私は『母』という字を書いた。なぜ『はは』やMotherと書かないで母と書いた

氏 名 ( 本 籍 )
エリック
ヴァン
ホーヴ(ベルギー)
学 位 の 種 類
博
士
(美
学 位 記 番 号
博
美
第 228 号
学位授与年月日
平 成 20年 3 月 25日
学位論文等題目
〈 作 品 〉Metragrams
術)
メツラグラム/上海での生成
リューベンでの生
成 / Syllabary
〈 論 文 〉書 か れ た 表 現 に お け る 美 学 的 、詩 的 、意 味 論 的 な 内 観 - 漢 字 と
アルファベットを通してみた美術と書
論文等審査委員
(主査)
東京芸術大学
教
授
(美術学部)
木
幡
和
枝
(論文第1副査)
〃
〃
(
〃
)
田
甫
律
子
(作品第1副査)
〃
〃
(
〃
)
渡
辺
好
明
(副査)
〃
准教授
(音楽学部)
毛
利
嘉
孝
( 〃 )
東京学芸大学
教
(教育学部)
長
野
秀
章
( 〃 )
東 京 大 学
准教授
授
ド ゥ・ヴ ォ ス・パ ト リ ッ ク
(論文内容の要旨)
詩 は 、 芸 術 の 中 の あ る 特 定 の も の の 名 前 で あ る 前 に 、 芸 術 の 総 称 的 な 名 前 な の で あ る 。 Techne
poietike生 産 的 な 技 巧 。こ の 技 巧 、つ ま り こ の 芸 術 、こ の 計 算 さ れ た 作 業 、こ の 過 程 、こ の 巧 技 と は 、
他物への視野や用途を有した何物かを生み出すのではなく、将にその生産そのものへの視野、つまり
顕示を伴った何物かを生み出すものである。何ものかの生産とはつまり、物事を前にすすめることで
あり、提示することであり、そして暴露することなのだ。
Jean-Luc Nancy, The Technique of the Present 1 , Le Nouveau musée-Institut d'art contemporain.
Villeurbanne, 1997.
近代アートの最も重要な要請、つまり形状探求の上での論理的最終を目指し、結果として孤児的状況
に な る こ と 、を 超 え て 、Lucio Fontanaに よ る モ ノ ク ロ 絵 画 上 の カ ッ タ ー に よ る 切 り 裂 き 、マ テ ィ ス の 切
り 絵 、Piero Manzoniに よ る ダ ク チ ロ グ ラ ー ム は 彼 ら が ア ル フ ァ ベ ッ ト 表 記 を 使 用 し て い る こ と と 関 連 が
あるだろうか?
現代アートにとって、アルファベット化されている状態、逆に漢字化されている状態
はどのような影響があるだろうか?
また、何も終焉しないし、近代のアートがある黒い方形から展開
されているとすれば、論理的最終に再度到達した今、我々が入り込んだこの暗闇から何が生まれるのだ
ろうか?
