寄り道しながら 昭和新撰 江戸三十三観音札所巡 江戸三十三観音札所巡り

寄り道しながら
昭和新撰
江戸三十三観音札所巡り
江戸三十三観音札所巡り
2014年の年頭に、江戸三十三観音札所を廻ろうと思い立った。 どうしてもこれだけは祈願し
て成就したいという大きな目的があるわけではないけれど、
(全くないこともないけれど)
、社寺仏
閣は殆ど昔から同じ場所にあるということと、いつかは自分の住んでいる東京都内を隈なく歩いて
名所、史跡を訪ねたいなぁと、ずっと前から思っていた。 同時に、出来るだけ自分の足で歩いて
回ることで健康のためにも万歩計の歩数もあげたい、という理由もあり、一石二鳥と考えた。さて、
思い立ったが吉日、好天の1月3日、まずは初詣を兼ねて一番札所の浅草寺を訪ねた。 しかし、
浅草寺のパワー恐るべし。まだ正月三ヶ日なので初詣客は多いだろうな、と思ってはいたが、想像
をはるかに超える混み具合だ。家族連れや若者、熟年夫婦、団体客、更に最近多くなってきた外国
人観光客等々、賑やかな人の波で殆ど路面が見えない状態だった。警備の警察官も人群れの交通整
理に追われ、拡声器を手に列の最後尾に並ぶよう方向や注意を叫んでいる。その声が、時折鳴るピ
ッ、ピッ、ピーッという笛の音と混ざり喧騒を掻き立てる。兎に角、人で溢れかえっていたのだ。
参道入り口の雷門の廻りや仲見世通りのあちこちにはロープが張り巡らされ、簡単に中に入ること
は出来ない。恐らく、この具合だと3、4時間は並んで待たないと浅草寺には辿り着けそうもない、
本堂は仲見世通りのずっと先だ。名物の人形焼きも簡単には買えそうにない。ということで、この
日の参拝はあきらめて、出直そうと思ったが、とりあえず順番を変えて、合羽橋交差点近くにある
二番札所を訪ねることにした。ここから、私の三十三観音札所巡りの旅が始まった。時計は午後3
時を指していた。
訪問の順番
※ 以下、奉拝の順番で記録したい。
1.二番札所 江北山 宝聚院 清水寺(
清水寺(せいすいじ
せいすいじ)
いじ)、 札所本尊 千手観世音菩薩
宗派 天台宗、
天台宗、奉拝日 平成二十六年一月三日、
平成二十六年一月三日、 所在地 台東区松が
台東区松が谷 2-25-10
用品の問屋が並ぶかっぱ橋道具街、合羽橋交
差点近くの通り沿いにあり、近代的な鉄筋コンクリートのこじんまりした建物だった。 外階段の
二階に入口があり、インターフォンを鳴らして訪ねた。玄関で、靴を脱ぎ左脇の本堂に着座して、
お賽銭を入れ、千手観音に礼拝、合掌。 本堂内には、奉拝者が写経できる準備もされていた。
本堂に上がる前に、昨年秋に尋ねた山梨県勝沼の大善寺(国宝・通称ぶどう寺)で求めた御朱印帳
をお預けして、お参りの間に書いていただいた。そして、昭和新撰「江戸札所道しるべ」という
A2 の大きさで八つ折りに畳んだ案内パンフレットを買った。そこには三十三観音札所の住所録と
位置情報が地図入りで細かく描いてある。帰り際に、比叡山で修行されたご住職から、お寺訪問の
常識を教わった。関西(奈良)では、午後四時以降にお寺を訪ねるのは、「お通夜の訪問」と言わ
れ、避けるのが常識ということ、また、お寺の境内で遊ぶ子供達にも午後三時以降は遊ばないよう
諭しているということだった。今までお寺への訪問時間のことなど全く考えたこともなかった私に
とっては、大変有難いご教示をいただいた。
「でも、(浅草寺さんのような)大きなお寺は別格でし
ょうけど」と付け加えもいただき、私の次の行動も洞察されていたかのようだった。いずれにして
も、清水寺が最初の訪問で良かった。清水寺の開基は、比叡山第三代天台座主慈覚大師円仁(最後
の遣唐使)が疫病退散のため、天長六年(829 年)江戸平河に開山したのが始まりという。
浅草雷門前から歩いて7、8分。 清水寺はキッチン
1
ご朱印
階
清水寺の
清水寺(二 が本堂)
・ 表紙
江戸札所道しるべ
・ 説明文
江戸札所道しるべ
江戸三十三札所とは、東京都内にある 33 箇所の観音札所のことで、江戸時代に西国三十三箇所など
観音霊場巡礼が流行した際、各地で新たな札所が設けられた。江戸にも、元禄年間に設定されたこ
とが享保二十年発行の「江戸砂子捨遺」に記されている。現在の札所は、昭和 51 年に改訂された。
・
江戸札所道しるべ
区 案
江戸三十三観音札所 分 内
区
区別札所数: 墨田区 1、台東区 3、文京区 8、豊島区 1、新宿区 3、中野区 1、杉並区 1
(12 区 )
世田谷区 1、目黒区 1、品川区 3(含む番外 1)
、港区 9、中央区 2
札所御本尊別数: 聖観音 16、十一面観音 7、千手観音 3、如意輪観音 2、以下 各 1
(12 姿)
(馬頭観音、潮干十一面観音、無量聖観音、西向聖観音、泰平観音、魚籃観音、
亀塚正観音、水月観音)複数本尊の札所が 2 ヶ寺あり。
江戸三十三札所を整理してみると、札所数は番外を入れて 34 ヶ寺。以下のような 分けとなる。
2
宗派別札所数: 聖観音宗 2、浄土宗 11、天台宗 6、高野山真言宗 4、真言宗豊山派 4、
(10 宗派)
曹洞宗 3、真言宗智山派 1、真言宗醍醐派 1、臨済宗南禅寺派 1、単立系 1
札所番.
寺院名
札所本尊
宗派
地区
1.金龍山 浅草寺(せんそうじ)
聖観世音菩薩
聖観音宗 台東区
2.江北山 宝聚院 清水寺(せいすいじ) 千手観世音菩薩
天台宗
台東区
3.大観音寺(おおかんのんじ)
聖観世音菩薩
聖観音宗 中央区
4.無宗山 無縁寺 回向院(えこういん) 馬頭観世音菩薩
浄土宗
墨田区
5.新高野山 大安楽寺(だいあんらくじ) 十一面観世音菩薩
高野山真言宗 中央区
6.東叡山 寛永寺 清水観音堂(きよみずかんのんどう)千手観世音菩薩
天台宗
台東区
7.柳井堂 心城院(しんじょういん)
十一面観世音菩薩
天台宗
文京区
8.東梅山 花陽院 清林寺(せいりんじ) 聖観世音菩薩
浄土宗
文京区
9.東光山 見性院 定泉寺(じょうせんじ)十一面観世音菩薩
浄土宗
文京区
10.湯嶹山 常光院 浄心寺(じょうしんじ)十一面観世音菩薩
浄土宗
文京区
11.南緑山 正徳院 圓乗寺(えんじょうじ)聖観世音菩薩
天台宗
文京区
12.無量山 寿経寺 伝通院(でんづういん)無量聖観世音菩薩
浄土宗
文京区
13.神齢山 悉地院 護国寺(ごこくじ)
如意輪観世音菩薩 真言宗豊山派 文京区
14.神霊山 慈眼寺 金乗院(こんじょういん)聖観世音菩薩
真言宗豊山派 豊島区
15.光松山 威盛院 放生寺(ほうしょうじ)聖観世音菩薩
高野山真言宗 新宿区
16.医光山 長寿院 安養寺(あんようじ) 十一面観世音菩薩
天台宗
新宿区
17.如意輪山 宝福寺(ほうふくじ)
如意輪観世音菩薩 真言宗豊山派 中野区
18.金鶏山 海繁寺 真成院(しんじょういん)潮干十一面観世音菩薩
高野山真言宗 新宿区
19.医王山 悉地院 東円寺(とうえんじ) 聖観世音菩薩
真言宗豊山派 杉並区
20.光明山 和合院 天徳寺(てんとくじ) 聖観世音菩薩
浄土宗
港区
21.三緑山 広度院 増上寺(そうじょうじ)西向聖観世音菩薩
浄土宗
港区
22.補陀山 長谷寺(ちょうこくじ)
十一面観世音菩薩
曹洞宗
港区
23.金龍山 大円寺(だいえんじ)
聖観世音菩薩
曹洞宗
文京区
24.長青山 宝樹寺 梅窓院(ばいそういん)泰平観世音菩薩
浄土宗
港区
25.三田山 水月院 魚籃寺(ぎょらんじ) 魚籃観世音菩薩
浄土宗
港区
26.周光山 長寿院 済海寺(さいかいじ) 亀塚正観世音菩薩
浄土宗
港区
27.来迎山 道往寺(どうおうじ)
聖観世音菩薩
浄土宗
港区
同
千手観世音菩薩
同
28.勝林山 金地院(こんちいん)
聖観世音菩薩
臨済宗南禅寺派 港区
29.高野山 金剛峯寺 東京別院
聖観世音菩薩
高野山真言宗 港区
30.豊盛山 延命院 一心寺(いっしんじ) 聖観世音菩薩
真言宗智山派 品川区
31.海照山 普門院 品川寺(ほんせんじ) 水月観世音菩薩
真言宗醍醐派 品川区
同
聖観世音菩薩
同
32.世田谷山 観音寺(かんのんじ)
聖観世音菩薩
単立系
世田谷区
聖観世音菩薩
天台宗
目黒区
33.泰叡山 瀧泉寺(りゅうせんじ)
番外 龍吟山 瑞林院 海雲寺(かいうんじ) 十一面観世音菩薩 曹洞宗
品川区
3
2.
一番札所 金龍山 浅草寺(
浅草寺(都内最古)
都内最古)、御本尊
、御本尊 聖観世音菩薩、
聖観世音菩薩、 宗派 聖観音宗
奉拝日 平成二十六年一月三日、
平成二十六年一月三日、 所在地 台東区浅草 2-3-1
再び、浅草に向かい伝法院通りを歩き仲見世通りとの交差地点に戻ってきたが、警察官がロープで交通
整理をしていて、列に並ぶことはできない。浅草寺参拝の列はまだまだ長く続いていた。本堂の隣には、昔、
三社権現社と呼ばれていた浅草神社がある。行ってみると並んでいる人の列もそんなに多くはない。折角
なので参拝をすることにした。社務所に寄って、神社巡り用にと、浅草神社名入りのご朱印帳を求め、ご朱
印もいただいた。ところで、浅草神社と浅草寺はどのような関係なのか?よく知らずにお参りしていた。由緒
について触れてみたい。社伝によれば、推古天皇 36 年(628 年)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成
(たけなり)の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの
地域で物知りだった土師真中知(はじのまなかち)に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は
毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅
草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中
知・浜成・竹成を神として祀ったのが浅草神社の起源であるとしている。実際には、平安時代の末
期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神
体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。
明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治 5 年に郷社に
列し、明治 6 年に現在の浅草神社に改称した。ということで、昔から浅草例祭の三社祭は、日枝神
社の山王祭と神田神社の神田祭とともに、江戸三大祭の一つとして大人気だ。当日は、お正月とい
うことで、社殿の隣に安置されている三社のお神輿が公開されていた。観ることができたのは嬉し
かった。今年の三社祭りは 5 月 17 日~18 日の予定。
祭 お神輿
三社 の
三体
神
浅草 社
二天門
陽 落 暗
お祭りのように電気が煌々と輝いて明るい。神社の境内では、東
北宮城県・石巻から来た復興即売テントがあり、地元の銘酒や甘酒、海の幸や塩辛、味噌漬けなど
が売られていた。辛味味噌漬けを一つ買った。甘酒も一杯いただいき、冷えた身体が内側から温かくなっ
た。さてと、家路を急ごうとしたら、まだまだ沢山の人出ではあったけれど前より列も短くなっていたので、当
初の目的通り、何とか並んで参拝することができた。参拝後、本堂左隣りに建っている影向堂(ようごどう)で、
(こちらも長い列だったが)ご朱印をいただいた。同時に「ご朱印」の説明書もいただいた。そこには、ご朱
印は元々「納経」の印であったこと、お参りもせずにご朱印だけを集めて歩くということは、本来の尊い意義
を無視してしまうことになりかねない、という、最近のお寺廻りについての心構えをただすような内容だった。
なんだか、自分のために書かれているような気がして、これから始める三十三札所巡りについて諭された感
じがした。
浅草は が ちて くなっても、
4
ところで、観音様には、下図のように、左から聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意
輪観音の六観音、さらに天台宗系では不空羂索観音を加えて七観音があるといわれ、基本は聖観世音が
元のお姿であり、状況により、他の姿に変化(へんげ)して衆生をお守りいただいていると、いわれている。
浅草寺の創建について続けると、その後、大化元年(645 年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告
により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ 1 寸 8 分(約 5.5 センチ)の金色の像で、秘仏のため実体は明ら
かでない。平安時代初期の天安元年(857 年)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘
仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造った。これらを基に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興
開山としている。天慶 5 年(942 年)、七堂伽藍が整備され、天正 18 年(1590 年)、江戸に入府した徳川家
康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。その後、浅草寺はたびたび焼失しており、近世に入っ
てからは寛永 8 年(1631 年)、同 19 年(1642 年)にも焼失した。しかし、三代将軍徳川家光の援助により、
慶安元年(1648 年)に五重塔、翌年に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は
観音霊場として多くの参詣者を集めた。貞享 2 年(1685 年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が
設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したもの。江戸時
代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は
庶民の娯楽の場となった。天保 13 年(1842 年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町
(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、さらに賑やかになった。都内最古のお寺としての浅草寺は、
大衆の観音信仰の輪を広げ、大衆娯楽地と相乗し、発展をしてきている。本尊の聖観音像は、現在
の東京と埼玉の県境に近い飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が
大水で流されたものとする説がある。
浅草寺のご朱印
「ご朱印」についての説明書
浅草寺 本堂
5
寄
頃
モ ションする企画会社に勤める友人からの誘いで、か
なり浅草に来る機会に恵まれている。具体的には、最近知名度が上がってきた昭和歌謡レビューシ
ョーの「虎姫一座」というグループ(最初は女性 7 名、男性 2 名の二十代の劇団)がデビューし、
特に、団塊世代に懐かしい昭和の歌を、リズミカルな踊りや和洋折衷・バラエティー溢れる楽しい
パフォーマンスを見せてくれる。彼女達が一生懸命に唄い踊る姿は、爽やかで、明るく、楽しく、
観るたびに元気をもらっている。初演の頃から比べれば、素晴らしい成長だ。私もファンクラブに
加入した。ときどき元会社の同期有志が、その友人の声かけで浅草に集まり、観劇、食事など、大
変楽しい時間を過ごしている。感謝、多謝である。昔から浅草地区は劇場、映画館、演芸場がひし
めきあい、競い合い、何ンといっても東京の大衆文化、大衆芸能の聖地であり、多くの喜劇界のス
ターを輩出している。肩の凝らない楽しいショーで笑いの渦が巻きあがる、都内最大のアミューズ
メントエリアと言っても過言ではないだろう。海外からの観光客にも一押しの観光スポットだ。
( り道)私は 2011 年 から浅草をプロ ー
.四番札所 諸宗山 無縁寺 回向院、
回向院、 札所本尊 馬頭観世音菩薩、
馬頭観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六年一月四
平成二十六年一月四日、 所在地 墨田区両国 2-8-10
3
