絶対文感 【忘 却篇】 第十五 章 瀬下 耽 陽羅 義光 これか らの 【忘却 篇】は 、短い もの に なりそう であ る。 という のは 、わた しの蔵 書約 三万冊 の 九割以上 は、 疾うに 処分し てし まってい るし 、地元 の図書 館に は目指 す 書物(い まは 【忘却 の作家 】の 本のこと )の 九割以 上は、 所蔵し てい な いのであ るか ら。 さて、 我が (かく いうの は基 本的な 考 え方がそ っく りだか らであ る) 柴田錬三 郎は 、 「純文学 は面 白くな い」 と何度 もい ってい る。 夏目漱 石が 好きな 作家の トップ に挙 げ られるの を見 るたび に、 「むなく そが わるく 」なり 、 「志賀直 哉が 、日本 の近代 文学に 猛毒 を ばらまい た元 凶」 である と書 いてい る。 そこに はシ バレン の純文 学コ ンプレ ッ クスがあ るが 、それ はさて おい て、 「面白 い純 文学 」もあ り、それは 例えば 、夏目 漱石の 小説 である から、 夏目漱石 が好 きな作 家のト ップに 挙げ ら れるのは 当然 といえ る。 「むなく そが わるく 」なる のは 、漱石 が 「面白い 純文 学」を 書いて いる せいなの か、 それと も漱石 の作 品は「 面 白くない 純文 学」だ とおも いこ んでいる のか 。 志賀直 哉も 「面白 い純文 学」を 書く 作 家である 。 『剃刀 』や 『范の 犯罪』 は、 スリラ ー やサスペ ンス として も一級 品で ある。 そうい う意 味で「 猛毒を ばら まいた 」 わけでも ある まいが 、もし シバ レンが「 反私 小説」 の思想 をこ めてい っ たとした なら 、それ は志賀 の責 任ではな く、 追随者 の問題 なの だから 、 志賀を責 める のはお 門違い であ る。 我がシ バレ ンにい いたい のは 、「 面白 くない純 文学 」を貶 す前に 、「 面 白くない 大衆 文学」 をまず は貶 す べき で あろうと いう ことで ある。 という こと で、 「面 白くな い大衆 文学 」は紹介し きれ ないく らい沢 山あ るのだが 、こ の人も そうい う作家 のひ と りである 。 むろん 、押 しも押 されも しない 【忘 却 の作家】 であ る。 瀬下耽 (せ じも・ たん )(1 904 ~ 1989 )は 、 新潟県柏 崎生 れ、探 偵小説 雑誌「 新青 年 」に主に 発表 。 代表作 は、『柘 榴病 』『R 島事件 』あ た りか。 帝国石 油に 定年ま で勤め るが 、寡作 な のはその せい である とはお もわ れない。 その作 品を 読むと 、アイ デア やトリ ッ クをかん がえ たりす るのが 、本 来苦手だ った のでは な いか とおも わせ ら れる。 日本海 をよ く知る 瀬下の 文章 (絶対 文 感)は、 海の 描写に 優れて いる ので、 『海底( うな ぞこ )』 『 海の 嘆』の二 篇は、 「面白 くない 大衆文 学(探 偵小説 )」で はあ るが 、「面 白い純 文学 」 にかなり 近い 。 すくな くと もシバ レンの 探偵 小説『 幽 霊紳士』 シリ ーズな どより も、 だいぶ上 質な 小説で ある。 『海底』 より 引用し てみる 。 【松造は 、そ の暗流 に無気 味な 荷物を 託 すと、直 ぐ水 を蹴っ てあが って 来ようと しま した。 と、ど うし たので し ょう。彼 は、 水底で 奇怪な もが きようを 見せ 初めた のです 。彼 は、同 じ 位置に引 っ懸 った よ うにと どま りながら 、亀 の子の ように ただ 四肢を 動 かすばか りで す。源 吉は、 その 時、まざま ざと 、章魚 の足 がその 足首に 絡 みついて 離れ ぬのを 見まし た。 はっとし た彼 は、次 の瞬間 、章 魚の足 と みたもの が、 正しく 女の黒 髪で ある事を 見と どけた のでし た。 松造は 、 身を翻し てそ れを解 こうと する 様子でし た。 が、そ れは、 今度 は彼の 首 にそして 両腕 に執念 く纏わ り付 いたらし いの です。 海底で は一 しきり 不 可思議な 死の 舞踏が 続けら れて いました が、 その間 にも、 この 生きた 肉 体と死ん だ肉 体との 一かた まり は、ずるず ると大 磐石の 腹の下 に向 って 蠢いてゆ くの で す 。彼の 眼には 、 まるで、 彼等 が人目 もはば から ず淫乱 な ふざけを 繰り かえし ている よう にさえ見 えま した】 読者を 引き 付ける 、なか なかの 描写 力 ではない か。 志賀直 哉の 影響が 感じら れる 簡潔な 、 しかも濃 度の 高い文 章(絶 対文 感)だが 、そ れでも 志賀な らやら ない 甘 いところ があ る。 これは 寡作 のせい 、つま り書 き慣れ て いないせ いだ と、わ たしは 推量 する。 まず、 元々 〈私〉 として 一人 称で喋 り 始めたの に、 途中か ら三人 称に なってし まっ た。 ですま す調 が変わ らない から、 余計 に その計算 不足 が目立 つ。 これも 書き 慣れな いひと に見 ら れる の だが、 〈彼 〉な んて呼 び方 が多す ぎる。 〈彼〉は 、 〈彼〉が源 吉なの か松 造なの か、わかり にくく するだ けの 語 彙である 。 それと 、 ( わ たしも 子ども 向け の物語 に はよく使 うの だが 「 ) 無気味 な」 とか「不 可思 議な」 なんて 語彙 は、大 人 向けの探 偵小 説には 使わな いほ うがいい 。 そう感 じる (感じ させる )のは 、読 者 なのだか ら。 瀬下耽 は、 大衆文 学作家 とし ては、 ず いぶん以 前に 忘れ去 られた 作家 であるが 、純 文学作 家とし ては 、再評 価 されても いい とわた しには おも われる。 尤もわ たし はシバ レンに 合わ せて、 と いうより もわ かりや すいよ うに そういう いい かたを してい るだ けで、 そ んな区分 けは どうで もいい とか んがえて はい る。
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