳、北京大学出版社、一九八五年をお送り下さった)。以
下、故人に断りなしに、原文のまま。一九八六年六月一一日
矢吹仁兄
仁兄の「苦言」、かねて愛読させて頂いております。『基礎中国語』創刊号の労
作 を 拝 読 す る に 至 っ て 、さ す が の 矢 吹 も カ ド が と れ て し ま っ た か な と ガ ッ カ リ し
ておりましたところ、此の度「半可通の学術交流」を拝読するに及び、鋭鋒未だ
衰えず、と意を強うしました。あの程度で「異文化間の適応性と創造性」とは、
まことに噴飯もので、仁兄の「全くシラけますねえ」の一言に同感。
矢吹晋『逆耳順耳』
38
思うに、哲学の老大家にまで電話したというのは、この種の「哲学者」特有の、
特 定 の 一 語 に 思 い い れ た っ ぷ り の 意 味 づ け を し よ う と い う 、あ の こ と で は な い で
し ょ う か 。 」 「 楊 教 授 」 が S e in の こ と を 「 存 在 」 と 言 う と 、 「 い や い や 、 そ れ
だ け じ ゃ な い ん だ 、も っ と も っ と 意 味 が あ る ん だ 」な ど と か ら む の で 、通 訳 も「 孫
助 教 授 」も も て 余 し て 、「 老 大 家 」に ま で 電 話 す る こ と に な っ て し ま っ た の で は ?
「考えあぐねた」のは、訳語のことではなくて、こういう厄介なお客さんは、ど
う し た も ん だ ろ う 、と 考 え あ ぐ ね た の で は ? そ れ に し て も 朝 日 が よ く こ ん な も の
を 載 せ ま し た ね 。「 文 化 交 流 」も 今 日 位 進 展 す る と 、こ ん な も の も 出 て 来 る と い
う警世の言でもありましょうか?
健闘をお祈りします。
敬具、橋本萬太郎上
鳥なき里の蝙蝠のごとく、野郎自大、西も東も「半可通の学術交流」がいよいよ
はびこる今、私の胸には、橋本さんを失った哀しみばかりが広がり、深まる。思
い 出 す が 、橋 本 さ ん が 司 会 さ れ た N H K の シ ン ポ ジ ウ ム「 漢 字 文 化 圈 の 将 来 」は
さすがに見事であった。
1 98 7 . 8 『 蒼 蒼 』 追 悼
阿部善雄
教授
五月一〇日は阿部善雄さんの一周忌なので、郡山市大槻町にあるお墓を詣でた
( 日 付 設 定 の 午 前 午 後 を 誤 っ た た め 、バ カ チ ョ ン・カ メ ラ の 日 付 が 九 日 付 に な っ
た の は 残 念 で あ る )。私 の 郷 里 に 資 料 収 集 の た め に し ば し ば 来 ら れ た 安 積 高 校 の
大先輩・阿部さんのことは、中 学のころから知っていたが、お会いしたのは五八
年、大学に入り、構内の史料編纂所を訪ねたのが最初であった。何の話をしたか
覚 え て い な い が 、そ の 数 年 前 に 阿 部 さ ん は ガ リ 版 刷 り の 私 家 版『 朝 河 貫 一 書 簡 集 』
を 編 集 し て い た の で あ る か ら 、朝 河 貫 一 の 話 が 出 な か っ た は ず は な い 。私 の 方 は
「 実 は 高 校 を 出 る 時 、朝 河 貫 一 賞 を も ら い 損 ね ま し て ね 」な ど と 語 っ た か も し れ
ない。六五年に出た『駆け入り農民史』には、アジール先として、神官であった
母 方 の 先 祖 が 三 〇 〇 年 く ら い 前 か ら 出 没 し 、彷 徨 す る 青 年 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ 確
認 に 大 い に 役 立 っ た 。阿 部 さ ん の ご 本 を 通 じ て 私 は 、故 郷 の 寒 村 を 見 直 す こ と に
な っ た 。阿 部 さ ん の 写 し た 観 音 寺 の 境 内 は 誠 に 美 し く 、イ タ ズ ラ 坊 主 が 住 職 に 対
し て ク ソ 坊 主 な ど と 悪 態 を つ い て 、逃 げ 回 っ た わ が 少 年 期 を「 聖 化 」す る が ご と
く で あ っ た 。書 出 し の 文 章 も 実 に 詩 的 で あ り 、ロ マ ン チ ス ト 阿 部 さ ん の 感 性 が に
じ み 出 て い た 。阿 部 さ ん が 故 郷 を か く も 愛 し て お ら れ た の は 、植 民 地 台 湾 育 ち で
あ っ た こ と と 関 係 が あ る か も 知 れ な い 。中 国 研 究 者 と し て は い つ も 気 に し て お り
ながら、ついにこのことを伺う機会を失した。
七 〇 年 頃 と 思 う が 、駒 場 で ひ ょ っ こ り お 会 い し た 。「 全 学 一 般 ゼ ミ 」で 古 文 書 の
読 み 方 を 教 え る た め に 来 ら れ た の で あ っ た 。私 も「 全 学 ゼ ミ 」を や ら さ れ て い た 。
渋 谷 の 喫 茶 店 に 入 る と や お ら 風 呂 敷 包 み を 広 げ て 、デ パ ー ト の 骨 董 市 で 掘 り 出 し
た 文 房 具 ら し き 骨 董 を 新 聞 紙 の な か か ら 取 り 出 し 大 喜 び で あ っ た 。生 涯 独 身 で あ
矢吹晋『逆耳順耳』
39
っ た 阿 部 さ ん の 唯 一 の 道 楽 で あ っ た よ う で あ る 。8 1 年 に ● て 、こ の 年 、東 大 を
定 年 退 職 さ れ た 。阿 部 さ ん の 朝 河 貫 一 研 究 が 本 格 的 に な っ た 。退 職 直 前 の 二 月 末 、
私 は 阿 部 さ ん を 国 際 文 化 会 館 の 松 本 重 治 理 事 長 に 紹 介 し た 。松 本 さ ん は か つ て エ
ー ル 大 学 で 、「 歴 史 と は 熱 な き 光 な り 」 と 朝 河 か ら 教 え ら れ た こ と を 昨 日 の こ と
の よ う に 記 憶 し て い る と 、し ば し ば 私 に 語 ら れ て い た か ら で あ る 。そ の 後 、国 際
文 化 会 館 の 支 援 も 得 て 、八 三 年 秋 、『 最 後 の 日 本 人 - - 朝 河 貫 一 の 生 涯 』が 出 版
され、一〇月一一日に出版記念会が行われた。私が進行係を務めたが、ジョン・
ホ ー ル さ ん の 足 元 が ふ ら つ い た と き に は 、思 わ ず か け よ っ た 。八 四 年 六 月 、早 大
の 社 会 科 学 研 究 所( 峰 島 旭 雄 所 長 )を ベ ー ス と し て 、「 朝 河 貫 一 書 簡 編 集 委 員 会 」
が ス タ ー ト し た 。阿 部 さ ん は こ の 委 員 会 の 委 員 長 と し て 、全 力 投 球 し て お ら れ た
が、昨年急逝された。委員会の発足以来すでに三年が過ぎたが、まだ完成には至
らず、作業は継続中である。
朝 河 貫 一 の 警 世 の 書 た る『 日 本 の 禍 機 』は 八 五 年 に 復 刻 さ れ 、八 七 年 に は 由 良 君
美氏の校訂により、講談社学術文庫に収められた。「一時の国利に酔うあまり」
( 反 省 と 思 慮 を 欠 け ば )「 日 本 は 天 下 に 孤 立 し 、世 界 を 敵 と す る に 至 る べ し 」の
名言は、『日本経済新聞』(六月一七日付)のコラム「春秋」に引用されたばか
りである。
阿 部 さ ん の 人 生 は 、不 器 用 そ の も の で あ り 、若 い 日 の 結 核 後 遺 症 を か か え な が ら
の、ゆるやかな歩みであったが、歴史家として、自分の故郷を描くことができ、
ま た そ の 故 郷 が 生 ん だ 偉 大 な る 国 際 人 の 姿 を 再 発 見 で き た こ と は 、幸 運 で あ っ た
に 違 い な い 。「 な に し ろ ネ タ が い い ん で す か ら 」と ネ タ 、す な わ ち 資 料 の 素 晴 ら
しさにしばしば感嘆しておられた。NHKのテレビドラマ「マリコ」には、ルー
ズ ベ ル ト 大 統 領 親 書 運 動 に 対 す る 朝 河 貫 一 の 貢 献 が 描 か れ て い な い と 、だ い ぶ ご
不満のようすであった。この不満も『朝河伝』完成へのはげみになったものと推
測される。
阿 部 さ ん と の 交 際 は 常 に 一 方 通 行 で あ っ た 。住 所 は い ち お う あ っ た が 、独 身 の た
めか、常宿がいくつかあり、それらを転々としていたため、連絡はいつも阿部さ
ん か ら の 突 然 の 電 話 に よ る も の だ っ た 。 あ る と き 、「 郡 山 で お 父 さ ん に お 会 い し
ま し て ね 」と 電 話 が あ っ た 。父 は そ の こ ろ 中 学 教 師 を 定 年 退 職 し て 教 育 委 員 会 に
奉職していた。阿部さんの発見した資料『御用留帳』は、そのころ田村町の教育
委 員 会 が 管 理 し て い た 。そ の こ ろ 、阿 部 さ ん の 刺 激 で 父 も そ の 資 料 を 拾 い 読 み し
て い た 。父 は 読 み 方 を た ま た ま 帰 省 し た 私 に 教 え よ う と し た こ と が あ っ た が 、そ
の こ ろ 私 は ま る で 関 心 が な か っ た 。 父 と 子 は い つ も す れ 違 い で あ る 。「 福 島 で 叔
父 さ ん に 会 い ま し て ね 。県 会 議 長 用 の 公 用 車 で 資 料 調 べ が で き て 、は か ど り ま し
た よ 」な ど と 報 告 し て い た だ い た こ と も あ る( そ の 叔 父 も こ の 春 、県 政 界 を 引 退
した)。急逝される二カ月前、阿部さんは娘の大学卒業を覚えておられ、孔雀石
を プ レ ゼ ン ト さ れ た 。宅 急 便 の ア ド レ ス は 池 袋 の「 ホ テ ル・テ ア ト ル 」と あ っ た 。
矢吹晋『逆耳順耳』
40
これが阿部さんの形見となった。
タ イ セ イ と セ イ ド の す れ ち が い 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 一 六 号 〔 八 七 年 一 〇 月 一 〇 日 発 行 〕
一〇月に開かれる予定の中共第一三回大会の政治報告の基調は「改革と開放」を強調した
ものになると伝えられる。中国語の「経済体制改革・政治体制改革」などをこのまま、タ
イセイカイカクと読むと、いつのまにか、社会主義体制から資本主義体制への体制改革か
と錯覚してしまう。大学では比較体制論といった講義が行われているが、これは通常は社
会主義体制と資本主義体制の比較論である。
社会主義中国において「体制改革」というとき、むろん資本主義体制への改革であるはず
は な い 。で は 中 国 で い う「 体 制 」と は 、何 か 。シ ス テ ム と い う 英 語 が 直 ち に 想 定 さ れ る が 、
彼らはシステムよりはメカニズムと訳すのが適当だと考えている。なぜなら、経済改革に
おいては中国の先輩格のハンガリーはニュー・エコノミック・メカニズム(NEM)と称
しているからである。そこで問題は、ハンガリーの改革を当初から強く意識していたはず
の中国の改革派論客たちが、経済メカニズムを「体制」と訳したのはなぜか、であろう。
メカニズムは「機制」と訳されることもある。たとえば市場メカニズムは「市場機制」で
ある。この場合はより機械的なメカニズムの含意がある。これと比較すると、体制は人間
の社会的関係を含むメカニズムであることが察せられる。
こうして体制の意味は、少し明確になりかけたが、より鮮明にするには、その対照語を挙
げ て み れ ば よ い 。さ あ 、な ん で し ょ う ?
答 は「 制 度 」。中 国 で は 社 会 主 義 経 済 建 設 の 過 程
で、
「 社 会 主 義 の 経 済 制 度 」あ る い は「 社 会 主 義 の 基 本 的 経 済 制 度 」と い う 表 現 を 頻 繁 に 用
いてきた。こうして、資本主義「制度」に対抗して社会主義「制度」を固めることが課題
とされてきた。かくて「制度」は社会主義の骨格を指すものと観念されるようになった。
したがって、中国の新しい模索の対象は、われわれの観念での体制たる社会主義制度を守
りつつ、その非効率部分の改善を図り、メカニズムを改善するという意味で、体制改革だ
と い う 話 に な る 。 こ れ を 日 本 語 ら し く 訳 す る な ら ば 、「 社 会 主 義 体 制 」 を 守 り つ つ 、「 経 済
制度」を改革するということになる。つまり、セイドとタイセイとが日本語とまるで逆に
なっているわけである。似て非なるものあり、非にして似るものあり、どうにもややこし
いですね。
元『 人 民 日 報 』副 編 集 長 王 若 水 に 対 す る 微 細 な 誤 解 を 正 す 、逆 耳 順 耳、
『 蒼 蒼 』第 一 六 号〔 八
七年一〇月一〇日発行〕
私の敬愛する理論家王若水はついに共産党を除名されるに至った。これを機会に昨年の夏
休みに書いて、フロッピーに残っていたメモを拾い出す。またまた重箱の隅をつつくよう
な話で、たいへん恐縮だが、なにしろ暑いものだから、細かな点が妙に気になる。神経科
の医者を尋ねようかしら。
『朝日新聞』八六年七月二八日付夕刊「今日の問題」というコラムに「理論家復活」なる
短文が掲載された。
「 王 若 水 復 活 」と い う 上 海 特 派 員 発 の「 大 記 事 」に 触 れ て の 論 評 で あ る 。
このところ上海発の記事がやたらに目立つと思ったら、その理由は簡単で上海支局ができ
矢吹晋『逆耳順耳』
41
たから、である。支局ができたからには、その存在を示すためにニュースを作る、という
ことらしい。役人がいるから、仕事が作られるという話と同じで、たいへん理解しやすい
道理である。
さ て コ ラ ム が い う 。「 八 三 年 暮 れ の “ 精 神 汚 染 ” 批 判 で 解 任 さ れ た 王 若 水 ・ 元 「 人 民 日 報 」
副編集長が、三年近い沈黙を破って上海・文匯報に論文を発表したことを、本紙特派員が
伝 え て き た 」。「 三 年 近 い 沈 黙 」 と い う の は 、 事 実 で あ ろ う か 。『 蒼 蒼 』 第 五 号 ( 八 五 年 七 月
一 五 日 ) に 私 は 、 王 若 水 の エ ッ セ イ 「 智 慧 の 痛 苦 」( 原 載 『 青 年 論 壇 』 八 五 年 二 期 、『 新 華
文 摘 』八 五 年 五 期 に 転 載 )の こ と を 紹 介 し た こ と が あ る 。彼 は ま た『 三 月 風 』
(八五年六期)
に 「“ 革 命 的 人 道 主 義 ” に つ い て 」 を 書 い て い る 。 こ れ は 『 新 華 文 摘 』 八 五 年 九 期 に 転 載 さ
れ て い る 。『 青 年 論 壇 』 も 『 三 月 風 』 も 新 し い 雑 誌 で あ り ( 後 者 は 小 平 の 長 男 樸 方 が 主 編 、
「 中 国 残 疾 人 福 利 基 金 会 」 の 機 関 誌 )、「 権 威 」 の 確 立 し た も の で は な い 。 だ か ら こ れ ら を
見 落 と し た と し て も 責 め ら る べ き で は あ る ま い 。だ が 、
『 新 華 文 摘 』と な る と 、話 は 別 で あ
る 。 こ の 雑 誌 は 、 雑 誌 の 洪 水 の な か で 、「 良 い 文 」 が 埋 没 す る の を 防 ぐ た め に 、 あ る い は こ
の雑誌の編集者のお眼鏡に叶ったものを推奨するために、かなりの眼識に基づいて選択し
ており、中国屋のプロなら見逃すべからざるものだからである。
私の偏見あるいは独断かもしれないが、いい論文は中国でも小さな新聞、小さな雑誌に出
ている。それを掬いあげるのが『新華文摘』の役割である。もう一つ重要なことは、王若
水は『人民日報』副編集長の地位は解任されたが、マスコミへの執筆自体を禁じられてい
たわけではないことである。これは毛沢東時代と比べて著しい変化である。三年近い「沈
黙 」と は 、い さ さ か 曖 昧 な 表 現 で 、ど の 程 度 の 沈 黙 で あ る か を 問 題 と す べ き で あ ろ う 。
「失
脚 し た か に 見 え た 王 氏 が 理 論 活 動 を 再 開 し た 秘 密 も そ の あ た り に あ る か も し れ な い 」。 こ
こでもまた王若水の「失脚」の程度が問題だ。その程度には中国の政治も民主化されてき
た 。 む ろ ん 王 若 水 は 、 理 論 活 動 を 「 再 開 し た 」 の で は な く 、「 継 続 」 し て い た 。
コラムは王若水にコメントして、
「 体 制 側 と 妥 協 を 試 み た あ と が う か が え る 。だ か ら と い っ
て 、 王 氏 が “ 転 向 ” し た と も い い 切 れ な い 」 と 指 摘 す る 。「 妥 協 」「 試 み 」「 あ と 」「 う か が
う 」と い う こ と ば 、そ し て「 転 向 し た と も い い 切 れ な い 」。こ の 歯 切 れ の 悪 さ は 一 体 ど う し
たことだろう。このコメントに対する王若水の感想をぜひ聞きたいものである。私の推測
では、王若水は背筋をピンと伸ばしており、いささかも屈伏などしていないのである。こ
れでは王若水の智慧が泣く。
日 本 語 ハ ン セ イ と 中 国 語 「 検 討 」 の 間 、 逆 耳 順 耳『 蒼 蒼 』第 一 六 号〔 八 七 年 一 〇 月 一 〇 日 発
行〕
日中復交一五周年の祝賀ムードは盧溝橋五〇周年の重苦しさのなかに閉じ込められた感が
深い。日中関係のギクシャクはわれわれに改めて国交回復当時を想起させる。
日本の良心を代表してサンフランシスコ講和当時から、一貫して国交回復を主張してきた
雑誌に『世界』がある。学生時代にはよく読んだものである。当時のものをいくつか読ん
でひとつひっかかったことがある。
七 二 年 一 二 月 号 に 日 高 六 郎「 日 中 友 好 未 だ 成 ら ず 」が あ る 。
「 は っ き り 書 く け れ ど も 、私 は
矢吹晋『逆耳順耳』
42
こ と 日 中 問 題 に つ い て 、田 中 首 相 を ほ と ん ど 信 用 し な い 」と 書 き 始 め 、
「婦人のスカートに
水をかけた」発言を論評し、中国側の賠償権放棄を「評価する」と語った大平外相記者会
見 の 評 価 と い う 表 現 を「 い や ら し い と 評 価 」し て い る 。
「 共 同 声 明 で い う“ 反 省 す る ”が 田
中首相においてはなはだしく皮相浅薄なものであることは、その後反省の実をひとつも示
す こ と が な い こ と で 明 ら か と な っ た 」。
日高のいうのは、おそらく正論であり、私も共感するところが多い。だが、ある箇所で私
は途端に興醒めになったのである。
「 日 清 戦 争 の と き 、日 本 は 清 国 に 二 万 テ ー ル の 賠 償 と 台
湾 の 割 譲 を 要 求 し … … 」( 三 七 頁 )。 ま さ か 、 二 万 で は な く 二 億 テ ー ル で し ょ う 。 そ の 金 で
日本資本主義は金本位制を確立したのでしたね。
少 し 気 に な っ た の で 、八 二 年 一 〇 月 号 の 日 高 六 郎 論 文「“ 反 省 ”と は な に か ─ ─ ア ジ ア の な
かの教科書問題」をめくる。やはり四七頁に「日本は清国から二万テールの賠償と台湾を
獲得した」とある。これはむろん単なる不注意によるミスが繰り返されただけであろう。
それだけのことである。それにしても筆者が錯覚し、編集者が見落とし、校正者が見落と
し、読者が見落とす、という連続ミスが二回も繰り返されたのはどうしたことだろう。反
省の欠如を批判した側も、
「 は な は だ し く 皮 相 浅 薄 」に 近 い 反 省 に す ぎ な か っ た の で は な い
かという気がしてくる。ところで、こうした日本人の反省の内実はさておき、ハンセイと
いう日本語を「評価する」中国人がいる。
「 日 本 人 は“ 反 省 ”と い う 言 葉 を と て も 愛 用 し て い る 。
“ 反 省 ”は 本 来 は 中 国 の 古 語 で あ り 、
延安時代に整風文献では用いたことがあるが、いまはほとんど用いられない。私はこの言
、、、、、
、、、、、、
葉を提唱すべきだと考える。というのは反省は自由な行為であり、自分で自分の思想と行
、、、、、、
為 を 認 識 し 、自 分 で 自 分 の 経 験 を 総 括 し 、自 分 で 自 分 の 問 題 を 解 決 す る こ と だ か ら で あ る 」
( 于 光 遠 『 改 革 ・ 経 営 ・ 生 活 ・ 組 織 建 設 』 所 収 の 八 四 年 九 月 の エ ッ セ イ 、 傍 線 は 矢 吹 )。
于 光 遠 が 日 本 語 の ハ ン セ イ を 高 く 買 う の は な ぜ か 。彼 は「 検 討 」
( ジ ェ ン タ オ )と 比 較 し て
いるのである。
「検討はわが国の特殊な事物である。それには特殊な効用がある。検討を書けば、過去の
誤りを認め、
“ 検 討 が 済 ん だ 者 ”と い う 待 遇 を 受 け る こ と が で き る 。時 に は 自 分 で は 誤 り な
ど犯していないと考えている者も他人からあるいは情勢に迫られてやむをえず検討する。
他人を批判し、その人が迫られて検討を書けば、その批判の正確さの証明になる。検討に
は こ ん な 効 用 が あ る か ら 、 現 在 の 社 会 生 活 で 独 特 の 作 用 を 生 ん で い る わ け だ 」。
制度としての「検討」は、内面的な反省につながらず、ハンセイは容易に忘れられる。
旅 先 で 司 馬 遼 太 郎 『 長 安 か ら 北 京 へ 』 を 読 む 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 一 七 号 〔 八 七 年 一 二 月
一〇日発行〕
知らない人たちのグループに加わり、二週間の中国観光旅行を試みた。旅先で同行のある
紳 士 が 、私 の 顔 と 名 前 を 確 認 し て か ら 、ニ コ ニ コ し て い る 。
「 こ の 箇 所 を お 読 み 下 さ い 」と
差 し 出 し た の は 、 司 馬 遼 太 郎 著 『 長 安 か ら 北 京 へ 』( 中 公 文 庫 ) で あ っ た 。
「 こ れ〔 陳 毅 の 演 説 を 指 す 〕よ り も 以 下 の 毛 沢 東 氏 の 文 章 ─ ─ 一 九 六 六 年 三 月 一 二 日 の「 農
矢吹晋『逆耳順耳』
43
業機械化問題に関する指示の手紙」──のほうが、いうまでもなく、こんにちの中国につ
いてつよい意味をもっている。
『 … … 第 一 は 戦 争 に 備 え る こ と 。人 民 ・ 軍 隊 は ま ず メ シ を 食
わねばならず、着るものが必要だ。それでこそ戦争ができるのであって、そうでなければ
銃 や 砲 が あ っ て も 使 い 道 が な い 』( 矢 吹 晋 訳 )。
まず人民と軍隊にメシを食わせよ、とい
うのは、毛思想のなかでもっとも凄味のあることばといっていい。かれは井岡山時代に上
海派のインテリ革命家たちから一種独立したにおいをもちつつ農村を食わせることに没頭
し た 」( 九 四 頁 )。 こ の 本 の な か で 、 私 が 昔 訳 し た 『 毛 沢 東
社会主義建設を語る』の一節
が引用されているのを初めて知ったのは、一九七九年春のこと。北京飯店で同行の新田俊
三さんのご教示によってであった。初めての北京で、拾い読みした感激をすっかり忘れて
しまったのは、どうしたことだろう。
その旅から帰国してすぐ香港へ遊学し、一年半も帰国しなかったからであろうか。それも
一因であるが、私の中国を見る目がまるで変わってしまったことによるところが大きい。
「戦争に備えること」──これが毛沢東にとって最大の課題の一つであった。毛沢東のこ
の 発 言 か ら す で に 二 十 数 年 経 た が 、戦 争 は 起 こ ら な か っ た 。歴 史 を 顧 み る と 、
「戦争に備え
た」結果の虚しさばかりが残るのは否定しがたい。たとえば中国の各大都市には、どこに
でも大きく、長い地下壕が掘られたが、いまや全くの無用の長物である。あのエネルギー
を地下鉄の建設に振り向けていたならば、都市交通の混雑が相当に解決されていたであろ
う こ と は 疑 い な い 。第 二 次 大 戦 に「 辛 勝 」し 、
「 第 三 次 大 戦 戦 争 に 備 え た 」中 国 が 経 済 建 設
で立ち遅れ、その負担を免れた日本が高度成長を遂げた。平和憲法を得たのは、日本の敗
戦 の 結 果 な の で あ る か ら 、禍 福 は あ ざ な え る 縄 の ご と し 、の よ き 一 例 で あ る 。話 を 戻 す と 、
司馬遼太郎の中国紀行は、明の十三陵や万里の長城などを観光する際の最良のガイドブッ
クである。
改 革 と 開 放 の イ デ オ ロ ー グ 蘇 紹 智 解 任 の 背 後 に 保 守 派 の 陰 謀 あ り 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 一
七号〔八七年一二月一〇日発行〕
第一三回党大会における趙紫陽報告は「社会主義初級段階論」を打ち出した。ところが、
この「初級段階論」の第一の提唱者が研究所(社会科学院マルクス・レーニン主義毛沢東
思想研究所)の所長と党組書記を解任されたのであるから、中国共産党のやることは、ど
うもよく分からない。蘇紹智曰く──
「新民主主義の時期にもっと十分に発展していたならば、そして生産手段の所有制の改造
の歩みがもう少し穏健であったならば、今日の情況は異なっていたかも知れない。現段階
の 所 有 制 改 革 に お い て 、多 種 経 済 ウ ク ラ ー ド が 現 れ た こ と は 、
『 補 習 』論 は 筋 が 通 っ て い る
こ と を 説 明 し て い る 」(「 政 治 体 制 改 革 趨 議 」)。
「封建専制主義の残滓の思想政治面における影響が、いま中国の改革と現代化の主要な障
害 と な っ て い る 」( 同 上 )。
「『 農 業 社 会 主 義 』意 識 を 研 究 し 批 判 す べ き で あ る 。中 国 の 伝 統 的 農 民 革 命 の 追 求 し た も の
と形成された原因、およびその今日への影響を検討するには、新民主主義時期と社会主義
矢吹晋『逆耳順耳』
44
時期(文革を含む)のスローガン、要求、綱領のなかの進歩的一面と後進的、保守的側面
を 追 求 し 点 検 し な け れ ば な ら な い 」( 同 上 )。
蘇紹智のこうした主張を私はかねて愛読してきた。プロフィールを紹介したこともある
(『 日 中 経 済 協 会 会 報 』 一 九 八 七 年 五 月 号 )。
敬愛する理論家が故なく迫害されていることに、私は大きないらだちを感じている。
前 掲 の 引 用 は 、 中 央 書 記 処 の 「 秘 密 文 件 」 た る 『 若 干 言 論 対 照 』(『 中 国 之 春 』 一 九 八 七 年
一 一 月 増 刊 号 )に 引 用 さ れ た も の で あ る 。
「 断 章 取 義 」の 典 型 と も い う べ き こ の 文 書 は 、保
守派イデオローグたちの「陰謀詭計」のやり口を雄弁に語っている。
中 国 共 産 党 の イ デ オ ロ ギ ー 論 争 に お い て カ ナ メ に な る 争 点 に つ い て 、ま ず 方 励 之 、王 若 望 、
劉 賓 雁 な ど の 語 録 を「 断 章 取 義 」す る 。つ い で 蘇 紹 智 、王 若 水 、厳 家 其 、許 良 英 、李 洪 林 、
孫長江、温元凱、王国起、周揚、郭羅基、胡平、などの言論から断章取義をやって「三悪
人」と並べ、これらを左側に印刷する。
今度は右側に学生たちの主張を並べる。一九八六年一二月の街頭デモのスローガンや大学
構 内 、そ し て 街 角 に 貼 ら れ た ス テ ッ カ ー の な か か ら 、
「 過 激 な 」も の を 引 用 す る 。た と え ば 、
「 四 つ の 基 本 原 則 を や め よ 」「 マ ル ク ス 理 論 は 中 国 の 思 想 舞 台 か ら 引 き ず り 降 ろ せ 」「 醜 悪
なマルクス主義は一九世紀資本主義時代の産物であり、時代遅れであり、中国の国情に合
わ な い 」「 中 国 の イ デ オ ロ ギ ー は マ ル ク ス 主 義 で 粉 飾 さ れ た 封 建 思 想 で あ る 」「 マ ル ク ス 理
論は実際には、極少数の特権階層に奉仕するもので、麻酔薬であり、われわれを奴隷化す
る足枷である」などなど。
保守派イデオローグがこうした「言論対照」を行う意図はみえみえである。改革派理論家
たちの誤れる言論の故に、学生たちは「反体制的暴挙」に導かれた、と非難するためであ
る。
『中国之春』の解説によれば、この資料は胡耀邦政変以後の一月から三月にかけて作成さ
れたものである。そして、中央書記処が直接コントロールしている新華印刷工場のなかの
「特殊車間」で印刷された。党・政・軍の高級幹部に秘密に配られたものであり、省長や
国務院部長でさえ、一般には読めなかった、という。この資料作成を陣頭指揮したのが、
ご 存 じ 力 群 で あ る 。 彼 は 「 新 四 人 組 」( 彭 真 、 薄 一 波 、 胡 喬 木 、 力 群 ) の 切 り 込 み 隊 長 と し
て、ハッスルしたのである。胡喬木も相当なハッスルぶりで、たとえば劇作家呉祖光の除
名を通告するために、わざわざ彼のアパートまで訪れているほどだ。
ところで、ここでブラックリストに挙げられた理論家たちは、胡耀邦のブレーンであると
ともに、趙紫陽のブレーンでもある。つまり、このブレーンつぶし策動の狙いは、標的を
趙 紫 陽 に し ぼ っ た も の で あ っ た 。趙 紫 陽 は 反 撃 を 余 儀 な く さ れ た 。一 九 八 七 年 五 月 一 三 日 、
趙 紫 陽 は 保 守 派 の 力 群 を 名 指 し 批 判 し 、 逆 襲 に 転 じ た 。「 資 本 主 義 を 語 る 者 は 批 判 さ れ た
(胡耀邦事件を指す)が、資本主義を行う者(趙紫陽)はまだ批判されていない」という
のが、保守派の四~五月時点での合言葉なのであった。また「四つの基本原則」が「綱」
で あ り 、「 改 革 ・ 開 放 」 は 「 目 」 に す ぎ な い 、 と す る 「 綱 目 」 論 も 保 守 派 か ら 提 起 さ れ て い
た。
矢吹晋『逆耳順耳』
45
趙紫陽の努力は功を奏して、党大会の報告に「初級段階論」を盛り込むことが出来た。と
は い え 蘇 紹 智 ら 有 力 な ブ レ ー ン を 犠 牲 に せ ざ る を え な か っ た 。中 国 共 産 党 の 最 良 の 部 分 は 、
保守派の自己満足のためのイケニエとされたわけである。
改 革 と 開 放 の イ デ オ ロ ー グ 蘇 紹 智 解 任 の 背 後 に 保 守 派 の 陰 謀 あ り 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 一
七号〔八七年一二月一〇日発行〕
第一三回党大会における趙紫陽報告は「社会主義初級段階論」を打ち出した。ところが、
この「初級段階論」の第一の提唱者が研究所(社会科学院マルクス・レーニン主義毛沢東
思想研究所)の所長と党組書記を解任されたのであるから、中国共産党のやることは、ど
うもよく分からない。蘇紹智曰く──
「新民主主義の時期にもっと十分に発展していたならば、そして生産手段の所有制の改造
の歩みがもう少し穏健であったならば、今日の情況は異なっていたかも知れない。現段階
の 所 有 制 改 革 に お い て 、多 種 経 済 ウ ク ラ ー ド が 現 れ た こ と は 、
『 補 習 』論 は 筋 が 通 っ て い る
こ と を 説 明 し て い る 」(「 政 治 体 制 改 革 趨 議 」)。
「封建専制主義の残滓の思想政治面における影響が、いま中国の改革と現代化の主要な障
害 と な っ て い る 」( 同 上 )。
「『 農 業 社 会 主 義 』意 識 を 研 究 し 批 判 す べ き で あ る 。中 国 の 伝 統 的 農 民 革 命 の 追 求 し た も の
と形成された原因、およびその今日への影響を検討するには、新民主主義時期と社会主義
時期(文革を含む)のスローガン、要求、綱領のなかの進歩的一面と後進的、保守的側面
を 追 求 し 点 検 し な け れ ば な ら な い 」( 同 上 )。
蘇紹智のこうした主張を私はかねて愛読してきた。プロフィールを紹介したこともある
(『 日 中 経 済 協 会 会 報 』 一 九 八 七 年 五 月 号 )。
敬愛する理論家が故なく迫害されていることに、私は大きないらだちを感じている。
前 掲 の 引 用 は 、 中 央 書 記 処 の 「 秘 密 文 件 」 た る 『 若 干 言 論 対 照 』(『 中 国 之 春 』 一 九 八 七 年
一 一 月 増 刊 号 )に 引 用 さ れ た も の で あ る 。
「 断 章 取 義 」の 典 型 と も い う べ き こ の 文 書 は 、保
守派イデオローグたちの「陰謀詭計」のやり口を雄弁に語っている。
中 国 共 産 党 の イ デ オ ロ ギ ー 論 争 に お い て カ ナ メ に な る 争 点 に つ い て 、ま ず 方 励 之 、王 若 望 、
劉 賓 雁 な ど の 語 録 を「 断 章 取 義 」す る 。つ い で 蘇 紹 智 、王 若 水 、厳 家 其 、許 良 英 、李 洪 林 、
孫長江、温元凱、王国起、周揚、郭羅基、胡平、などの言論から断章取義をやって「三悪
人」と並べ、これらを左側に印刷する。
今度は右側に学生たちの主張を並べる。一九八六年一二月の街頭デモのスローガンや大学
構 内 、そ し て 街 角 に 貼 ら れ た ス テ ッ カ ー の な か か ら 、
「 過 激 な 」も の を 引 用 す る 。た と え ば 、
「 四 つ の 基 本 原 則 を や め よ 」「 マ ル ク ス 理 論 は 中 国 の 思 想 舞 台 か ら 引 き ず り 降 ろ せ 」「 醜 悪
なマルクス主義は一九世紀資本主義時代の産物であり、時代遅れであり、中国の国情に合
わ な い 」「 中 国 の イ デ オ ロ ギ ー は マ ル ク ス 主 義 で 粉 飾 さ れ た 封 建 思 想 で あ る 」「 マ ル ク ス 理
論は実際には、極少数の特権階層に奉仕するもので、麻酔薬であり、われわれを奴隷化す
る足枷である」などなど。
矢吹晋『逆耳順耳』
46
保守派イデオローグがこうした「言論対照」を行う意図はみえみえである。改革派理論家
たちの誤れる言論の故に、学生たちは「反体制的暴挙」に導かれた、と非難するためであ
る。
『中国之春』の解説によれば、この資料は胡耀邦政変以後の一月から三月にかけて作成さ
れたものである。そして、中央書記処が直接コントロールしている新華印刷工場のなかの
「特殊車間」で印刷された。党・政・軍の高級幹部に秘密に配られたものであり、省長や
国務院部長でさえ、一般には読めなかった、という。この資料作成を陣頭指揮したのが、
ご 存 じ 力 群 で あ る 。 彼 は 「 新 四 人 組 」( 彭 真 、 薄 一 波 、 胡 喬 木 、 力 群 ) の 切 り 込 み 隊 長 と し
て、ハッスルしたのである。胡喬木も相当なハッスルぶりで、たとえば劇作家呉祖光の除
名を通告するために、わざわざ彼のアパートまで訪れているほどだ。
ところで、ここでブラックリストに挙げられた理論家たちは、胡耀邦のブレーンであると
ともに、趙紫陽のブレーンでもある。つまり、このブレーンつぶし策動の狙いは、標的を
趙 紫 陽 に し ぼ っ た も の で あ っ た 。趙 紫 陽 は 反 撃 を 余 儀 な く さ れ た 。一 九 八 七 年 五 月 一 三 日 、
趙 紫 陽 は 保 守 派 の 力 群 を 名 指 し 批 判 し 、 逆 襲 に 転 じ た 。「 資 本 主 義 を 語 る 者 は 批 判 さ れ た
(胡耀邦事件を指す)が、資本主義を行う者(趙紫陽)はまだ批判されていない」という
のが、保守派の四~五月時点での合言葉なのであった。また「四つの基本原則」が「綱」
で あ り 、「 改 革 ・ 開 放 」 は 「 目 」 に す ぎ な い 、 と す る 「 綱 目 」 論 も 保 守 派 か ら 提 起 さ れ て い
た。
趙紫陽の努力は功を奏して、党大会の報告に「初級段階論」を盛り込むことが出来た。と
は い え 蘇 紹 智 ら 有 力 な ブ レ ー ン を 犠 牲 に せ ざ る を え な か っ た 。中 国 共 産 党 の 最 良 の 部 分 は 、
保守派の自己満足のためのイケニエとされたわけである。
政治の民主改革「差額選挙」のツイは何でしょう?
逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 一 七 号 〔 八 七 年 一 二 月 一 〇 日 発 行 〕
中共第一三回大会では、中央委員予備選挙において「差額選挙」が行われ、保守派のイデ
オローグ力群が落選するハプニングが起こった。候補委員として、政治局入りするはずの
目論見が覆ったのであるから、一大事である。
「 差 額 選 挙 」 と は 何 か 。 孫 鉄 編 『 党 的 組 織 工 作 詞 典 』( 中 国 展 望 出 版 社 、 一 九 八 六 年 ) に よ
れば、候補者を定員より二割程度増やすことである。つまり、中央委員一七五名、中央委
員候補一一〇名、計二八五名が定員であるから、五七名前後を増やしたリストを用意して
投票する仕組みである。八〇年に採択された「党内生活の若干の原則」で導入された「差
額選挙」が今回初めて実際に用いられ、保守派のチャンピオンを拒否することによって、
胡耀邦引きずり下ろしの暴挙を批判したことになる。これは胡耀邦の大勝利である。胡耀
邦が組織部長時代、ついで総書記として努めてきた若返り政策が実を結んだことになる。
つまり、一月政変およびその後の反「ブルジョア自由化」キャンペーンに対して、党内世
論は明確に拒否反応を示したわけである。
さ て 、「 差 額 選 挙 」 に つ い て 、 日 本 の 新 聞 は 「 複 数 候 補 制 」 と 紹 介 し た 。 そ れ は そ れ で 悪 く
矢吹晋『逆耳順耳』
47
は な い が 、「 差 額 」 の 意 味 を 明 確 な ら し め る に は 、 こ の 概 念 の ツ イ 概 念 を 想 起 す れ ば よ い 。
さ あ 、 何 か 。 答 は 「 等 額 」 で あ る 。「 等 額 選 挙 」 と は 、 候 補 者 が す べ て 当 選 す る シ ス テ ム 、
すなわち選挙民に信任投票だけを求めるやり方にほかならない。これは選挙民に候補者を
押しつけるにはたいへん便利なやり方だ。執政党による候補押し付け(選択権の剥奪)に
対 し て 、 中 国 の 大 衆 が 「 無 関 心 」「 無 気 力 」 で 応 じ た の は 、 当 然 の 成 り 行 き 。 か く て も た ら
れ た 沈 滞 ム ー ド 一 掃 の た め に 、「 差 額 選 挙 」 が 登 場 し た 次 第 で あ る 。
交 通 公 社 の ガ イ ド ブ ッ ク 『 中 国 』 へ の 不 満 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 一 八 号 〔 八 八 年 二 月 一 〇
日発行〕
昨秋初めて桂林を訪れる機会を得た。初めての土地で頼りになるのは、なんといっても先
達の案内だし、それがない場合のガイドブックである。交通公社のポケットガイド一三二
『 中 国 』( 改 訂 五 版 、 昭 和 六 一 年 一 一 月 発 行 ) を め く る こ と が 多 か っ た 。
そ し て 気 づ い た こ と だ が 、「 漓 江 」 が す べ て 「 ● 江 」 と な っ て い る 。 二 〇 八 頁 に 三 カ 所 、 二
〇九頁四カ所、二一〇頁に五カ所、二一一頁に四カ所、計一六カ所がすべて「●江」であ
る 。こ れ は 旧 字 体 だ か ら 誤 り だ と い う の で は な い が 、
「 漓 」は ワ ー プ ロ 第 二 水 準 に 含 ま れ て
いるのだから、わざわざ醜い作字をすることもあるまいというのである。二〇八~二〇九
頁 に 「 ● 波 山 」 と あ る の は 、「 伏 波 山 」 の 誤 り 。 こ の あ た り は 、 中 国 発 行 の 地 図 と 比 べ れ ば
すぐ分るミスプリだが、さて次の文の欠点はどこでしょうか。
「 桂 林 山 水 甲 天 下 、 陽 朔 山 水 甲 桂 林 。( 桂 林 の 風 景 は 天 下 一 、陽 朔 の 山 水 は 桂 林 第 一 )」
(二
〇 八 頁 )。「 桂 林 山 水 」 と 「 陽 朔 山 水 」 を 単 に 並 べ た だ け で は 、 芸 が な い で す ね 。「 桂 林 山 水
甲天下」と来たら、次は「陽朔堪称甲桂林」と、ひとひねりするのが対句の妙でしょう。
さて、これは「書かれていること」についての不満ですが、書いてあるべき記述が欠落し
て い る の も 困 り も の 。た と え ば 、わ れ わ れ の 宿 泊 し た ホ リ デ イ ・ イ ン( 桂 林 假 日 飯 店 )も 、
コ ー ヒ ー を 飲 ん だ 「 花 園 酒 店 」( ラ マ ダ ン 系 列 ) も こ の 本 に は 見 当 た ら な い 。「 八 六 年 七 月
現在のデータ」と断り書きがありますが、すでにオープンしていたはずですよ。というわ
けで、三〇三頁の本のわずか四頁を眺めただけで、不満続出。この本は昭和五七年の初版
以来四年、版を重ねること五回に及ぶにもかかわらず、いまだ訂正されないのは、どうし
たことだろうか。
〔訂正〕
「 ● 波 山 」 は 「 伏 波 山 」 が よ い と 書 き ま し た が 、「 ● は 渦 の こ と 」 で す か ら 、 旧
字体にするときはサンズイ付きが正しい。私の誤りでした。お詫びして訂正致します。
中 国 職 員 労 働 者 の 定 年 、「 離 休 」 と 「 退 休 」 の 違 い は ? 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 一 八 号 〔 八 八
年二月一〇日発行〕
「退休」が定年退職を意味することはよく知られている。京都大学の先生方は「退休」の
表 現 が お 好 き な よ う で あ る 。 た し か に 「 退 官 」 よ り は 数 倍 感 じ が よ い ( し か し 、「 官 」 が お
好きな人種も少なくないらしく、某私立大学教授の「退官」記念論文集なるものに仰天し
た の は 、 つ い 先 日 の こ と で あ る )。
閑話休題。ここでの「退休」は、中国の「国家職工」の話で、彼らは次の条件に符合する
矢吹晋『逆耳順耳』
48
場合に「退休」する。
1 男 性 は 満 六 〇 歳 、女 性 は 満 五 五 歳 に な り 、
「 革 命 工 作 」に 参 加 し た 年 限 が 満 一 〇 年 に な っ
た場合。
2 男 性 が 満 五 〇 歳 、女 性 が 満 四 五 歳 に な り 、
「 革 命 工 作 」に 参 加 し た 年 限 が 満 一 〇 年 に な っ
た者で「工作能力を完全に喪失した」という病院の証明書がある場合。
3 公務のために廃疾となり、
「 工 作 能 力 を 完 全 に 喪 失 し た 」と す る 病 院 の 証 明 書 が あ る 場 合 。
その扱い方は簡単。
「 規 定 の 年 齢 に 達 し た ら 本 人 の 申 請 を 必 要 と せ ず 、規 定 通 り 退 休 の 手 続
き を 行 う 」「 退 休 以 後 は 一 定 の 基 準 で 退 休 費 を 受 領 す る 」。
こ れ で 「 退 休 」 は 分 か っ た が 、「 離 休 」 と は な ん だ ろ う ?
「 離 職 休 養 」の 略 語 だ と い う が 、
「 退 休 」と ど う 違 う の か 。長 い 間 の 疑 問 が あ る 本 を 読 ん で
氷解した。
1 中央・国家機関の部長・副部長、省レベル党委員会の第一書記・書記・副
書 記 、省 レ ベ ル 政 府 の 省 長 ・ 市 長 ・ 主 席 ・ 副 省 長 ・ 副 主 席 な ど の 場 合 、
「 正 職 」は 満 六 五 歳 、
「副職」は満六〇歳が定年である。
2 中央・国家機関の司局長・副司局長・省レベル党委員会の部長・副部長、省レベル政府
の庁局長・副庁局長・地区委員会書記・副書記、行政公署の専員・副専員などは満六〇歳
が定年である。
3 そ の 他 の 幹 部 は 男 性 満 六 〇 歳 、 女 性 満 五 五 歳 が 定 年 で あ る (『 党 的 組 織 工 作 詞 典 』 九 四 ~
九 五 頁 )。
も う お 分 り で し ょ う 。「 離 休 」 と は 、「 老 幹 部 」 の 場 合 に の み 、 適 用 さ れ る 規 定 で 、 平 等 主
義を誇った中国式「定年」にも二種類あるという次第でした。ここで問題は「老幹部」と
は 何 か 、で あ ろ う 。
「 一 般 に は 中 華 人 民 共 和 国 の 建 国 以 前 、す な わ ち 新 民 主 主 義 革 命 の 四 段
階(第一次国内革命戦争期、第二次国内革命戦争期、抗日戦争期、解放戦争期)に革命に
参 加 し た 幹 部 」 を 指 し て い る ( 五 五 頁 )。 で は 「 老 幹 部 」 に の み 許 さ れ る 「 離 休 」 に は い か
なる特権がつくのか。
一 九 八 二 年 二 月 二 〇 日 付「 中 共 中 央 の 老 幹 部 退 休 制 度 樹 立 に つ い て の 決 定 」に は 、
「規定さ
れた範囲内で文件を読み、報告を聴取し、若干の重大活動に参加できる」と書かれている
( こ れ を 「 政 治 待 遇 不 変 」 の 原 則 と い う )。 で は 生 活 面 で は ど う か 。「 賃 金 、 住 宅 、 医 療 、
自動車の使用、生活品の供給などの面で、元来の待遇を享受できる」ほかに、次の特権が
ある。
1 行 政 八 級 以 上 の 高 級 幹 部 は 別 と し て 〔 そ れ 以 下 の 幹 部 の 場 合 は 〕、( イ ) 日 華 事 変 以 前 に
革命に参加した者は年間に賃金二カ月分の生活手当を得る。
( ロ )日 華 事 変 か ら 四 二 年 末 ま
で に 参 加 し た 者 は 一・五 カ 月 分 。
( ハ )四 三 年 か ら 四 五 年 九 月 ま で に 参 加 し た 者 は 一 カ 月 分
を 得 る 〔 そ れ 以 後 に 参 加 し た 者 は 「 老 幹 部 」 で は な い 、 と い う こ と 〕。
2 住宅、医療、自動車の使用、生活品の供給の面で優先的に配慮される。
3 身体障害などのために生活が困難な場合には「護理補助費」を受ける。
4 国 家 の 規 定 す る 「 探 親 」 待 遇 〔 旅 費 負 担 〕 の ほ か に 、「 探 親 」 の た め の 往 復 車 船 費 を 年 一
度支給される。
矢吹晋『逆耳順耳』
49
5 行政一四~一八級よりも高い賃金の非行政幹部は離休後、司局級・処級の待遇を受ける
( 同 上 、 九 六 頁 )。
どうやらいたれりつくせりの待遇である。かてて加えて「老幹部離休栄誉証」まで貰える
という。中国もおそらく「老幹部」という名の官僚天国である。かつて毛沢東は「人民の
頭上に股がり、クソ・ションベンをかける走資派」の打倒を呼びかけたが、その文化大革
命 が 大 失 敗 に 終 わ っ た あ と 、「 平 反 」( 名 誉 回 復 ) さ れ た 「 老 幹 部 」 は 、 ふ た た び 人 民 の 頭
上に君臨しているごとくである。若返りにもカネがかかる。一三期中央委員の年齢制限は
六三歳未満(一二期からの留任は六六歳未満)とし、大いに若返りしたが、そのためには
巨額の「離休対策費?」が要ったはずである。
老 酒 の 正 し い 呑 み 方 あ る い は 再 び ガ イ ド ブ ッ ク に つ い て 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 一 九 号〔 八
八年四月一〇日発行〕
あ る 夜 、都 内 の 某 ホ テ ル に 宿 泊 し て 寝 つ け ず 輾 転 反 側 、ふ と 枕 元 の『 葵 』
(一九八七年冬号)
の「特集:食文化」が目につく。花井四郎「中国の酒の話──紹興酒を中心として」を読
む。
「日本の中国料理店にいくと、卓上に氷砂糖入りのつぼを置いてあるところがある。氷砂
糖を入れて飲むなどは紹興酒の本当の味を殺してしまう飲み方である。酸敗した紹興酒、
あ る い は 未 熟 成 の 紹 興 酒 を な ん と か し て 飲 も う と 考 え た も の で あ ろ う 」「 最 近 で は 中 国 に
旅行する人も多くなって、本当の飲み方を知った通も増え、氷砂糖を入れて飲む人も少な
くなってきた。いかに有名な飯店でも、卓上に氷砂糖を置く店は勉強不足で、料理の味も
期 待 で き な い 」。
異議なし!!
私は前から折りにふれてこの話をしてきた。
「 本 当 の 味 を 殺 す 」愚 か な 呑 み
方がいつどのような経緯で流行するに至ったのかは、日中相互誤解の端的な一例として、
十分研究に値する。調査して書くつもりだと公言してきたが、眼高手低の嘆き。碩学がき
ちんと書いてくれたので、少しは改まるだろうと期待している。
そのなかに次の一節があった。
「 日 本 交 通 公 社 の 中 国 旅 行 案 内 書 に〈 本 物 の 紹 興 酒 に 氷 砂 糖
を組み合わせるなどは、極端にいえばマグロの刺身にジャムをつけるようなもの。お客さ
んとしてよばれたときにそんな要求をだせば、もてなした側のメンツをつぶすことにな
る 〉」。
早 速 手 許 の 『 中 国 』( ポ ケ ッ ト ガ イ ド 一 三 二 、 改 訂 五 版 、 昭 和 六 一 年 一 一 月 ) を め く る が 、
どこにも書いてない。そこで同書の「改訂四版、一九七八年七月)をめくると、二四〇頁
にありました。
「 マ グ ロ の 刺 身 に ジ ャ ム 」と は 、い か に も 旧 人 類 的 発 想 で あ り 、新 人 類 か ら
はむしろ歓迎される(?)かも知れないが、それはさておき、こういう立派な忠告を新版
で削除してしまうとはどういう編集感覚であろうか。
毒にも薬にもならぬ「漢詩の話」で三頁も費やす紙幅があるのなら、老酒の正しい呑み方
はぜひともきちんと書いておくべし。飲食のなかにこそ真の文化がある。いま私の手元に
英語のガイドブックが二冊ある。
矢吹晋『逆耳順耳』
50
FODOR'S PEOPLE'S REPUBLIC OF CHINA, Fodor's Modern Guides,Inc., 1979.
CHINA:a travel survival kit, Lonely Planet Publications, Australia, 1984.
二年前に私は香港から厦門まで船、厦門から福州までバス、再び福州から泉州を経て厦門
までバス旅行をしたことがある。気軽な一人旅であるから、宿も車も成り行き次第。骨は
折れたが楽しかった。たとえばこんな旅をしようとするとき、交通公社のガイドブックは
ほ と ん ど 役 に 立 た な い 。バ ス そ の 他 の 交 通 手 段 に つ い て 具 体 的 な こ と が 書 い て な い か ら だ 。
旅 行 の 雰 囲 気 を 盛 り 上 げ る イ メ ー ジ ば か り が 溢 れ て い る 。漢 詩 の 話 な ぞ は そ の 象 徴 で あ る 。
かくて交通公社の旗の下、ゾロゾロついていくほかない仕掛けになっている。
これに対してローンリィ・プラネットの本は、文字通りのガイドブックであるから、これ
一冊で一人旅ができるようになっている。変わり易いバス時刻まで、丹念に調べ、いつい
つの時点では何便ありと正確な情報を提供している姿勢は、ただただ立派としか言い様が
ない。とここまで書いてきてハタと気づいた。日本の旅行客がガイドブックと首っ引きで
自分で旅行計画を立て、自分でビザを申請し、飛行機を予約するようになったら、旅行社
は困るのであろうか。いやダイヤモンド社から「乞食旅行ガイドブック」がすでに出てい
る。
近 ご ろ 気 に な る 中 国 語 の 原 音 主 義 表 現 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 一 九 号〔 八 八 年 四 月 一 〇 日 発
行〕
その昔、私はかの田中清玄を怒らせたことがある。香港にいたときのこと。さる人が私を
レストランに招待し会わせてくれたのである。この大物、初めて中国を訪れて、鄧小平か
ら親しく会見を賜り、感激さめやらぬといった感じであった。鄧小平の近代化政策、開放
政策はホンモノであるから、日本としても極力助けるべきである、と彼は力説した。むろ
ん私もこの高見には大賛成であり、意気投合した。ただ、私は彼のある発音が気になって
つい、からかってしまったのである。
彼は「デンさん、デンさん」と繰り返す。初めは
田 某 の こ と か と 錯 覚 し て い た の で あ る が 、こ の デ ン さ ん こ そ 鄧 小 平 を 指 し て い た の で あ る 。
M r. D e n g
をデン、デンと読んだわけである。
少し聞きづらいですよ、とご注意申し上げると、大抵はデングさん、デングさんとなるの
が常である。まさか天狗じゃあるまいし。
もし
M r. D e n g
を 正 確 に 発 音 し た い の な ら 、中 国 語 の 音 を 学 ぶ べ き で あ ろ う 。ピ ン イ ン
を英語式に読めば、通ずるかのごとき錯覚しか持ち合わせない人物の中国理解を私は疑う
のである。もし正確に発音できないのならば、トウ・ショウヘイ(あるいはト・ショウヘ
イ)と日本語で正確に読むべし。
昨夜はNHK「大黄河」の映像に魅せられたが、私の好きな緒形拳のナレーションが「イ
ー シ ェ ン テ ン 」 と 言 う の を 聞 い て が っ く り し た 。「 一 線 天 」( イ ッ セ ン テ ン ) で よ い で は な
いか。もし原音を用いたいのなら、四声を三分間練習せよ。これはむろんナレーターでは
なくディレクター氏の文化水準を示している(ついでに声を低くして言いますが、いつか
の漢文の先生の中国語はひどかったですなあ。某テレビの某講座で漢詩を勉強したときの
矢吹晋『逆耳順耳』
51
印象ですが、四声がかなりズレていました。たいへん学のある学者なのに惜しいですね。
も っ と も 中 国 の 大 政 治 家 た ち の お 国 な ま り も 相 当 き つ い か ら 、そ れ よ り は マ シ で し た が ね )。
今年の一月末、シュラム教授が国際文化会館で講演したときのこと。私の隣に坐った英語
ペラペラの中年管理職氏が帰り際に私に耳打ちして聞く。あの「ジャオズヤン」とは何で
すかね?
「趙紫陽さんですよ」と答えながら、私は甚だ複雑な心境に陥ったことであっ
た。
ノ ー メ ン ク ラ ツ ー ラ の 中 国 版 「 幹 部 職 務 名 単 制 」 は 安 子 文 が 作 っ た 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第
一九号〔八八年四月一〇日発行〕
共産党の「指導」という名の「支配」を推進する上で決定的に重要なのは、いうまでもな
く人事である。権力を奪取した中国共産党は幹部管理制度をソ連から直輸入した。この大
仕 事 を 担 っ た の が 、安 子 文( 四 五 年 中 央 組 織 部 副 部 長 、五 六 年 中 央 組 織 部 部 長 )で あ っ た 。
一 九 五 〇 年 一 二 月 八 日 、安 子 文 は 毛 沢 東 、劉 少 奇 に 報 告 書 を 書 い て 、
「ソ連共産党の幹部職
務名単制」のやり方を学び、幹部管理制度を樹立するよう提起した。五一年四月一三日、
全 国 人 事 工 作 座 談 会 で 安 子 文 は 「 分 類 分 級 の 幹 部 管 理 制 度 」 を 提 起 し 、「 幹 部 職 務 名 単 制 」
と略称した。五三年四月一日、劉少奇は当時モスクワで第一次五カ年計画策定のために、
ソ連側と交渉していた李富春に電報を送り、七項目の問題点について文書でソ連から教示
を得ようとした。四月三日安子文は李富春に知りたい事柄の具体的内容を書いた手紙を送
った。これに対してソ連共産党は中央書記サターリンを指名して四月二〇日と五月五日の
両日李富春と会わせ、ソ連のやり方を紹介した。
この紹介に基づいて中央組織部が「幹部管理工作を強化することについての決定」を起草
し 、こ れ は 五 三 年 一 一 月 に 正 式 決 議 と し て 発 出 さ れ た 。こ れ に よ る と 幹 部 は 九 種 類 あ っ た 。
1 軍隊幹部──軍事委員会の総幹部部、総政治部および軍隊の各級幹部部、政治部が管理
に責任を負う。
2 文教工作幹部──党委員会の宣伝部が管理に責任を負う。
3 計画、工業工作の幹部──党委員会の計画、工業部が管理に責任を負う。
4 財政、貿易工作幹部──党委員会の財政、貿易工作部が管理に責任を負う。
5 交通、運輸工作幹部──党委員会の交通、運輸部が管理に責任を負う。
6 農 業 、林 業 、水 利 工 作 幹 部 ─ ─ 党 委 員 会 の 農 村 工 作 部 が 管 理 に 責 任 を 負 う 。
7 統一戦線
工作に関わる幹部──党の統戦工作部が管理に責任を負う。
8 政法工作幹部──党委員会の政法工作部が管理に責任を負う。
9 党群〔党と大衆〕工作幹部とその他の工作幹部──党委員会の組織部が管理に責任を負
う。
さらに、各部門について、全国各方面に関わる重要職務を担う幹部は中央が管理し、その
他 の 幹 部 は 中 央 局 、分 局 お よ び 各 級 党 委 員 会 が 管 理 す る こ と と し た 。こ の 決 定 に 基 づ い て 、
五四年までに中央組織部内に 1 工業、2 財政貿易、3 交通運輸、4 政法などの「幹部管理
処」が設けられ、五五年一月には中共中央は中央の管理する「幹部職務名称表」を正式に
矢吹晋『逆耳順耳』
52
公布するに至った。そして各地区、各部門に対しては、五五年九月それぞれの「幹部職務
名 称 表 」 を 作 る よ う 指 示 し た の で あ っ た (『 安 子 文 伝 略 』 一 〇 九 ~ 一 一 二 頁 )。
M ・ S ・ ヴ ォ ス レ ン ス キ ー 『 ノ ー メ ン ク ラ ツ ー ラ 』( 邦 訳 、 中 央 公 論 社 、 一 九 八 一 年 ) を 読
んだときから、中国の場合はどうかと考え続けてきたが、やはり同じなのであった。
G N P 格 差 に 対 応 し た 中 国 人 と 日 本 人 の 生 命 の 値 段 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 二 〇 号〔 八 八 年
六月一〇日発行〕
司馬遼太郎『胡蝶の夢』に、つぎのエピソードが紹介されている──幕末の安政六年(一
八九五年)部落民のひとりが山谷の真崎稲荷の縁日に参詣したところ、土地の者が「けが
れる」としてふくろだたきにしてしまった。これにつき弾左衛門が加害者の処分方を北町
奉行池田播磨守に訴え出た。原田伴彦氏の『被差別部落の歴史』によると、町奉行はこれ
を 却 下 し 、そ の 理 由 と し て 、
「 お よ そ え た の 身 分 は 平 人 の 七 分 の 一 に あ た る 」と 言 い 、で あ
る か ら 七 人 が 殺 さ れ た の で な け れ ば 平 人 一 人 を 処 罰 で き な い 、 と し た ( 第 四 巻 、 三 一 頁 )。
先頃、日本の修学旅行の高校生を載せた中国の列車が大事故を起こした。上海の領事館で
働いている知人などは、旅先から電報で呼び戻され、以後三日三晩不眠不休であったとい
う 。 さ る 人 が 私 に 問 う 。「 中 国 人 二 ・ 五 万 元 ( 八 〇 万 円 強 )、 日 本 人 三 万 ド ル ( 約 三 七 五 万
円 ) と 報 道 さ れ て ま す が 、 少 な い の じ ゃ な い で し ょ う か 」。 こ こ で 「 二 ・ 五 万 元 」 と い う の
は 、 お そ ら く 「 二 五 〇 〇 元 」( 八 万 円 強 ) と 単 位 を 間 違 え て い る ( 八 八 年 五 月 現 在 、 一 元 は
三 四 円 弱 で あ る )。こ れ ら の 数 字 は 、八 八 年 春 に 重 慶 で 飛 行 機 が 落 ち た 事 故 で 亡 く な っ た 中
国人に対する補償金が二五〇〇元であったこと、日本人には「三万ドル案」が提示された
まま、交渉がまとまっていないことからの類推であろう。仮に中国人に二五〇〇元、日本
人に三万ドル(約一一万元)を支払うとすれば、一人の日本人の生命は四四人の中国人の
生命に等しいことになる。これは日中の一人当たりGNP格差にきれいに対応しているの
が 興 味 深 い 。 た と え ば 拙 著 『 図 説 ・ 中 国 の 経 済 水 準 』 一 五 三 頁 に よ れ ば 、「 約 四 四 倍 」 で あ
る。
ここで思い出すのは、七九年当時の中越戦争で死んだ解放軍兵士の生命の価値である。補
償金はたしか当初は五〇〇元であった。その後一〇〇〇元程度に引き上げられたといわれ
る。これに対して、八五年の日航ジャンボ機墜落事件の補償金は七〇〇〇~八〇〇〇万円
であったから両者のギャップは目も眩むほど大きい。今回の事件ほど日中間の経済力格差
を露骨な形で教えたものはない。われわれはこの現実を冷静に見つめ、二〇五〇年を展望
するところから、日中経済協力のあり方を根本的に再考したいものだ。それなくして東ア
ジアの安定はありえないし、日本の繁栄もやがて失われよう。
中 薗 英 助『 何 日 君 再 来 物 語 』を 読 む 、逆 耳 順 耳、
『 蒼 蒼 』第 二 〇 号〔 八 八 年 六 月 一 〇 日 発 行 〕
友 人 の 示 唆 で 、 中 薗 英 助 『 何 日 君 再 来 物 語 』( 河 出 書 房 新 社 、 八 八 年 二 月 、 一 八 〇 〇 円 ) を
読 む 。 読 み 終 わ っ た と き に 「 日 中 愛 の 歌 に 感 慨 」 な る 小 さ な 記 事 に 接 し た (『 朝 日 新 聞 ( 夕
刊 )』 八 八 年 四 月 一 六 日 )。 朝 日 が 取 り 上 げ 、 T B S テ レ ビ で も 放 送 さ れ ( こ の 本 の 帯 封 に
矢吹晋『逆耳順耳』
53
よる)大モテである。一〇年前に香港で一人暮らしをしていたときによく聞いたカセット
の一つがテレサ・テンの「何日君再来」である。彼女が歌唱力抜群のタレントであること
を教えてくれたのは、
『 東 京 新 聞 』の 丸 山 寛 之 特 派 員 で あ っ た 。彼 は 手 料 理 が 大 好 き で 、私
はおいしい手打ちうどんをご馳走になりながら、よく中国系女流歌手たちの品定めを聞か
さ れ た も の で あ る 。と い っ た 次 第 で 、こ の 本 に 出 て く る 奚 秀 蘭 の カ セ ッ ト も 持 っ て い る し 、
それに周琁の映画「馬路天使」も見ている。つまり、私の香港シングル・ライフはこの歌
のリバイバル状況のなかに置かれていたために印象が深かった。蒼蒼社からブックレット
を出すに際して「テレサ・テンの鼻唄混じり」と書いたのはこのことにほかならない。
さてこの本の話だが、著者は青春を大陸で過ごした。著者のナツメロ・ルーツ探しはレト
ロ感傷旅行であり、最後に意外な、しかし私のような文革時代の記録をたくさん読んだも
のには「さもありなん」と納得させるドンデン返しもあって面白く読んだ。しかしどうに
も後味が悪い箇所があるので書き留めて置く。
「 麗 君 こ と テ レ サ ・ テ ン 」 と あ る が ( 九 頁 )、 前 者 が 本 名 、 後 者 が 芸 名 で あ る か ら 、「 テ レ
サ・テンこと麗君」じゃありませんかね。
「真教我啼笑皆非」
( 八 九 頁 )と い う 一 句 を「 わ が 泣 き 笑 い の み な 非 な る を 教 え た ま え 」と
迷 訳 し て い ま す が 、お か し い で す ね 。
「ホントに私を泣くに泣けず笑うに笑えぬ心境に追い
込 む 」で し ょ う 。
「 教 」は 使 役 、
「 啼 笑 皆 非 」は「 せ っ ぱ つ ま る 」と い う 意 味 の 成 語 で す ね 。
「何日君再来」の四番目の歌詞の最初の二行は「停唱陽関畳、重擎白玉杯」です。これを
著 者 は 「 立 ち て 陽 関 畳 を 唄 い 、 幾 度 か 白 玉 の 別 杯 を あ げ 」 と 訳 し て い ま す が ( 一 一 二 頁 )、
どこから「立ちて」などという訳語が出てくるのでしょうか。これは「陽関畳を唱うのを
停め、重ねて白玉の杯を挙げる」でしょう(同じ訳が一六七頁、二一七頁にも出てくると
こ ろ を 見 る と 、 著 者 は こ の 迷 訳 が だ い ぶ お 気 に 入 り ら し い )。 要 す る に 、「 陽 関 畳 を 唱 い な
が ら 酒 を 呑 む こ と 」は 不 可 能 で す か ら 、
「 唄 を 停 め て 、さ あ 呑 み ま し ょ う 」と い う こ と で す
ね。
も う 一 つ 。同 じ 唄 の 四 番 二 句 は「 殷 勤 頻 致 語 、牢 牢 撫 君 懐 」で す が 、
「懇ろに慰めの言葉重
ね 、 し っ か り と 君 が み 胸 撫 で ん 」 と 訳 し て い ま す ( 一 一 三 頁 )。
問 題 は「 撫 君 懐 」で す が 、
「 み 胸 撫 で ん 」と は 、い さ さ か ポ ル ノ チ ッ ク じ ゃ あ り ま せ ん か ね 。
「 懇 ろ に 言 葉 を か け 、 し っ か り と 君 の 胸 中 を 慰 問 す る 」 で し ょ う 。「 み 胸 」 と 「 胸 中 」、「 撫
でる」と「慰問」は大違いです。元来、この雅語は元来男同士の友情を歌っているのです
よ。テレサ・テンの甘い声に引きずられてはいけませんね。
もう一つ。田漢の作詩した「四季歌」の訳語のことです。四番目の第三句は「江南江北風
光 好 、怎 及 青 紗 起 高 粱 」で す が 、
「 川 の 北 も 南 も 景 色 よ く 、な ぜ 着 物 よ り も 高 粱 高 い 」と 訳
さ れ て い ま す ( 一 六 一 頁 )。 著 者 は 「 田 漢 の 作 詩 し た “ 四 季 歌 ” の 歌 詞 は 、 い っ た い な に を
うたおうとしたのか。故郷を失った東北人民が、知らぬ他郷をさまよう痛苦をうたい、ま
た日本軍に抵抗する心情と希望とを表現したものだという」
( 一 六 一 頁 )と 書 い て い る と こ
ろから察するに、歌詞のテーマは正確に理解しておられるようですが、その理解が歌詞に
現れていないのは残念ですね。
矢吹晋『逆耳順耳』
54
「 青 紗 」は 単 な る 着 物 で は な く 、
「 高 粱 畑 の 紗 の カ ー テ ン 」で す か ら 、江 南 の 景 色 が ど ん な
に美しくとも、
〔 故 郷 の 〕高 粱 畑 に は 及 ば な い 」の 意 で す ね 。神 田 千 冬 さ ん( 日 中 学 院 講 師 )
は「江南の景色は美しくとも、いかでか及ばん
あのコーリャン畑に」と名訳しています
( N H K テ レ ビ 『 中 国 語 テ キ ス ト 』 八 七 年 一 二 月 号 )。
著 者 が「 八 年 の 歳 月 を か け 、ミ ス テ リ ア ス な 謎 を 追 求 し た 渾 身 の ド キ ュ メ ン ト 」
(帯封のコ
マ ー シ ャ ル )だ け に 、私 は な ぜ か 物 悲 し く て な ら な い の で す 。老 酒 に 砂 糖 を 加 え た よ う な 、
あのいいようのない不快感が残ります。
「 あ と が き 」 に よ れ ば 、『 世 界 週 報 』 に 連 載 し 、 さ ら に 「 全 面 的 に 改 稿 し た 」 由 。 連 載 中 か
ら反響が大きかったそうですが、肝心カナメの主題歌の訳語について疑問は出なかったの
で し ょ う か 。と か く 漢 字 で 書 い て あ る と 、
「 わ か っ た つ も り に な る 」の が 、日 本 人 の ど う に
もとまらない欠陥です。
【追記】五月一七日付『朝日新聞』夕刊「窓
論説委員室から」に署名“目”氏が「何日
君再来」と題するコラムを書いている。NHKの問合わせた中国テレビ局関係者の見解や
ら在日中国大使館文化部のコメントが紹介されているが、この歌詞の決定的誤訳について
はコメントなし。この論説委員氏は、この本をほんとうに読んだのかしら。読んで書いた
のなら、記者の文化水準はかなり低いようですな。
【訂正】
「 麗 君 」 が 本 名 、「 テ レ サ ・ テ ン 」 が 芸 名 と 書 き ま し た が 、「 麗 君 」 も 芸 名 で あ
り、彼女の本名は一字違いの同音からなる「麗●」でした。お詫びして訂正致します。軟
派学にも造詣の深い知人が教えてくれました。
ゼ ン ジ ン ダ イ の 略 称 は 「 全 人 代 」 か 「 全 人 大 」 か 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 二 〇 号 〔 八 八 年 六
月一〇日発行〕
全国人民代表大会が終わった。
「 透 明 度 を 増 し た 」と い う の が 、大 新 聞 が 好 ん で 用 い た コ メ
ントである。中国では全国人民代表大会は「人大」と略称されるのが普通である。地方レ
ベ ル 人 大 と の 対 比 を 明 確 に す る た め 、「 全 国 人 大 」 と 略 称 す る 場 合 も あ る 。
日本では「全人代」と略称することがほぼ定着した。私もこれに追随して使っているのだ
が 、 使 う た び に い さ さ か 気 に な っ て い る ( と い っ て 別 に 代 え よ う と い う 話 で は な い )。
日本で「全人代」と略称するのは、全国・人民・代表大会(あるいは全国・人民・代表・
大会)と観念してのことであろう。しかし中国語の意味から考えると少しくヘンである。
全 国 ・ 人 民 代 表 ・ 大 会 な の で あ る か ら 、 中 国 語 か ら す れ ば や は り 、「 人 大 」 あ る い は 「 全 国
人大」となるわけだ。こうした考え方に立てば、日本語での略称は「全人大」でしかるべ
き で あ る 。 そ う 考 え た 原 稿 を 編 集 者 に 渡 し て 、「 全 人 代 」 と 修 正 さ れ る こ と が 幾 度 か あ り 、
私も試行錯誤を重ねた結果、
「 全 人 代 」を 覚 え た の で あ っ た( 今 は ワ ー プ ロ で「 ぜ 」と 押 し
て 変 換 キ ー を 押 せ ば 、「 全 人 代 」 に な る か ら 、 表 記 の 混 乱 は 基 本 的 に な く な っ た )。 日 本 の
略称が中国語と異なること自体はどうでもよいことだが、こういうズレが内容の理解のズ
レとつながることもありそうな気もする。
矢吹晋『逆耳順耳』
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ソ ウ ル 日 記 ( 一 九 八 八 年 六 月 )、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 二 一 号 〔 八 八 年 八 月 一 〇 日 発 行 〕
『蒼蒼』愛読者諸兄あなたも韓国を訪れてはいかが?
このたび初めて韓国を訪れました
が、得るところ大きい旅でした。私の書いたものが韓国で読まれていたとは、驚きでした
(ある大学教授に至っては、すべて読んでいると豪語している由。恥じ入るのみ。こうい
う 話 を 聞 く と 、 文 化 交 流 は や は り 誤 解 の 増 幅 だ と 痛 感 し ま す )。
今回のソウル・セミナーは、アメリカのダーンバーガー教授(ミシガン大学)と私とを外
国から招きました。同教授はアメリカ議会の中国問題公聴会の常連で、中国経済論の権威
です。ソウルから拙宅への国際電話を受けたときに、先方が彼の名を挙げたので、私も心
を動かされた次第でした。インビテーションが翌日FAXで届くという手回しのよさ。し
か し 、速 達 に よ る 正 式 招 請 状 が 届 く の に 一 週 間 も か か っ た の は 、検 閲 の 名 残 り で し ょ う か 。
韓国側の報告者呉鎮龍氏は台湾留学、台湾で法学博士号を得た中国問題の専門家です。八
人のコメンテーターおよび司会者のうち五人はアメリカでドクターをとり、そのうえにア
メリカの大学で教えるか、それとも世界銀行や国連で働いた経験をもつ英語ペラペラ組で
した。韓国の主流派経済人および学者がいかにアメリカ指向型かを知らされました。こう
したなかで、某氏ら日本留学組が旧植民地宗主国文化を学ぶ者という冷やかな視線を浴び
つつ、歯を食いしばって頑張ってきた事情がよく理解できました。もっとも最近は事情は
かなり急速に変化しつつあるようです。彼らの社会的地位も安定しつつあるように見受け
られました。
さ て 私 の 下 手 な 英 語 に よ る 報 告 は 好 評 で 、 impressive, informative と い っ た コ メ ン ト が
多 か っ た の は 、幸 い で し た 。
(追記。
『 韓 国 経 済 日 報 』一 九 八 八 年 六 月 一 八 日 第 三 面「 綜 合 ・
人物交叉路」の頁に、ダーンバーガー、矢吹晋、呉鎮龍の講演要旨が掲載されています。
ア ジ 研 の 桜 井 浩 さ ん が 教 え て く れ ま し た )。主 催 者 の 金 星 財 閥 副 会 長 は「 あ な た の 見 解 は 興
味深かった。韓国政府に伝えておきましょう」と言ってくれたほどでした。半分は客に対
する外交辞令でしょうが、それだけではないという印象でした。というのは、ソウルには
ハンガリーの通商代表部がすでに出来ており、ソ連代表部の設置準備も進んでいます。そ
の仕事を政府と分業で進めているのが、これらの財閥だという話で、政府と財閥はツーカ
ーの間柄らしい。
そ れ と い う の も「 敵 は 本 能 寺 」、ソ 連 東 欧 と の 間 で 共 産 圏 貿 易 の 形 を 整 え 、北 京 を 狙 う 慎 重
な外堀戦略に基づいて動いているようです。韓中企業グループの北京、ソウル各事務所の
相互開設は時間の問題であり、通商代表部の相互設置もオリンピック後には行われるらし
い。アメリカのウォン切り上げ要求に対応して、韓国にとって、アセアン市場も転換先の
一つですが、やはり長い目で見ると中国大陸。オリンピックはこの転換のための絶好の機
会であり、これをマヌーバーとして巧みに大戦略を推進しているらしい。国際情勢の認識
能力に関するかぎり韓国の方が日本よりも数倍感度がよいのではないでしょうか。分断国
家の不幸がもたらした知恵ですね。
六四年の東京五輪と八八年のソウル五輪を比べて見ると、高速道路網、地下鉄網など格段
に当時の東京よりも進んでおり、追いつき過程の素早さを感じます。市内の車はすべて韓
矢吹晋『逆耳順耳』
56
国製ですし、ファッションは原宿直輸入、モノによってはアメリカ直輸入です。米軍基地
が市内にあり、ここを通じてアメリカ文化と直結している感じでした。
政 治 の 民 主 化 も 日 本 を 除 け ば 、東 ア ジ ア 随 一 で す ね 。野 党 が 強 く 学 生 が デ モ を で き る の は 、
いまのところ韓国ぐらいです。にもかかわらず、日本の韓国認識はとりわけ野党のそれは
かなりズレているように思われます。
韓国が非民主的政権なら、野党の好きな某国などは「古代王朝的家族政権」ですし、中国
は実質的野党の存在が許されない一党独裁国家です。生活水準の圧倒的格差はいうまでも
ありません。
戦後形成された東アジア情勢認識の枠組みは根本的に再検討されなければならない、と痛
感しています。このことはこの数年考えてきたことですが、韓国旅行でたいへん強く実感
しました。
そこで、あなたも適当な機会に韓国へ行かれて、慶州の美しい街や青磁や白磁をご覧にな
ってはいかがですか、とお勧めする次第。慶州の街はそれは美しい公園のような街で、こ
んな素晴らしい遺産をもち、それを立派に保護できる民族は文化水準が高いと痛感させら
れました。日本は古代において低かっただけでなく、現代の保護政策においても劣るので
はないでしょうか。不一。
ソウルの割箸
ソウルの割箸は紙袋から出してもそのまま使うことができない。半紙のような薄い紙で丁
寧に包んであるからだ。これをゆっくり開いていると、なんとも優雅な気持ちになり、韓
国 人 の 心 の 優 し さ が 感 じ ら れ る … … 。と こ ん な 気 持 ち で い る と き に 、
『 更 級 日 記 』を 卒 論 に
選んだという才媛のチェさんが意外な話を始めた。仁寺洞(インサドン)の古風な料理屋
で向かいあったときのことである。彼女が日本に留学してまもなくのこと、下宿先で、そ
の家族と一緒に食事をすることになったが、彼女だけが割箸である。それまでは親切な大
家さんだと思っていたのに「なんたる差別、日本人はやはり……」と唇を噛んだ。
もっともこの誤解はまもなく解けた。客に対する割箸は、客に対して礼儀を示したもの、
親切心に発したものであることを彼女はまもなく完全に理解した。もう一つ、と笑いなが
ら彼女が付け加えたのは、脱ぎ捨てた靴の揃え方である。
日本では来客は玄関に上がるときに、その場で自分で靴の爪先を外へ向けたり、主人側が
客に代わって向けたりする。おそらくこれは帰りに履くときに便利なようにという単純な
理由に基づくものである。しかし、韓国ではこれは客に対して早く帰れという意思表示に
なるという。ちょうど日本で箒を立てるように。だから、客が帰る直前に、客の目の前で
しかやってはならない、それがエチケットだという。客が履きやすいようにという心使い
の点では共通していながら、いつその心配りを行うかについては、大きな習慣の差がある
わけだ。大事な客をもてなした積もりが、早く帰れといやがらせしたと誤解されたのでは
立つ瀬がない。さてもさても異民族間の相互理解は難しい。
ソウル
ソウル
矢吹晋『逆耳順耳』
ソウル
57
明 洞( ミ ョ ン ド ン )の 盛 り 場 を ふ ら つ い て い た ら 屋 台 の テ ー プ 屋 を ひ や か す こ と に な っ た 。
チョー・ヨンピルはあるかね。ニッコリと笑う売り子の青年は一列がすべてそうだと説明
した。ハングルの読めない私にはどれがそうなのか区別できなったわけである。
手 に と る と 、三 八 〇 〇 と 書 い て あ る 。
「 高 い 」と 思 っ た ら 、こ れ は 日 本 製 の 海 賊 版 で 、三 八
〇 〇 円 の こ と 。こ れ を 四 〇 〇 〇 ウ ォ ン( 約 七 〇 〇 円 強 )に ま け る と い う の で 、二 巻 買 っ た 。
釣 り の 代 わ り に 、 そ の 青 年 が 抱 合 せ で 売 り つ け た の は 、「 ソ ウ ル 、 ソ ウ ル 、 ソ ウ ル 」( * )
である。
「 記 念 に ぜ ひ 聞 い て く れ 」と い う 顔 で あ る 。そ う 、あ の 歌 か 。よ う や く 合 点 が い く 。
なにしろ私は韓国語ができないし、この青年は日本語も英語もできないから、どうしても
ボディ・ランゲージならぬフェース・ランゲージになる。結局一万ウォンでテープ三本を
買ってウォークマンで聞く。
帰 国 し て 、休 講 の 挨 拶 代 わ り に 学 生 に「 ソ ウ ル 、ソ ウ ル 、ソ ウ ル 」を 聞 か せ る 。反 応 な し 。
もう一つの教室、やはり反応なし。たまたま立ち寄ったカラオケ・バーで、もう一度情報
感 度 の テ ス ト 。さ す が で あ る 。こ こ の お 姉 さ ん は す ぐ 当 て た 。
「 チ ョ ー・ヨ ン ピ ル の 新 曲 ね 。
さ あ 、 オ リ ン ピ ッ ク の 歌 か し ら 」。
ピンポーン!
ど う や ら 日 韓 庶 民 文 化 交 流 の 最 前 線 は や は り 、歌 謡 曲 の 世 界 で あ る ら し い 。
知識人や野党、そしてわが学生など情報感度がかなり悪いようである。私の独断と偏見だ
が、日本語で歌う中国人歌手ならテレサ・テン、日本語で歌う韓国人歌手ならチョー・ヨ
ン ピ ル が い い( 何 を 隠 そ う 。知 人 が そ う 教 え て く れ た の は 実 は 五 年 前 の こ と )。演 歌 の 源 は
韓 国 に あ る と い わ れ る が 、と の 記 者 の 問 に 対 し て 、チ ョ ー ・ ヨ ン ピ ル が 答 え る 。
「源は韓国
でも日本でもなく玄海灘の真ん中にあると思っています。現に韓国でも多くの作曲家が日
本 の メ ロ デ ー を よ く 聴 き こ ん で 、学 ん で い ま す 」
(『 読 売 新 聞 』八 八 年 六 月 一 六 日 夕 刊 )。模
範 回 答 で あ ろ う 。藤 の 木 古 墳 で ナ シ ョ ナ リ ズ ム 騒 ぎ の 歴 史 学 者 に 聞 か せ て あ げ た い で す ね 。
(この短文は、ソウルの感激さめやらぬ六月末に書きました。しかし、七月二一日になっ
て 某 大 新 聞 が こ の 歌 * の サ ワ リ を 紹 介 し て し ま っ た の で 、 も う 旧 聞 に な り 果 て ま し た )。
「 矛 盾 に 着 目 せ よ 」 ─ ─ ─ 論 文 の 読 み 方 一 つ の ケ ー ス 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 二 二 号 〔 八 八
年一〇月一〇日発行〕
私が『日中経済協会会報』に「広東省の経済体制改革を論ずる・王琢」を書いたのは、一
九八六年一〇月のことであった。これは肖鴻祥氏(広東省政府経済法規研究中心)によっ
て中国語に訳され、丁栄施氏(広東省医学情報研究所)によって校閲され、曁南大学特区
与 港 澳 経 済 研 究 所 編 の 季 刊 雑 誌『 特 区 与 港 澳 経 済 』の 一 九 八 八 年 一 期( 二 月 刊 、総 二 〇 期 )
に 掲 載 さ れ た(「 論 広 東 的 経 済 体 制 改 革 ─ ─ 評 王 琢 的 改 革 理 論 」)。中 国 語 訳 は 私 が 端 折 っ て
省略引用した箇所を、私が引用した中国語雑誌の原文に基づいてチェックし、読者が原文
に当たらなくとも十分に理解できるように補ったもので(しかも、この点についてその都
度 断 っ て い る 点 が た い へ ん 良 心 的 で あ る )、私 の 書 い た 日 本 語 に よ る 粗 雑 な 論 評 よ り も 、は
るかに立派な論文となっている。私の書いたものが原文以上に立派な形となって中国の読
者の前に現れたのは、光栄至極だが、この中国語訳にいかなる意味があるのだろうか。
矢吹晋『逆耳順耳』
58
私の論文の趣旨は、王琢の論文「自然経済論か計画的産品論か──わが国の動脈硬化した
経 済 体 制 モ デ ル の 理 論 的 基 礎 の 問 題 の 研 究 」(『 経 済 研 究 』 一 九 八 五 年 八 期 ) と 劉 国 光 の 論
文「 自 然 経 済 論 の 影 響 を 徹 底 的 に 除 去 し 、中 国 的 特 色 を も つ 経 済 体 制 モ デ ル を 樹 立 し よ う 」
(『 経 済 研 究 』 一 九 八 五 年 八 期 ) に つ い て 、 そ れ ぞ れ の 論 理 を 点 検 し 、「 自 給 生 産 の 計 画 経
済 」を や め て「 商 品 生 産 の 計 画 経 済 」に 移 行 し よ う と 説 く 劉 国 光 の 見 解 よ り も 、
「産品経済
の計画経済」をやめて「商品生産の計画経済」に移行しようと説く王琢の見解の方がはる
か に 論 理 的 に 一 貫 し て い る と 、両 者 の 論 争 に つ い て 王 琢 の 側 に 軍 配 を 上 げ た も の で あ っ た 。
もう一つの論点は経済特区の機能にかかわるものであり、劉国光は「深特区の発展目標」
(『 人 民 日 報 』 一 九 八 五 年 八 月 九 日 ) お よ び 「 深 特 区 の 発 展 は 新 た な 戦 略 段 階 に 直 面 す る 」
(『 人 民 日 報 』 一 九 八 五 年 一 二 月 一 三 日 ) を 書 い て い る 。 他 方 、 王 琢 は 「 経 済 特 区 の 若 干 の
問 題 に つ い て の 検 討 」(『 人 民 日 報 』 一 九 八 五 年 一 〇 月 七 日 ) を 書 い て 、 劉 国 光 の 見 解 を 批
判 し て い る 。劉 国 光 が 経 済 特 区 を「 外 向 型 の 外 貨 獲 得 基 地 」と し て 位 置 づ け る の に 対 し て 、
王琢はより積極的であり、
「 二 つ の 扇 」論 で あ る 。す な わ ち 経 済 特 区 を 輸 出 加 工 区 の 機 能 に
限 定 す べ き で は な く 、外 向 型 は む ろ ん の こ と 、中 国 国 内 に 向 か っ て 開 か れ た「 四 つ の 窓 口 」
として位置づけるべきだという考え方であった。私は劉国光を開放消極派、王琢を開放積
極派と仮りに名付けて、この論争についても王琢に声援を送った。
幸いにして、私の小さな声が王琢のもとに届いたという次第である。私は日本の読者のた
めに、中国における開放と改革の論争の意味を腑分けして説明したにすぎないが、これが
中国の当事者たちを激励する結果になったことをたいへん喜んでいる。
ここで私が中国観察を志望する若い読者に示唆したいことは、
「 矛 盾 に 着 目 せ よ 、矛 盾 を 剔
抉 せ よ 」と い う こ と で あ る 。私 は 新 聞 や 雑 誌 を 読 ん で い て 、
「 風 は 南 か ら 吹 く 」と 痛 感 し て
い た が 、た ま た ま こ の 実 感 を 裏 付 け る い い 材 料 が 見 つ か っ た の で 、王 琢 に ス ポ ッ ト を 当 て 、
書いてみたのであった。当時の私が前経済研究所所長、現中国社会科学院副院長という高
い地位をもつ劉国光を批判し、私がいかなる人物かをよく知らぬ王琢に軍配を上げること
に か な り の 躊 躇 を 感 じ た こ と は 確 か で あ る 。し か し 、私 は 元 来 天 の 邪 鬼 で あ る し 「
、副院長」
などという大物にたてつくとは、その論理にかなりの自信をもつ人物に違いない、少なく
とも私の読んだ限り王琢の論理は確かである、こう判断して、敢えて劉国光を斬ったので
あ っ た 。 最 近 知 っ た こ と だ が 、 王 琢 は 一 九 二 一 年 生 ま れ の 六 七 歳 で あ る (『 世 界 経 済 導 報 』
一九八七年七月二七日号、藍桂良の紹介文による。ちなみに劉国光は一九二三年生まれの
六 五 歳 で あ る )。
具 眼 の 士 あ り ─ ─ 『 現 代 中 国 の 歴 史 』 の こ と 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 二 三 号 〔 八 八 年 一 二 月
一〇日発行〕
わが現代中国学界は痴呆症状に陥って久しい、とかねて毒づいてきたが、この印象は、小
林弘二らとの共著『現代中国の歴史』を書いて以来、決定的になった。ある程度は予想し
ていたことではあるが、文革の後遺症が日本歴史学界でかくも深刻とは、予想以上であっ
た。
矢吹晋『逆耳順耳』
59
わがアカデミズムは明治以来、
「 当 代 中 国 」の 研 究 を 白 眼 視 し 、自 家 中 毒 的 中 華 文 明 の 洞 天
に逃げ込んで、辛うじて命脈を保ってきた。敗戦後突然、準備なきままに、いきなり「当
代中国」について語った結果大火傷した。しかも、なまじ専門家を自称していたために、
引っ込みがつかなくなった。かくて再び旧洞天に遁走する。当代からおずおずと逃げるだ
け な ら 、許 せ る が 、
「 当 代 は 歴 史 の 対 象 に あ ら ず 」な ど と わ め く に 至 っ て は も は や 腐 儒 の 世
界だ。歴史がすべて当代史の累積であることは自明である。
私は深く憂うるが、中華人民共和国史四〇年を迎えようとしているいま、日本のどこの大
学で、この歴史を研究しうる基本的資料を集めているか。問題は将来の展望なのである。
いま資料を集めていない以上、将来もまともな現代史が書けるはずのないことが明らかで
あるにもかかわらず、この現実から目を背ける無気力、無責任が瀰漫している。
「皆で研究を怠れば、少しも怖くない」──これが痴呆症患者の自己弁明である、と酔顔
で八方破れ、怪気炎を上げているうちに、台風一過、穏やかな秋日和がやってきた。
「世に具眼の士あり」という話である。われわれの本をきちんと読んでくれた読者があっ
た。
「造反には道理がある」
(『 思 想 と し て の 六 〇 年 代 』講 談 社 、一 九 八 八 年 六 月 )の な か で 、
桜井哲夫がこう書いている。
「以上の経過〔文化大革命を指す〕については、前掲竹内実編『文化大革命』のほか、宇
野重昭・小林弘二・矢吹晋『現代中国の歴史──一九四九-一九八五』および安藤正士・
太 田 勝 洪 ・ 辻 康 吾『 文 化 大 革 命 と 現 代 中 国 』の 記 述 に よ っ て い る 。特 に『 現 代 中 国 の 歴 史 』
は今までのところ最もすぐれた包括的な書物といえる。文革に関しても、および腰になら
ず、評価すべきところはきちんと評価し、その錯誤も正確に論じているので、この本には
多 く の も の を 負 っ て い る 」( 二 二 七 頁 )。
「文革は理念としては大衆の自己解放運動であったはずだが、1 毛沢東のカリスマ的権威
の利用、2 解放軍の武力利用とによって限界づけられ、真の意味の革命とはならなかった
の で あ る 」( 前 掲 『 現 代 中 国 の 歴 史 』)( 二 三 〇 頁 )。
共著者の一人として、とりわけこの箇所の執筆者として、私の書きたかった意図を桜井が
正確に読み取ってくれたことがたいへんありがたい。
ここで一つ舞台裏を明かしておく必要がある。桜井がほめてくれた文革評価の基調を作っ
たのは小林弘二の功績である。私は小林の要請にしたがって、この章を三、四回書き改め
ている。文革は同時代を生きた私にとってとりわけ重く、相対化がしにくかった。執筆途
中で降りたいと言ったことさえある。そこをなだめすかして擱筆までもっていったのは、
小林弘二の忍耐心であった。
ところで「中国現代史の原点をさぐる旅」で、中共中央文献研究室、中共中央党史研究室
の研究者たちと意見交換した際に、中国でもまた、一九四九年以降を「現代史」として把
握 し よ う と す る 見 解 が 登 場 し つ つ あ る こ と を 知 っ て 、わ が 意 を 強 く し た 。こ の 説 に よ れ ば 、
アヘン戦争あるいは五四運動以後を近代史として捉え、四九年革命以後を現代史として捉
えることになる。来年は中華人民共和国建国四〇周年であるから、このような考え方はま
す ま す 強 く な る で あ ろ う 。「 日 本 で は こ れ ま で の と こ ろ 四 九 年 以 後 を 対 象 と し て “ 現 代 史 ”
矢吹晋『逆耳順耳』
60
としたのは、われわれの本だけです」と私は手前味噌を並べた次第である。北京図書館を
訪れて日本文庫を参観した際に、この本の初版を発見したときは、なにやら里子に逢った
ような感じであった。近く三版が出るが、改訂版を早く出したい。
中国民航のサービスはなぜ悪いのか
昨年夏休みの中国旅行の記録『中国現代史プリズム』を眺めていたら、阿頼耶順宏さんの
エッセイが目に止まった。阿頼耶さんには、旅の二週間、相部屋をさせて頂いて、たくさ
ん の 事 を 教 わ っ た 。た と え ば 、中 国 で 買 っ た 本 を い か に 効 率 的 に 日 本 に 送 る べ き か 。答 は 、
簡単。荷作りの紙、紐、などを用意しておくこと。ポイントは自宅の住所をワープロで打
った名札を何枚も用意しておくことであった。どんなことがあっても困らないよう(生き
延びられる?)に、常日頃から心がけておく戦中派の気配り、こまめさは、戦後派の私に
は 到 底 真 似 で き な い( い わ ん や 新 人 類 に は そ の 発 想 さ え 理 解 で き な い だ ろ う )。こ う し て せ
っかくノウハウを教わったのに、身につかない。阿頼耶さんとのおしゃべりでとりわけ楽
しかったのは、同文書院時代の思い出話であり、旧上海の匂いであった。
さて、阿頼耶さんのエッセイに上海から長沙への飛行機がまるまる二四時間遅れた顛末が
記されている。このトラブルは実際いま思い出しても腹が立つ。もう一つある。昨年九月
末 、 上 海 か ら 香 港 に 飛 ぶ 便 を 予 約 し て い た の に 、「 没 有 」 で あ る 。 公 務 の 旅 行 で あ る か ら 、
領事館館員氏がまる一日走り回って確保してくれ、ことなきを得たものの、初めての訪中
団「団長」として一時はかなりやきもきした。中国は辰年の一九八八年を「国際旅游年」
に選び、観光客を天安門上に上らせるなど海外観光客を大々的に誘致するキャンペーンを
行った。誘致はするが、乗客を一万円札としか見ない、あるいは金は取るが、サービスは
しない不埒な態度に、怒り心頭である。
香 港 か ら 成 田 へ の 機 内 で『 ホ ン コ ン ・ ス タ ン ダ ー ド 』
( 一 九 八 八 年 九 月 三 〇 日 )に 目 を 奪 わ
れた。ある記事を読んで、一方では問題が「表に出た」のを喜ぶとともに、他方でますま
す憂鬱になってきた。同紙によると、新華社の香港支社長・許家屯が中国民航に厳しい抗
議をするハプニングが起こっている。
許家屯は八八年五月五日、南京から香港まで民航五〇〇三便に乗ろうとした。許家屯と妻
および秘書の三人が機内に入ったところ、おしゃべりしていたスチュワーデスが,通路を
さえぎり、きわめてぶしつけに、オマエ、ナニオシトルノカ?
と難詰した。許家屯は空
港スタッフの許可を得ていると説明して、荷物を棚にあげようとすると彼女たちは手伝う
どころか、荷物が大きすぎると許家屯を叱りつける始末。三個の荷物は多いとはいえない
し、中身は重要書類であり、職掌柄いつでも身元に置かなければならないのだ、と説明し
た と こ ろ 〔 香 港 新 華 社 は 事 実 上 の 在 香 港 「 中 国 大 使 館 」 で あ る 〕、「 あ ん た は 誰 か ?
あんただけが特別なのか?
なぜ
中 央 政 府 の 大 臣 だ っ て あ ん た よ り は 正 直 よ 」と う そ ぶ き 、
「趙
紫 陽 や 李 鵬 に だ っ て 、 こ ん な こ と は 許 さ な い 」 と 猛 烈 〔 そ の 表 情 が 想 像 で き ま す ね 〕。
この段階になると、スチュワーデスのほかに男性の乗務員も加わり、大変な騒ぎである。
許家屯は責任者を呼ぶよう求めたが、聞き入れない。やむなく許家屯は機内から出ようと
矢吹晋『逆耳順耳』
61
したが、今度は秘書をつかまえて放さない。ついに機外に脱出し航空券を払い戻そうとし
たが、乗務員たちはこれを妨げようとして、飛行機はついに一時間遅れてしまった。この
騒ぎの間中、民航南京当局の責任者はついに現れず。その後、五〇〇三便をチャーターし
ている江蘇省旅遊局に苦情を言ったところ「乗務員と敵対したくないので、責任者は顔を
出さなかった」との弁明である。それどころか飛行機が遅れたり、乗客の扱い方について
の苦情が出るたびに、乗務員はむしろ食事をもてなされたり、激励されたりするという─
─。許家屯の民航宛て抗議文を読んでいると、あきれてあいた口がふさがらない。なぜこ
うなのか。
第一は、航空行政と航空公司が一体化した民航の組織である。官僚主義がはびこらないと
したら、その方が不思議だ。第二は民航の分割である。一九八七年以来民航は、地域ごと
に六分割されつつある。すなわち北京をベースとする中国航空公司、上海をベースとする
中 国 東 方 航 空 公 司 、成 都 を ベ ー ス と す る 西 南 航 空 公 司 が す で に 成 立 し て お り 、さ ら に 広 州 、
西安、瀋陽をベースとして、南方、西北、東北の各航空公司ができる予定である。いくつ
もの公司を作ることによって競争させるという。同じ路線に二つ以上の航空会社が乗り入
れ て 初 め て 、 競 争 に な る が 、「 東 方 航 空 」 と 「 西 南 航 空 」 と で 競 争 が で き る の か 。 地 域 分 割
は真の意味での競争には役立たないばかりでなく、独立王国(軍閥割拠?)を作り、かえ
ってサービス内容は低下している。たとえばある飛行機が故障した場合に以前なら、相互
にやりくりできたものが、今は自社の飛行機しか使えないから、ますます融通が効かなく
なっている。民航分割は経済改革に悪乗りして、地域独占を強めたにすぎない。無能な社
長、副社長の椅子を増やしただけでないのか。かくも不合理な機構改革が「経済改革」の
名において行われているのを見ていると、暗澹とならざるをえない。
第三は従業員の質の問題である。彼らの多くが「高級幹部子弟」であり、コネで裏口から
もぐりこむ。出国熱の高まる中国で、海外と接触できる職場は「熱門単位」だ。入社競争
は激しい。当然コネが幅をきかす。親の権威を笠に着て、上司のいいつけを聞かない。む
し ろ 、親 に い い つ け て 上 司 を 罷 め さ せ て や る 、と 凄 む 始 末 。労 働 紀 律 以 前 で あ る 。
(『 蒼 蒼 』
第二四号〔八九年二月一〇日発行〕逆耳順耳)
人 民 公 社 の 「 生 産 大 隊 」、「 生 産 隊 」、「 生 産 小 隊 」 の 区 別 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 二 四 号 〔 八
九年二月一〇日発行〕
人 民 公 社 は す で に 解 体 さ れ 、 成 立 過 程 の 試 行 錯 誤 は 、「 歴 史 」 の 世 界 に 入 り つ あ る 。 最 近 、
若い人が訳したものを見る機会があって、
「 生 産 大 隊 」、
「 生 産 隊 」、
「 生 産 小 隊 」が い さ さ か
混乱しているのに気づいた。ここで説明のための覚書を書いておく。
一 九 八 六 年 に 再 編 集 さ れ た 『 毛 沢 東 著 作 選 読 』( 人 民 出 版 社 、 下 冊 ) に は 、「 党 内 通 信 」( 一
九五九年四月二九日)が収められている。
そ の 冒 頭 に 手 紙 の 宛 先 が あ る 。「 省 級 、 地 級 、 県 級 、 社 級 、 隊 級 、 小 隊 級 的 同 志 們 」 と な っ
ている。
この通信は一九五九年二月二七日~三月五日の中共中央政治局拡大会議(いわゆる第二次
矢吹晋『逆耳順耳』
62
鄭州会議)のあと、農村工作の「高指標、デタラメ指揮、ホラフキ作風」を是正するため
に、毛沢東が書いたものである。
省 レ ベ ル 、県 レ ベ ル は 誰 に も 分 か る 。省 と 県 の 中 間 の「 地 級 」は 旧 専 区 レ ベ ル 、現 在 の「 地
区 レ ベ ル 」で あ る 。次 に「 公 社 レ ベ ル 」が 来 て 、こ こ で の 問 題 は「 隊 級 、小 隊 級 」で あ る 。
なぜ「生産大隊・生産隊」という通常の呼び方になっていないのか。
『劉少奇選集』下巻(一九八五年一二月、人民出版社)の四九八頁を開くと、その答が書
いてある。曰く──
一九五九年二、三月に鄭州で開かれた中央政治局拡大会議で毛沢東の意見に基づいて、人
民公社で「三級管理、三級核算、隊を基礎とする体制」を規定した。ここで「隊」とは、
当時の「生産隊」であり、もとの「高級社」の規模に相当するもので、一九六一年に「生
産 大 隊 」と 改 称 さ れ た( 大 隊 の 下 に 若 干 の 生 産 隊 す な わ ち 小 隊 を お く )。一 九 六 一 年 九 月 二
九日、毛沢東は中央政治局常務委員および関係者に書いた手紙のなかで「私の意見は“三
級所有、隊を基礎とする”ものだが、ここで
基本核算単位は隊であって大隊ではない
」( 傍 線 矢 吹 ) と 提 起 し て い る 。
中共中央は毛沢東の提起および各地方の調査と試点での経験に基づいて、一九六二年二月
一三日、
「 農 村 人 民 公 社 の 基 本 核 算 単 位 問 題 に つ い て の 指 示 」を 発 出 し 、人 民 公 社 は 一 般 に
「 生 産 隊 」( す な わ ち 小 隊 ) を 基 本 核 算 単 位 と す る こ と
を 決 定 し た 」( 傍 線 矢 吹 )。
こ こ か ら 次 の 過 程 が 明 ら か に な る で あ ろ う 。一 九 五 九 年 二 月 の 第 二 次 鄭 州 会 議 で 、
「三級所
有、隊を基礎とする」と決定されたが、その基本核算単位は「生産大隊」であった。
一 九 六 一 年 に 「 生 産 隊 」( 高 級 社 規 模 ) は 「 生 産 大 隊 」( 高 級 社 規 模 ) と 改 称 さ れ た ( し た
が っ て 、「 三 級 所 有 、 隊 を 基 礎 と す る 」 は 、「 三 級 所 有 、 大 隊 を 基 礎 と す る 」 と な る )。
一 九 六 一 年 九 月 の 毛 沢 東 の 手 紙 に よ っ て 、「 三 級 所 有 、 隊 を 基 礎 と す る 」 の 「 隊 」 と は 「 生
産 大 隊 」 で は な く 、「 生 産 隊 」 を 指 す よ う に 変 更 さ れ た 。 こ の 時 点 で 、 基 本 核 算 単 位 は 「 生
産大隊」から「生産隊」に下ろされた。
一 九 六 二 年 二 月 の 「 指 示 」 で 、 基 本 核 算 単 位 を 「 生 産 隊 」( 旧 「 生 産 小 隊 」) と す る こ と が
正式に「通知」された。
ざっと以上のような次第である。つまり人民公社が一九五八年八月に成立してから一九五
九年二月までは「人民公社レベル」が基本核算単位とされていたのであるが、まず生産大
隊へ、そして生産隊へ下ろされ、小平時代になって戸別農家に解体されたわけである。
実 は 一 昔 前 に 毛 沢 東 の「 党 内 通 信 」を『 毛 沢 東
社会主義建設を語る』
( 現 代 評 論 社 、一 九
七 五 年 ) に 収 め た と き 、 大 分 悩 ん だ 挙 句 、「 公 社 、 大 隊 、 小 隊 」 と 訳 し た 。 い ま や 「 模 範 解
答 」を 見 て 、自 己 採 点 が で き る よ う に な っ た 。人 民 公 社 消 え し あ と 、人 民 公 社 史 生 ま れ る 、
と い っ た と こ ろ か 。 な お 『 歴 史 決 議 注 釈 本 ( 修 訂 )』 の 六 五 項 も 参 考 に な る 。
北 京 日 記 ( 一 九 八 九 年 三 月 )、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 二 五 号 〔 八 九 年 四 月 一 〇 日 発 行 〕、
矢吹晋『逆耳順耳』
63
「法治への啓蒙家」──于浩成
宿舎の京倫飯店で、于浩成氏と会う。六十数歳のオールド・リベラリストにわざわざご足
労願ったのは、恐縮の至りだが、これには止むを得ない事情がある。私の会見申し入れに
対して、先方は前門の某菜館で八時半に「早茶」をやろうと提案してきたが、あいにく私
は 北 京 の 地 理 に 不 案 内 で あ る 。そ こ で 、私 が そ の 日「 包 車 」し た タ ク シ ー 運 転 手 に 頼 ん で 、
お宅まで迎えに行ってもらい、お会いした次第である。運転手の話では九時二〇分ごろ着
くとのことだったので、五分前にホテルの玄関に下りるつもりであったが、部屋を出る直
前に運転手が于浩成さんを部屋まで案内してくれた。こうして一時間あまり、世間話をし
た 。世 界 的 に 話 題 と な っ た 知 識 人「 三 三 人 公 開 信 」の 署 名 に 于 浩 成 氏 は 加 わ っ て い な い が 、
これは連絡がうまくつかなかったためである、と氏は説明してくれた。オルガナイザー陳
軍 が 一 日 中 か け ず り ま わ っ て こ れ だ け の 署 名 を 集 め た わ け た が 、于 浩 成 氏 は「 公 安 部 大 院 」
内の宿舎に住んでいるため、ガードが厳しく間に合わなかった(私がお宅を訪ねることが
できなかったのも、この理由による。仮に外国人たる私が氏を訪ねたとしたら、氏は私の
帰ったあとに何を話したか、その要旨を報告しなければならないわけだ。これはあまりに
も 「 麻 煩 」 で あ る か ら 、「 方 便 」 の た め に ご 足 労 願 っ た 次 第 で あ る 。
「人治から法治への啓蒙家」
「 民 主 化 と 法 制 化 の 旗 手 」が 、悪 名 高 い 公 安 部 の 一 角 に 住 ん で
いるのは、いかにも中国的である。氏はかつて公安部の出版社たる「群衆出版社」の社長
で あ り 、公 安 一 族 で あ る か ら 、六 〇 歳 で 引 退 し た あ と も 、そ の ま ま 居 住 し て い る わ け だ( 日
本のサラリーマンは退職すれば、社宅や公務員住宅を追い出されるが、住宅事情の悪い中
国 で は 追 い 出 せ な い し 、 だ か ら 居 座 れ る わ け だ 。 さ あ ど ち ら が 住 み よ い 社 会 で あ る か )。
于浩成氏から聞いた話をいくつか。第一に「三三人公開信」の第二弾「四二人公開信」に
が連絡人となり、再度呼びかけた結果、四二人が「第二の署名」に加わった。このなかに
は于光遠、李洪林、張顕揚など私にとって馴染みのある名前のほかに、王淦昌(全人代主
席団員、同常務委員会委員、国務院核工業部科学技術委員会副主任、中国国際人材交流協
会副主席、中国核儀器行業協会責任者、中国原子能科学研究院名誉院長、中国核物理学会
名 誉 理 事 長 、 中 国 核 学 会 名 誉 理 事 長 )、 葉 篤 義 ( 政 協 全 国 委 員 会 主 席 団 員 、 同 常 務 委 員 、 同
教育組副組長、中国民主同盟副主席)などの自然科学者たちも加わっている、と氏は強調
した。また数人が全人代常務委員、政協全国委員であると付け加えた。
第二にブッシュ大統領の答礼宴に招かれた件だが、アメリカ大使館は招待状が本人に確実
に届くことを保証するために、郵送をやめて、直接配達した由である。受け取って、パー
ティに出席した人の話であるから、間違いない。これもいかにも中国的である(オートバ
イ に よ る 配 達 は 日 本 で も な い わ け で は な い が 、こ れ は 主 と し て 配 達 ス ピ ー ド の 問 題 で あ り 、
没 収 を 恐 れ て の こ と で は な い )。 第 三 に 、 最 近 話 題 の 「 新 権 威 主 義 」 論 ( 王 滬 寧 、 呉 稼 祥 、
張 炳 久 ら が 代 表 的 論 客 )に つ い て は 、于 浩 成 氏 は す で に『 世 界 経 済 導 報 』
(一九八八年二月
六日号)で批判的な見解を発表しているが、この趣旨を繰り返した。たとえば王滬寧(上
海復旦大学副教授)は「民主化プラス効率化」が必要だとしているが「効率化」のスロー
矢吹晋『逆耳順耳』
64
ガ ン を 加 え る こ と は 、往 々「 民 主 化 」を 犠 牲 に し か ね な い 。徹 底 的 な「 民 主 化 」こ そ が「 効
率化」につながるのだと、オールド・リベラリストぶりを発揮した。文革の負の経験を痛
切に「反思」しての発言であった。私が「新権威主義」論者は韓国や台湾の経験から教訓
を学んだとしているが、と問うたところ、韓国や台湾は自由主義の国であるから、中国と
は 異 な る 。 経 済 成 長 を 経 て 政 治 の 民 主 化 へ (「 先 経 済 、 後 政 治 」) と い う 展 望 は 中 国 に は 当
てはまらない。なぜなら統制経済というガンは政治の枠に存するから、まず政治を民主化
し て こ そ 、経 済 が 発 展 し う る の で あ り(「 先 政 治 、後 経 済 」)、こ れ が 中 国 の 現 実 の 特 徴 だ と
「政治改革先行」論を展開した。そしてショウ燕祥(詩人)が「新権威主義論」をヒトラ
ー の『 わ が 闘 争 』の 論 理 と 同 じ だ と 非 難 し た こ と を 紹 介 し て く れ た(『 経 済 学 周 報 』に 発 表
さ れ た 由 だ が 、 原 文 は ま だ 見 て い な い )。
第 四 に 、于 浩 成 氏 は「 大 中 華 憲 法 」の 制 定 を 提 唱 し て い る 由 で あ る 。い ま は「 四 つ の 堅 持 」
を掲げ、
「 特 別 行 政 区 」を 構 想 し て い る が 、こ れ は 台 湾 は ま ず 受 け 入 れ な い で あ ろ う 。香 港
や台湾との統一を真に考えるならば、私的所有権、企業の所有権、土地の譲渡権などを盛
り込んだ「大中華憲法」を制定する必要があると氏は力説した。
こ の ほ か 、憲 法 改 正 や 議 会 制 度 を テ ー マ と す る「 民 主 討 論 会 」が し ば し ば 行 わ れ て い る と 、
最近の「法学理論界」の動向を説明してくれた。氏の名刺には、つぎのような肩書が記さ
れていたことを最後にメモしておく。中国法制与社会発展研究所所長、首鋼研究与開発公
司 顧 問 、 中 国 政 治 学 学 会 副 会 長 、 中 国 法 学 会 常 務 理 事 、 中 国 作 家 協 会 会 員 、『 法 律 諮 詢 』 雑
誌 社 社 長 、『 法 学 雑 誌 』 主 編 、 北 方 図 書 公 司 理 事 長 、 元 群 衆 出 版 社 社 長 。
国務院のシンクタンク
西安門大街二二号の国務院経済技術社会発展研究中心へ行く。昨年中共中央文献研究室、
党史研究室を訪ねて分かったことだが、中共中央や国務院の機関には必ずしも、その機関
名 を 示 す 看 板 が な く 、解 放 軍 の 衛 兵 が 門 を 固 め て い る 。国 務 院 の シ ン ク タ ン ク(「 思 想 庫 」)
たるここも同じであり、門口には国家宗教局ともう一つの機関名が掲げてある。来意を告
げ る と 、し ば ら く 待 た さ れ た の ち 外 事 処 の 担 当 者 が 現 れ 、
「 誠 に 申 し 訳 な い が 、呉 敬 教 授 は
い ま 会 議 中 で お 会 い で き な い 」と の こ と で あ る 。
「 ダ メ モ ト 」主 義 で あ る か ら 、黙 っ て 引 き
返 す 。実 は 都 合 の 悪 い こ と は す で に 私 な り の ホ ッ ト・ラ イ ン を 通 じ て 承 知 し て い た の だ が 、
私の公式接待単位は別ルートで連絡してくれていたので、その「義理を果たすために」赴
い た 次 第 で あ る 。 翌 々 日 夜 、 呉 敬 璉 ( 同 中 心 常 務 幹 事 、 中 国 社 会 科 学 院 研 究 員 、『 経 済 社 会
体 制 比 較 』 雑 誌 主 編 )、 李 建 国 ( 国 務 院 経 済 技 術 社 会 発 展 研 究 中 心 対 外 経 済 組 、 副 局 長 、 高
級 研 究 員 )、 唐 若 霓 ( 同 正 処 級 諮 詢 研 究 員 )、 友 人 の 平 田 昌 弘 、 小 竹 一 彰 と 六 人 で 「 北 京 肥
牛火鍋海鮮酒家」
( 珠 市 口 西 大 街 一 四 六 号 )に て 会 食 。呉 敬 氏 は 先 の 会 議 が 全 人 代 の 李 鵬 報
告草案を検討するためのものであることを教えてくれた。つまりこのセンターは党レベル
では党中央財政経済委員会主任たる趙紫陽に、国務院レベルでは総理李鵬に直結するシン
クタンクであるから、多忙をきわめるのである。中国ではたとえば中国社会科学院系列の
研究員の場合、火曜と金曜の二日出勤し、他の五日は自宅で研究する場合が多いが、研究
所でも行政的ポストをもつ人々や、このシンクタンクのような場合は残業に次ぐ残業、日
矢吹晋『逆耳順耳』
65
本のエリート・サラリーマンの場合とさして変わらないごとくである。食事をしながら、
懇談しているうちに、日を改めて議論しましょうという次第になった。三日後の夕方、ホ
テルにお迎えし、コーヒーショップで腹ごしらえしたあと、私の部屋で議論を続けた。と
書くといかにも対等に話したようで、少しく事実に反する。二時間半、呉敬氏は一方的に
しゃべりまくり、私はひたすら聞き役に徹したのであった。その内容は『日中経済協会会
報』
( 八 九 年 三 月 号 )に 紹 介 し た の で 、参 照 頂 け れ ば 幸 い で あ る 。多 忙 を き わ め る 呉 敬 が か
くも熱心に私との時間を作ってくれたことはまことに有難かった。
実は拙著『中国のペレストロイカ』で呉敬璉を紹介している。私がこの本で、三〇年前の
「 呉 論 文 」に ま で 言 及 し た こ と に 氏 は 驚 い て い た 。
「 あ の こ ろ は“ 左 ”の 影 響 を 強 く 受 け て
い ま し た 。 そ れ に し て も 、 よ く 私 の 筆 名 だ と 分 か り ま し た ね 」。「 資 料 を い ろ い ろ 洗 っ て い
くと、自然に分かりますよ。そういえば、私もあなたの論文から“左”の影響を強く受け
た わ け で す 」。 こ こ で 大 笑 い と な っ た 。
そ こ で 蘇 紹 智 氏 の 話 が 出 て 、呉 敬 璉 氏 曰 く 、
「私は蘇紹智同志と長いつきあいになりますが、
彼 が 満 族 と は 知 ら な か っ た 。あ な た の 本 で 教 え ら れ ま し た 」。
「そうでしたか。
『中国社会科
学 家 辞 典 』 に そ う 書 い て あ り ま し た よ 」。「 中 国 で は 資 料 を 集 め る の も な か な か 容 易 で は な
い の で す 」。私 は 中 国 の 書 籍 流 通 事 情 を い く ら か 知 っ て い る の で 、少 し く 同 情 し た が 、直 ち
にアメリカの資料事情を想起して、アメリカの中国研究者から同情される自分自身の姿と
目の前の呉敬璉の姿が二重写しになった(そこで、呉敬璉、蘇紹智、矢吹晋の鼎談の話が
出 た が 、 日 程 の 都 合 が つ か な か っ た )。
『ペレストロイカ』には呉祖光氏のことも紹介している。氏とは八八年の来日の際にお会
いしている。実は呉敬璉は呉祖光氏と個人的に知り合いであり、私の本のことも話題にし
ていたという。帰国後早速お送りしますと約束したが、彼らはどんな知り合いなのか。分
かれに際して、呉敬璉は二つの資料を下さった。
呉敬璉が下さった資料の一つは『人民
日報』
( 海 外 版 )一 九 八 九 年 二 月 一 三 日 付「 著 名 老 報 人 全 国 政 協 常 委 陳 銘 徳 在 京 病 逝 」で あ
る。南京で『新民報』を発行し、解放後はその後身たる上海『新民晩報』顧問を務め、二
月一一日九二歳で死去したこの人物は、呉敬璉の「継父」なのであった。
もう一つは『団結報』一九八九年二月二五日付、九六九号である。呉祖光が「歴史を創造
した人──陳銘徳先生を追悼する」を書いている。呉祖光は三〇年代初に初めて陳銘徳に
会った。四四年には陳銘徳に頼まれて「晩報副刊」の「西方夜潭」の編集を引き受けてい
る。五〇年代に陳銘徳は新聞の自由化、多様化を主張して「右派分子」とされた。同じく
「右派分子」のレッテルを貼られた呉祖光は「同病相憐」である。呉祖光の追悼文で知っ
たのだが、実は今日の『北京晩報』は陳銘徳の『新民報』北京版の後身なのであった。か
つ て は 南 京 、上 海 、北 平 、重 慶 、成 都 の 五 都 市 で 朝 刊 を 夕 刊 は 八 種 類 出 し て い た が 、現 在 、
その名はわずかに上海『新民晩報』にだけ残っている──追悼文で知った事実である。
胡耀邦政変直後に共産党を離党した呉祖光、そして党籍は保留したものの、党内外の職務
を剥奪された中国最高の社会主義論専門家蘇紹智らと趙紫陽直系のシンクタンクに務める
改革派エコノミスト呉敬との人脈、それを聞いて改めて「人脈中国論」の必要性を痛感し
矢吹晋『逆耳順耳』
66
たことであった。
「有沢文庫」のこと
中国社会科学院日本研究所に駱為竜所長を訪ねる。東城区張自忠路三号はもと段祺瑞執政
府旧址(北京市文物保護単位)であり、いかにも民国時代を感じさせる建物である。この
大院では日本研究所のほか、ソ連東欧研究所、ラテン・アメリカ研究所、西アジア研究所
の四研究所が住み分けしている。日本研究所前所長何方氏は国務院国際問題研究中心の副
総幹事に転出し、副所長彭晋璋氏は深に設立予定のシンクタンクに転出した(仄聞すると
ころによると、なにやら生グサイ話のゆえに、ケンカ両成敗となった由。いずこも同じで
す な )。ジ ャ ー ナ リ ス ト 出 身 の 駱 為 竜 所 長 は「 日 本 研 究 の 春 が 来 た 」と 大 ハ シ ャ ギ で あ っ た 。
つまり従来は偏った情報に基づいて日本の動向を分析していたために、日本の現実を正し
く 理 解 で き な か っ た 。い ま や よ う や く 開 放 的 、客 観 的 態 度 、
「 実 事 求 是 」の 原 則 で 日 本 研 究
ができるようになった、と明るい展望を語ったわけである。
そこで出たのは日本研究所にフアックスを設けた話、東京からのラジオ短波が聴取しにく
い話、衛星放送をモニターしたいといった話題であった。同行の友人平田昌弘(現同研究
所客員研究員)が日本の北京駐在某事務所が巨大なパラボナ・アンテナによって、鮮明な
画像を写していることを話すと、駱為竜さんは身を乗り出して、そのアンテナの機種、価
格などを尋ねた。日本の政治・経済の現状分析のためには、なによりもまず鮮度の高い最
新情報が必要だというのが、氏の見解であった。
実 は 私 が 研 究 所 を 訪 ね た 目 的 は「 有 沢 広 巳 文 庫 」が ど う な っ て い る か を 知 る た め で あ っ た 。
数年前、私は有沢広巳先生に招かれて、学士会館の理事長室で于光遠さんの著作内容につ
いてご説明し、夕食をごちそうになった。その後八七年四月には、恐らくは有沢先生の発
意からと推測されるが、学士会の夕食会に招かれて、中国の経済についておしゃべりをし
た こ と が あ る (『 学 士 会 午 餐 会 夕 食 会 講 演 特 集 号 』 一 九 八 七 年 、 所 収 )。
その夜、
「 有 沢 文 庫 」の 話 を『 人 民 日 報 』の 報 道 で 拝 見 し ま し た と 申 し あ げ た 。今 回 北 京 に
旅立つ前夜、故有沢夫妻の追悼会が開かれた。私は成田空港近くのホテルに入ったので、
残念ながらこの集まりに出席することはできなかったが、有沢先生のご遺志がどう活かさ
れているのかを知りたくなって、研究所を訪れた次第であった。
『資本論』の初版本など稀覯本はガラス箱に入れられ、他のものはきちんと書架にならべ
られていた。蔵書目録もできていた。これらに関するかぎり受入れ態勢は万全であった。
ただ、蔵書がどこまで利用されているかとなると、疑問なしとしない。どうやら日本研究
所は日本の最新動向の分析で精一杯であるように見受けられる。日本の現状分析が深まれ
ば、有沢文庫が真に必要となる日が来るであろうが、それはまだ遠い先ではなかろうか。
たとえば中国の経済発展戦略を考える人々の間では、戦後日本の「傾斜生産方式」に対す
る関心が強い。このアイディアの提唱者は有沢先生であるから、その著作を研究すべきだ
が、研究には時間がかかる。それよりは、企画庁OBを招いて、話を聞いた方がてっとり
早い。
「 耳 学 問 」の 効 用 で あ る 。情 報 化 時 代 の 今 日 、こ の よ う な 形 で の 情 報 入 手 は 確 か に 必
要である。しかし、そこにはそれなりの限界があるはずである。その限界に気づいたとき
矢吹晋『逆耳順耳』
67
に初めて、有沢文庫が真に利用されるようになるのではないか、と帰り道で考えた。
農村発展研究所
北京六里橋北里五号四号楼にある国務院農村発展研究中心発展研究所を訪ねる。実はここ
を 訪 ね 当 て る た め に 一 時 間 余 り か か っ た 。ま ず 西 城 区 西 黄 城 根 九 号( 北 京 市 文 物 保 護 単 位・
礼王府のプレートあり)にある国務院農村発展研究中心を訪ねた。ここは例によって衛兵
のガードの固い国務院機関(実は中共中央農村政策研究室をも兼ねる)である。付属研究
所はおそらくここにはないと見当をつけていたのだが、一つはここを見ておきたかったの
と、もう一つは付属研究所の住所を知らなかったからここで尋ねたわけである。
さて六里橋北里五号四号楼というアドレスは分かったが、入口が分からない。運転手が聞
いたところ、もう少し先だというので車走らせたところ、六里橋の立体交叉を超えてしま
った。やむなく車を反対斜線に止めて広い道路を横断したが、車が多く、しかも石家荘・
北京を結ぶこの道路(石京公路)はスピードが早く、命が縮まる思いがした。工事現場の
建築材料のころがるなかを注意深く歩き、水たまりに気をつけながら四号楼を訪ねるうち
に、六里橋北里居民委員会のなかに紛れ込んだ。研究所などどこにもない。さては私が尋
ねた研究員の自宅住所を教えてくれたのであろうかと突然不安になる。聞いてみると向こ
うの招待所へ行け、という。確かにおばさんの言う「招待所」のなかにわが研究所はあっ
た。むろん看板が全くない。しばらく待つうちに現れた陳錫文所長が私の相手をしてくれ
た。
「 昨 年 こ こ に 移 っ た ば か り 。探 す の が た い へ ん だ っ た で し ょ う 。あ な た が 来 ら れ る こ と
は 承 知 し て い ま し た 」。先 方 へ の 連 絡 は つ い て い た 。し か し 、私 に は こ の 住 所 と 電 話 が 伝 わ
らなかった(この種のパプニングは中国ではしばしば生ずる。一つの仕事をやるために、
だいぶ時間がかかる。北京駐在の皆さんはたいへんでしょうな、とある日本人に同情した
と こ ろ 、意 外 な 答 え が 返 っ て き た 。
「 い か に も 。た だ し 、会 社 は こ う い う 事 情 を よ く 理 解 し
ており、すぐ納得してくれますよ。場合によっては、これを口実とすることもできますか
らね」とニヤリ。
陳錫文所長は一九五〇年上海生まれ、三九歳である。八二年に人民大
学農業経済学系を卒業した。八二~八五年中国社会科学院農業経済研究所で働き、八五年
七月この研究所に移った。
付 属 研 究 所 の の 前 に 、親 組 織 た る 国 務 院 農 村 発 展 研 究 中 心 と は な に か 。こ れ は 八 二 年 三 月 、
国家農業委員会が廃止された際にその後身として成立した。その任務は、農村政策の諮問
に答えることであり、全国の省レベル政府の農業委員会あるいは農村発展中心に系列機関
をもち、県レベルの農村工作部にも末端機関をもっている。農業部が国務院系統として農
業政策の推進に当たるのに対して、国務院農村発展研究中心は中共中央の指導を受けて、
政策の修正あるいは研究に当たるという。たとえば『農民日報』はここで編集しており、
『 中 国 村 鎮 百 業 信 息 報 』を 編 集 し 、ま た 農 村 読 物 出 版 社 を 経 営 し 、出 版 活 動 も 行 っ て い る 。
国務院の名がついているが、農業部が文字通り国務院の機構であるのに対して、農村発展
研究中心の下部機構は直接中共中央の指導を受けているというのは、初めて知った。むろ
ん農村発展研究中心と中共中央農村政策研究室が一体であることは承知していたが、それ
が県レベルまで手足をもつことは知らなかった。
矢吹晋『逆耳順耳』
68
農 村 発 展 研 究 中 心 は 、1 資 源 配 置 研 究 組 、2 ミ ク ロ 経 済 研 究 組 、3 社 会 問 題 、権 力 構 造 研 究
組 、4 マ ク ロ 経 済 研 究 組 、5 農 村 市 場 研 究 組 、6 国 際 部 、 7 編 集 部 (『 中 国 農 村 』 双 月 刊 を 八
九 年 前 半 に 発 行 予 定 )、 8 連 絡 室 ( 他 の 関 係 機 関 と の 連 絡 に 当 た る )、 か ら な る 。 研 究 員 は
約八〇名の由である。
付属研究所の任務は 1 国民経済研究、2 市場経済研究、3 農村企業研究、4 社会発展研究、
5 成 長 理 論 研 究 、で あ る 。
「 信 息 室 」 が あ り 、 こ こ で『 発 展 研 究 通 訊 』
( 月 二 回 刊 行 、内 部 発
行 )、『 農 村 実 況 』( 月 二 回 刊 行 、 内 部 発 行 ) を 出 し て い る 。 こ の ほ か 『 発 展 研 究 報 告 』 を 年
に三、四部出している。
ここでもう一つ面白いことを聞いた。国家統計局が「国家農村抽様総隊」を八〇〇県に約
八〇〇〇人配置していることは承知していたが、総隊レベルでも、県レベルでも、これら
の人員は農村発展研究中心は「合弁」することになっているという。約一万戸を対象とし
た生活調査のことは、
『 中 国 統 計 年 鑑 』で 知 っ て い た が 、こ の 調 査 の や り 方 、問 題 の 発 見 作
業において、農村発展研究中心が共同作業している事実は興味深い。
体制改革研究所
国家経済体制改革委員会付属中国経済体制改革研究所を訪ねる(北京黄寺大街人定湖北巷
一 一 号 )。陳 一 諮 所 長 、王 小 強 副 所 長 ら と 会 い た か っ た の だ が 、あ い に く 陳 一 諮 氏 は 訪 日 中 、
王小強氏は訪米中であった。青年改革派の巣窟(?)ともいうべきこの研究所は誠に活発
である。木造二階建て、ロの字形で囲まれた中庭は運動場になっており、いかにも農村青
年訓練センターといった赴きである。この研究所は一六〇名の職員を抱え、うち九〇名が
研究人員である。基礎研究部、戦略研究部、応用研究部、諮訊部からなる。平均年齢三〇
歳。党員は半数以下。相手をしてくれた所長助理ロウ健さんは、五八年一一月、四川省南
川県生まれ、八三年ハルビン師範大学英文系卒、八七年北京大学大学院社会学系卒。社会
学 出 身 だ け に 、基 層 政 権 や 世 論 な ど 社 会 ・ 政 治 問 題 を 研 究 中 。
「 複 数 政 党 制 」の 展 望 を 聞 く
と「二〇年はムリ」と予想した。君は五〇歳、僕が七〇歳になると言って別れた。
社科院経済研究所
中国社会科学院経済研究所は北京月壇北小街二号にその分身たる工業経済研究所、財貿経
済研究所などとともにある。副研究員林泉木氏、助理研究員尉安寧氏、科研組織処処長張
栄剛氏(講師、助理研究員)が応対してくれ、終りごろになってから会議を抜けだしてき
た 趙 人 偉 所 長 と も お 会 い し た ( 董 輔 名 誉 所 長 と も お 会 い し た か っ た の だ が 、 不 在 だ っ た )。
経済研究所の陣容は編集部を含めて二二九名、うち研究員は一八〇名である。1 政治経済
学研究室、二〇数名、2 マクロ経済研究室、二〇名未満、3 ミクロ経済研究室、一〇名未
満 、 4 発 展 経 済 学 研 究 室 、 一 二 名 ( 三 年 前 成 立 、 主 任 は 若 手 の 張 学 軍 氏 )、 5 比 較 経 済 学 研
究 室 、 一 一 名 、 6 中 国 経 済 史 研 究 室 、 四 〇 名 ( 古 代 、 近 代 、 現 代 に 分 か れ る )、 7 外 国 経 済
思 想 史 、 一 六 名 。 編 集 部 な ど は 1 『 経 済 研 究 』、 2 『 経 済 学 動 態 』、 3 『 経 済 学 訳 叢 』、 4 『 中
国 経 済 史 』( 季 刊 )、 5『 経 済 研 究 資 料 』( 内 部 発 行 )、 6 図 書 館 、 7 学 術 資 料 室 、 か ら 成 っ て
いる。いま最も活発な活動を続けている「発展経済学研究室」の状況を聞いた。インフレ
と賃金問題、労働力就業問題などが重点テーマとなっている由。
矢吹晋『逆耳順耳』
69
国際的共同研究としては、オクスフォード大学・ミシガン大学との研究、カリフォルニア
大学カール・リスキン教授との研究、香港の郭益耀、蔡俊華教授(私の旧友たち)との研
究、農村工業化についての世界銀行との研究などが完成し、あるいは進行中である由。残
念ながら(あるいは当然のことながら)日本は見るべき成果なし(交流をやっているのは
素 人 ば か り 。 プ ロ が そ も そ も い な い の だ か ら 、 し ょ う が な い で す な )。
国家計画委経済研究所
西城区月壇北街二五号の国家計画委員会経済研究所を訪問する。方法制度研究室の裴小林
氏、世界経済研究室の李達章氏とインフレ問題、株式制問題などを議論する。経済改革に
おいて「実恵」を強調したことが今日の過大な消費購買力をもたらした。インフレという
「改革の代価」を十分に予期していなかったと反省していた。最後に王積業所長と会う。
国家計画委員会付属の研究所としてはつぎのものがある。1 経済研究所(マクロ経済を担
当 )、 2 運 輸 研 究 所 、 3 能 源( エ ネ ル ギ ー ) 研 究 所 、 4 基 本 建 設 研 究 所 、5 技 術 経 済 研 究 所 、
6 人 力 経 済 研 究 所 、7 国 土 経 済 研 究 所 、こ れ ら 七 つ の 研 究 所 を 統 括 す る 組 織 と し て「 計 画 経
済 研 究 中 心 」( セ ン タ ー ) が あ る 。
旧知の桂世氏と会いたかったのだが、氏は国家計画委員会秘書長、政策研究室副主任に栄
転 し 、 会 え な か っ た の が 残 念 で あ る ( む ろ ん 連 絡 不 十 分 が 一 因 で あ っ た )。
ア メ リ カ 日 記 ( 一 九 八 九 年 四 月 )、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 二 七 号 〔 八 九 年 八 月 一 〇 日 発 行 〕、
ミシガン大学「ニセ教授」
初めてアメリカを訪れた。畏友近藤大博さん(前『中央公論』編集長)がミシガン大学の
「ニセ教授」
( 万 事 に 率 直 な ア メ リ カ 大 学 院 生 の 表 現 。お そ ら く は 近 藤 さ ん 自 身 が 初 め に そ
う自己紹介したものと思われる)となり、私を呼んでくれたのである。
近藤ゼミは
を
“ Media, Opinion, and Public Policy" と い う 半 年 の 講 義 で 、 私 は そ の 一 回
“ S i n o - J a p a n R e l a t i o n Vi e w e d F r o m M y P e r s o n a l E x p e r i e n c e " と 題 し て 話 し た 。 何
を隠そう、用語は日本語である。実は、それだからこそ引き受けたのだ。私は近藤さんの
顔をつぶさなければよいが、とだけ念じていたが、幸い評判がよかったですよと(半分は
外 交 辞 令 で あ ろ う が )、近 藤 さ ん が 慰 め て く れ た 。翌 日 、近 藤 さ ん 、そ し て フ ロ ク た る 私 の
お 別 れ の パ ー テ ィ が 近 藤 宅 で 開 か れ 、居 候 の 私 と し て は 、ホ ス ト の 助 手 の 助 手 位 の 立 場 で 、
酒をついだりしたが、昨日の学生たちが私にいろいろ議論をふっかけてきたところを見る
と、近藤さんの言葉はまんざらウソでもなかったらしい。それはともかく、落ち着いた大
学街アナーバーでの四泊五日の生活は、アメリカの中産階級の生活を知るうえで印象深い
ものであった。学生たちの話では、ミシガン大学の中国研究はいまマイケル・オクセンバ
ーグとケネス・リーバソールの二人が中心だという。私が昨年ソウルのセミナーで同席し
たダーンバーガー教授の次の世代である。ただ私はミシガン大学で日本センターの人々と
ばかりつきあっていて、中国研究センターを訪れる機会がなかった。ただし、図書館だけ
はアジア・ライブラリーのヘッド萬維英氏の案内で見せてもらい、二つのネットワーク・
シ ス テ ム 、す な わ ち 二 十 数 図 書 館 か ら な る
矢吹晋『逆耳順耳』
RLG(Research Library Group)
一千余の図
70
書 館 か ら な る OCLC( On Line Computer Catalogue)
のことを聞いた。
ハーバード闘争二〇周年
私 が ア ナ ー バ ー を 立 つ 日 の 『 ザ ・ ア ナ ー バ ー ・ ニ ュ ー ス 』( 四 月 八 日 付 ) は 、 七 ~ 八 日 の あ
る“同窓会”のことを報じた。二〇年前の一九六九年四月九日、約三〇〇名の学生がハー
バード大学の本部ビルを占拠した。翌日早朝ネイザン・プシー総長は四〇〇人以上の警官
隊を導入し、学生を排除した。四五人が負傷し、一九七人が逮捕された。三日間の授業ボ
イコットは、四月二五日までの一五日間のストライキに発展し、期末試験は中止された。
この闘争を記念して、アメリカ全土から二〇〇人の元活動家がハーバード大学に集まり、
テ ィ ー チ イ ン や デ ィ ベ ー ト 、街 頭 劇 、パ ー テ ィ に 参 加 し た 。話 題 は 過 去 の こ と だ け で な く 、
中央アメリカや南アフリカに対するアメリカの政策を含んでいた。四〇歳のポール・ロビ
ン ス 氏( サ ン フ ラ ン シ ス コ の コ ン ピ ュ ー タ ー ・ ソ フ ト の デ ザ イ ナ ー )は 、こ う 語 っ た 。
「一
九六九年の出来事によって、私は世界がどう動いているのかを初めて知った。政府やハー
バ ー ド 大 学 や 企 業 、そ し て 警 察 の 役 割 を 」。三 九 歳 の ハ リ ー ・ チ ー バ ー さ ん( ニ ュ ー ヨ ー ク
の 獣 医 で 動 物 の 権 利 を 守 る 活 動 家 )は 語 る 。
「 あ れ は 編 集 部 に 手 紙 を 書 く 段 階 の 終 り 、真 の
行 動 の 開 始 で し た 。私 は 自 分 の 世 代 を ほ ん と う に 誇 り に 思 い ま す わ 」。八 二 歳 で い ま ニ ュ ー
ヨ ー ク に 住 む プ シ ー 元 総 長 は 語 る 。「 私 は 一 九 五 三 年 か ら 一 九 七 一 年 ま で ハ ー バ ー ド の 行
政にたずさわったが、学生や教職員がハーバードが諸悪の根源であり、攻撃さるべきだと
する観念を受け入れたのには、失望した。正直のところ、私はハーバードの教職員がこん
な バ カ げ た 言 い 分 を 真 に 受 け る と は 思 え な か っ た の だ 」。( 村 田 忠 禧 さ ん に 聞 い て み た ら 、
東 大 で は M L 派 の 活 動 家 二 〇 人 程 度 が 集 ま っ た そ う だ )。
ボストンにて
大学時代の友人・堀元君(東北大学経済学部教授)は、留学、研究と二回のアメリカ長期
滞 在 を 経 て 、現 在 は 三 回 目 の 研 究 生 活 を M I T で 送 っ て い る 。
「社会保障の世代間移転問題」
を テ ー マ と し て い る 。「 学 会 で サ ミ ュ エ ル ソ ン 名 誉 教 授 が 私 の ペ ー パ ー を コ メ ン ト し て く
れた」と嬉しそうであった。彼の案内でキャンパスを一回りしたが、授業料を収める出納
室に一ドル紙幣が壁一面に描かれていたのに、アメリカらしいユーモアを感じたことであ
った。堀君のお宅の近くに服部民夫君(アジア経済研究所の韓国問題研究家、私はかつて
東アジア室で同室だったことがある、今年度「大平正芳賞」受賞)が住んでおり、折良く
ハ ー バ ー ド 大 学 フ ェ ア バ ン ク 研 究 セ ン タ ー 内 の コ リ ア ン・イ ン ス テ ィ チ ュ ー ト で 韓 国 の「 族
譜」を研究していた。そこでハーバード構内へは彼に連れていってもらった。ハーバード
燕京図書館を胡嘉陽女士の案内で参観。最近の資料収集状況を聞く。いまべらぼうな数で
出 版 さ れ て い る「 地 方 紙 」の 収 集 方 法 を 聞 い た( ち な み に 中 国 社 会 科 学 院 新 聞 研 究 所 編『 当
代中国報紙大全』寧夏人民出版社、一九八八年七月によると、一九八七年現在、二五七八
種 類 の 新 聞 が 出 版 さ れ て い る )。 ア メ リ カ 東 部 で は 六 つ の 機 関 が 地 域 を 分 担 し て 収 集 し て
いるという。たとえばコロンビア大学は陝西、雲南、天津、上海、河南の二市三省、コー
ネル大学は広東、河北、山東、福建、四川の五省、ハーバード大学は安徽、浙江、江西、
矢吹晋『逆耳順耳』
71
青海の四省そして香港、ニューヨーク・パブリック・ライブラリーは広西、貴州、チベッ
ト、新疆、甘粛の二省三自治区、プリンストン大学は遼寧、内蒙古、寧夏、山西、北京の
一市二省二自治区、エール大学は黒竜江、吉林、江蘇、湖北、湖南の五省、といった具合
である。北京や上海、広東などの重要省市に関心が集中しマイナーな省自治区が無視され
がちなのは、自然な成り行きである。したがって、これはきわめて「ゆるやかな分業」だ
という。個性を尊重しつつ、結果的に中国全体をカバーしようとしているその姿勢に、ア
メリカの現代中国研究の水準を垣間見た(私は思い出すが、日本では超一流とされている
某大学に、そのころ『人民日報』さえそろっていなかった。そこの研究者が私の勤務先た
るアジ研図書館に来られたことで分かったのである。私はほとんど絶句するほどの衝撃を
受けた。彼らがアジア・フォード資金反対闘争の闘士だったことを知って、もう一度絶句
した。思うに、日本の現代中国研究をダメにした要因はいくつかあるが、三大犯人の一人
は こ の 闘 争 で あ っ た 。ハ ー バ ー ド 大 学 東 ア ジ ア 研 究 協 議 会( C o u n c i l o n E a s t A s i a n S t u d i e s
Harvard University)
の
“ East Asia News Bulletin", April 12, 1989
を見ると、四
月一三日昼、フェアバンク・センター・セミナー、王若水「ヒューマニズム、社会主義的
疎外、反精神汚染キャンペーン」などと書いてある。また
Studies 1988-1989"
“ Directory of East Asian
を 見 る と 、劉 賓 雁( 訪 問 学 者 、ニ ー マ ン ・ フ ェ ロ ウ )な ど の 名 前 が
見える。すでに知っていたことだが、なんとも落ち着かない気分になって、地下鉄に飛び
乗 り 、 ボ ス ト ン 美 術 館 へ 行 っ た (な お 、 フ ェ ア バ ン ク ・ セ ン タ ー の 談 話 室 で
Research Newsletter" Spring 1989,No.2
“ CCP
を み か け 、な に げ な く 開 い て 見 る と 、あ り ま し
た。私の駄文が。
“ Notes on Recent Studies of China's Modern History in Japan"
(楊中美さんに頼ま
れ て 走 り 書 き し た も の )。
フーバー研究所
フーバー研究所では東アジア・コレクションのディピューティ・キュアレーター譚煥廷さ
ん の 案 内 で 書 庫 を 見 せ て も ら い 、『 中 文 報 紙 目 録 』( カ リ フ ォ ル ニ ア 大 学 バ ー ク レ イ 校 東 ア
ジア図書館、スタンフォード大学フーバー研究所東アジア・コレクション共編、一九八六
年、四八二頁)を頂戴した。この目録には、編者の両図書館のほか、バークレイのセンタ
ー・フォア・チャイニーズ・スタディズ・ライブラリーおよびエイシァン・アメリカン・
スタディズ・ライブラリーの新聞も収められている。スタンフォード大学とバークレイ校
は「とても素敵な関係なのですよ」とミシガン大学の萬維英氏が説明してくれたが、その
協力関係の一端を私はこの目録に見た(地方紙はスタンフォードとバークレイが長江の南
北 に 分 け て 分 担 し て い る )。譚 煥 廷 さ ん は い ま コ ン ピ ュ ー タ ー・シ ス テ ム を 主 と し て や っ て
いる、と端末機を使って見せた。ローマ字のほか、日本語のかな・漢字、ハングル、中国
語(簡体字および繁体字をヘンとツクリの組合せで引き出す)ことができる。
別れ際に「あなたの本を調べてみましょう」とローマ字でインプットした。たちどころに
最近の七冊の小著と私の知らない英文資料二件(私の雑誌論文を台湾で英訳したもの)が
プ リ ン ト さ れ て き た 。「 お や 、 た く さ ん 書 い て ま す ね 」「 ま あ 、 粗 製 濫 造 で す な 」。
矢吹晋『逆耳順耳』
72
大 学 の 正 門 前 の ホ リ デ ィ ・ イ ン は 中 庭 に プ ー ル が あ り 、ト ロ ピ カ ル ・ ス タ イ ル の リ ゾ ー ト ・
ホテル風である。私はかつてスタンフォードで研究生活を送った小林弘二さんのすすめに
したがって、ここに宿をとり、プールサイドでビールを飲んだ。うたたねから目を覚まし
たらビキニ娘(前娘、元娘)が十数人に増えていた。
台 湾 日 記 ( 一 九 八 九 年 八 月 ) 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 二 九 号 〔 八 七 年 一 二 月 一 〇 日 発 行 〕、
「中国民主前途研討会」
台 北 の『 中 国 時 報 』の シ ン ポ ジ ウ ム に 招 か れ た 。テ ー マ は「 中 国 民 主 前 途 研 討 会 」で あ る 。
出席者は筆画順で、以下のごとくである。
小 島 麗 逸 ( 大 東 文 化 大 学 教 授 )、 王 作 栄 ( 時 報 文 教 基 金 会 理 事 長 )、 矢 吹 晋 、 朱 堅 章 ( 政 治
大 学 教 授 )、 余 紀 忠 ( 時 報 文 化 事 業 董 事 長 )、 呂 亜 力 ( 台 湾 大 学 教 授 )、 李 鴻 禧 ( 台 湾 大 学 教
授 )、 呉 乃 徳 ( 自 由 研 究 者 )、 金 耀 基 ( 香 港 中 文 大 学 教 授 )、 林 毓 生 ( ウ イ ス コ ン シ ン 大 学 教
授 )、 胡 仏 ( 台 湾 大 学 教 授 )、 張 玉 法 ( 中 央 研 究 院 近 代 史 研 究 所 所 長 )、 張 朋 園 ( 中 央 研 究 院
近 代 史 研 究 所 研 究 員 )、 高 英 茂 ( ブ ラ ウ ン 大 学 教 授 )、 許 倬 雲 ( ピ ッ ツ バ ー グ 大 学 教 授 )、 楊
国 枢 ( 台 湾 大 学 教 授 )、 裴 敏 欣 ( ハ ー バ ー ド 大 学 P H D 候 補 )、 戴 国 輝 ( 立 教 大 学 教 授 )、 蕭
新煌(台湾大学教授)私がひそかに期待していた出席予定者胡平(ハーバード大学PHD
候補、中国民聯主席)および丁学良(ハーバード大学PHD候補)は、論文を提出しただ
けで、出席しなかった。前者は出国手続きが間に合わなかったため、後者は夫人の出産の
ためとのことだった。胡平「言論の自由」はたいへん有名だが、丁学良「ウェーバーの世
界 文 明 比 較 研 究 序 論 」『 中 国 社 会 科 学 』 一 九 八 七 年 一 期 、「 現 代 化 理 論 の 淵 源 と 概 念 構 造 」
『中国社会科学』一九八八年一期なども、若手中国研究者の代表的論文の一つである。
シンポジウムは八月一六日~一八日の三日間行われた。第一報告「清末民初民主政治の盛
衰」
( 張 朋 園 )、第 二 報 告「 中 国 国 民 党 執 政 初 期 の 民 主 化 の ジ レ ン マ( 一 九 二 八 ~ 四 九 )」
(張
玉 法 )、 第 三 報 告 「 台 湾 政 治 自 由 化 現 象 の 解 釈 」
( 呉 乃 徳 )、 第 四 報 告 「 中 国 大 陸 の 民 主 化 闘
争 過 程 の 経 験 と 教 訓 」( 裴 敏 欣 )、 以 上 八 月 一 六 日 。
第 五 報 告 「 明 治 維 新 と 日 本 の 民 主 政 治 の 発 展 」( 戴 国 輝 )、 第 六 報 告 「 第 二 次 大 戦 以 後 の 日
本 の 民 主 化 」( 矢 吹 晋 )、 第 七 報 告 「 戒 厳 解 除 以 後 の 台 湾 の 民 主 化 の 展 望 」( 呂 亜 力 )、 以 上
八月一七日。
第 八 報 告「 改 革 十 年 の 大 陸 の 民 主 化 に 対 す る 影 響 」
(丁学良論文を裴敏欣が
代 読 )、 第 九 報 告 「 民 主 政 治 の 混 迷 と 実 践 」( 胡 仏 )、 以 上 八 月 十 八 日 。
出席者のうち報告者でない者はすべてコメンテーター(評論人)である。
シ ン ポ ジ ウ ム の 主 催 者 の 意 図 お よ び 自 己 評 価 を 知 る に は『 中 国 時 報 』の 二 つ の 社 説 が あ る 。
「手を携えて両岸の民主的未来を共に創ろう──新聞と学術を結合した中国民主前途研討
会」
( 八 月 一 六 日 付 )、
「公衆の空間を透過して民主主義の常識を打ち立てよう──海内外学
者 の 両 岸 の 民 主 前 途 に 対 す る 期 待 」( 八 月 一 九 日 付 )。
私自身の発言に触れた記事としては「異なる一党独裁──日本政治体制発展の形勢得失は
他山の石とできる」
( 八 月 一 八 日 付 )、
「 海 内 外 学 者 が 会 し 、言 い て 尽 き る こ と な く 、民 主 主
義 の 精 義 を 深 く 解 明 し た ─ ─ 中 国 民 主 前 途 研 討 会 閉 幕 」( 八 月 一 九 日 ) が あ る 。
矢吹晋『逆耳順耳』
73
な お 、 付 録 と し て 二 つ 。 一 つ は 『 中 国 時 報 』 の 姉 妹 紙 『 工 商 時 報 』( 八 月 一 八 日 付 ) が 日 本
から訪れた戴国輝、小島麗逸、矢吹晋の三人をインタビューした。題して「自民党惨敗の
国 民 党 に 対 す る 啓 示 」( 本 報 記 者 呂 州 整 理 ) で あ る 。
も う 一 つ は『 日 本 文 摘 』
( 一 九 八 九 年 九 月 号 )の 座 談 会「 大 陸 、台 湾 の 民 主 主 義 発 展 は 楽 観
で き る か ? 」 で あ る 。 出 席 者 は 小 島 麗 逸 、 矢 吹 晋 の ほ か 、 李 鴻 禧 ( 台 湾 大 学 教 授 )、 洪 美 華
( 日 本 文 摘 雑 誌 社 総 編 輯 ) で あ る ( 陳 桂 蘭 記 録 整 理 )。
『天安門事件:一九八九』
台湾の急進的民主化派のなかには、日本に対して大陸に対する「経済封鎖」を求める声も
目 立 っ た 。私 は 終 始「 内 政 不 干 渉 」の 立 場 を 貫 い た つ も り で あ る 。
『 日 本 文 摘 』三 三 頁 の「 座
談 花 絮 」に つ ぎ の よ う に 記 者 が 書 い た の は 、こ の 間 の 事 情 を 示 唆 し た も の で あ る 。
「われわ
れが気づいたのは、矢吹教授が一人の日本学者として、台湾と大陸問題に直面したとき、
態 度 が 慎 重 で あ り 、細 心 で あ る こ と だ っ た 」。ど う や ら 私 の 意 図 の 一 部 は 辛 う じ て 伝 わ っ た
らしい。
ではなぜこの機会に台湾を訪れる気になったのかを一言しておく。敵は本能寺にあり。台
北にあるはずの天安門事件関係の学生ビラなどが私の目的であった。しかし、目星をつけ
ていた国立政治大学国際関係研究所では空振り、成果ゼロ。さては狙いが外れたかとガッ
ク リ し た が 、 戴 国 輝 大 人 が 偶 然 に も 王 震 邦 記 者 (『 聯 合 報 』) を 紹 介 し て く れ た 。 彼 は 八 八
年秋以来の半年間に三回訪中し、三カ月滞在し、民主化「動乱」を深く追求していた。そ
の結果は彼と同僚たちが編集した『天安門事件:一九八九』によく示されている。この資
料 集 を 得 た こ と が 台 北 訪 問 の 最 大 の 収 穫 で あ っ た( 成 果 の 一 部 は 、
『 チ ャ イ ナ・ク ラ イ シ ス
重 要 文 献 』の 第 二 巻 、第 三 巻 に 反 映 さ れ て い る )。
今 回 の 天 安 門 事 件 報 道 に お い て は 、西
側 記 者 が 大 活 躍 し た が 、 割 合 知 ら れ て い な い の は 、『 中 国 時 報 』『 聯 合 報 』 記 者 た ち の 活 躍
ぶりである。
『 中 国 時 報 』の あ る 記 者 の 場 合 、首 か ら コ メ カ ミ に 突 き 抜 け る 流 れ 弾 に 当 た り 、
北京で緊急手術を受け、台北に送られ、八月中旬の時点でなお、入院中の由であった。彼
は六月四日払暁、記事を送ったあと、あらためて広場周辺に確認にでかけ、この被害に遇
ったものだ。なお、台湾訪問は私にとって、一九六九年、一九七三年、一九八〇年につい
で四回目である。
ソ ウ ル 再 訪 ( 一 九 八 九 年 九 月 )、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 二 九 号 〔 八 七 年 一 二 月 一 〇 日 発 行 〕
夏休みのある日、ソウルから国際電話があり、ぜひ早急にお越し願いたいとの話である。
相手は三月に送別会をやって別れたばかりの在韓国日本大使館参事官氏である。
氏によれば、韓国政府経済官庁の人々および大企業の人々が中国情勢について私と意見交
換を求めているという。九月になって夏休みが明けたばかりだからとだいぶモグモグ繰り
返したが、先方はかなり強引である。国慶節四〇周年を控えて、いまあなたの話を聞きた
いのだとおだてる。幸い試験直前の週なので、試験準備をしてほしいと学生に指示してで
かけた。
ソウル訪問は台北の場合と違って、公開の話ではないから固有名詞はあげない。先方は日
矢吹晋『逆耳順耳』
74
本のホテル・オークラと提携しているさる高級ホテルを予約して、待ち構えていた。一八
日午前、ある企業の若手社員を前にして、中国の経済改革について、一般論をぶつ。午後
は同社の対共産圏貿易担当者を相手に、いくらか具体的な話をした。これには社長御自ら
出席されたことに韓国企業の積極性を垣間見た思いがした。夜は同社の招宴である。招か
れて顧問を務めている大陸からやってきた韓国系中国人も同席された。
翌一九日午前は景福宮を見ようとしたが、生憎火曜は定休日。やむなく元朝鮮総督府から
変身した国立中央博物館をのぞく。幸い青磁の特別展覧会が開かれていた。
昼は仁寺洞
の料理屋で舌鼓みをうつ。昨年訪韓の際にNHK井上孝利支局長が招待してくれたのと同
じ店だった。ついでに聞くと、彼はここで開いた送別会で送られていまや北京支局長だと
のこと。おやまたまた檜舞台ですね。
午後はソウル郊外の果川にある経済官庁を統合したガバメント・コンプレックスで、中国
情勢、韓中関係などについて討論。この統合スタイルはいくつもの役所から集まるには便
利ですね。もっとも霞が関も似たようなものですが。私の名を挙げて参事官氏に訪韓を要
請したK氏はさる官庁のさる課長である。
「 先 生 は 私 に と っ て イ ン ビ ジ ブ ル・テ ィ ー チ ャ ー
で ご ざ い ま す 。お 書 き に な っ た も の は た い て い 拝 見 し て お り ま す 」。弱 い で す ね 。こ う い う
殺 し 文 句 に 。 そ れ に し て も 、 な ぜ 私 の 書 い た も の が 目 に と ま っ た の か と 問 う と 、「 実 は 私 、
先生がソウルで講演された時(一九八八年六月)に、ご高説を拝聴しております」と来る
から憎い。何もかも調べているわけでした。つい熱が入り、話に花が咲いて喉が痛くなる
ほどに話し込む。
夜は韓国風日本料理屋でごちそうになる。慶州の法酒は日本の原酒と似ていてたいへんお
いしかった。そばには韓国美人がぴったりつきそって、世話をしてくれます。
これで中国・韓国の政治関係がうまく進まないのは、ピョンヤン問題か、台北問題かなど
といったヤヤコシイ話題さえなければ、ほんとうに美味しかろうに、先方は酒が入れば、
ますます議論に熱が入るし、客としても美人を褒めるばかりでは相済まなぬ。ついつい、
議論が長引き、深夜になりました。
翌二〇日は七時半チェックアウト、九時半離陸。なんともあわただしい訪韓でした。
というのも、二一日に経団連主催の大事な講演(参加者二〇〇余。講演要旨は『経団連ク
ラブ会報』二三六号、一九八九年一〇月に所収)が控えており、韓国滞在を延長はできな
かった次第。せっかくの機会なので、せめて一週間程度は旅行したかったのですが、まま
ならぬは浮世の定めですね。
ウ ル ケ シ が や っ て き た 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 三 〇 号 〔 九 〇 年 二 月 一 〇 日 発 行 〕
ウーアルカイシは吾爾開希の中国語音、ウイグル語ではウルケシ
天安門広場のアイドルがやってきた。たとえば『読売新聞』はこう報じた。
──中国の民主連合の世界的組織「中国民主連合」の日本支部結成大会が一六日午前、都
内のホテルでパリの本部からウアルカイシ副議長らを迎えて開かれた。大会には在日中国
人 留 学 生 ら 約 二 百 人 が 出 席 。今 年 六 月 の 天 安 門 事 件 の 犠 牲 者 の 冥 福 を 祈 る 黙 祷 を 行 っ た 後 、
矢吹晋『逆耳順耳』
75
来 賓 ら が 支 部 の 結 成 を 祝 福 す る あ い さ つ を 行 っ た ( 一 二 月 一 六 日 『 読 売 新 聞 』 夕 刊 )。
『朝日新聞』はこう報じた。
──中国の天安門流血事件後、中国の民主化を目的にパリで組織された「中国民主戦線」
(厳家其主席)の日本支部結成大会が一六日、東京都内のホテルで、在日中国人留学生、
華 僑 ら 約 三 百 五 十 人 が 出 席 し て 開 か れ た ( 一 二 月 一 七 日 『 朝 日 新 聞 』 夕 刊 )。
『 読 売 』 の 「 中 国 民 主 連 合 」、『 朝 日 』 の 「 中 国 民 主 戦 線 」、 い ず れ も 「 民 主 中 国 陣 線 」 の 日
本 語 訳 だ が 、さ て い ず れ に 落 ち 着 く で し ょ う か 。数 年 後 を み ま し ょ う 。
『 読 売 』の「 ウ ア ル
カイシ副議長」に対して『朝日』は「厳家其主席」の名を挙げる。これも対照的ですね。
さて私は友人の楊中美からこの会合への出席を招待されましたが、婉曲に断りました。研
究の自由を守るためには、一切の政治組織に対して距離を保つ必要があると考えてのこと
です。この会合に出席して連帯の意志表明をしたら、この組織に対して批判的なコメント
を 発 表 し に く く な る 。い わ ん や 仮 に 、こ の 組 織 が や が て 権 力 を 奪 取 し て( 今 年 の 初 夢 で す )
などという場合、批判の自由を絶対的に留保したい私としては、距離を保たなければなら
ないのです。
しかし、ある会合にはいそいそと出かけました。一二月一四日飯田橋の駅ビル・ラムラ一
一階で開かれたこの会は「中国の民主化運動を考える会」であり、民主中国陣線のリーダ
ーたちと自由に意見を交換できる会だからです。この会は友人の大里浩秋(神奈川大学助
教授)が司会した、とてもよい雰囲気の会だった。なにしろ突然の開催ですし、留学生の
救援活動を行っている有志たちを中心に、口コミ、耳コミで集まった人々だから、理解が
深かった。質疑応答の内容は、一般マスコミのチャランポランとは違って、なかなか内容
豊富でしたね。
私が紙に書いて提出した質問は、彼の名前である。吾爾開希はウイグル語でなんと呼ぶの
か 。「 ウ ル ケ シ 」 と 聞 こ え た ( 言 語 学 者 な ら ば 、 こ こ で 国 際 音 標 文 字 で 記 す と こ ろ で す が 、
素 人 の ナ マ 病 法 は や め て お き ま し ょ う )。 私 は ホ ッ と し た 。『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文
献』はすべて「ウルケシ」で統一していたからである。日本のマスコミの圧倒的大部分が
「ウアルカイシ」と書き続けていると、われわれ『クライシス』グループも時々不安にな
り、大勢に順応したくなったことも再三だ。何を隠そう、これを確かめることが目的の一
つだった。結果は中程度の満足だ。
私はフル・ネームを知りたかったのだが、時間がなく、彼は例によって途中で(この意味
が分かったら、あなたはもうかなりの天安門事件通です。彼は五月二二日早朝、六月四日
早朝、救急入院しています)心臓病のため、退席してしまったので、再質問できなかった
からである。ウルケシが退席してくれたお陰で、後はキレモノ万潤南(民主中国陣線秘書
長、元四通集団公司董事長)と台湾関係の責任者黄偉成の話を聞いたが、これがかなり中
身が濃かった。大里センセイ以下、この会の裏方さんたちに深く感謝!