翌日は両国に向かった。両国には、JR 両国駅に隣接して大相撲の国技館や江戸東京博物館がある。
江戸時代、元禄十五年(1703 年)に赤穂浪士の討入りがあった吉良上野介義央の屋敷跡(本所松
坂町)がある。その吉良邸の表門跡の斜向かいには文豪芥川龍之介の文学碑があり、更に 30m 先
の両国公園には幕末の英雄、勝海舟生誕の地もあり、と其々の時代のスターの足跡が揃っている。
さて、回向院は国技館側の改札を出て、前の大通りに出ると左手に山門が見える。駅から 200m の
距離。徒歩3、4分で到着だ。このお寺は、明暦三年(1657 年)別名振袖火事といわれる明暦の
大火で、十万八千人もの人が亡くなったため、時の四代将軍徳川家綱が無縁の焼死者を憐れみ、弔
うようにと建てられた。ここには二万人が埋葬されている、とのこと。その後、寛政三年(1663
年)から毎年三月、江戸相撲の興行が行われ、大変賑わったという。娯楽の少ない当時、大相撲は
大人気だった。札所本尊の馬頭観音は、観音様の中で唯一忿怒の形相をしており、折伏(しゃくぶ
く)の不動明王に近い。
(折伏とは、相手の間違いを受け入れず、力を使ってでも過ちをただす法)
。
回向院の本堂には大きな阿弥陀仏が安置されており、100席ほどの椅子が並んでいた。寺務所で
ご朱印をいただき、再度一周りした境内には、義賊「鼠小僧次郎吉」の墓や、寛政の改革を実行し
た松平定信が建てた水子塚、大相撲の力塚等がある。この日は、高校生の部活と思しき一団が、先
生に引率されて鼠小僧次郎吉の墓前にある「前立て」を削っていた。削った石粉を持っていると、
かなりのご利益があるそうだ。しかし、回向院といえば、私の記憶に遡ること 37、8 年前、初めて
訪ねた吉良邸跡から回向院への道を歩いていたそのとき、西の空にはっきりと奇怪に、不規則に、
恐ろしく速く動き回る光を視たのだが、確かにあれは UFO だった?! 連れがいて、二人とも眼
が点になっていた。恐らくだれにも信用されないだろうと思いつつ、現在に至っている。また、忠
臣蔵にはまり、吉良邸から主君浅野内匠頭と忠臣達が眠る泉岳寺まで歩いたこともあった、などと
いろいろ思い出しつつ、かなりノスタルジックな奉拝となった。
6
院 ご朱印
回向 の
院 モダンな山門
回向
境内・明暦大火供養塔(左端) 力塚
鼠小僧次郎吉の墓と前立て
忠臣蔵討入の舞台・吉良邸跡
.三番札所 人形町 大観音寺 札所本尊 聖観世音菩薩、
聖観世音菩薩、 宗派 聖観音宗
奉拝日 平成二十六年一月四
平成二十六年一月四日、 所在地 中央区日本橋人形町 1-1818-9
4
ご 職 お 問 四
守
急
両国を後にした。JR 両国駅から浅草橋で地下鉄都営浅草線に乗り換えて人形町駅に降りる。地上
にでると、そこは「人形町」交差点。水天宮通りを明治座のある浜町方面へ3、4分歩く。と、三
番札所・大観音寺が右側にあった。ビルの間に挟まれ、こじんまりとしたお堂がある。石段を上っ
た30坪程度の外二階が境内となっている。お賽銭を入れて合掌の後、左脇の寺務所窓口でご朱印
をいただいた。大観音寺の創建は明治十三年(1920 年)本尊の銅仏は北条政子が井戸から掘り出
した古鉄の正観音の御鬢から霊験を得て、鎌倉に創建した新清水寺に祀られていたものである、と
縁起に書いてあった。この日は、二ヵ寺を奉拝した。余談だが、江戸時代この辺り大変賑わいをみ
せていた。江戸前寿司の発祥は両国与兵衛寿司といわれているが、親子丼の発祥の地は、ここ人形
町「玉ひで」が有名だ。私も隣町の堀留町で七年間仕事をしたことがある。当時は余り人形町には
来なかったが、日本橋を離れてから食通の方に誘われて、
「玉ひで」の味を堪能したことがある。
大観音寺のご朱印
親子丼の発祥「玉ひで」由来書き
最初に訪ねた清水寺の 住 から、 寺訪 は午後 時までといわれた点は りたいので、 いで
おすすめ:人形町で有名な店:
何と言っても、親子丼発祥の店、
創業宝暦十年(1760 年)鷹匠仕事
「玉ひで」。柔らかい鳥肉に、とろ
とろの卵は芸術品に近い。落語や
小説にも出てくるほどの名店だ。
是非食していただきたいもの。
7
.五番札所 新高野山 大安楽寺 札所本尊 十一面観世音菩薩
十一面観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 高野山真言宗
奉拝日 平成二十六年一月二十六
平成二十六年一月二十六日
二十六日、 所在地 中央区日本橋小伝馬町 3-5
5
小伝馬町といえば、江戸時代に多い時は一千人収容したといわれる日本一大きな牢屋敷があ
った。大安楽寺は牢屋敷の敷地内・処刑場跡に建てられている。お寺の向かいも元敷地で、今は十
思公園になっている。安政の大獄によって処刑された幕末の思想家吉田松陰の石碑がある。石碑の
石材は、出身地の長州、萩城付近の石が使われている。橋本左内、頼三樹三郎も松陰と一緒に刑死
した。また、園内には石造りの鐘楼があり、石町(こくちょう)「時の鐘」が吊るされている。石
町とは江戸の町名で、米穀商が多く集まっていたところから、穀類を数える単位の石(こく)に由
来している。また、
「時の鐘」は、時報を知らせる鐘のことで、市中ではお寺の鐘が使われていた。
幕府公認の鐘は九ヶ所(石町、浅草寺、上野大仏下、本所横川町、芝切通し、市谷八幡、目白不動、
赤坂成福寺、新宿天竜寺)に設けられていた。各地で一斉に叩いていた訳だ。石町の場合、鐘楼堂
の維持は四百十町から一軒に付、一ヶ月永楽浅で一文(寛永通宝で四文)徴収されていたそうで、
代々辻源助が扱っていたので、辻の鐘とも云われていた。この石町の鐘は、別名「情けの鐘」とも
呼ばれ、処刑が執行される日は、少し遅らせて叩いたと云われている。牢屋の話に戻ると、当時は
禁固刑として罪人を監禁しておくという考えはなかったので、牢屋には取り調べ前の未決囚か、刑
の執行待ちの囚人以外は入っていなかったという。当時は封建時代、牢内でも身分の差がものをい
ったらしい。旗本は揚座敷(あがりざしき)
、侍・僧侶・神官は揚屋(あがりや)
、百姓・町人は大
牢、二間牢、百姓牢と牢屋も別れていたし、女牢もあったそうだ。大安楽寺の縁起は、明治十五年
(1882 年)高野山の山科俊海和尚が発願し、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、両氏の「大」
と「安」をとって寺名にしたとある。実際は、この地が牢屋敷と刑場跡だったため、誰も住みつか
なかったという。この日は周りにお参りする人もいなかったので、増上寺で買った携帯用の般若心
経を小声に出して読んだ。奉拝後、自宅寺務所のインターフォンを押して、ご朱印と十一面観音の
短冊も併せていただいた。境内には立派な江ノ島の弁財天も祀られていた。
日本橋
安楽寺のご朱印
大
椙森神社
安楽寺
大
本堂
神社境内の富塚
処刑場跡の石碑
田松陰終焉の地碑
吉
玄冶店碑(水天宮通り、人形町交差点付近)
8
寄
隣町の堀留町で7年間仕事をしていたことがあり、当時の通勤駅が地下鉄日比谷線
の小伝馬町だったので大安楽寺も知ってはいた。が、札所巡りで来るとは全く想像していなかった。
この辺は第三の故郷に位置付けしてもおかしくはないほど思い出がある。この界隈は京都の室町に
ある呉服問屋街をそっくりそのまま移してきたような商人(あきんど)の街で、関西弁が飛び交っ
ていた。当時の仕事も八割以上は呉服問屋関係の仕事だった。従って、お客様の大店では玄関で靴
を脱ぎ、畳みの上で正座することは珍しくなかった。今は往時の面影は全くなく、証券会社や金融
関係の企業が目立っていた。その中にあって懐かしいそば屋「尾張屋」はまだ暖簾がかかっていた。
昔ながらのそば屋の出汁は本当に旨い。近くには、椙森(すぎのもり)神社があり、境内には富塚
もあって江戸時代の人気がうかがえる。ところで、元東京都知事・マルチタレントの青島幸男氏の
ご尊父はこの神社から戦争に出征したと聞いた。氏は 1981 年に「人間万事塞翁が丙午」という作
品で第 85 回直木賞を受賞されたが、物語は呉服問屋街、堀留町にある仕出し弁当屋が舞台で、当
時の街の様子が手に取るように描かれている。主人公のモデルは氏の母で、肝っ玉母さんぶりが活
き活きと伝わってくる元気のでる小説だ。今でも堀留町に店子のお寿司屋さんがある筈だ。私が勤
務した当時の支店は、今はないけれど、ビルは椙森神社の前にあって、昔のままに建っていた。ま
た、地下鉄人形町駅の手前には「粋な黒塀見越しの松に、」と唄われた「お富さん」の歌で有名な
玄冶店(げんやだな)の石碑がある。玄冶店とは、江戸の初期、幕府の官医だった岡本玄冶が家主
(オーナー)で、今でいえば誰もが羨む当代一流人が住む超高級マンションだったそうだ。大安楽
寺からの帰り道は、はからずも小伝馬町から人形町まで、水天宮通りをぶらぶらと寄り道しながら、
極めてノスタルジックな街歩きをすることができた。
( り道)私は
昨年訪問済み
既-1)六番札所 東叡山 寛永寺 清水観音堂 札所本尊
札所本尊 千手観世音菩薩
千手観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 天台宗
天台宗
奉拝日 平成二十五
平成二十五年十一月
十一月三日、 所在地 台東区上野公園 1-29
寛永寺は寛永二年(1625 年)徳川家光が開基し、天海が開山した。将軍家の祈祷所であり、菩提
寺だ。徳川将軍 15 人のうち、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家
定の 6 人が眠っている。清水観音堂には、今回の三十三札所巡りを思い立つ前の昨年十一月にお参
りをしていた。江戸百名所絵図には、眺望がよく、不忍の池に浮かぶ弁天堂が良く見えると紹介さ
れている。東叡山とは、東の比叡山の意で、開山した天海僧正は、元々、川越の喜多院にいたが、
請われて徳川家康、秀忠、家光と将軍三代に仕えた。当時は、上野のお山全てが寛永寺の境内だっ
た。その中で、清水観音堂は京の清水の舞台、そして不忍の池は琵琶湖を模して築造されたといわ
れている。ご本尊の千手観音に手を合わせてから、勝沼の大善寺で買ったご朱印帳の二頁目に、東
京のお寺としては初めてのご朱印をいただいた。その時は、江戸三十三観音の六番札所という意識
はなかったけれど、これもご縁ということだろう。ところで私は例年桜を観に出かける場所を幾つ
か決めている。その中でも上野の桜は見事に咲くので、毎年欠かしたことがない。ルートは、JR
上野駅公園口を出て、国立博物館前、動物園入口を右に見て、桜並木の下で賑やかなで楽しそうな
花見客も一緒に眺めながら、清水観音堂、五條神社、フーテンの寅さんが出てきそうな屋台が並ぶ
弁天堂の参道を経て、不忍の池の順にぶらぶら歩くことを年中行事にしている。
9
ご朱印
清水観音堂の
清水観音堂
清水観音堂
舞台(2012 年春)
.十二番札所 無量山 寿経寺 伝通院 札所本尊 無量聖観世音菩薩、
無量聖観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年一月十三日
十三日、 所在地 文京区小石川 3-1414-6
6
伝通院までは、自宅の千早(千川)から歩いて1時間45分の道程だった。池袋駅からサンシャイ
ンビルに向かって、500m 位を左に折れると春日通りにでる。後は一本道。地下鉄丸ノ内線の茗荷
谷駅を過ぎて間もなく、左側に建っていた。春日通り沿いから山門までは広い参道があり、100m
ほど奥まっている。本堂に奉拝して、右手の寺務所でご朱印をいただいた。伝通院は、慶長八年(1603
年)に、徳川家康が前年に京都の伏見で亡くなった生母於大の方の遺言どおりに、遺骸を江戸に運
び、火葬して此の地に埋葬し、大きな堂宇を建てた。伝通院は於大の方の法名。於大の方は、享禄
元年(1528 年)尾張国知多郡の豪族・水野忠政の子として生まれ、天文十年(1541 年)14才の
とき、岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、翌年竹千代(後の家康)を産んだ。その後、政略的に離別させら
れ、坂部城主久松俊勝に再嫁した。その後も、家康に対しては、音信を絶やすことなく、心のこも
る慰問の品を送り続け、少年期の家康の心の支えとなっていた。家康が、今川氏配下の武将として
尾張に出陣のおり、坂部城に立ち寄り、母子の再会を果たしたと伝えられている。
伝通院は、芝の増上寺と上野の寛永寺と並んで徳川家の菩提寺となっている。往時は、千人の学僧
が修行していたという。その頃の将軍のお墓参りはさぞかし長い行列ができただろうな、と勝手に
想像した。高台なので、江戸湾や富士山も見え眺望は抜群だったようだが、江戸城からの坂はかな
りきつかったはずだ。伝通院には、於大の方の他に孫娘(二代将軍秀忠の長女)で豊臣秀頼に嫁い
だ千姫や三代将軍家光の正室など将軍家に近しい人々が眠っている。寺務所でいただいた線香をあ
げたことで、このような歴史上の人物も、どこか身近に思えたのは不思議な気持ちだった。他にも、
著名人のお墓があり、「眠狂四郎」シリーズで有名な作家 柴田錬三郎も眠っている。
伝通院のご朱印
伝通院の山門
於大の方お墓
10
寄
談
問 お SDメモリーを忘れて、山門や、於大の方の写真が
ないので再度写真を撮りにいった。帰り道、近くを散策しようと、山門前の案内板を観たところ、
於大の方の実家水野家の菩提寺・真珠院が近くにあった。このお寺は、正保四年(1647 年)於大
の方の甥、当時松本城主であった水野隼人正忠清が開基、建立したもの。私は松本に四年間住んで
いたけれど、松本城主が於大の方の甥とは知らなかった。茗荷谷駅付近、春日通りから 150m 入っ
たところ辺りに、石川啄木の終焉の地碑があったので、立ち寄ってみた。ビルの壁に案内板の掲示
があるだけだった。寄らなかったが、周辺には、樋口一葉の生誕地や、新渡戸稲造の育成地なども
ある。次の機会に、ゆっくり散策に訪れたいと思う。
( り道)後日 がある。一月に訪 の り、
川啄木終焉の地
石
壁に掲示されている案内板
既-2)十三番札所 神齢山 悉地院 護国寺 札所本尊
札所本尊 如意輪観世音菩薩
如意輪観世音菩薩、
観世音菩薩、宗派 真言宗
真言宗豊山派
奉拝日 平成二十五
平成二十五年十二月
十二月二十一日
二十一日、 所在地 文京区大塚 5-4040-1
昨年秋に、六義園を散策した折、70 歳をこえた男性のボランティアガイドさんの案内(一日 2 回)
で、14:00 からゆっくり 1 時間半をかけて、園内を隈なく説明していただいたことがある。元禄
年間に五代将軍綱吉の側近中の側近、柳沢吉保が造営したもので、日本庭園の技術の粋があるとも
いわれている。庭園の構成要素である滝、川、池、橋、石、築山、路、石燈籠、東屋、もちろん樹
木、草花についても、黒松、赤松の見分け方や、樹木の匂いを嗅ぐなど五感を使った説明は見事だ
った。さて、前置きが長いが、大きな石燈籠のところで、
「東京で唯一、日本の石燈籠約 20 種類を
全て観ることができるところがある。それは護国寺です。」という説明があった。ということで、
石燈籠を観るついでに、昨年、護国寺を訪れご朱印もいただいていた。石燈籠の中には、現代でも
斬新と思われるシンプルでモダンなデザインもあって驚いた。これが江戸時代のもの!?かと。さ
て、綱吉の生母は「玉の輿」の代名詞であることはよく知られている。京の八百屋の娘だったお玉
が、春日局の眼に留り、知的な美貌で三代将軍家光の側室になり、綱吉を生んだ。そのお玉が後に
桂昌院となった。母子は堅い絆で結ばれていて、綱吉の母思いは将軍となってからも変わらない。
将軍になる前、母子で分かち合った辛い時代もあったようだ。いずれにしても護国寺は、綱吉がそ
の母の願いをきいて建立したと書かれている。本堂に上がると、綱吉自筆の字体をそのままに彫っ
た「悉地院」の額が色褪せもせずに架かっている。しばし本堂に座して、ご本尊の如意輪観音と両
脇を護る十二神将を拝謁した。大変重厚な空間だった。護国寺が江戸三十三番札所と知ったのは、
札所巡りをしようとした後日のことだった。
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護国寺のご朱印
護国寺山門
護国寺境内にある全国の石燈籠
7.二十一番札所 三緑山 広度院 増上寺 札所本尊 西向観世音菩薩、
西向観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年二月一日、 所在地 港区芝公園 4-7-35
