1990年3月 第11号

ISSN 0915-6119
CIRCULAIRE DE LA SOCIETE FRANCO-JAPONAISE DES ETUDES ORIENTALES
n° 11
Kyoto-Tokyo, mars 1990
日 仏 東 洋 学 会
1990年3 月
東 京 • 京 都
第lit
日
仏
事
柬
洋
務
局
学
会
〒1 6 2
東 京 都 新 宿 区 戸 山 1-24-1
裼并文雅研究室
Tei. 0 3 . 2 0 3 . 4 1 4 1 .
通 悟 編 集 委 M
興丨《
宏 ,
« 田
《
浜 田 正 美 ,
時
» ,
牧 克 己 ,
( 五 十 音 順 )
中 谷
八 木
入 会 申 し込み • 会 费
早稲田大学文学部
英 明 , 羽 田
正 ,
《 , 山 中 一 郎
納 入 ( 年 会 費 3 ,000 円 )
〒 1 1 3 東 京 都 文 京 区 本 郷 7-3-1東京大学東洋文化研究所
羽 田 正 ま で
Tel.
03.812.2111.
『通 信 』 の 記 亊
〒6 7 3
神 戸 市 西 区 伊 川 谷
神 戸 学 院 大 学 人 文 学 部
中谷英明まで
Td. 0 7 8 . 9 7 4 . 1 5 5 1 .
日
仏
東
洋
学
通信
会
第
11 号 • 1990 年 3
月
CIRCULAIRE DE LA SOCIETE FRANCO-JAPONAISE DES ETUDES ORIENTALES
n* 1 1 , aars 1990
目
次
羽 田 • 檟 两 先 生 》 逝 去 ........................... 3
追悼文神田夫浜田正美池田温裼并文雅
第 1 回 ラ モ ッ ト • シ ン ポ ジ ウ ム f インド仏教史J
........................ 8
第 10回 南 ア ジ ア 考 古 学 国 際 会 議 ..............................................g
最 新 号 の 目 次 一 フ ラ ン ス の 鑪 誌 か ら 一 .......... 10
T'oung Pao - Turcica - Studia Iranica Bulletin d'Etudes Indiennes
フ ラ ン ス 便 り - 1 990年 1 月 3 日
G. FUSSNAN-
.......................... 14
会 貝 消 息 ...................................... 15
会« の «仏
「学 術 使 節 」 と し て の 帰 国 報 告 福 井 文 雅
新入会員•その他
お 知 ら せ .....................................!8
第 6 回日仏シンポジウムについて
日仏学者交換希望者募集
日仏共同研究募集
前 年 度 雄 会 に つ い て の 追 録 ...................... 19
編 集 後 記 ...................................... 21
羽田•禝両先生御逝去
私は、 油代の间 部について有益な基e 知識を^•えて
下さったことを今なお有齅く思っている。
本会名誉会fi羽 田 明 先 生 (京都大学名鹫 教授〉、 会
» 後になると学会などでお目にかかる嫌会が増え、
長 播 一 雄 先 生 (東京大学名誉教授、東洋文庫理亊S )
いつしかごs 誼に与ることになったが、特に頻繁に
は、昨年末、 相次いでお亡くなりになった。
羽田明名》会 畏 (79歳 〉は、平成元年12月27日、
接するようになったのは昭和四十年頃からである。
肺炎のため, 京都市北区の》入院先の病院で逝去さ
湖クリルタイが始まると、 引校き東亞アルタイ学会
れた。
が企画され、 第一回の会議が京都で関かれた。 その
これに先立ち«
その前年、 故山田悟夫君の首唱によりいわゆる野尻
維 会 長 (75歲 〉は、本誌前号で
際、会《 に羽田記念館が使われた関係もあって、羽
速報の通り, 丨1月 5 日虚血性心不全のため、 ご自宅
田先生には何かとご厄介になった•ついで日本にお
で;
& 逝された。
けるアルタイ学研究の連絡会嫌などでもよくお世聒
お二人ともその穿« したご学識のみならず、 高邁
いただいたか’
、先生の肝煎りで初秋の貴船において
なご人格によって会貝に大きな彩響と深い感銘を与
合宿した楽しい思い出もある》 また先生は京大を定
えてこられただけに、 本会の受けた» 擊には計り知
年退官された頃から、 毎月七月の》尻湖の集会に夫
れないものがある。
人や令息と共にマイカーを«って来られるのが恒例
ここに» んで哀悼の意を表し、お二人を® んで*
となった。 湖畔の宿で数日間ご一« し、 アルタイ学
はじめいろいろ学問に関するお轱 を«味深く m った
人かの人々に班って頂いた文章を収載する。
ものである。
先生は晩年杏南畲《の館良に就任されたが. 网*
羽田明名誉会長追悼
超の貴重窬のコビーについて大変ご®倒をかけたこ
とがある。 それは書屋所蔵の旧恭仁山荘» 本 中 の 「
天 游 閣 栗 • 東海漁《 J のコピーを、«時 中 東 大 に 留
「羽田明先生をffiぶ 」
神田
学していた内*古大学教授の金啓梡君から依轘され
たからである, この害物は、乾»帝の曾孫奕絵の側
m 夫
室で《秀詩人として名高い顧太清自筆の詩集である
羽田先生に初めてお目にかかったのは、 《か戦時
が、金君も乾隆帝の後裔に当るところからコピーの
中の或る日、 東大の東洋史研究室に当時副手をして
入手を碓く希望していた。 私は羽田先生にご無理を
おられた泉(
寺田)康顧氏を訪ねて来られた際であっ
お願いすると、 ご親切にもあれこれご尽力いただき、
たと思う。 しかしこの時はご挨搜するかしないうち
お« で金君の5 年の念願を叶えることができた。
に出て行かれたので、お話をした記憶はない。 実は
ところで杏雨窨 屋には「格体全》 j という满 州15
先生のお名前はもっと早く、 まだ中学生の頃から承
訳の人体解剖囟の抄本が所蔵されているが、 先年#
知していた。 というのは昭和十一年の夏に在外研究
屋の特別展示会に陳列された際に、 先生はその貨書
先のフランスから帰国した父が、 殆ど入れ替わりに
を展示会のパンフレットに* かれた。 そして先生は
羽田先生がバリに留学されると話していたのを耳に
この* 物の研究をさらに統けられ、 東方学会創立四
していたからである。初めてその》貌に接した先生
十周年紀念の論文栗に「« 州諾解剖書研究序説J と
は、 かねて想像していた通り觚典としていられたの
題して論文を発表された•恐らく先生の最晩年の論
が锂 く印象に残っている》 その後、戦争末期に刊行
文であろう力》
‘
、 それに先立ち昭和六十一年五月に京
された東亜研究所編の『清朝の辺《統治政策j に先
都の東寺で開かれた東方学会の国際会議の帰途であ
生 の 大 作 「異民族找治上から見たる消朝の回部統治
ったか、お茶を飲みながら本S6文の内容について親
政 策 」が発表されると、早速貧るように样 较 した。
しくお話を承った》私は曾ってデンマークの王立0
-3-
« 館において同種の解剖0 の抄本を閲覧したことが
は、 その副H からも明らかなように、 ともすれば中
あるので、非常に面白く思った•なお先生のご好意
国の王朝と周辺地« との交埭史に傾きB ちであった、
により、 杏雨* 屋の本抄本の»典は現在東洋文庫の
い わ ゆ る 「塞外史」とは本H 的に異なる、新たな境
害庫に収められている。
地を拓り開くものでありました• 先 生 三十ニ«の折
私 は 先 生 の «尾 に 附 し て 東 方 学 会 の を 長 年 共
のこの» 論考は、私ども後学のものの出発点であり、
に務めたこともあり、先生の思い出は尽きないが、
私どもは依然として、 ここに先生が示された枠《み
今はただご冥裼をお祈りするばかD である。
の中で右往左往しているに過 ぎぬと思い知らされま
す。
その後、 羽田先生は» M 心の® 域をジュンガル史、
「羽田明先生の
御逝去を悼む」
東西交渉史、 そして就中トルコ族のイスラム化の問
« へと拡大され、常に« 激に富んだ» 々の»綸考を
発表されました• 先生鯽自好は細A • 精密な考M を
むしろお好みのようでしたが、 私どもには、 透徹し
浜田正美
た涓察とÜ 太な構想こそが先生の»学問の本霣であ
本会名營会fi、羽田明先生は、年 余 の 病 も 空
しく、 旧臓二十七日ついにE 逝されました•四半世
紀近くも先生に親炙し、 « 学恩を忝なくした身には、
悲しみは余りに大きく、 哀悼の§葉を級ることすら
« 束なく感じられます0
ると思われます。例えば、 オスマン帝« の r 奴» » j
をも包括的に説明可figな 「トルコ族に固有の奴» 観 j
を、 東突厥にM する« « 中から抽出された》
■マムル
•-ク とカブゥ• クルラルj という» 論考などをffîS
すると、 あたかも大空を液翔する腹が、*物 を 目 が
羽田先生が日仏両国の東洋学の交«に果たされた
けて一!《練に地平へと*んで行くのを見るような壮
寅蹴については、 ここに改めて言うまでもありませ
太な気分が致します• 我マ弟子どもは、常々丨羽田
ん。先生は《国学界の友情をまさに一身に体現して
先生の天翔ける構« 力 J と称して賛_ すると共に、
来ちれました。
ひきくらべて、 トボトポと地上を歩まねばならぬ身
羽田先生は、東京大学後卒業後、 1 9 3 6 年秋から满
の不敏を噶いたものでした-
ニ年、 フランス政府美学生としてパリに灌在され、
当時のフランス東洋学の大師たちの講筵に列せられ、
特 に 東 洋 語 学 校 の Jean Deny教授に師事してトルコ
学を修められました。先生は時に留学生時代を《か
しまれ、 トルコ人教師が著名な知識人 Adnan Advar
