Gottfried Semper

MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 3. Gottfried Semper and the Idea of Style|p.130-139
Ⅰ/ 1803 ‒ 1834
|
p.130 - 132
1803/11/30_ ゴットフリード誕生、アルトナ
比較的に裕福な家庭に誕生
1806-1814_ ハンブルグのフランス支配
アルトナは実質的な支配を免れるが、自由の少ない環境で育つ
1823/10_ ゲッティンゲン大学に入学
後のギリシャへの考古学的な興味はカール オトフリード ミュラーKarl Otfried Müller(1797-1840,23 歳で教授職に就く)の講義からの影
響1
1825_ フリードリッヒ ゲルトナーFriedrich Gärtner の建築設計事務所に勤務、ミュンヘン
ミュンヘンの美術アカデミーに入学(実際は行っていないようである)
ゲルトナーとは合わなかった →後に匿名で批判
1826_ ビューラウ Bülau 建築事務所で大聖堂の測定など、レーゲンスブルグ
1826/12_ レーゲンスブルグでの決闘 →パリへ逃亡
1826 ‒ 1830_ クリスチャン ガウ Christian Gau とヒットルフ Hitroff のもとで働く、パリ
/ガウが経営していた私立学校に入学
/エコール・デ・ボザールの学生に対する反感を覚える
/1830/6_ パリでの七月革命運動を目の当たりにする →強い共感
1830/Autumn ‒ 1832/5_ 南方への旅 →プロヴァンスの古い建造物、ジェノバ、ヴェローナ、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマ、
シチリア、ギリシャを訪問
(1) 一回目:ローマでの数ヶ月の滞在の後に、シチリア島に向かうフランス人学生グループに同行
/途中にパエストゥムを経由してシチリアへ
/ギリシャ遺跡の収集画集の作成
(2) 二回目:ジュール Jules Goury とのギリシャ →七ヶ月間の調査滞在(閉じ込められていた?)
/1821 年にギリシャが独立戦争を始めて以来、治安が非常に悪かった
/アテナのアクロポリスとアイギナで考古学的な調査を行うことに成功
/ギリシャのドイツ大使館員に身柄を拘束される
1832/5_ ギリシャを脱出する船をみつける →海賊に遭遇しながらも、イタリアへ帰還
成果物:パルテノン神殿のたくさんの着色図面の作成、エトルリアの墓地に関するさらなる調査でトラヤヌスの円柱を測量
1833_ シンケルを訪問、ベルリン
/ローマからアルトナへ帰る際に、ベルリンのシンケルのところへ立ち寄る
/その際にギリシャやローマの図集を紹介
1834_ Vorläufige Bemerkungen über bemalte Architektur ‒ und Plastik bei den Alten (『古代の建築と彫刻の着色に関する暫定的な
発言』、1834 年)、アルトナ
/ポリクロミーに関する国際的な論争に加わる
1
‘Sempers Gedanken über Baukunst und Gesellschaft in seiner ersten Schrift: ‘Vorläufige Bemerkungen über bemalte Architektur und Plastik bei den Alten 1834’ ’, Rudolf Zeitler,
1 MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 【
Vorläufige Bemerkungen über bemalte Architektur ‒ und Plastik bei den Alten (,1834) 】
ゼンパーは、ギリシャ神殿が完全に塗装で覆われていたという、ヒットルフだけがシチリア島の植民地時代の作品に関して擁護してい
る過激な立場を表明
彼は 3 つの論点を主張:
1.
ポリクロミーが伝統的に神聖化された習慣だという、歴史的な論点:
「ホメロスの時代に輝いただが、後の時代にはより一層、規則正しく、かつ統制のとれるようになった習慣」
2.
バロン・フォン・シュタッケルベルグ Baron von Stackelberg とヒットルフの環境上の論点を繰り返し言及:
「南国の日当たりの良い気候と多彩な風景はそれぞれ、日光のまぶしさ(グレア現象)を緩和させるため、そして周辺の建造
物を調和させるために色を必要とした」
3.