営 線 「 」 地 鉄 乗 増上寺を訪ねた。増上寺が江戸三十三札所に
入っているとは、札所名簿を見るまでは知らなかった。大門から3、4分歩いて大きな山門を潜る
と、右手に明治 12 年(1879 年)米国第 18 代大統領グラント将軍来訪記念のお手植えの松が大き
く聳えている。正面の本堂は節分会準備のため入れず、右奥の安国殿の黒本尊を拝み、堂内の寺務
所にてご朱印をいただいた。西向観音のお堂は安国殿前の千躰地蔵の敷地内に独立して建っていた。
増上寺は浄土宗の総本山で、徳川将軍家の菩提寺として大変有名なお寺だ。敷地面積は明治の廃仏
毀釈により往時の三分の一程度に縮小されてしまったが、徳川家の御霊所には、二代将軍秀忠と正
室お江の方、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂と正室皇女和宮など将軍 6
人と 5 人の正室、また桂昌院(五代将軍綱吉生母)など 5 人の側室、その他将軍家の子女多数が葬
られている。この日はラッキーなことに、御霊屋(おたまや)の特別ご開帳の日であり参観が可能
で、14:00 から約 1 時間、年配のボランティアガイドさんの話をじっくりと聴くことができた。
徳川家の歴史とともに、将軍や正室の人となりを聴き、人間模様を想像し、身近に感ずることがで
きたのは、なかなか貴重な時間だった。増上寺の木造部分は戦災で殆ど焼失してしまったが、墓石
は残った。現在の徳川家御霊所は、戦禍を免れた墓石の下に眠るご遺体を掘り起こし、懇ろに荼毘
に付し、点在していた墓石をコの字に並べ、其々元のお墓に納骨したとのこと。興味深いのは、二
代将軍秀忠の墓で、元々二代将軍のご霊廟は荘厳な宝塔(墓塔)で国宝だったが、木造だったため
戦災で全て焼失してしまった。従って、焼け残った正室お江の方の墓に同葬されている。だから他
の将軍のお墓より小さいのだ。秀忠公は、生前、頭の上がらない人が二人いた。父君の家康と姉さ
ん女房のお江の方だ。死後もこのように奥方のお墓に入るというのは、どこか、人間秀忠の宿命の
ような気がする。また、御霊所の門は立派な彫刻の銅鋳造製で、昔は国宝であったが、場所を移転
させたことで国宝としての価値が喪失したとのこと。重厚な門には大きな葵の御紋が合計十個描か
れており、両脇には登り龍下り龍が彫られている。また、東京プリンスホテルの駐車場前には、当
時と同じ場所に有章院(七代将軍家継)の二天門が焼け残っている。今では、大変貴重な重要文化
財だ。その後は、江戸で最も高い愛宕山にある愛宕神社と東京十社の芝大神宮を訪ね、明後日の節
分用に、節分豆を買った。さらに行きつけのアルファウェーブ(指圧治療院)に寄って、心身とも
にリフレッシュして帰宅した。
この日は、都 浅草 の 大門 まで 下 に り、
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増上寺のご朱印
尊 ご朱印
ポケットサイズの般若心経
札所本 の
左の札所本尊のご
朱印は後日(3 月 13
日)再度増上寺を訪
ねた際に記帳いた
だいたもの。
増上寺山門
西向観音堂
お江の方の墓(秀忠公納骨)
増上寺本堂
徳川家御霊屋の門
七代家継(有章院)廟の二天門
.七番札所 柳井堂 心城院 (湯島聖天)
湯島聖天) 札所本尊 十一面観世音菩薩、
十一面観世音菩薩、 宗派 天台宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年二月二十三日
二十三日、 所在地 文京区湯島 3-3232-4
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梅の香薫る晴天の日曜日、当日は七番札所から文京区内にある札所を出来れば6ヶ所ほど廻ろうと
出発した。まずは、地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅まで行き、降車して、春日通りを湯島方面へ約
1km、緩やかな坂を下ってゆく。と、右手に湯島天神の鳥居が見えてくる。七番札所心城院は湯島
天神の本殿の向う側、天神男坂の坂下にあった。心城院の縁起は、元禄七年(1694 年)湯島天神
別当職の天台宗喜見院第三世宥海大僧都が大聖歓喜天を天神境内に奉安するため、宝珠弁財天堂と
して開基されたという。明治維新後、喜見院は廃寺となり、心城院と改名された。正面のお堂にて
奉拝し、左手の寺務所窓口でご朱印をいただく。ここには江戸時代から名水と謳われた「柳の井戸」
があるので柳井堂ともいわれ、また聖天を祀っていることから通称「湯島聖天」ともいわれている。
震災や戦災のときでも枯渇せずに人々を潤したということで、大変ご利益があるという。入口左脇
にある井戸に竹筒が立っている。その聴き竹に耳を当てると、地下水の澄み切った音が煌めくよう
に聞こえてきて、自然の音(この世の音)とは思えない美しい音の調べを聴くことができる。うっ
13
す
違
瞬 極楽だった。井戸の看板には「水琴窟」と書いてあった。
とりと ること間 いなし、 時の
心城院のご朱印
心城院の全景
琴窟と聴き竹
水
心城院前の石段を登るとそこは湯島天満宮、穏やかな梅まつり日よりで、縁日で賑わい、境内では
野立ても開催されていた。天満宮を奉拝して、社務所にてご朱印をいただいた。梅の花はまさに満
開だった。
天神男坂
湯島天神と境内の梅
春日局の菩提寺 麟祥院 春日局の墓前碑
春
郷 丁 戻
駅
楽園まで(約 1.8km)戻り、南北
線で本駒込駅(二駅)まで行き、あとは歩きで廻る予定だ。湯島天神から 50m ほど緩やかな坂を
登ると右手に「麟祥院」というお寺が通りから少し奥まった場所にあった。簡素で清閑な感じだが、
そこに眠る御方は、他でもない、かの有名な春日局だった。麟祥院とは彼女の法名。春日通りも春
日局から名付けられていた。先般の伝通院、於大の方と同様に墓前を訪ね、お線香をあげたが、こ
の歴史上の人物もやはり身近に感じられてくるのは不思議だ。生身の人間の感じがしてくる。春日
局は、たびたび駿府の家康と逢瀬を重ね、表向きは乳母となっているが家光を授かり三代将軍とし
た話は、有力な説だと思う。また、大奥の制度を確立し、揺るぎない徳川政権の構築に貢献した人
物でもある。本名は斎藤福(明智光秀の重臣斎藤利三の娘)、乱世を生き抜いてきた類まれな処世
術の女達人だったようだ。
ところで、江戸城 紅葉山の別殿にあった家光誕生の間や春日局の間が川越の喜多院に現存してい
る。なぜこの地に?と疑問に思うが、それは寛永十五年(1638 年)川越大火で喜多院が焼失した
折、家光の命で、江戸からこの別殿を移築したということ。喜多院二十七世の法統を継いだ天海僧
正と徳川家の非常に深い関係を物語っているといえる。今年 1 月 19 日にぶらぶらと川越を散策し
た折、喜多院を訪ね、偶然にもこの別殿を拝観していたのだが、いろいろ話は繋がってゆくものだ
と思う。また、喜多院の五百羅漢も大変見応えがあった。
さて、来た道、 日通りを本 三 目に り、更に一 先の、後
14
.九番札所 東光山 見性院 定泉寺 札所本尊 十一面観世音菩薩、
十一面観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年二月二十三日
二十三日、 所在地 文京区本駒込 1-7-12
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駒込駅の北口をでると、九番札所の定泉寺が本郷通りを挟んだ向かい側に見える。右隣は目赤不
動と呼ばれる南谷寺。定泉寺石門の右脇には、黒い大理石に札所本尊と江戸三十三観世音札所九番
と彫りこんであり、字は赤色で着色されていた。正面の本堂脇に続く寺務所玄関の呼び鈴を押して、
ご朱印をいただく間、本堂で奉拝するよう案内をされた。靴を脱ぎ、上って手を合わせた。縁起に
は、大田道灌の矢場跡があったと伝えられる本郷弓町に蜂屋九郎次郎善遠が開基、増上寺十八世定
蓮社定誉随浪和尚が開山、元和七年(1621 年)に創建したが、明暦の大火で焼失し、その後この
地へ移転したとある。京都知恩院の末。ご朱印帳を返していただいたときに、一緒に定泉寺の寺名
入りの半円形味噌煎餅を二枚いただいた。 写真を撮り忘れてしまったが、軽い甘味で美味しく、
お茶うけにはぴったりだった。
定泉寺のご朱印 定泉寺 石門前の石版
本
.八番札所 東梅山 花隅院 清林寺 札所本尊 聖観世音菩薩、
聖観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年二月二十三日
二十三日、 所在地 文京区向丘 2-3535-3
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定泉寺を後に、本郷通りを南下して 250m 進み、「向丘 2」交差点を左に 100mほど行くと、左手
に八番札所の清林寺があった。改築中だったが、札所本尊はサンルームのようなガラス室に安置さ
れていて、いつでも全身を隈なく見ることができる。ガラス越しなので、カメラを向けたが、光が
反射して綺麗にはとれなかったが、合掌し、奉拝。本堂右手の寺務所で、ご住職にご朱印をいただ
いた。同じように札所巡りをしている初老の女性が後に続いていた。後で調べたところ、改築中の
部分は、五重塔を建てるのだそうだ。いつ頃できるのだろうか。
林 ご朱印
清 寺の
尊 聖観世音菩薩
札所本
林 景
清 寺全
15
.十番札所 湯嶹山 常光院 浄心寺 札所本尊 十一面観世音菩薩、
十一面観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年二月二十三日
二十三日、 所在地 文京区向丘 2-1717-4
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ほ 「 丘 2」交差点に戻って本郷通りを更に南下、十番札所の浄心寺は 300m下った左手に
ある。お寺の前にはバス停「向丘一丁目」があり、大きな布袋像が目印となる。通りに面して広々
とした見通しの良いお寺で、境内は本堂の廻りを墓石がぎっしりと囲んでいた。また、大きな桜の
古木があったが、いい枝ぶりをしているので、さぞ花見の季節には名所と謳われて間違いなしだろ
うと思った。本堂手前の水舎の上には、中曽根元総理寄贈の鐘があった。石段を上がり、高い位置
にある本堂にお参りをし、階段を下りて、本堂右の寺務所でご朱印をいただく。浄心寺の縁起には、
元和二年(1612 年二代将軍徳川秀忠の頃)、畔柳助九郎が大旦那となり、還蓮社到誉文喬和尚を開
山上人とし、湯島恋坂付近に創建されたが、明暦の大火で焼失したため、現在地に移転したとのこ
と。その後東京大空襲に遭い、焼け野原から第二十三世小池政雄和尚(戦争で片足となり、一本足
の和尚さんと親しまれた)が復興された。という歴史があった。浄心寺の札所本尊は十一面観世音
菩薩だが、ご朱印は通称の「子育 櫻観音」と記帳をいただいた。
先 どの 向
浄心寺のご朱印
浄心寺の本堂
寄
円
円乗寺も訪ねようと思っていたが、間もなく
タイムリミットの四時を過ぎてしまうので、札所巡りはやめて、近くの根津神社に寄ることにした。
東京十社も回ることにしているので、根津神社はその十社の一つだし、お寺と神社は史跡として必
ず関連性をもっている。初めて訪ねたが静かな趣がある境内だった。本殿に奉拝後、社務所にてご
朱印をいただき、境内を一巡する。と、六代将軍徳川家宣の胞衣塚(えなづか)なるものが目を惹
いた。胞衣とは、胎児を包んだ膜と胎盤のことで、昔から大事にされてきたという。一般的な風習
としては、胞衣を屋敷の隅に埋めるか、墓地の一隅にある胞衣墓に埋めることが多いそうだ、埋め
た場所に塚や石碑が建てられ信仰に繋がる場合もあるという。最も有名なものは天照大御神の胞衣
が山頂に埋められたということで、山の名前を恵那山と命名し、麓には恵那神社がある、という例
もある。因みに、私の出身地・静岡ではそのような風習はなかったように思うけれど、初耳だった。
しかし、どうみても、石の塊を集めただけの古代墓にしか見えないのだが、案内板には、詳しく説
明書があった。宝永二年(1705 年)徳川綱吉は、兄綱重の子、綱豊(甲府藩主、後の将軍家宣)
を養嗣子とした。今の根津神社は旧甲府藩邸跡で、綱豊が江戸城に移った後、産土神(うぶすなか
み)であった根津神社に土地全てを献納されたという。同時に社殿を新たに普請し、遷座されたと
いう。要するに、この場所は家宣の生誕地だ。根津神社がこのような形で将軍家と繋がっていると
( り道)この後、二十三番札所の大 寺と十一番の
16
知
何 発
気持ちがして、小さな喜びがある。
は、自分が らなかっただけなのだが、 か 見したような
根津神社の正面鳥居 根津神社の社殿
六代将軍徳川家宣の胞衣塚
.十二番札所 神霊山 慈眼寺 金乗院 札所本尊 聖観世音菩薩、
聖観世音菩薩、 宗派 真言宗豊山派
奉拝日 平成二十六
平成二十六年三月八日、 所在地 豊島区高田 2-1212-39
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白 学習院大学の近くにある十二番札所を訪ね、その後、不忍通りを
経由して、白山通りを歩き、前回廻れなかった文京区の二ヵ寺を廻る計画だ。自宅から出て、山手
通りを横断し、300m 先を右に折れて下落合三丁目まで南下し、目白通りに出て左に進む。JR 目
白駅前を通過し、学習院大学を右に見て、直進し明治通りを横切る。そのまま 100mほど行くと、
「高田1」交差点があり、右に曲がる。十二番札所金乗院は、坂道を 250m程下った右手にあった。
一時間半位程歩いただろうか。金乗院は、通称「目白不動」ともいわれている。理由は、金乗院か
ら東へ 1km の早稲田方面を望む高台にあったお寺(長谷寺・目白不動堂)が昭和二十年五月の戦
災で焼失したため合併したということだった。本堂に奉拝し、山門右手の石段上のお不動様にもお
参りした。境内には、寛政二年(1800 年)建立の珍しい鍔塚(刀剣の供養塔)があった。また、
訪ねなかったが慶安四年(1651 年)
、由比正雪と謀り幕府転覆の企てをした槍術の達人丸橋忠弥の
墓があった。金乗院の縁起には、天正年間に永順法印が観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが
草創とされている。後に大本山護国寺の末寺となっている。寺務所にてご朱印をいただき、次へむ
三月に入った。この日は、目 の
かった。
金乗院のご朱印 神霊山金乗院 山門
鍔塚 (境内)
山門左側
石像
.十一番札所 南縁山 正徳院 圓乗寺 札所本尊 聖観世音菩薩、
聖観世音菩薩、 宗派 天台宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年三月八日、 所在地 文京区白山 1-3434-6
13
金乗院をでると、下ってきた坂を登り、「高田1」交差点を右折。目白通りを 400mほど進むと、
17
斜
字路にでる。不忍通りが春日通りに突き当たっている。通りの終点を見つけた感じだ。
道路というのは不思議と始点や終点の標識がないものだと、改めて思う。実は、ハワイでも道路の
始点と終点を探したことがあるが、そのような標識は案外ないものだ。
(あってもいいと思うが、
)
いずれにしても、今度は左手の不忍通りをひたすら、まっすぐに白山通りに突き当たるまで歩く。
この日は、好天で日差しが強く、大分気温が上がってきた。ほどなくすると護国寺の前に出る。音
羽通りを右に見て、富士見坂を登り切る、と春日通りとの交差点にでる。そこからは次に交差する
プラタナス通りまでは坂道を下る。今度は交差点から、かなり急な坂道を登る。歩いてみると東京
は結構坂が多いことに気がつく。さて、この坂は何やらいわくがあるらしい。「猫又坂」と名付け
られている。今は道路の下を流れている千川に、昔は大きな木の根っ子の股の橋が架かっていたそ
うだ。それで、根子股橋と呼ばれたということだが、坂の名前が猫又になったのは次のような話だ。
昔、この辺りにタヌキがいて夜な夜な赤い手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ
時、大塚の少年僧が、この橋辺りで白い獣が草の中を追いかけてきたので慌てて逃げて、川にはま
ったという。そのころ猫狸は妖怪の一種として怖がられていた、ということで、この名がついたと、
案内板に書いてあった。案内書きを読むことで、私には一休みになった。さて、坂を登りきったと
