障がいを持つ子どもの子育て

ふたば・リハビリテーション部合同企画 阿曽沼
障がいを持つ子どもの子育て
裕子・山口 耕一・木戸口 峻
療育園で学んだ「道をひらく考え方」
阿曽沼 裕子
山口 耕一
1.私と息子の自己紹介
たやすくなる前は、何もかも難しいものだ。
2.障がい受容をしっかり!
と、ゲーテは言いました。
◦悩み、グチが言える仲間
行きづまっても行きづまらない
◦共感しあえる仲間
困っても困らない
◦仲間との情報交換
“できない”ではできない
4.先を見通した子育て
“道は無限にある”
〜どんな子になってほしいのか〜
と、松下幸之助は言いました。
5.私が大切に思い育ててきたこと
◦生活リズム
なんでも、やってみなはれ。
◦コミュニケーション
やらなわからしまへんで。
「自己主張」と「わがまま」
と、鳥居信次朗は言いました。
◦「自己選択」と「自己決定」
◦年齢に応じた子育て
◦息子にたくさんの楽しみ(趣味)を見つけて欲しい
「あなたにも、道をひらくフォーカスの力を
知ってほしい」
6.自力通園、自力通学から学んだこと
と、山口耕一は言いました。
“地域で生きるって…こういうことなのかなぁ!?”
お話したい内容
◦三輪車(3 歳〜 4 歳)
◦自転車(5 歳〜 7 歳)
◦私は、『七パパ』と呼ばれていた
◦介助歩行(小 1 〜小 3)
◦通園をきっかけに人生が大きく変わった
◦立ちバギー(小 1 〜小 3)
◦何が悪いのか? 原因さがしは力を失う
◦ SRC-Walker(小 1 〜小 3)
◦あなたの心を解放してくれるフォーカスの力
◦電動車いす(小 5 〜現在)
◦私と家族を支えた一冊の本 7.障がいのある我が子からたくさんの人との出会
〜ぽれぽれって知っていますか?〜
いをプレゼントされる
8.重度重複障がいのある息子が健常児になること
はない!
親として願うことは「ともに生きる優しい社会」
9.障がいのある我が子を支えているつもりが、い
つの間にか親の方が支えられている!
10.親の精神状態を常にいい状態に!
→◦優しい介護ができる
→◦優しい声かけができる
今どき、しょうがい児の
母親物語(単行本)
ぽれぽれくらぶ(著)
11.きょうだい育て
出版社:ぶどう社
12.障がいのあるわが子から親も随分と育てられる!
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3.仲間のお母さん・お父さんはとても大切!
市民公開講座
障がいを持つ子どもの子育て
南大阪療育園創立 40 周年記念事業
市民公開講座
◦「すぐするからね」と言う
峻の生き方
◦将来の不安を解消してくれる特効薬
木戸口 峻
◦未来を知るための“秘密の教科書”
木戸口峻です。現在大学 1 年生です。
私が大学に進学することができたのも、支えてく
れた周りの多くの人のおかげだと思う。だから将来
は、自分が本当に就きたい職業に就いて、その仕事
を一生懸命に頑張ろうと思う。それが私にできる皆
への恩返しだ。
オレは世界で二番目か?
