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東北大学
臨床死生学研究会研究報告
東北大学臨床死生学研究会シンポジウム
――人文学と現場との協業による臨床死生学の創生に向けて――
【趣旨説明】
桐原健真「人文学と現場との「協業」とはなにか」 ·················································1
【講演】
岡部健「現場の立場から」 ····························································································3
竹之内裕文「現場から考える死生学――これまでの歩みを顧みつつ」 ··················4
【論文】
日笠晴香「「最期の選択」をどう考えるか」 ·······························································6
高橋由貴「哀傷の言葉――宮澤賢治『無声慟哭』における喪失の語り方について」···18
本村昌文「17 世紀日本における「死生観」小考」 ··················································31
【全体討論】
桐原健真「臨床死生学の可能性――人文諸学と現場との協業の意義」 ·····················50
タナトロジー研究会 in 十和田
――死を受けとめる――
【趣旨説明】
井藤美由紀「開催趣旨」······························································································53
【鼎談】
蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文「死を受けとめる」 ···············································55
【論文】
井藤美由紀「グリーフケアを考える――ある父親の日記によせて」 ····················74
高橋由貴「記憶の選択、記憶の構築――映画「ワンダフルライフ」を考える」······95
佐々木清志「死別の悲嘆とホトケオロシ――岩手県宮古市の葬送儀礼」··········· 109
【質疑応答】····················································································································· 123
東北大学臨床死生学研究会
2010 年 10 月
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
東北大学臨床死生学研究会シンポジウム
①
人文学と現場との協業による臨床死生学の創生に向けて
開催日程:2009 年 8 月 29~30 日 於宮城県白石市木村屋旅館
人文学と現場との「協業」とはなにか
――趣旨説明に代えて――
桐原健真
2006 年 8 月 11 日付の『読売新聞』には、
「皮膚から「万能細胞」――京大再生研が作成」の
文字がその一面トップが飾られた。この記事が特筆された背景の一つには、この「成功」が、
或る「倫理的問題」を解決すると期待されたからにほかならない。すなわち、一般細胞を基に
した万能細胞の生成技術の確立によって、生殖細胞というナイーヴな存在を用いることを回避
しうるということである。翌 12 日の同新聞に掲載された「
[再生医療]
「倫理に触れない」万能
細胞の登場」と題する社説は、まさにこのような趣旨のもとに著されたものであり、そこには
万能細胞は「倫理に触れる」から「問題」だったのであり、これがクリアされてしまえば、も
はや何ら「問題」は存在しないという態度を見ることができよう。
この報道の前月に、当時の J. W. ブッシュ米大統領が、議会を経た胚性幹細胞(ES 細胞)研
、、、、、、、
究推進法案に対して就任以来初の拒否権を行使している。その最大の根拠が、人間となりうる
、、、、
生殖細胞を利用する点に倫理的問題があるという理由からであった。このことからもわかるよ
うに、万能細胞研究は、ときに政治化しかねない研究分野でもあったと言える。しかし今や、
万能細胞研究は生殖細胞の使用を必要としなくなる可能性が現れてきたのである。
とすれば、もはやわれわれはこの「倫理に触れなくなった」問題をいつまでも議論していく
、、
必要はないのではないか――という疑問は、当然出てこなければならない。なぜなら、本来こ
、、
の問題が人文諸学に投げかけられた理由が応用倫理に関する要請であって、人文諸学それ自体
から発生した問題ではないからである。この問いかけは「死生学というのは、生命医学・生命
工学の補助学に過ぎないのではないか」さらには、
「生命医学・生命工学の免罪符でしかないの
①
本シンポジウムにおける講演・全体討論の記録は、日本思想史研究会『年報日本思想史』第 9 号に掲載
されたものを転載したものである。転載を快諾下さった同研究会に深く感謝します。
1
シンポジウム:人文学と現場との協業による臨床死生学の創生に向けて
ではないか」という疑問に逢着する。
むろん、このような問いに「全くその通りだ」と開き直ることも可能である①。しかしここ
でわれわれは、われわれが学としてある以上――あるいは学たらんとする以上――一度は「否」
と叫んでみても良いであろう。
生殖細胞を用いない万能細胞の生成は、なるほど現前する「倫理問題」は「回避できる」
(
『読
売』2006 年 8 月 11 日 2 面「解説」
)であろう。しかしそれは「回避」されただけで「問題」は
残されている。この解決されざる「問題」を残したまま進むことは、たしかに生命医学の進歩
ではあろうが、本質的な解決ではないことは明らかである。なればこそ、生命医学の補助学で
はない人文諸学は、改めて「否」の声を挙げ、あくまでおのが問題としてこの「問題」を問い
続けなければならない。人文学と現場との「協業」というものが可能であるとすれば、まさに
補助学ではない「学」それ自体の主体性を保ちつつ交流する場において成立するのではないだ
ろうか――以上が、本シンポジウムを組織するに際しての中心課題であり、同時に筆者自身が
死生学という分野に関わるにあたっての原点でもある。
本シンポジウムを主催した東北大学臨床死生学研究会②(http://www.sal.tohoku.ac.jp/rinshiken/)
は、人文諸学が人間の死生に関する考察・研究において、臨床医療・介護の現場に携わる人々
と協業することを第一義の目的としつつ、
また同時にこの死生学という新たなる領域において、
人文諸学そのものの交流・融合をはかるという二重の意味での学際的活動を目指すものとして、
「医療現場との対話による「臨床死生学」の確立」をテーマに活動を続けてきた。
シンポジウム終了後の全体写真
①
むろんこの立場からすれば、将来的に医療技術の進歩により終末医療になんら不安や問題がなくなった
とき、彼はみずからの学の看板を全面的に下ろす必要がある。
②
本研究会の活動は、
「医療現場との対話による「臨床死生学」の確立――歴史的・文化的アプローチに
基づいた「死生」観研究とそのアーカイブ化」を主題とする 2007 年度東北大学若手研究者萌芽研究助成
に拠っている。
2
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
2009 年 8 月 29 日から 2 日間にかけて、日本思想史研究会との共催に
より開かれたシンポジウム「人文学と現場の協業による臨床死生学の創生
に向けて」は、本研究会の成果報告であるとともに、その構成員の多くが
関与した臨床死生学教科書『どう生き どう死ぬか――現場から考える死生
学』の編者である岡部健・竹之内裕文両氏による講演を通して、臨床死生
学という学問領域の回顧と展望を図るものであった。
弓箭書院刊 2009 年
死生学は、近年多くの人文研究者によって取り組まれるようになってきており、それは、医
療倫理・生命倫理の問題が社会化されたという時代的要請を反映したものでもあろう。しかし
現実に展開されているこれら研究の営みが、ときに生命医学において直面している諸問題を解
決――さらには回避――する補助学としての機能を果たすだけのものであったり、あるいはテ
キスト解釈に閉じこもり、現実社会の死生とは全く関らないものであったりしているのもまた
事実である。
人文諸学がそれ自体独立した体系を有していると主張する以上、それは補助学であってはな
らない。しかしながら、独立した体系なるものが他の体系と絶縁した状態であることもまた避
けられるべきであろう。とりわけ「死生」という生物にとって当たり前の事象を考察する場合、
あくまで己が問題として取り組む必要があるのであって、そのためにはタコツボのような専門
性から脱却しなければならない。この点に「諸学との協業」さらには「現場との協業」という
視座が現れてくる。
主催者は、如上の問題意識をもって今回のシンポジウムを開催した次第であり、講演者・発
表者諸氏がこれに応えてみずからの所見を述べ、またフロアの参加者各位が積極的に質疑応答
に関わってくれたことに深く感謝するものである。
(東北大学)
【講演】現場の立場から
岡部 健
15 年ほど前、在宅緩和ケアを手がけ始めた頃、地域には看取り
の受け皿が存在しなかった。地域に受け皿がなければ、在宅緩和
ケアは普及できない。そのため、WHO による緩和ケアの定義・
理念に即したケアの実現を目指しながら、地域に看取りの受け皿
3
シンポジウム:人文学と現場との協業による臨床死生学の創生に向けて
をつくれないものかと活動してきた。
医療は心身の異常の治癒を専門とするが、この医療の専門性だけでは、身体・精神・社会性・
霊性をカバーする在宅緩和ケアはできない。
そのため、
医療の手に余る領域に対応するために、
多職種によるチームケアが必要となる。
その際に重要な点は、
各人が自らの専門の限界を知り、
その上で、
最期まで自宅での看取りができるよう、
患者と家族の多様なニーズに対応できる人々
とチームを組むことである。宮城県は全国的にみても、在宅の看取りを可能にする社会的受け
皿の整備を高い水準で達成した。
だが、医療・介護のシステムをつくっても、地域に死生観(死を受けとめる力)が備わらな
い限り、これ以上の在宅の看取りの普及はない。この 30 年間に、日本には「病院囲い込み型の
死」が根付いてしまった。そのため、現代の日本人の大半が死と接触する機会を失い、死の受
けとめが出来なくなった。死の受けとめとは、患者の側からすれば、自分の死を受けとめ、次
の世代に生を受け渡す作業である。看取る側はといえば、患者が次第に衰弱し、亡くなるのを
目の当たりにするうちに様々なことを感じ、考える。本来は、こうした一連の出来事の流れを
「死」といった。この自然な「死」の流れを経験できないのが現状である。これは、死を受け
とめる文化が崩壊している状況といえる。
今後、日本は大量死の時代を迎える。これに対応するためにも、
「死」を受けとめる文化の
再構築は急務である。しかし、これは医療者の手に余る作業である。人文系の学者に、この文
化の再構築の担い手となることを期待してやまない。
(医療法人社団爽秋会)
《質疑応答》 まず、アメリカでは家族よりもコミュニティが中心となっているように、日本
においても家族よりもコミュニティの再構築の重要ではないかとの指摘がなされた。発表者は
それを肯定し、日本においてコミュニティ・生活空間から、死やお寺などの死の場所を排除し
ていく歴史が始まるのはいつなのか、そしてコミュニティを欠いてきた近代日本という背景ま
で考える必要があると回答した。
続いて、これまでの議論は死に焦点があたっていることを指摘したうえで、人が生まれてか
ら死ぬまでの大きな流れを含めて考えることの重要性が提起された。発表者はそれを肯定した
うえで、医療は本来、異常分娩・異常死だけを扱うべきであり、それ以外の生き死にの問題は
地域が受け止めていくものと答えた。
4
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
最後に、秦の始皇帝は不老不死を求めて 50 歳で世を去ったが、100 歳まで生きることを可能
にする現代において人間はいかに生きるべきかとの質問が寄せられた。発表者は不老不死を求
めた始皇帝の死因が水銀による中毒死であったことを紹介し、人間が医療に対して過度の要
求・欲求を求めて失敗した初期の例と評価した。このことは現代の問題と同じ構造を持ち、人
が本来もっている生き死にの感覚を養うことの重要性を指摘した。
自身も医師である岡部氏はその役割と限界を深く認識し、
「死」を受け止める文化の再構築を
果たすものとして人文科学に強い期待を寄せている。しかし人文科学に携わる我々は、氏の期
待にどのように応答していけるのだろうか。一人一人が悩み、研究を通してそれを実現してい
かなければならないだろう。
(吉川裕記)
【講演】現場から考える死生学――これまでの歩みを顧みつつ
竹之内裕文
『どう生き どう死ぬか』という共著は、各執筆者の個別研
究の寄せ集めではなく、
「現場から考える死生学」という副題に
も示されるように、在宅緩和ケアという共通の現場に身をおき
ながら、互いの言説を鍛え合ってきた活動の所産である。この
活動そのものは、筆者の場合、生命倫理をふくむ応用倫理学が細分化し、知的なパズル解きと
化してしまっている現状に対する批判的な問題意識に支えられている。生における実践と理論
の統合を模索してきたといってよいだろう。
その背景には、重度障害者の自立ホームでのボランティアの経験がある。さし迫った「死」
の可能性に脅かされながら毎日を「生きる」人たちとの出会いを通して、ボランティアという
実践と哲学という理論的活動を統合するという課題に直面することになったのである。
これに反して今日の終末期医療の現場では、
「死」そのものが隠蔽される。人は、それ以前
の生活の場を離れ、病室で「死」を迎えるや、ひっそりと運び出される。病室に残された者た
ち(同室の患者・ケアスタッフ)も、人知れず退去した「生」について公然と語ることなく、
その「死」を処理しようと試みる。こうした状況を目の当たりにして、自身の「死」に面した
者たちは、自身の「生」の意味を問わずにはいられない。まさにこのような問いとともに、重
度障害を抱える若者たちは、病棟での手厚いケアと引き替えに、地域コミュニティに支えられ
5
シンポジウム:人文学と現場との協業による臨床死生学の創生に向けて
た自立生活を選びとったのである。
「現場」とは筆者にとって、自他の生が現にそこに立脚し、互いに交叉する具体的な場をい
う。そこに身をおく場合、具体的な生と出会い、その生から投げかけられる切実な問いかけに
ついて「ともに考える」ことを迫られる。およそ以上のような理解に立ち、人間的な生がおか
れた具体的な現実について細やかに考え抜くこと、それを筆者は厳密な思想の課題と捉えてい
る。
(静岡大学)
《質疑応答》 発表者の講演は理論的活動とともに、臨床の現場に飛び込んで死を学ぶ死生学
の意義を提示した内容であった。以下、質問内容を列挙する。
第一に若くして亡くなる子供等を看取るとき、家族及び周辺のコミュニティはいかに対応し
えるかという質問があった。発表者は家族を支えきれない場合、ボランティアスタッフによっ
て形成されたコミュニティが患者宅に訪問し、支援活動を続けていくと答えた。その際にキリ
スト教の組織が関係していることがあるかとの質問に対し、発表者は表看板にはなっていない
がキリスト教教会が主導となるケースもあるとした。
第二に実地を伴った死生学について、
「実践家に付き添う書記」という立場に立つ清水哲郎氏
に対し、発表者はいかなる立場に立つかという質問が出た。発表者によれば、医療者の言葉の
みに焦点をあてるのではなく、部屋の中にある「釣り具」や「人の表情」といった言葉になら
ないモノに着目し、患者の生全体に飛び込む実践者でありたいと答えた。また、不慮の事故等
で亡くなった場合、
被害者及びその家族はいかにして死を見つめられるかという問いがあった。
発表者は己の命が突然略奪される可能性も考慮にいれながらも、予期・不慮にかかわらず様々
な場合における他者の死を見つめていく事で、死へのプロセスを学ぶ死生学の意義を説いた。
文献を優先する我々にとって、死にゆく者の言葉・資料に気を配ることはあれども、その周
辺環境に対しては目をふさぎがちである。リアリティある体験から何を学べるか。竹之内氏の
行動力を基に、己の研究に生かしたい。
(中嶋英介記)
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臨床死生学研究会研究報告 (2010)
「最期の選択」をどう考えるか
日笠 晴香
はじめに
人生の最期を過ごすときに医療や介護を受ける可能性は決して低くない。今日では、医療や
介護において原則として本人の意思決定を尊重すべきだと考えられているが、病気や怪我によ
り、意識が朦朧としていたり、認知症や遷延性意識障害状態(いわゆる植物状態といわれる状
態)であったりして、本人が治療選択や意思決定を行えない場合がありうる。その場合、家族
や医療・介護従事者は、本人に代わって治療や介護に関する選択をすることになる。
その人の生に直接的に影響するような医療や介護の選択をすることは、たとえその人をよく
知る家族であっても、たやすいことではない。また、それに関わる医療・介護従事者にとって
も難しいものであろう。本人の現在の意向を確かめる術が無い中で、本人にとって最もよい選
択は何かを判断して実行しなければならないがゆえに、場合によっては本人の死後も「本当に
あの選択でよかったのか」と遺された家族が問い続けることも少なくない。
このような代理決定の問題に関するさまざまな議論がなされてきたが、今日の生命倫理学に
おいては、いまや本人が意思決定できない場合の治療決定に際して、本人の事前の意思表明が
優先的な位置づけを与えられる傾向にある。つまり、本人が意思決定能力を有していたときに
希望していたことや表明していた意向に沿うような決定をすることが重視される。
このような傾向は決して理論上だけのものではない。日本でのある調査によれば、治る見込
みがなく死期が近いときの治療方針に関して、患者本人の意思を尊重することには多くが賛成
しており、書面による事前意思表示の考え方には過半数が賛成すると回答している①。このこ
とからも、代理決定において本人の意向が重視されるべきだという考え方は、一般的な感覚と
も乖離していないと言えよう。
しかしながら、生命倫理学の文脈においても、また、実践的にも、代理決定において尊重さ
れるべき事柄に関してはいまだに議論の余地があると思われる。なぜなら、本人の事前の意思
表示を優先させるには限界があり、困難な問題も伴うと考えられるが、これらはいまだに十分
に克服されているとは言い難いからである。
①
終末期医療に関する調査等検討会編『今後の終末期医療の在り方』中央法規、2005 年。
7
「最期の選択」をどう考えるか(日笠晴香)
本稿では、これまでに筆者が事前指示に関する話題提供をした市民研究会で得た意見を念頭
に置きつつ①、本人の事前の意思表示を尊重することの意義と問題点を確認し、医療や介護にお
ける意思決定の中で事前指示をどう位置付けるかを考察する。そのうえで、本人の利益となる
ような意思決定をするにはどうすればよいかについてのひとつの方向性を示したい。
1 事前指示尊重の傾向とその意義
生命倫理学における代理決定基準
今日では、一般に、治療決定の際には患者本人の意思決定が尊重される。しかし、本人が意
思決定能力を欠くと判断されるときには、代理決定によって治療や介護に関する選択がなされ
ることになる。代理決定の一般的な基準とされるのは、
「代理判断(substituted judgment)
」と「最
善の利益(best interests)
」である②。
このうち代理判断基準とは、本人が(実際にはいまや意思決定能力を欠くが)もし意思決定
しえたなら行うであろう選択を、代理決定者は行わなければならないというものである。この
基準によれば、本人があらかじめ治療の選好や意向を書面や口頭で明示していた場合には、代
理決定者はそれを実行に移すということになり、そのような明確な証拠がない場合には、代理
決定者は、本人のかつての(意思決定能力を有した時点での)発言や行動に基づいて本人の意向
を推論し、それに合致するであろう決定をすることになる。
しかし、実際に問題となっている治療選択にとって、本人のかつてのさまざまな発言やふる
まいのうちで、どれがどのくらい重要になるかがはっきりわからなければ、本人の意向を意思
決定に適切に反映させることはできない。そこで、代理判断基準は結局、「純粋自律(pure
autonomy)
」基準へと収斂されることになるともいわれる③。すなわち、代理判断のうちのあい
まいな推理を排除し、本人の意向に関する十分な知識や証拠がある場合に限定する。言い換え
れば、いまや意思決定能力を欠く本人が前もって(意思決定能力を有した時点で)
、ある状況に
関連するような意向を明確に表明していた場合にのみ適用されることになる。
これに対して、最善の利益基準は、意思決定に関連するような本人の意向や選好に関する証
①
筆者が研究会などで実際に聞いた意見を基にしたものを、本文中に「 」で紹介する。
代理決定基準の理解は主に次のものを参照した。Albert R. Jonsen, Mark Siegler, William J. Winslade,
CLINICAL ETHICS:A Practical Approach to Ethical Decisions in Clinical Medicine. 5th ed. , McGraw-Hill Medical
Publishing, 2002 ;『臨床倫理学』赤林朗・蔵田伸雄・児玉聡監訳、新興医学出版社、2006 年。
③
Tom L. Beauchamp, James F. Childress, Principles of Biomedical Ethics. 5th ed., New York, Oxford University
Press, 2001. ;『生命医学倫理』立木教夫・足立智孝監訳、麗澤大学出版会、2009 年。
②
8
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
拠や知識が無い場合に適用される。この基準によれば、本人の意向がわからないゆえに、代理
、、、
決定者は、利用可能な選択肢の中から現在の本人にとっての純粋な利益が最も大きくなるよう
な選択を行わなければならない。
つまり、
各々の選択肢に伴う本人にとっての利益と負担とを、
総合的に比較考量することが代理決定者には求められる。このとき、代理決定者の個人的な考
えや価値観ではなく、社会一般に共有されているような価値観に照らして、苦痛の緩和や機能
の保持・回復、生命の長さ・質に関する選択をすることになる。
このように、生命倫理学における代理決定基準によれば、まず第一に、意思決定能力を有し
た時点での本人の意向が優先され、それが不明なときにだけ、第二に、現時点での本人の利益
が重視される。そしてこのような基準において、本人が事前の意思決定をはっきりと表明して
いた場合は、それが代理決定における最も優先的な指針とされることになるのである。
事前指示の意義
意思決定能力を欠く場合に備えて、医療や介護に関する希望をあらかじめ(意思決定能力を
有する時点で)表明しておくことを「事前指示(advance directives)
」という①。現在の日本では、
事前指示に関する法律は制定されていないが、欧米のいくつかの国や州では、事前指示は法的
効力をもち、公式な書式も存在する。
事前指示には、内容指示と代理人指示という二つの型がある。前者は特にリビング・ウィル
と呼ばれ、ある状態になった場合の治療や介護に関する希望を具体的に指示する。例えば、
「遷
延性意識障害状態や末期の病気になった場合には、心肺蘇生をしないでください」
、
「末期の病
気の場合には、緩和ケアだけをしてください」といった指示である。これに対して後者は、自
分に代わって医療や介護の決定をする人を指名する。例えば、
「意思決定できなくなったときに
は、医療上の決定については妻に任せます」といった指示である。
一般にこれらふたつの指示形式は、単独では役立ちにくいと考えられている。すなわち、内
容指示だけでは、指示された状況以外については本人の希望を知ることができない。代理人指
示だけでは、本人の具体的な希望を知ることができないので、代理人が全て決定しなければな
①
事前指示に関する全般的な理解は主として次のものを参照した。Gary S. Fischer, James A. Tulsky, Robert M.
Arnord,“ADVANCE DIRECTIVES AND ADVANCE CARE PLANNING”, in: Encyclopedia of Bioethics. 3rd ed.,
Vol.1, MacMillan Reference Books, 2004, pp.74-79. Hans-Martin Sass,“ADVANCE DIRECTIVES”, in:
Encyclopedia of Applied Ethics, Vol.1, Academia Press, 1998, pp.41-49.また、本稿で事前指示という場合、代理人を
指名するものや口頭でのものも含むが、主として具体的な希望を示す書面でのものを念頭に置くことにする。
9
「最期の選択」をどう考えるか(日笠晴香)
らない。そこで、両者を併用して、具体的な希望を指示し、かつ、指示だけではカバーしきれ
ない場合について代理人を指名するのが有効とされる。
事前指示をしようと考える理由は様々であり、例えば、
「身近に家族や親しい人がいないの
で、いざというときにちゃんと自分の希望を反映してもらうように事前指示書を準備しておき
たい」と希望する人もいる。また、
「自分が意思決定できなくなった場合には、最期の過ごし方
に関する自分の考えを一番よくわかってくれている娘に決定を任せたい」という人もいる。事
前指示というやり方によって、本人が意思決定できなくなった状況でも、当人の事前の希望に
基づいた決定をするのが可能になる。さらに、事前指示は重要な証拠となりうる。例えば、
「夫
婦間では以前から延命治療について話し合っていたので、いざその選択を迫られる状況になっ
たときにも、妻ならこう希望するだろうとわかっていた。しかし、妻の兄弟がその選択に反対
した。結局、兄弟の意見に強く反対もできなかった。あのとき妻が一言書いておいてくれたな
ら、と思う」ということもある。このような場合にも、夫を代理人に指名する、あるいは具体
的な希望を指示する書面を妻が作成していれば、夫と兄弟との対立を防ぎうるし、妻の意向が
実際の選択に反映されることにもなろう。
事前指示の利点は、これまでみてきたように、本人の希望の明白な根拠となり、治療選択の
指針となりうるので、代理決定者の負担が軽減されたり、いざというときに関係者間で意見が
対立したりするのを防いだりできることにある。
もはや本人が意思決定能力を欠くような場合の医療や介護の選択において、本人のかつての意
向を優先することで、他ならぬその人自身の考えに基づいた本人にとってよい選択が目指される。
これにより、家族の都合や、医療・介護従事者のみがよしとする決定が優先されることはなくなることに
なる。この意味では、代理決定において本人のかつての意向を優先することには意義がある。
しかし、事前指示に優先的な位置を与え、それのみに従った決定をすることにも問題がある。
本人の死後に効力をもつ遺言や、財産管理に関する指示とは異なり、医療や介護に関する事前
、、、、、、、、、、、、、、
指示は、本人が現在まさに生き続けている状態に直接的に影響する決定に関わるからである。
2 事前指示の限界
事前に希望を表明しておくことの困難
代理決定基準によれば、代理判断が可能になるのは、本人ならそのように選択したであろう
10
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
と確信できるだけの、本人のかつての意向に関する十分な根拠がある場合に限られる。しかし
実際には、
現実のある特定の状況で本人が下したであろう決定を推測するのは、
容易ではない。
例えば、
「もう病気が治らないような状況になったなら、
それ以上の延命治療をして欲しくない」
と日頃話していた人は、実際にどのような病気の状態や治療の選択肢を想像していたのか。そ
れがはっきりとわからなければ、代理決定者は、実際に迫られる選択にその意向が適用できる
か否かの判断に困るであろう。さらに言えば、それが十分わかっていないのに、
「そう言ってい
、、
たから、
この状況でも積極的な治療は何も望まないはずだ」
と代理決定者が決めつけることは、
本人の意向にそぐわない可能性もある。
このような課題があるなかで、より明確に実際に実行できるような事前の希望表明をするこ
とを目的として、事前指示というシステムが発展してきたといえる。しかしながら、具体的な事前
指示書が存在したとしても(あるいは存在するゆえに)、根本的には同様の困難が生じうる。とい
うのも、本人がもはや意思決定しえないとき、家族や医療・介護従事者などの関係者は、実際
の状況をふまえたうえで、指示書に示された内容を履行する必要がある。その際、例えば、関
係者がいざというときになって初めて事前指示書を見たとしたら、その指示内容に納得できなか
ったり、指示が何を意味するのかに対する解釈が関係者間で食い違ったりするということもあり
うる。そもそも実際に現在本人がおかれている状況と、指示書で想定されている状況とが本当に合
致しているかどうかを判断しなければならないという困難な課題は、依然として残るのである。
事前指示する側としては、自分が将来かかる病気、その経過、挙げられる治療の選択肢などを
全て予測し、そのうえで全ての状況についての具体的な希望を表明しておくことはきわめて困
難である。つまり、生きている間にどのような事態が起こるのかを全て予測することは誰にもで
きないので、それを前もって把握し、それに関連するであろう選択についての希望をあらかじめ
完全に表明しておくのは不可能である。また、病気が進行した状況のように、今まで一度も経
験したことのないような状況で一体自分が何を希望するのかを考えるには限界がある。
例えば、
進行した認知症や末期のガンや発作後の後遺症など、現実にはどのような状態であり、その場
合の自覚症状や施される治療、その結果として生じる状態はどのようなものかなどを理解する
ことなく(実際の患者の様子や、治療やケアの質や、関係者の関わり方による影響が大きいこと
を知ることなく)、不十分な(あるいは偏った)知識によって指示してしまうこともある。さらに、
医療・介護の専門的な知識がないゆえに、表明する複数の希望どうしが矛盾する場合もある。
11
「最期の選択」をどう考えるか(日笠晴香)
このように、指示のみに基づいて実際の状況で本人の意向に合致する選択をすることも、本
人の意向を事前指示に完全に盛り込むことも、困難である。本人の意向を尊重するための事前
指示というシステムではあるが、単純に指示をそのまま実行に移せばよいというわけではない
のである。そもそも、人生の最期における医療や介護の選択には、ある面では、その人のこれ
までの人生の全てが関連しているといえる。そのような選択を事前に決めて表明しておき、い
ざというときにはそれを実行に移すというやり方では、集約しきれないような考え方や選好が
あろう。
「自分の希望を尊重して欲しいとは思うけれど、実際に何を決めて伝えておけばいいの
か、具体的に考えれば考えるほどわからなくなる」というように、複雑に関連し合う考えをど
のように表明すれば自分の希望に適う決定がなされるようになるのかがわからなかったり、考
えれば考えるほどどのような指示をするか迷ったりすることもある。
変化が反映されないという問題
さらに、前にも述べたように、事前指示が問題になるのは、いうまでもなく、本人が生き続
けているときである。そのため、事前の意思表明を単純に優先することが、本人の現在の利益
に合致しなかったりそれに反したりするように思われる場合もある。例えば、
「将来認知症にな
ったとしても、その時の自分のことは今のうちに自分で決めておくから、必ず事前指示を尊重
して欲しい」と言っていたとしても、実際に認知症になったその人は、事前指示の内容には何
ら関心を持たず、ある意味で毎日を満足そうに過ごすかもしれない。あるいは、
「自由に動き回
ることができなくて身のまわりのことが自分でできなくなったら、
生きていたいとは思わない」
と明言していた人が、病気の進行にともない、徐々にそのような状態で生きることを受け容れ
ていくという変化はありうる。また、
「できる限り長く生きていたいから、できる限りの積極的
な治療を尽くして欲しい」と主張していたとしても、実際の状態から考えて、積極的な治療は
本人の負担にしかならないと判断される可能性もある。
このようなことは実際に起こりうるので、事前指示書は定期的に、あるいは大きな病気や結
婚などの人生の節目節目に見直し作成し直す必要があり、また、指示内容に従うにあたっては
「苦痛を避ける限りにおいて」という除外条項を設ける必要があると、一般にいわれる。しかし、
これらをふまえたとしても、本人の考え方や選好の変化に対応しきれない面は残る。意思決定
能力を失った後には、自らの考え方が変わった事を伝えることも、指示書を書き直すこともで
12
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
きない。そのため、意思決定能力を失う過程において変化していく本人の意向や選好は意思決
、、、、
定に反映されないことになってしまう。これは、人生における自律的な選択を優位に置くこと
が本人の利益になるという事前指示尊重の理論から派生する問題である①。
確かに、人生の最期をどう過ごすかに関する選択は、これまでの人生がすべて凝縮されるも
のであり、本人がこれまでの人生の中で自律的に担ってきた側面を全く無視することはできな
い。しかし、それと同時に、たとえ意思決定能力を欠くようになったとしても、その生の主体
は現在生きているその人自身に他ならない。この意味でも、理性的な思考能力だけでなく、そ
の人が現在の人生において保持する経験や選好などは、その人を構成する重要な要素として依
然として尊重される必要があるだろう。
事前指示を尊重することに意義が認められるとしても、指示をしておいてそれのみを優先す
ればよいとは単純には言えない。これをふまえたうえで、事前指示を適切に位置付け、本人に
とっての利益を保護するあり方を考察する必要がある。
3 事前指示の位置付けと最善の利益
話し合いの重要性と委ねる要素の必要性
事前指示というシステムは、ともすれば自分で決めるという側面だけが強調され、
「事前指示
書を作成しておいたからこれで大丈夫だ」と誤解されていることもある。しかし、それ自体が
本来は本人だけでは成り立たず、関係者に委ねなければならない要素を伴う。このような事前
指示の性質を、指示する側もそれを受ける側も理解しておく必要がある。
そのうえで、いざというときに助けとなる指示をしておくためには、一方的に指示しておけばよ
いのではなく、本人と代理人・家族・医療や介護従事者などが事前によく話し合っておくことが
重要である。事前に関係者と話し合いの場を持つことによって、表明した指示どうしが矛盾し
たり、
いざというときになって関係者がその指示内容に反対したりするのを防ぐことができる。
また、本人がなぜそのような具体的な希望や指示をするのか、その背景にある理由や価値観
を話し合い、関係者が共有して理解しておくことで、いざというときに指示を解釈したり、指
示されていない状況についての本人の希望を類推したりする助けとなる。そうすることで、例
①
このような事前指示尊重論には、例えば次のものがある。Ronald Dworkin, Life’s Dominion, New York.
1994 ;『ライフズ・ドミニオン』水谷英夫・小島妙子訳、信山社、1998 年。Helga Kuhse, “Some Reflections on
the Problem of Advance Directives, Personhood, and Personal Identity”, Kennedy Institute of Ethics Journal,Vol.9,
No.4, 1999, pp.347-364.
13
「最期の選択」をどう考えるか(日笠晴香)
えば、
「いくつかの状況についての治療の希望が書いてあったとしても、実際にはどのような状
況が起こるかわからず、実際にどう動いていいか決断できない」という混乱は減るだろう。
さらに、本人の価値観を関係者が理解しておくことで、本人の具体的な指示や希望通りにす
ることがかなわなくても、それに近い方法を選択することができる。例えば、
「終末期を過ごす
場所は、設備の整ったケア施設がいい」との意向を示していても、そう希望する理由が「在宅
だと家族の負担になるし、自分もそんな肩身の狭い思いはしたくない」ということだとわかれ
ば、実際の選択肢は変わってくるかもしれない。あるいは、
「最後まで可能な限り積極的な治療
をして欲しい」という意向が、
「家族とできるだけ長く時間を過ごしたい」という思いからだと
すれば、単純に生命を長く保たせるのではなく、できるだけ意識がある状態で過ごせるような
処置が選択されるかもしれない。このように、本人の意向や価値観をできる限り反映する選択
の方向を目指すことが可能になろう。
これまでに考察したように、事前指示の限界や関係者に委ねなければならない要素をふまえ
るなら、事前指示だけに従って治療選択をするということはできない。むしろ治療などの大き
な方向性を決める手がかりとして事前指示を役立てることが有効であり、同時に、そのときの
本人の状況を十分に意思決定に反映する必要があるといえる。
現在の利益の尊重へ向けて
十分な話し合いをしたうえでもなお事前指示のみに重点を置いた(言い換えれば、事前の意
向を最優先する)決定が不十分であるのは、現時点での利益(現在の選好や経験など)も重視
する必要があるからである。そもそも、実際に何らかの選択をするには、本人の現実の状況(現
時点での身体状態や選好などを含めた本人にとっての利益と負担)を考える必要があり、その
ためには現在の利益を適切に評価することが前提となる。
意思決定能力を欠く人にとっての利益と負担とを評価することは、決して簡単なことではな
い。いわゆる健康な人がそうでない人についての評価をする際に、健康な人の価値観を押しつ
けてしまう可能性がある点や、自らの経験を相手に伝えることができないような人の状態を、
周囲の者が正確に判断するのは難しい点など、多くの困難を伴う①。また、一般的な最善の利
益基準は、人間一般にとってどのような経験がよく、どのような経験が悪いかといった(たと
①
Rebecca Dresser, Peter J. Whitehouse, “The incompetent patient on the slippery slope”, Hastings Center Report,
Vol.24, No.4, 1994, pp.6-12.
14
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
えば、喜びはよい経験であり、苦痛は悪い経験であるといった)客観的な判断に基づくゆえに、
、、、、、、、
他ならぬその人にとっての利益と負担とを反映した決定にならなくなってしまうともいえる①。
、、、、、、、、、、、
このような従来の基準の問題を乗り越え、現実のその人自身の観点からの利益と負担とを理
解し、それを反映するような決定がなされなければならない。その詳細な考察は別稿に譲らざ
るを得ないが、このとき、本人の身体状態に加え、例え言語的な意思表示ではないとしても、
いまだにふるまいなどを通して表明される価値観や選好を十分に尊重する必要があるだろう②。
また、少なくとも次の点には注意深く配慮する必要がある③。第一に、意思決定能力を欠くゆ
えの負担を考慮しなければならない点である。例えば、認知症などのようにいまだにある程度
の思考・知覚・感情などをもつが、自分になされる治療の意味を理解できない人にとっては、
長時間の拘束や痛みを伴うような治療や処置は、その意味を理解できる人に比べて、大きな負
担になるといえる。第二に、その人が保持する能力の保護や向上は重視されなければならない
点である。例えば、身体状態を安定させるための輸液であっても、その管を取り払おうとする
行動や興奮を抑えるために意識を低下させる処置を施すことは、その人の残存能力を減退させ
ることになってしまうかもしれない。これらの観点から、その人にとっての利益と負担とが注
意深く評価される必要がある。
このようにして、代理決定に際しては、現在のその人にとっての利益を考慮することが必要
である。この意味では、代理決定者は、現在の本人にとっての利益を重視する視座に立って選
択する必要がある。しかし、そのことは、事前指示やこれまでの意向などを全く考慮に入れな
くてよいということにはならない。他ならぬその人にとっての利益を考察するためには、その
人のこれまでの人生の歴史や考え方や選好などに関する知識が役立つものとなりうる。という
のも、現在のその人にとって重要なことや選好などは、かつての(意思決定能力を有する時点
での)意向や価値観と連続性をもつことが少なくないからである④。事前指示やそれに関する
話し合いもまた、現在のその人にとっての利益を知るための一助となりうる。
これまで考察してきたように、事前指示というシステムのみによって本人の意思や利益が反
①
Elysa R. Koppelman, “Dementia and Dignity: Toward a New Method of Surrogate Decision Making”, Journal of
Medicine and Philosophy, Vol. 27, No. 1, 2002, pp. 65-85.
②
実践的な場面をあげたうえでの理論的な考察には、例えば次のものがある。T. Hope, A. Slowther, J. Eccles,
“Best interests, dementia and the Mental Capacity Act (2005)”, Journal of Medical Ethics, 35, 2009, pp.733-738.
③
Rebecca Dresser, “Dworkin on Dementia. Elegant Theory, Questionable Policy”, Hastings Center Report, Vol.25,
No.6, 1995, pp.32-38.
