﹃ 動 物 哀 歌 ﹄ 文学への芽生え

第20号 石桜同窓会報 平成6年(1994)12月1日 ㈱ (2)
第二代会長松浦文弥君
︵同級生︶ から出京する
ことになったから後を頼
むといわれて会長に就任
したのが昭和三十四年三
今ならそんな会長の受
月のこと。
け渡しなど考えられない
ことだが、当時は引き受
け手もないままそれで済
んでいたのである。
当時私は黒沢尻工業高
校の教頭で豪から通勤し
ていたので同窓会の仕事
も何とかなるだろうと軽
く考えて引き受けたので
あった。ところがその後
校長に転出し、藤沢高
校二関工業高校・花巻
営一切を副会長の戸嶋先
生にお任せし、私は名ば
ことができなくなり、運
南高校と転じ会務を執る
やれるようになったのが
私が本格的に腰を据えて
こうして年次を送り、
のである。
識見によるものであった
会・事業行事の企画執行、
○創立五十周年記念総
○昭和五十二年の校舎炎
上焼失に伴う再建への資
金協力募金活動
あるが、これらの成功は
○高橋克彦氏直木賞受曽
並びに大河ドラマ﹁炎立
つ﹂原作執筆記念文化講
演会及び祝賀会開催等で
道具を、現地人の市場に持
や衣類を売ったりする露天
商、行商、砂糖大根を絞っ
て砂糖をつくる砂糖工場の
仕事もした。最後は、次々
と引き揚げる日本人の家財
いうサヤ稼ぎもしたようで
っていって処分する−そう
かりの会長で徒らに席を
母校愛による成果である。
全て役員始め会員各位の
言っていました。とにかく
蝕二文で、見知らぬ敵国の
す。﹁オレは人殺し以外の仕
事なら何でもやったよ﹂と
かくてここ数年来悔恨
ですから、まず食わなけれ
社会に投げ捨てられたもの
私はただその頂点に座ら
していただいただけのこ
たる思いしきりで幾度か
とである。
退任の意を表明していた
そういうことをやったわけ
ばならない。食うために、
です。十八、十九歳の皆さ
ん方に近い人たちが、外地
で敗戦の難民として精いっ
石桜同窓会前会長桧 見 得 明
適任するにあたって
て開催され、その初日に岡澤敏男君︵旧15回生︶
そのように年譜に混乱があ
頃、新京の街頭でタバコを
昭和二十年敗戦後の十月
ような生活をしたと思いま
昭夫さんもまったく同じ
和十九年、いよいよ日本も
るということは、昭夫さん
は満州時代のことをあまり
売っている昭夫君を見かけ
くやっているよ﹂と挨拶を
ね。それは何か。彼が十八
返してくれた、と言ってい
ニヤッと笑って﹁変わりな
ます。弟さんに語ったお話
て、﹁やあやあ﹂と言ったら、
されてしまうわけですね。
の中にも﹁いろいろなこと
歳の頃に敵国の見知らぬ社
から約一年半というものは、
帰国するのは翌年の秋です
をやったよ。八路軍︵いわ
会に難民としてほっぼり出
中学校から大学まで、学生
という学生が軍需工場に駆
り出されるのです。岩中に
も﹁岩中勤労報国隊﹂がつ
くられ、私ども五年生は、
神奈川県川崎にある日本鋳
造という鋳物工場の鶴見工
とか支える生活をしている
難民として、自分一人を何
す。山内君の証言によると、
非常時体制が敷かれました。
語りたくなかったようです
のであるが、この度漸く
お許しが出て退任の恵が
叶えられた。
蕊に心からご支援を謝
昭和四十六年定年退職し
し、退任の辞とするとこ
温めているだけであった。
集﹁心象点描﹂の出版頒布
石桜振興会の設置並びに
その運営
○石桜振興会運営資金造
成の一方途としての随筆
てからのことである。従
って就任三十五年とはい
っても実質二十余年とい
ぱい暮らしたのです。
それでも誰も文句を冨う
でもなく疑義をさしはさ
うことになる。この間の
ろである。
大仕事?と言えば、
O﹁三田義正伝﹂の刊行
む人もなかった。それは
会見各位の戸嶋先生に対
する信頼と先生の人格・
岡澤敏男君︵旧望
場に配属されました。そこ