姓 は 「 ウ ー ア ル 」、 名 は 「 カ イ シ ー 」 ?
大 マ ス コ ミ の な か で 、 ウ ル ケ シ と 表 記 し た 一 例 は 、『 東 京 新 聞 』( 一 九 八 九 年 一 二 月 一 七 日
特 報 面 )で あ る 。
「ぼくの名前?
矢吹晋『逆耳順耳』
ウ ー ア ル カ イ シ と い う の は 中 国 語 読 み で 、ウ イ グ ル 語 で
76
はウルケシ。どっちで呼ばれようと構わないけどね」とある。しかし、この記事は他の箇
所はすべて「ウーアルカイシー」君である。
さすがにシルクロードの戦乱で鍛えられた遊牧民族の末裔、おおらかな態度ですね。とは
いえ、ご本人が「構わない」から、どうでもよいことにはならない。コトは少数民族のア
イデンティティに関わるからである。
『SPA!』
( 一 九 八 九 年 一 二 月 二 七 日 号 )に お け る 山 口 令 子 の イ ン タ ビ ュ ー で は「 ウ ー ア
ル」と略称されている。この表記の元祖がどこか知らないが、たまたま開いた『ドキュメ
ン ト 天 安 門 』( 新 泉 社 ) に 寄 せ た 加 々 美 光 行 の 解 説 に は こ う あ る 。「 ウ ー ア ル ・ カ イ シ ー が
民 主 運 動 は 既 に 失 敗 し た と し て 全 面 撤 収 を 呼 び 掛 け た が ( 以 下 略 )」「 恐 ら く ウ ー ア ル は 何
ら か の 経 路 で ( 以 下 略 )」( 一 五 四 頁 )。 こ こ で は 姓 が 「 ウ ー ア ル 」、 名 は 「 カ イ シ ー 」 と 観
念されているのであろう。ウルケシの原音を普通話で吾爾開希と当て、それをウアルカイ
シと読み、ついでこれを姓と名と錯覚した経過がよく分かる。ところで当局の全国指名手
配 書 に は こ う あ る 。「 吾 爾 開 希 ( 本 名 = 吾 爾 凱 西 ) ─ ─ 男 、 一 九 六 八 年 二 月 一 七 日 生 ま れ 。
ウ イ グ ル 族 。新 疆 ウ イ グ ル 族 自 治 区 伊 寧 県 出 身 」。本 名 = 吾 爾 凱 西 と あ る が 、ど う せ こ れ も
当て字でしょう。
「 西 に 凱 旋 す る 」か ら「 希 望 を 開 く 」に 変 わ っ た の は 、ど ん な い き さ つ か
らでしょう。民主化運動の希望を開くという意味では、まことにぴったりですが。
実際の彼は、まず北京に凱旋し、ついでパリそしてアメリカという「西に凱旋した」わけ
で す 。 そ う い え ば 、 一 二 月 一 〇 日 午 前 の 10 チ ャ ネ ル 、 田 原 総 一 朗 の 番 組 で は 「 カ イ シ さ
ん」と略していましたが、これは単に長すぎるから半分にちょん切った感じでした。確か
に「ウーアルカイシ」と七音では、忙しいテレビ向きじゃないですな。だからこそウイグ
ル語でウルケシといくべきなのです。これならルはウに付属して、結局三音ですよ。
トンチンカンな田原総一朗インタビュー
それにしても田原総一朗のウルケシに対するインタビューはひどかったですなあ。まるで
トンチンカンでした。取材不足、勉強不足の一語に尽きます。武力鎮圧直後の番組などで
は、田原総一朗は真相に迫るいい切込みをしていると感心したこともあるのですが、今回
のはとにかくひどかった。どうやらこんな思い込みから出発したらしい。
ご存じ天安門広場のジャンヌダルク柴玲はいまだに行方不明です。中国当局は依然逮捕状
を出したまま。今回の万潤南発言でも「その後消息なし」とのことでした(北京に三〇も
反 体 制 組 織 が あ っ て も 分 か ら な い の か 、 そ れ と も 分 か ら な い こ と に し て い る の か )。
無事にパリに逃れた幸せなウルケシと悲劇のヒロイン柴玲という構図です。彼らは天安門
広場撤退をめぐって激論し、男は逃れ、女は残った、それはなぜか、といった調子でセマ
るわけ。実はウルケシは心臓病の発作を起こして、広場の武力鎮圧の始まる前に、救急車
で病院に担ぎ込まれたのです。この間の経緯については武力鎮圧直前までハンストをやっ
ていた(そして今は当局の監視つきの)シンガーソング・ライター侯徳健や、劉暁波(北
京 師 範 大 学 講 師 ) が 証 言 し て い ま す (『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 三 巻 )。
事態はこうでしたから「卑怯にも現場から逃亡する男」と「死を賭して広場に残った女」
との愛憎といった三流週刊誌的発想では元々扱えない性質の問題なのでした。見当違いの
矢吹晋『逆耳順耳』
77
質問にうまく答えられないウルケシが気の毒でしたね。
万 潤 南 は お そ ら く テ レ ビ を 通 じ て 、も っ と 彼 ら の グ ル ー プ の 主 張 を 訴 え た か っ た は ず で す 。
そのためにこそ多忙な時間を割いて、局まで出かけたのに、本人にとっても、視聴者にと
っても残念なことでした。
ところでわがウルケシ君、さすがにアイドルだけあって、わがままというか、スキャンダ
ルには事欠かないらしい。たとえば『瞭望』という北京の週刊誌に掲載された個人攻撃が
『 人 民 日 報 』( 一 二 月 三 日 ) に 転 載 さ れ て い ま す 。 題 し て 「 ウ ル ケ シ 、 そ の 人 」。 こ の 記 事
内 容 に つ い て コ メ ン ト を 求 め ら れ て 、彼 は こ う 言 い 放 っ た 由 。
「 天 安 門 事 件 以 後 、ま と も な
記 者 は ペ ン を 折 っ た の で 、『 人 民 日 報 』 の レ ベ ル ・ ダ ウ ン が 甚 だ し い 」 と 。 な る ほ ど 、 な る
ほど。しかし、二一歳の若造が突然あんなに有名になれば、平常心を失いがちなのは、当
たり前。批判を肥料として大成してほしいもの。
少数民族の特権を利用して胴上げし、今度は逆に突き落とすやり方ではなくて、やはり二
一歳の若者を育てることが必要でしょうね。老婆心です。ここで思い出すのは、デモの初
期段階でのモンゴル族の北京大学学生デモ宣伝隊長のこと。彼はモンゴル族だと警察が逮
捕しにくいという特権を利用して、大活躍したことはNHKで詳しく報道されたが、五四
デ モ の 前 後 か ら 突 然 姿 を 消 し て 、級 友 た ち は「 家 族 帝 国 主 義 に 破 れ た 」な ど と 語 っ て い た 。
ウイグル族やモンゴル族の青年に対して、このような特権があると考えられている事実は
メダルの一面。メダルの反面には漢民族による少数民族の抑圧がある。話は飛ぶが、それ
を想起させた点で、ダライ・ラマに対するノーベル賞授与は重要であろう。顧みると、チ
ベットの戒厳令は北京の戒厳令に直結していたのであった。
その後、楊中美からウルケシは姓でありフル・ネームは多莱特・吾爾開希トラィト・ウル
ケシだと聞いた。
歴 史 の 誤 解 を 流 布 す る 文 化 大 革 命 ド キ ュ メ ン タ リ ー も の に ご 用 心 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 三
一号〔九〇年四月一〇日発行〕
李 明 三(『 求 是 』編 集 部 哲 史 部 )が 文 革 も の の 一 部 の 書 物 に 対 し て 、欠 陥 を 指 摘 し て い る(『 中
共 党 史 研 究 』 八 九 年 六 期 )。
槍 玉 に 挙 げ ら れ た の は 、次 の 本 で あ る 。
『 毛 家 湾 的 女 主 人 』、
『 江 青 秘 書 被 害 記 』、
『最初的抗
争 』、『 政 壇 風 雲 』、『 九 大 内 幕 三 部 曲 』( 別 名 『 九 大 風 雲 録 』)、 イ ン タ ビ ュ ー 「 王 力 病 中 答 客
問 」、『 康 生 外 伝 』、『 葉 群 野 史 』、『 江 青 和 的 機 要 秘 書 』、『 江 青 浮 沈 録 』 で あ る 。
欠 陥 事 例 1:
戚本禹は一九六八年一月に隔離審査されたが、
『 康 生 外 伝 』な ど に は 、戚 本 禹 が 王 力 、関 鋒
とともに一九六七年八月に同じ日に釣魚台で逮捕されたと書かれており、半年の時間差の
ある二つの事件をごっちゃにしている。
欠 陥 事 例 2:
江青の秘書は一九六八年一月に拘留されたが、
『 江 青 和 的 機 要 秘 書 』で は 、秘 書 が 六 月 二 〇
日に囚人となったとされており、したがって六八年三月の楊成武、余立金、傅崇碧事件に
矢吹晋『逆耳順耳』
78
参加できたとしている。
欠 陥 事 例 3:
『江青和的機要秘書』では、陳伯達が文革期に「党中央副主席」になったとしているが、
陳伯達の最高職務は「中央政治局常務委員」である。
欠 陥 事 例 4:
『江青和的機要秘書』では、毛沢東の大字報「司令部を砲撃せよ」は、貼り出されたとし
ている。実はこれは六六年八月五日に鉛筆で書いた後、浄書され八月七日に八期一一中全
会で読み上げられた(原文=宣読)ものであり、貼り出されてはいない。
欠 陥 事 例 5:
『 政 壇 風 雲 』、『 風 雲 十 年 与 小 平 』 は 大 字 報 「 司 令 部 を 砲 撃 せ よ 」 が 八 月 五 日 に 「 中 南 海 大
院」に貼り出されたとしているが、これも事実に反する。
欠 陥 事 例 6:
関鋒は『紅旗』雑誌の「哲学組組長」になったことはなく、また「副総編」にもなってい
な い が 、『 九 大 内 幕 三 部 曲 』 に は 「 担 当 し た 」 と 書 か れ て い る 。
欠 陥 事 例 7:
林杰は浙江省温州人であり、北京師範大学を卒業後『紅旗』雑誌社に「分配」された。し
かし『九大内幕三部曲』は関鋒が人民大学から引き抜かれたとし、関鋒は陳伯達と同郷で
福建省温州人とされている。福建省に温州はない。
欠 陥 事 例 8:
王力は「答客問」のなかで、六七年七月二〇日の武漢事件で足の骨を折り、外出できず、
外語学院で外交部の奪権を煽動した「八七講話」をやったことはないとしているが、事実
に反する。王力は武漢から北京に帰ったとき、江青に腕を支えられて歩き、空港で歓迎を
受けている。
「 八 七 講 話 」の 書 面 材 料 は 総 理 弁 公 室 か ら 楊 成 武 に 渡 さ れ 、楊 成 武 が 上 海 へ 行
って毛沢東に報告している。そしてこれが王力が隔離審査される直接的原因となったもの
である。
欠 陥 事 例 9:
『江青和她的機要秘書』では、江青が葉剣英と徐向前に毒手を下そうとしたとき、機要秘
書が彼らに電話で知らせ、両元帥の命を救った恩人だと賞賛しているが、これは全くのフ
ィ ク シ ョ ン に す ぎ な い 。 機 要 秘 書 自 身 が 後 に こ う 語 っ て い る 。「 こ れ は 全 く の つ く り ご と
(原文=造謡)である。私は江青のこの陰謀をまるで知らなかった。たとい知ったとして
も 、 こ れ を 元 帥 に 知 ら せ る 勇 気 は な か っ た で あ ろ う 」。
欠 陥 事 例 10:
『政壇風雲』などは文化大革命の勃発を毛沢東の「陰謀」として描いている。曰く、毛沢
東 は 六 二 年 の 七 千 人 大 会 以 後「 退 却 の 戦 術 を 採 っ た 」。同 年 八 月 の 北 戴 河 会 議 で「 彼 は 反 撃
を 始 め 」「 迂 回 戦 略 を 採 り 、 戦 略 的 包 囲 を 行 っ た 」。 さ ら に い え ば 「 毛 沢 東 は 五 九 年 に 第 二
線 に 退 却 し て ま も な く 、後 悔 し て い た 。な ん と か し て 権 力 を 再 奪 回 し よ う と し て い た 」。大
権の再奪還のために中央委員会を通じて政治局メンバーを調整するのは「困難であった」
矢吹晋『逆耳順耳』
79
ために、彼は「非正常な道筋」を選択した。
李 明 三 は こ う し た 解 釈 に つ い て 、「 毛 沢 東 の 顔 に 泥 を 塗 り 、 彼 の イ メ ー ジ を 歪 曲 す る も の 」
と非難している。ただし、私自身はこの点については評価を留保したいと考えている。
李 明 三 は ま た こ う も 書 い て い る 。「 一 部 の ニ セ 資 料 は す で に 外 国 の 学 者 に よ っ て 収 集 さ れ 、
彼 ら の 研 究 の 根 拠 と な り 、訛 を も っ て 訛 を 伝 え( 原 文 = 以 訛 伝 訛 )、良 く な い 影 響 を ま す ま
す 拡 大 し て い る 」。な る ほ ど そ の 通 り で あ ろ う 。ニ セ 資 料 に 振 り 回 さ れ る「 外 国 学 者 」を 笑
うのはよい。ただし、忘れてはならないのは、ニセ資料の横行の根本的原因が、権力によ
る情報の秘匿、真実の隠蔽にあることだ。
『 君 よ 憤 怒 の 河 を 渡 れ 』 が 中 国 で ヒ ッ ト し た 理 由 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 三 一 号 〔 九 〇 年 四
月一〇日発行〕
八九年中国映画祭で見た六本のうち、二本に描かれた復讐のシーンが印象的であった。一
例。妹を強姦された姉が復讐の鬼となり、引退した正義派刑事の協力を得て、ついに犯人
を追い詰める。犯人は青島の高台にある高楼の屋上に逃げる。そこで犯人は発砲を含めた
抵抗もむなしく、手錠をかけられる。刑事に引かれて屋上から下り始めた犯人を復讐に燃
える姉が突き飛ばす。犯人は真っ逆様に落ちて墜死した。私的復讐を禁じて公権力が裁く
のが近代社会の論理であるとすれば、中国における法治の確立ははるかに遠い道のりであ
る よ う に 思 わ れ た 。 こ こ ま で 書 き か け て 、 正 月 休 み に 見 た テ レ ビ は ご 存 じ 「 荒 木 又 ヱ 門 」、
これは仇討ち、上意討ちの話でした。年末の国民的行事「忠臣蔵」もむろん討ち入りの話
だ 。江 戸 時 代 ま で は 仇 討 ち が 行 わ れ 、そ れ が 人 際 的 矛 盾 の 解 決 策 と し て 公 認 さ れ て き た が 、
近代的司法制度が確立するにつれて、私的な復讐は厳禁され、法的制度に基づくトラブル
処理によって代替された。中国の映画や小説に復讐譚が少なくないことは、司法制度に対
して、庶民が信頼を置いていないことを端的に示すものであろう。そこで思い出すが、中
国 が 鎖 国 を 止 め て 日 本 の 映 画 を 公 開 し た 嚆 矢 は 高 倉 健 の『 君 よ 憤 怒 の 河 を 渡 れ 』で あ っ た 。
中国版公演のタイトルは『追捕』である。冤罪に巻き込まれた刑事が警察を辞めて独力で
犯人を探し、自らの冤罪を雪ぐ話だ。中野良子はこれを助けるお嬢さん役。彼女はこの映
画でいっぺんに有名になった。当時は山口百恵か中野良子かといわれたもの。
私は大分後になってから、
『 追 捕 』が ヒ ッ ト し た 理 由 に 思 い 当 た っ た 。庶 民 の も つ「 B A O
CHOU」意識の根深さを知った。それは文化大革命の内実に迫る過程と同時であった。
魂に触れる文化大革命は「十年の浩劫」であり、その具体的事例として、恨みを雪ぐこと
のできぬ無辜の大衆の積年の恨みが鬱積していたのである。警察が当てにならぬのは由々
し い こ と だ 。特 権 幹 部 が 司 法 に 介 入 し て 裁 判 の 在 り 方 を 決 め て し ま う 一 例 を 私 は 、脚 本「 社
会 の 档 案 の な か に 」 で 知 っ た 。 共 産 党 の 司 法 に 対 す る 指 導 の 内 実 が 、「 刑 ハ 太 夫 ニ 上 ラ ズ 」
と酷似していることを知ってたいへん驚くとともに、中国社会の深層への理解が一挙に深
まった思いがしたものである。
田 舎 者・戒 厳 部 隊 兵 士 の 泥 縄 の 北 京 市 市 街 区 地 図 の 作 り 方 、逆 耳 順 耳、
『 蒼 蒼 』第 三 一 号〔 九
矢吹晋『逆耳順耳』
80
〇年四月一〇日発行〕
天 安 門 事 件 当 時 、私 は 一 ・ 八 万 分 の 一 の 縮 尺 の「 北 京 市 区 図 」
( 天 津 人 民 印 刷 廠 、八 七 年 九
月、二・五元)を開いて、位置関係を確かめていた。
最 近 、『 戒 厳 一 日 』( 下 ) 一 九 頁 を 読 ん で 、 泥 縄 の 地 図 作 り の 話 に 思 わ ず 、 ニ ヤ リ と し て し
まった。私の作業とチョボチョボだと感じたのである。
測絵兵参謀梁策少佐が通常ならば、二カ月かけて作成する地図を一日で作成した苦労話を
記録している。
「 北 京 市 区 及 近 郊 図 」の「 快 速 印 刷 」の た め に 、採 用 し た 第 一 の 方 法 は「 分 割 法 」で あ る 。
一枚の地図を一八コマに分割し、一八人で同時に製版工作を行った。
第二の方法は「取捨法」である。地図内の山区、丘陵など地相に関わる部分は捨象し、居
民地区、道路、橋梁など戒厳部隊にとって目印になるものを突出させ、進撃路線識別の助
けとなるよう配慮した。
第三は減色法である。元来は六色印刷であったものを四色に減らし、四色印刷機で一度で
印刷することにして、印刷速度を二倍にスピードアップした。
彼ら測絵兵は鴨緑江や珍宝島など多くの軍用地図をこれまで作成してきたが、天安門広場
を中心に据えた地図など初めてのことであった。局長崔世芳少将、副局長孫秀文少将、副
局長張振乾大校らの当惑ぶりが目に見えるようである。
こうした泥縄作戦が必要となったのは、むろん全国から一五~二〇万の大部隊を動員する
ような荒療治をやろうとするからである。北京防衛の任務を受け持つ三八軍には当然この
種の地図は十分に用意されていたはずだが、五月末までの段階では抗命問題で三八軍を十
分に用いることができなかったことの意味が大きい。つまり五月二〇日から月末まではテ
レビ局や中央宣伝部などの重点防衛単位の警護が主な仕事であったが、北京市の地理を熟
知する三八軍をこれに投入できなかったために、北京は初めてのお上りさんが市内に繰り
出して、迷子兵士が続出することになった。
動乱ならざるをものを動乱と錯覚し、軍隊の出動によって生じた混乱を暴乱と言いなして
鎮圧する。瀕死の老大国の悪足掻きがよく分かる。
ニセモノをつかまされた月刊
A s a h i 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 三 二 号〔 九 〇 年 六 月 一 〇 日 発
行〕
──あの「亡命幹部の内部日記」読みましたか。遂にやりましたねぇ。
─ ─ と う と う ひ っ か か っ た 。誰 が ひ っ か か る か 、見 て い た が 、ま さ か 天 下 の 大 朝 日 が ね え 。
ああ、驚いたなあ、もう。
──いないんですかねえ。識別能力のある記者が。
──編集部にはいないんだろうねぇ。
──外報部にはいるでしょうに。
──そうねぇ、どうして目利きを頼まないのかなあ。いや誰かがホンモノと折紙をつけた
のかも。
矢吹晋『逆耳順耳』
81
──ヒャー。それは天下の一大事。ちょっと読んでみたら、プロならすぐ気づくはずなの
に。
──ひどい。香港製やソウル特製のニセ・ブランドが時々出回るけれど、これと同じだ。
──読者が満足しているのなら、ニセモノでもいいんじゃないの。
──変だぞ。いつもと違って穏やかだ。ニセモノがホンモノを駆逐するのが日本のマスコ
ミとアカデミズムの欠点だと言ったのは誰かしら。
──編集部の連中に一度メシをごちそうになったことがあってね。
──では、あなたも共犯だ。
──いや、それは昨年の話。今度の件はあずかり知らない。むろん問われたら、やめた方
がいいですよ、と答えたはず。
江 之 楓 『 王 牌 出 尽 的 中 南 海 橋 局 』( 台 北 、 中 央 日 報 社 、 一 九 八 九 年 一 二 月 、 A 五 判 、 四 〇 八
頁 )の 抄 訳 が 月 刊
Asahi に 載 っ た 。 題 し て 「 中 南 海 が 震 え た 五 六 日 ─ ─ 胡 耀 邦 の 死 か ら
天安門の虐殺まで」
( 訳 者 は 叶 遠 春 )で あ る 。編 集 部 は 著 者 に つ い て こ う 説 明 し て い る 。
「江
氏はアメリカに亡命し、著者は
1 北京で書いた日記をベースに、当時から日付ごとに書
き記してあったデータを付け加えた。2 情報源は極めて限られており、そのため記述にあ
た っ て は 安 全 に 配 慮 し た 、と し て い る( 編 集 部 )。天 安 門 事 件 以 後 に ア メ リ カ に 亡 命 し た「 幹
部の内部日記」だというフレコミである。だが、どうもこれはたいへんクサイのだ。
私は原書を一読したが、途中で放り出したくなるのをこらえるのに苦労した。私の知らな
い事実が何も書いてないから退屈きわまりないのである。これはどうしたことか。
「内部」にいた「幹部」が、外部の観察者に分かる事実しか書けないのは、一体なぜか。
筆者が「内部」の者ではなく、また「幹部」でもないことを示唆している。つまりこれは
「内部の幹部」を装った外部のモノカキの作文なのである。おそらく筆者はアメリカでは
なく、香港あたりに住む中南海ウォッチャーであろう。書かれている事実の大部分が私の
知っているものだということは、筆者が人並みの資料は読んだことを示唆している。つま
り天安門事件についての情報を整理して、ノン・フィクション仕立てで書いたものという
ことになる。
「 フ ィ ク シ ョ ン だ 」と 公 明 正 大 に 名 乗 る な ら 許 さ れ よ う 。し か し「 真 実 を ス ク
ープしたと」となるとサギになる。編集部はさしずめサギ師に騙された形だ。上岡龍太郎
のテレビでも見て「もうダマされないぞ!」と決意するに越したことはない。
ではノン・フィクションとしての出来栄えはどうか。落第である。肝心のところで、余り
にも不勉強なのである。われわれが知っている事実とあまりにも異なる。ウソッポサが目
立ち過ぎる。ホンモノを装うニセモノなら、もう少しホンモノに似せて作るべきであり、
そうしないと簡単に化けの皮が剥がれる(せいぜい某新聞某雑誌を騙すことができる程度
と 声 を 小 さ く 言 う )。
例を挙げよう。趙紫陽が五月一六日、ゴルバチョフとの会談の冒頭、小平の役割について
「 秘 密 決 定 」を 暴 露 し た こ と は 、あ ま り に も よ く 知 ら れ て い る が 、
「小平はテレビでこの一
幕を見ていた。そして楊尚昆、王震、薄一波、彭真、
穎超、陳雲に今晩、会議を開くと
通知した」として、長老たちの発言を創作している。楊尚昆の五月二二日講話や二四日講
矢吹晋『逆耳順耳』
82
話、そして
小平六月九日講話には長老たちの見解が具体的に語られている。江之楓はこ
れらを用いて創作したものと推測されるが、それにしてはあまりにも杜撰な書き方である
(叶遠春訳もよくないが、私は訳文のことを言っているのではない。原文も杜撰な書き方
な の で あ る )。 長 老 た ち が 集 ま っ て 鳩 首 協 議 し た の は 一 六 日 で は な く 、 一 七 日 以 降 の は ず 。
五月一九日、万寿路の解放軍総後勤部礼堂で戒厳大会が開かれたが、この本にはこの会議
がどこで開かれたかが触れられていないだけでなく、この日
に乗り、武漢へ飛んだことになっている。
小平は西苑空港から専用機
小平の武漢行き説は当時広く行われた推測だ
が 、そ の 後 、こ の 憶 測 は 中 国 当 局 者 に よ っ て 否 定 さ れ て い る( た と え ば ク リ ス ト フ 論 文『 ニ
ュ ー ヨ ー ク ・ タ イ ム ス ・ マ ガ ジ ン 』八 九 年 一 一 月 一 二 日 号 )。ウ ワ サ を い か に も も っ と も ら
しく書くことが、この本の大きな特徴であり、その程度の文才の持主であることは確かで
ある。
本書の致命的な欠陥は六月三日から四日にかけての武力鎮圧の過程の書き方があまりにも
荒唐無稽なことであろう。
武警部隊も戒厳部隊も、ともに東西南北四方向から天安門広場に進撃する作戦を採ったこ
と は 、い ま で は よ く 知 ら れ て い る が 、こ の 筆 者 は 西 線 の こ と し か 書 い て い な い 。情 報 不 足 、
勉強不足である。これは執筆時期と関係しているかも知れない。つまり、昨年夏ごろまで
の情報に依拠しており、情報が古すぎるのだ(たとえば四・二六社説は徐惟誠が書いたと
し て い る が 、 最 近 の 説 で は 范 寿 康 で あ る )。「 王 震 は 参 謀 総 長 と 軍 長 〔 二 七 軍 〕 を 従 え 、 二
七軍の戦闘部隊に対し……」
「 王 震 は 二 七 軍 を 監 督 し 、軍 長 に 代 わ っ て 指 揮 権 を 握 っ た 」と
書いているが、いくら長老支配の中国とはいえ、八一歳の老人が陣頭指揮を採るなどあり
え よ う か 。実 は 西 線 の 先 頭 梯 隊 は 三 八 軍 で あ り 、三 八 軍 軍 長 徐 勤 先 は 抗 命 し 、不 在 の た め 、
副軍長張美元が指揮をとったことが明らかになっている(詳しくは拙編『天安門事件の真
相 』 参 照 )。
ここで副軍長張美元を監督するために、現場の前方指揮部にいたのは、北京軍区司令員周
衣 冰 お よ び 政 治 委 員 劉 振 華 で あ る 。三 八 軍 を 北 京 軍 区 首 脳 が 監 督 す る の は 、自 然 な 形 だ が 、
八一歳の老骨が先頭に立つなどという図柄はいかにもマンガチック。天才バカボンに出て
くるオマリサンみたいで、ウソッポサはクライマックスに達している。ちょっと常識があ
れば、そしてちょっと丹念に天安門事件についての情報を整理して見れば、この種のウソ
を見破るのは、そう難しいことではない。だから、こういう手合いにマンマとひっかかる
編集部がなんともブザマであり、気の毒なのだ。
書 評 の 鑑・高 木 誠 一 郎 仁 兄 へ の 手 紙 、逆 耳 順 耳、
『 蒼 蒼 』第 三 二 号〔 九 〇 年 六 月 一 〇 日 発 行 〕
アジア政経学会の機関誌『アジア研究』第三五巻第三号(一九八九年三月)に高木誠一郎
が 山 際 晃 、 毛 里 和 子 編 『 現 代 中 国 と ソ 連 』( 日 本 国 際 問 題 研 究 所 、 一 九 八 七 年 、 三 六 五 頁 )
について、本格的な書評を書いている。
一読三嘆。大いに意気投合したので、筆者の高木宛てにファン・レターを書いてみた。題
し て 「 書 評 の 鑑 」。
矢吹晋『逆耳順耳』
83
高木誠一郎仁兄:
書評の鑑ともいうべき玉稿を拝読しました。もしも私が学部の三、四年生あるいは修士課
程 あ た り で ゼ ミ を 開 い て い る な ら ば 、 こ の 本 (『 現 代 中 国 と ソ 連 』) と 仁 兄 の 書 評 と を 逐 一
精査して、書評で指摘されているポイントが妥当であるかどうかを点検するでありましょ
う。
その結果はおそらく九割方の指摘について、大兄のご指摘が正当である、ということにな
り ま し ょ う 。む ろ ん 、点 検 を 経 る 前 に 、こ の よ う な 予 断 を も つ の は 、よ く な い こ と で す が 、
こ の 道 も 三 〇 年 近 く な る と 、お よ そ の 目 見 当 は つ く わ け で す 。論 評 と い う も の は 、ど こ が 、
なぜ、どのように、よくないのかを具体的に指摘する必要がありますが、大兄の論評はこ
の条件を満たしています。これは書評の名において、仲間ぼめのコマーシャルか、さもな
くば、切捨て御免のこきおろししかない風土の中では際立った、よい例に数えることがで
きましょう。条理を兼ね備えた論評は、本人にとっても得難い糧になりますし、また後学
にとっても、今後の研究課題の所在を示唆するものとして、たいへん有益です。
筆者と評者との厳しく、かつ厳正な論議を通じて、学問の現状とその問題点が明らかにな
り、したがって、今後特に力点をおいて研究すべき分野なりポイントなりがどこなのかが
明確になります。これらがほとんどと言ってよいほど欠如しているわが現代中国論の状況
は灯台なき航海、海図なき航海に似ており、成功を得られるはずはないと私は密かに危惧
しておりますが、遺憾ながら、灯台は現れず、海図も行方不明の惨憺たる状況が続いてい
ます。
久 し 振 り に 、胸 の す く よ う な コ メ ン ト を 読 ん で た い へ ん 愉 快 で し た 。た だ し そ れ に し て も 、
ミスプリが多すぎますねえ。おそらく著者校正をスキップし(大兄のことだから、またア
メ リ カ 旅 行 中 ? )、編 集 部 レ ベ ル で の 校 正 を 手 抜 き し た の で し ょ う( ア ル バ イ ト 学 生 に 委 ね
た の か 、そ れ と も 印 刷 所 に ま か せ き り で す か ね )。い ず れ に せ よ 、同 誌 編 集 部 の 見 識 が 疑 わ
れます。中身がよいだけに、ケアレスミスは甚だ遺憾です。ゆめゆめ編集部を信頼なされ
ないよう。校正(後世)恐るべし。不一。
天 安 門 に 最 後 ま で い た カ メ ラ マ ン 、 抱 腹 絶 倒 の 珍 問 答 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 三 三 号 〔 九 〇
年八月一〇日発行〕
主題は天安門の悲劇だが、それをめぐる珍問答は、世にも稀な喜劇である。七月二五日夜
の日本テレビの話。ご存じ、イレブンPMの後番組「EXテレビ」の「激写・天安門に最
後までいたカメラマン」を見た友人が抱腹絶倒のチンプンカンプン問答を教えてくれた。
友人がビデオから作ったメモをまずご紹介しよう──。
天安門広場周辺の実写フィルムのなかに発砲音が聞こえ、怪我人を運ぶ場面が写る。
Jiuhuche! Jiuhuche Kuaidiar !
の声が録音されている。
司 会 の 男 「 い ゃ あ 、 す ご い 映 像 で す け ど ね ぇ 」。
ア シ ス タ ン ト の 女 「 す ご ー い 」。
男「今、ジューホー、ジューホーって言っていたんですか。ということはどういうことな
矢吹晋『逆耳順耳』
84
んですか?
こ の 銃 で す か ? 」( と 銃 を 撃 つ ま ね を す る )。
今 枝 弘 一 「 い え 、 自 由 、 フ リ ー ダ ム で す 」。
男「ああ、そうですか。自由ですか。自由を!
自由を!
と言っているところにバッバ
ッバッとやったわけですか」──。
ここで録画された場面の中国語
Jiuhuche! Jiuhuche Kuaidiar !
快 点 児 ! )の 意 味 は 、い う ま で も な く 、怪 我 人 を 運 ぶ た め に「 救 急 車 を !
の意である。これを日本語との音声上の類似性から勝手に「銃砲!
(救護車!
救護車
早く救急車を!」
銃砲!」と誤解する
司会者の早合点は相当なもの。
そ れ に 対 し て 、「 銃 砲 」 で は な く 、「 自 由 を !
自由を!」の意だとしたり顔で「訂正」す
る今枝の半可通中国語、これまたタイヘンなものだ。これでご本人は理解したつもりであ
るから、無知ほど怖いものはない。
友人の話を聞いて、私はもうあきれ果て、開いた口がふさがらなかった。
日本語と中国語の区別がつかない者同士が、中国語の音声をめぐって、勝手に日本語で誤
解しあっている図柄はほとんどマンガチックである。こういうチャランポランがテレビ画
面に堂々と登場した事実は記録に値する。日本テレビの猛省を促す次第である。
天 安 門 事 件 一 周 年 ─ ─ ─ 馬 脚 を あ ら わ し た 或 る 勇 敢 な 若 者 、逆 耳 順 耳、
『 蒼 蒼 』第 三 三 号〔 八
九年八月一〇日発行〕
六月一七日付『朝日新聞』読書欄に「忘れてはならない天安門・雑誌界」というコラム記
事 が 見 え る 。 月 刊 誌 『 0 3 』( 新 潮 社 、 七 月 号 ) の 天 安 門 事 件 検 証 の 紹 介 で あ る 。「 民 主 化 は
中国の民衆の問題だが、隣国の国民としては、あの事件を忘れてはならない。ほかでもっ
と 取 り 上 げ る と 思 っ た の に 、余 り に 少 な い の で び っ く り し た 」
「テレビや週刊誌には一年前
を振り返る余裕はないのです。腰を据えてつくる月刊誌だから出来た」とは編集長氏の自
画自賛の弁だ。これを受けて記者氏は「ジャーナリズムのせつな的な現状を突いている」
と自画自賛を肯定する始末。編集長氏の弁も記者氏のコメントもコトバとしては、まこと
に ご も っ と も だ が 、事 件 の 虚 実 を 見 抜 け な い よ う な 紹 介 で は 、
「 虚 報 」を ま き 散 ら す だ け に
終わる恐れ大である。大新聞、大雑誌の無責任言論、コトバころがしの典型例として槍玉
に あ げ る 。月 刊 誌『 03』は 言 う 。
「 六 ・ 四 ─ ─ 昨 年 の こ の 日 、あ の 毛 沢 東 の 肖 像 が 微 笑 む 中
国の天安門広場でおびただしい人民が銃弾を浴び、戦車に轢き潰されて天に召されていっ
たのだった。中国政府がいかなる詭弁を弄しようと、私たちはあらゆるメディアを通じて
そ の 一 部 始 終 を “ 目 撃 ” し た 」( 一 六 頁 )。
ここで「目撃」が強調されている。では何を目撃したのか。問題は目撃した対象、内容で
あり、その当否である。
二三頁には今枝弘一の写したかの有名な写真が再度掲載され、次のキャプションが付いて
いる。
「 制 圧 さ れ た 天 安 門 広 場 。既 に 装 甲 車 に 轢 か れ た 学 生 の 身 体 に 再 び 装 甲 車 が 迫 る 」と
ある。
と こ ろ で 、こ の キ ャ プ シ ョ ン は 実 に 奇 怪 な 説 明 で あ る 。
「 既 に 装 甲 車 に 轢 か れ た 学 生 」に「 再
矢吹晋『逆耳順耳』
85
び装甲車が迫る」とは何のことか。
ツ ジ ツ マ 合 わ せ の 詭 弁 に ほ か な ら な い 。こ の 問 題 に つ い て 、近 著 の『 天 安 門 事 件 の 真 相( 上 )』
ではこう書いた。
「今枝弘一のこの証言は彼の撮影した優れた写真が多くの雑誌、刊行物に掲載されたこと
に よ っ て 、 多 く の 人 々 に よ っ て 引 用 さ れ る こ と に な っ た 」「“ 人 間 ら し き も の が テ ン ト の 布
に包まれて踏み潰される光景がはっきりと目撃できた”という証言はどうであろうか。彼
の撮影した記念碑に迫り来る装甲車群の写真では、
“ 人 間 ら し き も の ”が“ 人 間 ”だ と す れ
ば、死体ではなく生体でなければならない。むしろ“人間らしきもの”はあくまで“らし
き も の ” に す ぎ ず 、 他 の 関 連 証 言 と つ き あ わ せ て み る と 、“ テ ン ト の 布 に 包 ま れ た ”“ 人 間
ら し き ”形 を し た 物 塊 と 見 る こ と が で き る 。彼 が シ ャ ッ タ ー を 押 し た 後 に 、
“はっきりと目
撃”したものは、おそらくその“人間らしき”形をした物塊が“踏み潰される光景”であ
っ た ろ う 」( 二 一 八 頁 )。
私の本が出たのは、六月四日であるが、広場での虐殺はなかったとする見方は昨年一二月
四日の『読売新聞』夕刊に書いている。
今枝はおそらく彼の写した写真について、彼自身の解釈にムリがあること、説得力を欠い
ていることを認めて、説明の趣旨を改めたわけである。
こうして生まれた強弁が「既に装甲車に轢かれた学生の身体」に対して「再び装甲車が迫
る」という苦肉の策なのであった。
今枝が広場に最後まで踏みとどまった勇敢な若者であることを私は承知している。官僚化
した日本大マスコミの記者が一人として現場(軍隊に包囲されたあとの人民英雄記念碑周
辺)を見届けていないなかで、彼が現場に踏みとどまった勇気は大いに賞賛されてしかる
べきである。しかし、それを「資産」として、半可通中国語の解釈をやってみたり、事実
と論理に矛盾する写真説明を行うに至っては、もうオシマイである。
「写真をして語らしめる」ことが彼の姿勢であったはずなのに、今やその正しい姿勢を放
棄 し 、写 真 の 商 業 的 価 値 を 高 め る た め に 、虚 偽 の 説 明 を 付 加 し て い る わ け だ 。繰 り 返 す が 、
カメラマンにとっては写した写真がすべてなのである。彼自身それをしばしば語ってきた
のを私は知っている。
このスタンスで仕事をしてきたはずの若者が写真の「解釈」を始めた途端に泥沼に深くは
ま り 込 み 、 最 近 は 重 症 患 者 で あ る 。「 血 塗 ら れ た 天 安 門 広 場 撮 影 日 記 」(『 新 潮 4 5 』 八 九 年
八 月 号 )は 、
「 構 成 オ フ ィ ス ・ イ ン 」の 名 が 今 枝 と 連 名 に な っ て い る こ と か ら 判 断 し て 、自
ら書いた文章ではなく、今枝の談話をライターがまとめて尾ヒレをつけたものであろう。
この「尾ヒレ」があたかも妖怪のごとく一人歩きを始めたのだ。
そ し て 、『 中 国 之 春 』( 八 九 年 一 一 月 号 、 通 巻 七 八 期 ) の 表 紙 裏 に は 、 件 の 写 真 が ト リ ミ ン
グ さ れ 、矢 印 つ き で 掲 載 さ れ 、次 の キ ャ プ シ ョ ン が つ い て い る 。
「戦車が広場のテントを圧
し 潰 す ─ ─ 矢 印 の と こ ろ に 人 が い る こ と に 注 意 せ よ 」。 こ こ で は 今 枝 の 写 真 は 「 心 霊 写 真 」
もどきに扱われている。映像による真実の追求が報道カメラマン今枝の課題であったはず
なのに、いまやその映像が真実の追求とは相反する方向で用いられているわけだ。
矢吹晋『逆耳順耳』
86
馬 脚 は す で に 十 分 に 現 れ て い る 。過 ち を 改 め る に 憚 る な か れ 、と 忠 告 し た い 。私 と し て は 、
若い写真家が何を語ろうと放っておきたいところだが、依然として今枝の写真や説明を根
拠として「広場の虐殺」という虚構を語る者が少なくないので、その根拠なるものが信ず
るに足るものではないことを指摘しておく必要に迫られたわけである。
ただ私がここで問題にしたいのは、むしろマスコミの見識である。テレビのプロジューサ
ーや雑誌の編集長の見識であり、大新聞記者の高見である。
某雑誌の編集長は「ウソでも何でも、本が売れさえすればよい」と豪語した由だが、そう
いう編集長に限って、表向きは「出版文化の向上」などキレイゴトを並べるから始末が悪
い。
半可通の若者をおだてるだけではいけないのだ。
『 0 3 』の 編 集 長 が 売 ら ん か な の 煽 情 主 義 に
流されたのか、それとも不勉強のゆえに、真実と虚報との区別がつかないのか。あるいは
両 者 な の か 。い ず れ に せ よ 、
「 腰 の 据 え 方 」が 足 り な い こ と は 明 ら か で あ る 。マ ス コ ミ の 健
忘症を批判する記者が雑誌の出来栄えについて単にコマーシャル(見識を備えた論評でな
く)を書くだけでは、読書案内としては落第ではないか。
一 九 八 九 年 六 月 四 日 未 明 天 安 門 広 場 を 見 届 け た ジ ャ ー ナ リ ス ト 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 三 三
号〔八九年八月一〇日発行〕
こ こ ま で 書 い た と こ ろ へ 、 ロ ビ ン ・ マ ン ロ ー 「 天 安 門 広 場 の 回 想 」(『 ザ ・ ネ イ シ ョ ン 』 九
〇年六月一一日号)が届いた。一読してカブトを脱いだ。
マンローによると、六月三~四日に北京には一〇〇〇人以上の外国人ジャーナリストがい
た。しかし、四日午前三時に軍隊に包囲された天安門広場のなかにいたのは、およそ一〇
人にすぎなかった。それは、
1 ク ラ ウ デ ィ ア ・ ロ ゼ ッ ト (『 ゼ ・ エ イ シ ァ ン ・ ウ ォ ー ル ス ト リ ー ト ・ ジ ャ ー ナ ル 』)
2 ジョン・ポムフリット(AP通信社)
345 ジ ュ ア ン ・ レ ス ト レ ポ 、 フ ェ ル ミ ン ・ ロ ド リ ゲ ス 、 ホ セ ・ ル イ ・ マ ル ケ ス ( テ レ ビ ・
エスパニョーラ)
6 今枝弘一(報道写真家)
7 リチャード・ネイションズ(米・フリーランサー)
8 ケネス・ラム(香港・フリーランサー)
910 リ チ ャ ー ド ・ ロ ス 、 デ ィ レ ク ・ ウ ィ リ ア ム ス ( C B S テ レ ビ )
11 ロ ビ ン ・ マ ン ロ ー ( ア ジ ア ・ ウ ォ ッ チ 研 究 員 )、
であった。
では彼らの報道にもかかわらず「
、 広 場 撤 退 」の 真 相 が 世 界 に 伝 え ら れ な か っ た の は な ぜ か 。
マンローの追究によれば、そこにはいくつかの理由が存在していた。
「ロゼット記者とポムフリット記者は撤退について正確な報告を送ったが、これらは孤立
した報告として、北京の他の地域〔主として西線〕からの長い報告のなかに埋没してしま
っ た 」。
矢吹晋『逆耳順耳』
87
「 ロ ス 記 者 と ウ ィ リ ア ム 記 者 は 人 民 大 会 堂 で 逮 捕 さ れ 、五 時 三 〇 分 ま で 活 動 で き な か っ た 」。
「撤退を写した唯一の外国フィルムはスペインのテレビ・チームによるものであり、彼ら
は殺戮を見ていないと主張した。……レストレポ記者は、その夜の出来事を写したフィル
ムはマドリッドのテレビ・エスパニョーラの編集者によって、殺戮は広場の整頓過程で起
こ っ た と す る 偽 り の 印 象 を 与 え る も の に 書 き 直 さ れ た と 語 っ て い る 」。
では「唯一の外国フィルム」をマドリッドのデスクが歪曲したのはなぜか。
マンローは一例として、BBCのシンプソン記者の放送原稿を引用している。
「われわ
れは戦車がテントを押し潰すのを写した。……数十の人々がそのようにして死んだように
見えた。そしてそれを見た人は戦車の騒音のなかからテントのなかの人々の悲鳴を聞くこ
とができたと語った。われわれは広場の街灯が四時に消されたときに写した。彼らは四〇
分後に再び点灯したが、そのときに軍隊と戦車が記念碑に向かって移動し、まず空に向け
て射撃し、それから学生を直射した。こうして記念碑の石段とそれを飾る英雄の浮彫りは
銃 弾 で 撃 破 さ れ た 」。
シンプソンの原稿がいわば「天安門広場虐殺」の定本となったわけだ。しかし、彼はこの
原稿を北京飯店の一室で書いていた。そこから人民英雄記念碑は完全に視界をさえぎられ
ていることは、北京をちょっと旅行したことのある人なら誰でも気づく。マンローはこう
して、真実を書いた報道がいくつかの理由で歪曲され、聴取者のもとに届かず、逆に虚報
が世界中をかけめぐった背景を実に詳細に、虫眼鏡で見るかのごとく描ききっている。私
自身が相棒たちとの協力のもとに『天安門事件の真相・上』で書いた分析がマンローの証
言によって裏付けられたことにほっとしたが、大マスコミの世界的大虚報に対しては、ほ
とんど戦慄さえ感ずる。天安門事件は「テレビ・カメラの前の惨劇」として、情報を考え
る恰好の素材を提供したわけだが、そこにはこのような陥穽が存在していた。
再 び ニ セ モ ノ に つ い て ─ ─ ─ 贋 作 人 は 元 中 共 中 央 党 学 校 の タ ダ の 工 作 員 呉 健 民 、逆 耳 順 耳、
『蒼蒼』第三四号〔九〇年一〇月一〇日発行〕
片 方 は 大 マ ス コ ミ を 動 員 し た 大 宣 伝 で あ る の に 対 し て( 後 掲 の 記 事 目 録 参 照 )、当 方 の 紙 鉄
砲は超ミニコミである。その影響のほどは、天と地ほどの差があることは明々白々。しか
し「真理は少数派にあり」とは古今東西の真実ですぞ。
『 蒼 蒼 』 三 二 号 ( 九 〇 年 六 月 一 〇 日 、 逆 耳 順 耳 ) で 、 私 は 『 王 牌 出 尽 的 中 南 海 橋 局 』( 切 札
を 出 し 尽 く し た 中 南 海 ブ リ ッ ジ の 意 。抄 訳 は 葉 遠 春「 中 南 海 が 震 え た 五 六 日 」
『月刊Asa
hi』九〇年六月号、のち戸張東夫訳『小平
最期の闘争』が全訳)を「ニセモノ」と断
定した。
夏休みに中国・香港を一カ月旅行し、旅も終りに近づいた香港で、若い友人がある雑誌を
見せてくれた(毛麗「趙紫陽は短期的には復活できない」香港『当代』一九九〇年七月二
八 日 号 )。 そ こ に は こ う 書 か れ て い た 。
──『王牌出尽的中南海橋局』の作者江之楓は趙紫陽に対して極めて不公正な攻撃を行っ
ている。ここで私は皆さんに、江之楓の本名が呉健民であることを指摘しても差支えない
矢吹晋『逆耳順耳』
88
であろう。
彼は元来中共中央党校の普通の工作人員であり、これまで中南海に入ったことはない。中
南海の内部に対する彼の描写の大半は無から有を生じたものである。彼には中南海ではい
かなる工作をした経験もなく、小説全体が俗受けを狙ったハッタリ(原文=嘩衆取寵)で
ある。
この本が出たあと、彼は「胡耀邦の秘書を自称している」と伝えられたことがある。その
詐称が暴露されるや、今度は「私のフィクションだ」と述べたと伝えられる。この人物に
対して〔海外の〕多くの学術機関が研究の機会を与えようとしている。台湾の李登輝総統
およびその部下たちは、本書の内容に基づいて中共トップの分析をしたと伝えられるが、
荒 唐 無 稽 で あ る 。む ろ ん 中 共 内 部 、と り わ け ト ッ プ の 動 向 に つ い て は 、資 料 は 少 な い の で 、
一時は世を欺くことができよう。私は呉健民の行為に対して憤慨を禁じえないし、笑止千
万である──。
ここで匿名の筆者の本名を呉健民とズバリ指摘し、
「 中 南 海 で 工 作 し た 経 験 な し 」と 証 言 し
ているのは誰か。趙紫陽の第三秘書李湘魯(第一は白美清、第二は鮑)である。彼は元来
于光遠、胡喬木らのもとで、国務院で政治を研究していたが、八〇年から八四年まで趙紫
陽の秘書を務めた経験をもつ。
ここまで舞台裏が見えてくると、
「 大 陸 に 残 さ れ た 知 人 を 危 険 に さ ら さ な い た め に 」匿 名 に
したとか、あるいは「知人を危険にさらさないために記述をボカした」といった類の弁明
がタメにするもの以外のなにものでもないことが明らかであろう。いまや実名と旧工作単
位まで明らかになったわけだが、ここで私のかつての推定の当否を検証してみよう。
私 は こ う 書 い た 。「 こ れ は “ 内 部 の 幹 部 ” を 装 っ た 外 部 の モ ノ カ キ の 作 文 」「 お そ ら く 筆 者
は ア メ リ カ で は な く 、香 港 あ た り に 住 む 中 南 海 ウ ォ ッ チ ャ ー 」で は あ る ま い か 。
「外部のモ
ノ カ キ の 作 文 」と い う 私 の 推 定 は 、半 ば 中 た り 、半 ば 外 れ た こ と に な る 。
「 内 部 の 幹 部 」と
い う フ レ コ ミ に 対 し て 、「 内 部 」 の 定 義 を 問 う こ と な く 、「 外 部 」 を 対 置 し た の は い さ さ か
軽率であったが、むろん私の真意は権力の中枢・中南海の内部の意味であった。ではニセ
モノ説はどうか。
「 フ ィ ク シ ョ ン だ と 公 明 正 大 に 名 乗 る な ら 許 さ れ よ う 。し か し 、真 実 を ス
クープしたとなるとサギになる」と私は書いた。趙紫陽の元秘書李湘魯の証言を読み直し
たい。事情をよく知る関係者の面前では呉健民自身がフィクションであることを認めざる
をえなかったのであった。
このニセモノ、騙された人が少なくないところから見ると、大成功であったらしい。私に
言わせれば、これは恰好のリトマス紙である。自称他称プロの判断能力の程度を暴いた功
績 は 記 録 に 値 す る 。最 後 に 、ニ セ モ ノ を 大 宣 伝 し た 関 連 記 事( 管 見 の 限 り )は 以 下 の 如 し 。
1 「 知 ら れ ざ る 天 安 門 事 件 ─ ─ 亡 命 ・ 首 脳 元 側 近 が 暴 露 」『 東 京 タ イ ム ズ 』 九 〇 年 六 月 四 日
付。
2 戸 張 東 夫 、 唐 亜 明 対 談 「 人 治 の 背 景 ─ ─ 中 国 政 治 の 現 実 」『 東 亜 』 九 〇 年 八 月 号 。
3 岩 田 一 平 ( 週 刊 朝 日 記 者 )「 甦 る 趙 紫 陽 は ゴ ル バ チ ョ フ に な れ る か 」『 週 刊 朝 日 』 九 〇 年
八月三日号。
矢吹晋『逆耳順耳』
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4 戸 張 東 夫「 天 安 門 発 砲 命 じ た の は ─ ─ 中 国 で 新 た な 論 争 ? 」
『 読 売 新 聞 』九 〇 年 八 月 一 九
日
松 本 重 治 先 生 を 追 悼 す る 、 逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 三 四 号 〔 九 〇 年 一 〇 月 一 〇 日 発 行 〕
先 頃 、 故 松 本 重 治 の 追 悼 文 集 が 出 た ( 国 際 文 化 会 館 編 、 一 九 九 〇 年 )。 私 は 求 め ら れ て 、 次
の よ う な 駄 文 を 寄 せ た ─ ─ 『 上 海 時 代 』( 下 巻 ) は 一 九 七 五 年 春 に 出 た 。 そ の 「 あ と が き 」
に「多くの友人知人」への謝意が記されているが、その末筆に光栄なことに私の名が見え
る 。ア ジ ア 経 済 研 究 所 の 同 僚 と と も に 、
「 随 園 の 会 」に 加 え て 頂 い た の は 、た し か 私 が 香 港
留学から帰ってまもなくのことではなかったかと思う。この会は若手(当時は)の中国研
究 者 が 松 本 先 生 を 囲 ん で 、中 国 料 理 を つ つ き な が ら 、よ も や ま 話 を す る 楽 し い 会 で あ っ た 。
新宿御苑前の随園別館に集まることが多かったので、いつとはなしにこの名がついた。
あ る 夜 、松 本 さ ん が エ ー ル 大 学 時 代 の 思 い 出 を 語 ら れ た の を 聞 い て 、帰 り 道 に「 ア サ カ ワ ・
カ ン イ チ 」と お 会 い に な り ま せ ん で し た か 、と 尋 ね て み た 。私 は 福 島 県 安 積 高 校 の 出 身 で 、
朝河貫一は大先輩なのです、と説明した。
松 本 さ ん は 俄 然 目 を 輝 か せ て 、立 ち 止 ま り 、朝 河 貫 一 の 思 い 出 を 語 っ て く れ た 。
「歴史は熱
なき光なり」とする朝河貫一の名言を引かれたのは、そのときであったか。それともその
後、朝河貫一の名が出たときであったか、いまはもう思い出せない。
一 九 八 二 年 三 月 一 八 日 、 私 は 故 阿 部 善 雄 (『 目 明 し 金 十 郎 』『 最 後 の 日 本 人 』 の 著 者 ) さ ん
を案内して、国際文化会館に松本さんを訪ねた。大久保利謙、柳沼八郎、加藤幹雄の各氏
も同席された。歴史家朝河貫一の『書簡集』を編集する作業がこうして出発した(学術書
『 入 来 文 書 』 の 刊 行 が 第 一 ラ ウ ン ド と す れ ば 、 書 簡 集 の 編 集 は 第 二 ラ ウ ン ド に 当 た る )。
松 本 さ ん は 阿 部 さ ん の 仕 事 の た め に 、国 際 文 化 会 館 の 施 設 利 用 を 快 諾 さ れ 、遺 品 展 の 開 催 、
図書館の利用、キュービクルの利用、宿泊、会議の開催などあらゆる協力を惜しまれなか
った。
阿部善雄著『最後の日本人』の出版記念会は一九八三年一〇月一一日、国際文化会館で行
われた。松本さんは「序に代えて」を寄せられ、この本を「近来の一大快著」と激賞され
た。朝河貫一との出会いを詳しく紹介している。歴史学とはなにか、という松本の問に朝
河が「熱なき光である」と喝破したこともむろん記されている。
松本さんは序をこう結ばれた。
「無知の故とはいいながら、朝河先生の生涯と業績に対する、日本における妥当な評価の
欠如は、許され難いことであった。阿部さんの今回の力作は、日本の読者に、初めて朝河
先生の正しい姿を映すであろうことは、私の疑わないところである。朝河先生の大いなる
足 跡 を よ く 継 ぐ も の は な い 。 そ の 意 味 で 、 最 後 の 「 日 本 人 」 で あ る と 信 じ ら れ る 」。
「朝河先生の大いなる足跡をよく継ぐものはない」とのコメントは、温厚な松本先生にし
ては珍しく厳しいものではなかろうか。おそらくはこうしたお考えから、阿部さんが提起
された『朝河貫一書簡編集委員会』の会長を快くお引受けになった。第一回委員会は八四
年六月九日に行われ、以後およそ月一回の予定で開かれ、すでに四〇回近くの委員会を重
矢吹晋『逆耳順耳』
90
ねてきた。こうして日本文書簡約一六〇通、英文書簡約二〇〇通の編集作業を終え、いよ
いよ出版の運びとなった。
不幸なことに、編集委員会委員長の阿部さんは一九八六年五月一〇日他界され、今回は会
長の松本さんが他界された。
松本先生に昼食をごちそうになったことが幾度かある。香港総領事館の特別研究員として
の任務を終え、帰国して二カ月余の一九八一年一月二三日、私は研究成果の一端をご報告
す る 機 会 を 得 た( そ の 趣 旨 は「 人 民 中 国 崩 壊 の 兆 候 」
『 中 央 公 論 』八 一 年 四 月 号 に 書 い た も
の で あ る )。松 本 さ ん は し き り に う な ず い て お ら れ た 。こ の と き は 会 館 に 宿 泊 中 の 沢 池 久 枝
さんもご一緒だった。
まもなく私は「日中問題=日米問題」とする松本テーゼ(オリジンはビーアド老師のもの
か 。『 上 海 時 代 ( 下 )』 三 四 三 頁 ) を 援 用 し て 「 日 中 経 済 協 力 の 柱 と し て 、 中 国 の 植 林 事 業
に 協 力 す べ し 」と す る 大 風 呂 敷 を 自 民 党 本 部 で 広 げ た( 一 九 八 七 年 二 月 一 二 日 )。松 本 先 生
のご高名を無断借用したからには事後報告しなければならない。印刷物をお届けしたとこ
ろ、秘書の加固寛子さんの話によると、松本先生はご興味を抱かれた由で一安心した。ま
もなく松本先生は「中国へ緑を」の運動をお始めになり、これが先生の最後のお仕事にな
っ た 。「 日 米 関 係 は 日 中 関 係 で あ る 」 と い う テ ー ゼ を 植 樹 に 託 さ れ た の で あ ろ う ─ ─ 。
最後に上記の拙文に関連するコマーシャルを一つ。
『朝河貫一書簡集』
( 刊 行 会 事 務 局 は 〒 一 六 九 東 京 都 新 宿 区 西 早 稲 田 一・六・一 早 稲 田 大 学
社会科学研究所気付、頒価二万円)
ア ジ ア ・ ウ オ ッ チ 専 門 観 察 員 マ ン ロ ー と 狸 穴 で 天 ぷ ら そ ば を 食 う 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 三
五号〔九〇年一二月一〇日発行〕
90 年 一 〇 月 二 三 日 、私 は 中 村 公 省 と と も に ロ ビ ン ・ マ ン ロ ー 氏( ア ジ ア ・ ウ ォ ッ チ 香 港 事
務 所 所 長 ) と リ チ ャ ー ド ・ ネ イ シ ョ ン ズ 氏 (『 イ ン デ ペ ン デ ン ト 』『 ス ペ ク テ ー タ ー 』 な ど
に寄稿しているフリーサンサー。日本、アジア問題の専門家)に会った。一〇時すぎから
麻布永坂町のネイションズの自宅兼事務所で話し、その後狸穴のそば屋で天ぷらそばを食
べながら、午後二時前まで語り合い、大いに意気投合した。
最も印象的な二、三言を記したい。マンローは「天安門広場の最後の光景」を香港『サウ
スチャイナ・モーニング・ポスト』に書いた(邦訳は『チャイナ・クライシス重要文献』
第三巻所収)が、この文章の要旨は『人民日報』八九年九月二八日付に中国語訳されてい
る 。こ の と き 、マ ン ロ ー は 一 部 の 人 権 擁 護 運 動 家 た ち か ら 厳 し い 指 弾 を 受 け た と 苦 笑 し た 。
「人権侵害問題に取り組んでいるはずのマンローの書いたものが反動的中国当局の『人民
日報』に訳載された事実は、この証言が誰にとって有利なものかをよく示しているではな
い か 」。
私はこう慰めた。
「 事 実 は 事 実 で あ る 。あ な た の 証 言 は 客 観 的 事 実 を 述 べ た も の で あ り 、中
国当局も他の人々も等しく利用できるはずである。ちなみに、もしあなたの証言が『人民
日報』に紹介されなかったならば、われわれの目に触れることがなかったかもしれない。
矢吹晋『逆耳順耳』
91
われわれはまず中国語訳を通じてあなたの証言を知ったのだ」
このときのマンローの会心の笑みがたいへん印象的であった。
(ここで私の認識過程の思考錯誤、試行錯誤を補っておく。広場での虐殺説への疑問を当
初 か ら 提 起 し て い た の は 、 白 石 和 良 で あ る 〔「 中 国 の “ 民 主 化 運 動 ” と の 付 き 合 い 方 」『 商
品 先 物 市 場 』 九 〇 年 一 一 、 一 二 月 号 参 照 〕。 私 は 当 初 「 真 偽 が 不 明 な ら 、 両 論 並 記 で い く ほ
かないね」などと日和見を決め込んでいたのである。しかし、その後の点検によって虐殺
説は時間と場所に疑問が多く、逆に虐殺を否定する証言は信憑性が高いことに気づいた次
第 で あ っ た 。)
もう一つ、ネイションズとの会話のサワリを紹介しよう。ネイションズもまたマンローと
ともに広場に最後までとどまり、取材の鬼らしく丹念なメモを現場で書き続け、マンロー
を大いに助けたことは『真相・下』の読者なら先刻ご承知であろう。
「ところで、ミスターヤブキ、広場で虐殺がなかったこと、西線で大量の殺傷があったこ
と を 確 認 す る こ と に 、 い か な る 意 味 が あ る と 考 え る の か 」。
私の答え。
「第一に広場は人民中国のシンボルであり、広場での虐殺の有無は象徴的な意味をもって
いる。第二に、広場において軍隊が包囲したあと非武装かつ無抵抗の学生に発砲する問題
と西線における衝突と区別して扱う必要がある。なぜなら西線の群衆は投石をしたし、モ
ロトフ・カクテルも投げた……」と私が下手な英語でモグモグすると「あなたの言いたい
のは、アップライジング(反乱、蜂起の意)ということか」とネイションズが助け船を出
す 。「 然 り 」。
ほかに理由があるか。
「マンローが分析したように、中国当局は広場の虐殺を否定することによってあたかも北
京市全体で死者がなかったかのごとき印象を作りだそうとしているが、これはミスリーデ
ィングだ」と中村公省が付け加える。ネイションズがうなづき「いましがたもマンローと
論争(アーギュ)していたところだ」と説明すると、マンローが「いや論争ではなく討論
(ディスカス)だと」言い直す──。
もう一つ。一九七六年の天安門事件
(四五事件)において、当時現場にいあわせた外国人(一〇人以上)をインタビューした
ところ、誰も死者を見なかたったという話をマンローがした(マンローの書いたアジア・
ウ ォ ッ チ ・ レ ポ ー ト 『 処 罰 の 季 節 』 の 結 論 に も そ の 一 節 が あ る )。 私 は 厳 家 其 ら の 『 四 五 運
動紀実』をはじめとして、いろいろ調べたが、死者のことを書いた記述を発見できなかっ
たと補足した。
中村公省が李鵬が伊東正義訪中団に語った三一九人説を紹介すると、そのニュースは欧米
ではほとんど知られていないとのことであった。ここで「死者数低減の法則」が話題にな
り、マンローがルーマニアのティミショアラの死者数が万単位から百単位に減少したと話
した。そこで私も負けずに韓国の光州事件の死者はこれまで約二〇〇〇人といわれてきた
が、実際には約二〇〇人であったと付け加えた。その時マンローとネイションズとの間で
矢吹晋『逆耳順耳』
92
猛烈な早口の会話が始まった。私の話はまだ終わっていない。第一次天安門事件で死者が
出なかったのは衛戌区部隊司令官の賢明な状況判断に基づいたものであること、この歴史
の教訓を学ぶよう学生たちは戒厳部隊に説得を試みたことを指摘し、第一次天安門事件で
死 者 の 出 な か っ た 事 実 か ら し て 、群 衆 は 今 回 も 発 砲 さ れ な い も の と 錯 覚 し た 可 能 性 が あ る 、
と強引に彼らの会話に割り込んだ。
ひ と し き り マ ン ロ ー と 議 論 し た あ と 、ネ イ シ ョ ン ズ が 私 に 向 か っ て い う 。
「ヤブキはわれわ
れと逆の推論を引き出した」
「 わ れ わ れ は 人 民 英 雄 記 念 碑 の 学 生 た ち が 殉 死 を 想 定 し 、そ の
決意を語っていたためにジャーナリストたちが学生たちは虐殺されたものと想像するよう
に ミ ス リ ー ド さ れ た と 話 し 合 っ て い た 」。 な る ほ ど 、 あ べ こ べ で す な 。
ニューヨークから飛んできたマンローと日本駐在のネイションズは、この間マンロー論文
(『 真 相 ・ 下 』所 収 )に つ い て あ ま り 意 見 交 換 が で き な か っ た ら し く 、マ ン ロ ー 論 文 へ の ア
ニ タ ・ チ ャ ン お よ び ジ ョ ナ サ ン ・ ア ン ガ に よ る 反 論 (『 ザ ・ ネ イ シ ョ ン ズ 』 九 月 一 〇 日 号 )
への再反論(同号)を含めて、議論は白熱化する。彼らは論争しつつ、自分たちの論理を
点検し、われわれ日本側の論点との異同を確かめた。初対面なのにまるで旧知のごとく、
話のウマが合うこと甚だしい。まるで掛け合い漫才みたいに呼吸が合ってしまう成り行き
に同じテーマを追求し、同じような非難を受けてきた者同士の連帯意識を痛感したことで
あった。
朝 日 新 聞 社 内 報 の 伝 え た 真 実 と 本 紙 の 伝 え た 虚 報 、逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』第 三 五 号〔 九 〇 年 一
二月一〇日発行〕
『 蒼 蒼 』三 三 号( 九 〇 年 八 月 )で マ ン ロ ー の 最 新 論 文「 天 安 門 広 場 の 回 想 」を 紹 介 し つ つ 、
六月四日午前三時、軍隊に包囲された後の天安門広場の内部にいた西側ジャーナリストと
して、ロビン・マンローを含む一一名の氏名を挙げた。
これに対して、事情通の方々から早速クレームがついた。私がマンロー論文を紹介する形
で列挙したほかにも、日本人記者がいたはずだというのである。
これには驚きましたね。そこで「ぜひその話を聞きたい、もし書いたものがあれば、ぜひ
見せて欲しい」と頼んだ。
と い う の は マ ン ロ ー の 受 け た 非 難 と 似 て い て 、『 天 安 門 事 件 の 真 相 ( 上 )』 で 書 い た 内 容 に
対 す る 外 野 席 の 声 は た い へ ん な も の 。「 あ ん な 細 部 に こ だ わ る 意 図 が 分 か ら な い 」「 動 機 不
純 で あ る 」「 中 国 当 局 に 迎 合 し て あ ん な デ タ ラ メ を 書 い た に 違 い な い 」「 あ い つ は × × × 主
義者だからあんなバカげたことを書いた」
「 真 相 が 分 か ら な い と き に 、断 定 す る の は 研 究 者 と し て 軽 率 で あ る 」
「仮りにその分析が正
しいとしても、民主化運動にマイナスである以上、当面は書くべきではない」その他、そ
の他。
北京在住の日本人の間で、天安門事件を体験した人々を「戦中派」と呼ぶことが行われて
いますが、その戦中派の間での私への酷評はたいへんなものだったそうです。罵倒を耳に
した私の友人が「魔女狩りの雰囲気」と嘆いたほどでした。
矢吹晋『逆耳順耳』
そうこうしているうちに紆
93
余曲折を経て(念のために書いておきますが、私は朝日の中国担当記者のなかに友人が少
なくないのですが、これらは友人から得たものではない。私は友人を窮地に追い込むこと
は し な い )、 複 数 の 筋 か ら 資 料 が 届 き ま し た 。
そ の 一 つ が 『 朝 日 人 』( 一 九 八 九 年 八 月 号 、 朝 日 社 報 、 別 冊 三 四 六 号 )。
「 こ れ は 社 外 秘 じ ゃ あ り ま せ ん か 」と 私 が 危 惧 す る と 、
「 い や ぁ 、こ れ は“ 社 内 秘 ”と い う
ものでしょう。社員とOB全員に配るものですから、公然の秘密でしょうな」とくる。さ
すが新聞社だけに反応が素晴らしい。
同誌「激動の中国特集」八~一〇頁に朝日教之カメラマン(東京・写真部)の証言が載っ
て い ま す 。「“ 血 の 日 曜 日 ” 再 現 、 カ メ ラ マ ン の 目 、 ス ト ロ ボ 発 光 に 銃 口 キ ラ リ 、 記 念 碑 の
学生へ乱射はなかった」──これがタイトル。
一部を引用してみましょう。
──午前四時。広場のすべての証明がいっせいに消えた。市民たちが「ウォー」という叫
び 声 を 上 げ な が ら 南 東 の 出 口 に 向 か っ て 走 り 出 し た 。 い よ い よ 軍 隊 が 入 っ て く る 。( 中 略 )
突 然 、闇 の 中 に 置 か れ た 恐 怖 感 は 想 像 以 上 だ っ た 。こ の ま ま 逃 げ 出 し て し ま お う と 思 っ た 。
──午前四時四〇分。広場の証明が再び点灯した。暗闇に慣れた目には昼間のように明る
く感じる。ふっと見ると人民大会堂の方から、銃を手にした数十人の兵士たちがゆっくり
とこちらに向かって進んできていた。草色のヘルメットのにぶい光が、歩くたびにちらち
ら揺れて、恐怖感をかきたてる。
──英雄記念碑のすぐ近くまで軍が迫った時、学生たちがいっせいに退去を始めた。数百
人の学生が列を作って順番に引き揚げる。毛布や食糧などを持って整然と出口に向かう。
一部の報道で、戒厳部隊は記念碑に座り込んでいる学生に向かって銃を乱射し、数百人が
一挙に殺されたと伝えられているが、その事実はなかった(A)
。威かく射撃や流れ弾、戦車にひかれて広場で死んだ学生は(おそらく数十人の単位)で
い る と 思 う が ( B )、
数百人の大量虐殺はなかった。もしそうだとしたら、学生のなかにいた私は今ごろ死んで
いるはずだ。北京市全体の死者は何千人と言われている。しかし広場そのものではそれほ
ど の 死 者 は な か っ た ( 傍 線 お よ び 符 合 は 矢 吹 )。
( A ) は カ メ ラ マ ン が 目 撃 し た 事 実 で あ る 。( B ) は 「 思 う 」 で あ る 。 他 の 情 報 に 基 づ い た
推定であることに注意したいですね。同誌はさらに朝日教之カメラマンのカラー写真六葉
を掲載しています。そのうち撤退とかかわるものは三葉。
1 「 学 生 に 向 け て 威 嚇 射 撃 を す る 兵 士 。 後 ろ は 人 民 大 会 堂 。 午 前 四 時 四 五 分 」。
2 「 人 民 英 雄 記 念 碑 に 座 り 込 ん で い た 学 生 を 排 除 し た 兵 士 た ち 。 午 前 五 時 」。
3「 手 を つ な い で 最 後 に 退 却 す る 学 生 た ち 。 こ の あ と 次 々 と 装 甲 車 が 。 午 前 五 時 三 〇 分 」
とそれぞれにキャプションがついています。
同 誌 一 一 ~ 一 二 頁 に は 、も う 一 つ の 証 言 が あ り ま す 。
「 助 っ 人 奮 戦 記 、外 報 部 員 の 目 、忘 れ
ら れ ぬ“ 栄 養 ド リ ン ク ”、広 場 で 学 生 と 運 命 共 同 体 を 実 感 」の タ イ ト ル の も と に 永 持 裕 紀 記
者(外報部)の証言があります。読者よ驚くなかれ、この記者もまた人民英雄記念碑にへ
矢吹晋『逆耳順耳』
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ばりついていて(?)学生撤退の最後の光景を目撃しているのですよ。
──四時四〇分に記念碑に現れた兵士たちが持つ本物の武器の迫力は、想像以上だった。
威嚇射撃をすると、ターンターンという銃声がだだっ広い広場に響きわたる。これを間近
でやられた学生たちの恐怖は相当なものだったはずだ。ギャーといった叫びは聞こえなか
ったが、多くは下を向いて、必死に耐えている様子だった。
何が次に来るか、と小心な私も怖かったが、兵士が学生めがけ機関銃を乱射──というこ
とはなく(A
)、学 生 た ち は 退 去 を 命 じ ら れ た 。学 生 が ぞ ろ ぞ ろ 記 念 碑 を 後 に す る の に 私 も そ の ま ま 従 っ
た。
──「天安門広場の虐殺」というフレーズがよく使われる。今回の惨劇を象徴する
ものとしてそれはそれで良いと思うが、
「虐殺」は実際は広場の外の北京市街地が主な舞台だった。広場、特に人民英雄記念碑は
新中国の中心の中心。そこを真っ赤に染める戦略を、さすがに中国指導部は取らなかった
の で は な い か と 推 測 し て み る ( B )。( 傍 線 お よ び 符 合 は 矢 吹 )
さてさて読者はこれら二つの証言をどう読まれたであろうか。むろんこれは『朝日新聞』
の本紙には登場しておらず、逆に八九年六月八日付には後にその信憑性が疑われた清華大
学学生の証言(香港『文匯報』六月五日付)が訳されている始末です。
私は唖然としましたねぇ。文字通りいうべき言葉なしでした。両氏の証言が「社内報」で
はなく、本紙に掲載されていたら、広場の真実は八九年八月の時点で、日本の読者に広く
伝わっていたはずですよね。
分からないですなあ。報道機関がその商品としてのメディアにおいては虚報、あるいは不
確実な報道を行い、それを訂正することがなく、内輪の印刷物で真実を語るというのは、
どういうことなんでしょうかね。
迅速を旨とする報道の場合、誤報が避けがたいことを承知していますよ。だからこそ誤報
が判明した場合、それを訂正するシステムが必要なのじゃありませんか。いま私は誤報自
体 よ り は( そ れ も 大 き な 問 題 で す が )、誤 報 と 知 り つ つ 、そ れ を 本 紙 で 訂 正 す る こ と は な く 、
内輪の雑誌で訂正してみせた姿勢に驚愕しているのです。これでいいのでしょうかねぇ。
もっとも間接的な誤報訂正は多少はあるのですよ。
た と え ば 九 〇 年 六 月 三 日 付 『 朝 日 新 聞 』 は 「 一 周 年 を 機 に “ 天 安 門 ” 問 う 本 」( 無 署 名 ) と
題した書籍紹介のなかで、われわれの資料集や『真相・上』を紹介してくれました。
それはそれであり難かったわけですし、また一一月一〇日付夕刊では「天安門事件論争そ
の 後 、 実 像 つ か む 難 し さ あ ぶ り 出 す 、“ 広 場 で の 虐 殺 ” 前 提 に は 疑 問 」( 大 阪 学 芸 部 荒 谷 一
成 記 者 ) の 論 評 の な か で 、『 真 相 ・ 上 下 』 や 『 重 要 文 献 ・ 第 三 巻 』 を 紹 介 し て く れ て い ま す
(広告費用の節約になったと経営者は喜んでいるようですが、私の違和感は深まるばかり
で す )。
誤報訂正の機会は素人考えでは何回もあったと思うのです。
1 米ABCテレビが「ナイトライン」と称するテッド・コッペル司会の番組で、ABCの
取材チームが写した膨大なビデオを分析して「天安門広場での虐殺はなかった」と報じた
矢吹晋『逆耳順耳』
95
八九年六月末。
2 中国当局がさまざまな証言を用いて声明を発表した際のコメントの場で。
3 無血撤退のために、努力した侯徳健らの証言が発表された時点。
4 われわれの『チャイナ・クライシス重要文献』第3巻が出版された八九年一二月。
5 最後に天安門事件一周年記念。
これらいくつかのうち、ポイントはやはり『朝日人』の出た八九年八月前後でしょうな。
唯一ではなく、二人の社員の目撃証言があるわけですから、自信をもってできるはずです
し、この段階でマンロー、ネイションズ組のような目撃証言探しをやれば、大新聞の取材
能力からしてマンローらよりはもっと徹底的に探せたはずと見るのは見当違いでしょうか。
さ き ほ ど 資 料 数 件 と 書 い た の で 、 も う 一 つ 証 拠 を 挙 げ ま し ょ う 。『 調 研 室 報 』( 第 八 三 号 、
朝日新聞社調査研究室、隔月刊、社内用、一九八九年一二月五日)の五六頁にこう書いて
あります。
「天安門広場の学生たちは最終的には自主的に撤退、天安門広場の中心である英雄記念碑
付近では基本的に血は流れていない。この点についてはたしかに当時の報道は正確ではな
い 」( 西 園 寺 一 晃 「 中 国 の 近 代 化 、 民 主 化 運 動 と 権 力 闘 争 ( 下 )」)。
こ の 雑 誌 の 刊 行 時 点 は 八 九 年 一 二 月 。私 が『 読 売 新 聞 』
( 八 九 年 一 二 月 四 日 夕 刊 )に 一 文 を
書いて、袋叩きに遭っていたころですね。
さて時は新聞週間。勇気ある朝日関係者諸氏のご協力により、たいへんいい勉強をさせて
もらいました。
最後にもう一言。日本のマスコミはむろん朝日だけではない。大新聞、ブロック紙、それ
にテレビ局、雑誌社、いろいろあり、天安門事件の取材に出かけたジャーナリストたちは
相当な数に上るはずです。これらの諸社がまさか人民英雄記念碑という現場に記者を配置
することにすべて失敗したのではありますまい。もしかしたら、ほかにもまだ名乗り出て
いない目撃者がいるのかも。
わ が 大 朝 日 は 記 者 の 配 置 と い う 点 で は 大 成 功 だ っ た わ け で す が 、宝 の 持 ち ぐ さ れ で し た ね 。
自社の記者のつかんだ真実を報道せず、虚報に惑わされた。
教訓。新聞社の社内報から目を離すなかれ。
(前項のマンローとの対話の折に、私が天安門広場に残留した二人の日本人ジャーナリス
トの名を固有名詞で挙げたところ、彼は他にフランス人がいたことも事後に分かったと追
補した)
論 説 委 員 の 論 理 と 見 識・三 た び ニ セ モ ノ に つ い て 、
『 蒼 蒼 』3 7 号 、 9 1 年 4 月 号 、 逆 耳 順
耳
『朝日新聞』夕刊に「窓・論説委員室から」と題するコラムがある。1991年
某 月 某 日「 虚 実 皮 膜 の 間 」と 題 す る < 燕 > 氏 の 短 文 が 載 っ た 。こ れ が ど う も 気 に
食わない。
前半の内容はジョン・ーアーリックマンの『チャイナ・カード』の紹介である。この翻訳
矢吹晋『逆耳順耳』
96
は90年9月に出版された。私は12月初めにある役所の若手官僚から騙されたと思って
読んでご覧なさいと勧められた。私をチャイナ・ウォッチャーと知ってのことである。私
は 早 速 読 ん だ が 、何 新 問 題 に 紛 れ て 、
『 蒼 蒼 』に 書 き そ び れ て い る う ち に 、< 燕 > 氏 に 先 を
越されたのが不満なのではない。先方は日刊紙、こちらは隔月刊、そもそも競争になるは
ずがない。
こ の 本 で 重 要 な 役 割 を 果 た す 周 恩 来 の 「 秘 書 兼 護 衛 役 」 の Ya n g D e z h o n g を 訳 者 は 架 空 の
人物と解釈し「楊徳重」の文字をあてている。実はこれは楊徳中で、実在の人物である。
現 在 の 肩 書 は「 中 央 警 衛 師 師 長 兼 中 央 警 衛 局 局 長 」、軍 人 と し て の 階 級 は 中 将 で あ る 。李 鵬
総理のモスクワ訪問にも同行していますよ。ここまで分かると、この小説の面白さがグッ
と増すのですがね。
閑話休題。
私が腹を立てたのは、実は後半である。ご存じ、江之楓の例の本を扱う姿勢が疑問なので
あ る 。曰 く 、
「 少 し 前 、中 国 要 人 の 秘 書 に よ る 天 安 門 事 件 前 後 の 日 記 が 台 湾 で 刊 行 さ れ 、日
本 語 訳 も 出 た 」。
「要人秘書」
「 日 記 」は フ レ コ ミ に す ぎ な い の で あ る か ら 、
「日記なるもの」
と 書 い て 欲 し い で す な( 引 用 を 少 し 省 略 ) 。
「 江 之 楓 と 名 乗 る こ の 秘 書 は 、実 は 中 央 党 学 校
の 元 教 官 で 、 天 安 門 事 件 の 2 、3 年 前 に 出 国 し て い た こ と が 分 か り 、 実 録 と し て の 価 値 は
半 減 し た 」。「 実 は ─ ─ 分 か り 」「 実 録 と し て の か ち は 半 減 し た 」 経 緯 が 問 題 で あ る 。
江 之 楓 の 日 記 な る も の が 日 本 で 最 初 に 登 場 し た の は 、こ の 新 聞 社 出 版 の『 月 刊 A s a h i 』
(1
990年6月号)においてである。私はこれを読んで、どうもインチキ臭いと判断して、
その旨を『蒼蒼』32号(90年6月10日発行)に書いた。
驚いたことに、そのころ出版の作業が進行中。この本は「実録」なるフレコミで徳間書店
から出版された。私は営業妨害するつもりはないが、フィクションならフィクションとし
て 売 り 出 さ な い こ と に は サ ギ に な り ま す ぞ 、と 繰 り 返 し て 書 い た(『 蒼 蒼 』3 4 号 、9 0 年
1 0 月 1 0 日 発 行 )。
訳書の読者のなかには、私の説に同意する意見もないではなかったが、余の一知半解的評
論家諸氏は依然、これを持ち上げ続けたのですから、だいぶ売れたのでしょうな。宣伝記
事リストなど関連情報を再整理しておきましょう。
1 江 之 楓 著 、葉 遠 春 訳「 中 南 海 が 震 え た 五 十 六 日 / 胡 耀 邦 の 死 か ら 天 安 門 の 虐 殺 ま で 」
『月
刊 Asahi 』 9 0 年 6 月 号
2 江之楓著、戸張東夫訳『鄧小平
最期の闘争』徳間書店、90年6月
3 「 知 ら れ ざ る 天 安 門 事 件 / 亡 命 ・ 首 脳 側 近 が 暴 露 」『 東 京 タ イ ム ズ 』 9 0 年 6 月 4 日 付 4
戸 張 東 夫 、 唐 亜 明 対 談 「 人 治 の 背 景 / 中 国 政 治 の 現 実 」『 東 亜 』 9 0 年 8 月 号
5 岩 田 一 平 ( 週 刊 朝 日 記 者 )「 甦 る 趙 紫 陽 は ゴ ル バ チ ョ フ に な れ る か 」『 週 刊 朝 日 』 9 0 年
8月3日
6 戸 張 東 夫「 天 安 門 発 砲 を 命 じ た の は / 中 国 で 新 た な 論 争 ? 」
『 読 売 新 聞 』9 0 年 8 月 1 9
日
7 書 評 担 当 デ ス ク 永 栄 潔 記 者 「 私 が 勧 め る 9 0 、 こ の 3 冊 」『 週 刊 朝 日 』 9 0 年 1 2 月 2 8
矢吹晋『逆耳順耳』
97
日号
8 高畠通敏(立教大学法学部教授)同右『週刊朝日』90年12月28日号
といった具合である。
訳 者 は 『 読 売 新 聞 』 解 説 部 記 者 、 宣 伝 担 当 は 『 月 刊 Asahi 』 と 『 週 刊 朝 日 』 の 分 業 か 、 と
誤 解 し た く な る が 、 こ れ は 偶 然 で し ょ う 。『 月 刊 A s a h i 』 と 『 週 刊 朝 日 』 の 編 集 部 に チ ャ
イ ナ・ウ ォ ッ チ ャ ー が い た と し た ら 、お そ ら く は 偶 然 で あ り 、そ こ ま で は 誰 も 期 待 し な い 。
編集部はプロを探して目利きを頼めばそれでよいのだ。しかし、件の論説委員氏はプロで
なければならないはず。
舞台への登場の経緯を眺めると、論説委員先生の出番は最期になっているが、これでよい
のか。論説委員に代表されるような見識を示すべきなのは、半年後の「事後解説」におい
て で は な く 、最 初 の 目 利 き と し て で あ っ て 欲 し い と 思 う の は 私 だ け か 。繰 り 返 す が 、
『月刊
Asahi 』 の つ か ん だ ネ タ が ホ ン モ ノ か ニ セ モ ノ か 判 断 す る こ と に こ そ 、 新 聞 社 の 見 識 が か
かっていたのではないか。
自 社 の 月 刊 誌 、週 刊 誌 が さ ん ざ ん 持 ち 上 げ て 宣 伝 し 、し か も 数 カ 月 も 経 て か ら 、
「実録とし
ての価値は半減した」などとヨソゴトみたいに書く論説記者の神経あるいは精神構造が私
には不可解なのであろう。まったくどうなっているのでしょうね。
つ い で に お 尋 ね す る が 、江 之 魔 ェ 中 央 党 学 校 の「 元 教 官 」説 の 出 所 は ど こ で す か 。私 が こ れ
までに調べた限りでは、
「 普 通 工 作 人 員 」ま で し か 分 か ら な か っ た 。教 官 な ら 担 当 科 目 が 分
かると面白いのですがね。もう一つ質問。天安門事件
い「2、3前に出国」説の根拠は
何 で す か 。私 は 事 件 後 に 出 国 し た 可 能 性 を 考 え て「 私 の 推 定 は 、半 ば 中 た り 、半 ば 外 れ た 」
と自己批判したのだが、
「 2 、3 前 に 出 国 」説 が 正 し い と す れ ば 、私 の カ ン ピ ュ ー タ ー が か
な り 中 っ て い た と も っ と 吹 聴 で き た の に ( 冗 談 で す よ )。
と こ ろ で 、こ の コ ラ ム で 論 説 氏 の 提 起 し た 問 題 は「 最 初 か ら < 小 説 > と し て 出 し て い た ら 、
どうだったか」である。
<小説>として出していたら、どこまで話題になるか疑わしい、と判断したからこそ、<
実録>であると虚偽の宣伝をしたのではありませんかね。少なくとも、私の挙げた上掲の
宣伝家たちのコメントはいずれ劣らず、真実あるいはほぼ真実と判断してホメているじゃ
ありませんか。論説委員たるもの、この程度の論理と見識で務まるのでしょうか。
芸術論ならいざ知らず、今話題になっているのは、フィクションかノンフィクションかの
鑑定ですよ。
「 虚 実 皮 膜 の 間 」き い っ た フ ァ ジ ィ 世 界 に 逃 避 す る ま え に 、虚 実 の 腑 分 け が 必
要じゃありませんか。真実の追求という表看板はどこへ消えたのかしら。こういうフヤけ
た上司によって、論調作り、紙面作りの陣頭指揮が行われるとすれば、現場の記者はたま
らないのではないかとご同情申しあげる。
後日談。3月に中央党校代表(邢賁思団長)が外務省の招きで来日した。雨のなかを駒場
ま で 足 を 伸 ば し 、 団 員 に 「 呉 健 民 」 の こ と を 聞 い て み た 。「 知 ら な い 」「 少 な く と も わ れ わ
れ が 中 央 党 校 に 移 っ た 8 5 年 以 後 は そ れ ら し い 人 物 は い な か っ た 」と の 答 え が 返 っ て き た 。
矢吹晋『逆耳順耳』
98
3 8 軍 、 2 7 軍 、 6 3 軍 は 幽 霊 部 隊 で は な か っ た 、『 蒼 蒼 』 3 7 号 、 9 1 年 4 月 、 逆 耳 順 耳
『 正 論 』編 集 部 か ら W G 生「 天 安 門 兵 士 は 語 る / 私 は 人 民 に 銃 口 を 向 け 、そ し て 乱 射 し た 」
( 同 誌 9 1 年 2 月 号 )を 頂 戴 し た 。早 速 目 を 通 す と 、
「 広 場 を 鎮 圧 し た の は 、2 7 軍 で は な
く 、─ ─ 6 3 軍 で あ っ た 」
「 天 安 門 で 死 亡 し た 劉 国 庚( 共 和 国 衛 士 )は 6 3 軍 所 属 の 1 8 8
師団の参謀であった」などと書いてある。内容は無署名氏「紀実文学・与天安門清場軍人
同 車 」( 香 港 『 九 十 年 代 』 9 1 年 1 期 ) の 日 本 語 訳 で あ る 。
共 和 国 衛 士 劉 国 庚 が 6 3 軍 所 属 で あ っ た と す る 指 摘 は 、私 の 推 定 と 同 じ で あ る(『 天 安 門 事
件 の 真 相 』上 巻 1 7 7 頁 )。こ の 文 が 鎮 圧 部 隊 の 主 力 が 2 7 軍 で あ っ た と す る 俗 説 を 否 定 し
ていることには私も共感するが、63軍を強調するあまり、38軍の存在が無視されてい
るのは気になる(たとえば、この記事に基づいて図解した『正論』83頁の地図のどこに
も 3 8 軍 は 見 当 た ら な い )。 主 力 部 隊 西 線 の 先 頭 部 隊 が 群 衆 の 壁 を 突 破 す る た め に 激 し く
発 砲 し た 経 緯 を 私 は 詳 し く 分 析 し た が 、こ の 先 頭 部 隊 は 明 ら か に 3 8 軍 で あ っ た(『 天 安 門
事 件 の 真 相 』 上 巻 1 7 1 ~ 1 7 7 頁 )。 な ぜ 「 3 8 軍 善 玉 、 2 7 軍 悪 玉 」 説 が 広 範 に 流 布 さ
れたのかについての私の分析は『天安門事件の真相』上巻202頁に書いた。私がこのよ
うに腰を据えて分析したのは、
『 ク ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』の 編 集 を 終 え た 8 9 年 秋
以降のことだが、研究のきっかけとなったのは、実は平松茂雄氏(現杏林大学教授、前防
衛庁防衛研究所)および中嶋嶺雄氏(東京外国語大学教授)との論争である。われわれ3
人 は 天 安 門 事 件 直 後 の 6 月 1 0 日 読 売 新 聞 社 で 座 談 会 を 行 っ た( 6 月 1 1 日 付 )。そ の 席 上 、
私の「27軍・38軍対立説」に対して、平松教授が「本来はそういう部隊はないはず」
と言下にこれを否定し、中嶋教授も平松説にほぼ同調した(ここで年のために書いておき
ますが、掲載されたものは記者グループによる「要旨筆記」である。時間と紙幅の制約の
た め 、応 答 が 正 確 に 再 現 さ れ て い る わ け で は な い )。平 松 氏 は 当 時 、
「中国の政変と中国軍」
(『 国 防 』 8 9 年 7 月 号 ) を 書 い て 、 大 い に 話 題 を 賑 わ し た 。 同 論 文 第 三 節 「 3 8 軍 と 2 7
軍 」( 1 7 ~ 1 9 頁 ) か ら 、 関 連 箇 所 を 引 用 し て お き た い 。
1「 今 回 の 政 変 は 色 々 な 点 で 筆 者 に と り 衝 撃 的 な 出 来 事 が 多 か っ た が 、最 も 衝 撃 的 で あ っ た
出来事は、 存在しないはずの38軍とか27軍といった類の部隊が出現したことであっ
た。もっとも、そのような部隊が出動したという情報そのものの信憑性にも問題がないわ
け で は な い が 」( 傍 線 は 矢 吹 、 以 下 同 じ )。
「38軍とか27軍とかいった類の部隊は、国共内戦期に4つの野戦軍に編成された部隊
の 最 高 単 位 で あ る 。( 中 略 ) 3 8 軍 ( 保 定 ) は 3 9 軍 ( 営 口 ) と と も に そ の テ ス ト 部 隊 と み
ら れ た 部 隊 で あ り 、 現 在 で は 第 一 集 団 軍 に 成 長 し て い る は ず で あ る 。」
2「 3 8 軍 は も は や 存 在 せ ず 、第 一 集 団 軍 に 改 造 さ れ た と み て い た 。そ れ だ け に 3 8 軍 が 出
現したとの報道に、いいようのない衝撃を受けたのである。38軍が出現したという報道
が正しければ、第一集団軍なる部隊は存在しないことになり、鄧小平の軍事改革そのもの
が進んでいないことになる。しかし、筆者はこれらの報道の信頼性に疑問をもっている。
同 じ こ と は 2 7 軍 に つ い て も い え る 」。
3「 と こ ろ で 『 動 乱 』 が 一 段 落 し た 6 月 1 6 日 、 天 安 門 広 場 が 内 外 記 者 団 に 公 開 さ れ た 。 記
矢吹晋『逆耳順耳』
99
者団を招待し、説明を行ったのは、38軍であると公表された。これにより、38軍とい
う部隊の存在することが明瞭となったのであるが、この軍と合成集団軍とはどのような関
係にあるのであろうか。それとも、この部隊は正規軍ではなく、北京衛戍区の部隊であろ
うか。この部隊が5月20日の戒厳令で出動し、さらに6月4日学生・市民を殺戮したの
で あ ろ う か 。疑 問 は 依 然 と し て 解 け な い 」。平 松 氏 の 当 時 の 見 解( あ る い は は 疑 問 )は 明 ら
か で あ ろ う 。平 松 氏 は そ の 後 、8 6 ~ 9 0 年 に 書 い た 論 文 を ま と め て『 鄧 小 平 の 軍 事 改 革 』
『 続 ・ 鄧 小 平 の 軍 事 改 革 』( と も に 勁 草 書 房 、 8 9 年 1 0 月 、 9 0 年 1 2 月 ) を 出 版 し た 。
話題の論文は前者に収められている。しかし、第三節はほぼ全文削除され、雑誌の第四節
が論文集では第三節に繰上げられている。
こうした「訂正」を経て、残された関連情報は以下のごとくである。
4「 彼〔 秦 基 偉 を 指 す 〕は 鄧 小 平 の 軍 事 改 革 で 、合 成 集 団 軍 の 編 成 と い う 最 も 重 要 な 仕 事 を
担当し、そのテスト部隊である38軍の合成集団軍への改造を実質的に指導してきたと・
閧 ウ れ る 」(『 鄧 小 平 の 軍 事 改 革 』 2 5 3 頁 )。
5「 こ の 部 隊 は 第 3 8 軍 で 、同 軍 は 鄧 小 平 の 軍 事 改 革 の 核 心 を な す 合 成 集 団 軍 の テ ス ト 部 隊
であり、それを指導したのは当時北京軍区司令員で現国防部長の秦基偉であったから、先
に触れた秦基偉は「趙紫陽反革命集団の一員」であったという情報が正しければ、戒厳部
隊が『動乱』を積極的に制圧しなかったことも少しもおかしなことではなくなってくる」
( 同 上 、 2 5 7 頁 )。
6「 武 力 鎮 圧 を 最 初 に 出 動 し た 部 隊 と は 別 の 部 隊 に よ り 実 施 さ れ た と 考 え ら れ る が 、そ れ が
いわれているように第27軍であったかどうかについてはわからない。著者はそのような
問 題 に は あ ま り 関 心 が な い 」( 同 上 、 2 5 9 頁 )。
7「 学 生 ・ 市 民 を 武 力 鎮 圧 し た 後 の 混 沌 し た 状 況 の な か で 、武 力 鎮 圧 を 行 っ た 部 隊( 第 2 7
軍といわれる)と鎮圧に反対する部隊(第38軍といわれる)との間に戦闘が生起したと
か、両部隊を支援するために各大軍区から部隊が到着しているとか、混乱は地方にまで拡
大 し 、地 方 で 軍 隊 の 衝 突 が 起 こ っ て い る と か い っ た 情 報 が 乱 れ 飛 ん だ 」
( 同 上 、2 6 1 頁 )。
6 のように、
「 著 者 は あ ま り 関 心 が な い 」と 言 わ れ る と 、肩 透 か し を く っ た 感 じ を 否 め な い 。
書 名 が『 鄧 小 平 の 軍 事 改 革 』で あ り 、天 安 門 事 件 前 後 の 解 放 軍 を 研 究 対 象 と し た 本 な の に 。
ま た 「 混 乱 し た 状 況 の な か で 」「 情 報 が 乱 れ 飛 ん だ 」 と 突 き 放 す だ け で よ い の で し ょ う か 。
その実態を分析する必要がないのでしょうか。どうにも納得がいきません。雑誌論文を単
行 本 に 収 め る に 際 し て 、削 除 や 加 筆 訂 正 す る こ と は 当 然 で あ り 、私 も し ば し ば 行 っ て い る 。
「過ちを改めるに憚るなかれ」は正しい。ただし、何をどのように新たメカのかについて
の説明が必要ではないか。平松氏の著書や論文に依拠して私の説を批判する声がしばしば
聞こえたので、敢えて書きとめておく次第である。
私自身は事件当時の誤った判断への自己批判も込めて、事件前後に「切片が半分しか与え
られていないジグソーパズルを解くような」悪戦苦闘を半年続けて、どうにか38軍、2
7 軍 問 題 を 私 な り に 解 決 し た つ も り で あ る (『 真 相 』 上 巻 )。
その直後のことである。わが目を疑うような証拠写真が現れたのは!
矢吹晋『逆耳順耳』
写真集『北京風波
100
真 相 』( 香 港 広 角 鏡 出 版 社 、 9 0 年 2 月 ) の 7 5 頁 を ご 覧 下 さ い (『 真 相 』 下 巻 1 9 頁 に こ
の 写 真 の 一 部 を 縮 小 し て 転 載 し た )。 こ こ に は 北 京 軍 区 司 令 員 周 衣 冰 中 将 が 李 鵬 に 向 か っ
て「戒厳部隊の任務執行状況」を説明するカラー写真が鮮明に印刷されてある。この北京
市大地図のなかに「38集団軍、27集団軍、65集団軍、24集団軍、39集団軍」の
文字を読み取ることができますよ(カゲの声。この証拠写真を発見したときの誰かの喜び
よ う は た い へ ん な も の )。
こ の 一 枚 だ け か ら で も 分 か る よ う に 、『 北 京 風 波 真 相 』 と い う の は 実 際 ス ゴ イ 写 真 集 で す 。
なぜか。軍属カメラマンが戒厳部隊の側、権力の側から写しているためでしょう。天安門
事件の写真集は大量にありますが、そのほとんどすべてはデモ隊や民衆側からの視角に限
定されているのに対して、これはその対極から写しているのです。
168頁開いてみましょう。テレビでチラッとだけ写った例の楕円形テーブルに、李鵬ら
現役政治局常務委員と鄧小平、彭真、李先念など長老が同席した写真があります。日付は
「 8 9 年 6 月 2 1 日 」、タ イ ト ル 説 明 は「 政 治 局 拡 大 会 議 で 趙 紫 陽 は 多 く の 政 治 局 委 員 と 元
老たちから批判を受けた」とあります。可愛そうな趙紫陽同志よ、いずこに?
後ろ姿で
髪の薄い人物が拍手している。いましたねと落ち着いて右を見ると、髪の濃いのは胡啓立
ですね。と一人一人氏名を特定していくと楕円形テーブルの大物18人がすべて解読でき
ま し た ( 村 田 忠 禧 著 『 チ ャ イ ナ ク ラ イ シ ス 動 乱 日 誌 』 1 5 頁 参 照 )。 ま さ に 「 趙 紫 陽 断 罪 の
図 」 で あ り 、「 趙 紫 陽 、 最 後 の 弁 明 」(『 重 要 文 献 』 3 巻 所 収 ) の 場 で あ り ま し た 。
蛇 足 。こ の 写 真 集 の 1 5 7 頁 に こ う 書 い て あ り ま す 。
「遅浩田は自分が楊尚昆の女婿である。
ことをきっぱり否定した。彼は夫人姜青萍と57年に結婚した。夫人は江蘇省金土覃県の
人で、四川人ではない。岳父は教育者であり、軍人ではない」と。平松氏の本には239
頁、252頁に「遅浩田は楊尚昆の女婿説」が書かれています。私も一時は、この女婿説
をしゃべったことがありますが、89年夏に改めました。そしてこの写真説明で夫人の本
名を確認した次第。
最近の湾岸戦争において、軍事評論家諸氏の分析能力が話題になったが、天安門事件のよ
うな政治劇の同時中継的分析においては、事実認識の誤謬、分析の誤謬は避けがたい。何
を根拠としてどのような判断を下したのか、その判断は事後の検証においてどのように評
価できるのか。天安門事件はチャイナ・ウォッチングあるいはペキノロジーの試金石であ
った。
蛇足その2(1996年10月)
9 6 年 7 月 に 出 版 し た 『 中 国 人 民 解 放 軍 』( 講 談 社 、 選 書 メ チ エ ) に お い て 、 前 述 の 『 北 京
風波真相』から写真の転載許可を得ようとして折衝したが、原出版社(北京)からの許可
を得られなかった。なお、香港『広角鏡』版は、いわば公認の海賊版であった。
『 蒼 蒼 』 91 年 8 月 、 第 3 9 号 、 逆 耳 順 耳 、 W ・ K さ ん へ の 返 書
小著を「精読」して下さった由、恐縮しております。さてご指摘の点について、お答えな
り 、弁 明 な り を い つ く か 。三 六 頁 、聶 元 梓 は ヒ ン ト ン に よ れ ば「 幹 部 」で あ る 。こ れ は l e a d e r
矢吹晋『逆耳順耳』
101
か 、 c a d r e か 、 原 文 は 後 者 で す ( H u n d r e d D a y Wa r, p p . 1 8 - 1 9 . M o n t h l y R e v i e w P r e s s )
大学卒業生はすべて幹部だから、幹部の地位はたいしたことはない、とのご指摘はごもっ
と も 。 幹 部 は 高 級 幹 部 ( 一 ~ 一 三 級 )、 中 級 幹 部 ( 一 四 ~ 一 九 級 )、 一 般 幹 部 ( 二 〇 ~ 二 五
級)に分かれる。この場合、聶元梓は北京大学哲学系総支部の党委書記ですから、哲学系
の ナ ン バ ー ワ ン で す 。つ ま り 哲 学 系 の 主 任 教 授 よ り も 偉 い わ け 。で す か ら 、こ の 意 味 で は 、
聶 元 梓 は 哲 学 系 の 「 領 導 」 leader に な り ま す ね 。
四〇頁、
「 禁 書 処 分 」を 受 け る と ベ ス ト セ ラ ー に な る と い う 話 は 、前 に も 聞 い た こ と が あ る
のですが、ベストセラー作りの方法として「禁書処分」にしてもらうなどという話はある
のかしら(私なども警視庁が手入れか、回収か、などと週刊誌が書きたてると、早速読ん
で み た く な る の で 、 そ の 気 持 ち よ く わ か る )。
五 七 頁 、「 非 に し て 似 る も の 」 は む ろ ん 、 言 葉 の ア ヤ 、 ダ ジ ャ レ で す 。 た だ 、 次 の よ う な 体
験をあなたならどう表現しますか。二〇年前のある夏の日、シンガポールのある寺で清真
菜、素菜(中華風精進料理)を食べることになりました。そのとき、私は胃袋が疲れてい
たので、南禅寺あたりの湯豆腐を想起して生ツバを飲み込んだものでしたが、食卓に出て
きたのは、油ギタギタの紛れもない中華料理でした。私は大豆を材料にしてよくもまあこ
こまで肉に似せたものを作ったものだと中国人僧侶の執念に呆れたものです。その後、日
本でもコピー食品が現れ、今では「模造品」に慣れっこになりましたが、初めて素菜を食
べ た 印 象 は「 似 て 非 な る 肉 」を 食 べ た と い う よ り も 、
「 非 に し て 似 る 肉 」に 遭 遇 し た と い う
ものでした。
一 二 九 頁 、 民 航 の 責 任 者 が 雲 隠 れ し た の は 「 単 位 」( 職 場 ) が 「 終 生 の 生 活 共 同 体 」 で あ る
ためだとの解説、実感が籠もっていて分かり易い。ここで一言弁明を。一三〇頁で「民航
の分割」に触れて「地域独占を強めたにすぎない」と書きましたが、その後、中国航空業
界に詳しい友人によりますと、異なる公司の相互乗り入れも部分的に行われている由。各
公司のフライト・スケジュールを調べると、乗り入れ率の計算もできるとのことでした。
一五六頁、
「 高 学 年 生 」は ご 指 摘 の 通 り「 大 学 生 」が 正 し く 、 こ れ は 誤 訳 で す 。
『 チ ャ イ ナ・
ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』第 一 巻 二 一 二 ~ 二 一 五 頁 に 、こ の ビ ラ の 全 訳 を 収 録 し て あ り ま す が 、
訳文は「一群の大学生と大学院生」となっています。八九年八月に出たこの本で訂正して
おきながら、九一年六月に出た新著で未訂正なのは不注意の一語に尽きます。読者にお詫
びするのみ。
一 七 三 頁 、「 天 安 門 広 場 で の 虐 殺 は な か っ た 」。 こ の 問 題 に つ い て 、 私 と し て は ほ ぼ 結 論 を
出したつもりですが、世の多くの知識人が事実を直視し、あるいは事実を調べる努力を放
棄し、
「 虐 殺 幻 想 」に ひ た っ て い る か に 見 え る の は 、は な は だ 遺 憾 で あ り ま す 。こ れ は テ レ
ビの映像の魔術力の強さと日本知識人のヒ弱さを示す、恰好の事例でありましょう。七月
二〇日
不一。
『 蒼 蒼 』 91 年 8 月 、 第 3 9 号 、 逆 耳 順 耳 、 ト ウ ・ シ ョ ウ ヘ イ ( あ る い は ト ・ シ ョ ウ ヘ イ )
について
矢吹晋『逆耳順耳』
102
「 ト ウ ・ シ ョ ウ ヘ イ ( あ る い は ト ・ シ ョ ウ ヘ イ ) と 日 本 語 で 正 確 に 読 む べ し 」(『 ペ キ ノ ロ
ジ ー 』 八 二 頁 ) と 書 い た と こ ろ 、「 ト ・ シ ョ ウ ヘ イ 」 も 「 正 確 」 な の か 、 と さ る 識 者 か ら お
叱 り を 受 け た ( 特 に 名 を 秘 す 理 由 は な い が 、 こ の 場 合 は 明 記 し な い で お き ま す )。「 た し か
にテレビのアナウンサーでそう発音する人がおり、小生は笑うべき間違いと思っていたの
で す が … … 」と 付 け 加 え て あ っ た 。私 自 身 は こ れ ま で ト ウ ・ シ ョ ウ ヘ イ を 使 っ て お り 、ト ・
ショウヘイと呼んだことは一度もない。ただ、私の尊敬する友人に断固としてト・ショウ
ヘイを用いて譲らない方がある。普通の会話では、先方が初めト・ショウヘイを用い、私
がトウ・ショウヘイと発音すると、いつの間にか、先方もトウ・ショウヘイに変わってい
ることが多い。ところがこの友人との会話においては二〇年来終始、私がトウ・ショウヘ
イ、先方がト・ショウヘイなのである。
私 は か つ て 気 に な り 、『 諸 橋 大 漢 和 』 を 調 べ て 「 ト 」 の 音 が な い こ と を 調 べ た こ と が あ る 。
しかし、何しろ尊敬する友人の自信に満ちた発言なので、面と向かってそのことを話した
ことはなく、ただ互いに譲らないという関係が続いてきた次第。二〇年も続くと、すでに
既成事実。慣用として許されるのかもと弱気になり、寛容になってきた。そこで括弧のな
かに(あるいはト・ショウヘイ)と挿入したわけでした。
さる識者、そこを早速突いて来るから憎い。そこでついでにお尋ね致したく、書きとめて
おきたいのは、姚文元の読みである。私はヨウ・ブンゲンと読んでいるが、たしか姚には
ト ウ の 音 も あ る は ず 。こ れ は ど ち ら が 正 し い の で し ょ う か 。両 方 と も「 可 以 」な の か し ら 。
もう一つお尋ねしたいのは、この種の疑問が生じたときにどのような調べ方が最も簡便、
かつ正確なのでしょうか。
『 蒼 蒼 』 91 年 8 月 、 第 3 9 号 、 逆 耳 順 耳 、 香 港 マ ス コ ミ へ の 報 復 を 宣 言 し た 何 新
『百姓』
( 七 月 一 六 日 号 )社 論 に よ る と 、何 新 が 香 港 の マ ス コ ミ を 恫 喝 し て 話 題 に な っ て い
る。何新は五月二八日、全国政協委員二〇〇〇人を前にして、香港マスコミは中国の老世
代の指導者たちに対して「侮辱、誹謗、人身攻撃」を行っているとして裁判所が法律に基
づいて調査するよう要請した。
「なぜ何新先生はかくも怒ったのか?この半年来彼個人が香港マスコミによってかなり広
範に批判されたのは、帰するところ彼自身が招いたものである。彼は日本矢吹晋教授との
「対談」の名義で、社会主義の優越性を大いに吹聴して資本主義をくさしたが、大部分は
矢吹晋教授が話したものではなく、またそのように話したわけでもない。
そ の 対 話 が 『 北 京 週 報 』、『 人 民 日 報 』 に 掲 載 さ れ て 以 後 、 矢 吹 晋 教 授 は 三 度 に わ た り 「 捏
造対談」だと抗議し訂正を要求したが、実現していない(本刊十周年記念号には矢吹晋教
授が特に本誌のために中文で「鄧小平以後的中国」を書いたが、深い見解である。読者は
閲 読 さ れ た い )。 以 下 略 」
実は、香港の『鏡報』編集部からも問い合わせが来た。何新氏から『鏡報』社長徐四民氏
宛ての「恫喝信」が届き、それについて徐四民氏は同封のような返信を書いたので、もし
あなたに感想があれば寄せてほしいというものであった。
矢吹晋『逆耳順耳』
103
私は 1 何新氏からはいまだになんら誠意ある回答を得ていないこと、2 何新氏が問題の本
質 を す り 替 え て 、香 港 の マ ス コ ミ に 矛 先 を 向 け る の は 筋 違 い で あ る こ と 、3『 北 京 週 報 』や
『 人 民 日 報 』 は 「 学 者 何 新 」 と し て 売 り 出 し た が 、「 厚 黒 学 者 」 あ る い は 「 政 治 流 氓 」 の や
り口ではないかと感想を述べた。
『 蒼 蒼 』 91 年 8 月 、 第 3 9 号 、 逆 耳 順 耳 、 天 安 門 事 件 二 周 年 、 蛇 足
『 朝 日 新 聞 』六 月 一 三 日 付 夕 刊「 文 化 欄 」に 河 田 悌 一 教 授 が「 米 国 で 気 を も む 中 国“ 移 民 ”」
を書いている。
方励之・ファンリージ
劉賓雁・リュウピンイエン
柴玲・チャイリン
蘇暁康・スーシャオカン
余英時・ユイインシー
杜維明・トゥウエイミン
阮銘・ユアンミン
趙蔚・ジャオウエイ
な ど 、 懐 か し い 名 が 見 え る 。 そ こ で つ い 気 を 入 れ て 読 む 。 ナ ー ン ダ 、 香 港 『 九 十 年 代 』( 九
一 年 六 月 号 、「 八 九 民 運 為 我 們 留 下 了 甚 麼 、 普 林 斯 頓 記 念 “ 六 四 ” 二 周 年 座 談 会 紀 要 」) と
五十歩、百歩。さあ、どちらの情報量が多いか。そこで気になるのは、論旨とは関わりな
く、下線部分。
こ こ ま で 読 ん で お 分 か り の 方 に は 、誠 に 申 し 訳 な い が 、や は り お 分 か り で な い 方 の た め に 、
蛇足を。悪友の鈴木博が『天安門よ、世界に語れ・六月四日、中国の危機と希望の現実』
( 社 会 思 想 社 、九 〇 年 七 月 刊 )を 訳 し た 。私 は「 解 説 」を 書 く ハ メ に な り 、丁 寧 に 読 ん だ 。
三人の著者の一人が阮銘であった。
英 語 の 本 を 読 む と 、死 角 に 気 づ く も の で す( つ い で に 書 く と 、
『 蒼 蒼 』三 八 号 で 紹 介 し た『 百
姓 』 記 念 号 の 白 眉 は 阮 銘 論 文 の は ず )。
こ れ だ け 縁 念 が あ れ ば 、間 違 え る は ず な し 。 ユ ア ン ミ ン で は な く て 、ル ァ ン・ミ ン で す ね 。
これは本人と会話して見れば、すぐ分かります。ミスター・ユアンなどと呼びかけたら、
先方は怪訝な顔をするでしょう。あるいはそこまで接近しなくとも、誰かがルァンの話は
面白いとか、ツマランとか言うはず。そういうコメントを耳で聞くのが、シンポに出る意
味じゃありませんかね。それにしても天安門事件二周年の日本のマスコミはほとんど「君
の 名 は 」 で し た ね ( 忘 却 と は 忘 れ 去 る こ と な り )。 こ れ で は 日 本 人 の 中 国 理 解 は 深 化 せ ず 、
一知半解のみ深化する、と小言幸兵衛は嘆くことしきり。
『 蒼 蒼 』 91 年 1 0 月 、 第 4 0 号 、 逆 耳 順 耳 、 海 部 総 理 の 歓 迎 の さ れ 方
次の数字の意味を半分解読できたならば、あなたはもう日本の外務大臣の秘書官ぐらいは
十分つとまるかもしれない。少なくともシャドウ・キャビネットなら請合いますよ。
1 中曾根康弘
矢吹晋『逆耳順耳』
六二・六%
104
一九八六年一一月九日
2 田中角栄
一九七二年九月二六日
3 中曾根康弘
一九八四年三月二四日
4 大平正芳
五四・五%
一九七九年一二月六日
5 海部俊樹
四四・一%
一九九一年八月一一日
6 鈴木善幸
四二・一%
一九八二年九月二七日
7 竹下登
五七・九%
五六・六%
三八・二%
一九八八年八月二六日
もったいぶらずにタネ明かしをすると、歴代日本総理の訪中を『人民日報』が報道した際
の 、コ ラ ム ・ ス ペ ー ス で あ る 。
『 人 民 日 報 』の 一 面 を モ ノ サ シ で 計 る と 、全 体 で 一 五 〇 五 平
方センチある。
これだけの面積のうち、わが歴代総理が占拠しえたのは、紙上(史上)最高の中曾根閣下
の場合で、約六割、最低は竹下閣下の四割弱である。そして、弱小派閥のためにいびられ
てかわいそうなトシキちゃん、下から数えて三番目、四割四分である。
信じられないという方のために、ナマの数字を示しておこう。
1 中曾根康弘
九四二平方センチ
2 田中角栄
八七二平方センチ
3 中曾根康弘
八五二平方センチ
4 大平正芳
八二〇平方センチ
5 海部俊樹
六六三平方センチ
6 鈴木善幸
六三三平方センチ
7 竹下登
五七四平方センチ
日本の新聞が最もミスリーディングなのは、総理の外国訪問記事ではあるまいか。総理に
同行する記者団は、政治部の中曾根番であり、海部番である。詳しい事情はよく分からな
いが、彼らは政治家にぴったりハリツイて、夜討ち、朝駆けの苦労を重ねて密着取材して
いる。
したがって、いつのまにか、感情移入して、竹下歓迎がいたれりつくせりであった。海部
歓迎は史上最高のもてなしであったという評価になる。彼らをあまり責めてはなるまい。
前 任 総 理 が ど の よ う に 歓 迎 さ れ た か を ほ と ん ど 知 ら ず 、比 較 す る す べ を も た な い の だ か ら 。
だからこそ、どの社にも調査部門があり、研究を怠らないタテマエだが、どの社もこのよ
うな部門は盲腸扱いだから、タテマエだけに終わる。
かくて日本の新聞を読むと、どの新聞を読んでも、史上最高の熱烈歓迎と相成る。
『 人 民 日 報 』が 総 理 訪 中 を ト ッ プ 記 事 で 報 じ た の は 、大 平 正 芳( 七 九 年 一 二 月 )、中 曾 根 康
弘 ( 八 四 年 三 月 )、 中 曾 根 康 弘 ( 八 六 年 一 一 月 ) の 三 回 だ け で あ る 。 で は 『 人 民 日 報 』 が 総
理訪中をトップ記事にしなかった際の、実際のトップ記事は何であったか。
1 田 中 角 栄( 七 二 年 九 月 )
「 わ が 国 は 黄 河 の 全 面 治 水 に お い て 巨 大 な 成 果 を 挙 げ た 」と 黄 河
治 水 を ト ッ プ に し て い る 。2 鈴 木 善 幸( 八 二 年 九 月 )
「 中 国 女 子 バ レ ー が 世 界 選 手 権 で 優 勝 」。
これはやはりナショナリズムからして大ニュースでしょうな。
矢吹晋『逆耳順耳』
105
3 竹 下 登( 八 八 年 八 月 )
「さらなる優遇政策をもって台湾同胞が開発するのを激励するため、
海 南 島 に 若 干 の 台 湾 投 資 地 区 を 設 け る 」。こ れ は 単 な る 政 策 発 表 だ か ら 、ニ ュ ー ス 性 に 乏 し
いはず。業界用語でいうヒマネタの代表ですな。
4 海 部 俊 樹 ( 九 一 年 八 月 )「 江 沢 民 、 李 鵬 が 香 港 マ カ オ の 災 害 救 援 慰 問 団 と 会 見 」。 今 年 の
水害は被害金額解放後最大のものでしたし、香港のチャリティ活動は目を見張るものがあ
りました。しかし、江沢民、李鵬の会見を八月一〇日に設定したのは、やはり故意にぶつ
けたものと解釈するほかありますまい(香港代表団は海部より、はるかに長く大陸にいた
の で す か ら )。
私の独断と偏見でいえば、これら四つの事例のうち、真にニュース性のあるのは、バレー
優勝だけである。あとは代表的なヒマネタである。日本の総理訪中に偶然重なったのでは
なく、意図的にぶつけたのである。
そこにこそ、中国政府の打算、計算、違和感、距離感、その他、その他がすべて込められ
ているわけである。
中曾根は総理として初めて靖国神社を参拝したりして、中国側からかなり警戒されていた
人物のはずだが、歴代一位、三位のスペースとは、何を意味するか。八四年三月の訪中で
は、第二次円借款四七〇〇億円を土産にしたし、宴会では盆踊りまで踊ってサービスにつ
とめた。八六年一一月訪中では、中日青年交流センターの鍬入れ式を行った。後者が史上
最高点を得たのは、中曾根・胡耀邦の「ロン・ヤス関係」中国版のためであろう。要する
に、反動中曾根にもかかわらず、中国の開放政策は当時ピークに達しており、日本を最も
熱烈に歓迎したのであった。
こ れ は 対 照 的 な の が 、ェ 八 年 八 月 の 竹 下 訪 中 で あ る 。第 三 次 円 借 款 八 一 〇 〇 億 円 也 を 手 土 産
に訪中したのだが、時は竹下に利しなかった。当時はまさに二桁インフレが銀行の取付け
騒ぎにまで発展し、インフレが政治問題化していた。八月の北戴河会議で価格改革の棚上
げ、経済調整への移行を決定し、九月の一三期三中全会で正式決定しようとしていた時期
である。竹下はインフレ騒ぎで戦々恐々しているところへ、インフレと結びつけられやす
い借款を持参したために、巨額の手土産にもかかわらず、歓迎されなかったわけである。
つまり、中国の当局者たちは、きわめて近視的な、中南海権力闘争のレベルで竹下をあし
らったことになる。
七二年の国交回復、田中訪中、これは初体験であり、慎重に考慮のすえに、黄河治水成功
の次に据えた。ただし、皮肉なことに、二〇年前に成功した黄河ではなく、今年は淮河、
揚子江の水害に悩まされ、海部はその慰問団のためにトップ記事になりそこねた。願わく
ば、今年のトップ記事も淮河、揚子江の治水成功であって欲しかった。
鄧小平時代の最初の年における大平訪中、これは上から数えても、下から数えても、ちょ
うど真ん中の四番目である。第一次円借款三三〇〇億円の手土産を用意し、鄧小平副主席
と「所得倍増計画問答」を行ったことはよく知られているが、このとき、鄧小平はまだ華
国鋒を抑えきれず、改革開放の政策はスタートしたばかりであった。このような事情が控
え目な歓迎ぶりをもたらしたものと考えられる。
矢吹晋『逆耳順耳』
106
鈴 木 善 幸 訪 中 、こ れ は 偶 然 総 理 に な っ て た ま た ま 訪 中 し 、帰 国 し た ら す ぐ 辞 め て し ま っ た 。
は な は だ 印 象 が 薄 い 総 理 の 訪 中 で あ っ た し 、当 時 は 教 科 書 問 題 で ギ ク シ ャ ク し て い た か ら 、
この得点は当然であろう。こう見てくると、この鈴木訪中よりも、竹下訪中(第三次円借
款)の扱いの小さいのが、目立つ。
その後、天安門事件に至る経緯に鑑みて、改革派趙紫陽に対する保守派の攻撃の冷箭が見
えるような気がする。
『 蒼 蒼 』 91 年 1 0 月 、 第 4 0 号 、 逆 耳 順 耳 、 現 金 嫌 い の 毛 沢 東
旧聞採録だが、毛沢東の最も嫌ったものは現金であると、衛士長李銀橋が証言している。
毛沢東は政敵蒋介石と握手することさえしたが、決してしなかったのは現金に触れること
(原文=摸銭)であった。延安時代にも、陝北転戦時代にも現金に触れたことはなく、都
市への入城後はなおさらそうであった。
陝北時代から警衛小隊の兵士として働き、毛沢東の北京入城まで護衛して除隊した老兵士
が、五〇年代のあるとき、生活が苦しいと訴えた手紙を毛沢東に宛てて書いた。毛沢東の
家計簿は月給部分については衛士長李銀橋が、原稿料部分については機要秘書が管理して
い た 。こ の と き は 李 銀 橋 が 、月 給 の 残 高 か ら 数 百 元 を と り だ し 、ハ ト ロ ン 紙 の 袋 に い れ た 。
ちょうど文件を読んでいる毛沢東に、李銀橋が中身をたしかめてもらおうと手渡したとこ
ろ、顔色が変わった。まるでガマ蛙にでも触れたかのように、とっさに紙袋を手放した。
「さっさと持って行け!