④
例えば次のものにこの点についての多くの事例がある。小澤勲・土本亜理子『物語としての痴呆ケア』
三輪書店、2004 年。
15
「最期の選択」をどう考えるか(日笠晴香)
映される意思決定を実現するのは非常に困難である。そもそも現在の本人にとっての利益を十
分考慮する必要があり、事前指示は選択の大きな方向性を決めるため、また、現在の利益を知
るための重要な手がかりとして機能するのである。
おわりに
事前指示の限界を適切にふまえるならば、それを用いる意義は大きい。例えば、
「終末期の状
態にあり、治療をするたびに本人の状態がちょっとずつ悪くなっていく中で、家族としては、
どうすることが本人にとってよいことなのか悩む」というような場合に、事前指示は治療の方
向性を決める重要な手がかりとして役立つだろう。また、
「事前指示を考えることで、初めて自
らの死を意識した」というように、自らの死を意識し、生き方を考えるきっかけにもなるので
ある。それと同時に、事前指示をしないという選択も当然ありうる。例えば、「夫が亡くなると
き、夫と以前話し合ってきたことからも、子どもたちとの話し合いからも、一つの治療選択を
した。私も家族も話し合って納得して、一番よいと思ってその選択をした。けれど、その選択
についての夫の明確な希望があったわけではない」というように、事前指示がなくとも、その人
をよく知る人が、その人のこれまでの人生を手がかりにしつつ、本人の置かれている状況と現
在の利益を考えて判断するということもある。また、「自分の将来のことを考えると、事前指示
を尊重して欲しいと思うけれど、でも実際にはそのときになって周囲の人に決めてもらわない
と仕方のないものだとも思う」という意見も、
多くの人の実感に即しているのではないだろうか。
事前指示を尊重するという流れの中で、ともすれば、本人が決めておくという側面だけが強
調され、他人に決定を委ねなければならないという本来の要素は見過ごされがちである。しか
し、ある人の生き方に直接影響するような選択をしなければならない場面で、その人にとって
何が最善の選択になるのかを真摯に考えて決断しなければならないということに何らかわりは
ない。事前指示の意義と限界を見据えたうえで、本人にとって何が最善の利益となるのかにつ
いてのより深い洞察が求められているのである。
(ひかさはるか・東北大学大学院文学研究科博士課程後期・日本学術振興会特別研究員)
16
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
哀傷の言葉
――宮澤賢治『無声慟哭』における喪失の語り方について――
高橋 由貴
はじめに
文学作品の中でもとりわけ詩歌は、いにしえより死者への哀傷と結びついてきた。人の
死を悼む「挽歌」は万葉集の三大部立になっており、古今和歌集からは「哀傷」という部
立が採られている。また人が死に臨んで自らの生を振り返り、この世との別れとして「辞
世」の歌を詠んだ。これらの言葉は、日常の言葉のやりとりとは別の次元の言葉(詩語あ
るいは歌語)を用い、伝達の完了を想定しない死者との対話として、あるいは自らの喪失
に突き動かされる感情の発露として、また遺された者の尽きない悲嘆として紡がれてきた。
本稿では、その中でも宮澤賢治の『無声慟哭』という妹・トシの死に際して書かれた詩
を取りあげて、死者を送ることと言葉の関わり、すなわち哀傷の言葉のあり方を考えてい
きたい。
1 「永訣の朝」における透明な身体
「死者を送る者の思いを描いた日本近代詩歌の絶唱のひとつ」(栗原敦①)と評されるよ
うに、宮澤賢治『心象スケッチ 春と修羅』②に収められた『無声慟哭』には、妹のトシの
死をモチーフにした詩が収められている。多くの国語教科書に収録されている有名な「永
訣の朝」はこの中の一編であり、
『無声慟哭』は「永訣の朝」
「松の針」
「無声慟哭」
「風林」
「白い鳥」の五つの詩によって構成されている。
「永訣の朝」という詩は、死に瀕した賢治の妹・トシの臨終を、雪と水の二重性と天上
と地上をつなぐ中間的な位相の「みぞれ」のイメージに集約して語っている。
①
②
栗原敦「「永訣の朝」のすべて」(『解釈と鑑賞』
、2009 年 6 月)
宮澤賢治『心象スケッチ 春と修羅』(関根書店、1924 年 4 月)
17
哀傷の言葉(高橋由貴)
永訣の朝
けふのうちに
みぞれはさびしくたまつてゐる
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
わたくしはそのうへにあぶなくたち
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
(あめゆじゆとてちてけんじや)
すきとほるつめたい雫にみちた
うすあかくいつさう陰惨な雲から
このつややかな松のえだから
みぞれはびちよびちよふつてくる
わたくしのやさしいいもうとの
(あめゆじゆとてちてけんじや)
さいごのたべものをもらつていかう
青い蓴菜のもやうのついた
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
これらふたつのかけた陶椀に
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
もうけふおまへはわかれてしまふ
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
(Ora Orade Shitori egumo)
このくらいみぞれのなかに飛びだした
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
あぁあのとざされた病室の
蒼鉛いろの暗い雲から
くらいびやうぶやかやのなかに
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
やさしくあをじろく燃えてゐる
ああとし子
わたくしのけなげないもうとよ
死ぬといふいまごろになつて
この雪はどこをえらばうにも
わたくしをいつしやうあかるくするために
あんまりどこもまつしろなのだ
こんなさつぱりした雪のひとわんを
あんなおそろしいみだれたそらから
おまへはわたくしにたのんだのだ
このうつくしい雪がきたのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
(うまれでくるたて
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
こんどはこたにわりやのごとばかりで
(あめゆじゆとてちてけんじや)
くるしまなあよにうまれてくる)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
おまへはわたくしにたのんだのだ
わたくしはいまこころからいのる
銀河や太陽
気圏などとよばれたせかいの
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
…ふたきれのみかげせきざいに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
詩中の「みぞれ」は、確かな形をもつ固形の「雪」と透明な「水」の「まつしろな二相
系」というイメージを担い呈示されている。陰惨な曇りの中から落ちてくる「まつしろ」
な水と個体の入り交じったみぞれのイメージは、今日死に別れてしまう妹の身体とパラレ
18
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
ルに語られる。
「はげしいはげしい熱やあえぎ」に苛まれる生身の体は、詩の後半で「くら
いびやうぶやかやのなかに/やさしくあをじろく燃えてゐる」という透明な体に置き換え
られていく。もう一つ、
「そらからおりた」
「ふってくる」
「沈んでくる」、
「みだれたそらか
ら」
「きた」という言葉を並べて喚起させる陰惨な曇り空から地上へ落ちるみぞれの下降の
運動性に、「とし子」の臨終を地上から天上への上昇と捉える賢治の願いが託されていく。
この〈天上から地上/地上から天上〉の二方向の運動イメージに、とし子の〈生/死〉の
二重性が絡められてこの詩が成っている。言いかえれば、この詩の中では熱であえぐ病の
身体が透明化される過程が示されており、この死にゆく妹の透明化が「天上」において「お
まへ」と「みんな」をむすびつける「ねがふ」という行為の中で語り出される。
透明な身体として死者を見なすまなざしは、死者をきれいなイメージにとどめようとす
る想像力として、近年ヒットした「千の風になって」①や多くの戦争詩にたびたび詠み込ま
れてきた②。「永訣の朝」にもこの透明な身体が招き寄せられており、死者の美しく透明な
イメージが、死にゆく者と、遺された「わたくし」の慰めや祈りと結びついて、詩の緊密
な構成を成り立たせている。
賢治の詩は、このような生者側の一方的で想像的なまなざしを死者に投げかけながらも、
死者を透明な存在とする一義的な意味だけに収斂しないところが魅力的である。「永訣の
朝」はこのような透明な妹の身体を片方に据えながら、もう片方に「わたくし」
(賢治)の
意味づけには収まらない「とし子」の声を詩の中に織り交ぜる。東北弁のリズミカルな音
の再現がローマ字表記で試みられ、括弧でくくられたトシの臨終の声は、ややもすると詩
の美しさを攪乱する。
「死ぬといふいまごろになつて/わたくしをいつしやうあかるくする
ために」という過剰な解釈を施す「わたくし」
(賢治)の語りを、括弧の中の妹の声は、そ
の発話の地点にまで差し戻す。「永訣の朝」という詩は、「(Ora Orade Shitori egumo)」と、
①
英詩“Do not stand at my gave and weep”を 2001 年に新井満が訳し曲を付した「千の風になっ
て」は、秋川雅史の 2006 年に第 57 回NHK紅白歌合戦の出場を機に世に広く注目される。歌のヒッ
トと並行し、2004 年に映画『千の風になって~天国の手紙』(監督・脚本=金秀吉、主演=南果歩、
配給=シネマ雄)が制作され、また 2007 年からはフジテレビ系列で生と死を扱う新井満企画のドラ
マシリーズ『千の風になって』(第 1 弾「家族へのラブレター」、2007 年 8 月 3 日、第 2 弾「ゾウの
はな子」、2007 年 8 月 4 日、第 3 弾「はだしのゲン」2007 年 8 月 10~11 日、第 4 弾「実録ドラマ 死
ぬんじゃない!~宮本警部が遺したもの~」2008 年 2 月 15 日、第 5 弾「なでしこ隊~少女たちだけ
が見た特攻隊・封印された 23 日間~」2008 年 9 月 20 日)が放送されている。
②
戦争高揚詩の方法については、例えば瀬尾育生『戦争詩論 1910‐1945』
(平凡社、2006 年 7 月)や
坪井秀人『声の祝祭』(名古屋大学出版会、1997 年 8 月)に詳しい。
21
哀傷の言葉(高橋由貴)
括弧という統御を施す形で他者としての「とし子」の声を響かせる。
このような他者の側の視線を折り込んだ賢治の詩を考える際、これもまた教科書に収録
され私たちになじみ深い高村光太郎「レモン哀歌」①を対置させることで、賢治の詩の哀傷
の言葉の特徴がより明確になるだろう。 狂気を随伴する病を患っているはずの「あなた」
(智恵子)の身体は、
「きれいな歯ががりりと噛んだ」という一文を除いて禍々しさや凶暴
性を脱色させられ、
「生涯の愛」を「かたむける」けなげな存在としてイメージされる。さ
らにこの狂気を逃れた一瞬の正気は、「わたし」のための行為として解釈される。
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
あなたの咽喉に嵐はあるが
かなしく白くあかるい死の床で
かういふ命の瀬戸ぎはに
わたしの手からとった一つのレモンを
智恵子はもとの智恵子となり
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
生涯の愛を一瞬にかたむけた
トパアズいろの香気が立つ
それからひと時
その数滴の天のものなるレモンの汁は
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの機関はそれなり止まった
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
写真の前に挿した桜の花かげに
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
すずしく光るレモンを今日も置かう
妻の臨終と最後の二行で語られる死んだ妻への哀悼を語るこの美しい詩は、しかし死者
である智恵子側の声や、作者が統御できない身体性や他者性を全く欠いた形で成り立って
いる。私の側から発見される美しい一瞬、妻の行為を「愛」と語る揺るぎない解釈、その
死後の哀悼の念と、スムーズに流れる詩の言葉とモチーフには、よどみやためらいがない。
智恵子側の視点がこの詩では消去されているがゆえに、美しく統御された詩が編まれてい
る。この詩が整然として完結した世界を形成しているのは、この統御された「わたし」
(光
太郎)の見方を脅かす他者が存在しないためである。この詩には「わたし」の喪失がない
のである。
翻って「永訣の朝」の詩は、
「わたくし」の意味づけを拒むトシの臨終の言葉を詩の中に
①
高村光太郎『智恵子抄』(龍星閣、1941 年 8 月)
20
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
折り込みながらも、それを括弧に入れて統御することでかろうじて彼女の死を美しいもの
として語り得ることができていたといえよう。だが、この後に続く「松の針」「無声慟哭」
という詩の中で、危ういバランスの上に成り立っていた妹への哀切を詠む詩は、この「と
し子」の声の増幅の中で破綻を見せていく。美しく完結した詩から出発した『無声慟哭』
が、詩を作り続ける中で綻びを見せていく様を次節において確認したい。
2 「松の針」「無声慟哭」におけるトシの身体の前景化
「永訣の朝」の後に置かれた「松の針」という詩は、
「みぞれ」の乗った松の枝に「とび
つくように」して「あつい頬をあてる」妹の姿から語りはじめられる。
松の針
さっきみぞれをとつてきた
鳥のやうに栗鼠のやうに
あのきれいな松のえだだよ
おまへは林をしたつてゐた
おお
おまへはまるでとびつくやうに
どんなにわたくしがうらやましかつたらう
そのみどりの葉にあつい頬をあてる
ああけふのうちにとほくへ
そんな植物性の青い針のなかに
さらうとするいもうとよ
はげしく頬を刺させることは
ほんとうにおまへはひとりでいかうとするか
むさぼるやうにさへすることは
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
どんなにわたくしたちをおどろかすことか
泣いてわたくしにさう言つてくれ
そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ
おまへの頬の
おまへがあんなにねつに燃され
なんといふけふのうつくしさよ
あせやいたみでもだえてゐるとき
わたくしは緑のかやのうへにも
わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいた
この新鮮な松のえだをおかう
りほかの人のことをかんがへながら
いまに雫もおちるだらうし
森をあるいてゐた
((ああいい
けれども
そら
さつぱりした
さわやかな
ターペンタイン
まるで林のながさ来たよだ))
turpentineの匂もするだらう
「わたくしたちをおどろかす」という意外な妹の姿は、妹が手に取る「松の針」を媒介
にして「林へ」
「ひとりでいかうとする」別れのイメージへと連なっていく。一人向こうへ
行き去る妹に、
「いっしょ」を願う「わたくし」の届かない呼びかけ(21 行目)がむなしく
21
哀傷の言葉(高橋由貴)
響く。また「けふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ」
(20 行目)と「永訣の朝」の
フレーズが引き継がれながらも、ここで呈される「おまへ」の姿は、病と透明性の二重の
身体イメージとは異なる。
「あつい頬」
「ねつに燃され」
「あせやいたみでもだえ」る妹の身
体は、透明さを振り払って生々しい病気の身体をもち、
「わたくしにいっしょに行けとたの
んでくれ」という切なる「わたくし」の願いを拒む存在である。この兄と妹の分岐は、病
に冒される妹と太陽の下で自由に動ける「わたくし」の状況・状態の違いとして(10~13
行目)
、過去に遡ってもともとの両者の差異として理由づけられ、兄妹の根本的な亀裂を露
呈させてしまう。結末部の松のえだを蚊帳の上に置くという行為は、何もできぬ「わたく
し」の妹へせめても行為で、文末の「だらう」の繰り返しが逆に切ないやりきなさとして
詩全体を覆う。すなわち「永訣の朝」における死に向かう妹の透明な身体表象と「わたく
し」の願いの一致は「松の針」において見ることができず、「ねつ」「いたみ」にもだえる
妹の病の身体が前に迫り出すことで「いっしょ」を願う「わたくし」の期待とは大きく外
れる妹がクローズアップされ、それに伴って何もできない無力な「わたくし」の妹への呼
びかけが主題化される。
「わたくし」の思いを拒む妹のあり方は、さらに三つめの詩「無声慟哭」において程度
を増して示されていく。「無声慟哭」は、「永訣の朝」よりも一行の字数が増え、時間的秩
序も乱れたものになっている。たたみかける言い回しによるこの詩に漂う切迫感は、安定
した「永訣の朝」の語りとは明らかに異質なものだろう。この詩の中で「わたくし」の感
覚は、トシの身体をめぐって匂いを発する生々しい身体性と「ちいさな白い花の匂」で縁
取られた透明な身体との間で葛藤をみせる。
無声慟哭
こんなにみんなにみまもられながら
ひとりさびしく往かうとするか
おまへはまだここでくるしまなければならないか
信仰を一つにするたつたひとりの
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
みちづれのわたくしが
また純粋やちいさな徳性のかずをうしなひ
あかるくつめたい精進のみちから
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
かなしくつかれてゐて
おまへはじぶんにさだめられたみちを
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
22
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
(おら
((それでもからだくさえがべ?))
おかないふうしてらべ)
((うんにや
何といふあきらめたやうな
いつかう))
ほんたうにそんなことはない
悲痛なわらひやうをしながら
かへつてここはなつののはらの
またわたくしのどんなちひさな表情も
ちひさな白い花の匂でいつぱいだから
けつして見遁さないやうにしながら
ただわたくしはそれをいま言へないのだ
おまへはけなげに母に訊くのだ
(うんにや
((わたくしは修羅をあるいて
ずゐぶん立派だぢやい
ゐるのだから))
けふはほんとに立派だぢやい)
わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
ほんたうにさうだ
わたくしのふたつのこころを
髪だつていつさうくろいし
みつめてゐるためだ
まるでこどもの苹果の頬だ
ああそんなに
どうかきれいな頬をして
かなしく眼をそらしてはいけない
あたらしく天にうまれてくれ
「おまへはまだここでくるしまなければならないか」
(2 行目)
、「ひとりさびしく往かう
とするか」(7 行目)
、「おまへはひとりどこへ行こうとするのだ」
(11 行目)という悲嘆と
もなじっているともとれる妹への呼びかけを重ねる前半の調子は、前の二つの詩よりも妹
との別離を激しく訴える。
「わたくし」の無力な呼びかけの中で挿入される、離れゆく妹の
声は、
「おら おかないふうしてらべ ※原注:あたしはこわいふうをしているでせう」
(12
行目)、「それでもからだくさがべ
※原注:それでもわたしはわるいにおいでせう」(24
行目)と、死に瀕した自身のネガティブな身体性をしきりに気にする「けなげ」な言葉と
受けとられている。
「永訣の朝」において兄の人生の今後のあかるさを望む美しい「けなげ」
さは、
「無声慟哭」において死ぬときの身体の匂いや表情のどうしようもなさに対する「悲
痛」をたたえた「けなげ」さへと移行している。注目すべきは、ここに白い花で満たされ
た夏の野原を呼び込みながら、死臭を纏い喘ぎ苦しむ妹の存在がどうしても付きまとい、
「かなしく眼をそらしてはいけない」という妹と「わたくしのかなしさうな眼」との間に
横たわる懸隔、「わたくし」の分裂した「ふたつのこころ」にこの詩は帰着する点である。
このように、
「無声慟哭」には「永訣の朝」の美しさにとどまらない死者「とし子」のあり
23
哀傷の言葉(高橋由貴)
ようが前景化されており、それが「無声」という語りえることと語りえないこととのあわ
いから言葉が発せられているのである。
3 宮沢賢治の終着のない旅としてのテクスト
ここまで、
『無声慟哭』のトシの死んだ日付に書かれた三編の詩を中心に賢治の詩におけ
る妹の死の語り方を見てきた。
「永訣の朝」において透明な身体表象を置き、一旦は妹を弔
う詩が書かれたものの、死者である妹の声は、賢治に美しいだけにとどまる詩を許さず、
さらに賢治に詩を書き継がせる。
私たちにとっての哀傷の言葉も、賢治の詩と同じ性質をもつのではないか。自分と死者
の物語を作ろうと思っても、死者を思うほどその物語は死者の声によって揺さぶられ、綻
び、さらに私たちはまた別な物語を作り、その物語もまた綻びる。弔いと弔いきれない残
余を抱えて、果てしなく死者と対話し続けることが、私たち遺された者と死者の対話のあ
り方であるといえる。
「無声慟哭」の後、賢治は七ヶ月もの間、詩作を中断する。この中断の後、岩手山登山
がきっかけとなって「風林」
「白い鳥」が書かれる。だが、この二つの詩はこちら側の分析
を受け付けない、ともするとアヴァンギャルドなものになっている。賢治研究においてこ
れらの「わからない」詩は往々にして妹・トシへの哀傷詩の分析としては対象に組み込ま
れてこなかった。だが、これらの「わからない」詩こそが、死者の弔いとその弔いきれな
さを言葉にする詩の営為の根本に据えられるべきではないかと考える。
白い鳥
((みんなサラーブレツドだ
(日本絵巻のそらの群青や
あゝいふ馬
天末のturquoisはめずらしくないが
誰行つても押へるにいがべが))
タ コ イ ス
あんな大きな心相の
((よつぽどなれたひとでないと)
光の環は風景の中にすくない)
古風なくらかけやまのした
おきなぐさの冠毛がそよぎ
二疋の大きな白い鳥が
鮮かな青い樺の木のしたに
鋭くかなしく啼きかはしながら
何匹かあつまる茶いろの馬
しめつた朝の日光を飛んでゐる
じつにすてきに光つてゐる
それはわたくしのいもうとだ
24
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
死んだわたくしのいもうとだ
人のない野原のはてからこたえてきて
兄が来たのであんなにかなしく啼いている
わたくしを嘲笑したことか)
そのかなしみによるのだが
(それは一応まちがひだけれども
またほんとうにあの声もかなしいのだ
まつたくまちがひとは言はれない)
あんなにかなしく啼きながら
いま鳥は二羽
かゞやいて白くひるがへり
朝のひかりをとんでゐる
むかふの湿地
青い芦のなかに降りる
(あさの日光ではなくて
降りやうとしてまたのぼる
(日本武尊の新らしい御陵の前に
熟してつかれたひるすぎらしい)
おきさきたちがうちふして嘆き
けれどもそれも夜どほしあるいてきたための
バ ー グ
そこからたまたま千鳥が飛べば
vagueな銀の錯覚なので
(ちやんと今朝あのひしげて融けた金の液体が
それを尊のみたまとおもひ
芦に足をも傷つけながら
青い夢の北上山地からのぼったのを
わたくしは見た)
海べをしたつて行かれたのだ)
清原がわらつて立つてゐる
どうしてそれらの鳥は二羽
(日に灼けて光つてゐる
そんなにかなしくきこえるか
ほんたうの農村のこども
それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき
その菩薩ふうのあたまの容は
わたくしのいもうとをもうしなつた
ガンダーラから来た)
そのかなしみによるのだが
水が光る
(ゆうへは柏ばやしの月あかりのなか
きれいな銀の水だ
((さああすこに水があるよ
けさはすずらんの花のむらがりのなかで
なんべんわたくしはその名を呼び
口をすゝいでさつぱりして往かう
またたれともわからない声が
こんなきれいな野はらだから))
胸に呼び込まれたものを次々に書き写す「心象スケッチ」の形をなすこの詩は、死者が
白鳥になって舞い戻るという古の伝承を下敷きにしながら、
「いもうと」の死を詠み込んで
いく。しかしそのような物語へ「いもうと」の喪失はもはや回収されえず、詩はある種の
過剰さを表出していく。例えば傍線部(13~20 行目)では、死者である「いもうと」は「二
疋の大きな白い鳥」といった異類に姿を変え複数化される。このイメージの荒唐無稽さは
「まちがいだけれども」
「まちがひとは言はれない」と、その感覚の確かさを弁解する言葉
が続けられる。また「いもうと」の喪失の声は誰とも知れない遠くからの嘲笑の声によっ
て応えられ、そのかなしみが「兄が来たので」啼く鳥の声と重ねられていく。ここではも
25
哀傷の言葉(高橋由貴)
はや妹とのコミュニケーションの可能性が、
「白い鳥」となって「かなしく啼」くという幻
想によってはじめから成立することを拒まれている。さらには、
「わたくし」を苛む不特定
多数の声に「いもうと」の声も含まれるように、妹の喪失を抱えた「わたくし」と世界と
の関係性も失調を来し、後半になるにつれ詩は危うさを増していく。自らの統御の及ばな
いこの幻想の融通無碍さは、これら「まちがひ」
(=虚構)としての言葉の起源を、妹を失
った「かなしみ」にゆだねたところに生じているだろう。一見グリーフの失調・失敗とも
見えるこの破綻を来した詩の錯綜こそが、逆説的に妹を亡くした賢治の哀傷を物語ってい
るのではないだろうか。
さて、
「風林」
「白い鳥」を書いた翌月、賢治は樺太に旅行するのであるが①、この旅のも
う一つの目的は死んだ妹の行方を求める旅でもあった。この旅で賢治は『オホーツク挽歌』
という詩連を作る。弔いきれない(すなわち自らの中で収まりきれない)妹が常に賢治に
立ち現れ、さらに幻影の「とし子」を探し求めて賢治は旅に出て、詩を書いていった。
噴火灣(ノクターン)
稚いえんどうの澱粉や緑金が
思ひ余つたやうにとし子が言つた
どこから来てこんなに照らすのか
((おらあど死んでもいゝはんて
(車室は軋みわたくしはつかれて睡つてゐる)
あの林の中さ行ぐだい
とし子は大きく眼をあいて
うごいで熱は高ぐなつても
烈しい薔薇いろの火に燃されながら
あの林の中でだらほんとに
(あの七月の高い熱……)
死んでもいいはんて))
鳥が棲み空気の水のやうな林のことを考へてゐた
(かんがへてゐたのか
鳥のやうに栗鼠のやうに
そんなさはやかな林をひ
いまかんがへてゐるのか)
(栗鼠の軋りは水車の夜明け
車室の軋りは二疋の栗鼠
大きなくるみの木のしただ)
((ことしは勤めにそとへ出てゐないひとは
一千九百二十三年の
みんなかはるがはる林へ行かう))
とし子はやさしく眼をみひらいて
赤銅の半月刀を腰にさげて
透明薔薇の身熱から
どこかの生意気なアラビヤ酋長が言ふ
青い林をかんがへてゐる
七月末のそのころに
ファゴットの聲が前方にし
①
1923(大正 12)年 7 月 31~8 月 12 日までの 13 日間、27 歳の賢治は勤めていた稗貫農学校の
生徒の就職依頼と標本の採集のために青森・北海道経由で樺太を旅している。
26
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
Funeral march があやしくいままたはじまり出す
(車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠)
((栗鼠お魚たべあんすのすか))
駒ケ岳駒ケ岳
暗い金屬の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
(二等室のガラスは霜のもやう)
とし子がかくされてゐるかもしれない
もう明けがたに遠くない
ああ何べん理智が教へても
崖の木や草も明らかに見え
私のさびしさはなほらない
車室の軋りもいつかかすれ
わたくしの感じないちがつた空間に
一ぴきのちいさなちいさな白い蛾が
いままでここにあつた現象がうつる
天井のあかしのあたりを這つてゐる
それはあんまりさびしいことだ
(車室の軋りは天の樂音)
(そのさびしいものを死といふのだ)
噴火灣のこの黎明の水明り
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
室蘭通ひの汽船には
とし子がしづかにわらはうと
二つの赤い灯がともり
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
東の天末は濁った孔雀石の縞
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ
黒く立つものは樺の木と楊の木
めくるめく幻想に彩られた「噴火灣(ノクターン)
」は、熱にうかされ林を考える臨終の
とし子(4~5 行目)を鳥や栗鼠になぞらえられつつ、
「どこかにかくされたとし子」を探し
求める詩である。この詩を含める連作『オホーツク挽歌』は、天上と地上、現実と幻想の
境界上を汽船が軋みながら進む様が、
「さびし」さのうちに遠いとし子を「おもふ」道行き
と重ねて語り出されていく。統御を欠いたぎりぎりの危うさの上に、一つ一つ長大で融通
無碍な言葉が連ねられる「挽歌」が書かれていく。このような詩の生成に見られる錯綜と
喪失の統御のせめぎあいの営為の中で、この後詩だけでなく小説や歌といった多彩かつ数
多くのテクストを賢治は生み出していく。
おわりに
この死者を求め鉄道で北へ向かう想像力は、賢治畢生の大作「銀河鉄道の夜」へと続い
ていく。死の間際まで膨大な手直しが施されていたこの小説は、ある段階において、遠隔
コミュニケーション実験を成功させるブルカニロ博士の登場がすっぱりと抹消された。向
こうとこちらをつなぐ遠隔コミュニケーションの可能性を手繰り、また死者たちと同じ鉄
27
哀傷の言葉(高橋由貴)
道にのって旅をするという「銀河鉄道の夜」は、
「ほんとうの神様」
「ほんとうのさいはひ」
を求めながらも、一つの方向に収斂することなく、膨大な量の付け足し原稿と幾重の抹消
線によって常に手を加えられていった。つまり「銀河鉄道の夜」は、死者との対話をめぐ
る道行きとして常に生成し続けていたともいえよう。
死者を弔う言葉の営為とは、一方ではこのように死者を喪失を自らの幻想によって統御
し昇華させながらも、もう一方で喪失やかなしみや死者といった他者を淵源とする幻想に
身をゆだねもする試みであり、常に浮上するこの死者の声に向き合う限り言葉を紡ぎ続け
る、完結しないこちらとあちらの往還運動である。
「銀河鉄道の夜」の主人公・ジョバンニも、死者と同行した汽車を降りてもなお「もう
カムパネルラは銀河のはづれにしかゐないといふやうな気がしてしかたなかった」という。
この結末は、カムパネルラの喪失と遠く離れたどこかにいるという彼の存在の幻想の二重
性と同行する旅――言い換えるならば、かけがえのない者の死を抱えた生――を生きるこ
とを示唆している。死者とこちら側の圧倒的な懸隔を意味する賢治の〈かなしさ〉のモチ
ーフ(中村三春①)は、しかし膨大な文学テクストの生成を駆動させてきたのであるといえ
よう。
(たかはしゆき・東北大学大学院文学研究科博士課程後期)
〈付記〉引用の宮澤賢治のテクストは、筑摩書房版『新校本宮澤賢治全集』に拠った。なお引用に際
し、旧字体を新字体に改めルビを省略する等の改変を適宜行っている。
①
中村三春「争異するディスクール―『銀河鉄道の夜』―」
(『修辞的モダニズム』、ひつじ書房、2006
年 5 月)
28
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
17 世紀日本における「死生観」小考
本村 昌文
はじめに
厚生労働省の「終末期医療に関する調査」
(2008 年)によれば①、
「自宅で最期まで療養でき
るか」との問いに、約 66%の人が実現困難と答え、その理由のトップが「介護してくれる家族
に負担がかかる」
(約 80%)
、次いで「症状が急変したときの対応に不安である」
(約 60%)が
挙がっている。家族の介護負担への配慮と急変時における医療行為に関する不安が、在宅での
療養の実現への障壁となっている。
宮城県仙台市と名取市を中心に在宅ホスピスを展開している宮城県医療法人社団爽秋会岡
部医院で作成している「居宅支援経過書」をみても、たとえば、「病気になり、妻・母としての役割
が果たせないと感じている。家族に対して遠慮や申し訳ない気持ちがある。家族に面倒をかけること
はしたくない。周りに気を使って、本心を伝えられないでいるのか」と患者が家族の中で役割を果た
せないため、家族に負担をかけることに抵抗を感じている事例や②、「痙攣にたいする薬剤調整の
説明うけたが、この 1 週間に 2 回も痙攣おきた。それも抗痙攣剤を追加したにもかかわらずという気持
ち強く、とても落ち込んで、このままでは自宅で過ごすのは難しい。息もつけなくなる不安はたとえよう
がない」と患者の家族が症状の急変に対する医療行為への不安を吐露する事例が多くみられる③。
自宅で死を迎えることが難しいのであれば、施設への入所を選択する道もあろう。しかし、その
選択肢もそう簡単に実現できるわけではない。厚生労働省から発表された「特別養護老人ホーム
の入所申込書の状況」によれば、
特別養護老人ホームの入所申込者は、全国で 42 万人を超える④。
希望すれば、誰でもすぐに施設に入所可能という状況ではないのである。むろん、施設は特別養
①
第 1 回終末期懇談会(平成 20 年 10 月 27 日)資料 2「終末期医療に関する調査概要」
(厚生労働省ウェ
ブサイト、http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/10/s1027-12.html、2009 年 8 月 20 日閲覧)
。
②
「居宅支援経過書」
(岡部医院所蔵)
。この資料は、在宅開始から 2 年経過時に、50 歳の女性(患者)の
自宅へ訪問したケアマネージャーの記録である(2005 年 9 月)
。夫と娘 3 人の 5 人家族、発病したときは
一番下の娘は小学生であった。
③
同前。この資料は、半年ほど在宅での生活の後、岡部医院が関わるようになって 6 日目に、患者(男性
52 歳)の妻が発した言葉をケアマネージャーが記録したものである。なお、
「居宅支援経過書」は、調査
は中途段階であり、今後、在宅移行時と在宅移行後に患者とその家族の抱く意識について、整理・分類し、
検討したいと考えている。
④
「特別養護老人ホームへの入所申込状況調べ」
(厚生労働省ウェブサイト、
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000003qxc-att/2r98520000003qz3.pdf、2010 年 3 月 28 日閲覧)
29
17 世紀日本における「死生観」小考(本村昌文)
護老人ホームだけではない。しかし、有料老人ホームの多くは高額で、入所できる人は限られる。
このような状況に直面したとき、私たちはいかなる価値観をもって死を迎えるのか、また看
取りを行うのかということが鋭く問われることになろう。
以上の問いに対しては、一つの研究分野で完璧に対応できるわけではなく、さまざまな研究
分野、もう少し付言すれば研究の世界のみならず、医療や介護などの現場からさまざまな問題
点や課題を列挙し、それらを解決へと導く成果を積み上げ、共有財産を作り上げていくことが
必要であろう①。本稿は、近世日本思想史研究の立場から、上述の問いにアプローチすること
を目的としている。
かつて日本列島を生きた人々は、どのような価値観をもって看取りを行い、死を迎えたのか。
このような問いかけは、いわゆる「死生観」をめぐる研究として、近世日本思想史の分野でも
数多くの成果が蓄積されてきた②。そこでは、前時代まで支配的であった仏教的死生観とは異
なる儒教・神道・国学などの多様な死生観が明らかにされ、しばしば現代に比して、明確な見
識をもって死や看取りに相対していた姿が描かれてきた。たしかに、現代ほど多くの人が長寿
を全うできず、死が日常生活の中に普通の出来事として存在していた時代において、死や看取
りに対して確固たる見解が形作られていた側面があることは否定できない。
しかし、
当時の人々
、、、
は一様に確たる信念をもち、悟りきった心情で死と向き合うことができたのであろうか。
現代の終末期医療の抱える問題と切り結んで、日本人の看取り意識を研究したものとして、
日本史の分野における新村拓氏の一連の業績があげられる③。新村氏は、日本の看取りの文化
①
こうした試みとして、岡部健・竹之内裕文編『どう生きどう死ぬか―現場から考える死生学』
(弓箭書
院、2009 年)がある。
②
相良亨氏は、
「人間は死と向き合う時に、もっとも正直になるのではなかろうか。全く正直とまではいかな
くとも、より本当の自分をさらけ出すことになるのではあるまいか。個人的なことはしばらくおくとしても、
なお、この個人的な心の動きをふまえて考えれば、日本人の伝統的な思想を考える場合に、日本人は死と
どのように向き合い、それとのかかわりで生をどのように理解してきたかと探ることは、日本人の思想の基
底に流れてきたものを探りあてるもっともよい方法ではあるまいか」と、日本人の死生観を探求する意味
を説いている(『日本人の死生観』、ぺりかん社、1984 年)。誤解をおそれずいえば、日本思想史という学問分
野では、「日本人」の思想の根底を明らかにする方法として、
「死生観」が俎上にのせられてきたのではなか
ろうか。現実の社会的問題や思想的課題と切り結んで「死生観」が注目されるのは、たとえば「靖国問題」
などの政治的な色彩を帯びたテーマが多く、医療や介護の現場の抱える問題と対峙した研究は決して活況
とはいえない。かかる問題関心からなされた貴重な研究として、佐々木馨『生と死の日本思想―現代の死
生観と中世仏教の思想―』(トランスビュー、2002 年)、桐原健真「
「病院」の思想」(陶徳民・姜克實・見城悌
治・桐原健真編『東アジアにおける公益思想の変容―近世から近代へ―』、日本経済評論社、2009 年)がある。
③
『死と病と看護の社会史』(法政大学出版局、1989 年)、
『老いと看取りの社会史』(法政大学出版局、1991
年)、
『ホスピスと老人介護の歴史』(法政大学出版局、1992 年)、
『医療化社会の文化誌』(法政大学出版局、
1998 年)など。
30
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
について、明治の中頃まで「仏教をベースにして形づくられたものが連綿と受け継がれていた」と指
摘する①。具体的に仏教をベースとした看取りとは、①念仏を唱えることに専心できる環境作
り、②衣食、清拭、排泄などの身体的ケア、③死の恐怖に対するケア、④除痛と死後の処置で
あり、介護する人の用件として、①死にゆく人を往生に導く人(善知識)であること、②妻子は
避けること、③異性による介護を避けること、というものである。こうした「看取り」のありよ
うが、仏教者の作成した臨終行儀書や庶民向けの啓蒙書に取り入れられ、近世社会に流布して
いったという②。以上の新村氏の説に対して、近世における介護の実態を明らかにした柳谷氏
は、
新村氏の指摘する仏教をベースとした女性による看病、
異性による看病を忌避する様子が、
「孝子伝」や「日記」などの諸資料にはみられないことから、仏教的な介護・看取りの文化がどこ
まで近世社会に浸透していたのかということをあらためて検討し直す必要性を指摘している③。
たしかに、近世社会において、仏教が社会的に大きな勢力を有し、人々の心性に多大な影響
力を有していたといえよう④。しかし、そのことと、人々が心の底から仏教的価値観を信奉し、
死や看取りに向き合っていたかどうかは次元を異にする問題である。
このように考えてくると、
当時の資料に即しつつ、あらためて死や看取りに際して、人々はいかなる価値観をもって臨ん
でいたのかということを検討していくことが必要であるということができよう。本稿は、こう
した課題に対して、17 世紀日本に焦点をあてて考察することを目的としている⑤。
①
『医療化社会の文化誌』299 頁~300 頁。
新村氏の研究を梃子として、1990 年代以降、日本史研究の分野では「老い」や「介護」に関する研究が
進展した。幕府によって編纂された『官刻孝義録』の分析を中心に老いと介護を検討したものに、菅野則
子「養生と介護」(『日本の近世』15、中央公論社、1993 年)、
『江戸時代の孝行者―「孝義録」の世界―』(吉
川弘文館、1999 年)。17 世紀後半~18 世紀の京都における老人のありようを検討したものに、菅原憲二「老
人と子供」(『岩波講座日本通史 13』、岩波書店、1994 年)。女性による無償の介護を自明とする現代社会の
通念が歴史的にどのように形成されてきたのかという問題意識のもと、近世における「孝子伝」や「日記」
を検討し、①主たる介護者が男性であり、責任もつ存在であったこと、②介護に関する教説が多くみられ
る時期として、17 世紀後半から 18 世紀初頭、18 世紀後半から 19 世紀初頭と時期を区分し、通史的な見
通しをつけ、③現在の介護休暇制度に類する「看病断」の制度が存在したことを明らかにしたものとして、
柳谷慶子『近世の女性相続と介護』(吉川弘文館、2007 年)がある。東北地方の老人介護の実態や救済のし
くみのありようを検討したものに、松本純子「近世の子供と老人の扶養―奥州守山半領の事例から―」(『歴
史』88、1997 年)、
「近世町方の「老い」と「縁」―奥州郡山の事例を通して―」
(
『歴史』94、2000 年)が
ある。また、小椋喜一郎氏は各藩が行った高齢者や鰥寡孤独者などに対する救済制度の内容を検討し、近
世=地域における相互扶助の世界という図式に見直しを迫っている(
「幕藩制国家と「老い」をめぐるポ
リティクス」
、
『アジア民衆史研究』13、2008 年)
。 なお、歴史科学協議会編『歴史評論』では、565 号(1997
年)に「老いと歴史と女性」
、608 号(2000 年)に「歴史に「老い」を追う」という特集を組んでいる。
③
柳谷前掲書 21 頁。
④
尾藤正英『江戸時代とは何か』
(岩波書店、1992 年)
。
⑤
17 世紀に注目するのは、筆者がこれまで当該時期における儒教と仏教の論争の検討を通して、17 世紀
中葉から後半にかけて、儒者が死・死後の問題に言及しはじめるようになること、朱子学の死生観を死後
②
31
17 世紀日本における「死生観」小考(本村昌文)
1 「彼岸」への思慕から「現世」における生へ
これまでの研究において、中世から近世にかけて生じた人々の精神構造の変化として、