で軍需用製品をつくるわけ
黒い制服が、カーキ色の軍
人のような服装に変わり、
学生帽は戦闘帽に、そして
ズボンにはゲートルを巻い
第47回石桜祭は9月3・4日の両日にわたっ
です。そこで約七カ月の集
の講演が行われた。岡澤君は同級生であり詩人
の村上昭夫君についてその詩の世界と、それを
師
すが、民主化運動、労働条
件の改善、その他の条件を
ところが今思うと、人生
の折り返し地点に立ってい
掲げて二月一日、二・一ス
トライキを宣言した。その
これから本当のオレの青春
が始まるんだ、そんな気持
.頃、昭夫さんは盛岡郵便局
に採用されています。
しかし占領軍・マッカー
たことになります。彼は、
の中に詩人という種が播か
ちで帰国したわけですが、
ものが、彼の体に二つの種
を宿させたのです。一つは、
肺臓に結核という病気の種
団生活をやりました。
ですから、あの時代とい
れた。それを自分は気づく
サー総司令部は、これは大
ゆる中共軍︶ の荷物運びも
ていないと学校に入れてく
この動員の最後に、満州
国から人事の職員が公務員
﹃動物哀歌﹄
と半分しか生きられない命
生涯を見通してみると、あ
のです。
作り上げた彼の生涯を紹介した。
の募集をしに来ました。昭
ところが、石桜振興会で
三年ほど前に、〓糟に満州
に渡った古館君と山内君を
変な危機を招くということ
て暮らしたようです。それ
帰国してしばらくは眠っ
そういう気持ちですから、
が愉快に暮らす時代なんだ。
かった。これからが、オレ
てきて、何もいいことはな
労働組合の青年部の仕事
逓と言っていました。それ
が全国一本の組合になって、
その地方組織である盛岡の
ていますが、昔はみな一緒
で、全逓侶従業貞組合、全
いうと、これは今はNTT
だとか、郵便などと分かれ
した組合はどうだったかと
を命令しました。それで二・
一ストは挫折したのです。
では、昭夫さんたちの所属
で、このストライキの中止
で帰ったということです。
にくたびれていたのです。
張り切ったわけですよね。
ところが、その時代をち
ょっと振り返ってみると、
生につながっていると、私
は確信しているのです。
によると、﹁兄貴はすごく張
り切って毎日通っていた﹂
って政治・経済がコントロ
そのように、占鏡軍によ
やるわけです。
を、昭夫さんは張り切って
戦後復活した労働組合運動
がすさまじく盛んな時で、
戦後の歴史の中で大きなテ
ーマになっている、官庁の
労働者、公務員、地方公務
り方は大変なものですよ。
ールされていた時代に、青
年部での文化活動の張り切
れました。弟さんたちの話
員で組織されている全官公
期間の中で。これが、やは
り後の詩人・村上昭夫の誕
ということでした。そうで
労という労働組合がありま
それでも、帰国した翌年、
昭和二十二年の一月に、盛
岡郵便局に就職します。保
険課の事務員として採用さ
ほど、精神も体もへとへと
文学への芽生え
十九歳の秋です。
盛岡へ帰国してくるのです。
に日本へ、そして懐かしい
が播かれ、もう一つは、心
れなかった。門の所にそれ
を監督する人がいて、注意
夫さんはそれに応じ、ハ紗
ピンという都市のある、賓
呼んで座談会をしたことが
ンでも見るように見えた。
ことはなく、二十一年の秋
やったよ﹂と。
するのです。
江省の地方公務員になった
私は旧制時代の岩手中学
うのは異常な時代です、極
限状況にあったようですよ。
何しろ、方々の難民が満州
の首都である新京に集まっ
てくるのです。そんな所で
不衛生な生活をするのです
から、伝染病が発生すると、
﹁オレはこういう切り抜け方
をして帰国したよ﹂という
たちまち革延してしまう。
ながら、現実を直視して暮
らしたのです。これはスゴ
そのような極限状況の中
を、彼は不安と孤独に耐え
いるのです。
るという光景が目撃されて
毎日穴を掘って死体を埋め
