こちら(PDF/6.6MB) - 東京理科大学・小布施町まちづくり研究所

活動記録 2006年
「小布施らしさ」を考える
研究所の概要
0
INDEX 2006
04
小布施の土壁
14
小布施の養蚕建築
16
22
まちに大学が、まちを大学に
道空間の研究
10
0
景観をつくる住宅
EXHIBITION + SYMPOSIUM
小布施町に大学のまちづくり研究所が設
えています。自立した人間を育てる大学
て必要な建築や都市構造に関する基礎
立されて町全体が調査と研究の対象とな
教育の理想に近いところがありますが、
データが決定的に不足していることで
る一方で、研究と議論に住民が参加する
この理想の実現には、現状を正確にとら
す。従来は、方針を決めた後、実際の事
ことによって町全体が大学キャンパスの
える調査と研究が必要ですし、何よりも
業内容については、建築・土木の専門業
ようになる。これが「まちに大学が、ま
政策の決定と実行のプロセスに住民が参
者にまかせっきりでした。それではデー
ちを大学に」を合言葉にして研究所が目
加できる仕組みが必要です。
タが蓄積されませんし、業者は業者で、
指している理想の状態です。まったく新
市村良三町長は、すでに選挙公約に、ま
同じ手法・技術を繰り返し使うだけです
しい形での「まちづくり」であると同時
ちづくり行政の仕組みそのものを経験と
から、改めて現場周辺を調べてデータを
に、教育と研究の新しい場の創造でもあ
か慣習に基づく旧来のやり方から変える
整備する必要がなかったのです。
これが、
ります。
ために、大学の研究所の誘致を掲げてい
日本中どこも同じような景観が広がった
小布施町は「平成の大合併」の大波を受
ました。調査研究、ワークショップ、そ
最大の理由でもあります。だから、
行政・
けながらも合併をせず、自立の道を選択
して具体的な施策提言を行う「まちづく
業者にまかせっきりにせず、まちづくり
しました。何をもって自立とするか、そ
り研究所」の誘致が、小さな自治体が自
のプロセスに住民が参加して協働する仕
の答えは何通りもあると思いますが、私
立の道を確実に歩むには不可欠だと考え
組みづくりも、研究所の重要な役割だと
たちは、町民の皆さんが現状を正しく把
たからです。
考えています。
握し、考え、そして自分たちの力で町の
ですが、調査研究を続けていて驚いたの
将来を切り開いてゆくことが自立だと考
は、実際にまちづくりを進めるにあたっ
02 研究所の概要 30 About Machizukuri Institute
研究所の活動
実測調査・写真記録
平成 17 年 7 月 18 日に小布施町と学校
評価が今、高まっていることには、時代
法人東京理科大学との協働(共同研究)
の推移を強く感じます。まちやむらが、
の場として、「東京理科大学・小布施町
自立して生活環境をつくっていく意欲を
まちづくり研究所」が、小布施町に創設
聞き取り・アンケート
歴史的建築に限らず路地や水路なども含
住民や行政の皆さんを訪ねてインタ
めて、町内全域に残されている様々な歴
ビュー・アンケート調査を行い、過去の
史的遺構を実測して現状を正確に把握
記憶、現状に対するお考え、そして未来
失い、住民もまた、まちづくりは行政や
し、そのデータを検索可能なかたちで整
への希望などを調べ、これらも、まちづ
されました。
専門家にまかせるものと思い込む。小布
備することは、忍耐が求められる地道な
くりの基礎データとして整備します。
明治の維新と文明開化以降、日本各地の
施の歩んだ道は、このような趨勢とも違
作業ですが、正確なデータなくしては将
まちは、近世までに形成された良好で個
うものでした。
来のヴィジョンも描けないため、研究所
性豊かな仕組みや景観を壊し、欧米の建
21 世紀に入り、小布施町自体も現状に
が行う基礎的で、最も重要な仕事になり
築と都市の姿を模して「モダンに、モダ
留まることなく、さらに歩みを続けてい
ます。
ンに」という掛け声とともに、雑然とし
くために次のステージに進まなければな
プロフィール/研究所長
東京理科大学教授
内の大都市の繁華街から「最新の店舗デ
までの第 1 ステージ以上に、多くの住
ザイン」を取り入れて家並みをつくる動
民が参加意識を持ち、広い視野で考え知
きは、第二次世界大戦後も、高度経済成
恵を出し合って合意形成しながら、慎重
長・バブル経済の大波とともに何度も、
に、着実に行動を起こすことが求められ
日本各地を襲います。日本中のまちが、
ます。その意味で、小布施町全体がまち
ラスベガス風、パリ風、あるいは東京の
づくりの大学であるような状況の創出へ
銀座風などのスタイルを取り入れた建て
の期待が内側から高まっているように思
1950 香川県生まれ
1974 東京大学建築学科卒業、同大学大学院進学
1977-79 政府給費生としてウィーン大学美術史
研究所・ウィーン工科大学に留学
明治大学助手、東北工業大学助教授を経て、
1993 東京理科大学理工学部建築学科助教授
2000 コロンビア大学院准教授(客員)
2002 東京理科大学理工学部建築学科教授
2005 東京理科大学・小布施町まちづくり研究
所長兼務
替えを進め、結果として、どこも同じよ
われます。それを現実のものとするため
うな商店街をつくり上げました。その中
に小布施町は力強い一歩を踏み出し、教
にあって、小布施は「修景」の理念に基
育と研究の新しい場の形成を探究する学
づき、「外はみんなのもの」というコン
校法人東京理科大学が町と協働していく
センサスのもとに独自の道を歩み、その
ために本研究所が設立されました。
【専門】近現代建築史・建築評論・まちづくり学。
【著書】『現代建築の軌跡~建築と都市をつなぐ
思想と手法』(鹿島出版会)、
『風土・地域・身体
と建築思考』『20 世紀モダニズム批判』(日刊建
設通信新聞社)
、
『境界線上の現代建築』
(彰国社)
など。
町中を歩いて収集したデータを分類し、
印象がどのような「要素」によって構成
行政
調査研究によって得られた成果、あるい
ネル・映像・模型などを使って、できる
だけ分かりやすい形で報告したり、研究
所内に展示したりします。
シンポジウム・ワークショップ
されているかを浮かび上がらせます。具
調査研究の成果を一方向的に伝えるだ
体的なデータをもとに「小布施らしさ」
けではなくて、シンポジウムやワーク
を議論することが可能になるわけです。
ショップを通して、その成果を体験し、
また、「要素」は今後のまちづくりの素
実際につくってみる、動かして見ること
材でもあって、
「どの素材を使って、ど
によって、より理解を深めると同時に、
こから始めるか」など、まちづくりの手
新たな課題を発見していきます。
順を具体的に決めていきます。
まちあるきしてみる?
あの風景残したいな
報告会・展示会
統計をとり、分布図などを作成する。こ
の分類・統計・分布図は、小布施の景観・
ワークショップの実施
パネルディスカッション = 協働作業
シンポジウム
研究所をのぞいてみよう
は具体的なまちづくりの提案などを、パ
データの分類整理・マップづくり
提案
お茶しながら
意見交換しよう!
地図プロット
図面作成・整理
模型制作
案
提
・
案
提
・
告
報
りません。この第 2 ステージでは、これ
まちの歴史や
建築に関する
実測調査
文献収集
聞き取り調査
住民とのワークショップ
力
た家並みをつくってきました。欧米や国
分析
調査
事例研究
世界の都市論
建築思想と理論
建築の設計プロセス
などの研究
協
川向 正人 かわむかい まさと
まちづくり研究所
大学・研究室
協
力
・
報
提
告
案
・
提
案
研究所の目的
施策条例
住民
活用
町並修景事業
施策の立案
規制・条例の制定
資料提供
ワークショップへの参加
景観づくりの指針
「住まいづくりマニュアル」
「広告物設置マニュアル」
「小布施景観賞の実施」など
道空間の研究
0
0
参考文献:小幡潤一・米谷佑児『道の研究~小布施町雁田地区を事例として~』
(2006 年度卒業論文)
風景の変化
~国道 403 号線(谷街道)の移り変わり~
左は、小布施町の背骨となる谷街道の景観の
変遷を示す写真である。樹木がなくなり、車
が増え、看板があふれるが、修景事業を境に
再び落ち着きを取り戻す、この半世紀の道景
観の変遷が映し出されている。
里道と赤線
赤線とは
「里道
(りどう)
」または「赤線(あかせん)」
と呼ばれる道空間がある。現在一般的に
里道と呼ばれるものは、明治 8(1875) 年
昭和 30(1955)年頃
の太政官達 60 号により分類された里道
この時点では、まだ道路は舗装されていない。沿道に
のうち、大正 8(1919) 年公布・大正 9 年
樹木が茂り、写真左下には、入り口前の石橋が確認で
施行の旧道路法で、道路としては認定さ
き、用水路が活用されていたことが分かる。
れなかったものを指す。山道・畦道・裏
路地のように地域の生活空間として活き
ていても、必ずしも道路として認定する
昭和 34(1959)年
舗装直後の写真。車が走るようになって人の歩くス
ペースが必要になり、沿道の樹木が伐採された。用水
路は暗渠となり、言葉通りに車に道を譲って、水や木
必要のない小道であった。これらは国の
太政官達 60 号
所有・管理の下に置かれて、公図に赤く
塗って示されたことから「赤線」
「赤道
(あ
旧・道路法
(明治 8 年)
(大正 8 年)
・国道
・県道
・里道
・国道
・府県道
・郡道・市道・町村道
かみち)
」と呼ばれるようになった。
赤線
・認定外道路
などの自然の気配が消えた。
現在の赤線の状況
道 空 間 の 研 究
平成 12(2000) 年施行の地方分権一括法
昭和 59(1984)年
により、赤線の中でも道機能を有して
大きな道路標識が現れている。歩車分離を明確にする
いるものは、地域住民の共有物として
ために歩道の設置。車で移動する人々の注意をひくた
研究目的・方法
めに大型の広告看板が増え、雑然とした景観がピーク
を迎える。
国から市町村に無償譲渡されることに
なった。小布施町は平成 12(2000) 年か
昭和 35(1960) 年頃からの高度経済成長
り続けるこれらの道空間の現状を、小布
ら 16(2004) 年にかけて譲り受けている。
は、日本中の道の風景を大きく変えた。
施町全域にわたって調査し、それらを三
譲与された赤線については、市町村の判
かつては、道には松や柳などの樹木が植
次元的空間と捉えて建築的手法によって
断で整備できるようになった。
れているのが 12 ヶ所(全体の約 1.6%)
えられ、道沿いの商店の前には物や人が
分析する。
小布施町全体の赤線の分布状況をまとめ
で、残りはすべて未舗装のままである。
あふれて、道空間は活気に満ちていた。
道空間を“もてなし空間”や“地域との
歩道に栗木レンガが敷き詰められ、街路樹が増えて再
ると、下表のようになる。平成 19 年現
赤線(里道)は、自動車社会へと変わっ
び緑が戻り、看板が減った。修景事業とその波及効果
在、町全体で 745 ヶ所の赤線が確認さ
て行く中で、なお人が歩くための道とし
れている。このうちアスファルト、栗木
て舗装されず、土のままの状態で自然豊
レンガ、インターロッキング等で舗装さ
かな道空間として残ってきたのである。
平成 18(2006)年
本研究では、このような道を平面的な「道
交流の場”として考えていくための基礎
路」ではなく、生活空間としての「道空
的なデータを整備してゆく。道空間の継
間」と捉える。道空間は昭和 35 年頃か
承と再生を「まちづくり」の有効な手段
ら拡幅・舗装され、行き交う自動車が急
とするための方法論についても、併せて
増して、「生活の場」
「人の歩く道」から
検討してゆきたい。
小布施
170
今回は特に、小布施町東部に位置して果
北岡
126
した。
樹園や畑が広がる雁田地区を対象にして
都住
123
小布施町も、このような道の変化から逃
調査研究を行い、25 の道空間を抽出し
雁田
101
れられなかったことは言うまでもない
て景観特性(形状、地表仕上げ、眺望な
押羽
61
が、よく調べると、この変化をまぬがれ
ど)
、隣接する土地の利用状況、回遊可
飯田
60
た貴重な道空間も数多く実在している。
能性などの分析を行った。
中松
59
大島
34
山王島
11
「(車が)移動するための道路」へと変化
の現れである。歩道が広がり、人を優先した道空間づ
くりが進んでいる。
農村部での畔道や農道、町部での路地な
どである。実は、これらは道路法の定め
る「道路」とは認定されていない道であっ
東町の赤線の入口
押羽
北岡
都住
山王島
自動車社会と道路整備
小布施
て、地域住民の生活の道として利用され
小布施町に自動車が出現したのは昭和
管理されてきたが、行政の手による近代
8(1933)年。この後、高度経済成長によっ
化事業(拡幅・舗装などの事業)の対象
て自動車数が急増、その結果、道路の拡
からは外されてきたものである。結果と
張や舗装が求められるようになった。小
ばれたこともある)で最初の舗装が行
して、人が歩き、立ち止まって話をし、
布施町では、昭和 34(1959) 年に町道で
われ、町域全体で急速に進んで、平成
交流する「生活の場」であり続けている。
ある伊勢町停車場線(現在の八十二銀行
16(2004) 年には町内の道路舗装率は国・
認定外であることによって生活の場であ
小布施支店の通りで、小布施銀座と呼
県道 100%、町道 89.8%に達している。
飯田
昭和 34 年町道・伊勢町停車場線舗装工事
大島
東町の赤線
小布施町全体の赤線の分布図
中松
雁田
道空間の研究
0
身体感覚の道としての赤線
道空間の「床」
「壁」
「天井」
さて、調査対象は、雁田地区の 25 ヶ所の赤
で、雁田独特の風景となっている。酸性と
赤線(里道)の魅力を、雁田の例を使って分析
建築空間は主に「床」
「壁」
「天井」によっ
間であるかのように私たちの身体を心地
線である。昔から近隣の交際や農作業など
いう松川の水の影響で、硫化鉄による赤み
してみたい。
て構成される。赤線を「道空間」と捉え、
よく包み込む。これが、いわゆる道路と
に使われてきた道である。赤線には、いく
を帯びた石が見られるのも特徴である。
足下にある
「床」、身体を横から囲う「壁」、
は根本的に異なる点でもある。この分析
つかの特徴がある。
赤線は、今でも地域の人々によって管理さ
頭上を覆う「天井」という 3 要素を用
によって、私たちの身体を包み込む空間
“やっくら”と呼ばれる石積みもその一つで
れている。草花が植えられ、小川や用水路
いて建築空間的に分析して、赤線の空間
としての赤線の特性を明らかにしようと
ある。松川の扇状地上に成立した砂礫質土
のせせらぎの音が心地よく、眺望もすぐれ
特性を明らかにした。赤線は野外である
試みた。
壌の小布施では、耕作のために土を掘り起
ている。気持ち良く歩ける道が多い。それは、
にもかかわらず、あたかも建物の内部空
こすと大量に石が出てくる。それを敷地境
視覚だけではなく聴覚や嗅覚でも感じ取れ
界となる赤線に沿って並べ積み上げたもの
る要素に富んだ身体感覚の道である。
個々の赤線のデータ整理
データシート例
床+片壁+天井
床
25 ヶ所の赤線について個別にデータシー
トを作成した。
床+片壁
内容は、道の形状、表面を覆う素材、出入
床の素材になっているもの
自然素材:
・草(雑草、芝、花など)
・石(砂礫、やっくら)
・土
・乾燥した藁、草など
人工素材:
・鉄板、木製スノコなど
・各種道路舗装材
・コンクリート材(U 字溝、ブロッ
クなど)
天井の素材になっているもの
自然素材:
・繁茂する樹木(特にブドウ)の枝葉
人工素材:
・果樹の棚
・果樹保護のためのシート、ネット
空(天井なし)
