1950年 朝鮮戦争 チベット侵略 警察予備隊設立

---------- 1950 年 海外 ----------1 月 インドはイギリス連邦から離脱し、インド(連邦)共和国として独立する。
2 月 中ソ友好同盟条約
6 月 25 日
(中国はソ連との紛争を避けるため締結し、
「東側」に所属することを決定)
プサン
朝鮮戦争が起きる。北朝鮮は一時、大韓民国 釜山まで侵攻。
北朝鮮はソ連の武器を借り、中国とも協定を結んだ万全の態勢で戦争に臨んだの
で、準備不足だった大韓民国は大混乱した。実戦経験のない李承晩政権は逃げま
どい、自国民を見捨てることもあった。反撃できたのは、旧日本軍に所属してい
た朝鮮人軍人のおかげだったとも言える(アメリカ兵の横にいる人が、刀を付けているのが
インチョン
見えるが、これは日本陸軍のシンボル)。9 月に総司令官マッカーサーの国連軍が、仁川
に上陸して、北朝鮮軍を攻撃、逆に北朝鮮は中国国境まで追い詰められる。
10 月に中国志願軍(実態は中国共産党の人民解放軍。この飛行機の写真は、漢字が中国風では
ないから、おそらく北朝鮮への宣伝用。北朝鮮も「元 日本」で日本語を読める人が多かった)が北
朝鮮に味方して参戦、51 年 6 月に国連軍を今の板門店付近の北緯 38 度線まで
戻し、53 年まで続く。ちなみに、世界初のジェット戦闘機同士の格闘戦=ドッ
グファイトは、朝鮮半島上空で行われた。当時、国際連合では、「東=社会共産
主義諸国」と「西=資本主義諸国」の冷戦状態で「中国の代表は、台湾=中華民
国か 本土=中華人民共和国か」でもめていた。怒ったスターリンはソ連の国連
大使に、会議をボイコットさせていたので、国連で「拒否権発動」の機会を逸
し、国連軍の朝鮮派遣を阻止できなかった。スターリンは 1953 年に死ぬが、こ
のごろには、少しボケていたのかも。
7 月 中国がチベットに侵攻し占領する。
チベットってどこだ、という人は地図を見る。中国の西、ミャンマー
の北にある山岳地帯に広がる高地の国で、今は中国の自治区になって
いる。現在チベットのあるチベット高原は、標高 3500m 以上あって富
士山よりも高いが、西暦 7 世紀ごろ、インドや中国との交流に刺激さ
と ば ん
れて、統一国家「吐蕃」ができた。
「吐蕃」は中国側から地名の音であ
てられた漢字で、あまり良い字ではない。
これは「中華思想」の反映だ。古代の中国人はおおまかに周りの異民族
と う い
せいじゅう
なんばん
ほくてき
わ
を「東夷、西戎、南蛮、北狄」とまとめて表す。日本を「倭」とか、モ
もう こ
ンゴルを「蒙古」とするのも同じだ。
「トバン」と読むのは日本語読みで、
中国語ではそれを「チベット」と読む(もちろん細かい発音やイントネーションは
違う)。ただし一般の中国人は「中華思想」をあまり意識していないか、言
葉も知らない場合が多い。政権内部の人だけが知っている思想だ。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1950 年 海外 ----------チベット= 吐蕃の首都はラサで標高は約 3700m だ。一時は勢力を伸ばして唐の
都 長安まで侵入したこともある。文化的には仏教を取り入れ、固有の民間宗教
(おそらくは山岳宗教で日本の修験道と近いもの)と融合させた、独自の「ラマ教」と呼ば
れるチベット仏教が生まれた。7 世紀の半ばに中国から仏像が取り寄せられ、8
世紀半ばごろに国の宗教になった。文字を持つ動機は「何かを忘れないため」
だろうが、おそらく経典を記述するために、インド系の文字を元にしてチベッ
ト文字が作られた。西蔵語とも言われて、チベット-ビルマ語に属する左横書き
文字だ。ブータン,ネパール,インドのヒマラヤ地帯に分布する部族、パキス
タンのカシミール地方なども、この言葉の方言で、今日でも用いられている。
文字や言葉を他国に使用されるぐらい、影響力のあった国が「吐蕃 =
チベット」だ。相当レベルが高く、尊敬され、神聖視された「天空の仏
