市勢要覧(2008年版)(PDF:4281KB)

飯塚は福岡県のほぼ中央、 古代の大宰府官道、 江
戸時代の長崎街道が通る交通の要衝としてたくさん
の人、さまざまな文物が行き交った地。
石炭産業隆盛の時代は筑豊炭田の中心地として大
いに賑わい、 市内には当時の産業遺産が点在していま
す。
平 成 年 月 日、 飯 塚 市、 穂 波 町、 筑 穂 町、
庄内町、 頴田町が合併し、 新たな飯塚市としてあゆ
みを開始しました。
5つの市 町がひとつになって広 く 大きくなった飯 塚
市は、 地 域が誇る個 性が重なりあってさらなる可 能
性が広がるまちとなりました。
古の文化、 雄大な自然、 そして明日をつくる人々
の営み。 多彩な魅力がここにはあります。
18
3
26
飯塚市章
飯塚市の片かな文字「イ
イ ヅ カ 」を イ イ ツ カ と
組 み 合 わ せ た も の で、
市章の中の は全国で
111番目に市制を施行
したことを意味したも
のです。
(昭和7年1月20日設定)
平成18年3月26日、飯塚市、穂波町、筑穂町、庄内町、
頴田町の1市4町が合併し、新しい「飯塚市」が誕生しました。
飯塚市は、福岡県の中央に位置し、歴史と文化の薫る筑
豊の中核都市として、県内4番目の人口13万3,943人(平成
20年7月末現在)を有する交通の要衝地です。自然に恵まれ、
商業・農業の経済基盤も整っており、3つの大学を有し、学
園都市・ITを含めた新産業都市として、将来を期待される可
能性のあるまちです。
しかし、課題としては、国の三位一体改革による交付税削
減等によるひっぱくした財政状況、高齢化率の上昇、定住人
口の減少など、極めて厳しい状況にあります。国の起債事業に
依存したこれまでのまちづくりから、合併を好機とし、その効果
を最大限に活かし、総合計画の目標である「人が輝き、まち
が飛躍する、
住みたいまち、
住みつづけたいまち」
の実現に向け、
限られた財源を有効に活用し、行政として真に取り組むべき事
務事業を推進することが必要です。
また、自立した快適で活力ある自治体を目指し、
「生活者起
点で行う市民協働のまちづくり」を実践し、
「ひと・情報・教
育」を基本に社会に貢献できる人材育成を行い、研究開発
型学園都市として情報を世界
に発信し、学生、研究者、企
業関 係 者、さらには観 光客
等々、多くの人が訪れたくなる
まち「平成の飯塚宿場町」を
目指しています。
この市勢要覧は新しい飯塚
市の姿と今後の展望を紹介
いたしました。飯塚市へのご
理解を一層深めていただけま
したら、幸いでございます。
目次
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新しい飯塚を歩く
いいづか
知的創造エリア
ほなみ
歴史・産業遺産エリア
ちくほ
自然環境保全・活用エリア
しょうない
生涯学習情報発信エリア
かいた
里の田園エリア
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近代浪漫紀行
旧伊藤伝右衛門邸
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20
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1
嘉穂劇場
議会と行政
いいづか四季折々
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自然
満喫
年に発掘され、学術的
墳は古墳時代後期の装飾古墳で
から、鎌倉時代末期に作られた墓
滅元亨二年七月二日﹂という銘文
用するために、近接する古墳3基
土の歴史を学ぶ場として公開・活
装飾古墳の保存を図り、さらに郷
史跡になりました。飯塚市はこの
価値が高く、平成4年に県の指定
人々に尊ばれ、水を汲みに来る人
一定の水量を保つ﹁霊泉﹂として
水は、どんな干ばつにも涸れずに
区にある明星寺ひやんけさまのお
塔であることがわかります。同地
す。昭和
︵ 平 成 8 年 市 指 定 史 跡 ︶ を 含 め、
﹁飯塚﹂
の由来
﹁飯塚﹂は福岡県の中央に位置
し、 交 通 条 件 に 恵 ま れ た 地 で す。
大寺が開かれ、その後衰退しまし
の新緑、
秋の紅葉を堪能できます。
自然歩道は、せせらぎのなかで春
宝幢寺の木造薬師如来立像も県
の指定文化財です。像高 ・8㎝ 、
カヤ材の一木造で平安時代後期の
様式を受けた静かな像です。室町
時代の作と思われますが、筑豊に
飯塚エリアに分布する史跡・古
墳は、笠木城跡、白旗城跡、許斐
たが再興され、室町時代まで栄え
飯塚市西部の八木山は、福岡地
域と筑豊地域の間にある高原で
梅、紅葉、つつじのほか、紫陽花、
が絶えません。
古くは弥生時代を代表する立岩遺
古墳公園として整備しました。
に広がり、近世においては長崎街
道の宿場町として栄えてきまし
た。
市内の地名には建花寺、蓮台寺、
大日寺、明星寺などの寺の名が多
は古い像が少なく貴重な例です。
神 社︵ 城 跡 ︶、 寺 山 古 墳、 宮 ノ 脇
ました。この地区にある法橋琳弁
す。その標高は300m ほど。昔
ピラカンサス、金木犀、山桜など
97
く、古代寺院が栄えていたようで
古墳、立岩遺跡、千人塚、櫨山古
︵朝︶石卒塔婆はその繁栄を今に
す。明星寺地区は平安時代末期に
墳、立岩古墳、赤坂古墳、栗崎山
の八木山峠は八木山越えといわれ
四季折々の花が咲きます。
前面の﹁法橋琳弁︵朝︶八十一入
で、県指定文化財となっています。
の五大種子が刻まれた珍しいもの
