近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係を どう処理すべきか

近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係を
どう処理すべきか
―その方法を中心に―
宝 力 朝 魯
近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係を旨く処理しているモデルとして筆者は三つ立
てた。その各モデルの採っている方法は次の通りである。
「カナダ・ケベック州二重型モデル」は闘争的なモデルで、連邦レベルで英語とフランス語の二
公用語を認め、州内でフランス語だけを公用語としている。
「民族言語地域モデル」はベルギー・モデルの一つで、「ベルギー国憲法」によって、四つの民
族地域がそれぞれの民族言語を各自の地域内の公用語にしている。
「バイリンガル・モデル」にしたのは、ベルギーのブリュッセル地域圏とカナダのニューブラン
ズウィック州の二カ所であるが、筆者は前者を中心に論じた。ベルギーのバイリンガル政策は
「ベルギー国憲法」によって順調に行われている。
キーワード:近代化社会、多様な言語の使用、自由、平等、方法
はじめに
近代化社会、特に近代化を実現した国を単位とする大きな社会では多様な言語の使用と自由平等
の関係をどう処理すべきか。この問題に答えるために、筆者は世界的に検討した結果、既に三つの
モデルを立てた。それは、
(一)
、ベルギーの「民族言語地域モデル」
、
(二)
、カナダ・ケベック州の
連邦レベルで英語とフランス語の二公用語を認め、州内でフランス語だけを公用語にし、英語を制
限する「カナダ・ケベック州二重型モデル」、
(三)、カナダのニューブランズウィック州とベルギー
のブリュッセル首都バイリンガル地域圏の「バイリンガル・モデル」の 3 つである。本稿ではこの
三つのモデルがそれぞれどういう方法を採っているかについて論じたい。
Ⅰ. カナダ・ケベック州二重型モデル
ケベック州は州内でフランス語だけを公用語にし、英語を制限しているが、カナダ国内における
連邦レベルの英語とフランス語の二公用語政策に対する最大の支持者である。その重要な一つの原
因として、カナダではフランス語系住民にとって経営者・管理者へと社会的階段を上るにつれて、
東北大学大学院教育学研究科
日本学術振興会外国人特別研究員
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近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係をどう処理すべきか
英語の知識が次第に不可欠になってくるという客観的な事情は考えられる。そこで、ケベック州
政府は1974年の州独自の公用語法と、1977年のフランス語憲章によって、州内における英語の使用
を厳しく制限する政策を採っているにもかかわらず、ケベック州教育省は1979年にさまざまな民族
の言語継承を積極的に学校教育の中に位置づける姿勢を示した。そして、近年ケベック州の私立の
民族学校でフランス語・英語・遺産言語の三言語教育が始まり、州政府は80%まで財政援助を行っ
ている。このケベック州のフランス語・英語・遺産言語の三言語教育(トライリンガル教育)は
カナダ中に広がりつつある。それでは、ケベック州はフランス語を守るために、どのような思想
を背景にして、どういう方法を採っているかを筆者は次の三つの面で考えてみたい。
1 . 思想的な背景の形成
1763年のパリ条約によって、フランスの北米大陸で持っていた植民地はイギリスの手に入る。し
「当初のカナダはケベック
かし、フランス系住民はイギリス系への同化政策を拒否する。そこで、
を除きイギリス系の絶対的優位が当然視され、他の民族にアングロサクソン系への同化を強制する
アングロコンフォーミズム(
)の社会であった」のである。
世界経済が長期不況から脱した1896年を機にカナダに大規模な移民の第 1 波が押し寄せ、カナダ
が多民族国家となる転機となった。その後も大規模な移民の第 2 波と第 3 波がカナダに押し寄せる。
そして、第 2 次世界大戦後の移民法の改正で、インド系・中国系・アラブ系・アフリカ系などの移
民が増え、カナダはコスモポリタン的となった。
けれども、カナダは人種差別主義などによって、受け入れた移民に対して不平等な扱いをしたこ
ともある。このような移民の受け入れと受け入れた移民に対する差別が相矛盾する過程において、
増大する移民をカナダの社会に適合させ、移民を人種差別攻撃から守り、様々な移民グループから
の文化的貢献を含む新社会の建設を目指して、メルティングポット論が台頭する。その後、一部に
モゼイク論や文化的多元主義も主張されはじめ、アングロサクソン至上主義を否定し、各エスニッ
ク・グループの文化がカナダの社会に貢献してきた事実を強調した。そして、第 2 次世界大戦が終
わった後、1967年までにカナダの人種差別的な規制がほぼ撤廃された。
ところが、一方、1960年 6 月にジャン・ルサージュの率いる自由党がケベック州選挙でケベック
の政権を握ると、
「静かなる革命」と呼ばれるケベックの近代化に取り組み始める。それは英語系住
民に握られていた経済をケベックが取り戻して活性化し、教育をカトリック教会から取り戻して世
俗化させる事などによって、近代化を推進させようとした諸行為である。経済改革と同時に、大規
模な州政府の介入政策が行われた。その時期には、少数の英語系住民の経済支配に対するフラン
ス語系住民の不満が顕在化し、ケベック・ナショナリズムが台頭して、フランス語系の人たちは強
く平等を求めるようになった。そして、伊藤直哉の研究によれば、ジャン・ルサージュは「フラン
ス語系カナダ人と英語系カナダ人の同じ多数派地位」
・
「カナダ全国に散在するフランス語系マイノ
リティとケベックの英語系マイノリティの同等な扱い」
・
「多民族の文化をも尊重する多様性に基づ
くカナダの統一」を主張したケベックの要望を提出する。
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 2 号(2006年)
当時、
「ケベッカーの不満は、政治的に凝集されて二つの形をとるようになった。一つは、カナダ
憲法を改正して、英仏両系人平等の新連邦体制を作りたいとするものであり、残る一つは、ケベッ
。そして、後者の分離独立主義者による暴力事件はエスカ
クの分離独立を要求するものである」
レートして、「(ケベック解放戦線)は、一九七〇年、十月、イギリスのモントリオール商務
官クロス氏を誘拐、続いて、ケベック州労働大臣ラポルト氏を誘拐殺害し、カナダはもとより世界