床+両壁+天井
り口や分岐点にある目印、沿道の土地の利
壁の素材になっているもの
用状況、眺望、実際に歩いて得た印象など、
である。
現存する赤線はいずれも、車道と違って同
床+両壁+天井
床+両壁
じ素材で平らにならされていない。土のま
まで、石が多少混じる場合もあり、草が覆
い、花も咲いている。コンクリートで固め
られない昔ながらの小川や用水路が沿道を
流れる場合もある。雁田山が見えるかと思
えば、反対方向の北信五岳が一望できるな
自然素材:
・石(やっくらの側部など)
・草(背の高い雑草など)
・樹木(生垣など)
・盛土
・積み上げられた藁・干草・薪など
人工素材:
・家屋の壁(土、板など)
・塀(コンクリート、木、鉄板など)
・果樹保護のためのネット、ポール
など
回遊性をもつ道空間へ
ど、歩く方向によって、また季節や天候に
よって、さまざまな風景に出合うことがで
素晴らしい風景を備え多様な空間体験を可
構成してゆけば地域づくりの核になると考
できるように心がけた。住民が生活道や散
きる。同じ道を同じ方向に歩いても、雁田
能にする赤線も、長い年月の間に途中で消
え、いくつかの回遊路を提案する。
歩道として使えること、そして、舗装され
山や北信五岳の山々が季節や時間によって
え、行き止まりになった例が少なくない。
ルートごとの特色を明確にして、散策する
ていない自然豊かな道を歩くことが、どの
全く違った表情を示すことも実感できる。
それをつなぎ直して散策可能な回遊路を
人のペースや目的に合わせてルート選択が
回遊路にも共通する特徴である。
沿道の土地の利用状況
0
お勧めコース
①山からの眺めを楽しむコース
④お寺・神社コース
(小布施中国美術館~小布施温泉) (フローラルガーデン~愛宕神社~浄光寺~水穂神社)
②やっくらコース
⑤果物たくさんコース
(たくさんのやっくらを歩く)
(岩松院~ブドウ畑~水田)
③山と冒険コース
⑥山と畑コース
(せせらぎ緑道~冒険の森)
(岩松院~野菜畑)
雁田地区の赤線に隣接する土地の状況
隣接する土地の利用状況は変化に富み、
道の分類
道に覆いかぶさるようにぶどうやりんご
車道
などの果樹園が広がるところもあれば、
私道(私有地)
未舗装の町道
赤線
両側が畑で背の低い野菜などが植えられ
て開放的で見晴らしがよいところもあ
る。果樹のトンネルをくぐり抜け、見晴
らしのよい畑の中を通り過ぎ、バランス
をとりながら「やっくら」上を歩くなど、
一ヶ所の赤線でも、沿道の土地利用状況
によって風景も空間体験も多様に変化す
各ゾーンの特徴
場所が高いので小布施町全体から北信五岳まで一望できる。
る。
果樹の分類
作物の分類
クリ
ナシ
水田
プラム
サクランボ
カキ
畑
カリン
プルーン
ブルーベリー
樹木
ブドウ
スイカ
リンゴ
モモ
やっくらがたくさんある。やっくらの上を歩くことが多い。
草が多く道のように見えないため、手探りで歩く。
ブドウ畑に沿って歩く。
さまざまな野菜、果物、木々が見られる。
背の高い木が多く林のようになっている所が多い。
押羽
0
地域ごとの要素の発見
雁田
雁田
町組
地域ごとの要素の発見
雁田は、雁田山を背景としてなお茅葺屋
しく回遊することで、自然や美しい眺望
根や土壁の建物が残り、のどかな農村風
との出合いを重ねて、住民にとっても外
景が広がって、小布施の原風景を感じさ
から訪れる人々にとっても雁田地区の魅
せる地域です。雁田での「赤線」あるい
力が倍増するような方策を考える。狙い
は「里道(りどう)
」の研究については、
はここにありましたが、今後も雁田地区
すでに報告しました(04 ∼ 07 頁参照)
。
の皆さんとともに検討していくつもりで
7 月 22 日、雁田地区の住民の皆さんと
す。
一緒に「里道めぐりワークショップ」を
地域ごとに基礎調査・研究報告会・ワークショップを実施
実施しました。果樹園や畑の間を通った
り、畑から出た石を積み上げた「やっく
成果を共有しながら次の調査・研究、そして地域づくりへ
ら」と呼ばれる石積みの畔道を歩いたり。
隣接する果樹園や畑の所有者でなければ
歩かない小道を歩くことで、皆さん、普
段の生活では気付かない地域の特性をた
くさん発見したようでした。
雁田山麓には岩松院や浄光寺などの他
に、ほたる池やアスレチック・フィール
GOAL
道の分類
2006 年度から小布施町の道空間の基礎調査を進めています。人や物の動きを決める道
ドなど、歴史と自然の中で子供たちが体
空間の現状把握は、まちづくりの基本だからです。今年度は、押羽・雁田・町組の 3
験学習できる場所があります。それらを
地区を対象に調査を行い、住民の皆さんとのテーブルディスカッションや道歩きワー
繋ぐ重要な道が、
「せせらぎ緑道」です。
人の通る道(町道)
クショップを実施しました。
果樹園や畑の中を通る何本もの自然豊か
人の通る道(赤線)
な赤線(里道)をこの「せせらぎ緑道」
に接続させて回遊できるようにする。楽
N
押羽
START
歩行ルート
車も通ることが出来る道(車道)
人の通る道(私有地)
里道めぐりワークショップ散策ルート
町組
押羽は、千曲川の洪水を避けるために
押切が羽場の集落内へ移動して出来た
町組には、様々な時代の建物が建ってい
集落といわれており、町のように住宅
ます。江戸時代から市がたち、谷街道(国
が密集しています。建物が密集するこ
道 403 号)と谷脇街道に沿って家並み
とによって、入りくんだ路地が生まれ、
が形成されました。道には桜や松などの
車の通らない路地が、生活のための道空
樹木が植えられて、季節を感じさせる色
間として今日も利用されています。5 月
鮮やかな「道の風景」が見られたようで
29 日、押羽公会堂で研究発表会、住民
赤線 はやんば
と大学生とのテーブルトークを行い、そ
す。家の前や裏には用水路が流れて、生
車が通る道
活を支える水として大切に管理されてき
谷脇街道
の際にアンケート調査も実施しました。
ました。横町には、茅葺の民家、醤油や
切妻・妻入の母屋の立面図。裏に栗の庭がある。
住民の皆さんが普段よく使う道や記憶
酒の醸造家、現在の集合住宅にあたる長
押羽の赤線の状況
車が通れない道(赤線)
はやんば(はよんば)
に残る路地、かつて遊んだ場所、歩く道
アンケートで調査した「よく使う道」を
屋もあって、小布施の街道筋の景観をよ
のお勧めコースなどをマップに描き込
まとめたところ、図のように周辺部を回
く残しています。また、伊勢町の皇大神
みました。
遊する形で道を使っていることがわか
社の周辺には、蔵造や、この地域では昭
その中で、
「はやんば(はよんば)
」と呼
りました。
和 30 年代に現れ始めた「看板建築」も
ばれる辻空間について、
「よく野球をし
一方で、「赤線(あかせん)」の分布を
見られます。看板建築とは、多くは大正
て遊んだ」という記憶や「御柱祭に今も
見ると集落内部に張り巡らされており、
集落内を回遊する道
使っている」という興味深い話が聞かれ
車の通る道を避けて人の歩く自然豊か
集落へ入ってくる道
ました。広場や空き地が特色のない駐車
な道(赤線)をうまく繋ぐことによって、
場に変わっていく昨今、
「はやんば」が
安全で、地域の良さを感じられるような
なお地域生活の核として生きているこ
回遊路づくりが十分に可能であること
とが分かりました。
が分かりました。
おぶせ駅
N
谷
街
北斎ホール
から昭和初期にかけて商店などに現れた
ルートが残っています。その小道を歩い
モダンな建築様式で、建物の前面をモル
ていると、意外なところに水路を見つけ、
タルや金属板などを使って看板風に装っ
町の人々との思わぬ出会いもあります。
たものです。
現在は、実測をしながら道・水路・庭・畑・
と、今まで気づかなかった押羽の道の使われ方
町組にも、前述の赤線(里道)が張り巡ら
蔵・納屋などの位置を確認し、町の仕組
が見えてきます。
されて、人が歩くのに安全で近道となる
みの把握に努めています。
集落内を通り抜ける道
※太さは使われる頻度を示す。
押羽の道の使われ方
アンケート結果から使用率が高い道を太くする
道
皇大神社
役場
栗ガ丘小学校
龍雲寺
谷脇街道
大日通り
実測した建物
実測した建物
小布施の土壁
10
土壁の材料
竹(間渡し竹)
近代化の中の土壁
よし
葦
小舞を編む際、間渡し竹の間に用いられる。
昭和 30 年代、高度経済成長によって若
他の地方では、真竹や女竹の割り竹が用いら
者を中心に農村人口が労働力として都市
れたが、北信濃ではこれらの竹が採れなかっ
へ流出し始め、農村部に過疎問題が持ち
たので葦が用いられたのである。葦には、千
曲川から採取される「カワヨシ」と、志賀高
上がった。小布施町も例外ではなく、つ
原や雁田山で採れる「ヤマヨシ」の 2 種類が
いに昭和 45(1970) 年頃に人口が最低と
あった。同じ葦でも採取の場所によって加工
なった。当時の市村郁夫町長は、人口減
のしやすさや強さが異なるために、呼び方を
明治・大正期には、小舞の間渡し竹に、腐ら
ず虫が付かないという理由から漆の木が使わ
れた。しかし、漆は触るとかぶれるため、近
隣に数多く自生する根曲がり竹が使われるよ
うになった。根曲がり竹は小布施のみならず
北信濃一円に自生して、職人や施主が冬に採
取し、不足すると志賀高原の須賀川などから
仕入れていたという。志賀高原の竹は、昭和
小 布 施 の 土 壁
20(1945) 年頃には中町の荒物屋や壁材を扱
う建材屋に卸されていた。
冬に農家が葦を採取しておき、左官屋が直接
短く、使い勝手が悪いなどの理由から、
「カワ
出向いて取引したが、昭和 35(1960) 年頃に
進めて民間住宅の建設を促進させた。こ
ヨシ」が好んで使用された。明治・大正期には、
は仲買人が現れ建材屋を介するようになった。
の頃から住宅の需要が増え、新しい住宅
が建てられるようになった。
漆喰
但し、昭和初期までは、民家の壁のほとんどが
叉は海藻の一種で、煮出して糊料として使わ
荒壁や砂壁で仕上げられており、漆喰は土蔵に
が訪れ、特に輸送方法が大きく変わった。
れたが、材料が小布施地方では採取できない
使われる程度だった。戦後になって漆喰壁が急
馬に荷車を引かせる大八車が輸送手段と
ために、千曲川の舟運を利用して越後から運
速に普及し、今では土壁建築の 47.5%を占め
び込まれた。代用品としてもち米が使われる
ている。
して活躍していたが、昭和 30 年代から
自動車が普及し始め、道路が整備される
こともあったという。
と、トラックによって長距離でも速く大
土
量に輸送可能になった。例えば土壁の場
至 中野
小舞下地に塗る荒壁土は、土と水に 3、4cm
合、竹が千葉県、葦は茨城県、石灰は栃
立ヶ花・草間
木県というように、各地から材料が取り
程おいて発酵させると、
「ベト」ができる。こ
寄せられるようになった。
の地域では昭和 16(1941) 年に大堤防ができる
までは千曲川が度々氾濫したために、土壁に適
有の素材や技術が見られる。例えば、土
301 棟、砂壁 437 棟、漆喰壁 1106 棟、色
ると十分な粘性が確保できない。扇状地である
壁の小舞と呼ばれる下地作りに、ヨシや
漆喰 208 棟、その他(トタン張り等)273
小布施の土壌には砂礫が含まれており地区に
根曲がり竹を使うのが特徴である。地域
棟である。あくまでも仕上げによる分類
特有の素材や職人技術は集積することに
であって、土壁であっても、その上から
よって地域性の強い景観を生み出す。し
トタンなどで覆ったものは「その他」に
かし、残念なことに、地域性の色濃い建
分類している。
砂壁仕上げの砂は、主に松川や千曲川から採
築や都市空間が近年驚くべきスピードで
さて、小布施町にはこれだけの土壁建築
取した。酸川である松川からは硫化鉄を含ん
消滅しつつある。材料や技術がなくなる
が現存するが、今では土壁で建物を建
か、簡略化されることによって質が極度
てることが少なくなり、壁塗り職人の
に低下している。
左官(小布施町では“しゃかん”と呼ぶ)
そのような趨勢の中で、地域に伝わる素材
屋も町内で 2 軒になった。時代の流れ
や技術を継承し次世代の子供たちにも正し
により土壁の材料が変化し、土を使わ
く伝えるために、まず小布施地方における
ない工法が増えている。その原因は何
伝統的な土壁について調査と研究を行った。
か、職人さんから直に聞き取り、考察
現在、小布施の約 9000 棟の建物うち 2325
を進めた。
した粘性のある土が沖積した。土が砂礫質であ
延徳田圃
至 豊野
よっては荒壁に必要な粘性が確保できないため
に、
「ガワタ」と呼んでいた延徳田圃、あるい
は中野市立ヶ花周辺の草間や安源寺などで採取
砂+礫+泥
谷街道
棟が土壁の建築であり、その内訳は荒壁
小布施橋
小布施地方では、壁や屋根などに地域特
泥+泥炭
千曲川
砂+礫
される良質の粘土質土壌を加えた。
雁田山
だ赤い砂が、千曲川からは白っぽい砂が採れ
良質粘土層
松川
た。千曲川の砂は丸いのに対して、松川の砂
は角があって壁への掛かりがよく、松川産の
方が砂壁仕上げに適していたようである。
至 須坂
その他
小布施町周辺の土壌分布図
工法と材料の変化
土壁の仕組み
昭和 30 年代から 40 年代にかけて、壁工
壁をつくることは、ほとんどなくなった。
法の効率化を目的とする変化が生じてい
伝統的な土壁が景観から消えていく要因
る。昭和 40 年頃、粘土を販売していた
には、早く、安く、しかも簡単にという
業者によって、前もって機械で土・粘土・
要請に対応する材料や工法の新たな出現
一般的な壁は、大壁か真壁に分かれる。小
壁と呼ぶ。塗り土の違いによって、荒壁、
スサを混ぜた塗り土が卸されるように
が挙げられる。だが、ごく最近まで地域
布施では両タイプの壁が見られ、ともに主
砂壁、漆喰壁などの違いが生じる。
なった。漆喰用の石灰についても、あら
の職人が、その場で入手できる材料を用
として柱・貫・小舞によって構成される。
では、それぞれの土壁の材料が小布施では
かじめ加工された安価で塗りやすい商品
いて工夫することによって、小布施らし
小舞とは、間渡し竹で軸を組み、その軸に
どう入手されてきたかについて述べたい。
が登場した。下地には、張り付けて壁に
い景観が生み出されていた。幸い、彼ら
する板材が用いられるようになって、小
の仕事が町に数多く現存しており、その
舞を編んで下地から長い時間をかけて土
技術の伝承が今後の課題となる。
葦を藁縄で編み込むものである。そして小
舞の両側から土を塗って仕上げたものを土
しかし、近代化によって建築資材にも変化
漆喰壁の漆喰は石灰と角叉と麻からなる。角
の長さに切った藁を混ぜて十分に練り、一週間
研究目的・方法
少に歯止めをかけるために、宅地造成を
変えていたようである。
「ヤマヨシ」は強いが
間渡し竹
葦
藁縄
小舞下地の土壁
11
WORKSHOP2006
12
土壁についての勉強会と、土づくりを体験。
8月25日 栗ガ丘小学校第一体育館
説明会
小布施の町遺産の中に「土壁」がいかに多いかを大学生が説明する授業も行いました。
職人さんが、土壁用の土の作り方について教えてくれました。
土づくり
その後で、「べと」作りに挑戦。土壁として塗る土には、粘土のような粘り気が必要で、
まず土・苆(スサ)・水を混ぜた「べと」を作ります。苆とは、亀裂を防ぐためにつな
ぎとして土に混ぜる繊維質の材料のことで、今回は刻んだ藁を使っています。土には、
左官職人の持田さんのご指導によって、畑から粘性の高い砂混じりの土を採取して使い
ました。これらを「ふね」という大きな容器に入れ、水を加えてよく練ります。小学生
にも手で土を練ってもらいました。裸足になって「ふね」に入り大学生と一緒に足で踏
んで混ぜる子もいて、まず土に触れる体験をしました。
まち歩き、そして、いよいよ土壁づくり!
