さぐ s s a A お ぼろ かど Y つき あて A かざはや 月朧 よき門探り 当たるぞ b ぜん ごく 俳人・小林一茶の o もん まん おぼろ なん とほ 足跡をたどる 小林一茶 H みず なり V i s i ふめば水也まよひ道 みち K A Z I 2015 年 A 220 年 d h s a y a e t i 風早 来遊 K 四 国・愛 媛 愛媛 門前や 何万石の 遠がすみ おぼろ く 朧 松山市 (風早) A B C D 風早地方 (北条) マップ JR大浦駅 大浦 新城山 [161m] ▲ なだ 灘 P14 新城山 古墳群 エヒメアヤメ ▲ 自生南限地帯 腰折山 [214m] ながそがわ 長沢 (長裾) 川 北条高校前 179 北条高校 ❹よしだ屋 松山局 (089) 中西外 新開 ❷ めん処 かわよし 992-5689 992-1800 ❹ よしだ屋 992-0071 ❺ シェ・タチバナ 992-2110 ❻ かぢ屋 5 993-3800 中西外工業団地 ❺シェ・タチバナ 文化の森公園 P14 ❼ 太田屋(北条店) 993-0021 ❽ 太田屋(鹿島店) 993-0012 2 西の下 P12 府中 北条ふるさと館 松山市立北条図書館 ● ● ● 國津比古命神社 P13 ながそみち 河野別府 國津比古命神社古墳 玉比賣命神社古墳 14 13 12 11 10 正岡神田 正岡小学校 「勅使道」 (長裾道・御所道) 松尾神社 (松尾さん) ❶ 味工房 花へんろ 993-3787 ❸ 風早いちや 門田邸 339 ❻かぢ屋 グルメスポット電話一覧 鎮守神社 (新田さん) P14 宗昌寺 玉比賣 命神社 P13 ▲ 八竹山 [90m] ※山麓に風早国造神主家墓所 厳島神社 (弁財天) 光徳院 高田 拙パンフレット上梓にあたっては、下記の関係機関・団体・個人様のご 協力を頂きました。発行に当たり厚くお礼申し上げます。また、当冊子 では全体の措字・バランスから、碑文や原文を適宜修正しています。 ◆小林一茶 風早来遊二二〇年 N 高田神社 17 0 〔目次〕 北条辻 正岡公民館 ・・ ・3 ● 北条北中学校 風早来遊二二〇年 ● 庄薬師堂 小林一茶 長裾の浜 北条交番 ※ 「庄大根」の産地 ・・ ・・5 4 はま 金比羅橋 春日神社 十輪寺 五十日の足跡 (寒戸・玉理島) ながそ 桜うづまき酒造 庄 伊予路の一茶 かんど ぎょくりしま 高土手 一・風早の「一茶のみち」・・・・・・・・・・・・・7 伊予の二見 (夫婦岩) ※ここに橋は 北条小学校 ありません 大学・短大 (門田邸へは金比羅橋を 柳神社(柳さん) お渡りください) JR伊予北条駅 北条郵便局 八反地 二・芭蕉塚(藤花塚) ・・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・・・8 北条鹿島前 中西内 196 聖カタリナ 三・腰折の小燕子花はいちらしや 土手内 奥の谷古墳群 いとしき人のなさけにも似て ・・9 辻町 [113.8m] ▲ 鹿島神社 難波橋 ふめば水也まよひ道 ・・・・・・ ❼太田屋 ● 愛媛県農林水産研究所 く 鹿島城跡 松山市役所北条支所 (市民会館・北条コミュニティセンター) P11 ● 愛媛県農業試験場 ・ ・・・ ・・ ・・ ・ 東町浦公園 ● 鹿島渡船場 髙橋邸 佐倉神社 (佐久良神社) 四・朧 北条港 中通 橋五井邸跡 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ● ● 上難波 大師橋 五・ 鹿島神社 御旅所 ❸風早いちや ※滞在時間は 含みません。 ほっきょう 法橋運動広場(ゴール) 六・門田兎文邸跡 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ P14 鹿島 ❽太田屋 北条本町 三穂社 難波小学校 ほっきょう 法橋運動広場(ゴール) ・・ ・・ ・・ ・・ ・ ・・ ・・ ・・ ・・・ ・・ ・・ ・ 明星川「神輿みそぎ」 北本町 ● 339 ※畑の畦道に 入ります 讃線 北条バスターミナル 北条 さいみょう じ 最明寺 約25分 高土手 約15分 立岩川沿い(大師橋) 約15分 赤坂神社 恵良神社 (里宮) ! ! 風早一茶のみち ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 ● 法橋運動広場(スタート) 約10分 海岸沿い(石風呂川河口) 約20分 鎌大師堂 約15分 大通寺 約25分 立岩川沿い(大師橋) 約15分 風早の大氏神 北条 P13 3 立岩橋 P10 最明寺 ほっきょう 法橋運動広場(スタート) 約10分 海岸沿い(石風呂川河口) 約20分 鎌大師堂 約30分 さいみょうじ 難波公民館 ● JR 予 風早宮大氏神大濱御旅所 「海中お引き上げ」栄町 (7km・約2時間)(5km・約1時間30分) 風早のおすすめスポット 下難波 お手軽コース ほっきょう 三島神社 スーパー ※車道横断 注意 のんびりコース ▲ 恵良城跡 