氏であったこと、若 き の 日 の B .L ev is や D.Sinor
先生の洞察力はおそらく天性のもので、 研究中の
問題などを少しお話し申し上げると、 fiちに的確に
問埋点を指摘されました》 その意味ではS い先生で
ありましたが、 実際には学生を叱貴なさったことな
ど絶えてありませんでした•先生は仲々の毒舌家で
いらっしゃいましたが、H 時にあらゆる人にわけへ
が_ 同学であったことなど、 折々に語られました。
又、二十有余年の後、 1964年にはパリ大学»市日本
館の館長に就任され、 旧知の方々は勿論多くのフラ
ンス人東洋学者と親好を深められました。 Deny教授
の 後 継 者 で あ る Louis Bazin教授と鲫 生涯の終わり
だてなく心を配っておられました•舸かの集まりの
折など、 一人話題に加わらずに沈«している人が居
たりすると、 先生は話柄をそちらへ向けられるのを
常にしておられました•先生の人に対する宽 大さと
公平さは、 今の世に在ってまことに得がたいもので
まで変わることのなかった友悄を結ばれたのもこの
あったと、 先生を失って改めて思い知らされます》
間のことでありました《
古代トルコ族は、死者の靈は廳に化して天に舁0 、
先生は最初いわゆるウイグル文*の研究を志され
天そのものと一体になると悟じておりました, 先生
たようですが、やがて比較的早い時期に、■関心を
の* の果して天のー颺に留まっておられるなら、 先
東トル キ ス タンの近世史 へ と 向けられました。 この
生の飛翔の路をたどる我々の地上の歩みを見そなわ
分野での* 初の_ 業 績 が 「明末淸初の東トル キスタ
す よô 心から祈って止みません,
ン - そ の 回 教 史 的 考 寮 - J であります。 この論文
— 4—
三アジア文化一般
複一雄会長追悼
四 東 西 交 涉 史 (W マルコ= ボーロ等)
五 東 ア ジ ア 関 係 (1 ) 支那M 係 < 2 >日 本 閬 係
六 北 ア ジ ア • 中 央 ア ジ ア • 西アジア•南アジア間
係
「稷一雄先生を悼む」
(1 ) 総 説 (2 > 北 ア ジ ア 関 係 < 3 >中央アジ
ア 閱 係 < 4 ) 西 ア ジ ア 関 係 (5 > 中 央 ア ジ ア •西
池田湿
アジア方面に関連せる批評紹介その他(6 ) チべ
ヅ卜関係
日仏東洋学会会畏« — 雄先生は、 平 成 元 年 (1989)
11月5 Q 、 享年76歲 を も っ て 忽 爲 と し て こ の 世 を 去
七 イ ン ド • インド洋•東南アジア関係
八 図 害 館 • 古 文 畜 鮪 • 軎 《関 係 (1) 東洋文《 <
られた。 その数日前には奈良の正倉院、ついで仙台
2 ) 外国の古文書館その他(3 〉教« 文« 関 係 (
の支:》常長記念K 観と束奔西走の日々のあと、 お一
4) « K 及び害《序文
人住まいのマンシ 3 ンの一室で日« のひる;&性心不
九学者の追»
全で息を引き取られ、翌 々 日 秘 窨 の 舲 木 (旧姓大島)
十》文
( 1 ) 日本人
(2 ) 外国人
立子夫人が立ち寄り始めて遺体を発見されたのであ
の如く整然と分類され、辞典の項目等まで採«され
った。 まことに痛愔にたえない*
た著作略目を拌見すると、 その学問のなみはずれた
« 先生といえば必ず東洋文靡が念頭に浮かぶ。敝
後の深刻な危機を克服しつつ、 東洋学研究のメッカ
スケールに圧« されるとともに、 « 眼のtt利と明!#
さ、 そして細事をゆるがせにせぬ着実周到な追求を
としての東洋文庫を、50余年にわたり支え発展させ
兼ね« えた3SSÊ考のかずかすが眼前に去来する。 先
てきた原動力こそ、先生の全身全* をこめての奮H
生の著作は、 たとえ個々の所説が後進により乗り超
であった。 75歳の時、 先 生 は 〈自訂略年» > (16頁)
と 《自 訂 著 作 略 目 (1988年8月現在〉 (58頁 )を 《櫂
博士頌寿記念東洋史綸叢》 (汲占害院、 1988年 11月、
本文540頁 )に付して公刊された。 そ の 年 譜 の 後 に
「思うに我が半生は東洋文庫の経営と維持とに終始
えられても、 その比類ない博洽とバランス慼覚の妙
により、20世紀日本の生んだ稀有の学的成果として
不滅の光芒を放つであろう。
1956年日仏会館館長L.Renou教授の示唼により日仏
東洋学会がÜ 生して以来、 代表石田幹之助教授を助
し、 自らの学業において果たすところ« 少しとせず。
け、 先生は Bibliographie de r 〇rientalis«e Ja -
今、 文庫のこと挙げてこれを後継の俊秀に託す。残
ponais.1955の編纂に参加されたのに始まり、本会が
年幾何なるかは知らざれども、仰視すれば北斗高し。
改組刷新された1984年3 月以来は会長の任にあって、
j と結ばれている。 先生は汲古窨 院と謀られ、すで
多忙な中を5年有余会のために尽力されてきた。 先生
に十余巻の著作集の構想を定め、 旧«の補訂に着手
は旧制第一高等学校文丙を卒業され、 フ ラ ン ス 語 •
されていたのであった。 その年3月、47年つれそわれ
た龍子夫人の長逝に遇われ、深い憂いをいだかれつ
フランス文化に対し一定の親近感をおもちであった。
の仏文論文
つ一人暮らしの孤独に耐え、 な お 「我は袞朽に鞭っ
Les origines de l * w i r e du Japon. Cahiers
て著述の事に力め、些 か な 0 とも内子の佶頼に対え
d^istoire londiale 11-1,1954, pp. 26-37.
んことを期す。 J と自訂年譜に特筆された先生の心
Sur la date des
Kidarites. Revue de colla­
情をおもうと、 万感W をしめつけられる。 天もし数
boration culturelle Franco-Japonaise 2 8 , 1972,
年を先生に仮し、著作集を完成されたなら、 世界の
pp. 45-57
東洋学界に対しどれほど貢献をもたらすかM り知れ
を発表されている他、 1971年には日仏会館から第一
ぬものがある。
回学術使節Hission Academiqueとしてバリに赴かれ、
一東洋学一《 (研 究 史 •動 向 等 〉
l’
Institut des Haute Etudes Chinoises で講演も
ニアジア史ー般
された。講 « 草稿にP. Deiiéville教授が手を入れら
— b —
れ、 あまりにも名文となり、 說 みながら何を言って
旅行した親友の為に、私は彌永康夫氏などと共に、
いるのかいぶかった個所さえあった、 と回想された
のを想い出す〇 またSylvain Lévyの綸文を较 むと、
大掛かりな救援組織を作り、 5月19日朝に亡くなっ
た後には、 火葬に付して、 日本館の大広間で、私が
結末において艱苦の末頂上に出、四周の見晴らしを
導師で葬《 を営んだ。
楽しむように視野が開ける感がある、 と进 えられた
その葬儀の時に、羽田先生は弔辞を読まれた。
ことがあった。 もとより先生はフランス一辺倒では
「
同じ京都大学の者として、君に会うのを楽しみに
なく、 イギリスのBoxer教授、 イタリーのTucci教授
して来たのに、 こういう形で逢おうとは- - - J と言
やソ速のGafurovW± をはじめ、 接する限りいかなる
った言葉で始まっていたように思う。
国の研究者とも胸» を開いて交流に努められた。雄
梅垣の話を少し長々と» いたのは、羽田先生と言
« な体躯に患まれ、維にもききとりやすい遂意の英
うと、® を上げ加絨にして、話かけるように弔辞を
ÎSで話される先生の姿が、 どれほど日本人#加者を
読まれたあの日の先生のお姿が、 そのロ>« と共に、
兔芄づけたことか!先生は日本人であると同時に围
すぐに私の目には浮かんでくるからである。 その時
際人であり、 》j « でありながら情愛に富み、何より
が初対面のはずは無いが、それだけ印象的であった
も己の労苦を省みず、 世の為学問の為にtt進して止
のである。
まぬ方であった。 謹んでご冥福を祈る。 なお、 先生
私は、 日本館の»りのイタリア館の住人であった
の 2 万冊をこえる全蔵害は東洋文庫に寄贈されたと
から、毎日お会いするというようなことはなかった
が、パリ大学からの捕りのバスやメトロではしばし
さく 0
ばお逢いした。 同じ東洋學だと言う親しさもあって、
私は気楽に話をし、かなり勝手なことも申し上げて
「羽田明名誉会長、
稷一雄会長との想い出」
いたようである。 「
あの先生は偉い方で、京都では
怖い人で通っているのだよJ と、私の慣れ慣れしさ
を暗に批判する関西からの留学生もいた位である。
福并文藿
羽田明先生との初対面は、私 が boursier
しかし、怖いどころか、 rベリオは器用なものでね、
(フラ
晩年には甲骨文の講義もしていたよ。 』などと、時
ンス政府留学生)であった最後の年、 1964年の春に
々は御自分の留学生時代のお話も洩らされて、私の
さかのぼる。木内義胤氏の後任として、奥様共々、
耳学問を增やして下さったものである。
バリ大学都市の日本館新館長として赴任して来られ
だから、 日仏東洋学会が再発足するに当って、先
たのである。 しかし、すぐにお会いした記值 が無い。
生を名誉会長に推戴することになった時、私は不思
多分、着任して来られた時が、丁度、 日本館も私も
謀な縁を感じたものである。 バリ以来の因«があっ
大変な時期に当っていたからであろう。京都大学大
て、先生は御自分の学生のように私を思って下さっ
学 院 (フランス文学)か ら の 同 じ boursier仲間の
たのであろうか、 日仏会館での総会開会の辞の中で、
梅垣浩ー君が、4 月 7 日 深 夜 2時頃、P.C.路上で自
『
福井君を助けて行ってやって欲しい(云々) j と
動車亊故を起こし、人事不省で入院したので、私達
言って下さった日の事が忘れ難い。
友人は彼の見舞いに追われる毎日だったからである。