中を驚かせた」。そういう状況の中で、トルードー首相が1971年に英仏二公用語の枠の中での多文
化主義宣言を出した。その後、1980年代半ばまでに差別修正措置や雇用平等計画が促進され、1988
年に多文化主義法が発効して、カナダは世界初の多文化主義に関する法律を成立させたのである。
2 . 法律とケベック州のフランス語
北米大陸のフランス系カナダ人はイギリスの被征服民になった後、ケベックを中心にフランス系
民族と文化を守り抜くことを決意する。このような状態の中でイギリスのケベック植民地総督ガ
イ・カールトン(
)は、ケベック植民地への支配政策として同化政策より、むしろフ
ランス系住民の指導的立場にある領主とローマ・カトリック教司教の特権を認めてイギリス側の味
方につけ、同植民地を南の13植民地に対する防衛上の基地とする方が得策であるとイギリス本国に
進言した。それが受け入れられて、イギリス政府はケベック植民地に反イギリス感情が及ばないよ
う1774年に「ケベック法」を制定した。この法律によってケベック植民地の自治と同植民地内に
おけるフランス語の使用、カトリック教信仰の自由、フランス民事法の適用が容認された。しかし、
その後アメリカの独立動乱を逃れて集団でケベック植民地に移住した王党派により、ケベック植民
地における英語系住民が増える。そして、彼らの英語の公用語化とフランス民事法の適用禁止を求
めることによって、ケベック植民地における英語系住民とフランス語系住民の対立が始まる。この
対立を解決するために、1791年に憲法的法律を作って、ケベック植民地を、言語文化を分割基準と
してフランス語系住民中心のロワー・カナダ植民地と英語系住民中心のアッパー・カナダ植民地に
分割し、それぞれに自治権を認めた。尚、同憲法的法律はロワー・カナダ植民地に対して、ケベッ
ク法によって保障された諸権利がそのまま変更されないことも定めた。ところが、英語系住民と
フランス語系住民の確執が相変わらず続き、1840年の連合法(
)によってロワー・カナダ植民地とアッパー・カナダ植民地が再統合され、カナダ(連合
カナダ)植民地が成立し(後にもしばしば「ロワー・カナダ植民地」
・
「アッパー・カナダ植民地」
という名称が使用されるが、今回の連合で「ロワー・カナダ植民地」は「カナダ・イースト」に、
「アッパー・カナダ植民地」は「カナダ・ウェスト」にそれぞれ改称された)、その第41条に英語の
みがカナダ植民地の唯一の公用語であると定める。この第41条がフランス語系住民の厳しい抵抗
を受け、1848年に撤廃されて、それ以降、二言語主義が打ち出される。
1864年10月には連合カナダ、ノヴァスコシア、ニューブランズウィック、プリンス・エドワード・
アイランド、ニューファンドランドの植民地代表がケベック市に集まって、英領北アメリカ植民地
「ケベック決議」
(
、
1864)を採択した。
全体の連邦化を討議し、
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近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係をどう処理すべきか
「ケベック決議」第46条は言語に関する条文であり、
「中央議会およびその議事録、ロワー・カナダ
の地方議会、連邦裁判所、ロワー・カナダの裁判所では、英語とフランス語の双方を使用できる」
と定めている。そして、1867年 3 月にイギリスは北米大陸の植民地側の要望に応えて、
「英領北アメ
リカ法」を制定し、連合カナダ(この英領北アメリカ法によって再分割され、かつてロワー・カナ
ダを構成していた部分がケベック州になり、かつてアッパー・カナダを構成していた部分がオンタ
リオ州になった)、ニューブランズウィック、ノヴァスコシアの三つの植民地に「カナダ」という名
の連邦結成を認めた。この「英領北アメリカ法」によってカナダ連邦が成立し、現在のカナダの基
本形が形作られた。即ち、1867年の「英領北アメリカ法」がカナダ連邦にとって非常に重要な法律
である。しかし、言語問題について述べているのはその第133条だけで、以下のようになっている。
何人も、カナダ連邦議会の両院およびケベック州立法府の両院の討論において英語およびフ
ランス語のいずれをも使用することができる。英語およびフランス語は、これらの議員の議事
録および議事広報において併用される。何人も、この法律に基づいて設立されるカナダ連邦の
各裁判所およびケベック州の各裁判所において、また、これらの裁判所にかかる訴答書面およ
びこれらの裁判所の発する令状において、英語およびフランス語のいずれをも使用することが
できる。
カナダ連邦議会およびケベック州立法府の法律は、英語およびフランス語で印刷発行される
ものとする。
これによれば、イギリスの植民地支配によって、北米大陸ではフランス系住民が多く住んでいるケ
ベック州の立法府の両院とその各裁判所及び連邦議会の両院とその各裁判所だけでのフランス語の
使用は法律で保障されていることが分かる。
カナダが連邦制になってから、第 2 次世界大戦後までケベックに大きな変化は無かった。とこ
ろが、既に「 1 」で論じたように、1960年にケベック州において「静かな革命」が起こり、フラン
ス語系住民の不満が高まっていく。そういう状態の中で、1963年にカナダ連邦政府の二言語二文化
政府委員会(
)が設立する。この二言
語二文化政府委員会の設立目的は、フランス語とフランス文化の保護やカナダの政治的・経済的意
志決定への完全参加を求めるケベック州のフランス語系住民の不満に応える方策を探るためで、調
査対象は、連邦官庁における英語とフランス語の使用状態、英語系住民とフランス語系住民の文化
関係を改善するための公的・私的機関の役割、国民が英語とフランス語のバイリンガルになれる機
会という三つである。そして、調査は英語系住民とフランス語系住民が対等なパートナーシップで
あるという概念に基づいて行われることになった。同委員会は調査を行った結果、フランス語系住
民が経済、政治、教育、言語、労働等の面で極めて不利な立場に置かれているという調査報告書を
纏めて、カナダが史上最大の危機のまっただ中にあると警告し、事態改善のために、カナダの英語
系住民とフランス語系住民が同等のパートナーシップであるという認識に基づく公用語法を採択す
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 2 号(2006年)
るように勧告した。そして、1969年にカナダの「公用語法」が制定された。この公用語法は英語