8月29日 栗ガ丘小学校第二体育館
まち歩き
午前中は校外に出て、町中にある土壁の建物を見学して歩きました。「幟の広場」にあ
る土蔵の前では、持ち主でもある市村町長さんが土蔵の塗り壁について説明。壁には割
れた茶碗の欠片など、身の回りのものが混じっていることを教えてくださいました。
それからグループに分かれて、荒壁、砂壁、漆喰壁の実物に触れて、観察しながら歩き
第 2 回 東京理科大学・小布施まちづくり研究所&栗ガ丘小学校ワークショップ
「つくろう!ぼくらの土かべ」
ました。
小舞かき
いよいよ土壁づくりです。まず職人さんが小舞かきの実演。竹に細縄でヨシが固定され
ていく作業の手際よさに、
「早い!すごい!」と子供たちの間で驚きの声が上がりまし
2005 年は栗ガ丘小学校の児童と、「まち歩きワークショップ」を開催しました。「町遺
産発見」といって、町や村に残っているが積極的に守ってゆかないと消えてしまうよ
うな、小布施の景観をつくる大切な要素に注目しました。それを見つけ出して絵に描
き、張り合わせて大きな地図を作りました。茅葺き屋根、瓦屋根、荒壁、漆喰壁、水路、
た。また、縄は短くなってもつなぎ合わせて使い、最後に残った切れ端さえ土に混ぜて
使います。「無駄がなく、ゴミを出さない」ことも教わりました。その後、
ヨシを使って、
各自で 30 センチ四方のフレームの中に小舞をかきました。
土壁塗り
通り門、大きな木など、たくさんの発見がありました。
午前中に小舞が組み上がり、午後は 土塗り。再び、職人さんの実演から。「こて」と「こ
今回のワークショップでは、小布施の景観をつくる特に重要な要素である「土壁」に
て板」をもった職人さんが、小舞に土を押し込むように塗っていきます。
着目して、栗ガ丘小学校の児童が、30 センチ四方の小さな土壁を作ります。土に触れ、
小学生も、午前に小舞を組んだ 30 センチ四方の下地に土を塗ります。初めは発酵した土
土を塗るという体験をして、土壁がどのようにできているのか、どう作ればいいのか
を理解してもらおうという試みです。体験を通して、児童の皆さんの土壁を見る目が
変わるかもしれません。
土壁に何が混ぜられているのか、実際に建っている建物の土壁で調べてみましょう。
そして、スサとして土壁に混ぜるものを、自分でさがしてもらいます。身近に存在す
る草花、木の枝、土、砂、石など、何でもいい。ほかにはない自分だけの土壁を作っ
てもらいたいのです。 (研究所長「はじめのご挨拶」から)
に「くさい、汚れちゃう!」と騒いでいた子供たちも、夢中になって塗りました。最後は、
各自が持参した「混ぜたいもの」を思い思いに壁に埋め込んで、自分だけの土壁が完成。
おわりの会では、研究所長の川向教授が、「土壁は土から生れた自然材料を使い、長い時間をかけて土に戻っていくものです。その
意味で、地球にやさしい材料・技術であり、小布施に土壁を使った建物がたくさん残っているのは素晴らしいことです。今日は体験
を通して土壁に親しみ、小布施に現在も生き続けている土壁の技術と建物についても学習してもらいました。こういう土壁の技術や
建物を大切に思う気持ちを皆さんが持ち続けてくれるとうれしいなと思いますよ」と児童たちに話しました。また、校長先生も「昨
年の町遺産マップづくりでは遺産をたくさん見つけ出してもらいました。土壁もさることながら、職人さんの実演を通して、子供も
大人も学ぶことができました。土壁も遺産ですが、それを作り上げる職人さん、職人さんの技術も遺産です。同じように大事にして
伝えていきたい」と話されました。
小布施の養蚕建築
14
出典『写真集須坂百年史』
茅葺き母屋での養蚕
A 家は、聞き取りによれば天保年間の創
建とされる、兜造りの茅葺き屋根を有す
る母屋である。稚蚕期で特に必要なのは
ネドコ
サイノマ オクザシキ
ネドコ
キタノマ
補温。そのために複数ある部屋でも最も
ミソベヤ
オカッテ
イロリ
狭く、かつ天井が低くて、効率良く暖め
ザシキ
ナカノマ
イロリ
ドマ
チャノマ
フロ
られる部屋が選択される。A 家の場合は
ナカノマである。部屋全体が、さらに気
専用蚕室
密性を増すために紙帳(油紙のようなも
養蚕専用に新築された付属屋。当時養蚕の指導
の)で覆われた。壮蚕期は蚕が稚蚕期の
書として「蚕書」が数多く刊行され、推奨すべ
き蚕室の建築仕様が詳細に描かれていた。
小布施の養蚕建築
通り門
A 家断面図
1 万倍ほどに成長して、飼育スペースが
母屋全体に広がる。ナカノマからチャノ
風が悪く蚕室ではなく寝室と物置に使用
うな印象を与えようが、実際は通気・換
マ、ザシキへと順に広げ、それでも足り
された。飼育環境の影響を受け易い上蔟
気の面で苦労しており、その改善のため
ない時はオクザシキ、キタノマにも広げ
期(蚕が成長して糸を吐き繭をつくる時
に母屋の改築に着手したという。まず、
られた。人間の生活する場の確保が困難
期)には換気・通気の必要性が増す。乾
棟に気抜きを設け、ザシキの天井には屋
になる。そこで、飼育棚を立体的に組み
燥が必要な場合には火鉢やイロリなどの
根裏に向けて通気口をとった。さらに図
上げるために天井を高くするか、2 階を
補温設備によって温度を上昇させること
の×印で示すように、10 ヶ所で小壁を
設ける。この点では、元来天井が高い
もあった。この条件を満たす部屋として
除去し、ナカノマの床の間の地板を取り
茅葺き母屋は都合が良い。A 家の場合、
A 家ではチャノマが用いられた。
外して床下との通気を良くし、母屋全体
ナカノマ、ネドコ、キタノマの上部に 2
以上のように説明すると、各部屋の特徴
の通気・換気を向上させている。
階が設けられているが、この 2 階は通
を活かして効率良く飼育していたかのよ
武家屋敷の長屋門と似た形式で、納屋やクラな
どの一部が通れる様になっている建築。明治以
降、小布施では養蚕で使われたものがある。
研究目的・方法
A 家 1 階平面図
切妻・瓦葺き母屋での養蚕
B 家は明治 18 年の創建が棟札により確
小布施町には地域固有の伝統的な建物が
実測調査・インタビューを行った。明治
認された。1 階、2 階の間取りは A 家と
多く、景観を構成する重要な要素となっ
以降の養蚕業によってもたらされた屋根
ほぼ同じであるが、2 階が養蚕に使用さ
ている。
の形状や葺き素材の変化が、町の特徴的
れたことが大きく異なる。2 階は南北面
明治時代に入ると、それまでの主流で
な景観として現在も根強く残っているこ
に十分な開口をとり、畳も敷かずに板敷
あった茅葺き母屋の中に、切妻の瓦葺き
とを明らかにする。
きで、天井も張られていなかった。図の
母屋が建てられるようになる。瓦は言う
□印で示すように、チャノマの天井
までもなく地瓦である。その大きな要因
所、ナカノマの天井 2 ヶ所には通気口が
として当時の農村に変革をもたらした養
あり、イロリや火鉢の暖気を上部に導く
蚕業に着目し、特徴的な 6 棟について
仕組みになっている。上に 2 階を設けて
養蚕母屋
小布施と養蚕
4ヶ
いないザシキ、オクザシキの天井高は他
ヘヤ
ヘヤ
ヘヤ
2F
B 家 2 階平面図
イロリ
ネマ
キタノマ
オクザシキ
オカッテ
B 家断面図
ミソベヤ
イロリ
ザシキ
コザ
ドマ
チャノマ
1F
気抜き
エンサ
B 家 1 階平面図
の部屋より約 3 尺高い。ザシキの南北面
れた大きな開口や欄間、棟上の気抜きに
には欄間があり、特に南の欄間は他の約
よって通気・換気を確保し、チャノマの
養蚕は江戸時代から各地で行なわれてい
住まいを改装して養蚕室にした養蚕母
2 倍の高さを有する。また、棟には気抜
イロリで補温した。飼育に 1 階と 2 階
たが、明治時代になると急速に発展し
屋、農作業空間であり蚕室への変更が容
きが設けられている。
を使用でき、ザシキの天井が高いことで、
て、特に長野県は繭生産量が全国一にな
易だった通り門、養蚕専用の付属屋とし
B 家では 1 階と 2 階の南北面に設けら
蚕の飼育量を増やしている。
るほどであった。小布施町においては扇
て数は多くないが当時の最新技術を取り
状地の土壌が蚕の餌となる桑の栽培に適
入れて建てられた専用蚕室がある。
して、明治後期には農家の 8 割がなん
今回は、養蚕母屋について、詳しく研究
らかの形で養蚕に従事したと言われてい
を行った。ここでは、茅葺き寄棟屋根だっ
小布施町では現在でも、例に挙げたよう
る。また雑穀畑や麦畑が次々と桑園に変
た既存の母屋に、養蚕のために通気を良
な切妻の瓦葺き屋根を有する母屋や蚕室
わり、ピーク時の昭和 5(1930) 年には作
くする改装を施した例(A 家)と、瓦葺
などの養蚕建築が至る所で見られ、町の
付面積の 64% に及んだ。
き切妻屋根の養蚕母屋として新築され、
景観の核となっている。養蚕は茅葺き母
農村生活を根本から変化させた養蚕は、
2 階を蚕室として使用し、欄間や気抜き
屋の並ぶ農村に、この種の母屋や蚕室の
建物や住まい空間にも多大な影響を与え
といった換気設備を備えた例(B 家)を
建設を促して景観を大きく変えたので
ている。当時、養蚕を行った建物には、
紹介する。
通気口
欄間
イロリ
あった。
出典『写真集須坂百年史』
イロリ
養蚕母屋の換気方法の模式図
結
大正時代における小布施町の桑畑地帯
通気口
気抜き
15
景観をつくる住宅
16
仕事場とつながる家
住宅設計課題
「景観をつくる住宅」
修士 2 年 蒲原 剛
敷地に選んだのは、小布施でも、栗や葡萄
農家の特徴は、住宅と仕事場が同じ敷地内
うと、特に小布施のように冬に寒いところ
などの果樹園が広がる地区です。このよう
にあることです。会社勤めの者ならば、家
では不便な点が多いと考えられます。そこ
な地区では農家が多く、他の地区に比べて
という安息の場を、仕事場とは別のところ
で、一つの建物の中に仕事場と住まいを設
住宅の密度が低く、敷地が大きいため当然
に持っているのに対して、農家では両者が
け、仕事と家庭とをうまくつなぎ、また家
住宅も大きくなっています。敷地に対する
混在して、明確に分かれていません。この
庭生活と仕事をうまく切り替えられるよう
配置構成としては、通りに面して前庭を挟
状態は、外で働く人に比べて、生活にメリ
な住宅を設計しました。
んで母屋があり、奥に納屋や作業場が建っ
ハリがつきにくくなります。しかし、だか
ているというタイプです。
らと言って、仕事場と家を切り離してしま
A
W.I.C
+700
W.I.C
B
+500
B'
W.I.C
+500
W.I.C
+300
+500
W.I.C
+300
+500
W.I.C
+100
A'
空間、リビングの順で並んでおり、通路空
間でつながれていました。この夫婦に子供
が生まれ、新に彼らのスペースを増築(屋
根の下に)、さらにその子供が生まれて増
築、というようなプロセスで、この住宅は
現在の形になっています。増築する際、二
人用の住宅の状態におけるつながった茎の
ような通路空間が、新たな土地に個人のス
ペースという実をつけるように延びてい
き、新しい空間を構成していきます。今回
はリビングを基点に茎のような通路空間が
延びていったが、この増築のシステムは土
地さえあれば可能であり、住宅のどの部分
からでも茎によってつながっていくことが
できます。また、個々人の成長、ライフス
タイルの変化に伴い、箱(部屋)の位置を
変え、箱(部屋)自体の大きさを変化させ
ることも可能です。
③床を一続きのものとし、個人の空間に
近づくにつれ、徐々に自らの生活空間が
認識できるように構成しました。
仕事と家庭生活のきりかえ
精神的な切り替えを可能にする要素とし
て、レベル・光・素材を用いることが考
えられるが、この設計では切り替える方
法として三つの方法をとっています。
①段差を仕事場から住空間に向けて設
け、 徐 々 に 異 な る 空 間 に 移 行 さ せ る。
100mm の段差を仕事場から住空間にむ
けて 3 段階つけました。
②仕事場から住宅へつながる通路部分
を、他の通路空間より暗くすることで空
間に一瞬の差を設け、精神的な切り替え
ができるようにしました。
条例に基づく住宅
□ 高さ
住宅の背後にある果樹は、小布施の景観を
決める重要な要素です。そのため、建物が
背後の農地を完全に覆い隠すべきではない
と考え、平屋としました。
建物高さ:4.9m
果樹の高さ:栗の木 5 ~ 7m
□ 屋根
条例に基づき傾斜のある切妻の形式としま
した。3 間ごとに切妻屋根を並列させたこ
の屋根形状は、住宅が風景として見える周
囲の素晴らしい山々の景観となじむように
するため、そして果樹園の木々の並びを意
識し、敷地の特徴にもなじむようにする効
果を期待したものです。
屋根勾配は 10:3。
小布施では、
「修景」という手法によっ
ると言うのではないでしょうか。良い町
たりと建てられる住宅が、切妻の瓦葺き
て、古い素材や技術をできるだけ継承し
や村は、訪れる者を大きく包み込む全体
屋根で、深めの庇を持っています。二階
ながら現代の生活に適合した建築と家並
的な何かをもっているようです。小布施
建てを想定していますが、必ずしも、所
みをつくることが試みられてきました。
は、それが実感できる数少ない町の一つ
謂「総二階」ではありません。農村部で
日本中の町や村の風景が激しく変貌する
です。
は、都市部とは違って、建物同士に関係
時代に、小布施では木や土や瓦などを使
今回の設計課題「景観をつくる住宅」は、
が求められると同時に、周囲の自然・田
い、自然作用によって時間とともに徐々
老夫婦・若夫婦・子供 2,3 人ぐらいの
園との関係も求められます。
に変化するような環境がつくられてきま
家族構成を設定し、生活スタイルも提案
小布施の農村部に、心を癒すような美し
した。また、小布施では、水彩画を描く
するように求めています。場所は特定し
い景観を創ることができるでしょうか。
際に、或る色を一つのオブジェクトに使
ていませんが、小布施の農村部を敷地に
研究所の大学院修士課程の学生たちが、
小布施町では、水路をよく見かけます。
が暗渠となり、あるいはU字溝によって
水路の本来の魅力が現れていない。
えば他のオブジェクトを描くときにも少
選んでいます。
ですから、広い敷地にゆっ
この難しい課題に挑戦しました。
かつて水路は、田畑や果樹園の灌漑にも、
排水路として整備されています。また、
このような現状に対して私は、水路を敷
食器や野菜を洗う生活用水にも使われて
水路に接する住宅は、壁や塀などを立て
地の中へ、さらには住宅の中に引き込ん
いました。自然に、地域の人たちが集まっ
て、水路に背を向けています。そこでは、
で、住まいと水路を一体として設計する
て顔を合わせ、話を弾ませるコミュニ
忘れ去られたように、ひっそりと水が流
ことによって、水路の空間がコミュニ
ケーションの場所にもなっていました。
れているだけで、暗く閉ざされた場所と
ケーションを誘発して豊かな生活の場所
しかし現在では、小布施町の水路の多く
なっています。
水路を活かせていないし、
となる住宅を提案します。
し同じ色を混ぜるように、ある建物の要
素をそれとなく他の建物にも使うことに
うるおいのある美しいまちづくり条例
よって、建物と建物との間に何かつなが
りを感じられるような「まちづくり」が
景観形成重点地区
屋根の形状
行われてきました。つまり、個々の建物
に一つとして同じものがないのに、群と
して見れば時間的にも空間的にも何かが
共有されて相互につながっている。それ
が、見る者に確かに感じられるような「ま
ちづくり」が行われてきたのです。
結果として、新しい建物同士が、あるい
屋根の色彩
外壁の色彩
外壁の構成
から、人々は小布施を歩くと心が癒され
黒または濃灰色、原色は認め 黒または濃灰色、原色は認め 周辺の建築物この調和に努め
ること。伝統的な様式をもつ建
ない。
ない。
築物が多い場合にはその様式
を継承、または取り入れるよう
茶色系の彩度の低い色、若し 茶色系の彩度の低い色、若し 努める。色彩は、
周辺の建築
くは無彩色とする。
くは無彩色とする。
物等と調和した色調とする。
道路境界から1.8m、隣地境界
道路境界、隣地境界から1.2m 周辺と壁面線を合わせつつ、
から1.2m以上後退して建物を
以上後退して建物を建てる。 極力道路から後退する。
建てる。
敷地面積
景観計画に基準なし (開発基
300㎡以上500㎡以下(農家
ゆとりある敷地を確保する。 準では、300㎡以上500㎡以下
は1,000㎡以下)とする。
(農家は1,000㎡以下))
敷地内緑化
敷地境界には樹木などを活用
敷地面積の15%以上を確保し 敷地内を緑化する。敷地の周
する。周囲の緑化との連続性
なければならない
囲は生け垣にする。
に配慮する。
収納
プライベートスペース
寝室
通路空間
水路が流れるいえ
①
集落の特徴を生かしたものと 集落の特徴を生かしたものと
する。
する。
壁面位置
ることによって小布施らしさが生じ、そ
れが訪れる者を大きく包み込みます。だ
切妻型を基本とする
高さ・規模
なる風景が生れました。手と手、心と心
をつなぐように建物同士が何かを共有す
県の基準
原則2階建て以下とする。
2階建て以下とする。建ぺい率
周辺の町並みとしての連続性
建ぺい率60%、容積率100%
50%、容積率80%とする。
に配慮した規模、
高さとする。
とする。
は新しい建物と旧い建物が、ただ自己主
張するばかりの他の町や村とは、全く異
勾配屋根とする
環境デザイン協力基準
成長と変化
これからの住宅を考えていくにあたり、現
在の状態だけを考慮するのではなく、将来
の住み方にも対応できる住宅を設計すべき
だと考えました。例えば家族の増減、ライ
フスタイルの変化などの要因があります。
最後にこの住宅の成長と変化について説明
します。この住宅は、もともと農業を営む
祖父母の二人用の住宅でした。農地、生活
③
④
②
修士 2 年 萩原 伸浩
住宅の配置・形と外部空間
敷地は、街道の端や住宅の間に水路が多
く残る福原という地域にあって、水路が
脇を流れています。この敷地に水路を L
字型に引き込むことで、これによって、
どちらの敷地も水路に接し、また、自由
に外部スペースをとることができるよう
にしました。この 2 つの敷地に 2 世帯
の住宅を計画しました。街道に面する北
側の住宅は、表の街道から見たときに、
周囲の伝統的な住宅と連続感をもつよう
なアイストップとなるところ、裏へと視
線が抜けるところを設定し、敷地の西側
を流れる水路に対して開くように、庭を
配置しました。その結果、住宅全体はコ
の字の形となりました。内側に水路が配
された緑豊かな中庭をもち、そこでは
ガーデニングを楽しむことができます。
さらに、果樹園に近い南側に、もう一つ
住宅を計画しました。コの字の住宅を
囲むように L 字の住宅を配置しました。
コの字や L 字のような折れ曲がった形
によって、ガラスやルーバーを通して、
視線が交錯します。また、L 字の住宅の
南側には、果樹園と連続したプライベー
トな裏庭を計画しました。さらに、住宅
の間を水路が流れ、通り抜けできる庭と
しました。通り庭に接する両側の壁面を
ルーバーとし、できる限り、明るく開放
的な場所としました。また、景観形成基
準の壁面位置に従い、壁面を道路境界か
ら 1.8 m後退させ、そこに、オープン
スペースを計画しました。
17
景観をつくる住宅
18
農園の中で暮らす 大屋根住宅
修士 2 年 西橋 真理子
小布施の農村集落には、農地の中に住宅
そこで、散村的特徴を残しつつ、住宅を
が閉鎖的になってしまいます。
ここでは、
があって、散村の形態をとるところがあ
道から遠ざけて農地の中ほどに建てれ
「みんなのもの」としての屋外に対する
ります。道幅は比較的狭いのですが、農
ば、道行く人の視線を気にせずに、農園
愛着心を個人専用のテラスによって育み
道に面して住宅を建てて、周囲に農地を