anciens boursiers ( 元 • フランス政府留学生)
この事故は、直前まで一緒に飲んでいた私達友人か
の友の会や、 日本館の旧在館生の会が組織されよう
らすると、今でも謎の多い事故なのであるが、それ
とした時、先生は関西側を代表して、熱 ^、
に事に当
はともかく、 当時のことであるから、なにごとも不
られた。 その名薄作りでしばしば御相談を受けたこ
如意であった。留学生同士で助け合うほかはなかっ
とが、今では懐かしい思い出である。 その名簿は、
た。休みとなればイタリアなど方々を一緒に自動車
草稿がようやく去年パリ側で完成した。
-
6
-
後 一 雄 先 生 と の 思 い 出 は 、 1966年
2 月 9 日、恩師
へは出席して下さった。
. 故 Paul Demiéville ボ ー ル •ド ミ エ ヴ ィ ル 先 生 の
先 生 は 突 に f寡 言 実 行 』の方であった。 微座の私
お伴をして、 東洋文庫 に 伺 っ た 時 の こ と で あ る 。 そ
心 な く 、 大 所 高 所 か ら 判 断 を 下 さ れ 、 し か も (これ
の時 の 状 況 が 余 り に も 鮮 明 な の で 、 それが先生との
が す ご い 点 で あ っ た が ) それを断固 実 行 さ れ た 。 一
初対 面 で あ っ た よ う な 鍩 党 に さ え な る ほ ど で あ る 。
昨 年 の 日 仏 コ ロ ッ ク の 時 、 第一部会は、 開 催 ] 金
ドミエヴィル先生は、 日本政府の招きで何十年振り
の 寄 付 を 各 方 面 に お 願 い し た こ と が あ る 〇 その時、
かで 来 日 さ れ 、 束 大 と 京 大 そ の 他 で 講 演 さ れ た の で
ポ ケ ッ ト • マ ネ _ から真先に多額の寄付を送って下
ある。 その通沢と 接 待 役 と に 、 故 川 勝 義 雄氏と一緒
さったのが、梭 先 生 で あ っ た 。 しかもそれは、 一般
に私は当っていた。 文庫での講演のあ と で の お 茶 の
の 想 像 を 遙 か に 超 え る r 巨額 j であった。 そしてま
一 時 、先 生 は 突 然 「
福井さん、文庫の資料はどんど
た、 お 知 り 合 い の 会 社 社 長 や 財 団 に 働 き 掛 け 、«{介
ん 使 っ て 下 さ い よ 。 J と、 あの 大 き い 声 で 言 わ れ た 。
もして下さった。 そして 更 に 、我 々 事 務 局をして真
初 対 面 に 近 い 、 し か も 若 造 の 私 に 気 «る に 声 を 掛 け
に 敬 服 せ し め た の は 、 その用 途 に つ い て 、一切何の
て 下 さ っ た 時 の 光 景 は 、 その言葉 の 攔子 と 共 に 、 今
注文も追求も、 兑 返りの要求もなかったことである。
r金 は 出 し て も 、 ロ は 出さない j
でも 鲜 やかに 思 い 出 す こ と が 出 来 る 。
もう一つの鲜 明な思い出は、 日仏東洋学会の新発
一
その徹底ぶり
は 恐 ろ し い ほ ど で 、 これほど潔い人に、私 は 未 だ 嘗
足に 先 立 っ て 、 ある日の早朝、 大地丨Jfîfi先生と東洋
つて出会ったことがない。
文 庫 の (嘗 て の ) 石門 の と こ ろ で 待 ち 合 わ せ て 、 御
先 生 は 孤 剣 の 古 武 士 に も 似 て 、 厳しい;£ 格の方で
相 談 に 伺 っ た 日 の こ と で あ る 。 当時の日仏東洋学会
あ ったが、 しかし、威 張 る と か 、 変 に権威振るとか
は 全 く の 名 目 だ け で 、 御病 îdi» ちの辻直四郎先生に
す る タ イ プ と は ほ ど 遠 い 方 で あ っ た 。 先生について
代 っ て 、«先 生 が 会 長 代 理 を 勛 め る だ け の 会 で あ っ
は、 「
威 あ っ て 、 猛 (たけ ) か ら ず J と言う言葉を
た (
再 発 足 ま で の 経 捭 は 本 ï通 第 一 号 を 参 照 〕。
い つ も 思 い 出 す 。 日 仏 コ a ックのレセプションでは
そこで、 新 発 足 に 当 っ て 正 式 に 会 長 に な っ て 頂 い た
フランス語 で 淡 々 と 御 挨 拶 下 さ り 、一 方 、 会 a 中で
ら、 と言う準《 会 の 意 向 も あ り 、 二 人 し て 伺 い 、 今
は 常 に 中 央 に 座 し て 、 適 切 な 、 ときには辛辣極まる
後の 下 相 談 な ど を し た の で あ っ た 。
評 を 発 せ ら れ た 。 世上、
実 は 、根 先 生 御 自 身 は 、 再発 足 に は か な り 疑 問 を
I■
高邁な識見の持ち主』 と
言 う 表 現 も よ く 用 い ら れ る が 、 その本物に接するこ
お持ちであった。 何故 な ら ば 、 印度学にしろ中国学
とが出来たのは、 私 共 に は 人 生 の 幸 福 で あ っ た と 言
にしろ、 本 学 会 か 毁 立 さ れ た 昭 和 3
える。 令夫人を亡くされた直後のせいもあったろう
0 (1955) 年 と
較べれ ば 、 今 で は そ れ ぞ れ が 既 に 立 派 な 学 会 を 持 ち 、
か、 伊 束 温 泉 郷 で の コ ロ ッ ク 合 宿 と 、 昨 春 、 京都で
フ ラ ンスとの交流も充 分 に 出 来 て い る の で 、 本学会
の
の 総 会 後 の 我 々 と の 夕 食 を 、殊 の 外喜んでおられた
raison d’etre (存 在 理 由 ) がいま一つはっきり
姿が、今だに目に浮かぶ。
しないから、 と言われるのであった。 「日仏間の
•窓 口 -
先 生 の 学 問 に つ い て は 、 津 田 左 右 吉先生が高く評
の役を直 接 果 せ る 機 関 が 、今 で こ そ 更 に 必
価 し て お ら れ た こ と を 又 聞 き で 知 っ て い た 。 学問の
要 な の で J などと 言 う こ ち ら の 説 明 で 、 その点は納
上 で の 先 生 と の 想 い 出 も 実 は 多 々 あ る が 、 ここでの
得してくださり、 「
そ れでは、 形だけでも付けてお
私 の 役 割 を 越 え る の で 、 割愛する。
きますか ---
J
と言って、 会長就 任 を 受 諾 さ れ た の
昨秋、学会に関する或る件で御相談したところ、
であった。
こ れ こ れ の 手配をするように、 といつものように早
錢 初 は こ う し て渋っ て い ら れ た 会 長 職 で は あ っ た
速 返 信 を 戴 い た 。 しかし、 そ れ が 最 後であった。 そ
が、一 旦 お 引 受 け に な ら れ る と 、 一 大 a 任感で終始
の お 葉 # は 十 一 月 四 日 夕 方 の 消 印 で あ る か ら 、 東洋
された。 奥様御 入 院 中 の 大 変 な 時 期 に も 、 学会の会
文 庫 を 出 て の 帰 途 に 投 函 な さ っ た の で あ ろ う 。 もし
- 7
—
かすると、先生の絶筆かもしれない。
R . ノ ー マ ン 氏 、荒牧典俊氏、
こうして羽田、梭両先生についての想い出は尽き
定氏、松村
恒 氏 、藤并教公氏等、さらに、教授の弟子であった
ないが、お二人の亡き後、その大きさが、益々私に
李箕永氏、力IÜÉ妹 ^
は感じられるばかりである。
ュケーヌ氏と H
氏 、A
• ベザーリ女史 、R •デ
• デュル卜がおこないました。
(ニ )、 当学会が発足するきっかけは、一九八九年
第1回 ラ モ ジ ゥ ム
『インド仏教史』
に出版されたラモット教授の大著の英訳「印度仏教
史第一巻」にあるといえます。 といいますのは、教
拉別司第二巻の界述を断念されていたからでした。
ブ リ ュ ッ セ ル . リエージュ/ 1 9 8 9 年9月24日〜27日
この第一巻が出版されてその Ü [要 性 が益々ぬ»さ
ユペール.デュル卜
れ 、更に、他の激乍、 「桃 旭
 J 仏 訳 第 六 巻 (索
当学会は色々な好条件の中で行われました 。_
引 等 )、同論のラモット訊 !主の英IK 、乂 、小論文菜
の秋 M れに患まれ、会氓となった場所はまずブリュ
等 の 出 版 が 袖 '準備される中、丨句獅な fâ力によっ
ッ セ ル の マ リ ア . テレジア学士院で、次には、 リエ
て、第二巻を作る計画がもち上力 { りました。 しか
ー ジ ュ 大 学 所 有 の 「眼れる森の美女」を思わせるコ
し、このような計幽'はあまりにも無課といえるもの
ロンステル城でした。また、ブリュッセルで開かれ
でした。そこで、その調整をも兼ねて当学会が開催
て い た 「兵庫県の仏教美 ® 展 」は、学会に一つの華
されることとなったのです。ですから、この学会で
を添えることになりました。
は 、教授の大著第一巻の M 填ともいえる古代仏教の
この学会は三つの点で大変興味深いものとなりま
新 研 究 、そして、同第一卷の統 W にあたる大乗仏教
した。 まず、一九八三年に亡くなられたラモット教
中心の新研究という二つの課題があり、発表のほと
授 の た め の 最 初 の 固 際 己 念 学 会 で あ っ た こ と 。次
んどはこれら二つのテーマに沿って行われました。
に、印度仏教の発展について様々な方法論が試みら
このことは、昨年の十月十九日付けの中外日報に松
れたこと。そして、ベルギーの仏教学のみならず、
村氏が詳しく報告しています。
ヨーロッハM
また、この学会の )^ 要が発表され次第 ' 我々の
の現時点に即した、フランス語圏仏
教学の再統合への一里塚となったことでした。これ
C • E . A . ( フランス国立 ® « 学 院 、京都支部の
らについて以下に順に少し詳しく述べようと思いま
学 報 )に書!
