東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 ―埼玉支部所属甲種救護看護婦生徒の疎開― 舟 越 五百子 本研究は、15 年戦争末期の 1945 年 6 月から 11 月にかけて疎開した日本赤十字社埼玉支部所属甲 種救護看護婦生徒の教育の状況を明らかにするものである。これまで甲種救護看護婦生徒の疎開に ついては、本誌第 54 集第 1 号、第 55 集第 1 号において、千葉支部所属甲種救護看護婦生徒の疎開に 関する内容がある。 (拙著)その中には千葉支部のほかに埼玉、福島、山梨の 3 支部の疎開も行われ たという 1 枚の資料が発見されたが、教育に関する記載は全くなかった。ところが、2007 年に行わ れた埼玉県平和資料館のテーマ展「戦時救護―日赤看護婦たちの軌跡―」における展示資料の中に、 埼玉支部所属甲種救護看護婦生徒の疎開の事実とその教育内容が確認された。ここでは新資料の提 示とともに、疎開を実際に体験した埼玉支部所属甲種救護看護婦生徒 2 名からの聴き取り調査結果 をもとに、與野赤十字病院で行われた教育の状況を明らかにする。 キーワード:太平洋戦争、疎開、日本赤十字社埼玉支部、甲種救護看護婦生徒、看護教育 はじめに 本研究は、1945(昭和 20)年 6 月から 11 月にかけて行われた日本赤十字社埼玉支部所属甲種救護 看護婦生徒の疎開時の教育の実態を明らかにするものである。これまでに甲種救護看護婦生徒の疎 開に関する研究は、東北大学大学院教育学研究科研究年報(第 54 集第 1 号)および同(第 55 集第 1 号) における、 千葉支部所属甲種救護看護婦生徒の盛岡赤十字病院への疎開に関するものがある。 (拙著) そして、この研究における生徒への聴き取り調査やアンケート結果、盛岡赤十字看護専門学校所蔵 資料から、千葉支部のほかに埼玉、福島、山梨の 3 支部の疎開も行われたことが確認できた⑴。著者 はその 3 支部に所属した甲種救護看護婦生徒を追跡し、2006 年 9 月から 11 月にかけて聴き取り調査 を実施し、その結果、今まで知られていなかった疎開時の看護教育の実態を明らかにすることがで きた。しかし、この 3 支部の疎開に関する資料は全く発見されておらず、その実態は聴き取り調査 の内容から得られたものに限定されていた。ところが、2007 年 7 月から 9 月にかけて行われた埼玉 県平和資料館のテーマ展「戦時救護―日赤看護婦たちの軌跡―」における展示資料(さいたま赤十字 看護専門学校所蔵)の中に、埼玉支部所属甲種救護看護婦生徒の疎開の事実を裏付ける資料を偶然 東北大学大学院教育学研究科後期博士課程 ― ― 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 発見することができた。ここでは、甲種救護看護婦生徒の疎開という戦時下のできごとを捉えるた め、入手した資料の中から疎開に関する新資料の一部を提示する。そして、当時、疎開を実際に体 験した埼玉支部所属甲種救護看護婦生徒 2 名(当時 2 年生)からの聴き取り調査とともに、疎開時の 教育の実態を明らかにする。 1、研究方法 1) 日本赤十字社埼玉支部所属甲種救護看護婦生徒からの聴き取り調査 ⑴ 調査日:2006 年 11 月 14 日(火) ⑵ 対象者:日本赤十字社救護看護婦養成所第 70 回生(疎開当時 2 年生)の埼玉支部所属甲種救護 看護婦生徒 2 名(A氏、B氏) ⑶ 場 所:A氏宅 ⑷ 疎開先:與野赤十字病院附属看護婦講習所 2) 新しく発見されたさいたま赤十字看護専門学校所蔵資料の提示 ⑴ 養成関係本社通牒綴 ⑵ 看護婦生徒教育関係書 ⑶ 養成関係雑款 上記 1) および 2) を互いに補完させながら、疎開の事実と看護教育の内容を明らかにする。 2、結果と考察 1) 入学まで ⑴ 志望動機および受験者の背景 A氏は、 「埼玉の田舎では小学校からさらに女学校に進学するのは 1 人か 2 人だった。優秀で選ば れた人というよりは、例えば村長の娘とか、割と知恵のある人の子どもが通っていた。当時は、頭 が良くてもお金があっても、女学校へは進学させないという家が多かった。また、女学校を卒業し ても、進学も就職もせず結婚するまで家にいるという人も結構いた。そのような中、看護婦養成所 へは好きな人が行くという感じだった。ただ、みんな頭は良かったと思う。」と述べている。また、 A氏の日本赤十字社救護看護婦養成所への入学動機は、兄が傷痍軍人で海軍病院に入院していたた め、 話を聞いたり、 写真を見せられたりするうちに、看護婦になりたいと思ったという。一方B氏は、 「女学校を卒業後に洋裁学校へ通い、救護看護婦をしていた叔母の家に世話になっていた。その一 家が疎開することになったため、田舎に帰るのも嫌だと思って受験した。」という。また、「国に奉 仕するという気持ちで受けた。養成所を卒業したらすぐ出征するという感覚だった。だから、親か ら『どうして日赤に行くのか?もうすぐ戦争は終わるのに。』と言われた。戦争のためにのみ行くと いう感じだった。 日赤に入学するということはとても名誉なことで、奉仕的な気持ちが非常に強かっ た。 」と述べている。他支部所属の救護看護婦生徒の中には、「女学校の先輩が赤十字看護婦として 出征することを誇らしく思った。 」 「女学校に赤十字の制服を身につけた救護看護婦の訪問があり、 それを見てあこがれた。 」 「近所の先輩が救護看護婦で、帰省時の立居振る舞いや言葉遣いなどに接 して、自分もなりたいと思った。 」 「女学校のときは勤労動員で勉強ができなかったため、向学心か ― ― 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) ら入学した。 」 など、様々な動機があった。しかし、共通して聴かれたのは、「女性であっても国家に 奉仕できる仕事がしたい。 」 「人様のお役に立ちたい。」という声だった。戦時中という過酷な状況の 中にあって、 男性と同様に国に奉仕できる、 あるいは誰かの役に立てるというものに最も当てはまっ たのが、救護看護婦への道であったと捉えられる。女性が就業するということに対して大きな抵抗 感があったこの時代に、女性であっても従軍出征し、男性と同様に奉仕できるという点において、 また、看護婦という女性性や母性というイメージが強調された職業という点において、さらには制 服姿への憧憬も加わり、選択されていったものと考えられる。 日本赤十字社看護婦養成所に入学し、甲種救護看護婦を目指す場合の受験資格は、「高等女学校 卒業又は同等以上」 が求められた⑵。しかし、疎開した甲種看護婦生徒が女学校に入学した頃の 1940 (昭和 15)年当時、女子の中等教育機関への進学率は 22%という低い数値であった⑶。高等女学校進 学率について久保義三らは、 「学校数は、実科創設直前の 10 年に 193 校、10 年代末から 20 年代末に かけて急増して 970 校前後(1 道府県 20 校前後)にまで拡大した。30 年前後には学校数にはほとんど 変動がなかったが、 30年代末から急増し始め、 44年には1263校に達した。入学者数は10年に1万8,826 人、30 年に 9 万 2,704 人、44 年に 20 万 7,440 人を数え、学校数をはるかに上回った(以上の数字は『文 部省年報』による) 。しかし、同年齢人口に対する進学率は 30 年代においても 15%に達しておらず、 高等女学校へ進学できたのは学力と健康と家庭の経済力とに恵まれたごく一部の子どもに限られて いた。女子の場合は高等教育機関の種類も数も限られ、進学者数は中学校よりもかなり少なかった。 また、結婚年齢が低かったために、進学も就職もしない者が多かった。」と述べ、女子の中等学校進 学が限られた中で行われてきたことを示している⑷。したがって、進学率の低かった高等女学校を 卒業後、さらに 2 年間看護婦養成所に在籍できる女子は、非常に限られたものであった。また、文部 省調査局によれば、1942 年における各種学校数は、男女別に上位 5 番目までを並べると、次のよう になっていた。 (表 1) [表 1] 各種学校の学科別学校数(カッコ内は男女並置校内数) 女 子 校 裁 助 産 看 男 子 校 縫 445( 1) 珠 算 簿 総 数 記 83 (33) ― 護 243 受 験 59( 4) ― 家 政 91 工 業 52( 1) ― 高 女 88 中 学 45 ― 商 業 66( 4) 宗 教 34( 2) ― 総 数 1129 (82) 総 数 476 (82) 1605(164) (文部省調査局編:各種学校の沿革と現状、1953 年をもとに作表) 学校数を見みると、総数 1605 校のうち男子校 476 校、女子校 1129 校となっており、女子校が男子 校のおよそ 2.4 倍である。最も学校数の多い「裁縫」は 445 校あり、全体の 39.4%を占めている。当時、 「裁縫」 「家政」 に分類されている学校は一般に「花嫁学校」などと呼ばれ、この 2 つを合計した割合は ― ― 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 全体の 47.5%、およそ半数に及ぶ。結婚の準備のために各種学校に入学する女子が相当数存在した ことが理解できる。 「裁縫」に次いで多い「助産看護」は 243 校あり、全体の 21.5%を占めている。す なわち、女子対象の各種学校のうち、およそ 5 校に 1 校は「助産看護」に関する学校であった。ちな みに 1945(昭和 20)年以前の看護婦の養成は、1915(大正 4)年に制定された内務省令看護婦規則を もとに行われている。その中に見られる看護婦の資格要件は、次のとおりである。 第二条 看護婦タラムトスル者ハ十八年以上ニシテ左ノ資格ヲ有シ地方長官(東京府ニ於テハ警視総監以下之ニ倣 フ)ノ免許ヲ受クルコトヲヨウス 一 看護婦試験ニ合格シタル者 二 地方長官ノ指定シタル学校又ハ講習所ヲ卒業シタルモノ 第五条 一年以上看護ノ学術ヲ修行シタル者ニアラサレハ看護婦試験ヲ受クルコトヲス また、看護婦試験の受験には上記第 5 条のほかに、看護婦試験受験用の短期養成所(3 ヶ月、6 ヶ月、 1 年)における修学によるものも認められている。指定看護婦学校の卒業については、高等小学校卒 業後 2 年以上(日本赤十字社は 3 年) 、高等女学校卒業者も入学している。ただし、1944(昭和 19)年 には、戦時特例により就業年限は 1 年(日本赤十字社は 2 年)に短縮されている⑸。 ⑵ 入学試験 入学試験の内容は、身体検査、口頭試問、学科試験(国語、作文)であった。作文問題には「名月や 座頭の妻の 泣く夜かな」という俳句が出題された⑹。A氏は「座頭」の意味が分からず、帰宅してか ら父親にその話をしたところ、同じ町内出身の塙保己一の作品だとわかったという。 入学試験に関する資料には、さいたま赤十字看護専門学校所蔵「養成関係本社通牒綴」中の「昭和 十九年四月末日調救護看護婦生徒採用人員調査表」がある。(表 2)その内容をみると、埼玉支部の受 験人員 83 名に対し、採用人員が 45 名であり、およそ 1.8 倍であった。また、この 45 名の採用人員は、 採用最低標準人員の 28 名に対して 17 名多い数値となっている。全国の数値では、受験人員 6,013 名 [表 2] 1944(昭和 19)年 4 月末日調 救護看護婦生徒採用人員調査表(埼玉支部) 甲種救護 看護婦生徒 埼玉 乙種救護 看護婦生徒 全国 採 用 最 低 標 準 人 員 28 採 用 人 員 45 2,973 受 驗 人 員 83 6,013 採 用 ニ 適 ス ル 人 員 45 4,121 不 38 1,902 採 用 人 採用ニ適スル人員ノ 採用人員ニ對スル過不足 員 1,342 埼玉 26 全国 合 計 埼玉 全国 989 54 2,331 58 2,433 103 5,406 295 13,115 378 19,128 58 5,815 103 9,936 237 7,300 275 9,202 過 ― 1,204 ― 3,364 ― 4,568 不足 ― 13 ― ― ― 13 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵: 『昭和十八年十月起、養成関係本社通牒綴、與野赤十字病院』より 埼玉支部部分を抜粋して作表) ― ― 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) [表 3] 1944(昭和 19)年度 4 月末日調 救護看護婦生徒志願者採用状況調査表(埼玉支部) 甲種救護 看護婦生徒 埼玉 生 徒 志 採 用 願 者 乙種救護 看護婦生徒 全国 埼玉 合 計 全国 埼玉 全国 數 45 2,909 58 2,435 103 5,344 數 83 7,063 295 14,908 378 21,971 志 願 取 消 者 數 志 願 不 參 者 數 7 886 28 1,325 35 2,211 數 7 1,533 62 6,422 69 7,955 數 24 380 4,967 24 5,347 員 45 4,186 60 5,997 105 10,183 員 76 5,864 295 12,103 371 17,967 身 試 採 體 檢 問 用 査 不 不 合 ニ 受 適 格 格 ス 験 高 合 者 者 ル 人 人 女 卒 業 (受驗人員ニ對スル%) 同 上 學 力 程 度 高 ニ 女 高 準 ズ (同) ル 卒 (同) 見 者 女 二 年 終 (同) 了 者 高 等 科 卒 見 (同) 込 者 ― 78 ― ― ― 546 (9%) ― ― 62 3,976 (82%) (68%) ― ― ― 卒 高 90 14 1,342 (19%) (23%) 者 込 等 科 (受驗人員ニ對スル%) ― 上 記 人 員 ノ 内 看 護 婦 又 ハ 産 婆 免 状 ヲ 有 ス ル 者 ― ― ― ― ― ― ― ― 168 14 1,342 (19%) (23%) 546 (9%) ― 62 3,976 (82%) (68%) 163 163 4,409 4,409 (55%) (36%) (55%) (36%) ― 846 (7%) 846 (7%) ― 132 132 6,848 6,848 (45%) (57%) (45%) (57%) 3 ― 15 ― 18 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵: 『昭和十八年十月起、養成関係本社通牒綴、與野赤十字病院』より埼玉支部部分を 抜粋して作表) [表 4] 1944(昭和 19)年 4 月末日調救護看護婦生徒志願者身体検査成績表(埼玉支部) 甲種救護 看護婦生徒 埼玉 乙種救護 看護婦生徒 全国 埼玉 合 計 全国 埼玉 全国 検 査 人 員(人) 76 6,143 278 12,202 344 18,345 平 均 身 長(m) 1.522 1.546 1.527 1.514 ― ― 平 均 体 重(㎏) 49.78 50.48 49.47 48.21 ― ― 平 均 年 齢(歳) 19.07 18.02 17.00 16.73 ― ― 甲 人 (%) 30 (40%) 2,987 (49%) 11 (4%) 4,955 (41%) 41 7,942 乙 人 (%) 23 (30%) 1,969 (32%) 205 (74%) 4,497 (37%) 228 6,466 丙 人 (%) 23 (30%) 1,187 (19%) 62 (23%) 2,750 (22%) 85 3,937 種別 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵: 『昭和十八年十月起、養成関係本社通牒綴、與野赤十字病院』より埼玉支部部分を 抜粋して作表) ― ― 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 に対して採用人員 2,973 名であり、およそ 2 倍の競争率になっている。また、採用最低標準人員 1,342 名に対する 2,973 名の採用人員は、2.2 倍にあたる。 受験者の「學力程度」 については、高等女学校や高等小学校卒業後に受験している者が多い。甲種 救護看護婦生徒の受験人員 76 名のうち、高等女学校卒業見込者が 62 名(82%)と最も多く、同卒業 者は残りの 14 名(19%)である。一方、乙種救護看護婦生徒の受験人員 295 名のうち高等小学校卒業 見込者は 132 名 (45%) 、 同卒業者は 163 名 (55%) となっており、卒業見込者よりも人数が多い。また、 全国の数値と比較してみると、全国の乙種救護看護婦生徒の「學力程度」は、高等小学校卒業見込者 が 6,848 名(57%) 、同卒業者が 4,409 名(36%) となっており、埼玉支部とは逆転した結果が出ている。 (表 3) 身体検査の結果については、同通牒綴の「昭和十九年四月調救護看護婦生徒志願者身体檢査成績 表」に記録されている。この表をみると、平均身長は甲種救護看護婦生徒において、埼玉支部 152.2cm、全国 154.6cm となっており、2cm 以上の差がみられる。平均体重は、埼玉支部 49.78kg、全 国 50.48kg でその差は 700g である。一方、平均年齢は全国平均と比較して 1 歳以上高くなっている。 (表 4) これは、高女卒業見込者が全国平均よりも高く、全体の 82%を占めることから、高女卒業見込 み者よりも高女卒業者の受験生の平均年齢が高かったものと推察される。 ⑶ 入学・退学者数 A氏によると、入学生は全部で 42 名だったが、退学した生徒もいた。1 年生のうちに退学する人 が多かったという。入学試験の結果からは 45 名採用されたことになっているが、実際に入学したの は 42 名であった。採用最低標準人員が 28 名であるのに対し、採用者数がその 1.6 倍の 45 名であるこ とから、 多くの中途退学者を見込んでのことであったと捉えられる。 「昭和十九年人員日報」には、 「入 學四月一日、甲種第一学年三四一名、乙種救護看護婦生徒一三八名」とある⑺。救護看護婦生徒の採 用人員は、本部および東京・神奈川・千葉・山梨・埼玉・福島の規定数は合計 215 名である。しかし、 実際の入学者は 341 名となっており、約 1.6 倍の人員が採用されたことになる。そして、このうち卒 業したのは 209 名であり、おおよそ規定数に近い人員となっている。 ⑷ 日本赤十字社看護婦養成所に入学するということ 入学についてB氏は、 「日赤に入学することはとても名誉なことだった。伯母が入学したときには、 憲兵が短刀みたいなものを腰に下げて家に調査に来た。家庭が悪ければ入学させないということ だったと思う。私の知っている人でも 2 回も 3 回も受けても合格しなかった人がいる。入学希望者 が多く、1,000人位の入学希望者に対して500人位の合格者だったようだ。」と述べた。また、A氏は「外 出時に日赤の制服を着ていると、例えば駅などでどんなに混んでいても先に通してくれた。その他 にもすごく優遇されていた。だから皆誇りを持っていた。」と語った。 ― ― 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) 2) 入学後 ⑴ 寄宿舎 1 年生は 10 畳位の和室に 6 ~ 8 人程度、机が部屋の中心にあり、向き合って勉強した。押入れ半 間が 1 人分で、上半分に布団、下には私物を収納した。2 年生には 4 人部屋の洋室が割り当てられた。 ベッドは藁のマトレスで、鉄製のベッドは「金属類非常回収令」によって既に供出されていた。 点呼は毎晩 9 時に行われた。各部屋には室長と呼ばれる婦長候補者がおり、生徒の面倒をよくみ てくれた。そのほかには、養成部長以下監督する立場の人たちがおり、日曜日に清潔検査にきた。 押入れの襖を真ん中で重ね開きして待ち、検査が無事に終わると外出できた。寄宿舎には大きなお 風呂があったが、毎日は入れなかった。衛生状態が悪く、頭のシラミを一生懸命洗って、櫛で梳い ている人もいた。空襲が激しくなるにつれ、本当に着の身着のままの状態になった。 ⑵ 食糧事情 食事を終えて食堂を出てくるときに、すでにお腹がすいている状況だった。痩せて年寄りみたい な顔になっていた。女学校時代 46kg あった体重が、2 年間で 33kg まで減少した。皆生理が止まり 脱脂綿を一度も買うことなく過ごした。 食糧の差し入れは面会日に行われた。面会日が各支部によっ て決められており、第 4 日曜日が埼玉支部の面会日だった。祝日はどこの支部でも許可されていた。 1944(昭和 19)年の文化の日に大雨が降り、誰にも面会はないだろうと思っていたら、A氏の兄がト ランクいっぱいの食べ物を持ってきた。おいしいものは何もなかったが、皆にあげられるので農家 で良かったなと思った。自分は朝食を抜くなんていうことはできなかったが、その頃は朝ごはんを 食べずに持参し、昼食と一緒に食べて満腹感を味わおうとする人もいた。