そ し て こ の こ と は Metragram Seriesに ど の よ う に 関 係 し て く る の だ ろ う か ? 2
私 は 『 母 』 と い う 字 を 書 い た 。 な ぜ 『 は は 』 や Motherと 書 か な い で 母 と 書 い た の だ ろ う か 。 そ れ は
母という文字が単に『はは』という意味を表す記号であるだけでなく、ちょうど老いた母の顔のよう
に、この文字の中に数千年のしわを見るからである。
井 上 有 一 「 文 字 を 拝 む と い う こ と 」 井 上 有 一 全 文 集 『 書 の 解 放 と は 』 1962年
日本語の音節は母音で構成されるが、欧米言語はフェニキア語に由来するアルファベットでほとんど
の場合成り立つ。日本語では、一つの文字が、書き方によって、いくつもの多様な意味を持つことがで
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1-
き、発音だけでは、コンテキストを明確に把握するのは難しい。この結果として、人々の間で、一種の
信頼ともよべるようなものが生まれた。つまり、漢字化された読者にとってビジュアル、つまり書かれ
た も の だ け が 信 頼 で き る も の ( Vera Icona) で あ り 、 音 声 は 吹 き 抜 け る 風 の よ う な も の と さ れ て い る 。
韻文の音階によって変わる何かを聞かされているのだ。発音されるもの、音は別の言葉に変わる。3
「 愛 と い う 象 徴 文 字 は amatと 比 べ よ り 普 遍 的 で は な い 。 む し ろ 、 後 者 の 方 が よ り 簡 単 に 学 べ よ り 普
遍的要素を備えている…」
ジ ョ ン ・ デ ・ フ ラ ン シ ス 、 The Chinese language、 ハ ワ イ 大 学 出 版 、 ホ ノ ル ル 、 1984、 159ペ ー ジ 。
漢 字 に 関 す る idée reçue に つ い て 言 え ば 、 漢 字 は 、 洗 練 と 効 率 性 を 兼 ね 備 え た も の と し て 、 究 極 的 な
言語の形状を具現化したものといえなくもない(
。 例 え ば 、Gottfried Wilhelm Leibniz、De Vienne Plancy、
René Étiemble や 、 フ ラ ン ス 人 中 国 研 究 家 Georges Margoulièsな ど に よ る 。) 4 歴 史 的 に 言 え ば 、 ア ル フ
ァベット化された世界で使われている文字よりも旧態依然としている、言い換えれば、漢字はそれほど
発達していないというのは不合理だろうか?
欧 米 で は 共 通 言 語 を 定 着 さ せ る こ と が 昔 か ら 理 想 と さ れ て お り 、 例 え ば 1879 年 に Johann Martin
Schleyerが 開 発 し た Volapükと い う シ ス テ ム 、 数 学 者 の Guiseppe Peanoに よ る l'Idiom Neutral, l'Ido,
l'Interlingua, le Latino sine Flexioneあ る い は Otto Jerspersenに よ り Esperantoや Novialが 挙 げ ら
れる。
***
古 代 の 彫 刻 家 達 が ミ ネ ル ヴ ァ の 髪 型 の ア レ ン ジ を た っ た 18種 類 し か 知 ら な か っ た の に 対 し て 、 書 の 筆
は、世界中の動物の毛の種類ほど多様なものである。跡がより柔らかくなり、中国での使用を見るだけ
で も 、な ぜ 書 が こ れ ほ ど ハ イ レ ベ ル な 洗 練 に 至 り 、そ れ 自 体 で「 跛 行 」が 考 え ら れ る ほ ど の ア ー ト 、病 5
となり得たのかが容易に説明できる。斜め切りにされた羽ペンの堅さは、なぜヨーロッパでは古典的な
能書術(カリグラフィー)が職人の手仕事、楽に読み返せる飾りのようなもののレベルに留まったのか
を 明 ら か に し て い る … 。 そ の 一 方 で 、「 は じ め に 我 々 の 内 な る 暗 闇 ほ ど に も 黒 い 」 6 イ ン ク 7 は 松 の 木 の 煤
から(松煙)または骨および焼いた果物の種(油煙)から成り、くすんだ色合いと灰色や青の色調を出
