特集: 社長の条件

← HPトップページ
http://www.sciencehouse.jp/
特集: 情報社会学、予見と戦略
連載トップ http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2006/07/1_40eb.html
連載収録(1)∼(5)まで
これは、社長ブログからの抜粋である。
ボケると神がかりのことを言ったりするそうなので、このシリーズが登場した
ときにはびっくりした。いよいよ怪しい、社長交代を早めなければ、と内心思
ったスタッフは少なくなかったに違いない。しかし、よく読んでみるとそうと
はいえないし、これを読んで感想を寄せてくれる社会学の権威の皆さんも、ど
こか一目置いている様子なのにはまた驚いた。2 重に驚かされたわけだ。
よく読むと、たしかに、直接書かれてはいなくとも、かなりたくさんの事実集
積の上に核心を突いた分析をしていることが感じられる。 今われわれは「戦
争の時代の直前」にいる などと平然と書いてしまっているので、一気に胸が
えぐられる。情報技術の発達と社会の変化という枠内で、理由が淡々と書かれ
ている。これは政治学や社会学ではないし、まして政治活動や社会運動でもな
い。情報ビジネスの世界を長年戦い抜いてきた老兵士が、目を細めて未来を眺
めて、われわれに生き残りの戦略を授けようというものであるらしい。
さて、社長は自分の意見を持たない社員は嫌いだといつも言っている。このシ
リーズもありがたく拝読しつつ、内心では(少しだけ)自分の反論を組み立て
たいと思う。できるかな、・・・。
(SH Web Master)
(補 1)この記事を引用または翻案して、公的に発言または発表される場合は、
事前にメール等でお知らせください。
(補 2)社長の個人ブログは下記の通りである。今も記事は書き続かれている。
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/
-----------------------------------------------------------
(1)「情報組織学」から「情報社会学」へ
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2006/07/1_40eb.html
1
2006/7/15
「情報組織学」から「情報社会学」へ--情報社会学、予見と戦略(1)
これまでも、情報組織学に関しては研究発表もしてきたし、このブログにも記
事をいくつか書いてきた。
「戦略的情報組織学」,SH情報文化研究会,2005.4.23
組織を活かす力、改革する力--社長の条件(6)
戦略的情報組織学(再論)--社長の条件(8)
話力は組織を作る、永崎一則氏の発言から--社長の条件(13)
組織破断限界シミュレーションの試み--感性的研究生活(5)
「組織破断限界シミュレーションの試み」,SH情報文化研究会,2005.12.10
「"一人にしない" 情報コミュニケーションシステム」へ、新春に思う--社長の
条件(18)
情報コミュニケーションの社会性="影響関係"--感性的研究生活(11)
「組織と情報コミュニケーションにおける影響関係モデルの提案」,情報コミュ
ニケーション学会,2006.2.26
これらの記事を書きながら、私は、一方で、いまひとつもどかしいものを感じ
ていた。
情報"社会"学に向かう私の心に手かせ足かせがついているということだった。
私の長い長い精神(こころ)の漂流は、愚かしいことと思われるかも知れない
が、私なりの精一杯の生き様だった。社会人となって以来、私は長く、「社会」
や「政治」という世界や言葉に嫌悪し、恐れ、遠ざかってきた。固く封印して
きたと言ってもいい。同級生(故人、保守系無所属)の選挙を手伝ったり、議
会での演説草稿を書いてあげたりということはあったが、友達づきあいの範囲
と割り切ってきた。彼は例外と言っても良かったが、少なくとも彼以外の「政
治」は、テレビとは違って今でもあまりにも暴力的で汚れている。今の私の手
には負えない。手を出せばわが身だけではなく家族の身の安全も守れないだろ
うと思う。今後も決して本気ではこの世界にかかわることはないだろう。それ
を臆病というならばいいたまえ。
かかわりなくとも、危険は身近にあるのである。
「妻が車に撥ねられる」シリーズのトップページ
しかし、今の社会がどこから来てどこに向かうのか、人はどこから来てどこま
で行くのか、というのは(ほかの多くの子供たちと同様に)子供のころから私
の心を捉えて離さないテーマだった。なぜ自分が大学で理工系を専攻し、今も
エンジニアを生業としているのか不思議なくらいである。今の心の動きは、あ
2
まりにも子供じみた感傷かも知れないとも思う。しかし、もうとまらない。私
はビジネスと教育の分野で情報システムに半生をかけた実績の上に、情報社会
学の世界にもささやかに発言を試みたいと思うのである。ここでも先人の皆様
のお叱りをたくさん承ることになるだろうと覚悟をしている。
なにとぞ、暖かくご善導賜れば幸甚です。
「情報組織学」から「情報社会学」へ。
今、私は、「情報社会学、予見と戦略」シリーズを書き始める。
琵琶
-----------------------------------------------------------
(2)人類社会は次の激動再編へ
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2006/07/2_8d37.html
2006/7/16
人類社会は次の激動再編へ--情報社会学、予見と戦略(2)
私は、早くから 1980 年ころから始まる高度情報化社会は「参加型市民社会」の
時代であることを指摘してきた。
この図は昔私が奉職した大正大学での講義用に作成したものである。
「ホスト-端末」といわれたシステムが幅を利かせていた時代は、社会組織は主
3
として軍隊を手本に組織されていた。企業も例外ではなく、指揮官である職制
が命ずることに逆らうことは基本的に許されなかった。時は大量生産時代、大
規模工場でベルトコンベアーが人々の作業速度も制御していた。コンピュータ
には、
「社内ルールの徹底」という任務が課せられていた。いわく「コンピュー
タがこうなっているので、このやり方をしてください。そうしないと小口現金
も清算できません」などという具合に、社内ルール徹底の最大の口実になって
いたのである。コンピュータは理不尽な巨人として社員の前に常に立ちはだか
っていた。
1980 年ころ、マイコンブームが始まる。マイコンブームはマイコンという技術
があったから始まったわけではない。社会が理不尽なコンピュータを嫌ったこ
と、企業は社員の創意工夫を結集能力を持たないと競争に勝てなくなってきた
ことが、その背景である。事務職の現場では、伝票の転記作業に代表される「固
定姿勢、単純反復作業」が大量の若い事務員を必要としていた。彼らの多くは、
短期間で体を壊して職場を去っていった女子事務員である。一日中「固定姿勢、
単純反復作業」に追われる彼女らは、「ひどい肩こり」「腰痛」--「頸肩腕症候
群」という病気にもなった。
「頸肩腕症候群」とは、一部の職種では「キーパン
チャ病」ともいわれた病気である。
「頸肩腕症候群」に罹患すると、重篤の場合、
首の周囲の筋肉が壊死して硬くなり、血管を圧迫するために脳の血流が減少し、
廃人同様になるケースも発生した。マイコンは、企業の効率化の論理によって
歓迎されただけではなく、事務員の生理的苦痛からの解放という切実な要求に
支えられて普及して行ったのである。
「人に近づくコンピュータの時代」(1980-1990)
「人類の共生を支援する情報技術の時代」(1990-2000)