「彼
岸」
の世界の希求から現世のもつ価値の高まりということが指摘されている。
中世においては、
「彼岸」の理想世界へ到達することが至上の価値であり、いま私たちが生きているこの世は仮
の世であり、二次的な価値しか有していなかった。しかし、こうした意識は、14 世紀半ば頃か
ら変容しはじめ、しだいに「彼岸」の世界のリアリティは失われ、この世でいかに生きるとい
うことが重視されていくようになった①。
こうした精神構造の変化に呼応するように、江戸に幕府が開かれ、新たな政治体制が整備され
ていった 17 世紀に、
博多の豪商であった島井宗室は養嗣子への遺言で以下のように述べている。
五十に及候まで、後生ねがひ候事無用候。老人は可然候。浄土宗・禅宗などは可然候ずる、其外は無
用候。……後生今生之わきまへ候てなる人は、十人に一人も稀なる事候。此世に生きたる鳥類・ちく
るいまでも、眼前のなげき計仕候。人間もしやべつなき事候間、先今生にては、今生之外聞うしなは
ぬ分別第一候。来世之事は、仏祖もしらぬと被仰候。況、凡人之知る事にて無之候。相かまいて後生
ざんまい及五十候まで無用たるべき事。②
ここでは、50 歳頃までは「いまを生きる」ことを尊重し、死や死後のことについて思いをめ
ぐらす必要はないということが述べられている。
この資料は町人層の人物による記述であるが、
だいがつか
同様の主張は農民層の手に成る資料にもみられる。河内国石川郡大ケ塚村で庄屋役をつとめた
上層農民で、酒造業も営んでいた河内屋五兵衛可正(1636 年~1713 年)の執筆した『河内屋可
正旧記』
(以下、本文では『旧記』と略す)には、
「若き時には無常の心を次にして、家を斉へ
身を治めん事を専にし、年五十にも成なば、大形なる事は放下して無常を思ひ、後生善所の勤
に霊魂が消滅すると解釈する人々が登場することを明らかにし、前時代とは異なる死・死後観が形成され
る時期と指摘してきたことをふまえている(拙稿「林羅山の仏教批判―死生観をめぐって―」
〈
『日本思想
史学』33、2001 年〉
、
「江戸前期における朱子学の受容と変容―仮名草子の仏教批判をめぐって―」
〈
『日本
思想史研究』34、2002 年〉
、
「熊沢番山の死生観」
〈
『日本思想史学』40、2008 年〉等)
。しかし、理由はこ
れだけではない。神道家が死・死後の問題に言及するのも 17 世紀中葉以降と指摘されている(安蘇谷正
彦『神道の生死観―神道思想と「死」の問題―』
、ぺりかん社、1989 年)
。仏教の臨終行儀の書が執筆され、
また往生伝が再び作成されるのも、17 世紀中葉から後半の時期であり、死と生をめぐって前時代とは異な
る新たな動向が生じはじめた時期として注目される。
①
佐藤弘夫『死者のゆくえ』
(岩田書院、2008 年)
。
②
日本思想大系 59『近世町人思想』378 頁(岩波書店、1975 年)
。
32
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
めをなさん事目出度儀也」①と、50 歳までは家を守ることと自己修養に専念し、50 歳以降に死
後に極楽世界へ至ることを考えると述べられている。
当時は死亡率の高い乳幼児期をのりこえると、60 歳前後まで生きることができたといわれて
おり②、同時期の著作を一瞥しても、人間の寿命を 60 歳頃とするものが多い。こうした点をふ
まえると、50 歳以降とは、死を迎えるまでのおよそ 10 年間を指すと考えられる。すなわち、
この世に生をうけてから 50 年間は現世においていかに生きるかということに専念し、
死を迎え
るまでの 10 年間に死・死後のことを考えるというライフスタイルである。
死や死後のことを第一に考えるよりも、家業に励み、家を守り、自己の行動を律するという
「いまを生きる」ことを重視する上で、さらに次のような主張がなされている。
命ハ大事ノ物也。人身二度ウケガタシ。一度死テ又来ル物ニ非。短命ニシテ能事ハナイゾ。一日ノ命
千金ヨリ重シ。……唯願ハシキハ無病ニシテ心ノ安カランヤウニ。③
このように、人として再生することのない一回限りの命を尊重し、無病息災で心安らかに過
ごすことが何よりも尊重される。さらに、「命」の尊重という考え方と関連して、「世ノ中ノ有様
ヲ見ルニ、病ニ犯サルヽ時医師ヲ頼ミ、養生ヲスル事、上々様ノ儀ハ云フニ及バズ、イカナル
賤キ下女下男ノ類迄モ、身ヲ売衣類ヲ代ナシテ薬代ヲ調ヘ、療治スル事余儀ナシ。尤ナル哉」④
と、
身分の貴賤を問わず、
病気になった際には何にもかえて医師や薬が求められるようになる。
以上のような町人・上層農民の意識と並行して、思想界でも現世における生き方をめぐって
論争が繰り広げられていた。江戸時代になり、儒教、とくに朱子学が本格的に輸入されるよう
になり、その教説を受容した思想家から仏教に対する批判がなされ、仏教者はそれに対して反
論を展開していた。いわゆる儒仏論争である。17 世紀に至り、本格化した儒仏論争において、
重要な争点となっていたのが、現世における生き方であった。たとえば、近世儒教の祖といわ
れる藤原惺窩の行状を記した『惺窩先生行状』
(林羅山著)には、
「我れ久しく釈氏に従事す。
然れども心に疑ひ有り。聖賢の書を読みて信じて疑はず。道は果たして茲こに在り。豈に人倫
①
『河内屋可正旧記』15 巻・272 頁(清文堂出版、1955 年。以下、『旧記』と略し、頁数は同出版刊行本に拠る)。
須田圭三『飛騨 O 寺院過去帳の研究』
(生仁会須田病院、1973 年)
。
③
『旧記』5 巻・51 頁。
④
『旧記』8 巻・138 頁。
②
33
17 世紀日本における「死生観」小考(本村昌文)
の外ならんや。釈氏既でに仁種を絶ち、又た義理を滅す。是れ異端たる所以なり」①と、仏教
を信奉していたことを悔悟し、儒教の書物に接し、
「人倫」
、すなわちこの世での生き方にこそ
真理が存在すると確信するに至る状況が記されている。
また、17 世紀前半に執筆された儒教的な立場から執筆された代表的な仮名草子である『清水
物語』では、仏教に対して以下のような批判が述べられている②。
三綱五常の道破れなば、来世によき事ありとも、それまで行き着かぬ先に、罪に堕ちぬべし。三綱五
常さへ治まりたらんは、来世は近くもあれ遠くもあれ、危き事も候はじ。さして願ふべき事もなし。③
ここでは、
「三綱五常」
、すなわち夫婦・君臣・父子、仁義礼智信という現世における理想的
な人間関係及び人間性を完成させる徳目を体得し、それを日常生活で実現していくことの重要
性が強調されている。こうしたことが実現できれば、仏教で説かれる「来世」もあえて願わな
くてよいというのである。ここで注目すべきは、
『清水物語』では仏教の死後観を批判すること
なく、現世の生き方が争点とされていることである。儒教側は現世における自身の教説の有効
性をもとに仏教批判を展開し、儒教の有する死や死後に関する説を提示して、仏教の教説を批
判していないのである。
こうした儒教側の批判に対して、仏教側はどのように反論をしたのであろうか。仏教擁護の
立場から『清水物語』を反駁書した書である『祇園物語』をみてみよう。
凡仏の出世は、勧善懲悪を以て根本とす。……外典の勧善懲悪は、仏法よりはおとりて候。仁義をお
こなふ人も、悪逆をなす者も死しては同し天理に帰ると申すにより、今生の咎にならぬ外は、酒をの
みひるねもし、仁義たてをし苦労して、いらぬ物よと申す人もありなん。仏法は今生の善悪によりて、
未来に善悪の報をうくるとをしへ候により、すこしの悪をもおそれ、善にすゝむ事つよし。同し勧善
懲悪と申せとも、浅深ある事なり。④
①
「惺窩先生行状」(日本思想大系 28『藤原惺窩・林羅山』191 頁、岩波書店、1975 年)。原文は「我久従事於釈
氏。然有疑于心。読聖賢書信而不疑。道果在茲。豈人倫外哉。釈氏既絶仁種又滅義理。是所以為異端也。」
②
以下、
『清水物語』と『祇園物語』の論争に関しては、前掲拙稿「江戸前期における朱子学の受容と変
容―仮名草子の仏教批判をめぐって―」を参照されたい。
③
新日本古典文学大系 74『仮名草子集』
(岩波書店、1991 年)
。
④
『近世文学未刊本叢書 仮名草子篇 1』
(養徳社、1947 年)
。
34
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
この資料では、仏教の教説の本質が勧善懲悪にあるとし、それをもとに儒教の死生観を批判
している。儒教で説かれる死後観は、道徳的に正しい人もそうでない人もみな死後「天理」へ
回帰すると理解され、こうした教説では現世において善行を積まなくてもよいという反道徳的
な人間を生み出すことになると批判する。勧善懲悪という視点から儒教の教説のもつ弱点を暴
露し、仏教こそが人間の生死を貫く有効な教説であるというのである。
ここで注目したいのは、仏教で説く死・死後をめぐる説の有効性を主張するのではなく、生
、、、、、、、、、
前・死後と一貫した教説を有するという点から、仏教の教説のもつ現世における有効性を強調
する点である。仏教側の反論においても、現世における生き方が重視されているのである。
17 世紀に至り、町人や上層農民らは、この世での理想的な生き方を追求する意識を形成して
いった。それに呼応するかのように、思想界では儒者と仏教者との間で現世における生き方を
めぐって論争が展開されていたのである。
2 死生への不安の醸成と多様な死生観の形成
前節で検討した主張――今を生きることを尊重し、死を迎えるまでの人生最後の 10 年間に
死や死後について考える――に関連して、以下の資料を見ていただきたい。
五十年来おさまりし世なれハ、人々いとまありて、後の世をねがひ、あるひは座禅念仏題目をとなへ
て、日をくらし、夜をあかして、つゐに死して、我神魂の何となり、いづくにゆくといふ事をハしら
ず。嗟夫枝葉をしりて、本根をさとらす、未練ならずや。①
戦乱の世が終わり、平和な世の中が到来することによって、人々にはゆとりができ、死後の
世界で幸福に暮らすことを願い、あるいは座禅・念仏・題目を唱えて日夜暮らしている。これ
は一見すると、死や死後について思索をめぐらしていることを意味しよう。しかし、表面的に
はそのように見えても、実際には死後の霊魂の行方、すなわち死生の根本についてわかってい
ないというのである②。死を迎えるまでの 10 年間に死や死後について考えるとしても、死生の
①
『睡餘操筆』上(
『仮名草子集成』44、東京堂出版、2008)
。
少し時代は下るが、18 世紀初頭、庶民に神道講釈を行っていた増穂残口は、当時の人々が現世の安穏を
」とぼんやりとして生きていると述べている。増穂残
求め、死後のことも現世のことも「うつら
②
35
17 世紀日本における「死生観」小考(本村昌文)
本質をみつめているのか、それとも何ら核心部分を理解せずにいるのかでは、雲泥の差があろ
う。当該資料をふまえると、17 世紀半ば頃には、人々は死や死後の本質を理解できずにいると
いう認識が生じていることがわかる。
この資料の執筆者である清水春流は、別の著作で「孔釈老三聖ながら空無にとゝまる事をき
らへり。学道の人の為には、空無ハ醴のごとし。甘さのまゝに著しやすし。これになづめば大
道にいたりがたし」①と説いており、
「空無」――死後に霊魂は消滅し跡形もなくなる――とい
う考え方が人を魅了しやすく、道を究める上で障壁になると述べている。死後の霊魂の行方と
いう死生の根本について無理解であることに加え、死後は無であるという教説が人々の間で流
行していたのである。
死後に霊魂が消滅するという説が人々の心に浸透しているという認識は、他の書にもみられる。
たとえば、17 世紀半ば頃に成立したといわれる『本佐録』では、以下のように述べられている。
仏法・禅法今の世の儒者、皆堯舜の道の妨と成て、天下の乱の本となる事を人不知候也。其理いかに
ととふに、釈迦の法も詞たかく理に近く候へども、実なし。経に寂滅と説、
「如薪尽火滅」と説て、
死して後何もなきものと落着なり。禅法猶以如此。又今の儒者は禅法と奥意一つ也。然れば何も心な
し、天道もなきものと落着す。諸人まよふも尤也。……扨今説所の諸法のごとく、心は無物ぞと見れ
ば天道もなきもの也。後の世もなき物也。親に孝行するといふもうはべ斗にして、心より発らず。然
ば主を殺ても、取たるがましぞと内心は打付る也。今日本の人の心皆是なり。②
ここでは、仏教・儒教のいずれの教説も死後は無であるという死生観を有しており、それに
よって人々が惑わされているといっている。さらに、死後の世界を否定することによって、親
孝行などの道徳的行為も表層的なものとなり、自分の主人を殺害してもいいなどという反道徳
的な意識が形成され、いまの日本の人々の心がこうした意識に犯されているというのである。
以上、人々は死生の本質に目を向けず、死後は無であるという教説が流行していること、ま
たそれによって社会秩序の混乱が引き起こされるという認識が、17 世紀中葉にみられることを
確認してきた。
口に関しては、前田勉『近世神道と国学』
(ぺりかん社、2002 年)を参照。
①
『釣虚散人法語』
(近世文学書誌研究会編『近世文学資料類従 仮名草子編 17』
、勉誠社、1973 年)
。
②
日本思想大系 28『藤原惺窩・林羅山』295 頁(岩波書店、1975 年)
。
36
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
このような意識と関係して、17 世紀中葉には人々の抱く死や死後に対する不安、その不安に
よって誤った教説を信奉するようになるという認識がみられる。たとえば、長崎と京都で儒者・
医師として活躍した向井元升は、以下のように述べている①。
総て生死の説は実に奥義深説也。人の惑も是より起り、異教に入り異道に迷ることも、此惑有る故也。
生を貪り死を恐るゝの惑い人間尤もふかし。②
元升は、人間の惑いは生死の問題から生じ、誤った教説に惑溺することもこれに起因すると
し、貪欲に生を求め、死に対して恐怖感を抱くことは、人間の抱く最も深い迷妄であるという。
また、儒教の立場から執筆された仮名草子である『何物語』には、次のような言辞がみられる③。
貴きもいやしきもとめるもまづしきも生者必滅の理によつて百年のよハいを過る事まれなり。是ハ眼
前の道理によつてわきまへしらぬ人なし。唯我も人も死後のことをおぼつかなく思ふものなり。④
どんな人間であっても「生者必滅の理」によって、百歳を超えるまで生きることは希有な例
であり、この道理は誰の眼にも明らかであり、みな理解している。しかし、それでも人はみな
死後のことに不安を抱くというのである。
さきに私たちは、17 世紀に至り、死や死後のことは 50 歳以降に考えるという意識がみられ
ることを確認した。その一方で、本節で検討してきたように、17 世紀半ば頃から、死後に霊魂
は消滅するという説が流行し、死や死後に対する不安や恐怖を抱くという現象がみられるよう
になる。以上をあわせて考えると、50 歳以降に死や死後について考えるといっても、その内実
は必ずしも死や死後に対して明確な見解・イメージがあったわけではなく、死や死後に不安を
抱きつつ、
「いまを生きる」という状況が生みだされていたことがわかる。
17 世紀後半から 18 世紀にかけて、死生に対する意識だけでなく、家族構造も変化していく。
かつて上層の百姓の家に包摂されていた隷属農民や傍系親族が、それぞれ自立して 4、5 人から
①
元升の思想に関しては、拙稿「向井元升と『孝経』―連続する「本性」―」(『文芸研究』149、1999 年)参照。
『乾坤弁説』
(万治 2 年・1659)
(
『文明源流叢書』第 2 巻・17 頁、国書刊行会、1914 年)
。
③
『何物語』の死生観に関しては、拙稿「
『翁問答』と『何物語』―その仏教批判と死生観―」
(
『日本思
想史研究』39、2007 年)参照。
④
東北大学附属図書館狩野文庫蔵。
②
37
17 世紀日本における「死生観」小考(本村昌文)
成る自分たちの家を形成するようになった①。このことは病人等の介護や看取りを担う人的資
源の減少を意味する。
また農民層のみならず、町人層でも問題は生じていた。同時期の京都において、下層町人の
老人の自殺者が多く、その理由の多くは経済的理由と病気であった②。決して、誰もが望むよ
うに安らかな死を迎えられる状況ではなかったのである。
以上の状況に並行して、17 世紀半ば頃から、知識人の中には死や死後について積極的に言及
する者が出てくる。当時の知識人たちの間で注目を集めつつあったのが、儒教、とくに朱子学
の死生観であった。朱子学において、生と死は、
「気聚れバ生し、気散すれば死す」③という主
張に端的に示されるように、自己の肉体と霊魂を形成する「気」の凝集と散滅で説明される。
この説によれば、死とは自己を形成していた「気」が散滅していくことを意味する。このよう
な「気」の散滅について、当時、朱子学を受容した知識人の中には、
「有情の生るヽ事、陰陽和
らぎあひて、霊その内より現れいづ、魂魄の名は二つなれども、一つになる故に、とりあひて
霊あり。死する時に及びて魂は上に昇り、魄は下に降る。二つに分るヽ故に散り失せて霊なし」
と④、死後の霊魂の消滅を意味すると理解する者がいた。また、朱子学の死生観を批判する仏
教側からも、
「晦庵の所謂る形既でに朽滅し、神瓢散す。剉焼舂磨すと雖も、且つ所す所無し。
是れ則ち惟だ幻身生滅を見て、神識の消滅せざるを知らず」と⑤、死後の霊魂の消滅を説く教
説として批判されていた。
しかし、17 世紀に朱子学を受容した知識人は、霊魂が死後に消滅すると説く者よりも、何ら
かの形で死後も霊魂が存続することを主張する者が多かった⑥。先引の『何物語』においては、
「身にぐしたる陰陽の二気わかれて陽魂は天に昇り陰魄は泉に降、形躰ハ地にととまりて朽は
つれども、其霊ハ本のごとく天の神霊となる故にいやしき民にても死すれば則神に祭り、崇敬
の礼をなすなり」と⑦、死後も自身の霊魂が天地へと回帰し永続することが説かれている。
また向井元升は、
「夫れ人物気化の始め、乾坤位定まり、天地既でに開けて後、天心の正命、
①
大藤修『近世村人のライフサイクル』
(山川出版社、2003)
。
前掲菅原「老人と子供」
。
③
『朱子語類』3・第 17 条。原文は「気聚則生、気散則死。
」
④
中村惕斎『比賣鑑』巻之 12(
『近世女子教育思想』第 2 巻・309 頁、日本図書センター、1980 年)
。
⑤
澄円『神社考志評論』
(延宝 5 年・1677)
(東北大学附属図書館狩野文庫蔵)
。原文は「晦庵所謂形既朽
滅、神瓢散。雖剉焼舂磨、且無所施。是則惟見幻身生滅、不知神識不消滅」
。
⑥
この点に関しては、中村安宏「近世知識人の霊魂観―朱熹魂魄説からの逸脱―」
(
『季刊日本思想史』73、
2008 年)に詳しい。
⑦
東北大学附属図書館狩野文庫蔵。
②
38
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
二五の専精、妙合して凝り、一中の真性と為り、変化して人物と為る。而して後、子子続続と
して此の一中を受得し来たり、今日に至り、我が身に及ぶ。我れ之れを子孫に伝へて、子子孫
孫続続として絶へず。能く天地と共に無窮に期す。其の間、人物機に随ひ生滅有りと雖も、而
れども箇の一中の真性は絶期有ること無し」と①、死後子孫の中に自己の本質が受け継がれて
永続すると主張していた。
17 世紀半ば以降、神道家も死や死後について語りはじめた②。彼らは先述した朱子学の死生
観とも、死後の世界として極楽・地獄を説く仏教とも異なる説を唱えた。たとえば、垂加神道
家である玉木正英は、
生前に神としての天皇に忠誠を尽くすことで、
死後に自身も神となって、
日本の国土と天皇を守り続けると説いた③。仏教者も「往生伝」を再び作成しはじめ、死後に
おもむく浄土の世界こそ理想郷であり、死後の安心をもたらすことを強調する者がいた④。
以上のように、17 世紀中葉以降、明確な死や死後のイメージをもたずに、「いまを生きる」とい
う意識が醸成されていき、それに伴って知識人たちは多様な死生観を提示していった。このよ
うな現象は、一見すると死と生に関する思索の豊かさを示すかのようにみえる。しかし、見方を
かえれば、誰にも共有される確固とした死や死後のイメージが失われていたことも示唆している。
17 世紀日本において、確固たる死生観を有していた思想家がいる一方で、死や死後に対する
明確な価値観が失われ、死を前にして不安を抱き、右往左往する人々の姿が浮かび上がってく
るのである。
3 17 世紀における看取りの現場――『河内屋可正旧記』を手がかりとして
本節では、死生への不安が醸成され、多様な死生観が形成されていく中で、人々がどのよう
な価値観をもって死を迎えたのか、また看取りを行おうとしていたのかという点を検討してい
くこととしたい。紙幅の都合上、本稿では、これまでにも引用してきた『旧記』を中心に、17
①
『孝経辞伝』
(京都大学附属図書館谷村文庫蔵)
。なお、原文は以下の通り。
天之経、猶言天心之経脉。維天之命於穆不已是也。夫人物気化之始、乾坤位定、天地既開而後、天心
之正命、二五之専精、妙合而凝、為一中之真性変化為人物。而後子子続続受得此一中来、至於今日、
及於我身。我伝之子孫、子子孫孫続続不絶、能与天地共期無窮。其間雖人物有随機生滅、而箇一中之
真性無有絶期。所謂天之経也。……地之義者、義者方也。
②
安蘇谷前掲書
③
玉木正英の死生観とその思想史的位置づけに関しては、前田勉前掲書。
④
近世往生伝に関しては、笠原一男『近世往生伝の世界―政治権力と宗教と民衆―』
(教育社、1978 年)
。
また、17 世紀中葉の仏教者の中で前時代とは異なる新たな「鎮魂」の解釈が登場したことを明らかにし、
死生観の変容を指摘したものに、加藤みち子「鈴木正三における「弔」観」
(
『仏教史学研究』48-2、2006
年)がある。
39
17 世紀日本における「死生観」小考(本村昌文)
世紀における死と看取りの一側面のラフなスケッチにとどまることをお断りしておきたい①。
そもそも、
『旧記』は、
「一、此来由記の底意ハ、廃悪修善の道、家を斉身を治め、心をたゞ
しうすべき教の為に、書残す書なれば、此一段を載る事予が心に非」②と、地域の人々と子孫
に、悪を廃し、善を勧め、家を安定させ、自身の行動を律し、心を正しくさせることを目的と
して執筆されたものである。その背景には、以下のような時代認識があったと考えられる。
懸る目出度御代にあひながら、御公儀様より御法度と仰付させらるゝ事を背きて、家をほろぼす者あ
り。又其身にも相応せざる侈りをきハめつ、家業にをこたりツ、……如此の者共の云、老人程いやな
る者ハなし。六ヶ敷物也。若きどうし遊ぶこそ面白けれとて、ひそかに不善のたハぶれをなす者に、
一人も身の治る者ハあらじ。③
戦乱の世がおわり、平和な世が続くなか、自分勝手な生き方をして家業を滅ぼす者が生じる
ようになった。可正によれば、そうした人々は老人を嫌悪する意識を有し、若者同士で徒党を
くみ、不善をなしているという。第一節で引用したように、
『旧記』では命を尊重し、
「短命ニ
シテ能事ハ」ないと述べ、
「一日ノ命千金ヨリ重シ」と強調しているが、命を尊重し長生しても、
そうした老人を嫌悪する風潮が生じていたのである。老いて安らかに死を迎えることは、決し
てたやすいことではなかったのである。
こうした状況において、
『旧記』において高く評価されるのは、自身の信仰を貫いて死を迎
えるということである。
一、嶋長病に取あひ、仏の道に入て其覚悟を極めたる趣、広学の師も及びがたからん。況我等ごとき
の愚なるをや。寔捨てがたき物ハ恩愛の道ぞかし。伝へ聞く、すみ衣思ひ立し古への勝れたる人にさ
①
『河内屋可正旧記』に関する研究として、その死生観に関するものとしては、山中浩之「在郷町におけ
る医家と医療の展開」
(中部よし子編『大坂と周辺諸都市の研究』
、清文堂出版、1994 年)
、深谷克己『近
世人の研究』
(名著刊行会、2003 年)
。そのほかの研究としては、当時の庶民文化を検討したものに、山中
浩之「河内在郷町の文化」
(内藤浩哉『関西の文化と歴史』
、松籟社、1987 年)
、
「
『芸』と学びと生活」
(今
井修平・村田路人編『街道の日本史 33 大坂―摂津・河内・和泉―』
、吉川弘文館、2006 年)
、近世にお
ける古典文学の受容や読書による庶民の知の形成を問題としたものに、津田紗智子「元禄期庶民の『徒然
草』受容―『河内屋可正旧記』を素材として―」
(
『鶴山論叢』3、2003 年)
、宇野田尚哉「
『河内屋可正旧
記』の思想的根拠」
(澤博勝・高埜利彦編『近世の宗教と民衆―民衆の「知」と宗教』
、吉川弘文館、2008
年)等がある。
②
『旧記』14 巻・252 頁。
③
『旧記』13 巻・217 頁~218 頁。
40
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
へ、家を出る折からには名残の袖をぬらされし例し多かりしに、嶋ごときの女の身として、親といひ
子といひ、をしむべき名残をふり切て、偏に後の世を祈りし事こそ、やさしくも又あハれにも見えた
りしぞかし。既臨終近付ぬると思ひけるにや、四五日計前より、一子弥九郎を河内村へ遣し、其外親
兄弟したしき者共の、折見廻をも堅とゞめてけり。やまふの床の辺りに有し者ハ、老たる下女一人、
尼なりける、世を捨て人の智泉といひけるを法の友として、或ハ高声に懸念仏、又ハ同音にとなへつ、
夜るとなく昼となく御名をとなふるの外なし。其気色此世に塵計も心を残すとハ見えず、終正念にし
て空く成たり。見る人聞人、皆涙をながさぬハなかりし。①
死や病を前にして、あらゆる執着をすてて、仏道に専心することは困難であるにもかかわら
ず、そうした信仰を貫き、臨終間際には、親類の見舞いも制止し、尼となった下女一人をそば
に置き、念仏を唱えながら死を迎えた女性の姿が描かれている。ちなみに、
『旧記』の作者の母
親の臨終も、
「念仏の声と諸友に息絶給ひにき」と②、念仏を唱え、仏教を信奉する中で死を迎
える姿が描き出されている。しかし、ここで注意しておきたいことは、可正は「夫露ハくさ木
をめぐミ生立る母となれり。其如くに予が母妙寿の霊魂も、在世にことならず、子孫を守らせ
給へ」と③、生きていたときと変わらず、この世に母の霊魂が永続し、子孫を守り続けるとい
う意識をもっている点である。ここでは、彼岸の浄土の世界が死後の理想郷として意識されて
いるわけではないのである。
このように仏教的価値観にもとづく死と看取りは高く評価されているが、
『旧記』全体では
仏教をベースとした介護や看取りの事例は、臨終時に念仏を唱えることがみられる以外にはき
わめて少なく、またそうした姿が珍しい事例として挙げられている。別の例としては、17 世紀
中葉に執筆・刊行された仮名草子である『飛鳥川』に、
「病をうけて、久しくなやミける、人の
がり、とふらひ侍りぬれバ、見るとひとしく、なミたに、むせひて、物もいひわかず、心地ハ、
いかにととへど、いらへもせずして、ひたなきに、なきゐたりけるを、すかしかねて、かへり
にき、此人ハ、年ころ、仏老の道をたしミ、空を味ひ、寂をつりて、世に執着なき人なれど、
病のために、気や転じけん、人の心ハ、大節にのそむ処にてこそ、見ゆれと、古人のいひし、
①
②
③
『旧記』14 巻・255 頁。
『旧記』16 巻・309 頁。
『旧記』16 巻・310 頁。
41
17 世紀日本における「死生観」小考(本村昌文)
はづかしき事也」と①、長期の療養を強いられる状況において、それまでの仏教や老荘の教え
によって得た死生に対する信念が揺らぐ様相が記されている。これらの事例は、仏教的価値観
を有しつつも、
死や看取りに直面したとき、
それを貫き保持することの難しさを示唆している。
また、長野県のある村の農民層の手に成る資料には、以下のように記されている。
仏道ハ一切経のかす多けれともとるところすくなく、方便の法を説凡下の者をまよはす、上智の者と
いへとも木食草衣の身となり、或剃髪髪染衣と成て人倫を断絶す、故に五倫有人の学ふへき道にあら
す、然共神儒の葬祭をなさハ、若僧讒之て耶蘇宗門御制禁に力を得、耶蘇の疑敷なとゝ上へ訴之ハ、
彼是と言分も六ヶ敷、其上国法如何可有之もしられす、所詮葬祭の事暫仏道にしたかひ、神儒両道の
国に行るゝ時節を待へし。②
ここでは、制度として仏教の儀礼を実践しなければならないが、その説を心の底から信じて
いるのではなく、本当は神道・儒教にもとづく葬祭を実践したいという意識がみられる。しか
し、神道・儒教にもとづく葬祭を行えば、仏教者からキリシタンではないかとあらぬ嫌疑をか
けられるため、表面上は仏教の教えに従って葬祭を行い、儒教・神道が国中に流布する時期の
到来を期待するというのである。こうした主張からも、仏教的価値観にもとづく死や看取りと
それにもとづく儀礼が浸透する際に、さまざまな紆余曲折があったと考えることができよう。
このようにみてくると、実際には、仏教的価値観が、どの地域に、いかほど浸透していたのか
という点をあらためて検討する必要性があるといえる。
さて、
『旧記』の中で、もうひとつ高く評価されているのが、要介護者と介護者双方が相手
を思いやるという例である。以下、この事例を追ってみよう。
登場するのは、主人の「心覚」
、その妻、長女(安)
、次女(いや)の四人家族である。長女
の「安」は他村へ嫁ぎ、
「いや」が 10 歳頃に「心覚」は視力を失う(1674 年)
。その後、心覚
の妻が亡くなり、
「いや」は 24 歳・25 歳頃に勘十郎という名の夫と結婚するが、程なく勘十郎
は死去する。以来、
「いや」が父の「心覚」を扶養していた。勘十郎との結婚は「いや」ととも
に「心覚」を養うために、この地域の庄屋である油屋理左衛門が斡旋したものであった。また
①
『仮名草子集成』1(東京堂出版、1980 年)
。
「貞享元年 12 月 更級郡大塚村町田儀右衛門家訓」
(
『長野県史近世史料編』第 7 巻(2)
・10 頁、長野
県史刊行会、1981 年)
。
②
42
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
この庄屋は「いや」と「心覚」に仕事を斡旋しており、経済的な基盤を支えるための援助をし
ていた。庄屋を中心に介護者を抱える家に介護にあたる人材の支援や、仕事の斡旋など経済的
な基盤を提供する仕組みがあったことを示している①。
「心覚」と「いや」の二人暮らしの生活が続き、
「心覚」が七八歳になったときの記述が、
以下の資料である。
心覚今年七十八歳、衣食の二ツハ、いや孝心により調へりといへ共、年老の積りにや、行歩不自由
になり、もとより目ハ盲たり。心覚が身の有様を、老のひとりごとに嘆きて云、生死心に任せず、老
少前後する世の中なれ共、①我等如きの者ハ、片時も早く死てこそ、子共の苦労もまぬがるべきに、
無用の長生する事よと、侘敷もいひければ、②いや聞て、悲敷事を仰せらるる物哉。わが心ハ、いつ
迄もとこそ願ひけるに、若御心に叶ハぬ事の有けるにやと、真実の心ざし顕れて、むつましく寄そひ
てことハる。③心覚が云、いやとよ、不足に思ふ事更になし。我両眼盲て廿余年、其間に汝が苦労、
海共山共たとへ難し。我空く成たらバ、汝が苦労もたすかるべしと思へば、角いひし也。此外に別の
心なしと語りければ、少も苦労とハ思ハず。唯長命にましませかしと願ふのミなりと、涙をながしけ
れバ、孝行の心をかんじて、親もなき、子もなき、聞者も皆感涙をながしけり。②
このとき、
「心覚」は歩くことも不自由になり、
「私のようなものは、少しでも早く死んでこ
そ、子供も苦労しなくてすむはずなのに、役にも立たない長生きをしていることだ」
(傍線部①)
と悲しみをこめて語っている。娘の献身的な介護に加え、地域的な支え合いがなされている状
況にあっても、要介護者である「心覚」は、安らかな晩年を過ごしているわけではなく、自分
は子供に苦労をかけている、役に立たない無駄な長生きをしているという深い悲嘆を抱きつつ
生きていたことがわかる。
こうした発言に対して、
「いや」は傍線部②のように、
「いつまでも長生きしてほしいと願っ
ているのに、
(この生活で)お父さんの気持ちにかなわないことがあるのでしょうか」と、父親
が長く生きることを望み、父親の悲観的な発言は、自分の落ち度ではないかと考え、さらに父
親の介護は苦労などではなく、ひたすら父親が長生きすることを望んでいる。
①
②
小椋前掲論文。
『旧記』9 巻・154 頁。
43
17 世紀日本における「死生観」小考(本村昌文)
この「いや」の発言をうけて、
「心覚」は「いや」に対して不満があるわけではなく、自分
が視力を失ってから 20 有余年、
「いや」にかけてきた苦労・負担を思い、自分さえ死んでいな
くなれば、その負担がなくなるという一心から話していることを伝えている(傍線部③)
。
この両者の会話からうかがえるのは、親が子を、子が親を思いやる心情である。そして、こ
うした思いやりの気持ちをもってなされる介護について、
『旧記』では、
「当地にをいて古今其
類ひなし」と①、昔から今に至るまで、比類なき事例として称賛されている。以上のように、
ここでは確固とした信仰心ではなく、親と子の双方の思いやりの気持ちが介護を支える重要な
価値観として位置づけられている。
ここで注意しておきたいことは、この称賛の辞に続けて、
「漸当地のミに是をかんずといへ
共、めんめんが世を渡る業におほハれて、感ずるに其しるしなし」と②、
「心覚」と「いや」の
話をこの地域の人々の心に響かせようとしたが、人々は日々の生業で忙しく、共感した証がな
かったという点である。比類なき事例という認識と、地域の人々の心に共感の感情が醸成され
なかったことをふまえると、親子が双方に思いやりの気持ちをもって介護や看取りが行われる
ことは、決して普通のことではなかったことを示唆する。
こうした親子双方の思いやりの心情は、
『旧記』では以下のように学問的に説明づけられて
いる。
親としてハ子を憐ミ、子としてハ親に孝をなす事、事理当然の仁也、義也。されば、親ハ子を他念な
く哀れミ、子ハ父母の遺体なれバ、別体と思ハずして孝を尽さば、事理当然の中より、心の花ひらけ
て、父子の徳必顕ハるべし。③
親子双方の思いやりの心情は、
「事理当然の仁」という儒教的価値観で基礎づけられ、人々
のなすべき行為として顕彰されるのである。
以上のように、
『旧記』においては、仏教的価値観にもとづく信仰心、儒教的価値観で基礎
づけられる思いやりの心情が、介護と看取りを円滑に行うものとして重要視されていた。しか
し、これらの価値観にもとづく介護や看取りを高く評価し、顕彰する必要があり、誰もがこの
①
②
③
『旧記』9 巻・154 頁。
『旧記』9 巻・154 頁~155 頁。
『旧記』19 巻・363 頁。
44
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
ような価値観の中で安らかな晩年を過ごせたわけではなかったのである。
結びにかえて
本稿では、17 世紀日本を対象として、死と看取りの諸相をたどってきた。17 世紀に至り、死
や死後のことを第一に考えるよりも、まず「いまを生きる」ことを尊重する意識が形成される。
こうした状況の中で、人々の中に死や病に不安や恐れを抱く意識がみられるようになっていっ
た。その結果、17 世紀中葉以降、明確な死や死後のイメージをもたずに、
「いまを生きる」と
いう意識が醸成され、それに伴って思想界では多様な死生観が形成されていった。人々は自ら
の信ずる教説に従い、
死や看取りに対処していたが、
それは一般的な事例というわけではなく、
稀有な例として顕彰するに値するものであった。
いかなる価値観をもって人々は死を迎えたのかという問いに対して、17 世紀日本に焦点をあ
てると、明確な死生観、固い信仰心、相手を思いやる気持ちが重要な価値観として顕彰される
一方で、確たる価値観が失われ、死や病を前に信念が揺らぐ人々の姿も浮かび上がってくる。
本稿では、看取りの事例として、河内国石川郡大ケ塚村周辺の状況を記した『旧記』を中心
に検討したが、当然のことながら他地域における看取りの諸相を広く収集し、死を迎える際の
人々の意識を明らかにしていく必要があることはいうまでもない①。本稿は、そのスタートラ
インに立ったに過ぎない。今後の大きな課題を見据えつつ、ひとまず擱筆することとしたい。
(もとむらまさふみ・東北大学学術資源研究公開センター史料館・協力研究員)
【付記】
・本稿は、2009 年 8 月 29 日・30 日に開催された東北大学臨床死生学研究会シンポジウム「人文学と現場
の協業による臨床死生学の創生に向けて」での報告「介護の現場に対して人文学研究は何ができるか」
に、大幅な加筆・修正を施したものである。当日の筆者の拙い報告に対しコメントしていただいた斉藤
美恵氏、また的確な質問と意見をくださった参加者の皆様に謝意を表したい。
・引用資料中の旧字や俗字などは、適宜通行の字体に改めた箇所がある。
①
柳谷氏によれば、介護の教説が強調されるのが、本稿で対象とした 17 世紀後半から 18 世紀初頭と 18
世紀後半から 19 世紀初頭であるという(同氏前掲書)
。18 世紀後半から 19 世紀初頭は、近世思想史の観
点からみても、本居宣長に代表される国学が思想界に登場し、新たな死生観を提唱しはじめる時期である。
17 世紀における死と看取りの意識を広く検討していくとともに、18 世紀後半から 19 世紀初頭も射程に入
れて、かかる意識の展開と変容を明らかにしていく必要があろう。
45
全体討論
臨床死生学の可能性――人文諸学と現場との協業の意義
桐原健真
三氏の発表を通底するテーマとして筆者(司会者)が得たのが、
「イメージ」ということばで
あった。すなわち死にかかわるイメージの恢復ということである。
近代日本において、死は公的な場面において積極的にテーマとされるものでは無くなった。
まして「死んだらどうなる」などということは、宗教者ですら言及を避けるようになっていく。
そこには、自然的で動物的なことを拒否することが近代的人間であり、それは死も同様である
という日本近代知識人の奇妙な自然観・生命観があった。筆者が「イメージ」ということばに
含意させたものは、このような近代日本において成立した死をめぐる言説体系を再構築する場
を提供することが人文学の役目なのではないか、という問いかけに他ならない。
日笠発表は、事前指示を通して、
「自分が死ぬ存在である」という避けられない事実を、たん
に技術的な問題を越えてイメージさせることの意味を論じており、高橋発表は、文学が死にま
つわる「出来合いのイメージ」を作るということに対する警戒から、賢治独自の死に対する非
理性的で言語を越えたイメージの存在を投げつけることの意義を問うたものであり、また本村
発表は、近世の地域社会における様々な看取りのあり方――その拒否も含めて――を提示する
ことで、現代における定式化した看取りのイメージを改めて問い直してくれるものであった。
この「イメージ」という問題設定に関しては、岡部氏の講演において、医療者は死にゆく人
に医療を施す専門家であっても、死そのものの専門家ではない。それゆえに、看取りの歴史的
存在形態や言説研究は、まさに人文学に対し求められるものであって、それは中からではなく
外から見ることによって可能になるのだ――と指摘されたことが想起される。人文学が、補助
学としてではなく現場と協業すべきなのは、死に関するイメージ・言説を整序しつつも、しか
したんなる合理化ではない形で、死が社会から離れているこの現代日本社会に戻していくこと
なのではないだろうか――以上のように司会が概括したところから討論がはじまった。
まず高橋氏からは、
「ことばにしなければならない」というところに現代特有の不自由さがあ
46
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
るというレスポンスがあり、死に関わる言説はデリケートで、それを表現することばは膨大に
存在するにも関わらず、結局は定式化されてしまっているという問題が指摘された。その上で
自身が賢治に対して抑制的であろうとするのは、まさに言語化できない苦しさを引き受けた上
で、死のイメージが扇情的になることを避けようとするためであって、むしろ賢治の非合理は
狭いイメージを壊す力としてのことばとして考えたいと回答があった。
次に日笠氏からは、事前指示が死に関するイメージのきっかけになることは確かだが、それ
だけでは十分ではなく、死に対するイメージのリアリティをいかに実現するかが問題になるの
ではないかと回答があり、司会者に「実は現場にはリアリティがないのではないか」という印
象を抱かせた。このことは、後に再び議論の焦点となる。
最後に介護体験を持つ本村氏からは、介護の未経験者はそのイメージを持てず、介護者にも
介護以外の日常生活があることを閑却しがちであることが指摘され、イメージのリアリティを
実現する方法論を検討しており、介護ゲームのような形での教材づくりを考えてみては、とい
う提案があった。
これに対し講演者でもある竹之内氏から
「人文研究者はイメージを社会に発信すべきである」
と簡単にまとめるのではなく、むしろ三氏におけるイメージの内容がそれぞれ異なっているこ
とをふまえて、おのおののイメージに関わる語りをすべきであり、そこにこそたんなる情報提
供ではない人文学と現場との協業の在り方を見いだせるのではないかと問い掛けがなされた。
この点に関しては日笠氏が、事前指示の自己目的化に対する警鐘としての哲学・倫理学研究
の意義を述べ、また高橋氏は、現場における切迫さに起因する要求のために、その由来や歴史
性を欠落した情報やイメージが伝達されてしまうことへの危機感を表明し、出来合いのイメー
ジを攪乱する多様性の確保こそが現場とつながる回路なのだと国文学研究の意義に言及した。
また現実の介護という「自分の研究がまったく役に立たない場面」に直面した本村氏は、介
護と研究の両者を「同時並立」させることは難しいとしつつも、
「昔の人が何を支えにしていた
のか?」という問い自体は「遊び」ではあるが、切迫した現場の要求にのみ基づいた画一的な
マニュアルとは異なった選択肢を示せるのではないか、と回答した。そしてこの「選択肢」と
いう点に関しては、高橋氏が、即効性やマニュアルを求める現場に対して、その選択肢自体の
歴史的検証を行えるのが、長いスパンを持つ人文学の視座であり、その点を忘れてはならない
と付言した。
47
臨床死生学の可能性(桐原健真)
「現場」ということばが連呼され、ややゲシュタルト崩壊気味になってきた中で、フロアか
ら、現場には切迫感があるが、その対応に汲々とするがゆえに、現場自体にもリアリティが喪
失し、現場性――看取りそのもの――が無くなっているのではないかという問題提起が発せら
れた。この点について、参加している医療従事者からは強い賛同が寄せられ、現場では生活感
が失われてしまうがために、現場性は欠落してしまい、現場が現場ではなくなるという矛盾が
生じているという事実を再確認する場が必要であり、その構築を人文研究者に求めたいという
意見が寄せられた。これを受けて高橋氏は、人文研究者は現場を外部からとらえ、これをどう
攪乱するかということに真剣に取り組まなければならないと、みずからの立場を表明した。
最後に本村氏から、
人文研究はそれ自体多様な側面をもっており、
本シンポジウムの発表も、
健康なときに死を考える出発点としての事前指示書(日笠発表)から、介護が必要になったとき
に死を考えること(本村発表)へ、
そして死別に近づきつつある時から死別後のありよう(高橋発
