日本の大学における英米文学教育における一考察

Kyushu Communication Studies, Vol.9, 2011, pp. 36-52
©2011 日本コミュニケーション学会九州支部
【 研究論文
】
日本の大学における英米文学教育における一考察
―グラウンデッド・セオリーを用いた学生の「語り」の分析を通して―
鎌田
史
(沖縄キリスト教学院大学大学院修士課程修了)
A Study of English or American Literary Education in Japanese University:
Analysis of Students‟ „Narratives‟ Based on the Method of Grounded Theory
KAMADA Akira
(M.A. from Okinawa Christian University)
Abstract.
Most discussions of English and American literary education in Japan have been from the
viewpoint of the professors giving their opinion. However, the argument that I wish to make claims
that student opinion is necessary when we consider literary education and it must be considered that it
is as place for communication between the professor and the student. I interviewed thirty
undergraduate students and asked what kind of problems they had in lectures on the English and
American literature that they received as Japanese undergraduate students. I analysed the data using
rooted grounded theory approach. As a result, four categories were extracted; the negative
preconception of the lectures in literature, the difficulty of the content considering the students‟
inadequate English ability or the lack of elementary knowledge of literature, the adverse effects of
literary theory, and not being able to appreciate some literary works. When I applied the hermeneutics
of Gadamer and added consideration of those themes, I was able to schematize “the process of the
literature understanding.” It became clear that this process shows the fusion of the „horizon‟ of the
student and the „horizon‟ of the author leads students to an understanding of literary works and the
important role of the professor is to help students understand the literature.
1.はじめに
英米文学教育に関する議論において、教える側である教師と教えられる側である学生とのコミ
ュニケーションのプロセスを究明することは必要不可欠なことではないだろうか。なぜならば、
教師と学生の間を取り持つのは、一連のコミュニケーション活動であるからだ。実際に人間が文
学作品を読んで理解するという行為はコミュニケーション学の枠組みで説明することができるの
で、人間が文学を理解する行為に存在するプロセスを発展させて英米文学教育の本質にせまるた
めにはコミュニケーション学の知見が必要な要素のひとつであると思われる。本論文では、従来
のコミュニケーションの定義を発展させて、教師と学生の関係とそれを取り巻く環境を含めて「教
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室文化」というコンテクストを定義し、コミュニケーション学研究の観点が英米文学教育の議論
では有効であることを述べていくと同時に、「理解」を鍵語にガダマーの解釈学という哲学的な考
え方が英米文学教育の研究に応用される。
また、今日に至るまでの英米文学教育に関する言及は、教師側からの意見が大半で、教育の片
輪を担っているはずの学生の意見がほとんど存在しない。本論文の目的は、英米文学教育に潜む
問題を浮き彫りにするために、英米文学教育に関する言及から抜け落ちていたと思われる学生の
立場に焦点をあてて、英米文学関連科目を受講する学生がどのような問題を抱えているのかにつ
いて、学生の「語り」を通して解明することである。その方法として、英米文学関連の講義を経
験した学生に対するインタビュー調査を実施した。英米文学教育は研究分野としては絶対的な理
論や方法論等が存在しない。そこで本論文では、学生のナマの声に耳を傾けることから、英米文
学教育に関する研究をスタートさせる。
2.教室という文化―コミュニケーション学と文学の接触―
2006 年 6 月に桜美林大学で開催された日本コミュニケーション学会においてコミュニケーショ
ン学と文学が交わりをみせた。この学会において、アメリカ文学者の巽孝之が「むずかしい文学、
むずかしい文化」と題した基調講演を行ない、その講演を引き継ぐかたちでコミュニケーション
哲学を専門とする柿田秀樹、レトリック理論を中心に外国文学にアプローチしている畑山浩昭、
そして巽孝之を加えた三氏による「文学とコミュニケーション―文化を読む―」というシンポジ
ウムが行なわれた。このシンポジウムの記録は、「文学とコミュニケーション―文化を読む―」と
して藤巻光浩が取りまとめ、日本コミュニケーション学会の論文集『 Human Communication
Studies』の第 35 号に収録されている。このシンポジウムはコミュニケーション学の観点から文学
を捉える視点が提供されており、英米文学教育について議論を展開していくための、大きなヒン
トを我々に提供している。
このシンポジウムで柿田秀樹は、英米文学教育の議論に関連する興味深い指摘をしている。
アメリカにおいて文学教育は、制度化された形式で教えること、ライティングを教え
るという課題がある。そして、その識字率の対象であるテクストを読むことを教えて
いくこと・・・単に読み方を学生に教えればそのまま書けるようになるのかというと
そうではない・・・自分自身が気づかない存在レベルで、学生は自分自身を書ける存
在にさせていく。そのための手法として書き方という教育制度が必要であった。(「文
学とコミュニケーション―文化を読む―」16)
上に引用した柿田秀樹の指摘はアメリカ合衆国における文学教育の指摘であるが、日本における
国語教育にそっくりそのまま一致し、文学教育はその国の国語教育に直結していることもまた事
実である。日本の国語教育を考えた場合にも、その教材の大半は現代文という科目であろうが、
古文という科目であろうが、文学作品を素材や題材にして教育が実施されている。
また、畑山浩昭はこのシンポジウムの中で、文化と文学の関わりについて議論し、以下のよう
に言う。
文化の中で文学を読もうとする行為の中には「共有」という概念が必要です。共有と
いう概念があるということは、読みを共有することであって、共有する読みというも
