般若心経を補強するPart2 人類の恒久平和について

般若心経 を
補強する part2
Ver.Ⅱの2
空不動
2016/11/ 4
更新
【序文】
般若心経の解読は既 にに前著 で示しま した。
そ こ で本著 では 、前著 を理解 した人が、さ らに 理解を深めるために 、般若 心経
を 補 強 す る 目 的 で 、「 般 若 心 経 を 補 強 す る Part2 」 を 著 し 、 そ の 中 で 重 要 事 項 を
追加しました。
そこでこの書では 、般若心経の本文にはおさまり切れな い、しかし般若心経に、
密に関連している著者の体験 をも含めて纏めました。
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【第一節】世界観の補足と、そこから導かれる行動の原理
【色・受想行識に関 するモデル】。
本 書 で は、長く 永遠 不滅の 存在として語ら れてき た「霊」又 は「霊体」と いう
概念を強く意識して 、「生命体 」という 概念を持ち込みま した。
そ し て 、 色 ・ 受 想 行 識 に 関 し て 、「 生 命 体 」 と 、 そ の 「 精 神 作 用 」 と を 対 応 さ
せて説きました。
と こ ろ で 、 さ ら に 「 生 命 体 」 と 「 肉 体 」 と の 関 係 を 詳 細 に 説 く に は 、「 霊 体 」
と「肉体」の間をつなぐ、「 魂魄」の概念を導入しなければ成りません。
以 下 に 、「 霊 体 」 と 「 魂 魄 」 に 戻 っ て 詳 細 を 説 明 し ま す が 、 こ れ は あ く ま で 、
この節の中だけの解釈と定義 として置きます。
般 若 心経 解読の 中では 「霊体 」の語句も「 魂魄」の語句 も敢 えて遣 って いま せ
ん。
【フラクタル変換装置としての魂魄】
と こ ろで 、本文 では 人間の 構造を空中の色 ・受想行 識と空外 の色・ 受想 行識と
分 類 し て 述 べ て き ま し た が 、「 霊 体 」 と 「 魂 魄 」 と の 分 類 は こ れ ま で の 分 類 と の
対 応 関 係 で も 示 す 事 が 出 来 ま す 。 即 ち 、「 霊 体 」 は 「 生 命 体 」 と し て の 色 ・ 受 想
行 識 の 両 方 を 含 み 、「 魂 魄 」 は 色 ・ 受 想 行 識 と 色 ・ 受 想 行 識 と を フ ラ ク タ ル 結 合
する機能をもつフラクタル変換装置であると言えるでしょう。
「 魂 魄」 とは、 宇宙 時代の 現代にふさわし い比喩で言うならば、これは宇 宙服
です 。 宇 宙服は通信 装置 や生命 維持 装置を備 えて いて、地球とは異なる宇宙 環境
での活動において必 ず必要となるモノです。
霊体が次元を越えて空の世界から「 現象」と「事象」の世界に降りてくるに は、
霊体 を 活 動する環境 にマ ッチン グするための 宇宙 服が必要 です 。つまり、こ こで
宇宙服とはフラクタル変換装置なのです。
用 途 の 異 な る 二 層 の 宇 宙 服 は 、「 天 上 界 用 」 と 「 地 上 界 用 」 の 二 層 で す 。 天 上
界用の宇宙服は「魂」ですが、地上界用の宇宙 服としては「魂と魄」の両方 です。
大 ま か に 言 っ て 、「 魂 魄 」 の 「 魂 」 の 部 位 は 色 と 受 想 行 識 が 天 上 界 で 活 動 す る
ための宇宙服であり 、「霊体」 の表面層 として生き続けま す。
死 後 「魄 」は受想 行識 から 切り離し、記憶 と共に、地上 界と 天上 界の境界 域に
残し ま す。 事象の 記憶 とし て頭脳にあるのは ごく一部で、すべては諸法の管 理の
もとに置かれます。
生 ま れ変 わり を含めて 、天上 界から再び地 上界 に係わる 必要 があ るときには、
いつでも使える状況 にしておきます。
「 魂 魄 」 と は 、「 生 命 活 動 の 場 」 に マ ッ チ ン グ す る た め に 、 色 と 受 想 行 識 の た
めの宇宙服として存在しているのです。
よ り 正 確には、 魂魄 はさ らに幾層にもなっ ていて、それ ぞれの働きが存在 し て
いると言えます。
般 若 心 経 の 中 で の 対 応 を 確 認 す れ ば 、「 魂 魄 」 は 色 と 受 想 行 識 の た め の 宇 宙 服
として、色と受想行識の表層 の一部分として、定義することが可能です。
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さ ら に 、 こ の 延 長 の 流 れ で 説 明 す れ ば 、「 色 と 受 想 行 識 」 は 一 番 表 面 の 最 終 の
「宇 宙 服」 と言えま すが 、そう 言うよりは法 から創り上げた「 宇宙 船」にた とえ
る の が 適 切 と 思 い ま す 。 人 は 死 に よ っ て 、 宇 宙 船 の 設 計 図 ( DNA) の み を 子 孫 に
残し、宇宙服を一枚脱いで、 天上に帰ります。
【安心して死を迎えるために 】
誰 に とっ ても死 は未体 験なの で、心配や不 安が付きまと うモノです 。そこ で、
死後 の 世 界の話や 、臨死 体験 の話を幾ら聴い ても 、中々安 心までは行 かな いモ ノ
です 。 し かし、五蘊 皆空 です から、そして観 音様 は愛です から 、死後 の心配 は全
くしなくても良いのです。
死 と は 、《 宇 宙 の 理 念 》 に 沿 っ て 、 超 巨 大 な 力 に よ っ て 、 住 む 世 界 の 次 元 の 転
換が 成 さ れるので す から、観音 様に、心底か ら身を委ねて しまいまし ょう。 死と
いう 次 元の 転換には 幾 つか のプ ロセス を経過 しま すが、今からそれを 知る必 要は
無く 、 観 音様に抱 かれ て、幾 つかのプロセス を成されるがままに、成 され てい く
のです。
さ て ここ で重要 な意味 を持 つのは「現象」 では なく「事象」 であ ることに注 意
しましょう。
そ こ に見 える モノ が三途の 川であっても、 お花畑であっ ても 、大きな光の 輝き
で あ っ て も ・ ・ ・ 、 そ れ は 「 現 象 」 で あ り 、「 現 象 」 は 各 自 の 体 験 し た 「 事 象 」
の意味の表現ですから、次元移 行としての意味合いは共通 なのです。ここでは「事
象」こ そが重要 で、「現象」は「事象」の一部を象徴 的に表現しているのであり、
表現は複数有っても 、「事象」 の意味合 いは同じなのです。
つ ま り 移 行 先 の 世 界 は 、 経 過 の 「 現 象 」 に で は な く 、「 事 象 」 に こ そ 主 た る 意
味があるのです。
死 後 、誰 もが直 ちに 「空」 に戻れるわけで はあ りませんが、 般若 波羅密多に帰
依す る 意 志を持って さえ いれば 、次元の移行 はフ ラクタル共鳴 の中で 成され るこ
とに な り ます。つま り 、死とは 、時空を超越 して生き続ける「 生命 体」にと って
は、永遠の旅の途中 の一つの 出来事にしか過ぎないと思えてくるのです。
般若心経から読み 解けることは以下 の通りです。
地 上 の生活 の中 で、 日頃から 常に観音様に 帰依の意志を示していれば、観 音様
が、必ず「空」の世界まで導 いて下さるのだ、と言う解釈が生まれてきます。
ど こ まで も五蘊 皆空 なの です。だから安心 なの です。つまり 、五蘊 皆空を 体 得
すればこの世界に生 きるままで、安心 立命を得られるのです。
こ れ は般若 心経 だか ら観音 様なのであって 、それは あなたがこれまで信仰 し て
き た 神 で あ っ て も 、 そ れ か ら あ な た が 親 し み を 持 っ て い る 、「 空 」 を 体 得 し た 過
去の 聖 人であ っても 、 それ は良いのです。何 とか の神でな ければ救われない、な
どということは絶対 にありません。
要 は 、今 はど うあ れ、自らの 意志で、般若 波羅密多の中に入 ろう とする意 思こ
そが重要なのです。 常に、意思は尊重 されるからです。
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【空を共有してこそ 、生命活動は成就 する】
さ て 色とは 、空 の全要 素をも って 空から分 かれ た「霊体 」であり、 受想 行識は
肉体 の 受 想行識とを 、 フラ クタ ル結合するた めの、フラク タル 変換 装置であ り、
霊体の精神作用なのでした。
空 を 共 有し、空 の全要 素を 持つ色・受想行 識が、フラク タル 変換 装置を使 っ て
フラクタル結合し、 色・受想行識と次元を繋ぎます。
し か し、 人類とし て 別れた 沢山の色・受想 行識は、当初 それぞれが 、個の 論 理
のみ に 傾 倒し、互 いに 矛盾した 事象を生み出 して しまいます。 或いは 一人の 人 間
としても、自己矛盾 した事象 を沢山生み出してしまいます。
、そ こ で、 いっ とき肉体 にと どまっている内 に、それらの矛盾 を解消 する こと が
一つの課題となり、 個々の人間の修行 となるのです。
つ ま り、 空の世界 を 思い出 しながら、空の 世界と同じよ うに 、一体 にな って協
力し 合 い、 フラ クタ ル共鳴を 深めつつ、進歩 と調和に満ちた世界を創 って いく の
が人間に与えられた 課題であり、修行 なのです。
ですから、同じ物質的環境で 有りながら、一瞬でそ れに係わる人の数だけの『事
象』 が 生まれ 、それ らの 『事象 』がフラクタ ル共鳴に向かうための道 があ り、そ
の道 に は様々 な種類 が 有り。 それらが互いに 影響し合って 多層化し、 似た様 な フ
ラク タ ル共鳴 が集団 を 作り、 離合集散しなが ら、生きてい るのが人類 の生命 活動
なのです。
そしてこれが五蘊 皆空であり、全肯 定された世界であ ると言うことになります。
【 五 蘊 皆 空 か ら 導 か れ る 「 自 然 の 論 理 」。 そ の キ ー ワ ー ド は 「 誠 実 さ 」 で あ る 】
こ の よう な多重 で多層 のフ ラクタル共鳴が 善悪を超越した全肯定の 世界な ので
すが 、 現 実には人間 的尺 度で 、その部分だけ を取り出して 、拡大してみれば相 対
化した善と悪の世界 が発生しているように見えるのです。
で す から ・・・ 、これ は大事 なことなので すが、全肯定 といっても 、その 出 来
事を そ のま ま良しと して 、肯定 することでは ありませ ん。全肯定とは 、今そ のと
きに 、 そ れがそこ に有 るこ とを、必然と見て いるこ となの です 。その 上で《 宇 宙
の理 念 》に 立ち、 批判 する べき はきっ ちりと 批判し、拒否 すべきは明確に拒 否し
なけ れ ば、 人間の 深化 を遅らせ るこ とになり ます。遅らせ るだけでな く、大 混乱
を招くことになりかねません 。
あ る 種の 複合され た 出来 事は、深化の進ん だ事象と、遅れた 事象が 共存し てい
るた め に、 人間 的尺 度から みて、神と悪魔が 対立するようにも 見えています。そ
して 、 悪 魔と見える エネ ルギー が、人一人の 人生を翻弄させるだけの 力は持 っ て
いるのです。
で す から 、全肯 定の 世界であ って も、実質 的には善と悪は十分な意味を持 っ て
いるといえるのです 。
こ こ で、 人間 的尺 度から は、般若波羅密多 の瞑想と行により 、フラクタル共 鳴
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状態 が 深まる につれ て 、その 場の事象の世界 では、善の努力によって 、悪が 昇 華
され、次第に消滅していくように、実感されて行くのです。
た と え、 善と悪 の対立 とま で言わなくても 、修行中のあ なたが係わるその事 象
に積極的に介在することが「 誠実さ」なのです。
も し 、その 時機 が来 てい なけ れば、直接介 在しない で、ただ 祈って 、フラ クタ
ル共鳴のエネルギーを伝え続 け、その 時機を待つことが「誠実さ」なのです。
何 ら か の 事 態 に 直 面 し た 時 に 、《 宇 宙 の 理 念 》 に 基 を 置 く フ ラ ク タ ル 共 鳴 の 立
場か ら 、目 の前の 事態 に係わる こと により、 事態は改善されていくのです。 フ ラ
クタ ル 共 鳴の立場 に立 てば、 この場面で自分 が動くべき否かは 、判断 でき るよ う
になるのです。それは、自然 に成され なければ成りません。
五蘊皆空ですから 、自分がその場面に居合わせたことに、必然性があ るのです。
です か ら、 もし係 わる べき場面 で、自ら係わ ること を拒否 し、 その まま放置 し た
とし た ら、 それ は五蘊 皆空のい う、全肯定で はあり ません 。大 きな失態と言 え る
でし ょ う。 何もし なけ れば、 それは怠惰であ り、いくら全肯定 した つもりでも、
それはたちまち不誠実となり 、事態は好転せず、混乱に向かいます。
何 も しな いこと で自分 を守 ろうとしたのだ とし たら、それはもう、 怠惰の 極み
で、それがもし、重大局面であるならば、それは犯罪に匹敵しま す。
こ の よう な、何 もし ない生悟 りは大いなる 害毒なのです。厳 しく すべきとこ ろ
で優 し さし かでき な い人も生悟 りです。この ような、生悟 りに 成らないための キ
ーワードはやはり「 誠実さ」 です。
肉 の 身の 人間とし ては 、その こと に誠実に 係わり、肯定 するときは 肯定し て、
同意を示し、否定するべきはきっぱり否定しなければ成りません。
こ の 時、 人は《 宇宙 の理念 》に立って、こ の場面での「誠実 さ」とは何か を判
断し な けれ ば成りま せん 。そし てそ の「誠実 さ」を貫くた めに 、あるときは戦う
こと を 選 択し、自己 を 犠牲にし ても 、全体の 利益を守る行動が 求められている の
です。
指導者は、このような究極 の場面での判断が常に求めら れているのです。
そ れ 故に 、指導 者は 「想念 切り離し」の「 行」を成就し、諸々の呪縛から 解 放
されていなければなりません 。