貴布袮神社 ❷めん処 かわよし 北条公園 ほっきょう ● 法橋運動広場 たていわがわ 風早「一茶のみち」 ※細い山道に 入ります (分岐点注意) 大通寺 立岩川 風伯神・ 恵良神社 「風祈祷」 鎌大師堂 スタート/ゴール のんびりコース お手軽コース 恵良山 [302m] ※電柱の陰で見えにくく なっております P7~9 ※車道横断 注意 石風呂川 風早「一茶のみち」 2 「一茶のみち」の道標 四 国・愛 媛・松 山へ い つき 斎 ● ● 道の駅 ふ わ り 風早の郷風和里 一茶の歩いた道 北条青少年 スポーツセンター 一茶 の 句 と と もにその 足 跡 を た ど り ながら 、 ❶味工房 花へんろ 長浜海水浴場 ● 風 早 の 歴 史 と 自 然 に 触 れてみ ませんか 。 鴻ノ坂 ▲ 1 かざはや 波妻の鼻 よ うこそ ↑至 浅海 網代神社 大浦の夫婦岩 E 初版発行者旧北条市、第2版風早一茶の会 門田協之介氏御文章を補記・改訂 500m 1km 凡例 神社 寺・仏堂 城跡 駐車場 名所・旧跡 バス停 北条鯛めし又は主な その他グルメスポット 院内 ◆伊予路の一茶 五十日の足跡(参考文献) ・和田茂樹著『小林一茶寛政七年紀行』(愛媛出版協会) ・長野県信濃町他関係自治体発行『一茶と歩く北信濃』 ◆風早一茶のみち(参考文献) ・松山市立子規記念博物館発行『俳句の里 松山 (平成25年3月) 』 ・門田圭三著『千寿の松の物語り(平成18年1月18日)』 ・門田圭三著『花の旅かさ・花なれや-一茶・兎文の歌仙発見- (平成20年12月22日) 』 ◆風早の大氏神 (参考資料) 風早宮大氏神社務所発行パンフレット ◆題字揮毫 書家 髙木 朝井 1 A Y A a s i 立岩川から鹿島を望む 小林一茶が初めて伊予路を訪れ、この 世に云う一茶の「漂泊時代」で、当地に来 旅を続けて修行に努めています。これが 寛 政7 年(一七九五 ) 一茶は 西国行 脚 の途 中、四国に 入る 風早の地(松山市北条〈旧北条市〉 )に足 たのは、ちょうどそのなかばのころでした。 い を踏み入れたのは、寛政7年(一七九五) 一茶が伊予に来た目的は、その紀行文 を打 ち明け、教 示 を得 たいとの思いを 庵の継承と現下の窮状について、心の内 寺の庵主)を訪ね、恩師亡きあとの二六 死去後、恩師の親友であった茶来(最明 さらい がら、この旅の本来の目的は、師の竹阿の ような行動がとられています。しかしな に、実際の旅程もその開花日に合わせる 見ようと、思いついてのこと」とあるよう の最初に「有名な十六日桜(孝子桜)を じゅうろくにちざくら 正月 日 (旧暦) で、 彼 才のことでした。 年(二〇一五) このときの紀行文が『西国紀行』として 残っています。本年平成 は、ちょうど「一茶来遊から二二〇年目 ①腰折山・恵良山(石風呂川沿いから鎌大師堂) s i K A Z s V 周年をも記念す の慶節」を迎えました。そこでこのたび 松山市・北条市合併 る形で、旧北条市が発行した「一茶の道」 パンフの内容を基本踏襲しつつ、散策経 路のビジュアル化や周辺観光スポットも 盛り込むなど、大幅に増補改訂版とし て上梓することになりました。さらに好 評を博しこの度発行4ヶ月にして版を 重ねることになりました。 一茶は今では歴史上にも名を残す有 名な俳人ですが、当時は全く無名の俳 諧師でした。 彼は信濃(長野県)の寒村の農家の長 男として生まれましたが、 才のとき江 戸に奉公に出され、貧しい中で俳諧を志 ちくあ し、二六庵竹阿に就いて猛烈な勉強をし 才から 才ころ ましたが、竹阿が寛政2年(一七九〇) 、 死去すると間もなく みち まで、九州や四国を中心に放浪・遍歴の みず なり ふめば水也まよひ道 おぼろおぼろ く 朧 (最明寺建立の句碑) 句意からは、折からの十三夜もくも りがちのなか、雨上がりの水たまりに足 をとられ、行方も知らず迷い歩いたこと が伝わってきます。 ごせい あて とほ 持っての来訪ではなかったかと思われま す。 ひのくちむら 『西国紀行』によりますと「正月十三 日、樋口村(波方町)などいへるところを と はべ すで あと 過ぎて七里となん、風早難波村、茶来を こふ ゆるされず 尋ね訪ひ待りけるに、巳に十五年迹に死 にきとや。後住西明寺に宿り乞に不許 (後任の住職に一夜の宿を懇願したが許 してもらえない) 」 「前路三百里(はるば る江戸から300里) 只、 かれ (茶来) をち からに来つるなれば、たよるべきよすが もなく、野もせ庭もせをたどりて (野原 や庭やら判らぬままに歩き廻って) 」 … ました。 この時の発 句は、遠来の客人一茶で、 これが前掲の「門前や …… 」の句で、形 式に従って 句ができ上り、見事満巻と なりましたが、この満巻したはずの歌仙 はその後行方知れずとなっていました。 