すことができる。それは調香師の専門用語を使って描写されるものだ。最後に、和紙は軽くて丈夫であ
り 、中 国 の 宣 紙( 中 国 語 で は xuanzhiと 読 み 、日 本 語 で は せ ん し と 読 み 、宣 の 紙 の 意 )と 密 接 に 関 係 し て
おり、唐の時代から生産されている。稲の繊維から作られ、水に濡れた時の強度は、ルネサンス時代か
ら 質 の 良 さ で 知 ら れ て い た フ ァ ビ ア ー ノ の 麻 の 紙 8 よ り も ず っ と 大 き い 。日 本 人 も 巻 物 と 紙 片 の 中 間 サ イ
ズ の 本 を 作 り 上 げ た 。セ ン プ ヨ ウ( sempuyō)、乗 り 入 れ 画 帖( nori-ire gajō)、ノ ビ ル ガ ヨ ウ( nobiru gajō)
あ る い は 折 り 本 ( orihon) が そ れ だ 。 折 り 本 は ア コ ー デ ィ オ ン 型 の 本 で ど ち ら 側 か ら で も 読 め て 終 わ り
が な い と い う 特 徴 を 持 ち 、 古 く は 、 始 ま り に も 終 わ り に も 行 か れ な い Borgesの Livre de Sable、 始 ま り
と 終 わ り が も つ れ 合 っ て い る Rousseliens物 語 9 、新 し く は 1993年 に ロ ド ニ ー・グ ラ ハ ム が 考 え 出 し た Lenz
の た め の lecteur de table「 読 み 取 り 機 ? 」 ま で 、 西 洋 人 と 切 っ て も 切 れ な い 関 わ り の あ る 連 続 本 と な
っている。
***
1945 年 以 降 西 洋 で 発 展 し た ア ク シ ョ ン ・ ペ イ ン テ ィ ン グ 、 Gestural Painting 、 Tachism 、 Lyrical
Abstraction、抽 象 表 現 主 義 、ま た は フ ラ ン ス 人 批 評 家 の Michel Tapiéの ア ー ト ・ ア ン フ ォ ル メ ル な ど が
連想される。これらは、技術的制約のない身振りが人間の心理現象の内的な動きをカンバス上に表現す
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2-
る、とされる絵画の概念/構想を提案しようとしたものだ。同じころ日本では、書においては、墨人会
の森田子龍、井上有一、江口草玄、アバンギャルド日本語画家としてはパンリアル美術協会、陶芸では
走 泥 社 の 鈴 木 治 、八 木 一 夫 、山 田 光 な ど が お り 、現 代 ア ー ト の 具 体 グ ル ー プ の 嶋 本 昭 三 、吉 原 治 良 ら は 、
荒廃、破壊の美は「物質が本来の生命をとりかえした復讐の姿、本来の物質の性質が露呈しはじめた」
と 考 え て い た 。同 じ こ ろ ヨ ー ロ ッ パ で は CoBrA Groupが あ ら わ れ 、具 体 は マ ニ フ ェ ス ト を 発 表 し 拘 束 さ れ
ない自発性、自然な衝動を目指していた。
つまり、中国や日本の書のこのような解釈学は今日でもまだ数えきれないほど何回も書くことにある
10
- limae labor et mora 1 1 - そ れ は 、 行 政 文 書 だ っ た り 遠 い 昔 の 偉 大 な 学 者 か ら 借 用 し た 五 言 か ら 七 言
の詩だったり、何らかの辞典から引いた諺だったり、儒教や道教の参考図書からの、二文字の短い格言
に限定された抜粋だったりで、書体やインクもまちまちだが、それを変えることには何の関連性も何の
意味もなく、何の領域にも属さない。
それと比べると西洋の美術史も、流儀はまったく違うが古典作品からの「引用」だらけだ。たとえば
ジ ェ フ ・ ウ ォ ー ル の 写 真 作 品 A sudden Gust of Windは 北 斎 の 浮 世 絵 を 思 い 起 こ さ せ る だ ろ う し ピ カ ソ は
エドゥアール・マネの「草上の昼食」に基づいて描いているし、フランシス・ベーコンはベラスケスの
教 皇 イ ン ノ ケ ン テ ィ ウ ス X世 の 肖 像 を も と に 制 作 し た し 、 さ ら に は Rrose Selavy 1 2 の L.H.O.O.Q.は レ オ ナ
ルド・ダヴィンチのモナリザの「手直し」だ。しかし、日本の伝統的な書においては哲学と結果の手法