《 宇 宙の 理念》 に到達 する ほどの徹底した 般若 波羅密多への 帰依と 、ここ に示
した 真 の世界 観から 導 かれ る「誠実さ」を求 めら れているの です。このフラク タ
ル共鳴の中での無作為の誠実 な行為を「自然の論理」とい います。
「自然の論理」が 出たところで、纏めておきましょう。
普 遍 の世界 観に 到達 すれ ば、そこから直接 導かれる ように普遍の「 理念」 が生
まれ ま す。 それ は不文 律であ っても良いと思 いま す。その 「理念」の 下に、 世 界
観に相応しい、「行動方針」ができあがってきます。それ が「自然の論理」です。
この「自然 の論理」はこの普遍の世界 観と密接な関係があり、必然であるのです。
現 実 を指導 者とし て 生きる には、自ら「想 念切 り離し」の「 行」を 成就し 、想
念の 呪 縛から 解放 され 、この 「自然の論理」 を体得してい ることが必要にな りま
す。
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【天上界では、地上界での、 現象と事象の関係が逆転して いる】
こ こ で先 ず、誰 もが 当然と 思うことの確認 です が・・・、地上界では、一 つ の
事象 に 係わる 人から 見 て、現象 の世界はすべ て共通であり 、その現象 に係わ る事
象の 世 界はそ の人間 の 数だけ あります。まあ 、これは、言われるまでもなく 、し
ごく当たり前のことです。
こ こ では 、係わる 人間 の思考 によって、断 片的 な事象の世界 を、際限なく 生 産
していくことになります。
当 然 、この 事象 はエ ネルギ ー を持っていま すから、現象 に影響を与 えて いき ま
す。 現 象の 根元には 、 量子 論的に取り得る状 態の確率によ って 決定する部分 が あ
り、 事 象はこ の量子 状態 の確率 に作用して、 その後の現象 の推移に、 影響を 与え
続けます。
先 に 述べた ように 、 私達の 住む地上界は、 先ずは現象が有って、その現象 に係
わる 事 象が 沢山 存在する 世界 のように見えま す。ここでは事象 とは現象にま つわ
りつく雲みたいな存在と見えています。
と こ ろが 、天上 界では 、先 ず「心の姿勢」 が有って、そこから事象 が発生 し、
その 事 象を 具現 化する ための 現象が沢山有る のです 。つま り、 似たような事 象を
生み 出 す思考 が、 塊とな って 、言い換えれば 、似たような人達 が集まって、 一つ
の事 象 を形成 し、 それ を形に 表現する現象が 沢山 生成され ているとい う、地 上界
の現象と事象との関係の逆の 関係とな ります。
そ し て、 この地上 界 の体験 は天上界での現 象を生成する のに 大いに 貢献す るこ
とになります。これはまさに 、パラレルワールドなのです。
【色の新旧モデル】
色 は 単 数形で、 或いは 固有 名詞として表記 され ていて、その 事は一 つ二つ と数
えら れ る存在 では なく 、空の 全要素を含んで いて、固有の密度分布を 持って いる
存在 で ある ことを 示して いるの でした。この 真実から、人類は 空において、 一つ
であることが導かれます。つまり、空こそ愛の源泉であると言えます。
この真実は、世界 の恒久平和を考えるときに重要な真実となります。
さ ら に、 この真実 は 、色と 守護の神霊とを 、線を引いた ように切り 離して 考え
ることは出来ないことを意味 しています。
さ て 、キリ スト 教では 、父 と子と精霊との 関係を、三位 一体 とし て説いて いる
ことは注目すべき事 です。
こ れ は、 空と色 ・受想 行識 と観音様との一 体なるこ とを示すことに 限って 、見
事な表現として評価 すべきです。
と こ ろで 、キリ スト 教では イエスのみが「 神の子」とし て説 かれ ています。し
かし な が ら、コン スタ ンチヌ ス帝の時代にキ リスト教はロ ーマの国教 とな りま す
が 。 西 暦 325年 に 始 ま る ニ カ イ ア 会 議 で の 聖 書 編 纂 以 降 に 、 異 端 と し て 排 斥 さ れ
た キ リ ス ト 教 グ ノ ー シ ス 派 が 伝 承 し て き た ト マ ス の 福 音 書 に よ れ ば 、「 人 は イ エ
ス キ リ ス ト と 同 じ よ う に 、 神 の 子 と 成 れ る 」 と 説 か れ て い ま す 。 さ ら に 、「 自 分
自身 を 知るこ とによ っ て成れる 」と説かれて います。この 隠れた重大 な真実 を受
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け入 れ れば 、キリ スト 教にお ける世界観の大 枠が大修正され、 この時 、三位 一体
は、 ま さに 真実のも のと 成るの です 。そして 、この事で、キリスト教 は普遍 性を
取り戻すことになるのです。
便 宜 上、 前著( 暗号 は解読 された般若心経 ・改訂版)のモデルでは 色と受 想行
識と を 、それ ぞれ 守護 の神霊 と「自らの本体 」として分離 して 表現しましたが、
本書 の モデ ルでは 守護 の神霊 を色に含め、受 想行識 を色に係わる精神作用と して
表現しました。
こ の 本 書の分類 の方 が、色 ・受想行識は色 と受想行 識に対応 しつ つ、フラ クタ
ル結合する表現となり、より 適していると現時点では考えています。
で す から 、この モデ ルでは 、観音様が守護 の神霊の代表 として、色 ・受想 行識
に含まれていると解釈します 。
そ う であ れば、 この モデル に とって は、玄 奘三蔵 が追記 して 示した 度一 切苦 厄
によ り 、衆生 救済 の働 きと して の観音様の存 在が急に重要 になってくるので す。
そ し ても ちろん 、守護 の神霊 も観音様も本 質は人間と同じであり、 空の全 要素
を内に秘めた、色と 受想行識として扱うことが出来るのです。
【 色 ・ 受 想 行 識 が 色 ・受 想 行 識 と 深 い フ ラ ク タ ル 共 鳴 関 係 に あ る の が 、 人 間 の 理
想であること】
と こ ろで 、宗教 によ っては 、人間も神も、 区別が無く描かれていることが あり
ます。その場合、
神 は 、色 ・受想 行識 であ って、しかも同時 に色・受想行 識としての 肉の身 を持
って い る場合 があ り得 ます。 ギリシャ神話の 神々や、日本 の、 神道の 神々が 、そ
れに当たります。
色 ・ 受 想行識と 色・ 受想 行識が深いフラク タル共鳴状態にあれば、 それ を神と
見な す こと に、何 ら不合 理性 はありません。 それ は最も困難な 、肉の 身を持 っ た
まま、神に成られた 神であるからです。
色 ・ 受 想行識単独 では なく 、色・受想行識 と色・受想行 識が 、深いフラクタ ル
共鳴 状 態に 有るこ とこ そ、人間 の理想であり 、生命活 動のあるべき姿 なの です。
で す から 、宗教 の中 では、 肉の身を持った まま神に成られた 神こそ 、最も 深い
フラ ク タ ル共鳴 状態にあ る神 として、崇めら れるのです。そのような 神が、 天 上
界に 移 行した 後も 、衆生 救済 のために、地上 界に働きかけ る神 こそ、 人々の 信 仰
を集 め てい るのは 必然 なの です。観音様も、 その ような人間の 理想の 姿を完 成さ
せて、その後に天上界に移行 した神の姿として、描かれています。
【色が単数形というモデル】
と こ ろで 般若 心経にお いて 、色が単数形で 、或いは固有 名詞 とし て表現さ れて
いるという事実は実 に見事と 言わざるを得ません。
そ し てそ の結果 とし て、この 事実を形とし て、即ちモデ ルとして表現する こと
がき わ め て困難とな り 、既に 表現上の限界に 達してい ることを 示しています。そ
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れは 諸 行無 常の、 形有 る世界 から、空の世界 を想像して表現する限界 と言う こと
が出来ます。
紙 面 の関係 で観音 様 の働きに つい ては多く を語ることが出来 ませ んでしたが、
この点は他書に譲りたいと思 います。
こ こ で示 した「 モデ ル」とは 、決して固定 的に捉えるの ではなく、 人類が 手に
入れ た 科 学的論法 と手法 で、 多くの体験と研 究で、改良されていく性質を持 つ も
ので す 。著者 とし ては 、宇宙 と人間の詳細を 説明するには更なるモデルの改 良が
必要であると考えています。
【論理性はどこに所属するか 】
ここで般若心経を 構成している論理 性について補足しな ければ成りません。
こ こ で 私 が 誰 に 断 るこ と な く 、 頻繁 に遣 って いる 、「 論 理 」と か「 論理 性」 と
はそもそも一体何なのでしょうか。論理はどこに所属する のでしょうか。
般若心経では、この論理性を前提に、緻密な論理によって、議論が組み立て
ら れて い ま す。 もし 、 この 論理 が 非実 在で 、「無 」 に 帰 す る 存在 であ るな らば 、
ここで示している議論そのものが無効 になります。
そこでですが、ずばり、論理は空相に所属します。空相に所属するから、空
を形式化し、法則的に表現した存在として、論理性が意味を持つのです。これ
は「是諸法空相」に 矛盾しません。
つまり【基本三特質】の一つの表現として、絶対性と普遍性を確保するため
に、論理性を前提に議論を進めることに は宇宙的な意味があることになります。
【真・善・美という 情緒性は 基本三特質に属する】
《 宇 宙 の 理 念 》 を あ ま ね く 表 現 す る こ と は 「 真 」・「 善 」・「 美 」 を こ の 世 界 に
展開することです。そして進歩と調和のバランスの中に、情緒性も生まれてく
ることになります。
情緒性も論理性も【基本三特質】に基づいていますから、幹となる論理性に
よる骨格が有ってこそ、情緒性は安定 したフラクタル共鳴に至ります。
言 い 換 えれ ば 、【 基本 三 特質 】に基づ かない、 つまり普遍性 に基づかな い 思 考
や行為は、「愛」や「平和」に似ていても、それ は「愛」でも「平和」でもなく、
独善の中での独りよがりの屁理屈や、執着に過ぎないことになります。
【苦の原因とフラクタル共鳴 】
フラクタル共鳴のない世界、もちろんそれは錯覚ですが、初期仏教の世界は
孤立した錯覚の世界ですから、般若心経の当然の帰結として、人生の中の様々
な出来事の原因と結果を関係づけた十二縁起と、人生の中で遭遇する様々な苦
を分類解析した四諦を、正面から否定しました。これは何も、初期仏教の世界
観だけを言うのではなく、現代の唯物 論の世界観そのものでもあります。
それ故に、読者としては、ならば般若心経が説く「出来事の原因 結果」と「人
生に於ける苦の原因」について、それが一体何であるのか、如何なる意味を持
つのか、これらについて知りたいと思うのは当然でしょう。
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その事に関して、般若心経に直接的には記述されていないのですが、それを
読み解くことは十分可能です 。
初期仏教の世界が単独で孤立している状態ではフラクタル共鳴が自覚できな
い錯覚の状態ですが、初期仏教の世界が、空を取り入れ、フラクタル共鳴状況
に移行することが出来れば、即ち日々の生活が、般若波羅密多の瞑想と行の中
にあれば、この諸行無常の世界は直ちにフラクタル共鳴の状況に移行します。
ですから錯覚があっても、錯覚に気づきさえすれば、フラクタル共鳴状態に
戻ります。錯覚が無ければ、日常の様々な出来事は全てフラクタル構造の中で
の出来事と自覚できますから、そこに生まれてくる「苦」は必要な苦であり、
それはフラクタル共鳴の中での「苦」であると理解し、宇宙の中に全肯定でき
ることになります。
したがって般若波羅密多の瞑想と行の中に生きていくことが出来れば、そこ
では観音様の導きによって、深いフラクタル共鳴の中に住まわせていただくこ
とになります。その時、そこに現れる全ての出来事は、たとえそれが「苦」で
あったとしても、全ては観音様に全肯定していただいた出来事であり、必要が
あって与えられている「苦」であり、全肯定されている「苦」であるというこ
とになります。
つまり全肯定されていると言う事は、それを感謝で受け取るべき事であると
いう意味になります 。
五蘊皆空ですから、苦を体験すれば、結果として人間としての重みは増しま
すから、無駄は無いと言えます。それが錯覚による「苦」であったとしても、
全体としては最も安定したフラクタル共鳴の状態を継続しながら、錯覚の状態
から、錯覚が覚めた時に自覚できる絶対調和の世界へと向かう過程の出来事で
あり、そのための力を生み出すために、フィードバックが作動している状態で
あると理解することが出来ます。
【フィードバックを 理解する 】
フィードバックという、語句のもつ概念は重要ですので、多少詳しく説明し
ましょう。フィードバックには正と負があります。生じた変化をさらに強める
のが正のフィードバック、生じた変化を抑えるのが負のフィードバックです。
ここで取り上げるのは負のフィードバックであり、これを一般に、負を付け
づに、単にフィードバックと言います。つまり、生じた誤差を捉えて、それを
最小にすることでシステムを 安定化させるという主旨での フィードバックです。
フィードバックとは如何なるシステムに対してであっても、それを安定的に
作動させるための仕組みを意味します。ここで、システムとは「系」と訳され
ますが、一つの目的を持った機構を言います。広い意味では、人間も間違いな
くシステムの一種と 言えるのです。
そこで、人間という高度なシステムに関してであっても、フィードバックは
人生を安心の中で過 ごし、円滑に人生 の目的を達成するために存在します。
修行の上で、そして人生を生き抜くうえで、これはとても便利な概念ですの
で、その性質と共に 是非理解を深めて おいてくだ さい。
このように、フィードバックが一般のシステムだけではなく、人間というシ
ステムに関しても、 同じように議論できると言うことも重要です。
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さて、技術用語としての一般化されたフィー ドバックの意味は実に明確です。