年(二〇〇〇) 月、若き天才俳 ところが、 200年以上の歳月を経て、 平成 いた歌仙が、 一茶の生誕地近くの信州湯 諧師・一茶と風早俳壇の泰斗・兎文が巻 3 「百歩ほどにして五井(髙橋五井翁邸) かど さぐ を訪ね当て、やすやすと宿りて」 つきおぼろ 月朧よき門探り当たるぞ (髙橋邸建立の句碑) このくだりは、落胆・苦悩していた一茶 が、 一転して五井邸の歓待に感激した様子 が、文面に如実に溢れていて『西国紀行』 中、秀逸・圧巻の項と云われています。 「十四日、十丁程( ㎞余り)八反地村 とぶん 兎文(風早郡大庄屋・門田与左衛門、俳号 なんまんごく 曉雨・曉堂とも)に泊まる。 」 もんぜん 門前や何万石の遠がすみ にじょうあん (門田邸建立の句碑) 「歌仙満巻して、十五日、松山二畳庵 に至る。 」 当時、上難波村髙橋邸と八反地村門 田邸との間には真直ぐに行ける路があ りました。 日はおそらく、五井翁自ら が案内役となり、兎文邸を訪れたもの と思われます。その夜は風早の有力な 36 36 俳人数名が集まり俳諧の座が設けられ 12 27 15 ②鎌大師堂 33 10 30 1 ③大通寺近くの山道 ません。 思いをはせて頂ければ、誠に幸甚に堪え 封以来) を数える古代ロマン風早の地に、 700年(風早初代国造・物部阿佐利入 くにのみやつこ も の の べ の あ さ り を間近に感じながら、思いは遥か開府1 ずまいや、恵良山・腰折山の雄大な自然 えりょうさん こしおれやま ただき、往時をしのぶ長閑な農村のたた のどか 今に遺す「風早一茶のみち」をご散策い 20年の星霜を経て、 一茶来遊の足跡を 拙誌を手に取っていただいた皆様、2 やの卷」を見ることができます。 連句二十巻のうちの第九巻目に「門前 手 帳『日々草(百 十一巻) 』の中の、掲 載 にちにちぐさ されたのです。この時、発見された一茶の 旅館「湯田中湯本」別棟湯薫亭で、発見 とうくんてい 田中温泉(長野県下高井郡山ノ内町)の ⑥最明寺より高縄山を望む ⑤最明寺の一茶座像レリーフ ④最明寺 13 H A 220 年 3 4 14 K o 風早 来遊 へ 早 風 に い 会 に 友 の 師 恩 に 、 前 で も そ の b … の 「 孝 子 桜 」 が 観 た い 下 城 山 松 d I 小林一茶 2015 年 a e t i h s a y 1777( 安永6年) 15 春、江戸に奉公に出る。 1781(天明元年) 18 6月14日、西明寺住職茶来没(享年47才)。 大三島 1787( 天明7年) 25 この頃、葛飾派(芭蕉の親友山口素堂を祖)三 世溝口素丸の執筆(内弟子)になる。 また、葛飾 伊豫国一宮 大山祇神社 派二六庵竹阿・今日庵元夢にも師事する。 1791( 寛政3年) 29 4月、14年ぶりに帰郷する。 「寛政三年紀行」 風早 国、中国、九州などを俳諧行脚。樗堂、闌更など 21 ※❶~●は最近の建立も 含め、現存する句碑 1803( 享和3年) 41 江戸本所の愛宕社に住み、 しばしば房総方面 年まで「文化句帖」 を書く。 「文化句帖」 13 ちょうとず か せい たびね き りゅうてい 日 新浜(新居浜市)豪商髙橋家騎龍亭に泊。 才)五井邸泊。 帳閉る加勢もせずに旅寝とは( 新居浜市滝の宮町真光寺・髙橋騎龍墓)❹ (新居浜市西の土居町・観音堂南弁財天宮)❹ - 住職の文淇禅師(俳号は月下庵茶来)は既に逝去(享年 47 10 日 中村(現西条市三芳)泊。 日 今治、卯七(河上桃泉亭)不在。波止浜、花雀亭泊。 日 風早難波西明寺(現最明寺)を訪ねる。 13 12 11 く 朧 ふめば水也まよひ道(最明寺・難波校区)❺ 月朧よき門探り当たるぞ(髙橋邸・難波校区)❻ 日 八反地村、兎文邸泊。(往路) * 14 門前や何万石の遠がすみ(門田邸・正岡校区)❼ 『※ 花見の記』 より 日 松山、樗堂二畳庵に到る。 りょうおんじ じゅうろくにちざくら ぎょぶん 日 山越・龍穏寺山内の「十六日桜」見物。魚文邸に正風三尊幅を見る。 16 15 こ 10 20 風早初来遊 又た くひ世は梅さかり此の桜 ( 御幸一丁目龍穏寺)❽ しょうふう 正風の三尊見たり梅の宿(勝山町・分離帯)❾ ほう じゅう 10 ●道後公園 北入口の句碑 寝ころんで蝶泊らせる外湯哉(道後公園北入口)● 5日 松山城下発、三津浜に迂回、松田方十邸(方十亭)に6日間滞在。 こぶか り 9日 小深里(港山)の洗心庵で句会。 汲みて知るぬるみに昔なつかしや 遥して 21 旧懐の俳諧して 浦辺を にな蟹と成て女嫌れな 山やく山火と成りて日の暮るる哉 梅の月一枚のこす雨戸哉(句碑が旧川之江市川滝・椿堂)● 15 日 八反地村、兎文邸泊。(帰路) 日 波止浜花雀亭泊。 そうげつあん 日 巣月庵を訪ねる。 日 中村(旧東予市三芳)泊。 17 11 19 15 14 11 庄内村(旧東予市)実報寺桜見物。 19 18 遠山と見しは是也花一木(旧東予市実報寺)● 6 没後、次女やたが生まれる。 い 1828(文政11年) 20 いで 11月19日亡くなる (新暦1828年1月5日)。 12 前神寺 1827(文政10年) 65 柏原の大火で母屋を焼失。焼け残りの土蔵で、 13 御百度や花より出て花に入る(西条市前神寺)● 1826( 文政9年) 64 3人目の妻やをと結婚。 