乎を載せ、批 I手する予定でいます。
( 三 )、山 ロ益 氏 が 初 め て 「ベ ル ギ ー •フランス仏
す0
( 一 )、ラモット教授 * 驰 界 さ れ た 後 、彼の先輩に
あ た る 人 々 (G . ツッチ、 E •ヴァルトシュミッ
教 学 J の言葉を提唱されたことからも窺えるよう
卜)が次々に亡くなられた為に、当学会を構成した
学派の代表者であることは、 日本の全ての仏教学者
のは教授の後輩にあたる世代の研究者でした。発表
が御存知の通りです。 しかし、ここでこの学派の再
は、平川彰氏 、H
. ペッヒエル卜氏 、D . セイフオ
統合ということを述べるには、この学問の^云統の不
— ト . ルエッグ氏 、 L . ザンダー女史 、0 . フォン
幸な歴史を説明する必要があります。ことの起こり
. ヒンニューバー氏 、P . S . ジャイニ氏 、H . ブ
は 、ラモット教授が名誉教授になられる少し前のこ
ロン コース卜氏、 K
とで、ル ー ヴ ァ ン 大 学 が フ ラ ン ス 語 学 部 (U
に、ラ
. ノべヅ夕一チヤ一リヤ氏、 K .
一
8
一
• ヴ ァ レ . ブーサンとラモット教授らがこの
•C
. L . ) とオランダ i群 部 (K . U . L • ) とに
のドイツと <11^
国において目ざましい成果を學げ
分裂したことでした。そ の ^ 、ラモット教授の有名
つ つ あ る 仏 教 学 の 爾 は 、汎ヨーロッハ*!
^ に兒る必
な 「仏教学謂 ® 」がなくなり、次いで、漢文学の
要があります。そして、全ヨーロッノ、
•、ひいては全
r * シ一教授の ,m
世界の学者の fâ力のもとに ' ラモット教授等に代表
で 、触 学 科 全 体 が な く な っ て
しまいました。そして、その M
学科の再建を想 ^
さ れ る フ ラ ン ス 派 の 寅 重 な 伝 統 の 灯 を 、更に発
することが、このシンポジウム開傕の岜 初の目的の
一つでした。
このような訳で、この学会への fâ 力は各方面から
もたらされました。 まず、 U
. C . L . の東洋部の
仏教学以外の教授速から、 またリエージュ大学関係
城させる必、
要を痛感しています。
第 1 0 回南アジア考古学
国際会議
(The 10th International Conférence of the As­
の人々で、ラモット教授の弟子でもある、阿 M 如来
sociation of the South Asian Archaeology in
經典に丨« する博上論文を « かれた J •ダンツインネ
Western Europe held at Paris)
博士、 ミーマ一ンサ一について博士論文を磨かれた
パリ/ 1 9 8 9 年 7 月 3 日〜7 日
J . M . フェアボールテン博士、そして、英 說 「印
度 仏 教 史 j の索弓丨を作成されたP . カース氏らの仏
桑山正進
Cambridgeの Dr. F_R. Allchinの首唱によって
教学者速力ゝらもたらされました。さらに、プリュッ
セ ル 大 学 (U
• L • B . ) 出 身 の 印 度 考 古 学 者 (J
Archaeology in Western Europeの 名 の も と に 第1 回
. スコトスマンス氏 、N . ボ ー ツ . ビクロン博士)
の参加も喜 ^ しいものでした。
集会が1971年7月にChurchil Collegeで関催されてか
ら、 この集会で10回目である。South Asian Archae­
しかし、誠に残念なことに、ベルギー国内で現在
仏教学が Ü も活発なオランダ語のゲント大学と K
Association lor the Promotion of the South Asian
.
U • L . は参加ができませんでした。これらの機 IMI
ology 1 9 X X の_畜名を持っ 8 回の紀要 1 0 冊は、 す
でに洧アジア考古学研究者必携の論文集となってい
る。本学会はとくに箏務局、会貝、会長を定めず、
西ヨーロッパ各地で持ち回りで開催地の主な研究者
. ヴアレ•ブーサンとラモット学派の直系
が寅任者となり、隔 年 7 月 上 旬 の 5 日間に国際集会
に属さない、日本でもよく知られている漢识 密教学
を開催する。 それによって、南アジア考古学者相互
(ゲントの C . ウイルメン教授の学派)と 中 国 .日
の情報交換、研 究 促 進 、研究者育成をめざす。 いま
や西ヨーロッパ以外からも参加者が増え、前回から
には、ラ
本 仏 教 史 (K
• U . L . の W • ウ イ ン . ド. ウール
は100名をこえ、 回ごとに肥大していく。前回
教 授 )がありますが、折悪く、同時に開催された
Veneziaにおける決定によって本集会は1989年7月3
「ヨ ー ロ パ リ ア . 日本」の祭典に手を取られた形に
日から7 日まで、ハラッパー研究者にしてMehergar
なってしまいました。ベルギー国内でそのような状
逍跡の発掘者J.-F. Jarrigeの主催により彼のMusee
態でありましたので、フランス I翻 の 仏 教 学 か ら も
Guimetで行なわれた。 フランス革命200年記念行事
寸前のこともあり、約 190名の参加があった。 内訳
多くの期待を望めませんでした。フランスからは
A • バロ一教授と K . バツ夕一チヤリヤ教授以外の
参加を得られなかったことは残念なことでした。
は、 フランス45名、 イギリス28名、西ドイツ25名、
イタリア21名 、合衆国21名 、 インド16名、 オランダ
12名、 デンマーク6名、パキスタン6名 、 スリランカ
しカゝし、この学会が明ら力H こしたように、現在
と日本各3名、 オーストリア、 フィンランド、ベル
-9-
ギ一
、 スイス、 ソ ヴ ィエト各1 名である。 そのうち
研 究発表は100名に满 たなかった。多数の参加者の
Schools in Chinese Buddhis■•(中国仏教の天台宗
と華厳宗における法華経と華厳経)
ため、先史部門と歴史部門にわかれ、考古学の常谦
Michael Loewe, Divination by Shells, Bones and
にしたがって前者は地下の講演室、後 者 は 2 階の閲
Stalks during the Han Period•(漢代の甲骨及び筮
覧室があてがわれた。 先史部門は現在の発掘の成果
を中心とした60の研究報告、歴史考古部門は、美術、
竹占)
R.A.Stein, Les sertents des traités sino-
図像学、仏教文献学、 イスラームなども包含したき
tibétains(8e-9e siècles)•(唐蕃荣約中の盟fi)
わめて広い範囲の研究発表40が、违 日 9 時からだい
Nadeline K.Spring, Fabulous Horses and Worthy
た い 6 時ちかくまで行なわれた。発表は英語のみと
規定され、 すべて個人の研究であり、特定のテ— マ
を も と に し た 肘 論 は な か っ た 。 な お 、次 回 は 、
Berlinに お い て 、 Prof. Dr. A.J. Gailの主催により
Scholars in Ninth-Century China(九世紀中国にお
ける空想上の馬と名士たち)
Robin D.S.Yates, New Light on Ancient Chinese
Hilitary Texts: Notes on their Nature and
Evolution, and the Developaent of Nilitary
Instiut fur Indische Philologie und Kunstgeschichte
SpecUlization in Warring States China•(古代中
Freien Universitatで 開 催 さ れ る 予 定 で あ る 。
国の兵法書に対する新見解:その本質と展開、及び
敝国時代における兵法の専門化)
最新号の目次
—
フ
ラ
ン
ス
の
雑
a* か ら 一
フランスから出ている東洋学M 係の贛誌のうち、
主要なものの*新号の目次を順次ここに掲載してゆ
きたいと思っています。揭截する鑲玆は、次のとお
り で す (括弧内は、 日本龉 訳の担当者〉。
Laurent Sagart, Nord et Sud dans la langue et
1•écriture des Shang•(商代の言»と文字における
北と南)
Donald Daniel Leslie et Aniad Youssef, Islaaic
Inscriptions in Quanzhou, a review of Chen Da
-sheng, quanzhou Yisilan-jiao shike: Islaaic
Inscriptions in Quanzhou•(泉州のイスラム磚文:
諫 遠 生 《泉州伊斯蘭《石刻》を評す)
1 . Toung P a o 丨
通報】
(高田時tf>
害評
2. Turcica
(羽 田 正 〉
John K.Fairbank.ed.t The Caibrictee History of
3. Studia Iran ica
(羽 田正)
4. Revue des Etudes Iraniennes
(羽 田 正 )
5. Bulletin de l’
Ecole Française d ’
Extréie
Orient
(八 木 徹 )
6. Journal Asiatique
(御 牧 克 己 )
7. Bulletin d*Etudes Indiennes
*
幸艮
*
*
*
*
( 中谷英明)
*
T'oung Pao, Vol.LXXIV
論文
Riccardo Fracasso, Holy Hothers of Ancient
China. A New Approach to the Hsi-wang-肌 •(古
代中国の聖なる母、西王母への新たなアブローチ)
Liu Hing-wood, The Lotus S8tra and Garland
S8tra according to the T ’ien-t’
ai and Hua-yen
China Vol.12, Republican China 1912-1949 Part
I, par E.B.Verteer
Morris Rossabi.ed., China aaong Eguals. The
Hiddle Kingdoi and its Neighbors, 10th-14th
Centuries, par H.T.Zurndorfer
John W.Dardess, Confucianisa and Autocracy:
Professional Elites in the Founding of the
Ming Dynasty, par H.T.Zurndorfer
Patricia B.Ebrey, Faaily and Property in Sung
China: Yüan Ts’
ai’
s Precepts for Social Life,
par H.T.Zurndorfer
Paul A.Cohen, Discovering History in China:
Aaerican Historical Writing on the Recent
Chinese Past. par H.T.Zurndorfer
A. Cheng, Etudes sur le confucianisae Han:
Jonathan Chaves(transi.and ed.), The Colimbia
l’
élaboration (Tune tradition exégétique sur
Book of Later Chinese Poetry, Yuan, Ming, and
\es Classiques, par I.Robinet
C h M n g Dynasties(1279-1911). Translations
Tai-ching Hsu, The Chinese Conception of the
froi the Oriental Classics. par W.L.Ideia
Theatre. par W.L.Ideia
Roderich Ptak, Cheng Hos Abenteuer ia Draaa
Wolfgang Kubin, Per durchsichtige Berg, die
Entwicklung der Naturanschauung in der chine-
und Roaan der Hing-Zeit. Hsia Hsi-yang: Eine
sischen Literatur. par W.L.Ideia
üebersetzung und Untersuchung. Hsi-yang chi :
Ein Deutungsversuch, par W.L.Ideia
Kurt W.Radtke, Poetry of the Yuan Dynasty. par
W.L.Ideia
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Rule. par H.T.Zurndorfer
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Biological Technology. Part II: Agriculture,
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par Dieter Kuhn
ムの中央アジア起« )
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Chinese Poetry and Poetics. par J.-P.Diény
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Universale de* Turchi de Francesco Sansovino.