システムとはある目的に向かって推進しますが、そこではフィードバックとい
う修正機構を作動させることで、システムを安定化させます。ですから、シス
テムには推進力と修正制御という対になる二つの方向の作用が必要であると言
えるのです。
そこで、フィードバックを正常に作用させるためには、先ずもって「真値」
を知る必要があります。
つまりフィードバックとは、現状を「真値」と比較することで、システムの
間違いを正しく検出し、その誤差検出によって、システムの動作を修正する仕
組みであると言えます。
もしこの前提が崩れて、基準となる「真値」が正しく検出できずに、不正確
な検出誤差が発生してしまうと、間違ったフィードバックに成って、システム
はさらに間違った動作をしてしまい、却ってシステムを不安定にしてしまいま
す。つまり、誤差を増加させる正のフィードバックに成ってしまうということ
です。
この事を知って、 次に述べることはとても重要なことになります。
【自分に都合の良い 「ニセ真値」を探し出してはいけない】
真剣に「真値」を探し求めて生きている人も居ます。しかし、ただただ、自
分に都合の良い「真値」を創り上げようとしている人も居ます。これでは初め
からフィードバックが成功しないのは明らかです。
さらに、たとえ正しく誤差検出しようと努力しても、現実には検出誤差をゼ
ロにすることは出来ません。そのことから原理的に、肉の身が係わるフィード
バックというモノは 誤差ゼロにはならないのです。
ですから、現実問題としては、検出誤差が必ず入り込むモノと理解しなけれ
ば成りません。
そこでですが、このような認識に立つと、大きな検出誤差を持ったまま、強
いフィードバックを行うと、その検出誤差が拡大されて、システムは却って歪
みだしてしまうのです。
結論を言えば、フィードバックには誤差をゼロには出来ないが、最小にする
事は出来て、そのための適切な量というものが有ります。この適量に足りなく
ても、それを越えても、システムは不安定になり、歪んでしまうという、この
避けられない現実を 是非覚えていて下さい。
この事の具体的意味を述べましょう。最初の例として、反省というフィード
バックの作用を考えてみます 。もし反省をしないので あれば、もと もと人生 を、
まともに歩むことが 出来なくなります。これは常識で理解 出来ます。
しかしだからといって「真値」を正しく捉えられないまま、間違った誤差検
出を続けると、その反省はフィードバックには成らずに、却ってシステムをゆ
がめてしまいます。つまり、正のフィードバックとなって、人生を狂わせてし
まいます。或いは、間違った誤差検出で、人に強い反省を求めてしまうと、却
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ってその人間というシステムを狂わせてしまうことになります。心すべき事で
す。
【誤差をゼロにはできないことの現実 的意味】
地上界を生きる人間の最高 の境地は涅槃であると説かれ ています。
涅槃に至れば、一切間違いを犯さなくなる人間になるのでしょうか。否、そ
れは違うのです。真値に対するシステム誤差をゼロにはできないことを思い出
してください。
ですから、涅槃とは小さな誤差で、人間というシステムをすぐに修正できる
ようになることを言います。簡単に間違いを認め、すぐに修正できる人間にな
ることを言います。
もし、間違いを犯さない人間に成ることだと誤解してしまうと、強引な人間
になり、決して自らの過ちを認めない、自己正当化に終始する、傲慢極まりな
い人間になってしまいます。 つまりそれは、涅槃とは正反 対の境地です。
このように、修行とは落とし穴だらけであることを、何度も何度も肝に銘じ
て、慎重に歩まなければならないのです。
著者は、この危険な落とし穴の存在を厳密に説くために、どうしてもフィー
ドバック理論で説明 したかった訳です 。
ところで、「真値」への理解度は人それぞれです。日々の修行の中で、「真値」
を求め続けて、かなりその方向をつかめている人もいます。しかし、日々の修
行を 怠 り 、「真 値」 への理 解 度 が低く、 大きく「 真値」から、かけ離れてい る 人
たちもいます。ですから、人様々で、その人の「真値」の理解度に応じた、適
切なフィードバックを求めなければならないということに なりま す。
【「 真値」とは世界観の中での、事象の正しい位置づけ】
話 を 戻 して ・ ・・ 、で す から 、「真値 」をまっ た く無視 した、単なる 否定 や 、
否定のための否定はフィードバックではありません。これはとても重要な認識
です。
ここで、人生に於ける「真値」とは、今生じている事象の正しい位置づけと
いう意味になります 。
実際問題としては、人間は誰も、完全に正しい「真値」を容易に知ることは
出来ないが、それに可能な限り近づく努力は出来ますから。そして、誰も最初
から「真値」は知らないわけですから、適切なフィードバックを何度も体験し
ていく中で、体験的に「真値」に近づいていくことになります。それが人生の
修行と言えるでしょう。素直 さが有ればそれは出来るのです。
つまり、人生において「正しい苦」を捉えるには、常に「真値」を知ろうと
する姿勢が必要であるといえるのです。
現実には、その「真値」を捉えるまでになるのが、とても困難であり、その
ための徹底した修行が必要になります。しかしながら、ごく一部の人達を除い
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て、多くの人たちは、自分に都合のよいモノを「真値」として大切に育ててい
るモノです。これでは人間というシステムは最初から正しいフィードバックが
成立しないのです。つまり、多くの人たちは、迷いの世界に居ることになるの
です。
【意識の多層構造により、その意識階層に適した「真値」が複数 存在する】
実際には受想行識も受想行識も、複数の意識構造になっていて。さらに、受
想行識と受想行識が重なって、複雑な意識の多層構造のシステムになっていま
すから、最も高度な受想行識での「真値」の下に、より具体的な複数の「真値」
というものが多層的 に存在しています。
ここに示した普遍的な世界観を体得することは「真値」を知るための基本の
知識となります。
一つ例を挙げましょう。
「 真値」として最も本質的には、五蘊は皆空 ですから、
出来事に対して全肯定されている観音 様の意識システムが存在しています。
しかし観音様ではない、この現実を生きる人間には、それをそのまま全肯定
は出来なかったとしても、それは過程として許されています。そのギャップを
感じ取って、その事に「 正しい苦の自覚」が有れば、許されます。このように、
位置づけが出来さえすれば、 五蘊皆空 の中で肯定され、許されるのです。
それは日々の修行 の中で、自らの思考と行為 を宇宙の中で正しく位置付けし、
全ての意識階層において、可能な限り全肯定出来るように、つまり感謝で受け
取れるように、努力 して生きていくことが人生そのものです。
そこでもし、その全肯定すべき事象を、被害者意識で受け止めてしまうと、
それは貴重な体験を全否定したことになり、これは真逆の位置づけをした受け
取り方となり、宇宙システムによる強い調整作用となって、運命を強烈に調整
しようとして、強い力が作用します。そしてこのことは、現実を生きる人間に
とって、大きな「苦 」の体験 となっていきます。
さ てこ こ に 、「宇宙 シス テム 」という 語句が登 場 しまし た。フィー ドバッ クと
は人間側から見た時間軸上での解釈なのですが、時間軸を超越した空中の世界
に立つ視点を強調する場合には、宇宙システムと表現します。そこでですが、
フラクタル共鳴状態の中で空中から見れば、つまり、肉の身を持つ人間の視点
ではなく、全肯定された観音様の視点で見れば、最も本質的な解釈となります
から、宇宙システムの作用には、検出誤差がありません。ですから、時間軸を
前提としたフィードバックの定義には該当しないので、ここでは、宇宙の調整
作用とのみ記述しておきます 。
【善悪の世界での、 反共鳴というとらえ方】
ところで、五蘊皆空ですから、観音様の視点からは、未熟な世界も含まれて
いて、それでも肯定されているのですが、人間的な視点から見れば、それは明
らかに「苦」が増加することを意味し、容易に肯定は出来ません。これを人間
は「悪」と呼ぶことさえあります。
ここで、敢えて善と悪の世界の言葉で言い換えれば、このような「苦」を増
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加させるような状況は、フラクタル反共鳴と呼びます。これは人間の視点から
は、「 悪 」 とし て、 否定せ ざ るを 得ない と いう現 実 があり ます。そしてそ れで 良
い ので す 。 つま り、「悪」 と見 えるモノ がそこ に 有ること を必然と受け 取り 、 そ
れに誠実に対処することが、 五蘊皆空 の意味となります。
深化の遅れた側と、深化の進んだ側が共存することは中々難しいのです。そ
こに立場の確立がないために、軋轢が発生すると、たちまち善と悪の対立が発
生します。
当然ですが、深化の遅れた側に立場の確立がないと、それが悪となります。
しかし、その善の側も、さらに深化の進んだ側から見れば、立場の確立がな
いと、悪に成ることもあるので、深化の差を意識して、深化の進んだ側に対し
ては、立場の確立をしてから、慎重に丁寧に接しなければならないのです。
有り体に言えば、深化の 進んだ人や組織に接するときには、慎重に 接しないと、
自らが悪に成ってしまうと言うことです。そして、そこに文化の多層化が必然
である理由があるのです。
このような立場の 異なる軋轢は本質 的な問題で、深刻な課題となり得ますが、
これ以外にも、同種の深化の層での摩擦は、人々の知恵と思いやりや譲り合い
で、最小化できるものです。
【一方、「苦」は深化の遅れを示すモノではない 】
さ て こ こ で 、「 苦 」 の 量 で も っ て 、「 真 値 」 か ら の 離 脱 量 を 判 断 す る こ と は 出
来ません。意識は多層構造であるために、前世から引き継ぐ自分一人の苦だけ
でなく、家族の苦、集団としての苦、縁者としての苦、民族としての苦、人類
としての苦を、一部一人の人が自分の天命とし て受け持つ場合もあるからです。
大なり小なり、自分以外の苦をも一部持って、それを体験として昇華する役目
を持って生まれてきます。
つまり、色という肉体は、受想行識に蓄積した様々な矛盾を昇華する働きを
持っています。それを著者はベクトル昇華と呼んでいます。
もちろんそこには 、観音様の導きが秘められている のです。そこ が重要で す。
第一にこれは五蘊皆空なのであり、それはつまり観音様の導きなのであり、決
して因縁だけで解釈 してはならないとする、重要な視点なのです。
そのような自分以外の苦は、それを体験として人間の現実を理解し、体験と
してベクトル昇華しながら修行を重ね、やがて覚醒し、人々の指導的立場に立
つ場合もあります。
ですから、普通の人には耐えられないような、大きな「苦」を抱えている人
に対しては、
「お役目ご苦労様」という気持ちで、丁寧に接することが必要です。
こ のよ う に 、 意識 構造 が多層 構造 の シス テムで ある ために、「苦」の 種類 と し
ても様々です。さらに視点を変えれば、色・受想行識に由来する苦と、色・受
想行識に由来する苦と、大きく二種類が有り、さらにこの二つの中間として、
複数の種類の「苦」 があるということになります。
そこで日頃から、運命の一切を般若波羅密多の中で頂き直し、色・受想行識
の立 場 に 立 つこ とを強く 求めて いく と 、「正しい 苦」の自覚を持つことが 可 能 と
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なります。この、色・受想行識に由来する「正しい苦」を自覚することが、正
しいフィードバックとなります。
一方、色・受想行識に由来する苦しみは、これは錯覚であり、これは間違っ
た苦であり、必要ないモノであり、被害者意識がその最たるモノです。
この「錯覚の苦」を「正しい苦」に変換していくことが、修行であり、それ
によって全肯定の道へと移行することが、人生の中での大部分の修行となるの
です。
「 錯覚の苦」そのものを「苦」であると理解できれば、その自覚の瞬間から、
それは「正しい苦」となります。この「正しい苦」を自覚できて、般若波羅密
多の瞑想と行を深めることが出来るにつれて、フィードバックが適切に作動す
るまでになり、苦を持ったままで、観音様の導きで空へと帰還できるまでにな
ります。
一方、必要の無い苦には幾つかの種類がありますが、中でも一番必要のない
「苦」は、想念の苦です。この「想念の苦」を錯覚と自覚できて、その錯覚を
「苦」と理解出来れば、直ちに「正しい苦」に変換されたことになり、この瞬
間からフィードバックが適切に作動し、最小限度の苦でもって、空への帰還の
道を歩むことが出来 ます。
「正しい苦」を検出できれば、フィードバックが適正に掛かり、最小限度の
「苦」でもって、般若波羅密多の中に飛び込むことが出来るようになります。
こ こ で 、「 想 念 の 苦 は 錯 覚 な の だ 」 と 気 づ け ば 、「 そ れ が 想 念 で あ る 」 と い う 位
置づけだけで、自分から切り離すことが出来るようになります。想念は自分で
は無いのです。これは前述の 「想念の切り離し」の「行」のことです。
その事が分かれば 、苦は激減し、一気に大きく成長しま す。
フィードバックが作用している状態は、そこに原因結果、即ち因縁因果があ
るように見えたり、フィードバックにより蓄積していた原因が消えて行くよう
に見えたりするのです。そしてこの状態の最も本質的な意味は、空へ帰還する
ためのプロセスなのだ、ということです。
こうして、いよいよ悟りへと導かれるのです。その具体的手法に関しては他
の著書に詳しく書くことにします。
振り返って、空から離れて、孤立してしまった世界の、初期仏教の十二縁起
や四諦では、それが 単独ではフラクタル共鳴の中にはなく、錯覚であり 、
「真値」
ではないが故に、人生に於ける正しいフィードバックとは成らないということ
になります。般若心経はそれを強調しています。つまり歪んで伝わった初期仏
教だけでは決して悟れないと言っているのです。だからこそ仏教再生が必要に
なるのです。
