福島県歴史資料館 平成28年(2016)10月 『福島県史料情報』第46号 市の一部 信夫・伊達両郡絵図を描く 上 の 絵 図 は 、 伊 達 郡 下 大 石村 ( 現 伊 達 市 )名 主 宅 に伝わった「〔伊達郡・信夫郡両郡絵図〕 」 (日下金三 郎 家 文 書 二 八 三 、 作 者 不 明 )で あ る 。 目 録収 録 の 史 料 に は 、 江 戸 時 代 の 信 夫郡 ( 現 福 島 市 の 大 部 分 ) と 伊 達 郡 ( 現 伊 達 市 ・ 国 見 町 ・桑 折 町 ・川 俣 町と 福 島 )の両郡を描いた郡絵図や屏風が六点あり 当時は両郡を共に描く構図が一般的であった。 絵 図 は 右 手 が 北 に あ た り 、黄 色 に 塗 ら れ た 範 囲が 信 夫 郡 を 、 薄 紅 色 に 塗 ら れ た 範 囲 が 伊 達 郡 を 示 して いる 。多数の四 角や 丸には 、村名の記載と藩庁・陣 屋 の 表 示が な さ れ 、右 端の凡例 に則 り領主 (代 官 ) ご と に 彩 色 し て い る 。 そ して 、 青 色 線 は 河 川 ・ 用 水 を 、 赤 色 線 は 道 を 示 し 、 主 要 な 箇 所ほ ど 太 い 表 現で あ る 。 中 央 を 北 流す る 太 い 川 は 阿 武隈 川で 、中 央 を 南 北 に 通 う の は 奥 州 道中 で あ り 、 他 に 須 川 ・摺 上川 いさ ご ぜき ・ 広 瀬 川 ・ 砂 子 堰 や 、 奥 州 道 中 か ら 北 西 に 分 岐す る 、米沢街道などが描かれている。さらに 信夫山や 、雪化粧の吾妻小富士、聳え立 つ霊山など の山々の巧みな描写が特徴的である。 絵 図 の 情 報 に 注 目 す る と 、年 代 が 記 さ れ て いな い が 、 凡 例 の 「 川 俣 附 佐藤 御 代官 所」 か ら 、 佐藤 忠右 しげのり 衛門重矩が川俣代官を務めた文政七~同十年 一八二 四 、―二七 頃に描かれたと推測される。また、摺上川 上 流の 両郡 境 や 、 伊達 郡増田村 (現福 島市)の 支 配 な ど に 誤 り を 指 摘で き る 一方 、 信夫 郡 上 野寺 村 ( 現 福 島 市 ) の 川 俣 代 官 所 ・ 足 守 藩 の 分 割 支 配や 、 伊 達 郡秋山村(現川俣町) ・同郡下小国村(現伊達市)な ど の 分 村 の 表 現 は 緻 密で 、 全 体 的 に も 精 度 は 高 い 。 特に当時の信夫郡南西部は、代官領や会津藩預地が 入 り 組 み 、 入 れ 替 わ っ た 時 期で あ り 、 作 成 に は 相 当 の 労 力 を 費 や し た こ と が 想 像で き る 。 現 代 の 我 々で も 同 様 の 絵 図 を 作 る の は 至 難 で あ る 。( 小 野 孝 太 郎 ) ( 、 ) 羽州街道や 〔伊達郡・信夫郡両郡絵図〕 (日下金三郎家文書283) こ ば いた 若松城修築に用いられた 檜 枝岐村の木羽板 ( 年 未 詳 ) 5月 27日 付 守 岡 主 馬 一 長 書 状 ( 檜 枝 岐 村 文 書 603) 近世初期の会津郡伊南郷檜 枝岐村 ( 南 会 津 郡 檜 枝 岐 村 )は 森 林 資 源 に 恵まれ、木羽板の一大生産地であっ た 。 木 羽板 と は 、 栗 や 黒 檜 を 薄 く 割 そ ぎ いた った屋根葺用の板のことで、曾木板 こけら い た ・削板・ 柿 板ともいわれている。 檜枝岐村では、木羽板を仲附輸送に よって若松に出して、米に換えてい た。