言 わ れ た 通 り に し ろ 。誰 が も っ て 来 い と 命 じ た か ! 」。毛 沢 東 は
眉 を し か め な が ら 、銭 袋 に 触 れ た 指 先 の け が れ を 払 う よ う な 仕 種 を し た 。
「私は現金にさわ
らぬ。二度とまちがうな!」
一九六四年の夏、李銀橋はすでに毛沢東のもとを離れ天津で働いていたが、北京を訪れた
際に毛沢東を尋ねた。李銀橋の村で火災のあったことを李銀橋が話したところ、さっそく
秘書に命じて原稿料のなかから一〇〇〇元とりださせた。
「 持 っ て い き な さ い 。困 難 を い く
ら か 解 決 で き よ う 」と 銭 袋 を も っ て い く よ う に と 遠 く か ら ジ ェ ス チ ャ ー で 示 し た 「
。いいえ、
主 席 、お 金 は 要 り ま せ ん 」と 李 銀 橋 。
「 何 だ と 、君 は 私 に 銭 袋 に ふ れ さ せ よ う と す る の か ! 」
と袋の端を摘む仕種をした。そこで李銀橋はあわてて一〇〇元いりの銭袋をうけとった。
それを見た毛沢東のいわく「それでよい。お前はまだ覚えているだろう。私は銭にさわら
ぬ こ と 、私 が 最 も 嫌 っ て い る の が 銭 で あ る こ と を 」
( 権 延 赤『 走 下 神 壇 的 毛 沢 東 』八 一 ~ 八
三 頁 )。
毛沢東はなぜ現金をかくも嫌ったのか。まさか商品・貨幣の廃絶を個人的に実行したわけ
でもあるまいが。哲学好き、経済学オンチと無関係ではあるまい。
『蒼蒼』91年12月、逆耳順耳、第41号、天安門事件の主役たちも認めたある事実
鈴 木 博(『 劉 賓 雁 自 伝 』の 訳 者 )の 送 っ て く れ た 雑 誌 コ ピ ー を あ る 感 慨 を も っ て 読 ん だ 。林
澄「 天 安 門 事 件 、パ リ 秘 密 会 議 の 全 容 」
『 現 代 』一 九 九 一 年 一 〇 月 号 で あ る 。柴 玲 、封 従 徳 、
李禄、張伯笠ら天安門事件の主役たち約四〇人が、ドイツ、アメリカ、カナダ、香港、日
矢吹晋『逆耳順耳』
107
本 な ど 八 カ 国 か ら パ リ に 集 ま り 、九 一 年 七 月 一 六 ~ 二 四 日 、
『八九年民主化運動の歴史的回
顧と反芻セミナー』を開いた経緯をルポしたもの。
この文章、ワサビが効いていてなかなえ読みごたえがある。たとえば「彼らが運動で果た
した役割の大きさを計る時、根拠にするのは中国政府が事件直後に発した“指名手配学生
運動家二一人”の順位である。……つまり、学生たちは自分たちの活躍度を中国政府の物
差しによって計り、それを尊重しているのだ。中国政府の欺瞞ぶりを攻撃する学生のあり
方 と し て 、あ る 意 味 で は 滑 稽 だ と も 言 え よ う 」。そ の 通 り で す ね 。か つ て 人 民 英 雄 記 念 碑 台
座のどの高さに陣取るかをめぐって争いがあったそうですが、権力者を雛壇に並べる序列
意 識 か ら「 反 体 制 分 子 」で さ え も 解 放 さ れ て い な い と い う の は 、興 味 あ る で と ご と で あ る 。
閑話休題。鈴木がわざわざ送ってくれたのは、次の一節のためである。
中見出しは「大量虐殺報道は事実無根」──六月四日の未明、天安門広場で虐殺があった
かどうか、に関して……伝聞や噂ではなく真実だけを述べるという鉄則に基づき、ほぼ全
員が自分自身で見たままを忠実に次のように再現したのだ。
「 あ の 日 、銃 剣 を 構 え て 戒 厳 軍
が戦車とともに広場に入って来た時、退去せよ!という命令を発して、解放軍は催涙弾を
発し威嚇射撃を行った。そして……最後まで広場に残っていた学生たちは命令にしたがっ
て 、全 員 が 撤 退 し た 」。天 安 門 広 場 へ 続 く 長 安 街 で は 至 る と こ ろ で 死 傷 者 が 出 た が 、広 場 内
部 で は 大 量 虐 殺 を 見 た 学 生 た ち は い な か っ た 。こ れ に よ り 、会 議 に 参 加 し た 学 生 た ち は「 天
安門広場での虐殺は目撃されなかった」点で一致した。そして、今まで盛んに西側で報道
されてきた「中国政府の大量虐殺の報道」は、推測に基づく誇大なもので「事実無根」だ
という共通認識を得たのだった。この共通認識は今回の会議の大きな収穫となった(同誌
三 一 五 頁 )。
これを読んで私はホッとした。というのは、天安門事件がいまや伝説化し始めたからであ
る。あるとき、ある場所で、私の本を読んだことのない司会者が聴衆に対して、私をこう
紹 介 し た 。「 こ の 方 は 、 天 安 門 広 場 で は 虐 殺 は な か っ た 、 と 主 張 し て お ら れ る 方 で す か ら 」
云々。
まるで奇矯な発言をする狂人か、あるいは珍奇なパンダでも扱うような態度である。私は
その場では、もはや訂正する意欲を失い、ただ苦笑するばかりであった。マスコミで流布
された情報に対する軌道修正がいかに困難かをいやというほど思い知らされたことであっ
た。
『蒼蒼』91年12月、逆耳順耳、第41号、老眼とワープロ辞書
最 近 書 い た 小 著『 毛 沢 東 と 周 恩 来 』
( 講 談 社 現 代 新 書 )の 冒 頭 で「 省 察 」と す べ き 箇 所 を「 省
祭 」と 誤 植 し て 、少 な か ら ぬ 知 人 か ら 叱 正 さ れ た(「 ま え が き 」だ け は よ く 読 ま れ る こ と が
判 明 ? )。弁 解 す る わ け で は な い が 、誤 植 の 第 一 の 犯 人 は O A S Y S 1 0 0 H の 辞 書 で あ る 。
「 せ い さ つ 」 を 転 換 す る と 「 省 祭 」 が 出 て き て 、「 省 察 」 は 出 て こ な い 。 念 の た め に 慣 用 の
誤読である「しょうさつ」を試みても、ダメ。辞書のミスである。最近はフロッピー入校
になっているので、そのまま活字に転換されてしまった。実は、ワープロ辞書の欠陥まで
矢吹晋『逆耳順耳』
108
気づいておりながら、修正を怠ったのは、第二に老眼のせいである。第三に電車の中など
で校正するものだから、直そうとした途端に駅に着いて、忘れてしまう(老眼というより
は ボ ケ の 問 題 か も ね )。
「 ボ ル シ ェ ビ キ 主 義 」 と 書 い た ら 、「 ボ リ シ ェ ビ キ 主 義 」 で は な い か と 指 摘 さ れ た 。
b o l s h e v i k i , b o l s h e v i z m か ら「 ボ ル シ ェ ビ キ 」と 表 記 さ れ 、ア ナ キ ズ ム と の「 ボ ル ・ ア ナ 」
論争が行われた経緯などは、かつてはよく知られていた。ロシア語の原典から資料を研究
する新ソビエト学が六〇年代、七〇年代に私と同世代の研究者たちによって勃興し、бо
льшевизмから「ボリシェヴィズム」と表記されるようになった。これは私の学生
時代の出来事なので、特に鮮明な記憶がある。
しかし、学界はともかくまだマスコミ界では市民権は得ていないと判断して今回はボルシ
ェ ビ キ と し た 。た と え ば『 朝 日 新 聞 の 用 語 の 手 び き 』
( 一 九 八 三 年 第 一 七 刷 )は「 ボ ル シ ェ
ビキ」としている。その友人は『広辞苑』では「ボリ」になっていると指摘したが、他の
辞書ではまだ「ボル」が多い。
「 ボ ル ・ ア ナ 」 論 争 が 「 ボ リ ・ ア ナ 」 論 争 で は し っ く り し な い と 思 う の は 、「 化 石 世 代 」 の
言語感覚かもしれない。
『蒼蒼』91年12月、逆耳順耳、第41号、中央九月来信問題に関わる日中学術交流
井岡山のゲリラ時代の文件に「中央九月来信」と俗称される資料がある。これは上海の周
恩来から井岡山の毛沢東のもとに届いた指示で、重要な史料である。
『周恩来選集・上』に収められた際に、愚劣にも(朱毛の対立を隠蔽しようとして)一部
が 削 除 さ れ て し ま っ た 。こ の 削 除 問 題 を 発 見 し た 中 共 党 史 研 究 者・村 田 忠 禧 氏 は 、ま ず『 中
国研究月報』
( 八 四 年 八 月 号 )で 指 摘 し 、つ い で「 一 九 二 九 年 の 毛 沢 東 」
(『 東 大 教 養 学 部 外
国 語 科 紀 要 』 三 四 巻 五 号 ) で 批 判 し た 。 私 は 前 者 を 読 ん で い た の で 、『 中 共 中 央 文 件 選 集 』
第五巻では削除箇所が復旧されているのに気づき、まず削除という愚劣な政治主義を批判
し、ついで「ようやく史料を史料として扱う態度が生まれたか」と補注に書き込んだ。
ところがこうしたややこしい説明は新書版にはなじまない。そのうえ原稿枚数は大幅に超
過したので、バッサリ削除した。しかし、なんとも悔しい。そこで一計を案じて「引用文
献一覧」を作り、削除した出典、本文などについて痕跡だけは残すために、巻末にリスト
を作った。こうして本文からは削除されたのに「引用文献」だけが生きているという奇妙
な箇所も現れた。単に身贔屓で文献を挙げたと誤解する向きもあるかもしれないが、原稿
段 階 で は す べ て 頁 数 ま で 明 記 し た 具 体 的 引 用 で あ る 。私 の 初 稿 に 対 し て 、
「 引 用 」と「 引 用 」
の間に著者の地の文があるみたいだと酷評し、これではまるで読者は鼻面を引き回されて
いることになる、と「引用退治」に辣腕を振るった若い編集者の見識で、読み易い本にな
ったわけだが、その過程で生じた「間接的引用」についての苦肉の策が正体不明の「引用
文献一覧」にほかならない。
いささかすっきりしない結末ではあるが、このモヤモヤを吹き飛ばすような朗報が北京旅
行から戻ったばかりの村田忠禧から届いた。中央党校の蓋軍教授が村田に説明したところ
矢吹晋『逆耳順耳』
109
によると、
『 周 恩 来 選 集 』で 削 除 し た「 朱 毛 問 題 」の 部 分 は 、日 本 の 学 者 村 田 忠 禧 教 授 の 指
摘を受けて『中共中央文件選集』第五巻において原件を復活した、由である。
この話にはもう一つおまけがつく。村田は某所で『中共中央文件選集』第五巻「党内版」
を確かめる機会を得たが、そこでは『周恩来選集』を見よ、と説明されていた。ここから
『 周 恩 来 選 集 』 = 『 文 件 選 集 ( 党 内 版 )』 と 『 文 件 選 集 ( 公 開 版 )』 の 異 同 を 確 認 で き る わ
け で あ る 。 こ こ で は 「 党 内 版 」 は 「 試 行 版 」 で あ り 、「 公 開 版 」 は 識 者 の 示 教 を 経 て 改 善 さ
れた形である。
中国の専門家からこう告げられた時の村田の得意を思うべし。村田にとっては「研究者冥
利 に 尽 き る 」こ と で あ ろ う し 、日 中 学 術 交 流 に と っ て は 、実 に 有 意 義 な 、真 に「 学 術 交 流 」
の名にふさわしい交流というべきである。交流の名において誤解の増幅が行われ、あるい
は学術の名において政治が行われている例は少なくない。こうした苦々しい風潮のもと、
書き留めて一服の清涼剤とする。以下は『毛沢東と周恩来』に対する村田忠禧の批判的コ
メ ン ト で あ る 。─ ─ エ ピ ソ ー ド の 紹 介 の 類 が 多 す ぎ る 気 が し ま す 。
「 現 代 新 書 」と い う 性 格
も あ る の で 、や む を え な い こ と な の か も 知 れ ま せ ん し 、そ れ ら は 確 か に 面 白 い 内 容 で す が 、
限られた枚数であるにもかかわらず、それらの部分が占める割合が多すぎ、本来明らかに
すべき毛沢東と周恩来の関係が充分に明らかにされているとは思えません。たとえば前述
の九月来信前後の事柄ですが、これは近年の中共党史研究の重大成果と私は今でも思って
いることで、いわゆる毛沢東の農村から都市を包囲する革命戦略の形成に周恩来が果たし
た役割について、中国で優れた研究成果および資料が公開されたことが挙げられます。寧
都会議についての研究についても同様のことがいえます。遵義会議についても、もう少し
突っ込んだ紹介が欲しかった気がします。
また延安期の毛沢東と周恩来の関係についてはほとんど省略されていることとか、彭徳懐
解任のころから、周恩来が基本的に毛沢東に従順になってしまった、というご指摘はその
通 り と も い え ま す が 、さ り と て 六 二 年 前 後 の「 調 整 期 」、こ と に 文 芸 政 策 な ど を 見 る と 、周
恩来らはかなり明確な認識をもって毛沢東がもたらした極左思想を是正しようとしており、
だ か ら こ そ 六 二 年 夏 以 降 、 毛 沢 東 が 反 撃 し た と 思 わ れ る の で す ( 以 下 、 割 愛 )。
納得。党史専門家よ、早くモノグラフを書いてド素人を啓発して下さい。
『 蒼 蒼 』第 4 2 号、9 2 年 2 月 、煽 情 主 義 の 陥 穽 ─ ─ N H K 林 彪 事 件 の お 粗 末 取 材 を 叱 る
九 一 年 暮 の 某 日 、N H K の デ ィ レ ク タ ー 氏 か ら 電 話 が あ り 、
「 林 彪 搭 乗 機 の 墜 落 現 場 」を 取
材したフィルムが届いたので、コメントが欲しいとのこと。現場の証言によると、林彪や
葉群らしい人物がいなかったという。そこで中国側発表に改めて疑問符がついた、といっ
た趣旨の説明をした。
またか、といささかうんざりした。私が『読売新聞』に一文を草したのは、八八年九月一
六日(拙著『ペキノロジー:世紀末中国事情』一〇五~一一一頁)だが、その後、同紙は
墜落現場の写真を掲載し、搭乗問題をむしかえした。さらにイギリスの新聞も、モンゴル
当局者の談話としてむしかえしている。その都度私は、私の分析なり、中国側の記録を読
矢吹晋『逆耳順耳』
110
むべしと繰り返してきた。
私 が こ こ で 指 し て い る の は 、符 浩( 当 時 外 交 部 共 産 党 核 心 小 組 成 員 )、許 文 益( モ ン ゴ ル 駐
在 中 国 大 使 )、孫 一 先( 大 使 館 館 員 )ら の 記 録 で あ る 。こ れ は 八 八 年 の 時 点 で は『 党 的 文 献 』
(中共中央文献研究室
編)という内部刊行物でしか読めなかったが、いまは『中共党史
風雲録』
( 九 〇 年 五 月 、人 民 出 版 社 )に 収 め ら れ て お り 、誰 で も 入 手 で き る よ う に な っ た(『 林
彪 秘 書 回 想 録 』 蒼 蒼 社 刊 の 付 録 と し て 八 九 年 五 月 に 邦 訳 さ れ て い る )。
林彪の「搭乗問題」は二〇年来のものだが、上述の三記録で基本的に解決されたと私は分
析 し て い る 。「 も し そ れ で も 疑 う の な ら 、 ウ ン デ ル ハ ン の 遺 体 を 掘 り 起 こ し て ご 覧 な さ い 。
そ し て ソ 連 の 病 院 か ら 林 彪 の カ ル テ を 持 ち 出 し て 調 べ る こ と 」「 も し 遺 体 が 林 彪 の カ ル テ
と符合しなかったら、中国政府は面目まるつぶれですな。現場は中国政府の主権の及ばな
い 外 国 だ か ら 、 や ろ う と す れ ば 可 能 な の で す よ 」。
電 話 口 の 相 手 は 、半 時 間 程 度 の 応 答 の な か で 期 待 し た コ メ ン ト が 得 ら れ ず 、残 念 そ う な( ? )
口振りであった。私はてっきり、この企画は断念したものと思った。
ところが翌日、ディレクター氏がカメラマンとともに拙宅を訪れた。あらかじめ電話を受
けていたので、資料を数冊用意して待ち構えた。
ただ、取材の意図がどうも腑に落ちないので、改めて事件当時の中国内政と中ソ関係、米
中関係など関連状況を説明し、林彪の「不搭乗説」の根拠薄弱なゆえんを説いた後、半時
間 程 度 の ビ デ オ を 収 録 し た ( 放 送 時 間 は 三 〇 秒 )。
私のコメントの要点は、周恩来が用意周到に超秘密外交を展開し、自国の許文益大使にさ
え林彪の遺体であることを秘匿したまま埋葬させており、モンゴル側が埋葬の時点で遺体
に疑惑を抱いた形跡はきわめて薄い、というものである。
当時、モンゴル側の主たる関心は中国「軍用機」の領空侵犯問題であった。彼らはこれを
厳しく非難し、どのような経緯でなぜ軍用機がモンゴルに侵入したのかの釈明を求めてい
た 。 許 文 益 大 使 は 本 国 ( 周 恩 来 ・ 符 浩 ) の 指 示 に し た が っ て 、「 軍 用 機 で は な く 民 航 機 」 で
あり、単に進路を誤ったものと繰り返すのみ、不得要領の説明しかできなかった。
国慶節のパレード中止発表(九月二二日)や中国民航機を含めて全航空機の離陸禁止措置
(九月一二日深夜から数日間続いた)などから全世界のマスコミが中国情勢を注視し始め
たのは、遺体を埋めてしばらくしてからのことである。
中国側の曖昧極まる説明に業を煮やしたモンゴル側は、中国側にゆさぶりをかけるために
九月三〇日党機関紙『ウネン』に中国軍用機の墜落を簡単に報じた。同日、モスクワでも
タ ス 通 信 が 同 じ ニ ュ ー ス を 流 し 、『 プ ラ ウ ダ 』 と 『 イ ズ ベ ス チ ャ 』 も 転 載 し た 。 い わ く 「 こ
の悲劇的事件の原因は不明である。事件の現場で、九人の黒焦げの焼死体、武器、文書、
備 品 が 発 見 さ れ た が 、 こ れ に よ る と 墜 落 機 は 空 軍 所 属 の も の で あ る 」。
中国側はモンゴル当局の一方的発表を遺憾として、以後この問題についての協議を中断し
た ( こ う し て 中 国 側 は 窮 地 を 逃 れ 、 モ ン ゴ ル 側 に は 不 信 感 が 残 さ れ た )。
当時は、中ソ武力対決ムードがピークに達していたときである。中国側はパレード中止の
理由として、
「 ソ 連 が 戦 争 を し か け て く る 危 険 性 」を 示 唆 し た 。モ ス ク ワ は こ れ に 対 し て 皮
矢吹晋『逆耳順耳』
111
肉たっぷりなコメントで応酬した。
中ソの言論戦のなかで、浮きつ、沈みつした亡霊こそが林彪不搭乗説にほかならない。し
たがって、この「亡霊」を沈めるために最も重要なことは、モンゴル当局の資料を徹底的
に取材することである。
まず第一は、中国側が林彪や葉群の遺体として発表したものと同一あるいは同一に近い写
真 を モ ン ゴ ル 側 が 写 し て い る か ど う か を 国 立 公 文 書 館( ? )あ た り で 調 べ る こ と で あ る( ほ
ん と う は 、 こ れ で ほ ぼ 決 着 が つ く で し ょ う )。
第 二 は 、 モ ン ゴ ル 側 の い わ ゆ る 「 目 撃 者 」「 証 言 者 」「 法 医 学 者 」 が 遺 体 を ど の 程 度 詳 細 に
検屍したのかを当時の記録から調べることである。同時に彼らが林彪グループの成員につ
いて検屍時点でどの程度の知識をもっていたかも調べる必要がある。検屍が不十分であっ
たか、あるいはソ連との同盟関係のもとで真相を故意に曖昧に残した可能性が強い。いず
れにせよ、これは「仮想敵・中国の過失」すなわち「敵失」なのであるから、国際政治の
場で宣伝に利用できれば十分なのだ。彼らの関心は真相究明にはないとみてよい。
状況をこのように分析してくると、この番組をデッチあげたNC21取材陣(キャスター
は 元 北 京 支 局 長 園 田 矢 氏 )の お 粗 末 ぶ り が 馬 脚 を 現 す 。
「 テ レ ビ・カ メ ラ と し て 初 め て 現 場
を映した」と煽るだけで、基本的な取材を全く怠っているのである。早い話が、現場に行
きながら、墓標(あるいはかつて墓標の立っていたところ)一つ映していない。そこに埋
葬されているはずの九つの遺体に全く関心を示していないのは、きわめて異様である。も
し、非林彪説をとるのならば、では遺体は誰のものかという疑問が出てくるはずだ。
推測でものを語る「ジャーナリスト」氏に、中国側の発表した林彪遺体写真が間違いなく
林 彪 の も の だ と 語 ら せ る 前 に 、「 証 言 者 」「 法 医 学 者 」 に こ れ ら の 写 真 の 識 別 を 取 材 す る の
がスジであろう。この番組の取材陣がこれらの最も基本的な取材を放棄しているのは、は
なはだ不可解である。
こうした安易な取材態度は、真相究明の姿勢とはとうて言えない。NC21はNHKの看
板番組の一つであり、これを見た視聴者からいくつか問い合わせがあったので、愚見を書
きとめておく。
『蒼蒼』第42号、92年2月、内山書店『中国図書』一二月号を褒める
「 学 術 動 態 ・ チ ベ ッ ト の 歴 史 と 現 状 を め ぐ っ て 」( 月 刊 『 中 国 図 書 』 一 九 九 一 年 一 二 月 号 )
を読んで、啓発されるところ多かった。若干の抜き書きをしておく。
九 一 年 三 月 一 七 ~ 一 九 日 、北 京 で「 チ ベ ッ ト:歴 史 と 現 状 」と 題 し た「 学 術 」
(カッコ付き)
討 論 会 が 行 わ れ た 。こ れ は 中 国 社 会 科 学 雑 誌 社 と 中 国 蔵 学 雑 誌 社 の 共 催 で 開 か れ た も の で 、
記 録 は 『 中 国 社 会 科 学 』( 九 一 年 四 期 ) に 掲 げ ら れ て い る 。
論 点 1 中 国 の 最 大 版 図 問 題 。清 朝 が 統 一 を 完 成 し て か ら 帝 国 主 義 の 侵 略 が 始 ま る 前 の 清 朝
の版図。すなわち一八世紀四〇年代からアヘン戦争以前の版図を版図とする。これは復旦
大学の地理学者譚其驤が一九八一年に提起した説である。
論点 2 チベットと中国の歴史的関係。一二四七年、蒙古汗国とチベットの宗教指導者との
矢吹晋『逆耳順耳』
112
間で平和協定が結ばれ、チベットは平和的に(?)蒙古に帰順した。のち、フビライが南
宋を攻め、国号を元と改め、チベット地方を元朝中央政府管轄下の一行政区とし、一二六
四年、仏教と地方行政の事務を総管する総政院をおいて主権を行使したことで確認される
とする。以後明朝、清朝はこれを踏襲した。
論点 3 国家は完全な主権をもって初めて経済を発展させ、人民の声明、財産を保護し、人
民の基本的人権を守ることができる。それゆえ、人権原則は主権原則に従属する。人権の
名において主権原則を破り、内政に干渉することは許されない。
論点 4 民族自決権の問題。民族自決権を享有する民族とは、植民地あるいは非自治領土の
人民および主権国家を指す。中国内部の少数民族は、ここでいう「民族」に含まれない。
このようにチベット問題を考えるいくつかの基本的視点を紹介したのち、一言、鋭くこう
コメントする。
「 こ れ ら の す べ て の 問 題 の 討 議 に 欠 け て い る の は 、チ ベ ッ ト の 人 び と が 、実
際 に ど う 思 っ て い る か と い う こ と で あ る 」。
そして最後にトドメの一発。
「 学 術 と 政 治 は 密 接 な 関 係 が あ る が 、政 治 の 宣 伝 物 に な っ た も
の は 学 術 で は な い 」。
筆者名は伏せてあるので、どなたか知らぬが素晴らしい見識である。この論者に中国チベ
ット関係の過去・現在・未来を書いてほしいものだ。
な お 、こ の 雑 誌 に『 客 家 学 研 究 』第 二 輯( 呉 沢 主 編 、上 海 人 民 出 版 社 )も 紹 介 さ れ て お り 、
これも意義のある紹介だ。これらの知見を踏まえて、某現代新書『客家』の誤謬を速やか
に訂正してほしいですな。李鵬は客家であるから鄧小平と血でつながっているなどという
俗論を早く退治してほしい。私は度々質問されて閉口している。
『蒼蒼』第43号、92年4月、何新騒動その後──理性を回復した全国政協執行部
勤務先の研究会にあるベトナム人研究者(ゴォ・ホワ氏、国際問題研究所研究員)を招い
て、話を聞く機会があった。名刺を差し出して、ヤブキだと名乗ったところ、先方は中国
専門家のススムかと確かめる。そうだ、ヤブキ・ススムだと答える。やはりそうか、かつ
て『人民日報』で対談を読んだ、ベトナム語に翻訳されたのだと説明し、人なつこい微笑
を浮かべた。
『 人 民 日 報 』の S 教 授 か ら ス ス ム と 読 ん だ の か 、そ れ と も 、同 姓 が あ ま り に も
多いので、ファースト・ネームを呼ぶベトナム流の慣行にしたがったのか聞きもらした。
Sは中国語読みの矢吹のイニシャルだと説明した。傍らの若い同僚がプロフェサー・ヤブ
キ は 有 名 な の だ と 私 を 冷 や か す( 有 名 と い う よ り は 、悪 名 、虚 名 の 類 だ ろ う ね )。
このへ
んまでは外交辞令で和やかである。実はあの「対談」は偽造なのだ、私は抗議したが、そ
れを知っているかと聞くと、否、である。私は途端に複雑な心境に陥る。天安門事件以後
の孤立に悩む中国の立場は理解できるが、狭隘な民族主義の殻に籠もり、反米愛国を説く
何新流の「新保守主義」に私は全く否定的である。そこからは何も生まれない。中国がま
すます孤立を深め、世界とのギャップを拡大するだけだ。ベトナムの友人たちは、なぜ何
新のものなぞを訳し、どのようにそれを読んだのであろうか。一方でアセアンとの協調、
西側世界との交流の回復を望みながらも、ベトナム戦争の後遺症はあまりにも大きく、急
矢吹晋『逆耳順耳』
113
激な転換はできない。こうした孤立感覚と開放政策への模索との揺らぎのなか、中国にお
ける開放政策の試行錯誤、すなわち天安門事件から何らかの教訓を引き出そうとしてのこ
とではなかったか。
何 新 対 談 の な か で 、私 は ほ と ん ど「 ウ ス ノ ロ 」み た い な 応 答 し か し て い な い 形 だ が(『 百 姓 』
社 長 陸 鏗 の 表 現 )、 文 字 面 を 読 め ば 私 自 身 に は 迷 惑 な 話 だ が 、 孤 立 化 さ せ ら れ た 中 国 な り 、
ベトナムに深く同情した「友人」の発言になるのであろう。研究会の終了後、中華街で放
談できる機会があったのだが、残念無念、先約のため都内へ向かった。電車のなかで、ふ
と連想したのは、旧ソ連のチフヴィンスキー老(ロシア中国史学界長老、科学アカデミー
通信会員)との会話であった。私は天安門広場での死者の問題を語ったのだが、彼は私の
言い分を全面的に了解し、その通りだろうとうなずいた。私は拍子抜けした。日本ではテ
レビ映像の衝撃力があまりにも強く、その軌道修正はいまだに出来ていない。迂闊であっ
たが、毛沢東、周恩来の建国式典を天安門楼上で身近かに実見した旧ソ連大使館員チフヴ
ィンスキーにとって、西側の映像の魔術は最初から存在しないのであった。歴史の大きな
過渡期にあって、ある時は説明を要するまでもなく、外国人と容易に相互理解が出来るの
に、同国人との意思疎通が絶望的なほど困難な場合もある。
とりとめない感慨にふけりながら、三菱総研の編集会議に顔を出したところ、中国人のW
君 が 香 港 『 文 匯 報 』( 九 二 年 三 月 一 七 日 付 ) の コ ピ ー を 見 せ て く れ た 。「 政 協 議 案 提 案 委 員
会が徐四民に回答──何新提案は議案たりえず。香港マスコミ追及提案は何新氏に返却」
と見出しにある。話はこうである。九一年五月二八日、全国政協委員に選ばれたばかりの
何 新 は 、委 員 と し て「 香 港 マ ス コ ミ が 中 国 公 民 に 人 格 誹 謗 を 行 っ た 法 律 的 責 任 を 追 及 せ よ 」
と問題提起した。これに対して、香港マスコミが猛反発したことはいうまでもない。たと
え ば 香 港『 鏡 報 』は 私 に も コ メ ン ト を 求 め て き た
(「 矢 吹 晋 談 何 新 現 象 」九 一 年 八 月 号 )。
何新は『鏡報』編集部および同社長徐四民にも、昨年夏に恫喝書簡を送りつけていた。そ
こで徐四民は今年の政協の会議に先立って二月一二日、全国政協弁公庁提案委員会責任者
に何新提案の扱いを問い合わせていた。三月一五日、同委員会は徐四民に返答して、いわ
く──
何 新 提 案 は す で に 本 人 に 返 却 し た 。何 新 の 提 案 は 全 国 政 協 の 提 案 手 続 き に 合 致 し て い な い 。
提案用紙に書かれていないだけでなく、また彼の提案は「扱いようがなく、扱いにくく、
う ま く 扱 え な い 」( 原 文 = 没 法 弁 、 不 容 易 弁 、 不 好 弁 )。 そ の 後 、 何 新 は 何 も 言 っ て き て い
な い 。徐 四 民 は こ の 回 答 に 満 足 の 意 を 表 明 し 、さ ら に 香 港 マ ス コ ミ の 同 業 者 も こ れ を 喜 び 、
安心したと語った──。
何新は相手を侮辱するために、わざとトイレット・ペーパーに手紙を書いたことがある。
今回はまさかこんな書き方をしたわけではあるまいが、正規の「提案用紙」を用いなかっ
たという。小著『保守派vs改革派』の読者ならよくお分りのように、全国政協委員徐四
民 を 社 長 と す る こ の 雑 誌 は 、何 新 捏 造 対 談 の 非 を な ら し 、
「何新風波と袁木の計算違い」
(九
一 年 一 月 号 )を 報 じ 、
「 政 協 委 員 に 摯 竄 ウれ た 何 新 の 出 世 秘 史 」
( 九 一 年 四 月 号 )で 何 新 の 異
例 の 昇 進 の 秘 密 を 暴 き 、「 鏡 報 編 者 の 北 京 の 何 新 へ の 回 答 」( 九 一 年 七 月 号 ) に お い て 毅 然
矢吹晋『逆耳順耳』
114
た る 態 度 を 示 し た 。一 貫 し て 何 新・保 守 派 側 を 批 判 し 、私 に も 発 言 の 機 会 を 与 え て く れ た 。
スジを通す、こうした態度は、日本のマスコミの日和見あるいは黙殺と格好の対照をなし
ている。日本側の及び腰は、特派員という人質を北京にとられたためか、といやみを言い
たくなるほどだ。念のために繰り返すが、私憤で書いているのではない。私憤がないわけ
はないが、大義に支えられる公憤だから書くのだ。つまり中国共産党といかにつきあうか
という基本姿勢にかかわる問題だからこそ、あえて書きとめておくのである。
さて北京の保守派は、ゴロツキものかきをいきなり政協全国委員に抜擢し、政協の場を通
じて香港マスコミを恫喝したものの、反発を買っただけ。ほぼ一〇カ月後になってようや
く、その非を認めた。中国の政治の不可解さ、不透明さを示す一例にほかならない。徐四
民勝利、香港マスコミ完勝という結果は、北京の春を告げるニュースであることは確かで
ある。むろん、春節の小平パフォーマンスの一つの余波でもあろう。しかし、これで保守
派 vs 改 革 派 の 権 力 闘 争 は 終 わ っ た わ け で は な く 、 ま だ ま だ 第 一 ラ ウ ン ド が 終 わ っ た に す
ぎまい。
こ こ ま で 書 い た と こ ろ で 、香 港 中 文 大 学 の 樫 村 富 士 男 氏 か ら フ ァ ッ ク ス が 届 い た 。香 港『 明
報』三月一九日付の小さな記事である。
──徐四民の「誹謗」に対して何新は追及の権利を保留する、というタイトルである。何
新は政協の開会式に出席した後、
『 明 報 』記 者 の 質 問 に こ う 答 え た 。
「提案が受理されな
かったのは、現時点で法律管轄上の技術的困難のためである。当面はこの問題について再
提 案 す る つ も り は な い が 、事 柄 は ま だ 終 わ っ た わ け で は な い 」。
要 す る に 、悔 い 改 め な い
悪党である。何新のような権力の犬?にのみ言論の自由が保障され、政治の民主化を願う
知識人たちには保障されていない事実は、現在の中国の民主化の程度を雄弁に物語ってい
る。
『 蒼 蒼 』 第 4 3 号 、 9 2 年 4 月 、 杜 撰 極 ま る 『 世 界 経 済 白 書 』( 平 成 三 年
版)中国の項
日中国交正常化二〇周年、ギョーカイへの新規参入が目立つ。新入イジメのつもりはない
が、ギョーカイのルール(というほどでもないが)を手ほどきしよう。
同白書資料篇二二三頁に中国地図がある。各省・市・自治区や地名のミスをいくつか。海
南省がみなしごハッチみたいに置かれているが、これは中南地区に属すはず。長江に
Z h a n j i a n g と ピ ン イ ン が つ い て い る が 、C h a n g j i a n g で あ る 。Z と C 、a n と a n g の 違 い
を教えることにかなりの時間を費やしている中国語教師はこういうミスは断じて見逃さな
い。地図では「ミン南開発区」とあり、説明には「南デルタ」とある。南(ルビ・ビンナ
ン ) で 統 一 す べ し 。 日 本 語 の 音 「 ビ ン 」 を 調 べ る た め に は 、 白 石 和 良 方 式 を 学 ぶ べ し (『 蒼
蒼 』4 1 ~ 4 2 号 )。と こ ろ で「 南 デ ル タ 」な る も の は あ る か 。州・厦 門 は 九 竜 江 の デ ル タ 、
泉 州 は 晋 江 の デ ル タ だ が 、 両 者 を ま と め る と き は 通 常 「 南 三 角 区 」 と は い う が 、「 三 角 州 」
(デルタ)とはいわない。長江デルタや珠江デルタとは異なる。
二 二 二 頁 に 「 中 国 の 行 政 機 関 」 の 表 が あ る 。 楊 尚 昆 、 楊 泰 芳 ( 郵 電 部 部 長 )、 楊 振 懐 ( 水 利
部部長)など楊姓がすべて揚子江の揚になっている。秦基偉、鄒家華、李鉄映、宋健、王
矢吹晋『逆耳順耳』
115
丙乾など超有名人なのに、彼らの生年欄が空白になっている。これは三菱・ハンドブック
で 手 軽 に 分 か る の に (『 中 国 情 報 人 物 事 典 』 を 引 く ま で も な く )。 銭 其 琛 ( 外 交 部 部 長 ) に
至 っ て は 、「 」 が 行 方 不 明 で あ る 。 こ れ は 失 礼 で す な 。
白書本篇三四三頁(資料篇四三六頁にも再録)に「中国の郷鎮企業の推移」なるグラフが
ある。そこで「工業総生産に占める郷鎮企業の生産シェア」が八九年に三三・七%と示さ
れ て い る 。こ こ で は 比 較 不 可 能 な も の を 比 較 す る 誤 り を 犯 し て い る 。
「 工 業 総 生 産 」と 比 較
できるのは、
「 郷 鎮 企 業 の な か の 工 業 生 産 」の は ず 。八 九 年 の 工 業 総 生 産 は 二 兆 二 〇 一 七 億
元であり、郷鎮企業の工業生産は五二四四億元であるから、この比率は三三・七%ではな
く、二三・八%になる。では「国営企業のシェア」を六六・三%から七二・二%に改めれ
ば、それでよいのか。国営企業というのは、全人民所有制と同義だが、これに対比される
の は 、1 都 市 集 団 所 有 制 、2 都 市 の 個 体 所 有 制 、3 農 村 の 集 団 所 有 制 、4 農 村 の 個 体 所 有 制 、
5 そ の 他 の 所 有 制 ( 合 弁 企 業 な ど )、 で あ る 。 郷 鎮 工 業 ( 3 4 ) の 残 り の 部 分 は 、 国 営 企 業 の
ほかに、都市集団・個体所有制、その他所有制が含まれる。
『蒼蒼』第44号、92年6月、私のワープロ体験
私が初めてワープロに触れたのは、一九八二年のことである。勤務先で(おそらくは予算
が 残 っ た の で )、 一 台 買 い 入 れ た 。 シ ャ ー プ 書 院 で あ っ た 。 好 奇 心 か ら 早 速 い た ず ら し た 。
翌八三年に故スラトコフスキー老に招かれて旧ソ連科学アカデミー極東研究所を訪問した
際に、ワープロで作成したハンドメイドの名刺を持参した。はなはだ粗末な「名刺」であ
ったが、メイド・インCCCP(USSR)の名刺も相当に粗末であり、あまり見劣りは
しないと当時は思った。しかしいま同じものを作る気はまったくない。その後レーザー・
プリンターなどを含めて、この分野の技術革新はまことにめざましく、隔世の感がある。
初めて自宅に届いたワープロは、蒼蒼社が使ってお払い箱になったNEC文豪である。八
六年夏、オアシス一〇〇Hを求めたことがワープロ本格使用の記念すべき時となった。八
九年暮オアシス三〇ADを買い、九〇年暮FMタウンズ二Fを買った。
八〇年代後半から天安門事件前後原稿を大量に生産(粗製濫造?)したが、すべて一〇〇
Hに打ち込んだもの、とうの昔に減価償却は済んだと思う。ただし三〇ADとFMタウン
ズはほとんど使わず、これまでのところ過剰投資(あるいは先行投資)のきらいが濃厚で
あった。
さて、旧臘から懸案の『図説・中国経
済』にとりかかった。三月五日は勤務先のB日程
入試であり、その後は採点などがある。そこで期末試験の後、入試前の一カ月足らず、集
中的にグラフ作りに精を出した。入試の前日、蒼蒼社へ届けようとして(完成したわけで
はないが、ひとまずレーザープリントしてもらうために)ディスク文書を三枚のフロッピ
ーに複写している過程で大事故が起こった。
三枚中、なんと二枚のフロッピーが完全に意味不明文字の羅列に化けてしまったのである
( 当 初 は 一 枚 だ け と 思 っ た が 、そ の 後 プ リ ン ト し て み る と 、被 害 は 二 枚 に 及 ん で い た )。当
時はコンピューター・ウィルス(ミケランジェロ)が騒がれていたが、むろんパソコン通
矢吹晋『逆耳順耳』
116
信はそのときやっておらず、原因は異なる。
私の素人考えでは、ワープロは概して
「横拡張文書」に弱い。グラフ作りのためには、
これを頻繁に使う。グラフ作成の場合は図形モードになるが、ここで図形削除ではなく、
通常の文書削除をやったために、カスが残った、そのカスが「横拡張」のアキレス腱を通
じて全文書に連鎖反応を起こしたのではないかというのが素人の自己診断である。
五年以上も使っているから、オアシスには相当慣れており、通常の操作を誤るほどの初心
者ではないつもりである。原因はともかく、これには参った。失われた二枚のフロッピー
のうち一枚はペーパー・コピーがあったので、助かった(もう一度グラフ作りをやればよ
い)が、もう一枚はペーパー・コピーがなかった。なにしろ、グラフ印刷は時間がかかる
ので、つい省略しがちである。その間隙をつかれた。いずれにせよ、入試前に骨組みを作
っておこうと先を急いでいた時の事故であった。
落胆することしばし、春休みになってまた作業を始めたが、とかく「釣り落とした魚」は
大きいもの。悔やむこと少なからず。折に触れてノート代わりに書きつけておいたメモ類
などは惜しいが、もはや断念した。
頭 が 混 乱 し た 原 因 の 一 つ は 、グ ラ フ 作 成 の 際 の 一 〇 〇 H の 反 応 の 遅 さ に あ る こ と に 気 づ き 、
早速わがワープロ指南役村田忠禧先生の示唆を受けて、埃をかぶっていたFMタウンズの
ワープロソフトを買ったのが、春分の日。ハードディスクの中にそれまでに作成したグラ
フ 、 文 書 類 を ぶ ち 込 ん だ と こ ろ 、 四 〇 字 二 万 行 程 度 で あ っ た ( 四 〇 〇 字 二 〇 〇 〇 枚 相 当 )。
さしあたり設定した容量は一〇メガバイトであり、まだこの三倍程度は容量があるので、
まことに頼もしい(実は一〇〇Hではディスク容量がしばしば満杯になり、これをフロッ
ピ ー に 写 し て い る う ち に 事 故 に 遇 っ た )。
しかもいきなり図形モードのグラフとして現れるので、その反応の機敏さにすっかり魅せ
られ、三~四月、連日パソコンに取り組んだ。
だが、好事、魔多し。天に不測の風雲あり。四月半ばから時々カーソルがハングするよう
に な っ た 。ワ ー プ ロ 博 士 に 電 話 相 談 し て「 作 成 更 新 作 業 域 管 理 」で ゴ ミ を 掃 除 し て み た り 、
立川のサービス・センターに問い合わせて、フロッピー挿入口をクリーニングしたが、や
はりダメ。ついに立川経由──横浜のサービス・センターが修理のため工場へ運んだのが
五月二日のこと。節句働きの者にとってのいまいましい連休もあり、待つこと三週間、工
場からの返事は「故障なし」の由。私は絶句した(この衝撃、ホントに大きかった。パソ
コ ン の 故 障 で は な く 、 私 の 頭 が 故 障 し た か と 錯 覚 し た ほ ど で あ る )。
ワ 月 二 三 日 、午 後 F M タ ウ ン ズ は 届 い た が 、こ れ は ち ゃ ん と 直 っ て い た 。実 は 良 心 的 な 横 浜
のサービスマンが、スイッチを入れて一時間程度でハング状態になることに気づき、配送
当日の朝ようやくメイン・ボードの交換によってハング問題を一転解決してくれたのであ
った。オバケの登場からタウンズ故障まで、三~五月は、まったくトラブル続きで閉口し
た が 、 こ れ で 山 は 越 え た 。『 図 説 』 出 版 の メ ド が よ う や く つ い た 。
『蒼蒼』第44号、92年6月、所得ランキング
矢吹晋『逆耳順耳』
117
かつて竹内実一座が原点をたずねる旅と銘打って中国を旅行したとき、ある中国人が真顔
でこう言った。蒼蒼社は日本では岩波書店に次いで二番目に有名な出版社ですね。いい本
を出しています。なるほど、中国語で『毛沢東集』全二〇巻を出すような採算を当初から
無視したカイシャは、資本主義社会ではパンダ並みの珍しさだろうね。しかもこれまでの
ところ、いかなる団体からも補助金の類をもらっていないらしい。これはある意味では日
本の文化政策の貧しさを示すが、別の面では高さを証明しているともいえる。つまり、本
を買うことによって蒼蒼社のプリンシプルを支えた読者が存在して初めて可能だったから
である。この種の消費者による選択、消費者が創造する生産こそが資本主義経済の活力の
源泉であることに気づきつつも、中国ではご存じの政治的理由からまるで逆の出版政策を
展開している。とりわけ天安門事件以後、きびしい統制が続いている。事件以前の本か、
以 後 の 本 か を 区 別 す る 最 も 簡 便 な 方 法 は 「 京 新 登 字 ×××号 」 な ど の ナ ン バ ー の 有 無 で あ
る。これは事件以後、出版社登録をやり直したことを示している。
さて、旅の途中での件の見当違いのコメントはしばらくの間、われわれの間で大流行し、
一種の挨拶代わりに使われたほどであった。外国理解の浅薄さというのは、まあこんなも
のなのだろうねぇ、という自嘲やら、わが意を得たりのにんまり、さまざまの顔を乗せて
旅は進んだ。
数年前のジョーダンをふと想起したのは、
『 週 刊 東 洋 経 済 』一 九 九 二 年 五 月 三 〇 日 号 の「 九
二年版申告所得ランキング」を見て驚いたからである。業種別ランキングに出版の項が見
える。九一年の所得番付表で眺めると、岩波書店はなんと二二一位である。まさか、と思
ってリストを眺め返してみると、こんな名が目につく──
1 リ ク ル ー ト 六 二 二 ・ 三 四 億 円 、こ れ は い わ ば 不 動 産 業 だ か ら 別 格 。2 講 談 社 一 九 七 ・ 三 三
億 円 、3 集 英 社 一 八 三 ・ 〇 一 億 円 、 4 小 学 館 一 六 八 ・ 〇 六 億 円 、こ れ ら は マ ン ガ 文 化 の お か
げによるところが大きいのであろう。5 福武書店一一三・七五億円、これは受験指導の会
社と聞く。
11 文 芸 春 秋 四 二 ・ 二 四 億 円 、1 7 筑 摩 書 房 二 三 一 ・ 七 億 円 は 大 奮 闘 、倒 産 の 後 遺 症 完 全 回 復
を 示 す の か 。 42 位 旺 文 社 八 ・ 五 九 億 円 、 49 位 徳 間 書 店 七 ・ 六 五 億 円 、 66 位 日 本 放 送 出 版
協 会 、 109 位 有 斐 閣 三 ・ 四 六 億 円 、 194 位 ぴ あ 一 ・ 七 五 億 円 、 な ど が 目 に つ き 、 ま も な く
2 11 位 岩 波 書 店 一 ・ 五 九 億 円 に な る 。 こ の リ ス ト は 二 四 三 位 ま で を 掲 げ て お り 、 こ の 順 位
は か な り 下 の 方 で あ る 。 231 位 幸 福 の 科 学 出 版 な ど と 同 列 で あ る の は な ん と も 解 せ な い 。
それともこのリストには何かからくりでもあるのでしょうかね。イメージと実態があまり
にもかけはなれ過ぎているようですね。馬齢の話になるが、私はン十年前、大学を出ると
あ る 雑 誌 社 に 入 り 、そ の 上 部 団 体 た る 出 版 労 働 組 合 協 議 会( 出 版 労 連 の 前 身 )の デ モ に は 、
よくひっぱり出された。数年して会社を辞める直前はなんと三役入りし、書記長の重責を
担っていた(書記長が前線逃亡するようでは仕方がないが、私は月給のより安い研究所を
目指したのであり、労働条件とは直接の関わりはない。ついでにいえばその後、私は月給
の さ ら に 安 い 公 務 員 に 変 わ っ た 。結 婚 前 、そ ん な 約 束 は な か っ た と 荊 妻 が 時 に ぼ や く )。だ
から、私の脳裏には、その時点での売上げランキングや、賃金ランキングが刻みこまれて
矢吹晋『逆耳順耳』
118
いる。その後、雑誌などにモノを書くようになって若干の編集者との交流体験をもった。
ン十年も研究者をやってくると、そうしたつきあいを通じていくらか出版情報にも接する
ことができ、私は出版「労協」時代のイメージを少しずつ修正してはいたのだが、今回の
二〇〇社ランキングは、私のおぼろげなイメージを根本から打ち砕くほど強烈であった。
高島俊男は「戦後の岩波新書中国関係は、いいものもあるが、ずいぶんつまらないものも
多く、貫祿十分の戦前版にくらべると、だいぶ見劣りする感をまぬかれない」と喝破して
い る が (『 独 断 ! 中 国 関 係 名 著 案 内 』 四 九 頁 )、 貧 す れ ば 鈍 す る こ と が な い よ う に と 祈 る の
みである。
『蒼蒼』第45号、92年8月、皇甫平の得たボーナス
『読売新聞』
( 七 月 一 六 日 朝 刊 )に 、ベ タ 記 事 の 上 海 電 が 載 っ た 。上 海 市 党 委 員 会 機 関 紙『 解
放日報』が皇甫平論文の筆者三人の氏名を社内で公表し、賞金千元=約二万三千円を贈っ
た と い う 。 皇 甫 平 は 周 瑞 金 ・ 同 紙 編 集 長 ( 五 二 歳 )、 凌 河 ・ 同 紙 評 論 員 ( 三 九 歳 )、 施 芝 鴻 ・
上海市党委員会研究室研究員(四二歳)の三人組の筆名であった。
「これは鄧小平氏の意向を受け、改革派の朱鎔基副首相(前上海市長)の指示で書かれた
とみられている」と中津幸久特派員がコメントしている。一連の皇甫平論文とは、つぎの
四 つ の を 指 す 。 1 )「 改 革 開 放 を 導 く 導 き の 羊 た れ 」『 解 放 日 報 』 九 一 年 二 月 一 五 日
革開放には新思考をもて」
『 解 放 日 報 』九 一 年 三 月 二 日
よ 」『 解 放 日 報 』 九 一 年 三 月 二 二 日
2 )「 改
3 )「 開 放 拡 大 の 意 識 を さ ら に 強 め
4 ) 「 徳 才 兼 備 の 幹 部 を 」『 解 放 日 報 』 九 一 年 四 月 一 二
日
ここで舞台裏を明かすが、私は『解放日報』を定期購読していない。ただし、畏友高橋博
(ラジオ・プレス勤務)が(私の代わりに)購読しており、面白い記事があると切り抜き
を送ってくれることになっている。友人はありがたいもの。通常は二~三週間に一度、高
橋定期便が届く。私は性能のきわめて悪い自宅コピー機ですべてをコピーし、切り抜きを
お 返 し す る 。こ の 種 の 情 報 交 換( と い う よ り も 、ほ と ん ど 一 方 的 供 与 )関 係 が 数 年 に な る 。
こ の チ ャ ネ ル で 皇 甫 平 第 二 論 文 を 私 が 読 ん だ の は 三 月 中 、 下 旬 で あ っ た 。「 一 部 の 同 志 は
〔 保 守 派 は 、 と 読 め 〕、 市 場 調 節 の 背 後 に 資 本 主 義 の 幽 霊 が 隠 れ て い る と 見 て い る 」「 計 画
と市場は単に資源配分の二つの手段、形式にすぎない」といった箇所に釘付けになった。
これは明らかに九〇年一二月の一三期七中全会コミュニケの基調と異なる。権威のあるは
ずの中央委員会の直後に、それと異なる論調が中国のマスコミに登場するのはきわめて異
例である。そこで私は仕掛け人が鄧小平だとにらんだのであった。まもなく第三論文が届
き 、「 姓 資 姓 社 」 論 批 判 、「 社 会 主 義 の 香 港 」 と い っ た 表 現 に 注 目 し た が 、 四 月 初 め の 都 内
のさる講演でこれに言及していないところを見ると、まだ認識は弱い。私が自信をもって
皇 甫 平 論 文 に つ い て の 言 及 を 繰 り 返 す よ う に な っ た の は 、『 鏡 報 』 五 月 号 ( 五 月 一 〇 日 刊 )
の劉必論文を読んだあとである。そこには第三論文の主張は、事実上「何新論文を論駁し
た も の 」と す る 解 釈 が 載 っ て い た 。
「 痛 定 思 痛 」と い う 。い ま 想 起 す る が 、何 新 騒 動 の な か
で 、私 は ほ と ん ど 孤 軍 奮 闘 で あ っ た 。ま さ に そ の 時 で あ る か ら 、
『 解 放 日 報 』と い う 強 い 援
矢吹晋『逆耳順耳』
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軍が登場したことに欣喜雀躍したこと、いうまでもない(実はその前に『解放日報』編集
部内部では何新論文に批判的だというメッセージが間接的に届いていたことも付加してお
き た い )。チ ャ イ ナ ・ ウ ォ ッ チ ャ ー も 偶 然 が 味 方 す る 。皇 甫 平 論 文 に 触 れ え た の は 偶 然 に 近
いし、何新とのトラブルなかりせば、私がかくも熱心に援軍探しをすることはなかったは
ず(おヒマな読者は過去一年半の日本の大新聞から何新、皇甫平情報を整理して見ると、
面 白 い で す よ 、 各 紙 の 情 報 感 度 の リ ト マ ス 試 験 紙 に な り ま す )。
『蒼蒼』第45号、92年8月、私のワープロ体験・その2
私はブラインド・タッチ[これは差別用語らしい。タッチタイピングと書くべきらしい-
補足]をやらない、と書くと空威張りになる。やらないのでなく、できないのだ。初めて
ワープロに接したころは、ブラインドなしのキーボードなんて、とその練習にはげんだ。
しかし、ワープロ辞書の悪名は聞きしに勝るヒドイもの。結局は辞書を当てにせず、自分
の 辞 書 を 作 る の が よ い こ と に 気 づ い た 。こ れ で は ブ ラ イ ン ド 以 前 で あ る 。
「 単 語 登 録 」過 程
で、収穫があった。単語だけではなく、複合名詞、速記略記号みたいなものを次々に登録
することを覚えたのだ。たとえば「ち」を転換すると、中国、中国人、中央、中共などが
出てくる。
「 ち き 」な ら 中 華 人 民 共 和 国 、中 国 共 産 党 で あ る 。
「 で 」は「 で あ る 。で あ ろ う 。
であった。出所、電報」などが出てくる。他人が私のワープロを使ったら、機械の故障と
思うかもしれない。
一つには中国の地名、人名、政治経済用語をワープロ辞書に求めるのは「縁木求
魚」と
観念したために、一つには私の文章に用いられる語彙はかなり限られており、登録機能を
う ま く 使 う と か な り 速 く イ ン プ ッ ト で き る こ と に 気 づ い た こ と も あ っ て 、私 は ブ ラ イ ン ド・
タッチの練習をあっさりやめた。
「 略 語 登 録 」方 式 に よ っ て イ ン プ ッ ト 速 度 を 上 げ る 方 法 に
気づいたのだ。
あたかも私の脳味噌のなかみたいにグチャグチャしたやり方を、ここでお勧めしたいので
はない。バカと鋏は使いよう、というがワープロもまったく同じ、ともかく使ってみよう
と主張したいだけである。使っているうちに自分なりの使い方が生まれることを指摘した
いのである。
この登録方式には致命的欠陥がある。
「登録単語」をコピーできない他のワープロには
応用できないし、単語登録機能の不十分な機種には応用できない。この我流剣法は朱筆、
鉛筆その他さまざまなもの(時には汗、手垢で?)で印をつけた愛用の辞書なら、自分に
必要な語彙がすぐ出てくにのに似ている。かなり無茶な、到底お勧めできる上品なシステ
ムではないが、ともかくも私は五年以上、こんな我流を通してきた。登録方式が最も効果
的 な の は 、人 名 登 録 の 場 合 で あ る 。中 国 人 の 名 は 三 文 字 の 場 合 が 多 い 。
「 と し へ 」を 転 換 す
る と 小 平 、「 も た と 」 で 毛 沢 東 、「 し お ら 」 で 周 恩 来 が 出 て く る 。「 も 」 で 毛 沢 東 、「 し 」 で
周恩来を出すこともむろんできる。しかし、私の「も」には、問題、モデル、文書などが
登録されているし、人名はやはり三文字(陳毅、李鵬、万里などは二文字)で登録してお
くのが、一方では混同を避け、他方でなるべく簡便にという両極の条件をともに満たす正
矢吹晋『逆耳順耳』
120
解 で あ る ( こ れ は ワ ー プ ロ 指 南 ・ 村 田 忠 禧 教 授 の 示 唆 に よ る と こ ろ が 大 き い )。
しかし登録領域が少ない部分ではすぐに満杯になる。そこで頻度数の小さいものを「単語
抹 消 」し た り 、あ る い は 呼 出 を 工 夫 す る 。た と え ば「 こ 」は 国 務 院 、国 務 院 発 展 研 究 中 心 、
小 作 料 、小 作 人 、国 務 長 官 、国 務 院 常 務 会 議 、な ど 溢 れ て い る の で 、高 狄( 人 民 日 報 社 長 )
は「てき」で登録した。どう登録したかを忘れてしまい、二度、三度登録することも珍し
くない。あちこち転換してみると出てくるシカケである。こんな無茶苦茶な転換では必要
な単語を探す場合に、かえって不便だと思われるかもしれないが、ワープロはいつも最新
使用語が最初の転換に出てくるシステムになっているから、混乱は避けられる。ワープロ
は登録したコトバを絶対に忘れないこと賢明無比である。辞書を引き直して前に調べた単
語であることに気づき、モノオボエの悪さに自分で腹を立てる愚は避けられる。
か つ て の 欧 文 タ イ プ は 記 憶 容 量 が ゼ ロ で あ っ た か ら ( 現 在 は 記 憶 装 置 つ き の も の が 多 い )、
「打字速度」が重要であり、ブラインド方式が発達した。しかし、いまやわが勝手流方式
で 十 分 に 速 い か ら 、ブ ラ イ ン ド 方 式 は 不 可 欠 で は な く な っ た 。
「 十 分 速 い 」と は 、何 に 対 し
て 十 分 な の か 。「 動 脳 筋 」 す な わ ち 思 考 速 度 に 照 ら し て だ 。
人間は考える速度以上の速度でインプットすることはできない。結局、思考速度を妨げな
い 程 度 の 投 入 法 で 十 分 だ と い う の が 私 の 実 感 で あ る( 当 た り 前 の 話 で し た ね )。た だ し 、こ
こでプロのタイピストとモノカキとは、まったく違う条件にあることを指摘しておく必要
が あ る 。す で に 書 い て あ る 原 稿 を「 打 ち 直 す 」プ ロ の タ イ ピ ス ト に と っ て は 、
「 思 考 」時 間
とは原稿を「読む」時間に相当する。読む速度はきわめて速いはずだから、この場合はや
はりブラインド・タッチでないと仕事になるまい。結局
「考えて書く」人種と誰かが書
いたものを「打つ」人種とでは、ワープロの使い方がまるで異なって差し支えないという
のが私の結論である。この差を無視して、プロの投入速度を素人が真似ようとするのはバ
カげた話。そんなに速く投入しようとしても、頭の回転が追いつかないことは自明ではな
いか。アルコールを注入して回転を速めようとするとますます遅くなる。
無茶流の第二教訓は、
「 片 手 ワ ー プ ロ 」の 勧 め で あ る 。馬 齢 を 数 え 、半 百 に も な る と 、目 は
しょぼしょぼである。ここでなぜしょぼしょぼか理由を考えてみると、必ずしもディスプ
レーを凝視しすぎるからではない。私の場合は、主としてディスプレー、キーボードを見
つめるというよりも、印刷の悪い中国の新聞や雑誌、単行本を読みながら、時に活字の細
かい辞書を引く、という作業形態になる。ここで焦点調節能力の衰えた老眼でこれら複数
の焦点距離にある対象物へピントを合わせようとするから、目が疲れ、肩が凝る。
こ こ で 私 の 生 態 学 自 己 診 断 ( 気 づ い て み る と い つ も や っ て い た 形 態 ) は 、「 片 手 ワ ー プ ロ 」
である。右手でキーボードを打ちながら、左手で辞書をもったり、折り畳んだ新聞を持っ
ていることが多い。私の右手は親指、人差指、中指の三本だけしか動いていない。これで
結構、ペンで書くよりは速いのである。たとえば「チ(中国)のカカ(改革開放)はトシ
ヘ(鄧小平)の南方談話以後……」といった具合である。
元来、両手を想定したキーボードを片手で(時には生来の左利きゆえ左手だけで打つこと
もあり)打つのであるから、打ちにくい文字もあるが、これは将来、中風になって半身不
矢吹晋『逆耳順耳』
121
随になったときに役立つかもしれないね。世の中には片手しか動かない人も少なくないは
ず だ か ら 、「 右 手 シ フ ト 」「 左 手 シ フ ト 」 と シ フ ト 変 更 可 能 な キ ー ボ ー ド も あ っ て よ い の じ
ゃないかしら。
『蒼蒼』第46号、92年10月、シュカイから衛星放送・中国語ニュースに及ぶ
夏休みを利用して一年ぶりに中国を訪れた。広州で「華南経済圏と日本」と題するシンポ
ジウムが開かれ、パネリストの一人として招かれたのである。これなら「観光旅行か」と
痛くもない腹をさすられずに、堂々と旅行できるわけだ。さて、会議自体のことはさてお
く。深経済特区、珠海経済特区を中核とし、広州から深に至る深ロード、広州から珠海に
至る珠海ロード、二大幹線で結ばれる珠江デルタ地区の経済発展の実情は確かに、目覚ま
しいものであった。
珠江デルタの東側すなわち深圳ロード
(鉄道を含む)は、八五年、八七年、九〇年の三
回通過している。今回は同デルタの西側すなわち珠海ロードを広州から珠海までハイヤー
をチャーターして一日がかりで往復した。春の鄧小平視察ルートを逆行する形である。
香港、珠海、順徳、広州などで何人かと日本語で話をしたが、彼らは異口同音に「ジュカ
イ 」( 珠 海 ) と 発 音 し た 。 私 は 「 シ ュ カ イ 」 で 通 し た が 、 圧 倒 的 な 孤 立 感 を 味 わ わ さ れ た 。
シ ュ ザ ン ( 珠 算 )、 シ ュ ギ ョ ク ( 珠 玉 ) だ か ら 、 ジ ュ と 濁 る 理 由 は な い は ず 。 な る ほ ど 珠 海
は「シンジュ(真珠)の海」の意だが、シンジュがジュと濁るのは、連濁であろう。
帰 国 後 、や は り 気 に な る の で 、
『 諸 橋 大 漢 和 』第 七 巻 九 〇 八 頁 を 開 く 。日 本 語 の 読 み は や は
り「シュ」しか出ていない。
珠 海 、シ ュ カ イ 、1 た ま を 多 く 産 す る 海 。2 広 東 省 合 浦 県 の 東 南 に 在 る 海 。珠 母 海
(九〇
八 頁 )。 珠 と い う 文 字 の 系 と し て 珠 江 、 シ ュ カ ウ 、 川 の 名 。 広 東 省 城 の 南 。 上 流 は 西 江 ・ 北
江・東江の三江に分かれ、河口近くで合流し、南海に注ぐ。江中に海珠洲あり、因って珠
江 と い ふ ( 九 〇 八 頁 )。 こ こ で 珠 江 の い わ れ に つ い て の 記 述 は 、『 読 史 方 輿 紀 要 』 に 依 拠 し
ているが、この際関係なし。
「 現 地 」 の 日 本 人 は な ぜ 、 ジ ュ カ イ と 発 音 す る の か 。 普 通 話 の Zhuhai や 広 東 語 に ひ き ず
られたかもしれない。真珠のジュに引かれたかもしれない。シュよりはジュのほうが語感
として重々しいので、力を込めたかもしれない。あるいはそもそもシュかジュかなど気に
しなかった可能性が強い。この慣用あるいは通用音には現地でのビジネスや郷鎮企業の調
査などで汗まみれになっている人々の体臭さえ感じられる。しかし、モノカキとしてはや
はり「誤読」と断ずる必要を感じるわけである。事柄が華南経済圏レベルの「方言的日本
語」に止まるならば、そういうものとしてし許容してよいとの考え方もありうるが。
『蒼蒼』第46号、92年10月、期待してます衛星放送
しかし、これがいつNHK衛星放送という強力なメディアに乗らないとも限らない。この
中央電視台中継の際の中国の地名、人名など固有名詞の読み方は、通訳者によってかなり
異なるが、チャランポランな箇所が散見される。いわば「同時通訳者」の日本語能力が全
矢吹晋『逆耳順耳』
122
面的にバクロされる形になっている。
「方言的日本語」がテレビのおかげで、慣用として認められかねないので、ゴマメの歯軋
りにならぬうちに書き留めておく。NHKは標準的な日本語についての多くのノウハウを
もっているはず。この際、衛星放送の中国語ニュースの日本語読みをぜひとも点検してい
ただきたい。
ついでにもう一つのお願い。ニュースの時間帯は絶対に変更しないでほしい。放送時間は
深夜のどんな時間帯でも構わないが、変更は避けてほしい。私はビデオにいつも予約して
あり、いざまとめて見ようとすると、ウィンブルドンが映っていたり、音楽会になってい
たり、腹を立てることが少なくない。視聴者数からいえば、テニス・フアンと中央電視台
フアンとは天地ほどの差があることは承知している。しかし「国際化」や「アジアのなか
の日本」意識をスローガン倒れにしないためには、最新映像の窓口を閉じたり、開いたり
してはならない。三六五日、一貫して開き続けるべきである。それが公共放送の見識とい
うものである。
『蒼蒼』第46号、92年10月、南方改革派が密かに語ってくれたこと
外国の中国研究者と中国の研究者との交流は、いかにして可能か、などと書くと、いかに
もしかつめらしいが、ここで紹介するのは、一つのエピソードである。しかも当分は確認
しようがない話であるから、読者はマユツバと思って聞いていただければ幸いである。
シ ン ポ ジ ウ ム の 朝 、私 の 名 札 を 見 て 、
「 熱 烈 歓 迎 」の 意 を 表 し て く れ た の は 、香 港 の あ る 公
認左派系経済週刊誌の編集長であった。
「 あ な た が 参 加 さ れ る こ と を 知 り 、大 い に 期 待 し て
い た 。 何 新 と の い き さ つ は す べ て 知 っ て い る 。『 百 姓 』 の 文 章 も 読 ん だ 」 と 編 集 長 氏 。『 百
姓 』に 書 い た も の は 、あ な た 方 か ら す れ ば「 毒 草 」じ ゃ あ り ま せ ん か 、と 私 が か ら か う と 、
先方は「いや、興味深く拝見している」と真顔である。そしていま知り合ったばかりの私
を童大林氏をはじめとする中国側関係者にどんどん紹介する。要するに、何新の捏造に抗
議した矢吹だ、という紹介である。
新保守主義者何新→何新とはまるで異なる見解の持主→改革派応援団、といった図式で紹
介され、私は目をシロクロさせるばかり。
会議後、ある南方改革派の一人と個人的にゆっくり話し合う機会があった。意外や意外、
こ の 人 物 も ま た 私 が 『 九 十 年 代 』 誌 ( 九 一 年 二 期 ) に 書 い た 三 通 の 抗 議 書 、『 百 姓 』( 九 一
年 五 月 一 日 号 ) と 『 鏡 報 』( 九 一 年 八 期 ) に 書 い た 、 そ の 後 の 経 緯 、『 百 姓 』( 九 一 年 六 月 一
日号)に書いた「鄧小平路線の三大矛盾」をすべて読んでいると明言した。つまり、この
種のコピーを回し読みする「トモダチの輪」ができているという。そして彼はこう断言し
た──
あなたが開放政策を真に展開するためには、和平演変反対のスローガンを下ろす必要があ
る と 書 い た ( 前 掲 『 百 姓 』) こ と は 、 中 南 海 が 九 一 年 秋 に こ の ス ロ ー ガ ン を ト ー ン ・ ダ ウ ン
するうえで大きな役割を果たした、と。
思わず私はまさか、と一笑に付したが、先方は本当の話だと大真面目である。事柄の経緯
矢吹晋『逆耳順耳』
123
は、こうだ。
皇甫平論文を契機として、中南海はイデオロギー転換を意図するが、なかなか転換できな
い。和平演変反対の保守派の金切声が開放政策の足枷になったままである。ここで改革派
は、やはり反「和平演変」のスローガン自体に問題のあることに改めて注目する。まさに
そうした状況下で、この矛盾を指摘した小論が読まれたということになる。
『 百 姓 』の 文 章 で 、私 は 九 〇 年 一 一 月 の 一 三 期 八 中 全 会 公 報 を 引 用 し て 、
「計画経済体制下
の 市 場 調 節 」論 の 矛 盾 を 指 摘 し て い る 。こ れ も 事 実 上 、
「 社 会 主 義 市 場 経 済 」論 へ と つ な が
る観点である。
こ う し て 、私 の 指 摘 し た 三 大 矛 盾 の う ち 、二 つ は 事 実 上 、中 国 当 局 に 採 用 さ れ た 形 で あ る 。
では残りの一つは何か。
「 経 済 改 革 と 政 治 非 改 革 」の 矛 盾 で あ る 。こ れ に つ い て は 、天 安 門
事件の教訓に鑑みて、現在きわめて慎重である。すなわち「政府・企業分離」はやるが、
「 党 政 分 離 」 は 提 起 し な い 、 な ど の 線 が 模 索 さ れ て い る (『 東 京 新 聞 』 八 月 八 日 )。
日本でもオリンピックという外圧を利用して高速道路の完成を急いだことはよく知られて
いる。その他、その他、外圧を利用して行った改革は少なくない。
中国の「出口転内銷」方式は、一般には輸出用の品質保証物のことだが、これは言論につ
い て も あ て は ま る 。何 新 が 外 国 の 研 究 者 の 名 を 勝 手 に 用 い た の は 、そ の 端 的 な 一 例 で あ る 。
これは広く見られる作風であるから、外国雑誌の指摘を利用して、スローガンの手直しを
やり、トーン・ダウンするのは、いかにもありそうなことだ。
そう思いつつも、その時点ではまだ南方改革派が私を喜ばせるために作ったエピソードに
すぎまいという思いが強かった。
ここまで書いてきて、昼寝。真夏の白日夢か、はたまた蜃気楼か。
九 月 某 日 、 届 い た ば か り の 「 陸 鏗 新 聞 信 」(『 百 姓 』 九 月 一 日 号 ) を 開 い て 驚 い た 。「 何 新 忽
逃会怕見矢吹晋」の見出しが踊っている。
──七月に台湾で、大陸である国際シンポジウムに参加した友人お話によると、この会議
の 当 初 の 出 席 者 名 簿 の な か に 、何 新 の 名 が あ っ た 。私 の 友 人 は 何 新 そ の 人 を 見 よ う と し て 、
わざわざこの会議に出かけた。あにはからんや、何新にはあえず、意外にも矢吹晋(何新
が対談相手と吹聴した)に会った。何新はどうして来なかったのか?ある学者が矢吹晋を
指していう。はっきりしているではないか。克星〔相性の悪い相手〕がいる以上、避ける
が吉──。
これは虚名が徘徊した典型的なケースであろう。私は七月ではなく八月初めに、広州に出
かけた。その会議には何新が来るとは聞いていなかった。中国側出席者の人選は中国側が
る会議に何新が出るとは思えない。
おそらく話は逆であり、矢吹の顔を見て、何新「捏造対談」を想起し、こんな謡言を作り
上 げ て 、鬱 憤 を 晴 ら し た も の と 思 わ れ る 。陸 鏗 は 台 湾 で こ の 話 を 聞 い た と 書 い て い る か ら 、
機会があったら、広州・香港・台湾の謡言ルートを直接問いただしてみたいものである。
矢吹晋『逆耳順耳』
124
『蒼蒼』第47号、92年12月、日中国交正常化二〇周年──個人的な体験
一九七六年一二月一八日、中国国際旅行社対外聯絡処は日中旅行社宛に一通の招請状(J
6 1 0 7 4 号 )を 送 っ た 。
「 同 意 聾 教 育 福 利 研 究 会 友 好 訪 華 団 〔 以 下 二 二 名 の 氏 名 省 略 〕等 二
二位先生於一九七七年一月四日至一月一八日自費来我国参観訪問。請向我国駐日本大使館
申 請 簽 証。」
( 聾 教 育 福 祉 研 究 会 友 好 訪 中 団〔
〕な ど 二 二 名 の 方 が 一 九 七 七 年 一 月 四 日 か
ら一八日まで自費でわが国を参観訪問されることに同意します。わが国の駐日本大使館に
ビ ザ を 申 請 さ れ ま す よ う )。こ の 二 二 名 の な か に 私 の 名 が あ っ た 。こ れ が 私 の 初 訪 中 に な る
はずであった。ところが、暮れも迫った一二月三一日、次のLT電報が届いた。
LT
LUXINGRIBEN
TOKYO (DEL TO J22778 JCLUXNG) 4247 0706 2516 0341 3932
0936 5280 2480 2609 5122 2403 5148 43950448 4282 44962585 2477 0707 0008
0 6 8 11 9 4 2 7 1 5 1 6 11 5 0 9 5 7 0 1 7 1 6 0 7 8 J 6 11 4 0 L U X I N G S H E 上 記 電 碼 の 「 漢 字 訳 」 は 以
下 の 通 り 。「 矢 吹 晋 先 生 因 与 日 本 聾 教 育 福 利 研 究 会 無 告 ( 0 7 0 7 告 は 7 0 7 0 関 の ミ ス ) 不 同
意 随 該 団 来 訪 J 6 11 4 0 旅 行 社 」
電文は「矢吹晋先生は日本聾教育福利研究会と無関係である。同団に随行して来訪するこ
とに同意しない」という断り状である。聾教育福利研究会(代表・野沢克哉)のために、
私が初めて講義にでかけたのはいつか思い出せない。彼らの中国に対する関心は「ハリで
聾が治った」話に始まる。そこから中国現代史学習会となり、社会主義学習会となった。
月一回ほどの研究例会は新宿勤労福祉会館で開かれ、私は二年以上、講師を務めたはずで
ある。こうした交際のなかで、旅行への同行を求められ、渡りに船と快諾した。団員諸氏
に と っ て「 無 関 係 」と は 寝 耳 に 水 、訪 中 団 は 私 を 残 し て 、割 り 切 れ ぬ 思 い の ま ま 出 発 し た 。
一旦出したインビテーションが直前になぜキャンセルされたのか理由は不明である。推測
すれば、私は一九七五年に『毛沢東
政 治 経 済 学 を 語 る 』『 毛 沢 東
社会主義建設を語る』
を訳して、猛烈な攻撃を受けていた。これはその余波であろう。
私の初訪中は七九年四月、恩師大内力教授(東大名誉教授)が連れていってくれたもので
あ る 。先 方 は 事 前 の 折 衝 の 際 に 、矢 吹 の 名 を 訪 中 団 リ ス ト か ら 排 除 す る よ う 示 唆 し て き た 。
わが恩師は即座に、矢吹秘書長の同行が不可能なら、訪中計画を断念すると意志表示され
た。先方は折れ、まもなく招請状が届いた。
歴史は繰り返す。一一年後の一九八七年六月一七日、上海市高等教育局は、矢吹の勤務先
である横浜市立大学宛に次のような書簡を送ってよこした。
日本国横浜市立大学
高〇〇〇校長
白〇〇〇事務局長:
六月八日電函悉。関於本年度上海与横浜学術交流具体事宜,経与有関学校聯繋,現函復如
下。一、歓迎貴校五名学生来上海短期学習中文一個月,為了按時開学,請上述学生於七月
二十二日至七月二十五日期間抵達。二、校商学部教授擬来滬進修経済一事,安排有困難,
請 予 諒 解 。 能 否 改 派 学 者 到 上 海 大 学 進 修 “ 中 国 現 代 文 学 ”、
“ 中 国 法 律 ”、
“ 中 国 歴 史 ”, 望 函
告。三、関於我局組団訪日的事宜,正在弁理,一旦確定,即告貴校。四、上海大学文学院
教師〇〇赴日進修,至今仍未得到入境簽証,請校協助向貴国有関部門聯繋。祝
矢吹晋『逆耳順耳』
健康!上
125
海市高等教育副局長張〇〇
上海市高教局国際交流処処長孔〇〇
一九八七年六月十七
日
ここで「商学部教授」とは、大学から上海市に宛てた書簡により、矢吹を指す。文意は商
学部教授が経済を研修するのは「安排有困難」であるから、他の分野の学者に変えてほし
いという意味だ。これによって、私の八七年度後期の中国在外研究計画は流産した。理由
は ま た し て も 不 明 で あ る 。 推 測 で は 、『 中 央 公 論 』( 八 七 年 三 月 号 ) に 書 い た 「 皇 帝 鄧 小 平
の老い」が中国語に訳され、読まれたことらしい。
最後に、私の訪中記録を掲げておく。
1)一 九 七 九 年 四 月 、 大 内 力 訪 中 団 の 秘 書 長 と し て 。 2)一 九 七 九 年 一 〇 月 、 外 務 省 香 港 総 領
事 館 特 別 研 究 員 と し て 個 人 旅 行〔 公 用 旅 券 〕。3 ) 一 九 八 三 年 九 月 、林 業 技 術 訪 中 団 の 一 員 と
し て 。 4)一 九 八 五 年 一 〇 月 、 読 売 テ レ ビ ・ セ ミ ナ ー に 随 行 。 5)一 九 八 六 年 一 一 月 、 福 建 省
厦 門 ・ 福 州 へ 個 人 旅 行 。 6)一 九 八 七 年 一 〇 月 、 読 売 テ レ ビ ・ セ ミ ナ ー に 随 行 。 7)一 九 八 八
年 九 月 、 中 国 現 代 史 を 探 る 旅 。 8)一 九 八 八 年 一 〇 月 、 外 務 省 経 済 協 力 局 の 依 頼 に よ る 現 地
調 査〔 公 用 旅 券 〕。9 ) 一 九 八 九 年 三 月 、国 際 協 力 事 業 団 の 依 頼 に よ る 現 地 調 査〔 公 用 旅 券 〕。
1 0 ) 一 九 九 〇 年 八 月 、 夏 休 み を 利 用 し た 個 人 旅 行 。 11 ) 一 九 九 一 年 八 月 、 経 済 協 力 事 業 団 の
依 頼 に よ る 現 地 調 査 〔 公 用 旅 券 〕。 1 2 ) 一 九 九 二 年 八 月 、 華 南 経 済 圏 と 日 本 シ ン ポ ジ ウ ム の
パネラーとして参加。
『蒼蒼』第48号、93年2月、第二職業と地下経済の間
九〇年七月一三日「職員労働者兼職管理論証会」が開かれ、国務院労働部副部長令狐安が
こう挨拶した──。第二職業( 兼職ともいう)の管理方法は「中共中央の科学技術体制の
改革についての決定」と一致させること、これが大前提である。兼職には利害ともにある
が、全体の効果からいえば、組織的に指導してこれを行えば、利益が害よりも大きい。利
益が弊害よりも大きいと考える者は、市場の需要が決定するものだから、国家が禁止する
ことは不可能だとする。しかも経済の補完作用を果たし、潤滑剤になるし、雇用拡大にも
役 立 つ 。別 の 学 者 は 地 下 経 済 と 第 二 職 業 を 放 置 す る な ら ば 、国 家 の 税 収 は ま す ま す 減 少 し 、
経済秩序は混乱し、麻薬や売春などの犯罪活動や違法行為が蔓延するから、長期的にみて
社 会 の 発 展 に 不 利 だ と い う 。先 進 国 で は 税 法 や 工 商 業 登 記 な ど の 方 法 で 管 理 を 行 っ て い る 。
一部の国では企業自身の利益に関わる兼職活動を禁止している。個人の立場から見ると、
国家は禁止していなくとも、企業の利益を侵す場合は慎重に対応しているし、多くの者は
個 人 所 得 税 を 納 め て い る 。た だ 、漏 れ も 少 な く な く 、そ の た め 国 家 の 税 収 が 失 わ れ て い る 。
国家の利益から見ると大中型国営企業の意見を尊重しなければならない。各級政府の大部
分の税収が国営企業に依存しているからだ。企業の指導部、産業の主管部門は労働者の第
二職業に反対している。経済調整、改革深化の観点からすると、工商業、税務、財政など
の部門の意見を尊重しなければならない。現在、有効な管理方法が欠如した状況下で、多
くの兼職は秘密に行われているので、管理上の難点がある。
個人の立場からすると、所得を増やすことができ、また事業心を満たすことができる。前
矢吹晋『逆耳順耳』
126
者がより大きな役割を果たしている。兼職現象が現れたのは、現行の労働人事制度の欠陥
によるところも大きい。ただ、西側のように、労働市場が自由なところでも第二の職業は
い ぜ ん 大 量 に 存 在 し て い る 。兼 職 の 管 理 は 単 位 内 部 の 管 理 と 社 会 的 管 理 に よ る ほ か な い( 労
働 部 政 策 法 規 司 編 『 中 国 ─ ─ 第 二 職 業 』 中 国 労 働 出 版 社 、 九 一 年 六 月 、 一 ~ 七 頁 )。
なんとも歯切れの悪い挨拶だが、ここには新しい問題に直面して当惑している労働管理部
門の戸惑いがよく現れている。
労 働 部 第 二 職 業 調 査 研 究 組 の 調 査 報 告 は こ う 指 摘 し て い る ─ ─ 。江 蘇 、浙 江 、広 東 、北 京 、
天 津 、上 海 、広 州 、武 漢 、厦 門 、温 州 な ど 18 省 市 の 調 査 に よ れ ば 、第 二 職 業 は も は や 軽 視
できない経済活動にまでなっている。一八省市の「典型調査」によれば、第二職業の従事
者は一〇〇〇万人余であり、労働者の約一割である。広州、温州では二二・五%、一七%
の高さである。北京、天津、上海では一〇%、一五%、八~一〇%である。他方、内陸の
西安、石家荘では三・七%、五%にすぎない。ただし、深では第二職業に従事している者
は〇・三%にすぎない。第二職業の集中しているのは、飲食、サービス、修理、軽工業、
機械、建築、工芸美術、各種手工業などである。これらの業界では第二職業者の比重が一
割を超えている。
第二職業のもう一つの型は、国営企業の労働者が都市や農村の集団企業で技術指導、技術
コンサルティングを行うものである。収入の形態は多種多様であり、透明度の低いのが特
徴である。単位の許可を得て組織的に第二職業に従事する場合(たとえば企業の労働者技
術協会などが有料でサービスを行う場合)などは、契約に基づいて月給制あるいは請負歩
合制などが行われており、透明度は高い。個人が私的に頼まれて行う第二職業の所得は仕
事に応じて受け取るものが多く、月給制は少ない。個人が個体戸として行う場合は納税分
を除けばすべて自分の収入であり、透明度はきわめて低い。天津市の科学技術者が行って
いる兼職は月収二三〇~二六〇元前後である。石家荘の都市建築隊の兼職工程師の月収は
三〇〇元であるが、同時に三つの工程隊のそれを兼職しているから九〇〇元になる。北京
市のある型打ち工が郷鎮企業のためにプラスチックの型を作る場合の加工費は一件当たり
五〇〇~二〇〇〇元である。ブローカーや投機者の収入は本人の賃金の十数倍から数十倍
になる。かりに第二職業の平均月収を一〇〇元とし、従事者を全国労働者の五~一〇%と
すれば、毎年の第二職業による収入は最も少なく見積もっても六〇~一二〇億元になる。
これまでに出された関連法規はつぎのごとくである。八二年、国務院「企業の職員労働者
が 不 正 当 な 経 済 活 動 に よ っ て 法 外 な 所 得 を 得 る こ と を 制 止 す る 問 題 に つ い て の 通 知 」。 八
五 年 、 中 共 中 央 「 科 学 技 術 体 制 の 改 革 に つ い て の 決 定 」。 八 八 年 、 国 家 科 学 技 術 委 員 会 「 科
学 技 術 要 員 の 兼 職 の 若 干 の 問 題 に つ い て の 意 見 」。北 京 市 経 済 委 員 会 、労 働 者 が 病 休 な ど を
利用して第二職業に従事することを禁止。八九年、江西省人民政府「大中型企業を引き続
き活性化することについての若干の規定」の第一〇条にいわく「企業の労働者は第二職業
に従事してはならない。余剰人員を第二職業に従事させる場合には、企業の集団討論を経
て 、 許 可 を 得 な け れ ば な ら な い 」。
第 二 職 業 を め ぐ る 利 害 対 立 。大 中 型 国 営 企 業 の 工 場 長 や マ ネ ー ジ ャ ー は 強 く 反 対 し て い る 。
矢吹晋『逆耳順耳』
127
ある工場長は「第二職業を認める政策は、国営企業にとって自殺行為だ」と述べている。
郷鎮企業の経営者は第二職業は技術者不足を解決する重要なチャネルだと支持している。
国家計画委員会、国務院生産委員会、体制改革委員会、財政、税務、工商業などの部門の
人々は、基本的に第二職業を制限すべきだとしている(労働部政策法規司編『中国──第
二 職 業 』 中 国 労 働 出 版 社 、 九 一 年 六 月 、 八 ~ 二 七 頁 )。
こ れ ら の 見 解 は そ れ ぞ れ に 立 場 を 反 映 し て い て 、た い へ ん 興 味 深 い 。第 二 職 業 は 事 実 上 着 々
と 成 長 し つ つ あ る が 、収 入 の「 透 明 度 」の 観 点 か ら 見 る と 、
「 地 下 経 済 」的 色 彩 を 帯 び て い
る 。黄 葦 町 ( 『 中 国 的 隠 形 経 済 』商 業 出 版 社 、求 是 出 版 社 所 属 の 研 究 者 ) は 、地 下 経 済 ( 原
文 = 隠 形 経 済 ) の 主 な 要 素 を こ う 分 析 し て い る 。 1)国 内 市 場 に 出 回 る 全 商 品 の 二 〇 % は 出
所 不 明 で あ る 。 2)香 港 か ら 輸 入 さ れ る 商 品 の 一 五 % が 密 輸 で あ る 。 3)金 融 市 場 で は 表 に 出
な い 民 間 貸 借 が 二 〇 % を 占 め る 。 4)都 市 住 民 の 現 金 収 入 の 一 六 % は 非 合 法 な 手 段 に よ る も
のだ。中国のアングラ経済の規模は、地上経済(オモテ) の一五~二〇%と見られる。九
一年のGDPは約二兆元(約五〇兆円) であり、アングラ部分は一〇兆円相当するという
報 道 も あ る (『 朝 日 新 聞 』 九 二 年 二 月 二 六 日 、 和 気 靖 特 派 員 電 ) 。 中 国 の 新 聞 で 私 が 最 初 に
「 地 下 経 済 」 と い う 活 字 に 気 付 い た の は 、 李 偉 「 中 国 ─ ─ 地 下 経 済 後 起 之 秀 」(『 世 界 経 済
導報』八八年五月一六日) である。地下経済は「政府に所得を申告せず、政府がコントロ
ールと税務管理を行えず、その生産額がGNPに計上できない経済活動を指す」と定義さ
れている。一般には、脱税、地下の工場、第二の職業、密輸、麻薬専売、賭博、賄賂、売
春、官僚の時間外の経済諮問活動、学生補修授業、報酬を得た子守、修理サービスなどか
ら得られる所得である。地下経済は改革開放に伴って栄えてきたが、その形としては以下
の も の が あ る 。1 脱 税 。八 三 年 の 脱 税 は 一 三 億 元 で あ り 、八 五 年 の そ れ は 六 〇 億 元 に 上 る 。
2 一部の合法企業、地下工場が消費者のブランド製品指向に乗じて、ニセモノお生産と販
売 に 暗 躍 し て い る 。 3「 倒 爺 」 ( ブ ロ ー カ ー ) を 代 表 と す る 投 機 現 象 が 蔓 延 し 、 各 地 で ブ ラ
ック・マーケットが摘発されている。4 黄金や文物の密輸、野性の稀少動物などの違法販
売が後を絶たない。中国の地下経済の発展速度は驚くべきものがあり、その年間営業額は
数百億元に達しており、従事者数は数千万人に達している。地下経済は国家の税収を失わ
せ、投機活動を助長し、犯罪活動を助長し、社会秩序に重大な影響を与えている。
『蒼蒼』第48号、93年2月、天皇のお言葉・抄記
AERA九二年一二月八日号、田村広嗣記者(朝日外報部)
「私自身も少年のころより中国についての話を聞き、また、本で読むなどして、自然のう
ち に 貴 国 の 文 化 に 対 す る 関 心 を も っ て き ま し た 。子 供 向 き に 書 か れ た 三 国 志 に 興 味 を 持 ち 、
その中に出てくる白帝城についての『朝辞白帝彩雲間』に始まる李白の詩を知ったのも、
少年時代のことでありました」
日本国外務省・中国語訳
「当時我対為児童編写的三国志感興趣。書中引用李白毛一首描写白帝城的詩、以『朝辞白
帝彩雲間』為開頭、也是我在少年時代学習的」
矢吹晋『逆耳順耳』
128
中国語からの日本語
「 そ の こ ろ 私 は 子 供 向 け に 書 か れ た 三 国 志 に 興 味 を 持 ち ま し た 。本 の 中 で 引 用 さ れ た 、
『朝
辞白帝彩雲間』に始まる、李白の白帝城を描いた詩を学んだのも私の少年時代のことでし
た」
田村記者コメント「天皇のお言葉は、三国志→白帝城→李白とつながるが、中国語訳では
李白の詩が三国志のなかに引用されていることになってしまっている」
立間祥介コメント「もちろん、そんな引用はありません。李白と三国は全く関係ないし、
中国人ならだれでもおかしいと思うでしょう」
ある中国文学者のコメント「同じ白帝城でも、李白の明に対し、劉備の暗という両者は結
び付かないし、そもそも日中国交正常化二十周年を祝う席にふさわしいものかどうか、疑
問」
「日本では三国志も三国演義も混用されているが、お言葉の翻訳では、小説三国演義に言
い換えた方がよかった」
外務省コメント「正文は日本語ですから、中国語や英語の訳文については、だれが翻訳し
たかも含めて、一切コメントしません」
田村記者あとがき「いずれにしても、教養人には漢籍の素養が必要とされた時代はもう過
去のもののようだ」
白 門 生 「 天 皇 『 祝 酒 詞 』 的 誤 訳 風 波 」『 留 学 生 新 聞 』 九 三 年 元 旦
「当然、這怪不得日本人、応当怪罪的是陳寿、李白、羅貫中這些享誉全球的文化偉人的不
肖 子 孫 」。
以下、中国語訳
『蒼蒼』第49号、93年4月、初めてのイギリス
幸運にもこの度、あるハイレベルの国際会議に出席する機会を与えられ、得るところ多大
で あ っ た 。今 回 は 、
「 西 側 と 中 華 人 民 共 和 国 と の 関 係 」を テ ー マ と し て 、三 月 一 九 ~ 二 一 日
に行われた。会議の背景を私なりに分析してみたい。一九八九年六月の天安門事件は、中
国の改革開放に期待を寄せていた西側に対して極めて大きな衝撃を与えた。他方、旧ソ連
のゴルバチョフはペレストロイカを提起し、
「 政 治 改 革 か ら 経 済 改 革 へ 」と い う 西 側 世 界 に
とって、たいへん分かりやすい脱社会主義の戦略を提起し、大きな共感を得た。その後約
四年、旧ソ連のペレストロイカと中国の改革開放は意外な展開を遂げた。旧ソ連は混乱に
混乱を重ねて、ついに解体するに至った。
他 方 、武 力 鎮 圧 下 の 中 国 は 、九 一 年 春 か ら 改 革 開 放 路 線 の 復 活 へ の 水 面 下 の 努 力 が 始 ま り 、
昨年の鄧小平南巡講話を経て、驚くべき経済発展を見せた。昨年のGNP成長率は実質一
二・八%と公表された。昨年の外資導入額は契約ベースで七八~九一年の累計額六〇〇億
ドル台を一挙に突破し、六八五億ドルを記録した。実績ベースで見ると、八八~九一年は
毎年一〇〇億ドル台であったが、昨年は一八八億ドルと九割増であった。
台湾の大陸向け投資は特に際立っており、昨年までの累計で九〇億ドル弱となり、アメリ
矢吹晋『逆耳順耳』
129
カの累計五〇億ドル弱、日本の累計四一億ドルを一挙に追い越して、約二倍に水準になっ
た。旧ソ連の混乱と、中国の躍進という明暗の対照は、西側の対中国認識に根本的挑戦を
迫るものである。こうした時期に、クリントン政権が発足した。クリントン政権がいかな
る中国認識に基づいて、いかなる新政策を提起するかは、単に米中貿易関係のレベルをは
るかに超える大きな意味をもっている。要するに、クリントン政権の発足に際して、対中
国政策の見直しを行う必要の生じたことが今回の会議の背景であったと私は分析する。実
は、私はかねてこの潮流変化を感じてきたが、今回の会議に出席することによって潮流の
変化を実感することができたのは幸であった。
私 が 注 目 し て い た の は 、た と え ば 次 の こ と だ 。第 一 に 、英 国『 エ コ ノ ミ ス ト 』
(九二年一一
月二八日号)の中国特集・中国経済礼讃論。中国の九一年のGNPを世界銀行は、人民元
/米ドル相場で換算し、約四二〇〇億ドル( 世界一〇位) と推計しているが、購買力平価
で換算すれば、その約三倍であり、現在すでに米、日に次いで、すなわち独と並んで世界
三、四位になっている。過去一四年間の実質成長率九%の水準を今後も維持するならば、
二〇年後には、米、日に並ぶ経済大国になろうと論じた。第二は米国『ニューズ・ウィー
ク 』( 九 三 年 二 月 一 八 日 号 ) の 中 国 特 集 「 赤 い 資 本 主 義 」 で あ る 。 こ れ は 台 湾 、 香 港 の G N
Pを合わせた「大中華経済圏」が二〇二〇年には日米を追い抜き、世界一の経済大国にな
ると論じている。これら二つの楽観的な中国経済論に接して、私はその背景を考えていた
が、まもなく、米国の外交問題季刊誌『フォーリン・アフェアズ』九二/九三年冬号のコ
ナ ブ ル 、 ラ ン プ ト ン 両 氏 の 論 文 「 中 国 : 未 来 の 大 国 」 を 読 ん で 、『 ニ ュ ー ズ ・ ウ ィ ー ク 』 の
タネ本がコナブル論文であることに気づいた。
その後、今回の会議主催者からポリシー・ペーパー、すなわちアトランティック・カウン
シルと米中関係全国委員会の合同報告『岐路に立つ米中関係』が届いた。このポリシー・
ペ ー パ ー の 責 任 者 が コ ナ ブ ル 、ラ ン プ ト ン の 両 氏 で あ っ た 。
『 フ ォ ー リ ン ・ ア フ ェ ア ズ 』の
両氏の論文のもとになっている考え方が、まさに『岐路に立つ米中関係』であることを知
って私は大いに驚いた。私は幸運にも、このペーパーの起草責任者たちから直接的にその
考え方を聞く機会を与えられたわけである。中国研究者として、これはまことに得難い機
会であった。なお、会議の出席者はイギリス一五名、カナダ三名、EC(イギリス人)一
名、フランス一名、ドイツ三名、イタリー一名、韓国一名、ニュージーランド一名、旧ソ
連一名、米国一〇名、日本二名、計三九名である。
ポリシー・ペーパーの核心
『岐路に立つ米中関係』から、私が特に印象深く読んだ箇所を抜き書きしてみるとこうで
ある。
「 ク リ ン ト ン 政 権 は 議 会 と 協 力 し て 、ブ ッ シ ュ 政 権 以 上 の 政 策 的 余 地 を も ち 、中 国 側
に柔軟に対応すべきである」
「 香 港 の 繁 栄 は 、ア メ リ カ の 貿 易 に 関 係 す る 。九 七 年 以 後 の 香
港の最大の安全保障は、中国にとっての香港の経済的有用性である。米中貿易を減少させ
るならば、中国にとっての香港の価値は低下する。東南アジアでは日本のプレゼンスにも
中国のプレゼンスにも警戒的なので、アメリカは日中双方に影響力を保持することが、こ
の地域の軍事的安定にとって必要である」
矢吹晋『逆耳順耳』
130
「中国からの移民は増えるので、隣国では、権威主義的指導部が難民流出を防いでくれる
こ と を 期 待 す る 。あ さ ゆ る 意 味 で 中 国 が ワ イ ル ド ・ カ ー ド に な る お そ れ が あ る 」
「もし台湾
が法的独立を宣言するならば、台湾が今享受しているオートノミーが破壊されることを米
政 府 は 明 白 に 述 べ る べ き で あ る 。」
「アジア型発展の道」
「アジア型発展の道」について広範なコンセンサスがある。それは「経済改革が真の政治
的変革に先行すると見る考え方」である。中国も含めてアジアが旧ソ連の崩壊から導いた
教訓は「経済的能力を超える政治改革は社会的不安定と経済的後退をもたらす」というも
のである。
「 中 国 の 経 済 改 革 が 万 一 失 敗 す れ ば 、中 国 の 隣 国 は 相 当 量 の 移 民 が 押 し 寄 せ る こ
と を 中 国 の 隣 国 は 危 惧 し て い る 」。
ア メ リ カ の 経 済 制 裁 戦 略 は 、中 国 の 隣 人 た ち に 懸 念 を 持 た せ て い る 。
「アメリカの人権外交
と中国の経済的政治的失敗によって帰結する人権の悪化」とに矛盾を感じている。アジア
の見方では「懲罰的な、制裁指向の中国政策は建設的でない。経済的変化こそが中国の社
会的政治的システムを望ましい方向に導くであろう」──
実に健全な、優れた見解だと思う。私の近年の考え方ときわめて類似している。またヒュ
ースト・サミット以後に日本政府が採用してきた立場を基本的に支持し、追認するに等し
い考え方である。私は事前にこのペーパーを読んで喜び勇んでロンドン・オックスフォー
ド郊外へと旅立った。
会議の雰囲気
会議はかつて第二次大戦中にチャーチルがしばしば訪れて対独戦略を練ったといわれる由
緒正しい貴族の館に全員が泊り込みで行われた。
予定されたプログラムにしたがって、実にパンクチュアルに開かれた。まず三月一九日
( 金) 午後四時半から九〇分、元香港総督W氏の司会で全体会議が開かれた。一五分のコ
ーヒーブレイクの後、七時半まで七五分、さらに全体会議が続いた。これはコナブル氏、
ランプトン氏の問題提起のあと、主なメンバーから「冒頭陳述」ともいうべき問題提起、
見 解 の 表 明 が 行 わ れ た ( 英 語 に 弱 い 私 は 日 和 見 を 決 め 込 ん だ )。
二 日 目 の 三 月 二 〇 日 ( 土 ) は 、A グ ル ー プ = 経 済 通 商 部 会 、B グ ル ー プ = 内 政 社 会 問 題( 人
権 外 交 や 西 側 の 影 響 力 評 価 を 含 む )、 C グ ル ー プ = 対 外 関 係 ( 安 全 保 障 問 題 を 含 む )、 の 三
グループに分かれて「作業部会」が開かれた。九時半から九〇分、コーヒーブレイクをは
さんで一一時一五分から九〇分。午後は有志がミニバスでオックスフォード大学へエクス
カーションにでかけた。
オックスフォード大学はクリントン大統領を卒業生としてアメリカに送り出し、また日本
皇太子のプリンセスを教えたということで、大いに自慢していた。案内してくれた親日家
の W 氏 は こ の 大 学 の O B で あ っ た 。そ の 後 四 時 半 か ら 九 〇 分 、最 後 の「 作 業 部 会 」。都 合 四
時間半の会議であった。夕食はブラックタイ着用の晩餐会であった(私も初めてタキシー
ド を 着 た 。「 ニ セ 貴 族 」 の 感 深 し )。
三日目の三月二一日( 日) は総括の全体会議。まず九時半から六〇分はAグループ報告の
矢吹晋『逆耳順耳』
131
検討。一〇時半から六〇分はBグループ報告と検討。コーヒーブレイクをはさみ、一一時
四五分から六〇分はCグループ報告と検討。昼食後に二時から六〇分、ファイナル・ディ
ベイトというハード・スケジュールであった。
私はAグループの作業部会に出た。Aグループの状況は次のごとくであった。まず一〇人
のメンバーから「冒頭陳述」が行われた。会議を終始リードしたのは、コナブル世界銀行
名誉総裁とアトランティック・カウンシルのW氏であった。彼らの問題意識は、ガットや
G7+α、あるいは既参加のアジア開発銀行、APECなどの組織を通じて中国をいかに
導き、いかに中国を国際社会での良きパートナーにするために、影響力を行使しうるかで
あった。
私自身は、まず日本の国益は中国の安定、経済発展、政治的民主化の優先順位
で あ る こ と 、こ の 意 味 で A s i a n P a t h o f D e v e l o p m e n t の ア イ デ ィ ア は 高 く 評 価 し て い る こ
と、日中貿易、対中国投資の現状、環境問題での日中協力の重要性などを指摘した。その
後、討論のなかで、GATT加盟問題についての日中、日台協議の現状およびG7に対す
るエリツィン招請問題、中国招請問題などについての質問を受け、知る限りで答えた。世
界 経 済 の な か へ 中 国 を 引 き 込 む た め に 有 用 な vehicle(媒 体 、 乗 物 ) は 何 か 、 そ れ を 通 じ て
中国経済の市場経済化、法治化、通商政策の透明度の向上などにいかに貢献できるか、を
めぐって活発な討論が行われた。日中経済協力の原則を説明する際に、私も委員会の末席
を 汚 し た J I C A の 中 国 援 助 研 究 会 ( 大 来 佐 武 郎 座 長 ) の 「 提 言 ( 英 訳 ) 」( 対 中 国 O D A
4原則)も紹介しておいた。私の英語表現力の弱さに加えて、議論がきわめて具体的内容
に及び、私の討論参加には限界があった。
貴族の物腰
ポ リ シ ー・ペ ー パ ー の 基 本 的 認 識 は 、端 的 に 言 え ば「 人 権 外 交 よ り も 経 済 外 交 を 」で あ り 、
Economics in Command と も 評 し う る よ う な 考 え 方 で あ る 。 前 述 の よ う に 、 日 本 政 府 や 産
業 界 が 天 安 門 事 件 以 後 に 採 用 し て き た 立 場 を 裏 書 き し た に 等 し い 、と 私 は 見 て い る 。
「アジ
ア 型 の 経 済 発 展 の 道 」 Asian Path of Development に つ い て い え ば 、 こ れ こ そ が 旧 ソ 連 の
轍 を 踏 ま ず に 、脱 計 画 経 済 、市 場 経 済 化 へ の 道 を 歩 む 唯 一 の 道 で あ る か も し れ な い 。
「中国
解体」の危険を避けるためには、この道を歩む中国を西側が全面的に支援することが肝要
であろう。
クリントン政権への政策提言を意図する米国の関係者たちがこのような主張を展開してい
ることを知って、大いに勇気づけられるとともに、この考え方がクリントン政権の政策と
して採用されることを願わないわけにはいかない。日本の国益は、なによりも中国の政治
的 安 定 ( 危 機 の 回 避 ) で あ り 、、 つ い で 経 済 発 展 、 最 後 に 政 治 的 民 主 化 で あ ろ う 。 こ の 優 先
順位で中国政策を考えるのが現実的であり、確かな道筋であろう。
泊り込みの会議だから、食事のたびごとに顔を合わせる。W元総督とは、上海の旧東亜同
文書院が現在の上海交通大学である。その引き揚げ組があなたの訪れたという愛知大学を
作ったのですよ、などと説明した。翌日の全体会議で、私を名指しして何か話せと示唆し
てきた。私は巧みな示唆に促されてついに、中国当局のいう「生存権」とは国連人権宣言
に基づくものであり、特種中国的、あるいはアジア的な人権を主張しているのではないと
矢吹晋『逆耳順耳』
132
述 べ た 。 コ ー ヒ ー ブ レ イ ク の 際 に 、 Thank you very much for your contribution. と 笑 顔 を
向けられたのには、参った。これは本物の貴族の物腰であった。
『蒼蒼』第50号、93年6月、手抜き監修、その一
『 蒼 蒼 』も 五 〇 号 を 数 え る と い う 。大 分 人 様 の 悪 口 を 書 い て 、敵 を 作 っ た 。中 国 語 な ら「 得
罪 」、 そ し て 「 鋒 芒 畢 露 」 で あ る 。 い ま さ ら 露 呈 し て し ま っ た 矛 先 を 転 じ て も 、「 六 日 の 菖
蒲」であろうから、初心に帰る。つまり、地下の橋本萬太郎に笑われないように、さびつ
かせないにしたいところである。
さて、鄧小平の「生平」についてのわれわれの知見はかなり怪しいところがある。私がそ
れを痛感したのは、次の二冊の翻訳を読んだときである。一冊は『最後の龍・鄧小平伝』
(サバティエ著、中嶋嶺雄監訳、時事通信社)であり、もう一冊は『ニュー・エンペラー
毛 沢 東 と 鄧 小 平 の 中 国 』( ソ ー ル ズ ベ リ ー 著 、 天 児 慧 監 訳 、 福 武 書 店 ) で あ る 。
私は前者について次のようなエッセイを書いたので、それを全文引用する──
高度成長を遂げて、農村においてさえも旧正月がマイナーな行事になって久しい。しかし
中国では春節(旧正月)がいぜん圧倒的な位置を占めており、人々の生活の大きな区切り
になっている。中国社会が近代化した暁には、旧暦、農暦は太陽暦にとって代わられるの
であろうか。それとも「中国的特色」として残るのであろうか。
「総設計師」鄧小平氏は、旧暦の大晦日を上海で過ごしたが、老いてなお元気な姿を中国
中央テレビが放映した。ただ、元日の新年を祝う会合には「疲労のため欠席」と香港紙が
報じて気をもませる。指導者の一挙手一投足に中国内外の関心が集まるのは、中国政治の
方向づけにおける影響力、指導力を示すことはいうまでもない。昨年の春節前夜の南方巡
視を通じて、改革開放の路線を再度活性化させた功績は大きい。世界経済の低迷状況のな
かで、中国経済のGNP成長率一二%という数字は異彩を放っている。
ところが、鄧小平の実像は意外に知られていない。本名は先聖だが、幼名は希賢である。
今日の「就学生」と酷似した制度である「勤工倹学生」として、七〇年ほど昔、鄧小平は
フ ラ ン ス へ 旅 立 っ た 。 希 賢 を 四 川 語 発 音 で Te n g H i H i e n と 表 記 し て 成 都 の フ ラ ン ス 総 領
事 館 で ビ ザ を 得 て 以 後( 帰 国 し て か ら 地 下 活 動 用 と し て 鄧 小 平 の 名 を 用 い る ま で )、外 国 人
登録や工場での就業記録において一貫してこう表記した。近刊の『最後の龍・鄧小平伝』
(中嶋嶺雄監訳、時事通信社)では、原著者が「希賢」と書いた箇所がすべて「先聖」と
誤訳され、訳書に希賢がまったく登場しないのは腑に落ちない。初めての外国人登録を描
写 し た 箇 所 で は 、 H i H i e n に フ ラ ン ス 語 読 み で「 イ ー イ ア ン 」と ル ビ が ふ ら れ て い る 。漢
字 ( 希 賢 ) → 四 川 語 読 み ロ ー マ 字 ( Te n g H i H i e n ) → フ ラ ン ス 語 読 み の 発 音 と い う 「 三 段
飛び」で、希賢はついに「トン・イーイアン」にされてしまった。誕生日を一九〇四年七
月一二日と記入したのは旧暦によるもの。この日付が太陽暦八月二二日に相当する旨の注
釈も不可欠だ。手抜き監修の見本というべきか(日本国際貿易促進協会『国際貿易』九三
年 二 月 九 日 号 、 今 日 の 話 題 )。
矢吹晋『逆耳順耳』
133
『蒼蒼』第50号、93年6月、手抜き翻訳、手抜き監修・その二
後 者 に つ い て 私 は 、『 東 京 新 聞 』 九 三 年 五 月 二 三 日 付 に 次 の 書 評 を 書 い た ─ ─
毛沢東生誕百周年にあたり「お守り」や「毛沢東カラオケ」が大流行し、少なからぬ関連
書 物 が 出 て い る 。鄧 小 平 は 八 九 歳 に な る が 、昨 年 の「 南 巡 談 話 」あ た り か ら 人 気 が 回 復 し 、
関連著作が多い。画家李の描いた「改革の総設計師」像の出版はその象徴であろう。本書
はアメリカのピューリツァー賞受賞記者の書いた二人の皇帝の評伝である。本書の毛沢東
像 は「 マ ル ク ス + 秦 の 始 皇 帝 」に 帰 着 し 、鄧 小 平 像 は「 リ ト ル ・ エ ン ペ ラ - 」に 収 斂 す る 。
著 者 は 一 九 八 四 年 の 踏 査 を ふ ま え て『 長 征 』
( 八 五 年 )を 描 き 、八 九 年 に は 建 国 四 〇 周 年 取
材 の 途 中 で た ま た ま 天 安 門 事 件 に 遭 遇 し て『 天 安 門 日 記 』
( 八 九 年 )を 出 版 し た 。本 書 は 長
年にわたる丹念な取材をもとに、中国現代史における毛沢東、鄧小平のプロフィールをジ
ャーナリストの筆致で活写したものである。毛沢東については、その秘書、通訳をつとめ
た李鋭、胡喬木、伍修権、師哲、閻明復などを取材してその性格や人物にせまっている。
鄧小平については番頭格の楊尚昆を長時間インタビューした。このほか胡耀邦、趙紫陽、
李瑞環、朱鎔基など長いリストになるほどの重要人物のインタビューのほか、翻訳と資料
発掘のため助手の協力を得て周到な準備をもとに書かれた。豊富なエピソードを用いて波
瀾に満ちた中国現代史を描いた本書は、読みものとして実に面白い。たとえば毛沢東がフ
ルシチョフを郊外の別荘に宿泊させて「蚊の餌食」にしたり、泳げない彼をプールの中ま
で引きずり込んでからかった一幕などは、毛沢東流のゲリラ戦術を彷彿させる。これまで
は「プールサイドの会談」と上品に解釈されてきた真相を暴いてくれた。ただし毛沢東の
ハレムの話などは、典拠がルイ・アレーの談話とコンフィデンシャル・ソースだけで、い
ささか心許ない。肝心の生活秘書張玉鳳を取材しておらず、また孟錦雲にいたっては、そ
の名さえ出てこないのは不可解だ。七六年に再失脚した後の鄧小平は北京に住んでいたこ
とが確認されているが、本書では俗説の広東滞在説にしたがっている。細部についてはい
ろいろ議論の余地があることはいうまでもない。
翻 訳 に 不 満 が 残 る 。鄧 小 平 の 本 名「 先 聖 」が「 向 聖 」と 誤 訳 さ れ 、幼 名「 希 賢 」は「 希 聖 」
と誤訳されている。これでは研究者としての実力が疑われる。友美はコンノート将軍元夫
人友梅の誤り。毛沢東の司書先知にジヤンシエンジーとルビをふっているが、中国語の読
めない著者の誤りは姓を「パン」と訂正しておくのが訳者の見識だろう。ネルソン・フー
は中国人のクリスチャン・ネームだから傅連章の本名で統一せよ。唐聞生とナンシー唐も
同じ。モンゴル大使館員の孫一先が孫逸仙に、李鋭が李瑞に、馬海徳が馬海得に化けたの
は許されない当て字だ。NHK武田記者は竹田記者だ。人名に中国語ルビをふるのも一つ
の見識だが、ダンプーファン、ジューデァーなどは生兵法の見本。この音を聞いても誰の
ことか分かるまい──。
引 用 し な が ら 一 つ 気 づ い た 。「 リ ト ル ・ エ ン ペ ラ ー 」 は 「 小 皇 帝 」 と 訳 さ れ て い る 。 こ れ は
むしろ「チビの皇帝」といった感じではないのか。小皇帝は腕白坊主の匂いがするし、土
皇帝は地方ボスになる。
もう一つ。伍修権や師哲が訳書索引から蒸発していますよ。
矢吹晋『逆耳順耳』
134
過去半年間に相次いで出版された二冊の翻訳書が双方とも、著者が当然のことながらはっ
きりと区別している先聖と希賢を混同したり、先聖と陶希聖を混同したりしている。これ
は一体どうしたことであろうか。単なる不注意なのか。
ローマ字と漢字との間でフラフラして、伝記の主人公の名前さえアイデンティファィでき
て い な い わ が「 研 究 以 前 」の 状 況 に 淋 し さ と 危 機 感 を 感 じ な い わ け に は い か な い の で あ る 。
『蒼蒼』第50号、93年6月、デン・シャオピン
『朝日新聞』
( 九 三 年 五 月 一 〇 日 付 )の「 天 声 人 語 」に 、次 の よ う な 一 句 が 見 え る 。
「中国、
韓国、シンガポール、その他、外国の人々に対しても国内でと全く同じ順序で名乗ってい
る国や地域が、アジアには多い。鄧小平(デン・シャオピン)は、シャオピン・デンとは
い わ な い 」。筆 者 の 趣 旨 は 二 葉 亭 四 迷 や 江 戸 川 乱 歩 の 姓 と 名 を 逆 に し た ら 、カ タ ナ シ だ と 主
張しており、その理屈は小学生にも分かる。問題は鄧小平のルビである。デン・シャオピ
ンであれ、その逆の順序であれ、をデンと読ませようとする筆者は、原音を知っているの
かどうかが気になるのだ。あるいはまたデン・シャオピンというルビを読む読者がどのよ
うな音をイメージするのかが気になるのである。
筆 者 は お そ ら く ピ ン イ ン の D E N G を 英 語 の ロ ー マ 字 と 同 類 だ と 思 い 、こ の ピ ン イ ン を「 デ
ン 」 と 読 ん で 少 し も 疑 わ な い の で あ ろ う 。 DENG を 「 デ ン 」 と 読 む の な ら 、 DEN は ど う
読むのか。日本人・田某とどのように区別するのか。
前 に 書 い た よ う に (『 蒼 蒼 』 一 九 号 お よ び 三 九 号 )、 私 は 鄧 小 平 は ト ウ ・ シ ョ ウ ヘ イ と 読 む
のが正しい日本語だと考えている。外国人との会話において、トウ・ショウヘイやリ・ホ
ウと呼んだのでは、相手に伝わらない。だから原音にしたい。そこで原音のルビをふるべ
し と い う 主 張 が あ る 。 し か し 、 デ ン ・ シ ャ オ ピ ン や ジ ュ ー デ ァ ー (朱 徳 の ル ビ の つ も り ら
しい)と日本語流で発音したところで、どこまで相手に通ずるか、疑わしい(おそらくは
通 じ な い )。
表 音 文 字 の 習 慣 を も つ 人 々 が「 鄧 小 平 」や「 江 沢 民 」の 中 国 語 を そ れ ら し く 発 音 す る の は 、
音を耳で聞いて覚える習慣をもっているからだ。原音を聞いたことのない日本人がルビを
頼りに原音に近づくことは至難のワザであろう。不可能とまではいわないが、おそらくそ
れに近いと思う。
中 国 人 か ら 問 題 を 見 て 見 よ う 。彼 ら は「 宮 沢 」を G O N G Z E と 読 ん で 疑 わ な い 。日 本 人 の 名
であるからには、日本語の音でミヤザワと呼ぼう、などと考えてくれる殊勝な人種は日本
語を勉強した中国人だけに限られる。
「 宮 沢 」を GONGZE と 読 ん で 疑 わ な い 中 国 人 と つ き
あうためには、こちらも断固としてトウ・ショウヘイと読むのがよいと私は確信するに至
った。
もし外国人との会話で中国人の人名が分からなくて困る、というのならば、せめて人名を
一〇なり、三〇なり、五〇なり、一〇〇なり、正しい中国語音で発音できるように勉強す
べきなのである。基本的な学習の手続きを怠ったままで、ルビさえふれば、相互理解に近
づくかのごとく錯覚している人々の安直さがやりきれないのだ。それで済むなら、おそら
矢吹晋『逆耳順耳』
135
く中国研究は素人でもできる。中国研究者なぞまるで無用の存在であり、さっさと廃業す
るのが賢明な生き方になろう。実際に使えないようなルビをふるのは、どう考えてみても
生産的だとは思えない。たかだか「これは中国人の名前ですよ」と示唆する程度ではない
のか。その程度なら、ルビがなくとも普通の日本人には常識で分かると思うのだが。
ここで反省。肝心なのは、日本人の頭脳の構造であるらしい。専門家の説によると、漢字
を識別する場合と、その音声を識別する場合とは、頭脳がそれぞれ機能分担しているとい
う。日本人が音に鈍感になるのは、それがどんなに間違っても、その背後に「漢字という
真実」があるから、それさえ押さえておけば、と楽観しているからだ。私自身、名刺をも
らったとたんにその人物の名を忘れる。あとで名刺を見ればよいと安心するからだ。だか
ら、これはほとんど日本人のビョーキであり、目くじらを立てる私は、もっとひどいビョ
ーキなのであろう。
閑話のつづき。ルビがどうしても必要なのは、実は日本人の名前であろう。さる奇特なア
メリカ人が小著『図説・中国の経済』の「はしがき」について、電話でこう聞いてきた─
─。
近藤大博の大博は、何と読むのか?
モトヒロである。稲垣清は、キヨシでよいのか。然
り。高原明生はどうか。アキオだと思う、いやアケオかもしらん。こういうときは英文の
本が役立つね。
の著者はアキオだね。
小林弘二はヒロジか。いやコウジと読む。村田忠禧は、村田……。これが読めたら、もう
日本人同然だ。早く教えろ。タダヨシだ。白石和良はカズヨシだね。然り。これをワリョ
ウと読むと坊さんになる。カリョウなら、もっと偉い坊さんだ。中村公省はコウセイでよ
い ね 。い や 、あ れ は キ ミ ヨ シ が 正 し い 。ち が う ね 。私 へ の 手 紙 に コ ウ セ イ と サ イ ン し た よ 。
それは通称だ。みながコウショウと読むので、それよりはコウセイがましだと妥協したの
だろう。文部省よりは、反省が好きなのだね、きっと。
「 天 安 門 広 場 の 真 相 」、『 国 際 貿 易 』 9 3 年 6 月 1 5 日
天 安 門 事 件 四 周 年 の 九 三 年 六 月 三 日 夜 、N H K テ レ ビ の「 ク ロ ー ズ ア ッ プ 現 代 」が「 空 白
の三時間」の真相に迫り、話題を呼んだ。それは人民解放軍が天安門広場を完全に包囲し
たあと、すなわち一九八九年六月四日午前三時に天 安門広場に留まって取材していたス
ペ イ ン ・ テ レ ビ の 取 材 班 が 映 し た ビ デ オ を 紹 介 し 、取 材 班 に イ ン タ ビ ュ ー し 、さ ら に 広 場
の無血撤退に決定的に重要な役割を果たした侯徳健(台湾在住のシンガー・ソングライタ
ー )に 証 言 さ せ た も の で あ る 。そ の 結 論 は 、天 安 門 広 場 の 最 終 的 整 頓 過 程 に お い て は 、死
者 は で な か っ た 、い わ ゆ る 大 虐 殺 説 は 誤 り で あ っ た と い う も の で あ る 。も う 一 つ 重 要 な ポ
イ ン ト は 、N H K の テ レ ビ ・ カ メ ラ は 当 日 そ の 時 刻 に は 、広 場 を 映 せ る 位 置 に は な か っ た
ことも加藤青延元特派員が証言している。
この結論は一般の読者にとって意外であったらしく、私のところにもいく つか問いあわ
せがあった。事件後四年目にして、NHKがその取材力と良識を活かして、このような番
矢吹晋『逆耳順耳』
136
組を作ったことを高く評価するものである。しかし、 敢えて率直なコメントを加えれば、
こ の 番 組 は 三 年 前 、す な わ ち 一 九 九 〇 年 の 事 件 一 周 年 に 作 る べ き も の で あ っ た 。画 像 の 流
し た 誤 り は 、画 像 を 通 じ て 訂 正 し て お く べ き で あ っ た 。日 本 の マ ス コ ミ 界 は 怠 慢 の ゆ え に 、
それから三年の時 間をムダにしたのである。
私 が「 天 安 門 広 場 で の 虐 殺 は な か っ た 」こ と を 論 証 し て 、 狂 気 扱 い さ れ た の は 、事 件 半 年
後 で あ っ た (『 読 売 新 聞 』 八 九 年 一 二 月 四 日 夕 刊 )。 そ の 後 、 撤 退 を 見 届 け た ス ペ イ ン ・ テ
レビのフィルムの運命については、マンロー論文 に基づいて簡単な説明を行なったこと
が あ る (『 蒼 蒼 』 九 〇 年 八 月 号 、 の ち 拙 著 『 ペ キ ノ ロ ジ ー 〔 世 紀 末 中 国 事 情 〕』 所 収 )。 私
が 比 較 的 初 期 に 、事 件 の 真 相 に 迫 る こ と が で き た の は 、友 人 の 協 力 を 得 て 、
『 チ ャ イ ナ・ク
ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 全 三 巻 を 編 集 し ( 八 九 年 八 ~ 一 二 月 )、 さ ら に 『 天 安 門 事 件 の 真 相 』
上 下 を 編 集 し た( 九 〇 年 六 ~ 九 月 )お か げ で あ る 。遺 憾 な が ら 、こ の 五 冊 は 黙 殺 さ れ 、人 々
は「虐殺幻想」に酔ってきたのだ。
『 蒼 蒼 』 第 5 2 号 、 9 3 年 1 0 月 、「 空 白 の 三 時 間 」 裏 話 を 味 わ う
加藤
青延
様 玉 稿(『 蒼 蒼 』五 一 号 )を 拝 読 し て 、い ろ い ろ 感 ず る と こ ろ が あ り ま し た 。
歴史の真実がなぜ、どのような過程を経て、隠されるに至ったのかがよく理解でき、戦慄
さえ感じさせられました。あなたの編集された番組は、たいへんに時宜を得た、必要な不
可欠なものであったと確信しておりますが、放映されたものだけでは、いま一つはっきり
しないもどかしさを感じたのでした。つまり、番組を見て、ますますその周辺の事柄を知
り た く な っ た の で す 。 そ こ で 取 材 メ モ を 公 表 し て ほ し い と お 願 い し た わ け で す が 、『 蒼 蒼 』
誌にこのような形で発表していただいて、興味津々、一読三読した次第です。
この記録を残すこと、つまり誰もが利用可能な共通の資料とすることが望ましいというさ
さやかな提案を受け入れて下さったことに重ねて厚くお礼を申し上げます。くどいようで
すが、私がどうしても記録にとどめておきたい箇所を玉稿から引用しておきます。すなわ
ち、ジャーナリズムのあり方や中国の現実を考えるうえで、必要な情報と私が判断する部
分に下線を引いてみました。
レストレポ記者:素材を衛星を使って送ることは不可能でした。中国当局によって回線を
切られていたので。それで香港へ出す必要があったのです。もちろん翌朝〔六月四日〕で
す。私は当然、その素材を見ていませんでした。ですから私の電話リポートは、前の晩に
見たことを、正しく解釈されることを想定して、思い出しつつ行なったのです。残念なこ
と に ─ ─ こ の 点 は 大 切 な の で 強 調 し た い の で す が 、ジ ャ ー ナ リ ス ト と し て 私 が 学 ん だ の は 、
その時に人は歴史の重要な一頁に身を置いているとはなかなか考えないことです〔天安門
事件のような大事件はめったに起こらないでしょが、ジャーナリスト諸氏にまず拳拳服膺
し て も ら い た い で す ね 〕。電 話 レ ポ ー ト を 送 る と き に 、マ ド リ ー ド の 私 の 同 僚 た ち が 他 の 国
と同様に「天安門広場の虐殺」という決まったイメージを持っていたとは考えませんでし
た 〔 情 報 の 発 信 者 と 受 信 者 と の 認 識 ギ ャ ッ プ の 問 題 〕。
私は錯綜した情報をかき集め、順序立てて送ったつもりでしたが、マドリードにいる同僚
矢吹晋『逆耳順耳』
137
たちは、
「 天 安 門 広 場 の 虐 殺 」と い う ス テ ロ タ イ プ の 見 方 し か 持 っ て い ま せ ん で し た〔 こ の
見方を作るうえで決定的に重要な役割を果たしたのは、英BBC放送のジョン・シンプソ
ン記者の架空実況中継ともいうべきレポートでした。彼はベルリンの壁の崩壊、ルーマニ
ア の テ ィ ミ シ ョ ア ラ の 現 場 と い う「 八 九 年 の 三 大 現 場 」を 取 材 し た こ と で 〇 × 賞 を 得 て い ま
す 。そ の 間 の 事 情 は 、彼 の 著 書 D i s p a t c h e s f r o m t h e B a r r i c a d e s , O x f o r d , 1 9 9 0 , に 所 収 〕。
おまけに彼らが受け取ったテープも色々なものが順不同に混ざったものだったので、よく
理解できず、結局彼らは国際通信社やプレスの言うことに立脚したコメントを付けてしま
いました。結果として、スペイン・テレビのニュースは事実を歪めるものとなってしまっ
た の で す 。残 念 な こ と で す が 、逆 説 的 な こ と に 、こ の 特 ダ ネ 映 像 が 混 乱 し た 状 況 に お い て 、
事実とは違った事件の話を作り上げることになってしまいました。香港の編集マンはわけ
が 分 か ら な か っ た で し ょ う 。 戦 車 、 死 体 ……や は り 虐 殺 だ 、 と 。
一周年記念の機会を逸した
レストレポ記者:天安門事件一周年の番組の中で、私の見た通りの事実を再現したいと思
っていました。しかしこの番組のディレクターは「天安門広場の虐殺」にこだわり、私が
見た通りのことを言っているにもかかわらず、聞き入れませんでした〔スペイン・テレビ
はこのときも宝の持ち腐れをやったわけですね。この番組のディレクター氏は、天安門事
件以後ヨーロッパ世界を支配していた中国観に身をまかせており、真実を発掘しようとす
る意欲も、問題意識もまるでなかった。日本では、TBS「ニュースの森」が私を呼んで
「広場に虐殺なし」と数分間発言の機会を与えてくれたのですが、私からするときわめて
不満の残る番組でした。しかし、TBSは私を呼んだだけでも、エライ。他の局はまった
く 無 視 し た の で す か ら 〕。
レストレポ記者:天安門広場の真相を隠した要素は、三つあると思います。一つには、極
端な状況にあったということ。まず香港に運ばれたテープが今度は衛星でスペインまで送
られ、混乱は極まりました。これは重要です〔ナゼですか。テープはバラバラになってい
た の で す ね 〕。 第 二 に 、 こ の 素 材 は 唯 一 世 界 に カ 在 す る も の で あ り 、 し た が っ て 他 に 比 較 検
討すべきものがなかったということ。このこと(フィルムに移された事実)が「あった」
(現実に存在した)と証明する多局の映像が無かったこと〔加藤さんの玉稿を読んで、私
が戦慄したのは、この箇所です。これはまさに「真昼の暗黒」そのものですね。真実を伝
え る フ ィ ル ム が 一 つ し か な い か ら 、真 実 性 を 証 明 で き な い と い う 逆 説 ! 〕。第 三 に 、こ れ を
言うのは嘆かわしいことですが、当時のわが社のリーダーシップが、誤った報道を正しく
やり直そうとしなかったためです。われわれの持っている素材を使って事実を再現すべき
でした。しかし実際には、もう一度誤りを繰り返したのです。当時、唯一状況を正しく説
明できる私をマニラから呼び寄せて正しい報道を試みるという判断を当時のディレクター
は下せませんでした〔こういう社内事情はいずこも同じですね。いい番組はこうした葛藤
を 乗 り 越 え る 人 び と に よ っ て 作 ら れ る の で し ょ う ね 〕。
感謝の気持を込めて、書抜きしました。北京でのご活躍を祈ります。
追伸。あなたの番組があちこちで話題になっていた六月某日、勤め先の研究室に、珍しい
矢吹晋『逆耳順耳』
138
客 が 現 れ ま し た 。『 朝 日 新 聞 』 の 永 持 裕 紀 記 者 で す 。 永 持 記 者 も ま た 、 天 安 門 事 件 の 当 日 、
最後まで広場に居残り、広場の真実を最後まで目撃した証人であることはご存じの通りで
す 。私 は『 ペ キ ノ ロ ジ ー 』二 二 三 頁 で 彼 の 証 言 を『 朝 日 人 』
( 朝 日 の 社 内 報 、八 九 年 八 月 号 )
から引用したことがあります。永持記者は近く北京支局勤務に派遣されることになったの
で、目下その準備をしている由でした。中国の政治経済の現状やポスト鄧小平の諸問題に
ついて意見を交換したあと、こんどは私が記者を「逆取材」しました。六月三日深夜から
四日早暁にかけて目撃した広場の事実をあれこれ確認した次第です。彼は事件後、上海復
旦大学で一年間研修し、それから名古屋支局に勤務していたそうです。そして今回ようや
く北京の檜舞台に派遣されることになったとのことでした。これまでの教訓を踏まえて健
闘されることを祈って別れました。
『蒼蒼』第52号、93年10月、ゼロ(0)の意味
あ る 席 で 西 暦 二 〇 〇 〇 年 は 二 〇 世 紀 末 か 、二 一 世 紀 の 初 年 か 、が 話 題 に な っ た 。
「数は0か
ら始まる」から、二一世紀の初年だと中国の「天文学者」が答えたという説が中国の新聞
に載ったが、さあどうなんだろうな。それで話は途切れた。
数 日 後 、あ る 北 京 特 派 員 が コ ラ ム を 書 い た 。
「 ま さ か 。紀 元 は 0 年 で は な く 、一 年 か ら 始 ま
り、紀元一年の前年は紀元前一年であることを思い出せば、間違いであることはすぐわか
る で は な い か 」( 原 義 明 記 者 「 ワ ー プ ロ 日 誌 」『 読 売 新 聞 』 九 三 年 八 月 三 一 日 )。
原記者のコメント「中国がもしオリンピック誘致に国を挙げて取り組んでいる背景に、も
しも、二一世紀最初の祭典を中国で、という誤解に基づく発想があるのだとしたら、他は
おして……ということになりかねない「
」 不 思 議 の 国・中 国 を ゼ ロ か ら 考 え ざ る を え な い 」。
なるほど。
( オ リ ン ピ ッ ク = 二 〇 〇 〇 年 )→ 二 一 世 紀 は 中 国 の 世 紀 と い う 予 想 → 二 〇 〇 〇 年
は二一世紀、という三段論法も一因かもしれない。
私 が 感 じ た の は 、も う 一 つ の 根 拠 で あ る 。中 国 語 の「 零 」は 、ゼ ロ で は な い 。た と え ば「 零
銭 」 は 、 コ ゼ ニ 、「 零 件 」 は 、 部 品 、「 零 吃 」 は 間 食 、「 零 工 」 は 日 雇 い 、 の こ と だ 。 つ ま り
「 こ ま ご ま と し て い る が 、 ゼ ロ そ の も の で は な い 」。 こ れ が 「 零 」 の 伝 統 的 観 念 で あ る 。 む
ろ ん 、 ア ラ ビ ア 数 学 以 後 「 ゼ ロ の 観 念 」 も 輸 入 さ れ 、「 零 点 」 は 夜 半 の 一 二 時 で あ る 。
だ か ら 、 二 〇 〇 〇 を ア ル ・ リ ン ・ リ ン ・ リ ン と 発 音 す る と き 、 中 国 人 の 頭 の な か で は 、「 リ
ン」はゼロという無ではなく、すでに、なにがしかの有である。だから、二一世紀だと錯
覚するのではないか、というのが私の解釈だが、説得性はどうだろうか。
『蒼蒼』第52号、93年10月、お詫びと訂正
『蒼蒼』五〇号に間違ったことを書きましたので、ここに謹んで訂正し、関係者にお詫び
を申し上げます。一四頁第三段一一~一二行の「トウ友美はコンノート将軍元夫人の友梅
の誤り」と書いたのは、オーミステイクでした。友美を友梅と訂正したのはよかったので
すが、それ以外は間違いです。
中 国 関 係 の 有 名 人 で コ ン ノ ー ト 夫 人 な ど い ま せ ん 。シ ェ ン ノ ー ト 夫 人 陳 香 梅 な ら い ま す ね 。
矢吹晋『逆耳順耳』
139
実は、恥を忍んで書きますが、そのとき香港総領事館に「ある事実」の確認を求めようと
努力しており、総領事館がハーコートロードからコンノート・プレースに引っ越したこと
が分かったものですから、私の頭の中はコンノート・プレースで一杯だったのです。
陳香梅のほうは『廖承志回想録』を貸してほしいという友人がいたので、この本を必死に
なって、かきまわしていたのです。狭いわが家の書斎をいくら掻き回しても出てこない。
このごろは一冊の本を探すのに、最低三〇分はかかります。ひどいときは一週間探して、
ついに捜し出せず。こんなときは血圧が一六〇~一七〇になり、トンデモナイ勘違いをす
るのです。神経回線がショートして短絡するようです。
たとえば前日の深夜に二四六号道路を通ってわが家に帰ると、林彪の専用機が二四六号に
化 け た り す る わ け 。( カ ゲ の 声 ) 末 期 症 状 だ よ ね 。 鄧 小 平 よ り も 長 生 き で き る の か ね ェ ー 。
要するに、物忘れがはなはだしいのです。たとえば七月末に、ハバロフスクのインツーリ
スト・ホテルにクリスチャンディオールのジャンバーを忘れました。ジャンバーは惜しく
ないけれども、女房からの誕生日の贈り物だったものですから、それがちょっと困るので
す。
少し前の中国旅行では、広州のガーデン・ホテルのクローゼットに女房が買ってくれたば
かりのズボンとシャツ(カッコイイやつ)を忘れました。つまり意図せざる途上国援助を
ささやかながらやっているわけですが、どうにもしまらない話です。
このごろ、
「 三 に 一 」の 忘 却 の 法 則 と 名 付 け て 注 意 し て い る の で す が 、ダ メ な の で す 。た と
えば電話が一度に三つかかったりすると、そのうちの一つは必ず忘れてしまう。有能な美
人秘書でも雇いたいのですが、考えてみると、私の仕事自体がワープロを打ったり、コピ
ーをしたり、本を探したり、秘書の仕事みたいなものだから、その美人秘書が現れたら、
い っ た い 私 は 何 を や る の か 。失 業 し て し ま い ま す ね 。だ か ら そ れ は 要 ら な い の で し ょ う ね 。
書評『北京の長い夜・ドキュメント天安門事件』ゴードン・トーマス著、並木書房、掲載
紙『産経新聞』93年11月14日
本書は一九八八年一一月から翌八九年六月三~四日までの中国の激動をドキュメント・タ
ッチで描いたノン・フィクションである。著者は諜報関係のテーマを売り物にする書き手
であり、冒頭に一日当り百万枚の画像を処理するワシントンの「国家写真解読センター」
の中国ウオッチングの一端が紹介され、好奇心をそそる。副題は「ドキュメント天安門事
件」──極秘情報に基づく天安門事件の真相という売り込みである。ところが、とんだ食
わ せ 物 。失 望 を 通 り 越 し て 怒 り を 感 じ る ほ ど の 駄 作 。ほ と ん ど ペ テ ン 師 に 騙 さ れ た 気 分 だ 。
天安門事件がらみでは、かつて江之楓『小平・最後の闘争』という「中南海からの秘密報
告」を売り物にしたニセモノが出回ったが、読後の印象は酷似している。フィクションな
ら想像力を羽ばたかせてよい。しかし明白な誤りであることが確認されている事柄を、あ
た か も「 新 事 実 」で あ る か の ご と く 書 く の は 、
「 愚 に あ ら ざ れ ば 巫 な り 」の 類 だ 。著 者 は 一
九八九年六月から九〇年二月にかけて取材し、九一年に原書を出版した。インタビューの
対象者は約一〇〇人、大部分は「事件の目撃者」であり、録音テープは二四〇時間にのぼ
矢吹晋『逆耳順耳』
140
ると誇る。だが、このインタビュー対象者のなかに、広場の真実を見届けた十数人の外国
人 ジ ャ ー ナ リ ス ト は 一 人 も 含 ま れ て い な い の だ か ら 、開 い た 口 が ふ さ が ら な い 。ス ペ イ ン・
テレビのレストレポ記者が今年の六月四日夜、
「 N H K ク ロ ー ズ ア ッ プ 現 代・天 安 門 広 場 空
白の三時間」に登場したことは読者もご記憶であろう。同じく天安門広場の最後を目撃し
たアメリカの人権擁護団体アジア・ウオッチの活動家ロビン・マンローは事件一年後に、
詳 細 な 目 撃 記 録 を 書 い て い る が (『 ザ ・ ネ ー シ ョ ン 』 九 〇 年 六 月 一 一 日 号 )、 こ れ を 参 照 し
た 形 跡 も な い ( 邦 訳 は 矢 吹 晋 編 『 天 安 門 事 件 の 真 相 』 下 巻 、 九 〇 年 九 月 )。 天 安 門 広 場 に 出
動 し た 兵 士 た ち が 行 動 の 前 に「 麻 薬 」を 注 射 さ れ た と い う の は 、根 拠 の な い デ マ で あ っ た 。
「虐殺」死体を焼いたり、その悪臭がただよったという話もゴミの悪臭にすぎなかったの
だ 。「 麻 薬 注 射 」 に せ よ 、「 死 体 焼 却 」 に せ よ 、 単 に ウ ワ サ を 書 き と め る だ け で は 、 真 相 究
明からは遠い。著者はテレビ画像の流した衝撃的イメージに驚愕した視聴者に媚びている
だけなのだ。
「 諜 報 関 係 に 強 い ジ ャ ー ナ リ ス ト 」の は ず な の に 、米 当 局 の 分 析 成 果 が 何 一 つ
本 書 の 記 述 に 反 映 さ れ な い の は 不 可 解 極 ま る 。こ れ は ニ ュ ー ス 源 の 秘 匿 な ど の 話 で は な い 。
取材者が軽くあしらわれているか、壮大なコンピューターがコケ威しなのか、いずれかで
あろう。翻訳にも間違いが多い。特に目障りな人名ルビは三菱総研編『フーズ・フー』に
し た が っ た と い う が 、同 書 は 、妙 チ キ リ ン な ル ビ は 一 切 つ け ぬ 見 識 を 示 し て い る 。
『ワイル
ド・スワン』といい、本書といい、中国語と現代中国を知らない英語屋(即席中国屋)の
欠陥商品が横行するのは、日本文化界の頽廃を示すものだ。
『蒼蒼』第53号、93年12月、田中忠仁さんへの手紙
田中さんからお手紙をいただいたのは、NHKテレビが「空白の三時間」を放映した直後
の こ と で し た 。「 不 在 其 位 、 不 謀 其 政 」 と い う こ と ば が あ り ま す 。 文 脈 は 少 し 違 い ま す が 、
昔から男(女)は、バカな女(男)の前でくどい説明などしないものですね。田中さんは
聞く耳をもたない日本社会で「天安門事件体験」を語ることをやめていたのでしたが、事
件から四年の歳月を経て、ようやく重い口を開く気になり、当時の記録をどっさりと送っ
て下さったのでした。
私 は む ろ ん 、と り 急 ぎ 一 読 し て 、私 自 身 が 現 場 か ら 遙 か に 離 れ た 安 楽 椅 子 で( ? )、資 料 検
証を試みた結果に照らして、当時のあなたの印象との異同を確かめた次第でした。当時の
混乱した状況のもとで、これだけ冷静に情報を集め、多角的に分析する日本ビジネスマン
の行動力と分析力を心から頼もしく思い、蒼蒼社主中村公省さんに、あなたの資料のこと
を知らせた次第です。どうか悪しからず。
あれからほとんど半年が過ぎて、ようやく当時の記録の一部がそのままの形で(事後の修
正を加えることなしに)一つの証言として『蒼蒼』に掲載されることになったのは、喜ば
しいかぎりであります。事件直後に急いで帰任するあなた方ビジネスマンに対して「エコ
ノミック呼ばわりするマスコミ」に対して、あなた方の感じた悔しさに共感できます。
私自身は(事件当時の現状認識の誤りはひとまず棚にあげて、日中経済協力の基本的な考
え方については)当時から一貫してイソップ童話「北風と太陽」にいうところの太陽派で
したから、帰任は当然と考えていました。あれから四年、人権外交のクリントン政権でさ
矢吹晋『逆耳順耳』
141
えも、ようやく太陽派すなわち経済発展こそが人権状況改善の条件を作るのだという説に
歩み寄ったようです(念のために、書いておきますが、私はいわゆる経済制裁には天安門
事件直後から反対の意向を表明してきました。たとえば八九年六月一一日夜NHK1チャ
ネ ル「 視 点 」に お け る 饗 庭 孝 典 解 説 委 員 と の 対 話 や 、
「 中 国・私 の 見 方 ─ ─ 経 済 封 鎖 に は 反
対 」『 日 経 産 業 新 聞 』 八 九 年 六 月 二 六 日 な ど に 当 時 の 見 解 が 出 て い ま す )。
さ て 田 中 さ ん の 文 章 で 面 白 い 一 つ の 論 点 は「 南 京 大 虐 殺 」と の 比 較 論 で す ね 。
「〔 南 京 事 件 〕
当時は人数〔死者〕の確定は行なわれず、明確に二十~三十万人説が持ち出されたのは一
九四六年東京裁判の告発の時が初めて」であった。
「本多勝一氏の一九七一年の《中国の旅》は、事件から三四年も経過後の個別インタビュ
ー記事中心の南京大虐殺の啓蒙書で、部分で以て全体を類推する傾向があり、一方最近の
著作《南京への道》では大虐殺は南京だけの孤立した事件ではなく、上海・杭州湾の上陸
地 点 か ら 南 京 ま で の 道 そ の も の で 広 範 囲 に 行 な わ れ た と 表 現 が 変 わ っ て い る 」「 南 京 へ の
進軍途中での戦闘行為で発生した戦死者も入れて論ずるならば、むしろ〈江南戦争〉と称
す る べ き だ 」。
「南京大虐殺記念館を見学して見ると、最近二~三年に訪問した日本人高校生修学旅行団
の感想記録や署名簿までが、日本人自ら悪かったと認めているではないかと強調されて陳
列 さ れ て い る の が 印 象 的 で あ る 」。
実 は 、天 安 門 事 件 と 南 京 事 件 に つ い て の 比 較 論 は 、私 の 敬 愛 す る 経 済 学 者・日 高 普 さ ん も 、
試 み て お ら れ ま す 。私 信 で す が 、一 部 を ご 紹 介 し ま し ょ う 。
「天安門事件についての君の発
言 を 全 面 的 に 支 持 す る 者 で す 。〈 虐 殺 の 有 無 を 天 安 門 広 場 の 内 側 と 外 側 と に 分 け る こ と に
意味があるわけではない〉というのは問題の所在を見誤っている。問題は門の内外ではな
しに、憎むべき行為の憎むべきゆえんを過大に伝えようとする精神の弱さにあると思いま
す 。南 京 大 虐 殺 も そ う だ し 、い た だ い た 文 章 で は テ ィ ミ シ ョ ア ラ も 光 州 事 件 も そ う で す ね 。
『朝日』の紙面批評で第一回にぼくが朝鮮人強制連行の報道のし方でふれたのもその点で
す。ぼく自身も、ナチスやスターリン主義の罪過について語る折は、ついつい事実を過大
に語ろうとする誘惑を抑えがたいことがあります。天安門事件についての君の発言を知っ
たとき、ぼくはすぐ南京大虐殺を連想しました。過大報道のまちがいを指摘すると、それ
では汝は悪に味方するのか、というようになりやすい。だから勇気のいることなんです。
君 の 勇 気 を た た え る 次 第 で す 。 一 九 九 〇 年 一 二 月 六 日 」〔 下 線 部 は 矢 吹 〕。
日高普さんは、法政大学経済学部を定年でお辞めになるので、来る一二月二〇日のお別れ
パ ー テ ィ に は ぜ ひ で か け よ う と 思 っ て い る の で す が 、孤 立 無 援 に 近 い 少 数 派 状 況 の な か で 、
このような声援は実にありがたいものでした。ここで、もう一つ補足しておきます。前に
も書いたことですが、
「 広 場 の 真 実 」を 検 証 す べ し と 最 初 に 問 題 を 提 起 し た の は 、畏 友 白 石
和 良 氏 で あ り 、こ れ に 同 調 し た 村 田 忠 禧 氏 な ど の 努 力 で 、
『 重 要 文 献 』以 下 八 冊 の「 チ ャ イ
ナ・クライシス・シリーズ」がまとまったわけです。わがワープロ指南役の村田教授は最
近は、ビデオを編集しなおし、映像から真実を読み取る新しい視聴覚教育に熱意を燃やし
ています。
矢吹晋『逆耳順耳』
142
田中さんの最後の述懐。
「われわれ少数派がいくら声を大にして〈そうではないのだ〉と説明しても、もはや事実
と し て 世 界 を 駆 け 巡 っ た 真 実 と 見 ら れ る 情 報 の 訂 正 は 不 可 能 に 近 い 」。 お っ し ゃ る 通 り で
す ね 。悪 い こ と に 、天 安 門 広 場 へ の 進 駐 は「 夜 陰 に 乗 じ て 」
( と 受 け 取 ら れ る 状 況 )で し た
が、これが衛星放送を通じて放映されるアメリカは「真っ昼間」だったのです。だからア
メリカ人は自らの「実見した映像」が部分にすぎず、全体ではないことを断じて認めたく
な か っ た の で す 。ア メ リ カ の あ る 中 国 研 究 者 は 、揶 揄 し て こ う 書 き ま し た 。
「文化大革命期
に、天安門事件よりも遙かに酷い惨劇が行なわれたが、アメリカ人は何一つ抗議しなかっ
た。テレビで見てショックを受けたという感情から、これだけにこだわるのは公正ではな
い 」( E z r a Vo g e l , C h i n a a s a Wo r l d P o w e r, Vo l . 2 2 , N o . 1 , Wi n t e r 1 9 9 3 . )
人権外交を声高に語る人だけがアメリカ人ではないでしょうし、人権改善を真に考える人
びとならば、いかなる方策、道筋が最も現実的に可能性が大きいかを追求しなければなら
ないはずです。人権改善を意図して行なった制裁措置が却って、人権状況を悪化させるこ
とさえありうるわけですね。どこの国でも有識者はやはりグローバルな観点から、問題を
公平に観察しようと努力しているようですから、その点ではやはり良識を信じてよいと思
います。とりとめのない感想を書きましたが、やはり田中さんが「当時描いた中国像」こ
そが、その後の中国の姿に一番近かったわけであり、それとは異なる中国像を描いた人び
とは、いまイメージの修正に苦慮しているわけです。いっそうのご活躍を祈ります。
『蒼蒼』91年12月、逆耳順耳、第41号、中央九月来信問題に関わる日中学術交流
井岡山のゲリラ時代の文件に「中央九月来信」と俗称される資料がある。これは上海の周
恩来から井岡山の毛沢東のもとに届いた指示で、重要な史料である。
『周恩来選集・上』に収められた際に、愚劣にも(朱毛の対立を隠蔽しようとして)一部
が 削 除 さ れ て し ま っ た 。こ の 削 除 問 題 を 発 見 し た 中 共 党 史 研 究 者・村 田 忠 禧 氏 は 、ま ず『 中
国研究月報』
( 八 四 年 八 月 号 )で 指 摘 し 、つ い で「 一 九 二 九 年 の 毛 沢 東 」
(『 東 大 教 養 学 部 外
国 語 科 紀 要 』 三 四 巻 五 号 ) で 批 判 し た 。 私 は 前 者 を 読 ん で い た の で 、『 中 共 中 央 文 件 選 集 』
第五巻では削除箇所が復旧されているのに気づき、まず削除という愚劣な政治主義を批判
し、ついで「ようやく史料を史料として扱う態度が生まれたか」と補注に書き込んだ。
ところがこうしたややこしい説明は新書版にはなじまない。そのうえ原稿枚数は大幅に超
過したので、バッサリ削除した。しかし、なんとも悔しい。そこで一計を案じて「引用文
献一覧」を作り、削除した出典、本文などについて痕跡だけは残すために、巻末にリスト
を作った。こうして本文からは削除されたのに「引用文献」だけが生きているという奇妙
な箇所も現れた。単に身贔屓で文献を挙げたと誤解する向きもあるかもしれないが、原稿
段 階 で は す べ て 頁 数 ま で 明 記 し た 具 体 的 引 用 で あ る 。私 の 初 稿 に 対 し て 、
「 引 用 」と「 引 用 」
の間に著者の地の文があるみたいだと酷評し、これではまるで読者は鼻面を引き回されて
いることになる、と「引用退治」に辣腕を振るった若い編集者の見識で、読み易い本にな
ったわけだが、その過程で生じた「間接的引用」についての苦肉の策が正体不明の「引用
矢吹晋『逆耳順耳』
143
文献一覧」にほかならない。
いささかすっきりしない結末ではあるが、このモヤモヤを吹き飛ばすような朗報が北京旅
行から戻ったばかりの村田忠禧から届いた。中央党校の蓋軍教授が村田に説明したところ
によると、
『 周 恩 来 選 集 』で 削 除 し た「 朱 毛 問 題 」の 部 分 は 、日 本 の 学 者 村 田 忠 禧 教 授 の 指
摘を受けて『中共中央文件選集』第五巻において原件を復活した、由である。
この話にはもう一つおまけがつく。村田は某所で『中共中央文件選集』第五巻「党内版」
を確かめる機会を得たが、そこでは『周恩来選集』を見よ、と説明されていた。ここから
『 周 恩 来 選 集 』 = 『 文 件 選 集 ( 党 内 版 )』 と 『 文 件 選 集 ( 公 開 版 )』 の 異 同 を 確 認 で き る わ
け で あ る 。 こ こ で は 「 党 内 版 」 は 「 試 行 版 」 で あ り 、「 公 開 版 」 は 識 者 の 示 教 を 経 て 改 善 さ
れた形である。
中国の専門家からこう告げられた時の村田の得意を思うべし。村田にとっては「研究者冥
利 に 尽 き る 」こ と で あ ろ う し 、日 中 学 術 交 流 に と っ て は 、実 に 有 意 義 な 、真 に「 学 術 交 流 」
の名にふさわしい交流というべきである。交流の名において誤解の増幅が行われ、あるい
は学術の名において政治が行われている例は少なくない。こうした苦々しい風潮のもと、
書き留めて一服の清涼剤とする。以下は『毛沢東と周恩来』に対する村田忠禧の批判的コ
メ ン ト で あ る 。─ ─ エ ピ ソ ー ド の 紹 介 の 類 が 多 す ぎ る 気 が し ま す 。
「 現 代 新 書 」と い う 性 格
も あ る の で 、や む を え な い こ と な の か も 知 れ ま せ ん し 、そ れ ら は 確 か に 面 白 い 内 容 で す が 、
限られた枚数であるにもかかわらず、それらの部分が占める割合が多すぎ、本来明らかに
すべき毛沢東と周恩来の関係が充分に明らかにされているとは思えません。たとえば前述
の九月来信前後の事柄ですが、これは近年の中共党史研究の重大成果と私は今でも思って
いることで、いわゆる毛沢東の農村から都市を包囲する革命戦略の形成に周恩来が果たし
た役割について、中国で優れた研究成果および資料が公開されたことが挙げられます。寧
都会議についての研究についても同様のことがいえます。遵義会議についても、もう少し
突っ込んだ紹介が欲しかった気がします。
また延安期の毛沢東と周恩来の関係についてはほとんど省略されていることとか、彭徳懐
解任のころから、周恩来が基本的に毛沢東に従順になってしまった、というご指摘はその
通 り と も い え ま す が 、さ り と て 六 二 年 前 後 の「 調 整 期 」、こ と に 文 芸 政 策 な ど を 見 る と 、周
恩来らはかなり明確な認識をもって毛沢東がもたらした極左思想を是正しようとしており、
だ か ら こ そ 六 二 年 夏 以 降 、 毛 沢 東 が 反 撃 し た と 思 わ れ る の で す ( 以 下 、 割 愛 )。 納 得 。 党 史
専門家よ、早くモノグラフを書いてド素人を啓発して下さい。
『 蒼 蒼 』 第 5 4 号 、 9 4 年 2 月 、『 鄧 文 選 』( 第 三 巻 ) で 気 に な る こ と
鄧小平は一九九〇年四月七日、訪中したタイ国のCP集団董事長謝国民に対して、こう語
っ て い る 。「 中 国 人 は 立 ち 上 が ら な け れ ば な ら な い 。 大 陸 に は す で に か な り の 基 礎 が あ る 。
わ れ わ れ に は さ ら に 数 千 万 人 の 愛 国 華 僑 が 海 外 に あ り 、彼 ら は 中 国 の 発 展 を 希 望 し て い る 」
(『 鄧 小 平 文 選 』 三 五 八 頁 )。 タ イ 人 た る 謝 国 民 の 「 愛 国 」 の 対 象 は 、 当 然 タ イ で な け れ ば
ならない。鄧小平が中国に対する「愛国」を語るのは、対象を間違えていやしないのか。
矢吹晋『逆耳順耳』
144
一九九〇年九月一五日、鄧小平はマレーシアの郭氏兄弟集団董事長ロバート・コック(郭
鶴 年 ) に 対 し て 、 こ う 語 っ て い る 。「 大 陸 同 胞 、 台 湾 ・ 香 港 ・ マ カ オ の 同 胞 、 こ の ほ か 海 外
華 僑 は 、み な 中 華 民 族 の 子 孫 で あ る 」
(『 鄧 小 平 文 選 』三 六 二 頁 )。い か に も 彼 ら は 人 種 的 に
は「中華民族の子孫」だが、愛国の対象が中華人民共和国であるとは限らない。鄧小平が
こ こ で 「 愛 国 華 僑 」「 海 外 華 僑 」 の 語 を も ち い る ば か り で あ り 、「 華 人 」 を 用 い な い の は 、
なぜか。単なる不注意ミスのようにも思われるが、もしそうだとすれば、ミスのよってき
たる所以はなにか。私の解釈だが、天安門事件後の中国制裁のなかで、鄧小平は東南アジ
ア の 「 同 胞 」( ? ) た ち に 緊 急 支 援 を 求 め た の で は な い か 。 危 急 時 に 際 し て 、 華 人 ・ 華 僑 の
区別を忘れてしまった。あるいはタテマエが崩れてホンネが出たとみてもよい。しかし、
これは見逃せない問題ではないか。
と い う の は 、一 九 八 六 年 六 月 一 八 日 に 、ア メ リ カ ・ カ ナ ダ ・ オ ー ス ト ラ リ ア ・ 旧 西 ド イ ツ ・
ブ ラ ジ ル な ど か ら 観 光 に 訪 れ た 栄 毅 仁 一 族 と 会 見 し た と き に は「 海 外 の 華 人 ・ 華 僑 」
「国外
の 華 人 ・ 華 僑 」 と し て 「 華 人 」 と 「 華 僑 」 を 区 別 し て い る (『 鄧 小 平 文 選 』 一 六 二 頁 )。 こ
の区別は必要不可欠だ。
「 華 僑 」た る 中 国 人 と「 華 人 」た る 非 中 国 人 は 峻 別 す る タ テ マ エ な
のである。華夷思想に犯されて、内政干渉を行なうならば、反発を買うこと必至である。
これによって最も被害をこうむるのは、東南アジアの華人たちである。私は七〇年代初頭
に東南アジアを放浪したので、インドネシアの九・三〇の悲劇やマレーシアの五・一三人
種衝突の記憶に鮮明にもっている。中華人民共和国人たちが華夷思想の眼鏡を放棄しない
かぎり、中国と東南アジア諸国との友好関係はありえない。ここからより大きな視点が生
まれる。中華人民共和国のいわゆる漢民族の多様性を認める視点の確立である。
鄧小平は一九八九年一一月二〇日、第二野戦軍史の執筆グループと会見して、こう語って
いる。
「 北 方 人 が 南 方 に 来 る の は 、ま こ と に た い へ ん な こ と だ 。果 た し て ひ と た び 淮 河 を 越
えたら、大勢が下痢を起こした。中国の真の南北の境界線は淮河であり、淮河以南を南方
と 呼 ぶ の だ 。揚 子 江 以 南 が 南 方 で は な い の だ 」
「 淮 河 を 越 え る と 、水 稲 を 植 え 、山 路 を 歩 く
が 、い ず れ も 南 方 の 生 活 習 慣 だ 」
(『 鄧 小 平 文 選 』三 三 九 頁 )。鄧 小 平 が こ こ で 強 調 し て い る
のは、南北の差異だが、同じことは東西の差異についてもいえよう。さらにいえば、言語
や風俗習慣の違いからして、中国はもっと多くの生活圏に分かれるはずである。漢字文化
という書き言葉によるネットワークで結ばれた世界は、その構成原理の簡明性、公開性の
ゆえに広大なアジア大陸に広まった。つまり中華人民共和国という表皮の下には、さまざ
まな人びとの生活圏が存在しており、中華人民共和国の転生のあとには、広大な中華連邦
の世界が広がるはずである。毛沢東はかつて「虚君共和の夢」を語ったが、この夢は、中
華人民共和国という国家の矛盾を物語る。端的に言って、大きすぎて管理ができないので
ある。
ヨーロッパではネーション・ステイツの成立から二〇〇年後に、国民国家の壁を越えてE
C 共 同 体 を 作 る 構 想 が 進 展 し て お り 、 つ い に E U ( EUROPEAN UNION ) と 呼 称 さ れ る に
至った。小さな「国民国家」を越えることによって再生を図ろうとしている。これに対し
て、アジアの大部分の諸国にとってネーション・ステイトの建設は第二次大戦後に始まっ
矢吹晋『逆耳順耳』
145
たのであり、まだ四〇~五〇年の歴史しかない。中国は一面では老大国だが、人民共和国
としては半世紀に満たない。台湾の開拓史は必ずしもそれほど若いものではないが、アジ
ア・ニースとして、一つの経済エリアとして脚光を浴びたのは、たかだか過去十余年であ
る。
若い国家(あるいはその構成要素)はいままさに成長途上国であり、その活力がGNPの
高度成長によく現れている。ヨーロッパではネーションステイトの衰退過程でEU統合が
試みられているのに対して、アジアでは政治国家としての若さと情報と生産力のゆえにボ
ーダーレス化しつつある経済国家との二つの側面をもちつつ、一方ではナショナリズムに
よる国民国家の形成と他方で経済的必要性からの国家を越えた経済圏が語られている。こ
の文脈でいえば、中国はいま、国民国家の形成の任務と、国民国家を越えてボーダーレス
に広がる中華連邦の形成とが同時に展開されていることになる。ここには、大きな問題が
い く つ も あ る が 、そ の 一 つ は 、い わ ゆ る 中 華 ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 功 罪 で あ る 。端 的 に い え ば 、
中国の国家権力のおよぶ範囲と漢字文化圏とを峻別することであろう。日本・朝鮮半島・
ベトナムは漢字文化圏にあるが、中国ではない。それと似て非なる事情が東南アジアの華
人世界に存在する。シンガポール・マレーシア・インドネシアなどの華人世界では漢字文
化が広く行なわれているが、その祖国は、それぞれシンガポール共和国、マレーシア、イ
ンドネシア共和国、タイ王国のはずである。そこを間違えると、二一世紀のアジアは世界
の成長センターであるどころか、
「 イ ス ラ ム 文 化 圏 と 儒 教 文 化 圏 の 対 立 」な る も の の の 前 線
になりかねない。俗論に導かれて、まずい現実が生まれるのである。
『蒼蒼』第54号、94年2月、
S・S
様
お手紙ありがとうございました。雑用に追われるあなたにはただご同情を申
し 上 げ る の み ( 私 も こ の ご ろ 、 急 に 雑 用 ? 本 務 ? が ふ え ま し た )。 小 著 『 鄧 小 平 』 の 結 論 が
楽観的だという大兄のコメントについて、楽観論の根拠を少し説明したいと思います。一
つは、例の何新とのやりとりのなかで、中国の開放政策の脆弱性を身にしみて実感させら
れたことです。何新は私を保守派のために使おうとしたので、私にもし利用価値があるな
らば、むしろ改革派のために少しは貢献したいと思ったこと、これが一つです。二つは、
九二年に日本国際フォーラムで対中国政策の「政策提言」を書かされたこと。政府なり、
財界に対して、政策を提言するというスタンスは、私にとって初めての体験ですが、その
過 程 で 、中 国 も 旧 ソ 連 と 同 じ よ う に SHOCK THERAPY で た た き つ ぶ し て し ま え 、と い う
タカ派(あるいは人権外交派あるいは対米ベッタリ派)と対抗して、それは難民を流失さ
せるだけの愚行である。もっと賢明な対策があるはずだという論争を 1 年やったのです。
タカ派の悲観論との対抗上、私は北風派(イソップ物語)を批判し、太陽派になったので
す。三つは、九三年春にオックスフォード郊外のディッチリー・コンファランスでG7の
有識者たちと中国の未来、特にクリントン政権の対中政策への提言を検討し、リベラルな
人びとと太陽派的中国認識において一致し、勇気づけられたのです。四つは、中国の民主
化派がいま展望を失っており、むしろ現在の鄧小平路線の成果を待って、ゆっくりと民主
矢吹晋『逆耳順耳』
146
化を進めるほうが旧ソ連の失敗を繰り返さない、効果的な道だと判断するに至ったことで
す 。き っ か け は 以 上 の よ う な こ と で す が 、中 国 の 権 力 と 民 衆 、日 本 、東 ア ジ ア 、世 界 経 済 、
どの立場からみても、中国の混乱は避けなければならないという期待と、現在の鄧小平路
線を延長すれば、中国という巨大ジャンボがテイクオフできる可能性が見えてきたので、
極力それをサポートすべきだという立場です。要するに、中国自体の状況が改善されたこ
と(改革路線の復活)と旧ソ連の負の教訓、という客観的情勢の認識の問題が一つ。他方
で 私 自 身 の「 御 用 学 者 」的 立 場 へ の 転 換 と い う 主 体 的 要 因 、こ れ ら 二 つ の 理 由 か ら い ま「 楽
観論」を展開している次第です。これまでは、純粋な観察者の立場でしたが、いまは観察
者+政策提言者の立場なので、現在の時点で、現実的、具体的な、西側の対応を含めた中
国論をしようとしているわけ。
「 素 人 の 生 兵 法 」の 危 惧 を 私 自 身 感 じ て は い ま す が 、い ま は
あまりにも軍師が欠如しているので「狗頭軍師」も出馬せざるべけんや、ですね。
小 著 へ の コ メ ン ト に つ い て 。 1)資 本 主 義 の 可 能 性 に つ い て い え ば 、 産 業 資 本 主 義 に も い ろ
いろあるわけです。中国全体がきれいな産業資本主義になることはないでしょう。資本主
義はいつも、自分に都合の悪いものは、たとえば農業問題のように外へ出してしまう。中
国も当面は擬似資本主義かもしれませんが、擬似からホンモノになるのは、やはり時間=
歴史の問題でしょう。香港資本主義、台湾資本主義を包摂しただけでも、中国はもう立派
な 資 本 主 義 で す 。 都 市 で は 、 い ず れ 市 民 社 会 も で き ま し ょ う ( 五 〇 年 、 百 年 単 位 の 話 )。 2 )
鄧小平の背広姿について。フランス時代の若き鄧小平の写真が四枚残っています。一枚は
セーターですが、三枚は背広です。過去一五年、人民服で通しているのは、無意識の保守
派対策でしょう。毛沢東の旗を掲げるのも同じ理由です。保守派からさんざん足を引っ張
られながらも、結局は保守派も巻き込んで改革路線を推進しなければ、政治的成功はおぼ
つかないとみる冷静なパワーポリティクスと見ています。人民服に固執しているのではな
く 、 そ れ を 利 用 し て い る の で す 。 3)南 巡 講 話 に つ い て 。 南 巡 は き っ か け に す ぎ ま せ ん 。 九
一年の改革路線復活構想が旧ソ連解体のショックで失敗した。そこでなりふりかまわず、
大バクチに出たのです。これが成功したのは、改革の底流が広東などでは「名存実亡」に
なっていなかったから。これでようやく天安門事件の後遺症を一掃できた。つまり、天安
門事件で遅れた分だけ戻したにすぎない。カリスマ性といえば、南巡が成功して初めて、
それが生まれたということでしょう。南巡が成功したもう一つの要因は、世界中があまり
に も 不 景 気 な こ と 。中 国 に 対 す る 期 待 が 、外 資 の 中 国 集 中 と な っ て 現 れ た 。4 )「 史 部 尚 書 」
はむろん「吏部尚書」の誤り。香港版の原文がこうなっていたのです。六部に史部なぞな
いことは承知していたのですが、この箇所は札幌の宿舎で書いて、参考書が手許になかっ
た 。 申 し 訳 な し 。 5 )「 天 理 と 容 れ 難 し 」( 八 一 頁 ) は 「 天 理 、 容 ( ゆ る ) し 難 し 」 と 改 め ま
す ( 丸 尾 常 喜 氏 の 教 示 )。 終 わ り に 。『 図 説 』 の 改 訂 版 が 出 た の で お 送 り し ま す 。 月 給 表 の
と こ ろ ヘ 、大 兄 の ご 指 摘 を 入 れ て 修 正 し ま し た 。春 に 英 訳 が 出 る の で 、そ の 訳 者 に 励 ま さ れ
て、数字の入替えをやった次第。訳者はカーター時代に北京のアメリカ代表部にいた元外
交官、いまは青年ビジネスマンです。ご研鑽を祈ります。
矢吹晋『逆耳順耳』
147
『蒼蒼』第54号、94年2月
丸尾
常喜
様 鏤 骨 の ご 高 著『 魯 迅:人 鬼 の 葛 藤 』を あ り が と う ご ざ い ま し た 。こ れ で「 竹
内魯迅」
「 丸 山 魯 迅 」に つ い で「 丸 尾 魯 迅 」が 肩 を 並 べ た わ け で す ね 。阿 Q の「 Q の 話 」は 、
だいぶ前におそらくは札幌で酒を飲みながら聞き、当時は好事家の単なる思いつき程度に
しか理解できなかったのですが、こうして全構図が見えてくると、秘密を解く重要な鍵で
あったことが分かりました。魯迅を紙背まで読んで、魯迅自身さえ意識していなかったこ
とまで対象化した大兄の仮説は、ほとんど仮説自体で一つの論理的実体を構成できるよう
に思われます(少しく妙な対比に思われるかもしれませんが、宇野弘蔵は『資本論』を読
ん で 、『 資 本 論 』 以 上 に 論 理 を 精 緻 化 し た の で し た )。
丸尾仮説を支えている重要な柱が田仲一成氏の祭祀劇研究であることも、私には快い。十
数年前に香港で再会して以来、田仲さんとはいい関係だからという私情よりも、その成果
を 利 用 し な い 手 は あ る ま い 、 と 感 じ て い た か ら で す 。「 丸 尾 仮 説 」 が ほ と ん ど 「 仮 説 の 域 」
を 超 え た と 思 う の は 、 こ の よ う な 証 拠 斉 全 の た め で す 。「 等 級 観 念 」( 一 五 一 頁 ) で す が 、
小生はいまノーメンクラツーラの研究をしており、共産党の組織が「等級観念」に接ぎ木
さ れ た と 見 て い ま す 。 と こ ろ で 、「 鬼 」 が 死 ぬ と 「 漸 + 耳 」〔 一 文 字 〕 に な る と 聞 い て い ま
すが、この位置づけはどうなりますか。考えてみると、定年もそう遠くはないですね。雑
用から極力逃げるべし。老婆心です。ご家族のみなさまによろしく。
『蒼蒼』第55号、94年4月、毛毛会見記
私は半人前の語学教師であるから、もとより弟子なぞいるわけがない。しかし、私に教わ
ったことがあると確言される方々が時々現れてひどく当惑することがある。NHKのO氏
がそうである。いろいろ話してみると、そのときに使った教科書を覚えていたので、素直
に詫びた。
外務省の某氏のばあいは先方の間違いであった。
「 お 前 は 不 可 を つ け た 。お か げ で ひ ど い 目
に 遇 っ た ぞ 。 さ あ ど う し て く れ る 」 と 脅 迫 さ れ た が ( 冗 談 半 分 )、 よ く 聞 い て 見 る と 、 話 が
合わない。私は教えていないから、不可をつけていない。あいつなら、いかにも不可をつ
けそうだということで私が濡れ衣を着せられたようである。
長 堀 祐 造 氏 の ば あ い は( 申 し 訳 な い こ と に 当 方 は ま っ た く 記 憶 に な い の だ が )、会 っ て 話 し
てみると、実によく話が通じた。という次第で、私は長堀氏たちの訳した『わが父・鄧小
平 』( 徳 間 書 店 ) の 解 説 を 書 く 役 割 を 命 じ ら れ た 。 私 自 身 、『 鄧 小 平 』( 講 談 社 現 代 新 書 ) を
書 い た が 、そ の 過 程 で 資 料 不 足 に 大 い に 悩 ま さ れ た 。各 種 の 関 係 書 を つ き あ わ せ て み る と 、
矛盾だらけで、困り果てることが多かった。そこで欽定版に大いに期待するところがあっ
たので、喜んで解題を引き受けた次第である。
ヒョータンからコマのように、それが契機となって著者毛毛と対談する機会を得たのは、
幸 い で あ っ た 。対 話 の 内 容 は ス ポ ン サ ー 徳 間 書 店 の 雑 誌『 サ ン サ ー ラ 』
( 五 月 号 、四 月 初 旬
発 売 )に 掲 載 さ れ る の で 、ご 興 味 が あ れ ば 、ご 笑 覧 い た だ く と し て 、そ の 対 談 に 付 し た「 あ
とがき」をここに引用しておきたい。
矢吹晋『逆耳順耳』
148
毛毛さんの印象
私 は 中 国 の 経 済 学 者 た ち と は い く ど か 対 談 や 対 話 を し て い る( 印 象 深 い の は 、呉 敬 璉 教 授 、
熊 映 梧 教 授 、 童 大 林 教 授 な ど で あ る )。 し か し 、 若 い 女 性 で あ り 、 し か も 「 皇 帝 の 娘 」 に 近
い人物であるから今回はいささか緊張した。実は一九九二年一一月に日中国交正常化二〇
周年記念行事の一環として、毛毛さんは来日しており、そのとき誰かに、彼女たち中国代
表団の中央サークルのところへ連れていかれ握手したことがある。
さて今回のインタビュー前日、テレビで見た(NHK朝七時)毛毛さんは、顔立ちの大作
りなかなりの美人であり、この点でもいささか気おくれした。しかし、ホテル・オークラ
の一室に、予定より一〇分遅れて現れた素顔に近い彼女は、画面の彼女とは、別人のよう
に清楚な、いわば書斎で執筆中の新進女流作家のイメージであった。
インタビューは私
が本誌『サンサーラ』編集部と相談して用意した質問項目にしたがって行なわれた。通訳
の時間を含めて一時間半の予定なので、執筆の意図あたりから始めて、ゆっくり聞いてい
く 作 戦 を た て た ( 当 初 か ら 意 地 の 悪 い 質 問 を し て 、 イ ン タ ビ ュ ー 拒 否 に な る と 困 る の で )。
しかし、有名人だけにマスコミの取材申込みが殺到し、予定より一〇分早く切り上げたの
で、最後に用意していたいくつかの質問は、尻切れトンボ、不発に終わった。同席したの
は 譚 大 平 氏 ( 中 国 国 際 友 好 連 絡 会 ア ジ ア 部 部 長 、 早 大 留 学 、 譚 啓 龍 氏 子 息 )、 叢 軍 さ ん ( 華
越商業有限公司総経理特別助理、故陳毅元帥の娘、幼名は珊珊、毛毛とは中南海で家が隣
り あ っ て い た の で 、 幼 な じ み )、 な ど で あ っ た 。
毛毛さんに聞いて分かったこと
毛 毛 さ ん か ら 直 接 聞 い て 確 認 し た こ と が い く つ か あ る 。 1)弟 質 方 の 夫 人 の 名 を 私 は 『 わ が
父 ・ 鄧 小 平 』 の 家 系 図 ( 訳 書 II 四 一 六 頁 ) で 「 劉 暁 原 」 と 書 い た が 、 こ れ は 「 劉 暁 元 」 だ
と 教 え て く れ た ( 発 音 は 同 じ )。 2 ) 夫 賀 平 の 現 職 を 「 解 放 軍 総 参 謀 部 装 備 部 副 部 長 」 と 書 い
たが、現在は同部部長に昇格し、階級は少将である。彼女自身は大佐(=大校)である。
3 )『 東 京 新 聞 』
( 三 月 九 日 付 の 三 枚 の 組 写 真 ま ん な か )に「 川 川 」
( 親 類 の 子 )と あ る の は 、
叔母先芙(夫は張仲仁)の孫である。なお、先芙は祖父文明と再婚した生んだ三人の娘の
一番上であり、
『 わ が 父 』初 版 四 一 六 頁 の 家 系 図 の 位 置 を 修 正 す る 必 要 が あ る 。4 ) 黒 竜 江 省
綏芬河市のハリキリ市長趙明菲は、叔母先群(解放軍総政治部群衆工作部長)の女婿であ
ったが、いまは離婚した由である。
記者会見や単独インタビューなどで、彼女はいくども同じこと(たとえば小平氏の健康問
題、生活状況、趣味など)を聞かれたが、いやな顔をせずに、きちんと答えていたのは、
もはや若手政治家の雰囲気であった。
「 太 子 党 」批 判 に 対 す る 返 答 は 、本 文(『 サ ン サ ー ラ 』)
の通りだが、かなりの自信家であることは、応答から読みとれよう。彼女と解放軍の関係
に つ い て の 話 に つ い て 、譚 大 平 氏 が「 秘 密 保 持 」と の 関 連 を 注 意 喚 起 し た と こ ろ 、
「いやか
ま わ な い 」と 断 言 し た ヒ ト コ マ で 特 に 印 象 深 か っ た 。な お 、王 瑞 林 氏( 鄧 小 平 弁 公 室 主 任 )
が解放軍総政治部副主任になったあと、鄧小平弁公室主任は毛毛かとの見方もあったが、
弁公室主任はいぜん王瑞林氏とのことである。
別れ際、誤植と誤記がありますが、小著『鄧小平』を差し上げた。彼女は偶然開いた二五
矢吹晋『逆耳順耳』
149
頁に「三人の妻」の顔写真を見て、これでいいじゃないのと一言。事後に知ったのだが、
小著は大陸と台湾で二種類の海賊版が出たとのことなので、いずれ入手して、参考までに
送ることを考えている。下巻を期待しつつ──。
時間切れで質問できなかったこととはなにか。私は香港の雑誌が載せた「鄧小平ファミリ
ーと香港上場企業」の図をワープロで作り、用意していた。この図について質問したかっ
たのだが、不発に終わったのであった。
蛇 足 。関 係 者 の 話 に よ る と 、
『 わ が 父 』は 一・五 万 部 が た ち ま ち 売 り 切 れ 、早 速 第 二 刷 の 由 。
テレビ出演のインパクトが大きいそうだ。
『 わ が 父 』は 四 九 年 建 国 ま で で あ り 、ほ ん と う は
こ れ か ら 出 る 下 巻 の ほ う が 面 白 い は ず 。こ ん な に 厚 い 本 を 読 者 は ほ ん と う に 読 む の か し ら 。
これもある関係者の話だが、記者会見に現れた記者諸公は、ほとんどが「腰巻」程度しか
読んでいなかったらしいとのこと。
図
鄧小平ファミリーと香港市場上場企業
『蒼蒼』第55号、94年4月、香港専門調査員の帰国報告を聞く
香港の日本総領事館で専門調査員として「在香港中国系企業の研究」を続けてきた遊川和
郎氏(日興リサーチセンター社アジア・オセアニア部)が帰国されたので、さっそく取材
して得るところが大きかった。同氏いわく──昨九三年三月末現在で日本の対香港直接投
資 累 計 額 は 一 一 五 億 ド ル 、件 数 は 四 〇 七 五 件 で あ る 。こ の う ち 商 業 の シ ェ ア は 二 五・九 % 、
金融保険のそれは二五・二%である。両者で五割を超える。残りはサービス業、不動産な
ど で あ る ( 大 蔵 省 「 対 外 直 接 投 資 届 出 実 績 」)。 こ れ に 対 し て ア メ リ カ の ば あ い は 九 二 年 末
の時点で八五・四億ドルである。内訳は貿易三四・一%、製造業二六・三%、金融保険不
動 産 一 五 ・ 一 % と な っ て い る( 米 商 務 省「 サ ー ベ イ ・ オ ブ ・ カ レ ン ト ・ ビ ジ ネ ス 」)。さ て 、
これら二つの数字と比べて、中国の対香港投資はどの程度か。投資額累計は八五年末で約
五 〇 億 ド ル (『 文 匯 報 』 八 六 年 八 月 二 五 日 )、 九 〇 年 末 で 一 〇 〇 億 ド ル (『 経 済 日 報 』 九 一 年
七月)と報じられた。
さて問題は鄧小平南巡講話以後の動向であり、中国に対する直接投資のブームが起こった
こ と は 、よ く 知 ら れ て い よ う 。実 は 中 国 か ら の 対 香 港 投 資 も ブ ー ム を 起 こ し た の で あ っ た 。
同氏いわく──香港を旅行した人なら誰でも知っている香港ドルの発券銀行たる香港上海
銀行のパーブス会長が午餐会で次のように発言して話題を呼んだのは九二年一〇月一五日
である。
「 中 国 の 対 香 港 投 資 は 現 時 点 で 一 二 〇 億 ド ル を 超 え 、日 本 を 抜 い て 最 大 の 投 資 国 に
なった」と。香港の代表的な中国系企業の一つである華潤集団が九二年一〇月に発表した
研究報告は、中国の対香港投資は八九年末で一〇〇億ドルに達し、最大の投資家になり、
現時点では一二八億ドルを超えている、と推計した。そして九三年二月、香港で開かれた
シンポジウムで項南(元福建省党書記、現中国扶貧基金会会長)は、中国から香港マカオ
へ の 投 資 額 は 九 二 年 で 二 〇 〇 億 ド ル を 超 え た と 語 り 、二 〇 〇 億 ド ル 説 が 登 場 し た 。そ の 後 、
香 港 中 国 企 業 協 会 副 会 長 曹 慧 聡 が 「 累 計 投 資 額 は 二 〇 〇 億 ド ル を 超 え た 」(『 文 匯 報 』 九 四
年 二 月 三 日 ) と 確 認 し 、「 九 三 年 末 時 点 で 二 〇 〇 億 ド ル 」 説 が い ま や 共 通 の 認 識 に な っ た 。
ところで、約二〇〇億ドルの中国系資本が香港経済に占める割合は、一〇%強だという。
矢吹晋『逆耳順耳』
150
「しかしこの数字以上のプレゼンスを感じさせるのは、九七年返還を控えて、上り坂にあ
るから」とのことである。かくて香港経済は、
1 ) 日 米 な ど の 外 国 資 本 。2 ) 香 港 上 海 銀 行 、ジ ャ ー デ ィ ン ・ マ セ ソ ン な ど は 英 国 資 本 。3 ) 中 国
とのコネを武器として急成長する新興財閥や開放政策以後に香港に移民した香港人の経営
す る 企 業 な ど 香 港 地 場 資 本 。 4)中 国 政 府 が 正 式 に 認 可 し た 中 国 系 企 業 や 無 認 可 の ま ま 活 動
している中国系企業を合わせて中国系資本──これら四種類の資本が利潤追求にしのぎを
削 っ て い る 。 こ の う ち 、 1)は 現 状 維 持 の 趨 勢 、 2)は 衰 退 の 趨 勢 に あ る 。 3)お よ び 4)が 九 七
年へ向かってますます勢いを強めている、と彼は結んだ。この話を聞いた数日後、ジャー
ディンはグループ企業の香港株式市場上場を九五年以降廃止すると撤退方針を明らかにし
た( 九 四 年 三 月 二 三 ~ 二 四 日 、各 紙 )。ア ヘ ン 貿 易 で 発 展 の 基 礎 を 築 い た 香 港 そ の も の と も
いうべきコンツェルンは、名誉ある撤退の道を選んだ。彼らは香港やアジアに何を残した
のか。ビジネス・イングリッシュではないかというのが私の感想である。
『 蒼 蒼 』 第 5 6 号 、 9 4 年 6 月 、『 ワ イ ル ド ・ ス ワ ン 』 の 著 者 名 に つ い て
こ の 本 の 翻 訳 が 出 た と き 、私 は 書 評 に こ う 書 い た 。
「 達 意 の 訳 文 だ が 、中 国 語 音 の ル ビ に は
改善の余地がある。一例を挙げると、著者の名はピンイン方式ではなく、トマス・ウェー
ド 式 で 表 記 さ れ て い る か ら 、 チ ア ン ・ ユ ン で は な く 、 チ ャ ン ・ ロ ン と 読 め る は ず だ 」(『 東
京 新 聞 』 九 三 年 三 月 七 日 )。 こ の 新 聞 が 配 達 さ れ た 日 曜 日 の 朝 ( 九 三 年 三 月 七 日 )、 私 は 訳
者から電話をもらい、三〇分ほど話をした。何を話したかを訳者・土屋京子さんが後日く
れた手紙から紹介しよう。
「過日は、
『 ワ イ ル ド ・ ス ワ ン 』の 著 者 名 の こ と で 突 然 お 電 話 を 申 し 上 げ た に も か か わ ら ず
ご親切にお答えいただき、ありがとうございました。その後、高島俊男氏が三月一五日付
の『毎日新聞』に掲載された書評で著者名を誤って表記された〔と指摘されたので、その
反駁を兼ねて、この機会に──矢吹補足〕のを機に、あらためて訳者としての見解を発表
す る こ と に い た し ま し た 」( 三 月 二 九 日 付 )。
「 訳 者 と し て の 見 解 」の ま え に 高 島 氏 の コ メ ン ト を 引 用 し て お く 「
。翻訳はあまりよくない。
欧米で出る中国関係書の訳者として欧米の言語をよくする人が選ばれるのは当然だが、そ
う い う 人 は 中 国 の 言 語 、制 度 、生 活 な ど 知 ら ぬ の が ふ つ う で あ る か ら 、不 審 な こ と が 多 い 」
「 本 書 の ば あ い 、著 者 の 名 前 か ら し て 納 得 で き な い 。訳 書 に は ユ ン・チ ア ン と し て あ る が 、
張 が チ ア ン に な る は ず が な い( チ ア ン に な る の は 介 音 i を 持 つ 蒋 、江 な ど )。ユ ン も お か し
い 。そ の 他 人 名 の ふ り が な は ま ち が い が 多 い 」
「また中国の権力機構に党系統と政府系統と
があることも知らぬようである」
(中略) 「中国関係書の翻訳に
としてつけてもらいたい、といつも思う」( 高島俊男評「
は中国を知る人を介添え
ワイルド・スワン、上下、中
国 社 会 主 義 の グ ロ テ ス ク 描 く 」(『 毎 日 新 聞 』 九 三 年 三 月 一 五 日 )。
一 年 後 、件 の 著 者 と ホ テ ル ・ オ ー ク ラ の ツ ィ ン ル ー ム で 対 談 し た(『 週 刊 現 代 』九 四 年 四 月
一 六 日 号 イ ン タ ビ ュ ー )。 私 は 当 然 、 普 通 話 で 「 張 戎 女 士 」 と 呼 び か け 、 彼 女 も そ れ に 応 え
て微笑した。そこで忘れていた彼女の名前、あるいは呼び方についての一幕を想起した。
矢吹晋『逆耳順耳』
151
高 島 氏 の 厳 し い 書 評 に 対 し て 、訳 者 は『 毎 日 新 聞 』
( 三 月 二 九 日 )で こ う 抗 議 し て い た 。
「高
島氏は著者名を“張戎”と紹介しておられますが、正しい著者名は、表紙にも奥付にも明
記 し て あ る と お り 「 ユ ン ・ チ ア ン 」 で す 〔 A 〕。 こ れ は 、 英 語 で 書 か れ た 原 書 の 冒 頭 で 著 者
自 身 が 自 分 の 名 は「 ユ ン 」と 発 音 す る の だ と 書 い て お り〔 B 〕、ま た 実 生 活 の 中 で も そ う 呼
ばれている〔C〕からです。著者は“張戎”ではなく、英語式の“ユン・チアン”という
名 前 で 英 国 の 作 家 と し て 執 筆 活 動 を し て い ま す〔 D 〕」
「( 邦 訳 の )す べ て の 人 名 は 、翻 訳 の
段 階 で 漢 字 と 発 音 を 著 者 本 人 に 確 認 し た も の で す〔 E 〕。標 準 的 な 発 音 規 則 と 合 致 し な い も
のについては、四川省では実際にそう発音する〔F〕のかと、著者に重ねて確認していま
す 」( ロ ー マ 字 に よ る 論 点 の マ ー ク は 矢 吹 に よ る 。『 毎 日 新 聞 』 同 上 )
実は、訳者から、九三年三月二九日付反論のコピーと、私信(九三年三月二九日付)が届
いていた。
「 興 味 深 い 論 争 な の で 機 会 が あ れ ば 、コ メ ン ト し た い 」と 返 信 だ け を 書 い て お い
た。原著者と話をして、問題点の所在が確認できたので、このさいにかきとめておく。訳
者は矢吹宛ての私信でこう見解を披瀝された。論点を明確にするため、記号をつけて引用
する。
「 著 者 本 人 が“ 自 分 の 名 は ユ ン と 発 音 す る の だ ”と 書 い て い る の を 尊 重 し て そ の ま ま
の 音 を 表 記 し た わ け で す が 〔 G 〕、 た し か に 日 本 の 辞 書 に は “ 戎 ” と い う 字 は “ ロ ン ” あ る
いは“ルゥォん”と発音すると書かれており、その限りにおいては、矢吹先生のご指摘の
と お り で す 。 た だ 、 ユ ン ・ チ ア ン 本 人 が 原 書 ( 英 語 版 ) の 冒 頭 で My name “ Jung" is
p r o n o u n c e d “ Yu n g " . と わ ざ わ ざ 著 者 註 を つ け て い る こ と 〔 H 〕、 実 生 活 の な か で も 夫 君
な ど か ら “ ユ ン ” と 呼 ば れ て い る こ と 〔 I 〕、 そ し て 、 現 在 も 今 後 も “ 張 戎 ” と い う 中 国 名
で は な く 、 Jung
Chang と い う 英 語 式 に 表 記 さ れ た 名 前 で 英 国 の 作 家 と し て 執 筆 活 動 を
しようとしていること〔J〕などを考えると、やはり、日本式の発音規則には合致しなく
と も 〔 K 〕、 本 人 の 望 む と お り “ ユ ン ・ チ ア ン ” と 表 記 す る 〔 L 〕 の が 正 し い の で は な い か
と い う 結 論 に 至 り ま し た 」。
*
*
*
一年後の今日、思いたって紀伊國屋書店で英語版の原書(フラミンゴ版、一三版、一八〇
〇円)を求めていくつかの点を確認した。結論からいうと、訳者の言い分はまったく通ら
ない。いくつかの強弁がある。無知に気づいておられない。それが最大の問題である。第
一の問題。訳者は中国語をローマ字で表記するばあいに、英語社会で伝統的なトマス・ウ
ェード式と、中華人民共和国で採用されたピンイン方式と二種類の表記方法があることを
理 解 し て い な い 。 戎 と い う 漢 字 は 、 ピ ン イ ン で は Rong と 表 記 す る が 、 ト マ ス ・ ウ ェ ー ド
式 で は Jung と 表 記 す る 。 こ れ は 言 語 学 的 に は 全 く 同 一 の 音 声 に 対 す る 二 つ の 表 記 方 法 の
差 に す ぎ な い 。 つ ま り 、『 ワ イ ル ド ・ ス ワ ン 』 の 著 者 の 名 は 、 漢 字 で は 「 張 戎 」 と 書 く 。 彼
女 の 幼 名 は 「 二 鴻 」( ア ル ホ ン ) で あ っ た が 、 一 九 六 四 年 に 中 学 へ 入 っ た と き 、「 勇 ま し い
名 」 を せ が ん で 、 父 か ら こ の 名 を つ け て も ら っ た の で あ る ( 邦 訳 、 上 巻 、 三 七 三 頁 )。 初 め
に 漢 字 あ り き 、 だ 。〔 A 〕 の よ う に 、「 正 し い 著 者 名 」 が 「 ユ ン ・ チ ア ン だ 」 と い う の は 、
強弁である。ちなみに、著者は矢吹の求めに対して邦訳書の余白に「張戎」と自署してい
る。著者は漢字の固有名詞をローマ字で表記するさいに、基本的にはピンインを用いてい
矢吹晋『逆耳順耳』
152
る 。 た と え ば 姉 の 「 肖 鴻 」 は ピ ン イ ン 式 で Xiao-hong と さ れ て い る ( ト マ ス ・ ウ ェ ー ド 式
な ら H s i a o - h u n g と な る )。 し か し 弟 の 「 京 明 」 は J i n - m i n g と 書 か れ て い る 。 正 し い ピ ン
イ ン な ら Jing-ming ( ト マ ス ・ ウ ェ ー ド 式 な ら Ching-ming) で あ る か ら 、 こ れ は 字 面 を
考慮した風だ。
第 二 の 問 題 。訳 者 は〔 B 〕で 、英 語 で 書 か れ た 原 書 の 冒 頭 で 著 者 自 身 が 自 分 の 名 は「 ユ ン 」
と 発 音 す る の だ と 書 い て い る 、 と 指 摘 し て い る 。 な る ほ ど 原 書 の AUTOR'S NOTE に は 、
こ う 記 さ れ て い る 。 M y n a m e “ J u n g " i s p r o n o u n c e d “ Yu n g " . T h e n a m e s o f m e m b e r s o f
my family and public figures are real, and are spelled in the way by which they are
u s u a l l y k n o w n . O t h e r p e r s o n a l n a m e s a r e d i s g u i s e d . Tw o d i f f i c u l t p h o n e t i c s y m b o l s : X
a n d Q a r e p r n o u n c e d , r e s p e c t i v e l y, a s s h a n d c h . 著 者 は な ぜ こ の よ う に 説 明 し た の か 。
まず第一にピンインはイギリスでそれほどポピュラーではない。だからトマス・ウェード
式 を 用 い た こ と 、こ れ が 基 本 で あ る 。著 者 は こ の 方 式 で“ J u n g " と 書 い た が 、ウ ェ ー ド 式 の
キ マ リ で さ え 、知 ら な い 読 者 が 多 い で あ ろ う 。つ ま り j u d g e の j の よ う に 発 音 さ れ る 恐 れ
が あ る 。そ こ で 著 者 は y e s の y の 音 だ 、と い う ふ う に 断 っ た の で あ る 。英 語 世 界 の 読 者 に
ジュンあるいはジョンと読まれたくないから、こう説明したのである。訳者はこの説明の
意 味 を 誤 解 し て い る わ け だ 。〔 K 〕 に お い て 、「 日 本 式 の 発 音 規 則 に は 合 致 し な く と も 」 と
いうのも、おかしい。あたかもユン説を批判する高島(=矢吹)が「日本式の発音」にこ
だわっているような書きぶりだが、ここで問われているのは中国語の正しい発音と訳者の
発 音 表 記 の 距 離 な の で あ る 。 さ ら に 〔 L 〕 で 訳 者 は 、「 本 人 の 望 む と お り “ ユ ン ・ チ ア ン ”
と表記するのが正しい」と結論するが、著者張戎は、きわめて標準的な現代中国語を話し
手 で あ っ た ( 三 月 二 八 日 の 対 談 の さ い に 、 矢 吹 が 確 か め た )。
と い う わ け で 、高 島 ・ 土 屋 論 争 は 、完 全 に 高 島 側 に 軍 配 が あ が る 。
「中国関係書の翻訳には
中国を知る人を介添えとしてつけてもらいたい、といつも思う」高島の嘆きは、関係者共
通の実感だが、この単純な手続きミスがいつも繰り返されている。本書は氷山の一角にす
ぎない。日本の中国理解の脆弱さを示すヒトコマと思われるので、あえて書きとめた。教
訓。英訳された中国語の世界についての記述は、まず中国語に戻したうえで、それから日
本語に訳するのが鉄則である。重訳は原則として避けるべきである。
『 蒼 蒼 』 第 5 6 号 、 9 4 年 6 月 、「 腹 に 落 ち ぬ ま ま 」
四月二六日付『朝日新聞』夕刊のコラム「窓──論説委員室から」に「腹はくくれぬ」と
題 す る 署 名 〈 啓 〉 氏 の 一 文 が 掲 載 さ れ た 。 社 説 に 「 腹 を く く れ 」 と 書 い た ら 、「 何 人 か の 読
者から電話や便りをいただいた」
「 こ れ か ら は 腹 も タ カ も く く る ま い 」と い う エ ッ セ イ で あ
る。このなかに「腹に落ちぬまま、辞書の集大成とされる『日本国語大辞典』全一〇巻を
見 た ら 、 ど こ に も な い 」( 傍 線 は 矢 吹 ) と あ る 。「 腑 に 落 ち ぬ 」 と い う 言 い 方 は あ る が 、「 腹
に 落 ち ぬ 」と い う 言 い 方 は あ り う る の か 。
「 腑 」と い う 漢 字 が 常 用 漢 字 に な い か ら 、こ れ を
「 腹 」 に 置 き 換 え た の か も し れ ぬ が 、 こ れ は も う マ ン ガ で あ る 。「 腑 」 は 「 腹 」 の 一 部 で あ
る か ら 、正 し い 使 い 方 だ と い う よ う な 釈 明 は 、通 ら な い 。
「 腑 」が 使 え な い の な ら ば 、思 い
矢吹晋『逆耳順耳』
153
切ってこの言い方を諦め、
「 納 得 で き な い 」と い い か え れ ば よ い で は な い か 。漢 方 で は「 五
臓 六 腑 」 の よ う に 、「 五 臓 」 と 「 六 腑 」 を 区 別 す る か ら こ そ 、「 五 臓 」 か ら 「 六 腑 」 に 落 ち
な い 、 と い う 言 い 方 に な る 。「 五 臓 」 と 「 六 腑 」 を ま と め て 「 腹 」 と い う と き 、「 落 ち る 」
も「落ちない」もなくなる。
さ て 、書 棚 の『 日 本 語 大 辞 典 』
( 講 談 社 、一 九 八 九 年 )一 五 九 〇 頁 を め く っ て ブ ッ タ マ ゲ タ 。
「 腹 に 落 ち る = 納 得 す る 、合 点 が い く 」と 説 明 さ れ て い る 。
「 腹 に 落 ち ぬ 」の も グ ロ テ ス ク
な 表 現 だ が 、「 腹 に 落 ち る 」 に 至 っ て は 、 ほ と ん ど 絶 句 で あ る 。 落 ち る と こ ろ ま で 落 ち た 。
デキの悪いアルバイト学生の原稿をそのまま活字にしたに違いない。論説委員の言語感覚
が出鱈目なら、鳴物入りの『大辞典』もこのていたらく。世も末世だ──。こういきまい
て 、パ ソ コ ン 通 信 で 原 稿 を 編 集 部 に 送 っ た と こ ろ 、き つ い お し か り を 受 け た 。
『 広 辞 苑( 第
四 版 )』
( 一 九 九 一 年 )に「 腹 に 落 ち る 」が 出 て い る 。他 の 辞 書 も 調 べ よ 、と の 指 示 で あ る 。
なるほど、出ていました。ついでに第三版(一九八三年)を見ると、これにも出ている。
し か し 、そ れ 以 前 の「 第 二 版 」に は 当 然 の こ と な が ら 出 て い な い 。
『 広 辞 苑 』に 出 て い る か
ら許されるのか。否である。これは辞書の規範性を喪失した迎合であり、中年オジサンと
し て は 断 じ て 認 め る わ け に は い か な い の だ 。『 広 辞 苑 』 も 落 ち た も の だ 。 推 測 だ が 、「 腑 に
落 ち ぬ 」の「 腑 」だ け を あ っ さ り 置 き 換 え る の が 新 聞 社 や 雑 誌 社 の 校 閲 部 官 僚 た ち で あ る 。
したがって、当然「腹に落ちぬ」のような例文がたくさん現れる。そのような使用状況を
踏まえて「権威のある」辞書がこれを追認したという次第であろう。しかし、見識のある
編集者ならば、これは追認してはならない。
「腑に落ちぬ」と頑固に言うか、それともこの言い方をやめるか、どちらかであろう。常
用漢字の制約であれ、差別用語追放であれ、安易な置き換えは日本語を殺す。最近は人間
の内蔵でさえ移植する世の中だから、
「 腑 」と「 腹 」で 腹 を 立 て て い る 筆 者 は も は や 化 石 の
部 類 で あ ろ う が 、 化 石 の よ う に 頑 固 に な り た い 。『 日 本 国 語 大 辞 典 』( 小 学 館 ) に は 、 二 つ
の 例 が あ る が 、こ れ を 認 め て よ い か 。一 つ は 二 葉 亭 四 迷 の『 浮 雲 』で あ る 。
「ヨーク腹に落
ち る や う に 言 っ て 聞 か せ て お 呉 ん な さ い 」。 も う 一 つ は 小 栗 風 葉 『 青 春 ・ 夏 1 4 』 で あ る 。
「 手 紙 を 上 げ ま す よ 、 口 で 言 っ て 、 貴 方 の 肚 に 落 ち な い と 困 る か ら 」。 大 槻 文 彦 『 大 言 海 』
( 冨 山 房 ) や 『 こ と わ ざ 大 辞 典 』( 小 学 館 ) は 、 私 の 納 得 の い く 説 明 を し て い ま す よ 。
『 蒼 蒼 』 第 5 6 号 、 9 4 年 6 月 、『 漂 流 す る 日 本 』 を 読 む
近藤大博
様
ご高著『漂流する日本』をありがとうございました。あなたは若くして伝
統のある『中央公論』の編集長になられ、四五歳という若さで自立、オフィスこんどうを
作られた。編集者としても、そして現在の仕事においても、みずからは表てに立たず、人
と人を結びつけ、人と仕事を結びつける仕事をされてきたわけです。いわば黒子です。黒
子が何を考えているかは、その操り人形を見て判断するしかなかったのですが、ご高著を
拝読して、直接的に理解することができました。早速、一読して、論壇の終焉が叫ばれて
久しい論壇の交通整理を見せていただいたような印象です。雑誌の編集者はいつも巻末の
狭いコラムで寸鉄のような発言をするばかりですが、本書のように積極的にコメントして
矢吹晋『逆耳順耳』
154
もらえるとたいへんありがたいと思います。
「 総 合 雑 誌 は 日 本 近 代 史 そ の も の 」( 司 馬 遼 太 郎 の 言 、 本 書 一 二 頁 )、 つ ま り 「 西 欧 に 追 い
つ く た め の 道 具 」 だ と い う の が 、 司 馬 = 近 藤 説 で す 。 と す れ ば 、「 追 い つ き が な っ た 以 上 、
かつてのようには有り難がられないのは当然のこと」
( 一 九 ~ 二 〇 頁 )と い う 覚 め た 認 識 に
な ら ざ る を え な い 。そ こ で あ な た は 転 進 さ れ た 。あ な た の 卓 抜 な 表 現 に よ れ ば 、
「幕の内弁
当型」の総合雑誌が終焉するとして、しかし、近代化のなった日本が方向を見失って漂流
するばかりでは困りますね。日本も困るし、アジアも世界も困る。
最近の論壇は論客不在、弱小論客による迷論か低見か、さもなくば毒にも薬にもならぬ出
版社と編集者のご機嫌うかがいみたいなコメントしかない、などと悪口はすぐ出てきます
が、といって小言幸兵衛にも高論があるわけではない。という時代閉塞の状況なので、本
書第二章「論壇から」のような文章は、たいへん役立ちます。読者の雑誌選びのため、そ
してヒヨコ編集者にとっては、書き手選びの参考資料として、需要はまことに大きいかも
しれない。いまはマニュアル時代ですから、ヒヨコ記者、アヒル編集者に対して、実践的
マニュアルを提示し、あわせて、半人前の政治家や未熟な官僚たちに、これは必読と示唆
することは有益と思います。
旧ソ連という仮想敵国が消えたいま、
『 正 論 』も『 諸 君 』も 方 向 を 見 失 っ て い る 。左 翼 の 右
往 左 往 は 当 然 と し て も 、左 翼 の 危 機 は 同 時 に 右 翼 の 危 機 で す ね 。ま さ に 一 億 総 漂 流 の 時 代 。
寸鉄、肺腑を抉るコメントや航海先を見失わないための標識が求められています。ぜひ今
後もこの仕事を続けてほしいものです。独特の書評としては、谷沢永一のシリーズがあり
ま す が ( 私 の 『 文 化 大 革 命 』 を 酷 評 し て 、 宣 伝 し て く れ た )、 こ れ に 匹 敵 す る よ う な 「 時 評
の時評」が継続的にほしいと思います。
一つ注文。この種の本には人名索引と論文あるいは誌名の索引がほしい。そうなると読者
あ る い は 消 費 者 に と っ て 、ま す ま す 便 利 で す 。追 伸 。ア メ リ カ 紹 介 の 一 端 、
「ティファニー
の指先女」には思わず笑ってしまいました。
『蒼蒼』第57号、94年8月、W・H・オーバーホルト著『中国・次の超大国』を読む
と元気が出る
サイマル出版会社長
田村
勝夫
様
W・H・オーバーホルト著『中国・次の超大国』
をお送りいただきありがとうございました。原書のことは確か年初だったと思いますが、
香 港 の FA R E A S T E R N E C O N O M I C R E V I E W 誌 に 書 評 が 出 て お り 、注 目 し て お り ま し た 。
私は一昨日たまたま経団連中国委員会で講演をやりましたが、その際に主催者側から「中
国 バ ブ ル 崩 壊 論 」を ぶ ち あ げ た タ イ ム 記 者 R . H O R N I C の 書 い た も の( F O R E I G N A F FA I R S
九四年五~六月号)の邦訳コピーについてコメントを求められたのです。この種の奇談怪
論、コケオドシは、ほとんどオオカミ少年の戯言だと一蹴したばかりでした。日本でもこ
の種のオオカミ少年、オオカミ中年が後を絶たないのはご承知のとおりです。実はこのホ
ーニック論文で仮想敵国扱いされ、槍玉にあげられているのが本書だというわけです。こ
のような論壇状況のなかで、ご高訳は私にとって援軍が届いた感じです。機会があれば書
矢吹晋『逆耳順耳』
155
評を書きたいと思いますが、書きたい本についての書評を依頼される確率はほとんど宝く
じ程度ですから、とり急ぎお例のはがきを書いておきます。一九九四年六月二三日
追伸。この本の冒頭のエピソードが面白いですね。大学院を出て、未来学者ハーマン・カ
ー ン の ハ ド ソ ン 研 究 所 に 就 職 し た ば か り の 著 者 を 所 長 が 来 客 に 紹 介 す る セ リ フ で す 。「 こ
ちらはビル・オーバーホルトです。ハーバード大学とエール大学院で七年間勉強したので
すが、おかげですっかり駄目になってしまいました。いま立ち直らせようとしているとこ
ろ で す 」。
『蒼蒼』第57号、94年8月、ウェードとジャイルズについて
高木誠一郎
様
いつぞや呑み屋で話したことをまとめていただいて、ありがとうござい
ました。
「 抛 磚 引 玉 」そ の も の 、玉 が 次 々 に 現 れ そ う な 雲 行 き で す 。ウ ェ ー ド = ジ ャ イ ル ズ
の呼称について。おっしゃる通り「ウェードの開発した表記法を後にジャイルズが改良し
た 」も の で す ね 。私 自 身 が 一 九 五 八 年 に 中 国 語 を 学 び 始 め た と き 、
「 ウ ェ ー ド・ジ ャ イ ル ズ
方式」ときちんと教わっていたのでしたが、先日例の文章を書いたときに、手元に資料が
見つからず、トマス・ウェードの名を空で書いたのでした。この機会に自分のメモのつも
りで、二人の人物について抜き書きしておきます。
ウェードWHO?