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【修行の両翼としての、般若波羅密多と、苦の正しい理解】
さて、ここまででフィードバックという概念を詳しく説明し、それが人生に
おいて、重要な修行であることを示しました。そして既に、般若波羅密多の概
念、つまりフラクタル共鳴の概念についても、般若心経全体を通して説いてき
ました。この二つの概念は人生の目的に円滑に達するために、そしてそのため
の修行において、「 修行の両翼」として 位置づけられます。
そこで、纏めれば 次のようになります。
人生を適切に前進させ、苦しみ少なく円滑に生きるために、一つの翼は推進
力としてのフラクタル共鳴であり、つまり般若波羅密多の瞑想であります。そ
してその対となる「修行の両翼」のもう一方が、システムを修正して、目的に
向かわせるためのフィードバックであり、それは「苦を正しく感じ取ること」
であると言うことになります。この二つは、どちらか一方だけでは円滑な人生
は歩めないことをも示しています。般若波羅密多と、正しい苦の自覚、この二
つが人生の全てと行 っても良 いでしょう。
【フラクタル共鳴の 深化のを 示す〔フラクタル深度〕】
自らが、般若波羅密多の瞑想と修行を極めることによって、フラクタル共鳴
の深化の度合いを評価することは可能です。私としては、様々な文化や国家や
政治体制、宗教、組織、そして個人に対して、この「フラクタル共鳴の深化」
の度合いを示す「フラクタル深度」がどれだけ進んでいるのかについて今後も
監視していきたいと 思っています。
この「フラクタル深度」が未来の人類にとって、進歩と調和の度合いを示す
有効な指標となるでしょう。
修行によって、フラクタル深度を直感的に感じ取る事も可能ですが、しかし
これは、客観的に幾つかの事実を選択し、解析し、分析することで、数値的に
評価できる性質のものであると思って います。
と ころ で 、「 深化 」です が、 これをも う少し分 かりやす く言えば、それは 「 神
聖さ」です。
独善には決してならない、普遍的な人類愛に裏付けられていて、しかも人格
を越えた、超越的な宇宙的神聖さの方向こそ、フラクタル共鳴の深化の方向な
のです。
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【第二節】五蘊皆空は徹底した現実肯定である
【現実を否定するために、理想を説くのは大きな間違い】
般 若 心経 が解読 され たこと で、人類史上最 も普遍的な世界観 が世に 出まし た。
こ れ が無 けれ ば、人類 の恒久 平和 は実現で きませ ん。この世界観が 有って こそ
の政治であり、そして、この世界観の下での、外交であり、現実対応策なので す。
さ て 、そこ でなの で すが、 ここに著者が説 いた般若心経を正 しく理解して いな
いと 、 あ なたは大 きな 間違いを 生じる可能性 があ ります。著者 とし ては、そ こを
誤解のないように、 明確に説 いておかなければ成らないのです。
さ て そこ でです が、 この書 を読む人達は、 多くの場合、知性的で、 純粋で 、高
い理 想 を求 める人達 です 。です から 、そのよ うなあな たがこの 世界 観を知れ ば、
あなたの現実への関 わり方は 一変する はずです。
こ れ まで 通り、 ただ 理想だけ を掲げていて は、現実を否定する生き 方とな って
しま い 、そこ から 脱出 でき ませ ん。般若心経 の真理は五蘊 皆空 であ ることを一 時
も忘 れ ては いけな い のです。 現実を如何にし て肯定するか を心 の中心 に置い て、
生きなければならないのです 。
し か も、 理想を 説くこ とは 本来は正しい世 界観 に基づか なければ 、 つま り、五
蘊皆空に従わなければ、できない筈なのです。
し か し、 もし この世界 観を 全く知らなかっ たり、或いは 般若心経を 正しく 理 解
して い な かった り すると、これ まで の現実へ の関わり方を自己正当化 する だけ の
思考 に 陥りま す。 そこ に落とし 穴があるので す。さらには、現実否定 が目的 で理
想を掲げたり、或いは結果的 に現実否定となってしまいます。
そ こ では 、誰も 否定 でき ない ような ことを 「我が理想」として並べて、そ れに
よっ て 「正義 は我 が方 にあ り」と主張してし まうよう なことになりか ねないの で
す。
理 想 を掲 げて、 現実 を否定 するのは、昔か らよく 有る自己正当化の 手法な ので
す。 そ して 同時に 、これ に同意 しない相手側 をも否定する ことの意味 も持っ てき
ま す 。「 同 意 し な い 場 合 、 そ れ に よ っ て 生 じ る 結 果 の 責 任 は す べ て 相 手 に あ る 」
との主張とよく似ています。
よ く 聴く 、戦争 反対 、核兵 器反対などとは 、これは もう、誰 にも否定でき ない
テー マ で あり、戦争 反対 の主張 に同意しない ことが真理に反する事のようにさ え
思わ さ れて しまい ま す。この ような当たり前 過ぎるほ ど当たり 前のことを主 張す
るこ と に よって、 主張 する側 に正義があると 思わせ、それ を主張しない側を 否 定
することで、強烈な 現実否定のエネルギーを生み出しているので す。
これは五蘊皆空に 反する勢力の常套 手段ですから気をつ けてください。
そ の 勢 力にと って、 この現実 否定 にさえ成 功すれば、その勢力にとっては、半
ば成功したといえるのです。
そこに対立の構図 を作ることに成功 したのです。つまり、国民と国家 を分断し、
そこ に 階 級闘争の 構図 がで きあ がった のです 。あとは お決まりのコースで、 国 民
がいかに国家や政府 の被害者 なのかの論理を組み立てていくこと になります。
本 当 に真理 を求 める 人は、 そのようなまや かし に、絶対 に心 を動かされては い
けないのです。
そ の 対 立構図から は 、何も 建設的なものは 生まれて きません 。このような、誰
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も否 定 で きない当 たり 前すぎ る看板を掲げて 、その裏側にフラクタル 反共 鳴と な
る危 険 な主張 を隠 して 、迂回 せずに、今すぐ 理想を直線的 に実現できないこと を
理由に、現実を徹底否定していることを見抜かなければな らないのです。
こ こ には 、私が 最も 嫌いな 被害者意識にま で、敢えて導くという卑怯な手 法が
とら れ て いるの で す。 つま り、五蘊皆空に最 も反する、被害者意識が 有効に 悪 用
されているのです。
それらの反共鳴の 勢力によって、あな たが、国家の被害者と思わさせるような、
バカ な 間 違いを絶対 に 犯すこ とがないように 、こうし て、例を 挙げて 、私は 説い
ているのです。
五 蘊 皆 空に反する 勢力 は、 現実否定による 国家と国民の分断 こそ、 隠れた 真の
目的 で ある ことを 早く 認識すべ きで す。あな たを国家の被害者 とし て納得さ せて
さえしまえば、あなたは既にその勢力 の手に落ちたことになるのです。
で す から 、その 誰もが 否定 できないような 主張の裏に隠れた 主張が 、どの よう
な理念に基づいた主張なのか 、それを見抜こうとしなければなりません。
さ て ここ で、悪魔 とは 、フラ クタ ル反共鳴 を擬人化した 表現 です。 そし て、そ
の悪魔は神のような 言葉で誘惑して、あなたに近づくことを忘れてはいけません。
悪魔は理想を掲げて 、神のように近づくのです。悪魔の語る、一番最初の 段階で、
被害 者 意 識をあ なた に植え付 け、対立構図を あなた が納得 して 受け入 れて しま う
と、 た ちま ち悪魔 の論理 に引 き込まれてしま い、蟻地獄のように、底 から出 ら れ
なくなります。
ですから、その意味でも、 被害者意識は最も危険な論理なのです。
戦 争 反対 に限らず 、 直線 的に目的を達する のは多くの場合不可能です。そ の目
的に 近 づ くために は、 ゴー ルを見定めたまま 一旦 後戻りし て、 大きな 山を迂 回し
なけ れ ば ならな い こともあります 。一旦立ち 止まって、船を建造して 、海路 を行
かな け れ ばなら な いこともあります 。頂上へ 到達するためには 、ここまでやっ と
登り つ めた 頂きを 一旦 降りて 、長い下り道を 歩まなけ ればならないこともあ りま
す。 東 へ行 くた めに、 いっ たん西へ歩み始め なけれ ばなら ないことも あります 。
般 若 波羅 密多とは 五蘊 皆空 を地上に降ろし て、現実肯定の上 に立って、個 と全
体を 対 立では なく 、調和 の中 に導き、人類の 恒久 平和を地上に 導こうとしてい る
のです。
多 く の人達 は理想 にあ こがれ ます。特に、 知性 的で善意 に生 きる人 はそ の傾 向
が強 い と思 いま す。しか し、 理想をそのまま 直線 的に実現 しようとするのは 大き
な力 と はな り得ず 、障害 だら けで、現実否定 だけ に終始して、 却ってフラクタ ル
反共鳴になってしまうことが 、殆どな のです。
そう成らないためには、先ず自分の足元を確実なモノにしなければ成りません。
それ は 自 分を知ると 言 うこ とで す。人類愛の 心を育て、真の世界観を 身につ ける
と言 う こと です。 その 世界 観に立って、自分 の立場を確立 すると言うことです。
般 若 心経 で説かれ た 世界 観によれば、世界 は五蘊皆空なのですから 、現実 は常
にフ ラ ク タル深化 を続 けて いま す。その深化 の過程を捉えて、 現実 肯定し、 さ ら
にそこから深化させていかなければなりません。
今を肯定できなければ、いつまでも肯定できません。今を幸せと感じなければ、
いつまでも幸せは感 じません。
幸せ が 未 来にあ ると思 わず に、今を肯定でき れば、深化の途中 であ っても、 幸せ
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を感 じ るこ とがで き るのです 。でも、肉の身 をも つ人間である 限り、 悲惨の どん
底に い て、 そこ で現実 肯定は 難しいでしょう 。それは そうなのです。 しか し、そ
の場 合 で も、悲惨 を嘆 くの では なく、一歩で も現実肯 定できる 方向に 、自ら を、
そし て 相 手があ るの であれ ば、相手も含めて 、進化させる 努力 が必要 なの です。
で す から 、今の 時代 に、潜在 的に求められ ているの は、誰かが考えた理想 で は
なく、新しい理想を 生み出すための世界観なのです。
般 若 心経 の世界 観はそ れに 応えるモノです 。いった い、これほど普遍的な 、し
かも 個 人崇 拝にな らな い世界 観を示した思想 体系は過去にあったでしょうか。無
かったのです。
善 意 の理想 主義者 や 、理想 を掲げて唱える 人は、真の世界観 が無いまま、 現 実
の矛 盾 を突 きつ つ、本人 の理想 を語りますか ら、多くの場合は 現実 否定とな りま
す。自分で良いことを主張していると思っているだけに、危険が伴うのです。
そ れ が「 とて も弱い 主張」 であるならば、 先に述べたフ ィードバックの原 理か
ら、 そ こに 守護の 神霊 の修正 指導も入って、 一つ外枠での システムで の弱い フィ
ード バ ッ クの作用 に変換 して 、フラクタルの 深化を深める ように修正 する こと も
あり ま す。 しか し、その 「主張 」が強くなっ てくると、その原理からフィード バ
ックには成らず、大変危険な 破壊作用を伴ってくるのです。
「 人 の 理 想 」 に 係 わ る こ と は 、 理 念 を 形 成 す る た め に 重 大 な こ と だ け に 、《 宇
宙の 理 念》 にも直接 係 わっ てき ますか ら、真 の世界観の無い、 この ような直 線的
な理 想 論の 主張は 、現実 否定 ばかりが強くて 、般若波 羅密多にはまったく共 鳴し
ないのです。そしてしばしば 、フラクタル反共鳴となるのです。
と こ ろで 、この よう な理想 主義者には二通 りの人が居ることをここに示し てお
く必 要 が あります ね。 あな たが当てはまるか どう か、あな た自身に聞 いて みる こ
とをお薦めします。
そ れ は、 第一のグ ルー プは 現実否定の勢力 の下で、それ が現実否定 であ るこ と
を自 覚 し て、現行 の秩序 破壊 を目的として、 フラ クタル反共鳴 に向かっている人
達です。
そ の よう な人達 がい る一方 で、第二のグル ープが存在していて、現実否定を多
少は 自 覚しつ つも 、そう するこ とが良いこと のつもり で、第一 のグ ループの人た
ちと 連 携をと ってい る 人達です 。この人達は 第一のグループの 予備 軍でも ある の
です が 、善意 のこ の人達 には 、それに気づく ことによって 、フラクタル共鳴 に至
るための特別の道が 用意されています。
そ の ため には、 この 理想 主義の背後に、隠 れて いるモノを、 見抜かなければ成
りま せ ん。 いい です か、この ような非現実的 な理想を正面 に掲 げる人達の背 後に
は、何度も言うように、現実を否定する勢力 が隠れて いる場合が多々有るのです。
或い は 、故意 に隠 され ている の です。そして しばしば、決して 放置は 出来な い、
危険な巨大勢力が隠 れている場合があ るのです。
そ の 隠され た意図 によ り、 第二グループの 人達による折角の 現実を 良くし よう
とす る た めの主張 は、 本人の 意に反して、フ ラクタ ル反共 鳴となってしまっ てい
るのです。自らの理念がどこ にあるの かを常に良く吟味 している必要があ ります。
も ち ろん 、第一 のグ ループ の ように、あな たがその隠れた勢力を知 った上 で、
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それ を 認めて 、その 上 でそ の勢力の主張に同 意し、それを あなたが掲 げて主 張す
るの な ら ば。そし て、 あな た自身がその勢力 と共に、現実 を否定し続 けて いる と