また、若松城修築用として会津 藩 の 買 い 上 げ も 行わ れ て い た 。 よ しあき 左の古文書は、会津藩主加藤嘉明 あ きな り お よ び 同 加藤 明 成 時 代 に 四 千 石 取 り の会津郡代であ った守岡主馬一長が きもいり 檜枝俣村の肝煎平右衛門や惣百姓中 に出した命令書である。この文書に は年号がないが、守岡の会津郡代在 職時 期 や 守 岡 の 黒 印 使 用 事 例 から 、 寛永 四年 (一六 二七 ) よ り 同十 九年 まで の 間 の も の と 考え ら れ る 。 文 書 の内容は次の通りである。 堀部主膳殿より我々を頼りにして 注 文 の あ っ た小 曾木 八 百 束 ( 四 十 万 枚 ) を 一 束 五 百 枚に 結 わ え て く れ る よ う に 申し 入 れ が あ っ た 。 平 右 衛 門 から曾木を剥ぐ者たちへ員数などを 照合・確認して、早く送るようにし てもらいたい。値段については殿様 で あ る 加 藤 明 成 様 に お 尋ね で き な い ため堀部殿のお使いを遣わすので、 幾らに なろ う とも その 者と 直接交 渉 して値段を決め、早く曾木を送って 寄 越 し な さ い。 な お 、 塀 の 覆 い の 長 曾 木 三 十 束 ( 一 万五 千 枚 ) は 急 ぎ の 物なので早くするようにと指示した はずだが、未だに送られてこない。 急 ぎ 必 要な 曾 木 な の で 油 断 な く 早 く 送って寄越すようにしなさい。 こ の 文 書 は 、 加藤 明 成 が 会 津 藩 主 で あ っ た 寛 永 十 八 年 に 完 成 し た 若松 城修築普請に関わるもので、城普請 に 使 う 部 材 調 達 の 実 態が 具 体的 に 分 かる 貴重な 史 料 と いえ よう 。 寛 永 期 より 約 二 十 年 程 降 っ た 万 治 三 年 ( 一 六 六 〇 ) 頃 の檜 枝岐 村 や そ の周辺では。 、 過剰な 伐 採に より 木 羽 板用の原木が枯渇してしまい、檜枝 岐村では一時的に木羽板生産が停滞 することになった。 (渡邉智裕) 市 武州田中村岩五郎ら アウトロー の人 相書 人相 書は、重大な犯罪 ・謀反 加担 者 の 捜索 の た め 、領 主 が 対 象 者 の 情 報を御触で公布したものである。そ の 内 容 は 罪 状 ・ 名 前 に 始ま り 、 箇 条 書 きで 年 齢 ・ 生 国 ・ 背 格 好 ・ 人 相 ・ 話 し 方 ・ 衣 類な ど の 特 徴 を 記 し た 。 伊 達 郡 上 大 石 村 ( 現 伊達 市) 名 主 文 書 の 「〔 触 達 〕」( 大 橋 康 雄 家 文 書 二〇 )は 、幕末 を騒 が せた博徒 ・侠 客 「 ア ウ ト ロー 」 の 人 相 書 を 記 す 。 本 書は 、 幕 府 の 御 触 を 受 け た 白 河 藩 が 、 嘉 永 二 年 ( 一 八 四九 )十 月 七 日 に 同 藩 保原 陣屋 を 通 じ 、 代 官 ・ 村 方 次の 郎年 は番所に通達したものであ 調整役 る 人相書の対象は、武州田中村( 埼 玉 県 深 谷 市、 以下 同 県 ) 無 宿 の 岩 五 郎 を 筆頭 に 、 同 州 石 原 村 ( 現 熊 谷 )無宿の幸次郎ら二十一名に及ぶ 岩五 郎ら は関 東で 悪 行 を 働 いて お り、このうち幸次郎らは徒党し、長 脇 差を 帯 び 、 槍 ・ 鉄砲 を 携 え て 押 し 武人 州家 無に 宿押 がし 多込 いみ が衣類・金銭を 歩き 、 彼る らな のど 特悪 徴事 にを は重ねている。