数理計算上の差異の償却年数と研究開発投資の関係

数理計算上の差異の償却年数と研究開発投資の関係
澤田成章
鹿児島大学法文学部経済情報学科
1 はじめに
本稿の目的は、数理計算上の差異の償却年数と研究開発費のボラティリティとの関係性を明らかにするこ
とである。こうした分析を行う背景には以下の 3 つの問題意識がある。
第 1 に、国際的に数理計算上の差異の会計処理が変革しつつある点が挙げられる。退職給付会計は財務会
計基準審議会(FASB)と国際会計基準審議会(IASB)の共同プロジェクトである 06 年から 08 年までの両
基準のコンバージェンスへ向けたロードマップに関する覚書(MOU)の項目の 1 つとして取り上げられた。
この取り組みの一環として、IASB は 2011 年の基準公表に向け、2008 年 3 月に国際会計基準第 19 号「従業
員給付」
(以下、IAS19)の改訂に係る予備的見解(以下、予備的見解)を公表した。予備的見解は遅延認識
の廃止を標榜し、数理計算上の差異の貸借対照表上での即時認識だけでなく、損益計算書上での即時認識も
提案している。その後、デュープロセスを経て 2011 年 6 月に公表された国際会計基準第 19 号「従業員給付」
の改訂基準書(以下、改訂 IAS19)は数理計算上の差異の遅延認識を廃止し、即時に貸借対照表上で認識す
ることとしている。しかし、改訂 IAS19 は、数理計算上の差異を損益計算書上では認識せず、その他の包括
利益として認識することを要求している。
こうした基準の変化を受けて、企業会計基準委員会(ASBJ)も退職給付プロジェクトのステップ 1 として
2012 年 5 月に企業会計基準第 26 号「退職給付に関する会計基準」
(以下、改訂基準書)を公表した。従来の
日本の会計基準では(
「退職給付に係る会計基準」企業会計審議会、1998 年 6 月)
、数理計算上の差異は原則、
遅延認識することとされてきた(三、 2、
(4)
)
。これに対して改訂基準書は「当期に発生した未認識数理計
算上の差異は税効果を調整の上、その他の包括利益を通じて純資産の部に計上する」
(24)こととしている。
「一方、数理計算上の差異及び過去勤務費用の費用処理方法については変更しておらず、従来通り平均残存
勤務期間以内の一定の年数で規則的に費用処理されることとなる」
(結論の背景、55)
。
改訂基準書は数理計算上の差異の損益への認識について留保しており、ステップ 2 へ持ちこされている。
数理計算上の差異の損益計算書上での認識とその経済的帰結は、今後の基準設定上の重要論点として残され
ていると言える。
第 2 に、数理計算上の差異の損益計算書上への影響が挙げられる。数理計算上の差異は「年金資産の期待
運用収益と実際の運用成果との差異、退職給付債務の数理計算に用いられた見積数値と実績との差異及び見
積数値の変更等により発生した差異」(退職給付に係る会計基準 一, 6)であると定義される。期待運用収益と
実際の運用成果との差異や数理計算に用いられた見積数値と実績との差異は、数理計算上の差異の発生原因
のうち、経営者によるコントロールが及ばない発生原因であると言えるだろう。この意味で、数理計算上の
差異の償却額は、損益計算書に対して経営者が予測できないボラティリティをもたらすものであると考える
ことができる。
筆者の調査によれば1 、数理計算上の差異の償却額は日本企業の税引前当期純利益に対して、平均して
3.18%の大きさがある。また、数理計算上の差異の当期発生額の税引前当期純利益に対する大きさは、平均
して 8.08%である。先に述べた通り、IASB を中心として数理計算上の差異を損益計算書上でも即時認識す
るアプローチが検討されている。その意味で、数理計算上の差異の当期発生額は数理計算上の差異の償却額
の利益に対する潜在的な影響を示す数値であると言える。また、研究開発費を取得することが可能な企業に
サンプルを限定し、その相対的な大きさを比較したところ、数理計算上の差異の発生額は研究開発費に対し
て約 35.4%の大きさであった。
研究開発費の約 3 分の 1 の大きさを持ち、経営者のコントロールの及ばない範囲で利益を平均して 3~8%
