2006年1月 21~28 日

2006年1月 21~28 日
Asian Farmers Exchange Center
1
はじめに
昨年に続き、
「東北タイ農民交流の旅」に出かけた。AFEC の仲間たちとの交流、深く関
係のある地域を訪ねようとするとおのずとそのツアー日程は決まる。
今年の参加人数は 12 名。出発当日関東は大雪に見舞われ、別便で参加予定の一人が参加
できないというアクシデントはあったが、よき仲間たちがよき旅を創ってくれた。参加者
の大半が 60 歳を超えていたため、移動中の配慮など出来る限り気を配ろう、と出発前に決
めていたが、その気持ちは出発初日から消え去った。フライトは8時間も遅れ、普通なら
イライラした気持ちを吐き出すのが常だが、参加者の中に誰一人そんな人はいなかった。
その場からすでに仲間たちとの「交流」の時間が始まった。エネルギッシュな方たちばか
りだった。そんなわけで、現地に着いてもタイの仲間とすぐに打ち解けて旅を楽しんでい
た。その参加者のユニークさは、この報告書に表れている。
越境の旅をご覧下さい!!
<日程>
2006 年 1 月
21 日(土)
日程
15:00 成田空港集合
宿泊
機内
大雪のため 17:15 発予定の便大幅に遅れる 空港で
自己紹介やオリエンテーション
22 日(日)
01:30 成田発-バンコク(TG677)
コンケン市
07:30 朝食(ドンムアン空港にて)
ペンヌンホ
09:30 タイ現地 NGO「住居開発財団」にて貧民連合相
テル
談役スーウィット・ワットヌー氏と待ち合わせ
オリエンテーション&スラム2箇所訪問
クラトゥムディオ地域&タップゲーオ地域
12:30 住居開発財団にて昼食&まとめ
13:30 バンコク→コンケン市(約6時間)
20:00 タイ東北部コンケン市にて夕食
23 日(月)
06:00 コンケン発→ポン市
コンケン市
07:30 「むらとまちを結ぶ市場」
(ポン郡役所内)訪問
ペンヌンホ
09:00 市場委員会事務所にて昼食&オリエンテーション
テル
12:30 ポン市にて昼食
ポン郡ガーオギウ区ノンブア&チャイパッタナ
ー村共同農園見学&ペックヤイ区ヤナーン&ノ
ンテー村「100 年の森構想」見学
16:00 ポン郡→コンケン市
18:00 オリエンテーション&夕食
2
24 日(火)
各自朝食&コンケン市にてフリー(市場見学等) コンケン市
11:00 コンケン大学農業祭訪問
ペンヌンホ
12:00 農業祭にて昼食
テル
13:00 コンケン市ゴミ捨て場見学
15:30 タイ東北部 NGOCOD 事務所にて交流
NGOCOD 委員&「ナムポーン川流域生態系回復
プロジェクト」アカリック・パーンパイ氏よりオ
リエンテーション
NGOCOD 及びタイ NGO の運動に関して
19:30 夕食
25 日(水)
08:00 朝食
村ホームス
09:00 織物女性グループショップ「プレーパン」見学
テイ
10:00 カラシン県クチナラーイ郡ブアカーオ市へ
(バムルン
12:30 ブアカーオ市役所にて交流&昼食
宅)
13:00 「レインボープラン(生ごみ堆肥化事業)
」見学
消費者(料理屋)&生産者農家訪問
16:00 農民活動家バムルン・カヨター氏農園へ
19:00 交流会
26 日(木)
08:00 農園見学
村ホームス
09:00 朝食&バムルン・カヨター氏と交流
テイ
10:00 クットタクライ村女性藍染グループ訪問
ノンウェン
サイナワン区行政区運営機構訪問
11:00 カラシン→コンケン県ポン郡へ
ソークプラ
村
13:00 コンケンにて昼食
15:30
コンケン県ポン郡ノンウェンナンバオ区ノンウ
ェンナンバオ村にて堆肥場交流
17:00 コンケン県ポン郡ノンウェンソークプラ区ノンウ
ェンソークプラ村にて生きるための歌「スースー
バンド」&ポン市長&村人たちと交流会
27 日(金)
08:00 村にて朝食
バンコク
10:00 コンケン県ポン市→バンコク
KT
12:00 昼食(道中)
GUEST
16:00 バンコクにて買い物等
HOUSE
19:30 夕食(最後のまとめ)
28 日(土)
05:30 宿発
08:20 バンコク発-16:00 成田着(TG 676)
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<主な訪問地&交流団体の説明>
東北タイ:イサーンという通称を持つ。タイは日本の 1.4 倍の面積を持ち、東北タイはその
3分の1の面積。人口もタイ全国の 6300 万人のうちその約3分の1の人々が住む。雨が少
なく、その雨は5月~10 月の雨期に降り、半年間もの間、雨が降らない日が続く。
バンコクスラム:800 万~1000 万の人が住んでいるといわれる肥大都市バンコク。そこに
は大小あわせると約 1500 地域のスラムがあり、130 万の人が住む。中でも最大のクロント
イスラムには 13 万の人々が住んでいる。今回はスラム問題に関わる NGO「住居開発財団」
の案内で、2箇所(クラトゥムディオ&タップゲーオ)の小さなスラムを訪問した。
「地場の市場づくり」
:アジア農民交流センター(AFEC)が招聘した農民活動家ヌーケン・
チャンターシー氏が帰国後、村の直売市場をつくり、その活動がヒントになり、日本国際
ボランティアセンター(JVC)が 2000 年度から「地場の市場づくり」プロジェクトをスタ
ート。村レベルの朝市が広がるだけではなく、コンケン県ポン郡の郡役所にて、直売市場
を設置。町の消費者を巻き込んだ活動に進展している。2006 年2月 JVC は6年間(1年延
長)のプロジェクトを終了した。
ヤナーン&ノンテー村「100 年の森構想」とノンブア&チャイパッタナー村共同農園:地
場の市場づくりの波及効果として始まった。ヤナーン&ノンテー村の森づくりは何年も前
から計画されていたがなかなか前へ進まず、そこに村の朝市ができたことで、その市場に
売る野菜づくりと森づくりを兼ねて行うことで森作りは継続したものとなり、
「100 年の森
構想」は始まった。ノンブア&チャイパッタナー村共同農園も市場に野菜を売るために作
られた。2年前までは荒れていた小学校の土地は、乾期真只中というのに、一面緑の野菜
や木々に覆われていた。
NGOCOD(NGO Coordinating Committee on Rural Development)
:タイ全国のNG
O連絡調整委員会。中央部、北部、南部、東北部と4つの地域に分かれる。東北タイには
60~70 組織が会員として登録されている。以下9つのネットワークを持つ。①オルタナテ
ィブ農業、②環境と自然資源、③住民組織、④子ども、⑤エイズ、⑥女性、⑦人権、⑧地
域産業、⑨スラム及び町のコミュニィティー
オルタナティブ農業ネットワーク:NGOCODの戦略から生まれ、正式には 1989 年に設
立。NGOCODと同様にタイ全国のネットワーク組織。農民、漁民、スラム住民、労働
者の全国ネットワーク「貧民連合(1995~)
」と力を合わせ、政府からオルタナティブ農業
(持続的な農業)をすすめるための予算を獲得するなど、農業を実践しながら、政策提言
にも取り組む強固なネットワーク。
ブアカーオ市「レインボープラン」
:農民活動家として、タイで著名なバムルン・カヨター