そ 強奪す して 、 こ の 無 法 の 限 り を 尽 くす 集 団 人柄 宜 立 派 、豆州(伊豆)から房総に渡海し 現街 道 を 進 み 奥 州 に 向 か っ た 風 聞 水戸 よと れい ばう。このため、白河藩領 がある で も 火 の 元に 注 意 し 昼 夜 見廻 りを 行 う ろん い、人 相書に 該当す る 者や 胡乱 なる 。 者に厳戒するよう命じている。 岩五郎の特徴については「四拾四 五才 、丈 高く、色黒 く 、 太り候方、 丸 顔 、 少 々 疱瘡 跡 有 之 、 眼 中 す ゝ ど き 方 、 前 歯 二 本 程 途 中 ゟ 折 れ 」、 幸 「弐十六七歳、中丈、小太り 色 黒 く 、顔 少 々 長 く 、 疱 瘡 跡 有 之 、 つききず 左 り足 突 疵 之跡 二 ヶ 所 有 之 、 言 舌 少 々どもり候方、眼すゝどく」といっ た具合である。両者とも眼光鋭く、 前 歯 が 折れ て い たり 、 突 疵が あ っ た り と い か に も ア ウ ト ロ ーで あ る 。 ま た 、 一 味 は 十 代 後 半 から 四 十 代 で 、 、 浪 人も 二 人 い る 、 前 科を 示 す 入 墨 や 首 を 振 る な ど の 癖、 さ ら に「 美 男 」 「 」といった記載もある 、アウトローを研究する高橋敏氏に しゅかい 、 岩五郎は武州悪党の首魁で 幸次郎は彼の子分であ る。嘉永元、 同 二 年 、幸 次 郎 ら は 東 海 道 筋 な ど 七 ヶ国を暴れ回って幕府を震撼させ、 岩五 郎は 消 息 不 明とな り 、 幸次 郎は 甲府で捕えられた。岩五郎らは実際 に 東 北 へ 向 か わ な か っ たが 、 彼 ら の 。上 の噂 を聞いた東 北諸藩には 緊張 北 、 高ま っ た こ と だ ろ う 。 が (小 野孝 太 郎 ) 。 、 〔触達〕 (岩五郎人相書部分) (大橋康雄家文書20) 第 46号 福島県史料情報 平 成 28年 (2016)10月 村 の 名 主 文 書 に は 「 兵 粮 渡 扣 」( 渡 辺弥 平 治 家 文 書 ( そ の 一 ) 五 二 七 ) が 残 さ れ て お り 、 い つ 誰 が 、ど の よ (あるいはその費用 を差し出したのかが書き留められて い る 。 そ れ ら に よ れ ば 、 白 米 や 酒な ど の 食 料 の ほ か 、 蝋燭 や 炭 ・ 薪 と い っ た生 活物 資 も 徴 発 の 対 象 で あ っ た ようだ 。 そ の 後 、 町 飯 坂 村 は 新政 府の 民 政 局の支 配地とな り、相馬中 村藩 の管 轄とな った ため、 今度は駐留する 藩 士 たち の 宿 泊用 蒲 団 の 手 配 も 行 な わ なければならなかった。ちなみに、 こ ち ら に つ い て は 、「 御 陣 内 蒲 団 借 ) 用並損料払方控 飯坂役元」(同五三 三)という史料が残されており、藩 から代金が支払われたことが分か る。 再来 年の平成 三十年 (二〇一 八) は 、戊 辰戦 争か ら 一 五 〇 年 で あ り 、 全国でさまざまな関連事業が企画さ れ る こ と で あろ う 。 村 々 の 古 文 書 を 数多く収蔵する当館では、戦闘その ものには加わらなかった村人たちの 視点から戊辰戦争について考えてみ たい。 (山田英明) 製炭伝習と大竹亀蔵 明 治 末 年 頃 の 木 炭生 産 状 況に つ い て 当 時 の 統 計 書 を 紐 解 く と 、 明 治三 十 八年 ( 一 九 〇 五 ) に は 福 島 県 の 木 炭 生 産 量が 日 本 で 第 一 位 と な っ て お り、明治四十三年の統計でもその位 置は代わっていない。