Untitled - 21世紀新社会システム研究所

第12章 中世の世界(西暦500~ 1500 年) 目次
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年) 949 【12-1】ヨーロッパの中世 【12-1-1】中世ヨーロッパの源流:フランク王国 【12-1-2】中世のローマ・カソリック教会 【12-1-3】中世のヨーロッパ社会 【12-1-4】西フランク王国とフランス 【12-1-5】東フランク王国とドイツ 【12-1-6】中フランク王国とイタリア 【12-1-7】イングランド 【12-1-8】ノルマン人の活動とスカンディナヴィア諸国 【12-1-9】スペイン 【12-1-10】ポルトガル 【12-1-11】スイス 【12-1-12】東ローマ帝国(ビザンツ帝国) 【12-1-13】ロシア 【12-1-14】ブルガリア 【12-1-15】ハンガリー 【12-1-16】ボヘミア王国(チェコ) 【12-1-17】ポーランド 【12-1-18】セルビア 【12-1-19】ルーマニア 【12-1-20】アルバニア 【12-2】中世イスラムの世界 【12-2-1】正統カリフの時代 【12-2-2】ウマイヤ朝 【12-2-3】アッバース朝 【12-2-4】イベリア半島のイスラム国 【12-2-5】アフリカのイスラム国 【12-2-6】トルコ人のイスラム化とセルジューク朝の西進 【12-2-7】十字軍とエジプトのイスラム王朝 【12-2-8】エジプトのマムルーク(奴隷)朝 【12-2-9】オスマン帝国 【12-2-10】ユーラシア中央部のイスラム化とティムール帝国 目次
【12-3】中世のインドのイスラム化 【12-4】中国と北方の周辺国家 【12-4-1】隋王朝(581~618 年) 【12-4-2】唐王朝(618~907 年) 【12-4-3】五代十国時代(907~960 年) 【12-4-4】北宋(960~1126 年) 【12-4-5】中世の北方国家の興亡(遼、西夏を含む) 【12-4-6】金(1115~1234 年)と南宋(1127~1279 年) 【12-4-7】元帝国(モンゴル帝国)(1206~1368 年) 【12-4-8】明王朝(1368~1644 年) 【12-5】中国周辺の国々 【12-5-1】朝鮮 【12-5-2】日本 【12-5-3】東南アジア 【12-6】サハラ以南のアフリカ 【12-7】南北アメリカ 【12-7-1】中央アメリカ(メソアメリカ) 【12-7-2】南米アンデス 【12-8】オーストラリア 【12-9】中世と近世の境目で 第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1272 【13-1】近世ヨーロッパのルネサンス・宗教改革・科学革命 【13-1-1】ルネサンス 【13-1-2】ルネサンスの 3 大発明と地理上の発見 【13-1-3】宗教改革 【13-1-4】17 世紀の科学革命 【13-2】ヨーロッパの絶対王政 【13-2-1】絶対王政とは 【13-2-2】スペインとポルトガル 【13-2-3】フランス 【13-2-4】イングランド(イギリス) 【13-2-5】神聖ローマ帝国と三十年戦争 目次
【13-2-6】オーストリア 【13-2-7】プロイセン 【13-2-8】ロシア 【13-2-9】スウェーデンとデンマーク 【13-2-10】ポーランド 【13-2-11】オランダ 【13-2-12】スイス 【13-3】ヨーロッパの市民革命と産業革命 【13-3-1】啓蒙思想 【13-3-2】イギリスの名誉革命 【13-3-3】イギリスの産業革命 【13-3-4】フランス革命 【13-4】近世のイスラム世界 【13-4-1】オスマン帝国 【13-4-2】イラン・サファヴィー朝 【13-4-3】アフガニスタン・ドウッラーニー朝 【13-5】近世のインドとインドの植民地化 【13-5-1】ムガル帝国 【13-5-2】ヨーロッパのインド進出と植民地化 【13-6】近世の中国・清朝と周辺諸国 【13-6-1】中国・清朝 【13-6-2】モンゴル 【13-6-3】朝鮮 【13-6-4】日本 【13-6-5】東南アジア 【13-7】近世の南北アメリカ 【13-7-1】南北アメリカの植民地時代 【13-7-2】アメリカ独立戦争とアメリカ合衆国 【13-8】近世のアフリカ 【13-8-1】サハラ以南の国家と都市の形成 【13-8-2】ヨーロッパ人の到来と奴隷貿易 【13-9】近世のオセアニア 【13-10】近世と 19 世紀の境目で 第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年) 【12-1】ヨーロッパの中世 【12-1-1】中世ヨーロッパの源流:フランク王国 ○フランク王国メロヴィング朝 375 年の西ゴート族の移動からはじまったゲルマンの大移動は、約 200 年続いたが、最も
重要なのは、図 12-1 のように、フランドル・ベルギーへと進んだ後、セーヌ川、ロアール
川にそって南下したサリー系フランク族だった。というのも、民族大移動ののちに、他の
ゲルマン人を圧してヨーロッパ形成の核となったのが、このサリー系フランク族だったか
らである。 図 12-1 フランク王国の発展 5 世紀になるとメロヴィング家のキルデリクス 1 世(在位:457/8~481 年)が北ガリア
に勢力を伸ばし、その子クローヴィス(在位:481~511 年)が、ローマのガリア司令官シ
アグリウスを 486 年にソワソン(現在のパリの北東 60 マイル)で破り、北ガリア一帯を支
配地とすることに成功した。(前述したように,476 年、皇帝ロムルス・アウグストゥルス
がゲルマン人傭兵オドアケルの圧迫を受けて退位し、西ローマ帝国は滅亡した。通常、こ
の西ローマ帝国の滅亡をもって中世の始まりとする)。 950
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クローヴィスは、フランク人を統一して、その上でランス司教のレミギウスの洗礼によ
りカトリックを受容した。このことは、旧ローマ帝国領で既にカトリックを受容していた
在地勢力からの支持を得る上でも有益だった。 クローヴィスは 507 年には西ゴート王国を破り、これをスペインに押し込め、508 年にパ
リに都を定め、ガリア支配を確立させた(図 12-1 参照)。 フランク王国では分割相続がとられたため、クローヴィスの死後に王国は 4 人によって
分割された。これらの分王国の国王は領内の指導力を欠いており、有力貴族が宮宰(王宮
の長官)の地位について貴族を統率していた。とりわけ、アウストラシア分王国ではカロ
リング家が宮宰の地位を世襲化しており、7 世紀後半の宮宰ピピン 2 世(中ピピン)は全て
の分王国における宮宰職を独占するに至った。こうして台頭したカロリング家は、各地の
実力者にその所領や特権を保障し、その代償として自らの家臣団に組み込んで軍事的奉仕
を求めることで、その地位を強化していった。 《トウール・ポアティエの戦い》 宮宰だったカロリング家のカール・マルテル(宮宰在位:714~741 年)は、732 年にイベリ
ア半島から侵入してきたウマイヤ朝のアラブ軍をトウール・ポアティエの戦い(図 12-1 参
照)で撃退し、イスラム勢力からフランク王国と西ヨーロッパのキリスト教世界を守るこ
とに成功した。これはある意味で西ヨーロッパの歴史を変える画期的な出来事だった。 《封建制度のはじまり》 このトウール・ポアティエの戦いの勝利で、カール・マルテルの声望は一気に上がった。
しかし、イスラム軍の騎兵隊の威力を嫌というほど見せつけられたマルテルは、騎兵隊の
大増員を行ってイスラム軍の脅威に備えようとした。また、マルテルは、騎兵に農民付き
の土地を与えて忠実な直属騎兵隊を創設しようと、全土の 3 分の 1 を占めていた教会領の
没収を強行して、騎士に貸与(恩貸)したのである。このようにして、土地を貸与する(こ
れを封土といった)ことによって臣下に服従(奉仕)させるという主従関係が、フランク
王国の新しい支配の制度となっていった。これが封建制度のはじまりだった。 これ以降、フランク王国では、家臣の忠誠義務・軍事的義務の代償として主君が封土(知
行)を与えるようになり、この封土の授受を仲立ちとする主従関係が成立してきた。8~9
世紀以来、イスラム教徒、マジャール人、ノルマン人の侵入があり、人々は自衛のために
有力者との政治的結びつきを求めるようになり、封土の授受を仲立ちとする主従関係(封
建制度)が広く成立していった。 封建国家は支配者階級の国王・諸侯・騎士・聖職者(大司教・司教)が封建的ピラミッドを
形成する連鎖的な階層構造をもっていた。しかし、それは中央集権的な階層組織ではなく、
諸侯・騎士がなかば独立した封建領主で、主君が行政・徴税・司法面で領内に立ち入ることを
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拒否できる不輸不入権(国に対して裁判や課税などの免除が認められ(不輸)、役人の立入
りを禁じる(不入)特権)を確保し、いわば「国の中の国」をつくっていたので、一国の
住民には国民としての意識がうすく、地方分権的国家であった。 そうした封建制度のなかでも、もっとも重視されたのが軍事的な協力であった。自ら戦
場におもむくことを要求されない場合でも、封臣は封主に対して兵士(のちの時代には兵
士を雇う費用)を提供する義務があった。 封建制度は、創造と模倣・伝播の原理に従って、フランク王国からフランク王国の征服
地であるイタリア、スペイン、ドイツへと広がり、1066 年にはノルマンディー公ウィリア
ムの征服によってイングランドにも導入され、イングランドからアイルランド、スコット
ランドへと伝わっていった。しかし、12 世紀に入ると、都市の勢力が急速に伸びてきたこ
とが原因で、封建制度は脅かされるようになり、14 世紀にはその重要性は失われていった。 ○フランク王国カロリング朝 カール・マルテルの子のピピン 3 世(在位:751~768 年)は、751 年、名ばかりのメロ
ヴィング家の王を廃して、自ら王位に就いてカロリング朝(751~987 年)を開いた。 その頃、東ローマ総督府のあったラヴェンナ(図 12-1 参照)をランゴバルド国王に攻
撃され、危険な状態にあった教皇ステファヌス 2 世(在位:752~757 年)は、(東ローマ
皇帝ではなく)アルプスをこえてフランク王国に逃れ、ピピンに救援を要請した。このと
き教皇ステファヌス 2 世は王ピピン 3 世にフランク王の戴冠式を再度行い、ピピンに塗油
(とゆ)の儀式を行って「ローマ人の保護者」の称号を与えた。そうした行為は本来なら皇
帝にしか許されないものであったが(東ローマ皇帝は健在であった)、教皇ステファヌス 2
世は保護を求めてフランク国王にすり寄ったのである。フランク国王にとっては、これは
願ってもないことであった。 《教皇領のはじまり》 早速、ローマ教皇はその見返りを得ることになった。ピピン 3 世はランゴバルド族を打
ち破り、756 年には取り戻したラヴェンナをローマ教皇に寄進したのである。これが教皇領
の始まりとなり、以後、1100 年にもわたって、ローマ教皇は他の世俗の統治者と同じよう
に、自らの領地をもつようになった。こうしてローマ教会とフランク王国の間に、密接な
関係が築かれることになった。つまり、ローマ教皇はフランク王国と手を結ぶことで、政
治的独立のための経済基盤を手にしたので、(東ローマからの)自立化を強めていった。 《800 年、カール大帝の「ローマ皇帝」戴冠》 800 年、ピピン 3 世の長男・カール大帝(在位:768~814 年)は、教皇レオ 3 世(在位:
795~816 年)によって「ローマ皇帝」として戴冠された。サン・ピエトロ大聖堂で行われた
戴冠式で彼は、「神から帝冠を授けられた敬虔なるローマ皇帝、平和を愛する偉大な皇帝」
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と宣言されたが、同じ「ローマ皇帝」の称号をもつ東ローマ皇帝がコンスタンティノープ
ルに存在していた。 当時、東ローマ皇帝だけが唯一のローマ皇帝であり、形式上、フランク王は東ローマ皇
帝の臣下にすぎなかった。こうして皇帝の称号を名乗るということは、多くの民族に対す
る支配権を主張することに他ならず、実際カールの印璽には、まもなく「ローマ帝国の復
興」というも文字が刻まれることになり、過去の偉大な帝国とのつながりが、意識的に強
調されていくことになった。 《カール大帝の政治》 フランク国王としてのカールの業績はきわめて大きかった。カールの 46 年間の治世のあ
いだに 53 回もの軍事遠征を行った。その結果としてカールの王国は、図 12-1 のように、 イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部を除く西ヨーロッパ世界の政治
的統一を達成し、フランク王国は最盛期を迎えると同時に、ゲルマン民族の大移動以来、
混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである(カールは「ヨーロッパの父」と
呼ばれ、現代における EU 統合はしばしば「カールの帝国の再現」と称せられることがある)。 カール大帝は、さらに、住民をキリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗
させた。彼はフランク王国の教会会議を召集し、キリスト教の教義上の問題に裁定をくだ
し、司教を通じて国を治める体制を築いていったのである。 また、カールはキリスト教に基づく統治を進めるには、聖職者の資質を高めることが必
要と考え、各地からアーヘンの宮廷に人材を集めるとともに、各地に教会付属の学校を開
き、教育を振興した。聖職者を教育してフランク国教会の水準を引き上げ、信仰をさらに
東方へ広げるというのが、その目的のすべてであった。 カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問や
ラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要
な官職に聖職者をつけ、10 分の 1 税の納入を徹底化させた(『旧約聖書』のレビ記・申命記
では、すべての農作物の 10%が神のものであると説かれていて、10 分の 1 税はユダヤ教の
時代からあった)。 このようにカール大帝のときに、ヨーロッパの中世の骨格となる封建制とキリスト教に
よる統治が確立されたが、カール大帝ののち、間もなくしてフランク族独特の分割相続に
よって、図 12-2、図 12-3 のようにフランク王国は、西フランク、東フランク、中部フラ
ンク(ロタール、イタリア)に分割された。このように中世には国家は分裂したが、宗教
を司るローマ教会は財政的基盤も確立して、中世ヨーロッパの宗教面での統制を強めてい
った。 953
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図 12-2 フランク王国の分裂 【2】中世のローマ・カソリック教会 ○教皇権限の強化 フランク王国のピピン 3 世の寄進によって、教皇領が誕生したことは述べたが、その後
もカール大帝の寄進などがあって教皇領は増大していった(図 12-2 参照)。教皇とフラ
ンク王国の国教会の結びつきが強まった結果、10 世紀になると教皇の発言が大きな重みを
もつようになっていった。やがて皇帝に戴冠させる権限をもった教皇には、世俗の世界に
おいても「隠された権力」が与えられていたことがわかってきた。つまり教皇は、「帝冠
(現実世界の権威)」と「神の承認(宗教世界の権威)」の二つを、皇帝に授ける権限を
持つということがわかった。 これによって、ローマ教皇は帝冠を授けるにあたって、何らかの条件をつけることも可
能であった。王が無能であったり、王位継承をめぐる争いが起こったりしてフランク王国
が混乱した場合には、帝冠を授ける教皇がキャスティングボートを握る可能性もあった(そ
のような事態は事実何度も発生した)。 ○叙任権闘争 古代末期以来、私領に建てられた聖堂(私有教会)や修道院が増えていったが、その種
の教会の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主がもっていた。 954
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図 12-3 中世の世界 955
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とくに神聖ローマ皇帝(ドイツ国王)は、帝国を統治する手段として帝国内の司教・修
道院長などの聖職者の叙任権(任命権)を行使していた。 しかし、俗権による叙任権のコントロールは聖職売買や聖職者の堕落という事態を招く
一因ともなった。そこで教皇権が強化されるにしたがい、こうした世俗権力の教会支配が
教会を堕落させるとし、聖職叙任権を教皇の手におさめ、世俗権力の支配から教会を解放
しようという考えが出てきた。ここに至って皇帝と教皇の間で叙任権をめぐる闘争がおき
てきた。 叙任権闘争が最も激しくなったのは、教会の改革に着手した教皇レオ 9 世(在位:1049
~54 年)や聖職者の綱紀粛正をはかった教皇グレゴリウス 7 世(在位:1073~85 年)のと
きであった。クリュニー修道院出身のグレゴリウス 7 世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ 4 世
(ドイツ王在位:1056~1105 年。神聖ローマ皇帝在位:1084~1105 年)との叙任権闘争は、
ドイツの歴史で述べるように、1077 年 1 月、破門されたハインリヒ 4 世がグレゴリウス 7
世の滞在するイタリア北部のカノッサ城の城門の前で雪のなかを 3 日間、はだしで待たさ
れ続けるという「カノッサの屈辱」に発展した。 この叙任権をめぐる争いは、その後も約 50 年にわたって尾を引くことになったが、1122
年になってハインリヒ 4 世の後を継いだ皇帝ハインリヒ 5 世と教皇カリストウス 2 世のあい
だでウオルムス協約が結ばれ、ようやく終結することになった。 この協約においては、聖職叙任権は教皇が有するが、教会の土地、財産などの世俗的な
権利は王が授封するという妥協が成立した。具体的にいうと、教皇は司教・修道院長の叙
任権を確保し、神聖ローマ皇帝は形式的に司教・修道院長を授封する(封臣とする)だけ
になった。これによりドイツ(神聖ローマ帝国)は、皇帝の力が弱まり、聖俗の諸侯によ
る権力の分立・割拠が著しくなった。着実にローマ教皇の権力は強化されていった。 ○十字軍 グレゴリウス 7 世から 1 人おいて次の教皇ウルバヌス 2 世(在位:1088~99 年)は在任
中に、ローマ教会の行政機関である教皇官房庁(教皇庁)も創設し、教皇庁を通じて、ロ
ーマ教会は各地の教会に対する支配力をさらに強めていった。 さらにウルバヌス 2 世は 1095 年のクレルモン教会会議において、第 1 回十字軍の派遣の
呼びかけ、ヨーロッパの王たちを政治・外交面でもリードするようになった。教皇の呼び
かけを受けて実現した十字軍の派遣は、ヨーロッパの王や領主たちが軍事面においても、
神聖ローマ皇帝ではなく、ローマ教皇の意見にしたがったことを意味していた。 11 世紀末から 13 世紀まで 8 回行なわれた十字軍遠征の成り行きは、イスラムの歴史の「十
字軍とエジプトのイスラム王朝」で詳述するが、後半には聖地奪還を目指すという初期の
熱気はなくなっていた。十字軍派遣の大きな動機が略奪にあることが、すでに誰の目にも
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
明らかになっていたからである。崇高な理念は大義名分だけであって、実際には異教徒に
対する低次元の欲望、そして植民国家の建設など、十字軍はヨーロッパが海外にむけて行
った最初の帝国主義的な行動だったといえる。 パレスチナに樹立された複数のキリスト教国やコンスタンティノープルに成立したラテ
ン帝国はまもなく崩壊してしまったが、十字軍は永久に消え去ることのない重大な結果を
歴史に刻みつけた。それは、十字軍は、イスラム教とキリスト教の間には、埋めることの
できない根本的な対立が存在するという認識を定着させることになった(宗教のところで
述べたように、もともとキリスト教もイスラム教も同根の宗教だった)。世界各地でのキ
リスト教徒の強引な伝道活動とそれをバックアップする武力という組み合わせがここで出
てきたのである。のちに植民地活動として世界征服を企てることになる近代ヨーロッパ文
明の萌芽をここに見ることができる。 ○中世のキリスト教会の腐敗と堕落のはじまり ローマ教会はキリスト教世界の権力と富の頂点に君臨し、教皇領からの収入や 10 分の 1
税、教皇税などによって巨大な位階制の聖職者組織を構築していった。その世俗的なきら
びやかさは神の栄光の反映とされ、豪華な大聖堂や修道院、華麗な礼拝堂などが、信者た
ちの献身と犠牲のもとに実現されていった。 ところが、ローマ教会が権力と富を自らに集中させたそもそもの目的はといえば、もち
ろんキリスト教を布教するためだったはずである。そしてそのキリスト教とは、清貧を理
想とし、現世における物質的繁栄を求めない教えであったはずである(イエス・キリスト
が説いた原点を思い出してほしい。のちの宗教教団は一人歩きするのが常だった)。 それに反する方向に向かったローマ教会の頂点は、「中世最後の教皇」と呼ばれることも
あるボニファティウス 8 世(在位:1294~1303 年)であった。彼は、1302 年には、教皇勅
書「ウナム・サンクタム(唯一の聖なる)」を発布して、教皇権の絶対的な優位性を主張し、
教皇に服従しない人間は救済されることはないとまで宣言した(イエスは何と言ったか。
「心の貧しい人々は,幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸
いである、その人たちは慰められる」(マタイ伝第 5 章。山上の垂訓)。教祖と組織宗教
とはこれだけの差がある)。しかし、これが教皇権のピークであり、「カノッサの屈辱」以
来、強化される一方だったローマ教皇の権威も、ついに衰退へむかい始めることになった。 ○アヴィニョン捕囚 ボルドー大司教だった教皇クレメンス 5 世(在位:1305~14 年)は当初からフランス王
フィリップ 4 世の強い影響力のもとにあり、登位したのも王が臨席したリヨンにおいてで
あった。結局その後クレメンス 5 世は一度もローマを訪れることのないまま、1309 年にフ
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ランス王の要請に応じてローマ教皇庁をフランス南東部のアヴィニョン(図 12-4 参照)
に移してしまった。 図 12-4 中世後期のキリスト芸術と異端運動 山川出版社『スペイン・ポルトガル史』 その後、1377 年までの約 70 年間、7 代にわたって続いたこのローマ教皇庁のアヴィニョ
ン時代を、かつてバビロンに連れ去られたユダヤ人の故事にならって「アヴィニョン捕囚」
と呼ぶことがある。この時期、教皇権はフランス王の影響力の下におかれ、それに反発し
たイングランドやドイツはローマ教皇から離反し、反教皇的な政策が次々と打ちだされて
いった。 アヴィニョンの歴代のローマ教皇の住居は多くの美術品で飾られた巨大な宮殿であった。
その壮麗な宮殿では、教会税や不正流用した資金から俸給を受けている従者や行政官が、
列をなして教皇につかえていた。 教皇庁の中央集権化は次から次へと腐敗を生み出し、聖職売買や、一人の人間による二
つ以上の聖職兼務(聖職禄の二重どり)に対する批判は、ますます高まっていった。教皇を
中心とする高位の聖職者たちの行動が、もはやキリスト教の理想から遠く離れたものにな
ってしまったことは誰の目にもあきらかになってきた。 ○教会大分裂 958
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1377 年にグレゴリウス 11 世が教皇庁をローマにもどしたが、1 年後に亡くなってしまっ
た。そして後継者を選出する過程で、再び二つの勢力が出現することになった。一つはロ
ーマ貴族を中心とする勢力で、もう一つの勢力はフランスの枢機卿を中心に構成されてい
た。その後、イタリア人のウルバヌス 6 世が教皇に選出されたことにフランス人の枢機卿
たちが反発し、1378 年にアヴィニョンにクレメンス 7 世を教皇として立てた。つまり、ロ
ーマとアヴィニョンに二人の教皇が並び立つ「教会大分裂」が起こってしまい、1417 年まで
約 40 年間にわたって、この分裂状態は続くことになった。 ○コンスタンツ公会議 腐敗した教会の改革をめざして、1414 年から 1418 年にかけてのドイツのコンスタンツ(ド
イツのスイスとの国境)公会議で新しいローマ教皇が選出されて教会大分裂に終止符が打
たれたが、肝心の教会改革に関する審議はもちこされ、そのかわり、もう一つの重大な決
定をした。 教会および聖職者の土地所有、免罪符の販売などを強く非難していたスイスのフス(1369
~1415 年)を異端・有罪と決定した。フスは、その後世俗の勢力に引き渡され、1415 年に
杭にかけられて火刑に処された(まさに、のちの宗教改革を 100 年先取りするものであっ
たが、カトリックは抹殺してしまった)。 その後も公会議は開かれたが、改革の流れを生みだすことはできなかった(組織の自己
改革は不可能に近い)。そのうち、ローマ教皇は、教皇の裁決を不服として公会議に上訴
することは異端とするという宣言をして、自ら改革の芽をつぶしてしまった(図 12-4 のよ
うに、各地で異端運動が起きていたが、すべて弾圧された)。 各国の王たちは、教皇制度に対するさまざまな反発を利用して、国教会の設立へ向けて
動き出していた。本格的な宗教改革の足音はそこまできていた。 このようにローマ教会が権威を落としていても、(庶民は正直なもので)15 世紀のヨー
ロッパ人は依然としてキリスト教への強い信仰心を持ち続けていたのは確かである。それ
は中世のヨーロッパ人にとって、キリスト教は生活のすべてになっていたからである。 【3】中世のヨーロッパ社会 ○生活にはいりこんだ中世のキリスト教 中世のヨーロッパ社会は、一言でいえばキリスト教社会といってもよいほど、キリスト
教の影響が人々の生活、社会のすみずみにまで及んだ社会であった。それは 1500 年のヨー
ロッパ社会をみればわかる。1500 年ごろのヨーロッパ人といえば、少数のユダヤ教徒や奴
隷などを除くと、少なくとも建前上はほぼ全員がキリスト教徒になっていた。 959
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西はスペインから東はポーランドにいたる広大な地域から、すでにほとんどの異教が姿
を消していた。キリスト教への信仰こそが、それまでの約 1000 年の歳月をかけて形成され
たヨーロッパ世界のもっとも基本的な性格で、もっとも大きな特徴であったといえよう。 古代の終わりにはすっかり力を失っていたローマ教会も、11 世紀以降、ローマ教皇の絶
対的な優位性(首位権)を獲得し、すでに空前ともいうべき強大な権力を築き上げていた。
それにともないキリスト教の性格も、より攻撃的で規律の厳しい厳粛さを増したものとな
っていった。現在でも重視されている教義や典礼の起源をたどると、その多くが 11 世紀以
降に始まっていることがわかる。 中世はキリスト教の時代であり、それは、宗教生活のみならず、社会のあらゆる側面に
わたって影響をふるった。中世人の生活は、キリスト教なしには 1 日たりとも過ぎること
はなかった。11 世紀になると、教区教会で洗礼を受け、日曜のミサに出席し、結婚式や葬
式を挙行する教区民の姿がどこにでも見られるようになっていった。それこそゆりかごか
ら墓場まで、教会の懐で保護されながら過ごしたのであった。 中世ヨーロッパにおけるキリスト教の存在は、やがて日常風景の中にも大きな姿を現す
ようになった。中世の教会は「神の家」であり、神を讃えるために作られた。10 世紀末か
ら 12 世紀初頭にかけて作られた建築様式をロマネスク様式と呼んでいる。ロマネスク建築
は、その名のとおりローマ文化の影響の濃厚な南ヨーロッパに数多く作られた(図 12-4 参
照)。 12 世紀にはいると、いわゆるゴシック様式の壮麗な大聖堂が、各地に次々と建てられて
いった。とくに北フランスやイングランドで目を見張るような大聖堂が次々と建てられる
ようになり、15 世紀の終わりまで続いた(図 12-4 参照)。大聖堂の窓は聖書の登場人物を
かたどったステンドグラスで埋め尽くされ、ファサード(建物正面)は「最後の審判」を表
現した彫刻などで飾られていた。 ○自給自足の農業社会 ヨーロッパ中世前期のほとんどの地域では、自給自足農業が営まれているのが普通で、
その状況は数世紀の間、ほとんど変化しなかった。自給自足農業によって生活できる人口
は、古代世界の人口よりむしろ少なかったものと思われる。11 世紀になるまで、西ヨーロ
ッパの人口が急増したことを示す証拠はない。おそらく西ヨーロッパ全域をあわせても人
口は 4000 万人程度だったと推測されるが、これは現在のイギリスやフランス、ドイツなど
の 1 国の人口よりも、はるかに少ない数字である。 ヨーロッパ中世後期になり、11 世紀の後半から人口の増加が始まった。それを根底で支
えたのは食糧生産の増加であったのはいうまでもないが、それを可能にしたのは耕地の拡
大と農業技術の進歩であった。 960
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
《大開墾の時代》 紀元 1000 年頃から、まだ手つかずだった広大な森林地帯が、つぎの数世紀のあいだに次々
と開拓されていくことになり、ゆっくりと、ヨーロッパの風景は変化していった。無数の
村が畑を拡大し、巨大な森林が切り開かれていった。王や領主たちが植民を進めた地域も
あったし、人里離れた修道院を中心に開拓が進められた地域もあった。さらには沼地を埋
め立てて、新しい土地をつくり出すことも行われた。またヨーロッパの東部では、12 世紀
以降、ドイツの多くの農民や市民、騎士たちが、エルベ川から東の土地へ、続々と移住し、
多くの入植地を建設していった。開墾活動は 12 世紀に飛躍的な発展を遂げ、この世紀は「大
開墾の時代」と呼ばれている。 《三圃式農業の普及》 13 世紀ごろには新たに開拓される土地が減少するようになり、耕作地の面積が急増する
時代は終わり、代わって単位面積あたりの生産高が上昇する時代が始まった。つまり、農
業技術がものをいう時代に入ったのである。 それまでの農業は二圃式農業(冬雨型の気候のもとで小麦の冬作と休耕を繰り返す農業)
に代わって、より北ヨーロッパの気候風土(夏雨型)に適した三圃式農業が行われるよう
になった。三圃式農業は、パリの北にあるサンリス近くのシトー派修道院ヴォーランで 1250
年ごろに始まったが、農地を冬作・夏作・休耕地(放牧地)に 3 区分しローテーションを
組んで耕作する農法であり、土地効率がよくなるだけでなく農地の地力低下を防ぐことを
目的としており、休耕地では家畜が放牧され、その排泄物が肥料になり、土地を回復させ
る手助けとなった。 大開墾運動以後の土地の集約的な利用のために、個々の農民の経営の枠組みではなく、1
村規模で耕地を冬作畑、夏作畑、休耕地の 3 耕区に分けて三圃式農業への改造が行なわれ
た。三圃式農業にはいろいろは利点があったので、創造と模倣・伝播の原則により、パリ近
郊の農業地帯から中世のヨーロッパ中に伝播していった。 ○中世都市の成長 中世の初期は基本的に自給自足の社会であったと言ったが、やがて農作物の市場もしだ
いに成立するようになっていった。それにともない、自給自足を行っていた人々も、農作
物を市場に売りに出すようになった。そうした市場の多くは、1100 年から 1300 年にかけて
着実に成長をとげていた各地の都市のなかに生まれていた。 中世の都市は、まだ、あまり大きくはなかったが(パリなどが 8 万人)、着実に成長し
ていた。中世後期になると貴族階級(騎士階級)は自分たちと他の人たちをはっきり区別
し、同じ階級のなかでしか結婚しないようになった。しかし中世後期のこの閉鎖的な権力
階級に挑戦しようとする人々が現れるようになった。それが台頭いちじるしい裕福な都市
961
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
の商人階級であった。彼らはギルドや結社、組合といった独自の新しい組織をつくり、そ
のことによって大きな力を手にするようになっていった。 《ヨーロッパ中世都市の自由の窓》 都市のなかでも自治の度合いは、場所によって法的にも実態のうえでも大きく異なって
いたが、イタリアのコムーネ(自治共同体)運動に似た動きは多くの国で起こっていた(図
12-5 参照)。ドイツ東部の都市は特に独立性が高く、それが 150 以上もの自由都市からな
る強力なハンザ同盟の結成となった(図 12-6 参照)。フランドル地方の都市もかなりの
自由を謳歌していた。 図 12-5 12 世紀後半のイタリア(ロンバルディ都市同盟) 山川出版社『イタリア史』 この自由な中産階級の出現は歴史的には極めて大きな意義があった。古代文明でも中世
のアジアやアラブでも大都市は興っていたが、西ヨーロッパのように都市生活の中から新
たな政治的・社会的権力が誕生するといった状況は起きなかった(古代ギリシャ文明は例
外である)。 逆にいうと、なぜ、中世ヨーロッパだけ、都市から自由を求める市民が生まれたかとい
うことである。その理由の一つとしては、中世ヨーロッパでは都市が略奪の対象となるこ
とが非常にまれだったという点が指摘されている。ヨーロッパの政治権力は長く分断され
ていたため(逆に言うと中国やイスラムのように絶対的に強力な専制君主が現れなかった
ということである)、権力者たちはライバルに打ち勝つために都市という「金の卵を産むガ
チョウ」を大切にするようになったと考えられている。 962
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-6 13 世紀末の商業ルート 中央公論社『世界の歴史10』 封建領主が王に対抗する手段として都市に協力を求め、王もまた有力な領主たちに対抗
する手段として都市の支持を求めたという点は、どの国でも共通していた。多くの税を支
払うことが可能な都市を優遇するために、王や領主たちは都市に自治や特権を許可するよ
うになった。領主の令状も、城壁にかこまれた都市のなかでは無効であり、場合によって
は都市があからさまに反封建制の立場をとることもあった。 たとえば、1 年と 1 日暮らせば農奴にも自由を与えるという決まりをもった都市もあった。
「都市の空気は人間を自由にする」という古いドイツのことわざもあった。自治都市とその
内部にあったギルドは、人々を不自由な外の世界から守る役割を果たしていたのである。 一方、たとえば、余りにも専政制の強いアジアやアラブの大半の地域では、戦闘がある
たびごとに都市が繰り返し破壊・略奪されていた。 それだけで、すべてを説明できるわけではないが、ヨーロッパには階級こそあったもの
の、インドのようなカースト制度もなければ、中国の儒教のような人間の進歩を妨げるよ
うな思想もなかったことは、おそらく重大な意味をもっていたのだろう。 963
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
さらに、他の文明圏では都市の住民たちは、たとえ裕福な人々であっても社会的に低い
地位に甘んじていたようである。ところがヨーロッパでは、商人や職人、弁護士、医者た
ちがそれぞれの仕事に誇りを持ち、土地を所有する貴族たちからただ支配されるだけの存
在ではなくなっていた。軍人や宮廷の官僚以外にも出世の道が開いていたのである。いず
れにしてもヨーロッパ中世社会において都市だけが人間性をはぐくむ温床になりつつあっ
た(これはやがてルネサンスという形で花開く)。 ○中世的科学の限界 中世のヨーロッパ科学は、アラブ世界から先進的な知識が伝わり、いくつかの分野では
定義や分析という概念が重視されるようになっていたものの、中世をとおして「仮説を検証
する」という方法論は生まれなかった。検証するやり方がわからなかったというのではなく、
仮説を立てて検証するという考え自体が存在しなかったのである。 たとえば、中世では、万物は地と水と空気と火からつくられているという古代ギリシャ以
来の 4 元素説が、あいかわらず何の実験も行われないまま受け入れられていた。生まれた
ときから、神がおつくりになったものという観念がたたきこまれていて、疑うこと(検証
すること)はなかったということである。 中世も 12 世紀ぐらいからは、パリ大学やオクスフォード大学などの大学がつくられ、学
問が発達し始めたが、もともと自然は神がおつくりなったものという前提ではじまってい
るから(そもそも大学の中心は神学だった)、自然観察上の矛盾が少々発見されても、それ
を観念的にいかに辻褄をあわせるかということに、知恵が向けられてしまった。 《辻褄あわせのスコラ哲学》 その典型がスコラ学(スコラ哲学)であり、トマス・アクィナス(1225~1274 年)の『神
学大全』が代表的なものである。 この『神学大全』の目的は、アリストテレスの哲学の論理を借りて、キリスト教の思想
体系から矛盾をとりのぞくところにあった。 具体的には、冒頭に問題(テーゼ)が提示される。たとえば、「イエスは貧しかったと
いうことは彼にふさわしいことであるか?」という質問を例にすると、次に質問に対する
いくつかの異論があげられる。異論は聖書や過去の大学者の引用によっておこなわれる。 たとえば例に対しては「アリストテレスは中庸を重んじ、金持ちでも貧乏でもない中庸
を選ぶのが最高の生き方であるとしている」などという具合である。次に対論が提示され
る。これは異論に反対する見方である。たとえば「聖書によれば神は正しいことをされる
方であるという。イエスが貧しい生き方をし、イエスが神であるなら、貧しい生き方は正
しい生き方であったにちがいない」などである。 964
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
最後にこれらの流れを踏まえた解答が示される。解答は異論あるいは対論をそのまま採
用したものではなく、全体を統合した解答になっていることが多い。つまり単純に異論を
否定していないところに『神学大全』の面白さがある。たとえば例に対する解答では「中
庸に生きることが最高の生き方であるというのは正しい。ただ、その理由は、贅沢に心奪
われる、あるいは毎日の暮らしに汲々とすることで人生の目的を見失わないためである。
イエスにとって人生の目的は神のことばをより広めることであった。そのためには貧しい
暮らしのほうが動きやすかったといえる。」といった具合にまとめられる。 『神学大全』は基本的にはこのようなやり方で ◇ 第一部:神と神学(聖なる教え)について……聖なる教え、唯一の神、神の本質、神の
存在証明、至福直観、三位一体、被造物と創造 ◇ 第二部:倫理と人間について……人間の性質、人間のはたらき、行為、対神徳と枢要徳、
罪と恩恵、修道者と修道生活 ◇ 第三部:キリストについて……受肉されたみ言葉であるキリスト、キリストの生涯、七
つの秘跡、終末と審判 のような三部構成からなっている。『神学大全』には、神の存在を証明可能にする「5 つの
方法」も書かれており、いわば、「○○のすべて」というキリスト教百科事典である。トマス
の学説はドミニコ会には支持され、フランチェスコ会には反対されたが、その後、トマス・
アクィナスの哲学はカトリック教会の公式の教学となった。 けれどもギリシャ哲学の影響を受けたスコラ哲学は、緻密な論理とあらゆる現象を説明
しようとする幅の広さをもつ一方で、観察や実験による検証には興味を示さないという大
きな欠点ももっていた(アリストテレスは観察や実験も行っていた)。その結果、中世のキ
リスト教世界はスコラ哲学の登場によって論理的思考のトレーニングはつむことになった
ものの、のちに行われるような観察や実験的手法の有効性に気づくまでには至らなかった。 トマス・アクィナスは、「哲学は神学の婢(はしため)」と語ったように、彼は神学が
哲学よりも上位のものであると考えていた(つまり、人間より、神であった)。このよう
なやり方では、辻褄あわせの理屈を学ぶだけで、ほとんど新しい知識や考え方は発見でき
なかった。 《断罪されたロジャー・ベーコン》 ところが、同じ中世でも、カトリックのような固定観念にとらわれなければ、ロジャー・
ベーコンのような人間も出てきたのである。ロジャー・ベーコン(1214~94 年)は、トマ
ス・アクィナスと同時代人で、しかもカトリックの司祭で、フランシスコ会に入会し、オ
ックスフォード大学の教授となった。彼は当時世界の最先端にあったイスラム圏の科学者
965
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
たちの著作(いわゆるイスラム科学)に親しんでおり、このことがベーコンに当時のヨー
ロッパの学問における問題点を気づかせることになったのであろう。 ベーコンはかねてから知り合いだった枢機卿が教皇クレメンス 4 世になり、ベーコンに
対し禁令を無視してでも秘密裏に著述をするよう求めたので、1267~68 年に『大著作』、
『小
著作』、『第三著作』を著わして教皇に送った。 これらの著作の中で、スコラ学のような概念の詳細な区分に集中することをやめて、も
っと聖書そのものを研究するべきと神学研究の改革を提唱していた(これは後の宗教改革
を先取りするものだった)。そのために、研究者たちに聖書の原典の言葉、ギリシャ語、ヘ