氏が、AFEC共同代表であり、山形県長井市の生ごみ堆肥化事業「レインボープラン」
の提唱者の 1 人である菅野芳秀氏と旧友関係にある。AFECの事業として、彼を日本に
招聘したり、AFECのメンバーも幾度も彼の活動を見に行ったりと交流を重ねた。カヨ
ター氏は、その交流の中からレインボープランに共鳴し、その哲学を深く理解し、地元に
4
あるブアカーオ市でレインボープランを提案した。そして 2002 年に実現にこぎつけた。
ノンウェンソークプラ区ノンウェンコート&ノンウェンソークプラ村:ポン郡の郡長を口
説くなど、
「地場の市場づくり」に貢献しているリーダーが数多く住む村。日本を訪問した
スラポン先生やポンの町の市場委員会の委員長ウトンさんもこの村に住む。
スースーバンド:
学生運動が高まった 70 年代、タイに「生きるための歌」という歌のジャンルが生まれた。
その先駆者と言われるカラワンは 1973 年に結成されるが、その後、民主化弾圧の影響で、
カラワンのメンバーは森に入り、地下活動をする運命になる。スースーバンドのリーダー
となるラピン氏もその影響を受け、音楽活動を始める。現代の楽器とイサーンの楽器をミ
ックスさせながら、イサーンの人たちの心を歌う。
****************************************
お世話になったタイに再び
飛川
三智枝
境の中、タイへ一人で飛び込み、無知のた
めお金が飛び、孤児院で無賃滞在させてい
■
地域内循環を求めて
ただくはめになった。
「なにかする側」のつ
このイサーンツアーに私なんかが参加し
もりで行ったタイで「扶養してもらう側」
ていいんだろうかなぁ~。農業をしている
になった。それは私の中で、大きな変化と
わけでもなし。との思いがありながらも、
なり財産にもなった。随分とタイの人々の
昨年2~3月に一度お世話になったタイ。
お世話になってしまった。感謝してもしき
そのタイを、また違った切り口で見られる
れない。しかし、そこからまた視野を広げ
ということにワクワクしながらツアー出発
ていこう、お世話になったタイのことを、
当日を迎えた。
実は全然知らなかったので、学んでいこう
このツアーに行き着くまでに私の中で
という思いが膨らんだ。
色々な心境の変化があった。大学に入った
そこの孤児院は近くのモン族の村の女性
当初、私は、日本のゆがんだ貨幣経済に浸
に、織物など家でできる仕事を頼み、そこ
かり、流行の服を雑誌でチェックし、大学
からできた服などを理解してくれる日本人
では周りの人の視線を気にし、同じ格好を
に売っており、その利益で孤児院を運営し
して安心していた。そんな毎日の中では自
ていた。心のこもった手織りで、すべて庭
分の生活が、周りがどうなっているかに目
から採ってこられる植物で布を染め素敵な
を向ける余裕がない。薄っぺらかったと思
服たちだった。
う。その頃から、フェアトレードに興味を
しかし次第に、フェアトレードにも疑問
示し始めたが、どうも実感が湧かず・・・。そ
を持ち始めた。貴重な資源を日本にこのま
の頃の自分は「私に何かできるんじゃない
ま集めてしまっていいのか、それは、グロ
か」という可笑しな感があった。そんな心
ーバル化の一般的な流れとあまり変わらな
5
いのではないか、などと思い、
「地域内循環」
がベストではないかと行き着く。そんな心
境の中、大学で授業を教わっていた渡部重
行先生の紹介があって、今回このイサーン
ツアーに参加させていただくことになった。
こんな背景なので、
「交流ツアー」より前
の段階の「学ぶツアー」という段階に私は
イサーンにはまだ豊かな光景が見られる
やっとさしかかった所だった。そのためツ
■
アー中、自分はただ見せてもらっているだ
援助ではなく人と人
けで申し訳ない、と自分の未熟さを痛感し
今回、私の中で最もキーワードとなった
た。しかし、せっかくタイに来ているので
言葉が「援助」だった。
「援助のかたち」と
色々見て・聞いて・学んで・楽しむぞ!と、
でも言うべきか。
「NGOでも、お金を出し
自分の中の情報アンテナをフル回転させた
て、その地域の人のやる気を削いでしまう
と思っている。
ケースが多々ある」と、松尾さんがおしゃ
■
っていた言葉が印象的で、今回のツアーで
黒島と同じ風景が広がっていた
その事について掘り下げようと思っていた。
今回、AFECツアーの配慮でバンコク
のスラムからゴミ処理場、カヨターさんの
そして、実感した。日本国際ボランティア
家まで様々な視点からイサーンという地域
センター(JVC)やAFECの活動は「援
を考えられたと思う。一人ではなかなか行
助」という押しつけがましいことはしてい
き着けない場所だ。
なかった。
「人と人の繋がり」をとても大切
バンに乗って、イサーンの入り口に横切
にしていることに感銘を受けた。小学校の
るドンパヤーイェン山脈を越えると、乾き
頃から赤い羽根募金やらユニセフやらで
きった田んぼの風景が続いた。村近くにな
「お金を出すイコール援助」ということを
ると牛を放牧しており、平坦な土地だか
インプットされていたのかもしれない。お
所々に小高い場所があり、木がそのまま取
金を出すだけは簡単だ。現地の人たちと信
り残されたように植わっている。あ、この
頼関係を築いている松尾さんたちを見て、
光景に見覚えがあると思った。沖縄石垣島
その土地その土地に合った協力・人々の繋
からフェリーで 30 分行ったところにある
がりという貴重なものを実感することが出
小さな島、黒島でみた光景とそっくりだっ
来た。
た。黒島は人間の人口よりもはるかに多い
アジアなどのツアーでよくあるように、
牛(約 200 頭)が放牧されている。違うの
行った人の感想が「そこの土地の人々は目
は牛の種類ぐらいだ。同じアジアとして黒
が輝いていました。子どもの目がきれいだ
島もイサーンの光景もグローバル化の中で、
った。
」と、元気のない日本人と比較して述
まだゆるやかな社会が残っていることの象
べる。私は、その感想だけにはしたくなか
徴のように見えた。妙に懐かしく思い、ず
った。その感想より一歩進みたかった。じ
っとこの光景を眺めていたかった。
ゃあ、これから自分がどうしたらいいのか。
6
どう考えていくのか。今回のツアーで、見
案内である小さなスラムと訪れると、住民
方が広がった感触はあった。これからの自
がミネラルウォーターを出して下さり恐縮
分の人生に繋げていきたいと思う。
してしまいました。ゴミ処理場見学に行っ
皆さんありがとうございました!多謝。
ても賃金は考えられないほど安く、周辺に
(神奈川県厚木市/学生)
住んでいる住民もそこに住める環境ではな
く、本当にすごいところでした。
イサーンを発つ日にスースーバンドと一緒に
(表紙写真)
コンケン市のゴミ捨て場にて
日本はお金を出してもその国に最も必要
元気なタイの女性たち
な事は何かということ考え協力していない
須藤
瑛子
ようです。今回見た日本国際ボランティア
センター(JVC)などごく一部の NGO が
■
盛りだくさんの日程・・・
地道に活動していました。また、タイの
タイの農村に行き、村の人たちと交流す
NGO は、20 数年かけて農業、スラム、女
る旅はいかがですか、と山形の菅野芳秀さ
性問題、教育問題、ゴミ問題等を取り上げ、
んからのお誘い!