表)にいたる一連のシークエンスと見ることができると総括がなされ、
そのおのおのの位相をふ
まえつつ、現場との応答を考えていくべきであろうと指摘があり、討論の時間が終了した①。
本稿を終わるにあたり、筆者の所感を簡単に述べたい。
本シンポジウムを通して、一般社会において死生や介護に関するイメージが欠落している一
方で、常に切迫感のある現場においてはその現場性が失われているというアンバランスな状況
が、現代の日本社会の実態であることを確認することができた。この一般社会と介護現場とい
う二つの問題にアプローチできるのが、現場の当事者ではなく、両者の外部において対象に関
与することができる人文学なのであろう。もとより常に人文研究者が外部であり続けるべきか
ということは、
「はじめに」でふれた補助学としての人文学という問題とともに、さらに議論す
べきものであろうが――。
また現場との協業とともに、人文諸学間における協業をもその目的としていた本シンポジウ
ムは、たんに狭い専門性のなかで処理するのではなく、これを拡充することによってはじめて
現場にフィードバックすることができることを改めて認識させるものであった。今年度で、本
研究会はその活動を完了するが、今後も引き続き研究と実践とにおける協業を続けていきたい
と考えるものである。
(東北大学)
①
このほか、在宅で看取ることを通してのデス・エデュケーションに関する議論や介護者を支える活動に
ついての取り組み、日本という文化空間における事前指示の試みについても言及されたが、紙幅の関係上、
そのすべてを挙げることができないことをお詫びする。
48
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
タナトロジー研究会 in 十和田
テーマ:死を受けとめる
はじめに
井藤美由紀
2009 年 10 月 10 日(土)
、十和田市立中央病院の別館講堂にて、タナトロジー研究会と十和
田緩和ケアセミナー(主催:十和田市立中央病院)の合同企画シンポジウムという形で、
「タナ
トロジー研究会 in 十和田」は開催された。
コンセプトは、様々な文脈から死や遺族との関わりを考えることである。死や遺族との関わ
りを多角的に捉えることで、現代医療におけるグリーフへのアプローチを視野に含めた文化へ
のまなざしを提起したいと考えた。
当初、このシンポジウム全体のテーマとして、
「グリーフケア」という現代が抱える喪失の
問題に、集約する方向性も考えていたが、あえて、死や遺族に対しての関わりを「ケア」に収
束するのでなく、その原点となる問題を柔軟かつ広いフィールドで考えようという方向性を打
ちだした。
シンポジウムは、蘆野吉和先生、岡部健先生、竹之内裕文先生の鼎談で幕を開けた。桐原健
真氏の司会進行で、各先生からタナトロジー研究会を立ち上げた当時のエピソードが語られ、
会場の雰囲気が和らいだところで、話題はおもむろに本題へと入って行った。以後の詳細は、
本報告をご覧いただきたい。
鼎談の後は、タナトロジー研究会の若手研究者達によるパネルディスカッションが行われた。
まず、井藤美由紀が臨床心理学と関係の深いグリーフケアに関する問題を押さえた上で遺族の
日記を、次に佐々木清志氏が精神科医の視点も交えて民俗儀礼を、最後に高橋由貴氏が映画と
いう現代文化を素材にして、死を受けとめ死者と関わる人々の姿を紹介した。続いて田代志門
氏の司会で、大村哲夫氏と山本佳世子氏がこれらの発表にコメントし、各パネリストとの間で
質疑応答が繰り広げられた。
49
はじめに(井藤美由紀)
シンポジウム質疑応答風景
(左から高橋由貴・佐々木清志・井藤美由紀・大村哲夫・山本佳世子・田代志門)
シンポジウムのコンセプトは、パネリスト 3 人で協議して決めた。私達は、現代のグリーフ
ケアの問題と日本の文化との結節点を、会場のみなさんと共に探ってゆきたいと考えていた。
鼎談では、先生方のお話に共鳴した方々の発言が相次いだが、パネルディスカッションでは、
残念ながら会場のみなさんと十分に交流ができたとは言い難く、今後の課題が残った。
しかしながら、秋の行楽シーズンたけなわの 3 連休の初日に、「死を受けとめる」というテ
ーマのシンポジウムに、多数の方が足を運び熱心に聴いて下さったことは、私達の今後の活動
の何よりの励みになった。このような機会を与えて下さった蘆野吉和先生、岡部健先生、竹之
内裕文先生、そして未熟な幹事の不手際を、配慮と機転で補って下さった関係者の皆様に、こ
の場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。
(いとうみゆき・京都大学大学院 人間・環境学研究科 博士課程後期)
※
本シンポジウムは、科学研究補助金基盤研究(C)「
「生ける死生観」の発掘と倫理学的基礎づけ――在
宅ホスピスの現場との連携を通して」
(竹之内裕文代表・20520012)の成果の一部である。
50
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
鼎談「死を受けとめる」
鼎談者:蘆野吉和 ・岡部健 ・竹之内裕文
司会者:桐原 健真
①
②
③
④
1 鼎談
はじめに
桐原 蘆野先生も岡部先生も、在宅で数多くの患者さんを看取られるご経験を重ねていかれる
うちに、
「医療者は看取りの場にいてはいけないんだ」と思うようになったと伺っております。
なぜ、そういうふうに思うようになったのか。そのように考えるようになった、ご自身の学問
的なライフヒストリーを、最初にお伺いできればと思います。
日本の近代医学の流れ
蘆野 これは、私達、僕と岡部のライフヒストリーじゃなくて、
日本の医療の流れがそうだったんで
すね。明治時代、ドイツ医学を模範にした日本の医学は、ともかく人の心を出来るだけ外に出
した。だから僕らは、出来るだけその人に感情移入するなという教育を受けました。出来るだ
け効率的に治すためには、
臓器だけ相手にしていたらいいわけですね。
その人が何をしようと、
人生観がどうであろうと、まるっきり、こちらの方ではそれを排除して、ある一定のことをや
って成果があればいいわけですね。例えば、治癒率 70%だったとしたら、70%より 80%になる
方がいいわけですね。
それは要するに、
人が 100 人いたら 70 人治って 30 人が治らないという、
そういった話だけで。その、治らない 30 人あるいは 20 人の人生観とかそういったものは、全
く関係ないわけです。治らない人の人生観とか生活感とか、その人がどうなるかっていうのは
全く考えなくて、ともかく 7 割が 8 割になるというような形で日本の医療は、本当に進歩して
きた。非常にいいことですね。それによって、いろんな病気が治るようになった。ちょうど我々
の頃、医療の転換期だったので。我々の頃って、ま、33 年前ぐらい。つい最近のことですね(笑)。
①
②
③
④
あしの よしかず:十和田市立中央病院、院長。 医学博士。
おかべ たけし:医療法人社団爽秋会、理事長。 医学博士。
たけのうち ひろぶみ:静岡大学創造科学技術大学院・農学部、
(当時)准教授。
(現在)教授。博士(文
学)
。専攻:哲学。
きりはら けんしん:東北大学大学院文学研究科、助教。博士(文学)
。専攻:日本思想史。
51
鼎談「死を受けとめる」
(蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文)
で、当然、我々は、治すことに一生懸命になった。とにかく色んな人、病んでくるわけ。そ
れを出来るだけ、良くして帰したい。たとえそれが 90 歳であれ、もうこのまま亡くなるかもし
れないっていう人であれ、1 秒とか 2 秒とか、何とか命をつなげれば、それでも「よかったな」
っていうふうに考えた。ちょうどそういう時代だったんですね。ですから、僕らとしては、や
っぱり自分が医者になった、その証として、色んないい治療どんどん入れて、治癒率を上げた
いとか、あるいは少し短い命でも、例えば 1 時間の命でも、やはり 4 時間に延ばせればという
ふうに考えていたし、そういうふうな教育を受けてた。まだそういう教育は続いてますけど。
そういう教育を受けて、かつ、ちょうど時代の流れで、どんどんどんどん色んな薬とか機械が
出てきたんです。だから我々の努力だけではなくて、医療の知識と技術が、ちょうどその頃、
高まっていったということなんです。
竹之内 そこで伺いたいのですが、現在、少しずつ緩和ケアに光があたり、今日のセミナーの
ように、私たちも緩和ケアをめぐって議論を進めている。その状況のなかで感じるのは、確か
にその治療の手段・技術が高まっていくことはいいですけれど、本来、技術の対象でないもの
まで、同じように扱ってる現象が見られると。例えば、終末期に不安を持つ。そりゃ不安にな
りますよね。そういう時に、まるで身体的な痛みを取るように不安もなくしてしまうとか、そ
のためにテクニックを向上させようとか、そのために研修をしようとか、そういう雰囲気が、
緩和ケアの中でも、なお主流じゃないかという気がします。だけど、やはりそこは、医療技術
で扱うべきこと、扱えることと、そうじゃないことの区別が大事だというふうに思います。で、
お二人にお返しして、お考えをお伺いしたいのですが。
医療技術で扱えないことをどう補うか
蘆野 医療ってもともと何が大事かって、やっぱり心。今、ホスピタリティって言うんですね。色
んな人を支えるとか、不安を支えるとか、支えるのが医療なんだ、支えるってことが、むしろ
大事だと今は思っていて、それに気づいたのがちょうど在宅をやってた時ですね。在宅をやり
ながら、今の医療に欠けているものを、我々は学んできた。この 20 年ぐらい、本当に学んでき
た。ただ、我々は変わってきたけど、全体が変わり始めてるのは、まさに今かな、と思うんです。
一番大事なところは、知識や技術だけじゃなくて、それを持つ人の心かなって思います。
岡部 人を看取るというのは、こちらは死んだ経験ありませんからね、亡くなっていく人から
52
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
しか教われない部分はあります。何を支えたらいいんだろうっていうのは、亡くなっていく方
に教わりながら、考えるしかないんだろうと思います。
それで、緩和ケアとかホスピスケアって、チームケアだというふうによく言いますけど、チ
ームケアの本質って何か?って言ったら、自分なら自分に能力がないっていうことをよく知っ
てるってことです。医者なら医者として、患者さんのとこへ入って行ったときに、自分の力だ
けでとっても出来ないものがあると。わかんない部分があるから、他の専門職、他の色んな知
恵持ってる人と、チームが組めるわけですよね。で、どうしても、病院の中だと医療系のチー
ムの話になりやすい。
だけど、在宅という現場に行ったときには、チームの対象が、医療だけじゃなくて、家族の
方もおられますし、その地域のお坊さんもチームの中に入ることもできるわけですよね。そう
いう人たちの知恵をいただく。看取るって、逝く人たちのために知恵を頂く気持ちが一番大切
でしょう。その為には、医療が今まで死の現場を全部押さえてきちゃってるけれども、これは我々
の能力で出来ないんだって自覚することが大事です。医療者だけでは力不足だから、みんなで
一緒にやっていきましょうっていう、そこがやっぱり重要になるんじゃないかなと、今考えてます。
日本に伝えられた病院=ホスピタルの変遷
桐原 ありがとうございます。これまで、私も文化史という分野から、病院を研究したことが
あるんですが、日本の病院というのは実は古くて、戦国時代のクリスチャン、キリシタン・バテレン
の宣教師が持ってきたというふうに言われております。その時のホスピタルというのは、まさに今
でいうホスピスと同じような形でした。と言うのは、当時の病人というのは、病人になった時点
で共同体、村とか村社会から追い出されてしまう。そういった人たちを回収して、彼らの傷つい
た魂を救済してあげる。もちろん、肉体も救済するんだけれども、魂も救済してあげる。心身両
面にわたってケアをするというのが、最初の日本に伝えられた病院、ホスピタルだったわけです。
それが、江戸時代を経て、江戸時代のキリシタン禁制、キリシタンに対する弾圧を経て、医学に
おいてもそうですし、社会的にもそうなんですけれども、精神的・霊性的ケアというものが重
要視されなくなります。どちらかというと、目に見える、手で触ることのできる肉体というも
のを中心に、ケアするという考え方が、江戸時代半ば以降に強くなり、そういったものを受け
継いだのが、蘭学者と呼ばれるような、近代日本医学のさきがけになった人たちなわけです。
53
鼎談「死を受けとめる」
(蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文)
彼らの延長線上に、先ほど蘆野先生が指摘された近代以降に輸入された日本の医学があると申
せます。つまり、精神性でありますとか、人間の心というものを容れない医療の在り方ですね。
それは一つの科学的な治療の在り方であるとは思いますけども、しかしそこにおいて切り捨
てられてしまった部分を考えながら、もう一度いかに人間の心身両面を見ていけばいいのかと
いうことを考えています。
で、その点に関しまして、最近では、スピリチュアルというような言葉がしばしば出てくる
わけでありますけれども、そのスピリチュアルという言葉自体がですね、日本語になってない
というか、日本語として十分に通用していない。どちらかというと、近代科学の思考において、
死とか、スピリチュアルといったものを主題として取り扱うこと自体を忌避する傾向があるか
と思います。そこで、このスピリチュアルという言葉に関して、もうすこしお話を広げて伺え
ればと思います。
スピリチュアリティをどう考えるか
桐原 現場において、スピリチュアルないしは宗教的なものが死の直前や死の周辺においてど
のような意味をもって存在していたのか、というような実例を、岡部先生の方からお話頂けれ
ばと思います。
岡部 スピリチュアリティからいっちゃうとややこしくなるよね? 人間が死んでいくという
とこから考えると、やっぱり、生まれてきて生きてきて、死を迎えるっていうのは辛いですよ
ね。その方も辛いし、見送って行くご家族だって辛いでしょう。手短に見送っていくっていう
ことは、やはりありません。で、そこのところを、きちっと個人個人が受け止められるように
していくっていうことが、元々のテーマで、スピリチュアリティとか何とかっていうのは、後
からついてきた言葉ですから。
まず考えなきゃいかんのは、人が亡くなって行くときに、その辛さをどうやって我々チーム
が受けとめて、そのあと生きていくかという、そういうことなんだろうと思うんですよね。宗
教性っていうのは、
宗教が先にあって、
そういう辛さを取ったとかっていう話じゃなくってね、
辛さを見守っていたら、宗教的な気持ちっていうのを、持たざるをえなかったっていうような
話なんじゃないかな。だから、色んな表現を、亡くなっていく人たちが受けとめた辛さだとい
うふうに受けとめる考え方をすれば、実は宗教もスピリチュアルも、あまり言葉としていらな
54
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
いんじゃないのかなっていう気が、私自身はします。で、そういうところから考えると、ここ
にいらっしゃる皆さん方が、自分の肉親を看取って行く時、必ず看取らなきゃならんわけです
から、どうやってそれを受けとめられるのかっていうことは、ご本人の中で考えていかなきゃ
いかんだろうという話しになるんです。
潜在的な宗教的価値観――「お迎え」について
岡部 私どものところでは今まで、がんの患者さんを 2,000 人近く看取ってきました。その中
で、ご遺族の調査をやっていきますとね、実は医療者が考える以上に、ご遺族、ご家族は、宗
教性お持ちなんですよね。病院の中では、どういう価値観をお持ちなのかっていうのを、突き
止めるのはなかなか難しかろうとは思うんですが。在宅っていう現場では、日々の生活、日常
的な生活の価値観がつながっている中で診させていただくわけです。そうすると、想像以上に
皆さん、宗教性っていうものをお持ちなんだというふうに感じております。
この中で「お迎え」って言葉を知ってる方、どのくらいおられますか? ちょっと、挙手願
えますか? あまり「お迎え」って表現はとらないですか? 患者さんが亡くなっていかれる
前に、亡くなったお父さんとかお母さんが来て、
「行くの嫌だから断った」とか、そういう話聞
いたことある人、
どのくらいいらっしゃいます? やっぱり結構いらっしゃいますよね。
でも、
病院なんかだとそういう話しすると「あ、これ、幻覚見えてますから、お薬で幻覚取りましょ
う」って話になりやすい部分ありますね。
ところが、医学的にいったら幻覚とかせん妄と言われていることでも、ご家族自身がそれを
「お迎え」だと考えて、亡くなっていく人とご家族が、共通の価値観をお持ちでらっしゃいま
すとね、そのままあの世の方へ送ってあげられる。そういう気持ちにもっていくと、かなり救
われてる人たちがいるなっていうのが、私どもの調査の中でも出てきております。
「お迎え」に
関しての論文を、こちらにいる皆さんでお書きになりましたが、それを見ると、大体 40%ぐら
いのご遺族が「お迎え」が来てたと思ってるんですよ。つまり「お迎え」があるっていう宗教
的価値観を、ご遺族がお持ちになっている。そういうところに、きちっと視点をあてて考えて
いかないと、難しい面もあるだろうなっていう気がします。
竹之内 このお迎えっていうのを岡部先生はずっと言っていて、僕はこれを聞いたときにすご
いなって思った。と言うのは、例えば、もう自分は死ぬことがわかっていて、
「何の希望もない
55
鼎談「死を受けとめる」
(蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文)
んだ」
、
「早く死なしてくれ」
、そういう人がいた時、どうしようもないですよね。自分が出来る
こと何もない。その人自身が生きる希望を失ってる時に、周りの人間が何言っても絵空事にな
るじゃないですか。その時に岡部先生は、
「なんかね、他の患者さんに聞くとね、亡くなる前に
お迎え来るらしいよ。あんた、お迎え来たの?」
「まだです。
」
「じゃぁ、まだ逝けないんじゃな
い?」っていうふうなこと言うと、
「あぁ、そうだ、お迎えが来るまで待とう」っていうふうに、
みんながみんなかどうかは知りませんけど、思った人がいるっていうんですね。それって凄い
ことだと思うんですよ。死って人間のコントロールを超えたものじゃないですか。それを、死
に対する不安とかまでコントロールしようとしてしまいがちなんですけど、
「本来そういうもの
じゃないよね」って。その人たちの外のつながりから、その人の内に眠っているものを引き出
してくる。凄い着眼点だなっていうふうに思ってます。
あともう一つ、大事なのはあの世がどうなってるとか、死んでどうなるとかそういう話じゃ
ないんです。昔は、亡くなるときによく、信心深い人には阿弥陀様が迎えに来るとか、そうい
う世界ってあったのが、今、迎えに来るのが親しい人になってるのかもしれない。つまり、人
と人とのつながりで起こってる出来事なわけです。だから、おどろおどろしいような、あの世
があるのかないのかとか、そういうことではなくて、人とのつながりの中で人は自分の死を受
けとめていける、ということなんだと思います。
桐原 続いてお願いいたします。
自然とのつながり、死者とのつながり
蘆野 ちょっとわかりにくいかもしれませんけど、昔はよくありましたね、桜の木を土手にた
くさん植えて、それを自分の一生の仕事だと思って。なぜ、桜の木を植えるか。自分は桜の花
がたくさん咲いても見られないけど、子孫、自分たちの子供たちが、それを見て喜んでくれれ
ばいいかなと。自分の最後の仕事として、桜を植える。こういった、
「成し遂げられないけど咲
ききった」っていうような形の日本文化ってあるんですね。
ほかには、例えば、よく農家なんか自分の親の写真を飾ってあるんですね。ああいう中で暮
らしていると、やはり「自分もこういうふうになるのか」っていうふうに思いながら最期を迎
えられる。そういう事があると、不安っていうものがなくなるんですね。
僕らが今やってるのは、最期に、本当にいい顔で亡くなっていかれるのを見て頂くことです。
56
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
「次に自分たちの番が来ても、こんなふうに穏やかな顔で最期を迎えられたらいいね」と思う
ことが、不安の解消につながるんですね。そういった部分が、スピリチュアリティと関係する
んです。
最近よく言われていますけど、西洋哲学で言ういわゆる「関係性」が、日本だと「ご縁」な
んです、
「ご縁」
。西洋では、神との関係性とかそういった形で、あくまでも個人を中心にして
関係性をつくる。で、最後は神との関係性、神のもとへ帰るという形になる。じゃあ神がいな
い人は救われないのかということで、かなり悶々とするところがあるんです。日本の場合は、
関係性というものが非常に広くとられていて、おそらく自然との関係性が非常に重視されてい
る。あるいは、個人中心で色々やるよりは、色々な関係性の中で行動していくということの方
が、非常に強い。関係性の中にご先祖さまがいたり、あるいは自然があったりというのが、日
本の特徴かな、日本的なスピリチュアリティかなというふうに思っています。そのあたりを色
んな人に深めてもらおうというのが、もう一つあるんです。
どうしても、西洋哲学の個人を中心とした関係性はかなり強い。西洋の自然というのは人間
に支配されるもの、人間がある程度支配するものだというふうに、ドイツあたり、ヨーロッパ
では考えているんです。が、日本の場合は、色んな天災がくるわけです。まず、日本人はそれ
を制御できるものだと思ってないんですね。
すると自然に対する畏敬というか畏れというのが、
当然出てくるんです。自然の中で自分が生かされているというような感覚を、深いところで持
っているところがある。その感覚をもう少し高めるためには、在宅で自然とつながりのある中
においた方が、不安が非常に少ない。医学的に言っても、色んな症状が抑えられる。やはり自
宅に戻ることによって、患者自身のスピリチュアリティは、ある程度高まるのではないかとい
う気がします。
この前ちょっと京都に行ったんです。ひとつおもしろかったのは、今の日本の仏教のもとは
延暦寺、比叡山のあたりから、天台宗とか浄土真宗とかが生まれてきたんですけど。その元の
御本尊みたいな、それの守り神が日吉神社。つまり、神社が寺の守り神になってるんですね。
ということは、やはり日本の場合、いわゆる自然を基盤とした色んな宗教性が、今の仏教に全
部つながっている。日本人の基本的な宗教性が、ここにあるんではないかと。それを我々は看
取りの場面で残していくのが大事かなと。そのためにも、私生活の場の中で、看取りはやって
いかなきゃいけないのかなというふうに思います。ちょっと長くなりましたが。
57
鼎談「死を受けとめる」
(蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文)
竹之内 あの、最初に言われた生と死の話はすごく大事だと思っています。私は農学部に所属
していまして、農村にも足繁く通っています。私の行ってるところは、静岡の安倍川をずっと
上流に上っていくとですね、川沿いにいくつもいくつも集落があるんですけれど、集落がわっ
と集まっているところには、大体、集落を見下ろすところに、高台にお墓があるんですよ。で、
みんな腰をのばすと、お墓が目に入ってくるわけです。だから、死者と生きてる者が切れてな
いんですね。だけど、死者と生者が切れてしまうと、私自身は今生きてるけれども、いずれ死
者になるわけで、自分の生と死が切れてしまう。そうすると、私がいなくなったら何もないん
だと。ターミナルケアのターミナル、終着駅ですよね。もうすべて一切がこれで無になるんだ
と考えたときに、とても苦しいんですね。そういうことが、都市化が進んでいく都市の中では
起こっていますが、農村ではまだ生活している場の中に死があるわけですね。で、普通に畑を
みても家屋をみても、それは自分の前のお父さんお母さんたち、じいちゃん、ばあちゃんの世
代が作ったもので、その中で、
「この柱のここ、じいちゃん修理したな」っていうふうに生きて
るわけですよ。死者とともに生きている。そういう場が大切なんだって。
たぶん、問題なのは西洋型社会か、日本型かということではないんだと思うんですよ。西洋
と日本の違いは、西洋は近代化が早く始まったので、都市化が起こったことだと思うんです。
それが近代まで続くんですね。だから問題は、きっと農村社会と都市社会の違いだと思うんで
す。日本でもきっと大都市と、岡部先生はちょっと仙台市の郊外の農村、どちらかというと農
村都市の方ですかね、そういう場所によって違ってくると思うんですね。それで、農村社会っ
て土着的だと思うんですよ。すごく土のにおいがする。で、先ほどの神さまと仏様がセットに
なって、神仏習合の話なんかも、土地の神様は土地の神様で生かしながら、仏教なら仏教の普
遍的な神様を両方共存させる。その土地のにおいをなくなさいということだと思うんですね。
都市社会で「つながり」は作れるのか
竹之内 そこでお二人に聞きたいんですが、私の理解だと、問題は農村社会型か都市社会型か
なんですけど。じゃ、農村社会型に戻すっていうのは無理じゃないかなと。そしたら、やっぱ
り考えていかないといけないのは、新しいつながり、新しい関係を都市でも作っていかなきゃ
いけないように感じるんです。それについて、お二人に伺いたいと思います。
岡部 あの、私自身は、最初は名取という農村部で始めたんです。看取りの原型はやっぱり農
58
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
村部に残ってるなぁっていう気はしてるんですけども。で、そういう意味では私は非常にラッ
キーだったと思う。農村部でやり始めて、近くに都市圏が広がってたんで、農村部のやり方を
よく学習したうえで、都市圏に行った。で、よく話聞いてみると、仙台あたりは都市の人もほ
とんど農村出身なんですよ。ちょっと親戚集めたりすれば、大体近郊の農村部からの人なんで
すね。だから、都市だといっても仙台ぐらいの都市は、結構壊れてないんですね。おそらく、
これ、東京でやるとかなり違うと思う。
で、さっきの質問は、農村と都市が分化したところから色々問題点がでてきたんじゃないか
ということ。これ、それこそ日本思想史とか社会学とか、そういうところで、ぜひ研究テーマ
としてやっていただかないと、まだ見えないところだと思います。で、実は都市化の一番最初
のころは、江戸期に始まりますね。
桐原 はい。
岡部 江戸期の都市形成のところから、
宗教的な死後の世界の否定っていうのは始まってると。
逆にいうと、介護福祉施策というのは、実は江戸期に始まってるんです。たとえば小石川養生
所ありますよね、赤ひげの話ですわ。あの赤ひげの話ってなんで起きてくるかというと、江戸
で流行り病があると、隣の葛飾柴又の帝釈天の向こうっ側の方、隅田川の川を渡った向こう側
の品川で、バタバタ人が死んじゃうんですよ。なぜかというと、やっぱり都市ですので独身男
性が多いんですね。そこのところに目を向けて、実は江戸期の医療施策、福祉施策ですか。
桐原 そうですね。
岡部 医療福祉施策なんかがでてくるということがあった。都市の中でこうやって人が分断さ
れてバラバラになって、手に負えなくなった時に、それをまとめて、小さいコミュニティを作
っていくっていう、いいトライアルは、実は江戸社会にあるんですよ。で、さっき指摘された
農村型の地域共同体みたいなのが壊れると、もう何にも出てこないのかというと、そうでもな
かろうと。現在は江戸じゃないですからね、やり方は変わってくるとは思いますけれども、江
戸時代にやったような、そういう共同体、いっしょにみんなが暮らしていく場所っていうもの
がなければ、やっぱり人間ってなかなか生きていけないし、死んでもいけないんです。
新しい形のつながり――「岡部村」という試み
竹之内 だから、僕が岡部先生に聞きたいのは、岡部先生は、大きい土地を買ってですね、村
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鼎談「死を受けとめる」
(蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文)
を作ったりしてるんです。そこで行きつけの飲み屋の人が来たり、患者さんが来たり。あれが
たぶん、新しい形の人のつながりかなっていう気がしてるんですが、いかがでしょう?
岡部 どういう形がいいかよくわからないですが、種いっぱいまくしかないだろうと思ってん
ですよ。実際、私のところで、独居、独り暮らしの仙台市内の患者さんを支えた経験を持って
るんですけど、
その中で、
最後に亡くなるときに支えてくれた人たちが誰であったかというと、
実は遊び仲間っていうのが結構あるんですよ。
野球一緒にやってた夫婦が、
「あいつ、
独身だし、
一人で死んで逝かせるのかわいそうだから、ちょっと順番で看てやるか」っていう話は、今で
もあります。コミュニティなんかね、人と人のつながりが全部壊れちゃってるわけじゃないっ
ていう気は、かなりしてます。
あと、ボランティアって言葉ありますね。ボランティアって言葉、好きだっていう人、手、
挙げてください。
竹之内 言葉?
岡部 言葉。ボランティアっていう言葉、あまり好きじゃない? 結構、いかがわしいんだよ
ね。ボランティアっていう言葉自体が。これ、20 才ぐらいの大学の学生に聞いてみると、ボラ
ンティア嫌だって言うんですよ。おそらく日本人が、他人のために何かやってやりたいって気
持ち持つ最小単位は、昔のコミュニティ単位なんですね。だから、若い学生なんかに、新潟と
か神戸に震災があった、ああいう時に「お前ら、手伝いに行かねえのか?」って言うと、
「やん
だ」って。わけわかんない人の手助けして、危険な目に合うのは嫌だって。ところが、質問か
えてね、
「小さい時に遊んでくれた近所のおじさんが、病気になって、一人で買い物にも行けね
ぇぞ。そん時、おまえ手伝わねぇのか?」って。それは「行く」と。
だから、要するに、我々の中に「他人のためにやっていいな」っていう距離感が、おそらく
西洋人よりも近いところにあるんですね。何十人、何百人って顔が見える単位ぐらいのとこだ
ったら、結構、みんな手助けを惜しまないんだけれど、なんか青森の人間が、九州の人間の手
助けするのは嫌だとかっていう、感覚があって、その感覚の違いが、おそらく地域とか共同体
っていうものなんだろうなと。
で、まぁ、私も元々飲んべえなもんで、自分の得意なところから何でもやらなきゃいかんと
いうことで。自分の得意なところは飲み屋ですんで、飲み屋から流れを作れないかっていうこ
とで、仙台の郊外に秋保っていう場所があって、そこの原野を手に入れまして、飲み屋の連中
60
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
と一緒に開拓やりながら、そこに患者さんも入るっていうような流れ、つくったんですね。そ
うすると、飲み屋の連中をだまして、だましたんじゃなくて(笑)
、原野開拓をやってるうちに、
患者さんが来るようになったんですよ。助かるよ。実はボランティアしてくれなんて、何も言
ってないんですよ。
最近は、まだ ADL が高くて、それなりの活動性を持ってんだけど、がん自体は治らないっ
てわかってらっしゃる患者さんが、さっきの桜の話じゃないけど、桜の苗なんか植えに来てる
んですよ。
「自分で見られないでしょ」っていうのに(笑)
、植えるんだよ。で、畑作ったりし
て。僕、娘さんと一緒にずっとやっていると、そこんところに全然違う目的で、原野遊びがお
もしろいから来てる飲み屋の友達連中が来て、ここの畑の手助けする。
今、合理的に生きてくためだけの人のつながりっていうのを、持ちすぎちゃってるようなと
こがありますが、それ以外にも人のつながりはある。そういうつながりがあるところに行った
ら、結構これからだって、コミュニティはそれなりに作れるんじゃないのかなっていう意識は
持ってます。ただ、どの形がいいとかは、一概に言えないだろうと。村があったって、原野み
たいなの持ってるとこばかりじゃないし(笑)
、みんなが野球チームに入ってるわけじゃない。
だから、種の蒔き方は、皆さん方が自分の周りを見渡しながら、一個一個やっていくと。やっ
ていき始めると、もう一回コミュニティ、お互い助けあえるような社会をつくる文化の芽は、
結構残ってるんじゃないのかな、というふうに思います。
「つながり」をオーガナイズする――農村部での試み
蘆野 えっと、そのつながりということでちょっと。地域の中で看取る時に、やっぱり小さな
単位は農村かもしれませんね。結構、近所の親類とかみんな集まっていて、みんなで一応みて
いきますから。
で、そういうところで僕が最初に言うのは、
「あなた達も、みんな同じようになっていく」
っていうことなんです。それから「必ず看取りの場を迎える」ってことを、みんなで共有する
んですね。共有した時に、
「みんなでこの人に学びましょう」と。要するに、
「みんながやって
あげる」んじゃなくて、
「この人に学んでいく」というふうな対応にしていくと、あんまり違和
感が大きくない。
で、私達医療者は、例えば、あえぎ呼吸になったり、薬入れるとか、そういう時間はいるけ
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鼎談「死を受けとめる」
(蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文)
ど、普通はあまりいない。ある程度安定して、次第によくなってるように見えて、最後に急に
がたがたと色んな展開があったりなんかして、その人その人なりに生き切って、最後にいい顔
で、眠ってるような顔で、みんなの前に現れるわけですね。人間、亡くなった後って、すーっ
といい顔になるんですね。ほんとにみんな若返って、いい顔になるんです。そういういい顔を、
出来るだけ白い布をかけないようにして、みんなに見せてあげたりする。それを見た人が、
「あ
ぁ、すごいな」っていう形になって、それが段々段々、
「そういや、隣のばあちゃんとこ行った
らいい顔だったな」って、そういう人が段々、多くなってくるんですね。
自宅で亡くなる人が多くなってくると、近所で亡くなった人を見た人が、
「あ、あの時もそ
うだった」って。こういうことが、次第に増えていくんですよね。みんな、病院で亡くなった
と思ってるんですが、実は自宅で亡くなっていても病院で亡くなったと思い込んでることもあ
るんです。こちらが「いや自宅で亡くなったんです」って言うと、その時にそうだったのかと。
「自宅で看ても大丈夫なんだね」みたいな話をして。そういうふうに指導して、そういう看取
りがどんどん増えてくると、また違った関係性が出てくるかなって。
穏やかに死を迎えるために――医療者の心得
竹之内 この間、神戸でこのへんのメンバーでシンポジウムやったときに、岡部医院の大村さ
んが「本当にみんないい顔して亡くなりますよ」って話をしたんですよ。その時に、関西の病
棟で勤務している看護師さんがいて、すごく驚いて質問されて「私は、苦しんで死んでいく顔
しか見たことない」といった話をしたんですけども。それは、どういうとこで違いが出て来る
んでしょうね。
蘆野 いやぁ、その辺は現場の看護師さんに聞いた方が(笑)
、非常にいいんではないかなぁと
思うんですが。全く違う。僕もね、初めて現場でいい顔で亡くなってる人を見たっていうのは、
1988 年ぐらい。今から 20 年ぐらい前に、初めて、すごく穏やかな顔で亡くなった患者さんを
見た。それまで、やっぱり、すごい形相でみんな亡くなってた。その人だけ、なんでこんなに
と思ったら、その人はがんの末期だったんだけれども、朝起きたら亡くなってた。点滴も何も、
要するに何もしてなかったんですよ。その人が初めてだった。
どうしたらこんなにいい顔になるのかなって、それから思い始めた。その後、一般に痛みを
取ったり、輸液をしなくなって、色んな医療的な処置を出来るだけしないようにしたら、段々
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臨床死生学研究会研究報告 (2010)
いい顔になってきた。その後、すごくいい顔を見たのは、肺がんの末期の方で、直前まで呼吸
が苦しくて苦しくてしょうがなかった。でも、最後息を閉じた瞬間、1 秒、2 秒、3 秒、4 秒、
すごく穏やかな顔になって変わってったんで、その人を一応、病理解剖した。病理の先生も「こ
んな穏やかな顔、見たことない」って、病理解剖しておられた。で、その人の肺は空気がたく
さん入ってて、
しぼっても全然水が出ないぐらいだと。
そうでない人達はみんな水浸しだった。
で、そのあと、こちらに来る前は、もう亡くなった人の顔が穏やかなのはごく自然と思って
いたんですが、でも、他の病棟で、すごい顔の人を見た。最後、家族の人に「いい顔してます
ね」って、
「よかったですね」って、必ず言ってたのが、まるっきり言えなかった。その人は、
最後まで抗癌剤治療しておられた。もう本当に痩せて、すごい形相でした。
家族は「負けた!」
。
「こんなにがんばったのに悔しい」
。
「負けた」
、
「悔しい」って。その人
の家族の心の中にも、全くいいものがなくて、本当に人生これで終わりみたいな。その人の最
後の顔が、あるいはその人の最後の生き方が、家族に色んなしこりっていうか、大きな傷跡を
残している。やっぱりそれは、あっちゃいけないですよね。
やはり、余計なことをしないこと、かな。あとは、色んな症状をとってあげること。医療と
してはそれだけでいいんですね。あとは家族がそばに出来るだけいることかな、なんては思う
んですけど。
岡部 一点、付け加えて言えば、亡くなっていく前、ほとんどの家族が前向きになっちゃう。
医療って何かっていうと臓器保護ですから。医療をやればやるだけ、
「頭の機能をしっかり残そ
う」
「心臓の機能を何とか残そう」っていうふうにして、無理に機能を残そうとする。そうする
と、何が残るかというと、人間の中で一番重要なのは頭という、脳という臓器ですから、ここ
の機能が最後の最後まで、かなり苦痛を強く感じられる状態のまま維持されちゃう。で、もう、
身体が本当に崩壊する寸前の状態で、脳の機能はそのまま亡くなられちゃうというようなこと
が起こる。これやっぱり、苦痛の中で、一番強い苦痛なんじゃないのかな。
人間、亡くなる時は、やっぱり心と体が一緒に衰えて、最後の時間を迎えるっていうのが、
苦痛のない穏やかな表情をしていただくということの、
大切な要件ではないかと思う。
家族は、
「意識だけは最後まで残しておいてください」とか、無茶言うんですよ。家族が言いたくなる
気持ちはわかるんだけど、それは無茶なんです。心と体は一緒に衰えて、一緒に最期の時間ま
でたどり着くようであれば、そんなに辛くならないんじゃないかな。そういう気がします。
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鼎談「死を受けとめる」
(蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文)
桐原 ありがとうございます。最初から人間の心と体の両方をみていく――亡くなっていく方
が穏やかに死を迎えるためには、決して医療者だけではなく、周りで看取っていく家族・関係
者がそれ相応の関係性を形作っていくことが、今後目指されるべきなのだろうと感じました。
2 フロアとの交流
桐原 残り、15 分くらいありますので、フロアの方からご質問でもご感想でも結構でございま
す。もし、ありましたらお願い致します。
「お迎え」に関して
X さん 貴重なお話、ありがとうございました。
今の、
「お迎え」って話なんですけれども、最近 50 代の男性の患者さんが亡くなったんです。
その奥さまがすごい霊感の強い方で、自分の主人の周りに、主人のおばあちゃん、おじいちゃ
ん、そのご主人の 4 歳の時に亡くなった兄弟、みんながベッドの周りを囲んでると。すごく感
じるって。主治医は「もう少し行く(=生きられる)だろう」って。だけど奥さんは、
「もう安
心してる」って。みんなが迎えにきてくれたっていうことで。で、そのお話されてから 1 週間
後に、その方は亡くなられたんですけれど。本当に安らかな感じで亡くなられてまして、そう
いうパターンもあるんです。
ある 60 代の男性の方に、80 代の母親が虫の息で、いよいよ看取りの段階って時に、「耳は聞
こえるから、何か伝えたいことがあったら、最後に伝えて」って言ったんです。で、なんか伝えたらし
いんですよ。亡くなって 1 週間してからその方が病院に来まして、「看護婦さん、実は自分は小さ
い時、母親と一緒に寝たことがなかった。母親は漁師だから早くに寝てしまって、母に添い寝してもら
った思い出がない。だから亡くなる寸前の母に『一緒に寝たことがないよね』って言ったら、亡くなって
三日後に、自分と一緒に寝てる夢を見させてくれた」って。「母親が、自分のそばで一緒に寝てくれ
た」って。60 代の男性の患者さんがね、その 80 代の母のことをすごく語ってくれて。夢かもし
れないし、それはわかんないですけれども、そういうことがあったということで。
医学では説明のつかないようなことを、患者さんや家族が感じて、もっと癒されるっていう
こと、お聞きしたことがありました。
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臨床死生学研究会研究報告 (2010)
A)戸惑いがある場合は、安心させる対応を
蘆野 先ほども出た「お迎え」の話しって知らないと驚きますよね。本人がなんかおかしなこと
言ってるとかね。その家族がおかしなこと言ってるとかね。本人がおかしなこと言ってると、家
族も驚いたりして「あぁ、うちのじいちゃん、おかしくなった。」とかって嘆くんですね。でも、そう
いうときは「お迎え」の話をするんですよ。「あぁ、来たね」って。僕らの反応で家族の態度も丸
っきりガラッと変わる。「あ、来たんだね。よかったね」って言うんですよ。「これであの世にいく時
に、迷わなくてすむ」って。そういう風な話をすると、本当にみんなほっとするんですね。今ま
では、「おかしくなってどうしよう」って戸惑っていたのが、
そういった話を一つこちらがすることに
よって、本当に安心するんです。だから、そういう場面に行きあたった場合には、実際に信じ
てようが、信じてないにしても、やはりそういった言葉をかけてあげてほしいなと思います。
B)拒絶される方には、その方の価値観に合わせた対応を
岡部 ちょっと「お迎え」の話ばっかりになっちゃったんで。
基本は、やっぱりおひとり、お一人の価値観に合わせることが大切。特に仙台市内あたりに
なりますと、そういうことを完全に最初から拒絶される方もいるわけです。拒絶される方のと
ころに押しつけてはいけない。だから、そういうものを一切信じないという人に関しては、そ
の価値観の中でおつきあいしていくということが、やっぱり大切。特に最近の都市部出身の団
塊の世代は、かたくなにそれは拒絶する人がいます。それはやっぱり注意していかなきゃいか
んなと思います。
竹之内 例はありませんか?