面に梵字で﹁キヤ・カ・ラ・バ・ア﹂
㎝ の自然石を使用したもので、四
伝えています。卒塔婆は高さ約
る難所でしたが、現在は、恵まれ
滝があり、清流には蛍が飛びます。
た自然環境を生かした施設が点在
歩道には、巨岩奇石、大小多数の
山渓流公園です。渓流沿いの自然
八木山山麓の美しい渓流を生か
して早くから整備されたのが八木
ます。
古墳群などがありますが、川島古
古代の飯塚を訪ねる
仏教の栄えた地
跡の穂摘み石包丁が北部九州一帯
歴史
探訪
このエリアには大学や研究所が集まり、産・学・官の連
携によって様々な研究を行っています。未来を拓く学術・情
報産業の中心地として新たな発展を担うエリアです。
八木山高原の自然に遊ぶ。
知的創造エリア
するレジャースポットとなってい
静かに心を癒す
峠の麓には4つの温泉館が集
まった伊川温泉郷があります。
泉質は単純弱放射性冷鉱泉、い
わゆるラジウム温泉で、天然ラド
ンを含んでいます。
リウマチ、アトピー、痛風、動
脈硬化、外傷後遺症などに効果が
あることで人気の温泉です。毎年
秋の﹁湯まつり﹂は、多くの人で
賑わっています。
明星寺のボダイジュは、明星寺
を再興した鎮西︵聖光︶上人が地
面にさした杖がボダイジュに成長
し た と い わ れ、 龍 王 山 の 東 の 麓、
明星寺跡の近くにあり、6月には
飯塚市歴史資料館
飯塚地方の古代から 現代ま
での資料を展示しています。
面もの前漢鏡や貝の腕輪、鉄器
やほぼ完全な形の人骨などが出
土し、国の重要文化財となって
いる立岩遺跡の出土品をはじ
め、縄文∼古墳時代の貴重な考
古資料はおよそ1500点。立
岩 遺 跡 立 体 模 型 室 で は、 約
2000年前の人々の暮らしを
わかりやすく再現して
います。そのほか中国
西安市との友好関係を
示す資料、炭鉱の町と
して栄えた飯塚の石炭
民俗資料も展示してい
ます。
飯塚オートレース場は昭和 年
に開場した九州で唯一のオート
九州にただひとつのレース場
10
善を図っています。
容、広報、開催日程などの工夫改
は、レース場活性化に向け競技内
市民の生活に役立っています。市
収 益 金 は 公 共 の 福 祉 に 還 元 さ れ、
スファンが集まります。レースの
レース場。県内外から多くのレー
32
85
2
飯塚市歴史資料館
3
立岩遺跡堀田甕棺群出土人骨
連弧文日有喜銘鏡
宝幢寺薬師如来像
63
芳香ある白い花を咲かせます。
明星寺ボダイジュ
資料館企画展示室
飯塚オートレース場
川島古墳の壁画
八木山渓流公園
いいづか
学術
研鑽
地域と大学の交流
平成 年 月にオー
プンした市民交流プラ
ザは、ボランティア・市
民活動の支援機能、国際
れた歴史と文化の香り高い街で
づけられている飯塚市は緑に囲ま
﹁福岡県 世紀プラン﹂におい
て﹁県央文化・情報都市﹂に位置
としても活用されてい
パフォーマンスの場所
能を持っており、学生の
3大学のサテライト機
交流の機能のほか、市内
す。学園都市飯塚には現在、九州
による内発型産業の創出を推進す
年4月、
オ ー プ ン し ま し た。 こ の 施 設 は、
構想推進のコア施設となるe Z
UKAトライバレーセンターが
ることにあります。
平成
大学の学術研究機能に加え、地
域産業の発展を協力にサポートす
飯塚市に集積している大学や民間
e Z
- UKA TRY
VALLEY構想
年1月、新
る公的機関や民間研究所が集まっ
り、産学官の連携による情報産業
産業の創出、創業しやすい街づく
起業や研究開発を行うための設備
ビ ジ ネ ス を 起 こ そ う と す る 人 に、
連携してこの地から新しい産業・
の研究機関、産業支援機関などと
た飯塚市では、平成
Z
- U
K A T R Y V A L LE Y構 想 ﹂
を低額の使用料で貸し出していま
都市づくりを目指して﹁e
を策定しました。
す。
構想策定の目的は、頭脳集約型
の企業の集積を図り、 知の連鎖﹂
「
本構想の下に集積したベン
チャー企業は約 社、従業
ます。
このほか、大学図書館
の地域への貸出を含め
員数約330人、売上げ高
て教育環境の充実に取り組んでい
ティアが主体として開催し、地域
ナール﹂の支援、毎年学生ボラン
自 主 的 組 織﹁ 筑 豊 ゼ ミ
ます。
交流とともに環境
教育推進の場と
なっているバード
月下旬か
ウォッチング交流
会や、
ら約一ヶ月にわ
たって開催される
3大学の学園祭
H ﹂ な ど を 通 じ、
﹁大学祭MON T
地域と大学とが連
づくりを推進して
います。
国境を越えた交流
飯塚市で開催されている飯塚国
際車いすテニス大会は、平成 年
この大会は、飯塚市
遠 賀 川 川 下 り 大 会。
風物詩となっている
飯塚納涼花火大会
とともに飯塚の夏の
夏の風物詩
た完全開放、地域住民の
工業大学情報工学部、近畿大学産
業理工学部、近畿大学九州短期大
学がキャンパスを構え、次世代を
担 う 若 い 才 能 が 集 ま っ て い ま す。
15
から北九州市木屋瀬
までのコース。
石炭生産地の水運
を支えた遠賀川と最
盛期には8000隻
年代に姿を消しました。
と も い わ れ た 運 搬 船﹁ 川 ひ ら た ﹂
は、昭和
大大会︵スーパーシリーズ︶のひ
から車いすテニスにおける世界4
られました。
塚市の市民グループによって始め
遠賀川に親しみ川を守ろうと、飯
川下り大会は当時を偲ぶとともに
とつになりました。国際交流の一
参加しています。
環として市内小学生の試合観戦の
クリーンキャンペーンを掲げた
この大会には毎年多くのチームが
ほか、練習見学、選手との交流を