話が出てきました。薬品の
敗戦の難民として生きる
授業は、校庭で三八銃と
いう鉄砲を担いで、軍事教
練−戦争ごっこみたいなも
あります。その時こもごも、
結んでいたソ連が、これを
廃止する通告を出し、八月
九日から戦いが始まるので
す。ハルビンか鋳歩いて三
時間くらいの孫者という村
に、飛行機を組み立てる航
空機工場があり、ソ連の飛
行機がハルビンを空襲する
様子が、まるで映画のシー
今まで日本と中立条約を
のです。
田んぼで野菜を作って、こ
れを町に売りにも行きまし
た。三田農場とか、矢巾町
にある不動村の農場に、半
日も歩いて行って手伝いを
会がくれる賞ですが、岩手
県はもちろん、東北地方の
詩人の誰もまだもらってい
ません。現在までにこの地
域から受賞した詩人は、村
上昭夫ひとりです。
いう素晴らしい詩人がいた
することも、毎日のように
もっとひどいのになると、
やったのです。
ということです。
皆さん方の先輩に、そう
そして、学校にあった細や
のを毎日やらされました。
で、村上昭夫きんと同級生
でした。彼は四十一歳とい
う若さで亡くなった詩人で
す。昭和二年に生まれて、
昭和四十三年に亡くなって
ここに、彼の一冊の詩集
おります。
﹁動物哀歌﹄があります。彼
はこの一冊の詩集で、昭和
四十二年に東北地方の詩人
として最も名誉のある土井
満州へ
戦争中の、そういう虚し
のすごい体験をくぐり抜け
ィ。一生かかってもできな
い体験をしているのです、
そして中学二年のころ−十
四歳のときに太平洋戦争、
第二次世界大戦に日本が突
い気持ちというものが、非
違いがずいぶんとあります。
現地の人たちは脱走して、
結局は事実上、失職する状
態になるのです。
昭夫さんの年譜あるいは
評伝のなかには、大小の間
しょう。戦争による満州で
しかも、一年半という短い
入しました。ですから、皆
常に強く心に刻み込まれ、
やがて帰国するのですが、
のですが、もうマヒ状態で、
さん方のように落ち着いて
私どもが五年生になった昭
この大変な満州体験という
それで急いで役所に戻った
晩翠賞を受賞しています。
そしてその翌年、国内の若
い詩人・新しい詩人の登竜
門として権威のある︵小説
の世界では文芸春秋社の芥
勉強とかスポーツができる
昭夫展﹂も開催された
土方をやりました。戦車の
訓練場や射撃の訓練場を造
るための土方作業も、中学
同時に石桜票では﹁村上
時代の日課だったのです。
川賞というものがあります
ような時代ではなかった。
戦時色一色の中学時代
私が四歳のときに満州事
変が起こり、小学校時代−
十歳のときに日中戦争が、
が︶、帝の世界の芥川賞とい
われる﹁H氏賞﹂を受賞し
ています。これは日本詩人
(3) 平成6年(1994)12月1日 ㈱ 石桜同窓会報 第20号
ところが、せっかく職を
界がなりますように。その
でいいように、早くこの世
とのできない敵を殺さない
後に結核の病気を得て入院
代は、彼よりも半年ぐらい
﹁岩手サナトリウム﹂時
大坪さんは﹁LaLとい
ほども出てきた、村野四郎
めに絶対に必要だった人と
出会うのです。そういった
点は、やはり彼は非常に選
ばれた人ですね。それが先
んという詩人です。
得て働いて三、四年たった
う雑誌を主宰していて、そ
こに昭夫さんに詩を出させ
ことに目覚めるプロセスを
んの詩が次第に実存という
人の作品を批評し、昭夫さ
ぬまで詩の世界を究めよう
いくのです。とにかく、死
据えて、詩をさらに深めて
の壁をたじろぐことなく見
をされ、彼はやがてその死
人間、諸々の醜く弱い生き
を通して眺められた社会、
になっていくわけです。
死の壁を通して不動のもの
ですから、彼の〝死の眼鏡〟
たどっていくのです。
違って見えるのですね。実
をかけて見ると、今まで見
要するに、死という眼鏡