岡部 仙台で看取った患者さんの中には、
「何か楽しいことはないか」と、
「これから何をやり
たいんだ?」って言ったら、一言、
「会社に行きたい」
、
「最後は会社で仕事をしたい」
、
「それ以
外はない」と言われると。だから、全生活、全生命を会社人生に賭けちゃった、なんていうタ
イプの人間も今、生まれてることは事実なんですね。その人に「お迎えは」とか言うと、
「お前
帰れ」って言われかねないっていうことはあります。
竹之内 そういう人に、どうやってその人の価値観を大事にしながら支えるんですかね?
岡部 だから、価値観を大事にしながら支えられない。
竹之内 そうですよね。
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鼎談「死を受けとめる」
(蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文)
岡部 死んでいき方っていうのは、生き方とやっぱり比例してくるもんだから、
「生きてきたよ
うにしか死ねないんだよ」と思う。生きてきた中で死をまったく準備していなかった人に、亡
くなる直前 2 週間で死を準備して受けとめるっていうのは、
もともと難しい話なんだよ。
ただ、
そういう人にはそういう人なりのおつき合いの仕方があるし、死ぬまで 1 週間でも、その人の
価値観の中で、方向を探っていくということが重要になってくるんじゃないかな。
蘆野 だから、完全にもう、学ぶ。
「この人から何か学ぶ」といういふうに、対応決めちゃえば
いい。我々が何とかいうのじゃなくて、こういう人もいるんだと。で、そういう人もそれなり
に自分の人生観持ってますので、じゃ、それを如何に学ぶかっていうふうにして、こっちを真
っ白にして、向こうの色に染まるようにしていくと、非常にこちらも気が楽なんですね。それ
がなかなか医療者というのは、
「自分たちで何してやろう」とか、
「支えてあげよう」とかって
いうふうに思うからいけないのね。要するに、結果的に支えられたっていうだけであって、我々
に出来るのはその人に学ぶこと。そこに徹すれば、意外と楽なんですね。
桐原 ありがとうございます。もう少々お時間ございますので、あと一人、二人、大丈夫だと
思います。あ、お願いします。
お迎えにくる「あの人」に関して
Y さん ちょっと、在宅とはフィールドが違うかもしれないんですけれども、私は大阪にいた
頃に、大阪の西成区の愛隣地区というところの、ホームレスの世話をしている方のところで、
一緒に活動をしたことがあるんですね。毎年、冬が多いんですけれども、路上で死んでいく方、
何人もいらっしゃるんですよ。経済的に立ち直れる見込みが全くなくて、もう路上で死を迎え
るしかない、言いようによっては、末期に近いと言えると思うんですけれども。その活動の団
体を主宰していた方が、死に対する恐怖とか不安とかっていうものから解放するために一番大
切にしているのは、誰か自分を受けとめてくれた「あの人」のところに逝く、
「あの人」の逝っ
たところに逝くっていうことを、
思い出させることだっていうことを、
おっしゃったんですね。
さっきのお話の中で出た、関係性の中で安心感を見出す、日本人のいいところって感じですけ
れども。それと、今、話題になってる「お迎え」も、
「あの人」が逝ったところ、自分が信頼し
ている、自分が尊敬している「あの人」が逝ったところに逝くっていうのは、ま、決して嘘で
はないですよね。天国がどうなってるとか、死んだあの世がどうなってるとかっていうことと
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臨床死生学研究会研究報告 (2010)
はまた別の話しで。で、そのために障害になるのは、
「あの人」のことが思い出せないままでい
るっていうこと。これ、一つ障害になるわけですよね。だから、その主宰している人は、なる
べく頻繁に傾聴して、その人にとって「あの人」とは誰なのかっていうことを、ちゃんと聞い
ておくそうなんですよ。で、本当に死が近づいて不安になったときに、それにそっと気づかせ
てあげる。周りの人も、だれが「あの人」なのかっていうのをちゃんと覚えておく。
もう一つ、障害があるっておっしゃってたんですが、それは「あの人」と自分は別のところ
に逝くんだという思い込み。そこはキリスト教の団体だったんですけど、神とか、日本流にい
えば閻魔さまみたいな、絶対的な、理論的に裁くような存在がいて、あの人はこっち、この人
はこっちに振り分けられるという思い込み。宗教者の立場としては、そういった方に、そうい
う裁く神ではなく、キリスト教でいえば赦す神、仏教では慈悲の心があることを伝え、宗教的
なサポートもしてあげるんだってことをおっしゃたんですね。
で、ちょっと感想になってしまうんですが、今、
「お迎え」とか、端的にいうと「あの人」
のところに逝くっていうことを、気づかせてあげるということが大切なのかなと思って聞いて
おりました。
A)感想
竹之内 あの、非常に重いというか、お話をありがとうございました。二つ目の方ですよね、
今ね、本当に大事なのは。で、私だったらどういう風にその人と向き合うのかなっていうこと
を思ったんですけれど。
「大丈夫だよ、同じところに逝くよ」っていうだろうと。ただ死ぬ前に、
その人がなぜそう思ってしまうかっていう。生きてきた人生の中で……。それにはたぶん大き
な時間の積み重ねがあるでしょうし、ねぇ、そういう教会の人も本当に多くの人に関わってて
なかなかやはり大変かもしれないけど。私だったら、やはりここで、こう、神様もなく、生活
も切り離して、それは「なんでそう思うか」っていうところに関心をもつかなと思って。私も、
感想みたいですけど。
B)感想
岡部 これも私の感想ですけど。死んだらどこに行くのって話が、生きてる間にあまり会話と
してされてないんですよ。昔はわりとその話って、もっとされてたんじゃないかなと。私、一
67
鼎談「死を受けとめる」
(蘆野吉和・岡部健・竹之内裕文)
時期、ちょっと近所のご老人がたも外来で来てるんで、外来の患者さんに、片っ端から、「死ん
だらどこにいくんだ」って質問したことあるんですよ。これ、結構、コミュニケーション成り立つ
んですよね。「死んだらどこいくんだ?」「死んだらどこ行くと思ってんの?」とかっていうと、「山さ」
とか、「墓行くんだ」とか。「お迎え」をしたことのないおじいちゃん、おばあちゃんが、「あの人」っ
て選択してるのは、その人のおじいちゃん、おばあちゃんだってことは結構あると思います。
一人、私の患者さんの中で、
「死んだらどこいくんだ」っていう話になって「墓だ」と。
「墓
行って誰と会うんだ?」って話してたら、やっぱり「じいちゃん、ばあちゃんだ」って。
「なん
でだ?」って聞いたらね、
「なんぼお寺さんに行っていい仏さん拝んだって、1 回も会ったこと
ないからね」って(笑)
。じいちゃん、ばあちゃんは、ちっちゃい時にかわいがられて、なんか
懐かしい感じを持ってる。
あと、
「死んだらどこいっちゃうの?」とか「どこ行くんだと思ってる?」っていう話をひ
とつしてやると、
「あそこには行きたくない」っていう話になることもあるんですよね。そうい
うことだってわかるし、それから何よりも、その人が持っている生き死に対する感覚がわかり
ますよね。
「死んだら俺は無になると思う」
、
「何がなんでもそうなんだ」っていう、そういう人
の話も、聞けるわけじゃない?
死ということ、死んだらどうなるのか、もう少し普通に話していいんじゃないんですかね。
「死んだらどうなるの」ってことを、かなり構えて話ししなきゃといかんという状況だと、な
かなかお互いの本音がみえないんじゃないか。だから、ぜひ、今日からみなさん、周りの人に
「死んだらどこ行くの?」会話を一緒にしていただけると、さっきの問題点なんかは解消して
いくのではないかなと思います。
桐原 ちょうどお時間となってしまいました。最後に、みなさんが今日会って、この会が終わ
ったあとに呑み屋に行くなり、あるいはお家に帰るなりした際に、
「新しいネタが入った」とい
う形であたらしい関係性を作り上げていただければなぁというふうに思います。
それでは、お時間になりましたので、お三方の先生に拍手の方お願いいたします。どうもあ
りがとうございました。
68
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
グリーフケア を考える
①
――ある父親の日記によせて――
井藤 美由紀
1. はじめに―私的序章
1-1.
「死」に襲われる
それは、ある日突然、始まった。いや、本当はずっと以前から、その徴候は様々な形で表れ
ていたような気もする。しかし、
「そんなはずはない」と思ったのか願ったのか、私はそれを理
性で打ち消し、後ろ髪引かれる思いを振り切って、新たな一歩を大きく踏み出した。その途端、
それは最悪の形で姿を現した。
「A 先生が、食道癌で休職することになった」
。
「もう手術できない状態らしい。一週間前、本人に会った時は、
『実感がわかない』と淡々
と話していたが、ここ数日、入院もせず姿を隠してしまった」
。
それを聴いた途端、
何とも言えない悪寒が背筋を伝い、
私の中で何かが崩れたのがわかった。
その場はひとまず冷静に対処したが、一人になると抑えようもなく荒れ狂う感情の波に、寝込
むことでしか対応できなかった。しかし同時に頭は妙に冷静で、常識的に考えて、自分が受け
ている衝撃の激しさの説明がつかないことに混乱し、混乱しながら冷静に、「いったい私に何が
起こっているのか?」、「私は、何をすればよいのか?」、「私に何ができるのか?」と、考えていた。
1-2.
「死」と向き合う
「臨床とは死の床に臨むという意味です」
。
A 先生から教えられたことの中で、最も印象に残っている言葉だ。この言葉を聴いた時、高
校生を念頭に置いて臨床心理学を勉強していた私は、
「そんな怖いこと、私には無理だ」と思っ
た。A 先生の思い描いておられるセラピスト像は、あまりにも遠いところにあり、どうやって
①
本稿では「グリーフケア」を、死別という人生の危機に直面した人に対して他者が配慮や支援をするこ
と、ならびに、死別を現実のものとして突きつけられたことで、一身上(身体・感情・認知・精神・行動
面)に、日常性を崩壊させる程の反応が表れた人が、穏やかな日常性を取り戻すまで、様々な方法で自ら
をケアすることと定義する。
69
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
も手が届きそうに思えなかった。
散々悩み考えて、いずれは A 先生の元に戻りたいと思いながら、そのことを誰にも言わずに、
私は、他大学に進学することにした。ところが、進学が決まった矢先に、A 先生自身が死の床に就
くことになったのである。青天の霹靂だった。A 先生の元に戻ることを前提に、先送りしたはず
の問題が、こともあろうに先生を人質にとって、凄い迫力で襲いかかってきたように思えた。
私は、それまでに経験したことのない混乱に陥りながらも、直観的に「これは、逃げてはいけな
いのだ」と思った。A 先生に襲いかかろうとしており、私にも激しい衝撃を与えている「死」とい
う、不気味で得体のしれないものと真正面から対峙するために、「死」を研究することに決めた。
2. 導入―「死」を見極める
2-1.臨床分野における死別研究
2-1-1.悲嘆反応
A 先生の「死」を、目前に迫った現実として突きつけられたことから始まった、私の心身の
急激な変化は、悲嘆反応と呼ばれるものだった。
悲嘆反応には、眠れない、食べられないといった睡眠・食欲等に表れる生理的機能の変化や、
喉が詰まったり、胸が締め付けられるといった身体症状として表れる変化がある。悲しみや怒
りといった情動が激しさを増す裏で、不安感や罪悪感に苛まれるといった情緒面に生じる混乱
もある。喪う対象のことで頭の中が一杯になるため、日常生活に必要な集中力が散漫になり、
注意力や記憶力が低下するといった認知面の変化もある。
「何のために生きているのかわからな
い」といった、人生の意味の問い直しが始まると、うつ病に似た精神状態になることも多い。
2-1-2.死別後の悲嘆―医療対象となるまで
死別後の悲嘆について最初にまとまった考察をしたのは、精神科医のフロイトで、1917 年に、
悲嘆から立ち直るためには mourning work(喪の仕事)をしなければならないと論じた論文を発
表している①。だが、まだこの時点では、死別後の悲嘆はメランコリー概念を洗練させるため
の比較考察の対象にすぎず、医療の対象としては認識されていなかった。
①
フロイト、ジークムント「悲哀とメランコリー」井村恒郎・小此木啓吾他訳『フロイト著作集6 自我
論・不安本能論』人文書院、1970。
70
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
その 20 年後、神経症の患者の中には、症状形成の背後に未完結な喪の仕事が隠れているケ
ースがしばしばあることを指摘し、悲嘆感情の表出が欠如している場合は、精神病的悲哀の徴
候を疑えると論じた論文が発表された①。この論文は、後々まで強い影響を残した。
死別後の悲嘆が、医療職の介入を必要とする対象として、広く認識されるようになったのは、
1944 年にリンデマンが、急性悲嘆反応に関する論文を発表してからである②。リンデマンは、
大火災事故の犠牲者の遺族ら、101 人へ面接調査を実施し、彼らの経験した一連の悲嘆反応の
過程を、急性悲嘆反応としてまとめた。急性悲嘆反応は、時に、医学的介入が必要な危機的状
態を呈することを示すとともに、悲嘆反応の過程が円滑に進むかどうかは、本人が適切な grief
work(悲嘆の仕事)をしたかどうかにかかっていると論じた。
その後、リンデマンの示した急性悲嘆反応の過程は、悲嘆過程一般を理論化してゆく研究の
基盤となった。また悲嘆過程の理論化によって、より明確になった grief work を中核に据えた
グリーフカウンセリングは、死別後の悲嘆に陥った人を援助するための唯一の方法という位置
づけで、20 世紀後半に、欧米を中心に広く普及した。
2-1-3.20 世紀の悲嘆理論の限界
臨床分野では、80 年代まで「死者への愛着を断ち切って、新しい人生を始める」ために、悲
嘆に陥った個人は必ず grief work をしなければならないと考えられていた。また、死別によっ
て引き起こされる感情は表出されるべきであり、抑圧してはいけないというのが共通見解であ
った。悲嘆反応には正常な過程があると想定されており、悲嘆反応の遅滞や正常な過程の回避
は、病的な徴候として捉えられた。
ところが、80 年代に入ると、この考え方に疑問が投げかけられ始め③、90 年代には、この理
論には実証的な根拠がないという報告が相次いだ④。
①
Deutsch, H. “Absence of Grief.” Psychoanalytic Quarterly 6, no. 1 (1937): 12-22.
Lindemann, E. “Symptomatology and Management of Acute Grief.” American Journal of Psychiatry 101, no. 2
(1944): 141-148.
③
Rosenblatt, P. Bitter, Bitter Tears: Nineteenth Century Diarists and Twentieth Century Grief Theories.
Minneapolis: University of Minnesota Press. (1983) および Wortman, C. B., and R. C. Silver. “Coping with
Irrevocable Loss.” In VandenBos, G. R. and B. K. Bryant (Eds.), Cataclysms, Crises and Catastrophes: Psychology in
Action. Washington DC: American Psychological Association. (1987): 189-235.
④
Stroebe, M., and W. Stroebe. “Does Grief Work Work.” Journal of Consulting and Clinical Psychology 59, no. 3
(1991): 479-82.および Wortman, C. B., and R. C. Silver. “The Myths of Coping with Loss.” Journal of Consulting
and Clinical Psychology 57, no. 3 (1989): 349-357.
②
71
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
今では、20 世紀後半に増加した、上記のような考え方に基づいて死別体験を研究・分析した
文献の数々は、
「初期の精神分析的な喪の過程の形成と、個人主義を強調する時代精神」等を反
映した「近代的な概念化」の産物として、批判的な視線にさらされている①。
2-1-4.日本の「喪の儀式」への関心
日本は、欧米先進国並みに近代医学が発達しているにもかかわらず、grief work は普及しなか
った。しかし、仏壇祭祀など暮らしの中に息づく喪の儀式が、死別後の悲嘆を落ち着かせる役
割をしていることを、1969 年に小此木らが発表していた②。
「死者への愛着を断ち切る」のではなく、
「死者との絆を保ちながら、関係性を変化させて
ゆく」日本の従来のやり方は、欧米の近代的死生観を基盤にした grief work の発想を、根本か
ら覆すものだった。日本は、欧米とは異なった考え方で、死別後の悲嘆を平穏にやり過ごす方
法を心得ている地域として、一部の研究者の関心を集めることとなり③、その方法は「絆の継
続モデル」として理論化された④。
2-2.
「死」の定義
2-2-1.
「死」に対する批判的意見
臨床分野で蓄積されてきた死別研究の知見を、ゼミで発表したところ、進学先が臨床分野で
はなかったことも関係しているかと思われるが、
「死んだらせいせいするってことも、あるじゃ
ない?」という意見が挙がった。
実は、当時私は、師弟関係でこのような悲嘆反応が起こったこと自体に、衝撃を受け混乱し
ていた。私は、祖父母のいる家庭に生まれ育ったのだが、10 歳で祖父を亡くした時も、20 歳で
祖母を亡くした時も、寂しさは感じたが、抑えようもない激しい怒りを伴った悲嘆感情は、わ
①
ロバート・A・ニーマイアー「序論 意味の再構成と喪失」ロバート・A・ニーマイアー編 富田拓郎・
菊池安希子監訳『喪失と悲嘆の心理療法─構成主義による意味の探究─』金剛出版、2007、16 頁。
(Neimeyer, R. A. “Introduction”, in Neimeyer, R. A. (Eds.), Meaning Reconstruction and the Experience of Loss,
Washington DC: American Psychological Association. (2001))
②
Yamamoto, J., K. Okonogi, T. Iwasaki, and Yoshimura.S. “Mourning in Japan.” American Journal of Psychiatry
125, no. 12 (1969): 1660-65.
③
Klass, D. “Ancestor Worship in Japan: Dependence and the Resolution of Grief.” Omega Journal of Death and
Dying, 33, no. 4 (1996): 279-302.および Klass, D., and A. O. Heath. “Grief and Abortion: Mizuko Kuyo, the
Japanese Ritual Resolution.” Omega Journal of Death and Dying, 34, no. 1 (1996): 1-14.
④
Klass, D., P. R. Silverman, and S. L. Nickman. Continuing Bonds: NeUnderstandings of Grief. New York: Taylor
& Francis. (1996)
72
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
き上がって来なかったからである。
かつて経験したことのない自分自身の反応に混乱しながら、
とりあえず公の場では「家族が死に直面した時」
、悲嘆反応が起こると発表していたのだ。
すると、
「死んだらせいせいするってことも、あるじゃない?」と言う人がいた。あえてそ
れを「家族だからと言って、死なれて悲しいわけじゃない」と言い換えると、
「やっぱりそうか」
という気がした。つまり、死別によって引き起こされる悲嘆反応は、家族という社会的関係に
規定して考えられる問題ではなく、問題は関係性の中味なのではないかと思ったのである。
2-2-2.
「死」の定義―二人称の死
考えてみれば、死自体は日常にありふれている。マス・メディアは毎日のように誰かの死を
報道している。私達はその一つ一つの死、全てに心身を揺り動かされるわけではない。私が研
究対象とする「死」を、定義づける必要が出てきた。
死をどういう立場で経験するかを人称によって区別し、哲学的思考を巡らせた最初の人物は、
ジャンケレヴィッチである①。日本では、柳田邦夫が『犠牲 わが息子・脳死の 11 日』の中で、脳
死・臓器移植問題について発言する時、ジャンケレヴィッチから借りた「二人称の死」という視
点を取り入れたことから、広く知られるようになった。ちなみに柳田は、
「一人称の死」は私の
死、「二人称の死」は連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人など、人生と生活を分かち合った肉親(あ
るいは恋人)の死、
「三人称の死」は第三者の立場から冷静に見ることのできる死としている②。
私の論じたい「死」は「二人称の死」に近いが、柳田のように社会的関係に依拠して区別すると、
覆い隠されてしまう関係があるということが問題だった。そこで、ジャンケレヴィッチや柳田に倣
い、死を人称で区切って考えるという構造は踏襲するが、
「二人称の死」と「三人称の死」につ
いては、社会的関係ではなく個人の心身に生じる変化を類別の根拠にして、定義しなおした③。
まず、
「一人称の死」は従来通り、死に逝く者の体験する死とした。次に、
「二人称の死」は、
ある人の死が現実味を帯びた時、平素は意識することもできないほど揺らぎなく機能している
生命活動の基盤が、そのことによって脅かされるほどの深さで共鳴する者が体験する死と定義
した。最後に「三人称の死」は、日常性の中で対応できる死とした。
①
②
③
ジャンケレヴィッチ、ウラジミール著 仲澤紀雄訳『死』みすず書房、1978。
柳田邦夫『犠牲 わが息子・脳死の 11 日』文芸春秋 1995、203-204 頁。
拙稿「答志の土葬─死別後の悲嘆に関する一考察─」2004、13-27 頁。大阪大学大学院文学研究科修士
論文(未公刊)
73
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
「一人称の死」は、主体(死に逝く者)が死亡した時点で終わるが、
「二人称の死」は対象(死
に逝く者)との死別をもって終わるわけではない。死別後も、主体(二人称の死を体験する者)
が対象の死を現実のものとして受け入れ、心の深いところで、対象との関係性を構築し直すこ
とによって、
以前とは異なる地平に新たな日常性を獲得できたと感じられるまで続くと考える。
私の論じたい「死」は、以上のように定義づけた「二人称の死」である。
3.グリーフケアを考える――見えてきた問題
3-1. 離島で明確になった大都市圏との差異――2001 年
3-1-1.
「死」に直面する者への対応
私は、どうしたら「死」を受けとめられるのか、という問いに対する答えを見出すために、以前
にもフィールドワークでお世話になった三重県の離島に住む B さんを頼って行った。その時、A
先生は闘病中だったが、私が A 先生のために直接何かをするという選択肢はなかった。A 先生
の与り知らぬところで、A 先生に迫り来る死を受けいれられず、
「どうしたらいいのかわかりま
せん」と言う私を前にして、B さんは長い間ただ黙っておられた。黙っておられたが、そこに
当惑や拒絶感はなく、むしろ同じ荷物を背負っている者として対峙して下さっていることを、
ひしひしと感じていた。結局、B さん夫婦を中心とする 60 代の夫婦 3 組の後ろ盾を得て、私は
島で暮らせることになった。
奥さん達が掃除をしておいて下さった、長屋の空き部屋に連れて行ってもらうと、そこには
炊飯器とお米が用意されていた。油性の黒いマジックで○
安 と書かれたプラスチックの洗面器も
あった。○
安 は B さんの家の屋号、アンセイをマークにしたものである。
「これを持って、毎日
銭湯に通いなさい」と言われ、私はその通りにした。
果たして、銭湯では、洗面器を見た人から「あんた、アンセイの子か?」とよく声をかけら
れた。本当は、私はアンセイの親戚でも何でもないが、
「はい」と答えると、
「あの人の姉さん
は、うちの 2 番目の兄の嫁さんや」という調子で、親戚関係が非常に密なところなので、誰か
は関係あることがわかり、ひとまず仲間に入れてもらえた。一方、アンセイにも、私と会って
話したという情報はすぐに伝わるようだった。どうして島に来たのかということも含めて、私
の噂はあっという間に広がった。おかげで、例えば墓地で初対面の人に声をかけたとしても、
おざなりでなく相手をしてもらえた。家に招き入れてもらい、話を聴かせてもらった挙句、獲
74
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
れたての魚を頂いたこともあった。
干物やちりめんじゃこの差し入れをもらったこともあった。
昔からの習慣を大切にするこの島の漁師達は、ことあるごとに神を祭り、無事と豊漁を祈る。
都会よりもずっと死は恐れ忌まれている。それにもかかわらず、
「死」を受けとめられず、迷い
込んだ余所者の私を拒絶せず、むしろ好意的な関心を寄せて見守って下さる方達がいた。
3-1-2.
「死」に触発される感覚
2 週間程たった頃、忘れられない出来事があった。玄関先で、島生まれ島育ちの 30 代前半の
女性と世間話をしていた時のことである。彼女が「人が亡くなるって、悲しいことやんかぁ」
とポロッと口にした瞬間、私は思わず息をのみ込んだ。ずっともやもやしていた霧が、パーッ
と晴れたような気がした。
それまで私は、
「死んだらせいせいするってことも、あるじゃない」という言葉を肯定する
ような雰囲気の中で、周囲との感覚のズレに苦悶していた。そのズレが何から来るのかという
ことを、その時はじめて意識化できたのだ。私の周りでは、死は「やっかいなもの」でしかな
く、
「悲しみを引き起こすもの」だという感覚が欠けていたのだと気づいた。
おそらく、東京や大阪などの大都市圏では、若い世代になるほど、
「人が亡くなるのは悲しい
ことだ」という感覚が身についていないのではないか。子どもの頃から一度も、身近な人を亡
くしたことがなく、大事な人に死なれた人の姿を、見聞きした経験もないまま育ってきたのだ
としたら、それは仕方のないことなのかもしれない。しかし、これは、何かもの凄く大変なこ
とが起こっているのではないかと思った。
3-1-3.離島で学んだ知恵と都会の現実
結論から言うと、どうすれば「死」を受けとめられるのかという、当初の問いに対する答えと
して、私が彼らから教えてもらったのは、ここでは一人の人の死を、地域の人達みんなで、受
けとめてきたという事実であった①。その離島の住民は大半が漁師で、相互扶助と相互規制が
拮抗する緊密な人間関係を基盤とした、自己完結的な地域コミュニティが成立していた。彼ら
は、同じ地域に生まれ育った年輩の人達の経験談を聴きながら育ち、時期が来れば自らも同年
①
拙稿「
『生と死の教育』を考える─生活に根ざした伝統的死生観から─」
『ホスピスケアと在宅ケア』第
16 巻第 1 号、2008、29-38 頁。
75
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
輩の仲間達と、その地の習慣を踏襲することで、地域社会が育んできた様々な知を身の内に取
り入れ、脈々と受け継いでいた。
しかし、私の暮らす大都市圏には、離島で見られたような地縁・血縁関係に依拠した地域コ
ミュニティがなかった。人と人とのつながり方が、離島のそれとは根本的に違う。若い世代と
もなれば、なおさらであろう。離島で学んだ知恵を活かしたくとも、その知恵の種を撒くため
には、土壌を耕すところから始めねばならないという現実があった。
3-2.新たな問題意識―2009 年
3-2-1.
「死」をめぐる社会の動向―2001 年~2009 年
私が「死」の研究に着手した 2001 年、個人のレベルでは、死に向き合うことに対する違和
感、及び拒絶反応が顕著に見られた。しかし、この 10 年で、世情は大きく変化したように見受
けられる。例えば、2006 年の紅白歌合戦で披露され、瞬く間に大ヒットとなった「千の風にな
って」も、2007 年にカンヌ映画祭でグランプリを受賞した「殯の森」も、2008 年に国内外で高
く評価され、大きな話題となった映画「おくりびと」も、全て「死」をどう受けとめればよい
のかを、現実的かつ具体的に提示した作品である。
「死」への関心の高さをここに見ることは、
あながち間違いではあるまい。
そういった風潮と呼応するかのように、2008 年、東京都では日本グリーフケア協会①が発足
し、2009 年には、兵庫県の尼崎市に日本グリーフケア研究所②が設立された。両者に共通する
特徴は、グリーフケアの専門家養成講座を開講していることである。いずれにしても、大都市
圏では、
「死」を受けとめるための新しい試みが、始まったと見てよいだろう。
3-2-2.新たな問題意識
しかし、本当に、グリーフケアに専門家は必要なのだろうか。日本では従来、日常生活の延長線
上で「死」を受けとめてきた。
「死」を受けとめるために、新たな出会いを求めねばならないよ
うでは、「死」を経験している人の孤立化を、助長することになりはしないだろうか。それ以前
①
日本グリーフケア協会は「死別に伴う苦痛や環境変化を受け入れようとする」営みの支援をグリーフケ
アと定義している。
(日本グリーフケア協会ウェブサイト、http://www.grief-care.org/about/, 2010 年 4 月閲覧)
②
日本グリーフケア研究所では、
「死別や喪失(人間関係・職業・物品を含む)に伴う複雑な情緒状態」を抱
えている人達への「心のケア」をグリーフケアと定義している。谷山洋三・伊藤高章「日本グリーフケア
研究所での『グリーフケアワーカー』養成プログラム」
『がん患者ケア』第 3 巻第 4 号、2010、14 頁。
76
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
に、
「死」に直面せざるをえなくなり、運命に翻弄されることになった時、周囲にいる人達がそ
の気持ちに共感し支えられるような環境をつくることの方が、
喫緊の要事なのではなかろうか。
本稿では、離島ほど密度の濃い人間関係はないが、大都市圏ほど人と人とのつながりが断た
れてもいない、そういう意味で両者の間に位置する地方都市で半生を過ごして来た男性の日記
の一部を紹介する。この男性は、
「死」とは無縁で暮らして来たが、娘の末期癌告知という形で、
ある日突然「死」に襲われた。それ以来、彼の日記には、
「かけがえのない人の死を、どのよう
にして受けとめたのか」が克明に綴られることになった。
ここでは、末期癌告知から実際に死別するまでの 1 年 3 ヶ月間の経過を、日記に綴られたエピソ
ードと気持ちの変化を辿りながら見てゆく。彼の極めて個人的な経験―しかも、最も親密な人
にさえ明らかにしていない心の内面を綴った日記―を紹介するのは、それを知った人の中に、
「死」及び「死」を体験している人への、理解と共感が生まれることを願ってのことである。
4.事例紹介:中山辰雄さん(仮名)の日記
個人情報保護のため、これから紹介する事例に登場する人物の名前は全て仮名にしている。
また、日記からの抜粋箇所についても、同様の配慮から、本稿の目的と関係のない情報は適宜
省略し、文意を損ねないように最小限の修正を施していることを、最初に断わっておく。
4-1.病気発覚前の状況
中山辰雄さん(59)は、民間企業で働くエンジニアで、専業主婦の妻の恵子さん(56)と、地方
都市①の新興住宅地にある自宅で、二人暮らしをしていた。長女の夏子さん(33)は OL で仙台市
で一人暮らし、次女の秋子さん(31)も独身でアメリカで働いており、日本にはほとんど帰って
こない。辰雄さんは会社人間で、単身赴任していた時期が長かったせいもあり、自宅のある地
域には溶け込めていないと感じていた。ただ、近隣他県に暮らす夫婦それぞれの親兄弟とは親
しいつきあいを続けており、趣味の山登り仲間や仕事仲間とも良好な関係を築いてきていた。
辰雄さんは、決して口数が多い方ではないが、表情や口調、物腰等から、謙虚で温厚な人柄
が伝わってきた。
①
この地方都市は、人口 14 万人弱を有し、東西に約 80km の長さを持つ広大で肥沃な平野で営まれている
農業が、基幹産業の軸となっている。
77
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
4-2.X 年 12 月から X+1 年 10 月までの経過
ある年の暮れ、お正月明けに母娘で行く計画をしていた中国旅行に備えて、夏子さんは、頑
固な便秘と腹部痛の治療を受けるため、病院に行った。すると腸閉塞という診断で、すぐに人
工肛門手術をすることになった。初診から 2 週間後、切開人工肛門手術後の検査入院中に、腸
閉塞は直腸癌が原因で、直腸癌は胃癌が転移したものであること、胃癌はすでに末期であるこ
とが明らかになった。
実家に身を寄せた夏子さんは、辰雄さんの運転する車で通院し、1 月末から抗癌剤治療を受
け始めた。辰雄さんは、夏子さんの体調の変化には敏感になったが、夏子さんの明るい表情を
見ると、末期癌患者だとは信じられなかった。
2 月になると、家族に癌患者を抱える兄弟や友人が事情を知り、連絡をくれた。癌にラドン
温泉がいいと教えられ、何度か家族でラドン温泉に行った。
4 月半ばに、夏子さんは入院して抗癌剤治療を受けることになった。
5 月に主治医から、辰雄さんと恵子さんにだけ、進行性癌のⅣ期だという告知があった。医
師の話ぶりから、辰雄さんは夏子さんの寿命があと半年程かもしれないと感じた。
夏子さんは治癒の可能性を信じて頑張っていた。友達ともよく会っていた。しかし、徐々に
抗癌剤の副作用で脱毛が激しくなり、食欲も落ちた。辰雄さんは、弱音を吐かない夏子さんを
思い遣ると同時に、今まで疑いもしなかった「孫子に囲まれた老後」が叶わなくなったことへ
の、空しさや寂しさと闘っていた。恵子さんにも疲れが見えた。気分転換に、家族で一泊の温
泉旅行に行った。
6 月末、夏子さんは、話すと元気に思えるが、動かずに横になっていることが増えた。外出
もしなくなった。
7 月になると、恵子さんに“鬱状態”の気配が見え始めた①。
8 月初旬、辰雄さんと夏子さんは、主治医からこれまでの抗癌剤治療が効かなかったという
説明を受けた。夏子さんは取り乱すことなく聞いていたが、明らかに落胆した。
9 月半ば、夏子さんは水腎症手術のため入院した。1 月に受けた人口肛門手術に続くこの手
術で、夏子さんは、排便も排尿も自分でコントロールできなくなった。髪の毛は伸びてきたが、
①
日記の中に、恵子さんが以前にも鬱病に罹患していたことが窺える記述があった。
78
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
体重は減ってきた。
10 月に入ると恵子さんの“躁状態”が顕著になった。恵子さんは外出がちになった。辰雄さ
んは、内面の葛藤を誰にも明かすことなく、日記を綴り続けた。
4-3.