「自己実現を支援する情報技術の時代」(2000-2010)
という一連の言葉は、いずれもそれぞれの時代の始まりのころ、私が作ったも
のである。
「人に近づくコンピュータの時代」という言葉は、当時中小企業大学
校(当時の通産省、現経産省の管轄)で情報系の技術研修と経営研修の講師を
務めていたおかげで、受講生たちが本務部署(省やその関連の団体、試験所、
検査所など)に帰って、
「人に近づくコンピュータの・・・」という助成金事業
や開発支援事業を大規模に展開したために言葉としては一番普及したかもしれ
ない。
「人類の共生を支援する情報技術の時代」とはインターネットの商用利用が普
及する時代だった。ちょうどこのころ私は大病からの復帰を契機に、元 NHK 教
育テレビのディレクタだった桜井教授のお誘いで大正大学に奉職することにな
り、この標語を掲げてこの大学で初めての情報関連講座をひらくことになった。
3 年ほどしたところで、
「共生」という言葉が大正大学ではイメージワードとし
4
て建学のころから使用されていることを知った。大正大学への奉職では、偶然
がいくつも重なった。大学に初めて訪れたとき、迎えてくれたのは年長のいと
こ(仏教学部の教授、後に文学部長)だったのも、ご縁ではあろうけれど直接
の手引きというわけではなかったので、まことに不思議な偶然であった。
1997 年ころ、情報化の進展が、このような言葉で表されるある種の階段を上る
ように発展することに、私は関心を抱いた。以前からやぶにらみ的関心分野で
あった心理学の世界の「マズローの欲求 5 段階発展説」を当てはめてみると見
事にはまるかのごときに見て取れた。この関係も上図には書き込んである。し
かし、
「マズローの欲求 5 段階発展説」は、あくまでも「仮説」であり、しかも
すべてに当てはまるわけではない。これも偶然の産物なのかも知れない。した
がって、私は、あくまでも「まるで、マズローの仮説が当てはまるかのように、
社会の情報システムは発展している、、、発展したきた」と説明することにして
いる。
5 つの段階はほぼ 10 年ずつからなり、各段階は前後 5 年程度の重なりを見せな
がら次々と情報化の階段を上ってゆくことがわかったのである。上図を仕上げ
たのは 1998 年のことだったと思う。
1980 年ころにはじまった高度情報化の波は、30 年程度の間に一気にこの 5 つの
段階を駆け上ってきたのである。残りはわずか(4-5 年)である。
さて、この市民参加型社会の後にくるものは何なのだろうか、またしても暗黒
の時代なのだろうか。
「人類社会」または「地球社会」の成立だろうと、私は大
胆不敵に捉えることにした。
「人類社会」または「地球社会」の成立の法が早い
か、地球や人類の破滅を意味する核戦争が早いか、それは私にはわからない。
競争関係にあることは事実だろう。
「人類社会」または「地球社会」の成立が早
ければ、地球や人類の破滅は避けられる。核戦争が早ければ、
「人類社会」また
は「地球社会」の成立する前に、人類は滅びてしまうだろう。
人はいろいろなとき、世界政府の成立という夢物語を語ってきた。世界政治の
世界でも第一次国連、第二次国連がそのように期待されたこともある。SF の世
界では、もっと華々しい。しかし、現実には、国や地域を越えた本当の社会は
まだできていないし、そのための基盤もないのである。政治は社会の発展なく
して理想だけでは実現しないのである。職場や地域、家族を基盤にした行政組
織や経済組織が磐石である。これは同位置性に基づく単位組織の形成にその根
拠が存在する。だからこそ、海や川、山脈などで仕切られた国境の意味があり、
これを超えられないのである。単位組織の「同位置性」こそが、世界政府の成
立という夢物語を根底から裏切ってきたのである。
5
上図は無理やり縮小したので見にくいが、現在の社会構造を端的に表現した私
のモデル図である。学会発表としては今年の情報コミュニケーション学会で使
用したのが初めてであるが、このモデル図は昨年(2005 年)5 月ころから私の
授業で使用しているものである。
人は、一人で同時に、家族、地域の行政組織、サークル、大学、職場、など多
様な組織に属していること、どの組織も 3-7 名程度の単位組織から構成されて
おり、巨大組織と言われるものも単位組織が 3-7 個ずつ階層的に積み上げられ
たものになっていることを示している。どの組織も構成員が次々と入れ替わる
が、それぞれの組織としての性質には机辺的な変化は生じない。組織は定常流
的実在である。階層的に積み上げられる組織の形式をメタ組織関係という。一
方、しばしばメタ組織の枠組みを越えて、人や単位組織はネットワークを構成
する。社会はメタ組織関係とネットワーク関係がいわば社会の縦糸と横糸のよ
うに構成されている。健全な社会はメタ組織関係とネットワーク関係がバラン
6
スよく内包されている。
すべての単位組織は、メタ組織関係を通じて国民国家に統合されているのが、
今日の社会の特徴である。この形態は二つの世界大戦を経由して成立したもの
である。たとえば、企業は、
「班」や「グループ」と称される単位組織(3-7 名)
を 3-7 個集めて「課」に統合し、3-7 個の「課」をまとめて「部」を作る。
「部」
は同様にして事業部に統合されたり、「分社」にまとめられる。これらが 3-7
個集まって企業となっている。企業は業界団体に集められ、業界団体は国の行
政によって指導されている。また、お楽しみの組織であっても事情は似ている。
テニスサークルを例に取れば、地区連合会、県連を経て、全国連合となり、文
部科学省に統括される。
国民国家はいずれの国でも多様な民族を内包するが、海岸線や河、山脈など自
然の境界によって分けられている。物資とお金の流れは国境を容易に越えてゆ
くし、人の行き来も多い。多国籍企業も珍しくない。しかし、本質的に越えて
いないものがひとつあるのである。わずかな例外を除けば、人の集団を成す基
礎的要素=単位組織が基本的に国境や地域を越えては構成されていないのであ
る。単位組織が成立するためには、そこに参加する 3-7 人が同一位置に局在し
ていなければならないのである。単位組織が同一の民族である必要はない。血
族や家族の目的をともにして組織としての相互信頼が成立していれば単位組織
になりうる。しかし、同一の場所にいなければ単位組織にはならないのである。
この制約があればこそ、国民国家が海岸線や河、山脈など自然の境界によって
分けられて成立するのである。
さて、近い将来、単位組織の成立要件として同位置性という制約がなくなった
ら、どんなことが起こるのだろうか。地域やオフィスという制約を離れた企業
やボランティア団体が飛躍的に増えるだろう。そのようなものは今でも存在す
るのだから、新しいことではないと言うものもいるだろうが、その比率が圧倒
的に逆転するのである。今は地域やオフィスという制約の下に成立している企
業やボランティア団体が圧倒的多数を占めていて、その制約を離れているもの
は、珍しい存在してテレビに取り上げられるほどなのだ。これからの変化はそ
の比率を逆転する。質の変化は圧倒的な量によって気づかされることになるは
ずである。
こうなれば、地域行政や国の行政が把握できない経済組織(企業など)や諸団
体(スポーツ、芸能、芸術、宗教など)、政治的・社会的組織(政党、組合、…)、
反社会的組織(ヤクザ、マフィア、カルト、…)、が地域や国境をまたがって自
在に編成されるようになる。これらの組織を束ねる上部機関(メタ組織)は、
どの国にも所属しないものになりがちになるのである。社会は国ごとの社会(日
本の社会、アメリカの社会、中国の社会、…)ではなく「地球社会」
「人類社会」
7