ブライ語を学ぶことを求めていた。ベーコン自身は数ヶ国語に精通し、当時の聖書やギリ
シャ哲学の書が誤植と誤訳によってオリジナルからかけはなれていることを嘆いていた。
そして神学学習者たちに対して、もっと広く諸学問を学ぶことを求め、大学のカリキュラ
ムの改革が必要であるとしていた。
また、彼の『大著作』では数学、光学、化学に関する記述が含まれ、宇宙の規模につい
てまで言及されている。さらに驚くべきことにベーコンは後世において顕微鏡、望遠鏡、
飛行機や蒸気船が発明されることまで予想していた。さらにユリウス暦の問題点を指摘し、
アイザック・ニュートンより 400 年も早く水の入ったグラスにおいて光のスペクトルを観
測していた。 彼は当時世界の最先端にあったアラビア科学と哲学に親しんでおり、近代科学を先取り
して経験と観察の重要性を強調したのである(後にベーコンは近代科学の先駆者といわれ
る)。ベーコンは百科事典を作る構想も持っていたようで、未完に終わったのか断片しか残
されていない。 ところが、これらの著作を送った教皇クレメンス 4 世がその年に亡くなったので、教皇
の保護を失ったベーコンは 1278 年にフランシスコ会の内部で断罪され、アラブ思想を広め
た疑いで投獄され、幽閉は 10 年におよんだ。 自由に考えられれば、人間というものはいつでも発展する能力をもっているが、その時
代の体制がブレーキをかけて、人間を狭い範囲にとじこめてしまうのである。彼の著作も
その科学の考え方もキリスト教の教えに反すると断罪され、その後、ほとんど顧みられる
ことはなかった。 ベーコンのように考える人もいたであろうが、いったん,出来上った社会(国家)体制
やローマ・カトリック体制のなかで、新しい考えを主張することは至難の業であった。キ
リスト教万能の中世には科学が発展する余地はなかった。 【12-1-4】西フランク王国とフランス 966
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○西フランク王国の弱体化と分裂 カール大帝のときに、ヨーロッパの中世の骨格となる封建制とキリスト教による統治が
確立されたが、カール大帝ののち、間もなくしてフランク族独特の分割相続によってフラ
ンク王国は分割され(843 年のヴェルダン条約)、図 12-2 のように西フランク、東フラン
ク、イタリ中部フランクとなった。その後、870 年のメルセン条約によって、西フランクと
東フランクが、図 12-2 のように中部フランクを再分割したため、現在のイタリア、ドイ
ツ、フランスの原型に落ち着いた。 西フランク王国は、初代のカール 2 世のときから、王権は弱体で、すでにブルターニュ、
フランドル、ギエンヌ公領(アキテーヌ)、ガスコーニュ公領などが、図 12-7 のように、
事実上の独立国となっていた。 さらに 10 世紀にはヴァイキングの攻撃があったが、カール 3 世は、ヴァイキングの撃退
に失敗し、図 12-7のように、911 年に領土の一部をヴァイキング(ノルマン人)の首長
ロロに与えた。これが後にノルマンディと呼ばれる土地の始まりだった。 図 12-7 西フランク王国(フランスの王権の拡大) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 これ以降、西フランク王国の分裂はさらに加速していった。そして継承者争いによる混
乱のなかから、パリ伯ウードの一族が頭角を現し、パリ盆地を中心としたイル・ド・フラ
967
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ンス地方で着実に力を蓄えていった。ウードはヴァイキングからパリを救った英雄として、
カロリングの血統以外ではじめて西フランクの国王(在位:888~898 年)に推戴された。 ○カペー朝の成立 ウードの孫にあたるパリ伯ユーグ・カペー(在位:987~996 年)が諸侯に推挙され、フ
ランス王として即位し、カペー朝が成立した。しかし、カペー朝の王権が実効的に支配を
およぼしえた範囲(王領地)は図 12-7(紫色の部分)のように、極めて限られていた。西
フランクの残りの領土については、10 あまりの領土に分割され、有力な諸侯が統治するこ
とには変わりはなかった。 このなかで、前述のようにヴァイキング(ノルマン人)の首長ロロは 911 年にノルマン
ディ公国を建国して公位に就いたが、やがて、その子孫のノルマンディ公ギョーム(ウィ
リアム)は、1066 年にイングランドのウェセックス伯ハロルドを倒し(ノルマン・コンク
エスト)、イングランドとノルマンディの英仏海峡にまたがる支配圏を形成し、英仏海峡を
はさんでフランスにも膨大な土地をもつことになった(これ以降のギョーム(ウィリアム)
についてはイギリス史参照)。 《フィリップ 2 世の巧みな政略》 このように、諸侯たちにはそれぞれ活発な動きがあったが、カペー王朝の支配力の弱体
化は進行した。カペー朝にとって、いかに王権を拡大するかが最大の懸案で、フィリップ 2
世(在位:1180~1223 年)の基本戦略はイングランドのプランタジネット家(ウィリアム 1
世以来のノルマン朝を継いでいるイングランド王家)がフランスに持っている膨大な土地
を取り上げ、フランス王権の強化をはかることであった。 イングランド王ジョンは、フランスに持っていたアンジュー帝国(図 12-7 参照。斜線
部だった)と称された領土の大部分を、フランス王フィリップ 2 世などとの抗争で失って
しまい、その回復を目指し 1214 年、神聖ローマ皇帝オットー4 世らと謀って、ブービーヌ
で(図 12-7 参照)戦った。この会戦は、中世ヨーロッパにおいて十字軍を別にすれば最
大の会戦だったが、オットー4 世は命からがら逃走し,イングランド軍は敗れた。 フィリップ 2 世は、この勝利により神聖ローマ帝国、イングランドに対し優位に立ち、
フランス王権が名実ともにヨーロッパの覇者として名乗りを上げた記念すべき事件であっ
た。この敗戦によって、イングランドのプランタジネット家がフランスに持っていた領土
はほとんどなくなってしまった。一方、神聖ローマ皇帝オットー4 世は皇位を失い、イング
ランド王ジョンは、大陸領土の回復に失敗し、本国では諸侯の反乱に屈しマグナ・カルタ
を認めることになった(イングランド史に詳細を記している)。 この英仏の講和は、フィリップ 2 世の後継者であるルイ 9 世(在位:1226~1270 年)の呼
びかけが効を奏して、1258 年にパリ条約として結実した。その内容は、ルイ 9 世はイング
968
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ランド王ヘンリ 3 世(ジョン王の子)がすでに失っていたノルマンディやアンジューを正
式に放棄し、ガスコーニュ公としてフランス王に臣従を誓うことを条件にガスコーニュ(図
12-7 参照。ギュイエンヌ公領の一部)の領有を認めるというものであった。現実にはイン
グランド王とフランス王は対等であったが、イングランド王はフランス諸侯であるアンジ
ュー伯を兼ねているために(同君連合)、諸侯としてフランス王の臣下となったということ
である。このパリ条約によって、イングランド王とフランス王の戦争は終結し、プランタ
ジネット家のフランス内の領土問題を解決した(ことになっていた)。 ○百年戦争 カペー朝のシャルル 4 世(在位:1322~28 年)には男子は生まれず、987 年に開始された
カペー朝は終わりを告げた。フランスの王位継承者は、サリカ法典(サリー系フランク族
の相続法)により男系のカペー家の子孫のみが継承権を許されていた。そこで、1328 年、
図 12-8 のフィリップ 3 世の 4 男ヴァロワ伯シャルル(フィリップ 4 世の弟)の子、した
がって、フィリップ 3 世の孫であるフィリップ 6 世(在位:1328~1350 年)が即位した。こ
こにフランス・ヴァロワ朝が成立した。 図 12-8 百年戦争前のフランス王家の家系図 ところが、図 12-8 において、イングランド王エドワード 3 世は母イサベラがカペー朝
の出身であることを理由にフランスの王位継承権を主張し、戦いをしかけたことにより,
以後、百年戦争が起こることになった。 【①百年戦争の背景】 そもそもノルマン・コンクエスト以来、イングランドの王朝も貴族もフランスに膨大な
私的な領地をもっていた。プランタジネット・イングランド王朝の始祖ヘンリ 2 世は、アン
ジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地していたが、ジョン王がフィリッ
プ 2 世の策略にまんまと引っかかり、フランスのプランタジネット家の封土はギュイエン
969
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ヌ公領(図 12-7 参照)だけになった。ジョン王はこれを取り返そうと武力に訴えたが、フ
ィリップに負けたまま、亡くなったことは述べた。 そして、そのギュイエンヌ公領も 1258 年にジョン王の後継者であるヘンリ 3 世がフィリ
ップ 2 世の後継者であるルイ 9 世に臣下の礼をとることで安堵されたものであった(前述
のパリ条約)。対立の火種はプランタジネット家が私的に所有するギュイエンヌ問題で、
その意義は両家にとってきわめて大きいかもしれないがあくまで私的な問題であった。 プランタジネット家としては何かの理由でギュイエンヌだけではなく、少しでも多くの
もとの領地を復活させたいし、フランス・カペー王朝は、いずれはフランス全土を王権のも
とにおくために、ギュイエンヌ公領をフルに利用するか、あわよくば、ここもフランス領
にしていまいたい、ということがまず背景にあった。 そのような背景をもとに、1337 年 11 月のイングランド王エドワード 3 世によるフランス
への挑戦状送付から 1453 年 10 月のカスチョンの戦い(図 12-9 参照)までの 116 年間、
英仏間で、いわゆる百年戦争が戦われた(大きく 3 段階あり、その間、ずっと戦闘を繰り
返していたわけではなく、散発的に行われた)。 図 12-9 百年戦争時代のフランス 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 【②百年戦争の第 1 段階目】 エドワード 3 世はフィリップ 6 世のフランス王位を僭称とし、1337 年 10 月、ウェストミ
ンスタ寺院においてフランス王への臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓し、11 月
1 日にはフランス・ヴァロワ朝に対して挑戦状を送付した。 まず、エドワード 3 世は、1336 年にフランスへの羊毛輸出を禁止した。このため、材料
をイングランドからの輸入に頼るフランドル伯領の毛織物産業は大きな打撃を受け、1337
年にはヘント(ベルギー・フランデレン地域の都市)で反乱が勃発、これにフランドル諸
都市が追従し、反乱軍によって親フランスのフランドル伯は追放され、1340 年にフランド
ル都市連合はエドワード 3 世への忠誠を宣誓した。 970
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1338 年、エドワード 3 世は(このときもまた)神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ 4 世をさそ
って北フランスに侵入した。1340 年 6 月、イングランド海軍はフランス海軍をスロイスの
海戦で破った。1346 年 7 月、イングランド軍はクレシーの戦い(図 12-9 参照)でフラン
ス軍に大勝利した。 このクレシーの戦いでは、イングランド軍のロングボウ(長弓)の威力がいかんなく発
揮された戦いだった。ロングボウは主にウェールズおよびイングランドで使用された長弓
で、その材質はイチイまたはニレの単一の素材で作られているが、長さが 4~6 フィート(1.2
~1.8 メートル)程もある長大なもので、その射程距離は 500 メートルを越えたという。 ロングボウを利用する陣形は中央に歩兵部隊を配置し、その両翼に相手を包み込むよう
にハの字に弓兵を配置した。イングランドではこの際に大量の弓兵を集中投入し狭い間隔
で立って並ばせ、狙いを定めず一分間に 10~12 射という早さで次々と矢を放ち(大変な訓
練を必要とした)、敵陣に矢の雨を降らせて弾幕を張る戦法をとったといわれている。 このためフランスのクロスボウ部隊が総崩れとなった(イングランドの矢はとどいたが、
フランスの矢はとどかなかった)。これを見て、フランス軍は重騎兵部隊による突撃を敢行
したため、退却しようとしていたクロスボウ部隊は後方から迫った味方の騎士になぎ払わ
れ、踏みつぶされた。フランス軍は幾度となく突撃を繰り返し、正面の歩兵部隊に猛攻を
仕掛けたが、イングランド軍の陣形はびくともしなかった。夕暮れになってついにフィリ
ップ 6 世は自軍の退却を命じ、クレシーの戦いは終結した。 この戦いによる被害は甚大で、フランス軍の死傷者は 1 万から 3 万までの説があるが、
最も適当な数は 1 万 2000 人と言われている。歴史家はこの戦いを騎士道華やかなりし時代
の終焉の始まりを告げるものだったと位置づけている。 クレシーの敗戦で痛手を被ったフィリップ 6 世はこれらに有効な手を打つことはできな
かったが、フランドル伯ルイ・ド・マールがフランドルの反乱を平定し、フランドルにつ
いてはイングランドの影響力を排除することに成功した。 両者は 1347 年、教皇クレメンス 6 世の仲裁によって 1355 年までの休戦協定を結んだが、
その年に黒死病(ペスト)が流行し始めたため、恒久的な和平条約の締結が模索された。 《休戦、黒死病の惨禍》 1347 年初秋のこと、黒海沿岸のカッファから出航したジェノヴァ商人の船団がシチリア
島のメッシナに入港して、東方の商品を荷おろしいた。そのときおそろしいペスト菌を仲
介するねずみが上陸したと考えられている。この病気は犠牲者の遺体が黒ずむところから
黒死病と呼ばれた。 菌の発生地はシベリア、バイカル湖近辺の森林地帯とされていて、この森に生息するマ
ーモットや黒ねずみなどのげっ歯類につくノミが宿主であった。現在では考古学的研究か
971
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ら 1339 年頃から中央アジアにこの疫病が流行した事実が確認されており、シルクロードを
通ってさらに西方に伝染したとされている。 フランスでは海港マルセイユを伝染源として、交通路であったローヌ川にそってエクス、
アルル、アヴィニョンが 1347 年中に打撃を受けた。1348 年にラングドック地方(図 12-9
参照)に入って、一方ではスペイン、もう一方ではトウールーズを経由してボルドーに達し
た。そしてここから海路ノルマンディ、イングランドに伝染の波が及んだ。 ローヌ・ルートはさらに北に進み、リヨン、シャロン、パリをへてこの年の暮れには北フ
ランスに入った。人口の 3 分の 1 ぐらいが失われたことが、いくつかの個別地域の研究か
らわかっている。 フランスでは、荒れるにまかされた耕地が広がり、廃村もここかしこに見られた。人口
の激減により穀物価格は低落したが、労働力の需給関係から手工業製品の価格は上昇した。
また農業労働者の賃金は高騰し、1350 年に国家は賃金を抑制する王令を布告した。賃金が
上がっても、農民にとって、国王租税がますます重くなったので生活は良くなかった。更
に労働力確保の政策としてとられた移動禁止の措置は、かえって農民大衆を追いやること
になった。 盗賊集団は通る道々に恐怖を撒き散らした。悪化した治安、流言飛語が引き起こす不安
が農民を反乱へと導いた。その最も有名な例が 1358 年にボーヴェ地方で起こったジャクリ
ーの乱であった(図 12-9 参照)。それはまたたくまにノルマンディ、ピカルディ、シャ
ンパーニュなどフランス北東部で広範に広がった。叛乱した農民たちはそれぞれに指導者
を選んで破壊や略奪行為に及んだが、その全体を統率したのがギョーム・カルルであった。
カルルは、パリで叛乱を起こしたエティエンヌ・マルセルとの共闘を目指したが、カルル
自身はナバラ王シャルルに敗れ、処刑された。カルルの処刑のあと、反乱は急速に鎮静化
に向かった。 《戦争再開》 休戦中の 1350 年、フィリップ 6 世が死去し、ジャン 2 世(在位:1350~64 年)がフラン
ス王に即位した。 1355 年、アヴィニョンで和平会議が開かれ、エドワード 3 世はジャン 2 世に対し、自分
がフランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワトウー、トウーレーヌ、アン
ジュー、メーヌの割譲を求めた。これはフランスの半分近くにもなる要求だった。ジャン 2
世はこれを拒否したため、イングランド軍は 1355 年 9 月に戦争を再開した。 1356 年、エドワード黒太子(皇太子、黒い鎧を着用していたのでこう呼ばれた)率いる
イングランド軍は、劣勢であったが、ポワティエの戦いでフランス軍に大勝し、国王ジャ
ン 2 世を捕虜にしてロンドンに連行した(図 12-9 参照)。 972
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
このポワティエの戦いは、クレシーの戦いの再現であり、いずれもイングランド側に大
勝をもたらしたのは、ロングボウ、弓兵であった。フランス側の旧式で速射能力の低い重
いジェノヴァ・クロスボウに対して、イングランド側は 3 倍の速射力を備えた 2 メートル
の長弓を駆使して、遠距離から矢の雨を降らせることができた。これによって敵陣に穴を
開け、続いて後陣に配置された重装騎兵が敵陣に突撃をかけた。これは伝統的なフランス
封建軍の正面からの単調な突撃作戦より遥かに効果的で殺戮的な戦法だった。フランス軍
は再び大敗した。 《フランスでのエティエンヌ・マルセルの反乱》 国王ジャン 2 世を捕縛されたフランス王国では、皇太子シャルルが軍資金と身代金の枯
渇、王不在の事態に対処するために 1356 年 10 月、パリで全国三部会を開いた。しかし、
敗戦によって三部会の議事進行は平民議員に主導権が握られ、とくに商人頭エティエン
ヌ・マルセル(1315~1358 年)により、税収の運営を国王から剥奪する案も提出された。 エティエンヌは衣類商であったが、1354 年からは実質的なパリ市長であるパリ商人頭に
なっていた。エティエンヌは三部会では国王側と対立的な立場をとり、税収を管理する委
員会の設置を提案した。そして租税徴収・軍隊召集・休戦調印などに関して三部会の承認の
必要性などの国政改革を骨子とする「大勅令」の作成に中心的役割を果たした。 皇太子兼摂政のシャルル(のちのシャルル 5 世)は、この「大勅令」を拒否し、エティエ
ンヌと対立した。エティエンヌは王位を狙っていたナバラ王カルロス 2 世と協力して、皇
太子の追い落としをはかった。また、エティエンヌは前述した 1358 年に起こったジャック
リーの乱の指導者ギョーム・カルルとも提携していた。 しかし、この乱は 6 月には鎮圧され、エティエンヌの人気と勢力は瓦解してしまった。
そしてエティエンヌの過激な振る舞いに怖気づいたパリのブルジョワは離反し、彼に理解
を示していた改革派貴族も離れていった。孤立したエティエンヌは間もなく暗殺され、改
革は挫折した。エティエンヌは後世からは「中世のダントン」と呼ばれている。まだフラン
ス革命の機は熟してはいなかった。 皇太子シャルルは平民議員と 1 年以上にもわって交渉を続けたが、議論は平行線をたど
るだけだったので、三部会の利用をあきらめ、1358 年か 4 月から 5 月にかけてプロヴァン
スやコンピエーニュでパリとは別の三部会を開催した。これらの三部会で軍資金を得、ま
たジャックリーの乱を鎮圧すると、シャルルはパリ包囲に着手し、パリ内紛を誘引して7
月にはエティエンヌ殺害に成功した。 この間、ロンドンで 1358 年 1 月に 1 回目の、1359 年 3 月に 2 回目の和平交渉が行われ、
国王ジャン 2 世の帰国を条件に、アキテーヌ全土、ノルマンディ、トウーレーヌ、アンジュ
ー、メーヌの割譲をフランス側は承諾した。ロンドンに捕囚として連行された国王ジャン
973
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
の解放を、フランスの半分を割譲してまで実現しようとしていた。しかし、皇太子シャル
ルは三部会においてその条約を否決した。交渉は決裂した。 これを受けて 1359 年 10 月、イングランド王軍はカレーに上陸、戦争が再開された。皇
太子シャルルはこの挑発には応じず、各地でゲリラ的な抵抗を起こし、イングランド軍の
資金枯渇による撤退を待つ戦術をとった。1360 年 5 月、教皇インノケンティウス 6 世の仲
介によって、カレー条約(ブレティニー条約)が締結された。その内容は図 12-9 のように、
ギュイエンヌ(ボルドーを中心とギュイエンヌ川の流域)の全面的割譲とジャン 2 世の身
代金、金貨 30 万枚であった。これは先の交渉案よりはるかにフランス側に有利になってい
た。これで百年戦争は第 1 段階を終了した。 身代金を調達するために一時解放されてフランスへ帰っていたジャン 2 世は、不首尾だ
ったので、もう一度ロンドンに行き囚われの身になっていたが、1364 年 4 月、ジャン 2 世
はそのままロンドンで亡くなってしまった。そこで、すでに長く摂政として支配していた
皇太子シャルルはシャルル 5 世(在位:1364~1380 年)として即位した。 《「税金の父」シャルル 5 世》 この人物は病弱で、両手がなかば麻痺していて、とうてい軍隊の指揮には向いていなか
ったが、いつも聖書やアリストテレスの著作をひもといていた。のちにフランス国立図書
館の蔵書の核となるほどの書物の蒐集に熱心だった知識の人であり、大変な知恵と分別を
備えていて、賢明王(ル・サージュ)と呼ばれた。更に中世の最初の経済学の書ともいう
べき『貨幣論』を著したニコラ・ドレームのような優れた大学人を側近として登用し、戦
乱とペストで疲弊した国土の再建と文化の発展につくした。 このシャルル 5 世は「税金の父」でもあった。シャルル 5 世は、すでに皇太子のときか
らいろいろな困難を乗り切ってきていたが、敗戦による慢性的な財政難に対処しなければ
ならなかった。そこで国王の主要歳入をそれまでの直轄領からのみの年貢にたよる方式か
ら王国全体からの国王課税収入へと転換することにした。 彼は 1355 年に税制役人の組織を整備し、国王の身代金代替ということで臨時に徴税した
ものを 1363 年には諸国防衛のための徴税ということで恒久課税にし通常の収入とした。こ
のため後世、シャルル 5 世は「税金の父」とも呼ばれる。この税制改革によって、フラン
ス王家の財力は他の諸公に比べて飛躍的に伸び、権力基盤も直轄領から全国的なものにな
った。 シャルルは外交によっても敵方勢力の削減策を講じた。1369 年には弟フィリップとフラ
ンドルを平定したルイ・ド・マールの娘を結婚させて、フランドルの叛旗を封じた。 また、シャルル 5 世は、1366 年、スペイン・カスティーリャ王国の「残酷王」ペドロ 1
世の弾圧によって亡命していたエンリケ・デ・トラスタマラを国王に復位させるために、
974
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ゲクランを総大将とするフランス王軍をスペインに遠征させた。これには、カレー条約の
締結で失職し、野盗化して治安の悪化を引き起こしていた傭兵たちを国外に追放する意味
もあった。ゲクランはこれを見事に成功させた。エンリケ・デ・トラスタマラはエンリケ 2
世として戴冠した。
スペインを追放されたペドロ 1 世は、フランス・ギュイエンヌの黒太子エドワードのも
とに亡命し、復位を求めた。黒太子とペドロはイングランド軍を率いてスペイン・カステ
ィーニャ王国に侵攻した。1367 年、ナヘラの戦いに勝利しペドロ 1 世は復権を果たした。
しかしそれにかかった膨大な戦費はペドロ 1 世が負担するはずだったが、これを果たさず、
すべて黒太子のギュイエンヌ領での課税によって担われた。 これはギュイエンヌに領地をもつ諸侯の怒りを買い、1368 年黒太子の家臣であったアル
マニャック伯ジャンが、主君への竈(かまど)税の支払いを拒否しギュイエンヌ大公黒太
子の宗主たるフランス国王シャルル 5 世に訴えたために、パリ高等法院において黒太子エ
ドワードに対する不服申し立てが行われた。 1369 年 1 月、黒太子エドワードに対しパリへの出頭命令が出されたが、黒太子はこれを
無視したため、シャルル 5 世は彼を告発した。イングランド国王エドワード 3 世は、ギュ
イエンヌの宗主権はイングランドにあるとして異議を唱え、フランス王位を再要求したた
め、1369 年 11 月、ギュイエンヌの没収の判決が下った。これを受けてシャルル 5 世は黒太
子エドワードの領地ギュイエンヌの没収を宣言した。 【③百年戦争の第 2 段階目】 これによって 1369 年、百年戦争の第 2 段階目の開戦となった。今度はフランス側が優位
に立った。シャルル 5 世は前回の後半におけると同じように会戦を避け、敵の疲労を待っ
て着実に城、都市を奪回していく戦法を取った。 1370 年 12 月、ポンヴァヤンの戦いでイングランド軍に勝利し、1372 年は、ポワトウー、
オニス、サントンジュを占拠し、7月にはポワティエを陥落させ、同じく7月、ラ・ロシ
ェルの海戦でイングランド海軍を破った後、9 月にはラ・ロシェルを陥落させた。イングラ
ンドはブルターニュ公と同盟を結び上陸したがフランス軍は逆にブルターニュをほとんど
勢力下においた。 1375 年 7 月、フランス優位の戦況を受けて、2 年間の休戦となった。この間にイングラ
ンド側では 1376 年には黒太子エドワードが、1377 年にはエドワード 3 世が死去した。両陣
営の動きが膠着したままで、フランス側でも 1380 年にはデュ・ゲクランとシャルル 5 世が
あいついで他界した。 《休戦、英仏両国の政権交代》 975
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
イングランドのエドワード 3 世の後継者は、黒太子エドワードの息子、したがってエド
ワード 3 世の孫、10 歳のリチャード 2 世(在位:1377~99 年)だった。 イングランドでは 1380 年には膨大な戦費調達のため、人頭税の導入をはかったが、これ
は上層に軽く下層階級に重い税制であった。また、当時、前述のペストが大流行したため、
労働力不足に悩んだ領主が農民の移動の自由を奪い農奴制を強化していった。これらの背
景から、1381 年 6 月、増税に反対する下層階級の農民と労働者が、エセックスのレンガ工
のワット・タイラー(1341~1381 年)に率いられて反乱を起こした(図 12-9 参照)。 ワット・タイラーはケント地方から徒党を組んでロンドンに向かい、ついにはロンドン
を占領した。リチャード 2 世はワット・タイラーとの面会に応じ、ワット・タイラーたち
の要求事項に回答を約束したが、翌日、現れたワット・タイラーを王の傍にいたロンドン市
長が刺殺してしまった。指導者を失った反乱はただちに鎮圧された。 1381 年 5 月には、ルーランジャンで新王リチャード 2 世とシャルル 6 世の和平交渉が始
められた。話し合いはまとまらなかったが、この間、休戦の合意はずるずると延長された。 リチャード 2 世はフランスに対して和平策をとり、1389 年には 3 年間の休戦協定、1392
年のリチャード 2 世、シャルル 6 世の直接会談(アミアン会議)の後、1396 年にはリチャー
ド 2 世とシャルル 6 世の娘イザベルとの結婚とともに、30 年間、1426 年までの全面休戦協
定が結ばれた。 《イングランドの政変、ランカスター朝が成立》 この後、イングランドでは内紛が生じ、国王派と議会派とが対立し、内戦まで起きたが、
その詳細はイングランドの歴史に記している。1399 年 9 月、イングランドの議会派は軍事
蜂起しリチャード 2 世を逮捕し、ロンドン塔に幽閉して、退位させた。そしてヘリフォー
ド伯ヘンリがイングランド王ヘンリ 4 世として即位し、ここにランカスター朝が成立した。 ヘンリ 4 世時代のブリテン島はスコットランドやウェールズでの反乱が続いたが、いず
れの場合もフランス勢力の介入がみられた。このようなごたごたはあったが、イングラン
ド王家とフランス王家との戦争は 30 年間の休戦協定でおさまっていた。 ところが、1405 年にフランス王シャルル 6 世が精神を患ったことが公表され、その上、
フランス王家とブルゴーニュ家との争いが表面化すると、イングランドでは、それまでの
対仏和平策よりも、この際、フランスの弱みをついて、大陸へ出兵し、フランスとの立場
をもっと有利にしたほうが、イングランド王家にとり、またイングランドの有資産住民に
とって利益が上がる政策ではないかと主張され始めた。 このようなときに対仏和平策をとってきたヘンリ 4 世はは健康を害し、1413 年 3 月に没
した。そのあとは長男ヘンリが即位し、ヘンリ 5 世(在位:1413~22 年)となった。休戦中、
976
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
百年戦争の再開を以前から構想していたヘンリ 5 世にとって、フランスの政治状況はます
ます好ましいものとなってきた。 そのフランス側には大きな政治的弱点が生じていた。1380 年にシャルル 5 世が死去した
フランスでは、長男シャルル 6 世(在位:1380~1422 年)が 12 歳で即位した。若年のため
叔父にあたるブルゴーニュ公フィリップ 2 世らが摂政となったが、1388 年から親政を開始
した。 しかし母のジャンヌの系統には精神異常の遺伝があり、シャルル 6 世は早くから精神的
な不安定性を示していた。そのうち急速に病気は悪化して、シャルル 6 世は政務を執るこ
とが事実上不可能となってしまった。すると叔父のブルゴーニュ公フィリップ 2 世やその
息子ジャン 1 世を中心とするブルゴーニュ派と、王弟オルレアン公ルイを中心としシャル
ル 6 世を支持するアルマニャック派にフランス内部が分裂し、お互いがフランスの主導権
をめぐって争うことになったのである。 1405 年、ブルゴーニュ公になったジャン 1 世はパリの軍事制圧を行い、1407 年にはオル
レアン公ルイを暗殺して政権を掌握した。殺害されたルイの舅(しゅうと)アルマニャッ
ク伯ベルナール 7 世を軸に、反ブルゴーニュ大公の党派が形成された。おもに南フランス
の貴族勢力がここに結集した。これに対してブルゴーニュ大公のもとには北部と東部フラ
ンスの貴族が集まった。両派の対立はついに内乱に発展し、ともにイングランド軍に援軍
を求めるなど、フランス王国の内政は混乱を極めた。 このようにシャルル 5 世が亡くなってからのフランスは一転して、国王シャルル 6 世に
精神的な弱みがあり、かつ、それを補佐すべき諸侯が、ブルゴーニュ、アルマニャックの
二つの党派に分裂しているという弱みをかかえることになった。 さらに 1413 年、パリでブルゴーニュ大公支持派の民衆が反乱を起こしたが、アルマニャ
ック派が巻き返し、ブルゴーニュ大公が退去させられるという事態が生じた。 【④百年戦争の第 3 段階目】 それまでのフランスの弱体化・分裂化の状況をよく見ていたイングランド王ヘンリ 5 世
はチャンス到来と喜んだ。ヘンリ 5 世はアルマニャック派を支援しながら(同盟を結んで
いた)、その裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。 ヘンリ 5 世はブルゴーニュ派を支援するという形でのフランス侵入の計画を立てた。1415
年の大評議会はこれを承認した。 1414 年 5 月、ヘンリ 5 世は、今度はブルゴーニュ公と同盟を結び、12 月にはフランス王
国にアキテーヌ全土、ノルマンディ、アンジューの返還とフランス王位の要求を宣言した
(再びイングランド側から昔のことを持ち出して全面復活の要求を行った)。当然交渉は
決裂した。フランス王家は内乱によって全く有効な手立てを打ち出せなかったが、当時、
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
パリを制圧して国政を握っていたアルマニャック派は、進撃を続けるイングランド軍に対
して防衛軍を派遣した。 1415 年 10 月、アジャンクールの戦い(図 12-9 参照)でフランス軍は 4 倍の軍勢を揃え
たが、相変わらずフランス軍は武器も戦術も旧態依然としていて、イングランド軍の術中
にはまり、弓兵と槍兵に殺戮され、大敗を喫した。これはイングランド軍が長弓隊を駆使
して、数に勝るフランスの重装騎兵に圧勝した戦いとして有名である。多くのフランス貴
族が討ち取られた。ヘンリ 5 世はオルレアン公を捕虜にして、11 月に帰国し、弟のベドフ
ォード公をフランスでの戦争に差し向けた。オルレアン公シャルルは捕らえられ、アルマ
ニャック派は弱体化し、これに乗じてパリを掌握したブルゴーニュ派が政権の主導権をと
った。しかしブルゴーニュ派も対イングランドに対しては無力であった。 この間、フランス王家はブルゴーニュ公ジャンがシャルル 6 世の王妃イザボー・ド・バ
ヴィエールに接近して皇太子シャルル(のちのシャルル 7 世)を追放した(この追い落と
しの理由はきわめて微妙であるが、王妃イザボーが実の息子・皇太子はシャルル 6 世の子
ではない(つまり、不倫の子である)と発言し、皇太子シャルルは王位継承の資格なしと
したことにあった。なお、娘キャサリン(シャルルの姉)はシャルル 6 世の実の娘である
ということのようだ。この発言でイザボーは「淫乱王妃」と呼ばれた)。 1418 年にヘンリ 5 世が再度軍を率いて上陸し、驚くべき勢いでノルマンディを制圧しパ
リに迫ると、政権をとっているブルゴーニュ派のジャンはあわてた。ブルゴーニュ公ジャ
ンは親イングランドの施政を見せていたが、イングランド軍に自分のブルゴーニュのポン
トワーズが略奪され、1419 年 8 月、イングランド軍がパリ城外まで達するに及んで、皇太
子シャルルにイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を開始した。 しかし 1419 年 9 月、皇太子シャルルとの交渉の場でブルゴーニュ公ジャンが皇太子の支
持者によって惨殺された(12 年前のオルレアン公ルイ暗殺の復讐だった)。ジャンのあと
を継いだブルゴーニュ大公フィリップ 3 世は、暗殺の陰に皇太子シャルルの了解があった
ことをかぎとった(真実はわからない)。 《トロワ条約の締結》 いまやブルゴーニュ派の統領となったブルゴーニュ大公フィリップ 3 世は、やはりイン
グランド側と組むことに決心し、ヘンリ 5 世との和平交渉に入った。そこでまとめられた
トロワ条約には、皇太子シャルルからフランスの王位継承権を奪い、イングランドのヘン
リ 5 世にそれ(つまり、フランス王位をイングランド王に渡す)を認める 1 項を入れるこ
とにより、皇太子シャルルに復讐した(百年戦争での交渉でイングランド王にフランス王
位を渡すことを了承したのはこれがはじめてであった)。 978
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1419 年夏、イングランド軍はパリ市壁にまで迫り、ヘンリ 5 世にとって有利な状況のも
とで 1920 年 5 月、トロワ条約が結ばれた。その内容は、シャルル 6 世の王位をその終生ま
で認めることとし、シャルル 6 世の娘キャサリンとヘンリ 5 世の婚姻によって、ヘンリ 5
世をフランス王の継承者にするというものであった。これは事実上、イングランド・フラン
ス連合王国を実現するものであった。 もちろん、国王代理である皇太子シャルルとアルマニャック派はこの決定に反対で、イ
ングランド連合軍に抵抗したが、皇太子シャルルの廃嫡を認めるトロワ条約は三部会の承
認を受けた。イングランドは着実に勢力を拡大していった。 1420 年 6 月、ヘンリ 5 世はキャサリンと結婚した。その後、イングランドにおいて短い
ハネムーンがあったと考えられる。1421 年 6 月、ヘンリ 5 世は再びフランス遠征に出かけ
(皇太子シャルルとアルマニャック派は降伏していない)、1422 年 8 月、赤痢に感染しパ
リ郊外で死去した。このわずか数ヶ月前に、息子が生まれていて、ヘンリ 6 世と命名して
いた。引き続いて 1422 年 10 月、今度はフランス王シャルル 6 世が病死した。 《赤ちゃん王・ヘンリ 6 世のイングランド王兼フランス王》 ヘンリ 5 世はトロワ条約を結んだときは、当然、自分が精神病を病むシャルル 6 世より
長生きすると思っていただろうが、運命はわからないもので、2 ヶ月ではあるが、先に死ん
でしまったため、フランス王を兼務することはなかった。しかし、トロワ条約では、シャ
ルル 6 世のあとはイングランド王ヘンリ 5 世が継ぎ、そのあとはヘンリ 5 世とキャサリン
の子が継ぐことになっていたので、生後、数ヶ月のヘンリ 6 世がイングランド王兼フラン
ス王となった(史上はじめてにして最後のイングランド・フランス連合王国が成立した)。 キャサリンはヘンリ 5 世の遺骸をロンドンに運び、1422 年 11 月にウェストミンスター寺
院に埋葬した。その後、キャサリンはウェールズ人の侍従オウエン・テューダーと長い間
関係を持っていて(密かに結婚していたと思われる)新たな子供をもうけたが、これが意
外な発展をし、後にイギリス・テューダー朝を開いたヘンリ7世の祖父母ということにな
るがそれはのちに述べる。 《オルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクの奇跡》 事実は小説より奇なりといわれるが、まさにそのとおりで、ヘンリ 5 世、シャルル 6 世
の死去で事態は再び混迷し始めた。 フランス王位とイングランド王位は、ヘンリ 6 世が継承したが、前年に生まれたばかり
のオムツ付の赤子であったので戴冠式は行われなかった(正式にフランス王して戴冠式を
行ったのは 9 年後の 1431 年であった)。 赤ん坊のヘンリ 6 世というフランスとイングランドの国王のもとで、フランスとイング
ランドはまだ戦っているという奇妙な状態が続いていた。 979
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
フランスの皇太子シャルルは(廃されていたが)、1422 年 10 月、シャルル 6 世の死去と
同時にアルマニャック派の支持のもとでフランス王位を継承することを宣言し、シャルル 7
世(在位:1422~61 年)と名乗ったが、当然、ブルゴーニュ派はこれを否認したので正式に
フランス王といって即位することはできなかった。シャルル7世はフランス中部のブール
ジュ(図 12-9 参照)に逼塞(ひっそく)し、巻き返しの到来を待つしかなかった。 フランス国王ヘンリ 6 世(赤ん坊)の摂政であるベッドフォード公ジョンは、ブルゴー
ニュ公との同盟にブルターニュ公を加え、ノルマンディ三部会を定期的に開催することに
よってフランス財政の立て直しをはかった。 そして、イングランド側は、ロワール川沿いのオルレアン(図 12-9 参照)を陥落させて、
勢力を一気にシャルル7世が抵抗しているブールジュにまで占領する作戦を立てた。確か
にオルレアンは最後の要であり、これが落ちれば、フランスは本当にイギリスのものとな
ってしまっていただろう。ここに奇跡が起こった。 1429 年 4 月 29 日、イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、ジャンヌ・
ダルク(1412~1431 年)を含めたフランス軍が市街に入城した。フランス軍はオルレアン
防衛軍と合流し、5 月 4 日から 7 日にかけて次々と包囲砦を陥落させ、8 日にはイングラン
ド連合軍を撤退させた。 のちに「オルレアンの乙女」といわれ、フランスの国民的英雄で、カトリック教会にお
ける聖人となったジャンヌ・ダルクは、もちろん、実在の人物であるが、その物語は謎に
満ちている。 ジャンヌ・ダルクは、後の復権裁判での証言によるとフランスのロレーヌ地方の農家に
生まれた少女だったが、1428 年 5 月(従って、16 歳の時)、天使の「声」がジャンヌに「ヴ
ォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会い、オルレアンの包囲を解い
てフランスを救え」と告げるのを聞いた。ジャンヌは「声」に従い、ボードリクールのもと
を訪れたが追い返された。ところが、それを聞いた皇太子シャルルはジャンヌに会おうと
いった。側近たちの中に紛れて皇太子らしくない服装でジャンヌを呼んだが、
(シャルルを
見たこともない)ジャンヌはすぐに本物のシャルルを見抜いた。 ジャンヌとシャルルは幕僚たちから離れ、2 人きりで話をすることになった。そしてジャ
ンヌはシャルルに、
「声」から授かったシャルルの王としての正統性を証明する秘密の話を
したと言われている(2 人きりで話したので今もそれは不明である)。皇太子であったシャ
ルルはこの話を聞き、ジャンヌを信じることになった。その後は歴史が示しているように、
ジャンヌ・ダルクの神がかりの快進撃が続いたのである。 《シャルル 7 世の戴冠》 980
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
7ヶ月以上にわたるオルレアンの包囲網を突破したフランス軍は、ロワール川沿いを制