「ギリシャの多彩色な寺院は、実際には、公共儀式のためのステージとして、最初の建築家により芸術的に高い理想を持って
意識的に演出されたという美学的な論点」
/ 最初の神殿の要素:
装飾花 decorative flowers、花綱装飾 festoons、生け贄動物 sacrificial animals、道具 implements、盾 shield、およびその他のエンブレ
ム emblems が装着された粗暴な骨組み scaffold
/上述の要素は後に様式化する:
切り身 fillets、卵とダーツのモチーフ egg and dart motifs、アラベスク、ロゼット(衣服用バラの花型飾り)、メアンダー(ギリシャ雷
文)、迷路 labyrinths
→「色彩はこれらの効果を明確にするための手段であり、原則に劇的な効果としての総合芸術 Gesamtkunstwerk を強調するものであっ
た。」
ゼンパー:
絵画に加えて、我々は金属の装飾品 metal ornaments、金メッキ gilding、タペストリーのようなカーテン tapestry-like draperies、天蓋
baldachins、カーテン curtains、可動道具 moveable implements を忘れてはならない。最初からモニュメントはこれらすべてのものが
念頭に置かれ、設計されている。これはその周囲 ‒群衆、僧侶、行進にも当てはまる。モニュメントは公共な舞台上 on a common stage
で、これらの要素をまとめることを目的とした骨組みであった。その時代を見せようと試みるときに想像を埋めうる賢明さは、人々が
幻想し、そして我々に押し付けてきた模倣を、生命もなきまた硬直なものにさせるのである。
2
デュランのグリッド使用(機械設計を生成する)、トレーシングペーパーの発明(建築の複製へと導く)などを批判
→当時の折衷的な傾向(特にクレンツェの作品)を強く非難
必要の大地の上と自由の陽の下で on the soil of need and under the sun of freedom
時代を主張
3
繁栄する事のできる、新しい 有機的な organic
ここでの有機的建築とは、
/ 人間のニーズを満すことに全ての努力を捧げる
/ 建築的な表現において材料の正直さを強調する
/ 記念碑的な傾向に戻すこと
2 134. Ibid, 65 (original 33-4). "Dabei darf neben der Malerei der met- allene Zierrath, die Vergoldung, die Drapperie von Teppichen, Baldachincn und Vorhiingen und das bcwegliche Geradie nicht ausser Augen gelassen
werden. Auf alles dieses und mehr noch auf die mitwirkende Umbegung und Staffage von Volk, Priestern und Festiingen waren die Monumente beim Entstehen berech- nct. Sie waren das Geriiste, bestimmit, allen diesen
Kraften einen gemeinsamen Wirkungspunkt zu gewahren.
Der Glanz, der die Einbildungskraft ausfüllt, denk man sich lebhaft in jene Zeiten zurück, macht die Nachahmungen aus denselben, wie man sich seither gefallen hat, sie den unsrigen aufzudringen, erbleichen und
erstarren."
3 Ibid, 47 (original, viii-ix). "... nur auf dem Boden des Bedurfnisses und unter der Sonne der Freiheit"
2 MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 Ⅱ / 1834 ‒ 1849
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p.132 - 133
1834_ ドレスデン芸術アカデミー(Dresden Academy of the Fine Arts)の教授と実践の機会
/彼の見解は非難を食らうが、ドレスデン芸術アカデミーの教授という職とそれに伴う実践の機会を得る(シンケルの推薦で)
1838_ 王立劇場の設計
/ ザクセン宮廷のための王立劇場の設計という名声高き仕事を任される
Fig.1
第一ゼンパーオペラ
内観
Fig.4
ゼンパーギャラリー
外観
Fig.2
第一ゼンパーオペラ
Fig.5
外観
Fig.3
第一ゼンパーオペラ
焼失
ツヴィンガー宮
【 第一ゼンパーオペラ erste Semperoper(王立劇場 Hoftheater)】
Fig1/2/3
/これはマテウス ダニエル ピュップレマン Matheus Daniel Pöpplemann が設計したロココ調の複合体建築であるツヴィンガー宮殿
Fig.5 に接続しており、ゼンパーはアーチのリズムとスケールを連続的に見せる為に、ルネサンスのアーチを用いた
/内装では、ゲーテ Goehte、ティーク Tieck、とシンケルが提案した改革 reforms の一部を紹介した
/当時、ドイツでも最も立派な劇場と見なされていた。
/1841/4/12_
ゲーテの TorquatoTasso の上演をもって幕を開けた
1838 ‒ 1848_
充実した日々
_
大規模な建築物の設計
→ドイツの最も輝かしい建築家として君臨
/ゼンパーは、その後 10 年間、劇場と並行していくつかの大きな依頼を引き受けた
/その中でも最も大規模なものがドレスデン芸術博物館 Dresden Art Museum(1839-55 年)
Fig.4
/彼にとって唯一の敗北は 1845 年の聖ニコラス教会 St.Nicholas(ハンブルグ)でのコンペ
彼のフィレンツェ風デザインはコンペティションで優勝はしたが 、G.G.スコット Scott のデザインを支持していたゴシック様式の熱心
な支持者によって結果が覆された