市・県・国と交渉し、今ここに少しずつ実
いざ予定表がきて驚きました。と云うの
っているものの未だまだほど遠く、あまり
もスラムにゴミ処理場の見学、無農薬栽培
にも貧富の差がありすぎるのに驚きました。
をやっている共同農園等、盛り沢山のスケ
しかし人々は生きるために身も心も環境
ジュール。一瞬大丈夫かなと思いましたが
も大事にし、一生懸命でした。日本もかつ
この機会を逃してはと思い参加する事にし
ては同じだったと思いますが、今はそれを
ました。
忘れ、豊かさだけで心は大変貧しくなり、
出発の日が来ました。ところがその日関
恥ずかしい気持ちです。
東地方は何十年ぶりの大雪。遅れに遅れ、
■
それでもようやく次の日の朝にバンコクに
村の女性が作ったおいしい料理
女性たちは本当に元気でした。共同農園
着きほっとしました。
の女性たちは安全な無農薬野菜を作り、そ
バンコクは3回目ですが、まだまだ開発
れを誇りにしていました。ホームステイで
が遅れており、スラムは今の日本では考え
お世話になったバムルン・カヨターさんの
られない程ひどかったが、それでも皆明る
奥様をはじめ女性グループの方々、スラポ
い。貧民連合相談役のスーウィットさんの
ン先生の奥様、村長さんのお家の方々・・・
7
みんなが手作りの料理をご馳走して、温か
藤
く迎えて下さったことが今でも目に浮かび
気になりました。が、一週間の間、須藤さ
ます。ますますタイ料理が好きになりまし
んと2人で仕事(弁当屋)を休むこと、し
た。女性は農作業、家庭の事、子育てそし
かもその間に年に何回もない弁当の注文が
て地域の活動と、女性はどこの国でも忙し
多く入る日があるので、少々迷いましたが
くたくましく生きていると思いました。
“今年行かなければ悔いが残るかも・・・”
■
と仕事仲間を半ば驚かしながら、参加する
平和な社会を求めた交流
市民運動には終りという事は無く、お互
田口)は面白そう・・・、とすぐその
決心をしました。
いに環境は違いますが、戦争のない平和な
今までの旅行とは全く違うという覚悟は
社会と安全な衣・食・住、自然環境等守る
していましたが、バンコクについてすぐの
ために交流して行きたいと思いました。
スラム訪問、テレビ等の映像では見ていた
今回この旅を紹介してくれた菅野さんに
のですが、訪問という形でその生活の中に
感謝しています。この様な体験が出来たこ
入っていくことに躊躇しながら生活排水な
とは私にとっても忘れることができないで
どの不備に雨期のときはどうなるだろう、
しょう。又来年行きたいと思いました。若
とその生活環境の悪さを見て心配になりま
い松尾さん本当にありがとうございました。
した。
なにもテーマを持たずに行き、飲むことと
食べるその時だけ目を輝かせていた私です
が、でも又イサーンにこりずにお願いしま
す。もっと言葉が出来るよう少し努力しま
す。帰ってから「イサーンの百姓たち」を
あらためて読み、AFEC の活動がいかに大
変だと言うことがわかりました。またタイ
バンコクで訪れたスラム
の方が日本に見えたときはお役に立つこと
がありましたら協力出来たらと思います。
カルチャーショックの中で国道2号線を
(神奈川県座間市/飲食業)
100km/h 以上で飛ばすバンで東北地方に向
かいました。きっとインドのようにデコボ
コ道と思ったのですが、片側2車線、3車
ゆったりとした地域の力ある生活
田口
線もある広い道路が続きました。ベトナム
敦子
戦争のとき、アメリカ軍のために作られた
■
とのこと、よかったかどうか・・・。緑豊
仕事仲間を驚かしてタイに
御茶ノ水で受けている PARC(アジア太
かな田んぼは稲が刈られ、そんな残骸の殺
平洋資料センター)講座のコーディネータ
風景な様子は何なの・・・、と思いました。今
ー石田さんの誘いで山形県長井市に行って
は乾期で特に厳しい時期ということでした。
菅野さんと出会い、そしてタイ行きを誘わ
■
れました。乗りやすい我々3人(池田
東北タイの村々の底力
翌朝、ポン郡役所での村人だけで運営し
須
8
ているという市場で、地元で取れる野菜、
給できる農業に踏み出した村人たち、そし
産物(コオロギ、サナギ、ナマズ、赤アリ、
てこの活動を支援しているボランティアの
アリの卵等)
、もち米をバナナの葉で包み蒸
人々の存在、その出会いがあったことのす
したちまきの様な物、色々なものが並んで
ばらしさに感謝しています。生活性のない
いました。コオロギは日本のイナゴの様に
マネーゲームに明け暮れている日本、農業
甘辛くなく、さっぱりとしておいしく、赤
に関しても質より量に追われて自給自足も
アリも酸味があって乙なものでした。言葉
できない現状の中で、そろそろ人間らしい
が分からないながら、心がうきうき、そし
生活、ゆったりとした地域の力がある生活
てホットしながら食べ歩きました。
に戻りたいものです。
野菜を売っている女性たちの生き生きと
(神奈川県座間市/飲食業)
した姿に毎日の生活の張りの一面を見たよ
うな気がします。その後見た農地の狭さ(夫
の借農園とあまり違わない)にびっくりし
ましたが、近郊の人々の間で消費するには、
これくらいでいいのかな、地産池消の本当
の姿かなと納得してしまいました。昔は森
林の中で安定した生活を送っていた東北タ
赤アリとそのたまご
イの人々でしたが、ケナフの栽培のために
森の伐採をし、サトウキビをつくり、その
もうひとつのA
値の暴落による借金、そして化学肥料、農
中野
薬等の支出が村人の生活を壊してしまった
のです。それをされた日本、日本の企業の
善浩
■ グローバル化のオン・ジ・エッジ
責任は大きく、戦中、そして戦後もアジア
日本よりさらに強く、アメリカ中心のグ
諸国を踏台に繁栄していたということを恥
ローバリゼイションの影響下にあるのがタ
ずかしく思います。しかし、無農薬、有機
イかもしれない。日本ではまだ出現してい
栽培での野菜作りに歩みだした東北タイの
ないゲーテッド・コミュニティという街区
村々には底力が感じられました。農民活動
(安全のために入退出管理を行う住宅地)
家のカヨターさんの所での田んぼに青いビ
もあったし、かつて日本市場への参入に失
ニールシートをして夜遅くまで続けられた
敗したアメリカのアパレル・チェーン(た
交流会はお酒もお料理もおいしいものでし
ぶん製造拠点は中国)も大きな看板を掲げ
た。そして村の人たちが朝早くから集まっ
ていた。あるレストランでは元男性と思わ
て作ってくださった朝食の感動的なおいし
れるウェイトレスが応対してくれたけれど、
さ(特にパパイヤのサラダはなんとも言え
おそらく彼女(?)もグローバル企業が製
ません)
、そして今回のメンバーの方々が好
造するホルモン剤を使っているのだろう。
意的に接して下ったこと忘れません。
しかしグローバルな市場経済は、大量と
本当の豊かさに気づき、地域循環型の自
いうロットを要求する。そのためにタイで
9
■ もうひとつのA
は森が伐り開かれ、大きなモノカルチャー
の農地がつくられてきたという。それが十
オルタナティブ。近代社会が追及してき
分に実感できる風景を目にすることができ
た価値とは別の方向を探ること。エコロジ
た。
ー関係の分野では一般的な言葉で、
「オルタ
■ 暮らしに根づいた自然の農
ナティブ技術」というカテゴリーもある。
タイで有機農業を推進するオルタナティ
ところでオルタナティブ技術に近い考え方
ブ農業ネットワーク。モノカルチャーとは
が「適正技術(Appropriate Technology)
」
対照的に、彼らの農地には確かな多様性を
であり、身近な資源を使って、自分たちの
感じることができた。それぞれの作物の栽
ニーズを低価格で満たす技術群のことをい
