敦賀における昆布加工業の歴史

敦賀における昆布加工業の歴史
一、はじめに
静
香
酢陀浸し乾燥させた後、飽万で削剥し、藤昆布やとろろ昆布を製造
するものである o後 者 は 原 料 を そ の 主 ま あ る い は 緑 色 染 を ほ ど こ し
乾燥させて細く刻んだものである o 細工昆布は主として園内向であ
三、昆布加工業成立の背景
り 、 刻 昆 布 は 用 途 が 広 い た め 中 国 陀 も 輸 出 さ れ た o 両者ーとも用いる
へ
2)
道具は飽万・釦であり、簡単在家内手工業である o
り、地場産業ということもできる o寒 海 の 産 物 で あ る 昆 布 が 何 故 敦
北海道の昆布が加工されるには、松前貿易が行われることが必要
。(3)
であるが、敦賀では一五世紀後半応仁・文明。乱の頃既に昆布をは
義 景 (黒印)
就在陣之儀、蒲穂子持昆布一折祝着之至候、委細幸乗坊可申候、
じめ、緋・鮭・鰭などが松前より移入されていた元亀年間(一
4)
へ
五七O l七 二 ) の も の と 思 わ れ る 朝 倉 義 景 の 書 伊 氏 は 、
十月廿二日
上々謹一マ一口
国(中略)昆布六百斤、索昆布細昆布一千斤(中略﹀右以正税交易/
松前慶広書状
︺
は次のような文書かある o
(5
左いだろうか o 下 っ て 慶 長 年 間 ( 一 五 九 六 ! 一 六 一 四 ) の 初 め 頃 に
布を贈られたととがわかる o 既に両品が敦賀で流通していたのでは
とあり、敦賀陀障を置いた折に気比神宮の神宮より、かまぼこ・昆
平松幸熊殿
芯一す越前敦賀、迫敦賀古一世干若州、若州小浜市人製レ
船 御 下 候 ニ 付 而 、 大 鉄 抱 送 給 候 。 世 間 々 畏 入 候 o 其以来戸懸-一御目、
尚々任見来昆布拾駄、御音信計二一候。
之ロ巧一若狭昆布一 j 古狭﹂広一送干京師、京師市人製ヤ一口ヴ京昆布(後略ご
と あ ち 、 松 前 産 昆 布 が 敦 賀 ・ 小 浜 を 経 て 京 K送 ら れ 、 小 浜 ・ 京 で は
御床布存候。今度大風吹侯而、船共破損侯へ共、貴所之船無一何事一
:-o(1)
既 に 何 ら か の 形 で そ の日力 工 力 行 わ れ て い や 加 工 業 は 江 戸 中 期 以
URA
↑馳走、失一一本意-候。何様不
候儀、戸為ニ御大屋喉。此節何 K ても不
κは﹁Am前市
布 が 主 流 を 占 め る o江 戸 中 期 の ﹁ 本 朝 食 鏡 三 水 菜 ﹄ ( 元 禄 年 間 )
その後一五世紀の松前への進出により、 江 戸 時 代 以 降 は 松 前 産 昆
布生産置と左っている。
品川二斤、細昆布百廿斤、広昆布叶斤(後略)﹂とあり、陸奥田が昆
進、其運功食並用正税﹂、巻三十九内膳の年料にも﹁陸奥国索昆布
関 係 の 記 事 を み る と 、 ﹁ 延 喜 式 ﹄ 巻 二 十 三 民 部 の 交 易 雑 物 K ﹁陸奥
昆布は日本では北海道・青森・岩手が主産地である o 古代の昆布
二、毘布及び昆布加工業
い
。
賀の地で加工されるに至ったのか o本稿ではその歴史に触れてみた
であり、昆布を形どった菓子類も製造されている o市場も広範であ
敦賀の水産加工物の名産にかまぼこがあるが、昆布加工業も盛ん
道
後、細工昆布と刻昆布の二つに分化する c前者は上質の原料を用い
2
7
海
斗川川西可-市承一候。恐々謹言。
八月十九日
越後屋兵太郎殿
参御報
ζと を 示 唆 す る o
松前志摩守
慶広(花押)
松 前 藩 主 か ら 敦 賀 の 船 問 屋 越 後 屋κ宛てたもりであり、 両 者 の 取 引
