日本人の発明の偉跡 鍵尾 駆

日本人の発明の偉跡
鍵尾 駆
1
前文
学校や偉人伝を読んで教わったことが必ずしも正しい
とは限りません。
海外でこういわれているから日本もそうしようとして
いる面があります。
しかし調べてみると日本人の方が先にやっていたとい
うことが多いのです。
日本人の特性かそういったことを語らないので知らな
いことが多いのではないでしょうか。
そういった知らなかった面を知ってもらうことに本書
の意義があります。
2
目次
飛行機.........................................005
カーナビ.......................................018
FAX............................................036
KS鋼.........................................052
ビニロン.......................................067
JPEG、MPEG.....................................076
TRON...........................................093
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飛行機
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ライト兄弟よりも早い発明
世間一般的には 1903 年 12 月 17 日にライト兄弟がガソ
リンエンジンで世界初の動力飛行をしたということに
なっています。
それよりも早い時期に日本人で飛行機の設計をした人
がいます。
二宮忠八です。
6
二宮忠八
二宮 忠八(にのみや ちゅうはち、慶応 2 年 6 月 9 日(1866
年 7 月 20 日)- 1936 年(昭和 11 年)4 月 8 日)は、明治時代
の航空機研究者。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八
幡浜市矢野町)出身。
陸軍従軍中の 1889 年、「飛行器」を考案。その翌年には、
ゴム動力による「模型飛行器」を製作。軍用として「飛行器」の
実用化へ繋げる申請を軍へ二度行なうも理解されず、以後は
独自に人間が乗れる実機の開発を目指したが、完成には至
らなかった。
なお、「飛行器」とは忠八本人の命名による。また、忠八の
死から 18 年後の 1954 年、英国王立航空協会は自国の展示
場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ラ
イト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介して
いる。
日本軍部が認可すれば飛行機は日本人が発明したことに
なっていたかもしれないわけですね。
イギリスはきちんと評価しているみたいです。
日本人が発明したアンテナを使わなかったり、日本の上層
部は日本人のために動いていない面がありますね。
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生い立ち
八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はき
た。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業
に失敗し、また 2 人の兄による放蕩、さらに父幸蔵が忠八 12
歳の時に若くして亡くなり家は困窮した。
忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、
薬屋などで働くかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで
読み耽けっていた。
また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を
作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したという。
この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。錦
絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付
けた凧を作ったこともあった。
大学とかに属さずに独学というのがいいですね。
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飛行への着想
1887 年(明治 20 年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵
第 12 連隊第 1 大隊に入隊した。ある日(1889 年 11 月のこと
という)、忠八は野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑
空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付く。
そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空
を飛べるのではないかと考えた(固定翼の着想)。
それを基に忠八は、「模型飛行器」を作成。これがいわゆる
「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、
翼幅は 45cm。全長は 35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直
安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも
(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)
で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。明治 24 年
(1891 年)4 月 29 日、3m の自力滑走の後、離陸して 10m を
飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日
には手投げ発進の後、約 36m を飛行させた。2 年後の明治 2
6 年(1893 年)10 月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫
型飛行器」の縮小模型(翼幅 2m)を作成。これは無尾翼の複
葉機で、下の翼(上の翼に比べると小さい)は可動であり操縦
翼面として働く設計だった。
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烏型と同様に四枚羽の推進式プロペラを機尾に備えていた
が、動力源については未解決であった。
日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での「飛行
器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発
を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申
したが、却下された。
長岡は「戦時中である」という理由であった。また大島には
戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、
「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。
軍は飛行機開発に乗り気ではないと感じた忠八は退役し、ま
ずは飛行機製作の資金を作ってから独力で研究することにし
た。
大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて 1906 年(明
治 39 年)に支社長にまで昇進する。
この時期は資金をまかなえず、ほかにスポンサーも現れな
かったため飛行器の開発は停滞した。この間、1903 年(明治
36 年)12 月 17 日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。
しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠
八は飛行器への情熱を持ち続けていた。
支社長就任後ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を
再開する。
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従軍当時に新聞記事でオートバイのガソリンエンジンを知り、
これを動力に利用できないかと考えていた忠八は、1908 年
(明治 41 年)に精米器用の 2 馬力のガソリンエンジンを購入
した。しかしこれでは力不足であることがわかり、ついで 12 馬
力のエンジン(偶然にもライト兄弟の「フライヤー 1」と同じ出力
で)を自作する構想を立てた。その矢先にライト兄弟の飛行
機を知る。忠八は、動力源以外完成していた飛行器の開発を
取りやめ、製薬の仕事に打ち込むとともに、1909 年(明治 42
年)にマルニを創業。
日清戦争は 1894 年から 1895 年ですから、もし上司が許可
をしていたらライト兄弟の 1903 年より 10 年近く早い、動力飛
行の実現になっていたわけですね。
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遅かった評価
大正 8 年(1919 年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)白
川義則と懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが
却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内
容は技術的に正しいことがわかった。
ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正 11 年(1922 年)、
忠八を表彰、その後も数々の表彰を受けた。1925 年(大正 1
4 年)9 月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶 1 対を授与され、192
6 年(大正 15 年)5 月、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から
有功章を受章、1927 年(昭和 2 年)勲六等に叙せられ、昭和
12 年度から国定教科書に掲載された。すでに陸軍を退役し
ていた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。
忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うため
に飛行神社を設立、自ら神主になっている。晩年は幡山と号
して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をも
うけ、『幡詞』を著した。
着想から 25 年後に評価とは遅すぎますね。
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世界航空機史上における位置付け
当時欧米で有人飛行を目指す流れは、
・ 模型飛行機の実験を行い、それを人が乗れる大きさに拡大
したものを製作する
・ グライダーによる滑空実験を行い、操縦技術を確立してか
