吉 本 秀 子 : 米国の冷戦期・東アジア軍事拠点としての沖縄と統治予算

山口県立大学学術情報
第 9 号 〔国際文化学部紀要
通巻第22号〕 2016年 3 月
米国の冷戦期・東アジア軍事拠点としての沖縄と統治予算
U.S. Congressional Appropriation and Occupation of
Okinawa as a Cold War Military Base in East Asia
吉本
秀子
YOSHIMOTO, Hideko
This paper examined how the U. S. Congress viewed the occupation of Okinawa in 1945-1972 based
on the Congressional Records and other related archives. According to the past research, the United
States’ policy toward Okinawa was not well coordinated because of the divided views between the State
Department and Defense Department. However, the Congress appropriated the administration budget
along the same line, for the civil function of the Army. It was basically GARIOA appropriations from
1947-1956 fiscal years and ARIA appropriations from 1957 to 1972. This paper aimed to clarify that
these appropriations comprise economic aids and information and education programs. In doing so, the
paper argued that the Congressional appropriations could be understood as a part of the U.S. Economic
Cooperation Program, an Asian version of the so-called Marshall Plan.
はじめに−本研究の目的と視座
第二次世界大戦が終了した1945年から1972年まで沖縄は米国の占領統治下におかれた。その間、沖縄は米
国の安全保障政策における東アジアの重要拠点として位置づけられていたが、この27年間に及んだ占領で、
現地沖縄の住民統治に当たったのが、1945年から1950年12月15日までは米軍政府であり、1950年12月から
1972年5月までは琉球列島米国民政府(以下、米民政府とする)であった。米国の沖縄統治方針は、初期に
おいては第二次世界大戦後における日本占領方針と密接に関わりながら、その後、冷戦期の米国の軍事外交
政策と対外情報政策の一部として機能することになる。本稿は、この米軍政府と米民政府に対して米国議会
から歳出された統治予算の検討を通して、米国の沖縄占領統治に対する米議会の視点を明らかにし、米国の
沖縄占領とは何だったのかを再考するものである。
米国の東アジア政策の一部として沖縄問題を論じる際の難しさは、正史が存在しない点に集約される。米
国の公文書は、それを「占領(occupation)」と呼ぶことを意識的に避け、「統治(administration)」と
いう語を使用している。1945年から1950年までの米軍政府時代については、陸軍省のアーノルド・フィッ
シュ(Arnold G. Fisch)が正史に準ずる記録を書いているが1、1950年から1972年までの米民政府の歴史に
ついては、公的記録の作成が企画されたが未完となった2。未だ公開されていない機密文書も多い3。このよ
うな状況の中で、本稿の目的は、米国の沖縄統治予算の目的と項目を検討することで、米議会にとっての沖
縄占領とは何だったのかを提示してみせることにある。
沖縄占領に関する先行研究は、日本から分離されるに至るまでの米国の政策決定過程、統治体制、土地問
題、返還へ向けての日米交渉過程などの視点から沖縄問題を捉えてきた。4 統治予算の検討した先行研究に
琉球銀行調査部による『戦後沖縄経済史』があるが、同書は主として沖縄側で作成された資料の検討に基づ
いている5。一方、米国側の公文書に基づく先行研究は、主として外交文書の検討をもとに大統領と関係各
省の果たす役割については論じてきた。その結果、議会の果たした役割については、十分な検討がされて来
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なかった。本稿は、その空白の部分に補う意味で、米議会記録をもとに、議会が沖縄統治予算をどう承認し
たかについて検討し、米議会が自国の沖縄占領をどのような視点で捉え、どのような目的で予算承認を行っ
たのかを考察する。
周知のように、米議会は合衆国憲法で連邦レベルにおける「唯一の立法機関」とされ、連邦法を制定する
役割を担う。同時に、大統領府と諸省庁の行動を国民の代表として監視する機能を担っている。その意味で、
議会は民主主義を標榜する米国の心臓部であると言っていい。なかでも、国家予算案の承認は、国民により
近い立場を代弁するとされる下院の重要な任務であると位置づけられている。米議会記録が十分に検討され
てこなかったのは、先行研究の多くが外交交渉過程に焦点を当ててきたためであると思われる。だが、国家
安全保障会議(National Security Council=NSC以下、NSCとする)をはじめとする大統領府における決定
を受け、統治予算を毎年のように承認しつづけたのは議会だった。その意味において、議会は米国の沖縄占
領統治に一定の責任を果たしている。
予算というと、どうしても数値に目が行きがちになる。しかし、本稿が注目するのは、予算案の中に提示
される言説と、それが審議される過程で示される言説である。予算案が承認されて予算法になれば、その言
説の中に立法の意図が提示される。たとえば、議会の公聴会記録には、「なぜ米国民の税金を沖縄のために
配分しなければならないのか」という議論が含まれている6。その議論は、「なぜ米国は沖縄に拠点が必要
なのか」という議論につながる。それはさらに、「米国がなぜ海外に巨大な額を投資して数多くの基地を維
持し続けているのか」という自国の安全保障政策の根本を問う議論でもあったといえる。米国の軍事外交政
策の多くは大統領府で機密として決定され、沖縄の日本からの分離、返還も大統領府で機密として決定され
たことが先行研究で明らかになっている。その意味において、確かに議会は軍事外交政策決定の過程におけ
る脇役である。しかし、国家予算の管理を行う部署として、議会における討論は、国家機密として決定され
る軍事外交政策の概要が、予算案として示される言説とし公開される接点にあり、権力監視の役割を担う7。
その意味において議会の言説を検討することは、軍事外交政策に対する議会監視が機能したのか、あるいは
機能しなかったのかを検証する意味を持つといえる。
米議会が沖縄統治のために配分した予算は、「陸軍省の民事機能」のための支出であった。本稿では、議