が多かった
であるかは判然とし左いが、松前貿易の進展とともに昆布加工業の
萌芽がみられることは確かである o
四、江戸時代の毘布加工業
昆布加工業が始まった年代をみると、刻昆布は大阪で享保六(一
七 二 一 ) 年 頃 、 江 戸 で は 文 政 年 間 ( 一 八 一 八 i 二九)以後のことで
二
一 ) K始められ、
ある o 敦賀は江戸より円十く宝暦年間(一七五一 l六
寛政三(一七九一)年に伊藤平右衛門が長崎より本格的な製法を伝
細工昆布も敦賀では宝暦年間
(日)
習して来るに及んで盛んに左った o
に高木善兵衛によって創始され、水口弥五郎、丸屋六兵衛、 碗呈茂
敦賀港の発展には近江商人が強く関係してなり、松前貿易にない
て も 文 様 年 間 ( 一 五 九 二 l九 五 ) 陀 八 幡 の 岡 田 弥 右 衛 門 が 松 前 城 下
兵衛等が続いた o
﹁蝦夷地御用会所﹂を設けた o こ の 会 所 の 箱 館 御 用 掛 に 松 前 藩 の 村
寛政十一
(日以)
に 庖 舗 を 構 え 、 慶 安 年 間 ( 一 六 四 人 l五 一 ) に は 西 川 伝 右 衛 門 、 回
彼ら近江直人の荷を﹁祢品川伊﹂といい、特に松前藩より便宜と特権
附新助、建部七郎右衛門等が松前に渡航し、場所請負人と左った o
上伝兵衛がなり、彼の推挙により以前から松前問屋として交流の深
、(日)
二七九九)年に東蝦夷地が幕府直轄領となり、江戸に
を与えられていた口敦賀の船問屋も彼らの荷を扱い﹁敦賀参会﹂と
かった敦賀の飴慶治左衛門と網屋伝兵衛の前名が御用商人として出
入りを許され敦賀と松前のパイプは切れなかった。
れ、同年細工昆布仲間。設立が許可され、さらに福井をはじめとす
下って文政七(一八二四)年には、細工昆布が小浜藩主に献上さ
る越前各城下にかける御役御口銭(仲間手数銀)免除の特権を得て
ζな ど 十 三 種 、 そ
か く し て 寛 文 年 間 ( 一 六 六 一 l 七二 ) Kは 、 松 前
(6)
称す松前行の打合せて近江商人と問屋・船頭らがより荷・下り荷を
決定していた o
物の移入が昆布を筆頭に干鮭・串貝・塩引・いり
の金額は年陀千五百両に上った口近江へは七里半越を利用したわけ
いる c 販 路 も 加 賀 ・ 越 中 ・ 美 濃 ・ 尾 張 ・ 伊 勢 ・ 近 江 ・ 山 城 ・ 若 狭 の
(7)
けであるが、道ノロを通る荷に課きれる駄別札の配布品に昆布があ
(
8
)
友昆布、中荷物に昆布の一名がみえる。
げ ら れ、荷 の 分 類 で 大 荷 物 Kリ
の昆布度がいかなる性格。もの
細工日比布が活況を呈すに
0(U)
よ う な 嘆 願 書 か 出 さ れ て い る o 少し長いいか引舟すノフ心。
(日)
従い、仲間以外の製造者も増え、天保二(一八三二年比は、次り
高木善兵衛が献上口山の製造 K あ た っ た
JT一出願して許一吋され、三代目
細工日比布仲間より将軍家への昆布献 K
諸国に広がり、江戸にも支庖を置いた。弘化二(一八四五)年には
(9)
(印)
昆布は明和八(一七七一)年に大荷物に変更されている。ょ
昆布の加工が当時既に行われていたといえる。
天 和 年 間 ( 一 六 八 一 l八一二)の敦賀の様子を記した﹁遠目鏡﹄
cζ
に よ れ ば 、 松 前 藩 船ο船 宿 二 戸 、 松 前 物 問 屋 三 戸 、 江 指 宿 二 戸 、 昆
布屋三戸が敦賀に存在していた
2
8
乍恐口上書ア以泰願上候
一御免御用組工昆布屋仲間之儀ぺ去ル文政七甲R