であるものが、ここでは現代作品に信頼性を持たせる役に立つことがよくある。現代作品は、愛好家や
一般の人々の批評の前で芸術作品としての地位そのものを守らなければならず、人々は現代作品を美術
史から切り離したがるかもしれないが、それは現代作品も美術史に属することを示すか思い出させるか
してくれるからだ。
***
フ ラ ン ス 人 読 者 が め っ た に 出 会 わ な い 単 語 を と り あ げ て み よ う 。例 え ば「 ボ ロ メ の 結 び 目 」、こ れ は わ
けなく読めるだろう、しかし多くの読者はこの結び目がどういうものか「見えない」だろう。同じ単語
を日本語で取り上げてみよう。
「 結 三 和 違 」4 つ の 漢 字 は そ れ ぞ れ「 結 び 目 」
「三」
「 輪 」と「 つ な が れ る 」
を意味する。日本の読者はすぐさま3つの輪がつながれた結び目だと気付くだろう。しかし多くはこの
単語を声にだして読めない、あるいは何回も間違えるだろう。というのもこの単語自身の特殊な読み方
を 学 ば な け れ ば な ら な い か ら だ 。こ の 単 語 を 構 成 す る そ れ ぞ れ の 漢 字 が い く つ も の 読 み 方 を 持 っ て お り 、
単語によってそれぞれの構成漢字の読み方がかわってくるからだ。
上記2つの例は西洋の言語(理解せずに読むことができる)と漢字を使った言語(読めないが理解で
き る )の 違 い を 示 す の み で な く 、発 音 や 漢 字 の 意 味 を 知 っ て い て も 日 本 語 の 文 章 を 理 解 し 、読 む に は「 充
分」ではないことを示している。そのため、巻物や手紙が読みづらい場合、まず書の質よりも、読み手
の 学 識 が 問 題 視 さ れ る 。反 対 に 、今 の コ ン テ ン ポ ラ リ ー ア ー ト で は 見 た も の が 美 し い か 、醜 い か は 問( と )
われない、アーティストが才能があるかないか、デッサンの技術を知っているか知らないかは問われな
い 。 む し ろ 、 目 の 前 の も の が 芸 術 か 否 か 、 作 家 は 芸 術 家 か ど う か 、 そ れ だ け が 問 題 に さ れ る 13。
“ だ れ も が 自 国 語 の 中 で 中 国 語 を 話 す 幸 福 に 恵 ま れ て い な い 。”
ジ ャ ッ ク・ラ カ ン「 エ ク リ 」の 日 本 語 訳 の 序 文「 日 本 の 読 者 へ の 提 言 」、ECF文 学 月 間 の N3に 掲 載( け
い さ い )、 1981年 10月 。
ラ カ ン は エ ク リ の 中 で 日 本 語 に は 一 種 の「 2 言 語 性 」が あ り 、
「日本語には中国の表記システムが取り
入れられたのと同様に、中国の記号表現が大量に導入されており、日本語の中に一種の中国語の方言が
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3-
生まれている」と書かれているが、これは日本語の漢字が2つの読み方をもっていることから見ても感
じ取れる。
例 え ば 、 Yves Kleinは 「 Anthropometries of the blue period」 の 中 で 、 女 性 の 身 体 で 絵 筆 を 代 用 し
た 。ま た 、こ の 見 え な い 深 遠 を 持 っ た 傷 跡 は 、Lucio Fontanaの カ ッ タ ー に よ る 筆 使 い で あ り 、も ち ろ ん
書的身振りである。これらのことは日本古来の武道に通じる。武と文つまり、刀の振りが筆使いと、一
つの、同じ動きになることであり、勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟のようなすばらしい書家であり侍であ
った禅師によって予知されていた。禅では、気は、刀の使い方においては気合に通じ、書においては墨
気に通じるのだ。
***
備 考 : 本 論 文 に は 2 つ の 制 作 ノ ー ト が 含 ま れ て い る 。 最 初 の も の ( 5.1.3.) は 、 私 が ア ル フ ァ ベ ッ ト 化
世界対カンジ化世界と名付けたことについてのリサーチの部分のセクションに含まれており、概念的か
つ実践的な叙述と広範囲でのインスタレーションとパフォーマンスからなっている。これらの仕事は、
本研究の進行と平行して行われたものであり、読者に私のアーティストとしての実践が研究に与えた重
