詩行またがり

1-1.
ドイツ語詩の研究にあっては詩の形態の分析が一領野を成している。今ここに一のケー
ススタディを記録したい。対象はドイツ語の無韻 5 揚格律詩(deutscher Blankvers [DB])
とする。
1-2.
ドイツ語詩に無韻 5 揚格律を輸入したのは Milton の Paradise Lost を翻訳したものが最
初である。これは Theodor Haake の残存断片 Das Ver-lustigte Paradeiss aus und nach
dem Englischen I. [John] Ms. [Miltons] durch T. H. Zu übersetzen angefangen –voluisse
sat –(1680)や Ernst Gottlieb von Berge(1649–1722)の Das Verlustigte Paradeis / Auss
Johann Miltons Zeit seiner Blindheit In Englischer Sprache abgefassten und
unvergleichlichen Gedicht In Unser gemein Teutsch übergetragen und verlegt durch E.
G. V. B.(1682)である 1)。
DB は Lessing の『賢者ナータン』
(Nathan der Weise 2))からドイツ戯曲において一挙
に普及した。
18 世紀以来戯曲以外で用いることはまずなかったものの、抒情詩で用いた例が若干ある。
以下、DB を戯曲で用いた場合と抒情詩で用いた場合との比較対照を試みる。
1-3.
blank vers [bv]の淵源の 1 つはロマンス諸語の 11 音節律である。母音が豊富であるロマ
ンス諸語に於けるこの韻律規則を子音優位である近現代英語・独語で模倣するのは限度が
ある。ゆえに»l'endecasillabo«は DB に於いては規則にはならない。DB はオリジナルの英
語に於けるごとく、1 行 5 揚格が最低限の枠である。
以下、揚格 = Hebung を H、抑格 = Senkung を S と略する。独語韻律では Hebung は
古典韻律の ἄρσις、Senkung は θέσις と関わる場合があるが、DB に於いてはまず全く関わ
1 Waterhouse, Gilbert: The Literary Relations of England and Germany. Chapter XIII. Milton in
Germany. Cambridge 1914. S. 136–144.
Ebd.: Appendix A. S. 145–175, hier S. 174.
Schlawe, Fritz: Neudeutsche Metrik. Realien zur Literatur. Stuttgart 1972. (Sammlung Metzler. Bd.
112.) S. 57.
Jenny, Gustav: Miltons Verlornes Paradies in der deutschen Literatur des 18. Jahrhunderts . I. Die
ersten Miltonübersetzer. Diss. Sankt Gallen 1890. S. 5–16.
Meid, Volker: Die deutsche Literatur im Zeitalter des Barock. Vom Späthumanismus zur
Frühaufklärung, Epische Versdichtung: Epos, Lehr- und Zeitgedicht. II. Übertragung. München 2009.
(Geschichte der deutschen Literatur. Bd. V.) S. 504–509.
2 初版が Lessing, Gotthold Ephraim: Nathan der Weise. Ein Dramatisches Gedicht, in fünf Aufzugen.
Jntroite, nam et heic Dii sunt! apvd gellivm. Von G. Eph. L. Berlin 1779.
これに Wieland, Christoph Martin : Lady Johanna Gray. Ein Trauer-Spiel von M. Ch. W. Zürich 1758.