お も亡くなる。 1824( 文政7年) 62 飯山藩士の娘と結婚するが、 まもなく離婚。 14 日 大町(西条市)はたごやに泊。 日 逗留。 1823( 文政6年) 61 5月、妻きくが37才で亡くなる。12月、三男金三郎 21 20 起きて見れば春雨はれず日も暮れず もも あけ き る おとこね む げ な り 桃の明スサ切男眠気也(この2句外 西条神社)● 綱町荒川草水らと交遊が始まる。 「文政句帖」 16 おがみあぐ かしら 1822( 文政5年) 60 「文政句帖」 を書き始める。中野の山岸梅塵・飯 日 都英子と伊曽乃神社に参詣。 にまとめる。 「八番日記」 「おらが春」 1821( 文政4年) 59 正月次男石太郎が亡くなる。 22 拝上頭に花の雫かな(西条市伊曽乃神社)● 1819( 文政2年) 57 6月、 さとが亡くなる。1年のできごとを 「おらが春」 つたな 1818(文政元年) 56 長女さとが生まれる。 ら くがき 豊町御手洗満舟寺に墓あり。 1816(文化13年) 54 長男千太郎が生まれるが、1ヶ月で亡くなる。 24 23 日 藤田橘平の誘いで、新居浜市沢津、阿弥陀堂泊。 日 田ノ上の庄屋、小野周胤の影香舎に泊。 のどか にわすずめ 長閑さや雨後の縄はり庭雀( 新居浜市沢津二丁目・阿弥陀堂)● 日 暁雨館を再度訪ねる。3日泊。 日 住吉神社(土居神社)に詣で、医王寺に泰山和尚を訪ねる。 8月21日、栗田樗堂没(享年66才)。広島県呉市 おつはるてい 行する。 「三韓人」 26 25 楽書の一句拙し山ざくら(土居神社)● 田中の湯本希杖を訪ねる。 「志多良」 1814(文化11年) 52 きくと結婚。江戸俳壇引退記念集「三韓人」 を刊 き ぢ 1813(文化10年) 51 遺産交渉が和解、故郷柏原に定住が決まる。湯 日 泰山和尚と土居乙春亭を訪ねる。 1812( 文化9年) 50 11月、故郷永住を決意して帰郷する。 「株番」 27 雨かすむ貴地のあの山めづらしや( 四国中央市土居町・乙春亭跡)● 春集」 みょうが 1811( 文化8年) 49 「俳人番付」で最上段の前頭5枚目となる。 「我 、川之江三角寺に詣で、五梅のもとへ帰着。 日 三島大山積神社(三島神社) 1810( 文化7年) 48 「七番日記」 を書き始める。 「七番日記」 月 松春甫など長野市長沼との交遊がはじまる。 1809( 文化6年) 47 小布施町六川や高山村久保田春耕を訪ねる。 16 28 日) 冥加あれや日本の花惣鎮守(旧伊予三島市・三島神社)● くだ り の のぼ 菜の花や上り下里乃十八丁( 四国中央市上柏町・山上集会所)● のぼ これ やまざくら 是でこそ登りかひあり山桜(四国中央市・三角寺)● 1808( 文化5年) 46 父の遺産を折半する契約を弟ととりかわす。村 再訪 4 1807( 文化4年) 45 父の7回忌に帰郷、故郷に門人が増え始める。 2月1日 道後温泉 (新暦 へ行脚。 「享和句帖」 1804(文化元年) 42 成美らの句会に出るようになる。文化元年から5 じふう れる。 「父の終焉日記」 20 ● 19 ❶● 三角寺 をめぐり、弟と対立。 この後、何度も交渉が行わ 入野 ❷❸ 16 ● 観音寺 川之江 15 ● 14 伊曽乃神社● 13 西条神社● 三島 新居浜❹ 三島神社 1801(享和元年) 39 3月帰郷、看病の末、5月父が亡くなる。遺産分与 西条 12 前神寺 ● 10 松山 ❽❾● 17 ● 三芳 (中村) 土居 師として暮らすようになる。 「さらば笠」 國津比古命 神社 11 ● 道後 土居神社 知人の庇護を受けたり、房総をめぐり、巡回俳諧 八反地 18 ● ● 21 小松 1798(寛政10年) 36 江戸に帰って二六庵を継ぐが、一門を築けず、 今治 実報寺 訪れる。 三津浜 この後、寛政8~9年にかけて再び風早・松山を ❺❻❼ 難波 高松 丸亀 ご ばい 多くの有力な俳諧師と知己になる。 「寛政句帖」 波止浜 ぎょう うかん 1792( 寛政4年) 30 3月、西国行脚に出発。寛政10年まで京阪、四 「旅拾遺(たびしうゐ)」 下津井 伊予路 の一茶 呉 1776( 安永5年) 14 祖母かなが亡くなる。 この頃、風早西明寺火災。 冬の月いよいよ伊予の高根哉 ● 1772(安永元年) 10 弟仙六(のち弥兵衛)が生まれる。 1795( 寛政7年) 33 伊予路を訪れる。 「西国紀行〈寛政七年紀行〉」 藤戸 尾道 1770( 明和7年) 8 父弥五兵衛が、 はつと再婚。 (継母と折合い悪し) 西国紀行 これは 伊 予 国への 旅 を 企 図 し た 決 意 の 句 で す 。 来 遊 中 、一茶 は 多 くの 句 を 詠 み 、 風 早 では 三つの 句 を 残 していま す 。 愛 媛 県 にあ る一茶 関 連 句 碑 は 余 か 所 あ り ま す 。 1765( 明和2年) 3 母くにが亡くなる。 