会記録と米民政府文書をもとに、陸軍省の民事機能として歳出された沖縄統治予算の変遷を辿り、その支出
目的を検討する。さらに、陸軍省の民事機能の出自となった1947年軍事予算法の内容を検討し、第二次世界
大戦から冷戦期に向けて米国の軍事予算の方向性がハードからソフトへ大きく変化したことを提示する。そ
こでは、この軍事予算のソフト化を象徴する項目の一つとして、陸軍省の民事機能への歳出を位置づけた。
最後に、それまでの検討を総括し、沖縄統治における米議会の視点を考察する。
1.陸軍省の民事機能
1946年 7 月 1 日から1972年 5 月15日まで、米議会が沖縄統治のために歳出した予算は一貫して「陸軍省
の民事機能(Civil Function, Army)」に対する歳出として承認されている8。沖縄戦終了から1946年 6 月30
日までの一年間は、第二次世界大戦の軍事作戦の一部として計上された予算の一部が占領統治費用として
使われたが、1946年7月1日から施行された予算法により、議会の承認を得て陸軍省が沖縄統治の公式な担
い手となった。それ以降、米国の沖縄統治予算は、1946年7月1日から1957年 6 月30日までの10年間は、ガ
リオア(GARIOA= Government and Relief in Occupied Areas占領地のための政府と救済)予算項目とし
て歳出された。後半の1957年 7 月1日から1972年 5 月15日の返還までは、アリア(ARIA= Administration,
Ryukyu Islands, Army琉球列島の統治)予算項目として歳出された9。
周知のように、ガリオアとは「占領地における政府と復興」予算の略称であることから、米国の沖縄統治
は議会記録に従えば、その経費がガリオアであった1957会計年度までは、「占領」であったと定義すること
ができる。ガリオアもアリアも予算案の名称ではなく、予算案の中に盛り込まれた項目名であるが、どちら
も「陸軍省の民事機能」に対する予算として承認されている。つまり、米議会は、沖縄統治における米軍政
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府と米民政府の役割を、陸軍省に配分される予算の中における「民事機能」として位置づけ、これを承認し
たことになる。
ちなみに、1976年以前の米連邦政府の会計年度は 7 月1日に開始され、翌年6月30日に終了する仕組み
だった。米議会が対日占領経費としてのガリオア予算を最初に盛り込んだ予算案を審議したのは1946年の春
から夏にかけての時期で、翌1947会計年度(1946年 7 月1日〜1947年6月30日)に向けた軍事予算法の中の
一項目としてガリオア項目が提示された。1947会計年度と翌1948会計年度1947年 7 月1日〜1948年 6 月30
日)までの沖縄占領費用は、日本に対して配分された占領経費としてのガリオア予算から、その一部が東京
のGHQ経由で沖縄に配分されたが、1949年度(1948年 7 月1日〜1949年 6 月30日)から「琉球列島」に対
するガリオア予算の別枠が設置された。NSCで「琉球列島」の日本からの分離が検討されたのは、1947年
後半から1948年前半にかけての時期であったが、この大統領府の動きと同時進行で、議会では琉球列島の分
離に伴う予算措置が検討されたことになる。議会記録では、なぜ琉球列島の別枠が設定されるのかについ
ての説明の箇所はオフレコードとなっている。第二次世界大戦まで日本の県名であった「沖縄」ではなく、
「琉球列島」という名称が米国の公文書に登場するようになるのも同時期からである。このように米国の公
文書では意図的に「琉球列島」という語が用いられたが、議員からの質問などでは、沖縄と呼ばれる場合も
あり、混在しているのが実情である。
1950年度からは、「琉球列島」の統治費用としてのガリオア予算は、大統領府から提出される補正予算案
の一部として議会に提出されるようになり、その内容を少しずつ変えながら、占領のための政府復興予算と
して、1957会計年度(1956年7月1日〜1957年6月30日)まで歳出され、米国の沖縄統治時代の前半を支える
公的財源となる。米国統治下で沖縄にやってきた米国人の多くが、毎年、7 月 1 日前後に任務を終えて帰国
した。新任者もこの頃にやってくることが多かった。これは議会の予算承認スケジュールを土台に調整され
たものであった。
国家予算の歳出には、歳出法の目的に沿って支出を行う義務が伴い、報告が求められる。その議会歳出予
算の管理を現地沖縄で行っていた計画局(Comptroller Department)の文書によると、「陸軍省の民事機
能」に対する予算は以下の三項目で構成されている。
1)経済支援
2)情報教育プログラム
3)統治組織の運営費
1)の経済支援には、食料・物品援助のための経費のほかに公共事業の建設費などが含まれる。2)の情
報教育プログラムは、沖縄の人々を親米的にするためのメディア制作・購入費で米国の映画、英語教材、書
籍など購入費のほか、留学生派遣などの人的交流費もここに含まれていた。3)は米国人による占領統治機
構の運営費で職員の人件費がその主な支出先であった10。
このうち、もっとも額が大きかったのは、1)の経済支援である。しかし、経済支援は1950年を頂点とし
て徐々に減少し、1960年代になると、米国の経済支援の減少に反比例する形で日本からの経済支援が増加し
ていくことになる。その一方で、額は少ないながらも、最初から最後まで米国が自国の議会歳出によるべき
であると固執したのが、2)の情報教育プログラムに関する予算だった。3)の運営費は、最初は米国人職
員が多かったのが、徐々に現地の琉球人職員に入れ替わっていく。米国人職員に比べ、琉球人職員の給料は
低かったので、職員を現地調達方式に変えていくことは、すなわち米国にとっては負担軽減を意味した。そ
の人件費の中には、米民政府の東京事務所に駐在する日本人スタッフに対する人件費も含まれていた。東京
事務所は沖縄に対する入国管理を担当しており、このスタッフの人件費も、情報教育プログラムと同様に、
米国が最後まで米国歳出予算で運営することを固執した項目の一つである。
以上が、議会歳出予算の記録から辿ることができる「民事機能」の中身だが、「民事機能」が何を意味す
るのかについては、定義がはっきりしない部分が多かったとみられ、朝鮮戦争が終結する1953年頃までは予
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算の執行方法をめぐり、混乱があった。たとえば、ワシントンの陸軍省で問題となったのが、米国政府関係
者のための住居費をガリオア予算から歳出すべきか否かという問題であった。結局、ガリオア予算は占領地
を統治する政府のための予算であるので、占領地政府の人件費のみならず、米国人スタッフの住居費にも使
用してよいという判断が下され、支出が認められることになる。このような議論が陸軍省内部であったこと
は、どこまでが軍事費の中の「民事機能」であるかが極めて曖昧であったことを示している。
この民事機能の位置づけについて明らかにするために、次節では、沖縄統治予算となったガリオア項目が、
米国予算法の中で初めて登場する1947年軍事予算法に焦点を当て、陸軍省の民事機能とは何だったのかを検
討する。
2.1947年軍事予算法−平時への転換