という様相を強めるだろう。国民国家が社会組織を掌握し得ない事態となるの
である。
とはいえ国民国家は急にはなくならない。当面の間は、いろいろな対策を講じ
てこのままの組織を維持しようとするだろう。一方の社会組織は「国家は一人
のことを扱うには大きすぎるが、世界のことを扱うには小さすぎる」と不平を
鳴らし、国民国家にはもっと小さな政府であることを要求し続けるだろう。そ
の軋みは、さまざまな問題を引き起こすだろう。新しい社会の海の苦しみであ
る。他方では、新しい(地域や国境を越えた)単位組織の上部機関(メタ組織)
は安全保障と政策的調整役としての新しい上部組織を要求するだろう。これは
世界に群雄割拠と不安定をもたらすに違いない。この時代を人類が努力してそ
こそこの平和を維持して乗りれきることができれば、世界政府というようなも
のが成立するかも知れない。そうならなくとも、少なくとも国民国家は今まで
の社会の最上位の地位を失い、
「地球社会」または「人類社会」の下に位置せざ
るを得なくなるだろう。
2010 年からの 30 年(一世代の時期)は、おそらく、国民国家の力が弱くなり、
「世界社会」
「人類社会」という様相が強まり、世界的群雄割拠が進み、軍事的・
国際政治的不安定の時期を経験するだろう。社会の仕組みはガラガラと変化し、
若者たちのビジネスチャンスは大きく広がるだろう。情報システムは単位組織
の同位置性(局在性)を前提とする現行のものがすべて役立たなくなり、単位
組織の非局在性を前提とするものに作り変えられることになるだろう。情報シ
ステムにかかわる企業や人材にチャンスはまた大きくめぐってくる。社会の変
化を見間違えなければ、私の若き後継者や教え子たちには活躍の場が大きく広
がるはずである。
さて、私の年齢からすれば、2010 年ころから始まる数十年の世界史的不安定・
発展期が終わるまでの間に、おそらく私は人生を終えているに違いない。私の
予言が正しかったかどうかを私が知るのは難しそうだが、私の若き後継者や教
え子たちは、その歴史過程を全力で走りぬけ、世界的不安定を何とか人類滅亡
の危機にいたらせぬ知恵を持って切り抜ける責任と勇気が嫁せられているので
はないだろうか。
ゆけ、若者よ。勇気をもって。
満 60 歳の記念に。
琵琶
-----------------------------------------------------------
8
(3)人類社会成立の予兆、ミクシィ・WEB2.0 など
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2006/07/web203_528a.html
2006/7/17
人類社会成立の予兆、ミクシィ・WEB2.0 など--情報社会学、予見と戦略(3)
直前の記事で私は、「地球社会」または「人類社会」の到来を予告した。
単位組織の非局在性(社会の単位組織が同一場所を共有することを前提としな
い成立を見ること)によって、地域や国民国家を越えた上部機関が成立し、国
民国家が相対的に非力化されると予言した。国民国家は当面の間なくならない
としても結果として国民国家ではない地球規模または人類規模の上部組織の成
立の可能性にもふれた。
このようなことを言う根拠はといえば、なるほどきわめて脆弱である。社会の
情報システムの動向をじっと観察し、行く末を見据えてきた老人の目には、そ
の先の未来も見えてくるのだと言うしかないのかも知れない。
私は、かつて、中小企業大学校で技術研修と経営研修の講師だったが、1989 年
の秋、教室の中で、私は「東ドイツの鎖国政策は終わりを告げる。東西ドイツ
の境は取り払われ、ベルリンの壁が撤去される日も近いだろう」と述べた。当
時、始まったばかりのインターネットを介した国際的情報のトラフィックは急
激な増加を見せていた。ルーマニアなどの東欧に逃れた東ドイツの人々が大挙
して西欧に脱出する状況もメールには流れてきた。
「ハンガリーから昨日脱出し
た東ドイツの市民は 5 万人だったが、今日は 10 数万人に達した可能性がある」
などの臨場感あふれる生の情報が流れてきた。市民は、東ドイツのエリートが
ひそかに流す脱出ルートの情報を手に東欧に向かっていた。東ドイツのエリー
トの多くは東ドイツの現状に絶望していた。ソビエト軍の駐留だけが社会の暴
発を抑止していた。それもいつまで持つのかわからなかった。東ドイツの情報
閉鎖と国境での銃撃だけでは、もはや人々が国境を越えるのを阻止することは
不可能だろうと思われた。私は東欧圏の専門家でもなかったが、ネットを通じ
て聞こえてくる膨大な情報の洪水に耳を傾けていると、不思議にそこには時代
の新しい動きの核心に触れる何かがはっきりとしてきたのである。
「インターネ
ットの成立によって、情報操作だけで国家を維持できる時代は本質的に終わっ
た。まもなく、事態が動くだろう」と私は確信していた。東ドイツの一般市民
はまだインターネットに無縁だったが、エリートたちはインターネットを介し
た西欧との交信に命を削っていた。西欧の脱出支援ボランティアもさまざまな
9
支援の手を差し伸べていた。
1989 年 11 月 9 日に東ベルリンの壁は若者たちの手によってハンマーなどで壊
され始めた。警備兵の銃弾は数発に過ぎなかったと言われている。
それまでは、
壁を越えようとしたたくさんの市民が高圧電流に手足を焼かれ、次々に銃弾に
倒れたその地は歓喜の声を上げる膨大な市民によって埋め尽くされていた。西
欧のメディアは、
「まったく予想もしなかった事態が、今、目の前で起きていま
す」と絶叫した。日本のテレビクルーは、西欧のテレビクルーよりも 20 時間は
遅れを取って現場に到着しただろう。
私の講義に出席していた当時の通産技官や通産事務官の何人かは、あわてふた
めいて、私のところに電話をかけてきた。「どんな情報があったんですか」「な
ぜ知っていたんですか」
・・・。私は「いえ、特に情報を握っていたわけではあ
りません。社会が動くとき、情報も動くのです。特に情報システムが動くとき
には社会も動くときなのです」と回答したのである。
ここでは 17 年前の出来事を振り返るのが目的ではない。今、私は、4-5 年後に
始まるであろう人類史的変動について予想して述べているのである。情報シス
テムに半端でなく取り組み、命がけでかかわってきて、今も激しく取り組んで
いる自称「システム棟梁」の爺の目には、紛れもなく、その変動が見えてくる
のである。だれも予想しなかったベルリンの壁が倒れるのを予見したときのよ
うに。
「地球社会」または「人類社会」の到来の予兆のいくつかはすでに現れている。
---------------------------------------------1)ミクシィ(mixi)が 2 チャンネルを越えた。
http://www.networkworld.com/news/2006/062806-sns-google.html
2006 年/06 月 27 日
http://www.asahi.com/business/update/0628/135.html
2006 年 06 月 28 日 19 時 16 分
2)WEB2.0 は人類の協調分散を支援する。
http://blogs.itmedia.co.jp/web15/2005/08/web20_8a41.html
http://www.sophia-it.com/category/web2.0.jsp
3)アジャイルソフトウエア開発・オープンソフトウエア開発
4)「世界政府というものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないは
ずのシステムは、すべて Google 社で作る。それが Google 開発陣に与えられた