圧した。その後、ジャンヌは、皇太子がランス(図 12-9 参照)にて正式の戴冠式を挙げ
ることを強く主張した。ランスはフランク王国メロヴィング朝の王クローヴィスが洗礼を
受けた町で、歴代のフランス王がこの地で戴冠式を挙げていた。このとき赤ん坊王ヘンリ 6
世はまだ戴冠していなかった。そのため、シャルルの王位継承権の正統性を世に知らしめ
るためには何としてでもランスで戴冠式を挙げる必要があった。だが、ランスまで行くに
は幾重ものイングランド軍を打ち破らねばならなかった。
最終的にはジャンヌの主張(神のお告げ)が受け入れられ、シャルルとジャンヌのフラ
ンス軍はランスへと向かった。途中にあった都市を次々と傘下に入れ、1429 年 6 月のパテ
ーの戦いで大勝利を収めた。これによってランスへの道が開け、1429 年 7 月 17 日にジャン
ヌ・ダルクはシャルルにノートルダム大聖堂でフランス国王の戴冠式を行わせた。これに
よって、ジャンヌの神託であるオルレアンの解放とランスでの戴冠式の両方が成し遂げら
れたことになった(これによって神のおつげを無事果たした彼女の役割は終わっていたの
だが、その後は悲劇が待っていた)。
ジャンヌ・ダルクは、1429 年、今度は国王シャルル 7 世によりパリの解放を指示され、
これを試みたが失敗、1430 年 5 月にはコンピエーニュの戦いで負傷、イングランドと組ん
でいたブルゴーニュ公フィリップ 3 世の軍に捕虜として捕らえられ、金貨 1 万枚でイング
ランド軍に引き渡され、ルーアン城に幽閉された。1431 年 2 月異端審問裁判がはじまり、5
月、彼女は異端の徒と断罪され火刑に処された。 《百年戦争の終結》 1431 年、シャルル7世とブルゴーニュ公フィリップとの間で 7 年間の休戦が締結された。
これを機にシャルル 7 世はブルゴーニュとイングランドの同盟破棄を画策し、1435 年には
フランス、イングランド、ブルゴーニュの三者協議において、イングランドの主張を退け、
フランス・ブルゴーニュ同盟を結ぶことに成功した。 1439 年、オルレアンに召集された三部会で、フランス国王シャルル 7 世は軍の編成と課
税の決定を行い、1445 年には傭兵隊を再編して常設軍である「勅令隊」が設立された。貴族
は予備軍として登録され、国民からは各教会区について一定の徴兵が行われ「国民弓兵隊」
が組織された。これら一連の軍備再編を行うと、シャルル 7 世はノルマンディを支配する
イングランド軍討伐の軍隊を派遣した。 1449 年、弓兵隊を中心とする兵制に転換して意気あがるフランス軍は、東部、中部、西
部方面隊の三方からノルマンディを攻撃し、ルーアンを陥落させた。これに対し、シェル
ブールに上陸したイングランド軍は、1450 年 4 月、フォルミニーの戦い(図 12-9 参照)
でフランス軍に大敗し、8 月にはフランス軍がノルマンディ地方を完全に制圧した。 981
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
シャルル7世は、イングランド軍に立て直しの時間を与えないように、すぐさまアキテ
ーヌを占領し、1451 年 6 月、ボルドーを陥落させた。翌年、イングランド軍はボルドーを
奪還したが、イングランド軍の劣勢は遺憾ともしがたく、フランス軍は 1453 年 10 月、カ
スチョンの戦いでイングランド軍に勝利し、カレーを残してその勢力をフランスから駆逐
するのに成功した。かくして百年戦争は終息した。 最後の勝利者となったシャルル7世は、百年戦争で荒廃した国内の復興に励み、財政の
再建、官僚機構の整備、王国常備軍の創設などを行った。後世、多額の身代金を惜しんで
ブルゴーニュ派の手に落ちたジャンヌを見殺しにしてしまったといわれているシャルル7
世も、自身悩んでいたのだろう、1449 年、イングランド軍を打ち破りルーアンに入城した
シャルル7世は直ちにジャンヌ裁判の調査を命じ、1356 年にルーアンの地で処刑裁判の破
棄が宣告された(1920 年ローマ教皇ベネディクトウス 15 世はジャンヌ・ダルクを聖人とし
た)。 《百年戦争の帰結、英仏の国家形態・国家意識の形成》 百年戦争の結論は、イングランドはヨーロッパ大陸における領土をすべて失うことにな
ったということである。1066 年のノルマン・コンクエストに始まる(400 年にわたる)両国
の錯綜した領土の所有状況も整理され、イングランドは再び事実上の島国となった。 現在のフランスとイギリスの国境線を決定した戦争であり、両国の国家形態と国民の帰
属意識が、この戦争を通じて形成されたといわれている(そもそも、この戦争がはじまっ
たのはプランタジネット家とヴァロワ家との私的な争い(相続と土地争い)だった。この
時代は私的と公・国家の区別が明確でなかった。結果として百年かかって国家意識が生ま
れてきたのである)。 《英仏絶対王政への移行》 この戦争の後も、イングランドではバラ戦争が起こって諸侯は疲弊し没落したが、王権
は著しく強化され、テューダー朝による絶対君主制への道が開かれた。一般国民には、こ
の百年戦争によって、まだ芽生えたばかりの国民意識に加えて、その後も長く続いていく
フランス人への敵対意識が生まれることになった。 フランスでも、百年戦争によって、やっとイングランドを大陸から追い出し、国家の統
一にむけて専念することができるようになった。最後の勝利者となったシャルル7世は、
百年戦争で荒廃した国内の復興に励み、財政の再建、官僚機構の整備、王国常備軍の創設
などを行った。 そしてゆっくりと時間をかけ、なかなか服従しない封建領主たちを王権の支配下におさ
め、絶対王政へとつながっていったのである。長い目で見ると、フランスにとっても百年
戦争は国民国家の成立に大きな影響を及ぼしたようである。 982
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○ルイ 11 世のフランス統一、絶対王政の時代へ シャルル 7 世を継いだルイ 11 世(在位:1461~83 年)は 1461 年に即位するとシャルル7
世の中央集権化政策を引き継ぎ、百年戦争後の荒廃したフランスを統一させるのに成功し
た。役人を大量に解雇し、聖職者への課税を試み、貴族の特権と年金を廃止し、大貴族の
国王への優先奉仕を内容とする臣従の誓いを強制しようとした。 反発は激しく、貴族の反国王同盟がブルゴーニュ大公シャルルを中心にできあがり、3 度、
国軍と戦闘を行った。結局ブルゴーニュ大公シャルルは 1477 年のナンシーの戦いにたおれ、
ブルゴーニュ大公の領国は瓦解した。フランス王国の統一にとってこれは決定的に重要な
事件であった。 また、ローマ教会との関係も、1472 年に教皇ピウス 2 世とアンボワーズの協約を締結し
たことにより、フランス国王に国内の聖職禄授与の権利が認められた。 このようにルイ 11 世は、徴税制度の確立、重商主義的振興策の推進、国家機構の整備な
どの内実豊かな政治を行ったが、1483 年、その治世のあとを受けて王位についたルイ 11 世
の子・シャルル 8 世(在位:1483~98 年)は、一転して、カール大帝を王道の鑑(かがみ)
としていた現実離れの夢想家であった。コンスタンティノープル、キプロス、エルサレム
とオスマン帝国に征服されたばかりのキリスト教世界をこの異教徒から奪回しようという
十字軍構想をもって唐突にイタリア(ナポリ王国)遠征を試みた。 シャルル 8 世の唐突なイタリア遠征を最後に中世フランスは幕をおろすことになるが、
これはあくまで時代区分の伝統的便法でしかない。財政基盤を充実させたフランスは近代
絶対王政という国民国家を形成する段階に入っていた。それは近世という時代であった。 【12-1-5】東フランク王国とドイツ 911 年、東フランク王国(図 12-2 参照)では、第 4 代目ルートヴィヒ 4 世(在位:900
~911 年)の死により、カロリング朝は断絶した。東フランク王国ではもともと諸侯の発言
権が大きく、複数の強力な公国が成立していたが、東フランクの高級貴族たちは、帝国や
血にこだわることをやめ、王国に根をおろしている自分たちの仲間から国王を選ぶことに
した。こうした公国の統治者のなかから、フランケン公コンラートがドイツ王に選出され
た。 ○ザクセン朝 しかし、コンラート 1 世はマジャール人との戦いに敗れ、918 年、失意のうちに死の床に
つき、その後継者に、ザクセン大公ハインリヒを指名した。こうして 919 年に王として即
位したのが、ザクセン公ハインリヒ 1 世(在位:919~936 年)だった。 983
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ハインリヒ 1 世は、933 年には、東フランク全域から大軍を集め、テューリンゲン北部の
リアデでマジャール人と対峙し、彼らを逃走させた。これにより、ドイツ王国の有力者た
ちはハインリヒ 1 世の実力と功績を認め、王位がザクセンのこの一族に継承されることを
認めた。 ハインリヒ 1 世は、929 年に王位の継承について王令を出し、次男のオットーに王位を継
承させ、そのほかの子に国を分割しないこととした。これは、フランク王国以来の均分相
続の原理を否定するもので、これ以降、王位継承時の領土分割の原則はなくなったので、
この王令は重要な意味をもっていた。 《オットー大帝と神聖ローマ帝国の誕生》 オットー1 世(東フランク国王在位:936~962 年。神聖ローマ皇帝在位:962~973 年)
は、図 12-10 のように、北と東に辺境領を作り、武力によって異教徒を威圧する体制を整
えながら、キリスト教の伝道活動を推進した。キリスト教世界の拡大というこの動きにと
くに危機感を抱いたのは、隣接したスラヴ人やマジャール人だった。 図 12-10 ドイツ人の東方植民 中央公論社『世界の歴史10』 955 年 8 月、オットーの指揮下に集結したザクセン人、フランケン人、バイエルン人から
なる帝国軍とマジャール軍がアウクスブルク近郊のレヒフェルトの戦いで激突し、オット
984
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ー帝国軍は、マジャール軍を壊滅させた。以後マジャール人の侵入はなくなり、オットー
大帝の威信は高まり、ザクセン朝の王権確立の重要な一因となった。これは、ドイツ王国
の安全を保障しただけではなく、カトリック・キリスト教世界の拡大にも大きな役割をは
たした。 オットー1 世は勝利を神に感謝し、スラブ人たちの中に司教区を作ることにした。968 年、
オルデンブルクやマイセン、メールゼブルクなどに新しい司教区が設置され、これらスラ
ヴ人地区の司教区を統括するためにマクデブルク(図 12-10 参照)に大司教座が置かれる
ことになった。マウリティウス修道院は大司教座教会に昇格した。 マクデブルクに大司教座が出現したことによって、東への備えと影響力は極めて大きな
ものとなった。ここからボヘミア(現在のチェコの西部・中部地方。ドイツ語ではベーメ
ン)への働きかけが行われ、973 年ころにプラハに司教座が置かれることになった。この司
教座はマインツ大司教座に属したので、ドイツ王国との結びつきは固かった。 またポーランドでも、ピャスト朝を開いたミェシュコ 1 世がオットー1 世の東方政策から
国を守るために自ら洗礼を受け、ポズナン(図 12-10 参照)に 968 年に司教座を置いた。
マジャール人のハンガリーでもキリスト教化が始まった(このオットー1 世の出現によって、
中央ヨーロッパは無秩序状態に別れをつげたと歴史家は言っている)。 オットー1 世は 962 年 2 月 2 日、ローマで教皇ヨハンネス 12 世によって加冠された。カ
ロリングの血を引く最後の皇帝以来、ほぼ 40 年ぶりの皇帝であった。ここにオットー大帝
(皇帝在位:962~973 年)が誕生した。しかしカール大帝のカロリング帝国はほぼ西ヨー
ロッパ全域におよんだが、このオットーの新しい帝国(神聖ローマ帝国)の支配圏は、図
12-10 のように、東フランク=ドイツ王国におおむね限定されていた。 この新帝国は、のちに使われるようになった名称に従って、以下、神聖ローマ帝国と呼
ぶことにする(神聖ローマ帝国の国号が使われだしたのは 13 世紀以後のことだったが、世
界史ではこの時をもって神聖ローマ帝国の誕生としている)。 神聖ローマ皇帝は、実質的にはドイツ王にすぎない(しかし、現在のドイツよりはるか
に大きく、イタリアの北半分も含んでいた)。ドイツ王ならドイツ王でよいではないかと
思うかもしれないが、現実のドイツ王は神聖ローマ皇帝にこだわった。歴代のドイツ王は、
神聖ローマ帝国のうちで実権が及ぶ範囲も狭く、大公国が分立していて、非力であった。
それゆえにこそ、理念的には西洋世界の普遍的な支配者であるローマ皇帝となるために、
ローマにおいて教皇の手による戴冠を必要とした。 それがなければドイツ王はただのドイツ王でしかないとされた。ここに、ドイツ王そし
て神聖ローマ皇帝が常にイタリア・ローマに目を向けねばならない理由があった。皇帝は、
ローマ教皇とのつながりを何よりも必要としたのである。中世ドイツから生まれた神聖ロ
985
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ーマ帝国という不思議な超国家的政体は、(ローマ)帝国思想を守った最後の証のような
ものだったようである。 しかし皇帝とローマ教皇の関係は、カール大帝以来、皇帝が優位にあった。皇帝はロー
マ教会の「保護者」であり、自らもまた聖性を備える存在だった。オットー大帝は、戴冠式
のあとに交わされたローマ教皇との「確認協約」、いわゆる「オットー大帝の特権状」で、皇
帝の優位性をはっきりと示している。大帝は、教皇へのピピンの贈与を更新し、皇帝によ
って与えられるローマ教皇の権利を列記したが、そのうえでローマ教皇の義務も規定した。 その義務とは、ローマ教皇はあらたに選出された場合、その受任前にただちに皇帝の使
節または皇帝の息子の前で、皇帝に対する忠誠の誓いを行わねばならない、と教皇の選出
に皇帝が介入する権利が明記されたのである(しかし、これ以後、しだいに教皇は皇帝か
ら独立しようとしたので、教皇-皇帝の争いが激しくなっていく)。 オットー1 世の死後、あとを継いだ息子のオットー2 世(国王在位:961~983 年、皇帝在
位:973~983 年)以後もザクセン朝に引き継がれていったが、ハインリヒ 2 世(国王在位:
1002~24 年、皇帝在位:1014~24 年)は 1024 年に子を残すことなく他界し、ザクセン王
家の男系の血筋も消滅した。 ○ザーリアー朝 王位を継いだのは選挙で選ばれたザーリアー家のコンラート 2 世(ブルグント王在位:
1033 年~1039 年。ドイツ国王在位:1024~39 年、皇帝在位:1027~39 年)で、彼ととも
にザーリアー朝が始まった。 コンラート 2 世を継いだ皇帝ハインリヒ 3 世(国王在位:1039~56 年、皇帝在位:1046
~56 年)はドイツ人の教皇クレメンス 2 世とその後任のレオ 9 世を任命し、皇帝のよき協
力者として教会改革を推し進めた。 それまでは皇帝が教皇の上に立っていて問題はなかった。権威を象徴する指輪と杖を司
教に与えたのは皇帝や国王であり、それを与えるに際して王は「教会を受けよ」と語ったと
いう。これは聖俗混交である。皇帝が「キリストの代理人」かつローマ教皇と教会の「保護者」
であり、帝国の司教を任命するという帝国教会政策もまた、この聖俗混交の基盤の上に成
り立っていた。それで問題はなかった。 帝国とローマ教会との一体化は、この二人の権力者(コンラート 2 世とハインリヒ 3 世)
のもとで最高潮に達した。しかし、二人の死後、皇帝と教皇の調和はくずれ矛盾が顕在化
してきた。 《教会改革の推進とハインリヒ 4 世》 ところが、1071 年、老齢のミラノ大司教が、ハインリヒ 3 世を継いでいたドイツ国王ハ
インリヒ 4 世(国王在位:1056~1106 年、皇帝在位:1084~1106 年)に指輪と杖を返還した
986
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
のが、ことのおこりの発端だった。ハインリヒ 4 世は後任に国王礼拝堂の司祭を推したが、
民衆がイニシアティヴを握っていたミラノでは、改革派の人物がミラノ大司教に選ばれた。
ローマ教皇アレクサンデル 2 世はこれを承認した。ドイツ国王ハインリヒ 4 世の司祭選任
にローマ教皇が公然と反対したのである。 ハインリヒ 4 世はその時、ザクセンでの反乱に対する軍事行動をおこしており、これに
すぐ反撃することはできなかった。1073 年、ローマ教皇アレクサンデル 2 世の死後、改革
派の中心人物グレゴリウス7世(在位:1073~1085 年)がローマ教皇に選出された。 グレゴリウス 7 世は、イタリア人だったが、クリュニー修道院出身でローマの出身でも
貴族の出身でもなかった。彼は自分がローマ教皇に選出される前に、教皇選挙のシステム
を変更するうえで大きな役割を果たした。つまり、古くからの教会法によって、それまで
ローマ教区内の聖職者と信徒がもつとされていたローマ教皇の選挙権(これは神聖ローマ
皇帝やイタリアの諸侯などの世俗権力によって左右されていた)を、枢機卿会議に移し、
そこからローマ貴族を締め出すことに成功していた。 グレゴリウス 7 世の気性の激しさが、問題を大きくしたかもしれない。彼はローマ教皇
に選出されると、神聖ローマ皇帝であるハインリヒ 4 世の同意なしに登位し、皇帝にはそ
れを通知しただけだった(前述したように、教皇選挙の選挙権は枢機卿だけに限定された
ため、皇帝には名目上の拒否権だけしか残されていないように改定された)。 このときも、ドイツでの激しい戦いのなかで、ハインリヒ 4 世はローマ教皇との衝突を
避けるため、新教皇グレゴリウス7世を受け入れ、ミラノ大司教の選任を教皇に委ねるこ
とを伝えた。 1075 年 3 月、グレゴリウス7世は「教皇訓令書」を出し、彼の改革思想と目標を明記して
いた。それは、神権的国王・皇帝観と正面から対立するものだった。その要点は、 ①ローマ教会を設立されたのは、一人神だけである。 ②ローマ教皇だけが、正当に普遍的と呼ばれる。 ③ローマ教皇だけが司教を退位または復帰させることができる。 ④ローマ教皇は皇帝を退位させることができる。 ⑤ローマ教皇は誰によっても裁かれない。 ⑥ローマ教会と協調しない者はカトリック教徒とはみなされてはならない。 この年、ドイツでの危機を脱したハインリヒ 4 世は、ミラノ大司教をめぐるグレゴリウ ス7世との合意を取り消し、国王礼拝堂の別の司祭を候補者として新たに指名した。 1075 年 12 月、グレゴリウス7世は、ハインリヒ 4 世に一通の書簡を送った。それは、国 王を批判し、「教会の自由」を妨害しないように、警告したものだった。 987
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
これに対し、皇帝ハインリヒ 4 世はドイツで司教たちを集め、グレゴリウス 7 世の廃位
を宣言した。それを知ったグレゴリウス7世は、逆にハインリヒ 4 世に破門を申しわたし、
その結果ハインリヒ 4 世は大変な窮地に立たされることになった。というのも動揺したド
イツ諸侯がそろって皇帝から離反し、破門から 1 年後の 1077 年 2 月までにローマ教皇から
赦免されなければ、ハインリヒ 4 世を皇帝の座から退位させることを決議してしまったか
らである(皇帝への敵対意識の強かったザクセン公などが、この機会に反旗をひるがえし
た面もあった)。 こうして万策がつきて、ローマ教皇に謝罪せざるをえなくなったハインリヒ 4 世は、冬
のアルプスを越え、1077 年 1 月にグレゴリウス 7 世の滞在するイタリア北部のカノッサ城
を訪れた。そして破門をといてもらうまでの 3 日間、城門の前で雪のなかをはだしで待た
され続けるという屈辱を味わったのである。これが帝権と教権の対決の中でも、最も劇的
な事件といわれる「カノッサの屈辱」であった。 教皇は破門を解く旨を伝え、ローマに戻っていった。 しかし、これでグレゴリウス 7 世の勝利が決定したわけではなかった。ハインリヒ 4 世
は危機を脱すると巻き返しにかかり、ドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧し王権を
確立した。その後、再び叙任権をめぐって両者は争ったが、今度はハインリヒ 4 世は武力
に訴え、軍勢を率いてイタリアに乗り込みローマを包囲した。教皇は辛くも包囲を脱出し、
1085 年にサレルノで客死した。結局、武力がものをいった。 この叙任権をめぐる争いは、その後も約 50 年にわたって尾を引くことになったが、1122
年になってハインリヒ 4 世の後を継いだ皇帝ハインリヒ 5 世と教皇カリストウス 2 世のあい
だでウオルムス協約が結ばれ、ようやく終結することになった。この協約においては、聖職
叙任権は教皇が有するが、教会の土地、財産などの世俗的な権利は王が授封するという妥
協が成立した。要するに、司祭は教皇によって叙任されるが、世俗的な封建君主としての
側面では国王の大権に従うというもので、ヴォルムス協約は、巧みな棲み分けを定めたの
である。 いずれにしても、グレゴリオ 7 世の先駆者としての意義は非常に大きなものであった。
あとに続いた歴代の教皇たちも、グレゴリオ 7 世ほど強硬な姿勢はとらなかったものの、
着実にローマ教皇の権力を強化していったからである。 《北方十字軍と異教徒のキリスト教化》 改革派の教皇ウルバヌス 2 世(在位:1088~1099 年)が 1095 年 1 月に十字軍を呼びかけ
たのは、クレルモンで行われた教会会議のことであった。一般に十字軍といえば、異教徒
(イスラム教徒)に支配されているエルサレムを奪還する聖なる行動だったといわれてお
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
り、その面の十字軍については、イスラムの歴史で詳細に述べるので(第 1 回から第 8 回
十字軍まで)、ここではくりかえさない。 ただ、このクレルモンの教会会議では、その前に、私戦つまりフェーデの制限を決議し
ていた。その決議の第 1 条は、聖職者、修道士、女性に対する武力攻撃を破門によって禁
止するというもので、これは通例「神の平和」と呼ばれていた。この時代は武力、暴力が横
行していた。暴力が暴力を呼び起こし、それが繰り返されていた。 そこで、血を流すことができるのは、「俗」としての騎士だけであり、騎士は、神の平和
のもとで聖職者や武器をもたない者たちに暴力をふるわないことを誓約させた。暴力を向
けることのできる対象は、平和の違反者だけだった。「聖」の観点から、平和に違反する者
と神の敵に向けられる武力行使だけが正当とみなされた。このとき「神の敵」の神とはキリ
スト教の神で、それと異なる神をもった人々(異教徒)は、すべて敵となってしまう。 この論理を声高に叫んだのが、第 2 回十字軍の指導者、クレルヴォー修道院長ベルナー
ル(1090~1153 年)であった。彼は、およそ相手が異教徒であれば、どの地であれ、これ
を殺し土地と財産を奪うことが許される、という立場をとり、北の異教徒への攻撃を十字
軍と認定したのである。 ということで、1147 年にはじまる第 2 回十字軍にドイツ国王のコンラート 3 世(国王在
位:1138~52 年)とフランスのルイ7世は参加することにしたが、ドイツのザクセン公の
ハインリヒ獅子公やザルツヴェーデルのアルブレヒト熊伯はエルベ川とオーデル川の間に
住む北の異教徒、スラヴ人(ヴェンド人)を攻撃、征服することに固執していたのである
(図 12-10 参照)。 結局、第 3 回十字軍は三つに分かれた。その主力は東のエルサレムへ、他の部分はスペ
インに(スペインのレコンキスタのところで述べる)、そして第三の部分はザクセン人と
隣接して暮らしているスラヴ人に向けられた。 こうして北の十字軍がはじまった。このヴェンデ十字軍を指揮したハインリヒ獅子公(ザ
クセン公在位:1142~1180 年、バイエルン公在位:1156~1180 年)は、その後 1149 年に
はオルデンブルク、ラッツェブルク、メクレンブルク司教区を再建し、その地をキリスト
教化し多くのドイツ人を植民させた。さらに獅子公は、1159 年、リューベックを強制的に
入手し、翌年、司教座をオルデンブルクからリューベックに移し、ハンザ同盟の中心とな
る都市のいしずえを築いた(図 12-10 参照)。 《ドイツ騎士修道会の東方植民》 プロイセンを征服、開拓したのはドイツ騎士修道会であった。これはパレスティナへの
十字軍に参加したものを母体に 1198 年に設立され、図 12-11 のように、1225 年に始めてプ
ロイセンに進出した。教皇グレゴリウス 9 世(在位:1227~1241 年)は 1234 年の教皇勅書
989
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
で、征服されるプロイセンをローマ教皇の土地とし、それを修道会に委ねることとした。
激しい攻防が続いたが、征服は 1283 年にほぼ完了した。その過程で多数の先住プロイセン
人が殺害され、生き残った者たちも改宗し、キリスト教徒に隷属し、ドイツ人に同化させ
られた。 図 12-11 ドイツ騎士修道会の東方植民 植民はプロイセンだけでなく、ラトヴィアやエストニア、さらにボヘミア(ベーメン)
やオーストリア、ポーランドやハンガリーにまで達した。12 世紀初頭からから 14 世紀後半
までに行われたドイツ人の植民運動によって、ドイツ人の住む地域はほぼ 2 倍になった。1
万人もの農民が狭く古いドイツを離れ、鉄製鍬と三圃式農業という先進技術とともに移住
した。 ブランデンブルク(図 12-11 参照)は、このころ、ノルトマルク辺境伯、ザルツヴェー
デルのアルブレヒト伯のもとにわたり、植民とキリスト教化が推進された。今日のドイツ
北部、ポーランド北部(プロイセン)やバルト諸国一帯のキリスト教化とドイツ化が十字
軍の名のもとに大々的に武力で実現されていった。辺境領ブランデンブルクが近代プロイ
センの王家ホーエンツォレルン家のもとに移るのは、1415 年のことであった。 後述するハンザ同盟に属し、バルト海域で繁栄を誇った諸都市は、もともとは異教地帯
にあって前述した北方十字軍などによって征服・植民された地域であった。 ○大空位期(1254~73 年) 990
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1152 年に国王に選ばれたフリードリヒ 1 世(国王在位:1152~90 年、皇帝在位:1155~
90 年)は歴代神聖ローマ皇帝の中においては有能で、後世では英雄とまで呼ばれた。また、
赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、赤髭王(バルバロッサ)と呼ばれた。 フリードリヒ 1 世は安定した支配とその威信を背景に、第 3 回十字軍に参加したが、1190
年、パレスティナに向かう途上で、鎧を着たまま川に落ちるという不慮の事故でなくなっ
た。フリードリヒ 1 世の子ハインリヒ 6 世(国王在位:1169~97 年、皇帝在位:1191~97 年)
があとを継ぎ、そのあとも次々と継いでいったが、フリードリヒ 2 世(国王在位:1212~50
年、皇帝在位:1220~50 年)の死後、後継者が次々に短期でなくなり、1257 年には王位は
空になった。 その後の神聖ローマ帝国の皇帝は、12 世紀末から 4 人の選定侯によって選ばれるように
なっていたが、これも 1257 年に王位は空になった。なりたい候補は次々と出たが、有力者
の支持が得られず、ドイツに統一国王が存在しない状態が続いたので、これを大空位期
(1254~73 年)という。 ○ハプスブルク家のデビュー 大空位期に終止符を打ったのは 1273 年の選挙だった。このとき、選定侯たちは、自分た
ちよりも弱体と思われる人物を全会一致で選出した。スイスの居城ハビヒツブルクのその
名が由来するハプスブルク伯ルドルフであった。のちの神聖ローマ皇帝を世襲し、ヨーロ
ッパにハプスブルク帝国を築くことになるハプスブルクも歴史の檜舞台に始めて登場した
ときは、「ハプスブルク、誰?」からはじまったのである。 ハプスブルク家の出自はエルザス(アルザス)といわれるが、1020 年ごろ現在のスイス
地方のアーレ川とロイス川の合流点に近い小高い丘に家名の由来となるハビヒツブルク
(鷹の城)を建設し、アールガウ地方の根拠地を築き上げていた。東スイスで有力諸侯で
あったキーブルク家が 1264 年に断絶すると、キーブルク家と婚姻関係を結んでいたハプス
ブルクがキーブルクの所領の大部分を継承した。こうして 13 世紀後半以降はハプスブルク
家はスイスの一大諸侯に成長した。 国王に選ばれたハプスブルク家の当主ルドルフ 1 世(国王在位:1273~91 年)は、帝国会
議を開催し、「帝国の改革」のために諸侯に帝国財産の返還を求めた。これに従わなかった
オーストリアのオタカール 2 世を帝国追放とした。ルドルフ 1 世はオーストリアに侵入し
て彼と戦いこれを破り、オーストリアに対する権利を放棄させた。勝利をえたルドルフ 1
世は、帝国諸侯との交渉の後に、オーストリアとシュタイアーマルク、ケルンテンを長子
と次男にレーン(封土)として与え、ハプスブルク家の家領とすることに成功した。これ
は自己の家門の利益を広げるもので、ハプスブルク家の家領政策となった。 991
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ハプスブルク家はこうしてスイスからオーストリアに支配地を拡大し、オーストリアを
拠点とするようになった。ルドルフ 1 世は着実に自身の権力基盤を固めた上で皇帝位を求
めたが、これはついに実現できず 1291 年に死去した。 ルドルフ 1 世の後、ドイツ国王は、次々に異なった家系から選出された。神聖ローマ皇
帝(ドイツ王)の支配領域だったドイツとイタリアでは、近代国家の芽生えを予感させる
ような動きはまだ何も起こっていなかった。むしろその逆にますます地方分散的な傾向が
強まっていた。神聖ローマ皇帝の地位は、14 世紀には、かつてもっていたような重要性を
完全に失っており、(10 世紀以降、ドイツ王がローマで戴冠して神聖ローマ皇帝となる原
則が確立していたが)、ドイツ王がローマにおもむいて皇帝としての戴冠を強行したのは、
1328 年のルートウィヒ 4 世が最後であった。 この時期は、出身母体の異なる国王を選出し続けたので、「跳躍選挙」の時代と呼ばれる。
その選挙の時代もカール 4 世の金印勅書とともに終わった。カール 4 世が強力だったから
ではなく、その逆で選挙侯が危惧した中央集権的皇帝の進出する危険性が遠のいたからで
あった。 ○金印勅書と領邦 神聖ローマ皇帝に選ばれたカールは、ボヘミア王カレル 1 世(在位:1346~1378 年)であ
り、神聖ローマ皇帝としては、カール 4 世(在位:1355~1378 年)であった。カール 4 世は
神聖ローマ帝国の最高法とも言える金印勅書を発布したことで有名である。これにより、
大空位時代より続く帝国内の混乱を収拾しようとしたのである。 金印勅書とは、1356 年にニュルンベルクで開催された帝国議会において発布された帝国
基本法であり、全 31 章からなっていた。勅書に黄金の印璽が用いられたことから、通例、
金印勅書といわれる。その最も重要な第 2 章では、ドイツ王(戴冠後は神聖ローマ皇帝)
の選挙権を、7 人の「選帝侯」(マインツ、ケルン、トリールの大司教と、ライン宮中伯、ザ
クセン大公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王)に与えることを定めたもので、さら
にその 7 人の選帝侯にはそれぞれの領地内において、ほぼ完全な支配権を認めるという内
容であった。 この勅書によって選帝侯の特権を大幅に認めたため、ドイツの領邦の自立化はいよいよ
決定的なものとなった。この領邦高権はのちにほかの帝国諸侯にも認められ、帝国諸侯は
それぞれ独立性の高い領邦君主となった。 この金印勅書により、確かに帝国は安定期に入った。また、カール 4 世は外交において
もフランスやポーランドとの国境問題を解決し、1377 年には教皇のアヴィニョン滞在(捕
囚)に終止符を打ってローマ教皇をローマに帰還させるなど、政治や外交においてはそれ
なりの成功を収めた。 992
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
カール 4 世は優れた文化人でもあり、その治世に本拠であるボヘミアでは、首都プラハ
に帝国最初の大学・プラハ大学が創設された。プラハは学問文化の都市として発展し、ヨ
ーロッパ屈指の文化都市として栄華を極めた。 ○帝国自由都市とハンザ同盟 中世後半になると商業、手工業、遠隔地交易の発展から都市が発達してきた。しかし、
都市は当初、安全ではなかった。都市は、異教徒やフェーデ(私闘)における敵方の略奪
の対処だっため、防衛のために外壁を築いた。都市の領主(国王や司教)は、そのための
特許状を与えた。 外界から遮断され、戦うことで絆を強めた都市の人々は、誓約によって仲間となり市民
となった。彼らはその支配者に租税を払い、とくに東部では防衛の最前線で支配者の敵と
戦った。やがて市民は更に自立し、支配者その人と争い、自治の権利を勝ち取っていった。
「都市の空気は自由にする」といわれるように、都市に参入する者は、隷属民であっても、
原則として 1 年と 1 日で自由を獲得した。 都市の自治の担い手は商人、とくに遠隔地交易に従事した商人のギルドだった。彼らの
なかの有力者は 13 世紀になると貴族化し、都市を代表する市長や市参事会員となって都市
を支配した。 中世都市の最大の特色は、この自治にあった。ドイツでは、司教や領邦君主から自治権
を得た都市は、帝国自由と呼ばれ、従うのは皇帝の権威だけであった。とくにリューベッ
ク、アウクスブルク、ニュルンベルクなどの大都市は独自の裁判権、戦争と講和の権利を
実行し、領邦諸侯と同様の地位を得た(図 12-10 参照)。ちなみに都市の人口は一般に 1000
人ぐらいだったが、ドイツ最大の都市ケルンは 13,14 世紀には 4 万人の人口を擁した。 帝国自由都市は、皇帝、領邦君主、聖界諸侯とともに、帝国という有機体の重要な構成
部分となった。帝国自由都市の自治権は、1489 年、フランクフルトの帝国会議で正式に認
知され、都市は帝国会議において、票数わずかに 2 票に過ぎないとはいえ、第 3 身分の議
席を獲得した。 都市は自己の利害を守るために、たがいに同盟を結んだ。北イタリアの諸都市は、皇帝
の支配と武力干渉に対抗するためにロンバルディア同盟をつくった(図 12-5 参照)。「大
空位時代」に、ライン河岸のマインツ、ヴォルムス、ケルンなどの都市は「ライン都市同盟」
を結成し、地域平和の確立を求めた。 一方、金印勅書は選挙侯や諸侯の大権を認めたが、諸侯の利益に反する都市同盟を実質
的に否定した。ドイツの諸都市はこの動きと戦ったが、結局、諸侯の武力の前には敗北し
た。ドイツにおいては、市民の自由は、イングランドのように、国政の原理にまで高めら
れることはなかった。 993
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
《ハンザ同盟》 ただ、経済的な都市同盟であったハンザ同盟だけは、例外的に成功し成長を遂げた。ハ
ンザという言葉は、中世ドイツ語でギルドとか仲間という意味で、もともとは商人仲間の
互助会だった。ケルンの商人がロンドンで 1157 年にギルドホールをつくることを認められ
たのが始まりで、これが都市同盟に発展したのがハンザ同盟であった。 13 世紀のバルト海は、毛織物、塩、海産物、琥珀、毛皮などの国際的交易でにぎわって
いた。1280 年代にハンザ同盟が完成した。リューベック法を母法とした都市は 100 を超え、
1358 年にはリューベックにハンザ同盟の本部が、1373 年には控訴裁判所が設置された。 ハンザ同盟の加盟都市の数は、15 世紀には 160 あったといわれているが、主要な都市は
70 ほどだった(図 12-6 参照)。ロンドン、ブルージュ、ベルゲン、ノヴゴロドに商館を
置き取引の便宜をはかるとともに、商行為のための外交活動をも行った。通商や外交だけ
ではなく、一定の軍事力も持っていた。デンマークのヴァルデマル 4 世とハンザ同盟が敵
対した 1368 年、ハンザ同盟はデンマークを破り、ハンザのバルト海における覇権を認めさ
せた。その実力はあなどりがたいものだった。 しかし、新航路の発見とオランダの興隆そして 30 年戦争の被害などのために、ヨーロッ
パの経済が重商主義や国民経済へと大きく転換し始めると(それはもう中世ではなく、近
世に入っていたが)、ハンザ同盟は衰退していった。ハンザ同盟の最後の総会が開かれたの
は 1669 年だった。 ○大シスマ(教会分裂) ローマ教皇庁は、1309 年以来フランスのアヴィニョンにあったが、1377 年にグレゴリウ
ス 11 世がようやくローマに戻り、翌年ウルバヌス 6 世がローマ教皇に選出された。ところ
が、一部の枢機卿団はアヴィニョンに教皇を立てたため、教会分裂がこの年から始まった。 1409 年にはピサの公会議で収拾しようとしたが、別の教皇が選出され、同時に 3 人の教皇
が鼎立することになった。これを大シスマ(教会分裂、1378~1417 年)という。 ○ジギスムントとコンスタンツ公会議 カール 4 世の次男であるドイツ王ジギスムント(国王在位:1410~37 年、皇帝在位:1433
~37 年)は、ローマ教皇ヨハンネス 23 世を促して、コンスタンツに公会議を開かせた。こ
の公会議は 1414 年から 1418 年にかけてドイツのコンスタンツで開催され、3 人の対立教皇
を廃し、1417 年に 1 人の正統なローマ教皇マルティヌス 5 世を立てることで教会大分裂(シ
スマ)を終結させた。 また、この公会議には、もう一つの重要な論点があった。公会議はウィクリフ、フスの
教説を異端思想と断定した。 994
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ウィクリフ(1320~1384 年)はイギリスのオックスフォード大学の教授であり、聖職者
であったが、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れている、ミサに於いてパンとワイ
ンがキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)は誤りであるなど、当時イング
ランドにおいて絶対的権力を持っていたローマ・カトリックを真っ向から批判した。 当時プラハでは教会改革派が有力で、ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した指
導者ヤン・フス(1369~1415 年)はローマ教皇による贖宥状(しょくゆうじょう)の販売
に反対していた。保守派は彼を異端として告発した。1414 年の秋、フスは危険を顧みず公
会議に出席して持論を主張したが、異端と宣告され翌 1415 年 7 月に火刑に処せられた。ウ
ィクリフの遺体も墓場から掘り起こされて著書とともに焼かれた。 《フスの火刑とフス戦争》 フスの教義の核心は、ローマ教会よりも聖書により高い権威を認め、聖書に立ち返り、
予定説を信奉し、教会に清貧を求めるものだった。フスの処刑は、より急進的なフス主義
を立ち上がらせた。1420 年、ドイツ王ジギスムントの率いる十字軍が派遣されプラハを襲
撃した。しかし十字軍が敗北した。その後も十字軍が 4 度派遣されたが、負け続けた。つ
いに教皇も妥協を余儀なくされ、バーゼルで公会議が開かれ、1436 年、バーゼル協約によ
って妥協を成立させ、フス戦争(1419~36 年)はおさまった。 十字軍の敗北、フスの異端、異端をめぐる論争は、新しい時代の到来を予告するものだ
った。それは本格的な宗教改革の時代が近づいていることを知らせるものだった。 《オスマン軍の脅威》 ドイツ王ジギスムントがコンスタンツで公会議を開催し、シスマや異端を取り除こうと
思ったのは、もう一つの敵、オスマン帝国が迫っていたからであった。オスマン帝国のヨ
ーロッパ侵略に対抗する方策を模索していたのである。1396 年にニコポリス(ブルガリア
北部の町)でオスマン軍と戦って完敗したジギスムントにとって、それは焦眉の課題であ
った。 ジギスムントのあとを継いだハプスブルク家のアルブレヒト 2 世(在位:1438~39 年)は
2 年で病死し、その後はフリードリヒ 3 世(国在位:1440~93 年、皇帝在位:1452~93 年)
が継いだ(以後、ハプスブルク家がドイツ王位につくようになった)。 1444 年、ハンガリー王とポーランド王をかねたヴワディスワフ 3 世が 4 万の兵を擁した
十字軍を自ら率い、オスマン軍とヴァルナ(ブルガリア北東部の町)で戦ったが、国王と
もども殲滅され、東方への最後の十字軍となった。1453 年にはコンスタンティノープルが
陥落して、東ローマ帝国はついに滅亡した。 ところがハプスブルク家の皇帝フリードリヒ 3 世はオスマン軍どころか自分の故地が危
機に瀕してしまった。彼は 1463 年にオーストリアを入手したが、東のハンガリー国王マー
995
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
チャーシュと対立し、その攻撃を受けて 1485 年にウィーンを占領され、マーチャーシュが
没する 1490 年までウィーンに戻ることができなかった。フリードリヒ 3 世はドイツの諸侯