実施しています。
約 億。現在、トライバレー
50
知的好奇心あふれる
学園都市
11
10
携した〝学園都市〟
近畿大学九州短期大学
を進めています。
て、新産学創出の取り組み
アクションプランに沿っ
特徴ある地域経済活性化の
り、
﹁大学力﹂を活かした
構想の第 2ステージに入
15
市民ボランティアの力
がれています。
大切な文化として根付き、受け継
による手づくりの祭り﹂は地域の
自らの手で文化を創造し、発信
し、そして楽しむ。これら﹁市民
力が大きく貢献しています。
たってどれも市民ボランティアの
れらのイベントは、その運営にあ
飯塚から発信し、九州はもとよ
り全国、世界から参加者が集うこ
株式会社福岡ソフトウェアセンター
大学の人材、頭脳を中心に情報の
14
15
発信基地を目指し、知的好奇心に
に、﹁ 情 報 の 収 集 と 発 信 の 拠 点 づ
イイヅカコスモスコモンととも
﹁ サ ン ク ス ﹂ か ら 成 る 施 設 で す。
近畿大学産業理工学部
くり﹂を目指した運営を行ってい
16
e-ZUKAトライバレーセンター
大学祭MONTH
満ちたアカデミック・シティとし
文化
創造
充実した施設
央公民館・図書館・女性センター
総合文化施設として建設された
飯塚コミュニティセンターは、中
楽家を生み出しています。
され、世界的に活躍する多くの音
ク音楽家の登竜門として高く評価
す。このコンクールは、クラシッ
るのが飯塚新人音楽コンクールで
こを会場として毎年開催されてい
に対応できるハイテクホール。こ
講演会・展示会など、幅広い用途
ンサート・演劇・シンポジウム・
設備を駆使した文化施設です。コ
イイヅカコスモスコモンは、平
成4年1月にオープンした最新鋭
九州工業大学情報工学部
4
5
飯塚国際車いすテニス大会
遠賀川川下り大会
飯塚納涼花火大会
飯塚新人音楽コンクール
イイヅカコミュニティセンター
川島古墳
ます。
イイヅカコスモスコモン
20
21
造、形象埴輪などから葬られてい
られた古墳と考えられ、規模や構
石室を構築した古墳時代後期に造
墳は、1つの墳丘に2基の横穴式
収蔵、展示しています。小正西古
ある巫女形埴輪など貴重な資料を
具、小正西古墳から出土した気品
土した三角縁神獣鏡や四葉座金
で最古といわれる忠隈古墳から出
遺跡から出土した子持ち壺、筑豊
郷土資料館です。弥生時代スダレ
穂波周辺の考古・民俗・石炭な
どの資料を展示しているのが穂波
地域と結びついた信仰
椿八幡宮のすぐそば、小さなお
堂 に は 祀 ら れ て い る 弥 勒 菩 薩 は、
約220㎝ の一木造の木像で耳の
仏様といわれています。耳の悪い
竹を奉納する風習が残っていま
守り仏様として篤く信仰されてい
です。地区の人々によって祀られ
は、2m 近くの金箔を施した木像
人がお参りして治癒したら火吹き
す。 安 恒 観 音 堂 に あ る 千 手 観 音
いません。そのなかで旧住友忠
と記されているように、古代から
栄えた地です。弥生時代、古墳時
代の遺跡が数多くあり、大和朝廷
直轄の屯倉、宇佐と大宰府を結ぶ
官道が整備され、駅も置かれてい
ました。椿八幡宮は、平安時代に
宇佐宮から勧請して建立されたも
の で す。 地 区 の 祭 り﹁ お く ん ち ﹂
の最終日には獅子舞や神楽が椿八
幡 宮 に 奉 納 さ れ ま す。 社 殿 に は、
ます。
弥勒菩薩
隈炭砿のボタ山はこんもりとし
た 円 錐 型 の 3 つ の 峰 か ら な り、
その美しさから﹁筑豊富士﹂とも
機台座も今はともに穂波を象徴す
る風景として市民に愛されていま
す。
日本書紀に
その名が見える穂波
日本書紀巻十八に﹁穂波ノ屯倉﹂
様々な絵馬が奉納されており、江
戸期の田園風景を
描いた絵馬﹁四季
農耕図﹂は、当時
の農民生活の一端
がうかがえるとと
もに、地域と深く
結びついてきた八
幡宮の歴史を思わ
せます。
れています。春には園内
2500本の桜が咲き乱
れて桜のトンネルがで
き、多くの花見客で賑わ
います。四季を通じて自
然を楽しむ気軽なハイキ
ングコースとして親しま
れています。
まちを潤す川
れています。早朝から川
辺で散歩やジョギングを
する人の姿を多く見かけ
るこの川は、住民に親し
まれ、生活や産業活動に
欠かすことができない水
忠隈古墳出土品
呼ばれています。
年のエネル
昭 和 年 代 の 石 炭 最 盛 期 に は、
国内あちこちから人が集まりにぎ
わった筑豊も昭和
ギ ー 革 命 に よ っ て 炭 鉱 は 閉 山 し、
ボタ山は風化や崩壊が進んで丸み
を帯び、
いつしか緑の木に覆われ、
秋は紅葉、冬は雪化粧に彩られる
やさしい姿になりました。
平恒にある赤いレンガ造りの巻
き上げ機台座は旧三菱炭鉱の遺構
で、坑内と地上を結ぶトロッコを
引くロープを巻き上げる機械の台
座 で す。 戦 後 に 造 ら れ た コ ン ク
リート製のものが多く残るなか
で、大正∼昭和時代に築造された
と 思 わ れ る 赤 レ ン ガ 製 は 珍 し く、
規 模 も 筑 豊 最 大 級 の も の。 現
在、2基の台座が並んでおり、操
業時はこの台座の上に動力小屋が
あり蒸気機関で稼動していたと思
自然
満喫
緑濃い水の源
穂波エリアの西に位置する龍王
山は、龍が棲むといわれている標
高615m の山です。地元の小学
生が登ることもあるようにあまり
高くはない山ですが、山頂からは、
西に玄界灘と福岡の街、東には穂
波の家々と遠くに英彦山までを望
むことができます。
山頂付近には小さな石の祠の龍
王神社があります。別名を水祖神
社といい、雨乞いの神が祀られて