「死」を受けとめる―日記からの抜粋
4-3-1.覚悟(1)―家族としての心構え
X+1 年 11 月 15 日
この日の日記の分量は目立って多い。内容は、躁鬱病を発症した妻の恵子さんに宛てたメッ
セージである。このメッセージには、当時、辰雄さんが、どのようにして「死」を受けとめよ
うとしていたのかが、綴られている。
今この時に
1.現実を見つめよう
夏子は不治の病かもしれないが、快方に向かっているかもしれない。原因など知るすべもな
く、また今さら知ったところでどうにかなるものでもない。不自由な身体となった子は、抵抗
することも逃げ出すこともできず、ただ耐えるだけである。
恵子の辛い気持ちはわかるが、急いで勝手に先を読みすぎないように。現実から目をそむけ
ずに行こう。いつも一緒にいて、思い通りにならないことが続くと、つい不満が出る。そうい
うこともある。これは人の常であり、一緒に暮らす者同士なら、誰にでも覚えのあることだ。
2.逃げないで
確かに予想し得なかった夏子の病気で、生活の様相は変わった。夏子が入院すれば、私達の
負担は間違いなく軽くなるだろう。ただそうなれば、その時から、家庭でなくては味わえない、
食卓を囲む家族の会話も笑みもなくなり、その味わいが再び戻ってくることは、ないかもしれ
ない。家庭の温かさとは何だろう。
「見るのが辛い」のは、親なればこそのことであって、恵子
だけの苦しみではない。
3.どうすれば=家庭に戻ろう
79
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
今後、症状などから自分の運命を知ったら、いかに気丈で精神力が強い夏子でも、心が乱れ
苦しむだろう。その時から本当の看護が始まる。その意味では、今はまだ介護でも看護でもな
い。その時に、本当に力になってくれる人は何人いるだろう。夏子が本当に助けを必要とする
ようになった時、力になってくれるのは、公的なケア機関の人ぐらいかもしれない。
これからも逃げたくなる時もあろうが、温かい家庭の環境作りに努めよう。その時のその姿
を見て、人は心から励まし支えてくれると思う。世間の目は、意外と人をよく見ている。
4.健康、身体作りを目標に
このような状況が長く続きそうならば、当然、休養が必要になる。まず自分の健康を確保し
なければならない。家で静かに過ごすことも、休養には大切であると思う。貴女の健康づくり
には、貴女自身の努力が必要なんだ。
5.大きく息を吸って遠くを見よう
いつの日にか、この環境の中で、娘たちが、そして私たちが、その時を、そしてその後をど
う生きたかと回想する日が来るだろう。後に悔いの残らない人生だったとしたい。
このようなメッセージを書き綴った後、最後に「─果たして恵子はわかってくれるだろうか
─」という一文が書き加えられていた。この心情を知った上で、この日の日記を改めて読むと、
「窮地に陥った我が子を、親である私達が支えねば誰が支えられるのか。頼むから現実から逃
げようとせず、一緒に支えてくれ」という辰雄さんの痛切な思いが、一層強く伝わってくる。
4-3-2.準備(1)―よく生き切るための可能性の吟味
それから約 1 週間後に、
夏子さんの肩甲骨あたりの痛みが、
骨転移のためだったと判明した。
この時期、辰雄さんは、痛みに耐える夏子さんの姿を見て、苦しみを長引かせる治療を拒否で
きる手段の確保について、真剣に考え始めていた。以下は、夏子さんが放射線治療を受けるた
めに入院した日の日記からの抜粋である。
80
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
X+1 年 11 月 29 日
これまで夏子が元気のいいのに任せて、心の隅に覚悟はあったものの準備たるものは全て拒
否してきた。恵子の心の病もあったりしたが、これ以上逃げ回ることはできなくなったような
気がする。覚悟を、そして準備をしなければならない。それも急がねばと。そんな気がする。
この 2 日後、辰雄さんは聞きたいことを箇条書きにしたメモを携え、
「万一に備えて」公証役
場に尊厳死のことを聞きに行った。しかし、公証人の反応は、
「勉強してみます」というものだ
った。結局辰雄さんは、自分で勉強して「ガンに植物状態はないだろうし、激痛は医師が精一
杯努力して止めるだろう」から、
「尊厳死公証はたぶん役に立たないだろう」と判断した。そし
て「夏子は元気なのに、自分が死の淵に追いやる」ようなことをしてしまった気がして、公証
役場に行ったことを後悔する。だが同時に「それでいて肩の荷がおりた感じ」もしたと日記に
綴っている。
4-3-3.苦悩―相互に連関する煩悶
12 月に入ると、夏子さんの体重は 34kg まで落ち、痛みや吐き気、熱のせいで部屋に閉じこ
もりがちになった。夏子さんの病状の進行を止める術はなく、辰雄さんと恵子さんの苦悩は極
限的な様相を帯びてきた。
辰雄さんは、いずれ訪れる夏子さんの死を思い、心の準備をしようと焦る気持ちと、
「夏子
は一生懸命闘っているのに、親の自分がこんなことではいけない」と思う気持ちの狭間で煩悶
していた。恵子さんのやり場のない悲しみは、抑えようのない怒りと化していた。
X+1 年 12 月 12 日
・9 日朝、恵子が「疲れるから一緒にいるのはもう沢山。もういやだ」と言う。半泣きである。
「やるべきことはやったから、いつ死んでもいい」と言い、
「悔いはない」とも言う。そし
てここに至った夏子の性格を責め、家族や親類の人たち、すべてを悪者にしてしまう。
・夏子は家に戻れば、不自由な身体のことで家族に気遣いがあるのか、
「気にしないで」と言う。
生まれ育った家なのに…。もしも私達を気遣って言っているのなら、絶対に間違っている。
・それぞれがそれぞれの立場でストレスを負い、さらに増幅していく。健康な身体になって退
81
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
院するのと違って、それぞれが苦痛の中にある。
・どうすればいいのだろう。夏子のこれからと、悩みを抱える恵子のケアと。たとえ一時的な
精神状態だったとしても、これが恵子の正直な気持ちなのだ。
・夏子が親のこの迷い、この心境を知ったら、あまりにもかわいそうだ。家の中に病人をかか
えるということは、実にこういうことなのか。
4-3-4.絶望―積極的治療限界の告知
それから約一週間後、夏子さんのお見舞いに行った辰雄さんと恵子さんは、医師のもとに通
された。医師の話は、抗癌剤投与や放射線による「積極的治療」が限界に来たので、出来るだ
け早く「緩和医療」の受けられる病棟に移したいということだった。
辰雄さんは身体中から力が抜け、頭の中が真っ白になった。エレベーターの中で泣き伏した
恵子さんを、かわいそうだと思った。
X+1 年 12 月 22 日
辰雄さん達が告知を受けた翌日、病院側から自宅に「今夜は病院に泊まってほしい」と連絡
があり、辰雄さんは、恵子さんと病院に向かった。
(告知を受けている間)
夏子は冷静だった。夏子は硬い表情で、時には笑みを浮かべて医師の説明にうなづいた。覚
悟しているな、と思われた。
(告知後)
夏子はいつもと変わらない様子だった。何事もなかったように、私たちに帰れと言う。下手
な論争より帰ったほうが自然だし、それより夏子は崩れるようなことはない。そう思われた。
この夜、夏子さんの「帰れ」の言葉に背中を押され、辰雄さんは、恵子さんへの配慮を優先
させて、夏子さんを一人病院に残して帰宅した。後日、看護師から夏子さんが一人で泣いてい
たことを聞いた。今尚、一番辛い思い出だという。だが、夏子さんは辰雄さんの前では、気丈
に振舞っていた。以下は、夏子さんへの告知翌日の日記から抜粋したものである。
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臨床死生学研究会研究報告 (2010)
X+1 年 12 月 23 日
・病室ではもっといてほしいような、それでいて早く出て行ってほしいような、淋しく重苦し
い時間だった。2 時から時任三郎のテレビを見たいので帰れと言う。
・やり場のなさにクソー、と思う。どういうわけか童謡が脳裏をゆききする。今頃ひとりにな
って泣いていることだろう。今さらこらえることはないよ。
・人の前では決して涙を見せる奴ではないだけに、余計かわいそうでならない。
4-3-5.仲間の支え(1)―同じ境遇の者同士の絆
辰雄さんは、夏子さんの病気がわかった時点で、社長に事情を話していた。その数ヶ月後、
社長の家庭でも、
数年前に子宮癌の手術を受けた奥さんが、
肺癌で闘病中だったことを知った。
X+1 年 12 月 28 日
社長から重粒子放射線治療について話があった。医師はさじを投げたが、可能性には賭けた
い。もはやありえないだろうが、照会先か主治医に話してみたい。
いい人たちに恵まれた。友というには失礼になるだろうが、良き先輩に恵まれた。話せば苦
しむだろうが聞いてくれる。もっと甘えてよかったかもしれない。ありがとうと思う。
4-3-6.期待と不安―緩和ケア病棟へ入室
年越しに合わせて、妹の秋子さんが帰国した。夏子さんは 12 月 31 日から一時退院し、家で
2 泊した。これが家族そろって迎える最後の正月になることを誰もが意識していた。神棚を飾
り皆で手を合わせたが、辰雄さんは心中、神を恨んだと書いている。夏子さんと秋子さんは、2
晩とも夜遅くまで語り合っていた。
5 日に緩和ケア病棟に移る手続きをした。8 日に医師から勧められた TV 番組を見て「緩和ケ
ア=終末期=死」ではなく、
「緩和ケア=癌の苦痛を取り除くケア」だと知った。夏子さんの口
から「緩和ケア」の言葉が抵抗なく出るようになった。
X+2 年 1 月 17 日
・明日緩和ケア病棟に移るという。
83
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
今より環境はよくなるだろうが、いざ移るとなると複雑な気持ちだ。
・夏子は前向きだ。緩和ケア病棟に移れば、お母さんの作るコーンスープやハンバーグを食べ
たいと言っている。体調が戻れば、一度家に戻りたいと言っている。ひょっとしたらアイツ、
治って戻ってくるんじゃないか。そんなような気がしてならない。
・
「緩和ケア病棟案内」を読むと怖くなった。そこには、すでに治療から見放された「終末」が
待っているのだろうから。
・入院料は高くなるが、夏子の願いもあって特別室を選ぶ。私にできるのは、これしかない。
4-3-7.覚悟(2)―遺言
緩和ケア病棟に移った当初、夏子さんは元気な様子で、何かにつけて喜び「ありがとう」と
言った。迫りくる死を意識せざるをえない状況で、夏子さんは元気良く振舞い、恵子さんは落
ち込みを隠せない。辰雄さんは夏子さんの表情に一喜一憂しながらも、死後への備えを考えて
しまう自分に罪深さを感じていた。
2 週間ほど経つと、夏子さんから笑顔が消え、ひどいだるさと不眠を訴えるようになった。
医師から「限界が来ている。長くても 1 週間かもしれない」と告げられた。その日から、辰雄
さんは毎日病院に泊ることにした。翌日、19 時頃に病院に行ってみると、昨夜までのことが嘘
のように普通に戻り、顔色も良い夏子さんの姿があった。この夜、辰雄さんは夏子さんから、
遺言にあたる話を聴いた。
X+2 年 2 月 3 日
・今日の 2 時頃、からだのだるさがひどく、
「もうだめだ」と思った。福岡の陽子さんと舞さ
んに「もうだめ、これ以上頑張れない」とメールを打ったら、間をおかずに電話がかかって
きて、泣き崩れながら話し合ったという。
・死について、主治医と話したそうだ。
お父さんには分かってもらえるが、お母さんが心配だと言った。
この後二人は、夏子さんの死後、本や衣服、パソコンの処分についてどうすればよいか、誰
に連絡を入れればよいのか等、具体的な話をした。遺骨についても相談した。
84
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
散骨か共同霊園がいい。お墓はいやだな。何も見えないから。いつまでも自然全体が見える
散骨がいい、一部でもいいから。海でも山でも。山なら栗駒山がいいな。
このような話と共に、夏子さんの子どもの頃の思い出や、家族に対する思いも語り合った。
最初で最後のことだった。夏子さんは生き生きとして、明日をも知れぬ命の人には見えなかっ
た。
4-3-8.仲間の支え(2)―友情
X+2 年 2 月 4 日
・17 時 20 分、病院に戻ったら見舞いの方が来ているという。誰だろうと思ったら、なんと福
岡からわざわざ来られた鈴木陽子さん、川上舞さんのお 2 人だった。昨日のあの電話で急遽
来てくれたのだろう。あまりの出来事に、ただ「ありがとう」の言葉しか見つからない。な
んという友情の姿だろう。
三人だけにさせてラウンジに出る。涙を抑えられなかった。
この4日後から夏子さんは持ち直し「不思議なほど明るく元気」になった。その一方で、恵
子さんの落ち込みがひどくなった。夏子さんと恵子さんの間で辰雄さんを「取り合う」ような
状況になったが、夏子さんの理解と病棟スタッフの支援を得て、なんとか乗り切った。夏子さ
んは、その後もう一度危機的な状況に陥ったが、その1週間後にまた持ち直した。だが、やが
て絶食状態になり、
笑顔は絶やさないものの、
声に力がなくなり車椅子も避けるようになった。
4-3-9.気持ちの変化―生きる辛さへの理解
X+2 年 3 月 3 日
昨夜、
「すごく不安な感じがあった」ので、そのことで先生としばらく話し合ったそうだ。
先生は「生きるのが一番つらい時期なのかもしれない。そういうときは眠ろう」と話されたそ
うだ。
「生きるのが一番つらい時期」
、私にも分かるような、そんな気がする。
X+2 年 3 月 7 日
後から気がついたことで、よく聞こえなかったが、「暖かくなったら自宅に行けるかな?」と
85
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
いうようなことを言っていた。「不安のようなものがすごく…」を繰り返し、涙を拭いていた。
不安とはどういうことだろう。死の恐怖とはなんだろう。もしもそういうものに襲われ続け
るのなら、これを抱えてまで頑張ることはない。
翌日、辰雄さんが「生きているのが辛いか」と尋ねると、夏子さんは「うん」と答えた。
4-3-10.準備(2)―両親(故人)に認めた手紙
辰雄さんは「死にたくても死ねない」娘の姿を見るに忍びなく、「開放してやりたい、自らも
開放されたい」と思う気持ちから目をそらさなくなった。夏子さんを見送る心の準備ができた。
X+2 年 3 月 10 日
父さん、母さん、夏子がそっちへ行く、間もなく、道半ばで、俺より先に。お互い別れの旅
立ちの準備はできた。
夏子を救えなかったよ、この手ではどうにもならなかった。俺はいくら怒られようとも、も
うどうにもならない。
夏子がそっちへ行ったら、小さかった頃のように抱くことはできないだろうが、優しく迎え
てやってほしい。
4-3-11.看取り―この世における最後の交流
X+2 年 3 月 15 日
この日、夏子さんは亡くなった。
日記は、
「午前 3 時、目が覚めるが頭が重い。夏子はかすかに息をしている感じだ」から始ま
り、辰雄さんの語りかけに応える夏子さんの描写が続く。
・
「夏子のおかげでみんな幸せだった。お母さんもお父さんも秋子も」と言ったら、夏子は「う
ん」と言った。そう聞こえた。
何かを言おうとして口を動かそうとし、目を開けようとし、懸命のようだった。傾いている
顔の右目から涙を流した。そっと拭いてやった。
この涙はなんだろう。これ以上苦しめたくない、もういいんだ。
86
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
・冷たくなった手を、その両手を握ってやる。
・そしてその時は来た。夏子は私の手を握り返した。はっきりわかった。次の瞬間、顔色がな
くなった。呼吸が止まった。時計は 9 時 54 分だった。
さようなら夏子、ありがとう夏子。本当によくここまで頑張ってくれたね。さようなら夏子。
5. 結び
最初、辰雄さんは「家族みんなで夏子を支えて、癌との闘いに勝たねばならない」と考えて
いたが、
「死」は、抗いようがないほど圧倒的で、それまで「そうあるのが当り前」だったもの
を、じりじりと容赦なく剥奪していった。夏子さんの症状の進行に伴って、恵子さんは心の均
衡を保てなくなり、辰雄さんが拠り所と考えていた家族関係そのものが危機に瀕した。辰雄さ
んは、夏子さんを「何とかして助けたい」と思っていたが、厳しい現実を次々と突きつけられ、
「自分は何もできないのだ」ということを思い知らされるばかりだった。
そのような状況の中、夏子さんは、自ら培ってきた人間関係の中で支えられ、気持ちを整理
していった。たとえば、
「もうダメかもしれない」と友人達に弱音を吐き、泣き崩れながら話し
合い、主治医とも「死」について話し合った日の夜、辰雄さんに遺言にあたることを伝えるこ
とができた。また、その友人達が、翌日、遠路をものともせず駆けつけてくれたことを知り、
辰雄さんは「涙を抑えられなかった」
。辰雄さんは、
「自分の力ではどうにもならない」という
敗北感を味わったが、それだけにより一層、夏子さんが、自ら培ってきた人間関係の中で支え
られているという事実に、深く感じ入り、強く励まされたのではなかろうか。
一人の人の死は、その人と関わりの深い人達の心に、様々な葛藤を引き起こす。しかし、そ
れを「やっかいなこと」として切り捨てるのではなく、煩悶を繰り返しながらもそこに踏みと
どまっていると、当初は「生」を脅かし覆い尽くす暗黒の闇、絶対悪のイメージだった「死」が、
徐々に相貌を変化させてゆく。辰雄さんも、末期の告知を受けてしばらくは「病魔と闘い、打
ち勝たねばならない」と考えていたが、最終的に、夏子さんの「生きる辛さ」が極限に達した
ことを悟ると、すでに亡くなっている自分の両親に手紙を認めた。この時辰雄さんは、死者達
の世界を、夏子さんを強引に奪う悪魔の棲む世界ではなく、夏子さんを安心して託せる縁者の
いる、故郷のような世界としてイメージしている。
このような死者達の世界に対する感覚は、日本では決して珍しいものではないが、エンジニ
87
グリーフケア を考える(井藤美由紀)
アで会社人間だった辰雄さんにとっては、何となく気恥かしさを覚える類のものだった。しか
し、夏子さんの死が目前に迫った時、辰雄さんは、夏子さんの行くべき場所として、
「両親の待
つ他界」を素直に思い浮かべた。苦悶の末に、
「死」は「生」と融合するものとして肯定的に理
解され、受け入れられたのである。
辰雄さんのように、最終的に「死」を受け入れる心境に至ったとしても、そこに至るまでの
過程で、
「死」がどれほどの苦悩をもたらすかを知り、そういう時に他者の情に救われた経験を
持つ人は、みだりに「死んでせいせいするってこともあるじゃない」というような発言は、で
きないのではなかろうか。
本当に、グリーフケアに専門家は必要なのだろうか。専門家が必要なのではなく、専門家を
必要とする社会の方が、病んでいるのではないか①。
「死」に直面せざるをえなくなった時、その苦悶や煩悶に共感し、適度な配慮ができる人の
存在は、確かに重要である。だが、辰雄さんの日記をたどる限り、それは必ずしも専門家であ
る必要はなかった。むしろ、従来からのつながりの中で再確認できた友情の温かさに、彼は励
まされ支えられていた。人は誰もが死ぬ運命にある。つながりの深い人との死別の時も、いず
れ必ずやって来る。
「死」をどう受けとめるかという問題は、決して他人事ではない。
「死」へ
の理解と共感は、私達誰もが、持っていて然るべきものなのである。
その基盤が崩壊してしまった大都市圏では、どのようにしてそれを取りもどすかが、問われ
始めている。グリーフケアの専門家養成講座の開講は、その先駆的な試みだと考えてよいだろ
う。ただ、日本の文化的土壌を視野に入れた上で、私達が見失いかけているものを意識すると、
大都市圏で今、本当に必要とされているのは、専門知識や専門家ではなく、私達一人一人の内
面に「死」への理解と共感を根づかせるための機会であり、場であり、ご縁なのではないかと
思われる。
(いとうみゆき・京都大学大学院 人間・環境学研究科 博士課程後期)
①
もちろん、グリーフへの専門家の介入を全否定しているわけではない。例えば、近年、大規模な事故や
災害の被害者遺族に対する専門家の早期介入が、社会的に要請されるケースが増えている。それ以外にも、
グリーフケアの専門家の中では、「公認されない悲嘆」として概念化されたケース、つまり、
「自分の喪失体験
を表明できなかったり、それを世間から認めてもらえなかったり」したケースほど、問題が複雑化し遷延
しやすいことが知られている。具体的には、①選択的中絶や流産など、喪失自体が公認されない場合、②
幼児、精神障害者等、喪失体験者として公認されない場合、③自死や犯罪被害、或いはエイズのように、
死別の原因を語ることが憚られ、喪失体験が公認されない場合、④離婚した夫婦、不倫関係にある者同士、
同性のカップルなどにように、死別した対象との近い関係が公認されない場合等が、挙げられている。
(Doka, K. J. Disenfranchised Greif: Recognizing Hidden Sorrow. Lexington, MA: Lexington Books. (1989))
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臨床死生学研究会研究報告 (2010)
死別の悲嘆とホトケオロシ
――岩手県宮古市の葬送儀礼――
佐々木 清志
1 はじめに
論者は現在、精神科医として病院勤務しているが、自らの臨床経験の中で感じたことを
述べることから本論を始めてみたい。2000 年代に、論者が東京都内の総合病院ストレス外
来で担当した 60 代男性のケースについてである。この男性は、妻を突然の心臓発作で亡く
し、不眠、気分の憂鬱、食欲低下に苦しみ、一年ほど経っても軽くならなかったため、外
来を訪れた。この男性とその娘との間では、死去した妻について語ることが避けられてい
た。外来でも、主治医である論者から妻に関する質問をされることですら嫌がった。亡き
妻について意識しないように努めるものの、つい考えてしまい悲しみにくれてしまうとい
う状態にあった。また、男性は妻の病気の存在に気付いてやれなかったことに対しての罪
悪感にもとらわれていた。
男性と娘の二人きりの家庭で、しかも妻の話題をタブーにしてしまうような環境では、
死を受けとめることを拒否していると言わざるを得ず、親戚や友人を相手に思い出語りを
してみてはどうかと提案してみたものの、近くに親戚がいない、話せる友人がいないとい
うことが明らかになった。主治医が聞き役になるつもりで、面接を行ったが、この男性は
抗うつ薬の処方だけにして欲しいと、一貫して主張した。結果的には抗うつ薬が効いて、
憂鬱な気分が消え、食欲が改善し、男性はそれで満足した。
薬物治療で症状が改善したわけだから、主治医としては喜ぶのが当たり前なのであろう
が、この体験は論者に何か危機感のようなものを覚えさせた。死者について語り合うこと
が、遺族の「悲嘆プロセスの促進」につながるということは臨床的に知られており ① 、薬
物療法だけでなく、死者について語り合えるような環境調整をしてあげるのも一つのケア
になると考えられるのだが、そういったケアが精神科医によって行われる前の段階として、
①
J. H. ハーヴェイ(和田実、増田匡裕編訳)『喪失体験とトラウマ―喪失心理学入門―』北大路書
房、2003 年、241-245 頁
89
死別の悲嘆とホトケオロシ(佐々木清志)
通夜や葬式、その後の法要など儀礼の場で、あるいは日常的な生活の場で、遺族たちが泣
き笑いしながら死者について語り合うことが本来あるべき姿であり、実際にそうなのだろ
うと論者は考えていた。しかし、この 60 代男性の主治医をするという体験を通して、愛す
る者との死別の悲しみを癒してくれるであろう地縁血縁のつながりが、いまや崩壊し始め
ているという現代的、都市的な現状認識をせざるを得なくなった。このような危機感から
出発して、論者による伝統的な葬送儀礼の調査は行われた。
2 葬送儀礼の中のホトケオロシ
日本人の葬送儀礼とは、大まかにいえば「死者を葬り送る一連の儀礼。民俗の中では、
具体的な死体の処理と観念的な死者の霊魂の送りという両方の作業が並行して行われてい
る」① という説明になろう。無論、「日本人」といっても信仰によってはこれに当てはまらな
い場合があることを認めた上での概説である。「死体の処理」は死亡の確認から埋葬までの
過程にあり、ほぼ数日で終わる。それに対して、「死者の霊魂の送り」は四十九日まで行われ
る。つまり、死後七日ごとの初七日、二七日、三七日などに、遺族が追善供養として法事
や墓参りを続け、忌明けの法事を行う四十九日に至って、死者の霊魂を送ったことになる。
四十九日は、
もともとは仏教の輪廻説にもとづくもので、次の生までの期間である中陰、
すなわち四十九日の間に死者が極楽往生できるかどうかが決まるものと考えられ、その間、
遺族は忌み慎みの生活の中、死者のために供養を施さねばならないという。しかし、民俗
においてはこの転生の思想は根付いていないと言ってよく、四十九日という期間は死者に
とっては旅装束に似せた死装束を身にまとって死の旅立ちをして極楽に至るまでの時間で
あり(日本仏教でも浄土真宗など「死の旅立ち」を容認しない宗派もある)、遺族にとって
は、忌みが徐々にあけて日常に戻るまでの時間の経過でもある。これとはややおもむきが
異なって、この四十九日の間、死者の霊魂は家の棟に居続けるという言いならわしがされ
る地域も少なからずあり、今回事例として取り上げる、岩手県宮古市田老地区(旧田老町)
も、このような地域であることを付け加えておく。
本報告では、この四十九日までの葬送儀礼の中で、ミコによるホトケオロシが行われて
いる岩手県宮古市田老地区の事例を取り上げたいのだが、まずはホトケオロシについて説
①
新谷尚紀「葬送儀礼」、新谷尚紀・関沢まゆみ編『民俗小事典 死と葬送』吉川弘文館、2005 年、99 頁
90
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
明しておかなければならない。少々引用が長くなるが、
『民俗小事典
死と葬送』による解
説を参照する。ホトケオロシとは「死霊を呼びだし、みずからに乗り移らせ、死者自身と
なって親族・縁者と直接語り合う巫女の行為。死口あるいは単に口寄せともいう。これに
は一方的に死霊が語るものと、生者の問口がある死霊との対話形式の二つがある。日本に
存在するさまざまなシャーマン的宗教職能者が総じて仏おろしを行わないのに対して、東
北地方のイタコ、イチコ、ワカ、オガミサマなどは仏おろし、奄美・沖縄地方のユタなど
はマブイワカシといった死霊供養を主たる儀礼とし、口寄せ巫女と呼ばれ霊媒型シャーマ
ンに類型される」 ① 。ホトケオロシは死んだ人の霊を呼びだすものであるので、別な言い
方で「死口」と呼ばれることが理解できたが、これに対して生きている人間の霊を呼びだ
して同じように語らせることを「生口」といい、対になっている。さらに、死口を新口と
古口とに分けることができる。
『
〔縮刷版〕日本民俗事典』によると、
「この両者のけじめは
所によって必ずしも明確ではないが、100 日とする例が最も多い。つまり死後 100 日以上
経過した場合のホトケオロシを古口といい、それ以内の死者に対するときには新口と称す
る」 ② とある。さらに時期の違いに加えて、新古二つのホトケオロシの手法において明ら
かな相違があることをあげている。すなわち、新口は家に巫者を招いて祭壇を作ってホト
ケオロシが行なわれるのに対して、古口は巫家において行われるのである ③ 。このように、
死後 100 日の区切りをもうけることによって、ホトケオロシ自体が、この世からあの世へ
死者を送りだす葬送儀礼の一部であるのか、それとも一旦あの世に辿り着いたホトケを呼
び戻して供養する行為なのかという違いを明確に意識化していると考えられる。
宮古市田老地区で、初七日の葬送儀礼で行われるホトケオロシは、上記のカテゴリーで
は新口ということになり、解説の通り、喪家にて執り行われる ④ 。この地域では、死者の
霊魂は四十九日の間、
家の棟に居続けるという言いならわしがあるが、この独特の観念と、
初七日、喪家にてホトケオロシを行う状況とが符合しているようにも思える。これに対し
て、四十九日や百か日が終わるまではホトケオロシをしてはならない、すなわち新口をし
てはならないと積極的に禁じている地域もある ⑤ 。四十九日の間は、死者の霊魂はあの世
①
②
③
④
⑤
佐治靖「仏おろし」前掲『民俗小事典 死と葬送』、326 頁
桜井徳太郎「口寄せ」、大塚民俗学会編『〔縮刷版〕日本民俗事典』弘文堂、1994 年、221 頁
前掲桜井「口寄せ」、221-222 頁
宮古市教育委員会編『宮古市史 民俗編 上巻』宮古市、1994 年、507 頁
脇野沢村史調査団編『脇野沢村史 民俗編』脇野沢村役場、1983 年、447 頁/佐治靖「死霊供養の
91
死別の悲嘆とホトケオロシ(佐々木清志)
へ向かう旅の途中にあるという観念に基づいているために、この期間のホトケオロシが禁
じられていると考えることもできる。
今回、岩手県の新口の事例を取り上げるわけだが、その前に近県(青森県、秋田県、宮
城県)の新口の例を探ってみたい。佐治によると、
「古口寄せが広く各地でみられるのに対
し、新口は青森県三戸郡のイタコの一部、秋田県下のイタコ、エジッコ、岩手県南部から
宮城県北部のオガミン、オガミサマ、福島県猪苗代湖周辺のワカなどに限定される」 ① と
か、以上の地域に加えて「伊勢・志摩のミコ寄せ、奄美・沖縄など、特定の地域の伝統的
巫女に限られる」 ② などと述べられている。
新口は決して多くないということが佐治の指摘から理解できるが、ここに挙げられてい
ない地域もいくつかある。岩手県沿岸北部に位置する宮古市(旧宮古市や旧田老町)もそ
の一つである。この地域の事例は後に詳しく論じることとして、まずは隣接する青森県の
自治体史から新口の例を探してみると、八戸市大仏で五七日(三十五日)にイタコを呼ん
でホトケオロシを行う儀礼が、昭和 62 年頃まであったという記述をみつけることができた
③
。そもそも自治体史で探すことに限界があるのだが、青森県内では、新口はあまり多く
ないのかも知れない。
次に秋田県であるが、旧中仙町(大仙市)では、葬式が終わると三日目または七日目、
都合によっては忌明け前にホトケオロシをした。これをシンボトケのクラオロシとも言い、
「死者への愛情の情が強い、幼死、若死、急死、不慮の災害死などのほか、丁重に葬式供
養したにもかかわらず死者が安らかに成仏していると思われない予感のするとき、(中略)
家族は心が安まらず、口寄せによって仏の意を聞き出し供養がなぜ仏に届いていないか、
仏が何を欲しているのかを聞き出して仏の欲求するようにまつろうとしたのである。この
ような中で仏から申し述べたいことが多いので『ナナクラオロシ』をしてもらいたいと言
い出すことがある」 ④ 。この「ナナクラオロシ」とは、死者の霊を七回反復してホトケオ
ロシするもので、かなり時間を要するもののようである。能代市でのホトケオロシは、新
口と古口の違いに着目すると、大きく二つに分けることが出来る。出産、不慮の事故で死
口寄せ ワカの葬式当夜のホトケオロシ」、赤坂憲雄責任編集『東北学 Vol.2』作品社、2000 年、86 頁
①
佐治靖「新口」新谷尚紀、関沢まゆみ編『民俗小事典 死と葬送』吉川弘文館、2005 年、326 頁
②
前掲佐治「仏おろし」、327 頁
③
青森県史編さん民俗部会編『青森県史 民俗編 資料 南部』青森県、2001 年、282 頁
④
中仙町郷土史編さん委員会編『中仙町史 文化編』中仙町、1989 年、237-238 頁
92
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
んだ場合など痛ましい死は、忌明け前にイタコを依頼して「ナナグラヨセ」を執り行なっ
たという。一方、これ以外の死者のホトケオロシは、死後 100 日を過ぎてから行ったよう
である ① 。死の性格の違いから、新口と古口の選択がなされていることが分かる。ちなみ
に、「ナナグラヨセ」は旧中仙町の「ナナクラオロシ」とほぼ同じである。
宮城、岩手の県境を挟んで近接する宮城県北部や岩手県南部においては、新口が行われ
る、あるいは行われていた地域が多く認められる。まずは、宮城県側からみていくことと
する。気仙沼市では、
「葬式の翌日から初七日前に『口寄せ』と称し、親類などの女の人た
ちが集まり、オカミサマ(巫女)を頼むか、巫女の家に出向いて死者の言葉を聞く」 ② こ
とが行われ、同じく気仙沼市の大島では、
「葬式の日取りが決まると同時にオガミさま頼み
もする。口寄せは七日の法要後に行う。葬式のあった家にオガミさまを迎え、葬式にしら
せのあった親類縁者が集まってする。
(中略)四十九日の法要までに、もう一度口寄せが行
われるが、次はオガミさまの所に出向いて行う」 ③ 。旧志津川町(南三陸町)の新口は、
葬式の日の夜、または五日目頃の「出し法事」の後に、盲目の巫女であるオガミサマが喪
家に招かれて行われた ④ 。旧登米町(登米市)では、葬式の前夜(お逮夜)か、初七日の
夜に、
「オガミサン」と呼ばれる口寄せ巫女が喪家に招かれ、新口が行われた。
「大勢の近
親者たちが、問い口をしながら巫女の言い立てを聞き涙を流す。それがしばしば終夜にわ
たることがあった」ようである ⑤ 。旧岩出山町(大崎市)の新口は初七日か二七日に ⑥ 、旧
鳴子町(大崎市)の新口は葬式の後や忌み明けの四十九日に行われた ⑦ 。
次に、岩手県側をみてみる。岩手県南部の大船渡市では、
「忌明けの日、巫女(オカミサ
マ)を依頼して『ミコキキ』を行う習俗がある。これは、亡くなった人の功徳になるとい
うので、各家で任意に行うものである。巫女が拝むと死者は、巫女の口を通して何くれと
その意志を伝えるという。遺族はそれを聞いて死者の意を悟り、その仰せ言を信奉し、生
活の導きとするのである。
『ミコ聞き』を行うことは、死者の霊を慰めるゆえんでもあると
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
能代市史編さん委員会編『能代市史 特別編民俗』能代市、2004 年、491-492 頁
気仙沼市史編さん委員会編『気仙沼市史Ⅶ 民俗・宗教編』気仙沼市、1994 年、247 頁
大島郷土誌刊行委員会編『大島誌』大島郷土誌刊行委員会、1982 年、764 頁
志津川町誌編さん室編『生活の歓 志津川町誌Ⅱ』志津川町、1989 年、568 頁
登米町誌編纂委員会編『登米町誌 第二巻』登米町、1991 年、175 頁
岩出山町史編纂委員会編『岩出山町史 民俗生活編』岩出山町、2000 年、294 頁
鳴子町史編纂委員会編『鳴子町史 下巻』鳴子町、1978 年、621 頁
93
死別の悲嘆とホトケオロシ(佐々木清志)
信じられ、後においても年一回は必ず行うものとされている」 ① 。旧三陸町(大船渡市)
の新口は、初七日から三七日の間に行われるとされる ② 。陸前高田市での「ミコキキ」は、
葬儀の後から初七日あたりまでの間に「オガミサマ」を招いて行ったようである ③ 。住田
町では、葬儀の翌日から初七日までの間に「オガミサマ」を招いて新口を行った。
「村落社
会における社会的儀礼の一つになっていた時期さえあった」というくらいに重要な位置づ
けにもなっていたと考えられる ④ 。東磐井郡藤沢町では、「忌中開き」(五日目)の晩に ⑤ 、
旧東山町(一関市)では葬式後二日目くらいに行う初願忌法要のあった晩に、新口を行っ
た ⑥ 。旧胆沢町(奥州市)では忌明けの夜、「オカミサン」、または「オカミサマ」を呼ん
でホトケオロシを行うとされるが、もとは三十五日か四十九日に行われたのだという ⑦ 。
旧水沢市(奥州市)の新口は、初七日から三七日までの間に行われた。口寄せ巫女である
オカミサンを招いて喪家にて営まれるのが普通であったのが、遺族たちがオカミサンの家
を訪ねて行うようになったのは、昭和 45 年以降のことであるという記述が、『水沢市史 6
民俗』に見られる ⑧ 。水沢市では、新口を行う場所に変化が見られたが、多くの地域では
喪家にて執り行われたようである。
仏教式の葬送儀礼の中に巫女によるホトケオロシが組み込まれていて、『住田町史 第六
巻 民俗編』の記述にもあるように、「社会的儀礼の一つ」として重要な役割を担っている
ことは、容易に理解できる。決して多くはないが、それぞれ離れた地域で似たような儀礼
が営まれてきたことが分かったが、自治体史からは浮かび上がってこない当事者たちの複
雑な思いを把握するために、実際に聞き取り調査を試みた。その結果をもとに次章以降で
検討してみたい。
あときよ
3 宮古市田老の「後清め」
旧田老町の中心部は海に面していて漁港を構え、他の小さな地区は海岸部、山間部に点
①
大船渡市史編集委員会編『大船渡市史 第四巻 民俗編』大船渡市、1980 年、340 頁
三陸町史編集委員会編(細井計監修)『三陸町史 第五巻 民俗一般編』三陸町、1988 年、790 頁
③
陸前高田市史編集委員会編(金野靜一監修)『陸前高田市史 第五巻 民俗編(上)』陸前高田市、
1991 年、657 頁
④
住田町史編纂委員会編(金野靜一監修)『住田町史 第六巻 民俗編』住田町、1994 年、305-307 頁
⑤
藤沢町史編纂委員会編『藤沢町史 本編 下』岩手県東磐井郡藤沢町、1981 年、393 頁
⑥
東山町史編纂委員会編『東山町史』東山町、1978 年、858 頁
⑦
胆沢町編『胆沢町史Ⅷ 民俗編1』胆沢町史刊行会、1985 年、592-593 頁
⑧
水沢市史編纂委員会編『水沢市史 6 民俗』水沢市史刊行会、1978 年、678-679 頁
②
94
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
在している。田老鉱山が昭和 46 年に閉山になって以降は、旧田老町の主たる産業は漁業な
どの第一次産業となった。旧田老町は平成 17 年 6 月に宮古市と合併し、宮古市田老となっ
た。合併時の人口は 4,789 人であった。
旧田老町にある寺院は曹洞宗のB寺ただひとつであり、多くの旧町民はここの檀家であ
る。わずかに北部の集落や南部の集落の人々が旧町外にある寺院の檀家となっている。旧
田老町の葬送儀礼の特徴は、死後7日目にある。
『宮古市史』で「アトキヨメとは死亡日か
ら数えて七日目に神官、僧侶、もしくは巫女を招いて家を清めてもらうことをいう」 ① 、
そして「巫女の場合には同時に『仏オロシ』を行う場合もある」 ② と説明されている。こ
の資料は合併前の宮古市によって編纂されたものであるので、厳密には旧田老町のことは
想定されていないわけだが、旧田老町の「後清め」も、おおよそこのようである。旧田老
町では多くの場合、死後七日目にはB寺の住職による初七日の法要と、地元に生まれ育っ