が先行している。
-1-
らない。すなわち DB では Hebung は Iktus とほぼ完全に等価である。もちろん Iktus は
語の強勢(Akkzent, Betonung)と等価ではない。
いま DB の規則を整理すると:(i) 脚韻を踏まないようにする。(ii) 1 行に 5H。(iii) H と
S を規則的に交替させる(alternierend)
。(iv) Jambus 詩行にする、言い換えれば行頭抑格
(Auftakt [A])を付ける;の 4 つに尽きるだろう。(i)はむろん anaphora もしくは
alliteration を除外するものではない。(ii)は強勢音節×5 と同義にはならない:例えば複合
語における副強勢音節が S を充当している隣で弱強勢音節である前置詞が H を充当してい
ることなどがいくらでもある。
さて(i)は bv の成立条件であるからこれに違反している行は存在しない。そういう行は 5H
の Jambus 詩行であるにすぎない。(ii)と(iii)に違反している行は数多く存在している。bv
の最大の特徴は»prosanah« (near the prose)すなわち散文近接である。(i)に於いてすでにこ
の特徴が始まっているのであるから、bv が詩行であるためには(ii)–(iv)の一貫性に懸かって
いる。これを逆に言い換えれば、というよりこの逆の方が正方向な気がするが、脚韻の押
韻しか規則を持たない韻律があれば、これこそ散文に最大に接近していると言える;そし
て Hexameter やアルカイオス・サッポー・アスクレピアデス詩節に於けるような脚韻以外
のありとあらゆる規則が支配する所では、sonnet cycle や本家伊語テルツィーネ並みの散文
からの遠心力が働いていると言える。かくて(i)は散文近接の原因とは言い切れない。
2-1.
ここで考察を試みたいのは DB の散文近接度の測定である。ゆえに(ii)–(iv)の違反に強い
制限をかけてはいないと考えられるパターン(たとえば Lessing・Sturm und Drang 期の
Schiller)は除外する。
2-2.
いま(ii)–(iv)を bv が詩行であるための必要条件であるとすると、その付加的な条件として、
(v) 1 文詩行またがり(Enjambement [E])の使用制限が考えられる。
(ii)–(v)を比較的守る傾向にあるのが Goethe の DB と Schiller の『メッシーナの花嫁』
(Die
Braut von Messina)であるという Paul, Glier の評価 3)に依拠して、この 2 人から戯曲の
DB を各 100 行抽出しよう。Schiller は Messina から冒頭の Isabella の台詞全部(ちょう
ど 100 行)を、Goethe は『ファオスト第 1 部』(Faust I)から bv を用いている特定の箇
所すなわち「森と洞穴(Wald und Höhle)
」の章の冒頭、Mepshistopheles の登場までの
3 Paul, Otto / Glier, Ingeborg: Deutsche Metrik. München, 9. Aufl. 1974. (Hueber-Nr. 1719.) S.
145–146.
-2-
Faust の台詞(V. 3218–3251)の 34 行と、
『トルクァート・タッソ』
(以下 Torquato Tasso)
の冒頭の 66 行、計 100 行を抽出しよう。
次に、DB の抒情詩は、Messina と Tasso に並ぶ高名なものは、Rilke の『ドゥイノの悲歌』
(Duineser Elegien)の第 4 歌と第 8 歌である。前者の全部(85 行)後者の冒頭 15 行の計 100
行を抽出する。対照のために Rilke の同時代人で DB の型をあまり崩さないという詩 人
4
)
Hofmannsthal の戯曲から 100 行を抽出する:Duineser 成立時期(1912–1922)に最も近い
年代の Hofmannsthal の戯曲での DB 使用例は『白い扇』
(1897, Der weiße Fächer)に於ける
ものであるから、これの»Der Prolog«(11 行)と直後の Livio と Fortunio の台詞 89 行とを
抽出する。5)
3-1.
抽出した 400 行に於いて(i)の違反はとうぜん見られなかった。(ii)に関しては、Faust I
の第 3221 行が 6H になっており、Messina の 36 行目がやはり 6H になっている。この両
者には(iii)–(v)の違反は見られない。よってこの両者は可能なかぎり規則に忠実でいる。次
に Fächer を見ると、4 詩行に於いて 1 行 6H にしている。また 3H 行と 2H 行が 1 つづつ
ある。次に(iii)に関しては、Fächer では、H 間に S が 2 つ埋まっている行が 4 つある;言
い換えれば Daktylus になっている行が 4 つ。もちろん 1 行に 1Daktylus だけだが。その
内»Kindische, halbvergessne, die wie Trauben,«の行は冒頭が Daktylus だから A 無し行に
なっており、(iv)に違反している。
次に抒情詩側である Duineser を見てみよう:まず 4H の行が 1 つ(4.17)
、2H の行が 1
つ(4.85)ある。ところで後者すなわち»ist unbeschreiblich.« (is beyond description)は、
»[…] den Tod, / den ganzen Tod, noch vor dem Leben so / sanft zu enthalten und nicht
4 Paul, Glier: A.a.O.
5 これらの 4 作品のこの 100 行の出典は以下:
Schiller, Friedrich: Die Braut von Messina oder Die feindlichen Brüder. Ein Trauerspiel mit Chören.