らグライダーに動力を取り付ける
の 2 つに大別され、ライト兄弟はこの両方の研究成果を受け
継ぎつつ後者の道を選んだ。兄弟は 3000 回以上の滑空と風
洞をはじめとする科学的で綿密な実験結果に基づいて操縦
者の意思で飛行する最初の飛行機を制作した。一方、忠八
の研究は 91 年、愛媛県八幡浜市において自筆の設計図を
元に実物大の飛行器復元模型が制作され、有人動力飛行実
験に成功した事で飛行理論の正しさは証明されたものの、そ
の研究の過程や計画が研究途上で明確な位置付けがまだで
きず、海外の研究者の着目が少ない。
1991 年に設計図を元に再現実験をして実際に成功したみ
たいですね。
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近年の見解
日本では近年「日本の航空機の父」という評価が高まりつつ
あり、その先見性や独創性が一般に知られるに従ってメディ
アで取り上げられることも多くなった。ライト兄弟の初飛行に先
立ち動力付き有人飛行機を着想するも、金銭的事情で研究
が進展せず有人飛行を断念したが、黎明期の先駆者として
の功績と才能、様々な逸話、人格等、世界的な発見や功績
は挙げていないものの、日本航空機史上へ名を刻むに足る
人物として認知されつつある。
日本人なら飛行機の父をライト兄弟ではなく、二ノ宮忠八と
胸を張っていいたいですね。
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その他
忠八がカラスを見て飛行の原理を着想したのは、香川県ま
んのう町追上の樅ノ木峠であったとされる。その故事にちなみ、
同地には 1966 年に二宮飛行公園が、1991 年には二宮飛行
神社が整備開設された。さらに 2006 年 3 月 17 日、「道の駅
空の夢もみの木パーク」の隣接地に「二宮忠八飛行館」が開
館した。玉虫形飛行器の複製模型をはじめとした再現模型や
書簡などが展示されている。
なお、同地への公共交通は平日のみ一日 4 本の旧仲南町
町内巡回バスしかない。
ライト兄弟の初飛行はアメリカ国内ですらほとんど報道され
なかった。また、その後兄弟が(アイディアの盗用を恐れて)な
かなか公開飛行を行わなかったため、広く知られるようになっ
たのは 1908~9 年頃である(村岡正明『航空事始』(東京書
籍、1992 年)によれば、日本で初めて報じられたのは、雑誌
『科学世界』の明治 40 年(1907 年)11 月号だという)。日本の
新聞記事等からもこのことは裏付けられ、忠八がライト兄弟の
飛行機を知ったのもその時期と考えられる。鈴木真二の著書
『飛行機物語』(中公新書、2003 年)では、忠八がライト兄弟
の飛行機を知ったのは 1909 年 10 月 3 日付の新聞(紙名は
記載なし)であると記している。
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村岡正明は、1907 年 3 月 25 日の「萬朝報」におけるアルベ
ルト・サントス・デュモンの飛行記事によって、二宮が外国人
の初飛行を知ったと推測している。
二宮はそれよりも前に実現する可能性があったのに無念で
すね。
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カーナビ
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カーナビとは
カーナビゲーション(英語: Automotive navigation syst
em)とは、電子的に自動車の走行時に現在位置や目的地
への経路案内を行なう機能であり、また「カーナビゲー
ション・システム」と呼ばれる電子機器のことである。
略して「カーナビ」と呼ばれることが多い。「ナビ」と
略されることもあり、ナビという言葉自体がカーナビ
ゲーションを表すようになってきている。本項では主に
機器について記す。
カーナビは GPS を利用した技術です。
GPS は主に人の位置を特定するための軍事技術でしたが
一般の人にカーナビとして広めたのは日本です。
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歴史
開発初期には、自立航法のみを用いて自車の現在位置を
割り出していたため、走行開始後一定の地点で走行する方
角の微調整を要した。
また、車輪の回転を検出して移動距離の情報とするため、
カーフェリー乗船時などには実際の移動を全く反映せず、上
陸時に再設定の必要があった。また、GPS の電波航法だけ
に頼る方式では、当時の米国の軍事上の理由から民間用で
は位置情報の誤差が 100m 程度までしか提供されず運用の
保障もされていなかったことや、トンネル等の電波が届かない
所ではそもそも利用できないなど問題があった。但し GPS 方
式では、船や列車での移動時も電波が届く所であれば位置
情報は得られることになる。
民生用のカーナビ製品は日本での普及が最初であった。
民生用のカーナビが登場しはじめた頃には、GPS による電波
航法と自らのセンサー類に基づく自立航法が組み合わせら
れ、さらに CD-ROM に記録された道路地図情報を必要に応
じて読み出し、自車走行経路の情報と照合する事で、正確に
自車位置を特定するマップマッチングという方式も取られてい
た。
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その後、地図情報は記憶容量のより大きな DVD も採用され
るようになり、米国製 GPS 衛星の安定運用への配慮と高精度
サービスの開放、車載用 TV 受像機やカーステレオセットなど
との一体化などもあって、本格的に普及していった。その後は
「ディファレンシャル GPS」によって位置精度をさらに高める工
夫や、道路交通情報通信システム (VICS) による渋滞情報や
規制情報といった交通情報まで得られる製品も一般的になっ
ている。
近年では、DVD に代わり HDD や Flash SSD を搭載すること
により動作の高速化・記憶容量の拡大が図られた製品や、テ
レマティクスによる通信機能で地図情報などを更新できる製
品や、ワンセグ TV 受像機、デジタルオーディオプレーヤー、
インターネット接続といったデジタル機器類と融合した製品も
登場している。
今でも地図が古かったりすると川の上を走っていたりなんて
事がありますね。
東日本大震災で大分様変わりしたでしょう。
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1980 年代
1981 年 ホンダがジャイロ式カーナビを発売。2 代目アコードに搭載
される。
1986 年 ナビゲーションシステム研究会(現:「IT ナビゲーションシス
テム研究会」、通称「ナビ研」)発足。
1987 年 トヨタ(デンソーが開発)が CD-ROM の電子地図を搭載した
モデルを発売。
1990 年代
1990 年 マツダが三菱電機と共同開発した GPS 式カーナビを搭載し
た「ユーノス・コスモ」を発売
1991 年 パイオニアが市販モデルで世界で初めて GPS 式カーナビ
を発売。人工衛星からの電波で誘導することから、「サテライト・クルージ
ング・システム」と呼ばれた。
1992 年 アイシン・エィ・ダブリュが世界初のボイスナビゲーションの開
発に成功。初代トヨタ・セルシオに搭載される。 以後、アルパインをはじ
めとする各カーナビメーカーに供給が開始され、音声案内は現在の
カーナビのグローバル・スタンダード機能となる。
1993 年 ソニーがモニターまでワンパッケージ化した低価格機を発売。
1996 年 VICS サービスが開始
1997 年 ホンダがナビゲーションシステムとインターネットを融合させ
た、第 1 世代のインターナビサービスを発表。翌年アコード等からサー
ビス提供を開始
1997 年 パイオニアが DVD-ROM カーナビを発売。
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1997 年 5 月 株式会社衛星測位情報センターが FM 放送電波に載
せて送信する D-GPS サービスを開始。
2000 年代
2000 年 5 月 米国国防総省が民間用 GPS 上の SA(セレクティブ・ア
ベイラビリティ)信号を停止。これにより、GPS のみでの位置精度がそれ
までの 100m 程度から 10m 程度へと飛躍的に向上した。
2001 年 パイオニアがハードディスクドライブ内蔵カーナビを発売。音
楽 CD からリッピングできる「ミュージックサーバー」機能も搭載し、この後
の高機能カーナビの方向性の指針となる。
2002 年 パイオニアが通信型カーナビを発売。
2002 年 日産自動車がテレマティクス「カーウイングス」を開始。
2003 年 ホンダがインターナビ搭載車両から収集した交通情報を共
有することにより、通常の VICS 道路交通情報通信システム情報未提供
道路に対しても情報を提供するフローティングカーシステムを自動車
メーカーとして世界で初めて実用化。
2005 年 KDDI、および沖縄セルラー電話が携帯電話上で利用できる
カーナビシステム「EZ 助手席ナビ」のサービスを開始(徒歩用のナビ
ゲーションサービスは既に存在したが、本サービスより自動車の移動速
度に対応可能に)。
2006 年 パナソニックが地上デジタル放送チューナー標準装備モデ
ルを発売。
携帯ゲーム機(プレイステーション・ポータブル)用の GPS レシー
バーおよび対応ソフト「MAPLUS ポータブルナビ」(エディア)発売。
2008 年 3 月 株式会社衛星測位情報センターが D-GPS サービスを
終了。
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2010 年代
2010 年 10 月 Google がスマートフォン等の Android 搭載機器にて動
作する「Google マップナビ」のサービスを開始。
2011 年 4 月 NTT ドコモが Android 搭載スマートフォンや 3G 通信機
能搭載のカーナビで利用できるカーナビゲーションサービス「ドコモ ドラ
イブネット powered by カロッツェリア」を開始。
2012 年 7 月 パイオニアが HUD 対応カーナビを発売。
カーナビが本格的に普及し始めたのは 21 世紀に入ってか
らでしょう。当初は 10 万円以上する高級品でしたが、最近で
は1万円を切るのもあり、GPS 付の携帯電話がカーナビの代
わりにになるということもあり、随分身近なものになりましたね。
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日本以外の歴史
日本が世界一のカーナビ大国であるといわれていた当時は、
海外では車輌の航法システムは軍事用や救急車両のような
緊急車両用が主流であり、民生用としては趣味品あるいは一
部の技術的趣向者むけとしての位置づけが強かった。その後
現れた簡易型のカーナビともいえる PND は、タクシー業者を
はじめ個人でも普及しており、インダッシュ型の AV 機能など
の付加価値付きカーナビはもっぱら高級車に限定して普及し
ている状況である。(BMW やレクサスの上位機種(レクサス・G
S 等)には全モデル標準装備され、エアコンやパワーシートの
制御画面と一体化している。) 海外メーカーにはガーミンや LG フィリップス、TOMTOM、モ
トローラ、IBM、フィリップスなどがある。世界最大のメーカーで
あるガーミンの生産台数は、年間 1000 万台にものぼる。それ
に対する日本メーカーの生産台数は 100 万台以下であり、国
際市場を得る機会を逃してしまった。
ただし、2010 年現在のカーナビゲーション市場においては
日本メーカーの生産台数は 1 割以下だが、日米欧における
