ASNET 講義平成 20 年度冬学期「書き直される中国近現代史」

ASNET 講義平成 20 年度冬学期「書き直される中国近現代史」
第 6 回(11.19.)
平野聡准教授(法学政治学研究科)
「ダライ・ラマ―独立か自治か?―近現代チベット問題の形成と困難」
キーワード:ダライ・ラマ・チベット問題・民族自決と多民族国家
平野先生の講義では、長年の懸案であるチベット問題を、その歴史的淵源から検討する
というものであった。具体的には、各時期の中央政府とチベットの相互関係だけではなく、
欧米列強によるパワーゲームなどの複雑な要素も考慮しながら、チベットと中国側双方の
矛盾する主張を歴史的文脈から検討するということである。
まず、ダライ・ラマに関する一般的な解説とそれを歴史的位置づけに関して説明がなさ
れた。観音菩薩の化身とされるダライ・ラマの名称は、1578 年にモンゴルのアルタン汗が
ソナム・ギャムツォにその名称を贈ったことに端を発している。
その活仏選びであるが、清朝の乾隆帝は 1792 年に政治的対立と宗教の腐敗を防ぐ目的
でくじ引き制度を導入するよう求めた。このくじ引き主催権をもって、中華民国や中華人
民共和国はチベットに対する領域主権の根拠としている。しかし、そのような制度はチベ
ット仏教の施主として清朝が振舞っている限り有効なシステムであり得たのかも知れない。
仏教の保護者ではない現在の中国中央政府に主催権はないと多くのチベット人は考えてい
る。元来清朝皇帝にあったくじ引きの権利がいつの間にか国家に選択権があるという認識
にすりかわったのである。
活仏選びの例として、ダライ・ラマ 14 世が取り上げられた。チベット政府は独立の証
として自らに決定権を行使して、テンジン・ギャムツォに候補者を絞り込んでいたが、蒋
介石はくじ引きの実施を主張した。しかし、当時のチベットはイギリスの保護下にあり、
対日戦争を継続するためにもイギリスの支援を必要とした蒋介石は、イギリスとの軋轢を
避け、さらに青海軍閥の介入の可能性があったために、くじ引きを断念した。活仏選びは
政治的思惑とその時期の政治情勢の影響を直接受けていたのである。
それでは以上に説明されたダライ・ラマが現代にいたるまでのチベット政府と中国の中
央政府との関係のなかでいかなる役割を果たしたのか。それが以下では時系列的に説明さ
れた。
ダライ・ラマ政権は 1642 年に、青海モンゴルのグシ汗が征服地を寄進したことにより
成立した。ダライ・ラマ 5 世は北京において順治帝と会見し、友好ムードが生まれたが、
その後三藩の乱が発生すると、清朝側が呉三桂との内通を疑ったため、関係は冷却化した。
ダライ・ラマ 5 世の死後、その死が秘匿されたまま、チベットの摂政はジュンガルに接近
し、清とジュンガルはチベットをめぐる全面抗争に突入することとなった。清朝はチベッ
トを版図に組み込むと理藩院の管轄下に置き、チベットには駐蔵大臣を据えたが、清朝と
の関係や対外関係が緊張しない場合、あるいは清朝が弱体化した場合には管理監督は休眠
状態となり、ダライ・ラマが実際の政治主導権を掌握していた。これを清朝側も黙認して
おり、チベットの自立性は 19 世紀半ばまで政治問題化しなかったのである。この関係が
変化する契機のひとつは、イギリスの登場であった。
イギリスはチベット経由での通商・遊歴を清朝に要求した。それは清朝がチベットの宗
主権を持つと考えられていたからである。しかし、ここで清朝とチベットのイギリス観が
問題となった。清朝側にとってイギリスは「通商の国」であり、他の列強に比べ脅威がな
いと思われていたが、チベット側は彼らを「仏教の敵」と考えていた。この認識の違いか
ら両者の間で対立が生まれ、清朝のチベット観も「仏教の中心」から「暗黒・落後・未開」
という否定的なイメージに変化した。このイメージは以後の中央政府にも継承されている。
同時期、近代外交の進展により、チベットは中国の主権の一部という言説が誕生した。
清朝は英露からの干渉を制限するために対チベット主権行使、つまり国家主権の明確化を
迫られた。清末新政の本格化と重なり、清朝はチベットに対しても近代化政策を実施しよ
うとし、その障害となる仏教をチベット・モンゴルから切り離そうとした。さらに文化的
同化政策も清蔵関係の悪化に拍車をかけ、ダライ・ラマ 13 世は「仏教の敵」として清朝
を見なすようになった。そして、辛亥革命後、イギリス・日本の影響下で事実上の独自国
家運営を行っていたのである。
しかし、独自国家運営には多くの困難がともなった。チベット問題を解決するために開
催されたシムラ会議において、チベットが「中国の宗主権の下の自治邦」となるという妥
協案が提示されたが、袁世凱政権はあくまでも清朝の領域主権の継承を主張し、チベット
側は中華民国の支配を認めなかったため決裂した。しかし、チベット政権は日英の支援を
受けていたとはいえ、国家承認を受けておらず、満・蒙・漢の各民族からの施入が枯渇し
たため、財政的に苦しい状況に立たされた。その打開策としてダライ・ラマ 13 世は増税