た神子A(80 代、女性)によって、「後清め」という儀礼が行われる。住職によると、B
寺で葬式をあげた家のおよそ1割が「後清め」も住職に依頼し、残りの 9 割は神子Aが執
り行っているであろうということであるが、
「後清め」をやらない家もあるため、多くの住
民が神子Aに「後清め」を依頼しているという程度に理解しておくべきであろう。
「後清め」
のときに死者が暮らした喪家を清めるというのは、B寺の住職も、神子Aも同じであるの
だが、大きく異なる点は、神子Aは清めの儀礼のあとに引き続きホトケオロシを行うとい
うことである。
ホトケオロシを執り行う民間宗教者が、東北地方では「イタコ、イチコ、ワカ、オガミ
サマ」という呼び名で知られていることは既に述べた通りであるが ③ 、当地域での「神子」
が「イタコ」や「イチコ」と同じであるというのは、とらえ方として大雑把過ぎる。この
地域には「イダッコ」もいて、
「神子」もいるのである。また、漢字で書けば明らかである
が、
「神子(ミコ)
」は総称としての「巫女(ミコ)
」とも区別される。ここで一旦、
「神子」
について考えてみる必要があるであろう。
旧田老町を含めた宮古地域の神子について理解するためには、神田による詳細な調査報
告を参考にすべきであろう。この地域にはかつてホトケオロシや病気治しを主たる職能と
①
②
③
前掲宮古市『宮古市史 民俗編 上巻』、507 頁
前掲宮古市『宮古市史 民俗編 上巻』、508 頁
前掲佐治「仏おろし」、326 頁
95
死別の悲嘆とホトケオロシ(佐々木清志)
していた盲目の、いわゆる口寄せ巫女がいた。それとは別の伝統を受け継いでいるAなど
の「神子」は、湯立て託宣などを執り行う神社神子であり、自己認識としては「イダッコ
さんと違う」という。しかし、Aたち「神子」がホトケオロシも行うためか、地域住民は
両者の区別をせずに、
「神子」を「イダッコ」と同じであると見なしている者も多い。当地
域の「神子」は神社神子としての職能だけでなく、イダッコの職能である口寄せも併せて
行うことができる存在なのである。
「柳田国男の『巫女考』以降、日本の巫女はさまざまな
研究者の手によって『神社ミコ』かあるいは『口寄せミコ』に分類されてきた。あるいは
また堀一郎の『日本のシャーマニズム』によって『擬制ミコ』と『真正ミコ』の二種類に
分類されてきた。堀の分類は、柳田のいう『口寄せミコ』をさらに細分化したものである。
けれども陸中沿岸地方で江戸時代からずっと活躍し、そして今も活躍している神子さんは、
こうした研究者の分類とは無関係に、
〈祈りのこころ〉をずっと持ち続けてきたと思えるの
である」と神田は述べている ① 。
神子が行う職能には、神社の祭礼の中で、神楽衆や法印と共同で行う湯立託宣や神子舞
があるかと思えば、個人の家で行われるオシラサマ遊ばせ、春祈祷、あるいは個人に頼ま
れて行う病気治しや地鎮祭、舟祈祷などもあり、神田の言うように、当地域の神子を「神社」
か「口寄せ」かで二つに分類することは困難であろう。そして、これから紹介する死後七日
目の「後清め」やその中で行われるホトケオロシも、神子だけでなく僧侶や神官が行うこと
のある喪家の清めの儀礼と、神子だけが行う口寄せとが渾然一体となっており、神子がこ
れを一人で引き受けて行っているという事実を銘記しておきたい。以上のことを踏まえて、
神子Aや旧田老町民から聞き取りして知り得た結果に基づいて、以下に報告することとする。
死後 7 日目の朝、遺族はまず墓参りをし、帰宅したのち、多くの場合、午前 10 時頃から
喪家にて「後清め」が始められる。喪家に招かれた神子Aは、家のすべての部屋を回って、
部屋の四隅に豆をまき盛り塩で清め、祭壇の前で般若心経を読経する。
「後清め」に参加す
るために自動車で来ている人は、車も清めてもらうのだが、これは自動車が普及し始めた
ころからの変化であり、昭和二十年頃からAが執り行ってきた「後清め」にみられる変化
はこの点のみであるという。儀礼の後半、Aによるホトケオロシが行われる。それまで儀
礼に参加していた男性たちのほとんどがこのとき別室に去ってしまい、ホトケオロシに居
①
神田より子『神子の家の女たち』東京堂出版、1992 年、8-9 頁
96
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
合わせるのは死者にとって配偶者であった、あるいは近い関係にあった男性を除けば、た
いていの場合女性たちである。男性の参加は禁じられているわけではないが、配偶者以外
の男性が参加することはめったになく、男性住民によると、参加しないものだという言い
習わしがあるようである。ホトケオロシに参加する女性たちは、死者と血縁関係にある者
や血縁以外でも生前に親しかった者などである。
場が落ち着いたところで、神子Aが「聞いてください」と言う。そして、自分自身に「ア
ミダサマ」をオロシて、「アミダサマ」の言葉で「ヒイミ」が始まる。「ヒイミ」とは近い
未来の占いで、何月何日と具体的に日を述べて、事故や災難などへの注意を促すものをい
う。誰が災難に遭う危険があるのかは、
「アミダサマ」が使う言葉から判断する。また、こ
のときに使用される言葉には独特のものがあり、例えば「アイノマクラ」は夫婦や配偶者
を意味し、「ヘラドリ」は女、「ユミドリ」は男を意味するといった具合である。
次に、死者のホトケオロシに移る。ホトケオロシは 7 日前に死去した「新しいホトケ」
から始まり、その後はその家の先祖が次々と神子Aに「おりて」語り、先祖が多い古い家
であれば、一連のホトケオロシに 2 時間以上を費やすことが普通である。ホトケオロシの
とき、先祖のホトケが自ら名乗ることはないため、その場にいる者たちが語られている内
容を手がかりにそのホトケが誰であるかを推測して、名前を呼びかける。
うまく「エーヘド」をとって、当たれば「ホトケ」は「オンナカナカ」と言ったあと順
調に語り始め、そうでないと別の先祖に入れ替わってしまう。先祖は、日ごろ上げてもら
っている供物や花について感謝し、
「アミダサマ」同様にヒイミをする。このようにホトケ
の発する言葉に、遺族の側が返事をして名前を呼びかけ、ホトケの言葉に答えたり、逆に
質問をしたりしてホトケとの対話を進めることを「エーヘドをとる」といい、
「後清め」に
は古い先祖のことを熟知している者が参加者として必要となるため、あらかじめ上手に「エ
ーヘドをとる」ことができる高齢の親族が召集されているようである。
「新しいホトケ」がホトケオロシで語る内容についてAに尋ねたところ、
「新しいホトケ」
はたいてい感謝の気持ちを述べるという。これはインタビューに答えてくれた住民の発言
とも一致する。病死の場合は介護してくれた者たちに感謝し、海難事故や不慮の事故死で
はその時の状況を語りつつ、遺族や親しかった者に対して感謝の言葉が述べられるという。
一方、ホトケオロシの場にいる人々は、
「ホトケ」の言葉を聞いて、感謝や謝罪の言葉で
97
死別の悲嘆とホトケオロシ(佐々木清志)
答え、感極まって泣く者もいるということであるが、多くの人は喜んでいるようだとAは
感じている。このように「エーヘドをとる」対話形式のホトケオロシを通して、遺族は「新
しいホトケ」との別れを遂げていくものと考えられる。しかし、遺族、特に配偶者にとっ
て嫌な過去を思い出させる言葉が「ホトケ」の語りから聞かれた瞬間、それに刺激されて
「ホトケ」を責める場面もあるという。ホトケオロシがこのような状況になる背景には、
「ホトケ」が生前に浮気をして配偶者以外の異性と交際し、夫婦関係がこじれていたなど
の場合があるという。
ところで、このような神子Aによる「後清め」は人々にどのように受けとめられている
のであろうか。これには少なくとも二つの対照的な捉え方があるようである。一つ目は慣
習という捉え方である。地元の住民によると、
「後清め」は行うか行わないかの選択の余地
はなく、「やるものだ」と言われているという。また、B寺の住職いわく、「後清め」でホ
トケオロシが行われることは「田老のしきたり」であるということだが、この表現からも
死後七日目のホトケオロシが慣習として定着していることが分かる。しかし、このような
慣習としての捉え方とは対照的に、ホトケオロシを積極的に求める人々もいる。こういっ
た人々の存在が明らかになったのはここ数年、Aが体調不良を理由に「後清め」を断るこ
とが出始めてからである。代わりにB寺の住職が依頼されているようである。これまで、
「後清め」は数は少ないものの、B寺の住職によっても執り行われてきており、このよう
な変化はそれほど大きなものではないように思われる。しかし、住職はホトケオロシを行
わないので、
「後清め」は家の中を清める儀礼のみで終わり、これでは「物足りない」と言
って、住職による「後清め」が終わった後に、Aに再度「後清め」をしてもらいたいと依
頼してくる遺族がいる。この場合、Aは三十五日か、四十九日に改めて「後清め」を行な
っている。ホトケオロシをしてはじめて、
「後清め」が完了したと感じる住人がいるものと
思われる。また、インタビューに答えてくれた人の中からAの健康状態を心配すると同時
に、Aによる「後清め」がなされなくなることを危惧する発言も聞かれた。この事実は「後
清め」の中のホトケオロシを積極的に支持する層が徐々に顕在化してきていることを意味
しており、Aによって執り行われる「後清め」を、単なる「しきたり」とか慣習的な儀礼
などと言ってしまうことには疑問が残る。
98
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
4
考察
新口について研究者が思い浮かべるのは、単なる儀礼とは違って生き生きとしたもので
あり、なおかつ遺族の「癒し」につながる行為であるということであろう。おそらく、こ
の儀礼を当たり前のように受けとめている地域住民の中にも、死別の悲しみに対して、新
口が「癒し」をもたらしてくれると自覚しているものもいるに違いない。
例えば、佐治は福島県の猪苗代湖南西岸の地域において、葬式当夜のホトケオロシが当
地の巫女ワカによって行われる様子を経時的に追って記録し、『東北学Vol.2』「死霊供養
の口寄せ ワカの葬式当夜のホトケオロシ」で報告している。この調査から佐治が感じ、考
察したところによると、
「この葬式当夜の口寄せの儀礼的な展開というものを改めて考えて
みると、これまで見てきたように儀礼の中にある“宗教的行為”や“もの”の中にある象
徴性という点もさることながら、死霊と生者の生成する空間的広がり、次々に登場するホ
トケたちの語りの時間的な経緯といった儀礼の全体性に目を向けた時、そこには人びとの
心を癒す演劇的知というものの存在が見えてくる。それは単なるワカというシャーマン的
宗教職能者によって演じられるモノローグではない。明らかにワカを介して展開するあの
世から訪れる複数のホトケたち、聞き手であるホトケの『血道』にあたる生者たち、そし
てあの世ともこの世ともつかない領域にさまよう新仏が互いにかかわり合う融合の空間を
演出している」 ① という。
神田も、宮古市の「後清め」について、
「死の忌みを祓うという内容の意味合いが濃くみ
られる。そうしたことと同時に、ここで口寄せがおこなわれているのは、死んだ者への思
い出や悲しみを思いっきりはき出して、心おきなく日常生活に戻れるようにという、心の
浄化作用があるように思われる。巫女をとおしておこなわれる死者との直接対話により、
死んだ肉親がこの世にやり残したであろうことを、亡くなった人から聞かせてもらえるし、
生き残ったこちら側の思いや愛惜の気持ちも、死んだ者に直接語りかけることができるか
らである。
(中略)こうした心の浄化作用をとおして、人は悲しみから立ち直るきっかけを
つかむのであろうし、自分自身の心のバランスをとっているのではないであろうか」 ② と
論じている。
「癒し」や「心の浄化作用」といった概念が非常によくあてはまるのが、新口
①
佐治靖「死霊供養の口寄せ ワカの葬式当夜のホトケオロシ」赤坂憲雄 責任編集『東北学 Vol.2』
作品社、2000 年、103-104 頁
②
前掲神田『神子の家の女たち』、215-216 頁
99
死別の悲嘆とホトケオロシ(佐々木清志)
の特徴であろう。死者と生者が言葉を直接にかけ合う、あるいは両者がかかわり合う行為
が、重要な役割を果たしているというのが、佐治や神田に共通した見解であろう。
論者もまた、ホトケオロシに参加した遺族や、地縁血縁の者たち、あるいは神子Aのここ
ろの動きや行動の変化が、儀礼を通してどのように引き出されるかに注目している。おご
そかに執り行われることの多い様々な宗教・宗派の葬送儀礼と比較すると明らかなように、
新口のホトケオロシは遺族の感情を活発に喚起する特徴を有した儀礼である。しかも、
「ホ
トケ」が亡くなったばかりという、感情的に落ち着いていない時期でのホトケオロシとい
うこともあって、悲しみの発露は古口と比べ、より容易で、かつ激しいものとなるであろ
う。自治体史をもとに検討した、他の地域の新口においても、明記はされていないものの
極めて情緒的な反応を呼び起こす儀礼であることが推察される。特に、秋田県の旧中仙町
(大仙市)の「ナナクラオロシ」では、死者への情が深かったり、死者があまりに若くして
死んだりした場合、あるいは急死や不慮の事故・災害死などの場合、ホトケオロシの回数
が増えるということが報告されている ① 。これは遺された人々の感情が、儀礼の進め方を
変えている顕著な事例である。儀礼が参加者の情緒に影響を与えるだけでなく、参加者の
情緒が儀礼を変容させ得るという事実も、これら新口の事例から理解することができる。
旧田老町の場合、「後清め」の新口は、数人の遺族で「エーヘドをとる」ことになるが、
このホトケオロシの構造は、強い感情表出が許容され安心できる空間として機能すれば、
遺族にとって死別に際しての悲哀感情を存分に表出できる場になるであろう。また、臨席
しているものの涙が他の者の涙を誘うという雰囲気は、相乗的に働くに違いない。特に感
情を露にすることを禁じながら、通夜、葬儀などに奔走してきた遺族にとっては、この日
はじめて、それまでの抑圧から感情が解き放たれるのかもしれない。
一方でこの構造がそのように機能しない場合もあるようである。Aによると、
「エーヘド
をとる」遺族の間に葛藤状況がある場合は、ホトケの言葉を「聞きたい人」と「聞きたく
ない人」がいて、このような時、ホトケもあまり深い話をしないという。そのような状況
でホトケオロシをした後日譚として、そのときの遺族の一人が、死者の姿を見てしまうと
いって後になって相談に来たことがあったという。複数で「エーヘドをとる」ことが必ず
しも遺族にとって遠慮なく感情を表出できる雰囲気を作るわけではなく、むしろ逆に作用
①
前掲中仙町『中仙町史 文化編』、237-238 頁
100
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
する場合があることを示唆している。
病気や経済的な苦労、夫婦間のわだかまりなど、地域住民のプライバシーに関すること
を知ってしまったAが「後清め」を終えた後、どのような気分になるのかということを、
論者からAに質問したところ、しばらく考え込んでからAは「あまり、すっきりした気持
ちにはなりませんね」と答えた。なぜそのように感じるのかというと、Aはそれまで知ら
なかった遺族の苦労や死別に際しての悲哀をこのとき初めて思い知らされてしまうため、
遺族によってはその後どうしているか様子が気になるというのである。Aは気がかりとな
った遺族には
「一人でいたのすか」
などと電話を入れて話し相手になることもあるという。
つまり、
「後清め」の新口はその後のAの行動にも影響を与え、悲嘆の中にいる遺族への関
わりを「後清め」で終えるのでなく、その後も継続させているのである。このように「後
清め」がAに影響を与えたのと同じように、ホトケオロシに参加した地縁血縁の者たちに
も影響が広がり、特に悲嘆の強い遺族への同情やその遺族に関ろうとする行動を促進する
であろうと推察することは、それほど飛躍したものではないと思われる。
「後清め」におけ
るホトケオロシは、死別に際しての様々な感情を吐露した遺族とそこに同席した者たちと
の間で強い情緒的体験を共有させ、その結果この儀礼が終わった後も、悲嘆にくれる遺族
に対し、周囲の者たちが遠慮という壁を越えて、気配りいたわることが自然に行なえるよ
うな関係性の構築が促進されると、論者は推測する。
新口を行う「後清め」という儀礼は社会秩序の維持に貢献していると解釈することもで
きるが、
この捉え方は社会的な儀礼論ということになる。参加者の感情に注目しての考察、
すなわち心理主義的な儀礼論も、この社会的な儀礼論と同じく機能主義的な見方であり、
儀礼を個人の心理的な反応や、あるいは社会秩序に還元してしまうという点で、還元主義
的であるとの批判を受けることは避けられないであろう。新口の儀礼に心理的な側面や社
会的な側面が顕著に存在することは全く否定しようのない事実であるが、この儀礼の中心
にあるものを無視してはならない。遺族の心理や社会的なつながりは「此岸」の領域のこ
とである。一方、ホトケオロシは「彼岸」や死者の霊魂を想定した儀礼である。儀礼の中
心に死者がいることを忘れてはならないということである。
ホトケオロシを支えている世界観は、この世で死去しても、人の霊魂はあの世で存在し
続けるという「死後生」の死生観である。脈々と受け継がれているこの死生観によって、ホ
101
死別の悲嘆とホトケオロシ(佐々木清志)
トケオロシという儀礼がリアリティーを帯びてくることになるが、それとは逆にホトケオロ
シを体験すること自体が「死後生」の観念に生々しいリアリティーを吹きこむということもあ
るであろう。旧田老町の「後清め」のホトケオロシに参加する者のほとんどが女性であるこ
とは、既に述べた通りであるが、必ずしも成人とは限らない。小学生の頃から参加している
という住民もいる。住民の中には、子供の頃から死者の霊魂の存在を信じていて、成人し
ても信じていると述べた人がいた。新口を通して死者の霊魂を身近に感じながら育つこと
のできる旧田老町では、死者とともに生きる感覚がごく自然に醸成されているに違いない。
以上、出来るだけ、様々な角度からの考察を試みた。
「後清め」の中のホトケオロシは、
遺族の「癒し」
、社会的つながりの強化、死者とともに生きているという死生観の醸成を促
していると考える。もちろん、それらを目的として行っているわけではないのだが、ひと
つの葬送儀礼が、その場に居合わせた人々にこれほどまでに多彩な影響を与えているとい
う事実に、改めて驚かされるのである。
5 おわりに
ここで「1 はじめに」で論じたことを振り返ってみたい。亡き妻のことを語ることす
ら拒否した 60 代男性は、旧田老町の住民とは対照的に、死者とともに生きることを拒否す
る世界の住民であるという言い方もできよう。男性が妻との死別から与えられたものと言
えば、悲しみと罪悪感だけであったのかも知れない。さらに、この男性にはその感情を表
出する機会もなく、またその悲しみに共感し、支えてくれる縁者もいないという孤独な状
況を鑑みると、とてもやり切れない気持ちになってしまう。
せめて、こう考えてみたらどうだろう。確かにこの男性の周辺には、葬送儀礼を手厚く
行ってくれる地縁血縁の者たちや巫女はいないが、田舎とは違って精神科医に簡単にアク
セスでき、すぐにでも抗うつ薬を処方してもらえるので、何も問題はないと。男性への同
情の念や現代社会に生きる我々が陥りがちな孤独や不安が、ただの思い過ごしであると一
笑に付したいがために、このように考えを改めたくなる気持ちにもなるが、精神医療によ
るケアが新口のようなダイナミズムをもつことはあり得ないということを素直に覚るなら
ば、
「後清め」の中のホトケオロシの持つ社会的意義の大きさが、さらに一層浮かび上がっ
てくることであろう。 (ささききよし・財団法人岩手済生医会 岩手保養院精神科医師)
102
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
記憶の選択、記憶の構築
――映画「ワンダフルライフ」を考える――
高橋 由貴
1 はじめに
本稿では、是枝裕和監督・脚本の映画「ワンダフルライフ」
(1998 年公開作品)①を取り
上げ、生と死に密接に結びつく記憶の問題について考えてみたい。
「○○さん、つまりあな
たですが、昨日お亡くなりになりました。ご愁傷様です。
」という言葉から始まるこの映画
は、死者がある施設に集められて、そこのスタッフから思い出を一つ選ぶよう尋ねられる
という設定の、ファンタジックな物語である。人が自分の人生をふり返る過程を丁寧に描
くこの物語を分析することで、死に臨む際に自らの人生をどのように受けとめるか(すな
わちそれは死を受けとめることでもある)ということを、記憶という観点から考察してい
きたい。
2 記憶を語るということ
2-1.
思い出の選びがたさ
自分が「自分にとって大切な思い出を一つだけ選んでください」と言われたら、しかも
その記憶は永遠に自分に残るが、その記憶以外はあちら側にもっていくことができずにそ
れまでの人生の思い出はすべて消えてしまうとする時には、私たちは、いつの、どこの、
①
映画「ワンダフルライフ」
監督・脚本・編集 是枝裕和 〔代表作 幻の光(1995)、ワンダフルライフ(1998)、DISTANCE(2001)、
誰も知らない(2004)、歩いても 歩いても(2008)、空気人形(2009) 他〕
キャスト ARATA/小田エリカ/寺島進/内藤剛志/谷啓/由利徹/原ひさ子/白川和子/横山あ
きお/吉野紗香/伊勢谷友介/志賀廣太郎/石堂夏央/阿部サダヲ/山口美也子/平岩友美/木村
多江/香川京子(特別出演)/内藤武敏/一般の方々
あらすじ 月曜日、霧に包まれた古い建物にやってきた死者たちに、質問が投げかけられる。
「あなたの人生の中から大切な思い出を一つだけ選んで下さい。いつを選びますか?」選ばれた思
い出は職員たちの手で再現され、映画となる。そして、その思い出だけを胸に天国へ旅立つことが
できるのだ。自分の人生を振り返り、悩み、後悔し、思い出にふける死者たちと、それを手助けし、
土曜日に開かれる上映会に向けて準備を進める職員たち。それぞれの感情は揺れ動いていく…。“思
い出の選択”をテーマに繰り広げられる、一週間の物語。
(DVDパッケージより)
なお本稿での映画「ワンダフルライフ」の内容・テクストは、DVD版『ワンダフルライフ』本
編(カラー/118 分 バンダイビジュアル株式会社 1999 年)に拠っている。
103
記憶の選択、記憶の構築(高橋由貴)
何の、どんな記憶を選ぶだろうか。
私が看護学校でこの映画を学生に見せた時、試みに「自分にとって大切な思い出を一つ
だけ選んでください」という質問を投げかけたところ、8 割の学生が「大切な思い出」を
「選べない」と回答した。何らかの「思い出」を選択した学生であっても、そこに必ずた
めらいがあった。では、この思い出の選び難さはどこから生じるのだろうか。
おそらくそれは、今生きているということが私たちにとってまさに生の渦中にある体験
だからであり、生は私たちにべったりと張り付いている状態だからだろう。思い出を選択
することは、自らの人生を対象化する行為に他ならない。対象化には、かならず距離が必
要となる。今まさに生きている状態において、そこから身を引き剥がして自分の人生を冷
静に、客観的に、距離をとって眺め、なおかつ切り取るということは、なかなかできるこ
とではない。とりわけ看護学生のように若く、まだまだ自分の人生はこれからだと思って
いる希望に満ちている時期において、自らの生を外側から眺め、限定した部分に自らの生
を切り詰める行為は苦痛以外の何ものでもないだろう。いや、誰しもが自分の人生をまだ
まだこれからだと思う。このように考えると、この思い出を選択するという過程が、自ら
の生を対象化する「死の受容」のプロセスの一部でもあるのだと言える。
2-2. 俳優の素の部分と一般の人の演技の交錯
「ワンダフルライフ」の内容に戻ろう。映画の中では「自分にとって大切な思い出を一
つだけ選んでください」という要求が唐突に突きつけられる設定の下で、死者である様々
な人物が自分の思い出を語っていく。見ている人間は、この先この人々はどうなるかとい
うドラマティックな展開への期待を映画に持つが、
「ワンダフルライフ」は観客のこの期待
をいい意味で裏切る。この映画の大部分は、死者である人々の、各々の思い出語りに費や
されている。この映画は、人はどのように自分の思い出を語るか、施設のスタッフは死者
たちの思い出をどう促すか、その死者とスタッフのやりとりの音声と映像が前景化されて
いるのである。つまりこの思い出語り自体がこの映画の物語内容であることが徐々に観客
に理解されていく。
またこの映画には、演技をする役者の中に「一般の人」が混じっているという大きな仕
掛けが施されている。演技をする一般素人と、演技キャリアのある役者の素に近い演技の
104
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
交錯が、フィクション/ドキュメンタリーという映画のカテゴリーをめぐる強固な枠組み
を根底から揺るがしている。
死者役として一般の人々が多数登場しているのも大きな見どころの一つ。映画制
作の準備を本格的にスタートさせた 97 年の夏からクランクイン直前までの 6 ヶ月、
スタッフがそれぞれビデオカメラを持ち、老人ホームやとげぬき地蔵、オフィス街
の公園、大学のキャンパスなど、様々な場所を訪れ、
「ひとつだけ思い出を選ぶとし
たら…?」というインタビューを行いました。集めた“思い出”は 500。その中か
ら選ばれた 10 人が本人として映画に登場し、実際の思い出を語っています。/「映
画の前半、思い出を語るシーンには、台詞を語る役者、実体験を話す役者、実体
験を話す一般の人など、様々なインタビューが入り混じっています。そして一般
の人が語る実話にも、本人の演出や脚色、思い違いがまぎれ込んでいます。そう
いった記憶の虚と実の間で揺れ動く人の感情を、ドキュメンタリーとして撮りた
いと思いました。」と是枝監督は話しています。
(作品解説)①
「台詞を語る役者、実体験を話す役者、実体験を話す一般の人など、様々なインタビュ
ー」の混在によって、
「虚と実」の境界を曖昧にすることにこの映画の目論見が一つ置かれ
ている。記憶を語ることは、この「虚実」つまり作り物とそうでないもの、恣意的なもの
とそうでないものの境界をなし崩しにし、そのような物語内容を統合する映画自体も、フ
ィクションかそうでないかという枠組みの境界を攪乱する。さらに「ワンダフルライフ」
は、この記憶を作り物の映画で再現する、という「映画を作る映画」、つまりメタ映画の部
分も持っている。映画「ワンダフルライフ」は、ドキュメンタリーとフィクション、フィ
クションとメタフィクション的な要素が混じり合う実験的な部分が非常に面白いのである。
①
「ワンダフルライフ」公式サイト KORE-EDA HIROKAZU Official Website KORE-EDA.com
http://www.kore-eda.com/(2010 年 3 月現在)
105
記憶の選択、記憶の構築(高橋由貴)
2-3.記憶の特性
近年、記憶について『記憶が語りはじめる』①という面白いタイトルの論文集が刊行さ
れていた。このタイトルには、従来の記憶とは人間がコントロールできるものという定見
、
、
を転倒し、記憶の方が私たちを通して語るのだという戦略的な意味が込められている。記
憶の特性について同様のことが、
『ワンダフルライフ』の分析に一章を費やしている岡真理
『思考のフロンティア 記憶/物語』②の中でも語られていた。
記憶が――あるいは記憶に媒介された出来事が――「私」の意思とは無関係に、わた
しにやって来る。ここでは、
「記憶」こそが主体である。そして、
「記憶」のこの突然
の到来に対して、
「私」は徹底的に無力であり、受動的である。言いかえれば、
「記憶」
とは時に、わたしには制御不能な、わたしの意思とは無関係に、わたしの身に襲いか
かってくるものでもあるということだ、そして、出来事は記憶のなかでいまも、生々
しい現在を生きている。
(岡真理『記憶/物語』
)
これらが指摘する「制御不能」で私たちに「襲いかかってくるもの」としての記憶の特
性は、
「ワンダフルライフ」の映像を見ることで理解されるだろう。
映像では、はじめはたどたどしく「思い出す」作業をしていた人物は、次第に記憶に導
かれるまま、あたかも自分が記憶に置き去りにされまいとするかのように言葉を紡いでい
く。これは自分がばらけていく経験であるといえる。それまで頑なに自己を自己たらしめ
ようという意志による統御が、ここでふっと力を抜き、記憶が先導する形で人々を動して
いく。人々は記憶を追いかけ、次第に今度は逆に記憶にせめたてられ、そしてまたふと我
に返り、また自己を統御しようとする。そのような制御可能と制御不可能な自己のせめぎ
合いの中から生み出させる記憶をめぐる経験が、
「ワンダフルライフ」の自己語りの映像に
は収められている。以下は、その語られた思い出の一部である。
①〔遠藤邦生〕……彼女が、カバンに鈴をつけてたんですよ。で、結構、歩くと、い
①
②
冨山一郎・編『記憶が語りはじめる』、東京大学出版会、2006 年 12 月
岡真理『思考のフロンティア 記憶/物語』、岩波書店、2000 年 2 月、4頁
106
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
つもカバンの鈴がチリンチリン鳴って。だから部室にいる時でも、遠くからチリンチ
リンって音が鳴ったら、あ、来たな来たなって感じで、けっこう、その鈴の音を聞く
のが好きで。
②〔荒木一二〕……塩を全然、3月の2日の晩の戦闘から、塩分てのをとらないから、
力がないしね、それでこうやっても(手の甲を舐める)しょっぱくないんですよ。だ
からヤシがあってもバナナがあっても木に登れないから、軍刀を抜いてみんなこう木
を切って倒して、それでヤシを日の丸の旗にくるんで背中にしょって、あっちへ逃げ
こっちへ逃げしてやってたんですね。そん時に周りに 40~50 人で囲まれてもう銃を
もってやってたんですけれど、もうどうせ撃たれるならタバコを吸って米の飯でも食
いたいな、と思ってましてね、それでその“ギブ・ミー・シガレット”をやったんです
よ。そしたら向こうで、どうせ立ち上がれないと思ったんでしょう、ポケットからタ
バコを1本出してくれたんですよね。こりゃ話せるなと思って、じゃあ“アイ・アム・
ハングリー、ボイルドライス・ギブ・ミー”って言ったら、そいで何のかんの言って
たら、米兵の肩につかまって、そっから 200~300m 行ったとこに、いわゆるヤシの番
をしてる小屋があって、そこで米を、ごはんを炊いてくれて、こういうテーブルにバ
ナナの葉っぱをおいて、そこから釜からごはんを、そいで塩をかけてくれたんですか
らね。もううれしくって、手づかみでで食べて。
③〔平川奈々江〕……忘れちゃうんですよね、不思議と。もう二度とあんな思いはし
たくないってその時は思うですよ、陣痛が始まると。で、もう本当に人によってだと
思うんですけれど、産まれた瞬間には「あー次は」ってもう次の子の事を考える人も
友だちではね、いるんですよ。だから、もう、やっぱり忘れなければ、ずっとずっと
この痛みを覚えているんだったら、世の中に兄弟って少ないだろうね、って。
④〔文堂太郎〕……生後、5 ヶ月 6 ヶ月ぐらい。……僕、あの、誕生日が5月で、秋
くらいですから、10 月か 11 月か、そのへんはあまり正確じゃないんですけれども、
そのくらいの生後間もない時期なんですけれども。秋、だと思うんですけれど、はい、
107
記憶の選択、記憶の構築(高橋由貴)
午前中でなく午後だと思うんですけれども、あのー、そのへんもあまり正確じゃない
んですけれども、裸で、布団に、寝てて、そこですごい日の光を浴びたんですよね。
ま、秋の、あまり暑くない、陽射しですね。
⑤〔天野信子(白川和子)〕……あの、私、あの、今の夫と出会ったとき、えっと、
30 を 2 つくらい過ぎてたのよね。まあ、ちょっと、そのね、ええかっこしたいってい
うか、若く見られたいっていうかさ…。/…本当はね、ホントは、彼、来なかったん
だよね。待ってたんだけどさ、私。……。
⑥〔夛々羅君子〕……(服の絵を描きながら)こんなんだったかな…。ここスモック
で。こんな風な服だったと思いますよ。…洋服? あ、幼稚園に入るまでは、着た覚
えってのはないの。で幼稚園行くんで、一枚買って、ピンクの服を買って貰ったんで
すね。それが私、とても好きだったんですね。ここのところに刺繍がしてあってね、
やはり胸のところにね、スモッキングしてあってね。オカダヨシエさんっていう人と
同じ服でね。あの時は箱抱えて飛び上がって喜んで。
何気なく語られるこれらの思い出はそれぞれ皆、興味深い。例えば①では、一回性の出
来事ではなく、
「歩くといつも鈴が鳴る」ことが大事だと述べられていた。
「一つの出来事」
ではなく何度か繰り返される反復性がこの人の「思い出」になっている。また②の語りは
「最高に幸せな瞬間」という条件にもかかわらず、その出来事は飢餓という最も過酷な記
憶と分かちがたい形で想起される。最も辛いことが逆に最も「うれし」い経験に転化する
という転倒が示されている。③の例は、
「忘れることはできない」思い出として「忘れる」
ことが含まれている。④では、赤ん坊の時の、通常であれば記憶に残らないはずの記憶が
選択されている。⑤はあからさまな嘘やごまかしが紛れる例だが、確かな思い出が語られ
ていくうちに、その思い出は誇張され歪曲され変形していく。いやむしろ、記憶を選ぶと
いうこと自体、そこに恣意性がつきまとい、記憶を語るということは常に誇張や歪曲や変
形という語る人のフィルターがかかる。真実の記憶、本当のよい思い出、本当の記憶など
どこにもない。
108
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
このように〈一つ/複数〉、
〈いい思い出/辛い思い出〉
、〈忘れる/覚えている〉、
〈本当
/嘘〉…といった分節化を拒むような、二項対立をなし崩しにしてしまうような記憶の特
性がこの映画の語りには散りばめられているのである。
2-4. 自己を解体する記憶
この映画は時間をとって、人々が自らの記憶をどのように語るかを描き出す。
「忘れられ
ないです」という証言の後で別の人の「忘れちゃう」という言葉を置く、記憶の特質を浮
かび上がらせる巧みな編集もさりながら、おそらくこの映画の最良の部分は、人が思い出
を語るという行為がいかに不安定な事かということを描き出していく監督の手腕であるだ
ろう。この点についても岡真理は次のように論じている。
それは、切なくなるような語りだった。記憶を他者に語るという行為、しかも
自分にとって、もっとも大切な記憶を人に話すということがいかなることなのか、
彼らの語りははからずも証している。ただ、出来事の記憶を語っただけではだめ
なのだ。それは、他者に理解されなくてはならない。出来事のリアリティがしっ
かりと受けとめられなくてはならない。人が記憶を語る、しかも、自分にとって
かけがえのない出来事の記憶を他者に語るということが、こんなにも、他者から
理解されたいという切実な思いに満ち、人の語りをこんなにも頼りなげで、不安
な色に染め上げているのだということが、語りの端々ににじみ出ているというこ
とに、わたしは切なさを覚えずにはいられなかった。/プロの俳優の語りに欠け
ているのは、自分の記憶を他者に語るという出来事に内在しているはずの、この
「不安」の感覚だった。…俳優の語りには、自分の語りが受けとめられないかも
しれないという不安ゆえに人の語りが自然と帯びる、他者への呼びかけの声が決
(岡真理『記憶/物語』)①
定的に欠けているのだ。
岡はここで記憶を語るという行為には、他人に「受けとめ」られ「共有」されることが
必要不可欠であると述べている。たしかに、思い出は言葉として発せられ際、人々はその
①
岡前掲書、65-66 頁
109
記憶の選択、記憶の構築(高橋由貴)
思い出が他人から承認を経て、たしかに自分のものとなるその過程が切望されている。目
の前にいる相手に向けて思い出を話す、その話し手と聞き手が協働で作り上げる場があっ
てこそ、この「切なくなるような語り」が生起する。
ただし、このように記憶を語ることに不可欠なのは、他人を迂回することだけであるだ
ろうか。そこには、記憶を誰かの前で言葉することで自らが解体するような経験として思
い出を語るという行為があるように思う。
それまで確固たる形を持ってはいなかった自分の記憶が、言葉として分節化され、形を
帯びて立ち現れ、それによって意味が生まれ、さらにその音声とその録音によって鮮やか
な形をもって出来上がる。しかし記憶を語ることとは、語る人間の側からすれば、感覚と
してあった生が、言葉になり、他人に受け取られることによって自分から切り離されたも
のとなる。言葉によって初めて生起するものでありながら、生のまとまりとしてはほどけ・
解体するものとして記憶を語る言葉があるように思われる。
〔金子良隆〕……(スタッフ:帽子って、途中で脱げるじゃないですか)でもまあ、
あんまり…帽子かぶったままでもいいすかね。…飛んじゃう可能性もあるよね。だか
ら外してもいいかな。今さら困る?手にもつ?
〔夛々羅君子〕…(自ら踊りながら)こうやって、こうやってさ、こうしてね、手か
けるでしょ。で、(手とり教えながら)こういうふうにやって、こうやって一回りす
るわけ、ね? あなたはね、こっちの手でハンケチを振るわけ。最後ね、ここのとこ
持ってね、それで振るの。こういうふうにやってね。“赤い靴”その時は…そのハンケ
チどうやって持ってたろ。最初からね、持ってないんだから。〔…〕ねえ、このハン
ケチどうしたかしら。あら、困っちゃった。
自分の思い出であったはずなのに、思い出を再現してみると矛盾が生じる。金子さんは、
被っていたはずの帽子が、電車の窓から吹き込む風のせいで「飛んじゃう可能性もある」
ことに戸惑うし、夛々羅さんは、踊る時には持っていないはずのハンカチを振る振り付け
が出てきて「このハンケチどうしたかしら」と疑問を覚えたりする。自分の中の確かな記
110
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
憶であったはずなのに、それを外側から見たとき、解消しえない矛盾が生じ、またあたか
も他人の体験だったような気持ちが湧き起こる。自分の生でありながら自分の生でないよ
うな経験、すなわち自己を解体し、ゆるやかに紐解くような経験として、記憶を語ること
があるのだ。
さて、この他人のような経験を再現することで、ほどけてしまった自己をもう一度結び
直し統合する試みが、この映画後半の「記憶を再現した映画を作る」という行為である。
節を改めて、解体した自己と自分が再度出会い直す過程を、映画の後半の物語と合わせて
見ていきたい。
3 思い出を「作る」ということ
3-1.