_
ゼンパーの文化的な交流
ドレスデンの文化的な世界では下記の文化人に協力した
/彫刻家のエルンスト リーチェル Ernst Rietschel とエルンスト ヘーネル Ernst Hähnel、
/音楽家のフランツ リスツ Franz Listz とリヒャルト ワーグナーRichard Wagner、
/俳優のドゥブリアン一家 Devrient family
3 MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 _
リヒャルド ヴァーグナーとゴットフリード ゼンパー
/二人はドレスデンの音楽ショップで出会う
即座に分かった
ワーグナー: 私のそのような [古めかしい medieval] 材料の選択を軽
していることに、
4
/彼らの幾度かのカフェでの激しい議論は、ほとんど殴り合いとなるほど白熱した
→二人の総合芸術 Gesamtkunstwerk に対する考え
の確立
1849_ ドレスデンからの追放 →政治的な事件により充実した生活の終わり
/ゼンパーは、 学術軍団 academic legion という市民軍を指揮
/ワーグナーも共に反対分子側で戦った
/ゼンパーは立派なバリケードを建造し、その悪名を高めた
/プロイセンとザクセン軍が市内に入ると、両者は逃亡 →「ゼムパー、ゴットフリード、第一級建築学教授。革命党指導者として周知
の者(ドレスデンでのバリケードの建造に関与)。1849 年 4 月、五月暴動に関与。逃亡中。」5
/ワーグナーはチューリッヒへ、ゼンパーはパリへ逃亡
Ⅲ / 1849 ‒ 1855
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p.133 - 135
1849_ ドイツからフランスへ 逃亡の生活
/妻と 6 人の子どもを、何の扶養手段もなく、置き去りにした上、実践と学術の地位も失った。彼は仕事の見込みもない中、無一文でフ
ランスに到着(ドレスデン Dresden → ツヴィッカウ Zwickau → ホーフ Hof → カールスルーエ Karlsruhe → ストラスブール
Straßbourg → パリ Paris)
1850_
フランスからイギリスへ
苦渋の生活
/パリでの 9 ヶ月間の苦しみの末に、彼は米国への移住を決意
/しかし、彼はル・アーヴルで蒸気機関船に乗る直前にロンドンでの仕事の委託の手紙を受け取る
→ロンドンへ
/だが、この委託も結果的には上手くいかない
1851_
ロンドン万博
/ヘンリー コール Henry Cole と知り合い、展覧会の展示物デザイナーとしての仕事を紹介される
/トルコ、カナダ、スウェーデン、デンマークの設計を担当
1851/Autumn_
Wissenschaft, Industrie und Kunst 6(『科学、産業と芸術』、1851)、ロンドン
1851/Winter_
Die vier Elemente der Baukunst (『建築の四つの要素』、1851 年)、ロンドン
1852/Autumn - 1855_
実践芸術 Practical Art に勤務、ロンドン
/ヘンリー・コール Henry Cole の紹介で実践芸術 Practical Art に新たに結成された部門内での 金属製品の製造に適用する装飾芸術の原
理と実践 の講師に任命( Wissenschaft, Industrie und Kunst 『科学、産業と芸術』の章)
/ドレスデンに残した家族をロンドンに呼び集めるが出来た
Richard Wagner, Mein Leben (Munich: F. Bruckmann, 1911), 1:373.
1849 年 5 月 16 日発行のザクセン王国内務省の「ドレスデン Ⅱ、民主主義者リスト」
6 G. Semper, Science, Industry, and Art: Proposals for the Development of a National Taste in Art, in Gottfried Semper: The Four Elements of Architecture and Other Writings; originally published as Wissenschaft, Industrie
und Kunst: Vorscldage zur Anregung Nationalen Kunstgefuhles (Braunschweig: Friedrich Vieweg & Sohn, 1852).
4
5
4 MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 【 Die vier Elemente der Baukunst (『建築の四つの要素』、1851 年)】
彼の努力が最初に実を結んだ小さな研究。
多くの面において確信的
ゼンパーの年来の民族学、考古学、言語学に惹かれ成長した研究は、それ以前の人類学的なモデルを一掃
ベースとなった研究:
/カトルメール ド カンシー
建築における 3 つのプリミティブの分類に関する論文の「洞窟、テント、小屋」
→古代人間の 6000 年分の聖書年学により断定
→初期のエジプト、中国、ギリシャ文化の範囲内で歴史的に発展
この年代学は、1830 年代の科学の進歩に迫られ、取って代わられた。
/ チャールズ ライエル Charles Lyell の Principles of Geology (『地質学の原則』、1830 ‒ 3 年)
→地球が数千ではなく、 数百万歳であることが示唆
/ フランツ・ボップ Franz Bopp の Comparative Grammer of the Sanskrit, Zend, Greek, Latin, Lithuanian, Gothic, German, and Slavonic
Languages (『サンスクリット、ゼンド(古代イランの言語)、ギリシャ、ラテン、リトアニア、ゴシック、ドイツ、スラヴの言語 の
比較文法学』、 1833 ‒ 52 年)
→インド・ヨーロッパ語族の言語の発展は、数千年間で受け入れられるよりも長く複雑であったことを示す
/ チャールズ・ダーヴィン Charles Darwin の進化論
民族と生物進化の問題も激しいトピック→1858 年まで公開を控えたが、それは、ダーヴィンが自然淘汰の理論を定式化した 1840 年代
1840 年代の 2 つの出来事がゼンパーに考えをひらめかせる:
1.