培面積は小さいけれども、数多くの種類の
う。
植物が栽培されている。パパイヤの株の間
オルタナティブ農業ネットワーク。たし
にラッカセイを植えるといった混植もなさ
かにオルタナティブであるけれども、むし
れていた。多様な作物を有機農法によって
ろ「適正」の方がぴったりとする。「適正
栽培することは、土地の持続的利用を可能
(Appropriate)」のもともとの意味は「自
にし、作物を育てる農家の人々の食卓を豊
分自身を見失わない」
「自分らしくある」と
かにする。そして彩り豊かな食卓の延長に、
いうことである。自分らしさ、自分たちの
地域の朝市がある。だから朝市には生活感
生活を大切にする。それが彼らの実践する
があふれていた。
農業なのだと思う。
有機農産物を専門に扱う朝市での販売価
ちなみにバンコクで訪問したスラムの
格は、慣行農法による農産物と同等以下で
人々も、窮状にありながらも自分らしさを
の設定である。割高にならないのは「手近
追及するという強い意識を持っていた。コ
なものを使い、野草などの自然の動植物を
ンケンのゴミ捨て場で暮らし人たちも自分
採取する」からだという。グローバリゼー
らしさをつかむ途上にあったのだと思う。
ションに異を唱え、地域の自然をそのまま
ただし自分らしくあるためには、自分に
を暮らしのなかに受け入れる。それがオル
閉じこもるのではなく、他へ働きかけ、周
タナティブなのだろう。
囲との関係のなかで自分をつくってゆくこ
とが必要になる。この旅で出会った人々は、
多かれ少なかれそんな姿勢を持っていた。
深夜にまで及んだ宴会もそうだった。つま
り交流。
(東京都葛飾区/会社員)
オルタナティブ農業ネットワークを率いる農民
活動家バムルン・カヨター氏(右下)の村にて
10
を持参したので、カヨターさんに紹介して
いただければと思っていました。私の畑は
雑木林を開墾したところで3年目になりま
すが、ニンジンを作ったら子どもがおいし
いと言ってくれたことがあります。ゴボウ
も繊維が無くジャガイモを食べているよう
です。
■
スースーバンドが私たちの旅の終わりを
レインボープランについて
豊中市市民環境会議の部会で、生ごみプ
盛り上げてくれた
ロジェクトに参加して7㎥のドラム型の機
械を私の職場に設置されたので、出勤時は
小規模技術がどこでも大事
鹿島
3回観察しました。毎日排出分は投入でき
隆
るシンプルな機械で、市民はNPO取得し
■
て、と考えていたとき、行政は4年目から
農業について
事業化すると言って取り上げてしまいまし
今回アジア農民交流センター(AFEC)
た。長井市が羨ましいです。プロジェクト
のおかげで、イサーン(東北タイ)に行く
ことができました。ありがとうございます。
代表が市民の高島さんで、山下惣一さん、
菅野芳秀さんのフアンで、豊中で菅野さん
アジアは私の体にあっています。
の講演をしてもらったこともあります。毎
以前、ベンガルに行き現地の方に自然農
月生ごみ講習会を開きながら、コンポスト
を営む川口由一さんの写真を見せると、田
(木箱)で処理しています。冬でも 1、2 日
んぼを提供するから来て教えてくれないか
で生ごみがなくなります。
と頼まれましたが、ベンガルは田んぼから
前置きが長くなりましたが、タイのレイ
持ち出しばかりしているので、自然農は難
ンボープランは、長井市とは違っていまし
しいと思いました。持ち出しを止められま
た。見学していたとき、ここがタイのレイ
すか、と聞くと、止められないと言うので、
ンボープランとは知らず、何で糠入れない
どうしようにもありませんでした。
の?手に入らない?なぜマルチしないの?
イサーンはベンガルより、条件はかなり
何で芽肥いれないの?横にあるのに。と隣
良いです。カヨターさんの田んぼの一部に
にいた方に聞いていました。カヨターさん
草が繁っている所がありました。豚小屋の
から糠の代用品として魚粉(ペレット)を
横で、50 坪ぐらいでしたか、ここになにか
もらい、コンポストに入れ実験しました。
収穫後に2,3年草を繁らすために肥料を
OK です。
撒きます。草は自然農の見方です。誤解の
1月 28 日、夕食時に溜め池を掘る話を聞
無いように言いますが、私は自然農が全て
いたので、大きさを聞くと、30 ㎡で深さは
だとは言いません。皆が自然農すると家畜
2mと言われたので、浅いのではというと、
の排泄物の行き場の問題もあります。資源
その池の水をバケツですくって使うので深
の少ないイサーンでは、最適と思い、写真
11
い池は掘れない、と言われたので、コンデ
イサーンのレインボープラン
ン水中ポンプがあると言うと、ガソリンが
昔はどこでも有った
高いと言われたので、サイホン、水車発言
どこにでも庭先にもビニールごみが
の話をしました。
日本は庭先にはない
ODA も自分たちの利益が先で、現地の人
(大阪府豊中市)
たちのことはあまり考えないように思いま
す。ODA はユンボで掘るが、ODA でも現
ネットワークを形成する人たちの魅力
地の人たちと一緒に一輪車や二輪車でも十
中村
通子
分深く掘れると思います。水汲み上げる所
は廃タイヤを積むと丈夫な側面ができると
■「明」と「暗」
思います。私の実践では、一輪車のタイヤ
15-16 年前、タイ三大王朝見学の観光旅
は 50CC のバイクの前輪が OK です。タイ
行には来たことがあるが、今回は、表舞台
ヤを積み上げることで、丈夫で汲みやすく、
の背後に広がる、タイ東北部(イサーン)
容量も増え、一石三鳥と思います。
へ足を踏み入れることとなった。タイは日
本の 1.4 倍の面積に、6,400 万人が住むが、
イサーンは面積、人口ともその1/3 を有す
る。雪で遅れた飛行機を待つ成田空港での
オリエンテーションの時から、見知らぬ人
名、地名、活動の内容が頭の中で一杯にな
り、旅を進めるにつれて、実際に会った人
の顔との組み合わせは、さらに大変であっ
た。WE21 で最初から支援関係に関わって
タイのレインボープランでは、生ごみは各生
きた人間としては、JVC の地場の朝市プロ
産者の農地に直接運ばれる
■
ジェクトを自分の目で見られることが大き
イサーン
な楽しみであった。
日本では、猟師が山に植林をする時代で
す。イサーンでも規模拡大ではなく、肥え
た土づくりを考えた農業が広まっていけば、
未来の子どもたちに美しいイサーンを残し
ていけるかと思います。
イサーンには空がある
バンコクには空がない
賑わいを見せるポン町の市場
イサーンには草が少ない(乾期)
この旅には「明」と「暗」の部分があっ
日本には草が多い
イサーンには虫が少ない(乾期)
た。
「明」は、村レベルの朝市から郡役所の
日本には虫が多い
敷地で開催するまでに発展した「地場の市
イサーンはベンガルよりかなり豊か
場づくり」の活動と、山形県長井市との交
12
流にヒントを得たタイのレインボープラン
であった。
「暗」は、劣悪な環境に住まなけ
ればならないスラム住民と、埃と悪臭のゴ
ミの山で働かなくてはならない人々であっ
た。
「暗」に生きる人々の悲惨な状況は、見
てはならないものを見てしまったような衝
撃を受けた。
コンケン市の住民は、ゴミを拾う人々の
行政区運営機構の委員長席に座るバムルン氏
存在すら知らないという。作業の場の悲惨
スースーバンドのラピンさんは音楽家で
な光景とそのすぐそばに住む老人やこども
あり哲学者であった。政治学を学んだ鋭い
の健康への影響を考えると、すぐには解決
目と、農民の生活文化を背景として作られ
出来ないだけに、悲しくなった。それでも
た「生きるための歌」は説得力があり、心
バンコクのスラムの人々を 20 年以上もサ
にしみ入る。公正な社会を目指すタイの
ポートしている住居開発財団を知ったこと