第二次世界大戦が終了して間もない1946年 5 月10日、その後の米国の安全保障政策の方向をさし示す内容
を含んだ軍事予算法案が下院予算委員会に提出された。本節では、陸軍省の民事機能に対する最初の歳出法
となった1947年軍事予算法の内容について、公聴会記録をもとに検討することで、米議会がどのように戦後
の軍事政策の開始を承認したのか、また、その中でガリオア項目として歳出された戦後占領予算をどう捉え
ていたかを探る。
1946年5月10日、下院に提出された翌1947年会計年度(1946年7月1日〜1947年 6 月30日)の軍事予算案に
は、米国の安全保障政策の転換点を示す内容が提示されていた。第二次世界大戦が始まる1939年頃まで米国
の国防予算はGDPの10%前後だったが、第二次世界大戦中の1943年と1944年には44%に達していた11。1946
年春に提出された翌1947年の軍事予算法は、このように第二次世界大戦で増大した軍事予算を大幅削減する
方向をとりながらも、戦争で増大して軍関係の人材と資源を、平時に向けてどう転用するかという課題を解
決すべく起草されたものだった。
その人材と資源の活用の方策の一つが、日独に対する戦後占領政策であった。翌1948年に具体化される
マーシャル・プランと呼ばれた経済復興計画は、米国の軍事余剰品の放出計画であったとされるが、実はそ
の一年前に出されたこの予算法の中にも、戦争で増大した米国の軍事産業とそれに伴う周辺産業を平時に転
化させ、増大した人員を平時に活用するための転換構想が打ち出されている。同時にそれは、米国の軍事費
の構成が、戦闘に対する直接経費からなる伝統的な軍事予算項目に加えて、基地周辺の社会基盤整備事業、
情報収集、情報教育プログラムなど非伝統的な軍事予算に軸足を転換する出発点といえる内容を含んでいた。
換言すれば、戦闘よりも情報戦に軸足をすえる冷戦型の安全保障政策の起点ともいえる視座が、同予算法案
の項目の中に観察できるのである。
それまで議会から戦時ならではの特別待遇を受けてきた軍事予算は、議会の追求を受け、大幅削減となる
ことは明白だった。しかし、戦争で功績があった軍人らをいきなり解雇することもできない中で、増大した
軍事要員を占領地に派遣し、民事要員に転用するという案が示された。その転換を具体化するために提示さ
れた予算項目の一つが、ガリオア予算だった。同予算案の中には、占領を担うために必要な民事要員の大幅
な増員、そして、彼らに対する教育費などが含まれていた。さらに、諜報、調査、通信、技術など情報に関
する部署を大幅に拡充する内容であった。同予算案は、全体として伝統的な戦闘を目的とする軍隊とは異な
る、情報を主体とする新たな冷戦型の安全保障政策を、この時点ですでに指し示していたとみることができ
る。
同予算案の主な目的は、以下の7点にあるとされた。
1)ヨーロッパ・日本・韓国に対する占領
2)民事要員の増員と教育
3)占領地域を結ぶ通信ラインの維持
4)国連に対する予備軍の提供
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5)アラスカ・パナマ運河等の軍事拠点を維持
6)諜報・調査活動の継続
7)平和のためのプログラム12
これらの7つの目的は別々に存在するのではなく、相互に関連し合っており、全体としてみると、米国の
軍部が第二次世界大戦で培ったヨーロッパとアジアにおける海外基地と通信基盤と人員を維持し、それを
平時態勢へ切り替える意味を持っていた。たとえば、7)平和のためのプログラムとは、原子力の平和利
用を指していた。戦争終了の安堵感がまだ残っていたと思われる予算委員会の冒頭演説で、旧陸軍省(War
Department)のロバート・パターソン(Robert P. Patterson)長官は、「原子力の潜在的パワーをこれか
らは破壊にではなく、建設的に用いることにする」と述べ、戦時から平時への計画へ舵を切り替える方針を
述べると同時に、原子力技術の利用に関して、これを平和利用へ転換する方針を打ち出し、そのための研究
予算を、「本来は軍事予算ではない項目である」としながらも、とりあえず、軍事予算の中に含める提案を
行ったのである。パターソンの起草した1947年軍事予算法には、このように、「本来は軍事予算ではない項
目」が多く含まれていた。
教育費と広報宣伝費も、このような非伝統的な予算項目であった。教育費は、戦争で手柄をたてた軍人の
再教育にあてられたもので、大学・大学院での勉学費用を国家予算でまかなう制度が打ち出され、平時にお
いても米国の防衛を担う人材を継続的に育成する必要性があるとされ、巨額の教育予算が計上された。さら
に、同予算案には巨額の広報宣伝費が計上されていた。その目的は個人の意思で(ボランティアで)軍の活
動に参加する人員の確保と米国民に対する啓蒙であるとされた。そのために新聞・雑誌・映画などあらゆる
メディアを使った国家規模の広報宣伝作戦が平時においても不可欠であるとされ、その目的を達成するため
に、外国語メディアから農業メディアまであらゆる種類のメディアを活用することが必要であるとされた。
そのために「陸軍省の声(Voice of Army=VOA)」という名前のラジオ局が必要であるとされ、宣伝作戦
実行のための業者委託費が計上された。この「ボイス・オブ・アーミー」というラジオ局が、いわゆる米軍
放送を意味するのか、あるいは他のラジオ放送をさすのか、計上された宣伝費が具体的にどのような活動を
使用されることを意図していたのかは予算案の文面と公聴会記録からは明らかではない。だが、第二次世界
大戦中に国内外で戦争宣伝を担った写真、映像、無線技術、印刷などに関する各分野の情報スペシャリスト
たちの技能と資産を、継続的に活用しようとする意図が見てとれる。米軍の役割を積極的に宣伝する方針が
打ち出され、そのための具体的予算がここで計上された。
この頃、1942年に開始された「アメリカの声(Voice of America=VOA)」を戦後も継続すべく画策して
いた国務省は、議会と米国メディアの反対で苦戦していた。国務省が議会に提出した対外情報プログラムに
関する予算案は、国家が自ら情報発信を行うべきでないという議会とメディアからの反対にあい、大幅予算
の削減を余儀なくされた13。しかし、それとは対照的な形で、軍事予算の一部としての広報宣伝費を議会は
簡単に承認したのである。こうして、その後の米国の海外展開に多大な影響を与えたと考えられる多額の広
報宣伝費と占領経費を含む軍事予算法案は、下院予算委員会の審議を経て、下院本会議に送られ、可決する
と1947年軍事予算法(Military Appropriation Act of 1947)として成立した。
3.非伝統的軍事予算としてのガリオア
1947年軍事予算法は、米国の安全保障政策の転換点を指し示す重要な内容を含んでいたが、同時にその中
の一項目として、対日・対独占領経費としてのガリオア予算が計上されていた。このガリオア予算が陸軍省
に対する配分とされたことで、陸軍省は占領地域における統治担当者としての任務を「予算付き」で承認さ
れ、「占領」を議会から委託されることになった14。日本占領の経費となり、さらには1957年まで沖縄占領
の経費となるガリオア予算はこのような過程を経て米国の軍事予算の一部として産声を上げた。当時の米国
の国防予算は、軍事(military)と民事(civilian)に分類されていた。第二次世界大戦後、冷戦期に向けて