互いに競合していたポール・エミール・ボッタ Paul Émile Botta とヘンリー・レイヤード Henry Layard の考古学探検隊による、
アッシリアの文明の発見
/アッシリアの存在(B.C.1350-B.C.612)はギリシャの歴史家と旧約聖書の記述から知られていたが、その埋もれた都市から出
土した精巧な彫りアラバスターの壁面パネル
別紙 Fig.46
が、この文明の本質を明らかにし始めていた
ボッタ:
/アッシリア人=エジプトとギリシャの文化の中間の芸術手法を示した。
/ギリシャ>アッシリア>エジプト
「自然主義の観点からアッシリアの肖像は、神権政治に依然として強く束縛されていた
エジプトのものをしのいでいるが、美の理想を自由に追求したギリシャの彫刻には及ばなかった。」
/「ゼンパーにとってアッシリアは、既知の他のどの国のものとも全く異なる建築様式を示し、またギリシャのフォルムとい
くつかの興味深い類似点があった。」
2.
グスタフ・クレム Gustav Klemm の Allgemeine Cultur-Geschichte der Menschheit (『人類の普遍的な文化史』、1843-52 年)
の出版
/人類文化の最も未開拓な始まりから、 有機的、社会的な組織の
/開発の三段階:野蛮 savagery
→ 単調(抑制)tameness
第二段階:独裁的な統治者の支配
7
連合体 fusion に至るまでの歴史に関する執筆
→ 自由 freedom
Ex. マレーシア、メキシコ、エジプト、中東、中国
第三段階:独裁的な統治者の支配が崩壊した後に起きた、主に西洋の業績
到達
Ex. ペルシア人とアラブ人は第三段階に最初に
→ギリシャ、ローマ、ゲルマン国家もそれに近い結論に至る
/人間の活動と人工物 artifacts の目録の読み取り
/文化の進歩に伴い、これら下記のカテゴリーは拡張し、 増殖する
→人間性 humanity を、物理的および精神的な特性、家族や社会生活、食事や埋葬の習慣、住居、服装、装飾、道具、武器、
家庭用品、宗教、言語(physical and mental characteristics, family and social life, eating and burial habits, dwellings, dress,
decoration, tools, weapons, utensils, religion, and language)などの項目を検討
火や言語 = 文化発展の始まり
⇔
文化的な段階 = 家庭生活の採択 adoption of family life や所有権の台頭 appearance of
ownership と一致する傾向
→
人間の発展過程に根本的に新しい視点をもたらすものであった
7 On the relation of Klemm and Semper, see H. F. Mallgrave,
"Gustav Klemm and Gottfried Semper: The Meeting of 120. Ibid, 172.
5 MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 Die vier Elemente der Baukunst
【
の内容
】
1.
すべての建築創造の本質的な概念の基礎的要素として四つの目的 motives(主題 motifs)
→
炉、土台、屋根、囲い
/
炉:「社会的な炉、あるいは火は、最初の部族が狩り終えた後に、その周囲に集まる要因であった。したがって、これが家族(炉)
-
民俗学/考古学的証拠を引用
hearth(Herd), mounding(Erdaufwurf), roofing(Dach), enclosure(Umfriedigung)8 を提案
と社会(祭壇 altar)を含むすべての社会制度の象徴的な胎芽 embryo となった。それはまた、陶芸へと昇華された。土台、屋根、壁は、
聖火を守ることと関係していた。」
→ 集団生活の中心となる「炉 - 火」を守るという問題意識から、「その他」(土台、屋根、壁)が派生していくという関係
/ 土台:「それ以降のすべての基礎工事 substructures の起源は - 湿った大地から炎を上げた。それは最終的に、ダム dams、運河
canals、棚田 terracing、および石工工事 masonry の建設などの種類へと発展を遂げた。」
1.湿気から火を守る土台が必要
→ 2.基礎工事の概念の創出
→ 3.土木事業への発展
/ 屋根:「炎を頭上から保護し、木工事や固定した軸組構造の概念を生み出した。」
1.雨風から火を守る面(屋根)が必要
/
→ 2.木造/軸組(屋根を支える)の概念の創出
壁:「最初は風から炎を守るために織物や簡単なマットに見られ、同時にそれは、内部空間、または外部から切り離された私的な
世界を定義した。」
1.風から火を守る面(壁)が必要
→ 2.横架材に布をかける
→ 3.内部空間の創出
/トリニダードの カリブ Carib の小屋のモデル
→ 四つの要素の仮説の原始形態を、見た目で完全に示している
別紙 Fig47
「炉は丸太構造の上に持ち上げられ、干し葦の屋根は竹の骨組みで支えられ、壁に掛けるマットは小屋組の間に垂直に吊り下げられ
た: 建造のすべての要素が単独で自身のために問い、他とは繫がりを持たない。 9」
(スチームハンマー、ベッセマーポンプ、ボイラーにも同様に感銘を受けた)
2.