r八 月 従 、 御 上
(貼紙)﹁指上候所﹂
候奉行
H
様細工昆布御用口仰付難有、早速奉調達候所、追々御用円
ハ
lu 誠 ニ 冥 加 告 一 点 人 静 一 環 日 出 品 事 恐 入 候 誌 円 けU
ヰ 小 屋 義 口 兵 衛 (印)
椀屋太兵衛(印)
目薬屋治郎兵衛(印)
御奉行所様
この中 K 細 工 見 布 仲 間 設 立 の と と も み え て い る o 差 出 人 五 人 の う ち
貼紙)﹁御願申上候﹂(貼低﹁成下首一
様 江 願 書 ア 以 細 工 昆 布 屋 円 ハ ハ ハU儀 願 出 侯 処 働 問 済 被 為 存 、
三人は前述した三人の後継者であろう。
同日銭は売人持也
但し場所御口銭買人持
一ホロイツミ新昆布四百三拾五石目
売付約定証文之事
いる o 敦 賀 の 豪 商 高 嶋 屋 に 宛 て た 箱 館 商 人 の も の で あ る o
松前からの昆布の移入も続いてなり、次のよう左証文か残って
(日山)
同九月四日ニ奉蒙御免許、同十月五日ニ屋根看板御免被為下置
候、尚此上諸国江広ク売捌敦賀産物ニ可相成様被為仰付候、
夫 5仲間一統棺励、広ク売捌渡世位一候折から、所々(炉供布細戸
仕候者有之ニ村、差留侯得共間入不申ニ付、無拠、御上様江御
恐蜘苦労之僅御願申上院一
it労一 Y泰⋮備市品川入候、ィず人政十一一一庚寅一一一月廿九日ニ町内一統御触流
U 侯者も
被下置難有仕合に奉存候、其後も所々ニ細工昆布門川
(
日
主
右之昆布代金不残唯今憶三一一謂取申侯処実正ニ御座候、 然 上 は 来 戊
有之侯得共、吟味仕差留申候所、此節一向猿口ニ相成所々ニ細
年夏昆布於御場所表ニ積渡侯上、(後略)
串候得共(鮎紙)﹁平八故﹂
左衛門と申仁、是非共内職細工昆布仕差留間入不申故、外々
O印 文 箱 鰐 大 町 大 木 辰 己 屋
林七郎兵衛(印)
工昆布内職ニ手広ク仕候故、度々差留申処、井川之浪人千田半
天保八年
国(貼紙)﹁且
ニも細工昆布内職仕、仲間之差支ニ相成、甚以因リ入申候、然
百八月
高嶋屋吉五郎駁
ハ叶冗達而従御上様之厚キ御慈悲ニテ細工昆布屋仲間御免許被為
貼紙)﹁右犠過々増長仕俣市ハ仲間一統必至と難
仰付被下置侯規短相立不中、打捨置候而ハ、御上様江奉恐人
こ の 証 文 か ら 昆 布 は 夏 K 北 海 道 よ り 出 荷 さ れ た と と が わ か る o それ
法被相成﹂
侯事歓ケハ敷奉存候、何卒御憐怒 7
之御慈悲ブ以町中一一統細工昆
を 秋 か ら 冬 の 間 K加 工 し て 、 需 要 期 で あ る 暮 か ら 正 月 K 出荷するの
μ 出被下置候ハ、難有仕合ニ可
(貼紙)﹁栢成不申様﹂(貼紙)﹁被成下置﹂
(口)
であるが、敦賀は日本海側であるために、冬の農閑期の余剰労働力
布職仲間之外不成之趣円ハハハ川
奉存候、
が昆布加工 K あ て ら れ た も の と 思 わ れ る 。
る米・大豆の取扱量は激減するカ松前貿易の方は東西蝦夷地が
ー、(治)
一八世紀に左ると、西廻航路の開発により敦賀港の主要物資であ
丸屋六兵衛(印)
再び直轄領と左った安政二(一八五五)年に産物取引のため﹁産物
右 之 趣 被 為 聞 召 分 、 御 憐 怒 之 御 慈 悲 ブ 以 、 願之通被為、 仰 付 被 下
置候ハ、難有仕合ニ可奉存候、
天保二乙己勾卯)
水口弥五郎(印)
-29-
京都・美濃・近江
北海道・伏木・青森
京阪・美濃・尾張・神戸
鳥取・北海道・下関
「若越小誌 Jよ
り
表 3 原料昆布消費状況(昭和 11年)
阪
42,
700石 22.9%
戸
19,
500
10.