ころが、白山通りの交差点で右に曲がる。今度は緩やかな下り坂だ。五差路の「白山下」交差点を
左に曲がり、商店街通りを横切ると狭い「浄心寺坂」に入る。20m 程で、左手に十一番札所の圓
乗寺。長い道のりだったが、ようやく辿り着いた感がある。1 時間半ほど歩いただろうか。さて、
円乗寺は、八百屋 お七の墓がある。前から一度訪ねてみたいと思っていたが、お七の悲恋物語は、
江戸の当時から読本になり、歌舞伎にもなっている。物語は以下のとおり。
頃は江戸時代初期。江戸本郷にある八百屋の箱入り娘 お七は当時十六歳。天和二年(1683 年)正
月の大火で焼け出され、親とともに駒込の円林寺というお寺に避難する。そこで寺小姓の吉三に恋
をする。やがて、店が建てなおされ、お寺を引き払ったが、お七の想いは募るばかり。もう一度、
吉三に会いたい一心で自宅に火を付けた。当時放火は極刑の罪。お七は奉行所の裁きの場で、死刑
を免れる十五歳かと問われ、そうであろうと憐れむ奉行が促すも、「十六です」と答えたことで、
裸馬にまたがり市中引き回しのうえ、鈴ヶ森処刑場にて火あぶりの刑となった、という。
そのお七の墓は、駐車場の脇にあり、意外にひっそりとしたところではなかったが、懇ろに手を合
わせた。本堂脇の寺務所にて、ご朱印をいただき、門前を左にでて浄心寺坂を上へ向かった。
大きな 形 T
円乗寺のご朱印 八百屋 お七の墓
於七地蔵 (山門脇)
.二十三番札所 金龍山 大円寺 札所本尊 聖観世音菩薩、
聖観世音菩薩、 宗派 曹洞宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年三月八日、 所在地 文京区向丘 1-1111-3
14
18
浄心寺坂を 100m 程上ると旧白山通りに当る。通りを左に 100m 程進むと、右手に二十三番札所、
大円寺の山門が 30m 程奥まった路角にあった。赤い山門を入ると眼前に珍しい地蔵尊がある。案
内を読むと、先ほど訪ねた円乗寺に眠るお七のためのお地蔵様で、享保四年(1719 年)お七を供
養するために、渡辺九兵衛さんという方が寄進されたのだそうだ。お七の罪業を救うため、熱した
炮烙(ほうろく=ふちの浅い素焼きの土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様と
言われ、頭痛、眼病、耳鼻の病、首から上の病気治癒の霊験あらたかなことで有名とのこと。千羽
鶴が幾束もかかっていた。細長い境内には左奥に本堂があり、その左手には観音菩薩像も高い台座
の上に建っている。奉拝後、本堂右手にある寺務所でご朱印をいただいた。その後、旧白山通りを
歩き、東京十社の白山神社に立ち寄った後、JR 巣鴨駅まで歩いた。巣鴨までは白山通りを一本道
で約 2km、途中には、東洋大学、都営三田線千石駅があった。ここで、本日の予定を終了した。
円 ご朱印
大 寺の
山門
ほうろく地蔵
菩薩(境内)
観音
.三十番札所 豊盛山 延命院 一心寺 札所本尊
札所本尊 聖観世音菩薩、
聖観世音菩薩、 宗派 真言宗智山派
奉拝日 平成二十六
平成二十六年三月十五日
十五日、 所在地 品川区北品川 2-4-18
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品川方面には、旧東海道沿いに三ヶ寺の札所がある。この日は、JR 蒲田駅前のシティーホテルで、
昼から元勤務していた会社の海外駐在員の OB 会があったので、午前中に品川地区の札所を訪ねよ
うと、朝早めに自宅を出発した。一軒目は、三十番札所の一心寺で、品川駅から京浜急行で二つ目
の北馬場駅が最寄り駅となっているが、旧東海道を歩いてみたいので、一駅手前の北品川駅で降り
た。通りには旧東海道のサインが沿道のあちこちに書かれていて、判り易かった。雰囲気はオープ
ンエアーの商店街だった。駅から南へ 500m 程進むと、街道沿いに五色の仏教幕が目立つこじんま
りとしたお寺があった。成田山の別院だ。寺伝によると、安政二年(1855 年)徳川幕府の大老井
伊直弼が、「東海道第一の宿、品川宿で鎮護日本・開国条約・宿場町民の安泰を願え」との霊験を
得て開き、町民代表の手で建立されたという。開山当時は幕末で、東海道の往来は、時代的に相当
忙しい動きがあったと想像できる。当時の旅人も長旅の前に、ご利益のある成田山に詣でて旅の安
全祈願をしたのだろうか。境内には、江戸三十三札所の全てのお寺が相撲番付のように表記された
看板があった。脇のインターフォンを押すと、ご住職が出てきてダイナミックな筆でご朱印を書い
てくれた。成田山といえば、五日後の 3 月 20 日、雨の為ゴルフをハーフで終了したので、帰りが
けに、関東三山・成田山新勝寺へも参拝する時間ができた。帰り道、成田参道で唯一、成田の湧水
(霊水)を使った酒造元があった。テレビでも観たが、銘柄は「長命泉」。酒蔵の斜向いの販売所
を覗いてみた。東京サミット(中曽根首相、レーガン大統領、サッチャー首相の時代)のときに振
る舞われた日本酒がこの長命泉「吟の舞」ということを知り入手。透き通った爽やかな味だった。
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心 ご朱印
一 寺の
心 山門
一 寺
心
一 寺 本堂
.三十一番札所 海照山 普門院 品川寺 札所本尊 水月観世音菩薩、
水月観世音菩薩、宗派 真言宗醍醐派
奉拝日 平成二十六
平成二十六年三月十五日
十五日、 所在地 品川区南品川 3-5-17
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品川寺(ほんせんじ)への奉拝は、都合で午後となった。最寄駅は京浜急行「青物横町」から徒歩
5 分の旧東海道沿いにあるが、JR 大井町駅から青物横町まではタクシーで訪ねた。この辺りは、
昔は海沿いの通りだった(今の品川駅も江戸時代は海だった)。山門の両脇には寺名を描いた提灯
がかかげられている。品川寺の縁起には、大同年間(806~810 年)に弘法大師によって開山され、
大師が当地の領主品河氏に水月観音を授けたことに始まり、応永二年(1395 年)まで品河氏に代々
伝えられたが、足利・上杉の合戦で品河氏が滅びたため、町の人々が草堂(観音堂)を建て信仰を
続けてきた、とある。その後、大田道灌が持仏の聖観音と共に水月観音を、建立した普門院大円寺
に安置するも、永禄九年(1566 年)武田信玄の小田原攻めに遭い、観音堂は焼かれ、観音様は甲
州へ持ち去られた。が、持ち去った武士が発狂した事件があり、信玄命の山伏が観音様を返えしに
きたという。そして、江戸時代を迎え、寛文元年(1652 年)四代将軍徳川家綱から寺領を拝領し
た太田一族が大伽藍の金華山普門院品川寺を建立し、水月観音を安置して、以後、栄えたと伝えら
れている。また山門左手前には、宝永五年(1708 年)に鋳造された青銅製の大きな地蔵尊座像が
ある。江戸市中六箇所に人々を守るよう安置されたといわれ、品川寺の地蔵尊は六地蔵中の一番(最
大)である。また、品川寺の梵鐘は「洋行帰りの鐘」といわれる特異な経歴を持っている。なぜか?
といえば、この鐘は慶応三年(1867 年)パリ万国博覧会に出品されたものの、帰路行方不明とな
り、後にスイス・ジュネーブのアリアナ博物館にあることが分かり、昭和五年(1930 年)に返還
された。これをきっかけに、品川区とジュネーブ市は平成三年(1991 年)に友好都市提携を結ん
でいる。また、特筆すべきは、俳人の高浜虚子が品川寺のご住職(仲田順海)と親しく、昭和 5 年
5 月 5 日にお寺で行われた鐘の帰還式に出席をされ、
「座について 供養の鐘を 見上げけり」と
いう句を詠んでいる。この句をきっかけに、「鐘供養」が晩春の季語の仲間入りをしたとのこと。
品川寺にはいろいろ見るものがあり、鄙びた感と古刹の雰囲気があった。
品川寺のご朱印 品川寺の山門
山門前の六地蔵座像
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.番外 龍吟山 瑞林院 海雲寺 札所本尊 十一面観世音菩薩
十一面観世音菩薩、
、 宗派 曹洞宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年三月十五日
十五日、 所在地 品川区南品川 3-5-21
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品川寺から数十メートル下り、旧東海道沿い右手に番外札所の海雲寺がある。海雲寺もなかなかの
雰囲気と鄙びた感じがある。海雲寺の沿革には、建長三年(1251 年)僧不山によって開基、当初
は海晏寺(かいあんじ)境内にあって、庵瑞林(あんずいりん)という臨済宗のお寺だったが、慶
長元年(1596 年)海晏寺五世分外祖耕大和尚を開山として曹洞宗に改められ、寛文元年(1661 年)
に海雲寺となった、とある。ご本尊の十一面観世音菩薩のご尊像は建長三年(創立当時)仏師春日
の作といわれている。又、鎮守として千躰三宝大荒神王を祀る、とある。さて、千躰三宝大荒神王
とはどのような神様か?というと、天竺(インド)の神で、現座するご尊像は忿怒の形相をし、悪
魔降伏の護法神の主(つかさ)といわれる。その姿は大日如来、文珠菩薩、不動明王の垂迹(すい
じゃく=仏菩薩が人々を救うため、仮に姿をあらわすこと)といわれている。東北地方ではカマド
荒神のスミを生れたての幼児に塗って悪魔を追い払うおまじない、九州ではスミをぬったお陰で河
童の難をまねかれた民話などもあるという。一般的には、台所で一番大切な火と水をお守りくださ
る神様であり、そこから一切の災難を除き、衣食住に不自由しないとされている。逸話はいろいろ
あるらしいが、宗派、教義を超えてあらゆる階層の人々から、鎮火防火の神としても信仰されてい
る。
少し横道にそれるが、火事といえば、江戸の歴史は火事の歴史といっても過言ではない。「火事と
喧嘩は江戸の花」
。特に、威勢のいい火消しは江戸の町民に人気があり、
「与力、力士に火消しの頭
(かしら)」と謳われるように、江戸のスターだったという。では、火事がどれくらい多かったか
というと、江戸は徳川三百年間におよそ 100 回もの大火に見舞われているのだそうだ。実に三年に
一回は焦土と化した勘定だ。その中でも、江戸の三大火と呼ばれる大火事がある。最も大きかった
のは明暦三年(1657 年)俗に振袖火事と言われる「明暦の大火」で、本郷の本妙寺での振袖のお
焚きあげの火が元で延焼し、正月十八日と十九日にかけて、ほかにも二件の火事が重なって延焼し
た大火事だ。被害状況は、大名・旗本屋敷 930、社寺 350、蔵 9,000、橋梁 60、町屋 1,200 町、焼
死者は 10 万人を超えた、と言われている。過日訪ねた四番札所の回向院は、その焼死者を葬るた
めに建てられたお寺だ。江戸は当時、世界で最大人口を持つ百万人都市であり、過密都市だったの
だ。江戸の町はこの明暦の大火以降、防火対策を本格的に実行した。社寺や町屋を郊外に移転させ
たり、延焼を防ぐために火除地(ひよけち)、火除土手、広小路を設置したり、各地に防火用、避
難用の堀割も造成した、という。そういえば浅草寺の隣の浅草六区も元々火除地だった。また、他
の二つの大火は、明和九年(1772 年)
、目黒行人坂の大圓寺から出火して麻布、日本橋、神田、本
郷、浅草まで延焼し、被害は焼失町数 934 町、死者 14,700 人となった「目黒行人坂の大火」、と文
化三年(1805 年)、芝高輪の車町から出火した「丙寅の大火」で、被害は武家屋敷 83、社寺 80 を
焼失、530 町に延焼し、死者は 1,200 人以上だったと伝えられている。従って、火除けの神様への
切実な信仰は、今では想像がつかないほど、神頼みの世の中だったのかもしれない。振り返ってみ
ると、今まで巡ってきた各札所も、創建は古いものの、明暦の大火などで焼失し、現在地へ移転し
たお寺がいかに多いことか、江戸ならではの歴史ということに思いを巡らせた。
元に戻そう。海雲寺の境内には、他に「平蔵地蔵」というお地蔵様がある。縁起には、江戸末期、
鈴ヶ森処刑場で番人をしていた乞食の中に正直な乞食がいて、大金を拾ったが落し主を探して届け
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乞食から、山分けすれば乞食を廃業できたのにと、小屋を追い出され凍死してしま
った。これを聞いた落し主が手厚く葬り、地蔵尊を建て供養したという話だ。境内の入り口に立っ
ている。
「ぼろは着てても、心は錦」お参りの人が絶えなかったという。
海雲寺のご朱印
海雲寺の山門
海雲寺 本堂
たため、仲間の
.十六番札所 医光山 長寿院 安養寺 札所本尊 十一面観世音菩薩、
十一面観世音菩薩、 宗派 天台宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年四月六日、 所在地 新宿区神楽坂 6-2
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晴天の日曜日。この日は、12:00 に飯田橋のホテルエドモンドで大学のクラス会が、数十年振り
にあった。飯田橋には、十六番札所の安養寺がある。地下鉄有楽町線の飯田橋駅を神楽坂方面の出
口をでると、そこは神楽坂下で商店会の入口だった。神楽坂は案外急な坂で、雰囲気のある店が左
右に並んでいる。商店街を上ってゆくと、上り切った坂の左手に、毘沙門天を祀る善國寺という日
蓮宗のお寺があった。そこから神楽坂は緩やかに下ってゆく。10 分位歩いたあたりで、「神楽坂上」
交差点があり、そこが神楽坂の終点である。交差点に立つと、安養寺は右斜向いに、石柱門と平た
い感じの聖天堂がみえた。近寄ると、石門には黒い石板に「大聖歓喜天王 安養寺」と彫ってある。
縁起では、開創は平安時代で、開基は慈覚大師円仁、医王山の山号は本尊の薬師如来に由来し、天
正十九年(1591 年)徳川家康が築城のとき、城内平川口より田安へ換地し、その後、天和三年(1683
年)四月、現在地の神楽坂に移った、とのこと。どのお寺も歴史、由緒があるものだと思う。聖天
堂にて奉拝後、左手の自宅寺務所のインターフォンを鳴らして、ご朱印をいただいた。
ところで聖歓喜天とは、どのような仏様なのだろうか?と、調べてみた。ヒンドゥー教のガネーシ
ャ(象頭人身神)が仏教に帰依し、歓喜天という名の護法善神になったのだという。ガネーシャと
いえば、インドネシアに行った折、現地のガイドさんから、父はヒンドゥーの最高神シヴァ神(三
神の一つ)で、ガネーシャは日本でいうと天神様のような役割で文化、音楽、芸術方面に特にご利
益があると教えていただいたことがある。聖歓喜天がガネーシャであるといわれるとわかり易い。
寄 長野県松本市に勤務していた頃、インドネシアに関係する方から背丈が 55cm 位の一刀
彫りの木像をいただいた。琵琶のような楽器を抱え、すらっとした長身の美人像だ。「彼女」とは、
もう二十年以上一緒に暮らしている。4、5年前にバリ島へ行く機会があったので、「彼女」の素
性を確かめようと現地へ写真を持っていった。ガイドさんに尋ねたところ、名前は「デヴィ・サラ
スヴァティ-」ということが分かった。ヒンドゥー教の最高神ブラフマー(宇宙創造の神)の妃神
であるという。あまり見かけなかったが、注意して探すと、ところどころで観ることが出来る。大
きな水鳥の背なかに立つ「彼女」の石像が池の中や、水際に建っていることが多い。原語のサラス
( り道)
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ヴァティーは、聖なる河を表すサンスクリット語。古代インドの河神であり、河の流れる音や河畔
の祭祀での賛歌から、言葉を司る女神ヴァーチェと同一者され、音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神
など幅広い性格を持つに至った。とウィキペディアに書いてある。北伝仏教とともに来日した「彼
女」は、日本では通称弁天様と呼ばれている、ということが分かった。「デヴィ・サラスヴァティ
-」は、弁天様の曾祖母(ひいおばあさん)だ、と思うとわかり易い。その後、江ノ島神社に行く
機会があったので弁天堂を拝観したところ、堂内に安置されている弁天様の案内書には、確かに「デ
ヴィ・サラスヴァティ-」と書かれた文字を見つけることができた。ということで、バリ島から帰