とフランス語を平等に使用させるために比較的に細かく定めている。例えば、その第 2 項に「英語
とフランス語はカナダ議会ならびにカナダ政府によってなされるすべての活動における公用語であ
り、カナダ議会ならびにカナダ政府におけるすべての組織での使用に関して、同等の地位・権利・
権限を享受するものである」と定めた。しかし、それ以降、英語の公用語化がフランス語の弱化に
繋がりやすいことを恐れるケベック州は1974年に州独自の公用語法を制定し、州の公用語をフラン
ス語だけにした。
1976年11月にルネ・レヴェックの率いるケベック党はケベックの主権達成を究極の目的としてケ
ベック州政権を握り、ケベック州のフランス語の強化を同政権の優先課題の一つにした。翌年、
「フ
ランス語憲章」(
)が採択され、1974年のケベック州公用語法によっ
てフランス語がケベック州唯一の公用語になったことは再確認された。ケベック州フランス語憲
章では、その第一条に「仏語はケベックの公用語である」と定めた上で、その実行を強調して以下
のような条文を定めた。
第一五条
行政府は公用語のみで文章等を作成、印刷する。
第二九条
交通標識は仏語のみで標示される。
第三〇条
公共企業、専門職団体及びその構成員は、公用語によるサービスを提供できるよ
うにしなければならない。
第四五条
雇用者は、仏語しか話すことができない、或いは、公用語以外の言語についての
知識を十分に有していないという理由で、従業員を解雇、一時解雇、降格、配置転
換してはならない。 …(後略)…
第七二条
本節で規定する例外を除き、幼稚園、小学校、中学校においては、教育は仏語に
よって行われねばならない。 …(後略)…
第一三六条
社員数五〇人以上の企業は
…(中略)…
仏語局の発行する仏語化証明書を取
得せねばならない。
ケベック州が当時このようにフランス語の使用を重視した主な理由は三つある。
(一)
、ケベック州
のフランス語の話者数が減っていた。
(二)
、イギリス系住民に代わって、イギリス以外の国からの
移民が増加し、放置すると英語系住民として定住する恐れがあった。
(三)
、ケベック州では商業上
の用語として英語が圧倒的な地位を占め、英語系労働者は最上層となっているが、フランス語系労
働者は最下層をなしていた。1977年のケベック州フランス語憲章の成立は、ケベック州のフラン
ス語の独立というかねてからの考え方によるものである。しかし、そのフランス語憲章が1979年に
連邦最高裁判所から憲法違反という判決を受ける。
1982年はカナダにとっては歴史的な年であると言える。なぜならば、カナダは第 1 次世界大戦後、
国際的地位を強め、ウェストミンスター法(
1931)によってイギリス
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近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係をどう処理すべきか
本国からほぼ完全に独立したが、その後もカナダの憲法改正に対するイギリス議会の関与は続いて
いた。カナダは1982年に「英領北アメリカ法」を改正することによって、憲法に対する完全な自主
改正権を獲得したからである。しかし、
「英領北アメリカ法」を改正することによって出来上がった
カナダ連邦の「一九八二年憲法法」は、元の「英領北アメリカ法」と1969年に制定された「公用語
法」と全く違って、その条文の中に「ケベック州のフランス語」に対する直接的な表現が一カ所も
なく、完全な英語優先の憲法となった。
「一九八二年憲法法」に対してケベック州が拒否権を行使し
続けたが、同憲法法がケベック州の参加無しに正式に公布された。そこで、ケベック州はカナダ
連邦の「一九八二年憲法法」を認めず、相変わらずフランス語憲章を堅持し、フランス語を唯一の
公用語として使用し、外の州と違って、英語系の学校でもフランス語が必修となっている。
3 . ケベック州のカトリック教とフランス語系住民
イギリスはニューフランスの北方部分を入手した後、それを北米大陸における16番目の植民地と
し、
「ケベック植民地」と名付けた。しかし、北米大陸におけるイギリス系住民とフランス系住民の
対立は終わったわけではない。当時ケベック植民地に約65,000人の住民が住んでいて、全員フラン
ス語を話し、カトリック教を信奉していた。そして、この時期を境に、北米大陸におけるプロテ
スタント教を信奉するイギリス系住民とカトリック教を信奉するフランス系住民の対立が深刻化し
ていく。ところが、イギリス政府はケベック植民地のカトリック教に対して弾圧或いは制限政策
を採らず、返って同植民地総督ガイ・カールトンの進言を受け入れて、1774年にケベック法を制定
し、その第 5 条に次のように定めた。
…(前略)…
当該植民地住民のより完全なる安全と安寧のため、以下のように宣言する。ロー
マ・カトリック教信仰を告白している当ケベック植民地臣民は、…(中略)…
国王の主権に
従うことを条件として、ローマ・カトリック教信仰の礼拝の自由を保持しかつ享有する。…
(中略)…
当該教会の聖職者は、当該信仰を告白する者に対してのみ、当該教会聖職者が通
常有する課税権及び諸権利を保有し、受領し、また享有する。
即ち、イギリス政府はケベック植民地を支配するために、当該植民地内における住民のカトリック
教信仰を認めただけではなく、奨励することになったのである。尚、ケベック法によってケベック
植民地内におけるフランス語とフランス民法の使用が許され、伝統的な政治組織と文化等の存続が
認められた。その後、1867年の「英領北アメリカ法」第93条にも「一定の者が、連邦成立の際、
州において法により有する、宗教学校(
)に関する権利または特権に不利
な影響を及ぼす法の規定を設けてはならない」と定めて、カナダ連邦におけるカトリック教学校の
経営を重視し、保護してきた。結局、このような宗教政策の下で旧カナダ植民地とカナダのフラン
ス語系住民は、カトリック教とフランス語を彼らの団結のシンボルにし、200年にわたって自分の固
有の言語と文化を守り続く。
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 2 号(2006年)
ところが、カナダのフランス語系住民は20世紀初頭まで主に農業か林業に従事していた。当時の
彼たちの社会、宗教、教育実態を二つの面で纏めることが出来る。
(一)
、カトリック教会は生活の
中心にあって、村々を支配し、教区の司祭は農村の伝統的価値を賞賛し、都市に対して反感を煽り
立てていた。(二)
、教会は教育を管理し、中等教育以上の教育を信仰の妨げになるとして奨励しな