金額上のシェアは3割以上のため、ハイエンドに特化した戦
略とみなすことも可能であり日本メーカーの取り組みも一概に
否定はできない。
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事実、TOMTOM もインダッシュ型カーナビを作ってクライス
ラーに OEM 供給している。 なお、今後の市場予測としては、
インダッシュ型は今後も増加傾向が続くが、PND はスマート
フォンカーナビへの移行、及びインダッシュ型カーナビの価
格低下により市場が縮小する、とみなす調査報告もある。 欧
米各国でも日本と同様に、住所(英米で xxx street, フランス
で rue de xxx, ドイツ圏で xxx Strasse(Straße), 北欧で xxx V
egen・xxxkatu など)を入力していって徐々に絞り込み検索が
行われ、目的地を確定、そしてルートマップと音声案内機能
でガイドすることは日本と変わらない。著名施設は大抵直接
検索可能である。
日本で世界に先駆けてカーナビが普及したにもかかわらず
世界市場では一割以下の販売台数のようです。
日本の技術は優れていても売れないのは扱う地図というも
のがそこで使う人の生活に密着するものであり、そこで生活し
ている人がつくったものが使いやすいからではないでしょうか。
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カーナビ用地図
カーナビ用に用いられる電子地図の表示と案内のシステムは
次の機能を持つのが一般的である。
基本機能
地図画面の拡大・縮小(縮尺の変更)
画面スクロール
カーナビ機能
地名・電話番号等による該当箇所の検索
車両の移動に伴い、自車位置を画面中央に保持する
自動スクロール機能
車両の前方方向を画面上方に表示する自動回転機能。
北を画面上方とすることも選択可能
目標地点を指示するとそこまでの道路を表示するルー
ト検索機能。高速道路・有料道路を利用する・しないなどの
モードを選択できる。ルートから外れた場合には音声などで
知らせる。
音声案内機能。曲がるべき交差点などを音声で知らせ
る。
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同じような地図データを見やすく表示しようと、メーカー各社
が工夫している機能に次のようなものがある。
上空位置に視点を置いて表示する鳥瞰図機能。「バード
アイ・ビュー」とも呼ばれる
ランドマークとなる目立つ建物を擬似 3 次元で表したり実
映像を表示する
主要な交差点やインターチェンジ付近を擬似 3 次元で表
したり実映像を表示する
運転中は見れないので音声案内は重要でしょう。
日本の土木事業はどこも同じようなものを建設してしまうた
め迷うと目印になるものがないのが困りますね。
カーナビを売るためにそうしているのかと勘繰ってしまいま
す。
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主なメーカー・ブランド
カーナビ本体
パイオニア(carrozzeria) - CYBER NAVI、楽ナビ
パナソニック - Strada、GORILLA
パナソニックオートモーティブシステムズ社
三洋電機
三菱電機 - DIATONE SOUND.NAVI
富士通テン - ECLIPSE
クラリオン
ザナヴィ・インフォマティクス - クラリオンの 100%子会社→のちに
クラリオンに吸収合併
JVC ケンウッド(旧・ケンウッド) - AVENUE、彩速ナビ
アルパイン
データウエスト - 近年まで東南アジアで数機種を展開していたが、2
012 年より国内向けモデルを発表。
ユピテル
アイシン・エィ・ダブリュ - カーメーカー及びカーナビメーカーへの O
EM 供給のみ。世界シェアは約 14%。
デンソー - カーメーカー及びカーナビメーカーへの OEM 供給のみ。
世界シェアは約 17%。
タナックス - バイク用ナビブランド Labrador を展開
アール・ダブリュー・シー - X-RIDE ブランドで販売
ガーミン
ミラリード
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地図ソフト・システム開発など
昭文社
ゼンリン
カーナビゲーション用地図最大手
日立製作所
日本無線
インクリメント・ピー
携帯電話アプリ
NTT ドコモ - 地図アプリ、ドコモ ドライブネット
KDDI・沖縄セルラー電話
au - EZ 助手席ナビ
かつて市販機を製造販売していたメーカー
住友電工
ナカミチ
住友電工製とナカミチ製は、機種によっては同じソフトウェア(CD)を
使用することが出来る。但し CD は、2000 年を最後に更新されておらず、
両社とも市販カーナビ市場から撤退したことにより更新の可能性は途絶
えている。 いずれも、ナビゲーション機能だけを搭載した製品を投入
し、早い時期から画面の 360 度スクロール表示を実現し、VICS 対応機
器、ヘッドアップディスプレイの拡張に対応していた。
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デンソー
かつては『ナビラ(NAVIRA)』という名称で販売していた。2001 年 7 月
に発売の機種以降、アフターマーケット向けの新製品の発売は無い。
現在はケンウッドと技術・業務提携している。
マスプロ電工
『ナビゲーター』という名称で販売していた。現在は GPS アンテナを
OEM 供給している。
日本電気ホームエレクトロニクス
『GoGoNavi』という名称で販売していた。
カシオ計算機
NS400 1994 年~
東芝
NPA01(498,000 円)を 1992 年に市場投入した後、五機種を発売した
が、販売ルートを確立出来なかったため、1995 年に投入した機種を最
後に市販市場から撤退した
シチズン
日立オートシステムズ
カルソニック
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サンデン
セイコーエプソン
シャープ
ソニー - nav-u
かつてはジョグダイヤル対応機種や、本体・モニター両方が 1DIN に
収まるモデル(NVX-DV733/735/739)を発売するなど、パイオニアととも
にカーナビの黎明期を歩み続けたメーカー。ナビ研にも加入していた。
しかし 2DIN AV 一体型搭載機の投入をせず(但し XYZ シリーズなど、A
V 機能を内蔵した“ポータブルではない”モニタ一体型モデルで、DIN
に取り付けるアタッチメントは発売していた)、2006 年に日本でのカーエ
レクトロニクス部門から一旦撤退した。2007 年 3 月に簡易型カーナビを
販売し再参入したが、2012 年 7 月に生産終了を発表し年内にすべて
の生産を完了した。
カーナビといったらサンヨーのゴリラですね。三洋電機が松
下電器に吸収されたので今では PANASONIC のゴリラになっ
たようですね。
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初代ゴリラ
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日本での道路交通法
日本では、1999 年 11 月から、道路交通法第百二十条第一
項第十一号において、「自動車に持ち込まれた画像表示用
装置を手で保持してこれに表示された画像を注視」する行為
に罰則が設けられたが、カーナビは手に保持しない物のため、
単純な注視は 2004 年 11 月以降の法改正後も依然罰則対
象にはなっていない。しかしながらも、運転中のわき見による
集中力の低下などを抑止するため、パーキングブレーキに取
り付けたセンサーや本体の車速センサーと連動させることに
よって走行中の一部の操作が制限されたり、テレビの映像が
表示されなくなる(音声のみとなる)機種が存在する。 日本の
企業は世界中でナビシステムを輸出しているが、日本で現在
販売されているモデルだけにテレビ視聴用のチューナーが
組み込まれている。
運転中よそ見をするのが危険な行為なので音声だけにした
ほうがいいかもしれませんね。
どこにいるかがはっきりわかる特徴のある街づくりをすれば
カーナビなんかいらなくなるでしょう。
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FAX
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まだまだ使われている FAX
今やメールなどにとってかわられた感がありますが、
日本ではまだまだ使われているという FAX。
原理は随分昔に発見されていたようですが、長い間実
用化されなかった FAX を実用化したのも日本人です。
FAX
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歴史
電信、電話など通信の発達と共に画像電送の要望も高まり、
19 世紀半ばには開発が始められた。
ファクシミリが発明されたのは、電話よりも 30 年ほど早い、18
43 年のことである。
ベイン: ファクシミリの原型を発明
1843 年、イギリス人のアレクサンダー・ベインがファクシミリの
原型を発明し、特許を取得した。
送信側では、振り子の振幅方向に平行な下部側面に絶縁
板をセットする。その絶縁板上に金属の文字を置き、振り子の
先に絶縁板に接触する金属針を取り付けて、左右に振り子を
動かす。接触針は絶縁板を左右に移動して、絶縁部分に接
触している時は“非導通”、金属部分に接触すると“導通”の
信号を送る。1 回の振幅毎に絶縁板を上方(又は下方)に少
しずつ移動させて、絶縁板全体を走査させる。
受信側でも同様な振り子と接触針を設けて、化学反応によっ
て変色する記録紙に接触針を走査させる。
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“導通”の信号のときに電流を流して、記録紙を変色させて送
信側の絶縁板上の金属文字を再生させる。
送信側の読取走査と受信側の記録走査は、それぞれ別の振
り子を利用しているので同期が難しく、記録位置にずれが発
生して画像が乱れ実用化されなかった。
電話よりも先に発明されていたのですね。
画像が乱れて実用化しなかったみたいですね。
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カセル: ベイン方式の改良
ベインの同期が難しいという欠点を改良したのがイタリア人カセル (Giov
anni Caselli) である。1862 年、カセルは送信側から振り子の同期信号を
送り、受信側の振り子を電磁マグネットで制御して同期を取ることを発明
した (Pantelegraph)。フランス郵便・電信公社で採用され、手書きの文
字や図面や絵等の電送に使用された。用紙は 111mm×27mm で、約 2
5 文字程度が電送でき、主に銀行のサイン照合に利用された。
ベイクウエル: 現在のファクシミリの基本形を発明
1848 年、イギリス人ベイクウエル (Frederick Collier Bakewell) は、ベイ
ンの発明を大きく改良し、現在のファクシミリの基本形を発明した。
1851 年のロンドン万国博覧会で展示された。送信側は、金属円筒に特
殊な絶縁インクで書いた金属箔を巻き付ける。円筒の円周方向に固定
して接触させた金属針(接触針)を設け、円筒を回転させて“導通”、“非
導通”の信号を得る。円筒を回転しながら、接触針を円筒の片方の端か
ら他端にむかって軸方向に少しずつ移動させることによって、円周面
(金属箔)全体を走査して受信側に送る。
受信側も送信側と同じ大きさの金属円筒と接触針を設け、電流が流れ