ってからは、我が家の「デヴィ」にも、お陰さまでと、毎日手を合わせている。これも余談だが、
デヴィ・サラスヴァワティーが抱えている楽器はビーナという弦楽器で、私も十代の頃からギター
とウクレレを抱えて楽しんでいるので、なんだか自分の守り神ではないかと思って大事にしている。
それにしても音楽は心を癒してくれる。
弁財天(新湊に建つ立像)
デヴィ・サラスヴァティ-(バリ島) 同 (山本所蔵)
安養寺から元来た道を戻り、先ほどの善國寺の前が賑やかなので寄ってみた。本堂に奉拝し、
ご朱印をいただいた。神楽坂でも外国人が目立った。境内には桜が綺麗に咲いていた。賑やかなの
は、商店街で桜まつりのお祭りイベントがあるからだった。山門の前で、お祭り用の粋な着物姿の
若い女性に写真を撮って欲しいと頼まれた。シャッターを押すと、連写で 2、3 枚撮れてしまった、
ので 6、7 枚撮った。シテュエーションとしては、もしかして観音様の化身かな?と思うと、行き
過ぎ感があるが、まっ、勝手な想像も楽しくていいか、と思いながら神楽坂を下った。道路を渡り、
総武線の線路の上に架かる橋を渡る。神田川の土手には桜並木が続き、満開の桜に沿って「花見」
電車が走ってきた。綺麗な景色だ。鉄ちゃんでなくても写真を撮りたくなる。橋の角には、古い城
郭風の石垣が歴史の匂いを醸し出している。そこから左折して「飯田橋」へ向けて、線路沿いに坂
を下る。途中に、東京大神宮⇒と書いてある案内板が出ていた。クラス会が終わった後で、帰りに
立ち寄ろうと思いながら飯田橋跡を通ってホテルへ向かった。
さて、
安養寺のご朱印
柱
石 門
聖天堂 全景
聖天堂
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帰りがけに先ほどの東京大神宮を訪ねた。飯田橋にも、このような神宮があるとは知らなかった。
由緒は、江戸時代からお伊勢信仰は全国に根付いるし、大勢の参拝者で溢れかえっていたというが、
遠隔地の東京から伊勢までそうそう簡単には行くことができない。そこで、明治十三年(1881 年)
明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として、この大神宮が造られたとのこと。
最初は日比谷に創建されたが、関東大震災後に現在地へ移転されたという。東京に長く居ても、実
に知らないことばかりで驚く。ところで、伊勢神宮は、主祭神の天照大御神を祀る日本の神社の総
社で、最近は若い女性からもパワースポットとして人気があるというが、二十年に一度の式年遷宮
が行われ、昨年がその年だったので、近年最高の人出となったと伺った。
少し寄り道したいが、お伊勢参りの歴史は、江戸時代、京都の丁稚達が集団で伊勢参りを理由に、
お店を抜け出した、所謂「抜け参り」が始まりという説が主流だ。なぜ、そのようになったのかと
理由を考えると、一所懸命は文字通り、一ヵ所に命を懸けるということで、意味合いは違うけれど、
農民は領地から出ることは許されない時代。特に若者には足に鎖を付けている囚人のような拘束感
があったと想像することは難くない。生れてから死ぬまで海も見たこともない、となりの藩地にす
らいったこともないという民衆が多くいた筈で、一般民衆は全国を行脚する僧侶などから話を聞い
ては他所の土地のことを想像する。やがて、若い好奇心のエネルギーは膨らんで最高潮に達し、爆
発する。それが、還暦のサイクルで発生したのではないかと想像する。まさに、一生に一度、民衆
のエネルギーが爆発した年、お伊勢参りが全国からお伊勢講として団体で参拝に来たという歴史が
ある。別な意味で、それは日本における団体旅行の始まりともいえる。当時でも事前に書簡で宿泊
の手配をしていたということや、公式コーディネーターやガイドとして、「御師」と言われる人々
がいたということは記録に残っている。また、お伊勢参りの年は、
「二足三文」のわらじが、100
倍ほどになったといわれているから、古今かわらぬ経済の法則、所謂需給バランスが価格を決めて
いたというのも面白い。昨年、私は五月に新宮を建築中の伊勢神宮に行き、内宮の外玉垣南御門の
左手から、一つ玉垣の内に入り、中重鳥居前まで神官に案内いただき参拝する機会を得た。それは、
たまたま日台観光サミットといわれる日本と台湾の観光関係のトップが集まる会議が三重県のホ
ストで開催されたため、事務局として同行させていただいた。日本の首相でも、そこから先は入る
ことは許されないと伺った。厳かで、重厚感のある空気が漂っていた。随分横道にそれたけれど、
飯田橋が伊勢神宮とこのように繋がっているとは、思っても見なかった。
飯田橋 石碑
神宮 鳥居
東京大
神門
殿
本
.二十番札所 光明山 和合院 天徳寺 札所本尊 聖観世音菩薩、
聖観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年四月九日、同 五月四日、
五月四日、 所在地 港区虎ノ
港区虎ノ門 3-1313-6
19
この日も初
夏のような日差しだ。夕刻に赤坂見附で前から約束していた音楽仲間二人と、JAKAZ
24
楽
弾 語
店 行 約束があった。ので、日中は赤坂近くの札所を廻ろうと
思っていた。また、東京十社の山王日枝神社が赤坂見附のすぐ近くにあるので、お寺訪問の後に訪
ねようと思って出発。地下鉄日比谷線の神谷町まで行き、徒歩5、6分で二十番札所の天徳寺、そ
して東京タワーの斜向かいにある二十八番札所の金地院の順番。まず天徳寺は、江戸時代の古地図
でみると、境内も広くかなり大規模なお寺だったと思ったのだが、現在の敷地の広さについては他
のお寺とあまり変わりはなかった。やはり、明治の廃仏毀釈の影響があったのだろうか。立地は、
国道 1 号線(桜田通り)を路地二本、愛宕神社側の方へ入っている。随分、閑静な雰囲気がする。
門は広く開いているものの人の気配が全くないので、不在かと思い、門や境内の写真を撮っただけ
で、家を出るのが遅くなってしまったし、余り時間もないため、改めて出直すことにした。
五月四日(昭和の日)、改めて訪ねたが、前回と雰囲気は変わらず人の気配がない。本堂近くを良
くみると、インターフォンがあったので呼び出しをした。奥から御婦人が出て来られ、応対してく
れた。勧められて、靴を脱ぎ仮本堂の座敷に正座して、直接三十センチほどの背丈の観音様をじっ
くり眺め、手を合わせた。天徳寺の縁起は、天文二年(1533 年)紅葉山に開創し、慶長十六年(1611
年)当地へ移転した。元和元年(1615 年)将軍家康より五十石、元和九年(1623 年)二代将軍秀
忠より百石の朱印を賜った、ご朱印寺で浄土宗江戸四ヶ寺の一つで触頭(ふれがしら)をつとめて
いた、とある。ようするに、宗派の中で、本山と一般寺院の上申下達の仲介や寺社奉行との仲介役
をしていたお寺ということになる。それで、敷地も広かったのかと、合点がいった。
( 器があって き り出来る )に く
徳 ご朱印
天 寺の
標
門前の石
柱
石 門
お堂
寄
徳
すぐ近くに桜田通りと直角に南へ向かう通りがあるが、50m 程に、
愛宕トンネルがある。トンネルの上は、江戸(都内 23 区)で一番高い愛宕山(標高 25.7m)と愛
宕神社がある。神社は、1603 年、これから城下町として造成建設する江戸の防火を祈り、徳川家
康の命により祀られた神社であるが、山頂からの眺望の素晴らしいことで名高く、江戸市民の間で
も人気が高かった。残念ながら、今は高いビルに囲まれているものの、昔の眺めは想像するに難く
ない。また、愛宕神社は、
「天下取りの神」、「勝利の神」としても知られ、各藩の江戸詰めの武士
に深く信仰され、愛宕神社の分霊を持ち帰り、多くの藩において地元にも愛宕神社を祀ったといわ
れる。また、御成門の方からは「出世の石段」と呼ばれる大変急な石段(男坂)がある。三代将軍
家光が、増上寺で行われた二代将軍徳川秀忠の三回忌が終わって帰る途中、山上に咲く梅を見て、
「梅の枝を馬でとって来る者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣曲垣平九郎が見事馬
で駆け上がって、枝を取ってくることに成功し、馬術の名人として全国にその名を轟かせたという。
まさしく武勇伝というもの。どちらかと言えば高所恐怖症の私の場合は、上から見たとき勝手に胎
内センサーが危険を察知して、しばし足がすんだ。実際、石段を下り始めると、左程怖さはないけ
( り道)天 寺を出ると、
25
念
愛宕神社
す 掴
段
段
降
怖 ?!
出世の石段(上から見る)
御成門方面から鳥居と石段
れど、 のため、手 りを みながら石 を下りた。出世の石 、だけに、 りるのは い
.二十八番札所 勝林山 金地院 札所本尊 聖観世音菩薩、
聖観世音菩薩、 宗派 臨済宗南禅寺
奉拝日 平成二十六
平成二十六年四月九日、 所在地 港区芝公園 3-5-4
20
徳
ポケット地図をなぞって、金地院へ向かう。桜田通りと並行に、飯倉方面へ緩やか
な坂道を 300m ほど上り、通りにでて左に直角に曲がる。200m 直進して、今度は右へ急な坂道に
なる。60m ほど上ると右手に洋風の館が見えてくる。オランダ大使館だ。左に折れて、右に折れ、
又左に折れたところに、小さな稲荷神社があり、突き当ると、左手に東京タワーが大きく聳えてい
る。東京タワーに向かって、150m前進すると、ようやく二十八番札所の金地院の石門が見えてき
た。正面突き当りが本堂で、手を合わせ、右手の寺務所を訪ねる。本堂に上がるよう、ご案内いた
だいたので、ご朱印帳を預けて、大きな本堂に座して手を合わせた。こちらでは、栄西と建仁寺に
関する冊子をいただいた。いままで臨済宗の開祖は栄西(えいさい)と教わってきたはずだけれど、
宗派の中では、栄西(ようさい)と呼ばれていると書いてあった。開基は徳川家康、元和五年(1619
年)以心宗伝和尚により、江戸城北の丸内に創建、寛永十六年(1639 年)当地へ移転。和尚は鎌
倉の建長寺や、南禅寺のご住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と当金地院を兼務され、徳川幕
府の幕政に深く関与し、寛永寺の天海僧正と共に、黒衣の宰相と称されたと、いわれている。また、
寛永十年には、寺領五百石のご朱印状を拝領、元禄七年には、さらに二百石の加増を受けている。
と縁起には書かれている。江戸三十三札所の内、臨済宗のお寺は、金地院の一ヶ寺となっている。
天 寺を後に、
金地院のご朱印
柱
石
金地院 山門と正面の本堂
寄
金地院の前の通りを、右方向に坂を下ると、桜田通り(国道1号線)「飯倉」の交差点
に出る。交差点の手前のビル一棟おいた左側には、東京メイソニックセンター(TOKYO MASONIC
CENTER)が建っていた。MASON といえば、フリーメーソン(世界最大の結社)
、アメリカの一
( り道)
26
ドル札の裏側にある13階のピラミッドと全能の目やダビテの星等が連想される。アメリカの初代
大統領ジョージワシントンを始め、歴代大統領にはメーソンが多いといわれている。コンパスと直
角定規と中央に G がデザインされたシンボルマークは、紛れもなくフリーメーソン・石工の印だ
った。それにしても、このようなところにあったとは、
、、。日本人のメーソン第一号は西周(にし
あまね)である。西は文久二年(1862 年)幕命により、榎本武揚らとオランダのライデン大学に
留学している間、指導教授の勧めで 1864 年にフリーメーソンに入会した記録があるという。帰国
後、第十五代将軍徳川慶喜の参謀となり、大政奉還後、勃発した鳥羽、伏見の戦いの旗色をみて、
いち早く慶喜を大阪から江戸に逃し、蟄居するよう勧めたのではないかと想像する。話が広がって
行くが、幕末の日本において、明治維新のシナリオをだれが描いたのか?長崎在住の英国の貿易商
トーマス・グラバー(武器商人)が深く関与しているという説は見逃せない。考えてみれば坂本龍
馬(何の後ろ盾もない土佐の脱藩浪士)が、当時敵対的関係の薩摩と長州を結びつけることなど簡
単に出来る筈がない。龍馬が亀山社中を立ち上げて、僅か3ヶ月後に7,800挺の銃を買い付け
しているが、これにはその道の後ろ盾がなければ出来ないことだ。4、5年前に、加治将一氏の「あ
やつられた龍馬」と「幕末明治維新の暗号」という小説を読んだことがある。倒幕から明治維新へ移
行する時代の流れについて、極めて辻褄の合う筋書きが書かれていて、面白かった。小説だからフ
ィクションには違いないが、大変説得力があった。もしかして、こちらの方が真実に近いのではな
いだろうか、と読後、暫く余韻が残った物語だった。
さて、
「飯倉」交差点、そこからは真っ直ぐ行く道は、外苑東通りの始点(終点)で、その先 200m
程で左手にロシア大使館があり、更に進むとアマンドのある六本木交差点に続いている。が、「飯
倉」交差点を右に折れ、桜田通りに入る。と、すぐ左手にはモダンな大伽藍の霊友会本部が重々し
く座しているような存在感がある。そのまま、神谷町駅方面に進むと、100m 程して左手に、八幡
神社の急な石段があったので立ち寄った。さらに、直進するとアメリカ大使館へ続く狭めの道が左
にある。その道に入って 300m ほど進むと左手にホテルオークラが見えてくる。ホテルの前の短い
「汐見坂」という名の坂を上がると、左手に上る「霊南坂」と交わる。霊南坂の右手、高い塀の向
こうはアメリカ大使公邸だ。警備員が沿道に2、3名立っていた。今はあのキャロライン・ケネデ
ィ女史がアメリカ大使だ。アメリカ大使公邸は、第二次世界大戦後、連合軍の元司令長官・マッカ
ーサー元帥の公邸だった。公邸内には昭和天皇がマッカーサーと会見した部屋があり、その部屋の
一角で二人が並んで写っている写真は多くの人が、教科書かどこかで見たことがあるはずだ。幸運
なことに、私は昨年 2 回程、仕事の関係で、その部屋での大使主催のレセプションに出席させてい
ただいた。汐見坂の正面にはアメリカ大使館の大きなビルが見える。坂は斜め右に下り始め、大使
館前の道を 300m ほど溜池方面へ歩き、六本木通りにでる。と、右手には溜池交差点が見える。車
の多い通りだ。六本木通りを渡り、斜め右手に細い道をジグザグに進むと、溜池で六本木通りと交
差している外堀通りに出る。外堀通りを赤坂見附方面へ歩き始めると、すぐ右手道路の向う側、少
し遠くに首相官邸、続いて通り沿いに山王タワービルが見える。更に 500m 位歩くと、右手に大き
な山王日枝神社の鳥居が聳えている。
ほどなく日枝神社に到着した。神社の鳥居は、笠木の上に三角の形で笠木が組んであり、大変珍し
い形をしている。日枝神社の祭は、江戸三大祭の一つだ。主祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ)
で相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)
、伊弉冉神(いざなみのかみ)
、足仲彦尊(たらしなか
つひこのみこと)を祀っている。創建の年代は不詳だが、文明十年(1478 年)大田道灌が江戸城
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築城にあたり、川越・喜多院の鎮守である川越日枝神社を勧請したのにはじまるという。徳川家康
が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした、と縁起にはある。これも
たまたまだが、今年の 1 月 19 日、川越散策をした折、喜多院の山門前の通りの向こうに、川越・
日枝神社があったので、
立ち寄った。
その後、
江戸城改築で城外に遷座したものの、
明暦の大火(1657
年)により、焼失したため、万治二年(1659 年)
、ときの四代将軍家綱が、赤坂の現在地(江戸城
の裏鬼門に位置する)へ遷座している。日枝神社のお賽銭箱や社庫には、大きな立葵の御紋が記さ
れていた。徳川家に大変ゆかりの深い神社だった。ということで、札所巡りも、寄り道するといろ
いろ発見することが多い。
TOKYO MASONIC CENTER
汐見坂
山王日枝神社 鳥居
枝神社 本殿
日
.二十四番札所 長青山 宝樹寺 梅窓院 札所
札所本尊
本尊 泰平観世音菩薩
泰平観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年四月十日、 所在地 港区南青山 2-2626-38
21
様 暑
学生時代の先輩からお誘いいただき、千代田線の代々木公園