のは、ある程度人々に浸透する普遍性、汎用性を持ち得るもの、ある程度わかりやす
いものに形を変えた読みとして出てくる。文学作品を考 える時に、ユニバース
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(Universe)とアーティスト(Artist)とオーディエンスによるトライアングルがあっ
て、その中心に位置する作品(Work)という構図があります。これはずいぶん昔から
使われているダイアグラムですが・・・
(
「文学とコミュニケーション―文化を読む―」
24-25)
教室という文化空間の中で文学作品を読むとすると、教師と学生の間に「テクスト」が「共有」
される。つまり、どのような「テクスト」であっても、教室という文化空間で、その「テクスト」
が変容していき、その教室でしか生まれない「テクスト」の意味が誕生するのである。
本論文では、コミュニケーション研究の枠組みで英米文学教育を論じようとしているが、異文
化という鍵語でコミュニケーション学を捉える場合、Young Yun Kim が“Adapting to a New Culture:
An Integrative Communication Theory”という論考に発表した、
「異文化適応理論」に代表されるよう
に、国と国の違いが人間にどのような変化をもたらすのかということに重点が置かれていた。つ
まり、地球規模という「大きい」枠組みのなかで異文化という概念が捉えられていた。
しかしながら、近年、ジェンダー的側面やマイノリティーの台頭、家族形態の変化等、様々な
社会コンテクストを考慮に入れ、異文化の枠組みは「小さい」ものとしても存在するようになっ
てきつつある。秋田喜代美は「学校文化と談話コミュニティ―教育実践を語る談話への視座―」
という論考の中で、「学校文化」という枠組みを構築することを試みている。その論考の中で、学
校というコミュニティにおける教師と生徒の談話分析をして、教室における両者の談話は「学校
文化」を生成していくと主張している。秋田喜代美の考え方を利用させてもらえば、英米文学教
育の現場は、学生と教師の異文化接触の場であると考えられ、英米文学教育の現場の構造は「教
室文化」という概念で説明することができる。府川源一郎は「教室の中で個々の文学体験を交流
することによって仲間が見えてくる。いや、正確には仲間の中に隠されていた他者性が、新たに
その場に引き出されるといった方がいいかもしれない。それによって、教室内の人間の姿は多層
化される」(17)と指摘する。つまり、
「教室文化」のなかで、学生同士、あるいは学生と教師と
のコミュニケーションの中で文学そのものが発酵され、その空間の中で新たな「テクスト」が生
まれる可能性が英米文学教育にはあるといえる。
3.理解研究の観点―ガダマーの解釈学―
本論文を根底で支えるものはガダマーの解釈学である。ガダマーの解釈学を理解することがコ
ミュニケーション学的発想を発展させていくために、おおいに有効であり、人間同士が関わりあ
うという点で、ガダマーの解釈学を英米文学教育の議論に応用していくこともまた、有効である
と考えられる。ガダマーによる解釈学の基本的な定義は、以下に引用するとおりである。
解釈学の規則は、古代の修辞学(弁論術)から由来しており、近代の解釈学によって
弁論術から理解の技術に転用されたものである。いずれの場合にも見られるのは、循
環的な関係である。全体のことを考える予想が、はっきりした理解にもたらせられる
のは、全体から規定されるここの部分がまた一方で、この全体を規定することによっ
てである。(ガーダマー163)
この引用に、解釈学は「理解」のプロセスの一形態であることが明確に示されている。「理解」が
すべてにおいての基本とされる解釈学であるが、ガダマーの考え方で押えておかなければならな
い鍵語は「理解」
、「解釈学的循環」
、「地平の融合」三つである。
一つ目の「理解」という用語であるが、丸山高司は『ガダマー』という著書の中で、以下のよ
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うに説明している。
人間が生きているかぎり、いつもすでに「理解する」という仕方で生きている。我々
が生きている限り、いつもすでに一定の自己理解や世界理解をもっている・・・いか
なる理解も、つねに先入見を足場にし、そこから出発せざるを得ない。しかし、われ
われは未来に向かって自己の存在可能性を企投しつつ、過去を現在に媒介する。(252)
人間が生きているということは、それを取り巻く状況を「理解」しながら自分の存在を認識する
ことである。上記の引用に「先入見」という用語が出てきたが、
「先入見」とは「歴史的に形成さ
れた有限な地平」
(丸山 252)ということ、つまり、「理解」しようとする基盤には、必ず過去の
蓄積が作用するということである。過去の蓄積は経験という言葉で置き換えることもできる。
「先
入見」に関しては伊佐雅子が「現象学・解釈学的アプローチからの異文化適応研究について―日
本人企業駐在員の妻たちの調査を基に―」という論考において「理解を促進する働きをし、我々
が理解をもつことを可能にしてくれる」(6)ことを異文化適応の分野の研究で、ガダマーの解釈
学が有効であることを立証済みであり、文学作品を読む学生について論じる場合においても、伊
佐雅子の研究同様にガダマーの解釈学を応用することは有効である。
二つ目の「解釈学的循環」という用語は、ガダマー独特の用語であり、「テクスト解釈にさいし
ては、部分の理解にもとづいて全体を想定しようとし、また全体の理解に基づいて部分を想定し
ようとする。こうした『全体と部分との循環』」
(丸山 254)のことである。柴田元幸は金子靖と
の対談において、英米文学の授業では「木を見て森を見る」方法と「森を見て木をみる」方法と
があると指摘している(45)
。ガダマーの「解釈学的循環」という考え方を受容するならば、英米
文学の教室では、どちらの方法も必要ということになる。実際の教室では「木を見て森を見る」
方法と「森を見て木をみる」方法の両方が循環的に廻っている。その両方の方法が円環的に循環
することで、
「教室文化」における学生が「理解」する手助けになる。
三つ目の「地平の融合」という用語であるが、まずは、「地平」という用語の定義をしなければ
「地平の融合」を説明することはできない。丸山高司は「ガダマーは、『状況』のことを『地平』
ない『視界』と呼んでいる・・・理解において『地平の融合』が引き起こされてくるのである」
(136-37)と指摘していることを念頭にガダマーの解釈学の考え方にもとづけば、英米文学教育
の「教室文化」における「地平」とは、学生が解釈しその結果として何らかの影響を受ける「テ
クスト」のことである。そこで何らかの影響を受けた読者は「テクスト」の世界に巻き込まれて
いき「地平」が融合する瞬間に到達する。作品における登場人物の生い立ちや性格、あるいは人
生経験が読者である学生に何らかの作用をもたらす。その作用は作品あるいは登場人物に対する
共感かもしれないし、反発かもしれない。また、ネイチャー・ライティング等に見られる登場人
物が出てこない作品や動物が主人公として登場する物語の場合には、読者は「テクスト」の世界
観そのものと向き合うことになる。いずれにせよ、英米文学の講義において教師がどのような作
品を選択するのかということは重要な要素である。
このあたりで、ガダマーの解釈学をまとめておくが、寄川条路は「地平の融合」と鍵語を用い
て、以下に引用するようにガダマーの解釈学を説明する。
人間はつねに伝統によって刻印された世界の中で生きており、日常の生活世界という
伝承の歴史の中にいることから、理解は生まれてくるといえる。そこにおいて、現在
と過去が媒介されるのであり、理解は、この互いに交替しながら相互に影響を与えあ
う、地平の融合として成立する。したがって、どのような理解にも、先行する理解が
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つねに入っており、それが理解に影響を与え、理解が成立する過程のなかで変化し変
容を起こしている・・・
(62)