変動させる数理計算上の差異は、経営者の他の意思決定にどのような影響を及ぼすのだろうか。
表 1:利益に対する数理計算上の差異の大きさの分布
利益に対する
償却額
発生額
大きさ
企業数
構成比
構成比の累積
企業数
構成比
構成比の累積
0~1%
4758
23.7%
23.7%
2892
14.4%
14.4%
1~3%
4848
24.2%
47.9%
3054
15.2%
29.7%
3~5%
2555
12.8%
60.7%
1883
9.4%
39.1%
5~10%
3344
16.7%
77.4%
2904
14.5%
53.6%
10~20%
2422
12.1%
89.5%
2867
14.3%
67.9%
20~50%
1466
7.3%
96.8%
3255
16.2%
84.1%
50~100%
368
1.8%
98.6%
1625
8.1%
92.2%
100%以上
273
1.4%
100.0%
1554
7.8%
100.0%
第 3 に、日本企業の経営の時間軸が短期化しているのではないかとの懸念がある。たとえば、清水[2010]
は藤村[2002]の指摘を文部科学省による「科学技術指標」のアンケート調査に照らして解釈し、「企業は
基礎研究の割合をわずかに増やしていたとしても、その中身はより短期的な成果が求められるものへと変化
している可能性」があると指摘している(注 3)
。
株式会社テクノリサーチ研究所[2010]
(注 4)によれば、
「中長期的な研究開発(5~10 年程度)と、短
期的な研究開発(1~4 年程度)の費用の比率は 10 年前と比べていかがですか?」との問いに対して、
「中
1
NEEDS-FinancialQUEST を活用し、非金融企業の 2002 年 3 月決算から 2011 年 12 月決算の財務データ
を活用した分析を行った。サンプルの取得規準は、税引前当期純利益および数理計算上の差異の償却額が取
得可能な企業である。これらを対象に、数理計算上の差異の償却額(絶対値)および数理計算上の差異の当
期発生額(絶対値)をそれぞれ数理計算上の差異の償却額を足し戻した税引前当期純利益(絶対値)で除し、
その中央値を算出した。
1
長期的が増えている」と回答した企業は全体の 12.7%であったのに対し、
「短期的が増えている」と回答し
た企業は全体の 43.8%であった。
さらに近年、公正価値会計の拡大が、近視眼的経営を助長している可能性も指摘されている。加賀谷[2012]
は「保有資産・負債の公正価値評価による業績の変動の増大を意識せざるをえない企業経営者の多くは、以
前にも増してリスクに対しての意識が高くなりはじめている」点を指摘し、御立[2011]による四半期業績
や公正価値会計のプレゼンスの増大により、長期的な投資プロジェクトを実施することが困難になりつつあ
るとの主張を紹介している。
また、Suzuki[2012]の膨大なインタビュー調査では、東証一部上場企業の CFO(p. 44)をはじめとし
て、IFRS 導入と公正価値会計の拡大によって長期的な投資を行いづらいとする回答が見られる。
これらの指摘は、株式市場からのプレッシャーの増大や公正価値会計の拡大を背景として、日本企業が長
期的にリスクを抱えるプロジェクトに投資しづらくなっている可能性を示唆している。こうした観点から、
退職給付会計の導入やそこで求められる会計処理の在り様が、企業の投資行動にどのような影響を及ぼして
きたのかを明らかにすることは意義があると考える。
本稿の構成は以下の通りである。2 節では、数理計算上の差異と利益ボラティリティの関係性について実
態分析を行い、リサーチクエスチョンを導出する。また、導出された問いに対して先行研究がどのような研
究を行ってきたかを整理する。3 節では、検証仮説およびリサーチデザインを構築する。4 節では、検証に
用いるデータについて記述する。5 節では結果を提示し、追加分析を行う。6 節では結論と課題を述べる。
2 背景
2.1 数理計算上の差異のボラティリティ増幅効果と遅延認識
数理計算上の差異は「年金資産の期待運用収益と実際の運用成果との差異、退職給付債務の数理計算に用
いられた見積数値と実績との差異及び見積数値の変更等により発生した差異」
(11)であると定義される。