『近代来華外国人名辞典』
( 中 国 社 会 科 学 出 版 社 、一 九 八 一 年 一 二 月 )に 二 人 の 説 明 が 出 て
き ま す 。 S i r T h o m a s F r a n c i s Wa d e 1 8 1 8 - 1 8 9 5 漢 字 名 は 威 妥 瑪 、 イ ギ リ ス の 外 交 官 、 中 国
学 者 。陸 軍 出 身 で ア ヘ ン 戦 争 に 参 加 し た が 、一 八 四 七 年 に 退 役 し 、
「 駐 華 漢 文 副 使 」に 任 ぜ
られる。一八五三年駐上海副領事、一八五五~一八七一年「使館漢文正使(漢務アタッシ
ェ )」、 一 八 七 一 ~ 一 八 八 二 年 公 使 を 務 め 、 八 二 年 に 引 退 し た 。 一 八 七 六 年 の 「 烟 台 条 約 」
はウェードが李鴻章と調印したものである。帰国後一八八八年にケンブリッジ大学の初代
中 国 学 教 授 と な る 。ウ ェ ー ド は 中 国 学 を 研 究 し 、
『 英 漢 字 典 』を 編 集 し た 。彼 の 作 っ た 漢 字
を ロ ー マ 字 化 す る 方 法 は 、現 在 も 中 国 学 を 研 究 す る 外 国 人 に 用 い ら れ て い る 。著 書 に B o o k
of Experiments, 1859. A Progressive Course Designed to Assist the Student of
Colloquial Chinese, 1867 な ど の 書 物 が あ る 。 一 八 九 五 年 の 『 通 報 』 に ウ ェ ー ド の 著 作 目
録が掲載されている──。さて、客観的記述の最後に、この辞典の筆者はこうコメントし
ています。
「 彼 の 中 国 に 対 す る 態 度 は 非 常 に 傲 慢 で あ り 、臭 名 著 し い 侵 略 分 子 で あ っ た 」と 。
ジャイルズWHO?
H e r b e r t A l l e n G i l e s 1 8 4 5 - 1 8 6 7 漢 字 名 は 翟 理 思 ( あ る い は 翟 理 斯 )。 イ ギ リ ス の 領 事 、 中
国学者。一八六七年使館の通訳学生として中国に来る。中国の各イギリス領事館で通訳、
副領事、領事を歴任した。一八九一年寧波領事を最後に外交界から引退した。一八九七年
ウェードの後を襲って、ケンブリッジ大学中国学教授となり、一九二八年引退した。著作
と し て 以 下 の も の が あ る 。 Chinese Sketches 1876. Historic China and other Sketches
1882. Freemasonary in China 1890. A Chinese -English Dictionary 1892. A Chinese
Biographical Dictionary 1898. An Introduction to the History of Chinese Pictorial Art
矢吹晋『逆耳順耳』
156
1905. Chinese and the Manchus 1912. China and the Chinese 1912. AdversariaSinica
1 9 1 4 . C o n f u c i a n i s m a n d i t s R i v a l s 1 9 1 5 . T h e C i v i l i z a t i o n o f C h i n a 1 9 11 . A G l o s s a r y o f
R e f e r e n c e o n S u b j e c t s C o n n e c t e d w i t h t h e F a r E a s t 1 8 7 8 . S o m e Tr u t h s a b o u t O p i u m
1 9 2 3 . H i s t o r y o f C h i n e s e L i t e r a t u r e 1 9 2 8 . こ の ほ か『 聊 斎 志 異 』、
『 洗 冤 罪 録 』、
『仏国記』
な ど を 英 語 に 翻 訳 し た 。な お 、ジ ャ イ ル ズ は バ ー ト ラ ム( 一 八 七 四 ~ 一 九 二 八 )、ラ イ オ ネ
ル( 一 八 七 五 ~ 一 九 五 八 )、ラ ン ス ロ ッ ト( 一 八 七 八 ~ 一 九 三 四 )の 三 人 の 子 ど も を 中 国 在
勤中にもうけており、長男と三男はチャイナ・サービスの外交官、次男は大英博物館の中
国語書籍の管理責任者を務めた。
さて、この記述から、ウェードとジャイルズの関係は明らかですね。ケンブリッジ大学の
初 代 中 国 学 講 座 を ウ ェ ー ド が 創 設 し 、ジ ャ イ ル ズ が そ の 後 継 者 と し て 、そ れ を 発 展 さ せ た 。
ローマ字表記法もウェードが基礎を作り、ジャイルズが補充した、ということでしょう。
何をどのように補充したのかは専門家の研究にゆだねましょう。
ウェードについての記述で興味を引かれるのは、アヘン戦争に従軍した事実と
A
Progressive Course Designed to Assist the Student of Colloquial Chinese, 1867 と い う
本 の こ と で す 。ア ヘ ン 戦 争 の 舞 台 は い う ま で も な く 、カ ン ト ン で す し 、ま た ウ ェ ー ド は「 コ
ローキュアル・チャイニーズ」に関心があったらしい。となると、ウェードの中国語研究
が「 カ ン ト ン 語 」あ る い は「 カ ン ト ン 語 な ま り の マ ン ダ リ ン 」
( 北 京 官 話 )か ら 始 ま っ た こ
とは、ほぼ確かでありましょう。つまり、ウェード・ジャイルズで表記しようとしたのは
「南の方の発音だった」と見る高木仮説はおそらく正しい。ただし、それはカントン語そ
のものであったのか、それともカントン語なまりのマンダリンであったのかは調べる必要
がありますね。
ご承知のように、カントン語は「入声」の例が端的に示すように、古代中国語の発音を残
し て お り 、現 代 北 京 語 よ り も 複 雑 ネ 音 韻 体 系 を も っ て い ま す 。い ま 手 許 の 二 冊 の 辞 書 を 調 べ
て み ま し た 。 喬 硯 農 編 『 広 州 音 ・ 国 音 中 文 字 典 』( 香 港 華 僑 語 文 出 版 社 、 一 九 六 三 年 初 版 、
七 二 年 一 〇 版 ) と 『 普 通 話 ・ 粤 音 中 華 新 字 典 』( 編 者 名 な し 、 香 港 中 華 書 局 、 一 九 七 六 年 初
版 、七 八 年 二 版 )で す 。
『 新 華 字 典 』か ら R で 始 ま る 音 を 集 め 、そ の カ ン ト ン 音 を 調 べ る と
次の通りです。いま編集部から「早くパソコン通信で送られたし」と催促があったので、
今日はこれにて打切り。尻切れトンボで失礼します。
北京音
漢字
WG式
広東音
RAN
然
JAN
JIN
RANG
譲
JANG
JEUNG
RAO
繞
JAO
JIU
RE
熱
JE
JIT
RE
惹
JE
JE
REN
人
JEN
JAN
RENG
仍
JENG
JING
RI
日
JIH
J AT
矢吹晋『逆耳順耳』
入声
入声
157
RONG
戎
JUNG
JUNG
ROU
肉
JOU
JUK
ROU
柔
JOU
JAU
RU
入
JU
JAP
RU
如
JU
JY
RUAN
軟
JUAN
JYN
RUI
鋭
JUI
JEUI
RUN
閏
JUN
JEUN
RUO
若
JO
JEUK
入声
入声
入声
『蒼蒼』第58号、94年10月、鄧小平の出自
マスコミの「虚報」の威力とその残像の強さを改めて感じさせられたので、それを書いて
お き た い 。 話 題 は 鄧 小 平 = 非 客 家 説 は 正 し い の か 、 で あ る 。『 朝 日 新 聞 』( 九 二 年 一 月 一 八
日 、重 慶 一 七 日 発 、堀 江 義 人 特 派 員 電 )が「 客 家 説 を 否 定 し た 」と 報 じ た こ と へ の 疑 問 は 、
『 蒼 蒼 』 四 二 号 ( 九 二 年 二 月 一 〇 日 付 ) で 書 き 、 そ の 後 小 著 『 鄧 小 平 』( 講 談 社 現 代 新 書 、
一五頁)で繰り返した。この小著は台湾では海賊版が出るほど歓迎されたようだが、日本
で の 売 れ 行 き は イ マ イ チ で あ り 、と う て い 天 下 の『 大 朝 日 』の 威 力 の 及 ぶ と こ ろ で は な い 。
と こ ろ が 私 の 主 張 に 力 強 い 援 軍 が 現 れ た の だ 。 さ る 知 人 が 『 田 中 清 玄 自 伝 』( 文 芸 春 秋 社 、
九 三 年 )を 読 む よ う に 示 唆 し て く れ た の で あ る 。
「 こ の と き の 話 で は 、鄧 小 平 さ ん の 先 祖 は
河南省で地方豪族だったが、その後一家を挙げて四川省に移られた客家なのだと言ってお
ら れ た 」( 同 書 、 二 八 四 頁 )。 河 南 省 は ま さ に 「 中 原 」 で あ り 、 中 原 か ら ( 江 西 省 吉 安 府 を
経て)四川省に移民した、と証言しているわけだ。鄧小平がこのような「秘密」をもらし
たのは、理由がある。鄧小平が(故)田中清玄に向かって「田中角栄とあなたは親戚か」
と聞いたのに対して、清玄が「角栄は越後の百姓だが、私の先祖は会津の侍だ」と答えた
のに触発されたのである。清玄に「そうか、士太夫か」とつぶやいたとき、鄧小平の胸に
鶴 軒 ( 兵 部 員 外 郎 = 陸 軍 省 高 級 官 僚 )、 士 廉 ( 吏 部 尚 書 = 人 事 院 総 裁 )、 時 敏 ( 大 理 寺 正 卿
=最高裁長官)など赫赫たる家系への誇りが去来しなかったはずはないと私は解釈してい
る。
ただし、それを率直に自慢できないのが革命家のツライところである。士太夫とはすなわ
ち搾取階級であり、鄧小平は革命家として、みずからの「出身階級を裏切っていた」こと
になるからである。この意味では、実は富農・毛沢東も地主・朱徳も没落官僚の子弟・周
恩来も、すべて同じなのだが、文化大革命の嵐をくぐり抜けた鄧小平の心境は複雑であっ
たろう(もっとも、だから脱文革後もういちど出身階級へのロイヤリティに努力している
な ど と す る 類 の 階 級 闘 争 史 観 の 虚 妄 に は 、い ま や 中 国 の 保 守 派 の 論 客 で さ え 気 づ い て い る )。
疑 い 深 い 読 者 は 、田 中 清 玄 と い う 人 物 の 経 歴 に 照 ら し て 、そ の 信 憑 性 を 疑 う か も し れ な い 。
そこでもう一つの資料で補強しておきたい。
黄 順 炘 、黄 馬 金 、鄒 子 彬 主 編『 客 家 風 情 』
( 中 国 社 会 科 学 出 版 社 、九 三 年 )と い う 本 が あ る 。
矢吹晋『逆耳順耳』
158
この本の「前言」に、唐代の郭子儀、宋代の文天祥、明代の袁崇煥、清代の劉永福、太平
天国の洪秀全、楊秀清、韋昌輝、石達開、民国の孫中山、廖仲、胡漢民など歴史上の人物
と並べて、朱徳、鄧小平、葉挺、葉剣英、宋慶齢、何香凝、康克清、張鼎丞、そして台湾
の李登輝、シンガポールの李光耀、マレーシア元国王葉莱、クアラルンプールの開拓者葉
阿 来 、ビ ル マ の ネ ウ ィ ン 、フ ィ リ ピ ン の ア キ ノ 元 大 統 領 、南 洋 に 共 和 国 を 樹 立 し た 羅 芳 伯 、
香港の財閥李嘉誠、タイガーバームの胡文虎などの名が列挙されている。さらに文化人と
し て 、唐 代 の 詩 人 張 九 齡 、宋 代 の 欧 陽 修 、朱 熹 、楊 時 、明 代 の 王 陽 明 、清 末 の 詩 人 黄 遵 憲 、
揚州八怪の黄慎、書法家伊乖綬、そして毛沢東時代の文化人の代表(よい意味でも悪い意
味 で も )・ 郭 沫 若 と い う わ け で あ る 。
ここで特派員に苦言を呈しておく。ある人物やその家系が客家であるかどうかは、言語、
風 俗( 纏 足 を し な い )、食 生 活( 携 帯 食 品 、保 存 食 の 技 術 に 優 れ る )、出 身 地( 広 東 、江 西 、
福建)などさまざまの傍証によって確認すべきことである。鄧小平の生家を調べて聞き回
り、
( 氏 名 不 詳 の )誰 か が「 客 家 で は な い 」と 語 れ ば 、そ れ が 真 実 で あ る と 思 い 込 む の で は 、
記者としてほとんど落第ではないか。一つもウラをとっていないからだ。肝要なことは、
「客家とはなにか」について最小限の知識をもつことであろう。
無知無学のゆえに恥をかくことは少なくないが「
、 客 家 学 」に 関 す る 限 り 私 は 恵 ま れ て い た 。
アジア経済研究所で戴國煇氏と同僚になり、一緒に台湾を旅行して李登輝氏(総統になる
前のタダの大学教授時代の李さん)とつきあい、香港では香港大学の羅香林教授と面談で
きたのである。いまから四半世紀前、一九六九年のことである。しかもその後、シンガポ
ール、香港で二年暮らしたので、さまざまな客家とつきあった体験がある。遺憾千万、気
に は か け て い な が ら 、眼 高 手 低 の 嘆 き 。そ の 後 私 は こ の 分 野 の 研 究 を 何 一 つ や っ て い な い 。
『蒼蒼』第58号、94年10月、長尾光之氏に答える
『中国図書』
( 内 山 書 店 、九 四 年 九 月 号 )に 福 島 大 学 長 尾 光 之 教 授 が 寄 せ た 一 文 は 、モ ノ ゴ
ト の 論 理 の ス ジ を 周 辺 の 枝 葉 の 説 明 で 混 乱 さ せ る も の で あ り 、説 得 的 と は い え な い 。
「大多
数の中国人は公の場では標準語を用い、家庭内では方言を用いるという二重語生活をして
いる。張戎は自分の名前を四川方言で表音化し、それをペン・ネームにしているというの
は さ ほ ど 特 異 で は な い 」。 こ れ が 長 尾 教 授 の 主 張 で あ る 。
引用の二つのセンテンスのうち、前者は当たり前の、よく知られた事実である。問題は後
者 だ が 、 張 戎 が 自 分 の 名 前 を Y U N G C H A N G と 表 記 し た の は 、「 四 川 方 言 で 表 音 化 」 し た
のであるかどうか。ここには二重、三重の誤解が含まれている。高木誠一郎教授が明確に
指摘しているように「著者が渡英した一九七八年には、英文における中国語の表記には、
中 国 の 出 版 物 も 含 め て 、ウ ェ ー ド ・ ジ ャ イ ル ズ 方 式 が 用 い ら れ て い た 」
「中国が自国のロー
マ字を使う外国語出版物でピンインを用いるようになったのは、一九七九年一月一日発効
の国務院通達によるもので、以後徐々に欧米でも自国語の出版物にピンインが用いられる
よ う に な っ た 」 の で あ る (『 蒼 蒼 』 五 七 号 )。 つ ま り 、 著 者 は パ ス ポ ー ト に Y U N G C H A N G
と表記するほかなかった。だからそのように表記した。そして以後のイギリス生活におい
矢吹晋『逆耳順耳』
159
て 彼 女 は こ の ロ ー マ 字 を イ ギ リ ス 風 に( ? )発 音 す る 人 び と と つ き あ い な が ら 生 き て き た 。
この経緯から分かるように、著者は何よりもまず、張戎を当時の正統的な方法にしたがっ
て Y U N G C H A N G と 表 記 し た の で あ る 。こ れ は 四 川 語 の 発 音 や 方 言 の 問 題 と は ま っ た く 関
係がない。繰り返すが「初めに漢字ありき」なのだ。
なお、この点について高木教授は「外国を本拠地とし、外国語を生活言語とするようにな
った中国人についてまで、その姓名を、当人の意思にかかわりなく、常に漢字に還元した
う え で 標 準 語 の 発 音 に 基 づ い て 表 記 す べ き も の で し ょ う か 」「 当 人 が 現 地 人 の 発 音 を 受 け
入 れ て い る 場 合 に は 、 漢 字 を 忘 れ て も よ い の で は な い で し ょ う か 」( 傍 線 は 矢 吹 に よ る )。
この高木説に私は原則的には賛成である。中国の漢字文化は書かれた文字に過度に傾斜し
たところがあり、その功罪は十分に検討されてしかるべきである。ただし、張戎という作
家 は 漢 字 を 忘 れ 、中 国 人 で あ る こ と を や め よ う と し て は い な い( と 私 は 理 解 し て い る )。
「英
語を生活言語〔の一部〕とするようになった中国人」ではあるが、同時に次著『毛沢東』
の執筆準備のために、中国を訪問し、中国人をインタビューし、中国語の資料収集に努め
ている人物である。そして繰り返すが、彼女は標準的なマンダリンの話し手である。これ
ら の 状 況 証 拠 か ら し て 、私 の 主 張 を 訂 正 す る 必 要 は な い と 考 え て い る 。
〔本文とは関係のな
い エ ピ ソ ー ド 。私 の 友 人 が こ の 夏 、四 川 大 学 を 訪 問 し 、
「 張 戎 の 恩 師 」を 自 称 す る 教 授 と 会
っ た と き の 話 。彼 女 は 才 媛 で 、文 革 後 、四 川 省 初 の 英 国 留 学 生 で あ っ た 。に も か か わ ら ず 、
白人と結婚し、帰国しないのは大きな間違いを犯した。しかし、最近の報せによると、離
婚して華僑と再婚したという話なので、良い選択をしてくれたと誇りに思っている。ソン
ナ話ハ聞イテナイヨー。度シガタイ中華思想!〕
『蒼蒼』第58号、94年10月、大哥大・蛇頭・面的
「大哥」とは、長兄とかアニキの意である。では「大哥大」はなぜ「携帯電話」なのか。
アニキのなかのアニキだけしか持てない、重要なブツを持てる人間、すなわちビッグ・ブ
ラザーの持物だからと説明される。なるほど。ならば「大大哥」となぜいわないのか。北
方 語 で は 形 容 句 は 前 に 付 く 。「 大 + 哥 」 の よ う に 。 だ か ら 「 大 哥 」 と い い 、「 哥 + 大 」 と は
い わ な い 。 こ こ に 着 目 す れ ば 、「 大 哥 大 」 と は 「( 大 + 哥 ) + 大 」 で あ る こ と が 分 か る 。「 ア
ニ キ + ビ ッ グ 」の 構 造 で あ り 、ビ ッ グ と い う 形 容 句 は 後 置 さ れ て い る わ け だ 。す な わ ち「 大
哥 」と い う 北 方 語 法 と「( 大 哥 )+ 大 」と い う 南 方 語 法 が ミ ッ ク ス し た も の と い う の が 私 の
理解である。北方語で「客人」といい、広東語では「人客」ということから想起した解釈
だが、はたしてこれでよいのだろうか。自信はない。
今 年 も 春 か ら 夏 に か け て マ ス コ ミ に し ば し ば「 ス ネ ー ク ・ ヘ ッ ド 」
( 蛇 頭 )が 登 場 し た 。私
がこの言葉と内容に関心を抱いたのは、香港遊学時代である。初めはただ新聞で「イリー
ガ ル ・ イ ミ グ ラ ン ト 」( 非 合 法 移 民 ) を 送 り 出 す ボ ス と い う 意 味 を 頭 で 知 る だ け で あ っ た 。
あるとき、ランタオ島へ遊びに行き、あちこちで幾度もIDカードの提示を求められた。
非合法移民を逮捕し、強制送還するためにパトロールをしていたわけだ。その後、呑み屋
やバーで「数日前、香港にたどり着いたばかり」という若者や娘さんがあちこちにいるこ
矢吹晋『逆耳順耳』
160
とが分かった。彼らがまず働くのは、きまって水商売である。注意して観察するとすぐ識
別できるようになり、彼らから逃亡までの話をいくつも聞いた。
あれから四半世紀が過ぎて、いまやスネーク・ヘッドは日本語の新語的位置を占めるに至
っている。鮫に食われる覚悟をして脱出した若者たち、少女たち。その単語が脳裏に刻み
込まれ、放置され、いま日本で反芻する。試行錯誤というよりは、回り道そのものだ。中
国も回り道、観察する私も回り道。
「面的」は広東語を知ると面白味がます北京新語である。ワゴン車のことを香港ではその
形 か ら 面 包 車 と も 呼 ん だ 。 た だ し 「 小 型 巴 士 」 を 省 略 し た 「 小 巴 」( ミ ニ バ ス ) が よ り 広 く
行なわれた。草創期の、まだルールの固まらない時期のミニバスに乗るのは、かなりの勇
気を要した。走行ルートを道路の込み具合や客数に応じて勝手に変えてしまうので、予想
外のところへ連れていかれる恐れがあった。料金は時間帯と距離を基準として、しばしば
変更された。あるときなど「どこどこへ行くぞ」という運転手の一声を聞き漏らしたばか
りに、とんでもない方角へ連れて行かれたことがある。料金のことでもだいぶあわてたこ
とがある。そのコツを呑み込むまでに大分時間がかかった。第一、広東語以外はまったく
通じない世界であった。私が自信をもってミニバスに乗れるようになったのは、広東語を
半年やり、しかもミニバスに対する当局の行政指導も整い、一応のルールが確立されるよ
うになってからのことであった。いまでもあのスリルを想起する。しかし、あっという間
に 慣 れ る 。 も う 当 た り 前 の 世 界 に な る 。「 的 士 」( タ ク シ ー ) に 乗 る の も 、 当 初 は 難 し か っ
た。道を覚えること、大体の料金を理解すること、この二つが肝要である。さもないとぐ
るぐる回されて法外な料金をふっかけられる「
。 ど こ ど こ ま で 。ど の 道 を 通 っ て 行 っ て く れ 」
──ここまで具体的に広東語でいえば、もう大丈夫。先方は老香港に対してボルようなこ
とはしない。この「的士」がいつの間にか、大陸の「租出汽車」を駆逐し、フツーの言葉
になった。と思う間もなく、ダイハツがシャレードを用いた「面的」が現れ、北京っ子の
人気を博した次第である。大哥大、蛇頭、面的──すべて「風は南から」の話である。
『蒼蒼』第59号、94年12月、毛沢東盗聴器事件はなぜバレたか
話題の暴露ものを広告に惑わされて毛嫌いしてはなるまい。李志綏著『毛沢東の私生活』
は、現代中国研究の必読文献の一冊であろう。この本は徹底的に解読する価値がある。大
躍進当時、毛沢東はしばしば地方行脚に出かけたが、羅瑞卿(公安部長)と楊尚昆(党中
央弁公室主任)を連れていったことがある。毛沢東は二人に対して「自分がいかに人民大
衆から深く愛されているか」を見せようとしたのであった。毛沢東は旅行中にしばしば重
要な発言を行なうのが常であった。たとえば工業と農業の関係をいかに組織化するか、い
かにして人民公社を正しく構築すべきか、いかにして公平な分配と労働への報酬を実施す
べきか、などである。党中央書記処は毛沢東の発言記録をとっておらず、それらの発言を
政治的指示として文章化する手立ても持ち合わせていなかった。そこで楊尚昆がこう提案
した。
「 主 席 の 発 言 を 記 録 に と り 、将 来 の 参 考 資 料 と し て 党 中 央 書 記 処 に 送 る 方 法 を 考 え な
け れ ば な ら な い 、と 。
「 そ れ は 主 席 に 感 服 し た 下 僚 に よ る 思 慮 深 い 提 案 で あ っ た 」と 李 志 綏
矢吹晋『逆耳順耳』
161
は解釈している。
こ れ に 対 す る 毛 沢 東 の 反 応 は「 速 記 者 な ど い ら い な い 」
「自分の発言は雑談の域を出ていな
い 」と い う も の で あ る 。李 志 綏 は こ う コ メ ン ト す る 。
「主席は自分の言葉が持つ魔力を百も
承知していた。人民公社がすばらしいという主席の発言が知れわたるや、全国の農村部は
どっと人民公社の設立に走った。毛沢東は自分のなにげない発言がいそいで政策に組み込
ま れ る の を い や が っ た 」。 ま も な く 盗 聴 器 が 専 用 列 車 内 に あ る 主 席 の 寝 室 や し ば し ば 会 議
が開かれる応接室に設置された。輸入品の小型器であり、実に巧みに壁の電灯とか花瓶な
どにとりつけられたので、主席には気づかれようがなかった。マイクは別の客車につなが
っていて、党中央弁公庁から派遣された劉某という若い技術者が主席発言の録音と管理に
あたった。類似の盗聴器は主席の立ち寄る各地の迎賓館にもとりつけられた(上巻、四〇
七 ~ 四 〇 八 頁 )。
一九六一年二月、毛沢東は専用列車で広州へ向かった。杭州で数日すごしたのち、列車は
武 漢 を め ざ し た 。途 中 で 毛 沢 東 が 張 平 化( 湖 南 省 党 委 員 会 第 一 書 記 )、王 延 春( 同 第 二 書 記 )
に会うため一時停車した。毛沢東は張平化を隣接の応接車で待たせて「女とくずぐずと時
間をすごした」あとようやく張平化と会う段取りになった。そこで李志綏らは女(毛沢東
とは延安時代から肉体関係があり、毛は彼女をソ連に送り、その後軍高官と結婚させた。
この軍人は彭徳懐の部下であった。廬山会議で彭徳懐が失脚したので、女は夫の地位保全
を頼むために毛沢東を訪ねていた)や録音担当の劉青年らとともに列車をおりて散歩にで
か け た 。 青 年 が 女 を か ら か う 。「 お れ , 話 を 聞 い た ぜ 。 あ ん た は 、 い そ い で 、 さ あ 、 服 を 着
て 、 と 主 席 に 言 っ た ろ う 」。 女 は 真 っ 青 に な っ た 。
「 あ な た 、 ほ か に 何 を 聞 い た の ? 」。 青 年
は「おれ、みんな聞いたぜ」と女をからかう。女は度を失って、列車に向かい、毛沢東の
客室にかけこみ、青年とのやりとりをすべて毛沢東に伝えた。毛沢東は激怒した。汪東興
を呼びつけ、まる一時間密談したあと、列車を最高速力で武漢に向かわせた。毛沢東はふ
だんでも疑り深かったのだが、秘密の録音装置が自分の一言半句まで拾いあげ、そのテー
プが北京の党中央書記処に送られている事実にすっかり落着きを失ってしまった。ことも
あろうに、自分が信頼を置き、もっとも忠実に、そしてもっとも長く自分につかえてきた
側近グループが、この陰謀に関わっていたのではないかと毛沢東は信じた。この盗聴事件
以後、毛沢東はいっそうスタッフを警戒するようになった。主席は男どもより女たちを信
用するようになり、男の世話係を解任し、自分のまわりを女でかためるようになった(下
巻 、 七 九 ~ 八 五 頁 )。
毛 沢 東 が 怒 り 狂 っ た の は 、む ろ ん フ ル シ チ ョ フ の ス タ ー リ ン 攻 撃 を 想 起 し て の こ と で あ る 。
フルシチョフがスターリンの私生活を暴露して攻撃したことを知っていたために録音を断
じて望まなかったと李志綏は証言している。とはいえ、主席がなによりも恐れたのは、か
かる暴露ではなかった。私生活は党エリートの間では公然の秘密になっていた。毛沢東が
い ち ば ん 恐 れ た の は「 自 分 の 権 力 に 対 す る 潜 在 的 な 脅 威 」だ っ た 。
「もし代理の者たちが主
席の言葉を北京に持ちかえって、党中央の指導者たち(劉少奇、鄧小平ら)が主席の地方
で行なった発言に基づく政策を立案しようものなら、あらゆる政策の拠り所となっている
矢吹晋『逆耳順耳』
162
主 席 の 役 割 は 低 下 し て し ま う だ ろ う 」( 下 巻 、 八 三 ~ 八 四 頁 )。
毛 沢 東 は 汪 東 興 に 対 し て テ ー プ 焼 却 を 厳 命 し た 。康 一 民( 党 中 央 弁 公 庁 機 密 秘 書 室 副 主 任 )
お よ び 羅 光 祿( 主 席 付 き 機 要 秘 書 )が 解 任 さ れ 、劉 青 年 は 山 西 省 で の 労 働 改 造 に 送 ら れ た 。
巷間、文化大革命の起点としての盗聴器事件について語られてきたが、これは事実に基づ
く話なのであった。中国現代史のエピソードがいま一つ白日のもとにさらされ、毛沢東偶
像の破壊は、これで一段と進むであろう。
『 蒼 蒼 』 第 5 9 号 、 9 4 年 1 2 月 、『 中 国 統 計 年 鑑 九 四 』
今年は『中国統計年鑑』の出版が遅れた。一一月二六日に長城書店からの宅急便でようや
く受けとった。ちなみに、九〇年版は九〇年一一月七日に都内で、九一年版は九一年一一
月八日に都内で、九二年版は一〇月九日に白石和良氏が北京から携えてきた。九三年版は
一〇月六日に都内で買った。九三年版が「北京なみの速度」であったのは、仄聞すると、
国 家 統 計 局 局 長 の 来 日 に 際 し て の お 土 産 と し て で あ っ た と い う( た だ し 、有 料 )。九 四 年 版
が遅れたのは、統計内容を市場経済化に合わせて改善するためとのことであった。実際に
ど う 改 善 さ れ た の か は 具 体 的 に 点 検 し な け れ ば な ら な い 。私 は 上 海 の 友 人 に 頼 ん で み た り 、
それをキャンセルしたり、この件だけで二回もFAXをやりとりしている。結果的にムダ
な や り と り だ が 、チ ャ イ ナ・ウ オ ッ チ ャ ー の 現 役 で あ る か ら に は 、必 要 な コ ス ト( 精 神 的 、
物質的)である。気づいたことを二つ。
1)ざ っ と 開 く と 三 七 五 頁 の 所 有 制 別 工 業 生 産 額 が 目 に つ く 。 九 三 年 の 総 生 産 額 五 ・ 二 七 兆
元に対して国有企業は二・二七兆元だから四三%に減少した。合弁企業などは五三五二億
元であり、一〇・一五%まで増加した。このところ、この数字をもとに「市場経済化の進
展度」を論じてきたので、予想通りの数字を見るのは、たいへん愉快である。
2 ) す べ て に つ い て 英 文 の タ イ ト ル が つ い て い る 。こ こ で 山 西 は S H A N X I 、陝 西 は S H A A N X I
と 区 別 さ れ て い る 。四 声 の 符 号 を 用 い な い と す れ ば 、両 者 は こ の よ う に 区 別 す る ほ か な い 。
くたばれピンイン派としては、これをピンインの欠陥証明と読みたい。
『蒼蒼』第59号、94年12月、産業連関表一九九〇年
ふ と 思 い 立 っ て『 中 国 投 入 産 出 表 一 九 九 〇 年 度 』
( 国 家 統 計 局 国 民 経 済 平 衡 統 計 司 、国 家 統
計局投入産出弁公室編、中国統計出版社、一九九三年一一月)を開いたのが運の尽き。折
角 の 「 大 学 祭 連 休 四 日 」 を 使 っ て し ま っ た 。「 投 入 」 と 「 産 出 」 の 連 関 を 説 明 す る 表 が 二 六
頁から六七頁までにまたがっていたのでは、一望できない。そこでまず見開き四二頁にま
たがるものを自宅の性能の著しく劣るコピー機で複写し、貼り合わせてみた。これでは大
きすぎて不便だ。そこで今度はそれを縮小コピーし、また貼り合わせようやくA3判二枚
程度の私家版連関表(といっても形だけだが)を完成し、ウムウム中々面白い、と独りご
ちた。
横の行は農業に始まり、第二次産業は二四部門、第三次産業は七部門、計三三部門に分け
られている。部門ごとの合計欄三つを加えると、三六行である。これらは物質生産部門と
矢吹晋『逆耳順耳』
163
非物質生産部門に分けられており、さらに中間投入欄合計が加わり、三九行になる。これ
に固定資産の減価償却欄三行、勤労者収入、福利基金、利潤と税金、その他の四行および
最初の投入の合計と総投入の二行が加わり、結局四八行のスペースになる。
縦の列を見ると、中間使用までは横と同じく三九列だが、最終消費欄は総消費五列(農業
居民消費、非農業居民消費、両者の小計、社会総消費、総消費)と総投資六列(固定資産
大 修 理 、 固 定 資 産 更 新 改 造 、 基 本 建 設 、 固 定 資 産 形 成 合 計 、 在 庫 増 加 、 総 投 資 合 計 )、 そ し
て純輸出、最終使用合計、その他、総産出の四列が加わるので、全体で五四列になる。結
局 四 八 行 ×五 四 列 = 二 五 九 二 の コ ラ ム マ イ ナ ス 一 三 五 、 結 局 二 四 五 七 の 欄 が 必 要 で あ る 。
総投入および総産出は四兆二二一三億四三〇六万元であるから、半角の数字を用いたとし
て も 五 文 字 の ス ペ ー ス が 要 る 。と い う 計 算 を 始 め た 辺 り か ら 病 膏 膏 に 入 り 始 め る 。つ ま り 、
この数字をパソコンかワープロに「投入」しようとしているわけだ。
私 の パ ソ コ ン は 幼 稚 園 な み 、「 情 報 ク ラ ブ 」 を い じ る 程 度 だ か ら 、 話 に な ら な い 。 や は り 、
ワープロの「カルク機能」を用いることにする。二四五七の欄のなかにはゼロもあって、
砂漠のオアシスの感じになったが、これだけの数字をカルク表にキーボードから投入する
までに二日を費やした。縦横ともに容量の限界に突き当たり、半分を別の表に移す作業が
必要であったばかりでなく、作成限界に近づくと計算機能は著しくのろいスピードになっ
た。さてこうして作った表をプリントアウトしてみる。何のことはない。本からコピーし
た 表 と 同 じ だ が ( 当 た り 前 だ )、 縦 の 合 計 と 横 の 合 計 が き ち ん と 合 う の で 実 に 気 分 が よ い 。
さて、数字は絶対額ではかえって連関が分かりにくい。そこで百分比を計算してみる。た
とえば石炭はどのような産業分野で何%用いられ、消費や在庫増加はどうかという比重を
計算するわけである。この点でカルク機能は偉大である。個々の数字を全体で割るには相
対座標と絶対座標を区別して計算式を作り、あとは「複写」しさえすれば、自動的に計算
してくれるので、まるで子どもの玩具のように面白く、やめられない。石炭がどこでどの
ように用いられるのかの計算で三日目を過ごした。四日目は(本当は三日目あたりから別
の 用 事 が あ っ た の だ が 、も う と ま ら な い )、石 炭 産 業 の い か な る 他 の 産 業 に よ る 貢 献 で 成 り
立っているかを計算した。これは縦の計算だが、やり方は横と同じである。計算の結果を
今度はワープロ文書に「他文書」参照で複写し、A4判に印刷し、それをまた貼り合わせ
る 。美 人 の 台 湾 留 学 生 か ら 、台 湾 料 理 を 食 べ に い ら し て ね 、と 招 待 状 を 頂 戴 し て い た の に 、
それをムダにして、四日間がすぎました。家人は「ワープロオタク」と軽蔑の眼差し。こ
れは仕事なのか道楽なのか、ヒマつぶしなのか本人にも分からない。
『 蒼 蒼 』 第 6 0 号 、 9 5 年 2 月 、「 鄧 小 平 の 私 生 活 」 ?
前 号 に 書 い た『 毛 沢 東 の 私 生 活 』の な か で 腑 に 落 ち な い 箇 所 が あ る の で 、書 き 留 め て お く 。
彭徳懐国防部長の解任を決定した廬山会議に、鄧小平が欠席したことは知られていたが、
その間の事情について『
、 私 生 活 』は 、こ う 書 い て い る ─ ─ 鄧 小 平 は 北 京 病 院 に 入 っ て い た 。
五月二日、鄧小平は中南海の北部にある高級幹部用のクラブで撞球中、足をすべらせて骨
折した。私が手配して北京病院に入れ、手術を受けた脚はギプスをはめられた。数週間ほ
矢吹晋『逆耳順耳』
164
ど入院生活をおくり、二四時間態勢の介護を受けた。もともと主席付きにと上海から北京
に派遣されていた若い看護婦が、鄧小平付きとなった(衛生省保健局長の史書翰が私に語
ったところによれば、この若い看護婦は勤務期間中に妊娠して鄧小平夫人を仰天させ、上
海 に 送 り 返 さ れ て 中 絶 の 手 術 を 受 け さ せ ら れ た と い う ( 邦 訳 、 下 巻 、 一 一 頁 )。
念 の た め に 、こ の 箇 所 の 英 文 を 調 べ る と 、こ う な っ て い る 。D e n g X i a o p i n g w a s i n B e i j i n g
Hospital. On May 2, he had slipped and broken his leg while playing billiards at the
high-level cadres' club north of Zhongnanhai. I had sent him to Beijing Hospital f or
s u r g e y, f o l l o w i n g w h i c h h i s l e g w a s p u t i n a c a s t . H e s t a y e d t h e r e f o r w e e k s , r e c e i v i n g
round-the-clock treatment from a young nurse originally sent from Shanghai to Beijing
to serve Mao. ( The director of the Central Bureau of Health, Shi Shuhan, told me that
the young woman became pregnant during this time and was transferred back to
Shanghai and forced to have an abortion.) pp.314-315.「 鄧 小 平 夫 人 を 仰 天 さ せ 」 と い う
面白い話は英文にはない。念のために中国語訳を調べるとこうなっている。
鄧小平此時仍在北京医院住院療養、不能参加会議。在五一節後一天傍晩、在中南海北門的
「高幹倶楽部」打弾子、可能是地板地太滑、足失倒、右股骨頸骨骨折。我送他到北京医院
後、見做了手術、打上釘子、上了石膏。中国語訳、三〇一頁。
ナヌナヌ??
若い看護婦が妊娠したなどという記述はないではないか。なぜこのように
違うのか? 鄧小平の浮気話の真相はなにか。誰の創作なのか。
『蒼蒼』第60号、95年2月、フォーマー・パラマウント・リーダー
鄧 小 平「 老 衰 情 報 」が マ ス コ ミ を 騒 が せ て い る 。発 端 は 三 女 の 蕭 榕 さ ん が『 ニ ュ ー ヨ ー ク ・
タ イ ム ズ 』の 記 者 に 語 っ た 談 話 で あ る 。彼 女 は 昨 年 三 月 に 日 本 を 訪 問 し た さ い に 、
「父は毎
日三〇分歩く」と説明して話題になったことがある。今回は一年前と比べて衰えた、車椅
子には一度乗ると足腰が弱くなるといって乗ろうとしない、九〇歳の老人としては元気な
ほうだ、といった趣旨の発言をした。それからおよそ一週間後、香港の『エィシァン・ウ
ォールストリート・ジャーナル』紙が鄧小平「昏睡状態」説を流し、香港の株価を下げる
事態となった。この香港紙の情報は日本でも大きくとりあげられ、一面トップに掲げる新
聞さえあった。
しかし、この情報の扱い方は「万犬、虚に吠える」のたぐいではないか。蕭榕はなぜ記者
会見に応じたのか。彼女の書いた『わが父鄧小平』は日本では昨年三月に翻訳が出たが、
今度はアメリカとフランスでそれぞれ英語版と仏語版が出るので、その出版記念パーティ
のために彼女が春節明けに欧米に行くという次第なのである。したがって当面は(最悪の
ば あ い で も 娘 の 旅 行 中 ぐ ら い は )、 容 体 の 変 化 は な い と 判 断 し て の こ と で あ ろ う 。 だ か ら 、
蕭榕の発言にもし疑問があれば、アメリカやフランスの出版社に問い合わせて、彼女の旅
行 が キ ャ ン セ ル さ れ た の か ど う か を 確 認 す る の か 先 決 で あ っ た は ず で あ る 。そ の 種 の 取 材 、
確 認 を 放 棄 し て 彼 女 の 発 言 を 単 に 「 重 体 」「 危 篤 」「 植 物 人 間 状 態 」 な ど と 書 き 変 え た だ け
の 記 事 を 「 中 国 筋 」「 消 息 筋 」 の ニ ュ ー ス と し て 流 し た の は 、 ま こ と に 噴 飯 物 で あ っ た 。
矢吹晋『逆耳順耳』
165
鄧小平の健康にかかわる情報は中国ではトップシークレットであり、その真相を知ってい
るのは、鄧小平ファミリーとその周辺だけのはずだ。しかも真相を知りうる立場にある人
びとはまず絶対にそれを語らない。三女の蕭榕が「鄧小平ファミリーのスポークスパーソ
ン」とあだ名されるのは、彼女が対外的に説明する役割を与えられているからである。早
い話が『わが父鄧小平』は自伝を書かない父に代わって、いわば「皇帝の伝記」を書いた
欽定版なのである。私はたまたまこの日本語訳の「解説」を書き、来日した彼女と対談し
た こ と が あ り(『 サ ン サ ー ラ 』九 四 年 五 月 号 )、
「 鄧 小 平 情 報 」の 伝 達 者 と し て の 彼 女 の 役 割
に直接触れる機会があったので、彼女の発言の含意を誤解なく受け止めることができた次
第である。
実は、昨年九月に開かれた一四期四中全会を契機に、鄧小平は「最高実力者」の地位から
引 退 し た こ と が『 人 民 日 報 』
( 九 四 年 九 月 二 九 日 付 )の 一 面 ト ッ プ で 報 じ ら れ て い る 。も は
や政治に関与しないことを公式に表明したのであるから、いまや鄧小平は「元」最高実力
者、いまはただの老人にすぎない立場なのだ。いぜんとして「最高実力者」扱いし、その
死去とともに中国で権力闘争が始まり、大乱に陥るといったたぐいの無責任きわまる言説
がマスコミを賑わすのは、憂慮に堪えない。ポスト毛沢東期の政変劇や旧ソ連解体のイメ
ージでポスト鄧小平問題を見ようとする中国論の誤りはいずれ現実によって訂正されるこ
とになろう。中国が経済発展をつづけるかぎり、中国内外の人びとはいまの市場経済化路
線を支持するはずである。以下に〔参考資料〕を掲げて読者の参考に供する次第である。
〔北京一月八日発、
『 読 売 新 聞 』荒 井 利 明 支 局 長 電 〕当 地 の 消 息 筋 に よ る と 、中 国 の 最 高 実
力者、鄧小平氏(九〇)は年明け早々、健康状態が悪化したため、北京の病院に入院して
治療を受けている。江沢民党総書記があわてて病院に見舞いに赴いたが、医師団のアドバ
イスで面会できずに帰ったとの情報さえ伝えられており、例年のように春節(旧正月。今
年 は 一 月 三 一 日 )前 夜 に 公 の 場 に 姿 を 見 せ る こ と が で き る 状 態 に は な い と い う(『 読 売 新 聞 』
九 五 年 一 月 九 日 付 )。
『ニューヨークタイムズ』のパトリック・タイラー記者はこう書いた。
T h e d a u g h t e r, X i a o r o n g , d e n i e d r e p o r t s t h a t h e h a d e n t e r e d a h o s p i t a l , a s a J a p a n e s e
newspaper reported this week, and said he remained at home at the family compound
in Beijing. But her unusually frank remarks in an 80 -minutes interview in Mandarin
C h i n e s e d i d l i t t l e t o d i s p e l c o n c e r n t h a t h i s d e a t h i s n e a r.
Ms. Xiao's remarks about her father's condition are highly unusual for any relative of
a C h i n e s e l e a d e r t o m a k e . B u t a s M s . X i a o i s t r a v e l i n g n e x t w e e k t o N e w Yo r k a n d
P a r i s t o p r o m o t e a b i o g r a p h y o f h e r f a t h e r, s h e a p p e a r e d e a g e r t o p r e - e m p t t h e i s s u e .
/ “ H i s h e a l t h d e c l i n e s d a y b y d a y, " s h e s a i d . “ P e o p l e h a v e t o u n d e r s t a n d t h a t a t t h i s
point, he's 90 years old, an old man. And someday there will be a day when he passes
a w a y. "
蕭榕は『わが父鄧小平』の英訳版とフランス語版のセールス・プロモーションのためにパ
リとニューヨークに行く予定があり、実はその前宣伝のための記者会見なのであった。こ
矢吹晋『逆耳順耳』
166
こ で 記 者 が「 次 の 週 に 」と 書 い た の は 、お そ ら く「 来 月 に 」を 聞 き 間 違 え た 可 能 性 が 強 い 。
私が注意深く読むのは、まさにこの箇所なのである。九〇歳の老人らしく日々衰えている
が、車椅子に乗らないと語っていることは意識がハッキリしていることを示唆するであろ
う。また鄧小平家のスポークスパーソンがパリやニューヨークに出かけるというのは、死
去までにはまだ間があるから、と読むのが自然であろう。
香港の『エィシァン・ウォールストリート・ジャーナル』の北京特派員キャセイ・陳が一
月 二 〇 日 に 鄧 小 平「 危 篤 」説 を 流 し 、日 本 の マ ス コ ミ は さ っ そ く こ れ に 飛 び つ い た 。曰 く 、
娘の訪米が中止になったのは、葬式のためだ。実は画家林の訪米は延期されたが、毛毛の
訪米は予定通りとの続報があった。さらにフランス行きの計画にも変更はない、と続々報
があった。長女と三女の区別がついていない。その後の狂騒曲はほとんどマンガチックで
あ る 。一 説 に よ る と 首 相 官 邸 あ た り で も 鄧 小 平 死 亡 説 が 流 れ た と い う か ら 、情 報 の 読 み 方 、
分析がまるでダメなことを暴露したに等しい。某通信社はさっそく追悼用の予定原稿を加
盟 各 社 に 流 し た 。こ れ に 押 さ れ て 、別 の 通 信 社 も 一 月 末 に は 類 似 の 予 定 原 稿 を 流 す と い う 。
こ う な る と 「 虚 ×虚 = 実 」 の 方 程 式 が 成 立 し そ う な 雲 行 き で あ る 。 ウ ソ も 百 遍 い え ば ホ ン
ト に な る 、と は ボ リ シ ェ ビ キ の 宣 伝 哲 学 で あ り 、ナ チ ス が こ れ を 継 承 し た と の 説 が あ る が 、
現代のマスコミをそれを実践しているのか。
最 後 に 。「 パ リ 一 月 二 七 日 、 A F P 時 事 。 蕭 榕 さ ん が 来 週 、 自 著 『 わ が 父 鄧 小 平 』 の 宣 伝 の
ためフランスを訪問する。同書仏語版の出版元ファヤール社が明らかにしたもので、二月
三 日 に フ ラ ン ス に 到 着 し 、一 週 間 滞 在 し た 後 、米 国 に 向 か う 予 定 」。鄧 小 平 老 人 が あ と 半 年
くらい生きると、
「 九 五 年 一 月 の バ カ 騒 ぎ 」の 愚 劣 さ が よ く 浮 き 彫 り に さ れ る は ず だ 。鄧 小
平 皇 帝 、 万 寿 無 疆 ! [鄧 小 平 は 1977 年 2 月 死 去 ]
『蒼蒼』第61号、95年4月、一天不如一天
蕭榕は予定通りパリとニューヨークを訪れ、記者会見に応じた。二月一〇日、パリからニ
ューヨークに着いた蕭榕は、早速ABCテレビと華字紙『僑報』のインタビューに応じて
こ う 答 え て い る 。今 年 は 四 世 代 一 七 人 が 春 節 の と き に 自 宅 で「 気 球 」
( ゴ ム 風 船 か )を 踏 み
割った。割れる音を聞いて鄧小平はとりわけ喜んだ。鄧小平は家族とともに七回の春節を
上海で過ごしてきたが、今年は北京で過ごした。北京では爆竹が禁じられているので、今
年は爆竹の音に類似したゴム風船割りが流行した。われわれは一家総動員で、まるまる一
日半かけて(空気入れで)いくつものゴム風船を膨らませた。四世代一七人が大晦日の夜
の一二時に、父母と一緒に見た。しかし父は踏み割ることをしなかった。わが家では全員
が(鄧小平の)子どもたちと孫、孫娘たちが一緒にゴム風船割りをやり、一〇分間ですべ
て 踏 み 割 っ た 。と て も 賑 や か で し た 」
「 そ の 日 、父 は と り わ け 機 嫌 が よ く 、家 族 中 で 大 晦 日
の 記 念 撮 影 を や り ま し た 」。
蕭榕は『ニューヨーク・タイムズ』が趣旨を歪曲して報道したことに憤りをこめてこう語
った。
「 你 們 応 該 明 白、鄧 小 平 畢 竟 是 九 十 歳 高 齢 的 人 了、他 只 能 一 天 比 一 天 更 老、不 可 能 一
天比一天更年軽。将来還会有鄧小平不在世的一天、這是一個自然規律。所以們的眼光不要
矢吹晋『逆耳順耳』
167
耵在鄧小平個人的身体健康問題上、中国従第二代領導人到第三代領導人、接班的過程已経
完成。所以希望好把更多的注意力放在新一代領導人身上、中国的前途是与他們相関的、鄧
小 平 已 是 個 退 休 的 人 了 」「 但 結 果 『 紐 約 時 報 』 記 者 就 写 了 鄧 小 平 身 体 d e c l i n e s d a y b y d a y
(一天不如一天)後頭我説的、不可能一天比一天更年軽、他就没給我写、結果把我四、五
句話用一句話来説、把意思改変了。然後他又用了標題、説鄧小平在近幾個月以来身体厳重
衰 退 ( f a i l s h a r p l y )、 們 可 以 再 査 一 下 原 文 、 這 不 是 我 的 原 話 」「 而 且 還 用 了 鄧 小 平 現 在 已 経
不能站立了、不能行走了、也不能転身了等。即使是這様、在他在引用我的原話中、也是説
鄧小平不坐輪椅、拒絶坐輪椅。我跟他説、鄧小平現在不願坐輪椅、不用坐輪椅。当然老年
人嘛、咱們中国人講、総是従腿先開始老起来。所以鄧小平就不像以前那様(毎日)可以走
両 、 三 公 里 了 」(「 鄧 小 平 在 京 度 歳 」 香 港 『 大 公 報 』 九 五 年 二 月 一 三 日 )。
もし蕭榕が真実を語っているとするならば、いま傍線を付した部分の意味をパトリック・
タイラー記者は取り違えたわけである。これが通訳のミスなのか、それとも記者の誤解な
の か は 、分 か ら な い が 、蕭 榕 は 事 後 に こ う 語 っ た つ も り だ と 説 明 し て い る 。
「九〇歳という
高齢なのですから、一日一日老いて当然ですわ。まさか一日一日若返るなんてございませ
んものね」と蕭榕は説明したのである。これは対句の用法であり、コトバのアヤである。
これと「一日一日と衰弱している」という英訳との意味は相当にズレている。これはほと
ん ど 文 化 摩 擦 と い う べ き か も し れ な い 。と こ ろ で「 車 椅 子 」に 乗 ろ う と し な い 話 の 箇 所 は 、
まさに私の読んだ通りであった。足から衰えることを自覚して、車椅子を拒否しているの
だから、意識は確かであると言外に語ったわけだ。それを誤解、曲解していると蕭榕は抗
議しているわけだ。この箇所を読んで私は鄧小平の車椅子嫌いはほかにも理由があるので
はないかと憶測していた。一つは長男樸方の車椅子を想起してのことではないか。もう一
つはライバル陳雲はながらく車椅子の生活である。この二つから鄧小平は車椅子を嫌って
い る の だ 、な ど と 私 は 仲 間 と 語 り 合 っ て い た 。憶 測 は 別 と し て 、
『 ニ ュ ー ヨ ー ク・タ イ ム ズ 』
をよく読めば、鄧小平が自宅にいて、当分は息をひきとりそうにないことは、明らかだっ
たのだ。
な お 公 平 を 期 す る た め 、 以 下 に タ イ ラ ー 記 者 の 反 論 を 紹 介 し て お く 。 2 8 J A N 9 5 To : J e f f
Parker/ Reuters
Jeff: I am making this available in response to queries.Ms. Xiao
Rong has objected to two characterizations in my article.1) that her father's health
has significantly declined and that he cannot stand or walk without support. 2) that
she did not use the phrase “ day by day" to describe his decline. On the first point,
twice in the 80 -monute interview she referred to his ability to walk for two 30 -minute
p e r i o d s a d a y a s r e c e n t l y a s a y e a r a g o . S i n c e t h e n , s h e s a i d , h e h a s l o s t t h a t a b i l i t y.
“But now he cannot walk , of course. Now he needs two people to support him." She
w e n t o n t o d e s c r i b e h i s r e s i s t a n c e t o u s i n g a w h e e l c h a i r. O n t h e s e c o n d p o i n t , s h e u s e d
the “day by day"
phrase in a manner that isnot subject to misinterpretation or
m i s t r a n s l a t i o n . A f t e r d e s c r i b i n g h e r f a t h e r ' s r e s i s t a n c e t o u s i n g a w h e e l c h a i r, a n d h i s
f e e l i n g t h a t i f h e e v e r s i t s i n a w h e e l c h a i r, h e w i l l n o t g e t o u t a g a i n , s h e a d d e d , “ o f
矢吹晋『逆耳順耳』
168
c o u r s e , t h a t ' s t h e n a t u r a l o r d e r. D e f i n i t e l y, h i s h e a l t h d e c l i n e s d a y b y d a y ( t a d e
shenti yiding shi yitian b uru yitian de). That's definitely the way it is." I hope this
h e l p s t o c l a r i f y t h e m a t t e r. I a p p r e c i a t e d M s . X i a o R o n g ' s c a n d o r a n d f r a n k n e s s a n d I
hope that she will continue adding to the record so that the public can more precisely
u n d e r s t a n d h e r f a t h e r ' s c o n d i t i o n . P a t r i c k E . Ty l e r
タイラー記者は「他的身体一定是
一天不如一天的」と述べたはずだと反論している。録音はあるのかないのか。やはり藪の
中か。三月五日、全国人民代表大会が開かれ、話題の蕭榕が議場から出てくると、外国報
道陣が約五〇人取り囲んだ。
「 鄧 榕 さ ん は 微 笑 む だ け 。一 言 も 答 え な い ま ま 、警 備 の 係 官 に
付き添われ、報道陣を振り切るようにして足早に立ち去った。中国筋によると、氏は北京
市内の病院に入院している模様だ」
(『 朝 日 新 聞 』北 京 三 月 五 日 = 野 口 拓 朗 特 派 員 )。ま ん ざ
ら顔を知らない記者でもないので、書きにくいが、どうして、こう性懲りもなく、揣摩憶
測 を 続 け る の で し ょ う ね 。 蕭 榕 の 説 明 に よ れ ば 、 鄧 小 平 は 自 宅 に い る は ず だ 。『 読 売 新 聞 』
が入院説を書いて、蕭榕が否定したことは、前号で書いた。蕭榕はアメリカで、春節に鄧
小平が孫たちと自宅で風船割りに興じたことを語っているではないか。私は不可解でなら
な い の だ が 、蕭 榕 が 繰 り 返 し て 自 宅 に い る と 語 っ て い る の に 、相 変 わ ら ず 、正 体 不 明 の「 中
国筋」を持ち出して「入院説」を繰り返すのはなぜか。このような記事をデスクがそのま
ま紙面に載せるのはなぜか。デスクも特派員も不勉強きわまる。これが日本を代表する新
聞とされているから困るのだ。蕭榕の胸には、全人代代表としての顔写真入りの名札がつ
いていたはずだが、その氏名欄には「鄧榕」ではなく「蕭榕」と書かれていたはずだ。そ
の名札さえ、きちんと見ていないのではないか。
『蒼蒼』第61号、95年4月、ヘリクツか、居直りか
も う 一 つ 、典 型 的 な 噴 飯 物 を 抜 き 書 き し て お く 。
『 日 本 経 済 新 聞 』九 五 年 二 月 四 日 付 、北 京
=岡崎守恭記者のコラムである。
「 蕭 榕 さ ん が 三 日 、三 週 間 近 く の フ ラ ン ス 、米 国 訪 問 の 旅
に出発した」
「 蕭 榕 さ ん は 家 の ス ポ ー ク ス ウ ー マ ン 的 な 役 割 を 果 た し て い る こ と か ら 、当 面 、
氏が明日をも知れぬといった危機的な容体ではないのではないかという観測が出ている」
〔『 ニ ュ ー ヨ ー ク ・ タ イ ム ズ 』 の 蕭 榕 イ ン タ ビ ュ ー を よ く 読 め ば 、 こ う し か 読 め な い は ず 。
記 事 か ら 三 週 間 後 に よ う や く 、こ の 程 度 の 理 解 ! 〕
「 予 定 通 り 出 発 し た こ と で 、小 康 状 態 な
のではないかとの見方が出ているが、九〇歳という年齢からも衰えが進んでいるのは事実
で、逆に「この時期に行かなければ健康危機説が決定的になってしまうため、延期しよう
に も で き な か っ た 」 と の 解 説 も あ る 」。 引 か れ 者 の 小 唄 と い う 言 い 方 が あ る 。「 と の 解 説 」
などと誰かに責任を転化してヘリクツで弁解するのは、小唄を絵に書いたごとし。
もう一つ。
「 鄧 小 平 氏 の 侍 医 、呉 階 平 氏( 七 八 )が ド イ ツ の 週 刊 誌 の イ ン タ ビ ュ ー で 、氏 は
パ ー キ ン ソ ン 病 を 患 い 、脳 に 血 行 障 害 が 生 じ て い る こ と を 明 ら か に し 、
「いつでも急変する
恐 れ が あ る 」 と 語 っ た 。 氏 の 侍 医 に よ る 発 言 は 初 め て 。 当 地 で は 〔 香 港 〕、 呉 医 師 が 氏 本 人
か党中央の許可を得て、病状を外国マスコミに明らかにすることで、迫り来るその日の衝
撃を和らげようとする方法を取り出したとの見方が強まっている。
『 シ ュ ピ ー ゲ ル 』誌 の 記
矢吹晋『逆耳順耳』
169
者が香港紙『明報』に明らかにしたところによると、呉医師は今月五日に氏を診察、同八
日に取材に応じた。呉医師は氏の病状は、パーキンソン病だった晩年の毛沢東主席と同じ
よ う な 状 態 で あ る こ と を 確 認 し た 。呉 医 師 は 氏 の 居 場 所 に つ い て 、
「病人の病状が悪化すれ
ば、入院しなければならない」と語り、同氏がすでに北京の自宅を離れ、入院したことを
示唆した」
(香港二月一三日=浜本亮一特派員発、
『 読 売 新 聞 』二 月 一 三 日 夕 刊 )。こ れ も 顔
を知っている記者だから書きにくいが、まともな報道とはいえませんな。事実、翌日呉医
師 が 抗 議 の 声 明 を 出 し て い る 。見 出 し だ け を 書 き 抜 い て お く 。
「 呉 階 平 澄 清 徳 刊 報 道、否 認
曽 談 鄧 小 平 健 康、強 調 在 接 受 徳 刊 採 訪 時 没 有 説 過 也 没 有 暗 示 過 鄧 小 平 近 来 的 身 体 状 況 」
(香
港 『 大 公 報 』 九 五 年 二 月 一 五 日 )。
『蒼蒼』第61号、95年4月、キョーチンとゴーチン
小 林 弘 二 さ ん が 関 西 大 学 に 移 ら れ て 二 年 、同 大 学 法 学 研 究 所 で「 中 国 に お け る 中 央 と 地 方 」
と題するシンポジウムを組織し、私は招かれて二十数年ぶりに同大学を訪れる機会があっ
た(前に訪問したのは、確か一九六八年ごろ、おそらくは現代中国学会が開かれたときの
は ず だ )。そ の と き に 、小 さ な カ ル チ ュ ラ ル・シ ョ ッ ク を 受 け た の で 、書 き 留 め て お き た い 。
そ れ は 関 西 の 研 究 者 た ち が「 郷 鎮 企 業 」を「 キ ョ ー チ ン 企 業 」と 呼 称 し て い た こ と で あ る 。
私 を 含 め て 関 東 の 研 究 者 た ち は「 ゴ ー チ ン 企 業 」と 呼 ん で い る 。
「 郷 」と い う 漢 字 の 漢 音 は
「 キ ョ ウ 」 で あ り 、「 コ ウ 」 が 呉 音 、「 ゴ ウ 」 は 「 慣 用 音 」 で あ る 。「 慣 用 音 」 と は 正 規 の 漢
音 、 呉 音 に 合 わ な い 読 み 方 で あ り 、「 大 部 分 は 誤 読 か ら 生 じ た 」 と 説 明 さ れ る こ と が 多 い 。
誤読のうち、最も多いのは、1 形声字の音符を同音と速断したもの(荀をシュンでなく、
ジ ュ ン と 読 む た ぐ い )。2 二 つ 以 上 の 音 を も つ 漢 字 に つ い て 、意 義 の 違 い を 顧 慮 し な い も ょ
( 適 当 は セ キ ト ウ が 正 し い は ず だ が 、テ キ ト ウ と 読 む 習 慣 が て き と う で あ る )。3 漢 音 と 呉
音 の 混 合 ( 明 を メ イ と 読 み 、 密 を ミ ツ と 読 む ば あ い )。 4 音 便 か ら 生 じ た 誤 用 ( 激 昂 を ゲ キ
コ ウ で な く 、 ゲ ッ コ ウ と 読 む も の 、 独 立 を ド ク リ ュ ウ で な く 、 ド ク リ ツ と 読 む も の )。 5 音
節 を 添 加 し た も の ( 遇 を グ で な く 、 グ ウ と 読 み 、 夫 を フ で な く 、 フ ウ と 読 む だ ぐ い )。 フ ツ
ーの漢和辞典に書いてあるのは、この程度である。
慣用音を調べるには、国語辞典を開くほかない。郷士=ごうし、農村に土着した武士。土
着の農民で武士の待遇を受けていた者。在郷=ざいごう、いなか、在。郷里にいること。
「ざいご」ともいう。在郷軍事=ざいごうぐんじん。郷士や在郷のゴウから、郷をゴウと
読む読み方は、日本史の重要な発展過程を反映したものであることが察せられる。郷をキ
ョウと呼んだのでは、京の都との対照が曖昧になる。あなたのいうキョウとは、京都でな
く、郷里のキョウか、では話がチグハグになる。門地を誇るだけの京都の公家に対して、
実力を背景にのしあがった関東武士たちの心意気が伝わらない。要するに、郷をゴウと読
むのは、キョウ=京との混同を避けるためだというのが私の解釈である。私は「郷に入っ
て は 郷 に 従 え 」 の イ ミ を 考 え な が ら ( ま さ か 、 こ れ を キ ョ ウ と 読 む 人 は な い で し ょ う ね )、
シンポジウムの席では結局キョウチン企業の言い方を避けて「農村の企業」などとボカし
た。この話を漢字にうるさい白石和良にしたら、なぜ「関東方言だ」と堂々と使わなかっ
矢吹晋『逆耳順耳』
170
たのかとたしなめられた。中華思想に骨の髄まで毒された漢和辞典の限界から解放されな
いと国語の研究がおろそかにされる。漢音や呉音を正統として、ただ慣用音を軽視するの
でなく、慣用音(のすべてとはいわないが)こそが日本語の嫡流であることを認めること
が肝要であろう。
『蒼蒼』第62号、95年6月、未完成製品の販売か
某日。愛用のワープロOASYS100HXのページ・プリンタの調子が悪く、FAXで
送った原稿が読めないと、いう苦情がしばしばであった。そこでわがワープロ指南村田博
士の示唆にしたがってFMV-DESKPOWER-Hを買うことにした。二月四日。秋
葉原を徘徊したが、価格の折り合いがつかず。二週間後、日本字研社を通じて、格安に購
入した。それから三カ月余の悪戦苦闘は聞くも涙、語るも涙の物語。たとえば、ワープロ
なら、当たり前の「漢字辞書」のキーをいくら探しても見当たらない。秋葉原の富士通シ
ョップに聞いたり、村田博士に聞いたり。結局、数日後に、下手な鉄砲打ちのやり方で正
解 が 自 然 に 判 明 。答 え は「 コ ン ト ロ ー ル キ ー + F 8 」。そ こ で F 8 キ ー に セ ロ テ ー プ を 貼 っ
て 「 漢 字 」 と 上 書 き す る ( そ の と き に 秋 葉 原 で 、「 改 頁 」 も 聞 い た が 、 答 え は 「 P a g e D
o w n 」キ ー の 由 。た だ し 、こ の 答 え は 間 違 い で 、実 は「 シ フ ト キ ー + エ ン タ ー 」で し た 。
そ こ で ま た ま た マ ジ ッ ク で 書 き 込 む )。〔 後 日 、 判 明 し た が 、 マ ニ ュ ア ル に は O A S Y S -
WIN方式にしたがって「コントロール+J」と書いてあるが、私の入力方式はOAKV
方 式 の た め 、 う ま く い か な か っ た の で あ る 〕。
某日。ラム16MBが届いたので、早速差し込む。extended
memory=2
3 5 0 0 の 数 字 が 立 ち 上 が り の と き に 出 た 。早 速 、村 田 ホ ッ ト ラ イ ン で 確 認 し た と こ ろ「 そ
れでよし」との返事あり。
某日、村田様宛。お蔭で鄧小平など登録漢字の複写はうまくいき、このような文を書くこ
とができるようになりました。ところで、いま困っている問題を列挙して、ご教示を仰ぐ
次第です。1
改 頁 の キ ー が 探 し だ せ ま せ ん 。『 レ フ ァ ラ ン ス ・ マ ニ ュ ア ル 』 を み よ 、 と
あ り ま し た が 、 こ れ は 「 別 売 」 の よ う で す ね 。「 C D - R O M 版 」 に は 、 こ れ は つ い て こ な
い こ と を 知 ら ず に 大 捜 索 の 空 振 り〔 前 述 の よ う に シ フ ト + エ ン タ ー で し た 〕。2
最も困っ
て い る の は「 漢 字 辞 書 」の キ ー が わ か ら な い こ と で す 。こ れ に は 本 当 に 困 っ た 。 マ ニ ュ ア
ル に は コ ン ト ロ ー ル ・ プ ラ ス ・ J の キ ー と 書 い て あ り ま す が 、 う ま く い か な い の で す〔 O
A K V 方 式 で O A K - W I N が 動 く は ず な し 〕。 3
「単語登録」の方法は分かりました
〔「 そ の 他 」に あ り 。オ ア シ ス 一 〇 〇 H に 登 録 し た も の を そ の ま ま 使 え な い の は 残 念 で す 〕。
4
「 登 録 漢 字 を 探 す 」 方 法 も 分 か ら な い 〔「 そ の 他 」 の 「 特 殊 文 字 入 力 」 に あ る こ と が 後
日 判 明 〕5
こ の よ う に 書 い て い る 途 中 で 、 そ の ま ま 、す ぐ プ リ ン ト で き る な ど 、機 能 の
面では、たいへんすごいと思いますが、マニュアルはきわめて劣悪。私はオアシスにも、
FMオアシスにもかなり慣れているつもりですが、やはり、 別世界の印象ですね。
こ こ で 丹 藤 佳 紀 氏(『 読 売 新 聞 』編 集 委 員 )と 別 件 の F A X 往 来 あ り 。氏 の マ シ ー ン 好 き も
か な り 有 名 な の で 、 早 速 、 マ シ ー ン を 自 慢 す る 。「 閑 話 休 題 。 話 題 の F M V ・ D e s k P o w e r
矢吹晋『逆耳順耳』
171
H を 買 い ま し た 。機 械 の 性 能 は す ご い の で す が 、マ ニ ュ ア ル の 悪 さ は 想 像 以 上 で す 。第 一 、
漢 字 辞 書 キ ー の 所 在 が ど こ に も 書 い て な い の で 、 会 社 宛 て 問 い 合 わ せ る 始 末 。「 改 頁 」 は 、
苦情処理の素人担当者が間違って教えたので、こちらが試行錯誤して、ついに発見しまし
た。悪戦苦闘のこのごろですが、これをマスターすれば、かなり快適なマシーンになるこ
とは確かだと思われます。取り急ぎ、近況のご報告とお礼まで。なお、プリンタはエプソ
ン の L P 1 6 0 0 で す 」。
某日。
「 行 間 設 定 」の キ ー を お す と 、
「 画 」が 出 る 。
「 検 索 」を お す と 、
「 部 」が 出 る 。
「置換」
をおすと、
「 区 」が 出 る こ と に 気 づ く 。そ の 意 味 は む ろ ん 、か ね て お な じ み 。テ ン プ レ ー ト ・
キーをそのように書き直す。
某 日 。「 図 形 移 動 」 が う ま く い か な い 。「 変 換 位 置 、 カ ー ソ ル 位 置 、 最 終 行 位 置 」 な ど ま る
で 関 係 の な い 指 示 が 出 る 。秋 葉 原 に 問 い 合 わ せ る 。よ う や く 電 話 が つ な が り 、
「OAKVの
キーボードをOFFにし、OAK-WINを使え」と指示あり。苦労してそのようにセッ
トする。なるほど、確かに図形移動は可能になった。ところが、入力方式がローマ字入力
になっている。これでは親指のメリットなし〔私の大混乱の根本的原因はここにあった。
OAK-WINは「かな入力」モードでローマ字を入力するときに、時々混乱し、安定性
を欠いている。またこのモードでは〔
〕や『
』 の 記 号 が 使 え な い 〕。
翌 日 。 秋 葉 原 に 再 度 ( と い う よ り も 、 こ れ ま で に 十 回 近 く ) 問 い 合 わ せ る 。「 ア ノ ー 、 教 え
ら れ た 通 り に 、 セ ッ ト し た ら 、 か な 入 力 が で き な い の で す が 」。 四 〇 分 後 に 返 答 有 り 。「 そ
の 通 り で す 。 図 形 移 動 は で き な い の で す 」。「 え っ ?
次のバージョンまで待てという話で
す か 」。「 い え 、 い ま 、 そ の 予 定 は な い の で す 」。「 な る ほ ど 、 こ れ は 「 未 完 成 ソ フ ト 」 と い
う わ け で す か 」。 先 方 、 絶 句 。 困 り ま す ね え 。 早 く な ん と か し て も ら わ な い と 、 困 る な あ 。
『蒼蒼』第62号、95年6月、テレサ・テン
「中国語圏最大のスーパースター」テレサ・テンが四二歳で急死した。かつて彼女の歌を
鼻 唄 ま じ り に 、ワ ー プ ロ の キ ー を 叩 い た と 書 い た 縁 も あ る の で 、一 筆 な ら ぬ 一 打 ち を 。
「台
湾 ・ 中 央 通 信 社 が 九 日 、家 族 の 話 と し て 伝 え た と こ ろ に よ る と 、台 湾 出 身 の 歌 手 、テ レ サ ・
テ ン ( 本 名 鄧 麗 筠 = テ ン ・ リ ー ユ ン ) さ ん が 死 去 し た 」(『 朝 日 新 聞 』 九 五 年 五 月 一 〇 日 、
香 港 九 日 藤 原 秀 人 特 派 員 発 )。
「 筠 」は「 竹 の 皮 」
「 竹 の 子 」を 意 味 し 、Y U N の 二 声 で あ る 。
しかし、
「 均 」の 連 想 か ら J U N と 読 ま れ る こ と が 多 い 。ち な み に「 連 県 」と い う 県 が 四 川
省 に あ る が 、 こ れ は J U N L I A N と 読 む (『 新 華 字 典 』)。 類 似 の 例 と し て 、「 均 + 金 」 は
金 、金 塊 の こ と で Y U N と 読 む が 、人 名 の ば あ い は J U N と 読 む こ と も あ る 。 さ て 、彼 女
のCDやカセットに触れた人なら誰でもすぐ分かるように、漢字では「麗君」と表記して
あ る 。 以 下 は 推 測 だ が 、 お そ ら く 彼 女 は DENGLIJUN と 呼 ば れ て い た は ず で あ る 。 の 文
字が複雑なのは一〇代で売り出した少女歌手にふさわしくない。そこで同音の「君」に改
め、これを芸名としたのであろう。台湾テレビの専属歌手から香港映画に進出するように
なると、ローマ字の芸名も欲しいだろう。そこで選ばれたのがマザー・テレサにあやかっ
た「テレサ」である。という次第であるから、その辺の事情がよく分かる死亡記事であっ
矢吹晋『逆耳順耳』
172
てほしい。
『朝日』の記事では「テレサ・テン、鄧麗筠、テン・リーユン」の三つの表記が登場する
が 、 漢 字 世 界 で 最 も 広 く 使 わ れ て い る 「 麗 君 」 が な い の は 淋 し い 。『 読 売 新 聞 』( 五 月 一 〇
日)はバンコク藤原善晴特派員電で報じた。ここでは「テレサ・テン=中国名・鄧麗君」
と あ る 。 こ の ば あ い 、「 中 国 名 」 と い う よ り は 「 漢 字 名 」 で あ ろ う 。 普 通 の 日 本 人 は 彼 女 の
姓を「テン」と理解しているので、鄧小平と同姓だとは思わない。レコード会社は彼女の
姓をローマ字表記したTENG(ウェード式)を「テン」と読ませたが、原音からはるか
に 遠 い 。同 じ 文 字 を ピ ン イ ン で D E N G と 表 記 し 、
「 デ ン 」と 読 ま せ る の と 五 十 歩 百 歩 で あ
る。
『 蒼 蒼 』 第 6 2 号 、 9 5 年 6 月 、「 四 世 代 一 七 人 」 の 意 味
蕭榕がニューヨークの記者会見で「四世代一七人が春節のときに自宅でゴム風船を踏み割
った。割れる音を聞いて鄧小平はとりわけ喜んだ」と述べた話は、前々号で紹介した。そ
のとき、コメントを忘れたのは「四世代一七人」の意味であった。鄧小平夫妻のほかに鄧
小平の継母夏伯根で二世代三人、五人の子どもとその連れ合いで一〇人、それぞれが一人
っ子だから五人、計四世代一八人になる。一人足りないのはなぜか。国内にいるなら春節
を家族と過ごさないはずはない。つまり外国にいるのではないか。推測だが、毛毛の娘羊
羊 で あ り 、彼 女 は ア メ リ カ に 留 学 中 と 思 わ れ る 。私 の 問 に 答 え て 、毛 毛 は『 わ が 父 鄧 小 平 』
の印税を娘の留学費用に充てたいと語ったことがその根拠である。敏腕のジャーナリスト
にウラをとってほしいところだ。
『蒼蒼』第62号、95年6月、リハビリテーション
研 究 室 の ガ ラ ク タ を 整 理 し て い た ら 、本 の 間 に 挟 ま れ た 小 さ な 切 り 抜 き が パ ラ リ と 落 ち た 。
「汽車出售
一九六三年、摩里士一一〇〇、機件良好、車主離星、僅二千元。請撥電話六
六九六三〇
M r. Ya b u k i , 1 8 L o r o n g P i s a n g B a t u . S i n g a p o r e . 」 新 聞 は 『 南 洋 商 報 』 一 九
七二年四月二〇日付である。同じ内容の分類広告が『星洲日報』の同じ日付にもある。ち
な み に 、 広 告 料 金 は 『 南 洋 』 が 七 シ ン ガ ポ ー ル ド ル 、『 星 洲 』 が 六 ド ル で あ っ た 。 広 告 の 申
込みは四月一〇日であることが領収書の日付から分かる。私は七一年四月から七二年四月
までシンガポールの南洋大学に遊学したが、そのときの愛車が一九六三年製造のモリス一
一〇〇型であった。一年でおよそ一万マイルすなわち一・六万キロ走った。狭いシンガポ
ールでなぜと問う人があるかもしれないが、マレー半島をジョホールバールからペナン島
まで往復すると、約一〇〇〇キロくらいだったが、これを二~三回繰り返してこうなった
のである。帰国してから二〇余年、完全なペーパー・ドライバーであった。しかし、思い
立 っ て 昨 年 、勤 労 感 謝 の 日 に ク ル マ を 買 っ た 。九 五 万 円 也 の カ ロ ー ラ I I で あ る 。 お そ ら く
新 車 と し て は 最 も 安 い ク ル マ の は ず 。排 気 量 は 一 三 〇 〇 c c で あ る 。地 球 環 境 の 見 地 か ら 、
マイカーを敬遠してきた私がついに、決断した理由は二つある。一つは、鞄につめた本が
重くて、肩が痛くなること。老後を控えて、いささか不安になったのである。
もう一つは、中国のマイカー戦略の公表である。小著『鄧小平なき中国経済』でも紹介し
矢吹晋『逆耳順耳』
173
たが、いまや中国のマイカー戦略は急ピッチである。この現実を追いかけるためにも、マ
イカーについて、少し知識を持たなければならないと考えた次第である。免許を取ったの
は大学二年のとき、一九五九年であった。以来、三五年ぶり、シンガポールから数えると
二一年ぶりにハンドルを握った。まさにリハビリである。
『蒼蒼』第63号、95年8月、畏友三浦さんの胸を借りて
三浦徹明氏はお寺さんに生まれ、現に僧籍をもつ。畏友三浦氏は坊さんである。大学で東
洋史を学び、現に歴史学を教えているから中国史や日本史に詳しいのが三浦教授のもう一
つの顔である。もう一つ、これが決定的だが、三浦兄は私の大学時代の一年先輩であり、
われわれが中国語を初めて学んださいのチューター役であった。これでは圧倒的に不利で
あり、最初から降参したほうがよいに決まっている。添えられた手紙にある「反論を考え
ておかれる時間的余裕も必要でしょうから」という配慮も、まさに後輩に対する思いやり
そ の も の で 、ま こ と に 心 憎 い 。
「 胸 を 借 り る 」と い う 言 い 方 が あ る が 、畏 友 三 浦 さ ん の 胸 を
借りて、日頃の疑問を書いてみたい。まずは知識の整理から。手元の『新字源』から、漢
字の日本語読みについての説明を調べてみると、つぎのごとくである。
1
漢字のふりがなは、二系統(呉音と漢音)に大別される。2
漢音について。2-1
隋・唐の政府と交通し、長安および洛陽において直接に学んだ中国語の発音、その日本化
した変形である。2-2
発 せ ら れ た 。2 - 3
この漢音を正規の字音と定める命令が延暦一二(七九三)年に
八 世 紀 末 ご ろ の 中 国 音 を 表 す 。2 - 4
儒学の経書はむろんのこと、
歴史書や詩文集も漢音で読むのが正則である。明経博士(みょうぎょうはかせ)と文章博
士(もんじょうはかせ)がこれを伝えて後世に及んだ。3
呉音について、3-1
隋以
前の五~六世紀は主として南朝の政府と貿易していたこと、さらに朝鮮半島の南部との関
係が密接であったために、呉音には南京を中心とする地域の影響が強い。3-2
以前から伝わっていたものである。3-3
七世紀
仏教は奈良朝以前から広まっていたために、
経典の読誦(どくじゅ)にはいぜん呉音が用いられた。4
唐音について、4-1
一一
世紀以後に伝えられた字音の総称である。中国から来た禅僧や商人から中国の口語を学ん
だ人々があったために、いろいろな時期に日本語に入り込んだ。宋から清にわたるが、来
朝した中国人は江蘇省、浙江省、福建省などの出身者が多かったので、それらの地域の方
言 の 影 響 が 強 い 。 た と え ば 饅 頭 ( ま ん じ ゅ う )、 炭 団 ( た ど ん )、 暖 簾 ( の れ ん )、 行 灯 ( あ
んどん)などである。5
慣用音について、5-1
わ な い も の を 慣 用 音 と い う 。5 - 2
ある字の日本音が正規の漢呉音に合
慣 用 音 の 名 は 、大 正 以 後 に「 で き た ら し い 」。5 - 3
慣用音の大部分は誤読から生じたもので、ことに形声字の音符から類推された誤りが最も
多い。5-4
誤読が定着したもののほかに特殊な由来をもつ読みがあるが、これも慣用
音として処理する。6
漢字の中国現代音について、このように整理してみると、三浦氏
の立場が一目瞭然であろう。
家業として、お経を読む三浦坊さんは、呉音の世界の住人である。正統性を最も重要な価
値観とする東洋史の世界で学問を講ずる三浦教授は現代のミョウギョウハカセであり、延
矢吹晋『逆耳順耳』
174
暦一二(七九三)年の勅令(?)を堅持する立場にたつ。かくも由緒正しい三浦氏の立場
か ら す る と 、 文 化 果 つ る 「 あ ず ま の 世 界 」 に 住 む 矢 吹 が 「 間 違 っ た 国 粋 主 義 者 」「 日 本 語 を
汚染し破壊しようとする者」と糾弾されるのは当然の成り行きであるらしい。
三浦氏曰く、
「 郷 」は 、日 本 史 的 用 語 で は ゴ ウ と 読 み 、中 国 史 的 用 語 で は キ ョ ウ と 読 む の が
正しい、と。それが正統と認められてきた経緯は、私も承知しています。素直に認めまし
ょう。ただし、その正統性が受け入れられてきた範囲、あるいは世界が問題ですね。私の
実感では、その世界が日々縮小しつつあり、もはや風前の灯ではないかという印象なので
す。たとえば「人間」をニンゲンと読んで、ヒトを意味し、ジンカンと読んで世の中を意
味させる使い分けは、いまどれだけ実際に行われており、今後このやり方がどこまで継続
できるであろうか。ジンカンと読ませるのは、要するに中国語の密輸入ではないか。これ
は日本語でなく中国語扱いしてはどうか。憧憬はショウケイか、ドウケイか。むろん前者
が正しいはずだが、実際に広く行われているのは後者であろう。重複はチョウフクだが、
重 慶 は ジ ュ ウ ケ イ と 読 ん で 不 思 議 に 思 わ な い ( 重 な る 慶 び だ か ら 、 チ ョ ウ ケ イ の は ず だ )。
端緒はタンショ、情緒はジョウショと口を酸っぱくして教えてきたが、このごろいささか
くたびれてしまった。徒労ではないかと思う。これまでは漢字に弱い日本人学生を相手に
怒鳴りちらしてきたが、この頃は日本語を習いたての中国人学生の日本語読みを聞いて、
ボ ー ゼ ン ジ シ ツ す る こ と が し ば し ば で あ る 。そ こ か ら 漢 字 の 日 本 語 読 み が い か に「 無 原 則 」
「多原則」かを痛感させられることが多い。早い話が、日本人の姓名の読み方は、本人に
確認しないと分からない場合が多いことは周知の事実であろう。
こ の よ う な 潮 流 に さ ら さ れ て い る と 、つ ぎ の 方 程 式 を 想 起 せ ざ る を え な く な る 。す な わ ち 、
(旧国語辞典+旧漢和辞典+旧中国語辞典)の解体と再編成=(新日本語辞典)+(新中
国 語 辞 典 )の 創 造 、と い う 革 命 で あ る 。一 方 に 国 語 辞 典 が あ り 、他 方 に 中 国 語 辞 典 が あ る 。
その中間に、漢和辞典なるヌエ的な存在がある状況をカクメイしたいのです。このような
状況が生まれたことにはむろん歴史的な背景がありますが、いまや日本文化は中国文化か
ら独立せよ、というのが私の「国粋主義」の立場なのです。それによってこそ中国を外国
として認識する国際主義的立場が生まれるでしょう。だから国粋主義こそが国際主義たり
うるのです。
もうひとつ。郷鎮企業は元来は人民公社の社隊企業などを母体とするものが多いわけです
が、社会主義経済体制のもとで正統的と認められてきた国有企業に対して、マイナーな、
野鶏的な、無視しうるような存在と認識されていたものです。ところが意外や意外、小平
氏が「異軍突起」と絶賛するような大発展を遂げたわけです。郷鎮企業のこのような存在
形態は、まさに草深い農村に生まれた「あずまえびす」のイメージであり、ゴーチンと力
強く発音しないとメッセージが伝わらない。
というわけで、私は三浦氏の叱声にもかかわらず、今後も「ゴーチン」と意識的にナマル
ことにしたい。戦前から「郷村建設運動」はゴウソンとなまってきたのであり、短くない
歴史があるからだ。それに三浦さんは、日本史的用語か、中国史的用語かで分けよ、とい
う け れ ど も 、素 人 に は そ の い ず れ か 判 然 と し な い も の も 少 な く な い は ず 。
「 郷 鎮 企 業 」と い
矢吹晋『逆耳順耳』
175
う中国語をたとえば「町村企業」といった風に、日本語に翻訳しないで、日本語の文脈に
密輸入することに根本的原因があることは明らかである。しかし、これほど便利なものは
ないからやはり止められない。かくて千数百年の伝統となった。日本人の密輸入癖は、い
まや習い性となる、段階だ。現在のカタカナ言葉の氾濫がそれをよく示している。
『蒼蒼』第64号、95年10月、中国の旅・一九九五年九月
1
国家体制改革委員会「東西部協調発展組」の戦略
九月七日から二四日まで中国を旅行した。北京から瀋陽、ふたたび北京を経由してウルム
チ、成都、蘭州、上海というコースであった。ある調査団の団長格である。およそ「長」
のつくのは、耄碌に近い証明であるから、極力敬遠したいところだが、やはり「年功の論
理」には勝てない。最も分かりやすい基準だからだ(誰もが納得せざるをえない基準とい
うのは重要だ。ちなみに中国の人民解放軍ではいま着々と現役司令官の若返りが進んでい
る 。六 五 歳 定 年 制 を 超 え ら れ る の は 、中 央 軍 事 委 員 会 レ ベ ル の 超 高 級 幹 部 だ け で あ る )。北
京では国家経済体制改革委員会を訪問した。この委員会に「経済体制与管理研究所」があ
る。そこの副研究員鄒藍氏がわれわれの調査テーマに接してわが意を得たりの顔で、この
問題がいかに重要か、熱弁を振るった。彼の取り出した本が『巨人的跛足・中国西部貧困
地区発展研究』
( 黒 竜 江 人 民 出 版 社 、一 九 九 二 年 )で あ る 。こ の 本 は 私 の ラ イ ブ ラ リ ー の「 買
っ た だ け で 、読 ん で い な い 本 の リ ス ト 」の 一 冊 だ が 、そ の 著 者 に 会 え た の は 幸 運 で あ っ た 。
アイドル歌手の写真集じゃあるまいし、著書の内容と著者の顔は、カンケイないというの
も 一 つ の 論 理 だ が 、著 者 の 顔 が 行 間 に 浮 か ぶ と 、興 味 が い っ そ う 増 す の も 事 実 で あ る 。
「な
るほど。こうと分かっていたら、読んでから訪問すべきでした。帰国したら読ませていた
だ き ま し ょ う 」。 た ま た ま 携 帯 し て い た 『 図 説 ・ 中 国 の 経 済 』 の 英 訳 を ご 参 考 ま で に 、 と 差
し 上 げ た と こ ろ 、「 あ な た の 本 の サ ブ タ イ ト ル T H E G I A N T AWA K E S と 私 の 本 の 「 巨 人 の
跛足」を並べてみると面白いですね」と一言。この国家体制改革委員会は東西部協調発展
組を作り、烏傑組長が責任者である。ここでいう西部とは、西北(山西、甘粛、寧夏、青
海、新疆)と西南(広西、チベット、雲南、四川、貴州、内蒙古)を指す。これは国土の
六 四 % を 占 め 、人 口 の 二 八・七 % を 占 め る 。少 数 民 族 五 自 治 区 は 、す べ て こ の 地 区 に あ る 。
西部の貧困の原因として五つの要素を挙げることができる。なによりもまず、自然状況が
悪い。高原あり、砂漠あり、つまりは水不足であり、交通の便が悪い。次に投資が不足し
ている。投資は東部に傾斜してきた。加えて、体制改革のスヒードのろく、対外開放が遅
れた。さらに教育水準が低く、識字率は低い。彼らは九五計画で東西問題を解決する方向
あり、と意気軒昂であった。体制改革委員会は、国家民族委員会、計画委員会、経済貿易
委員会と共同でこの問題を研究しようとしている。これらの中央機関に前掲の一一省区を
加えると一大「圧力団体」が形成されることは明らかである。東西部が調和発展すれば、
大きなマーケットになりうる。このため日中の合作研究を望みたい。政府間、民間、いず
れも歓迎したい。さらに付加すれば、国務院発展中心もこの研究を行っているが、彼らに
は「指導思想」がない。ただ経済発展のなかでの「効率と公平」を語るのみである。これ
矢吹晋『逆耳順耳』
176
はあまりにも淋しい。一方でみずからの戦略構想を語り、返す刀で有力シンクタンク国務
院発展センターをくさす、なかなかの面白さであった。
2
T字型・π字型・目の字型
T字型とは、沿海地区を横軸とし、揚子江を縦軸と見立てたものである(むろんこれをT
バ ッ ク と 誤 解 し て に や け る 方 は 、『 蒼 蒼 』 の 読 者 に は あ る ま い )。 で は 「 兀 字 型 」 と は な に
か 。私 は 中 国 の 新 聞 か 雑 誌 で こ の 文 字 を 見 か け て 、意 味 が わ か ら な か っ た 。
「 兀 」は ゴ ツ と
読む。ゴツゴツしたさま、ゆれうごくさまを示す。これが漢和辞典の説明である。文脈か
らして、T字型に黄河を加えたものか、と推測していた。今回の旅で、中国のエコノミス
ト た ち と 話 し て い る う ち に 、ど う や ら こ れ は ギ リ シ ア 文 字 の「 π 」
( パ イ )で あ る こ と が 分
か っ た 。し か も 、こ れ は「 T 字 + 黄 河 」で は な く 、
「 T 字 + 隴 海 線 + 蘭 新 線 」な の で あ っ た 。
黄河は水量が少なく、泥水だから水運には向いていない。そこで水路の代わりに鉄路を加
えたのである。今回の旅では、ウルムチ、蘭州が初めての地であり、大いに期待し、得る
ところ多かった。これらの西部地区は九二年以来の「沿海・沿江・沿辺」発展政策のもと
で、国境貿易に力を入れ、これを経済発展の推進力の一つとしていた。中国地図で、沿海
線から中国・ロシアモンゴル・カザフスタン・ビルマ・ベトナムと国境を結ぶと形の悪い
四角形に見立てることができる。この四角のなかに、揚子江と隴海・蘭新線を加えると、
漢字「目」になる。広大な中国を「目」のラインに沿って発展させてはどうか、というの
が「目の字型」戦略にほかならない。合縦連衡の時代から、中国には戦略好きが多い。こ
れは海に囲まれて穏やかな暮らしを続けてきた日本人とは大きな違いである。これらの戦
略 の 現 実 的 可 能 性 と な る と 、話 は 別 だ が 、成 功 し た 沿 海 地 区 経 済 発 展 戦 略 に あ や か り 、
「次
の 戦 略 」、「 次 の 次 の 戦 略 」 を 構 想 す る 動 き が 活 発 な こ と は 、 こ れ ら の ネ ー ミ ン グ か ら も そ
の一端が知られるわけだ。
3
内陸発展戦略
私 は 中 国 の「 西 部 」と「 内 陸 」と を ほ と ん ど 類 似 の 概 念 で 理 解 し て い た が 、現 地 の 人 々( 中
国の東部を除く地域)は、明らかに区別していた。それを端的に示すのが、辛文主編『内
陸地区改革開放研究』
( 四 川 大 学 出 版 社 、一 九 九 五 年 六 月 )で あ る 。こ の 本 の 著 者 の 一 人 劉
西栄氏(四川省体制改革委員会発展与改革研究所所長)から頂戴した本を開いて驚いた。
この本は、海岸線を持たず、陸の国境線をもたない地域を内陸と定義していた。この定義
によると、内陸地区とは、四川、貴州、湖南、湖北、安徽、江西、山西、河南、陝西、甘
粛 、 青 海 、 寧 夏 の 一 二 省 自 治 区 で あ る ( 同 書 二 頁 )。 つ ま り 華 北 、 華 東 、 中 南 、 西 北 、 西 南
にまたがる中華帝国のド真ん中である。この一二地区の面積は三二一万平方キロ(全国の
三 三 ・ 四 % )、 九 三 年 の 人 口 は 五 ・ 三 五 億 ( 全 国 の 四 五 ・ 二 % ) で あ る 。 現 代 の 国 際 化 時 代
において、外国との交流のための海港、空港を持たざる側の渇望感の強さを私は九三年の
吉林省の旅で痛感したが、一二省区のハングリー意識は、吉林省のそれをはるかに上回る
ものであるらしい。
4
世界女性会議
旅 行 中 、北 京 の 話 題 は 女 性 会 議 で も ち き り で あ っ た 。
「 平 等 ・ 発 展 ・ 平 和 」の ス ロ ー ガ ン が
矢吹晋『逆耳順耳』
177
街角に見られた。女性会議のために私の受けた被害は二つである。一つはシャングリラ・
ホテルが四割アップに値上げされたこと、もう一つは、京広中心のKTVが「自粛」のた
め 、臨 時 休 業 し 、友 人 が 代 わ り を 探 す た め に 一 苦 労 し た こ と で あ る 。昔 は「( 上 下 )拉 0 K 」
と呼ばれたが、いまはまともな店はみなKTVである。これはTV画面に歌詞が出る設備
を備えた店の意である。テープに合わせて歌う段階から、画面のアベックなどをみて歌う
形に一大進歩したわけだ。ただし、画面の踊りなどは曲とも歌詞とも無関係に有線で流し
て い る ら し く 、美 女 の 水 着 を 眺 め な が ら 、
「 着 て は も ら え ぬ セ ー タ ー を 」な ど と い う 話 が チ
グハグでいかにも中国的であった。某公司のローカルスタッフ小張と小楊の日本語の新曲
の歌のうまさに驚いた。彼らは中国の新人類であろう。
5
ゴビの砂漠
北京空港からウルムチ空港までたっぷり四時間かかる。この路線は北緯四〇度線の少し北
側を真っ直ぐ西へ飛ぶ。地面は乾燥しているから、小さな雲が時に少し浮かぶ程度で、下
界がよく見える。その荒涼たる風景は、衛星写真で見た「月の砂漠」のイメージそのもの
であった。午後二時半フフホトの滑走路が見える。ついで二時五〇分、包頭上空を通過。
裸山の中にいきなり市街地が現れるので、それが包頭上空とすぐ分かる。三時すぎオルド
ス高原の砂漠を経て、黄河湾曲の左上に幾何学的な用水路が見える。その後、また砂漠。
砂の形いろいろ。四時間ほとんど下界を観察し続けた。途中緑鮮やかなオアシスあり、水
分が蒸発し、白い塩が浮かぶだけの池あり。黄砂を運ぶ風の流れをコンピューター・グラ
フィックで見るように、見ていると砂漠化の問題がよく分かる。五時半ウルムチ空港着。
太陽が沈むのは八時だから、まだまだ日は長い。翌朝、六時目覚め、ラジオを聞く。七時
依然真っ暗。ウルムチ市は天山山脈の北側山麓にある。天山山脈に朝日が昇ったのは八時
一〇分ごろであった。これは北京時間の話。これを二時間遅らせると、ウルムチ時間にな
って、生活のリズム(日の出、日没)に合う。6
天池で羊を食う。九月一六日、九時す
ぎ天池へ出発し、昼前にカザフ族のパオ村に着いた。われわれの昼飯になる哀れな羊の屠
殺を見たあと、料理ができるまで馬の背に乗り、原っぱへ向かう。カウボーイ・アフトゥ
ル君は一八歳、愛馬アフラナムは四歳である。簡単な普通話が通じて楽しかった。険しい
山道にさしかかると、アフラナムは手綱を引いても動こうとしない。やむなくアフトゥル
は 私 に 鞭 を 手 渡 し 、「 請 後 面 、 打 ! 」 と 命 ず る 。 私 が 一 鞭 当 て る と 馬 は い き な り 駆 け 出 し 、
私は振り下ろされまいと必死になった。乗馬体験は小学生のとき以来、五〇余年ぶり(あ
の と き は 裸 馬 だ っ た が 、い ま は 鞍 が あ る だ け ま し だ )。の ち 遊 覧 船 で 天 池 遊 覧 。二 時 ご ろ 羊
の 昼 食 。マ レ ー シ ア や 北 京 の 街 角 で み た「 羊 の 焼 き 鳥 」
( ? )と ま っ た く 同 じ 、胡 椒 が よ く
効 い て い て 、ま る で 羊 の 匂 い が な い 。つ い で 茹 で た 前 足 を か じ る 。こ れ も 美 味 。,つ い で ピ
ラフ風御飯、このピラフに至るまですべててづかみで食う。海賊、山賊気分。最後は、塩
あじだけの羊スープ。これもいける。飲み物は、バター茶のほかに新疆ビール、以上を片
づけるのに用いるのは一つの飯碗だけである。野性味満点であった(ただし、予想してい
た シ シ カ バ ブ は 出 な か っ た )。わ れ わ れ の 胃 袋 に 納 ま る 運 命 の 四 カ 月 の 処 女 羊 は 、屠 殺 の 過
程で終始どこまでもおとなしかった。中年の主人がむずかる子供をなだめるように、しず
矢吹晋『逆耳順耳』
178
かにあやしながら解体していく手さばきは実に印象的で、なにか魔法を見ているようだっ
た。
『蒼蒼』第65号、95年12月、天声人語の博識
コ ラ ム 「 天 声 人 語 」(『 朝 日 新 聞 』 九 五 年 一 一 月 一 八 日 ) が 「 秋 老 虎 」 に つ い て 妙 な 講 釈 を
書いたので、ついつい職業病の発作?が起こり、新聞社宛にFAXを書いた。──今朝の
冒 頭 に 、「 秋 老 虎 」 を 「 小 春 日 和 」 の こ と 、 と あ り ま す が 、「 残 暑 」 の こ と で す 。 立 秋 後 の
「 残 暑 」 だ か ら 、 ト ラ の よ う に 激 し い の で す 。「 小 春 日 和 」 な ら 、「 小 陽 春 」 あ た り が 適 当
でしょう。一日置いて二〇日の訂正はこうであった。──「先日、小春日和のことを<中
国の気象学用語では「秋老虎」と呼ぶそうだ>と書いたら、それは間違い、との指摘を多
数いただいた。
「 秋 老 虎 」と は 残 暑 の 意 味 で あ り 、小 春 日 和 に あ た る 中 国 語 は「 小 陽 春 」だ 、
という内容である。なるほど、辞典には、その通りの記載がある。一方で、私が参照した
の は 中 国 科 学 院 編 集 の 『 気 象 学 名 詞 』 だ 。 こ れ に は 「 イ ン デ ィ ア ン サ マ ー ( 小 春 日 和 )」 の
訳として「秋老虎」のみが挙げられている。科学出版社発行の『英漢気象学詞匯』も、同
じだった。<気象学用語では>と、ことばを添えたのは、そういう事情からである。ただ
し、
「 秋 老 虎 」の 語 感 は 、小 春 日 和 に は 、あ ま り 似 つ か わ し く は な さ そ う だ 。猛 々 し い 感 じ
もする。
「 小 陽 春 」の 方 が 、お だ や か だ 。専 門 用 語 は 、専 門 用 語 の 範 囲 を 出 な い の か も し れ
な い 。 天 声 人 語 氏 は 『 気 象 学 名 詞 』 と 『 英 漢 気 象 学 詞 匯 』 を 根 拠 と し て 、「 秋 老 虎 」 = 小 春
日 和 説 に 固 執 し て い る が 、こ れ は 往 生 際 が 悪 い 。
「 ○ × の 本 に こ う 書 い て あ り ま し た 」の 類
は デ キ の 悪 い 学 生 の 常 套 手 段 だ 。そ こ で 、
「 職 業 病 の 第 二 発 作 」を 起 こ し た 。私 は『 気 象 学
名 詞 』も『 英 漢 気 象 学 詞 匯 』も 見 て い な い が 、も し イ ン デ ィ ア ン ・ サ マ ー の 訳 語 と し て「 秋
老虎」が挙げられているのならば、これは杜撰を絵に書いた形であろう。科学院や科学出
版社の権威に騙されてはいけないのだ。単語帳もどきの用語集にすがり「専門用語におい
ては、秋老虎=小春日和でよい」とするのは、牽強付会である。これが専門用語として正
しいのかどうかを顧みることなく「
、 専 門 用 語 は 、専 門 用 語 の 範 囲 を 出 な い の か も し れ な い 」
と い っ た グ チ で 終 わ る の は 、実 に 情 け な い 。こ こ で 、付 加 し て お く が 、
「 秋 老 虎 」は 漢 文 や
唐詩に出てくるような古漢語ではないから、普通の漢和辞典には載っていない。諸橋『大
漢和辞典』によば、これは「江蘇方言」である。割合新しい編集である大東文化大『中国
語大辞典』によれば「北方での厳しい残暑を指す」とある。さて、江蘇方言説が正しいの
か、北方残暑説が正しいのか、博雅の士のご教示を得たく、一筆した次第である。
『蒼蒼』第65号、95年12月、李登輝総統会見記
今年は台北を二回訪問した。三月と一〇月、いずれもシンポジウムに招かれたものだ。一
〇月のテーマは「文明史上における台湾」と題するもの。私は「ポスト鄧小平期における
海 峡 両 岸 の 経 済 関 係 の 展 望 」を 論 じ た 。会 議 の 翌 日( 一 〇 月 一 六 日 )、シ ン ポ ジ ウ ム の 出 席
者は全員総統府に李登輝総統を訪問し、懇談する機会を得た。当初は一時間の約束であっ
た が 、李 登 輝 氏 は だ い ぶ 機 嫌 が よ か っ た ら し く 、
「 皆 さ ん と 話 し て い る と 楽 し い 」な ど と 語
矢吹晋『逆耳順耳』
179
りながら、秘書の示唆を押さえて二時間座談を続けた。談論風発、政治家の接見というよ
りは、大学における李登輝ゼミの雰囲気であった。話題は、風水の話から教育問題、カオ
ス理論からファジー理論まで、そして海峡両岸の政治問題に及ぶ広範なものであった。江
沢民主席が訪米を控えて、
「 台 湾 を 訪 問 し て も よ い 」と 米 国 の マ ス コ ミ に 語 っ た こ と が 報 じ
られたのは当日朝刊のこと。当然、江沢民発言に対するコメントも求められ、国家安全保
障会議と政府に対応を検討せよと指示したと語り、事柄を理性的に処理すべきだと敷衍し
た 。こ の 会 見 の ハ イ ラ イ ト は 、李 登 輝 氏 が 司 馬 遼 太 郎 氏 に 語 っ た「 台 湾 人 の 悲 哀 」
「モーゼ
の 出 エ ジ プ ト 」に つ い て の 新 解 釈 で あ っ た 。李 登 輝 は 自 ら を モ ー ゼ に な ぞ ら え た も の 、
「蜂
蜜のミルクの流れる約束の土地」とは「台湾」の暗喩だと多くの人々が理解したが、李登
輝氏は明確にこれを否定した。
「 あ る 日 本 の 学 者 が モ ー ゼ は あ な た か と 聞 い て き た が 、私 は
自 ら を モ ー ゼ に な ぞ ら え る ほ ど 思 い 上 が っ て は い な い 」。で は 約 束 の 土 地 は ど こ か 。李 登 輝
氏は客家だから福建省永定県の父祖の地を忘れていないし、
「 新 中 原 の 建 設 」と い う ス ロ ー
ガンも客家の故地が中原であったことを考えると、意味深長なのだ。
『蒼蒼』第65号、95年12月、スクープ記事のなかの姓の誤り
年末にあたり、ワープロに残っていたメモを書き抜いておく。いずれも重箱の隅をつつく
類の話である。一九九五年六月二七日付『日本経済新聞』は、北京二六日発秋田浩之特派
員 の ス ク ー プ を 報 じ た 。朱 鎔 基 副 総 理 が 兼 任 し て い る 中 国 人 民 銀 行 総 裁 の ポ ス ト か ら 退 き 、
後任として戴相龍副総裁が昇格するというニュースである。朱鎔基が人民銀行総裁を兼任
したのは、九三年七月、乱脈融資や景気過熱になんら有効な手段をとりえない李貴鮮を解
任し、みずから陣頭指揮に乗り出したときである。それから二年、金融改革が大いに進ん
でおり、兼任が解かれるのは、時間の問題とみられていた。たとえば九五年春の全人代で
もその予想が行われたが、これを避けて安定団結を誇示して、兼任二年後の公定歩合引き
上げを期して、二年前にみずから副総裁に抜擢した若い後継者にポストを譲ったことは、
金 融 政 策 に 対 し て 、朱 鎔 基 が 指 導 性 を 発 揮 し て い る こ と を 裏 書 き す る も の で あ る 。こ の『 日
経』記事が戴相龍昇格を六月三〇日の全人代常務委員会の決定の四日前に、つかんだのは
お 手 柄 だ が 、残 念 な こ と に 姓 が「 戴 」を「 載 」と 誤 記 し て い る( こ れ は 特 派 員 側 で は な く 、
デ ス ク の 不 注 意 か も し れ な い )。七 月 一 日 、朱 鎔 基 の 兼 任 を 解 い て 、戴 相 龍 を 昇 格 さ せ る 人
事を『日本経済新聞』は顔写真入りで再度伝えた。しかし、ここでも、1 記事本文と 2 見
出しおよび 3 写真説明の三カ所とも前の誤りを繰り返している。私は一瞬、私自身が本人
の 姓 を 間 違 え て 記 憶 し て い た の か と 疑 っ た ほ ど だ 。し か し 、
「 載 」な る 姓 を 聞 い た こ と が な
いし、かつて私はこの人物の経歴を人名辞典で調べたことがあり、いくどもその名を書い
たことを想起し、一安心した。となると、ほかにも間違えた新聞があると『蒼蒼』のネタ
になにぞ、と期待しつつ、調べたが、さすがにそれはなかった。七月一日付け各紙は、中
国 中 央 テ レ ビ に よ る 公 表 を 踏 ま え て 、 一 斉 に 報 じ た が 、『 朝 日 』 は 「 戴 相 龍 」 と 書 き 、『 読
売 』 は 「 戴 相 竜 」 と 書 い た 。 姓 は 同 じ だ が 、 名 は 前 者 が 「 繁 体 字 」、 後 者 が 日 本 式 の 「 常 用
漢 字 」 で あ る 。 さ て 、 ど ち ら が よ い か 。 ど ち ら で も よ い か 。『 朝 日 』 は 人 民 銀 行 「 総 裁 」 と
矢吹晋『逆耳順耳』
180
日本流に翻訳して表記し、
『 読 売 』は 人 民 銀 行「 行 長 」と 中 国 流 に 従 っ た 。ど ち ら が よ い か 。
どちらでもよいか。
『蒼蒼』第65号、95年12月、雲の上・土匪・高雄黒輪
かつて日本の外務省高官が鄧小平大人を「雲の上の人」と呼んで大騒ぎになったことがあ
る。高官氏は「殿上人」と同じくやんごとなき人物の意で用いた。かくも高い位置に位す
る方には、下々の事柄はお分かりになるまい、との趣旨であったという。中国ではこれを
当時、有吉佐和子の小説によって大流行していた「恍惚の人」と訳した。敬愛する同志を
恍惚呼ばわりとはなにごとか、無礼千万という激怒を招いたわけであった。浙江省の千島
湖で台湾からの客を乗せた観光船が暴漢に襲われ、所持品を奪われたうえに殺人、放火さ
れるという事件があった。当然、台湾の人々を激怒させ、李登輝総統は「土匪」の仕業と
非難した。この「土匪」の一語に今度は大陸側が激怒するという一幕があった。ところが
この「土匪」は、台湾語では「不講礼」といったほどの意味であり、北京語のトゥフェイ
と は 、 か な り 異 な る ニ ュ ア ン ス だ と い う 。 つ ま り 、「 土 匪 」 と い う 台 湾 語 が 「 土 匪 」 と い う
北京語に翻訳なしで伝えられ、相互誤解を激化させたという話なのである。私は北京語の
トゥフェイについてはそのニュアンスを理解しているつもりだが、台湾語「土匪」のニュ
アンスは理解できないので、コメントできないが、なるほどと感じた次第である。李登輝
総統訪米以後の『人民日報』の個人攻撃はかなりのものであった。これらの言葉の激しさ
に接すると、中国・台湾流の舌戦のすさまじさに圧倒される思いがする。ただし、ここで
絶 対 に 忘 れ て は な ら な い の は 、彼 ら が い か な る 言 語 で こ の 論 戦 を 展 開 し て い る か で あ ろ う 。
北京側が普通話で攻撃し、台北側が国語で反撃する。しかし、普通話も国語も基本的に同
じ言語なのだ。だからよく通じるし、理解も誤解も深まる。外国語同士ならちがった口論
になるのではないか。さて最後のトピック。いま台北でたいへん好かれている日本原産の
食べ物がある。台北でもいまテイクアウト式の弁当やスナックが流行しているが、なかで
も最も人気のあるのが「高雄黒輪」である。これをみてすぐ意味が分かるのは、かなりの
台湾通である。要するにオデンである。オデンという日本語の音を台湾語(閩南語)で音
訳すると「黒輪」と表記できるらしい。この表記が高雄でまず行われ、いま台北に大進出
したわけだ。台北市の三越デパートは、その豪華な雰囲気が日本のデパートと瓜二つ。こ
ぎれいなレイアウトの商品をこれも垢抜けた服装の台湾の人々が次々に買って行く(大陸
と は か な り の 違 い だ )。そ し て 地 下 の 食 堂 街 に 行 く と 、こ の「 高 雄 黒 輪 」に あ り つ け る わ け
だ。私は居酒屋カウンターで日本酒を注文し、燗をつけてもらいこれを味わい、台湾社会
の中産階級化の一端に触れた気分であった。
『蒼蒼』第66号、96年1月
、OAB
FOR
一九九五
旧臘、中国の旅で風をひきそうになって帰国したところ、嬉しい手紙が届いていた。私の
著書の英訳を出してくれたコロラドのウェストビュー社の編集者スーザンからのものであ
る 。 N o v e m b e r 2 9 , 1 9 9 5 , D e a r S t e v e a n d P r o f e s s o r Ya b u k i : I ' m d e l i g h t e d t o r e p o r t t h a t
矢吹晋『逆耳順耳』
181
Choice , one of the premier U.S.library review journals, has named China's New
Political Economy an "Outstanding Academic Book for 1995." Congratulations to you
b o t h ! C o r d i a l l y,
S u s a n L . M c E a c h e r n S e n i o r E d i t o r, We s y v i e w P r e s s 私 は 米 国 は 短 い
旅 行 を 二 回 し た だ け で あ り 、米 国 に つ い て の 知 識 は き わ め て 貧 し い の で 、
『 チ ョ イ ス 』誌 も
「アウトスタンディング・アカデミック・ブック」のこともまるで知らなかった。そこで
ワシントンで研究生活を送っている大橋英夫さん(専修大学助教授)に問い合わせたとこ
ろ 、次 の よ う な F A X が 翌 日 届 い た 。
「 こ の 度 は『 C h o i c e 』誌 O u t s t a n d i n g B o o k の 受 賞 お
めでとうございました。
『 C h o i c e 』誌 は 社 会 科 学 の み な ら ず 、学 術 図 書 全 般 を 対 象 と し た 総
合 的 な 書 評 誌 で す 。 日 本 で は 『 N e w Yo r k Ti m e s B o o k R e v i e w 』 誌 の ほ う を よ く み か け る か
もしれませんが、本の広告ではこれら両誌で紹介されたことがしばしば宣伝文句になって
い ま す 。 最 近 で は Harry Harding の 『 A Fragile Relationship 』 が 九 三 年 の Outstanding
Book で あ り 、出 版 元 の Brookings Instituition の カ タ ロ グ で は selected as one of Choice
magazine's 1993 Outstanding Book と 宣 伝 文 句 に 使 わ れ て い ま す 。 菱 田 雅 晴 氏 に よ る と
China's New Political Economy
は O E C D で も 話 題 に な っ て い た と の こ と 。世 界 銀 行 で
も 認 識 は さ れ て い ま す ( 読 ん で る の か ど う か は 「 ? 」 で す )。 後 日 、 図 書 館 か 本 屋 に 行 っ た
折に、関連記事を探してお送りいたします。クリスマスはフロリダ方面に避寒旅行を予定
し て い ま す 。 季 節 柄 御 身 ご 自 愛 下 さ い 」。〔 後 日 、 大 橋 氏 か ら 『 チ ョ イ ス 』 九 五 年 六 月 号 に
掲 載 さ れ た R ・ P ・ ガ ー デ ラ 氏 の 次 の よ う な 書 評 コ ピ ー が 届 い た 。〕[ 以 下 、 著 作 権 の た め
削 除 ] ─ ─ R . P. G a r d e l a , U n i t e d S t a t e s M e r c h a n t M r i n e A c a d e m y C H O I C E , J u n e 1 9 9 5 . つ
い で に 、 こ の 書 評 よ り も 早 く 丹 藤 佳 紀 さ ん ( 読 売 編 集 委 員 ) が T h e D a i l y Yo m i u r i に 書 い
て く れ た も の を 書 き 抜 い て お く 。[ 以 下 、 削 除 ] T h e D e n g f a c t o r i n C h i n a ' s g r o w t h ,
T h e D a i l y Yo m i u r i , F e b r u a r y 2 0 , 1 9 9 5 . ハ リ ー ・ ハ ー デ ィ ン グ の チ ャ イ ナ ・ ウ オ ッ チ ャ ー と
しての名声のほどはNHKスペシャル米中関係(九五年一一月二七日放映)からその一端
を ご 存 じ の 方 も あ ろ う 。そ れ か ら ま も な く D a i l y Yo m i u r i の ニ ュ ー ヨ ー ク 支 局 か ら も っ と
具体的な情報が届いた。1
雑 誌 『 チ ョ イ ス 』 の 発 行 元 は Association of College and
Research Libraries で あ り 、米 国 、カ ナ ダ の 研 究 者 、特 に 図 書 館 の ラ イ ブ ラ リ ア ン に 広 く
読まれている。2
同誌は約三〇年前から毎年、その年に出版された優れた著作を選び、
Outstanding Academic Book(OAB) for the year と し て 発 表 し て い る 。 受 賞 対 象 と な っ た
著 作 の 著 者 ・ 出 版 社 等 に は 賞 金 、賞 品 は 与 え ら れ な い 。た だ し 、権 威 が あ る 。3
今 年( 一
九 九 五 年 ) の ば あ い 、『 チ ョ イ ス 』 の 編 集 者 六 、 七 人 が 学 術 、 専 門 書 約 二 ・ 五 万 冊 を 対 象 と
し て 選 考 し た 。 そ の う ち 、 O A B に 選 ば れ た の は 約 六 〇 〇 冊 で あ る 〔 確 率 二 ・ 四 % 〕。 ウ ェ
ストビュー社からは矢吹氏の著作を含め、一〇冊が選ばれた。4
コロンビア大学図書館
によると、研究機関や図書館などは同賞を受賞したかどうかを一つの目安として書籍を購
入 す る た め 、同 賞 に 選 ば れ る と 確 実 に 販 売 部 数 は 増 え る 。
〔 以 上 。N Y 発 〕5
大橋氏の追
加 説 明 に よ る と 、『 チ ョ イ ス 』 は 年 間 約 六 〇 〇 〇 冊 の 本 を 紹 介 し 、 こ の う ち 六 〇 〇 冊 を
O u t s t a n d i n g A c a d e m i c B o o k ( O A B ) f o r t h e y e a r に 選 ぶ 由 で あ る 〔 確 率 一 〇 % 〕。 結 局 、
二・五万冊の本から六〇〇〇冊をまず誌上で専門家が書評の形で紹介し、そのなかから一
矢吹晋『逆耳順耳』
182
割を選ぶというシステムらしい。最後に、英文のもう一つの書評を挙げておく。書評者は
X i a b o L u , B a r n a r d C o l l e g e で あ り 、掲 載 誌 は C h i n a R e v i e w I n t e r n a t i o n a l , Vo l . 2 , N o . 2 , F a l l
1995 で あ る 。 こ れ は 酷 評 で あ る 。 こ の コ ピ ー を 送 っ て く れ た 丹 藤 氏 の コ メ ン ト に よ る と
「英語版の書名が評者に過大な期待を抱かせたのではないか」という由である。悪評であ
れ、好評であれ、無視されるのよりはよい、これが私の感想である。
『蒼蒼』第66号、96年2月、太旧道路?
「 太 旧 道 路 は 険 し い 太 行 山 を 越 え て 、太 原 と 河 北 省 石 家 荘 を 結 ぶ 百 四 十 四 キ ロ の ハ イ ウ エ ー 。
距離は短いが、来年十月に全線開通すると、渋滞で現在一日がかりの北京--太原間を五
時間で結ぶ大動脈となる」
「 し か し 、太 旧 道 路( 三 十 億 元 = 約 三 百 六 十 億 円 )は 一 部 投 資 を
予定していた米国資本が着工後に撤退したため、国に泣きついたり、自分たちで工面を迫
られたりする騒動に発展した「
」 北 京 や 天 津 の 大 都 市 に つ な げ る 太 旧 高 速 道 路 」『
。朝日新聞』
一九九五年一二月一三日、太原=堀江義人特派員発の「貧困脱出へ大規模開発、中国・山
西省」
「 黄 河 導 水 、高 速 道 路 、資 金 集 め が 難 題 」と 題 し た 七 段 抜 き の 大 記 事 か ら の 抜 き 書 き
で あ る 。太 原 と 石 家 荘 を 結 ぶ 高 速 道 路 な ら「 太 石 道 路 」の は ず 。こ の「 石 」を 三 回 も「 旧 」
と 間 違 え て い る 。 こ の 新 聞 の タ ル ミ 程 度 は 、 か な り 重 症 ら し い 。(『 蒼 蒼 』 第 6 7 号 、 9 6
年4月)
お詫びと訂正。太旧道路が正しく、太石道路ではない
三井物産(株)化学品総括部海外室
金 井 様 へ の 返 信 。 拙 稿 「 太 旧 道 路 ? 」(『 蒼 蒼 』 六 六
号 ) に つ い て 、『 人 民 日 報 』( 二 月 一 五 日 付 ) を 付 し た ご 教 示 、 ま こ と に あ り が と う ご ざ い
ました。私の早とちりで読者および関係者にご迷惑をおかけしたので、次号でお詫びし、
訂正したいと思います。
「 発 言 に は 慎 重 で あ り た い 」と の ご 教 示 を 肝 に 銘 じ ま す 。な お 、こ
の機会に少し調べたことを以下に記します。公路地図で調べると、高速ではない旧道の路
程はこうです。太原~張家河二六キロ、張家河~坪頭二〇キロ、坪頭~上峪一三キロ、上
峪~寿陽一八キロ、寿陽~旧街二〇キロ、旧街~陽泉二一キロ、陽泉~平定九キロ、平定
~塹石六キロ、塹石~石門口七キロ、石門口~旧関二八キロ、計一六八キロ。この間が高
速で一四四キロに短縮されるわけですね。ところで旧関~石家荘は、こうです。旧関~板
橋一二キロ、板橋~井南四キロ、井南~北横口九キロ、北横口~微水五キロ、微水~獲鹿
一四キロ、獲鹿~申后站一五キロ、申后站~石家荘一五キロ、計七四キロ。結局、太原~
石家荘は、旧道で二四二キロ前後、高速なら〔一四四キロ+二桁キロ〕となります。とり
急ぎお詫びとお礼まで。一九九六年二月一六日、矢吹晋†††という次第で私の間違いで
した。お詫びして訂正致します。なぜ間違えたのか、以下は反省の弁です。鉄道や道路は
普通、出発点と到着点をつなげて呼ぶのは日本も中国も同じです。たとえば私が時々吹っ
飛ばす横横高速は横浜と横須賀を結ぶものです。中国で旧年に完成したばかりの京九鉄道
は 北 京 ~ 九 龍( 香 港 )を 結 び 、昔 か ら の 京 広 鉄 道 は 北 京 ~ 広 州 を 結 ぶ も の で す 。道 路 で は 、
瀋陽~大連を結ぶ瀋大高速公路や北京~石家荘を結ぶ京石公路などが印象に残ります。そ
の類推から太原~石家荘を結ぶ公路なら太石公路であろう、と推測したわけですが、どっ
矢吹晋『逆耳順耳』
183
こいこの公路はまだ太原から旧関までしかつながっていない。そこで太旧公路が正しいわ
け で す 。い ず れ 石 家 荘 ま で 結 ば れ る な ら ば 、
「 太 石 公 路 」と な る は ず で す が 、そ れ は 未 来 形
でしかいえない。
『蒼蒼』第67号、96年3月、室蘭のナロードニキ
だいぶ昔から私が勝手に「室蘭のナロードニキ」とあだ名をつけている城谷武男(昔は古
本屋の亭主、いまは北海学園大学教授)が「中国語との出会い」を書いていることに気づ
い た (『 T O N G X U E 』 第 十 一 号 、 一 九 九 六 年 春 、 同 学 社 )。「 一 九 五 八 年 だ か ら 、 三 七 年
も昔のことになる。わたしは目白の柳家小さんの家の数軒先の下宿から大塚の予備校に通
っていた。近くに住んでいた兄が、当時、外語大の学生であった榎本英雄氏を自宅に招い
て、中国語を習っていた。出入りしていたわたしが、合格したら中国語を選ぼうと考えた
のは自然のなりゆきであった。中国語が選択できる科目として設定されていたことと、将
来的に中国語は必要になるだろうと考えたことも、選択理由に加えておかねばなるまい。
当 時 、 文 系 は 文 I と 文 II と い う 二 つ の 分 類 で あ り 、 文 II に か ろ う じ て 引 っ か か っ た 。 さ
っ そ く 駒 場 寮 に 入 っ た が 、サ ー ク ル 単 位 で の 入 寮 だ っ た も の だ か ら 、中 国 研 究 会 に 入 っ た 。
一年上に矢吹晋さんがいた。五月に入ってすぐだったと思うが、かれに首相官邸へのデモ
に連れてゆかれ、機動隊に取り囲まれて恐怖した。中国語は文系だけに開かれてい、選択
した学生は二十名弱だった。二千名の文系学生のうち、わずか一%の選択者である。マイ
ナ ー も い い と こ ろ だ 」( 以 下 、 略 )。 た し か に 城 谷 の 書 い た よ う な 時 代 に 、 そ の よ う な 雰 囲
気 の も と で 中 国 語 を 学 び は じ め た の で あ っ た 。そ の こ ろ 、人 民 公 社 の 後 の 運 命 は も ち ろ ん 、
いわんや文化大革命、そして鄧小平路線の展開などまったく視野になかった。時代の激流
を横目で眺めながら右往左往してきただけだ。大学を出て数年後、私はアジア経済研究所
に い た 。そ の こ ろ 、城 谷 は 北 大 の 大 学 院 に 舞 い 戻 り 、も う 一 人 の 友 人 丸 尾 常 喜 さ ん( 現 在 、
東大文学部)は北大の少壮助教授であった。シバレル札幌の呑み屋で、そして雪道を歩い
てたどりついた室蘭の居酒屋で身欠きにしんをかじりながら呑んだ酒のうまさは忘れられ
ない。三十年を経て、なにもかも変わったが、城谷のロマンチシズム、そして丸尾の底抜
け の 生 真 面 目 さ は 少 し も 変 わ っ て い な い 。私 が 投 げ た 石 こ ろ を 丸 尾 は さ っ そ く 拾 っ て く れ 、
「 秋 老 虎 と 小 陽 春 」(『 蒼 蒼 』 前 号 ) に つ い て 丁 寧 な 説 明 を し て く れ た 。 あ り が と う 。
『蒼蒼』第67号、96年3月、個酒
中国語の<烟酒>はタバコと酒のことであるが、よく似た発音に<研究>がある。従って
「今夜、研究会を開きましょう」という言葉は「今夜、飲み会をやりましょう」という合
図 な の で あ っ た ( 筆 者 は K 氏 。『 東 方 』 一 九 九 六 年 一 月 号 、「 販 書 随 録 」)。 旧 臘 、 中 国 に 短
い 旅 行 が あ り 、「 酒 席 代 表 」 を 繰 り 返 し 、 白 酒 ( パ イ チ ウ ) を し た た か 飲 ん だ 。「 沿 海 地 区
発 展 戦 略 」の 成 功 の た め に 、大 沿 海( 宴 会 )を や り ま し ょ う 、と は 二 昔 前 の 冗 談 で あ っ た 。
いまや内陸シフトの時代であるから、これは時代遅れだ。しかし「首席代表」にはなれな
い し 、「 主 席 」 に も な れ な い が 、「 酒 席 代 表 」 と し て な ら 、 誰 に も 負 け な い 飲 み っ ぷ り を 示
矢吹晋『逆耳順耳』
184
してみせる、という豪傑はいつの時代にもいるから、この「酒席代表」が色褪せることは
ないはずだ。日本の古い俗言に「一杯は人が酒を飲む。二杯目は酒が酒を飲む。三杯目は
酒 が 人 を 飲 む 」が あ る 。
「 酒 が 酒 を 飲 む 」と い っ た 言 い 方 は 、と て も 便 利 な 表 現 で あ り 、高
度成長時代には「投資が投資を呼ぶ」として、設備投資主導型成長を説明するために頻繁
に用いられたキャッチコピーである。ある人の曰く、これは救世軍の禁酒キャンペーンの
スローガンではないか。ナルホド!
「酒が酒を飲む」という言い方は、モデストな表現
で あ る 。 性 悪 説 で は 、「 酒 に 呑 ま れ る 」 と い う 。「 呑 ま れ る 」 客 体 た る 呑 ん べ え 、 呑 み 助 を
批判したものだ。
「 酒 が 酒 を 飲 む 」に は 、非 難 が ま し い と こ ろ は な く 、客 観 的 な と こ ろ が よ
い。あるとき時間をもてあまして、東京駅の地下街でひとりチビリチビリ始めた。退屈な
ので、周囲を観察して驚いた。私と同じように、一人でチビる中年、あるいは退職寸前氏
が酒場の一角を占めている。みな静かに、人生のわびしさに湛えながら、一人用テーブル
で し ず か に 呑 ん で い る ( バ ー カ ウ ン タ ー に 非 ず )。「 広 場 の 孤 独 」 さ な が ら 、 群 衆 の な か の
孤 独 に 沈 潜 し 、「 百 年 の 孤 独 」 な ぞ を 呑 む 。 現 代 は 「 個 食 」 か ら 「 個 酒 」 の 時 代 な の か 。
『 蒼 蒼 』 第 6 7 号 、 9 6 年 3 月 、『 語 録 』
『語録』といえば『毛沢東語録』を指した時代ははるかな昔。おそらくいま『語録』とい
え ば 、 十 中 八 、 九 『 鄧 小 平 語 録 』( い う 本 は な い が ) で あ ろ う 。 ふ と 『 毛 語 録 』 を 想 起 す る
のは、ほとんど化石の世代だが、化石であれ、隕石であれ、その時代に生きた者にとって
は、それしかなかったのだ。北京のアパートの水道管が壊れて一〇階の部屋へのエレベー
ターが動かなくなったある記者の嘆きである。
「 十 階 の 階 段 を 登 る 時 、毛 沢 東 語 録 で 中 国 を
学 ん だ 私 は 、< 社 会 主 義 が 私 を 鍛 え て く れ て い る > と 、言 い 聞 か せ て い る 。だ が 、た ま に 、
市内に目立ちはじめたカラオケバーなぞをうろつき、<市場経済>に染まって、深夜帰宅
すると、やはり十階の階段はきつい。<社会主義>も少しは改革してもらわなければと、
し み じ み 感 じ さ せ ら れ る 夜 で あ る 」( 北 京 ・ 高 井 潔 司 )。 某 紙 九 六 年 二 月 某 日 の 「 垂 涎 か ら
水漏れのアパートに」というコラムの結びである。わかるね、その気持ち。林彪事件から
およそ一年後のころ、私の住む香港のアパートの地下室が台風で水没し、電気系統がマヒ
した。一八階であったか、二二階であったか、忘れたが、真っ暗な階段を私もそんな類の
スローガンを想起しながら、昇り降りした記憶がある。昔話を突然想起するのは、おそら
く「老いるショック」第三期症候群あたりか。
『蒼蒼』96.4
第 6 8 号 、 逆 耳 順 耳 、『 鄧 鄧 小 平 文 選 』 の キ ー ワ ー ド 研 究
表1『鄧小平文選』にみる語彙の頻度数
語彙
第1巻
第2巻
第3巻
全巻計
科学技術
0
17
40
57
改革
25
83
466
574
開放
0
16
268
284
教育
11 0
248
111
469
経済
109
266
366
741
矢吹晋『逆耳順耳』
185
計画
41
53
44
138
現代化
3
320
99
422
香港
0
0
33
33
国家
11 8
265
401
784
国際形勢
1
1
10
12
基本原則
0
41
38
79
市場
13
15
46
74
資本主義
19
93
143
255
社会主義
71
410
468
949
政治
201
392
224
817
生産力
3
50
108
161
江沢民
0
0
9
9
特区
0
1
36
37
覇権主義
0
30
30
60
発展
191
317
558
1066
腐敗
1
0
33
34
文化大革命
0
98
73
171
法制
0
37
21
58
民主
212
179
92
483
一国両制
0
0
33
33
『鄧小平文選』電子版(第一巻は一九三八~一九六五年までの著作、第二巻は一九七五~
一九八二年までの著作、第三巻は一九八二~一九九二年までの著作を収めている)に挑戦
してみよう。ここにはサンプルとして二五のキーワードが用意されている。これらのキー
ワードの出現頻度数を調べると別表のごとくである。この電子版の編集者たる「北大火星
人 」 が 選 ん だ 二 五 語 の な か で 頻 度 数 一 位 は 「 発 展 」( 一 〇 六 六 回 ) で あ り 、「 社 会 主 義 」( 九
四 九 回 ) は 二 位 で あ る 。「 中 国 的 特 色 を も つ 社 会 主 義 」 や 「 社 会 主 義 市 場 経 済 」 な ど 、 社 会
主義の四文字は目立つが、鄧小平がそれ以上に語っているのは、実は「発展」である。こ
こ か ら「 発 展 」途 上 国・中 国 に と っ て 、発 展 こ そ が 最 大 の 課 題 で あ り 、
「 社 会 主 義 」は 実 は 、
そ の た め の 方 法 に す ぎ な い と も い え る わ け だ 。「 白 猫 黒 猫 」 論 で あ れ 、「 姓 資 姓 社 」 論 へ の
反駁であれ、鄧小平のお気に入りが「発展」であることは、注目を要するであろう。中国
ではいま市場経済への道を急いでいるが、
「 経 済 」や「 改 革 」を み る と 、第 一 巻 か ら 第 三 巻
にかけて、言及回数がふえている。これはますます力点をおくようになった語彙である。
では言及することますます少なくなったのはなにか。最も典型的なのは「民主」である。
革命期の著作を収めた第一巻では二一二回語ったが、八〇年代の著作を収めた第三巻では
九二回に減少している。これは「経済改革から政治改革へ」という戦略を構想する鄧小平
にとって当然のスタンスであろう。
ここでサンプルから離れて、自分でキーワードを選び調べてみよう。進歩という日本語と
矢吹晋『逆耳順耳』
186
中 国 語 の 進 歩 ( jinbu ) と は 、 基 本 的 に 同 じ 意 味 で あ る 。 進 歩 と い う 日 本 語 の ツ イ に な る
の は 退 歩 で あ る 。進 歩 の 段 階 が 先 に 進 ん で い る こ と を 先 進 と い い 、そ の ツ イ は 後 進 で あ る 。
先進といい、後進といい、いずれも『論語』に見える言葉だから、古い漢語であり、日本
に輸入されてからも古い歴史をもつ。現代中国語では先進のもう一つのツイとして、落後
( luohou) を 用 い る こ と が 多 い 。 こ れ は 元 来 は 行 進 に お い て 同 行 者 の 後 に な る こ と 、 つ ま
り落伍である。中国文明はアヘン戦争で敗れるまでは先進と理解されてきたが、それ以後
は後進というよりも落後と認識されるに至ったわけである。
この進歩と落後の使い方から、鄧小平の「進歩観」を探ってみよう。
表2「進歩・落後」の頻度数
進歩
落後
第1巻
40
18
第 2 巻
36
38
第 3 巻
14
43
計
90
99
表 2 か ら 分 か る よ う に 、 鄧 小 平 は 「 進 歩 」 を 九 〇 回 、「 落 後 」 を 九 九 回 用 い て い る 。 時 期
ご と に 頻 度 数 を み る と 、第 一 巻 で は 進 歩 四 〇 回 に 対 し て 、落 後 は 一 八 回 と 半 分 以 下 で あ る 。
ゲリラ戦争の名参謀鄧小平は、進歩を訴えていたことが分かる。第三巻では進歩一四回に
対して、落後は四三回と三倍である。毛沢東なきあと中国の事実上のトップの地位を占め
た鄧小平は、落後の側面をより強調するようになった。具体的な用例を調べてみよう。初
めて進歩という言葉が出てくるのは、一九三八年二月一二日、国民革命軍第一八集団軍総
政治部の出版した『前線』週刊(第三、四期合併号)に掲載された「新兵の動員と新兵へ
の政治工作」である。この文を書いたとき、鄧小平は八路軍政治部副主任であり、まもな
く第一二九師団の政治委員に昇格した。
「新兵の動員方式を改善し、部隊の政治工作を強化するならば、戦略戦術の進歩と呼応し
て、最大量の、優良な技術をもった最高の戦闘力をもつ国防軍隊を鍛えることができ、最
後 に は 日 本 帝 国 主 義 に 勝 つ こ と が で き る 」( 第 一 巻 、 七 頁 )。 こ こ で は 進 歩 は 「 戦 略 戦 術 の
進歩」である。
最後の進歩は、有名な南巡講話である。これは一九九二年春節前後に武昌、深、珠海、上
海などを訪れて、改革開放の堅持を訴え、天安門事件以後低迷していた中国経済にカツを
入れて、高度成長路線を復活させたものであることは、最近のことなのでよく知られてい
よう。
「 こ の 十 数 年 、わ が 国 の 科 学 技 術 の 進 歩 は 小 さ な も の で は な か っ た 。九 〇 年 代 に お い
て は 、 進 歩 が な お い っ そ う 速 い こ と を 希 望 す る 」( 第 三 巻 、 三 七 八 頁 )。 こ こ で は 進 歩 は 中
国の科学技術と結びついている。鄧小平が生涯において九〇回用いた進歩は、このように
最初はゲリラ戦争の新兵教育のための戦略戦術の進歩に始まり、最後は科学技術の進歩を
喜ぶ基調で終わったことになる。
では落後はどうか。初めて落後という言葉が出てくるのは、一九四一年六月一六日付で一
二 九 師 団 政 治 部 が 出 版 し た『 抗 日 戦 場 』
( 第 二 六 期 )に 掲 載 さ れ た「 一 二 九 師 団 の 文 化 工 作
矢吹晋『逆耳順耳』
187
の方針任務とその努力方向」である。これは八路軍一二九師団の模範宣伝隊コンクールで
の 報 告 要 旨 で あ る 。鄧 小 平 は 日 本 帝 国 主 義 と 中 国 の 親 日 派 を 批 判 し て い う 「
。彼らは旧文化、
旧 道 徳 、旧 制 度 を 提 唱 し 、復 古 、迷 信 、盲 従 、落 後 を 提 唱 し 、封 建 迷 信 団 体 な ど を 組 織 し 、
も っ て そ の 淫 を い ま し め 、盗 を い ま し め 、毒 化 、奴 隷 化 政 策 を 実 施 し て い る 」
「敵が文化侵
略を行う方法は多様である。その特徴は落後した大衆と農民の心理に迎合し、巧みに数を
もって質的弱点を覆い隠し、巧みにいくつかの中心的スローガンの宣伝を繰り返し、巧み
に チ ャ ン ス を 利 用 し て 、若 干 の 具 体 的 問 題 を と ら え て 欺 瞞 宣 伝 を 行 う も の で あ る 」
(第一巻、
二 三 頁 )。 落 後 し た 大 衆 と 農 民 が お り 、 そ れ は 帝 国 主 義 の 政 策 の た め だ と い う 認 識 で あ る 。
では最後の箇所はどうか。一九九〇年一二月二四日、鄧小平は中共中央の数人の責任者と
会 い 、「 巧 み に チ ャ ン ス を 利 用 し 、 発 展 の 問 題 を 解 決 せ よ 」 と 語 っ た 。「 資 本 主 義 と 社 会 主
義の区別は、計画か市場かという問題にあるのではないことをわれわれは理論的にはっき
りさせなければならない。社会主義にも市場経済はあるし、資本主義にも計画的コントロ
ールはある。資本主義にもしコントロールがないとしたら、どこに自由があるのか。最恵
国待遇もまたコントロールじゃないか。市場経済をやるのは資本主義の道であると考えて
は な ら な い 。そ ん な こ と は な い の だ 。計 画 と 市 場 は い ず れ も 必 要 だ 。市 場 を や ら な け れ ば 、
世 界 中 の 情 報 さ え 得 ら れ な い 。 落 後 に 甘 ん ず る の み だ 」( 第 三 巻 、 三 六 四 頁 )。 こ こ で は 計
画経済のみをやり、市場経済をやらなければ、世界経済の情報を得られず、落後すると述
べている。市場経済を通じて世界的市場経済の動向にアクセスし、世界経済から落後しな
い よ う に し た い と い う 鄧 小 平 の 悲 願 が 端 的 に 述 べ ら れ て い る 。〔 補 注 〕 私 は 村 田 忠 禧 教 授
(横浜国立大学教育学部教授)とともに「日本と中国との情報交換用漢字コード体系の比
較研究」を昨年行った。その成果の一端を発表する中間報告会が九六年四月一六日に横浜
国立大学共同研究推進センターにおいておこなわれた。上記は、この研究の一部である。
1996 年 8 月 『 蒼 蒼 』 、 逆 耳 順 耳 、 リ ン ボ ー 先 生 の 台 湾 話
───では、この店の「屋号」の後半分たる「黒輪」とはなんだろう。この屋台は、片方
にガラスケースがあって、そこには「寿司」が置いてある。もう一方に、あたかもおでん
鍋のような大鍋が設置されて、そのなかであたかもおでんのようなものが煮えている。薩
摩揚げのようなもの(なにしろ、正確な名辞を知るに及ばなかったので、こういう情けな
い 言 い 方 し か で き な い の で あ る )、 蒲 鉾 の よ う な も の 、 椎 茸 ( ら し い も の )、 大 根 ( こ れ だ
け は 間 違 い な く ダ イ コ ン で す )、そ こ へ な に か 黒 い ぶ つ ぶ つ の 餅 め い た も の 、そ れ ら が ど う
見 て も お で ん の ツ ユ の な か で ゆ る ゆ る と 煮 ら れ て い る 。あ れ や こ れ や と 指 さ し 注 文 す る と 、
売っているおばさんは破顔一笑、分かったよという表情になってうなずき、一度鍋から上
げてあったやつをもう一度熱いツユに浸してしばしあっため、ドンブリのようなものに入
れてくれる。
「 ハ イ ヨ ッ 」と い う 気 合 い で あ る 。お ま け に ス ー プ を カ ッ プ に 一 杯 、こ れ に て
五十元(二百円)とはいかにも安い。食べてみると、なにしろこれはおでんである。おで
んだけれど、そのどれをたべても、かすかに中国的香りが付着している。これすなわち前
記 の ご と く 町 の ど こ へ い っ て も そ こ は か と な く 漂 っ て い る 、あ の 独 特 の 匂 い に ほ か な ら ぬ 。
( 中 略 )翌 日 、台 湾 在 住 の 友 人 T 君 を 煩 わ し て 聞 い て み て も ら っ た と こ ろ で は 、ど う や ら 、
矢吹晋『逆耳順耳』
188
こ の「 黒 輪 」と い う の は 、
「 竹 輪 」の こ と ら し い 。お で ん に 欠 か せ な い ア イ テ ム で あ る 竹 輪 、
それが、台湾において独自の発達を遂げるに従って、いつのまにか竹が黒に変じたという
ことだろうか。なんだか良く分からぬけれど、ま、どなたか、本当に正確なところを教え
て下さる博雅の君子はおられぬか(JCB社刊『ザ・ゴールド』一九九六年七月号、二六
頁 )。
な が な が と 引 用 し た が 、売 れ っ 子 の 文 章 は さ す が で あ る 。
『 蒼 蒼 』六 五 号 の 読 者 な ら 先 刻 ご
承 知 の 話 だ が 、「 黒 輪 」 と は 、 オ デ ン の 音 訳 で あ り 、 漢 字 に 意 味 は な い 。 そ れ を 「 竹 輪 」 と
関連づけたT君はかなりのマヌケである。台湾人なら誰でも知っていることを折角台湾に
住んでいながら聞こうとせず、勝手に文字面だけから解釈しようとする。この手のマンガ
チ ッ ク な 「 台 湾 通 」「 香 港 通 」「 中 国 通 」 が ど こ の 世 界 に も ゴ ロ ゴ ロ い て 、 そ れ が 世 論 を 作
るから怖い。
1996 年 8 月 『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 、 看 破 紅 塵
ある日の香港電がこう伝えた──香港返還に向けた中国の香港特別行政院区準備委員会第
三回全体会議が開かれ、江沢民主席は今年一月の発足以来初めての演説を行った。用意さ
れ た 草 稿 を 読 み 上 げ ず 、二 十 五 分 間 の 即 興 の 演 説 だ っ た 。主 席 は 、
「 看 破 紅 塵( カ ン ポ ホ ン
チ ェ ン )」 と 強 調 し た 。「 あ れ こ れ 考 え な い で 、 心 静 か に し て い な さ い 」 と い う 含 意 を 、 英
国 に 伝 え る も の だ 。「 か た く な に 抵 抗 し て も 必 ず 負 け る 」 と も い っ た (『 朝 日 新 聞 』 九 六 年
六 月 二 六 日 付 八 面 、 香 港 、 津 田 邦 宏 特 派 員 電 )。「 看 破 」 と は 、 基 本 的 に 日 本 語 と 同 じ 。「 看
透」も同じ。要するに、見破る、見通すことである。紅塵とは、紅色の塵だが、転じて、
この世の虚飾、うわべのみせかけを指す。さしずめ、マスコミの書きまくる香港情報なぞ
は「紅塵」そのものである。その世界の住人が「紅塵」を理解できないのは、ムリからぬ
ことか。これを「あれこれ考えないで、心静かにしていなさい」という含意と解説する特
派員の言語感覚を私は疑うのである。もしかしたら中国語を英語にホンヤクし、それを日
本語にハンヤクしたのかしら。もう少し勉強してほしいですね(こういう記事を読むと、
私は生ぬるいビールを無理やり呑まされたような不快な気分に陥るわけですが、これはお
そ ら く ビ ョ ー キ な の で し ょ う ね )。
1 9 9 6 年 8 月 『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 、『 参 考 資 料 』
お よ そ 一 〇 年 ほ ど 前 、す で に 名 が 知 ら れ て い た『 参 考 消 息 』の ほ か に 、
『 参 考 資 料 』と い う
よりヨリ重要な情報誌の存在することを知って、その別称が『参考消息』の「小参考」に
対 比 し て 「 大 参 考 」 と 呼 ば れ る 旨 を 書 い た こ と が あ る (『 中 央 公 論 』 八 六 年 五 月 号 、 の ち 小
著 『 ペ キ ノ ロ ジ ー 』 二 〇 頁 に 所 収 )。 し か し 、「 大 参 考 」 の 現 物 に は お 目 に か か る 機 会 が な
か っ た 。 あ る 日 、 突 然 、『 参 考 資 料 』 の サ ン プ ル が 届 い た 。 私 の 昔 の 「 談 話 」 が 掲 載 さ れ て
いるというので、届けてくれた奇特な方があったのだ。むろん、現物ではなく、そのコピ
ーだが、こう書いてある。新華通訊社、内部刊物、不得転載『参考資料』1994年12
月1日、星期四、第25054期。その二頁から四頁にかけて「日本横浜大学教授矢吹晋
談中国経済発展的前景」がある。リード文は「中国はいま生産と消費の両面で高度成長の
始 ま っ た 段 階 で あ る 。大 局 か ら 見 る と 、楽 観 的 観 点 を 持 つ べ き で あ る 」と あ る 。
( 単 に「 横
矢吹晋『逆耳順耳』
189
浜 大 学 」と 誤 記 す る の は ま し な 方 で あ る 。中 国 か ら 来 る 手 紙 は 、
「横浜国立大学
矢吹宛て
のものが多い。
「 市 立 」で な く「 国 立 」と 書 く こ と が あ た か も 尊 称 と 誤 解 し て い る の か 、そ
れともそれぞれ別の大学であることを知らないためか(私は友人の転居前の住所を誤記し
て、切手を貼り直し、投函することが少なくないが、この種のアバウト住所で中国から手
紙 が 届 く か ら 不 思 議 だ )。と こ ろ で 、ニ ュ ー ス・ソ ー ス は「 新 華 社 東 京 一 一 月 二 八 日 日 文 電 、
『 日 本 経 済 新 聞 』は 今 日 、一 篇 の 報 道 を 掲 げ た 。題 し て「 過 熱 の 中 国 経 済 は ど こ へ い く か ? 」
である。
『 鄧 小 平 な き 中 国 経 済 』の 冒 頭 に 収 録 し た『 日 本 経 済 新 聞 』の イ ン タ ビ ュ ー( 九 四
年一一月二八日付)を新華社は三日後にキャリーしたわけだ。知的所有権に対する認識が
もう少し深まった暁には、翻訳転載料を請求できるかもしれない。かつて私の書いたもの
はブラックリストの長い行列を作ったらしいが、これはブラックではなさそうだ。とすれ
ば、何色であろうか。
1996 年 8 月 『 蒼 蒼 』 逆 耳 順 耳 、 ホ ー ム ペ ー ジ の 可 能 性
私がホームページを開いたと宣言・宣伝しても、ほとんど誰も信用してくれまい。私を知
る友人は、ほとんどが私の宣言を虚言と思い込む。これは当然至極の判断である。昔から
言 う で は な い か 。「 士 は 三 日 会 わ ざ れ ば 、 刮 目 し て 待 つ べ し 」 と 。 数 学 オ ン チ 、 花 甲 間 近 、
窓 際 に 限 り な く 近 い 中 年 族 で も 、契 機 と 動 機 が あ れ ば 、
「 開 く に 至 る 」の で あ る 。動 機 は も
し か し た ら 、イ ン タ ー ネ ッ ト ・ ポ ル ノ が お 目 当 て か 。契 機
こ れ こ そ が 肝 心 だ 。・ 景 気 が よ
く て 、 た ま た ま ウ イ ン ド ウ ズ 9 5 を 買 っ た の で 、 と い う こ と か 。・ 計 器
グリニッジ標準時
を意識することなしに、アメリカあるいはその他の友人・知人・未知人学者と安く連絡が
と れ る か ら か 。・ 継 起
オ ア シ ス ・ デ ス ク パ ワ ー の 後 継 機 種 と し て か 。・ 刑 期
しばらくは
サバティカルもままならず、大学に拘留中(理由は教員組合委員長就任。私はこの春三月
までは「評議員手当」をもらい、管理職でしたが、まさかこの年で委員長とは。そして息
子 み た い な 非 組 合 員 に 組 合 加 入 を 懇 願 す る ハ メ に 陥 る と は 。以 下 グ チ は 省 略 )。せ め て も の
こと、閉ざされた空間のなかで、外国体験をリアルタイムで、といった思惑(これを「シ
ワク」と読む若者が増えています)からか。京畿、私が初めて受け入れた韓国からの大学
院学生鞠昌煥修士、あるいは突然帰国した私のゼミ監視人趙武熙さんに強引にオアシスを
推薦したハンセイからか。そのいずれでもあり。いずれも決定的理由ではない。答えは、
私の学生が「学生のブンザイ」で自分のカネでホームページを開いたのを知ったからであ
る。スポーツ選手が私の運動能力の何倍優れていてもこれは天然自然の成行である。ハン
サ ム 学 生 が ど ん な に モ テ テ も 気 に し な い 。私 を 驚 か せ た の は 、わ が 学 生 が「 国 際 電 脳 網 絡 」
の中国情報の可能性を考えていたのである。私はこの分野では完全に脱帽し、この学生に
私 淑 す る こ と に し た 。こ の 学 生 が 初 め て 私 の 研 究 室 に「 相 談 が あ る 」と い っ て 訪 れ 、
「ゼミ
に入りたい」と言った日のことをいま想起している。私はインターネットなぞを使ったと
ころで「まとも中国情報が入手できるとは思えない」と述べた。せいぜい「中国を旅行し
た ら 、ト イ レ の ド ア が な か っ た 」
「 臭 か っ た 」と い っ た 類 の お し ゃ べ り 情 報 の 交 換 と 認 識 し
ていたのである。まもなくこの分野の彼の知識程度がなみなみならぬものであることを理
解した。直接的にではない。別の学生(といっても、私よりも年上で、コンパでは、いつ
矢吹晋『逆耳順耳』
190
も私が学生と間違われる)が教えてくれたからだ。この社会人学生は自分の息子ほどの学
生 か ら 教 わ っ て い る と い う 。私 が 決 定 的 に 参 っ た の は 、
『 人 民 日 報 』論 争 で あ る 。あ る 日 の
『 人 民 日 報 』を 示 し て 、
「 イ ン タ ー ネ ッ ト で 読 め る と 書 い て あ る が 」と 問 題 を 提 起 し た 。彼
は「 プ ロ バ イ ダ ー が ア メ リ カ だ か ら 、お そ ら く 英 訳 で し ょ う 」と 答 え た 。私 は『 人 民 日 報 』
を 即 日 英 訳 な ぞ で き る も の か 、と 反 論 し た 。こ こ で は 私 の 勝 で あ っ た 。次 の ゼ ミ で「『 人 民
日 報 』が 中 国 語 で 読 め た 。た だ し 、ダ ウ ン ロ ー ド に は 失 敗 」と い う 報 告 が 届 い た 。
『人民日
報』記事の読み方自体は私の理解が正確であった。だが、いきなりそれにアクセスして、
確かめたわが学生の行動力に脱帽した。そこで彼を「老師」と仰ぎ、悪戦苦闘。ついにホ
ー ム ペ ー ジ h t t p : / / w w w 2 . b i g . o r. j p / ~ y a b u k i 開 設 に こ ぎ つ け た 。 メ デ タ シ 、 メ デ タ シ 。
『 蒼 蒼 』 7 0 号 、 9 6 年 10 月 、 逆 耳 順 耳
、野郎自大の用心棒
夏休みに北京をぶらついたさいに、
『 読 売 新 聞 』北 京 支 局 長 が 一 本 を た ず さ え て 宿 舎 の 漁 陽
飯店(空港にやや近い、韓国資本との合弁企業)を訪ねてくれた。その本は、何新著『中
華 復 興 与 世 界 未 来 』( 四 川 人 民 出 版 社 、 一 九 九 六 年 九 月 、 上 下 冊 、 三 八 ・ 八 元 ) で あ る 。 上
巻 一 一 四 頁 を 示 し な が ら 、 高 井 氏 ニ ヤ リ 一 言 。「 出 て い ま す よ 」。 私 「 ? 」。 な る ほ ど 、 一 一
四 頁 か ら 一 四 七 頁 ま で 三 四 頁 に わ た っ て「 何 新 与 日 本 経 済 学 教 授 S 的 談 話 録 」
( 原 載『 人 民
日報』一九九〇年一二月一一日)が転載されている。別件があったので、そのまま鞄の中
へ。帰国時の機内で思い出し、開いてみる。一一七頁に注二つ、一一八頁に注一つ、一一
九頁に注二つ、一二〇頁に注三つ、一二一頁に注一つ、一二四頁に注一つ、一二五頁に注
一つ、一三〇頁に注一つ、一三三頁に注一つ、一三八頁に注一つ、一四〇頁に注一つ、こ
れらは『人民日報』にはなかった。ただし、今回つけたようにも思われない。もしかした
らパンフレット作成時に何新周辺の者が加えたお化粧かもしれない。下巻の末尾に、この
「捏造対談」の反響についての記述がある。すなわち「一九九〇~九二年の三年に、西側
の若干の記者、学者、外交官が私に接触を求め話をした。インタビューを受けて、私はわ
が国の社会主義制度問題、改革開放の問題、一九八九年の事件、人権問題およびその他の
国際戦略問題について、一連の独自の見解を発表した。なかでも影響が比較的大きく、内
外 を 騒 が せ た の は「 日 本 S 教 授 と の 談 話 録 」
( 一 九 九 〇 年 八 月 )で あ っ た 。こ の 文 は『 人 民
日報』
『 北 京 週 報 』に 全 文 発 表 さ れ た 。世 界 で 多 く の 言 語 に 翻 訳 さ れ 、多 く の 国 家 ・ 地 域 の
新聞雑誌に転載された。この文をめぐって香港や台湾で一場の風波がまきおこったが、一
九八九年動乱以後のわが国が直面した特殊な内外世論の環境と政治的雰囲気を考慮すれば、
この文は国内外の若干の人々の、わが国の制度および一九八九年事件に対する違和感を転
換し、西側のわが国に対するイデオロギー的孤立化と封じ込めを打破するうえで一定の役
割 を 果 た し た と み る の が 公 平 妥 当 な 見 方 で あ る( 七 八 三 頁 )。懲 り な い ヤ ツ と い う 言 い 方 が
あ る 。こ の 男 は そ の 部 類 に 属 す る 。自 作 自 演 な ら 文 句 を つ け る べ き 筋 合 い で は な い が 、
『北
京 週 報 』で は 矢 吹 晋 と 明 記 さ れ て い た 。
『 人 民 日 報 』で は 私 の 抗 議 を 受 け て 、矢 吹 を S H I
CHUIのSとしたが、要するに、この捏造は、私の名を利用して、みずからの見解を披
瀝 し た だ け の も の で あ る 。「 香 港 や 台 湾 で 一 場 の 風 波 」 と は 、 私 が 香 港 『 九 十 年 代 』( 九 一
年 二 月 号 )に 発 表 し た 三 通 の 抗 議 書 を 支 持 す る 論 評 が 続 々 と 現 れ た( 矢 吹 晋『 保 守 派 v s .