かった。その提唱する教育は宗教・文学・芸術に重点を置いて、技術教育と自然科学・社会科学の
教育に興味を示さなかった。その為に長い間、農村部に住むフランス語系住民は都市部に住む英語
系住民と混じって居住せず、自分の文化と言語を守りやすかった。しかし、産業革命以降の経済の
発達に対して、農村部に住んで主に農業と林業に従事していたフランス語系住民は、都市部に住ん
で商業や工業に従事していた英語系住民に出遅れた。そして、長期にわたるカトリック教の支配に
よって高等教育とはもっぱら人文科学の研究としか思っていなかったフランス語系住民は、産業教
育を受ける機会が少なく、低学力者が多かったので、近代化の進む新しい経済社会になかなか順応
できず、経済の面でも英語系住民に支配されるようになり、フランス語の使い道は狭くなっていた
のである。
ケベック州には20世紀になってようやく工業化、商業化の波が押し寄せてきて、州内の到るとこ
ろで都市化が進み、高等専門教育を受けた人材が必要となってきた。経済発展に従ってフランス語
系住民の中にも少しずつ管理職、技術者、弁護士、医者などの知識層が増えていく。しかし、長
い間ケベック州の教育も人文科学に重点を置いたため、フランス語系の優秀な青年は、カトリック
教の司祭・神父、或いは芸術家を志して、実業界に入れず、ケベック州の経済界は少数の英語系
住民に牛耳られる状態が改善されないままであった。そこで、「静かな革命」が起こってから、ケ
ベック州政府は先ずカトリック教会から教育と社会事業の権限を取り上げ、政教分離を行い、義務
教育の年限を16歳まで引き上げ、大学を増やし、カリキュラムの近代化を計った。尚、労働法を
改正し、新しい経済政策を次々と実施し、近代化を推進しながら、フランス語の使い道を拡大して
いった。
1982年にケベック州は反対したにもかかわらず、カナダの新憲法(
「一九八二年憲法法」
)は制定
された。その第 2 条に
何人も、次の各号に掲げる基本的自由を有する。
良心および信教の自由
…(後略)…
と定めた上で、第15条に次のように定めている。
すべて個人は、法の前および法の下に平等であり、とりわけ、人種、出身国もしくは出身
民族、皮膚の色、宗教、性別、年齢または精神的もしくは肉体的障害により差別されること
なく、法により同様の保護および利益を受ける権利を有する。
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近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係をどう処理すべきか
前項の規定は、人種、出身国もしくは出身民族、皮膚の色、宗教、性別、年齢または精神
的もしくは肉体的障害の理由で不利な境遇にある人々を含む恵まれない個人または団体の状
態の改善を目的とする法、計画または事業を妨げるものではない。
この「一九八二年憲法法」の第 2 条のと第15条のは自由平等を保障するための素晴らしい条
文である。しかし、第15条のは、プロテスタント教を信仰し、少数でありながらケベック州内の
経済界を支配している英語系住民に対して、
「静かな革命」以降、一連の強硬な政策を採ってきた同
州内のフランス語系住民側に不利である。
尚、
「一九八二年憲法法」第29条は「この憲法のいかなる規定も、宗派学校、分離学校または非国
教派の学校に関し、カナダ憲法により保障された権利もしくは特権を廃止し、またはそれらを減ず
るものではない」と定めている。これは「静かな革命」以降、カトリック教会から教育と社会事業
の権限を取り上げ、カトリック教とプロテスタント教の宗派別に行われていた教育行政を6-5-2-3制
に一本化して州政府の管轄下に置き、政教分離を行って近代化を進めているケベック州政府にとっ
ては、受け入れられない事である。
「 2 」で論じたように、
「一九八二年憲法法」は言語の面でもケ
ベック州側にとって受け入れられない。そして、その改正をめぐってカナダにおけるフランス語系
住民の多いケベック州と英語系住民の多い外の諸州の交渉は難航しているのである。
Ⅱ.「民族言語地域モデル」と「バイリンガル・モデル」
「はじめに」で述べたように、
「民族言語地域モデル」とはベルギーの「民族言語地域モデル」で、
「バイリンガル・モデル」とはカナダのニューブランズウィック州とベルギーのブリュッセル地域
圏の「バイリンガル・モデル」を指している。ところが、
「バイリンガル・モデル」の方は、カナダ
のニューブランズウィック州が英語とフランス語のバイリンガル政策を受け入れたけれども、実行
の面で比較的に消極的である。そこで、筆者はベルギーにおけるブリュッセル地域圏の「バイリ
ンガル・モデル」と「民族言語地域モデル」について次の三つの面で論じることにしたい。
1 . 言語戦争の解決と統治原理の転換
ベルギーは1830年にオランダから独立した。独立直後の1831年に制定されたベルギー憲法には言
語について「ベルギー国で通用している言葉の使用は任意である。官憲の行為および裁判事務につ
いてのみ、法律によって、用語を定めることができる」と定めている。しかし、ベルギー政府は法
令でフランス語だけを公用語と決定した。これが自国内のオランダ語を使うフラマン系住民の存在
を無視した形となり、フラマン系住民側の不満が高まる一方となる。そして、ベルギーにおけるオ
ランダ語を使うフラマン系住民とフランス語を使うワロン系住民の言語戦争が始まる。
1967年から1971年にかけてベルギーの第 3 次憲法改正が行われ、ワロン系住民とフラマン系住民
の平等性を維持していくための細かい規則が定められ、フランス語とオランダ語がベルギーの公用
語となり、この両言語がベルギーで平等に使われるようになった。これによって、140年続いたベル
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 2 号(2006年)
ギーのフラマン系住民とワロン系住民の言語戦争が解決される。ところが、ベルギーの独立当時か
ら統治機構面で採ってきた中央集権主義は、1960年頃から改革を余儀なくされる。なぜならば、戦
間期に導入した言語政策面での属地主義によって、ワロン系住民とフラマン系住民の対立は激しく
なる。特に、1962・63年の一連の言語法によって、フラマン地域では同地域内からフランス語を徹
底排除する要求が高まり、言語と密接な関係を持つ文化面における自治を要求する。一方のフラン
ス語使用者側は、1950年代末から1960年代初めにかけてのフラマン地域の経済発展によるフラマン
地域とワロン地域の経済的力関係の逆転という事態を受けて、経済面における自治を要求する。そ
して、双方の対立が更に激しくなり、ベルギーは国家分裂の危機にさらされるようになった。こ