人々や、私たち日本人をも、音楽を通して
は救いであり、その粘り強い活動には頭が
励まし続けてくれるであろう。
さがる。
個性的な人材を多く抱えるタイの NGO
■個性豊かな人たち
は民主化を進める歴史の流れの中で強力な
また、この旅には数え切れないほどの「出
ネットワークを作ってきた。タイの4つの
会い」があった。市場委員会のゲートさん、
地域において9つの分野で活動する
デーンさんを含む個性豊かな委員たち、藍
NGOCOD は、小さなグループを束ねる役
染めグループのガラシンさん、ブラカオ市
ではなく、それぞれの活動を大切にし、活
役所で会ったレインボープランに関わる
動の支援もしている。NGOCOD から生ま
人々、NGOCOD のアカリック・ポーンパ
れたオルタナティブ農業ネットワークは
イさん、村の力強い女性たち・・・。その中で
「貧民連合」と協力し政府から有機農業を
も圧倒的な迫力で忘れられないのは、バム
進める予算を獲得した。また有機野菜を育
ルン・カヨターさんとスースーバンドのラ
てて売る朝市の女性たちは、食の安全、地
ピン・プッティチャートさんである。
産地消を考える WE21 のパートナーとして、
カヨターさんは、農民運動のリーダーと
今後も運動を共有できる頼もしい存在であ
して「農民が発言し力を握ることが大切」
る。
との信念に基づいてタイ国内、国際的なネ
今回のツアーにおける、タイ国内のネッ
ットワークを作ってきた。意思の強そうな
トワーク組織、タイと日本、またフィリピ
風貌は彼の半生を物語っているのだろう。
ンや韓国を含めた有機的なネットワークの
地元に軸足を移した今後は、自立出来る農
学習を、地域からアジアへの連帯を目指す
民を実現するために行政区運営機構の委員
WE21 の活動に生かしていきたいと思う。
長となり活動する。その活躍にエ-ルを送
りたい。
13
タイの力強いネットワーク運動
福井
豊かな心に感動した。
貴久子
一方、コンケン市のゴミ捨て場では、ゴ
ミ山のすぐ近くの劣悪な環境に住む人たち
■
スラム、農村、ゴミ捨て場・・・
がいた。ゴミからビニールなど資源を取り
2006 年 1 月 21 日から 28 日の日程でタイ
出し売って生計を立てているが、住民は肺
のバンコクと東北部(以下イサーン)で、
や皮膚を患う人が多く、飲み水として使っ
力強く歩む人たちに出会った。
ている井戸からは有害物質が検出されてい
初日はバンコクのスラム2ヵ所を訪問。
る疑いがあるとのこと。フィリピンのスモ
スラムといっても、そこにいたのは弱く虐
ーキーマウンテンのような、病気や事故、
げられた人たちではなく、住民が団結し共
奇形児の問題がおきるのは時間の問題で、
通の目的に向かって進む人たちで、その熱
早急な対策が必要であると感じた。タイや
気に圧倒された。国と交渉して近くの国有
アメリカのNGOが関わってはいるが、住
地を獲得、上下水道と電気の通った住居や
民たちの考え方が変わらなければ事態を打
保育所を住民たちの力によって得ることが
開できないだろう。コンケン市だけの問題
できた。これらを支えていたのは、スラム
ではないだけに、今後も目が離せない。
の居住権や土地問題などスラムの問題のア
■
人の持つ力を信じ、農民たちが連帯
ドボカシーを行う「住居開発財団」などの
今回のツアーの主なテーマである、タイ
NGOと、全国規模のネットワーク「タイ・
のネットワーク運動については、イサーン
スラム・ネットワーク」だった。ばらばら
NGOCOD(東北タイNGO連絡調整委
では弱くても、力を合わせることで国と対
員会)でお話を伺うことができた。イサー
等に交渉し、それを実現させていることに
ンNGOCODは 60~70 の団体が会員で、
驚いた。
農業、環境、女性、子どもなどの9つの分
イサーンでは「むらとまちを結ぶ市場」
野ごとにネットワークしている。たくさん
「100 年の森構想」などを視察。2002 年に
の NGO の意見が何故まとまるのかという質
訪問した際は、日本国際ボランティアセン
問に、
「無理にまとめようとはせず、互いに
ター(JVC)の支援によるところが大き
学びあい、小さいNGOをサポートするこ
かった朝市は、今ではタイ農民たちによる
とで、共通課題を理解していく」と話して
朝市委員会が自立運営し、頼もしいリーダ
くれた。またネットワークが強い背景には、
ーを中心に確固たるものにしていた。中で
70 年代の民主化運動に関わったメンバーや、
も女性スタッフのゲートさんの成長が光っ
NGOの人材育成を行う「ボランティア・
ていた。4年前は共同農場の合間に植えら
サービス」に参加した若者たちが、全国に
れていた苗木がみるみる育ち、下草の茂っ
散らばりネットワークしているという事情
た林となっていた。かつての鎮守の森を蘇
があるようだ。日頃から団体間交流が盛ん
えさせようという村人主導の「100 年の森
で、会議には他団体からファシリテーター
構想」は、確実に成果をあげていて、次世
を招くなどの配慮がなされている。互いを
代に実り豊かな森を残すという村人の広く
尊重するあまり、関わりを持つことの少な
14
い日本のNGOはこうしたところから、体
質を変えていけるのかもしれない。
最後にカラシン県ブアカーオ市の「レイ
ンボープラン」を視察。農民活動家のバム
ルン・カヨターさんに出会った。カヨター
さんは、
「人の持つ力を信じ、農民たちが連
帯して力をもつことが持続可能な社会をつ
町の各所に置かれる生ごみ収集用バケツ
くる」と話してくれた。地域に根ざした人
■スマトラ島沖津波災害のタイでのその後
たちが運動することの大切さということか
2004 年 12 月末のスマトラ島沖地震によ
ら、私たちWE21 も、地域で事業を行う地
る津波は、タイ南部にも甚大な被害をもた
域の住民たちが地域の共通課題を解決する
らした。今回訪れたイサーン地域でどのよ
ために活動するときに、
「力を信じ」て「連
うな状況があったのか聞き取りをした。
帯する」ことが何よりも大切であると感じ
イサーンの人たちはバンコクや南部の観
た。
光地へ出稼ぎにいくことが多く、この津波
2004 年にイサーン農民やポン市長さんた
被害は他人事ではない。彼らは国内ネット
ちと山形県長井市の「レインボープラン」
ワークを生かし、現地NGOや漁業組合ら
を訪問したときに、リーダーの菅野芳秀さ
と共同して翌年1月に「津波被害支援のた
んから、
「レインボープランは単なるゴミの
めのタイNGOネットワーク」を立ち上げ
堆肥化だけでなく、町と村をつなぐ虹の架
た。プーケット島などの観光地は政府をは
け橋、まちづくりが大きな目的」という話
じめ世界中から支援物資が集まるが、それ
を聞いた。この精神はバムルン・カヨター
以外の漁村や農村、少数民族の村など支援
さんによってブアカーオ市に伝えられ、タ
の届きにくい地域に対象をしぼり、住民主
イ版「レインボープラン」が始まった。ま
体の支援を開始した。この中には、今回の
だ始まったばかりということもあり、生ゴ
研修ツアーで訪問したNGOCODや日本
ミを集めて工場で堆肥化する長井市版とは
からはJVCも参加している。
異なり、直接ブタに食べさせ、ブタ小屋で
その後、44 団体からなる「セイブ・アン
堆肥化させたり、農民が個別に堆肥づくり
ダマン・ネットワーク」を立ち上げ、実際
をしたりと、タイの風土にあったスタイル
の支援活動を担うこととなった。タイ南部
を模索していた。今後は、コンケン県ポン
で最も被害の大きかったバンガー県を中心
市でも生ゴミ堆肥化が始まる可能性があり、
に、より効率的な救援・復興の取り組みを
生ゴミ対策・食の安全・有機農業・まちづ
行っている。