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11
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Note sur le prodige c o u e
de l’incocevable dans le Vi_a-
lakirtinirdesa. ( 「維 摩 経 j に お け る ,理 解 を 絶
することの現れとしての奇路についての覚害)
Hisashi Natsuaura, Encore à propos
d'un frag-
■ent du Hahâsâighika-Vinaya.( 再 度 「大衆部ヴィ
「ス ヴ ァ ラ • シ ッ ダ ー ン タ • チ ャ ン ド リ カ ー j )
et Ràià-
yapa (bengali) de Kfttivâsa • ( ヴ ァ ー ル ミ ー キ の
「ラ ー マ 一 ヤ ナ j と ク リ ヅ テ イ ヴ ァ ー サ の (ベ ン ガ
ナヤj の一断片について)
Edith Nolot, Derechef à propos d'un fragaent
du ?Hahàsà«ghika-Vinaya ( 更 に 「大 衆 部 ヴ ィ ナ ヤ j
(?)の 1 断片について〉
ル 语 ) 「ラ ー マ ー ヤ ナ j )
H.C. Bhayani, The Sùdravatsa-kathà and its various versions• ( シ ュ ー ド ラ ヴ ァ ツ ァ •カ タ 一 と
mm
George Norgenstierne, Sten Konow ( 「ス テ ン • ク
ヌーヴj >
その緒異本)
書評
H.C. Bhayanif Dhavalas in Prakrit and Apabhra-éa and post-Apabhraaéa traditions • ( ブ ラ
ークリット、 ア バ ブ ラ ン シ ャ 、 及びアバブランシ
V. Varadachari, Institut Français d^ndologie:
Catalogue descriptii des «anuscrits.
Vol.II:
Hss 116-275, par G. Colas.
ャ後の伝承中のダヴァラR H )
Johannes Bronkhorst, Etudes sur Bhartrhari,1.
L’
auteur et la date de la Vftti •(バ ル ト リ ハ リ
Siegfried Lienhard, Nepalese Hanuscripts. Part
1 : Nev&ri
and
Sanskrit
( Staatsbibliothek
Preussischer Kulturbesitz, Berlin),
研 究 1 : ヴリッティの作者と年代)
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Fezas
Hélène Brunner, L ’
àcârya éivaîte : du guru au
gurukkal,( シ ヴ ァ 教 の ア ー チ ャ ー リ ヤ :グ ル か ら
Balbir
グルッカルへ)〉
George Cardona, Pànini: His Work and Its Tra­
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Angkor et le n o i b r e 108 •( ア ン コ ー ル の バ ヨ ン
ditions. Vol.l., par P.S. Filliozat
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の 顔 面 彫 り の 塔 と 108 と い う 数 )
in the Dravidian L a n g a g e s . par P.S. Fillio­
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Mandi et Nagar en HUàchal Pradesh • ( ヒ マ チ ヤ
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L. Sternbach, ed., Hahâsubhâsitasaagraha• Vol.
ル •ブラデシュのマンデイとナガルの墓石)
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H.V. Patwardhan, ed.,
Gâhàko^a
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H.C.Bhayani, ed,. Tàrâyapa (Tàrâgana). par N.
Balbir
-13-
The
(Sàtavâhana) par N. Balbir
SUmislaw Schayer,
Sur la philosopie des Hin-
フランス便り
dous (1). choix (Tarticles. par J.P.Osier
G. Vallin, Luaière du Non-dualisae,
par
J.H.
< 1 9 9 0 年 1 月 3 日〉
Verpoorten
J.M.Verpoorten, Hiaàisà Literature,
par
Gérard FUSSNAN
G.
Gerschheiaer
1989年 度 の 編 成 替 は い ま 終 わ り ま し た 。 9 月 26 日
B.K. Hatilal, Logic, Language and Reality. An
付 で ご 要 IÜが あ り ま し た の で 、 そ の 結 果 を お 送 り し
Introduction to Indian Philosophical Studies.
par J.M.Verpoorten
え て お き ま す * た だ し CNRS 番 号 は 未 決 定 で す 。 3 月
V.N. Jha, The Philosophy of Injunctions.
par
にならなければわかりません。
J.M. Verpoorten
Institut d ’
Asie の旧 Ecole Polytechnique
Vrajavallabha Dvivedah, Yoginihfdaya». par A.
(
52, rue du Cardinal Leioine, 75005 Paris 〉へ の
Padoux
引 越 し 作業が始まりました。 こ れ に 伴 い 3 月末まで
J. Martin, Introduction au bouddhisae. par E.
図害室は閉室です。
Nolot
Avenue Wilson 22 番 地 に は 、 EFE0 (新 院 長 Van-
Shindo Shiraishi, Buddhist Studies.
par
C.
d e m e e r s c h 氏 〉、 イ ン ド シ ナ 半 島 研 究 班 ( H«e
Caillat
Blondeau) が 残 り ま す 。 空 い た と こ ろ に は 代 わ っ て 、
H. Natsuaura, The Mahàsudarsanâvadàna and the
現 在 R a s pail 通 り 5 4 番 地 に あ る 現 代 中 国 資 料 セ ン
Hahàsudaréanasûtra, par E. Nolot
L. Schaithausen, Alayavuriàna,
and
ます。 バ リ • イ ン ド 学 の 新 し い 研 究 組 織 の 一 覧 を 添
タ ー (M*e Bergère) が 入 り ま す 。
On the O r U i n
C N R S の ト ル コ 学 の ニ 研 究 班 (Bazin-Ha«ilton 班
the Early Developient of a Central Con­
と Bennigsen-S.Veinstein 班 〉は S. Veinstein 氏
cept of Yog&càra Philosophy. Part 1 : Text.
を 班 長 と す る 一つの研 究 班 に 合 併 さ れ ま し た 。
Part 2: Notes, Bibliography and Indices, par
敦 煌 班 (Soy_ié-Magnien> お よ び Société Asia­
J.M.Verpoorten
tique は 、 Institut d ’
Asie と と も に 、 旧 Poly­
S.G.Tulpule, Hysticisa in Médiéval India, par
technique の 建 物 に 移 り ま す 。
P.S. Filliozat
インド学博士は廃止となり、 代わってバリ第3 大
K. Schoaer and W.H., Hcleod, eds., The Sants in
学 所 属 の 東 洋 学 (ア ラ ブ 、 イ ラ ン 、 イ ン ド 、 へブラ
the Northern Indian Tradition, par D. Hatrin-
イ の 諸 学 )を 一 つ に し た 東 洋 学 博 士 が 新 設 さ れ ま し
ge
た (1989年 10月 1 日 実 廉 )。
D. Rahbar, tr” IJrdu letters of Hirza Asadu*!lah Khan Ghalib. par D. Natringe
L. Blusse et al.9 India and Indonesia froi the
1920s to the 1950s, par D. Natringe
H. Einzaann,
Ziarat
und
pir-e-imrdi.
こ の 件 に « し、 12月 に バ リ に 立 ち 寄 ら れ た 福 并 氏 と
話し合いました。
Golra
Sharif, Nurpur Shahan und Pir Baba: drei _usliaische Wallfahrtstâtten_ in
L. Bazin 氏 と Schipper氏 は 目 下 、 1991年 バ リ で 開
«(予 定 の 日 仏 コ ロ ッ ク の 準 備 中 で す 。 Schipper 氏は
檯氏 の 逝 去 を 知 り ま し た * 大 き な 喪 失 で す 。
では皆様によろしく。
Nordpakistan,
par D. Natringe
追伸
Literatura: kuTtura drevnej i srednevekovoj
« 話番号が変わりましたのでご承知下さい。
Indii, par P. Reichert
Collège de France, standard:
(16-1)44 27 12 11
— 14一
-Ecole Française d'Extrêie Orient
Collège de France, Fax:
22 Avenue du Président Wilson,
44 27 11 09
*
*
75116 Paris
*
T é l . 45 53 21 35
LISTE DES EQUIPES DE RECHERCHES INDOLOGIQUES
Importante bibliothèque.
PARISIENNES
Directeur: Léon VANDERNEERSCH, Directeur d ’
Etu
au 1 janvier 1990
- Centre d ’
études de l’
Inde et
des à la 5e section de l’
EPHE.
de l’
Asie
du
-Musée Guiaet
Sud. Laboratoire associé CNRS-Ecole des Hautes
Place d ’
Iéna, 75116 Paris
-Etudes en Sciences Sociales
T é l . 47 23 61 65
Naison des Sciences de 1*H o u e
Directeur: Jean-François JARRIGE,
54, Bd. Raspail 75006 Paris
Général des Husées Nationaux.
T é l . 49 54 23 56
Iaportante bibliothèque.
Inspecteur
Directeur: Eric HEYER, Directeur de recherches
au CNRS.
-Institut de Civilisation Indienne du Collège
Importante bibliothèque.
de France
- Equipe de recherches associée CNRS-Paris in :
Importante bibliothèque-
52 rue du Cardinal Leaoine, 75005 Paris
”Langues, textes
et civilisations
du
Monde
Indien”
président du coaité scientifique de gestion :
André BAREAU, Professeur au Collège de France
Université Paris m ( 113 rue de Santeuil
75231 Paris Cédex 05
会員消息
Responsable: Harie-Claude PORCHER, Professeur
de sanskrit à Paris Œ .
O 会貝の渡仏
- Equipe de recherches associée CNRS-Collège
de France: wLangue, culture et société dans le
sous-continent indien**
Collège de France.