当時の食糧事情の悪さに ついて、 『日本赤十字社医療センター百年の歩み』には、「物資や食糧は戦時中統制経済下におかれ、 太平洋戦争が終わるころより極度に悪化し、戦後の食糧事情は想像を絶した。これら食糧事情の悪 化に伴い、院内の空地・運動場は、職員達の耕作地となって飢えをしのいだ。患者給食もこれらの 事情で昭和20年2月廃止のやむなきにいたったが、昭和23年頃からやや好転のきざしが見えたので、 同年 2 月中ころ再開の運びとなった。 」と記述されている⑻。昭和 20 年 2 月は第 70 回生の 1 学年末の 時期にあたるが、実習病院では患者給食が廃止され、飢えをしのぐために様々な取り組みが行われ ていたことが理解できる。当時病院は、陸軍の戦時幇助任務にあたっており、入院患者はほとんど が陸軍の軍人であった。その傷病兵に対してさえも給食が廃止されている状況をみると、職員およ び生徒に対する食糧の配給にもその影響が当然あったと考えられる。 3) 教育 ⑴ 講義、試験 ほとんどの講義は、生徒全員を対象に講堂で行われたが、包帯法のように演習のあるものは小さ な教室で教授された。とにかく生徒の数が多く大変だった。講師は医師と在郷軍人の人たちだった。 看護婦免許を取得するための教育は、すべて医師が行った。赤十字の法規は在郷軍人のような人か ― ― 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 ら教わった。昔、 看護婦はうんと程度が低く思われていたため、教科を教えることはなかった。ただ、 寄宿舎を統括している婦長からドイツ語を習った。音楽などは外部の講師を依頼していた。 試験もきちんと行われた。再試験もあった。合格最低点を取れない人は、筆記用具を持って講堂 に集合するようにという放送が行われるときいていたが、実際には聞いたことがなかった。講堂で 科目試験がおこなわれるときには、 「お互いに教えっこしよう。」 「カンニングしよう。」なんていう 馬鹿げた話もあった。実際には行われなかったが、試験科目が多くほんとうに大変だった。B氏の 日記には、 「七月二十一日、今日より一學期の定期試驗」 「七月二十六日、試驗修了勤務場所発表」と あり、1 学期定期試験は 7 月 21 日(金)から 7 月 26 日(水)まで実施され、その直後に勤務(実習)場所 が発表されていることがわかる⑼。日記には試験科目や出題内容については全く記載がない。また、 この間の日記に具体的な記述がないことからも、時間的な余裕がなかったことが推察される。試験 の及第点に関しては、 「看護婦生徒、看護婦長候補生ノ教授及試験採點等ニ関スル訓達」 (明治 42 年 2 月 13 日通達)には、 「一科目五十點、全科目平均六十點以上トス。全科目平均六十點以上一科目 五十點未滿ヲ得落第シタル者ニハ病院長、養成所長ノ見込ニ依リ其ノ落第科目ニ付キ再試驗ヲ行フ コトヲ得」 と規定されている。しかし、戦時措置として養成期間が 2 年間に短縮されていることや度 重なる空襲によって、教授時間が大幅に減少し、規定通りに再試験が行われなかったことも考えら れる。 ⑵ 病院勤務(実習) 入学してすぐの講義ばかりを受けていた頃、病棟見学があった。病院勤務(実習)は 1 年生の 2 学 期から始まり、半日講義、半日病院勤務(実習) だった。指導は上級生が直接行った。1 年生の 1 学期 は毎日 8 時間くらい勉強し、2 年生の終わりまで半日は講義を受けた。実習場所は日赤中央病院の 各科外来、伝染病棟、将校病棟などで、何ヶ月かごとにかわっていった。将校病棟では、飛行機から 落ちて両眼を失った兵隊や下半身不随になった将校などの看護にも携わった。 注射は 1 年生のときにマスターし、どんどんさせられた。A氏は、「自分は逃げてばかりいて 2 年 生になってもできないのは自分ひとりくらいだった。」と述べている。注射の実習をしていたある日、 A氏は怖くて陰に隠れていた。ところが、それに気づいた同級生が、「A はまた逃げたんだろう。」 と指摘した。A氏が「注射の針が体の中で折れてしまったら嫌だからできない。」と弁解すると、同 級生はすぐ蒸留水を注射器に吸い上げ、 「これを私のここ(腕)に刺しな。どんなに腐ったって針が 壊れたっていいから。 」 と手渡してくれた。それでチクッとやってみたらできてしまった。それから はもうやれるようになった。ある日、病院に勤務している卒業生が、「Aさんという人はいるか。」 と言って訪ねて来た。話を聴くと、 被災して入院していた女学生が、 「『Aさんでないと注射は嫌だ。』 と言っているので来てほしい。 」 ということだった。自分はみんなよりうんと遅く注射を覚えたのに、 そういうふうに言われたかと思ったらとても嬉しかった。ここまでこられたのも同級生のおかげで、 本当にありがたいと思った。 本社病院には軍人のほかに一般の人も入院していた。眼科や小児科、伝染病棟もあった。また、 ― ― 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) B氏は「あの頃はよく赤ちゃんが亡くなり、毎日のように霊安室へ運んでいた。伝染病か何かで入 院して、重症のため次の日くらいに亡くなる小児が大勢おり、生徒が搬送していた。」と述べた。看 護婦不足のおり、代替要員が必要であった病院においては、看護婦生徒といえども働き手になった。 「日本赤十字社看護女子短期大学 90 年史」には、 「戦時下の養成」として「日華事変の勃発以来、日赤 病院では傷病兵の収容が年を追って増加する一方、看護婦は次々と戦場の救護に出動して行った。 こうした中で、教育は従来通り続けられたが、教材の不足が生じて、謄写印刷の教科書(救護員養成 部編) も作成している。しかし、臨床実習は傷病兵が多数を占めたのと、看護要員が極度に減少した ために変則的となった。生徒も労働力と見なされたのである。」と記述されている⑽。 ⑶ 成績 各学年を 2 つの組に分け、 「右組」 「左組」と呼んでいた。整列は成績順と決まっており、組長は成 績が一番いい生徒が任命された。入学式の支部別の集合写真でも、前列左下から試験成績のいい順 に並ばされた。最終的にだれが 1 番だったかということは、卒業するときにわかった。卒業生総代 として答辞をよみ、卒業証書を受け取る人がそうだった。答辞原稿は、A氏を含めて 3 ~ 5 人位に 依頼があったが、最終的に総代にならなかった人には声がかからなかった。 ⑷ 今でも覚えている教え 部屋には室長という卒業したての先輩がいて、世話係をしてくれた。1 年生のときの右組の室長 は谷さんと言う人で、 「低くとも 匂わばたれそ 訪ぬらん 人こそ知らね 谷の白百合」と筆で書いて くれた。この歌は、人の知らない奥深くに咲いている花でも、だれかが取りに来てくれるという意 味の歌で、自分はそれを糧として生きてきた。また、教練の由藤先生は「定所物あり、物定所にあり」 ⑾ と言っていた。今でも探し物をするときは、 「定所物あり」といって自分を叱咤しながら探してい る。その他にも森師長の言っていた「誤植なき人生」などもある。悪いことは絶対にしない、それを 押し通してこそ幸せがくると思っている。 ⑸ その他 B氏によると、 「思想的な教育は全く受けなかった。看護そのものを学んだという感じだった。 ただ、軍人勅諭はやらされた。朝礼でみんなに順番でまわってきた。級長と副級長が誓いの言葉を 言い、軍人勅諭を唱えた後に復唱した。速いと『特急』とか言われて怒られた。」と述べている。 4) 空襲 ⑴ 避難 空襲警報が発令されると、入院患者を病室から地下室に避難させなければならなかった。避難時 には着替えの余裕がなかったので、ユニフォームを着て寝ていた。また、靴も履いたまま、布団の 足元に新聞紙を敷き足を出していた。空襲警報が鳴ると真っ暗な階段を、2 人組で担架を持って駆 ― ― 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 け降りた。全く何も見えないので階段の段数を暗記していた。病室までは相当な距離があったが、 1 年生は 2 年生よりも早く到着していなければならなかった。戦況が悪化し、空襲の回数も頻回に なるにつれ、生徒の疲労も極度に達していった。また、食糧も確保されない毎日にあっては、軽度 の疾患でさえ重症化することもあり、入院を余儀なくされたり、帰郷療養するものも多く見られた。 ⑵ 5 月 24・25 日の東京大空襲 3 月 10 日の大空襲以降も東京への爆撃は続けられた。東京の大空襲は 3 月 10 日のものが最も有名 であるが、次いで被害が大きかったのは 5 月 24 日・25 日の空襲であった。攻撃対象は、それまで空 襲を受けていない山の手であった。死傷者は 7,415 名、被害家屋は約 22 万戸に及んだ。このとき日 本赤十字社中央病院の木造建築部分の分病室も焼失した。当時、病院は陸軍の幇助病院となってい たため、患者のほとんどは傷病将兵であったが、分病室には病院職員および救護看護婦生徒が入院 していた。 『日本赤十字社医療センター百年の歩み』には、 「昭和 20 年に入って空襲は苛烈をきわめ、 5 月の 24 日、25 日の両日にわたる大空襲により、本院も焼夷弾を受け、構内に集められた投下弾の 薬筒は 650 個以上にものぼった。しかし大部分は、手早い防火活動で消失を免れたが、直撃弾を受 けた分病室(伝染病棟)および、細菌研究室などが消失した。」とある⑿。3 月から 5 月にかけての空襲 によって東京市街の 50%が焼失した。その後、空襲は各地方都市へと向かった。 ⑶ 本社の疎開 3 月 10 日および 5 月 24・25 日の東京大空襲によって、本社は本格的に疎開を始めた。それは、前 年から本社直轄病院としていた長野県の日本赤十字社本部諏訪病院への外事部・政治部・救護本部 の移転であった。日本赤十字社社史稿には、 「長野支部の所管であった諏訪赤十字病院は本部で買 収した土地建物の合併に伴い、昭和一九年四月一日から、その所属を本部に移し日本赤十字社本部 諏訪病院と改称した。 」と記述されている⒀。当時の状況について寺島は、「諏訪赤十字病院は、昭和 19 年より平成 6 年までの 50 年間、日本赤十字社の直轄病院でした。昭和 19 年当時、日本赤十字社が 諏訪市の布半ホテル、鷺の湯ホテルを買収し、837 名の入院患者を収容しました。昭和 20 年 5 月、日 本赤十字社より島津副社長以下 30 名が来院され、ここに外事部、政治部を開設されました。太平洋 戦争の戦局は益々厳しくなり、焼夷弾が県内にも落ち始めた状況のもとでのことでした。