わが大陸の民衆が必要とする演劇を、集団創作は培う 方途とな

アタワルパ・デル・シオッポ
「わが大陸の民衆が必要とする演劇を、集団創作は培う
方途となるのかもしれない」
1)
Atahualpa del Cioppo, « La Creacion colectiva puede favorecer el desarrollo del teatro que
necesitan nuestras masas populares »
演劇の起源が儀礼である、あるいは宗教儀式である
諸科学の援けをより必要とするようになっている。
と認めるとき、私たちは、それを導いているのがすぐ
そして徐々にではあるが、ドラマ芸術そのものが、
れて集合的な心意作用であること、したがって、そこ
一つの科学に変じはじめている。― 控えめに言っ
には人々の態度と行動、相互に関わり合いながら、自分
ても、それはある種の技術としての発展を開始して
たちを突き動かしている感情や信仰を相互に交信し合う
いるのである。この技術が、先行世代のドラマトゥ
コミュニケーション行為が表示されていることを、自ず
ルギーにたいして持している関係をなぞらえて言え
と納得することになるだろう。謎だらけの宇宙のど真ん
ば、化学と錬金術の関係に似たようなものである。
中に投げこまれて、しかし必死にその謎の何たるかを探
り、それをより幸多きものに変えようとする願いが、そ
のような仕方で表明されているのだ。
演劇が芸術としての自らの方途を見定めようとすると
きの、これが大道だ。とはいえ、わがラテンアメリカに
さてその上で、もう一つのことにも目を向けておこ
引きつけて考えると、ことは到底それだけではすまされ
う。ブレヒトが『小思考原理』で指摘している、もう一
ない。わが大陸の大部分の国々において、住民たちは強
つの事実だ。「演劇が祭儀から発祥したということは、
力な教育と情報のメディアにさらされ、魂を抜かれてい
祭儀から離れることで演劇は演劇になった、ということ
る。そのメディアを操っているのは、独占資本とその代
である」。離れることで、それは芸術的行為・人間的な
理人たちだ。そして彼らの活動は帝国主義の経済的・イ
行為に、そして人間的な行為であることによって歴史的
デオロギー的な利益と直結しているのだ。
な行為になった。
したがって、美学的にも思想的にも熟考された集団創
かくして演劇を通して、われわれはさまざまな時代の
作は、この大陸の人民大衆が必要としている演劇の発展
さまざまな人間模様を知ることができるようになった。
を培う方途となるかもしれない。しかし演劇の「発展を
たとえば 18 世紀にブルジョア革命が勝利して、以後わ
培う」ことは、かならずしも、その演劇をくだんの大衆
れわれの時代にいたるまで、演劇はブルジョア個人主義
に「近づける」ことにつながるわけではない。どんな演
を特徴づけている個々の人間存在を、他に置き換え不能
劇を民衆に提供するかを考えるだけでは、まだ足りない
な実体として前提に置くようになった。
のだ(これが非常に重要であることは、もちろんである
しかし今世紀の革命は唯物史観に立脚しており、ブレ
が)。おそらくもっとも頭の痛い問題は、大衆的なコミュ
ヒトもその点は同じである。理論的著作の中でも、舞台
ニケーション媒体をどうやって獲得するかということ
作品でも、ブレヒトはその観点を強調してやまない。
で、―名誉ある少数の例外を除くならば―上述のよ
うに、それらは政治的権力者と結びついた私企業の手に
経済と政治のたすけを借りることなしに、現代人の
握られているからである。この政治的権力者の上にさら
行動を理解することは不可能である。それを理解す
にまた外国資本が控えていて、前者は後者の経済利益と
ることなく、作家がなお現代人の何かを描きうる
結託している。
と思うとしたら、それは能天気というものだろう。
それらのスペクタクル産業が、(映画が、ラジオが、
<純粋に人間的な行為>と言われているものを捜し
テレビが)、大衆の趣味と嗜好を吸着し、方向づけてし
求めても、それは空振りに終わるだろう。そんなも
まっていることにも、目をくれないわけにはいかない。
のは、もう存在しないからである。芸術は日ごとに
映画、テレビの画面を風靡している瞞着と事なかれ主義
1)[訳註]翻訳に際しては以下の文献を底本とした。(Ed.)Sonia Gutierrez,
Costa Rica: Editorial Universitaria Centro Americana. 1979, pp. 139-144.