に救援を求めた。ドイツの諸侯はフリードリヒ 3 世にドイツ王位を子のマクシミリアンに
譲るように迫り、1486 年、ドイツ国王マクシミリアン 1 世(国王在位:1486~1519 年、皇
帝在位:1508~19 年)が生まれた。 ○マクシミリアン 1 世の政治 マクシミリアン 1 世は、1495 年のヴォルムスの帝国議会に明確な帝国改革案を提示した。
彼は永久ラント平和令の制定、帝国最高法院の設置、一般帝国税の導入、帝国会議の整備
の 4 つの制度を柱とする帝国の改革を決定した。 《永久ラント平和令》 永久ラント平和令は、帝国を一つの法共同体と見なし、その内部における武力行使であ
るフェーデ(私闘)を全面的に禁止し、紛争の解決を裁判に委ねた。これは武力による復
讐を法秩序の内部に組み込んでいた中世的システムを根本から変革する画期的な制度であ
り、とくに騎士に対して有効だった。このラント平和令の裁判をするために、帝国最高法
院が設置された。 これらの費用は帝国によってまかなわれるので、帝国の運営費をまかなうために一般帝
国税が創設された。帝国会議の構成や審議、票決の方法が定められ、年 1 回帝国議会を開
催することが合意された。1500 年には、帝国の行政を執行するために、皇帝を筆頭として、
選挙侯、帝国諸侯、都市やクライスの代表など 20 人から構成される帝国統治院が設置され
た。 このクライスについては(帝国クライスといわれる)、説明が必要である。神聖ローマ
帝国では、図 12-12 のように、帝国を複数の帝国等族を包含した 10 のクライス(郡)に
分け、ラント平和(地域内の治安維持)にあたることにした。平和破壊活動(一揆、暴徒
化した傭兵、諸侯の侵略行為など)の規模に応じ、隣接するクライスと共同でその平定に
あたるというものであった。帝国クライスの治安維持活動により、弱小等族単独では対応
が困難であった大規模な平和破壊活動に対処することが可能となり、いたずらな戦禍の拡
大を防げるようになった。また、クライス会議を通じて地域行政の調整を行うことで、帝
国の連邦的性格を決定づけた。 この帝国クライス制度は、いわゆる「アウクスブルクの宗教和議」
(後述)が成立した 1555
年のアウクスブルク帝国議会で審議され、発令された帝国執行令で一応の完成を見た。し
かしこの制度は、帝国等族と皇帝の中間で機能するシステムであり、両者の力関係から、
その位置づけは帝国執行令以前も以後も、時代と共に変遷している。 996
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-12 帝国クライス地図 たとえば防衛は、創設時にはその管轄外であったが、帝国末期には防衛も担うようにな
った。特にフランスに隣接する地域では、ハプスブルク家の私兵と化した帝国軍に代わっ
てクライス軍が帝国防衛の主戦力となった。 なお、「クライス(Kreis)」という言葉は、現在も行政単位として用いられており、日本
語では一般に「郡」と訳されている。 永久ラント平和令の話に返る。この改革の永久ラント平和令は「法と秩序」を帝国の全域
に浸透させることに成功したし、帝国最高法院は 1806 年の帝国消滅まで活動し続けた。し
かし失敗したのは行政であった。諸侯は帝国に独自の軍隊も独自の収入も与えず、もとも
と帝国統治院を機能させようとは思っていなかった。イングランドやフランスでは君主親
政による絶対主義的国家形成がはじまりつつある時代に、帝国と皇帝は分離し、権力の機
能はますます分散していった。 ○ハプスブルク家の隆盛 このマクシミリアン 1 世以降、オーストリアのハプスブルク家が、神聖ローマ皇帝の座
を独占し、隆盛を極めていくことになった。その後、1806 年に神聖ローマ帝国が解体する
まで、ハプスブルク家はほぼ途切れることなく帝位を継承し、さらには神聖ローマ帝国が
解体した後でさえ、同家はオーストリア帝国の皇帝として、さらに 100 年間君臨し続ける
ことになった(第 1 次世界大戦での敗戦まで)。 ハプスブルク家が強大な権力基盤を手に入れた最大の理由は、その有名な婚姻政策にあ
った。マクシミリアン 1 世は、ヨーロッパ全域にわたって広大な領域をハプスブルク朝の
997
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
もとに集中する仕組みを作り上げた。ハプスブルク家によって、はじめてドイツと中央ヨ
ーロッパに政治的統一が確立される可能性が生まれたのである。その後も各地に分散され
た領地を一つに統合しようとするハプスブルク家の野望が、ドイツとヨーロッパに大きな
影響を与えていくことになった。 マクシミリアン 1 世は 1519 年に死去したが、その後継者となったのは、彼の孫でスペイ
ン国王のカルロス 1 世で、ドイツ国王に選出され、カール 5 世(国王在位:1519~56 年、皇
帝在位:1530~56 年)となった。そのときは近世の大航海時代に入っていた。 【12-1-6】中フランク王国とイタリア ○中部フランク王国 中部フランク王国は、カール大帝の息子ルートヴィヒ 1 世の死後、843 年、図 12-2 のよ
うに、ヴェルダン条約によって帝国の等価的 3 分割が実現したこと、それが、870 年メルセ
ン条約で、図 12-2 のように、ロタリンギアは東フランクに、プロヴァンスは西フランクに
組み込まれ、中部フランクイタリアのみの領有になってしまったことは述べた。 東フランク王国のカール 3 世(在位:876~887 年)は、相続によって皇帝とイタリア国
王の称号を獲得したのみならず、西フランク国王のあいつぐ急死によって、西フランク国
王の称号も獲得し、一時的に、フランク帝国の再統一が実現した。しかしカール 3 世は国
難となったノルマン人をフランス北部から撃退するのに失敗したので、887 年、東フランク
王国の諸侯は無能な国王カール 3 世を廃位にした。 ○独立イタリア王国の時代(888~962 年) このため、イタリア王位も空席となったので、イタリア王国では、888 年、女系でカロリ
ング家の血を引くフリウーリ公ベレンガーリオ 1 世(在位:888~924 年)がトレント(ト
リエント)で選出された。この 888 年から、オットー大帝がこの王国を神聖ローマ帝国と
結合した 962 年までの間を独立イタリア王国の時代という。 中部のスポレート公領を含むイタリア王国では、カロリング朝が断絶すると、王位は各
地で自立した諸侯たちに妨害されて安定せず、国内は混乱をきわめたので、強力な東フラ
ンク国王の支配を直接間接に受けるようになった。 ○神聖ローマ帝国のイタリア北部支配 オットー大帝が 962 年に神聖ローマ帝国の一部としてイタリア北部を支配した(図 12-13
参照)。その後も国王になるだけの実力をもつイタリア諸侯は存在しなかった。ドイツの
コンラート 2 世は 1026 年、イタリアに遠征して、イタリア国王に即位し、翌年、ローマで
皇帝戴冠を挙行した。こうして従来のように神聖ローマ皇帝のイタリア支配が継続される
ようになった。 998
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-13 西暦 1000 年のイタリア ○イタリア南部 以上は主としてイタリア北部の状況であったが、イタリア南部は別の動きがあった。 イタリア王国以外のイタリアはどうなったかをみると、まず東ローマ帝国の領域が縮小
した。ラヴェンナ・ローマ枢軸地帯はフランク王国のカール大帝によってローマ教会領に
なった。北部のヴェネツィアは、812 年、東ローマ皇帝とカール大帝が締結したアーヘンの
和約で、東ローマへ帰属することになった(図 12-13 参照)。ここからヴェネツィアは別
の歴史を歩むが、これは後述する。 図 12-13 のように、イタリア南部のガエータ、ナポリ、アマルフィの 3 都市は実質的に
はそれぞれ独立した。 《シチリア島のイスラム化》 アラブはスペインを征服しただけでなく、ヨーロッパの対岸のアフリカとイベリア半島
はすでにイスラム一色だった。シチリアは、909 年以降はエジプト・ファーティマ朝の支配
下になり、サルデーニャ、コルシカもイスラム化された(図 12-13 参照)。 イタリア半島南部には、イタリア王国から独立したランゴバルド系のベネヴェント公国
があったが、839 年に解体してベネヴェント侯国とサレルノ侯国とカプア侯国の鼎立状態に
なった。このようなことで、西暦 1000 年ごろのイタリアは図 12-13 のようになっていた。 《1000 年前のローマ帝国中心地域は、辺境の地になった》 999
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
古代のローマ帝国時代には(たとえば、1000 年前の紀元元年ごろ)、まさにイタリアを
中心に地中海地域がその周辺世界を支配する構図であったが、中世においては、イタリア
の北部・中部は、イタリア王国にせよ、教皇領にせよ、東フランク王国(神聖ローマ帝国)
の政治的影響力のもとにおかれ、南部は東ローマとイスラムの支配下におかれようになっ
た。かつてローマ地中海帝国の中心であったイタリアは、地中海が政治的に東ローマ世界、
イスラム世界、西ヨーロッパ世界に分裂した結果、この 3 つの世界の境界が接する辺境の
地になってしまった。 《ノルマン朝シチリア王国》 その後、イタリア南部では、ノルマン人のロベール・ギスカール(1015~1085 年)の兄
弟が南イタリア及びシチリア島を征服して、ここに南イタリア、シチリアにおけるノルマ
ン人の覇権が確立した(図 12-13 参照)。 《ホーエンシュタウフェン朝のシチリア王国》 1194 年、シチリア国王タンクレーディの死後、神聖ローマ皇帝ハインリヒ 6 世はピサと
ジェノヴァの支援をえて遠征し、パレルモでシチリア国王に即位した。ここにノルマン朝
は終焉し、シチリア王国は、ホーエンシュタウフェン家出身の神聖ローマ皇帝を国王とし
てもつことになった。 ○北部のイタリア王国=画期的な自治都市国家群 以上述べたように、イタリアの中世においては、一貫して強力な(専制)国家が形成さ
れなかった。それが結果的に自由な自治都市国家群をつくりだすことになった(つまり、
これはヨーロッパ、イスラム、中国に共通していえることであるが、強力な専制国家では
自由な都市市民は生まれないし発展もしなかったということである)。 11 世紀初頭になると、イタリア中部や北部の都市、とくにヴェネツィア、ミラノ、フィ
レンチェなどが海運や商業によって繁栄するようになり、名目上は神聖ローマ帝国の傘下
にありつつも、実質的には独立した政治権限をもつ都市国家へと発展した。その政治形態
であるコネームはイタリア語で共同体を指す語である。フランス語のコミューンと同じよ
うである。イタリアの中世、近世には自治都市の都市共同体が出現し、コネームと呼ばれ
たが、これは都市の有力市民、地区やギルドの代表によって運営され、その都市とその郊
外農村地域を統治していた。 1162 年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ 1 世はミラノを征服し破壊したが、1164 年再び皇
帝がイタリア遠征をすると、ヴェローナ、ヴェネツィア、パドヴァ、ヴィチャンツァがヴ
ェローナ都市同盟を結成して皇帝に反抗した。1166 年、皇帝の次の遠征に当たり、同盟は
拡大して、図 12-5 のように、ミラノや中部の都市を含む「ロンバルディア都市同盟」が結
成された。1176 年、皇帝軍と同盟軍はレニャーノで決戦を行い、皇帝軍が大敗した。 1000
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1183 年、皇帝と同盟が締結した「コンスタンツの和約」では、事実上、同盟都市にはレ
ガーリア(皇帝の権利)の自由な行使が承認された。間もなく、トスカーナの都市も同様
に権利をえた。ここに、イタリア北部・中部の各地では、コムーネが都市の支配を確立し、
市民の支配する都市国家が成立した。図 12-14 に 13 世紀前半のイタリアの状況を示すが、
半島南部がシチリア王国、中部に教皇領、北部が神聖ローマ皇帝が治めるイタリア王国と
いう建前であるが、実質的には自治都市国家群というイタリア独特の政治形態ができてい
た。 図 12-14 13 世紀前半のイタリア 自治都市国家もその具体的な政治形態にはいろいろあったが、また、同じ都市でも共和
政から君主政に変ったり、また、その逆もあった。前述したように,中世の世界中は専制
君主制の政治体制のなかにあったが、神聖ローマ皇帝下のイタリアという辺境の地に、ぽ
っかりと新しい政治体制の空間が出来ていった。これは歴史的に大きな意義があり、のち
にルネサンスを生み出すもととなった。南イタリアを別にすると、イタリアに存在した国
の多くは共和政の国家であった。なかでも繁栄をきわめた共和国が、ヴェネツィアとジェ
ノヴァ、そしてフィレンツェだった。 ○中世イタリアの商業 イタリアの北部都市群が自治権や政治力を獲得していったのは、なによりも経済力をつ
けていったことが,基礎にあった。イタリアは政治的には分裂していたが(それが強力な
専制君主国を生まないので商業にとっては幸運だったともいえる)、ローマ帝国以来、地
中海世界の中心にあり、地の利を得ていることには変わりはないのだから、人類の叡智し
だいで発展するのは当然でもあるともいえた。 1001
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
中世のイタリアの特徴は商業の発展にあった。東西の交易活動によって、最大の経済的
利益を受けたのは、まずはヴェネツィア共和国だった。正式には東ローマ帝国の属領だっ
たヴェネツィアは、浅い潟(ラグーナ)に浮かぶ多数の小島が、多くの橋でつながれてで
きた水上の町であった。こうした地理的な条件のおかげで、彼らはヨーロッパ本土を襲っ
たさまざまな苦難とも、長い間、無縁でいることができた。すでに 5~6 世紀のころから、
ヴェネツィアの島々はゲルマン人の侵略から逃れるための格好の避難場所になっていた。 ヴェネツィアの立地条件は、人々に安全を保障してくれたばかりでなく、都市共和国と
しての運命を決定づけることになった。ヴェネツィア市民はイタリア本土に土地をもつこ
とが禁じられていたため、海に乗り出し、商業帝国を建設するしかなかった(しかし 14~
15 世紀になると陸上開発にも力を入れ、領域国家として発展していった)。その結果とし
てヴェネツィアは、ヨーロッパ初の交易都市となっていったのである。 ヴェネツィアは、1082 年、海上支援の見返りに東ローマ帝国における免税特権を得、そ
の商人は、帝国本土の商人よりも有利な地位を得たので、海上交易が大いに発展した。 東ローマ帝国のところで述べるようにヴェネツィアは交易都市として、東ローマ帝国の
富の略奪にもっとも成功した都市であった。1204 年、第 4 回十字軍の参加者が旧東ローマ
帝国領を分割したとき、ヴェネツィアはその「8 分の 3」を得たが、そこには未征服の土地
も含まれていた。たとえばクレタ島支配の権利をある諸侯から購入し、この島を征服した。 図 12-15 のように、クレタ島を含め東地中海の海外領土を得て、その土地を商業拠点と
したのみならず、食料および原料の産地としても開発した。ヴェネツィアの貴族は、ほぼ
すべてが海上商人であり、協力して広大な海外領土を運営したので、団結が強かった。13
世紀には貴族からなる大評議会がコムーネの権力をほぼ独占していた。 図 12-15 中世後期におけるヴェネツェアとジェノバの領域 1002
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1290 年代には東地中海の覇権をめぐって、ジェノヴァと長期にわたって争い、最後には
勝者となった。とはいえ東方との地中海貿易の復活は、ヴェネツィアだけでは独占しきれ
ないほどの利益をもたらし、ジェノヴァやピサ、またイベリア半島のバルセロナなど、多
くの都市が繁栄を謳歌することになった。 イタリア王国都市のジェノヴァとピサは、11 世紀初期以降、連合してティレニア海から
ムスリム(イスラム)を駆逐した(図 12-15 参照)。これらのイタリア海港都市は、十字
軍を契機に地中海での覇権を確立したことにより、十字軍国家はもちろん、東ローマ帝国
やイスラム諸国でも、商業における有利な立場を得た。 航海技術も向上し、イタリア船舶は、イングランドやフランドルにも恒常的に航海する
ようになった。ヴェネツィアでは、14 世紀に、国家所有のガレー商船団が定期的に特定市
場との間を往復する制度が成立した。行き先は黒海、エーゲ海、シリア、エジプト、イギ
リス、フランドルであったが、15 世紀には、南フランス・バルセロナ、マグリブ(北西アフ
リカ)、バレンシア(イベリア半島東岸)、北東アフリカ一帯が加わった。 海上商業に比べて、イタリアの内陸商業は遅れたが、農業復興により、内陸都市が発展
し、内陸商業も拡大した。内陸商業も、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサのある北部・中部
では、海上商業の刺激を受けて発展が加速した。 イタリア商業は 13 世紀に大きく発展した。まず商業圏が拡大した。レコンキスタ(イベ
リア半島におけるイスラム教徒追討作戦)とともに、同世紀末には、ジブラルタル海峡を
支配し、イタリア商人は、イベリアとの商業を拡大し、直接・間接にマグリブ(北西アフリ
カ)との商業にも進出し、地中海から北海まで直接に航海するようになった。フィレンツ
ェ商人は、イングランドでユダヤ人に代わって国王の金融業者となった。 北西ヨーロッパでも、イタリア商人の活動が活発となった。1215 年、教皇インノケンテ
ィウス 3 世は、第 4 回ラテラノ公会議で、十字軍遠征のために多額の教会税の徴収を決定
したが、イタリア商人は人口と経済の発展が急速な北西ヨーロッパで、やがて教皇の徴税
人としての地歩を確立した。徴税人となったのは、トスカーナを経由してシャンパーニュ
方面(フランスの北東部、パリ盆地の東部)に向かう「フランス街道」沿いの内陸都市の
商人であった(図 12-6 参照)。 このイタリア商人は、ユダヤ人金融業者を駆逐しつつ、アルプス以北の国王や聖俗領主
に融資し、見返りに得た商業特権により、北西ヨーロッパでの商業の規模と範囲を拡大し
た。1293 年、パリの納税者(貴族と聖職者は免税)の番付では、上位 6 人のうち、1 位を含
む 5 人がイタリア商人であった。 《経済力と軍事力の関係》 1003
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
イタリア北部・中部の都市は、このような経済活動により、多数の人口と巨大な富を得た。
中世人口の頂点となる 1300 年前後、8 万人ないし 10 万人以上の人口を持つヨーロッパ都市
は、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、それにパリだけであった。1338
年ころ、フィレンツェの財政収入は、ナポリ王国、シチリア王国よりも多かったという。 都市国家の軍制は、13 世紀から 14 世紀にかけて、民兵制から民兵・傭兵混合制をへて傭
兵制へと漸次的に移行した。経済活動が大規模かつ複雑になり、市民が恒常的に経済活動
に束縛されたことが、兵役を耐え難いものにする一方、都市国家の豊かな財政が傭兵の雇
用を可能にしたのである。戦闘技術の高度化、市民内部の分裂や分解も、民兵制の維持を
困難にした。いずれにせよ、傭兵制の確立によって、経済力のあるイタリア北部・中部の大
都市は、独力で強大な軍事力を持つことが出来るようになった。 ○皇帝派と教皇派の争い イタリアの政治に返るが、その後も、神聖ローマ帝国のフリードリヒ 1 世をついだハイ
ンリヒ 6 世(皇帝在位:1190~1197 年)のホーエンシュタウフェン朝が積極的にイタリア政
策(「イタリア王」としてイタリアを支配しようとする)を進めたため、これを支持する
都市や貴族が皇帝派(キベリン)、これに対抗して教皇の支持を求めた北イタリアのロン
バルディア同盟などの都市が教皇派(ゲルフ)と呼ばれた。 北イタリアにおいて戦いを繰り返した。これは 12~13 世紀、ずっと続き、その経緯はき
わめて複雑であるのでここでは詳細は省くが、14~15 世紀になるとギベリン、ゲルフは本
来の意味から離れ、対立する都市間の争いや都市内の派閥抗争における両勢力の便宜的な
分類として用いられるようになった。 皇帝によるイタリア統一を危惧したローマ教皇クレメンス 4 世は、フランスに助けを求
めた。フランス国王・ルイ 9 世は王弟のシャルル・ダンジューを送り込んだ。 1266 年、ダンジューは、ローマ教皇からシチリア王カルロ 1 世として戴冠され、教皇の
承認を得て十字軍を称してイタリアに進撃し、ホーエンシュタウフェン家を完全に滅亡さ
せ、南イタリアの支配に成功した。ホーエンシュタウフェン朝は断絶し、神聖ローマ帝国
は大空位時代を迎えることになった。 ○カペー系アンジュー朝シチリア王国 これにより、シャルル・ダンジューはシチリア王カルロス 1 世(在位:1266~1282 年。の
ちナポリ王(在位:1282~1285 年))となり南イタリアを支配した。これでシチリア王家は
ホーエンシュタウフェン家からカペー系アンジュー家(アンジュー=シチリア家)に移っ
た。ここで、ゲルフ、ギベリンの争いも一旦ゲルフ(教皇派)の勝利により、終結したが、
間もなくシャルル(カルロス)に対抗するものがギベリンと呼ばれるようになって、争い
はなおも続いた。 1004
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
シャルル・ダンジューことカルロス 1 世は、さらに東ローマ帝国の征服と地中海帝国の建
設を夢見ていたが、フランス支配に不満をもったシチリア住民は 1282 年に起きた「シチリ
アの晩祷(ばんとう)」と呼ばれる反乱を起こし、カルロス 1 世をナポリに追放した。こ
の反乱はパレルモ住民の女性に対するアンジュー家の兵の暴行に怒った住民が暴徒化し、
シチリア全土に拡大し、4000 人のフランス系住民が虐殺されたという事件であった。たま
たま暴動が開始されたとき晩祷を告げる鐘が鳴り始めたのでこう呼んでいる。 ○アラゴン系シチリア王国 1282 年の「シチリアの晩祷」の反乱でフランス勢力を一掃したシチリア各地の有力者は、
教皇の宗主権のもとで自治都市の連合体を形成する許可を請願したが、教皇に拒否され、
やむなくイベリア半島のアラゴン(連合王国)国王ペドロに保護を求めて王位を提供した。
アラゴン王ペドロ 3 世はマンフレーディ(1266 年にシャルル・ダンジューに倒されたホーエ
ンシュタウフェン家のマンフレーディ)の娘婿であった。 このころアラゴンは図 12-16 のように、アラゴン、バルセロナ伯国、バレンシア王国、
マリョルカ王国、サルデーニュ王国などのゆるい連合王国であった。1282 年、ペドロはパ
レルモで国王に即位し、これ以後アラゴン王家の分家が代々シチリアを支配することにな
った。シャルル・ダンジューの兵力が温存されたイタリア半島南部の征服はできず、半島側
はナポリ王国と呼ばれることになった。ここに両者は海峡を挟んで対立し、以後断続的に
90 年も続く「晩祷戦争」が始まった。 図 12-16 アラゴン(連合)王国の拡大 ○アラゴン系シチリア王国とアンジュー系ナポリ王国 1285 年、シャルル・ダンジューとペドロ 3 世が没した。ペドロのあとを継いだハイメは
1291 年にアラゴン国王になってしまい、シチリアはその弟フェデリーコ 2 世の系統が継承
1005
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
するとこになった。以後いろいろな経緯はあったが、アラゴン家(分家)が支配する「シ
チリア王国」とアンジュー家が支配する半島南部の「ナポリ王国」は、分裂したままで、
その後 90 年間続いた「晩鐘戦争」によって、ともに消耗していった。莫大な戦費を融資し、
商業特権をえた外国商人は、それぞれ両国の経済を支配するようになった。ナポリ王国で
は、トスカーナやヴェネツィアの商人が優勢であり、シチリア王国ではバルセロナの商人
が優勢となった。 一方、イタリア北部・中部では、1254 年から 73 年までの「大空位時代」と、その後も無
力な諸帝が続いたことにより、神聖ローマ皇帝による抑制のなくなった都市国家同士がま
すます弱肉強食の争いを展開していった。 ○スペインの属国ナポリ、シチリア、サルデーニャ王国 「晩鐘戦争」の均衡はついに破られた。アンジュー家はナポリ王国で 100 年近く続いた
が、アラゴン王国のアルフォンソ 5 世(1396~1458 年)は 1443 年に奇襲によってナポリ王
国を征服した。これによってナポリ王国はアラゴン同君国家連合体に編入され、アルフォ
ンソ 5 世が宮廷をおいたナポリは、連合体全体の政治的中心となった。アルフォンソは、
ナポリ王国とシチリア王国とを同時に支配したので、「両シチリアの王」と名乗った。 これでシチリア王国とナポリ王国は一体化した。アルフォンソ 5 世の死後はその弟ファ
ン 2 世がアルゴン本国とシチリアなどの旧来の領土を継いだが、ナポリ王国の王位はアル
フォンソ 5 世の庶子ドン・フェランテ(フェルナンド 1 世)に与えられたので再度ナポリ王
国は独立王国となった。ところが中世ヨーロッパでは私生児が君主になることは珍しく、
ローマ教皇はドン・フェランテのナポリ王位を無効とした。 これに乗じてヴァロワ朝のフランス王シャルル 8 世が 1494 年に「ヴァロワ=アンジュー
家からナポリを継承した」と主張し、イタリアに遠征した。この過程でメディチ家がフィ
レンチェから追放された。翌年、シャルル 8 世は、ナポリ王国を占領したが、教皇アレク
サンドル 6 世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン 1 世、アラゴン、ヴィネツィア、ミラノが
神聖同盟を結び対抗したため、シャルル 8 世はナポリ王国から撤退した。 1502 年、シャルル 8 世のあとを継いだフランス国王ルイ 12 世とアラゴン国王フェルナン
ド 2 世はナポリ王国の分割をめぐる対立によってイタリアで開戦し、1503 年、フェルナン
ド軍がフランス軍を打倒したので、1504 年、両者は条約によってナポリ王国のアラゴン(ス
ペイン)王国への帰属を確認した。以後、ナポリ王国は再度、アラゴン同君国家連合体の
一員になったが(図 12-16 参照)、その実体は、サルデーニャ王国やシチリア王国と同様、
イベリアに拠点をおくアラゴン国王が任命し、派遣する副王によって支配される属国であ
った。 ○イタリア 5 大国の同盟による平和 1006
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
イタリア北部のミラノでは 1447 年、市民上層を中核とする共和制が復活していたが、1450
年、傭兵隊長スフォルツァ(1401~1466 年)が武力でミラノを占領して義父のミラノ公位
を継承した。この継承に反対するヴェネツィア、ナポリ、サヴォイア、モンフェッラート
公国の同盟と、ミラノ、フィレンツェ、ジェノヴァ、マントヴァの同盟が戦った。 しかし、1453 年、オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させると、背後に深刻
な状況が出現したヴェネツィアは、1454 年 4 月、秘密裏にスフォルツァと「ローディの和
約」を締結して、公位を承認し、アッダ川をもって両国国境とした。この条約を確固たる
ものにするために、1455 年、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、教皇、ナポリによっ
てオスマン帝国の攻撃を警戒する「イタリア同盟」が結成された。 図 12-17 のように、この同盟を結成した 5 ヶ国は当時のイタリアの 5 大国であるといえ
よう。イタリアの大国同士の覇権闘争は終わり、以後 40 年にわたって、5 大国の勢力均衡
という現状の維持を原則とする相対的に平和な時代が出現した。この 25 年期限の防衛同盟
は、数回更新され、1480 年のオスマン帝国軍のオトラント(イタリア半島南端。図 12-17
参照)上陸に対しては効果を発揮したが、領土をめぐる教皇とヴェネツィアの対立、教皇
とフィレンツェの対立など同盟内部に緊張がなかったわけではない。 図 12-17 1454 年の『ローディの和約』当時のイタリア 5 大国 しかし、もはやイタリアでは、神聖ローマ帝国(イタリア王国)は現実の意味を完全に
喪失していた。そこにあるのは、皇帝権から離脱した(都市国家を超えた)領域国家、す
なわち、(本土領土を持つようになった)ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミ
ラノ公国をはじめとする諸国家であった。これに対して神聖ローマ帝国は、15 世紀の後半
から「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という意識が高まり、その領域からイタリア王国を
事実上排除し始めていた。 1007
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
イタリアで 15 世紀後半に平和が実現したのは、他方では、フランス国王、神聖ローマ皇
帝、スペイン(アラゴン)国王のような近隣強大勢力が、それぞれの国内問題に没頭し、
イタリアに介入できない状況にあったからでもあった。 ○再び大国介入のイタリア戦争の時代 フランスの国王は、百年戦争の終結以後、王権のもとに国内各地を確保することに努力
していた。それが一段落したとき、国王シャルル 8 世は、1494 年、イタリアに遠征し、翌
1495 年、ナポリを占領したことは述べた。フィレンツェではメディチ家が追放され、ナポ
リ国王はシチリアに逃走した。ここにイタリアの平和は崩壊し、近隣の大国同士が再びイ
タリアの覇権を求めて 1559 年まで断続的に闘争する「イタリア戦争」が始まった。 シャルル 8 世のナポリ占領に対して、1495 年 3 月、教皇アレクサンデル 6 世は、ヴェネ
ツィア、ミラノ、さらにスペイン、神聖ローマ帝国と反フランス同盟を結成した。フラン
スのシャルル 8 世は、7 月、この同盟との戦闘に敗北し、11 月、包囲を恐れてイタリアか
ら撤退した。 シャルル 8 世を継承したフランス王ルイ 12 世(在位:1498~1515 年)は、1499 年、ミラ
ノを占領した。以後、二転三転する同盟関係のなかで、ミラノ公国をめぐって、フランス
国王、スフォルツァ家、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝の 3 者が争奪戦を展開し、
ついに 1535 年、ミラノ公国はハプスブルク家領に編入された。この間にミラノ公国は大国
の地位から転落した。 1504 年、ルイ 12 世は、スペイン国王との条約で、ナポリ王国のスペイン王家への帰属を
承認した。スペインの属領となったナポリ王国も大国の地位を喪失した。フィレンツェは、
シャルル 8 世の遠征を契機にメディチ家が追放されて以来、政権が安定せず、その地位は
低下する一方であった。1513 年、メディチ家出身の教皇レオ 10 世が即位すると、前年フィ
レンツェに帰還していたメディチ家の当主(教皇の甥)ロレンツォ 2 世は、この教皇に従
属した。 5 大国のうち、大国の地位を保持したのは、ヴェネツィアと教皇国家だけとなってしまっ
た。しかし、そのヴェネツィアの地位も 1509 年、アニャデッロの戦いでフランスに大敗し、
その本土における領域支配が一挙に瓦解した。教皇は、イタリア北部におけるフランス勢
力の拡大を恐れ、1511 年、ヴェネツィアおよびスペインと共にフランスに対抗する「神聖
同盟」を結成した。 1513 年、教皇ユリウス 2 世が没した。1515 年、フランスのルイ 12 世を継承したフラン
ソワ 1 世は、この教皇の死に乗じてヴェネツィアと同盟し、スフォルツァ家にマリニャー
ノの戦いで大勝して、ミラノを一時回復した。イタリアに介入するのは大国であるフラン
1008
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ス国王、神聖ローマ皇帝、スペイン国王となったが、スペイン国王と神聖ローマ皇帝とを
兼位する人物が出現し、その前には教皇の外交政策も威力を喪失してしまった。 いずれにしても、このイタリア戦争の時代はイタリア・ルネサンス、はなやかな時代で
もあり、中世のつぎの近世に記することにする。 【12-1-7】イングランド ○異民族侵入国家―ケルト、ローマの時代 島国イングランドには次々とヨーロッパ大陸から新しい民族がやってきた(日本も島国
で何段階か大陸からの人々が移ってきたことは述べた)。まず、その状況から述べること
にする。 イングランドでは、図 10-21 のように、紀元前 4000 年に農業が開始されたことは述べ
た。インド・ヨーロッパ語族のケルト人が紀元前 1500~1000 年頃に中央アジアの草原から
馬と車輪付の乗り物(戦車、馬車)をもってヨーロッパに渡来し、ヨーロッパ各地に分立し
たが(図 11-22 参照)、紀元前 400 年頃には現在のイギリスにまで広がった。 西暦 1 世紀にイングランドとウェールズはローマの支配を受け、この地方のケルト人は
ローマ化した。紀元 2,3 世紀にはブリテン島にも「ローマの平和」が維持され、ブリテン
島はその豊富な鉱産物をローマに送り出していた。 5 世紀にゲルマン人が大挙ガリアに侵入すると、410 年、ローマ帝国はブリタニアの支配
を放棄し、ローマ軍団を大陸に引き上げた。これは約 370 年にわたる「ローマン・ブリテン」
時代の終わりであった。 ○アングロ・サクソン人の侵入 ローマ人が去った後、ゲルマン人のアングロ・サクソン族の侵入は、5 世紀前半から本格
的になり、約 1 世紀半続いた。アングロ・サクソン族はイングランドに侵入し、先住民(ブ
リテン人)をその支配下においた。 イングランドには 5 世紀以降、ゲルマン人のアングロ・サクソン人と先住のブリテン人
(ケルト人)のあいだで闘争が行われたが、その中でブリテン人の英雄「アーサー王」の伝
説が生まれた(アーサー王の生存についての確証はない)。しかし、同じブリテン島でも
西部のウェールズはアングロ・サクソンの征服が及ばず、ケルトの言語が残存した。 スコットランドやアイルランドはもともとローマ人の支配すら受けなかった地域であっ
た。また、イングランド西端、コーンウオルのケルト人はアングロ・サクソンの圧迫を受け、
海を渡ってフランスのブルターニュに移住しブリトン人となった(図 11-22 参照)。 アングロ・サクソン人は、6 世紀末までには西部のウェールズを除いてブリテン島の大部
分を制圧した。こうして、彼らは「アングル人の土地」という意味の「イングランド」を形
1009
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
成した。しかし、このイングランドにおいてもアングロ・サクソン人とブリテン人との同
化・融合が進み、いわば「アングロ・ブリティッシュ体制」ともいえる状態になった。 ○7 王国時代 アングロ・サクソン人は、最初はブリテン人と同様に多くの部族国家に分かれていたが、
次第に統合して 8,9 世紀には、図 12-18 のように、「7 王国」が出現した。しかし、先住民
であるローマ系ブリテン人のなかにはウェールズやスコットランドなどの周辺部に追いや
られて独自のケルト文化圏を形成した人々もいた(図 12-18 のケルト諸族の国)。 図 12-18 7世紀の諸王国 山川出版社『イギリス史』 やがてウェセックスが頭角をあらわし、王のエグバート(在位:802~839 年)は、図 12
-19 のように、ブリテン島に侵入してきた新たな敵ヴァイキングに対し、7 王国をまとめ
ながらイングランド防衛にあたった。829 年、北方のノーサンブリア人たちが宗主としてエ
グバートを受け入れたとき、一つのまとまった国家、イングランドが成立した。 ○デーン人の侵入とアルフレッド大王 1010
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
851 年以降、ヴァイキング(デーン人)は図 12-19 ように、イングランドに激しい攻撃を
繰り返し、国土の 3 分の 2 を占領するまでになった。 イングランドの王国の中で、ヴァイキング攻撃に立ち向かって成功をおさめたのは、ウ
ェセックスで、このウェセックス王家からイングランド初の国民的英雄であるアルフレッ
ド大王(在位:871~899 年。エグバートの孫)が誕生した。 図 12-19 ヴィキングの活動 871 年にアルフレッド大王は、イングランドを支配していたデーン人の軍隊から最初の決
定的な勝利を奪った。しかし彼らを全面的に撃退することはできなかったので、彼は平和
共存の道を選んだ。ロンドンからチェスタにいたるウオトリング街道(図 12-19 参照)の
北東側の地域をデーン人の支配地として認め、そこではデーン人の法慣習が行われるのを
許した。これを「デーン・ロー地方」という。イングランドのほぼ 2 分の 1 の面積を占め
ていた。 アルフレッドの後継諸王たちは、4 分の 3 世紀をかけて「デーン・ロー地方」の再征服を行
った。王国統一の完成期はエドガ王(在位:959~975 年)のときであった。彼は、973 年戴
1011
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
冠式を行ったが、アングロ・サクソン人やデーン人双方によって「イングランド人の王」と
して認められたのみでなく、スコットランドやウェールズの王たちによっても宗主として
受け入れられた。 ○デーン人の北海帝国 イングランドに渡来していたデンマークの王子カヌートが、賢人会議に認められて、王
として即位した(在位:1016~35 年)。以後 20 年間、イングランドはデーン人によって支
配された。カヌートは、1019 年デンマーク王、1028 年ノルウェー王、さらにスウェーデン
にも支配を広げたので、イングランドはまさに彼の「北海帝国」の一部に組み入れられてし
まった。こうして、イングランドの歴史には、また新しい北欧的な要素が付け加わり、9~
11 世紀にはアングロ・デーニッシュ体制によって特徴づけられる。 そこでは、アングロ・サクソン人とデーン人が平等な地位にあり、社会の上層・下層に
おいて通婚がみられた。 カヌート王の死後、デーン人支配は終わり、前のエゼルレッド王の息子でノルマンディ
に亡命していたエドワード(在位:1042~66 年)が帰国・即位することでウェセックス王
家が復興した。しかし、エドワードには子供がいなかったため、その死後王位をめぐる混
乱は不可避となった。 ○ノルマン・コンクエスト(ノルマン人の征服) 1066 年、エドワードの死後、彼が埋葬された同日、同じウェストミンスター修道院にお
いてまずエドワードの義弟・ハロルドが即位した。すかさず、ノルウェー王ハーラルがヴ
ァイキング戦士たちを率いてイングランド北部に上陸し、都市ヨークを占領した。迎え討
つため、ハロルドは北上し、9 月 25 日、ヨーク近くのスタムフォード・ブリッジ(図 12-19
参照)でノルウェー軍を撃滅することができた。 フランスのノルマンディ公ギョームは、エドワード王の遠縁にあたり、エドワード王が
死去し、ハロルド即位の知らせで、ただちにイングランド進攻の準備を始めた。ハロルド
がヨークでノルウェー王ハーラルを破った 3 日後、ギョームは、7000~8000 人の軍勢とと
もにイングランド南部のペヴェンジに上陸した。両軍は、1066 年 10 月 14 日、ヘイスティ
ングズ(図 12-19 参照)で激突、ノルマン側の勝利となり、ハロルドは戦死した。これが
「ノルマン・コンクエスト(ノルマン人の征服)」だった。 ギョームはロンドンに入り、同年クリスマスにウェストミンスター修道院でウィリアム 1
世(征服王。在位:1066~87 年)として即位した。 ノルマン・コンクエストは、イングランド史の一大転換点であった。それは、ノルマンデ
ィをはじめとしてフランスの各地から集まってきた騎士たちによるイングランドの征服で
あり、それによって成立したのが「アングロ・ノルマン王国」であった。それまでの征服活
1012
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
動とは異なり、それは短期間、大規模、徹底的な征服活動で、旧来の支配者階級を一掃す
るものだった。 ○イギリス封建制の確立 イングランド全域を征服したウィリアム 1 世は国土全域を領有するところとなり、彼が
自分の意思どおりに臣下たちに封土を与えていけたから、ノルマン・コンクエスト後のイン
グランドでは、国王にとっての理想的な封建制が成立したといわれている。 ウィリアム 1 世は、イングランドの 5 分の 1 にもおよぶ王領地を確保し、残りは彼が自
分の意思どおりに臣下たちに封土を与えた。この過程で、国王から直接土地を授けられた
者を直接受封者、そのうちの有力者を諸侯(バロン)と呼んだ。土地を与える代償として、
ウィリアムは、彼が命じた場合には、諸侯たちは平時には年に 40 日、戦時には年 60 日、
一定数の騎士を率いて参戦することを約束させた。 征服前のイングランドでも、かなりの封建化が進んでいたが、このような軍事奉仕は行
われていなかった。こうした明確な軍事奉仕が導入されたことからも、ノルマン・コンクエ
ストはイングランドにおける封建制社会の成立を告げるものだった。 ノルマン・コンクエストは、騎士だけではなく、上位聖職者も大陸出身の人たちに取って