福井文雅
11 Place Marcelin Berthelot,
75231 Paris Cédex 05
「
文 部 宵 補 助 金 に よ る 学 者 交 換 j と言う制度があ
T é l . 44 27 10 07
り、 日 仏 会 館ではそれによって、 毎 年 「
学術使節J
et
mission scientifiqueを フ ラ ン ス に 派 遣 し て い る 。
( フ ラ ン ス か ら 日 本 へ の 招 待 の 場 合 も あ る が 、 ここ
Institut de Civilisation Indienne du
Collège de France
で は そ の 場 合 の 説 明 は 省 略 す る 。 ) それへの応募は
52 rue du Cardinal Leaoine, 75005 Paris
会 員 総 会 の 度 毎 に 呼 び 掛 け 、 また、 そ の 通 達 は î通
(avec une importante bibliothèque)
Responsable: Gérard FUSSNAN,
「学術使節」としての
帰国報告
Professeur
信』 に も 度 々 転 載 し て き た と こ ろ で あ る 。
au
ところが、 去 年 三 月 の 本 会 総 会 で の 決 議 の 結 果 、
Collège de France.
去年十二月、 不肖私がその資格で派遣されることに
-15 —
なった。 そこで、 貴務の一 端 と し て 、 ここにその報
宗 教 研 究 : そ の 過 去 と 現 在 j とした。 私の研究領
告 を 手短に# くこととしたい。
域 は 広 義 で の f中 国 学 」で あ り 、 現在の办 門は中国
があるが、 その後は、本学会からの学術使節は出て
• 宗教史であり、留 学 生 と し て は !
; Ecole
Pratique des Hautes Etudes ( 国 立 高 等 研 究 院 )
宗 教 研 究 部 門 の titulaire に なっているので、 この
いない。 従って、私の体驗談をここで述べることは
テーマが 自 他 共 に 最 適 と判断したのである。 フラン
全く意味の無いことでもないであろう。
ス の中国学が、 中 国 思 想 •宗 教 史 研 究 で は 昔 か ら 世
本学会の再発足以前には、東洋学に閲しては、梭
— 雄 、池田温の両会贝 が既にその任に当られたこと
思想
界 の 第 - ' » に あ ることは、 言 う ま で も あ る ま い 。
1.
ニ 、三のフランス人有力学者に打診したところ、
私 は 進 ん で 自 身 か ら 応 募 し た わ け で は な い 。 しか
し、 ir通 信 』 第 九 号 p.5, p.7 に い く ら か 書 い た よ
そ の テーマで大 変 結 構 だ 、 という返事であったので、
う な 複 雑 な 経 » が あ り 、 私 が 辞 退 す る な ら ば 、 後の
そ の つ も り で 準 備 を し て い た と こ ろ が 、 かつての同
応募者の道を塞ぐことは明白であった。 そこで、梭
級 生 で 、今 で は Hautes
会長の強いお勧めに従い、去年三月の本会総会での
年 秋 に 中 国 高 等 研 究 所 所 長 に な っ た シ ベ ー ル K*
御推薦を受诺 したのである。 その結果、« — 雄学会
E t u d e s の教授になり、昨
M
SCHIPPBR 君 か ら 眾 話 が 入 り 、 アジア協会の月例会
r高 度 に 專 門 的 な 研 究 発 表 の 場 だ か ら 、 別 の テ一
長 名 で 候 補 者 推 薦 状 が 日 仏 会 館 に 出 さ れ 、 日仏会館
は
学術委員会で選考があった。学術使節としての正式
マ に 替 え た 方 が 良 い 。 日本の学界状況の報告につい
依頼状が届いたのは、五月末のことであった。
て は 、 別 に 場 を 設 け る か ら 。 J と忠告してくれたの
である。
候補 者 と し て の 応 募 書 類 に は 、现 嫌 • 専 攻 •略 歴
• 所 属 閲 連 学 会 •主 な 業 績 • 渡 仏 希 望 の 時 期 •渡 仏
フ ラ ン ス で 暮らした方ならば、 多 か れ少なかれ体
中 の 学 術 交 流 予 定 • 受 入 れ 先 •( 日仏会館関連学会
験されたことであろう一この種の行き違いはフラン
のなかでの)推 薦 学 会 名 . 会 長 名 • 印を記した。必
スでは 日 常 茶 飯 亊 で あ る 。 そ こ で 、 アジア協会では
( シ ベ ー ル そ の 外 の 注 文 を 人 れ て )Le Sütra du
Coeur de Xuanzang (602 ?〜 664 ) 「玄 奘 の 般 若 心
經 J の題目で発表にすることになった。
要な箇所のみフランス語で、 あとは全て日本語で寄
いた。 渡 仏 の 条 件 と し て は 、 東 京 •パ リ 往 復 航 空 券
が 支 給 さ れ 、 滞 在 » と し て 、 年 長 者 の 場 合 は 、 一日
唯 一 つ 少 し 困 惑 し た こ と は 、 発表要旨を こ の 二 三
15.000 円 で 10 日 以 内 (滞 在 日 数 分 ) が 支 給 さ れ る
日中に送れ、 全 会 員 に 配 っ て お く 必 要 が あ る か ら 、
( 中 堅 の 方 に は 、 一 日 1万 円 で 3 0 日 分 以 内 が 支 給 さ
れる) ことになっている。 そして、三月中旬までに
と言う注文も、 併 せ て 来 た こ と で あ る 。 テーマを変
任 務 を 済 ま せ 、 帰 国 後 10 日 以 内 に 渡 仏 報 告 書 (
400
え て の 昨 日 が 今 日 の 要 求 で は 、 これは無理な相談な
字 詰 前 後 ) を提出しなければならない。
ので、 発 表 当 日 に 持 参 す る と 言 う こ と で 勘 弁 し て 貫
った。
学 術 使 節 の 資 格 は 、 「日 仏 会 館 の 会 員 で あ る 日 本
2.
の学者で、 フランスの大学等で講演、 セミナー等を
渡 仏 期 間 は 12月
開き、 日本の研究状況をフランス学界に伝えていた
だ け る 方 』 となっている〇 r日本の研究状況をフラ
ンス学界に伝え」るのが任務であるとするならば、
fi 適 の 場 は フ ラ ン ス の 「
Société Asiatique アジア
協 会 j であろう、 と私は考えた。 幸いに私はその会
员 でもある。
講 演 題 目 は Etudes japonaises sur les religi­
ons de la Chine : passé et présent 「日 本 の 中 国
— 16 —
6 日から2 0 日であった。 アジア協
会 例 会 は 毎 月 第 二 金 曜 日 の 17時 か ら 開 始 、 と決まっ
ている。 そこで、 私 の 発 表 日 は 着 い た 翌 日 の 8 日で
あった。 毎 月 ニ 名 ず つ の 発 表 で あ り 、 ベ ル ナ ー ル .
フ リ ユ ザ ン Bernard FLUS 丨
N 氏 の Démons et Sarrasins
魔 と サ ラ セ ン 人 J と題する文献研究に続
いて 、私 の 発 表 は 丁 度 18時 か ら 約 35 分 間 、 質疑を入
れて 45 分 く ら い で 終 了 し た 。 この時間配当は、 前も
って訊ねておいたものである。 仏文原稿もそれに合
学 術 使 節 と し て の 講 演 は 、 12 月 13 日17時から、 S
疑 を 含 め て 約 丨 時 間 半 近 く 、 Collège
会 長 の セ デ ス 教 授 か ら 全 员 に 紹 介 さ れ 、 ルヌー教授、
de France,
Institut des Hautes Etudes Chinoises (コレージ
ュ • ド • フランス . 中国高等 研 究 所 ) の講堂で行っ
た。 こ の 研 究 所 は Instituts d’Asie (アジア会
ラ ル ー 女 史 そ の 他高名 な 学 者 と お 逢 い し た 。 私は講
館 ) 内に あ る が 、 か つ て は ソ ル ボ ン ヌ の 地 陪 に あ り 、
演 の 枕 に そ の 贵 重 な 思 い 出 話 を 振 っ て 、 その同じア
そ こ で 父 が 1963^12 月 12 日16時 か ら 、
わせて作成 し て 行 っ た 。
実は、 1963年 12月の 月 例 会 に 、 偶 々 訪欧した父が
招 待 さ れ 、 留学中の私 も 同 席 を 許 さ れ た こ と が あ る 。
ジア協会の、 同 じ 12月の月例会で自分が発表するこ
とになった奇しき因 « か ら 話 を 始 め た 。 実は、 私の
発 表 内 容 も 一 《 の因 « 話 だ っ た の で あ る 。
玄奘がイ ン ド へ 出 発 す る 時 、 或 る 怕 か ら般若心經
Problèmes
fondamentaux concernant les recherches sur le
taoïsme ( 道 教 研 究 の 基 礎 的 諸 問 題 ) と ®す る 講 演
を 45 分 間 な し 、 私 が 通 沢 し た 場 所 で あ る 。 先のアジ
ア 協 会 と 同 じ く 、 この符合を奇異に感じたものであ
を口 授 さ れ た 、 と言う逸話は有名である。 しかし、
る0
現 在 の 般 若 心 經 は 、 玄奘がインドから 帰 国 し て か ら
それと 共 に 、 こ の ア ジ ア 会 館 で は Revue biblio­
graphique de Sinologie ( 中 国 学 文 献 目鉍 雑 誌 ) の
« 集にアルバイトとて参加した思い出もある。
そ れ ら を 前 # きにして、 私 は Etudes japonaises
sur les religions de la Chine : passé et présent r 日 本 の 中 国 宗 教 研 究 一 過 去 と 現 在 一 j
漠 譯 さ れ た 、 と言うのが定説である。 そ れ で は 、 イ
ンドへ唱えて行った般若 ‘、
經 と は 、一体なんであっ
たのか?