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米国の国防予算の特徴は、軍事費の中に「民事」に対する支出が別枠で設定されていたことで、占領経費と
してのガリオア項目は、「陸軍省の民事機能(Civil Function, Army)」に対する予算項目として分類され、
承認された。1947年軍事予算法には、このような民事予算の拡充を要求する内容が盛り込まれ、通信・技
術・学校運営・教育支援・病院・研究・調査など多彩な非伝統的軍事予算が盛り込まれている。
第二次世界大戦で確保した通信ラインの維持も同予算法の目的とされた。占領は陸軍省の持つ通信・物流
ラインに依存していたが、本国と占領地との連絡に不可欠である通信ラインの維持を目的として議会から占
領担当として指名され、予算削減の危機を逃れることが陸軍省の狙いでもあった。陸軍省はそのために必要
とされる占領経費を軍事予算とは別枠で、陸軍省の民事機能に対する予算として追加請求し、それを議会が
承認した。その追加請求分が、陸軍省の民事機能として承認された通称ガリオア予算であった。あわせて、
陸軍省は同予算法案で占領地域と米国、さらに他の地域をつなぐグローバルな通信ラインの整備を計画し、
こちらは軍事予算の枠内で予算要求したのである。このように、ガリオア予算は、陸軍省の持つ通信基盤と
物資調達などの機能と密接に関わりながら、海軍省に対抗し、陸軍省の存在を継続させる狙いを持っていた。
また、ガリオア予算は、占領地域の人々に対する物資購入の費用であると同時に、占領に必要とされる非
戦闘員としての民事要員を雇用する経費として計上された。1947年軍事予算法案が議会に提出された時点で
沖縄は日本の一部として見なされていたので、沖縄への予算は、日本への配分された額の一部が配分された。
しかし、予算委員会では、ガリオア予算の具体的な使途として、沖縄の台風被害に対処できるような丈夫な
施設の建設と修繕があげられていることにも注目したい。ガリオア予算は、人道的目的を持つ予算であると
誤解されているが、沖縄でガリオア予算は、このような社会基盤を整備するための建設費として使用されて
いる。
ガリオア予算が設置された本来の目的は、外国のある地域において「米国の責任と義務を果たすために必
要な支出のために使われるべきである」とされた。具体的には、以下の4項目に使用できるとされた。
1)民間人スタッフの雇用費、旅費などに使えるほか、
2)書籍・新聞・雑誌・教育映画・翻訳・写真・印刷・製本・展示など情報費、
3)米国人子息のための教育、学校運営、
4)そのために必要な施設・建造物の維持・修繕など。
加えて、ガリオア予算には、その使途の一項目として、「非戦闘員を飢え・疾病・社会不安から守るため
に必要な最低限の物資」を調達するという人道的目的が含まれていた。日本で戦後、よく引用されてきたの
はこの部分である。その部分だけが語られてきたことで気前のいいアメリカ人というイメージにガリオア資
金は多かれ少なかれ貢献してきた。しかし、議会記録をみると、ガリオアはあくまで占領地復興における
「政府運営経費」であった。人道的目的は、その一部として、「非戦闘員を救済しなければならない」とい
う国際法に準拠して盛り込まれたものにすぎない。したがって、そのための支援は「必要最低限」とされた。
予算委員会の公聴会では、物資援助は配給として住民らの手に届くが、米国はその支援を無償で外国に提
供するのではないことも説明された。その方法はヨーロッパを対象として米国が実施することになる欧州復
興計画で用いられた方法と同じであった。委員会ではドイツに対する支援物資の供給する場合を例に説明が
なされたが、その説明によると、米国から届いたガリオア支援物資は無償で住民には配給されず、ドイツの
人々に担当業者を通じて有償で配給された。だが、同時にその支援物資を売却した値段から担当業者が手数
料を差し引いた額が「見返資金(counterpart fund)」として現地政府の口座にクレジットとして蓄えられ
た。そこで現地政府の口座に入った資金は基金として担保され、現地政府はこれを元手として占領にともな
う資金運営を行った15。沖縄においても物資の配給は1947年から有料になり16、同様の見返資金の手法が適
用された。
ちなみに、予算委員会では、「なぜ今まで敵だった人々を米国人の税金で食べさせなければならないの
か」「その仕事は、米国ではなく、国連の仕事ではないか」という当然といえば当然の疑問が議員から提出
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されている。これに対して戦争省の担当者は、「確かにそれは国連の仕事ではあるが、現在国連は人員不足
で米国がやらなければ社会不安を招く。そうすれば新たな戦争になりかねないので人々を食べさせることは
占領者の責任である」と答弁し、ガリオア予算の必要性を訴えた。ガリオア予算における人道的側面は皆無
ではなかったが、平行して実施された親米的な日本人を育成するための教育プログラムの中で、日本では人
道的側面が強調されて伝えられたものと思われる。
予算委員会では、占領のために敵国人を雇用することに対する疑問も提出された。その結果、ガリオア予
算を米国以外の地域で使用してもよいが、米国市民以外の者を雇用するために使ってはならないという条件
がつけられた17。しかしながら、日本の占領政策には日本語に堪能な民事要員が必要不可欠であった。その
ため、陸軍省は1942年頃から米国内に語学学校を開設し、日本語の話せる民事要員の育成を行ってきたが、
同法案では日本語を話せる米国人諜報員を育成するために16名を1年間、日本の大学に留学させる予算も計
上された18。
その一方で、敗戦国であるドイツと日本の人々が、今後の国家安全保障のために重要な位置を占めるであ
ろうという文言も含まれていた。これは、直接的には、ガリオア予算に対する議会の承認を得るための議会
対策の文言ではあったが、占領後も米軍が占領地に駐屯部隊を残すつもりであること、ガリオア予算は、そ
のための布石であったことを示すものと言える。
これまでの検討から見えてくるのは、ガリオア予算が必ずしも救援物資購入のための人道的援助だけを目
的とした予算ではなかった点である。確かにガリオア予算は、飢餓・疾病・社会不安を防止するための必要
最低限の物資を準備するという人道的側面は持っていたが、米国はガリオアによって無償で飢えた人々を食
べさせたわけではなかった。むしろ、ガリオア予算における物資支援の部分は、その物資を元手に外国で現
地通貨を獲得し、それを当該地域の経済を復興するために必要な運営基金として確保することを目的として
いた。
このように旧陸軍省が提出した軍事予算法の中でうぶ声をあげたガリオアは、その後、大統領府から補正
予算として議会に提出されるようになった。トルーマン大統領は1947年1月24日、さらに同会計年度の追加
予算として3億ドルのガリオア予算を米議会に申請する。そこには、国連復興計画が撤退することになった
オーストリア、疫病が流行する韓国に対する支援予算のほかに、台風による被害救済を目的として「琉球列
島」に配分することを目的としたガリオア予算項目が含まれていた19。
1948年6月2日、NSCは「琉球列島」を日本と引き離して正式に米国の占領下にする政策文書NSC13/3
をトルーマン大統領に提出する20。これより一年以上前に、大統領府のジェームズ・ウエッブ(James E.