要な影響を知る資料となるはずだ。他者による類似研究と実践がいまだ存在しない現在、私自身の作品
における試行を、論考の文脈のなかで検証した。
2 つ め の 制 作 ノ ー ト ( 6.) は 、 本 論 文 の 結 語 に 迫 り 、 私 自 身 が 文 字 や 言 葉 の 意 味 論 か ら 離 れ 、 書 く 、
描 く 行 為 か ら 、 そ の 瞑 想 的 な 根 源 を 求 め て 、 後 期 博 士 課 程 在 学 中 の 2005年 か ら 2008年 の 間 に 作 ら れ た 、
30点 の〈 Metragramメ ト ラ グ ラ ム ・ シ リ ー ズ 〉
(「 胎 書 」と で も 訳 せ る だ ろ う か )に つ い て で あ り 、イ メ ー
ジの広く直観的、歴史的、そして概念的文脈化を与える。全体として、結論に哲学的反映をしている。
***
結論:言葉から与えられた意味から如何にして逃れることができるであろうか?
18世 紀 終 わ り の 数 十 年 間 、 ア ー ト の 起 源 を 喚 起 す る 絵 画 が 広 く 流 行 し た 。 し ば し ば 二 つ の 逸 話 的 主 題
が取り組まれた。
“ Pygmalion and Galatea”
( sculpture)と 絵 画 の 起 源 の 描 写 と 考 え ら れ て い る“ Dibutades
Tracing the Portrait of a Shepherd” で あ る 。 両 方 に お い て 愛 が 作 品 の 核 心 で あ っ た 。 さ ら に 、 ロ ー
マ Santa Maria della Vittoriaに あ る コ ロ ナ ー ロ 教 会 の St. Teresa像 の 姿 勢 、 表 情 に は 、 彼 女 が 神 と の
交流に到達した際に生まれた半失神的恍惚の体験があらわれているが、これは書中の井上有一が有する
作 詩 狂 状 態 1 4 も し く は Poésie Vécue 1 5 に 驚 く ほ ど 似 て い る 。
戦 後 日 本 で 、伝 統 的 メ デ ィ ア を 使 う ア バ ン ギ ャ ル ド ア ー テ ィ ス ト が 、
「 近 代 抽 象 芸 術 が 本 当 に 美 的 、国
家 的 、文 化 的 な 規 範 か ら 自 由 で 、 普 遍 的 で 超 越 的 な イ メ ー ジ を 表 現 し て い た と 信 じ て い た の で 、」 1 6 彼 ら
は、イデオロギーの側面では西洋を拒絶しなかったし、世界性を体現するためにも、日本の文化様式の
中 に 、 西 洋 的 な モ ダ ニ ズ ム 17の 観 念 を 取 り 込 も う と 考 え た 。 同 様 の 願 望 は 今 こ こ で も 働 い て お り 、 同 時
代 的 で あ り な が ら も 、 同 時 に 理 想 郷 的 で あ り 、 反 理 想 郷 的 で あ り た い 。 Metragram Seriesは 、 古 典 的 要
素と同時代的クリシェが民俗学的風刺、報道写真、旅行者的覗き見、宗教的象徴、グローバルな観点な
どと衝突して出来る内省的万華鏡のようなものである。
レオナルド・ダヴィンチによると、アーティストは自然の孫ではなく、息子であるべきである。井上
有 一 の 特 徴 的 な 作 品 で 、 巨 大 な 一 つ の 文 字 か ら な る シ リ ー ズ が あ る 。「「 孝 」 一 字 を 書 い た も の が 十 二 点
も あ る か ら で す 。そ れ は す べ て 一 九 六 一 年 に 書 い た も の で 、同 じ 年 彼 は「 母 」と い う 字 も 書 い て い ま す 。
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4-
井上有一の母には二通りのものがあります。二つ目はグルグルと渦巻いたようになって、見る人によっ
て は 「 ま る で 子 宮 回 帰 願 望 だ ね 」 と 言 わ せ る ほ ど だ と 海 上 雅 臣 は コ メ ン ト し て い る 。 1965年 の ニ ュ ー ヨ
ー ク シ ネ マ テ ー ク で 「 Perpetual Fluxus Festival」 の 一 部 と し て 展 示 さ れ た 膣 に 筆 を 支 え て 行 う 書 で あ