駅で夕刻待ち合わせをしたので、さすれば、と南青山の二十四番札所の梅窓院を訪ねることにした。
行き道は、副都心線「千川」から「明治神宮前」で千代田線に乗り換え、一駅の「表参道」で降り、
そこからは歩く。青山通りを赤坂方面へ(緩やかな下り)650m ほど進むと、外苑西通りと交差す
る「南青山 3」交差点にかかる、さらに青山通りを(緩やかな坂を上がり)直進すると、150m 進
んだ右手の歩道脇に梅窓院と彫ってある石柱があった。そこから古い山門までは 40m 位だろうか、
両脇が青々とした竹林となっている雰囲気のある石畳の小路がある。青山通りは自動車の通行量の
多い道路だが、入口から一歩中に入って行くと、都内のど真ん中にいる感じが全くしない、自動車
の音はするも、静寂さがあった。当日は法事があったようで、黒服の老齢とお見受けする方々が三々
五々に帰って行く光景をみた。山門を潜ると、すぐ突き当りに新しい寺務所(軽装備な建物)があ
った。札所観音の泰平観音像は、法事を行った一階広間にあり、拝観出来ない状態とのこと。した
がって、右手のモダンな本堂の二階で、ご本尊の阿弥陀仏を奉拝することにした。本堂には 60 脚
ほどの椅子が並んでいたが、立ったまま合掌し、ポケットサイズの般若心経を詠ませていただいた。
前日同 、 い日となった。この日、
寄り道になるけれど、以前、私は般若心経を諳んじていたことがある。仕事が旅行関係であったた
め、日本遺族会が主催される慰霊巡拝事業を手伝わせていただいたことがあり、戦没者のご肉親と
共に戦地を訪ねた。1981 年頃から 7 年間に亘り、ニューギニア本島のインドネシア領・イリアン
ジャヤのマノクワリ、ビアク島、更に、パプアニューギニア領のポートモレスビー、マダン、ウエ
ワク、ラバウル方面への団体旅行の仕事を仰せつかった。参加者は高齢者も多く、戦争未亡人と出
28
征前後に生まれたお子達、中には兄弟一緒に戦地へ赴き、兄が戦死され、ご自分は生還した方もお
られた。ツアーの出発前には靖国神社への昇殿参拝、結団式を済ませ、戦死者個人毎に遺族会が数
ヶ月の調査を経て作成された戦死に至るまでの軍歴を渡された。参加者の顔は、長年この時を待っ
ていた想いと緊張感とで、一様に張りつめた表情だった。未知の土地へ往く探検隊のような気持ち
で出発したことを覚えている。探検隊とは、少し大袈裟に思えるが、なにせ道路状況などを含め、
現地情報が極めて少ない地域も多々あったため、不安も少なくなかった。さて、前置きが長くなっ
たけれど、現地へ持参する準備品のなかには、日本遺族会から、この「般若心経」の写しも準備さ
れていた。各々の戦没地を訪ね、順々に追悼式を実施するやり方で、文字通り慰霊巡拝してゆくの
だが、追悼式の間、私は毎回写真班となって、参加者から預かったカメラで式の様子などをお撮り
したため、般若心経を読んでいる暇はなかった。そこで、暗記することにして、覚えるまで復誦し
た記憶がある。しかし、追悼式でご肉親がご英霊に語りかける場面になると、カメラのファインダ
ーがあふれる涙で曇ってしまい、上手く撮れず、困ったこともあった。しかし、このような社会的
な事業に携わらせていただけたのは、仕事冥利につきると感謝している。瞬時そのようなことも思
い出しつつ、寺務所にてご朱印をいただき、梅窓院を後にした。梅窓院の縁起は寛永二十年(1643
年)郡上八幡城主青山大蔵少輔幸成(法名梅窓院)が開基。大本山増上寺十二世普光観智国師の勧
請開山により、青山家下屋敷内に創建したといわれている。青山の地名の由来もここからきている。
梅窓院のご朱印
梅窓院 山門前(青山通り前)
梅窓院山門(内側から青山通り)
寄
梅窓院を後に、元来た青山通りを戻る途中、表参道との交差点から 100m 手前右側にお
寺があった。石柱には善光寺と彫ってある。善光寺といえば、信州にあって日本最古の霊仏・一光
三尊阿弥陀如来(善光寺仏)をお祀りする超有名なお寺だが、青山にもある?とは、どのような経
緯だろうか。私も長野県(松本)に4年間在職していた時代は、長野市(善光寺)に行く機会が多
かったし、勤務していた会社の創業が善光寺への参詣団から草創しているので、深いご縁があると
思い、迷わず寄り道をした。善光寺の冊子に三つ葉の立葵の御紋があり、やはり徳川将軍家に関係
していると見える。縁起には、慶長六年(1601 年)に善光寺大本願第百九世の円誉智慶上人が徳
川家康の勧請を受けて、兼帯所を江戸谷中に草創したのが始まりとある。信州善光寺までは、江戸
から遥か遠いため、老人婦女子の参詣が容易でないことを嘆き、善光寺如来の出張所を設けた、と
ある。将軍家からは、七堂伽藍を寄進され、法如中将姫の御作のご分身、一光三尊阿弥陀如来を安
置し、三代将軍徳川家光の代に谷中に地を賜った。元禄十六年(1703 年)小石川の大火により、
焼失したため青山百人町(現在地)へ替地を拝領し、移転した。再び将軍家より七堂伽藍を寄進さ
れている。本堂にて奉拝後、右手の寺務所でご朱印をいただき、明治神宮まであるくことにした。
( り道)
29
緩
途
緩
上
表
ゆっくり歩いた。
沢山の人出だった。外国人が目立って多く歩いている。明治神宮の入り口には、大きな台湾杉の鳥
居が聳えている。
砂利道の境内を歩くが、さらに、外国人が三人に一人位の割に増えていた。今年は明治天皇妃、昭
憲皇太后の崩御から 100 年の記念年であり、境内には、皇太后の紹介パネルが掲示されていた。
明治神宮にも奉拝し、ご朱印をいただき、千代田線の明治神宮駅から代々木公園駅へ向かった。
交差点から、 やかに下り、 中から やかな りとなっている。 参道を1km
青山 善光寺
善光寺 仁王門(天下り仁王門) 明治神宮 本殿前の鳥居
.十五番札所 光松山 威盛院 放生寺 札所本尊
札所本尊 聖観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 高野山真言宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年四月十九日
十九日、 所在地 新宿区西早稲田 2-1-14
22
四月にしては、風が冷たく肌寒い日だ。今日の札所巡りは全て歩きだ。自宅の千早四丁目から、山
手通りにでて横断する。100m 位直進して、右手に曲がる。今は公園となっている上水路の上を歩
き、立教大学の裏手の西池袋通りに出て、池袋駅方面に向かう。ほどなくメトロポリタンホテル前
を過ぎ、山手線、埼京線の線路を潜ると明治通りにぶつかる。右に折れて、明治通りをひたすら歩
く。目白通り、新目白通りを横切り、早稲田通りとの交差点「諏訪町」(副都心線西早稲田駅)を
左に曲がる。 あとは、坂道の一本道だ、右に緩やかに曲がった道を下る。ほどなく、通りの右手
向う側に早稲田大学戸山キャンパスが見えた。十五番札所は、その真向いの通り沿いだった。およ
そ二時間弱のウォーキング。放生寺の門前には徳川将軍家の家紋の三つ葉葵の提灯が目立っていた。
本堂は坂道の上。綺麗に掃除の行き届いたお寺という印象だ。本堂は階段の上。合掌して、奉拝。
堂内の左手にある寺務所窓口でご朱印をいただく。放生寺の縁起は、寛永十八年(1641 年)穴八
幡宮(高田神社)の別当寺として、神社の隣に創建された。穴八幡宮は、八代将軍徳川吉宗が我が
子の病気平癒を祈り、献上されたという流鏑馬で有名であり、その銅像が鳥居の隣にある。創建当
時は、穴八幡宮の境内には、放生池があったが、明治時代に廃仏毀釈により池も埋められている。
江戸時代には神仏習合で始まっているので、「一陽来復」の御札は、元々不可分であったが、放生
寺の御札は「一陽来福」と一字異なっている、と記されている。放生寺の「一陽来福」の由来によ
ると、現在歴や易占の礎となっている書物は「宿曜経」と云い、弘法大師空海が、平安時代に
初めて中国から我が国へ伝えたものである。當山授与の「一陽来福」は、冬至(陰極まって一陽を
生ずる)を示す「一陽来復」に因み、観音経の「福聚海無量」という偈文より、「福」の字を結ん
で、一陽来福となづけられた。江戸天保年間に、冬至前七日間、真言密教による観音経のご祈祷を
修して、放生寺が信徒に授与したのが始まりといわれている。
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放生寺のご朱印 放生寺
穴八幡宮 鳥居と流鏑馬像
坂
入口( 下)
神門
放生寺
本堂
殿
本
.十八番札所 金鶏山 海繁寺 真成院 札所
札所本尊
本尊 潮干十一面観世音菩薩
潮干十一面観世音菩薩、
観世音菩薩、宗派 高野山真言宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年四月二十日
二十日、 所在地 新宿区若葉 2-7-8
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夏
四 曜
四谷三丁目駅の近く、須賀神社付近の十八番札所真城院一ヵ
寺を奉拝する予定だ。自宅を出て、地下鉄新副都心線の「千川」から「新宿三丁目」で降車。伊勢
丹の向側に出た。そこから真城院までは往復歩きの計画だ。地図を見る限り、新宿通りを四谷三丁
目まで進み、地下鉄の駅を若干越えて右に曲がる方向だ。新宿通りは伊勢丹の先まで歩行者天国。
久しぶりに、車道の真ん中を闊歩した。瞬時、開放感を味わったが、200m で「御苑大通り」の交
差点で終りだった。右には新宿御苑(新宿門)入口への道が並行していて、多くのカップル、若者
達が歩いている。時刻は 2 時半頃だったろうか。新宿通りを更に直進する。1km ほど歩くと四谷
四丁目の交差点にでる。江戸時代はこの辺りに木戸(関所)があって、今でいえば入国管理事務所
ということになるのだろうか。ここから江戸市中に入って行くという交通の要所でもあった。四丁
目交差点から、更に四谷三丁目交差点に向かう、右に韓国観光公社のある KOREA CENTER ビル
があり、更に進むと、交差点手前の左手に四谷消防署、その屋上にヘリコプターが停まっている。
と脇見をしながら 800m ほど歩いた。四谷三丁目の交差点を、さらに 200m 直進すると、須賀神社
入口の看板が右手に見えた。比較的細い住宅街の道を右に入る。まっすぐ、300m 程進むと、左に
須賀神社の脇の入り口が見えた。折角なので、奉拝しご朱印をいただくことにした。神社の主祭神
は、須佐之男命(須賀大神)と宇迦能御魂命(稲荷大神)、いわれは元々、稲荷神社で、四谷の総
鎮守様だ。ここのお宝は、天保七年に画かれた三十六歌仙で、本殿の天井近くに、飾られている。
戦時中、金庫に納められ、災火を免れて今日に至っているという。さて、少し寄り道したが、真城
院は神社から 200m の位置にあるはずなのに、どうやら反対方向に来てしまったようで、お寺がず
らっと並んでいる。昔は四谷寺町と呼ばれていた地区だった。地図を見直して、現在地を確認して、
両脇にお寺が並んでいる狭い通りを 200m ほど進むと、坂道があり、くだって左へぐるっとまわる
と、観音坂と潮干観音の赤いのぼりが沢山立っている近代的な三階建てのビルに辿り着いた。
初 のような 月の日 日。この日は
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真城院の創建は慶長十三年(1598 年)、清心法印により麹町に開山。その後、江戸城外濠工事に伴い、
代替地として現在地に移転した。潮干観音の由来は、かつて真城院の近くが海で、潮の干満によっ
て観音様の台座が常に濡れていたことから、名前が付いたと云われている。寺務所は一階のガラス
張りの小ホール風ロビーの奥にあり、オープンフロントのような受付があった。年輩の婦人が二人、
男性が一人、日曜日にもかかわらず、事務作業をされていた。このお寺のご住職が書かれた本もあ
るようだが、書籍類が沢山置いてあり、何処か市役所のロビーに似た雰囲気でもあった。お寺の事
業として、お墓、霊廟の営業も随分されているようにお見受けした。訪問目的を告げ、ご朱印帳を
差し出した。記帳していただく間、ビルの三階にある本堂にて奉拝するようご案内いただいたので、
再び外階段から、三階(屋上の雰囲気だった)本堂の鉄扉を開けて、靴を脱ぎ、着座して般若心経
を詠み奉拝した。
真城院のご朱印
真城院 近代的なビル
四谷大木戸・水道跡石碑 木戸跡
真城院前の観音坂
須賀神社
帰り道は、再び、(今度は近道の石段で)須賀神社に戻り、寺町を一回りした形だ。新宿通りを四
谷大木戸のある四谷四丁目交差点にかかる。交差する外苑西通りを左に折れて 500m 進むと野口英
世記念館があるが次回行くことにして、交差点を新宿駅方面へもどる、御苑前近く(矢来町)にさ
しかかると、ビルの間に取り残されたような小さな神社があったので、寄り道をした。
「秋葉神社」
といえば、火防の神、祭神は迦具土神(かぐつちのかみ)で記紀神話における火の神である。この
神社の創建年代等は不詳だが、寛永年間(1624~1644 年)までは、牛込寺町に鎮座していた。そ
の後、矢来町の酒井若狭守の屋敷内に遷座、邸内社となったと伝えられている。明治になって門戸
を開き一般の人も参詣できるようになった。現在は、酒井家から矢来町秋葉神社奉賛会に贈与され、
宗教法人となっている。またこの辺りの歴史散策としては、新宿通りから、一通り靖国通り方面へ
入ったところに、「太宗寺」という浄土宗のお寺がある。昔この当りにいた太宗という名の僧侶、
太宗庵が前身で、慶長元年(1596 年)ころにさかのぼるといわれている。江戸の入り口六ヶ所に
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安置された六地蔵のひとつ、銅造地蔵菩薩坐像が安置されている。太宗寺の地蔵菩薩は正徳二年
(1712 年)
、六地蔵の三番目として鋳造された。江戸六地蔵とは、深川の地蔵坊・正元が不治の病
にかかるも、病気平癒を両親と共にお地蔵様に祈願したところ、無事治癒したことから、京都の六
地蔵に倣って、宝永三年(1706 年)発願し、浄財を集め、神田鍋町の鋳物師太田駿河守藤原正儀
により鋳造されたもの。江戸六地蔵のなかでは一番小ぶりで 267cm。江戸中期の大作である。ま
た、このお寺は、閻魔様でも有名だ。他には、徳川家康の入府前から内藤新宿の総鎮守として祀ら
れている花園神社がある。いつ行っても外国人の観光が絶えない。
秋葉神社(新宿通り御苑前駅付近) 太宗寺 地蔵菩薩
花園神社 本殿
.十九番札所 医王山 悉地院 東円寺 札所
札所本尊
本尊 聖観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 真言宗豊山派
奉拝日 平成二十六
平成二十六年四月二十六日
二十六日、 所在地 杉並区和田 2-1818-3
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気 晴 気温も 20℃を超える予想だ。12:45 に自宅を出発。千川通りを中野方面へ歩
く。ほどなく西武池袋線の踏切を渡ると、200 m 程で千川通りは右に直角に曲がる。
その地点が、中野通りの始点(終点)である。兎に角、真っ直ぐに進むと、やがて哲学堂にぶつか
る。ここまでが約 30 分。右に 15m ゆくと、蓮華寺(明日は、愛猫ロコの三回忌があって又来るけ
れど)。中野通りは蓮華寺の正面から広くなり、お寺の参道のように真っ直ぐ前に伸びている。坂
と気付かないくらい緩やかな下り坂をひたすら歩く。途中にはオステリアとかトラットリアとか、
イタリアレストランの名前が目立つ。この辺は、イタリア料理のニーズが高いのだろうか?さらに
西武新宿線の踏切を超えると、右手に北野神社。ほどなくやや左に曲がり、さらに進むと早稲田通
りと交差する。と、もう JR 中野駅が目前だ。右手の「サンプラザ」ではコンサートがあるのだろ
うか、多くの人が入場を待っていた。暫く来ないうちに、駅前からは幅の広い階段と歩道ができて
いて、信号を渡らなくても、「サンプラザ」へ歩けるように公園化されていた。街は綺麗に、便利
になって行くという進化の姿を見ることが出来る。でも、何年ぶり?だろうか。中野駅までは丁度
1 時間。JR 中野駅のガードを潜り、右手の丸井本店でトイレをかりて、さらに中野通りを進む。
青梅街道「杉山公園」交差点の信号が赤なので日差しを避けるため、自転車で囲まれた角のパチン
コ店の日陰に身を寄せた。東京の豆地図を見ていると、年配のガードマンが近寄ってきた。店の前