た時、村 人たちが一昼夜 交 代でお
籠り続けたところ、にわかに雲が
年3月に福岡
県指定史跡として認められました。
立ち込め、雨が降ったといいます。
秋の年2回公開されています。
い山にありま
す。ここは、そ
の昔﹁天慶の乱﹂
︵ 9 4 1︶ の と
き、藤原純友を
討つ為に勅命を
受けた源義仲が
陣を張ったこと
源となっています。
がついたといわ この穂波川の支流内住
から大将陣の名
ちを貫流しゆったりと流
周囲の山々から水が集
112m の小高
まり、穂波川は穂波のま
桜の名所として毎年桜まつりが
を備えた﹁古墳公園﹂として毎年春・
開催される大将陣公園も標高
現在は保存・復元を行い学習機能
平成
非 常 に 高 い 古 墳 で、 います。昔、大干ばつに見舞われ
全国的にも大変珍
しく、学術的価値が
日本産業近代化の原動力であっ
た石炭を象徴するボタ山と巻上げ
石炭採掘に際してできたボタ
山はかつてたくさんありました
われます。
巻き上げ機台座
が、今は数えるほどしか残って
筑豊富士
歴史
探訪
神功皇后がたわわに実った稲穂が揺れて黄金色のさざ波がた
つのを見て、
「ああ、穂波かな、穂波かな」
と感嘆したことからその
名がついたといわれる「穂波」。古来、栄えた歴史あるエリアです。
るのは当時の首長クラスの人物で
スダレ遺跡「子持ち壺」
小正西古墳
6
7
ボタ山
巫女形埴輪
20
穂波郷土資料館
椿八幡宮
40
11
龍王山
穂波川
歴史・産業遺産エリア
あったと推定されています。
大将陣公園
ほなみ
ちくほ
自然環境保全・活用エリア
が地区の家々を回っています。盛
給する施設です。飲料
毒を行って上水道に供
も公演しています。国内外で和太
強い演奏を披露するほか、海外で
のが川筋太鼓です。全国各地で力
多様な文化施設
毎月第2、第4土曜日に開かれ
る無料星空観察会では、毎回テー
崎と小倉を結ぶ街道を長崎街道と
ついては﹁法起寺式﹂と推定され
江戸時代、鎖国政策によって日
本で唯一の西洋の窓口となった長
ど様々な人々や文物が往来する宿
参勤交代の大名、ゾウ、ラクダな
た。江戸時代を通じて、内野宿は
マを設定した天体についての解説
もあり、子どもも大人も参加者た
川をたどると、久保白
文化
ダムがあります。昭和
創造
大将陣スタードームは本物の星
の輝きを筑豊の子どもたちにも見
ちは星空の美しさに酔いしれてい
年に着工し 年に完
せたいという一人の元高校教諭の
ます。
成したこのダムは、飯
熱意によって作られた施設天文台
ント。穂波には多彩な文化が息づ
人々の活気が伝わってくる
塚市と桂川町に農業用
です。
が多いダム湖の周囲は
いています。
を供給しています。緑
渡り鳥や野鳥の宝庫で
毎年 月に行われる収穫感謝祭
種類以上の鳥が観察
﹁おくんち﹂では各地区で獅子舞
ウ ォ ッ チ ン グ の ほ か、
んな民俗芸能の中でも獅子舞は特
されています。バード
釣りスポットとしても
れています。
か、三番叟・杖楽が今も受け継が
以上ということです。獅子舞のほ
よると獅子舞が舞う家は150戸
に充実しており、獅子舞保存会に
浄水場は、河川から
取水した水や地下水な
どを飲料水として利用
炭鉱で働き命を落としたヤマの
男たちへの鎮魂のために始まった
水を自然の河川や井戸
鼓指導を行い、日本の伝統文化を
できるように浄化や消
に頼っていた頃と異な
広く伝えようと活動しています。
いいます。この街道間において旧
場として栄え、シーボルト、吉田
有名な母里但馬守友信が建設に当
田二十四騎の一人であり黒田節で
ました。
庁の﹁歴史の道百選﹂に選定され
の道が残っており、平成8年文化
引き継ぎ宿場として整備されまし
筑前国には黒崎・木屋瀬・飯塚・
松陰らの日記にもその記録が載っ
さらに大分廃寺を特徴づけるも
のは、出土した﹁新羅系瓦﹂と呼
ばれる華麗な古瓦です。この古瓦
内 野・ 山 家・ 原 田 に 宿 場 が あ り、
ています。なお、街道随一の難所
ます。
り、水道が普及してい
る現在、私たちの生活
にとても重要な役割を
果たしている施設で
す。
人、
文化が行き交った地。
に つ い て は、 天 台 寺︵ 田 川 市 ︶
、
筑前六宿と呼ばれていました。内
垂水廃寺︵上毛町︶など豊前地域
の古代寺院に出土例があり、この
大分廃寺は奈良時代の寺院跡
で、その塔跡については昭和 年
ことから大分廃寺は、豊前地域に
たり、その後に内野太郎左衛門が
野宿は慶長
であった冷水峠には、今でも石畳
に国指定史跡となりました。
現在、
17
三番叟
年︵ 1 6 1 2︶、 黒
塔跡以外は確認できませんが、創
おける古代寺院の影響を受け、7
れたと考えられています。
建当時は塔・金堂・講堂などがそ
個
世紀末から8世紀初頭頃に創建さ
94
17
太郎丸浄水場
人気が高い場所です。
10
ろった寺院であったと考えられて
います。塔跡は、心礎を含め
の礎石が良好な状態で残っ
ており、心礎の柱座の直径
などから高さ m を超える
三重塔が建っていたと推定
されています。また、近年
の発掘調査により寺院を区
画していたと考えられる溝
跡 が 確 認 さ れ、 そ の 結 果、
m、
し らぎけい こ がわら
大将陣スタードーム
地域に受け継がれ守られてきた
水、工業、上水道用水
伝統の祭りと新たに始まったイベ
40
30
8
冷水の石畳
9
45
新羅系古瓦
30
寺域については南北
大分廃寺塔跡
東西102m 、伽藍配置に
内野の町並
16
久保白ダム
太郎丸浄水場
歴史
探訪
福岡県のほぼ中央に位置する筑穂。江戸時代には長崎街