ガダマーの解釈学における「理解」のプロセスには、「理解」はゼロから始まるのではなくて先だ
った「理解」が存在するとしているが、ガダマーは先立った「理解」に対して「先入見」という
定義を与えている。「理解」するという行為を行なう人間は必ず過去を背負っており、新しい事柄
を「理解」するにしても過去の経験なり体験なりが、「理解」するプロセスのなかで働くというこ
とである。ガダマーの「先入見」という考え方を応用すると、文学作品を読む学生が、学生自身
の経験を照らし合わせながら作品を読む可能性があると考えられるし、読者である学生自身が置
かれている状況に起因し、文学作品の中に読者である学生が入り込んでしまう可能性もあると考
えられる。
4.英米文学教育と文学批評理論の関連性
英米文学教育に大きな影響を及ぼしたものとして、「新批評」という文学批評理論と Robert
Scholes の講義実践記録の二つが大きな柱として存在していることを論じなければならない。20
世紀のはじめ、「新批評」といわれる文学作品の分析方法が登場するまでの間、つまりはプラトン、
アリストテレスの時代から 1900 年代前半まで文芸批評という形で文学は論じられていた。この批
評方法は「印象批評」と呼ばれ、批評家の主観で文学作品を論じることを否としなかった。つま
り、
「印象批評」には批評家のより好みが色濃く反映される風潮があった。
プラトン、アリストテレスの時代から 20 世紀のはじめまでの 2000 年以上、文学の世界を支配
していた批評の方法であった「印象批評」に「新批評」が接近してきた。「新批評」が文学教育に
与えた影響は甚大であり、
「新批評」以降に登場する多種多様な文学批評理論は英米文学の教育現
場に対する影響力は大きなものであった。
まずは、英米文学の講義における教科書として利用されている、Cleanth Brooks と Robert Penn
Warren によって編集された Understanding Fiction を例に、幅広く受け入れられていた英米文学教
育の基本的なかたちを述べていく。Understanding Fiction には 60 編の短編小説が収められ、短編
小説の一編ずつが一つの項目をなしており、それらに対する編者の解釈が“Interpretation”として
まとめられ、この項目の最後には 2 つ 3 つの問い、例えば James Joyce の“Araby”という短編小
説の項目における編者による問いは“Children are supposed to have more imagination than adults.
What has happened when, for the boy, his previous occupation seem to be „ugly monotonous child‟s
play‟?”(192)や“There is in this story a relatively small amount of dramatically rendered material. Can
you say why? Is this fact consistent with the general tone and meaning of the story?”(192)であり、こ
の問いが読者に投げかけられる。この問いには作品を取り囲む周辺情報は切り捨てられ、あくま
で「テクスト」を読むことによって解釈を引き出すことを読者に求めるような仕掛けがされてい
る。
しかしながら、“. . .the author‟s intentions in writing, even if they could be recovered, were of no
relevance to interpretation of his or her text.”(48)という Terry Eagleton による「新批評」に対する批
判を見逃すことはできない。実際、
「新批評」の影響を受けた Understanding Fiction を読者が利用
すると、その著書の編者であるブルックスとウォーレンの意図が、読者の作品解釈を大きく支配
してしまうため、読者がオリジナリティーあふれる解釈を生みだすことは困難である。
もし仮に、Understanding Fiction を手に取る学生がいると想定してみよう。その学生は収録され
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ている作品に向き合うと同時に、編者であるブルックスとウォーレンの解釈もセットで読むこと
になる。場合によっては、作品そのものとは向き合わずに編者による解釈の部分だけを読むこと
もありえる。そうなった場合、読者がオリジナリティーを打ち出した解釈をすることは困難を極
める。ただ、編者による問いは学生がペーパーを仕上げていくうえでの大きな視座となっている
ことや編者の解釈そのものが文学研究者のアイデアを飛躍させる手助けとなるプラスの側面が
Understanding Fiction にはある。
Understanding Fiction の出版を前後して、文学批評理論は目まぐるしい変化を遂げていく。
「新
批評」以後の代表的な文学批評理論を以下に挙げてみる。
ロシア・フォルマリズム、現象学的批評、解釈学的批評、受容理論、構造主義、ポス
ト構造主義、脱構築的批評、ポスト・モダニズム、フェミニスト批評、精神分析学的
批評、新歴史主義、文化唯物論、ポスト・コロニアル理論、マイノリティーの言説、
レズビアン/ゲイ批評、文体論
上記の諸理論を見渡せば、文学批評理論が文学そのものから生み出されているものではないとい
うことを指摘せざるをえない。言うまでもなく、文学批評理論を発展させていった根底には、文
学以外の分野の学問の存在を無視することはできない。文学以外の分野からの学問が文学研究者
の身に及んできたのが原因で、文学に携わる研究者は新しい文学批評理論が登場してくるたびに、
目まぐるしく変化していく文学研究の潮流に対応し文学批評理論の変遷に乗り遅れないようにし
なければならなくなった。その結果、多くの文学研究者は、肝心な文学作品を読む時間を失って
しまい、文学作品以上に読むべき他分野や他学問の著書や論文が増えすぎてしまったことは皮肉
以外の何ものでもない。
Understanding Fiction の時代には、「新批評」のみが文学を論じる方法であったので、どの理論
を用いた解釈である云々という議論の必要性は全くなかった。つまり、文学を講じる側も教わる
側も文学作品を心ゆくまで徹底的に読みこんで、各々において解釈を引き出し、それをもとに徹
底的に議論するというかたちにしか、英米文学教育はなりえなかったのである。「新批評」をもと
にした文学教育が、本来あるべき文学教育の姿にも思えてくるのは皮肉ではある。
「新批評」以降
のたかだか 50 年間で文学批評理論が目まぐるしく変化を遂げ、文学を講じる側である研究者たち
も、その時代変化に振り回されたことは紛れもない事実である。このような状況において、文学
作品を純粋に味わおうというような空気は、いつの間にか文学を取りまく環境から消失してしま
った。英米文学の教室において、教師と学生が文学作品を一緒に読み、考えて「ああでもない、
こうでもない」と議論しようとする雰囲気が淀んでいき、今日に至っている。
このように文学批評理論が研究者でもある教師を振り回すようになっていったにもかかわらず、
英米文学を教育という観点から議論した Robert Scholes は特筆すべきである。Textual Power:
Literary Theory and the Teaching of English は Scholes の成果であり、以下のような書き出しで議論が
はじまる。
A dialogue between teaching and theory flows through this book, sometimes bringing
teaching to fore and sometimes theory.
This ebb and flow of discussion and debate is
unified by notions of textuality and textual power.