ミッションなのだよ。」伝グーグルの幹部)
----------------------------------------------
10
1)mixi が 2 チャンネルを越えた
このニュースは、関係者の間に衝撃を与えた。
「2 チャンネル」という毒々しく
も甘美なアングラ世界は、いったんその地位を確立してしまうとそう簡単に突
き崩せないと考えられていた。いわば「悪貨は良貨を駆逐する。その逆は困難
だ」と思われていたのである。
引用した報告やニュースを見ても、また関係者の多くも、「参加条件限定型の
SNS の躍進」という捕らえ方をしていて、私から見れば大いに不満だった。彼
らは WEB ビジネスの「いいネタ探し」
という話題の範囲を超えていないかった。
このニュースは、日本のユーザが WEB サイトに滞在する時間の総数を比較した
もので、トップはヤフー、2 番は楽天、3 番目に「参加条件限定型の SNS のミ
クシィ」が登場した、というものである。昨年の統計では、ミクシィは 10 位前
後だったので、確かにこれは大躍進である。このこと自体に驚異を覚えても、
それは正当というものではある。
しかし、私は、この中に、それだけでは済まないある種の予兆を見出している
のである。
「2 チャンネル」というのは、セックス産業といういわばアンダーグラウンド
ビジネスの支持と資金援助を受けて成立した巨大な情報ビジネスであった。「2
チャンネル」は情報産業の保守性、権力の秘密主義に大きな風穴を開けてくれ
た。ウソもホントも大量に存在するさまざまな「板(ボード、スレッド、話題
別の掲示板)」から、行政の腐敗や教授の不正を嗅ぎ取った人も多かった。一方、
根も葉もない悪口の流布によって被害を受けた人たちもいる。裁判も多数起こ
されて、いわば満身創痍状態とも言われている。
新しい秩序の前には、古い秩序が壊されるプロセスがある。旧秩序の破壊と新
秩序の創造が同時に進行すればハッピーだが、時として破壊が先行する。岡留
氏の雑誌「うわさの真相」と「2 チャンネル」は、よくも悪くも華々しく旧秩
序の破壊をやってのけた時代の先駆者である。
岡留氏の「うわさの真相」は廃刊となり、「2 チャンネル」だけが残っている。
「2 チャンネル」は、従来の社会の区分を無視し自由な発言空間を提供してユ
ーザの支持を獲得した。社会の単位組織とその上部構造という社会の成り立ち
を一切無視したところに破壊者としての面目があった。その代わり、悪意ある
ものも自由に入り込むことができ、2 チャンネラと呼ばれるこの世界に精通す
る常連以外の発言は袋叩きになることが多かった。これを理不尽と思う人もい
るわけで、多くの良識ある市民は敬遠した。また、
「2 チャンネル」は、時に犯
罪にも利用されたり、特定の人々の意と利益に副わないという理由だけで善良
な人を血祭りにする「マツリ」が起こったりもした。身の安全に気を使わざる
11
を得ない女性の発言は極端に少なく、殺伐とした言葉のやり取りが多かったよ
うに思う。
ミクシィは紹介者なしには参加できない仕組みをもち、情報開示の範囲を「友
達の範囲」や「友達と友達の範囲」などに限定することができる。社会の仕組
みを完全に映したものではないが、身元や人柄の知れた「友人」の範囲などに
情報共有を限ることができるという大きな特徴を持っている。男たちも、そし
て女の子たちもこぞって「安全な 2 チャンネル」といわれるミクシィに参加し
ていった。1987 年ころから始まって大盛況を続けていた日本の女の子たちの
WEB 日記も、今年の 2 月ころから日記サイトやブログサービスからめっきり少
なくなり、ミクシィへの大移動が観測されていた。
「2 チャンネル」から「ミクシィ」へのユーザの移動は、
「単位組織を持たない
フラットな巨大情報空間」から「曲がりなりにも(安全な)単位組織をもつ複
合的情報構造空間」への移動である。
これは、社会構造を映すバーチャル空間がやがて本格的に成立する予兆である
と私にはみえるのである。人と人の結合(社会の最小単位である単位組織=家族
や職場のグループ、趣味のサークルなどの最小単位)が、同位置性(局在性)
を越える可能性を見せたのである。同位置にいない人同士であっても、身元が
保証されていて人柄もある程度わかっている人同士であれば、人は結合してあ
る種の単位組織を構成しうるということである。その基盤はまだ脆弱である。
どうすれば磐石足りうるかについては、別の機会に述べるつもりたが、その結
合の可能性を示しただけで、人々の心は動き、行動を開始したのである。
これから見えてくることは、これからの時代は人と人の結合が同位置性(局在
性)を越える社会成立の時代となる、ということである。
2)WEB2.0 は人類の協調分散を支援する
WEB2.0 という言葉は、昨年に続いて今年も情報システムの世界ではもっとも有
名な流行語だろう。
佐
藤
匡
彦
,
「
Web2.0
と
は
?
」
,
http://blogs.itmedia.co.jp/web15/2005/08/web20_8a41.html(2006.07.17)
の説明に沿って見てゆくことにする。
---------------------------------Web1.0
Web1.0 と言うのはめったに更新されないスタティックな HTML で作られた Web
だと言う話です。静的で、ちょうど図書館の書棚の様なイメージです。
Web1.5
Web1.5 ではコンテンツマネジメントシステムを利用して、いつも変化がある、
12
ダイナミックな Web と定義されています。
Web1.0 と比較すると極端に動的な Web
だと言う事ができるでしょう。また、付け加えるのであれば、サイト内で完結
したサービスが多く、多大な投資を行う事で成立している Web と言う事ができ
ます。ドットコムバブル時代のサイトがまさにこの種類の Web サイトになるで
しょう。
Web2.0
まだまだ Web2.0 そのものの定義は曖昧な様ですが、大枠の意味合いとしては、
Web1.0 の静的な Web であったり、Web1.5 のサイトの独立性が高いダイナミック
な Web とは異なり、サーバやコンテンツ同士がシームレスに連動され、インタ
ーネットが社会的なネットワークとして動作すると言う様な意味合いです。
---------------------------------なるほど、定義は曖昧な様で、何を言っているのか良くわからない。しかし、
これが正常な認識と言うものである。
Tim O'reilly氏,「What is Web 2.0」などによれば、Web 1.0 とWeb 2.0 の違い
を特徴付けるものは下記のようなものであるという。「特集 ―― Web 2.0 と
は 」 ,IT 用 語 辞 典 ,
http://www.sophia-it.com/category/web2.0.jsp
(2006.07.17)より。
-----------------------------------Web 1.0 --> Web 2.0
-----------DoubleClick --> Google AdSense
Ofoto --> Flickr
Akamai --> BitTorrent
mp3.com --> Napster
Britannica Online --> Wikipedia
個人のウェブサイト --> ブログ
evite --> upcoming.org and EVDB
ドメイン名の投機 --> SEO(検索エンジンへの最適化)
ページビュー --> クリック単価
スクリーン・スクレイピング --> ウェブサービス
パブリッシング --> 参加
コンテンツ管理システム --> wikis