道筑前六宿の内野宿が賑わっていたところ。一方で面積の7
割が山林という豊かな自然環境に恵まれたエリアです。
由緒正しき名社
大分八幡宮は奈良時代の神亀3
年︵726︶に創建されたといわ
自然
満喫
います。キャンプ場から 分程度
歩くと白糸の滝があります。落差
m の 一 の 滝 を は じ め、 二 の
滝、三の滝という3つの滝からな
糸を垂らしたような﹂と称賛され
実 会 ﹂。 試 行 錯 誤 を 繰 り 返 し、 ゆ
いるのが農産加工グループ﹁野々
ツジなど多くの植物が自生してい
︵ 9 3 6m ︶ で す。 登 山 の ほ か に
三郡山には原生林が繁り、石楠
花の自生地があるのをはじめ、ツ
います。
道内野宿ふれあい市﹂で販売して
毎週日曜日に開催される﹁長崎街
か り ん と う な ど の 商 品 を 開 発 し、
ず ド レ ッ シ ン グ、 ゆ ず ご し ょ う、
筑穂は筑前茜染め発祥の地です。
伝 わ る 技 法、 筑 前 茜 染 め で し た。
上げたのが筑穂地区の茜屋に古来
の丸の旗を我が国ではじめて染め
日本を象徴する日の丸の旗。江
戸末期、国旗制定の基となった日
大きな可能性を秘めた
﹁茜﹂
や竹の子、山菜。そして明るい陽
文化
射しを浴びた肥沃な大地で育った
創造
たくさんの農産物。深い味わいと
香りが自慢の逸品です。
てきたやさしく清らかな女性を思
﹁この農産物を生かして手作り
るこの滝は、遠賀川源流のひとつ
の特産品を作りたい﹂と活動して
三郡山は福岡近郊の代表的な登
の役から帰国の際に持ち帰った3
山コースとして親しまれている宝
に位置し、その姿は﹁数百条の白
満山から若杉山へ至る縦走ルート
わせる美しい滝です。
しています。中腹にはキャンプや
ます。石楠花は、初夏に淡紅色の
を染める技法として古代から伝え
す。 秋 の 大 祭 で あ る 放 生 会 で は、
で県指定天然記念物となっていま
流 鏑 馬 や 獅 子 舞 が 奉 納 さ れ ま す。
森林浴を楽しめる渓流公園があり
も自然を満喫するスポットが点在
京都の石清水八幡宮に学んだ格調
美しい花を咲かせるツツジ科の常
緑潅木。筑穂に自生する植物の中
茜染めは、山野に自生する茜草
の根を染料に用いて赤い色、緋色
ます。夏にはハイカーなどで賑わ
にはじめて奉納され、県内の獅子
民の連帯と融和によるまちづく
強く、良質で、その染法にも工夫・
農産物輸入自由化や米の生産調
整など農業を取り巻く状況は厳し
を復活させようという動きは、大
よって失われてしまった伝統技法
中腹、標高400m に位置し、長
この﹁茜﹂を名に冠した産業創
造の核サンビレッジ茜は三郡山の
ていませんが化学染料の登場に
く、都市近郊の恵まれた立地条件
きな可能性を秘めています。
くやわらかな味が自慢です。
安全、和牛独特のおいしさと、甘
大分八幡宮の大樟
徹底した管理の下で農家が心を
こめて生産する筑穂牛は、健康で
穂牛を生み出しました。
によるブランド化に取り組み、筑
と豊かな自然を生かした産地形成
るという点です。
肥育を組み合わせた複合経営であ
原料の茜の根は確保するのが難
しく、まだ産業になるにはいたっ
牛です。
り﹂を象徴する花として旧筑穂町
緑あふれる山々で採れる自然薯
三郡山
改良が行われており、全国でも高
の無形民俗文化財に指定されてい
ル ー ム、 浴 室、 大 広 間、 調 理 室、
設 置 さ れ て お り、 ト レ ー ニ ン グ
の生きがいづくりの拠点﹂として
﹁ 高 齢 者・ 障 が い 者 を は じ め 市 民
ン タ ー と し て オ ー プ ン し た 施 設。
10
自然の恵みを特産品に
ます。
す。
がっていくことを目指していま
の理解を深め、市民活動の輪が広
クリエーション活動を通して互い
てきました。文化やスポーツ、レ
機会、ふれあいの場の充実を図っ
市民と行政が協力しながら交流の
大 切 に し た ま ち づ く り の た め に、
い評価を得ていました。
m の人工芝ス
キー場や宿泊施設、バンガロー等
のキャンプ施設を備えた総合レ
ジャーパーク。大人から子どもま
で楽しく過ごせる施設が充実して
おり、豊かな緑、澄んだ空気と水
に恵まれた自然の楽園として県内
外 か ら 大 勢 の 人 が 訪 れ て い ま す。
筑 穂 保 健 福 祉 総 合 セ ン タ ー は、
また、毎年開催される全日本人工
平成 年に筑穂町健康福祉総合セ
スキー選手権大会の会場としても
有名です。
ふれあいの場
人と人とのふれあいによって生
れる連帯感やこころの通い合いを
研 修 室、 多 目 的 ホ ー
ルを備えています。
スポーツ施設はテ
ニスコート、体育館、
プ ー ル、 多 目 的 グ ラ
ウ ン ド、 野 球 場 が あ
り ま す。 筑 穂 野 球 場
は、 夜 間 照 明 設 備 を
備 え、 広 く 市 民 に 利
用されています。
市民が共有するイ
ベントとしてちくほ
夏 ま つ り、 産 業 ま つ
りINちくほがあり
ま す。 様 々 な 組 織 が
まつり実行委員会を
筑穂保健福祉総合センター
さ 2 8 0m 、 幅
筑穂牛の畜産の特徴は、水稲の
の町の花に指定されていました。
生産を中心に野菜や果樹、酪農や
られてきました。ことに三郡山の
舞の一つの源流であることから県
茜草は気候や風土の影響で赤みが
筑穂牛
高い獅子舞は享保9年︵1724︶
本の樟の内の1本の子孫であると
言われている大樟があります。推
の途中にあり、ルート中の最高峰
れます。境内には神功皇后が三韓
10
定樹齢は約350年、径は約9m
自然の宝庫
三郡山