の自 覚 が あるので あ れば、それ なら 、それは 本当にあなたの意志なのですから、
あな た が戦争 反対 、核兵 器反対 と主張しても 、あなた自身 に矛盾はないことに な
ります。
【内観 し、自らの立ち位置を確認しよう】
本 当 に自分 がそ うな のかど う か、良く自問 自答し、内観 してみることをお 薦め
しま す 。自 らの行動 の 原点にあ る行動の理念 を確認し、それが 関わって居る 周 囲
の勢力の理念に合致 しているのか、それともまったく違うのかを内観しま しょう。
内観 の 結果、「私に 自己矛 盾は無い」とし、「これが自分の意志である 」との確 信
をも つ 人 達は、それ はそ れで 、一つの生きる 道なので あり。たとえそれがフ ラク
タル 反 共鳴 であ って も、五蘊 皆空なのですか ら、長い道のりを 通って 、いず れ、
その 事 象は 反対 側の立場 で、 自分に突きつけ られてく る時がきます。 つま り、自
ら自 分 の主張 が具現 化 した「 理想論による現 実否定 の世界 」を 直接 我がこ とと し
て成される「周囲からの否定 」を体験 することになります。
革 命 家は 秩序を 破壊 する とこ ろまで は出来 ても、新たな 政権運営は 出来な いと
言わ れ ます 。自らの 破壊 した 秩序以上のモノ を作れないとするなら、 結果と して
大き な 損 失だけ が残った 事にな り、これは重 大です。これ では 自ら茨 の道を 歩む
ことになるのは必定 です。そこで自らの 体験を熟成して、やっ と何かを 悟ります。
大き く 遠 回りし ます が、最終 的にはこの人達 も救われます。この宇宙 は五蘊 皆 空
として、全肯定されているからです。
こ の 宇 宙では、 基本 的に自分 の意思は尊重 され るのです。そしてその思い は実
現します。
し か しな がら、 著者 とし ては、あなたに第 一のグル ープのようなフラクタ ル反
共鳴の道を、歩んで 欲しくないからこそ、これを書いているので す。
私 が 救いた い人達 とは 、まず 最初に、それ と知らずに、そのような 勢力の 人 達
に騙 さ れて いる第二 グル ープの 人達です。し かも 、その誰もがその勢力に騙 さ れ
てい る 自 覚は全くな く 、自分 の本来の意志に 反して、結果 的にこのような現 実否
定の 勢 力の 味方をし てし まって 、その理想も どきだ けを主張している 人達が 、世
の中には沢山居るのです。
【ここにこそ、救われがある 】
私 が 救おう として い る、第二 グループの人 達とは、無自 覚の 内に、 自分の 意に
反し て 、自分 の足下 を 自ら崩 してしまってい る人達です。そのまま自分の意 思と
は異なる道に引き込 まれていくことは、これは大いなる悲劇だか らです。
そ し ても し、あな たが そうで あると気づい たなら、一時 も早 く、そこから逃れ
るべ き で す。ここ まで の理想 もどきは捨てて 、私と共に、本当 の世界観に基 づ い
た真の理想を求めるべきです 。
こ の よう な人たち をな くすた めに、そして 多くの人たち に、 真実の 道を示 す た
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めに 、 般 若波羅密 多に 共鳴する 理想を掲げつ つ、世界観から導 かれ る現実 対応 策
を説 く こと が、いま 最 も求めら れて いること であり、これ を般若心経 の世界 観か
ら導き出さなければならないのです。
ま だ まだ 、般若 心経 の世界 観を知る人は少 数ですが、これからは皆 さん が、こ
れを世界に向けて広 げていって欲しい と、著者である私は思って います。
多 く の人達 がこ の普遍 の真理 に触れること で、フラクタル共鳴が発生し、 そ れ
が拡 大 し、 やが て人類 を包み 込み、人類に大 きな影響を与え続 け、次第に世 界の
恒久平和に向けての 具体的な 動きが始まっていくことになります。
【民主主義は絶対の 真理か。 歴史的に二つの立場がある】
多くの人達が信じる現代の真理、それはデカルト以来、西欧の封建主義の時
代には個が搾取されたという歴史観により、その反省に立ち、個の抑圧の体験
が生み出した、個の自由を追求する個人主義が生まれました。そしてやがて、
それは近代の民主主義を形成 していきます。
国家体制としての議会制民主主義は、自由と平等、個人主義、人権、言論の
自由等に価値を置く、新たな理念が生まれました。それは民主主義という、近
代が生み出した新たな価値体系である、といえます。
そしてそれは人類の歴史の中で積み上げた多くの体験を反映し、それを十分
に煮詰めていて、かなり深化した価値体系であると言えます。このような現代
における民主主義は 大いに評価すべきと思います。
もちろん、社会主義や共産主義を語る危険な独裁体制は論外として、人類が
ここまで積み上げた自由を求める様々な試みは人類の歴史にとって貴重な体験
でありました。
【理念の出自となるべき、世界観を曖昧にした民主主義】。
近 代 の民主 主義 は、 同じヤ ハウエを唯一の 神とする ユダヤ教 とキ リスト教 の確
執の 中 で生 まれ たと言 えま すか ら、当然新旧 の聖書の影響 を強 く受けて育ち 、世
界に 広 く普及 しま した 。ここ まで普及した理 由は、理念の出自 とな るべき新 旧の
聖書 の 世 界観を消 し去 った こと もさる ことな がら、その展開手法に幾 つか の工 夫
が成 さ れて いるか ら です。普遍 的に多くの文 化に適応させ るために 、 敢えて 新 旧
の聖 書 の色 は消され てい ます 。ですから、民 主主義 はユダ ヤ教 とキ リスト教 以外
でも 、 他の 宗教 国でも 何とか 機能するし、さ らに 驚くこと は、 宗教を 否定し 、拒
否している唯物思想 の国家でも成り立つという、実に自在な思想 となっています。
で す から 、ここ で立 ち止まっ て、今ここま で世界に広がった 民主 主義を支 え て
いる 共 通の 価値とは 一体 何か 、について考え てみれ ば、それは 一言で 、個人 主義
という価値であると 言えそうです。
現 在 の段階 で、 この ような 民主主義を、自 由主義 国家の多くの人々 、特に 日 本
では 、 こ れを無批 判に 受け入 れ、これを宗教 の如く、絶対 的な 価値 観とし て受け
入れ て いま す。日本 の 多くの 人達にとって、 民主 主義が真理であり、 民主 的で無
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い も の は 真 理 で は 無 い と の 信 念 を 持 っ て 、 行 動 を し て い ま す 。「 そ れ は 民 主 的 で
ある」と言えばそれは真理であると言うことと同意語です。
し か しな がら、 それ を主張 するには、かな りの無理があ ることに 気 づか なけ れ
ばな り ま せん。先 ず、 なん と言っても、その 根拠を普遍的 な世界観に 立って 、示
さな け れ ば成りま せん 。例えば 、一つ「自由 と平等」を取り上 げて みても、 そ れ
がそうである根拠はどのような世界観に基づくモノなのでしょうか。
民 主 主義 は今、 民主 主義以 外のところから 、挑戦を受けています。 外から も内
から も 数 々の挑戦 を受 けて いる ことに気づき ましょう。それを 無視して、民 主主
義を 完 全無 欠のモ ノと して、 或いは相手が納 得しない「自明の 理」を 振りか ざし
て、 一 気に 突っ切 るの ではな く、ここは一旦 立ち止まって 、自 らを省 みる必 要が
ある の で す。この 際、 民主 主義を享受してい る私達が、自らを 良く内観して 、民
主主 義 が内 に抱える 、 矛盾を 正しく自覚し、 そこ に「正しい苦 の自覚 」を持 つ こ
とが求められているのです。
そ し て、 民主 主義を 支える 幾つかの理念に 対して、普遍 的な 世界 観に立つ こと
で、 正 当な 根拠を 与え 、その ことで民主主義 を一部改 良し、さらに発展させ て行
くべき段階に来ていると、私 は感じて います。
私 は 、 こ こ に は 現 行 の 民 主 主 義 の 理 念 を 「 自 明 の 理 」 と か 、「 普 遍 の 真 理 」 と
考え る この 人達の・ ・・ 、いや この ような人 達が大半のこ の時代の、 危うさ とも
ろさを感じとっています。
過 ぎ たる は及ばざ るが 如しで 、人造思想が 完全であるわけは 無いのです。 こ の
よう な 世 界観無き 理念 の単純 化は、その適用 範囲を誤ると 大変危険なのであり、
民主 主 義を 大切にす るな らば 、その適応範囲 を吟味し、しかも 民主 主義の持 つ致
命的 欠 陥をも 十分 に知 り尽くし てお く必要が あるの です。それについては後 ほ ど
述べます。
【個人主義の限界】
し か しな がら、 一方 では民主 主義 は矛盾を 沢山はらんではいるが、 個人 主義を
貫い て いる し、独裁 国家 、専制 国家 よりは、 個の自由が保障されている分、 ず っ
とマ シ だ から、と 言う 理由で 、これが仮のモ ノではあって も、 人類の 深化の 過 程
と し て 、 受 け 入 れ て い る 人 達 も 多 く 居 ま す 。 或 る 元 政 治 家 も 、「 民 主 主 義 は ポ ピ
ュリズムそのものだ 」と言い 切っていました。
こ れ が正常 な感覚 とい うモノ でしょう。皆 さん もそのよう に受け入 れて欲 し い
と思っています。
ま た 、イス ラム 教の 国家では 、個人主義を も受け入れつ つ、 国内を 纏め、 世 界
の国 々 と対等 に付 き合 うた めに、世俗主義と して 、統治は民主主義的 に行い 、精
神性 と して は、宗教 に 根本を 置く形をとるこ とで、宗教と民主主義とをうまく整
合し よ うと してい る試 みが成 されています。 これ は確かに 賢い 選択と 言える でし
ょう。
し か し、 そう は言って も、 そのような人達 の中には西洋 生まれの民主主義は自
分た ち と肌 が合わな いか ら、 という理由で、 イス ラム原理 主義 に回帰 しよ うと す
る勢 力 も生 まれ てい ます。イス ラム 原理主義 はと もかく、民主主義と 肌が合 わ な
いと 感 じ るのは、 ある 意味、 彼らは宗教民族 であ るから、これは当然 の成り 行き
と受け取るべきでしょう。
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【正しい世界観により、民主主義の理念に不動の根拠を与えよう】
そ こ でで すが、 民主 主義はキ リス ト教社会 で生まれたと書きましたが、そ のキ
リス ト 教 社会の中 では 民主 主義は手段に過ぎ ません 。彼らのホンネはキリスト教
に あ り ま す 。 つ ま り 、 彼 ら に と っ て 、・ ・ ・ そ れ が 彼 ら に 自 覚 が あ る か 否 か は 別
な の で す が 、・ ・ ・ 精 神 的 に は キ リ ス ト 教 で 生 き て い て 、 そ の 中 で の 行 動 様 式 の
手段 と して 民主 主義を 位置づけ てい るのです 。社会を維持 する 手段として、 そ れ
から 他 国との 交渉 は民主 主義的 な発想であり 、それを タテマエとして 生きて いる
のが 実 態です 。彼 らは 案外、 自ら生み出した このホンネと タテマエを うまく 使い
分け て いる という こ とが言える でし ょう。で すから 、私達 も民主主義 をホ ンネ と
して は い けない の です。それ はタテマエとし て、行動の手段として付 き合う べき
であ り 、ホン ネは 自らの 精神 性をキッチリと 持ってい なければ 、この 人造 思想に
振り回されることになるのです。
振 り 返って 、民主 主義 は確 かに世界中に広 がっ たけれども、 この ように、 そ の
理念 の 出 自とな るべ き筈の世界 観が一向に定 まら ない状況 が、 生まれたときか ら
の民 主 主義 の宿命 なの だと言 えます。それは 世界 中に共通 の価値として、民 主主
義を広げるためには 仕方が無 いことだったのだと思います。そこで、これからは、
その 理 念をも う一度 吟味 し、 その理念の基と なる 人類普遍の世界観を 構築し て、
そこ に 最も 重要な 精神 性を置 き、それをホン ネと して、その基 に民主主義を 手 段
として位置づける必要があるのです。
般 若 心経 の世界 観こそ 、それ を可能にする モノであ ると私は 考えています。
もう少し、民主主義 を考えてみましょう。
【民主主義の理念はどこまで 通用する のか】。
と こ ろで 、その 民主 主義の 根幹を成す個人 主義は近代国 家の 中で育 ちま した か
ら、 私 達はそ の恩恵 を 大いに 受けて、今を生 きて います。しかしそれも行き 過ぎ
ると 、 飽くな き個 の利益 の追求 となってしま い、その結果 、全体の利益を失 い、
自 己 矛 盾 に 陥 り ま す 。「 個 人 の 幸 せ の 追 求 の 先 に 、 全 体 の 幸 せ が あ る 」 と い う 、
無言 の 仮 定が間違 って いるこ と に気づかなけ れば成りませ ん。 ここ に個人 主義の
限界がありますね。
今 、「 イ ス ラ ム 国 」 が 出 て き て 、 民 主 主 義 は 正 面 か ら 挑 戦 を 受 け て い ま す 。 民
主主 義 は その形成 の過程 で、 多くの文化や国 家体制 に対応 できるように、敢 え て
その 世 界観 をぼ かし てきた こ とで、これだけ 世界に広がり ましたが 、 逆にぼ かし
たが 故 に、 根拠を 明らか にして 、自らの理念 を正面から語ることが困難にな って
きて居ます。
自 由 、平等 、国民 主権 、言論 の自由、個人 主義、人権とは、 自由を 満喫し てい
る民主主義の国に生 きる人達 には、それは疑いようのない真実と思っていますが、
実は ど れ一 つを取 って みても 、その根拠が曖 昧なので す。もし 、それを異な る理
念をもつ集団から、 否定されたとき、明快な反論の回答を持たな いのです。
そ れ は、 どの よう な世界 観から生まれた理 念なのか、それを 明示できないの で