を塞いでいるよと、注意されるかと思いきや、「どちらまで、行かれますか?」と、道案内をして
くれる、親切な人だった。
「大丈夫です、十貫まで行きますから、」と言えば、「この先二つ目の信
号ですよ、」と答えてくれた。これだけのやりとりだが、なんだか嬉しくなる。ところで、杉山公
園とはどこだろう? 交差点の対面に小さな公園がある。子連れの家族が何組も遊んでいる。見る
この日天 は れ、
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盤 背 高 お地蔵様が三体浮き彫られている。昔、杉山さんという実業家が、病気の
娘さんのために良い環境を求めこの地へ引っ越して来たが、若くして亡くなったため中野区に土地
建物を寄贈されたという。区は、児童が健康に育つように公園にしたという。日本はいい国だな、
と思いつつ、ほどなく中野通りの「十貫坂上」交差点に着く。右に曲がると、急に住宅街の細い坂
道となり下ってゆく。まさしく昔の道だ。このような自然な曲がりくねりは古い道が多い。また、
そこには必ずといってよいほど庚申塚やお地蔵様がある。庚申塚をとおり、和田中学の手前を左手
に曲がる、と十九番札所東円寺と思われる塀が見えてきた。静寂な住宅街にあるお寺だった。東円
寺の縁起には、天正元年(1573 年)村民半六が開基、備後国の僧祐海(一説には秀海)が開山し
たと伝えられている。境内に入り、札所本尊の観音堂の扉が閉まっており、鍵もかかっていた。扉
越しに手を合わせ奉拝。本堂右手には、綺麗な新築の寺務所が建っている。人の気配がない感じだ
ったが、インターフォンを鳴らすと、若い奥様が出てこられ、ご朱印をいただいた。これで、昨年
訪問済みの二ヵ所を含めると、二十六札所目となった。全部で番外を入れると三十四ヵ所だから、
残りは、あと八札所。
と大きな石 に の い
円 ご朱印
東 寺の
円
東 寺 本堂
杉山公園内にあるお地蔵様
.十七番札所 如意輪山 宝福寺(
宝福寺(中野観音)
中野観音)札所本尊
札所本尊 如意輪観世音菩薩
如意輪観世音菩薩、
観世音菩薩、宗派 真言宗豊山派
奉拝日 平成二十六
平成二十六年四月二十六日
二十六日、 所在地 中野区南台 3-4343-2
25
円
地図上では 800m 位)南へ歩き、川を渡り、坂を登り下りして、方南通りにでて、
左へ進む。神田川を渡り、中野特別支援所(職業訓練所?)を右に曲がり直進すると、200m位で
左手に十七番札所があった。多田神社と隣接している。ここも昔は神仏習合だった名残を感ずる。
門は閉ざされていたが、脇から境内に入ることができた。いろいろ改築中のようだった。正面の本
堂の階段を上がり、右手に観音様拝観用の窓が切ってあるので奉拝した。奥を覗いてみるのだが、
暗い中に蝋燭 4 本の灯が見えるだけで他には、何も見えなかった。蝋燭の中央に安置されているの
は間違いないので、真中に向かい手を合わせた後、右手の平屋の寺務所兼住宅に寄った。丁度、老
齢の婦人がお茶と菓子を屋根修理の職人さんに差し入れするところだった。玄関に案内され、差し
出された座布団に座って待つ。座布団を出していただいたのは、三十三札所巡りをして初めてのこ
とだった。ご朱印をいただいた後、
「お暑いですね」と声を掛けていただいた。「池袋から歩いてき
ました」と答えると、
「ちょっとお待ちを」と奥からペットボトルのお茶を持って来てくれた。「二
年後には観音堂ができるので、又お参りください、
」と丁寧に言われたので、「はい、又、伺います」
と応えた。80 才代と思しき白髪の深みのある雰囲気の親切な御婦人だった。宝福寺の縁起による
東 寺から(
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創建年代は不詳であるが、聖徳太子が諸国を巡遊された時、紫雲たなびくこの地を霊地として
堂を建立し、如意輪観音像を奉安し、国家安隠をお祈りされ、その後、聖武天皇の時代に信行大挿
図が上宮聖徳太子孝養の像を刻んで祈った、と伝えられていることから、かなり古くからあったこ
とを示唆している。
宝福寺のご朱印 宝福寺の石柱門
本堂の一部 仮観音堂
と、
善福寺川沿いにある、大宮八幡宮を訪ねることにした。宝福寺から西へお
よそ 2km に位置している。方南通りまで戻り、左に折れて西へ直進、立体交差する環七通りを下
に見て、更に進むと、道が二股に分かれている、右手の八幡宮の参道に入る。そこからは大きな鳥
居が見える。一之鳥居から二之鳥居、そして神門まで長い正参道だ。参道の途中には、源頼家の鞍
かけの松など、謂れのある場所が数か所あった。八幡宮の主祭神は第十五代応神天皇(品陀和気命・
ほんだわけのみこと)であるが、同時に応神天皇の父母である仲哀天皇と神功皇后を祀っている。
また、境内には皇族が植樹された木々や、源義家公手植え檜跡や徳川秀康(家康の次男で豊臣秀吉
の養子)の正室清涼院お手植えの菩提樹などがあり、由緒ある神社だということが分かる。また、
此の大宮台地では、弥生時代の遺跡(古墳)も発掘されており、古代から聖地でもあったというこ
と。奉拝後、社務所にてご朱印をいただいた。
折角、ここまで来たので
宮八幡宮 一之鳥居
大
神門
殿
本
.二十九番札所 高野山 金剛峯寺 東京別院 札所本尊
札所本尊 聖観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 高野山真言宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年五月一日
五月一日、 所在地 港区高輪 3-1515-18
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品川寺を訪ねた折、高浜虚子が詠んだ句をうけて「鐘供養」が晩春の季語と
なったという話があった。蒲田駅前に私の元上司(入社時の所長)が、元気に現役でおられ、俳句
会の主宰をされている。先日、はがきをいただき、「人生はこれからです。季節に敏感になって楽
しいですよ」と、句会へのお誘いいただいたので体験入会の手続きを済ませ、この日、ゆっくり昼
以前、三十一番札所の
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食をご馳走になりながら、お話を伺った。ご愛用の歳時記もいただき、こんなに親切にしていただ
き何かお返ししなければと思う。さて、歳時記には、季語と例句がぎっしり詰まっている、
「か行」
で「鐘供養」を確認できた。前置きが長いけれど、暑い五月の初日。まずは二十九番札所高野山東
京別院を訪ねる。蒲田から品川駅まで JR に乗り、品川駅から第一京浜を東京方面に歩く。日差し
がきつい。10 分ほど歩き、
「高輪 2」交差点の信号を左に入る。坂道を 400m 上ると左に大きな本
堂が見えた。まずは、奉拝し、本堂左の寺務所でご朱印をいただく。写経や仏事を行うときに、身
体(主に手)につける塗香(ずこう=仏像や修行僧が身体に塗って穢れを除くためのお香)の見本
があったので、手の甲に付けてみた。鼻に近つけると、いい香りが匂った。札所観音は、本堂内の
ご本尊の右側に安置されている、と伺ったので再度、本堂の右手より靴を脱いで上がると、奉拝用
の小机にはガラスの小さな瓶に黄色い花が活けてあり、お線香も用意されていた。着座してお線香
をあげた。本堂の右側、境内には真新しい聖観世音菩薩の石像が建っていて、青い空に映えていた。
その手前には不動堂もあった。
高野山東京別院ご朱印
本堂
聖観世音菩薩の石像
.二十七番札所 来迎山 道往寺 札所
札所本尊
本尊 聖観世音菩薩、
観世音菩薩、千手同 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年五月一日
五月一日、 所在地 港区高輪 2-1616-13
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高野山東京別院から、左下に幾つか路地を曲がりながら、坂道を下って行くと、第一京浜に出る。
東京方面へ向かう道路の向い側に京急電鉄の本社が見えた。100m 弱で都営浅草線の泉岳寺駅だ。
何度も訪れている泉岳寺だが、今回は本堂に奉拝して初めてご朱印をいただいた。浅野内匠頭の墓
所であり、赤穂四十七義士の墓もあり、浅野家の菩提寺だ。そもそも泉岳寺が浅野家の菩提寺とな
ったのは、寛永十八年(1641 年)の大火によって、元々外神田にあった泉岳寺も被災により焼失
した。三代将軍家光の時代に、毛利、浅野、朽木、丹羽、水谷の五大名が、遅れている泉岳寺の再
建を命じられ、この地へ移転したという経緯があった。さて、今から 30 年以上も前だろうか、何
度か訪れてはいたのだが、初めて赤穂浪士の遺品を拝観したとき、若干十八才で討入に参加した矢
頭衛門七の血の付いた腰当てを観て、大変強く感じるものがあり、赤穂事件について興味を持った
ことがあった。以来、忠臣蔵本を収集している。というより、赤穂事件には諸説いろいろあるが、
同い年の大石力(大石内蔵助の長男)と吉良左兵衛義周(上野介義央の実孫・養嗣子)が、後年、
歴史の中で、明暗の分かれたことについて、スポットを当てたいと思ったり、討入直前に姿をくら
ませた浪士を題材に、歴史ロマン物語を想定したりと、少しはまったときがあった。気持ちは今も
変わらないのだが、ということで、歴史散策もありで、毎回寄り道が多い。今回も、次の札所へ行
36
途 泉岳寺に立ち寄り、本堂奉拝後、右手の寺務所にてご朱印をいただき、泉岳寺の説明書を
いただいた。泉岳寺の境内は、以前と比較して、随分綺麗に整備されていたように思う。浪士達の
立派な遺品館も建っていた。
さて、次の札所は二十七番の道往寺だ。泉岳寺門前の伊皿子坂(いさらござか)は左にカーブしな
がら上り坂となっている。300m ほど上って行くと、右手に駐車場の旗が目に入る。道往寺は、そ
こにも入口があったのだが、道しるべに描いてある地図どおり、その先の信号を右手に入り、坂道
を下り、次の角を右に折れ、更に右に曲がると、山門が見えた。ぐるっと回って遠回りとなったが、
ようやく辿り着いた感じだ。道往寺の縁起は、江戸時代、寛文年間(1661~1673 年)に開基され
たということだが、古刹という感じは全くなく、近代的かつ機能的な大変美しく改築されたお寺で
あり、綺麗な庭園もあった。建設費用はおそらく、億単位だろうと想像した。敷地の一部を有料駐
車場にするなど、上手く経営されている感じもした。モダンな観音堂もガラス張りで外から拝観す
ることができたのは、よかった。奉拝後、エレベーターで二階に上がり、小ホテルのフロントのよ
うな寺務所の受付で、老住職にご朱印をいただいた。優しさが顔に出ている。どのお寺でも、年配
の方は「どちらからお越しですか?」などと、声掛けがある。戦争や辛い時代を経験してきたから
なのか、人や物に対して非常に優しい気持ちが内面から滲みでているように思う。このような方に
出合えると、豊かな気持ちになる。伊皿子坂へは、二階からそのまま、戻ることができた。
く 中、
往 ご朱印
道 寺の
泉岳寺 山門
伊皿子坂碑
観音堂
蔵助像
大石内
泉岳寺 縁起
.二十五番札所 三田山 水月院 魚籃寺 札所
札所本尊
本尊 魚籃観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年五月一日
五月一日、 所在地 港区三田 4-8-34
28
往
急斜面の伊皿子坂を上り切り、交差点を直進する。そこから下りの坂となるが、
坂の名前が変わって「魚籃坂」(ぎょらんざか)となる。由来は坂の途中に魚籃観音があるからと
道 寺を後にして、
37
五
魚籃寺を訪ねた。色褪せた朱色の山門脇の右側に六地蔵が並んでいる。
六地蔵といえば、今まで訪ねた札所でも、殆ど境内のどこかに安置されていた。昨年、鎌倉の覚園
寺(かくおんじ・私が一番好きなお寺です)を拝観したおり、ご案内いただいたお坊さんから、六
地蔵の役割を教えていただいたことがあった。仏教の輪廻転生思想のなかでは、人は生まれ変わる
が、死後の世界に入ってゆくときには、その人の生前の行状を、判事の十三神が、七週間かけて審
議し、次に行く場所を六界のいずれかに定めるという法で、六界とは、天上界、人間界、修羅界、
畜生界、餓鬼界、地獄界という順番。そこで、六地蔵の役割だが、六界の夫々の界の管理を担当さ
れているということ。昨年の春、元会社の OB が集う「鎌倉散策の会」に参加して、北鎌倉から長
谷経由、鎌倉駅まで歩いたことがあった。途中の三叉路に大きな六地蔵が建っていて、そこの地名
が「六地蔵」だったことを覚えていて、なぜ六地蔵なのかな、とおぼろげに思っていたが、このよ
うな仕組みになっていたのかと、理解することができた。さて、山門を潜ると突き当りに、いかに
も古い本堂があり、金色の字で書かれた魚籃観世音菩薩の額が、架かっていた。金字は全く色褪せ
ていなかった。ゴーンと鐘をならして、お賽銭を入れ、奉拝。左手の寺務所のベルを押して、ご朱
印をいただいた。寺務所の窓口には、金色の背丈が 35cm ほどの、魚籃観音像が安置してあった。
すべては聖観音の変化(へんげ)としても、魚籃観音は、大変珍しいお姿だと思う。お寺からいた
だいた縁起説明書を読むと、このお寺は元々浄閑寺(江戸時代吉原の遊女の投げ込み寺)の跡地に
建てられたので、浄閑寺と呼ばれた時代もあったそうだ。魚籃観音は、頭髪を唐様の髷に結んだ美
しい乙女が、右手に魚を入れた竹籠を提げ、左手で裳裾(もすそ)を少し引き上げている御立像。
中国唐の時代(806~824 年)
、まだ仏教の教えが伝わっていない金沙灘という土地で、美しい乙女
の姿で現れ、魚を売り歩き、仏教を広められたという話が伝わっているそうだ。いずれにしても、
乙女姿の仏像はあまり例がないそうだ。
魚藍寺のご朱印 山門
六地蔵(山門前)
本堂
いうことで、二十 番札所の
.二十六番札所 周光山 長寿院 済海寺 札所
札所本尊
本尊 亀塚聖観世音菩薩
亀塚聖観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 浄土宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年五月一日
五月一日、 所在地 港区三田 4-1616-23
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魚藍坂を伊皿子坂まで戻り、左に折れて、田町に向かって、緩やかな下り坂となっている。450m
程進むと、右手に二十六番札所済海寺の石門があった。中に入ると、左手に史跡の説明書きが掲示
されていた。この場所は、元フランス公使が宿泊していた館跡だったと書かれている。その隣に観
音堂が建っていた。鍵がかかっているので、曇りガラスの中に少し透明の部分があり、そこから覗
くことしかできなかった。全身の写真は観音堂の左にパネル式に立っていた。門から突き当りの寺
務所のインターフォンで扉をアンロックしてもらい、自動ドアが開いた。対応してくれたのは、若
奥様風の婦人だったが、ホテルのような接客業に従事したことのある方ではないかと、言葉の端々
から窺えた。所謂、プロのアテンダーのような感じだった。ご朱印をいただく間、観音堂の場所を
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案内いただいたのだが、お賽銭箱もなく、やはり、観音堂は鍵がかかっているので、扉越しに手を
合わせた。戻ってご朱印帳を返していただくときに、そのことを伝えたところ、丁寧な言い方だっ
たが、防犯上の理由で鍵をかけているとのご説明をいただいたが、札所巡りの身には、少し興ざめ
な感じがしないでもない。金網越しでもいいので、防犯上の安心もあり、なおかつご尊像も拝尊で
きるようにご考慮いただけたらよいと思う。済海寺の縁起によれば、地理的に亀塚公園の隣に位置
しているので、通称亀塚観音と呼ばれている。ウィキペディアによると、更級日記に登場する皇女
と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説「竹芝寺」の跡地にあって、元和七年(1621 年)牧
野忠成と念無上人によって創設。越後長岡藩主牧野氏や伊予松山藩主松平氏及びその家中が江戸で
の菩提寺とした。松平藩から 1500 坪の領地を受け、松平家十七代目までの遺体を土葬。安政六年
(1859 年)にフランス総領事館となり、二年後には公使館となって明治七年(1874 年)まで続い