The whole book makes an argument,
more explicit at some moments than others, for shifting our concerns as English teachers
from a curriculum oriented by literary canon toward a curriculum in textual studies. (ix-x)
Scholes が「教室文化」のなかで重要視するのが「テクスト」である。この「テクスト」は広義の
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意味での「テクスト」、つまり、ロラン・バルトが『物語の構造分析』という著書に収録されてい
る「作者の死」という論考や「作品からテクストへ」という論考で主張した「テクスト」と同じ
概念として考えてもよいであろう。文学の講義であれば、「テクスト」に相当するものは、文学作
品そのものである。Scholes は、自身が教室で文学を教える過程で、思考したこと、あるいは実践
したことを土台に、自らの文学に対するスタンスを構築していき理論面でも何かしら構築してい
こうと試みていたように思われる。Scholes は変化が著しい文学批評理論の流れをしっかり押さえ、
研究者と教育者との両側面におけるバランス感覚は抜群である。Textual Power: Literary Theory and
the Teaching of English が従来の文学批評理論の関する著作とは異なっている様相を示しているこ
とは、以下に引用する部分に見出すことができる。
Obviously, a book like this is an act of faith: faith that teaching can be improved or
adjusted to new circumstances, that critical dialogue can refine thought, and, more
specifically, that literary theory and classroom practice really do have something to say to
one another.
I know that many teachers feel the concerns of theory are beyond them, or
irrelevant to their problems.
They see theory as having kicked itself upstairs to a
position where it can do neither good nor harm.(x)
Scholes は文学批評理論と英米文学教育の関連性を緻密に議論しており、とりわけ、
「教室文化」
での Scholes は極力、文学批評理論から学生を遠ざけているように思われる。Textual Power: Literary
Theory and the Teaching of English における議論の三分の一は“The Text in the Class”という項目に
費やされ、そこには文学批評理論に関する記述は全くといっていいほど登場しない。
Scholes の関心事は文学の教師として、教室という場所で、文学を通して何ができるのかという
ことであり、教師の役割に関する考え方が“. . .a major function of the teacher of fiction should be to
help students identity their own colletivities, their group or class interests, by means of the representation of
typical figures and situations in fictional texts.”
(23)という一節に明確に描写されている。読者であ
る学生の状況と物語における登場人物の状況が、コンテクストによって親近していく場合もある
だろうし、大きな隔たりを生む場合もあると考えられる。いずれにせよ、その隙間を埋めるのが
教師の役割とスコールズは指摘している。教師の役割は学生に対して手助けをする存在に他なら
ないのである。Scholes の考え方を突き詰めていけば、英米文学の授業の現場である「教室文化」
から英米文学教育について論じることが可能になってくるのではないだろうか。
5.日本における英米文学教育の現場から
日本における英米文学の教育現場に目を向けると、小野俊太郎は「今年の学生に何を読んでい
るか質問したら『「尐年ジャンプ」一筋です』『吉田秋生っていう昔の漫画家にはまっていま
す』
・・・といった答えが返ってきました」
(568)と述べているが、英米文学の講義を受講してい
るだいたいの学生の現状は、小野俊太郎が指摘しているとおりではないだろうか。
日本における英米文学の「教室文化」はどのようになっているのかというと、一年生を対象と
する「英文学概論」という講義を担当した富山太佳夫は「学生すべてが理解するとは思わない」
(474)というスタンスを取るが、「何よりも伝えたいのは、大学の講義とはどういうものかとい
うことだ。新しい知識を提供し、今までとは違ったふうに物が見えてくることを多尐なりとも体
験させるということだ」(475)と述べていることからも、文学を題材にして、学生にいろいろな
知識を得てもらおうとしている。
42
また、小説の講義を担当する原英一は小説を用いて「感動」を学生に与えることを望んでいる
が、
「感動は教えられない領域」(482)とジレンマに陥っている。この「感動を与える」という問
題は、英米文学教育がとらえるべき問題のひとつであり、原英一に限らず学生に「感動」を教え
たいと希望を持っている教師は多いはずである。ところが、原英一は学生が提出するペーパーに
対しては、「出てきたレポートはいつもながらがっかりさせられるものが大部分であった」(483)
という感想を述べているが、もし、そうであるとわかっているならば、その解決策を教師の側で
探っていかなければならない。何が問題点であるのかということが、ここまで具体的になってい
るのだから、学生にレポート課題を与える時点で、レポート作成時の指導方法として、学生に対
してどのような働きかけが教師の側にできるのかという議論が必要になってくるのは当然のこと
である。
英米文学関連科目のなかでは、尐し専門的な位置づけになる「アメリカ文学史」という講義で
の、巽孝之の工夫として、テストが学生の負担にならないような配慮をしていることがあげられ
る。巽孝之がテストで出題した問題に対して、
「興味を抱いた学生は、十二分にオリジナルな回答
を打ち返す」(「アメリカ文学史の教え方」477)と述べていることからも、教師がいかなる方法
でもって、学生に英米文学の波動を伝達することができるのかが重要である。
最後に、大橋健三郎の英米文学教育に関する言及について述べるが、大橋健三郎は大学という
場所で文学を研究している以上、研究者としての立場と教育者としての立場の両方を教師は持た
なければならないという考えてを持っている。大橋健三郎は、1970 年代初頭から教育的な観点か
ら文学を論じている。大橋健三郎は以下のように述べる。