ディレクトリ
(分類学) --> タグ付け(人々による分類"folksonomy")
スティッキネス(個々のサイトへの顧客の忠誠度)
--> シンジケーション(サイトの垣根を越えた連携)
13
-----------------------------------たしかに、新しい WEB のサービスを指摘はしているが、だから何なのか、本質
的に何がおきているのか、O'reilly 氏もわかっていないに違いない。O'reilly
氏の言う、7 つの特徴をやはり上記の特集記事の解説に沿って記述すると下記
のようになるらしい。各項目下の例示は私の書き込みである。
-----------------------------------(1)ユーザーの手による情報の自由な整理
例: はてなのソーシャルブックマーク/各種マイポータル
(2)リッチなユーザー体験
上の対象表参照
(3)貢献者としてのユーザー
例: Amazon のレビューや Google の PageRank など
(4)ロングテイル
例:従来大手企業しか顧客になることが無かった広告業界において、個人のレ
ベルまでを取り込むことに成功した Google Adsense などを挙げることができる。
(5)ユーザ参加
例: 情報提供側と提供される側との間の境界線がなくなり、プログや SNS が
広がった。
(6)根本的な信頼
例: Wikipedia やオープンソースなどが
(7)分散性
WEB を介した広域分散協調システム
-----------------------------------WEB2.0 の話はぐちゃぐちゃしていて、私は嫌いである。頭の悪い人が、何かを
見つけたのは良いとして、理解も説明もできていないのではないかと口の悪い
私は言いたくなってしまう。彼は現象を捉えた。その点はえらい。大いにほめ
るべきである。しかし、彼もその信奉者たちもその現象の背後にある本質がわ
かっていないのだ。この混乱した説明はワーマンの 5 つの帽子掛けのお話と好
一対である。彼らやその信奉者たちが語る言葉は、ぐちゃぐちゃで首尾一貫せ
ず、説明になっていないところが神秘的でいいのかも知れない。神秘主義に酔
いしれたい人たちは彼らをいつまでも担いでいれば良いと思う。そうこうして
いるうちに、2010 年はすぐにやってくる。時代は大きく転換する。そのとき慌
てふためく側にいるのか、心の準備万端にその時代に立ち向かうことができる
14
側にいるのか、の岐路にわれわれは立っているのである。
WEB2.0 は WEB サイトの変化のことだけを取りざたしているが、実は地球規模で
社会そのものが地殻変動を起こしているのである。地域や国民国家にとらわれ
ない地球社会または人類社会が成立しようとしているのだ。WEB に多少の変化
が現れてもそのくらいは当然である。彼らには、大きな地球規模で社会変動を
見ることなしに、目先の WEB 商売のことばかり追いかけている皮相な視点が見
え隠れする。現象に目を奪われて、本質が見えていない、単なる騒乱屋のよう
に私には思えてしまう。
失礼。言いすぎは十分承知しています。まことに申し訳ありません。
彼らには現象を捉えただけで十分な価値はあった。しかし、それまでであった。
今は、それ以降のもっと深い洞察が必要なのだと申し上げておきたい。
社会は WEB の発展を願い、WEB の発展は社会を発展させる。
彼らが指摘していることを、私なりに解説すれば、WEB が社会の成り立ちを反
映して社会性を帯びている(単位組織からなる階層やネットワークなどの複合
的構成を取り入れる)ことを意味しているのである。このことによって単位組
織の同位置性(局在性)が越えられるので、ロングテイルなどとぶしつけな呼
び名で呼ばれている日陰の人々も国を越えて結束するだろうし、巨大な市場と
して姿を明確にしてくるだろう。すでに参加型市民社会の時代に突入している
のであるから、WEB 構築や情報システムの構築、これらを使用したサービスに
まで人々が参加するのは当然と言うことになる。
本質がわかれば、
「WEB2.0」の神秘主義的な呪文が解けて、リアルでごつごつし
たなまめかしい人類史の本当の姿が見えてくる。
3)アジャイルソフトウエア開発・オープンソフトウエア開発
これらは、私にとってきわめて卑近な例であるが、システム開発の現場にいれ
ば、ごく当たり前になっているものたちである。
しかし、大手の元請けシステムハウスと一緒に仕事をすると、これらは禁句で
さえある。古いウォーターフォール型の開発をだれかれかまわず要求する。そ
の要求をしている担当者もウォーターフォール型の開発がまったく非生産的で、
品質をほとんど保証しないばかりか実際には行われてもいないと知っているの
であるが、下請けの開発技術者たちを軍隊の兵士のように管理するにはこの方
法しかないのである。
実際の現場では、古くてばかばかしいウォータフォール型の開発は実は採用さ
れないのである。まずはアジャイルソフトウエア開発を紹介しよう。
ユーザの要求を理解する技術者だけが、会社や都市、場合によっては国家を超
えて集まってくる。機密を強く要求される仕事では、ひとつのビル内に終結す
15
る。普通に要求される程度であれば、それぞれ会社、都市、国にいるまま、統
一の開発プロジェクトに参加する。このチームは、すでに開発チームの単位組
織の局在性をハナから無視して成立している。開発は古いウォーターフォール
型のように順次進行のようなことにはならない。分散協調型に作業は進み、し
ばしば中間作品のバージョンがアップしてゆく。バージョンアップも参加者が
自発的に行うことが多いので、誤って古いソースプログラムを書き込んでしま
ったり、思い違いの結果、前回の中間作品よりも品質が劣化してしまうことも
まま発生する。そんなときは直ちに元に戻せるようなバージョン管理用の支援
ツールも完備されているのである。
ウォータフォールモデルとの違いは、次の 3 つで言い表せるかもしれない。
・開発者はユーザと文化と教養を共通にするものだけに
よって構成される。ユーザと文化と教養を共有しないコ
ンピュータの専門馬鹿は排除される。
したがって、開発者は手近なところからだけではそろえ
られないので、地球上の広くから人材が捜し求められ
る。
・要求仕様書を書いた人が開発にも参加している。
・開発チームの中でも、チームと発注主との間でもスパイ
ラル開発が進められ、思い違いや失敗は途中で速やか
に発見できるようになっている。よいアイディアがあれば
仲間から直ちに助言が寄せられる。
開発者各自の作業は、その途中でも仲間にすべて公
開されているので、それぞれのエンジニアには心地よ
い緊張が続く。
必要に迫られて成立した開発スタイルなので、理論的ではないが、実際なかな
か快適な開発スタイルである。ネットを介して、オーストラリアとフィンラン
ドと日本の3箇所の開発現場をつないで作業したこともあるが、まったく問題
はなかった。むしろ、飛び切りよい結果であったと思う。ここで注意しなけれ
ばならないのは、その結合がネットだけだったかといえばうそになる。開発の
はじめと中間と最後には、関係者が日本に集まって食事をして(飲んで酔っ払
って)それぞれの家族や恋人の話を共有したり、互いのくせや趣味を理解しあ
うことが成功の背景には存在した。
「バーチャルな組織がすでに成立する」とい
う主張をする人もいるが、必ずしも完全にはまだそうなっていないことは十分
認識すべきである。今は、そうなるべき前夜であって、そうなってしまったわ
けではない。そうなるに違いない予兆のひとつがアジャイルソフトウエア開発
のスタイルであるということを指摘しておきたい。ソフトウエア開発のプロジ
16
ェクトチームが地域や国家を越えて成立するためには、まだ「合宿」や「食事」、