が実存という思想に目覚め、
思想、詩の世界というもの
変身した。
あのおとなしい、引っ込み
思案の昭夫さんをお母さん
は﹁うちの昭夫は、金火箸
るのです。それが﹁動物哀
高橋昭八郎さんによって
いう詩人です。この方は古
してきた高橋昭八郎さんと
が実に愛すべき生きものと
ものたち、そういったもの
ためならば、わたくしのか
という気持ちが、蝕まれて
らだなどは、何べん引き裂
歌﹄の元です。﹃動物哀歌﹄
目覚めさせられた詩人の魂
ある日、肋骨カリエスとい
くから詩を作っている方で、
目まいのするような、ふら
くれたというのです。です
から、まさしく詩人・村上
いったのです。
ら眺められるようになって
して、神様のような位置か
が、大坪さんの友情によっ
ふらした体の彼を支えなが
ら詩を作っていきます。実
存主義的な、ものを見る力
評論を書いてきた、現代詩
人の大御所の村野四郎さん
昭夫は、岩手日報学芸欄の
さんで、岩手日報の詩の投
稿欄の選者です。昭和二十
九年に初めて岩手日報にこ
て次第に育ち、村野四郎さ
んという素晴らしい先生に
というあだ名だったんです
かれてもかまいません﹂。こ
シリーズを、この﹃LaL
の欄ができた時から、昭夫
に昭夫さんが認められて、
ばすように計らうのです。
に発表させることで、大坪
さんは彼の才能を認めて伸
当時、土井晩翠貨とか、
H氏賞などの賞を取るため
には、詩集を出さなければ
ダメなんです。詩集を出さ
激励されていくのです。
ていた下書きのノートには、
詩があって、それを読んだ
で、何ぺんも昭夫さんに﹁出
なければ対象にならないの
せ、出せ﹂と言っても、長
い病気療養で郵便局をクビ
の文学運動がおこります。
ンスを中心にして実存主義
定的に結びつけて考えてし
ムに陥る方もいます。全否
的な文学を見る﹂と。
﹁啄木より賢治より、も
っと心霊的で、しかも造形
まうのです。しかし、昭夫
て解釈しようという意識が、
る諸々を肯定的に見て、向
上しようという立場に立っ
した村野四郎さんは﹃動物
彼は苦悩の毎日を迎えます。
後、苦しくて息ができず、
﹁あと五年﹂という死の宣告
◇
マイクロ波を当てることで
発生した炭素ガスがプラズ
マ発光。フロンガスを注入
して塩素原子を分離させ、
◇
どのアルカリで中和する装
ムの生成などが確認され、
フロンガスが分解されるこ
とが判った。
置を作った。塩化カルシウ
ている。
破壊するので回収、処理と
も大きな社会的課題になっ
フロンガスは空気中に放
出されると、紫外線で塩素
原子が分離し、オゾン層を
これを水酸化カルシウムな
うものである。
科書にとり上げられたとい
一つはオゾン層破壊の元
凶となっているフロンガス
ことに成功したというもの。
に対して岩手高はマイクロ
国の資源環境技術研究所
では高周波を使っているの
を、電子レンジを使った簡
単な装置の実験で分解する
もう一つはその実験が三省
れる﹁フロン12﹂。電子レン
たという生徒もいるという。
でみたいので入学を希望し
ているが、中学応募者の中
には﹁超電導﹂にとり組ん
どで母校物理部は名を馳せ
一昨年以来﹁超電導﹂な
い
る
。
の祭典﹂にも参加して、実
験は見学者の注目を浴びて
催の﹁青少年のための科学
子が登場する。
生徒たちは科学技術庁主
波で、しかも家庭用レンジ
を使い、自然の大気中では
世界ではじめての成功実験
である。三省堂の教科書で
はカラーの口絵に実験の様
物理部で実験に使ったの
は車のエアコンなどに使わ
ジの中においた炭素繊維に
﹁独自性認められた﹂餞削
電磁波理解に最適
根来勅補完する可能性
レン.芸.火の玉活用
は7段の大見出しである。
トを浴びた。いずれも記事
物理部の名がスポットライ
報紙上社会面に、岩手高校
今年8月と11月の岩手日
今年も臓も快挙
堂の来年度の高校物理の教