の問題を解決するために、ベルギーは1970年から1993年にかけて 4 回にわたる国家再編を行って、
民族問題に統治機構の面から対処する政策を採った。その結果、ベルギーにおける統治機構面での
民族政策は属地主義を基本に据えるものに変わり、
「ブリュッセル地域圏」とその周辺の「フラマン
地域圏」に属人主義が未だ残っているという状態となっている。
2 . ベルギー国憲法における言語関連の規定
自由の保障、国民主権、代表制、権力分立、法治主義などを基本原則としたベルギー憲法の目的
は何よりも民主制の実現にあった。ベルギー憲法は19世紀自由主義の典型的な産物とも評価され、
最もリベラルなものの典型と見なされ、その精神などがその他の国々の憲法のモデルとなった。
それは1830年10月 4 日のベルギー独立宣言直後の同月 6 日に憲法起草委員会が設置され、当時ベ
ルギーに言語問題が起こっていなかったという社会環境もあって、同月12日から16日までの 5 日間
で草案作成が完了し、1831年 2 月 7 日の国民会議に採択された。しかし、その後、国内の言語戦
争、民族対立、地域矛盾等を解決するために、1993年までに 6 回改正されている。それでは、 6 回
目の改正が終わった後の「ベルギー国憲法」を、次の四つの面で考えてみたい。
言語関連の行政区画
「ベルギー国憲法」第 1 条では、ベルギーが共同体と地域圏から成る連邦国と定めた上で、その
第 2 条と 3 条では、
「ベルギー国は、三つの共同体、すなわち、フランス共同体、フラマン共同体お
よびドイツ語共同体、から成る」
、
「ベルギー国は、三つの地域圏、すなわち、ワロン地域圏、フラ
マン地域圏およびブリュッセル地域圏、から成る」と定めている。そして、同憲法第 5 条でワロン
地域圏がブラバン・ワロン、エノー、リエージュ、リュクサンブール、ナミュールの五つの州によっ
て構成され、フラマン地域圏がアンヴェール、ブラバン・フラマン、西フランドル、東フランドル、
ランブールの五つの州によって構成されると具体的に明確にした上で、その第 7 条に「国、州およ
び市町村の境界は、法律に基づかなければ、変更または訂正することができない」と定めている。
一方、同憲法第 4 条は以下のように定めている。
1
ベルギー国は、四つの言語地域、すなわち、フランス語地域、オランダ語地域、ブリュッ
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近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係をどう処理すべきか
セル首都二言語地域およびドイツ語地域、から成る。
2
王国の各市町村は、この言語地域の一つに所属する。
3
四つの言語地域の境界は、各議院の各言語グループ構成員の過半数が出席し、かつ二つの
言語グループでの賛成投票総数が投票の三分の二に達することを条件として、各議院の各言
語グループにおける過半数で可決された法律によらなければ、変更または訂正することがで
きない。
ベルギーはこのように全国を四つの言語地域に区画し、言語地域の境界線をどの民族側もかってに
変更又は訂正できないようにしている。そして、ベルギー国内で使われている言語の使用に対する
自由選択の権利を尊重して、同憲法第30条は「ベルギー国内で用いられている言語の使用は任意で
ある。言語の使用は、公権力の活動および訴訟についてのみ、しかも法律によらなければ規律され
ることができない」と定めている。又、同憲法第189条は「憲法の法文は、フランス語、オランダ語
およびドイツ語で作成される」となっている。同憲法の上述した各条文に「公用語」という言葉が
一カ所もない。しかし、フランス語・オランダ語・ドイツ語はベルギー国の公用語になったと言え
る。
言語関連の行政組織
「ベルギー国憲法」第99条は連邦レベルの言語関連の行政組織について、
「内閣は最大一五名から
成る」、「首相を場合によって除いて、内閣は同数のフランス語系大臣およびオランダ語系大臣から
成る」と定めている。一方、同憲法は言語関連の地方行政組織の設置についても定めている。
ベルギー国にはワロン地域圏、フラマン地域圏、ブリュッセル地域圏という三つの地域圏があっ
て、それぞれ地域圏政府を持っている。しかし、これらの地域圏政府の機能に頼るだけでは地域圏
間の同じ民族の言語問題を処理するのは難しい。これに対して、
「ベルギー国憲法」第115条は次の
ように定めている。
§1
1
フランス共同体議会およびフラマン議会と呼ばれるフラマン共同体議会を置く。そ
の構成および運営は、第四条最終項に定められた多数で可決された法律をもって決定
する。
2
ドイツ語共同体議会を置く。その構成および運営は法律をもって決定する。
…(後略)…
このようにフランス共同体・フラマン共同体・ドイツ語共同体にそれぞれ共同体議会を設置すると
定めた。そして、この各共同体議会の構成議員について、同憲法第116条では「各共同体議会は、当
該共同体議会構成員の資格または地域圏議会構成員の資格で直接選挙された構成員により構成され
る」と定めた上で、その第121条は以下のように定めている。
― 24 ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 2 号(2006年)
§1
1
フランス共同体政府、フラマン共同体政府を置く。その構成および運営は、第四条
最終項に定められた多数で可決された法律をもって決定する。
2
ドイツ語共同体政府を置く。その構成および運営は法律をもって決定する。
…(後略)…
このようにフランス共同体政府・フラマン共同体政府・ドイツ共同体政府の設置を明確に定めた上
で、同憲法第122条は「各共同体または地域圏政府の構成員は、その議会によって選挙される」と、
各共同体または地域圏政府構成員の選出方法を定めている。
共同体における言語関連の機能
「ベルギー国憲法」第127条は次のように定めている。
§1
1
フランス共同体およびフラマン共同体議会は、
それぞれ自らに関して、
デクレをもっ
て、以下について規律する。
一
文化事項、
二
教育、ただし次のものを除く、
a
義務教育の開始と終了の決定
b
学位授与の最低条件
c [教員の]年金制度
三
一号および二号の事項のための共同体間協力および国際協力、これには条約の締
結を含む、
2
第四条最終項に定められた多数で可決された法律をもって、一号の文化事項、三号
の協力の形態および三号の条約締結の態様を決定する。
§2
このデクレは、それぞれフランス語地域およびオランダ語地域において、ならびにその