期待運用収益と実際の運用成果との差異や数理計算に用いられた見積数値と実績との差異は、数理計算上の
差異の発生原因のうち、経営者によるコントロールが及ばない発生原因であると言えるだろう。この意味で、
数理計算上の差異の償却額は、損益計算書に対して経営者が予測できないボラティリティをもたらすもので
あると考えることができる。
こうしたボラティリティは財務諸表利用者にとってノイズとなる可能性があるため、米国基準、日本基準
では原則として損益計算書上で遅延認識が求められてきた。
では、遅延認識はどのようにボラティリティの抑制に貢献するのだろうか。それには大きく 2 つの経路が
考えられる。第 1 に数理計算上の差異の発生額を複数年に按分する経路である。
「数理計算上の差異は、原
則として各期の発生額について、予想される退職時から現在までの平均的な期間以内の一定の年数で按分し
た額を毎期費用処理する」
(改訂基準書, 24)ため、1 年あたりの影響額を小さくすることにより、損益計算
書への影響を平準化することができる。
2
第 2 の経路は、数理計算上の差異の発生額を複数年分プールして相殺消去する経路である。数理計算上の
差異はその符号が正の場合も負の場合もあり得る。これらを相殺することにより、一時的な損益による影響
を小さくすることができる。
こうしたボラティリティ抑制効果の強弱は、数理計算上の差異の償却年数をどのように設定するかに強く
影響される。すなわち、償却年数を長く設定すれば 1 年あたりの償却額は小さくなるし、正負が互いに相殺
消去される可能性も高まる。
図 1 は 、 2002 年 度 か ら 2010 年 度 の 全 上 場 企 業 の う ち 数 理 計 算 上 の 差 異 に 関 連 す る 項 目 を
NEEDS-FinancialQUEST から入手することのできた日本企業を対象とし、数理計算上の差異を即時認識した
場合の利益と報告利益の標準偏差を比較したグラフである(注 5)
。
図 1 からは以下の 3 点を読み取ることができる。第 1 に、報告利益のボラティリティは償却年数が長いほ
ど抑制される傾向がある。これは遅延認識のボラティリティ抑制効果を反映していると考えられる。
第 2 に、即時認識利益のボラティリティは報告利益のボラティリティを上回る。即時認識利益のボラティ
リティを示す破線と実線とを比較すると、どのような償却年数を採用したとしても即時認識利益のボラティ
リティの方が高い。
第 3 に、報告利益のボラティリティと即時認識利益のボラティリティとの乖離は、概ね償却年数が長いほ
ど大きい。報告利益の標準偏差に対する即時認識利益の標準偏差の大きさを示す棒グラフに注目すると、償
却年数が 10 年に満たない場合には、抑制されるボラティリティは 5%以下となるが、11 年を超える場合に
は 12%以上のボラティリティが抑制されることが分かる。
図 1:数理計算上の差異の即時認識が損益計算書にもたらす追加的なボラティリティ(注 6)
(左軸:折れ線
グラフ、右軸:棒グラフ)
0.5
1.2
0.4
1.16
0.3
1.12
0.2
1.08
0.1
1.04
0
1
1年
2~4年
5年
6~9年
10年
SD即時認識利益/SD報告利益
SD即時認識利益/SD売上高
11~14年
15年
16年~
SD報告利益/SD売上高
3
こうしたボラティリティ抑制効果が、利益調整の目的で裁量的に活用されるのを抑止するために、償却年
数の変更には合理的な理由が必要となる。
「数理計算上の差異の費用処理年数は、発生した年度における平
均残存勤務期間内の一定の年数を継続的に適用する必要がある。したがって、一度採用した費用処理年数を
変更する場合には合理的な変更理由が必要となる」
(退職給付に関する会計基準の適用指針, 39)
。すなわち、
数理計算上の差異の償却年数を変更し、そのボラティリティ抑制効果を経営者が裁量的に活用することは容
易でない。
2.2 数理計算上の差異の認識アプローチの比較
数理計算上の差異の損益計算における認識アプローチは主として、①Profit and Loss method(損益を即
時認識)
、②Deferred recognition(遅延認識)
、③Equity method(損益計算に反映しない)の 3 つのアプ