たときに変色する化学紙を巻き付け、送信側に同期して回転させる。送
信側の導通・非導通の信号は記録紙に濃淡となって表示される。受信
側の円筒の回転速度やスタート・ストップを送信側の円筒と同期すること
が難しく実用化されなかった。
40
ハンメル: ベイクウエル方式の改良
1898 年、アメリカ人ハンメル (Ernest A. Hummel) はベイクウエルの欠点
を改良した装置 (Telediagraph) を発明した。8 インチ径の円筒を用い、
送信側の円筒が 1 周回転する毎に同期信号を発生し、その信号毎に
接触針を軸方向に 1/56 インチ移動していく。受信側では送信側の同
期信号を受けて同様な方法で円筒と接触針を制御して同期を取る。同
時に送信原稿の信号を受けて記録する。送信原稿は薄い金属箔に非
導通のワニスで記載し、受信側では 2 枚の白紙に挟まれたカーボン紙
に記録する。原稿サイズは最大 8×6 インチ (203mm×152mm) で送信
時間は 20 – 30 分、いくつかの米国新聞社で採用された。
コルンとベラン: 電子式ファクシミリの発明
その後、1876 年にベル (Alexander Graham Bell) により電話が発明され、
更に、1883 年にエジソンにより真空管が発明、更に真空管から光電管
が発明された。
1906 年、ドイツ人コルン (Arthur Korn) とフランス人ベラン (Edouard Beli
n) がほぼ同時に、同様な方法で写真の電送に成功した。送信側の円
筒に巻き付けていた金属箔を写真やイラスト、文字等が書かれた用紙
に変え、接触針の代わりに光電管を使用した。回転するドラムに巻き付
けた用紙の小さな一点にレンズで焦点を合わせて、光電管に光を送る。
固定したレンズと光電管をドラムの軸方向に少しずつ移動させる。用紙
に書かれた文字やイラスト等の“白”と“黒”及びその中間色の部分は光
電管によって色の濃さに比例した電気信号に変わり、その信号を電話
回線で送る。受信側では送信側と同期して円筒を回転させ、円筒に巻
いた印画紙に、送られてきた信号に基づいた光を当てて感光させる。
41
写真の中間調(ハーフトーン)電送を実現させた。
コルン式もベラン式も、両方の円筒(ドラム)の回転を一致(同期)させる
ために、送受信それぞれ別の 2 個の音叉を使い、その振動に合わせて
両方のモーターの回転数を同じにするという原理を使っていた。送信側
と受信側の温度や湿度の違いで、音叉の周波数が微妙に変わるため
にモーターの回転数に誤差が生じ、画像が乱れるという問題があった。
コルンのシステム (photoelectric telephotography) は 1910 年からパリ・
ロンドン・ベルリン間を電話回線経由で結ばれて運用され、ベランのシ
ステム (Belinograph) は 1930 年代・1940 年代にニュースメディアで使用
された。
FAXは使われていたけれど画像が乱れるという問題があっ
たわけですね。
42
日本での導入
日本では 1924 年(大正 13 年)6 月、大阪毎日新聞と東京
日日新聞が日本で初めてドイツからコルン式の電送写真機を
3 台購入したが不安定、次いで、朝日新聞が 1928 年(昭和 3
年)6 月フランスからベラン式の電送機を 3 台購入、実験は成
功したが、いずれも画像乱れの問題があり、実用化されな
かった。
日本でも輸入したけれど使い物にならなかったみたいです
ね。
43
NE 式写真電送機
1928 年、日本電気の丹羽保次郎とその部下、小林正次は
ベラン式やコルン式の同期ずれによる画像乱れを改良した N
E 式写真電送機を開発した。
NE 式は、送信側の回転ドラムを交流モーターで回し、その
交流を受信側に送って記録用のモーターを回すという同期
方法を採用、画像に乱れなく写真を電送することが出来た。
大阪毎日新聞が NE 式を採用した。
1928 年 11 月 10 日に京都御所で行われた昭和天皇の即
位礼を、京都から東京に伝送したのが実用化第 1 号であった。
即位礼の時、速報を大阪毎日新聞社と朝日新聞社がかって
出た。
しかし、ベラン式やコルン式では、信号の同期がとれないた
め画像が歪んでしまい、国は歪んだ画像を文書に載せ公開
することを禁止する法律を制定した。朝日新聞社にドイツの F
AX の技術者が、大阪毎日新聞社に当時の日本電気の技術
者が就き、両社とも試験時はまったく成功せず、大阪毎日新
聞社が本番のとき、初めて成功した。
44
朝日新聞社は、大阪毎日新聞社が速報を出した数時間後
に、やっと成功した。
その後、NE 式は新聞社から始まり官公庁や大企業で専用
回線を使用した写真電送に使用され、一般向けでは逓信省
が 1930 年(昭和 5 年)に「写真電報」という名でサービスを開
始した。
1936 年に開催されたベルリンオリンピックではベルリン - 東
京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新
聞紙面を飾り、それまでの飛行機便による速報写真は役目を
終えていった。
1937 年(昭和 12 年)に NE 式は携帯端末となり、日中戦争
の報道に使用された。NEC の無線技術は高く評価され、後に
日本陸軍の無線・通信設備を独占した。
戦後は、逓信省による東京 – 大阪間の公衆模写電信業務、
電電公社の電報、気象庁の天気図、国鉄(現 JR)による連絡
指示事項を全国の駅に一斉同報、警察の手配写真、新聞報
道の写真や記事伝送などに利用された。
日本人が画像の乱れを取り実用化させたのです。
45
画像データの伝送標準化と回線開放
FAX の普及が急速に進んだのは FAX 画像データ伝送の全
世界標準化と電話回線のデータ通信への開放である。
CCITT(現 ITU-T)において国際的な FAX の画像データ伝
送方法(プロトコル)についての標準化が審議された。
最初に、1960 年(昭和 35 年)に前述のコルンやベラン、小
林らが開発した円筒・機械式走査の『写真電送装置の標準
化』が行われた。
円筒の直径は 66・70・88mm の 3 種が選定され、走査ピッチ
(円筒軸方向の移動幅)は円筒直径を協約数(264 または 35
2)で除した数値(直径 66mm で協約数 264 の場合の走査
ピッチは 0.25mm)とした。
この規定により協約数が同一であれば、円筒径が異なる送
受信機間でも画像乱れの無い通信が可能となる。
その他、ドラムの回転速度(60・90・120・150rpm の 4 種)とそ
の誤差、同期や位相、振幅変調や周波数変調等について勧
告が出された。
46
平面走査タイプのスキャナや新しい記録方式の開発に対応
して、1968 年(昭和 43 年)G1 規格(電話回線、データ圧縮無
しで A4 サイズ原稿を 6 分で送信)が勧告された。
G1 規格は走査線密度は 3.85 本/mm、電話回線での走査
線周波数は 180 本/分(3 本/秒)、振幅変調 (AM : Amplitude
Modulation) と周波数変調 (FM : Frequency Modulation) につ
いて規定している。スキャナで得られる画像信号はアナログ
で、振幅変調で送信する場合は、搬送周波数 1300 - 1900H
z の範囲内で白を最大振幅、黒を最小振幅と定めている。周
波数変調で送信する場合は、白が搬送周波数-400Hz、黒が
搬送周波数+400Hz の範囲内と規定され、交換回線経由での
搬送周波数は 1700Hz と規定されている。
1971 年(昭和 46 年)特定通信回線、1972 年(昭和 47 年)
公衆通信回線を利用した通信の自由化(回線開放)とともに、
電話回線がデータ通信や FAX 通信に広く利用され、東方電
機(後の松下電送)・NEC・東芝東京航空計器・日本無線等が
競って FAX の G1 適用機を商品化した。
さらに、1976 年(昭和 51 年)に A4 サイズの原稿を 3 分で送
信する G2 規格が勧告された。
47
走査線密度は G1 規格と同じ 3.85 本/mm で、走査線周波
数を 360 本/分にし、2 倍の速度の標準化をしている。
画像信号のデジタル化と伝送時間を短縮するデータ圧縮
技術が実用化されて、1980 年(昭和 55 年)に A4 サイズの原
稿を 1 分で送信する G3 規格が勧告された(数回の改訂があ
り最新版は 2003 年 7 月)。
対象とする用紙は A4・B4・A3・レターサイズ・リーガルサイズ
で、その短辺幅を考慮して、走査幅は 215・255・303mm の 3
種を規定している。走査の送り方向の走査線密度(垂直方
向)は 3.85 本/mm(G1・G2 を踏襲)、オプションとして 7.7 本/
mm・15.4 本/mm を規格化している。走査方向(水平方向)の
信号は G1・G2 規格ではアナログであるが、G3 規格では細か
く分割した画素単位(8 画素/mm)で白と黒の 2 値にデジタル
化される。オプションとしてインチ系の規格もあり、走査の送り
方向(垂直方向)は 100・200・300・400・600・800・1200 本/1
インチ (25.4mm) の 7 種が、走査方向(水平方向)は 100・20
0・300・400・600・1200 画素/1 インチ (25.4mm) の 6 種が規格
化されている。画像データのデジタル化にともない、データ圧
縮や誤り訂正の技術や FAX にメモリーを内蔵しての種々の
機能(一斉同報、機密保護通信、ポーリング受信、時刻指定
通信、マルチドロップ、メモリー間通信等)が開発された。
48
G3 規格ではオプションとして 1 次元符号化と 2 次元符号化、
拡張 2 次元符号化によるデータ圧縮や ECM (Error Correcti
on Mode) などを規定することにより、1 分送信を実現している。
1984 年(昭和 59 年)に FAX データを高速デジタル回線で
送信するための標準化、G4 規格が勧告された。
G4 規格は G3 規格を拡張して回線交換公衆データ網 (CS
PDN)、パケット交換公衆データ網 (PSPDN)、ISDN に対応し
た規格である。
以上の規格の制定や回線開放と共に量産とコストダウンが
進み、官庁や新聞社から大企業、さらに中小企業や個人へと
使用が拡大した。
1981 年には日本電信電話公社(電電公社)により、通信料
金の安いファクシミリ通信網(F ネット)が開始された。
同時に日本電気、日立製作所、富士通、松下電送、東芝が
分担開発したミニファックス MF-1 が電電公社から発売され、
ヒット商品となった。
1984 年には G3 規格摘要の改良機 MF-2 を開発・販売を開
始した。
49
その間、現在の主力である G3 ファクスが開発され、また 198
5 年に電話機を始めとする端末設備の接続が自由化されると、
中小企業や商店などで急速にファクスが普及し始めるととも
に、パーソナルコンピュータなどの FAX 内蔵モデムが登場す
る。
1988 年に開催されたソウルオリンピックを目前に高解像度
のカラーイメージスキャナーが登場し、同時に日本の主要都
市に光ファイバーが敷設され、デジタル通信回線により高解
像度の電送された写真が地方新聞社に送られカラー写真が
紙面を飾った。
1990 年代に入ると、コードレス留守番電話機と結合された
形で、一般家庭でも使われるようになった。また、ファクシミリ
の機能を活用しあらかじめ決められたコード番号を入力する
ことで様々な情報を受信することが可能な FAX サービスの提
供が主な企業より行われた。
手塚先生も海外出張中にFAX(前身のテレックス)
で遅れた原稿の指示を送っていたそうですが、日本人の
発明のおかげ絵が送れるようになったとは感慨深いです
ね。
画像が乱れては絵は送れませんからね。
50
51
KS鋼
52
KS 鋼とは
強力な磁石といえばネオジム磁石ですが、それまでの強力
な磁石はどうだったのでしょうか?