「文学教育とは何か」ということ問いただせば・・・コミュニケーションを通じて互
いに何ものかを創造してゆく、その媒体となることを言わざるをえないのである・・・
文学教育の本質ということになれば、それは講義の場合にあってさえも刻々のもので
あって、いやおうなしにして生きた人間関係によらなければならない。(453)
先に記述したようなコミュニケーション学と文学が本格的に接触していく以前の 1970 年代に、大
橋健三郎は教育現場においてコミュニケーションが大切であると言及している。さらに、大橋健
三郎は「良心的な教科書を土台にして、教師と学生がコミュニケートする基盤ができればいいの
である」
(445)とも述べている。このことから、学生と教師が英米文学の講義で「共有」できる
ものは教科書であるということを指摘することができる。大橋健三郎は、教科書ということばを
使用していたが、英米文学関連科目に関しては、その教科書が文学作品の原書かもしれないし、
文学批評理論に関する文献かもしれないし、教師による自家製のハンドアウトかもしれない。講
義で使用する教材という側面から英米文学関連科目の講義を論じていくことは、学生がどのよう
な作品に興味を抱いているのかということにもつながっていく議論である。
英米文学教育と文学批評理論の関連性、日本の大学における英米文学教育の現場に関する教師
側の記述を整理してみると、ここには「教室文化」を形成する片輪である学生の視点がほとんど
見えてこないことがわかる。そこで、学生の側から英米文学教育を論じることは必然的になって
きた。
6.データ収集とデータ分析
これまで概観してきたように、教師からの一方的な意見として英米文学教育に関して論じられ
ている。そこで、本論文では、大学における英米文学教育に対して学生がどのように思っている
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のかを解明するために、大学生を対象にインタビュー調査を行った。質問内容は二項目を柱とし
ており、一つ目は「英/米文学の講義を受講して楽しかったこと、印象に残っていること」、二つ
目は「英/米文学の講義を受講して大変だったこと」についてである。本論文で用いられるデー
タは紙幅の都合も考慮して、二つ目の質問の「英/米文学の講義を受講して大変だったこと」に
対する学生の「語り」を中心に扱う。
調査期間は 2009 年 6 月から 2010 年 1 月までで、調査人数は 30 名(男 12 名、女 18 名)である。
年齢は 20 歳から 26 歳までで、面接するときに研究の内容と趣旨について説明をし、同意を得ら
れた 30 名にインタビューをした。このときに、インタビューを録音することと被調査者のコメン
トを匿名で論文中に掲載させてもらうことの許可を得るとともに、話した内容については氏名を
公表せずに、誰のコメントなのかを特定されないように配慮すると約束した。調査対象者は沖縄
県内の大学で学ぶ学部学生の三年生と四年生の学生である。面接時間は、挨拶、自己紹介、研究
の趣旨説明等を除いて、一人あたり 15 分から 60 分くらいである。
データ分析に関しては、インタビューデータは文字化をして、インタビュースクリプトを作成
した。そのインタビュースクリプトはアンセルム・ストラウスとジュリエット・コービンの『質
的研究の基礎―グラウンデッド・セオリー開発の技法と手順―』や戈木クレイグヒル滋子の『グ
ラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生み出すまで』や『質的研究方法ゼミナール―グ
ラウンデッドセオリーアプローチを学ぶ』といった著書を参考に、グラウンデッド・セオリーで
用いられる方法を利用して分析をした。
グラウンデッド・セオリーに関して『グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生み出
すまで―』のなかで「はじめから焦点を絞らないようにするのがグラウンデッド・セオリー・ア
プローチの特徴」
(30)であると戈木クレイグヒル滋子が述べているように、分析に向かうための
焦点は絞りにくい英米文学教育という分野では、よって、ゼロからデータ分析を積み重ねて理論
構築を図ることができるという点で、グラウンデッド・セオリーは本論文におけるデータ分析の
手法としては有効であると考えられる。
分析手順は、インタビュースクリプトから質問内容の「英/米文学の講義を受講して大変だっ
たこと」という質問に対する学生の言及を抽出し、切片化した。切片化されたデータの長さはま
ちまちで、短いものは 3 行ほどで、長いものは 20 行を超えるものもある。次にコード化を行ない、
切片化されたデータそれぞれにコード名を付けていった。最後にカテゴリー化を行ない、コード
化されたデータ同士を見比べて、内容面で近いものをひとまとまりにし、カテゴリー名を付けた。
7.研究結果
紙幅の都合上、
「英/米文学の講義を受講して大変だったこと」に関する学生の言及に絞って、
筆者が構築したストーリーラインを記述していくが、本節の中心は学生の「語り」である。学生
の「語り」には、「英米文学の講義に対する『負』の先入観」、
「英語力不足、予備知識不足にとも
なう内容理解の困難」、
「作品が肌に合わずに内容に入り込めない」
、「文学批評理論が及ぼす悪影
響」という四つの特性が見られた。以下、これら四つの特性について述べていく。
7.1.文学の講義における「負」の先入観
学生は、英米文学の授業で、大変さに直面する以前に、英米文学の講義に対する様々な先入観
を抱いていることが学生の「語り」を通して明らかになった。英米文学の講義は「難しい」とい
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うイメージがそのひとつであり、以下女子学生 A さんの「語り」である。
文学は難しいです。なんか、こまごましていて、あの人の意見はこうで、この人の意
見はこうだとか、振り回されてしまうわりに、文学って答えがこれっていうのはない
じゃないですか。だから、ほんとに自分が好きで、興味があって好きじゃないと文学
は勉強できないと思います。その興味が、私はわかなかったということですね。(3 年
女子学生 A さん)
文学に興味、関心がないことが、英米文学の講義に対する「負」の先入観がはたらいてしまう要
因になっていることが、A さんの「語り」に色濃く出ている。「文学って答えがこれっていうのは
ないじゃないですか」ということも、英米文学に対する学生の率直な感想である。文学のことを
「好きじゃない」ということも学生の正直な気持ちである。
さらに、英米文学の授業に対する先入観として、「堅苦しい」という例も見られた。自らの意思
で進んで英米文学の講義を受講しているのではなくて、文学の授業は取らされているという感覚
を学生が抱いてしまっているという例が、男子学生 B さんの「語り」にあらわれている。
印象。うーーん、文学って堅苦しいじゃないですか、言葉自体が。米国文学作品って
いうの。だからなんか、やっぱ、いちおう登録、やっぱ必修科目だから、必修という
か、取らなくちゃない科目だから、取らないといけないけど、やっぱ、たぶん、必修
とかじゃなかったら、取らない授業かなあって思うんですよ。名前自体だけ聞いたら。
(4 年男子学生 B さん)
B さんは、
「文学」という言葉そのものに反応してしまっている。B さんの「語り」のなかに「必