かわられた。支配者層が完全に交替し大きな社会的変動をもたらしたので、歴史の一大転
換点であった。 1086 年 8 月、ウィリアム 1 世はソールズベリ草原(現在のイングランド西南のウィルト
シャー州)に直接受封者だけでなくイングランドの地位あるすべての土地保有者を集めて、
国王である自分への忠誠の誓いをさせた。これは「ソールズベリ宣誓」と呼ばれている。
このとき、『ドウームズディ・ブック(最後の審判の日の書)』(土地台帳。ウィリアム 1
世は全国の徹底的な所領調査を命じていた)の原版が国王に献呈された。このことから国
王は直臣のみででなく国民全体を直接に把握しようとする意図をもつものであった。この
ほか、城郭建設・貨幣鋳造の規制や国王御料林の拡大などからも、この時期の封建王政の
集権的性格がわかる。 こうしてアングロ・デーニッシュ体制のなかで育まれた在来のゲルマン・北欧系の文化
と、新来のフランス・ノルマン系の文化が融合して、アングロ・ノルマン体制の中から、
独自のイングランド文化があらたに形成されていくことになった。その過程は、一方的な
ノルマン化の現象として、とらえるのは不十分であって、征服・移住者たちもイングラン
ドから影響を受けながら影響をおよぼしていったという相互変容の過程としてとらえられ
る(人類は歴史上多くの征服・融合の事例を経験してきているが、英仏の状況は多くの興
味深い事例の一つであろう)。 ○英仏領相続争いの始り 1013
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1087 年、ウィリアム 1 世は、長男ロベールに世襲地であるノルマンディ公領を、三男ウ
ィリアムに征服による獲得地イングランドの王位を、そして末子ヘンリには多額の金銭を
残して死んだ(次男はすでに死去)。ところが、ロベールもウィリアム 2 世(在位:1087
~1100 年)も、ウィリアム 1 世のときのように両地域を一人で支配しようとし、また、両
地域に所領をもち同様に一人の支配者を望んだ諸侯たちを巻き込んだ対立が引き起こされ
た。 ウィリアム 2 世は、ノルマンディ公ロベールが第 1 回十字軍に参加する資金を提供する
かわりにノルマンディを託され、父王と同様に、一時イングランドとノルマンディを合わ
せて統治することができたが、ロベールが帰国する直前に狩猟中の流れ矢で死亡した。 ウィリアム 2 世が狩猟場で亡くなると、一目散に王宮に戻って即位した末弟ヘンリ 1 世
(在位:1100~35 年)の王位継承には、十字軍から帰ってきたノルマンディ公ロベールを
はじめとして諸侯たちの反対も強かった。長兄ロベールは、イングランドの王位を主張し
てイングランドに侵攻したが、ヘンリ 1 世はこれを防ぎ、ロベールに王位を承認させた。 そこでヘンリは「戴冠憲章」を発布して、ウィリアム 1 世の伝統を尊重することや諸侯
との協調を約束した。兄ウィリアム 2 世の急死を受けての即位で大貴族に対する妥協の結
果であるとも考えられるが、ヘンリー1 世は有能な支配者で、即位すると大憲章(マグナ・
カルタ)の祖ともいわれる戴冠憲章を定め、巡回裁判を広く行い「公正の獅子」と呼ばれ
るように領内をよく治めた。 ところが、1106 年にヘンリ 1 世は、逆にノルマンディに侵攻し、ロベールを捕らえると、
ウェールズのカーディフ城に幽閉してその目をくりぬき、ノルマンディ公領を手に入れ、
念願の海峡の両岸を支配することになった。ノルマンディを併合し再びアングロ・ノルマン
王国の 1 人支配を実現したヘンリ 1 世は、イングランドを留守にすることが多く、国王不
在中でも統治が可能なように官僚組織や法典の整備を進めていたのである。 ところが、また、異変がおきた。1120 年、ヘンリ 1 世は長男ウィリアムを船の難破で失
った。ヘンリ 1 世には 20 人をこえる庶子がいたが、相続権をもつ嫡子は 2 人きりだった。
1 人が長男ウィリアム、もう 1 人が娘マティルダであったが、娘はもう嫁いでいた。 そこでヘンリ 1 世は最初の妃マティルダが 1118 年に死去していたので、新たな世継ぎを
設けるためにアデライザ・オブ・ルーヴァンと再婚したが、結局、王妃は妊娠しなかった。 このため、神聖ローマ皇帝ハインリヒ 5 世と結婚し未亡人となっていた娘のマティルダ
を帰国させ、彼女を後継者に指名し、諸侯たちに彼女への忠誠宣誓をさせるとともに、ノ
ルマンディ南のアンジュー伯に嫁がせた(ここで注目すべきは図 12-7 のように、アンジュ
ー伯領はノルマンディ公領の南隣で将来ここも英仏関係に大きく関わってくる)。 1014
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1135 年にヘンリ 1 世が死ぬと、王の妹アデラの息子であるブロワ伯家のスティーブンが
ロンドンに入ってイングランドを掌握し、イングランド王(在位:1135~54 年)となった。
マティルダは、これは前王ヘンリ 1 世の意向を無視していると当然これを認めなかった。
イングランド及びノルマンディの諸侯は、イングランドでは初めての女王に対する抵抗感
と、ノルマンディの代々の宿敵であるアンジュー伯に対する警戒感から、スティーブンの
即位を支持した。スティーブンの弟ウェンチェスター司教ヘンリの協力で教会はやはりス
ティーブン支持だった。 マティルダは誓約違反をローマ教皇に訴えたが、教皇もカンタベリ大司教もスティーブ
ンを支持し、これを却下した(理由は女王に対する抵抗感)。もはや、武力に訴えるしか
道は残されていなかった。マティルダは 1139 年、支持勢力を引き連れてアンジュー伯領の
フランスからイングランドに上陸し、1141 年 2 月、両軍はリンカーン近辺で激突し、ステ
ィーブンは敗れて捕虜となった。 一方、スティーブンの妻マティルドは傭兵隊を率いて抗戦を続け、1142 年 9 月、マティ
ルダ軍のグロスタ伯を捕虜にした。捕虜交換が行われ、スティーブンは王位に戻った。 以後も戦いはだらだらと続けられたが、グロスタ伯が 1147 年に亡くなるとマティルダは
アンジューに帰った。この内戦により、イングランドは諸侯を二分する内乱状態になり、
「無政府時代」といわれていた。この内乱の過程で、両陣営が支持をえるために世俗諸侯
や教会勢力に働きかけ、特権や所領を与えたことが、のちに有力な諸侯の台頭と教会の地
位の向上をもたらすことになった。 マティルダとその夫は死んだ。そして 1153 年、スティーブンの嫡男が原因不明で急死し、
気力を失ったスティーブンは、マティルダの息子アンリとウォーリングフォードで和平協
定を結び、自身の王位の承認と引き換えに、アンリを王位継承者とした(スティーブンに
はもう一人息子ギョームがいるにもかかわらず、なぜ、アンリを後継者としたか、それは
不明である)。 翌年スティーヴンが死ぬと、アンリ(フランス語ではアンリ、英語ではヘンリ)が協約
どおりイングランドの王位を継いだのでヘンリ 2 世となった。 ○プランタジネット朝、アンジュー帝国の成立 1154 年 10 月、スティーブンの死が伝えられると、アンジュー伯家のアンリはイングラン
ドに渡り、戴冠してイングランド王ヘンリ 2 世(在位:1154~89 年)となり、ここにプラ
ンタジネット朝が成立した。 前述のようにヘンリ 2 世の母マティルダは、ノルマン朝最後の国王ヘンリ 1 世の娘でア
ンジュー伯と再婚し、アンリ(ヘンリ)を生んだので、プランタジネット朝はアンジュー
伯領を獲得してからは、アンジュー家と称されるようになった。 1015
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ヘンリ 2 世は父の死後ノルマンディ公アンジュー伯となっただけでなく、図 12-7 のよ
うに、結婚したアキテーヌ公の娘の所領、弟のナント伯などの所領などを考えると(もと
もとからのノルマンディを入れると)、1154 年イングランド王位の継承によって、スコッ
トランド国境からイギリス海峡を挟んでピレネー山脈にいたる広大な土地がひとつの家門
によって統治されるようになった。これをアンジュー帝国の成立ともいう。 図 12-7 のように(紫色の部分だけ)、パリとその周辺地域を直轄領とするカペー家のフ
ランス王にとって、フランスにノルマンディなど広大な土地を有するアンジュー帝国の出
現は、国王支配領域の拡大、国王権威の浸透に対する妨害要因の何ものでもなかった。こ
こに英仏間の長い抗争の原因があった。 ○ヘンリ 2 世の 4 人の息子とアンジュー帝国の解体 フランス国王にとっては、国内統一に向かっていくのにアンジュー帝国の存在は大きな
障害であった。このようなときに、やり手のフィリップ 2 世(在位:1180~1223 年)がフ
ランスの王となった。フィリップ 2 世が目をつけたのが、ヘンリ 2 世の息子たちが仲が悪
いことであった。 ヘンリ 2 世は王妃エレアノールとの間の男子は、ヘンリ、リチャード、ジェフリ、ジョ
ンの 4 人がいた。王子ヘンリにノルマンディ、メーヌ、アンジューを、リチャードにアキ
テーヌ、ジョフリにブルターニュを統治させることを約束していた(末子のジョンは領土
を与えられなかったため、無地があだ名となった)。 しかし、フランス・カペー家(フランス王家)の介入もあり、それぞれ不満をいだいた 3
人の王子は父ヘンリ 2 世に対して 1173 年に反乱を起こしたが、鎮圧され和解した。しかし、
不満は残ったままであった。その後も息子たちはフランス王フィリップ 2 世と結んで不穏
な動きを見せた。 1183 年に長男・王子ヘンリが亡くなり、次男・リチャードが後継者となったが、アキテ
ーヌ公位をジョンに譲るようにいわれて再び反乱を起こし、ジョンとジョフリがリチャー
ドを攻撃したが、1184 年に和解した。さらに 1186 年にジョフリは馬上槍試合で亡くなった。 これで残っているのは、リチャードとジョンだけになった。 1188 年にはヘンリ 2 世とフランス王フィリップ 2 世の争いのさなかの和平交渉中、息子
リチャードはノルマンディ公、アキテーヌ公としてフランス王フィリップ 2 世に臣従する
といって、父ヘンリ 2 世を裏切った。翌年 5 月、フランス王フィリップ 2 世とリチャード
はヘンリ 2 世と戦い、敗れたヘンリ 2 世は 7 月 6 日失意のうちにシノン城で亡くなった。 ヘンリ 2 世の息子を手なずけたフィリップ 2 世の完勝だった。 《リチャード 1 世と十字軍》 1016
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
あとを継いだのはリチャードであった(リチャード 1 世。在位:1189~99 年)。1189 年
7 月 20 日にノルマンディ公としてフランス王から認知され、9 月 3 日にイングランドで国
王として戴冠した。リチャードは、生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅
子心王と称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが、それはあくまで
騎士レベルであって、政治的センス、統治能力は全く欠けていたようである(だから、ま
んまとフィリップ 2 世に手なずけられたのである)。 リチャード 1 世は即位すると直ちに第 3 回十字軍の資金集めをした。王庫の金やサラデ
ィン税(十字軍編成のための資金を得るために課した税金)、軍役負担金だけでは足りな
いため、城、所領、官職などを販売して資金を集めた。こともあろうか父王ヘンリ 2 世が
得たスコットランドの臣従を 1 万マルクで売り渡した(スコットランドがイングランドか
ら独立することの代償)。リチャード 1 世は資金が集まると、イングランドにはほとんど
滞在せず、遠征に出発した(リチャード 1 世は、結局、イングランド王 10 年のうちイング
ランドに滞在したのはわずか 6 ヶ月で、中世騎士道物語の典型的な男だった)。第 3 回十
字軍の状況についてはイスラムの歴史に記しているのでここでは述べない。 リチャード 1 世は 1192 年 8 月にエジプト・アイユーブ朝のサラディンと休戦条約を結ん
で帰路についた。 すでに帰還していたフランス王フィリップ 2 世(第 3 回十字軍にはフィリップ 2 世も参
加していた)は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ 6 世やリチャード 1 世の弟ジョンと結託し、
留守中にジョンがイングランド王位を簒奪することを支援したといわれている。リチャー
ド 1 世はその陰謀を聞いて帰路を急いだが、途中で船が遭難したため、変装して陸路をた
どった。しかし、オーストリアを通過中に見破られ、オーストリア公レオポルト 5 世に捕
らえられ、デュルンシュタイン城に幽閉された。この時、王弟ジョンは、リチャードが死
んだとして王位に就こうとしたが、諸侯の支持を得られず断念した。 リチャード 1 世は 1193 年にレオポルト 5 世から神聖ローマ皇帝ハインリヒ 6 世(1190~
1197 年)に引き渡された。ハインリヒ 6 世はフランス王フィリップ 2 世と手を結び、リチ
ャード 1 世を捕らえておこうとしたが、イングランド側から 15 万マルクもの多額の身代金
を支払うことで決着した。ジョンやフィリップ 2 世は、リチャード 1 世の解放を遅らせよ
うとハインリヒ 6 世と交渉したが、身代金が支払われると、リチャード 1 世は 1194 年 2 月
に解放された。このとき身代金集めに奔走したのがヒューバード・ウォルターであった。 解放後にイングランドに戻ったリチャード 1 世は、ジョンを屈服させ、王位を回復した
が、イングランドの政治は彼が栄進させたカンタベリー大司教で大法官のヒューバード・
ウォルターにまかせ、その後はフランスで宿敵フィリップ 2 世と争い、各地を転戦した。
1199 年にアキテーヌ公領シュリュでシャールース城を攻撃中に、リチャード 1 世は、鎧を
1017
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
脱いだときに矢を受け、その傷がもとで死亡した。42 歳で子供はいなかった。騎士道の誉
れとほめそやされたリチャードはフィリップ 2 世に翻弄された生涯だった。 《ジョン王の失策》 ヘンリ 2 世の 4 人の息子、前述したヘンリ、リチャード、ジェフリ、ジョンのうち、結
局、末弟のジョンだけが残った。ジョンは、父親のヘンリ 2 世から最初は所領を割り振ら
れなかったが、結局、すべての所領がころがりこんできた。 1199 年にリチャード 1 世がアキテーヌで亡くなると、ジョンはすぐにノルマンディから
イングランドに渡りイングランド王として戴冠した(在位:1199~1216 年)。 フィリップ 2 世の最後の目標はジョン王だけとなった。アンジュー家の支配領域の一つ、
ラ・マルシュの領有権をめぐるリュジニャン家とアングーレーム家との争いに関連してジ
ョンは後者に肩入れし、1200 年 8 月、その娘と結婚した。かねてよりその娘の許婚者であ
ったリュジニャン家のユーグは抗議の反乱を起こし、国王フィリップ 2 世は彼を援助した。
1202 年フィリップ 2 世はフランスでの封臣としてのジョンをフランス国王の法廷へと召喚
したが、イングランド国王ジョンは出廷しなかった。 これを理由にフランス王フィリップ 2 世はジョンのフランス北西部における全ての領土
を没収すると宣言し、直ちにノルマンディへと進軍した。ジョンはまんまとフィリップ 2
世の罠にはまってしまった。 ジョンのアンジュー家側も各地でこれに反撃したが、戦闘はジョンに不利で、1203 年に
はアンジュー、1206 年にはブルターニュを奪われ、北西部フランスにあったアンジュー家
の領土はほとんどフランス国王カペー家の支配下に入った。 ジョン王もフィリップ 2 世もともに相手方を封主とする封臣たちの土地を没収しはじめ
たので、諸侯たちは自らの主君をどちらかに決めなければならなくなり、彼らの在地化が
進行した。こうしてジョンは大陸における領土をほとんど失ってしまった。こうなるとジ
ョン王にはもっと大きな戦争しかなかった。 対仏戦費を得るためジョン王は 1207 年 1 月にはウェストミンスターに封建大会議を開き、
13 分の 1 の動産課税を要求した。しかしイングランドの諸侯は大陸遠征を好まず(もとも
と王家の私的な争いとみられていた)、海外への封建軍の派遣は拒絶された。 ちょうどこの頃、ジョンの失政の一つと見なされているカンタベリー大司教選任問題が
起きた。1205 年、ヒューバート・ウォルターが死去し、カンタベリー大司教が空位となっ
た。後任推薦権は修道士会にあったが、慣習ではイングランドでは国王にあった。そこで
ジョンは選挙に介入し、ジョンが推薦した候補と修道士会が選んだ候補とが食い違い、と
もにローマに行きローマ教皇に決めてもらうことになった。教皇権の強化を狙っていたロ
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ーマ教皇インノケンティウス 3 世は両者を認めず、代わりに枢機卿のラングトンを任命し
た。 ジョンはラングトンを認めずこれを支持した司教たちを追放し教会領を没収したため、
1207 年に教皇インノケンティウス 3 世はイングランドを聖務停止とし、1209 年にジョンを
破門した。 1213 年になるとインノケンティウス 3 世はさらにフランス王フィリップ 2 世のイングラ
ンド侵攻を支持し、これに呼応してイングランドの諸侯の反乱が計画されたため、ジョン
は妥協してラングトンを受け入れたうえ、10 万マルクを支払い、イングランドを封土とし
て教皇に臣従するという条件で、破門を解かれた。翌年には聖務停止も解除された。 1213 年 5 月、やっと教皇との和解の見通しが立つとジョンは再び対仏遠征の準備に着手
した。フィリップ 2 世の攻撃を受けていたフランドル伯に援軍を送り、一方提携していた
神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝オットー4 世はフランス東部を攻撃した。7月にジョンの
破門が解かれたが、イングランド北部の諸侯は同盟してジョン王の対仏遠征に反対した。 ジョン王は、再度 1214 年 2 月ボルドーに遠征するため封建軍を召集したが、イングラン
ド北部の諸侯は海外遠征に反対し、軍役代納金の支払いも拒んだ。やむをえず、ジョン王
は反対を押しきって出兵したが、1214 年 7 月フィリップ 2 世軍に敗れ、9 月フィリップと
和約を結び、10 月にぼろぼろになってポーツマスに戻ってきた。 ○大憲章(マグナ・カルタ) 1215 年 1 月からロンドンで王と諸侯との会議が開かれ、軍役代納金を支払わせようとす
るジョン王と諸侯の交渉は決裂、諸侯は王への忠誠誓約破棄を通告した。ジョン王が抵抗
した諸侯の所領没収を州長官に命じたため、両派は武力衝突に至った。ロンドンが諸侯側
に押さえられ、譲歩したジョン王が交渉に応じた。6 月 15 日ジョン王はテムズ河畔のラミ
ニードにおいて、諸侯が準備した「諸侯の要求事項」を承認し、長大な特許状、すなわち大
憲章(マグナ・カルタ)が成立した。 このマグナ・カルタは民主主義のはじまりをなすものとして有名である。1215 年 6 月 15
日に制定されたものは、63 ヵ条から成るが、とくに重要な項目は、教会は国王から自由で
あると述べた第 1 条、王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金を集めることができ
ないと定めた第 12 条、ロンドンほかの自由市は交易の自由を持ち、関税を自ら決められる
とした第 13 条、国王が議会を召集しなければならない場合を定めた第 14 条、自由なイン
グランドの民は国法か裁判によらなければ自由や生命、財産をおかされないとした第 38 条
などである。 今から見ると当たり前のことばかりであるが、王は「法」の下にあり慣習を尊重する義務
があり、権限を制限されることが文書で確認されたという意味が大きい。王の実体的権力
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
を契約、法で縛り、権力の行使には適正な手続きを要するといった点は現代に続く「法の支
配」、自由主義の原型となるものであった。 《英仏の領土問題の決着―パリ条約》 1216 年 10 月、ジョン王が赤痢でが急死し、9 歳のヘンリ 3 世(在位:1216~1272 年)が
あとを継いだ その後、英仏間の講和であるが、1258 年、フランス王ルイ 9 世はイングランド王ヘンリ
3 世がすでに失っていたノルマンディやアンジューを正式に放棄し、ガスコーニュ公として
フランス王に臣従を誓うことを条件にガスコーニュの領有を認めるパリ条約を締結した
(図 12-20 参照)。これでノルマン・コンクエスト以来の英仏間の領土問題は一応決着が
ついた(つまり、イングランド王はフランスにはガスコーニュだけの領有が認められ,他
は放棄するということを制約したことになっていた)。 図 12-20 ガスコーニュ(緑色部分) ○英仏百年戦争 その後、70 年経って、フランスのカペー朝が断絶して、図 12-8 のように、カペー朝の
あと継ぎとしてフィリップ 6 世(在位:1328~1350 年)が即位した(このとき、イングラ
ンドのエドワード 3 世(在位:1327~77 年)も、母イザベラがカペー朝の王女だったことを
理由(図 12-8 参照)に王位継承を主張したが認められなかった。このとき、いったん,
勝負はついていた)。 1020
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
その後、英仏間でフランドル問題やスコットランド問題が起こり、詳細は省くが、エド
ワード 3 世が 1337 年にあらためてフランス王位継承を主張しはじめた。フィリップ 6 世は、
これは前述のパリ条約違反であるとして、スコットランドと呼応して 1337 年 5 月にガスコ
ーニュ領(ギュイエンヌ)没収を宣言し、ガスコーニュに軍を進めた。11 月にエドワード
3 世はフランスに宣戦布告した。これにより、百年戦争が開始された。戦争は 100 年以上続
いたが、その経過はフランスの歴史で述べた。 ○プランタジネット朝からランカスター朝へ 戦争の間に、プランタジネット朝第 8 代目のリチャード 2 世(1377~1399 年)は、ラン
カスター家のヘンリ 4 世(在位:1399~1413 年)に倒され、ランカスター朝が成立した。こ
の時は 2 段階目が終ったところで、休戦に入っていたときだった。 対仏和平策をとってきたヘンリ 4 世はは健康を害し、1413 年 3 月に没した。そのあとは
長男ヘンリが即位し、ヘンリ 5 世(在位:1413~22 年)となり、百年戦争を再開した。 《トロワ条約と英仏同君連合》 1419 年夏、イングランド軍はパリ市壁にまで迫り、ヘンリ 5 世にとって有利な状況のも
とで 1420 年 5 月、トロワ条約が結ばれた。その内容は、フランスのシャルル 6 世の王位を
その終生まで認めることとし、シャルル 6 世の娘キャサリン(カトリーヌ)とヘンリ 5 世
の婚姻によって、ヘンリ 5 世をフランス王の継承者にするというものであったことは述べ
た。これは事実上、イングランド・フランス連合王国を実現するものであった(百年戦争は
私的な両家の土地争いから、英仏の連合王国にまで進んでしまった)。 1420 年 6 月、ヘンリ 5 世はキャサリンと結婚した。その後、短いハネムーンがあったと
考えられる(キャサリンは子を宿した)。1421 年 6 月、ヘンリ 5 世は再びフランス遠征に
出かけ(フランスの皇太子シャルルとアルマニャック派は降伏していない)、1422 年 8 月、
パリ郊外のモーの包囲に手間どるうち病気になり、1422 年 35 歳で死亡した。このわずか数
ヶ月前に、息子が生まれていて、ヘンリ 6 世と命名された。 キャサリンはヘンリ 5 世の遺骸をロンドンに運び、1422 年 11 月にウェストミンスター寺
院に埋葬した(その後、キャサリンはウェールズ人の侍従オウエン・テューダーと長い間
関係を持っていて、新たな子供をもうけたが、これが意外な発展をし、後にテューダー朝
を開いたヘンリ7世の祖父母ということになるがそれはのちに述べる)。 ヘンリ 5 世を継いだのは幼王(生後 9 ヶ月)ヘンリ 6 世(在位:1422~61 年、70~71 年)
であった。ところが、1422 年 10 月、今度はフランス王シャルル 6 世が病死した。トロワ条
約では、シャルル 6 世のあとはイングランド王ヘンリ 5 世が継ぎ、そのあとはヘンリ 5 世
とキャサリンの子が継ぐことになっていたので、ヘンリ 6 世はトロワ条約に従いフランス
の王位にも就いた。つまり、生後、数ヶ月のヘンリ 6 世がイングランド王兼フランス王と
1021
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
なった(つまり、英仏史上はじめてにして最後であるが、イギリスとフランスの同君連合
ができたのである)。 その赤ん坊王の英仏同君連合のもとで、その後も百年戦争は続いているという奇妙なこ
とが起こっていたのである。結局、1453 年、イングランド軍がフランスのシャルル 7 世軍
に敗れ、7 月にはイングランドの在フランス領土はすべて失われ(カレーを残して)、百年
戦争はイングランドの最終的な敗北で終った。 ○バラ戦争 百年戦争の敗戦によってヘンリ 6 世(生後 9 ヶ月で王位に就いた乳飲み子王も 30 代にな
っていた)の権威は完全に失墜し、イングランド国内は再び混乱に陥った。実力者であっ
たプランタジネット家傍流のヨーク公リチャードの勢力が日増しに拡大していった。 ランカスター朝の始祖ヘンリ 4 世が民心の支持を失くしたリチャード 2 世を廃して即位
したように、民心を失ったヘンリ 6 世にも、ヨーク公リチャードとの間に王位の正統性を
巡る問題が発生したのである。しかしヨーク家とランカスター家はプランタジネット家傍
流で、ともにエドワード 3 世(在位:1327~1377 年。プランタジネット朝第 7 代。百年戦
争を開始した当人)の血を引く家柄であった。 ヘンリ 6 世支持のランカスター派とヨーク公リチャード支持のヨーク派は対立を深め、
1455 年 5 月にヨーク公リチャードがヘンリー6 世に対して反乱を起こしてから、1485 年に
テューダー朝が成立するまで、以後 30 年間、ランカスター家とヨーク家の間で権力を争っ
て、謀略渦巻く血みどろの内戦がくり広げられた。これがバラ戦争である。ランカスター
家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を紋章としていたのでバラ戦争と呼ばれているが(図 12-
21 参照。新たに成立したテューダー朝は赤白の薔薇の紋章)、この呼び名がつけられたの
は後世のことである。 図 12-21 ヨーク家の白バラ(左)、ランカスター家の赤バラ(中)、テューダー家の紋章(右) 1022
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1455 年に(第 1 次)セント・オールバーンズの戦いで両派間に火蓋が切られた。ヨーク
公リチャードは、サマセット公エドムンド率いるランカスター派を不意打ちで打ち破り、
国王ヘンリ 6 世はヨーク公に捕らえられた。ヨーク公リチャードは自ら護国卿となり、1459
年 9 月のブロア・ヒースの戦いに勝利し、王位を目前にしていたが、1460 年 12 月のウェイ
クフィールドの戦いで戦死した。 《ヨーク朝(エドワード 4 世)の成立》 この苦境にヨーク公リチャードの嫡男エドワードは、ウォリック伯リチャード・ネヴィ
ルや弟たちクラレンス公ジョージ, グロスター公リチャードをまとめてランカスター派に
勝利し、ヘンリ 6 世を退位させて 1461 年 11 月、エドワード 4 世(在位:1461~1483 年)
として即位した。ここにヨーク朝が成立した。 王位に就いたエドワード 4 世であったが、今度は内部割れが起きてしまった。1470 年、
ウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージを誘ってエドワード 4 世を討伐、追放して、ヘ
ンリ 6 世を復位させた。 《ランカスター家ヘンリ 6 世の復権》 政権を掌握したウォリック伯は、年少の娘アン・ネヴィルをヘンリ 6 世の世嗣エドワー
ドに嫁がせてネヴィル家の安泰をはかった。このことは、年長の娘婿であるクラレンス公
ジョージ(エドワード 4 世の弟)の王座への道を絶つことになった。 1470 年、オランダに逃れたエドワード 4 世は、弟グロスター公リチャード(後のイング
ランド王リチャード 3 世)と反撃に出た。1471 年、王座への道を絶たれたジョージも弟グ
ロスター公リチャードの説得を受け入れた。こうして、国外に逃れて反撃の機会をうかが
っていたエドワード 4 世は、グロスター公、クラレンス公の兄弟 3 人の結束を確認すると、
1471 年にイングランドへ攻め入り、ウォリック伯とランカスター派の連合軍を破った。 《ヨーク家エドワード 4 世の復権》 復位したエドワード 4 世は、ヘンリ 6 世を始めとするランカスター派を粛清した後、か
つて敵対した弟クラレンス公ジョージも処刑するなど、ことごとく反乱の芽を摘んで国内
を安定させた(しかし、弟グロスター公リチャードは残っていた)。 《ヨーク家リチャード 3 世の奪権》 1483 年に再び転機が訪れた。1483 年 4 月 9 日、フランス討伐の準備中に死去した父エド
ワード 4 世の後を継いで、12 歳の遺児エドワードがエドワード 5 世(在位:1483 年 4 月 10
日~6 月 26 日)として王位を継承した。エドワード 5 世が居城ラドロー城からロンドンへ
急行中、摂政に就任した(叔父)グロスター公リチャードは、母方の叔父でエドワード 5
世の側近でもあったリヴァース伯アンソニー・ウッドヴィルを逮捕し処刑した。その後、
1023
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
グロスター公は、エドワード 5 世とその弟ヨーク公リチャードをロンドン塔に幽閉し、エ
ドワード 5 世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族をことごとく排除した。 このように考えうるあらゆる抵抗をすべて排除したのち、グロスター公は、一説教師を
使って、兄エドワード 4 世がヨーク公の庶子に過ぎず、自分こそが嫡子であると広言させ、
バッキンガム公にロンドン・シティでの歓呼を工作させた。1483 年 6 月 26 日、議会は若王
の廃位とグロスター公の登位を宣言し、7 月 16 日、グロスター公はリチャード 3 世(在
位:1483~85 年)として戴冠した。リチャード 3 世の登位に至るまでの謀略、残忍さ、殺人
行為、そして家系断絶を知る貴族たちは、御身大事で、口を挟まなかった。 しかし、リチャード 3 世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱し、各地に戦乱
が起こった。宮廷派を撲滅して王位に就いたリチャード 3 世は、王の強権と軍事力で乗り
切ろうとしたがうまくはいかなかった。 《ランカスター家ヘンリ 7 世の勝利》 ここで再びランカスター家の出番となった。1485 年 8 月 7 日、ミルフォード・ヘイヴン
に上陸したランカスター家のリッチモンド伯ヘンリ(エドマンド・テューダーの子)のも
とへはウェールズ各地から支持者が集まり、22 日、ボズワースでリチャード 3 世と戦った。
リチャード 3 世は破れ、戦死した。 ランカスター家系のヘンリ・テューダーとは一体何ものかは後述するとして、彼はエド
ワード 5 世の姉エリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家と和解すると、ヘンリ 7 世
として即位した(前述のようにテューダー家の紋章は、ランカスター家の赤薔薇とヨーク
家の白薔薇を合わせた形になった)。ここにバラ戦争は終わった。 ○テューダー朝の開始 ヘンリ 5 世との間でヘンリ 6 世(赤ん坊にして英仏国王となった)を生んだキャサリン・
オブ・ヴァロワは、未亡人になると、ウェールズの君主の家系の末裔で下級貴族に過ぎな
かったオウエン・テューダーと結婚し、エドマンドらを生んだ。そのエドマンドが、エド
ワード 3 世の 4 男ジョン・オブ・ゴーントの曾孫であるマーガレット・ボーフォートと結婚
し、その間に生まれたのがリッチモンド伯ヘンリ・テューダーであったので、母方の血統
により最後のランカスター家の王位継承者となった。いずれにしても極めて薄い血筋であ
った。 勝者ヘンリ・テューダー(ヘンリ7世。在位:1485~1509 年)にとって王位は必ずしも自
明のことではなかった。その実力において抜きん出てはいたものの、王位を請求するにた
る法的権利をもたなかった。血統的にはより優位な王位継承者を主張できるものがいる中
で、力で勝ちとった自らの王位を守り、その正統性を確立し、王朝を存続させていくこと
がヘンリにとっての生涯の課題となった。 1024
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ボズワースの戦いで勝利した後、即座にヘンリは対抗者の動きを封じ、2 ヵ月後には戴冠
式を挙行、議会に自らの王位を承認させた。しかし、その後も、ヨーク朝復活をはかろう
とする多くの反乱が彼の王位を脅かし続けた。それらに対しては結局、武力がものをいっ
た。兵力に勝るヘンリ軍の勝利に終わり、ここでヨーク家支持派の多くが戦死した。ここ
に、30 年以上にわたった「バラ戦争」は最終的に終結した。それは中世を終って近世に入っ
ていた。 【12-1-8】ノルマン人の活動とスカンディナヴィア諸国 ○ノルマン人(ヴァイキング)の活動 デーン人(デンマーク人)、スウェーデン人、ノルウェー人の北欧 3 民族は、現在の北
欧の地に定着する前に、ノルマン人(スカンディナヴィア人、ヴァイキング)として歴史
に登場してきた。 ノルマン人とはスカンディナヴィア半島南部・ユトランド(デンマーク)半島に居住し
た北ゲルマン人の一派であった。漁業や通商を生業として造船・航海術にすぐれ、勇敢で好
戦的であった。しばしば略奪を行ってヴァイキングと恐れられた。ヴィアキングは「入り
江の人」を意味する語に由来する。 もともと北欧社会に、一般住民と分離して略奪だけで暮らす職業的ヴァイキングがいた
わけではない。ヴァイキングの多くは一般住民=農民であったし、初期のヴァイクング遠
征の指導者であった豪族も、多くは農民の上層部であった。しかしヴァイキング活動を通
じて軍事的指導者や勢力ある階層が成長した。北欧諸国の王権もこの中から生まれた。 ヴァイキングの遠征は豪族の指揮のもとに、豪族の家人や周辺農民の子弟(通常は独立
した農民となる前の若者)を乗組員とした。典型的なヴァイキング遠征は、1,2 隻によっ
てなされた。1 隻にスウェーデンでは舵取りを含めて 25 人、ノルウェー、デンマークでは
40~80 人の漕ぎ手=戦士をもった(のちの海軍に関する法典規定からわかる)。 当初は夏の初めに出発し、北海、北大西洋が嵐となる冬の前に故郷へ戻った。しかし次
第に彼らは大きな集団をなし、また出先で集合し、河口島など安全な場所で越冬するよう
になった。 彼らは抜群の性能を誇る二種類の船、つまり櫂(かい、オール)と帆をともに使って海
でも浅い川でも航行することができる長船と、大家族が家財道具と家畜を乗せても 1 週間
程度の航海なら十分に耐えられる荷船を駆使して、海を渡って植民し、最終的には図 12-22
のように、グリーンランドからキエフ、南イタリアいたる広大な地域にその足跡をしるし
た。 1025
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
8 世紀末からヴァイキングの時代がはじまり、11 世紀にかけて、ヨーロッパに進出し、
進出先で建国した。略奪・交易の目的は、遠隔地の珍しい品物を入手して豪族としての権
威を高めることと、故郷の農場では不足する生活必要物資の調達であった。ヴァイキング
は侵入先で人々を捕らえ、奴隷とした。その多くはイスラム世界などへ奴隷として再輸出
された。北欧社会自体にも、この時代には略奪してきた多くの奴隷がいたと思われる。 《アイルランドでの活動》 ヴァイキングがもっともめざましい痕跡を残したのは、遠く離れた島々への遠征でであ
った。図 12-19、図 12-22 ように、スコットランド北東沖のオークニー諸島やシェトラン
ド諸島からピクト人を一掃し、そこからフェロー島やマン島にまで勢力を延ばした。 図 12-22 ノルマン人の活動 また 9 世紀には、スコットランドやアイルランドにも入植を開始した。アイルランドの
首都ダブリンは、もとはヴァイキングが建設した町から発展したものである。 《アイスランドでの活動》 アイスランドに本格的にヴァイキングが押しよせてきたのは 9 世紀になってからのこと
だった。930 年の時点で、アイスランドに住むノルマン人の数は約 1 万人にのぼっていたと
考えられている。彼らは農業と漁業を営み、交易も行っていたが、この年にシンク(公民
集会)がはじめて召集され、アイスランド国家が創始されたと考えられている。このシン
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
クはノルウェー古来の慣習にのっとった地域有力者の集会といった性格のもので、現代の
代議制の議会とは異なっていた。これ以降、アイスランドの歴史は長期にわたって途切れ
ることなく記録されており、一つの国家が成立したことは確かである。 《グリーンランドでの活動》 赤毛のエイリークが 982 年にグリーンランドを発見、エイリークの長男のレイフ・エリ
クソンはコロンブス以前にアメリカに到着したといわれている。これは北アメリカ北東沿
岸部と思われる。ニューファンドランド島からはヴァイキング時代末期の北欧の建物群が
確認されている。 ついで 10 世紀にグリーンランドへの入植が始まった。グリーンランドには 500 年にわた
ってスカンディナヴィア人が定住したが、その後完全に姿を消した。流氷の南下に伴って
移動してきたエスキモー(イヌイット)に追いやられたためと考えられている。 《イングランドでの活動》 イングランドが最初にヴァイキングによって襲撃されたのは 793 年のリンディスファー
ン修道院だった(図 11-19 照)。またアイルランドもそれから 2 年後にヴァイキングの襲
撃を受けた。異教徒であるヴァイキングにしてみれば、教会や修道院は神聖な場所などで
はなく、都合よく食料や貴金属が調達できる格好の標的であった。 ブリタニア南部にアングロ・サクソン人が七王国をたて、9 世紀前半ウェセックス王エグ
バートがこれを統一したが、このころからノルマン人の一派デーン人が侵入したことは述
べた。ウェセックス王アルフレッド大王がこれを撃退したが、11 世紀前半デーン人のカヌ
ート王が全イングランドを征服、デンマーク、ノルウェーも支配し、大帝国を形成した。 カヌート王の死後、ノルマン人を撃退して、アングロ・サクソン王家が復活したが、1066
年フランスからノルマンディ公ウィリアムが侵入し、ヘイスティングズの戦いに勝利し、
ノルマン朝(1066~1154 年)を開いた(ノルマン・コンクェスト)。イギリスの歴史で述
べているように、ノルマン朝は反抗した貴族の土地を没収し、全国的な検地や行政組織の
整備など、中央集権的な封建制度を進展させた。 《フランク王国での活動》 9 世紀の前半には、デーン人がフリージア(フリースラント。オランダの北海沿岸に鎖の
ように連なる島々)を毎年定期的に襲い、同じ町が略奪の対象となった。フランスの沿岸
部も襲撃され、843 年にはナントの住民が大虐殺の対象となった。それから、パリやリモー
ジュ、オルレアン、トウール、アングレームなどといった内陸部の町までもが襲撃され、ヴ
ァイキングは略奪者としての名を、ヨーロッパ中にとどろかせていった。 まもなくスペインもヴァイキングの被害をこうむるようになった。ヴァイキングは 844
年にはセビーリア、859 年にはニーム(フランス南部)までも襲い、イタリアのピサでは略
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
奪の限りを尽くした。ヴァイキングの襲撃が最盛期に達したころには、西フランク王国の
文明は壊滅寸前にまで追いこまれたとする説もある。 ノルマン人の一派は、西フランク王国の沿岸部からセーヌ川流域に侵入した。このころ
ユーグ・カペーがフランス王位についたのも、そうした防衛の責任を負う封建領主の筆頭
として選ばれたという意味合いが強かった。 カール大帝とルイ 1 世の時代には、ヴァイクングの襲撃はまだそれほど激しくなかった
が、それでも攻撃にさらされやすい港や河口の防衛につとめ、ヴァイキングの撃退に成功
していた。そのうち、どうしても防ぎきれなくなったのは、沿岸部の町に対して繰り返し
行われる小規模な攻撃であった。大規模な地上戦に引き込めば、ヴァイクングを打ち破る
ことはできるのであるが、それであるからヴァイキングは大規模な地上戦を避けて、ゲリ
ラ的に小規模攻撃を繰り返すようになったのである。 そうなると買収以外に対抗する手段がなくなって、西フランク王国のカール 2 世(在位:
843~877 年)もヴァイキングに貢物を与えることで、自国民の安全をはかるようになった。
これが「デーンゲルト(デーン人への貢納金)」の始まりであった。 ヴァイキングが住み着いたフランス北西部のノルマンディのフランス人もノルマン人と