建築様式と社会制度との関係を推測
Ex.1
地中海北部の高原の実際的な生活の起源と切妻形式を結びつける
Ex.2
温暖な気候で厳格な階層制のエジプトの生活には中庭式の建物の方が適した
3.
建築モチーフが、規則的な発展とは全く異なる系譜に沿って跳躍し、材料、文化的変化の両方を経験することのできる
→繊維のような柄をもつアッシリアの壁面パネル
別紙 Fig.46
= 織物 fabric → 織物モチーフ textile motive → 硬い素材 hard material(直接的な変化を示す)
8
9
Semper, The Four Elements of Architecture, 102-3.
G. Semper, Ms. 97, fob 1, Semper Archives, ETH-Zurich.
6 MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 その他の 2 つの論文
1. 【
Wissenschaft, Industrie und Kunst 10 (『科学、産業と芸術』、1851) 】
/展覧会での経験をふまえて
/当時の建築生産における危機を、アイデアの結果としてではなく、工業プロセスで培った職場での 確かな異常 の結果とした
/ 方法の過多 にふさわしい工業化は、人間の手による仕事に基づいた、芸術の伝統的な習慣を破壊、もしくはその価値を減じていた
→ 工業生産による手工芸/芸術の落ち込み
/しかしラスキンとは対称的に、ゼンパーにとって既存の芸術のこの "崩壊" は落胆することではない
→ むしろ、現在の状況の出口を明らかにした:
問題:"借りたり盗まれた borrowed or stolen" モチーフを模写するという流れ
出口:"何か良く、新しいもの something good and new" の出現を許すことで
/現在の建築の危機 = 経済的または社会的よりも、文体 stylistic にある
ゼンパー:
スタイル = 基本的な考え idea と芸術作品のテーマにおける具体化されたものを修正するすべての内因性 intrinsic および外因性
extrinsic の係数 coefficient を強調し、芸術的な意義を与えることを意味する。 11
内因性の変化するもの:「製造作業で採用された材料と技術的手段」
外因性の変化するもの:「作業に影響を与える、土着的 local、仮設的 temporal、国民的 national、そして個人的な personal 要因」
→ここでの希望=「我々がいったん現在の変化するもの variables とその芸術的影響を適切に分析し終えた時に、我々は再び様式 style
を持つ作品を生み出すことができる」
芸術の工業化がすすみ、その生産はこれらの新しい要素 parameters に応答する必要があった
2. 【
ギリシャのパチンコ発射の数学的研究12
】
/英国王立建築家協会(RIBA)の、ギリシャ人が普遍的に有効なプロポーションに対する法則を持っていたかという議論から
/大英博物館でギリシャとアラビアのパチンコ発射 slingshot projectiles の力学的な性質を研究
/ギリシャの発射の空気力学的な形態(同様に、鳥や魚の方向軸)が建築のプロファイルに似ていることを証明(ダイアグラムを用いて)
→ ギリシャ人が寺院の設計に数学的な手段を用いていない
どこにでも緊張 tension に支配させる、というギリシャ人が従った自然の法則は自身のフォルム作りの限界の中で、漠然と暗示しない
が、はっきりと認識された 13
各々のフォルムはその特定のメディアまたはコンテクストの中でしか判断することができない
→これらの法則は絶対的ではなかった
→ギリシャの神殿は人間が創り出した数学的なプロポーションに支配されていたのではなく、それぞれが自然の法則に従った
10 G. Semper, Science, Industry, and Art: Proposals for the Development of a National Taste in Art, in Gottfried Semper: The Four Elements of Architecture and Other Writings; originally published as Wissenschaft, Industrie
und Kunst: Vorschlage zur Anregung Nationalen Kunstgefuhles (Braunschweig: Friedrich Vieweg & Sohn, 1852).
11 Ibid, 136 (original 15). "Styl ist das zu künstlerischer Bedeutung erhobene Hervortreten der Grundidee und aller inneren und äusseren Coefficienten, die bei der Verkorperung derselben in einem Kunstwerke
modificirent einwirkten."
12 G. Semper, Über die bleiernen Schleudergeschosse der Alien und uber zweckmassige Gestaltung der Wurfkorper in Allgemeinen (Frankfurt: Verlage fiir Kunst und Wissenschaft, 1859).