から、村野四郎さんの指導
というのは、実存を意識し
た立場から、投稿される詩
そういう時期も通り過ぎ
存の姿が見えてくるのです。
になり、親がかりの身分だ
て、やがて村上昭夫の詩は、
どんどん素晴らしい内容を
さんはそうではなく、肯定
﹃詩壇﹄によって育ったと言
に負けず嫌いの人で、悪く
箸のように細くても、非常
もった作品になってきます。
えていたものが、すっかり
昭夫さんの詩の世界は、
三人の詩人によって、詩の
高橋昭八郎さんは﹁この人、
いったい才能があるんぺか﹂
澄まされていきます。
みたくなって、どんどん読
んでいったのです。それで
と思ったそうです。しかし
のですね。この映画を見て
う い う お 話 で す 。 や は り 昭 その方が彼を指導するので
夫さんのその時の気持ちに
。
す
はピッタリした言葉だった
その頃、昭夫さんが書い
巡り合って、しかも可愛が
ってもらった。日報の﹁詩
野師ては宮沢賢治の精神、
志 というもの、宇宙科学
というのが、いっそう研ぎ
ら半世紀以上も詩を作り、
というものが次第に自分の
宮沢賢治を素朴にしたよう
な感想を書きつらねている
賢治の童話
昭夫さんという人は、金火
ですから、後に昭夫さん
デッガーというドイツの哲
〝死の眼鏡〟をかけて
さらにそれから宇宙感覚へ
と発展していったのです。
サナトリウムで病気をつれ
づれに、療養生活の慰めか
ものになっていくのです。
は、﹁ぼくが詩を書こうとし
から、親に迷惑をかけるの
はいやだ、出せないよ、と
学者の思想を内容とした文
学運動が日本にも上陸し、
やがて、三年たってサナ
トリウムを退院します。そ
その結果、虚無−ニヒリズ
けないことにぶつかるので
いくんです。それで、高橋
批評をされると突っ張って
断り続けました。しかし、
村野四郎さんはいち早く、
せるのです。
最初に詩を手ほどきして
くれた、高橋昭八郎さんは
杜陵印刷に勤めていて、装
丁を全部引き受けた。全部、
お友達の支えによって詩集
えると思います。
す。六月頃、盛岡の映画館
た動機は、宮沢賢治の童話
さんの持っている詩集を片
詩人として登録させたくて、
何としても、彼を社会的な
こで、彼は詩を書く以外に
職業に就けない。とにかく
療養しながら詩を作ろうと
いうことで、一生懸命に詩
サルトルを中心としてハイ
で封切になったつきけわだ
っ端から読み、そして現代
ています。
哀歌﹂の序文に、こう書い
自分に自信をもてるものが
が出されたのです。
年間です。それから第二期
が、退院して再発するまで
の数年間。第三期は、昭和
三十四年に再発して仙台の
厚生病院に入院するのです
が、それから亡くなる直前
まで詩作した時代です。
昭夫さんにとって、退院
ら詩を作り出した。それが
十五年たった後には、宇宙
意識にまで到達したのです。
彼が大詩人になる理論的
な、そして精神的な指導を
を読んだのが、その最初で
した﹂と青いています。
詩の常識がだんだんに分か
てきて、それに映し出され
的に眺めるのです。彼の詩
の世界は、虚無主義に陥ら
ずに一条の明るい光が射し
秋になって昭夫さんは、
仙台の厚生病院に入院
やっと入院できます。岩手
し、右の肺臓を切り取った
つみの声﹄という映画を見
に行くのですね。この映画
を見て、彼はすごく感激し
たのです。その中にエピソ
発展していきました。です
実存主義文学に詩の世界が
第二次世界大戦後、フラ
その間に、非常に思いが
から、宮沢賢治の童話が読
さんは毎回欠かさずに投稿
しています。大正の末期か
よ。痩せて細かったから、
そう言われたんでしょうね﹂
そういう、おとなしくて
と言っていました。
運動には全力投球しました。
火箸のような青年が、文化
職場の交声会という合唱団
のリーダーになって指揮を
したりしたのです。
壇﹄で五十六回も昭夫さん