明治七年段階 の資料では下位にあった福島県が第 一位に 躍り 出 た 要因の 一つとして は 鉄道が開通し、東北と東京市場が結 ばれたことがあげられる。 そのような中で、当歴史資料館に 収蔵されている『製炭伝習』資料を 取 り 上 げ て み た い。 明 治 三 十 七 年 の 県から内務省地方局・農商務省 山林 局 宛 の 報 告 案に よ れ ば 、 製 炭 伝 習 所 は当時において木炭輸出が増加して き て い る に も か かわ ら ず そ の 製 造 方 法が旧態依然であり、改良の必要あ り と し 、 明 治 三 十 六年 に 三 河 国 八 名 郡 か ら 織田 源 松 氏 を 招 聘 し て 開 設 さ れたものと記されている。実際に明 治 三 十 六年 に は 県 内 六 か 所 に お い て 伝習がな され、 石窯と土 窯 の両 者に よ る 製 炭が 試 行 さ れ 、 結 果 は 木 炭 の 品 質に お いて 好 結 果 が 得 ら れ 、 三 十 七年度も伝習を継続し更なる発達を 期すとされている。 明 治 三 十 七 年 十 月 ~三 十 八 年 四 月 にかけて行われた伝習資料では、地 域 を 変 えて 各 月 一 回 ( 各 二 十 六 ~ 二 十 九 日 間 ) の計 七 回 の 伝 習 が 行 わ れ たことが知られ、各回二十~四十名 程度の生徒に伝習証書が授与されて いる 。 注目されるのは石川郡母畑村で実 施 さ れ た 第 七 回 の 伝 習 に 同郡 中 谷 村 在 住 の 大 竹 亀蔵 氏 の 参 加 記 録 が あ る こ とで 、 氏 は 大 正 期 に な っ て 大 竹 式 木 炭 窯 を 創 案 し た 人物 で あ る 。 大 竹 式木 炭 窯は 大 正 九 年 ( 一 九 二 〇 ) に 実施さ れ た 政 府 の 性 能 実験で 優 秀 な 成 績を 収 め 、 全 国 に 推 奨 さ れ た 窯で ある 。 資 料 に よ れ ば 大 竹 亀 蔵 氏 は 明 治四 十年二月と 三月に 石川 郡中 谷村と 西 白河郡信夫村で実施された伝習にも 参加記録が あ り 、旺盛な研 究心がう かがわれる。そして大竹式木炭窯の 基となったものは、伝習所講師であ った織田源松氏が改良した八名窯で あるとされている。 (安田稔) 『製炭伝習』 (明治37年〜39年、製炭伝習参加者名簿の 部分、明治・大正期の福島県庁文書3231) 村人たちの戊辰戦争1 慶 応 四 年 ( 一 八 六 八 ) 正 月 に 始ま っ た 戊 辰 戦 争は 、 四 月 の 江 戸 無 血 開 城を経て、その舞台を東北地方へと 移した。以後、九月二十二日に 会津 藩 が 降 伏す る ま で 、 白 河 ・ い わ き ・ 二本松などの県内各地で新政府軍と 奥 羽 越 列 藩 同盟 軍 の 激 戦 が 繰 り 広 げ られている。 戊辰戦争といえば、戦場での華々 しい活躍や城下での悲劇に目を奪わ れがちだが、この戦争に関わったの は 何 も 戦 闘 を 行な っ た 兵 士 や 戦 場 と う地 な域 食の 料住 や民 物だ 資けではない。戦 なった 場 か ら 遠 く 離れ た 村 々 で も 軍 夫 や 物 資 の 徴 発 は 行な わ れ 、 多 く の 人 々 を 否応なく巻き込んでいった。 