13 Ibid. "... dass die Gesetz der Natur, wonach diese bei ihren For- mengebungen die extremen Grenzen beobachtct und uber Span- nung herrschen Iässt, nich bloss dunkel ahnten, sondern klar erkannten."
7 MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 Ⅳ / 1855 ‒ 1879
1855_
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p.135 - 139
ポリテックニクム(現 ETH)の建築学校の校長
【 ‘On the Formal Lawfulness of Ornament and its Meaning as an Artistic Symbol’(『装飾とその芸術記号としての意味に関する形式的
適法』、1855、チューリッヒ) 14 】
/ポリテックニクムでの最初の講義
→新しいアプローチの提示
A /天の動きに見られる秩序や装飾の概念の両方を意味するギリシャ語のコスモス(cosmos、同様に cosmetic)という言葉の二重の意
味に着目
→「ギリシャ人にとって飾り付けをすることはそれに "装飾されている物体の自然の秩序を"15 課すことを意味した。これは、芸術が模
倣もしくは自然の宇宙の法則を反映することによる、形式的な正しさ(lawfulness)である」
B /最古の民族も装飾をしていた
→
本能としての装飾
Ex.:北アメリカのインディアンが着用したバイソンの頭部、南の海の島民のマスク masks、お守り amulets や、刺青 tatoos
C /ギリシャ人がはじめてジュエリーやドレスのこの装飾的な正しさ lawfulness を意識的に開発したと主張
ギリシャの装飾は 3 つの種類に分類される(ギリシャ神殿の装飾を正確に同じ方法で分析):
(1) イヤリング、タッセルや、髪型などの様なぶら下げる装飾品 hanging ornaments
(2) ネックレス、ブレスレットや、ベルトなどの様な輪の装飾品 ring ornaments
(3) 王冠 diadems、司教冠 miters や、戦士のヘルメット warrior helmets などの様な指導的な装飾 directional ornaments。
↓
(1) グッタエ guttae とムトゥル mutules はぶら下がりの要素
(2) トーリ tori、ターニス taenias と、アストラガルス astragals は輪の要素
(3) 小屋組 roof structures と棟瓦 ridge tiles は指導的な要素
【'Der Stil in den technischen und tektonischen Künsten, oder PRAKTISCHE ASTHETIK. Ein Handbuch für Techniker, Künstler und
Kunstfreunde'(『技術的/構造的な芸術、もしくは実践的な美学における様式 技術者、芸術家と芸術愛好家のための手引書』、
1860,1863)】
'Der Stil in den technischen und tektonischen Künsten, oder PRAKTISCHE ASTHETIK. Ein Handbuch für Techniker, Künstler und
Kunstfreunde'
Vol.1 : Textile Kunst 1860, Frankfurt a.M.
Vol.2 : Keramik, Tektonik, Stereotomie, Metallotechnik 1863, München
『技術的/構造的な芸術、もしくは実践的な美学における様式 技術者、芸術家と芸術愛好家のための手引書』
第一巻 : 繊維芸術、1860、フランクフルト
第二巻 : 陶磁器、構築学、切石法、金属技術 (を互いに観察し、建築術に関連した)、1863、ミュンヘン
第三巻 : 建築学?
Der Stil におけるゼンパーの 比較法 comparative method や 実践的な美学 practical aesthetics
14
15
G. Semper, Ueber die formelle Gesetzmassigkeit des Schmuckes und dessen Bedeutung als Kunstsymbolik (Zurich: Meyer & Zeller, 1856).
Ibid, 6. "Wo der Mensch schmückt, hebt er nur mit mehr oder weniger bewusstem tun eine Naturgeschlichkeil an dem Gegenstand, den erziert, deutlicher hervor."
8 MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 →「ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル Georg Wilhelm Friedrich Hegel やその他のロマン主義の哲学者の抽象的で審美
的な理論化を覆すよう求めることで、以前のゲルマンの理論と決別」
9 MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 【
‘Der Stil’ の基本構想
】
/チューリッヒでの最初の講演での比較の構成は Der Stil に持ち込まれる
/その始まりは芸術と、建築が 19 世紀半ばにあった危機についての一般的な発言から
/ゼンパーの目的:
個々の場合の中で、相応しいものの創造的プロセスの間に、芸術的な現象で明らかになる規則性と秩序 regularity and order を探求し、
一般的な原則、技術の経験的理論 empirical theory の基礎から推測すること
16
/ゼンパーの理論の実用性の主張(創案の具体的な道標を提供):
それはフォルムそれ自体ではなく、むしろ、考え idea、力 force、材料 material や手段 means、というフォルムの成分を探している ‒
換言すれば、フォルムの基本的な前提条件である
17
/現代建築は三つの間違った同じ思想をもつ学派によって支配されている:
1.
"唯物主義者" :新しい材料の可能性や構造上の偉業に追いやられるため、フォルムの創造においてアイデアより上に材料の要
素を置く
2.
