9.遠いあの日の思い出

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随筆
為
Es
「もっと解りやすくいえば、使う前の男性
てきた。それが正解かどうか、わたしは知ら
がパイプで¥すんだあとの男性はチュープな
ない。
しかし、そういわれてみれば、ハミガキの
んだよ」
と、念の入った注釈を施こしてくれた。そ
チュープはたしかに軟かくて、中味を抜けば
グニャグニャになる口自車云車のタイヤの中の
うだとすると、われわれはノ fイ プ を チ ュ ー プ
チュープも、空気を入れるまではグニャグニ
にするために、大変な苦労をさせられている
ャだった。ロンドンでは地下鉄のことをチュ
ことになるが、パイプがチュープになる瞬間
ープというそうだが、これもロンドン市内を
は
、 f
可ものにもかえ裏住い愉I
↑見て平ある口
こんな話をきいた別のある老人が、
グニャグニャ曲って走っている。
<
;イ プ に な っ て く れ
「このごろ思うように j
一応の理屈はありそうだと、わたしはこの
回答を評価することにした。するとその人、
ぬので困る。こればかりは焼きを入れてダク
さらにつけ加えて、
タイルにするわけに、いかんでな」
も
'
¥
し
百
吹田市水道事業管理者
五石正期
太陽が、ぎらぎらと輝く夏がやってきた口
夏は、私の人生に妙にかかわりあいが深い口
質時代と、地殻の変動を経て生ビた鉱物であ
る
。
少年のころ、広島市内を流れる大田川の水
撫順炭鉱では、石炭層と共に産することが
泳場て¥潮流に押し流され、人知れず溺死し
以前から知られていたが、ここ樺旬の油母頁
たであろうとき、見知らぬ青年によって救助
岩は、撫順とは格段の油分を含有する頁岩で
された。あの日の思い出は、 5
0
歳をすぎたい
あり、一般の石油鉱床とは別にする含油層で
までも、鮮かに建ってくる。
ある。
しかし、何といっても忘れ難いのは、昭和
20年、終戦の夏の出来事で、ある。
当時の私は、満州、l
園、満州、│炭砿株式会社地
私は、燃える石とは、樺旬の油母頁岩を指
しているのであろうと思った。無名の石が、
簡単に、マッチ一本で油煙りあげてメラメラ
質課に属し、地質調査隊の隊長として、吉林
と燃えるのである。これこそは、南方の石油
省樺旬県の油母頁岩の調査に入山していたと
が入手困難となった当時は、有力な石油資源
きで、ある D
であると、その探査に情熱を傾けた日々であ
油母頁岩は、中世代ジュラ紀の地質時代に
動植物の遺骸が水中に堆積され、長い間の地
り、私にとって、忘れられない充実した頃で
あった。
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昭和 4
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0 第1
7号
ダクタイル鋳鉄管
電(字
、長随筆
とある夜、屋外へ出て夕涼みを楽しんでい
に入る大通りがある。吉林大街という。山か
ると、遠くでにぷい飛行機の爆音が開こえて
らフルスピードでくだってきた私たちのトラ
きた。訴かりながら音の方向を見つめている
ックは、吉林大街の人口に、騎上で立哨中の
と、照明弾が投下され、遠方の夜空が一面に
満 州 憲 兵 2名を認めて、いったん停止をした。
明くなり、花火のような美しさが広がってい
憲兵は、一瞬何かためらったが、子を上げて
った。何かが起こったのだ。不安が胸に迫っ
通行を許可した。
てきた。翌朝の情報で¥ソ連軍の参戦を知っ
吉林大街を疾走した。街中があまりにも静か
たのである。
である。くるま一台、人一人とわらない 0 ,
し
トラックは一直線に静寂の
鉱山では、幹部があわただしく会合し、対
かし、怪しいと私は気づかなかった。さき程
策を練った。下山すべきか、鉱山にとどまっ
の電話で、早く帰りたい一心であったのであ
て仕事をつづけるべきか、衆議は決しなかっ
る
。
たのである。
本社派遣の私たち地質調査隊が、一応、新
突然、止まれ.ノ絶叫調の命令がとんできた。
運転手は、突差に危険を感ピ急停車した。同
京 本 社 ヘ 帰 る こ と に し た の が 2日後である。
時にパンパンと銃弾もとんできた。たちまち
喜んだのは鉱山当局である。さっそく隊へや
周囲から、湧いたように大勢の満人が現われ、
ってきて、鉱山からの連絡員一名を一行に加
周りを取り囲まれた。
えてくれるように束頁みにきた口
タートージベンレン
と打到日本人と
タート一
と打到
ンペンレン
日本人とわめき声をあげて襲いかかり、高手
そうして、現地を出発、吉林で一泊後、新
小手に私たちは縛りあげられた。何者かによ
京市街を指呼の下に望む東山に到着したのが
り、鈍器のような物で背後に強い一撃を食ら
忘 れ も し な い 8月 1