す。
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で す から 、民主 主義 はい よい よ次の深化の 段階にさしかかっていると言え ます
ね。
【議会は本来、議論 の場であり、フィ ードバック の場でな ければならない】
次の例ですが、実は、これは特に、日本の議会制民主主義の問題なのですが、
政権与党と野党との関係も、もう見慣れてしまいましたが、不思議に思うとき
が あり ま す 。し か し見慣 れて しまうと 、「まあ、 こんなモ ノか!」とあき らめ て
見えてしまうから、 却って問題は大きいのですね。
野党の姿勢というのは、先に示した定義からは、どう見てもフィードバック
ではないですね。明らかに反政府ですね。つまり、多くの野党はどう見ても、
政府と理念が異なる 立場ですから、何を言って も攻撃にしか成らないのですね。
攻撃ではフィードバックにはならないのです。
否、フィードバックの野党も確かに存在しますから、まだまだ、見捨てたモ
ノではないと思います。
正確には、理念とは、より根本の理念から、部分の理念まで、多層的に存在
し、具体的方針につながっています。方針の違い程度であれば、話し合いが通
用しますが、根本の 理念を異 にする場合は、話し合いは通用しま せん。
そして現実には、理念を異にする野党と、理念を一致させた野党とが混在し
ているというところでしょう 。
しかし中には、理念を共有しなくても、それが攻撃であっても、フィードバ
ックでなくても、それでよいという人もいるでしょう。それに対する回答は、
世界観にまで戻らなければ、返答できませんが、それはしばらく、棚上げして
議論を進めたいと思 います。
さて、国会というものは、はたして議論の場になっているのでしょうか。た
だ、政府を攻撃するだけでは、政権を弱体化するだけです。ひいては国力を弱
体化するだけです。時の政権は野党と同時に、同じテーマで外国勢力とも戦っ
ていることになります。このような不毛な議論は無駄なエネルギー消費と見え
ますね。
理念の異なる野党と元々理念の異なる外国勢力とが利害を一致させてしまう
と、こ れは大変危険な構図を創ります。その事に対する危機感を持 つべきです。
外交と防衛は、秘密にすべきことが多く、もっともっと丁寧な扱いが必要と
思います。
私から見れば、議会制民主主義の下の、国会での議論は、議論の前に、議論
のテーマとなっている課題だけを質問するのではなく、発言者および発言者の
属する政党の理念の中から、まず議論のテーマとなっている対象の位置づけを
明確に示すべきです。そして、その理念の基となっている世界観を明確にすべ
きと思います。同じ 、反対でも、理念が異なれば 、ましてや世界観が異なれば、
同列に扱うことはできないのです。
相手と世界観を共有しているのか、否か。そして理念を共有しているのか、
否かを示すべきです。そしてさらには、理念を共有した上での方針の議論なの
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か。理念と理念の対立からくる理念のための議論なのか。理念を異にする上で
の方針の議論なのか。これらを明らかにしなければ、はじめから議論は成立し
ていないのです。
そして、この本質的問題を解決しようとするならば、与党は質問を受けるだ
けではなく、与党から野党に対して質問し、野党側の背景にある世界観と、理
念と、その方針をより明らかにするように、複数の質問により、聞き出すとい
う、双方向の議論の習慣が必要です。結果として、双方の議論がかみ合わなく
ても、双方の世界観と理念が明確になるという、国民から見たときに、十分な
利益がもたらされると思います。
ですから、野党側も、しっかりとした理念を持たなければ、質問は単なる攻
撃の意味しか持たないことになります。
このように、議会制民主主義を改良しようと思うと、この基本的なことから
見直さなくてはいけないですね。
子供達に見せて恥ずかしくない議論をしなければ成りません。子供達が、こ
のような攻撃しかしない、揚げ足取りのような、大人のまねの議論をしても、
それで良いのでしょうか。
これは民主主義の本質的矛盾を示しているものであり、アメリカ大統領選の
テレビ公開討論のように、質の低い議論ばかりを見せつけられ、ていたらくし
た姿にため息がでてしまいます。この 姿はまさにポピュリズムで す。
しっかりとした普遍的な世界観があり、そこから導かれる理念の下に、理念
を共有した上で、フィードバックのための議論がなされるように、なってほし
いと思います。
長い議会運営の歴史の中で、政権を持つ側が、暴走しないように、という配
慮から、こんな姿になったのでしょうが、真の世界観に立って、根本から見直
してみたいものです 。
このような議論では、真っ向から国益に反してしまうと見えるときがしばし
ばあります。いったい、政党 とは何か、と考えさせられま す。
【現行の民主主義からはじめる】
現行の議会制民主主義においては、理念が異なるにも係わらず、否、理念無
き政党も存在するにも係わらず、対等 に扱わなければ成りません。
多くの場合、理念には優劣があります。それぞれの理念には「フラクタル深
度」の違いがあります。しかし、議会制民主主義の中では、それらをも全て対
等に扱い、その優劣を決めるのは、主権を持つ国民であるとするのが、民主主
義の原則です。これが民主主義の特徴であって、国民の選択こそ、最終結論で
あるのです。これが真値であるはずは決してないのですが、般若心経の世界観
が一 般化 され る まで は、「真値 」を客観 的に評価 できない ので、直ぐには 、 こ の
原則を変えることは 、避けなければ成りません。
言い換えれば、議会制民主主義では、深化の度合いが異なる理念を、常に対
等に扱い、その優劣を決めるのは、空でも色でもなく、色を抱える主権者とし
ての国民であるという原理的矛盾を抱えています。
ですから、ここでは色も納得できるように、般若心経から導かれる理念を説
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明し、納得を得なければ成りません。
果たして、緊急時にこれで対応できるとの保証はないのですが、現行の民主
主義の中では、それしか方法 はないと言えます。
ここに、今時の議会制民主主義の、限界を見ているような気がします。
般若心経の世界観からは、理念の優劣は明確ですが、それを他に強制できな
いのが、ここでのルールです 。
どんなに良いことであっても、それを強制しないというのが、宇宙創造の理
念です。般若心経の 世界観に 自らの意思で、帰依する以外にないのです。
よく見ると、この世界は確かにそうなっていますよね。それはつまり、しば
し ば 、「 人 間 は な ぜ 最 初 か ら 、 救 わ れ た 状 態 で 生 ま れ て こ な い の だ 」、 と い う 、
大きな疑問の回答にもなっています。
般若心経の世界観とそこから導かれる理念こそ至高のものなのですが、それ
を強制できないということから、その 理念に反する理念や行動原理については、
禁止するのではなく 、それを 一見解として、公表することは出来ます。
そこで、般若心経の世界観から導かれる理念に沿って現状を評価してみまし
ょう。
日本という国は、特に深化の進んだ大調和の国ですから、この国の平和は人
類の平和に直結しています。日本の安定は世界の安定に繋がります。ですから、
日本を貶める力はフラクタル反共鳴なのです。決して我田引水のことを言って
いるのではありません。般若波羅密多に強く共鳴する、この日本の、宇宙にお
ける重要な位置づけを自覚して、自ら知恵を出して、真の議会運営が出来るよ
うに、議会制民主主義を根底 から改良 するべきと思います。
さて日本に於ける 、議会制民主主義の未来の姿の一例を、ここに示しました。
般若心経の世界観を 知れば、これは著者でなくても、示すことが出来る筈で す。
般若心経の世界観を理解した人の解釈が、私の解釈と、どこかが違っていたと
しても、それは本質的な差異 ではありません。
般若心経の世界観から発して、そこから理念を導き、それを現実の政策に降
ろすには、この書で示したフ ィードバックの原理は十分に役に立つと思います。
【政党は世界観・理念・そこから導かれる政策で勝負せよ】
それから、すべての政党は、まず自らの世界観を示し、そしてその次に、そ
の世界観から導き出される理念を示し、さらに、その理念から導かれる政策を
発表し、その制作を世界観と理念から説明し、この次元でこそ政権を争うべき
です。その議論をこそ国会で答弁し、質問し、政策や法律を詰めていくことが
近未来の国会でありたいと思います。世界観・理念・政策で議論できれば、国
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会という立法機関は 十分機能を発揮できると思います。
是非、多くの人に 挑戦して 欲しいと思います。
現状を見れば、そうはゆっくりしていられないと思います。現状を見てみれ
ば、見かけは平穏に見える国内の状況の外側では、危険な勢力との無言の戦い
が続いています。
平 和 と はこ の ような 戦 いに勝利 しな けれ ば得ら れない ことな ので す。「祈 っ て
い れば 、 神様 が 守って 下 さる」 などと 言うのは間 違 いです 。同様に、「 いざ とな
ればアメリカが守ってくれるから、我々は話し合いだけしていれば良い」とい
うのも間違いです。自らの手を汚さずに、国を守ろうとすることは不誠実であ
り、《宇宙の理念》 に合致しません。それは有り得ないことなのです。
消防自動車があるから、火事になるのだと言うのは間違いです。話し合えば
火事にならないというのも間違いです。
そのような本末転倒の平和論が幅をきかせている中で、理念の異なる外国勢
力と思いを共鳴させて、与党の批判をしてはならないのです。野党側が「その
つもりはない」と言っても、結果として、利用されていることが多々あるので
す。
結果として、その勢力に手を貸してしまっているのです。外交は超党派であ
るべきで、国内で足を引っ張ることは絶対に避けなければならないのです。理
念の異なる外国勢力はいくつも存在しています。その勢力は虎視眈々と国内の
隙を狙っています。このような反戦平和を唱える国内勢力は、その外国勢力に
とっては、活動にきわめて有利な環境 なのです。
これは人類の恒久平和を語る上で避けては通れない認識であります。そして
この構図を無いものとして無視するのが、隠れた外国勢力なのです。
【真の世界観から行動方針を 立てる】
これを般若心経の世界観から説明すれば、五蘊皆空の立場から、そこに今、
その「悪」と見えることが存在していることを積極的に捉えて、その「悪」を
消滅させる努力をしなければならないことになります。これを放置することは
誠実ではないのです 。
あなたが深化の進んだ修行者ならば、このような危機的場面でのあなたの判
断が求められています。
ここは、敢えて善悪の対立する世界として捉えて、深化の進んだ絶対善の立
場で対処すべき事象 なのです。
即ち、この場面は、フラクタル共鳴の深化が進んだ事象と、その深化が遅れ
たフラクタル反共鳴の事象とが直接接するために生じる軋轢であって、ここで
の善悪の構図は既に明らかであり、善は悪に勝利しなければならない場面なの
です。この場面は大変危険であり、特に慎重さが求められます。
このことから導かれる重要な結論は、上記のような軋轢はフラクタル層の中
の渦として、常に発生しますから、フラクタル共鳴の深化の度合いを基準とし
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て判断する調停機構が、国内的にも国際的にも、存在する社会を作らなければ
なりません。もし、 それがなければ、戦いを余儀なくされます。
これは戦いといっても、暴力を抑制し、排除する力であ り、これ は「武の 力」
であって、フラクタル反共鳴を消滅させる力であり、深化 した世界 の力であ り、
暴力とは正反対の力 です。そしてそれは、誠実さから導き 出される力であって、
全肯定された力なのす。
国連は一部そのような機能を持つことを期待されましたが、現実には全くと
いっていいほど、その機能を 果たして来なかったといえますね。
もともと、第二次大戦の戦後処理機関に、そのような機能を期待するのが間
違いです。しかも、拒否権という強い権限をもつ一部の国が、フラクタル深化
の低い独裁国なのでは、目的 を期待するのははじめから無理なの です。
ですから、普遍的な世界観に基づく、新たな機関を国内的にも国際的にも、
構築しなければなりません。それを設立することが世界の恒久平和につながり
ます。
そして、それは今すぐにでも作ることができるのです。その機構の調停結果
に従うか、従わないか、それは自由なのですから。
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【第三節】見えてきた人類の恒久平和
゛
【人類の未来には、 うっすらと恒久平和が見えている】
真 実 の世界 観を 知らな いから 、人類は混乱 して いるのです よね。真実の世 界観
を知 っ て、 それ を国家 体制に 反映させること が出来れば、すばらしい 未来が 到 来
する で あ ろう事は 容易 に想像 できます。しか し、普遍性を確保 しな いと、今 世を
騒が せ てい る「イス ラム 国」 に成ってしまい ます。自分たちだけが正 しい と言っ
て、 他 を排斥 する とい うのは 、前時代的であ り、人類の未来にとって 、これ ほど
の、普遍性を欠いた 危険な行動様式はないのです。
「 イ スラ ム国」 はイ スラム 教徒からも否定 され ていますか ら、まともなイス ラ
ム教 徒 で はないと し ても、イス ラム 教を自己 正当化の理由 としていますから 、自
分 た ち に 都 合 の 良 い 、 唯 一 の 神 の 下 に 、 独 善 的 な 国 家 理 念 を 掲 げ て い ま す 。「 イ
スラ ム 国」 の行動 は根本 から 間違っているこ とは論を待ちませんが、 その善 し悪
しは 別 と して、イス ラム 教を 理念として掲げ る以上、それ に今 の自由主義を 掲げ
る国 家 で、 太刀 打ちで きるの か、と言う切実 な問題を提起 しています 。たと え軍
事力 で は勝 って も、思想 とし て、それに太刀 打ちでき るだけのものが 、我々 民主