前世紀のはじめから登場したKS鋼というものが代表的なも
ののようです。
これも本多光太郎という日本人の発明です。
KS 鋼(KS こう、KS steel)は、コバルト・タングステン・クロム・
炭素を含む鉄の合金、磁石鋼。
1917 年、東北帝国大学の本多光太郎と高木弘によって発
明され、それまでの 3 倍の保磁力を有する世界最強の永久
磁石鋼として脚光を浴びる。
KS とは、本多らに研究費を給した住友吉左衛門(住友グ
ループの前身・住友総本店店主)のイニシャルである。
1931 年に東京帝国大学の三島徳七が KS 鋼の 2 倍の保磁
力を有する MK 鋼を開発し、15 年間守り続けた世界最強磁
石の座を譲り渡した。
1934 年に本多らは再び世界最強となる新 KS 鋼(KS の 4
倍)を発明した。
53
磁石の様々な用途
永久磁石といえば、玩具の仲間として子供のころから親しま
れ、小学校の理科の教材などにも良く使われて以来地味な
存在ではあったが、長い間モータや発電機など日常生活の
中で使われてきている。
しかし、現代社会における永久磁石の立場は大きく飛躍し、
先端産業を担う機能性材料としてその価値を非常に高めて
いることは注目に値する。
例えば、医療における MRI(磁気共鳴画像装置)、携帯電
話のスピーカと振動モータ、ハードディスクドライブ(HDD)の
ヘッドを駆動する装置、パソコンの周辺装置等々、永久磁石
は生活の必需品となっている。
このような永久磁石の進歩発展をさかのぼると、大正初期の
本多光太郎の開発した KS 鋼以来、現在に至るネオジム磁石
に至るまで、多くの研究者のより効率の高い磁石発明への夢
と努力の足跡があったことが分かる。
随分いろんなものに磁石は使われていますね。
54
世界をリードする日本の磁石
更に我が国の永久磁石の開発技術そのものも本多光太郎
の K・S 鋼以来、現在の佐川眞人等の N d・Fe・B 磁石開発ま
で常に世界をリードしてきている。
一例として、第二次世界大戦終了後のことであるが、世界の
科学研究のトップ水準にある国々に対して、アメリカのアイゼ
ンハワー大統領が研究協力依頼を求めてきた。このとき日本
に対する指名は磁石の先端技術の研究であったことも知られ
ている。
アメリカの大統領が研究協力を求めてくるくらい日本の磁石
は優れているわけですね。
55
永久磁石の起源
アルベルト・アインシュタイン(1879~1955 年)が 67 才のとき
書いた自伝の中に、南ドイツの古い町ウルムで、彼が 5 才の
とき病気で寝ていた折、父親から慰めにもらった磁針が非常
にうれしくて、そのときの驚きの気持ちは生涯忘れられなかっ
たことを述べている。子供のアインシュタインをこのように驚か
せた磁石も今ではごく簡単に手に入るが、そもそも磁石はい
つごろ発見されたのだろうか。一説には、紀元前数百年ごろ
古代ギリシャのマグネシアと呼ばれる地方で鉄を引き付ける
石が発見されたと伝えられている。
この鉱物は天然に磁化された磁鉄鉱(magnetite : Fe3O4 )
であり、人類が最初に出会った磁性体である。永久磁石のマ
グネットは、このマグネシアに由来しているともいわれている。
また、一説にはやはり紀元前、古く中国の慈州が磁鉄鉱の産
地であったため、これを利用したのが人類最初の磁石である
ともいわれている。この鉱石を慈石と呼んでいたことから磁石
の語源になったとも伝わっている。
アインシュタインも磁石の引力に惹きつけられたわけですね。
56
磁石のあゆみ
鉄を主成分として含む鉱物はたくさんあるが、主なものは磁
鉄鉱(Fe3O4 )、赤鉄鉱(Fe2O3 )、褐鉄鉱(2Fe2O3・3H2O )
などである。しかし、磁鉄鉱は磁石に吸い付くが、赤鉄鉱や
褐鉄鉱は磁石には吸い付かない。
どちらも鉄の酸化物でありながら鉄の原子と酸素の原子の
結び付き方によって、磁性をもったり、もたなかったりしてしま
うのである。したがって、物質の磁気的性質もそのものにたく
さん鉄が含まれていれば強くなるとはいえないのである。
そのため、磁石の研究に携わってきた科学者は今日まで、
いろいろな種類の元素を鉄に配合させて原子の並び方を変
えて、より強い磁石の発見に努めてきたのである。
時代は進み 15 世紀になって、学問的に磁石を解明しようと
試みたのは、イギリスのギルバート(1540~1603 年)である。
ギルバートが発見した最大のものは地磁気の発見である。
この着想は、船乗りたちの経験に基づいたもので、船が北
に近づくにつれ磁針が下に向くという事実を知ったことである。
57
この事実を確認するために、ギルバートは子供の頭ほどの
磁鉄鉱を球形につくり、地球の模型をかたどって、小さい磁
針を用いて磁界の様子を調べたという。1600 年、ギルバート
が彼の著書「磁石」の中で地磁気のことを説明して以来、地
理学者や物理学者たちは地磁気の存在を知ることとなり、や
がてドイツのフンボルト(1769~1859 年)は各地で地磁気の
強さの測定記録を残すまでになった。
我が国では、西南戦争(西南の役)がおさまった翌年の 187
8 年(明治 11 年)にイギリスから一人の若い教授が東京大学
に赴任してきた。当時 23 才のユーイングである。
ユーイングは数々の優れた研究をものにしており、特に磁
気ではヒステリシス現象を命名した世界の磁気研究の父とも
いうべき人物であった。当時、彼は若さをみなぎらせて学生と
ともに学び実験し、学究の徒を育て上げた。その後、一世紀
以上にわたって日本が磁気研究において世界をリードするよ
うになった源はここに発していたといえる。
2 0 世紀が近づくころになると、安定な磁界をつくる永久磁石
の必要性がしだいに高まってきた。例えば、ガルバノメータ
(検流計)用や小型電磁機器の可搬性の要求にこたえられる
磁石への要望が生じてきた。
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KS 鋼の発見
本多光太郎(1870~1954 年)による KS 鋼の発見は、現代
に至る永久磁石の源流であり、磁石の歴史を語るうえで欠か
せない業績である。
しかし、この成果は先に述べたユーイングの来日に端を発
していることは事実である。ユーイングは電気磁気学、磁性材
料学を、はじめて我が国に紹介指導し、その指導を受けた長
岡半太郎、そして長岡半太郎から本多光太郎へと学問研究
が引き継がれていったからである。
KS 鋼磁石は大きな保磁力をもった磁石であり、その成分配
合は炭素 0.8~1.0%、コバルト 30~40%、クロム 1.5~3%、タン
グステン 5~9%、残りが鉄というものであった。永久磁石として
望ましいことは、ヒステリシス曲線で残留磁化が大きいことであ
るが、それとともに保磁力が大きいことが必要である。ヒステリ
シス曲線は磁性体が過去に磁界によって受けた磁化が消失
せずに残っていることであり、永久磁石はこの性質を利用した
ものである。したがって、永久磁石にする磁性材料はヒステリ
シス曲線の幅が広く、またこれが縦軸を切る点が高いほうが
良い。
59
本多光太郎が開発した当時の「新合金」の発明は、徹底し
た実験主義によるものであり、可能性のあるすべての組み合
わせ組成のテストピース(試験片)をたくさんつくって、片っぱ
しから熱処理し、ヒステリシス曲線を測定していき、しだいに的
を狭めていく方法であったが、この方式はその後の数々の発
明を導いた基本的手法でもあった。
彼のモットーの「人間はねばりだ、努力だ」という精神が KS
鋼の発見を生んだことは注目に値する。
本多光太郎が東京大学の学生時代のエピソードにこんな話
が伝わっている。
彼は毎晩、実験室で夜半過ぎまで研究を行い、帰るころに
は門が閉まっているので、そのつど守衛さんに門を開けても
らうため、守衛さんを起こしに行った。
あまり度々なので守衛さんも、ある晩つい「塀を乗り越えて
帰ってください」と彼に告げたそうである。そうしたら本多光太
郎は「何時であろうと門を開ける仕事は守衛の勤めであるから、
勤めをきちんと果たしてほしい」と答えたという。
その後も長く研究を重ね、組成を更に組み替えて 1933 年
(昭和 8 年)には、最初の KS 鋼の 4 倍近い保磁力をもつ新 K
S 鋼を発明し、その功績で文化勲章を受賞している。
60
KS 鋼の命名は彼の研究所に研究費を寄付した住友吉左
衛門の名前(頭文字)をとって付けたものである。
当時 KS 鋼はドイツのシーメンス・ハルスケ社、アメリカのウェ
スチングハウス社から特許使用許可を申し出てきたほど画期
的なものであった。
原発マフィアのウェスティングハウスが使用許可を求めてき
たのですか。
現在だったら絶対に許可しませんよね。
61
MK 磁石からアルニコ磁石、更にフェライト系磁石へ
1931 年、MK 磁石が東京大学の三島徳七により開発された。
この磁石は保磁力が KS 鋼の 2~3 倍あり、磁気的に安定で
コバルトを含まない安価な磁石として工業生産された。
中心となる組成は鉄、アルミニウム、ニッケル、銅などである。
名称の MK は本人と縁のある三島家(養子先)と喜住家(実
家)から命名されたといわれる。
1933 年の本多光太郎等の新 KS 鋼は、この MK 鋼にコバル
トやチタンを含ませたことが特徴になっており、MK 鋼の約 1.5
倍の保磁力を有していた。
MK 鋼や新 KS 鋼の高磁気特性は、更にその後のアルニコ
磁石の誕生の礎(いしずえ)となった。 このアルニコ磁石の
名称は組成成分の鉄に対する添加物がアルミニウム、ニッケ
ル、コバルトの読みを重ねたものである。
コバルト量の多いアルニコ磁石の効果が確認された結果、1
940 年ごろ、アメリカの GE 社から商品名 Alnico5(ジョナスの
発明)が工業生産された。