「アルコール」などの力が必要である。これからも、多分しばらくの間は必要
だろう。
オープンソフトウエア開発でも事情は似ている。実はオープンソフトウエア開
発の場合、ユーザそのものがシステム開発の同業者であることが多い。アジャ
イルソフトウエア開発の場合の開発技術者とユーザが溶け合ってしまっている
ような状態を想像すればよいだろう。コアの開発チームがいることが多いのだ
が、このことを明言する人は少ない。コアな開発チームを仔細に分析すれば、
実はアジャイルソフトウエア開発のチームとほとんど変わらないことがわかる。
しかし、オープンソフトウエア開発では、ギャラりーに同業者でかつユーザの
人たちがネットを介してたくさん存在しているのである。このギャラリーにも
開発の途中の状況は公開されているので、アイディアを集めやすく、間違いは
発見されやすく、開発者の緊張も続くのである。
コアな開発チームは寝食を共にしたり、共に飲んで騒いだりすることもあるし、
そもそも同じ大学の同級生だったりもする。オープンソフトウエア開発にも、
地域や国家を越えた単位組織成立の予兆はある。しかし、まだ予兆を感じさせ
る範囲に過ぎないともいえるのである。
4)「世界政府というものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないは
ずのシステムは、すべて Google 社で作る。それが Google 開発陣に与えられた
ミッションなのだよ。」
これは、グーグルの幹部の言葉として伝えられるものである。
「WEB 進化論」と
いう本に書かれているらしいのだが、私はまだ読んでいない。
グーグルの幹部は、どこまで理解しているのか不明ではあるが、おそらく私の
予言に近い見通しを持って彼らのビジネスに取り組んでいるのではあるまいか
と思う。彼らは周辺ギャラリーから「WEB2.0 の開祖」のようにはやし立てられ
ている。しかし、彼らは慎重に自分たちのビジネスが WEB2.0 と同じものである
という言明は避けているようである。おそらく、腹のそこでは WEB2.0 などとあ
げつらう浅薄な連中をせせら笑って、
「我々はまだまだ安泰だ」と思っているに
違いない。
「WEB2.0・・・」にとらわれた観念からは、世界ビジネスの新展開は望めない。
地球社会または人類社会の成立、google の幹部風に言えば「世界政府の成立」
を見越せばこそ、新たなビジネスビジョンも生まれようと言うものである。
google の幹部らは侮れない。
…しかし、今は日本で google がトップでないのも事実である。google の文化
と日本の文化には違いがあるのだ。この違いを見つけた若者は世界に勇躍でき
17
るだろう。google の文化と日本の文化の違いについても機会があれば別の記事
の中で述べたいと思う。
さてさて、地球社会または人類社会の成立が本当のように見えてきただろうか。
筆力には限りがある。書いていてももどかしい。一人でも、我が言わんとして
いることにご理解が得られれば幸いである。
知者、先達の皆様からのご意見をいただければ幸いです。
琵琶
-----------------------------------------------------------
(4)鍵を握る単位組織=擬似家族
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2006/07/4_bd37.html
2006/7/28
鍵を握る単位組織=擬似家族--情報社会学、予見と戦略(4)
「地球社会」または「人類社会」の成立は、もうまもなくであると私がいうと、
「もうすでになっている」とか「ありえない」とかいう内容の両極端な反論が
ある。
(1)「もうすでになっている」について
「もうすでになっている」という人々は、
「人の行き来は、海を越え、国境を越
えて可能になり、交易も資本の移動もほとんど自由になっているし、情報にい
たってはインターネットによって世界は結び付けられている、2010 年ころを境
に何が違ってくるのかわからない」というのであろう。
確かに古来人は命がけで海を渡り、山を越えて地上に広がった。しかし、経済
活動も行政活動も市民の生活も人種・民族・地域を基盤に成立していた。近年
は国民国家の時代になってはいるが、その国民国家の枠をはずすことができな
い。
現在の制約は、マクロに見れば国民国家の枠である。この枠を超えたメタ型の
市民組織、行政組織、経済組織は存在しない。これらの組織はすべて国民国家
に統合されている。国境を超える組織は基本的にはネットワーク型の組織だけ
である。国内であれば、ネットワークが先行してメタ型組織が後追いで形成さ
れることがしばしばあるが、国境を越えてメタ組織になることはきわめてまれ
18
である。
ミクロにフォーカスすれば、人の単位組織が国境を越えて成立しにくいという
事情が存在しているのである。人の組織は「一人とその他大勢」では成立しな
い。一人は単位組織(3∼7 人)に参加して初めて組織に参加したことになるの
である。多くの社会組織は複数の単位組織の複合体を組織内に抱えて成立して
いるのである。
単位組織は、人類が「家族」の人類史的経験を元に血縁の外に作り上げた「擬
似家族」である。軍隊の最小単位である小隊、企業における班やグループ、オ
ーケストラのセッションなど、すべての組織には擬似大家族の基になる擬似小
家族がある。擬似家族は、本物の家族をまねて作られるので、衣食住を極力共
にし、行動を共にすることが必要で、同位置性が要求される。地域や建物を共
にして息遣いが感じられる位置関係で協調行動がされることが必須の条件であ
る。同位置性の制約を免れないので、単位組織は成立地域が特定され、いずれ
かの国民国家に属していることになるのである。単位組織に多様な人種や民族
が混在していても事情は変わらない。その組織が存在する場所が中国であれば、
中国という国家に所属している。直接でなくとも、その単位組織の上部組織が
企業であれば、その企業の国籍がある。無国籍企業や多国籍企業というのは実
は(合法の範囲では)存在しない。それぞれに国籍のある企業が国境を超えて
資本のネットワークを構成しているだけのことである。それぞれの企業に含ま
れる単位組織は数千もあるだろうに国境をまたがる単位組織はオーナ家族など
ほんの少数に限られているはずである。
人類が「家族」のまま進化したものがネアンデルタール人などの古いタイプの
人類であった。5-6 万年ほど前に彼らと別れたらしいホモサピエンスは、実の
家族(血縁を基礎とする家族)とは別に、これを離れた擬似家族を複合的に構
成し、多数の実家族を横断する組織を複合的に作ることに成功した。その結果、
血縁によって分かれている大家族の相互の結束も可能になり、社会の萌芽が生
まれたのである。屈強だが大家族を超えられずに多数の結集が弱かったネアン
デルタール人と大家族同士をも結集することに成功して多数の結束を生み出し
たクロマニヨン型のホモサピエンスでは、どちらが強かったかは容易に想像が
できる。軍略家の一族に生まれた私には両者の争いの様子が手に取るように感
じられてしまう。しかし、ホモサピエンスが手にした「擬似家族」は密接さを
担保するために家族と同様な同位置性を必須としていた。擬似家族が「小隊」
や「班」、「セッション」などとスマートに呼ばれるようになっても、この性質
は変わっていない。そこには家族類似の粘着質の人間関係が生ずる。飲食を共
にしたり、仕事を離れた宴会やパーティ、泊りがけの旅行なども折に触れて必
須である。これらの擬似家族を私は「単位組織」と呼ぶことにしたのである。
19
いま、人類史上に特筆すべきもうひとつの変化が生まれている。同位置性の制