矢吹晋『逆耳順耳』
191
改 革 派 ・ 中 国 の 権 力 闘 争 』蒼 蒼 社 、一 九 九 一 年 )。こ れ に 対 し て 何 新 が 今 度 は 香 港 マ ス コ ミ
を 恫 喝 す る 記 者 会 見 を 開 い た 。そ れ を 批 判 し て『 鏡 報 』
( 九 一 年 八 月 号 )は「 矢 吹 晋 談 何 新
現 象 」を 掲 げ た 経 緯 が あ る( い ず れ も 前 掲 書 に 収 録 )。何 新 現 象 と は 、中 国 の 改 革 開 放 路 線
の逆流時に浮かぶ徒花というべきであろう。
『 蒼 蒼 』 7 0 号 、 9 6 年 10 月 、 逆 耳 順 耳
、野郎自大の用心棒
夏休みに北京をぶらついたさいに、
『 読 売 新 聞 』北 京 支 局 長 が 一 本 を た ず さ え て 宿 舎 の 漁 陽
飯店(空港にやや近い、韓国資本との合弁企業)を訪ねてくれた。その本は、何新著『中
華 復 興 与 世 界 未 来 』( 四 川 人 民 出 版 社 、 一 九 九 六 年 九 月 、 上 下 冊 、 三 八 ・ 八 元 ) で あ る 。 上
巻 一 一 四 頁 を 示 し な が ら 、 高 井 氏 ニ ヤ リ 一 言 。「 出 て い ま す よ 」。 私 「 ? 」。 な る ほ ど 、 一 一
四 頁 か ら 一 四 七 頁 ま で 三 四 頁 に わ た っ て「 何 新 与 日 本 経 済 学 教 授 S 的 談 話 録 」
( 原 載『 人 民
日報』一九九〇年一二月一一日)が転載されている。別件があったので、そのまま鞄の中
へ。帰国時の機内で思い出し、開いてみる。一一七頁に注二つ、一一八頁に注一つ、一一
九頁に注二つ、一二〇頁に注三つ、一二一頁に注一つ、一二四頁に注一つ、一二五頁に注
一つ、一三〇頁に注一つ、一三三頁に注一つ、一三八頁に注一つ、一四〇頁に注一つ、こ
れらは『人民日報』にはなかった。ただし、今回つけたようにも思われない。もしかした
らパンフレット作成時に何新周辺の者が加えたお化粧かもしれない。下巻の末尾に、この
「捏造対談」の反響についての記述がある。すなわち「一九九〇~九二年の三年に、西側
の若干の記者、学者、外交官が私に接触を求め話をした。インタビューを受けて、私はわ
が国の社会主義制度問題、改革開放の問題、一九八九年の事件、人権問題およびその他の
国際戦略問題について、一連の独自の見解を発表した。なかでも影響が比較的大きく、内
外 を 騒 が せ た の は「 日 本 S 教 授 と の 談 話 録 」
( 一 九 九 〇 年 八 月 )で あ っ た 。こ の 文 は『 人 民
日報』
『 北 京 週 報 』に 全 文 発 表 さ れ た 。世 界 で 多 く の 言 語 に 翻 訳 さ れ 、多 く の 国 家 ・ 地 域 の
新聞雑誌に転載された。この文をめぐって香港や台湾で一場の風波がまきおこったが、一
九八九年動乱以後のわが国が直面した特殊な内外世論の環境と政治的雰囲気を考慮すれば、
この文は国内外の若干の人々の、わが国の制度および一九八九年事件に対する違和感を転
換し、西側のわが国に対するイデオロギー的孤立化と封じ込めを打破するうえで一定の役
割 を 果 た し た と み る の が 公 平 妥 当 な 見 方 で あ る( 七 八 三 頁 )。懲 り な い ヤ ツ と い う 言 い 方 が
あ る 。こ の 男 は そ の 部 類 に 属 す る 。自 作 自 演 な ら 文 句 を つ け る べ き 筋 合 い で は な い が 、
『北
京 週 報 』で は 矢 吹 晋 と 明 記 さ れ て い た 。
『 人 民 日 報 』で は 私 の 抗 議 を 受 け て 、矢 吹 を S H I
CHUIのSとしたが、要するに、この捏造は、私の名を利用して、みずからの見解を披
瀝 し た だ け の も の で あ る 。「 香 港 や 台 湾 で 一 場 の 風 波 」 と は 、 私 が 香 港 『 九 十 年 代 』( 九 一
年 二 月 号 )に 発 表 し た 三 通 の 抗 議 書 を 支 持 す る 論 評 が 続 々 と 現 れ た( 矢 吹 晋『 保 守 派 v s .
改 革 派 ・ 中 国 の 権 力 闘 争 』蒼 蒼 社 、一 九 九 一 年 )。こ れ に 対 し て 何 新 が 今 度 は 香 港 マ ス コ ミ
を 恫 喝 す る 記 者 会 見 を 開 い た 。そ れ を 批 判 し て『 鏡 報 』
( 九 一 年 八 月 号 )は「 矢 吹 晋 談 何 新
現 象 」を 掲 げ た 経 緯 が あ る( い ず れ も 前 掲 書 に 収 録 )。何 新 現 象 と は 、中 国 の 改 革 開 放 路 線
の逆流時に浮かぶ徒花というべきであろう。
『 蒼 蒼 』 7 0 号 の 2 、 9 6 年 10 月 、 逆 耳 順 耳
矢吹晋『逆耳順耳』
、杜潤生老会見記
192
九六年九月一〇日、北京で杜潤生氏を訪ねた。白石和良、矢吹晋を含む「日本農業経済学
者訪中団」のために、国務院農業部農村発展センター学術委員会副主任劉志仁氏が特にア
ンパイしてくれたものである。私はかつて「農業生産責任制の推進者・杜潤生」という一
文 を 書 い て 杜 潤 生 の プ ロ フ ィ ー ル を 紹 介 し た こ と が あ る(『 日 中 経 済 協 会 会 報 』一 九 八 七 年
二 月 号 )。私 の 調 べ た 資 料 に よ る と 、今 年 八 三 歳 に な る は ず で あ り 、趙 紫 陽 元 総 書 記 と 関 わ
りの深い人物である。つまり、杜老は五〇年代に六歳年下の趙紫陽(中共中央華南分局農
村工作部長)が広東省で土地改革をやっていたころ、その上司であった(中共中央中南局
秘 書 長 )。杜 老 は 七 九 ~ 八 二 年 国 家 農 業 委 員 会 副 主 任 、八 三 年 国 務 院 農 村 発 展 研 究 セ ン タ ー
主任兼中共中央書記処農村政策研究室主任をつとめて、人民公社解体、生産請負制の陣頭
指揮をとったが、当時趙紫陽は国務院副総理から総理に昇格していた。党レベルでは政治
局常務委員であった。当時、年初に農業関係の基本方針を示す「一号文件」が出され、話
題になった。三カ年分をまとめて「三つの一号文件」と呼ぶことも行われた。集団農業か
ら戸別経営への転換はまことに衝撃的であり、われわれはきそってそれを拳拳服膺したも
の で あ る 。 杜 老 の 居 宅 は 、「 元 副 総 理 級 」 で あ る か ら 、 華 国 鋒 ( 元 総 理 )、 宋 平 ( 元 政 治 局
常 務 委 員 )、張 勁 夫( 元 副 総 理 )な ど の 居 宅 と 同 じ ブ ロ ッ ク に あ る 。西 城 区 の 中 南 海 の 西 側
に位置する一角である。そこの杜老会客室で、九時半から一一時まで会見した。始めは黙
って当方の来意を聞いていたが、話しだすと、頭脳明晰、理路整然、どうしてどうして八
三歳老とは思えぬほど。現役そのものであった。同氏は約一時間しずかに語りつづけた。
以下はそのメモである。
中国の食糧問題は世界中の注目を集めている。しかし、短期的に大きな困難はない。中国
の食糧予測について正しい予測数字は見たことがない。その原因はこれが経済学の対象で
あるのみならず、生物学の対象でもあるからだ。これは国民経済の発展、世界の科学技術
の発展、その国の制度的要因などにかかわる。土地、資本、労働力、そして市場の要素は
いつも変化する。それらの要素は代替も可能である。それらの組み合わせは国により、異
なるので、経済学者、社会学者、生態学者、政府諸機関の協力が必要だ。米国のブラウン
氏 と は 面 識 が あ る〔 同 氏 の 訪 中 時 に 杜 老 を 表 敬 し た こ と を 指 す 〕。そ の 予 測 研 究 は 中 国 へ の
理解を欠いている。化学肥料の効果について「限界効用の逓減」を論じているが、それは
沿海地区の話であり、中部、西部では化学肥料の増産効果は大きい。一斤の化学肥料で三
斤の食糧増産が可能である。この事情をブラウン氏は知らない。水資源は華北、西北でと
くに不足している。しかし、今年はダムは満杯であり、河川の数量も十分である。そして
大豊作であった。これをもって南方の減産をカバーできる。耕地は一五億ムーから二〇億
ムーに上方修正された。八五~九五年の一〇年間の食糧生産をみると、三年ごとのサイク
ルを描いている。これは生産力自体の問題というよりは、マクロ・コントロールの欠如の
問題である。政府は最大の買い手だが、豊作の年に買い取り能力がない。そこで輸入で備
えようとする。農民も売りに回る。こうして政府と農民が同じ方向で行動する結果、問題
が 生 ず る 。 九 四 ~ 九 五 ~ 九 六 年 は 「 買 糧 難 」 ~ 「 売 糧 難 」 ~ 「 買 糧 難 」、 を 繰 り 返 し た 。 現
状では備蓄しにくいし、そこで価格も上下する。九六年の豊作を予想できず九五年は大量
矢吹晋『逆耳順耳』
193
に輸入してしまった。当時は売り惜しみ状況だったのだ。必ずしも不足していたのではな
い。九五年には東北三省で五〇〇万トンが買い手を求めていた。適正備蓄量の水準を発見
できていないことが問題だ。輸送が緊張し、倉庫も不足している。乾燥施設も不足だ。こ
うして、一部地区で不足し、他の地区で過剰な状態がしばしば発生する。南部で輸入し、
北部で輸出入することはありうる。今後の課題は、市場の整備および備蓄と輸送設備の拡
充、である。これによって政府の利用できるものがふえ、食糧の有効利用が可能になる。
米の生産面では、南方での面積減少が問題である。
長期的には華北は水不足問題がある。
「 南 水 北 調 」に よ り 解 決 す る 。さ ら に 科 学 技 術 の 開 発
と普及も重要だ。農村の請負体制は変えないのがよい。農民を組織することは賛成だが、
ロシア式の集団農業はダメだ。販売、加工など農業にサービスできる組織が望ましい。商
品経済の環境整備を整える必要がある。農産物の加工や、園芸の産業化、牧畜業も労働力
吸 収 の 面 で 効 果 が あ る 。こ れ ら を 利 用 し て 交 換 が で き る 。将 来 は 農 村 労 働 力 は 三 〇 ~ 四 〇 %
に減少しよう。日本と同じ傾向である。その時にはまた新しい問題が生まれるが、そのと
きの話だ。ブラウンは技術革命の可能性を否定しているが、進歩の積み重ねは大きい。米
国から帰国した友人と会ったが、耕地を細分して土壌分析を行い、施肥はコンピューター
で計測したデータにより行うコンピュータ管理農業を行っている。中国は人口コントロー
ルを決意して断固として実行している。貧困と人口増は深い関係があるので、経済発展の
ためには人口を抑制しなければならない。都市人口は現在は二八・五%だが、五~六割を
目標とする。都市では人口のコントロールはしやすい。江蘇、浙江では小城鎮作りに成功
し て い る 。中 国 の 人 口 は ブ ラ ウ ン の 予 測 よ り は 小 さ い で あ ろ う 。た だ し「 人 口 大 、耕 地 少 」
が基本的問題である。耕地については日本のように線引きにより、転用を許さない。中国
共産党の動員能力はまだあり、ここでは「政治優勢」を利用する(米国では堕胎ができな
い と い う が )。
ア ジ ア の 食 習 慣 も 続 け た い 。野 菜 や 豆 腐 を た く さ ん 食 べ て 、豚 や 牛 を 少 な
く た べ る 。牛 の ス テ ー キ は ム ダ が 多 い 。資 源 保 護 、環 境 保 護 の 視 点 か ら 問 題 を 考 え て い く 。
海資源の活用は日本に学ぶべきだ。水産品はこれまでに七〇〇万トンから二〇〇〇万トン
にふえている。中国の養豚の経験はすぐれている。一斤半のエサで豚肉一斤を生産してい
る。これは四川のケースである。世界では四~五斤のエサを用いているのと比べて、効率
的だ。農家一軒で一〇数頭飼育し、サツマイモや水草を利用している。労働力を活用して
いく。二〇三〇年は農村に人口の四割が残ることになろう。これまでは重工業優先路線の
ために雇用をふやせず、経済の負担となった。家族経営ならば、労働力の活用に向いてい
る。食糧だけの生産ならば、四割の人口はいらないが、小城鎮の発展を通じて第二次産業
化し、さらに第三次産業への展望を開くことが必要だ。
二一世紀の中国食糧には困難はあるが、克服できないものではない。所得をふやしながら
環境保護も行う、新しい道を模索しなければならない。食糧が万一困難になれば、肉の消
費 を 二 ~ 三 キ ロ 減 ら す よ う な 弾 力 的 措 置 も 可 能 で あ ろ う 。日 本 に 望 み た い の は 、貯 蔵 施 設 、
乾燥施設の建設である。東北の玉米(トウモロコシ)を福建に運ばあい七~一〇%のロス
が生まれる。乾燥不足のためである。倉庫は生産地にも消費地にも、その中間にも建設す
矢吹晋『逆耳順耳』
194
る必要がある。中央と地方政府で資金を出して倉庫を建設する計画があったが、地方が資
金 を 出 さ ず 、実 現 し な か っ た 。水 利 建 設 で も 日 本 の 協 力 が ほ し い 。
「 南 水 北 調 」の た め に は
トンネル掘りが必要だ。また黄土高原では送水用パイプラインも必要だ。これらの建設に
費用がかかる。最後に技術面だが、職業訓練により人的資本の高度化をはかりたい。日本
の農民のレベルを目標としたい。せめて台湾の標準まで高めたい。普及員の訓練、職業学
校の建設が必要だ。食糧のロスについていえば、四億トンとして、少なくとも五%はムダ
になっている。一五%とみる見方さえある。つまり「ロスによる損失分」が「輸入食糧」
を上回るわけだ。杜老は八三歳とは思えないほど、きわめて元気であった。中国では戸別
農家への請負制の功罪評価をふまえて新たな模索がはじまっている。人民公社解体という
英断を決意したブレーンの頭脳が、二一世紀初頭の食糧需給を見据えようとしているのが
印象的であった。
メールにハマってさあたいへん?
「 メ ー ル ・ リ ス ト に 入 り ま せ ん か 」 と い う お 誘 い を 安 達 正 臣 さ ん か ら い た だ い て 、メ ー
ル ・ リ ス ト な る も の の 中 身 を 知 ら ず に( 悪 い 人 で も な さ そ う だ と 思 っ て ) イ エ ス と 返 事 を
し た ( 確 か に そ う で し た 。 後 日 、 彼 の ホ ー ム ペ ー ジ を 開 い て 確 認 し ま し た )。 安 達 さ ん は
大 阪 市 淀 川 区 に 住 む 若 い 、シ ス テ ム ・ エ ン ジ ニ ア で「 中 国 情 報 連 絡 協 議 会 」な る 組 織 を つ
く り 、み ず か ら そ の 管 理 を や っ て い ま す 。
メ ー ル・リ ス ト に 参 加 し て 以 後 、 パ ソ コ ン 通
信 の メ ー ル 量 が 一 挙 に 増 え 、い さ さ か あ わ て た が 、す ぐ に な れ た 。 知 人 と の や り と り が メ
ールの海に埋没することはないのが分かった。 メール内容の識別法もいろいろあること
に気づいた。
リ ス ト ・ メ ン バ ー は か な り 若 い 人 達 ら し い 。彼 ら の 会 話 に は つ い て い け な
い と こ ろ が 多 い か ら 、そ れ に は 流 し 目 を 送 る 代 わ り に 、 画 面 を 流 せ ば よ い だ け の こ と 。 井
戸 端 会 議 に 似 た や り 取 り の な か に 、 格 調 の 高 い 会 話 や よ い 情 報( た と え ば 中 国 か ら 実 際 に
インターネット・カフェでアクセスした体験談など)もまじっている。
と い う わ け で 、ネ ッ ト サ ー フ ィ ン な ら ぬ メ ー ル サ ー フ ィ ン に ハ マ ル 次 第 と あ い な っ た 。 た
とえばYさんが「客人来了」と「来客人了」は、どう違うのかと質問を出した。すぐに中
国 人 留 学 生 か ら 正 し い 答 え が 出 た 。こ の 語 順 問 題 は す ぐ に 正 解 が 出 た の で 、 会 話 は そ れ で
おしまいなのだが、 井戸端会議というのは、 本筋とはちがうところに枝葉が出るのが面
白い。
私 は こ う 書 い た 。陳 さ ん( そ し て 李 さ ん )の 答 え が 正 し い と 思 い ま す 。
「客人来了」
は 「 話 し 手 が 予 期 し て い た 客 」 が 来 た こ と を 意 味 し ま す 。 英 語 風 に い え ば 、「 t h e 客 人 」
で す ね 。 こ れ に 対 し て 「 来 客 人 了 」 は 、「 お 客 さ ん で す よ 」 の 意 味 。 客 が 誰 で も か ま わ
な い 。 英 語 風 に い え 「 a 客 」( あ る い は 「 複 数 の g u e s t s 」 ) を 意 味 し ま す ね 。 電 話 の ほ う
が も っ と 分 か り や す い か も 。「 電 話 来 了 」 な ら 、「 来 る こ と が 分 か っ て い た ( 約 束 し て い
た ) 電 話 」 で す 。「 来 電 話 了 」 な ら 、「 誰 か 」 不 定 の 方 が 電 話 を か け て き た の で す 。 こ の
会 話 を 聞 い て い た A 氏 が こ う 割 り 込 ん だ 。「 と こ ろ で 中 国 語 の 語 順 に つ い て で す が 、 大 学
の先生の言うことには 『中国語は文法はあまり深く考えなくていい。 語順はばリズムで
決 め る ん だ 』 そ う で す 。」「 ま さ か 。 こ れ は か な り ダ メ な 教 師 か 、 あ る い は 、 学 生 が ま る
矢吹晋『逆耳順耳』
195
で ダ メ な の で 、 さ じ を 投 げ た か 、 い ず れ か で し ょ う 。」 と 私 は 割 り 込 ん だ 。
「中国語
にとって語順は決定的に重要なはずですよ。 なによりも日本語と違って助詞がない。 た
とえば 『我愛他』 は 『私が彼を愛する』 ですね。
『他愛我』 は 『彼が私を愛する』 の
です(本当はここでニイを使いたいし、あるいはオンナヘンの他を使たいところですが、
簡 体 字 を 使 い に く い の で J I S で 我 慢 )。
要 す る に 、『 誰 が 』『 誰 を 』 愛 す る の か 。 日 本
語では助詞によって明確なので、 語順 は多少変えても、 愛する主体と愛される客体が混
同することはない。
し か し 、 中 国 語 に は 、『 が 』 も な い し 、『 を 』 も な い の で す 。 だ
か ら 、『 誰 が 』『 誰 を 』 の 関 係 は 語 順 だ け で 判 断 す る ほ か な い の で す 。 語 順 が い か に 重 要 で
あるかがよく分かるはずです『
。語順はりズムで決めるんだ』といった乱暴な話を聞くと、
私 は 日 本 人 の 中 国 理 解 の 根 本 的 欠 陥 に 触 れ た 気 が し て 、 失 神 し そ う で す 。」 と コ メ ン ト し
た。
とある日、 こんなメールに接した。
「どうも、 秋も深まり、 日本列島も大体寒くなっ
て き ま し た ね 。( 大 体 と い う の は こ の メ ー ル の 中 に お ら れ る か も し れ な い 暖 か い と こ ろ に
いらっしゃる方への遠慮です)ところで、こう寒くなるとやはり日本酒なんかを熱燗で頂
いてぽかぽかしたくなってきませんか。 そこで気になったんですが、 中国ではお酒を熱
燗で飲むことはあるんでしょうか。 中国の人はご飯は温かくないと食べられないという
こと (ですから冷たい物しか食べられない寒食はほとんど拷問でしょうね) なのでちょ
っ と 気 に な っ た も の で す 。」
私の返信。
京都のA君である。
老酒紹興酒はお燗をつけて呑むのが普通です。 ご参考までに、 中国の酒
に つ い て の 専 門 家 の 本 を ご 紹 介 し ま す ( 私 の 旧 稿 の 一 部 で す が )。
生まれた酒』東方書店、 一九九二年一○月刊の話。
花井四郎箸『黄土に
瓢箪から駒が出るように、 碩学の
頭脳から芳醇な酒史、 酒論が現れた。 むろんこれは学識が自然醗酵したわけだが、 そこ
に 小 生 の 雑 文(『 蒼 蒼 』 一 九 号 )が 触 媒 と し て か か わ っ た と は 、 近 来 の 一 大 快 事 で あ る(『 黄
土 に 生 ま れ た 酒 』 の 「 あ と が き 」 を 参 照 さ れ た い )。
「老酒に氷砂糖を入れる」愚行を
指摘した花井博士の高論に接して、 矢吹がこれを吹聴し、 それが桑山龍平教授 (天理大
学 )の 眼 に と ま り 、 東 方 書 店 で 編 集 企 画 の 話 に な っ た と い う 。本 書 を ひ も と く こ と に よ っ
て中国酒の味わいが一段と深くなること疑いなしである。
万一、 あなたが下戸だとして
も 、 文 化 史 の 勉 強 に な る か ら 、 や は り 推 奨 に 値 す る 。『 蒼 蒼 』 7 1 号 、 9 6 年 1 2 月 1 0 日
中 国 映 画 祭 九 六 、『 蒼 蒼 』 7 1 号 、 9 6 年 1 2 月 1 0 日
ある朝、 ふと新聞の紹介記事を読み、たまたま試写会の案内が届いていたのに気づき、
「太陽の少年」
( 原 題 = 陽 光 燦 爛 的 日 子 )を 見 に 出 か け た 。こ の 題 名 は 秀 吉 を 想 起 さ せ 、 あ
る い は 太 陽 族 を 迎 想 さ せ る で は な い か ( 実 は そ れ が 狙 い で あ っ た ら し い )。 む し ろ 、 仮 題
と さ れ て い た「 夏 の 陽 の 輝 き 」の ほ う が 私 の 趣 味 に あ う 、 な ど と ひ と り 言 を 言 っ て い る と
ゴマシオ頭が近づいてきた。
徳間書店の岩政至道氏から編集の職場から変わったという
挨拶状を頂戴したのは記憶していたが、 久しぶりに徳間ホールにでかけて再会するまで、
新しい職場のことは失念していた。岩政氏は大野真弓名誉教授の米寿の会に出たという話
矢吹晋『逆耳順耳』
196
をする。大野教授は私か受験勉強をしていたころ、 読んだ西洋史物語の筆者であり、 私
か横浜市大に赴任したときはすでに定年であったから、私にとってはほとんど歴史上の人
物である。そのような名物教授の教え子である岩政氏は私にとって一回り上の世代に見え
る 。ゴ マ シ オ の 功 徳 か も し れ な い 。 「 ホ ー ル の 支 配 人 」 と い う 職 務 は 、 士 日 が 休 め な い
のだという岩政氏の話を聞いて納得。 なるほどサラリーマンの休日こそがサービス業界
の書き入れ時、 これは昔も今も変わらないはず。
私 が で か け た の は 実 は 寧 静 ( ニ ン・チ ン )の 容 姿 を 見 る た め で あ っ た 。 母 親 が ナ シ 族 、
父親が漢民族の混血美人かどれほどの美人かを確かめたかったのである。 ナシ族のこと
は諏訪哲郎教授のモノグラフ 『西南納西族の農耕民性と牧畜民性』 (学習院大学研究叢
書、 一九八八年)を読んで興味を抱いていた。 結論は 「可愛いが、太め」 の一語に尽
きる。 中国はまだダイエット・ムードに汚染されていないのか。 それとも妓女が学んだ
貴州省あたりの風潮がそうなのか。 いずれにせよ、 この一○年で日本の娘たちがすっか
りスリムになっていたことを私は寧静の太めスタイルから再確認させられた。
毛沢東の
ご先祖毛太華は下級軍官として雲南省まで遠征し、 平定後、 雲南の少数民族の娘と結婚
した。 このごろ日本の一部でやたらと話題にされる客家人には、 少数民族の血が色濃く
流れている。 要するに、 私は漢民族の形成史と南方の少数民族の通婚に関心があったの
で、 徳間の田村さんから「センセ、 少し宣伝して下さいよ」などと迫られてもどうしよ
うもないのである。
映 画 祭 は 「 お か げ さ ま で 二 ○ 年 」と い う 。私 は 一 ○ 年 前 ご ろ は 熱 心
に 池 袋 に 通 い 、 全 部 を 見 た 。映 画 か ら 中 国 社 会 を 読 み 取 ろ う と し て い た の で あ る 。 こ の
ご ろ そ れ に 飽 き た の は 、 私 が 老 い て 感 受 性 が 乏 し く な っ た た め か 、あ る い は 近 年 の 中 国 映
画が香港資本や日本資本を意識しすぎて鼻につくようになったからか。そのいずれかでは
なく、 両両相まってのことであろう、 などと文句をいいながら映画はクセになる。
数
日後、今度は金を払って新宿で 「項羽と劉邦」を見た。昔、 香港で一人暮らしをしてい
た 時 代 、 武 侠 片 と い う 名 の チ ャ ン バ ラ 物 を い や と い う ほ ど 見 た 。戦 闘 場 面 は 、昔 の 武 侠 片
そのものである。違いは香港経済が大英帝国の繁栄を上回るほどの一人当たりGNP水準
に到達して、 金使いが荒くなったことであろう。大陸は確実に 「香港化」しつつある。
そ の 尖 兵 が 合 作 映 画 な の だ 。人 び と は 香 港 の「 大 陸 化 」を 憂 い て い る が 、 こ れ は ほ と ん ど
空騒ぎではないのか。香港返還とは、 表向きはパッテン総督にお引き取りを願い、 董建
華氏が行政長官に就任し、ユニオン・ジャックの代わりに花蘇芳をあしらった香港特別行
政区の旗を掲げることだが、 実はこの旗は大陸の香港化への旗幟のように私には思われ
て な ら な い 。『 蒼 蒼 』 第 7 2 号 ( 1 9 9 7 年 2 月 1 0 日 )
㈱岩波書店への公開質問状
株式会社岩波書店代表取締役安江良介殿
拝啓
益々ご清栄のことお慶び申し上げます。
さて、貴書店は、さきに貴書店発行の
『 原 典 中 国 現 代 史 』別 巻「 中 国 研 究 ハ ン ド ブ ッ ク 」
( 一 九 九 六 年 七 月 二 十 九 日 発 行 )四 六 九
頁に以下のような「おわび」を掲載されました。
*
「『 原 典 中 国 現 代 史 』の 編 集 に あ た っ て は 、日 本 語 訳 が あ る 多 数 の 原 典 資 料 に つ
矢吹晋『逆耳順耳』
197
いてその一部を抜粋し転載させていただきました。
しかしながら、
〔 1 〕訳 文 の 著 作 権 者 で あ る 訳 者 の 承 諾 を 得 る べ き も の に つ い て 、承 諾 を
得 な い ま ま 転 載 し た も の が あ り ま し た 。ま た 、
〔 2 〕訳 者 の 承 諾 を 得 な い ま ま 訳 文 に 大 幅 に
手 を 加 え た り 、〔 3 〕 訳 者 名 を 表 示 し な い で 掲 載 し た も の が あ り ま し た 。〔 4 〕 い ず れ も 小
社の過ちによるものでした。
〔 5 〕関 係 各 位 に 深 く お わ び し ま す 。
ま た 、本 書 の よ う な 転
載方法は正当な引用にあたらないとのご指摘を訳者の方からいただきました。ご指摘を今
後の小社の教訓とさせていただきます。
小社は、
〔 6 〕出 版 文 化 を 守 り 発 展 さ せ て い く 立 場 か ら 、著 作 権 を 一 層 尊 重 す る よ う 努 め 、
〔7〕今後このようなことが起こらないよう厳に注意いたします一九九六年七月
岩波書
店 」(〔 1 〕 ~ 〔 7 〕 お よ び 傍 線 は 引 用 者 が 付 し た も の 。)
私 は 、上 記 の『 原 典 中 国 現 代 史 』の 第 2 巻 で あ る 岡 部 達 味 ・ 天 児 慧 編『 原 典 中 国 現 代 史 』
「 政 治 ( 下 )」
( 二 六 九 ~ 二 七 二 頁 )に よ っ て 、
『 チ ャ イ ナ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』第 3 巻 所 収
の 翻 訳 原 稿 ( 二 四 九 ~ 二 五 一 ・ 二 五 六 ~ 二 五 九 ・ 二 七 〇 ・ 二 七 三 頁 ) を 、〔 1 〕 無 断 で 使 用
さ れ 、〔 2 〕 無 断 で 加 筆 修 正 さ れ 、〔 3 〕 訳 者 名 を 表 示 し な い で 利 用 さ れ た 、 和 気 弘 の 代 理
人でありますが、以上の文章に関連する貴書店の見解、態度につき、多々疑念があります
ので、以下にそれらを明らかにし、貴書店のすみやかなる回答を促すものであります。
1 .「 お わ び 」 の 要 諦 と 問 題 点
A )「 お わ び 」 の 要 諦 は 三 点 の 著 作 権 法 違 反 の 承 認 に あ る 。
「 お わ び 」 の 要 諦 は 、「 し か し な が ら 」 以 下 の 〔 1 〕 ~ 〔 3 〕 に あ る と 、 私 は 了 解 し て お
ります。すなわち、
〔1〕訳文の著作権者である訳者の承諾を得るべきものについて、承諾を得ないまま転載
し た も の が あ っ た 。言 い 換 え れ ば 、
「 著 作 権 法 」第 二 十 一 条 に も と づ く 複 製 権(「 著 作 者 は 、
そ の 著 作 物 を 複 製 す る 権 利 を 占 有 す る 」) を 侵 犯 し た 。
〔 2 〕訳 者 の 承 諾 を 得 な い ま ま 訳 文 に 大 幅 に 手 を 加 え た 。言 い 換 え れ ば 、
「 著 作 権 法 」第 二
十条第一項にもとづく同一性保持権を侵犯した。
〔 3 〕訳 者 名 を 表 示 し な い で 掲 載 し た 。言 い 換 え れ ば 、
「 著 作 権 法 」第 十 九 条 第 一 項 に も と
づく氏名表示権を侵犯した。
そ し て 、〔 4 〕 に お い て 、 こ の 三 点 に わ た る 著 作 権 法 違 反 が 、 い ず れ も 貴 書 店 の 「 過 ち 」
によって引き起こされたものであることを認められております。
(B)誰に対して「おわび」をしているのか判らない曖昧さ。
こ の 文 章 で 、 は な は だ 訝 し く 思 わ れ る の は 〔 5 〕 で あ り ま す 。 い っ た い 、 ぜ ん た い 、「 関
係各位」とは、だれを指しておりましょうか。
「関係各位」とは、前後の文脈からすれば、貴書店の『原典中国現代史』の編集に際し
て 、上 記 の〔 1 〕~〔 3 〕に か か わ る 固 有 の 著 作 権 法 を 侵 犯 さ れ た 被 害 者( 以 下「 被 害 者 」
と略称します)を指しているようにも見かけられます。しかしながら、その場合、事情は
極 め て 具 体 的 で あ り 、 貴 書 店 は 、『 原 典 中 国 現 代 史 』 の 編 集 に 際 し て 、 A さ ん 、 B さ ん 、 C
さ ん ……の 著 作 を 、
〔 1 〕無 断 で 使 用 し た の で あ り 、
〔 2 〕ま た 、無 断 で 加 筆 修 正 し た の で あ
矢吹晋『逆耳順耳』
198
り、
〔 3 〕さ ら に 、訳 者 名 を 表 示 し な い で 利 用 し た わ け で あ り ま す 。し た が っ て 、貴 書 店 の 、
『原典中国現代史』に関する著作権違反に関する「おわび」は、Aさん、Bさん、Cさん
……に 対 す る お 詫 び で な け れ ば な ら な い 、 と 私 は 考 え ま す 。
ところが、貴書店の「おわび」は、曖昧模糊とした「関係各位」なるものに詫びておら
れます。これは著作権およびその侵犯に対する考え方、その謝罪方法として、不可解千万
であります。
(C)
「 関 係 各 位 」な る も の の 実 体 は 矢 吹 晋 、白 石 和 良 、村 田 忠 禧 の 三 人 以 外 に な い 。
さ
て 、 上 記 の 「 お わ び 」 が 出 て 以 後 、 数 紙 の 新 聞 (『 産 経 新 聞 』 一 九 九 六 年 八 月 二 十 八 日 付 、
『朝日新聞』同年八月二十八日付夕刊、共同通信配信同年九月五日付記事を掲載した地方
紙)が、貴書店の著作権違反事件について報道をして、この「おわび」の前後の事情を明
か し て お り ま す 。当 該 記 事 を 集 約 す る と 、前 記 の「 お わ び 」は 、蒼 蒼 社 発 行 の 矢 吹 晋 編『 チ
ャイナクライシス重要文献』
( 全 三 巻 )に か か わ る 具 体 的 な 係 争 和 解 の「 合 意 書 」に も と づ
いて発せられたものであることが明らかです。
すなわち、
『 チ ャ イ ナ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』は 矢 吹 晋 、白 石 和 良 、村 田 忠 禧 、そ れ に 和 気
弘の四名が翻訳した天安門事件にかんする資料集ですが、このうち矢吹晋、白石和良、村
田忠禧の三人が貴書店の著作権違反を追及した結果、上記の「おわび」を貴書店が発表す
ることをもって、両者の係争は決着をみたというわけです。
ここから前記(B)に提示した疑問、すなわち「関係各位」なるものが誰を指している
か が 判 明 し ま す 。「 関 係 各 位 」 と は 、『 チ ャ イ ナ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 の 翻 訳 者 で あ る 矢 吹
晋、白石和良、村田忠禧を指しており、それ以外の何者も意味していない、と私は了解し
ます。
(D)和気弘は「関係各位」ではなく、その著作権違反事件はなお、未解決である。
ちなみに、和気弘は、矢吹晋、白石和良、村田忠禧と貴社との係争にはかかわっておら
ず、その著作権違反事件は、矢吹晋、白石和良、村田忠禧の三人の著作権違反事件とは別
ものであります。和気弘は和気弘の固有の著作権を貴書店に侵犯されたのですから、貴書
店は、和気弘に対して、著作権違反の事実を認め、相応の詫びをする必要がある、と考え
ます。
(E)その他の大量の著作権違反事件は、全く未解決である。
貴社の『原典中国現代史』は、日本語訳がある多数の原典資料を大量に抜粋し利用して
おりますが、貴社が『チャイナクライシス重要文献』について著作権法違反を犯したと同
様に、他の「日本語訳がある多数の原典資料」の利用についても同種の著作権違反を犯し
ています。具体的証拠は後にかかげることにして、予め結論を申し上げれば、貴社の『チ
ャ イ ナ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』に つ い て の 著 作 権 違 反 事 件 は 氷 山 の 一 角 に す ぎ ず 、
『原典中国
現代史』は実は、その他に尨大な量の著作権違反を犯しております。そして、それらの著
作権違反の事実を承知しながら、貴書店はそれらを未解決のまま放置しております。
2 .『 原 典 中 国 現 代 史 』 の 著 作 権 取 得 事 務 手 続 き は ど の よ う に 行 わ れ た か
貴書店の沢株正始編集部課長は、本件について「編集者の手続き上のミスだった」と弁
矢吹晋『逆耳順耳』
199
明 し て お ら れ ま す (『 産 経 新 聞 』 一 九 九 六 年 八 月 二 八 日 )。 で は 、 い か な る 「 手 続 き 上 の ミ
ス」を犯したのでしょうか。
ここに、
『 原 典 中 国 現 代 史 』の 担 当 編 集 者 で あ る 林 建 朗 氏 が 、当 該 書 の 著 作 権 問 題 に つ い
てどのように考え、著作権者及び原典刊行出版社にどのような事務処理したのかを説明し
た、書翰があります。書翰の宛て名は、矢吹、白石、村田各氏であります。貴書店の犯し
た「 手 続 き 上 の ミ ス 」を 考 え る 上 で 、こ の 書 翰 は 極 め て 重 要 な 証 拠 物 件 と 思 わ れ ま す の で 、
以下にその全文を引用します。
前略
〔前文省略〕
さて、小社では、十月二十日にシリーズ『原典中国現代史』第二巻『政治』下(岡部達
味 ・ 天 児 慧 編 ) を 刊 行 い た し ま し た 。 そ の 中 に 、 ○○様 が 翻 訳 さ れ た 、 矢 吹 晋 編 訳 『 チ ャ イ
ナ・クライシス重要文献』第一~三巻から、別紙記載の文献を部分的に収録させていただ
きました。
一般に、文書の件数や分量にもよりますが、今回のシリーズ『原典中国現代史』では、
一つの書籍・資料集からの転載が十件以上にのぼる場合には、出版社に電話や書簡で転載
の了解を求めております。出版社から了解を得られた場合には出典を明記して転載させて
いただいてまいりました。
今回の件についても、私が十月二日に蒼蒼社社主の中村公省氏に電話を差し上げ、転載
の了解を得ております。ところが、本日(二十日)午前に中村氏より電話があり、矢吹様
と白石様、それに村田忠禧様からは了解を得ていないようなので、それぞれ了解をとって
ほしい、二日に了解したのは出版権についてであり、著作権については了解したわけでは
ないので、今のままでは「無断引用」である、という主張を展開されました。
通常、事前に相手方の出版社から何の条件も出なかった場合には、出版権と著作権の問
題はクリアされたものと理解して、転載させていただいております。二日には中村氏より
矢吹様、白石様、村田様に了解を求めるようには要請されませんでした。二日にその旨の
要請があれば、その時点でこのようなお手紙を差し上げたはずです。
これまでも本シリーズにおいては、
『新中国資料集成』
『大躍進政策の展開』
(以上二著と
も 日 本 国 際 問 題 研 究 所 )、
『中国プロレタリア文化大革命資料集成』
( 東 方 書 店 )、
『中国共産
党最新資料集』
( 勁 草 書 房 )な ど に つ い て 転 載 の 了 解 を 求 め ま し た が 、今 回 の よ う な 問 題 は
生じませんでした。
な お 、 中 村 氏 は 「 無 断 引 用 」 と い う 見 解 を 表 明 さ れ ま し た が 、「 無 断 引 用 」 と は 、 出 典 が
明記されていないケースを言うというのが当方の理解ですので、そのように申し上げまし
た 。 ま た 、 中 村 氏 は 出 典 の 記 載 に あ た り 、「 矢 吹 晋 編 訳 『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 」
第一巻、蒼蒼社、一九八九年、四八-四九頁」と記すのでは不十分であり、白石様と村田
様のお名前も記すように主張されましたが、これも表紙・背表紙に「矢吹晋編訳」とのみ
記されておりますので、そのように変更することは妥当でないと申し上げました。
しかしながら、事後とはいえ、中村氏より上記のようなご意見が提出されましたので、
今回このお手紙を差し上げ、併せて別便により『原典中国現代史』第二巻「政治」下をお
矢吹晋『逆耳順耳』
200
送 り 申 し 上 げ 、 ○○様 の ご 了 解 を 得 た く 思 い ま す 。 返 信 用 封 筒 を 同 封 い た し ま す の で 、 ご 返
事を頂戴したく存じます。どうかよろしくお願いいたします。
別 紙 に 収 録 文 献 の 一 覧 を 記 し ま す 。〔 資 料 1 と し て 後 掲 〕
草々
一九九五年十月二十日/岩波書店編集部/林建朗
〔 ○ ○ の 部 分 に は そ れ ぞ れ 矢 吹 、 白 石 、 村 田 の 名 前 が 記 さ れ て い る 。〕
一つ前置きをさせていただきます。
上記林書翰には、林建朗氏が蒼蒼社代表取締役中村公省と電話で交渉したやりとりが記
してありますが、和気弘は、そのやりとりの内容について関わり知りません。また、和気
弘の代理人の中村公省も、
〔 誤 解 が 含 ま れ て い る に も か か わ ら ず 〕こ れ に つ い て 、こ こ で 言
及する必要を感じません。何故なら、和気弘は矢吹、白石、村田氏と同様に、蒼蒼社代表
取締役中村公省との間で、林建朗氏が手前勝手に想定しているような著作権契約は結んで
いないからであります。すなわち、和気弘の翻訳は和気弘自身に著作権があり、蒼蒼社に
その全権を譲渡した覚えは全くありません。
さて、本題にはいります。
林書翰の中から、著作権の事務処理についての編集者の手続き、すなわち岩波書店の手
続 き の ポ イ ン ト を 抽 出 す れ ば 、 以 下 の 四 点 に な り ま し ょ う 〔 傍 線 は 引 用 者 〕。
1今回のシリーズ『原典中国現代史』では、一つの書籍・資料集からの転載が十件以上に
のぼる場合には、出版社に電話や書簡で転載の了解を求めております。
2出版社から了解を得られた場合には出典を明記して転載させていただいてまいりました。
3通常、事前に相手方の出版社から何の条件も出なかった場合には、出版権と著作権の問
題はクリアされたものと理解して、転載させていただいております。
4これまでも本シリーズにおいては、
『新中国資料集成』
『大躍進政策の展開』
(以上二著と
も 日 本 国 際 問 題 研 究 所 )、
『中国プロレタリア文化大革命資料集成』
( 東 方 書 店 )、
『中国共産
党最新資料集』
( 勁 草 書 房 )な ど に つ い て 転 載 の 了 解 を 求 め ま し た が 、今 回 の よ う な 問 題 は
生じませんでした。
著 作 権 の 事 務 処 理 は 著 作 権 法 に も と づ い て 行 わ な け れ ば な り ま せ ん が 、『 原 典 中 国 現 代
史』に関する貴書店の著作権の事務処理の手続きは、著作権法のどの条文にもとづいて適
法性をもたせておられるのでありましょうか。まったく疑問であります。
林 書 簡 の 中 に は 「 収 録 」「 転 載 」「 了 解 」 と い う キ ー ワ ー ド が 出 現 し て い ま す が 、 こ れ ら
の言葉は著作権法の以下の条文を根拠に考えられるべきでありましょう。
「 収 録 」 の 意 味 ───著 作 権 法 第 二 条 第 一 項 十 五 号 の 「 複 製 」 に あ た る 。
「 転 載 」 の 意 味 ───著 作 権 法 第 二 条 第 一 項 十 五 号 の 「 複 製 」 に あ た る 。
「 了 解 」 の 意 味 ───「 複 製 」 に つ い て 著 作 権 者 の 承 諾 を 得 る こ と 。
以 上 の よ う に 著 作 権 法 を 基 礎 に 、こ の 問 題 を 考 え て い く な ら 、
『 原 典 中 国 現 代 史 』に 関 す
る貴書店の著作権の事務処理の手続きは、著作権法に違反する点があることは自ずから明
らかであります。著作権法違反にあたると考えられる点は多岐にわたりますが、ここでそ
のすべてにわたって言及する余裕はありませんから、一つだけ指摘しておきましょう。
矢吹晋『逆耳順耳』
201
「 複 製 」が 十 点 以 上 に の ぼ る 場 合 は「 複 製 」に つ い て 著 作 権 者 の 承 諾 を 得 る 必 要 が あ る が 、
「複製」が十点未満の場合は、その必要がない、という考えは、誰がどう見ても「著作権
法 」 第 二 十 一 条 に も と づ く 複 製 権 (「 著 作 者 は 、 そ の 著 作 物 を 複 製 す る 権 利 を 占 有 す る 」)
を 侵 犯 し て い ま す 。「 複 製 」 が た と え 一 点 で も 、「 複 製 」 に つ い て 著 作 権 者 の 承 諾 を 得 る 必
要があることは、この法の根本精神であります。
よ り 重 大 な こ と は 、『 原 典 中 国 現 代 史 』 に 関 す る 貴 書 店 の 著 作 権 の 事 務 処 理 の 手 続 き が 、
実際に、この「編集者の手続き」によって実行されたという驚くべき事実であります。言
い換えれば、貴書店の著作権の事務処理は、根本から著作権法違反を犯していたと思われ
ます。
念 の 為 に 、林 書 簡 か ら 推 察 し て 、
『 原 典 中 国 現 代 史 』に 関 す る 貴 書 店 の 著 作 権 の 事 務 処 理
の手続きは、以下のように行われたことを確認しておきましょう。
a一つの書籍・資料集からの転載が十件以上にのぼる場合には、出版社に電話や書簡で転
載の了解を求め、出版社から了解を得られた場合には出典を明記して転載した。
b一つの書籍・資料集からの転載が十件未満の場合は、出版社に電話や書簡で転載の了解
を求めることも、著作権者に、転載の了解を求めることもしなかった。
c事前に相手方の出版社から何の条件も出なかった場合には、出版権と著作権の問題はク
リアされたものと理解した。
d出版社に電話や書簡で転載の了解を求め、出版社から了解を得られた場合には、著作権
者に転載の了解を求めることをしなかった。
『新中国資料集成』
『大躍進政策の展開』
(以上
二 著 と も 日 本 国 際 問 題 研 究 所 )、
『中国プロレタリア文化大革命資料集成』
( 東 方 書 店 )、
『中
国共産党最新資料集』
( 勁 草 書 房 )な ど に つ い て も 、そ の 翻 訳 の 著 作 権 者 に 転 載 の 了 解 を 求
めることをしなかった。
3 .『 原 典 中 国 現 代 史 』 に 無 断 使 用 さ れ た 文 献
『 原 典 中 国 現 代 史 』 は 全 八 巻 別 巻 一 巻 の 膨 大 な 資 料 集 で す ( 第 一 巻 「 政 治 ・ 上 」、 第 一 巻
「 政 治 ・ 下 」、 第 三 巻 「 経 済 」、 第 四 巻 「 社 会 」、 第 五 巻 「 思 想 ・ 文 学 」、 第 六 巻 「 外 交 」、 第
七 巻 「 台 湾 ・ 香 港 ・ 華 僑 華 人 」、 第 八 巻 「 日 中 関 係 」、 別 巻 「 中 国 研 究 ハ ン ド ブ ッ ク 」)。 し
たがって、既刊の出版物から『原典中国現代史』に「転載」された文献は相当な量にのぼ
っています。
ま ず 、 林 書 簡 の な か に 記 さ れ て い る 『 新 中 国 資 料 集 成 』『 大 躍 進 政 策 の 展 開 』( 以 上 二 著
と も 日 本 国 際 問 題 研 究 所 )、
『中国プロレタリア文化大革命資料集成』
( 東 方 書 店 )、
『中国共
産党最新資料集』
( 勁 草 書 房 )が あ り ま す 。こ れ ら は 、そ の 出 版 社 か ら 了 解 を 得 た が 、そ の
翻 訳 の 著 作 権 者 に 転 載 の 了 解 を 求 め る こ と を し な か っ た 、と 推 察 さ れ ま す(『 チ ャ イ ナ ク ラ
イ シ ス 重 要 文 献 』 も こ れ に 準 ず る ケ ー ス で し ょ う 。)
次に、上記資料集以外に、どんな文献が『原典中国現代史』に使用されているかを一覧
に し て み ま し ょ う 。〔 後 掲 資 料 2 『 原 典 中 国 現 代 史 』 使 用 文 献 一 覧 を 参 照 〕
これらは、林書簡に示された
b一つの書籍・資料集からの転載が十件未満の場合は、出版社に電話や書簡で転載の了解
矢吹晋『逆耳順耳』
202
を求めることも、著作権者に、転載の了解を求めることもしなかった。
に 該 当 し ま す 。す な わ ち 、こ れ ら の 翻 訳 著 作 は 、貴 書 店 に よ っ て「 無 断 使 用 」
(「 無 断 引 用 」
ではありません)されたわけです。この事務手続きは、明らかに「著作権法」第二十一条
にもとづく複製権の侵犯に相当します。
問題は、これだけにとどまりません。事態が深刻なのは、この「無断使用」が次の二つ
の著作権法違反をともなっているからです。
◇訳者の承諾を得ないまま訳文に大幅に手を加えた。
◇訳者名を表示しないで掲載した。
前 者 は 、い ち い ち す べ て に わ た っ て 調 べ て あ り ま せ ん が 、
『チャイナクライシス重要文献』
の矢吹、白石、村田、及び和気弘の場合は訳文に手を加えられていますから、他の訳文で
も 同 様 な こ と を や っ て い る と 見 て 、ほ ぼ 間 違 い な い で し ょ う 。こ の 事 務 手 続 き は 、
「著作権
法」第二十条第一項にもとづく同一性保持権の侵犯に相当します。
後者は、
『 原 典 中 国 現 代 史 』の 引 用 表 記 様 式 と し て 普 遍 的 に や っ て お り ま す 。当 該 単 行 本
の編者の名前を挙げるだけで、当該著作の翻訳者の名前は総じて表示していません。これ
は『原典中国現代史』の引用表記様式プリンシプルとして、林書簡の中に明確に述べられ
て お り ま す 。こ の 事 務 手 続 き は 、
「 著 作 権 法 」第 十 九 条 第 一 項 に も と づ く 氏 名 表 示 権 の 侵 犯
に該当します。
4 .『 原 典 中 国 現 代 史 』 の 著 作 権 取 得 事 務 手 続 き は や り 直 さ な く て は な ら な い
『原典中国現代史』の著作権取得事務手続きは、以上の2及び3に見たようなものであ
ったと推察されますが、
『 原 典 中 国 現 代 史 』別 巻「 中 国 研 究 ハ ン ド ブ ッ ク 」掲 載 の「 お わ び 」
では、以下のことを表明しておられます。
〔1〕訳文の著作権者である訳者の承諾を得るべきものについて、承諾を得ないまま転載
したものがありました。また、
〔2〕訳者の承諾を得ないまま訳文に大幅に手を加えたり、
〔3〕訳者名を表示しないで掲載したものがありました。
〔4〕いずれも小社の過ちによるものでした。
〔5〕関係各位に深くおわびいたします。
〔6〕出版文化を守り発展させていく立場から、著作権を一層尊重するよう努め、
〔7〕今後このようなことが起こらないよう厳に注意します。
以上のうち、
〔 1 〕~〔 3 〕は 具 体 的 に は 、林 書 簡 に 示 さ れ て い る 貴 書 店 の 著 作 権 取 得 事
務 手 続 き と ピ タ リ と 符 合 し ま す 。 し た が っ て 、〔 4 〕 の 「 小 社 の 過 ち 」 と は 、 林 書 簡 に 示 さ
れている貴書店の著作権取得事務手続きに過ちがあったと認められたものと判断されます。
すなわち、貴書店の沢株正始編集部課長のいう「編集者の手続き上のミス」とは、林書簡
に示されている貴書店の著作権取得事務手続きのミス以外のなにものでもないでありまし
ょう。
貴 書 店 は 、「 お わ び 」 に お い て 、〔 6 〕 出 版 文 化 を 守 り 発 展 さ せ て い く 立 場 か ら 、 著 作 権
を一層尊重するよう努め〔
、 7 〕今 後 こ の よ う な こ と が お こ ら な い よ う 厳 に 注 意 い た し ま す 、
矢吹晋『逆耳順耳』
203
と表明しておられます。この立場と方針は、当然、実行をともなわなくてはなりません。
古人は「善をみては則ち遷り、過ちあれば則ち改む」といっています。そもそも、林書
簡 に 示 さ れ て い る 貴 書 店 の 著 作 権 取 得 事 務 手 続 き に 過 ち が あ っ た わ け で す か ら 、「 お わ び 」
の趣旨にもとづいて著作権取得事務手続きはやり直すべきでありましょう。
ところが、沢株課長は、以下のように表明しております。
「 編 集 者 の 手 続 き 上 の ミ ス だ っ た 。た だ 、著 作 権 法 を 厳 密 に 適 用 す れ ば 、こ の よ う な『 編
集もの』の出版はできなくなり、出版界にとってマイナス。社として今回、残りの訳者全
員に直接わびることはしない。ただし、今後、同様のケースでは必ず訳者の了解を得る」
(『 産 経 新 聞 』 一 九 九 六 年 八 月 二 十 八 日 )
これは、奇怪な論法です。前半の「著作権法を厳密に適用すれば、このような『編集も
の』の出版はできなくなり、出版界にとってマイナス」とは、何事でしょう。今回と同様
なことをまたやるつもりでしょうか。犯罪を犯して出版商売はなりたちません。
後半の言はどうでしょうか。
「社として今回、残りの訳者全員に直接わびることはしない。ただし、今後、同様のケ
ー ス で は 必 ず 訳 者 の 了 解 を 得 る 」。
今 後 の こ と を 語 る の は 、と り か え し の つ か な い こ と
をした場合の常套句です。今回は、まだ、とりかえしがつく状態にあるのですから、著作
権取得事務手続きをやり直し、残りの訳者全員に直接わびて、事後ながら訳者の了解を得
るべきではないでしょうか。詫びる側の誠意がそうした形で示されてこそ、詫びられる側
は 詫 び る 側 を 許 す の で あ り ま す 。ミ ス を 犯 し た の を 百 も 承 知 で 、
「 わ び な い 」と 居 直 っ て い
るのは、
「 出 版 文 化 を 守 り 発 展 さ せ て い く 立 場 」と 懸 絶 し 、貴 書 店 の 名 誉 を 著 し く 損 な っ て
いるとお見受けいたします。
最後に貴殿に対する私の要求を二点にまとめておきます。
(1)
「 お わ び 」の 趣 旨 に の っ と り 、貴 殿 は 貴 書 店 発 行 の『 原 典 中 国 現 代 史 』の 著 作 権 取 得
事務手続きを全面的にやり直すべきである。
(2)
「 お わ び 」の 趣 旨 に の っ と り 、貴 殿 は 和 気 弘 の 著 作 権 侵 害 に つ い て 相 応 の 処 置 を す べ
きである。
貴書店の最高責任者である貴殿のすみやかなる回答をお願い申し上げます。敬具
一九九七年二月十日
和気弘代理人・株式会社蒼蒼社代表取締役
【資料1
中村公省
林書翰の付帯資料】
以下に、今回収録した文書を記します。データは前から第2巻『政治』下の収録頁、
資 料 タ イ ト ル 、 日 付 、『 華 国 鋒 政 権 成 立 前 夜 』、『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 1 ~
3巻の収録頁です。
「全文」と記したもの以外は、全て部分収録です。
『 政 治 』 下 の 凡 例 Ⅱ ―3 に 示 し ま し た よ う に 、 編 者 の 判 断 で 、 訳 文 に 手 を 入 れ た 場 合
が あ り ま す 。 こ の 場 合 に は 出 典 欄 の 先 頭 に * ( ア ス テ リ ス ク ) を 付 し 、『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ
イシス重要文献』の訳文と一部異なることを示しました。
矢吹晋『逆耳順耳』
204
タイトルも、一般読者の分かりやすいように変更した場合があります。
◇ 39~ 40 頁
8月1日
胡 耀 邦 ら「 科 学 技 術 活 動 に つ い て の 諸 問 題 」
(報告提綱第一稿)
『 華 国 鋒 政 権 成 立 前 夜 』 / 247~ 248 頁
◇ 40~ 41 頁
年 9 月 22 日
国 務 院 関 連 部 門「 工 業 の 発 展 を 速 め る こ と に つ い て の 若 干 の 問 題 」
1975
『 華 国 鋒 政 権 成 立 前 夜 』 / 209~ 210・ 215・ 230 頁
◇ 41~ 42 頁
日
1975 年
国 務 院 政 治 研 究 室 「 全 党 全 国 の 諸 工 作 の 総 綱 に つ い て 」 1975 年 10 月 7
『 華 国 鋒 政 権 成 立 前 夜 』 / 173・ 193・ 197 頁
◇ 213~ 214 頁
薄一波による胡耀邦辞任の背景説明
1987 年 1 月 16 日 『 チ ャ イ ナ ・
ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 1 巻 / 48~ 49 頁
◇ 235~ 237 頁
厳家其と温元凱の対話
1 9 8 8 年 11 月 1 6 日 『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス
第 1 巻 / 54~ 55・ 59・ 62 頁
重要 文献』
◇ 237~ 239 頁
北 京 科 学 界 42 人 の 公 開 状 ( 全 文 )
1989 年 2 月 26 日 『 チ ャ イ ナ ・
ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 1 巻 / 81~ 83 頁
◇ 239~ 240 頁
□( 登 + 都 - 者 ) 小 平 の 趙 紫 陽 へ の 指 示 1 9 8 9 年 3 月 初 め 『 チ ャ イ ナ ・
ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 1 巻 / 85~ 86 頁
◇ 243 頁 北 京 大 学 学 生 準 備 委 員 会 の 請 願 書 ( 全 文 ) 1989 年 4 月 21 日 『 チ ャ イ ナ ・ ク
ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 1 巻 / 93~ 94 頁
◇ 244 頁
学生デモのスローガン
1989 年 4 月 24 日 『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文
献 』 第 1 巻 / 95 頁
◇ 244~ 245 頁
□小 平 の 北 京 市 委 員 会 の 状 況 報 告 に 対 す る 講 話 1989 年 4 月 25 日 *
『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 1 巻 / 129~ 132 頁
◇ 252~ 253 頁
趙 紫 陽 ・ ゴ ル バ チ ョ フ 会 談 に つ い て の 新 華 社 報 道 1989 年 5 月 16 日
『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 1 巻 / 270~ 272 頁
◇ 255~ 256 頁 厳 家 其 ・ 包 遵 信 ら の「 五 ・ 一 七 宣 言 」
( 全 文 )1989 年 5 月 17 日『 チ ャ イ
ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 2 巻 / 25~ 26 頁
◇ 2 5 6 頁 北 京 市 の 一 部 地 域 に 戒 厳 令 を 実 施 す る こ と に 関 す る 国 務 院 命 令( 全 文 ) 1 9 8 9
年 5 月 20 日
『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 2 巻 / 108 頁
◇ 256~ 258 頁 李 鵬 総 理 の「 講 話 要 点 」 1989 年 5 月 22 日 『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重
要 文 献 』 第 2 巻 / 145~ 147 頁
◇ 258 ~ 260 頁 万 里 全 人 代 委 員 長 の 上 海 で の 書 面 談 話 1989 年 5 月 27 日 * 『 チ ャ イ
ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 2 巻 / 258~ 259 頁
◇ 260 ~ 261 頁 胡 績 偉 の 弁 明 1989 年 5 月 30 日 『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』
第 3 巻 / 34~ 35 頁
◇ 261~ 262 頁 香 港 の 新 聞 記 者 ・ 学 生 「 軍 隊 に よ る 大 虐 殺 の 全 過 程 」 1989 年 6 月 2 日
『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 3 巻 / 123・ 125~ 126 頁
◇ 262~ 264 頁
シ ン ガ ー ・ ソ ン グ ラ イ タ ー 侯 徳 健 の 証 言 1989 年 6 月 3 日 ~ 4 日 『 チ
ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 3 巻 / 166~ 167 頁
矢吹晋『逆耳順耳』
205
◇ 264~ 266 頁
戒 厳 部 隊 の 幹 部 を 接 見 し た と き の □ 小 平 講 話 1 9 8 9 年 6 月 9 日『 チ ャ イ
ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 3 巻 / 197~ 201 頁
◇ 269~ 272 頁
陳 希 同「 動 乱 を 制 止 し 、反 革 命 騒 乱 を 平 定 し た 状 況 に 関 す る 報 告 」 1 9 8 9
年 6 月 3 0 日 『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』 第 3 巻 / 2 4 9 ~ 2 5 1・ 2 5 6 ~ 2 5 9・ 2 7 0・ 2 7 3
頁
【資料2
『原典中国現代史』使用文献一覧】
政 治・上
本 郷 賀 一『 工 作 通 訊 抄 』
(時事通信社)
政 治・上
新 島 淳 良 編『 毛 沢 東 最 高
指 示 』( 三 一 書 房 )
政治・上
加 々 美 光 行 編 『 資 料 中 国 文 化 大 革 命 - 出 身 血 統 主 義 を め ぐ る 論 争 』( り く え
つ)
政治・上
刈 間 文 俊 『 私 の 紅 衛 兵 時 代 』( 講 談 社 )
政治・上
竹 内 実 編 『 ド キ ュ メ ン ト 現 代 史 16
政治・上
竹内実編訳『毛沢東
政治・下
村 田 忠 禧 『 華 国 鋒 政 権 成 立 前 夜 』( 三 一 書 房 )
政治・下
藤 井 省 三 『 中 国 の 地 の 底 で 』( 朝 日 新 聞 社 )
政治・下
山 田 侑 平 ・ 小 林 幹 夫 『 李 一 哲 の 大 字 報 』( 日 中 出 版 )
政治・下
藤 本 幸 三 編 『 ド キ ュ メ ン ト 「 天 安 門 詩 文 集 」』( 徳 間 書 店 )
政治・下
渡辺俊彦編『中国
政治・下
尾 崎 庄 太 郎 『 中 国 民 主 活 動 家 の 証 言 』( 日 中 出 版 )
政 治・下
六 四 中 国 近 現 代 史 研 究 者 声 明 有 志 連 絡 会 編『 中 国 民 主 と 自 由 の 軌 跡 』
(青木書
文 化 大 革 命 』( 平 凡 社 )
文 化 大 革 命 を 語 る 』( 現 代 評 論 社 )
自 由 へ の 鼓 動 』( 日 中 出 版 )
店)
政治・下
末 吉 作 『 中 国 よ 変 わ れ 』( 学 生 社 )
政治・下
加 々 美 光 行 ・ 村 田 雄 次 郎 監 『 天 安 門 の 渦 潮 』( 岩 波 書 店 )
社会
加 々 美 光 行 編『 資 料 中 国 文 化 大 革 命 - 出 身 血 統 主 義 を め ぐ る 論 争( り く え つ )
社会
黄 文 雄 『 食 人 宴 席 』( 光 文 社 )
社会
武 吉 次 朗 『 盲 流 』( 東 方 書 店 )
社会
田 畑 佐 和 子 ・ 田 畑 光 永 『 天 雲 山 伝 奇 』( 亜 紀 書 房 )
社会
色 川 大 吉 『 雲 表 の 国 - チ ベ ッ ト 踏 査 行 』( 小 学 館 )
社会
西 条 正 『 中 国 人 と し て 育 っ た 私 』( 中 央 公 論 社 )
社会
田 畑 佐 和 子 『 戴 晴 「 私 の 入 獄 」』( 中 国 研 究 所 )
社会
矢 吹 晋 『 中 国 の ペ レ ス ト ロ イ カ 』( 蒼 蒼 社 )
社会
園 田 茂 人 監 訳 『 変 貌 す る 中 国 の 家 族 』( 岩 波 書 店 )
社会
橋 本 満 ・ 深 尾 葉 子 編 『 現 代 中 国 の 底 流 』( 行 路 社 )
社会
小 林 弘 二 監 訳 『 チ ェ ン 村 - 中 国 農 村 の 文 革 と 近 代 化 』( 筑 摩 書 房 )
社会
園 田 茂 人 『 中 国 の 家 族 と 宗 族 に 関 す る 諸 問 題 』( 岩 波 書 店 『 思 想 』)
社会
和 田 武 司 ・ 田 口 佐 紀 子 『 中 国 女 性 事 情 』( 草 風 館 )
社会
矢 吹 晋 編 『 チ ャ イ ナ ・ ク ラ イ シ ス 重 要 文 献 』( 蒼 蒼 社 )
矢吹晋『逆耳順耳』
206
社会
東 京 大 学 近 代 中 国 史 研 究 会 『 毛 沢 東 思 想 万 歳 』( 三 一 書 房 )
社会
山 本 市 朗 『 北 京 三 十 五 年 』( 岩 波 書 店 )
社会
矢 島 翠 『 ア ジ ア 特 電 』( 平 凡 社 )
社会
刈 間 文 俊 『 私 の 紅 衛 兵 時 代 』( 講 談 社 )
社会
竹 内 実 編 『 ド キ ュ メ ン ト 現 代 史 16
社会
林 郁 他 編 訳 『「 性 」 を 語 り 始 め た 中 国 の 女 た ち 』( 徳 間 書 店 )
社会
小 島 晋 治 他 訳 『 中 国 農 村 の 細 密 画 』( 研 文 出 版 )
社会
秋 山 洋 子 編 訳 『 中 国 女 性 』( 東 方 書 店 )
思想文学
斉 藤 秋 男 『 民 族 解 放 の 教 育 』( 明 治 図 書 )
思想文学
池 田 篤 紀 『 風 暴 十 年 』( 時 事 通 信 社 )
思想文学
中 島 み ど り 『 幹 校 六 記 』( み す ず 書 房 )
外交
松 岡 洋 子 『 北 京 ・ ワ シ ン ト ン ・ ハ ノ イ 』( 朝 日 新 聞 社 )
外交
伊 藤 喜 久 蔵 ・ 柴 田 穂 『 文 革 の 三 年 』( 経 済 往 来 社 )
外交
松 岡 洋 子 『 革 命 、 そ し て 革 命 … … 』( 朝 日 新 聞 社 )
外交
斉 藤 弥 三 郎・小 林 正 文・大・人 一・鈴 木 康 雄『 キ ッ シ ン ジ ャ ー 秘 録 』
(小学館)
外交
持 日 直 武 ・ 平 野 次 郎 ・ 植 田 樹 ・ 寺 内 正 義『 カ ー タ ー 回 顧 録 』
(日本放送出版協
文 化 大 革 命 』( 平 凡 社 )
会)
外交
小 林 弘 二 編 『 中 国 の 世 界 認 識 と 開 発 戦 略 関 係 資 料 』( ア ジ ア 経 済 研 究 所 )
台湾香港
大和田悳朗『OECDレポート
台湾香港
司 馬 遼 太 郎 『 台 湾 紀 行 〈 街 道 を 行 く 四 十 〉』( 朝 日 新 聞 社 )
台湾香港
石 塚 雅 彦 『 サ ッ チ ャ ー 回 想 録 』( 日 本 経 済 新 聞 社 )
台湾香港
田 中 恭 子 『 中 国 ・ 香 港 を 語 る 』( 穂 高 書 店 )
台湾香港
梅 澤 達 雄 『 ス ハ ル ト 体 制 の 構 造 と 変 容 』( ア ジ ア 経 済 研 究 所 )
台湾香港
戴 国 ● ( 火 + 軍 ) 編 『 も っ と 知 り た い 華 僑 』( 弘 文 堂 )
日中関係
竹内
新 興 工 業 国 の 挑 戦 』( 東 洋 経 済 新 報 社 )
好『 竹 内 好 全 集 第 4 巻 』
(筑摩書房)
『 蒼 蒼 』第 7 4 号 ( 1 9 9 7
年 6 月 10 日 )
㈱岩波書店への公開質問状・第二信
株式会社岩波書店代表取締役安江良介殿
前略
私 ( 和 気 弘 代 理 人 ・ 株 式 会 社 蒼 蒼 社 代 表 取 締 役 中 村 公 省 ) は 、 さ き に 、『 蒼 蒼 』 第
七十二号(二月十日発行)誌上に貴殿に対する公開質問状を発し、貴殿にもその一部をお
届け致しました。それ以来すでに四カ月を経ていますが、貴殿からはなんらの御返事も戴
いておりません。誠に遺憾であります。
しかしながら、貴社の「編集部長
伊藤修」名義の以下のごとき書翰は、確かに拝受い
たしました。
*
中村公省殿
前略
「蒼蒼」第七十二号(一九九七年二月十日発行)に掲載された「㈱岩波書店への
矢吹晋『逆耳順耳』
207
公開質問状」について次のとおりご連絡いたします。
1.
「 原 典 中 国 現 代 史 」へ の 訳 文 転 載 に 関 し ご 指 摘 い た だ い た 件 に つ き ま し て は 、同 書 別 巻
に 「 お わ び 」 を 掲 載 し 、 か つ 、 そ の こ と を 当 社 発 行 の 「 図 書 」( 一 九 九 六 年 九 月 号 ) で 広 く
お知らせいたしましたので、それ以上の措置を取ることは考えておりません。
2.
『 原 典 中 国 現 代 史 』に 和 気 弘 氏 の 訳 文 を 転 載 さ せ て い た だ い た 件 に つ き ま し て は 、同 氏
に直接お会いしたうえで対処させていただきたいと考えております。
「和気弘」は筆名と推察いたしますので、お名前、ご住所等を明らかにされたうえで当
社あて直接ご連絡いただくようお伝えください。
3.なお、貴殿は和気弘氏の訳文を含め「チャイナ・クライシス重要文献」所収の訳文を
『 原 典 中 国 現 代 史 』に 転 載 す る こ と を あ ら か じ め 承 諾 し て お ら れ た も の で あ り 、
「公開質問
状」は理解に苦しみます。草々
一九九七年三月二十五日
株式会社岩波書店編集部長
伊藤
修
(1)岩波書店を法的に代表し得るのは誰か
この伊藤修編集部長の書翰(以下「伊藤書翰」と略称)は、貴殿が命じて出させたもの
でありましょうか。どこをどう見ても、伊藤修編集部長が株式会社岩波書店代表取締役安
江良介殿の代理人であるという文言はありませんから、貴殿の代理人でないことは間違い
ないでしょう。
で は 、伊 藤 修 編 集 部 長 は 株 式 会 社 岩 波 書 店 を 代 表 し う る 役 職 に あ り ま し ょ う か 。
「編集部
長」とのみありますから、株式会社岩波書店を法的に代表し得る人物であるとは見なせま
せ ん 。 わ た し の 解 す る と こ ろ 伊 藤 氏 は 、「 編 集 部 長 」 と い う 名 の 「 た だ の 事 務 当 局 者 」 に す
ぎず、当該著作権問題について株式会社岩波書店を代表する法的資格はないものと判断い
たします。
『原典中国現代史』は発行者、即ち出版権者は安江良介であると明記していますから、
当該書出版にかかわる法的責任は当然貴殿がとらねばなりません。法的責任を処するに際
して、部下の「編集部長」がたちあらわれるのは、責任のがれか、部下への責任のおしつ
け で あ り ま し ょ う 。 そ う い え ば 、 さ き に 、『 原 典 中 国 現 代 史 』 別 巻 に 掲 載 さ れ た 「 お わ び 」
も 奇 妙 な 署 名 で 、た だ た ん に「 岩 波 書 店 」と あ り 、
「株式会社岩波書店代表取締役安江良介」
としてはありませんでした。
貴殿もご存じでしょうが、私は、貴殿への公開質問状を発する以前にすでに貴社の沢株
正始編集部課長との間で、二度にわたり、この著作権違反問題について長時間にわたる談
判の場をもっております。沢株課長は、第一回目の会談では、私の主張する二点の要求、
す な わ ち 、( 1 )「 お わ び 」 の 趣 旨 に の っ と り 「 原 典 中 国 現 代 史 」 の 著 作 権 取 得 事 務 手 続 き
を 全 面 的 に や り な お す 、( 2 )「 お わ び 」 の 趣 旨 に の っ と り 和 気 弘 の 著 作 権 侵 害 に つ い て 相
応の処置をすべきである、の二点の要求に基本的に同意し、その事務手続きをとると約束
されました。
しかし、君子豹変するということでしょうか、第二回目の会談では、株式会社岩波書店
矢吹晋『逆耳順耳』
208
と し て は 、( 2 ) の 要 求 は 入 れ る が 、( 1 ) の 要 求 は 入 れ る わ け に は い か な い 、 と の こ と で
した。その理由は、沢株課長の言うところでは、私、中村の法的な主張は正当な主張であ
ると個人的には思うが、会社=株式会社岩波書店としては、同意するわけにはいかない、
著作権法を厳密に適用すれば、今後このような編集ものはできなくなってしまう、という
ことでした。言い換えれば、私の法的主張に対して、沢株課長は著作権法の条文をもって
対抗することができず論理的に破綻し、御家の事情しか開陳できなかったのであります。
沢株課長の前に、電話で話をした林建朗編集部員が、著作権法のなんたるかを、まった
く理解していない支離滅裂な主張をくりかえしたことは、さきの第一信で言及したとおり
であります。
そ し て 、今 度 は 、
「 株 式 会 社 岩 波 書 店 編 集 部 長 」殿 の お 出 ま し で あ り ま す 。著 作 権 法 に 照
らして、伊藤書翰のおかしな主張は、後に指摘することにしますが、責任のがれ、部下へ
の責任のおしつけは、いいかげんにしていただきたく存じます。編集部員とか編集課長と
か編集部長とかは、株式会社にとって被雇用者であり、彼らには会社を代表しうるなんら
の法的資格もなく、せいぜいのところが法的交渉の事務代行をしうるにすぎません。法的
責任がなく、場当たり主義で前言をいともたやすく翻す彼らを相手に、全く低次元の問答
を繰り返すのは、これまでの経緯からして、時間の無駄づかいであり、御免こうむりたく
存じます。
貴殿が自ら責任ある回答をするよう私は要求してやみません。
(2)伊藤書翰への反論
伊藤書翰は株式会社岩波書店を代表する回答と見なすわけにはいきませんが、貴社の編
集部の責任者の意見であることは間違いないでしょうから、貴殿の回答を促すための参考
意見として、以下、伊藤書翰への私の所感を述べることにいたしましょう。
1 .「 お わ び 」 以 上 の 措 置 を 取 ら な い 著 作 権 上 の 根 拠 は 何 か
「『 お わ び 』 以 上 の 措 置 を 取 る こ と は 考 え て お り ま せ ん 」 と の こ と で す が 、 私 は 、 貴 社 の
「おわび」は、矢吹、白石、村田三氏に対する「おわび」ではあっても、その他の著作権
被侵害者にたいする「おわび」になっていないことを、理由をあげて明確に説明申し上げ
たのであります。貴社の犯した著作権法違反は、徹頭徹尾、法律的問題でありますから、
私に対する反論も徹頭徹尾、著作権法にもとづいたものであるべきです。したがって、著
作権法の如何なる条文にもとづいて「
、 お わ び 」以 上 の 措 置 を 取 る こ と は 考 え て い な い の か 、
縷々説明していただかねばなりません。
なお、私の論理的説明に問答無用で玄関払いをくわせる伊藤氏のような仕打ちに対して
は、私もそれ相応の法的強制力を発動する用意があることを申し添えておきます。
2.ペンネーム執筆者の人権と著作権は誰が保護するのか
株式会社蒼蒼社代表取締役中村公省は、和気弘の代理人であります。和気弘の著作人格
権・著作権に対する貴社の侵犯問題に関する交渉の全権を私は和気弘から委任されており
ます。この件は、私は、すでに沢株正始編集部課長との二度にわたる交渉の初めに説明申
し上げ、御了解をいただいているはずであります。
矢吹晋『逆耳順耳』
209
代理人を立てるという件については、すでに貴殿自身が、矢吹、白石、村田三氏との交
渉 で 秋 山 弁 護 士 を 代 理 人 に た て て 全 権 を 委 任 し て お ら れ ま す 。「 俺 の 代 理 人 は 受 け 入 れ ろ 、
お前の代理人は受け入れない」というのは如何なものでしょうか。それとも和気弘の代理
人である私になにか法的な問題でもあるというのでしょうか。ちなみに、著作権法第一一
八条には以下のようにあります。
「無名又は変名の著作物の発行者は、その著作物の著作者又は著作権者のために、自己
の名をもって〔中略〕その著作物の著作人格権若しくは著作権の侵害に係わる損害の賠償
の 請 求 若 し く は 不 当 利 益 の 返 還 の 請 求 を お こ な う こ と が で き る 。」
この件には、もうひとつ別の深刻な問題が付随しています。
◆「和気弘氏同氏に直接お会いしたうえで対処させていただきたい」
◆「『 和 気 弘 』は 筆 名 と 推 察 い た し ま す の で 、お 名 前 、ご 住 所 等 を 明 ら か に さ れ た う え で 当
社 あ て 直 接 ご 連 絡 い た だ く よ う お 伝 え く だ さ い 。」
出版編集の要所にいる編集部長に、どうしてこんな言辞が吐けるのでありましょうか。
以上の伊藤書翰の見解に接して、私は、飛び上がるほど驚きました。筆名(ペンネーム、
著 作 権 法 で は「 変 名 」)の 執 筆 者 の 人 権 の 保 護 お よ び 著 作 人 格 権 ・ 著 作 権 の 保 護 に か ん す る
出版権者の責任について伊藤編集部長はどう考えているのでありましょうか。
安江良介殿。貴殿がかつて「TK生」というペンネームを使って、著作をものされたこ
と は 万 人 周 知 の こ と で あ り ま す( む ろ ん 貴 社 発 行 で あ り ま す )。か り に 、
「『 T K 生 』は 筆 名
と推察いたしますのでお名前、ご住所等を明らかにされたうえで当社あて直接ご連絡いた
だくようお伝えください」というような要求をされたら、伊藤編集部長はいかが対処され
るのでありましょうか。
株式会社蒼蒼社代表取締役中村公省は、わが社で出版したペンネーム執筆者の人権およ
び著作人格権・著作権を保護します。ペンネーム執筆者の人権および著作人格権・著作権
の蹂躪につながる貴社の編集部長のような理不尽な要求は、断固、拒否いたします。
3.著作権法が泣いています
伊藤書翰の最後に付された「貴殿は和気弘氏の訳文を含め『チャイナ・クライシス重要
文献』所収の訳文を『原典中国現代史』に転載することをあらかじめ承諾しておられたも
のであり、
『 公 開 質 問 状 』は 理 解 に 苦 し み ま す 」と い う 一 文 は 、伊 藤 編 集 部 長 が 、著 作 権 法
を勉強していないことを露呈しています。
「 お わ び 」に あ る「 著 作 権 法 を 一 層 尊 重 す る よ う
に努め、今後このようなことがおこらないように厳に注意します」という文言は少しも守
られておりません。
伊藤編集部長の著作権法に対する無視、無理解は、私の口から申し上げるよりも第三者
に判定していただくほうがいいでしょう。文部省には、そのための担当部署もあります。
「この法律に規定する権利に関する紛争につき斡旋によりその解決を図るため、文化庁
に 著 作 権 紛 争 解 決 斡 旋 委 員 を 置 く 。」( 著 作 権 法 第 一 〇 五 条 )
私はわがほうから著作権紛争解決斡旋委員に斡旋を申請し、裁定を仰ぐ道を真剣に考え
て い ま す が 、そ の 前 に 、著 作 権 問 題 の 専 門 家 で あ る 豊 田 き い ち 氏 の 本 件 に つ い て の 論 評(『 出
矢吹晋『逆耳順耳』
210
版ニュース』一九九七年五月上旬号掲載「出版・著作権MEMO
№一 〇 一
編集者の素
養 」) を 参 照 す べ き で し ょ う 。
豊田氏は当該書の著作権取得事務処理の基本見解を明かした林書翰を引用して以下のよ
うに嘆息しておられます。
「ナントイウ古色蒼然とした著作権観であろう。著作者・著作権者の無視、出版者あるい
は出版権者の権限についての無理解、出版契約で約された著作物の権利者と出版者の関係
の 軽 視 ─ ─ 」。
そして、ズバリ問題の核心をついておられます。
「岩波の書翰は随所におかしいが、次の一点だけ指摘しておく。多くの出版者にも共通す
ることだ。多くが勘違いしている
謀って、別段の文言でもないかぎり、設定出版権契約の場合といえども、出版者・出版
権者に他人の著作物の二次使用の許諾権はない。法・第八〇条に『出版権者は、他人に対
し 、 そ の 出 版 権 の 目 的 で あ る 著 作 物 の 複 製 を 許 諾 す る こ と が で き な い 。』 と あ る 」。
伊藤編集部長の著作権法に対する無視、無理解の根本は、第八〇条「出版権者は、他人
に対し、その出版権の目的である著作物の複製を許諾することができない」の無理解にあ
るとみて間違いないでしょう。
伊藤編集部長が、いまさら「貴殿は和気弘氏の訳文を含め『チャイナ・クライシス重要
文献』所収の訳文を『原典中国現代史』に転載することをあらかじめ承諾しておられたも
のであり」などということを蒸し返してくるのは、豊田氏の言葉を借りれば、トンチンカ
ン で あ り ま す 。私 は 、さ き の 第 一 信 で も わ ざ わ ざ こ の こ と に 触 れ 、
「 別 段 の 文 言 」が な い こ
と、すなわち「和気弘の翻訳は和気弘自身に著作権があり、蒼蒼社にその全権を譲渡した
覚 え は あ り ま せ ん 」と い う 事 実 を 明 記 し て お き ま し た 。し か し な が ら 、
「古色蒼然とした著
作 権 観 」を 墨 守 す る 伊 藤 編 集 部 長 に は 、そ の 意 味 が 理 解 で き な い の で あ り ま す 。そ も そ も 、
伊藤編集部長は、貴社が何故、矢吹、白石、村田三氏に著作権法違反のあった事実を詫び
て、改めて著作権料を支払わなければならなかったか、そして「おわび」で貴社が何を詫
びたのか、その著作権法上の論理的脈絡をまるで判っていないのであります。
んなトンチンカンなことを言いだすのか?
何故、こ
私 の 察 す る と こ ろ 、こ の 事 務 当 局 者 は 、矢 吹 、
白石、村田三氏との著作権法違反の交渉をすべて秋山弁護士まかせにしてしまい、自分で
著作権問題を考えることなく、ことなかれ主義で、一件落着としたからではないでしょう
か。著作権法を尊重するというのは、弁護士を雇えばなんとかなるといった体のことでは
なく、著作者と出版権者がともに著作権法を勉強して、それを基準にして両者の利益をま
もり育てる不断の努力を必要とすると私は信じます。
(3)著作者の責任と出版権者の責任
私 は 、 貴 殿 へ の 公 開 質 問 状 を 発 す る と 同 時 に 、『 原 典 中 国 現 代 史 』 第 二 巻 「 政 治 」( 下 )
の 編 者 で あ る 岡 部 達 味( 専 修 大 学 法 学 部 教 授 、東 京 都 立 大 学 名 誉 教 授 )、天 児 慧( 青 山 学 院
大学国際政治学経済部教授)両氏に対して、以下のような質問状を発しました(一九九七
年 二 月 十 日 付 )。
矢吹晋『逆耳順耳』
211
*
私は、
「 お わ び 」に 関 連 す る ㈱ 岩 波 書 店 の 責 任 を 追 及 す る ㈱ 岩 波 書 店 代 表 取 締 役 安 江 良 介
殿への公開質問状を発しましたが、当該書の編者であるご両人の責任をも問いたいと思い
ます。私は、御両人は㈱岩波書店とともに共同して和気弘の著作権を侵害したと了解して
おり、御両人の責任は、岩波書店の責任とはまた別のところにあると信じます。これに対
して、御両人はどのような基本的認識をもっておられるかを、まず御返答いただきたく存
じます。
*
私の、この質問状に対して両氏から以下のような回答がありました。
*
前略
貴殿からの一九九七年二月一〇日付け書面拝見いたしました。
『原点中国現代史』への訳文転載につきましては、同書別巻に「おわび」を掲載し、取
るべき措置は取ったものと理解しております。
和気弘氏の訳文の転載については、岩波書店が同氏に直接お会いしたうえで対処すると
言っておりますので、同書店に和気氏ご本人よりご連絡下さい。
一九九七年四月二日
岡部達味
天児慧
*
「別巻に『おわび』を掲載し、取るべき措置は取った」との両氏の返信に接して、改め
て 同 書 を 何 度 も ひ も と い て み ま し た が 、両 氏 の 名 前 の「 お わ び 」は ど こ に も な く 、
「岩波書
店」名の「おわび」があるのみです。
両氏と「岩波書店」はおのずから別個の人格です。岡部達味、天児慧両氏は『原典中国
現 代 史 』 第 二 巻 「 政 治 」( 下 ) の 「 著 作 者 」 で あ り 、 株 式 会 社 岩 波 書 店 代 表 取 締 役 安 江 良 介
殿 は 岡 部 達 味 、天 児 慧 両 氏 の 著 作 の 複 製 権 を 譲 り 受 け た「 出 版 権 者 」で す 。
「 岩 波 書 店 」の
「おわび」は出版権者のおわび以上のなにものでもなく、著作者(編者)のものであるは
ずがありません。両氏は、自らが犯した著作権法違反(複製権の侵犯、同一性保持権の侵
犯 、氏 名 表 示 権 の 侵 犯 )に つ い て ま だ な ん ら 取 る べ き 措 置 を 取 っ て い な い と 断 言 で き ま す 。
ちなみに、著作権法第一一九条は、著作人格権・著作権を侵害した者に、三年以下の懲
役又は百万円以下の罰金に処する「罰則」を規定しています。
ところで、さきに披露した岡部、天児両氏連名の書翰はワープロで打ったものですが、
同一の封筒には、天児慧氏の肉筆の手紙が添えられていて、天児氏単独の弁明が記されて
お り ま す 。最 後 に 、
「 私 信 の 秘 密 は 守 っ て い た だ き た い と 思 い ま す 」と あ り ま す か ら 、全 文
の引用は遠慮して、上記の書翰の解釈に関わるポイントだけを引用させていただくことに
しましょう(綸言汗のごとし。天児氏はいまを時めく言論人であり、この手紙は私への公
式 の 回 答 で あ り ま す )。
*
〔前略〕今回、原典中国現代史出版にあたっては、すでに決まっていた岩波の編集方針
(訳文のあるものはそれを優先的に使用する)と出版社からの了解を得ているとの岩波編
矢吹晋『逆耳順耳』
212
集担当者の話を受けて、作業を行ったにすぎません。このことは他の巻にもすべてあては
まります。
「 チ ャ イ ナ ク ラ イ シ ス 」か ら 多 く の 引 用 を し た の は 、読 者 が 元 の も の に あ た り や
す い と い う 考 え と 同 時 に 、「 チ ャ イ ナ ク ラ イ シ ス 」 の 宣 伝 に も な る と さ え 思 っ た か ら で す 。
岡部先生も別巻の「中国研究ハンドブック」の元の原稿では「チャイナクライシス」を天
安門事件に関する最高の資料集と高く評価した紹介をしていたほどです。これは今回の事
件が発生したため取り下げたそうです。
私達の共通の回答は別紙のとおりですが、その裏にある思いは、上記のとおりで、それ
が逆に逆にと受けとられていることに残念さと同時に悲しささえ感じます。問題が、これ
以上こじれることがないことを祈り、かつ、中村様がこうしたことでなく、本来の出版事
業の中で、これまで築かれた高い業績の上に、さらに大きな社会的貢献をなさるよう、力
を 集 中 さ れ る こ と を 心 よ り 希 望 致 し ま す 。〔 後 略 〕
*
さて、この編者たちの著作権法に対する無知は恐るべきものがありますが、かれらに対
する責任の糾明はまた別の問題ですから、ここでは直接ふれません。ここで注目されるの
は、両氏の書翰が明らかに伊藤編集部長と回答内容を打合せのうえ投函されていることで
す。すなわち、両氏の書翰は、伊藤編集部長の回答を前提にして書かれていますので、著
作者の責任と出版権者の責任との関連について、貴殿が、どのように考えているかについ
てお尋ねしたいと思います。
天児肉筆書翰によれば、
「 原 典 中 国 現 代 史 出 版 に あ た っ て は 、す で に 決 ま っ て い た 岩 波 の
編集方針(訳文のあるものはそれを優先的に使用する)と出版社からの了解を得ていると
の岩波編集担当者の話を受けて、作業を行ったにすぎません。このことは他の巻にもすべ
て あ て は ま り ま す 」と あ り ま す が 、こ れ は 事 実 か 否 か 。
『 原 典 中 国 現 代 史 』の 編 者 は 、ま る
で貴社編集担当者が操る操り人形のようであります。
この文言をもって天児氏は、編者は著作権法上の責任は負わない、と主張しているよう
に 見 受 け ら れ ま す 。 事 実 、 両 氏 署 名 の 回 答 で 、「『 原 典 中 国 現 代 史 』 へ の 訳 文 転 載 に つ き ま
し て は 、同 書 別 巻 に『 お わ び 』を 掲 載 し 、取 る べ き 措 置 は 取 っ た も の と 理 解 し て お り ま す 」
と言い切っております。
しかしながら、
『原典中国現代史
第 二 巻「 政 治 」
( 下 )』 は 、 ㈱ 岩 波 書 店 編 集 部 編 で は な
く、
「 岡 部 達 味 、天 児 慧 編 」で あ り 、万 国 著 作 権 条 約 に も と づ き 、Ta t s u m i O k a b e a n d S a t o s h i
Amako と 銘 打 ち 、国 際 的 な 著 作 権 を 主 張 し て お り ま す 。岡 部 達 味 、天 児 慧 両 氏 は 、当 該 書
を編集し、解説を書き、貴社より金品の支払いをうけ、また著作をものしたという社会的
名誉を受けております。これだけの権利を享受しておきながら、当該書発行の著作権法上
の責任は一切負わない、それは株式会社岩波書店代表取締役安江良介殿が負うのみである
と言い張っているのです。この著作者のあまりに虫のいい言い分に、出版権者である貴殿
は 、ど の よ う に 対 し て お ら れ る の で し ょ う か 。常 識 的 に 見 る な ら 、
「原典中国現代史出版に
あ た っ て は 、 ……出 版 社 か ら の 了 解 を 得 て い る と の 岩 波 編 集 担 当 者 の 話 を 受 け て 、 作 業 を
矢吹晋『逆耳順耳』
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行 っ た 」と あ る の は 、著 作 権 法 上 の 事 務 処 理 は 株 式 会 社 岩 波 書 店 が 代 行 す る と い う 約 束( 契
約)をして著作したという意味でしょうが、貴社においては、こうした常識は通じないよ
うにお見うけします。
重ねて質問します。貴殿は、貴殿が出版した岡部達味、天児慧編『原典中国現代史
第
二 巻 「 政 治 ( 下 )」』 が 犯 し た 、 和 気 弘 の 複 製 権 の 侵 犯 、 同 一 性 保 持 権 の 侵 犯 、 氏 名 表 示 権
の侵犯について、著作者(編者)である岡部達味、天児慧氏には、全く責任がなく、貴殿
のみに責任があるとお考えでしょうか。
以上、株式会社岩波書店への公開質問状・第二信を発します。すみやかなる回答を求め
ます。草々
一九九七年六月十日
和気弘代理人・株式会社蒼蒼社代表取締役中村公省
追
伸
株式会社岩波書店代表取締役大塚信一殿
謹啓
前記書翰を脱稿ののち、五月三十日付にて安江良介殿が病気療養のために相談役
に退いたとの報に接しました。安江良介殿の一日も早い病気平癒をお祈り申し上げます。
また、同時に、かつて専務取締役であった貴殿が株式会社岩波書店の代表取締役社長に
就任されたことを知りました。本件にかかわる貴社の責任は、当然のことながら新代表取
締 役 社 長 で あ る 貴 殿 に 全 面 的 に 引 き 継 が れ る も の と 拝 察 し ま す 。前 記 書 翰 中 に「 安 江 良 介 」
とあるところは、一部を除きすべて貴殿「大塚信一」に訂正いたします。貴殿の責任ある
回答を要求します。
敬具
一九九七年六月十日
和気弘代理人・株式会社蒼蒼社代表取締役中村公省
『蒼蒼』97年4月10日、第73号、書評『毛沢東最後の女』
邦 訳 の 原 書 は『 毛 沢 東 和 他 的 女 人 們 』( 台 北 、聯 経 出 版 事 業 公 司 、一 九 九 〇 年 一
二月)である。著者は京夫子。訳者(船山秀夫)あとがきによれば、「詳細な経
歴 は 不 明 だ が 、 か つ て 中 国 本 土 で か な り 高 名 な ジ ャ ー ナ リ ス ト 」「 現 在 は ア メ リ
カに在住しているが、身の安全のため本名や現住所等は明らかにされていない」
由 で あ る 。身 の 安 全 を 守 る こ と は 必 要 だ が 、匿 名 は 往 々 、デ タ ラ メ の 隠 れ 蓑 に 用
いられやすい。本書は娯楽読み物として、ニヤニヤしながら読むには楽しいが、
これを史実と誤認してはな るまい。著者京夫子の見識は、李志綏著『毛沢東の私
生活』とは似て非なるものだ。『私生活』は、英語版、日本語版、中国語版、い
矢吹晋『逆耳順耳』
214
ず れ も 少 し ず つ 異 な り 、編 集 者 や 訳 者 の 判 断 が 挿 入 さ れ て い る の が 困 る が 、敢 え
て 実 名 で タ ブ ー に 挑 戦 し 歴 史 の 証 言 者 た ら ん と し た こ と に 私 は 敬 意 を 払 う 。だ が 、
本 書 は 反 面 教 師 と し か 思 え な い 。毛 沢 東 が 一 四 歳 の と き 、当 時 の 慣 習 に し た が い 、
父 親 は 二 〇 歳 の 童 養 女 息 ( 一 字 )羅 氏 を 娶 っ た 。こ の 嫁 に つ い て 著 者 は こ う 書 く 。
「 一 九 二 〇 年 に 北 京 大 学 教 授 の 忘 れ 形 見 の 楊 開 慧 女 史 と 同 居 す る ま で 、羅 氏 と は
一 三 年 に わ た り 、名 目 上 の 夫 婦 で あ っ た 」
「毛沢東の一四歳から二七歳にあたる」
「 羅 氏 と 同 じ ベ ッ ド に 休 み 、父 親 に 対 す る 報 復 心 理 が 、妙 齢 の 羅 氏 に 向 け て 発 散
されたと見るべきであろう」(一三ページ)。(ある噂では)毛沢東は「父と自
分の妻の姦通を発見した。これは近親相姦の悲劇であった(一三ページ)。毛沢
東 自 身 は こ う 語 っ て い る 。「 私 が 一 四 歳 の と き 、 父 母 は 私 に 二 〇 歳 の 娘 を 嫁 に 迎
え た が 、私 は 当 時 も そ の 後 も 生 活 を と も に し た こ と は な い 。私 は 彼 女 を 妻 と 認 め
なかった」(スノウへの談話)。『毛氏族譜』によれば、羅氏は一九〇八年に毛
沢 東 に 嫁 ぎ 、一 九 一 〇 年 二 一 歳 の 若 さ で 病 死 し て い る( こ の 点 は 別 の 資 料 に よ り 、
訳 注 に も 示 さ れ て い る )。邦 訳 で は 省 か れ て い る が 、長 男 毛 岸 英 が 朝 鮮 戦 争 で 戦
死 し た 後 、そ の 妻 劉 松 林 と 姦 通 し た と あ る が 、こ れ も 怪 し い 話 だ 。唐 の 玄 宗 帝 が
息 子 の 嫁 楊 貴 妃 を 寵 愛 し た こ と は 史 実 だ が 、羅 氏 や 劉 松 林 の 場 合 は 、著 者 の 創 作
で は な い か 。長 征 を と も に 歩 い た 賀 子 珍 に つ い て は 、王 行 娟『 賀 子 珍 的 路 』( 北
京、作家出版社、一九八五年)があるが、著者は参照していない。張玉鳳との関
係 は す で に 明 ら か な の に 、な ぜ 張 毓 鳳 と 書 く の か 分 か ら な い 。廬 山 会 議 前 後 の 権
力 闘 争 の 内 実 に つ い て は 李 鋭『 廬 山 会 議 実 録 』( 北 京 、春 秋 出 版 社 )な ど で 詳 細
が 知 ら れ て い る の を な ぞ っ た だ け で あ る 。訳 書 の カ バ ー と 扉 に 老 い た 毛 沢 東 を 支
え る 若 い 女 性 の 姿 が あ り 、張 玉 鳳 と 説 明 さ れ て い る 。こ れ は 孟 錦 雲 で あ っ て 、張
玉 鳳 で は な い 。し か も ネ ガ を 逆 に 焼 き 付 け て い る 。評 者 は カ バ ー 写 真 と タ イ ト ル
「 最 後 の 女 」か ら 、て っ き り 孟 錦 雲 と 思 っ て 読 み 始 め た が 、最 後 ま で 彼 女 が 登 場
し な か っ た 。フ ィ ク シ ョ ン な ら 虚 実 皮 膜 の 間 も 許 さ れ よ う 。実 録 を 装 っ た キ ワ モ
ノには騙されないようにしたい。訳者と編集者の見識が疑われる本である。
[追記]『日本経済新聞』(九七年二月一六日付)は 、匿名の評者による短い紹
介 を 行 い 、 次 の よ う に 結 ん で い る 。「 こ こ で 書 か れ て い る 内 容 が ど こ ま で 真 実 か
定かでないが、著者が内実に相当詳しいことだけは間違いない」。これは典型的
な 無 責 任 評 論 で あ ろ う 。「 ど こ ま で 真 実 か 」 に つ い て の あ の 程 度 の メ キ キ を 行 う
こ と が 評 者 の 責 務 で は な い か 。そ れ を ま る で 放 棄 し つ つ 、他 方 で 、「 著 者 が 内 実
に相当詳しいことだけは間違いない」と太鼓判を押す軽薄さ。私の見るところ、
本書の著者は「内実に相当詳しい」のではなく、それを装っているだけのこと。
そ こ を 見 抜 け な い よ う な 節 穴 ジ ャ ー ナ リ ス ト に 評 者 の 資 格 な し 、と い う の が 私 の
評価である。
『蒼蒼』97年4月10日、第73号、蛇頭
このところ日本のマスコミで、「蛇頭」(ジャトウ)は、すっかり定着した感が
矢吹晋『逆耳順耳』
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あ る 。東 京 で 誘 拐 さ れ た 中 国 人 の 身 代 金 を 福 建 省 で 支 払 っ た と か 、密 入 国 者 が 房
総 に 着 い た り 、と い っ た 具 合 で 、「 蛇 頭 」と い わ れ る 密 航 斡 旋 組 織 あ る い は「 ス
ネ ー ク ヘ ッ ド 」の 暗 躍 が 表 面 化 し た わ け で あ る 。あ る と き 、あ る 酒 席 で 友 人 の 高
木誠一郎教授が私に話しかけた。あなたは以前、蛇頭について話題にしながら
(『 蒼 蒼 』第 5 8 号 )、コ ト バ の 意 味 に 肉 薄 し て い な い 。そ れ は 困 る 、と い う 趣 旨
である。『蒼蒼』でそれを展開したい、とのことであったが、その後、依然誌面
に現れない。たまたま思いついたので、書き留めておく。
高木説は、蛇頭をスネーク・ヘッドと訳すのは、誤訳であり、ヘッド・スネーク
とすべきだというものだ。どうちがうのか。スネーク・ヘッドなら、蛇のアタマ
である。ヘッド・スネークなら、ヘッド・マン(頭目、首長)、ヘッド・マスタ
ー(校長)と似た形で「オカシラの蛇」、どこかでよく使われる「首領さま」で
ある。この高木説に、むろん異議はない。私は携帯電話を香港で「大哥大」とな
ぜ呼ぶのかを検討し、「大哥(名詞)」+「大」(形容詞)である。すなわち広
東 語 で は 、形 容 句 が 後 に つ く 順 行 構 造 な の だ と 説 い た の で あ る か ら 、高 木 氏 は 私
に傍証を提供してくれたことになる。
『蒼蒼』97年4月10日、第73号、「謀略」ということば
手元に『鄧小平謀略』という本がある。蕭詩美著、紅旗出版社、一九九六年三月
刊である。
これは「謀略系列叢書」の一冊で、『毛沢東謀略』『周恩来謀略』
『 劉 少 奇 謀 略 』な ど と 並 ぶ シ リ ー ズ の 一 冊 だ 。「 代 序 」で い う 。私 は か つ て 毛 沢
東 は 古 今 東 西 の 最 も 偉 大 な 謀 略 家 だ と 断 言 し た こ と が あ る 。謀 略 を 論 ず る な ら ば 、
古 今 東 西 毛 沢 東 に 匹 敵 す る 謀 略 家 は い な い 。こ の 言 に つ い て い ま だ 異 論 を 聞 い た
こ と は な い 。で は 、鄧 小 平 ば ど う か と 問 う べ き で あ ろ う 。鄧 小 平 の 謀 略 と 知 恵 は
彼 独 特 の と こ ろ が あ り 、世 人 が 彼 に 与 え 、彼 自 身 が 喜 ん で 受 け 入 れ た 唯 一 の 称 号
「総設計師」から、そのユニークさを体得できる。
「総設計師」はむろん「導師」「統帥」「舵取り」の類ほど「神秘的」ではない
が、謀略のニュアンスはむしろ突出している。毛沢東はかつて桔弌峠を「軍師」
として招いたと語ったことがある。「軍師」とは、由来「謀」を出し、「略」を
画する者をいう。あたかも『三国演義』の諸葛亮の ようなイメージである。中国
人の辞典では「謀略」とは「謀」を計ることであり、「設計」はほぼ「謀略」と
同 義 で あ る 。中 国 人 は 事 を 成 す は 天 に あ り 、事 を 謀 る は 人 に あ り 、と 信 じ て い る 。
ここから分かるように、謀略は人が設計して行うものだ。鄧小平が「総設計師」
た る ゆ え ん は 、彼 の 設 計 し た 謀 略 が と う ぜ ん つ ま ら ぬ 小 技 で は な い こ と を 意 味 し
ている。彼が「総設計師」の称号を得たのは七五歳の高齢になって中国の「第二
次 革 命 」を 指 導 し 、混 乱 か ら 大 治 に 、崩 壊 の 瀬 戸 際 か ら 繁 栄 に 導 い て か ら で あ る 。
こ の 本 は つ い で「 治 乱 の 謀 略 」「 発 展 の 謀 略 」「 経 済 の 謀 略 」「 政 治 の 謀 略 」「 軍
事の謀略」「統一戦線の謀略」「外交の謀略」を論じている。私がこの短文を書
矢吹晋『逆耳順耳』
216
い て い る 目 的 は 、鄧 小 平 の 謀 略 を 紹 介 す る た め で は な い 。謀 略 と い う コ ト バ の 性
格 に つ い て 注 意 を 喚 起 し た い か ら で あ る 。引 用 か ら 明 ら か な よ う に 、中 国 語 の「 謀
略 」の ニ ュ ア ン ス は 、日 本 語 と は か な り 異 な り 、大 声 を 出 し て 語 る の を は ば か る
よ う な も の で は な い 。家 や ビ ル を 建 て る 場 合 に 、設 計 に つ い て あ れ や こ れ や 語 り
ながら知恵を出してより住みやすい部屋を作るのと同じだというのであるから、
ま じ め に そ れ を や ら な い の は ど う か し て い る 。ま こ と に チ エ の な い 、愚 か 者 と い
うことになる。ウツケ、タワケと怒鳴られたくなければ、智恵を使うのは当然、
これが中国人の常識なのだ。
かつてこんな笑い話を聞いたことがある。ビジネスの交渉がようやくまとまり、
契 約 調 印 の た め 、本 社 か ら エ ラ イ さ ん が 宴 会 に で か け た 。挨 拶 に 立 っ た 先 方 の コ
ト バ を 一 知 半 解 の 通 訳 氏 が 直 訳 し た 。「 わ が 方 の サ ク リ ャ ク が 成 功 し て 、 今 日 の
宴 会 に な り ま し た 」。件 の エ ラ イ さ ん は び っ く り 仰 天 し て 逃 げ 帰 っ た と い う い か
に も あ り そ う な 、な さ そ う な 話 で あ る 。「 談 判 」も 誤 解 を 招 き や す い 点 で 似 て い
る 。「 日 露 ダ ン パ ン 破 裂 し て 戦 争 に な っ た 」と い う 一 句 が あ る よ う に 、日 本 語 の
「ダンパン」はきつい交渉である。しかし、中国語では、「話合い」「協議」程
度 の ニ ュ ア ン ス に と ど ま る 。と こ ろ で 、日 本 語 で は 普 通 の コ ト バ な の に 、中 国 語
でやたらと緊張するものがある。「情報」や「調査」がそれである。日本語では
「諜報」と「情報」を区別し、後者については、なんのためらいもなく普通に使
う。わが友、スチーブン・ハーナー(ドイツ銀行上海首席代表)が三菱総合研究
所 の 月 刊『 中 国 情 報 』に 寄 稿 す る よ う に な っ て 最 も 頭 を 傷 め た の は 、こ の「 情 報 」
の二文字である。諜報雑誌に定期的に寄稿することが中国人使用人にばれたら、
どんな密告(小報告)になるか知れたものではない。彼はその雑誌のタイトルを
不用意に他人に見せないように細心の注意を払っていた。雑誌の中身を読めば、
諜 報 雑 誌 で な く 、ビ ジ ネ ス 雑 誌 で あ る の は 、一 目 瞭 然 だ が 、中 国 で 雇 っ た ア マ さ
んに日本語の雑誌が読めるはずはない。ただ、表紙に大文字で書いた「情報」の
二文字だけは読めて、しかもその中国語の意味が分かるからやっかいなのだ。
「調査」がなぜ警戒すべきコトバなのか、は少し複雑である。毛沢東に「湖南農
民運動調査報告」があり、調査はリサーチにすぎま い。しかし、抗日戦争期に国
民党は「調査統計局」の名において、共産党員やそのシンパを捉え、拷問し、虐
殺 し て い た 。私 は む か し ア ジ ア 経 済 研 究 所 の 調 査 研 究 部 に 所 属 す る 研 究 員 で あ っ
た が 、六 〇 ~ 七 〇 年 代 に そ の 名 刺 を 見 た 華 人・中 国 人 の な か に は 、複 雑 な 表 情 を
見 せ る 者 が 少 な く な か っ た 。改 革 開 放 が 進 展 す る な か で イ ン フ ォ メ ー シ ョ ン の 重
要 性 は 飛 躍 的 に 増 大 し た 。市 場 情 報 な く し て 市 場 経 済 が 成 り 立 た な い こ と は 火 を
み る よ り も 明 轤 ゥ だ 。と は い え 、「 情 報 」の 二 文 字 に は 抵 抗 感 が 残 る 。そ こ で 代 替
したのが「信息」である。日本語のジョウホウ、英語のイ ンフォメーションの意
味でこの「信息」は広く用いられるようになった。こうなると、「情報」まで名
誉回復するのが面白い。「小姐」や「太々」の名誉回復も印象的だが、この種の
矢吹晋『逆耳順耳』
217
コトバを口にする場合、私はいつも香港、台湾、中国、それに日本を加えて「四
つ の 世 界 」の ど こ で 誰 と 話 し て い る か を ま ず 意 識 す る 。こ れ は 長 年 の ク セ で あ り 、
こ れ で は な め ら か な 会 話 に な る は ず が な い 。し か し 、誤 解 の 余 地 は ほ と ん ど な い 。
『蒼蒼』逆耳順耳、97年 8 月10日、第75 号、ホームページ作り
年 初 か ら 妙 に あ わ た だ し い 。ポ ス ト 鄧 小 平 や 香 港 返 還 問 題 で は な い 。暮 れ に 新 し
い パ ソ コ ン を 買 っ た か ら で あ る 。I S D N 回 線 で 電 子 メ ー ル を つ な ぐ 仕 事 は 、例
に よ っ て 加 藤 貞 顕 君 が や っ て く れ た 。古 い ハ ー ド デ ィ ス ク か ら 文 書( オ ア シ ス 文
書、ワード文書など)を移す仕事は自分でやった。暮れに村田ワープロ博士が来
宅 、中 文 起 稿 を イ ン ス ト ー ル し て く れ た 。そ こ で 正 月 は 中 国 語 の 文 章 の イ ン プ ッ
ト に 励 ん だ 。こ う し て 中 国 語 簡 体 字 と 繁 体 字 の テ キ ス ト を だ い ぶ 作 成 し た が 、J
IS(日本の漢字の略称)、Shift
JIS(日本漢字をインターネットで
使うときのコード名)、GB(中国の簡体字の略称)、Big5(台湾の 繁体字
の略称)の相互転換、あるいは一方通行的転換方法に慣れた。この過程で、大い
に 悩 ま さ れ た の は 、パ ソ コ ン が い き な り テ ン カ ン に 陥 り 、画 面 が い き な り 真 っ 黒
になってしまう病気である。シャット・ダウン。万事休す、である。それまでの
何 時 間 か か け て 作 り 上 げ た 文 章 は 瞬 時 に 消 え て し ま う 。二 〇 〇 メ ガ ヘ ル ツ の 処 理
能 力 を も つ パ ソ コ ン は 、確 か に 回 転 が 早 く 、驚 く こ と ば か り だ が 、消 え る の も 何
十分の一、あるいは何百分の一秒という速度だから、参る。呆然とするするヒマ
もないほどだ。そうこうしているうちに、システム・アナリストの安達正臣氏が
症 状 の 診 断 に 来 て く れ る こ と に な っ た 。三 月 中 旬 で あ る 。月 末 に も う 一 度 来 て く
れ た 。そ の と き は 、村 田 さ ん も 来 て く れ 、私 の パ ソ コ ン 情 報 は 二 人 の 先 生 を 迎 え
て、爆発寸前なほど急激にふえた。
四月中旬、画像読み込みのため、スキャナーをつないだところ、パソコンがまる
で 動 か な く な っ た ( 実 は そ の こ と に 本 人 は 気 づ か ず 、ハ ー ド デ ィ ス ク が 破 壊 さ れ
た と 思 い 込 み 、緊 急 の ヘ ル プ 、S O S 騒 ぎ で あ る ) 。そ の 週 末 、安 達 さ ん が 大 阪 か
ら わ ざ わ ざ か け つ け て く れ た 。こ の と き ば か り は 五 十 万 の パ ソ コ ン が 瞬 時 に ガ ラ
ク タ に な っ た か と 青 ざ め た が 、な ん の こ と は な い 、村 田 さ ん の 電 話 指 示 で ス キ ャ
ナ ー を 外 し て み た ら 、動 き 始 め た 。安 達 さ ん に は ま こ と に 申 し 訳 な い 次 第 で あ る 。
し か し 、こ れ を 奇 貨 と し て 、フ ロ ッ ピ ー 六 百 枚 分 の 容 量 を も つ M O ド ラ イ ブ を 買
い、バックアップ体制を整えた。これで安心してシステム・コマンダーをインス
ト ー ル し 、中 文 ウ ィ ン ド ウ ズ に 取 り 組 む 体 制 が で き た 。四 月 末 ,村 田 さ ん が ま た
「 往 診 」、ス キ ャ ナ ー と イ メ ー ジ オ フ ィ ス を イ ン ス ト ー ル し て く れ た ( 中 文 ウ ィ
ン ド ウ ズ の 調 整 は 時 間 切 れ で 後 回 し に な っ た )。 こ う し て ス キ ャ ナ ー に よ る 読 み
取 り が 可 能 に な っ た の で 、連 休 か ら 五 月 末 ま で 、ホ ー ム ペ ー ジ の 朝 河 貫 一 電 脳 博
物 館 作 り に 熱 中 し た 。こ れ も か な り の 試 行 錯 誤 の 連 続 で あ る 。写 真 だ か ら 白 黒 で
セ ッ ト す る と う ま く い く わ け で は な い 。古 い 白 黒 写 真 あ る い は 印 刷 の 悪 い 白 黒 写
真は「カラー一六色」にセットしないとうまくいかない。要するに、文字を読み
矢吹晋『逆耳順耳』
218
取る「線画」、鮮明な白黒写真、カラー写真扱いの古い白黒写真、二五六色のカ
ラ ー 写 真 を 一 六 色 に 減 ら す 処 理 な ど 、出 来 て し ま う と 実 に 単 純 な 作 業 だ が 、そ の
コ ツ を 呑 み 込 む ま で に 一 週 間 は か か っ て し ま う( と い う の は 、前 日 に 覚 え た こ と
を翌日はすっかり忘れているボケの繰り返しだからである)。この過程で,私は
文字の意味を再発見した気分である。
『蒼蒼』逆耳順耳、97年 8 月10日、第75 号、ホームページの容量
私 は ソ ネ ッ ト と い う プ ロ バ イ ダ ー に 昨 年 四 月 加 入 し た 。三 メ ガ ま で 月 二 〇 〇 〇 円
で ホ ー ム ペ ー ジ が 開 け た 。一 年 足 ら ず で 、容 量 制 限 を 超 え た の で 、こ ん ど は 六 メ
ガ に ふ や し た 。月 三 〇 〇 〇 円 で あ る 。こ れ で 一 安 心 と 思 い き や 、ス キ ャ ナ ー で 画
像 を 読 み 取 っ て び っ く り 仰 天 。文 字 情 報 の 一 〇 〇 倍 、一 〇 〇 〇 倍 単 位 の バ イ ト 数
で あ る こ と に 気 づ い た 。線 画 や 白 黒 写 真 で さ え 、こ の 始 末 。カ ラ ー 写 真 を A 四 判
で 取 り 込 ん だ り し た ら 、も う 論 文 何 百 本 分 に 相 当 す る 。そ こ で「 減 色 処 理 」「 縮
小処理」になる。しかし、朝河貫一電脳博物館のためには、六メガではとうてい
間 に 合 わ な い 。そ こ で 五 〇 メ ガ 年 間 五 〇 〇 〇 円 と い う ゼ ロ が 違 っ た の で は な い か
と思われるようなプロバイダーを安達さんに紹介してもらい、加入した。
安 心 し て 、朝 河 貫 一 の 肖 像 や 手 紙 類 、著 書 の カ バ ー 写 真 な ど を 読 み 取 り 、ミ ニ 博
物 館 作 り に 励 ん だ 結 果 、五 月 末 の 時 点 で 2 8 メ ガ で あ る 。写 真 は 確 か に 、文 字 情 報
よ り も は る か に 多 く の 情 報 を 瞬 時 に 伝 え る こ と が で き る 。し か し 、バ イ ト 数 で 換
算 し て み よ う 。同 じ バ イ ト 数 で 両 者 が ど れ だ け の 内 容 を 伝 え る こ と が で き る か を
考 え れ ば 、軍 配 は 明 ら か で あ る 。最 小 限 の バ イ ト 数 で 伝 え る た め に 考 案 さ れ た も
の こ そ が 文 字 な の だ 。絵 コ ト バ か ら 文 字 へ の 発 展 は 、不 要 な 部 分 を 削 ぎ 落 と す 過
程 に ほ か な ら な い 。こ の 話 は 、子 供 の こ ろ 、象 形 文 字 の 説 明 と し て い く ど も 聞 か
さ れ て い た の だ が 、実 際 に 文 字 の 電 送 に 必 要 な バ イ ト 数 と 画 像 の そ れ と を 比 較 す
る と 、そ の 経 済 性 は 明 ら か で あ り 、フ ア ッ ク ス な ど で 地 図 や 絵 を 送 れ る よ う に な
っ た の は 、技 術 進 歩 に よ る 容 量 拡 大 の お か げ に ほ か な ら な い こ と を 実 感 す る 。こ
う し て 足 掛 け 半 年 を 費 や し て 、作 り 上 げ た 朝 河 電 脳 博 物 館 の 目 的 は い く つ か あ る
が 、最 も 緊 急 な の は 、没 後 五 〇 周 年 の 記 念 切 手 の 発 行 計 画 で あ る 。こ れ は 年 内 に
郵 政 省 が 決 定 し て し ま う の で 、そ の 前 に 外 務 省 を 通 じ て 郵 政 省 に 働 き か け る 必 要
が あ る 。機 械 オ ン チ が 出 来 も し な い こ と を や る と「 周 辺 の 方 々 に ご 迷 惑 を か け る
か ら 、お よ し に な っ て は 」な ど と い う 荊 妻 の 猫 な で 声 を 断 固 と し て 無 視 し 、つ い
に 博 物 館 の 開 館 と な り ま し た 。 こ こ ま で 悪 戦 苦 闘 し た か ら に は 、「 朝 河 貫 一 記 念
切 手 」の 実 現 は 近 い は ず 、と 私 は 楽 観 し て い る 。こ の キ ャ ン ペ ー ン に 対 す る 支 持
者の顔ぶれをみれば、私の大言壮語が虚言ではないことが分かるはずである。
『蒼蒼』逆耳順耳97年 8 月10日第75 号、暴挙を怒る
五 月 一 日 、メ ー デ ー 当 日 、研 究 室 の パ ソ コ ン 整 理 の た め に 、ま た し て も 加 藤 君 の
手 を 煩 わ せ た 。電 子 メ ー ル の ア ド レ ス を 私 は ニ フ テ ィ 、ソ ネ ッ ト 、そ し て 大 学 の
も の と 三 つ 、保 有 し て い た 。し か し 、記 念 切 手 キ ャ ン ペ ー ン を 外 国 で 展 開 す る に
矢吹晋『逆耳順耳』
219
は 、私 の I D E N T I F I C A T I O N が 必 要 な の で 、メ ー ル は 大 学 の も の を 使
う こ と に し て い た 。と こ ろ が 四 月 中 旬 、こ の メ ー ル が 突 然 使 え な く な り 、友 人 た
ち は ニ フ テ ィ に 替 え て 送 っ た り 、苦 労 さ せ ら れ た( つ い に 届 か ず 、会 合 の 連 絡 が
漏 れ て い た も の も あ っ た )。そ の 事 実 に 気 づ い て 私 は 情 報 処 理 教 育 セ ン タ ー に 電
話 し 、す ぐ つ な い で く れ る よ う 頼 ん だ 。「 新 た に 申 請 し て 下 さ い 。い ま は 新 入 生
の受付中なので、およそ二週間ほどかかります」。私は絶句して電話を切った。
卒 業 す る 学 生 の メ ー ル・ア ド レ ス を 整 理 す る こ と は 必 要 で あ ろ う 。し か し 、定 年
ま で 務 め る 教 員 、四 月 に 異 動 す る 職 員 を 学 生 と ひ と ま と め に し て 切 る 必 要 は ど こ
に あ る の か 。『 ニ ュ ー ス 』で 二 度 に わ た っ て 警 告 し た 由 だ が 、私 は 大 学 の ラ ン は
い つ も 回 線 が 混 雑 、大 渋 滞 に 陥 り し ば し ば パ ン ク し て い る の で 、ほ と ん ど 使 わ な
い 。だ か ら ニ ュ ー ス も 読 ん で い な か っ た 。私 は 早 速 ホ ー ム ペ ー ジ 上 の ア ド レ ス を
お よ そ 一 〇 箇 所 程 度 訂 正 し 、同 時 に ア ド レ ス 変 更 を メ ー ル で 知 ら せ る 仕 事 に 忙 殺
さ れ た 。教 員 に 対 し て さ え 、こ の よ う な 仕 打 ち を と る の が 公 立 大 学 の 貧 し い 情 報
処理環境である。予算がない、人手が足りない。これらはすべてその通りだが、
欠けているのは、そればかりではなさそうだ。第一、すべてのアドレスをいちい
ち 再 登 録 す る テ マ 、ヒ マ は 、か な り の も の で は な い か 。ム ダ な と こ ろ に エ ネ ル ギ
ー を 使 い 、研 究 や 国 際 交 流 を 事 実 上 妨 げ て い る 。あ き れ た 話 だ 。私 は も う 金 輪 際 、
大学のアドレスを使うことはやめた。現在のアドレスは以下の通りです。
e - m a i l: y a bu k i @c a 2 .s o - ne t . or . j p
h t t p: / / ww w 2 .b i g .o r . jp / ~ ya b u ki /
逆耳順耳、黒五類
ある日、二日酔いの朝「毛沢林」という文字が目に入った。「ん?」。手にとっ
て見直すと「薬用育毛剤」の商品名であった。天然生薬「桑白皮」が原料の由。
と い う わ け で 、こ の 折 り 込 み 広 告 を 捨 て た 次 第 だ が 、条 件 反 射 的 に ミ ス プ リ か と
錯覚するのは、おそらく職業病の一種であろう。ある日、畏友星野元男記者(元
台北支局長、香港支局長、北京支局長を歴任したベテラン・ジャーナリスト)が
福岡からのお土産ということで「黒五類」を差し出した。元祖黒五類だとニヤニ
ヤしている。黒五類とは、黒豆、黒米、黒胡麻、黒松子、黒加侖、その他(枸杞
の実、甘草、山芋、赤棗)を粉末にした飲物で、「完全自然食品、一袋二百グラ
ム 、一 二 〇 〇 円 也 」「 自 然 が 教 え る 大 地 の エ ネ ル ギ ー 」で あ る 。星 野 氏 が 得 意 な
のは、日本の中国研究者たちは文化大革命期の「黒五類」については詳しいだろ
うが、元祖「黒五類」について、知らないだろうという揶揄なのだ。その通りで
あ る 。 黒 の つ く キ ー ワ ー ド は い く つ も 脳 裏 に 浮 か ぶ 。「 黒 手 = 文 化 大 革 命 に お い
て 一 部 の 単 位 に 紛 れ 込 み 、内 部 か ら 挑 発 し 、密 か に 悪 事 を 行 う 者 を 指 す 」「 黒 指
令 = カ ー テ ン の 後 ろ の 総 指 揮 者 。文 化 大 革 命 に お い て 劉 少 奇 へ の あ て こ す り と し
て 用 い た 」「 黒 司 令 部 = 反 動 的 司 令 部 。 文 化 大 革 命 に お い て ブ ル ジ ョ ア 階 級 の 司
令部を指したが、実際には存在しなかった」「黒線=反党、反社会主義の理論、
観 点 、思 想 路 線 を 指 す 。知 識 人 や 幹 部 の 思 想 観 点 に 大 し て 四 人 組 が お と し め た 言
矢吹晋『逆耳順耳』
220
い方」「黒線専政=六六年二月、部隊文芸工作座談会紀要で初めて登場した」、
な ど で あ る 。「 黒 」の つ く 言 葉 は い ろ い ろ あ る が 、極 め 付 き は「 黒 五 類 」で あ る 。
それは「地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子」を指す。この五つを私
は 「 d i f u f a n hu a i y o u 」 と す ぐ 口 を つ い て 出 る ほ ど 、 脳 裏 に プ リ ン ト イ ン さ
れ て い る 。し か し 、「 黒 五 類 」と 称 す る 食 べ 物 が あ っ た の で 、そ れ を 人 間 に 当 て
はめたという事情についてはまるで疎かった。実は、外国研究というのは、新聞
や 書 物 な ど 文 字 情 報 に 頼 り が ち で あ り 、文 字 に 書 か れ る こ と の 少 な い 事 物 に つ い
て の 知 識 は お ろ そ か に な る 。普 通 の 中 国 人 の 普 通 の 生 活 に お い て 用 い ら れ て い る
こ と ば に 暗 い 、そ う し た 研 究 者 の 欠 点 を ジ ャ ー ナ リ ス ト が 揶 揄 し て い る の で あ る 。
逆耳順耳、身長が二センチ縮んだ話
▲ 一 九 九 七 年 七 月 一 日( 火 )夕 刻 台 北 着 。私 は 七 〇 年 代 初 め に 香 港 大 学 に 遊 学 し 、
七 九 年 か ら 八 〇 年 に か け て 香 港 総 領 事 館 で「 特 別 研 究 員 」と い う 資 格 の 居 候 生 活
を 体 験 し た 。二 年 半 の 香 港 体 験 を も ち 、そ の 後 も 香 港 の 新 聞 や 雑 誌 を 定 期 講 読 し
て い る の で 、返 還 後 の 香 港 の 行 く 末 に つ い て は な に も 懸 念 材 料 は な し 、と 楽 観 し
て い る 。日 本 の マ ス コ ミ を 覆 う 香 港 返 還 騒 動 劇 の バ カ バ カ し さ に は 苦 虫 を 噛 む ば
かりである。というわけで、「歴史研究者派遣事業」(交流協会)なるプログラ
ムに応募し、香港返還を台北で観察することにした。夜、東京『読売新聞』論点
担 当 の M 氏 か ら 電 話 あ り 、七 月 二 日 付 掲 載 の「 中 国 経 済 の 香 港 化 注 視 」に つ い て
の 確 認 を 求 め ら れ る 。こ れ は イ ギ リ ス の 民 間 放 送 4 チ ャ ネ ル を B B C 放 送 の 一 部
と私が誤記したことの訂正である。▲七月一七日(木)夜、藍博洲氏と会う。氏
は『 幌 馬 車 の 歌 』の 著 者 で あ り 、T V B S す な わ ち 無 線 衛 星 電 視 台 の 一 室 を 供 与
さ れ 、契 約 デ ィ レ ク タ ー と し て「 台 湾 思 想 か ら 」と 題 し た ド キ ュ メ ン ト を 制 作 し
て い る 。助 手 一 人 と タ メ ラ マ ン 一 人 を し た が え 、三 人 の 取 材 チ ー ム は お そ ら く テ
レ ビ・ク ル ー と し て は 世 界 最 小 で あ ろ う 。し か し 、こ の 超 ミ ニ チ ー ム が 台 湾 現 代
史 の 白 色 テ ロ を 発 掘 し て い る わ け だ 。藍 博 洲 氏 の 話 は き わ め て 挑 戦 的 と い う よ り
も む し ろ 挑 発 的 で さ え あ っ た 。「 客 家 の な か に 日 本 統 治 や 国 民 党 の 白 色 テ ロ へ の
抵 抗 者 が 多 か っ た こ と は 、確 か で あ る 。こ れ は 客 家 人 に は 、民 族 主 義 意 識 が 強 か
ったからであろう」。話が大陸経済になると私の領分である。彼らは大陸の「社
会 主 義 市 場 経 済 」に ま だ 幻 想 を 懐 い て い る よ う な の で 、持 論 を ぶ つ 。鄧 小 平 の い
う「中国的特色をもつ社会主義」とはおそらく「中国的特色をもつ資本主義」の
別 名 な の だ 。鄧 小 平 路 線 の 核 心 は「 資 本 主 義 の 不 言 実 行 、社 会 主 義 の 有 言 不 実 行 」
なのだ、と。▲七月一八日(金)終日、興奮しつつ、『幌馬車の歌』を読む。侯
孝 賢 の『 非 情 城 市 』は 二・二 八 事 件 を 初 め て 映 像 化 し た こ と で 日 本 で も 大 き な 話
題になった。私も見たが、正直言って、いま一つピンとこなかった。私は昨日会
っ た ば か り の ひ げ づ ら の 若 者 の ノ ン フ ィ ク シ ョ ン『 幌 馬 車 の 歌 』こ そ が 、い わ ば
『 悲 情 城 市 』の 原 作 に あ た る も の で あ り 、こ の 原 作 を 侯 孝 賢 が い か に 味 付 け し た
か を 解 説 し て く れ た 藍 博 洲 の こ と ば を 通 じ て 初 め て 、『 悲 情 城 市 』の 寓 意 、そ し
矢吹晋『逆耳順耳』
221
て 細 部 の 意 味 を 理 解 し た の で あ る 。私 は 平 均 的 な 日 本 人 よ り は は る か に 台 湾 の 事
情 を 知 っ て い る つ も り だ が 、藍 博 洲 の 問 題 提 起 、そ し て そ れ を 映 像 化 し た 侯 孝 賢
の感性について、ほとんど無知であったことを痛感した。日本での『悲情城市』
ブ ー ム が 誤 解 に 満 ち た も の で あ る こ と に 気 づ き 、そ れ を 指 摘 し た の は 、横 地 剛 氏
の グ ル ー プ で あ る 。日 本 で 自 費 出 版 さ れ た ら し い 藍 博 洲『 幌 馬 車 の 歌 』( 横 地 ほ
か訳、福岡・藍天文芸出版社、一九九七年三月刊、定価記載なし、一三八頁)を
台 湾 で 原 著 者 か ら も ら う と い う 経 緯 も 奇 妙 な 巡 り 合 わ せ だ が 、私 は 台 湾 の 人 び と
に と っ て 二 ・ 二 八 事 件 が ま だ 生 傷 に 近 い こ と を 感 じ た 。い や 、「 痛 定 思 痛 」で あ
る か も し れ な い 。痛 み 定 ま っ て の ち 、痛 み を 思 う 。要 す る に 心 身 両 面 で の 後 遺 症
である。夕刻、『幌馬車の歌』の原著を求めて、さらに空腹を満たすために、坂
道を下り、下町へ下りる途中で事故に遭った。路上での事故だから「交通事故」
の 一 種 か も し れ な い が 、相 手 は ク ル マ で は な く 、四 匹 の 野 犬 で あ る 。私 は 半 ズ ボ
ン に ポ ロ シ ャ ツ 一 枚 で あ っ た 。歩 き は じ め る と ま も な く 、左 後 足 を ひ き ず る 、お
そ ら く は 交 通 事 故 の 、子 犬 に ま と わ り つ か れ た 。人 な つ こ い 犬 で 五 分 程 度 私 に ま
と わ り つ い た 。ま も な く 親 子 連 れ ら し い 四 匹 の 野 犬 が 私 に 近 づ く 。初 め は 少 し 吠
え た が 、そ の 後 は 黙 っ て 限 り な く 私 に 近 づ く 。雨 傘 か ス テ ッ キ が 欲 し い と こ ろ だ 。
台 湾 の 野 犬 が 狂 犬 病 の 注 射 を 受 け て い な い こ と は い う ま で も な い 。私 は 意 を 決 し
て 、母 親 と 思 わ れ る 犬 を 足 で 追 い 払 っ た 。「 ん ? 」私 は コ ン ク リ ー ト の 坂 道 に 背
中 を し た た か に う ち つ け 倒 れ た 。左 脚 が 空 を 舞 っ た と き 右 脚 が よ ろ け た の で あ る 。
六三キロの体重がいきなり、ドサと倒れたわけだ。野犬にとっても「ん?」であ
っ た ら し い 。対 向 車 が 急 ブ レ ー キ を 踏 ん だ 音 に 意 識 を 回 復 し 、路 肩 に い ざ り よ っ
た。しばらく休んで、コミュニティバスで宿舎 に戻った。私は入院するほどの病
気 は 患 っ た こ と が な い 。痛 み は ひ ど く な る が 、せ い ぜ い ギ ッ ク リ 腰 程 度 と 自 己 診
断 し 、飲 ま ず 食 わ ず で 臥 す こ と 二 昼 夜 近 く 。七 月 二 〇 日 朝 か ら 失 神 す る ほ ど の 激
痛 に 襲 わ れ 身 動 き で き な く な り 、救 急 車 で 入 院 す る こ と 一 週 間 、よ う や く 痛 み が
納 ま っ た の で 、二 六 日 昼 退 院 し た 。動 く た び に 腰 は 痛 む が 我 慢 で き な い ほ ど で は
ない。後から判明したが、これは鎮痛剤のためであった。鎮痛剤が切れると、か
な り の 痛 み を 感 じ た り 、時 に ヘ 猛 烈 な 悪 寒 に 襲 わ れ た 。さ て 、帰 国 予 定 は 三 一 日 で
あるから残りの四日をどう過ごすか。清水の舞台から飛び下りる決意を固めた。
実 は 事 故 当 日 の 朝 、金 門 島 め ぐ り 二 泊 三 日 の ツ ァ ー を 払 い 込 み「 キ ャ ン セ ル は 不
可 、航 空 券 は 一 年 間 有 効 」と 知 ら さ れ て い た 。一 年 以 内 に 再 訪 問 す る こ と も 難 し
く は な い が 、金 門 島 の ト ー チ カ 巡 り で あ る か ら 、死 線 を さ ま よ う 亡 霊 の 悲 し み と
比べると、私のケガなど軽いものに違いない(と自己診断)。鎮痛剤が切れたと
きに起こる激痛と悪寒に悩まされながら、二九日午後台北にもどった。三〇日、
交流協会や台湾大学で帰国の挨拶をし、同時に、空港での荷物運びを依頼し、三
一日、留学生の教え子と空港職員に助けられて帰国した。
八月一日、某病院で診察を受けたところ、若い医師の診断は「背骨が折れていま
矢吹晋『逆耳順耳』
222
すよ。転んだ程度でこんなに折れますかねえ。七〇歳程度のホネなのかなあ。ま
あ こ の 膏 薬 を 貼 っ て 下 さ い 。痛 み が ひ ど い よ う で し た ら 、コ ル セ ッ ト が 必 要 で す
ね 」。ま る で 患 者 の 判 断 に ゆ だ ね る と い う 超 民 主 主 義 者 ら し い 。さ て ど う す る か 。
勤 務 先 の 付 属 病 院 に 行 く べ き か 。そ れ と も 、と 思 い あ ぐ ね て い る う ち に 、橋 本 訪
中に随行する予定のある政治記者が日中関係についてのコメントを求めてきた。
動 け な い 状 況 を 説 明 す る と 、た だ ち に み ず か ら の 主 治 医 を 紹 介 し て く れ た 。彼 自
身、腰椎のヘルニアで三週間入院した由である。八月七日、国手西法正先生(国
立 病 院 東 京 災 害 医 療 セ ン タ ー 名 誉 院 長 )の 診 断 は 、第 一 二 胸 椎 の 圧 迫 骨 折 で あ っ
た 。八 月 末 に「 北 京 で 日 中 正 常 化 二 五 周 年 の シ ン ボ ジ ウ ム が あ り 、出 席 を 約 束 し
ているのですが」とおそるおそる問うと、先生いわく「あなたも気の強い男だ。
行 け る と 思 い ま す か 」。こ こ で 初 め て 全 治 三 四 カ 月 程 度 の 重 傷 で あ る こ と を 知 ら
さ れ た 。幸 い 夏 休 み な の で 思 い 切 り 休 む 。九 月 一 八 日 、事 故 後 二 カ 月 目 の レ ン ト
ゲ ン 診 断 は 、だ い ぶ 骨 が 固 ま っ た よ う だ 。し か し「 少 な く と も あ と 二 カ 月 は コ ル
セ ッ ト を 着 用 し な さ い 」。よ う や く 寝 返 り が 打 て る 程 度 に 痛 み が と れ 、し か も 涼
しくなったので、ほっとしている。二カ月の疑似身障者生活を経て、弱者の痛み
を 垣 間 見 る こ と が で き た の は 、よ い 勉 強 に な っ た と 感 ず る 昨 今 で あ る 。今 日 、久
し ぶ り に 出 勤 し 、保 健 室 で 身 長 を 計 っ た ら 、以 前 よ り も 二 セ ン チ 縮 ん で い た 。原
寸大のレントゲン写真を基に私が予想した通りであった。
『 蒼 蒼 』 9 7 年 12 月 1 0 日 、 逆 耳 順 耳 、 『 中 国 酔 い が た り 』
「往時を想えば汗顔に堪えない」ではじまり(一九八二年五月)、「それは、夜
の厠のものがたりであった」(一九九七年十月)に終わる「販書随録」である。
私は中国語同時通訳の世界の手練である神崎夫人を九〇年代初頭にある国際会
議で知り、その前後に、神崎勇夫氏ご本人と接点ができたと記憶している。本書
二二六ページに「痴の銘」と題して何新『諸神的起源』についての二度目のコメ
ン ト が あ る 。「 こ の 文 章 は 社 会 主 義 制 度 の 優 越 性 を 説 く 。矢 吹 教 授 は 、こ れ は ほ
と ん ど デ ッ チ あ げ ら れ た も の で 、か れ ら の 末 期 症 状 の 表 現 で あ る と 激 怒 さ れ た と
い う 」「 そ の 後 日 本 で 開 か れ た 東 ア ジ ア 経 済 の シ ン ポ ジ ウ ム で 、 韓 国 の 学 者 が こ
の 問 題 を と り あ げ 、中 国 の 学 者 に 質 問 し た と こ ろ 、何 新 な ど と い う 経 済 学 者 は ま
っ た く 知 ら な い 、文 学 方 面 の 人 で は な か ろ う か と の 返 答 だ っ た と 聞 き 及 ぶ 」と あ
る(一九九一年二月)。
こ の と き 、神 崎 氏 は こ の 顛 末 を 書 く 機 会 を 与 え て 下 さ っ た 。そ れ が「 犬 も 歩 け ば 、
棍棒に当たる──不思議な北京のS教授物語」である(『東方』一二〇号、九一
年三月)。当時の私は孤立無援に近かった。まず『北京週報』に抗議し、ついで
『 人 民 日 報 』に 抗 議 し た が 、先 方 は な し の つ ぶ て 。日 本 の マ ス コ ミ は 、『 週 刊 文
春 』が 興 味 を 示 し た だ け で あ っ た 。『 人 民 日 報 』の 言 い 分 と 、私 の 言 い 分 が 異 な
る な ら ば 、そ れ は 私 の 言 い 分 が 間 違 い な の だ と 判 断 し て 一 〇 〇 % 正 し い 、と い っ
た 受 け と め ら れ 方 で あ っ た 。そ の よ う な 時 に 届 い た「 雪 中 送 炭 」の メ ッ セ ー ジ は 、
矢吹晋『逆耳順耳』
223
私 を 大 い に 感 激 さ せ た 。神 崎 勇 夫 は 男 な の だ 。中 国 の 本 を 売 る 商 売 に 関 わ っ て い
る が 、眼 力 は 確 か な の で あ る 。こ の 眼 力 は と り わ け 女 を 凝 視 す る 際 に 最 も よ く 発
揮 さ れ る 。親 し く 酒 を 酌 み 交 わ し 、お 人 柄 と エ ッ セ イ の 虚 実 皮 膜 の ユ ー モ ア を 紙
面 か ら で は な く 、直 接 に 再 確 認 し た の は 一 年 前 の こ と で あ る 。小 著『 中 国 巨 大 国
家 の ゆ く え 』を 出 し て も ら っ た 機 会 に 神 田 の 行 き つ け の お 店 に 案 内 し て い た だ い
た。第二刷が出たら、今度は私がごちそうするつもりなのだ が、遺憾千万、その
機会がめぐってこない。
『 蒼 蒼 』 9 7 年 12 月 1 0 日 逆 耳 順 耳 、 ケ ガ 余 聞
台 湾 で の 事 故 に つ い て 書 い た と こ ろ 、お 見 舞 い 半 分 、ひ や か し 半 分 の ご 挨 拶 を 多
数頂戴した。最も悪質な友人は、私が事故に遭ったことをまるで認めない。君、
気 は 確 か か ね 。背 骨 を 折 っ て 歩 け る も の か ね 。狂 言 じ ゃ な い の だ ろ う ね 。憮 然 と
す る が 、返 す 言 葉 も な い 。要 す る に 、私 の 言 は す べ て 虚 言 で あ ろ う と 信 じ て い る
疑 い 深 い 男 に ど う 説 明 し て も 理 解 し て も ら え る は ず は な い 。そ う こ う し て い る う
ちに、もしかしたら、あれは夢だったのかという気がしてくるから不思 議だ。松
川 事 件 の 赤 間 被 告 の 自 白 供 書 を 思 う 。ま さ に 真 昼 の 暗 黒 で あ る 。第 二 の グ ル ー プ 、
こ れ が 最 も 多 い 。君 、酒 は ど れ く ら い 呑 ん で い た ? あ の と き と 比 べ て ど ち ら が 多
か っ た か ね 。こ の グ ル ー プ は か な り の 事 情 通 で あ る 。私 が 一 九 九 二 年 一 〇 月 二 三
日 深 夜 、泥 酔 し て 救 急 車 の お 世 話 に な っ た 秘 密 を 知 る 人 々 で あ る 。あ れ は 天 皇 訪
中 の 当 日 の こ と 。私 は 朝 か ら 授 業 を や り 、夕 刻 テ レ ビ に 引 っ 張 り だ さ れ 、留 学 生
文 化 祭 で 乾 杯 の 音 頭 を と り 、週 刊 誌 の 取 材 を 受 け て 、と い っ た 形 で 右 往 左 往 し て
い る う ち に 酩 酊 浮 遊 と 相 成 っ た 次 第 で あ る 。小 田 急 の 町 田 駅 に 着 い た ま で は 覚 え
て い る が 、そ の 後 の 記 憶 は プ ッ ツ ン 。気 が つ く と 周 り が 騒 々 し い 。私 が 仰 向 け 倒
れ て い る ら し い 。駅 員 が 私 の 顔 を の ぞ き こ ん で 聞 く 。お 名 前 は ?
私はしかと答
える。今度は電話番号を聞かれる。これも正しく答える。また名前を聞かれる。
電 話 も 繰 り 返 す 。二 度 目 ま で は 、相 手 の 理 解 能 力 の 欠 如 で あ ろ う と 判 断 し て 丁 寧
に答えた。駅員はまた聞く。ついに私が怒りだす。アナタ、私のいうことを信用
しないの、とポケットから名刺を取り出して、ほら、よくご覧なさい。ここに書
いてある番号と私の言ったのは少しも違ってないじゃないか。正確無比ですよ。
さ あ 、帰 ろ う か 。と 立 ち 上 が ろ う と す る と 、駅 員 が あ わ て て 私 を 力 づ く で 押 さ え
込む。ちょっと待って下さい。いま救急車が来ますから。ナヌ、救急車?