と言う謎を 解こうとしたのが、今 回の私
の 発 表 で あ っ た 。 私 の 結 論 は 、 それは鳩摩羅什訳の
般 若 心 經 で 、 しかも、 そ の 中 の 密 呪を唱えて行った
'
のだ、 とするものであった。 発表内容の詳細に入る
について 話 し た 。 司 会 は ジ ュルネ教授。 時間の制限
ことは差し控えるが、敢 え て こ の 問 題 を 遒 ん だ の は 、
から > 話 題 は 中 国 仏 教 史 と 道 教 と に 絞 り 、 戦後の主
この問題の解明には、 中 国 仏 教 史 ゃ 敦 煌 写 本 、
f西
遊 記 』 などの中国 の 小 説 類 、 日本の仏教儀式などが
要 刊 行 物 の リ ス ト (これが # ば れ た ) を配って、 研
究動向の変遷と現在の問題点とを説明した。
係 わ っ て 来 る か ら で あ る 。 つ ま り 、 この謎の問題で
講 演 後 、歓 迎 レ セ プ シ ョ ン が 催 さ れ た 。 それは光
あれば、 ア ジ ア 協 会 会 員 に 满 遍 な く 興 味 を 懐 い て ]Ï
栄 で あ っ た が 、 同 時 に そ の お 蔭 で 、 フランスの東洋
え る の で は な い か 、 と期待したからである。
学 者 や 昔 の 同 級 生 、 旧 友 各 位 と 、一夕で 広 く 交 歓 で
きた こ と は 、望 外 の 喜 び で も あ っ た 。
発 表 の 要 旨 と 、 参考資料と文 献 と を 載 せ た プ リ ン
卜を日本から用意して行って、 参 会 者 に 配 付 し 、 そ
中 国 高 等 研 究 所 は そ の 後 52,
rue du Cardinal
Lemoine, F-75005, P a r i s に移転したので、 そのレ
れに拠りつ つ 述 べ た 。
司 会 は 演 埴 中 央 の ア ン ド レ •カ コ 会 長 André
セ プ シ ョ ン は 、 あの会場を使った最後のものになっ
C A Q U O T が務め、 向 か っ て そ の 左 に ル イ •バ ザ ン 副
会 長 Louis BAZIN , そ の 隣 り に (つ ま り 左 端 に ) 発
飾 っ た 二 階 の 大 広 間 も こ れ で 最 後 か 、 と言う思いが、
表者、 会 長 の 右 に ミ シ ュ ル •ス ワ ミ エ 咨 記 Michel
参会者全员 の胸に過ったようである。
た。 ベ リ オ そ の 他 歴 代 の フ ラ ン ス 東 洋 学 者 の 肖 像 を
以 上 二 回 の 発 表 の 間 に は 、早 大 か ら の 特 定 研 究 補
S 0 Y M 1 B が同席 す る 、 といった構図であった。
発表後の 質 疑 応 答 で は 、 シベール、 フ ラ ン ク B.
助 金 に よ っ て 、 フランスの地方 都 市 図 書 館 の ニ 、三
R O B E R T の三氏 か ら 、 コメ
とバリ、 ヴァチカンの図 ® 館 と に 赴 き 、 イエズス会
ントと質問とが出、 閉会 後 に も 、 出席会員から多く
士 将 来 の 所 蔵 漢 籍 の 調 査 に も 従 事 し た 。 その間のこ
の質疑を受けた。 発表 原 稿 は 、 アジア協会機関誌
とは本稿 と 関 係 な い の で 省 略 す る が 、 La
FRANK,
口 べ 一 ル J.-N.
Vaticana
へ の 入 り 方 は か な り 難 し い 、 と言う伝説があるので、
Journal Asiatique に 寄 稿 の 予 定 で あ る 。
3.
今 後 の 参 考 ま で に 、 私の 体 驗 談 と 見 聞 と を 早 大 東 洋
-17-
哲 学 会 『
東洋の思想と宗教i 第七号に寄搞したこと
お知らせ
を記すに留める。
こうして、短い日数の中では欲張った日程ではあ
-
ったが、 年 末 無 事 に 帰 国 し た 次 第 で あ る 。 「
学術使
について
節 J として大過なく任務を果せたとするならば、そ
れは日仏会館と本学会をはじめ、 フランス側学者諸
本 ÎI 前 号 に « じ ま し た 通 り 、 1991年 秋 に フ ラ ン ス
氏 な ど 、 多 く の 方 々 の 御 後 援 の 賜 物 で あ る 。 この場
でM « が 予 定 される第6 回日仏学術シンポジウムに
を借りて、関係者各位に厚く御礼申し上げたい。
付 記 一 日 仏 会 館 の
Léon VANDERMEERSCH
第 6 回日仏シンポジウム
M して、 昨 年 12月 12日 の 日 仏 関 連 学 会 遑 絡 tt議 会 に
おいて中誚受付が行われました• 本会からは、 故》
レ
会長、 学 術 使 節 と し て フ ラ ン ス * 在 中 の «井 代 表 幹
オ ン • ヴ ァ ン デ ル メ ル シ ュ 教 授 (中 国 学 ) が 、 昨 秋
事に代わって、 羽田正幹事が出席し、 本会の活動状
から Directeur de r Ecole française d’BxtrCme ‘
Orient (棰 柬 学 院 院 長 ) に 就 任 さ れ た 。
ま た 、 同 じ く 秋 か ら Kristofer S C H 1PPBR クリス
況 (会 《 1 2 0 名 、 講 瀆 会 年 2 回 、 学 会 通 倍 年 2 回
を 報 告 す る と と も に 、 次 回 シ ン ポ ジ ウ ム に は 、 本会
からも参加する意向を伝えました0
ト フ ァ • シ ベ 一 ル 教 授 (中 国 学 、 特 に 道 教 研 究 ) が 、
本 会 で は 、 Louis B A Z I N 教 授 (パ リ 第 3 大 学 )の
バリの中国商等研究所所長に就任した。
呼びかけに応じ、 現在、 次のような部会が企画され
ています。
O W f フ
•眉 歐 (平 成 元 年 後 期 )
主 題 :中 央 ア ジ ア •東 南 ア ジ ア に お け る 緒 宗 教 の 発
デラ-»、 ルテ•リ矽
展と交涉
(フ ラ ン ス «東 学 院
轚 加予定者:
研究貝、 日 本 の 仏 教 •思 想 • 哲 学 )
中央アジア地域
武 内 紹 人
籌 牧 克 己 (京 » 大 学 〉、 浜 田 正 美 (法 政 大 学 )
( 京 » 教 疴 大 学 、 助 教 授 、 チ ベ ッ ト is学 )
吉 田
庄 垣 内 正 弘 (神 戸 市 外 大 〉、 高 田 時 !i ( 京 》 大
畫
学 〉、 吉 田 »
(神 戸 市 外 国 捃 大 学 、 助 教 授 、
イラン綹学〉
東南アジア地域
斉 藤 希 史
石 沢 良 眧 (上 智 大 学 )、 坪 并 替 明 (北 海 道 大 学 〉
(京 都 大 学 大 学 院
石 并 米 雄 (京 都 大 学 〉、 寺 田 勇 文 (上 智 大 学 )
中国文学〉
〇住
所
及
( 神 戸 市 外 大 〉、 杉 山 正 明 (京 都
女 子 大 〉、 中 谷 英 明 (神 戸 学 院 大 )
加 藤 栄 一 (東 京 大 学 )、 矢 沢 利 彦 (埼 玉 大 学 )
び
所
厲
の
変
川 並 宏 子 (ロ ン ド ン 太 )、 8 辺 文 夫 (奧 羽 大 学 〉
更
添付しております新名簿をご# 照下さい。
まだ計画として決して固定したわけではありませ
なお軎 多村* 子氏の住所が不明となっています。
んので、 # 加希望、 提案などお寄せ下されば幸いで
ご 存 じ の 方 は 高 田 時 !*幹 事 ま で 連 絡 下 さ い ま す よ う 。
す (本 会 に お け る 窓 口 に は 、 神 戸 学 院 大 学 中 谷 が 当
〇退
会
者
た っ て い ま す )》
岸本良彦、 松島英子、 三根谷徹の各氏。
O 言 卜 報
イ ン ド 文 学 専 攻 の 田 中 於 菟 弥 氏 は 、 昨 年 7 月 12 日逝
去された,
—
18
_
=日仏学者交換希望者募集
か、 次の便宜を供与する。
1 ) フォアイエなど研究室の利用。
2 ) シンポジウムなどの会場の斡旋。
日仏会館学術委員会
( 1 )
3 ) 参 加する主要な研究M 若干名を会館研究貝と
日 仏 会 館 の 会 員 で あ る 日 本 の 学 者 で 、 フラン
して委囑する。
ス の 大 学 そ の 他 で 謂 » 、 セ ミ ナ 一 な ど を 開 き 、 日本
の研究状況をフランスに伝えていただける方に、 東
* 申 し 込 み 用 紙 は 、 本 会 代 表 幹 事 ま で お 申 し «し
京 •バリ間往復航空券、 滞在費を支給する。
(2)
下さい。
業績の注目されているフランスの学者で、 日
仏会館、 大学などで講濱、 セミナーなどを開き今後
の日仏学術交淀推進に寄与していただける方に、 東
京 • バ リ 間 往 《航空券、 滞在費を支給する。
前年度総会についての追録
福并文》
( 1 ) 、 (2 ) の 場 合 と も 、 1990年 度 (1991年 3 月 31
日 )までに* 業を完了せねばなりません。
前回の総会内容については、 『
通 倍 』 第 10号の報告
* 上 記 に IW す る 申 し 込 み 希 望 者 は 、 本 会 代 表 幹 事 宛
で ほ ぼ 尽 き て い ま す が 、 しかし意外な珙解や不徹底
を そ の 後 知 り ま し た の で 、 ここでそれを補足してお
に 至 总 、 下 記 の 書 類 を 送 付 下 さ い •本 会 推 薦 委 貝 会
きたいと思います。 それは、 取務局が全部京都へ移
で檳討の上、 適当な方を日仏会館学術委員会に推薦
った、 と言う誤解。 亊 実 そ う で あ れ ば 、 私などには
致します。
なお、 各学会からの日仏会館に対する推薦締切は
4 月 28 日 と な っ て い ま す 。
有 り « い 話 な の で す が 、 日仏会館との関係や諸般の
事 情 か ら 、 直 ち に そ う は 出 来 ま い 、 との御意見が多
く、相 変 ら ず 亊 務 局 は 私 の 研 究 室 内 に あ り ま す 。
( 1 〉の 場 合 :a •滞 仏 希 望 者 の 略 歷 、 業 績 リ ス ト 。