修じゃなかったら、取らない授業かなあ」とあることからも、英米文学の講義を受講する前の学
生のモチベーションは極めて低いと考えられる。
また、英米文学の講義に対する先入観として、
「ハードルが高い」のが英米文学の講義ではない
だろうかと思っている学生も存在する。女子学生 C さんの「語り」は、英米文学の講義は「ハー
ドルが高い」と述べた例である。
授業のスタートがまずいんじゃないかな。他の授業よりもスタートのハードルは高い
と思うわけ、文学の授業って。英語講読だったら、みんな英語を読めるようになりた
いから取るんだと思うけど、文学って、えぇーーーむずいんじゃんってところから入
るから、まず最初にその壁をぶち壊して、それから興味を上げて、そこからスタート
しないといけないから、普通の授業よりは 2 倍最初は大変だと思う。自分の印象とし
ては・・・ 2 倍か 3 倍かはわからんけど、ふつうの授業よりはハードルが高いと思
います。
(4 年女子学生 C さん)
「むずいんじゃん」という C さんの口から出てきたフレーズが、学生が持っている英米文学の講
義に対する先入観であり、文学はむずかしいものであると勝手に思い込んでいるようである。
他にも、英米文学の講義を受講する前の段階で、文学を学ばなければならないという現実その
ものに対して学生が疑問を感じてしまっている例が、以下に引用する女子学生 D さんの「語り」
にあらわれている。
じゃあ、なんで文学を自分たちが学ばなければならないんだろうとか、ここで何が得
られるんだろうっていうのを、せめて考えさせる時間、生徒にね。それすらないまま
に、いきなり知識を入れられるから、これが何の役に立つのかもわからないし、自分
が学ぶ必要があるのかもわからないし。
(4 年女子学生 D さん)
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D さんの「語り」は、英米文学の講義がどのように展開されていくのだろうかということよりも、
なぜ文学を学ぶのだろうかという学問に対する根本的な疑問に直面してしまっている例である。
この疑問は他の学生も抱いているのではないかと考えられるが、英米文学の講義に対して「何の
役に立つのかもわからない」というのは、学生が英米文学の講義に対してだけではなく、
「文学」
そのものに対しても抱いている率直な気持ちではないかと考えられる。
また、英米文学の講義と直接的に関連することではないが、カリキュラム上、英米文学関連の
講義を取らなければならないことを重圧に感じる学生もいる。ある女子学生は「文学の授業って、
いくつかは取らないといけないから、文学の授業は取らなきゃという義務感が先にきちゃうんで
すよ」(3 年女子学生 E さん)と語っており、文学の講義に対する思いよりも先に、何かに支配さ
れているかのような感覚が「義務感」という言葉で集約されている。この「義務感」が英米文学
の授業に対して、
「負」の先入観を学生たちに抱かせる要因にもなっている。
7.2.英語力不足、予備知識不足にともなう内容理解の困難
英米文学の作品で使用されている主要な言語は英語である。英米文学関連科目を受講する学生
にとって、その主要言語である英語がひとつの壁として聳え立つのである。英語力に難がある学
生にとって、英語で書かれている原作を読みこなしていく作業は非常に骨の折れるものである。
女子学生 F さんの「語り」は、授業で The Adventures of Huckleberry Finn を読んだ率直な感想であ
る。
何書いているのかわからーん。何を言っているのかも、何を書いているのかも、昔の
英語じゃないですか。何を書いているのかわからないプラス、あの太さは読む気にな
れない。かなり太い。5センチ? ん? もう、本を開く気にならないです、あれだ
け、太かったら。
(3 年女子学生 F さん)
F さんの「語り」には、原書の英語以上に本の厚さに圧倒されてしまっている様子があらわれて
いる。英語で書かれた原書に向き合おうとする以前に学生は、原書が持つ重量感に圧倒されてし
まい、作品を開こうとする気さえなくなってしまっていることが、F さんの「語り」を通してわ
かる。男子学生 G さんの「語り」も、英語力不足が英米文学の講義の障害になっている例である。
毎週課題も出て、チャプターごとに毎週読んできて、それを要約プラス感想を提出っ
ていうのが毎週あって。やっぱり、訳本がないと、この感想が書けないっていうか。
もう英語だけで、ホント、英語だけを、英語の原書だけを読んでやってくる、英語だ
けで読んで課題をやってくるという人はホントにいないレベル。みんな訳本を使って
課題をやっていたって感じです。訳がなかったらホントにむずかしい。訳を読むだけ
でも時間がかかるし。原書のほうはきれいで、織り目だけついていって、汚くなるほ
うは訳本って感じでした。
(4 年男子学生 G さん)
G さんは、イギリス文学の講義で Pride and Prejudice を読んで、要約と感想を書くという課題を毎
週与えられ、その取り組みは日本語訳に頼らなければ達成されないものであったという様子を赤
裸々に語っている。「訳本がないと」という G さんの「語り」が物語ってくれるものは、英語で
書かれた原書に太刀打ちができない英米文学の講義を受講する学生の現状あり、原書に挑もうと
する学生が尐ないという現状でもある。先に引用した G さんの「語り」の最後の「訳を読むだけ
でも時間がかかるし。原書のほうはきれいで、織り目だけついていって、汚くなるほうは訳本っ
て感じでした」という言及は、英米文学の講義を受講する学生にとっては、翻訳を読むだけでも
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時間がかかるのに、原書ではなおさらだという思いである。学生にとっては、日本語訳された英
米文学の作品を読むのにも時間がかかるということは、それを英語で理解して、さらには、作品
の内容を解釈していく作業は並大抵のことではないことは容易に想像がつく。
7.3.作品が肌に合わずに内容に入り込めない
英米文学の作品を読解するために必要な英語力不足や英米文学に対する予備知識不足が、学生
に作品理解の困難さを引き起こし、英米文学の講義を大変なものと学生に思わせていること以外
にも、作品との肌が合わずに、英米文学の講義が苦になっている例も学生の「語り」にあらわれ
た。以下に引用するのは、作品研究の講義で Hamlet を読んだ女子学生 H さんの「語り」である。
15 回『ハムレット』だから。どうせ、英国って言っているんだったら、三つとか四つ
とか作品やったほうが、幅広く文学を学べると思うし、これだと英国文学作品研究と
いう科目名よりはハムレットって科目名にしちゃったほうがいいし。もう、いっその
こと、授業名をハムレット研究にしてしまえばいいのに。英国文学作品研究っていう
んだったら、二つ以上は作品をやりたいなって思うのが正直なとこですね、うん。『ハ
ムレット』しかやらないのが不満かな、うん。
(3 年女子学生 H さん)
H さんは半期の講義で扱った作品は Hamlet ひとつだけであったことに対して不満を持っている。
H さんが「英国って言っているんだったら、三つとか四つとか作品やったほうが、幅広く文学を
学べると思うし」と語っていることからも、学ぼうという意欲はあることがわかる。H さんの場
合、その意欲に背いてしまうかのように Hamlet に対して「文も読みづらい。内容が理解できにく