そん
なもの要らん。タクシーがまだあるはずだ。いえ、お待ちください。こうして私
は 暴 力 的 に タ ク シ ー に 乗 せ ら れ 、町 谷 原 救 急 病 院 に か つ ぎ こ ま れ た 。消 毒 の た め
の オ キ シ ド ー ル を 顔 中 に 塗 ら れ て ピ リ ピ リ し 、よ う や く 状 況 が 呑 み 込 め た 。私 は
駅 の 階 段 で ゲ レ ン デ の ス キ ー よ ろ し く「 顔 面 制 動 」を や っ た ら し い 。エ レ フ ァ ン
ト マ ン の よ う に 眼 と 口 を 残 し て 顔 中 に 包 帯 を 巻 か れ て 、早 暁 三 時 す ぎ に タ ク シ ー
で 自 宅 に 戻 っ た 。翌 日 、恐 る 恐 る 包 帯 を 解 い て み る と 顔 面 傷 だ ら け で 一 三 箇 所 に
絆創膏が貼られ、そこが擦り傷であった。ネクタイは血だらけ、ワイシャツも血
矢吹晋『逆耳順耳』
224
だ ら け 、惨 憺 た る 姿 で あ っ た 。駅 員 は こ の 出 血 に 驚 き 、そ の 後 は マ ニ ュ ア ル に し
たがって、私の脳が正常かどうかを確認しようとしていたのであった。愚妻は
翌 々 日 、 菓 子 折 り を も っ て 町 田 駅 に お 礼 に 伺 っ た 。「 軽 率 に 名 刺 な ん か 置 い て こ
な け れ ば 、こ ん な 苦 労 は な か っ た の に 」と ぼ や く 。「 そ ん な 事 情 が わ か っ て い れ
ば 、名 刺 を 置 い た り し な か っ た の に 」「 し か し 、お 世 話 に な っ た お 礼 ぐ ら い は し
ても いい んじ ゃな いの」「 お礼 は厭 わな いけ ど、恥 さ らし はご めん よ」とい った
具 合 で 全 く 信 頼 を 失 墜 し た 。酩 酊 浮 遊 は し ば し ば だ が 、救 急 車 の お 世 話 に な っ た
の は 、初 体 験 な の で 、以 後 肝 に 命 じ て い る 。に も か か わ ら ず 、今 回 の 事 故 で あ る 。
私 の 前 科 を 知 る 悪 友 が 、旧 悪 を 想 起 す る の は 、不 徳 の 致 す と こ ろ 。止 む を 得 な い 。
第 三 の グ ル ー プ の 反 応 は 、政 治 陰 謀 説 で あ る 。台 湾 の 特 務 に 狙 わ れ た の か と 聞 く 。
私は繰り返し、野犬であり、犬である、と説明している。ところが中国世界のウ
ォ ッ チ ャ ー た ち は 、メ タ 言 語 の 生 活 に 慣 れ て い る 。犬 と い う の は 、権 力 の 犬 の こ
と で あ り 、し か も そ れ は 往 々 美 女 の 姿 を と っ て 現 れ る 。私 が 四 匹 の 野 犬 と 言 う と 、
そ れ を 暗 喩 と 受 け 取 る わ け だ 。私 が 妙 な 女 に 近 づ い て 、悪 い 男 た ち に 囲 ま れ た の
で あ ろ う と す る 。し か も そ こ に は 政 治 的 謀 略 が あ る の だ と ニ ヤ ニ ヤ す る 。し か し 、
そ れ こ そ が 真 実 だ と き め つ け て 満 足 気 な 悪 友 が 四 人 、五 人 と な る と 、も し か し た
ら、それが真実かも、とまたしても赤間被告の心境になる。私が自分で考えるこ
と は す べ て 偽 り で あ り 、周 囲 の 友 人 の 観 察 の ほ う が 正 し い の か も し れ な い と 弱 気
に な る 。繰 り 返 す が 、断 じ て 酩 酊 し て は い な か っ た ( と 強 調 す る と 、い よ い よ 怪 し
い と 誤 解 さ れ る の が オ チ で あ る ) 。酔 生 夢 死 も ど き の 事 故 は 、ま こ と に 得 難 い 体 験
であった。
まずこんな痛みは味わったことがない。どこが痛いのか、まるで分からない、と
いった痛みである。医者が腰部に触れながら、どこか、ここか、と聞くが、一触
即発、全身に及ぶ痛みである。一カ月、寝返りを打てないのは辛かった。当然、
熟 睡 は で き な い か ら 、昼 も 夢 う つ つ で あ る 。こ ん な 夜 に あ り が た い の は 、絹 の パ
ジ ャ マ で あ る 。動 か せ な い 体 を か ば っ て 、少 し 息 を 止 め た り 、吐 い た り す る だ け
でも、パジャマが体から離れてくれる。その爽快感。木綿の下着では、ベッド上
で の か す か な 動 き さ え 妨 げ に な る 。新 店 市 の 天 主 教 耕 莘 医 院 で 私 を ま る ま る 一 週
間 二 四 時 間 体 制 で 看 護 し て く れ た の は 、南 通 出 身 の 国 民 党 軍 の 老 兵 で あ っ た 。今
年 七 〇 歳 だ が 、六 三 キ ロ の 私 を 軽 々 と 抱 き 上 げ て 、レ ン ト ゲ ン 写 真 撮 影 台 に 乗 せ
てくれた。初めは、少し乱暴であったが、まもなく、私の一触即発、痛み天を衝
く状況を理解してくれ、その後は実に巧みに患者を扱った。三日目に、歯ブラシ
と 歯 磨 き を 売 店 で 買 い 、私 の 歯 を 磨 い て く れ た 。私 は 中 越 戦 争 を 描 い た 映 画『 戦
場 下 の 花 環 』で 司 令 官 が 小 姓 の よ う な 若 い 兵 士 に 歯 を 磨 か せ て い る の を 見 て カ ル
チャーショックを受けたことがあるが、いまや私も司令官になった気分である。
病 院 に は 食 事 が な か っ た 。最 初 の 四 日 間 は 点 滴 だ け だ が 、そ の 後 は 老 兵 さ ん が 街
へ 出 て テ イ ク ア ウ ト 食 品 を 買 っ て き た 。時 に は 一 緒 に 食 い に 出 た 。粥 や 餃 子 な ど
矢吹晋『逆耳順耳』
225
の 小 吃 が 美 味 し か っ た 。医 師 は 食 事 に つ い て の 指 示 を 行 う の み 。そ の 指 示 を 実 行
するのは、ほとんど家族である。私は一週間「骨科」(整形外科)に入院し、五
組の患者を迎えて見送った。三人相部屋だが、すべて手術のために入院し、一泊
だ け で 帰 宅 し た 。入 院 時 と 退 院 時 の 大 騒 ぎ は す さ ま じ か っ た 。私 は 五 組 の 大 家 族
の凶事と吉事を身近に観察し、映画『悲情城市』の続きを見た思いがした。
『 蒼 蒼 』9 8 年 2 月 1 0 日、逆 耳 順 耳 、映 画「 悲 情 城 市 」と 田 村 志 津 枝 著『 悲 情 城 市 の 人
びと』
私は九七年一一月に勤務先の大学祭で映画解説と講演を試みた。動機の一つは、台湾旅行
のために休講した罪滅ぼしのつもりであったが、学生たちはむしろ休講を喜んでいたフシ
があり、私の補償行為はむしろ有難迷惑であったかもしれない(むろん、出席をとるなど
といったヤボはないのですが)。もうひとつの動機、それは私自身が台湾をあまりにも知
らないことに気づかされたためである。この際、学生の胸を借りて、教師が学ぼうという
魂胆である。台北で知人の薦めで偶然、藍博洲と会ったが、私はこの名前さえ知らなかっ
た。会って驚いたのは、先方が私の名を知っていたことである。私の『毛沢東と周恩来』
の台湾海賊版に「序文・藍博洲「中国近代史的両個幽霊--毛沢東和周恩来」」を書いた
男であった(矢吹晋著、魏珠恩訳『毛沢東与周恩来』台北・倉頡出版社、九三年三月)。
もう一方の海賊版は現物を見ていたが、藍序本は存在さえ知らなかった。
藍博洲は私を陝西料理を出す、文革期をなつかしむような、台湾青年のサロンとおぼしき
レストランに招いてくれ、飲みかつ食いながら、雑談した。彼から、九七年春に福岡に来
た話と福岡の友人が訳したという『藍博洲・幌馬車の歌』(横地剛ほか、福岡・藍天文芸
出版社、九七年三月)をもらった。これを読んで、驚き、真偽を確かめたくなった。そこ
で早速、藍博洲『幌馬車之歌』(時報文化出版、九一年六月初版、九七年一月八刷)を求
め、帰国後田村志津枝著『悲情城市の人びと』(晶文社、九二年初版、九七年六刷)を求
めた。田村の『人びと』は、事情を知らずに読めば、面白い本である。ベネチア・グンプ
リに輝いた映画で歌われた一九三二年、一九三五年発売の日本製「幌馬車の歌」を二・二
八事件(一九四七年二月二八日)で銃殺された政治犯が歌ったのはなぜか、そこにはどん
な秘密が隠されているのかを解くために著者が台湾各地を旅する話である。
映画の感動的なシーンにまつわる話を折り込みながら映画のヒーロー鍾浩東未亡人(蒋碧
玉)探しに至る。よく構成された本であり、一気に読める。六刷まで版を重ねた理由もよ
く分かる。ところが、である。この歌の秘密は、藍博洲の手紙「致田村志津枝小姐」(原
載 八 九 年 一 二 月 二 五 日『 自 立 副 刊 』、の ち『 幌 馬 車 之 歌 』に 所 収 )で す べ て 解 か れ て い た 。
田村は「既知」をあたかも「未知」のごとく扱うフィクションの旅を続けたことになる。
これはかなりシラケル話ですね。
この事情を横地剛は以下のように告発している。「田村は自著でも藍博洲の手紙を完全に
隠蔽している。また、このほかにもいくつか作為の跡がみられる。それは侯孝賢が藍博洲
の『幌馬車の歌』をよく知らないように見せかけていること、『幌馬車の歌』の内容を伏
せ、その一部を恰も自分が発見したかのようになぞっていることなどである。これらの作
矢吹晋『逆耳順耳』
226
為なしにはこの本(『悲情城市の人々』)は成立しない」。
私 は 横 地 の こ の 告 発 の 口 調 に 驚 い て 、関 連 な り を 読 み 始 め た が 、横 地 の 告 発 は 正 当 で あ る 、
というのが私の判断である。私自身は、田村の本は、これしか読んでいないので、彼女が
な ぜ こ の よ う な f a k e を や ら か し た の か 、そ の 間 の 事 情 は ま る で 分 か ら な い 。察 す る に 、
侯孝賢ブーム、悲情城市ブームに悪のりしたのかもしれない。これは読者をあざむくもの
であろう。同時に「映画の原作者」に相当する藍博洲の問題提起をすり替えることに、許
されないであろう。このような欠陥をもつ本を通じて、台湾の心を理解したつもりになっ
ている日本人の台湾ムード、台湾贔屓に危うさを感じざるをえないのである。
台湾で戒厳令が解除されたのは八七年七月のことである。ドキュメント「幌馬車の歌」が
陳映真の主宰する『人間雑誌』に掲載されたのは八八年八月と一〇月である。これは八九
年一〇月二四日夜、舞台劇「幌馬車の歌」として民衆劇団「人間」によって上演された。
映画『悲情城市』の記者会見が台北の来来飯店で行われたのは、八九年一〇月一八日であ
り、東京では九〇年春に上映され、話題となった。私も当時、見ているが、意味不明のシ
ーンが少なくなく、理解できない箇所が多かった。その疑問が藍博洲の解説を読むと、よ
く分かる。戒厳令解除直後の台湾政治のなかで、最大のタブーに挑戦するための戦術であ
る。映画は四五~四九年の台湾史だけでなく、五〇年代の左翼粛清(山村工作隊)をも描
いている。にもかかわらず、字幕は国民党が大陸で敗北し台湾に撤退するまでの話として
いるのは端的な一例である。幌馬車の歌について藍博洲はいう。天安門事件当時、「イン
タ ナ シ ョ ナ ル 」( 国 際 歌 )を 歌 っ た 中 国 の 学 生 た ち が「 国 際 主 義 者 」で あ る と は 限 ら な い 。
「幌馬車の唄」を好んだ者が「日本軍国主義」の信奉者とは限らない。「幌馬車の唄」は
日本が侵略行為を行った三〇年代に流行したにせよ、植民地台湾では、純然たる送別の歌
に浄化された。ちなみに未亡人・蒋碧玉は「西洋の歌」(スコットランド民謡?)と思い
込んでいた。
台湾の映画監督・侯孝賢は、一方で「台湾人の尊厳を撮ろう」とし、他方で「中国の風格
を備えた映画を撮ろう」とした。二つの間のアイデンティティの矛盾によって侯孝賢は引
き 裂 か れ て い る 。で は『 悲 情 城 市 』は 、そ も そ も 何 を 語 ろ う と し た の か 。「 二 ・ 二 八 事 件 」
説、「台湾のヤクザ一家の物語」説、「ヤクザ一家を通して四五年から四九年までの台湾
の戦後を描いた」説、さまざまである。
こ こ で 史 実 と し て の 二・二 八 事 件 と 映 画 に 描 か れ た 二・二 八 事 件 と の 整 理 学 が 必 要 で あ る 。
まず史実が隠されている。これを掘り起こそうとした藍博洲のドキュメントがある。この
ドキュメントに触発されて映像化した侯孝賢のイメージがある。三者の整理のためには、
映画の登場人物から、『悲情城市』の歴史的背景を取り出す。さらに史実をもう一度映画
に戻す。こうして初めて、歴史的真実と映画的真実の腑分け、議論の整理が可能になる。
たとえば、映画の何記者は何康がモデルであり、彼は『大公報』記者であった。林先生の
モデルは鍾浩東だが、インテリのオピニオンリーダーではあっても、主要な登場人物では
ない、などである。映画の林先生は二・二八事件で失踪する形だが、歴史の鍾浩東校長は
五〇年一〇月に処刑されており、この間三年の時間差がある。『悲情城市』を見ようとす
矢吹晋『逆耳順耳』
227
る観客は(侯孝賢ファンを除けば)、ほとんどが「二・二八」がどう描かれているかを見
にやってきた。そこで「実見した二・二八」と「映画の二・二八」とのギャップに話題が
集中した。
二・二八事件とは何かについての解釈も分かれる。一つは共産党煽動説だが、当時の台湾
共 産 党 は 党 員 わ ず か 七 〇 余 に す ぎ な か っ た 。こ れ で あ れ だ け の 騒 乱 を 計 画 で き る だ ろ う か 。
次は日本帝国主義の奴隷化政策説(あるいは移民族侵略説)。台湾の人々は「日本の奴隷
化政策」のゆえに、祖国を蔑視する偏見をもつに至った。そこで祖国の兵士を「異民族侵
略と誤認して抵抗した。最後に、台湾独立運動説。これらの俗説を排して、藍博洲は林書
揚 の 説 を 引 い て「 公 正 な 論 調 」と は 、つ ぎ の よ う な も の と 説 明 す る 。陳 儀 に よ る 政 権 接 収 、
駐留軍による権力を乱用しての汚職、治安の混乱、それに台湾の人びとの歓迎から失望、
失望から怒りへと変化した被害者心理が加わり、その両者が上下にぶつかりあった結果、
ヤミたばこ取り締まりの衝突が起こる。それは「役人の抑圧に耐えかねた民衆が反逆に立
ち上がった」典型的な事件であり、二・二八の流血の悲劇は民衆が追い詰められた結果引
き 起 こ さ れ た も の で あ る 」( 林 書 揚「 二 ・ 二 八 的 省 思 」『 従 二 ・ 二 八 到 五 〇 年 代 白 色 恐 怖 』
時報文化出版、九二年)。侯孝賢が幌馬車の歌を選んだのは「二人の獄友が再び帰らぬこ
とを表すだけでなく、インテリたちの国民政府に対する失望と幻滅を映し出す」ためであ
った。しかし、この歌の登場が突飛であったために、囚人はみなこの歌を歌ったかのよう
に誤解させることになった。これはやはり侯孝賢の二・二八事件に対する認識不足と「五
〇年代の白色テロ」に対する認識不足に問題のあることを示す。これが藍博洲の結論であ
る。映画の原作者による映画解説であるから、これほど分かりやすいものはない。私はこ
のような解説を説明しながら、映像の一部をシーガル・ホールで映した次第である。
『蒼 蒼 』98 年 2 月 10日 、逆 耳 順 耳
鄧小平伝説
鄧小平一周忌にちなんでということでもないが、鄧小平伝説のいくつかの誤りを娘の毛毛
(鄧榕)が指摘しているので、紹介しておきたい。原載は『作家文摘』九七年六月二〇日
号であり、私は『新華文摘』九七年一〇期でこれを読んだ。
伝説1
文革末期に鄧小平が広州に逃れ、許世友将軍に匿われた話。
七六年の第一次天安門事件で失脚して以来、七七年に復活するまで(軟禁期間および復活
準 備 段 階 を 含 む )、鄧 小 平 は 一 貫 し て 北 京 に お り 、北 京 以 外 の 土 地 に は 出 な か っ た 。こ れ が
真 相 だ と 毛 毛 は い う 。ち な み に 史 実 に も と る こ と を 書 い て い る 本 は 、青 野 、方 雷 『 鄧 小 平
一 九 九 六 』、 劉 金 田 主 編 『 鄧 小 平 的 歴 程 』( 解 放 軍 文 芸 出 版 社 ) な ど で あ る 。
伝説2
鄧小平が軟禁中に失踪し、葉剣英を訪ねて、四人組逮捕を協議した話。
これは范碩『葉剣英在一九九六』に書いてあり、私もどこかで言及した記憶があるが、こ
れも事実ではない由である。
伝説3
卓琳と鄧小平の会話
六一年の第二次廬山会議の前夜、卓琳は鄧小平 に彭徳懐の二の舞にならないよう忠告し
た旨が『鄧小平的歴程』に書いてある。毛毛によれば、党の保密規定は厳格であり、鄧小
矢吹晋『逆耳順耳』
228
平 はたとえ夫人にも会議の内容を語ることはなかったし、仮に卓琳が会議の内容を知っ
たとしても、それについて鄧小平になにか忠告めいた話をすることはなかったはずだ、と
証言している。
伝説1と2は、具体的な事柄であるから、私はすぐ納得する。おそらく毛毛のいう通りで
あ ろ う 。 た だ し 、 3 は 、「 党 の 保 密 規 定 」 と い う 建 前 だ け で は 、 卓 琳 ・ 鄧 小 平 の 人 間 関 係 が
よくわからない。文革期などは特に党組織そのものがガタガタしていた。そんな状況下で
「保密規定」だけが一人歩きしていたとは思えない。毛毛は個々の史実の誤りを指摘する
だ け で な く 、 早 く 『 わ が 父 鄧 小 平 』( 下 巻 ) を 出 版 す べ き で あ ろ う 。 少 し 深 読 み す る と 、 毛
毛は「下巻」出版のムード作りのために、このエッセイを書いたのであろうか。
逆 耳 順 耳 、98.04.10、蒼 蒼 七 九 号 、佐 藤 慎 一 仁 兄 への手 紙
お 手 紙 を あ り が と う ご ざ い ま し た 。 こ の 本 (『 図 説 ・ 中 国 の 経 済 ( 第 二 版 )』) の 最 良 の 読 者
は 、 や は り 仁 兄 で あ る ら し い 。 や は り 、 と い う の は 、 旧 著 『 鄧 小 平 』( 九 三 年 六 月 刊 ) に 対
するお手紙を想起したからです。それは『鄧小平』の結論が「楽観的にすぎるのではない
か」というコメントでした。当時は、中国内外において、天安門事件の後遺症がまだ大き
く、
「 第 二 の 天 安 門 事 件 」を 予 期 し 、危 惧 す る 向 き が 多 か っ た わ け で す 。学 兄 は き わ め て 冷
静かつ客観的な立場から、私が楽観論に傾きすぎているのではないかと指摘されたわけで
すが、私からみると、世論が悲観論にひきずられていたのです。
私 は 四 カ 条 を 挙 げ て 、楽 観 論 の 根 拠 を 説 明 し 、そ れ は 後 日『 鄧 小 平 な き 中 国 経 済 』
(九五年
二月)の「あとがき」に収めました。まもなく悲観派は悲観論の根拠をポスト鄧小平期の
混乱や香港返還という要因に重点を移し、今度こそは解体だ、分裂だといいなし、チャイ
ナ・バッシングを続けたわけです。
私自身は、それらの中国批判の論拠がきわめてあやしげなものであるにもかかわらず、わ
がマスコミでは大きな顔をしてのさばっている理由が呑み込めなかったのですが、まもな
く彼ら自身の自信喪失が枯れ尾花を幽霊と錯覚させることに気づき、合点がいった次第で
す。私はますます自信を深めた。社会科学の分野の研究者にとって研究対象との距離の取
り方は、最も難しい問題の一つですが、中国自身が左右に大きくぶれ、それに振り回され
る痛切な体験を経て、私自身のスタンスが固まってきたようです。中国語を学びはじめて
四〇年、ようやく少しこの世界が見えてきた。背骨が折れたり、歯が抜けたり、視力が衰
えるころになってよく見えるのは、実に不思議な現象です。ところで、今回は、総論的な
部 分 で「 ア ジ ア と の 比 較 」を 試 み た 私 に 対 し て 、
「 ヨ ー ロ ッ パ と の 比 較 」を 提 起 さ れ た 。な
るほど、いまやヨーロッパとの比較が滑稽なものではなくなった。これは大きな変化です
ね。
情報関連データが欠けているとのご指摘ですが、むろん関心をもっていますので、今後は
そ こ に も 焦 点 を 絞 り ま し ょ う 。 国 有 企 業 問 題 ( 一 四 四 頁 )。「 私 も 生 産 額 は 三 割 だ が 、 従 業
員の比重は六割だという神話を信じていましたから、大変に驚きました。このページだけ
で も 、こ の 本 は 出 版 さ れ る 価 値 が あ り ま す 」。ホ メ 言 葉 と し て 、こ れ は 最 高 。か ね て 歯 が 浮
くことを実感する年頃なのですが、これでは私の歯が全部抜けてしまいそうです。食糧問
矢吹晋『逆耳順耳』
229
題 に つ い て 、 私 が 楽 観 的 な の は 、 畏 友 白 石 和 良 (農 総 研 )の 分 析 に 全 幅 の 信 頼 を お い て い る
か ら で す (『 蒼 蒼 』 七 七 号 の 黒 五 類 の 話 な ど 、 私 を 完 膚 な き ま で に 論 破 し て 、 実 に 痛 快 。 こ
れ で は グ ー の 音 も で な い )。九 七 年 の 悲 観 論 は ポ ス ト 鄧 小 平 と 香 港 返 還 、そ し て 第 一 五 回 党
大会でしたが、この三つがいずれも問題なく推移したあと、悲観派の発見した口実は「中
国発の通貨危機論」でした。たとえば
『朝日新聞』九七年一一月一四日の一面に、船橋
洋一記者がこう書きました。
「このままでは香港・中国発の第三波が引き起こされる可能性がある」これは現状認識と
して、まるで間違ったオオカミ少年の戯言なのですが、この新聞はその後、一貫してこの
間違った見方を繰り返しているように見受けられます。共著者のスチーブン・ハーナーの
分 析 を 踏 ま え て 、私 は こ の 記 事 を 読 ん だ 直 後 、メ ー ル 仲 間 に こ う 書 き ま し た 。
「中国の経常
収支はアセアンや韓国と違って、一貫して黒字であり、対外純資産も黒字です。外貨準備
は一四〇〇億ドル、外国借款のうち短期債務は一割台。デット・サービス・レシオは七%
で 二 〇 % の 警 戒 ラ イ ン の は る か に 下 。ど こ を ど う み て も 、中 国 発 の 第 三 波 の 可 能 性 は な い 。
現状としては、むしろ匈奴の攻撃を一応防ぎきったところでしょう。むろん来年は、次の
展 開 が 始 ま る わ け で す が 」「 実 は 一 二 日 付 け の 鈴 木 暁 彦 記 者 の 記 事 に も 、 と っ て つ け た よ
う な 中 国 バ ブ ル 崩 壊 論 あ り 」。こ の 人 民 元 切 下 げ を 予 測 す る 経 済 オ ン チ の 迷 論 批 判 は 、本 書
の序文でも繰り返しました。何百万の部数を誇る大新聞が公害の垂れ流しに近い間違った
報道を続け、私の意見は二〇〇〇部の本にしか載らない。これではグレシャムの法則その
ものですね。憂慮すべき事態です。
不一。
牛 市・熊 市・朱 市
船橋記者といい、次の加藤記者といい、まんざら顔を知らない記者でもないから、少し書
きにくいが、大記者の迷論はやはり批判に値するし、研究者は批判すべき義務をもつとい
うのが私の職業観である。
『 朝 日 新 聞 』北 京 支 局 長 加 藤 千 洋 記 者 が 朱 鎔 基 内 閣 の 発 足 に あ た
り 、 こ う 書 い た ( 三 月 一 八 日 付 け 朝 刊 )。「 彼 ら は い ま の 株 相 場 は 『 朱 市 』 だ 、 と い う 。 す
でに副首相時代から経済運営を取り仕切ってきた朱鎔基氏の動静や演説が、相場に敏感に
跳 ね か え る と い う 意 味 だ 」( 九 八 年 三 月 一 八 日 )。 何 で す か 、 こ の 説 明 は 。 経 済 の わ か る 朱
鎔基によって中国の経済が動く。朱鎔基の動静によって相場が変わるので、朱鎔基相場と
いわれると、加藤記者は解説してみせたわけだが、これでは少しも面白くないですね。
証券業界では、強気筋を「ブル」という。ブルドッグのブルだが、これは「去勢してない
雄牛」だから、威勢がよい。その反対語の弱気筋は「ベア」すなわち熊である。ブルがい
て 「 牛 市 」 が あ り 、、 ベ ア が い て 「 熊 市 」 が あ る か ら こ そ 、 ピ ッ グ に も 出 番 が く る 。 朱 は 猪
と同じ音である。そこからブル・マーケット、ベア・マーケットに対して、ピッグ・マー
ケットという命名法の面白さが生まれるわけ。冗談の説明ほど、つまらないものはないの
で す が 、意 味 も 分 か ら ず 、分 か っ た ふ う の 解 説 は 困 り ま す ね 。こ う メ ー ル で 書 い た と こ ろ 、
中 国 在 住 の 証 券 会 社 筋 の 知 人 か ら 、 次 の リ プ ラ イ が あ っ た 。「 こ の 「 朱 ( 猪 ) 市 」 の 言 い 方
は、確か九七年年初あたりに出てきた言い方だと記憶しております。九六年年末の相場の
矢吹晋『逆耳順耳』
230
異常な高騰に対し政府が厳しく対処したところ、相場は沈静化。その後、相場が上がりも
下 が り も し な い 小 康 状 態 に な っ て 、 そ の 状 況 に 対 し て 高 騰 ( 牛 市 )、 下 落 ( 熊 市 ) で も な い
状態を「猪市」と名づけられた。でもってそれは、同時に経済運営を担当する朱氏への皮
肉 も 込 め ら れ て い た( 相 場 が 動 か な い と 、証 券 会 社 と か 投 資 家 は 儲 け よ う が な い か ら )。当
時、この言われ方に対して、朱氏は随分ご立腹だったという話もありますが、なかなかブ
ラックなユーモアで面白いと思いました」さすがはプロの解説である。そこで私はこう続
けた。
「 リ プ ラ イ を あ り が と う 。ご 指 摘 の と お り の 経 緯 で 、こ の 新 語「 朱 市 」が 生 ま れ ま し
た 。少 し 補 足 し ま す と 、九 六 年 の 一 二 月 一 六 日 、
『 人 民 日 報 』が 一 面 ト ッ プ に「 特 約 評 論 員 」
論文「当面の株式市場を正しく認識せよ」を掲げて、一〇月以後の株式暴騰に警告を発し
たわけです。論文を書いたのは朱鎔基自身ではなく、書くように指示したのですが、これ
を契機に暴騰相場が落ち着き、そこからこの俗語が生まれたわけですね。遺憾ながら、鵜
の目鷹の目のわがチャイナ・ウォッチャーたちの目にはとまらなかった。これは些細な事
柄ですが、人民元切下げ騒ぎとともに、経済オンチぶりを示す一つの証左と感じたので、
あ え て 揚 げ 足 と り に 及 ん だ 次 第 で す 」。追 伸 。二 月 中 旬 の『 朝 日 新 聞 』朝 刊 に 、
「林彪墜死、
詳細を証言、ソ連軍は墓掘り返し、頭持ち去った」なる記事がありました。私はこの記事
でどの部分がニュースなのか、まるで理解できませんでした。つまり、すべては旧聞であ
り 、こ の 程 度 の 記 事 を 書 く た め に 、モ ン ゴ ル ま で で か け る こ と に い か な る 意 味 が あ る の か 、
理 解 で き な か っ た の で す 。 ご 用 と お 急 ぎ で な い か た は 、『 U S N e w s & Wo r l d R e p o r t 』 九 四
年一月三一日号、そしてこの記事を分析した拙著『中国人民解放軍』四二~四六頁をご笑
覧いただければ、幸いです。
朱鎔基の記者会見
国務院総理に選ばれた朱鎔基が全人代を終えた三月一九日記者会見を行った。これは日本
の テ レ ビ も 一 部 を 報 道 し た 。 私 は 熱 心 に 見 て 、「 さ す が 朱 鎔 基 」 と う な っ
た。テレビで放映されない部分は、むろんネットで探す。わがワープロ顧問村田忠禧さん
の尽力で読めるようになった中文ウインドウズで『人民日報』にアクセスし
た( 三 月 二 〇 日 付 一 面 )。こ れ ま で は 日 本 語 ウ イ ン ド ウ ズ で 読 ん で い た が 、い ま は 中 文 ウ イ
ンドウズを立ち上げると、いきなり『人民日報』のホームページが現れるので、とても便
利 な 仕 掛 け で あ る 。ア メ リ カ『 タ イ ム 』の 記 者 が ま ず 村 民 委 員 会 の こ と を 聞 く と 、
「アメリ
カ の 基 金 組 織 が 中 国 で 選 挙 に つ い て の 調 査 を や っ た こ と を 知 っ て い る 」「 こ の 民 主 的 な 制
度は農村だけでなく、企業でもやっている。一部の企業では工場長を民主的に選挙してい
る 」 な ど と ま ず 答 え る (「 ア メ リ カ の 基 金 」 と は 、 フ ォ ー ド 財 団 を 指 す 。 そ の 成 果 は 『 中 国
農村村民委員会換届選挙制度』中国基層政権建設研究会編、中国社会出版社、一九九四年
な ど )。中 央 電 視 台 の 質 問 は い か に も 与 党 質 問 的 な も の 。今 後 五 年 、最 も 挑 戦 的 な 課 題 は 何
か。
朱鎔基の答え。
「 一 つ を 確 保 し 、三 つ を 実 現 し 、五 つ を 改 革 す る 」
(原文=一個確保、
三個到位、五項改革)という。確保すべきは、GDP成長率八%とインフレ三%以内、人
民元切り下げなし、である。これにはインフラや住宅建設など「内需拡大」も含まれる。
矢吹晋『逆耳順耳』
231
「三つの実現」
( 原 文 = 到 位 )と は な に か 。一 つ は 三 年 前 後 で 大 中 型 の 赤 字 国 有 企 業 に 現 代
的 企 業 制 度 を 樹 立 す る こ と で あ る 。二 つ は 金 融 シ ス テ ム の 改 革 で あ る 。中 央 銀 行 を 強 化 し 、
商業銀行の自主経営を今世紀中に実現することである。三つは国務院の行政改革であり、
四 〇 の 役 所 を 二 九 に 削 減 し 、八 万 人 の 定 員 を 半 減 す る こ と で あ る 。こ れ も 三 年 計 画 で あ る 。
では「五つの改革」とはなにか。第一は食糧の流通体制改革である。連続三年の豊作のた
め に 在 庫 は 豊 か で あ り 、大 き な 自 然 災 害 が 二 年 続 い た と し て も 、食 糧 の 欠 乏 は あ り え な い 。
ただ、在庫が大きいので、財政補助も大きい。だから流通体制の改革が必要だという。第
二は投融資体制の改革だが、現行の許認可制度の欠陥のために市場調整がうまくいかない
だ け で な く 、重 複 建 設 を も た ら し て い る と 指 摘 し た 。第 三 は 住 宅 改 革 で あ る 。
「 福 利 」と し
て住宅を分配することをやめて、商品として一律に販売する。第四は財政改革である。分
税制による改革は九四年に実現されたが、現在の問題は、政府機関が国家の定める以外の
「各種費用」を徴収し、その「費用」が「税金」よりも多いことである。規定の費用以外
の費用を徴収することは許されない。最後は科学教育による立国である。これまでは資金
がなくてできなかった。資金はどこに行ったのか。政府機関が膨大で、資金を食ってしま
った。各級政府の関与のもとで重複建設が少なからずみられる。
一方で科学や教育の意義を強調し、返す刀で行政改革の世論作りをやるのは、巧みだ。
フ ラ ン ス の 記 者 が 国 有 企 業 改 革 に ふ れ て 韓 国 の 大 財 閥 の 不 振 を 聞 く 。「 韓 国 企 業 の 経 験 に
ついて論評はしないが、各国の経験はりっぱな教訓とする」
と、内政干渉と誤解されがちな発言はまず控える。そして国有企業は三年でやると繰り返
し、注目すべき発言を行っている。特大型五〇〇企業が国家に収める税と利潤の八五%を
占める。これら五〇〇社のうち赤字企業は一割、すなわち五〇社にすぎない。これを解決
するのが目標なのだから、三年で十分できるという。七・九万の国有企業のうち半分が赤
字だというのは、零細企業を含めての話にすぎない。国有企業の問題は「外国でいわれて
いるほど困難な問題ではない」と断言した。実はこの趣旨を彼は以前も繰り返しており、
私にとっては目新しい話ではない。香港が九八〇億ドルの外貨準備をもつことに触れて、
「万一特区が中央の援助を必要とする場合は、特区政府が中央に要求しさえすれば、中央
は 一 切 の 代 価 を 惜 し ま ず 、 香 港 の 繁 栄 を 維 持 し 、 ペ ッ グ 制 度 を 保 護 す る 」。「 中 国 の ゴ ル バ
チョフ」や「エコノミック・ツァー」のあだ名は不愉快だ。私は人民の期待に応えられな
いことをのみ恐れる。だが、前方にあるのが地雷源であれ、千仞の絶壁であれ、私は前進
あ る の み 。 鞠 躬 尽 瘁 、 死 而 後 已 だ ( 諸 葛 孔 明 「 後 出 師 表 」) と 言 い 切 っ た 。 こ の 八 文 字 を 聞
いて、涙を流した中国人が少なくないと後日聞いた。さもありなん。ゲリラ時代の共産党
員は、民衆の先頭に立って戦い犠牲となった者が少なくないが、執政党になってからの腐
敗堕落ぶりは、目に余るものがある。元右派分子朱鎔基は、名宰相の名に恥じない。朱鎔
基ファンとして、この千両役者見物は近来の快事であった。
9 8 .6 順 耳 逆 耳 、 死 而 後 已
前号で余白が生じたので、急遽補ったのが朱鎔基会見であった。総理就任直後の記者会見
矢吹晋『逆耳順耳』
232
で述べた「鞠躬尽瘁、死而後已」の八文字について実に意外な反応があった。これが諸葛
孔明「後出師表」に基づくことは、三国志の読者にとってあまりにも当然の事柄である。
しかし、世の中には、まるで逆の理解を示す向きがあり、その事実の意外性に私は驚いた
次第である。わが国の某英字紙は「朱鎔基は死ぬまで総理を辞めない」と語ったと解説し
た 由 で あ る 。「 死 し て の ち 已 む 」 と は 、「 死 ぬ ま で 辞 め な い こ と 」 だ と い う 受 け 取 り 方 は 、
一見論理的だが、
「 情 は 人 の た め な ら ず 」を「 た め に な ら な い か ら 、情 け を か け な い 」と 解
す る の と 同 じ 誤 解 で あ る 。国 民 か ら ほ と ん ど 見 放 さ れ て も 、
「 代 わ り が い な い か ら 」と い っ
た理由で、権力の椅子に恋々とするどこやらの政治家の不見識とつきあわされ、それが習
い性となると、その種の形式論理でコトバの意味を理解することが「情理(条理)を備え
た」解釈になるのであろうか。恐ろしい世の中になった。友人が英字紙を点検したところ
に よ る と 、 A s i a n Wa l l S t r e e t J o u r n a l 紙 は 、 原 意 を 正 確 に 訳 し て い た 由 。 お そ ら く こ の 記
者は、英語ができるだけでなく、中国文化についても常識を欠いてはいない部類に属する
記者であった。
もう一つ。朱鎔基が総理就任の結びにおいてこの四文字を用いたことについて、朱鎔基周
辺のアドバイザーは「適切な引用とは言いがたい」と評した由である。不適切とする識者
の論理は、
「 負 け 戦 に 臨 む 心 境 」が ま ず い と い う 意 味 ら し い 。そ の あ た り の 歴 史 の 文 脈 を 百
も承知のうえで、さらりと言ってのける。そこが朱鎔基の魅力なのだ。その種の危うさに
人はシビレ、言葉が人を動かすのである。これは名も知らぬ朱鎔基アドバイザーに対する
私のアドバイスである。
鬼神探し
歴 史 学 者 ・ 黒 田 日 出 男 の エ ッ セ イ 「 鬼 神 探 し を 楽 し も う 」(『 朝 日 新 聞 』 九 八 年 四 月 八 日 夕
刊)のなかに胸のすくようなセリフがあったので、抜き書きしておきたい。
中世の学者とは、限りなく鬼に近い存在であったことになる。というより、学者とはまさ
しく鬼であったのだ。
( 中 略 )現 代 で も 、学 者 の 本 性 は 鬼 で あ る と 私 は 思 っ て い る 。こ の 社
会 と さ ま ざ ま に 対 峙 す る( 他 者 と し て の )鬼 で あ る 。
( 中 略 )だ が 、現 在 の 大 学 に い る 大 部
分 の 学 者 は 、 凡 庸 な 「 鬼 」 た ち 、「 鬼 」 に な り そ こ ね た 学 者 た ち 、 さ ら に は 鬼 に な る つ も り
など全くない学者たちであると言い得るのではなかろうか。もしかしたら某月某日、あわ
て て 家 を 出 る 。着 い た と た ん に 、あ あ く た び れ た と 、駅 の ホ ー ム で ベ ン チ に 座 り 込 む 。
「ン?
お か し い 」。と こ ろ が 何 が お か し い の か 、気 づ か な い 。し ば ら く し て 私 の 右 足 と 左 足 と 靴 の
色 が 異 な る こ と に 気 づ く 。や む な く 駅 員 に 断 り 、中 途 出 場 。駅 員 が 慰 め て い わ く 、
「電車に
乗 る 前 で よ か っ た で す ね ぇ 」。 と い う わ け で 、 私 の 判 断 能 力 は か な り 怪 し い の で あ る 。「 も
し か し た ら 」、こ ち ら の 判 断 が お か し い の か も し れ な い 、─ ─ 、と 首 を か し げ る こ と が こ の
ごろあまりにも多い。という次第で、以下は省略。お蔵入りになります。
『甦る朝河貫一』
あとがき
以 下 は『 甦 る 朝 河 貫 一 』
( 朝 河 貫 一 研 究 会 編 、東 京 国 際 文 献 印 刷 刊 、一 九 九 八 年 一 月 )の「 あ
とがき」草稿である。
朝河貫一研究会は生誕一二〇周年を記念して、
『 朝 河 貫 一 の 世 界 』を 出 版 し た 。そ の 経 験 を
矢吹晋『逆耳順耳』
233
踏まえて、没後五〇周年を記念して『朝河貫一の世界
2 』( 略 称 パ ー ト 2 ) を 刊 行 す る
構 想 は 、一 九 九 六 年 一 月 の 研 究 会 で 提 案 さ れ た(『 朝 河 貫 一 研 究 会 ニ ュ ー ス 』第 二 四 号 、九
六 年 四 月 )。 金 井 圓 会 員 が 「 朝 河 関 係 研 究 文 献 一 覧 」 の 増 補 ・ 公 刊 を 提 案 し 、 こ れ に 触 発 さ
れたものである。同年四月二九日、福島テレビは『甦れ朝河貫一・日米開戦を阻止しよう
と し た 男 』を 放 映 し た が 、こ の タ イ ト ル を 承 け て 、
『世界
2 』の 正 式 タ イ ト ル は『 甦 る 朝
河貫一』と決定した。英文タイトル
Kan'ichi Asakawa: Pioneer Historian Re -evaluated
は、オーシロ・ジョージ会員のアイディアによるものである。
会員諸氏が最近の研究結果を四〇〇字二五枚以内でリーダブルなエッセイにまとめる方針
も確認され、締切りは九七年五月の連休明け、出版は九七年末と決定した。出版社に関し
て は 、結 局『 書 簡 集 』
『 朝 河 貫 一 の 世 界 』の 時 に も 印 刷 の 面 で お 世 話 を い た だ い た 国 際 文 献
印刷社に、出版を含めて依頼することになった。
内容から考えて、全体を二部構成とした。すなわち
第一部
朝河貫一を語る
第二部
朝河貫一「珠玉のことば」
である。第二部の編集作業は主として金井圓、石川衛三両会員が担当した。
第一部、第二部ともに会員諸氏の「個性」を最大限に尊重する方針を堅持したために、テ
ーマも内容も、スタイルもさまざまである。不統一と思われる向きもあろうが、研究会は
個性的なメンバーのグループであり、画一的な統一になじまない。読者のご寛容を請う次
第である。第二部「珠玉のことば」は、独立させても、これだけで十分に朝河博士の思想
と 行 動 が 分 か る よ う に 編 集・注 釈 し た 。
『 甦 る 朝 河 貫 一 』は 、研 究 会 メ ン バ ー 各 位 の さ ま ざ
まな努力によって刊行にこぎつけた。この意味で、本書は会員全体の努力の結晶だが、と
りわけ言及しておきたいのは、以下の方々である。
本書に序文を寄せていただいた早稲田大学奥島孝康総長、福島県佐藤栄佐久知事、井出孫
六 氏( 作 家 )、お よ び 英 文 序 文 を 寄 せ て い た だ い た ハ ー ヴ ァ ー ド 大 学 入 江 昭 教 授 お よ び『 朝
河貫一書簡集』序文の転載を快諾された、永井道雄氏に感謝の意を表したい。本書のカバ
ー・デ ザ イ ン は 、
『 朝 河 貫 一 の 世 界 』と 同 じ く 、安 積 高 校 の 美 術 担 当 ・ 日 下 部 正 和 先 生 の 絵
筆になるもので、和文書名をイメージしたものである。
『書簡集』編集から『朝河貫一の世界』へ、そして『甦る朝河貫一』へと朝河研究、顕彰
の活動はゆるやかな歩みながら前進しつつある。朝河貫一の没後五〇周年記念祭は一九九
八年八月一一日である。本書をその約半年前に刊行するのは、編集・出版活動を通じて、
朝河貫一顕彰運動を盛り上げていくことを祈念してのことである。
本書の刊行を一つのステップとして、現在も続けられている朝河貫一研究会での研究発表
と相互の討論を通じて「朝河学」をさらに深め、国際理解、国際交流の一助とすることが
で き れ ば 幸 い で あ る ( 一 九 九 七 年 八 月 三 〇 日 )。
追記。イェール大学名誉教授ジョン・W・ホール博士が、一九九七年一〇月二一日、アリ
ゾナの自宅で逝去された。享年八一歳。同博士は朝河貫一遺稿集『荘園研究』に
矢吹晋『逆耳順耳』
234
Kan'ichi Asakawa: Comparative Historian を 執 筆 さ れ た の を 初 め と し て 、 ア メ リ カ に お
ける日本史学、朝河学の権威であった。謹んでご冥福を祈ります。
[ こ れ は 『 甦 る 朝 河 貫 一 』( 朝 河 貫 一 研 究 会 編 、 東 京 国 際 文 献 印 刷 刊 、 九 八 年 一 月 ) の 「 あ
とがき」草稿である。研究会代表峰島旭雄教授との連名で印刷された]
逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 9 7 号 2 0 0 1 年 0 2 月 1 0 日
北 京 日 記 2000 年 8 月 (下 )
八 月 二 八 日 (月 )
四時前、寝覚め、また寝る。少し寒い。七時起床、和平賓館食堂で粥を食う。七時四〇分
チェックアウトし、八時二〇分北京空港着。まもなく村田忠禧教授が現れ、一緒にチェッ
ク イ ン し て 大 連 へ 一 〇 時 一 五 分 離 陸 。一 一 時 半 大 連 空 港 に 着 き 、一 二 時 大 連 賓 館 ( 旧 ヤ マ ト・
ホ テ ル ) 着 。昼 は 出 迎 え の 大 連 市 党 校 関 係 者 と と も に ホ テ ル 食 堂 で さ っ そ く エ ビ の 踊 り 食 い
とヒラメの刺身。イカの煮物、その他料理二皿、餃子三〇コ。大連海鮮料理に満足して一
時四五分、部屋へ。パソコンをセットしたが、自力では接続できず、村田頼み。まもなく
村田氏が現れ、得意技を伝授。〇〇一〇をダイヤルして北京を呼び出し、そこから一六九
に 電 話 を か け る 奥 の 手 で 接 続 に 成 功 。 K T 氏 か ら の メ ー ル に 曰 く 「 貴 fax は 、 第 一 勧 業 銀
行 に 送 っ た 、 九 月 三 日 夜 の ア レ ン ジ は O K 」。 こ の メ ー ル を 得 て 、 一 安 心 。 午 後 三 時 前 、 人
民路を大連港まで歩き、桟橋でコーヒーを飲む。ホテルへの帰路は魯迅通り。そこで「甜
の夢」なる日中混淆の看板を掲げた床屋で散髪二五元。なかなかセクシーな三〇女の按摩
はよく効いた。看板の写真を写して六時部屋に戻る。メールを読んだり返事を書いたり三
〇分。夕飯は村田氏と二人で「天天漁港」へ。そこで馬糞ウニ一つ、えび踊り半斤、ヒラ
メ刺身 1 匹、仏跳墻、酒は「古井貢」酒。三六五元也。真夏の夜・中山広場では野外ダン
スパーティがにぎやか。これが開放都市大連の明るさの一面だ。一〇時寝る。
八 月 二 九 日 (火 )
五時起床。メールを見てまた寝る。七時起床。まもなくドアを激しくノックする音。東京
の TS 氏 か ら fax。
「 朱 鎔 基 ・ 宮 崎 勇 会 談 の メ ド が つ き そ う だ 」。 早 速 メ ー ル で 返 信 。 ホ テ ル
を教えておかなかったのに、探り当てるとはさすがジャーナリスト。七時半朝飯。九時前
大連市党校着。九時~九時半,矢吹報告、九時半~一〇時、村田報告。以後一一時半まで
九〇分自由討論。特に記すべきことはないが、日本企業の投資意欲減退について、政治的
思 惑 を 語 る 中 国 人 研 究 者 の 認 識 に は 今 さ ら の よ う に 驚 か さ れ た 。「 企 業 は 儲 か る と こ ろ に
は進出する。投資環境のよくない地域は敬遠する。これはビジネスの鉄則、市場経済の鉄
則である。この種の経済原則を徹底的に理解すべきであり、なにもかも政治に結びつける
悪しき政治主義から解放されないと中国の市場経済はうまくいかないはず」と強調した。
日 中 相 互 理 解 を 阻 む 壁 は 、開 放 都 市 大 連 で さ え ま だ 高 い 。
「 自 由 港 美 食 林 」な る レ ス ト ラ ン
で重慶式個人鍋。食後、浜海路を経て、ホテル着。
午後、念願の旅順港訪問。水師営の門票四〇元、ソ連軍烈士陵墓。二〇三高地門票は三〇
矢吹晋『逆耳順耳』
235
元。ここに置かれた大砲は日露戦争当時のものではなく、いわばニセモノであった。タク
シーは四五〇元だが高速料金二〇元也、村田氏と割り勘で半分。帰路、海軍基地を右手に
眺めつつ帰る。途中運転手が鮮魚を買う。安くて新鮮なのだという。村田氏は天津梨を買
う。夜、外出を避けてホテル内の「紅葉」で、大連寿司八〇元を食いながらイイチコのお
湯割を呑む。帰宅以後メール接続不能。サーバーの故障らしい。
八 月 三 〇 日 (水 )
午前、メールは依然通じない。自室で某社の講演用レジュメを作成し、某誌の定例原稿を
執筆する。昼は、双盛園で、海螺、冬瓜油炒め、ギョウザなど。ビールは「棒王」ブラン
ド。シャングリラホテルでコーヒー。午後二時半、党校外事弁公室女性の見送りで、大連
か ら 北 京 に 帰 る 。 空 港 か ら 急 い で 師 範 大 学 専 家 楼 一 四 〇 六 室 へ 。 電 話 六 二 二 〇 -××××。
居間、寝室、キチン、トイレつきの立派な部屋。夜一一時、村田氏のヘルプでようやく、
接続に成功。パスワードを忘れたのが原因とは、末期的症状。
八 月 三 一 日 (木 )
六時半、起床。専家楼の自室を点検すると、東に向かう細長い部屋。朝日が差し込み、気
分よし。メールもすぐ接続できてハッピー。九時三〇分ごろ、慕田峪長城遊覧の迎車が来
る は ず 。 九 時 半 す ぎ 、 村 田 氏 夫 妻 と F 夫 人 が 現 れ 、 LX 教 授 の レ ン タ カ ー で 慕 田 峪 へ 。 頂
上 ま で 上 り 二 〇 分 、 下 り 三 〇 分 。 午 後 一 時 半 、 定 陵 へ 向 か う 。 途 中 道 に 迷 い 、 三 時 、「 農 家
飯 」を 食 い 、桃 を か じ る 。四 コ 五 元 也 。四 時 定 陵 着 。駆 け 足 で 地 下 宮 殿 を み て 、五 時 す ぎ 、
宿 舎 着 。 シ ャ ワ ー を 浴 び て 六 時 半 、 友 誼 餐 庁 二 階 へ 。 CD 夫 人 (一 九 三 七 年 生 ま れ )、 W 教
授 、 LX 助 教 授 と 村 田 夫 妻 、 F 夫 人 、 矢 吹 が 会 食 。
九 月 一 日 (金 )
六時半、起床。午前、某誌原稿の続きを執筆して、メールで送る。一〇~一一時、贈呈用
「 y a b u k i p a p e r s 」を 収 め た ロ ム ・ デ ィ ス ク 作 り 。一 枚 は 山 西 大 学 馮 女 史 に 、他 の 七 枚 は 、
中国在住の友人たちに贈呈。一一時すぎ、タクシーで北京飯店へ。娘から依頼された実印
作成のため。惜しいことに東館は工事中で売店は閉鎖中。評判の漢方医によるマッサージ
も な い 模 様 。歩 い て み る と 中 館 は 見 違 え る ほ ど 豪 華 に 改 装 さ れ て い た 。。王 府 井 を 歩 き 、マ
クドナルド対面の店で実印を依頼。一文字一五元で五字依頼し、印材二三〇元と合わせて
三〇五元也。その後地下天建国門で乗り換え、積水潭まで。タクシー一〇元で師範大学東
門 へ 。歩 道 橋 を 渡 っ て 帰 る 。地 下 鉄 出 口 で 水 滴 の つ く 、冷 た い ワ ハ ハ 印 ペ ッ ト ボ ト ル 三 元 。
売り子はアザラシ青年で手元不如意。
「 ど れ で も 好 き な や つ を 自 分 で と っ て く れ 」と 言 わ れ
る。身障者が堂々と生きていることに感激。三時帰宅、太原行き旅行の荷物準備。午後四
時半、新世紀飯店から三浦徹明教授が着くはず。それを待って北京空港で村田教授一行と
待 合 せ 。 そ こ へ N H K 加 藤 高 広 記 者 夫 妻 が 追 い つ き 、 合 流 [*追 記 参 照 ]。 こ う し て 村 田 夫 妻
と そ の 友 人 、三 浦・矢 吹 に 加 藤 夫 妻 を 加 え た 七 名 か ら な る 旅 行 団 で 、二 泊 三 日 太 原 の 旅 へ 。
夜九時すぎ太原着、馮教授夫妻の出迎え。華明大飯店八〇三室に落ち着く。そこでインタ
ー ネ ッ ト は 無 事 接 続 。以 下 の 番 号 を 続 け て 推 す 煩 わ し さ 。二 〇 一・ 九 七 一 八 八 一 六 〇 # , 〇
六 四 二 #, 二 一 一 一 #。 こ う し て 繫 い だ も の の 、 重 要 メ ー ル は な く 空 振 り の 感 覚 。 一 一 時 就
矢吹晋『逆耳順耳』
236
寝。
九 月 二 日 (土 )
七 時 半 、朝 飯 、八 時 一 〇分 、バスで一 六 〇キロ離 れたの「王 家 大 院 」へ。大 学 卒 ガイド嬢 の歯 切 れの
良 い説 明 を聞 きながら、ゆっくり清 朝 「五 品 官 僚 」、「四 品 官 僚 」の豪 邸 を見 る。一 時 すぎ参 観 終 了 、
昼 メシは八 六 元 で盛 り沢 山 、青 島 黒 ビールつき。村 田 夫 人 がカメラをなくしてひと騒 動 。四 時 世 界 遺
跡 平 遥 城 壁 に登 る。五 時 半 晋 祠 参 詣 。村 田 さんが「矢 吹 神 社 か」とはやし立 てる。七 時 晋 陽 飯 店 で
夕 食 。九 時 すぎまで大 宴 会 。
九 月 三 日 (日 )
午前六時モーニングコール、六時半チェックアウト、二泊で三四八元の安さ。馮教授見送
り。北京空港からはリムージン一六元で三浦教授とともに宿舎に戻る。夜、宴会の件で北
沢 健 氏 に 電 話 確 認 、そ の 後 O J さ ん に 電 話 し て 、李 鋭 訪 問 の 首 尾 を 聞 い て 、夜 の 会 に 誘 う 。
三時半、バス二二号で西単へ。地下鉄で王府井、そこで依頼していた娘の「実印」を受け
取る。友好商場にふらりと入り、純綿の中袖シャツを買って、着替える。一九八元也。な
か な か よ い と 思 う 。 再 び 地 下 鉄 に 乗 り 、西 単 へ 。時 代 広 場 三 階 で ブ ラ ッ ク コ ー ヒ ー を 飲 み
ながら、
『 性 学 』な る 地 下 鉄 売 店 で 買 っ た 社 会 学 者 の 本 を 拾 い 読 み 。六 時 、旧 四 川 飯 店 ・ 現
香 港 倶 楽 部 で 北 京 駐 在 の ジ ャ ー ナ リ ス ト 諸 氏 ( 加 藤 高 広 記 者 を 含 む 。こ れ が 最 期 の 別 れ に な
ろ う と は ) を 招 宴 。話 題 の 焦 点 は 、日 中 関 係 。の ち 森 保 裕 記 者 氏 が 本 日 休 業 の 日 本 風 バ ー「 赤
とんぼ」を無理やり開かせ、乗り込む。加藤記者の顔もそこにあり。一二時タクシーを飛
ばして帰宅。
九 月 四 日 (月 )
五時目覚め。六時前起床。七時半、村田氏より電話、見送り車手配の件。一二時半、国際
倶楽部ロビーで昨夜の支払い。のち国際郵局近くの飯屋で食う。地下鉄で軍事博物館へ。
経 済 犯 罪 展 を 見 る 。ば か ば か し い 限 り 。地 下 鉄 と タ ク シ ー で 西 直 門 か ら 帰 る 。。四 時 村 田 氏
のヘルプで郵便小包五キロの箱を五つ出す。箱代五〇元、郵便代一七〇元。帰宅後二〇元
の「報関税」支払いの電話催促あり、再度郵便局に出向いて支払う。担当の李君申しわけ
なさそうな表情。三環路と新街口交差点のレストランでスッポンスープと豆もやし。牛肉
そ ば 一 六 一 元 也 。 荷 物 を 整 理 し て 九 月 五 日 (火 )帰 国 。
[追記]
NHK加藤高広記者はモンゴルの雪害取材に出かけたが、二〇〇一年一月一四日、ヘリコ
プター事故で焼死した。加藤君はその年齢が私の息子に近いこともあって、この数年、北
京に派遣されるまで特に親しみを感じて勉強会を続けていた。なんとも痛ましい。痛恨の
極みとはこんな気分か。彼は年末に旅行の写真とともに手紙をくれたが、私は旅行中で返
事も書かないうちに逝った。加藤君の旅行写真に添えられた短い手紙にはこう書かれてい
た。
「 ご 無 沙 汰 し て お り ま す 。山 西 旅 行 の 折 り は 、楽 し い ひ と 時 を 過 ご さ せ て い た だ き 、あ
り が と う ご ざ い ま し た 。 遅 く な っ て 恐 縮 で す が 、 [旅 行 中 の ]写 真 を お 送 り い た し ま す 。 寒
さ の 厳 し い 季 節 と な り ま し た 。呉 々 も ご 自 愛 下 さ い 。二 〇 〇 〇 年 一 二 月 一 四 日 」こ こ ま で
はワープロで以下の追記があった。
「 矢 吹 先 生 、お 元 気 で い ら っ し ゃ い ま す か ? 先 生 の 御 著
矢吹晋『逆耳順耳』
237
作 を 教 科 書 に し て 、 毎 日 取 材 に 励 ん で お り ま す 。 加 藤 高 広 ( 署 名 ) 。」
『 蒼 蒼 』 前 号 の 「 北 京 日 記 」 八 月 十 七 日 の 件 に 以 下 の よ う に 書 い た 。「 ( 夕 刻 ) 五 時 半 、 中
国 大 飯 店 へ 行 き ( 雲 助 タ ク シ ー 四 五 元 ) 、K T 氏 と 五 糧 液 を 痛 飲 」。こ の イ ニ シ ャ ル K T と は
加藤高広記者である。このとき、村田・矢吹は加藤記者のおごりで天下の銘酒五糧液を三
人で一本空けながら、天下国家と日中関係を論じ、同時に村田教授の提案した太原旅行計
画 に 加 藤 夫 妻 も 私 的 に (記 者 と し て で な く 夏 休 み で )同 行 す る こ と が 決 ま っ た 。 太 原 で は 、
ロ シ ア 語 通 の 加 藤 記 者 夫 人 に で 、「 ク ラ シ ー バ ャ ・ ジ ェ ー ブ シ カ 、 ド ブ ル ィ ・ ウ ー ト ラ ム 」
などと語りかけながら楽しく旅行したのであった。訃報を知らせる同僚からのメールはこ
うだ。
「 既 に 新 聞 な ど で 報 道 さ れ て い ま す が 、加 藤 記 者 が 搭 乗 し た ヘ リ コ プ タ ー は 着 陸 に 失
敗、炎上した模様で、彼は焼死したようです。病院に搬送されてからではなく、事故現場
で死亡した模様です。現場がウランバートルから随分離れているので、通信上のミスか何
かで彼は助かっているかも、という一縷の望みを抱いておりましたが、無念です。ご遺族
は 昨 日 、ウ ラ ン バ ー ト ル 入 り さ れ ま し た 。葬 儀 な ど に つ き ま し て は 、現 段 階 で は 未 定 で す 」
「 加 藤 高 広 記 者 の ご 遺 骨 は 、 (一 月 )二 四 日 午 後 七 時 前 、 恵 子 夫 人 ら ご 家 族 と 共 に 成 田 に 到
着し、海老沢会長、各理事、モンゴル大使館のダシプレブ公使らが出迎えました。空港の
応 接 室 に 臨 時 の 祭 壇 が 設 け ら れ 、献 花 が 行 わ れ ま し た 。恵 子 夫 人 は 、
「夫が中国での記者と
しての任期をまっとうできず、このような形で帰国することはたいへんに残念です」と、
加藤記者がウランバートルのホテルに置いていったコートを胸に抱えて、涙ながらにあい
さ つ し ま し た 」。加 藤 記 者 の 訃 報 は 台 湾 の 友 人 戴 国 ( 火 軍 ) 氏 の 訃 報 の 直 後 に 知 ら さ れ た 。セ
ン タ ー 試 験 の 監 督 や 期 末 試 験 の 雑 事 に 忙 殺 さ れ る の は 、む し ろ 救 い の よ う に さ え 感 じ つ つ 。
逆 耳 順 耳 、『 蒼 蒼 』 第 9 8 号 、 2 0 0 1 年 4 月 1 0 日 号 、 11 ~ 1 6 ペ ー ジ
ブッシュ政権下の米中関係を示唆する小さな出来事
二 月 の あ る 日 、『 ジ ャ パ ン ・ タ イ ム ス 』 編 集 部 か ら 問 い 合 わ せ が あ っ た 。「 T V E s と は な に
か 、 F I E s と は な に か 」、 教 え て ほ し い と い う も の だ 。 前 者 は t o w n s h i p a n d v i l l a g e
e n t e r p r i s e s の 略 語 、す な わ ち「 郷 鎮 企 業 」で あ る 。後 者 は f o r e i g n - i n v e s t m e n t e n t e r p r i s e s
の略語、すなわち「外資系企業」を指す。電話口でいぶかる私に担当の女性記者がこう説
明した。
「 先 生 の ご 本 の 書 評 に 出 て く る 表 現 で す が 、意 味 が 分 か ら な い の で 」と 。今 年 の 二
月二七日のことである。電話を受けた翌日、
T h e g u i d e t o t h e C h i n e s e e c o n o m y , C h i n a ’s N e w P o l i t i c a l E c o n o m y , b y S u s u m u Ya b u k i
a n d S t e p h e n H a r n e r. B o u l d e r, C o l o r a d o : We s t v i e w P r e s s , 1 9 9 9 , r e v i s e d e d i t i o n , 3 2 7 p p . ,
$32. Reviewed by James A. Dorn と い う か な り 長 い 書 評 が 同 紙 に 掲 げ ら れ た (The Japan
Ti m e s , Tu e s d a y, F e b r u a r y 2 7 , 2 0 0 1 ) 。 そ れ と 相 前 後 し て 、 t h e C a t o J o u r n a l , Wi n t e r 2 0 0 1
に 同 誌 編 集 長 James A. Dorn 氏 の 書 評 が 載 っ た こ と を 共 著 者 ハ ー ナ ー か ら の メ ー ル で 教
え ら れ た 。「 よ う や く 認 め ら れ た よ 。 こ れ は 権 威 の あ る 雑 誌 な の だ 」。 ハ ー ナ ー の 笑 顔 が 私
の脳裏に浮かんだ。
矢吹晋『逆耳順耳』
ハーナーとの共著が出たのは二年前である。出版当時、別件で取材
238
を受けた『ジャパンタイムス』の記者に、もし適当な機会があれば紹介していただければ
ありがたいと伝えたことがあったが、その後、何も反応はなかった。事情はアメリカでも
同じだった。そこでハーナーと私はほんとうに腐っていた。昨年一一月のこと。青海湖旅
行の帰途、私はハーナーが浦東に購入した超高級マンションを訪れたが、開口一番彼が口
にしたのは、
「 も う 本 を 書 く と い う エ ネ ロ ス は や り た く な い ね 。徒 労 だ 。儲 か ら な い し 」と
いう不平であった。彼によると、英訳の編集者は、内容からして新しい書名を考えるべき
で あ っ た に も か か わ ら ず 、「 単 に r e v i s e d e d i t i o n と し た の で 、 注 目 さ れ な か っ た の だ 」 と
いう説明であった。この話題は不愉快なので、それで終わり、話は中国経済の見通しや上
海 の 金 融 事 情 に 進 ん だ 。 彼 が 上 海 財 経 大 学 の 講 師 と し て MBA の 講 義 を 担 当 し て い る こ と
も 聞 い た 。「 な る ほ ど 、 中 国 の 若 者 は い ま や ア メ リ カ に 留 学 し な く と も 、 米 国 製 の M B A テ
キストで、アメリカ人から直接英語の講義を受けられる」ということか。私は事情を納得
した。このような会話の数カ月後のことなので、ハーナーも私もわが意を得たり、の気分
になった次第である。冒頭の二句にこう書いてある。
I n t h i s t h o r o u g h l y r e v i s e d e d i t i o n o f S u s u m u Ya b u k i ' s 1 9 9 5 b o o k , S t e p h e n H a r n e r
( t r a n s l a t o r o f t h e 1 9 9 5 b o o k ) j o i n s Ya b u k i t o p a i n t a b r o a d p i c t u r e o f C h i n a ' s e v o l v i n g
p o l i t i c a l e c o n o m y.
A rich array of information is presented in a clear and imaginative
w a y, c o v e r i n g a l l t h e k e y f a c e t s o f t h e t r a n s i t i o n f r o m p l a n t o m a r k e t . T h i s i s a b o o k
n o C h i n a w a t c h e r w i l l w a n t t o b e w i t h o u t . A s a l e a d i n g J a p a n e s e s i n o l o g i s t , Ya b u k i
provides an interesting perspective on the many changes that have taken place in
China's
economic,
political,
and
social
landscape
since
the
days
of
Mao
Zedong.
L i k e w i s e , H a r n e r, a f o r m e r d i p l o m a t a n d c h i e f r e p r e s e n t a t i v e o f D e u t s c h e
Bank AG in Shanghai, draws on a wealth of experience to provide an informed analysis
o f C h i n a ' s b u d d i n g f i n a n c i a l m a r k e t s a n d t h e s t a t e o f f i s c a l a n d m o n e t a r y p o l i c y.
第 一 句 の 末 尾 This is a book no China watcher will want to be without. と は 、 初 版 の 書
評 で 体 験 し た 「 本 書 は China watcher に と っ て の must で あ る 」 を 想 起 さ せ 、 こ う い う 書
き方がコマーシャルの一例なのだと分かる。ドーンなる評者は、どんな人物か。教えても
らったホームページに写真入りのプロフィールがある。それによると彼の横顔は以下のご
とくだ。
Cato's vice president for academic affairs James A. Dorn is editor of the Cato Journal
and director of Cato's annual monetary conference. His research interests include
t r a d e a n d h u m a n r i g h t s , e c o n o m i c r e f o r m i n C h i n a , a n d t h e f u t u r e o f m o n e y. H e
directed Cato's Project on Civil Society from 1993 to 1995. From 1984 to 1990, he
served on the White House Commission on Presidential Scholars. He has edited ten
books, and his articles have appeared in numerous publications. He has lectured in
E s t o n i a , G e r m a n y, H o n g K o n g , R u s s i a , a n d S w i t z e r l a n d a n d h a s d i r e c t e d i n t e r n a t i o n a l
c o n f e r e n c e s i n L o n d o n , S h a n g h a i , M o s c o w, a n d M e x i c o C i t y. H e h a s b e e n a v i s i t i n g
scholar at the Central European University in Prague and at Fudan University in
矢吹晋『逆耳順耳』
239
S h a n g h a i a n d i s c u r r e n t l y p r o f e s s o r o f e c o n o m i c s a t To w s o n U n i v e r s i t y i n M a r y l a n d .
D o r n h o l d s a n M . A . a n d a P h . D . i n e c o n o m i c s f r o m t h e U n i v e r s i t y o f Vi r g i n i a .
こ こ に 書 い て あ る White House Commission on Presidential Scholars と は 、 ど ん な 委 員
会 か よ く 分 か ら な い が 、 Central European University な ら 少 し は 知 っ て い る 。 こ れ は 例
のヘッジファンドの大物ジョージ・ソーロスが作った大学である。旧ソ連東欧圏の市場経
済化を推進するエリートを養成するために、彼が母国の首都ブダペストに本部を設けたこ
の 大 学 が 中 欧 東 欧 の 学 術 研 究 の 一 つ の 中 心 と し て め ざ ま し い 活 動 を 行 っ て い る 話 は 、9 9 年
に ハ ン ガ リ ー で 一 カ 月 暮 ら し た と き に 、い く ど か 耳 に し た ( こ の 大 学 の こ と は ホ ー ム ペ ー ジ
か ら も 容 易 に 知 る こ と が で き る )。
こ こ で お ぼ ろ げ な 記 憶 が 甦 る 。「 中 国 の N G O 」 を テ ー マ と し て 私 の ゼ ミ で 修 士 論 文 を 書 い
た岡室美恵子さんから、この研究所を訪問した際の話を聞いたのは二~三年前のことであ
っ た 。 中 国 の NGO を テ ー マ と す る 彼 女 に と っ て 、 こ の 研 究 所 の 活 動 は 参 照 す べ き も の で
あったらしい。ケイトなる存在がいよいよ気になり、ワシントン駐在のトヨタ海外調査マ
ン平林栄次氏に問い合わせのメールを書いてみる。その後断続的に届いた答えからブッシ
ュ政権下の米中関係の雰囲気が伝わる。
「 C AT O I N S T I T U T E は 、 い わ い る “ リ バ タ リ ア ン ” 思 想 を 標 榜 す る 、 ど ち ら か と い え ば
共和党系の政治経済シンクタンクです。よくセミナーを開くここの大会議場がハイエク・
オーディトリアムと呼ばれているところから、大体イメージがわかると思います。トップ
はレーガン政権時代の経済諮問委員会委員長W.ニスカネン氏。ここの貿易政策研究所の
B.リンゼイ所長はアンチダンピング問題で日本側を擁護してくれた数少ない論客で、親
しくさせてもらっています。彼は米国鉄鋼業界・組合の論理は、米国の経済効率向上の観
点 か ら お か し い と 批 判 し て い ま し た 」「 ワ シ ン ト ン の 二 大 シ ン ク タ ン ク は ブ ル ッ キ ン グ ス
= 民 主 党 系 、 AEI= American Enterprise Institute for Public Policy Research 共 和 党 系
で す が 、ク リ ン ト ン 政 権 八 年 間 の 間 に A E I の 地 盤 沈 下 が 著 し く 、そ の 穴 を 埋 め る べ く こ の
C AT O や ヘ リ テ ー ジ 財 団 と い っ た シ ン ク タ ン ク が 共 和 党 系 シ ン ク タ ン ク と し て 売 り 出 し 中
で 、そ の 研 究 報 告 書 類 は 、ワ シ ン ト ン で も 大 学 関 係 者 の 間 で も 高 く 評 価 さ れ て い ま す 」
「共
和党系シンクタンクといっても、一昔前の“秩序と規律”といったピュリタン的倫理観に
基 づ い た 、 安 全 保 障 重 視 だ け の 議 論 で は な く 、“ 個 人 的 自 由 と 民 間 活 力 の 効 用 ” を 重 視 し 、
“ 政 府 の 役 割 ”を で き る 限 り 小 さ く し て い こ う と の 考 え が 基 本 で 、W T O を 軸 と し た グ ロ ー
バリズム=自由貿易主義に基づいて世界の経済運営をはかり、その維持装置としての安全
保障の重要性を説くといった議論と思います」
「 同 じ 共 和 党 系 で も 、A E I は ど ち ら か と い う
と 、 議 員 や 大 企 業 ト ッ プ と の ク ロ ー ズ な 会 合 を ア レ ン ジ す る の に 対 し 、 C AT O は 政 府 ・ 議
会 ス タ ッ フ・一 般 研 究 員・大 学 関 係 者・マ ス コ ミ と い っ た 一 般 に む け の セ ミ ナ ー を 開 く 為 、
あんまりお金の出せない“経済広報センター”みたいなところにとってはなじみが深いで
す[矢吹コメント。平林氏は元来トヨタマンだが、いまはこの団体に出向してワシントン
に 滞 在 し て い る ]」
「 中 国 に 関 す る ス タ ン ス は 良 く 知 り ま せ ん が 、W T O 加 盟 は 積 極 的 に 応 援
していました。共和党の対中政策について聞いたところ、彼は“私はエコノミストだから
矢吹晋『逆耳順耳』
240
FOREIGN POLICY の 研 究 者 と 違 う か も し れ な い が と 前 提 を 置 き な が ら 、 中 国 が 市 場 経 済
に基づいた経済を進めていくことは米中両国にとって良いことであり、それを推進してい
こ う と い う の は C AT O の 立 場 と も 一 致 す る ” と の 意 見 で し た 」「“ F O R E I G N P O L I C Y の 研
究 者 と の 違 い と い う の は T M D 政 策 に つ い て こ と か ? ” と 聞 い た と こ ろ 、“ そ の 通 り だ が 、
T M D は 、台 湾 と 日 本 の 問 題 の 側 面 が 大 き く 、米 国 に と っ て は こ れ ら の 国 に 対 す る 一 種 の ビ
ジネスともとれるわけで、米中がこの問題で深刻な対立の要因になるとは限らない”と楽
観 的 な 見 方 を 披 露 し て く れ ま し た 」「 ま た 、 中 国 の W T O 加 盟 に つ い て は 、“ お そ ら く 秋 に
なるだろう。米国議会は心配ない”と言い切っていました。どちらかというと政策シンク
タンクの研究員というより気の良い大学の先生の側面が強く、日本経済に関するこれまで
の C AT O J O U R N A L に 載 っ た 論 文 や 自 分 の 書 い た 書 籍 を 紹 介 し て く れ た り W E B ペ ー ジ を
教 え て く れ た り 、 一 杯 も ら っ て き た の で 、 読 む の が 大 変 で す 」「 な ん か 、 ワ シ ン ト ン で は 、
人と会うのにも値踏みされているようなところがあり、スタンフォード大学にいた時とは
大 分 違 い ま す 。そ う し た こ と も あ り 、先 生 の お 名 前 を 使 わ せ て い た だ き ま し た 」。
「ワシ
ントンでは、人と会うのにも値踏みされているようなところがある」という印象は、世界
の政治都市ワシントンの雰囲気をよく伝えていると思われる。第二次大戦後の国際政治に
おけるワシントンの位置を考えると、容易に推測できるわけだ(ワシントンには二日しか
滞 在 し た こ と の な い 者 が 言 う の は お か し い か も し れ な い が )。 そ れ に し て も 、「 ト ヨ タ 」 や
「ケイダンレン」
( 経 済 公 報 セ ン タ ー は 経 団 連 の 広 報 組 織 )よ り も 通 り が よ い 、な ど と お だ
てられては、私は歯が浮くどころか、全部が一挙に抜けてしまいそうな気分になった。
天安門文書のこと
こ の 『 蒼 蒼 』 が 出 る こ ろ に は 、 中 国 語 版 が 出 て お り 、 T h e Ti a n a n m e n P a p e r s の 真 偽 論
争はますます盛んになるのか、それとももうすっかり忘れられているのか。私には後者の
可 能 性 が 強 い と 思 わ れ る 。 私 は 2 月 10 日 の 戴 國 煇 追 悼 式 の た め 台 北 を 訪 れ て 、 紀 伊 国 屋
書店の入り口に平積みされた英書を九九九元で買った。四倍しておよそ四〇〇〇円弱の値
段 だ 。巻 末 に 掲 げ ら れ た オ ー ヴ ィ ル・シ ェ ル 教 授 の 解 説 R e f l e c t i o n s o n A u t h e n t i c a t i o n は 、
現代中国研究にとって見逃せない力作である。
T h e P e n t a g o n P a p e r s : T h e S e c r e t H i s t o r y o f t h e Vi e t n a m Wa r ( N Y: B a n t a m B o o k ,
1971)は 周 知 の 通 り 、 ペ ン タ ゴ ン で 作 成 さ れ た 秘 密 文 書 を エ ル ス バ ー グ た ち が す っ ぱ 抜 い
たものだ。この文書のホンモノ性は議論の余地がない。しかし、清末の満洲人進士景善
(1823 ~ 1900)の も の と い わ れ る 『 景 善 日 記 』 に つ い て は 、 内 外 で は げ し い 論 争 が 続 い た 。
景 善 は 張 之 洞 と 同 期 の 進 士 で 、侍 郎 級 に ま で な っ た が 、1 8 9 4 年 以 来 引 退 生 活 を 送 っ た 満 洲
人 で あ る 。『 景 善 日 記 』 に つ い て 坂 野 正 高 ( 『 近 代 中 国 政 治 外 交 史 』 4 8 0 ~ 4 8 1 ペ ー ジ ) は こ
う記述している。
「 1 9 1 0 年 に 英 訳 な る も の が 公 に さ れ て か ら 、1 9 0 0 年 夏 の 北 京 当 局 の 内 幕
を伝える根本資料として長く珍重され、のち、大英博物館に寄託された漢文の原本につい
て何人かの学者によってほとんど完膚なきまでにその信憑性を批判されて、今日では偽造
文書であることがほぼ確定している」
「 こ の 資 料 は 、今 日 な お 、栄 禄 を 高 く 評 価 す る 研 究 者
矢吹晋『逆耳順耳』
241
によって、信憑性の如何を問題にしないで引用されている。以上の詳細については、菅野
正 「『 景 善 日 記 』 に つ い て 」 ( 大 阪 市 立 大 学 中 国 史 研 究 会 『 中 国 史 研 究 』 6 号 、 1 9 7 1 年 を み
よ ) 。」 ニ セ モ ノ た る こ と が ほ ぼ 確 定 し て も 、 な お 「 信 憑 性 の 如 何 を 問 題 に し な い で 引 用 さ
れ て い る 」事 態 を 坂 野 が 批 判 し た の は 、1 9 7 3 年 の こ と だ が 、欧 米 で も 事 態 は 類 似 し て い た
ようだ。
「 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 卒 業 の エ キ セ ン ト リ ッ ク な 東 洋 学 者・エ ド マ ン ド・バ ッ ク ハ ウ
ス 卿 」 が ベ ス ト セ ラ ー China Under the Empress Dowager を 書 い た の は 1914 年 で あ っ
た 。『 タ イ ム ス 』 の モ リ ソ ン 特 派 員 が 当 時 こ れ を ニ セ モ ノ と 批 判 し た 。 1 9 3 6 年 に な っ て バ
ックハウスがこの批判を受け入れ、
『 景 善 日 記 』の 信 憑 性 が 崩 れ 始 め た 。H u g h Tr e v o r - R o p e r,
H e r m i t o f P e k i n g : T h e H i d d e n L i f e o f S i r E d m u n d B a c k h o u s e ( N Y, A l f r e d a n d K n o p f ,
1 9 7 7 ) に よ っ て よ う や く『 景 善 日 記 』の 真 贋 論 争 に ケ リ が つ い た 経 緯 を シ ェ ル は く わ し く 説
明している。
『景善日記』ほど長時間を要したわけではないが、林彪事件の真相もまたかなりの時間を
要 し た 。 林 彪 の 死 去 は 1 9 7 1 年 だ が 、 Ya o M i n g - l e , T h e C o n s p i r a c y a n d D e a t h o f L i n B i a o
( N Y, A l f r e d K n o p f , 1 9 8 3 ) は 、 事 件 後 1 0 年 以 上 経 て か ら の 本 で あ る 。 英 語 世 界 に お い て 、
こ の 本 の 誤 り に 止 め を 刺 し た の は 、 Jin Qiu( 金 秋 ), The Culture of Power , Stanford
University Press, 1999)で あ っ た 。 姚 の 本 か ら 16 年 後 、 事 件 か ら 数 え る と 、 28 年 後 で あ
っ た 。日 本 で は 矢 吹 を 含 む 蒼 蒼 社 グ ル ー プ が 元 林 彪 弁 公 室 た る 中 央 文 献 研 究 室 を 訪 問 し て 、
事 件 の 詳 細 を 取 材 し た の が 1988 年 の こ と 。 こ れ に よ っ て 、 日 本 語 世 界 で は 、 事 件 の 輪 郭
が ほ ぼ 明 ら か に な っ た 。 そ の 後 矢 吹 は 、 金 秋 助 教 授 の 書 評 を 『 ア ジ ア 経 済 』 (2000 年 8 月
号 ) に 書 い た 。林 彪 の 4 大 将 の 一 人 た る 呉 法 憲 空 軍 司 令 員 の 娘 が そ の 立 場 を 極 力 活 か し て 調
査できた資料に基づくこの本は、林彪事件の決定版であると断言してよい。シェル教授の
評価も矢吹の評価と同じである。
さ て こ れ と 比 べ る と 、『 毛 沢 東 思 想 万 歳 』 の 真 贋 評 価 は 割 合 早 か っ た 。『 万 歳 』 の 初 期 の 評
価 は S t u a r t S c h r a m , M a o Ts e - t u n g U n r e h e a r s e d ( U K , P e n g u i n B o o k s , 1 9 7 4 ) に 見 ら れ る 。
矢 吹 は 『 万 歳 』 に 収 め ら れ た 「 ソ 連 政 治 経 済 学 読 書 ノ ー ト 」 を 翻 訳 し て 、「 反 中 国 分 子 」 の
レッテルを貼られ、いくどか中国ビザを拒否された。しかしその後、これらの資料の多く
は、中央文献研究室によって出版され、その信憑性は裏付けられた。
シェル教授の挙げた資料のうち、私がまだ確認していないのは康生関係のものである。
John Byron and Robert Pack, The Claws of the Dragon: Kang Sheng, the Evil Genius
B e h i n d M a o a n d H i s L e g a c y o f Te r r o r i n t h e P e o p l e ’s R e p u b l i c o f C h i n a ( N Y, S i m o n
a n d S c h u s t e r, 1 9 9 2 ) を ま だ 読 ん で い な い 。 そ の も と に な る 中 国 語 資 料 も ま だ 調 べ て い な い 。
逆耳順耳
辻誠著『上海の職場人間学』が面白い
辻誠著『上海の職場人間学』が面白い。著者は学生時代に中国語を学び、有名商社で中国
を専門に商売してきた人物である。
「 三 十 年 余 の 経 験 か ら 、中 国 に つ い て 知 ら な い こ と は 何
もなく、問題は何もないと自信満々」で、ある独資企業の総経理に就任した。ところが、
矢吹晋『逆耳順耳』
242
である。
「 採 用 ・ 人 事 労 務 管 理 な ど を 行 う 立 場 に た っ て み て 初 め て 、こ の 面 の 知 識 が ほ と ん
どないに等しいのを痛感させられた」
「 結 局 の と こ ろ 、ぶ っ つ け 本 番 、無 手 勝 流 で 悪 戦 苦 闘
せ ざ る を 得 な か っ た 」 (は じ め に )。 こ こ か ら 生 ま れ た の が こ の 本 だ が 、 私 に と っ て も 初 耳
の 情 報 が あ ふ れ て い る 。 一 読 し て 少 し 利 口 に な っ た 気 が し た 。「 都 市 戸 籍 」 と 「 農 村 戸 籍 」
の 話 や「 藍 印 戸 口 」な ど の 話 は 割 合 よ く 知 ら れ る よ う に な っ て い る 。ち な み に「 藍 印 戸 口 」
とは、上海などで床面積八十平米以上、四十万元以上のアパートを購入した者や上海にあ
る 外 資 企 業 に 勤 務 す る 非 上 海 人 の 技 術 者 、 管 理 職 (フ ツ ー の 従 業 員 で は な い )に 与 え ら れ る
都市戸籍である。つまりは都市と農村の厳格な差別を前提としつつ、マイホームの商品化
を促し、外資企業に必要な人材を確保するための便宜措置であり、上海では一九九七年の
暫 定 規 定 で 明 文 化 さ れ た 。こ の あ た り ま で な ら 、多 少 の 事 情 通 な ら 知 っ て い る 。で は 、
「集
団 戸 籍 」あ る い は「 団 体 戸 籍 」と は な に か 。私 は 知 ら な か っ た 。
「 こ れ は 機 関・団 体・学 校・
企業・事業などの単位内の寮や寄宿舎に居住する者の戸籍を合わせて一つの戸籍としたも
の で 、通 常 単 身 者 が 団 体 戸 籍 に 属 す る 」( 7 4 ペ ー ジ ) 。
「 人 の 家 に 寄 宿 し て い る 場 合 や 、居 住
日時がはっきりした契約書のない貸家に住んでいる場合は、そこに戸籍を置くことはでき
ない。また地方出身の大学新卒者も、はっきりした就職が決まっていないと都市に戸籍を
構えることはできない」
「 地 方 の 高 級 中 学 出 身 で 上 海 の 大 学 を 卒 業 後 、同 期 の 者 と 一 緒 に 上
海市内の国有企業に就職し、企業の寮に住み、集団戸籍の都市戸籍を持っていた王君のケ
ー ス が 、こ の 実 例 で あ っ た 」( 7 4 ~ 5 ペ ー ジ ) 。著 者 が み ず か ら 悩 ま さ れ た 事 例 を 丹 念 に 調 べ
てこの本を書いたことは、この王君を雇う経緯から「集団戸籍」に遭遇した一例からも伺
われるわけだ。ついでに「都市戸籍」あるいは「都市生活」の六大特権とは何か。すなわ
ち (1)家 族 養 育 手 当 て が あ る こ と 。 (2)家 族 医 療 費 を 半 額 負 担 し て も ら え る こ と 。 (3)生 活 が
苦 し け れ ば 生 活 保 護 が も ら え る こ と 。( 4 ) 低 家 賃 の 住 宅 を も ら え る こ と 。( 5 ) 水 道 光 熱 費 の 補
助 が あ る こ と 。 ( 6 ) 就 業 と 就 学 の 便 宜 を 図 っ て も ら え る こ と 、 以 上 6 カ 条 で あ る 。「 実 生 活
上、このようなことが社会主義中国では存在しているので、農民は機会があれば、都市戸
籍 に 移 動 す る こ と を ね ら っ て い る 」( 7 5 ペ ー ジ ) 。
「 都 市 生 活 の 六 大 特 権 」と し て 辻 が 挙 げ た
なかに「食糧の配給」が含まれていないのは興味深い。いまやオオカミ少年レスター・ブ
ラウンの予言とは裏腹に食糧は満たされており、問題になっていないことが分かる。一九
五〇年代から六〇年代初頭にかけて、都市戸籍を厳しく管理した大きな目的は、治安の確
保 を 除 け ば 、都 市 に お け る 食 糧 配 給 を 保 証 す る た め で あ っ た 。客 観 条 件 の 変 化 に 対 応 し て 、
当局にとって必要な農村戸籍を都市戸籍に転換するための便宜措置、暫定措置が制度化さ
れてきたが、その現場を著者はみずからの体験をもとに描き出した。著者の好奇心は大連
に飛ぶ。大連の経済技術開発区では外資企業の勤続年数によって区別される。三年以上で
「 臨 時 開 発 区 戸 籍 」、 五 年 以 上 で 「 正 規 開 発 区 戸 籍 」 を も ら え る 。 た だ し 、 戸 籍 の 移 動 に 際
し て 、開 発 区 に 金 銭 を 支 払 う 規 定 が あ る 。
「 大 学 本 科 卒 一 万 元 、大 専 卒 一 ・ 五 万 元 以 上 、中
専 卒 二 万 元 、上 記 の 者 の 家 族 一 万 元 」( 7 7 ペ ー ジ ) 。
「 わ れ わ れ の セ ン ス で は 、金 額 も 高 い し 、
人を呼ぶのに金を取るのは解せない」
「 中 国 側 の 考 え は 、開 発 区 は 大 連 市 の 税 金 で 作 ら れ て
いる以上、税金負担をしていない地域の出身者が、金を払わないで開発区の便宜を得るの
矢吹晋『逆耳順耳』
243
は 不 公 平 、と い う も の で あ ろ う 」
「 先 に 述 べ た 、国 立 大 学 卒 業 生 が 国 有 企 業 以 外 の 企 業 に 就
職した場合に、国が負担した金額を養成費として徴収しないと、国有企業との間に不公平
が 起 き る 、 と い う 論 理 と 同 じ で あ ろ う 」 (77 ペ ー ジ )。
「国立大学卒業生が国有企業以外の企業に就職した場合」の話は、防衛大学卒業生が民間
企業に就職した場合と置き換えてみると、類似のケースは、日本でもそれほど昔の話では
な い 。中 国 で も 国 立 大 学 が 高 額 の 授 業 料 を 聴 取 す る 時 代 に な っ て い る 。と な る と 、
「国有企
業以外の企業に就職した場合」についての規定が、根拠を失うのは時間の問題である。档
案 制 度 に つ い て の 概 略 は 、傷 痕 文 学 の 傑 作「 社 会 の 档 案 の な か に 」あ た り で 話 題 に な っ た 。
い ま か ら 20 年 昔 の こ と だ 。 文 化 大 革 命 期 に こ れ が ど ん な 役 割 を 果 た し た か な ど を 書 い た
ものは少なくない。しかし、外資企業がその従業員の档案をどう管理しているのか。これ
を 私 は 知 ら な か っ た 。「 国 の 規 定 で は 、 档 案 は 外 国 人 に 見 せ る こ と を 禁 止 し て い る 」「 移 動
先が合弁企業ならば、中国側の企業の人事管理を行うセクションにいる共産党員の管理者
の所で保管される」
「 外 資 独 資 企 業 の 場 合 は 、人 事 管 理 は 外 国 人 が 行 う の で 、企 業 自 身 は 保
管できない。そこで、現在の規定では『上海市人材服務中心』のような機構に保管を依託
することになっている」
「 保 管 料 は 当 時 一 人 分 に つ い て 、1 カ 月 5 1 0 元 。い っ た ん 保 管 が は
じまれば、相手は何もしなくとも、外資企業は支払いを続けなければならない。企業が発
展 し て 、 従 業 員 が 増 え れ ば 、 そ れ に 伴 い 支 払 い は 増 え て く る 」 ( 8 4 ~ 5 ペ ー ジ ) 。「 わ が 社 で
は幹部クラスのスタッフの档案は服務センターに預けていたが、その中から研修で日本に
派遣する人員が出た。訪日に当たり、公安局がパスポートを発給するかどうか。事前にサ
ウンドしても、公安局はパスポート発給に支障があるか否か、話してくれない。パスポー
トの申請をしてから、本人に前科などがあり、公安局の同意が得られなければ、訪日まで
の 段 取 り に 余 計 に 時 間 が か か っ て し ま う 」。さ あ 、ど う す る ? ど う な る ? 著 者 は こ う ア ド バ
イスする。
「 信 頼 で き る 中 国 の ラ ン ク の 高 い 人 に 、档 案 を 見 て も ら い 、そ の へ ん を チ ェ ッ ク
してもらえば解決する。外資独資の企業では、普段からそういうストとの付き合いが必要
で あ る 」 (85 ペ ー ジ )。 な る ほ ど な る ほ ど 。 実 は 辻 自 身 が こ の よ う な 局 面 に 逢 着 し 、 そ の よ
うにして解決したのである。このあたりは、企業がトラブルをフィクサー政治家に依頼す
る構図と似ているが、必要なのはトラブル解決の分類法であり、種類ごとに持ち出す相手
の解決能力の見極めである。私自身が面白く読んだところを紹介したが、類似の知恵は随
所 に 見 ら れ る 。実 践 の な か に こ そ 、や は り「 真 知 」が あ る 。中 国 人 、特 に「 部 下 の 中 国 人 」
とうまくつきあうためのノウハウがぎっしりつまった本である。この分野でイチオシだ。
スパイ機衝突事件の主役・アメリカ駐中国大使の名前の呼び方
友人へのひまつぶしのメール再録。日本ではほとんどすべてのマスコミが北京駐在のアメ
リ カ 大 使 Prueher を 「 プ リ ア ー 」 と 読 ん で い ま す 。 私 が た ま た ま 開 い た 『 ニ ュ ー ヨ ー ク ・
タ イ ム ス 』( 4 月 3 日 付 ) に は 、 以 下 の よ う に 書 い て あ り ま し た 。 こ れ は カ タ カ ナ な ら 「 プ
ル ー ア 」と 読 む 、と い う 注 釈 で す ね 。報 道 は 名 を 正 す こ と か ら 始 め る べ き と 思 う の で す が 。
マ ス コ ミ OB、 現 役 の 皆 さ ん い か が で す か 。
矢吹晋『逆耳順耳』
244
N e w Yo r k Ti m e s , A p r i l 3 , 2 0 0 1 .
Since arriving as ambassad or in December 1999, Admiral Prueher (pronouced PROO er) has worked for deeper relations that would transcend differences over human rights
a n d Ta i w a n .
「プリアー」説の事例。
( 1 )【 北 京 四 月 五 日 共 同 】 米 国 の プ リ ア ー 駐 中 国 大 使 は 五 日 、 北 京 の 米 大 使 館 前 で 記 者 団 の
質 問 に 答 え 、米 中 軍 用 機 接 触 事 故 に つ い て「 問 題 解 決 の た め 中 国 政 府 と 協 議 を 続 け て い る 」
と語った。
( 2 ) J o s e p h P r u e h e r( ジ ョ セ フ ・ プ リ ア ー ) 駐 中 国 ア メ リ カ 大 使 。 軍 パ イ ロ ッ ト 、 軍 指 導 官
を経て、元米軍太平洋司令官まで登り詰めた後、三九年間の軍役生活を終え、一九九九年
一二月から大使に。現在、米中軍用機衝突事故の事態収拾に奔走している。九六年の台湾
総 選 挙 時 に 台 湾 海 峡 で 威 嚇 行 為 を 行 な っ た 中 国 軍 に 対 し 、軍 艦 二 隻 出 動 の 総 指 揮 を 務 め た 。
このため、就任時は中国側から警戒されていた。五九歳。
こ の メ ー ル に 対 し て 時 事 通 信 O B の 旧 友 星 野 元 男 兄 か ら リ プ ラ イ が あ っ た 。曰 く 、
「時事
通信外信部は、もともと“プルアー”でしたが、その後、大勢に従って“プリアー”に変
えました。その時の具体的な経緯は承知していませんが、他社(特に共同)と表記が違う
と 、契 約 社 か ら「 統 一 し て ほ し い 」と 言 わ れ る の で 、よ そ に 合 わ せ た の か も し れ ま せ ん( 固
有 名 詞 の 表 記 が 共 同 と 違 う と 、そ れ だ け で 時 事・共 同 併 用 紙 の 記 事 使 用 率 が 低 下 す る た め )」。
な る ほ ど な る ほ ど 。 と い う わ け で 星 野 兄 へ の お 礼 の メ ー ル 。「 謝 謝 。 事 情 を 了 解 し ま し た 。
良貨が悪貨に駆逐されたケースですね。日本はいまあらゆる点でこの現象がみられます。
因 み に わ が 大 学 の ス キ ャ ン ダ ル 騒 ぎ も 同 じ 。 漢 字 の 表 記 は 、 北 京 ・ 台 北 が 「 普 理 赫 」、 シ ン
ガ ポ ー ル が 「 普 魯 赫 」 と な っ て い ま す 。 Joseph Prueher は 、 お そ ら く ド イ ツ 系 の 名 前 で 、
ue は u ウ ム ラ ウ ト で あ ろ う と い う の が 星 野 説 で し た 。 ア メ リ カ 人 に と っ て 外 来 語 の 綴 り
だ か ら こ そ 、『 ニ ュ ー ヨ ー ク ・ タ イ ム ス 』 は ア メ リ カ 標 準 の 読 み 方 を 説 明 し た わ け で す ね 。
そ れ は そ れ と し て 、ア ク セ ン ト は ど こ に あ る の か し ら 。私 の カ ン で は 、
「 プ ル ア ー 」で は な
く 、「 プ ル ー ア 」 の よ う に 感 じ ら れ る の で す が 。
オオカミ少年の煽動と憶測
五 月 一 日 付『 朝 日 新 聞 』が 例 に よ っ て( 性 こ り も な く )、オ オ カ ミ 少 年 ぶ り を 発 揮 し て い る 。
[ 北 京 四 月 三 〇 日 村 上 太 輝 夫 ] 電 で あ る 。 タ イ ト ル は 「 中 国 、 木 枠 の 検 疫 強 化 」。 サ ブ タ イ
ト ル は 「 セ ー フ ガ ー ド 報 復 か 」。「 中 国 の 輸 出 入 商 品 検 査 検 疫 局 が 、 日 本 か ら の 輸 入 品 を 梱
包する木枠への検疫を強め、先月暫定発動された農産物のセーフガードへの報復ではない
か と の 見 方 が 広 が っ て い る 」。「 た だ 、 日 本 か ら の 輸 入 品 の 木 枠 で 松 食 虫 が 見 つ か り 、 去 年
か ら 中 国 側 が 問 題 を 再 三 指 摘 し て い た こ と も あ り 、日 本 政 府 側 は 報 復 か ど う か は 確 認 で き
て い な い 」。「 報 復 か ど う か 確 認 で き て い な い 」 な ら ば 、 よ く 調 べ て 確 認 す る こ と が 先 決 で
あ る 。そ れ を 怠 り 、未 確 認 の 記 事 を 書 く の は 、真 実 の 報 道 か ら は 遠 い 。
「 た だ 、広 東 省 の 中
国側関係者によると、検疫強化は日本と米国の輸入品に重点を置いているといい、最近の
矢吹晋『逆耳順耳』
245
外 交 情 勢 と 無 関 係 と も 言 い 切 れ な い 」。「 広 東 省 の 中 国 側 関 係 者 」 と は 、 ま た 曖 昧 模 糊 だ 。
こんなアイマイなカンケイシャのコメントが記事になるのか。検疫当局か、あるいはこれ
に 指 示 を 与 え て い る 責 任 者 の コ メ ン ト で な け れ ば 意 味 は な い は ず 。そ の よ う な 責 任 者 が( 報
復を意図して)もしこのようなたわけた指示を与えたならば、朱鎔基なら即刻クビにする
であろう。もし松食虫対策なら、それはこの記事が書くように、従来の政策の延長にすぎ
な い 。「 無 関 係 と も 言 い 切 れ な い 」。 こ の 歯 切 れ の 悪 さ は 、 記 者 の ウ シ ロ メ タ サ を 雄 弁 に 語
る。要するに、逃げを打つ常套句であり、これはほとんど、某女優と某男はツーショット
さ れ た か ら「 無 関 係 と も 言 い 切 れ な い 」と い っ た レ ベ ル の 三 流 芸 能 誌 の 書 き 方 だ 。
「農産物
のセーフガード暫定発動に対し、中国政府は報復措置の方針を明言しているが、露骨に輸
入 制 限 を す れ ば 、W T O 加 盟 前 に マ イ ナ ス の 印 象 を 与 え か ね な い 」
「 検 疫 強 化 の 名 目 で 、日
本 政 府 に 譲 歩 を 促 し て い る と も み ら れ る 」。 知 っ た か ぶ り は や め て ほ し い ね 。
日本のただ参院選挙対策だけを狙ったセーフガード発動はかつて「世界の通商国家」を自
賛した鼻柱をみずから折る愚策であり、衰弱日本を象徴する無策にすぎないことが問題の
核心である。そこから生まれた相手国への疑心暗鬼を煽る偏狭なナショナリズムこそ、現
在の日本が最も忌むべきスタンスである。この記者はこの種のナショナリズムに身を漂わ
せ、見当違いの憶測を重ねている。この記者、そしてこの種の根拠薄弱な憶測を垂れ流す
新聞こそが日本と隣国との関係に危害を与えるのだ。木枠の検疫がもし強化されたのなら
ば、それはなぜか。それによっていかなるメリットがあるのかを分析せよ。木枠の検疫強
化によってセーフガードの報復のためにどのような効果が挙げられるのかを研究せよ。も
し真に報復を考えるならば、みずからに最もマイナスが少なく、敵側に最も打撃が多い手
段 を 講 じ る の が 常 識 だ 。[ 追 記 。 中 国 当 局 は 6 月 2 2 日 か ら 日 本 産 乗 用 車 、 携 帯 電 話 、 ク ー
ラ ー に 対 し て 1 0 0 % の 特 別 関 税 を 課 税 す る 対 抗 措 置 を 始 め た 。]木 枠 の 検 疫 を 強 化 し て「 広
東省などに工場をもつ日系メーカーの部品調達に打撃を与える」ことが当局の狙いだなど
とは、児戯に等しい行為、児戯に等しい解釈である。開放政策下の中国では、みずからの
首を絞めるような愚策をやめたからこそ市場経済が発展したのである。この記者の中国認
識はセーフガードを発動した政治家のそれと選ぶところがない。あきれた記事である。日
中関係を懸念する友人が送ってくれたコピーでこの記事を読み、新聞の堕落の証拠として
記しておく。
駄目押し(その1)
経済産業省の広瀬勝貞事務次官は五月二一日一四時〇三~一三分、同省記者会見室で「中
国 の 木 箱 の 検 疫 強 化 」問 題 で 記 者 会 見 を 行 っ た 。
『 会 見 の 概 要 』が 同 省 ホ ー ム ペ ー ジ に 掲 載
されているので、そっくりそのまま以下に引用する。
h t t p : / / w w w. m e t i . g o . j p / s p e e c h e s
Q:中国の木箱検疫強化について、調査をされていたと思うのですが、その後の進捗状況
をお願いします。
A:まだ調査中のようですけれども、それで今週いっぱいぐらいにはまとめなければいけ
ないと、こう言っていますが、今までのところ、影響が出て困っているというところは、
矢吹晋『逆耳順耳』
246
1 3 社 ぐ ら い の 方 が そ う 言 っ て い ま し て 、特 に 最 近 そ う い う 影 響 が 出 て き た と 言 っ て お ら
れるのが6社ぐらいと聞いております。もちろん検疫強化による影響そのものを否定する
ことはできませんけれども、全体的に見ますと、平穏にいっているというふうに考えてい
いのではないかと思っております。詳細な結果は、今週末までにと言っていましたけれど
も、何かあれば、途中の段階でも担当課の方でいろいろ申し上げることもあるかもしれま
せん。
Q:特に、日本として問題視はしないということですか。
A:輸出が止まって大変だとか、そういった大変な混乱があるという状況ではありません
けれども、影響はありますので、それがどういうことによるのかといったようなことを分
析 し な が ら 、必 要 な ら ば ま た 中 国 側 に お 話 を す る と い う よ う な こ と も あ る か も し れ ま せ ん 。
今のところは、私どもが心配をしていたような影響はないようです。
Q:今おっしゃったのは何社のうちの13社ですか。
A:三百数十社調べたようです。アンケートを出しても、困ってないところは別に回答は
なかったのかもしれません。 (以上)
こ の 記 者 会 見 を『 朝 日 新 聞 』
( 五 月 二 二 日 付 )は 一 六 行 の 記 事 で 伝 え た 。タ イ ト ル は「 中 国
検疫強化「影響ある」三〇〇社中一三社」である。これを例のオオカミ記事のケバケバし
さと比較すると、世論を誤導するこの新聞の編集方針が明らかである。
ち な み に 、『 読 売 新 聞 』 の 報 道 は 一 一 行 で あ り 、『 朝 日 』 よ り 少 な い 。 タ イ ト ル は 「 中 国 の
検疫大きな影響なし」である。記事中に「具体的な影響が出ていると答えたのは三四一社
中 六 社 」 と 書 い て あ る 。「 一 三 社 」 と 「 六 社 」 の 差 が ど こ に 起 因 す る か は 、 次 官 の 記 者 会 見
に明らかだ。
「 大 き な 影 響 な し 」 と 書 く の と 、「『 影 響 あ る 』」 と 書 く の は 、 大 き な 違 い で は な い か 。
次 官 発 言 の 原 文 と 記 事 を 比 較 す る と 、各 紙 の 取 材 能 力 が よ く 分 か る 。と こ ろ で『 Q 』の 社 名
と記者名があるともっと参考になります。
駄 目 押 し (そ の 2)
経済産業省のホームページはさらに五月二八日に「対中国輸出にかかわる木材検疫管理制
度に係るアンケート調査結果」を掲載した。
四八六社に対する二次にわたる調査結果の
『評価』は以下のごとくである。
(1) 一 部 に 影 響 は 出 て い る が 、 全 体 と し て は 対 応 が な さ れ て い る も の が 多 い 。 現 在 生 じ て
いる影響は、突然の変更に伴う混乱や強化された運用に不慣れといった事情によるものが
多いが、これらは時間の経過とともに減少すると思われる。
(2) 他 方 、 極 く 一 部 で あ る が 、 こ の ア ン ケ ー ト 調 査 で は 、 通 関 が 拒 否 さ れ た 理 由 や 経 緯 が
不明確なものもある。これらについては今後個別に事情を照会し、その上で対応を考えて
いく予定。
(3) い ず れ に し て も 、 今 後 と も 状 況 を 引 き 続 き 注 視 し て い く 考 え で あ る ― ― 。
経済産業省の「調査結果」は以上のとおりである。ホームページには全文が掲げてある。
お暇な読者には、二九日付朝刊各紙と比較されるようお勧めしたい。
矢吹晋『逆耳順耳』
247
逆 耳 順 耳 、「 禍 福 転 じ ア ジ ア 新 時 代 を 」
私は『山陽新聞』八月一九日付「山陽時評」にこう書いた。
― ― 内 外 か ら 注 目 さ れ て い た 小 泉 首 相 の 靖 国 神 社 参 拝 は 、八 月 一 五 日 を 避 け て 一 三 日 に「 前
倒し参拝」が行われ、これに対して韓国や中国などアジア諸国から強い、かつ抑制された
抗議の声が聞こえる。靖国の戦後史は日本の戦争責任、戦後責任のとり方を写す鏡だ。顧
みると、政府自民党が靖国神社の国営化を内容とする「靖国神社法案」を国会に提出した
のは一九六九年であり、以後毎年提出したが、四回にわたる審議未了を経て七四年に廃案
と な っ た 。こ れ を 機 に 自 民 党 と 推 進 勢 力 は 方 向 を 転 換 し 、
「 首 相 ・ 閣 僚 ら の 公 式 参 拝 」に よ
る同神社の公的復権を当面の目標に設定した。一九七八年にいわゆるA級戦犯一四名を含
む戦死者二三〇万名余りを靖国神社に合祀したのは、既成事実作りの一環とみてよい。中
曾根首相が終戦記念日に靖国を参拝し、マスコミの話題となったのは八五年のことであっ
た。
「 こ れ は 戦 犯 を 神 と 崇 め る 行 為 で あ る 」と 受 け 止 め た 中 華 人 民 共 和 国 か ら 強 硬 な 抗 議 が
あ り 、中 曽 根 首 相 は 翌 年 か ら 公 式 参 拝 を 断 念 し た 。
「 私 は 昨 年 の 終 戦 記 念 日 に 、首 相 と し て
初 め て 靖 国 神 社 の 公 式 参 拝 を 致 し ま し た 」「 そ の 目 的 は 戦 争 や 軍 国 主 義 の 肯 定 と は 全 く 正
反対のものであり、わが国の国民感情を尊重し、国のため犠牲となった一般戦没者の追悼
と国際平和を祈願するためでありました」
「 し か し な が ら 、戦 後 四 〇 年 た っ た と は い え 不 幸
な歴史の傷痕はいまなおとりわけアジア近隣諸国民の心中深く残されており、侵略戦争の
責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじ
めとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは、避けなければならないと
考 え 、今 年 は 靖 国 神 社 の 公 式 参 拝 を 行 わ な い と い う 高 度 の 政 治 決 断 を 致 し ま し た 」。中 曽 根
首相から当時の胡耀邦総書記に宛てられた書簡(八六年八月一五日付)の一部である。こ
の年の八月一五日、昭和天皇は「このとしの
この日にもまた
靖国の
みやしろのこと
うれひはふかし」と心中を詠まれた。ちなみに戦後の昭和天皇の靖国参拝は、六九年一〇
月一九日(靖国百年記念大祭)および七五年一一月二一日(終戦三〇年記念)の二回であ
り、いわゆる「A級戦犯合祀問題」発生以後は参拝していない。九六年夏橋本首相は八月
一五日を避けて、自らの誕生日に参拝したが、翌年は参拝を見送った。
この経緯がありながら、今回の小泉騒動とは情けない。公人か私人か、玉串料か、供花料
か 、 公 費 か 私 費 か 、 御 祓 い を 受 け る か 、 二 拝 二 拍 一 礼 か 否 か 、 な ど 、「 神 道 形 式 」 を ど こ ま
で守るか、排するか。歴代首相はこれらに頭を悩ましてきた。いずれも憲法の政教分離に
抵触するか否かという国内法レベルの争点であり、国内対策にすぎない。このような内向
き の「 小 手 先 」
「 姑 息 な 」手 段 が 、ア ジ ア の 人 々 の 心 に ま っ た く 届 か な か っ た の は 当 然 で あ
る。
「 痛 み が 定 ま っ て の ち 、痛 み を 想 起 す る 」と い う 言 葉 は 、後 遺 症 に 悩 ま さ れ る 人 々 の 日
本軍国主義の亡霊への恐怖感であろう。参拝推進派は、アジアの抗議に直面した後、あわ
てて転換した中曽根・橋本首相の教訓を汲み取らないばかりか、これを「外圧」として排
する風調が濃厚であった。曰く、靖国参拝への批判は内政干渉である、外圧を排すること
こそが外国からのあなどりを防ぐ道である、云々。二一世紀最初の年に、教科書問題を含
矢吹晋『逆耳順耳』
248
めて国際化に背を向ける日本の諸問題が浮かび上がったのは、不幸中の幸い、禍福を転ず
る好機である。これを機に、二一世紀における日本とアジアのつきあい方を改めて検討す
べきである。韓国との関係では、九八年の日韓共同声明という政治的資産があるし、中国
との関係ではWTO加盟や北京五輪協力の課題がある。北京五輪は「二〇〇八年までの東
アジアの平和」を約束する女神である。東アジア世界はいよいよ相互依存と協調のなかで
の競争という新時代に入る。関係改善の環境は十分に整っている――。
紙幅の都合で、十分に意を尽くせなかった憾みが残るので、若干の補足を試みたい。中曽
根書簡の存在は割合知られているが、その内容は知られていないようなので、まず念のた
めに、中曽根書簡の全文を掲げておきたい。一九八六年の「高度の政治決断」を胡耀邦に
直接伝えたこの書簡は、現代における日中関係のネジレを考えるうえで最も根本的な資料
の一つと考えられるからである。
次に、胡耀邦の失脚後に、中曽根との友好関係を失脚の一因としてあげつらう向きが少な
くない。これは見当違いだ。現に中曽根は胡耀邦との約束を守ったのである。この文脈で
中曽根や胡耀邦を非難するのは事実に合わない。私はかつて「中共中央三号文件」に基づ
いて、薄一波(当時、顧問委員会常務副主任)が列挙した「胡耀邦の罪状六カ条」を紹介
し た こ と が あ る (『 ポ ス ト 鄧 小 平 』 蒼 蒼 社 、 一 九 八 八 年 、 四 一 ペ ー ジ )。 す な わ ち 1 ) 八 三 年
秋 の 反 「 精 神 汚 染 」 キ ャ ン ペ ー ン の 歪 曲 、 2)「 高 消 費 」 に よ る 経 済 刺 激 論 の 鼓 吹 、 3)「 整
党 」の 方 向 の 歪 曲 、4 ) 全 人 代( 議 会 )の 無 視 、5 ) 外 交 活 動 に お け る 紀 律 違 反 、6 ) 党 中 央 の 許
可 な く 対 外 的 発 言 を 行 っ た こ と ― ― で あ る 。こ れ ら の 胡 耀 邦 批 判 の う ち 、(5)の な か に 、中
曽根あるいは日中関係が含まれる。だが、当時の中国における改革派と保守派の綱引きあ
るいは権力闘争を見れば、学生たちの民主化要求デモにどのように対応するか、すなわち
「ブルジョア自由化」反対という「政治原則」に関わる国内問題が核心であり、外交活動
における紀律違反なるものはツケタシの罪状にすぎなかった。胡耀邦のような声望のある
指 導 者 に あ り と あ ら ゆ る 罪 状 を な す り つ け る の は 、処 分 す る 側 の 自 信 不 足 を 意 味 し て お り 、
中国政治の悪しき作風だ。これを真に受けてはならない。胡耀邦事件はほんの一〇数年前
のことなのに、経過がまるで忘れられ、あたかも日中問題こそが主因であるかのごとき評
論が内外に散見されるのは憂慮すべき事柄である。なおこの中曽根書簡を起草したのは、
当 時 二 一 世 紀 委 員 会 日 本 側 委 員 を 務 め て い た 香 山 健 一 (当 時 学 習 院 大 学 教 授 )で あ り 、 そ の
香山私案に対して、中曽根首相が自ら補筆を加えたものといわれる。
**********************
胡耀邦総書記閣下
謹啓
炎暑厳しい折から、閣下には益々御健勝のことと心からお慶びもうしあげます。一
九八三年秋には閣下を我国に御迎えして、日中両国の子々孫々の代までの平和と友好の契
りを交して以来、早くも三年の歳月が流れようとしています。顧みますと、その翌春の私
の 貴 国 訪 問 と 日 中 友 好 二 十 一 世 紀 委 員 会 の 発 足 、閣 下 の 御 提 唱 に よ る 我 国 青 年 三 千 人 の 御
招 待 に よ る 日 中 青 年 大 交 流 の 成 功 、北 京 の 日 中 青 年 交 流 セ ン タ ー 建 設 の 具 体 化 な ど を 通 じ
て、日中両国の青年・文化交流、経済・科学技術交流は、政府民間のさまざまな分野でか
矢吹晋『逆耳順耳』
249
つてない新たな進展を遂げて参りました。私はこの三年間を振り返って、閣下と私の間で
確認しあった日中関係四原則、すなわち「平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定」の
考え方が、激動する内外の諸情勢の風雪と試練に耐えて、しっかりと定着しつつあること
を、閣下と共に大いなる満足をもって回顧するものであります。日中両国の各分野におけ
る交流が量的に拡大するにつれて、両国関係に若干の摩擦、誤解、不安定要因が生起する
ことを完全に避ける事は困難であります。私達にできることは日中関係四原則、なかんず
く日中両国の「相互信頼」の原則に立って、日中間に生起する摩擦、誤解・不安定要因を
早 期 に 発 見 し 、率 直 に 意 見 を 交 換 し 、小 異 を 残 し て 大 同 を 選 び 、こ れ ら の 諸 問 題 の 解 決 の
ために機敏に行動すること によって、問題の拡大を未然に防止し解決を見出すことである
と確認いたします。
私はこの両三年間に生起したさまざまな諸問題について、日中両国がこの基本原則に従
って行動し、着実な成果を収めてきた事をよろこばしく思うものであります。日中関係に
は 二 千 年 を 超 え る 平 和 友 好 の 歴 史 と 五 十 年 の 不 幸 な 戦 争 の 歴 史 が あ り ま す が 、と り わ け 戦
前の五十年の不幸な歴史が両国の国民感情に与えた深い傷痕と不信感を除去していくた
めには、歴史の教訓に深く学びつつ、寛容と互譲の精神に基づいて、日中両双方の政治家
たちが、相互信頼の絆により、粘り強い共同の努力を行う必要があります。
私 は 戦 後 四 十 年 の 節 目 に あ た る 昨 年 [一 九 八 五 年 ]の 終 戦 記 念 日 に 、 わ が 国 戦 没 者 の 遺 族
会 そ の 関 係 各 方 面 の 永 年 の 悲 願 に 基 づ き 、首 相 と し て 初 め て 靖 国 神 社 の 公 式 参 拝 を 致 し ま
し た が 、そ の 目 的 は 戦 争 や 軍 国 主 義 の 肯 定 と は 全 く 正 反 対 の も の で あ り 、わ が 国 の 国 民 感
情 を 尊 重 し 、国 の た め 犠 牲 と な っ た 一 般 戦 没 者 の 追 悼 と 国 際 平 和 を 祈 願 す る た め の も の で
ありました。しかしながら、戦後四十年たったとはいえ不幸な歴史の傷痕はいまなおとり
わ け ア ジ ア 近 隣 諸 国 民 の 心 中 深 く 残 さ れ て お り 、侵 略 戦 争 の 責 任 を 持 つ 特 定 の 指 導 者 が 祀
られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじめとするアジア近隣諸国の国
民感情を結果的に傷つけることは避けなければならないと考え、今年は靖国神社の公式参
拝を行わないという高度の政治決断を致しました。 如何に厳しい困難な決断に直面しよ
う と も 、自 国 の 国 民 感 情 と と も に 世 界 諸 国 民 の 国 民 感 情 に 対 し て も 深 い 考 慮 を 行 う こ と が 、
平和友好・平等互恵・相互信頼・長期安定の国家関係を築き上げていくための政治家の賢
明なる行動の基本原則と確信するが故であり、また閣下との信頼関係に応える道でもある
と信ずるが故であります。
正直に申せば、私の実弟も海軍士官として過般の大戦で戦死し、靖国神社に祀られてい
ます。戦前及び戦中の国の方針により、すべての戦没者は、一律に原則として靖国神社に
祀られることになっており、日本国に於て他に一律に祀られておるところはありません。
故に二四六万に及ぶ一般の戦死者の遺族は極少数の特定の侵略戦争の指導者、責任者が、
死者に罪なしとゆう日本人独自の生死感により神社の独自の判断により祀られたが故に、
日本の内閣総理大臣の公式参拝が否定される事には、深刻な悲しみと不満を持っているも
のであります。特に過般の総選挙で圧倒的大勝を私達に与えた 自民党支持の国民は殊に然
り で あ り ま す 。 私 は 、こ の 問 題 の 解 決 に は 更 に 時 間 を か け 適 切 な 方 法 を 発 見 す る べ く 努 力
矢吹晋『逆耳順耳』
250
することとし、今回の公式参拝は行はないことを決断いたしたものであり、この間の事情
について閣下の温かい御理解を得たく存ずるものであります。
私は、日中間の如何なる困難な問題も、両国国民及び政府間の相互の理解と思いやりに
より、双方の満足する適切な解決方法を、時によっては時間をかけても解決する実績を積
上げつつ、更に更に強固な相互信頼と新たな発展を拡大強化することを念願致しておりま
す。今秋九月、東京と大礒におきまして日中友好二十一世紀委員会第三回会議が開催され
ることとなっており、既に日中双方の委員会は会議の成功のために精力的な努力を続けて
い る と 聞 い て お り ま す 。 私 は こ の 第 三 回 会 議 の 成 功 を 心 か ら 祈 る と と も に 、閣 下 を 通 じ て
王 兆 国 座 長 以 下 中 国 側 委 員 の 御 来 日 を 歓 迎 し 、お 待 ち し て い る 旨 お 伝 え 下 さ い 。 閣 下 の 御
家 族 の 皆 様 の 御 健 康 と 御 多 幸 を 謹 ん で お 祈 り 申 し 上 げ ま す 。 昭 和 六 一 [一 九 八 六 ]年 八 月 十
五日、内閣総理大臣
中 曽 根 康 弘 ( 強 調 は 矢 吹 に よ る 。 典 拠 は 『 中 曽 根 内 閣 史 』( 財 ) 世 界
平 和 研 究 所 刊 で あ る )。
*********************************
この書簡は文言に関する限り、なかなかよく書けているように思われる。問題点・争点は
基本的に正しく提起されているように思われる。この「中曽根誓約」は、竹下、宇野、海
部、宮沢、細川、羽田、村山の七つの後継内閣によって継承された。竹下は「みんなで靖
国 を 参 拝 す る 国 会 議 員 の 会 の 会 長 で あ っ た が 、総 理 在 任 中 は 自 粛 し た 。
「一九八六から九五
年 の 一 〇 年 に わ た る 不 参 拝 」 と い う 慣 行 (参 拝 派 に と っ て の タ ブ ー )に 挑 戦 し た の は 、 九 六
年 一 月 に 成 立 し た 橋 本 内 閣 で あ る 。 橋 本 は 「 八 ・ 一 五 」 の 代 わ り に 、「 七 月 二 九 日 」 と い う
みずからの誕生日を選び参拝した。この橋本の「智恵」あるいは「工夫」はいかにも芸が
ない。し近隣諸国の反発は免れず、結局翌年は参拝を断念した。橋本に続く、小渕、森両
首相は靖国を避けた。こうして「一九九七年から二〇〇〇年に至る四年間の不参拝」とい
う第二の慣行を「聖域」と受け止め、これに挑戦したのが、今回の小泉騒動である。彼は
「八・一五参拝」を公言しつつ、直前になってひるみ、腰砕けになった。
小 泉 は 、「 聖 域 な き 改 革 」 を 掲 げ て 「 タ ブ ー に 挑 戦 す る 」 と 繰 り 返 し た が 、「 タ ブ ー な る も
の の 内 実 」と は 何 な の だ ろ う か 。
「 外 圧 に 屈 し た 中 曽 根 と 橋 本 を 超 え た い 」と い う 願 望 で し
かなかったようだ。自らの政治決断を保証する「政治戦略」は皆無であることが事後に判
明した。要するに、彼の視野のなかにアジアはなかったのだ。
参拝の意向は繰り返されたが、その説明のなかに批判派を説得しうる論理はなく、ただ感
情のみが語られた。これは政治家にとっては許されない。ほとんど児戯に類するスタンス
ではないのか。このような政治家たちの行動を分析するには、おそらく政治学というより
は、幼児心理学なのであり、これをもって軍国主義の再来と危惧する向きには心理学のカ
ウンセリングが必要だと思われる。
靖 国 は 由 来 、春 秋 の 大 祭 参 拝 が 慣 例 で あ っ た 。
「 首 相 に よ る 八 ・ 一 五 参 拝 」の 嚆 矢 は 、目 立
ちたがり屋・三木武夫であった。これに輪をかけた目立ちたがり屋・中曽根康弘は派手な
パフォーマンスで出発したが、不本意ながら失敗した。類似の目立ちたがり屋・橋本龍太
郎 も 挑 戦 し た が 、あ え な く 敗 れ た 。そ し て 今 回 の 目 立 ち た が り 屋・小 泉 純 一 郎 騒 動 で あ る 。
矢吹晋『逆耳順耳』
251
民主主義が衆愚政治に堕することをよく示す恰好の材料が靖国問題だと思われる。シアリ
ア ス ・ ド ラ マ で は な く 、 文 字 通 り 茶 番 劇 に な っ て い る 。 坪 内 祐 三 の 『 靖 国 』 (新 潮 文 庫 )に
よれば、
「 靖 国 神 社 ア ミ ュ ー ズ メ ン ト 計 画 」が あ っ た 由 だ が 、こ の 政 治 的 茶 番 劇 よ り は「 力
道山の奉納プロレス」がふさわしいことはいうまでもない。終わりに、歴代総理の靖国参
拝の記録を以下に掲げておく。
**************************
歴代首相靖国参拝の記録
昭 和 二 〇 年 (一 九 四 五 )一 〇 月 二 三 日 幣 原 喜 重 郎 首 相 (以 下 、 首 相 を 略 す )1 回 目 、 一 一 月 二
〇 日 幣 原 喜 重 郎 2 回 目 (以 下 ア ラ ビ ア 数 字 は 参 拝 回 数 を 示 す )。
昭 和 二 六 年 ( 一 九 五 一 ) 一 〇 月 一 八 日 吉 田 茂 1 、昭 和 二 七 年 ( 一 九 五 二 ) 一 〇 月 一 七 日 吉 田 茂
2 、昭 和 二 八 年 ( 一 九 五 三 ) 四 月 二 三 日 吉 田 茂 3 、一 〇 月 二 四 日 吉 田 茂 4 、昭 和 二 九 年 ( 一 九 五
四 )四 月 二 四 日 吉 田 茂 5。
昭 和 三 二 年 ( 一 九 五 七 ) 四 月 二 五 日 岸 信 介 1 、昭 和 三 三 年 ( 一 九 五 八 ) 一 〇 月 二 一 日 岸 信 介 2 。
昭 和 三 六 年 (一 九 六 一 )六 月 一 八 日 池 田 勇 人 1、 一 一 月 一 五 日 池 田 勇 人 2、 昭 和 三 七 年 (一 九
六 二 )一 一 月 〇 四 日 池 田 勇 人 3、 昭 和 三 八 年 (一 九 六 三 )九 月 二 二 日 池 田 勇 人 4。
昭 和 四 〇 年 (一 九 六 五 )四 月 二 一 日 佐 藤 栄 作 1、 昭 和 四 一 年 (一 九 六 五 )四 月 二 一 日 佐 藤 栄 作
2、 昭 和 42 年 (1967)4 月 22 日 佐 藤 栄 作 3、 昭 和 四 三 年 (一 九 六 八 )四 月 二 三 日 佐 藤 栄 作 4、
昭 和 四 四 年 (一 九 六 九 )四 月 二 二 日 佐 藤 栄 作 5、 一 〇 月 一 八 日 佐 藤 栄 作 6、
一 〇 月 一 九 日 [天 皇 ・ 皇 后 靖 国 100 年 記 念 大 祭 に 参 拝 ]昭 和 四 五 年 (一 九 七 〇 )四 月 二 二 日 佐
藤 栄 作 7、一 〇 月 一 七 日 佐 藤 栄 作 8、昭 和 四 六 年 (一 九 七 一 )四 月 二 二 日 佐 藤 栄 作 9、一 〇 月
一 九 日 佐 藤 栄 作 10、 昭 和 四 七 年 (一 九 七 二 )四 月 二 二 日 佐 藤 栄 作 11。
七 月 八 日 田 中 角 栄 1 、昭 和 四 八 年 ( 一 九 七 三 ) 四 月 二 三 日 田 中 角 栄 2 、一 〇 月 一 八 日 田 中 角 栄
3、 昭 和 四 九 年 (一 九 七 四 )四 月 二 三 日 田 中 角 栄 首 相 4、 一 〇 月 一 九 日 田 中 角 栄 5。
昭 和 五 〇 年 (一 九 七 五 )四 月 二 二 日 三 木 武 夫 1、 八 月 一 五 日 三 木 武 夫 2、 [首 相 の 八 ・ 一 五 参
拝の嚆矢。三木の「私的参拝」発言により憲法論議が巻き起こる。見識を欠く政治家が寝
た子を起こした一例]
[ 一 一 月 二 一 日 天 皇・皇 后 終 戦 三 〇 年 参 拝 ] 昭 和 五 一 年 ( 一 九 七 六 ) 一 〇 月 一 八 日 三 木 武 夫 3 。
昭 和 五 二 年 (一 九 七 七 )四 月 二 一 日 福 田 赳 夫 1、 昭 和 五 三 年 (一 九 七 八 )四 月 二 一 日 福 田 赳 夫
2、 八 月 一 五 日 福 田 赳 夫 3、 一 〇 月 一 八 日 福 田 赳 夫 4。
昭 和 五 四 年 (一 九 七 九 )四 月 二 一 日 大 平 正 芳 1、 一 〇 月 一 八 日 大 平 正 芳 2、 昭 和 五 五 年 (一 九
八 〇 )四 月 二 一 日 大 平 正 芳 3。
八 月 一 五 日 鈴 木 善 幸 1、一 〇 月 一 八 日 鈴 木 善 幸 2、一 一 月 二 一 日 鈴 木 善 幸 3、昭 和 五 六 年 ( 一
九 八 一 )四 月 二 一 日 鈴 木 善 幸 4、 八 月 一 五 日 鈴 木 善 幸 5、 一 〇 月 一 七 日 鈴 木 善 幸 6、 昭 和 五
七 年 ( 一 九 八 二 ) 四 月 二 一 日 鈴 木 善 幸 7、 八 月 一 五 日 鈴 木 善 幸 8、 一 〇 月 一 八 日 鈴 木 善 幸 9。
昭 和 五 八 年 ( 一 九 八 三 ) 四 月 二 一 日 中 曽 根 康 弘 1、八 月 一 五 日 中 曽 根 康 弘 2、一 〇 月 一 八 日 中
曽 根 康 弘 首 相 3、 昭 和 五 九 年 (一 九 八 四 )一 月 五 日 中 曽 根 康 弘 4、 四 月 二 一 日 中 曽 根 康 弘 5、
八 月 一 五 日 中 曽 根 康 弘 6、一 〇 月 一 八 日 中 曽 根 康 弘 7、昭 和 六 〇 年 ( 一 九 八 五 ) 一 月 二 一 日 中
矢吹晋『逆耳順耳』
252
曽 根 康 弘 8、 四 月 二 二 日 中 曽 根 康 弘 9、 八 月 一 五 日 中 曽 根 康 弘 10 回 目 。
[八 月 二 二 日 中 国 新 華 社 通 信 が 靖 国 神 社 公 式 参 拝 を 批 判 。 一 〇 月 一 九 日 中 曽 根 の 秋 の 例 大
祭 参 拝 見 送 り 。 昭 和 六 一 年 (一 九 八 六 )八 月 一 五 日 中 曽 根 首 相 公 式 参 拝 を 見 送 り 、 胡 耀 邦 総
書記に書簡。一〇月一七日中曽根首相の秋の例大祭参拝見送り。
[こ の 「 中 曽 根 誓 約 」は 、竹 下 、宇 野 、 海 部 、宮 沢 、細 川 、 羽 田 、村 山 の 七 つ の 後 継 内 閣 に
よ り 96 年 ま で 10 年 に わ た っ て 継 承 さ れ た ]
平 成 〇 八 年 (一 九 九 六 )七 月 二 九 日 橋 本 龍 太 郎 1[橋 本 の 誕 生 日 ]、 翌 年 は 参 拝 見 送 り 。
[橋 本 に 続 く 、 小 渕 、 森 両 首 相 は 靖 国 を 避 け 、 以 後 2001 年 ま で 4 年 間 参 拝 な し ]
平 成 一 三 年 (二 〇 〇 一 )四 月 小 泉 純 一 郎 が 終 戦 記 念 日 の 靖 国 神 社 参 拝 を 明 言 。 八 月 一 三 日 前
倒し参拝。
『 蒼 蒼 』 第 103 号 、 2002 年 2 月 10 日 11~ 14 ペ ー ジ
逆 耳 順 耳 、「 忽 然 中 産 」
NHKエンタプライズの岡崎泰氏、ドラゴンフィルムズの張怡、山口千咲さんなどとニュ
ーオータニ六階の和食レストランで昼飯を食べながら、番組の打ち合わせをしたのは、昨
年十月一九日であった。
その後、一一月に私は約1カ月、北京外交学院での講義に出向
いた。一一月一二日、東京から岡崎氏が飛んできて、夕飯。そこで次の日曜日に取材とい
う話になる。一八日昼前、香港の金持ち李嘉誠の作った王府井東方広場で昼飯を食いなが
ら 、具 体 的 な 打 ち 合 わ せ 。そ の ま ま 王 府 井 に 出 て 番 組 冒 頭 の 一 分 解 説 を 録 画 す る 。そ の 後 、
野菜市場を背景に三種類の物価水準という話をする。たとえば大学内の食堂なら、二~三
元( 三 〇 ~ 四 五 円 )で メ シ が 食 え る 。街 の カ ッ コ イ イ ・ レ ス ト ラ ン な ら 、ハ ン バ ー グ 定 食 、
カレーチキンなどが二〇~三〇元(三〇〇~四五〇円)である。しかもこれは個食用だか
ら一人で飯を食うのに向いている。さて、北京の仲間と再会を祝して「酒鬼」などを空け
ようという話になると、これは一人当たり二〇〇~三〇〇元ではおさまらない。私は一日
の間に北京の低所得階層の生活と中間層の生活と外国人・高級幹部レベルの生活を体験す
る。日本でも高い店、安い店はいろいろあるが、これほどの格差はない。ざっとそんな説
明をして最後に、中国大飯店(国貿大廈コンプレックス)近くで番組終わりの一分間まと
めを録画しようとして屋上へ。屋上で足をつまずき、転倒した。右頬をすりむき、血がに
じむ。メガネはグニャグニャに曲がった。しかし、この日しか時間がない。撮影続行。あ
っという間に終わり、まずはホテルの医務室で簡単な手当て。破傷風を防ぐ消毒をして軟
膏を塗る。ついでメガネ屋へ行き、ゆがんだフレームをなんとかかけられる形に直す。し
かしガラスの傷はいかんともしがたい。プラスチックだから傷で済んだが、もしガラスな
ら 、砕 け ち り 眼 球 を 損 傷 し た か と 思 う と ひ や り と す る 。数 日 後 、連 絡 が あ り 、
「撮影やり直
し」だという。中産階級の説明の根拠が曖昧だ。先生の説なのか、中国のエコノミストの
説なのか、はっきりしない。ついては二五日(日)に撮影し直すので、よろしく。やれや
れ。
( な ぜ 日 曜 日 な の か 。中 央 電 視 台 の 現 役 カ メ ラ マ ン を ア ル バ イ ト と し て 使 う か ら だ 。平
日 は 仕 事 が あ る の で 、日 曜 日 に 仕 事 を 頼 む 形 だ )。そ の 二 五 日 は 寒 く 、風 が 強 か っ た 。も う
矢吹晋『逆耳順耳』
253
ケンゾーのコートを脱げない。ポケットに両手を突っ込んだまま、しゃべる(後日、テレ
ビを見た学生がコートに両手を突っ込んだままのレポーターなんて初めてだ。失礼じゃな
いのですか、と老師をたしなめる。そんなこと言われたって、零度前後の気温なのだよ。
寒 く て 寒 く て 失 礼 も ク ソ も な い よ )。今 回 は 、国 家 統 計 局 の 家 計 調 査 に 基 づ い て 中 国 国 家 信
息センターのエコノミストが「二〇〇五年に二億人」が中産階級になると展望したことを
付け加える。ついでに、吉利自動車のトピックへの切り換えのために、中国の自動車事情
を 一 分 解 説 し た 録 画 を と る( こ れ は 結 局 使 わ れ な か っ た )。一 二 月 二 八 日 、最 後 の 打 ち 合 わ
せ。番組のプロジューサーたちは、一方で中産階級の映像を信じながら、他方で、この中
産階級が何%かをひどく気にしている。そこである調査専門会社の専門家の声を伝える。
日本の市場調査では数%という数字は「誤差」として無視するのが常識だ。しかし、中国
で は た と え 一 % で も 、一 二 〇 〇 万 人 だ か ら 、絶 対 数 と し て は 無 視 で き な い 。中 国 の 数 字 は 、
コンマ以下でも無視するとえらい間違いを犯す。然り。中国を見るときは、いつも鳥瞰図
と虫瞰図、比率と絶対数字を複眼で凝視しなければならない、と説く。最後に、中産階級
と い う 範 疇 は 曖 昧 だ か ら 、八 〇 〇 〇 万 人 で も 一 億 人 で も か ま わ な い 。い ま の 成 長 率 な ら ば 、
多少過大に見ても、あっという間に実績が目標を上回る。たとえば陸学芸主編『当代中国
社会階層研究報告』
( 社 会 科 学 文 献 出 版 社 、二 〇 〇 二 年 一 月 )の 話 を す る( こ の 本 は 年 が 明
けてから『読売新聞』北京特派員石井利尚氏がわざわざ航空便で贈ってくれた。つまり、
暮 れ の 話 は 、新 聞 の 伝 え た 要 旨 に 基 づ く 解 説 )。さ て 正 月 に 番 組 を 見 る と 、わ ざ わ ざ 撮 影 し
直した部分が使われていない。ムムっ。画面を見てナットクが行く。ある雑誌が「忽然中
産」という特集号を作り、忽然と現れた中産階級のイメージを紹介している。この特集号
のおかげで、私がくどくど説明する必要はなくなったわけだ。番組を見た友人知人からい
くつもの感想が届く。
――今朝の番組の冒頭の映像では、黒い髪の毛がしっかりとあるので、カツラではないか
と思いました。しかし最終の場面では、髪の毛が、自然な形で風に揺れていました。カツ
ラではなかったわけですね。最近仲間の誰も彼も、ハゲか白髪になっています。私は、か
なり前から白髪。それも脱毛して、ハゲになりかかっています。中国の経済の話、知らな
いことばかりでしたが、興味深く拝見しました。すこし番組としては、くどい感じがしま
したけど。子供を抱いたマダムは、なかなか魅力的でしたね。
――新年好。今日、当番で、再放送見ています。矢吹先生もなかなかのテレビ映り、コメ
ントも落ち着いて、堂々としたしゃべり。喫驚致しました。
――
たった今、
「 中 産 階 級 が 国 を 変 え る 」を 見 終 わ っ た と こ ろ で す 。タ イ ト ル が 若 干 刺 激
的に過ぎたきらいもありますが、今のワイルドで、エネルギッシュな中国の姿が良く伝わ
る番組でした。なお、番組の構成で一つ気になったのは、先生の出番が少なすぎた点でし
た。元旦から三日間は深圳で過ごしました。深圳に行ったこと自体が思いつきだったので
す が( 八 九 年 に 一 度 行 っ た こ と が あ り ま す )、こ れ ま た 思 い つ き で 、羅 湖 を 渡 っ て 日 帰 り で
香 港 に 行 き( マ ル チ の ビ ザ が あ る も の で )、飲 茶 を し て き ま し た 。短 い 滞 在 で し た が 、香 港
と深圳の一体化を見をもって感じた次第です。
矢吹晋『逆耳順耳』
254
――三日午後十時からの再放送を家族揃って拝見させていただきました。中国の躍動ぶり
が 手 に と る よ う に わ か り ま し た 。ま さ し く 一 九 六 〇 年 代 の 日 本 を 思 わ せ る も の が あ り ま す 。
二一世紀は中国の時代という感をいっそう強くもちました。多分、番組構成の中身にまで
先生が深くタッチされているようにも思いました。
――昨日のテレビは大変参考になりました。中国の情報は好意的な情報と批判的情報とで
は格段の相違があり、だからこそ朝河貫一の視点が大切なのだと思いました。
――正月番組を興味深く拝見しました。番組の狙い、貴兄の解説ともに妥当であろうと共
感しました。
――先生、昨日の放送見させていただきました。非常に驚きました。というよりも、中国
が恐ろしくも感じました。あの番組を見て、衝撃を受けた人も結構多いのではないでしょ
うか。なにしろ十億の国の人々が(全部でないにせよ)あのような強い上昇志向をもって
活 動 し て い た ら 、す ご い 国 が 出 来 上 が り ま す ね 。中 国 は 、国 内 だ け で も す ご い 市 場 が あ り 、
底力は無限のような気がします。日本なんて、とても太刀打できないのではないでしょう
か 。 も ち ろ ん 、 あ の New Rich の 才 能 あ る ご 夫 婦 の 仕 事 を バ リ バ リ こ な し 、 生 活 も 楽 し む
という姿勢もすばらしいと思いましたが、
「 李 書 福 」氏 が 一 番 印 象 的 で し た 。何 年 か 前 に 本
田 宗 一 郎 氏 が な く な っ た と き に 、 Ti m e の 有 名 人 の 死 亡 欄 に 、 ” B o y W h o C h a s e d a
Car”
という例外的に大きな記事が載ったことがありました。
「 李 書 福 」も ま さ に 車 を 追 い か け た
少 年 だ っ た の で す ね 。私 が こ の 人 を 好 き な 点 は 、こ れ だ け 事 業 が 成 功 し て も 、
「生活を楽し
む 」な ん て 言 わ な い で 、
「 質 素 / 節 約 」を 旨 と し て「 ( 高 い 志 を 持 ち な が ら ) こ つ こ つ 働 く こ と
が大切」と言っている点です。日本がとうに忘れた価値観がここにはあるような気がしま
す。教育の問題も含め、日本は今後どうすべきかを考えさせられました。
― ― 中 国 に も 、 程 、 閻 夫 婦 の よ う に WTO 加 盟 を 商 機 と と ら え 、 積 極 的 に 飛 躍 し よ う と す
る 人 々 が 形 成 さ れ て い る の を 見 て 、驚 き 、ま た 喜 び ま し た 。ま た 、W T O 加 盟 は 中 国 農 業 に
重大な影響を与える、とはよく言われますが、農民のなかにも、積極的に反応をしている
人 々 が い る の を 見 て 心 強 く 思 い ま し た 。た だ 、中 国 に は 八 億 の 農 民 が い ま す 。当 然 中 に は 、
WTO に 適 応 で き ず 農 業 を 捨 て 、 都 会 に 生 活 の た め に 流 れ て く る 人 々 も 出 て く る と 思 い ま
す。程、閻夫婦の家で働いていた陳さん一家のような友人達でしょうか。人口でいえば中
国最大の産業・農業で、どれだけの人が適応できるか、心配な面もあると思います。吉利
グループの李書福氏については、まさに「中国の本多宗一郎」とも呼ぶべき人ではないで
し ょ う か 。彼 の 歩 み も 平 坦 で は な か っ た よ う で す が 、自 身 の 才 覚 と 努 力 に よ っ て 切 り 抜 け 、
向上心をいつまでも燃やしています。私の手持ちの本に『二〇〇〇年度中国「福布斯」五
〇 富 豪 』 (金 城 出 版 社 、 二 〇 〇 一 年 一 月 刊 )と い う 本 が あ り 、 こ の 本 に 李 書 福 氏 の 経 歴 が 掲
載 さ れ て い ま す ( 一 月 四 日 多 田 敏 宏 )。 ― ― N H K 中 国 特 集 を 存 分 に 見 ま し た 。 大 変 に 興 味 深
い 、奥 行 き の 深 い 見 応 え の あ る 中 国 経 済 特 集 で し た 。特 に 自 動 車 経 営 者 と お 手 伝 い さ ん の 二 人
がよく描かれていると思いました。矢吹さんの解説も気取らずに大変良かったと思います。
――新春に素晴らしいTV番組を拝見でき感動しました。有難うございました。開放前後
から八〇年代中心に見てきた中国がいまや、あのような中産階級層が続々誕生している様
矢吹晋『逆耳順耳』
255
子に、信じられない思いで画面に釘付けになっておりました。以前の農村の生産高請負責
任制とか郷鎮企業などがどのような過程を辿っているのか、すっかり中国に縁が薄くなっ
ていますが、今一度見直してみたいと思ったりしました。現在の日本にとって本当に考え
させられる内容であり、矢吹先生がコンテに相当腐心されたことと存じます。
― ― NHK BS1 の 番 組 拝 見 し ま し た 。 中 国 の 若 々 し い 力 を 実 感 し 印 象 的 で し た 。 日 本 の 所
得倍増時代より迫力があるようですね。――非常に興味深い内容でした。中産階級といっ
ても幅は相当ありますが、確かに、こうした層が今後の中国を変えていくことになるので
しょうね。また、北京はこの1年で従来にも増して勢いをつけたように感じました。
――番組拝見しました。ずいぶん寒そうでしたね。それにしてもあの月収一〇〇万の夫婦
は も は や 「 上 流 階 級 」 な の で は ? 我 が 家 よ り も 収 入 が 多 い (^_^;)。
************
やはり映像の力は、決定的に大きい。私が本を書いても、これだけの反応はない。台湾で
は 別 の 番 組 が 放 映 さ れ た の で 見 ら れ な か っ た と い う 苦 情 が 届 き 、他 方 ソ ウ ル か ら は 、
「五年
後、十年後、中産階級はどの程度に増えるか」と問い合わせがあった。最後に、ドラゴン
フィルムズの山口さんがNHKのモニターの声を教えてくれた。
――明るい活気、驚き。今後の中国全体の動きが分かった、という声が全体の感想として
多く、
「 中 国 に 脅 威 を 感 じ る 」と い う 感 想 も 、何 を す る か 分 か ら な い 不 気 味 さ 、か ら で は な
く、
「 下 り 坂 の ま ま の 日 本 」は 、夢 と サ ク セ ス ・ ス ト ー リ ー に あ ふ れ る 中 国 に ま け て し ま う
の で は な い か 」と い う 理 由 か ら の も の が 多 か っ た よ う で す 。
『 中 産 階 級 』は 視 聴 者 に 新 鮮 な
驚 き を 与 え て い ま す 。 成 功 で す !!
『わが父、毛沢東』
多田敏宏様、
『 わ が 父 、毛 沢 東 』を お 送 り い た だ き 、あ り が と う ご ざ い ま し た 。早
速一読し、
「 娘 の 語 る 毛 沢 東 」に は 、類 書 に な い 記 述 が あ る こ と を 発 見 し ま し た 。
・ 誕 生 日 が 分 か ら な い こ と ― ― ― 驚 き で す 。「 嬌 嬌 」 の 名 付 け 親 は 鄧 穎 超 で あ っ
た。
・モスクワ時代の賀子珍のことも王稼祥夫人の記述よりもよく分かります。
・ユ ー ジ ン が 毛 沢 東 の と こ ろ へ 李 敏 た ち を 連 れ て 行 く の は 、ま さ に 人 質 を 返 し に
いくようなもの。
・賀怡と毛沢東のやりとりも面白い。
・毛 沢 東 の 偽 名・李 得 勝 の 李 は 、
「 江 青 の 本 名 ・ 李 に 基 づ く も の か 」と 推 測 し て い
たのですが、
「 離 得 勝 - す な わ ち 、延 安 を 離 れ る こ と に よ っ て 勝 つ 」と は 、知 ら な
かった。
・毛沢東、江青関係のビミョーなところで、より鮮明になった部分もあります。
私の感想はざっとそんなところです。毛毛の『わが父・鄧小平』よりも、ドラマチックで
す 。家 族 関 係 が 複 雑 な 分 だ け 、人 間 関 係 の ア ヤ が 陰 影 と し て 深 く な る 。と こ ろ で 、
「中産階
級 」に つ い て の コ メ ン ト も あ り が と う ご ざ い ま し た 。李 書 福 氏 の 資 料 も 知 り ま せ ん で し た 。
矢吹晋『逆耳順耳』
256
( こ の 寧 波 取 材 に は 、 私 は つ き あ っ て い な い の で す 。)
大 兄 の ご 感 想 は N H K の デ ィ レ ク タ ー 氏 に も 伝 え て お き ま し た 。お 礼 ま で に 一 言 。
ご健筆を祈ります。
『禁じられた稲』
清 野 真 巳 子 様 ご 労 作『 禁 じ ら れ た 稲 』を 興 味 深 く 拝 読 し ま し た 。ポ ル ポ ト 水 路 の
こ と は 、ま っ た く 知 ら な か っ た の で 、ま さ に 興 味 津 々 。私 が カ ン ボ ジ ア を 訪 ね た
のは一九六九年一一月のことでした。
「 日 本 カ ン ボ ジ ア 友 好 農 業 技 術 セ ン タ ー 」も
訪 ね ま し た 。そ こ で 砲 撃 を い く ど か 耳 に し て 、
「ベトナム国境では戦争があるが、
カンボジアは平和だ」と聞かされたことを記憶しています。ロンノル・クーデタ
は翌年初めのはず。
七 一 ~ 七 二 年 に は フ ィ リ ピ ン の IRRI も 訪 ね た こ と が あ り ま す 。 つ ま り ベ ト ナ ム
戦 争 と マ レ ー 半 島 の ゲ リ ラ 、そ し て 農 民 獲 得 作 戦 と し て の ミ ラ ク ル・ラ イ ス 物 語
な ど は 、私 の 頭 の な か に プ リ ン ト イ ン さ れ て い ま す 。た だ し 、東 南 ア ジ ア 放 浪 を
終 え て 、七 三 年 春 に ア ジ ア 経 済 研 究 所 に 戻 っ て 以 後 は 、東 南 ア ジ ア 研 究 ( 華 僑 研 究 )
から離れ、大陸経済にシフトしてしまい、フォローアップができていません。そ
の 空 白 の 一 部 を 埋 め て い た だ い た 気 分 で す 。私 は 定 年 に な っ た ら 、六 九 ~ 七 三 年
に 放 浪 し た サ バ・サ ラ ワ ク な ど も 含 め て 感 傷 旅 行 を や り た い と い う 夢 を も っ て い
るのですが、実現できるかどうかは分かりません。
矢吹晋『逆耳順耳』
取り急ぎお礼まで。
257
逆耳順耳
いま横浜市立大学でなにが起こっているか--読者へのアピール
(矢吹晋まえがき)
「老兵は消え去るのみ」--これが最近の私の口癖である。権力をもつ政治家ならば、レ
イムダックだが、私には地位も権力もないので、両袖清風そのものである。弟子を後釜に
据えようなどという野望もないので、実にアッケラカランとただ静かに消えゆくことがで
きると予想していた。ところがここへ来て、予想だにできないトラブルに直面し、かなり
当惑している。私の勤務先で生じたトラブルは、他の大学にも共通する側面があるかもし
れない。資料を提示して、皆様のご判断を仰ぐ次第である。早々と激励を下さった方々に
はただ感謝するのみである。私の定年まで 1 年数カ月、これからもわれわれの闘争に対す
るご支持をお願いしたい。
い ま 横 浜 市 立 大 学 で 何 が 起 っ て い る か …「 教 員 の 欠 員 補 充 人 事 凍 結 に 関 す る 学 長 見 解 」の
撤 回 を 求 め る 緊 急 ア ピ ー ル 、 2002 年 07 月 25 日
横浜市立大学の真の改革を求める教員有志
一 楽 重 雄( 理 ),平
智 之( 商 ),永 岑 三 千 輝( 商 )、矢 吹
晋( 商 ),吉 川 智 教( 商 ),
吉岡直人(理),三谷邦明(国・文),石川幸志(理)
去 る 7 月 17 日 の 評 議 会 で 提 示 さ れ た 「 教 員 の 欠 員 補 充 人 事 凍 結 に 関 す る 学 長 見 解 」 は 、
大学の自治を守る立場からも,また,本学の教育研究の水準を維持する観点からも受け入
れることができないものです.
また,この表題にある「学長見解」の表現は「事務局提案」に対する「学長見解」を意
味すると思われ,表題そのものに学長の事務局への追随の姿勢が現れています.
小川恵一新学長のもとで,大学構成員すべてが参加できるような民主的討論のもとに大
学改革が進むことを期待して来た私たちとしては,大きな危機感をもたざるを得ません.
大学改革は構成員の支持があってこそ,その実効性が保証されます。
ここに,真の大学改革を望む教員有志の意見を表明し,これが全学的議論のきっかけと
なることを期待します.
昨年4月以降,大学において多くの制度改訂が行われて来ました.そのどれも教員側と
の意見交換がなく,決定のプロセスも明らかにせず,事務局の決定を一方的に教員側に押
し付けたもので,問題をはらむものばかりです.非常勤講師の謝金の支給方法の変更のよ
うに,すでに大きな問題となっているものもあります.まず,この流れを簡単に振り返ろ
うと思います.
1.
出勤簿問題:全国の多くの大学に共通する長年の慣習を無視し,押印を求めた.
2.
リカレント講座の教員への講師謝礼の廃止
3.
非 常 勤 講 師 枠 の 削 減 : 非 常 勤 講 師 は 専 任 教 員 が 担 当 し き れ な い 部 分 を カ バ ー し ,本
学の教育面で重要な役割を果たしているにもかかわらず,対策を討議する十分な時間的な
矢吹晋『逆耳順耳』
258
余裕もないまま,非常勤講師コマ数の一律5%の削減を求めた.
4.
研 究 費 の 交 付 金 化 : 個 人 研 究 費 の 全 額 を 市 か ら の 交 付 金 と し た .こ れ に よ り 研 究 内
容を届け出る必要が生じた.
5.
出 張 の 職 免 化 : 学 会 出 張 や 野 外 調 査 ・ 文 献 調 査 な ど の 研 究 活 動 を ,教 員 の 自 己 啓 発
のための研修なみの扱いである職務専念義務免除の扱いに変更した.
6.
非 常 勤 講 師 給 与 の 支 給 方 法 の 変 更:長 年 実 施 さ れ て き た 年 額 の 月 割 り 支 給 か ら 時 間
給の扱いとなり,また,多くの場合に実質的な減給を伴っている.
そして,今回の「教員の欠員補充人事凍結」です.これらのすべては,なにかしら本質
的な問題を解決するというものではなく,大学改革の実質となり得ないものばかりです.
な か で も ,非 常 勤 講 師 の 謝 金 方 法 の 変 更 は ,4 月 の 開 講 を 目 前 に 控 え た 3 月 1 5 日 に な っ
て,非常勤講師に一片の通知で知らされたもので,学生への影響を考えるとすでに実質的
に断ることの出来ない時期であり,そのまま実施されたことは契約不履行ともいうべき大
問題です.非常勤講師の依頼は,専任教員が責任を持って行っているものであるにもかか
わらず,事前の相談がまったくありませんでした.非常勤講師の方々から強い不満の声が
あがっています.
これに加え,最近,理科系の付属研究所で計画されていた巨額の外部資金導入が,事務
局の不当な介入により不調に終ったということも耳にします.これが事実なら,大学の方
針として外部資金の導入などを掲げていながら,それを不可能にした事務局の責任は極め
て大きいと言わざるを得ません.研究奨励寄付金の許可・不許可には専門的な知識が必要
とされる場合もあり,教授会の審議事項とされています.
今回の小川学長による「学長見解」は,事務局の乱暴な提案になんの抵抗も示すことな
く,むしろ,それを追認するものであり,我々教員の期待を真っ向から裏切っています.
選挙前の持論であった「誠実」,「公正」とは何であるか,「多くの人の意見を聞き,学
内の叡知を結集する」とはどういうことだったのか,ぜひとも,原点に戻って考え直して
欲しいと思います.
「学長見解」批判
(なお,学長見解はこの文書の最後に収録してあります.)
1 .「 重 大 な 支 障 」 と は 何 に 対 す る 支 障 な の か .「 重 大 な 支 障 が あ る 」 と 立 証 さ れ た と 誰 が
判 断 す る の か .も と も と「 学 部 で 立 証 し て 事 務 局 へ 提 出 す る 」と な っ て い た の が ,17 日 の
評議会の議論で削除されたという.しかし,削除されても意味が変わったわけではなく,
設置者権限で事務局が判断するのだという.これは「大学の自治・学問の自由」の放棄以
外の何物でもない.どの専門の教員ポストが必要かは,主として全体のカリキュラムによ
って規定されるもので,教員が判断することであり,それは学問に携わる者の責任でもあ
る.研究教育の専門家でもなく,大学行政の専門家でさえない一介の官僚が,どうしてこ
のようなことを判断できるのか.設置者としての権限は,大学にどのような学部や研究所
を持つか,大学に支出できる予算はどれだけか,というような大枠に関するものであり,
ひとつひとつのポストに対しては学問の自由の観点から設置者権限は及ばない.これが教
授会自治の内容である.
矢吹晋『逆耳順耳』
259
2.後任補充を認める基準は何か.もともと,各ポストは大学の標榜する学部学科や教養
教育に合致するものが用意されている.大学自身の判断によってなされるカリキュラムの
変更などがあった場合のみ,ポストの専門分野などが変更可能なのであり,それ以前に凍
結するというのは,学生,ひいては市民に対して,これまで標榜していた大学での教育研
究を十分に行わないという意味で重大な約束違反である.
3.欠員不補充が,大学改革の決意や努力を外部に知らしめることになるとは考えられな
い.
「 そ の 不 補 充 の ポ ス ト は ど の よ う に 使 う 計 画 で す か ? 」と ひ と こ と 質 問 さ れ た と き ,
「そ
れ は 何 も 決 ま っ て い ま せ ん .こ れ か ら 議 論 し ま す .」と い う こ と で ,大 学 改 革 の 決 意 が 伝 わ
る で あ ろ う か . い ま , ま ず , 必 要 と さ れ る の は ,「 人 事 凍 結 」 な ど で は な く , 真 の 大 学 改 革
とは何か,その理念・方向性について,全学のコンセンサスをつくることである.
4.
「 欠 員 不 補 充 」と「 定 員 削 減 問 題 」と は 結 び つ け な い と 学 長 が 表 明 し て も ,そ れ は ほ と
んど意味を持たない.市の財政状況がさらに悪化した場合,不補充だったポストが削減の
対象とされるのは必至である.それにより,現状でも不足している教授ポストはさらに不
足する.
5.大学改革とは,そもそも何を意味するのか.もしも,それが教員の専門構成の変化を
意味するものであるとしたら,それは学部改組,学科改組などである筈であるが,そのよ
うな計画は看護短大の4年制化以外全学的に承認されたものはない.
今,求められている大学改革とは何か,学長が言うように,教育を重視しつつ,研究の
効率をあげ,成果をあげる体制を造ることではないのか.
以上のような観点から,
「 教 員 の 欠 員 補 充 人 事 凍 結 に 関 す る 学 長 見 解 」の す み や か な 撤 回
を求めます.
な お , こ の 要 求 に 賛 同 さ れ る 方 は , 下 記 Email ま で ご 連 絡 を お 願 い 致 し ま す .
賛同者名を逐次発表したいと思います.
Email: ichiraku@yokohama -cu.ac.jp( 一 楽 )
教員の欠員補充人事凍結に関する学長見解
1.背景認識
新市長の下で、市立大学のあり方を検討する懇談会が設置され、本年度末には結論が示さ
れる過程で、市大の改革の状況について報告が求められ、また、2005年には法人化の
段階に入ることも予測される。
こ の よ う な 本 学 を 巡 る 情 勢 の 変 化 を ふ ま え て 、本 学 の 取 り 組 み と し て は 、将 来 構 想 委 員 会 、
大学戦略会議等で大学のビジョン、中期目標・中期計画を策定するだけでなく、各部局に
おいて具体的な改革を早急に進める必要がある。
2.人事凍結に対する考え方
( 1 ) 大 学 改 革 案 策 定 後 の 教 員 配 置 に 備 え る た め 、ま た 大 学 自 身 の 改 革 の 姿 勢 を 外 部 に 示
すためにも、教員の欠員補充を1-2年間凍結し、全学的観点から各学部・大学院の具体
的な改革の枠組みづくりを行う。
(2) 人事凍結と定員削減問題は結びつけない。
矢吹晋『逆耳順耳』
260
( 3 ) 重 大 な 支 障 が 生 ず る と 認 め ら れ る 場 合 に は 、凍 結 の 対 象 と し な い 。重 大 な 支 障 が 生
ずるか否かは、各学部がこれを立証する。
( 4 ) 凍 結 の 対 象 と さ れ る 科 目 の 来 年 度 の 授 業 対 応 は 、内 部 努 力 ま た は 非 常 勤 講 師 に よ っ
て行う。
緊急アピール--横浜市立大学商学部における中国研究を廃止してよいのか
商学部教授、大学院経済学研究科演習担当教授
矢 吹 晋 2002 年 7 月 26 日
改革の名において改悪を行う事例は、古今東西しばしば見られるところですが、いま横
浜市立大学において典型的な改悪が行われようとしています。私は横浜市立大学商学部に
おいて過去四半世紀、学部のジュニアクラスで中国語を教え、シニアクラスで中国経済論
を教え、大学院修士・博士課程においては、中国経済研究と演習を担当してきました。つ
まり中国流にいえば「博士生導師」級教授であります。商学部および大学院経済学研究科
唯一の中国研究担当教員として、研究の第一線に立ち、研究を進め、その成果を学生に教
え、さらにマスコミを通じて社会に還元して参りました。その一端は、私のホームページ
か ら 知 る こ と が で き ま す 。1996 年 開 設 以 来 7 年 目 で す が 、 ア ク セ ス 数 は 、 6 万 を 超 え ま し
た ( 7 月 24 日 現 在 )。
私はまもなく定年を迎えますが、最近、私の後任を補充しない、すなわち人事を凍結す
るという暴挙が提案され、決定されようとしています。私の担当科目は、いまいずれも社
会的需要のもっとも高い科目に属することは明らかであり、しかもその需要に応えること
において、私は人並み以上の実績を収めてきたと自負するものです。しかし遺憾ながら、
市立大学当局には私の仕事を評価する能力が欠けており、後任は不要である、このポスト
を 廃 止 す る こ と が 大 学 改 革 で あ る 、と 錯 覚 し て い ま す 。か く も 頑 迷 な る 市 立 大 学 当 局 ( 小 川
恵 一 学 長 、高 井 禄 郎 事 務 局 長 、池 田 総 務 部 長 = 改 悪 案 の 作 成 者 ) に 抗 議 し て 、こ の よ う な 理
不尽な方針を改めさせる抗議行動を学内で開始したことを皆様にお知らせし、ご支持をお
願いする次第です。
*メ ー ル そ の 他 の 手 段 で 、 抗 議 の 意 志 を 表 明 し て い た だ け れ ば 幸 い で す (矢 吹 宛 て に お 送 り
い た だ け れ ば 、 転 送 い た し ま す )。 横 浜 市 当 局 に 対 す る 抗 議 と 陳 情 も お 願 い し ま す 。
2002 年 7 月 26 日
矢 吹 晋 (横 浜 市 立 大 学 商 学 部 、 大 学 院 経 済 学 研 究 科 )
e-mail: [email protected] -net.ne.jp
h t t p : / / w w w 2 . b i g . o r. j p / ~ y a b u k i
「緊急アピール」に対する激励のメールをご紹介いたします。
(1) 海 事 産 業 研 究 所 菊 池 寧 氏
横浜市立大学教授矢吹晋先生、ご無沙汰しております。猛暑の続く毎日ですが、お元気で
しょうか。下記メール、たった今拝受いたしました。矢吹先生方々が中心になって地道か
つ着実に切り開いてこられた中国研究の礎石が、先生の代まででもろくも打ち崩されそう
としていることが分かりました。これから、日本経済にとって中国問題研究の重要性、欠
矢吹晋『逆耳順耳』
261
くべからざるものであることは、周知の事実であり、なおかつ一層力を注入し、次の代の
人々によってもっと深めてていかねばならないのに、大学改革の名の下に科目そのものを
切り捨てるとは、全くナンセンス以外の何もでもありません。貴大学の上層部は、日ごろ
世界の動きをどのようなメディアから取得しているのでしょうか。常識の欠如も甚だし
い・・・・・もしくは色眼鏡をかけて中国情勢を見、経済の記述すらない五流タブロイド
版でしょうか。全く理解に苦しみます。貴大学の幹部は、せっかく世界から評価された看
板を自らの手で打ち壊そうとするのでしょうか、どうもそれすらお分かりになっていない
ようです。深海魚のようにひたすら自己の世界に閉じこもっていないで、たまには学外の
客観的な意見にも率直に耳を貸してみるべきではないでしょうか? 取り急ぎ、つたない
感想を述べさせていただきました。今後ともよろしくお願い申し上げます。海事産業研究
所菊池寧
(2) ア ジ ア 経 済 研 究 所 地 域 研 究 第 一 部 主 任 研 究 員 中 居 良 文 氏
矢吹先生、横浜市立大商学部における中国研究廃止の消息を聞き、驚きかつ憤慨していま
す。ご存知のように、アメリカのハーバード、スタンフォード、ミシガン等の先進校にお
いては中国研究センターとかアジア太平洋センターにおいて継続的に学際的研究が行われ
ています。そうした学際的機関の少ない日本の大学では、法学部、経済学部、文学部等に
加えて、教養学部や商学部において中国研究をすることが極めて大きな意味を持つと考え
ます。学際的研究の下地がなければ、中国研究もまた狭い特殊研究の枠を脱却することは
困難です。商学部における中国研究の芽をつむことは一見合理的にみえて、実は世界の研
究の潮流に逆行することになるのではないでしょうか。大学当局の再考を強く求めます。
アジア経済研究所地域研究第一部主任研究員中居良文
( 3) 水 野 隆 張 氏 (矢 吹 ゼ ミ 卒 業 生 )
大学当局の時流を読む姿勢が全くないことに驚きを通り越して怒りを覚えております。
この際大学当局の見識の無さを世間一般に広く訴え広めるにはどのような手段が最も相応
しいのかを検討しなければなりません。このことは卒業生の一員として忍びないことでは
ありますが、大学当局の改革を促すショック療法として仕方の無いことだと決意を固めて
おります。市長が若い世代に代わったことでもあり、市長宛に直接アピール抗議文を送り
つけることもやって見てはどうでしょうか?また各方面のマスコミ宛に大学当局の見識の
無さを訴える声明文を送りつけるという手もあります。それとも第一段階として大学当局
に 卒 業 生 ( 中 国 研 究 学 徒 の 一 人 ) と し て 抗 議 文 を 送 り つ け 同 時 に 横 浜 市 議 会 超 党 派 11 人
会と市長宛に抗議文を送りつける。同時にわれわれ矢吹ゼミ同志全員で一斉に関係部門に
メール攻勢をかけるなど戦略戦術を練った上で行動を開始しようと思うのですが、矢吹先
生の号令をお待ちしております。この際徹底的に世間に訴えなければ、彼らの目を覚ます
ことは出来ないと思っております。矢吹ゼミ卒業生水野隆張
(4) 流 通 経 済 大 学 教 授 原 宗 子 氏
矢吹晋先生、メールにより、お送り下さいました、HPのアピール、2件、拝見致しまし
た。取りあえず、横浜市教組にでている友人にも転送致しました。実は、弊学でも似たよ
矢吹晋『逆耳順耳』
262
うな問題を抱えております。明日、それに関わる会合がございますので、その後、何ほど
の力もございませんが、せめて、抗議者の数にはお加え戴くべく、どういう抗議文をお送
りするのがよいか、文案を考えさせて頂き、送信させていただく所存でございます。お疲
れ様でございます。ご健闘をお祈り申し上げます。流通経済大学原宗子
( 5) 朝 日 新 聞 外 報 部 水 野 孝 昭 氏
横浜市大御中、矢吹先生より、先生の退任後、後任の補充が無く、横浜市大が中国研究の
ポストを廃止される、と聞きました。国際報道に携わり、一昨年まで横浜市民だった者と
し て 、残 念 至 極 と い う ほ か は あ り ま せ ん 。2 1 世 紀 の 世 界 で「 中 国 」と い う 隣 国 の 存 在 が 、
とてつもなく巨大なものになるであろうことは衆目の一致するところです。 それなのに、
米国にくらべて日本のアカデミズムでは、中国研究は必ずしも陽の当たる扱いを受けてき
たとは言えません。矢吹先生はじめ個々の研究者は世界的レベルの方がいらしても、国公
立大学に中国研究所ひとつないことをみても、それは明らかです。
日本の将来を考えれ
ば、こうした中国研究体制の立ち遅れは一刻も早くただすべきと思います。しかるに、横
浜市大で中国研究のポストを廃止するというお話は、まさにこうした時代の要請に逆行す
る、としか言いようがありません。財政事情その他の経緯は存じませんが、日本の都市の
中でも、歴史的にも地理的にも、そして意識の上でも最も開かれた場所であるはずの横浜
市の判断とは信じがたいものがあります。
将来の世代にアジアの隣人と共存していくための基礎トレーニングの場を横浜の地に確保
するためにも、なにとぞ再考をお願いしたいと存じます。朝日新聞外報部水野孝昭拝
(6) 商 学 部 大 学 院 経 済 研 究 科 修 士 課 程 竹 内 江 里 子 氏
いまほど中国経済研究が求められるときはありません.世界中の大企業は例外なく中国を
向き,熱い視線を送っています.日本経済新聞はもとより,主要新聞の国際経済面でも中
国 関 連 の 記 事 を 見 な い 日 は 一 日 も あ り ま せ ん . NHK で も 中 国 研 究 者 に よ る 解 説 番 組 が 目
立 ち ま す . 書 店 で は 中 国 の WTO 加 盟 , そ の 関 連 書 籍 が 平 積 み に さ れ , 目 を 引 き ま す . こ
れらの現象は明らかに中国の今後が我々日本人の現在と近未来における経済生活に大いな
る影響を及ぼすからと考えられます.香港に続き上海にもディズニーランドが出来るとい
うニュースが流れましたが,このことはとりもなおさず中国の今後が世界の製造工場とし
てばかりでなく,消費市場としても巨大な可能性に満ちていることの証であり,その部分
に米国資本がすばやい関心を払っていることの表れです.今後高齢社会を迎え,また富裕
層の増加に伴い,中国における保険,証券の分野も目が離せません.このような状況のな
かで,横浜という世界に開かれた国際都市の中枢に位置すべき市立大学における中国の経
済研究は,広報等の努力によりますます発展させるていただきたいと思います.そして中
国と日本(あるいは横浜と上海に置き換えてもよい)の真の架け橋となる人材を輩出して
いくことが大きな使命なのではないでしょうか.英語教育が語学の中心に長く置かれてき
ましたが,一つの外国語だけでこれからのグローバルビジネスの世界で通用するとは到底
思えません.第二外国語としての中国語教育はもっと積極的に行われて良いと思います.