昭和 20 年 8 月 15 日に終戦となり、8 月 30 日に島津副社長以下、本社の方々は日本赤十字社に引き上げられま した。 」と記述している⒁。これらのことから、救護看護婦生徒の疎開は、本社の疎開の後に続くよ うに行われたことが明らかになった。 5) 疎開 ⑴ 疎開の決定 疎開の決定についてA氏は、 「詳しいことは全くわかりませんが、疎開は命令で行われました。『こ こ(東京)にいるとみんな殺しちゃうから』という話は聞きました。養成部長殿だったかどなただっ ― ― 10 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) たか忘れましたが、 『本社へ全部いたんじゃ、みんな殺されちゃうから』と。そういう話はしていま した。 」と述べている。5 月 24 日・25 日の空襲によって被災し、死の危険がごく身近にまで迫ってい たため、日本赤十字本社の疎開が開始されるとともに、救護看護婦生徒の疎開も行われたものと推 察される。また、さいたま赤十字看護専門学校所蔵資料には「日本赤十字社埼玉支部甲種救護看護 婦生徒ハ従前ヨリ日本赤十字社中央病院ニ於テ養成ノ處今回本院ニ於テ養成スベキ緊急ノ命令有之 候」 とあり、疎開が日本赤十字本社の緊急の命令によって行われたことが明確になった⒂。 ⑵ 疎開期間 疎開期間は、1945(昭和 20)年 6 月 28 日から 11 月 15 日までの 141 日間、ただし、1 年生は帰京せず、 1947(昭和 22)年 3 月まで継続され、卒業に至っている。 ⑶ 疎開に向けて ① 演芸会 疎開する生徒のために、婦長が企画した演芸会が行われた。演芸会は病舎(外来)へのあいさつ回 りより前に行われた。当日の出しものは、ハーモニカ演奏や「流浪の民」を歌った人もいた。 ② 病舎(外来) へのあいさつ回り 6 月のはじめに、疎開する埼玉・千葉・山梨・福島の各支部生徒から代表者 1 名がでて、森婦長と ともに各病舎(外来)にあいさつ回りに行った。埼玉支部は組長をしていたA氏が代表だった。全 員きちんと制服を着用していた。普段あいさつするときは、本部が一番右翼にならび、続いて東京・ 神奈川・埼玉・千葉・山梨・福島支部の順だった。しかし、本部と東京・神奈川支部の生徒が疎開し ないため、埼玉支部のA氏が一番右翼になり、疎開者総代となった。そのためどこの外来に行って も疎開の申告しなければならなかった。このあいさつ回りが済んだ後、間もなく疎開した。 ③ 疎開時の荷物 荷物はチッキによる移動が行われたため、 一個30キログラムまでしか持つことを許されなかった。 また、寄宿舎では荷物が残った場合、捨ててしまわなければならなかったので、A氏は空襲で焼け 出され、第二講堂に入院していた夫婦に布団を譲ってあげた。疎開に出発するとき、生徒たちが列 をなして講堂の前を通りかかると、その夫婦が出てきて「ありがとうございました。」と言って、深々 とお辞儀をした。粗末なものだったが、本当に喜んでくれて良かったと思った。 ④ 移動および引率 A氏は「上野駅から高崎線に乗車し、大宮駅で下車した。駅の西口から與野赤十字病院までは徒 歩 10 分位の距離だった。 」と述懐している。7 月 2 日付の院内各科・各部向け通報文書には、「甲種救 護看護婦生徒入所式ヲ来ル七月四日午前八時二十分ヨリ講堂ニ於テ擧行可致 承会時振鈴ニ依リ参 ― ― 11 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 列セラレ度」 とあり、次ページには「六月二十八日午后四時二十分本部中央病院石川書記引率六十一 名来院.夕食后ヨリ五日間ノ休暇ヲ與フ 七月三日午后五時迄ニ帰院ス 七月四日八時三十分ヨリ入 所式擧行 七月五日ヨリ正規授業施行ス」 と書き込まれている(資料 1)入所式の時間が「八時二十分」 から「八時三十分」 に変更になっていることや来院時間が明確に記されていることから、おそらくこ の文書は到着から授業開始までを要約し、後から結果を追記したのではないかと推察される。疎開 した生徒数に関しても、6 月 25 日付の来院前の名簿では、1 年生 36 名、2 年生 30 名、合計 66 名の予定 となっているのに対し、ここには「六十一名来院」と記され、5 名減少している⒃。このことから、お そらく疎開してきた生徒が病院に到着してから記入されたものと捉えられる。 引率者に関しては、A氏、B氏ともに記憶がなかったが、「本部中央病院石川書記引率」とあるこ とから、事務職員が生徒たちを送り届けたことが明らかになった。また、與野赤十字病院到着日(6 月 28 日)の夕食後から入所式前日(7 月 3 日)までの 5 日間(5 泊 6 日)を休暇とし、入所式を 7 月 4 日、 その翌日を正規授業開始とした。 院長 ㊞ 庶務 ㊞ 通 報 甲種救護看護婦生徒入所式ヲ来ル七月四日午前八時 二十分ヨリ講堂ニ於テ擧行可致承会時 振鈴ニ依リ参列セラレ度 昭和二十年七月二日 院 長 ㊞ 各科 ㊞ ㊞ ㊞ ㊞ ㊞ ㊞ ㊞ 各部 ㊞ ㊞ 六月二十八日午后四時二十分本部中央病院石川書記 引率六十一名来院.夕食后ヨリ五日間ノ休暇ヲ與フ 七月三日午后五時迄ニ帰院ス 七月四日八時三十分ヨリ入所式擧行 七月五日ヨリ正規授業施行ス [資料 1] 入所式通報文書 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵『看護婦生徒教育 関係書』より) ⑤ 受け入れ準備 6 月 12 日、日本赤十字社社長公爵徳川圀順から埼玉支部長に対して、「救護員生徒養成配属区分 臨時変更に関する件」が通達されている。 (資料 2)その内容には、「標記ノ件大正六年十二月十九日 本達乙第九號規程ニ拘ラス左記ノ通臨時變更スルニ付六月中成ルヘク速ニ移轉セシメラレ度及通牒 候也」とあり、大正 6 年の本達乙第九號規程から逸脱するが、救護看護婦生徒を急いで疎開させると いうものであった。また、翌日の 6 月 13 日には、日本赤十字社中央病院院長から與野赤十字病院長 に宛てて同様の書類が送付された。そこには、 「本六月十二日付救護第六五號ヲ以テ首題ノ件ニ関 シ本社長ヨリ通牒有之候ニ付其ノ移轉ノ期日、方法等至急承知致度此段及協議候也 追テ當院ノ意 ― ― 12 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) 向トシテハ概ネ左記ノ如クニ致度尚輸送関係方面トノ交渉モ必要有之候ニ付至急御返事相成度申添 候」とあり、移転期間を 6 月 22 日~ 25 日とすること、引率者として病院職員を派遣すること、鉄道 輸送の形をとることが示されている⒄。そして、この文書を受けた與野赤十字病院長は、同日のう ちに千葉支部参事に宛て、文書を送付している。その内容は、本社に依託していた自支部の甲種救 護看護婦生徒を収容することになったため、千葉支部に依託されていた乙種救護看護婦生徒を引き 所 管 甲種第一、二學年 甲種第一、二學年 生徒種別及學年 福島赤十字病院 長野赤十字病院 中央病院 與野赤十字病院 水戸赤十字病院 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵『看護婦生徒教育関係書』より) 廿年六月拾参日 ― ― 13 千葉支部参事宛 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵 『看護婦生徒教育関係書』) 看 拝啓弥々御多祥賀上候陳者埼玉支部甲種救護婦 生徒ハ在来中央病院ニ於テ依託養成ノ処今回命 ニ依リ当院ニ引取リ養成スルコトト相成候処本院ハ現在ノ 處到底之ヲ収容スルノ余地ナク又縣内他ニ適当ナル処 ヲ物色スルモ無之差支候ニ付テハ此際貴部ヨリ依託ノ 乙看生一、二年ヲ貴部内ニ於テ養成相成候様御配 意相願度此段及照会候也 当院ニ於テ甲種引取リノ関係) 追テ御引取リノ件ハ至急相願上ケ( モ 有之 ・ 申添候 [資料 3] 千葉支部参事宛 救養第六五號 埼玉支部 甲 二學年 乙種第一、 新 千葉支部 甲種第一、二學年 舊 福島支部 山梨支部 養 成 擔 任 病 院 昭和二十年六月十二日 日本赤十字社社公爵 徳 川 圀 順 支 部 長 殿 救護員生徒養成配屬區分臨時変更ニ關スル件 標記ノ件大正六年十二月十九日本達乙第九號規程ニ拘ラス左記 ノ通臨時變更スルニ付六月中成ルヘク速ニ移轉セシメラレ度及 通牒候也 追テ移轉ノ期日方法等ニ關シテハ新舊養成擔任病院間ニ於テ 協議ノ上實施相成度申添候 記 [資料 2] 救護員生徒養成配屬區分臨時変更ニ關スル件 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 取って養成してほしいというものであった。 (資料 3)これに対して千葉支部は、救護看護婦養成の ための必須条件である医療機関の設備がないことをあげ、養成継続を申し出ている。また加えて、 本社の意向も確認し、従前どおりの依託養成を主張している⒅。その後、文書のやり取りは見られ ないので、この時点において埼玉支部は千葉支部への返還を断念したものと推察される。 ⑷ 疎開中 ① 学期と試験区分 疎開中の学期と試験区分については、およそ次のような内容であった。(表 5)この表によると、 学期は 3 期に分けられ、ほかに 8 月いっぱいと 9 月初旬の 1 ヶ月余りの期間は「課外講座」として組 み込まれている。そして、この間に交代で 3 日間の夏季休暇が与えられた。A氏は、「入学して初め ての夏休みだった。 」 と述べ、 東京の看護婦養成所における前年度の教育課程では、夏季休暇はなかっ たことを明らかにした。夏季休暇がなかった理由としては、養成期間が 3 年から 2 年に短縮されて いたことによる過密な教育課程に加えて、空襲による授業の中断、応召した救護看護婦の代替要員 としての病院勤務(実習) が行われていたことがあげられる。 [表 5] 学期と試験区分 年度 疎開前 疎開中 昭和 年度 20 第二 7 月 5 日~ 7 月 31 日 8 月 1 日~ 9 月 2 日 (夏期休暇 3 日間) 疎開中 農 耕 患者運搬 体操遊戯 郷土史 修養講座 音 楽 疎開中 疎開終了 第三 4 月 ** 日 ~ 6 月 27 日 6 月 28 日 午後 4 時 20 分、與野赤十字病院来院 夕食後~ 7 月 3 日 午後 5 時まで休暇 7 月 4 日 午前 8 時 30 分 ~ 入所式 第一 課外 講座 甲種救護看護婦生徒 1 年次 (第 71 回生) 甲種救護看護婦生徒 2 年生 (第 70 回生) 学期 8 月 14 日 :熊谷大空襲 8 月 15 日 :終 戦 8 月 17 日頃~:熊谷大空襲救護 11 月中に考査 12 月 8 日:成績提出締切 11 月 6 日:副社長より 「救護看護婦生徒一部復帰ニ関スル件」通達 9 月 3 日~ 12 月 20 日 11 月 15 日、帰京 疎開 継続 ― 1 月 23 日~ 3 月 30 日 年度 学期 甲種救護看護婦生徒 2 年次 (第 71 回生) 昭和 年度 第一 4 月 12 日~ 7 月 20 日 (83 日間) 21 ― 疎開 継続 第二 9 月 1 日~ 12 月 20 日 (92 日間) 1 月 10 日~ 3 月 20 日 (59 日間) 第三 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵: 『昭和十八年十月起、養成関係本社通牒綴』、『看護婦生徒教育関係書』および『養 成関係雑款』をもとに作表) ― ― 14 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) ② 講義と実習 A氏は講義と病棟勤務(実習)について、 「半分くらいずつ行われた。そうしないと勉強をやりき れなかったと思う。いい加減な形で卒業させるということはできないから、結構詰め込みで教育さ れた。怠けていると退学させられるので、夜隠れて押入れに懐中電灯を持ちこんで勉強した。時間 割もあった。 」 と述べている。 前述したような繰上げ卒業や空襲による空襲による教育時間数の減少、 代替要員としての勤務、その他にも過剰な入学人員に対するマンモス教育の弊害など、多くの点で 充分な教育が行われなかった時代であった。したがって、遅れた時間を取り戻すため、詰め込みに よる教育が行われた。それに対して生徒は、灯火管制が敷かれる中にあっても、必死に勉学に打ち 込んでいる。そして、それは実習(病院勤務) の合間を縫って行われた。 まず、疎開直後から使われた教授時間割表を見ると、甲種救護看護婦 1 年生は 1 週間のうち月曜日 から日曜日まで、毎日授業が組まれている。 (表 6)しかし、その中には月曜日の「農耕」のように、 授業とは言っても科目の講義ばかりではなかった。科目は、日曜日を除く月曜日から土曜日までの 30 時限中、19 時限に割り当てられた。これに対して同 2 年生はわずかに 4 時限のみの授業である。 これは、病院看護婦の不足を補うために、労働力として病院勤務(実習)を行う必要があったことと、 元来実施されていた乙種救護看護婦生徒や臨時救護看護婦看護婦生徒の授業への影響を、最小限に 留めるために取られた対応であった。授業は教室 2 箇所で行われている。本来使用されていた教室 を第一教室とし、その他に「○印ハ第二教室(図書室)」とあることから、図書室を第二教室として使 用している。また、 「農耕」 「体遊(体操遊戯) 」 「患運(患者運搬法)」など、教室を使用しない科目を 置き、授業が重複しないように配慮している。約 60 名の生徒が一気に増加したため、それを調整す るためにこのような方法がとられたものと考えられる。 疎開後約1 ヶ月で1学期の授業は終了する。続いて8月の夏期休暇期間に入り、課外授業として「心 身鍛練」の時間割が組まれる。7 月 27 日付の文書には「八月中ニ於テ心身ノ鍛錬修養ニ別紙ノ通リ 課外授業執行可然哉」とあり、8 月に心身の鍛錬修養のため、「農耕」 「患者運搬法」 「体操遊戯」 「修 養講座」 「郷土史」 「音楽」といった科目が選択されていることがわかる。(資料 5)このうちの「農耕」 「患者運搬法」 「体操遊戯」は、疎開直後の 7 月にはすでに甲種および乙種救護看護婦生徒 1 年生や臨 時救護看護婦生徒に対して行われていたが、8 月には甲乙の種別や学年を問わず、すべての生徒が その対象となった。また、新しく加わった科目には「修養講座」 「郷土史」が見られる。このような 教授科目を選定した理由には、8 月という厳しい暑さが続く中での鍛錬が、強靭な肉体と精神を育 て上げるために必要であると考えられたことがあげられる。また、8 月は病院が生徒に対して夏期 休暇を与えた期間でもあった。夏期休暇は生徒に交代で付与されたため、休暇中で不在者がいたと しても影響が少ない教授科目と時間数が配分されたものと考えられる。なお後述するが、終戦前日 に熊谷大空襲があり、救護看護婦生徒たちも救護活動に加わったため、授業は時間割通りには実施 されなかった。 ― ― 15 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 [表 6] 疎開直後の授業時間割 甲種 1 年生 月 甲種 2 年生甲種 2 年生 1 1 2 農 耕 2 2 3 治療介補 3 4 細菌学・看護法 4 4 解剖生理 4 5 衛生法規 5 5 按摩法 5 6 6 国 語 6 1 1 2 2 1 2 臨床検査法 3 4 木 3 手術介輔・外傷 金 4 赤十字事業 2 3 3 3 2 3 4 作 法 6 6 1 1 1 1 2 2 3 3 2 3 4 陸海軍制規 4 5 薬物調剤 5 6 5 4 5 繃帯法 母性衛生大意 土 6 修 身 環境産業衛生大意 1 眼科器械・看護法 6 3 衛生法規 1 5 2 水 甲種 2 年生 農 耕 6 火 甲種 1 年生 1 5 体操遊戯 6 4 患者運搬法 4 5 患者運搬法 5 6 6 日 第一・第三:音楽、第二・第四:裁縫 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵『看護婦生徒教育関係書』、看護婦生徒教授時間割表(昭和 20 年 7 月 3 日文書)より 抜粋して作表) 木 水 火 月 週 乙一(二組) 農 耕 甲二 農 耕 乙二(一組) 農 耕 乙一(一組) 農 耕 甲一 農 耕 自八 ・三〇 至一〇・三〇 乙一体操遊戯 鈴木 乙二患者運搬 甲一郷土史 吉田 岸 甲二修養講座 山根 甲一体操遊戯 乙一郷土史 鈴木 岸 甲二患者運搬 乙二修養講座 吉田 山根 自二・三〇 至四・〇〇 昭和廿年七月廿七日 院長 事務長 主任 八月中ニ於テ心身ノ鍛錬修養ニ別紙ノ通リ課外 授業執行可然哉 金 乙二(二組) 農 耕 自二・〇〇 至三・〇〇 土 甲二 第一・第三 甲一・乙二 日 音楽 山下 第二・第四 乙一・甲二 乙二 備考 [資料 5]八月中ニ於ル課外講座 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵: 『看護婦生徒教育関係書』より抜粋して作 表) ― ― 16 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) 8 月の課外授業の時期を過ぎると、第二学期の授業が組まれた。9 月から 12 月にかけての第二学 期の教授時間割表は、養成部長から講師にあてて、8 月 30 日に提示されている。その内容をみると、 第 2 学期の期間は 9 月 3 日から 12 月 23 日までであり、11 月中に試験を行い、成績は 12 月 8 日までに 提出するように記されている⒆。 (表 7)この文書が通達される 2 日前の 8 月 28 日には、文部省から各 県に宛てて学校授業再開が指示されている。また、8月29日には連合国軍最高司令官総司令部(以下、 GHQ)が設置され、8 月 30 日にはダグラス・マッカーサー元帥が厚木基地に到着している。このよ うな中、終戦から約 2 週間経過したに過ぎなかったが、2 学期の教育はすでに動き出していた。ただ し、この通達が 2 学期開始直前であったことや、教授内容が終戦前とほぼ変わっていないことから、 今後の教育がどのように変化していくのかが不明なまま、とりあえず従来どおりの科目としたとも 考えられる。また、教授科目の多くが救護看護婦になるための専門的な内容であったため、新しい 選択や大きな改正を加える必要がなかったこともその理由としてあげられる。繰上げ卒業によって 養成期間が 3 年から 2 年に短縮されていたため、救護班として派遣された場合に即戦力となる専門 性の高い科目が選択されていたのである。しかし、その科目の中には、後に授業停止となる「修身」 (乙種救護看護婦 1 年生履修) も含まれており、 ほかに「遊戯体操」 (甲種・乙種休顔看護婦 1 年生履修) や「訓話」 (乙種救護看護婦 1 年生履修) も残された。 科目数については、疎開直後の 7 月と比較してみると、甲種救護看護婦 1 年生の 19 科目はさらに 増加して 21 科目になっている。それに対して甲種救護看護婦 2 年生は 5 科目であり、1 科目の増加 である。科目は、 「母性衛生大意」 「衛生法規」 「修身」 「環境産業衛生大意」が前期からの継続、「乳 幼児衛生大意」 が新たに加わった。その中で「母性衛生大意」は、乙種救護看護婦 2 年生の場合、すで に 4 月から教授時間割表に組み込まれていた。すなわち、同じ科目であっても、乙種救護看護婦生 徒のほうが甲種救護看護婦生徒よりも早い時期に講義が開始されている。これは甲種救護看護婦 2 年生の場合、東京においてすでに講義が開始されているはずであったが、空襲によって講義が十分 に行われなかったことが原因であった。乙種救護看護婦 2 年生が 4 月から授業を開始し、7 月には修 了しているのに対し、疎開した甲種救護看護婦 2 年生の授業は乙種救護看護婦生徒よりも遅れてい たことが読み取れる。また、疎開後においても、本来は授業を受けて病院勤務(実習)に臨むべきと ころであったが、人手不足のために病院勤務(実習)が優先され、このような現象が生じたと考えら れる。甲種救護看護婦生徒のうち、特に 2 年生が病院勤務(実習)を行うことができると判断された こともその要因であろう。疎開直後の 7 月 3 日の文書を見ると、「甲看ノ進行情況不明ニ付各擔任講 師實情知悉ノ上按配スルコト」とあり、授業開始にあたって甲種救護看護婦生徒の授業の進行情況 がわからず苦慮していることがうかがえる。ここで述べている進行情況とは、おそらく授業の進度 のほかに知識や看護技術の実践能力に関する内容であると思われる。また、「尚又既定ノ時刻ハ正 確ニ開始シ又終了シ 次ノ課目ニ差障リナキ様為スコト」とり、授業の開始時刻や終了時刻があいま いになる時限もあったと考えられる⒇。これは、病院勤務と兼務している講師(医師や看護婦)の授 業開始時間への遅れによるものが考えられる。 B氏は当時の與野赤十字病院における病院勤務(実習)を振り返って、「疎開時 2 年生だったのに、 ― ― 17 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 手術室勤務(実習)では本物の手術の助手をさせられた。