5日の正午すぎであった。
った瞬間、私は気を失って地面にぶつ倒れた。
市内上空は、偵察機がグルグルと旋回をつづ
し ば ら く た っ て と 死 了 J死 了 ミ の 声 が 遠 く 聞
けており、北の方、寛城子付近で龍巻きのご
こえてきた。からだを強くゆさぶりあげられ
とき一条の太い黒煙りが、天も焦がすいきわ
ていた。やっと気がついたのである。
いで立ち昇っていた。
スウラ
スウラ
(この状況を目撃し、樺旬に引き返した満
山上の貯水場事務所から電話を満炭本社に
人運転手は、鉱山当局にったえた「五石大人
かけたが、何の応答もない。やむなし社宅
は死んだ」。報告をうけた河野鉱務課長は、五
の森田地質課長宅ヘ電話を入れてみる。聞き
石の霊を慰め、また明日はわが身となるか知
慣れた夫人の声が聞こえてきた。
れない事態を鉱山職員に自覚して貰うために
「五石さんですか口どこから電話をしていな
盛大な葬儀を営み、私の冥福を祈ってくれた
さるんですか。いま、陛下の玉音放送があっ
のである。この事情は、後日、鉱山の日系職
たばかりです口戦争は来冬わったのですよ。街
員とその家族、数百人を引率して、歩いて下
の中、社宅は、いま静まりかえって、不気味
山し、十数日聞かかって危難を乗り越え、全
なぐらいですよ。何も起こってはおりません。
員、裸同然の姿に変わり果てながら、新京に
早く帰っていらっしゃい」と言う。決定的な
連れ還った。河野氏自身の口から聞かされた
日舜聞を、このように聞いたのである。
のである。)
このあと、私は世に知られていない不幸な
人事不省から魁り、力なく立ち上った私を
事件に出合った。戦争とはいえ、実に残酷で、
見た群集は、一時の興奮から冷めてきたのか、
あり、痛恨の極みである。ここに、 29年 前 の
再び私を叩き殺そうとはしなかった。いつの
出来事をったえて、不幸な人々をしのびたし」
聞にか、下士官が割り込んできている。
新京特別市には、吉林方向から真直ぐ市内
ンヤー
プウシン
マ
交
シャープウシン
不信と(殺ろしてはいかん)と殺不信との声の主
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随筆
み
Es
である。しかし新手がやってきた口銃を構え
青年将校である。自分て¥日本士官学校出身
た兵士がバラバラと駆け付けて、口々に努鳴
と名のった。「このたびの敗戦は、日本だけの
り、怒り、今にも私たち一行に発砲しそうな
敗けではない。アジア人の敗戦である。これ
剣幕であり、また、群集へ早く日本人に仕返
から先き当分、アジアに光りは差さないであ
しをせよとけしかける風である
Q.
しかし、ど
うにか、ごの兵たちも下士官は説得した。私
たちを数珠つなぎ、に縛りあげただけである。
ろう」と言ったあと、貴方たちは、自由に引
き取るようにと言った。
今、解放されて困るのは日本人の私たちで
要するに、ここで日本人を殺すのは場所が悪
あった。周囲は満人街、日本人狩りの最中で
い、裏通りに行けば、煙草公司の工場がある
は生きて還れる見込みはない。大隊長の下に
ではないか、日本人を始末するには、ちょう
ヲ│き続いてとどめてもらうよう懇願した口が
どよい場所だ、という説得に、兵士たちが応
しかし、将校であっても、日本人を庇うこと
。たのである口
は、自分の生命をも失うことになる。貴方た
煙 草 公 司 に は 、 長 さ 7メ ー ト ル 、 幅 8
0セン
ちを部下から救出できたのが、私の精一杯の
チの散兵壕がいくつかあった口到着すると、
行為である。ここからは早く立ち去って下さ
私たちは壕の前ヘー列に並べさせられた口兵
い D とっき放されたのである。
士はめいめい着剣をはじめ、銃殺の段取は誰
のH
艮にも明らかであった。
私は、日出嵯に判断をして、帰る道がわから
ない、日本語ができる下士官に吉林大街まで
引率してきた下士官は、何事か兵士たちに
同行してくれることを求めた。この親切な下
話しかけているが;彼らには、早く決行した
士宮に付き添われて、元のトラックが捨てら
い様子がありありと見える。私はもはや死を
れた場所、吉林大街にで、た O さらに、通りを
観念した。というより、射たれるしかしょう
南 へ 200メートル歩いて、下士官は立ち止まっ
がない O 逃 げ 場 の な い 絶 対 絶 命 の 運 命 を 悟 っ
た rこ こ で お 別 れ し ま す 。 こ れ か ら 先 き は 別
たのである。
の部隊が警備をしており、責任が持てません、
Q
ン ヤ ; / ャ ー
と殺そう
J殺 そ う ミ 苛 立 つ た 兵 士 の 声 は 、 一
ご 無 事 を 祈 り ま す J と言って帰っていった。
段と高く激してきた。下士官の説明に、限界
00メートルのところが吉林
こ こ か ら は 、 前 方5