24
筑 穂 地 区 の 特 産 品、 筑 穂 牛 は、
で も 特 に 目 を 引 く こ と か ら、﹁ 町
筑穂の大地で生まれ育った黒毛和
大分の獅子舞
10
11
結 成 し、 毎 年 大 い に
盛り上がっています。
筑前茜染め
サンビレッジ茜
筑穂野球場
40
自然
満喫
ろがあります。杉木立の鬱蒼とし
古来、
交通の要衝であった
庄内
庄内川の流域には川に面する高
台に沿って弥生時代から古墳時代
にかけての遺跡が連なり、この時
騒動は、村ぐるみの紛争へと拡
り、銀象嵌を施した鍔など貴重な
大し、明治新政府への不満を持つ
村々を巻き込みながら、県下各地
遺物も出土しています。
また、古代には大宰府官道の要
衝として綱分駅が設けられ、宇佐
で打ち壊しや焼き討ちなどの暴動
農民の間に一気に広がり、周辺の
八幡宮の荘園﹁綱分荘﹂として栄
が起り、福岡県庁の打ち壊しにま
れたとみられる石包丁や福岡平野
跡からは、飯塚市立岩遺跡で作ら
い祈願をしていた農民と金国山で
の日吉神社で干ばつのために雨乞
りました。ことの発端は、高倉村
万人にも上る大事件でした。
で発展しました。一揆の関係者は
えました。
のどかな農村から始まった
大一揆
明治6年、福岡県の県下全域を
代には人々が定住し生活していた
巻き込んだ﹁筑前竹槍一揆﹂が起
から伝えられたとみられる青銅器
米相場の通信を行っていた豊前の
ことがわかります。弥生時代の遺
︵ 中 広 銅 戈 ︶ な ど が 出 土 し、 こ の
相場師︵目取り︶との間で起った
暦応年間︵1338∼41︶に
始まったと伝えられる放生会御神
年にその神幸行
幸祭は、以来粛々と伝承され今日
にいたり、昭和
事が県の無形民俗文化財に指定さ
れています。
現在は、2年ごとに、 月 日、
日 に 近 い 土・ 日 曜 に 開 催 さ れ、
をもたらしています。
季折々の彩で市民の心に安らぎ
民 が 守 り 育 て て き た 景 観 は、 四
れます。
行列さながらの御神幸が執り行わ
流鏑馬、子ども相撲の奉納と大名
楽、太鼓打ち︵稚児舞︶
、獅子舞、
天下泰平、五穀豊穣を祈願し、神
13
地がこれらの交易ルートにあった
厳かな神事、
華やかな
稚児舞
綱分八幡宮は、神功皇后が皇子
︵ 後 の 応 神 天 皇 ︶ を 出 産 後、 宇 美
の郷から豊前国に出立されたと
き、この地に産綱を分けて祭祀さ
れたと伝えられる神社です。
10
小競合いでした。
豊かな実り
農業が盛んな庄内では、リンゴ、
梨、 ブ ド ウ、 柿、 イ チ ゴ、 フ キ、
メロンなど、いろいろな特産品が
あります。最も生産者が多いのが
富有柿を主力とする柿、次いでイ
チゴ。たくさんの果実は、薫り高
い実りをもたらすだけでなく、可
憐な花をつけて庄内の季節を彩り
ます。
自然の中で憩う
庄内フキも忘れてはならない特
産品。稲の転換作物として栽培を 始め、今では庄内を代表する特産
青少年の森教育キャンプ場に
品になりました。愛知早生という
は、メタセコイアの森があります。
メタセコイアは今から
品種で、大人の背丈ほどにも成長
するという大きなフキは、やわら
数 千 万 年 前、 遠 賀 川 流
35
ことがうかがえます。川の東丘陵
には古墳や横穴墓も集中してお
可憐な花
た森の中に渓流や滝、岩窟などが 庄内には、貴重な天然記念物が
いくつかみられます。
神秘的な空間を呈しています。こ
こは古くから英彦山修験道とのか
かわりが深く、霊場のひとつでし
大門の菰池に自生するヒメコウ
た。 五 智 如 来 板 碑 は、 養 和 2 年
ホネは、スイレン科コウホネ属の
︵ 1 1 8 2︶ 勧 進 僧 圓 朝 に よ っ て
植物で、絶滅の危機にさらされて
いる貴重な植物です。6月から9
かく香りの良さが自慢です。
域に群生していた巨
木。 こ れ が 長 い 長 い 時
間の中で石炭に変化
し、 人 類 の 歴 史 に 登 場
し ま し た。 メ タ セ コ イ
綱分八幡宮神幸行事流鏑馬
綱分八幡宮神幸行事稚児舞
歴史
探訪
全国に先駆けて人づくりの場「生活体験学校」が始まった
ところ。近代に至るまで豊かな田園風景が広がる農村だった庄
内は、生涯学習・健康づくりの基盤が整いつつあります。
庄内地区の南端に位置する筒野
地区に﹁権現谷﹂と呼ばれるとこ
自然の力を感じる
修験の場
生涯学習情報発信エリア
造立された三基の板状の石碑で
す。
月にかけて水上に突き出した花
柄︵ 茎 ︶ に 黄 色 い 可 憐 な 花 を つ
けます。
ま た、 田 川 市 と の 境 に 位 置 す
る関の山は石灰岩質の土壌のた
め特有の植物が自生しています。
ア の 森 は、 自 然 の 雄 大
さ悠久の時の流れを感
じる静けさの中にあり
ます。
池の周囲の桜並木が
美 し く、 釣 り や 散 策 な
ど緑豊かな憩いの場鳥
羽 公 園、 天 降 神 社 に あ
る 庄 内 一 の 大 楠、 高 倉
14
30
観 音 堂 の 大 藤 な ど、 市
鳥羽公園
内 陸 で あ り な が ら、 海 岸 性 の 植
綱分八幡宮神幸行事神輿
12
13
高倉の日吉神社
メタセコイアの森
庄内柿
庄内イチゴ
物もみられます。
五智如来板碑
ヒメコウホネ
庄内フキ
しょうない
文化
創造
生きる力を育てる学校
れあい、コミュニケーションの大
切さを学び、自然と命を見つめな
おし、これを糧として生きる力を
身につけていくのです。
生活体験学校は、子どもたちと
地域の人々、ボランティアや専門
校に通います。体験学校では、自
ほど体験学校に寝泊りしながら学
す。子どもたちは3日から1週間