で暮らす利点を最大限に活かす生活がで
ます。また、床のレベル差を用いて、外
廻らす配置をよくみかけます。生け垣、
きると考えました。本提案は、小布施の
部からは内部を隠し、内部からは外部へ
土塀などによって住宅と農地とをはっき
農村地区だからこそ可能な住宅です。
の視線が開いていくような状態を作り出
り分けています。農園の樹木は人の背丈
「外はみんなのもの、内は自分たちのも
します。外に対して単に閉じるのではな
とほぼ同じ位で、道行く人は農園の奥ま
の」と考えるにしても、内と外を全く異
で見晴らすことが出来ません。
なる存在として分断しては、人々の生活
く、“開きつつも閉じる”提案です。
b
terrace
parents room
balcony
kitchen
+400
terrace
bath
room
+400
grandparenrs room
+400
+400
dining
a
a
entrance
terrace
storage
room
toilet
terrace
terrace
+400
child room
+400
terrace
child room
+400
terrace
terrace
b
平面ダイアグラム
中心に共有空間を配置し、そのまわりに
テラスを巡らせ、個人部屋を挿入します。
個人の空間を共有空間に介在させること
で、個人と家族とが触れ合う機会が多く
なるように設計しました。個人部屋は互
いに角度を持たせて配置し、部屋の戸を
全開にしても、角度によって視線が抜け
ずに、程よくプライバシーを確保できま
す。個人部屋が独立し、閉鎖的になって
しまうことを避けるために、子供部屋は
吹き抜けで 2 階の居間に通じ、他の 3
つの部屋も、2 階から様子が伺えるよう
断面ダイアグラム
2 階建ての構成で、地上から 1.2m 下げた
半地下が1階、地上から 1.6m 上げたとこ
ろが 2 階です。1 階は個人の部屋と共有
空間、2 階にはリビングやキッチンなどの
共有スペースを配置しています。微妙なレ
ベル差を用いたのは、農園内におけるプラ
イバシーを確保し、開放的な暮らしを実現
するため、そして、伸びやかに広がる部屋
からの眺望を得るためです。
2階の眺望
2階
にガラス張りの吹き抜けにしました。中
庭のテラスが吹き抜けとなっているの
で、2 階にいても 1 階の共有空間や個
人部屋の様子が伺えます。どこにいても、
なんとなくお互いが近くにいるような安
+1.6m
1階
-1.2m
外と内をつなぐ家
テラスについて
個人の部屋には、専用のテラスを設けま
した。大屋根が作る軒下の空間は、部屋
の延長として天候に左右されずに活用で
きます。老夫婦たちのコミュニティの場、
ガーデニングや、日曜大工を行う趣味の
場、安心できる子供達の遊び場となりま
す。テラスがあることで、外部の人を招
き入れやすくなり、家の周りで新たなコ
ミュニケーションが誘発されるでしょう。
屋外に個人の場所を設けることで、住宅
内部だけで生活行為が完結しがちであっ
た状況に変化を与えられます。塀で家を
囲ってしまうのではなく、テラスという
内と外との中間的な場を与えることで、
地域に程よく開いた家の形が出来上がり
ます。また、テラスの床面積は約 140 ㎡
で、将来の増改築にも容易に対応するこ
とができます。個人部屋の吹き抜けをつ
ぶして部屋を増やすことも可能です。
修士 2 年 野口 亮一
小布施の魅力の一つに、豊かな外部空間
布施にあります。村でありながら町のよ
この「敷地の内」に広がる外部空間は、
があります。小布施の町を訪れて歩いて
うに密集した押羽という地区です。
付属屋や庭木に適度に囲まれて、独特で
みると、「こんな道がある」「こんな場所
付属屋・塀・生垣によって敷地内が囲ま
魅力的な空間となっています。外部空間
もある」と毎回新たな発見があり、飽き
れ、密集して集落が形成されているの
ですが家族の生活空間であって、中間的
ることがありません。これは、訪れる人
で、
「外と内」が「敷地の外と内」がなっ
な領域です。そこで私は、外部であり内
に対して町が開かれているからだと思い
ています。建物というよりも敷地境界で
部でもあるこの中間的で豊かな空間へと
ます。それは「外はみんなのもの、内は
「内」と「外」が分かれているのです。
生活の域を広げ、内と外が響きあうよう
自分たちのもの」という考え方にも現れ
航空写真を図面化して、敷地内部の建物
な「外と内とをつなぐ」住宅を考えてみ
ています。外は建物の外部、内は建物の
と外部空間を色分けしてみると、道路に
ました。
内部と一般的に考えますが、この「外と
立って感じる以上に、外部空間が多いこ
内」を少し違う形で捉えられる地区が小
とが分かります。
増築・イベントにも対応する庭
敷地の内側に多くのスペースが残さ
れ て い る の で、 今 後 の さ ま ざ ま な 展
開 が 期 待 で き る。 例 え ば 増 築、 敷
地 の 内 側 に 向 っ て 増 築 し て ゆ き、 そ
こ に も デ ッ キ 空 間 を つ く り、 既 存 の
デッキとつなげることによって、さら
に、広がりのある生活が出来る。また
庭からみるとデッキを小舞台と見立てて
催し物もできる。お客は、道路に面した
縁側空間で休憩し、土間を通り敷地の内
側へと入っていく。するとそこに、普段
生活のために使われているデッキが、小
舞台として現れるのである。そのような
イベントを行なうことで、現在では薄く
なっている「敷地の外と内」との関係が、
再び強化されるのではないだろうか。
ここに見られる街道筋の集落の場合です
いを楽しむことができるのではないで
という活動が、現在小布施町で展開して
と、道路に接して建物を建てるのではな
しょうか。
います。それによって、日本庭園やイン
く、道路から少しセットバックさせるこ
この計画では、住宅が密集し、住宅と住
グリッシュガーデンにつくり上げられた
とによって、前面に庭をつくり、道路に
宅が隣接し、建物の占める密度が高い押
個人の庭が、まちの花壇や公園などの緑
沿って庭が連続するような空間を創出さ
羽地区に敷地を設定しました。敷地内部
と繋がり、「緑のネットワーク」が形成
せます。あるいは、蔵・納屋・母屋の横
に入ると、魅力ある庭が突然に現れるな
されています。
を通り抜け、裏の農地を越えて、隣家の
ど、密度の高いこの地区に固有の特徴が
私は、オープンガーデンによって個人の
庭まで続くような緑のネットワークも考
あります。ここに新しくオープンガーデ
庭を開き、それらを相互につないで、あ
えられます。このような緑のネットワー
ンのある住宅を設計し、それらの庭を繋
るいは通り抜け可能にすることによっ
クを充実させることによって、魅力的な
いで形成される「緑のネットワーク」を
て、緑のネットワークをさらに広げ、充
庭や田園の風景が連続し、そこを通り抜
提案しています。
実させることを考えました。たとえば、
ければ様々な風景の変化、人々との出会
庭について
庭は、地域の人々や自分と同じ趣味を持
つ人々との交流を楽しむ場であり、観照
やコミュニケーションの場であると同時
に、ガーデニングに関するアイデアや情
報を得る場にもなっています。今回、提
案する住宅の庭もオープンガーデンとし、
緑のネットワークの一部を構成して、自
分が楽しむ空間であると同時に、通りか
かった人を楽しませる空間にしたい。そ
のため、歩いて通り抜けできるような空
間にしました。また、庭と住宅の配置に
関しては、東西に長い長方形の敷地にお
いて、南面して平入りで、南側に庭が広
がる押羽地区に一般的な形式としました。
「住む」
庭
交流・出会いなどの公的要素を与える
る場所。雨が降っても庇が大きくとって
あるから子供が遊べる。また、農業の作
業スペースとしても利用できる。なによ
り、ここは外の気持ち良さと内の安心感
とが共存した空間であり、部屋の中で生
活するだけでは得られない半外部的な生
活を得ることが出来るのではないかと考
えた。
修士 1 年 番場 直樹
個人の庭を公開する
「オープンガーデン」
住宅
リビングと庭をつなぐデッキ
一階のリビングと庭の間には庇を大きく
取り、その下に庭へと延びるデッキを
計画。ここは、部屋としても使える程の
広さをもち、いろいろな用途が考えられ
る。例えば、一階のリビングの建具を開
放することによって、ゆったりとデッキ
に広がる。天気のいい日は庇の先まで延
びたデッキ上で日向ぼっこ、読書ができ
今まで通り過ぎるだけの場所となってい
た道路に、道行く人がちょっと雨宿りし
たり休憩できたり、近所同士の交流が出
来る魅力的な場所が生れた。
緑のネットワーク
guest room
living room
balcony
心感があります。半地下の 1 階は、ガラ
ス張りですが、1.2m の高さの壁でプラ
イバシーを保護します。2 階の床レベル
は、農作物の高さと同じで、2 階床の延
長線上に農作物のじゅうたんが続き、空
が一望できます。農園内で作業しながら、
違った視点から作物の眺めることも楽し
みの一つとなるでしょう。
敷地と道路をつなぐ土間
建物は道路に面して平入りとして、高密
な地域の特徴を残す。敷地の内側に、広
く庭を取る。ここで問題なのが、
「敷地
の外と内」の隔離。この問題を解決する
ものとして、通り土間を採用。それは、
敷地の内側の魅力を外側へと伝える。道
路に面して建物の一階を少し窪ませ土間
を拡張。景観条例の中に、壁面位置の基
準として、
「道路境界から壁面を 1.8 m
以上後退し、建築物を建てる」とある。
これは規制というよりも、緑化、交流ス
ペースができるチャンスと受け止める。
住宅内に
「まちの縁側」
を形成する
住宅について
オープンガーデン活動によって個人の庭
が少しずつ開かれていくのに対して、住
宅の形態は依然として変わっていませ
ん。そこで、オープンガーデンとするに
相応しい住宅の新たな形式があるのでは
ないかと考えました。ここで、個人の庭
と住宅が、従来の住むという機能だけで
結びつくのではなく、そこに交流・出会
いという新たな要素を付加すべきだと考
えました。つまり、住宅内にも、庭で出
会った人を招き入れる空間、
「まちの縁
側」とも呼ぶべきものを設けたいと考え
ています。オープンガーデンに付属する
住宅にそのような空間を設けることに
よって、地域に住む人々、あるいはそこ
を訪れる人々との交流をより一層深めて
いくことを考えました。
これは、1 階と 2 階の平面図です。1
階に設けられた「まちの縁側」は茶色で
示されており、ガラス戸を開けることに
よって緑色の部分まで拡大します。そこ
は、訪れる人にとっては庭を眺め、住む
人々と交流を深める場所になっていま
す。住む人々にとっては、この空間は庭
を訪れる人々との交流の場所であるとと
もに生活の一部となる場所です。この公
共性が強まった場所では、様々な用途が
考えられます。自分が描いた絵を飾る場
所、骨董品などのコレクションを飾る場
所、畑で収穫されたものを売る場所、そ
して仕事場など。今回の住宅では、この
空間を若夫婦の妻が営む小さなカフェ
として設計しました。そこでは、老夫婦
が作った畑の収穫物も売られています。
空間の少し奥には、家族 6 人がくつろ
ぐ空間があり、家族全員で食事をとる場
となります。天気が良い日には縁側に出
て、庭に囲まれながら食事をすること
も可能です。1階とは逆に 2 階は、よ
りプライベートな空間とし、そこには老
夫婦の部屋、若夫婦の部屋、子供たちの
部屋などの部屋があり、個々のプライバ
シーが保たれています。
このように、住宅は1階から 2 階にか
けてプライベート性が強くなっていく空
間構成になっています。
庭で起こる交流・出会いなどの
出来事を住宅内に引き込もうと
する階段
「まちの縁側」
普段は茶色で示された場所が縁
側となっているが、戸を開ける
ことによって緑で示された場所
も縁側とすることができる。こ
の広い空間で、人々は交流を深
めていくのである。
家族全員が集まる場所
19
東京理科大学・小布施町まちづくり研究所 主催
EXHIBITION+SYMPOSIUM
小 布 施 まちづくりの 第2ステージ
「身近な場所からの景観づくり∼住宅・道空間を中心に」
2006.10.28→20
20
EXHIBITION+SYMPOSIUM
平成 18 年 4 月 1 日より、先の景観条例の下に『小布施町景観計画』が施行
されました。小布施らしい優れた景観を創出するために既に様々な努力がな
されていますが、「景観計画」はさらに前進するために必要な手段です。「美
しく良好な景観」は町の掛け替えのない財産であって、それを守り育てる意
識がなければ、あっという間に崩れます。これまでの研究所の研究報告など
日時 2006 年 11 月 11 日(土)15:00 ~ 16:30
も参照しながら、景観とは何かを考え、住民・行政として「景観計画」をど
場所 北斎ホール(勤労青少年ホーム)
う受け止めて活用すべきかを討論したシンポジウムの模様をお伝えします。
小布施
~次のステップへ、魅力発見
ます。これは通り門ですが、この見
寺とフローラルガーデンしかありま
パネリスト
事な意匠にハッとさせられます。
せん。しかし、途中にいくつか活用
芦原太郎 氏
市村 それでは私から、話題の提供
これも付属屋ですが、建物の外形も
可能な付属屋的な建物があるので、
建築家、UIA2011 東京準備委員会委員長
と言いましても小布施の局地的話題
艶っぽく、脇に薪がきれいに並べて
これをなんとか休憩できる場所に変
市村良三 氏
に終わるかも知れませんが、お話し
あって、田舎らしい美しさがありま
えて、楽しめるルートにできればと
長野県小布施町長
たいと思います。ご承知の通り、小
す。この屋根などは、景観条例に色に
思っています。また、押羽の女性グ
久保田勝士 氏
布施町は景観を大切にする町という
関する項目がありますが、あながち変
ループがなさっているカントリー
長野県高山村長
ことで、ここ25年間ほど、町民の
ではないなという気さえします。
ウォークのような催しも今後実施し
谷川実 氏
皆さんによって意欲的に活動が続け
町組(まちぐみ)の家ですが、この
てもよいし、工夫の余地は十分にあ
られています。北斎館を中心とする
ような屋根の形もあります。この部
ります。
修景事業は継続的に展開して、結果
分は後からの補修でしょうが、かつ
先ほどの発表に、小布施の小道の研
根の民家があると思いますが、高山
す保全の試みもしております。
として、大勢のお客様をお迎えして
ての小布施の風景を感じさせます。
究がありましたが、主として「赤
高山村
~「村の原風景」再生へ
高山村は春夏秋冬、四季折々の風
進行役
景を楽しめる所で、春は田植え、
村にも点在して風景をつくっていま
高山村には8ヶ所で蛍が出ます。こ
川向正人
います。
これも町組の家ですが、建物の目隠
線」の考察ですけれども、赤線と町
久保田 小布施町に隣接する高山村
棚田が広がります。また、りんご
す。また、土蔵や大壁の建物の写真
ういったものを大きく広げて、高
一方で私は、小布施町の奥深い魅力
しや切り反しがきれいです。
道と組み合わせると、すばらしい散
の村長です。小布施町は、景観法
が開花して、その向こうに善光寺
もフォトコンテストに出展されて、
山村全体を蛍の里にしようと取り組
は、周辺の農村部にも強く残ってい
この納屋には、お祭りの道具がきれ
策ルートができるのではないかと感
ができてから全国に先駆けて景観計
平を眺める風景です。夏になりま
面白いなと思いまして、このように
んでいます。田んぼでも蛍が出ます
ると感じています。小さな町ですか
いに収納されています。その近くの
じました。たとえば、これは矢島の
画をお作りになり、高山村としても
すと、山田牧場では標高1200メー
村の広報にも採用しています。にわ
が、今年は1.8ヘクタールで無農薬
ら、徒歩や自転車でちょっと移動し
神社の境内では、お母さんたちが、
下道(したみち)と呼ばれる道です
景観について小布施町さんからいろ
トルで放牧が行われ、牧歌的な風
とり、桜、農器具など、村の原風景
栽培に取り組みました。蛍の他にめ
ても素晴らしい農村景観に出合いま
ひなたぼっこしながら座っている風
が、大通りの西側を通る、何か雰囲
いろ学びながら進めていきたいと考
景にはスイス的な雰囲気もありま
と思われるものが、村の至るところ
だかも増えたようで、水田で生態系
す。ここに来て、新しい発見だと感
景もあります。これだけの要素があ
気を感じさせる道です。実際ここに
えています。おかげさまで高山村は
す。渓谷沿いには滝がいくつかあ
にあります。
を維持しながら安全な食を提供した
じています。学生さんによる様々な
りますが、小布施にあるものの、ご
立つと、小布施の風を感じます。昔
今年、村政50周年を迎え、キャッ
りますが、新緑が美しい。山を彩
最近、扇状地にある高山村の土地は
いと一生懸命に取り組んでおりま
視点からの発表でも指摘されていま
くごく一部です。
ここから半分は水路で、今は車が通
チフレーズに「輝け未来、受け継ぐ
る秋の紅葉です。この写真は、50
ワインぶどうに適していると指摘さ
す。試しに数えた程度ですが、今年
現状と課題
~わが町、わが村では
したが、ここ30年くらい、母屋に
こんなことから、一つの散歩コース
るために埋めていますが、小布施の
伝統」を掲げて、素晴らしい掛け替
周年記念のフォトコンテストの折
れます。りんごやぶどうなどの他
出た蛍は1425匹。東京の女子美大
ついては新築する動きが続いていま
を設定してみました。松村の駐車場
空気の薫る小道であります。もう一
えのない自然遺産を後世に引き継い
に最優秀となったものですが、実
に、最近はワインぶどうが注目され
の学生さんに高山村の印象を聞きま
川向 これまでの研究所の学生たち
すが、母屋以外の付属の建物、昔の
から出発する散策ルートです。松村
つ、中条に素敵な道があります。こ
でいきたいと思っています。それで
際の風景も写真に負けない美しさ
ているのです。高山村でも農地の荒
したら、蛍だとおっしゃる。やはり
の研究発表によっても、何が課題で
蚕室、納屋、土蔵、通り門などは古
の通りには昔ながらの通り門があっ
れも赤線だと思いますが、西から東
今、景観づくりに取り組んでいるわ
です。冬は雪景色。松川渓谷の冬
廃がかなり進んでおりまして、それ
夏の夜の原風景は蛍かなと思い、蛍
あるかをお伝えできたのではないか
い姿をとどめて実に魅力的で、農村
て、浄光寺方面に向かい、左に折れ
へ向かって雁田山を望む小さな道で
けですが、どのように考えて進もう
景色は情緒があります。高山村は
が125ヘクタールほどになっていま
の里づくりにも取り組んでいくつも
と思いますが、住民の景観に対する
ではこういう建物を眺めながら歩く
ていきます。横に、昔の製油工場の
す。ここは畑の空間ですが途中から
としているのかをご紹介します。
扇状地で傾斜があって、どこから
す。そのうちの8.5ヘクタールの荒
りです。
関心の動向なども捉えながら行政は
のもポイントだと思います。ただ、
建物があります。ここで休むこと
路地になり、畑の道から路地に入り
これは高山村の全図で、約100平
でも北アルプスのほぼ全体を見渡
廃農地を、今年の5月にぶどう栽培
そういったわけで、平成20年の景
何をなすべきか、シンポジウムでは
これらが継承されるには、そのため
ができたらなと思います。それから
次に何があるのだろうと期待しなが
方キロ、人口8000人ほどです。群
すことができます。これは、昭和
に変えました。5年後にはぶどう園
観条例制定に向けて取り組んでいま
この点を議論したいのです。今回は
の仕組みづくりが必要です。私も対
雁田へ向かうと、山と畑の美しい風
ら次の小道に進むと、大きな通りに
馬県とも接しております。国立公
59年に役場庁舎を建て替えた際に