Webb)予算局長は議会に対して琉球列島への予算配分を求めていたことになる。1947年11月24日、トルー
マン大統領は、さらに翌1948年会計年度に対して4億9000万ドルのガリオア補正予算を議会に提出する。そ
こには同予算は陸軍省の「民事機能」のために使用されるものである、という条件も記されていた21。占領
を担当する陸軍省の立場からすると、陸軍省から議会へ予算案を提出するという本来のルートに加え、陸軍
長官を通して大統領府を通して議会に予算案を提出できるという最強ルートを獲得したことになる。1947年
7月26日、国家安全保障法(National Security Act of 1947)が成立したことによるNSCの発足は、米国で議
会に対する大統領府の権限を強化する結果になったといわれるが、米議会は大統領府からの補正予算の申請
を受け、米議会は1947年度24億ドル、1948年度13億ドルのガリオア予算を承認した。これをみると、NSC
の発足で、大統領府としては占領費など対外政策の予算を議会から引き出しやすくなったといえる。
4.対外外援助政策と「極東のECA」
このように米議会が次々に承認したガリオア予算は、第二次世界大戦後、米議会が毎年のように承認した
多額の海外援助予算の一部として捉えることができるものである。その総額は1945年から1964年までの20年
間に1000億ドル(100
billion)に達している22。米議会記録部の分析によれば、これら一連の海外援助予
算は、「非軍事援助」と「軍事援助」とに分類することができる。前者の非軍事援助は主として第二次世界
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大戦で荒廃した地域に対し経済復興のために配分されたもので1953年にピークに達した後、徐々に減少する。
ヨーロッパ復興のために割り当てられたマーシャル・プラン関連予算、そして日本に配分されたガリオア資
金は、この一部であった。一方、後者の軍事援助のほうは、前者の非軍事・復興援助予算が減少した後も、
反共政策の一環として、またそれに伴う軍事同盟を支える予算として一定額が割り当てられた。安全保障の
ための「割安な増資」であるとして多額の海外援助予算が議会に承認された。
これらの対外援助予算は、開始当初、確かに人道的援助の性格を持っていた。1945年に国際連合が発足す
ると、米議会はこれらの海外援助を国連救済復興庁(United Nations Relief and Rehabilitation Administration=UNRRA)を通して実施、大戦で荒廃した地域に対する国際援助金を何回かに分けて承認した。しか
しながら、同時に米国の援助は海外への経済拡大の目的を合わせもっていた。同年6月7日、世界銀行と国
際通貨基金(IMF)が発足すると前者に31億7500万ドル、後者に27億5000万ドルの出資を決定した。さらに、
ヨーロッパ地域にソビエトの影響力が強まると、欧州各国に対する二カ国間援助として予算を投入する傾向
が強まる。国際機関を通さない二カ国間援助の始まりは、米議会で半年もの論争を経て1946年7月13日、よ
うやく承認された同盟国の英国に対する「貸出金」(loan)だったが、議会は、同年7月4日にフィリピン
に対する復興援助金として5億2000万ドル、翌1947年にはギリシャ・トルコに対しては4億ドルの軍事経済
援助を、オーストリア・中国・フランス・イタリアに対して5億9700万ドルの経済支援を決めた。これらは
トルーマン大統領が提案して議会が承認した臨時予算措置であった23。これらの対外援助関係の予算案はト
ルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンの歴代大統領によって提出され、国家方針を支える重要
予算法案として共和党・民主党の双方に指示された。その結果、議会はこれらの無数の予算案をあまり議論
することなく賛成多数で承認したのである。
一方、1947年軍事予算法の一部として誕生したガリオアは、その後、1948年会計年度と1950年会計年度
には海外援助予算の中の一項目として議会に提出され、承認された。1948年には海外援助予算法(Foreign
Aid Appropriation Act)の中で、陸軍省に対する特別予算としてガリオア項目が承認されている(Public
Law 80-793)。一連の海外援助の始まりは1948年、ヨーロッパに対する経済協力法(ECA=Economic Cooperation Act of 1948)で、議会は欧州への43億ドルの投資を決める。当時の国務大臣ジョージ・マーシャ
ルの名前をとったマーシャル・プランであるが、この経済協力法に基づく経済支援にもガリオアで用いられ
た見返資金の方法が採用された。欧州における経済協力は国務省の担当であったが、沖縄を含めた東アジア
地域では、引き続き陸軍省が経済支援政策の担い手となった。
東アジアでは、中国共産党が勢力を拡大すると、自由経済の仕組みを拡大させる必要があるとして中国に
対する経済援助が実施された。それがさらに拡大し、日本に対する経済援助が検討される。その結果、1949
年と1950年には、占領地経済復興(Economic Rehabilitation in Occupied Areas=EROA)予算が、それま
でのガリオア予算に上乗せされ、海外援助の一部として議会に提出された。こうして軍事予算の中の一項目
として誕生したガリオアは、エロア予算と一緒になって海外援助法の予算項目として位置づけられる。エ
ロアでは、援助物資の内容は肥料などの工業製品などが主体になったが、このようなECAブームの中で、
1949年度のガリオア予算は、陸軍省の民事機能(civil functions)に対する予算であるという条件付きで、
海外援助法の一部として計上されることになる。これにより、陸軍省は「極東のECA」として、ヨーロッ
パでは国務省管轄とされた海外経済援助政策を推進する役割をあわせて担うことになった。
1950年度予算の審議を行った1949年5月17日の予算委員会の記録をみると、ロバート・ウエスト(Robert
R. West)極東問題担当・次官補代理(Deputy to Assistant Secretary for Far Eastern Affairs)が提出し
た予算案にはガリオア・エロア予算がドイツ、日本、琉球、オーストリアなどの地域に配分される案が添付
されている。同記録によれば、日本に4億9500万ドル、琉球列島に2644万ドルの配分を申請している。ウエ
スト次官補代理は「私の左にすわっているアイケルバーガー大将(Gen. Eichelberger)は、米国が日本で
直面している政治経済的問題に関する豊富な情報を持っている」とした上で1950年度は琉球列島で別枠の予
算請求を行うこと明言した。ここでは、ガリオアは自助目的で、エロアは健全な投資であると定義されてい
る。ウエスト次官補代理の提出した琉球列島に対する予算案には食料のほかに肥料・石油製品・工業機械・
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車両などの購入費と輸送費などの項目が並び、エロア予算による経済開発計画が提示されていた24。
続いて5月23日に開催された公聴会では、中国が共産化すれば日本も失うことになるだろうという議論が
行われ、日本に対する経済支援が緊急の課題であることが強調された。第二次世界大戦後まもなくの時期に
おける敵国としてのイメージが議会の議論から消え、日本は米国の良い同盟国になるだろうという議論が展
開された。ただし、予算委員会の時とは異なり、下院本会議ではまだ日本からの切り離しが公表されていな
い琉球諸島への配分は表に出さない形がとられた。こうして、冷戦構造が次第に強まるなかで着々と米国の
沖縄統治にむけた予算確保が進められた。韓国には東京に極東軍本部を通じて配分された。同様に極東軍経
由で沖縄にも配分された。1952年以降は、ニューヨークの占領地域事務所(Office of Occupied Areas)を
通じて沖縄に配分されている。このように、ガリオア予算の本質は米国の海外援助政策の進展に伴い、復興
支援から経済支援費へと変化を遂げる。
5.米民政府−もうひとつの財布
それでは、沖縄でガリオア物資配給はどのように行われたのだろうか。
沖縄における物資配給は、1946年7月から有料になった。これはちょうどワシントンで承認されたばかり
のガリオア予算が執行できる1947年会計年度の開始時期にあたる。配給の有料化に先立ち、軍政府は1946年
4月15日に特別布告第 7 号を発布し、貨幣経済の再開を宣言した。さらに米軍政府への労働力の見返りに賃
金が支給されるようになった25。これは同じ時期に米議会で審議中の予算計画に対応した措置だったとみら
れる。
1946年から1948年までに沖縄に到着した食料支援の内訳は、米より小麦粉の割合が多く、SIM(Surplus
Incentive Materials)やQM(Quartermaster Goods)など軍余剰品が多く含まれていた26。その中のどの部