る 久 保 田 成 子 の Vagina Paintingや 、 Carolee Schneemannの Interior Scrollパ ー フ ォ ー マ ン ス が 思 い 起
こされる。
Metragramは 判 読 で き な い 漢 字 で あ り 、 hapax legomenonと し て 、 逃 避 の た め に 、 詩 的 な 再 確 認 行 為 と
し て 寓 喩 的 に 子 宮 を 墨 塗 っ た の も で も あ る 。ア ガ ン ベ ン が 述 べ る よ う に 、
「キリスト教という言語経験を
急 進 的 に 変 容 さ せ る も の で あ る 。」
「( 詩 の 中 で )男 は 常 に 、す で に 言 語 の 場 所 に い る 訳 で は な く 、そ こ に
入らねばならない。知識と結合すれば言葉が生まれてくるような食欲、愛欲を通してしかこれを行うこ
と は で き な い 。」
注
1 . 1997年 1 月 に Nouveau Muséeに て 、 河 原 温 の 展 覧 会 「 Whole and Parts/1964-1995」 中 に 行 わ れ た レ
クチャーより。
2.数年前に筆者が始めた作品シリーズで、現在も進行中。
3.
「 実 際 、音 声 的 な 曖 昧 さ は 、中 国 語 で よ り も 日 本 語 に お い て さ ら に 問 題 で あ る 。と い う の も シ ナ = チ
ベ ッ ト 語 派 か ら の 変 化 ま で も が あ る か ら で あ る 。」William C. Hannas, Asia’s orthographic tradition,
in The writing on the wall, How Asian Orthography curbs creativity , University of Pennsylvania
Press, USA, 2003, page 182.
4 . 例 え ば 、 Peter H. Boodbergは こ う 述 べ て い る 。「 中 国 人 が 書 式 を 発 展 さ せ た 中 で 、 彼 ら が 他 の 人 類
から差異化するために、秘儀的で難解な主義に従ったのだという主張について、ある人は遺憾に思う
こ と が で き る 。」
5.ニーチェやデューラーが述べている
6 . 5000年 前 か ら 中 国 で 使 用 さ れ 、 墨 と 呼 ば れ る 。 そ の 漢 字 自 体 が 「 土 」 と 「 黒 」 と い う 表 意 文 字 で 構
成されている。
7 . Paul Claudel, préface à Cent phrases pour éventails, Gallimard, 1942年 刊
8 . 1937年 に 禁 止 さ れ る ま で 麻 の 原 料 と な っ て い た 植 物 は 麻 の 実 。
9 . Raymond Roussel は Nouvelles Impressions d'Afriqueの 初 版 に 、 1 ペ ー ジ か ら 211ペ ー ジ ま で を 読
む 前 に ま ず 212ペ ー ジ か ら 455ペ ー ジ ま で を 読 む よ う 、 読 者 に 勧 め る 注 釈 を ど う も 入 れ て い た ら し い 。
Michel Leris 1954年 を 参 照 の こ と 。
10.こ の 方 法 は「 書 写 」と 呼 ば れ る 。
「 書 」は「 書 く 、本 」、
「 写 」は「 写 真 、コ ピ ー 、複 写 、再 現 、(...)」
の 意 味 。 こ れ と 似 た も う 一 つ の ジ ャ ン ル は 「 臨 書 」 と 呼 ば れ る 。「 臨 」 と い う 漢 字 は 「 向 き 合 う 、 ~
と 関 わ り を 持 つ 、 映 す 」 と い う 意 味 で 、「 臨 書 」 は よ り ハ イ レ ベ ル の 自 由 、 解 釈 が 許 さ れ て い る の で
芸 術 の 領 域 に 属 す る も の と 見 な さ れ る 。「 書 写 」 は む し ろ 教 育 上 の 技 法 と 見 な さ れ て い る 。
11.「 文 学 作 品 の ゆ っ く り し た 困 難 な 磨 き 」。
12. ま た の 名 を マ ル セ ル ・ デ ュ シ ャ ン 。
13. ナ タ リ ー ・ エ ニ ッ シ ュ 「 コ ン テ ン ポ ラ リ ー ア ー ト の 三 重 の 仕 掛 け 」 1998年 ミ ヌ イ 出 版 223- 224ペ ー
ジ。
14.