いから、なんか違うさね、ローマ字読みとか、表記とか。もうちょい新しめのやつでもいいのか
なって思う。
『ハムレット』は古すぎる、古すぎてわからん、みたいな」と嫌悪感を抱いてしまっ
た。
また、作品研究の講義でオースティンの Pride and Prejudice という作品と肌が合わなかった例が、
女子学生 I さんの「語り」である。
作品は、えーと、えーと、えっと、ジェーン・オースティンの『プライドと偏見』で
す。
『高慢と偏見』をやって、授業で英語のスクリプトを渡されて、毎回どこからどこ
まで読んできてねって感じですね。で、その、登場人物像とか、主に登場人物につい
て考察していく感じ。で、面白くなかった・・・ただのイギリス人の日常が、ちょっ
と男女を織り交ぜてって、そういうはなしだったから、別にドキドキ感もなかったし、
読めっていわれたら読むけど、最後まで読まないなあ、授業がなかったらって感じ・・・
(4 年女子学生 I さん)
I さんの場合は、普段から詩集などを読むのが好きで、彼女の生活の中には読書が備わっており、
ある程度の文学的な免疫は備わっていることがインタビューを通してわかっている。I さんが直面
したのも、先に取り上げた Hamlet で苦労した H さんが直面した問題と同様に、半期でひとつの作
品だけを読み進めていくという授業においてであった。I さん自身の読書経験からすると、彼女の
感覚ではオースティンの Pride and Prejudice を受け入れることは困難で自分の肌に合わない以上、
I さんは英米文学の講義が苦痛に感じてしまったのである。
7.4.文学批評理論が及ぼす悪影響
たった一人しか語らなかった尐数の例ではあるが、文学批評理論が学生に悪影響を与えた事例
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を抽出することができた。この例は、本論文の中で文学批評理論とスコールズの教育実践録に関
して記述した手前、学生の「語り」のストーリーラインとしてここに記述しておきたい。実際に
作品を読むよりも前の段階で、文学批評理論を学んだことのある男子学生 J さんは、Hamlet を読
んだときに感じたことを以下のように述べている。
なんか自分ふうには解釈できなかった。解釈の方法を強いられているっていうか。オ
イデプス・コンプレックスだったらもうオイデプス・コンプレックスの読み方をしな
くちゃいけないとか強いられてる感があったから、やっぱり、なんか、そんな感じ。
重さがあったというか・・・うん。あのう、やっぱり、理論にあてはめっていって、
やっぱり、最初から先入観とかがあったから、理論に遊ばれていたっていうのは、や
っぱ、感情あっての理論、感情を持って読んで、そのあとで、理論で組み立てていく
のはオッケーなんだけど、理論から入っていったら絶対に感情は頭から付いてこない
から。だから、無機質な作品になってしまうと思う、読み手からしたら。(4 年男子学
生 J さん)
J さんの場合は、作品を読むよりも前の段階で、文学批評理論をある程度学んでしまっている。J
さん自身、「語り」の後半部分で「理論から入っていったら絶対に感情は頭から付いてこないから」
といっていることからも、教える側が、文学の授業において文学批評理論をどのように扱ってい
くべきか検討しなければならないことを、J さんの「語り」は提示している。
8.分析と考察
前節では、英米文学関連科目を受講した学生に対する「英/米文学の講義を受講して大変だっ
たことは何ですか」という質問にもとづき、グラウンデッド・セオリーを用いて、四つのカテゴ
リーを抽出した。それらのカテゴリーをガダマーの解釈学を受容し、学生の「語り」を照らし合
わせ英米文学教育の「教室文化」という枠組みにあてはめて考えてみた場合、
「文学理解のプロセ
ス」という概念図を以下のように示すことができる。
図 1 文学理解のプロセス
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日本の英米文学教育の「教室文化」には、
「文学理解のプロセス」(図 1)に示したように、学
生、文学作品の中の登場人物、教師という三者の相互関係が存在していることが確認された。学
生の「語り」のストーリーラインを読み込んでいくと、英米文学関連科目を担当する教師が講義
をどのように行なっているか、あるいは教師による学生の印象を描写した英米文学関連科目に関
する先行研究とは異なり、学生は授業に向かう以前に英米文学関連の講義に対して、
「負」の先入
観を持っていることが明らかになった。たしかに、富山太佳夫の「現在の大学生の読む力が高校
と大学における英語教育のおかげで、かつてよりも格段に落ちてしまっているのは周知の事実で
ある」(474)という言及や、渡辺利雄の「英語力なくしては英米文学を理解できない」(432)と
いう言及に代表されるように、学生にとって「英語力」が英米文学関連の講義に必要なスキルで
ある。しかしながら、インタビューの調査の結果として明らかになったことは、学生の英語力不
足はさることながら、英米文学の講義に到達する以前に、学生は英米文学の講義に対して、「負」
の先入観を持ってしまっていることである。学生は英米文学の講義で直面する問題を抱える以前
に、英米文学関連科目の講義に対して、
「むずかしい」、
「ハードルが高い」
、「堅苦しい」といった
先入観を持っていることが学生の「語り」を通して明らかになった。
また、講義を受ける前の段階において、学生の中に文学に対する何かしらの「壁」があるとい
うことは Scholes の先行研究を用いながらすでに記述した。このことは、英米文学関連科目を担当
する教師が、英米文学の「教室文化」において、どのような方法で授業を展開していくのか、あ
るいは、どのような作品を講義で扱うのかというような講義の改善策を練るよりも、学生が抱い
ている「負」の先入観を払拭させることが、英米文学関連科目を担当する教師が講義で行わなけ
ればならない第一の作業ではないだろうか。学生が英米文学関連科目の講義に対して「負」の先
入観を持っていることを考慮すると、本論文では論じることができなかったが、今後の取り組み
のひとつとして、学生の英米文学関連科目に対する心理面について詳細な分析をする必要がある
だろう。
さらに、学生が英米文学の作品と向かい合う段階で、
「英語力不足」や「予備知識の不足」が原
因による、文学理解の困難さに学生が直面したときに、日本語訳を利用したりして、何らかの行
動を起こし解決を図ろうとする努力をしていることが学生の「語り」のストーリーラインに示さ
れている。日本語訳の利用に関して、渡辺利雄が「かつて私は翻訳で読んじゃいけないと盛んに
言っていたのですが、最近はもう妥協して、翻訳でもいいから読んでくれ」(432)と述べている
ように、日本語訳は学生にとって読んではいけないものとして認識されていた状況が、先の引用
の「翻訳でもいいから読んでくれ」という渡辺利雄の言及からもわかるように、英米文学を取り
巻く環境は明らかに変化している。
ガダマーの解釈学のプロセスに関して、学生の「語り」のストーリーラインの記述で用いた H
さんの「語り」からは、学生にもそのプロセスが起こっていることが証明できる。ガダマーは、
作品が読者に関心を引き起こさせるきっかけになると考えているが、H さんが「わたし、いま、
彼氏いないんですけど・・・わたし、オフィーリアみたくはなりたくないみたいなことも考える