呼ばれた。西フランク王国はノルマン人を懐柔するため、10 世紀初め首領ロロにキリスト
教の洗礼をうけさせてノルマンディ公に封じた(ノルマンディ公国の成立)。その子孫の
ノルマンディ公ギョームは前述したように 1066 年イングランドを征服(ノルマン・コンク
エスト)し、「ノルマン朝」を建国し、ウィリアム 1 世を名乗った。現在に続くイギリス王
室の血統を築いた。 《シチリア王国の建国》 グレートブリテン島、アイルランド島を度々侵略した一派は、図 12-22 のように、彼ら
の一部は地中海へ進出し、ノルマンディから来たノルマン人と合流した。その一部のノル
マンディ公国出身のロベール・ギスカールは、東ローマ、ロンバルド系諸侯が並立する南
イタリアを征服し、シチリア王国(ノルマン朝)を建国した。また、ロベール・ギスカー
ルの弟のルッジェーロ 1 世はシチリア島を征服し、後の両シチリア王国となる礎を築いた。 地中海に進出したノルマン人たちは、ローマ教皇の唱えた第 1 回十字軍にも参加した。
その中のロベール・ギスカールの子であったターラント侯ボエモンは 1099 年にエルサレム
王国の北にアンティオキア公国を建国した。 《ロシアでの活動》 スウェーデン人の主な活動方向は東方だった。中部スウェーデンのスヴェーア人および
ゴットランド人は早くから、図 12-22 のように、ヴォルガ川によってカスピ海方面と、ド
ニエプル川によって黒海、東地中海世界とのあいだに交渉を持っていた。9 世紀の半ば過ぎ、
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
スカンディナヴィアからきたルーシ人(ロシアの語源といわれる)がノヴゴロドに支配権
を確立した。 その一族オレーグはドニエプル川を南下し、882 年キエフ公国をたてた。さらに黒海に進
出し、東ローマ帝国のコンスタンティノープルへの侵攻も行った。これがロシアの起原で
であるが、ノルマン人はスラブ人に同化されていった。この方面での活動はロシアの歴史
で述べることにする。 ○デンマークの建国 デンマークは「デーン人の国」を意味する。デンマークの領域はユトランド半島、現在の
スウェーデン南部であるスコーネ地方、シェラン島などの島嶼部の 3 地方からなり、ヴァ
イキング時代には現ノルウェー南東部にも影響力を持っていたと思われる。 ハーラル・ゴームソンは 10 世紀に実在が確実なデンマーク王である。この王はデンマー
ク全土とノルウェーを支配下におき、デンマーク人をキリスト教化した。 ハーラルの息子であるスヴェンは、1013 年にはイングランドの王となった。急死したス
ヴェンのあとを受けた息子クヌートは、イングランド、デンマーク、ノルウェー、及びお
そらくスウェーデン南部を単独支配することとなった。この「北海帝国」は、クヌート大王
の死とともに瓦解した。しかしバルト海と北海を結ぶ通路の支配は以後、デンマーク王国
の一貫とした政策となった。 1157 年、王位についたヴァルデマー1 世(ヴァルデマー大王)のもとで、混乱したデン
マーク王国の再建が始まった。王権の強化をはかるとともに、バルト海南岸のヴェント人
に攻撃を仕掛けるなど、本格的なバルト海進出の第一歩を踏み出した。 13 世紀のヴァルデマー2 世(勝利王。在位:1202~1241 年)の時代には、エストニアを
支配下に組み込み、さらにバルト海に勢力を拡大した。しかし、14 世紀頃にはドイツ人の
東方植民が進展しはじめた。ドイツ人はバルト海沿岸に都市を建設し、ハンザ同盟を通じ
てバルト海に強い影響力を及ぼしはじめた。 1375 年、デンマークのヴァルデマー4 世が死去したとき、彼には息子がいなかった。ヴ
ァルデマー4 世の娘マルグレーテは、10 歳でノルウェー王ホーコン 6 世に嫁いでいた。 1375
年にヴァルデマー4 世が急逝すると、マルグレーテはデンマーク王国参事会を味方に就け、
当時 5 歳の息子をオーロフ 3 世としてデンマーク王位に即位させ、マルグレーテ自身は摂
政となった。 1380 年にノルウェーのホーコン 6 世が死去すると、オーロフ 3 世はオーラヴ 4 世として
ノルウェーの王位も継承し、マルグレーテもノルウェーの摂政にも就任した。こうして、
まずデンマークとノルウェーの同君連合が成立し、マルグレーテは実質的な支配者として
デンマーク・ノルウェー両国に君臨した。 1029
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ところが、オーロフ 3 世は 1387 年に 17 歳の若さで急死した。当時北欧では女性の王位
継承は認められていなかったが、デンマークの参事会はマルグレーテをデンマーク王国全
体の後見人に選出した。女王の称号こそなかったが、マルグレーテは実質的な女王となり、
次期国王を選出する権限を得た。1388 年にはノルウェーもマルグレーテに同様の称号を承
認した。マルグレーテは後継者として姉インゲボーの娘マーリアの息子(また甥)エーリ
ヒ(ポメラニア公国の生まれ)を指名し、エーリヒはまずノルウェー王として認められた
(エイリーク 3 世)。 マルグレーテの最大のライバルはスウェーデン王アルブレクトだったが、デンマークは
1389 年にスウェーデンと戦って勝利し、アルブレクト王を捕虜とし、スウェーデンに対す
る優位性を認めさせた。 《北欧三国の「カルマル同盟」》 1396 年マルグレーテはエーリヒをデンマーク王(エーリク 7 世)及びスウェーデン王(エ
ーリク 13 世)として即位させ、北欧三国は実質的に同君連合となった。翌 1397 年にはマ
ルグレーテの主導で「カルマル同盟」が結ばれ、デンマークを中心とする国家連合が成立
した。この同盟により北欧三国はスウェーデンが独立する 1523 年まで同じ王を戴くことに
なった。マルグレーテは 1412 年に死去するまで 3 国の後見人として采配を振った(マルグ
レーテは女王に即位していないが、一般にマルグレーテ 1 世と呼ばれている)。 クリストファ 3 世(在位:1440~1448 年)の死去により、これまでのデンマーク王の血統
が絶えることになった。そのため、1448 年、ホルシュタインのオルデンブルク伯がクリス
チャン 1 世としてデンマーク王(在位:1448~1481 年)に即位し、オルデンブルク朝が創始
された。 この王朝の下でデンマークは北欧の強国として成長し、1460 年には懸案だったスレース
ヴィ=ホルステンの領有化に成功した(神聖ローマ帝国領のまま、一種の同君連合)。ま
た海軍も強化し、宿敵であったハンザ同盟を破って、バルト海の盟主にもなった。この時
代、デンマークは、北海からバルト海をまたぐ大国であったといえる。 しかし、スウェーデンでは早くから独立へ向けた反乱が始まっていて、デンマーク側は
スウェーデンの独立を巡る反乱を何度となく鎮圧していた。それでもスウェーデン人の独
立の意志は強く、1518 年の反乱ではデンマークが敗れた。デンマーク王クリスチャン 2 世
は 1520 年再度スウェーデンを攻撃し、ストックホルムに入城した。 《「ストックホルムの血浴」》 1520 年 11 月 7 日、クリスチャン 2 世は、反乱の罪を赦すという声明を発し、スウェーデ
ン側の貴族、僧侶、都市の自由市民の有力者たちを晩餐会に招いた。 彼等はクリスチャン
2 世の言葉を信じて投降した。 しかし全員がストックホルムの王宮に入城すると、大扉は
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
閉じられ、招かれた客はすべて捕らえられた。翌 11 月 8 日、形ばかりの裁判によって、彼
等は死刑の判決を下され、その日の内に、スウェーデンの有力者たちは次々に処刑された。
その犠牲者の数は、100 人を超えた。ストックホルムの大広場は大量の血の海に染まること
になった。これが「ストックホルムの血浴」であった。 クリスチャン 2 世は、この粛清によって、スウェーデンには最早、大規模な反乱は起こ
らないものと思った。しかし スウェーデン貴族グスタフ・ヴァーサは 1521 年に地方の農
民を率いて反乱を起こし、独立戦争が勃発した。1523 年にスウェーデンはカルマル同盟か
ら離脱し、「スウェーデン王国」が成立した。グスタフ・ヴァーサはスウェーデン国会で
選ばれて国王グスタフ 1 世となった。 ○スウェーデンの独立 政治的統合体としてのスウェーデンの概念はほぼヴァイキング時代にその原型が形成さ
れた。中部のスヴェーア人の国(スヴェーアランド)全域にわたる最初の王はおそらく、
勝利王といわれるエーリックであったと考えられている。彼は 980 年代に西欧から帰還し
ようとするヴァイキングとの決戦に勝利し、スウェーデン全域の王となった。 スウェーデンでは、12 世紀になるとエーリク 9 世による北方十字軍によるフィンランド
進出が行われ、ヴァルデマール王を開祖とするフォルクンガ朝のころにはフィンランド南
部を併合した(スウェーデン・フィンランドの形成)。 このようにスウェーデン王国は発展していったが、王と貴族たちの争いが激化して内部
の弱体化が進んだ。その後、1397 年にはデンマークとノルウェーの摂政であるマルグレー
テ 1 世のもとで「カルマル同盟」が結成され、スウェーデンはデンマークの支配を受ける
ことになったが、前述のように、1523 年にグスタフ・ヴァーサによって、独立を勝ち取った。
グスタフ・ヴァーサは、国王グスタフ 1 世(在位:1523~1560 年)となった。 ○ノルウェー 9 世紀の終わりには南東部の小王家出身のハーラル 1 世(在位:872~930 年)が、北ノル
ウェーのラーデのヤール家と同盟して最初の全国統一を実現したとされるが、実質的には
沿岸部の統一であった。 11 世紀にはデンマークのクヌート大王(995~1035 年)の北海帝国に併合された。クヌ
ート大王が 1035 年、死去すると、北海帝国はクヌートの死後わずか 7 年で崩壊した。 12 世紀末に内乱を勝ち抜いたスヴェッレ王が北部と西部を確保した。スヴェッレ王の孫
のホーコン 4 世(在位:1217~63 年)によって王国は統一された。教会とも協調し、正嫡・
長子・単独原則に基づく世襲王制が確立した。1270 年代には全国に妥当する法典が作成さ
れたが、これは北欧でもっとも早かった。地域集会ごとの「人民の同意」慣行は残ったが、
世襲王権が他の北欧諸国に先駆けて成立した。 1031
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
このスヴェッレ朝のもとでノルウェー王国は 13 世紀後半には最盛期を迎えた。その支配
は、図 12-23 のように、スカンディナヴィア半島の 3 分の 2、アイスランド、グリーンラン
ドに及んでいた。 1300 年ころまでの北欧は、内乱にもかかわらず人口は増大し、農業・水産業・鉱山業・
商業の全般にわたって経済的上昇局面にあった。 しかし、1300 年前後から北欧諸国の農業は、下降しはじめた(この 14 世紀には全地球的
に異常低温になったと考えられている)。とくにノルウェーの農場破棄、人口減少がはげし
くなっていた。この状況は黒死病によって一気に加速された。 図 12-23 ノルウェーの支配領域 山川出版社『北欧史』 黒死病は、1349 年ノルウェーのベルゲンに上陸し、そこから北欧各地に広がった。被害
の大きさは国によって、また地域によってまちまちで、北欧全体で約 3 分の 1 の住民が死
んだとされ、とくにノルウェーは少なくとも半数の人口を失った。疫病流行は以後も 16 世
紀にかけて繰り返された。ヨーロッパ全体でも北欧でも,1300 年ころの水準に人口が回復
するのは 17 世紀半ばとされ、北欧については 1700 年ころになった。 黒死病の流行とベルゲンを通じたハンザ同盟による経済的支配、スヴェッレ朝の断絶で
ノルウェー王国は衰微し、14 世紀末のデンマークのマルグレーテ 1 世によるカルマル同盟
のもとでデンマークの支配を受けるようになった。経済的には商業的漁業が発展したが、
ハンザ同盟による国際的な分業体系に組み込まれ、独立の基盤を奪われた。 1032
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
スウェーデンが分離独立したあと、ノルウェーの法的地位はデンマークの 4 つ目の州に
落とされた(1536 年)。この状態は 1814 年にノルウェーがデンマークから分離してスウェ
ーデンとの同君連合に入るまで続いた。このことから現在のノルウェー国民は、連合のみ
ならず国家間の同盟関係一般についてきわめて警戒的である。 ○フィンランド スカンディナヴィア 3 国に王権が形成されつつあったヴァイキング時代には、フィンラ
ンドの政治的結集は未発達であった。フィン人は自らの政治的な社会統合を行う前に、成
立したばかりのスウェーデン王権によって漸次征服され、スウェーデン王権はフィンラン
ド住民から租税として毛皮をとっていた。 1155 年、西隣のスウェーデン人が、フィンランド人を併合し属州とした(北方十字軍)。
これによって、フィンランド人にキリスト教(カトリック)がもたらされたが、スウェー
デン人とノヴゴロド人(正教会)の戦争が繰り返され、その度に、フィンランド人は矢面に
立たされ大きな犠牲を強いられてきた。 やがてカルマル同盟(1397 年)が成立するとスウェーデン人からの圧力は減ったが、デ
ンマーク人による重税にフィンランド人は苦しむことになった。 スウェーデン人の独立(1523 年)によりデンマーク人の勢力は後退した。スウェーデン
人が独立した時、フィンランド人が独立を望まずスウェーデン人の属国になることを選ん
だ背景には、タタールのくびきを脱したロシア人(ロシア帝国)やポーランド人(ポーラン
ド・リトアニア連合)などの外圧から逃れるためという、止むを得ない事情があった。 【12-1-9】スペイン ○西ゴート王国 まだ、西ローマ帝国が存在していた頃、西ゴート族は、ゲルマン大移動のとき、イベリ
ア半島南部のヴァンダル族を攻撃し、南ガリアとイベリア半島にまたがる西ゴート王国を
建てた(図 11-42 参照)。しかし、507 年、クローヴィス王率いるフランク王国に敗れて、
西ゴート族はガリアの大半を奪われ、イベリア半島に追いやられた。西ゴート王国は、イ
ベリア半島の全体を統治する最初の独立国家となり、8 世紀初めまで存続した。 この時期のヒスパノ・ローマ人(ローマ帝国時代の先住民)は 400~600 万人はいた。こ
れに対して支配層の西ゴート族は 20 万人前後でゴート人の人口比率は約 3%程度だったと
考えられている。少数者で支配者である西ゴート族は旧ローマ帝国属州ヒスパニアの統治
システムのうえに寄生し、統治の実質を旧ローマ系官僚に委ねつつ、一方で軍事的実権と
君主の座を掌握していた。 1033
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
このような「二重国家」の不安定は、西ゴートのみならず、ヴァンダル王国やブルグント
王国、東ゴート王国など、同様の性格を備えた他の東ゲルマン諸王国についても指摘され
ていて、だいたい 6 世紀中に滅亡した(西ゴートは 8 世紀までもった)。 ○東ローマ帝国の巻き返し これらのゲルマン諸国の滅亡には、東ローマ帝国の巻き返しも関係していた。527 年に即
位した東ローマ皇帝ユスティニアヌス(在位:527~565 年)は、ゲルマン大移動期にひと
たび失われた西地中海世界をローマ皇帝権のもとに再統合すべく、活発な征服活動を展開
し、ヴァンダル王国、東ゴート王国を滅ぼし、旧属州アフリカ、旧属州イタリア、イベリ
ア半島の南半分を取り返し東ローマ帝国領とした(図 12-29-a参照)。しかし、西ゴート
諸王は南部の東ローマ軍と戦い、625 年までには東ローマ軍を駆逐した。 ○イスラムの侵入とウマイヤ朝 711 年の春、図 12-24 のように、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出した 1
万 2000 人のアラブ軍は、ベルベル人の将軍ターリクの指揮のもとにイベリア半島を破竹の
進撃を続け、西ゴート王国の首都トレドに入城し、西ゴート王国を滅ぼした。その後もイ
スラム軍の侵略は進み、カンタブリア山麓とピレネー山麓を除くイベリア半島の大部分が
イスラムのウマイヤ朝の版図に組み込まれた。 図 12-24 イスラム侵入時のイベリア半島 717 年頃、図 12-48 のように、ピレネー山脈を越えたアラブ軍はフランク王国領に侵入
したが、732 年 10 月、フランク王国の宮宰カール・マルテル(ピピン 2 世の子)に、トウ
ール・ポワティエの戦い(図 12-1 参照)で敗れ、アラブ軍はピレネー山脈の南に引き返し
た。 1034
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○後ウマイヤ朝の成立 後述するようにイスラムのウマイヤ朝はアッバース朝によって倒されたが、750 年、アッ
バース朝がイラク全土を制圧したとき、20 歳のアブド・アッラフマーン・ブン・ムアーウ
ィヤ(731~788 年)は、ユーフラテス川に飛び込んで追手をかわした。その後、北アフリカ
に渡り、ジブラルタルを渡ってグラナダに上陸し、当地のムスリムに熱烈に歓迎された。
当時、アミール職にある総督が彼らの統率に当たっていたが、有能な人材を欠き、アンダ
ルスは混沌とした状況にあった。これに対しアブド・アッラフマーンはれっきとしたウマ
イヤ家の出身であり、新しい指導者としてまたとない人物と見なされた。 支持者を糾合したアブド・アッラフマーンは、コルドバへと進軍し、756 年 5 月、アミー
ル・ユースフの抵抗を退けると、首都に入城して後ウマイヤ朝(756~1031 年)の樹立を宣
言し、アミール(司令官、総督。在位:756~788 年)を称した(図 12-52 参照)。しかし、
このアブド・アッラフマーン 1 世(在位:756~788 年)がアンダルスを完全に平定するの
には、さらに 10 年の歳月がかかった。 その後の治世も間断ない反乱に苦しめられた。イスラム化とアラブ化が進むにつれて、
急進的なキリスト教徒は反発を強め、ムハンマドとイスラムを公然とののしり、逮捕され
てもひるまず、進んで死の刑に服した。 《3 人のカリフの時代》 第 8 代目のアミール位に就いたアブド・アッラフマーン 3 世(在位:912~961 年)は、
929 年、自ら「カリフ・ナースィル」を名乗り、全国のモスクに対して、金曜日の集団礼拝は
このカリフの名で説教を行うよう命令した(それまではアミールと称していた)。これに
よってイスラム世界には、アッバース朝、ファーティマ朝(エジプト。後述)、後ウマイ
ヤ朝と 3 人のカリフが並び立つことになった(図 12-53 参照)。このアブド・アッラフマ
ーン 3 世のときに、後ウマイヤ朝は最盛期を迎え、次のアル・ハカム 2 世(在位:961~976
年)の時代にかけて、西地中海の覇権国家となり、もっとも安定した時代を迎えた。 《コルドバの発展》 コルドバのめざましい発展は、756 年に後ウマイヤ朝が樹立され、首都になってからはじ
まった。アブド・アッラフマーン 1 世(在位:756~788 年)は、飲用水を導く水道を敷設
し、首都を囲む城壁の建造にとりかかり、コルドバの発展は最高潮に達した。町の人口は
50 万を数え、城壁の内外を合わせると、1600 のモスク、300 の浴場、70 の図書館があった
と伝えられている。経済や文化活動についてみても、当時のコルドバは、コンスタンティ
ノープルやバグダードに匹敵する世界の 3 大都市の一つであった。 1035
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
アンダルス社会の全人口に占めるムスリムの割合は、8 世紀半ばでは 10%に過ぎなかっ
たが、アブド・アッラフマーン 3 世の時代(10 世紀)には 40%、ムラービト朝の支配がお
よぶ 11 世紀後半には 80%に達したと考えられている。 《ヨーロッパの窓口》 アンダルスのムスリム政権はしばしば反乱と分裂に悩まされたが、それにもかかわらず、
歴代のアミールやカリフは学者・文人の保護によく努めたので、多様な文化を融合させる
ことによって、10~12 世紀のアンダルスにアラブ・イスラム文化の西の華がひらいた。 10 世紀末以降になると、ヨーロッパの人々の中には、ピレネー山脈を越えてアンダルス
を訪れ、進んだイスラム文化を熱心に学ぼうとする者が現れた。彼らの活動の中心は半島
中部のトレド(図 12-24 参照)にあった。そして 1085 年にこの町がキリスト教徒の手に渡
ってからも、イスラム文化の吸収はここを中心に行われた。 アンダルスのイスラムがヨーロッパへ仲介したのは学問だけではなかった。アラブ人は、
農業生産の分野でも、西アジアの伝統をアンダルス地方に伝え、ひいてはヨーロッパへ伝
えるのに功績があった。彼らは運河を開削し、揚水車を設置して灌漑農業の方法をこの地
方に広め、ブドウ、稲、オレンジ、ザクロ、オリーヴ、サトウキビ、バナナ、綿花、サフ
ランなどの新しい果樹や作物をもちこんだ。米と砂糖はまもなくヨーロッパ社会にもちこ
まれ、両者とも英語のライス(アラビア語の「ルッズ」に由来)、シュガー(アラビア語の
「スッカル」に由来)としてアラブ文化の影響を今日に伝えている。 しかし、ウマイヤ家をはじめとする伝統的なアラブ人貴族とアフリカのベルベル系の豪
族との対立が深まり、それに後述するキリスト教徒のレコンキスタ(再征服)運動が高ま
り、政治的混乱の中で、1031 年ついに後ウマイヤ朝は崩壊してしまった。以後アンダルス
は小王国が乱立する分裂の時代になった。 ○アル・アンダルスの小王国分立の時代 イベリア半島の北の方では、キリスト教国のレコンキスタ(再征服)運動が起こってき
たが、南のイスラム勢力について先に述べる。 1031 年の後ウマイヤ朝の崩壊によって、ウマイヤ家カリフという政治的・社会的・宗教
的統合の絆を喪失したアル・アンダルス(図 12-25 参照)では、権力の空白が生じた。そ
うしたなかで 26 とも 30 とも言われるターイファと呼ばれる多数のイスラム系小国家が各
地に分立した。ターイファ諸王は、北アフリカのムラービト朝のユースフ・ブン・ターシ
ュフィーンに軍事援助を求めた。 1036
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-25 10~11 世紀のイベリア半島 ユースフはターイファ諸王の要請に応えてイベリア半島に上陸し、1086 年 10 月、バダホ
ス北東(図 12-25 参照)のサグラハスの戦いで、イスラム(ムラービト軍)対ヨーロッパ
(アルフォンソ軍)が対戦した。イスラム軍 3 万、アルフォンソ軍 6 万であった。アルフ
ォンソ軍は戦死者 59,500 という甚大な被害を出して大敗し、わずか 100 人の騎兵が帰還で
きただけだったという。アルフォンソ 6 世(カスティーリャ国王在位:1072~1109 年)もな
んとか命からがら戦場から離脱できたものの、片足を失うこととなった。これでレコンキ
スタは一頓挫した。 ○北アフリカのムラービト朝、ムワッヒド朝の支配 ユースフは、1102 年までにセビーリア、グラナダ、バレンシア王国を征服して、サハラ
砂漠からマグレブ、アル・アンダルスにいたる広大なイスラムの帝国を樹立して(図 12-
56 参照)、レコンキスタ運動に対抗した。 1147 年にマグリブでムラービト朝を倒したムワッヒド朝のアブド・アルムーミン(在位:
1130~63 年)は、1150 年代までには第 2 次ターイファ諸王国の大部分を服属させ、アル・
アンダルスとマグレブ地方を含む広大な帝国を再建した。 教皇インノケンティウス 3 世とトレドの大司教は、カトリック諸国間で争うのをやめ、
カスティーリャ王アルフォンソ 8 世(在位:1158~1214 年)の指揮下で一致団結して対イス
ラム戦争を戦うように命じた。こうして再びカトリック対イスラムの天下分け目の戦いと
なった。 ○ナバス・デ・トロサの戦い 1212 年 7 月 16 日、イベリア半島、現アンダルシア州ラ・カロリナ近郊のナバス・デ・ト
ロサで、両軍は対峙したが、ムワッヒド軍 12 万 5000 に対するカトリック軍は当初 6 万を
超えた兵力は 5 万程度まで減少していた(異常な熱さのため途中脱落した)。 1037
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
この時、伝説のように語られるナバーラ王サンチョ 7 世は揮下の精鋭を率いてムハンマ
ド・ナースィルの本陣めがけて突攻し、本陣のテントを鎖のように守る屈強な奴隷による
親衛隊を打ち破って、テントまで斬り込んだ。ムハンマド・ナースィルとその軍勢は慌て
ふためいて、9 万とも 10 万ともいえる犠牲者を出して敗走した。一方、カトリック連合軍
の戦死者は 2000 人ほどであった。これによってレコンキスタ(再征服)運動の大勢はきま
った。 ○キリスト教国の建国とレコンキスタ(再征服)運動 キリスト教国のレコンキスタ(再征服)運動のはじめにさかのぼって述べる。西ゴート
王国崩壊後直後、イスラム軍の支配を拒否した西ゴート貴族ペラーヨは、図 12-24 のよう
にイベリア半島北西部のカンタブリア山麓に逃れ、バスク系の先住民であるアストウリアス
人社会に同化し、その首長と親戚関係を結んで国王に選出された。こうして、ペラーヨ(在
位:718~737 年)を初代国王とし、初期レコンキスタ(再征服)運動の一角を担ったアス
トウリアス王国を建国した。 アストウリアス王国の発展にとって決定的であったのは、アルフォンソ 2 世(在位:791
~842 年)の時代であった。ガリシア地域を併合し、12 使徒の 1 人聖ヤコブの墓発見の知ら
せを機に、サンティアゴ教会を建立した。聖遺物崇敬の拡大を背景に、聖ヤコブを祀った
サンティアゴ教会と、それを中心に成立した都市サンティアゴ・デ・コンポステーラは、
やがて中世ヨーロッパの 3 大聖地の一つへと成長していった(図 12-4 参照)。 アルフォンソ 3 世(在位:866~910 年)は、引き続き大規模なレコンキスタ運動を展開
していった。 アストウリアス王国は、ガルシア 1 世(在位:910~914 年)のもとで、首都はオビエド
からカンタブリア南麓のレオンに移され、これ以降、レオン王国といった(図 12-25 参照)。
レオン王国の東部境界域を構成したカスティーリャ地域はナバーラ王(図 12-25 参照)サ
ンチョ 3 世の領有するところとなった。また、レオン王国から、現在のポルトガルのポル
ト近郊のポルトウカーレは、ヴィマラ・ペレスを祖とするポルトウカーレ伯家に委ねられた。 《ナバーラ国王サンチョ 3 世のもとにおける統合》 ナバーラ王サンチョ 3 世(在位:1004 年~1035 年)は大王と称される傑物であった。 カスティーリャ伯女ムニアを王妃にむかえたサンチョ 3 世は、カスティーリャ伯領を実質
的に支配し、やがて次子のフェルナンドをカスティーリャ伯にすえた。また、フェルナン
ドをレオン王女と結婚させ、ナバーラ王女をレオン王ベルムード 3 世に嫁がせて、ナバー
ラ王国、レオン王国、カスティーリャ伯領にまたがる姻族同盟関係を築いた。バルセロナ
伯もサンチョ 3 世の宮廷に伺候し、その権威を尊重した。サンティアゴ巡礼路が次第に開
かれ、西ヨーロッパとの活発な経済的・文化的交流も始まった。 1038
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1035 年にサンチョ 3 世が死去すると、遺領は 4 人の王子に分割相続され、再び諸王国は
分裂した。以後、(A)カスティーリャ、(B)アラゴンの二つの方向に発展していった。 《レコンキスタを促進したカスティーリャ王国とアラゴン王国》 前述した 1212 年のナバス・デ・トロサの戦いは、再びイスラムとキリスト教諸国の軍事
的関係を決定的に変化させた。ナバス・デ・トロサの戦いの勝利は、キリスト教国のレコ
ンキスタ運動を一気に進めることになった。 1230 年カスティーリャ王国とレオン王国が、フェルナンド 3 世(在位:1217~52 年)に
より再統合されてカスティーリャ王国が成立した。以後この二つの王国が分離することは
なく、一般にスペイン史では 1230 年をもってカスティーリャ王国の成立としている。これ
以降、カスティーリャ王国によるレコンキスタは強力に進められた。 一方、アラゴン連合王国もレコンキスタを加速化させ、ハイメ 1 世(在位:1213~76 年)
が、イスラム教徒が支配するバレアレス諸島(図 12-26 参照)、バルセロナの南にあるイス
ラムのバレンシア王国を征服すると、その後はバルセロナを拠点に主に地中海へ発展して
いった。その後もアラゴン連合王国は、地中海域のイスラム教徒に対するレコンキスタを
進め、図 12-26 のように、「アラゴン海洋帝国」が構築していった。 図 12-26 アラゴン海洋帝国 ○カスティーリャ王国とアラゴン王国の同君連合 このようにイベリア半島はカスティーリャ王国とアラゴン連合王国に集約されてきてい
たが、それも一つになることになった。 1469 年、アラゴン王太子フェルナンド(後のフェルナンド 2 世)がカスティーリャ王女
イサベル(後のイサベル 1 世)と結婚した。1479 年にフアン 2 世が亡くなるとフェルナン
ドもアラゴン王に即位し(アラゴン王としてはフェルナンド 2 世)、カスティーリャとア
1039
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ラゴンが同君連合となった。いわゆるスペイン王国(イスパニア王国)の成立である。た
だし各地方はそれぞれ独自のコルテス(身分制議会)や法制度を有し、自治制度が尊重さ
れた。 イサベルとフェルナンドは国内の反対派を討伐した後、グラナダ戦争を開始し、1492 年、
グラナダは陥落し、レコンキスタは終結した。同年にはクリストファー・コロンブスが新
大陸を発見した。もっとも、アメリカ大陸への進出は、もっぱらカスティーリャ人によっ
て担われ、アラゴン人、カタルーニャ人はバルセロナを拠点に地中海で活躍することには
変わりはなかった。それは近世の大航海時代の幕開けだった。 【12-1-10】ポルトガル ○ポルトガルの独立 ポルトガル王国は、ほかのキリスト教諸国家と同じようにレコンキスタの過程から生ま
れた。1086 年サグラハスの戦いでムラービト軍に敗れたカスティーリャ王アルフォンソ 6
世(在位:1072~1109 年)は王女テレーサをブルゴーニュ出身の有力貴族エンリケ・デ・
ボルゴーニャ(1066~1112 年)と結婚させ、ポルト地域(図 12-27 参照)のガルシア・ポ
ルトガル伯に任命し、この伯領を委譲した。 1112 年、エンリケ・デ・ボルゴーニャが死去すると息子のアフォンソ・エンリケス(1109
~1185 年)が、父の後を継いでポルトガル伯になったが、母テレーサの摂政下にあった。
1122 年、アフォンソは 14 歳で自立し、1128 年に母テレーサとトラバ伯をサン・マメーデ
の戦いで破り、ポルトガル王国樹立へ向けての第一歩を踏み出した。 同時にコインブラ(図 12-27 参照)に首都を移転し、ポルトガル伯領とコインブラ伯領
を統合して、ポルトガル北部の封建的貴族と中部都市の民衆騎士に支えられた王国を築こ
うとした。 1040
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-27 独立後のポルトガル 山川出版社『スペイン・ポルトガル史』 カスティーリャ・レオン皇帝のアルフォンソ7世(在位:1126~1157 年)との対立を引き
起こしたが、1137 年アフォンソはトウイ条約を結んで、アルフォンソ 7 世への臣従を条件
に、ポルトガル北部国境を確定させた。ついでアフォンソは 1139 年のオーリッケの戦いで
ムラービト朝軍に大勝し南部境界域を拡大するとともに独立を宣言し、ポルトガル王アフ
ォンソ 1 世を自称した。 1143 年、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約が結
ばれ、カスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。アフォンソ・エンリケ
スは、アフォンソ 1 世(在位:1139~1185 年)として公式に即位し、ボルゴーニャ朝が開
かれた。 ○レコンキスタの完了 1147 年、アフォンソ 1 世は、パレティチナへの途上ポルトに寄港したイングランド人、
フランドル人、ドイツ人などの十字軍兵士の軍事援助を要請し、テージョ(タホ)川河口
の要衝リスボンを征服した(図 12-27 参照)。 1041
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
イベリアにおける対イスラム戦は聖地奪還の戦いと同等とみなされ、「西方十字軍」と
して、テンプル騎士団を手始めに他国から、ホスピタル、カラトラヴァ、サンティアゴの
各騎士団が次々とポルトガルに導入され、アレンテージョ(テージョ川のかなた)のレコ
ンキスタが組織的に一気に推し進められた。 アフォンソ 3 世(在位:1248~79 年)は 1249 年、アルガルヴェ西部のファロ(図 12-27 参照)を落としてレコンキスタを完了させた。カスティーリャに先行することおよそ 2 世
紀半であった。ポルトガル王国が成立した 12 世紀中ごろまで 40 万人程度であった人口は、
13 世紀には 80~100 万人まで増大していた。 ○アヴィシュ王朝の開始 1383 年、ポルトガル王フェルナンド 1 世は嫡出男子のないまま死去すると、カスティー
リャ王フアン 1 世はフェルナンド 1 世の王女ベアトリスと再婚し、フェルナンド 1 世死後
の王位継承争いに介入した。 しかし、外国人に実権を売る事態にポルトガル国民と貴族たちは怒り、アヴィシュ騎士
団団長でフェルナンド王の庶弟にあたるジョアンが圧倒的支持を得て反乱を起こした。 1385 年 5 月、コインブラで開催されたコルテス(身分制議会)で、ジョアンが国王に選
出され、フアン 1 世は大軍を率いて侵入してきたが、イングランド弓兵の助力を得た新王
ジョアン 1 世(在位:1385~1433 年)はこれを撃退した。ここにポルトガル王国の独立は
確保され、アヴィシュ王朝が創始された。カスティーリャとの対抗上フェルナンド治世以
来のイギリスとの同盟が強化され、これが以後のポルトガルの外交の基軸となった。 ○ポルトガルの海外発展 ジョアン 1 世は、1411 年、カスティーリャ王国と和睦を結んで隣国からの脅威を排除す
ると、いよいよ積極的な勢力拡大に乗り出した。イベリア半島はカスティーリャに囲まれ
ているので、アフリカに向かい、1415 年、エンリケ航海王子と共にモロッコに進出し、同
地に勢力を拡大しはじめた。 1446 年、アフォンソ 5 世(在位:1438~1481 年)は、モロッコでセウタ他 4 都市を掌握
しアフリカに進出した。 ジョアン 2 世(在位:1481~1495 年)は、エンリケ航海王子のアフリカ西海岸開拓事業
を継承して、1484 年にコンゴ河口、1488 年には喜望峰に到達した。ジョアン 2 世はクリス
トファー・コロンブスの航海事業には協力しなかったため、大西洋開拓ではスペインに遅
れをとったが、精力的で覇気に溢れた名君として高く評価されている。そのあとを継いだ
マヌエル 1 世(在位:1495~1521 年)も、ポルトガルの探検隊や商業の発展を積極的に進
めて行って、大航海時代を開くことになった。 1042
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
【12-1-11】スイス 11 世紀までにはスイスは全域が神聖ローマ帝国の支配下に入っていた。12 世紀にはドイ
ツの貴族ツェーリンゲン家、キーブルグ家、ハプスブルク家などの支配下を転々とした。 13 世紀になってザンクト・ゴットハルト峠が開通すると、ヨーロッパの南北を結ぶ交通
の要衝、交易ルートとしてスイスの地理的重要性が高まった。とくにその通路にあたるウ
ーリ州は交易を利用して経済力をつけた。ウーリは抵当権を自ら買い戻すことで自治権を
獲得した。やがてウーリに隣接するシュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州も自治権を手
にした。 スイス人たちはハプスブルク家によって自分たちの権利が失われるのではないかと危惧
し、1291 年、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの 3 つの州の代表者たちは集ま
って自治独立を維持するための永久盟約を結んだ。これがスイス連邦の原型である「原初
同盟」(盟約者団)の結成であった。このシュヴィーツ州の地名こそが「スイス」の語源
となった。 神聖ローマ皇帝ハインリヒ 7 世の死後、ハプスブルク家とバイエルン家は帝位をめぐっ
て争ったが、ハプスブルク家を敵視していた原初同盟はバイエルン公を支持した。これに
怒ったハプスブルク家の軍勢がスイス領内に侵攻したが、1315 年のモルガルテンの戦い、
1386 年のゼンパッハの戦いでスイス農民軍に打ち破られた。こうしてハプスブルク家は出
身地のスイスを追い出されてしまった(オーストリアへ)。 このハプスブルク家との死闘のさなかの 1353 年に最初の 3 州に加えてグラールス州、ツ
ーク州の両州とルツェルン、チューリッヒ、ベルンの各都市が原初同盟と個々に同盟を結
ぶという形で同盟に加わった。こうしてできたのが「八州同盟」であった。 1499 年に皇帝マクシミリアン 1 世(ハプスブルク家出身のオーストリア大公)がスイス
を勢力下に収めようと侵入したが、再びスイス軍の前に敗れた(シュヴァーベン戦争)。
これによってスイスは神聖ローマ帝国からの事実上の独立を勝ち取った。 【12-1-12】東ローマ帝国(ビザンツ帝国) ○東ローマ帝国について ローマ帝国の時代までさかのぼって述べる。統一されたローマ帝国の最後の皇帝となっ
たテオドシウス 1 世(379~395 年)が、死に際して長男アルカディウス(在位:395~408
年)に帝国の東半分を継がせた時(395 年)をもって「東ローマ帝国」の始まりとしている
(図 11-2 参照)。 当時の東ローマの政府や住民は、自国を単に「ローマ帝国」と称した。中世になると帝
国の一般民衆はギリシャ語話者が多数派となったが、彼らは自国をギリシャ語で「ローマ
1043
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
人の土地」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシャ人」ではなく「ローマ人」を称して
いた。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシャ系となり、7 世紀には公用語も
ラテン語からギリシャ語に変わった。これらの特徴から、7 世紀以降の東ローマ帝国を「キ
リスト教化されたギリシャ人のローマ帝国」と評されるようになった。 東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわ
らず、図 12-28 のように、4 世紀から 15 世紀までの約 1000 年間という長期にわたってそ
の命脈を保った。その歴史はおおむね前期、中期、後期の 3 つの時代に大別される。 1044
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-28 東ローマ帝国の盛衰 中央公論社『世界の歴史11』 ○東ローマ帝国前期(395~610 年頃) 《ユスティニアヌス帝の時代》 ユスティニアヌス帝(在位:527~565 年)の治世は 40 年近くになり、ローマ帝国で最後
の偉大な皇帝といわれている。東ローマ帝国は、古代ローマ時代後期以降の皇帝による専
1045
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
制君主制(ドミナートゥス)を受け継いでいた。東ローマの皇帝は、政治・軍事・宗教な
どに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税の
ための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってく
る仕組みも整えられていた。 彼は帝国の西方属州がゲルマン人に占拠されているのは不名誉であるとし、それらの奪
回に専念し、図 12-28-aのように、北アフリカのヴァンダル王国、イタリア、スペイン
南部などを征服した。 東ローマ帝国は、国号のみならず国家制度においてもかつてのローマ帝国を継承してい
た。そのため古代ローマ以来の法律は、東ローマ帝国においても有効であった。しかし、
古代ローマの法律は極めて雑多なものであり、全く整理がなされていなかった。そこで、
ユスティニアヌス帝は、528 年からトリボニアヌスを長とする委員たちによってローマ法を
編纂させた。 後に『ローマ法大全』(『ユスティニアヌス法典』とも呼ばれる)と呼ばれるこのロー
マ法の集大成は、1000 年の歴史をもつローマの法律と法学説をまとめたもので、東ローマ
帝国の基本法典として用いられつづけ、後のヨーロッパ諸国の法律(とくに民法典)の編
纂に大きな影響を及ぼすとともに、近代国家の基礎をつくるうえで大きな影響をはたすこ
とになった。『ハンムラビ法典』、『ナポレオン法典』と並ぶ世界 3 大法典の一つとされる
こともある。 ユスティニアヌス帝の時代には、豪華な建物や記念建造物も数多く建設された。現在で
もビザンツ建築の傑作として名高い聖ソフィア教会(アヤソフィア教会)をはじめ、数多