役員の変更の主要点を判りやすく申しますと、先
b. 滞 仏 時 期 と 学 術 交 流 予 定 。
ず幹事が〔
abc順
• 敬 称 略 〕、 福 井 文 雅 、 浜 田 正 美 、
石 沢 良 昭 、加 藤 純 章 、前 田 繁 樹 、 御 牧 克 己 、 森安孝
( 2 > の 》 合 :a •招 待 希 望 者 の 役 職 、 》門 領 域 。
b •日 本 側 受 け 入 れ « 任 者 。
夫、 田 中文雄、 山 中 一 郎 (9 人 ) で あ っ た も の が 、
c •滞 日 時 期 と 学 術 交 流 予 定 。
福 井 文 雅 、 羽 田 正 、 浜 田 正 美 、石 沢 良 昭 、 加 藤 純 草 、
御 牧 克 己 、 中谷英明、 高 田時雄、八 木 徹 、 山中一郎
また上記とは別に、 フランス政府より日本に派遗
(10人 ) に変 っ た こ と で す 。 そして、 事 務 局 の 庶 務
される学術使節の人選については、 6 — 7 月頃に各
学 会 の 要 望 の 問 い 合 わ せ が あ る 予 定 で す 。 ご希望を
お持ちの方は予めご檎討下さい。
幹事に中谷英明、 高 田 時 雄 (
主 に 通 信 事 務 担 当 )、
会計幹事に羽田正が新た丨こ任じました。 そ し て 、 関
西 側 で は 興 勝 宏 会 員 が 総 括 し 、 事務の代表役に当り
ます。 そ こ で 、 同 氏 は 監 事 に も な り 、 従 来 の K 事の
-日仏共同研究募集
一人の池田温氏は新設の推薦委員会委員に転じたわ
けです。
日仏会館学術委員会
新 し い 顔 触 れ を 見 ま す と 、 関 西 方 面 に 全 部 、 事務
特 定 の 主 題 を 定 め て 日 仏 両 国 の 研 究 者 が « 力し、
局 は 移 っ て し ま っ た で は な い か 、 と思う会員もいる
一 貢 し た 研 究 事業を行う目的のために、 共同研究を
か も し れ ま せ ん が 、 しかし、 羽 田 正 、 浜 田 正 美 両 氏
助成する。
は 関 東 在 住 で す 。 両 氏のように、 関西を熟知してい
(1> 1991年 度 採 択 予 定 件 数 : 2 件 。
る 方 が 聞 東 に い る こ と が 、 どんなに本学会にとって
( 2 ) 助 成 金 (1 件 1 年 50 万 円 以 内 )を 支 給 す る ほ
は 得 難 い こ と な の か 、 先 の コ ロック開催までに東西
-19-
を結んで浜田正美氏が果された重要な役割を知って
繰り返し漭いたことですが、 改めて御留意下さい。
い る 事 務 局 長 の 私 は 、 この斩 役員の陣容に大いに期
f事 務 局 長 j は 日 仏 会 館 関 連 諸 学 会 に 共 通
の secrétaire général の 訳 名 な の で す が 、 その呼称
なお、
待するものです。
本 学 会 は 昭 和 58 年 (1983)夏 に 新 発 足 し ま し た
(詳 し く は 、
に つ い て 束 京 で の 役 員 会 で 疑 義 が 出 て 、 聞两での総
会を経て、 「
代 表 幹 事 1 に変りました。 他の閲违 学
『
通 信 J 第 一 号 を # 照 )。 当時再建に
会の例などを# 照にしました。
f学会の基礎が固ま
「日仏コ ロ ッ ク が 終 る ま で J とか言
関係した行き掛かりもあって、
るまで J とか、
事務局の実務の多くが聞西部会に移行するに際し
うことで福井は事務局長を務めて来たのですが、
r どなた か に 交 替 し て 載 き た い j
と役 W 会では繰り
て 忘 れ て な ら な い の は 、 それまでの、 いわば草削期
返 し 辞 任 を 申 し 出 て も 铋 め ら れ ず 、居残っているに
の 1}f務 局 を 支 え て 来 た 初 代 幹 中 の 弥 永 信 美 、 川崎ミ
過ぎま せ ん 。
チ コ の 両 氏 と 、 そ の 後 を引き継がれた前幹中の前田
事 務 局 長 の 仕 事 に は 、 学 会 爭 務 の 他 に 、 日仏会館
繁 樹 、 田 中 文 雄 両 会 貝 と の 功 tt です。 去 年 、 斩 名簿
や学術会議その他の学会からの連絡书 務の処理や、
を 全 会 貝 に お 届 け し ま し た が 、 そ れ は 、 ひとえに前
日仏閲連学会連絡会 へ の 出 席 、 お役所からの問い合
田繁榭幹书 の努力によって、 あのように美麗に、且
わ せ へ の 返 事 、 他 » 閬 と の 交 渉 の 仕 事 、 フランスへ
つ 安 価 に 出 来 た も の で し た (彼 は 、乏 し い 学 会 »の
の 事 務 連 絡 な ど が あ り ま す 。 川 勝 、 内田、 羽 田 、 梭
中 か ら 一 番 良 い 用 紙 を 探 そ う と 東 奔 西 走 し ま し た )。
の 諸 先 生 の 急 逝 も 、 国 際 電話でフランスの然るべき
その上、 彼 は 、 全 会 貝 の 名 * を フ ロ ッ ピ ー に 入 れ て 、
方々へ連絡致しました。 大体が速やかに対応しなけ
またしかも、 そ れ で 打 ち 出 し た 宛 名 ラ ベ ル の 一 回 分
れ ぱ な ら な い 場 合 が 多 く 、 問 題 に よ っ て は 、 会長や
も添えて、 次 の 幹 事 に 渡 し て く れ ま し た 。 次回から
然るべき役員や亊務届幹事に相談して即決しなけれ
の通信事務がこのフロッピ一一枚のお蔭で如何に容
ば な ら な い 場 合 も あ り 、 こ の 種 の 仕 事 が 意 外 に 多 く、
易 に な る か は 言 わ ず も が な で し ょ う 。 一 方 、 田中文
且つ重いのです。
雄 会 計 幹 事 は 学 会 の 会 計 の 基 礎 を 築 き 、 かなりの剩
余 金 を さ え 学 会 に 残 し て 去 っ て 行 き ま し た 。 また、
そこで、 去 年 三 月 の 雄 会 席 上 で 、 事務の役 割 分 担
山田利明会員は私の依頼をいつも快く引き受けては、
を決め、 学 会 亊 務 埽 の み で 果 し て い た 『
通 信 』編集
事 務 • 発 行 の 事 務 は 、 関西部会 の 方 々 が 肩 代 り し て
陰 に 陽 に 学 会 に 奉 仕 し て 下 さ い ま し た 。 このような
下 さ る こ と に 決 ま っ た わ け で し て 、 事務局長 と し て
方々、 その他、新旧役員の方々の献身的な御助力無
は 実 に 有 り 難 い こ と で 、 聞 西 部会の関係者の方々に
くしては、到 底 学 会 の 維 持 •運 営 は 覚 束 な か っ た で
しょう。 事 務 厣 長 と し ま し て は 、 侑越な が ら 会 員 の
は深く感謝申し上げます。
皆 様 に 代 わ っ て 、心 か ら な る 謝意を表させて戴きま
しかしながら、 福 井 が 編 集 に 無 責 任 に な っ た わ け
す。
ではな く 、 日仏東洋 学会あての省類や連絡文書は全
て事務局へ廻って来ますので、 それらを読んで、 会
貝に周知すべき事柄は記事として、 『
通 信 』編 集 委
貝 に 送 付 し て 、 遗 «の 無 い よ う に 気 は 配 っ て い る つ
もりです。 事 実 、 前 回 の 第 10号 に し て も 、 興瞎宏監
事 、 中谷英明幹事と 福井との間で密接に交渉はとり
ながら 完 成 さ せ た も の で す 。 但 し 、連 絡 の 来 る の が
遅 れ る 場 合 も 多 く 、 どんなに努力しても、 会員への
通 知 が 年 度 は ず れ に な る 場 合 が あ り ま す 。 そのよう
な連絡は毎年のことなので、既 に 『
通 信 J のなかで
-
2 0 -
一
.1990 * 1 • 7
記 一
編
集
後
K
ra光が戻り、 木 々 の 芽 も ふ く ら む こ ろ と な り ま し
た, 皆 » ご » » の こ と と 样 察 致 し ま す 。
この号は、 本 会 名 當 会 s と会 k の迫悼号となりま
した。
ご多用の中、 記 事 を お 寄 せ 下 さ っ た 多 く の 方 々 に
この « を 借 り て (¥ くお礼申し上げます。
前号アンケートにも多数の方々からお返事を頂き、
有 W うございました。 しかし残念ながら、 この号が
追 悼 号 と な り ま し た た め に 、 ご業 « 、 近 況 な ど }8 載
す る 余 白 が な く な っ て し ま い ま し た 。 ご回答下さっ
た方に は 申 し 訳 あ り ま せ ん が 、 次号に回させて頂き
ますので、 そ の 後 の 追 加 等 が あ り ま し た ら 、 どうか
再度お送り下さい。
次号にも記事をどしどしお寄せ下さいますよう。
パ ソ コ ン ま た は ワ 一 ブ ロ を お 持 ち の 方 は 、 下記の要
領で打ち出したものをお送り頂ければ幸いです》
NEC PC-98を ご 使 用の 壜 合 は 、 「一 太 郎 j により
以 下 の 設 定 で お * き下さい。
用 紙 サ イ ズ :A 4
1 ペ ー ジ 行 数 :4 1
下 端 マ 一 ジ ン :2 7
1行 文 字 数 :46
上 端 マ ー ジ ン :2 3
左 端 マ ー ジ ン :3 2
右 端 マ ー ジ ン :9 0
ワープロの場合は、 1 行 文 字 数 を 23 として下さい。
もち ろ ん 手 書 き 原 稿 で も 結 構 で す 。 ご S 力をお顧
いします。
(H . N . )
— 21—
日 仏 東 洋 学 会
1990 ( 平 成 2 > 年 3 月29日発行
編
集
肇
日
m
通信
第1 1 号
?羊 与 と a
発 行 者 福 并 文 藿
本 部 :〒1 0 1 東京» 千代田区神田駿河台2 - 3 日仏会銪 気付
発 行 所 〒 6 7 3 神戸市西区伊川谷神戸学院大学中谷英明研究室
U . 078 974 1551
印 刷 所 〒 5 3 0 大販市北区浪花町9-12-402六 稽 舎 (Td.06 3 7 1 1681)