活動によりどちらか一方の共同体に専属すると見なさらねばならないブリュッセル首都二
言語地域に設置された機関に対し、法律の効力を有する。
これによれば、フランス共同体議会とフラマン共同体議会はそれぞれの「文化事項」
、「義務教育の
開始と終了の決定・学位授与の最低条件・教員の年金制度以外の教育」と、その為の「共同体間協
力」等を規律することが分かる。又、フランス共同体議会とフラマン共同体議会について同憲法第
129号は以下のように定めている。
§1
フランス共同体およびフラマン共同体議会は、それぞれ自らに関して、デクレにより、
連邦立法者を除く以下のための言語の使用を規律する。
一
行政事項、
― 25 ―
近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係をどう処理すべきか
二
公権力により設置され、助成されまたは認可された施設における教育、
三
使用者と労働者の社会的関係ならびに法律およびレグルマンをもって規律された企業の
証書および文書、
これによれば、フランス共同体およびフラマン共同体議会はそれぞれの共同体内における行政用語、
公的教育用語と企業などの労働関係の書き言葉を規律することが分かる。
尚、ドイツ語共同体議会に関して同憲法第130条は次のように定めている。
§1
1
ドイツ語共同体は、デクレをもって、以下について規律する。
一
文化事項、
二
人間らしい生活の事項、
三
教育、ただし、第一二七条§ 1 、 1 項二号の制限内にあるものとする。
四
一号、二号および三号のための共同体間協力ならびに国際協力、これには条約締
結を含む。
五
公権力により設置され、助成されまたは認可された施設における教育のための言
語の使用、
2
法律をもって、一号および二号の文化および人間らしい生活の事項ならびに四号の
協力の形態および条約締結の方法を定める。
§2
このデクレは、ドイツ語地域において法律の効力を有する。
このように、ドイツ語共同体議会によって、同共同体の「文化事項」
、「義務教育の開始と終了の決
定・学位授与の最低条件・教員の年金制度以外の教育」と、その為の「共同体間協力」等が規律さ
れる外、公的教育用語も規律されている。
一方、ブリュッセル地域圏にはワロン系住民がマジョリティとなり、フラマン系住民がマイノリ
ティとなっている。そのワロン系住民はフランス共同体に属し、フラマン系住民はフラマン共同体
に属する。この問題に対して、
「ベルギー国憲法」第136条は以下のように定めている。
1
共同体事項に権限があるブリュッセル首都地域圏議会の言語グループおよびその執行部を
置く。その構成、運営、権能および、第一七五条を除くその財政は、第四条最終項に定めら
れた多数で可決された法律をもって規律する。
2
執行部は、二つの共同体間の協議および調整機関の役割を果たす合同執行部を共に組織す
る。
即ち、ブリュッセル地域圏におけるワロン系住民とフラマン系住民の問題を上手に処理するために、
「ブリュッセル地域圏議会の言語グループおよびその執行部」を設置し、それによってフランス共
― 26 ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 2 号(2006年)
同体とフラマン共同体の間における協議と調整等の具体的役割を果たすようにしたのである。
警鐘手続き
ベルギーではワロン系住民とフラマン系住民の対立はしばしば言語対立によって生じる。而も、
双方の間に言語対立が起こると、それはエスカレートしていって、政治・経済等の諸分野を巻き込
んで、内閣まで崩壊に追い込まれる場合もある。言い換えれば、ベルギーでは各民族の言語および
その他の利益を守るために、共同体間の問題を上手に処理することが極めて重要である。そこで、
「ベルギー国憲法」第54条は次のように定めている。
1
予算および特別多数を必要とする法律の場合を除き、一つの言語グループの少なくとも四
分の三の議員により署名され、かつ報告書の提出から公開会議での最終投票までに提出され
た、理由を付した動議をもって、それが指摘する政府提出または議員提出の法案の規定が共
同体間の関係を重大に損なう性質のものであると宣言することができる。
2
この場合に、議事手続は停止され、動議は内閣に付託される。内閣は、三〇日以内に、動
議について理由を付した意見を述べ、関係議院に対しこの意見または場合によっては修正さ
れる政府提出または議員提出の法案について判断を下すよう要請する。
3
この手続は、政府提出または議員提出の同一法案に対し、ある言語グループの議員により
一度しか用いられることができない。
即ち、議会に提出された法案の内容は、ある共同体に不利をもたらす可能性がある場合、その提出
された同一法案に対して、不利を恐れている共同体側から、その審議にストップをかける為の警鐘
手続きを取ることができる。その時、内閣の「大臣同数制」が機能する。なぜならば、内閣が場合
によって首相を除いて「同数」のワロン系大臣とフラマン系大臣から構成されるというのは、決し
て単なる数あわせではない。大臣たちは必要なときに、それぞれの民族の利益を代表し、而もそれ
を守るために平等に意見を主張できるようになっているに違いない。そこで、いったん言語グルー
プから動議が宣言された場合、内閣が責任を持って対処しなければ、重大な問題になりかねないの
で、この警鐘手続きは非常に重要である。
3 . ブリュッセル地域圏
現在の「ベルギー国憲法」に「ブリュッセル地域圏」と記されている所に当たる地域は、三回目
の改正(1967-1971年)によって出来上がった「ベルギー国憲法」には「ブリュッセル地方区」と
記されている。実はブリュッセル地域圏は「ブリュッセル地方区」と呼ばれる前に既にフランス語
とオランダ語の二言語を使う特別地区―バイリンガル地区となっていた。そして、何十年もの
間にフランス語とオランダ語のバイリンガル政策を積極的に実行してきた。
「Ⅱ」の「 2 」で触れた
ように、ブリュッセル地域圏ではワロン系住民はマジョリティとなり、フラマン系住民はマイノリ
― 27 ―
近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係をどう処理すべきか
ティとなっている。しかし、言語の平等は行政のあらゆる方面で確保されている。これについて武
居一正の研究によれば、次の通りとなっている。
ブリュッセル地域圏政府は議会によって選出される 5 名の構成員から成る。長を除いて、
2 名がワロン系で、 2 名がフラマン系である。
ブリュッセルではフラマン系住民がその人口の15%程度しかないのに、言語同数制により、
同地域圏政府の50%の構成員がフラマン系となっている。