In: F. S. Sämtliche Werke. Auf Grund der Originaldrucke herausgegeben von Gerhard Fricke und
Herbert Georg Göpfert. Bd. 2: Dramen II. München 1981. S. 825–827.
Goethe, Johann Wolfgang: Faust. Eine Tragödie. Der Tragödie erster Teil. Wald und Höhle. In: J. W. G.
Sämtliche Werke nach Epochen seines Schaffens. Münchner Ausgabe. Hrsg. v. Karl Richter in Zusarb.
m. Herbert Georg Göpfert [u. a.]. Bd. 1 ff. München / Wien: Carl Hanser Vlg. 1985 ff. – Bd. 6. I: Weimar
Klassik 1798–1806 I. Hrsg. v. Victor Lange. München / Wien: Carl Hanser Vlg. 1986. S. 629–633.
Ders: Torquato Tasso. Ein Schauspiel. Erster Aufzug. Szene 2. In: Ebd. S. 674–633.
Rilke, Rainer Maria: Duineser Elegien. Die vierte Elegie. In: R. M. R. Sämtliche Werke. Insel
Werkausgabe. 12 Bde. Hrsg. v. Rilke-Archiv. In Verb. m. Ruth Sieber-Rilke. Bes. dch. Ernst Zinn. Bd. 2:
Gedichte. 1. T. 2. Hälfte. Frankfurt a. M. 1976. S. 697–700.
Ebd: Die achte Elegie. In: Ebd. S. 714–716.
Hofmannsthal, Hugo von: Der weiße Fächer. Ein Zwischenspiel. In: H. v. H. Sämtliche Werke.
Kritische Ausgabe. Veranstaltet vom Freien Deutschen Hochstift. Herausgegeben von Rudolf Hirsch,
Clemens Köttelwesch, Heinz Rölleke, Ernst Zinn. Bd. 1 ff. Frankfurt a. M.: Samuel Fischer Vlg. 1975 ff.
Bd. III: Dramen 1. Hrsg. v. Götz Eberhard Hübner [u. a.]. Frankfurt a. M. 1982. S. 153–156.
-3-
bös zu sein,«(生まれる前から絶対死が決まっているのに悄然としていること)が筆舌に尽
くしがたいと言っている。言いたいことが「言」を超えているのだから、韻律が破裂して
当然の箇所、これでもまだ穏当な処置だとさえみなせるだろう。違反の効果は明白である。
さて Duineser のこの 100 行は強弱交替を遵守する気があまりないようで、7 行に渡って S
連続を行っている。うち 6 行は冒頭であるから同時に 6 行で(iv)規則を破っていることにな
る。7 つ目の(iii)違反(8.14)は行末の»nicht einen einzigen Tag,« (not a single day)であ
り、»einzigen«を›einz’gen‹に syncopate させるのは非常によくある手なのにこれをして
いないところから、
「ただの(einzigen, single)1 日たりとも」を Daktylus で強調してい
ることが分かる。これも実に明白な演出用規則違反だ。
3-2.