中国に対してはこれまでのノスタルジックな態度ではなく,対等な知的な態度が求められ
矢吹晋『逆耳順耳』
263
るのであり,横浜市立大学はその責任を担う立場にあるのではないかと考えます.私は矢
吹ゼミで様々な角度から中国を学んできました.中国からの留学生が,自国の地域の経済
格差について真剣に研究をすすめている姿に感動もしています.異質の他者から学ぶこと
は 自 分 を 学 ぶ こ と で も あ る と 感 じ て い ま す .矢 吹 先 生 は あ と 1 年 数 カ 月 で 退 官 と 聞 き ま し
たが,出来れば大学院だけでも先生に引き続き長く教鞭をとっていただきたいと強く願う
ものです.商学部大学院経済研究科修士課程竹内江里子
以 上 7 月 24 日 現 在 。
( 7) 北 海 道 大 学 国 際 広 報 メ デ ィ ア 研 究 科 教 授 高 井 潔 司 氏
横浜市立大学が中国研究を放棄するというのは驚きに耐えません。日本と中国を中心とす
る東アジアの経済関係が拡大する中、政治関係は複雑さを増し、中国研究の必要性はます
ます高まってきています。その中で、横浜市および横浜市立大学が果たしてきた役割はき
わめて大きく、今後ますます期待が高まるばかりです。矢吹教授の後任を採用しないとい
うのは、おそらく全く政治的な意図はなく、単に定員削減を実現するため、たまたま早く
順番が回ってきたためと推測します。このような官僚的なやり方で、ますます社会的なニ
ーズが高まっている中国研究を放棄するというのは、横浜市民にとっても、大きな損失で
し ょ う 。大 学 当 局 お よ び 市 当 局 が 改 め て 事 の 重 要 性 を 認 識 し 、再 考 さ れ る こ と を 望 み ま す 。
北海道大学国際広報メディア研究科教授高井潔司
(8) 東 洋 大 学 法 学 部 教 授 丹 藤 佳 紀 氏
横 浜 市 立 大 学 学 長 、横 浜 市 長 御 中 、前 略 、歴 史 と 伝 統 の あ る 横 浜 市 立 大 学 商 学 部 に お い て 、
永年、中国研究で豊かな成果を挙げてこられた矢吹晋先生の後任人事を凍結する方針が示
されたことを知りました。このことは、横浜市大商学部では、中国についての研究および
教育が、当面あるいは今後、断絶してしまうことを意味するものと考えます。私事になり
ますが、読売新聞横浜支局に勤務しておりました当時、横浜市大の公立大学としてのユニ
ークな存在に注目し、いくつかのテーマに関して報道したことがありました。また、大学
に移りましてからも、アジア・中国分野を担当される諸先生方には公的にも私的にもさま
ざまご教示いただき、横浜市大の存在の大きさを実感してきました。今、この時代に、中
国についての研究および教育はこれまでにもまして重要になってきています。それは、ご
高 承 の 通 り 、「 眠 れ る 獅 子 」 と 言 わ れ て き た 中 国 が 「 目 覚 め 」、 経 済 面 は も ち ろ ん 政 治 、 安
全保障などの面でも重要な役割を果たしているからです。21世紀の日本の行方を左右す
る要素の一つと言って過言ではないでしょう。隣国・日本にとりまして、その中国を対象
に研究を進め、学生諸君にその成果を伝授するアカデミズムの機能はますます欠かせない
も の に な っ て き て い ま す 。 私 が 非 常 勤 講 師 (中 国 語 担 当 )と し て 出 講 し て い ま す 早 稲 田 大 学
で、アジア太平洋研究科を新設するとともに、各学部でアジア・中国関係の教育スタッフ
の充実を図り、貴大学を含む大学や研究所等からすぐれた研究者・専門家を招いているの
もその現われと見ることができます。そうした時期に、中国についての研究および教育に
断 絶 を き た す よ う な 措 置 を と る こ と は 、大 い な る 愚 挙 と 言 わ な け れ ば な り ま す ま い 。ま た 、
それがもっぱら行政および予算等の面から考えられたものだとすれば、まことに、諺に言
矢吹晋『逆耳順耳』
264
う「角を矯めて牛を殺す」ものでありましょう。横浜は、文明開化の先陣を担った光栄あ
る伝統の街です。その横浜の知的分野をリードする横浜市大において、時代と社会の要請
に逆行するような措置がとられることは理解に苦しみます。貴職におかれては、如上の事
情 を 含 め て ぜ ひ 再 検 討 く だ さ る よ う お 願 い い た し ま す 。草 々 2 0 0 2 年 7 月 2 5 日 丹 藤 佳 紀 ( 東
洋大学法学部教授)
(9) 奥 井 禮 喜 氏
矢吹晋先生、一心に中国研究と日中関係の発展を願って活動してこられた先生の憤りが痛
切に迫ってくるのを感じます。問題は大きく二つあり、一つは大学改革に関すること。も
う一つは日中関係に関する
ことであろうと存じます。私は最終学歴が工業高校なので、大学を直接肌身で感じたこと
がございませんが、一昨年、高井潔司先生の命令にて、北海道大学で大学改革に関する意
見を求められ、私のネットワークの方々から意見を集めて一文を作成しました。少し長い
ので、メールでは失礼かとも存じますし、別便にて掲載誌を送らせていただきます。ここ
では日中関係の重要性が愈増すことに鑑みて、中国講座廃止に関する無知・無分別につい
ていささかの存念を述べさせていただきます。明治維新以来、わが国が脱亜入欧路線を取
り 続 け て き た こ と は 周 知 の 通 り で あ り ま す 。1 4 世 紀 頃 ま で 科 学 技 術 に お い て も 世 界 の 先 端
を切っていた中国がその後さしたる発見・発明なく明治維新当時にはいわば淪落してしま
っていたのも事実。進取の気性に燃えたわが国の当時のリーダーが貪欲に進んだ欧米に学
ぼうとしたこと
を否定するものではありません。しかし、それでも当時の識者である、中江兆民先生は思
想・哲学なくひょいちょいと変節するわが国の事情を嘆いておられますし、英国留学して
個と国家の在り方に思い
を馳せた夏目漱石先生また、今、中国が淪落しているからとて、消化吸収してわが国文化
の 柱 と な っ て い る 中 国 に 対 す る 蔑 視 的 態 度 の 軽 薄 さ を 指 摘 し て お ら れ ま す 。1 9 9 0 年 に 私 は
初めて訪中しましたが、改革開放路線に対するわが国識者の方々の論評は親中派と目され
る方々においてすら、いささか冷笑を帯びたものであり、私はその態度に悲憤慷慨の念抑
え が た く 、 後 に 5 年 間 に 渡 っ て 日 中 交 流 誌 月 刊 LOOK CHINA を 刊 行 し ま し た 。 さ す が に
1 9 9 0 年 代 後 半 と も な れ ば 、中 国 か ら の 情 報 も 増 え 、経 済 的 躍 進 も 目 に 見 え る よ う に な っ て 、
わが国の論調が変ったのでありましたが、しかし、わが国の多くの方々には依然として中
国蔑視(背景には欧米への劣等感が強く残っていると分析しています)の色眼鏡が残って
いるように思われてなりません。過日の研究会においても、たとえば中国消費者とわが国
消費者の意識の違いを弁別することなく、おとなしいわが国消費者意識で中国を推し量る
ような認識の甘さを感じました。おそらくわが国消費者は世界のいずこの国と比較しても
お と な し い で し ょ う 。米 国 で わ が 国 企 業 が 被 っ た 被 害 は 中 国 ど こ ろ で は あ り ま せ ん 。ま た 、
中国のナショナリズムがしばしば話題なりますが、わが国においてはナショナリズムと言
えば一部右翼の問題程度に考えておりますが、実はさにあらず。いわゆる無辜の民=無知
の民、懐疑心の少ない国民的性質にこそ、わが国のナショナリズムの危険性があるのであ
矢吹晋『逆耳順耳』
265
っ て 、そ れ な く し て 1 9 3 1 年 か ら の 1 5 年 戦 争 継 続 は あ り え な か っ た と 思 い ま す 。中 国 と 国
交 回 復 し て 時 間 を 経 て も 、わ が 国 民 に お い て は 、か の 戦 争 の 総 括 も き ち ん と で き ぬ ま ま に 、
情緒的・場当たり的思考と対策しかしてこなかったことを見逃せぬと思うのです。最近で
は世界の工場としての中国の賃金の安さばかりが強調されておりますが、現実に中国の生
産現場を見れば、わが国企業組織・人が喪失した輝くばかりの勤労観があります。中国製
品がいかに安くても悪質であれば買わない。製品の質が時間を追って向上している。そし
てその背後にそれを作る方々の精進努力があることを看過してしまっている。松下幸之助
さんが「松下電器は製品を作る前に人を作る」と言われ、その言葉が流行してまだ四半世
紀ほど。バブル崩壊後のわが国企業において、展開された諸施策を見れば、まったく働く
人を無視し続けてきたことが歴然としています。いわばこれは、中国を単に労務費が安い
としか見ていない証明であって、私が出会った中国派遣の日本人経営者が「今や、勤勉と
は中国人のためにある」と言いましたが、わが経営者がきちんと本質を見ておられないこ
とにも、わが国の凋落があると存じます。まして、これからの世界を考えれば、大中国を
抜きにして世界の経営は考えられず、外交・経済・社会のいずれをとっても中国から学ぶ
ことは少なからず。米国の一州たるを選択するのでなければ、中国研究は愈盛んになって
こそであろうと存じます。そして、このような理屈抜きの了見の狭い経済合理性(?)の
みにて大学経営をなさっている方々が主流を占めておられる限り、わが大学改革などは画
餅に過ぎず、中長期的に考えてますますわが国の凋落に拍車をかけるのではなかろうかと
危 惧 い た し ま す 。 2002.7.25 奥 井 禮 喜
(10) 1984 年 卒 業 商 学 部 千 野 裕 輔 氏
矢 吹 先 生 、先 週 金 曜 は 非 常 に 興 味 深 い シ ン ポ ジ ウ ム 会 [ 日 中 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン・シ ン ポ ジ
ウ ム を 指 す ] を 紹 介 い た だ き 、誠 に 有 難 う ご ざ い ま し た 。本 日 、先 生 の メ ー ル を 戴 き 、横 浜
市大において中国研究の火が消えかかっている事を知り、非常に驚いております。横浜市
大 で 私 が 22 年 前 に 先 生 の 授 業 を 聴 講 さ せ て い た だ い た の は 、 横 浜 と い う イ メ ー ジ が 貿 易 、
海外とつながり、更にはアジア、華僑、中国と繋がっていたからであります。当時、中国
は現在より遥かに遠い国でしたが、現在の両国関係の緊密さ、課題の多さは衆目の一致す
る と こ ろ で あ り ま す 。 こ れ か ら 10 年 、 20 年 と い っ た 将 来 の 日 本 経 済 を 背 負 っ て 行 く 人 材
教育において、大学教育が果たすべき役割は依然として大きなものがあると思います。先
生の中国関係に広く関わる研究および、学生の関心を中国に向けさせる指導が今後も横浜
市大で継続的に受け継がれて行く事を切に希望いたします。今後の少子高齢化の中で、大
学教育も地域個性を出し、どんな分野に特色があるかを明確に打ち出してゆくことが必要
だと思います。国際貿易港横浜市が擁する横浜市大において、中国研究が途絶えてしまう
事 は 大 き な 損 失 で あ る と 深 く 杞 憂 い た し ま す 。 1984 年 卒 業 商 学 部 千 野 裕 輔
(11) 和 歌 山 大 学 経 済 学 部 教 授 今 井 武 久 氏
こ れ は 改 悪 と か 暴 挙 と い う 言 葉 が 適 当 で な い 程 、謂 わ ば 、愚 挙 、或 い は 、信 じ ら れ な い 妄 挙 で
は な い か 。 横 浜 市 に も 、ま と も な 判 断 が で き る 御 仁 が 居 る 筈 で あ り 、貴 兄 ア ピ ー ル は 必 ず や 成
功するものと確信しています。和歌山大学経済学部教授今井武久
矢吹晋『逆耳順耳』
266
以 上 7 月 25 日 現 在 。
(12)
㈱チャイニーズドラゴン新報社福田智子氏
横浜市立大学学長様、横浜市長様、請願書。横浜市立大学の矢吹晋教授より、矢吹教授の
後任を補充せず、中国研究を廃止する方針がだされたと聞き、非常に驚いています。とい
うのも、私は 3 月に上海へ参りました。その折、横浜産業新興公社が上海のHSBCに事
務所をおかれていることを知り、横浜市の中国に対する積極的な姿勢の表れに、非常に高
い関心を抱いたことを覚えています。その横浜市が中国研究を廃止するということは、予
想さえできないことでした。私立大学と比べることはもちろんできませんが、中国研究に
お い て 、他 大 学 の 最 近 の 動 き の ほ ん の 一 部 を ご 参 考 ま で に 挙 げ ま す と 、国 士 舘 大 学 の 2 1 世
紀アジア学部の設置、早稲田大学の中国研究教員の増員、立命館大学、早稲田大学の中国
の大学との交流協定締結とつきません。ご承知の通り、中国と日本は相互補完の関係にあ
り、今後益々中国研究の重要性は増してくるものだと予想されます。予算上の理由で、こ
れまでの矢吹教授の中国研究成果を凍結してしまうようなことになれば、横浜市立大学の
大看板を下ろしたといっても過言ではないと思います。横浜市は日本のなかでも開かれた
都市であると認識しています。ご再考をお願い致します。
2002 年 7 月 26 日 、 ㈱ チ ャ イ ニ ー ズ ド ラ ゴ ン 新 報 社 、 福 田 智 子
(13) 横 浜 市 立 東 高 校 小 松 原 伴 子 氏
矢吹先生、原宗子さんより、先生のアピールと「市大で何が起こっているか」の文を送っ
て頂き、取り急ぎメールをさせて頂きます。私は、原さんらとともに、小倉先生に学び、
「くまつ集」の世話人の一人です。専攻は中国近代史、現在は横浜市立東高校に勤務しな
がら学習院などの非常勤講師を務めております(横浜市立高等学校教職員組合の役員もや
っております)。横浜市立高校においても、数年前から「再編整備計画」と称して、現場
の声をほとんど入れずに、教育の「スリム化」が進行しています。その一つの結果が、本
年2~3月に新聞をにぎわした高校入試の混乱という形であらわました。しかし、市教委
はその「混乱」の「総括」をなさないまま、「整備」を続行しようとしています(詳細に
ついては、改めてお知らせします)。さらに、ここ数年、「市民の声に応えて」という名
目で、「研修」についての「管理」を強化してきています。本年度は、長期休業期間中の
「研修」については、計画書・報告書を提出することが義務づけられました。大学教員以
上に、高校教員には、「研究」を求めていないのではないかと、思われることもしばしば
です。ワールドカップ誘致には金をかけて教育費は削減し、教員の様々な統制を強化する
と い う 市 の 姿 勢 は 、真 に 未 来 を 見 据 え た も の と は 思 わ れ ま せ ん 。し か し 、こ う し た 傾 向 は 、
横浜市のみに限らず、残念ながら全国的な動向といえるようです。本当に、「効率」的な
もののみが優先され、大切な学問や思想の自由が、一つ一つ脅かされる情況が迫っている
のではないか。学問・教育に携わる者が、結びあいながら、声をあげていかなければなら
ないと思います。市大の先生方を取り巻く情況は、市立高校の教職員とも直接に結びつい
てきますので、訴えの末端にでも加えて頂ければ幸いと、メールをさせて頂きました。改
めまして、「抗議文」など、お送りさせて頂きたいと存じます。横浜市立東高校小松原伴
矢吹晋『逆耳順耳』
267
子
(14)商 学 部 経 済 学 科 4 年 西 原 昭 子 さ ん
(現役の)学生として先生の下で学び、今こそ中国に関心を持つべきであるという間違
い信念を胸にしております。横浜市の姉妹都市上海市では浦東開発区を例に挙げるだけで
もその注目度たるや言わずもがなでしょう。今、中国を学ばずして、いったいいつ学ぶと
いうのでしょう。先生の授業で学ぶ仲間達と議論する事に、どれほど中国経済を学ぶこと
の喜びを感じたことかと思います。日本に迫り来る中国について新たな情報を耳にするこ
とにどれほど心躍らせたことでしょう。横浜市立大学で中国経済を学ぶ事ができることを
私は誇りに思っています。しかしながら今後我が大学で学生が中国経済を学ぶ事ができな
い と 思 う と 残 念 で 仕 方 あ り ま せ ん 。大 学 の な ん と 、な ん と 馬 鹿 な 処 置 で し ょ う か ・・・・ 。
社会的に最も需要の高い科目の 1 つであるこの中国経済、知れば知るほど興味のつきない
この学問を、もっともっと多くの人に関心を持って欲しい。私が先生の授業で得た素晴ら
しい経験をこれから後輩達にも経験して欲しいと思いこそすれ、大学側はどうして今その
道 を 断 っ て し ま う の か ・・・・ 。矢 吹 先 生 の 授 業 は 横 浜 市 立 大 学 の 名 物 授 業 で は な い か っ 。
私は自分の大学の後輩、さらには高校の後輩にも迷わず私の所属する中国経済ゼミを紹介
することでしょう。だのに、今後中国経済を教えてくれる先生が居なければそれもできま
せん。大学当局の再考を強く求めずにはいられません。商学部経済学科 4 年西原昭子
(15)横 井 陽 一 氏 (31 年 間 の 横 浜 市 民 )
矢吹晋様、緊急アッピールを読ませていただきました。単純な「リストラ」旋風に驚いて
おります。先生の定年と共に横浜市立大学商学部から中国研究が消えることは、論外であ
り 、ま す ま す 強 化 し な け れ ば な ら な い と 思 い ま す 。私 は 3 1 年 間 の 横 浜 市 民 で す が 、世 界 経
済の中でますます中国経済と日中経済関係の発展のため、横浜市立大学は研究センターと
な っ て 欲 し い し 、私 に で き る こ と が あ り ま す れ ば 協 力 を 惜 し み ま せ ん 。大 学 の「 リ ス ト ラ 」
問題は、まず横浜市議会で問題を検討すべきことであり、市民の意見を聞くべきであると
思います。新聞にもテレビでも報道されずに、事務方が独走することは好ましくありませ
ん。どうか先生方には、学内外にアッピールして頑張っていただきたいと思います。私は
このメールのコピーを、朝日新聞と日本経済新聞の横浜支局にファックスしておきます。
横井陽一
(16)横 浜 市 は 大 学 改 革 に あ た り 説 明 責 任 を 果 た さ れ た い
限られた財源の中でどのような行政サービスを提供するべきか。行政主体としては、な
かなかに悩ましいところだと思います。しかし、どんなに判断に窮することであっても、
行 政 主 体 は 、何 ら か の 判 断 を 示 す に あ た り 、た と え ど の よ う な 反 対 が 予 想 さ れ た と し て も 、
個々の意思決定の内容・過程を可能な限り正々堂々と公にする姿勢を持つべきでありまし
ょう。この度、横浜市は、大学改革の一環として矢吹教授の後任を補任しないと決定した
旨、聞き及びました。詳しい事情は全くわかりませんが、当事者である教授ご自身が「緊
急アピール」なるものを表しておられることから察すると、市当局はほとんど説明責任を
果たしておられないのでないでしょうか。公・民の役割を見直し、効率を高め、ムダを省
矢吹晋『逆耳順耳』
268
く行政改革は、果敢に推進されるべきでしょう。しかしながら、個々の事業の改廃につい
て、立法、司法の統制が及びにくい現状がある以上、何をどのように見直し、優先順位を
つけて処理するか、行政(担当部局)は、真の市民サービス改善・向上という見地から十
分 な 吟 味 を 行 い 、少 し で も 客 観 的 妥 当 な 判 断 を 行 っ て い た だ か な け れ ば な り ま せ ん 。仮 に 、
さしたる理由もないのに、ある事業(行政サービス)を廃止するとすれば、それまでの公
的投資はムダだったということになるでしょう。もし、横浜市立大学が長年、矢吹教授を
して提供せしめてきた行政サービス(授業・研究等)が、貴市の提供すべきサービス内容
として不都合・不適切・不必要なものであったにもかかわらず、紛争を避けて教授の定年
退官まで放置したのだとしたら、私は、その怠慢をむしろ追及いたしたいと思います。貴
市は、なにゆえ、今回の決定をなされたのでしょう。下手な推量をお許しいただければ次
のような事柄が考えられてきます。
一
矢吹教授の業績、中国研究の必要性は十分認識しているが、市大の看板講座のひとつ
である中国研究室を将来にわたり担うだけの人材を獲得する見込が立たず、その名誉を守
るため、敢えて後任を補充しない。(これに足る人材を見出せば直ちに復活する。)
二
(矢吹教授の業績、中国研究の必要性とは全く関係なく)貴大学においては提供すべ
き 教 授 内 容 で は な い 、と 判 断 し た( た と え ば 、将 来 、情 報 技 術 系 単 科 大 学 に 改 組 す る 等 )。
しかし、人事管理上の判断で矢吹教授の定年退官まで保留した。
三
行 政 改 革 の 一 環 と し て 財 政 部 局 か ら 教 授 定 数 の 削 減 を 求 め ら れ 、判 断 に 苦 し ん だ 結 果 、
個々の教授の業績、研究の必要性如何にかかわらず、分野を問わず後任者を補充しない形
での対応を行うこととした。
四
前項同様、教授定数削減を検討する中で、矢吹教授の専門分野が市の提供する行政サ
ービスとして特に不適切であるか、又は、教授の業績が特に劣っている、或いは、中国研
究を志す学生が皆無に等しいことを確認したため、ポスト廃止が至当であると判断した。
五
大学自治の要請ないしは、外部圧力により、矢吹教授のポストを廃止する必要があっ
た。
以上、市当局に好意的な見解からそうでないものに順に並べておりますが、いずれにせ
よ 、市 と し て 一 定 の 判 断 を 示 す 以 上 、何 ら か の 判 断 基 準 の 元 に 検 討 が な さ れ た は ず で あ り 、
学問的な価値を熟知する多くの中国研究者が、市の判断に疑問を投げかけている以上、市
のホームページ上に掲載するなど、分かりやすい形で「反論」をご提示されるようお勧め
します。もし、上記一から三の理由であるならば、公表を躊躇する事情を測りかねます。
公表されないと、四や五、或いはもっと「説明不能ないい加減な理由」に依拠しているの
ではないかと疑念を持たずにはおれません。万一、公表ないしは関係者への説明ができな
いのであれば、せめて、矢吹教授の業績への評価や中国研究の重要性・必要性に対する認
識の有無、市サービスとして提供することの優先度等について、公にするか、少なくとも
矢吹教授本人には明確に伝えることを提案します。そもそも中国研究など無意味だという
のか、市大として行う必要がない或いは優先順位が低いと考えるのか、明らかにすべきで
しょう。また、大学職員の皆様にも一言申し上げるとすれば、今回、後任を補充されない
矢吹晋『逆耳順耳』
269
先生方はもちろんのこと、すべての先生方にとっても、公立学校の公務員として、教授・
研究のような属人的要素の濃厚な行政サービスをどのように自主評価するか、或いは客観
的な評価をなされるのか、更に、それらの評価の結果、最終的にどのように行政サービス
体系の中に位置付けていくのか、お考えいただくことを切に望みます。公立大学が広く適
切に社会的な貢献をなす=市民に誇れる行政サービスを展開する、という点で、私は矢吹
教授の取組ほど、重要かつ意義深い貢献を知りません。貴市がこれを否定する材料をお持
ちだというのならぜひとも拝見いたしたい。公務員
匿名希望
(17)中 国 投 資 諮 詢 事 務 所 田 中 忠 仁 氏
矢吹先生、ご多忙のなか、御免下さい。商学部第 3 学科構想大賛成。しかし、先生ならむ
し ろ 仮 称 ・ 日 中 (親 善 )実 学 大 学 の 設 立 準 備 委 員 長 と な ら れ て 、 日 中 間 各 分 野 で 実 学 と フ ィ
ールドワークで、アジア経済研究所をはじめ、業界団体、ジェトロ、国際貿易促進協会、
日中経済協会、霞山会等々、それぞれご活躍なされた上で大学教授になられた方は、中身
が違うなというのが「新米」三金会会員の 1 月以来半年間の感想です。中嶋嶺雄がなぜ長
年間違ったことばかり言い続けても、それが通るのか。中嶋一派や彼の著作を台湾ロビー
が大量に買って、ベストセラーの素地を作るので印税が合法的にふところに入って、それ
を学内の人気とり選挙に使うので、学長にまでなってしまったのでは? でも李登輝基金の
やり玉で今後は無理か。魑魅魍魎の大学、特に国立、公立の改革は、焦眉の急ですが、そ
れ よ り も む し ろ モ デ ル 大 学 に 、 学 生 を 集 め て (人 気 教 授 に は 特 に 大 学 院 な ら 余 計 に よ り 多
く の 優 秀 な 学 生 が 集 ま る こ と で し ょ う )、 実 績 を 挙 げ て 行 く 方 が 官 僚 た ち に は 分 か り や す
い の で は な い で し ょ う か 。 そ う い う と こ ろ の 卒 業 生 に は (実 学 だ か ら )、 企 業 の 求 人 も か え
って多く集中して、良い方向にまわって行くような予感がします。いや実感といってもい
い 。企 業 も 設 立 準 備 に 献 金 す る の で は ? 一 段 落 つ か れ た ら 、こ の 方 面 / 方 向 も ご 一 考 下 さ れ
ば如何でしょうか? 多くの方が矢吹先生を応援すると信じます。及ばずながら、小生もエ
ン の 下 で で も 、 お 支 え し ま す 。 御 身 お 大 切 に 。 不 一 。 田 中 忠 仁 。 2002 年 8 月 1 日 。
(18)前 岡 崎 嘉 平 太 国 際 奨 学 財 団 事 務 局 長 阿 部 康 男 氏
横浜市立大学学長小川恵一殿、中国語の学習、中国経済の研究がますます重要なものにな
っ て き て い る こ と は 、今 や 日 本 人 に と っ て 常 識 で あ る と い え ま す 。と く に 商 学 部 の よ う に 、
これから経済活動の第一線に立って活躍する人材を養成する部門にとっては、まさに不可
欠 な も の と 考 え ま す 。こ の こ と は 、国 家 的 な 見 地 か ら 見 て 、見 逃 せ ま せ ん 。貴 学 商 学 部 に 引
き 続 き 中 国 語 の 学 習 お よ び 中 国 経 済 の 研 究 が 行 わ れ る こ と を 切 に 希 望 し ま す 。 2002 年 8 月
4 日、前岡崎嘉平太国際奨学財団事務局長阿部康男
(19) 川 口 正 剛 君 (横 浜 市 立 大 学 商 学 部 経 済 学 科 3 年 )
私 は 、今 回 の 大 学 に よ る 様 々 な 改 革 案( 改 悪 案 )に 真 っ 向 か ら 反 対 し た い と 思 い ま す 。矢
吹教授には、2年次の中国語と国際社会論Ⅰの授業、そして、今年度後期の比較社会論で
様々なご指導を賜っております。そして、わたしにとって忘れられない大きな出来事、そ
れは昨年度の中国・上海への語学研修です。私は、昨年度大学のプログラムである上海市
内大学への夏期語学研修に参加しましたが、そのきっかけは、昨年度の矢吹教授の講義で
矢吹晋『逆耳順耳』
270
した。それまで、「近くて遠い国」という印象があった中国を「近くて近い国」に変えて
くださった方、それがまさしく矢吹教授だったのです。矢吹教授は、授業中、折に触れ中
国の現在の実情をお話してくださり、また、教授自らが見聞きしてきた、生の中国を私た
ち学生に事細かに教授してくださいました。これらの話や見聞録が私たち学生にとってど
れほど勉強になったか、それは筆舌に尽くしがたいものがあります。さらに、現代中国は
世界的な不況にあえぐ中でなお、年間10%近い経済成長を続けている国であり、「21
世紀は中国の時代だ」という専門家までいるほどです。そのような時代の流れにあって、
横浜市立大学では、唯一の中国研究を担う教授である矢吹教授の退官にあわせ、その後の
補充人事を凍結し、中国研究の根を絶やそうという、時代の流れとは全く正反対の方向に
向かう暴挙に出たのです。これは、横浜市立大学が時代の流れに乗り遅れ、やがては大学
消滅という最悪のシナリオへの序曲といっても過言ではないと私は考えます。私は、現在
横 浜 市 立 大 学 へ 通 う 現 役 の 学 生 と し て 、自 分 の 通 う 大 学 を こ れ ま で 誇 り に 思 っ て い ま し た 。
しかし、市長が変わり、学長が変わった今、これからの大学像として描かれたのは、私た
ち学生や教職員の方々、市民を抜きにした、まさにメチャクチャな方針でした。このよう
な姿を見るにつけ、これまでこの大学に持っていた誇りはもろくも崩れ去り、ただ空しさ
と悔しさ、そして憤りが沸々と沸いてきています。今回の大学の改革案は、冒頭にも書い
た よ う に 明 ら か な「 改 悪 案 」で す 。私 だ け で は な く 、横 浜 市 立 大 学 に 通 う 全 学 生 が き っ と 、
私と同じ気持ちだと考えています。そして、この気持ちはこの「改悪案」を起草し、了承
した一部の教職員以外にも、そして、多くの市民にも共通の考えだと私は考えています。
この「改悪案」が、これからの横浜市立大学のさらなる発展を願う多くの仲間によって撤
回されることを期待してやみません。川口正剛、横浜市立大学商学部経済学科3年、金沢
八景クラブ事務局長、横浜市「成人の日」記念行事実行委員会委員長
(20) 横 浜 市 立 大 学 名 誉 教 授 佐 藤 経 明 氏
横 浜 市 立 大 学 学 長 小 川 恵 一 殿 、 C C : 商 学 部 教 授 会 ・ 御 中 、明 2 0 0 3 年 3 月 か ら 2 0 0 4 年 3 月 に 定
年 を 迎 え る 教 授 の 後 任 人 事 を「 凍 結 」す る と い う 決 定 が 下 さ れ よ う と し て い る 由 で す が 、こ の
う ち 矢 吹 晋 教 授 に か ん し て は 同 氏 の 採 用 当 時 、私 が 推 薦 し た こ と で も あ り 、い さ さ か 卑 見 を 述
べ さ せ て 頂 き た い と 思 い ま す 。今 日 、国 公 私 立 を 問 わ ず 大 学 が 再 編 の 渦 の 中 に 巻 き 込 ま れ つ つ
あ り 、横 浜 市 大 に お い て も 当 事 者 の ご 苦 労 は 推 察 に 難 く あ り ま せ ん 。し か し 、こ と 人 事 に 関 し
て は 慎 重 な 配 慮 が 必 要 で あ り 、い わ ん や「 凍 結 」が 専 任 講 座「 廃 止 」に 繋 が り か ね な い こ と を
考 え ま す と 、尚 更 と 言 わ な け れ ば な り ま せ ん 。第 一 に 、元 (西 )ド イ ツ 首 相 ・ 老 ヘ ル ム ー ト ・ シ
ュ ミ ッ ト は「 こ の 2 0 - 3 0 年 後 、東 ア ジ ア の 中 心 と な る の は 日 本 で は な く て 中 国 だ 」と 喝 破 し て
い ま す が 、こ の 中 国 と わ が 国 が ど の よ う に 連 携 を 保 つ か は 、お そ ら く 国 運 を 左 右 す る で あ り ま
し ょ う 。そ の た め に は 中 国 研 究 の 重 要 性 は 高 ま り こ そ す れ 、下 が る こ と は あ り ま せ ん 。第 二 に
最 も 重 要 な こ と に は 、矢 吹 晋 教 授 は 赴 任 以 来 、そ の 該 博 な 中 国 に 関 す る 知 識 に 加 え 、度 重 な る
現 地 調 査 で 多 数 の 論 文 ・ 著 書 を 発 表 、中 国 に 関 す る 正 確 な 情 報 を 江 湖 に 提 供 し て き ま し た 。国
際 会 議 へ の た び た び の 参 加 は 勿 論 、英 文 著 書 の 刊 行 で 国 外 か ら も 高 く 評 価 さ れ て い ま す 。そ の
結 果「 横 浜 市 大 の 矢 吹 」と い う こ と で 市 大 の 評 価 を 高 め た こ と は 、市 大 が 同 教 授 に 負 う こ と で
矢吹晋『逆耳順耳』
271
も あ り ま し ょ う 。す で に 内 外 で 確 立 し た か に 見 え る「 横 浜 市 大 の 中 国 研 究 」の 伝 統 を 絶 や さ な
い よ う 、 こ こ で 慎 重 な ご 配 慮 を 願 っ て や み ま せ ん 。 2002 年 8 月 8 日 、 横 浜 市 立 大 学 名 誉 教 授
佐藤経明
逆 耳 順 耳 、 い ま 横 浜 市 立 大 学 で な に が 起 こ っ て い る か - - そ の 2、
世 に も 不 思 議 ・ 横 浜 市 大 「 入 試 ミ ス 誤 報 」 事 件 (二 〇 〇 二 年 九 月 一 日 )、
横浜市立大学商学部教授、元入試委員長
矢 吹
晋
遺憾ながら世に入試ミスは、いくつもある。だが、入試ミスの原因を取り違えた誤報事
件 は 、滅 多 に あ る も の で は な い 。
『 神 奈 川 新 聞 』( 二 〇 〇 二 年 八 月 三 一 日 付 ) は 、横 浜 市 大「 採
点ミスで二三人処分」という記事を掲げた。ところが、二三人の被処分者のなかに「採点
ミ ス 者 」は 含 ま れ て い な い 。な ぜ か 。記 事 全 文 を 読 め ば 分 か る よ う に 、こ れ は「 採 点 ミ ス 」
ではなく、
「 得 点 集 計 の プ ロ グ ラ ミ ン グ の ミ ス 」が 原 因 で あ る か ら だ 。し か し 、見 出 し し か
読まない読者には「採点ミス」が印象づけられる。見出しのほかに、記事のなかに二回も
「 採 点 ミ ス 」 が 繰 り 返 さ れ て い る か ら で あ る 。『 朝 日 新 聞 』 ( 神 奈 川 版 、 二 〇 〇 二 年 八 月 三
一 日 付 ) は 、「 電 算 処 理 で の 入 力 ミ ス 」 に 原 因 が あ る と 報 じ た 。 と こ ろ が 、 二 三 人 の 被 処 分
者 の な か に「 入 力 ミ ス 者 」、す な わ ち 入 力 担 当 者 は 含 ま れ て い な い 。な ぜ か 。解 答 用 紙 か ら
切り取った「短冊」をコンピュータに入力する際の「入力ミス」ではないからだ。
入試ミスはあってはならないものだ。再発を防ぐためには、原因を徹底的に究明する必
要があることはいうまでもない。横浜市大の入試ミス報道が原因を取り違えているのはな
ぜであろうか。
『 朝 日 新 聞 』の 伝 え る「 調 査 委 員 会 」の 報 告 書 が ず さ ん な た め 、こ れ を 読 ん
で、真相がかえってわからなくなったのではないか。ここで記者たちが誤解し、誤報して
いる事実はそれを物語るのではないか。これでは「再発防止策」にはならない。それを痛
感して私は「調査報告書」のどこがどのようにおかしいのかを分析した。ご興味のある方
にぜひお読みいただきたい。
[神 奈 川 新 聞 報 道 部 へ の 抗 議 文 九 月 三 日 ]
神 奈 川 新 聞 報 道 部 御 中 。 九 月 三 日 付 fax に よ る ご 回 答 を あ り が と う ご ざ い ま し た 。 内 容 を
一読して、驚きを禁じ得ません。真実の報道を追求すべきジャーナリズムに携わる方の回
答とは、到底考えられないものです。
大学入試において、解答用紙の採点に始まり、得点集計、合否判定を経て発表に至る過
程には、いくつもの段階があります。それらのどの段階においても、ミスの発生が許され
ないこと、これは改めて申し上げる必要もありません。合否判定においてミスが生じた場
合 に は 、「 ど の 段 階 で 、 な ぜ 生 じ た の か 」、 そ の 原 因 を 徹 底 的 に 解 明 し て 初 め て 類 似 の ミ ス
の 再 発 を 防 ぐ こ と が で き ま す 。「 採 点 ミ ス 」 と は 、「 採 点 者 に よ る 、 採 点 上 の ミ ス を 指 す 」
ことは日本語の常識であります。今回の合否判定ミスは、採点者の手元から離れた段階で
生じたものであり、採点者として責任を負うことはできないものです。今回の処分におい
て、採点者が処分対象から外されている事実を直視すべきであります。ご回答によれば、
貴紙は「合否を判定する入試の採点に関する作業ミスに包含される」と認識して「採点ミ
矢吹晋『逆耳順耳』
272
ス 」と 表 記 し た 由 で あ り ま す 。し か し な が ら 、
「 採 点 ミ ス 」の 四 文 字 を 、見 出 し を 含 め て 三
回 も 繰 り 返 し た こ と に よ っ て 、「 受 験 生 本 人 、 ま た そ の ご 家 族 ( 一 般 読 者 ) 」 に 「 採 点 者 の ミ
ス」を印象づけることになります。これはどのような結果をもたらすでしょうか。本学入
試においては、当然ながら出題・採点者名は匿名にされています。しかしながら横浜市立
大学商学部の場合、専任教員で中国語を担当している者が単数であることは、大学が公表
している資料から容易に分かります。つまり建前としては、入試関係者は匿名とされてい
るにもかかわらず、実際には担当者を特定できる場合もありうるのです。それゆえに無視
で き な い 問 題 に な り ま す 。 現 に 入 試 ミ ス の 報 道 以 後 、 私 の 研 究 室 宛 て に 、「 抗 議 」( と 解 釈
される)電話を受けた事実があります。つまり採点担当者は、実際に被害を受けているわ
けです。
「 採 点 ミ ス 」の 用 語 法 に つ い て 、百 歩 譲 っ て 貴 紙 の 主 張 を 認 め た と し て 、採 点 者 の
基本的人権、名誉を貴紙はどのように認識しておられるのでしょうか。私が誤報の訂正と
謝 罪 を 要 求 す る の は 、現 に 被 害 を 受 け て い る か ら で あ り ま す 。
「 採 点 ミ ス 」と い う 表 記 に つ
いては、貴紙の期待通りに広義の含意で受け取る読者も
中にはいるものと思われますが、相当数の読者が「採点者のミス」と誤解した事実がある
以上、訂正記事を載せるべきであります。特に入試に強い関心を持つ読者ほど簡単に読み
流さず「採点ミス」と印象深く受け止めやすい事実に留意すべきであります。貴紙の用語
法 を 用 い れ ば 、「 入 試 ミ ス 」 は す べ て 「 採 点 ミ ス 」 に な り ま す 。 そ の よ う な 曖 昧 な 表 現 は 、
「 受 験 生 本 人 、 ま た そ の ご 家 族 (一 般 読 者 )」 に 入 試 ミ ス の 真 実 を 報 道 す る こ と に は 到 底 な
りえないことは明らかであります。ちなみに、同日付の『朝日新聞』には「採点ミス」の
四文字が見当たらないことにご注意いただきたいと思います。
以上の理由により、誤報を訂正すること、採点者の名誉を著しく傷つけたことに対する
謝罪を改めて要求します。二〇〇二年九月三日、横浜市立大学商学部教授
矢吹晋
[ 追 記 二 〇 〇 二 年 九 月 五 日 ] 横 浜 市 大 入 試 ミ ス は 、前 掲 の『 神 奈 川 』
『 朝 日 』の ほ か 、
『毎日』
『 東 京 』 も 報 じ て い ま し た 。 (1)『 毎 日 新 聞 』 山 本 浩 資 記 者 は (八 月 三 一 日 付 二 六 面 )に こ う
書いています。
「 英 語 以 外 の 外 国 語 を 選 択 し た 場 合 、得 点 を 二 ・ 五 倍 に す る 傾 斜 採 点 方 式 を
採用したが、四人の得点についてこの処理を忘れた」と。これを読むと、英語は二・五倍
されず、英語選択者だけが損するみたいな書き方ですね。むろん、それはないのです。英
語 は 最 初 か ら「 素 点 二 五 〇 点 満 点 」な の で す 。だ か ら 、
「 英 語 以 外 の 外 国 語 」も 英 語 と 同 じ
く 「 素 点 250 点 満 点 」 を 勝 手 に い じ る こ と を し な け れ ば 、 入 試 ミ ス を 防 ぐ こ と が で き た の
で す 。 ( 2 )『 東 京 新 聞 ( 横 浜 版 ) 』 ( 八 月 三 一 日 付 ) は 、 こ う 書 い て い ま す 。「 外 国 語 試 験 で 中 国
語など三カ国語を選んだ受験生の得点は二・五倍にする仕組みだったが、職員がコンピュ
ー タ ー に 傾 斜 配 点 の 設 定 を せ ず 二 人 が 不 合 格 と な っ た 」と 。や は り「 中 国 語 な ど 三 カ 国 語 」
を選んだほうが得みたいですね。いえ、英語は素点二五〇点満点だから二・五倍する必要
はないだけの話。つまり英語以外の外国語も「素点二五〇点満点」のままにしておけば、
二 ・ 五 倍 す る 必 要 は な く 、 ミ ス は あ り え な か っ た の で す 。[ 私 の 感 想 ] 四 つ の 新 聞 記 事 は 、
いずれも「欠陥報道」です。真実を正確に報道したものは皆無です。ジャーナリスムは、
なぜこのように不正確なことを書くのでしょうか。この大学の広報体制は、なぜこのよう
矢吹晋『逆耳順耳』
273
なミスリーディングな報道を許しているのでしょうか。私は勤続四半世紀の老兵ですが、
こんな異常な出来事は初めてです。大学をむしばむ病いは重い、といわざるをえません。
いま横浜市立大学でなにが起こっているか--その3
(矢吹晋まえがき)
『 蒼 蒼 』前 号 で 勤 務 先 の ト ラ ブ ル を 紹 介 さ せ て い た だ い た 。こ の 問 題 は
依然解決のメドが立っていない。その後、頂戴した「激励と抗議」のメールをご紹介させ
ていただきたい。
(12)
㈱チャイニーズドラゴン新報社福田智子氏
横浜市立大学学長様、横浜市長様、請願書。横浜市立大学の矢吹晋教授より、矢吹教授の
後任を補充せず、中国研究を廃止する方針がだされたと聞き、非常に驚いています。とい
う の も 、私 は 三 月 に 上 海 へ 参 り ま し た 。そ の 折 、横 浜 産 業 新 興 公 社 が 上 海 の H S B C [ H o n g
Kong Shanghai Banking Corporations] に 事 務 所 を お か れ て い る こ と を 知 り 、 横 浜 市 の 中
国に対する積極的な姿勢の表れに、非常に高い関心を抱いたことを覚えています。その横
浜市が中国研究を廃止するということは、予想さえできないことでした。私立大学と比べ
ることはもちろんできませんが、中国研究において、他大学の最近の動きのほんの一部を
ご参考までに挙げますと、国士舘大学の二一世紀アジア学部の設置、早稲田大学の中国研
究教員の増員、立命館大学、早稲田大学の中国の大学との交流協定締結とつきません。ご
承知の通り、中国と日本は相互補完の関係にあり、今後益々中国研究の重要性は増してく
るものだと予想されます。予算上の理由で、これまでの矢吹教授の中国研究成果を凍結し
てしまうようなことになれば、横浜市立大学の大看板を下ろしたといっても過言ではない
と思います。横浜市は日本のなかでも開かれた都市であると認識しています。ご再考をお
願い致します。二〇〇二年七月二六日、㈱チャイニーズドラゴン新報社、福田智子
(13) 横 浜 市 立 東 高 校 小 松 原 伴 子 氏
矢吹先生、原宗子さんより、先生のアピールと「市大で何が起こっているか」の文を送っ
て頂き、取り急ぎメールをさせて頂きます。私は、原さんらとともに、小倉先生に学び、
「くまつ集」の世話人の一人です。専攻は中国近代史、現在は横浜市立東高校に勤務しな
がら学習院などの非常勤講師を務めております(横浜市立高等学校教職員組合の役員もや
っ て お り ま す )。 横 浜 市 立 高 校 に お い て も 、 数 年 前 か ら 「 再 編 整 備 計 画 」 と 称 し て 、 現 場 の
声をほとんど入れずに、教育の「スリム化」が進行しています。その一つの結果が、本年
二~三月に新聞をにぎわした高校入試の混乱という形であらわました。しかし、市教委は
そ の 「 混 乱 」 の 「 総 括 」 を な さ な い ま ま 、「 整 備 」 を 続 行 し よ う と し て い ま す ( 詳 細 に つ い
て は 、 改 め て お 知 ら せ し ま す )。 さ ら に 、 こ こ 数 年 、「 市 民 の 声 に 応 え て 」 と い う 名 目 で 、
「 研 修 」に つ い て の「 管 理 」を 強 化 し て き て い ま す 。本 年 度 は 、長 期 休 業 期 間 中 の「 研 修 」
については、計画書・報告書を提出することが義務づけられました。大学教員以上に、高
校教員には、
「 研 究 」を 求 め て い な い の で は な い か と 、思 わ れ る こ と も し ば し ば で す 。ワ ー
ルドカップ誘致には金をかけて教育費は削減し、教員の様々な統制を強化するという市の
姿勢は、真に未来を見据えたものとは思われません。しかし、こうした傾向は、横浜市の
み に 限 ら ず 、残 念 な が ら 全 国 的 な 動 向 と い え る よ う で す 。本 当 に 、
「 効 率 」的 な も の の み が
矢吹晋『逆耳順耳』
274
優先され、大切な学問や思想の自由が、一つ一つ脅かされる情況が迫っているのではない
か。学問・教育に携わる者が、結びあいながら、声をあげていかなければならないと思い
ます。市大の先生方を取り巻く情況は、市立高校の教職員とも直接に結びついてきますの
で、訴えの末端にでも加えて頂ければ幸いと、メールをさせて頂きました。改めまして、
「抗議文」など、お送りさせて頂きたいと存じます。横浜市立東高校小松原伴子
(14)商 学 部 経 済 学 科 4 年 西 原 昭 子 さ ん
(現役の)学生として先生の下で学び、今こそ中国に関心を持つべきであるという間違
い信念を胸にしております。横浜市の姉妹都市上海市では浦東開発区を例に挙げるだけで
もその注目度たるや言わずもがなでしょう。今、中国を学ばずして、いったいいつ学ぶと
いうのでしょう。先生の授業で学ぶ仲間達と議論する事に、どれほど中国経済を学ぶこと
の喜びを感じたことかと思います。日本に迫り来る中国について新たな情報を耳にするこ
とにどれほど心躍らせたことでしょう。横浜市立大学で中国経済を学ぶ事ができることを
私は誇りに思っています。しかしながら今後我が大学で学生が中国経済を学ぶ事ができな
い と 思 う と 残 念 で 仕 方 あ り ま せ ん 。大 学 の な ん と 、な ん と 馬 鹿 な 処 置 で し ょ う か ・・・・ 。
社会的に最も需要の高い科目の一つであるこの中国経済、知れば知るほど興味のつきない
この学問を、もっともっと多くの人に関心を持って欲しい。私が先生の授業で得た素晴ら
しい経験をこれから後輩達にも経験して欲しいと思いこそすれ、大学側はどうして今その
道 を 断 っ て し ま う の か ・・・・ 。矢 吹 先 生 の 授 業 は 横 浜 市 立 大 学 の 名 物 授 業 で は な い か っ 。
私は自分の大学の後輩、さらには高校の後輩にも迷わず私の所属する中国経済ゼミを紹介
することでしょう。だのに、今後中国経済を教えてくれる先生が居なければそれもできま
せん。大学当局の再考を強く求めずにはいられません。商学部経済学科四年西原昭子
(15)横 井 陽 一 氏 (三 一 年 間 の 横 浜 市 民 )
矢吹晋様、緊急アッピールを読ませていただきました。単純な「リストラ」旋風に驚いて
おります。先生の定年と共に横浜市立大学商学部から中国研究が消えることは、論外であ
り 、ま す ま す 強 化 し な け れ ば な ら な い と 思 い ま す 。私 は 3 1 年 間 の 横 浜 市 民 で す が 、世 界 経
済の中でますます中国経済と日中経済関係の発展のため、横浜市立大学は研究センターと
な っ て 欲 し い し 、私 に で き る こ と が あ り ま す れ ば 協 力 を 惜 し み ま せ ん 。大 学 の「 リ ス ト ラ 」
問題は、まず横浜市議会で問題を検討すべきことであり、市民の意見を聞くべきであると
思います。新聞にもテレビでも報道されずに、事務方が独走することは好ましくありませ
ん。どうか先生方には、学内外にアッピールして頑張っていただきたいと思います。私は
このメールのコピーを、
『 朝 日 新 聞 』と『 日 本 経 済 新 聞 』の 横 浜 支 局 に フ ァ ッ ク ス し て お き
ます。横井陽一
(16)横 浜 市 は 大 学 改 革 に あ た り 説 明 責 任 を 果 た さ れ た い
限られた財源の中でどのような行政サービスを提供するべきか。行政主体としては、な
かなかに悩ましいところだと思います。しかし、どんなに判断に窮することであっても、
行 政 主 体 は 、何 ら か の 判 断 を 示 す に あ た り 、た と え ど の よ う な 反 対 が 予 想 さ れ た と し て も 、
個々の意思決定の内容・過程を可能な限り正々堂々と公にする姿勢を持つべきでありまし
矢吹晋『逆耳順耳』
275
ょう。この度、横浜市は、大学改革の一環として矢吹教授の後任を補任しないと決定した
旨、聞き及びました。詳しい事情は全くわかりませんが、当事者である教授ご自身が「緊
急アピール」なるものを表しておられることから察すると、市当局はほとんど説明責任を
果たしておられないのでないでしょうか。公・民の役割を見直し、効率を高め、ムダを省
く行政改革は、果敢に推進されるべきでしょう。しかしながら、個々の事業の改廃につい
て、立法、司法の統制が及びにくい現状がある以上、何をどのように見直し、優先順位を
つけて処理するか、行政(担当部局)は、真の市民サービス改善・向上という見地から十
分 な 吟 味 を 行 い 、少 し で も 客 観 的 妥 当 な 判 断 を 行 っ て い た だ か な け れ ば な り ま せ ん 。仮 に 、
さしたる理由もないのに、ある事業(行政サービス)を廃止するとすれば、それまでの公
的投資はムダだったということになるでしょう。もし、横浜市立大学が長年、矢吹教授を
して提供せしめてきた行政サービス(授業・研究等)が、貴市の提供すべきサービス内容
として不都合・不適切・不必要なものであったにもかかわらず、紛争を避けて教授の定年
退官まで放置したのだとしたら、私は、その怠慢をむしろ追及いたしたいと思います。貴
市は、なにゆえ、今回の決定をなされたのでしょう。下手な推量をお許しいただければ次
のような事柄が考えられてきます。
一
矢吹教授の業績、中国研究の必要性は十分認識しているが、市大の看板講座のひとつ
である中国研究室を将来にわたり担うだけの人材を獲得する見込が立たず、その名誉を守
る た め 、 敢 え て 後 任 を 補 充 し な い 。( こ れ に 足 る 人 材 を 見 出 せ ば 直 ち に 復 活 す る 。)
二
(矢吹教授の業績、中国研究の必要性とは全く関係なく)貴大学においては提供すべ
き 教 授 内 容 で は な い 、 と 判 断 し た ( た と え ば 、 将 来 、 情 報 技 術 系 単 科 大 学 に 改 組 す る 等 )。
しかし、人事管理上の判断で矢吹教授の定年退官まで保留した。
三
行 政 改 革 の 一 環 と し て 財 政 部 局 か ら 教 授 定 数 の 削 減 を 求 め ら れ 、判 断 に 苦 し ん だ 結 果 、
個々の教授の業績、研究の必要性如何にかかわらず、分野を問わず後任者を補充しない形
での対応を行うこととした。
四
前項同様、教授定数削減を検討する中で、矢吹教授の専門分野が市の提供する行政サ
ービスとして特に不適切であるか、又は、教授の業績が特に劣っている、或いは、中国研
究を志す学生が皆無に等しいことを確認したため、ポスト廃止が至当であると判断した。
五
大学自治の要請ないしは、外部圧力により、矢吹教授のポストを廃止する必要があっ
た。
以上、市当局に好意的な見解からそうでないものに順に並べておりますが、いずれにせ
よ 、市 と し て 一 定 の 判 断 を 示 す 以 上 、何 ら か の 判 断 基 準 の 元 に 検 討 が な さ れ た は ず で あ り 、
学問的な価値を熟知する多くの中国研究者が、市の判断に疑問を投げかけている以上、市
のホームページ上に掲載するなど、分かりやすい形で「反論」をご提示されるようお勧め
します。もし、上記一から三の理由であるならば、公表を躊躇する事情を測りかねます。
公表されないと、四や五、或いはもっと「説明不能ないい加減な理由」に依拠しているの
ではないかと疑念を持たずにはおれません。万一、公表ないしは関係者への説明ができな
いのであれば、せめて、矢吹教授の業績への評価や中国研究の重要性・必要性に対する認
矢吹晋『逆耳順耳』
276
識の有無、市サービスとして提供することの優先度等について、公にするか、少なくとも
矢吹教授本人には明確に伝えることを提案します。そもそも中国研究など無意味だという
のか、市大として行う必要がない或いは優先順位が低いと考えるのか、明らかにすべきで
しょう。また、大学職員の皆様にも一言申し上げるとすれば、今回、後任を補充されない
先生方はもちろんのこと、すべての先生方にとっても、公立学校の公務員として、教授・
研究のような属人的要素の濃厚な行政サービスをどのように自主評価するか、或いは客観
的な評価をなされるのか、更に、それらの評価の結果、最終的にどのように行政サービス
体系の中に位置付けていくのか、お考えいただくことを切に望みます。公立大学が広く適
切に社会的な貢献をなす=市民に誇れる行政サービスを展開する、という点で、私は矢吹
教授の取組ほど、重要かつ意義深い貢献を知りません。貴市がこれを否定する材料をお持
ち
だというのならぜひとも拝見いたしたい。公務員
匿名希望
(17)中 国 投 資 諮 詢 事 務 所 田 中 忠 仁 氏
矢吹先生、ご多忙のなか、御免下さい。商学部第三学科構想大賛成。しかし、先生ならむ
し ろ 仮 称 ・ 日 中 (親 善 )実 学 大 学 の 設 立 準 備 委 員 長 と な ら れ て 、 日 中 間 各 分 野 で 実 学 と フ ィ
ールドワークで、アジア経済研究所をはじめ、業界団体、ジェトロ、国際貿易促進協会、
日中経済協会、霞山会等々、それぞれご活躍なされた上で大学教授になられた方は、中身
が違うなというのが「新米」三金会会員の一月以来半年間の感想です。中嶋嶺雄がなぜ長
年間違ったことばかり言い続けても、それが通るのか。中嶋一派や彼の著作を台湾ロビー
が大量に買って、ベストセラーの素地を作るので印税が合法的にふところに入って、それ
を学内の人気とり選挙に使うので、学長にまでなってしまったのでは? でも李登輝基金の
やり玉で今後は無理か。魑魅魍魎の大学、特に国立、公立の改革は、焦眉の急ですが、そ
れ よ り も む し ろ モ デ ル 大 学 に 、学 生 を 集 め て ( 人 気 教 授 に は 特 に 大 学 院 な ら 余 計 に よ り 多 く
の 優 秀 な 学 生 が 集 ま る こ と で し ょ う ) 、実 績 を 挙 げ て 行 く 方 が 官 僚 た ち に は 分 か り や す い の
で は な い で し ょ う か 。 そ う い う と こ ろ の 卒 業 生 に は (実 学 だ か ら )、 企 業 の 求 人 も か え っ て
多く集中して、良い方向にまわって行くような予感がします。いや実感といってもいい。
企 業 も 設 立 準 備 に 献 金 す る の で は ? 一 段 落 つ か れ た ら 、こ の 方 面 / 方 向 も ご 一 考 下 さ れ ば 如
何でしょうか? 多くの方が矢吹先生を応援すると信じます。及ばずながら、小生もエンの
下ででも、お支えします。御身お大切に。不一。田中忠仁。二〇〇二年八月一日。
(18)同 僚 永 岑 三 千 輝 教 授 の コ メ ン ト
矢 吹 教 授 の 訴 え 、緊 急 ア ピ ー ル 等 に 関 し て は 、実 に 多 様 な 反 応 が あ る よ う で 、矢 吹 教 授
の仕事が広く社会で注目されていることを示している。次第に広く,市民の関心のなかで
問題が検討されることになろう。市立大学である本学の改革は、大学内部の小さなコップ
の中で議論されるのではなく、市民の中での議論、市議会での議論、市民の広範な関心と
要求を踏まえながら進められる必要がある。大学から文科系を切り捨ててもいいのか、大
学の総合性をなくしてもいいのか。従来の総合性を発展させるべきではないのか。市民の
高 級 な 知 的 要 求 を 満 た す 文 科 系 大 学 院 の 充 実 ,そ の 基 礎 と な る 学 部 の 充 実 を「 ひ と 、も の 、
矢吹晋『逆耳順耳』
277
か ね 」 の 面 で お こ な わ な く て い い の か 。「 米 百 俵 の 精 神 」 は , 横 浜 市 に は な い の か 。 理 科 系
専 門 大 学 に な っ て い い の か 。伝 統 的 な 商 学 部 の 独 自 性 と 個 性 を 発 展 さ せ な く て も い い の か 、
市民の大学としてすばらしい水準のものにしていかなくていいのか、これこそ問われるこ
とだろう。矢吹教授が上記訴えで述べられているように、大学教授の研究の内容について
社 会( 日 本 だ け で は な く ,翻 訳 を つ う じ て ア メ リ カ を は じ め 外 国 で も )が 評 価 し て い て も 、
事務局はからなずしも評価しない,という問題がある。逆に、マスコミの評価などは理解
できても,専門学界で活動している研究者に対する学界の学問的評価は理解できないとい
う問題もある。大学人がさまざまの学界のなかで厳しい批判と評価の目にさらされている
実情を理解しないのである。事務局に迎合するような研究者(往々にして平凡な研究者)
とは違って,矢吹教授は自立的・独立的・批判的精神の旺盛な方で、だからこそさまざま
の危険を乗り越え、中国研究,中国経済論に関して新しい道を次々と切り開いてきた。た
んなる批判だけの研究者ではない。書物等のかたちでまとめられた業績はうなるほどある
( 矢 吹 晋 先 生 の H P )。そ の よ う な 実 力 の あ る 教 授 の 矢 面 に 立 た さ れ る こ と は 、た し か に 厳
し い だ ろ う 。視 野 の 狭 い 保 身 と 出 世 主 義 の「 お 役 人 」
( も ち ろ ん 仕 事 を し な い 凡 庸 な「 研 究
者 」) に 対 し て 、 矢 吹 教 授 の 言 説 は き わ め て 厳 し い 。 日 本
の中国研究の隆盛、日本の二一世紀の発展方向などを考えるより,自分が席を置く数年の
こ と だ け を 考 え る 「 お 役 人 」( も ち ろ ん そ の よ う な 人 々 ば か り で は な く , 実 に よ く 勉 強 し
深い見識を持っている人もいる。ただ往々にしてそのような人は「出世」しない)には,
実に煙たい、ということである。それが、上記訴えの「役人のカゲの声」で描かれている
と こ ろ で あ る 。 こ の よ う な「 カ ゲ の 声 」を 公 開 す る こ と 自 体 ,痛 烈 な 批 判 精 神 の 表 明 で あ
る。つぎの時代、次の段階の学問的発展をもたらすのは、世の中に見えていない問題点を
抉り出すこのような現状批判の精神であろう。二〇〇二年八月二日、同僚永岑三千輝教授
(19)前 岡 崎 嘉 平 太 国 際 奨 学 財 団 事 務 局 長 阿 部 康 男 氏
横浜市立大学学長小川恵一殿、中国語の学習、中国経済の研究がますます重要なものにな
っ て き て い る こ と は 、今 や 日 本 人 に と っ て 常 識 で あ る と い え ま す 。と く に 商 学 部 の よ う に 、
これから経済活動の第一線に立って活躍する人材を養成する部門にとっては、まさに不可
欠なものと考えます。このことは、国家的な見地から見て、見逃せません。貴学商学部に
引き続き中国語の学習および中国経済の研究が行われることを切に希望します。二〇〇二
年八月四日、前岡崎嘉平太国際奨学財団事務局長阿部康男
(20) 川 口 正 剛 君 (横 浜 市 立 大 学 商 学 部 経 済 学 科 三 年 )
私 は 、今 回 の 大 学 に よ る 様 々 な 改 革 案( 改 悪 案 )に 真 っ 向 か ら 反 対 し た い と 思 い ま す 。矢
吹教授には、二年次の中国語と国際社会論Ⅰの授業、そして、今年度後期の比較社会論で
様々なご指導を賜っております。そして、わたしにとって忘れられない大きな出来事、そ
れは昨年度の中国・上海への語学研修です。私は、昨年度大学のプログラムである上海市
内大学への夏期語学研修に参加しましたが、そのきっかけは、昨年度の矢吹教授の講義で
し た 。そ れ ま で 、
「 近 く て 遠 い 国 」と い う 印 象 が あ っ た 中 国 を「 近 く て 近 い 国 」に 変 え て く
ださった方、それがまさしく矢吹教授だったのです。矢吹教授は、授業中、折に触れ中国
矢吹晋『逆耳順耳』
278
の現在の実情をお話してくださり、また、教授自らが見聞きしてきた、生の中国を私たち
学生に事細かに教授してくださいました。これらの話や見聞録が私たち学生にとってどれ
ほど勉強になったか、それは筆舌に尽くしがたいものがあります。さらに、現代中国は世
界 的 な 不 況 に あ え ぐ 中 で な お 、年 間 一 〇 % 近 い 経 済 成 長 を 続 け て い る 国 で あ り 、
「21世紀
は中国の時代だ」という専門家までいるほどです。そのような時代の流れにあって、横浜
市立大学では、唯一の中国研究を担う教授である矢吹教授の退官にあわせ、その後の補充
人事を凍結し、中国研究の根を絶やそうという、時代の流れとは全く正反対の方向に向か
う暴挙に出たのです。これは、横浜市立大学が時代の流れに乗り遅れ、やがては大学消滅
という最悪のシナリオへの序曲といっても過言ではないと私は考えます。私は、現在横浜
市立大学へ通う現役の学生として、自分の通う大学をこれまで誇りに思っていました。し
かし、市長が変わり、学長が変わった今、これからの大学像として描かれたのは、私たち
学生や教職員の方々、市民を抜きにした、まさにメチャクチャな方針でした。このような
姿を見るにつけ、これまでこの大学に持っていた誇りはもろくも崩れ去り、た
だ空しさと悔しさ、そして憤りが沸々と沸いてきています。今回の大学の改革案は、冒頭
にも書いたように明らかな「改悪案」です。私だけではなく、横浜市立大学に通う全学生
がきっと、私と同じ気持ちだと考えています。そして、この気持ちはこの「改悪案」を起
草し、了承した一部の教職員以外にも、そして、多くの市民にも共通の考えだと私は考え
ています。この「改悪案」が、これからの横浜市立大学のさらなる発展を願う多くの仲間
によって撤回されることを期待してやみません。川口正剛、横浜市立大学商学部経済学科
三年
(21a) 横 浜 市 立 大 学 名 誉 教 授 佐 藤 経 明 氏
横 浜 市 立 大 学 学 長 小 川 恵 一 殿 、 CC: 商 学 部 教 授 会 ・ 御 中 、 明 二 〇 〇 三 年 三 月 か ら 二 〇 〇 四
年三月に定年を迎える教授の後任人事を「凍結」するという決定が下されようとしている
由 で す が 、こ の う ち 矢 吹 晋 教 授 に か ん し て は 同 氏 の 採 用 当 時 、私 が 推 薦 し た こ と で も あ り 、
いささか卑見を述べさせて頂きたいと思います。今日、国公私立を問わず大学が再編の渦
の 中 に 巻 き 込 ま れ つ つ あ り 、横 浜 市 大 に お い て も 当 事 者 の ご 苦 労 は 推 察 に 難 く あ り ま せ ん 。
しかし、こと人事に関しては慎重な配慮が必要であり、いわんや「凍結」が専任講座「廃
止 」に 繋 が り か ね な い こ と を 考 え ま す と 、尚 更 と 言 わ な け れ ば な り ま せ ん 。第 一 に 、元 ( 西 )
ドイツ首相・老ヘルムート・シュミットは「この二〇~三〇年後、東アジアの中心となる
のは日本ではなくて中国だ」と喝破していますが、この中国とわが国がどのように連携を
保つかは、おそらく国運を左右するでありましょう。そのためには中国研究の重要性は高
まりこそすれ、下がることはありません。第二に最も重要なことには、矢吹晋教授は赴任
以 来 、そ の 該 博 な 中 国 に 関 す る 知 識 に 加 え 、度 重 な る 現 地 調 査 で 多 数 の 論 文・著 書 を 発 表 、
中 国 に 関 す る 正 確 な 情 報 を 江 湖 に 提 供 し て き ま し た 。国 際 会 議 へ の た び た び の 参 加 は 勿 論 、
英文著書の刊行で国外からも高く評価されています。その結果「横浜市大の矢吹」という
ことで市大の評価を高めたことは、市大が同教授に負うことでもありましょう。すでに内
外で確立したかに見える「横浜市大の中国研究」の伝統を絶やさないよう、ここで慎重な
矢吹晋『逆耳順耳』
279
ご配慮を願ってやみません。二〇〇二年八月八日、横浜市立大学名誉教授佐藤経明
(21b) 横 浜 市 立 大 学 佐 藤 経 明 名 誉 教 授 の 学 長 宛 て メ ー ル
横浜市立大学学長小川恵一様、残暑お見舞い申し上げます。ずっと他所で過ごしていまし
たので、帰宅後思いがけずもお返事を拝見し、誠に恐縮致しました。ご趣旨は一応、諒解
い た し ま し た が 、し か し な が ら 、必 ず し も 説 得 力 が あ る よ う に は 見 受 け ら れ ま せ ん 。2 0 0 3 4 年の二年間に定年ないし自発的退職、転勤をされる教官数は各学部・研究所を通じかな
りの数になると推定されます。その中から「緊迫した事態に置かれている市立大学」を理
解させるための手段として商学部の三人を選定するのは、選定基準だけからしてもコンン
サスを得られ難いと考えます。いささか「勇み足」の憾みなしとしません。こういう普通
でない手段をとる場合には、大学における合意と選定基準の妥当性を多数の人が納得する
ことが必要でありましょう。とりあえず「白紙」に戻し、大学内の合意を得るための努力
をされることが先決ではないかと愚考いたします。取り急ぎお礼とお返事まで。二〇〇二
年八月二七日、横浜市立大学名誉教授佐藤経明
(22)武 蔵 大 学 経 済 学 部 教 授 星 野 誉 夫 氏
横浜市立大学殿、商学部における中国研究の継続を強く要望します。星野誉夫(武蔵大学
経済学部)
横浜市殿、市立大学商学部における中国研究が廃止されないよう強く要望します。星野誉
夫(武蔵大学経済学部)
(23) 三 井 物 産 T K C L M 、 黄 暁 京 氏
私は元々中国経済体制研究所の研究員であり、天安門事件前に来日し、現在三井物産に勤
務しています。この数年間、ずっと先生のホームページの忠実な読者の一人です。中国関
連事業を担当する一商社マンの立場から先生のホームページから多くのことを勉強し、自
分の仕事にも非常に役に立ったと思います。先生の中国研究、先生のページは”社会的需
要”が非常に高いと思います。横浜市立大学の改革案は不可解な行動である思います。先
生の抗議行動に応援致します。以上。黄
暁京、三井物産TKCLM
(24)紀 陽 リ ー ス ・ キ ャ ピ タ ル 株 式 会 社 栗 山 重 信 氏
横浜市立大学に関する矢吹先生のHPを拝読させていただきました。ここ数年の中国経済
の発展より、クローズアップされきた中国研究について矢吹先生の後任を育成しないとは
大学側はどう考えているのでしょうか。横浜に新市長が誕生し期待していたのですが、改
革するところを間違っているようです。
矢吹先生の奮闘、祈念いたしております。紀陽リース・キャピタル株式会社栗山重信氏
(25) 立 教 大 学 法 学 部 教 授 高 原 明 生 氏
横浜市立大学学長殿、貴大学商学部の中国研究の火を絶やさないでください。冠省
私は
立教大学で中国政治を教えている教員です。私が日々実感することです
が、現在の日本社会において、中国研究および中国についての教育の必要性、そしてそれ
に対する現実の需要はうなぎのぼりに増大しています。その事情は、恐らく商都・横浜に
おいても同様、いや平均以上であろうと思います。貴大学商学部の中国研究の火を何とか
矢吹晋『逆耳順耳』
280
絶やさないでいただきたいと思い、矢吹晋教授の後任を採用しないという決定のご再考を
強くお願いするところです。草々、二〇〇二年九月六日、立教大学法学部教授高原明生
( 26) 多 田 敏 宏 氏 (翻 訳 家 ・ 地 方 公 務 員 )
前略。先生のホームページで、横浜市立大学商学部での中国研究が廃止される方向である
ことを知り、大変驚きかつ残念に思っています。これからの日中関係を考えるうえで、む
しろ先生の築いてこられた基盤をより一層発展させることこそが必要だと思います。以下
に 3 点 、所 感 を 記 し ま す 。(1)矢 吹 先 生 が 積 み 上 げ て こ ら れ た 研 究 は 、横 浜 市 大 だ け の も の
ではない。日中関係や中国研究にたずさわるすべての人々の財産です。市大内部だけでは
なく、これらの人々のことも考え、先生のご研究を一層発展させるべく努力するのが当局
の 責 務 で す 。(2)横 浜 市 は 上 海 市 と 友 好 都 市 関 係 に あ り ま す 。い う ま で も な く 、上 海 に は 多
数の大学や研究機関があります。横浜市大の中国研究を充実させること によって、市大と
これらの大学や研究機関との学術交流などの連携を深めることができます。それは市大に
と っ て も 、 横 浜 市 民 に と っ て も プ ラ ス に な る と 思 い ま す 。 (3)中 国 も WTO に 加 盟 し ま し た
ので、中国進出を考える企業は、今後増加すると思われます。しかし、大企業は独自の情
報能力をもっているでしょうが、中小企業にはそういうものはあまりありません。横浜市
の中小企業も同じだと思います。これらの中小企業を助けるために、矢吹先生のご研究を
基礎とした「中国経済情報ネットワーク」のようなものを市大商学部に作ってはどうでし
ょ う か 。こ れ ら の 中 小 企 業 の 発 展 に も 役 立 ち 、横 浜 市 の 経 済 成 長 に も つ な が る と 思 い ま す 。
以上、色々と書きましたが、大学内部のことを知らないために見当違いの点があるかもし
れません。その際はおわびします。またこの文章がもし有用であれば、全部もしくは一部
を先生のご判断でお使いになってもかまいません。今後ともよろしくお願いします。平成
14 年 9 月 15 日 、 京 都 、 多 田 敏 宏
(27) 市 村 保 夫 氏 (横 浜 市 民 )
[ 前 略 ] さ て 、横 浜 市 大 に お け る 中 国 関 連 研 究 室 の 存 続 が 危 う い と の こ と で す が ・・・ な ん と
時代遅れの判断をするのでしょうか。いま、日本のアジアにおけるプレゼンスがどんどん
中国にとって代わられつつある情勢下で、中国と「良質の拮抗」を行うためには、中国に
かかわる全方位・全領域での研究と戦略が重要であるのです。横浜は、上海との姉妹都市
関係にあります。中国の要を握る上海は、既に、アジアの金融情報センターとしての機能
を備えつつあります。日本は取り残されようとしています。このような上海との関係にあ
りながら、横浜を代表する最高学府・教育機関において、中国研究室をなくすことは、中
国・上海との対応を、横浜市として「捨てる」ということを意味しています。大学改革と
は、
「時代の要請に応えられない」
「貢献できない」
「次世代のリーダや機能の育成に寄与し
ない」
「 世 界 平 和 貢 献 へ の 真 摯 な 研 究 を し な い 」な ど の グ ル ー プ の 排 斥 と マ ン ネ リ 化 け し た
大学運営合理化機械化に真剣に取り組まない事務体制に甘んじている「職員の体質改善」
にこそ向けられるべきだと思います。明日の中国と、様々な取り組みが必要な横浜基盤の
人材育成の場としての横浜市大が、中国研究室および継続に必要な陣容を維持しないとい
うのは、その重要な任務を放棄するに等しいと思います。なんとしても、市大における中
矢吹晋『逆耳順耳』
281
国研究室の存続は勿論のこと、更なる陣容の整備・拡充が必要だと思います。以上、私の
思いを簡潔に述べさせて頂きましたが、必要なら、中田市長への直訴も厭いません。頑張
っ て く だ さ い 。 市 村 保 夫 。 9 月 16 日 、 [追 伸 ]* 高 校 生 の 中 国 語 早 期 研 修 シ ス テ ム を 西 安 で
展開したいと企画しています。一度、相談にのってください。
(28) 李 岸 君 氏 (矢 吹 ゼ ミ 卒 業 生 )
先生からの「緊急アピ-ル」を拝見致しました。たいへん驚きかつ憤慨しています。矢吹
先生長年の中国研究は常にこの分野の先頭に立って、リ-ドしています。今ほど中国経済
研究が求められない時代においてこの研究の価値と意義の大きさはお金で量るものではあ
りません。今まで、国際都市としての横浜市ではこんな高い水準の中国研究と真の国際交
流があったのはほんどに素晴らしい事だったと思います。すなわち、今の国際情勢の中で
は、この日本経済にとって欠いていけない中国問題研究は、廃止することではなく、より
一層力を注入し、次の代の人々によってもっと深めてていかねばならないと思います。横
浜市大と横浜市当局のこの愚挙は今の国際情勢を無視し、世界の研究潮流に逆行すること
だと思っております。なんでもかんでも改革の名において暴挙を行うのは文明社会の恥で
す。ここでは、私は矢吹ゼミの一人の卒業生として、この横浜市大と横浜市当局の無責任
的愚かな行為に対して、怒りと強く反対する意志を表明致します。先生たいへんお疲れ様
でございます。ご健闘をお祈り申し上げます。ずっと先生を応援しております。矢吹ゼミ
卒 業 生 : 李 岸 君 9 月 24 日
(29) 及 川 淳 子 氏 (桜 美 林 大 学 )
「緊急アピール」は、本当に信じられない思いで拝見いたしました。横浜市大の暴挙、そ
の後は何か改善策が採られたのでしょうか?各方面で中国研究が一層重要視される今日、
伝統ある横市商学部の中国研究の火を消してしまうことの意味、その損失がいかなるもの
であるかについて、当局が分かっていないとは到底思えません。「改革」という口実のも
と に 、仮 に ご く 数 年 間 の 人 件 費 等 の 削 減 が で き た と し て も 、研 究・教 育 機 関 と し て の 大 学 、
しかも国際都市横浜の大学が、中国研究を強化させるならまだしも、時代に逆行したよう
な方針を取るのでは、学生や市民のニーズに明らかに反していると考えます。9月初旬、
中国企業連合会と日本の経営行動学会共催の「日中企業管理シンポ」に通訳者として参加
しました。そのときに痛感したのは、今後の日中関係は企業管理や環境対策等、様々な実
業面での協力が不可欠であり、そうした知的交流を行い得る人材育成が急務であるという
ことです。そして、大学の役割も改めて問われていると思います。激励メッセージで、ア
ジ研の中居先生が書いていらしたように、商学部における中国研究というのは、今後ます
ます重要になると思います。「百年樹人」といわれるように、急務でありながらもじっく
りと取り組むべき役割を担った大学で、すでに他校がうらやむほどの伝統と実績がありな
がら、敢えてそれを投げ出してしまう横浜市立の暴挙は、本当に耳を疑うばかりです。何
よりも、これまで貢献したいらっしゃった矢吹先生のご退職に際し、これほどひどい仕打
ちはありません。矢吹先生に地域研究の大切さ、チャイナ・ウォッチャーとしての姿勢を
教えて頂いた元学生として、先生がどれほどご無念でいらっしゃるか、それは想像に余り
矢吹晋『逆耳順耳』
282
あるものと想っております。これは、矢吹老師「桃李満天下」の学子たちの、共通した思
い の は ず で す 。 2002 年 10 月 1 日 桜 美 林 大 学 及 川 淳 子 氏
(29)
黄
朝恒氏
(三 洋 電 機 ソフトエ
ナジーカンパニー)
<抗 議 文 >横 浜 市 大 が 人 事 を 凍 結 し 、 矢 吹 老 師 の 退 休 後 、 後 任 を 選 ば ず 、 中 国 研 究 が 事 実 上
廃 止 と な っ て し ま う と お 聞 き し 、非 常 に 憤 慨 し て お り ま す 。昨 年 の 上 海 で の A P E C 開 催 、
WTOの正式加盟という国際的な中での中国の開放というのは、見えざる大国であった中
国を国際社会の枠組みに参加させる大きな契機となったことは周知の事実だと思います。
そ れ に よ り 、今 ま で は 安 価 な 労 働 力 が ク ロ ー ズ ア ッ プ さ れ て い た 中 国 が 、1 3 億 と い う 潜 在
性を秘めた世界一の巨大市場として、よりいっそう世界の注目を集めるようになったと理
解しています。縁あって中国関係の仕事をしていますが、大手外資系企業の中国へのシフ
トは年々その傾向が顕著になり、それにあわせて中国に関する知識のある人材が日系企業
各 社 で 強 く 求 め ら れ て い ま す 。し か し 、多 く の 自 称「 中 国 専 攻 」と い う 学 生 は 経 済 、文 学 、
社会などのうちの一分野のみで、二分野あるいは三分野を理解している人はなかなかいま
せ ん 。そ う な る と 必 然 的 に 視 野 が 狭 く な り 、偏 っ た 見 方 で 中 国 を 理 解 し て い ま す 。そ の 点 、
矢吹ゼミでは幅広く、政治、経済、社会、文化、法律とさまざまな研究テーマをもったゼ
ミ生が、お互いに刺激しあいながら活動を行っていたので、必然的にさまざまな知識を身
につけることができ、それが結果として仕事をしていく上で大変役立っています。矢吹ゼ
ミで学んだことにより、より中国に対する理解が深まり、仕事をしていく上でも大変やり
やすいと感じています。その様な中で、当然いかにして中国を理解するかということが今
後より必要になっていくでしょう。そのような中で、今回の事件はこの流れに逆行する蛮
行としか言いようがありません。大学当局はいったい何を考えて今回の措置に踏み切った
の で し ょ う か ? 田 中 真 紀 子 で は な い で す が 、ま さ し く「 伏 魔 殿 」と 言 わ ざ る を え ま せ ん・・・
いま、中国研究がどれほど大切なのか、どれほど必要なのかをまったくもって理解してい
ないとしか言いようがありません。大学当局の猛省と凍結の即時解除を要求します。P.
S . 矢 吹 老 師 : 小 生 現 在 主 に 中 国 地 場 (国 産 )メ ー カ ー の 開 拓 を 主 な 業 務 と し て お こ な っ て
います。覚えることばかりで大変ですが、楽しんで過ごしております。季節柄気温の変動
が激しいとは思いますが、お体に気をつけてお過ごしください。三洋電機ソフトエナジー
カンパニー
矢吹晋『逆耳順耳』
黄 朝 恒 2002.10.05
283
「北京発大誤報」資料一覧
第 1 号 産 経 ・ 伊 藤 正 特 派 員 発 2002年 2月 10日
[ 産 経 2002年 2月 10日 ]国 家 主 席 に 李 鵬 氏 浮 上 、中 国 次 期 体 制 、 権 力 の 集 中 排 除 、軍 事 委
主席 江氏留任正当化狙う、【北京9日=伊藤正】中国共産党は、今秋開く第十六回全国
大 会 後 の 中 央 委 員 会 第 一 回 総 会 で 、 胡 錦 濤 政 治 局 常 務 委 員 (五 九 )を 新 総 書 記 に 選 出 す る
が 、胡 氏 は 、江 沢 民 総 書 記 ( 七 五 ) が 兼 任 し て き た 国 家 主 席 と 中 央 軍 事 委 主 席 に は 就 か な い
見 通 し に な っ た 。軍 事 委 主 席 は 江 氏 が 留 任 、次 期 国 家 主 席 候 補 に は 李 鵬 全 国 人 民 代 表 大 会
( 全 人 代 ) 常 務 委 員 長 ( 七 三 ) が 浮 上 し て い る 。党 内 事 情 に 通 じ た 中 国 筋 が 九 日 ま で に 明 ら か
に し た 。中 国 筋 に よ る と 、こ れ は 中 央 書 記 局 の 党 大 会 準 備 作 業 グ ル ー プ が 打 ち 出 し た 人 事・
組 織 構 想 と さ れ 、既 に 内 部 討 議 が 始 ま っ て い る 。党 、国 家 、軍 の 権 力 を 総 書 記 に 集 中 、他
の 中 枢 ポ ス ト も 政 治 局 常 務 委 員 が 独 占 す る 現 体 制 を や め 、常 務 委 員 で な く と も 主 要 ポ ス ト
に 就 く こ と を 可 能 に す る 構 想 で 、「 江 沢 民 氏 の 軍 事 委 主 席 留 任 を 正 当 化 す る 狙 い 」 ( 同 筋 )
という。中国筋によると、現在の政治局常務委員七人のうち、留任が確実なのは胡錦濤、
李 瑞 環 全 国 人 民 政 治 協 商 会 議 ( 政 協 ) 主 席 ( 六 七 ) の 二 人 。こ れ に 温 家 宝 ( 五 九 ) 、羅 幹 ( 六 六 )
の 両 政 治 局 員 と 曽 慶 紅 政 治 局 員 候 補 ( 六 二 ) ら が 昇 格 し 、五 、六 人 で 常 務 委 員 会 を 構 成 す る 。
現 常 務 委 員 の 中 で 、 朱 鎔 基 首 相 (七 三 )と 尉 健 行 規 律 検 査 委 書 記 (七 一 )は 完 全 引 退 す る が 、
江 沢 民 、李 鵬 両 氏 は 軍 、国 家 の 最 高 位 に と ど ま り 次 期 指 導 部 を 側 面 か ら 支 え る 。一 時 留 任
説 の あ っ た 李 嵐 清 副 首 相 ( 六 九 ) も 常 務 委 員 に 再 選 さ れ ず 、政 協 主 席 に 回 る 可 能 性 が あ る と
い う 。こ の 新 体 制 構 想 は 、一 九 八 七 年 の 十 三 回 党 大 会 体 制 に 近 い 。趙 紫 陽 総 書 記 、李 鵬 首
相 は 常 務 委 員 だ っ た が 、楊 尚 昆 国 家 主 席 、万 里 全 人 代 委 員 長 は 政 治 局 員 、鄧 小 平 軍 事 委 主
席 と 李 先 念 政 協 主 席 は 中 央 委 員 を 引 退 、「 一 党 員 」 で し か な か っ た 。 趙 紫 陽 氏 も 、 そ の 前
任 の 胡 耀 邦 氏 も 、他 の ポ ス ト の ト ッ プ に は 就 か な か っ た 。毛 沢 東 時 代 の 権 力 集 中 の 弊 害 を
反 省 す る 間 も な く 、後 継 者 に な っ た 華 国 鋒 氏 が 党 主 席 、軍 事 委 主 席 、首 相 を 兼 ね た こ と が
改 革 開 放 時 代 に そ ぐ わ な い と 批 判 さ れ た 結 果 だ っ た 。江 沢 民 氏 が 毛 沢 東 ・ 華 国 鋒 時 代 の 一
極 集 中 に 戻 っ た の は 、 八 九 年 の 天 安 門 事 件 で 党 中 央 が 分 裂 す る 異 常 事 態 下 で 、「 鄧 小 平 氏
が 中 央 で の 実 績 の な い 江 氏 に 権 威 を 与 え る 緊 急 措 置 だ っ た 」と 中 国 筋 は 言 う 。そ の 意 味 で
は 新 構 想 は「 適 材 適 所 で 内 外 の 難 局 を 乗 り 越 え る 挙 党 態 勢 」 (同 筋 )の 半 面 、か つ て 弊 害 の
多かった「長老政治」の復活との批判も予想される。中国筋は「新構想は人事面を含め、
多くの議論があり、党大会直前まで、もめ続ける可能性もある」と述べている。
第 2号 東 京 鈴 木 孝 昌 発 2002年 4月 26日
矢吹晋『逆耳順耳』
284
『 東 京 4月 25日 』 温 副 首 相 、 次 期 首 相 を 辞 退 か 【 北 京 2 4 日 鈴 木 孝 昌 】 当 地 の 外
交筋によると、中国の次期首相候補とされる温家宝副首相が年初の会議で、江
沢民国家主席から事実上、「名指し」で批判されていたことが分かった。中国
は今秋の共産党第十六回党大会で指導者の交代人事を行うが、批判を受けた温
氏は「次期政府の役職には就かない」と、首相就任を辞退する書簡を江主席に
送ったもようだ。同筋によると、今年初めに開かれた内部の会議で江主席は
「政府内には農業の専門家のような顔をしている人がいるが、農業の専門家な
どいない」と強い口調で語った。会議には農業担当の温副首相も出席し、明ら
かに温氏への批判と分かる言い方だったという。温氏は一九九八年に副首相に
就任し、農業問題を専門に担当してきた。だが、沿海部に比べて内陸の農村改
革は立ち遅れ、貧富の差拡大による農民の不満が高まっていることから、温氏
への批判が出始めたものとみられる。温副首相は当初、五月の訪日を検討して
いたが、最近になって「秋の党大会前の訪日はなくなった」(中国筋)とい
う。同外交筋は「現在、温氏の置かれた立場と関係がある」とし、温氏が政治
的に微妙な立場に立たされたことを示唆した。中国筋によると、江主席は、党
大会後も自身が党や軍のトップとして留任する意向。もともと温氏の首相昇格
には反対で、朱鎔基首相の留任を求めている。温氏への批判が事実ならば、朱
首相続投の可能性が強まることになる。首相候補としてはこのほか、李嵐清、
呉邦国両副首相や李長春・広東省党委書記らの名前も取りざたされている。
第 3号 『 読 売 新 聞 』 浜 本 良 一 発
矢吹晋『逆耳順耳』
285
第4号『東京』【北京16日鈴木孝昌】中国共産党江総書記、朱首相が続投、
代交代は先送り
【北京16日鈴木孝昌】中国共産党が五年ぶりに行う指導部交代人事を協議し
ていた「北戴河会議」が十六日までにほぼ終了し、江沢民国家主席が党のトッ
プ(共産党総書記)と軍のトップ(軍事委員会主席)を続投する見通しとなっ
た。信頼できる複数の中国筋と西側外交筋が同日、本紙に明らかにした。江主
席は引退を希望した朱鎔基首相にも留任を強く要請、朱首相も基本的に受け入
れた。七十六歳の江氏、七十三歳の朱氏が留任することで、共産党の世代交代
は先送りされることになる。今回の人事では、党、軍、国家の三権を握る江沢
民氏が権力を移譲し、十三年ぶりのトップ交代が実現するかどうかが焦点。江
氏が党総書記にとどまることで、最高権力者の地位を維持する。ただ、江氏と
朱氏は五年の任期を満了せず途中交代する可能性が高い。複数の有力筋の一致
した情報によると、ポスト江沢民の最有力候補とされた胡錦濤国家副主席は、
象徴的ポストである国家主席(国家元首)だけを譲り受ける。また、次期首相
候補とされる温家宝副首相は、第一(常務)副首相にとどまる。江氏、朱氏の
留任意向を受けて、党内ナンバー2の李鵬・全国人民代表大会(国会に相当)
常務委員長も留任に向けた動きを活発化している。李氏の処遇は結論が出てお
らず、調整が続いている。江主席の側近、曽慶紅・党中央組織部長の政治局常
務委員(最高指導部)入りは難しい情勢だ。江主席は今年初めから朱鎔基首相
を巻き込んでの続投姿勢を強め、「政権移行期の安定確保」と「次世代指導者
が成熟していない」ことを理由に、留任に向けた世論形成を進めていた。北戴
河会議は、七月末から共産党上層部が河北省の同地で開催。人事の骨格を固め
たが、最終的な結論は持ち越した。今秋に開かれる第十六回共産党大会後の党
中央委員会全体会議で正式決定される。党大会の日程は未定だが、十-十一月
の開催が有力だ。
第 五 号 、 東 京 新 聞 8月 22日 2面 ト ッ プ
矢吹晋『逆耳順耳』
286
矢吹晋『逆耳順耳』
287
蒼 蒼 2 0 0 3 . 1 0 . 1 0 第 11 3 号
中 国 ・北 朝 鮮 関 係 の 真 実
『 読 売 新 聞 』 二 〇 〇 三 年 九 月 二 七 日 付 朝 刊 に 「中 国 、 北 と 新 関 係 を 目 指 す 」と い う 竹 腰 雅
彦特派員電が掲げられた。曰く、中国共産党対外連絡部の蔡武副部長は九月二五日、北京
で 行 っ た 記 者 会 見 で 、 北 朝 鮮 の 朝 鮮 労 働 党 と の 関 係 に つ い て 、 「改 革 開 放 政 策 の 実 施 以 来 、
一 種 の 新 型 の 政 党 関 係 に 全 力 を 挙 げ て い る 」と 語 り 、 「血 盟 」「兄 弟 」「同 志 」の 関 係 な ど と 評
される旧来の中朝関係からの脱却を目指す考えを強調した。党の対外関係を所管し、対北
朝鮮外交を実質的に仕切ってきた幹部が、北朝鮮との関係の見直しを示唆する発言を公の
場 で 行 う の は 異 例 だ 」。
「改 革 開 放 政 策 の 実 施 以 来 、 一 種 の 新 型 の 政 党 関 係 」と い う 表 現 に は 、 大 き な 疑 問 あ る い
は作為が感じられる。
「 改 革 開 放 以 来 」と い う の は 、二 〇 数 年 来 と い う こ と に な り 、こ れ で
はこの間の経緯がまるで分からない。
こ こ で 二 つ の 契 機 を 改 め て 指 摘 し て お き た い 。一 つ は 、一 九 八 二 ~ 八 三 年 の 事 件 で あ る 。
一九八二年九月一六日から二五日まで鄧小平は金日成を四川省に招いた。一〇日間の金日
成 訪 中 は 、 「 国 事 訪 問 S t a t e Vi s i t 」 で あ っ た が 、 こ の 間 鄧 小 平 が ほ と ん ど フ ル ア テ ン ド し た
ことで大きな話題になった。鄧小平は金日成を郷里の四川省に招いた。といっても鄧小平
は生涯一度も故郷に錦を飾ることをしなかった男だから、この場合も生地の牌坊村には行
か な か っ た 。 国 防 三 川 建 設 の 惨 憺 た る 「成 果 」を 紹 介 し た の だ 。 毛 沢 東 時 代 の 負 の 遺 産 を 見
せることによって鎖国政策の後遺症を説き、深圳経済特区の意義を説明しようとした。こ
れに対して、金日成は私は老いたので、金正日に委ねる。彼に深圳を訪問するよう指示す
る と 答 え た と 伝 え ら れ る 。 一 九 八 三 年 六 月 、 鄧 小 平 の 勧 め で 金 正 日 が 「非 正 式 访 问 」の 形 で
二日~一二日訪中し、深圳経済特区を訪問した。帰国した金正日は、なんと「中国は米帝
国主義に屈伏し修正主義に堕落した。中国からもはや学ぶべきものなし」と冷笑した由で
ある。このような深圳訪問記はまもなく鄧小平の耳にも届いた。善意の忠告を無視されて
鄧 氏 は 激 怒 し た 。 金 日 成 は 翌 八 四 年 一 一 月 二 六 ~ 二 八 日 、 「非 正 式 訪 問 」の 形 で 訪 中 し 、 息
子の不祥事を鄧小平に詫びた。
「 友 情 あ ふ れ る 説 得 」さ え 、ア ダ で 返 す 北 朝 鮮 に ア イ ソ を つ か し た 鄧 小 平 の 選 ん だ 道 は 、
韓国との国交正常化であった。手始めは「スポーツ外交」であり、ソウルオリンピックへ
の参加であった。当時中ソはまだ関係修復にはいたっていなかったが(ゴルバチョフ訪中
は 八 九 年 五 月 )、 モ ス ク ワ も オ リ ン ピ ッ ク 参 加 の 点 で は 、 中 国 と 同 じ 歩 調 を と っ た 。
大韓航空機爆破事件の目的は、北京とモスクワに対するまことに乱暴な警告であった。
「韓 国 は 治 安 の 不 安 定 な 国 だ か ら 、 オ リ ン ピ ッ ク 参 加 は や め た ほ う が よ い 」と い う 警 告 な の
だ。乱暴きわまる暴挙だが、前後の脈絡から見て間違いない事実だ。中国も旧ソ連も金正
日のこのテロ作戦を見破っていたから、オリンピックには堂々と参加した。私はソウルオ
リンピックの前後にたまたまラッキーゴールドスター社およびサムソン社から相次いで講
演旅行を依頼され、訪韓したので、この間の事情に詳しいのである。
その後、韓国の金大中前大統領による太陽政策のもとで南北対話が始まり、北朝鮮も昨
矢吹晋『逆耳順耳』
288
年遅ればせながら、脱鎖国・改革開放に転じる気配をみせた。中国国境の新義州に開発区
構想を打ち出し、中国人楊斌を長官に指名した。しかし、中国当局はこの男を脱税容疑で
逮捕してしまう。これはいやがらせの域をはるかに超える。要するに中国から見た場合、
やっかいな隣国の姿はこう映るであろう。蔓延する飢餓に有効な対策がなく政権維持に
汲々する金正日政権は、人民公社が失敗して約二〇〇〇万人が餓死した「毛沢東の中国」
のイメージと重なるのだ。
「 主 体 思 想 」に 依 拠 し て 夜 郎 自 大 を き め こ む「 社 会 主 義 の 看 板 を
掲 げ た 封 建 的 独 裁 統 治 」 ----中 国 人 は よ う や く 覚 め た 悪 夢 に 引 き 戻 さ れ る 気 分 に 陥 る 。
これが両国関係の実相であるとすれは、中国・北朝鮮関係の分岐点は一九八二~八三年と
考えなければならない。さらに九二年九月の中韓国交樹立がもう一つのメルクマールであ
る。金日成が一九九一年一〇月四日~一三日「正式友好访问」を行って以来、およそ八年間にわたっ
て要人の往来は断絶した。金永南が「正式友好訪問」を行ったのは、一九九九年六月三日~七日のこ
と だ 。 こ れ ら 一 連 の 事 実 を 見 落 と し て 、 「血 盟 」「兄 弟 」「同 志 」の 関 係 な ど と 評 し て き た の が 日 本
のマスコミである。このような新聞を読まされて一億総白痴になっているのが日本の現実
で あ る 。こ こ で 二 つ の 資 料 を 付 し て お き た い 。一 つ は 、
「要人往来にみる中朝関係」
(『 チ ャ
イ ニ ー ズ ・ド ラ ゴ ン 』 2003 年 9 月 23 日 ) で あ る ----。
八月二七~二九日、朝鮮半島の非核化をめぐる六カ国協議が開かれた。中国語ではこれ
を「六方会議」と略称する。北京釣魚台には、わざわざ六角形の会議テーブルをしつらえ
て、平等な立場で議論ができるように配慮するなど、ホスト役(東道主)の用意周到な気
配りが目だった。中国の国際協調主義を示すものとして、経済協力における「アセアン+
日 中 韓 ( い わ ゆ る 1 0 + 3 )」 へ の 姿 勢 は 、 そ の 嚆 矢 と み て よ い が 、 今 回 は 北 東 ア ジ ア の 安
全 保 障 を め ぐ る 問 題 で 、よ り ス ケ ー ル の 大 き い 枠 組 み 作 り に 一 歩 を 踏 み 出 し た わ け で あ る 。
朝 鮮 半 島 の 非 核 化 を め ぐ る 「和 平 プ ロ セ ス 」は 第 一 歩 を 踏 み 出 し た ば か り で あ り 、 曲 折 に 満
ちた長い歩みが予想される。しかし、和平プロセス以外には道がないとすれば、やはり辛
抱強く、説得をくりかえし、この過程で新たな緊張を作らない方針で、事を進めるほかあ
るまい。ところで今回の一連の報道を通じて、中国と北朝鮮の間の不協和音が目だった。
中国と北朝鮮の関係はいったいどうなっているのか。良いのか、悪いのか。どういう関係
な の か 、と い っ た 問 い 合 わ せ が 相 次 い だ 。確 か に 「 朝 鮮 戦 争 を 戦 っ て 以 来 の 血 で 結 ば れ た 戦
闘 的 友 誼 」と い っ た マ ス コ ミ の キ ャ ッ チ コ ピ ー に 惑 わ さ れ て い る 人 々 に は 、 理 解 に 苦 し む
出来事が再三再四であったと思われる。結論からいえば、中朝関係を半世紀前の朝鮮戦争
から語るのは出発点としてまったくの間違いである。では正しい出発点はどこか。一九九
二年八月二四日の中国と韓国の国交を起点としなければならない。この日を重要なメルク
マ ー ル と し て 、以 後 約 一 〇 年 間 に 、韓 国 の 要 人 は 一 九 名 が 訪 中 し て い る 。「 礼 は 往 来 を 尊 ぶ 」
のが古来の約束事である。中国からは一三名の要人がこれに応えて韓国を訪問している。
では中韓国交以後の時期における中朝関係はどうか。北朝鮮から中国を訪問した要人はわ
ずか六名にすぎない。韓国の一九名の三分の一である。では中国から北朝鮮を訪問したの
は何人か。わずか七名である。中国から韓国を訪問した要人一三名の約半分にすぎない。
往来した要人数を合計すると、中国韓国間のそれは三二名、中国北朝鮮間のそれは一三名
矢吹晋『逆耳順耳』
289
である。こうして中国からみて朝鮮半島の南北は、韓国七割、北朝鮮三割のつきあいにな
る。つまり五分五分どころか、七対三のつきあいなのだ。このような硬い事実の意味をか
みしめなければならない。では三者の経済協力関係、特に貿易関係はどうか。昨二〇〇二
年の場合、中国の北朝鮮への輸出は四・六八億ドル、中国の北朝鮮からの輸入は二・七一
億ドル、往復で七・三九億ドルであった。他方、同じ年の中国の韓国への輸出は一五四・
九七億ドル、中国の韓国からの輸入は二八五・七四億ドル、往復で四四〇・七一億ドルで
あった。この比率は一対六〇である。要人の往来が政治関係のよしあしを端的に表現する
ものである事実を直視し、それを重要な判断資料としなければならない。中国と朝鮮半島
の貿易関係の数字自体は、ときどきマスコミに現れるが、それのもつ政治的含意に言及さ
れることは少ない。つまり、政治と経済の両国の現実を実事求是の態度で的確に把握し、
そのうえで初めて安全保障問題を論ずることが可能になるわけだ。中朝関係の真実の一端
を 教 え て く れ た だ け で も 、「 六 方 会 議 」 の 意 義 は 大 き か っ た 。
もう一つの資料は、中国と北朝鮮、中国と韓国の要人往来のリストである。いずれも中
国外交部が公表したものであり、信頼に足る資料である。
中国一北朝鮮要人往来一覧
1 北朝鮮要人の訪中
金日成
首 相
正式訪問
1 9 5 3 11 1 0 - 11 2 7
金日成
首 相
友好訪問
1954 9 28- 10 5
首 相
友好訪問
1 9 5 8 11 2 1 - 11 2 8
金日成
首 相
友好訪問
1959 9 25- 10 3
金日成
首 相
友好訪問
1961 7 10-7 15
崔庸健
委員長
正式訪問
1969 9 30- 10 3
許 錟
外 長
正式訪問
1973 2 9- 2 14
金日成
主 席
友好訪問
1975 4 18- 4 26
李鐘玉
総 理
正式訪問
1981 1 10- 1 14
金日成
主 席
国事訪問
1982 9 16- 9 25
金正日
書 記
非正式訪問
1983 6 2- 6 12
金永南
副総理兼外長
正式訪問
1984 2 7- 2 14
姜成山
総 理
正式訪問
1984 8 5- 8 10
金日成
主 席
非正式訪問
1 9 8 4 11 2 6 - 11 2 8
金日成
主 席
正式友好訪問
1987 5 21- 5 25
李根模
総 理
正式友好訪問
1 9 8 7 11 9 - 11 1 4
金永南
副給理兼外長
正式訪問
1 9 8 8 11 3 - 11 7
金日成
総書記
非正式訪問
1 9 8 9 11 5 - 11 7
延亨黙
総 理
正式訪問
1 9 9 0 11 2 3 - 11 2 8
金日成
主 席
正式友好訪問
1991 10 4- 10 13
金日成
[ 92 08 24国 交 正 常 化 ]
矢吹晋『逆耳順耳』
290
1 金永南
委員長
正式友好訪問
1999 6 3- 6 7
2 白南舜
外務相
正式友好訪問
2000 3 18- 3 22
3 金正日
総書記
非正式訪問
2000 5 29- 5 31
4 金正日
総書記
非正式訪問
2001 1 15- 1 20
5 金潤赫
最 高 人 民 会 議
友好訪問
2001 7 10- 7 14
国家代表団
2002 10 15- 19
秘書長
6 楊亨燮
最 高 人 民 会 議
常 任 委 会 副 委
員長
2 中国要人の訪朝
周恩来
総理
友好訪問
1958 2 14- 2 21
劉少奇
主席
友好訪問
1963 9 15- 9 27
周恩来
総理
正式友好訪問
1970 4 5- 4 7
姫鵬飛
外長
友好訪問
1972 12 22- 12 25
華国鋒
党主席、総理
正式友好訪問
1978 5 5- 5 10
鄧小平
党副主席、副
友好訪問
1978 9 8- 9 13
総理
趙紫陽
総理
正式訪問
1981 12 20- 12 24
胡耀邦
党主席
非正式訪問
原 資 料 :na
鄧小平
党副主席
正式訪問
1982426- 430
呉学謙
外長
正式友好訪問
1983 5 20- 5 25
胡耀邦
総書記
非正式訪問
1984 5 4- 5 11
胡耀邦
総書記
友好訪問
1985 5 4- 5 6
李先念
主席
友好訪問
1986 10 3- 10 6
楊尚昆
主席
友好訪問
1988 9 7- 9 11
趙紫陽
総書記
正式友好訪問
1989 4 24- 4 29
江沢民
総書記
正式友好訪問
1990 3 14- 3 16
李 鵬
総理
正式友好訪問
1991 5 3- 5 6
銭其琛
国務委員兼外
正式友好訪問
1991 6 17- 6 20
長
楊尚昆
主席
正式友好訪問
1992.4.12- 4.17
1胡 錦 涛
政治局常委、
中 国 党 政 代 表
1993 7 26—7 29
書記処書記
団
国務委員兼国
中 国 党 政 代 表
務院秘書長
団
外 長
友好訪問
2羅 幹
3唐 家 擁
矢吹晋『逆耳順耳』
1996 7 10- 7 13
1999 10 5- 10 9
291
4遅 浩 田
軍委副主席、
中 国 高 級 軍 事
国務委員国防
代表団
2000 10 22- 10 26
部長
5姜 春 雲
2001 7 9- 7 13
全国人大副委
中 国 友 好 代 表
員長
団
6江 沢 民
主 席
正式友好訪問
2001 9 3- 9 5
7買 慶 林
中 央 政 治 局
中共党代表回
2002 5 6—5 10
委、 北京市委
書記
中国一韓国要人往来一覧
1 韓国要人の訪中
1李 相 玉
外務部長官
工作訪問
1992 8 24
2慮 泰 愚
総 統
正式訪問
1992 9 27- 9 30
3韓 升 洲
外務部長官
正式訪問
1993 10 27- 10 31
4李 万 燮
議 長
正式訪問
1994 1 6- 1 12
5金 泳 三
総 統
正式訪問
1994 3 26- 3 20
6韓 升 洲
外務部長官
正式訪問
1994 6 8- 6 9
7李 洪 九
総理
正式訪問
1995 5 9- 5 15
8黄 珞 周
議長
正式訪問
1995 12 20- 12 26
9孔 魯 明
外務部長官
正式訪問
1996 3 20- 3 24
10金 守 漢
議 長
正式訪問
1997 1 28- 2 1
11柳 宗 夏
外務部長官
正式訪問
1997 5 18- 5 20
12朴 定 洙
外交部長官
正式訪問
1998 7 11- 7 14
13金 大 中
総 統
工作訪問
19981 1 11- 11 15
14李 廷 彬
外交部長官
正式訪問
2000 4 27- 4 29
15李 漢 東
給 理
正式訪問
2001 6 19- 6 22
16李 万 燮
議 長
工作訪問
2002 1 9- 1 11
17崔 成 泓
外交部長官
正式訪問
2002 3 28-3 29
18李 海 瓉
当選総統特使
工作訪問
2003 2 10-2 12
19尹 永 寛
外交部長官
正式訪問
2003 4 10- 4 12
正式訪問
1993 5 26- 5 29
2. 中 国 要 人 の 訪 韓
1銭 其 琛
副総理兼外交
部長
2李 嵐 清
副総理
友好訪問
1993 9 27- 10 3
3李 鵬
総 理
正式訪問
1994 10 31- 11 4
4喬 石
全国人大委員
正式訪問
1995 4 17- 4 22
長
矢吹晋『逆耳順耳』
292
5江 沢 民
国家主府
国事訪問
1995 11 13- 11 17
6尉 健 行
全国総工会主
友好訪問
1996 4
席
7胡 錦 涛
国家副主席
正式訪問
1998 4 26- 4 30
8李 瑞 環
全国政協主席
正式訪問
1999 5 9- 5 15
9唐 家 璇
外交部長
正式訪問
1999 12 10- 12 12
10朱 鎔 基
総 理
正式訪問
2000 10 17- 10 22
11李 鵬
委員長
正式訪問
2001 5 23- 5 27
12唐 家 璇
外 長
正式訪問
2002 8 2- 8 3
13銭 其 琛
副総理、中国
友好訪問
2003 2 24- 2 26
政府特使
資料:中国外交部公表資料
矢吹晋『逆耳順耳』
293
逆 耳 順 耳 、 蒼 蒼 2 0 0 3 . 1 2 . 1 0 第 11 4 号
二本のドキュメンタリー秀作を推す
たまたま旧知となった二人の青年監督夫妻から試写会の案内をもらったので、いそいそ
と 出 か け て 二 回 と も 大 満 足 で あ っ た 。 二 人 の 監 督 夫 婦 と の 出 会 い は 、 い ず れ も NHK の 番
組 に 協 力 し た 際 に 、そ の 取 材 過 程 で 知 り 合 っ た 若 者 た ち で あ る 。一 方 は 池 谷 薫 監 督 夫 妻 で 、
彼 ら は 中 国 人 で も 描 け な い よ う な テ ー マ に 挑 み 、現 代 中 国 社 会 の 断 面 を 抉 り と っ て み せ た 。
もう一方は李纓監督夫妻である。彼らはいま日本で仕事をしているが、やはり日本と中
国 と の 関 わ り を 実 に 深 い と こ ろ で 描 き き っ て い る 。 池 谷 夫 妻 の ド キ ュ メ ン タ リ ー 映 画 「延
安 の 娘 」 は い ま 都 内 で 一 般 公 開 さ れ て お り 、 李 纓 監 督 夫 妻 の ド キ ュ メ ン タ リ ー 「 味 Dream
Cuisine」は 新 春 に 一 般 公 開 さ れ る 。 そ れ ぞ れ の 試 写 を 見 た 直 後 に 書 い た メ モ を 『 チ ャ イ ニ
ー ズ ・ド ラ ゴ ン 』 の 旧 稿 か ら コ ピ ー し て お き た い 。
「 延 安 の 娘 」 ( 池 谷 薫 監 督 ) を 試 写 会 で 見 た 。 実 に 不 思 議 な 映 画 だ 。「 紅 衛 兵 の 見 た 文 革 」 や
「子 供 の 目 で 見 た 文 革 」の 記 録 は 、 珍 し く な い 。 下 放 青 年 の 苦 悩 を 描 い た 「傷 痕 文 学 」は 、 一
時 期 大 流 行 し た 。 女 子 学 生 と 農 村 青 年 の 恋 物 語 も 映 画 に な っ た 。 し か し 「紅 衛 兵 の 私 生 児 」
の 親 探 し は 初 め て だ 。 い わ ば 「ポ ス ト 文 革 世 代 」か ら 見 た 文 革 の 記 録 だ 。 よ う や く 探 り 当 て
た実父は北京長辛店の夜警員で、月給は驚くほど安い。その厳しさは残留孤児の場合に酷
似する。帰国した孤児の親は、その後も生活が貧しく親を名乗れないケースも少なくなか
っ た 。 黄 土 高 原 の 描 写 は き め が 細 か く 、 陳 凱 歌 の 「黄 色 い 大 地 」を は る か に 超 え る 。 革 命 の
聖 地 で ひ そ か に 産 み 落 と さ れ た ヒ ロ イ ン 海 霞 が 嫁 い で 男 子 を 生 み 、 婚 家 へ の 「義 務 」を 果 た
したところから話が始まる。北京下町に住む実父にどうしても会いたい。しかし養父は許
さない。実父が延安まで挨拶に来るのが礼儀だと主張して譲らない。養母は実子が生まれ
た 後 は 幼 い 海 霞 の 面 倒 を み な く な り 放 置 し た 過 去 を も つ が 、こ の 時 と ば か り「 養 母 の 権 利 」
を主張するあさましい姿をカメラは切り取ってみせる。幾度かの話し合いの挙句、彼女は
養父母との絶縁さえ決意して北京に向かう。海霞の実母は自分よりも安月給の夫を捨てて
再 婚 し て い た 。そ の 後 実 父 も 再 婚 し 、陋 屋 で 細 々 と 暮 ら し て い る と こ ろ に 、海 霞 が 現 れ る 。
娘に再会したものの、父はただすまないと謝るばかり。実母は元紅衛兵仲間の友人による
たびたびの説得にもかかわらず、ついに娘に会おうとはしなかった。実父と会って出生の
秘密を確認した娘は、晴々した気持ちで夫や坊やの待つ延安に帰る。ここに下放青年同士
の恋愛事件がひとつからむ。その事件で労働改造の刑を受けた黄玉嶺は、結局北京に戻る
道 を 断 念 し て 延 安 で 暮 ら し な が ら 、海 霞 の 親 探 し を 助 け た 。こ の 脇 役 の た く ま ざ る 演 技 は 、
素人芝居とは到底思えない迫真のものだ。これはドキュメンタリーではなく、ドラマでは
ないのかといくども疑った。この中年男にとって海霞は堕胎させ闇に葬った自分の子の身
代わりなのだ。もうひとつの話がからむ。延安の妻子もちの農民王偉は、下放女子青年を
「強 姦 し た 」と い う 濡 れ 衣 で 離 婚 に お い や ら れ 、 す べ て を 失 う 。 こ の 処 分 を 決 定 し た 責 任 者
は、下放青年を管理する目的で北京から延安まで随行していた郭某である。実は黄の労働
改造処分を決めたのも郭であった。黄は郭を捜し当てて、王偉の濡れ衣事件を糾すが、責
任逃れに終始した。このドキュメンタリー映画には、むろんシナリオがあったわけではな
矢吹晋『逆耳順耳』
294
いと聞く。カメラはなにも説明せず、ひたすらヒロインを追う。そのカメラが一流の俳優
陣も及ばない名役者に変身していく無名の中国人たちの姿をとらえきったところがすごい。
文革の深い傷痕を隣国の若いドキュメンタリー監督が抉りだし、昇華させたことに拍手を
送 り た い 。こ の 感 動 は 、
「 大 地 の 子 」を は る か に 超 え る (『 チ ャ イ ニ ー ズ ・ ド ラ ゴ ン 』2 0 0 3 年
7 月 8 日)
ド キ ュ メ ン タ リ ー 『 味 Dream Cuisine』
李 纓 監 督 の ド キ ュ メ ン タ リ ー 『 味 Dream Cuisine』 を 見 た 。 ヒ ロ イ ン 佐 藤 孟 江 (は つ え ・
ル ビ ) は 一 九 二 五 年 に 日 本 人 移 民 の 子 と し て 山 東 省 済 南 に 生 ま れ 、一 九 四 八 年 に 引 き 上 げ る
まで二三年間を暮らした。物心のついたころ日中戦争が始まったが、その時代を横目でに
ら み な が ら 、 孟 江 は 「親 友 戴 さ ん 」と 露 天 で の 食 べ 歩 き に 熱 中 し 、 う ま い も の を 作 る 師 匠 に
弟 子 入 り し て し ま っ た 。 「女 子 は 厨 房 に 入 る べ か ら ず 」の タ ブ ー を 破 り 、 正 統 的 な 魯 菜 、 す
な わ ち 山 東 料 理 を 教 え て も ら う ま で 一 年 間 、 か ま ど の 火 焚 き を 修 練 し た 。 孟 江 は 「味 」に 魅
せられた。生業として料理を作る女性は星の数ほどあるが、うまいものが食べたいから作
る 女 は 必 ず し も 多 く は な い し 、ま し て そ の 味 を 守 る た め に 生 涯 を 賭 け る 話 に な る と 珍 し い 。
日 本 に 帰 国 し た 後 、 彼 女 は 六 歳 年 下 の 佐 藤 浩 六 と 結 婚 し 、 東 京 で 「済 南 賓 館 」を 開 き 、 夫 婦
合わせて一五〇歳になったいまも、衰えた体力をいといながら店を切り盛りしている。砂
糖やラード、化学調味料を一切使わず、素材本来の持ち味を活かす伝統的な料理法を墨守
す る 彼 女 の や り 方 は 、中 国 政 府 か ら 評 価 さ れ 「 特 級 厨 師 ・ 正 宗 魯 菜 伝 人 」 の 称 号 を 得 た 。実 は
ご 本 家 の 中 国 で は 、 砂 糖 も ラ ー ド も 化 学 調 味 料 も ふ ん だ ん に 使 う 「時 代 と と も に 進 む 」山 東
料理が全盛であり、伝統的料理法はすでに失われたのだ。こうして佐藤孟江の夢は、生ま
れ 故 郷 の 済 南 に 「正 宗 魯 菜 」を 里 帰 り さ せ る こ と だ 。 だ が 彼 女 の 中 国 側 パ ー ト ナ ー 劉 広 偉 夫
妻 の 思 惑 は 同 床 異 夢 だ 。 「正 宗 魯 菜 」の 看 板 は 欲 し い が 、 砂 糖 や 化 学 調 味 料 を や め る つ も り
は さ ら さ ら な い 。 砂 糖 を 使 わ な い 「正 宗 魯 菜 」か 、 砂 糖 使 用 を 認 め る 「現 代 魯 菜 」か 。 市 場 経
済化の道を急ぐ中国ではあっさり投げ捨てられた『斉民要術』以来の醇乎たる伝統を必至
に守る日本人老夫婦の物語は胸を打つ。佐藤孟江は日本人の子として生まれたが、魯菜と
ともに成長した。精神的にはほとんど中国人であり、済南で死ぬのが夢だ。だが夫佐藤浩
六 は 生 粋 の 江 戸 っ 子 で あ り 、済 南 に 行 く つ も り は な い 。脇 役 浩 六 の イ メ ー ジ が 素 晴 ら し い 。
名優もおよばないほどのきりりとしたマスクに、古きよき日本人職人のきっぷのよさが生
きている。つまらぬ客に対して断じて迎合せず、さっさと帰れと塩をまく料理人こそが真
に料理を愛する者の態度だ。これは演技ではなく、浩六の素顔である。浩六の息子にあた
る世代の中国人李纓監督がその男振りをとらえきっている。このドキュメントは、ある日
本人の生きかたのなかに中国で失われたものを発見する物語だが、それを発見した監督李
纓 と プ ロ デ ュ ー サ ー 張 怡 の 視 線 を 中 国 と 世 界 に 送 る 記 録 で も あ る 。 「親 友 戴 さ ん 」が 文 化 大
革命期に非業の死を遂げたのは、画面には描かれていないが日本人との交遊を追及された
可 能 性 が 強 い 。そ れ に 佐 藤 夫 婦 が 気 づ い て い な い ら し い の が 救 い で あ る 。周 璇 の 「 何 日 君 再
来 」 が 砂 糖 よ り も 甘 く 、 物 語 を 包 む ( 『 チ ャ イ ニ ー ズ ・ ド ラ ゴ ン 』 2 0 0 3 年 11 月 11 日 ) 。
矢吹晋『逆耳順耳』
295
中国保守派論客の無知蒙昧
「新思考」論文の反響がこだまして、こだまがこだまを呼んでいるようだ。口火を切っ
た馬立誠氏は『人民日報』を退社して、香港のフェニックステレビに転身したが、このテ
レ ビ 局 が 中 国 当 局 と 「親 密 な 関 係 」に あ る の は 衆 目 の 認 め る 事 実 だ 。
『 交 鋒 』を 書 い た 論 争 家
の 筆 法 に は 反 発 も 大 き く 功 罪 相 半 ば と い っ た 雰 囲 気 で あ る 。第 二 バ ッ タ ー の 時 殷 弘 教 授 ( 中
国 人 民 大 学 国 際 関 係 学 院 教 授 、 米 国 研 究 セ ン タ ー 主 任 ) も 日 本 問 題 専 門 家 で は な く 、「 ア メ
リカ研究センター主任」である。氏は米中関係の展望から「中日接近と外交革命」を論じ
て お り 、 馬 立 誠 へ の 反 発 ほ ど で は な い が 、 や は り 「日 中 問 題 の 素 人 に な に が 分 か る か 」と い
った反発が強い。
ここで登場したのが本命、日本研究者として著名な馮昭奎教授である。氏は一九四〇年
生まれであり、満六〇歳をもって中国社会科学院日本研究所副所長の地位からは定年で退
いたが、
『 世 界 知 識 』や『 世 界 経 済 与 政 治 』の 編 集 委 員 は 続 け て お り 、ま た 中 華 日 本 学 会 副
会 長 の ポ ス ト は そ の ま ま だ 。 氏 の 「 対 日 関 係 の 新 思 考 を 論 ず 」 (『 戦 略 与 管 理 』 2003 年 4
期 ) は 、新 思 考 の 流 れ を 昨 年 秋 の 党 大 会 か ら 論 じ て お り 、説 得 的 で あ る 。馮 昭 奎 は 日 本 問 題
の専門家だから、馬立誠や時殷弘のように、揚げ足をとられるようなスキだらけの書き方
は し な い 。慎 重 に 論 理 を 進 め る の で 彼 を 攻 撃 し よ う に も ス キ を 与 え な い の は さ す が で あ る 。
同 じ く 「新 思 考 」を 説 き な が ら 三 者 三 様 で あ り 、 モ ノ の 言 い 方 を 比 べ る と た い へ ん 勉 強 に な
る。
ところで、これらの新思考派論客に真っ向からかみついている頑迷派の論客に林治波な
る 人 物 が い る 。「対 日 関 係 新 思 惟 質 疑 、そ の 1」で 馬 立 誠 論 文 に か み つ き 、「対 日 関 係 新 思 惟
質 疑 、そ の 2」で 時 殷 弘 論 文 に か み つ い て い る 。こ れ は た い へ ん 威 勢 よ く 吠 え つ い た が 、相
当なデタラメ男のようだ。デタラメな中国論を大まじめでぶつ人物は、日本にも少なくな
いが、事情は中国も同じらしい。しかも、このイカレタ評論家が『人民日報』評論委員と
聞いて二度びっくり。この種の雑音を掃除しておかないと日中関係は混乱するばかりだと
感じて一言書いておく。
林 治 波 氏 の 時 代 錯 誤 (ア ナ ク ロ ニ ズ ム )
林治波氏の日本認識は、あまりにも時代遅れで、ほとんどアナクロニズムである。林治
波 氏 は 、い わ ゆ る「 新 思 考 」論 文 が も た ら し た 帰 結 と し て 、次 の よ う に 書 い て い る 。「日 本
の 左 翼 の 勢 力 と 中 日 友 好 を 主 張 す る 人 々 を い っ そ う 孤 立 無 援 に し た 」と 。 林 治 波 氏 の 想 定
し た 「左 翼 」あ る い は 「友 好 的 な 人 々 」は 、 以 下 の よ う な 人 々 で あ る 。
( 1 ) 東 史 郎 ( 南 京 事 件 の 「 証 言 」 者 ) 、 内 山 完 造 ( 故 人 、 内 山 書 店 社 主 )、 小 川 武 満 ( 平 和 遺 族 会
全 国 連 絡 会 代 表 、 元 軍 医 ) 、 本 多 勝 一 ( 元 朝 日 新 聞 記 者 ) 、 家 永 三 郎 ( 故 人 、 歴 史 家 )、 宇 都 宫
德 馬 ( 故 人 )、 尾 村 太 一 郎 ( 不 詳 )、 大 江 健 三 郎 ( ノ ー ベ ル 文 学 賞 ) 、 小 野 寺 利 孝 ( 中 国 人 戦 争
被 害 者 賠 償 請 求 訴 訟 弁 護 団 幹 事 長 ) 氏 な ど 。 こ れ ら 九 人 の 日 本 人 は 、「 い っ た い ど ん な 人 物
か」を日本の普通の中学生に聞いてみたら、どんな答えが返るだろうか。大江はノーベル
矢吹晋『逆耳順耳』
296
文 学 賞 受 賞 者 と し て 比 較 的 有 名 だ が 、他 の 八 人 は 、ほ と ん ど 誰 も 答 え ら れ な い と 思 わ れ る 。
私はこれらの人々の貢献を否定するつもりは毛頭ないが、過去において、あるいは現在も
それぞれに日中の交流活動に参加された方々は、もっともっと数多いはずである。それら
の中から何を基準として、これらの人物だけを例示したのであろうか。その選択眼に疑問
を 感 じ る の は 、 私 だ け で は あ る ま い 。 「井 戸 を 掘 っ た 人 々 」の 貢 献 を 忘 れ な い こ と は 、 大 事
なことだが、林治波氏のあまりにも偏った挙例は、氏の日本理解が著しくゆがんだもので
あることを示す一つの鏡になっているように思われる。
実は馬立誠氏の日本認識にも疑問を感じる箇所が少なくないが、林治波氏の文章を読む
と 、ま る で 「 化 石 と の 対 話 」 を 感 じ さ せ ら れ る 。二 一 世 紀 初 頭 の い ま 真 に 問 わ れ て い る の は 、
二〇世紀後半の友好運動を継承しつつ、二一世紀の日中交流関係をどのように構築するか
であろう。林治波氏はひたすら古い時代を懐かしむ回顧趣味に陥っているように見受けら
れ る 。こ れ で は 二 一 世 紀 に 求 め ら れ る 広 範 な 交 流 関 係 に ほ と ん ど 役 だ た な い の で は な い か 。
過 去 の 亡 霊 を と ら わ れ る の で は な く 、二 一 世 紀 の 未 来 と 向 き 合 う こ と が 必 要 で は な い の か 。
林 治 波 氏 が こ の よ う な 人 々 を 「孤 立 無 援 」に し た と い う 言 い 方 に 、 私 は 驚 愕 を 禁 じ 得 な い 。
氏の日本認識はあまりにも時代錯誤がはなはだしいのだ。
(2)林 治 波 氏 の 挙 げ た 組 織 は 中 帰 連 、 日 本 婦 連 、 総 評 、 炭 労 、 日 本 反 戦 運 動 な ど で あ る 。
中帰連(中国帰還者連絡会)は、同会のホームページによると、日中一五年戦争の間に、
「日本軍国主義の積極的な手先となって罪を犯し、敗戦後、中国の撫順戦犯管理所(九六
九名)と太原戦犯管理所(一四〇名)に戦犯として拘留され、その後中国人民に謝罪する
認 罪 運 動 に 参 加 し た 人 々 」 の 組 織 で あ る 。 彼 ら は 帰 国 後 、「 中 国 帰 還 者 連 絡 会 」 を 創 立 し 、
「認罪(過去の戦争の非を認めること)の立場に立ちながら、二度と日本に侵略戦争への
道を許さず、同時に日中友好、ひいては世界の平和に、いささかでも貢献することを願っ
て 活 動 し て き た 」由 で あ る 。日 中 戦 争 に お い て 戦 争 犯 罪 に 問 わ れ た 人 々 の 組 織 で あ る か ら 、
当然高齢化しており、日々メンバー数は減少しつつあるはずだ。日本婦連。これは対象が
不明なので、コメントは控えよう。
私 が 最 も 驚 い た の は 、 「昔 陸 軍 、 今 総 評 」と 評 さ れ た 「総 評 」の 名 を 列 挙 し た こ と だ 。 か つ
て 総 評 調 査 部 に 勤 め て い た 私 の 大 学 同 級 生 (山 田 陽 一 )が 書 い た 総 括 論 文 の 冒 頭 部 分 を 引 用
しよう。
「 総 評 。正 称 は 日 本 労 働 組 合 総 評 議 会 。加 盟 組 合 員 数 ,労 働 組 合 数 と も に 日 本 最 大 の 労 働
組 合 全 国 中 央 組 織 (ナ シ ョ ナ ル ・ セ ン タ ー ) で あ っ た が , 一 九 八 九 年 一 一 月 , 総 評 は
三 九 年 の 歴 史 を 閉 じ て 解 散 し た 。傘 下 の 組 合 の 大 部 分 は 連 合 ( 日 本 労 働 組 合 総 連 合 会 ) に 加
入 し た 」。
この記述から明らかなように、総評は一九八九年一一月に解散し、その大部分は現在の
「連 合 」に 移 っ て す で に 一 〇 余 年 に な る 。 一 〇 数 年 前 に 解 散 し た 労 組 を 「困 惑 さ せ た 」と は 、
一体どういうことであろうか。林治波氏の日本認識がいかに時代遅れかを端的に示す例と
いうべきであろう。氏は日本の労働運動の現実について恐ろしいほど無知なのだ。
も う 一 つ 。林 治 波 氏 は 「 炭 労 」 を 挙 げ て い る 。炭 労 の 正 式 名 称 は 日 本 炭 鉱 労 働 組 合 で あ る 。
矢吹晋『逆耳順耳』
297
一 九 五 〇 年 四 月 に 単 一 組 織 に 改 組 し 現 名 称 に 改 称 し た 。 「一 九 五 二 年 一 一 月 , 賃 金 闘 争 で
単産規模としては例のない六三日間にわたる長期ストを行い,労働運動界のリーダー的地
位 を 確 立 す る と と も に ,み ず か ら 結 成 に 力 を 尽 く し た 総 評 ( 初 代 議 長 に は 当 時 の 炭 労 委 員 長
が就任) の中核単産として一九五〇年代から六〇年代初頭にかけて,日本の労働運動の牽
引 車 的 役 割 を 果 た し た 」「し か し , エ ネ ル ギ ー 革 命 の も と で 展 開 さ れ た 三 池 争 議 の 終 結 と と
も に 逐 次 後 退 を 余 儀 な く さ れ , 現 在 に 至 っ て い る 」「国 際 的 に は 国 際 自 由 労 連 お よ び 国 際 鉱
山 労 連 に 加 盟 し て い る 。組 織 人 員 は 最 盛 時 の 一 九 五 〇 年 に 四 二 万 人 、九 六 年 六 月 現 在 一 四
〇 〇 人 で あ る 」 ---- こ れ は 一 九 九 六 年 六 月 現 在 の 記 述 で あ る 。 そ の 後 日 本 の 石 炭 産 業 は ど
うなったか。
二〇〇一年一一月二九日をもって九州最後の炭坑である池島炭坑が閉山した。こうして
国内唯一となった北海道の太平洋炭坑も、同年一二月七日に経営側から労働組合に対する
閉山提案がなされ、ついに日本国内からすべての炭坑が消えたのは三年前のことだ。実は
改めて指摘するまでもなく、炭坑労働者の労働運動が最も盛んであったのは一九六〇年の
三井三池争議当時であり、これ以後、日本のエネルギー需要は石炭から石油に大転換し、
労 働 運 動 の 牽 引 力 を 失 っ た 。 つ ま り い ま か ら 四 〇 年 以 上 前 に (こ れ は 私 の 学 生 時 代 の こ と
だ ) 、炭 労 は 労 働 運 動 の 花 形 の 地 位 を 下 り て い る 。産 業 構 造 の 転 換 と 対 応 し た エ ネ ル ギ ー 需
給構造の転換のなかで、石炭産業が淘汰され、炭労も消えたわけだ。林治波氏が炭労との
連帯を夢想しているかに見えるのは、私には到底理解できない事柄である。消えてしまっ
た組織といかなる連帯が可能なのか。
林治波氏には、どうやら三井三池争議以後の日本経済の発展、それ以後四〇年の日本現
代史、すなわち高度成長期の日本社会とその後の変貌はまるで視野に入らないかのごとく
で あ る 。 林 治 波 氏 が 「こ れ ら の 正 直 な 日 本 人 こ そ が 真 の 愛 国 者 で あ り 、 日 本 の 良 心 」だ と い
うとき、私はただただ林治波氏のような貧弱な知識しかもたずに、乱暴な議論を展開する
勇気に唖然とするばかりである。しかもこれが中国で権威を誇る『人民日報』の評論員で
あるという説明を聞いて、ますます驚愕せざるをえない。今年は毛沢東生誕一一〇周年で
あ り 、 毛 沢 東 語 録 が 脳 裏 に 浮 か ぶ - - - - 「 調 査 な く し て 発 言 権 な し 」 、「 虚 心 は 人 を 進 歩 さ せ 、
奢 り は 人 を 落 伍 さ せ る 」。
矢吹晋『逆耳順耳』
298
逆耳順耳(電子礫・蒼蒼第1号
2004.5.15)
腹に納める話
予 期 し て い な い 偶 然 は 、や は り 起 こ る も の ら し い 。四 七 年 前 に 私 は 福 島 県 立 安 積 高 校 を 卒 業
し 、そ の 際 に 答 辞 を 述 べ て 、在 席 の 校 長 先 生 を 弾 劾 す る 若 気 の 至 り の 演 説 を し た 。高 校 教 育 の
成 果 を 有 名 大 学 へ の 合 格 率 だ け で 評 価 す る の は 、教 育 の 本 質 に も と る の で は な い か と い う 青 二
才 の 感 想 を 述 べ た も の で あ っ た 。相 当 に 乱 暴 な 、礼 を 失 し た 卒 業 生 代 表 の こ と ば を 受 け て 、礼
儀 正 し く わ れ わ れ を 見 送 っ た 在 校 生 代 表 が 後 任 生 徒 会 長 佐 藤 栄 佐 久 で あ っ た (い ま は 福 島 県 知
事 を 務 め て い る 。 任 期 四 選 を 終 え て 五 戦 目 の 選 挙 が 近 い )。 私 自 身 は い い た い こ と だ け を 言 っ
て 、受 験 の た め に 東 京 に 出 て 、そ の 後 あ ま り 帰 省 し な か っ た の で 、不 規 則 発 言 が ど の よ う な 波
紋を呼んだかについては間接的に知るのみだ。
さ て そ の 講 壇 は い ま 安 積 歴 史 博 物 館 と し て 保 存 さ れ て お り 、そ こ に 再 度 立 っ て 、後 輩 や 市 民
諸 氏 を 前 に し て 、「 朝 河 貫 一 は な ぜ 辞 書 を 食 べ た か 」 を 語 る こ と に な っ た 。 勤 務 先 を 定 年 で 辞
め た 直 後 に 、古 巣 に 戻 っ て 母 校 の 講 壇 に 立 つ な ど と い う 偶 然 は 、そ う や た ら に あ る も の で は な
い 。当 時 、立 錐 の 余 地 も な い ほ ど 全 校 生 の 蝟 集 す る 講 壇 に 生 徒 会 長 と し て 立 つ 機 会 は 、い く ど
か あ っ た の で「 あ が っ て し ま い 、頭 の 中 が 白 く な る 」と い っ た こ と は な か っ た が 、今 回 の 実 感
は 、こ の 講 堂 は「 こ ん な に 小 さ か っ た の だ ろ う か 」と い う も の で あ っ た 。ち ょ う ど 小 学 校 を 訪
れ た 卒 業 生 が 机 や 椅 子 の 小 さ な こ と に 驚 く 姿 に 似 て い る 。机 や 椅 子 は 決 し て 小 さ な も の で は な
い の に 、そ の よ う な 印 象 を ぬ ぐ え な い の は 、な ぜ か 。
しばらく考えてようやく思いあたった
の だ が 、 あ た か も 無 声 映 画 の フ ラ ッ シ ュ バ ッ ク を 見 る よ う に 、 私 の 頭 の な か に 15 イ ン チ の 旧
型 シ ロ ク ロ テ レ ビ が は め 込 ま れ 、私 は そ の 画 面 を 通 し て 、現 実 の 姿 を み て い る の で あ っ た 。明
治 二 二 年 に 竣 工 、国 の 重 要 文 化 財 に 指 定 さ れ て い る 建 物 、風 雪 に 耐 え た 風 格 を 備 え る 。そ の 雰
囲 気 が も つ 迫 力 に や は り 呑 ま れ て い た の だ 。近 頃 の 豪 華 な ホ ー ル の 虚 飾 を 無 言 の う ち に 粉 砕 す
るような迫力を、寺院の濡れ縁にも似た、なかばすり減った厚い厚い木版が与えていた。
ふとかつてオックスフォード大学の僧坊にも似た薄暗い部屋をのぞいた体験を想起させる。
然 り 哲 学 を 考 え る に は こ の よ う な 雰 囲 気 が 必 須 だ と 実 感 し た こ と を 想 起 す る 。モ ダ ン か つ 快 適
な環境からは軽薄な哲学しか生まれないのは、当然であることを改めて確認した。
さ て 、 そ の 昔 、 朝 河 貫 一 が 辞 書 を 食 べ た 話 を 繰 り 返 す 。「 彼 は 英 和 辞 書 を 毎 日 二 頁 ず つ 暗 記
し た 。 そ し て 暗 誦 し た も の は 、 一 枚 ず つ 食 べ る か 破 り 捨 て て い き 、あ る 日 、つ い に カ バ ー だ
け に な っ た の で 、 そ れ を 校 庭 の 西 隈 の 若 桜 の 根 元 に 埋 め た の で あ っ た 。貫 一 は 皆 に ” 辞 書 喰 い ”
というあだ名を奉られてしまった。このことは、 朝河自身ダートマス大学時代の級友たちに
も 、問 わ れ る ま ま に 語 っ た こ と が あ る ら し い 。母 校 の 中 学 校 で は 、 そ の 桜 の 木 を ” 朝 河 ざ く ら ”
と よ ぶ よ う に な っ た 。ち な み に 彼 よ り 十 八 年 お く れ て こ の 中 学 校 を 卒 業 し た 久 米 正 雄 は 、覚 え
こ み も し な い 辞 書 の 各 頁 を 食 べ て し ま い 、そ の カ バ ー を 先 輩 の ま ね を し て 埋 め た と い う が 、 久
米 の 茶 目 気 が 遺 憾 な く 発 揮 さ れ た 話 と し て お も し ろ い 」 (阿 部 善 雄 『 最 後 の 日 本 人 ――朝 河 貫
一 の 生 涯 』 八 ~ 九 頁 )。
以 下 は 私 の ス ピ ー チ 調 で 書 く ----私 は こ の エ ピ ソ ー ド を 高 校 時 代 に 聞 い て 、 な ぜ そ ん な こ と
を し た の か 不 可 解 で し た 。辞 書 の 例 文 を 覚 え る の は 正 し い 学 習 法 だ と 理 解 し て い ま し た が 、単
矢吹晋『逆耳順耳』
299
語を覚えるなどは愚劣なまちがった方法だと考えており、いわんやそれを食べてしまうとは、
い っ た い 何 の お ま じ な い な の か 、と 不 思 議 で し た 。だ い ぶ 後 で 、次 の よ う な エ ッ セ イ に 遭 遇 し
て目からウロコが落ちたのです。
「 成 斎〔 西 依 成 斎 〕は そ の 節 用 集〔 現 在 の 小 百 科 全 書 み た い な も の 〕を 抱 へ 込 ん で 、狗 児 の
やうに鎮守の社殿の下に潜り込んだ。そして節用集を読み覚えると、 その覚えた個所だけは
紙 を 引 拗 っ て 食 べ た 。書 物 を 読 み 覚 え る 頃 に は 、腹 も か な り 空 い て ゐ る の で 、節 用 集 は そ の 侭
飯 の 代 り に も な っ た 訳 だ 。で 、 十 日 も 経 た ぬ 間 に 、 と う と 大 部 な 節 用 集 一 冊 を 食 べ て し ま っ
た と い ふ 事 だ 」 ( 薄 田 泣 董 『 完 本 茶 話 』、 冨 山 房 文 庫 、 上 一 三 六 頁 ) 。
こ れ は 明 治 の 詩 人 薄 田 泣 董 の 随 筆 の 一 節 で す 。西 依 成 斎 と は 、ど ん な 人 物 で し ょ う か 。イ ン
タ ー ネ ッ ト で こ の 人 物 を 調 べ る と 、「 小 浜 藩 の 儒 者 成 斎 」 の こ と は 容 易 に 調 べ ら れ ま す 。
▼ 元 禄 一 五 年 ( 一 七 〇 二 ) 閏 八 月 一 二 日 ~ 寛 政 九 年 ( 一 七 九 七 ) 閏 七 月 四 日 。享 年 九 六 歳 。名 正 固 、
後 に 周 行 。 通 称 、 門 平 、 後 に 儀 平 、 儀 兵 (平 )衛 。 肥 後 国 (熊 本 県 )玉 名 郡 に 生 ま れ 、 前 原 丈 軒 、
京 都 で 若 林 強 斎 に 学 ぶ 。 寛 保 二 年 、 京 都 の 小 野 鶴 山 (強 斎 女 婿 ) の 弟 子 と な り 、 鶴 山 が 若 狭 小
浜 藩 に 招 か れ た 後 は 、強 斎 の 家 塾「 望 楠 軒 書 院 」の 講 主 を 務 め た 。ま た 、二 条 宗 基 の 知 遇 を 得
て 、二 条 家 の 学 舎 の 創 建 に 関 わ っ た 。弟 子 に 古 賀 精 理 が い る 。隠 岐 国 造 ・ 幸 生 も 門 人 で 、そ の
関 係 で 駅 鈴 調 査 を 依 頼 さ れ た 。谷 川 士 清 と も 交 友 が あ り『 日 本 書 紀 通 証 』の 序 を 書 く が 不 採 用
と な っ た(「 士 清 を め ぐ る 人 々 」北 岡 四 良 )。宣 長 門 人・千 家 俊 信 も 最 初 は 成 斎 の 門 人 で あ っ た 。
ま た 、寛 政 一 二 年 (一 八 〇 〇 )六 月 に 来 訪 し た 興 田 吉 従 も 最 初 は 成 斎 の 門 人 で あ っ た 。享 和 元 年
に宣長門にはいるが、その間の事情について、宣長はこう書いている。
「 西 依 儀 兵 衛 高 弟 奥 ( 興 ) 田 十 左 衛 門 吉 従 ト 云 ハ 、若 狭 ノ 儒 者 ニ テ 当 時 西 依 ガ 京 ノ 宅 ニ ア リ テ 、
カ ノ 学 ヲ 伝 フ 、コ レ モ 垂 加 流 ナ リ シ ガ 、後 尺 ヲ 見 テ ソ ノ 非 ヲ サ ト リ 当 時 モ ツ ハ ラ 古 学 ニ ナ レ ル
由 也 」 (『 文 通 諸 子 居 住 所 并 転 達 所 姓 名 所 書 』 宣 長 全 集 第 二 〇 巻 三 三 六 ペ ー ジ )。
小 浜 藩 に 藩 校 が で き た の は 、安 永 三 年 ( 一 七 七 四 ) 藩 主 が 第 九 代 酒 井 忠 貫 侯 の 時 で し た 。当 時 、
崎 門 学 (山 崎 闇 斎 の 学 派 )の 拠 点 で あ っ た 京 都 の 望 楠 軒 の 、 第 四 代 講 主 の 西 依 墨 山 を 、 初 代 教
授 と し て 迎 え た の が 藩 校 順 造 館 の 始 ま り 。成 斎 は 、そ の 墨 山 の 父 で 、忠 貫 侯 か ら も 師 と し て 仰
がれ尊敬を受けていた。
▼小 浜 藩 に 藩 校 が で き た の は 、 安 永 三 年 (一 七 七 四 )藩 主 が 第 九 代 酒 井 忠 貫 侯 の 時 。 当 時 、 崎 門
学 ( 山 崎 闇 斎 の 学 派 ) の 拠 点 で あ っ た 京 都 の 望 楠 軒 の 第 四 代 講 主 の 西 依 墨 山 を 、初 代 教 授 と し て
迎 え た の が 藩 校 順 造 館 の 始 ま り 。成 斎 は 、そ の 墨 山 の 父 で 、忠 貫 侯 か ら も 師 と し て 仰 が れ 尊 敬
を 受 け て い た -----。
こ の 儒 者 は 、以 上 の 紹 介 か ら 分 か る よ う に 、肥 後 に 生 ま れ 、京 都 で 学 び 、一 時 は 本 居 宣 長 の
師匠格であり、その後長らく小浜藩の主任教授というわけですね。一七〇二年生まれなので、
一八七三年生まれの朝河貫一よりも一七一歳年上です。
こ れ は 日 本 の 昔 話 で す が 、韓 国 で は 最 近 で も 辞 書 を 食 べ る 習 慣 が あ る よ う で す 。い ま「 冬 の
ソ ナ タ 」と い う 韓 国 ド ラ マ が 話 題 に な っ て い ま す 。私 は こ れ を 見 て い な い の で す が 、少 し 前 に
公 開 さ れ た 韓 国 映 画 JSA (Joint Security Area)の ヒ ト コ マ に 息 を 飲 ん だ こ と が あ り ま す 。 韓
国 は 徴 兵 制 で す が 、こ の 映 画 に は 除 隊 ま で の 日 数 を 指 折 り 数 え な が ら 、除 隊 後 の 生 活 設 計 を 計
矢吹晋『逆耳順耳』
300
画 し て 必 死 に 英 語 を 学 ぶ 若 者 が 描 か れ て い ま す 。彼 は 英 語 の ス ペ ル を 繰 り 返 し 紙 に 書 き な が ら
辞 書 を 記 憶 す る 。私 が あ っ と 息 を 飲 ん だ の は 次 の シ ー ン で す 。こ の 若 者 は 一 息 つ く と 、辞 書 の
ページをひきちぎり薄いインディアン紙をまるめて口の中にいれてしまったのです。
ス パ イ 映 画 で 暗 号 メ モ を 呑 み 込 ん で 証 拠 隠 滅 を 図 る シ ー ン は と き お り み か け ま す が 、 JSA
の 若 者 の 場 合 は 、証 拠 隠 滅 の 必 要 は あ り ま せ ん ね 。で は な ぜ 呑 み 込 ん だ の で し ょ う 。私 は と っ
さ に こ の 若 者 の 顔 が 朝 河 貫 一 の 顔 と 二 重 映 し に な り ま し た 。彼 は 英 語 を 覚 え 込 ん だ あ と 、忘 れ
ないように呑み込んだのではないか。
「 腹 に 納 め る 」 例 を も う 一 つ あ げ ま す 。 三 二 年 前 の こ と で す が 、『 毎 日 新 聞 』( 一 九 七 二 年 九
月二六日付夕刊)が田中角栄首相とともに訪中した大平正芳外相についてこう書いています。
「 北 京 の 迎 賓 館 で 一 夜 を 過 ご し た 田 中 首 相 は 、歴 史 的 な 第 一 回 の 日 中 首 脳 会 談 が ト ン ト ン 拍
子に進んでいるためか、すこぶるごきげん。朝七時に目が覚めた田中首相のこの朝の食事は、
ご 持 参 の ノ リ 、つ け も の 、梅 ぼ し な ど も 並 び 、和 中 折 衷 の 献 立 て 。首 相 も 外 相 も せ っ せ と た い
ら げ 、 二 階 堂 官 房 長 官 に い わ せ る と ”き の う 夜 の 夕 食 会 で も ず い ぶ ん 食 べ た り 、 飲 ん だ り し た
が 今 朝 も ま た ・・・・ 。二 人 と も 、と に か く 元 気 す ぎ る く ら い だ ”と い う 。外 相 の け ん た ん ぶ り
に は 首 相 も 驚 い た ふ う で 、こ れ を 冷 や か す と 外 相 は ” 持 ち 来 る も の み な 腹 に 納 め て な お 従 容 ” と
漢 詩 ま が い の 文 句 で 応 じ た と か 。 首 相 は そ れ を 聞 い て ”お れ に は 学 は な い が ・ ・ ・ ・ ・ ”と 自 室
に と っ て 返 し 、さ ら さ ら と 筆 で し た た め た の が 北 京 二 日 目 の 感 想 を 歌 っ た 、次 の 漢 詩 。 国 交 途
絶幾星霜、修好再開秋将到、隣人眼温吾人迎、北京空晴秋気深
越山
田 中 角 栄 」。
大 平 外 相 が こ こ で「 持 ち 来 る も の み な 腹 に 納 め て 」と 語 っ て い る の は 、文 字 通 り 食 べ 物 の こ
と で す 。し か し こ の 人 物 は む ろ ん 政 治 家 で す か ら 、単 に 食 べ 物 の 話 だ け を し て い る わ け で は な
い と 思 わ れ ま す 。中 国 側 、台 湾 側 双 方 か ら 日 本 に と っ て は「 呑 み に く い 要 求 」も い く つ か つ き
つ け ら れ る 。そ れ ら を「 清 濁 併 せ 呑 む 」気 概 で「 み な 腹 に 納 め て 従 容 」と す る の が 政 治 家 の 仕
事 だ と 示 唆 し て い る よ う に も 受 け 取 れ ま す 。つ ま り 、腹 に 納 め る の は 、食 べ 物 だ け で は な い の
です。
「 辞 書 を 食 う 」の は な ぜ か 、こ れ を 私 が 問 う と 大 学 の セ ン セ イ は お ひ ま で す ね 。つ ま ら な い
こ と ば か り 考 え る 。辞 書 を 食 べ た ら な く な る 。も は や 使 え な い 。つ ま り は「 背 水 の 陣 」の 決 意
を示すのは分かりきっていることではないのか。これが普通の答えです。
私 も「 背 水 の 陣 」説 に 反 対 で は あ り ま せ ん 。し か し 、そ れ な ら ご み 箱 に 捨 て て も 同 じ こ と で
す 。私 は な ぜ「 胃 の 腑 」に 納 め た の か 、そ の 理 由 を 考 え た い の で す 。コ ン ピ ュ ー タ の メ モ リ ー
が ハ ー ド デ ィ ス ク に あ る よ う に 、人 間 の メ モ リ ー 装 置 は「 五 臓 六 腑 」に あ る と 考 え る の が 伝 統
的 漢 方 の 知 識 で し た 。だ か ら 朝 河 貫 一 や 西 依 成 斎 や J S A の 韓 国 兵 士 が 辞 書 を 呑 み 込 ん だ の は 、
ハ ー ド デ ィ ス ク に 書 き 込 む 作 業 と し て 行 っ た の だ と い う の が 私 の 解 釈 で す 。単 な る 決 意 表 明 や
お ま じ な い と し て こ れ を 解 す る の で は な く 、そ の 背 後 に あ る「 記 憶 」論 を 考 え た い の で す 。な
に を ど の よ う に 記 憶 す る の か 。朝 河 貫 一 は そ れ を 旧 姓 中 学 時 代 に 考 え 、そ れ を 終 生 実 行 し た よ
う で す 。辞 書 を 食 う の は 、中 学 で や め た よ う で す が 、記 憶 論 を 方 法 と し て 意 識 的 に 用 い る こ と
は 終 生 続 け た よ う で す 。朝 河 貫 一 日 記 に は 、日 記 自 体 に つ い て の 目 次 あ る い は 索 引 が 付 さ れ て
矢吹晋『逆耳順耳』
301
います。これは彼の人生行路に対する検索索引でもあります。
私 は 定 年 に な り 、時 間 が 自 由 に な っ た の で 朝 河 自 身 の 方 法 を 導 き と し て 朝 河 貫 一 の 世 界 を 旅
する研究にこれから取り組むつもりで、辞書を食うことの意味を考えてみました。
さ て 、い ま 校 庭 の 朝 河 桜 は 満 開 で す が 、桜 と い え ば 、武 士 道 が 想 起 さ れ ま す 。朝 河 は 一 九 〇
五 年 に 武 士 道 に つ い て 幾 度 か 講 演 し て い ま す 。日 露 戦 争 に お い て 小 国 日 本 が 大 国 ロ シ ア を 破 っ
た の は 武 士 道 精 神 に よ る も の ら し い 。で は ブ シ ド ウ と は な に か 。朝 河 に 講 演 依 頼 が 殺 到 し た の
は 、 彼 自 身 が 旧 友 た ち か ら サ ム ラ イ と あ だ 名 さ れ て い た こ と も あ り ま し ょ う 。 Bushido は そ
の講演メモです。これをさらに発展させた論文が一九一二年にクラーク大学で行った講演
Japan Old and New: An Essay on what New Japan owes to the Feudal Japan で す 。 こ れ は 明 治 時
代 が 江 戸 時 代 に 負 う も の は 何 か 、と い っ た 意 味 で す ね 。こ こ で 朝 河 は「 武 士 道 と は な に か 」を
本 格 的 に 論 じ て い ま す 。 私 の 仮 訳 を 『 横 浜 市 立 大 学 論 叢 』 (人 文 科 学 系 列 第 54 巻 第 1-2-3 合 併
号 2003 年 )に 掲 げ て あ り ま す 。 さ わ り を 読 ん で み ま し ょ う -----。
サ ム ラ イ は 忍 耐 、 自 制 お よ び 平 静 を 養 成 し た 。 年 老 い た サ ム ラ イ が (実 際 に は 私 自 身 の 父 ・
朝 河 正 澄 の こ と だ が )、 彼 の 青 年 時 代 に ど の よ う に 行 わ れ た か を 話 し て く れ た 。
彼 は 日 の 出 前 に 起 床 し て 、雪 の 中 を 裸 足 で 歩 い て 剣 術 道 場 に 通 っ た 。そ こ で は 、年 上 の 生 徒
が可能なあらゆる方法で若者の肝試しを試みた。新入りは師範から叱咤激励された。例えば、
年 上 の 生 徒 が 囲 炉 裏 か ら 燃 え る 薪 を 取 り 出 さ せ 、突 然 床 に 投 げ 散 ら し た 。床 に 燃 え 移 ら な い う
ち に 、新 入 り に 拾 わ せ 、囲 炉 裏 に 戻 さ せ た 。あ る い は 新 入 り に 対 し て 、井 戸 か ら バ ケ ツ 一 杯 の
冷 水 を 運 ば せ 、二 年 生 が 床 の 上 に こ ぼ す 。そ れ を 最 も 素 早 く ふ き 取 る こ と を 新 入 り に 命 令 し た
か も し れ な い 。拭 き 取 る た め に 何 も 持 っ て い な い 少 年 は 、道 場 着 を 脱 い で 拭 き 取 る か も し れ な
い 。彼 が 道 場 に 行 っ た と き に は 、板 の よ う に 固 く 脚 の 回 り で 凍 っ て い る で あ ろ う 。彼 は 完 全 に
息 切 れ す る ま で 剣 道 の 練 習 を さ せ ら れ 、正 午 に な っ て 彼 の 弁 当 箱 は 先 輩 た ち に よ っ て 盗 ま れ て
いたことに気づく。暗い雨の夜、若いサムライがお互いに死とユウレイの奇怪な話をしあう。
次に、誰かが灯明なしに、単独で処刑場に行き、数時間前にはりつけにされた十字を登って、
死者の歯の間に棒を挟んでくるように求められる。類似の肝試しで、若者は戸外に送られる。
そ こ で は 巧 み に 作 ら れ た 人 工 の 鬼 火 が 棒 の 上 に 燃 え て い る 。彼 は 興 奮 し て 刀 を 抜 い て 、提 灯 に
切 り つ け た 。彼 は け ん か で は 勝 利 を 収 め た が 、鬼 火 の た め に 自 分 の 刀 を 抜 い た こ と で 、生 涯 を
通 じ て 笑 い 物 に さ れ た 。サ ム ラ イ の 刀 は 、ど う し て も 必 要 な 時 以 外 に は 、さ や か ら 抜 い て は な
らない。これとは逆に、他の若者は、暗闇で何かがまさしく彼の目を覆うのに突然気づいた。
彼 は し ば ら く 冷 静 に 立 っ て 、す ぐ 人 間 の 手 の 温 も り を 感 じ た 。次 に 、何 事 も な か っ た か の よ う
に 笑 っ た 。そ の よ う な 勇 気 と 忍 耐 の 試 練 、特 に 疲 労 、飢 餓 、お よ び 物 理 的 な 苦 痛 に 対 す る 忍 耐
は 非 常 に 普 遍 的 で あ り 、 そ れ ら は サ ム ラ イ の 共 通 の 遺 産 に な っ た (現 在 の 戦 争 [日 露 戦 争 ]に お
け る 日 本 人 兵 士 の 忍 耐 ぶ り は 、負 傷 し た 場 合 で あ れ 、外 科 手 術 を 受 け る 場 合 で あ れ 、従 軍 記 者
に よ っ て 非 常 に 曲 解 さ れ 、従 軍 記 者 た ち は 宗 教 運 命 論 の せ い に し た 。し か し な が ら 、そ こ に は
宗 教 は ほ と ん ど な く 、 数 世 代 に わ た っ て 根 性 を 厳 し く 焼 き 直 し て き た 結 果 で あ る )。 忍 耐 の も
う 一 つ の 形 は 、誤 解 が 少 な い 。す な わ ち 肉 体 的 な 苦 痛 で は な く 、精 神 的 な 苦 痛 で あ る 。サ ム ラ
イ は 喜 び で あ れ 、怒 り で あ れ 、純 粋 に 個 人 的 な 感 情 は 、表 情 に 出 さ な い よ う に 教 育 さ れ た 。ど
矢吹晋『逆耳順耳』
302
ん な に 美 し い も の で あ れ 、個 人 の 感 情 に 屈 し て 、そ の 事 柄 に 関 わ り の な い 者 に 感 情 を お し つ け
る こ と は 、身 分 の 高 い も の に ふ さ わ し く な い と 考 え ら れ た か ら で あ る 。こ の 特 異 な 点 に つ い て
は 、多 く の 興 味 深 い 心 理 学 的 研 究 が 行 わ れ る か も し れ な い が 、こ こ で 我 々 の 目 的 は 、自 制 に お
け る 一 般 的 紀 律 に 関 し て 訓 練 の 意 味 を 示 す こ と で あ る ----。
時間がないので、詳しくお話することはできないのですが、朝河貫一の武士道論を読むと、
新 渡 戸 稲 造 の『 武 士 道 』や ト ム ク ル ー ズ の ラ ス ト サ ム ラ イ な ど が い か に 浅 薄 な 理 解 に す ぎ な い
かがよく分かります。朝河の原文や私の仮訳は、矢吹のホームページに掲げてありますので、
ご覧いたたげれば幸いです。ありがとうございました。
h t t p : / / w w w 2 . b i g . o r. j p / ~ y a b u k i
2004 年 7 月 号
許介鱗、村田忠禧編『現代中国治国論』のこと
皮 之 不 存 、 毛 将 焉 附 ----経 済 的 統 合 の 進 む 過 程 で 政 治 の 独 立 は あ り う る の か
許 介 鱗 、村 田 忠 禧 編『 現 代 中 国 治 国 論 』( 勉 誠 出 版 、2 0 0 4 年 7 月 、2 5 0 0 円 ) が 出 版 さ れ た
機 会 に こ の 本 を 紹 介 し た い 。 こ の 本 は 「蔣 介 石 か ら 胡 錦 濤 ま で 、 歴 代 首 脳 の 功 罪 を 評 価 し 、
中 国 の 行 方 を 見 定 め る 」こ と を 意 図 し て 編 集 さ れ た 。 も と も と は 許 介 鱗 教 授 (台 湾 大 学 元 法
学 院 長 、 現 在 台 湾 日 本 綜 合 研 究 所 所 長 )が 主 宰 し て 昨 年 10 月 に 台 湾 大 学 で 開 い た シ ン ポ ジ
ウ ム の 記 録 が 許 介 鱗 編 『 評 比 両 岸 最 高 領 導 』 (台 北 、 文 英 堂 出 版 社 、 2004 年 3 月 、 新 台 幣
250 元 )と し て 中 国 語 で 出 版 さ れ 、 こ れ を 底 本 と し て 日 本 語 版 を 編 集 し た も の で あ る 。
評論の対象として選ばれた政治家と執筆者の一覧は、次の通りである。
Ⅰ開国編
「蔣 介 石 ---中 国 統 一 の 敗 北 者 、 国 際 政 治 の 大 魔 術 師 」 (許 介 鱗 )、
毛 沢 東 「革 命 に お け る 成 功 と 建 設 に お け る 誤 り の 原 因 」(李 海 文 )、
Ⅱ改革編
蒋 経 国 「 台 湾 経 済 発 展 の 父 」 ( J a y Ta y l o r ) 、
「鄧 小 平 ---改 革 開 放 で 中 国 を 再 生 さ せ た 旗 手 」(矢 吹 晋 )、
Ⅲ継承編
「李 登 輝 ---価 値 観 と 政 治 的 功 罪 」(劉 進 慶 )、
「時 代 に 求 め ら れ た 過 渡 期 の 指 導 者 」(朱 建 栄 )、
Ⅳ開拓編
「陳 水 扁 ---台 湾 の 未 来 を 切 り 拓 け る か 」(許 介 鱗 )、
「胡 錦 濤 ---新 し い 政 治 ス タ イ ル は 実 現 す る か 」(村 田 忠 禧 )。
台 湾 海 峡 両 岸 の 4 代 に わ た る 8 人 の 最 高 指 導 者 を 対 比 さ せ て 、品 定 め を し よ う と い う 企
画が許介鱗さんから提案されたとき、私は正直言ってどんなシンポジウムになるのか、そ
の結末を予想できなかった。畏敬する許介鱗教授のお誘いなので、ともかく台北に出向い
た次第である。私に与えられた課題は鄧小平論であり、たまたま旧著の『鄧小平』が講談
矢吹晋『逆耳順耳』
303
社学術文庫に収める話が出て、部分修正の原稿をつくったばかりなので、その一部を流用
すると、鄧小平の功罪論は比較的容易にまとめることができようという打算もあった。
さ て わ れ わ れ 日 本 か ら の グ ル ー プ 3 名 (劉 進 慶 、 村 田 忠 禧 、 矢 吹 )の 3 名 が 台 北 桃 園 空 港
に着くと、許介鱗教授ご夫妻が出迎えてくれ、空港でしばらく談笑するうちに、北京から
香 港 経 由 の 李 海 文 女 史 ( 元 中 共 中 央 党 史 研 究 室 、現『 百 年 潮 』副 編 集 長 ) が 到 着 し 、な に や ら
同窓会が始まりそうな雲行き。宿舎は福華文教会館であり、これはビジネスホテル級では
あるが、研究者の宿泊にふさわしい設備は完備していて、快適だ。つまり普通の高さの机
があり、テーブルランプが明るく、パソコンはブロードバンド接続といった条件だが、如
何に豪華ホテルでも、このような設備がきちんとしていない部屋は使いにくい。さらに温
水プールさえあるから、長期滞在にも向いている。
シンポジウムは無事に済んだが、この間いくつかのハプニングがあったが、最も大きな
ものは、朱建栄教授の入国ビザが拒否されたことであった。ピンチヒッターの役は難しい
が、時間塞ぎ程度ならできないこともあるまいといったお許しを得て、村田忠禧教授と矢
吹 が 即 席 で 江 沢 民 の 功 罪 を 論 評 し た ( 意 外 や 意 外 、私 が 即 席 で 拙 い 中 国 語 で 話 し た 部 分 の ほ
うが、中国語原稿を用意して読み上げたものより、分かりやすく、印象的であったという
のが許介鱗教授の採点であるから、努力が直ちに評価されるとは限らない。何がどのよう
に評価されるか、本人の思惑通りには進まないのがこの世の常だ。いわんや政治家の生涯
に点数をつけよう、とは何たる蛮勇か!