くの公共の建物や教会、浴場、新しい町などがつくられた。 ユスティニアヌスは「キリスト教徒の皇帝」であることを強調した。彼は、プラトン以
来 900 年以上の歴史をもつアテナイの「アカデメイア(学園)」を廃止させ、首都コンスタ
ンティノポリスにあった異教の像もすべて破壊させた。ユダヤ人の市民権と、ユダヤ教を
信仰する権利も制限した。 しかし、ユスティニアヌスは、旧西ローマ帝国の奪回には、ある程度は成功したがそれ
が限度で、ユスティニアヌスの治世末期には、たび重なる戦争で帝国は深刻な経済破綻に
悩まされ、再び領土を失っていった。バルカン半島はスラヴ人に、イタリアは 572 年にラ
ンゴバルド族に、スペイン南部は西ゴート族に奪還されてしまった。 7 世紀にはバルカンからアヴァール人やスラヴ人が侵入し、東方からはササン朝ペルシア、
ついでイスラム教徒のアラブ人にシリア、北アフリカ、イベリア半島をうばわれ、東ロー
マ帝国の領土はバルカン半島と小アジアに縮小した(図 12-28-b参照)。 ○東ローマ帝国中期(610 年頃 ~1204 年) 1046
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
《ヘラクレイオス王朝(610~711 年)》 アフリカの東ローマ帝国総督ヘラクレイオスは、610 年、東ローマ帝国を皇帝フォカス(在
位:602~610 年)の無秩序統治から救うべく、息子を司令官としてコンスタンティノポリ
スに艦隊を派遣した。フォカスは殺害され、ヘラクレイオス(在位:610~641 年)が帝位
に就いた。 しかし、即位後間もない 613 年には、ササン朝ペルシア軍にシリア,パレスティナを、
次いでエジプト,アナトリアを占領され、首都コンスタンティノポリスの間近に迫られた。
622 年から 628 年にわたって 6 年の戦いの末、ついにはヘラクレイオス自らササン朝ペルシ
アの首都クテシフォンへ侵攻して勝利を収めた。 ところが、アラビア半島で興ったイスラム教を信仰するアラブ人が勢力を拡大し、シリ
アへと進攻してきた。これに対して 636 年、ヘラクレイオスは自ら軍を率いてアラブ人を
撃退しようとしたが、ヤルムーク河畔の戦いでアラブ軍に敗れてシリア・パレスティナを
失った。このイスラムに対する防衛線を構築するのにヘラクレイオスが考え出したのが、
兵農一致の屯田兵制であるテマ制(軍管区制)であり、これによって、とりあえず、アラ
ブの進撃は止まったが、その後は、なだれをうって押しよせるアラブ軍に抵抗するのが精
一杯で、図 12-28 のように東ローマ帝国は縮小していった。新手のアラブ軍との戦いは 2
世紀にわたって続くことになった。 7 世紀の最後の四半世紀になって、新たな脅威が出現した。南下してきたスラヴ人がマケ
ドニアとトラキアに侵入し、さらにブルガール族もドナウ川を渡って侵入してきた。東ロ
ーマ帝国は、軍隊の反乱とあいつぐ皇帝の交代劇が起き、また皇帝の座も軍人たちに奪わ
れるなど、あらゆる徴候が、末期の西ローマ帝国と同じ道をたどり始めた。そして 717 年
には、ついにアラブ艦隊によってコンスタンティノープルは二度目の包囲を受けることに
なった。 《イサウリア朝(717~802 年)の帝国再建》 この混乱の中で、小アジアの軍司令官出身のレオンは、小アジアに攻め込んできたアラ
ブ人を撃退すると、コンスタンティノープル防衛のために上洛し、皇帝テオドシウス 3 世
(在位:715~717 年)を退位させて、自ら皇帝の座について、レオン 3 世(在位:717~741
年)となった。これをイサウリア朝という。 レオン 3 世は小アジアからアラブ軍を追い出し、東ローマ帝国は、とりあえず図 12-28bの状態で安定することになった。 しかし、宗教的には 726 年にレオン 3 世が始めた聖像破壊運動は東ローマ帝国内の混乱
のみならず、ローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めていくことになった。 1047
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
東ローマ帝国が、なぜ、聖像破壊運動をはじめたのか、必ずしもわかっていない。それ
はアラブのイスラム政権が偶像禁止運動に着手した直後のことであったので、イスラム教
徒に偶像崇拝をあざわられたためといわれたことがあったが、東ローマの聖像破壊派がイ
スラムからの影響を受けたという確実な証拠はないといわれている。 イコン(聖画像)否定派の主張は、イコンはあくまでも偶像であって、それを崇拝する
ことは神の教えに反するというものであった。彼らはイコンを破壊するか消し去るよう要
求し、水漆喰や刷毛(はけ)、槌(つち)などをもって、決然とその作業にとりかかった。 シリア出身の東ローマ皇帝レオン 3 世はそうした聖像破壊派の主張を支持した。その理
由についてはよくわかっていないが、おそらく司教たちの助言にもとづくものだったであ
ろう。730 年、レオン 3 世は、イコン崇拝を禁じる勅令(聖像禁止令)を発した。旧約聖書
のモーゼの十戒に上げられている「偶像をつくってはならない」が根拠とされた。 しかし、この勅令は帝国の小アジア側や一部の聖職者・知識人には支持されたものの、
古代ギリシャ文化(古代ギリシャの宗教は神々も人間の姿をしていた)の伝統が残る首都
コンスタンティノープルや帝国のヨーロッパ側の国民、およびイコンの製作に主として携
わっていた東方教会の修道士たちの猛反発を招き、文化的・政治的な問題もからんで帝国
内部を二分する大論争となり、帝国のヨーロッパ側では反乱まで起きた。 一方、聖像をゲルマン人などの布教に用いていたローマ教会も、この決定を非難すると
ともに、それまでコンスタンティノープルに送っていた税の支払いを停止し、これによっ
て東西教会の対立が決定的となった。 3 代目のレオン 4 世(在位:775~780 年)が死ぬと、780 年、11 歳のコンスタンティノス
6 世(在位:780~797 年)が皇帝になり、母のエイレーネー(レオン 4 世の皇后)が摂政
となって政治を取り仕切った。彼女は聖像破壊運動に反対であった。彼女が主宰して開い
た 787 年の第 2 ニカイア公会議でも聖像崇拝の復活を議決した。 しかし、コンスタンティノス 6 世が長ずるに従って母子の関係は悪化した。聖像破壊運
動に皇帝は賛成、エイレーネーは聖像破壊運動に反対であったからである。エイレーネー
は 797 年、軍を動かしてコンスタンティノス 6 世を捕縛し、実の息子でありながら目をく
りぬいて追放し、エイレーネー自らが、東ローマ帝国初の女帝として即位し(在位:797~
802 年)、聖像破壊派に対して徹底的な弾圧を行なった。しかし、802 年、財務長官ニケフ
ォロスは宮廷革命を起こしエイレーネーを廃位にした。 815 年に再び聖像禁止令が出されたが、すでに小アジア側でも聖像破壊への支持は低下し
ており、大きな運動にはならなかった。この第 2 次聖像破壊運動が 843 年に終わりを告げ
ると、最終的に聖像崇拝が復活することになった。 1048
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
この聖像破壊運動の混乱の中でイサウリア朝は断絶したが、そのあとは短いあいだに家
系の違う皇帝が次々と交代する事態になった。 《マケドニア王朝(867~1057 年)》 この混乱に終止符を打ったのは、マケドニア地方生れのアルメニア系農民出身のバシレ
イオスが、皇帝バシレイオス 1 世(在位:867~886 年)となり、マケドニア王朝を開いた
ときであった。 バシレイオス 1 世以下歴代の皇帝たちはローマ帝国の復興を目指して行政機構や法律を
整備し、軍事面でもイスラム支配下にあった東地中海を回復、またブルガリアやロシアな
ど東欧地域へのキリスト教布教を進めた。こうしてマケドニア王朝時代に皇帝専制体制は
頂点に達し、東ローマ帝国は繁栄の時代を迎えた。 また、文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス 7 世(在位:913~959 年)の時代には
宮廷に多くの学者が集められ、古代ギリシャの古典研究が進められた(これを「マケドニ
ア朝ルネサンス」と呼ぶこともある)。 軍事的には、1018 年にはブルガリアを完全に滅ぼして、図 12-28-cのように、ユステ
ィニアヌス 1 世の時代以来最大の版図を実現した。バシレイオス 2 世(在位:976~1025 年)
の下で東ローマ帝国は最盛期を迎えた。東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノ
ープルは人口 30 万の国際的大都市として繁栄をとげた。
しかし、1025 年にバシレイオス 2 世が没すると、その後は老齢・病弱・無能な皇帝が続
き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱した。 1081 年にコムネノス朝(1081~1185 年)にかわったが、帝国の再建は一時的でコムネノ
ス王朝も衰退し、それ以降、東ローマ帝国は毎年のようにクーデターと皇帝交替を繰り返す
ようになった。またブルガリア、セルビアといったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独
立し、帝国は急速に衰退していった。 ○東ローマ帝国後期(1204 年~1453 年) 《ラテン帝国》 1204 年、決定的な打撃が東ローマ帝国に加えられた。イスラムと戦うために東にむかっ
たはずの第 4 回十字軍が、ヴェネツイアの策略によってコンスタンティノープルを襲い、略
奪のかぎりをつくして、東ローマ帝国を滅亡させてしまった(第 4 回十字軍の詳細はイス
ラム史の十字軍のところに記している)。 コンスタンティノープルには、図 12-29 のようにラテン帝国(1204~1261 年)が建てら
れた。つまり、十字軍というのは名ばかりで、略奪できれば、キリスト教国(正教会では
あったが)でも襲うことを証明した。東ローマ帝国は一度コンスタンティノープルを放棄
し、周辺地域に避難し、各地に亡命政権を建てて抵抗することとなった。 1049
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ラテン帝国は、十字軍の中のフランドル伯ボードゥアン 9 世が初代皇帝ボードゥアン 1
世として即位し、旧東ローマ帝国領の全土の征服を目指したが、東ローマ帝国のギリシャ
人貴族層を冷遇し、東方正教会の聖職者達にはローマ・カトリックの典礼を強制したため、
ギリシャ人の不満は高まり、結局、1261 年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイ
ア帝国の皇帝ミカエル 8 世パレオロゴス(在位:1261 年~1282 年)に滅ぼされた。 《パレオロゴス王朝(1261 年 ~1453 年)》 ミカエル 8 世パレオロゴスは東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、パレオロゴ
ス王朝(1261 年 ~1453 年)を開いた。 図 12-29 1214 年ころの旧東ローマ世界 中央公論社『世界の歴史11』 しかし、かつての大帝国は甦らなかった。帝国は、西からは十字軍の残党やノルマン人、
セルビア王国が、東からはイスラムの諸勢力が迫っていた。その上、ヴェネツィア、ジェ
ノヴァ、ナポリ王まで東ローマ帝国征服に野心を燃やしていた。もはや、まわりはすべて
狼だった。 《東ローマ帝国の滅亡》 1453 年 4 月初旬、オスマン帝国の「征服王」の異名をもつメフメト 2 世(在位:1451~81
年)によって、コンスタンティノープル総攻撃がはじまった。それから約 2 ヶ月のトルコ
軍の猛攻に耐えた 5 月 28 日夜、コンスタンティノープルのアヤ・ソフィア大聖堂でミサを
行い、コンスタンティヌス大帝から数えて 80 代目にあたる東ローマ皇帝コンスタンティヌ
ス 11 世の秘蹟を受けたあと、皇帝を含めてすべてが出陣・突撃を敢行した。翌 5 月 29 日
の夜明けまでには、すべてが終わった。 1050
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
オスマン帝国軍の三日月の旗が城壁にひるがえり、メフメト 2 世はコンスタンティノー
プルに入城すると、まっすぐアヤ・ソフィア大聖堂にむかい、勝利の玉座を設けさせた。
こうして 1100 年にもおよぶコンスタンティノープルの歴史は終わりをつげ、正教会の中心
だったアヤ・ソフィア大聖堂は、イスラムのモスクに変えられてしまうことになった。 この時期の東ローマ帝国の唯一の栄光は文化であった。古代ギリシャ文化の研究がさら
に推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ル
ネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネ
サンスに多大な影響を与えた。 【12-1-13】ロシア ○スラヴ人の起源 スラヴ人の原郷はいろいろな説があるが、いまのところ図 12-30 のように東西をヴィス
ワ川とドニエプル川中流域にはさまれ、カルパチア山脈を南限とする地域とするものが有
力である。 スラヴ民族の動向は、彼らがカルパチア山脈(黒海から見て北西方向に位置している)
の東側に定住を始めた紀元前 2000 年頃までさかのぼることができる。それから 2000 年を
かけて、スラヴ人はゆっくりと東西に広がっていった。なかでもその主力は東方へむかい、
現在のロシアへと移動したようである。 バルカン半島に南下しないで原住地に残っていたロシア人を含む東スラヴ人は、何世紀
にもわたって居住地域を広げながら、黒海に注ぎこむ河川の上流域に分散して住んでいた。
彼らは森を切り開き、焼畑をつくって、2~3 年たって土壌が貧しくなると、新しい土地に
移動していくという原始的な農業のやり方をしていた。8 世紀までに人口も増えて、キエフ
(図 12-31 参照)の丘陵地に町と呼んでもいいような人口の密集地域が現れるようになっ
た。 1051
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-30 スラヴ人の原郷 中央公論社『世界の歴史11』 ○ノルマン人の侵入 やがて 9 世紀にはノルマン人(ヴァイキング)が北の方から東スラヴ人を襲った(図 12
-22 参照)。ノルマン人はスラヴ人の支配者となり、多くのスラヴ人が奴隷として南方に
売り払われていった。 1052
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-31 キエフ公国の拡大と分裂 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 スカンディナヴィア(北欧)から進出してきた彼らノルマン人は、交易と海賊行為と植
民を同時に行うようになり、交易のやり方やすぐれた航海術、船体の長いヴァイキング船
の操作法、恐るべき戦闘力などをロシアにもたらすことになった(彼らは到来したとき、
女性はともなっていなかったようで、混血が進んだと考えられる)。 ○ノヴゴロド公国の建国 ロシアの建国は、このヴァリャーグ(バルト海沿岸から侵入して、ロシアに国家を建て
たノルマン人のこと)の族長リューリク(830~879 年)が、860 年ごろ、二人の兄弟(シ
ネウスとトルヴォル)とともにノヴゴロドに国を建てたのが、はじまりだといわれている
(図 12-31 参照)。これがノヴゴロド公国であった。 1053
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○キエフ大公国の時代 そして 9 世紀の終わり(882 年頃)に、彼らの後継者であるオレーグ公(生年不詳~912
年)が南下してキエフを奪い、この町を新しい国家の都に定めたと伝えられている。この
ようにドニエプル川中流域のキエフを中心とするキエフ公国の時代はそれ以後モンゴルの
侵入があるまでの、およそ 350 年間のロシアは、キエフ・ルーシ(ルーシはロシアの古名)
の時代と呼ばれている。 980 年に、キエフ大公に就任したウラジーミル 1 世(在位:980~1015 年)は、正教会の
キリスト教を彼自身と臣民の宗教として選ぶことになった。ウラジーミル 1 世のとき、キ
エフ大公国は大いに拡大し、スラヴ諸族のほとんど、またバルト・フィン諸族の多くが併
合された。 キエフ大公国のもろさは、分割相続の伝統を継続したところにあり、そのため大公が死
去すると、必ずといっていいほど内部分裂や政争が起こり、キエフの覇権はしだいに衰え
ていった。キエフの衰退とともに、ロシア各地に 10 を越える独立の公国(分領公国)が生
まれた。なかでもモスクワとノヴゴロドの 2 公国は急速に勢力を拡大していった。 ○モンゴル支配の時代 1236 年、チンギス・カンの長男ジョチの遺児バトウが率いるモンゴル軍がロシアに攻め
込んできた(図 12-31 参照)。彼らは 1240 年にキエフを占領し、ヴォルガ川下流域に住
み着くと、そこを拠点にまだ占領していないロシア諸公国を属国とする支配体制を作り上
げた。 この事態は、モスクワ大公国の諸侯にとっても大きな痛手となり、モスクワ大公国は、
チンギス・カンの孫であるバトウが興したキプチャク・カン国(図 12-31、図 12-32 参照)
に、数世紀にわたって朝貢を続けざるをえなくなった。この 1242 年から 1480 年まで 240
年間続いたモンゴルの支配は、「タタール(モンゴル人)のくびき」と呼ばれている(タ
タールとは元来モンゴルの一種族の名称から出た語)。 これ以後、モンゴル軍によって征服・破壊されたキエフが衰退し、代わってノヴゴロド
とモスクワが台頭した。ただし、ノヴゴロドもモスクワも、モンゴル人の宗主権を認めて
朝貢を行っていた点では同じだった。 1054
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-32 キプチャク・ハン国の領域(1300 年ごろ) 13 世紀から 15 世紀にかけてキプチャク草原を支配したキプチャク・カン国の首都はサラ
イ(図 12-31 参照)であった。中世には世界最大級の都市で、その人口は最盛期には 60 万
人に達したと見積もられている(現在は廃墟と化している)。 ○モスクワ大公国の時代 キプチャク・カン国はロシア内部の統治機構を変えず、ロシア諸公を介して間接支配と
いう形をとった。間接支配ということは税の徴収ということに尽きるが、モスクワが発展
する端緒は、まずタタールの徴税人として権力を握ったことだった。やがてキプチャク・
カン国は長期の内紛に悩まされ、ロシアの内政に組織的に介入する力を失っていった。 第 4 代モスクワ大公ドミトリー(在位:1350~1389 年)は「タタールのくびき」から解放
されるべきときがきたと考え、1380 年、ドーミトリー軍とキプチャク・カン国=リトアニ
ア同盟軍のそれぞれ 10 万とも 15 万ともいわれる両軍がドン河畔のクリコヴォの原で激突 した(図 12-31 参照)。このクリコヴォの戦いでドーミトリーはカン国のママイ・カンに
大勝した。この戦いはロシアが「タタールのくびき」から脱却する最初のきっかけになっ
た事件であった。 ドーミトリーの後継者ヴァシーリー1 世(在位:1389~1425 年)とその子ヴァシーリー2
世(在位:1425~62 年)の治世は合わせて 73 年に及んだが、1 世のときはロシアの統一、
モスクワ領土の拡大が進んだ(図 12-33 参照)。ヴァシーリー2 世の治世には、1448 年に
ロシア正教会がコンスタンティノープル総主教座から独立した。その直後の 1453 年に、オ
スマン帝国の攻撃によって、コンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国は滅亡した。 1055
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-33 モスクワ大公国の拡大 山川出版社『ロシア史』 ○イヴァン 3 世の政治 ヴァシーリー2 世の長男イヴァン 3 世(在位:1462~1505 年)はイヴァン大帝ともいわ
れたが、即位直後から侵略、婚姻、相続といった様々な手段を使い近隣諸地域の併合を続
けていった。 治世中の最も大規模な併合は、図 12-33 のように 1478 年のノヴゴロド共和国に対する
ものだった。1471 年イヴァン 3 世はノヴゴロドの親リトアニア政権を遠征によって倒し、
1477 年には直接統治への移行を強要した。 1480 年 10 月、大オルダの再興を望むサライのアフマド・ハンはリトアニアの援軍を期待
しつつモスクワへの大規模な遠征を起こし、ウグラ河畔でイヴァン 3 世の大軍と対峙した
が結局、戦わずに退却した。このウグラ河畔の対峙は、「タタールのくびき」からの最終
的解放を象徴する事件として、ロシア史でも最も重要な出来事の一つとされている。 イヴァン 3 世は、1487 年にカザン・カン国を保護国化し(図 12-33 参照)、以後、リト
アニアに侵攻し、1500 年、ヴェドロシャの戦いでこれを破り、リトアニア領の広い地域を
支配下に収めた。 このようにイヴァン 3 世は、東北ルーシを「タタールのくびき」から解放し、周辺国家
にあくなき侵略を繰り返し、モスクワ大公国の支配領域を図 12-33 のように、東西に大き
く広げて強力な統一国家を建設していった。 イワン大帝は、はじめて正式に「ツアーリ(ロシア皇帝)」という称号を用いたが、こ
れは「カエサル(ローマ皇帝)」を意味するロシア語で、ロシアが東ローマ帝国の後継者
であることを意識した称号であった。事実、1472 年にイワン大帝は、最後の東ローマ皇帝
コンスタンティノス 11 世の姪ゾエ(ソフィア)・パライオロゴスと結婚していた。またそ
1056
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
の治世中に彼は、東ローマ帝国の紋章である双頭の鷲を皇帝の紋章の一部に採用した(こ
れは 1917 年までロシア皇帝の紋章の一部として使用されていた)。 イヴァン 3 世と東ローマ皇族出身のゾエ(ソフィア)・パライオロゴスの間にできた次
男ヴァシーリー3 世(在位:1505~1533 年)は、父イヴァン 3 世の領土併合・拡張政策を
継承し、プスコフ共和国(1510 年)、ヴォロク公国(1513 年)、リャザン公国(1521 年)、
ノヴゴロド・セーヴェルスキー公国(1522 年)など近隣地域を征服してモスクワ国家に組
み込んだ。リトアニア大公国との戦いでも勝利して 1514 年にスモレンスクなどを獲得した
(図 12-33 参照)。モスクワ大公国はヨーロッパ東部の大国に成長していった。 【12-1-14】ブルガリア ○ブルガール族の侵入 最初に建国されたスラヴ人の国家はブルガリアであった。といっても、ブルガリア人の
起源はスラヴ人ではなく、もとはフン族と一緒に移動してきて、そのまま留まったブルガ
ール族にあった。その後ブルガール族の一部はスラヴ人との結婚や交流によって、徐々に
スラヴ人と同化していったのである。 ブルガールのハン(族長)・アスパルフは、680 年頃、東ローマ帝国と講和を結び、帝国
内へのブルガール族の居住を認めさせた。アスパルフの領土はドナウ下流域の両岸にまた
がり、ドニエストル川からバルカン山脈に及ぶ広大なものだった(図 12-34 参照)。人数
において圧倒的に少ないブルガール族はしだいにスラヴ化した。 1057
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-34 第 1 次ブルガリア帝国の発展(681~927 年) 山川出版社『バルカン史』 ○第 1 次ブルガリア王国 716 年には東ローマ帝国もブルガリアの独立を認め、それまで帝国領の一部であるとされ
てきた場所(現在のブルガリアの地域)に、異民族の国家が出現することになった。 その後、ブルガリア王クルム・カン(在位:755~814 年)は、トラキアもほとんどを征
服し、図 12-34 のように領土を拡大した。865 年にブルガリア王ボリスが正教会による洗
礼を受けてブルガリア人はキリスト教に改宗した。これは王の改宗によって、民族全体の
キリスト教化をはかるというトップダウン方式の改宗という前例を開いた。これからスラ
ヴ民族全体のキリスト教化という大事業をもくろんでいた東ローマ帝国にとって、画期的
な第一歩を踏み出すことができた。 第 1 次ブルガリア王国のシメオン 1 世(在位:893~927 年)ときは、図 12-34 のように、
アドリア海沿岸までブルガリアの領土を拡大させた。しかし、927 年、シメオン 1 世が死去
すると、彼の輝かしい外征は、その一方で財政難など国力の疲弊をもたらしており、これ
以降ブルガリア(第 1 次ブルガリア帝国)は弱体化し、1018 年、第 1 次ブルガリア王国は
滅亡した。 ○第 2 次ブルガリア王国 1058
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
第 1 次ブルガリア王国が滅びた後、ブルガリアは東ローマ帝国に併合されたが、たびた
び大規模な反乱が勃発した。 1185 年、北ブルガリアにおいて、ペタルとアッセンの兄弟が反乱に立ち上がり、東ロー
マ皇帝イサキオス 2 世アンゲロスは、2 年後ブルガリアの独立を承認せざるを得なくされた。
図 12-35 のように、兄弟が創った国はシメオンの国家の正統な相続人を自任した。これが
第 2 次ブルガリア王国であった。アッセンが最初の皇帝として即位した。 図 12-35 第 2 次ブルガリア帝国の発展(1187~1241 年) 山川出版社『バルカン史』 当時の東ローマ帝国は、第 4 回十字軍によりコンスタンティノープルが奪われ(1204 年
ラテン王国の成立)、ニカイアに首都を移さざるをえなくされていた。イヴァン・アセン 2
世(初代皇帝アセン 1 世の子。在位:1218~41 年)の時代にブルガリア帝国はアルバニア、
マケドニアにまで進出してブルガリア帝国の最大版図を実現、帝国の最盛期を築き上げた
(図 12-35 参照)。 しかし、イヴァン・アッセン 2 世の死後、急速に衰退していって、1396 年までに全ブルガ
リアがオスマン帝国に併合されて、第 2 次ブルガリア帝国は滅亡した。以後、500 年間もの
長きにわたるオスマン帝国の支配下に置かれた。 【12-1-15】ハンガリー 1059
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○大モラヴィア国 スラヴ最初の国家といわれるのは、図 12-36 のように、いわゆるサモの国であった。そ
れは 623 年ごろ、ボヘミアやモラヴィア、スロヴァキアのスラヴ人が、フランク人と推測
される商人サモの指導下に、アヴァールに対する反乱を起こして建国したものだった。こ
の国家は、サモの死後間もなく、659 年ごろアヴァールに滅ぼされ、吸収された。 図 12-36 7~8 世紀の東欧 中央公論社『世界の歴史11』 1060
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
しかし、アヴァール族はフランクのカール大帝に 795~796 年の攻撃で壊滅させられ、歴
史上から姿を消した。 9 世紀の初め、アヴァールが滅んだ後の中欧、今日のモラヴィア地方(チェコの一部)を
中心に、図 12-34(ほぼサモの国)のように、フランク人の支配に対抗してスラヴ人の国家
が創られた。これを大モラヴィア国といっている。9 世紀末にはモラヴィアはもとより、ボ
ヘミア、スロヴァキア、南ポーランド、オーストリアの一部をも含む国家となった。 ○マジャール族の侵入 しかし、この大モラヴィア国は、やがて東方から進出してきたばかりのマジャール人に
よって、906 年に滅ぼされてしまった(図 12-34 参照)。 そのマジャール族であるが、これはウラル語族のフィン・ウゴル語派に属する民族でそ
の原郷はヴォルガ川からウラル山脈にかけての地域にあり、そこからヴォルガ中流域、黒
海北岸地帯をへて、9 世紀末にドナウ下流域に姿を現し、その後、彼らはアルパート(845
~907 年)などに率いられてカルパチア盆地にはいった。 このあと、図 12-37 のように、マジャール人は各地の有力な族長に率いられて西欧への
略奪遠征を繰り返し、ヨーロッパの人々を恐怖のどん底に突き落とした。しかし 955 年に、
ドイツ南部のアウグスブルク近くのレヒフェルトにおいて(図 12-37 参照)、ザクセン朝
ドイツ王オットー1 世率いるドイツ諸侯軍と戦って大敗を喫した。 図 12-37 マジャールの侵入(9~10 世紀) 1061
中央公論社『世界の歴史11』 第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
レヒフェルトの敗戦をきっかけに、マジャール人はハンガリー平原に退いて半牧畜、半
農耕の定住生活に移り、建国することになった。 ○ハンガリーの建国 アールパートの子孫たちのもとで、移動部族集団から定住社会への転換がはかられ、そ
の住民は農耕のほか、手工業や狩猟、漁労などの専門的職業が定められた。こうした改革
は、部族を解体させて 1 人の君主のもとにハンガリーを統合させるきっかけとなった。 ヴァイクは 997 年に大首長になり、各地の部族長を戦いで破って全国統一を進めた。そ
して洗礼を受けてイシュトヴァーン(在位:997~1038 年)と称し、教皇シュルヴェステル
2 世からおくられた王冠を用い、皇帝オットー3 世の同意もえて、エステルゴム(ブダペス
トから 40 キロメートル北西に位置する都市)で戴冠式を行った。ここに正式にハンガリー
王国が成立した。 イシュトヴァーンのもとでキリスト教国として基礎を固め、やがて北はスロヴァキア、
東はトランシルヴァニア、南はクロアチア、ダルマチア地方(アドリア海東岸地方)にま
たがる大国家として、中欧に勢力を張ることになった(図 12-38 参照)。 図 12-38 1480 年ころのドナウ・ヨーロッパ 山川出版社『ドナウ・ヨーロッパ史』 1062
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○モンゴル軍による惨劇 1241 年春、総勢 10 万人に達するというバトウを総司令官とするモンゴル軍がハンガリー
を襲った。オゴタイ・ハンの死の報をうけたバトウが、全軍の撤退を命令するにおよんでモ
ンゴル軍は撤退したが、ハンガリーは悲惨な状況にあった。平原では 50~80%の居住地が、
森林地帯でも 25~30%が灰燼に帰したといわれている。人口も激減し、以前の半分になっ
たといわれている。 13 世紀後半になると、混乱のなかで大貴族が各地で事実上独立し、王国は分裂状態に陥
り、アールパート家の男系は断絶した。 ○ハンガリー王国の復興 アールパート家が断絶したため、女系をたどって国外に王位継承候補者をさがすことに
なったが、結局、教皇庁の後押しとイタリアの銀行から調達した豊富な資金をもつナポリ
のアンジュー家のカーロイ・ローベルトがカーロイ 1 世(在位:1308~42 年)として即位し
た。彼は南部に拠点をおいて、国内の有力な貴族を次から次へと撃破し、全国に自らの支
配権を確立することに成功した。1323 年のことであった。 1342 年、カーロイ 1 世が亡くなると、父の後を継いで即位したラヨシュ 1 世(在位:1342
~82 年)は、安定した内政と莫大な財産、アンジュー派貴族による支持を相続した。この
財産を背景に次々に国外に遠征して領土を拡張したことから「大王」と言われた。 カーロイ 1 世とラヨシュ 1 世の華々しい支配は、彼らがトランシルヴァニアと北部ハン
ガリーの金鉱から手にした莫大な量の金塊によるところが大きかった。これらの金鉱の産
出量は毎年 3000 ポンドに上ったという。国内が平和だったことも、商業や産業の発達を促
した。人口は 300 万人に達し、多くの都市が新たに生まれた。 ○ハンガリー王国の滅亡 1382 年、父王ラヨシュ 1 世の死により 11 歳足らずでハンガリーの女王として即位したマ
ーリア(在位:1382~1385 年)は、1385 年にルクセンブルク家のジギスムント(1368~1437
年)と結婚した。しかし、女王に対する反発が強く、1387 年に夫のジギスムントを即位さ
せた。カール 4 世の息子ジギスムントは、1378 年に父帝の死にともないブランデンブルク
辺境伯、1387 年にハンガリー王、1410 年には皇帝、さらに 1436 年にはボヘミア王となっ
た。 このころ、オスマン帝国の脅威が高まってきた。1389 年にコソヴォの戦いでセルビアな
どを破ったオスマン帝国は、バルカン地域のほとんどを征服し、ハンガリー王国はいまや
東欧における二宗教の境界線になり、攻撃の危険に曝されるようになった。 1521 年、オスマン帝国のスレイマン 1 世(在位:1520 年~1566 年)は、ハンガリーのベ
オグラード(図 12-38 参照)を陥落させ、1526 年 8 月 29 日のモハーチの戦い(図 12-38
1063
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
参照)では、ハンガリー軍を一網打尽に絶滅、国王ラヨシュ 2 世(在位:1516~26 年)は
戦死し、ヤギェウォ王家は断絶した。 そして、1541 年、スレイマン大帝はふたたびハンガリーに親征をかけ、オスマン帝国軍
によってブダ(現在のブダペストの一部)は制圧され、図 12-39 のように、①オスマン帝
国の直轄領となったこの中・南部、②ハンガリーの北部・北西部・クロアチアなどを含む
ハプスブルク支配域(ハプスブルク・ハンがリー)、③ヤーノシュ・ジグモンドを君主と
し、オスマンの宗主権を認める東部の東ハンガリー王国(1570 年以後、トランシルヴァニ
ア侯国となった)に 3 分され、ハンガリー王国は消滅してしまった。 そして、この 3 分割の状態は、以後 150 年余にわたって継続し、ハプスブルク家とオスマ
ン帝国の係争地となった。いずれにしてもハンガリー王国は消滅してしまった。 図 12-39 3 分割された旧ハンガリー王国(1570 年ころ) 山川出版社『ドナウ・ヨーロッパ史』 【12-1-16】ボヘミア王国(チェコ) ○西スラヴ族 カルパチア山脈一帯(図 12-30 参照)を原住地とするスラヴ人のうち、西方に広がった
西スラヴ族はローマ・カトリックに改宗し、西欧文化の影響を受けた。 チェコ人とスロヴァキア人は元来、西スラヴの同じグループに属していたと考えられる。
彼らの祖先が、北方のヴィスワ川、オーデル川方面から現在のチェコ(ボヘミアおよびモ
ラヴィア)とスロヴァキアの地にやってきたのは、6 世紀になってからのことである。 1064
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
7 世紀にはフランク王国の商人サモがモラヴィアを中心に国家を建設したことは述べた
(サモ国。図 12-36 参照)。サモの死後まもなく滅びたが、その基礎は次の大モラヴィア
王国に受け継がれた(図 12-34 参照)。9 世紀にできた大モラヴィア国は、ある意味でこの
フランク王国支配からの独立の試みであったが、それもあえなく失敗し、やがて 906 年マ
ジャール人によって滅ぼされてしまった。 その後、東部のマジャール人のハンガリーの支配下におかれた人々はスロヴァキア人の
祖先となり、東フランク王国、ついで神聖ローマ帝国の勢力圏に入った者たちはチェコ人
と呼ばれるようになった。 ○プシェミスル朝(900~1003 年) モラヴィア国家が崩壊したあと、ボヘミアではプラハ付近を拠点とするプシェミスル家
が各地の部族を解体させてあらたな国家を築いた。熱心なキリスト教徒として名高いヴァ
ーツラフ 1 世が出て、ボヘミア公(在位:921~929 年)となり、ボヘミアのカトリック化に
努めた。彼はザクセン出身の東フランク(ドイツ)王ハインリヒ 1 世(在位:919~936 年)
による上部の支配を認め、ザクセンの聖人・聖ヴィートの遺骨を譲り受けてプラハ城のな
かに聖ヴィート教会を建てた。 しかし東フランク(神聖ローマ帝国)への軟弱な態度に反発した弟ボレスラフ(1 世。在
位:929~967 年)によって殺害されてしまった(ヴァーツラフはキリスト教のための殉教者
として、国民的聖人に列せられた)。 1003 年、ポーランド公のボレスワフ 1 世(後のポーランド王国初代国王ボレスワフ 1 世)
がチェコ全土を武力で制圧し、ポーランド公ボレスワフ 1 世兼ボヘミア公ボレスラフ 4 世
となった。これに対しプシェミスル家のヤロミールは神聖ローマ皇帝ハインリヒ 2 世に臣
従を誓い、ボヘミアを神聖ローマ帝国の領邦としてドイツ人を引き入れることを約束した
ことで、神聖ローマ帝国の支援によって、翌年ポーランド公ボレスワフ 1 世からボヘミア
公の座を取り戻した。 ○プシェミスル朝(1004 年~1306 年) 11 世紀初めには、ボヘミアの君主が大公として皇帝の封臣になるという関係が定着し、ボ
ヘミアは神聖ローマ帝国の一領域をなすことになり、皇帝との関係がもっとも重要となっ
た。11 世紀にはボヘミアへのドイツ人の移住が進み、ドイツ文化が浸透した。 プシェミスル・オタカール 1 世(在位:1197~1230 年)は皇帝選挙に積極的に加わり、1212
年フリードリヒ 2 世のドイツ王選出を支持して、皇帝からボヘミア君主は王号の世襲を最
終的に確認され、あわせてモラヴィアへの支配権や国内の司教叙任権その他の諸特権を付
与された。オタカール 1 世は続いて神聖ローマ帝国によって、選帝侯とされた。 ○ルクセンブルク朝(1310 年~1437 年) 1065
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
プシュミスル朝断絶後(1306 年)、王位をめぐって争いが起こったが、結局、貴族たち
が神聖ローマ皇帝ハインリヒ 7 世の子、ルクセンブルグ朝のヨハン(在位:1310~1346 年)
を国王に迎えた。ドイツ系のルクセンブルク家がボヘミア王を世襲したので、ドイツ人の
外来王朝のもとで、一層のドイツ化が進んだ。 ヨハンの死後、その子カールがボヘミア王カレル 1 世(在位:1346~78 年)となったが、
彼は神聖ローマ皇帝に選出され、カール 4 世(在位:1347~78 年)となった。カールは疑い
もなくボヘミア史上最も優れた国王であった。彼は皇帝としては武力に訴えることを控え、
平和的・外交的手段でドイツを統治した。またイタリアに過度に関わることをしなかった。 皇帝として「金印勅書」を作成し、7 人の選挙侯とその権利を成文化した。これは 1356 年
に帝国議会で採択され、7 選挙侯を支柱とするドイツ帝国国制の礎となった。これで新たに
皇帝選挙の手続きを定め、帝国における政治的混乱を回避さようとした。これによりボヘ
ミア王も 7 選帝侯の一人と定められ、ボヘミアの地位が飛躍的に高まり、その首都プラハ
は 3~4 万人の人口を抱え、帝国でただ一つの大学を擁する政治・文化の中心となった。 《フスの宗教改革》 ボヘミアの教会は、カール 4 世の教会優遇政策の結果、教会財産も多く、きわめて裕福
な状態にあった。高位聖職者たちの生活は奢侈に流れ、ボヘミア教会はしだいに道徳的に
堕落していった。下級聖職者や市民の間には、教会に対する不満や批判が高まっていった。 1402 年首都プラハのベツレヘム礼拝堂の主任司祭兼説教師に任命されたヤン・フス(1369
~1415 年)は、イギリスの宗教改革者ウィクリフ(1320~1384 年)の影響を受けて、教会
の腐敗を批判した。1409 年ピサの公会議はボヘミアにおけるフスが行っているウィクリフ
の教義の拡大を非難し、フスにベツレヘム礼拝堂における説教を禁じた。ウィクリフの著
作は焼かれ、フスとその支持者は破門に処せられた。フスはそれでも教えることを止めず、
大衆も彼を支持した。 新教皇ヨハネス 23 世が、対ナポリ王戦争(十字軍)のために贖宥状(しょくゆうじょう)
を販売するにいたって、フスはこれを激しく批判して、教皇とも対立することになった。
贖宥状というのはローマ教会が発行するもので、これを購入すると罪が減ぜられるといわ
れた(フスが行なったことは、1517 年のルターの宗教改革を先取りするものであった)。 フスは 1414 年のコンスタンツの公会議の特別委員会の査問を受けた。彼はウィクリフと
同様、教会の最高の頭は教皇でなく、キリストだと主張した。フスは、自説の撤回を要求
されたが、これを拒否し、1415 年についに異端として火刑に処された。フスの死と翌年の
彼の友人の処刑は、ボヘミアに憤激の嵐を巻き起こし、プラハのほとんどの教会はフス派
の手中に帰するところとなった。 《フス戦争》 1066
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1420 年 3 月には教皇が対フス派十字軍を宣言し、16 年にわたるフス戦争が始まった。前
述したハンガリー王だったジムスムントがボヘミア王も兼ねていたが(在位:1419~1437
年。ハンガリー王在位:1387~1437 年。神聖ローマ皇帝在位:1410~1437 年)、ジムスム
ントは、十字軍を組織してフス派に牛耳られるプラハに進撃した。プラハは穏健派も急進
派も一つとなって戦い十字軍を粉砕した。 その後も次々と繰り出された十字軍を撃退したが、1434 年にフス派は分裂し、5 月 30 日
リパニの戦いでカトリックと結んだ穏健派が急進派を粉砕した。16 年に及ぶ戦争の真の勝
者は世俗貴族であった。戦争後、村落の 85~90%が貴族のものとなった。長年の戦争で国