岡山 梅が香をはるばる尋ね入野哉(暁雨館跡)❷ ゆき も ど たず いり の は なみかな 行戻り尋ね入野の花見哉( 四 国中央市土居町入野・土居神社)❸ 本名弥太郎 26 しづけしや春を三島のほかけ舟( 四国中央市中曽根町・三島公園)❶ 一茶・瀬戸内 ロード マップ 1763(宝暦13年) 1 5月5日、長野県信濃町柏原の農家に生まれる。 2 五十日 足 の 跡 できごと ( 「」 は著書) (竹阿の門弟五梅が住職) を発つ。 土居島屋に泊。 1月8日 香川県観音寺市にある専念寺 齢 (新暦 月 日) 西暦(年号) 9日 入野(四国中央市土居町)の暁雨館に山中時風(庄屋)を訪ねる。 小林一茶の生い立ち 2 1 *師の竹阿から教えられた、狩野探雪の絵に素堂・芭蕉・其角が賛えつけた「俳諧三尊画賛」のこと。 5 一 風 早の「一茶 の み ち」 今 から 半 世 紀 前の昔、昭 風 早 の「一茶 の み ち」は、 ・ 日の2日間に歩んだ風 真筆)による一茶の句碑3基 して真蹟(実際に書いた筆跡・ 風 早 来 遊170周 年 を 記 念 ま た 句 碑 が 整 備 された「最 芭 蕉 塚のある「鎌 大 師 堂」、 である「鴻ノ坂」を 起 点に、 早の地を紹介するもので、峠 年(一九六四) 、小 林一茶 が建立された。風早の「一茶 明寺」、 「髙橋五井邸跡」、 「門 和 のみち」は、一茶と同じ道を 田 兎 文 邸 跡」まで約 ている。 道の傍には案内碑が建立され な お、鎌 大 師 堂の 横の 小 なっている。 楽しめる適 度な散 策コースと こ うのさ か 歩いて 足 跡 を 訪 ね る、句 碑 道 程で、案 内 看 板 等 が 整 備 し んせ き 巡 りの散 策 道 として整 備 さ さ れてお り、自 然 と 文 学 を ㎞の れたものである。 寛 政7年(一七九五)、一茶 く り た ち ょど う は栗田 樗 堂(酒 造 業 を 営み、 歳 年 上)を 訪 ね、両 吟 町方大年寄も務めた。一茶よ り 歌 仙『水 流れ(柳)』の巻な ど三巻を巻いた。また目的の 日に風 早 郡 上 難 波 村の は「大 師 松」と 呼 ばれ る 巨 の夕 刻 頃 だった と 思 われる。 辺りにたどり着いたのは早春 の小文』で行脚の疲れを吐露 年(一六八八)4月、芭蕉が『笈 け刻印されているが、元禄元 石 碑 に は「芭 蕉 翁」と だ 養塔として塚を建てたもので 紙などを埋めて、その上に供 り は、自 筆 句 歌の短 冊、懐 「句 碑」・「歌 碑」のはじま にあるいは見たかもしれない。 セン ケ イ JR伊予北条駅から車・タクシーで約5分(約2km) 北条公園(法橋運動広場) から徒歩30分(約1.7km) 難波 小学校 十六日桜を見るため初めて松 山 藩 領 を 歩いた。旧 暦の 月 西 明 寺(現 在の最 明 寺)を 訪ね、髙橋五井邸に泊まり、 その翌日は正岡郷八反地村の 門 田 兎 文 邸に 泊 まっている。 なお、1月 日に松山に向か い、樗 堂の二畳 庵に到 着して いる。 日、一茶がこの鎌大師堂 松の根 方にあった。この松が 来た時にはこれを見る暇もな 月 枯 死 し たため 移 さ れ、現 在 く 俳 友 が 住 ま う 西 明 寺へと 鎌 大 師 堂の芭 蕉 塚 は、元 は吉井勇の歌碑の右側に並ん した文を前書きとして詠んだ あった。後に、句・歌だけを 急いだと考えられるが、帰途 句「草臥れて宿かるころや藤 刻印した石碑を建てるように で建っている。 の花」に因んだ筆跡を埋めた なった。 と う か づか くた び 塚ではないか とされてお り、 ひ いん 「藤花塚」とも呼ばれる。 碑陰(石碑の裏面)には、 ニヨ ウ 「寛政五癸丑年秋中元日 ハク ト 藤花塚築之 ジョユウ ホセキ 二要 扇谿 バイチョウ コミョウ 白莵 壺茗 圃夕 カコウ ト ブン 松山 兎文 トユウ 風早 杜由 可興 梅長 恕由」 とあり、 一茶に宿を与えた「兎 文」の名も見られる。 この塚は一茶が松山を訪ね る2 年 前 に 建 立 さ れている が、寛 政7年(一七 九五)1 最明寺 貴布祢神社 二 芭 蕉 塚( 藤 花 塚 ) 1 4.5 最明寺 貴布祢神社 三島神社 大通寺 三島神社 大通寺 下難波公民館 14 ● 15 7 8 池 池 JR伊予北条駅から車・タクシーで約5分 (約2km) 北条公園(法橋運動広場) から徒歩30分 (約1.7km) 鎌大師堂 鎌大師堂 ● 難波 小学校 下難波公民館 13 一茶来遊碑 13 芭蕉塚 松山市下難波(鎌大師堂前)MAP:C-2 松山市下難波(鎌大師堂)MAP:C-2 39 14 13 こしおれ 北に、腰 折 山 という 特 異 な この歌碑のある鎌大師堂の 滞 在していたことから、伊 予 設 け、また 伯 方 島にも 長 期 吉 井 勇 は、高 知 県に草 庵 を こし お れ や ま 形をした山がある。 山が沖合に投げ込まれて今の 島 山 とが相 撲 を 取 り、鹿 島 伊 豫の二 見 はか しこか り け ありて天つ日ありて海ありて 鹿 島を訪れた際には、「岩 の地も度々訪れている。 鹿島となった。相撲に負けた り」と 詠 じ、現 在 歌 碑 が 鹿 伝説によると、この山と鹿 鹿 島 は、腹 立 ち ま ぎ れに 大 島に建つ。 