このアルニコ磁石の組成はアルミニウム 8%、ニッケル 14%、
コバルト 24%、銅 3%、残りが鉄である。
62
その後更に改良が進み、1957 年ごろにオランダのフィリップ
社から Alnico8 が登場することになるが、なんといっても本多
光太郎の新 KS 鋼がアルニコ磁石の元祖とされる所以は、こ
れらが保磁力を高めるために、チタンと多量のコバルトを添加
していることである。
さて、歴史的に永久磁石の流れを追ってみるとやや戻ること
になるが、1937 年(昭和 12 年)東京工業大学の加藤与五郎、
武井 武両教授が発明した世界最初の酸化物磁石(フェライト
磁石)に注目しなければならない。
このフェライト磁石というのは、酸化物磁性材料を用いたも
ので、原料は酸化鉄、酸化亜鉛、酸化ニッケル、酸化マンガ
ンなどを使用している。今までの永久磁石の材料は鉄、コバ
ルト、ニッケルという強磁性体金属を主成分とするのが常識で、
いわゆる鉄合金というイメージであったが、これらの常識を
破った磁石ができたことになる。 フェライト磁石は鉄やコバル
トの酸化物を焼き固めてつくったもので、茶碗や皿などの陶
器の仲間であり、一見すると「黒い瀬戸物磁石」という感じが
する。そのためドライバなどでつつくと欠けるようなもろい面も
もっている。ともかくこのような組成をもっているフェライト磁石
は、強磁性体金属とはヒステリシス曲線も異なっている。
本多の新KS鋼は面目躍如って所ですね。
63
ネオジム磁石の出現
1960 年代に入ると、希土類元素を用いた磁石の優れた性
能が注目され出した。希土類磁石とは、周期律表の下段番
外に記載されている希土類金属とコバルトや鉄との金属化合
物を主成分とする磁石のことである。
(注)希土類金属にはサマリウム(Sm )ネオジム(Nd )などが
ある。
現在、ネオジム磁石と呼ばれているものはネオジム(Nd )、
鉄(Fe )、ボロン(B)を主成分とするもので、世界中で研究開
発が継続されている中で、1983 年当時の住友特殊金属の佐
川眞人によって発明されたものであり、世界的にもセンセー
ションを呼んだ。
ネオジム磁石(N d・Fe・B 磁石)の発表以後、その生産量の
伸びは驚異的となり、1985 年には 100 t を超えており、その
後も生産量は増えつづけており、はじめに示したような電子
機器、医療器具など各種産業面で使われている。
64
(注)ネオジム磁石は強力な磁力をもち、硬度や機械的な強
さに優れている反面さびやすいという短所もあるため、表面処
理(めっき)されているものがある。
ネオジム磁石はKS鋼の 60 倍の強さらしいですね。
過去から現代まで日本が中心になって磁石を開発してきた
ことが分かりましたね。
65
66
ビニロン
67
日本発の合成繊維
デュポン社がナイロンという合成繊維を開発したのは
有名です。
日本でも合成繊維を世界初の合成繊維が開発されまし
た。
ビニロンです。
ビニロン(vinylon)は、ポリビニルアルコールをアセ
タール化して得られる合成繊維の総称である。
京都帝国大学の桜田一郎および共同研究者の李升基、大
日本紡績(現・ユニチカ)の川上博、鐘淵紡績(現・クラシエ
ホールディングス)の矢沢将英らによって 1939 年に初めて合
成された。
ナイロンに 2 年遅れで続き世界で 2 番目に作られた合成繊
維であり、日本初の合成繊維である。
当初は「合成一号」や「カネビアン」と呼ばれていたが、1948
年に「ビニロン」と改称された。
68
工業化の研究は戦争のため遅れ、桜田と友成九十九、川
上らの研究によって倉敷レイヨン(現・クラレ)、大日本紡績
(現・ユニチカ)で工業生産が開始されたのは 1950 年のこと
であった。
69
性質
合成繊維中、唯一親水性で吸湿性であるという特徴を持っ
ており、綿に似た風合いの繊維である。そのほかに、高強度・
高弾性率、耐候性、耐薬品性といった性質を併せ持っている。
ただし、化学変化や熱に強い反面、染色しにくくごわごわす
るという短所があり、衣料用の繊維としては使用しにくい。
そのような性質から、産業用資材として用いられることが多
い。主な用途としては、ロープ、海苔網、ゴムやプラスチックの
補強繊維、石綿に代わるセメント板の補強材などが挙げられ
る。
また、フィルム状にした場合の平面性や光学的透過性を生
かして液晶表示装置の偏光板など、繊維以外の使用法も開
発されている。
湿った状態からアイロン等の熱源で加熱加圧することにより
糊付けしたような肌触りを持つことから業務用シーツの素材に
使用したり、熱に強い性質を利用して難燃素材として作業服
等に使用されている。
綿に似ているわけですね。綿で服をつくればいいじゃない
かという声が聞こえそうです。
70
ビニロンの合成
ポリビニルアルコールに酸触媒の存在下でホルムアルデヒ
ドを反応させる。それにより、ポリビニルアルコールの 1,3-ジ
オール部でホルマール化が起こり、環状の 1,3-ジオキサン構
造が導入される。なお、この際に確率的には 13.5%のヒドロキ
シル基が未反応のまま残る。
71
用途
1996 年の日本におけるビニロンの生産量は 4 万 t である。
学生服、レインコート、ロープ、漁網、繊維補強コンクリート
の補強用繊維、外科用縫合糸などに、また非繊維用途として
農業資材や水溶性樹脂素材等にも用いられている。自衛隊
の幌、幕舎(テント)、作業服にもビニロンとの混紡製品がある。
学生服はお世話になりましたね。
あれはビニロンだったんですね。
72
李升基
李 升基(リ・スンギ 1905 年 10 月 1 日 - 1996 年 2 月 8 日)
は、北朝鮮の化学者。ビニロンの発明者の一人。
日本統治時代の朝鮮の全羅南道潭陽郡生まれ。中央普通
学校を経て松山高等学校理科甲類を 1928 年 3 月に卒業し
た。その後、京都帝国大学工学部に進学し、京都帝国大学
化学研究所では助教授を務めた。
1939 年には桜田一郎、川上博、矢沢将英らとともにビニロ
ンを合成し、世界で 2 番目の合成繊維を作成した。
しかし戦時中の日本の軍事政策に協力しなかったために治
安維持法により拘束され、終戦を迎えるまでとらわれの身と
なった。
解放後は韓国へと渡り、ソウル大学校の工科大学で学長を
務めるものの朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮へと逃れた(韓国側
は拉致と主張)。
その後は、北朝鮮でビナロン(ビニロンの北朝鮮名)などの
繊維工業の発展に尽くしたほか、1962 年~1990 年には最高
人民会議の代議員を務めた。
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1967 年に寧辺原子力研究所が設立されると初代所長となり、
核兵器開発にも携わるとともに多くの科学技術者を育てた。こ
うした功績から死後、愛国烈士陵に祀られている。
原子力研究所の所長になり核兵器の開発に携わるとは残
念ですね。
日本ではきちんと共同研究者として名前ををだしています
が向こうでは 李升基がビニロンを開発したことになっているよ
うですね。
お国柄ですか。
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JPEG,MPEG
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圧縮方式
もう説明の必要もないと思いますがおなじみの拡張子
のJPEGやMPEGも日本の主導で開発されました。
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安田 浩
JPEGの国際標準化の議長を日本人が務めていました。
安田浩という人です。
安田 浩(やすだ ひろし)は、日本の計算機科学者。元東京
大学国際・産学共同研究センター教授。現在東京電機大学
未来科学部教授。工学博士。東京大学名誉教授。CISSP。2
009 年春に紫綬褒章受賞。
東京都出身。画像処理、画像符号化などの分野に携わり、J
PEG、MPEG 規格標準化での功績により 1996 年エミー賞を
受賞。
知的財産権保護技術などの研究を経て、人間の五感にマッ
チングした映像制作・配信のための感性工学を研究。次いで
インターネットセキュリティ技術にも活動を広げ、ユビキタス社
会におけるセキュリティの一つの枠組みとして、複合領域サイ
バー・セキュリティ技術(MCST:Multidisciplinary Cyber Secu
rity Technology) を唱えている。
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経歴
1957 年 東京教育大学附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業
1960・1963 年 東京教育大学附属中学校・高等学校(現・筑波大学
附属中学校・高等学校)卒業
1972 年 東京大学大学院工学系研究科電子工学専攻博士課程修
了 工学博士。論文の題は 「遷移図によるディジタル伝送符号の一般
的解析法とその応用 」。
同年 日本電信電話公社入社、武蔵野中研にて画像情報通信技術
の研究開発を行う
1978 年 米国カリフォルニア州パサデナ市ジェット推進研究所客員
研究員
1987 年 NTT ヒューマンインターフェース研究所画像メディア研究部
長
1991 年 ISO/IEC JTC 1/SC 29(AV&マルチメディア符号化)議長(1
998 年まで)
1992 年 NTT 企業通信システム本部開発部長
1995 年 NTT 理事、情報通信研究所所長
1997 年 東京大学教授(先端科学技術研究センター)