実は、シンポジウム前後には、私は許介鱗教授の真意をほとんど理解していなかった。
シンポジウム 2 カ月後に、たまたま台北に再度招待されて、両岸関係について釈迦に説法
のような講演を依頼された。なぜこの問題について日本人の私が話す必要があるのか。そ
の 意 図 を 確 か め る 過 程 で 、そ し て 日 本 語 版 の『 現 代 中 国 治 国 論 』に 寄 せ た 許 介 鱗 教 授 の 「 は
じ め に 」を 読 ん で よ う や く 、 台 湾 知 識 人 を め ぐ る 問 題 状 況 を 理 解 し た の で あ る 。
曰 く 「 突 然 、イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン が 閃 い た 。台 湾 海 峡 の 両 岸 を 挟 む 中 国 大 陸 と 台 湾 の 政 治
指導者を比較してみてはどうかと。なぜならばこのようなきわどい企画はわれわれのよう
な NPO 民 間 ボ ラ ン テ ィ ア 組 織 で な け れ ば で き な い か ら だ 。 私 が 住 む 台 湾 に は 、 政 府 機 関
または政府の外部組織からの資金援助で成立した研究所、シンクタンク、財団などたくさ
んあるが、そんな機構では公開的に台湾と大陸のトップリーダーをアセスメントすること
はまずないだろう。なぜならば、当局の逆鱗に触れることは禁物だからである。しかしわ
れわれのような民間のちっぽけなポランティア組織は、その活動に自発性、先駆性、批判
性 を 発 揮 し て 、相 当 の 勇 気 と 求 知 欲 を も っ て 、低 迷 す る 時 代 を 直 視 す る 意 思 を 有 し て い る 」 。
然 り 。 許 介 鱗 研 究 所 な く し て は 、 こ の よ う な 「き わ ど い 企 画 」は 不 可 能 な の だ 。 だ か ら こ
そ老いてなお若い精神をもつ許介鱗さんが挑戦したわけだ。
「中 国 の 政 治 体 制 を 見 て み る と 、 ど う や ら 幾 千 年 も の 伝 統 文 化 に 根 ざ す 新 し い 民 主 集 中
型指導体制が創造されつつあるように見える。そこにはアヘン戦争以来の百数十年の植民
地化の危機をどうにかして乗り切ってきた中国政治の苦難の軌跡の止揚が実りつつあるよ
うだ。党や国家の指導部に権力を集中するトップリーダーのグループが、ポリティカルマ
矢吹晋『逆耳順耳』
304
ンとしての長い見習い期間を経て厳選されていく過程に、最も適切に反映されているよう
に 見 え る 」。
大陸の状況をこのように認識することは、日本から見ると、ほとんど常識であろうが、
戒 厳 令 か ら 解 放 さ れ て ま も な く 、 北 京 の 天 安 門 事 件 を 遠 望 し 、 旧 ソ 連 解 体 の 「蘇 東 波 」を 見
て き た 台 湾 の 知 識 人 か ら す る と 、 こ れ は ほ と ん ど 大 陸 の 現 状 の 「新 発 見 」な の だ 。 否 、 日 本
でも依然として中国崩壊論の亡霊はさまよっている。これまで骨の髄まで反共教育を受け
てきた台湾の人々が一夜にして新状況に適応できるものではなく、二重、三重の意味でア
イ デ ン テ ィ テ ィ ・ク ラ イ シ ス に 陥 っ て い る と み て い い 。 彼 ら は い ま よ う や く 海 峡 の 対 岸 で
起こっている高度成長に伴う中国の変化という現実を色眼鏡なしに認めようとし始めた。
し か し こ れ に は 当 然 反 発 も 根 強 い 。 大 陸 の 発 展 に つ い て 台 湾 内 部 で の 「共 識 」さ え む ず か し
い の が 現 状 だ 。い わ ん や 海 峡 両 岸 に お け る 「 共 識 」 に な る と 、な お さ ら 困 難 な 課 題 で あ ろ う 。
翻 っ て 「台 湾 の 民 主 主 義 は ア メ リ カ ン ・デ モ ク ラ シ ー の コ ピ ー を 理 想 と し て お り 、 形 の 上
では政党政治と公民選挙によって一人の最高指導者が決められるが、この最高指導者にほ
とんどの政治支配層の人事が独占されてしまっている。ところが台湾の存在と安全保障に
ついては、全くアメリカ次第で決められるし、深刻な課題である大陸問題の解決または台
湾独立問題の選択にも、アメリカ頼み以外に救いの道がないように見える。つまり台湾に
は 「他 力 本 願 」で 祈 る 以 外 に 生 存 の 道 が 残 さ れ て い な い よ う だ 」。
冷 戦 体 制 が 続 い て い た 状 況 で は 、ま さ に 台 湾 海 峡 を 第 7 艦 隊 が 定 期 的 に パ ト ロ ー ル し て
い た 事 実 が 示 す よ う に 、 「ア メ リ カ 次 第 」で あ り 、 「ア メ リ カ 頼 み 」が す べ て で あ っ た 。 し か
し、ポスト冷戦体制下において、この状況は大きく変わりつつある。ベルリンの壁が崩壊
し て 以 後 1 0 数 年 、E U の 東 方 拡 大 が 日 々 進 展 し て い る た 現 実 を 見 た 目 で 、東 ア ジ ア 世 界 を
眺めると、やはり大きな地殻変動を感じないわけにはいかない。なによりも大陸経済の市
場経済への移行にともない、両岸の経済関係には地滑り的な変化が生じている。この経済
的現実をあえて軽視し、無視する論者によっていま台湾独立論が声高に叫ばれている。
私 が 台 湾 問 題 に お け る 「政 治 と 経 済 の 股 裂 け 」現 象 を 見 る た び に 、 想 起 す る の は 次 の 8 文
字である。
「皮 之 不 存 、 毛 将 焉 附 」。
皮が残らないならば、毛はどこに付くのか、の意だ。
こ こ で 「皮 」と は 経 済 で あ る 。 「毛 」と は 政 治 で あ る 。 経 済 が 日 々 一 体 化 を 深 め て い る 状 況
のなかで、政治だけが空虚な、実現の条件をまるで欠いた独立論をがなりたてる。
な ぜ か 。 私 の 理 解 で は 、 こ れ は ほ と ん ど 「気 休 め の 独 立 論 」「癒 し の 独 立 論 」で あ る 。
このような空疎な議論が台湾で広まっているのか。いくつかの条件が重なるが、大陸側
の高圧的な台湾政策がこれを助長してきたことはいうまでもない。ミサイル演習に象徴さ
れ る よ う な 、誤 っ た 高 圧 政 策 が 台 湾 の 人 々 に 、無 用 の 恐 怖 心 を 与 え 、実 現 不 可 能 な 「 独 立 教 」
の宣伝普及を助けていることになる。この状況を直視しつつ、一石を投じたのが許介鱗シ
ンポジウムであった。この点を私は不覚にも、日本語版を手にしてようやく再認識した次
第である。
矢吹晋『逆耳順耳』
305
2004 年 9 月 号
威海劉公島海戦記念館
夏休みに烟台師範学院で開かれた中国近現代史料史学会国際シンポジウムに参加した。烟
台師範学院は来年から魯東大学に昇格する予定で、すでにこの昇格準備委員会の名称でさ
まざまの活動を始めている。国際シンポジウムの主催もそれらの活動の一環だ。
東 洋 文 庫 の 田 仲 一 成 さ ん (図 書 部 長 、 学 士 院 会 員 )か ら 参 加 を 勧 め ら れ た の で 、 い そ い そ
と 出 か け た (実 は 敵 は 本 能 寺 、 山 東 省 に は か ね て 期 待 し な が ら 実 現 し て い な い 訪 問 地 が あ
ったからだ。言わずと知れた泰山と曲阜である。とにかくこれを見ておかないことには、
中 国 文 化 を 考 え る 際 に 、 画 竜 点 睛 を 欠 く 怨 み が あ る )。
さて学会で私は「東洋文庫所蔵のモリソン文庫について」報告した。モリソンは『ロン
ドンタイムス』北京特派員として活躍した。義和団籠城部隊に参加し負傷したり、日露戦
争当時、日英同盟を踏まえて日本贔屓の記事を送り、ポーツマス講和会議まで出向いて、
成 行 き を 見 守 っ た モ リ ソ ン の 一 連 行 動 は 『 日 露 戦 争 を 演 出 し た 男 モ リ ソ ン 』 (ウ ッ ド ハ ウ
ス 瑛 子 著 、 東 洋 経 済 新 報 社 )な ど に 活 写 さ れ て い る 。 モ リ ソ ン は 北 京 時 代 に 収 集 し た 蔵 書
古 地 図 等 二 ・ 四 万 冊 を 三 菱 の 総 帥 岩 崎 久 弥 (弥 太 郎 長 男 )に 売 却 し た 。 こ の 蔵 書 に は 『 東 方
見聞録』各版五四種、イエズス会士の中国東アジア関係報告・見聞録など貴重な資料が含
まれていることは周知の通りであろう。財団法人東洋文庫はこのモリソン文庫を拡充して
成った。この経緯や資料状況は中国の歴史学界では一部にしか知られていない。この経緯
を私は持参したノートパソコンと液晶プロジェクターで、スクリーンに映しながら説明し
た次第である。乾隆帝がマカートニー大使の前でふんぞりかえる図柄などは、まさに百聞
は一見に如かず、だ。アヘン戦争を描いた海戦なども、やはりスクリーン一杯に映さない
と迫力が欠ける。そう考えて敢えて、プロジェクターを持参したわけだが、やはり老骨に
は重すぎた。帰国後一ヶ月以上経ても、利き腕の痛みはとれない。
さて学会にエクスカーションはつきもの。今回は威海劉公島参観が企画されていたの
で、勇んで参加した。烟台市から威海市までの高速道路はよく整備されており、およそ一
時間余である。そこからフェリーで十数分、劉公島に着く。劉公島はかつて北洋海軍提督
署 (通 称 水 師 衙 門 )が 置 か れ た 黄 海 渤 海 湾 の 要 衝 で あ る 。 一 八 八 八 年 に 北 洋 海 軍 が 正 式 に 発
矢吹晋『逆耳順耳』
306
足し、その実力は「アジア一位、世界で四位」と謳われた。一八九四年日清戦争が勃発、
こ の 北 洋 海 軍 は 黄 海 大 戦 で 新 興 の 日 本 海 軍 に 敗 れ 、 丁 汝 昌 総 督 (一 八 三 六 ~ 一 八 九 五 )は 提
督署内で自殺した。劉公島は中国海軍揺籃の地であり、日清戦争当時の大砲や砲台などの
史跡が多数残されている。日清戦争百周年を期し一九八五年に中国甲午戦争博物館がつく
られた。ここで私は中国流の軍国主義教育に直接触れて、その実態を改めて思い知らされ
た。
江沢民指導部が日本軍国主義を強調し続けたのは、まさに中国軍国主義を合理化するた
めにほかならないという予断が裏付けられた気分である。ポスト冷戦期に軍事予算を拡大
するには、仮想敵国が必要だ。ここでアメリカは強大すぎるから敵にはできない。中国の
防衛族にとって恰好の口実あるいは標的は台湾独立派であり、これを支持する日本軍国主
義という虚像であろう。私は九〇年代後半以降の江沢民軍拡をこのように見てきたが、そ
れを確認できたことになる。
さて煙台は八〇年代半ばに鄧小平によって沿海開放都市に指定され、開発区がもうけら
れてきた。ここには日系企業も進出しており、早い話、私の大学同級生が二代目社長をや
っている製靴メーカーの委託加工工場も確かここにあるはずだ。しかし、時間が足りない
のでここはスキップ。
最 近 は 米 国 の 自 動 車 メ ー カ ー GM が 広 大 な 敷 地 を 取 得 し て 、 ビ ュ イ ッ ク の 生 産 を 始 め る
べく建設に乗り出した。その敷地の大きさを車窓から眺めながら蓬莱閣に向かう。ツテを
頼ってチャーターした車は吉利の小型車で半年前に四万元で買ったという。中国で最も安
い 小 型 車 で あ る 。イ メ ー ジ は ホ ン ダ の フ ィ ッ ト に 似 て い る 。運 転 手 の 本 職 は ボ イ ラ ー マ ン 、
夏期は仕事がないので、このマイカーを使って「第二職業」で稼いでいると得意気に説明
してくれた。半日借り上げで三〇〇元、リーズナブルな値段であろう。
蓬莱閣の歴史の説明のなかに、
「 蓬 莱 」の 原 型 が 渤 海 湾 の 蜃 気 楼 だ と す る 説 明 は た く さ ん
あ っ た が 、そ れ が 隣 国 日 本 と 重 な り 、徐 福 が 秦 始 皇 帝 の 命 を 受 け て ( あ る い は 始 皇 帝 を 騙 し
て ) 、日 本 渡 航 を は か っ た 経 緯 は ほ と ん ど 説 明 さ れ て い な い よ う に 見 受 け ら れ た 。日 清 戦 争
以 来 の 敵 国 日 本 の イ メ ー ジ と 理 想 郷 蓬 莱 (日 本 )の イ メ ー ジ が そ ぐ わ な い か ら で あ ろ う か 。
中国の歴史説明もかなりいいかげん、ご都合主義に思われた。
小泉内閣が北朝鮮の拉致問題を口実として、自衛隊の強化に努めていることは明らかだ
が、これに先立って江沢民の人民解放軍が軍拡をやってきたのは、おそらく次の理由によ
るものである。
矢吹晋『逆耳順耳』
307
一つは、一九九一年暮れの旧ソ連の解体であり、これをピークとする東欧の民主化があ
っ た 。 当 時 、「 蘇 東 波 」 の 三 文 字 が あ た か も 幽 霊 の ご と く 中 南 海 の 指 導 者 た ち を 悩 ま せ た 。
「蘇東波」とは、ソ連・東欧から発する「津波のような民主化の波」を指す。東欧の社会
主 義 体 制 が「 ス タ ー リ ン の 戦 車 に 乗 っ て や っ て き た 」の に 対 し て 、毛 沢 東 の ゲ リ ラ 闘 争 は 、
いわばスターリンの妨害を乗り越えて達成された面があり、中国革命は東欧とは異なる性
格をもつ。にもかかわらず、基本的に同じイデオロギーを根拠とする以上、中国にとって
も 民 主 化 問 題 は「 明 日 は 我 が 身 」と 内 外 か ら 見 ら れ た の は き わ め て 自 然 な 成 行 き で あ っ た 。
動揺し、不安に脅えるなかで大々的に展開されたのが江沢民指導下の愛国主義教育キャン
ペーンにほかならない。ここで日本軍国主義は徹底的に「反面教師」扱いされた。
もう一つの事情がある。ポスト鄧小平時代への権力の移行問題だ。毛沢東時代の晩年に
二度の失脚を体験した鄧小平は、最後に復活したあとは、ひたすら毛沢東の誤りを繰り返
さないよう意を用い、みずからは第二線に身を置き胡耀邦、趙紫陽ら後継者の育成に努め
た。天安門事件で趙紫陽という馬謖を斬ったあと、陳雲、李先念の意見を入れて江沢民を
後継者に指名するや、まもなく引退した。
さ て 、ス ト ロ ン グ マ ン 鄧 小 平 の 後 を 襲 っ た 、小 型 軽 量 指 導 者 江 沢 民 に と っ て 、ポ ス ト 冷 戦
期のむずかしい過渡期を乗り切ることは重すぎる課題であったようだ。江沢民はひたすら
愛国主義教育に力をいれ、他方で軍拡を進めた。
日 本 軍 国 主 義 を 仮 想 敵 国 扱 い し て 、国 内 世 論 の 凝 集 に 努 め る と い う 最 も 安 易 な 道 を 選 び 、
そのカゲで政治改革を棚上げした。愛国主義教育「実施綱要」には、この運動が「狭い民
族主義」に陥ってはならないと書かれていたが、国際主義を語るやいなやソ連東欧の盟友
を想起させることからして、ひたすら国内にのみ視野を向けさせた。この結果、愛国主義
教育キャンペーンは、戦時中の日本軍国主義にも似た排外主義に堕することになった。中
国の愛国主義教育キャンペーンがもともと「反日教育のために」行われたというのではな
い。愛国主義教育には近代の日中敵対関係とは異なる史跡も含まれているし、国際協調を
最初から否定したわけでもない。にもかかわらず、現実に江沢民によって指導されたこの
キャンペーンは事実上、反日運動としかいいようのないものとなった。そしてこのキャン
ペーンがこのような性格を強くもつことになったのは、日本側のまずい対応も預かってい
ることは確かだが、それは副次的であり、最も大きくこのキャンペーンの性格を規定した
のは、冷戦体制が旧ソ連東欧の解体に終わったという現実だとみてよいだろう。アジアカ
ップ北京決勝戦にみられた反日騒動はこれらの一連の事態の帰結にほかならない。要する
に、ポスト冷戦期の幕開けににおいて、東アジアの小さな指導者たちは、互いに隣国を仮
想敵国とすることによって国内統一に狂奔してきたわけだ。身近に敵のイメージを作るこ
とによって、統一を図るのは、最も姑息な手段であるが、この程度の三流政治家たちによ
って、意図的に作られた敵対関係の幻影がサッカー場に集約されたとみてよい。原因がこ
こまではっきりしてくると、打開の道筋もおのずから浮かび上がってくるはずだ。
矢吹晋『逆耳順耳』
308
2 0 0 4 年 11 月 号
甦 る 大 化 の 改 新 (1)
はじめに
定年生活を初めて半年、これまで読もうとして読めなかった本を読む時間を十分に
与 え ら れ 、気 分 爽 快 で あ る 。朝 河 貫 一 顕 彰 協 会 の 理 事 会 メ ン バ ー に 推 さ れ な が ら 、朝 河
学 に 疎 い こ と を 恥 じ て き た が 、よ う や く そ の 入 口 の 扉 を た た く こ と が で き た 。こ れ は そ
の読書報告の一部である。
元 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 長 坂 本 太 郎 (1901 ~ 87)の 『 大 化 改 新 の 研 究 』 (東 京 、 至 文 堂 )が 出
版 さ れ た の は 1938 年 で あ り 、 朝 河 の 英 文 著 書 『 大 化 改 新 』 出 版 以 後 35 年 目 で あ っ た 。 坂
本 は 既 存 研 究 を 1.政 治 史 的 史 観 、 2.文 化 史 的 史 観 、 3.社 会 経 済 史 的 史 観 の 「三 つ の 立 場 」に
分 け た 。い わ く 「 政 治 史 的 史 観 は 古 く よ り 行 わ れ た 史 観 で あ り 、新 井 白 石 、三 浦 周 行 、藤 井
甚 太 郎 ら の 立 場 で あ る 」「特 色 濃 厚 に 、 そ の 政 治 史 的 史 観 の 典 型 を 示 す 所 は 、 そ の 原 因 論 で
ある。即ち原因を単に族制の一に解し、その族制の弊害を豪族専権の一点のみより考察し
て い る 」「事 実 の 克 明 な 穿 鑿 に お い て 、 ま た そ の 穏 健 な 解 釈 に お い て 、 こ の 史 観 は 確 か に 正
統派と呼ばるべきものではあらうが、原因論の安易なること、史的意義の理解に未だしき
こ と な ど は 、後 に 来 る も の に 克 服 さ れ ね ば な ら な か っ た 」 。 「 次 に 明 治 の 末 よ り 大 正 に か け
て史学界に横溢した文化史研究の風潮が必然大化改新の研究の上にも影響し、ここに文化
史的史観の名に整理さるべき一群の労作を生じたことは敢えて不思議とすべきではなから
う 」「そ こ で は 改 新 が 何 よ り も 支 那 文 化 輸 入 の 重 大 な る 事 件 と し て 理 解 さ れ る 。 原 因 論 に お
い て 支 那 文 化 の 輸 入 が 重 大 な る 一 項 を 占 め 、本 質 論 に お い て 之 が 採 用 の 仕 方 が 論 議 さ れ る 。
而してこの観念を推及して聖徳太子の摂政政治を重視し、改新の先駆は太子にあり、太子
の な さ ん と し て な す に 及 ば ざ り し も の 、 之 を 大 化 に お い て 成 就 し た と す る 」。 「か く て こ の
史観は、歴史現象の理解に優れ、前人の逮ばざりし点を明らかにした上に、実際には政治
史的史観の長所をも合わせ採ってあらわれ、学界に裨益した功すこぶる多い。
今この類に属すべき論著を挙げるならば、まず黒板勝美博士の国司の研究、聖徳太子御
伝、その他の論文、安藤政次氏の日本文化史古代編、西村為之助氏の同奈良朝編、西村真
次氏の国民の日本史飛鳥寧楽時代編、西岡虎之助氏の綜合日本史大系奈良朝編、又は中村
直 勝 氏 の 大 化 改 新 な ど を 得 る で あ ろ う 」。 「別 に 朝 河 貫 一 氏 が 英 文 に て 著 は す 所 の 大 化 改 新
論 ( T h e E a r l y I n s t i t u t i o n a l L i f e o f J a p a n : A S t u d y i n t h e re f o r m o f 6 4 5 A . D . ) も 、 か な り 政 治 的
要素を強調してはゐるけれども、その方法によって之を本史観の中に属せしめ得るであろ
う。この書は堂々三四六頁の長篇であり、特に改新を論じたものとしては邦文にも比無き
量をもち、内容亦優れたる示唆に富む。今その大体の結構を紹介すれば、まづ改新前の制
度 ( I n s t i t u t i o n s b e f o r e t h e R e f o r m ) の 叙 述 に 一 章 を 費 し 、次 に 改 新 の 動 機 ( E v e n t s u p t o t h e
Reform)と し て 蘇 我 氏 の 興 亡 、 支 那 文 化 の 伝 来 等 を 論 じ 、 第 三 に 支 那 の 政 治 思 想 (Political
Doctrine of China) と 題 し て 歴 代 に わ た る 政 治 思 想 及 び 制 度 の 変 遷 を 述 べ 、 第 四 章 改 新
(Reform)と し て そ の 第 一 に 憲 法 十 七 条 を 論 じ 、 以 下 順 次 に 改 新 の 経 過 を 縷 述 し て 全 篇 を 終
へてゐる。氏によれば大化改新は一時危殆に瀕した皇権を再び確保せんとする皇室の努力
矢吹晋『逆耳順耳』
309
のあらはれである。この目的のために支那の政治制度がそのまま採用せられたけれども、
両者は遂に融合せず、このことが後の日本歴史に於ける特異な性格を形造る原因となった
のであると。その他或いは大化の詔に挙げられた前代の弊政は改革者の語として誇張さら
れてゐるべきこと、これによって改革は時勢の要求する所であったと論ずべきでないこと
を 指 摘 し 、 或 い は 二 年 八 月 癸 (み ず の と )酉 (と り )の 詔 に 皇 位 に 関 す る 支 那 思 想 の 宣 揚 せ ら
るるを前後の思想と矛盾するとし、書記の編者の誤りがここに存すべきことを推察するな
ど、傾聴に値する見解は少なくない。而して以上の外、特に支那政治思想の検討に一章百
頁を充て、又憲法十七条を改新の経過の劈頭に叙述する如き点によっても、之を文化史的
史 観 に 属 せ し む べ き 理 由 の 見 出 さ れ る こ と を 私 は 信 ず る 」 (下 線 は 矢 吹 に よ る 。 23~ 24 頁 )
としている。
坂 本 は 以 上 二 つ の 傾 向 と 区 別 し て 「社 会 経 済 史 的 史 観 の 名 に 呼 び 得 る も の 」と し て 次 の よ
う に 指 摘 し た 。 「こ の 史 観 は 早 く は 福 田 徳 三 博 士 の 日 本 経 済 史 論 (Die gesellschaftliche und
wortschaftliche Entwickelung in Japan )な ど に 宣 揚 さ れ て い る が 、 盛 行 す る に 至 っ た の は 大
正 よ り 昭 和 に か け て の 経 済 史 研 究 勃 興 の 結 果 で あ る 」「竹 越 与 三 郎 氏 の 日 本 経 済 史 、 本 庄 栄
治郎博士の日本社会史以下多くの著書、黒正巌博士の農業共産制史論、田崎仁義博士の大
化 改 新 の 社 会 上 経 済 上 並 び に 思 想 上 の 意 義 (国 民 経 済 雑 誌 第 17 巻 第 3 号 )等 は こ の 傾 向 に
お け る 典 型 的 な る 論 著 で あ ろ う 」「こ の 史 観 に あ っ て は ま ず 大 化 以 前 の 社 会 組 織 と し て い わ
ゆる氏族制度の厳然たる存在を予想する。而してこの制度が社会上経済上思想上各種の原
因 に よ っ て そ れ 自 ら 崩 壊 す る に 至 っ た 時 が す な わ ち 大 化 改 新 な り と 見 る 」「社 会 経 済 史 的 史
観の導入が一般に歴史研究の上に与えた功績は、之をこの場合にも認めることができるけ
れども、あまりに史的経過の必然性を強調し、事実の穿鑿に迂にして、理法の適用にのみ
焦るその弊害もまた免れぬ所といわねばならぬ。殊に唯物史観を奉ずる人々がいわゆる氏
族制度より古代国家へ移行の公式をそのままここに当てはめんとする如きは、この史観の
欠 点 を 最 も 明 ら か に 呈 示 し た も の で あ ろ う 」。
坂 本 は こ の よ う に 改 新 史 観 の 三 潮 流 を 整 理 し つ つ 、 「以 上 の 諸 傾 向 の い ず れ に も 属 せ し
め 難 き 異 色 あ る 研 究 」と し て 津 田 左 右 吉 博 士 の 大 化 の 改 新 研 究 を 挙 げ て い る 。 「こ こ に 見 ら
れ る 研 究 態 度 は 、一 言 に し て い え ば 、事 実 の 再 吟 味 で あ る 」 。「 こ の 結 論 は と も か く と し て 、
そのこれを出した基礎事実は前人の未だ試みざる厳密な吟味を得て形成されたものであ
る 」。 「思 う に 改 新 研 究 の 態 度 は こ こ に お い て 一 転 機 を 画 し た と 見 ら れ る 」。 「津 田 博 士 が 既
成史観を問題とせず、敢然それらの拠ってたつ事実の検討に力を注いだのは、まさに如上
の 研 究 史 の 間 隙 を 衝 い た も の 、 時 代 を 画 す る 栄 誉 に 値 す る と い う も 過 言 で は な い 」「私 は 右
の 津 田 博 士 的 な る 基 礎 事 実 検 討 の 態 度 に こ そ 、 こ の 答 え を 求 む べ き で あ ろ う と 思 う 」(27~
29 頁 )。
坂本はこうして津田の方法にならって事実の再吟味に向かう。大化の改新を書いた時期
の坂本は完全に津田の徒であり、津田の方法によって個々の津田の結論に検討を加えるや
り 方 を と っ て い る 。坂 本 は 本 書 の 緒 論 「研 究 の 沿 革 」に お い て 朝 河 貫 一『 大 化 改 新 』論 を 22
行にわたって紹介したが、結局は既存の文化史的史観に分類され棚上げされ、津田左右吉
矢吹晋『逆耳順耳』
310
の 「基 礎 事 実 再 吟 味 」の 方 向 に 向 か っ た 。 以 後 、 朝 河 貫 一 の 大 化 の 改 新 論 は そ の ま ま 棚 上 げ
状 態 が 1 世 紀 以 上 も 続 い て い る 。 坂 本 の 『 大 化 改 新 』 ( 至 文 堂 、 1 9 3 8 年 ) は 、『 坂 本 太 郎 著
作 集 』 が 編 集 さ れ た と き 、 第 6 巻 に 収 め ら れ た (吉 川 弘 文 館 、 1988 年 )。
坂 本 の 研 究 史 レ ビ ュ ー か ら 35 年 を 経 た 1973 年 に 、 野 村 忠 夫 著 『 大 化 改 新 』 (東 京 : 吉
川 弘 文 館 , 1973.7)が 再 度 、 研 究 史 を レ ビ ュ ー し た 。 し か し 、 野 村 は 坂 本 説 を 圧 縮 し た だ け
だ 。 す な わ ち 坂 本 は 22 行 の 紙 幅 で 朝 河 を 紹 介 し た が 、 野 村 は わ ず か 1 行 で 片 づ け た 。 「朝
河 貫 一 が 英 文 で 著 し た 『 大 化 改 新 論 』 も こ れ に 属 す る と み て よ い 」 (『 研 究 史 大 化 改 新 ( 増 補
版 )』6 ペ ー ジ )。野 村 に 至 っ て は 、原 書 を 紐 解 い た か ど う か 、は な は だ 疑 わ し い 。野 村 は 坂
本 の 権 威 に 安 易 に 依 拠 し て 、 朝 河 貫 一 著 『 大 化 改 新 』 を 「文 化 史 的 史 観 」に 分 類 し て 事 足 れ
りとした。こうして坂本によって最初に不適当な、あえていえば誤ったレッテル貼りが行
われ、それを野村が引き継ぎ、その結果、朝河の所説は顧みられることがなかった。
野 村 の 本 に は 「 大 化 改 新 関 係 文 献 一 覧 」 ( p 2 8 5 - 3 0 3 ) が 付 さ れ て い る が 、朝 河 貫 一 関 係 の 文
献 は 皆 無 で あ る 。野 村 の 本 は 、増 補 版 が 1 9 7 8 年 に 出 た が 、朝 河 貫 一 の 名 が 索 引 に 、坂 本 の
祖述部分として一箇所登場する点では初版も増補版も同じである。繰り返すが、朝河貫一
『 大 化 改 新 』 (1903) は 、 1930 年 代 に 坂 本 に よ っ て ま ず 「文 化 史 的 史 観 」 に 押 し 込 め ら れ 、
1970 年 代 に 野 村 忠 夫 に よ っ て 再 度 、 こ の 不 当 な 扱 い が だ め 押 し さ れ た こ と に な る 。
さ て 野 村 は 第 2 の 研 究 史 と し て 井 上 光 貞 の 「大 化 改 新 研 究 史 論 」の 位 相 を こ う 要 約 し て い
る 。 「 ま ず 津 田 左 右 吉 の 『 大 化 改 新 の 研 究 』 は 、『 日 本 書 記 』 の 厳 正 な 文 献 学 的 批 判 に よ っ
て、改新の経過をその編者とは少しちがって再構成し、改新の歴史的意味は土地制度の改
革であることを明らかにした。この文献学的研究は、改新研究史上の画期的事件ともいう
べきであろうが、少なくとも論理的には一つの問題が残されていた。それは主観的合理主
義 に つ ら ぬ か れ て い る こ と で あ る 」 「 こ の 点 を 注 意 し た 坂 本 太 郎 氏 の『 大 化 改 新 の 研 究 』は 、
そ の 主 観 的 合 理 主 義 (を 批 判 し つ つ )、 「記 事 肯 定 の 主 義 」に 経 っ て 改 新 を 再 構 成 し た 」「改 新
とその継続を改新当事者およびその後継者の律令的な中央集権への努力に求め、改新を王
政 復 古 と み た 」(野 村 、9 ペ ー ジ )。野 村 は 続 け る 。
「 昭 和 の 研 究 史 は 、新 し い 飛 躍 を し た 。社
会 経 済 史 学 こ と に 唯 物 史 観 の 系 統 を ひ く 研 究 で あ り 、古 代 社 会 の 構 造 に 新 し い メ ス を 入 れ 、
いわば改新の基礎的背景を明らかにした」
「 第 1 の グ ル ー プ は 、秋 沢 修 二 、伊 豆 公 夫 、早 川
二 郎 、 渡 辺 義 通 の 諸 氏 で 、 昭 和 6、 7 年 ご ろ か ら 古 代 社 会 の 分 析 を つ ぎ つ ぎ に 発 表 し た 」
「 第 2 の グ ル ー プ は 、正 倉 院 の 奈 良 時 代 戸 籍 に よ る 古 代 の 家 族 構 成 研 究 を 土 台 に 古 代 史 を
検 討 し て き た 石 母 田 正 、藤 間 生 大 、松 本 新 八 郎 の 諸 氏 で あ る 」( 9 ~ 1 0 ペ ー ジ ) 。野 村 は 最 後
に、門脇禎二の改新否定論を紹介する。いわく「大正末年から昭和初年、次第に慢性的恐
慌 に お ち い り は じ め た 状 況 の も と で 、徹 底 し た 近 代 的 合 理 主 義 を 方 法 的 基 礎 に す る 学 説 と 、
学問自体に明確に階級的立場を意識した史的唯物論にたつ学風とがあらわれたことが、よ
り 重 要 で あ る 」「 ま ず 津 田 左 右 吉 の 『 大 化 改 新 の 研 究 』 は 、 改 新 の 目 的 、 経 過 、 そ の 後 の 制
度上の変遷、社会実態まで逐一検討を加えた。とくに注目したいのは、いわゆる改新詔が
そのまま信用できないという疑問がはじめて提出されたことで、それは改新研究史上に画
期 的 な 問 題 提 起 で あ っ た 」「 こ の 津 田 学 説 と 基 本 的 な 対 立 を 示 す と 一 般 に 受 け 止 め ら れ て
矢吹晋『逆耳順耳』
311
いるのは、坂本太郎氏の『大化改新の研究』である。その所説は、とくに『日本書紀』批
判の態度において鋭く対立する」
「 津 田 、坂 本 の 学 説 は 案 外 に 共 通 し た 側 面 を も つ こ と が 軽
視 さ れ て い る 。 つ ま り 両 者 は 、 昭 和 期 と く に 10 年 代 に 入 る 前 後 か ら 目 立 ち は じ め た 史 的
唯 物 論 の 改 新 研 究 の 動 向 に 、き び し い 反 感 を 呈 示 し て い る 」
「 津 田 、坂 本 説 と 早 川 、渡 部 説
とは、前者が政治改革説、後者が社会改革説といったものではない。ほぼ同時代に生まれ
ながら、時代の動きに対処した学問の仕方、方法がちがうのであり、それぞれから学びと
る も の は 、 論 証 成 果 に か ぎ ら ず 、 方 法 論 ま で 含 め た も の で な け れ ば な ら な い 」。
ここから史的唯物論に立脚した左翼史観が戦後一世を風靡した。門脇禎二の大化の改新
虚 像 論 は そ の 典 型 で あ っ た 。 し か し 1990 年 代 の 旧 ソ 連 東 欧 の 崩 壊 と と も に 左 翼 史 観 が ほ
とんど崩壊したことはいうまでもない。
2005 年 1 月 号
甦 る 大 化 の 改 新 (2)----- 法 制 史 学 会 に つ い て
歴 史 学 会 に お け る こ の よ う な 扱 い は 、法 制 史 学 会 に お い て も 、踏 襲 さ れ た ご と く で あ
る 。法 制 史 学 会 代 表 理 事 水 林 彪 教 授( 東 京 都 立 大 学 法 学 部 )の「 法 制 史 学 の『 こ れ ま で 』
と 『 こ れ か ら 』」 に よ っ て 、 こ の 学 会 の 概 況 を 一 瞥 し て み よ う 。 法 制 史 学 会 は 、 日 本 ・
東洋・西洋の各地域の、古代から現代までの各時代の法の歴史を研究する人々が集い、
啓 発 し あ う た め の 学 会 と し て 、 一 九 四 九 年 一 一 月 二 三 日 に 発 足 、 以 来 、 約 55 年
の 歴 史 を 刻 ん で き た 。当 初 は 数 十 名 を 数 え る に す ぎ な か っ た 会 員 も 、現 時 点 で は 、約 4 6 0
名 に 達 し て い る 。学 会 誌『 法 制 史 研 究 』は 、一 九 五 一 年 度 の 第 1 号 以 来 、毎 年 1 冊 出 版
さ れ 、 先 般 、 第 53 号 が 刊 行 さ れ た 。
二 〇 〇 二 年 一 〇 月 に 本 H P が 開 設 さ れ た 。学 会 H P と し て は 、出 色 の も の の 一 つ が で
き た の で は な い か と 自 負 し て い る 。特 に『 法 制 史 研 究 』の「 総 目 次 」、
「 法 制 史 文 献 目 録 」、
「 全 デ ー タ 検 索 」は 、法 制 史 学 関 連 の 文 献 情 報 を 求 め る 全 て の 人 々 に 裨 益 す る と こ ろ 大
で あ ろ う 。「 法 制 史 学 」 は 、「 史 学 」 の 一 部 で あ る 。 し か し 、 こ の 国 の 史 学 全 体 に お い て
法 制 史 学 の 占 め る 比 重 は 、必 ず し も 高 い と は 言 え な い 。日 本 史 関 係 の 講 座 も の の 巻 別 編
成 や 目 次 な ど を 見 れ ば 、経 済 史 、政 治 史 、社 会 史 な ど に 比 べ て 、法 制 史 関 連 に 割 り 当 て
られる論文数が少ない。
「 法 制 史 学 」は 、ま た 、
「 法 学 」の 一 部 で あ る 。法 制 史 の 講 義 は 、
通常、法学部における法学の体系の中に位置づけられている。
古 典 古 代 や 近 代 西 欧 の 法 は 、 我 々 の 法 の 母 法 に ほ か な ら ず 、 し た が っ て 、「 史 学 」 の
対 象 で あ る 以 前 に 、現 代 日 本 の 法 的 思 考 を 反 省 的 に 吟 味 す る「 同 時 代 学 」に 直 接 に 資 す
る素材である。依るべき確かな基準を喪失し、全てのことが不透明になってきた今現在、
学問のなすべきことは、何千年におよぶ学の伝統を正面から受けとめつつ、人類が直面す
る根本問題を根本的に考えぬくこと、そして、そのことをよくなしうる人材をじっくりと
育 て る こ と に あ る ( 二 〇 〇 四 年 五 月 三 日 )。
法制史学会の課題が水林彪教授の指摘するごとくであるとすれば、これはまさに朝河貫
一の追求した課題と完全に重なるといってよい。現に朝河貫一自身がみずからの学問を法
矢吹晋『逆耳順耳』
312
制史、とりわけ比較法制史と呼んだことは周知の通りである。では朝河貫一と志を同じく
するこの学会は朝河貫一の業績をどのように扱ってきたであろうか。
『 法 制 史 研 究 』( 7 号 )
(1957 年 ) に 井 ヶ 田 良 治 (同 志 社 大 学 名 誉 教 授 )が 『 入 来 文 書 』 の 書 評 を 書 い た だ け で あ る 。
ほかには朝河貫一の名は見当たらない。
「 大 化 の 改 新 」を ホ ー ム ペ ー ジ で 検 索 す る と 、以 下 の 1 5 件 が ヒ ッ ト す る 。
《法制史研究》
は 2 件 で あ り 、 そ の 内 容 は 1.牧 健 二 / ( 著 者 ・ 論 文 紹 介 ) 石 井 良 助
大化改新と鎌倉幕
府 の 成 立 / 法 制 史 研 究 1 0 号 ( 1 9 6 0 ) 2 5 1 頁 。お よ び 2 . 龍 前 佳 子 / ( 書 評 )遠 山 美 都 男
大
化 改 新 ― ― 六 四 五 年 六 月 の 宮 廷 改 革 ― ― / 法 制 史 研 究 43 号 (1993) 309 頁 で あ る 。 そ し て
《 法 制 史 文 献 目 録 (1990~ )》 に は 、 以 下 の 13 件 の 書 評 が 登 場 す る が 、 朝 河 貫 一 に 関 連 の
あるものは見当たらない。
1. 北 村 文 治 / 大 化 改 新 の 基 礎 的 研 究 / 吉 川 弘 文 館 / 1990
2. 鈴 木 英 夫 / 大 化 改 新 直 前 の 倭 国 と 百 済
─ ─ 百 済 王 子 翹 岐 と 大 佐 平 智 積 の 来 倭 を め ぐ っ て ─ ─ / 続 日 本 紀 研 究 272 / 1990
3. 門 脇 禎 二 / 「 大 化 改 新 」 史 論 上 巻 ・ 下 巻 / 思 文 閣 出 版 / 1992
4. 石 上 英 一 / 大 化 改 新 論 / 朝 尾 他 編 『 日 本 通 史 』 3 / 1994
5. 龍 前 佳 子 / ( 書 評 ) 遠 山 美 津 男 著 『 大 化 改 新 ─ ─ 六 四 五 年 六 月 の 宮 廷 改 革 』 /
法 制 史 研 究 43 / 1994
6. 門 脇 禎 二 / 「 大 化 改 新 」 新 肯 定 論 批 判
─ ─ 直 木 孝 次 郎 氏 説 へ の 反 論 と 質 問 ─ ─ / 門 脇 編 『 日 本 古 代 国 家 の 展 開 』 上 / 1995
7. 関 晃 / 大 化 改 新 の 研 究 ・ 下 / 吉 川 弘 文 館 / 1996
8 . 時 野 谷 滋 / 大 化 改 新 詔 第 1 条 の 述 作 論 に つ い て ( 上 )( 下 ) / 芸 林 4 5 - 1 , 2 / 1 9 9 6
9. 青 木 和 夫 ・ 田 辺 昭 三 編 /藤 原 鎌 足 と そ の 時 代 ─ 大 化 改 新 を め ぐ っ て /吉 川 弘 文 館 / 1997
1 0 . 門 脇 禎 二 / 直 木 孝 次 郎 氏 の 応 答 論 文 に 思 う ─「 大 化 改 新 」史 論 と 学 界 動 向 / 日 本 史 研 究
423 / 1997
11 . 遠 山 美 津 男 / 古 代 王 権 と 大 化 改 新 ─ ─ 律 令 制 国 家 成 立 前 史 / 雄 山 閣 出 版 / 1 9 9 9
12. 神 崎 勝 / 大 化 改 新 の 根 本 問 題 に つ い て ─ 津 田 左 右 吉 の 改 新 研 究 に 学 ぶ ( 一 ) / 立 命
館 文 学 561 / 1999
13. 韋 蘭 春 /大 化 改 新 前 後 の 遣 唐 使 に つ い て / 国 学 院 大 学 日 本 文 化 研 究 所 紀 要 86 / 2000
朝河貫一『大化改新』の今日的意義
門 脇 禎 二 は 『「 大 化 改 新 」 史 論 』 下 巻 ( 思 文 閣 出 版 、 1 9 9 1 年 ) で 、「 大 化 改 新 」 観 の 原 型 に
ついて要旨次のように指摘している。
< [ 大 化 改 新 が ] 重 要 な 政 治 的 変 革 期 と し て 、日 本 人
に 意 識 さ れ は じ め た の は 決 し て 古 い こ と で は な い 。 時 期 的 に は 、 明 治 20 年 代 後 半 以 降 の
ことである。それは明治維新にかかわらせてとりあげられはじめたのであり、明治政府が
自由民権運動をきびしく抑圧しながら、明治憲法体制を確立してゆく過程においてであっ
た > < た と え ば 有 賀 長 雄 は 、1 8 8 2 年 の 皇 典 考 究 所 で の 講 演 に お い て「 大 化 の 革 命 」と い う 語
を用いている。帝大教授星野恒も歴史学徒は教育勅語の趣旨に沿って研究の精密化」を呼
矢吹晋『逆耳順耳』
313
び か け て い る 。 つ い で 田 口 卯 吉 「 藤 原 鎌 足 」 (『 史 海 』 2 巻 1 8 9 1 年 ) 、 久 米 邦 武 「 大 化 の 改
新 を 論 ず 」(『 史 学 雑 誌 』3 2 号 、1 8 9 2 年 ) 、三 浦 周 行「 大 化 改 新 論 」(『 史 学 雑 誌 』7 編 の 1 、
1896 年 )、 竹 越 与 三 郎 『 2500 年 史 』 (第 8 章 空 前 絶 後 の 国 政 改 革 、 1896 年 )、 喜 田 貞 吉 「 国
司 制 の 変 遷 」 (『 史 学 雑 誌 』 8 編 の 1、 1897 年 )等 々 が 出 た ><底 流 に 共 通 し て 認 め ら れ る の
は、時の政府の直接の出発的であった明治維新との関連を、大化の改新の上にはっきりと
意 識 し 始 め て い た こ と で あ っ た > < 国 学 者 流 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム が 提 起 し た そ の ま ま の「 大 化
改新」観ではないが、最初に学界に登場した「大化改新」論は、まずこのような時代的特
質 を も っ て い た (279~ 82 頁 )>。
朝 河 貫 一『 大 化 改 新 』が 書 か れ た の は 1 9 0 3 年 で あ り 、大 化 の 改 新 と 明 治 維 新 を 並 べ て 、
日本史における二つの革命と名付けているのは、まさにこの時代的特質が刻印されたもの
といってよい。では朝河貫一『大化改新』は時代を越えられず、時代遅れになったのか。
もし歴史の風雪に耐え得ない論説にすぎないならば、これを葬ればよいだけのことだ。
戦後日本史学界では大化の改新「虚像」論が広く行われた。たとえば門脇禎二はいう。
< 6 4 6 年 に で き た 大 化「 改 新 之 詔 」 の 文 章 と 、
「 改 新 」か ら 少 な く と も 何 十 年 も 後 に 出 た 令
の 文 章 が 全 く 一 致 し て い る 。お そ ら く「 改 新 之 詔 」 は 、も と も と あ っ た の で は な く て 、の
ちに『日本書記』をつくるときに、当時の編纂者たちが手元にあった法令によって「改新
之詔」を当時のものとして述作したと考えられる。この問題を最初に提起したのは津田左
右 吉 で あ っ た ><大 化 改 新 で 租 庸 調 と い う 税 の 制 度 が で き た と [教 室 で ]教 え る 。 と こ ろ が 、
律令制のところでまた租庸調を教える。これに類したことがいくつかある。同じ制度がダ
ブって出てくる。これは実は律令制のときに定められたのであって、大化改新のときでは
なかったのではないか。さらに大化改新そのものがなかったのではないか。当然こういう
筋 道 で 考 え て ゆ く こ と が で き る (門 脇 290 頁 )>。
こ の 問 題 に つ い て 朝 河 は い う 。< 7 0 1 年 の 大 宝 律 令 に は 全 文 が あ り 、こ れ は 改 新 の 半 世 紀
後に改新の任務を異なる面から提議し完成させたものである。たぶん一部は中国の法をよ
り 深 く 知 っ た か ら で あ り 、 一 部 は 大 建 設 期 に 得 ら れ た 経 験 の た め で あ る ><し か し な が ら
645 年 の 法 令 を 701 年 の 法 令 か ら 推 論 す る こ と は 、 と き に は 危 険 を と も な う こ と も あ る 。
『日本紀』の断片的な記述は、資料だけでなく論理的関連もひどく不完全なので、法令の
記述を参照して特定の問題に対する改新政策を導いた意図と全体的政策への示唆を求める
こ と は 正 当 化 さ れ よ う 。 資 料 が 不 十 分 で あ る か 、 不 完 全 な と き に 、 645 年 と 701 年 の 間 に
横たわる思想のギャップを埋めるために、政治的経済的基礎から推論することは許される
が、研究者が批評の領域を飛び越えて解釈の領域に入り込むならば、その解釈において成
功 す る か 否 か は 、 最 も 広 範 囲 な 人 類 学 の 訓 練 を 受 け て い る か ど う か に よ る で あ ろ う 」。
朝 河 は ま た い う 。 <六 四 六 年 に 始 め ら れ た 最 初 の 割 当 が 六 五 二 年 に 完 成 し た こ と を 考 え
ると、着手における時間の長さと困難さは、最初の割当が次の割替までは有効だと考え、
次の割替をいつやるかについてはおそらく決めていなかったのではないかと思わせる。な
んらかの定期的割替については、少なくとも中国における制度の存在はよく知られていた
に違いない。七〇一年の律令はこの点について多くを教えてくれる。一回目の割当から次
矢吹晋『逆耳順耳』
314
の割替では六年とするとか、原文上でも制度の面でも問題を残しているが、これを論ずる
必要はない。法令から改新までを戻って議論しておくのは危険だと指摘しておけば十分で
あろう。しかしながら、ある程度の確信をもって推論しておきたいのは、唐の人々が考え
ていたような年ごとの割替は、六四五年にも七〇一年にもこの期間中にも考えられなかっ
た こ と で あ る >。
朝河の以上二つの指摘は、大化改新「虚像」論に対する牽制と読めないであろうか。つ
ま り 朝 河 は「 改 新 之 詔 」の あ い ま い さ と 大 宝 律 令 と の 関 係 を 考 え ぬ い て お り 、そ こ か ら「 政
治 的 経 済 的 基 礎 か ら 推 論 す る こ と は 許 さ れ る 」と し た が 、
「研究者が批評の領域を飛び越え
て解釈の領域に入り込む」ことは厳しく戒めたのである。大宝律令を根拠として改新「虚
像」論に飛躍した軽率さにあらかじめクギを刺しておいたように感じられてならない。
2005 年 3 月 号
甦 る 大 化 の 改 新 (3)
さて私はこれまで朝河貫一『大化改新』が今日まで黙殺されてきた事情を坂本太郎と野
村忠夫の研究史レビューに即して調べてきた。そこからしだいに浮かびあがるのは、いわ
ゆ る 津 田 史 学 の 功 罪 で あ ろ う 。こ こ で 朝 河 貫 一 と 津 田 左 右 吉 (1873~ 1961)の 年 譜 を 並 べ て
み よ う 。 両 者 は 奇 し く も 同 じ 1873 年 に 生 ま れ た 。 津 田 は 91(明 治 24)年 に 東 京 専 門 学 校 を
出 て い る 。9 5 年 卒 業 の 朝 河 の 4 年 先 輩 に 当 た る 。朝 河 は 福 島 尋 常 中 学 を 卒 業 し て か ら 上 京
したのに対して、津田はその過程をスキップしたものであろう。東京専門学校の創立は
1882 年 で あ り 、 設 立 当 時 の 同 校 は 入 学 、 卒 業 条 件 が 緩 や か で あ っ た も の と 思 わ れ る 。
津田左右吉
津 田 は 中 等 教 師 を 務 め た あ と 、 1907 年 に 白 鳥 庫 吉 の 庇 護 の も と に 満 鮮 地 理 調 査 室 (満 鉄
東 京 支 社 内 に 設 置 し た も の ) の 研 究 員 に な り 、本 格 的 な 研 究 生 活 に 入 っ た 。と き に 津 田 は 3 4
歳 で あ っ た 。 そ の 後 1918 年 (45 歳 )か ら 40 年 (67 歳 )ま で 22 年 間 早 稲 田 大 学 文 学 部 教 授 を
務 め た 。 津 田 は 40 年 に 『 神 代 史 の 研 究 』 な ど 4 著 書 が 発 禁 に な り 、 出 版 法 違 反 で 起 訴 さ
れ、早稲田大学を辞したものである。この事件のゆえに、戦後は皇国史観学派と戦った英
雄 と し て 迎 え ら れ 、そ の 「 実 証 主 義 史 学 」 は 一 世 を 風 靡 し た 。4 7 年 に 帝 国 学 士 院 会 員 、4 9 年
文化勲章という輝かしい経歴は、津田史学がいかに戦後隆盛を極めることになるかを暗示
したものであった。そのような津田史学全盛のもとで朝河史学は無視されてきたわけだ。
こ こ ま で く る と 、津 田 史 学 を 栄 え さ せ た 諸 条 件 こ そ が 朝 河 史 学 を 闇 に 葬 っ た 真 犯 人 で あ る 、
といわざるをえない。
小 熊 英 二 著 『 単 一 民 族 神 話 の 起 源 』 (新 曜 社 、 1995 年 )は 、 第 14 章 記 紀 神 話 の 蘇 生 で 白
鳥庫吉、津田左右吉の史学を扱っている。これはたいへん手際のよい整理なので、小熊の
分析を借りて、津田史学の欠陥をスケッチしてみよう。
白 鳥 は ヨ ー ロ ッ パ 留 学 以 後 、日 鮮 同 祖 論 や 混 合 民 族 論 を 排 し て 、「 ア ジ ア に は 日 本 の よ う
な 言 語 は な い 」 「 日 本 民 族 の 渡 来 は 何 万 年 も 昔 の こ と で あ り 、大 和 民 族 は こ の 島 で 生 ま れ た 」
と 唱 え 始 め た ( 全 集 第 9 巻 1 7 8 - 7 9 ペ ー ジ 、小 熊 2 7 5 ペ ー ジ ) 。そ の 結 果 、「 天 孫 降 臨 を 2 6 0 0
矢吹晋『逆耳順耳』
315
年 前 と す る 記 紀 神 話 は デ タ ラ メ な の か 」 「天 皇 の い な い 日 本 民 族 が 存 在 し た こ と に な る で
は な い か 」 、と い う 矛 盾 に 逢 着 し た 。こ こ で 白 鳥 は 「 記 紀 は 史 実 で は な く 、物 語 に す ぎ な い 」
と 批 判 を 交 わ し て 、 「単 一 民 族 論 」に 固 執 し た 。
津 田 は 1902 年 に 編 纂 し た 歴 史 教 科 書 で は 混 合 民 族 論 を 採 用 し て い た が 、 日 露 戦 争 と 日
韓 併 合 後 は 白 鳥 の 驥 尾 に 付 し て 単 一 民 族 論 に 転 換 し た 。 す な わ ち 1913 年 に 著 作 『 神 代 史
の新しい研究』で、記紀は史実ではなく、作り物語だと説いた。これは記紀を史実とみな
さないことで白鳥の戦術と軌を一にするものであった。
1919 年 に 出 版 さ れ た 『 古 事 記 お よ び 日 本 書 記 の 新 研 究 』 で 、 「神 武 天 皇 東 征 」「ヤ マ ト タ
ケ ル の 命 の 西 伐 東 征 」「神 功 皇 后 の 新 羅 征 伐 」な ど を 「す べ て が 空 想 の 物 語 」だ と 断 じ た 。 さ
らにスサノヲの新羅渡行は後世の加筆にすぎず、神功皇后の祖先とされる新羅王子アメノ
ヒ ボ コ の 列 島 渡 来 の 記 述 も 、 「一 つ と し て 事 実 と し て 考 へ ら る べ き こ と が 無 い 」と し た 。 こ
うして日鮮同祖論と、天皇家に朝鮮系の血統が流入したという説が否定された。
こ う し て 「白 鳥 と 津 田 は 、 東 洋 史 ・言 語 学 と 記 紀 研 究 と を 分 担 し な が ら 単 一 民 族 論 の 基 礎
づ け を 行 っ て き た 」(小 熊 284 ペ ー ジ )。 「津 田 の 思 想 は 、 国 体 論 の な か か ら 、 天 皇 統 治 は 権
力 支 配 で は な く 国 民 と の 自 然 の 情 の 結 合 だ と い う 部 分 だ け を 極 大 化 し た も の 」(287 ペ ー ジ )
で あ る 。 「津 田 に お い て は 、 日 本 は 単 一 民 族 国 家 だ か ら 、 民 族 と 国 民 は 同 じ も の だ っ た が 、
国 家 と 民 族 は 明 確 に 区 別 し た 。彼 は 、記 紀 は 国 家 や 天 皇 家 の 起 源 を 記 し た も の で あ る か ら 、
そ こ か ら 民 族 の 起 源 を 探 る こ と は で き な い と 述 べ て い る ( 2 8 9 ペ ー ジ ) 。「 記 紀 は 国 家 の 歴 史
であり、民族の歴史でないとすることは、二つの意味をもっていた。第 1 に、日本民族の
起 源 が は る か 太 古 だ と 主 張 す る こ と が 可 能 に な っ た 。 国 家 の 歴 史 が 2600 年 だ と し て も 、
民族はそのずっと前から列島にいたのである。第 2 に、異民族の不在と平和的な日本民族
という主張が補強された。つまり、単一の平和的民族がいただけのはずの日本に、神武東
征などの征服神話が存在するのは、記紀が国家権力によって作られた物語であるからだっ
た。しかも、記紀の記述には、政府がとりいれた中国思想の影響が多大に及んでいたとい
う の で あ る 」 ( 2 8 9 ~ 2 9 0 ペ ー ジ ) 。「 津 田 は 朝 鮮 人 を 、儒 教 道 徳 の 因 襲 や 形 式 的 制 度 の な か で
生 命 力 を 失 っ て 滅 び た 民 族 と み な し て い た 。さ ら に 「 所 謂 支 那 料 理 は 遊 食 階 級 、所 謂 士 大 夫 、
ブ ル ジ ョ ア の 食 ひ も の と し て 発 達 し た も の で あ る 」と い っ た 表 現 か ら は 、 津 田 に と っ て 中
国的要素をとりさった理想の民族が健全な生産者としてイメージされていることがうかが
え る 」 ( 2 9 0 ~ 9 1 ペ ー ジ ) 。「 津 田 に と っ て 天 皇 と 民 族 は 不 可 分 で あ り 、す で に 1 9 1 6 年 の 時 点
か ら 、天 皇 を 「 国 民 的 精 神 の 生 け る 象 徴 」 と よ ん で い た 。そ し て 彼 が『 神 代 史 の 新 し い 研 究 』
から一貫して主張していたのは、天皇が政治のうえで接触していたのは氏族であって民衆
で は な い と い う こ と で あ っ た 。 つ ま り そ の 政 治 的 機 能 は 、 諸 氏 族 の 調 整 役 で あ っ た 」。 「津
田のライフワークであった大作『文学に現はれたる我が国民思想の研究』で主張されたの
は、日本が受けた中国文化の影響は一部の権力者や知識人にとどまり、国民はべつに日本
独自の文化をもっていたということであった。彼がこの研究で国民の文化と権力者の文化
を区別したことが、それを可能にした。彼にいわせれば、権力者が中国をまねてつくった
奈 良 京 都 の 寺 院 や 仏 像 な ど は 、民 衆 か ら み れ ば ひ ど く 異 質 で 高 圧 的 な も の で し か な か っ た 」
矢吹晋『逆耳順耳』
316
( 2 9 3 ペ ー ジ ) 。 「『 支 那 思 想 と 日 本 』 で は 、 漢 字 に 中 国 思 想 が 宿 っ て い る と し て 漢 文 授 業 の
廃 止 を 主 張 し 、さ ら に は 「 で き る だ け シ ナ も じ は 、使 は な い 」 と い う 方 針 か ら 、「 り く ち ゅ う
ひ ら い ず み に お い て つ だ さ う き ち 」と い っ た 表 記 を す る ま で に い た る 」「と こ ろ が 、 中 国 を
そこまで嫌いぬく一方で、欧米文化の影響にはまったく寛大であった。彼は、日本は中国
に影響をうけた東洋の一部ではなく、欧米文化の影響を多大にうけた世界の一部であると
していたから、欧米文化は中国文化を中和してくれるものとして歓迎されていたと考えら
れ る 」 ( 2 9 4 ペ ー ジ ) 。「 津 田 自 身 は 、古 代 人 が 書 い た 美 し い 神 話 を 、「 支 那 式 合 理 主 義 」 で 解 釈
しても意味がないという立場にたっていた。彼は『古事記および日本書記の新研究』の結
論 で 、自 分 の 根 本 思 想 を 「 記 紀 の 上 代 の 物 語 は 歴 史 で は 無 く し て 寧 ろ 詩 で あ る 。さ う し て 詩
は 歴 史 よ り も 却 っ て よ く 国 民 の 内 生 活 を 語 る も の で あ る 」と 要 約 し て い る 。 「彼 を 批 判 す
る 側 も 評 価 す る 側 も 、 津 田 の 研 究 は 記 紀 に 合 理 的 批 判 を 加 え た も の だ と う け と め た 」「津 田
のねらいは、合理的に解釈したら史実とはとうてい考えられないからこそ、混合民族論で
切 り き ざ ま れ て い た 記 紀 を 、 理 性 の お よ ば ぬ 神 話 と し て 蘇 生 さ せ る こ と に あ っ た 」「と く に
戦後の歴史学者たちは、津田を天皇制イデオロギーに対する科学的批判者として高く評価
した。津田が民族の歴史と国家の歴史を区別し、国民の文化と権力者の文化を区別したこ
と か ら 、 彼 ら せ 津 田 を 国 民 (民 衆 )史 観 の 始 祖 と 位 置 づ け た 。 漢 字 使 用 の 制 限 は 、 戦 後 に お
い て 、民 衆 に 平 易 な 表 現 を と る と い う 啓 蒙 的 ・ 民 主 的 観 点 か ら 打 ち 出 さ れ た こ と が あ り 、津
田の漢字排斥もその文脈から理解されていた。津田が欧米文化排斥の風潮に同調しなかっ
たこと、無政府主義者に好意を示したこと、反権力指向であったこと、そしてなによりも
大 日 本 帝 国 か ら 言 論 弾 圧 を う け た こ と な ど 、 す べ て が 進 歩 的 な 価 値 観 に 一 致 し た 」「彼 ら は
津田の天皇支持と反共姿勢にはとまどい反発したが、記紀研究はそれとはべつに、古代史
の あ る べ き 解 釈 と し て 全 面 的 に う け い れ ら れ て ゆ く こ と に な る 」(295~ 56 ペ ー ジ )。
小 熊 の 分 析 を 続 け る 。<津 田 左 右 吉 が 天 皇 家 冒 涜 の 容 疑 で 出 版 法 違 反 に 問 わ れ た こ と は 、
帝 国 の 混 乱 を 象 徴 す る も の で あ っ た 。こ と の お こ り は 、津 田 が 日 中 戦 争 の さ な か の 1 9 3 8 年
に、岩波新書の『支那思想と日本』を出版したことだった。この本は津田の従来からの主
張 で あ る 、中 国 思 想 が 日 本 に 表 面 的 な 影 響 し か 与 え て い な い こ と を 力 説 し た も の で あ る > <
津田のこの本によれば、儒教思想は中国の権力階級の道徳として特殊に発達したものであ
る た め 、普 遍 性 が き わ め て 乏 し く 、「 一 般 民 衆 を 禽 獣 と 同 視 し 」 、し か も 結 果 と し て 「 支 那 の
政 治 と 社 会 と が 少 し も よ く な ら ず 、支 那 の 民 衆 が 少 し も 幸 福 に な ら な か っ た 」 と い う 。一 方
で、日本への中国思想の影響は支配階級の一部にしか及ばなかった。また、本居宣長や平
田篤胤の日本中心主義や古事記から神の道徳を導こうという姿勢も、自国を世界の中華と
考 え る 「支 那 の 中 国 思 想 」と 、 書 物 か ら 形 式 道 徳 を 説 く 中 国 の 影 響 だ っ た 。 日 本 文 化 は 日 本
民 族 独 自 の も の で 中 国 と は ま っ た く 異 な る か ら 、 両 者 を 含 む 「東 洋 」な ど と い う も の は 存 在
し な い 」 ( 3 3 2 ペ ー ジ ) 。「 津 田 の 東 洋 否 定 論 は 、徹 底 し た 中 国 嫌 い と 、日 本 の 独 自 性 の 主 張 か
らのものだった。ところが、まさにそうであるがゆえに、彼は右翼から批判されることに
な っ た 」「津 田 は 記 紀 を 「作 り 物 語 」と し た こ と に よ り 天 皇 家 を 冒 涜 し た と い う 容 疑 に 問 わ れ
た 」(334 ペ ー ジ )。 「津 田 の 記 紀 研 究 は 出 版 停 止 と な っ た も の の 、 ほ と ん ど の 容 疑 で は 無 罪
矢吹晋『逆耳順耳』
317
と な り 、 有 罪 と な っ た 残 り 一 件 も 執 行 猶 予 が つ い た 」「津 田 裁 判 は 、 単 一 民 族 論 が 東 洋 否 定
論 と な り 侵 略 に 役 立 た な い た め 、 弾 圧 さ れ た 事 件 で あ っ た 」(336 ペ ー ジ )。
小熊の解説を通じて、われわれは津田史学なるものが戦後歴史学に大きな影響を与えた
道筋を知りうるが、この解説をまつまでもなく、津田史学の核心部分は奇怪きわまるもの
だ。朝河史学をいくらか学んだものからすると、津田史学なるものはほとんどアマチュア
史学の域を出るものではない。にもかかわらず、この種の俗流史学に文化勲章を与え、帝
国学士院会員の名誉を与えたのが戦後の日本史学なのである。
鳥なき里において、コウモリのみがもてはやされる時代にあって、戦後歴史学はコウモ
リの跳梁跋扈する世界と化して、ミネルヴァの梟にとって出番がなかったことは、返す返
すも無念であった。
何が問題なのか。戦後横行した左翼史学の根本的欠陥は、要するに、皇国史観を批判し
たいあまりに、その根拠とされた『日本紀』自体を歴史の世界から追放し、神話の世界に
閉 じ 込 め よ う と し た こ と で あ る 。皇 国 史 観 が 否 定 さ る べ き 謬 論 で あ る こ と は 言 を 待 た な い 。
だ が 、 「皇 国 史 観 憎 し 」の あ ま り 、 そ れ と 一 緒 に 事 実 上 『 日 本 紀 』 ま で 否 定 す る に 至 っ た の
は、
「 坊 主 憎 け り ゃ 、袈 裟 ま で 憎 い 」と い う 感 情 に 溺 れ た も の と い う ほ か な い 。こ う し て 戦
後 史 学 は 皇 国 史 観 と い う 「盥 の 水 」と 一 緒 に 、 日 本 史 の 真 実 と い う 「赤 子 」ま で 流 し て し ま う
愚行を演じてきたことになる。
旧 ソ 連 の 解 体 以 後 10 余 年 、 左 翼 史 観 が 崩 壊 し 、 こ こ で よ う や く 日 本 史 研 究 の 本 流 が 甦
る こ と に な っ た 。最 後 に 、あ る 碩 学 の コ メ ン ト を 引 用 し て 、拙 い 解 説 を 結 ぶ こ と に し た い 。
堀 米 庸 三 ( 一 九 一 三 ~ 一 九 七 五 ) は か つ て 、 こ う 指 摘 し た こ と が あ る 。「( 朝 河 貫 一 ) 氏
は強い学問家気質の実証史家として、一般論にはきわめて慎重である。マルクスに対して
は拒否的だったし、ヴェーバーさえときに概念規定などでその名をあげているくらいであ
る」
「 マ ル ク ス と ヴ ェ ー バ ー が 氏 の 問 題 意 識 に 入 っ て い な か っ た こ と が 、日 本 史 家 と の ふ れ
あ い を 生 じ さ せ な か っ た こ と 、し た が っ て 朝 河 氏 の 業 績 が 十 分 に 理 解 さ れ な か っ た こ と の 、
決定的な理由だったのではなかろうか」
(「 封 建 制 再 評 価 へ の 試 論 」
『 展 望 』一 九 六 六 年 三 月
号 、 の ち 『 歴 史 の 意 味 』 中 央 公 論 社 、 一 九 七 〇 年 所 収 、 一 六 七 ~ 一 六 八 頁 )。
堀米は続ける。朝河の理解するマナーは、古典マナーとよばれる「一村一領主制的構造
のもの」だが、このマナーが封建制度の主たる基礎であったかどうか。今日ではむしろ否
定的見解に傾く研究者が多い。類似の事柄は日本中世史の研究についてもいえる。それゆ
え、朝河の研究は「現代性においていささか欠けるところがある」のは、率直に容認すべ
き だ が 、そ れ は 朝 河 の「 業 績 が 過 去 の も の に な っ た 」こ と を 意 味 す る も の で は な い 。
「史料
的基礎に確実無比の足場をもつ朝河氏の研究」は、依然としてわれわれの「論議の出発点
で あ り 基 礎 た り う る 」。『 入 来 文 書 』 は 「 辺 境 薩 摩 の も の 」 で あ る と し て も 、『 荘 園 研 究 』 に
は、
「 越 前 や 畿 内 の 史 料 」の 研 究 が 主 要 部 分 を な し て い る 。朝 河 の 研 究 は「 そ の も っ と も 基
本的部分で生きている。氏が理論家でなかったことが、かえって氏の「研究の生命を永続
さ せ る 結 果 に な っ た 」。 こ れ が 堀 米 の 評 価 で あ っ た (『 歴 史 の 意 味 』 一 六 九 ~ 一 七 〇 頁 )。
矢吹晋『逆耳順耳』
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2005 年 7 月 号
甦 る the Documents of Iriki ( 入 来 文 書 )
(その1)
マ ル ク ・ブ ロ ッ ク を 読 む 者 は ア サ カ ワ を 知 ら ず 。
入来文書を読む者はアサカワを知らず。
イ リ キ を 発 見 し て 忘 れ ら れ た K・ア サ カ ワ が い ま 甦 る 。
Ⅰ .黙 殺 さ れ る 朝 河 史 学
ある日、私はあと半年で定年を迎える勤務先の図書館にぶらりと出かけた。実は私はこ
の図書館をほとんど利用していない。現代中国研究を志す者にとってこの図書館の蔵書は
ま こ と に 貧 弱 で あ り 、私 の 研 究 室 よ り も 、頼 り に な ら な い か ら だ ( む ろ ん こ れ は 一 般 論 で は
な い )。
虫の知らせであろうか。国立歴史民俗博物館編『日本荘園データ』1 という本が開架式
書棚から飛び出して見えた。ほとんど無意識のうちに私はある名前を探していた。朝河貫
一である。初めは容易に見つかるだろうと考えて立ったまま、探した。ない。ない。ない
はずはない。こう考えて今度は閲覧室の机に運び出して、冒頭からめくり始めた。結局小
一時間費やして、
『 日 本 荘 園 デ ー タ 』の 本 体 で は な く 末 尾 に 付 さ れ た 「 荘 園 関 係 文 献 目 録 」 に
朝 河 貫 一 論 文 二 点 を 発 見 し た 。同 書 五 五 六 ペ ー ジ に 朝 河 貫 一 「 中 世 日 本 の 寺 院 領 」 2 が あ り 、
キ ー ワ ー ド と し て 「本 所 領 家 、 寺 社 領 、 高 野 山 」の 三 語 が 挙 げ ら れ て い る 。 さ ら に 五 八 四 ペ
ー ジ に 朝 河 貫 一 「日 本 の 封 建 制 度 に 就 い て 」3 が あ り 、 キ ー ワ ー ド は 「一 般 、 封 建 制 」で あ っ
た。
続 け て 「入 来 院 」を 探 す 。 同 文 献 目 録 に 挙 げ ら れ た 入 来 院 研 究 論 文 は 一 〇 点 で あ っ た 。 す
な わ ち 、 西 岡 虎 之 助 [一 八 九 五 ~ 一 九 七 〇 ]、 加 藤 民 夫 、 石 村 み ち 子 、 永 原 慶 二 [一 九 二 二 ~
二 〇 〇 四 ]、古 川 常 深 、北 島 万 次 、五 味 克 夫 、佐 川 弘 、上 杉 允 彦 、高 橋 暢 各 氏 の 論 文 4 で あ
る 。 こ れ は 「欠 陥 目 録 」で は な い の か 。 こ の よ う な 目 録 を 編 纂 す る た め に 、 国 税 を い く ら 用
いたのか、担当者の説明を求めたいところだ。ついでに書いておくが、国公立大学や研究
機関の独立法人化に伴い、類似の出版物はますます増えることが懸念される。点数主義、
員 数 合 わ せ の 弊 害 で あ る 。荘 園 研 究 な ら ば 、朝 河 貫 一 の 遺 稿 集『 荘 園 研 究 』(日 本 学 術 振 興
会 、一 九 六 五 年 ) と と も に 、そ れ に 先 立 つ T h e D o c u m e n t s o f I r i k i ( 日 本 学 術 振 興 会 、一 九 五 五
年 、 和 文 書 名 は 『 入 来 文 書 』 )が 言 及 さ れ て 当 然 で あ ろ う 。 な ぜ そ れ へ の 言 及 が な い の か 。
疑問を抱きながら、別の日に再度図書館を訪れた。
こ の 日 は 、東 京 堂 か ら 一 九 九 七 年 に 出 た『 日 本 荘 園 大 辞 典 』( 阿 部 猛 、佐 藤 和 彦 編 ) 5 を め
くった。これは『日本荘園データ』から二年後に出たもので、文字通り荘園を主題とした
「大 辞 典 」で あ る 。 同 書 九 〇 〇 ペ ー ジ に 「入 来 院 」が 独 立 項 目 と し て 立 て ら れ て お り 、 一 ペ ー
ジ の 三 分 の 一 を 少 し 上 回 る 紙 幅 を 用 い て 解 説 さ れ て い る 。 そ し て こ の 項 目 の 参 照 「文 献 」と
し て 、西 岡 虎 之 助 論 文 6 と 永 原 慶 二 論 文 7 が 挙 げ ら れ て い る 。筆 者 は 三 木 靖 8 で あ る 。同
大 辞 典 の 「参 考 文 献 目 録 」に は 、 少 な く と も 一 七 〇 冊 の 書 目 が 挙 げ ら れ て い る が 、 朝 河 貫 一
著 書 刊 行 委 員 会 編『 荘 園 研 究 』( 日 本 学 術 振 興 会 、一 九 六 五 年 ) が 挙 げ ら れ て い る の み で 、同
委 員 会 編 The Documents of Iriki は 挙 げ ら れ て い な い 。 こ れ も 欠 陥 辞 典 と い う ほ か な い 。
矢吹晋『逆耳順耳』
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しばらくして二〇〇四年秋の某日、また同じ図書館を訪れた。書庫から西岡著『荘園史
の 研 究 』 を 借 り 出 し て 「中 世 前 期 に お け る 荘 園 的 農 村 の 経 済 機 構 」6 を 読 む 。 こ れ は 『 文 化
史 研 究 2』 所 収 論 文 を 一 〇 年 以 上 経 て か ら 単 行 本 に 収 録 し た も の で あ る 。 論 文 の 書 か れ た
一九四三年という時期からして、期待せずにめくったが、やはり予想通り朝河貫一の名は
いくら探しても見当たらなかった。
同 じ 日 に 、『 中 世 の 社 会 と 経 済 』 ( 永 原 慶 二 、 稲 垣 泰 彦 編 、 一 九 六 二 年 ) を め く っ た 。 朝 河
貫一の死去は一九四八年、これを契機とした顕彰運動のなかで学術振興会が復刻版を出し
たのは一九五五年のことだから、この本には朝河貫一の名が登場するに違いない。期待は
再 度 裏 切 ら れ た 。 こ の 本 に 収 め ら れ た 永 原 論 文 「中 世 村 落 の 構 造 と 領 主 制 」7-1 に は 、 ア サ
カワのアの字もなかった。これはどうしたことか。アメリカで一九二九年に英語で出版さ
れた本にまで日本の歴史学者の注意が届かないのは理解できる。しかし、東京でその七年
前に出版され、五年前に再版された本に中世史家が気づかないというのは、おそらく不注
意のためではあるまい。なぜ言及がないのか、意図的な黙殺なのであろうか。
永原論文に接して、私の疑惑は膨れ続けた。この論文は、実は一九六〇年度の科学研究
費を得て、一九六一年四月上旬に入来を実地調査して書かれたものである。同行者は大東
文 化 大 学 講 師 古 川 常 深 (入 来 出 身 )、 東 大 史 料 編 纂 所 員 石 井 進 、 一 橋 大 学 大 学 院 関 口 恒 雄 で
あり、現地において協力を惜しまなかったのは、入来町長松下充止および入来町史編纂主
任本田親虎であった。そもそも永原慶二はなぜ入来町を調査対象として選んだのか。朝河
貫 一 The Documents of Iriki を 意 識 し て い た は ず だ 。 な ら ば 、 な ぜ こ の 研 究 に つ い て の 言 及
が な い の か 。 一 七 七 ペ ー ジ の 註 釈 (8)に は 、 次 の 記 述 が あ る 。
「入 来 文 書 (新 版 )の 編 者 は こ の 史 料 に つ い て 、錯 簡 を 訂 正 し た 後 、第 一 紙 、三 紙 の 間 及 び
第 四 紙 ・五 紙 の 間 に 脱 落 あ ら ん と 注 記 し て い る 。 た し か に 第 四 紙 ・第 五 紙 の 間 に は 人 給 分 に
関する一紙分の欠落があったと見られる。現存部の集計一二町七反一〇しろ代と文書の計
一 五 町 一 反 三 〇 代 の 間 に ひ ら き が あ る の は そ の ゆ え ん で あ ろ う 。し か し 、第 一 紙 ・ 第 三 紙 の
間には欠落があったとは考えがたい。なぜなら記載分の実集計と文書の集計がほとんど一
致 す る か ら で あ る 」7-1。
永 原 が こ こ で 言 及 し た の は The Documents of Iriki で は な く 、 そ の 日 本 語 原 史 料 を 朝 河 貫
一 著 書 刊 行 委 員 会 が 独 自 に 再 編 集 し た も の で あ る 。 こ の 編 集 に 携 わ っ た の は 同 書 「再 刊 次
第 」に 明 ら か な よ う に 、 「東 京 大 学 助 教 授 佐 藤 進 一 等 が 編 纂 に 当 た り 、 博 士 に ゆ か り 深 い 史
料 編 纂 所 の 専 門 学 徒 が こ れ に 協 力 し た 」部 分 で あ る 。
朝 河 貫 一 原 編 、 朝 河 貫 一 著 書 刊 行 委 員 会 編 『 入 来 文 書 (新 訂 )』 こ そ が 永 原 が 入 来 を 調 査 し
た際の最も重要な史料であったことは、明らかである。にもかかわらず、永原は朝河貫一
の The Documents of Iriki す な わ ち 英 文 部 分 に つ い て の 言 及 は ま っ た く な か っ た 。
これは一体、どうしたことか。不可解きわまる扱いではないか。
こ の 調 査 に 同 行 し た 石 井 進 [一 九 三 〇 ~ 二 〇 〇 一 ]は の ち に こ う 証 言 し て い る 。 石 井 は 『 日
本 中 世 史 像 の 再 検 討 』 に 寄 せ た 論 文 7-2 の な か で 、 一 九 六 一 年 四 月 に 行 わ れ た 入 来 へ の 現
地調査をこう回顧している。時に永原三九歳、石井三一歳であった。
矢吹晋『逆耳順耳』
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「私 が 入 来 院 の 調 査 に ま い り ま し た の は 随 分 昔 の こ と で 、 今 か ら ざ っ と 二 十 数 年 前 に な
り ま す [入 来 調 査 は 一 九 六 一 年 、 石 井 講 演 所 収 本 の 出 版 は 一 九 八 八 年 ]。 荘 園 の 復 元 的 調 査
研究が学界でまだ始まったばかりの頃、それをリードしておられた永原慶二さんに連れて
いっていただきました。私には最初の、こうした調査でしたので、今でもなつかしい思い
出 で す 」(一 〇 六 ペ ー ジ )。
「数 日 間 の 調 査 を 終 わ り ま し て 帰 京 後 、 し ば ら く し て か ら 永 原 さ ん の 論 文 「中 世 村 落 の 構
造 と 領 主 制 」7-1 が 発 表 さ れ ま し た 。 そ れ は 調 査 の 結 果 を 実 に 見 事 に ま と め ら れ た も の で 、
本 当 に び っ く り し た 」(一 〇 九 ペ ー ジ )。
「 入 来 院 地 方 の 現 代 の 水 田 を 、迫 田 、谷 田 と 、よ り 大 き な 川 ぞ い の 低 地 一 帯 に ひ ろ が る 水
田 の 二 つ に 分 類 し 」「永 原 さ ん は 後 者 の 、 川 ぞ い の 低 地 一 帯 の 美 田 の 部 分 は 、 実 は 江 戸 時 代
になってから薩摩藩の主導のもとに長距離用水路を開鑿することで初めて安定的な水田が
開かれた地域で、中世の水田を考えるためには、この美田の部分は消去しなければならな
いのだと強調されました。したがって中世の水田としては、前者の迫田、谷田こそが重要
に な り ま す 」。 「こ う し て 小 さ な 谷 ご と に 水 田 が 開 か れ 、 一 軒 、 あ る い は 二 、 三 軒 の 農 家 が
点 在 す る 姿 を 、 永 原 さ ん は 「孤 立 農 家 」な い し は 「小 村 、 散 居 制 集 落 」と 規 定 さ れ た 」 (一 一 〇
ペ ー ジ )。 「こ の 永 原 さ ん の 学 説 は 、 私 に も 大 変 明 快 で 説 得 的 で 、 す っ か り 感 服 し て し ま っ
た の で す が 、 た だ 一 部 分 に つ い て は 素 朴 な 疑 問 を 抱 か ざ る を 得 ま せ ん で し た 」。 「迫 田 、 谷
田部分が中世に開かれていたことは確かだとしても、いま一つの美田地帯を全部消去して
し ま う こ と は 正 し い の だ ろ う か と い う 疑 問 で す 」(一 一 一 ペ ー ジ )。
「 塔 之 原 の 例 か ら み ま す と 、中 世 の 水 田 が 、い わ ゆ る 美 田 地 帯 に 存 在 し な い ど こ ろ か 、か
えって地域の支配者である地頭の直営田がむしろこの美田地帯に集中していたことになり、
中世耕地は迫田、谷田であったという議論では説明がつかないのではないか。これが永原
さ ん の 論 文 に 感 心 し な が ら も 私 の 感 じ た 疑 問 で あ っ た 」(一 一 二 ペ ー ジ )。
「な ぜ 最 初 の 調 査 で 、 平 地 の 美 田 地 帯 に つ い て 中 世 耕 地 と し て 低 い 評 価 を 与 え る こ と に
な っ て し ま っ た の か 。 思 う に そ れ は 、 中 世 の 文 書 に 出 て く る 地 名 ・人 名 を 手 が か り と し て 、
今もそれが残っている場所を中心に調査を進める方式をとったためではないか。こうした
方法をとった場合、復原研究がもっともやりやすいのは、中世の地名等が今も多く残って
い る 場 所 に な る 」。 「上 に 述 べ た よ う な 調 査 の 仕 方 で は 、 永 原 さ ん の よ う な 結 論 に な る の が
理 の 当 然 で あ る 」。 「当 時 の 支 配 者 で あ る 地 頭 の 屋 敷 や 直 営 田 の 集 中 し た 場 所 は 、 や は り 荘
園村落の中心地ではないか。そうした事実を正しく評価できないようでは、復原的調査研
究 法 と し て も 困 る の で は な い か 」(一 一 三 ペ ー ジ )。
先輩の仕事の功罪は後輩の目から見ると、一目瞭然であるようだ。石井はここで往時を
回 顧 し て 、 永 原 が 入 来 を モ デ ル と し て 中 世 の 「散 居 型 村 落 」の イ メ ー ジ を 描 い た こ と を 評 価
し つ つ 、 他 方 で 、 永 原 が 軽 視 し あ る い は 無 視 し た 「美 田 地 帯 」の 意 味 を 論 じ て 、 永 原 の 欠 落
を補っている。
ただし石井は触れていないが、実は永原のこの論文にはもう一つの問題提起あるいは学
説 の 確 認 が あ っ た 。 論 文 末 尾 の 「総 括 と 展 望 」で こ う 指 摘 し て い る 。
矢吹晋『逆耳順耳』
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「 入 来 地 方 の 在 家 農 民 支 配 が 、著 し く 直 接 的 、身 分 的 性 格 を も ち 、そ れ だ け に 支 配 力 が 強
烈 な 形 で 現 れ て く る 」。 「村 落 共 同 体 の 形 成 が 進 め ば 、 か げ を ひ そ め る こ と で あ る が 、 入 来
の場合ではさけえないものである。このような条件のもとでの領主=農民関係は、ある面
で は 土 着 奴 隷 制 的 支 配 と 近 似 し た 状 態 を 示 す 」。 「封 建 制 下 の 農 民 の 状 態 を 狭 義 の 農 奴 ・隷
農 の 二 段 階 に 区 分 し う る と す れ ば 、狭 義 の 農 奴 と は ま さ し く 、こ の よ う な 個 別 的 ・ 身 分 的 支
配 を つ よ く 受 け る 存 在 に そ の 直 接 的 な 前 提 を 見 出 し う る 」。 「こ う み て く る と 、 入 来 院 の 領
主=農民関係は、封建的な村落共同体の未成熟という段階に照応する農奴制の前提的な姿
を 示 す も の と い っ て よ く 、 特 殊 な 地 理 的 ・自 然 的 条 件 に 規 定 さ れ た 例 外 と は い い え な い 」。
「こ こ に お け る 集 落 と 耕 地 の 形 成 過 程 や 領 主 = 農 民 関 係 は 、 律 令 制 解 体 過 程 に お け る 中 世
的村落の形成の姿を、もっとも原理的に示しているといってよい。われわれが薩摩という
辺境の一例をとりあげつつ、そこから中世の村落構造と領主制の問題一般を論じうる条件
も 、 ま さ し く そ の 点 に あ る 」(二 一 三 ~ 二 一 四 ペ ー ジ )。
永 原 が 「薩 摩 と い う 辺 境 」の 、 さ ら な る 辺 境 と も い う べ き 「迫 田 、 谷 田 」に 視 線 を 向 け た の
は 、「 土 着 奴 隷 制 的 支 配 と 近 似 し た 状 態 」 を 発 見 す る た め で あ っ た 。そ し て 彼 は 「 封 建 的 な 村
落 共 同 体 の 未 成 熟 と い う 段 階 に 照 応 す る 農 奴 制 の 前 提 的 な 姿 」を そ こ に 発 見 し た と い う 。
だ が 、 朝 河 は 、 永 原 の 説 い た よ う な 「奴 隷 制 、 農 奴 制 」の 存 在 を そ も そ も 認 め な い 。 朝 河
比 較 史 学 の 核 心 と も い う べ き 「要 約 」の 章 で こ う 指 摘 し て い る 。
「 日 本 の 小 作 人 は 、土 地 や 領 地 に 緊 縛 さ れ た の で は な く 、強 制 労 働 を 課 さ れ た の で も な い 。
ローマやフランク王国の奴隷、自由民、コロンに相当するものではない。小作人に対して
労働を強要する領主領地はなく、その生活の大部分が管理されていたのではない。日本の
土 地 制 度 は ヨ ー ロ ッ パ の 意 味 で の 農 奴 は 生 み 出 さ な か っ た 」。
これは永原にとってたいへん不都合な見解であった。やはり無視するに如くはない、永
原はそう考えたのではないか。
永原が迫田、谷田という細部に固執し、後進の石井がこれを批判して、より大きな流域
の美田の位置づけに言及しているのは、私には日本中世史学界の視野狭窄を示す象徴的な
構図に見える。いわば虫瞰図にとらわれている。朝河は一九二〇年代にイェール大学にあ
って、主としてフランスの封建制と対比しつつ、入来文書を解読していた。いわば世界史
を俯瞰したうえでの虫瞰図作りだ。永原、石井は一九六〇年代から八〇年代にかけて、朝
河 が 何 十 年 も 前 に 否 定 し た 「奴 隷 制 、 農 奴 制 」の ド グ マ に と ら わ れ て い る 。 私 に は 悲 劇 と い
うよりは喜劇に見える。
[次 号 に 続 く ]
注 1 . 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 編 『 日 本 荘 園 デ ー タ 』佐 倉 、 1 9 9 5 年 3 月 、博 物 館 資 料 調 査 報 告
書で全 2 巻。第 1 巻は: 畿内・東海道・東山道を扱い、第 2 巻は: 北陸道・山陰道・山陽
道 ・ 南 海 道 ・ 西 海 道 ・ 壱 岐 島 を 扱 う 。 第 2 巻 付 に は 、「荘 園 関 係 文 献 目 録 427~ 623 ペ ー ジ
が 付 さ れ て い る 。 英 文 タ イ ト ル は 、 Information of manors in Japan で あ る 。 荘 園 = マ ナ ー
とする通説に依拠した訳語を用いているのは、ミスリーディングだ。
注 2『 歴 史 地 理 』 1920 年 3 月 号 に 上 野 菊 爾 に よ る 抄 訳 が あ る が 、 原 注 は 訳 さ れ て い な い 。
注 3『 歴 史 地 理 』 1920 年 4 月 号 に 上 野 菊 爾 に よ る 抄 訳 が あ る が 、 原 注 は 訳 さ れ て い な い 。
矢吹晋『逆耳順耳』
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注 4-1.西 岡 虎 之 助 「中 世 前 期 に お け る 荘 園 的 農 村 の 経 済 機 構 」『 文 化 史 研 究 』 2、 1948 年 。
注 4-2.加 藤 民 夫 「室 町 初 期 の 地 頭 領 ----薩 摩 入 来 院 の 場 合 」『 秋 大 史 学 』 10、 1959 年 。
注 4-3.石 村 み ち 子 「地 頭 職 相 伝 上 に 於 け る 女 性 の 地 位 ----入 来 文 書 を 中 心 と し て 」『 國 學 院
雑 誌 』 6 2 - 11 、 1 2 、 1 9 6 1 年 。
注 4 - 4 . 永 原 慶 二 「 中 世 村 落 の 構 造 と 領 主 制 」 永 原 慶 二 、稲 垣 泰 彦 編『 中 世 の 社 会 と 経 済 』1 9 6 2
年所収。
注 4-5.古 川 常 深 「中 世 に お け る 観 農 形 態 と 農 民 層 分 解 ----鎌 倉 末 期 入 来 院 の 場 合 」『 東 洋 研
究 』 5、 1963 年 。
注 4-6.北 島 万 次 「中 世 末 期 に お け る 門 の 存 在 形 態 」『 社 会 と 伝 承 』 7-3、 4 1963 年 。
注 4 - 7 . 五 味 克 夫 「 入 来 院 山 口 氏 に つ い て - - - - - 山 口 文 書 の 紹 介 」『 鹿 大 史 学 』 11 、 1 9 6 3 年 1 2
月。
注 4-8.佐 川 弘 「中 世 入 来 院 領 に お け る 在 地 構 造 の 変 質 」『 史 学 雑 誌 』 73-4、 6 1964 年 。
注 4-9.上 杉 允 彦 「門 割 制 度 成 立 の 前 提 」『 史 観 』 69、 1964 年 。
注 4-10.高 橋 暢 「渋 谷 氏 の 西 遷 と 惣 領 制 ----特 に 入 来 院 を 中 心 に 」『 法 政 史 学 』 21、 1969 年
注 5 阿 部 猛 、 佐 藤 和 彦 編 『 日 本 荘 園 大 辞 典 』 東 京 堂 出 版 、 1997 年 9 月 、 950 ペ ー ジ
注 6 西 岡 虎 之 助 「中 世 前 期 に お け る 荘 園 的 農 村 の 経 済 構 造 」『 荘 園 史 の 研 究 』 下 巻 2、 岩 波
書 店 、 1953-1956 年 。
注 7-1 永 原 慶 二 「中 世 村 落 の 構 造 と 領 主 制 」『 中 世 の 社 会 と 経 済 』 永 原 慶 二 、 稲 垣 泰 彦 編 、
東 大 出 版 会 、 1962 年 152~ 214 ペ ー ジ に 所 収 。
注 7 - 2 石 井 進 稿 『 日 本 中 世 史 像 の 再 検 討 』網 野 善 彦 ・ 石 井 進 ・ 上 横 手 雅 敬 ・ 大 隅 和 雄 ・ 勝
俣 鎭 夫 編 。 山 川 出 版 社 、 1988 年 。 な お 、 こ の 本 は 1986 年 に 札 幌 で 開 か れ た 「 第 10 回 北
海道高等学校日本史教育研究会」の講演記録をもとに編まれたものである。ホームページ
「 学 校 を 変 え よ う h t t p : / / w w w 4 . p l a l a . o r. j p / k a w a - k / i n d e x . h t m 」 の 編 集 部 紹 介 に よ れ ば 、
『再
検討』は、高等学校の日本史教員の研究会での講演であり、各論題においてどの論者も教
科書に書かれている歴史がいかに誤っているかということを中心に置いて最新の研究成果
をもとに論じているため、
「 教 科 書 的 歴 史 理 解 」を 点 検 す る に は 最 適 の 書 、の 由 で あ る 。石
井 論 文 は の ち 『 石 井 進 著 作 集 』 第 八 巻 に 所 収 、 岩 波 書 店 、 2005 年 3 月 。
注 8 三木靖、鹿児島短大学長を経て、当時鹿児島国際大学教授。
2005 年 9 月 号
甦 る t h e D o c um e n t s o f I r i ki ( 入 来 文 書 )
(その2)
Ⅱ .朝 河 貫 一 と 『 入 来 文 書 』
東 大 史 料 編 纂 所 は 一 九 九 八 年 に 朝 河 没 後 五 〇 周 年 を 記 念 し て 企 画 展 「入 来 文 書 の 世 界 」を
行 っ た 。 そ の 記 念 講 演 「入 来 文 書 と 薩 摩 渋 谷 氏 」注 9(於 東 京 大 学 山 上 会 館 )に お い て 、 入 来 町
[ 現 薩 摩 川 内 市 ] 出 身 の 中 世 史 家 山 口 隼 正 ( 史 料 編 纂 所 教 授 を 経 て 、現 在 長 崎 大 学 教 授 ) は 、朝
河貫一と入来院文書との関係を詳しく解説してくれた。長い引用になるが、入来院文書の
発見から史料編纂所の所蔵に至るまでの古文書の運命をこれほど的確に説明した資料はほ
矢吹晋『逆耳順耳』
323
かにない。
薩摩國絵図
「そ も そ も 入 来 院 文 書 の 存 在 が 脚 光 を 浴 び た の は 、 近 代 日 本 が 生 ん だ 最 大 の 国 際 的 歴 史 家
で 、米 国 イ ェ ー ル 大 学 教 授 と な っ た 朝 河 貫 一 氏 が 代 表 作『 入 来 文 書 』を 出 し て か ら で あ る 」 。
「 一 九 一 九 年 の 帰 国 中 、東 京 の 史 料 編 纂 所 で『 薩 藩 旧 記 雑 録 』所 収 の 入 来 院 文 書 に 着 目 、こ
れを日欧封建制比較研究の最適な素材として選び、はるばる現地入来に赴き独自に原本調
査 を 行 っ た 。 史 料 編 纂 所 と し て 未 調 査 の 地 で あ る 」。 「朝 河 氏 は イ ェ ー ル 大 学 在 職 中 の 一 九
一七~一九年に日本中世史研究のために史料編纂所に留学した。その最後の年、一九年六
月 に 一 週 間 余 り 現 地 入 来 村 ( 当 時 ) に 滞 在 し 、麓 の 入 来 院 家 ( 当 主 入 来 院 重 光 氏 。重 尚 氏 の 父 ) や 村
役場に通って入来院文書や清色亀鑑などを調査、筆写などに努めた。ただ系図などの調査
の余裕はなく、現地の識者に筆写を依頼した。その三カ月後、九月に横浜港から帰米、以
後 ふ た た び 故 国 日 本 の 土 を 踏 む こ と は な か っ た 」。 「一 九 二 五 年 、 日 本 文 『 入 来 文 書 』 の 印
刷 が 完 了 し た 。 日 本 イ ェ ー ル 大 学 会 会 長 大 久 保 利 武 氏 (利 通 の 子 で 利 謙 の 父 )の 世 話 に よ り 、
三秀舎で印刷した。この日本文『入来文書』には、編年順に文書一五五点が配列されてい
るが、入来院文書のみならず、寺尾文書、岡元文書や清色亀鑑も収録し、それに薩藩旧記
雑 録 か ら 入 来 関 係 文 書 を 抽 出 し て い る 。付 録 と し て 、入 来 院 氏 系 譜 な ど 系 図 類 を 収 録 す る 」 。
「そ し て 一 九 二 九 年 春 、 英 文 The Documents of Iriki も 完 成 し 、 日 英 両 文 (合 冊 )の 形 で イ ェ
ー ル 大 学 出 版 会 と オ ッ ク ス フ ォ ー ド 大 学 出 版 会 か ら 発 行 さ れ た 」。 「史 料 編 纂 所 が 初 め て 入
来に史料採訪したのは、一九二五年龍粛(りょうすすむ)編纂官一行が実施したときである
(龍 氏 は の ち 所 長 )」。
「 終 戦 直 後 、一 九 四 八 年 八 月 に 朝 河 貫 一 氏 は 米 国 で 没 し た が 、一 九 五 〇 年 代 前 半 に な る と 、
朝 河 氏 と そ の 著 書 『 入 来 文 書 』 に 対 し て 再 評 価 の 気 運 が 高 ま る 」。 「一 九 五 四 年 二 月 、 東 京
に お い て 朝 河 貫 一 著 書 刊 行 委 員 会 が 設 立 さ れ 、 委 員 長 に 松 方 三 郎 氏 (正 義 の 子 息 )が な り 、 松
方 氏 自 身 が 現 地 入 来 を 訪 れ た り し て 、い よ い よ『 入 来 文 書 』再 刊 ( 増 補 ) の 運 び と な っ た 。同
年秋、九州大学の竹内理三氏、秀村選三氏や史料編纂所の阿部善雄氏らが現地入来町を訪
れ 、 入 来 院 文 書 な ど 原 本 史 料 を 調 査 す る 」。 「一 九 五 五 年 一 月 、 入 来 院 文 書 を は じ め 岡 元 家
文 書 、寺 尾 家 文 書 は 、現 地 入 来 町 麓 を 離 れ 、史 料 編 纂 所 に 移 送 (借 入 )さ れ た 。史 料 編 纂 所 で
は 、早 速 、佐 藤 進 一 氏 た ち が 委 員 と し て 再 刊 (増 補 )の 作 業 に 取 り か か り 、同 年 一 〇 月 、研 究
発 表 会 で 佐 藤 氏 が 「入 来 文 書 の 研 究 」を 行 い 、 翌 一 一 月 、 史 料 展 覧 会 で 入 来 院 家 文 書 、 寺 尾
家 文 書 、 岡 元 家 文 書 を 展 示 し て い る 。 同 年 一 二 月 、 つ い に 『 入 来 文 書 』 と し て 英 訳 付 き (復
刻 ) で 再 刊 本 が 出 さ れ た 」 。「 こ の 再 刊 本 に お い て 日 本 文 ( 古 文 書 翻 刻 ) の 部 分 は 、朝 河 氏 に よ る
矢吹晋『逆耳順耳』
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初 刊 本 が 編 年 順 で あ っ た の に 対 し て 、 入 来 院 本 家 の み で な く 、 入 来 町 内 の 諸 家 (岡 元 家 、 寺
尾 家 、庶 流 入 来 院 家 、田 中 家 )ご と に 文 書 を 配 列 し て 、
『 旧 記 雑 録 』な ど か ら の 分 は 入 来 関 係 文
書として総括し、総体的に文書を増補し、念のために文書表題の下に初刊本における配列
番号を付けている。そして、この再刊本には新たに西岡虎之助氏、宝月圭吾氏、竹内理三
氏 の 論 説 が 添 え ら れ て い る 」 。「『 入 来 文 書 』が 再 刊 さ れ た 後 、寺 尾 家 文 書 と 岡 元 家 文 書 は 、
入来町の所蔵者に戻ったが、その後、寺尾家文書は中世文書、近世文書、それに祁答院旧
記 い ず れ も 鹿 児 島 大 学 附 属 図 書 館 に 譲 渡 さ れ (一 九 六 三 年 )、岡 元 家 文 書 は 鹿 児 島 県 歴 史 資 料
セ ン タ ー 黎 明 館 に 譲 渡 さ れ て い る ( 一 九 七 二 年 ) 。そ し て 一 九 六 六 年 、つ い に 入 来 院 文 書 ( お よ
び 清 色 亀 鑑 )は 当 主 入 来 院 重 尚 氏 か ら 史 料 編 纂 所 に 譲 渡 (購 入 )さ れ て い る 。 こ こ に 『 入 来 文
書』の主体たる入来院家文書、寺尾家文書、岡元家文書は、いずれも現地入来町を離れて
し ま っ た 」。
こ こ で 念 の た め に 、 日 本 の 大 学 図 書 館 の 朝 河 貫 一 The Documents of Iriki 各 版 を ど の よ
う に 所 蔵 し て い る か 、 念 の た め に 確 認 し て お こ う 。 朝 河 貫 一 編 The Documents of Iriki の
バ ー ジ ョ ン に は 以 下 の 六 種 の 版 本 注 1 0 が あ る 。六 種 の 版 本 お よ び『 近 世 入 来 文 書 』の 所 蔵
状 況 は 注 11 の ご と く で あ る 。
注 9 .余 談 だ が 、引 用 の 最 後 の 一 文 に は 、入 来 町 出 身 の 歴 史 家 山 口 の 感 慨 が 込 め ら れ て い る よ う に 感 じ
ら れ る 。な お 講 演 の 後 半 部 分 は 「 薩 摩 渋 谷 氏 研 究 の 一 視 点 - - - - 入 来 文 書 と 薩 摩 渋 谷 氏 」『 東 京 大 学 史 料 編
纂 所 研 究 紀 要 』 第 10 号 、 2000 年 3 月 に 所 収 。
注 10 The Documents of Iriki 各 版 の図 書 館 所 蔵 状 況
各 版 の出 版 年
図書館数
A.1929 The documents of Iriki , Yale Original [英 文 、和 文 ]
7
B.1974 The documents of Iriki , Reprint by Greenwood Press [ 英 文 、和 文 ]
7
C.1955 入 来 文 書 / 日 本 学 術 振 興 会 [英 文 、和 文 ]
59
D.1957 入 來 文 書 / 日 本 学 術 振 興 会 55 年 版 に同 じ [英 文 、和 文 ]
11
E.1967 入 來 文 書 / 日 本 学 術 振 興 会 新 訂 [英 文 なし、和 文 のみ]
31
F.2000 入 来 文 書 / 紀 伊 国 屋 版 55 年 学 振 版 のリプリント版 [英 文 、和 文 ]
28
G 1981 年 阿 部 善 雄 、古 川 常 深 、本 田 親 虎 編 『近 世 入 来 文 書 』東 大 出 版 会 [英 文 なし、和 文 のみ]
65
注 11-A The Documents of Iriki , 1929 の所 蔵 図 書 館 は、以 下 の 7 図 書 館 にすぎない。1.九 大 図 2.九 大 法 3.
交 流 基 金 本 部 図 4.筑 大 5.東 大 史 料 図 書 6.日 文 研 7.立 大 、である。注 11-B The Documents of Iriki , 1929
の英 文 第 二 版 (一 九 七 四 年 版 )の所 蔵 図 書 館 は、以 下 の 7 図 書 館 にすぎない。1. ICU 図 2.関 外 大 3.慶 大 三 田
4.国 文 研 書 庫 5.上 智 大 市 図 6.日 文 研 7.龍 大 深 図 、である。二 九 年 原 版 は都 合 14 部 が所 蔵 されている。注
11-C 一 九 五 五 年 学 振 版 は 59 図 書 館 が所 蔵 している。注 11-D 一 九 五 七 年 学 振 再 版 は 11 図 書 館 が所 蔵 して
いる。学 振 版 は都 合 70 図 書 館 が所 蔵 している。後 述 の紀 伊 国 屋 版 を含 めると、都 合 98 図 書 館 である。注 11-E
一 九 六 七 年 新 訂 版 [和 文 のみ、英 文 なし]は 31 図 書 館 が所 蔵 している。注 11-F 二 〇〇〇年 紀 伊 国 屋 版 は 28
図 書 館 が所 蔵 している。注 11-G 一 九 八 一 年 阿 部 善 雄 、古 川 常 深 、本 田 親 虎 編 『近 世 入 来 文 書 』東 大 出 版 会
は 65 図 書 館 が所 蔵 している。
矢吹晋『逆耳順耳』
325
2 0 0 5 年 11 月 号
甦 る t h e D o c um e n t s o f I r i ki ( 入 来 文 書 )
(その3)
Ⅲ .The Documents of Iriki と い わ ゆ る 入 来 (院 )文 書 は 峻 別 さ れ な け れ ば な ら な い
---遺 稿 整 理 時 の 諸 問 題 に つ い て
前 項 で 山 口 隼 正 が 指 摘 し た よ う に 、 一 九 五 五 年 、 朝 河 貫 一 著 書 刊 行 委 員 会 に よ っ て The
D o c u m e n t s o f I r i k i ( 東 京 、日 本 学 術 振 興 会 ) が 復 刻 さ れ た 。そ の 際 に 、朝 河 の 執 筆 し た 英 文 の
部分は一九二九年版のまま復刻したが、これには三本の英文解説論文と入来文書の増訂部
分 (日 本 語 原 史 料 )が 付 加 さ れ た 。 こ れ に よ っ て 日 本 語 部 分 は 大 き く 様 相 を 変 え る こ と に な
っ た が 、朝 河 訳 の 英 文 テ キ ス ト 文 書 番 号 と 日 本 語 原 件 の 文 書 番 号 の 対 応 関 係 は 、新 版 x x ~
xxii ペ ー ジ 所 収 の Index to the Japanese text of the doc uments に 示 さ れ て い る 。 日 本 語
原 史 料 が 増 補 さ れ た ほ か に 、 三 篇 の 英 文 解 説 注 14 が 付 さ れ た 。 そ れ か ら 一 〇 年 を 経 た 一
九 六 五 年 に 、 朝 河 遺 稿 を 集 め た The Land and Society in Medieval Japan (『 荘 園 研 究 』 )注 15
が出版された。
こうして一九四八年八月の朝河没後に盛り上がった顕彰運動が一九五五年にようやく結
実し、さらに一〇年を経て、遺稿集が出版され、顕彰運動は一段落したわけだ。これらの
顕彰のために多くのエネルギーが費やされたことはいうまでもない。関係者の労苦をねぎ
らいたい気持ちは強い。だが、その反面、この顕彰運動の限界あるいは欠陥も、半世紀を
経た後、明らかである。文字通りの後知恵になるが、いま顧みると、二冊の著書はどうや
ら 「編 集 方 針 を 間 違 え た の で は な い か 」と い う 疑 い を 禁 じ 得 な い 。
ま ず 五 五 年 の The Documents of Iriki 復 刻 に つ い て 。
この企画は、英文部分の復刻はそれでよいとして、日本語部分も朝河の選択通りに一五
五 の 史 料 を そ の ま ま 復 刻 す べ き で あ っ た 。 す な わ ち 復 刻 は 朝 河 の 編 集 し た 通 り に 「完 全 復
刻 」 す べ き で あ り 、手 を 加 え る べ き で は な か っ た 。史 料 を 「 増 補 」 し た の は 、ミ ス リ ー デ ィ ン
グではないか。日本の大学図書館等に原本は当時七冊しかなかった。だから、原本をまず
増 や す べ き で あ っ た 。 「増 補 」方 式 が な ぜ ま ず い の か 。 一 つ は 、 朝 河 が 熟 慮 の 末 に 選 択 し た
成果を曖昧にしてしまった。これによって英文との対照が不便になっただけでなく、朝河
の細心の選択の意味を結果的に薄めることになった。
もう一つは、史料の海に読者あるいは研究者を投げ込むことになった。史料の海はどこ
までも広く、かつ深い。海図なき航海は迷う。方法なき歴史家は容易に史料の大海に溺れ
る ほ か は な い 。 一 見 良 心 的 に 見 え る 「増 補 」が 実 は 、 朝 河 の 達 成 し た 成 果 か ら 読 者 の 目 を そ
らすことになった。朝河が何を選び、何を捨象したかを忘れさせ、朝河が熟慮の結果取捨
したものを単なる準備不足と誤解させた形跡が残る。これは朝河史学からその方法を真に
学ぶことなく、単に形式を模倣した一知半解というほかない。
最も分かりやすい一例だけを挙げよう。百歩譲って、もし増補が必要だとすれば、それ
は 英 文 155A と 155B の よ う に 、 朝 河 が 英 訳 (三 七 三 ~ 三 七 七 ペ ー ジ )を 掲 げ な が ら 、 印 刷
時間の都合で日本語テキストに含めなかったことを悔いている徳川慶喜の大政奉還に関す
矢吹晋『逆耳順耳』
326
る 二 点 ( 三 七 九 ペ ー ジ 注 の 冒 頭 部 分 ) を 増 補 す べ き で あ っ た 。こ の 点 に 配 慮 し て い な い の は 、
ここに書かれた朝河の釈明を刊行会関係者が読まなかったことを意味すると解するほかな
い。
もう一つの欠陥は、朝河の書いた英文部分をそのまま邦訳する作業を怠ったことだ。多
く の 論 者 が 書 い て い る よ う に 、 「朝 河 が 英 文 で 発 表 し た こ と 」が 読 者 を 遠 ざ け る こ と に な っ
た と す れ ば 、な に よ り も ま ず 邦 訳 に 取 り 組 む べ き で あ っ た 。も し 史 料 の 増 補 が 必 要 な ら ば 、
そ れ は 次 の 課 題 と す べ き も の で あ っ た 。こ こ で 朝 河 の T h e D o c u m e n t s o f I r i k i と い く つ か の
『入来文書』の違いを際立たせるために、所収史料を対照表にまとめてみよう。
表 1 三 つの『入 来 文 書 』
編集者
[A]
朝河貫一
出版年
1929 年
所収史料
日 本 語 史 料 1~ 155 英 文 の 部 に の み 155-A「徳 川
The
慶 喜 の 覚 書 」(一 八 六 七 年 半 ば )お よ び 155-B「玉 座
Documents
に 対 す る 将 軍 の 覚 書 」 ( 一 八 六 七 年 、『 徳 川 慶 喜 公
of Iriki
伝 』 )を 含 む 。 頼 朝 に よ る 幕 府 の 成 立 か ら 大 政 奉
還までの分析が朝河の課題であったことを示す
もの。
部 入 来 院 家 242、 岡 本 家 79、 寺 尾 家 45、 庶 流 入 来
[B-1]
朝河貫一著 英
The
書 刊 行 委 員 1 9 5 5 年 、日 本 院 家 1 2 、 田 中 家 2 、 清 色 亀 鑑 8 0 、 入 来 関 係 5 9 、
Documents
会
of Iriki
文
の
語 史 料 の 部 祁 答 院 4 6 、諸 氏 系 図 8 、計 5 7 3 文 書 お よ び 写 真 版
1957 年 7 月 、 7 点 再 刊 次 第 に い う 。 「本 書 の 再 刊 に 当 た っ て は 、
323 ペ ー ジ
後 学 と し て 改 め て 原 本 と の 校 訂 を 行 う 一 方 、学 界
の便を計って、編纂の体例に次の方針を採用し
た 。す な わ ち 入 来 町 に 現 存 す る 文 書 は 、所 蔵 者 別
に す べ て こ れ を 収 蔵 す る と 共 に 、文 書 を 現 存 状 態
に 則 し て 配 列 す る こ と と し た の で あ る 。こ の 方 針
に 基 づ き 、 本 年 1 月 、『 入 来 文 書 』 の 原 本 は 、 朝
河博士の偉業に酬いんとする入来院重尚氏の好
意により、同家と委員会との厳重なる管理の下
に 、鹿 児 島 県 入 来 町 か ら 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 に 移
送 せ ら れ た 。こ こ に 本 格 的 に 、し か も 急 速 に 編 纂
を 開 始 し 得 る に 至 っ た 。そ し て 東 京 大 学 助 教 授 佐
藤 進 一 委 員 等 が 編 纂 に 当 た り 、博 士 に ゆ か り 深 い
史料編纂所の専門学徒がこれに協力した」
[B-2]
矢吹晋『逆耳順耳』
朝 河 貫 一 著 1967 年 8 月 、 入 来 院 家 242、 岡 本 家 79、 寺 尾 家 45、 庶 流 入 来
327
『 入 来 文 書 刊 行 委 員 日 本 語 史 料 の 院 家 12、 田 中 家 2、 清 色 亀 鑑 80、 入 来 関 係 59、
書』新訂版
会
み
3 2 3 ペ ー 祁 答 院 4 6 、諸 氏 系 図 8 、計 5 7 3 文 書 お よ び 写 真 版
ジ。
5 点 松 方 三 郎 委 員 長 の 序 に い う 。「 原 典 資 料 と し て
の 入 来 文 書 は 、今 回 の 刊 行 に よ っ て 、さ ら に 広 く
活 用 さ れ る こ と で あ ろ う 。学 界 の た め に 慶 賀 に た
えないことだ。ここに新版を世に送るに当たり、
い さ さ か 由 来 を 識 し 、併 せ て 新 た に 校 訂 を 加 え ら
れ た 史 料 編 纂 所 の 今 枝 愛 真 、新 田 英 治 、百 瀬 今 朝
雄 、金 井 圓 、益 田 宗 の 諸 氏 と 、佐 藤 進 一 教 授 、石
井進講師の労を感謝し刊行の言葉にかえる次第
である」
[C]
阿 部 善 雄 、 1981 年 4 月 東 史 料 290 お よ び 系 図 13。 編 者 阿 部 教 授 の 序 に い
『 近 世 入 来 古川常深、 大出版会
う 。「 近 世 外 城 制 下 の 伝 統 は 、ま だ 学 究 者 の 手 に よ
文書』
っ て 十 分 に 点 さ れ る こ と が な か っ た の で 、よ り 輝
本田親虎編
き を 放 つ よ う に な っ た と は い え な い 。こ れ を 惜 し
ん で 本 書『 近 世 入 来 文 書 』の 収 集 と 編 纂 を 志 し た
の が 、入 来 町 出 身 の 元 高 崎 経 済 大 学 教 授 故 古 川 常
深 氏 で あ り 、同 町 の 誇 る 碩 学 本 田 親 虎 氏 も 私 と と
も に 協 力 さ れ た 。そ し て 同 教 授 が 業 半 ば に し て 没
す る に お よ び 、本 田 氏 は 全 面 的 に 編 纂 完 成 の 労 を
払 わ れ た 。こ こ に 中 世『 入 来 文 書 』の 命 脈 が 躍 動
し て『 近 世 入 来 文 書 』に 伝 え ら れ る に 至 っ た の で
あ り 、慶 賀 こ れ に ま さ る こ と は な い で あ ろ う 。さ
て 近 時 20 数 年 、 近 世 史 料 の 基 幹 を な す 大 名 史 料
群 の 調 査 が い ち じ る し く 進 展 を み た が 、そ の う ち
最も欠如するものは陪臣家臣団の史料群このよ
う な 事 情 に 鑑 み て 、薩 摩 藩 の 一 肢 と し て 同 藩 の 発
展を支えた外城主入来院氏をめぐる家臣団の史
料が、本書にみるように豊富に伝存したことは、
す こ ぶ る 貴 重 な こ と で あ る 。こ れ ら の 史 料 群 に よ
っ て 、わ れ わ れ は 外 城 制 下 の 在 郷 武 臣 団 の 公 私 に
わ た る 封 建 的 環 境 と 、な ら び に そ れ の 地 方 経 済 と
の 接 触 の 姿 を 、明 確 に 究 明 す る こ と が で き る で あ
ろ う 」。
上 の 表 1 か ら 明 ら か な よ う に 、朝 河 一 九 二 九 年 版 は 第 1 号 か ら 1 5 5 号 ま で 番 号 を 付 し て
古 文 書 を 収 め て い る 。関 連 文 書 は ま と め ら れ て い る の で 、朝 河 の 説 明 に よ れ ば 文 書 数 は 2 5 5
で あ る 。こ れ ら の 文 書 の 歴 史 的 意 味 づ け を ま ず 「 史 料 解 題 」 し 、次 い で こ れ を 英 語 に 訳 し て 、
矢吹晋『逆耳順耳』
328
詳 細 な 脚 注 を 付 し た も の 、こ れ が 朝 河 版 で あ る 。朝 河 は こ の 本 を 書 い た の で は な く 、「 編 集
し た 」も の だ と そ の 立 場 を 繰 り 返 し 説 明 し て い る 。 朝 河 は み ず か ら を 指 し て 「著 者 は 」と 書
い た 箇 所 は 一 つ も な く 、 す べ て 「編 者 は 」で 統 一 し て い る 。 歴 史 家 朝 河 は 歴 史 書 を 「書 い た 」
の で は な く 、 古 文 書 を 「編 集 し た 」と い う の が 彼 の 基 本 的 ス タ ン ス で あ る 。
朝 河 の 没 後 、 刊 行 委 員 会 は 収 録 史 料 を 二 ・四 倍 に 増 や す と 共 に 、 「所 蔵 者 別 に す べ て こ れ
を 収 蔵 す る 」 と 共 に 、「 文 書 を 現 存 状 態 に 則 し て 配 列 す る 」 方 針 を 採 用 し た 。こ の 結 果 、朝 河
版では菊判一三四ページ分であったものが菊判三二三ページに膨れ上がった。これによっ
て史料としての『入来文書』はより整う形になったが、朝河の編集意図あるいは執筆意図
は大きく損なわれる結果になった。これは刊行委員会が予測できなかった帰結であろう。
朝河はこれらの史料を用いて日本の封建制をヨーロッパとの比較において原史料に即した
客観的視点から研究することを望んでいたはずだが、その遺髪を継ぐ者が朝河の方法をい
わ ば 誤 解 し て 朝 河 の 成 果 を 埋 没 さ せ 、 朝 河 か ら 切 り 離 さ れ た 『 入 来 文 書 』 の 「物 神 化 」に 努
めたように映るのを否めない。
これは、はなはだ奇妙な成行きなのだが、ここに
(1 ) 世 に 理 解 さ れ る こ と の な か っ た 朝 河 史 学 の 悲 劇 と 、
(2 ) 朝 河 史 学 を 活 か す こ と が で き な か っ た 日 本 史 学 界 の 悲 劇 、 そ し て
(3 ) み ず か ら の 歴 史 を 国 際 的 視 野 に 立 っ て 眺 め る 機 会 を 失 っ た 日 本 国 民 の 悲 劇
が象徴されているように思われる。
あ え て 厳 し い 率 直 な 感 想 を 記 し た が 、 そ の 端 的 な 帰 結 が 『 近 世 入 来 文 書 』 [表 1 の C]の
編集であろう。これらの史料集の編纂が無用だというつもりは毛頭ない。それ自体として
は 大 事 な 作 業 で あ る 。し か し 、日 本 の 読 者 ・ 研 究 者 に と っ て よ り 必 要 な こ と は 、日 本 に お け
る封建制の発展と没落の歴史を知り、その封建遺産がいかに明治以後の歴史に引き継がれ
たかについての朝河の分析結果を知ることであったはずだ。遺憾ながら、竹内が指摘した
よ う に 、朝 河 史 学 は ま だ 日 本 史 理 解 の 主 流 に は な っ て い な い 。こ の よ う な 事 態 の 背 景 に は 、
の ち に 触 れ る よ う な い く つ か の 悪 条 件 が 重 な っ て の こ と だ が 、刊 行 委 員 会 の 関 係 者 自 体 が 、
竹内のような例外を除けば、朝河史学の核心、特に日欧封建制との比較の視点に照らして
日本史を解読しようとした朝河史学の意味をよく理解していなかったことも一因ではない
かと惜しむのである。
次 に 『 荘 園 研 究 』 注 15 の 編 集 方 針 に つ い て 。
こ の 本 は 未 定 稿 「越 前 牛 原 荘 」と 牛 原 荘 関 係 文 書 七 三 点 お よ び 荘 園 関 係 文 書 五 七 点 、 計 一
三〇篇の原史料を付した朝河遺稿と、朝河が英文で発表した論文の原文復刻七論文からな
っている。収録論文は以下のごとくである。
1. 日 本 の 封 建 的 土 地 所 有 の 諸 起 源 一 九 一 四 年 (『 史 学 雑 誌 』 に 朝 河 貫 一 自 身 に よ る 要 約 あ
り)
2. 中 世 日 本 の 寺 領 荘 園 の 生 活 一 九 一 六 年 (『 歴 史 地 理 』 に 上 野 菊 爾 に よ る 抄 訳 あ り )
3. 日 本 封 建 制 の 諸 相 一 九 一 八 年 (『 歴 史 地 理 』 に 上 野 菊 爾 に よ る 抄 訳 あ り )
4. 日 本 歴 史 に お け る 農 業 に つ い て の 総 論 一 九 二 九 年
矢吹晋『逆耳順耳』
329
5. 初 期 荘 園 と 初 期 マ ナ ー と の 比 較 研 究 一 九 三 〇 年
6. 封 建 制 度 ・日 本 一 九 三 〇 年
7. 源 頼 朝 に よ る 幕 府 の 創 立 一 九 三 三 年
朝河がすでに発表していた上記七論文を収めたのは妥当な措置である。望ましいのは原
文 だ け で な く 、 邦 訳 を 付 す べ き で あ っ た こ と だ 。 1~ 3 に つ い て は 、 す で に 邦 訳 が あ る が 、
必 ず し も 十 分 な も の と は い い が た い 。こ れ ら は 初 期 朝 河 の 封 建 制 論 で あ り 、The Documents
o f I r i k i ( 一 九 二 九 年 ) を 経 て 、朝 河 史 学 が 確 立 し た と す れ ば 、論 文 四 ~ 七 の 成 果 を 踏 ま え て 、
新 た に 再 訳 す べ き で あ っ た 。 さ ら に N o t e s o n Vi l l a g e G o v e r n m e n t i n J a p a n A f t e r 1 6 0 0 , I & I I ,
J o u r n a l o f t h e A m e r i c a n O r i e n t a l S o c i e t y, Vo l . 3 0 , 1 9 0 9 - 1 0 . & Vo l . 3 1 , 1 9 1 0 - 11 . は 、 典 拠 し
た資料部分が膨れ上がり、雑誌掲載は未完成に終わったので、完成度の点から一部では不
評 注 16 の よ う だ が 、 江 戸 時 代 の 分 析 と し て は 貴 重 な 成 果 で あ り 、 収 録 す べ き で あ っ た 。
こ れ ら の 既 発 表 論 文 を 中 心 と し て 、た と え ば『 朝 河 貫 一 封 建 論 集 』( 仮 題 ) を 編 纂 す れ ば 、
朝 河 史 学 の 核 心 を 理 解 す る う え で 、 役 立 っ た は ず で あ る 。 未 定 稿 「越 前 牛 原 荘 」と 牛 原 荘 関
係文書および荘園関係文書を収めたことも悪いはずはないが、これらの原史料のなかに、
朝河史学のエッセンスが埋没する結果となったのは、編集方針の失敗というほかない。い
ずれにせよ、遺稿整理に参加された関係者の努力に敬意を払う点で人後に落ちるものでは
ないが、その結果については、あえて率直な印象を記しておかなければならない。このよ
うな編集方針が朝河史学の核心への理解を妨げる結果となったのは惜しんでも余りあるも
のというほかない。
実はもう一つの事情がありそうだ。訳者は日本史学界の内部事情に不案内だが、管見す
る限り朝河史学は、戦後日本の政治状況のもとで進歩的日本史学を代表する存在であった
永原慶二のような研究者によって黙殺されたことが大きな転機になったのではあるまいか。
入来町へ現地調査に行きながら、その報告書で朝河の名に言及しなかった理由は、むろん
分からない。もし存命ならば、問い合わせてみたい気持ちだが、訳者は定年をまってよう
やく翻訳の仕事に着手し、事の経過に気づいたのであり、遅かりし由良の助である。かつ
て永原の講義を聞いたことのある友人によると、悪意をもって黙殺したとは思えない。お
そ ら く は 朝 河 史 学 の 位 置 づ け に 悩 み 、結 局 は 棚 上 げ し た の で は な い か と い う 見 方 で あ っ た 。
永原が朝河の問題提起に触発されて入来まで調査に行きながら、結局はそれを活かしきれ
なかったのは、朝河史学と当時の永原史学に代表される日本中世史学との距離があまりに
も隔たっていたからであろう。永原のように入来まで調査に出向く積極性は示さなかった
他の歴史家たちも、永原と同じように、黙殺してきたわけである。こうして朝河史学は進
歩派だけではなく、保守派あるいは中道派からも無視されてきた。
そ の 間 の 事 情 を 一 九 五 五 年 の 復 刻 版 お よ び 一 九 六 五 年 の The Land and Society in Medieval
Japan(『 荘 園 研 究 』 )の 解 説 論 文 か ら 、 詳 し く 観 察 し て み よ う 。
復 刻 版 所 収 の 西 岡 虎 之 助 論 文 注 1 2 は 徳 川 光 圀 の 指 示 に よ り 、『 大 日 本 史 』 の 編 纂 が 始 ま
り 、 狩 谷 棭 齋 (え き さ い 、 一 七 七 五 ~ 一 八 三 五 年 )の 考 証 を 経 て 、 明 治 か ら 昭 和 に 至 る 荘 園
研究を回顧しつつ、肝心の朝河貫一については、末尾のわずか二行で言及するのみだ。曰
矢吹晋『逆耳順耳』
330
く 、 「こ の 背 景 に 照 ら し て 見 る と き 、 朝 河 貫 一 の The Documents of Iriki の 目 的 と 達 成 は 、
い か に 優 れ て い て 、 先 例 の な い も の で あ る か が ま す ま す 明 ら か に な り つ つ あ る 」と 。
こ れ は 典 型 的 な 「敬 遠 手 法 」で は あ る ま い か 。 朝 河 の 「目 的 と 達 成 」に つ い て な に 一 つ 具 体
的 な 記 述 は な い 。 単 に 「優 れ て お り 、 先 例 が な い 」と 形 容 す る の は ホ メ 殺 し 以 下 で あ ろ う 。
宝 月 奎 吾 論 文 注 13 は 東 大 史 料 編 纂 所 が ど の よ う に 発 展 し て き た か 、 日 本 の 古 文 書 が ど の
ように保存され、研究されてきたかを記しているが、朝河貫一の名は一度も登場しない。
朝 河 自 身 が か つ て 米 国 か ら 史 料 編 纂 所 に 研 究 留 学 し 、そ の 史 料 を い か に 利 用 し た か は 、
『書
簡集』などから知ることができるが、宝月論文はほとんど朝河の研究に関心を示していな
いように見える。
竹 内 理 三 の 評 価 ---そ の 1
こ れ ら 二 つ の 「お 飾 り 」と は 異 な っ て 、 竹 内 理 三 [一 九 〇 七 ~ 一 九 九 七 ]論 文 注 14 は 唯 一 、
朝 河 の 研 究 を ま と も に 論 評 し て い る が 、 肝 心 の The Documents of Iriki か ら の 引 用 は 皆 無 で
あ る の は 象 徴 的 で あ る 。 竹 内 は 言 う 。 「当 時 イ ェ ー ル 大 学 に い た 朝 河 貫 一 博 士 に と っ て は 、
両 者 [日 本 の 荘 園 と ヨ ー ロ ッ パ の マ ナ ー ]は 同 じ も の で は な か っ た 。 し か し な が ら 朝 河 の 仕
事は外国語で書かれたので、新しい歴史的潮流のなかにあった日本の学者に注目されるこ
とは、ほとんどなかった。すなわちこの間に日本では唯物史観が幅を利かせていたのであ
っ た 」(p. xiv )。
竹 内 論 文 は マ ナ ー と 荘 園 の 類 似 性 を 主 張 す る (旧 講 座 派 の 流 れ を 汲 む )唯 物 史 観 派 が 朝 河
学 説 を 無 視 し た こ と を 実 に 的 確 に 指 摘 し て い る 。竹 内 は さ ら に 石 母 田 正 [ 一 九 一 二 ~ 一 九 八
六 ]『 中 世 的 世 界 の 形 成 』 注 1 7 や 藤 間 生 大 [ 一 九 一 三 ~ ]『 日 本 荘 園 史 』 注 1 8 な ど に 触 れ つ
つ、石母田の荘園五分類説を紹介する。すなわち畿内、瀬戸内、北陸、東海、山陰の五つ
の タ イ プ に 分 け 、 さ ら に 畿 内 = 先 進 型 と 辺 境 = 後 進 型 に 大 分 類 し た (xvi)。 石 母 田 の 五 分 類
では九州は無視されている。そのうえ、さらに辺境型のレッテルを貼り付ける始末であっ
た。これでは入来が無視されるのは火を見るよりも明らかだ。
竹内はいう。朝河博士は日本の荘園について西ヨーロッパのマナーと同じものと見る見
方に警告したと先に指摘した。しかしながら朝河の警告とは別に、社会経済史家たちは、
荘園の発展は当時の律令制度のアンチテーゼではなく、律令に固有なさまざまな要素の自
然 な 発 展 で あ り 、 成 長 だ と す る 見 解 を 堅 持 し 続 け た 。 た だ し 現 在 [一 九 六 五 年 当 時 ]で は 、
荘園は古代のもので、律令制度と調和するという解釈が支持を得ているが。
竹 内 は 続 け る 。戦 後 の 日 本 学 界 で は 、「 古 代 社 会 は 奴 隷 制 の 上 に 」 樹 立 さ れ 、「 中 世 社 会 は
農 奴 制 を 基 礎 と し た 」と み な す 観 点 に 合 わ せ て 、 「古 代 に 属 す る 荘 園 は 奴 隷 制 に 基 づ く 生 産
様 式 で あ っ た 」と み る 見 解 が 幅 を 利 か せ て い る 。
こ の 解 釈 は 「封 建 社 会 が 荘 園 制 度 か ら 発 生 し た 」と 説 明 す る う え で き わ め て 便 利 で あ っ た
ために、学者たちは今日このテーゼを実証するためにあらゆる努力を惜しまないように見
え る 。 し か し な が ら 「荘 園 で は 奴 隷 が 領 地 を 耕 し た 」と す る 解 釈 は 信 憑 性 を 問 わ れ な い わ け
にはいかない。
矢吹晋『逆耳順耳』
331
こ う し て 竹 内 は 、荘 園 制 度 と 封 建 制 度 と の 関 係 を 論 じ 、実 は 封 建 制 度 自 体 に つ い て の 定 義
が 曖 昧 な こ と を 論 じ 、今 後 の 研 究 の 発 展 の た め に は 、「 朝 河 博 士 の 成 果 に 対 す る 注 意 深 い 研
究 が 必 要 だ 」 と 説 い た 。竹 内 は 続 け て 、一 四 ~ 一 五 世 紀 の 郷 村 制 を 論 じ て 、村 落 に お け る 農
村共同体的絆と荘園の成長と崩壊、封建制の勃興の関係を研究課題と設定した。
竹 内 は 朝 河 学 説 が 無 視 さ れ た 理 由 の 一 つ が 「荘 園 と マ ナ ー を 峻 別 す る 」主 張 に あ る こ と は
正しく指摘したが、この論文では朝河が分析した荘園の解体と知行化の過程、これに伴う
農村社会の再編成の部分には言及していない恨みが残る。
な お 、 竹 内 は 一 九 五 五 年 に 「日 本 荘 園 研 究 の 歴 史 」注 19 を 書 い て い る 。 い わ く 、 「荘 園 と
中 世 村 落 が 必 ず し も 一 致 せ ず 、 且 つ 西 洋 の manor と も 異 な る 点 を い ち 早 く 指 摘 し た の は 、
エ ー ル 大 学 の 朝 河 貫 一 [ 寛 一 と 誤 植 ] 氏 で あ る 。氏 は 、大 正 五 年 [ 一 九 一 六 年 ] ま で に 、ア メ リ
カ に お い て 「一 六 〇 〇 年 以 後 の 日 本 の 村 落 統 治 」、 「日 本 に お け る 封 建 的 土 地 所 有 の 起 源 」、
「中 世 日 本 の 荘 園 生 活 」な ど の 英 字 論 文 を も の せ ら れ た が 、 英 文 で あ る た め 国 内 の 歴 史 学 者
の 目 に ふ れ る 機 会 が な か っ た 。 し か る に 大 正 九 年 [ 一 九 二 〇 年 ]『 歴 史 地 理 』 誌 上 に 、 「 中 世
日 本 の 寺 院 領 」及 び 「日 本 の 封 建 制 度 に 就 い て 」を 発 表 し て 、 manor と 荘 園 と は 異 な る こ と
を 指 摘 し 、 manor は 村 落 団 体 で あ る の に 、 荘 園 は 散 在 的 田 家 組 織 ( Einzelhof )の 一 で 、 わ
が 国 の 荘 園 は 、 manor の 如 き 領 主 の 強 力 な 支 配 下 に 立 つ も の で は な か っ た こ と 、 荘 園 の 領
主権は薄弱で、荘民は農奴ではなかったことを述べ、後者では、荘園がそのままに封建的
封土ではなく、地頭職や名主職が封建武士の恩給の対象であったことを注意したもので、
共 に 頗 る 重 大 な 提 言 を ふ く み 、 特 に [講 座 派 の 流 れ を 汲 む ]内 部 構 造 派 に と っ て は 、 賛 否 に
かかわらず無視する能わざる内容をもっていたが、この論文が史料の脚注が十分でなかっ
た た め に [邦 訳 は 原 注 を 省 略 し て い た ]、 十 分 わ が 学 界 に 理 解 さ れ 得 な か っ た 。 最 近 筆 者 [竹
内 ]が 、
『 史 学 雑 誌 』に 発 表 し た 「荘 園 制 と 封 建 制 ----日 本 の 場 合 」は 、も っ ぱ ら こ の 朝 河 博 士
の 論 文 に よ り 示 唆 さ れ た も の に 過 ぎ な い 」注 19。
竹 内 が 末 尾 で 言 及 し た 「 荘 園 制 と 封 建 制 - - - - 日 本 の 場 合 」 は 、『 史 学 雑 誌 』 注 2 0 に 発 表 さ
れ、その後、著作集『荘園史研究』に収められている。この論文は、日本における荘園史
研 究 の 「二 つ の 重 大 な 誤 解 」に つ い て 、 誤 解 の 原 因 が 「日 本 の 荘 園 制 と 封 建 制 」と を 「西 洋 の
m a n o r と f e u d a l i s m と に 対 応 さ せ た 」 こ と に よ っ て 生 じ た と し て 、誤 解 を 解 こ う と し た も
のである。
第 一 の 誤 解 は 「西 欧 の feudal system が manorial system を 基 盤 と し て い る 」と こ ろ か
ら 、 「わ が 国 の 封 建 制 も 荘 園 制 を 基 盤 と し て い る 」と 見 る 考 え 方 で あ る 。 し か し 、 こ の 説 に
よ る と 、 「荘 園 制 時 代 と い わ れ る 平 安 時 代 」と 「封 建 制 時 代 と い わ れ る 江 戸 時 代 」と を 以 て 、
「 同 一 の 社 会 構 造 と み と め る 」 こ と に な り 、不 自 然 で あ る 。わ が 国 の 封 建 制 は 、む し ろ 「 荘 園
制 を む し ば み 、 変 質 さ せ 、 解 体 さ せ る こ と に よ っ て 成 長 し 、 完 成 し て い っ た 」。 「荘 園 制 と
封 建 制 は 異 質 な も の 」で あ り 、 別 個 の も の で あ る 。 注 21
第 二 の 誤 解 は 「荘 園 制 を 以 て 封 建 制 に 対 立 す る 社 会 関 係 の system と 見 る 」見 方 で あ る 。
こ の 観 点 は 、「 荘 園 制 と 封 建 制 を 区 別 し た 」 の は 進 歩 だ が 、「 封 建 制 の 構 造 か ら 荘 園 制 を 逆 に
類 推 し た 見 方 」に ほ か な ら な い 。
矢吹晋『逆耳順耳』
332
竹内は封建制の内容を三カ条に整理する。
(1)土 地 が 主 要 な 財 産 的 形 態 と な っ て い る こ と 。
(2)土 地 所 有 者 で あ る 領 主 階 級 が 、 土 地 の 占 有 者 で あ り 同 時 に 独 立 的 な 経 営 者 で あ る 「農
奴 」か ら 、 剰 余 生 産 物 、 又 は 労 働 力 を 提 供 さ せ る こ と 。
(3) 独 立 的 な 土 地 の 占 有 者 ・ 経 営 者 で あ る 農 奴 を 収 奪 ・ 搾 取 す る た め に 経 済 外 的 強 制 が 行
われること、である。
こ こ で 竹 内 は 「一 三 世 紀 か ら 一 八 世 紀 の 間 の 農 民 の 性 格 」を 、 「農 奴 と 一 色 に ぬ り つ ぶ す 」
農 奴 論 を 退 け つ つ 、 「主 君 と 臣 下 の 主 従 関 係 」に よ っ て 秩 序 づ け ら れ た 武 家 時 代 で あ る と し
て 、そ の 構 造 を 次 の よ う に 説 明 す る 。「 鎌 倉 時 代 の 将 軍 と 御 家 人 と の 関 係 」 は 、「 個 人 と 個 人
の 人 格 的 関 係 に よ っ て 成 立 し た も の 」で あ っ て 、 「将 軍 が 御 恩 と し て 与 え る 土 地 給 与 、 又 は
所 領 安 堵 」は 、 こ の 「人 的 関 係 を 媒 介 と し て 」行 わ れ た 、 封 建 関 係 は 、 「土 地 の 給 与 を 媒 介 と
し て 、 人 的 関 係 に 入 る 」と い わ れ る が 、 「実 は そ の 逆 で あ る 注 22」と 。
竹 内 が こ の 論 文 に つ い て 「も っ ぱ ら こ の 朝 河 博 士 の 論 文 に よ り 示 唆 さ れ た も の 」と 語 っ た
ことは前述の通りだが、この竹内論文自体においては、典拠とした朝河論文は文献に挙げ
ら れ て お ら ず 、直 接 的 言 及 は な か っ た 。竹 内 は『 史 学 雑 誌 』
『 歴 史 地 理 』に 抄 訳 さ れ た 朝 河
の 封 建 制 論 の 骨 子 に 照 ら し て 、 当 時 日 本 で 行 わ れ て い た 「二 つ の 大 き な 誤 解 」を 正 そ う と し
たのであった。
竹 内 理 三 の 評 価 -そ の 2
前 述 の よ う に 、 松 方 三 郎 (一 八 九 九 ~ 一 九 七 三 )を 委 員 長 と す る 朝 河 貫 一 著 書 刊 行 委 員 会
は 一 九 五 五 年 に 『 入 来 文 書 』 (増 補 版 )を 出 版 し た の に 次 い で 、 一 九 六 五 年 に 遺 稿 集 と も い
う べ き『 荘 園 研 究 』注 1 5 を 刊 行 し た 。刊 行 委 員 会 名 義 に よ る 日 本 語 の 「 序 」 は こ う 述 べ て い
る 。「 先 に 本 委 員 会 が『 入 来 文 書 』の 増 補 公 刊 を 果 た し て よ り 、遺 稿 の 出 版 に 対 す る 期 待 が
この第二集『荘園研究』として結実するに至る迄には、長い著実なる準備を必要とした。
エール大学の図書館の一室に収蔵される博士の膨大なる遺稿と蒐集資料を整理公刊するこ
と は 容 易 な る 事 業 で は な く 、同 大 学 に お け る 歴 史 学 者 の 整 理 を 俟 た な け れ ば な ら な か っ た 」 。
引 用 箇 所 の 前 後 を 飾 る 美 文 調 の 文 体 か ら 判 断 し て 、こ の 序 の 執 筆 者 は 阿 部 善 雄 ( 一 九 二 〇
~ 一 九 八 六 、当 時 史 料 編 纂 所 所 員 、の ち 東 大 史 料 編 纂 所 教 授 ) と 推 測 さ れ る 。松 方 三 郎 に よ
る 英 文 序 ( 一 九 六 五 年 三 月 三 〇 日 付 ) の 末 尾 に 阿 部 は 刊 行 事 業 会 の 事 務 局 長 (generalsecretary in charge of the publication) と し て 働 い た こ と が 記 さ れ て い る 。 ま た 阿 部 の 同
僚 金 井 圓 (一 九 二 七 ~ 二 〇 〇 一 )は エ ー ル 大 学 図 書 館 を 訪 問 し 、 東 京 と ニ ュ ー ヘ ブ ン を 結 ぶ
架け橋となったと記されている。
さ て こ の 『 荘 園 研 究 』 に 寄 せ た 竹 内 理 三 「日 本 封 建 制 の 研 究 と 朝 河 貫 一 博 士 」 (Studies of
J a p a n e s e F e u d a l i s m a n d D r. K a n - i c h i A s a k a w a ) は 、 朝 河 の 封 建 制 研 究 の 意 義 を 実 に 的
確 に 描 い て い る 。 竹 内 は 、 ま ず ヨ ー ロ ッ パ の feudalism 概 念 が 明 治 に 導 入 さ れ て 以 後 中 国
語 の 封 建 ( fengjian) 概 念 と の 混 同 が 生 じ た こ と 、 次 い で 朝 河 よ り 四 歳 年 少 の 中 田 薫 (一 八
七 七 ~ 一 九 六 七 )が 法 制 史 の 観 点 か ら ヨ ー ロ ッ パ の 中 世 封 建 制 を 「恩 貸 制 と 従 士 制 の 結 合 」
矢吹晋『逆耳順耳』
333
と し て 解 釈 す る 見 解 を 『 法 学 協 会 雑 誌 』 注 24 に 発 表 し た こ と 、 そ の 中 で 「こ の 見 解 は 今 日
で さ え も 法 制 史 の 研 究 者 の 間 で ほ と ん ど 原 型 の ま ま 受 け 入 れ ら れ て い る 」事 実 を 指 摘 し た
あ と 、 マ ル ク ス 主 義 歴 史 学 の 横 行 を 次 の よ う に 述 べ て い る 。 す な わ ち 彼 ら は 「古 代 、 中 世 、
近 代 」を そ れ ぞ れ 「奴 隷 制 、 封 建 制 、 資 本 制 」に よ っ て 特 徴 づ け 、 「封 建 社 会 と は 本 質 的 に 農
奴 社 会 で あ る 」 と 規 定 す る 。「 封 建 社 会 の 特 徴 は 土 地 所 有 制 の 形 態 に あ る 」 と す る 、い わ ゆ る
「 内 部 構 造 派 」 の 見 解 [ 旧 講 座 派 の 流 れ を 汲 む ] が 現 在 の 学 界 で 支 配 的 (predominant in the
current scholarship of Japan) だ と 指 摘 し て い る 注 25-1。
で は 「内 部 構 造 派 」の 論 理 的 矛 盾 は な に か 。 「荘 園 の 主 な 単 位 は 名 田 」で あ り 、 「名 田 は 小 さ
な 領 主 に よ っ て 保 有 さ れ 」 、「 荘 園 の 小 さ な 農 民 に よ っ て 管 理 さ れ 」 て い た 。名 田 を 基 礎 と す
る 「荘 園 の 財 産 は 寺 社 や 宮 廷 貴 族 に よ っ て 保 有 さ れ 」て い た 。 こ れ は い わ ば 「名 田 の 所 有 」を
「 封 建 的 土 地 所 有 と み る 」 見 解 に ほ か な ら な い 。だ が 、も し こ れ が 正 し い な ら ば 、「 名 田 の 所
有 者 こ そ が 封 建 領 主 」に な ら ざ る を え な い 。 も し そ う な ら ば 、 「平 安 の 貴 族 社 会 こ そ が 封 建
社 会 で あ る 」こ と に な り 、 「鎌 倉 時 代 に 先 立 っ て 封 建 社 会 が す で に 成 立 し て い た 」こ と に な
る 。こ の 結 果 、「 律 令 制 度 下 の 貴 族 」 は み ず か ら の 存 立 基 盤 を 破 壊 し て 、「 も う 一 つ の 封 建 社
会 を 作 っ た 」と い う 自 己 矛 盾 に 陥 る こ と に な っ た 。
こ の 矛 盾 を 解 く た め に 、 「内 部 構 造 派 」は こ う 考 え る 。 律 令 制 下 の 土 地 所 有 の 本 質 と は な
に か 。律 令 国 家 は 奴 隷 制 の 国 家 で あ る と み る 見 解 が 広 く 行 わ れ た こ と を 前 提 と し て 、「 古 代
(奴 隷 制 )か ら 封 建 制 へ の 移 行 」の 問 題 を 論 じ よ う と し た 。 す な わ ち 律 令 国 家 は 「荘 園 制 度 と
い う 媒 介 項 を 経 て 封 建 的 土 地 所 有 制 に 移 行 し た 」 と 解 す る 考 え 方 で あ る 。石 母 田『 中 世 的 世
界 の 形 成 』注 17、藤 間『 日 本 荘 園 史 』注 18 は い ず れ も 「荘 園 制 度 は 律 令 奴 隷 国 家 を 継 承 し
た も の 」で あ り 、そ れ ゆ え 「封 建 制 で あ る 」と み な し て い た 注 25-2。こ う し て 「荘 園 制 度 、す
な わ ち 封 建 制 と み る 見 解 」が 流 行 し 、 日 本 で は 「平 安 時 代 半 ば か ら 封 建 制 で あ る 」と す る 主
張 が 行 わ れ た 。こ う し て 藤 間 と 石 母 田 の 仕 事 は 、大 部 分 の 荘 園 研 究 者 に 対 し て 、「 日 本 の 荘
園 と ヨ ー ロ ッ パ の マ ナ ー の 共 通 点 」な る も の を 確 信 さ せ 、 「荘 園 制 こ そ が マ ナ ー 制 で あ り 、
封 建 制 で あ る 」と み る 倒 錯 し た 見 解 を 広 く 受 け 入 れ さ せ る よ う 導 い た 注 26。 竹 内 は 日 本 の
当時の学界状況をこのように批判したあとで、朝河の見解を次のように紹介した。
朝 河 博 士 の 研 究 は 「 ほ と ん ど 日 本 的 標 準 と な っ て い た 見 解 」 に 反 対 す る も の で あ っ た 。「 日
本 封 建 土 地 制 度 起 源 の 拙 稿 に つ い て 」 、「 中 世 日 本 の 寺 院 領 」 、「 日 本 の 封 建 制 度 に 就 き て 」 な
ど の 論 文 で 、朝 河 は ヨ ー ロ ッ パ の マ ナ ー は 村 落 共 同 体 で あ り 、そ こ で は 住 民 は 「 マ ナ ー 領 主
の 強 い 封 建 規 制 」を 受 け て い る 。 こ れ に 対 し て 日 本 の 荘 園 で は 「領 主 は 弱 く 、 住 民 は 農 奴 の
よ う に 扱 わ れ て は い な い 」と 指 摘 し た 。
朝 河 は 荘 園 の い わ ゆ る 作 人 ( さ く に ん ) は 「小 作 人 と い う よ り は 土 地 の 所 有 者 」で あ り 、
「荘 園 自 体 は fief[知 行 ]で は な い 」と 強 調 し た 。 日 本 の 封 建 制 に お い て は 地 頭 職 と 名 主 職 が
beneficium[ 恩 貸 地 ] と し て 武 士 に あ た え ら れ 、 こ う し て 「 地 頭 が 領 主 と 農 民 の 間 に 介 入 し
た 」と 論 じ た 注 27。
朝 河 の こ れ ら の 見 解 は な ぜ 受 け 入 れ ら れ な か っ た の か 。竹 内 は い う 。「 不 幸 に し て 、こ れ
、、、、、、、、、、、、、、、、、、
らの発見が日本で長らく認められなかったのは、いささか曖昧な邦訳のため、そして日本
矢吹晋『逆耳順耳』
334
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
の 研 究 者 側 に ヨ ー ロ ッ パ の 方 法 論 の 経 験 を 欠 如 し て い た た め 」で あ る 。
と は い え 一 九 三 〇 年 代 に 清 水 三 男 [ 一 九 〇 七 ~ 一 九 四 七 年 ] は『 日 本 中 世 の 村 落 』注 2 8 を
書いて、荘園は領主のための経済的単位にすぎず村落共同体ではない、村落は荘園とは別
に独自に存在していた、荘園は古代の所有制の特徴を残したものであり、中世の村落は武
士による封建所有を単位としていた、と主張した事実を紹介している。その清水はその後
日 中 戦 争 に 出 征 し て 、 戦 後 シ ベ リ ア の 捕 虜 収 容 所 で 死 去 し た 。 こ の 本 は い ま 岩 波 文 庫 (33470-1)に 収 め ら れ て い る が 、 遺 憾 な が ら 清 水 に 大 き な 影 響 を 与 え た は ず の 朝 河 貫 一 に つ い
て の 記 述 は な い 。 ま た 校 注 者 (大 山 喬 平 京 都 大 学 名 誉 教 授 お よ び 馬 田 綾 子 )も そ の 影 響 に つ
い て な に も 記 述 し て い な い 。 校 注 者 に よ る 「解 説 」が 説 明 す る よ う に 、 清 水 は 一 九 三 八 年 に
治安維持法違反で逮捕され、三九年以来思想犯として警察の保護観察処分下にあった。四
二年に出版された『日本中世の村落』において、交戦中の敵国アメリカに在住する歴史学
者 朝 河 の 名 を 引 用 し に く か っ た こ と は 、 容 易 に 推 測 さ れ る と こ ろ で あ ろ う 。 文 庫 本 「解 説 」
における朝河無視の理由は不明だが、いずれにせよ清水の置かれた境遇に対する配慮を欠
いたものというほかない。
竹 内 は 続 け る 。ヨ ー ロ ッ パ の マ ナ ー が 中 世 を 特 徴 づ け る の に 対 し て 、「 日 本 の 荘 園 は 明 ら
か に 古 代 的 性 格 を 帯 び た 制 度 」 で あ っ た 。に も か か わ ら ず 、少 な か ら ざ る 研 究 者 が 今 日 で さ
え も [一 九 六 五 年 当 時 ]、 荘 園 は 封 建 的 土 地 所 有 制 に 基 づ く と 誤 解 し て お り 、 こ の 誤 解 が 日
本 史 研 究 会 史 料 研 究 部 会 編 『 中 世 社 会 の 基 本 構 造 』 注 29 の 執 筆 者 た ち に よ っ て 継 承 さ れ
て い る 。 本 書 (『 基 本 構 造 』 )は 「荘 園 制 が 封 建 制 に 等 し い 」と 直 截 に 主 張 し て い る わ け で は
な い が 、 「封 建 領 主 制 と 封 建 的 小 農 民 は と も に 一 〇 世 紀 ご ろ に 現 れ た 」と 主 張 し て い る 。 一
〇世紀は荘園制が急速に発展した時期であるから、これは荘園制が封建制に等しいと主張
す る こ と に 等 し い 。故 清 水 三 男 が 「 荘 園 的 土 地 所 有 と 封 建 的 土 地 所 有 は 明 確 に 異 な る 」 が 「 共
存 し て い た 」と 分 析 し た 成 果 を ま っ た く 無 視 し て 、 多 く の 研 究 者 は い ぜ ん 破 産 し た 見 解 に
固 執 し て い る 。 「日 本 史 研 究 会 の 本 は こ れ を 増 幅 し た も の に す ぎ な い 」注 30 と 竹 内 は 厳 し
く批判している。
荘 園 制 と 封 建 制 が 異 な る も の で あ る こ と は 、「 封 建 制 は 一 九 世 紀 初 め ま で 続 い た 」 が 、「 荘
園 制 は 一 六 世 紀 ま で に は 完 全 に 消 え た 」こ と を 考 え る だ け で も 明 ら か だ 、 と 竹 内 は 強 調 す
る 注 3 1 。竹 内 は 次 い で 荘 園 の 組 織 単 位 と さ れ る 「 名 田 を 封 建 的 土 地 所 有 制 の 基 礎 で あ る 」 と
見るのは、根拠がないことと批判する。封建的土地所有を支えた独立小農民による耕作は
「名 田 の 解 体 か ら 生 ま れ た 」と 見 る 見 解 は 強 く な っ た も の の 依 然 次 の よ う な 謬 論 も 消 え な い 。
そ れ は 「封 建 関 係 の 確 立 は 在 家 制 度 の 拡 大 に 依 拠 す る 」と い う 見 方 だ 。 在 家 は 人 の 住 む 「家
の 管 理 」を 意 味 し 、 「夫 役 を 家 に 課 す 」課 税 制 度 で あ り 、 こ こ で は 「田 畠 は 課 税 対 象 と は さ れ
て い な い 」。「課 税 対 象 は 麻 織 物 、絹 、木 材 」で あ り 、こ れ ら は 夫 役 か ら 生 産 さ れ る 。こ れ は
「律 令 制 度 下 の 調 、 庸 、 雑 徭 と 同 じ 」だ 。
在家についてのこのような解釈は、牧健二、西岡虎之助、清水三男、竹内理三らによっ
て 行 わ れ た 。 し か し な が ら 、 石 母 田 正 『 古 代 末 期 の 政 治 過 程 お よ び 政 治 形 態 』 注 32 お よ
び 、 永 原 慶 二 「日 本 に お け る 農 奴 制 の 形 成 過 程 」注 33 は 、 在 家 を 封 建 制 の 発 展 の 重 要 な 要
矢吹晋『逆耳順耳』
335
素 と し て 扱 う 。 彼 ら は 一 九 五 〇 年 ご ろ 、 「在 家 と は 附 属 す る 田 畠 と 屋 敷 を 含 む 全 体 で あ る 」
と す る 見 解 を 表 明 し 、 屋 敷 の 所 有 者 は 「田 畠 の よ う な 不 動 産 と と も に 売 り 買 い さ れ た 半 奴
隷 で あ る 」と 解 釈 し 、 さ ら に 「封 建 制 の 確 立 は 在 家 が 独 立 し た 農 民 に 発 展 す る こ と に よ っ て
行 わ れ た 」 と 主 張 し た 。永 原 慶 二 は そ の 後 、井 ケ 田 良 治 「 南 九 州 に お け る 南 北 朝 内 乱 の 性 格 」
注 34 お よ び 誉 田 慶 恩 「東 北 地 方 の 在 家 に 関 す る 一 考 察 」注 35 の 分 析 を 受 け て 前 説 を 修 正 し
た 。 す な わ ち 「在 家 と は 律 令 制 か ら 奴 隷 制 へ の 発 展 の 移 行 形 態 」を 示 す も の で あ り 、 辺 境 の
農業管理に限られる遅れた形態ではない、と。ただし、永原は在家が国司の支配から自由
で あ り 、 特 別 な 領 主 に よ っ て 統 治 さ れ て い た こ と に は 言 及 し な か っ た 注 36。
要 す る に 、石 母 田 、永 原 ら は 、在 家 が 「 人 力 の 管 理 制 度 で あ る 」 と い う 根 本 を 忘 れ 、「 人 と
土 地 を 統 一 支 配 す る も の 」が 封 建 制 だ と み る 俗 流 の 見 解 に 束 縛 さ れ て い た た め に 、 「在 家 と
名 田 の 区 別 」が で き な か っ た 。 こ れ が 竹 内 の コ メ ン ト で あ る 。 以 上 の 行 論 に お い て 竹 内 は
The Documents of Iriki か ら 具 体 的 な 引 用 は ま っ た く 行 っ て い な い 。 お そ ら く 未 読 な の で あ
ろ う 。朝 河 自 身 は 「在 家 」を 「農 民 の 屋 敷 」と 説 明 し (第 13 号 文 書 注 25)、こ れ に 対 応 す る 「武
士 の 屋 敷 」が 「門 」で あ る と 説 明 し た (第 104 号 注 22)。 と は い え 、 武 士 と 農 民 と い う 二 つ の
階 級 は 「完 全 に 区 別 さ れ た も の で は な い 」し 、 そ れ ゆ え 規 模 と 重 要 性 は 異 な る と し て も 、 両
者が峻別されたわけではないことに留意せよ、と指摘している。
注 12. 早 稲 田 大 学 西 岡 虎 之 助 に よ る 論 文 Development of the scientific method in the
study of Japanese history( 日 本 史 研 究 に お け る 科 学 的 方 法 の 発 展 ) (iii---v 所 収 )。
注 13. 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 宝 月 奎 吾 教 授 に よ る 論 文
Advance in the study of old
documents and their preservation in Japan( 日 本 に お け る 古 文 書 研 究 と そ の 保 存 の 前 進 )
(vi----xii 所 収 )。
注 14.九 州 大 学 (当 時 )竹 内 理 三 に よ る 論 文 History and present state of the study of the
shoen in Japan(日 本 に お け る 荘 園 研 究 史 と 現 状 ) (xiii----xix 所 収 )。
注 15.朝 河 貫 一 著 、 朝 河 貫 一 著 書 刊 行 委 員 会 編 、 日 本 学 術 振 興 会 刊 、 1965 年 3 月 。 英 文 タ
イ ト ル は 、 Land and Society in Medieval Japan で あ る 。
注 1 6 . E . O . R e i s h a u e r, J a p a n , i n C o u l b o r n ; F e u d a l i s m i n H i s t o r y, p p . 3 6 - 3 7 .
注 17.石 母 田 正 『 中 世 的 世 界 の 形 成 』 伊 藤 書 店 、 1946 年
注 18.藤 間 生 大 『 日 本 荘 園 史 』 近 藤 書 店 、 1947 年
注 1 9 .『 史 淵 』 第 六 五 号 、 の ち 竹 内 理 三 著 作 集 第 7 巻 『 荘 園 史 研 究 』 一 九 九 八 年 所 収 、 4 8 2
ページ。
注 2 0 . 「 荘 園 制 と 封 建 制 - - - - 日 本 の 場 合 」『 史 学 雑 誌 』 六 三 篇 一 二 号 、 一 九 五 三 年 。 の ち 『 荘
園 史 研 究 』 482 ペ ー ジ 。
注 21.『 荘 園 史 研 究 』 446-447 ペ ー ジ 。
注 22.『 荘 園 史 研 究 』 447-448 ペ ー ジ 。
注 23.注 15 に 同 じ 。
注 24.『 法 学 協 会 雑 誌 』 第 24 巻 第 2 号 、 1906 年 。
注 25-1.竹 内 論 文 『 荘 園 研 究 』 27 ペ ー ジ 。
矢吹晋『逆耳順耳』
336
注 25-2.竹 内 論 文 『 荘 園 研 究 』 28 ペ ー ジ 。
注 26.竹 内 論 文 『 荘 園 研 究 』 29 ペ ー ジ 。
注 27.竹 内 論 文 『 荘 園 研 究 』 29 ペ ー ジ 。
注 28.清 水 三 男 『 日 本 中 世 の 村 落 』 日 本 評 論 社 、 1942 年 。 岩 波 文 庫 版 、 1996 年 。
注 29.『 中 世 社 会 の 基 本 構 造 』 お 茶 の 水 書 房 、 1958 年 。
注 30.竹 内 論 文 『 荘 園 研 究 』 30 ペ ー ジ 。
注 31.竹 内 論 文 『 荘 園 研 究 』 30 ペ ー ジ 。
注 32.石 母 田 正 『 古 代 末 期 の 政 治 過 程 お よ び 政 治 形 態 』 日 本 評 論 社 、 1950 年 。
注 33.永 原 慶 二 「日 本 に お け る 農 奴 制 の 形 成 過 程 」『 歴 史 学 研 究 』 第 140 号
注 34.井 ケ 田 良 治 「南 九 州 に お け る 南 北 朝 内 乱 の 性 格 」『 日 本 史 研 究 』 17 号 、 1951 年 。
注 35.誉 田 慶 恩 「東 北 地 方 の 在 家 に 関 す る 一 考 察 」『 歴 史 』 第 7 号 、 1954 年 。
注 36.永 原 「在 家 の 歴 史 的 性 格 と そ の 進 化 に つ い て 」『 日 本 封 建 制 成 立 の 研 究 』 所 収 、 吉 川
弘 文 館 、 1955 年 。
2006 年 1 月 号
甦 る the Documents of Iriki ( 入 来 文 書 )
(その4)
Ⅳ .朝 河 の 語 る The Documents of Ir iki
1. 『 入 来 文 書 』 の 発 見
朝河自身は本書序説の末尾で、みずからの貢献をこう説明している。
編 者 [朝 河 ]は 一 九 一 九 年 六 月 に [鹿 児 島 県 薩 摩 郡 ]入 来 [村 ]を 訪 問 し た と き に 、
『薩藩旧記』
に収められた手稿一〇一巻に含まれる『入来院文書』を含む三つの国の文書を研究した。
そこで編者が発見したのは、家族が所有する二五〇の原文書が素晴らしい状態で、すなわ
ち注意深く一六巻と一つの紙挟みに収められた文書であった。これらの文書のうち、多く
は 言 及 さ れ る の み で 書 き 直 さ れ た こ と は な く 、そ れ ゆ え 編 者 に と っ て 新 し い も の で あ っ た 。
家族はまた『清色亀鑑』と題した手稿一二巻も所有しており、そのなかには編者が見たか
ぎり、最も正確に参照される原典拠が書かれていた。
参 照 さ れ た 原 資 料 は 全 体 (原 資 料 が 失 わ れ た も の を 除 い て )で 四 〇 五 ペ ー ジ あ り 、 す べ て
は家族と入来院の領地にかかわるものであった。これは日本に存在する家族文書のなかで
最大のものではないが、入来文書をしてきわめて注目すべき資料たらしめているいくつか
のまれにみる条件がある。それは資料の多様性、文書から跡づけできる制度的発展の代表
性、文書がカバーする時間的長さ、である。これらの条件は編者の評価するところ価値が
高い。文書は比較的限られた領域のものである。編者の経験によれば、研究者をいつも見
知らぬ場所に連れて行く文書を通じて制度の発展を分析するのはむずかしい。与えられた
資料が単一の領主の家系であり、小さな領域の場合のほうが調査はより容易である。これ
らの条件は入来文書が理想的に満たしてくれる。同時にそれが体現する本質的な制度的事
実は言葉の真の意味で、日本の封建制度史全体を支配したものとして典型的かつ代表的な
ものである。ここでついに編者は日本の封建的成長の真実を世界にもたらす願望の文書を
矢吹晋『逆耳順耳』
337
発 見 し た 。 注 37
2.文 書 の 選 択 と 選 択 し た 文 書 の 性 質 に つ い て
朝河はいう。
大 量 の 資 料 、ほ か で は 得 ら れ な い 資 料 か ら 、編 者 は 二 五 三 の 文 書 を 選 び 、
英 訳 し 、 注 釈 を 付 し 、 二 五 五 ま で の 通 し 番 号 [訳 注 。 実 際 に 出 版 さ れ た 際 に は 155 で 終 わ
る 。た と え ば 1 5 5 は A か ら G ま で 七 つ の 文 書 か ら な る ] を 付 し た 。内 容 の 表 を 一 瞥 す れ ば 、
時間、著者、形式、性質が広範囲であることに気づくであろう。一部は性質からして私的
なものであり、他は公的なものである。半ば私的、半ば公的なものもある。私的なものの
なかには、販売、贈与、降伏、和解、真の職(しき)にかかわるもの、私信、遺贈、証言
の 行 為 が 見 ら れ る 。半 公 的 ・ 半 私 的 な 文 書 に は 、個 人 や 機 関 の 領 主 と そ の 代 理 人 に 対 す る 陳
情が含まれる。公的文書あるいは公法にかかわる文書には勅令、朝廷の部局の命令、皇子
の命令、国の郡司のもの、将軍の封建政府から出された命令、任命、判決、確認が含まれ
る。私的であれ公的であれ、より封建制度にかかわるものとしては、人間への委託、領主
と 家 臣 の 誓 約 、家 臣 の 保 有 物 の 認 可 の よ う な 家 臣 に か か わ る 文 書 、将 軍 ・ 大 名 ・ 領 主 ・ 家 族 の
首 長 か ら 出 さ れ た 領 地 (あ る い は 封 土 )に 関 す る 書 信 、 徳 川 将 軍 下 の 大 名 組 織 の 記 録 、 贈 与
の提供、人質を要求するもの、出陣の呼び出し、到着報告、戦時の論功の報告、称賛し褒
美を約束した手紙、兵士動員割当ての記録などを含めて戦時における文書である。
こ の ほ か に 、土 地 保 有 、土 地 調 査 、課 税 に か か わ る 大 量 の 文 書 が あ る 。よ り 公 的 な 文 書
は封建時代に用いられた特有の中国語で書かれている。用いられた漢字はまったくの中国
流表意文字であるが、それを選択し結びつけて句をつくるやり方は日本独特であり、構文
は訛った文法にしたがうので、教養のある中国人にとって読めない文書が多いであろう。
全体があるいは大部分がカナで綴られたものもある。これらの一部は文体は口語に近く、
方言あるいは誤読、あるいは筆者の無知のゆえに誤りを含みがちである。そのうえカナで
書かれた初期の文書は 判読がむずかしい。一部は濁点半濁点などが付されていないため
だが、概して同音の中国語に由来する語彙のためである。音声として書かれるときには違
いが消えてしまう。中国語であれ、カナであれ、古文書学と制度史をともに学んだ研究者
だけが完全に解読できる。ほとんど非識字者によって書かれた漢字と句を含む文は、正書
法 か ら す る と 、 ほ と ん ど 気 ま ぐ れ の よ う だ 注 38。
3.英 語 へ の 翻 訳 に つ い て
朝河は翻訳のむずかしさについてこう説明している。
編 者 [朝 河 ]は 二 つ の 言 語 [英 語 と 日 本 語 ]の 間 に 大 き な 差 異 の あ る 場 合 は 、 さ ま ざ ま な 筆 者
によって無視されている文化の程度における際立った差異とともに、原文のニュアンスを
保 持 し よ う と 努 め た 。翻 訳 に 見 出 さ れ る 荒 っ ぽ い 箇 所 は 、編 者 の 英 語 の 欠 点 と い う よ り は 、
原文に可能なかぎり近づけようとした結果である。編者の力量の及ぶかぎり、正確に慎重
に制度的意味の核心をとらえようと努力を払った。この本質における成功の程度は、東西
の比較制度史に対する翻訳者自身の知識に主として依存している。編者がみずからの欠点
矢吹晋『逆耳順耳』
338
を 非 常 に 強 く 感 じ て い る こ と を 記 録 し た い の は 、 ま さ に こ こ で あ る 。 [傍 線 は 訳 者 に よ る 。
朝河は謙虚にこう書いているが、朝河の該博な知識がここで十分に活かされていると逆に
読むべきであろう]
編 者 [朝 河 ]に は 、 仏 教 の 寺 を temple と 訳 し 、 神 道 の 社 (あ る い は 宮 )を shrine と 訳 す 通
常 の 翻 訳 は 、 賢 明 と は 思 え な い 。 寺 は church か 、 monastery で あ る 。 temple よ り は 状
況 に 応 じ て church か 、 monastery が ふ さ わ し い 。 と こ ろ で 神 道 の shrine は temple に
似 て い る 。こ れ ら の 理 由 か ら 編 者 は 「寺 」「院 」を church あ る い は monastery と 訳 し 、「社 」
「宮 」を temple と あ え て 訳 し た 。
徳 川 時 代 の 藩 を ク ラ ン (clan) と 訳 す の は 容 認 し が た い 。藩 は 封 建 領 主 、あ る い は 大 名 の
領地であり、それゆえ本質的に領地の性質をもつ。時には国(くに)と共存して国家の行
政区画になっている。人的な側面についてみると、すべての封建社会において世襲と固定
した身分を意味したことは確かだが、封建社会の社会組織の基礎以上のものではない。藩
は実質においてはすでに社会発展の純封建時代を越えているのであり、武士階級は家臣と
し て の 絆 で 領 主 に 従 属 し て い る 。そ の 大 部 分 は 統 治 機 構 で あ り 、経 済 組 織 で あ り 、藩 の 人 々
はもはやポスト封建期の生活、すなわち実際の社会生活において、氏族の段階から一〇〇
〇年も経ているのだ。
英 語 の 書 き 手 の 間 で clan の 使 用 が 普 通 だ が 、 日 本 で も 外 国 で も 、 誤 解 し や す い 用 語 は
藩 と 同 格 の 語 を 選 ぶ べ き で あ る 。わ れ わ れ は 原 語 ( 藩 ) を 用 い る か 、あ る い は 「 封 土 」 f i e f あ る
い は 「大 名 制 」barony と 訳 し た 。
原文を用いるのが最善と考えるいくつかの技術的用語がある。それはあまりにも簡潔で
頻繁に用いられ、その意味を学ぶことは容易ではない場合か、あるいは独特の制度的性格
が正確な英語にしにくいものである。なによりもまず庄(しょう)と職(しき)がある。
大きな意味をもつものとしては田(た)と畠(はた)がある。同様に、領域の単位として
は 国 ( く に )、 郡 ( こ お り )、 院 ( い ん )、 郷 ( ご う )、 村 ( む ら ) が あ り 、 役 所 と 職 務 で は 、
守 護 ( し ゅ ご )、 地 頭 ( じ と う )、 名 主 ( み ょ う し ゅ ) な ど が あ る 。 説 明 は 該 当 箇 所 で 行 っ
た 。 索 引 か ら 調 べ ら れ る 注 39。
4.「要 約 」の 章 を 冒 頭 に 置 い た こ と に つ い て
朝 河 は 「要 約 の 章 」に つ い て こ う 説 明 し て い る 。
本書は研究者による独自の内容分析を意図したことを強調しておくべきである。本書は
物 語 や 解 説 で は な く 、 資 料 書 で あ る 。 「序 説 」と 「注 釈 」は 次 の 観 点 に 鑑 み て 用 意 し た も の で
あ る 。す な わ ち 重 要 な 点 に つ い て 、必 要 な 限 り で 行 う 。少 な す ぎ て も 多 す ぎ て も い け な い 。
中世の史料を集中的に研究した者なら誰しも、非公式な案内や解釈がいかにやっかいなも
のかを知っている。資料の理解は必ずや訓練と知的特性という条件がなければならない。
さもなければ、研究者は決して資料を理解することができない。資料に対する独自の個人
的な研究を経てのみ、明快な独創的な結論が得られるのだ。それゆえ本書における文書の
注意深い分析によって磨かれるべき制度史の要点は、部分的で試験的なものとみなされる
矢吹晋『逆耳順耳』
339
べ き で あ る 。 わ れ わ れ の 資 料 か ら 導 け な い (あ る い は 間 接 的 に さ え 触 れ な い )も の は 、 括 弧
の な か に 含 め る べ き で あ る 。 同 時 に 、 編 者 [朝 河 ]は 、 文 書 の 文 面 か ら 明 白 で な い が 背 景 の
制度のなかに隠されている記録されたその事件や、処理がなければ起こりえなかった話題
を含めることを躊躇しないだけでなく、詳しい精査と思考による発見と分析にのみ依拠す
る 。 次 の 要 約 [の 章 ]に お け る 結 論 は 、 目 に 見 え な い 制 度 に 対 す る 参 照 は 、 そ の 性 質 か ら し
て概して試験的なものであり、研究者は編者の判断に安易に信頼を寄せるべきではなく、
みずからの主題を探しみずからの資料を集めるべきである。
これまで行われてきたように、ヨーロッパ制度史となにげない比較を行うことは、研究
者の側にヨーロッパ封建制について多かれ少なかれ進んだ知識をもつことを当然視してい
る。その理由は資料に対する文献上の参照が短縮されるか、紙幅の節約のために省略され
ているからだ。研究者に望みたいのは、十分な学術的案内と十分な資料をもって意図した
比 較 を 注 意 深 く 行 う こ と で あ る 注 4 0 。こ れ ら の 引 用 か ら 、朝 河 の 編 集 意 図 が 理 解 で き る で
あろう。
注 37.
序 説 42-43 ペ ー ジ 。
注 38.
序 説 43-44 ペ ー ジ 。
注 39.
序 説 44-46 ペ ー ジ 。
注 40.
論 点 の 要 約 515 ペ ー ジ 。
逆耳順耳終り、以下はマンスリー・ウォッチングに続く
2006 年 1 月
矢吹晋『逆耳順耳』
340