なお、先の碑のある鎌大師 き な 岩 を 投 げ 付 け た。それ が 腰 折 山の中 腹に 当 たって、 堂 は、歩 き 遍 路の道で北 条 る。かつては「大 師 松」とい 腰 が 曲 がった よ う な 格 好 に ま た、この 腰 折 山 は、伊 う巨松があったが、それも平 から浅 海への峠の上 り口にあ 予 節にも 歌 われる「コカキツ 成6年に枯死してしまった。 なったそうである。 バタ」が、春 先に薄 紫の花を 咲 かせることで も 有 名で あ る。正 式 名 称 は「エヒメアヤ メ」。国の天然 記 念 物に指 定 さ れてお り、「タレユエソウ」 という 別 名 も ある。麓のエヒ メアヤメ保 存 会によって保 護 され、今 もやさしい姿 を保っ ている。 この歌 は、そのほっそ り と したコカキツバタの姿に、思う た『其日 ぐさ』を 頼 りに、西 一茶の師二六庵 竹 阿の著し 俳 諧 師 を 泊 め る こ と はで き 檀 家 の 手 前 とて も 遊 行 す る が聞こえ始めた頃とはいえ、 人 をだぶらせて詠んだ もの。 明寺(現最明寺)に辿りついた くして一茶は、西明寺を出て かねたのが真相であろう。か 代住職竹苑文淇上 一茶であったが、竹阿の俳友で、 西明 寺 とぼとぼと歩き始めた。 最 明 寺 境 内には 揚 出 句の ほか、茶来の JR伊予北条駅から車・タクシーで約5分(約2km) 北条公園(法橋運動広場) から徒歩30分(約1.7km) 難波 小学校 下難波公民館 三 こかきつばた (吉井) 勇 みずなり 人(月下庵茶来)に面会を求 めたところ、 年前(天明元年) に亡くなっていた。 ( 才) 一茶 は、 『3 0 0 里の 道 を 枝おれて 松山市下難波(鎌大師堂)MAP:C-2 松山市上難波(最明寺)MAP:D-2 腰折の小燕子花は いちらしや いとしき人の なさけにも似て 四 おぼろ おぼろ く 朧 ふめば水也 みち まよひ道 小林一茶 茶来に会いたい一念でここま 何と這ふべき もに本堂横に立っている。 という句碑が、 「供養塔」とと (月下庵)茶来 蔦かづら で来 たのに』と大いに 落 胆、 その上、一夜の宿を求めたが、 う さ ん く さい 風 体 を 疑 わ れ たのか、住職がおらぬからと 断られた。実はこの仕打ちに はほかならぬ背景があった。 茶 来 が 亡 く な る5 年 前、安 永5年(一七七六)に西明寺 は 火 災 で 焼 け て お り、更 に 茶 来 の 没 後 は、住 職 が 何 人 も 交 替 するな ど護 持 運 営に 混乱を極めていた。一茶来訪 時 はよ う や く 上 難 波 村 や 檀 家の 支 援 に よ り 再 建 が 緒 に 就いた頃であった。由緒ある 池 9 10 47 15 古 刹 を 焼 失 し、再 建 の 槌 音 鎌大師堂 JR伊予北条駅から車・タクシーで約7分 (約3km) 北条公園 (法橋運動広場) から徒歩60分 (約3.5km) 最明寺 貴布祢神社 最明寺 ● ● 貴布祢神社 難波 小学校 下難波公民館 歌碑 池 鎌大師堂 ● 三島神社 大通寺 句碑 三島神社 大通寺 11 なお、五井邸跡の庭先にこ ている。 は、す ぐ 近 くにある 上 難 波 の句を刻んだ句碑が建立され やがて、西明寺を出た一茶 村の庄屋、柳々庵五井邸にた 「最 明 寺」には、一茶 の 風 ているが、今は人が住んでお で、人 情に厚い人 物であった 早 来 訪200 年 を 記 念 して どり着き、泊まることができ ことから、快諾したものであ 作られた「一茶座像レリーフ」 らず、句碑を見ることはでき ろ う。天 保 5 年(一八 三 四) があ り、その基 壇に、「雀の た。五 井 は本 名 髙 橋 伝 左 衛 に没している。ちなみに五井 子 そ この け ない。 という 俳 号 は、屋 敷 内に 井 る」、「や れ 打つな 蠅 が 手 を 門といい、俳句を嗜む風流人 戸 を掘 り五つ目にやっと良 水 す り 足 を す る」、「痩 がへる やせ 御馬が通 に恵まれたからといわれる。 ま け る な一茶 是 に あ り」の 髙橋工業 3句が刻まれている。 く さて、一 転 して 宿 を 得 た 一 茶は、「百 歩ほどにして五 井 を 尋 ね 当てや すや す と宿 りて」と前書きして かどさぐ つきおぼろ 月朧 あて よき門探り 当たるぞ と、その心 情 を 詠 んでいる。 「百 歩 ほ ど」と あ る が、「最 明 寺」か らこの「髙 橋 五 井 邸跡」まで400 位は離れ もんじょ 風 早 平 野 と、その視 野の中 に 入 る 数 戸の門 前 集 落の添 日、五井 邸を出た一 茶は、1㎞ほど離れた八反地 景といわれる。 日、兎 文 邸 を 出 た一 楽しんだ。それが一茶懐中手 1泊し、歌 仙 を巻いて大いに 下、栗 田 樗 堂の二畳 庵に 到 茶は、その日のうちに松山城 翌 上難波 会堂 日に再 度 兎 文 邸 を 訪 かったようである。 