に育ち、ワイナリーもできればと夢
すが、また、皆様にはご指導を頂戴
パネリストに、地元より市村良三町
話集会の度に農村部を歩いています
景が広がります。そうすると、珍し
出ます。しかし、まだその先に通じ
園があり、農村が広がり、松川渓
寄贈された絵ですが、村長室から
を託しています。
したいと思っております。
長、お隣の高山村より久保田村長、
が、今日は幾つか、私の好きな風景
い雁田の空き家に出合います。これ
ています。この辺りで、また、いい
谷に沿って昔からの温泉場が並び
見える風景そのものです。北アル
まだ荒廃農地まで進んでいない農地
そして小布施町と同じように「小さ
の例を挙げてみたいと思います。ま
を何かに活かしたいなと思うわけで
風景に出合えます。このような小道
ます。著名人が大勢訪れた温泉場
プスを遥かに望んでりんご園が広
が、扇状地ですから良い砂利が採れ
川向 日本人にとっての村の原風景
い町」でありながら大きな夢を抱い
た、一つのお勧めの散歩コースを私
す。水穂神社の脇を通って、せせら
をつなぎ、小道の一つひとつに名前
です。そして、高山村が誇る20本
がり、この絵が描かれて22年ほど
るということで建設業から注目さ
を再生する。大きな夢の実現のた
てまちづくりを進めている香川県宇
なりに挙げてみます。
ぎ緑道に向かい、岩松院に到着で
をつけていくことが重要なのだと思
を越えるしだれ桜があります。こ
経っているわけですが、今も殆ど
れています。地面を10メートルも
めに農業のあり方から再考して景観
多津町の谷川実町長をお迎えしてい
古来の小布施人の慎みだとかこだわ
す。その後、南に向かうと、また蚕
います。小布施には楽しめる道がた
れが代表的な大桜で「水中の桜」
変わっていません。
掘って、風景も土質も全部変えられ
条例の制定にまで進もうという意欲
ます。学生たちの発表に対しても非
りだとか、あるいは蚕室が示すよ
室があります。浄光寺までくると歩
くさんあると確信しています。
といい、吉永小百合さんのロケに
これは村営の山田温泉ですが、大
てしまう。そこで、青く塗ったこの
に満ちたお話でした。久保田村長さ
常に的確なコメントを頂戴した建築
うに機能的な美しさを感じることも
いている人も増え、フローラルガー
も使われました。「坪井の桜」は
湯、足湯を楽しむ光景は温泉場の原
辺りは、ワインぶどう畑として採石
ん、ありがとうございました。では
家の芦原太郎さんにも加わっていた
できます。「身近にある小布施らし
デンに向かいます。そして、フロー
川向 小布施を楽しむ散策ルートの
樹齢500~600年ともいわれ、最も
風景と言ってよいのではないでしょ
行為を遠慮してもらう区域に指定し
続いて、宇多津町の谷川町長さん、
だきます。まずはパネリストの方々
さ、それをつくる建物」ということ
ラルガーデンに着くと、レストラン
ご提案までありました。町も村も
樹齢のある桜です。
うか。小布施にもこういった茅葺屋
ようと考えています。遊休農地を残
お願い致します。
に、今日のテーマにあわせて、これ
で、付属建物の画像です。窓にこの
「花屋」があります。
実によく歩かれる市村町長ならでは
までの歩み、まちづくり・景観づく
ように繊細な装飾が施されて、下見
このような散策ルートですが、大体
のお話で、今後の研究所の研究に対
りに対するご自身のスタンスについ
板、切石と続きます。もう、これを
3.5キロか4キロ、急いで歩けば1時
する示唆もたくさん含まれていまし
てお話しいただきます。話の口火を
見ただけで、うっとりしてしまいま
間程度で、ゆっくりと半日かけて歩
た。ありがとうございました。で
切る意味で、市村良三町長からお願
す。建物の切り返しの美しさや蚕室
くこともできます。ただし、現時点
は、続いて久保田村長さん、お願い
いします。
の気抜きにも、細かな意匠が見られ
では休憩できる場所が岩松院と浄光
致します。
香川県宇多津町長
東京理科大学教授
東京理科大学・小布施町まちづくり研究所長
EXHIBITION+SYMPOSIUM
22
宇多津町
~住む喜びに満ちた町へ
た。しかし、昭和46年に製法の変
え、まずは住んでいる人が喜び、豊
だった部分の道づくりを進める予定
化で塩田が廃止になると、地域整備
かに住める、住民の思いのこもった
です。このような中で景観行政団体
谷川 香川県で最も小さな町、宇多
公団と県・町で区画整理事業を行い
町をつくることを目指しています。
の指定、景観法の下に条例制定と進
津町で町長をしております、谷川と
計画的に土地造成が進みました。町
こういう町並みが残っているわけ
申します。今日は、川向先生と小布
役場から海に面して約186ヘクター
施町の市村町長さんのご厚意で、こ
に生きている人が生活している様を
けです。わくわく楽しい気持ちにも
た僕の場合、学校へ行くとなると電
自然に見せることが、魅力ある美
なりました。パリなどの有名な都市
車に乗って新宿に出ますが、新宿駅
芦原 ただ今は、小布施町、高山
しい景観に結びつく。そうなるよう
も見て、何か立派なものを見たとい
で下りて、うろうろする。まじめな
みますが、私としては町が引っ張っ
村、宇多津町と、それぞれにすばら
に、うまく考えなければ駄目だと、
う気持ちにもなりましたが、都市と
学生でしたから徘徊するわけにもい
ですから、住民が参加して自らが
ていくようには、したくない。まず
しい取り組みを拝見しました。実は
たぶん皆さんも思っているでしょう
いうのはどこか冷たくて、よそ者の
かず(笑)、紀ノ国屋書店なんかに
ルの新しい造成地が誕生して、そこ
提案し実行するようなまちづくり
は、住民の中で協議、ルールづくり
私はまだ高山村にも宇多津町にも
し、僕もそう感じました。
建築学生、金も持ってない貧乏学生
行って立ち読みをする。要するに、
のような機会を得ました。大変に感
に新しい街が生まれ、店舗・学園・
を進めたい。
がなされ、どのような景観にすれば
行ったことがないのですが、正直、
生活の大切さに気づいたのは、大学
がうろうろしていると思われている
自分の家と学校と本屋さんでの立ち
謝し、恐縮も致しております。と言
物流基地などの機能が入りました。
今日も同行して下さっている地元の
よいか、どのような町をつくればよ
行ってみたいと思います。どこの町
4年生の時です。建築学生というこ
ような気がしてしまいます。でも、
読み、当時の僕にとっては都市の中
いますのも、私が町長に就任した翌
赤い色で示すところが旧市街であり
建築家、多田(善昭)先生に座長を
いかが決められる。そして、このよ
にも村にも魅力、いいモノがありま
とで1年間ヨーロッパを旅行して回
エーゲ海に来ると、僕もこの街の
での自分の居場所がそういうところ
年の平成15年に、全国の首長を対
ます。宇夫階神社、西光寺、聖通寺
お願いしまして、今日まで4年間に
うな条例があればいいなという段階
すね。普段東京にいる僕が全然知ら
りました。北欧からドイツ・フラン
人々と一緒に同じ自然の中で生きて
にしかなかったのです。ところがイ
象としたまちづくりセミナーがあり
などがあります。
わたり、町内の既成市街地のまちづ
になったときに初めて、町として条
ない、すばらしいものが日本の町や
スと下ってきて、ギリシャ・イタリ
いるという喜びを感じました。自然
タリアでは、路地を歩くと広場が
まして、そこで小布施のまちづくり
旧市街はかつて港町として室町時代
くりについて検討する住民委員会を
例制定に踏み出したいと考えてい
村にはたくさんあるのだと実感しま
アと地中海地方まで来ると、なんか
と一体になって生活し生きている人
あって、いろんな人の生活が町に広
について市村町長さんのご講演を拝
から栄え、その町並みが今も残って
開催してきました。平成17年より
ます。
した。
自分の体がわくわくしてきます。そ
そのものが素晴らしい景観だと思う
がっていると実感できます。日本の
聴しました。大変に感銘を受けまし
います。しかし、若い人はほとんど
国土交通省のまちづくり交付金事業
小布施では歩道に栗の木レンガを使
今日は景観のお話をしなければいけ
のときの写真をお見せします。例え
のです。20歳の時ですから、36年
人たちとはずいぶんと違った生活を
て、翌年に早速、町の議員を引き連
新市街に移り、旧市街に住むのはお
の認定を受け、事業を実施していま
い、我々はそれに感銘を受けたので
ないのですが、まず、景観とかは何
ば、これはサントリーニ島というギ
も前のことです。
していることに気づきます。
れて小布施を訪れ、ア・ラ・小布施
年寄りばかりというのが現状です。
す。また、「まちづくり委員会」か
すが、我々の町では燻しレンガを敷
かを考えてみました。風景と言って
リシャの島ですが、エーゲ海に島が
これはローマですが、イタリアに行
これは17世紀のノリの図といわ
でお話を伺いました。また本日も、
そして、ぽつぽつと櫛の歯がぬける
らの提案というのを考えまして、シ
いて、町民に道路も景観だと認識し
もいいのかなと考えますが、宇多津
浮かび上がり、断崖の斜面に真っ白
けば、こういう広場に出合います。
れ、建築の分野では有名な地図です
まちづくり委員が10人ほど同行し
ように家が壊され始めています。風
ンポジウムを2回開催しており、そ
て、更にまちづくりへの意識を高め
町長さんがおっしゃったように、僕
い建物が張り付いている。港に船が
ここも、ごちゃごちゃしています
が、ローマの地図です。白は道路
て一緒に、学生さんの研究発表を興
情のある町家もあり、ここに基点を
の折には町民の皆さんが委員会活動
ていただこうと思っています。今回
も景観づくり、まちづくりは住民、
着くと、ずっと真っ白い景観が広が
が、ある場所では、ぱっと視界が開
で、黒い部分には建物が建っていま
味深く拝聴しました。このように学
置いて今後のまちづくりを推し進め
で調査研究した成果を発表し、パネ
再び小布施を訪れるに当たっての研
そこに住んでいる人々が主体なの
る。こういう街に行くと、楽しいで
ける。見ると、おばあさんがのんび
す。黒い建物部分には誰かが住んで
ぶ立場ですので、恐縮している次第
たいと考えています。
ラーの先生方に批評や指導をいただ
究テーマの1つが、10人の皆さん
だと考えています。景観は、そこに
すよね。あそこの角を曲がったら、
りいて、僕もこの辺にいて、貧乏学
いたりオフィスで使っていたりして
であります。宇多津町はまちづくり
これは宇夫階神社の本殿ですが、伊
いています。まちづくり委員の町民
がそれぞれにまちづくりを手がけて
生きて生活をしている人々の姿その
次はどうなっちゃうのだろうとか、
生がコーヒーを飲んでいる。いろん
いますが、白い部分の道路をずっと
に取り組んだばかりの町ですから、
勢神宮外宮の第一別宮、旧多賀宮御
自身が歩いて、まずは自分の町の良
いくためにア・ラ・小布施のような
ものであって、それが景観として現
更に先へ行けば、どうなるのだろう
な人がいろんな時間を、自分のペー
歩いていくと、広がった白い部分に
今日の私は「思い」を語るというこ
正殿を移築した貴重な建物でありま
さ、また欠点などを認識して、自分
場を自主的に立ち上げることです。
われてくると、美しい本物の景観、
とか。海岸に出てくると、漁師さん
スで楽しんでいる。でも、これはレ
あって、これは広場です。広場に面
とで、ご理解いただけたらと思いま
す。本殿としてしつらえ、そこを中
たちでまちづくりの提案をするとい
住民が自ら考えるということから出
例えば小布施らしい景観ということ
がいて魚を採っていたり、網を干し
ストランというより広場であって、
して教会がある。ここからが大事な
す。
心として氏神の祭りが行われていま
う仕組みです。
発して、住民の思いのこもったまち
になるのだと思います。下手をする
たりしている。そこで、ふと思った
公共の場所にこのような私的な場所
のですが、教会は当時のローマでは
まず、簡単に町の沿革を述べます
す。今年これを伊勢の方に奉納し、
最近、景観行政団体としての指定を
づくりを展開したい。それが景観を
と、テーマパークのようになってし
のは、僕はこうして観光客としてい
をもって、人々は生活しているので
神様の場所で、みんなの場所でし
と、香川県のほぼ中央部に位置して
伊勢のお社の御木曳として先導さ
受けました。そこで、検討委員会
大切にすることにつながっていけば
まう。それでは、いくら楽しそうで
るわけだけれども、ここにいる人た
す。家の中だけではなくて町全体で
た。ですから24時間、人々に開放
おりまして、瀬戸大橋のちょうど付
せて頂きました。我々は、町に残っ
で出てきた「景観を重視した道づく
と願っています。
も、良く見てみると偽モノだなと感
ちは生活をし、日々の生活を繰り広
生活している。こういう場所がある
された場所だった。それで、教会の
け根のところに位置し、8.07平方
ている生活文化を大切にしながら、
り」を進めようとしています。ただ
じる。何百年も生き続けてきて、こ
げていて、僕自身はそこにお邪魔し
から、そこで生活する人も、僕のよ
中も白く塗られているのです。そこ
キロという非常に小さな町でありま
町の人々が誇りを持てるようなまち
単に車が走りやすい道路というので
川向 まちづくり、景観づくりに関
れからも生き続けなければならない
ている、という関係です。だから街
うに外から来た人間も、交流して触
から中に入ると門があって、中庭に
す。人口は約17,000人でして、人
づくりに取り組みたい、というのを
はなくて、景観づくりにつながる
する非常に強く、明快なメッセージで
とすると、テーマパークのように見
は生きているし、僕も街の仲間に入
れ合うことができる。
続く。誰かかが占有する場所ではな
口密度においては香川県で一番高い
基本的な考えとしています。孔子の
道づくりを検討することにしまし
すね。谷川町長さん、ありがとうござ
栄えだけやっても無理がある。本当
れてもらったような気持ちになるわ
まあ、36年前に渋谷で生活してい
くて、道路、広場、教会、建物の中
町です。かつては瀬戸内の港町で栄
言葉にある「近き人喜び、遠き人来
て、18年度から具体的に一部道の
います。それでは少し視点を変えて、
え、やがて塩田の町となり、全国一
る」ということであって、これが、
工事に着手しています。平成21年
建築家の芦原太郎さんに、景観づくり
の塩の町を誇った時代もありまし
まさしくまちづくりの基本だと考
までの5ヵ年かけて既成市街地の主
についてのお考えを伺います。
美しい本物の景観とは
EXHIBITION+SYMPOSIUM
24
庭、そういう白の部分が、ローマ中
せる。ただし問題は、ゾーンでは
のは簡単だが実行するのは本当に大変
をネットワーク状に張り巡らされて
分けられず、それでも、どこまで古
だというのは分かります。しかし、行
いました。ローマに住む人々は、白
いものを守り、どこに新しいものを
政と住民が何度も対話しながら選択し
の部分をあっちへ行ったりこっちへ
許すのかを決めねばならない場合で
ていくのを、大学の研究者や建築・都
行ったりして、うろうろしながら一
す。許す部分がなければ、次の時代
市計画などの専門家がサポートする。
年の生活を繰り広げている。僕ら観
が切り開けないこともあります。そ
そして、バラバラに動くのではなく
光客もこれら白い部分をあちこち見
ういう場合にどう考えるか。まず、
て、進むべき方向を選択する。
て回る。つまり、こういう白い部分
自分の町にとって大事な資産は絶対
景観は、それぞれに良いとか悪いと
を介して、住民と外部の人間、いろ
守りたい。それを守るためには、や
か言い始めると、収拾がつかなく
いろな人間が触れ合い、出会い、出
はり守りの条例も必要です。しか
なります。そうすると、エライ先生
来事があって、ドラマが生まれるの
し、守るだけでは駄目で、のびのび
です。
る小布施町では、まず、自分たちで
ち、美意識とか機能性とかがと分か
論しながら改めて認識する方向に進
市村 まあ、そうですね、これは宇
デザイン協力基準のようなものを決
る役場職員になっていかなければな
む。そういう作業を分科会ごとに行
多津町長のおっしゃる通りだと思
川向 必ずしも生活の延長上にない
め、それを運用するための住まいづ
らない。幸い小布施町には20年を
い、シンポジウムなどの場で町民が
いますが、まちづくりの過程におい
を引っ張り出して、これが良い景観
ものが入ってくる。それが新鮮に
くりのマニュアルを作り、さらには
越えるまちづくり、景観づくりの歴
発表します。それに対して、参加し
て、やはり外から認めていただくこ
とやるために、何か新しいものを許
ですと決めてもらおうとしますが、
も見え、魅力的にも見える。多くの
住宅だけではなくて広告などにも対
史がありますが、今回改正された条
た先生方に助言して頂き、問題意識
とが重要でした。喧々諤々と議論す
イタリアの街では、いろんなことが
容する、導入することも必要です。
それは絶対やってはいけないことで
住民がそれを求めるけれども、しか
象を拡大して景観づくりを進めてき
例を運用していくのは本当にきびし
を深めます。それを繰り返し実施し
るのも重要ですが、やはり一歩抜き
分かります。街が教えてくれる。
白い家並みに赤い建物を建てること
す。景観の良し悪しを決められるエ
しながら、それが時代のムードとか
た経緯があるわけですが、当初から
く、また自らにきびしくあるべき
ているところです。
ん出ていくような時は、外からきち
こういう街の姿が東京とはずいぶん
が次の時代を切り開く場合もあるか
ライ先生なんて、実は存在しないわ
ファッションに過ぎないこともあ
一町民として積極的にまちづくりに
で、行政の内部でも意識改革を進め
私の考えでは、まちづくりとは坂道
んと評価される必要がある。そうい
違っているので、若い僕にはカル
もしれません。重要なことは、やは
けですから、自分たちで決めねばな
る。いや、そういう場合のほうが多
参加し、現在は町長の立場でさらに
なければならないと感じているとこ
を、大きなボールを押し上げて登っ
う評価にたえることも重要だという
チャー・ショックでした。こうして
り部分だけを見て判断しないことで
りません。ただし、決める場合に、
い。日本中が高度経済成長に沸き、
まちづくりを推し進めようとしてお
ろです。
ているようなもので、押し上げてい
のが、町並み修景事業を通しての私
建築設計を専門にして生きています
あって、全体的な関係の中で判断し
専門家でないと分からない部分もあ
やれ近代化だ、都市化だと言って、
られる市村町長に、ここで、お話を
るのは住民の力です。意識が高まっ
の実感です。
が、人々の生活が一番大事であっ
なければならない。そこだけで考え
ります。ある場所に高い建物を建て
古いものを捨て新しいものを追い求
伺いたいのですが。
て、ボールが向こう側へ転がれば、
て、人々の生活のために建物があ
ても、答えがないことも明らかだと
るとか赤い建物を建てる場合、現存
めた時代に、何人かの先見の明のあ
相当に前へ進むと考えています。で
川向 それが、ゴロッと動く瞬間と
り、建物一個では豊かな生活にはな
思うのです。
する建物との違いが大きいという理
る住民とか行政が自分たちの歴史文
市村 冒頭に触れましたが、小布施
川向 宇多津町ではさまざまなシン
すから我々、行政としては、ボール
いうことでしょうか。
らず街全体がその場にならねばなら
イタリアのプーリア地方、地図で見
由から良くないと言えるかもしれま
化の大切さに気づいてまちづくりを
町の場合は昭和57年あるいはその
ポジウムを開催し、専門家を外部
をできるだけ上へ上へと押し上げる
ないという考え方は変わっていませ
ると長靴のかかとの辺りに、本当
せん。しかし、次の時代にとっては
始めた。少なくとも、これまでまち
前に始まった町並み修景事業がきっ