た。1982 年に済海寺にある旧越後長岡藩主牧野家墓所を地元の長岡市民からお山として親しまれ
ている悠久山(蒼紫神社)へ移された。1990 年旧ご本尊を海側へ 30 メートル移動し、新本堂を建
設。総工費15億円を懸けて三年後に完成された、とのこと。木像阿弥陀如来坐像は港区の文化財
に指定されている。
済海寺のご朱印
柱
石 門
旧フランス公使宿館跡
観音堂
済海寺を出ると、坂の勾配が急に大きくなる。この坂は「聖坂」(ひじりざか)と呼ばれている。
坂下まで 500m を下って行き、右に折ると国道1号線。道路を渡って商店街を 150m 程歩くと、第
3京浜の向う側に田町駅が見えた。暑い一日だったが、札所巡りとしては、一日4ヶ寺にプラス泉
岳寺、と合計5ヶ寺は最多記録だ。
.三十二番札所 世田谷山 観音寺(
観音寺(世田谷観音)
世田谷観音) 札所本尊
札所本尊 聖観世音菩薩、
観世音菩薩、宗派 単立系
奉拝日 平成二十六年五
平成二十六年五月
六年五月三日、
三日、 所在地 世田谷区下馬 4-9-4
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ゴ ルデンウィーク後半の好天気で、絶好のウォーキング日和だ。自宅の最寄り駅・副都
心線「千川」から「学芸大学」まで(乗車時間 38 分)行き、そこから三十二番札所、世田谷観音
まで 1km 強の道程を歩く。歩くには、暑い日になった。学芸大学駅を降りて、高架線の線路沿い
の道を渋谷方面に戻ると、250m 位で「三宿通り」にでる。斜め左、道なりに「五本木」交差点ま
で出て、「駒沢通り」を渡り、住宅街の狭い道を、駒沢通りを背に垂直に歩く。静かな住宅街だっ
た。途中には生垣の躑躅が赤、白、ピンクの三色で満開だった。思わず見とれて写真に納めた。バ
ス通りを渡り、ほどなくすると、左手に世田谷観音の文字があったが、そこは裏門だった。宗派は
単立系とあったので、どのようなお寺なのか興味はあったのだが、見事な彫刻などがあり見応えが
あった。特に本堂に架かる龍の彫刻は姿も大きく、迫力があり、今までで一番の彫りものだと思っ
この日は ー
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聖 菩薩を祀る本堂に奉拝して、寺務所を訪ねご朱印をいただく。ご年輩のご住職と話がで
きた。本堂の龍の彫刻について伺ったところ、原型は現在アメリカのボストン博物館に保存されて
いるのだそうだ。元々福井城にあったものを、或る商店主が買い求めた。一方、ボストン美術館か
ら東洋の龍の彫刻を探すよう求められたその筋の方が、その龍の彫刻を見つけ、再三に亘り交渉さ
れた結果、ようやく商店主から譲り受け、ボストンへ送られたとのこと。この観音寺の龍は原型と
全く同じに、金沢三名工の石塚他三郎氏が七年かけて彫ったものだという。境内には、他に貴重な
文化財が散見された。都内最古と記された平安時代後期の仁王像(木像の金剛力士像)と仁王門の
天井の鳴き龍に驚いた。仁王像は相当傷んでいたので、このままの保存でよいのかと、心配するほ
どの状態だった。また、鳴き龍については、日光東照宮で数度、経験したことがあるが、鳴き龍の
真下で手を打つと、ビン、ビンと低くしびれるような音がする。確かに日光東照宮の鳴き龍と同じ
音がした。少なからず感動ものだった。ご住職からは時間があれば、本堂や阿弥陀堂にも上って結
構、と勧められたので、本堂に上がり、ゆっくり拝観させていただいた。ご本尊の聖観音菩薩は、
伊勢長島の名刹興昭寺(既に廃寺)の秘仏(天正年間・16 世紀造立)であったが、浅草寺にて開
眼法要を営み、観音寺の本尊として祀られているとのこと。さらに、特高平和観音(太平洋戦争で
特別攻撃隊として散った若き英霊の安寧を祈る観音)、夢違観音(ゆめちがい)、不動堂、京都から
移築されたという阿弥陀堂など、境内にあるものと、観音寺の歴史とが不思議な世界がマッチング
されているように思った。どの宗派でも受け入れるという点では、三十三札所の中にあって、特異
な存在である。お寺の性格としては、長野の善光寺に似ているのかも知れない。それにしても、い
つか本堂の龍の原型をボストンで観たいものだ。
た。 観音
ご朱印
観音寺の
仁王門
聖
菩薩安置)
本堂 (中に 観世音
仁王像
本堂
龍
仁王門 天井の鳴き龍
夢違観音(池中)
.三十三番札所 泰叡山 瀧泉寺(
瀧泉寺(目黒不動尊)
目黒不動尊) 札所本尊
札所本尊 聖観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 天台宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年五月四日、 所在地 目黒区下目黒 3-2020-26
31
40
田谷観音から、同じ道を戻り、三宿通りに出て、そこから道なりに進む。東急東横線のガードを
潜り、先の信号を左に曲がり、目黒通りに合流するまで 600m ほど歩く。目黒「郵便局」交差点で
広い目黒通りと合流する。左に折れて渋谷方面に 1300m ほど進む、緩やかな坂道になり、下って
ゆくと、有名なたこ焼き屋があって、芸能人のサイン色紙が壁一面に掲示されていて、何組も注文
待ちをしている。丁度そのあたりで、通りの向こう側に「寄生虫館」の看板が付いているビルが見
える。日陰を探しながら、大幅な道路の左側を歩いていたので、道路を渡らないと目的のお寺には
着かない。近くに信号、横断歩道がないので、歩道橋まで少し戻って道路を渡った。寄生虫館を右
に曲がると、まったくの住宅街で、静かだった。暫く 500m ほど歩くと、緩やかな坂をのぼる。左
手に児童公園とその先にこんもりした樹木の繁った森が見えてくる。坂を上り切ると、そこからは
下りの急坂となる。左にカーブしている。坂の名前は「三折坂」(三つに折れ曲がった形状から名
付けられた)を下る、と左手に目黒不動尊、三十三番札所の瀧泉寺に着いた。山門と境内を横から
透かして見る感じだった。正面の山門を潜る。と、境内は広く、成田山新勝寺に匹敵するほどの規
模といっていい。左手に水かけ不動を祀った池があり、山門正面から石段が上へ続く、石段の先に
は大きな本堂があって、不動明王が祀られている。本堂で手を合わせ、本堂左には石像の微笑観音
の立像が建っている。札所本尊の聖観音菩薩は別に観音堂に安置されていた。瀧泉寺は目黒不動で
有名であり、目黒の地名も、目黒不動に由来する説もあるという。瀧泉寺の寺伝によると、大同三
年(808 年)円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したという。東国には
円仁開基の伝承を持つ寺院が多く、本寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明。貞観二年
(860 年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、山号を泰叡山とした。寛永七年(1630 年)
寛永寺の子院・護国寺の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務となった。徳川家光の
庇護を受け、寛永十一年(1634 年)50棟の伽藍が復興し、「目黒御殿」と称された。文化九年(1842
年)江戸の三富と呼ばれた、富くじが行われた。江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、
江戸名所絵図にも描かれている。落語の目黒のさんまはこの付近にあった参詣者の休息茶屋が舞台
とされている。その他、名産竹の子飯や棒状に伸ばした練り飴(白玉飴)を包丁でトントン切って
行く目黒飴が人気だったという。観音堂で、奉拝後、寺務所でご朱印をいただいた。境内には、他
にもお堂や石碑などがあったし、大きな六地蔵もあった。目を引いたのは、作曲家・本居長世(十
五夜お月さん)の楽譜をほった石碑と大川周明文による北一輝の顕彰碑だった。
北一輝は、明治十六年佐渡島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代に中国に渡り、中国革
命を援助し、日本改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟して、多くの
信奉者を得た。時、満州事変の前後、北の思想はファシスト化し、遂に二・二六事件を惹起する要
因となった。昭和十二年、北は首謀者として、銃殺刑に処せられたが、北の生涯を支えたのは奇し
くも法華経の信仰だった。という内容が案内板に書いてあった。大川周明による顕彰碑の文面は囲
いの中で、全く判読することができない。大川は、第二次世界大戦後の東京裁判において、(実録
フィルムを何度か見たが)裁判中に被告席で、前に座っている東条英機の禿頭を殴ったり、奇声を
発したり、服を脱いだりと、法廷内で失笑をかっていた。結局、大川は精神の異常を認められ、被
告席から外され、精神病院に入院となった。しかし、後から、あれは狂言だったのではないかとの
説もある。東京裁判で唯一、有罪とならなかった A 級戦犯である。病気回復後、病院内でイスラム
のコーランを全訳したという恐ろしい頭脳の持ち主であった。
世
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瀧泉寺のご朱印
仁王門
微笑観音
観音堂
瀧泉寺(目黒不動)を出て、参道前の商店街をぶらぶらと歩いて、山手通り(環状6号線)
に出て、目黒通り方向へ 300m 歩く。目黒通りの手前 200m を右に入り、住宅地を 300m ほど進む
と目黒川に出る。「太鼓橋」を渡ると右手が目黒雅叙園で、突き当りは大円寺。大円寺山門への道
は、大変急な坂で、山門はその坂の途中にあった。坂の名前を「行人坂」という。坂の由来は、寛
永年間、この辺りに巣食う住民を苦しめる不良の輩を放逐するため、徳川家は奥州(湯殿山)から
高僧行人(大海法師)を勧請して開山した。その後、不良の輩を一掃した功で、家康から「大円寺」
の寺号を与えられた。当時この寺に多くの行人が住んでいたため、いつとはなしに「行人坂」と呼
ぶようになった。目黒から江戸市中に通じる交通の要所でもあった。と云われている。目黒駅はこ
の坂を上り切って、すぐ先にある筈だ。途中だから、とりあえず、立ち寄ってみた。実は大円寺、
江戸三大火の二番目・目黒行人坂大火の火元のお寺だったのだ。図らずも、立ち寄ることができた
のは、もしかして、本日一緒に歩いた連れが導いてくれた?のかも知れない。山門を潜り、まずは、
目前の本堂で手を合わせた。境内の左手には、火事で焼死した人々の安寧を祈念した石仏群がぎっ
しり隙間もないほど並んでいた。確か、この火事では 1 万 4 千人以上の人が焼死している。
また、八百屋 お七の恋人吉三の生涯についても伺い知ることができた。江戸本郷の八百屋 お七の
悲恋物語の続きである。惚れた吉三に会いたい一心で自宅に火をつけたお七は処刑となったが、そ
の後、一方の主人公・寺小姓の吉三は僧侶となり、名を「西運」と改め、諸国を行脚した。後に、
大円寺下の明王院(現、目黒雅叙園)に入って、お七の菩提を弔うため、浅草観音まで往復十里(4
0キロメートル)の道のりを、夜から明け方にかけて、鉦を叩き、念仏を唱え、隔夜日参り一万日
の厳しい修行を、二十七年と五ケ月かけて成し遂げた。そして、お七が夢枕に立って成仏したこと
を告げられたことから、お七地蔵尊を造ったという。また、西運は多くの江戸市民からの浄財、寄
進をうけ、これを基金に行人坂に敷石の道を造り、目黒川に石の太鼓橋を架けるなど、数々の社会
事業を行ったと云われている。吉三の生涯はお七を想い、お七と民衆のために捧げ、命を全うした。
さて、
行人坂
円
大 寺の石仏群
黒川橋の石
目
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.二十二番札所 補陀山 長谷寺(
長谷寺(麻布大観音)
麻布大観音) 札所本尊
札所本尊 十一観世音菩薩
十一観世音菩薩、
観世音菩薩、 宗派 曹洞宗
奉拝日 平成二十六
平成二十六年五月四日、 所在地 港区西麻布 2-2121-34
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今日は昭和の日。そして、二十二番札所の長谷寺で三十三観音札所巡りが終了となる。有楽町線「千
川」から「有楽町」で日比谷線に乗り換え、「銀座」から「六本木」に到着。六本木通りの明治屋
方面に出て、六本木交差点を背にして、西麻布方面へ約 1.2km 歩く。途中「六本木6」交差点、
外苑西通りと交差する「西麻布」交差点を渡り、さらに進む。次の「高樹町」の三叉路の信号を右
に曲がると、正面 100m 向うに長谷寺(ちょうこくじ)が見える。山門を潜ると、広い境内の正面
に本堂、右手に大きなお堂がある。都心とは思えないほどの静寂さがある。大きなお堂は近寄って
みると観音堂だ。えっ!こんなに大きいの?と思いつつ、足を踏み入れた。何と、木像の大観音の
ご尊顔がビルの三階程の高さにあるではないか。見上げる首が疲れるほどの大きさだ。近くにネー
ムプレートを付けたネクタイ姿の男性がいたので、「大きいですね」と声を掛けたら、親切にいろ
いろ教えてくれた。大観音は高さ約10メートル(三丈三尺)。木像では国内最大級で、福岡県大
川市の樹齢六百年以上の楠の一本彫りで、昭和天皇妃・香淳皇太后様の御顔をモデルに、彫刻家・
仏師大内青圃が、昭和五十二年(1977 年)に作造した。正徳六年作の二丈六尺に及ぶ大観音像は
先の東京空襲で焼失した。京都にも、鎌倉にも長谷寺はあるが、宗派はそれぞれ異なるも、どの寺
も同じ十一面観音を祀っている、とのこと。三十三札所巡りの最後のお寺で、このような大観音に
出逢えたことに嬉しくなって、つい口が滑った。
「これで三十三札所巡りを完了するんです。」とい
ったら、
「おめでとうございます、」と笑顔で応えてくれた。そんな短い会話だったが、それだけで
十分だった。長谷寺では、今でも 30 人位の僧が修行しているのだそうだ。話しかけた男性は、三
日前に訪ねた高輪の高野山東京別院に建っていた真新しい聖観音の石像(今年の一月)を納めた石
材会社の方だった。いろいろ関連はしてくるものだ。いずれにしても、昭和の日に、昭和天皇妃を
モデルにした麻布大観音で、この三十三観音札所を完了できたことは、偶然でないような気もする。
長谷寺の縁起は、天正十九年(1591 年)山口重政が徳川家康に招聘され、江戸に上った際、現在
地(旧渋谷ヶ原)に拝領し、慶長三年(1598 年)、既に建っていた観音堂を基に、補陀山長谷寺を
創建し、菩提寺とした。開山は家康と親交のある門庵宗関(泉岳寺も開山)である。その後、溜池
にあった普陀山瀧雲院と合寺し、寺格を高めた。昭和二十年(1945 年)東京大空襲により、本尊、
寺諸共焼失したが、昭和五十二年(1977 年)再興された。
長谷寺のご朱印
山門
本堂
観音堂
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麻布
寄り道しながら 昭和新撰
大観音
振 返
三十三観音札所巡りを り って
麻布大観音を残しておいた訳ではないけれど、奇しくも昭和の日に三十三札所巡りを完了す
ることができたのは、嬉しい気持ちがする。はじめの目的どおり、歩くことが半分ということでい
えば、予定通りだったと思う。大半は我が伴侶と一緒に歩いたことも、よい思い出となる。ご朱印
帳は、札所番通りではなく、奉拝日順に記帳いただき、札所以外のお寺でもご朱印をいただいてき
た。今回の三十三札所巡りは、これからのスタートであり、今まで、仏教の知識や世界をよく知ら
ずに訪ねているため、観る視点や角度が表面的だったと思うし、目に見えるものしか観ていないの
ではないか、と感じている。日頃、生活に浸み込んだ仏教用語を知らず知らずに使っているけれど、
これを機会に、少し学んで行きたいと思う。また、継続して歴史散策などを続けたいと思っている。
いつか四国八十八霊場巡りもできたらいいなぁとも思っている。そして、沢山の寄り道をして、歴
史を振り返ったり、想像の翼を広げてみたり、胎内にある好奇心をさらに膨らませてゆければ、と
思っている。時空を超えて、当時の江戸の方々にもこのまとめをもって感謝したいと思う。
合掌
最後に
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