手術中に器械出しをしていて、何を手渡し て良いのかまごついたのを覚えている。疎開前、本社病院で手術室勤務をしていたので、誰かがで きると言ってしまった。與野赤十字病院の医師は厳しくて、うっかり間違ったものを手渡すと、ぱっ と捨てられてしまった。卒業生がいなくて人手不足だったのかもしれない。生徒のうちからあんな ことをさせるなんて、今考えるとよくやらせたものだと思う。」と述べている。このことから、病院 勤務(実習)における臨床場面においては、たとえ資格のない救護看護婦生徒であっても、看護婦と 同程度の知識や技術を求められていたたことが明らかになった。また、救護看護婦生徒はそれに対 して懸命に応えようとしていたことがうかがえる。 [表 7] 第 2 学期の授業時間割表 甲種 1 年生 月 甲種 2 年生 農 耕 1 1 1 2 農 耕 2 2 2 3 治療介輔 3 4 細菌学看護法 4 5 衛生大意消毒法 1 臨床検査法 2 3 3 眼科器械・看護法 3 4 解剖生理 4 5 5 修 身 5 6 6 国 語 6 1 1 1 環境産業衛生大意 2 2 2 乳幼児衛生大意 手術介輔・外傷 4 5 按摩術 5 1 6 赤十字事業 2 金 衛生法規 1 2 3 繃帯法 3 4 衛生勤務要領 4 5 薬物調剤 5 6 木 3 4 6 水 甲種 1 年生 1 6 火 甲種 2 年生 6 母性衛生大意 土 修 身 3 社会事業 4 3 4 5 作 法 5 6 体操遊戯 6 1 1 2 2 3 3 4 患者運搬法 4 5 患者運搬法 5 6 6 日 第一:音楽、第二:裁縫 (さいたま赤十字看護専門学校所蔵『看護婦生徒教育関係書』、看護婦生徒教授時間割表より抜粋・作表) 次に、11 月 15 日、甲種救護看護婦 2 年生が東京に復帰し、そのまま卒業まで残った 1 年生の第 2 学 期の授業についてみていく。 (表 8)その内容は、時間割の曜日や時限に変化はあるが、科目につい ては水曜日 4 時限の「衛生勤務要領」 、木曜日 6 時限の「国語」および日曜日の「音楽」が削除されてい るのみである。また、乙種救護看護婦生徒に対する授業では、土曜日 5 時限の「訓話」や月曜日 6 時 限の「修身」 もそのまま残された。逆に加わった科目は、土曜日 2 時限目の「衛生幇助」である。これ は削除された水曜日 4 時限目の「衛生勤務要領」に替わるものである。時限については、甲種、乙種 ― ― 18 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) 救護看護婦生徒の授業の重なりが 7 箇所みられるが、その科目は「農耕」や「体操遊戯」との組み合わ せになっており、同じ教室を同時に使用せずにすむよう配慮されている。したがって、疎開後から 図書室を第二教室として使用していたものが、このときから元に戻って、1 つの教室で授業が行わ れるようになったことになる。 [表 8] 甲種救護看護婦 2 年生帰京前後における 1 年生授業時間割の変化 前 月 後 農 耕 1 衛生大意・消毒法 1 1 2 農 耕 2 臨床検査法 2 2 3 治療介輔 3 治療介輔 4 細菌学・看護法 4 細菌学・看護法 5 衛生大意・消毒法 1 臨床検査法 3 眼科器械・看護法 3 4 解剖生理 4 解剖生理 5 5 修 身 5 修 身 6 6 国 語 6 1 木 農 耕 1 2 2 農 耕 2 3 3 治療介輔 3 4 手術介輔・外傷 4 手術介輔 5 按摩術 5 按摩術 6 1 1 赤十字事業 2 3 繃帯法 3 4 衛生勤務要領 4 5 薬物調剤 5 6 金 6 赤十字事業 2 水 前 1 6 火 後 繃帯法 土 薬物調剤 6 1 2 社会事業 4 3 4 5 作 法 5 作 法 6 体操遊戯 6 体操遊戯 1 1 2 2 衛生幇助 3 3 社会事業 患者運搬法 4 患者運搬法 4 5 患者運搬法 5 6 日 眼科器械・看護法 6 第一:音楽 第二:裁縫 第二:裁縫 (さいたま赤十字看護専門学校『看護婦生徒教育関係書』、看護婦生徒教授時間割表より抜粋して作表) 第三学期の授業については、1946(昭和 21)年 1 月 7 日付文書において、「看護婦生徒第三学期教 育ハ一月九日ヨリ別紙時間割表ノ通リニテ開始」とあり、1 月 9 日を授業開始予定日とし、考査試験 は 2 月下旬から 3 月上旬の間に行われた。しかし、授業開始日はその後 2 度にわたって延期になり、 最初の予定よりも 2 週間遅れて開始された 。その理由としては、次の二つが考えられる。第一 に救護班の派遣継続のため、看護婦不足の代替として、講義よりも病院勤務(実習)を継続させる必 要があったということである。第二の理由としては、この時期の物資不足、特に食糧の不足をあげ ることができる。疎開していた甲種救護看護婦 2 年生 26 名が 11 月 16 日に帰京し、養成人数自体は 減少した。しかし、それ以上に派遣されていた救護員が戻ってきていた。その対策として、救護看 護婦生徒の冬季休暇を延長し、帰郷期間を増やすことで食糧の確保を行ったとも考えられる。A氏 ― ― 19 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 は疎開期間の食糧事情について、 「サツマイモの葉っぱのお味噌汁がよく出された。臭くてまずかっ たので、黒板にそれを 2 杯あげると書かれても、もらったことがなかった。葉っぱだけを拾って食 べて、汁は飲まなかった。東京よりも與野のほうが食糧事情は悪く、疎開した先はなんと粗末なん だろうと思った。ふだんの御飯はちゃんとでていたが、空襲のあとは小さいジャガイモが 7 つとい うこともあった。 」と述べている、このことから疎開前の東京よりもさらに食糧事情が悪化していた ことが明確になった。 ここで第 3 学期の看護婦生徒教授時間割表を見ていく。(表 9)まず科目名に変更があり、「修身」 が「公民」 に替わった。1946(昭和 21)年度の「日本赤十字社看護婦生徒教育課程及概定時數表」には、 科目名「公民科」として「民主主義教育ヲ主トス」とある。したがって、科目名の変化とともに、内容 も民主主義教育を主としたものになった。講義の対象者は 1 年生であり、時間数は 40 時間であった。 [表 9] 第 3 学期の授業時間割比較 甲種 1 年生 1 傳染病及其他 主ナル疾患 2 3 月 火 4 乙種 1 年生 1 2 社会事業 看護法 甲種 1 年生 薬物調剤 3 木 4 乙種 1 年生 1 1 手術介輔 外 傷 2 2 学校衞生 3 3 4 解剖生理 耳鼻科看護法 4 5 5 救急法 眼科看護法 5 公 民 5 6 6 体操 6 国 語 6 担架術 農 耕 1 農 耕 1 1 救急法 眼科看護法 1 2 農 耕 2 2 食餌法 栄養 2 3 3 食餌法 傳染病及其他 主ナル疾患 金 3 3 治療介輔 産婦人科看護法 4 作 法 4 手術介輔 外 傷 4 4 5 按摩術 5 5 作 法 5 体 操 6 6 6 国 語 6 赤十字事業 1 1 2 2 3 3 4 4 公 民 5 5 訓 話 1 担架術 1 2 赤十字事業 2 3 治療介輔 産婦人科看護法 3 水 4 5 6 4 薬物調剤 解剖生理 耳鼻科看護法 土 5 6 社会事業 按摩法 6 日 6 第一(甲) 第三(乙) 音楽 第二(乙) 第四(甲) 裁縫 (さいたま赤十字看護専門学校『看護婦生徒教育関係書』、看護婦生徒教授時間割表より抜粋して作表) ― ― 20 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) そもそも日本赤十字社における「修身」の講義は、1898(明治 31)年 6 月から始まっている。また、 1904(明治 37)年には「本部及び支部準備看護婦規則」を廃止して制定された「日本赤十字社看護婦 養成規則」に則り、従来の教科目のほかに正式に副科として加わった。さらに、1910(明治 43)年 4 月には、 「甲種看護教程(上・下巻) 」 が刊行され、 その上巻の第一編に「修身」が位置づけられた。「公 民科」への科目名の変更は、GHQ が 1945(昭和 20)年 11 月 1 日の公民教育刷新委員会を設置し、12 月 22 日の「公民教育に関する答申」をうけて、12 月 31 日に指令した「修身、日本歴史及ビ地理停止 ニ関スル件」 によるものである。この指令によって、修身の授業停止、従来使用していた教科書の収 集破棄、新教科書の作成が行われた。しかし、実際に文部省から各都道府県に通達されたのは、「修 身、日本歴史、地理の停止に関する GHQ 指令について通達」として、翌年の 1946(昭和 21)年 1 月 11 日であった。それは、この 3 学期の授業時間割が提示された同年 1 月 7 日よりも後のことであった。 したがって、GHQ の指令が出されてすぐ、文部省の通達を待たずに「修身」から「公民」への科目名 の変更が行われたことになる。しかし、救護看護婦教育の科目名としての「公民科」は、終戦前にす でに存在していた。1942(昭和 17)年 4 月 1 日改正施行の日本赤十字社救護員教育要領の附表「救護 看護婦生徒教育時数概定数」には、 「公民科」という科目名が見られる。時間数は 60 時間で、第 1 学 年に 40 時間、第 2、第 3 学年に各 10 時間があてられている。また、この概定表はさらに繰上げ卒業 に対応して、1944(昭和 19)年 3 月に再改正され、 「公民科」 「教育」 「心理学」を合わせて 70 時間になり、 250 時間削減された。繰上げ卒業に伴う養成期間の短縮によって、より救護場面に必要な科目が優 先されたためと考えられる。科目の内容説明には、「公民科ハ我国体トノ関係ヲ明確ニシ公共奉仕 協同生活ノ訓練ニ重キヲ置キ以テ個人ノ徳性ヲ養ヒ本社救護員精神ノ完成ニ資スル如ク指導スルヲ 要ス」とある。したがって、 「民主主義教育ヲ主トス」として教授された戦後の科目内容とは全く 異なっていた。 終戦後になって授業時間数が減少している時間割としては「農耕」があげられる。もともと「農耕」 は科目名ではないが、食糧不足を補うために授業時間割表に計画的に組み込まれていた。その時間 数を見ると、乙種救護看護婦 1 年生が火曜日の 1・2 時限目にあったものが、金曜日の 1 時限目のみに 減少している。これは冬季のため農耕作業が少なくなったこともあるが、乙種救護看護婦の養成が 中止されることも影響した可能性がある。