分がガリオア予算によって購入された物資であったかは不明だが、1949年頃の軍政府の配給手続きに関する
一連の指令が米民政府総務局文書に残されている。
それによれば、沖縄各地の港に到着した物資は以下の4種類に分類されていた。クラス1=生活必需品
(Subsistence)、クラス2=貿易品(Trade Goods)、3=石油と石油製品(P.O.L=petroleum, oils and
lubricants)、4=その他(Miscellaneous general items)。これをみると、到着した物資は必ずしも生活必
需品だけではなかったことがわかる。当時、軍政府と沖縄民政府の双方に配給を担当する供給部(Supply
Department)があり、副長官の指令により、それぞれ配送と伝票管理の役割が命じられた。そのうち、ク
ラス1の生活必需品はアメリカ合衆国運輸会社(U.S.A. Transportation Corps)によって沖縄各地の港に到
着し、まず那覇と天願にあった中央倉庫に集められた。そこから、知念米軍貯蔵庫と7カ所の民間地区貯蔵
庫に配送された。1949年 9 月15日付の軍副長官指令で、沖縄民政府の知事らに知念軍事倉庫とほか七カ所の
地区倉庫の運営管理を担当するように指令が出される。同文書には、オーグスト・イシューという人物が調
達供給主任としてふさわしく、彼の指揮下で流通を補佐する人員と通訳を配置するようにという事実上の指
示が書かれており、それぞれの担当任務に対する賃金が定められていた。支援物資の売却価格も軍政府に
よって決められており、さらに物資は現金で売却しなければならないという条件がつけられていた。沖縄民
政府の知事らは、こうして得た総売上高の5%を運営経費として取ることが認められたが、残りの95%は毎
月一回、軍政府財務局の口座に振り込むように指示された。こうして那覇と天願の倉庫に集められた生活必
需品は、軍政府の統計局によって各地区の人口に応じて必要な物資量をカロリー計算に基づき算出した後、
石川、糸満、真栄原、平良、金武、知念、コザの地区貯蔵庫に配分され、そこから沖縄各地の村ストアに配
分された27。実際には、軍政府の指令通りに物資が流通したのかどうかは分からない。しかし、この軍指令
をみる限りにおいて、消費者の手に届いた支援物資が有料だったのは、沖縄民政府が物資売却価格の95%を
軍政府に「見返資金」として納めるように指示されていたから、ということになる。
この頃になると、食料だけでなく木材も支援物資として到着した。木材も食料同様に有料配布だった。
1949年10月 6 日に発布された軍政府命令第3号によれば、船舶用木材は、沖縄暫定政府の知事を通して「琉
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米国の冷戦期・東アジア軍事拠点としての沖縄と統治予算
球貿易委員会(the Ryukyus Board of Trade)」という団体に管理運営が委託されている。木材の価格は
軍政府が決定し、船舶を建設する場合の業者も指定された。しかし、木材を購入すると、その材木で建設で
きる船舶サイズに見合う船舶用エンジンも60日以内に提供されことになっていた。ただし、その船舶登録が
義務づけられた28。同年11月2日に発布された軍政府命令第6号では、住宅用木材も同じ団体に運営が委託
されている。住宅用木材の売却値段は利益が出るような形で同委員会が決定し、新聞等で広報して売却する
こと、また売却は現金で受け取ること、材木の運搬は購入者の責任で実施すること、ただし、実施する建設
計画を明記し、登録を義務づけた。29
これらの材木の「売却」がどのように行われたかという記録は米民政府文書にはないが、1952年頃の計画
局文書には、船舶所有者の多くが「負債」を抱え、その支払いをしないままになっている記録が残っている。
同文書によれば、この負債は見返資金の長期契約によって生じたものであると記録されている。米民政府は、
これらの船舶所有者に対する負債の取り立てを琉球政府に命じるが、琉球政府はその取り立て業務に対して
高額の手数料を請求する。すると、米民政府は今度は取り立て業務を琉球銀行に対して命令し、その状況を
毎月報告するように命令する。計画局には、琉球銀行が米民政府に提出した負債取り立て状況の報告書が
残っている。そこには、いつまでも負債を負債として抱えたままの多くの船舶保有者の名前が並ぶ。そして、
その負債を逃れるためだと思われる、船舶所有者が提出した「その船舶はすでに処分し、現在は保有してい
ない」という内容の申出が多数記録されている。支援物資として到着した船舶用材木を無料と思って受け取
り、支払えなかったのだろうか。それとも設定された木材の価格が高すぎたのだろうか。それとも他の理由
があったのだろうか。生活必需品のような安価な物資購入の場合と異なり、一定以上の金額を必要とする見
返資金の長期契約は多くの問題を残したようである。
さらに支援物資の中には相当量のガソリン、潤滑油などの石油関連製品が含まれていた。これらの石油製
品はクラス3に分類され、生活必需品とは別ルートで米軍の石油貯蔵施設に運ばれた。生活必需品以外の物
資配給の手順は、1944年7月発行の貯蔵供給手続(Depot Supply Procedure=ASF Manual M 408)の規定
に従い、物品管理に関する陸軍規則(AR 35-6520, AR35-6560)に沿う形で、標準実施手続(Standing Operating Procedure=SOP)で定められた通りに実施された。配給に用いる伝票も陸軍省で定められた様式が
使われた30。これらの石油は、陸軍兵站部に対する石油調達を行っているカルテックス(シェブロンを運営
する企業)を通じて行われ、米軍関係者が使用した後は貯蔵タンクに備蓄された。ある記録によると、1950
年頃、米国から極東地域に運搬された物資のうち、石油製品が大きな割合を占めていた。そのうち、そのく
らいが戦闘機燃料などの軍事用で、どのくらいが民生用だったのかは不明であるが、当初は琉球の人々に石
油製品は配給されなかった。これに対して、物資の配送を命じられた沖縄民政府の志喜屋孝信知事は、1949
年の書簡で石油を民政用に分けてもらえるように嘆願し、さらに物資貯蔵用の倉庫を修繕してほしいと嘆願
している31。物資の運搬に石油製品が必要であったことは想像に固くない。だが、沖縄の住民向けに販売さ
れた石油には高い税金がかけられ、これがさらに米民政府の収入になる仕組みだった。
一方、米議会の承認を得て陸軍省に配分されたガリオア予算による物資の調達は大統領指令で設立された
非営利組織「海外援助に関する諮問委員会(Advisory Committee on Voluntary Foreign Aid=ACVFA)」
を通して実施された32。つまり、その予算は米国内で支援物資の購入資金として米企業の利益となった。そ
こで調達された物資は沖縄に運ばれたが、そこで軍政府が現地通貨を獲得するために現金ベースで売却され、
軍政府の資金として蓄えられたのである。これがガリオア予算に適用された見返資金の仕組みであった。税
制による政府収入がない状態で、暫定的な政治を運営し、貨幣経済を立ち上げる意味では巧みな手法ではあ
るが、同時に米国の軍事経済力を発展させ、強化する目的を持っていた。それは確かに資金が導入された占
領地における経済発展を支援するという目的もあったが、沖縄の場合、その基金が琉球政府の収入として計
上されるのではなく、軍政府の収入として計上された。1950年12月、米民政府が軍政府を引き継ぐと、これ
らは米民政府の管理する特別会計となった。米民政府はガリオア支援物資として米国から到着した物資を住
民に売却し、そこから得た現金を「見返資金」を自らの出資で設立した琉球銀行に預け、それを運営のため
の基金として管理した。このようにして作られた特別会計は毎年、米議会で承認される、あるいは承認さ
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れないかもしれない税を財源とした予算とは別の、もうひとつの財布として機能した。米民政府はこれら
の基金をもとに様々な事業を展開させ、ガリオア資金をもとに貯蓄された基金は高等弁務官の「一般基金
(General Fund)」と呼ばれるようになり、米民政府の重要な財源の一つとなった。
6.見返資金−特別会計の波紋
1953年補正予算の審議では、米国が見返資金の方法などを用いて海外に膨大な額の外貨を貯蓄しているこ
とが明らかとなり、これらの外貨が予算管理を実施する米議会の許可を得ずに執行されてことが問題となっ
た。これを問題視した議会は、1953年6月30日以降はこれらの資金を米国政府機関が使用してはならないこ
とを1953年度補正予算・1415条項で決定した。見返資金による財源を保有していた米民政府はその執行期限
が近づいた同年4月24日付の書簡で、陸軍省長官を通して合衆国計画局長宛に基金の取扱いについての問い
合わせを行う。これに対して8月17日、合衆国計画局長代理からの公式見解が陸軍省長官宛に回答があった。