くりなど、世界共通のテーマで今後も広が
今回のツアーで訪問したスラムの住民組
ることが期待できる。
織も加盟している全国規模の「タイ・スラ
町の各所に生ごみ用のバケツが置かれ、
ム・ネットワーク」は、この災害ではバン
その生ごみが会員農家に直接運ばれ、堆肥
ガー県で家の建設を支援している。
づくりに生かさせる。
特徴的なのは、NGOは女性・子どもな
15
どそれぞれの得意分野で活動をコーディネ
ートし、活動の主体は津波以前からあった
組合や女性グループであることだ。ネット
ワークに参加している団体は資金集めのキ
ャンペーンや、政策提言などをそれぞれ分
担し、効率的な動きとなっているのに感動
した。
今年1月には、タイとアメリカの政府に
夜の交流で歌を披露する参加者たち
よるFTA(自由貿易協定)の交渉に反対
する市民や農民が1万人集まって、協定締
ホーレン草が育ちますように
結の阻止に成功していたし、2月4日には
田口
汚職問題でタクシン首相の退陣をせまるデ
■
敏行
雨のない寒い日本から逃げて
モが 10 万人に上っている。市民のたちの声
11 月から 12 月にかけて雨が一滴も降ら
が政治をも動かすタイでは、人々が自らの
ず、育てているホーレン草、小松菜等がな
もてる力を信じ、もうひとつの社会をつく
かなか育たない今年の寒さは格別。座間の
りだそうとしていた。
元三人娘(妻とその友だち)がタイへ行く
■ 最後に
というのを思い出し、急遽寒さよけに連れ
今回のツアーでは、タイの人たちの自信
て行ってくれないか、とお願いしたのが今
に満ちた活動ひとつひとつに驚いた。日本
回の始まり。
では、高度経済成長によって都市化や核家
予習と思い『イサーンの百姓たち』を正
族化が進み、人々のつながりが分断されて
月に読んでみたがイメージが湧かず、軽く
きたのが近代化の歴史だった。地域や家族
通読したのみ。出発日に雪、朝から三人娘
の助け合いでまかなってきたものが、今で
が電話合戦、ひと電車早く成田着、私のみ
はお金で企業からサービスを買うというこ
ラーメンで腹ごしらえ、フライト状況を見
とに置き換わっている。お金さえあればと
ると雪で出発している便が少ない様子。そ
いう価値観によって、私たちが本来もって
れでもよく夜中に飛んでくれ朝着とは効率
いる生きる力や自他を信じる力を失い、お
のよい事。
金はあるのに心が貧しい状態がつくられた
貧民連合が関わるバンコク二ヶ所のスラ
のではないかと思う。タイの人たちが自然
ム見学は私にとっては始めての体験。NPO、
に皆で課題に取り組む姿から教えられた。
NGO の活動がいかに大切かを訪問後に感
WE21 は連携するタイやフィリピン・イ
じた。
ンド・韓国の人たちと、国境を越えた地域
コンケンへの移動の車で感じたのはなぜ
の共通課題に対して、情報を交換しネット
緑がほとんどないのか、道路がなぜこんな
ワークしていくことが、今の活動を大きく
に広くて良いのか?ベトナム戦争で米軍が
飛躍させる次の一歩であると考える。
敷いた道路であることを後で知った。記憶
(神奈川県横浜市/(特非)WE21 ジャパン)
をたどると現役の頃仕事でよく行った沖縄
16
の道路も本土より早くから良かった。
行きだけは避けるべき精神あり、女性群の
車中で参考のためイサーンの本を読み出
世話になったことが判ったのは正気に戻っ
した。
た翌朝。大変お世話になったこと一生忘れ
ムアンポン市の朝市、いろんな物を買っ
ない。
たり食べたり、葉っぱでくるんであったモ
ノンウェンコート村での歓迎会。スース
チの美味しかった事忘れない。コーロギ、
ーバンドの音色はとても良く、言葉はわか
繭のサナギはさすがに手が出なかった。朝
らないがそのメロデイー気にいった。特に
食でナマズが美味しくて二匹もいただいた。
ケーンの音色が印象に残っている。
市長招待の昼食会、本に出ているノンベエ
帰りに寄ったドライブイン、バンコクで
のウトンさんとスラポン先生の奥さんが近
スースーバンドの CD を探したが発見でき
くにいて、通訳を介して色々参考になる事
ず残念。
をお伺いし大変楽しかった記憶あり。
帰ってからイサーンの本を最初から熟読。
コンケン大学の農業祭で色々見るうちに、
昨日見た共同農場の取り組み、無農薬、有
内容と過ぎし日の現実が一致、良い経験を
させていただいたことに感謝している。
機栽培、地産地消等の取り組みがおぼろげ
最近は、寒さも多少やわらぎ雨もよく降
ながら浮かんできた。農業祭を見学中、孫
るのでホーレン草等の葉ものが良く育つよ
への土産に丁度良いイサーンの伝統楽器ケ
うになった。今回の経験を生かして私なり
ーン(縦笛)を女房が発見、持ち運び可能
に次のような事に取り組みたいと思ってい
な中型を二種買った。
る。
1.もともと無農薬が基本であるが、ドク
ダミなどの薬草を栽培して活用する事。
2.もともと牛糞、鶏糞、落ち葉、油粕、
米ぬか等の組み合わせによる有機栽培を
基本としているが、更に活用出きる物の研
究と実践。
3.地産、地消について、多少仲間らしき
人もふえたので取り組んで見たい。
コンケン大学農業祭見学時に村人がケーン
以上
(縦笛)を披露してくれた
■
はなはだ雑駁ではあるが報告と
させていただく。有難う御座いました。
田んぼでの歓迎会
(神奈川県座間市)
カラシン県ブアカーオ市のレインボープ
ランの見学で無農薬、有機栽培の実像が鮮
明になってきた。より多くの所で成功した
ら良いであろうと思った。
夜、ヨーさんの田んぼでの歓迎会。焼酎
が美味しくて久しぶりに酔っ払った。人事
不省。それでも池にドボンと落ちてあの世
17
た。1961 年のイサーンの森林率は 41.99%
人とのふれあいで心がほっこり
池田
■
を占めていたのに、1998 年には 12.43%
敦子
長井市レインボープラン、そしてタイ
に減少したと松尾さん著作『イサーンの百
昨年 10 月末、面白い人がいるから山形県
姓たち』に記載されているのを見て衝撃を
長井市に行かない、と誘われ、長井市につ
受けた。
いてはほとんど知識もないまま、仲間に入
「ポン町むらとまちを結ぶ市場」
「コンケ
れてもらって出かけた。そこが有名な生ご
ン大学農業祭」
「コンケン市のゴミ捨て場」
み堆肥化事業「レインボープラン」を実施
「レインボープラン」と次から次へと盛り
しているところだった。ずっとその事業に
だくさんの見学とその後の現地の人々との
関わっている菅野さんからレインボープラ
交流で、頭の中は整理されないままだった
ンがどのようにして実現されていったかの
が、身体は直ぐに馴染んで、何年も暮らし
説明を聞いた。行政を動かし、地域に根ざ
ている気分だった。
した市民の人たちと共に事業を推進してい
■
く過程のしんどさを想像し、1つのことを
の連帯
追及している人との出会いに、またひとつ
私たちと同じように生きるタイの人と
振り返ると子どもを出産した頃から日本
私の財産が増えた気がした。
でも公害問題が表面化し、子どもに安全な
少し経って菅野さんから東北タイの今回
食べ物を食べさせたいと共同購入、共同農
の旅行を誘われ「元気で気力のあるうちに
園、有機農業をつくっている農家の援農と
行かないと・・・」と参加の返事を出し、
作物購入等など 20 年近く続け、そのあと女
1月 21 日降りしきる雪の中を予定より8
の人たちの職場づくりと安心して食べられ
時間遅れて成田を飛び立ち、あくる日バン
る場所づくりで、女性たちが集まって食堂、
コクに着いた。
弁当屋、居酒屋を今に至るまで続けていて、
■
私は 60 歳で辞めたが、食べることを中心に
経済成長の陰で
バンコクからコンケン市に至る長い道の
活動してきた。
り、道路の脇に大きな広告の看板があり、
今回の旅で私たちが続けていたことをタ