や寺院への課税を行ったが、これが政治的分裂を引き起こし、蒋介石もこの対立に介入す
ることになる。1930 年代、彼の庇護下にあったパンチェン・ラマ 9 世をチベットに帰還
させようとするが、護衛兵のチベット入境拒否やパンチェン・ラマの死により、この帰還
工作は失敗した。
中華人民共和国建国後、チベット側は情勢を静観していたが、チベットの自治は、1950
~51 年のチベット進撃により大きな制限を受けることになる。この進撃は朝鮮戦争とイン
ド独立によるイギリス軍の撤退という権力関係のエアポケットの中で行われた。中国共産
党は、ダライ・ラマとパンチェン・ラマの関係回復を模索し、統治システムとしてはダラ
イ・ラマ政権と中国共産党チベット工作委員会の二重支配となった。
それではなぜ 1959 年にダライ・ラマの亡命という事態になったのか。それは中国側の
チベット自治区以外のチベット人地域に対する政策によるところが大きいという。当初、
生産力の回復が第一の課題であり、チベット人の状況に配慮して、合作社化などの導入を
見合わせたが、その後の他の地域での社会主義改造の煽りを受け、チベット人地域にも現
実離れした急速な集団化が導入され、経済的混乱が発生した。これは文化的・宗教的差異
によりさらに拡大され、自治区以外の地域での反乱が頻発した。これに対して、毛沢東は
徹底的な鎮圧を行い、仏教寺院の破壊や反乱勢力の掃討を行った。これが結果的にチベッ
ト自治区にも飛び火し、全チベット人地域の政治統合と独立を求める動きに発展したので
ある。同時に、これまで宗教的権威であったダライ・ラマは、チベット自治区外でも、中
国の圧政に抵抗するチベット人の統合の象徴・政治的権威としての求心力を高めた。つま
り、中国共産党の政策は皮肉にも全チベット人の結束を強化させる触媒になり、平野先生
の言葉では「『大チベット』政治統合構想」へと結晶化したのである。これがダライ・ラマ
亡命の背景とその結果であるという。
1981 年、中国側はチベットに対する規制を多少緩める態度を示したが、それでも高度自
治を求めるダライ・ラマ亡命政権との溝は埋まらず、民族自決と多民族国家の間をチベッ
ト問題は解決の道筋が立てられないまま迷走している。
○質問
・清朝の国家的性格は西洋における同君連合の性格をあてはめることができるのか?⇒清
朝皇帝は満洲・モンゴル・中国・チベット・イスラームとそれぞれの地域に対した個別
の関係を持っており、ヨーロッパの国王の姿とは異なるものである。
・
「巨大な虚構」としてナショナリズムが語られることがあるが、チベット民族主義と関連
して、この考えをどう思うか?⇒国民国家が現在実際に存在し、それを将来の目標とし
て欲している人々もいるため、完全な虚構とは言えないだろう。国民国家という存在が
相対化・再検討の対象となるのは、既に国民国家の歴史を積み重ね成熟させて来た国・
文化の「特権」であるともいえる。
・「大チベット」の意味は?⇒チベットは宗教的・文化的には前近代から一体であったが、
政治的には細分化された地域であり、チベットとチベット外のチベット人を結びつける
ようなナショナリズムは、1950 年代まではなかったか、もしあったとしてもエリートレ
ベルに限定されていた。しかし共産党の社会主義改造への異議申し立てが一般民も含め
て高まる中で生じてきたと考えている。
・11 月 17 日から始まった特別会議においてどのような問題が話し合われるのか?⇒中国
側との交渉が失敗して後、独立か自治かに関する議論はその会議の中で自由に討論され、
ダライ・ラマはその決議を追認することになるだろう。あくまでも民主的なプロセスを
重視すると思われる。
・ダライ・ラマの継承問題においてどの手段が用いられ得るか?⇒伝統的な活仏制度の可
能性が高いと思われる。民主的な継承プロセスであれば、ダライ・ラマが欠けているあ
いだ宗教的な最高指導となるガンデン・ティバ (ゲルク派最初の僧院・ガンデン寺の座
主) が、今後は政治的権威を継げば良いということにもなる。生前の任命はほとんどな
いだろう。
・ダライ・ラマのメディア戦略、つまり対外戦略の起源と影響は?⇒メディア戦略はダラ
イ・ラマが亡命した後、その生き残り戦略として必要なものであった。彼らは欧米や台
湾などに平和的なアプローチを強調して支持の拡大をはかり、そのような運動はベトナ
ム戦争後の厭戦気分などが有利に作用したと思われる。
○研究のポイント
平野先生の講義は、現在の問題を考える上で、現在の議論だけではなく、その淵源とな
る歴史的・文化的背景を検討することにより、チベット問題が突然 1950 年代に政治問題
化したのではなく、それ以前の複雑な中国とチベット、それを取り囲む世界情勢の作用に
より形成されたものであることを提示されていると思われる。ある意味で当然のことであ
るが、現代の問題を考える上での歴史的背景を検討する必要性が示されたと思われる。ま
た、川島先生が総括部分で述べた、政治的に微妙な問題に対していかに中立的な立場に立
って議論するか、研究者としての立場を考える上でも参考となるだろう。
(RA 小池求)