公文書はフランス語とオランダ語で公示され、住民は行政との関係でどちらの言語を使っ
ても良い。
ブリュッセル地域圏議会は75名の議員から成り、そのうち60名がワロン系で、15名がフラ
マン系である。同議会において必要な場合に警鐘手続きを取るので、これらの議員がそれぞ
れ言語グループを構成し、役割を果たす。
同地域圏議会では15名のフラマン系議員が60名のワロン系議員と同等の権限を行使でき
る。
ブリュッセル地域圏議会の言語グループは共同体委員会を構成し、同地域圏で共同体の権
限を行使する。
ブリュッセルのフラマン系住民のために、ブリュッセル首都行政区の副知事の職務を置い
た。副知事は、ブリュッセル首都行政区における行政事項および教育における言語使用に関
する法律等の適用を監視する。副知事は、個人の不服申し立てを受け、必要な調査等をした
後、調停を試みる。失敗したら、言語統制常設委員会(
)に事案を解決してもらう。
又、この地域圏では道路交通標識、商店や役所の看板、商品の説明書は全部フランス語とオラン
ダ語の二種類の言語で記されている。子供の教育言語は親の意志で選択可能であるが、学校ではフ
ランス語とオランダ語が強制的に教えられ、二言語の学習がかなりの程度義務づけられている。そ
して、同地域圏の住民たちはフランス語とオランダ語をよく理解し、双方の関係は比較的に上手に
処理され、日常的には、深刻な言語戦争の場面はほとんど無い。
おわりに
多様な民族と宗教を抱えた他者との平和的共存という大命題は21世紀の人類最大の課題であると
いって良い。このような問題を解決するために言語問題を正しく処理することは非常に重要であ
る。カナダのケベック州は多文化主義を思想的な背景とし、政教分離を行い、カナダのフランス
語を守るための砦となっている。しかし、カナダ連邦の「一九八二年憲法法」の改正をめぐって連
邦政府およびその他の諸州と対立している。カナダ連邦の現在の規模を維持する限り、双方の対立
状態が旨く処理されることは重要である。
― 28 ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 2 号(2006年)
ベルギーは長引く言語戦争と民族対立を解決するために、第 3 回憲法改正を行い、国家再編に踏
み切った。それから、憲法を実行しながら、国内情勢に合わせて、1993年までに 3 回にわたる憲法
改正と国家再編を行った。憲法に定められた通り、各言語地域でそれぞれの民族言語が公用語とし
て使用され、ブリュッセル地域圏のバイリンガル政策も順調に実行されている。一方、属地主義、
フラマン地域圏の経済発展、ブリュッセル市民がブリュッセル地域圏周辺のフラマン地域圏への移
住(ブリュッセルの多くの土地と建物が大資本に買い取られることによって起こっている現象であ
る)等によって、フラマン地域圏ではワロン系住民がマイノリティになって、フランス語の使用等
をめぐって若干問題が起こっている。しかし、それを含むベルギーにおけるマイノリティの言語問
題は、その「便宜措置」と「特例」
、ブリュッセル首都行政区の副知事、ブラバン・フラマン州知事
補佐、言語統制常設委員会等によって解決される対象となっている。
【註】
河原俊昭「カナダの言語政策」(小西滋人
編集『金沢経済大学論集』第24巻第 1 号(通巻第57号)
、金沢経済大
学経済学会、1990年 7 月、128)。
河原俊昭『世界の言語政策
―多言語社会と日本―』、くろしお出版、2003年、178、179。
同上、185。
伊藤直哉「カナダ言語政策における言語権の確立とその構造」(『大学院国際広報メディア研究科言語文化部紀要
39』、北海道大学、2001年 2 月、13)。
前掲『世界の言語政策
―多言語社会と日本―』、166。
同上、163。
同上、167、168。
前掲『大学院国際広報メディア研究科言語文化部紀要 39』、21。
寺家村博はケベックの「静かな革命」について「『静かな革命』の主な改革は、政治改革、経済改革、教育改革、
年金制度改革、さらに連邦との関係改善など、州権が意味するほとんど全ての分野に及んだ」
(寺家村
博「フラン
ス語圏の成立Ⅲ ―アングロフォンとフランコフォン、カナダ連邦政府とケベック州の言語政策に関する一考
察―」(拓殖大学人文科学研究所編集委員会
編集『人文・自然・人間科学研究
第 3 号』
、拓殖大学人文科学研
究所、2000年 3 月、59)、と述べている。
又、ジャン・ルサージュについて寺家村は「ルサージュ政権は 6 年間で大胆な改革を行い、独立も視野に入れて、
民営電力会社の州営化、州主動による年金制度の確立、州内の選挙制度改革、初等・中等教育のカリュキュラム内
容の近代化等の要求を連邦政府に行っていった」(同上、50)と述べている。
前掲『大学院国際広報メディア研究科言語文化部紀要 39』、21、22。
増田純男『言語戦争』、大修館書店、1978年、44。
同上、45。
前掲『世界の言語政策
―多言語社会と日本―』、168、169。
同上、177。
日本カナダ学会
編集『資料が語るカナダ』、有斐閣、1997年、30。
前掲『大学院国際広報メディア研究科言語文化部紀要 39』、14。
― 29 ―
近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係をどう処理すべきか
前掲『資料が語るカナダ』、42、43。
同上、48。
同上、49。
前掲『世界の言語政策
―多言語社会と日本―』、177。
吉田健正『カナダ 20世紀の歩み』、彩流社、1999年、206、207。
前掲『資料が語るカナダ』、90。
前掲『言語戦争』、40。
カナダの憲法制定に対するイギリス議会の関与については、樋口陽一・吉田善明の編集した『解説
世界憲法集』
に次のように述べている。
第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約に署名するなど、国際的地位を強めていたカナダは、ウェストミンス
ター法(
1931)で英本国からほぼ完全に独立した。 …(中略)…
ただ、憲法
事項に限っては、各州の参加の程度など具体的な憲法改正手続きの内容をめぐりカナダ国内側で合意できず、
憲法改正への英国議会の関与が存続した(同法第七条第一項)。独自に改正できる憲法事項の拡大には一九四九
年の改正を、さらに、カナダの完全な自主改正権の獲得には一九八二年の改正を待たねばならなかった。この
改正は、形式的には「一九八二年カナダ法(一九八二年法律第一一号)」というイギリス法によってなされたの
であり、「一九八二年憲法法」はこの「カナダ法」の別表Bとして定められたものである(樋口陽一・吉田善明