乙種救護看護婦の養成は、戦時救護に必要な救護看護婦 の需要に対して供給が追いつかなくなったため、臨時措置として開始したものである。しかし、終 戦となってその供給の必要がなくなり、1945(昭和 20)年入学生の卒業を最後に、養成を終了した。 第 3 学期の時点において、甲種救護看護婦 1 年生の「農耕」の時間がそのまま継続されているにもか かわらず、なお食糧不足が続いている中、乙種救護看護婦 1 年生の「農耕」時間が削除された理由に は、教育終了を確実に視野に入れなければならなかったからではないかと推察される。また、日曜 日の授業を除いた乙種救護看護婦 2 年生の授業は、月曜日第 6 時限の「公民」と金曜日第 6 時限の「衛 生法規」の 2 時限のみになっている。これはおそらく不足していた病院の労働力として駆り出され たことによるものと考えられる。もともと、乙種救護看護婦 2 年生の授業時間数は少なかった。東 京から甲種救護看護婦 1・2 年生が到着する前の授業時間割表を見ても、日曜日および 8 月を除く 1 ― ― 21 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 週間 36 時限のうち 4 時限(母性衛生大意、環境産業衛生大意、衛生法規、修身)の授業である。これ が東京から疎開してきた救護看護婦生徒が合流した後にも同様の科目内容で継続され、4時限となっ ている。2 学期になると科目の一部が変更になり、「乳幼児衛生大意」 「修身」 「衛生法規」の 3 時限と なった。これは、疎開生徒が帰京した後も継続し、同様の科目内容で 3 時限となっている。3 学期に は「修身」が「公民」に変化し、3 時限(乳幼児衛生大意、公民、衛生法規)となった。このことから、 乙種救護看護婦生徒の教育課程は、1 年次のうちにそのほとんどの科目を終了し、2 年次には実務練 習(勤務)という形をとっていたと考えられる。もともと甲種救護看護婦を養成していなかった與 野赤十字病院においては、乙種救護看護婦 2 年生がそれに替わって勤務しており、その役割は大き かったと考えられる。特に、 東京から疎開してきた甲種救護看護婦 2 年生が 11 月に帰京してからは、 その役割は前にも増して重要になったと考えられる。 ここで時間割の組み方を見ていくと、甲種救護看護婦生徒と乙種救護看護婦生徒のほとんどの科 目が重複しないようになっている。また、同じ時限に甲乙種両方の授業が組まれているときでも、 一方が教室を使用しない科目となっている。また、合同授業は全く行われず、甲種救護看護婦生徒 と乙種救護看護婦生徒の授業を明確に区分して行っていることが分かる。他支部においては、乙種 救護看護婦の養成が開始になった時点において、すでに合同授業が行われているところもある。し かし、與野赤十字病院においてはそのようなことは行われず、甲種・乙種救護看護婦生徒にとって 最も良い形で授業が行われていた。その理由としては、甲種・乙種救護看護婦生徒の授業の理解度 の差、教室の収容人員の限度の問題や教育進度に差異があったことなども考えられる。この時期に 必要とされた救護看護婦の増員の対象は、甲種救護看護婦ばかりではなく乙種救護看護婦、臨時救 護看護婦にも及んだ。それに加えて疎開救護看護婦生徒に対しての教育を継続しなければならな かった。そのような中にあって、最善の教育方法を模索した結果がこの時間割に表れている。 ③ 教科書 疎開先には教科書がない状況であった。実際に東京から携行した教科書は、「赤十字讀本」および 「甲種看護教程(第一~三巻、別冊) 」であった。その冊数は、赤十字讀本 16 冊、甲種看護教程第一・ 第二巻各 17 冊、同第三巻 16 冊、同別冊 15 冊であり、1 年生の人数に対しておよそ半分にあたる。し たがって、おおよそ生徒 2 名に対して 1 冊の配布であった。 ④ 空襲 疎開後の空襲は、地方に向かった。B氏は「空襲になると患者を担架に乗せ、本社病院の担架ケ 原のような広い原っぱの松の木の下に運んだ。疎開中には、空襲で負傷して搬送されてきた女学生 の手術に立ち会ったこともある。腹中に弾がかけめぐり、腸がザクロのようになっていた。手の施 しようがなく手術中に亡くなってしまったが、本当につらかった。空襲で亡くなる人が多く、病院 の霊安室は、引き取り手のない遺体でいっぱいだった。遺体が腐敗し、血が吹き出して箱の中に流 出した。霊安室がいつも汚れていたのをおぼえている。非常に恐ろしかった。」と述べ、疎開後の空 ― ― 22 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) 襲による悲惨な状況やその対応の困難さについて明らかにした。また、空から落ちてきたのは爆弾 だけではなかった。A氏は「大宮に疎開したとき、米軍機から大量にビラがまかれ、皆で拾った。崖っ ぷちから足を 1 歩外に出している人の絵が描かれてあり、日本の状態は今こうなんだと書いてあっ た。 『板垣死すとも自由は死せず』という言葉も見られ、日本はもう負けているんだということや、 できるだけ早く無条件降伏するようになどと印刷されていた。」と述べ、継戦意欲を失わせるために 米軍機が大量に投下した対日宣伝ビラ(伝単) を拾ったことが明らかになった。 ⑤ 終戦 A氏は終戦について、 「疎開しているときにはじめて夏休みがあり、家に帰っていた。終戦前日 に熊谷に大きな空襲があり、多くの人が亡くなった。3 日間の夏休みが終わって病院に戻ると、す ぐ熊谷へ救護に行くように言われた。熊谷空襲後の救護活動は、臨時救護所となった女学校で行わ れた。 真夏で気温が高く、 救護所では生きている人間にウジが這っているのを見た。到着した日には、 時限爆弾で重症を負った人を救護するために、医師と看護婦 2 ~ 3 名くらいで自転車をこいで現地 へ向かった。口が裂けて皮膚がぺらぺらと剥離し、首も半分くらいしかつながっていなかった。」 「玉 音放送は誰も聴かなかったと思う。敗戦の放送があるなどとは夢にも思わなかった。当時、新聞紙 面も縮小されており、どの新聞にも玉音放送があるなどということは書いていなかった。全く気づ かなかった。 」と述べ、救護看護婦生徒による悲惨な救護活動の状況や、何も知らされていなかった 玉音放送のことなどが明らかになった。この救護活動については埼玉支部にも記録がなく、A氏か ら得られた情報によって、新しい事実が加えられることとなった 。 ⑥ 1 年生の脱走 A氏によると、 「終戦から 2 週間ほど経過した 8 月末頃、疎開していた救護看護婦 1 年生全員が脱 走した。当時自分は 2 年生の組長で、養成部長に対して非常に申し訳なく思い、巻紙に下手な字で お詫びの手紙を綴った。それを知った副連絡生が、 『どうして勝手にそんなことをするのか。』と言っ て怒った。 」 という。A氏は「 『あとで副連絡生に話せばよかったのだ。』と思ったが、その時は頭に浮 かばなかった。2 年生はみんな気がそろって真面目で、脱走なんていう感じの人は 1 人もいなかっ たのに、1 年生はどうしたのだろう。 」と付け加えた。ここで他支部生徒の状況を見てみると、8 月 22 日には盛岡赤十字病院へ疎開した千葉支部救護看護婦生徒 2 年生 9 名が脱走し、盛岡駅で保護され ている。また、11 月 9 日には、長野赤十字病院へ疎開していた山梨支部救護看護婦生徒の 2 年生が 脱走して、東京に戻っている。脱走はそれぞれの場所で起こっていたのである。 ⑦ 帰京の決定 埼玉支部には疎開した救護看護婦生徒の復帰命令に関する文書は残されていないが、盛岡赤十字 病院あてに出された 1946(昭和 20)年 11 月 6 日付文書の中には、復帰対象者として「埼玉支部 甲種 第二学年生徒」の文字が読み取れる。 (資料 6)また、この資料を受けて出されたと考えられる 11 月 ― ― 23 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 12 日付の與野赤十字病院長の秘密文書において、11 月 15 日に復帰予定が通達されている。(31)こ れらの文書から、本社は 2 年生のみの帰京を決定したことになる。さらに、「本社養成関係通牒綴」 に残されていた甲種救護看護婦生徒 2 年生の本社復帰後の「看護婦生徒教授時間割表」 (第 2 学期、 第 3 学期)には、 「甲一」 (甲種救護看護婦生徒 1 年生)の文字がそのまま残されており、脱走した 1 年 生には東京への復帰命令は出されず、 與野赤十字病院にそのままとどまっていたことがわかる。(前 掲表 8、表 9)したがって、1 年生はその後も與野赤十字病院において教育を継続され、卒業に至るこ とになった。 救養第一二六號 昭和二十年十一月六日 日本赤十字社副社長 盛岡赤十字病院長殿 救護看護婦生徒一部復帰ニ関スル件 豫テ支部病院ニ移管養成中ノ救護看護婦生徒中左記ヲ本社中央病院 ヘ復帰セシメラルルニ付成ルヘク速ニ之カ実現方御配意相成度候也 追テ帰還ノ期日、方法等細部ニ関シテハ新舊両擔任病院長ヲシテ直接 協議セシメラレ度尚左記以外ノ生徒ハ現在ノ儘養成スル候ト 承知相成度申添候 記 埼玉支部 甲種第二学年生徒 千葉支部 甲種第一、二学年生徒 山梨支部 甲種第二学年生徒 福島支部 甲種第一、二学年生徒 本書通牒先 埼玉、千葉、山梨、福島、各県支部 本社中央、與野、福島、長野、盛岡各赤十字病院長 [資料 6]救護看護婦生徒一部復帰ニ関スル件 (日本赤十字社岩手支部「昭和十八年以降救護看護婦生徒教育関係書類 綴」、昭和二十年十一月六日付文書) 6) 帰京後 帰京後の東京は、埼玉にも増して厳しい物資不足であった。この食糧難について、当時日本赤十 字社総裁をしていた高松宮宣仁親王は、1945(昭和 20)年 11 月 28 日の日記に、「(前略)日赤病院長 会議(昨日ト今日)傍聴 看護婦生徒ノ食糧不足ノタメ休暇ニカヘシテ家デ食ベテオ土産モツテ皈 ツテ来ルト云フ対策ノ所多シ。困ツタコトナリ。 」と記録している。この 11 月 28 日という日付は、 疎開していた生徒が帰京しておよそ 2 週間後のことである。したがって、同様のことが疎開先から 戻った生徒たちにも待ち受けていたと考えられる。 ― ― 24 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) おわりに この節で明らかになったことの一つには、疎開を決定したのは本社であったということである。 聴き取り調査の段階においては、 「本社は生徒が疎開してしまうと病院で看護婦の代わりとして働 く人がいなくなるので困ったと思う。だから、支部が生徒を返してくれということだったと思う。」 