の国」のイメージが浮かんでくる。高校の教科書や資料集では、12 世
なんそう
紀の中国の南宋王朝まで「吐蕃」と表記するが、13 世紀後半の中国 モ
みん
ンゴル帝国か、次の明王朝ぐらいで「チベット」になる。呼び名が変わ
ったのでなく、漢字表記でなくてよいか、と教科書や資料集の編集者が
判断したからだろう。こういうところが困ったものだ。
げん
14 世紀に中国大陸はモンゴル系の元王朝が支配して、その王朝ではチベット仏教へ
の盲信、狂信から発生した寺院の建設などで財政難になり、王朝が滅ぶ原因にもなる
から、中国共産党のセリフ「宗教はアヘンだ」は、ある程度当てはまっている。「ど
んなことでも行き過ぎは良くない」の例だ。モンゴル人は、ラマ教=チベット仏教の
信者が現在でも多い。日本には、モンゴル人の相撲取りが多いが、彼らが割合に日本
文化に溶け込むのが、早い理由でもある。16 世紀にチベット仏教を深く信仰するモ
ンゴル王から「ダライ・ラマ」の称号が、チベットの教主=信仰を象徴する僧侶に贈
られ、以来チベット仏教 =ラマ教の教主は「ダライ・ラマ」を名乗る
ようになる。モンゴル語で「ダライ」は「海」、
「ラマ」は「師」だ。
チベット仏教は 14 世紀末から 15 世紀にかけて厳しい戒律を守る方向
になり、僧侶は妻も子孫も持つことを禁止されたから、「ダライ・ラ
マ」が死んだ日に生まれた赤ん坊を、次の「ダライ・ラマ~世」にす
ることになった。位の高い僧=高僧が死んだ時も同じように扱い、そ
かつぶつ
の子供を「転生ラマ」
「活仏」と呼んだ。
ダライ・ラマは「多くの人を救う観音様の生まれ変わり」と見なされ、ポタラ宮と
呼ばれる壮麗な寺院 兼 王宮が建設され、そこでチベットの政治を取ることになっ
じょしんぞく
た。一方、中国大陸では、17 世紀に北方民族の女真族が支配力を強め、1644 年に
しん
そんぶん
しんがいかくめい
は北京を都とした清王朝となり、この後 1911 年 10 月に「孫文の辛亥革命」が起き
て、1912 年 2 月に滅びるまで、ずっと清王朝だ。18 世紀のころ、清王朝の皇帝は
ダライ・ラマを丁重に迎え、チベットは清王朝の保護国となった。しかし王朝末期
にはチベットを無理に征服しようとしたので友好関係は壊れ、チベットは独立し
た。このことが現在の中華人民共和国がチベットを支配している「元々、チベット
は中国だった」という「へ理屈」の根拠だが、今までの歴史から見ても「別の国」
だ。また中国全土そのものが異民族 清王朝の一部だったのだから、さらに根拠に
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---------- 1950 年 海外 ----------ならない。とにかく 1950 年の朝鮮戦争とほぼ同時に、中国はチベット内
部の混乱に乗じて侵攻し、1951 年にはラサを占領した。中国は「封建農奴
制からの解放」と呼び、
「改革」を進める。しかし、中国がチベットに侵攻
した真の理由は、①インドとの国境紛争時の緩衝地域にする、あるいはビ
ルマ(現ミャンマー)への侵攻ルートにする予定だから、まず弱いチベット
を狙った。②ヒマラヤ山脈の地下には鉱産資源が豊富と推定されるから。特にこの
時期、中国は原爆の材料のウランを探していた。③インド・バングラデシュ・東南
アジアに流れる川の多くはチベットが水源で、大陸の東アジア全体の命運を握れる
から。その他、チベットの安い労働力を手に入れることもあった。当時チベット人
の平均年収は 100 ドル前後(36000 円)だった。以上ぐらいと考えられている。もっ
とあるかもしれない。チベット政府は 8 月に国連に援助を求めるが、朝鮮戦争の影
響で後手に回った。最終的には朝鮮半島は北朝鮮に任せていながら、チベットの方
は「直轄の領地」にしているから、確実にこちらが「本命」だったのだろう。1956
年には協定に違反して、北部の社会主義化を強行したため、反発し、チベット人が