から招いて議論を重ねているようで
努力を援助する、そういう機会を住
市村 ええ、いろいろな賞を頂戴
ん。先ほど、宇多津町長さんがおっ
に小さな町がいくつかあります。し
良い物かもしれない。その辺を判断
づくりに成果を上げてきたところで
かけでした。これは民間と行政のコ
すが、議論に町民も参加して行政・
民に広く提供する努力をする。その
し、外部からお出でになる人々の数
しゃったように、街全体の中で各々
かも、オストゥーニやアルベルベッ
するに当たっては、最近シミュレー
は、小布施も幸いなことにその一例
ラボレーションだったと私は思って
専門家と一緒に考える機会とか場を
成果でもありますが、まちづくり委
が増えてゆく。それで終わるわけで
がいきいきしている姿が美しい景観
ロなどの、とんがり帽子のような建
ションの技術も出てきましたから、
と言えますが、先見の明と信念を
います。それで景観意識が非常に高
つくることがとても大切で、私たち
員会として分科会が4つも5つも出
はないが、確かに、動き始めたとい
として見えてきて、それが、住んで
物が並ぶ町があれば、マテーラのよ
横浜市などでも随分行なわれていま
もって核となって動く人々が住民の
まっていったように感じています。
の研究所も、町民との対話・協働を
来て、それぞれに町民が真剣に取り
う感じは致しました。
いる人を楽しくもさせる。住んでい
うに洞窟の町があって、町によって
すが、現況をデジタル化や模型化し
中に存在している。「住民の生活の
それから、町の「総合計画」「環境
重視して、その積み重ねによってま
組んでいます。その一つが道づくり
る人が幸せだと感じ、来訪者も楽し
建物も生活様式も全く違います。そ
て、住民に分かりやすく示す。ここ
視点に立って」という場合に、その
デザイン協力基準」が決められ、
ちづくり意識の高揚を支援したいと
として事業化に結びついたというこ
川向 では、次に、農村部の道空間
むことができる。それが本来の姿だ
の独特の建物で、独特の生活様式を
に、こういう建物を建てれば、どう
視点がムードやファッションにのる
62年には「HOPE計画」が策定さ
考えています。というよりも、市村
とです。行政はどう誘導していくか
のお話を。
と思います。
続けている。そこには町の選択があ
いう風に見えるかを、住民に分かり
ものではないことを見極める必要
れ、平成2年、今からもう16年前も
町長は職員の、とおっしゃいました
が重要で、前から引っ張るのは止め
ります。例えば、わが宇多津町は、
やすく説明する。それは専門家の役
がある。むしろ、これまでの日本の
前のことですが、「うるおいのあ
が、研究所の場合は、学生たちの意
よう。前から引っ張れば住民の自主
市村 先ほどの芦原先生がイタリア
こういう選択をして次の時代を迎え
割です。リアルに物を見せれば一般
政治は、国でも地方でも「住民の生
る美しいまちづくり条例」が制定さ
識を高めて彼らに学んでもらうこと
性が失われてしまう、そういう思い
の例を挙げてお話になった古い街
ようと町民が選択をする。高山村の
住民にも分かるし、そこで下される
活の視点に立って」行なわれてきた
れ、「まちづくりデザイン委員会」
が活動プログラムの骨子でもありま
で、まちづくりに取り組んできてお
区と新しい街区の区別、あるいは選
芦原 イタリアの場合は、古い街は
場合も、次の時代に向けて守るべき
住民の判断は正しい。ですから、手
のではないか。ほとんど使われない
も発足して、まちづくりを小布施町
す。それでこそ、共に学ぶ環境もで
ります。
択の問題に関連づけて申しますと、
古い街で残す。だが、古い街区の外
ものを見出し、それを守るために村
間とひま、それにある種の技術とい
公共施設をばらまく政治、乱開発に
全体で進めるための体制がつくられ
きるように思います。宇多津の場合
側に新しい街区をつくるときには、
民が勇気ある選択をするわけです。
うのを是非十分にかけて、住民が議
つながる個別開発の連続も、まさに
ました。平成2年に「まちづくり条
は、まちづくり意識の高揚について
超高層でも何でも建てる。言い方は
そして、それに向けて規制ではなく
論できる下地を専門家や行政のサイ
住民が生活の必要ゆえに求め、それ
例」を制定したときには町は優れた
どう工夫しておられるのか、谷川町
極端ですが、町を分けることで古い
誘導するための条例とその運用です
ドが用意することが大事ではないか
に応じるものではなかったか。私も
条例をつくったと思いましたね。何
長さんにお伺いします。
ものを守り、新しいものを活性化さ
ね、これがすごく重要になる。言う
と思います。
最終的には「住民の生活の視点」が
が優れているかというと、これは、
これからのまちづくり、景観づくり
所謂「お願い条例」であって、協力
の政治にとっても拠りどころになる
住民と行政による選択への支援
見極め、選択するには
まちづくり意識の高揚のため
小布施は、はっきり分けられないと
まちづくりが動く瞬間
私は考えています。修景地区のある
中心部から農村部へのグラデーショ
川向 道景観とか道空間というの
ン、連続的に変化するのであって、
は、旧来の道路事業での平面的な道
それが小布施の魅力でもあると思っ
谷川 まちづくりの経過をこれまで
路づくりではなくて、両側に町家が
ています。そして、私は小布施町の
することをお願いする条例でした。
説明いたしましたが、やはり、いき
建ち並ぶ生活空間としての道を意味
町民は皆さん、自立をしていくの
ことを信じる者の一人ですが、この
私は、条例として優れているのはこ
なり皆さんやって下さい、まちづく
しており、けっして単純な仕組みで
だ、景観を美しくしていくのだとい
「住民の生活の視点」の実態こそ見
ういうものだと思います。それから
りを考えましょう、というのは難し
はないが、官民が一緒に作業するに
う意識が非常に高いと感じていま
極める必要があると最近強く思って
16年経って、ある程度規制を伴った
いですし、課題発見が必要だと考え
は適した「課題」ですね。まちづく
す。そういう確信が、農村部を含め
いるのです。
条例へと全面改正になりましたが、
ています。多田先生をはじめ建築関
りも、どこかでゴロッと動き始める
て町内の至るところで感じられるの
高山村でも宇多津町でも景観条例の
その心は、平成2年のあの条例が基
係の専門家の方々に、最初の1年間
瞬間が必要で、ぜひゴロッと行くこ
です。ですから、農村部にあるもの
制定を検討する段階に入り、制定
本であろうと私は考えております。
で町の課題を発見して頂きました。
とを願っていますが(笑)、道づく
を少し工夫し、一緒に実行していた
に当たっては住民の意思、住民の生
先ほど芦原先生から守るものと新た
その課題を中心にして住民の方々を
りというのは、まちづくりの多くの
だければ更に磨きがかかる。このこ
活の視点を尊重したいとのお話が、
につくるものの区別についてお話
集め、専門家がアドバイザーとして
課題のなかでも、官民のやるべきこ
とも確信していますが、これだけで
ただ今もございましたが、それには
がありましたが、それが規制を伴う
加わる分科会をいくつかつくり、町
とがイメージし易く、動きやすい課
はちょっと弱いので、拠点みたいな
住民とともに歩む具体的なプログラ
ものになれば、ますます運用には気
の良さや問題を掘り下げ議論しま
題です。その意味で、先ほどの市村
場所、ちょっと立ち寄れる場所をつ
ムが必要になっているようにも感じ
をつけなければいけない。役所には
しょうと投げかけました。まずは、
町長の小布施紹介が、もっぱら農村
くることを考えたい。そうすると、
ます。本当に住民が選択の主体にな
非常に高い美意識が求められるよう
住民に「町は自分たちでつくってい
部の道空間だったことも、小布施の
町外だけではなくて町内の方々も利
るのであれば、住民とともに、また
になっている。小布施町のこれまで
く」「町にはこういう良さがある」
まちづくりが今後進もうとする方向
用できて、住民の普段の生活がもっ
住民自身で、重ねていく試行錯誤を
の経緯を振り返り、至った段階、こ
という意識をもってもらうことが大
と関係があるのでしょうか。このこ
と楽しくなります。町内の各所にそ
含む実体験が不可欠であって、それ
れから進む方向を見ても、そう考え
事だと思います。次に、古い町並
とにお答え頂く前に、一つ伺いたい
ういう拠点ができて相互交流の場
には絶対的に時間が必要です。すで
ざるを得ない。町民の皆さんと話す
み、町家、そこでの生活の良さにつ
のは、これまでの修景事業でも、ゴ
になるというのが、私の理想なので
に景観条例と景観計画を施行してい
ときも、ものをきちんと見る目をも
いて、それぞれが感じることを議
ロッと動く感じがありましたか。
す。
EXHIBITION+SYMPOSIUM
26
つなぐデザインが求められて
いる
でしょう。しかし、全くそういう地
れまでと違うのは、自然が大切な資
たところがあります。個々の来訪者
がなく、これからつくらなければな
産であって、その保護とか維持が
の心を捉える方向には進まないわけ
川向 小布施は4キロ四方ほどの大
らないところでは、新しく図であり
大前提になっていることです。産
で、そういう部分に今、反省が向け
きさで、その中で分割してエリア
ながら同時に地にもなっていくよう
業の育成も、この観点からなされる
られている。だからこれからは、こ
開発と言いますか、今までにないよ
なデザインが必要だと考えていま
必要がある。地域産業の中で有力な
のシンポジウムでのまちづくりに対
うな未来志向型の新市街地をつくる
す。高山村も宇多津町も、それぞれ
産業、農業では優良農地を残してい
する個々の住民や行政の意識高揚に
ことは難しい。ですが、小布施に限
に良いものを持っていらっしゃいま
くことによって、素晴らしい景観の
関する議論と重なるのですが、どう
らず、また都市規模の大小にもよら
すから、地と図を的確に判断して、
形成につながると信じています。そ
やって来訪者の心を捉えるかという
した、それが最も大切だと思うので
果はそれに付随するものでしかない
なったように、平成2年には「まち
ルを捉えた案にはなっていなかった
ず、現在のまちづくりは、単純な目
それらをつなぐデザインを進めるこ
れが資産になりますから、むしろ維
方向に旅館の皆さんの意識を向けた
す。それをきっかけに、良い町にし
のに、経済効果のみが目的化してし
づくり条例」を制定し、「デザイン
ように思うのです。逆に言うと、ラ
新しさよりももっと新旧入り混じっ
とが、知恵の見せどころだと思いま
持・保全が村の振興に結びつくこと
い。先ほども紹介しました桃山風建
ようという住民の意識が育っている
まった。ここが問題です。気持ちの
委員会」を発足させて、個々の住宅
イフスタイルと住宅設計が対応する
た、多様な場所性をもつ拠点同士の
す。
が分かってきたのではないか。必要
物の外湯施設「大湯」は、建て替え
のです。
良い場所には、人が集う。町内の人
から始める景観づくりに取り組みま
というのは、なかなか難しいことで
なのは、新奇で思い付き的な企画で
たばかりですが、個々の旅館だけで
宇多津町の場合は、2つの異質な街
も町外の人も集まってくるでしょ
した。それは、小布施らしい良好な
す。ですが、今後小布施らしい住宅
はない。住民の普段の生活が生き生
はなくて温泉場の街としての施設の
が共存しています。1つは、室町時
う。よそからのお客様も集まる。景
景観をつくるために住民一人ひとり
とかライフスタイルを考えていく必
べてが参加できるものが求められて
場所性の育成と自然・観光・
農業
きして、訪れる人々との活発な交流
再生を目指し、行政としても街の活
代からの町並みがそのまま残る古
観の景には、そういった意味合いも
に協力を呼びかけるもので、すばら
要は、僕も、あると思っています。
いるように感じられるのです。芦原
川向 芦原さんは、生活そのものの
がある。それが結果として、素晴ら
気を取り戻す努力をする。旅館組合
い街、もう一つは、区画整理事業に
含まれているはずです。
しい成果も上げてきました。そして
小布施という場所に建つ限りは、や
さんは、どうお考えになりますか。
魅力がそこに生まれる景観の魅力
しい景観の維持と育成に結びつく。
の皆さんにも、自分たちの旅館のこ
よって180ヘクタールの塩田を埋め
今回、規制を伴う条例へと全面改正
はり小布施らしいものであってほし
設計者として、どこかで思い切り新
でもあると強調してこられましたか
実際に最近では、住民の皆さんの要
とと同時に、街として何をすべきか
立てて平成3年に形成された新しい
になったわけです。市村町長は、規
い。にもかかわらず、今一番の問題
しい街をつくってみたいというお気
ら、その考え方を先に伸ばせば、突
望、そして具体的な活動がこのこと
を積極的に考えてもらいたいと希望
街です。古い街では、人の住みやす
制を伴うものになれば、ますます運
は、材料とか生産方式に次々と新し
持ちは分かりますが、注意を要する
飛なデザインは出てこないはずです
を指し示しているように思います。
しています。そこに、旅館、土産物
い生活環境づくりを望み、新しい街
川向 それでは、時間も少なくなっ
用には気をつけなければいけない、
いものが登場することで、それが混
点でもありますね。
ね。
里づくりの運動、荒廃農地のぶどう
屋という顔だけではなくて、それぞ
では、逆に静かに住むというより
てきましたので、その町や村のもつ
役所には非常に高い美意識が求めら
乱を生んでいます。メーカーは、瓦
さて、高山村は松川渓谷沿いに長く
農園への再生、りんご栽培の発展な
れの生活者としての顔も見えてくる
も、人と物の動きの激しい活動の街
景観のまとまりに表れる個性という
れ、職員の意識変革も必要だとおっ
の一つにしても赤あり黄ありと、
芦原 まさしくその通りです。僕自
のびて、村の中でも標高差がずい
ど、このすべてが美しい景観の維
と思うのです。
を目指しています。宇多津町として
意味での「らしさ」について、ご意
しゃいました。
マーケットが要望するものを数百種
身も、小布施に新市街地を考えられ
ぶんあって気温にも植生などにも大
持・形成に結びついているのです。
は、宇多津を中心として半径30キ
見を伺いたいと思います。単に「気
本日は、研究所の学生たちに「景観
類も用意する。それを工務店、ハウ
ないし、全体を見渡しても修景地区
きな差異が見られます。村の中で上
松川渓谷は、われわれの大切な資産
ロの圏域で、だいたい30万人くら
持ち良い」「生き生きしている」
をつくる住宅」と題して、景観条
スメーカー、あるいは設計事務所が
というはっきりと場所性、果たすべ
から下へとだんだんと紅葉していく
です。ですが、たとえば山田温泉の
いの人たちを対象に交流をしていき
「住みやすい」状態を求めるのであ
例・景観計画も読み込んだ上で、小
それなりの理由で選んだ結果、いろ
き役割を意識できるゾーンが既に存
のが実感できるほどで、場所性にも
人々が、早くから渓谷美の重要性に
川向 まちづくり、地域づくりは、
たい。経済的にも活気のある街をつ
れば、「小布施らしさ」「高山らし
布施のいくつかの地区に具体的な敷
んな色の屋根が景観の中に現れるこ
在していることをベースにすべきた
多様な変化が見られます。例えば、
気づいて維持する努力をしてきた、
住民の生活の場、そこにおける日
くろうと、国土交通省のまちづくり
さ」「宇多津らしさ」を問題にする
地を選び、それぞれにライフスタ
とになった。そこで、自分たちの
と考えています。そこから何か“つ
小布施にしても、古い集落が16も
旅館組合の皆さんが助け合って維持
常生活を重視しなければならない。
交付金を利用して、公園をつくった
必要はないはずです。ところが、何
イルを想定して住宅を提案させまし
町、村では、まあこの辺でやろうよ
なぐ”というコンセプトでもって、
あって、それぞれが長い歴史と地域
する努力を重ねてきた、その結果で
この点に関して、本日のパネリスト
り道路を変えたりと、様々な試みを
かルールというか共有すべきコード
た。表現はまだ検討の余地が十分に
というある種の合意が必要になって
さらに拠点をつくりネットワークを
文化をもっています。今日の学生た
もあるのです。観光のあるべき姿を
の皆さんの考えは一致しているよう
しているところです。宇多津町全体
というか、そういうものを決めてお
ありますが、その場所を構成する景
くる。それを強制力のある条例にす
形成したほうがいいと思います。道
ちの発表でも、同じ小布施の内で
考えると、ただ自然に頼るだけでは
に思われます。しかし、一方で観光
として徐々に変わり、香川県の中で
かないと、現代は、建物の形・色・
観要素を拾い上げて住宅の具体的な
るか否かは、微妙な問題ですけれど
でも、素材でも、人々の活動でも、
も、集落によって生活スタイルにも
なくて、そこに生きる者が力を合わ
の振興、外からの来訪者の増加を目
も、多くの方が訪れる町になりつつ
規模・材料などがバラバラになって
姿を提案しています。これまでの議
も。極端な例で言えば、松崎という
つなぐことができるはずです。つな
景観にも違いがあって、それを尊重
せて努力する必要がある。こういっ
指したいという思いもある。先ほど
あります。
しまう時代です。それだけ材料も技
論を踏まえて「景観をつくる住宅」
ところで、建築家が屋根を全部黄色
ぐことが大事なキーワードになっ
すれば、ずいぶんと多様な住宅デザ
た意識が維持され、活動が継続され
市村町長から小布施のまちづくりを
術も多様になったということであっ
について、芦原さんにご意見を伺い
に塗ろうよと言い出して、全部黄色
て、それにはいろんな手法を考える
インが生まれることを指摘していた
た結果として、良い景観がある。高
振り返って、まちづくりが進展する
川向 市村町長もよく、まちづくり
て、個人の表現の自由にまかせる
たいのですが。
に塗ろうとした。これは非常に極端
ことができるはずです。それから、
ように思います。高山村の場合は、
山村の場合も、このことが言える
には、やはり外からの評価も大きな
に産業が果たす役割の大きさにつ
と、まさにオモチャ箱をひっくり返
図と地という対概念を使えば、英語
その多様な場所性が、多様な村の原
と、私は思っています。
要因だったとのご発言がありました
いて話されます。どういう生活をす
したような景観が出来上がってし
芦原 そうですね。まあ私も住宅を
ら黄色にしようと合意すれば、黄色
で言うとフィギュア・アンド・グラ
風景を生み出していたようにも感じ
が、宇多津町のまちづくりは、この
るかを考えることが重要だともおっ
まう。いろいろな形や色がぶつか
設計しますけれども基本はやっぱり
の屋根がどんどん広がる可能性もあ
ウンドですが、その地、グラウンド
ました。久保田村長さん、いかがで
川向 もう少し、高山村のお話を伺
点について、どのように考えておら
しゃいます。高山村長、宇多津町長
り合って目も心も休まらない景観で
同じで、そこでの家族の生活という
り得る。最初は黄色なんてとんでも
をつなぐことの重要性に最近は建築
すか。
わせてください。高山村の場合に
れるのでしょうか。
の産業振興、経済的活気に関するお
す。学生たちの発表にもありました
ことになりますが、家族の生活と
ないと言っていた人も、自分たちの
話を受けて、ここで一言、お話下さ
ように、昔と言ってもほんの40年
いうのが千差万別ですね。その一方
町になってきたなと感じ始める。あ
いますか。
とか50年ほど前までは地域ごとに
で、場所による違いもあるかもしれ
る種の全体性をどう取り付けるか、
職人がいて、それぞれの地域で入手
ないが、むしろ場所の違いを越え
行政の指導力も問われるようにな
ネットワークのようなものが重視さ
れ、しかも行政、住民、来訪者のす