2003 年 東京大学国際・産学共同研究センター長(2005 年 3 月任期
終了)
2005 年 5 月 CISSP(Certified Information Security System Professi
onal)資格取得
2007 年 東京電機大学未来科学部教授
2007 年 株式会社ソフトフロント社外取締役
2008 年 東京電機大学 総合メディアセンター長
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2011 年 東京電機大学 未来科学研究科委員長、未来科学部学部
長
2013 年 (ISC)2 理事(Board of Director)
[(ISC)2] :The International Information Systems Security Cert
ification Consortium, Inc. NPO in USA
受賞等
昭和 50 年度米澤記念学術奨励賞(電子情報通信学会)
昭和 61 年度高柳記念奨励賞(高柳記念財団)
平成 8 年度丹羽高柳賞業績賞(テレビジョン学会)
1995-1996 年米国テレビジョンアカデミーエミー賞技術開発部門
IEEE the 2000 IEEE Charles Proteus Steinmetz Award
平成 14 年度情報通信月間総務大臣表彰
映像情報メディア学会平成 16 年度丹羽高柳賞功労賞(映像フレー
ム間符号化方式の先導的研究、ISO 担当グループ議長として MPEG 標
準規格のとりまとめに対して)
平成 18 年 11 月 エリクソンテレコミュニケーションアワード
平成 19 年 6 月 東京大学名誉教授
平成 19 年 11 月 [(ISC)2]セキュリティ貢献賞
[(ISC)2] :The International Information Systems Security Ce
rtification Consortium, Inc. NPO in USA
平成 20 年 2 月 情報セキュリティの日 内閣官房長官個人功労賞
平成 21 年 4 月 紫綬褒章
平成 21 年 10 月 情報月間 2009 総務大臣表彰 安心・安全イン
ターネット推進協議会会長として
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平成 23 年 10 月 平成 23 年度工業標準化 内閣総理大臣賞
平成 24 年 8 月 [(ISC)2]Harold F. Tipton Lifetime Achievement Aw
ard 受賞
平成 25 年 1 月 高柳記念賞受賞
平成 25 年 5 月 電子情報通信学会 名誉員
平成 25 年 10 月 平成 25 年度情報化促進貢献個人等表彰 総務
大臣表彰<情報化促進貢献(企業等部門)>JSSEC受賞
JSSEC会長として代表受賞
委員等
電子情報通信学会会長(平成23年5月~平成24年5月)
内閣府高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部本部員(~平成
23年3月)
内閣府沖縄振興審議会委員(~平成25年3月)
特許庁産業構造審議会知的財産政策部会委員
総務省情報通信審議会専門委員
総務省住民基本台帳ネットワークシステム調査委員会座長
文化庁文化遺産情報推進戦略会議委員
安心・安全インターネット推進協議会会長
情報処理推進機構応用ソフトウェア審議委員会委員長
情報処理推進機構技術委員会委員
(元)Digital Media Project ボードメンバー
コンテンツ ID フォーラム会長
(元) DAVIC(画像サービス関連業界標準化国際組織)プレジデント
安心空間コンソーシアム(SPCC:Secure PrivateCosm Consortium)
副会長
総合セキュリティ対策会議委員
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JPEGとは
JPEG(ジェイペグ、Joint Photographic Experts Grou
p)とは、コンピュータなどで扱われる静止画像のデジ
タルデータを圧縮する方式のひとつ。またはそれをつ
くった組織(ISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 1、Joint Photogr
aphic Experts Group)の略称。JPEG 方式による画像ファ
イルにつけられる拡張子は jpg が多く使われるほか、jpeg
等が使われる場合もある。
一般的に非可逆圧縮の画像フォーマットとして知られている。
可逆圧縮形式もサポートしているが、可逆圧縮は特許などの
関係でほとんど利用されていない。
標準では、特定の種類の画像の正式なフォーマットがなく、
JFIF 形式(マジックナンバー上は、6 バイト目から始まる形式
部分に JFIF と記されているもの)が事実上の標準ファイル
フォーマットとなっている。動画を記録可能にしたものに Moti
on JPEG がある。
立体視(3D)用には、ステレオ JPEG(JPS)フォーマットがあ
る。
82
デジタルカメラの記録方式としてもよく利用されているが、デ
ジタルカメラでは様々なオプション機能を使い、JFIF を拡張し
た Exchangeable image file format(EXIF)などのフォーマットと
してまとめられている。
今では当たり前のように使われていますが、画像の拡張子
のBMPからJPEGの圧縮はパソコンの記憶容量が少なかっ
た当時は重宝しましたね。
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技術の詳細
符号化方式
J PEG では、画像を固定サイズ(8×8 画素)のブロックに分
割し、そのブロック単位で、離散コサイン変換(DCT:Discrete
Cosine Transform)を用いて、空間領域から周波数領域へ変
換する。この変換自体では情報量は削減されない。変換され
たデータは、量子化によって情報量を落としてから、ハフマン
符号によるエントロピー符号化がなされ圧縮が行われる。エン
トロピー符号化とは、データの生起確率の高低に応じて異な
る長さの符号を割り当てることで圧縮を行うものである。
DCT による周波数領域への変換では、変換そのものでは情
報量は削減されないが、低周波数成分にエネルギーが集ま
ることを利用して、量子化による情報量削減と、エントロピー
符号化での圧縮率向上を図っている。普通の画像をそのまま
量子化してしまうと大きな画質劣化が生じるが、重要な成分が
局所的に集められた後では元の画像の性質を残したまま量
子化が可能である。また、低周波数成分に集中するという形
で、データに偏りが生じると、エントロピー符号化の圧縮率も
向上する。
84
なお、JPEG では、量子化マトリックスと呼ばれる係数表を用
いて、低周波数成分に比べて高周波数成分でより粗い量子
化を行うのが一般的である。
エントロピー符号化ではハフマン符号を用いる。ハフマン符
号は処理が単純であるため演算量が少なく、さらにその符号
セットが想定する、理想的なデータが入力された場合には極
めて高い圧縮率を実現する。符号セットにあわないデータが
入力された場合、逆に圧縮率は下がってしまう。この問題を
解消するため後継の JPEG 2000 では算術符号が採用された。
なお、周波数領域への変換前の画像フォーマットの色成分
の数は 1~4 の間で選択でき、各色成分が何であるかを決め
る表色系も自由に選択することができる。そのため色成分が 1
つのグレースケール、色成分が 3 つの RGB 及び YCbCr、色
成分が 4 つの YMCK などのデータのどれも用いることができ
る。しかし、表色系の規定がない上にどの表色系であるかを
示す情報もないことは互換性に大きな問題となる。そのため J
FIF 形式では、YCbCr 表色系を用いること、さらに成分の順序
は Y、Cb、Cr の順であることを規定している。各色成分の空
間的な間引きをあらわすサンプリングファクタについては、
各々の色成分について水平方向、垂直方向独立に定めるこ
とができ、一般的な形式の 4:4:4、4:2:2、4:2:0、4:1:1 のいずれ
もが選択可能である。
85
ノイズ
JPEG ではブロック単位で変換を行うため、圧縮率を上げる
とブロックの境界にブロックノイズと呼ばれるノイズが生じる。
また、周波数領域への変換においては、低周波成分に画
像のエネルギーが集中するため、高周波成分のエネルギー
は小さくなる。このため量子化を行うと高周波成分はゼロに落
ち、無くなってしまう。
すると画像の急峻な変化を十分に表現できないため、エッ
ジ周辺では、ある一点に集まる蚊にたとえモスキートノイズと
呼ばれるノイズが生じる。
とくに赤には弱く、小さくすると赤の部分でノイズが発生しや
すい。
きれいな画像を残したいけど容量が嵩張る。
昔は悩みどころでしたね。
圧縮率を上げると色の変化が気になりますしね。
一割程度の圧縮ではあまり気になりませんね。
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インターネットでの普及とその背景
JPEGは、Web の普及黎明期において、Web ブラウザ標準
の画像フォーマットとして、GIF と双璧を成していた。
JPEG の符号化方式の特性から、同じ色が広い範囲に広が
ることの多い CG 絵画であっても、画像そのもののサイズに比
例してファイルサイズが大きくなる。
このため、ダイヤルアップ接続等、一般ユーザーの末端接
続がナローバンドだった時代には、データ転送量を少なくす
るという観点から、CG 絵画は GIF、デジタルスチル写真には