がきたようである口このとき、幸運にも情報
広場である。広場をすぎると新市街に入札
下士官が到着した Q r
大隊長命令をったえる。
日本軍の警備区域であった。そこまで辿り着
日本人は大隊本部に連行する。大隊長は情報
けるだろうか心細い口だが、このまま路上に
を入手したがっている。殺すのはあとである。
立 ち 止 ま っ て は い ら れ な い 。 一 行 4人 は ー 列
大隊長の命令であるりと言った。
となって、私を先頭にしておとなしそうに首
ワンノ号ータン
私たちは、この情報下士官に引き渡され、
を深くうなだれで歩いた口と王八旦ミ馬鹿グ阿
大隊本部へ連行される途中、捕縛を解かれた。
呆.ゲの罵声が左右の陣地から飛んで、くるなか
とあなた方はもう大丈夫です。安心して下さ
を、無言でゆっくりと歩いた。止まれ p
停
いミと、はっきりした日本語でいい渡された。
止 命 令 だ 。 同 時 に 2発パンパンと撃ってきた。
生と死の分れ目に立ち、極度の緊張感から解
しかたなく止まる。台前ら殺したるぞグ
放された私は、見境もなく多弁になった。下
0メ ー ト ル ぐ ら い で 広 い 。 左 陣 地
道 路 幅 は8
士宮に、何かと話題を見つけては話しかけた
は比較的静かでおとなしい。窓という窓から
σ
〉てもある。
銃口が覗いている。私は、黙って路上に静座
大隊本部は、広大な煙草工場を回ったとこ
した。一行も次ぎ、次ぎと習った。ポケットか
ろにあった。大隊長は、少佐の肩章を付けた
ら一枚のノ、ンケチを取りだし、右手に高く掲
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ダクタイル鋳鉄管
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7号
官(字
、長随筆
げて静かにふった。周囲はしんとなった口そ
ょうがないのである。
こで立ち上って、再びゆっくりと行進にうつ
どの兵士も、自分の弾丸で、敵意のない逃
る。満軍(反乱軍)は、私たちの動作を何か
げようともしない善良な一行を殺したくはな
ショウを眺めているような心土也で見ているの
かったのである。間もなく銃声は止み、静か
であろう。何事も起こらなかった。
になった。そのとき、私は聞いたのである。
左際の建物あたりから、黒い塊りが行列の
足下の死体から「もしもし、どうか私を助け
中に駈け込んで、きた。助けて下さい、一緒に
て下さい。私は脚を射たれただけです。どう
連れていって下さい、お願いします、と言っ
か連れていって下さい。このままでは死んで
て一日本婦人が加わってきた。
しまいます。お願いです。お助け下さい」。し
わ れ わ れ 5人 の 行 列 は 、 ハ ン ケ チ と 手 拭 を
かし、私にはこの悲痛な呼び声の主を救う勇
ふり、最後列しんがりの鈴木さんは予備役陸
気は、ついに出なかったのである。一指触発
軍大尉で、丸腰の将校服で棒切れの先きにハ
という緊張の谷間に、わずかに開いた平和の
ンケチを結び付け、両手で、捧げつつの姿勢で、
瞬間が、一寸の行動を起こすことによって、
しんがりを努めていた。この奇妙な行列を降
また殺裁の修羅場に化するのを恐れた。いや
参部隊と見てくれたのか、何事もなく通した。
私自身が殺されることを思うとき、卑怯とい
だが通過路上には、日本人の死体が転々と横
われようが、聞こえぬふりをよそって通りす
たわって、
ぎてきたのである。
ドス黒い血が地面に流れ、強い夏
の太陽に照りつけられていた。その印象は、
実に強烈であった。
最後の関門、吉林広場の前までたどり着い
たが、広場を越えかけると、猛烈な一斉射撃
をうけた。周囲に転っている死体の数もこの
あたりが一番多い。多数の日本人がここまで
ようやくたどり着いたとき、一斉射撃の的に
こうして、最後の広場を越え、日本軍陣地
に無事たどり着いたのである。疲れ切った私
が 、 満 炭 社 宅 に 帰 っ た の が 午 後 3時 す ぎ で あ
った。
この白から数えて、 29年 目 の 夏 を ま た 迎 え
た
。
夏がきて、ぎらぎらと太陽が大地に映える
なり、あえなく佳リれたのである。しかし、妙
とき、異国の満州、新京ても、終戦と共にこの
に私たちの行列に銃弾があたらなし」私たち
ように生涯を終えた人々に、私は深い思いを
は、発砲されると同時に行進を止め、立ち止
馳せるのである口しかも、ある種の悔を噛み
まって彼ら陣地の方向に向き直って、一斉に
締めながら、そうして、だれもこの出来事を、
頭を低くさげたのち、一段と高く白いハンケ
その身内に語。、告げる人もいないことを思
チをあげて、上下にふったのである。このこ
うとき、限りない空しさを感りながら、また
とに彼らは、意志で答えてくれたとしか思い
夏はすぎていくのである。