主義国家に有るのか 、と問えば、それ は否でしょう。
た だ し、 今は、 日本 を取り 巻く環境には、 不安 定さが漂っていて、 先が不 透明
には 違 い ないので す が、一方 では、人類の恒 久平和 の兆しもかすかに 見えて きて
います。
しかし、今この書の 立場は、理念の重要性を説くの が目的なのでありますから、
国際 情 勢の 現状 分析をし て、 その対応策の詳 細を述べるこ とは 、これ 以上 控え て
おきたいと思います 。
【正しい世界観に立 って、民主主義を改良する】
こ の よう に、理念 とし て、 普遍のかけらも 無い、暴力的 な「 イス ラム国」 に絶
対に 負 け ないだけ の ものが、 今この世に存在 しな い以上、私が 急いで 、それ をこ
こに示す以外にない 、と思われてしまうのです。
そ の 思 想とは正 しい 世界 観に基づき、人間 と宇宙の関係 を明確に示 し、普 遍性
を回復した未来の人類の姿を 示すことなのです。
さ て 、当然 のこ とな がら、 世界の恒久平和 とは、人類規 模で 考える 必要が あり
ます 。 人 類の歴史 から 多くを 学べば、地球政 府的な中央集 権体制は大変危険で あ
るとの知恵が当然働 きます。 これには既に共通理解がとれている と思います。
で す から 、私達 が人類 の未来 に求めるもの は、人類の歴史を 尊重して、各 文化
が普遍性を回復しさえすれば 、そこには次第に未来像が見えてくるのです 。
そ れ は、 普遍 性を失 う危険 を伴う中央集権 的な地球政府ではなく、 都市 国家 群
が、 か なり の独立 性を 持った 各国家から成り 、フラク タル共鳴 の関係 で結ば れて
いるような姿であろうと私は 考えています。そしてそれは決して 平面的ではなく、
均一 で はな く、固有 の 文化が 互いに関係し合 い、しかもそれぞれが多少の距 離を
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とりつつ、適切なバランスをとって存在します。
で す から 、グロ ーバ リズム は世界の流れで あり、ブレー キがかかりません が、
結果 と して 文化 経済の 均一 化をもたらします から、行き過ぎたグローバリズ ムは
避け な けれ ば成りま せん 。国家 が政治経済文 化の独自性を保てる範囲 での グロ ー
バリズムを求めるべきでしょう。
国 家 理念 の中には 、 優先され る伝統文化が あって 当然です。 しか もそれが固 有
のフラクタル共鳴を 実現し、他 の文化との関係を保ちつつ、多層的に関係します。
つ ま り、 国家 理念は 、その 実現度合いによ り、般若波羅密多 の「深化」の 程 度
によ っ て、 自ずと 多層 化され て行きます。そ の多層化は般若波羅密多 の深化 の度
合い か ら見 て、矛盾 無 く多層 化と多様化が成 され ていますが、 同時に 、他の 「国
家理 念 」から みても 、 やは り矛盾が無いよう に、構築でき るような 工夫が必 要と
思います。
そ し て、 たと え理念 は異なっ ても 、世界観 が共通であれ ば、 大きな 矛盾に はな
りません。それぞれの立場を 尊重した 関係を保てるはずです。
国民は自由意志で 国家理念に向かう ことで自ずと統一されます。
ど こ かの 深化の 遅れた 国が 未だにやってい るように、わざわざ国外 に敵を 作っ
て、 国 内に 向かう 国民 の眼を 反らし、敵に向 かう ことで統一を 図るような愚 行か
ら、いっときも早く 離れなければ成りません。
現 実 に はこのよ う な前世 紀的な理念も存在 して いて、そこには歴然 とし た深 度
の違 い があ ります か ら、その 違いにふさわし い、多層構造の世界が構築され てい
きま す 。それ は、 自然 の論理 の中で、多層構 造の中に階層 化されていくこと にな
ります。
こ こ で、 我々の 求める べき 理念とは決して 作文ではなく、絶対普遍 の世界 観に
立ち 、 自らの 実践 と、 そし て人類の歴史的体 験をとお して導き 出す以外にな いの
です 。 民 主主義は 人造 思想であ り、決して理 想の行動原理ではないけれども 、人
類に と って 、民主 主義 の体験 は極めて貴重で あり 、すべて の人 が民主主義を 一 度
は体 験 し て、この 経験 を通して 、人類の未来 を作る真の行動原理を生 み出し てい
かな け れ ばなり ま せん。その 意味で深度の浅 い国においては、 民主 化は正し いと
いえます。
【人は理念で生きる 存在】
人 は 理 念 で 生 き て い る の で す 。「 理 念 な ど 知 ら な い 」 と 言 っ て み て も 、 人 は や
はり 、 理 念とし て、生 きる ため の基本の価値 を作っていて、自分の固有のベ クト
ルを発し続けています。
こ の 積み 重ねの 中から にじみ 出るベクトル は、一朝一夕には 変わらないモノ で
すが 、 今後の 人生の 積み重ねの中で、次第に変わって いきま す。
一 方 、宗教 国家 では 、理念 というものが明 文化 できるほど明確ですが、一 般に
は、 理 念を 意識する こと は少 なく、それであ っても理念は必ず 存在し 、不文 律と
して 、 人 々の道徳 観や 生き方 を支えています 。そして理念 は般若波羅密多の 深さ
によって、多層化されます。
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【般若心経の説く世界観から 人類普遍の理念を導く】
本来、理念とはその根拠となる世界観があって初めて意味のある存在なので
す。世界観がない状態で、理念単独では意味のある存在にはなり得ません。
この単純な論理を 現代人は 見落とし ています。
ここで、絶対普遍の世界観を構築した思想体系としての、般若心経の立場か
ら言えば、人間とは本来、空に等しい色と、自己の利害に流されて、大局的判
断が出来ない色と、この二つの意識構造を持つ存在なのでした。それ故に、現
代がいうところの自由も平等も、個の権利も義務も、命の大切さも、人間の尊
厳も 、 現 代 の価 値はす べ て 、色 を色と 勘違いして 、「色だけの 自分」を 中心 に 、
「色を絶対」と見立 てて、組 み立てら れた価値体系なのです。
ここで知るべきは、人類の未来を作る価値体系は、色と色を分離して、その
二つの立場を統合する事が必要になるのです。そのような価値体系は、未だ用
意されていないという事実を、現代人は謙虚に受け入れなければならないとい
うことです。
ここに、きわめて 論理学的に記述された般若 心経の世界観が登場したことで、
多層構造の中の多くの宗教をフラクタル共鳴状態に導くこ とが可能となります。
、例えば、キリスト教であれば、先に述べたように、普遍性が回復されること
で、「 神 の 子」 がイ エス独 りで はな く、 全ての人 が「神の 子」の地位を 取り 戻 せ
ば、そしてこの真実が新たに説きなおされれば、色と色の関係はそのままキリ
スト教の世界観をフラクタル共鳴状態に導き入れることが出来ます。そして、
キリスト教と密接な関係をもつユダヤ教とは、多少の調整で、無理なくフラク
タル共鳴状態になります。
イスラム教に関しては、著者の解読した般若心経が宗教ではなく、人類普遍
の真理で在ることを公式に認め、しかも内部から自ら普遍性を求める強い欲求
がでてきさえすれば、解決できると思います。今暫く、その時を待たねばなら
ないでしょう。
ヒンズー教や日本の神道は、もともとが普遍的でありますから、そこに障害
は殆ど無いと私は考 えています。
それ故に、この価値体系は、現代から見て、これを受け入れるのに、それほ
ど大きな障害はないはずです 。
ここで一歩引いて、俯瞰してみれば、ある意味、これまでの民主主義のよう
に、人間の判断に完全さを要求することよりも、人間の判断に最初から完全な
部分と不完全な部分の両方を認めることのほうが、より自然で、常識の範囲内
であるとさえ、言えると思います。
また、科学的を自称する、多くの唯物論者であれば、そもそも絶対という概
念がどこから来るのか、唯物論にそんなモノは、初めから存在しないはずです
から、般若心経での初期仏教の立場に立って、諸行無常の唯物論を完全否定し
て欲しいと思っています。
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人類の未来を作る真の価値体系は正しい世界観に基づき、正しい「宇宙と人
間との関係」に基づいて構築されなければ成りません。それはこれまで通り、
色の自由性を追求しつつも、人間の本質である色を主体とした色の自由性の下
に、色を位置づけた 価値体系を構築しなければならないの です。
そして特に、色の自由性と色の自由性は一致しないこともしばしばです。そ
の矛盾を前提に行動原理は構築されなければ成りません。
それをここでは「 色主主義」
(又は、色主色従主義)と呼称しておきましょ う。
人間とは、空と一体で、空の中から常に正しい判断をする色と、常に自己保
存と、目先の利害に流される色と、二つの部分から成り立っているのでした。
この真実こそ、次世代の民主主義の体制に反映させなければ成りません。そ
してこれまでの民主主義は、世界観から導かれる筈の、理念の根拠が希薄なた
めに、これまで民主主義は民主主義を否定する巨大な敵に直面したときに、大
きな自己矛盾に直面 していたのです。
時間空間を超越した空そのものと等しい自由性を持ち、しかも、空の普遍性
に基づく多様性としての個性を持った色と。常に多くの制約の中にあって、色
の指導の下になければ、不完全そのものの色とを明確に区別し、本来一つの空
である「一」なる色と、個性として「多」である色と、その働きとして複数に
別れた色と。さらにフラクタル共鳴を発生するシステムと、色に作用する真値
に基づくフィードバックのシステムとを、求めるべき価値観の中に導入しなけ
ればなりません。
そのことで、現代の価値体系、民主主義は大きな変更を余儀なくされます。
しかしながら、この変更 を肯定的に捉えれば、これは革命 ではないのですから、
犠牲の大きい革命を起こさなくても、現状からの大きな改良で済むという意味
でもあります。言い換えれば、人類はここまで多くの体験を積み重ねて、改良
で済むところまで、 民主主義を深化させたのだ、といえるのです。
【立憲君主制をとる 日本の場合】
日本のように、基となる体制が立憲君主制であれば、改良によって、フラク
タル共鳴の体制を構築しやすいのです。その一例を書いて みましょう。
般若心経の普遍的な世界観を国の形に投影します。そのために、先ず参議院
を色院とし、衆議院を色院とします。前述の通り、色院は国民の利害損得を強
調しますから、ここでは経済はともかく、医療制度やインフラ整備や国土建設
等の国策や外交などの国家百年の計を決めるのは不向きです。自ずと、このよ
うな国家の大計を決 めるのは色院であ って、両院の役割 分担が必要になります。
つまりそのためには、項目によって、両院に必要な決議のための獲得票の比率
を変えることで、対応する事 が出来ます。
そして国民の象徴としての天皇は民族文化の象徴として、主権者の色の統合
の代表として存在します。しかも、色は固有名詞で、或いは単数形で表された
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ように、空から個性を持って別れた「多」であって、同時に「一」なる存在で
した。
それを具体的に表現すれば、天皇は常に国家理念の中心にあり「一」の表現
者と なり ま す 。 建国 の歴 史 を重 んじ、 天皇として の 天命を 全うすべ く、「多 」 で
ある国民一人一人と、フラクタル共鳴を体現することを求め続けます。ここに
日本国の国家理念として、独自性を大いに盛り込むべきと思いま す。
天皇は主権者の代表として、その生涯を通して般若波羅密多の瞑想と行を継
続し、空と一体の立場から、国民と共に、フラクタル共鳴を常に保ち続けるこ
とをその使命として、世代を重ねてそれを成就していくことになります。この
天皇の姿は現実の天皇の姿とまったく違いはありません。
さらには諸法空相の原理から、立法機関と司法機関と様々な行政機関の形式
が許されますが、そこには多様性の中に普遍性を保ちつつ、フラクタル共鳴が
維持されるのです。
さて、ここでの問題は、この国家理念を、受け入れない人達をどのように扱
うかです。その人達は、政党を作り、理念を異にすることを明らかにした上で、
色院への参加は許可され、一方色院への参加は、自らが政権を取るまでは許可
されません。しかし、自らの国家理念を議論する公式の場が与えられ、そこで
常に議論し、同時にその理念とその行動を公表し続ける義務が生じます。その
公式な場では、他政党からの 質問を受けなければ成りません。
そのことで、その理念が常々の主張や行動と合致しているか、国民の評価に
晒されることになります。与党並みに、その主張や行動が、理念と共に公に評
価されることで、矛盾が指摘され、国民は今後、その理念を必要とするかどう
かを選択することができます 。
このような仕組みとすることで、国民は目先の損得ではなく、理念の大切さ
を学び、その意見が理念そのものに反対なのか、それとも体制へのフィードバ
ックなのかを区別して理解し、判断することができる、深化した環境が整うの
です。
さらに未来において、国家理念を他と交代する手段も許しておく必要がある
でしょう。しかし、これは革命に近いことですか ら、尚更、理念を明確にして、
色院の決定と国民の 大多数の 指示がな ければ成らないでしょう。
ただし、ここで、国民とは今生きている国民だけではなく、既に亡くなった
過去の人たちも、そしてこれから生まれてくる国民の意見をも代表するモノで
なければならないのです。もちろん、過去と未来の人の意見を直接聞くことは
できないのですから、その人達の気持ちを忖度した意見を組み立てなければ成
りません。
ただし、ここに示した 例であっても、現状から どのようなプロセ スを踏ん で、
そこまでもって行くのか、についてはまだまだ議論の余地が残されています。
これは、日本の民主主義体制の改良の一例ですが、このようなフラクタル共
鳴を生み出す方向の 改良が、 近未来の行動原理となります。
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【二院制の場合は改良しやすい】