蜂起した「チベット動乱」が起きる。
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---------- 1950 年 日本 ----------5月
GHQ は政府や企業から共産党員を追放する指令「レッド・パージ」を出す。
朝鮮戦争が始まって、社会主義国・ソ連を意識した GHQ は、日本政府や
企業に雇われている日本共産党員と、その支持者を一方的に解雇しろとい
う命令を出し、約 3 万人が追放された。また 49 年から 50 年にかけて小・
中・高校の教職員約 2000 人が解雇された。さらに共産党は、翌年に「非合
法グループ=悪の組織」だと認定される。ただし日本は多くの「シベリア抑
留者=人質」を取られているので、あまりソ連を刺激したくなかったのも事
実だ(実はこの時点では人数を正確につかめていなかった。戦争中もそうだが、戦後も自国民の生命を軽
んじているのがわかる。こんな国が少数も拉致被害者を取り戻せるわけがないし、いい加減すぎるので、
戦争しない方がいいと思う)。イギリスは日本の立場をわかっていたが「共産主義に対して
甘い」と吉田首相に忠告をしていた。それも 70 年代にわかる。アメリカの映画界 ハ
リウッドでもレッド・パージは実施されている。
6 月 17 日 アメリカから、大統領特使 ジョン・フォスター・ダレスが来日する。
アメリカ国務省顧問で大統領特使のジョン・フォスター・ダレスが、対日平和条約
交渉のため来日した。彼は今後、日米交渉のキィー・マンになる人物だ。吉田首相
他、日本の政府要人と会談を重ねた。しかし吉田首相が再軍備に慎重だったので失
望し「日本がどうなっても俺は知らん」と怒って帰国しようとしたが、25 日に朝
鮮戦争が始まった。昭和天皇は「武装解除」された日本が、経済的にも精神的に
もすぐに復活できないことを知っていた。だが当時の政治家たちがあま
りに頼りないのを見越して、側近を通して「アメリカ軍駐留」のメッセ
ージをダレスに送った。本当は憲法違反の行為だが、そんなことをわざ
わざさせる、政治家の責任でもある。アメリカも、1941 年 8 月の「大西
洋憲章」で「領土を奪わない」を決定していたから、沖縄を占領したま
まではカッコウが悪かった。ダレスの発案で「日本の潜在的主権」を主
張し、二国間協定による沖縄駐留と、和平条約締結、裏での日米行政協
定締結へとつながる。ただアメリカ軍の駐留が、こんなに長引いたのは、
その後の政治家がだらしないからで、昭和天皇の責任ではない。
ダレスはアメリカのためだけに動く、タフな戦略思考の持ち主だ。戦後日
本を「運営」する手法について、彼は「日本人のレイシズム=人種主義を
利用する。彼らは欧米に対するコンプレックスを持ち、アジアには自分た
ちは近代人だという差別感情を持っている。それを煽れば、日本人はアメ
リカに従属する一方、アジアでは孤立し続ける」と主張した。アメリカ政
現在の沖縄 嘉手納基地
府はその通りに動き、未だに、我が国民は、その策略にはまり続けている。
同時に中国からは、周恩来の「洗脳」が影響して、それに染まったままの
人たちもたくさんいる。一国を足止めするのは、軍事力だけではない。
「思
想コントロール」でも十分な場合があるようだ。
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中学生のための現代史…これを読めばわかるかもしれない
---------- 1950 年 日本 ----------6 月 日本に朝鮮戦争の「特需」景気が来る
7 月 警察予備隊(今の自衛隊の前身)が結成。
戦争で苦しむ朝鮮の人には申し訳ないが、日本は戦争で一
息つけた。朝鮮情勢に対応するため、アメリカは日本にあ
る程度の軍備を許すことを決めた。また日本共産党のテロ
活動がひどくなっていたこともある。
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