た と え ば 、 伊 達 郡 町 飯坂 村 ( 現 在 の川 俣 町 ) は も と も と 幕 領 で あ っ た が 、四 月に 新 政府 の直 轄領と な り 、 さら に翌五 月に 列 藩同盟の 支配下に 組 み 込 ま れ る 。 その 間 、 旧 来 の 川 俣 陣 屋 が 引 き 続 き 村 々 の 支 配を 担 って いたが 、 七月末 に陣屋は閉鎖さ れ、 役人たちは米沢へと逃れていった。 これに前後して一帯の治安は乱れ、 再 び 新 政 府領 と な っ た 八 月 以 降 は 徳 島 藩 と 相 馬 中 村 藩が 警 固 に あ た る こ ととなり、村々が分担して藩兵の世 話 を 行な う こ と と な っ た 。 相 馬 中 村 藩 の 担 当 と な っ た 町 飯坂 兵粮渡扣 (渡辺弥平治家文書 (その1)527) 第 46号 福島県史料情報 平 成 28年 (2016)10月 〒960-8116 福島市春日町5-54 福島県歴史資料館 URL http://www.history-archives.fks.ed.jp/ TEL 024-534-9193 FAX 024-534-9195 E-mail [email protected] ほ し はじめ 史資料の保存・活用に関心を高めて いただく講習会をいわき市で開催い たします 。 内容は長 福寺本尊地蔵菩薩坐像の 修復 お よ び 納 入 文 書に つ いて 、 仏像 文 化 財 修 復 工 房 代 表 の 松 岡 誠 一 氏と 神 奈川 県 立 金 沢 文 庫 学 芸 課 長 の 西 岡 芳文氏から御講演をいただきます。 ま た 、 明 治期 の白 水 阿 弥 陀堂 と 仏 像 修理 につ いて 、当 財団 副主 幹兼 専門 学 芸 員 の 渡 邉 智 裕が 報 告 し ま す 。 【 開 催 日】 平成二 十 八 年十 二 月十 日 (土 )午 前十時 ~午後三時 三十 分 【会 場】いわき市生涯学習プラザ 【 参 加 料 ・ 定 員】 無料 。当 日 先 着順 一一○名。申し込みは不要です。 公益財団法人 福島県文化振興財団 三 、休 館 の お 知 ら せ 施 設 補 修 工 事 の た め 平 成 二 十 八年 十 二 月 一日 ( 木 ) ~ 平 成 二 十 九 年 二 月 二 十 八 日 ( 火 ) まで 福 島 県 歴 史 資 料 館は 休 館と な り ま す 。 行 集・発 編 平成28年10月25日 第46号 筆まめだった星 一 明治42年(1909)8月23日付星一書状 ( 『韓国皇太子殿下行啓事務書類』、 明治・大正期の福島県庁文書555) 星一(一八七三―一九五 一)は、 現在のいわき市に生まれ、星製薬の 創業者として知られているが、一般 に は S F小 説 家 星 新 一 の 父 と 言 っ た 方がわかりやすいであろう。星一の 手 紙が 、 明 治 四十 二 年 ( 一九 〇 九 ) の 『 韓 国皇 太 子 殿 下 行 啓 事 務 書 類 』 ( 明 治 ・ 大 正期 の 福 島 県 庁 文 書 五 五 五 ) に 人 知 れ ず 綴 ら れ て いる 。 とこ ろで 、明 治四十 二年 八月 一日 から八 月 二 十 三 日まで 、当 時僅 か十 一 歳 の 少年 で あ っ た 韓 国 皇 太 子 英 親 い うん 王 殿 下 ( 李 垠 ) の東 北 ・ 北 海 道 巡 啓 が実施されている。この期間は在籍 していた学習院の夏休みの時期に当 た り 、 巡 啓 の 意図 は 日本 の 地 方 の 実 状 を 見 学 さ せる こ と に あ っ た 。 