た通学合宿事業が行われていま
るさまざまな人々の交流のなかか
います。生活体験学校を拠点とす
同士の交流の場として開放されて
センターは地域文化の伝承、市民
体験学校の中にある生活文化交流
ティア活動の拠点ともなってお
り、各団体が行政との連携を深め
ながら住民サービスにあたってい
ます。
が関の山いこいの森キャンプ場で
庄内温泉筑豊ハイツ
筑豊緑地公園に隣接する公共
の宿。昭和 年に地域住民の福
祉施設として建設され、平成
︵ 2 0 0 3︶ 年 2月 に リ ニ ュ ー
アルオープンしました。
全天候型のテニスコート、多
目 的 ホ ー ル、 結 婚 式 場 の ほ か、
ラ ジ ウ ム 温 泉 も 備 え た 施 設 は、
幅広い用途で利用することがで
きます。
温泉の泉質はラドンを豊富に
含み、効能が豊かで女性にも人
気があり、一日の疲れを癒すの
にピッタリです。リニューアル
によって新しくジャグジーやサ
ウナも完備、日帰り入浴もでき
るようになりました。
庄内温泉筑豊ハイツ
15
家 と の 交 流 の 中 か ら 生 れ ま し た。
炊、動物飼育、堆肥作り、農作業、
ら新しい地域の文化が生れていま
頴田の「頴」は、立派に実った稲の穂の穀物を意味する文字です。
肥沃な平野と穏やかな自然に加え、筑豊のなかでは地の利に恵まれ
た産業流通面での発達が期待されているエリアです。
45
昭和 年に始まった生活体験学
校では、全国に先駆けて試みられ
工作など様々な体験をします。こ
す。
ふれあいの場
保健総合福祉センター﹁ハーモ
ニー﹂は、在宅福祉を充実させる
老人デイサービスセンターやホー
自然とふれあい自然を理解する
ことを学ぶ場として整備されたの
康 診 断 な ど 従 来 の 保 健 サ ー ビ ス、
完備されたキャンプ場の夏は、子
ムヘルプサービス、乳児検診や健
機 能 訓 練、 健 康 測
・ 定 指 導、 栄 養
指導実習、生涯教育など、さまざ
どもたちの声が絶えません。
華 な 箱 階 段、 船 底 を ひ っ く り 返
す。ログキャビンをはじめ施設が
まな保健福祉サービスの機能がま
にある神籠石と呼ばれる同種の遺
した形をした船底天井、離れに
とめられています。また、ボラン
跡のなかで最も保存状態が良いと
は個人の家には珍しい月見台が
年に旧頴田町
指定となっています。
の文化財に指定され、現在は市
あります。平成
言われています。
近世の筑前国を歩く
めに絵図などを描いて相互確認を
することが義務付けられていまし
た が、 や は り 紛 争 は し ば し ば 起
こっていました。烏尾峠の国境石
は、筑前と豊前の国境を示すもの
られたとされる大黒柱のきずあ
13
のなかで、自ら考えて行動するこ
歴史
探訪
謎に包まれた古代の遺跡
むように約1800個もの切り石
を並べて列石とした不思議な遺跡
があります。その全長は2㎞にも
年
︵ 1 7 0 0︶ で す が、 現 在、 現 地
で す。 建 て ら れ た の は 元 禄
れています。この国指定史跡鹿毛
商家としての面影を残す
川相近の書といわれています。
まれた文字は福岡藩の能書家、二
に建つのは後年の再建で、石に刻
誰 が、 ど ん な 目 的 で 作 っ た の か、
いかという説が有力ですが、
いつ、
の山城として築造されたのではな
馬神籠石は、7∼8世紀に朝鮮式
及ぶもので、石組で水門も設けら
明の場所が多く、争いを避けるた
頴田地区では縄文時代の遺跡が 江戸時代、諸大名が諸国に配置
確認されており、古くから生活が
されてからも、国と国の境界は不
営まれていました。
鹿毛馬の丘陵の山腹、標高 ∼
m の付近に丘陵の頂上を取り囲
30
その大部分は謎のままです。各地
勢田︵頴田支所周辺︶は近世以
降の面影を今でも残す地域で、そ
の町並みの中に幕末ごろに建てら
れたと思われる商家﹁旧松喜醬油
年代ごろまで醤油を醸
屋﹂があります。隣接した醤油工
場で昭和
現 在 残 る 家 屋 は 母 屋 と 離 れ で、
母屋には筑前竹槍一揆の際につけ
造していました。
40
と、タンスと階段を兼ね備えた豪
旧松喜醬油屋
13
60
と、年齢を超えた子ども同士のふ
里の田園エリア
14
15
生活体験学校
烏尾峠の国境石
63
かいた
鹿毛馬神籠石
保健総合福祉センター ハーモニー
自然
満喫
緑豊かな自然と花々
緑豊かな恵まれた自然を保護
し、周辺整備を進め自然と調和し
た明るく住みよいまちづくりを進
めています。
頴田・庄内にまたがる丘陵地に
設けられた筑豊緑地公園。筑豊生
年に計画決定され
活圏におけるレクレーション緑地
として、昭和
文化
創造
た 広 域 公 園 で す。
そ の 後、 平 成 元 年
に建設省により総
合 的 な 健 康、 運 動
施設整備事業の拠
点 公 園︵ ウ ェ ル ネ
スパーク︶として
が 指 定 さ れ ま し た。
テニスコートやグ
ラ ウ ン ド、 野 外 ス
テ ー ジ な ど が あ り、
隣 接 す る﹁ 筑 豊 ハ
イツ﹂は公共の宿
として人気です。
遠賀川の河川敷
には全長 ㎞の遠
頴田農産物加工所
﹁四季の里﹂
頴田農産物直売所
﹁四季一番﹂
農業が基幹産業である頴田で
すが、近年は農家数が減少し兼
業化が進んでいます。農地は農
業生産の場であると同時に自然
環境保全の面からもその機能役
割は重要なものです。頴田では、
農地の有効利用や営農指導体制
を整え、生産性の向上に努めて
きました。
その一環としてエビスカボ
チャやウコンを特産品として普
賀川河川敷サイク
として﹁四季一番﹂があり、そ
農産物や特産品を販売する施設