約を超えた単位組織の成立の予感である。擬似家族に必要だった「互いの息遣
いが直接聞こえる距離にいる」という制約が超えられようとしているのである。
その単位組織の中にいるメンバー同士の結合は電子的通信によって補強されて
行われるのである。
今までの社会は単位組織が同位置性を備えていたことに対比して、これからの
社会の単位組織は同位置性を超えてゆく傾向を有するのである。
社会はその単位組織というミクロな部分が変貌を遂げ、同位置性を超える単位
組織の数が徐々に増えてゆく。その変化は静かでそう目立ったものではない。
人々は今そのことに驚いたり騒然となっているわけではない。しかし、ある日、
その数が社会のある比率を超えると突然大きな変動を起こしてゆくことになる。
新しい秩序ができる前には古い秩序が壊される。混乱は国家を超えて発生する
ので、当然軍事的衝突も発生するだろう。何がおきているのかわからぬままに
政治家も軍人もしゃにむに戦争をやりたがる時期がやってくるだろう。たとえ
ば、国家を超えた NPO 法人のような軍隊(ボランティアで支えられた軍事機構)
が現れたりするだろう。これは国家の軍隊からすれば許しがたい存在であるに
違いない。各国の軍隊はそれらを撲滅しようとして躍起になるに違いない。そ
れを何というのかわからないが、
「現秩序を破壊するものとの戦い」であること
は間違いない。その混乱に誘発されて国家間の戦争も続発するに違いない。こ
れらも新しい時代が生まれるための産みの苦しみである。「戦後 60 年」とよく
言うが、われわれは、今、「戦後」ではなくもはや「新しい戦争の時代の前夜=
戦前=」にいるのであると思う。
これから始まるであろう「戦争の時代」を人類がたくみに生き延びることがで
きれば、その先には新しい社会「地球社会」または「人類社会」が成立してい
るだろうと私は思う。目前の「戦争の時代」に人類破滅の核戦争へと突入した
りするようなおろかなことがあってはならないし、人類はそこまでおろかでは
ないと信じたい。
(2)「ありえない」について
前回述べた「予兆」には、同位置性を越えた単位組織の結束の萌芽形態が書か
れている。これらは氷山の一角である。たとえば前回は取り上げなかったが、
サイバースペースの友人関係を論じた学生の研究発表もある。
俵木裕毅、「サイバースペースにおける新しい友人関係の可能性」
、情報コミュ
ニケーション学会第 3 回全国大会、CIS2006(2006.2.25∼2.26)
「秘匿」と「匿顔」に焦点を当てたもので、大変興味深いものである。この学
生は、今年 3 年生であるが、今年 2 月に開催された情報コミュニケーション学
20
会でも私と同席し、その後私の講義も履修してくれた。
この発表で取り上げられている「ミドル友達」とは、まさしく単位組織成立と
同根の友達関係成立が「秘匿」と「匿顔」でも成立しうる可能性を示している
もので、単位組織の成立が同位置性を越える可能性を別の角度から示している
ように私には思われる。
「ありえない」ことはないのである。
琵琶
-----------------------------------------------------------
(5)空間を越えた擬似家族成立の条件
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2006/08/5_a401.html
2006/8/16
空間を越えた擬似家族成立の条件--情報社会学、予見と戦略(5)
「地球社会」または「人類社会」の成立の条件は、単位組織の成立の変化にあ
ると前回の記事で私は述べた。
人為的に人が何人か集められただけでは組織にはならない。家族でもないし、
企業のグループでもない。軍隊の小隊にもならない。集められたか集まったか
は別として、5 名前後(3∼7 名)の集団がその後労苦をともにしたり寝食をと
もにしたりして単位組織になるのである。実に単純な原理である。
ひとたび、単位組織になれば、ひとりは仲間のためにひとつ以上のことで役に
たち、仲間は互いに助け合い、組織は社会に貢献するようになる。社会に貢献
しない単位組織は社会から見捨てられ、競争に敗れて消滅することが多い。
整理して言えば、これらの単位組織は、人類史的に家族から派生して生まれた
もの(と私は独断と偏見で断定する)なのでできるだけ家族に近い存在様式を
持つことが強い結束を生むことになる。つまり擬似家族なのである。
太古、人は血のつながりのある家族(せいぜい親子3代の大家族程度)で、獲
物を追い、草や木の実を採集し、ともに分け合って食べ、夜は火を中心に数軒
の家またはテントに眠った。まれには血縁のないメンバーも混じったことだろ
うが、血縁にあることにするという儀式が行われ仮想的な血縁関係が認められ
ていたのだろうと思われる。社会的単位組織は、おそらくこの家族集団から出
る狩の遠征隊がその原始的姿だっただろう。ひとつの家族(大家族)のメンバ
21
ーだけでは狩の遠征隊のメンバーはまま不足したに違いない。大家族をまたが
っていくつかの大家族から屈強な男たちが集まり、遠征隊を作るのに成功した
のが、おそらく、クロマニヨン人様のホモサピエンスであり、あくまでも真性
の家族(大家族)に踏みとどまったのが、滅びたネアンデルタール人などの人
種だったに違いない。狩の遠征隊は家族のいるキャンプ地を離れて、狩の期間
は寝食をともにし、夜はかがり火の周囲に交代の見張りを立てて眠ったのだろ
う。真実の家族とは異なる集団といえども、信頼と親愛の情が深いほど行動は
一糸乱れず、狩の効率もよかったに違いない。こうしてそれぞれの大家族から
選抜されてできた狩の遠征隊は大家族を結びつけ、いくつかの大家族を束ねた
社会(ムラ)を生み出すようになったに違いない。狩の遠征隊はそのまま他の
部族と争う際の軍事組織になったであろうから、ネアンデルタール人がクロマ
ニヨン人に次第に負けていったのは当然だっただろう。農耕が始まるとムラは
人々の生産性と生存能力にもっと大きな力を与えてくれるようになるのだが、
その話題は別の機会に譲ることにする。
ところで家族とは違って幼年期と成長期をともにしなかった人々の間の違和感、
本能に宿る警戒心を乗り越えるためには、さまざまな儀式も行われ、酒や幻覚
きのこなどの力も借りたに違いない。麻薬といわれるものの大半が適度に用い
られる限り一時的に対人恐怖を取り去る効能を持つことが知られているのはそ
の裏づけである。現在合法なのはお酒だけであるのはいうまでもない。
今でも、「お近づきに、まぁ一杯、・・・」というのは普通であるし、食事会や
飲み会やホームパーティがなくならないのもむべなるかなと思うのである。廃
れたとはいえ、社員旅行で寝食をともにしたり、社員運動会の後のファイアス
トームも心理的な結束、互いの親愛の念を高める効果があることはよく知られ
ている事実だ。
まとめると、社会的組織の基礎としての単位組織が成立する要件は、次のよう
なものだろうと思われる。
1)共同の目的(できれば生死をともにする目的)をもって息遣いの聞こえる一
箇所に集まっている。
2)その集団が頼りにする自分たちのための炎がある。
3)寝食を共にする。
4)場合によっては、自他共に許すときにともに(酒などで)少しだけ理性を失
う。(酒の代わりに絶叫マシンでという人もいるようだが)
5)(狩猟の旅のように)共同の目的のために共同で行動して、失敗の苦しみも
成功の喜びも共有する。
列挙してみると実に動物的なものばかりである。社会性とはヒトの、生き物と
しての本性なのである。理性だけでは律することのできない、本能的なもので
22
ある。
ここで、何かに気づいたヒトもいるかもしれない。上記の条件は、いずれもカ