良い場所には人々が集う
は、温泉が特色であり村の重要な産
家たちも気づいています。どう地と
共有すべき方向性:「らしさ」
な例ですが、自分たちの町はこれか
して相互につながるものをつくる
久保田 私たちの村は、大変広範
業でもあると思うのですが、日本中
谷川 市村町長さんからのお話の通
か。地として背景がつながれば、
囲に広がっていますが、大自然が
どこでも最近では観光の形態が変
りで、町外から良くやっているな
ある種の家並み、町並みができま
「地」となっているという共通点が
わって、そういう温泉場も、まさに
と言われることは、町の人にとって
市村 これは高山村長さんも宇多津
可能な材料や技術というものがあっ
て共通化している要素もある。だか
る。
す。とかく建築が批判されるのは、
あると思います。そこに点在する豊
周辺の自然、農村景観、あるいは産
誇りになります。全く大事なことだ
町長さんも全く同じお考えだと感じ
て、特に約束事がなくても景観に調
ら、ある要素を捉えて小布施らしい
これから具体的な景観づくりに入っ
建築家がつくりすぎて、浮き立った
富な温泉、この大自然、温泉を活か
業構造との関係から見直す必要に迫
と思っています。たとえば、町民の
ましたが、住民が生き生きと生活す
和が生まれていました。建物をつく
と思って設計した住宅が、高山らし
た段階では、その手法とかルール
図が出来てしまったときですよね。
しての観光と、地の利を活かしたそ
られていると思うのです。高山村で
中から出てきたアイデアですが、古
るためには、将来に何かを残すこと
り維持していく日本人特有の細やか
いとか宇多津らしいという場合もあ
とかを意図的に選択する必要があっ
建築家が叱られることが多いのです
の他の産業をどう結び付けていくか
は、温泉という資産をどう活かそう
い町家が残っており、そこにお雛さ
を考えねばならないが、やはり現在
な心づかいが、日本中のあちこちに
るように感じました。今日の学生さ
て、それが小布施らしさ、宇多津ら
が、地をどうやってつないでいくか
を考えています。これまでの話にも
としているのかを伺えますでしょう
んを飾ってみようということになり
を活きること、生活することが最も
美しい集落景観を生み出していまし
んたちの提案は大切で、いろいろ
しさ、高山らしさを出していくこと
を、単体の建築を設計依頼されたと
ありました、景観が、その土地での
か。
ました。今年で3年になりますが、
基本になります。ですから、活気と
た。しかし、高度経済成長、材料や
と考えさせられましたが、あの提
になるのかなと考えています。どこ
きでも常に心がけることが必要に
生活そのものだというのは確かで
90軒を越えるお宅で格子の内側や
いう意味で産業のにぎわいに結びつ
技術の発達に伴う選択肢の飛躍的増
案に小布施らしさが見えたかとい
まで絞り込めるかは、さじ加減の問
なっています。小布施のように魅力
す。ですから、高山村の場合にも、
久保田 強いて言えば、これまでは
座敷に飾るようになっています。今
くことが非常に重要でしょう。小布
加のもとで、それに見合った景観行
うと、僕は小布施について詳しくな
題だと思うのです。行けるところま
的なものを既に持っているところ、
自然景観を背景に、ふさわしい産業
観光産業ということに重点が置か
年は2万5千人で、中国地方の広島
施は、観光というよりも農業の町で
政がない状態で個人が思い思いに建
いので分からないところも多いので
では厳しく、そうすると必ず反発が
つながりを見せているところでは、
振興を続ければ、おのずから景観が
れてきたように思います。大型バス
からの来訪者もありました。こうい
すから行政としても農業振興に力を
物を建てることで、雑然とした無性
すが、正直なところ見えなかった。
出てくるので、そのときには反発を
地となるものを付加することが大事
形成されていくはずです。ただ、こ
での団体客の受け入れを目指してき
う町の評価というものを住民が実感
尽くしたい。大体、景観の「景」は
格な景観が出来上がってしまったの
そして、たとえば用水路を導入した
受け止めて、だったらこうしようと
景気の景でもありますから、にぎわ
です。これでは経済的先進国であっ
住宅の場合、それが、その住宅で展
修正する。こうして、フィードバッ
いとか活気が意味に含まれていると
ても、生活文化の面では全くの後進
開される家族の生活とどう関係する
クさせながら少しずつ自分たちらし
考えられます。本来は、人々が元気
国と見られても致し方ない。
のかまで読み取れなかった。他の提
さを出していくことが必要なのかな
に生きる姿のことであって、経済効
小布施町では、市村町長がお話に
案についても同じで、ライフスタイ
と考えているのです。
EXHIBITION+SYMPOSIUM
28
に共通の方向性が出てくる。そうい
て優先順位のようなものを考えるか
い。そこでの生活、ライフスタイル
う長期的なものがあるとすれば、そ
もしれないが、できるだけ多くのデ
に立ち返って、場所と呼応した住宅
川向 ありがとうございました。芦
れにもう少し短期的にできることを
ザインコードを用意したい。一つひ
の平面・立面・断面の形を考えよう
原さんには、是非何度か小布施に足
組み合わせながら、少しずつ前に進
とつ、その場で発掘しながら。
としていました。
を運んでいただきたいと思います。
んでいくのではないでしょうか。
芦原さん、実際に設計する立場とし
さらに重要なのは、地域の景観を考
ては、いかがですか。
えること、あるいは地域の景観特
身の回りの景観要素へ
学生たちが選んでいるのは、それぞ
れの集落の景観を構成する特徴的な
多様なデザインコードの発掘
要素なのです。街道筋では、間口が
久保田氏(左)
性を読み取ること自体で、そのこと
芦原 おっしゃる通りだと思いま
を一種のシミュレーションとしての
谷川氏(右)
狭く奥に深い敷地形状が特徴です
川向 基本的には同じ考えで、同じ
す。そういうように幅を広げつつ、
住宅設計を行って、示そうとしたの
するのが日本社会の全般的な傾向で
から、その敷地境界内で設計すると
ことを言ってくださっている。しか
長期的な部分と短期的な部分とのさ
です。わが国では景観について考え
すが、小布施には、まだまだ安定し
か敷地境界を跨いで設計するとか。
し、共通項となる場所性とそれを反
じ加減、ということになるのではな
たり議論したりする習慣が定着して
あるいは、小布施では扇状地特有の
映するデザインコードを発掘するに
いでしょうか。私は建築家として、
現象で、地表をたくさんの用水路が
も、一つひとつ確かめるしかない。
走っている。この用水路は、生活の
景観条例について、ひと言
谷川 以前ヨーロッパに行く機会が
は、日本での一つの姿勢を示す役割
ありまして、そこで見た、公園の
は果たせますね。日本は戦後めちゃ
た地域生活があるようにも感じま
川向 ありがとうございます。で
中に住むようなまちづくりができれ
くちゃ発展したけれども景観もめ
おらず、その言葉も技術も十分では
す。修景地区が街の原風景を示すの
は、そろそろ時間ですので、最後に
ばいいと、夢みたいなことを考え続
ちゃくちゃになったわけですよ。そ
動かしていくプロセスに関心があり
ない。そういう状態で「まずはこれ
に対して、農村地区で村の原風景が
一言ずついただきたいと思います。
けているのですが、最終的にはそう
ういった中でこれだけの町ができた
そもそも、まさに極端な例として挙
ます。例えば、黄色い屋根に塗ると
を守りなさい」「最低これだけは守
維持され、さらに育成されるといいで
では市村町長から、景観、景観をつ
いったまちづくりを目指し、景観に
ことは、胸を張れる。
あらゆる面と深く結びついて小布施
げて下さった黄色を塗るという方
いうのは一番簡単な話で、そういう
りなさい」というのは、強制・拘束
すね。高山村は、いかがでしょうか。
くる住宅についての取り組みに関し
配慮した行政を進めたいと思ってい
文化的な意味で戦後の日本が胸を張
人の精神面にまで深く関わっている
法は、分かりやすい例ですが、黄色
短期的に、目に見える部分から、少
になりやすい。自発的に景観をつく
て、一言いただきたいと思います。
ます。やはり最終的には住民の合意
れるかというと、ちょっと張れな
のです。用水路は修景地区の中も流
は果たしてその場所を構成してきた
しずつ動かしていく。そうして、自
る方向に進まない。議論もデザイン
久保田 私どもでは、なかなか住宅
の下に進めるのがまちづくりですか
いなというところがあるわけです。
れているし、農村部の畦道沿いにも
景観要素なのかどうかが、大いに気
分たちの生活にとっての選択が行わ
も、もっと自由で、豊かであるべき
にまで手が回らないのですが、住
市村 何度も申しますが、小布施町
ら、先ほどもおっしゃっていました
江戸時代とか明治時代の初めに来た
流れており、それぞれに重要な景観
になるところです。エーゲ海の島の
れる。この土地ならではの住まいに
ではないか。少なくとも小布施の場
宅も景観要素ですから、これから考
の町民の皆さんは、自立をしていこ
「らしい町」ですねえ、小布施町ら
外国人は町や村を見て、日本という
要素になっています。あるいはま
家並みで使われていた白色のよう
は、こういうものが良いとか、段々
合は、非常に意識が高いですから、
えていかなければなりません。学生
う、景観を良くしていこうという点
しい、宇多津町らしい、高山村らし
のはなんて美しい国なのだ、こんな
た、住宅の2階の窓から眺めると、
に、生活の中で獲得された色なので
と決定に踏み込み、広がっていく。
議論もデザインも豊かにする方向に
さんのご提案を見ていまして、なる
では実に士気が高く、私自身それを
いという、「らしい」と言っても固
に美しいのだから素晴らしい文化を
緑に覆われたブドウ棚が、つまり緑
しょうか。小布施では「まちづくり
そういう姿が健全なのだろうと思い
進むべきだと私は考えているので
ほどと思ったことに赤線の問題があ
強く感じていまして、有難いことで
有の歴史・文化・自然とかいろいろ
持った国に違いない、これは侮るわ
の平面がずうっと向こうまで延び
条例」の時代から屋根の色に「黒ま
ます。規制によって短期的に成果を
す。
ります。高山村にも、美しい赤線が
す。これまでの議論でも、町民の意
あって、その中に連綿と続いてきた
けにはいかないぞと考えた。2011
ていくのが見えます。集落により
たは濃灰色」を推奨してきています
あげる方法も必要ですが、長期的な
たくさんあります。あのような目に
向が基本中の基本だという意見が出
風土というようなことにも関係して
年にも、このように言ってもらいた
家によっては、家の前から野菜畑が
が、この色は伝統的な燻し瓦のイ
誘導をどうするかが私の考える今後
市村 私は、学生さんが設計された
見えない地域資産の保存とか活用も
て、私も全く同感です。しかし、新
いるようですが、「らしさ」とはど
いのですが、外国から建築家がたく
広がっていくところがあれば、栗林
メージから来ていると私は考えてい
の課題です。景観法を整備し、景観
ものに、すでに共通項、ある方向性
大切だと感じました。まさに至ると
しい人にも小布施町に住んでいただ
ういうものかを住民を交えて徹底的
さん来たときに、景観的にすばらし
の深い緑に囲まれたところもある。
ます。実際、昔この地域で生産され
条例をつくるというところまできま
が存在していると感じました。全て
ころに景観要素があるのであって、
かねばならないわけで、景観という
に議論していただこうと考えていま
いと言うかどうかは、非常に心もと
それは、その集落に住む人々にとっ
た燻し瓦が、今でも小布施の多くの
したが、全国的に実際の運用はこれ
がほぼ農村部だな、と。学生の皆さ
それらを大切に活用することで総合
ことに対して全然そんなこと眼中に
す。その結果、こういうようにやっ
ない。2011年は、間に合わないか
て決定的な風景なのです。学生たち
家屋に使われています。私は、共通
からです。まずは、規制から入るの
んに課題を出してお願いしたわけで
的に素晴らしい地域づくりも可能
ないという方もお住まいになる。そ
ていきましょうと、景観を保つにせ
なと密かに思っておりまして、少な
は、小布施に1年なり2年なり滞在
項となるデザイン要素をその場所か
でしょうが。
もないのに、こういう結果になって
になる。小布施町さんの場合、用
ういう方にも、家を建てるときは周
よ、つくるにせよ、そこで条例の必
くとも、まちづくり、景観づくりに
して生活する間に、そういう決定的
ら発掘することを重視したいし、学
いるということは、小布施でのライ
水路が灌漑だけではなく生活用水
りに配慮して快適さを共有する、そ
要性が出てきたときには、策定して
取り組む姿勢を見せる準備はしたい
な風景というものに出合った。それ
生たちにもそのように指導していま
フスタイルは一つ農村部にある、そ
にもなって生活と深く結びつくこ
のためのルールは守っていただく。
いきたい。ただ、国が言うような
と考えています。
を、ストレートすぎるほどに住宅デ
す。敷地割、用水路、ブドウ棚など
こに小布施のライフスタイルがある
とで精神文化になったとのお話があ
そのルールが景観条例の根本的な定
平成19年度とか20年度までに条例
今、住民たちが見えないままに、ま
ザインに関係づけて設計しているの
というのはどうでも良いではないか
川向 学生たちは、小布施の、さら
のだなと私は受け取りました。皆さ
りましたが、用水路や赤線のような
義なのだと、私は思っております。
制定といったスケジュールに関して
ちづくりについて、ああでもない、
です。
と思われるかもしれないが、これが
にその中の集落がもっている景観
んの提案はすぐに実現できるし、部
何気ないものも大切に維持・活用す
は、法的にはどうか分かりませんが
こうでもないと議論しているのは、
実は数十年、長いものでは数百年
特性にまで着目していました。対象
分的には、すでに実現しているよう
ることで地域づくりの資産になると
川向 それでは久保田村長。景観条例
私個人は従うつもりはありません。
非常にもったいないエネルギーを浪
芦原 本当に基本構成に関する部分
も、その場所の景観を決定づけてい
とするエリアをあまりに狭く限定し
にも感じます。学生さんたちが提案
いうのは、私は素晴らしい考えだと
を平成20年に制定するということで。
そういうものを作った方がいいなと
費している気がするので、それを見
を互いに相談して、例えば、水路
る。まさに原風景ですね。そういう
て、そこでの景観要素を議論するの
してくれたライフスタイルというの
思いました。敷地に関しても、いろ
思ったときに初めて、町民と行政が
える形でシミュレーションして、住
に対して全戸が開くとか、緑のネッ
ものとの関係を一つひとつ確かめて
は、単なる独断と偏見に陥る危険を
は、農村部がもつある意味での豊か
いろな問題があります。確かに、子
久保田 そうですね、景観条例を
一緒になって作りましょう、作った
民が選択する。コンセンサスが形成
トワークを構成する住宅にすると
回復していきたい。私は、そう考え
はらんでいますが、注意深く観察す
さだと私は受け取りました。
供さんたちがどんどん村外に出て、
平成20年に制定したいなと思って
ものはお互い守っていきましょう、
され、住民が選択したものであれば
か、そういうことは考えられなくは
ているのです。
れば明確に目で見える形に表せる景
先生がご指摘のような現代の時代状
おります。本日の議論にもあったよ
というように進んでいきたいと考え
方向性もはっきりして、その町らし
ないが、一気に集落全体が一つの方
デザインコードの中には、実に些細
観的特質があること、そして、それ
川 向 小布施では敷地は100坪、
況に直面していますが、少なくとも
うに、まちづくりの結果として景観づ
ています。
くなると思うのです。そういうこと
向に進むことはありえないと思いま
なものなのに、それを単独で、ある
に対応する住宅設計というものがあ
300平米、あるいはそれ以上の広さで
高山村は、そうは言っても、ゆとり
くりが進んでいく。まだ農山村で景観
す。再開発のように全部壊して建て
いは他のコードと組み合わせること
り得ることを、彼らは示そうとしま
考えてくださいと言っていますが、
のある、ゆったりとした気持ちで住
条例を制定しているところはないはず
替えるならば、あると思いますが。
で、建築の質をすごく高めるものが
した。発見したものを即座に「景観
この程度の敷地の余裕をもたせるこ
める農山村でありたい。道空間、庭
です。先例もないところで、どのよう
緑と水路があり、次の世代にもそれ
あるように思うのです。私は実は、
計画」の条文に入れるべきだと主張
とが、小布施での生活、ライフスタ
先の空間に対する意識づけの提案も
に私どもの村にマッチした条例をつく
川向 それでは芦原さんには、
始まっていますと言えるように、頑
が残っていれば、じゃあ、我が家も
最低限これだけのデザインコードを
しているのではなく、また、形態や
イルを一定のレベルに維持し、一定
ありましたが、それらも参考にしな
ることができるか、大きな課題です。
2011年に国際建築家連合の総会を
張っていきたいと考えています。
やってみるかというように、100年
守ってくださいというようには考え
色を操作するだけで「景観をつくる
の方向に方向づけてもいるわけです
がら、これからつくる家屋について
少なくとも後世まで良いものを残して
日本で開催する日本建築家協会側の
くらい経ってきたとき住宅デザイン
たくないのです。さらに検討を重ね
住宅」を設計しようともしていな
ね。激しく変化しつつ敷地が細分化
も、昔からの家屋についても、一つ
ゆきたいという思いは、どこの町や村
招致企画責任者として、世界中から
川向 予定の終了時間も過ぎました
一つのことを住民の皆さんが選択し
でも共通だと思います。皆さんのご意
建築家を招くにあたっての決意を
ので、これで終えたいと思います。
てやっていけるような状況をつくっ
見もお聞きしながら、良い「むらづく
語っていただきましょうか。関連し
第1部研究発表、第2部シンポジウ
ていきたい。なるほど高山村の人々
り」をしたいと思っております。
て日本各地でイヴェント、ワーク
ムと長時間にわたってご清聴いただ
ショップも開催するようですから、
きました会場のみなさま、貴重なお
議論もデザインも豊かに
は贅沢な暮らしをしているなと、お
芦原氏(左)
川向研究所長
市村氏(右)
に専門家が、もっと協力できると思
美しい国へ
うのです。2011年は無理にしても、
2011年には、こういう取り組みが
金はなくても心が豊かで贅沢だな
川向 そして、昨年小布施にいらし
小布施町もなんらかの形で参加でき
話、活発な議論を展開してくださっ
と、村外からお見えになる方から言
たのに、また今年もお願いしたとこ
るといいと思いますが。
たパネリストの方々、誠にありがと
われるだけのものを、私たちは持っ
ろ大勢の町民、役場職員の方々とと
ているのだということが、良く分か
もにご参加くださいました宇多津町
芦原 まちづくりというのは複雑多
今日は本当にありがとうございま
りました。それを村づくりに活かし
の谷川町長さんにも、一言いただき
岐、環境・文化・景観・産業・経済
した。
たいと思っております。
たいと思います。
と多岐にわたるわけですが、小布施
うございました。
About Machizukuri Institute
30
Purpose
Foundation of Machizukuri Institute of
Tokyo University of Science and Obuse
Town was established on July 18th, 2005.