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本当に今までにいろいろなことがあった。
障害児のきょうだい・
家族への支援(単行本)
自分の生い立ちについて書きたい。
広川律子(編集)
私は生まれつきアテトーゼ
出版社:クリエイツ
型脳性麻痺だ。そのうえ言
かもがわ
語障害もある。ここで驚いた
◦かしこい弟を父が泣いてたたいた日
人もいるかもしれない。障害
◦子ども、女の子、女性として付き合う
をもっていることに抵抗を感
◦幸せを一瞬で倍増させるフォーカスの力
じている方もいるだろう。し
かし、私は幼い頃から隠さず
山口 耕一(父)
に過ごしてきた。これから先
1963 年(昭和 38 年)2 月 27 日生まれ
ももちろんその姿勢をとり続
1981 年〜 2007 年、26 年間、小学校の事務職員とし
けていきたい。
て勤務。その後、起業し伝説の珈琲焙煎士の技を継
小さい頃、私は南大阪療育
承するプレミアム珈琲焙煎士となる。
園に通いながら地域の幼稚園
自ら生み出す至高の珈琲をネットで販売中。
に通う並行通園をしていた。療育園では「障害者友
珈琲に関する講義・セミナーを開催する傍ら、次世
達」ができ、地域の幼稚園では「健常者友達」がで
代の優れた焙煎士の育成にも情熱を注いでいる。
きた。つまり、小さい頃からいろいろな人との関わ
りを持つことができたので、今でも人との触れ合い
山口珈琲店 HP より
http://www.yamaguchicoffee.com
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そうして彼との交友
療育園には現在もリハビリをするために定期的に
もより一 層 深 まっ
通っている。
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がとても楽しいと言うことのできる自分がいる。
て、彼のような存在
を「親友」と呼ぶの
だ と 思 っ た。 一 方
で、他の友達ともい
ろいろなことを話し、遊んだ。彼らもまた私に非常
に優しかった。たとえば、私は手を全く使うことが
できないので私の代わりにノートをとってくれた。
私の身体は周りの友達とは違うとはいえ、友達が
できるのだとこの時に思った。
先生方も私を全く特別視しなかった。私が何か悪
そして地域の幼稚園を卒園すると共に療育園も卒
いことをすれば周りの友達と同様に叱ってくれた。
園した。
その時は嫌だったが後になってみると良かったと
その後、地域の小学校に入学した。小学校にはい
思っている。それは、私が健常者の中に溶け込むこ
ろいろな幼稚園から子供たちが集まってきている。
とができた瞬間だった。
だから、一年生の最初は見知らぬ顔がたくさんあっ
やがて時が過ぎ、気がつけば小学校の最後の年を
た。入学した当初
迎えていた。この一年は何があっても決して忘れる
の私の心は不安で
ことはないだろう。普通に考えれば、もう二度と学
いっ ぱいだっ た。
校に行きたくないと思ってもおかしくなかっただろ
自分の周りには障
う。
害者がいなくて健
実はいじめにあった。クラスの何人かにいじめら
常者ばかりの世界
れた。その中でも中心人物は幼い頃、私にいちばん
だったからだ。
優しかったあの「親友」だ。そのいじめの内容は私
本格的に「授業」というものが始まっても、母に
の障害をからかうものだった。しかし、私はいつも
毎日送り迎えをして、しばらくの間はずっと廊下か
通り学校に通った。むしろ全く悲しくなかった。そ
ら見守ってもらっていた。そのことで安心感が生ま
の理由は二つある。一つは、私が幼かったときにみ
れたがいつまでもそのようなことを言っていられな
んなは非常に優しかったからだ。「僕は優しかったと
い。ある時、私がトイレに行きたいと先生に伝えた
きの彼らを知っている。彼らには優しさがあるのだ。
が、先生には私の要求が伝わらなかった。すると幼
だから全く悲しくないし、彼らを恨む気は毛頭な
稚園からの友達の女の子が先生に私がトイレに行き
い。」と考えている。二つめは周りの女の子達や先生
たいと言っていると伝えてくれた。とても嬉しかっ
がいつも私を励ます言葉をかけてくれていたからだ。
た。そして、段々と小学校の生活に私も周りも慣れ
今となっては、彼らのおかげで私の話のネタが一
てきた。次第に他の幼稚園出身の友達とも話すよう
つ増えた、という程度で憎むどころかむしろ感謝し
になった。
ている。これからたくさんの試練が待っているので、
また、クラスのある男の子ととても仲良くなり、