し、愛に疲れて死んじゃうなんてとか。幸せになって死にたいなあ」
(3 年女子学生 H さん)と考
えるきっかけになったのは、Hamlet という作品そのものである。H さんの「語り」にもあるよう
に、恋愛に関心があるからこそハムレットに対するオフィーリアの恋愛感情が描写されている
Hamlet という文学作品に対して関心を引き起こされている。さらに、その関心は自分が置かれて
いる「彼氏がいない」という状況まで絡み合ってくる。H さんが経験したようなプロセスは「文
49
学理解のプロセス」(図 1)と合致し、H さんの経験は「地平の融合」そのものである。
「文学理
解のプロセス」(図 1)において、「地平の融合」に至るプロセスを説明するためには、
「理解」そ
のものについて定義しておかなければならない。ガダマーは「テクスト」理解を二つに区別し、
一つは「
『テクストの意味』を理解すること」(丸山 141)で、もう一つは「著者の『体験』を理
解すること」
(丸山 141)であるとしている。実際に、読者である学生が作品の持つ意味を理解し
ようとするのは当然のことである。さらに、読者である学生は文学作品を通して、その文学作品
が書かれた過去時代ともつながるのである。その文学作品が描かれた時代とつながることができ
れば、著者の体験を「理解」するきっかけになるのである。学生の「理解」する度合いが高まれ
ば高まるほど、「文学理解のプロセス」
(図 1)にも示したように学生の気持ちは未来へ向いてい
くはずであり、未来の自分を想像し自分自身の人生について真剣に考えることが出来るようにな
るはずである。
Scholes が言及した“Our job is not to produce “readings” for our students but to give them the tools for
producing their own”(24)という文学の講義における教師の役割にもみられたような、教師の手助
けによって学生自身が困難さを克服していった例も、学生の「語り」にはあらわれた。ガダマー
の考え方は、読者と文学作品の間でのみ理解のプロセスが遂行されていくが、
「文学理解のプロセ
ス」
(図 1)においては、読者である学生の理解を助ける役割を果たす存在として教師が入ってい
る。英米文学の講義において、教師は作品に描かれていること以外にも、作品解釈において鍵に
なる単語の語源や英語の歴史、作品が描かれた時代背景等の予備知識を植え付けていったりする
はずだ。その行為は Scholes が指摘しているように、教師の役割は学生の手助けをするということ
で、教師の熱意が学生に伝わっていくということ、そしてその熱意が学生の理解を助けることに
もつながっている。以下に記述する I さんの「語り」は、英米文学の講義の担当教師に対する思
いを語ったものである。
X 先生はほんとに米文学史をちゃんと勉強している、米文学を研究しているっていう
のが伝わってくるから、なんか、私自身がどんな質問を先生にできるのかなあとか、
モチベーションにつながったんじゃないかなって思う。先生が、何でも知っている先
生だから、どんな質問をしたら喜ばれるのかなあとか、思いながら。先生がどれだけ
その科目を、講義、自分のものにして提供しているのかっていうのは、明らかに学生
のモチベーションにつながっていくのは間違えないし。
(4 年女子学生 I さん)
I さんの「語り」にもあらわれているように、教師は見られる存在であり、学生は教師の技量を図
ることさえあるのだ。I さんは英米文学の講義における X 先生のふるまいを見て、
「この先生にだ
ったら何でも質問できそうだ」という期待を寄せているのと同時に、「どんな質問が喜ばれるの
か」というところまで考えが及んでいる。教師は学生が質問しやすいような雰囲気をつくってい
かなければならないことは当然である。質問するのが苦手である学生がいることも考慮して、柴
田元幸が実践したような「テクストを読んできて、大事と思う一節を訳させ、それを元にコメン
トを書かせるのである。こうすれば、紙の上ではあれ、みんなが毎回『発言』する」(『生半可版
英米小説演習』189)という手法をとったりしている例もある。英米文学教育に関する議論が核心
にせまればせまるほど、授業方法等のテクニカルな部分にまで議論及んできて、新たな視点から
英米文学教育の議論を展開してくことが必要になる。
50
9.おわりに
本論文の意義として強調するべき点は、学生の「語り」を通して、「文学理解のプロセス」(図
1)の図式化することができたことである。本論文では、英米文学研究において主流とされている、
作家作品研究から一歩距離を置き、英米文学の「教室文化」のなかにいる学生のナマの声に耳を
傾けることから研究をはじめた。なぜならば、英米文学教育を研究対象とするフィールドは、そ
の研究方法等において絶対的なものが確立されておらず、その方向性もまだ完全に定まってはい
ないからである。文学は役に立たないと一般的に言われているが、
「文学理解のプロセス」
(図 1)
を見てもわかるように、文学は「負」の側面だけで議論されるものでは決してない。ただ、文学
が役に立つのか立たないのかという議論は本論文においては不完全であったことは否定できない。
文学が役に立つのか立たないかということは、文学に携わるものが追い求めるべき永遠のテーマ
であり、別稿を設けて論じなければならないことは必然で、今後の課題として取り組んでいきた
い。
本論文では至らなかった点も存在する。まずはインタビューデータの偏りである。サンプルの
数が 30 にとどまってしまった。英米文学教育の現状をより一層理解するためには、調査の領域を
専門分野として英米文学を学ぶ学生にまで広げることも考えていく必要がある。また教育分野の
側面から授業実践という観点を考慮すると FD 実践の記録、第三者評価、授業評価など活用でき
る資料はまだまだ存在するはずで、その方面に関する調査研究も取り組んでいかなければならな
い。本論文では、学生の「語り」を通して、学生の視点から英米文学教育について論じることを
試みたが、肝心な英語圏自体における英米文学教育事情の議論をすることがまったく出来なかっ
た。日本の英米文学教育に関する議論をより発展させていくには、英語圏における英米文学教育
また文学教育に関する調査、ならびに研究を深めていくことも必要で、今後の課題としたい。
追記
本論文は、筆者の修士論文「日本の英米文学教育における現状と課題―グラウンデッド・セオ
リー・アプローチにもとづいた学生の『語り』の分析―」
(沖縄キリスト教学院大学大学院異文化
コミュニケーション学研究科 2009 年度提出)の一部である。本論文は 2010 年 10 月 2 日、「日本
コミュニケーション学会第 17 回九州支部大会」(於西南女学院大学)において、
「日本の大学にお
ける英米文学教育における一考察―グラウンデッド・セオリーを用いた学生の『語り』の分析を通
して―」というタイトルで口頭発表したものに、多尐加筆修正を加えたものである。また本論文
の体裁に関して、日本コミュニケーション学会本部の「学会誌執筆要領」に記載されている MLA
様式の採用を考慮していただき、本論文を MLA 様式で掲載することを許可してくださった九州
支部編集委員会の先生方に心より感謝申し上げます。
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