日本のように、二院制をとる体制では、二院制をそのまま色と色とを分離し
たシステムに改良できます。色と色との二つの立場があり、それぞれを分離し
て議論できることがこの新しい二院制なのです。
色と色を分離したことで、色院は思い切り自己の利害を主張出来る事になり
ます。利害は利害として主張すればそこには嘘がないのですから、真理に沿っ
ていると言えるのです。しかし、よく有るように、自らの利害の主張であるに
もかかわらず、利害を隠して、正義として、つまり善として、主張してしまう
と、それは真実ではなく、嘘であり、従って、真理にもとります。利害を利害
として主張する限りには、それは嘘ではなく、真理に反することはありませ ん。
そして、色院では、徹底して《宇宙の理念》に照らして、フラクタル共鳴の
下に有るように、フィードバックとして色院を指導することになります。そこ
で、それならば主権はどこにあるかというと、それは空にありますが、実際は
空を現実に降ろした、空に等しい色にあり、不完全な色だけが直接主権を持つ
ことは避けられます 。
色も色も、本来はフラクタル共鳴状態にある存在であり、フラクタル構造を
成す自分自身ですから、主権が無くなったわけではなく、間違いなく、国民一
人一人の良心の中にあります 。
人間は本来、完全無欠な空に等しい色なのです。そこで、色を前面に出すこ
と で、 不 完全 な 色のみ に 片寄ってし ま って、「個 の論理」 だけを際限なく 追 求 し
てしまうことは避けられます 。
色とは空と等しい「一」であり、同時に個性として別れた「多」です。この
自分が、空という全体と一体の中から導かれる「全体の論理」の中に、個性を
持つ 色 が 、「個 の利害 」の み に 傾く色と 、フラク タ ル共鳴 を保ちつつ、 個と 全 体
を調和させつつ、《 宇宙の理念》を具現 化していくことになります 。
さらに、形としての体制は、空相をフラクタル共鳴の関係に投影すれば良い
のです。行政機構はまさにこの原理で構築することで、フラクタル構造を形成
し、フラクタル共鳴を発する組織となります。さらに民間の機関もこれに準じ
ます。企業も同じです。それが、《宇宙 の理念》に共鳴すると言うことです 。
《 宇 宙 の 理念 》、 つま り 世界 観の解釈 は基本的 に共通で 有るべきで すが、 そ こ
に至るには、世代を超えたかなりの時間がかかるでしょう。それは確かに困難
な道程ですが、それを目指して、その成就を待つことには、十分な価値がある
ことです。
ここで、世界の恒久平和が近づき、地球上の人類が理念において一体化する
には、不完全な色が、人間の本来の姿である、完全な色にフラクタル共鳴する
ための教育や儀式が必要になります。教育は正しい世界観を教えることが基本
となります。そのためには般若心経を教えるのが一番良いと思いますが、普遍
性を回復した様々な 宗教であっても良いことになります。
そのような宗教は、理念が近いほど、互いに交流も盛んであって良いし、理
念が離れていれば、 互いに距離をとることは仕方が無いで しょう。
そ れで も 問題 は残 りま す。それは 、《宇宙の理 念 》を受 け入れない人達 を 、 ど
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のように扱うか、です。この般若心経の世界観が唯一正しいからと言って、他
に強制することは出来ないでしょう。この解決は、先ほどの、多元方程式に解
があるのかどうかにかかっています。さらに、もし、実質的にパラレルワール
ド化すればこれは解決します 。まあ、これはアイデアに過 ぎないですが・・・。
ですから、結局は今暫くは、改良された民主主義の中に、新たな「理念」を
落とし込む以外にないのですね。でも、一方では、多層化された文化圏を構築
し、その一つの層として、この般若心経の世界観から導かれる理念と、行動方
針をキッチリとまとめ上げ、実践の中で組み立てて、現実的な行動原理を生み
出していく努力をしなければ成りません。この地上界は、自分だけで、他と関
わりを持たずに生きていくことが出来ないのですから、この理想は多層化され
た中の一つの世界として実現する以外にないのです。多層構造文化、これがこ
の地上界でのベースのルールになります。
一 方 で 、 世界 の中 で、 自分 以外の他 の理念を一 切認 めない、「イスラム 国 」 や
その他の、五蘊皆空の現実否定に基づく集団は、自らの排他性によって崩壊す
るか、五蘊皆空の力 によって排除され ます。
その、排除される集団の色・受想行識としては、自ら管理する色・受想行識
の崩壊を望むのです。ここでの重要な視点として、排除は、色・受想行識の意
思であり、排除されるのは色・受想行識の意思から完全分離した、色・受想行
識であるということになります。
このとき、五蘊皆空による強制排除する現実の力は「武の力」として、全宇
宙によって全肯定されています。
それ故に、
《宇宙 の理念》に対する理解と、フラクタル共鳴 を体得することが、
国民教育の基本となります。
もちろん、それを観音様ではない、生身の人間が考えるのですから、それを
現実に反映する時には、完全に正しいはずはありません。その場合には、常に
真実との間には、ギャップが存在していることを認めていて、常に、改良する
姿勢を失わなければ 良いのです。
確 か に 、《宇 宙の 理念》 の理解度 とフ ラ クタル 共鳴の体得度 により個人 の 所 属
が決まります。ただし、自らの意志で所属を選択できれば、差別が発生するこ
とは少なくなります 。
つまり、国民は自らの支持する所属、それが政党であっても、その方針によ
り分類されますが、その分類は自分の選択で成されるので、この点で色の自由
意志は尊重されます 。
人により、理念を実現するための方針に関して、異なる意見があるのは当然
のこととして、ある方針を掲げる政党への所属は、自由意志の選択であること
か ら考 え れば 、 分類 され 、階層 化され てい ること が、《宇宙の理念》に 反す るこ
とはないのです。
ところで、色 院では、完全な 色の立場を現実の人間が執行するわけですから、
特別の教育を受けなければなりません。そこで常に、色院に所属する人達は、
自らフラクタル共鳴を求める修行を積むだけではなく、他の体制の色院との協
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議を通じて、互いがフラクタル共鳴の関係により近づくことで、フラクタル共
鳴を維持することができます 。
【マスコミの働きとフィードバック】
現代の自由主義の中では、マスコミがフィードバックのための体制批判が自
分たちの役割であるとして、マスコミの人達は声高に叫びますが、私はそうは
思いません。マスコミが体制批判をすれば、それは当然のごとく、体制批判の
立場をとる野党の主張に似てきます。つまり、政府から見ると、マスコミと野
党が同じような理念と、理想論的立場に立ち、一つになって、外交や防衛に関
する政府の主張に対して、反戦平和、戦争反対、核兵器反対、防衛法案反対、
などと論陣を張るのは、まさに理念の異なる外国勢力にとっては、何ともあり
がたい、好都合な論調と映ります。
言論の自由は大切 ですから、基本的にマスコミは何でも語れますが、しか し、
マスコミの言うことが正しいとは限りません。しかも、そこに嘘があれば、そ
れは犯罪になります。嘘を言いっぱなしにならないように、常にその検証が必
要です。白を黒と言ったことだけが嘘でありません。情報の一部を故意に切り
取ったとすれば、それは紛れもない嘘です。
マスコミは言論の自由に守られて報道していますが、結果として国民の教育
機関にも成っていることを重要視すべ きです。
報道する側の自由だけではなく、その情報を受け取る側の自由性も、担保す
る仕組みを作らなければ成りません。情報の受け手側の情報選択の自由が必要
になります。そしてそれはマスコミではなく、インターネットで実現されつつ
あります。しかし、報道にせよ、インターネットにせよ理念無き、或いは理念
を隠した情報発信は 大変危険であるといえます。
そしてもちろん、マスコミに限らず、情報を発信する立場には、常にそれな
りの責任がついて回ります。常に嘘は批判され、重大な嘘は公に訂正される仕
組みが必要です。一般のインターネットでの発言であれ、発言者を公表し、発
言内容の背後の理念 を自ら公表する習慣がほしいモノです。
それが無い発言は信頼が無いという評価が一般的になることが正常な言論空
間といえるでしょう 。
そして、批判のための批判はフィードバックには成らないことを既に話しま
した。その場合は、理念が異なるのであり、理念に反対なのであり、これはフ
ィードバックではありません 。これは全否定なのです。
ですから、自らの理念を明らかにしないままの相手批判は、魂胆があると思
われても仕方が無く 、卑怯と 言わざるを得ません。
また、フィードバック機関のためのフィードバック機関を成立し、般若心経
の世界観に立つ第三者機関がその発言者の理念を、一つ一つ位置づけていくと
いう作業も必要でしょう。
マスコミが体制のフィードバックになるためには、体制と理念を共有してい
なければ成らないことは既に 述べました。
ここでもし、マスコミが普遍の世界観に立つことが出来れば、すばらしい世
界になるでしょう。しかし、それは期待薄です から、報道機関は自分達の理念、
そして情報発信者の理念を常に示し続け、その理念の中での立ち位置を示し、
先ず順方向の情報を正しく報道することが重要です。それが無ければまともな
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報道機関ではありません。現実批判だけの理想 主義とな らないことを祈ります。
さて、ここで順方向とは批判する対象の主張を相手の立場で、正確に示すこ
とです。或いは、ここは対象にすべてを語らせて、意味の変わる編集をしない
ことです。この趣旨は、偏向の禁止を意味し、情報を自らの理念で加工したり、
一部を選択しないで、バランス良く報道するという意味でもあります。それで
なければ、順方向の情報が一部欠落してしまい、或いは嘘が混入し、聞き手は
正しい情報を受けることができなくなるからです。
もし批判対象の体制と、理念が異なるのであれば、理念 の違いを 明確にし て、
つまり立場の違いを 明確にして、議論 する姿勢が必要にな ります。
理念を共有する上での、フィードバックのための批判なのか、それとも理念
を異にする反対意見 なのかを明確にす る必要があるのです。反対は自由ですが、
理念を異にしているのであれば、それはフィー ドバックではないことを確認し、
その姿勢を明らかにしなければ成りま せん。
ここでは、国 の行く末 を決定するような、重要 問題を扱 っているのであって、
本質的ではない、程度の問題や、どちらでもよいような枝葉の問題は、議論し
ていません。
既に詳しく話したように、フィードバックの ためには、共通の理念と「真値」
が必要なのでした。現実問題として、マスコミが「真値」を持っているとの保
証は 一 切 あり ま せん 。「 真値」 を知らず し て、フ ィード バック をかけること に な
ると、既に述べたように、システムは却って不安定になってしまうのでした。
ですから、情報発信を扱うマスコミ自身にこそ、最も適切なフィードバック
が必要になるのです。つまり、マスコミのためにこそ、フィードバックの機関
が必要になるのです。理念を不明確にしたり、責任をとらない言いっ放しは一
番危険であると知るべきです 。
いかなるシステムにおいても、適正なフィードバックの為には、理念を明確
に示 し 、 それ な りの 教育 を受けた 、「 真値」を求 めるため の修行を真摯 に積 み 上
げた人でなければ、 その役割 は十分に果たせないのです。
それ故に、フィードバックの役割を果たす機関や人達は、最も世界観を正し
く理解し、そのための修行を積んだ、人間性が高い人達で構成しなければなら
ないのです。
さらに、もう少し 突っ込んで話して みましょう 。
【未来の行動原理は 般若心経の中にあ る】
そして重要なことは、常に近未来の行動原理の答えの全ては、ここに解読し
た般若心経の中に存在するということです。
そしてそれこそが 人類の未来を構築 する価値体系となるのです。このような、
人類が希求する価値体系と、そこから導かれる行動原理とは、常に般若波羅密
多の中に有ることが 重要な認識です。
つまり、人類 の恒久平和は、般若心経が現代に示している宇宙像をそのまま、
般若波羅密多の中に 投影することで実現します。
般若心経を理解した人にとっては、そして普遍性を回復した宗教や文化の中
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では、共通の世界観の下で、共通の土俵での話し合いが可能となりますから、
人類の未来は、間違 いなく明 るいことを確信しましょう。
【フラクタル共鳴の 深化を示 すフラクタル深度】
自らが、般若波羅密多の瞑想と修行を極めることによって、フラクタル共鳴
の深化の度合いを評価することは可能です。私としては、様々な文化や国家や
政治体制、宗教、組織、そして個人に対して、この「フラクタル共鳴の深化」
の度合いを示す「フラクタル深度」がどれだけ進んでいるのかについて今後も
監視していきたいと 思っています。
この「フラクタル深度」が未来の人類にとって、進歩と調和の度合いを示す
有効な指標となるでしょう。
修行によって、フラクタル深度を直感的に感じ取る事も可能ですが、しかし
これは、客観的に幾つかの事実を選択し、解析し、分析することで、数値的に
評価できる性質のものであると思って います。
と ころ で 、「 深化 」です が、 これをも う少し分 かりやす く言えば、それは 「 神
聖さ」です。
独善には決してならない、普遍的な人類愛に裏付けられていて、しかも人格
を越えた、超越的な宇宙的神聖さの方向こそ、フラクタル共鳴の深化の方向な
のです。
おわり
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引用文献
文献一
般若心経とは何か
宮元啓一
春秋社
二〇〇五年二月二十日
仏陀から大乗へ
第四版
般若心経の解読は深化し続けます。
深化に応じて、本文 はしばしば更新されます。
[献文舎Kembunsha]にアクセスす れば、PDF原稿を入手できます。
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