てお り、とて も 居 心 地 が 良 れている。この時は3泊 もし 2月 な お、松 山 か ら の 帰 路、 着している。 にちにちぐさ 年発 帳の『日々草・百 十一巻』に 兎 文、別 号 暁 堂 邸 を 訪 ねて 村(現松山市八反地) の庄屋、 1月 句碑 五 ごせい 橋五井邸跡 六 とぶん 門田兎文邸跡 納められていた(平成 もんぜん 句で区切りをつけるも そうしょうじ 宗 昌 寺 跡( 玉 社に 連 なる とは 門 田 邸 西 隣 り に あった 句を詠んだのである。「門前」 ので、座に招かれた一茶が発 いき の参加者が次々と句を詠んで 「歌仙を巻く」とは、句会 (小林)一茶 遠がすみ とほ 何万石の なんまんごく 門前や に没している。 門といい、 文化6年(一八〇九) 見) 。兎文は本名門田与左衛 12 桜 うづまき 酒造㈱ 11 12 JR伊予北条駅から車・タクシーで約7分(約3km) 北条公園(法橋運動広場) から徒歩70分(約4km) 句碑 ● 難波 難波 小学校 桜うづまき 酒造㈱ JR伊予北条駅から車・タクシーで約4分 (約1.5km) 北条公園 (法橋運動広場) から徒歩40分 (約2.5km) 正岡小学校 ● m 丘に 移 転)から 望 む 広 大 な 川 松山市上難波 MAP:D-3 正岡小学校前 15 11 立岩 松山市八反地 MAP:C-4 桜うづまき 酒造㈱ 14 36 さいと 祭都!風早 「一茶のみち」から足を延ばして行ってみよう! 國津比古命神社 風早のおすすめスポット くにつひこのみことじんじゃ の 古社 良縁 どう 神輿落とし (「動」の祭) せい 宵の明星 (「静」の祭) 祭 中日に 玉 社 の 神 輿が 「お忍び の 渡 御」をします。 これは姫神と共に国造神主 の祈りによって氏子の幸せを 祈る神婚特殊神事です。 行事名 清祓式 (宵宮祭) 連休初日午後7時から 連休初日午前9時から 日 時 連休前日午後8時ごろから 〃 ( 玉社↓國津社) 〃 (國津社↓ 両社 玉社 参道・正岡小学校 にぎはやひのみこと 秋季例大祭 連休初日午後8時 分ごろ 両社 國 津 比 古 命 神 社の主 祭 神である饒 速日尊の妃 神をお 動座祭 連休中日午前3時ごろから 祭りしているのが 玉比賣命神社です。寛永年間(西暦 宵の明星 連休中日午前6時 -) -) 3 3 1624年〜1645年)に古墳によりそうよう北向 神迎え屋台練り B きに遷され、夫婦の神様が向かい合って祭られています。 宮出し ( 連休中日午前8時 分ごろから 栄町・大濱 神社参道・境内 MAP MAP B 30 場 所 海中お引き上げ 連休中日午前8時 分ごろから 大濱御旅所 ( 50 15 玉社) 御旅所祭典・神楽 分ごろ 神社境内石段 連休中日午後1時ごろから 宮入り・神輿落とし 連休中日午後4時 神送り屋台練り 秋祭り関連行事の日程 30 はったん ぢ 普 段 は 物 静 かな 八 反 地 界 隈 、 見においでよ! 初 詣 や 秋 祭 りは 人 で 賑 わいま す 。 JR伊予北条駅から車・タクシーで約5分(約2km) JR伊予北条駅から徒歩約30分 くにたま も の の べの あ さ り 松山市八反地 MAP:D-4 お お う じ が み くにのみやつこ 風 早の先 人はこの郷に国 魂 を 感じ素 朴にお 祭 りして 玉 饒 速日 尊 と あ まてるくにてるひこあめのほあかり くしだまにぎはやひのみこと いました。国 造である物部阿佐 利はこの国魂を敬いつつ、 う ま し ま ぢのみこと 自 身の祖 神である天 照 国 照 彦 天 火 明 ひのこ と まつり 月体育の日を 含む三連休に斎行 宇麻志麻治命を合わせてお祭りしたことに始まります。 か ざ はや 風 早の火 事 祭のいわれ 主祭神である饒速日尊を形容する「天火明」とは秋、 田 畑に稲 穂 がたわわに実っている 様 子 を 表 していま す。 「火」 は太陽であり自然の恵みで 「事」 は感謝することです。 火事祭とは自然の恵みに感謝することで、この「火」は 文化の森公園 北 条 ふるさと館 ぶんかのもりこうえん ほうじょうふるさとかん 10 祭神は、 物部氏に連なる開拓神 平成25年 (2013) 秋、伊 勢 神宮では20年に一度の式年 遷宮が行われました。同様に 当社の宮入神事では来年ま た新しい神輿に神を迎える為 に、毎年神輿を壊します。 社殿の提灯、またダンジリの提灯のなかにも生きています。 庄薬師堂 ぜんのうじ しょうやくしどう 善應寺 道の駅風早の郷 みちのえき 風和里 ふかわざりはやのさと 高縄山を借景に緑豊かな都市公園。遊歩道も完備され、 一角にはキッ ズ向けに船形遊具からローラースライダーも滑れる。館内には「歴史 民俗資料展示室」や「美術品等展示室」を備え、風早地方出土 の発掘品や郷土史の紹介、地元出身画家の作品を展示している。 松山市河野別府(松山市広域図❺)MAP:B-5 ☎089-993-3266 (北条ふるさと館) ※「風早(かざはや) 」…古代から拓けた当地方(旧北条 市・現 松山市 北 条エリア)の呼び名 。 