ローチが俎上に載ってきた。
①Profit and Loss method(損益を即時認識)は、数理計算上の差異が発生する都度、純利益計算に反映
するアプローチである。
②Deferred recognition(遅延認識)は、数理計算上の差異を即時に純利益計算に反映させるのではなく、
複数年にわたって償却処理する考え方である。このアプローチは日本基準や米国基準が採用している。国際
会計基準においても、従来は遅延認識を採用し、数理計算上の差異を償却処理してきた。このアプローチを
採用する場合には、①のアプローチも認められるケースが多い。償却年数を 1 年に設定する場合には実質的
に即時認識となるためである。
③Equity method(損益計算に反映しない)は、数理計算上の差異を純利益計算に反映させず、包括利益
として認識するアプローチである。このアプローチは改訂 IAS19 によって採用されている。
IASB は退職給付プロジェクトに際して遅延認識の廃止を標榜してきた。たとえば、予備的見解において
は②のアプローチのみによって数理計算上の差異を損益計算に反映させることも提案していた。結果的には、
改訂 IAS19 はその他の包括利益に認識された数理計算上の差異のリサイクリングを禁じていることから、③
のアプローチを採用しているといえる。
図 2 はこれらのアプローチの違いを、純利益計算への影響の大きさという軸で整理している。数理計算上
の差異の純利益計算への影響がもっとも大きいのは①の即時認識である。遅延認識のメカニズムを用いない
即時認識では、数理計算上の差異のボラティリティは、開示されるだけでなくそのまま純利益計算に反映さ
れる。反対に、③の Equity method を用いる場合には、純利益計算には反映されない。したがって、数理計
算上の差異が純利益計算にもたらすボラティリティも無い。
②の遅延認識は、数理計算上の差異のボラティリティが純利益計算に反映される度合いという軸で考えた
場合には、これらのアプローチの中間に位置すると考えられる。すなわち、開示された数理計算上の差異が
ただちにすべて認識されるわけではないが、最終的には全会計期間を通じて純利益計算に反映されるアプロ
4
ーチである。また、2.1 節によれば遅延認識のボラティリティ抑制メカニズムは償却年数が長いほど強くな
るため、償却年数の長短によって①と③の間での位置づけが決定すると言える。
図 2:数理計算上の差異の認識アプローチの比較
大
数理計算上の差異
の認識アプローチ
数理計算上の差異のボラティリティの純損益計算への影響
①Profit and Loss method
(即時に損益認識)
②Deferred recognition
短
償却年数
長
小
③Equity method
(リサイクリング無)
日本基準
米国基準
各基準の求めるア
プローチ
IAS19
予備的見解
改訂IAS19
2.3 先行研究
先行研究では、主として数理計算上の差異の認識アプローチについて、①異なるアプローチによって生ま
れる財務諸表情報の違い、②異なるアプロ―チを選択する決定要因、③アプローチごとの資本市場からの評
価、を中心に証拠の蓄積が行われてきた。
①異なるアプローチによって生まれる財務諸表情報の違いに焦点をあてた研究には、シミュレーションを
行ってその特徴を議論するもの(たとえば、Amen[2007, 2008]
)や、財務諸表情報を加工することにより
その特徴を明らかにしようとするもの(たとえば、加賀谷[2009]
)がある。
その中でも、加賀谷[2009]は認識アプローチが利益属性に及ぼす影響を分析している。加賀谷[2009]
では報告利益と、IASB が予備的見解において提示した 3 つのアプローチに従って再計算された 3 つの利益
数値の利益属性を比較している。それによれば、6 つの利益属性のうち、適時性を除く 5 つの利益属性(利
益の持続性、予測可能性、平準化の程度、価値関連性、保守主義の程度)において報告利益が優れているこ
とが発見された。
②異なるアプロ―チを選択する決定要因に焦点をあてた研究は、欧州企業を対象とした研究の蓄積が多い。
Cole et al.[2011]および Morais[2008]は IAS19 の許容する 3 つのアプローチの決定要因を分析してい