「 詩 的 閃 き 」参 照 E.N. Tigerstedt, Furor Poeticus : Poetic Inspiration in Greek Literature before
Democritus and Plato, in Journal of the History of Ideas , Vol.31, No.2, 1970, page 163-178.
15. Alain Jouffroy, Manifeste De La Poésie Vécue , Ed. L’Infini/Gallimard, 1994. Michel Leiris
は poésie véridique に つ い て Paul Eluardに つ い て の テ キ ス ト で 同 様 に 述 べ て い る 。 Michel Leiris,
Brisées , Folio essais, Gallimard Press, 1992, page 197.( 初 版 出 版 1966)
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5-
16. Alexandra Munroe, The discourse on Tradition in Post war Japanese Art, in Wordworks for a
new millennium , Kyoto University of Art and Design, 2000, page 37.
17. 注 記
この論文のはじめでも述べたが、はじめに東洋的概念が、この西洋的モダニズムを生み出す
手助けをしたのだ。
目
次
1.著者による注記
2.前書きと仮説・無と矛盾
3.歴史と類似点
3.1
アルファベット化された言語書式の歴史背景[歴史に関する付録]
3.1.1
兆し: シュメール語と中国語の書式における類似性
3.1.2
エジプトのティス王権のアルファベット(セラビ
3.2
エル・カディームとイリアード)
それら二つの意味論的言語総体における相違
3.2.1
目眩、音、聞く、話す、書く
3.2.2
類似、結果、相違、伝聞
4.伝統と分岐
4.1
今日、日本における書の諸要素
4.1.1
筆、石、煤のインクと和紙
4.1.2
封建制の写本者、日本の書家、行政と詩
4.2
漢字の教育と学習
4.2.1
書とは芸術か否か?
4.2.2
音と訓:組み合わせ、発音と例外
5.アルファベット化されたアートと漢字化された書
5.1
日本の書を前にしたアルファベット化された現代アート
5.1.1
マ ル ド ゥ ッ ク 神 賛 美 、 動 詞 「 あ る 」、 印 、 シ ミ 、 文 字
5.1.2
本質と形式、西洋の違反と日本の形式主義
5.1.3
内 省 的 ケ ー ス ス タ デ ィ : テ キ ス ト と 漢 字 を 扱 っ た 自 己 作 品 30点 の 制 作 ノ ー ト
5.2
線描の美、意味することの重要性
5.2.1
読み手から鑑賞者への、身振りの基本、文字向性
5.2.2
省略、わび・さび、線画、基本、切り抜き
6 . Metragram Series制 作 ノ ー ト ( 2005- 2008)
7.結論:言葉から与えられた意味から如何にして逃れることができるであろうか?
8.参考文献一覧
9.画像の出典およびクレジット
10. 謝
辞
-
6-