4
13,
000
島
7
.
0
11
.400
屋
6
.
1
10,
550
東
尽
5
.
6
敦
9,
000
賀
4
.
8
鶴
8,
200
舞
4
4.
「日本昆布大観J
000
8,
示
者E
4
.
3
より
会所﹂が箱館・江戸・大阪・兵庫に設けられるが、次いで文久二
(一八六二)年に敦賀・堺に置かれたことをみると、かなりの取引
があったものと推定される。
五、明治以後の昆布加工業
κ
維新後も松前貿易に大きな変化はなく、明治元(一八六七)年
﹁建物会所﹂ K 代 わ っ て ﹁ 函 館 御 用 所 ﹂ ﹁ 産 物 会 社 ﹂ が 東 京 氏 、 兵
庫・堺・敦賀等には﹁北海道産物会所﹂が設けられた。しかし、同
図 1 敦賀の昆布移出
ζと が わ か る 口 刻 昆
賀 に か け る 貨 物 取 扱 状 況 は 表 1 ・表 2 の ど と く 左 り 、 移 入 さ れ た 昆
布の九割が移出される昆布輸送の中継点である
ζれ
(一九三二)年には﹁敦賀昆布商業組合﹂が設立され、同十五年 K
布の出荷地をみると、江戸時代後期と大きな変化はない。昭和也
は組合員数六二で全国六三三の一割が集中するほどに左った。
を反映して同十一年の原料昆布消費量は都市別で第六位、十八年の
-30-
五(一八七二)年には東京・大阪・兵庫・敦賀の会所が閉鎖される。
一縮工昆布
3,
549円
317,
349円
284,
484円
7,
7,
759円
理由は、抜荷脱税取締のためと、取引額の一割を収めなければなら
,
敦賀町移出入(昆布)
表 2 明治 40年
ない商人の反対 K よるものである o
年
年
三
大
神
広
名古
敦 賀 も ζれ に よ っ て 打 撃 を 受 け た の か 、 詳 細 は わ か ら な い が 、 昆
κ は﹁敦賀
布 加 工 業 は 停 滞 期 を 迎 え る 。 明 治 三 十 三 ( 一 九OO) 年
I
千内 )5明拍
移出
町民昆布業組合﹂が設立されるが、名ばかりで組合員数もはっきり
d
1
5
-
表 1 敦賀町移出入貨物(明治 41年)
移出貨物
250t
刻昆布
敦賀町
生産地
名古屋・一宮・岐阜・大垣・米原・彦根・八幡・
消費地
草津・大津・京都・大阪・長浜・木ノ本・今庄・武生
移入及経由貨物
昆布 2
,
100t
生産地
後志・石狩・天塩沿岸各地
小樽
集散地
消費地
京都・大阪・大津・大垣・神戸・晶崎・彦根・八幡・名古屋
岐阜
「敦賀郡誌 Jより
なり重要左産業であった
か製る少図期在
ら造 O し 1 のし
十額両細の加た
ーと者昆よ工ら
%比の布う昆し
K 較合が K 布い
あす言十増刻の。
たるを加昆移
りと工し布出
、六産てが額
か%品い減は
生産量は福井県が第五位と-なっている。
明治 44年は不詳
「敦賀郡誌Jより
ことがわかる o また、敦
ζ の時
ζ の頃 K は 昆 布 加 工 業 者 三 十 数 軒 、 青 昆 布 問 屋 十 三 軒 程 が 存
一一ー剖昆布
1
0
るが、
j
f
、
,
、
、
,
,
,
2
01
移入
し左い。明治末期Kは現在最大手の高橋商庖が京都より進出してく
25
知
山
国
干
高
兵
愛
富
全
「日本昆布大完 j よ
り
D
現在の敦賀の状況について
D ただ
は、調査が十分でなく、また
別の機会に報告したい
の盛衰との関係、現代へのつながりの点等の解明が今後の課題とし
エ
+
(1
) 類似の記事は﹃羅州府志﹄(貞享一年間)﹃大和本草﹄(宝、水
て残される。(福井県立敦賀高校﹀
昆布﹂の生産陀あり、手かき
年間)﹃和漢三才図絵﹄(正徳年間)﹁日本山海名産図絵﹄