記憶語りのフィクション性
この映画の中で、思い出をなかなか選べない渡辺さんのために、渡辺さんの 71 年間の人
生を録画した 71 本のビデオテープをスタッフが渡辺さんに渡す。
この映画では、テレビの前で VTR を見るという行為と、思い出を語るという行為の違い
がはっきりと示される。ビデオは確かに自分が写っているが、それはいわゆる神の視点か
ら撮影されていて、流れるような映像を見る経験には、現在の自分が巻き込まれていない
ため、どこまでも引っかかりがない。これに対して他人に思い出を物語るという行為には、
人為的な取捨選択が働き、また、言い難い経験を言葉に置き換えるという人為性・恣意性
も働く。記憶を物語るという行為には、必ず話し手の虚構化の作用が働くのである。した
がって、渡辺さんはビデオを一人見る行為だけでは思い出を選び取ることができず、主人
公・望月君に、思いを込めて自分の人生を話し出さずにはいられなくなる時まで、思い出
の選択は先延ばしにされる。
〔渡辺から望月への手紙の一部分〕……この手紙をあなたが読まれる頃には、私はも
う、あなたの記憶を失っているのでしょう。時間もありませんので、簡潔に私の今の
気持ちを書かせてください。あなたは京子の許嫁だった方ですね。あなたのお名前と
5 月 28 日という命日を聞いた時に気がつきました。妻に許嫁がいて、その方が戦死し
たことは、本人から見合いの時に知らされました。そして彼女は結婚後も毎年あなた
111
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
った一回なんですけれども、雲の間をこう飛んでいたときの、あの風景というのが、
一番思い出深い風景のひとつですね。…一般的にセスナっていう4人乗りの小さな高
翼機だったんですけれども…そうですねぇ、色はほんとうに、ほとんど白でしたね。
形はこうお祭りで売っている綿菓子をちょっとちぎったようなのとか、本当にそうい
うものが浮いているような、でも大きすぎず小さすぎず、怖くない大きさっていうん
ですかね、そういう優しい感じのする雲だったというのは覚えてますね。
夛々羅さんの映像は、自分に「あんな時があったんだわ」としみじみと思い返す、新鮮
さと懐かしさとが同居した嬉しそうな表情が映る。また金子さんの映像には、再現された
電車の音が昔聞いた電車の音と一致しているかどうか自らの記憶の中を手探りする不安な
表情と、記憶の中から電車の音を探り当て、目の前の再現されている音と共鳴したことを
確認する得心のいった表情が見られる。スタッフや同じ死者(の役の)の人たちに、震災
の時の夜の自分の気持ちをとくとくと語る大熊さんの強く途切れずに進められる語りは、
今の視座から子どもの頃の自分を眺め、意味づけようとする強い方向性が働いている。
映画中でスタッフが「生きた証なんてないんだからさ」とつぶやくように、確かに私たち
はこの世に生存の証を何も残すことができない。しかし「ワンダフルライフ」では、混沌
とした過去から何らかの(特別でなくてもいい、任意の)出来事を一つを選択的・人為的
に切り出し、言葉で縁取られたその過去の自己(の代用)をこの自分と結びつける行為こ
そが重視されている。 例えば児島さんの語りには、過去のたった一瞬の風景に、今の自分
を結びつけ繋ぎとめようとする語りの力学が働く。
〔児島真顕〕……雲の感じってこれだと本当にインクラウドですよね。…雲の中に入
っている状態。結局もう視界がもう完全にクリアな中に、脇にこう雲があるところを
こう、縫うような感じってんですかね、だから基本的には、もう本当にクリアな状態
の中を飛んでて、で、そこの中にこう雲のかたまりがこうあって、ちょうどこういう
感じで雲がバーッと来るんですよね。
再現映画の舞台セットへの児島さんの違和感は、目の前のセットと記憶の風景とのずれ
113
記憶の選択、記憶の構築(高橋由貴)
を通し、
記憶の中の遠い風景を引き寄せ、その中に今の自分を溶かし込もうとするために、
「怖くない」
「優しい雲」の風景を自らの裡に創出しようとする過程なのである。その記憶
の中の風景は、
「こう雲がある」
「こう、縫うような感じ」
「こういう感じ」という指示語で
しか表せないような微妙な言葉で表され、過去の風景と今との隔たりを喚起させる。
〔大熊ミチ〕…この辺からさ、こうぶらさがるんだから、本当にもうね、あれよ、こ
んな感じで何人かこう遊んでたわけ。
目の前の作り物、明らかにその当時のものではない偽物のセットや人物の配置や雰囲気
を見ながら、そのわずかな手がかりをもとに、人たちは「こう」とか「こんな」とか、確
かな手触りを思い出し、その感触を探り当てていく。この映画の「作り物」感は、再現さ
れた映画の内容ではなく、再現映画を作る側に焦点を当てているところに向けられている。
手間暇かけて作られるその再現映画の全体像は画面には写されず、代わりにカメラは、彼
ら死者たちが、再現映画を作るその過程で生じる表情の変化をずっと追う。
「ワンダフルラ
イフ」は、映画を作る映画なのである。
この映画は、作り出されたもの(すなわちフィクション)に対する意識が徹底している。
感動的な一連のシークエンスを台無しにしかねない最後の、作り物である窓の「月」の挿
入は、記憶語りとともに、この映画の世界全体、この映画の設定自体がフィクショナルで
あることを自己言及している。映画中、所長(谷啓)がしおり(小田エリカ)に言う「月
って面白いですよね、もとの形はいつも同じなのに、光のあたる角度によってその形はい
ろんなふうに変わってみえる」という言葉は、同じ生であっても、その語り方によってさ
まざまに異なった相貌を見せる思い出のことを指していた。しかも、その月の満ち欠け自
体が守衛さん(横山あきお)が創り出すことによる日にち設定であるように、この映画に
流れる時間と空間自体がフィクショナルな設定であることを表し、
「ワンダフルライフ」は、
映画についての映画=メタフィクションとしての映画であることを示唆する。その事によ
って、ここまで論じてきたように純粋で真性な記憶というものがありえない、
〈本物/作ら
れたもの〉という峻別そのものに疑義を呈しているのである。①
①
「ワンダフルライフ」では、死者であるはずの一人が、
「今日、仏壇に言ってきましたから」とい
114
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
3-3.
誰かの喪失を生きる物語
一貫してこの記憶の選択と構築で語られているこの映画では、後半、この施設のスタッ
フたちの事情も明らかにされていく。ここのスタッフは思い出を選べずに向こうに行けな
い人たちであり、死者とスタッフという非対称的な関係を、いずれも死者という同一平面
上に配置し、観客をとまどわせる。
その中で、主人公であるスタッフの望月(ARATA)と、なかなか映画を選べずビデオを
見続ける死者の渡辺(内藤武敏)の人生が交差する。渡辺がお見合い結婚した妻(京子)
は、実は 22 歳の時に戦争で死んだ望月君が生前結婚の約束をした女性であった。ここで、
先立たれた者と遺された者の奇妙で緩やかな三角関係が浮かび上がる。
〔キャプチャー6
しおりと望月の会話〕
しおり:いなくなっちゃうんでしょ。選ぶんでしょ。私わかるんだ。あの人との思
い出を選ぶんでしょ。…私、なんでそんなこと手助けしちゃったんだろう。バ
カみたい。
しおり:僕はあのとき、幸せな思い出を自分の中に必死になって探してた。そして
50 年たって、自分も、人の幸せに参加していることがわかった。それはとっ
ても素敵なことだった。君も、君にもいつかそんな時がくる。
しおり:私は選ばない。選んだら、ここでのこと忘れなくちゃいけないから。だか
ら、私は選ばない。私は、望月さんのこと、私の中にとどめておくの、ずっと。
もうこれ以上人に忘れられるの、こわいんだ。
しおり:しおり。僕がそんなふうに思えるようになったのは、ここでの生活やいろ
んな人たちとの出会いと別れがあったからだよ。だから、僕は、決してここで
のことは忘れたりしない。
なかなか思い出を選べなかった渡辺は、年を取ってベンチで妻と隣合って座って話をし
う言葉をすら収めている。このように映画の設定と矛盾する発言をあえて編集しないことこそが、
この映画の戦略である。映画では、この物語がフィクションであることの明らかにする要素を随所
に散りばめている。
115
記憶の選択、記憶の構築(高橋由貴)
の命日にはひとりで墓参りに出かけていました。/…京子の中にいるあなたに対して
私に嫉妬という感情がなかったと言ったら嘘になります。しかし、それを乗り越える
だけの年月を私たち夫婦は過ごしたのだと思っています。いや、ようやくここに来て、
そう思えたからこそ、私は妻との思いでを選ぶことができたのでしょう。私は私の 70
年を肯定することができた。そのことをどうしてもあなたに伝えたかった。
最終的に渡辺さんは、望月君に対し「それを乗り越えるだけの年月を私たち夫婦は過ご
したのだと思っています」と言う。それが本当かどうかということを抜きにして、自分の
人生を規定する言葉を発し、固定することが大事なのだ。この映画の重要な核は、この、
現在の自分が記憶を手繰り、誰かに向けて物語を作り出すことができて初めて、自分の人
生を「肯定」つまり受容することができるということにある。
3-2. 思い出を「作る」ということ
これら映画づくりのシーンは、昔の自分、もう一人の自分、全く別の人格に出会い直す
経験であることを如実に物語っている。どのようにハンカチを持っていたかを思い出せな
、、、、、
、、、
い事態――記憶の再現とは、過去の自分の出会い直しでありながら、自己との新たな出会
いである。
〔夛々羅君子〕……でもほんと、あんな時があったんだわ、私。
〔金子良隆〕……(電車の機械音を聞いて)なるほど、懐かしいですね。……バッチ
リ、バッチリですね。
〔大熊ミチ〕……いまのお子さんたちはハイキングなんかなさるけど、私たちの時代
にはそんなのないでしょう。親とおにぎりなんか竹やぶで食べるなんて、すっごく嬉
しかったのね。
〔児島真顕〕……一時期パイロットを目指して訓練していたときの、あのときの、た
112
記憶の選択、記憶の構築(高橋由貴)
た記憶を選ぶ。実は京子は若い頃望月とベンチで隣同士で座っていた記憶を選んだことを
後で望月は知る。京子は望月に先立たれた人生を生きるが、渡辺は「望月への思いを抱え
て生きた妻」と共に生きた 70 年の自分の人生を肯定する。渡辺の、妻との思いがズレなが
らも、そのズレ自体を含み込んだ形で自己を肯定することに望月ははっとさせられ、それ
まで「自分の人生の中に」
「幸せな思い出を必死になって探していた」望月は、ある記憶を
選択していく。
望月が選んだのは、
「あの人との思い出を選ぶ」というしおりの予想を裏切り、ベンチに
一人で座るという記憶であった。このベンチは、京子が自分(望月)との若い頃の思い出
を選び、渡辺がそんな京子との夫婦生活を肯定した、誰かの喪失を抱えズレを含みながら
も続けられ繋げられていく物語が刻まれたベンチであった。つまり望月の向こう側に持っ
ていった記憶とは、“望月―京子―渡辺の三者の物語”、と“しおりや 50 年間映画づくりに
携わってきた思い出を見る思い出”、どちらも含むメタフィジカルな位置に立つ記憶であっ
た。
望月がこの場を離れる前にしおりに言うのは、
「読みかけの本の続きをしおりに読んでも
らいたい」というリクエストだったように、望月の選択は、誰かの生の中断を、遺された
者が受け止めることを称揚する、開いた物語の可能性を呈示しており、ラストに望月の喪
失を抱えてしおりの物語が始まることを示唆して映画が閉じられる。
岡真理のこの映画に向けられた次のような批判は、おそらくこのベンチが葛藤や衝突な
、、、、、、、
く後の者に引き継がれるこのスムーズすぎる予定調和に対して向けられていた。
「記憶」をテーマにするということは、これらもろもろの問い(誰に、何語で、何
人として自らの記憶を語ればいいのかという政治的問題)喚起せずにはおかない。
1990 年代という時代は、記憶の〈分有〉という問題をめぐって、以上のようなさまざ
まな問いが、日本社会に突きつけられた時代ではなかっただろうか。自らが被った〈出
来事〉の暴力、その記憶について証言するということが、幾多の障碍を乗り越えなく
てはならない困難をきわめる営為であり、そして、他者のそうした〈出来事〉の記憶
を私たちがいかに受けとめ、そしていかに理解し、いかに分有するかということが、
私たちの社会の切迫した課題として問われた、そのような時代ではなかっただろうか
116
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
その 90 年代終わりに取られたこの作品はしかし、そうした問いがいっさい存在しな
いかのように、語りうる経験を映画として再現することの素晴らしさを讃えている。
(岡真理『記憶/物語』)①
岡真理は、歴史教育をめぐる問題や、戦争をめぐるアジア諸国と日本とのズレや衝突が
起こった 1990 年代において、記憶とは他との葛藤や抗争をそもそも引き起こすものである
のに、この映画で記憶がきれいに「自己完結」している点を批判する。情緒的に結ばれる
喪失を生きる(空白を抱えた椅子をめぐる)この物語は、確かに一面で自分の記憶が脅か
されない自己完結した形で「封印」されることを称揚している。だがこの批判をぎりぎり
のところでかわすのは、そのような自己完結が恣意的で人為的なフィクションやファンタ
ジーであることを明らかにする“張りぼての月”の存在が、この映画を支えているのではな
いだろうか。
4 おわりに
4-1. 死を受けとめる――記憶による自己の解体と統合の運動として
ここまで、この映画が「死者が集められる場」というファンタジックな設定を用いて、
記憶を語ることで自己を解体し、その記憶を再現することで再び自己を構築する過程を、
死の受容のプロセスとして描いていることを確認してきた。もちろん、記憶を語るが、す
ぐさま自らの生を対象化し、死を受けとめることになるのだとは決して言えない。
だが、今回の考察では、フィクショナルな言葉によって自己を解体する行為と、フィク
ショナルな言葉によって自己を統合する行為、この相互の運動こそが、自らの生の構築で
あり、それが即ち自らの死を受けとめ、他人の喪失を受けとめることにつながる可能性を
示している。取るに足らない些細な、でも確かに自分の一部であったある任意の記憶、そ
の記憶を自らの内に探し、その記憶と出会い直しする経験こそが――それはこの『ワンダ
フルライフ』のように決して幸福な出会い方だけではないだろうが――、生と向き合い死
を受けとめることであると思われる。
(たかはしゆき・東北大学大学院文学研究科博士課程後期)
①
岡前掲書、70 頁
117
質疑応答
コメンテイター:大村哲夫 ・山本佳世子
①
②
司会者:田代志門
③
田代 それではディスカッションを始めたいと思います。最初に爽秋会の大村さんから簡単に
コメントを頂きます。ただ、お手元の資料にある肩書「チャプレン・臨床心理士」を見ただけ
では、具体的にイメージがわかないかもしれません。ですので、大村さんにはまず自己紹介し
て頂いてからコメントを頂くということで、よろしくお願いします。
大村コメント
1.臨床心理士であるチャプレン誕生秘話
最初に、私が「臨床心理士であるチャプレン」と名乗っていることについて、ひとこと説明
をしてからコメントに移りたいと思います。
私は先ほど発表された佐々木さんの紹介で、爽秋会岡部医院に関わるようになりました。タ
ーミナルケアの現場では、当然臨床心理士が必要とされるだろうと考えたからです。そこで、
「少し勉強をさせてもらいながら関わりたい」と、岡部先生に会いに行きました。ところがそ
の場で「精神科医と臨床心理士はいらない」と言われました。精神科医(佐々木さん)と一緒
に行ったんですけれども(笑)
。
「なぜ要らない?」という話ですが、
「生まれて死ぬのは自然現象だ」
「死は当たり前の現象
で、異常心理をみるような専門家はいらない。むしろ人が死んで行くのを支えるのは、地域と
か人とかに関わるような文化じゃないか」というようなことを言われました。さらに「お前は
大体宗教についてどう思ってんだ?」というような挑発的な話があって、私も「負けてはいら
れない」というところがあったので、宗教に関わる話や経験を色々したところ、
「とりあえず来
てもいい」ということになりました。
①
おほむら てつを:医療法人社団爽秋会 臨床心理士・チャプレン。東北大学大学院文学研究科 博士
課程後期。専攻:宗教心理学・臨床心理学・臨床死生学。
②
やまもと かよこ:
(当時)聖トマス大学日本グリーフケア研究所研究助手。
(現在)上智大学グリーフ
ケア研究所特別研究員。博士(人間・環境学)
。専攻:教育社会学。
③
たしろ しもん:東京大学大学院医学系研究科特任助教。博士(文学)
。専攻:社会学。
118
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
そうしたいきさつで、岡部医院の患者さんやご家族と関わるようになったわけです。私も死
に逝く人の心理を、病理、あるいは病気としてみるだけというのは違うと思っています。例え
ば、人間の力ではどうしようもないものを突きつけられている時の抑鬱症状は異常だろうか?
人間として死の不安・生きる辛さに呻吟することは当然のことではないのか? 鬱病と診断さ
れる症状の原因に家族関係の不全という社会的な問題がある場合、病理中心の対応だけでいい
のだろうか?云々。先ほど鼎談でも、スピリチュアルケアという話が出ましたが、
「体のどこそ
こが痛い」
というような訴えの背後に、
「人と人とのつながりの中の辛さ」
というものがあって、
それが反映していることもあるだろう。そういうことを鑑みて,私は心理面・スピリチュアリテ
ィを含めて綜合的に「こころ」に関わっていきたいと考えたのです。そこで私は心理的な面に
限定されて受けとめられそうな臨床心理士と名乗るだけではなく、
「チャプレン」も合わせて称
するようにしたのです。ですから私の場合,仏教とか、キリスト教というような特定の教義に
もとづく聖職者としての「チャプレン」ではなく、患者の宗教性・スピリチュアリティを尊重し
ていくような幅広い意味を込めて「チャプレン」と名乗っています。もちろん私には実際のと
ころ荷が重いので,
そういう受け止めをしていきたいという願望や決意の表明でもあるのです。
さてそれでは三人の発表について、コメントをしていきたいと思います。
2.高橋発表へのコメント
(1)
「人生で一番大事な記憶を選択する」からの連想
まず高橋さんの「ワンダフルライフを考える」ですが、
「人生で一番大事な記憶を選択する」
というのを聞いて、私は終末期の患者さんのことを重ね合わせて考えていました。
「体が動けな
くなってくる」、「仕事命でやってきたのに、仕事が出来なくなった」、「歌を歌うのが好きだけ
れど、歌が歌えなくなった」、「おいしいものを食べるのが好きなのだが、食べられなくなった」、
「散歩にも行けなくなった」、「庭にも出られない」、「トイレにも行けなくなった」というように
「したいこと」、「できること」が次々と奪われる状態の中で最後に何が残るかというのは、
「一番大事
な記憶として何を選択するか」ということと、少し重なってくるような気がしていました。
否が応でも喪失していくものの中で最後まで残っていくもの、
「それでも自分は生きていく」
という希望のようなものを残していなければ、絶望の淵に陥ってしまいます。日々容体の方は
容赦なく落ちていくわけです。その落ちていく中、多くのものを奪い取られていく中で、自分
119
質疑応答
にとって本当に大事なものを見出していく。
「自分の人生は、これでよかったのか」ということ
を考え抜いていかれます。
「こんな状態で人に迷惑を掛けているが、
自分は生きていていいのか」
、
「この世の中に何が残せるのか」ということも考えていく。この死を前にした人が価値の選択
を繰り返していく作業と、この映画の中で死んでしまった人がする「思い出を選ぶ」という作
業とは、非常に似ているところがあるんじゃないかと思ったわけです。
(2)映画の設定と、終末期の患者さんとの差異
この映画の設定では、最後まで選べなかった人というのは、そのままスタッフとして残る。
最後に話に出た望月君という、一見若いんだけれども実は大正生まれっていう登場人物がいま
した。彼は 50 年間、あの場所で選べないまま留まっていたという設定でした。
ところが死に逝く人というのは、大事なもの、自分の人生の意味っていうのを見出せなかっ
たら、今回の映画のように待ってくれる場所がないわけです。どんどんと、苦しい中、ますま
す死に向かって近づいていかなければならない。例えば「仕事が命」で生きてきた人が、仕事
ができない状況の中で、最後の最後に「自分にとって仕事とは何だったのか、仕事のできない
状態で生きている意味があるのか」と自問自答して、答えを見いだせないまま旅立つことにな
るかもしれない。その辺が、私も臨床に携わりながら悩み深いところです。死に逝く人には、
肯定的に人生の意味を見出して旅立ってもらいたいと願っているわけですが、実際にはかなり
厳しいこともあるような気がします。
(3)高橋発表への質問
そこで高橋さんには、このような、実際に終末期の方が、自分の人生の意味というものをな
かなか見いだせないという時に、周囲にいる私達は一体何ができるのか、モラトリアムが許さ
れない中で、死にゆく人自身はどうして安心を得ることができるのだろうか、ということにつ
いて、何かお考えがあったら聞かせていただきたいと思います。
3.佐々木発表へのコメント
次に、佐々木さんは、医療人類学に関わったり、民俗学的なフィールドで色々な民間信仰を
見てこられたわけですが、精神科医としての佐々木さんは、それに出会う前と、出会ってしま
った後では、何か自分の患者さんに対する関わり方が変わってきたのか、そうでないのか,そ
120
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
のあたりのことを伺いたいと思います。
4.井藤発表へのコメント
最後に井藤さんに質問です。井藤さんは、この患者さんとの関わりに大変思い入れが深い、
ということを感じました。これはおそらく井藤さんが、大事な人との別れというのを、単に生
から死へと移行する接点として関わったということではなくて、その人の「生」そのものを通
して「死」に出会ったというそのプロセスに関わる経験が、井藤さんにこれだけの共感する力
をもたらしたのではないかと思いました。
そこで、今回はあえて語られなかったと思うのですが、この事例の中の家族、たとえば夏子
さんを亡くしたあと、家族がどうなっていかれたか、おそらく専門家によるグリーフケアは必
要なかったんじゃないかと思いますが、どうなっていかれたのかということについて、お話し
いただける範囲でお教えいただければありがたいと思います。
山本コメント
山本佳世子と申します。よろしくお願いします。以前は、京都大学の井藤さんと同じ研究室
にいましたが、この 4 月に設立されました聖トマス大学の日本グリーフケア研究所で現在は、
お世話になっています。
1.井藤発表へのコメント
(1)日本グリーフケア研究所設立の経緯
井藤さんから「グリーフケアの専門家なんて必要ないんじゃないの?」と言われましたが、
その専門家を養成しようとしている研究所です。そこで、日本グリーフケア研究所の設立の経
緯を、少しだけ説明させていただこうと思います。
聖トマス大学というのは、尼崎にある大学です。今から 4 年前に、JR 西日本の尼崎で脱線事
故がありました。その脱線事故から 1 番近くにある大学が、聖トマス大学です。聖トマス大学
には高木慶子という、グリーフケアや終末期ケアを専門にしているシスターがおり、高木先生
が、JR の事故の遺族のケアにあたられました。そこから、JR 西日本がお詫びの意味もこめて
出資し、
社会への還元ということで、
グリーフケアに関する公開講座を行うようになりました。
その延長線上で、この 4 月に人材養成を行う研究所が、設立されたということです。
121
質疑応答
(2)
「神戸」の経験
ですので、JR の事故遺族とも関わることがあります。専門家が必要かどうかと問われると、
確かに私も、自分が大切な人を亡くしたときに「グリーフケアワーカーっていうのがいますよ」
っていうふうに言われたら、
その人のところに果たして足を運ぶんだろうか、
と思ったときに、
「いやぁ、そんなことはないんじゃないの?」という思いがどうしてもあり、そういう違和感
を感じながら、今のところにいます
けれども一方で、神戸という所は、阪神大震災も経験しましたし、JR の脱線事故だけではな
く、暴力的な死に直面する事件、事故というのがかなりありました。10 年程前になりますが、
酒鬼薔薇事件として有名になった連続児童殺傷事件も、神戸でありました。そういう経験をた
くさんしている地域です。特に JR の事故の遺族などは、少なくとも今日の前半であったよう
な看取りに関する話は、大嫌いなんですね。
「看取れる人はいいじゃないの、私たちは看取れな
かった」ということで、看取りの話をされる先生の講演は、嫌がられます。
そういう人たちに対して何ができるのか、と考えた時、
「地域に残っている力で」と言っても、
そういった経験をした人が、ものすごく少ないわけです。普通の看取りをした人ですら少なくなっ
ている中で、暴力的な死というものを経験した人というのは、更に少ない。そうした中で、彼
らをどうしたら支えられるのかと言う時、専門家というのは確かに必要な場面が出てくるのか
なと思います。
(3)大都会の抱える問題
更にもう一つあります。井藤さんも佐々木さんも話されましたが、大都会がおかしくなって
いるということです。まさに尼崎というのは、地理的に神戸と大阪の中間にある場所で、いわ
ゆる大都会にあたります。
ここで悲嘆やグリーフケアについて、連続で公開講座をやっているのですが、定員 300 人の
ところ、申し込み初日に 700 通のハガキが届きます。
「これは、なんなんだろう」と思うわけで
す。おそらく、色々な悲嘆を経験したのだけれども、その悲嘆を癒す場所や語る場所がなかっ
た人たちが、講座に来ることで癒されている、ということだと思います。
公開講座は全 15 回で半期ごと開講しており、現在、第 5 回目を開催しています。色々な先生
が来てお話しされるのですが、受講者の方たちは、本当に涙を流しながら聞いています。その
122
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
講座を聞きながら癒されていく。専門家になるということで、人材養成講座で勉強されている
方達にも、「なんでここに来られたんですか?」という話をすると、ほとんどの方が、大きな喪失体験
をされています。神戸であっても大阪であっても、もちろんいまだに地縁・血縁の中で癒され
たという人はいます。ですが、公開講座に以前来ていて、公開講座という場で初めて本当に癒
された。そのお返しをしたいということで、人材養成講座に来られる方も、たくさんいます。
300 人がいる教室で話を聞いて、そこで初めて癒されるという、大都市圏で起こっているこの現
象自体が、確かに何かおかしいことではあると思います。ですが、それだけ悲嘆を癒せないで困っ
ている人がいる。そういうニーズがあるのもまた事実です。「グリーフケアの専門家が必要な社会が
そもそもおかしいのではないか」という問いかけには対しては、確かにその通りだと思います。けれど
も、一方で 300 人を対象にした公開講座でないと癒されない人達がいる。その現実に対して、何
をしなくてはならないだろうと考えた時に、
専門家養成ということが出てきたんだと思います。
(4)日本グリーフケア研究所の試み
最初に、専門家養成ということに対して、私自身も違和感を持っているとお話しましたが、
今日の三人のお話というのは、私にとっては、
「あぁ、専門家養成といっても、こういうことを目指し
ているのかなぁ」というふうに思い至る点がいくつかありました。現在、研究所で考えている
のは、遺族になって初めて関わるのではなく、亡くなられる前の段階から関われるように、つ
まり、病院や診療所などに、大村さんのような形で入っていき、亡くなられる前から関わりを
持ち続けて、亡くなられた後もそのまま関わり続けられるような専門家と場を整えることです。
それこそ、井藤さんの事例で挙げられた方のように、彼は日記に記したわけですけれども、その
思いのたけというものを聞いてあげる人が、地域にいなければ、それは、専門家と言っていいの
かわかりませんが、病院にいる人であっても構わないのではないかなというふうに思います。
2.佐々木発表へのコメント
そこで話されることというのは、まさに、その遺族自身の、これまでの生育歴であったりライフス
トーリーであったり、故人との関係であったりを、こんなことがあった、あんなことがあったという形
で話されるわけですよね。
それを聞く役割というのはある意味で、
巫女の役割かなと思います。
故人をおろすということは、確かにしないわけですけれども、なぜそれを語ることで癒されるのか
というと、故人と関係性を結びなおすことができたときに癒されるのかな、というふうに思います。
123
質疑応答
3.高橋発表へのコメント
高橋さんの記憶を再構築するという話からは、遺された人が亡くなられた人の記憶を語る、
グリーフケアの現場のことと重ねて考えました。グリーフケアの専門職を養成する段階で、ケ
アに携わることになる人たちにも、自分の人生を振り返って自分の生育歴を語ってもらうとい
ったことをしています。そこでは、自分の辛い体験を話さなければいけない。過去の辛かった
ことを追体験して、感情が制御できなくなる。それはまさに記憶に襲われる状態です。しかし、
追体験しながら、それをもう一度、意味づけし直して再構築していくことで、その人自身が癒
されていくのです。そういうことを、ケアワーカー自身もしているし、そういう体験を経て、
実際にケアワーカーとしてご遺族と会って、その人の記憶というのを再構築していく作業をす
るのが、グリーフケアなのかなというふうに、思っています。
「グリーフケアワーカーが必要なのか」という問いかけに、きちんとした答えができたとは思いま
せんが、
「こういうことを今やろうとしてます」
という話でお答えに代えさせていただきました。
田代 ありがとうございました。二人ともわかりやすいコメントだったと思います。時間がそ
れほどありませんので、一人 3 分くらいでお答え下さい。
井藤応答
1.山本コメントに対する回答
山本さんの話の続きということで、私からまず山本さんに。山本さん、コメンテイターにこち
らから質問するような発表をしてしまいまして(笑)、どうもすみませんでした。山本さんのお返
事の中で、大都会では、専門家養成講座という形で、300 人を対象として開かれる講座でしか
癒されない人のニーズに応えているんだというお返事は、
とてもしっくりくるものでした。
で、
たぶん、この方たちは専門家養成講座を卒業した後、専門家になるかといえば、そうではない
のではないかと思います。おそらく自分のしていることの意味を、自分の中で価値づけていき
たいというか、専門家養成講座に通うことが励みになる、というようなことだと思うんです。
それが、大都市の中で失われてしまったものを補完する動きだとしたら、まだ失われていない地域
では、そういう動きになる前に、今あるものが大事であるということに気づき、大都市が陥っているよ
うな形にならないように、今あるものを大事に生かしていっていただきたいなぁというふうに思い
ます。それが私の願いです。山本さんのお返事を踏まえた上でお伝えしたい、私の気持ちです。
124
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
2.大村コメントに対する回答
次に、大村さんからご質問いただいた、夏子さんを亡くされた後のご家族のことについてで
すが、やはり厳しい状況がありました。まず、ご夫婦の間で夏子さんの思い出話が出来ません。
ご主人は、奥さんの躁鬱病の症状を気遣い悩みながら、日記を書き続けることで、ご自身の無
力感や喪失感を埋めていく作業をされました。山登りがお好きな方で、山登りと人生を重ね合
わせて、たとえば、峠を越したら視界が開けて見晴らしのよいところに出るというイメージを
思い描いて、苦難を乗り切る努力をされたようです。
ただ、たぶん、私たちがお願いした、ご遺族にお話しをうかがう調査にご協力いただけたのは、
家庭の中で話せないことを、
代わりに聞く人が必要だったからだろうなぁという気は致します。
日記だけでは、だめだったんだろうなと。日記を私どもに託してくださったということは、や
っぱり自分の思いのたけの受け手が、必要だったのだろうというふうに思っています。奥さん
は今もまだ少し難しい状況のようですが、ご主人の方は、地域の人ともつながり、色んな方と
つながり、山登りのお仲間ともつながり、最近はとてもいい笑顔をされています。以上です。
佐々木応答
順番が逆で、山本さんにお答えしてから、大村さんに答えることにします。
1.山本コメントに対する回答
まず、
「ホトケオロシ」は、亡くなった方との関係性を違った形に作り直すという点で、特
殊な方法だと思うんですね。心理的なケアでは、それが容易にできないという意味で。技法的
なこととか、あるいは伝統的な方法とか、近代的な方法とか、そういった話をしていくと、ど
っちが望ましいかっていう議論が出ちゃうわけです。そこで、ちょっとそこからずらした議論
をしてみます。
私は、葬送だけでなくて、病気なおしをしているカミサマを訪ねて調査をしているのですが、
そういったところに行ってみると、病院でちゃんと治らなかったとか、医者に不信感を持った
とか、さまざま理由で来る人がいる。その現象だけから見ると、伝統が近代医療によって排除
されているというより、近代医療から呪術の方に逃げてきている人たちがいるわけです。伝統
的な癒しが壊れていって、医療がとりこんでいく医療化の現象がよく取り上げられるんですけ
ど、そこの調査をしていると、逆に、近代医療に愛想を尽かした人たちが呪術に逃げていると
125
質疑応答
いう点で、呪術化なる現象が起こっていると見えるわけです。医療化とは逆の現象もあると思
うわけです。ですので、どっちが優れているかという話は一旦保留して、医療、それから呪術
や儀礼があって、さらに先ほど山本さんが話されたグリーフケアの公開講座みたいなものがあ
ると。単に並べてみて、人はやはり自分が一番気持ちのすっきりするところに流れていくんだ
と思うんですよ。
ただ、医療化の問題を語る時に重要なのは、近代医療が公的であるということなんです。つ
まり、国家公認であるというところで、イタコさんよりも医療者の方が強みがある。けれども、
利用している人たちの話を聞くと、病院の薬も神棚も同じで、国家が薬を公認していようが、
神棚を認めていなかろうが、使っている人達にとって、そこに上下はないんですね。そうして
みると、グリーフケアの公開講座に人が流れていくというのも、一つの現象として、それもや
むを得ないこととしてあるんだろうなと思うんです。
ただ、
そこでついつい感じてしまうのは、
伝統の方が近代的なものに負けていくみたいなことへの同情のような気持ちです。
しかし、
我々
がそういうふうに見てしまいがちだというだけで、意外と、伝統の方も結構強いんですよ。
2.大村コメントに対する回答
次に、大村さんに答えますけども、そういうイタコさんとか、カミサマの病気治しのやり方
を、調査で私は教えてもらえるんですよ。どういう神様にお願いして、関節痛はこういうふう
に治すとかですね。
神様の種類とかも教えてもらって、
治し方を教えてもらうんですけれども。
呪術の世界観、全く違う世界観が私の中に入ってきましたが、結局、薬対呪術という構図じゃ
ないんですね。なんていうか、それぞれ別の世界のものなんですよ。
別にどっちが優れているかじゃない。そうなってくると、どういうことが起こったかという
と、私が拝み屋さんに通っている人達と全く同じようになってしまったんですね。つまり、仕
事では、基本的には近代医学とか、エビデンスや EBM で仕事はするんですけれども、そのカ
ミサマのところに調査に行ったとき、たまたま怪我をしていたので、治してくださいって頼ん
だことがあるんですね(笑)
。
それは自分の中で矛盾しないのか?という問題もあるんですけれど。私も当初はこういうこ
とはしたくないと思っていたんですが、これ、矛盾でもなんでもないんですよ。つまり二つの
世界がパラレルに存在しているだけなので、その瞬間、自分がどっちにシフトしているかとい
126
臨床死生学研究会研究報告 (2010)
うだけの話で、矛盾も発生しないわけです。二つの世界の間を、人間ってスムーズに行き来で
きる存在なんだと思うんです。ただ、これをしゃべると、変な医者だって言われるので(笑)
、
しゃべらないようにしていますが。
カミサマのところに来るお客さんたちをインタビューしていて、病院とカミサマの両方を使
い分けるのは、初め矛盾していることだと思っていましたけど、矛盾はなく、自然にできてし
まうことだったと分かったんです。
高橋応答
1.大村コメントに対する回答
まず、大村さんからの質問です。
「それでも自分の人生の内側に意味を見出せない人たちは
どうなのか?」という趣旨の質問でしたが、最後の望月の答えに、ヒントがあるのかなと思い
ます。しおりという女の子が、主人公の望月と会話するシーンがあります。
「望月という主人公
は一体何を見出したのか」というのが、この映画の根幹の問いになっているのですが、一番い
いシーンは二人の会話がすごくずれているんです。望月は最初、
「幸せの思い出を自分の中に必
死で探してた」けれども、戦争で生が中断されたせいでそれがなかった。けれども、しおりと
の会話で、
「自分も人の幸せに参加していることが分かった。それはとっても素敵なことだっ
た。
」と言うんです。それじゃ、望月は一体何の記憶を向こうの世界に持って行ったのかという
と、自分が死んだあとに、残された人たちが自分に対する思いを抱えて生を形作っている、と
いうことを持っていったのです。つまり、
「ワンダフルライフ」という映画は、自分(=望月)
のことを思いながらも結婚してしまった京子と、その京子という人を受け止めた渡辺というよ
うな、空白の自分を起点としてつながっていく関係の中で、
「僕のいない世界の中で僕がいた」
ということを望月が発見する話になっているのです。
先ほどの質問に戻りますと、自分の中に「幸せな思い出」がなければ、他人の中に生きてい
る自分に出会うということも、自分にとっての生の意味の見出し方としてあるのではないかと
思います。映画の後半には、前半の、内側の生にある自分に出会う経験だけでなく、他人が所
有している自分と出会うという経験が描かれているところがいいので、
ご覧になってください。
2.山本コメントに対する回答
山本さんからの質問です。この映画のユーモラスな落とし所は、死者の話を受けとめる「う
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質疑応答
んうんうんうん」と他人事みたいなスタッフが、思い出を選べない死者だったというところで
す。そうすると、これをまた「うんうん」と見ている他人事だった私も「将来死ぬ」べき者と
して、死者―スタッフに連なるわけです。一般の人を画面の向こうに死者として置くこの映画
は、仮想の死者を私たちと同じ平面上に置くところに、ラジカルなメッセージがあると思いま
す。そうすると、自分の思いや自分の記憶の固有性を人に手渡すってことはとても不安なんだ
けれども、その不安を抱えながらそれでもしゃべることが、あるいは逆に、だれかの記憶を受
けとめることが、この映画の中で、あるいは私たちの生と死を取り巻く状況中で、記憶の手渡
しの必要性として重なっていくところかと、山本さんのお話を聞いて思いました。
田代 ありがとうございました。予定していた時間を若干過ぎておりますが、フロアーの方々
で何かコメントや質問がありますか。もしないようでしたら、ホスト役の蘆野先生からコメン
トをお願い致します。
蘆野 先ほど
「ワンダフルライフ」
のビデオを観ていた時もそうだったと思うんですけれども、
観ている人達は、実は自分達のことを考え、先のことを考える。或いは、看取った人のことを
語るとき、それを聴いている人達は、それを聴くことが、自分の人生を考えていく一つのきっ
かけになっていく。要するに、遺された人達っていうのは、亡くなった人とつきあってきた記
憶の中から、色々あった事柄や美意識、その人の思いなんかを取り出して伝えていく、そうい
う役割を果たしているんです。今日は、そういうことを考える機会になったと思います。
「看取り」とか、「お迎え」とか、「ホトケオロシ」とか、「ワンダフルライフ」とか、今日は色々あり
ましたが、これは断片的なものの集まりではないんです。本当は全部つながっているんです。今
日は、そういうことを勉強してくださったかなと思います。皆さん、長時間、ご苦労様でした。
田代 皆さん、長い時間、ありがとうございました。ではこれで終わりにしたいと思います。
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東北大学臨床死生学研究報告
編集者:桐原健真
出版者:東北大学臨床死生学研究会
〒980-8576 宮城県仙台市青葉区川内 27-1 東北大学文学部コンピュータ室内
Web:http://www.sal.tohoku.ac.jp/rinshiken/ e-mail:[email protected]
印刷所:大陽出版株式会社
発行日:2010 年 10 月 26 日
©KIRIHARA Kenshin / Tōhoku Daigaku Rinshō-shisei-gaku Kenkyūkai 2010
※
本報告書は、2007 年度東北大学若手研究者萌芽研究「医療現場との対話による「臨床死生学」
の確立――歴史的・文化的アプローチに基づいた「死生」観研究とそのアーカイブ化」の成果の
一部として刊行されたものである。