3.
"歴史主義者" :過去のモデルに固執するため、現在を本来あるべき様に自由に進化させることを失敗する
純粋主義者 purists、図式主義者 schematists、そして未来主義者 futurists :同じく現在を失敗する。彼らはいずれも建築を
哲学的運動または "美的な清教主義 aesthetic Puritianism" の 形式として扱う。それによって説明的な意義 interpretive
meaning にあまりに重きを置き、最終的に建築のすべての表現手段を奪ってしまう 18
⇔
一方、ゼンパーにとって建築 = 私たちの身の周りの至る所で祝うことと同じ正しさと遊び心の本能から生まれている:
蟻継ぎの花輪 the interlacings of a wreath、螺旋の巻物?the curl of a scroll、円形のダンス a circular dance、オールの打ちつける音 the
beat of an oar
→
"これらは音楽や建築の成長の始まりである"
そのため同様の本能は解釈や創造のための厳格な規則に向いていないにも関わらず、対称性、プロポーション、および方向の空間的モ
ーメント spatial moment に順応している。
【
‘Der Stil’ の構成
】
/繊維 textiles、セラミックス ceramics、結構術 tectonics(大工 carpentry)、および規矩術 stereotomy(石工 masonry)
/百科事典的な著述
→
一つの媒体から別のモチーフや典型的なフォルムへの置き換えは、同じく素材変遷(新陳代謝?)Stoffwechsel か 素材の変換 とい
うプロセスを通じて生じる
→「素材の変化を耐えた芸術的フォルムは常に、時に象徴的に、初期の様式の痕跡や残留物を前進させる」
→「例えば織物で開発されたバスケット織りは、従来の装飾的なデザインや、緊張のモチーフとして柱頭に適用にされ、置き換えられ
たかもしれない」
→
モチーフやフォルムの置き換えは素材の変換というプロセスを通じて行われ、その変化の際に昔の要素を強く残す。
例えば、ギリシャのヒュドリア(大きな水かめ)hydria やエジプトのシトゥーラ situla(バケツ型のかめ)の形状
=集団もしくは 国家エンブレム
/シトゥーラ situla の低い重心
→ すべてのエジプト建築の基本
/ヒュドリア hydria の高めの重心
→ ドリス式建築に見られる特定の型
Semper, Style in the Technical and Tectonic Arts, 71.
Ibid, 72.
18 Ibid, 80-1.
19 Ibid, 469.
16
17
10 19
MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 テクトニクス tectonics と規矩術 stereotomy の章
/1
(Vol.2)
→新しい要点
ローマのヴォールトの開発で "空間 spatial" の固有のモチーフを考える際に、ゼンパーは建築の検討の有効な分野として空間の問題
を掲げる
/2
残された世紀のために鉄に関するゲルマンの議論のための理論的な限界 parameters を定める
鉄=より薄くなる事で材料としてより完璧で効率的になる
→ "芸術にとって不毛の地!"20
「しかし、それは大規模なトラスの管状の形態を使用することより大きな次元を与えられることができれば、 "その上に芸術の未来のた
めの我々の希望を釘付けることが可能かもしれない"21 という。」
織物 textiles の章
(Vol.1)
→最も長い章
/非常に創造的で、広範囲にわたった分析
/扱いに対して高い耐久力と柔軟で強情な素材の複雑な歴史を
る
被服 dressing/Bekleidung に関する概念:
人間の衣服 human clothing と建築の被服 architectural dressing との間に類似性を見出す
(→ついに自身の建築理論の主題を発展 )
歴史的に繊維の主題は、
空間の仕切りとして垂直に吊り下げた原始的なゴザの壁 primitive mat walls
→ 植物質の紡ぎ糸 threads spun from vegetable matter
/空間目的を象徴するように固体壁に多色彩の壁掛けを垂直に吊り下げ
ル)
別紙 Fig46
→ 枝 branches の編み
→
皮 basts と草 grasses の編み
→ 織込み weaving
→ 壁自体の被服 dressing(アッシリアの織物のような壁パネ
構造と装飾の分離→構造と装飾の融合?