それは、琉球諸島は合衆国の機関である米民政府の統治下にあるため、そこにある基金は外貨とはみなされ
ず、合衆国財務省の直接の所有するものとみなされる。したがって1415条項の対象にはならないというもの
であった33。この見解を受け、米民政府は引き続き、見返資金を積み立てた特別会計を沖縄統治の財源とし
て事業展開を行うことが公式に認められたのである。
しかし、一方で、この見解はあくまで大統領府予算局の見解であり、議会としては認めがたい性質のもの
であった。たとえば、米民政府の監督で陸軍工兵隊(Army Engineers)は牧港地区に電力発電所を建設し、
その発電施設は琉球電力株式会社となった。もともとは米議会が戦後復興のために配分したガリオア資金を
もとに合衆国の機関である米民政府が、海外で電力会社を運営していることについては、1960年の議会でア
ンドリュー議員から驚きの声が提出されている。
見返資金による基金獲得の方法は、欧州経済復興計画の中で取り入れられた方法であった。米国がほぼ20
年にわたって海外援助に莫大なドルをつぎ込んだ後、米国の海外71カ国におけるドル保有額は30億ドルに達
し、1965年には、ポーランド、インド、パキスタン、ビルマ、アラブ連合など特定の国において、米国の通
貨が海外で使途もなく余剰であることが下院で問題となり、次第に見直しされるようになる。日本でも占領
下に見返り資金によって基金が作られたため、1965年3月31日現在、2500万ドルが日本の銀行にあることが
下院公聴会で指摘されたが、この資金は二カ国センター(アメリカ文化センターのことと思われる)、教育
文化交流プログラムの運営のための基金として用いられるという合意が二国間であり、使途については特に
問題はない基金であるとされた。また、同公聴会では、1961年以降、USIAは各国におけるポストの運営費
補助として、この見返資金によって生み出された余剰ドルが使用していることが報告された34。沖縄でもガ
リオア見返資金によって積み立てられた基金は、米民政府・民間情報教育局の教育のための予算として利用
されることになった。
見返資金による現地通貨獲得の方法は、米国で歳出された国家予算を現地通貨に替えるだけでなく、それ
を利用して現地経済を活性化させようとする巧みな手法であったといえる。沖縄では、見返資金の積み立て
で得られた資金を現地の公的企業に投資に利用され、米民政府は、米国の議会歳出予算で運営される政府機
関でありながら、公的企業を運営するという特殊な立場に追いやられることになった。
7.沖縄占領に対する米議会の視点
前述のように、予算が審議されるのは下院である。これは、下院が上院より米国民に近い立場で国民の意
見を反映できる立場にあるという前提のもとで、下院に託された重要任務とされる。そのため、審議では、
外交安全保障に関する予算でも、「それは米国民の支払う税金を使う価値があるものか」という視点が重視
される。下院予算委員会で審議された法案は、下院本会議に提出される。そこで歴代の下院議長は、歴代の
国防長官にこう問いかけている。このように海外で使われる巨額の軍事費は、「どのように米国民の利益に
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米国の冷戦期・東アジア軍事拠点としての沖縄と統治予算
なるのか」と。これに対して、歴代の国防長官は議会を説得するための論拠を提示しなければならなかった。
議会で予算獲得のために、しばしば苦し紛れに繰り返された言葉が、「軍事的必要」という言葉であった。
「詳細は作戦的見地から明らかにできないけれども、軍事的必要がある」。歴代の国防長官らはこう繰り返
した。米国の沖縄統治に関する予算も、軍事的必要があるという論拠で歳出され、沖縄には戦略的に重要な
場所に位置していることを国内志向の議員たちに異国情緒を感じさせながら、魅力的に提示してみせる言葉
として使われたのが、「キーストーン・オブ・ザ・パシフィック(Keystone of the Pacific)」であった。
議会は、憲法で定められた米国唯一の立法府として国内法を起草する役割を担う。同時に大統領府を監視
する役割を持っている。その重要な役割のひとつが予算法案の審議である。その意味において、議会は、米
軍の司令官である大統領と、機密の多い軍事活動を予算承認という立場から監視する役割を担っている存在
であるといわれている。米国民の納めた税金の使い道を決めるのが議会であり、予算の多くは米国内で納税
者の直接的利益のために還元される。しかし、国防総省に配分される軍事予算の多くは、国内だけでなく、
基地などの海外拠点で使用される。その意味で、米議会は国内法の立法機関でありながら、米国の海外展開
に対しても影響力をもつ存在といえる。
米国統治下の沖縄では、現地の軍司令官によって発布された布告、布令等による統治を行った。これらの
布告は参謀本部指令に基づき、発布された軍法だった。しかし、合衆国憲法に定められた唯一の立法機関を
自負する米議会からすると、これらの布告・布令は、米国の国内法の視点からすると「法律」ではなかった。
一方、予算案を審議する議会の立場からすると、予算法が成立するためには国内法的論拠が必要であった。
したがって、沖縄統治予算を毎年議会に提出しなければならなかった国防総省の文官らは、法的論拠がない
のに、予算を通さなければならないという矛盾に頭を悩ませることになったのである。
米国の沖縄統治の論拠は第二次世界大戦末期に出された統合参謀本部指令でしかなかった。同指令は、戦
後占領の論拠となっても長期化する占領経費を捻出するための法的論拠とはなり得ず、予算案の策定を担当
した陸軍参謀室の文官らは、琉球列島の統治に関する法的論拠を得るために琉球組織法の起草を画策する。
しかし、議会の委員会レベルで審議されることなく、事実上の廃案となり、やむを得ず、議会立法による論
拠の確立を断念し、1957年の大統領行政命令の発布により、大統領行政命令という形で「法的論拠」を得る
方向に舵を切ることになった。この大統領行政命令の発布を論拠として、かろうじて成立したのが、プライ
ス法である。同法の成立は、米国の沖縄統治の法的論拠となった。しかし、そこで付けられた様々な制限に
よる矛盾が1960年代になって露呈することになった。端的に言えば、米議会は、沖縄という外国統治のため
の費用を気前よく歳出する理由を発見できなかった。議会は陸軍参謀室の提出する沖縄統治予算を削減し、
一方で、1965年以降、日本の対沖援助額が米国の沖縄統治予算を上回ったことで、そもそも米国が沖縄で施
政権を行使する意味は次第に失われていったのである。
おわりに
本稿では、米議会が沖縄統治予算をどう承認したかについて検討してきた。議会は沖縄統治予算を「陸軍
省の民事機能」に対する歳出として毎年、承認した。前半は、ガリオア予算として、後半はアリア予算とし
て、予算項目の名称は変わったが、すべて陸軍省の民事機能に対する歳出であった。陸軍省の民事機能は、
第二次世界大戦で膨張した資産と人員を平時において活用する方策であったが、その後、米軍の機能がソフ
ト化していく契機になった。その内容は、経済援助と情報教育プログラムの実施にあり、米国が第二次世界
大戦後から冷戦期にかけて実施したマーシャル・プランをはじめとした反共政策としての対外経済援助の一
部として捉えられる特徴を持っていた。また、それは近年、米国がアフガニスタンやイラクで展開した平和
維持活動の原型として捉えられる側面を持っている。
しかし、米国の沖縄占領では、この民事機能が持つ矛盾も露呈した。米議会は、自国が「琉球列島」で異
文化統治を実施していることを予算承認という行為を通じて認めたが、公聴会では、米民政府が、もともと
は議会歳出予算であったガリオア見返資金を積み立てた特別会計を管理していることに対する疑問も議員か
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ら提出された。そして、この特別会計の存在を合法化したプライス法の成立で、かろうじて、米国の沖縄統
治予算は法的論拠を得たが、1960年代になると、沖縄の経済発展とともに、沖縄統治予算の項目として掲げ
られていた人権費以外の項目、すなわち経済援助費と情報教育費は、ともに支出の論拠を失っていく。一方、
日本の対沖援助は増加し、1965年には米国側の統治予算を上回った。こうして、米国の沖縄で施政権を維持
することが事実上、形骸化していくことになったのである。
米軍は東アジアにおける軍事拠点として基地とともに沖縄における施政権を維持しようとした。しかし、
その一方で、議会は沖縄統治予算を米国民の税金でまかなうことの意味を見いだすことができなかった。沖
縄返還とともに、陸軍省の民事機能に対する歳出は終了し、陸軍省の民事機能は、軍事予算の中に含まれる
ことになった。以上が、米議会記録から見えてくる米国の沖縄統治の姿である。米国の沖縄統治は、参謀本
部指令によって開始され、参謀本部は東アジアにおける軍事拠点としての沖縄占領を維持しようとした。し