元 風 早郡。 14 一願 成 就 かしま 約400mの海上にある周囲 1.5km の島。野生の鹿が生息して おり、島内には歌句碑も多く文学の島としても知られている。 平成 26 年 8月に「恋人の聖地サテライト」に認定された。 松山市北条辻(松山市広域図❶)MAP:A-3・4 ☎089-948-6555 (松山市観光・国際交流課) 平安初期の木造菩薩立像は、国の重要文化財に指定されて いる。本尊の薬師如来坐像は、室町後期の作。 松山市庄(松山市広域図❸)MAP:D-4 ※拝観には事前予約が必要。 ☎089-992-3658(十輪寺) パワースポット 風 早 の 大 氏 神 鹿島 高 縄山( 高 縄 寺 ) たかなわさん(たかなわじ) やさしい潮風が心地よい道の駅。新鮮な野菜・魚を販売する 特産品販売所やレストランなどがあり、地元の味を楽しめる。裏 の高台からは瀬戸内の島々を楽しむことができる。 松山市大浦(松山市広域図❻)MAP:B-1 ☎089-911-7700 くしだまのひめのみことじんじゃ 夫婦神 心 地よい潮 風が 歩 みを誘ってくれるかも。 建武 3 年、河野通盛により建設された。一度焼失したものの、 江戸時代中期、徳川吉宗の加護を受け再建された。室町期 の古文書など、河野家の貴重な資料が残されている。 松山市善応寺(松山市広域図❹)☎089-992-0844 玉比賣命神社 延喜式内社 松 山 市 風 早 地 方には自然 や 歴 史 文 化を感じられるスポットがあります。 高縄山 (986m)の山頂近くにある河野家の祈願所。県指定の 十一面千手観音立像がある。近くには、しだれ桜の老木や樹 齢600余年の 「千手杉」 がある。 松山市立岩米之野(松山市広域図❷)☎089-943-9242 かざ はや ※屋台とはダンジリのこと。 日の丸の笹花で飾ります。 松山市高田 MAP:D-4 JR伊予北条駅から車・タクシーで約5分(約2km) JR伊予北条駅から徒歩約30分 13 松山市広域図 市外・県外からの松山市へのアクセス 広島 至 広島・呉 松山市 高松 鳴門 睦月島 ❸庄薬師堂 風早「一茶のみち」 たていわがわ の ぐつ な し ま 徳島 河野川 JR柳原駅 津島岩松IC JR粟井駅 予 讃 線 ICから風早 (北条) までのアクセス 粟 JR光洋台駅 石 手 川 山 港 2 3 石手川ダム 317 JR伊予和気駅 JR三津浜駅 道後温泉 437 JR松山駅 石手寺 ● ● 松山市役所 松山市駅 松山空港 56 33 JR市坪駅 1 川 権現温泉 松山城 ※JR特急はJR伊予北条駅を通過する 場合もありますのでご注意ください。 0 井 ❷ 高縄山 [986m] (高縄寺) 松 ■大阪から 飛行機で約50分→松山空港 JRで約3時間20分→JR伊予北条駅 ■広島から フェリーで約2時間40分→松山観光港 川 円明寺 ● 太山寺 ■東京から 飛行機で約1時間20分→松山空港 ■岡山から JRで約2時間30分→JR伊予北条駅 ▲ ❹善應寺 196 ● 県外から松山市までのアクセス 山 JR堀江駅 松山 観光港 ■今治ICから 車で約35分→JR伊予北条駅 N 高 ● ■松山ICから 車で約50分→JR伊予北条駅 ❺ 文化の森公園 北条ふるさと館 ● 灘 野忽那島 立岩川 ● JR 伊予北条駅 ● ❶ 鹿島 いつ き な だ 宇和島北IC 至神戸・大阪 風早地方マップ (P1-2) ● 斎 中 伊予大洲 島 今治 瀬戸大橋 JR大浦駅 ❻ 道の駅 風早の郷 ふ わ り 風和里 高知 至 臼杵・ 別府 宇和島 川内IC しまなみ海道 伊予西条 八幡浜 尾道 今治IC 松山IC 岡山 福山 呉 ※❶~❻はP14に 紹介があります。 4km 松山IC 11 川 重信 松山市中心部から風早(北条) へのアクセス リムジンバスで約20分 車で約30分 JR松山駅 普通列車で JR伊予 約30分 北条駅 徒歩で約30分 またはバスで約5分 (北条下車) ・徒歩で約15分 JR伊予 北条駅 徒歩で約30分 またはバスで約5分 (北条下車) ・徒歩で約15分 JR松山駅 普通列車で約30分 松山市駅 伊予鉄バスで約45分(北条下車) ・徒歩で約15分 ほっきょう 松山 観光港 リムジンバスで約15分 風早(法橋運動広場) 松 山 市( 中 心 部 ) 松山空港 車で約40分 わざにでも 食べにおいでや!北条鯛めし・わざにでも 見においでや!神輿落とし・わざにでも 歩いとうみや!一茶のみち 制 風早活性化協議会事務局 作 〒790-8571愛媛県松山市二番町四丁目7-2 松山市役所総合政策部坂の上の雲まちづくり担当部長付 TEL 089-948-6991 FAX 089-934-1804 ※「わざに」 とは…「わざわざ、 労を惜しんでも」の意味。風早地方の方言。 発 行 平成27年 (2015) 8月1日 風早活性化協議会 デザイン・印刷 佐川印刷 (株)新装丁・第二版
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