こ の 巡啓に は 当 時 枢 密 院議 長で 韓国皇 太 平 成 二 十 八年 度行 事 予 定 子の扶 育係でもあ った伊藤 博文が 全 (平成 二十八年十月~ 行程 にわ たって 付き 従 って いた 。 平成二十九年三月) 韓 国 皇 太 子 は 八 月 一 日 に 特別 仕 様 一、展示公 開 の汽車で 浜 通り を北上 し、帰路 の二 「 新公 開 史 料 展 」 十 日 は 福 島 県 庁 を 宿 所と し た 。 さ ら 『 に 、 二 十 一 日 か ら 二 十 三 日 まで 猪 苗 たけひ と 第四十 七 集に収 録され た「 堀江 正樹 代町に ある 有栖川 宮威仁親王の翁島 御 用 邸 ( 天 鏡 閣 、 現 国 指 定重 要文 化 家文書(その二)」「関口守正氏寄贈 財)に滞在したのであった。 資料 「旧湯野村文書(その二) 福 島 県 は こ の 行 啓 を 記念 し 、 主 に について 、文書群の特徴や 史料 の魅 関 係 者 配 付 用と して 三 枚 一組 の 絵 葉 力 を 紹 介 し て いま す 。 書を 発行 した。こ れ ら の現 物は 、偶 【 会 期 】 開 催 中 ~ 十 一 月 二十 三 日 然 に も 当 館 収蔵 の「 関 口 守 正 氏 寄 贈 (水 ・祝) 資 料 」 の中 に あ る 。 三 枚 と も 彩 色 刷 【 会 場 等】 と う ほ う ・ み ん な の 文 化 りで、エンボス加工が施され、梅花 センター(県文化セ ンター)福 島県 紋 の 記 念 ス タ ン プが 押 さ れ て い る 。 歴 史 資 料 館 展 示 室 。 入 館 は 午後 四 時 福東 島京 県日 歴本 史橋 資区 料数 館寄 収屋 蔵橋 資料目三 録十』 この絵葉書は 分 まで 。 入 館 無 料 。 町のともゑ商会で作製され、一〇二 【 解説 会 】 平 成 二 十 八年 十 一 月 五 日 〇組が福島県へ」 納品さ れた 。 (土) 」午後一時から五十分程度。 こ れ ら の 絵葉 書 は 一 組 ずつ 丁 寧 に 「歴史資料 館移動展」 包 装 さ れ 、福 島 県 より星 一 ・ 河 野 廣 今 年 度 に 実 施 し た 資 料 展 「 名 所図 中 ・ 柴 四 朗 ・平 島松 尾 な ど 福 島 県 選 会 の 世 界 」 の移 動 展 を 福 島 県 立 図 書 出 の 衆 議院 議 員 九 名 に も 寄 贈 さ れ た 館において開催します。 の で あ る 。 こ れ に 対 し て 、星 は 八 月 【日 程】平成二十九年一月六日 二十三日付で福島県庁へ自筆の丁寧 ( 金 ) ~ 二 月 十 四 日 ( 火 )( 予 定 ) な お 礼 状 を 認 めて いる 。簡 潔な 手紙 【 会 場 等】 福 島 県 立 図 書 館 ・ 展 示 コ で は あ るが 、三 十 五 歳 と は 思 えな い ーナー よう な 達 筆な 筆跡で あ り 、 星 の 几帳 【 関 連 講 座 】 展 示 期 間 中 の日 曜 日 を 面な 人柄が 偲 ば れ る ので あ る 。 予 定 。 午後 二 時 ~ 三 時 三 十 分 。 な お 、星 の 手紙 の後 に は 、 罫 紙 を 用いて書かれた河野廣中の簡略なお 二 、 地域 史研 究講 習 会 礼状も綴られている。 (渡邉智裕) 地域 史の 研 究 方法 の あ り 方 や 、歴 福島県史料情報 第 46号 福島県史料情報 平 成 28年 (2016)10月
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