以上から、DB は抒情詩に於いて規則を違反しがちだということが明らかになった。これ
により抒情詩の DB は詩としての形態をヨリ崩していると言えるだろうか。すなわち散文
にヨリ近接しているのだろうか。現在の抽出箇所で考えるかぎり、なかなかそうも言えな
い。6 回の(iii)違反は行頭でのものであるから、この行が聴覚に届いた場合には、行頭だと
分かってむしろ行の区切りがはっきり聞こえるだろう。ものすごく大げさに言えばこの行
頭 Daktylus は行末アドニウスにも似ている。逆に第 4 歌 85 行目の»ist unbeschreiblich.«
は強調表現であり、朗読するときには勿体つけた Spondeus で読むだろう;1 行にかかる時
量(mora 数または tempus)は普通に読む bv1 行と実は同じになるだろう;これは 4.17
の 4H もそうだろう。Duineser ではどの規則違反も、朗読という詩の絶対審級みたいに思
われいる例のアレを加味すれば、むしろ詩としての体裁が取れているようだ。
その点 Fächer の違反の効果は解釈しきれない。 Duineser の 8.14 同様»einzige«の
Daktylus を置いている行も、同じ語を直前の行ですでに出しているから、強調としては稚
拙だ。上述の»Kindische, […]« (childish)は子供らしさを韻律まちがいで表現したいのだろ
うか。解釈に悩む。1 行 6H にしている行はなぜそうしているかの必然性が見えてこず、い
たずらに 1 行の時量を増やして詩行の体裁を損なっている。
4-1.
ここで(v)の要素を思い出したい。詩行 1 つ 1 つのまとまりを損なうものの代表が E であ
る。1 行の時量すなわち H の数を一定にして弱強の交替を揃えてしたとしても、文が行を
またいでいけば、聴覚には詩行は届きにくいだろう。よって次に 4 作品の E を観察したい。
ただし、印象主義の Reihungsstil でもない限りは、1 行にいつも 1 文が収まる分けでは
ないし、もしそれをしたら愚鈍単調になるだけか、Reihungsstil のごとく著しい効果を出
-4-
さねばならなくなる。E を文の詩行越えと考えるわけにはいかない。
いちおうここでは Burdorf の定義
6)
に依拠しよう:すなわち、主文と副文(または文
と節)が 2 行に割れているのなら、それは E とはさすがに言いがたい。また文の統語単位
(Syntagma)が 2 行に割れているのでもないなら、これが弱い詩行またがり(»glattes
Enjambement«)である;よってたとえば前置詞修飾句だけが次の行に飛び越えたというよ
うなときには、
E はまだ弱いものだ。
そして強い E(»hartes Enjambement«)
では、Syntagma
が両行に割れることになる;名詞とそれに係る属格とが割れたときなどがそうだ。現代詩
だと 1 語を両行に割ることがある。というよりこれを多用する詩人(Paul Celan)がいる。
これは形態素の詩行またがり(»morphologisches Enjambement«)である;Burdorf があ
げている Celan の例と同じようなものが今見ている Duineser の 4.2–3 に見られる:»[…]
Sind nicht wie die Zug- / vögel verständigt. […]« (we don’t understand, like mig- / ratory
birds do, each other.)。この E も効果が分かりやすい。心がバラバラな我々ということを表
現するのに語を 2 行に裂いている。
4-2.
この伝で 4 作品の E の統計を取ると、形態素の E を 1 つ含めて強い E が Duineser100
行には 43 ある。この次に多いのは Faust I の 100 行で、数は 37。次いで Fächer の 32
個。Messina からの 100 行は 19 回しか強い E を置いていない。
この比較対照では、DB は抒情詩では詩行としてのまとまりが無い、詩としての形態を崩
すものだということが分かった。崩す度合いは、古典主義期の Schiller に比すると約 2.3
倍。同時代の戯曲に比べても 1.3 倍の力で詩行のタガが緩んでいる。ゆえに、独文史上の大
傑作 Duineser の少なくとも第 4 歌と第 8 歌という希少な DB 抒情詩の形態は、上述した効
果の演出と同様、かなり意識的に朗読していわば救わなければ詩行として聞こえてこない
不安定なものであることが分かる。
6 Burdorf, Dieter: Einführung in die Gedichtanalyse. Stuttgart / Weimar, 2. überarb. u. aktual. Aufl.
1997. (Sammlung Metzler. Bd. 284.) S. 63–65.
-5-