It has placed Obuse Town as a subject of
survey and research. On the other hand,
the participation of townspeople in research
and discussions has changed the whole
town into a university campus. This is the
ideal state in which the Institute seeks:
"University as a town, town as a university,"
the new "Machizukuri (town-building),"
and also the creation of a new place for
education and research. Obuse Town has
chosen to be independent in regard to the
strong current of "consolidation of smaller
municipalities in the Heisei Era." There are
many ways to achieve independence, but we
recognize independence when townspeople
gain the ability to think and to create the
town's future by acknowledging the exact
state of the town today. It is similar to the
ideal of universities that educate to create
independent individuals. To realize this
ideal, accurate surveys and research designed
to grasp the precise state are necessary, and
it is indispensable to establish an institution
where the townspeople will be able to
participate in the process to decide and to
execute the policies.
Ryozo Ichimura, the mayor of Obuse
Town, has made a public commitment
in his campaign to invite the university
to change the customary way of
Machizukuri policy which is based on
experience and tradition. He believes
that the "Machizukuri Institute" will
assume an essential role in achieving
a small independent self-government
by carrying out surveys and research,
holding workshops and proposing
concrete policies.
When our research/surveys began, we
were astonished that the basic data
concerning architecture and urban
structures were insufficient to actually
promote Machizukuri. It was customary
to leave the actual content of the
project to the professional construction
workers after the plan was decided. The
workers used the same method and
technology over and over so that the
renewal of data concerning the site was
not needed. This has resulted in no data
accumulation. Moreover, this situation
has caused similar landscapes to spread
all over Japan. Therefore, we believe it
is an essential role of the Institute to
provide a place where townspeople can
participate and cooperate in the process
of Machizukuri.
Activities
Interviews and Questionnaires
Analyzing and Making Distribution Maps
Accumulated data will be categorized and
illustrated with statistical table/charts in
order to disclose the landscape elements
that structure Obuse Town's original
landscape. These concrete data allow us to
discuss the "characteristics of Obuse Town."
Furthermore, landscape elements will not
only become Machizukuri material in the
future, but they will also be "the starting
point" of the concrete Machizukuri process.
Making Models
Obuse Town models will be created from
the investigated data. These models will be
used during the studies for proposals.
Survey
Analyze
Architecture & History
Actual Measurement
Gathering Documentations
Interviews
Workshops
Make Distribution Maps
Draw & File Plans
Make Models
Presentations
Workshops
Panel Discussions = Cooperative Work
Symposiums
Let’
s discuss about town!
Going for a walk in the town?
Ideas to preserve the landscape
Let’
s see Machizukuri Institute!
te
ra
pe
oo ort
C
p
Re
By inter vie wing townspeople and
administration, histories of the architectural
heritages and opinions on the present
state and expectations for the future will
be disclosed as fundamental data for
Machizukuri.
Researches:
Case Study
Urban Theory
Concept and Theory
of Architecture
Design Process of Architecture
C
oo
pe
ep rat
e
or
t
The most important and fundamental
work is to seek the vision of Machizukuri
in Obuse Town. We will survey the actual
state of architectural heritages (historical
buildings, old alleyways and waterways,
etc.). These accumulated data will be filed
for reference in Machizukuri.
Machizukuri Institute
University/
Laboratory
R
Survey and Photographic Documentation
Administrative
Policies
Deciding Policies
Control Rules and Regulations
Administration
Application
Shukei Project
Landscape Guidelines
“Design Guidelines for Dwelling”
“Advertisement Design Mannual”
Practicing “Obuse Landscape Award”
Provide Materials
Participate in Workshops,
Symposiums and Discussions
Townspeople
Reports, Conferences and Exhibitions
Symposiums and Workshops
Accomplishments and concrete proposals
for Machizukuri will be reported in the form
of panels and models, which will also be
exhibited at the Machizukuri Institute.
Rather than just presenting our accomplishments
and proposals in one way, we will hold symposiums
and workshops to further promote interactive
understanding. We will simultaneously discover
new problems to be solved.
Workshops with Children
Research
I n Obu s e a re a , t he m ater i a l s a nd
building skills, especially of the walls
and roofs, possess regional qualities. For
example, local reeds and curved bamboo
roots are used for the base of mud walls.
Accumulation of these regional materials
and the skills of local craftsmen have
a n essentia l role in producing a nd
maintaining the landscape with strong
regional characteristics. Loss of regional
materia ls and the simplif ication of
traditional skills are causing extreme
deterioration to t he qua lit y of t he
landscape. We have a responsibility to
convey these circumstances to the next
generation.
Over the last 2 years, instead of just
u si ng word s, we have held a n nu a l
workshops, in the hope that the school
children will achieve the perception
of Machizukuri through experience.
The first year (2005) we held a "Walk
Rally: Discovering the Town Heritage!"
w o r k s h o p t o i nt r o d u c e t h e t o w n
heritages such as traditional buildings,
stone walls, big trees, old alleyways and
waterways, etc., which are important
landscape elements of Obuse Town. In
the workshop, each pupil sketched their
favorite heritages. All of the sketches
were posted on a gigantic paper to
create an original 5m × 5m town heritage
map. The following year (2006), we
made a mud wa ll, one of t he most
important landscape elements of Obuse
Town, from "weaving komai" (the first
stage of building mud walls). After the
plasterers' demonstrations, each pupil
wove a frame of komai (30cm × 30cm
wooden frames were prepared by TUS
students) on their own and daubed mud
on it. "My mud wall" was completed
with original decorations. This workshop
was a valuable opportunity for school
children, elementary school teachers, and
TUS students to experience traditional
skills. It was a precious occasion even for
the plasterers to work with traditional
materials and instruments. We were
glad to hear them say, "It was a great
opportunity, because we can hardly
use these materials and instruments
nowadays."
Landscape Elements of Obuse Town
Landscape elements are the main elements
characterizing the landscape of Obuse
Town. The landscape elements were chosen
with the criteria that their repetition will
create beautiful and comforting landscapes
over the years. For example, thatched roofs
(including those covered by galvanized
iron sheets) and regional tiled roofs,
mud walls/plaster (shikkui) walls/board
walls and latticed windows, etc. Not just
architectural materials, but also stone walls,
waterways, springs, alleyways, temple and
shrine precincts, and big trees, all of which
compose the landscape, were investigated.
This year (2007) we have surveyed,
categorized, statistically analyzed and made
distribution maps of the landscape elements
listed below. The subject of this research is
the 9000 buildings in Obuse Town.
-mud walls
-roofs with regional tiles (made in this area)
-thatched roofs (including those covered
by galvanized iron sheets)
Corresponding buildings with these
elements were photographically
documented and plotted on the map.
Then they were functionally categorized
into main buildings, storehouses, entrance
gates, and attached buildings. There are
921 main buildings, 346 storehouses, 49
gates and 1009 attached buildings. 2325
buildings with landscape elements out of
9000 buildings were confirmed.
Traces of Shukei in Obuse Town
The "Shukei Project" in Obuse Town
differs from either city redevelopment
projects or preservation projects of cultural
heritages. It is a unique case that composes
architecture and landscape (urban space)
through rearrangement, restoration
and building using traditional regional
materials. At the same time, it modernizes
the interior space of the house so that the
next generation will wish to stay. This
original "Shukei Project" was designed by
Tadanaga Miyamoto.
Miyamoto, the architect who carefully
designed this harmonically balanced
composition of architecture to urban
space (landscape), has solved the problems
of present conditions to disclose the
ideal image of an old town. We have
clarified the ideas and methods of Shukei
through the analysis of Miyamoto's books
and papers, sketches and architectural
drawings (807sheets) which have been
stored in Miyamoto's office, in addition to
conducting interviews of the landowners.
Shukei Project in Obuse Town
The project area of 150m × 200m along
Tani Road was owned by the "Five Party
Conference" consisting of 2 companies
(Obusedo and Nagano Shinkin Bank), 2
individuals (Mr.Ichimura and Mr.Sanada)
and Obuse Town. They invited Miyamoto
as the coordinating architect.
The project was comprised of 3 stages:
Stage 1 (1975-1981): After the establishment
of Hokusai-kan in 1975, several important
restorations of traditional buildings were
individually executed.
Stage 2 (1982-1987): Miyamoto and the
5 landowners deliberated on the
rearrangement plan and overall image
11/03 13:00
of the Shukei district in the "Five
Party Conference" (1982-1983). They
exchanged their own building sites and
rearranged the landholding to create
two attractive urban spaces, "Chestnut
Alley" and "Wind Square." Also, the
sidewalk along Tani Road was paved with
chestnut blocks. The main houses, many
storehouses with traditional building
elements, stones and big trees were
preserved in the process.
Stage 3 (1988-today): The Project was
completed in 1987. However, the Shukei
movement continues to develop in
adjacent districts of Obuse Town.
31
About Obuse Town
Obuse Town is situated in the northern
part of Nagano Prefecture and in the
northeast section of Nagano Basin which
is known as Zenkoji Plain. Local products
include the famous chestnut sweets and
chestnut rice, but the basic industry is
agriculture. The town produces high
quality fruits such as apples, grapes,
peaches, pears, as well as local vegetables
such as eggplants and hot radishes.
History of Obuse Town
-Town of Chestnuts, Hokusai and Flowers -
In the late Edo Period, when transportation
along the Chikuma River and Tani
Road went into service, Obuse Town
flourished as a cultural and economic
center of Northern Shinano. As wealthy
farmers and merchants rose, writers and
artists were invited to Obuse Town.
Hokusai Katsushika was one of them.
His remaining original drawings in
Obuse Town led to the opening of
"Hokusai-kan" in 1976. The original
purpose of the Hokusai-kan was to store
and hand over the parade floats to the
next generation, to collect and stop the
outflow of Hokusai's drawings and to
set up a base for the research of Hokusai.
In those days, Hokusai-kan was called a
"small museum in the rice field" which
described its status. The museum was
initially intended to protect the culture
rather than to attract visitors. Eventually,
the museum gathered many tourists to
function as a new meeting place in Obuse
Town. After opening the Hokusai-kan,
more than 10 museums were opened,
including Obuse Museum/Nakajima
Chinami-kan, which are enriching the art
culture of Obuse Town.
The foundation of Hokusai-kan has led to
the original Machizukuri method known
as "Shukei Project" where townspeople
and the administration cooperate to
create public urban space by opening
private properties and commercial spaces.
The building activities in the town
have been guided by the "Cooperative
Environmental Design Standards" and
"Designing Manual for Dwelling" to
create a harmonious and beautiful living
atmosphere. These movements have
encouraged townspeople's recognition of
town space as "outside is for everyone,
inside is for your own." Furthermore,
heightened awareness of the "landscape"
has also led to Machizukuri with "flowers"
in 1990s. "Open Gardens," beautiful
private gardens opened to the public, have
proliferated up to 76 places.
Hokusai's Self-portrait
東京理科大学・小布施町まちづくり研究所
〒 381-0297 長野県上高井郡小布施町大字小布施
TEL 026-247-3111
FAX 026-247-3113
URL http://www.machizukuri-lab.com
東京理科大学・小布施町まちづくり研究所
〒 381-0297 長野県上高井郡小布施町大字小布施 1491-2
TEL 026-247-3111
FAX 026-247-3113
発行日 平成19年7月18日
URL http://www.machizukuri-lab.com
企画・監修 川向正人
制作 東京理科大学・小布施町まちづくり研究所
発行日 平成19年7月18日
東京理科大学理工学部建築学科川向研究室
企画・監修 川向正人
編集 勝亦達夫 上原大史
制作 東京理科大学・小布施町まちづくり研究所
Hokusai-kan Today
英訳 山中章江 高取万里子 長谷川裕洋
東京理科大学理工学部建築学科川向研究室
印刷・製本 祥美印刷株式会社 編集 勝亦達夫 上原大史
英訳 山中章江 高取万里子 長谷川裕洋
印刷・製本 祥美印刷株式会社 至 中野
至 中野
長野電鉄至 中野
小布施駅
至 中野
長野電鉄
小布施駅
18
北斎ホール
18 至 豊野
北斎ホール
至 豊野
Open Garden
至 長野
栗ガ丘小学校
栗ガ丘小学校
至 長野
東京理科大学・小布施町
東京理科大学・小布施町
まちづくり研究所
403
まちづくり研究所
小布施町役場 2F
403
小布施町役場 2F
中町南
交差点
中町南
交差点
至 須坂
至 須坂
須坂長野東 I,C,須坂長野東 I,C,
東京理科大学・小布施町まちづくり研究所
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Machizukuri Institute of TUS and Obuse Town
発行日 平成19年7月18日
1491-2 Obuse, Obuse-machi, Kamitakai-gun,
企画・監修 川向正人
Nagano-ken 381-0297 JAPAN
制作 東京理科大学・小布施町まちづくり研究所
TEL +81-26-247-3111 FAX +81-26-247-3113
東京理科大学理工学部建築学科川向研究室
編集 勝亦達夫 上原大史
Chestnut Alley
英訳 山中章江 高取万里子 長谷川裕洋
印刷・製本 祥美印刷株式会社 至 中野
長野電鉄
小布施駅
18
至 豊野
北斎ホール
栗ガ丘小学校
至 長野
至 中野