敦賀の最大の特色は﹁手かき
職 人 は 全 国 五O O人 足 ら ず の
(3) 天 野 久 一 郎 ﹃ 敦 賀 経 済 発 達 史 ﹄ 一 九 四 三 、 六 二 頁
(2) 飽 万 は 昆 布 を 削 る 包 丁 、 舗 は か ん な で あ る 。
(寛政年間)にもみえる。
三 十 二 才 程 で 、 五O 人 前 後 が
している。職人の平均年令も
(4) 敦 賀 市 ﹃ 敦 賀 市 史 ﹄ 史 料 編 第 二 巻 一 九 七 八 、 四 四 一 頁
う ち 敦 賀 陀 三O O人 程 が 集 中
存在する大阪の五十七才程と
一八
(5) 牧 野 信 之 助 選 輯 ﹁ 越 前 若 狭 古 文 書 選 ﹄ 一 九 三 二 一 、 五 三 五 頁
(6) 前 掲 (3) 一六五 J 一六六頁
。、三四頁
(7) 羽 原 又 吉 ﹃ 支 那 輸 出 臼 本 昆 布 業 資 本 主 義 史 ﹄ 有 斐 閣 、
(8) 前 掲 (4) 史 料 編 第 一 巻 一 九 七 七 、 五O 頁
(9) 敦 賀 郡 ﹁ 敦 賀 郡 誌 ﹄ 一 九 一 五 、 四 二 三 頁
(日)前掲 (4) 史 料 編 第 二 巻 二 九 五 頁
前 掲 (9) 五 六 六J 五 六 七 頁
陸送するとき、荷造りし直したものと恩われる。
(HH)
(臼)前掲 (9) 四 七 九 頁
(ロ)前掲 (9) 五 六 六 頁
頁。
(日)稲垣美三雄編﹃臼本昆布大観﹄一九四七、第五編一二
(叩)前掲 (4) 史 料 編 第 五 巻 一 九 七 九 、 六 二 三f 六 五 六 頁
t
比 べ 非 常K 若 い 。 ﹁ 手 か き 昆
O
B
)
三 、 加 工 期 で あ る 秋 ・ 冬K 余 剰 労 働 力 が 豊 富 で あ っ た 。
進展させた。
二 、 大 消 費 地 た る 京 ・ 大 阪 と の 間K 近 江 商 人 が 介 在 し 、 松 前 貿 易 を
の加工化が進んだ o
一、昆布が製品化されると重量が二十%程に減少寸るため中継地で
になろう
敦 賀K 昆 布 加 工 業 の 成 立 し た 条 件 を ま と め る と 、 次 の よ う 左 乙 と
六、おわりに
布﹂の生産も全国の八割を占めるという
東
四、廻漕されるときは、原草を乾燥させ畳んで束にしたものであり、
二八九頁
-31-
京
都
井
庫
尽
(お)前掲 (4) 史 料 編 第 一 巻
四
北海道
大 阪
工場数 職工数
生産品
6,
708貫
298 3,
941人
3,
357
451 2,
444
2,
927
164 1
.777
2,
678
136 1
.
189
2,
482
86 603
1
.295
211 1
,
111
1,
142
46 703
1,
038
109 477
036
29,
623 2,
305 19,
府県名
以上敦賀の昆布加工業の歴史を年代を追ってみてきたが、敦賀港
九
表 4 昆布加工工業(明治 18年 )
(口)聞き取りによると、十月から三、四月までが加工の多忙な時
工に従事するため、職人の数は一一倍半に増える o
期で、現在もこの時期には専門の日比布職人の他氏農家の人も加
(同)前掲 (3) に よ る と 、 寛 文 四 ( 一 六 六 回 ) 年 の 七 六 六 千 俵 が
寛政七(一七九五)年の三八千俵に減少する o
( 悶 ) 前 掲 ( 日 ) 第 六 編 七 五 頁 、 前 掲 (9) 七 六 五 真 で は 刻 昆 布
六一戸、細工昆布二十四戸とある。
(加)昭和五十三年九月の高橋高庄での聞き取りによる。
-32-