日本の企業の名前をたくさん見て、これこ
イの人たちも同じようにしているという連
そ 1970 年代頃から始まる日本の一方的な
帯感が何人の違和感もなく現地に溶け込め
経済進出の結果なんだと納得し、さらに車
たんだと一人合点した。
は北へ進んでいくと、道の両側に点々と少
そして私が一番心に残ったことは、畑の
し大きな木が残っており、かつてここは森
中にシートを敷いての交流会、言葉は通じ
林だったのに、ほとんどの木が伐採されて
なくても心は通じ、特に最後の夜スースー
しまい、そこにユーカリ、キャッサバ、サ
バンドの人たちの輪に入れてもらい、そこ
トウキビ等の作物が栽培されて、それは輸
で飲んだ「コメドブロク」のおいしかった
出作物を増やして外貨を獲得するという国
こと、あんなにおいしいドブロクは生まれ
の政策で、そのために農民は借金に苦しめ
てはじめて、もう一度飲んでみたい!!そ
られ、土地は荒れてしまったことを聞い
してそこにいた美人のことも忘れない。美
18
人とのツーショットをそえて。
截に言葉にされたSさんの姿勢に脱帽しま
(神奈川県座間市)
した。
美人とのツーショット
共同農園にて
■
農婦 S さんへの手紙―AFEC スタディ・
東北地方の山形県の長井市で農民(市民)
ツアーに参加して-
が行政に働きかけて立ち上げた生ゴミ堆肥
鈴木
■ 拝啓
拝啓
タイのレインボープランを見る
千代志
化事業(
「レインボー・プラン」
)が、タイの
Sさん
東北地方(イサーン)でも始まったと伺っ
Sさん、お変わりございませんか。
たとき、同じ県民としてとても嬉しく感じ
共同農場の見学の際はいろいろとご教示を
ました。
「生ゴミを資源として、生産者、消
いただいたうえに、タマリンドの実を両手
費者がそれぞれの立場から安全な食づくり
で持ちきれないほど頂戴いたしました。あ
に参加する」
(菅野芳秀さん)まちづくりが、
りがとうございました。農場見学の後の交
イサーンではどのような形で進んでいるの
流会でのあなたの“問いかけ”が今も心に
か知りたい。これが、菅野さんが共同代表
残って消えません。
を務める AFEC のスタディ・ツアーに参加
「お前たちは一体何者だ、おれたちのよ
させていただいた動機です。
うに真っ黒に日焼けもしていなければ、手
このたび実際にイサーンを訪ねて、森林
も農民らしくない。何をしていて、どんな
や田畑を潰し輸出品の原材料となるサトウ
目的で来たのか」
。
キビ・キャッサバなどの栽培面積や、紙の
あなたの目は笑っていましたが、松尾康
原料となるユーカリの植林面積を拡大した
範さんのユーモアに富む “過激”な通訳で
けれども、その結果は農民の多額の借金と
はおおよそこのような内容でした。同行者
大都市への出稼ぎ、自然の破壊とコミュニ
の中には“定年帰農”された方もおられた
ティ崩壊の危機であったと伺いました。か
ようですが、農家に生まれ農業を離れたわ
つて日本では高度経済成長の道をひた走り、
たくしは一瞬ドキッとしました。正体の知
農業も機械化・大型化が奨励されました。
れない人間どもが突然やってきて「農園の
その結果、わたくしが住む東北地方の農山
灌漑用の水は何処から引くのか」
「費用の負
村では“機械化貧乏”と大都市への出稼ぎ
担は?」等々と質問攻めにしたら、受ける
者が増え、また大都市の産業廃棄物などの
ほうは誰でも戸惑います。思ったままを直
“ゴミ捨て場”となりかねないような苦い
19
経験を持っています。過疎と少子高齢社会
AFECならではの交流の旅を通して、
の問題は現在も深刻です。地域によっては
みなさんの日常生活にほんのわずかばかり
家族農業やコミュニティが崩壊の危機に瀕
肌で触れただけですが、自らの生活をあら
しています。日・タイの「東北地方」で暮
ためて振り返ることにもなりました。わた
らす人々が負っているきびしい状況は、社
くしは砂糖やちり紙、コピー用紙などはス
会経済的な構造に違いがあるにもかかわら
ーパー・マーケットの特売日に購入します
ず、ずいぶん似ていると思いました。しか
し、日用雑貨や文房具などは百円ショップ
し印象的だったのは問題に取り組むイサー
を利用することもあります。これはいわば
ンの人たちの前向きな姿勢であり活動です。
年金生活者の自己防衛策なのですが、その
プアカーオ市の「レインボー・プラン」で
商品の殆どは東南アジアの国々や中国から
印象深かったことのひとつは、予想してい
の輸入品です。バブル経済が崩壊した後の
た「堆肥化工場」が見当たらなかったこと
日本でつつましく暮らす庶民の自己防衛的
です。行政が集めた街の生ゴミを各農家に
な生活でさえ、日本をはじめアジア諸国に
“宅配”し、農民がこれを家畜の餌に、あ
ある多くの「イサーン」の人たちに支えら
るいは堆肥化して農作物を生産し、消費者
れ、しかもその人たちの暮らしを圧迫して
に提供していること。また、村のおばさん
いるという、不条理な構図の中に組み込ま
たちが自分で作った無農薬野菜を売るポン
れているのです。S さんの“問いかけ”に
郡役所内の朝市で目にしたのですが、そろ
わたくしがびっくりした本当の理由は、こ
いの帽子やユニフォームを身に着けた皆さ
の不条理な構図に戸惑っている自分の胸中
んの姿が実に誇らしく見えたことです。そ
を見透かされたような気がしたからです。
の中にはご高齢のおばあちゃんもいて、微
あなたの真意は測りがたくありますが、そ
笑ましく感じました。総じて農民側の積極
の“問いかけ”はとてもラディカルに響い
性が強く印象に残りました。これは自立へ
たのです。
の手応えに対する確信のせいでしょうか。
一消費者としてのわたくしが現在してい
タイ国内の諸問題のほぼすべてを網羅し
ることは、農産物は多少値段が高くても安
ていると思われる9分野のネットワークを
全な地場物を買うようにしていること、生
持つNGOCOD(全国NGO連絡調整委
ゴミは自分の庭で堆肥化して庭の草木に施
員会)との連携のもとに、持続可能な循環
すこと、資源ごみを徹底して分別して出す
型農業や「地場の市場づくり」などの地道
ことぐらいで、とても胸を張って話せるよ
な活動がすでに実績をあげていて、
「レイン
うなことではありません。それゆえに「レ
ボー・プラン」もこれらの活動と深く結合し
インボー・プラン」には、自分がもっと他に
ていることが分かりました。行政への働き
出来ることが何かあるかもしれないと考え
かけも活発で、今後更なる発展が期待でき
させてくれる、そんな魅力があります。レ
るように感じられました。
インボーは啓示や祝福のシンボル。人間に
■
も環境にもやさしく、自然と人間の共生、
庶民の自己防衛的な生活を
支えるアジア諸国
コミュニティ再生を可能にする持続可能
20
な「レインボー・プラン」は、まさに天啓な
のではないでしょうか。アジアの二つの「東
北地方」を結んだ「レインボー・プラン」が
さらに他の地域へと拡がる虹色の夢をわた
くしは抱きます。
AFEC タイ世話人のカヨターさんの乾い
た田圃にブルーシートを敷いた即席の大宴
会場や村の広場での交流会で野趣に富む歓
迎を受け、また、笙や笛などイサーン固有
の楽器を取り入れた「スースー・バンド」の
演奏を聴き、人間らしい暮らしを築こうと
ラピン・プッティチャート
活動しているイサーンの人たちの逞しさと
層の厚さ、幅の広さに目をみはりました。
東北タイで見た小さい頃の海
地域に根をおろして自然体で生きることの
海田
祐子
大切さを教えられました。S さんの問いか
けに、多少でも応えることができるように
■
イサーンの人たちの智恵と“したたかさ”
私は小さい時から、父に連れられ、海へ
をわたくしも見習おうと思います。機会が