これくらいのことに耐えることができなければ、自
彼は私の話をいつもゆっくりと聞いてくれた。そし
立して生きていくことができないと考えるようになっ
て、彼が私の野球好きを知れば私にバットでボール
た。今、私がこのように言うことができるのも全て
を打たせてくれたり、また、彼の家に遊びに行った
あの時に私を支えてくれた友達や先生のおかげだと
りもした。反対に彼が私の家に遊びに来てくれたこ
思っている。もし、今後私をいじめた人たちがまた
ともあった。とても楽しかったし、また嬉しかった。
幼い頃のように接してきてくれたときには、私もあ
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そうするとますます小学校生活が楽しくなった。
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の頃の苦い思い出は忘れて良い人間関係を築いてい
は違っていた。実際に私が本当にその高校に入学す
こうと考えている。
ることができるかどうかを聞いてみたところ、高校
そして、中学生になった。私が地域の中学校に入
の先生の答えは「当たり前」ということだった。そ
学することができたのも、家族を始めとする周りの
の時はとても嬉しかった。やっと私にも志望校が定
多くの人のおかげだと思っている。
まった。それが私の受験勉強に拍車をかけた。
早くから母親や小学校の先生が何度も私の行くで
そして、いよいよ受験当日。両親に受験会場まで
あろう中学校に足を運んでくれた。私が中学校に入
ついて来てもらった。そのうえ、中学校の養護担任
学してからの生活についていろいろと相談してくれ
の先生にも来てもらった。その理由は先にも書いた
るために。
ように、私には言語障害があるので試験の代筆者に
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私の言っていることが伝わらなかったときに通訳を
してもらうためだ。いよいよ試験が始まった。私が
試験を受ける部屋には先生が 6 人、更にはその部屋
の外に 2 人の先生方が居て下さった。しかし、私は
緊張せずに問題に取りかかることができた。そして
とても長かった一週間が経って運命の結果発表の日
が来た。受験勉強の実が結んだ瞬間だった。何と嬉
しいことに私の受験番号があったではないか。その
ことを中学校の担任の先生に報告すると大いに喜ん
そして、いよいよ中学生活が始まった。私が通っ
で下さった。私もますます嬉しくなった。
ていた中学校はとても小さな学校で全学年二クラス
そして迎えた中学校の卒業式。今まで本当にお世
ずつだった。それでも二つの小学校から生徒たちが
話になった中学校に別れを告げる日でもあり、それ
来ている。だから、私に新しい友達ができた。彼ら
ぞれが新たな道に進み始める日でもある。私は彼ら
と毎日いろいろな会話を交わしながら楽しい中学生
との別れが辛くて涙を流した。私が行くことになっ
活を送った。中学生になると定期考査があるので試
た高校へは同じ中学校からは誰も行かなかった。そ
験の前になると大変だ。両親に勉強を手伝っても
のことで少し不安があった。その反面、また新たな
らっていた。私の場合は言語障害と上肢機能障害が
友達と人間関係を築いて彼らと仲良くなることがで
あるので試験の時には先生に代筆をしてもらってい
きるという期待もあった。そのどちらが大きかった
た。文化祭の時には舞台に立って台詞のある役をし
かと言えば期待の方である。
た。しかし、私は記憶力が悪いのでいつも友達に怒
私の高校は、今までの学校と違って人数が格段と
られていた。その反面、彼らはいつも私の練習に付
多い。だから多くの人と友達になることができる。
き合い、アドバイスをくれた。その時はとても嬉し
とても楽しみだった。そのようなことを考えながら
かった。最終的には彼らのおかげで文化祭の当日は
の入学式。当然の如く周りは知らない顔だらけで、
成功させることができた。
中学時代はあっという間に過ぎていき、とうとう
私にも進路選択をしなければならない時期がやって
きた。まず、中学校の先生に私が見学したい高校に
行ってもらった。その高校に自分がどんな子かを予
め説明してもらうために。それから両親と一緒にい
ろいろな高校を見学した。本当にいろいろな高校が
あった。最初から私の顔を見なかった学校、話は聞
いてくれるが、あまりいい顔をしなかった学校……。
しかし、現在、私が通っている学校は他の学校と
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女の子が圧倒的に多い。