る。その結果、国、上場取引所、規模、負債比率、産業、といった要因が会計処理選択の決定要因となって
いる可能性が高いことが明らかとなった。
③アプローチごとの資本市場からの評価を分析する研究では、投資家が年金収益をナイーブに評価してい
るとして、年金会計によるミスリードの存在が指摘されてきた(Coronado and Sharpe[2003]、Picconi
[2006]
、Coronado et al.[2008]
)
。
しかし、株式市場がこうした注記情報を投資意思決定に織り込んでいる可能性を示唆する研究も提示され
5
ている。Beaudoin et al.[2010]は資本市場による評価に対する説明力の違いから資本市場参加者による開
示情報の活用を明らかにしようとしている。その結果彼らは、財務会計基準書第 158 号「給付建て年金およ
びその他退職後制度に関する事業主の会計―FASB 基準書第 87 号,第 88 号, 第 106 号及び第 132 号(R)の修
正」の導入は投資家の意思決定を助けるものではなく、資本市場参加者は認識せずとも開示のみで十分に情
報を反映すると結論付けている。
資本市場参加者による価値評価に対する説明力によって、認識アプローチの優劣を検討しようとする研究
も行われている。たとえば、Hann et al.[2007]は未認識債務を即時認識する場合と遅延認識する場合とで
価値関連性および格付関連性を比較している。澤田[2011]は、Hann et al.[2007]をベースに、どのよ
うな場合に即時認識アプローチが有用となるかを分析している。それによれば、平時には遅延認識アプロー
チの情報有用性が高いが、数理計算上の差異が将来に相殺されないと考えられる状況(具体的には倒産可能
性が高い状況)においては即時認識アプローチの有用性が高いことが示唆される。
数理計算上の差異の認識アプローチがもたらす経済的帰結として、資本市場参加者の価値評価目的での情
報利用への影響の観点から分析した研究は多いが、認識アプローチの違いが企業行動に及ぼす影響に焦点を
あてた研究はほとんど行われていない。
Kiosse and Peasnell[2009]や Swinkels[2006]は欧米企業を対象とした分析を行い、退職給付会計基
準の導入に対して経営者が回避戦略を活用した可能性を示唆する証拠を提示している。このことは、数理計
算上の差異が利益計算に反映されることで、経営者が追加的なコスト負担を強いられる可能性を示唆する証
拠であると捉えることもできる。
この解釈に立脚すれば、数理計算上の差異の認識アプローチ選択のもたらす経済的帰結について、資本市
場参加者の観点からだけでなく、企業行動への影響という観点からも研究蓄積がなされることの重要性は高
いように思われる。
直接的に認識アプローチを比較分析するわけではないものの、開示された簿外の積立不足が企業の財務体
質や投資行動に及ぼす影響を検討する研究は存在する。
Bartram[2012]は、Shivdasani and Stefanescu[2010]が明らかにした簿外の積立不足による企業の
財務体質への影響を基に仮説を構築し、簿外の積立不足が負債比率を介して投資行動に及ぼす影響について
の国際比較分析を行っている。それによれば、退職給付債務が大きい場合には研究開発費の水準も高い傾向
が観察される一方、設備投資の水準は低い傾向にあることが明らかとなっている。この研究は、数理計算上
の差異の貸借対照表上での認識が企業行動に及ぼす影響を検討する観点からは重要な証拠を蓄積する研究
であると言える。
また、関連する研究としては、数理計算上の差異の償却年数と設備投資行動の関係性を明らかにする澤田
[2013]が挙げられる。しかし、数理計算上の差異の損益計算書上での認識アプローチの選択が企業の研究
開発費に及ぼす影響を分析する研究は、筆者の知る限り存在しない。
6
3 仮説とリサーチデザイン
では、数理計算上の差異の償却年数と研究開発費にはどのような関係性がありうるのだろうか。数理計算
上の差異の償却年数の長短は、損益計算書に混入するノイズの大きさと関連している。ここでノイズとは、