行くと、貝や魚、海草を採っていました。
あったらまた訪ねてみたい、イサーンはと
私にとって美しい海は豊かな海、おいしい
ても魅力あるところでした。
海なのです。
末筆ながら、Sさんはじめお世話になり
10 年ほど前に行ったサイパンはきれいで
ましたイサーンの皆さんに心から感謝し、
天来のご多幸を祈ります。
おいしい海
したが、食べられる貝や魚がわからない海
合掌
は私にはちっとも豊かに感じられなかった
のです。
付記
この度のスタディ・ツアーを共に
2003 年にWE21 のスタディーツアーで
した個性ゆたかな方々に、そして何よりも
初めてJVCの朝市プロジェクトを見学し
この意義深いツアーの仕掛け人にしてよき
た時はその仕組みの面白さに心惹かれまし
案内者、AFEC 事務局の松尾康範さんとア
た。その仕掛けに感心し、ひとつひとつの
シスタントの高橋良子さんに、心から感謝
村人との信頼関係を築いていくJVCスタ
申し上げます。
ッフの松尾さんの姿勢に感心したものです。
(山形県上山市)
■
農地とは何
今回のツアーでは、その仕組みより、農
地とは何かということに引かれました。100
年の森計画のヤナーン・ノンテー村や、バ
ムルン・カヨタさんのお宅を訪問した時、
タイの豊かな自然を生かした農地が私にと
21
っての海のように思われたのです。
した。活発な意見交換を重ねる市場委員の
野菜作りの畑は広大な田んぼに比べれば
男性たち、市場でイキイキと売り声を上げ
とても小さなもので、家計に占める割合も
る女性たち、恥ずかしそうにお手伝いをす
大きくはないかもしれません。けれども自
る子どもたちを見ました。
然の恵みを享受出来る畑は、農民にとって
二度目に訪れた時(2003 年 12 月)
、幾つ
も、消費者である町の人にも、自分たちの
かの村の朝市メンバーと行政が協力し「町
豊かさを感じることができる大切なものだ
の朝市」を展開していました。朝市に参加
と思います。
(実際のところ、定期的に入る
する村が増え、市場委員会メンバーに女性
野菜の収入は家計にとって大きな力になっ
も加わって活発な動きになっていることに
ているそうですが)
PJの成果をみました。カイコを育て織物
ポンの町の市場で、あるいはブアカーオ
を中心にしていた村人や朝市に関心が無か
のまちで、もっと買い物をする人たちと話
った村人、決して「朝市」を良く思ってい
ができたら良かったのになあと思います。
ない人もいた2年前と比べ、こんなに「朝
■
市」を盛り上げ、村を結び、地域をつくっ
食の話で手を結ぶ
この豊かさを共有出来たらよいのになあ
てきたことに感動を覚え、日本のNGOと
と思いました。グローバリゼーションに対
現地の人たちの活動がいくつもの壁を乗り
抗し、農民が交流しよう、手をつなごうと
越え前進してきたことを嬉しく思いました。
いうのがAFECなら、その豊かさに感謝
■
日本でも交流
しつつ享受出来るよう、手をつなごうとい
交流を重ねる度に、顔の見える関係を深
う消費者の交流があってもいいのではない
め、そこからから素敵な出会いも増え、今
か、そんな気がしました。農家の人たちと
回のツアーは懐かしい人たちに再会する胸
農作業の話はできないけれど、食の話はで
踊るツアーでもありました。前年度(2002
きる。次に合う時には誰とどんな話ができ
年)には、チュアムさん・スラポンさん・
るか、楽しみにしたいと思います。
バムルン・カヨターさん・ガイ君が来日。
(神奈川県横浜市/(特非)WE21 ジャパン)
2004 年の冬、この村の市場委員(ウトンさ
ん・ゲートさん)・NGOスタッフ(サネー
子どもたちへのメッセージ
瀨戸山
さん)・ポン市の市長(スワットさん)・教育
祥子
長(チューサックさん)
・他 1 名(ナチャヤ
ーさん)たちをAFEC・JVC・WE21
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6年前
の連携で日本に呼び寄せたことがあります。
この村を初めて訪れたのは 2001 年 7 月、
私にとっても初めて山形県長井市のレイン
JVCの「村の朝市プロジェクト」に(特非)
ボープランを学ぶ機会となった年でした。
WE21 ジャパンが支援団体として関わった
今回三度目の訪問となったタイ東北部・
のがきっかけです。
コンケンの姿は、緑の森、複合農業、レイ
村人たちは朝市委員会を立ち上げ「村の
ンボープラン、藍染織物、そして、カヨタ
朝市」をどう運営していこうかと模索中で
ーさんが住む見事なエコハウスからタイ東
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北部・イサーン地方の暖かい地域づくりと、
し合って生きていくことが大事。この村に
村の人々の決して諦めない粘り強さを見ま
は安らぐ場所があり、豊かな文化もある。
した。一人から始まり、人々が出会い、支
でも一つの問題として村の若者が、町にあ
え合いながら自分たちのくらしをつくる。
こがれ村から離れてしまっている。私はこ
自立に向かう過程を見てきました。
れから子どもたちに向けた歌を作っていく。
また、AFECの交流ツアーは、外の情
生まれ育ったこの村のすばらしさを忘れな
報が少ない村人にとってお互いの現状を理
いでもらいたい。子どもたちが再びこの村
解する大切な情報交換の場であったこと。
に戻ってくるよう願いを込めて・・・」
。
JVCの「朝市PJ」は、遠く離れた村人
同感です。平和な未来を願いこの活動を
たちの心をつなぎ、生きるための自信をつ
続けている私も、母として次世代を担う子
けるプログラムだったことも分かりました。
どもたちに何を残し、どう伝えようかとい
国境を越えて連携することの重要性を改め
つも考えています。自分がやることは簡単
て実感できたツアーとなりました。
です。でも、人に伝え続けていくことは難
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しい。私たちに残された宿題かもしれませ
平和な未来を願うスースーバンド
さらに、感激がもう一つ。
「生きるための
ん。一つひとつ積み重ねてきた事をどうつ
歌」を作り、歌い続けている “スースーバ
なぐか。若い世代の可能性を伸ばし育てる
ンド”のメンバーに会えたことです。リー
ことを今後の課題として、これからも活動
ダーのスーさんはこんな話しをしてくれま
を続けていこうと思います。
した。
「この村は“農”を通じてみんな助け
最後に、今回、ご一緒させていただいたメ
合って生きている。私は、コメは作らない
ンバーの皆さま大変お世話になりました。
けど歌を作ることができる。歌やリズムで
この場を借りてお礼を申し上げます。この
みんなにメッセージを伝えることができる。
出会いを大切に国内での連携活動も充実し
人が持つ力はそれぞれ違う。できないこと
ていきたいと思います。
を突き合うのではなく、できることで協力
(神奈川県座間市/(特非)WE21 ジャパン)
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発行日:2006 年7月7日
編集・発行:アジア農民交流センター(AFEC)
共同代表 山下惣一・菅野芳秀
事務局&連絡先:〒239-0846 神奈川県横須賀市
グリーンハイツ 1-7-102 松尾方
アジア農民交流センター(AFEC)
松尾 康範
TEL&FAX:046-849-7178
E-MAIL:[email protected]
http://afec.hp.infoseek.co.jp/
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