及を進め、これらを含む頴田の
リングロードが整
﹁サンシャインかいた﹂は市民
一人ひとりが充実した豊かな生活
が地区の神社と深く結びついてお
継がれ守られています。その多く
農産物直売所「四季一番」
着しています。
継ぎ、子ども山笠として地域に定
地区の子どもたちがその役を引き
て回っていました。それを近年は、
は、青年たちが豪快に山笠を引い
行われる上勢田の輪越し祭りで
に伝えられています。毎年7月に
んな心意気によって確実に次世代
が結成されるなど、地域の人の盛
季の里﹂があります。
お弁当やお菓子を販売する﹁四
れに隣接して農産物を加工して
地域の文化と伝統を
受け継ぐ
遠賀川河川敷サイクリングロード
備 さ れ て い ま す。
直 方 市、 飯 塚 市、
中間市、水巻町にまたがるサイク
リングロードで、なだらかな自転
車専用道をマイペースで快適に走
ることができます。河川敷にはさ
まざまな草花が自生しており、季
節の花を見、小鳥の声を聞きなが
らジョギング、ウォーキングを楽
しむ人も大勢見られます。
春の菜の花、
遠賀川の河川敷は、
秋 に は コ ス モ ス が 川 辺 を 縁 取 り、
道行く人の目を楽しませていま
す。
設は、頴田公民館、老人憩いの家、
体 育 館、 野 球 場、 テ ニ ス コ ー ト、
バレーコート、武道館、運動場で
を送るため、ふるさと頴田の未来
り、かつての農耕文化を偲ばせる
す。
頴田地区の総合文化センター
は、教育・文化・体育・福祉関係
を考え、行動し、ふれあい、語り
頴田には古来の習俗を今に伝え
る貴重な伝統行事が、大切に受け
の各施設を一箇所に集中的に整備
貴重な財産となっています。
獅子舞や山笠、お神楽は保存会
合う場として開催されている﹁か
サンシャインかいた
かいたまちづくりフェスタ
し、総合的な活用及び集中管理が
ともなっています。
いたまちづくりフェスタ﹂の会場
ユニークな文化施設
25
頴田野球場
16
17
筑豊緑地公園
できるユニークなプラン。
総合文化センターを構成する施
輪越し祭り子ども山笠
28
筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門と歌人柳原白蓮の二人が
年間ともに暮らした邸です。
明治 年代後半に建築され、その後増築が重ねられた
邸宅は、南棟︵正面︶、北棟︵庭側︶、両者を結ぶ角之間・
10
と誘います。
大衆演劇の殿堂として劇場を愛する人々を芝居の世界へ
劇 場 唯 一 つ。 存 続 が 危 ぶ ま れ る ほ ど の 災 害 も 乗 り 越 え、
炭鉱景気に沸いた筑豊には数多くの劇場が建設されま
したが、現在、芝居小屋として興行を続けていのは嘉穂
昭和6 年に開場して以来、現在に至るまで多くの名優
たちがこの舞台を踏み、観客を沸かせてきました。
ない贅沢な空間が広がっています。
嘉穂劇場は、江戸時代の歌舞伎小屋様式を伝える芝居
小屋です。中には舞台間口十間︵約 m ︶に柱が一本も
客席の両側に桟敷席、その前を通り舞台へと伸びる二
本の花道、大きな回り舞台。
旧伊藤伝右衛門邸
生きることを選んだ美しく高貴な歌人の物語、その浪漫
るとともに、これほどまでの豪奢な暮らしを捨て、恋に
先進的な建築技術と粋を凝らした繊細で優美な装飾が
随所に施された美しく豪壮な邸宅。その見事さに目を瞠
近代和風住宅です。
ら な り、 池 を 配 し た 広 大 な 回 遊 式 庭 園 を 持 つ 和 洋 折 衷 の
中之間棟、玄関・食堂棟、繋棟の家屋5 棟と土蔵3 棟か
30
が人々を惹きつけてやみません。
邸宅の門
白蓮の間
劇場内部
劇場内部
近代浪漫紀行
嘉穂劇場
旧伊藤伝右衛門邸
(国)登録有形文化財
飯塚市指定有形文化財
18
19
18
嘉穂劇場
近代浪漫紀行
議会
市民の声を反映した公正な
行政運営を目指して
市の行政は、市民から直接選挙で選
いいづか
5月
7月
大将陣公園桜まつり
神相撲
お神楽﹁天の岩戸開き﹂
飯塚山笠
飯塚子ども山笠
多田の妙見夏越大祭
多賀神社輪越し祭り
飯塚納涼花火大会
ほなみ納涼花火大会
9月 大分の獅子舞
伊川温泉湯まつり
綱分八幡宮放生会御神幸祭
いいづかどんたく宿場祭り
いいづかオータムフェスタ
頴田産業まつり
産業まつりINちくほ
天道ぶらり市
ふれあい庄内2007
いいづかどんたく宿場祭り
8月
10
2∼3月 筑前いいづか雛のまつり
4月
月
月
11
四季折々
筑前いいづか雛のまつり
ばれた市長と市議会議員によって権限
と責任を分かちながら自主的かつ公正
に運営されています。市議会の役割は、
飯塚市議会
市民生活に関係する市の重要な事項に
ついて、市民の代表として、市議会の
会議で十分調査・審議し、市としての
意思を決定することです。
現在、飯塚市議会は34人の議員で構
成され、常任委員会は、総務、厚生文教、
市民経済、建設の4常任委員会が置か
れています。
古本議長
松本副議長
行政
魅力と活力ある多様で高度な
行政サービスを
飯塚市は限られた人的資源や財源を
濱本上下水道事業管理者 齊藤市長 上瀧副市長 森本教育長
有効かつ最大限活用して地方分権時代
に即応できる行政経営の視点に立った
行財政改革を継続して実施し、職員の
資質向上、積極的な情報公開によって
市民が納得できる市役所づくりに努め
ます。
穂波庁舎
筑穂支所
行政情報を共有する市民と行政の
パートナーシップの確立をし、一人ひ
とりが自ら考え行動できるまちづくり
いいづか
どんたく
宿場祭り
を推進します。
飯塚山笠
飯塚市役所
庄内支所
ほなみ
納涼花火
大会
頴田支所
20