/しかしギリシャではこれらの繊維の壁被服が塗られた時、彼らにとって 霊化 spiritualized =もはや単に装飾面ではない
/ よって 遮
masking =非常に象徴的で表現に富む
ゼンパー:
私は被服/被覆 dressing と遮
mask が、人類の文明と同じくらい古くあると考え、両方の喜びは、男性が彫刻家、画家、建築家、
詩人、音楽家、劇作家であることに駆られる、その喜びと同じである - 手短に言えば、芸術家である。
あらゆる芸術の創造、あらゆる芸術の喜びは確かなカーニバルの精神か自身を現代的な方法で表現することを前提にしており、カーニ
バルのロウソクのかすみが芸術の正しい状況 atmosphere である。 22
「ゼンパーの見解によれば、この "現実の否定"、そしてこの主題内容の隠
は、シェイクスピアの劇とモーツァルトのドンファン Don
Juan、フィディアス Phidias の石(彫刻)の劇に与えた影響と同じ "カーニバル・スピリット carnival spirit" の衝動が備わっている。ゼ
ンパーにとってそれは奇妙な方法において、記念碑的な建築の存在 very existence の理由である。」
→ギリシャでも、西洋でも、芸術表現において、この抑えきれない本能的な衝動/喜び=カーニバル・スピリットが “現実の遮
要としている
1864 – 1867_
ヴァーグナーのための世界最大の劇場の設計
/1849 年以降忙しくしていたヴァーグナーは、念願のパトロン(LudwigⅡ)を見つける
/王の命令で彼のために世界最大の劇場を計画 → ゼンパーに設計依頼
1865_
ヴァーグナーの不倫が発覚
1860 年代末_
1869 - _
→劇場計画の失敗
記念碑的建造物の設計(再建)、ウィーン、ドレスデン
/ 第二ドレスデン劇場の再建の依頼
Fig.6
→ヴァーグナー逃亡
‘Der Stil’ の第三巻の作業に取りかかるが、失敗する
→ドレスデンへの名誉ある帰還
Burg Theater 1873
Fig.7
Fig.8
Ibid, 659.
Ibid, 660.
22 Ibid, 438-9.
20
21
11 Hofburg 1881
” を必
MODERN ARCHITECTURAL THEORY / COMPETING DIRECTIONS AT MIDCENTURY 2012 / 7 / 11 加藤道夫研 修士課程2年 大和田 卓 【"On Architectural Styles"(『建築様式に』1869 年)】
/最後の公開講演会
(1)
→2 つの争点を注目
空間創造の強大な芸術 が 一般の建築の未来
23
を展開するという彼の認識
(2) 二つ目は、新しい建築様式の出現には適切な時代ではないという彼の論文、そしてこの 66 歳の建築家の弁明の辞任であった。
ゼンパーはこの論文の議論をする中で、 私たちのどちらかの若い同僚
24
に次の世代への技術革新の負担を渡したのである。
【 The Birth of Tragedy from Spirit of Music (『悲劇の誕生/ Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik』、1872 年)】
フリードリヒ・ニーチェ Friedrich Nietzsche
/ニーチェは 1869 年の秋の二つの講義に向けてギリシャの劇の考えを発展させていた
/ニーチェは Der Stil を読み、特にギリシャの劇や "現実の遮
masking of reality
25
→これが『悲劇の誕生』のベースとなった
を扱う一説に引きつけられる
二つの主題:
(1) ギリシャの悲劇が、アポロとディオニソスの融合した力、ディオニソスの傾向が支配している融合から生まれたということ。
事実上、この融合はエウリピデスとソクラテスの時代、不合理な成分が削ぎ落とさた時に、いわば西洋文明になるものの上昇
する合理的な力によって終わった。 →アポロの台頭、ディオニソスの衰退
(2) ディオニソスの 麻酔性の風 narcotic draught がギリシャ人に、不安と原始状態 primal condition of angst からの脱却の手段
を差し出した。ギリシャ人は演劇を通して、文明化していく自負心から免れ、そして幽閉された不合理な衝動を解放すること
ができた
→ディオニソスの役割
【第二ドレスデン劇場、1869-】
→
ディオニュソスの帰還
/アポロに与えられるという長年受け入れられていた優先順位を逆転
→ディオニュソス Dionysus が花嫁アリアドネ Adriadne を青銅馬車 Quadriga でオリンポス山 Mount Olympus に引いている、冠をいた
だかせた
Fig
これはまた、劇場の内装の全体を先導する明確な主題
ゼンパーの主張:
増していく合理的な産業のこの支配力とその今まで以上に見込みがある人間の破壊(アポロ)は、本質的に芸術の下劣な人間の本能を
なだめるか飼いならすという、原始的な贖罪の役割(ディオニュソス)を奪った
→
もし芸術がその人間性から文明化した悪魔(アポロ)を削ぎ落とすという社会的な努めを果たすためには、不合理でより率直な祝
賀(ディオニュソス)が必要である
Fig.9
第二ゼンパーオペラ 1869
Fig10
ディオニュソスの帰還
G. Semper, On Arcliitectural Styles, in Gottfried Semper: The Four Elements and Other Writings, 281; originally published as Ueber Bauslyle (Zurich: Friedrich Schuldiess, 1869), 28.
Ibid, 284 (original, 31).
25 For a discussion of the relationship between Nietzsche and Semper, see Mallgrave, Gottfried Semper, 346-52.
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