超長期で退職給付制度を運用した際には相殺されるはずの数理計算上の差異を指している。すなわち償却年
数が短ければ、将来に相殺されるはずの、キャッシュフローの変動を伴わない数理計算上の差異が費用処理
される可能性が高いと言える。
このノイズは、定義より、経営者にとってその大きさやベクトルを事前に想定することが困難である。そ
のため、損益計算書に混入するノイズが大きければ、それだけ経営者の考える目標利益、あるいはステーク
ホルダーとの関連性の中で決定される目標利益達成の不確実性が大きくなると考えられる。
たしかに、数理計算上の差異の償却年数は、経営者が設定した合理的な年数である。その観点からは、予算
編成の足かせとなるような数理計算上の差異が損益計算書に混入すると想定することは合理的でないかも
しれない。しかし、数理計算上の差異の償却年数は会計操作を抑制する観点から、合理的な理由がなければ
変更することができない。筆者の調査によれば、数理計算上の差異の償却年数を 2 年分取得することのでき
る企業サンプルの内、償却年数の変更があったのは約 5%であった。したがって、償却年数の変更は 20 年に
1 度程度の稀なイベントであると考えられる。
昨今の経営環境の変化は目まぐるしく、20 年間同じ償却年数でありつづけることが合理的であるかは疑わし
い。そのため、設定当初の経営環境にとっては合理的であった償却年数が非合理的となり、足枷となってし
まった企業が存在する可能性が想定される。では、損益計算書に許容しがたいノイズが混入してしまった場
合、どのような問題が発生するだろうか。
損益計算書に許容しがたいほどのノイズが混入して目標利益達成の不確実性が高まった場合、予算編成に
制約が生まれるだろう。他の費用項目がある程度の遊びをもった予算設定になっていなければ、目標利益が
達成できない可能性が高まってしまうためである。須田・花枝(2008)によるアンケート調査によると、目
標利益が達成されない場合には経営者は「広告費や研究開発などの裁量的支出を減らす」あるいは「設備投
資や新規事業を延期または減額する」といった方法を講じる傾向がある。この結果から、目標利益が達成で
きない可能性が高まった場合には、経営者は広告費・研究開発・設備投資に「遊び」を持たせることによっ
て、目標利益が達成されないリスクを軽減する可能性があると思われる。
こうした投資活動は、長期的に投資を継続することによって価値度創造に寄与するタイプの投資活動と、
環境変化に応じて弾力的に金額を変化することのできる短期的な投資活動の 2 タイプを想定することができ
るだろう。この 2 タイプの中で考えると、長期的に投資を継続することで価値創造に寄与する投資の割合が
高ければ、目標利益達成のために投資を削減・延期することは困難であると考えられる。したがって、目標
利益が達成されないリスクが高い企業は、長期的な投資計画に予算を割り振ることを躊躇する可能性が高い
と思われる。
長期的な投資活動に割り振られる予算の多寡を測定する指標としては、投資ボラティリティを挙げること
7
ができる。長期にわたって継続的に行われる投資に予算が多く割り当てられていれば、それだけ投資金額の
ボラティリティは低くなるだろう。
これらの推論を包括して、以下の仮説を設定する。
仮説:数理計算上の差異の償却年数が短い企業ほど、投資ボラティリティが高い
この仮説を検証するために、投資ボラティリティを従属変数とする以下のモデルを設定し、重回帰分析を
行う。
SDINV  αβ1 LEV β2 INV_LEVEL β3MTB β4 SIZE β5 SDROA
・・・式 1
β6 SDCASH β7 ROA β8 AMO _ TERM ε
SDINV…研究開発費の過去 5 年分の標準偏差(年・産業調整済み)
LEV・・・負債比率(負債合計/総資産)の過去 5 年分の平均値
INV_LEVEL…過去 5 年間の研究開発費の平均値
MTB・・・期末株式時価総額/期末純資産の過去 5 年分の平均値
SIZE・・・総資産の過去 5 年分の平均値の自然対数
SDROA・・・税引前当期純利益/総資産の過去 5 年分の標準偏差(研究開発費を足し戻し)
SDCASH・・・過去 5 年間の営業キャッシュフロー/売上高の標準偏差