さっそく、次の日から本格的に高校生活が始まっ
た。慣れない学校での6時間授業。しかし、入学式
の次の日の新入生オリエンテーションでのこと。私
の隣に座っていた女の子に思い切って声を掛けてみ
た。すると思った以上に話が弾んだ。とても嬉し
かった。この時に全く知らない人ばかりの中でも毎
日の生活を送っていく自信が湧いた。
授業の時は今までと同じ様に私の隣にノートを
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とってくれるための先生が一人座ってくれた。やは
り小学校の頃から苦手な理数系でつまずいた。一方
で英語の成績は中学の時より上がった。この時、私
は単純な男なので将来、英語の教師になりたいと思
い始めるようになった。後に諦めることになるのだ
が。そもそも何故教師なのか。私は幼い頃から本当
にたくさんの先生にお世話になってきた。そして殆
どの先生がたくさんの生徒から人気があった。だか
ら、私も将来はそんな先生になりたいと思ったのだ。
話が少しずれたが元に戻そう。始まったばかりの
高校生活で最も思い出に残っているのは神鍋高原に
一泊学習に行った時のことだ。その夜に、クラス全
員が集まって一人ひとりが話をした。それぞれの家
庭のことや話し難いことなど。しかし、それがきっ
かけとなりクラス全体に良い雰囲気が流れ始めた。
私にもたくさんの友達ができた。それから毎日、
学校に通うことがますます楽しくなった。友達と多
くの話をするようになった。ほんの一ヶ月前迄はお
互いに顔も知らなかった人なので、彼らと普通に話
していることが不思議だったが、とても嬉しかった。
しかし楽しいばかりが学校生活ではない。
高校生活で初めての中間考査。私の試験時間は少
し長く考慮されていたにもかかわらず欠点をとって
しまったこともあった。
また部活動で英語研究部に入った。最初は、部員
達とイギリス人の先生が話している内容を全く理解
することができなかった。しかし、ずっとその会話
ちろん異文化理解ができた。更に友達とずっと居る
を聞いていると、少しずつ英語が理解できるように
ことにより友情が一段と深まった。そして最終学年
なった。とても嬉しかった。
になった。また進路選択をしなければならない年だ。
それからは自ら進んでそのイギリス人の先生に話
中学の時と同じ様に先生にいろいろな大学見学に
しかけるようになって、話が毎回盛り上がった。
ついて来てもらった。
英語のスピーチコンテストにも出場した。
ここで、話を戻して私が教師になることを断念し
二年生では韓国へ修学旅行に行った。そこではも
た理由について書こう。突然だが、あなたは障害者
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るのではなく、自分の能力が充分に発揮できるとこ
ろでベストを尽くそうと考えを改めた。
大学は、療育園の先輩も通っている大学から合格
通知を得ることができた。4月から始まる新しい生
活への不安と期待……。当然、私には期待の方が大
きいのだ。
自分の身体としたいことを考えれば、自分の障害
を生かすことを考えた。全ての障害者が暮らしやす
い国や町とはどんなものか。これを大きなテーマと
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して自分なりに考え、多くの人の前で話していきた
が自分の子供の担任になればどう思うだろうか。心
い。大きな夢ではあるが、あらゆる国に赴いて、そ
配にちがいないだろう。その根拠として、たとえば
の国の人達にどうすれば障害者や高齢者が暮らしや
教室に不審者が入って来たときに自分の子供を守っ
すくなるか訴えていきたい。
てもらえないということが言えるだろう。近年、犯
最終的には世界各国で「木戸口峻」という名前を
罪の凶悪化が進んできていると言われている中、教
誰もが知っているという状況を自分で作っていきた
師の仕事は生徒に知識を与えるだけではなく生徒の
い。それを大きな目標にして今後もあらゆることに
身体を守らなければならない。それが私にはできな
挑戦し、また何があっても諦めずに頑張っていきた
い。むしろ、私が他の先生に手を貸してもらわなけ
い。
(2010 年 4 月 25 日 市民公開講座より)
ればならない。このような観点から私に教師という
職業は現実問題として難しい。難しいところで頑張
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