かし、その議会は必ずしも、その統治予算を快く支出せず、米国民に対する負担であると見たのである。
大統領府に対する議会の監視機能については、部分的に機能したが、機能しなかった面もあった。その監
視機能が正常に機能することを妨げたのが、大統領府の役割の軍事外交面における拡大であった。沖縄統治
予算の多くが大統領府における政策決定に議会が追従する形で承認された。その意味で、本稿が検討してき
た沖縄統治予算のあり方は、民主主義の理想を掲げながら軍事大国でもある議会監視が十分には機能しな
かったことを示すものだったといえる。
<注記>
1 Fisch, Arnold G. (1988). Military Government in the Ryukyu Islands, 1945-1950. University Press of the Pacific.
2 仲本和彦 (2008). 『研究者のためのアメリカ公文書館徹底ガイド』 凱風社 pp. 139-140.
3 たとえば、筆者は琉球列島の分離を決めた対日講和条約に関する文書を情報公開法に基づき開示申請中であるが、2014年10月1日現在、
未公開である。
4 代表的な先行研究として、宮里政玄編(1975)『戦後沖縄の政治と法』東京大学出版会。 宮里政玄 (1981)『アメリカの外交政策
決定過程』三一書房。宮里政玄 (2000)『日米関係と沖縄1945-1971』岩波書店。ロバート・D・エルドリッヂ (2003)『沖縄問題
の起源』名古屋大学出版会。河野康子 (1994) 『沖縄返還をめぐる政治と外交』東京大学出版会。中島琢磨 (2012) 『沖縄返還と
日米安保体制』有斐閣など。
5 琉球銀行調査部編 (1984) 『戦後沖縄経済史』
6 たとえば、米国が沖縄での教育費を支出することについての疑問が以下に示されている。Hearings before the Committee on Appropriations, United States Senate, 83rd Congress, 2nd Session on H.R. 9936, An Act Making Supplemental Appropriations for Fiscal Year
Ending June 30, 1955 and Other Purposes. Government Printing Office (以下、GPO)1954. p. 628.
7 この点について、ロジャー・ヒルズマンは、大統領府を第一層、省庁を第二層、議会を第三層における対外政策決定過程に係る国内
的要素であるとする。Hilsman, Roger (1967). To Move a Nation; The politics of Foreign Policy in the Administration of John F
Kennedy. Doubleday and Co., pp. 542-543.
8 Budget of the United States Government. 1946-1972. Federal Reserve Archives.
9 Justification of Estimate, Fiscal Year 1960. RG260 Records of Comptroller Department (以下、CM) Box 84, History of Budget
Program, RG260 CM Box 94. National Archive College Park (以下、NACP).
10 Justification of Estimate, Fiscal Year 1960. RG260 CM Box 84, History of Budget Program, RG260 CM Box 94. NACP.
11 Budget of the U. S. Government, Historical Tables, Fiscal Year 2014. GPO. p. 9.
12 Hearing before the Subcommittee on Appropriation, House of Representatives, 79th Congress, 2nd Session. May 8, 1946. pp.3-4
13 Metzgar, Emily T. (2012). Public Diplomacy, Smith-Mundt and the American Public. Communication Law and Policy, 17:1, pp.
67-101.
14 H.R. 6837. July 16, 1946. 70th, Congress 2nd Session.
15 ibid. p.122
16 池宮城秀正「琉球列島に対するGARIOA援助」『政経論叢』第72巻 第4・5号。105-122頁。
17 H.R. 6837. July 16, 1946. 70th, Congress 2nd Session.
18 Hearing before the Subcommittee. May 8, 1946. p. 321.
19 11153 H. doc 65. Supplemental estimate for War Department for government and relief in occupied areas. January 24, 1947.
20 A Report to National Security Council by the Department of State on Recommendation with Respect to U.S. Policy toward Japan,
NSC 13/3. 1948/6/2. RG 273 Policy Papers, Entry 1, Box 2. NACP.
21 Supplemental Estimate of Appropriation for the Department of Army, Civil Functions, 80th Congress, Doc. No. 467. November 24,
1947.
22 Congressional Quarterly Service. 1965. “Congress and the Nation 1945-1964: a review of government and politics in the postwar
years.” Washington D.C. p.160-162.
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23
24
25
26
27
28
29
30
31
ibid
Hearing, Foreign Aid Appropriation Bill of 1950. P. 814.
池宮城, p.110
ibid p. 109
Military Government Order Number 2, 15 September 1949. RG260 Records of Administration Office (以下、AO). Box 264.
Military Government Order Number 3. 6 October 1949. RG260 AO Box 264.
Military Government Order Number 6. 2 November 1949. RG 260 AO Box 264.
Standing Operating Procedure, Civilian Supply Department. 1 August 1949. RG 260 AO Box 264.
From: Chiji of Okinawa Gunto, To: Col. Chase, Director of Supply Dept., MG, Subject: Recommendation in Reference to Operation
of Subsistence Program. 24 August 1949. RG 260 AO Box 264.
32 62 Stat. 1058. GPO.
33 B-114950. From Acting Comptroller General of the United States to the Secretary of the Army. August 17, 1953. RG260. CM Box
211.
34 Hearings before the Subcommittee Foreign Affairs, House of Representatives, 89th Congress, 1st Session. “Utilization of Excess
U.S.-Owned Foreign Currencies in Certain Countries.” p. 98, 196, 225.
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