ROA・・・(税引前当期純利益+研究開発費+退職給付費用)/総資産の過去 5 年分の平均値
AMOTERM・・・数理計算上の差異の償却年数の自然対数
上記モデルを重回帰分析するにあたり、NEEDS-FinancialQUEST から取得したデータを活用する。データ
の取得規準は以下の通りである。
①2005 年から 2010 年までに上場する、金融業以外の日本の上場企業である
②数理計算上の差異の償却額を取得することが可能である
③過去 5 年分の財務データを取得することができ、過去 5 年分の平均値や標準偏差を変数として活用する
ことが可能である。
上記規準に従ってサンプルを収集し、各変数について上下 1 パーセンタイルをウインザライズした結果、
サンプルサイズは 6,875 年・社となった。各変数の記述統計量は表 2 の通りである。
8
表 2:記述統計量
SDINV LEV
最大値
0.109 1.061
INV_LEVEL MTB
SIZE
SDROA ROA
SDCASH AMOTERM
0.282 17.207 16.468 0.159
0.367
0.393
3.258
第 3 四分位 1.091 1.091
1.091
1.091
1.091 1.091
1.091
1.091
1.091
中央値
0.670 0.670
0.670
0.670
0.670 0.670
0.670
0.670
0.670
第 1 四分位 0.419 0.419
0.419
0.419
0.419 0.419
0.419
0.419
0.419
最小値
0.000 0.037
0.000
0.208
7.971 0.001 -0.099
0.002
0.000
平均値
0.003 0.509
0.024
1.179 11.141 0.021
0.068
0.033
2.096
標準偏差
0.005 0.195
0.028
0.846
0.047
0.024
0.668
1.332 0.017
4 結果
式 1 を重回帰分析した結果、各変数の係数は表 3 のように推定された。MTB 以外の変数はすべて統計的に
有意である。AMOTERM の係数は有意な負の値である。このことから、数理計算上の差異の償却年数が短い
企業ほど研究開発費のボラティリティが小さく、逆に数理計算上の差異の償却年数が長い企業ほど研究開発
費のボラティリティが高いことが示唆される。
このことから、数理計算上の差異の償却年数を短く設定する企業においては、遅延認識によるボラティ
リティ抑制メカニズムのはたらきが弱いことから予算制約が生まれ、研究開発費の金額を調整することによ
って利益調整を行わざるを得ない可能性が示唆される。
表 3:係数の推定結果
係数
有意確率
LEV
0.027
0.069
INV_LEVEL
-0.133
0.000
MTB
0.016
0.286
SIZE
-0.168
0.000
SDROA
0.138
0.000
SDCASH
0.138
0.000
ROA
-0.066
0.000
AMOTERM
-0.037
0.002
調整済 R2
12.39%
9
5. まとめと結論
本稿の目的は、数理計算上の差異の償却年数と研究開発費のボラティリティとの関係性を明らかにするこ
とである。こうした分析を行う背景には以下の 3 つの問題意識がある。
第 1 に、国際的に数理計算上の差異の会計処理が変革しつつある点が挙げられる。第 2 に、数理計算上の
差異の損益計算書上への影響が挙げられる。第 3 に、日本企業の経営の時間軸が短期化しているのではない
かとの懸念がある。
こうした問題意識を背景として、本稿では、数理計算上の差異の償却年数が短い企業ほど、投資ボラティ
リティが高いとの仮説を設定し分析を行った。
重回帰分析の結果、他の変数の影響をコントロールしたとしても、研究開発費額のボラティリティと数理
計算上の差異の償却年数との間には、有意な負の関係が観察された。
このことから、数理計算上の差異の償却年数を短く設定する企業においては、遅延認識によるボラティリ
ティ抑制メカニズムのはたらきが弱いことから予算制約が生まれ、研究開発費の金額を調整する可能性が示
唆される。
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