「上野景⽂著「バチカンの聖と俗」を読んで 2011.10.03 元駐チェコ共和国⼤使 髙橋恒⼀ 本年7⽉末に出版された上野景⽂著「バチカンの聖と俗」(かまくら春秋社)は、15年程前から⽂明・ ⽂化についての論考を発表してきた著者が2006年から4年間にわたるバチカン⼤使としての体験と観 察を基に書き下ろした意欲作です。著者によれば本書は、バチカンについての概説書でも単なる体験記で もなく、「⽂明論としてバチカンに迫ることを試みたもの」ですが、その⾔葉どおりに著者がバチカンで の体験を通じて捉えたバチカン像が興味深いエピソードと供に種々の視点から鮮明に描き出されています。 先ずバチカンの国名について宗教機関でありながら、主権国家でもあるバチカンの⼆重性を体⾔している 由緒正しい国名は、わが国が使⽤している「バチカン市国」ではなくもう⼀つの国名である「 Holy See」 ( HS, 邦語訳は「聖座」⼜は「法王座」)であり、国際的にも HS の⽅が通りがよいという、⽇本では余 り知られていない重要な事実が指摘されています。また、現在のバチカンは、国⼟も国⺠も産業も持って おらず、むしろ信条や⽬的を共有する⼈々が集まった⽬的集団であり、国家とぃうより、法王をトップに 戴く国際機関と捉えた⽅が理解しやすいとの指摘もバチカンの特性を理解する上で有益だと思われます。 宗教機関としてのバチカンに関しては、体験的⽂明・⽂化論の観点から捉えたカトリック教会の本質とし て以下の3点を挙げており、これが本書の主旋律となっています。(1)2000年に亘り歴代の法王が、 キリストの⾔葉により正統性を与えられた初代法王聖パウロの後継者として正統性を維持してきたこと。 (継続性、正統性の連鎖) (2)世界中の全司祭が、法王により任命された司教を通じ法王に結びつき、正統性の連鎖を通じて、聖 パウロに結びついていること。(普遍性、世界性) (3)カトリック教会は、2000年を⽣き延びる過程で、あるいは世界性を達成・維持する過程で、分 かりやすさ、親しみやすさを⾼め、⺠衆を教会に引き付けておくため、聖⺟、聖⼈、聖遺物、法王、教会 などの「中間項(パラメーター)」を設け重視してきたこと。(「中間項」の維持―⼯夫・妥協の名⼿) 著者は、カトリック教会の聖遺物へのこだわりと信者獲得のため教会間でも⾏われたという⾻の争奪戦 の歴史を詳細に観察し、聖遺物へのこだわりは、⺠衆の⼼を引き⽌めるためにカトリック教会が⽰した柔 軟性の最たる事例であると述べています。その上で著者は、中間項にこだわる現実主義のカトリック教会 と神と⼈間の間の中間項は不純物であり不要だとしてこれを排除する純化思想のプロテスタント教会との 違いは、ある種原理的違いではないかと指摘しています。こうして著者は、同じ⼀神教型⽂明と⾔っても、 多神教的要素を積極的に取り込んだカトリック型⽂明とイデオロギーの純粋性にこだわるプロテスタント 型⽂明は、別種の⽂明であると結論付け、これまでの2つの⽂明対⽐論から3つの⽂明対⽐論に転換した 旨宣⾔しています。著者の「⼤きな神様」と「⼩さな神様達」というキーワードによる世界の⽂明対⽐論 は、ユニークであり、カトリック型⽂明とプロテスタント型⽂明の違いについての説明も説得的ですが、 新しい3つの⽂明対⽐論についても、今後、正教会、ユダヤ教会及びイスラム教をも含めた形での本格的 な論考が発表されることが期待されます。 バチカンの対外関係については、⼀⽅において国際的プレイヤーとしてのバチカンの存在感の⼤きさが 強調されています。著者は、ローマ法王の存在感を⾼め、国家としてのバチカンのマグネテイズムを⾼め ている要因として、国際社会のお⽬付け役としてのローマ法王が有するモラル・パワーとメッセージ⼒、 情報⼒(40万⼈のカトリック司祭、11,7億⼈の信者、カトリック系の NGO による情報収集のメカニ ズム)、発信⼒(ローマのカトリック系メデイアの⼒)、ノウハウの蓄積(外交の⽼舗)等の諸点を挙げ、 わが国もバチカンのこうしたパワーにもっと注⽬し利⽤することを検討すべきことを提⾔していますが同 感です。これと同時に宗教国家であるが故のバチカン外交の困難性も指摘されています。後半のキリスト 教諸宗派及び諸宗教とカトリック教会との関係についての詳細な記述を読むと、宗教上の関係と外交関係 が密接かつ微妙に絡み合っていること、バチカンが我々の知らないところで⻑期間にわたり困難な交渉を 忍耐強く続けてきていることがよく分かります。 本書の後半では、欧州において科学信仰、⼈権信仰、表現の⾃由信仰、ライシテ(宗教と統治の分離思想)、 ⾃然・環境信仰といった神なき信仰が根を下ろした⻄欧北部とバチカンを中⼼とする伝統的欧州(⻄欧南 部)との間でイデオロギー論争が激化している状況が豊富な具体的事例により紹介されています。そして この論争は、伝統的キリスト教をバックボーンとする既存の⻄欧⽂明と脱キリスト教の⽂明という、2つ の⽂明間のせめぎ合いを意味しており、欧州の⽂明的変貌を反映しているとの著者の⾒⽅が⽰されていま す。欧州についての情報は、数多くありますが、こうした⽂明的基盤まで掘り下げた分析というのは、珍 しく、今後の欧州情勢を⾒ていく上で重要な視点だと思います。 最後に著者は、世界全体を⾒渡せば、⻄欧や⽇本のように世俗化の進んだ社会も例外的に存在するが、 国際社会全体では、宗教の影響⼒はむしろ強まっているとして、宗教という要素を軽視しては、世界の多 くの国の国⺠と⽂化を理解し社会動向を予測することは出来ないので、外交⼒の強化を図る観点より宗教 の動向を制度的・体系的に把握する⽅向で外務省が組織の整備を図ることを提⾔しています。時宜にかな った提⾔であり外務省の現役の皆さんに是⾮検討をお願いしたいと思います。 本書は、著者が明確な問題意識に⽴って多くの顔を持つバチカン・カトリック教会と正⾯から取り組ん だ探求の書であり、バチカンについての⼀⾵変わった良い解説書であるだけでなく、⻄欧北部と南部との 間でイデオロギー論争が激化している欧州の最新情勢と宗教の影響⼒が強まりつつある世界におけるカト リック教会と諸宗派、諸宗教との関係についての類例を⾒ない解説書にもなっています。バチカン・カト リック教会だけでなく、欧州情勢やグローバルな国際関係更には⽂明論等に関⼼をもっている⽅々に、広 く⼀読をお勧めいたします。 (9 ⽉ 26 ⽇寄稿)
© Copyright 2024 Paperzz