の詩を取り上げて批評して
う病気が発生するのです。
あばらが腰れて、カリエス
を患っていたのです。その
後、結核と診断きれるので
すが、戦争中から戦後は栄
養失調などで結核の病人が
多く、病院は満員でベッド
が空いていないんですね。
やむを得ず、自宅で療壷生
活を送るのです。
区の労働組合の機関誌に、
それから、文学運動にも
入っていくのです。盛岡地
説を載せています。そうい
﹁息吹﹄という雑誌があり、
その編集委員の一人として
活躍しました。自らも詩を
書き、満州を舞台にした小
う文学の芽生えが、この労
働組合の文化活動の中から
枝さんという大先輩の詩人
ってくるのです。
大坪さんともう一人、宮静
医科大学附属岩手サナトリ
が、熱心にお父さんを説き
何もないということに気が
それで、東北地区の詩人
の最高の賞である土井晩翠
貨ですが、その審査員に革
野心平さんや村野四郎さん
という方がいて、この﹁動
伏せて、詩集を自費出版さ
つくんですね。この体では
今度は東北ではなく、日本
全国、国内の詩人の芥川賞
詩人としての自己形成期
かれるようになります。
すね。詩人としてスタート
したのは、第一期がこの﹁岩
をつくるようになります。
であるH氏賞を受賞します。
期に分かれているのです。
満州時代は、その前期で
手サナトリウム﹂時代の三
昭夫さんの第二期が始ま
ります。退院してからの昭
和二十八年から三十三年ま
で、つまり二十六歳から三
この一冊の詩集が、二つの
サナトリウム時代に、高
ードとして挿入されていた
がした″というほどに、積極
芽を吹きだしてきます。そ
して、弟さんが〝意外な感じ
七星﹄というお話が出てく
宮沢賢治の童話﹁烏の北斗
的な性格にすっかり変わっ
るのです。これは、他の種
橋昭八郎さんといろいろと
討論をしながら、次第に彼
のノートは充実した詩が書
類のカラスと戦争するお話
ウムという、山岸にある結
核患者の入院する病院です。
昭夫さんの詩人の生涯を振
り返ってみると、三つの時
満州から引き揚げてくる、
です。その中で、カラスの
た。川崎の動員時代から、
この三年の間に、おとなし
マヂエル様、どうか憎むこ
大尉がこう言います。﹁ああ
それぞれの期間に、昭夫
は、彼の詩作にとってみれ
十一歳吏での期間というの
賞を取る元になっている。
右⋮平成6年11月24日
ともに岩手日報より
下⋮平成6年8月31日
乗車虞も故観音転塾喝
く静かな村上昭夫が、積極
さんは、彼を詩人として育
ば、自己形成−自分のスタ
して数年間は、まさしく自
す。昭和三十四年、仙台厚
生病院に入院するのです。
自己確立期
1■臨調療病蹄欄
物哀歌﹄を支持して、受賞
します。そしてその翌年、
てた非常に大事な人と巡り
合うのです。
イルをつくる−そういう時
代だったと思います。非常
ところがここで、昭夫さ
に積極的に彼は活動します。
ところが、病気が彼の体
己形成の時代であり、青春
を誼歌した黄金時代であっ
たのですね。
︰●岡澤敏勇君略歴
⋮旧15回生、旧姓小泉。⋮
という組織をつくりました。
その当時、岩手県の詩人
の仲間が﹁岩手詩人クラブ﹂
んが詩人として確立するた
⋮盛岡農専卒、釜石南高校⋮
⋮火災海上東京支店に12年⋮
⋮で教鞭を執った後、日動⋮
⋮勤める。その後岩手に戻⋮ 彼はそこの幹事となって、
す小岩井農場に就職し、⋮ 一生懸命に県内の詩人たち
⋮ 現 在 同 展 示 資 料 館 館 長 。 ︰ と交流します。
盲た村上昭夫研究のほか
そのなかで、大事な一人
の友人を見つけます。それ
は、岩手詩人クラブの事務
をもっとひどく蝕んできま
局をやっていた大坪孝二さ
⋮不釆方啄木会会長、﹁北婁﹂■
H同人としても活躍中。
岩手高校物理部の火の玉実験
的な、意欲的な昭夫さんに
蜜蟹への堵のせ払い咽呼級押
村上昭夫の生涯について語る岡澤君