ルト集団が、自らの組織の強化のために取り入れている手法と重なっている。
彼らは、実に人間の隠された本性をその本来の目的をごまかして悪辣にたくみ
に利用しているのである。
一方、昔から、青年男女の社会性の発達のために、健全な社会では、若衆宿、
娘宿などの体験学習が行われた。ボーイスカウトやガールスカウトのキャンプ
や、地域サークルの合宿などが健全な社会性発達の助けをしてきたことはよく
知られている。これらは、いずれも上記のような条件を満たしているのである。
失われた日本の青年たちの社会性を取り戻すためには、合宿形式の体験学習が
よい成果を挙げているのもうなづける。カルトに堕してゆくことのないように、
青年たちを救うのは社会性の健全なる発展のための家庭と教育の役割の再認識
が必要である。
これからの社会が、「人類社会」
「地球社会」となるにあたっても、この事情は
本質的には変わらないに違いない。他方、"これからはバーチャル社会になる"
とはやし立てる者が結構いる。否、どんなに社会が変わっても、本当にバーチ
ャルな人間関係だけでは社会は成立しないと言うのが私の立場である。
バーチャル空間で人々がつながりを探し通信仲間や言葉を求めて、右往左往す
るだろうし、そうしている実態はすでに存在する。しかし、彼らはそれだけで
は決して本当の仲間ではないのである。
本当の仲間になるために、
「1)共同の目的(できれば生死をともにする目的)を
もって息遣いの聞こえる一箇所に集まっている」を満たそうとして、自殺仲間
になってしまう若者もいる。仲間になりたい、という欲求は人間本来のもので
ある。避けがたい欲望である。他でこの欲望が満たされない青年たちは死をキ
ーワードに集まってしまったのだ。これは、現代のねじれた社会現象なのであ
る。広く薄く存在する社会性への排除という日本の不幸な時代背景がここには
ある。個々には、心ある大人や知人が、情けを持って手を差し伸べれば救うこ
とのできるケースも多いに違いない。あたら若い命を捨てさせないように、健
全に仲間ができるようにおせっかいといわれようが、健全な社会人はすべて手
を結び手を差し伸べたいところである。「死」を目的とするのではなく、「生き
延びる」を目的として青年たちが集まる機会をもっと増やしたいと思う。
ところで、たとえば、中学生の 4 割が会ったこともない人とメル友になってい
るという。
中学生の4割「見知らぬ人とメール交換」
23
、アサヒコム、
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200608140287.html(2006.08.15)
----------携帯電話を持っている中学生の 4 割が、会ったことのない「メル友」と日常的
にメールのやりとりをしていることが、群馬大学の下田博次教授(市民メディア
論)と NTT ドコモモバイル社会研究所の共同調査でわかった。
(つづく)
----------多くの人は驚くかも知れないが、日ごろ学生たちの行動を何気なく目にしてい
る私などには、特段驚くことには思えないのである。
しかし、勘違いしてはならないのは、メル友は彼らにとって単にわずらわしく
ない情報源であり、はき捨てた言葉をリアクション少なく受け止めてくれる堪
忍袋のようなものなのである。決して命を懸けて一緒に行動しようなどと思っ
ていない。親愛の情も深いわけではない。かれらは、多くの場合、社会的交流
の練習をしているだけでなのである。練習のつもりなのに、詐欺に引っかかっ
たりする失敗もあるが、本人らは実社会に触れるスリルと興奮を感じながら練
習をしているのである。近い将来、同じメル友の中から、リアルに会ってリア
ルの友人になる者も出てくるかもしれないが、そのときは、一気に上記の 5 条
件のできだけ多くを満たすべく行動をするに違いない。上記のような泥臭い条
件を満たさない限りは本当の「仲間」にはならないのだから。
ただし、恋愛感情が絡むと、会ってもいないのに、深い関係でありたいと妄想
したり、命がけの伴侶にしたいと思い込んだりして、千葉から大阪までの 600
キロを無免許のままバイクで駆けつける愚か者も現れたりする(大阪で逮捕)。
この場合も、会う前から命がけの伴侶になっていたわけではなくて、伴侶たり
えようと思い込んだ男がパフォーマンス(ディスプレイ)しているだけのこと
なのだ。男って、このあたりのことは、どこまでも馬鹿をしますからからね。
さて、ここで、情報技術の進歩というものに目を向けてみよう。
バーチャルリアリティの世界の研究の進歩には著しいものがある。
1)共同の目的(できれば生死をともにする目的)をもって息遣いの聞こえる一
箇所に集まっている、かのような立体映像システムはまもなく完成するだろう。
2)その集団が頼りにする自分たちのための炎の儀式くらい、いつでもバーチャ
ルに実現できる。
3)仮想空間でいつでも寝食を共にすることができるようになる。
4)場合によっては、仮想空間で気を失うような仕掛けはいくらでも可能なので
自他共に許すときにともに理性を少しだけ失うことが可能になるだろう。
5)(狩猟のたびのように)共同の目的のために共同で行動して、失敗の苦しみ
も成功の喜びも共有することは事実としてすでに可能である。
24
こうしてみると、バーチャル空間だけでもいつの間にか「真の仲間」が成立す
るようになると思われてしまうかも知れない。私は、このことに対してははっ
きりとノーと言っておきたい。一度も会わずにに仲間は成立しない。たとえば
「(本能に働きかけるほどまでに)息遣いが感じられるくらいの接近」とは、近
未来のバーチャル技術によってもそう簡単ではない。
とはいえ、現在ほど頻繁に飲み会や家族パーティを開かなくとも親愛の情を育
てる関係は成立することは確かだろう。バーチャルリアリティの技術は実際に
会う体験には到底かなわないが実際に会う体験を補助するものにはなりうるだ
ろう。数回だけのリアルな面会や会食だけで、数十年、場合によっては世代を
またがる仲間が成立することもありうることは確かだろう。そして、何よりも
これまでと異なるのは、これまでのように「仲間」の候補者が物理的空間を同
じにする者から選ばれるだけにとどまらず、空間を越えた者たちから選ばれる
可能性も高くなるからである(前述引用、中学生の4割「見知らぬ人とメール
交換」)。空間を越えた者たちはバーチャルなままに「仲間」になることはない
だろうが、
「ネットを介した他人との交流の練習」から「ネットを介した仲間候
補探し」、そして「実際に会って、(焚き火はできなくともろうそくや花火など
の)炎のもとで語り合い、飲食をともにし、場合によっては宿泊をともにし、
酒に酔い話に酔って、ともに旅をしたりする」というような経験を 1 度または
数回繰り返すうちに、親愛の情も生まれていつの間にか初歩的な信頼関係も成
立しているはずなのである。こうして、社会の単位組織は空間を越えて成立す
る機会が増加してゆく。
これは、狩の遠征隊が大家族の枠を出て、大家族を結びつけて社会(ムラ)を
構成したように、人々が大挙して国民国家を超え「地球社会」
「人類社会」を成
立させる第一歩となるだろうと私は思うのである。いまは、戦争の危機ととも
に人類史に大きな一歩を記す時期にわれわれは立っていると感じられるのであ
る。
こうして、単位組織の多くが空間を越えて成立するので国境の意味が今よりも
もっと激しく低下していくことになるのである。国家は簡単にはなくならない
と思うが、来たる 2010 年から数えて数十年の間に、現在の国民国家程度の地域
的まとまりは今の都道府県かアメリカの州くらいの意味しかなくなるかもしれ
ない。
琵琶
-----------------------------------------------------------
25