編集『解説
世界憲法集』、三省堂、1988年、60)。
又、佐藤信行は以下のように述べている。
一八六七年のイギリス議会制定法である「イギリス領北アメリカ法」
(「法」。現在「一八六七年憲法」
と改称)によって、一応の独立を達成したカナダは、爾後、同法を中心とするいくつかの法規範を憲法として
きた。しかしながら、カナダの独立は、法的には完全なものではなく、宗主国たるイギリスの議会が、法
を含むカナダ憲法の改廃権を長く保有し続けてきたのである。このイギリス議会の権限によって制定された最
後の憲法が、一九八二年憲法である(前掲『資料が語るカナダ』、98)。
前掲『人文・自然・人間科学研究
前掲『世界の言語政策
第 3 号』、54。
―多言語社会と日本―』、172。
同上、178。
大原祐子『世界現代史31 カナダ現代史』、山川出版社、1981年、32。
前掲『人文・自然・人間科学研究
第 3 号』、p48。
前掲『金沢経済大学論集』、121。
同上、121。
カトリック教およびその学校によってカナダにおけるフランス語系住民の言語と文化が守られてきたのは事実で
ある。ケベック州はフランス語の話者を増やしてフランス語を守るために、カトリック教の教義を背景にして、多
産主義も推し進めていった。問題はカトリック教がイギリスとカナダの英語系住民側にカナダのフランス語系住民
を支配するための重要な手段として長く利用されたことにある(前掲『人文・自然・人間科学研究
第 3 号』、58)。
前掲『金沢経済大学論集』、125、126。
同上、129。
「カナダの発展は、英仏両系を融合させることなく、対立と結果的な差別への道を歩んでしまった。理念は平等で
あっても、現実には英語が支配的な言語として政界、経済界で使われ、フランス語はマイナーな言葉として、政治・
― 30 ―
東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 2 号(2006年)
経済の社会の第一線に出られなかった。その理由として、ケベックの教育制度を指摘する声もある。例えばケベッ
クでは、人文科学に重点を置いたため、優秀な青年は、カトリックの司祭、神父、又は芸術家を志すようになり、
実業界に入ることを好まなかったことなどがある」(前掲『言語戦争』、42)。
前掲『金沢経済大学論集』、129。
ケベック州ではカトリック教とプロテスタント教の二宗派が独自の教育行政を展開する一州二制度制は長く続
き、カトリック教を信仰するフランス語系住民とプロテスタント教を信仰する英語系住民の溝を深めてきた。静か
な革命期に、その宗派別に行われていた教育行政を6-5-2-3制に一本化して州政府の管轄下に置き、政教分離を行っ
た(前掲『世界の言語政策
―多言語社会と日本―』、177、178)。
前掲『金沢経済大学論集』、136。
三竹直哉「ベルギーにおける言語政策と統治機構の再編(三)」(『政治学論集
第四十七号』、駒澤大学法学部、
1998年 3 月、65)。
ベルギーの国家再編は1970年に正式に始まる。しかし、三竹直哉の研究によれば、ベルギー政府は国内における
フラマン系住民とワロン系住民の対立問題を解決するために、実は1936年に国家再編委員会を設置し、その準備を
進め、憲法改正による国家再編を目指すと1961年に宣言していたのである(三竹直哉「ベルギーにおける言語政策
と統治機構の再編(二)」(『政治学論集
阿部照哉・畑
博行
第四十六号』、駒澤大学法学部、1997年、73))。
編集『世界の憲法集』[第二版]、有信堂高文社、1998年、381、382。
ベルギー憲法は民主主義と自由主義を基礎原理とし、立憲君主制の下に自由主義的議会民主制の一つの見本を示
した(宮沢俊義 編集『世界憲法集 第四版』岩波書店、1983年、66)。
前掲『世界の憲法集』[第二版]、378、379。
同上、384-404。
三竹直哉の研究によれば、実はベルギーでは、早くも第 2 次世界大戦前に、フラマン系住民とワロン系住民の言
語対立を解決するために、何らかの形で中央集権主義的単一国家のベルギーを再編しなければならないという認識
が高まり、フラマン系住民とワロン系住民を基本的単位とする連邦主義を支持した極少数の政治エリートはあった。
しかし、大半の政治エリートの支持を得ることができなかった。第 2 次世界大戦が終わった後もしばらくの間、政
治的エリートの主流派では、連邦主義は過激で危険な選択肢と見なされていた(前掲『政治学論集
第四十六号』、
72、73)。ところが、ベルギーの連邦化は1971年から1993年にかけて行われた国家再編によって進められた。とは
言っても、フラマン系住民側のナショナリストがあくまでも「二構成体からなる連邦主義」を目指していて、その
主張が完全に放棄されていない。一方、フランス語使用者側の主張する「三構成体からなる連邦主義」も採択され
たわけではない(前掲『政治学論集 第四十七号』、73)。言い換えれば、ベルギーの国家再編プロセスが終わっ
たととらえる人は未だ少ない。けれども、ベルギー国家は第 4 回国家再編によって名実共に連邦制へ移行したと言
える(前掲『政治学論集
前掲『世界憲法集
第四十六号』、94)。
第四版』、94。
前掲『言語戦争』、22。
前掲『政治学論集
、99。
第四十六号』
武居一正「ベルギーにおける言語的少数者保護」
(法学論叢編集委員会 編集『福岡大学法学論叢』第47巻第 1 号
(通巻第162号)
、福岡大学研究推進部、2002年 6 月、48、49、51、52)。
梶田孝道「今、ブリュッセル」(サントリー文化財団・生活文化研究所『季刊アステイオン』、㈱ティビーエス・
ブリタニカ、1989年10月、107)。
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近代化社会で多様な言語の使用と自由平等の関係をどう処理すべきか
前掲『大学院国際広報メディア研究科言語文化部紀要 39』、7 。
前掲『季刊アステイオン』、109。
前掲『福岡大学法学論叢』、49-52
(本論文は日本学術振興会の奨学金による研究結果の一部分です。これを公表するに当たり、日本
学術振興会の理事長をはじめとする全職員の方々と、東北大学でお世話になっている私の指導教官
の加藤守通先生・梶山雅史先生およびその他の全ての方々に心よりお礼申し上げます。
)
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東北大学大学院教育学研究科研究年報 第54集・第 2 号(2006年)
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