― 1 ―
,
が、演劇の世界に浸潤し、影響を与えている。それゆえ
状をいくらかなりとも克服していくことが私たちの課題
に、かつての偉大な創造の時代にはごく当たり前であっ
なのだが、そのためには広範な大衆に演劇への関心を
たことを為そうとすると、そのために払わなければなら
(もちろんその演劇は大衆の問題を感覚的にも論理的に
ない努力は甚大なものになってしまうのだ。わがラテン
もするどく抉り出すものでなければならないが)寄せて
アメリカ大陸の演劇は、やれることだけをやって、やる
もらうだけではなく、大衆が自ら演劇のつくり手になっ
べきことには目を瞑る傾向が、ますます顕著になってい
ていくことが非常に重要なのだ。たとえていえばスポー
る。他方、生産手段の所有が社会化されて―文化や芸
ツが―とくにサッカーが―やられているような具合
術の生産手段もそれにともなって社会化される―この
に、演劇がやられてほしいのだ。下手くそかもしれない
矛盾が解消されたときに、そこにおいて何が生ずるかを
が、とにかく、どこに行ってもサッカーはやられている。
引き比べて分析すれば、彼我の懸隔は一目瞭然である。
あの素人サッカーに匹敵する情熱で、いや、もっと大き
そこでは生産手段が社会化されるがゆえに上記のような
な内から突き上げる力をバネにして、自分たちの芝居を
齟齬が解消されて、すべてが一貫性を回復する。映画、
演じてみてはどんなものだろうか。その動きに掻き立て
ラジオ、テレビは、共同社会の文化や芸術、そして科学
られて、我らがアメリカのそこここの国々で、真のドラ
技術への寄与を目的とするものとなる。かくして私たち
マトゥルギーが立ち現れることになるだろう。演劇は、
は、諸芸術の調和的な共存、さまざまなジャンルの創造
わが同胞たちの魂の鼓動と社会の鳴動にたえず耳敏くあ
が他の諸ジャンルのそれと共存し、相互に協力し合う姿
らねばならない。彼らの息遣いを呼吸し、その豊かで複
を、目の辺りに見ることになるのである。
雑な問題意識の襞をすかさず掬い上げるものでなければ
生産手段の私的所有を何が何でも守り抜こうとする者
たちが吐き散らす多寡くくりの言辞は、毎度お馴染みの
ならない。たしかに表現の手段は心もとないものかもし
れないが、それは必然的に正真正銘の演劇となる。
ものだ。高潔な芸術など決して求めようとはしない「粗
かくして私たちは、再度、演劇の起源の問題に立ち返
野」で「愚昧」な公衆は、かつてもこれからもずっと存
ることになる。太古の演劇は、ある混沌とした感情に応
在しつづけるだろうと、彼らはご託を垂れる。もう分
えるものとしてあり、宗教に起源をもつものであった
かっていますよ、やつらのことなら! というわけであ
が、今日においては社会科学が発展し(生産関係と不可
る。
「粗野」だの「愚昧」だのというこの種のお見立てを、
分な)人間と人間の関係についての知が深まっているた
私たちはうんざりするほど聞かされてきたのだが、こう
めに、演劇は、ある時代の、ある社会の人間関係の対立
した言辞から透けて見えるのは公衆にたいする彼らの徹
を照射するものになっている。
底した侮蔑の感情で、実生活の局面でも芸術の局面で
かつて、演劇は神と人との交わりを表現するもので
も、それは変わらない。しかし仮面を一皮めくると、こ
あったが、今日の演劇は人間と人間の交わりを表すもの
れらの文化商品の生産元である支配者階級とくだんの生
でなければならないのだ。
産物との関係が、その正体を露呈することになる。そこ
わが国でも、またラテンアメリカの他の諸国でも、集
で生産された商品が、消費者にどんな作用を及ぼすかも
団創作は、いまだ及び腰の実験の域を脱してはいない。
明白になる。一方において芸術は特権となり、他方にお
それは、演劇学校やあれこれの演劇制度の内的な要求へ
いてそれは民衆を疎外する力となるのである。大文字の
の応答を主要に企図しているのである。
演劇、偉大な映画、上質テレビ番組というものは、たえ
ず存在した。だが経済的、イデオロギー的な理由で、偉
さて、ラテンアメリカ演劇が直面している課題を、か
いつまんで述べておくことにしたい。
大な演劇、偉大な映画、高級なテレビ番組は、指定席限
定の例外的商品であり、それを享受するのは特権的な社
1 多くの民衆運動や学生運動の中で演劇活動への志向
会層に限られていた。かくして課せられるノルマはとい
が高まっている。演劇が古くからの表現手段であるこ
えば、「質ではダメ」「量で行こう」主義で、これが文化
とに加えて、相当に高いパーセンテージにおいて、ま
産業の待ったなしの路線となる。映画産業の、とりわけ
だ大企業に絡めとられていない数少ない観衆とのコ
テレビ産業のアブク肥りで、「量」の方は天文学的な数
ミュニケーション手段であり、彼らとの差しの関係を
字になった。人間を疎外し、迷走させるその力たるや恐
形成する場であることが、あらためて見直されている
るべきもので、美的判断力にたいするその破壊性能は、
のである。実際、世界のいたるところで、とりわけ帝
物質的な破壊力になぞらえていえば核爆弾のそれにも匹
国主義従属国では、情報の生産と流通はもっぱら大企
敵する。
業の手に握られているのだ。言うまでもなく、映画や
権力者層と帝国主義に差配された従属国のこうした惨
― 2 ―