JPEG、という使い分けが存在していた。
1999 年、GIF の特許問題によって起こった GIF 排斥運動で、
GIF から、JPEG や、新たにフリーのフォーマットとして開発さ
れた PNG に移行する流れになった。
PNG は当時のブラウザではプラグインを導入しないと表示
できないなどの問題を抱えているケースが多かったため、GIF
画像を JPEG によって置き換えられるケースが多かった。
87
現在は、GIF の LZW の特許が失効し、フリーな画像フォー
マットとして再び使えるようになり、PNG もほぼ全てのブラウザ
でサポートされるようになった。この 2 つの画像フォーマットは
現在もインターネット上でよく使われている。
GIFの特許問題ありましたね。
当時は使えなくなると聞いて困ったものでしたが、いつのま
にかそんな話もなくなっていたのでどうなっていたかと思った
ら特許が失効したのですか。
88
MPEG-1 とは
音声ののMP3、映像のMP4とおなじみですが、一番初め
がMPEG-1です。
MPEG-1 (エムペグワン)は、ISO/IEC JTC 1 の Moving Pict
ure Experts Group(MPEG)によって作られた標準動画規格の
一つ。 正式名称:Coding of moving pictures and associated a
udio for digital storage media at up to about 1.5 Mbit/s
コンパクトディスク(CD)に 1 時間程度の動画を記録する事を
目標に NTT とアスキーに由って提案された。ビデオ CD など
で利用されている。単に MPEG 動画というと、MPEG-1 で圧
縮されたものを指す場合が多い。
ビデオとオーディオ、両者を併せたシステムについて規格
化されている。
NTTとアスキーは日本企業ですね。
日本によって提案されたわけですね。
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技術の詳細
ビデオ(動画像符号化)
H.261 で開発された動画像圧縮技術の流れを汲み、フレー
ム間予測と離散コサイン変換を用いた技術である。MPEG-1
の特徴は、従来まで 1 画素(動画像符号化ではフルペルと呼
ぶ)単位であった動き補償の精度を、半画素(ハーフペル)単
位に拡張した点である。ハーフペル動き補償は、半画素単位
での動きベクトル探索が必要で演算量が大きいものの、フル
ペル単位に比べて圧縮率を大きく向上させることができる。
ハーフペル動き補償は、H.262 (MPEG-2)や H.263 (MPEG-4)
でも使用されている。
ビデオ CD のほか DVD-Video や DVD-VR の規格に低解像
度用として取り入れられている(実際に MPEG-1 を使った DV
D は極めて少ない)。2000 年代初頭頃まではインターネットで
やり取りされる動画の圧縮形式としても一般的だったが、その
後は MPEG-4(DivX・Xvid・3ivx)・H.264・WMV などに取って代
わられた。2009 年現在では携帯電話・携帯型プレーヤー・デ
ジタルフォトフレームなどで MPEG-1 に対応している製品は
少数である。
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Layer 1、Layer 2、Layer 3 があり、それぞれ MP1、MP2、MP3
と呼ばれている。Layer 2 対応機器は Layer 1 の再生もでき、
Layer 3 対応機器では Layer 1、Layer 2、Layer 3 全て再生で
きる上位互換性を持つ。ビデオ CD では Layer 2 が使われる。
ビデオCDとはなつかしいですね。
今ではあまり使われていない MPEG-1。
しかしこれがなければMP3もMP4もないわけですね。
91
92
TRON
93
パソコン以外で使われているOS
WINDOWS でパソコンが爆発的に普及したのは事実で
しょう。
このOSは日常で使われている機械の制御でも使われ
ています。
そこで使われているのは WINDOWS ではありません。
大半がTRONと呼ばれているものです。
これも日本人が開発しました。
94
TRON プロジェクトとは
TRON プロジェクト(トロンプロジェクト)は、坂村健
による、リアルタイム OS 仕様の策定を中心としたコン
ピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトである。プ
ロジェクトの目指す最終的到着点のグランドイメージと
して「どこでもコンピュータ」こと HFDS を掲げている。
1984 年 6 月開始。
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概要
プロジェクトの中心と言える団体は、現在は T-Engine
フォーラムである。以前は社団法人トロン協会によって運営さ
れていた(2010 年 1 月 15 日付けで解散)。現在は組込みシ
ステム関連企業などが主として参加している。RTOS 等の、完
成した仕様については一般に無償で公開されており、仕様の
使用についてはライセンスフィーを要求されず、実装・商品化
は誰でも自由に行える。仕様書や T-License(現在のバージョ
ンは 2.0)で配布しているソースコードの著作権者は同フォー
ラムあるいは坂村健となっている。
「TRON」は、「the real-time operating system nucleus」に由
来する。組込み分野やパーソナルコンピュータの GUI など、リ
アルタイム性が必要な応用を重視していることによる。プロ
ジェクト発足直後にあたる時期の坂村の著書『電脳都市』の
映画「トロン」の章の注によれば、よく映画から採ったのか、と
聞かれるのだが「そうでもないし、そうでもある、というところで
実のところ全く関係ない。でも、このプロジェクトを始める前に
映画を見た記憶はある。TRON は The… の略である。」とな
んとも曖昧なことを書いている。
96
現代社会では、日常生活のあらゆる部分にコンピュータが
入り込み、何らかの形で人間と関わりを持っている。これらの
コンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、
ある程度標準的な仕様を設けてうまく連携させようというのが
TRON の理念である。
応用製品としては、携帯電話や自動券売機、自動車エンジ
ンの燃料噴射システムなどの組込型コンピューターの基本ソ
フトの一種として普及した。
無償で公開されたからこそこれだけ広範囲に利用されたわ
けですね。
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サブプロジェクト
TRON プロジェクトは互いに連携するサブプロジェクトによっ
て構成されている。
MTRON - 超機能分散システム(HFDS)全体をコンピュー
タとして見て、その OS。
ITRON・μITRON - 組込みシステム向けのリアルタイム OS。
携帯電話をはじめデジタル家電分野で広く使用されている。
μITRON は元々はワンチップマイコンの ROM に内蔵するな
どごく小規模な実装のためのサブセットだったが、μITRON 3.
0 以降は ITRON 全体の新バージョンとしてほぼ全機能を持っ
ている。
BTRON - Business TRON の略。パーソナルコンピュー
ター向けの OS。
小学校の教育用パソコンへの導入が決まりかけていたが、1
989 年に日米ハイテク摩擦を背景とした米国からの圧力(スー
パー 301 条の対象として挙げられた)があったりなどした結果、
実現しなかった。
CTRON - 電話交換機用として設計された OS。NTT の電
話交換機に使用された。
JTRON - μITRON 上のタスクと Java VM のインター
フェースを定めた規格。
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eTRON - セキュリティ規格を定めたもの、IC カード、非接
触認証などの規格。
T-Engine - リアルタイムシステム向けの標準開発プラット
フォーム。T-Kernel、標準ミドルウェア、ハードウェアの規格を
含む。
TRONCHIP - 汎用 CPU の規格。過去に富士通、三菱、日
立などのメーカーが TRONCHIP 規格にもとづいた CPU を販
売していた。
TRON ヒューマン・マシンインタフェースガイドライン - 従
来の機械スイッチ類を含めた、コンピュータと人間の間のイン
タフェースデザインに関する指針も制定している。xcsdd
このBTRONが普及していれば WINDOWS はいらなかった
わけです。
パソコンはもっと安くなったわけです。
これを潰したのが孫正義です。
本人が潰してやったと語っています。
その見返りにYAHOOの株とかを手に入れたのでしょう
か?
今も昔もやることが汚いですねこの男は。
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100
あとがき
日本人の美徳である無償で提供されたTRONで様々
な人々が恩恵を受けています。
一方パソコンのOSのトロンを潰した孫正義は何兆円
もの金を人々から奪い取って溜め込んでいます。
その額が借金の額と等しいというから呆れ果てます。
日本人である限りこんな下品なことはせずに生きてい
きたいですね。
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