と述べた人がいる一方で、 「疎開する頃には入院患者が少なくなっていたので、働く人はそんなに いなくてもよかった。 」と語った人もあり、事実は明確になっていなかった。しかし、新たに発見さ れた資料から、與野赤十字病院では本社からの疎開の文書が到着すると、あわてたように千葉支部 に文書を送り、委託生として受け入れていた千葉支部所属乙種救護看護婦生徒の突然の引き取りを 要求している。このことから疎開の指示が急遽本社から通達されたことが理解できる。また、埼玉 支部および與野赤十字病院の寄宿舎の収容人員を見ると、救護看護婦養成人員の急激な増加ととも に、寄宿舎はすでに過密状態であった。そのため、さらなる受け入れは困難であったと考えられる。 さらに、疎開の時期をみると、5 月に本社の長野への疎開が行われ、それに続く形で 6 月に救護看護 婦生徒の疎開が開始されている。したがって、疎開は本社の要請によって急遽行われたものと判断 される。 疎開の形態については、学童疎開のように縁故疎開を最初につのり、その結果疎開に行くという のではなかった。支部ごとにまとめて移住させるという方法をとった。その理由としては、危険を 回避するという第一目標のほかに、あくまでも疎開中においても教育を継続させようとする意図が あったということが考えられる。そして、教育を実際に行うことができる受け入れ施設があること が条件であった。そのような理由から、空襲によって施設が全焼した横浜、東京、神奈川の各支部 の生徒には、疎開命令がでず、終戦までとどまったのである。 疎開中の教育については、 「看護婦生徒教授時間割表」が作成されており、それに沿って授業が行 われていた。疎開看護婦生徒のために作成されたこの時間割表は、今回新しく発見された資料であ り、疎開時に実際に使用されたものである。しかし、時間割がある一方で、実際には救護班派遣の ために不足していた看護婦の代替として、病院勤務(実習)が行われていたことも明らかになった。 また、その活動範囲は與野赤十字病院内だけではなく、熊谷空襲においては救護班の一員として実 際の救護活動にも参加していた。これは埼玉支部の記録としては全く残されていないものであり、 聴き取り調査から明らかにされた新事実である。 今回、聴き取り調査結果では記憶にあいまいな点があったが、新資料の発見によって明確になっ ていなかった部分が補われた。また、聴き取り調査からは、実際に行われた生活や救護活動におけ るエピソードなど、文書には現れない実態が明らかになった。課題としては、当時の 1 年生はまた 異なる形において教育を受けたという結果も得られたので、今後は 1 年生を対象に研究をすすめ、 疎開の全体像を把握していきたい。また、疎開することができなかった救護看護婦生徒の教育実態 についても、さらに調査していきたい。 ― ― 25 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 【註】 1) 盛岡赤十字看護専門学校所蔵:日本赤十字社岩手支部「昭和十八年以降救護看護婦生徒教育関係書類綴、昭和 二十年十一月六日付文書 . 2) 甲種救護看護婦受験資格は、日本赤十字社救護看護婦生徒救護看護婦長候補生養成規則に則り、「高等女学校卒 業又は同等以上」が求められた。 3) 文部科学省:日本の成長と教育(第 2 章)教育の普及と社会経済の発展、1962. 4) 久保義三ほか編著:現代教育史事典、p.54–55、東京書籍、2001. 5) 平尾真智子:資料にみる日本看護教育史、p.160、看護の科学社、1999. 6) 塙保己一(はなわ ほき[の]いち) :1746年6月23日 ‒1821年10月7日。江戸時代の国学者。武州児玉郡保木野村(現、 埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。幼少の頃から視力が弱く、7 歳のとき失明。歌学を荻原貞辰に、神道・国 学を川島貴林に学び、1793 年に和学講談所を開設。『群書類従』を編纂した。歴史史料『史料』をまとめ、東京大学史 料編纂所に引き継がれている。この句は、せっかくの名月も盲目の夫は見ることができないのだと妻が嘆き悲しん でいる姿を詠ったものである。 7) 日本赤十字看護大学史料室所蔵:昭和十九年人員日報、1944. 8) 日本赤十字社医療センター:日本赤十字社医療センター百年の歩み、p.45、1991. 9) B氏の日記:1944(昭和 19 年)3 月 31 日(金)~ 7 月 28 日(金)、入学から第 1 学年の第 1 学期終了までの日々の出来 事や短歌などが記録されている。 10)日本赤十字社看護女子短期大学:日本赤十字社看護女子短期大学 90 年史、p.30‒31、1980. 11)この言葉は海軍兵学校で使われていたもので、常に定所に物があるようにしておかなければならないという意味 を持っていた。戦時中は例えば拳銃や弾が暗闇でもどこにあるかが察知でき、すぐに手に取れるようにとの教訓で あった。 12)前掲 8)、p.45. 13)日本赤十字社:日本赤十字社社史稿、第 5 巻、p.246、1969. 14)財団法人日本赤十字社看護師同方会:同方会会報、財団法人設立 50 周年記念特集号、看護雑感、寺島敏子、p.81、 2007.12.1 発行. 15)さいたま看護専門学校所蔵: 『看護婦生徒教育関係書』昭和廿年六月廿五日付文書より抜粋。 16)前掲 15)、昭和二十年七月二日付文書『通報』より抜粋。 17)前掲 15)、昭和二十年六月二十五日付文書『救護員生徒養配属區分臨時変更ニ関スル件』より抜粋。 18)前掲 15)、昭和二十年六月拾参日付文書(赤千第二二九九號)より抜粋。 19)前掲 15)、昭和二十年八月卅日付文書(講師宛)より抜粋。 20)前掲 15)、昭和廿年七月三日付文書より抜粋。 21)前掲 15)、昭和廿壱年壱月七日付文書(講師宛)より抜粋。 22)前掲 15)、昭和二十一年一月十四付文書(講師各位宛)より抜粋。 23)前掲 15)、昭和二十一年一月二十二日付文書(講師各位宛)より抜粋。 24)前掲 10)、p.92―95. 25)前掲 13)、p.129. 26)前掲 13)、p.127. 27)前掲 15)、号外『移転生徒ニ対スル書類送付ノ件』より抜粋。 ― ― 26 東北大学大学院教育学研究科研究年報 第 57 集・第 2 号(2009 年) 28)日本赤十字社埼玉県支部:赤十字埼玉百年史、p.238、1988. 29)寺島トヨ:蚊取り線香の光で分娩(日本の空襲 ‒ 二)、p.282、三省堂、2003. 30)鯨井治郎:爆撃下の熊谷(日本の空襲 ‒ 二)、p.254‒255、三省堂、2003. 31)前掲 15)、昭和二十年十一月十二日付文書より抜粋。 32)高松宮宣仁親王:高松宮日記(第八巻)、昭和二十年十一月二十八日文書、中央公論社、1997. ― ― 27 太平洋戦争下における日本赤十字社の看護教育 Japanese Red Cross Nursing Education During Fifteen year war: The Evacuation of Saitama Branch Class A Relief Nursing Students Ioko FUNAKOSHI (Graduate School of Education, Tohoku University, Postdoctoral Course) This study examines the educational conditions of class A relief nursing students belonging to the Saitama branch of the Japanese Red Cross after the evacuation at the end of the fifteen year war (culminating in World War II), during the period of June through November 1945. Issues concerning the evacuation of class A relief nursing students from the Chiba branch have been previously studied by the author in vol. 54 no. 1 and vol. 55 no. 1 of this publication. Among the records examined at that time was a one-sheet source describing evacuations for the Saitama, Fukushima, and Yamanashi branches in addition to Chiba, but this source has no information on education at all. However, among the displayed documents at the themed exhibit of the Peace Museum of Saitama held in 2007 entitled “Wartime Relief: Japanese Red Cross Nurses,” a source describing the evacuation circumstances and post-evacuation education for Saitama class A relief nursing students was confirmed. This paper presents this new material along with the results of interviews with two former Saitama class A relief nursing students who experienced the evacuation, and further discusses the condition of education provided at Yono Red Cross Hospital. Keywords:Fifteen year war, evacuation, Japanese Red Cross Saitama Branch, Class A Relief Nursing Students, nursing education ― ― 28
© Copyright 2024 Paperzz