テレビのことであるが、ラジオや通信事業もまた強大
な情報産業、スペクタクル産業を形づくっている。
それであり、また首都ボゴタのボゴタ民衆座(Teatro
Popular de Bogota)の仕事もその重要な一例だ。この
2 いま一つのポジティブな判断材料は、方法の蓄積と
グループの『パナマ運河事件』と題する作品 2)はカラカ
体系化であり、われわれの劇団エル・ガルポンはそこ
スの演劇祭で注目を集めたもので、私自身も見ているの
に向けての歩みをすでに着実にすすめている。こうし
だが、これはコロンビアからのパナマの割譲という歴史
た試みはウルグアイ演劇を担う多くの劇団の願望にも
的事件を取り上げた芝居である。スタイル的にもジャン
合致するし、ナショナルなドラマトゥルギーの創造、
ル的にも多様な要素を駆使していて、非常に手の込んだ
さらにはまたそれぞれの国情を踏まえたラテンアメリ
作品だ。高名なこの運河にまつわるエピソード場面が、
カ諸国の独自な作劇法の創出という問題意識にもつな
千一夜の夜話よろしく、つぎつぎに繰り広げられるので
がるものになっている。いくつかの国々では、たとえ
ある。もう一つ、見落とすことのできない劇団は同じボ
ばベネズエラ、あるいはコロンビアといったように、
ゴタのラ・カンデラリアである。サンティアゴ・ガルシ
この方向で大きく一歩を踏み出す試みがおこなわれて
アという超大級の演出家、そしてカルロス・ホセ・レイ
おり、それは具体的には集団創作にもとづく劇作とい
エスという頭抜けた劇作家を擁する劇団である。チリ、
う形で追求されている。科学技術の分野での研究と生
アルゼンチン、ウルグアイなどラ米の南部諸国では、ス
産を特徴づけているのはチーム作業であり、スペクタ
ペクタクル制作はすでにかなり高い水準にあり、太平洋
クル制作の分野でもすでにその方式が採用されている
沿岸諸国の演劇にとってプラスの刺激として役立つこと
が、それを今度は狭義のドラマ創造の分野にも応用し
を期待できるだろう。しかし反対に、これらの諸国から、
ようとしているのである。
私たちが学ぶべきものも多いはずである。巡業やその他
の機会に接したエクアドル、ペルー、そしてポルトガル
この場合、所期の目標を達成しようとすると、チーム
の構成はかなり広範多岐な分野に跨るものにならざるを
の劇団の豊穣で硬質な表現は、しばしば私たちのど肝を
抜くものであった。
えない。そのチームには、たとえば社会科学の専門家た
いろいろな特殊事情が重なって、ウルグアイは、ラテ
ち、人類学者、歴史家、経済学者、社会学者、心理学者
ンアメリカの他の諸国を揉みしだいた経済的・政治的・
といったような人たちも加わることになるかもしれな
社会的・文化的な地崩れ現象に一歩遅れるかたちで突入
い。彼らを含んだ全体チームで、予備的な社会調査や問
した。リベラルな伝統が長くつづき、中産階級が質的に
題の分析検討をおこなって、その作業の中でテーマを搾
も量的にも発展をとげていたために―そのことが曲が
り出していくことになる。テーマが選び出されると、小
りなりにも劇場観客層が成立する条件になっていた―
チームに分かれて、そのテーマに付随して必要になる
西欧型の演劇が存続していたのである。今日のウルグア
個々の細目の探査、研究、調査がおこなわれる。各セク
イは人種的には白人マジョリティの国であるが、経済的
ターや委員会がそれぞれに研究をすすめ、結果を全体
にはますます低開発国化していて、その点では他のラテ
チームで発表して他のメンバーと共有する。チームの中
ンアメリカ諸国と同じ状況に立たされている。したがっ
で素材の評価と選択がおこなわれて、それが、劇コンテ
てわれわれは、普遍的な演劇の技術的・芸術的遺産を
の作成を委託された作劇委員会の面々に手渡される。俳
けっして没却することなく、かつその上で、わが隣人の
優陣はこのコンテを使って、演出家もしくは演出相当の
魂の渇きに応える演劇表現の形を探り出していかなけれ
スタッフとともに即興演技を開始するわけである。この
ばならないのである。そのためにも、わが同胞の人間像
作業の目的とするところは、チームの共同作業の結果と
をその固有性においてとらえ、登場人物として描き出す
して出来上がったドラマの骨格にそれを肉づけする要素
ことが必要だ。彼らを主人公とした自前のドラマを構築
を盛り込んで、そこに表情と隈取を与えることである。
していかなければならない。われわれは、そのことを通
しかし最終的には、劇作家集団、もしくはその中の一人
してウルグアイの、ラテンアメリカの、そして世界のド
の力で全体をとりまとめることになる。
ラマを発見していくことになるだろう。
この種の実験でとりわけ大きな成果を収めているのは
そのためにも、われわれの態度決定が必要である。そ
コロンビアの劇団である。たとえば百戦錬磨の演劇芸術
の態度と批判性を、われわれの文化だけでなく、われわ
家エンリケ・ブェナベントゥーラによって主宰されるカ
れの社会の変革と結びつけていくことが必要だ。
リ 実 験 劇 団、TEC(Teatro Experimental de Cali) が
2)[訳註]原題は I took Panama 。
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(訳:里見実)