土が疲弊し、また国際社会から孤立することになった。 ○ハプスブルク家の支配 ボヘミアでもハンガリーと同様にジギスムントのあとは(1437 年)、ハプスブルク家の
アルブレヒト 2 世がなり、やがて、ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝とボヘミア王を兼ね
るようになると、プラハは神聖ローマ皇帝の王宮、政治や文化の中心として発展した。 【12-1-17】ポーランド ○ポーランドの建国、ピャスト朝(1025~1138 年) 西スラヴ族は図 12-30 のスラヴ原住地から西方に広がって、ポーランド人、チェコ人、
スロヴァキア人などとなった。 ポーランドが歴史に登場するのは、10 世紀のことで、ドイツのザクセン史の年代記の中
で、西方のドイツ人からの圧力に抵抗するスラヴ人の部族集団として姿を現した。記録に
残されている最初のポーランド君主ミェシュコ 1 世(935~992 年)は、ピャスト朝(一族
の始祖とされる伝説的な農夫の名前に由来)最初の君主とされており、966 年にカトリック
に改宗した。 992 年、ミェシュコ1世のあとを継いだ長男のボレスワフ 1 世(在位:992~1025 年)は
行政組織を整備し、ポーランド公国の領土を画定し、ポーランドの領土を北はバルト海沿
岸、西はシレジアからモラヴィア、1018 年にはキエフにまで攻めのぼり、一部を征服し、
西に進んでラウジッツ(現在のドイツ東部)を征服し、神聖ローマ帝国領のマイセンを侵
略して手に入れた(図 12-40 参照)。征服に抵抗した住民はことごとく捕え、奴隷として
イスラム世界などに売り飛ばしたため、これらの地域で非常に恐れられた。 だが、その息子ミェシュコ 2 世(在位:1025~34 年)はこの広大な王国を維持できなか
った。多くの地方領主たちは、国王による単独統治を恐れ、ボレスワフ 1 世の功績は、そ
のほとんどが政争や異教徒の反乱のなかで消滅した。 1067
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
しかし、ボレスワフ 3 世(在位:1102~1138 年)は 1106 年にポーランドが以前に征服し
た領域を再征服し領土を回復した。ボレスワフ 3 世は 1138 年、死の直前に国家を 5 つの公
国に分割し(図 12-41 参照)、息子達に分割相続させた。 図 12-40 ボレスワフ 1 世時代のポーランド 山川出版社『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 長子権の原則によって、第 5 の地域、クラクフ領は諸公たちのうちの長子(というより
最年長者)に与えられ、その人物がクラクフ大公を称し、ポーランドの最高権威者(君主)
となることにしていたが、ボレスワフ 3 世が死ぬと間もなく、クラクフの統治者である長
男ヴワディスワフ 2 世(1138~1146 年)は、弟達から公国を奪うことでポーランドの統一
を回復しようと考えた。 1068
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-41 5 分されたポーランド ○分裂の時代 これに対し大貴族たちは、ヴワディスワフ 2 世の中央集権化に猛反対し、内戦が勃発し
た。果てしない争いが続き、ポーランドの政治的分裂は 13 世紀末まで続き、200 年以上も
のあいだ、ポーランドでは王号を名乗る者がいなくなった。 ポーランド各公国が分裂し、弱体化しているときに、1241 年、チンギス・ハンの孫バト
ゥ率いるモンゴル軍の来襲があった。モンゴル帝国総司令官バトゥはポーランド方面へ支
軍のひとつを侵攻させていたが(本隊は前述したようにハンガリー王国を攻撃した)、それ
が 1241 年 4 月 9 日にシュレージエン公ヘンリク 2 世率いる諸侯の連合軍とワールシュタッ
トの戦いで激突した(図 12-62 参照)。 ヘンリク 2 世は 4 万人を超える軍勢を集めたのに対し、モンゴルの支軍は 5000~8000 人
だった。「ワールシュタット」とはドイツ語で、死体の山という意味であるが、ポーランド
軍はまさに死体の山となってしまった。モンゴル軍はこの戦いの後ポーランドを席捲し、
バトゥ率いる本隊の先鋒は一時オーストリアのウィーン近くまで迫ったが、モンゴル皇帝
オゴデイが急死したことによって撤退した。これによってヨーロッパはかろうじて救われ
た。 その後、ポーランドは、13 世紀の末から統一の気運が高まり、実際、1295 年から具体的
な国王が立ったが、次々と暗殺され混乱が続いた。 ○カジミェシ 3 世による統一 カジミェシ 3 世(在位:1333~70 年)は、すぐれた政治的手腕をもつ国王で、図 12-42
のように、ドイツ騎士団とボヘミア(チェコ王国)という敵を腹背にして、もはやこれま
1069
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
でのように、軍事的に対決することは得策ではないと考え、これを外交交渉で解決するこ
とに重点をおいた。 彼は多額の賠償金とシロンスク(ポーランド南部)に対する権利を承認することによっ
て、ボヘミア王のポーランド王位への要求を断念させることに成功した。また、1343 年の
カリシュの和でドイツ騎士団ヘのグダンスク・ポモージェの割譲を認め、代わりにクヤー
ヴィ、ドブジンを獲得することで手を打った(図 12-42 参照。これによってドイツ騎士団
領は一体化し強くなった)。 このように王国のための平和的条件を確保したカジミェシ 3 世は、以後国内の政治的安
定化と経済的発展のために勢力を集中させることができたのみならず、東方へ向かって領
土を拡大することもできた。 図 12-42 1250 年頃のポーランド 山川出版社『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 ○ポーランド・ハンガリーの同君連合の形成 カジミェシ 3 世の死後、ポーランドの王位がハンガリーのラヨシュ 1 世に委ねられたが
(ポーランドとハンガリーは同君連合を形成)、そのラヨシュの死後、ポーランドの貴族
らが王として選んだのはラヨシュの 10 歳になる娘ヤドヴィーガであった(1384 年)。一方、
ハンガリーの貴族らはラヨシュの長女マリアを王として選んでいたので、これでハンガリ
ー、ポーランドの同君連合は終わってしまった。 ○ポーランド・リトアニア連合の誕生 1070
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
今度はポーランドの貴族らはヤドヴィーガを説得して、リトアニア大公のヤギェウォと
結婚させた。ヤギェウォとヤドヴィーガは、1386 年に結婚、ヴワディスワフ 2 世(在位:1386
~1434 年)として戴冠しヤギェウォ朝を開いた。ここに、図 12-43 のように、東はウクラ
イナ・ベラルーシから西は神聖ローマ帝国との境に接する強大なポーランド・リトアニア連
合国家の誕生であった。 1410 年、ヴワディスワフ 2 世は、ヴィータウタスとともにドイツ騎士団をタンネンベル
クの戦いで破った。この戦いで勝利をおさめたポーランドは、ドイツ騎士団から西プロイ
センを奪い、ポーランド王国領とした。ポーランドとリトアニアのヤギェウォ朝は、数十
年にわたって王国の領域と勢力の拡大を続けた。 図 12-43 14~15 世紀のポーランドとリトアニア 山川出版社『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 15 世紀の終わりまでに、ヤギェウォ朝の相続人たちはポーランドとリトアニアのみなら
ず、ボヘミアとハンガリーをも統治するようになり、一族で東ヨーロッパと中央ヨーロッ
パ全域を支配しているも同様の状態であった。 西ヨーロッパの人口増加が食糧需要を増大させ、ポーランド・リトアニアは穀物の最大
の供給源であり、穀物はグダニスクの海港からバルト海を通って西へと輸送された。大土
地所有者である貴族たちは穀物取引の利益のおかげで強大な権勢を誇るようになった。 このことが原因となって、ヤギェウォ朝ポーランドは様々な分野で、初期近代ヨーロッ
パにおける歴史的趨勢に逆らうかのように、他地域とは明確に違った政治の構造と運営の
あり方であった。この時期、ヨーロッパでは君主に権力が集中して蓄積されていく状況が
1071
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
生まれていたが(絶対王政に向かっていた)、ポーランド・リトアニアでは土地所有貴族の
主導による明確な地方分権の政治システムが発展しつつあり、王権が厳しい制限を受け弱
体化が進んでいた。 【12-1-18】セルビア スラヴの原郷から、図 12-30 のように、南スラヴ族(セルビア人、クロアティア人など)
はバルカン半島を南下していった。 6 世紀頃から東ローマ領に姿を現したスラヴ人は、しだいにバルカン半島全域に広がり、
移住の波がおさまる 10 世紀ごろには、半島全体がスラヴ化されたといえる。今日バルカン
の大部分が南スラヴ人の諸国家で占められているのは、このためである。そしてギリシャ
はシチリア、小アジアなどに逃れていたギリシャ人も戻って、ペロポネソス半島全域が、
10 世紀には言語・宗教・文化の面で、再びギリシャ化された。もちろん、スラヴ人とギリシ
ャ人、スラヴ人とその他の先住民との混血は日常的に起こったのであろう。 アドリア海沿岸を北上し、中欧へと進出したスラヴ人からも、いくつかの国家が誕生す
ることになった。今日、南スラヴ人の中で最大のグループを誇るセルビア人は、7 世紀の初
めにバルカンに登場して以来、しばらく目立たない存在だった。9 世紀より東ローマ帝国の
支配を受け、ギリシャ正教に改宗した。 ○ゼータ王国 11 世紀中頃になると、ゼータ(今日のモンテネグロ)に、強力な国家が成立した(図 12
-44 参照)。すなわち、1042 年、ゼータ公ステファン・ヴォイスラフは東ローマ帝国軍を
破って、その支配を脱し、その子ミハイルはアドリア海にまで支配圏を広げ、ローマのカ
ソリックに接近、1077 年には教皇グレゴリウス 7 世から王冠を受けた。 その子コンスタンチン・ボディンも、ローマと密接な関係を保った。しかし、1090 年こ
ろボディンは東ローマ帝国軍に捕らえられ、ゼータ王国は滅びた。 1072
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-44 中世セルビアの発展 中央公論社『世界の歴史11』 ○セルビア王国 以後セルビアの中心はラシュカ地方に移っていった。ラシュカ地方とはアドリア海とド
ナウ川を隔てる分水嶺の北側でセルビア人元来の居住地である。1180 年に東ローマ帝国の
マヌエル 1 世コムネノス帝が没すると、図 12-44 のように、セルビアはラシュカの大ジュ
パン(族長)ステファン・ネマニャを初代とする王朝(1171 ころ~1371 年)を建国した。 セルビアは少なくとも 13 世紀末までは、東西両教会のあいだで揺れ動いていた。 セルビアが決定的に東ローマ文化圏に傾斜したのは、13 世紀末のステファン・ミルティ
ン王(在位:1282~1321 年)以来のことであった。ミルティンは歴代セルビア王のなかでは
じめて、領土を北マケドニアにまで拡大し、セルビアは東ローマ帝国中心部とじかに接す
るようになった。そして、ステファン・ドウシャン(在位:1331~55 年)のときに、最盛期
を迎えた。彼の領土は図 12―44 のように以前の 2 倍となり、コンスタンティノープルの征
服を企て、これにほとんど成功しかかった君主だった。 ○コソヴォの戦い(1389 年) 1389 年 6 月 15 日、コソヴォ平原で、セルビア王ラザル、ボスニア王トヴルトコ、ワラキ
ア大公ミルチャなどからなるバルカン半島の諸侯軍が、アジアからの勢力を伸ばしつつあ
ったムラト 1 世率いるオスマン帝国軍と会戦した(図 12-61 参照)。このコソヴォの戦い
1073
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
はオスマン帝国軍の大勝に終わった。ところが、ムラト 1 世はセルビア貴族ミロシュ・オ
ビリッチの謁見の際に刺し殺されてしまった。そしてオスマン軍は報復に捕虜のセルビア
王ラザルを殺害し、直ちにバヤズィト 1 世がスルタンに即位し、バルカン征服事業を継承
した。 この戦いの結果、オスマン帝国はドナウ川以南の支配権を確立し、セルビア、マケドニ
ア、ブルガリアはオスマン帝国への服従を強いられた。この戦いでオスマン帝国はバルカ
ン半島征服に大きな成果をあげ、セルビアは最終的には 1459 年に滅亡した。 【12-1-19】ルーマニア ルーマニアというのはロマニア、つまり「ローマ人(ないしその子孫)の国」を意味する。
ルーマニア人はローマ化したダキア人が、ローマ人撤退後の民族大移動期に、一部は平野
部に残って諸民族、とりわけスラヴ人と混血するにいった。一方、大多数の者はカルパチ
ア山脈の奥に避難し、それがやがて平野部に降りてきた。彼らは双方ともにヴラフ人と呼
ばれるようになっていたが、9~10 世紀ごろから各地に地方権力を樹立した。 13 世紀にはモンゴル、すなわちキプチャク・ハン国の支配下に入ったが、14 世紀にはこ
れを脱し、図 12-45 のように、ワラキアとモルダヴィアという二つの公国をつくった。 ワラキア公国は、ドナウを大動脈とする東西交易路上に位置しており、そこからあがる
関税収入で潤った。しかし 14 世紀末にはオスマン帝国の勢力がこの地にもおよび、ハンガ
リーの助力も得て戦ったが、ついに独立の維持を条件に、貢納を義務づけられた。 1074
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-45 ワラキア公国とモルドヴァ公国(1480 年頃) その後オスマンの支配は強化されたが、ここではブルガリアやセルビア、ギリシャなど
と異なって、オスマン支配は常に間接的であった。ルーマニアでは一応自治が認められ、
大土地所有に依存する貴族層が辛うじて残り、そのため独自の文化また民族的なアイデン
ティティが比較的よく保たれた。 他方、東カルパチア山脈とドニエストル川にはさまれたモルダヴィア地方は、14 世紀に
タタールの支配を脱し、ハンガリーの勢力下に入っていたが、トランシルヴァニア北部か
らきたボグダン公がハンガリー軍を破って、1359 年にモルダヴィア公国を建国したといわ
れている。しかしここも 14 世紀末からオスマン帝国の圧力にさらされるようになり、1456
年には帝国への貢納を余儀なくされた。 その後のモルダヴィアは、オスマン、ハンガリー、ポーランドの圧力にさらされながら、
何とか独立を獲得しようと努力したが、帝国の支配をうけることが多かった。しかしそれ
は直接支配ではなかったことは、この国にとって幸いなことであった。ワラキアとモルダ
ヴィアは 1859 年に統一されてルーマニア公国(1881 年から王国)となり、両公国のオスマ
ン帝国からの独立は、1878 年のサン・ステファノ条約のときまで待たねばならなかった。 【12-1-20】アルバニア 1075
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
アルバニア人はイリュリア人の子孫といわれる。イリュニア人というのは、かつてヨー
ロッパに広く居住していたケルト人に代わって、紀元前 1000 年ころからしだいにバルカン
半島西部に住みつくようになった民族で、その言語はインド・ヨーロッパ語族の中の独立の
一語派をなした。今日では、アルバニア本国の 320 万人を含め、旧ユーゴスラヴィアなど
に住む者を加えると総計 500 万人を数えるといわれている。 イリュニアは紀元前 3 世紀には自治的な都市を組織して栄えていたが、紀元前 167 年に
ローマの支配に服し、紀元 4 世紀末のローマ帝国の分裂に際して東ローマ帝国の支配下に
入った。6 世紀から始まったスラヴ人の侵入の際には、多くがバルカンの山岳地帯に難を避
け、11 世紀ごろから再び姿を現したといわれている(図 12-44 参照)。このころ東ローマ
の文献にアルバニアという語が現れた。 アルバニアはその後、東ローマ、ブルガリア、セルビア、ヴェネツィア、エピロス(1204
年の第 4 回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃で東ローマ帝国が一旦滅びた時、ニ
カイア帝国、トレビゾンド帝国などと共に出来た亡命政権の一つ)、ナポリなどの争奪の
場となり、15 世紀中頃には一時、オスマン軍に対する戦いを指導したスカンデルベク公の
下に統一がなったが、彼の死後(1468 年)、ついにオスマン帝国の支配を受けることにな
った。独立の獲得は、1912 年 12 月のロンドン会議における列強の承認を待たねばならなか
った。 【12-2】中世イスラムの世界 【12-2-1】正統カリフの時代(632~661 年) ○初代カリフ、アブー・バクル アラビア半島の商業都市メッカ(図 12-46 参照)のクライシュ族のハーシム家に生まれ
たムハンマド(570 年頃~632 年)が、イスラム教を興したことは【11-12-4】世界
宗教の成立のところで述べたので、ここでは繰り返さない。 ムハンマドが 632 年 6 月 8 日に没したとき、ムハンマドの古くからの友人でムハージル
ーン(メッカからの移住者)の最有力者であったアブー・バクルが後継指導者に推戴され
た(図 12-47 参照)。ムハンマドが没したその日のうちに、アブー・バクル(在位:632
~634 年)が初代カリフ、正しくは「神の使徒の代理」に就任することが正式に決まった。
カリフの原義は代理人である。 ムハンマドの死が伝わると、アラビア半島各地のアラブは、その死によって盟約は解消
されたものと考え、ウンマから離脱する動きを示した。そこで、アブー・バクルは、633 年、
将軍ハーリドをつかわし、離反の民をすべて平定させた。 1076
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-46 イスラム以前のアラビア半島 1077
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-47 ムハンマドと正統カリフ系図 中央公論社『世界の歴史8』 さらに、アブー・バクルは、シリアへも遠征軍を派遣することが得策と考えた。シリア
は地味豊かなところであり、交易による利益もおおいに期待できる土地柄であったので、
ムハンマドも晩年には、この地方の獲得になみなみならぬ意欲を示していたからである。 そこでアブー・バクルは総てのアラブに手紙を送って聖戦(ジハード)を呼びかけ、彼
らにそれ(聖戦の功徳)を鼓吹し、またローマ(東ローマ帝国)の素晴らしい戦利品の獲
得を促した。アブー・バクルは、いまや戦利品の獲得は、以前のような略奪行為の結果で
はなく、神の道のために戦うことの結果であると意義づけたのである。遊牧民の古い殻を
ぬぎすて、武力によって新天地をもとめる大征服時代のはじまりであった。 ○第 2 代目、カリフ、ウマル 634 年にメディナでアブー・バクルが没し、ウマルが第 2 代目のカリフ(在位:634~644
年。図 12-47 参照)になったが、征服戦争は続けられた。 やがて、図 12-48-①のように、アラブ・ムスリム軍は、東方ではササン朝ペルシアを
倒し、イラク、イランを支配下におさめ、西方では東ローマ帝国にシリア、エジプトから
1078
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
の撤退を余儀なくさせた。この大征服を可能にしたのは、両帝国による統治の弱体化、民
衆の離反、新興のアラブ・ムスリム軍の志気の高さなどいろいろ考えられるが、何よりも
アラブの征服軍が、イスラムによって十分に統制された規律ある軍隊であったことが挙げ
られよう。 《「コーランか、税を払うか、剣か」》 一般にアラブの征服軍は、「コーランか剣か」の二者択一を迫ったといわれているが、
実際には、そうではなくて、「コーランか、税を払うか、剣か」の三者から一つを選ばせ
たので、かなり、短期間にしかもスムーズに征服が進んだといえよう。つまり、アラブの
征服には、①イスラムに改宗するか、②人頭税を支払って従来どおりの信仰を保持するか、
③これらを拒否してあくまで戦うか、の三通りがあったことになる。ただし、③のように
異教徒があくまでも降伏を拒否し、武力による征服が行われた場合には、生命の安全は保
障されないのが原則であった。 634 年から第 2 代カリフとなっていたウマルにとって、広大な征服地を国家として形づく
る仕事があった。バドルの戦い(624 年)のあと、ムハンマドは自らに戦利品の 5 分の 1 を
取得する権利があるものと定めていた。この権利はのちのカリフにもそのまま受け継がれ、
征服の拡大につれてメディナに運ばれてくる戦利品は莫大な量に上った。残りの 5 分の 4
は戦いに参加した戦士たちの間で配分されたが、獲得した土地そのものは共同体のものと
され、戦士には分配されないのが原則であった。 《アラブ帝国=アラブ人主体のイスラム国家体制の確立》 しかしウマルは、征服が一段落した時点で、征服地ではアラブ人ムスリム優越のもとで
非アラブ人・非ムスリムを支配するために彼らからハラージャ(地租)、ジズヤ(非改宗
者に課せられる税)を徴収する制度を考案し、メディナから新たなアーミル(代行者を意
味するアラビア語。徴税官)を派遣し、アラブ戦士にはその税収入を用いて一定の俸給を
支払うことを定めた。このようにして異民族を支配する祭政一致の帝国支配体制が占領支
配地にしかれた。 軍事的な抑えとしてアミール(軍事を担当する総督はアミール)を指揮官とするアラブ
人の駐留する軍営都市(ミスル)を建設した。ミスルを通じて張り巡らされた軍事・徴税
機構を生かすための財政・文書行政機構がディーワーンであり、ウマルはこのような中央
集権的な国家体制を築き、後の歴史家からアラブ帝国といわれるアラブ人主体のイスラム
国家体制を確立した。 ウマルは、また、前述したように、ヒジュラ(622 年。メッカからメディナへの遷都)の
あった年を紀元 1 年とする現在のイスラム暦を定め、コーランとムハンマドの言行に基づ
1079
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
いた法解釈を整備して、後の時代にイスラム法(シャリーア)にまとめられる法制度を準
備した。 638 年、ウマルはムスリムによって征服されたエルサレムに入り、エルサレムがイスラム
共同体の支配下に入ったことを宣言するとともに、聖地におけるキリスト教徒を庇護民(ズ
ィンミー)とし、彼らがイスラムの絶対的優越に屈服しジズヤ(税)を支払う限りにおい
て一定程度の権利を保障することを約束した。 このとき、エルサレムの神殿の丘に立ち入ったウマルは、かつて生前のムハンマドが足
をかけた聖なる岩を発見した。ウマルはそのとき、そのかたわらで礼拝を行って、エルサ
レムにおいてムスリムが神殿の丘で礼拝をする慣行をつくった。その聖石は現在では岩の
ドームに覆われている。 ここはユダヤ教とキリスト教にとっても、ともに聖域である神殿の丘であった。これに
よって、エルサレムは、イスラムにとっても、メッカ、メディナにつぐ第三の聖地に定め
られ、後に十字軍をはじめ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の長い複雑な抗争の歴史
を生み出すことになった。 ○第 3 代カリフ、ウスマーン 644 年、ウマルがメディナのモスクで礼拝中に奴隷に刺殺されると、図 12-47 のクライ
シュ族のウマイヤ家のウスマーンが、生前のウマルの指名にもとづいて第 3 代カリフ(在
位:644~656 年)に就任した。 ウスマーンは預言者ムハンマドが没して十数年、様々な形で伝えられるコーランの章句
を整理し、統一する必要があると考え、コーランの編纂事業を開始した。このとき現在に
伝わるコーランの原型がつくられた。 ○第 4 代カリフ、アリー 656 年 6 月、ウスマーンは下級兵士の不満派に襲われ、命を落とした。次のカリフをめぐ
って、ムハンマドの従兄弟(いとこ)にして娘婿のアリーと、ウスマーンと同じウマイヤ
家のムアーウィヤが争ったが、曲折を経て、アリーが第 4 代のカリフに就任した(図 12-
47 参照)。 アリーはムハンマドの最愛の家族の一人であったばかりでなく、若いときからムハンマ
ドの片腕として、バドル、ウフド、ハンダク、ハイバルなどすべての戦いで先頭に立って
敵軍に突撃し敵側の名高い勇士を倒し、勝利をもたらした人物で、初代カリフのときもア
ブー・バクルとともに候補に上がったが、若年であるという理由だけで外されたといわれ
ていた。 人物としては誰も文句はなかったが、ここで、やっかいなことが起こった。ウスマーン
を襲った反乱軍がアリーを推戴したことにより(アリーにとっては大変なありがた迷惑で
1080
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
あっただろう)、彼はウスマーン殺害の黒幕ではないかと疑われた。少なくとも反アリー
の陣営からそのような疑惑が流された。 このためアリーと第 4 代目のカリフを争い敗れたウマイヤ家のムアーウィヤが、シリア
でカリフを宣言した。カリフのアリーは反アリーの陣営(ムアーウィヤなど)を戦場で 2
度にわたって破ったが、661 年 1 月、アリーはクーファのモスク近くでハワーリジュ派(過
激派)の刺客によって暗殺された。このアリーの暗殺により、(すでにカリフを宣言して
いた)ウマイヤ家のムアーウィヤは単独のカリフとなり、自己の家系によるカリフ位の世
襲を宣言し、ウマイヤ朝を開くことになった。 【12-2-2】ウマイヤ朝(661~750 年) ○イスラム共同体の分裂、シーア派とスンナ派 このとき、イスラム共同体は、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラム共
同体を指導する資格があると主張するシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)
と、それ以外のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと大きく
分裂した。結局、イスラム帝国はウマイヤ家のムアーウィア(図 12-47 参照。在位:661
~680 年)がカリフ位を世襲して支配することにした。 ムアーウィヤは首都をダマスクスにおくと、常備軍を編成し、非イスラム教徒に税を課
すことで、軍事費を捻出する体制を作り上げ、正統カリフ時代より続いていた大征服活動
を継続して展開していった(図 12-48-①の茶色部分)。そして、次の攻撃対象は主とし
てササン朝ペルシアとの抗争で衰弱していた東ローマ帝国であった。 すでにイスラム軍は、海軍を建設して 630 年代から 640 年代にかけてキプロス島を略奪
し、7 世紀の終わりには、キプロス島はアラブ軍と東ローマ帝国の両者で分割された(図
12-29-b 参照)。 1081
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-48 イスラム世界の拡大 創元社「世界の歴史4」学研教育出版「よくわから倫理」 その後、アラブ人の攻撃によって、東ローマ帝国はコンスタンティノープルを 2 度にわ
たって包囲され、領土がバルカン半島と小アジアだけに縮小してしまった。しかし、とも
かくこの時点で、この東ローマ帝国方面に対するアラブ軍の進出はいちおう阻止されるこ
とになった。 1082
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
6 代目カリフのワリード 1 世(在位:705~715 年)の治世である 8 世紀初頭にウマイヤ
朝は最大版図となり、アラブ帝国といわれるようになった(図 12-48-①参照)。 西に進んだアラブ軍は、711 年、ジブラルタル海峡をわたってイベリア半島へと進出した。
ここで西ゴート王国を滅ぼし、ピレネー山脈を越えて、フランク王国領内に入った。その
勢いは、図 12-48―①のように、732 年、トウール・ポワティエ間でフランク王国のカール・
マルテルに敗れ、食い止められた。その結果、ピレネー山脈の南側まで戻された。 東へ進んだアラブ軍はアゼルバイジャンで遊牧民のハザール族に敗北し、図 12-48-①
のように、751 年、(すでにアッバース朝になっていたが)タラス川の戦いで玄宗皇帝時代
の唐王朝の軍勢に勝利し、イスラム勢力の国境線はコーカサス山脈とアム川(オクサス川)
に沿った地域で定着した。 こうして新しく世界史の舞台に登場したイスラム教徒による大征服は、8 世紀の中頃、西
ヨーロッパ、小アジア、中央アジア、コーカサス山脈の全ての地方で、ようやく終わりを
告げることになった。 ○イスラムの平和(パクス・イスラミカ) ダマスクスのカリフから任命された総督(アミール)たちは、遠隔の都市を結ぶ交通路
の整備と安全の確保に少なからぬ努力を傾けた。ここにローマの時代と同じように、広域
の「イスラムの平和(パクス・イスラミカ)」が実現し、経済の実力を蓄えたイスラム商
人は、やがてアフリカ、中央アジア、インド、東南アジア、中国へと活動の範囲を広げ、
イスラム世界のさらなる拡大に貢献することになった。 「イスラムの平和」が実現すると、東西の領域を結ぶ商品流通が活発となり、旧来の貨
幣システムではとても対応できない情勢となった。第 5 代カリフ、アブド・アルマルク(在
位:685~705 年)は 695 年、ダマスクスで純粋なアラブ式貨幣を鋳造し、これを全国に流通
させることを決定した。このディーナール金貨とディルハム銀貨による 2 本位制を定めた
ことは、後世にはかり知れないほどの影響をおよぼすことになった。 新しいアラブ貨幣の発行とその流通によって、貨幣経済の進展は一段と加速され、この
経済システムを基礎にして、現代と同じように、官僚や軍隊への俸給(アター)の支払い
が現金で行われるようになったからである。このような俸給の現金支払いは、8~9 世紀の
ヨーロッパ、あるいは中国ではとうてい実現不可能なことで、当時のイスラムの貨幣経済
の発展は、世界の最先端をいっていたといえよう。 ○アラビア語に統一 アブド・アルマルクは、広大なイスラム世界を貨幣の面で統一の第一歩を踏み出したが、
つぎに官庁の部署ごとに異なる行政用語をアラビア語に統一することにし、697 年、イラク
官庁で用いられていたペルシア語をアラビア語に、700 年にシリア地方の行政用語がギリシ
1083
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ャ語からアラビア語に、705 年にはエジプトの行政用語がコプト語からアラビア語にそれぞ
れ改められた。それぞれの地域の官僚たちは強く抵抗したが、命令どおりの改変が行われ
た。 このような行政のアラブ化は、官庁で働く書記の入れ替えをも促すことになった。それ
まで地方行政を担ってきたのは、ペルシア語、ギリシャ語、コプト語などを能(よ)くす
る異教徒の官吏であったが、この改革後はアラブ人の官吏が異教徒にかわって重用される
ようになった。ウマイヤ朝のアラブ人第一主義は、税制面の優遇措置ばかりでなく、地方
行政の担い手の面にまで及んだのであった。 人類の歴史の中で、すでに古代社会を経過した人類は、征服によって少数の支配者が君
臨する事例は数多くあったが、だいたい少数の支配者は時の経過とともに独自の言語や習
慣を失い、多数派の中に埋没してしまう例が多かった。しかしアラブ人は強力なる武力で
征服していったので、「コーラン」の言葉であるアラビア語を神の言語としてイスラム世
界の共通語として征服地へコーランとともに強制していったのである。 このようにコーラン(宗教)も言語も押しつけられれば(しかも武力で)、変わらざる
を得なくなる。言語はすべての文化のもとである。ウマイヤ朝のアラブ帝国は、アラビア
語を共通言語とするイスラム社会に変わっていった。図 10-5 の主要な語族の分布図で、
アラビア半島からアフリカ北部が(インド・ヨーロッパ語族から)アフロ・アジア語族に
変わったのはこのためであったことは述べた。 ○マワーリー(新改宗者)問題 しかし、このイスラム国家にマワーリー(新改宗者)問題というやっかいなことが起き
てきた。この政治体制のもとで、アラブ人地主が 10 分の 1 税(ウシュル)だけを納めれば
よかったのに対して、異教徒の農民たちは、収穫のほぼ半分に達する地租(ハラージュ)
と現金による人頭税(ジズヤ)の納入を義務づけられた。 そこで、これら農民たちは、イスラムに改宗すれば、当然、アラブ人ムスリムと同等の
権利を享受できるはずだと考えた。7 世紀末のイラクやイランの農民たちは、重税を逃れる
ために土地を捨てて周辺の都市へ流れ込み、有力なアラブ人をたよってイスラムに改宗し
た。これらの新改宗者をマワーリーと呼んでいた。 しかし、このようなマワーリーの数が増大すると、各地の徴税官からは、国庫収入が減
少してしまったという報告があいついだ。コーラン(宗教)を受け入れるか,重税を払う
かといわれれば、被支配者はコーランを受け入れますとなり、(イスラム教の建前からは)
結構な話であるが、支配者層の税金が減ってしまうことになった(つまり、イスラムの宗
教は建前で、本音は統治する、つまり、税金をとることであったことがわかる)。それも
1084
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
困ったことだった。つまり、この国家はもともと矛盾した社会システム、イスラム教徒が
増えれば増えるだけ税金が減ってしまうというシステムをつくってしまったのである。 ウマイヤ朝が征服戦争をしている間はよかったが(略奪ができるから)、いったん征服
が終わると、「神の前での平等」は建前だけで、実際は守られないということがわかり、
マワーリーの不満は増大していった。 イラク総督ハッジャージュによる帰村政策の強行は、バスラやクーファなどの都市に混
乱を巻き起こし、マワーリーの不満をいっそう募らせる結果となった。このアラブによる
特権の維持と平等を求めるマワーリー問題は、国家の基礎たる税とかかわる問題で、ウマ
イヤ朝が国家として生き残れるかどうかの問題となっていった。 ○ウマイヤ朝の滅亡 このマワーリー問題への不満だけでなく、イラクやイランのシーア派のムスリムたちも
ウマイヤ朝カリフに対する復讐の念を忘れることはなかった。このような反ウマイヤ家の
気運が高まる中で、預言者の叔父の系統のアッバース家は、カリフ権の正統な後継者であ
ることを主張し始めた。 預言者ムハンマドの叔父にアッバースがいて、確かに図 12-47 のように、アッバース家
はウマイヤ家以上に預言者に近い血統であるとはいえる。アッバースからはじまったアッ
バース家の家系図を図 12-49 に示す。 1085
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-49 アッバース家系図 中央公論社『世界の歴史8』 アッバース家の当主ムハンマド(図 12-49 参照)は死海南部の小村フマイマを本拠にハ
ーシミーヤという秘密結社を組織し、各地にダーイー(秘密教宣員)を派遣してウマイヤ
1086
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
朝への不満を扇動しはじめた。伝統的に反ウマイヤ朝の気風が強い南イラクのクーファに
も重要な支部が置かれた。 ダーイーのうちで最大の成功をおさめたのはホラーサーン(北部イラン)に派遣された
アブー・ムスリムで、彼は 747 年に 8000 人のホラーサーン人を率いて挙兵し、翌年、ホラ
ーサーンの総督を殺害し、大軍を西方に派遣し、イラン各地の諸都市を次々に制圧し、749
年夏にはイラクに達した。 しかし、ウマイヤ朝側は、これらの運動を指導しているアッバース家の拠点がフマイマ
村にあることを察知し、ムハンマドを次いだ当主イブラーヒームを捕らえ、処刑した。イ
ブラーヒームの弟アブー・アルアッバースらは脱出に成功し、クーファに潜入した。その
直後にイラクに入ったホラーサーン軍はクーファを降した。 749 年 11 月、ホラーサーン軍によってクーファでアブー・アルアッバースがカリフとし
て推戴された。これが、アッバース朝初代のカリフのサッファーフだった(図 12-49 参照)。 ウマイヤ朝のマルワーン 2 世はイラク北部の大ザーブ河畔でホラーサーン軍と戦ったが、
大敗し、エジプトで殺害された。750 年 4 月にダマスクスも陥落し、ウマイヤ朝の王族はほ
とんど殺害された。このとき、かろうじて逃亡に成功したアブド・アッラフマーンはイベ
リア半島に逃げ、後に、この地で後ウマイヤ朝を建てることになった。 【12-2-3】アッバース朝(750~1258 年) ○中国とアラブの初の衝突 サッファーフ(在位:750~754 年)が、アッバース朝の初代カリフとなった直後の 751
年、中国とイスラムの二大勢力がフェルガーナ地方のタラス川付近(図 12-48 参照。現在
のキルギス領)で戦ったことは前に述べた。唐とアッバース朝の中央アジアの覇権を巡る
天下分け目の戦いで、敗れた唐朝の安西節度使の軍は多数の捕虜を残したまま敗走した。 イブヌン・アシールの『年代記』によると、アッバース朝軍は「唐軍 5 万人を殺し、2 万
人を捕らえた」という。この戦い以降、中央アジアにイスラム勢力の安定支配が確立し、
ソグド人(中央アジアなどのイラン系オアシス灌漑農耕民族)やトルコ系諸民族の間にイ
スラム教が広まっていった。唐の勢力はタリム盆地に限定されることとなり、間もなく起
こった安史の乱の影響もあって唐の中央アジア支配は後退していった。 この捕虜のなかに紙すき工が含まれ、アラブ人は彼らから製紙法を学んでサマルカンド
に最初の工場を建設したといわれている。この製紙法は亜麻布のぼろを原料とするもので
あった。この製紙法の伝播はイスラム世界からヨーロッパへと伝わり、歴史的に大きな影
響を与えることになった。このように文明の交流(この場合は戦争というマイナスの交流
であるが)は、必ずお互いになんらかの影響を与えるものである。 1087
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○第 2 代カリフ・マンスール、イスラム官僚国家の成立 サッファーフは 754 年、天然痘で没し、あとを図 12-49 の兄マンスール(在位:754~
775 年)が継いだ。ウマイヤ朝を倒す革命運動に協力したシーア派は、新政権によって期待
を裏切られ、各地で反乱を起こしたが、アッバース朝軍によってまもなく鎮圧された。 反
乱をおさめた後のマンスールは、内政に力を入れ、アッバース朝の基礎を固め、実質的な
創建者ともみなされている。 マンスールは強力な軍隊と整備された官僚組織によって中央集権的な体制を作り上げる
ことを目指した。軍隊の中核は王朝の建設に主役を演じた約 3 万のホラーサーン軍であっ
た。彼らに対する俸給も十分に引き上げられた。 また、ササン朝ペルシアや東ローマ帝国にならって、複雑な官僚制が組織され、カリフ
の権威と権力は最高至上のものとされた。カリフはめったに人前に姿を現さず、文武百官
によって一般庶民から隔絶されるようになった。宮中でもカリフは周囲に帳をめぐらし、
侍従がカリフへの取次ぎを行った。そのため高官であってもカリフと直接に対面すること
はまれであった。 カリフはさまざまな称号をもち、のちには「預言者の代理人」ではなく、「神の代理人」と
名乗るに至った。また、カリフの玉座の脇には常に死刑執行人がひかえていて、カリフの
意に沿わぬものはその場で処刑できるものとされた。 官僚制について、アッバース朝の成立によって生じた最大の変化は、イラン人(ペルシ
ア人)の影響力が増したことが上げられる。イラン人はウマイヤ朝時代には単なる従属民
とされていたが、ホラーサーン軍に参加してアッバース革命に大きく貢献したこともあり、
アッバース朝の時代には多くのイラン人官僚が取り立てられた。文官筆頭の宰相(ワジー
ル)の位もほぼイラン人で独占された。 ○マワーリーの税制問題 ウマイヤ朝を苦しめたマワーリー(非アラブ人のムスリム)の税制問題は、アッバース
朝になると、ウマイヤ朝とうって変わって、アラブ人とマワーリーはハラージュ(地租)
だけを徴集され(アラブ人は無税からハラージュを新たに課されるようになった。つまり、
ムスリムはアラブ人であろうと被アラブ人であろうと地租を払わなければならないという
点では同じになった)、非ムスリムは変わらずジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)の
両方を課せられ、アラブ人とマワーリーの間の税制面での差別はなくなった(アラブ人か
らもハラージュをとるのであるから政府は増税となった)。 この税制面の改革は、イラン人はほとんどすべてがゾロアスター教などから転換したム
スリムであったから、イラン人にとって、この改革はアラブ人と平等になったという意味
で意義があった。ここにイスラム共同体の国家はアラブ帝国から信仰を中核とするイスラ
1088
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ム帝国に転換したとされている。アッバース朝のもとで、それまで征服者のアラブ人の間
だけに殆ど留まっていたイスラム教の信仰はペルシア人(イラン人)などの他民族に広ま
っていった。 広大なアッバース朝の征服地では、時代が進むにつれて、イスラムへの改宗が進んだ。
アッバース朝が成立した 750 年の時点では、イラクの全人口に占めるムスリムの割合はわ
ずかに 8%に過ぎなかった。しかし、9 世紀はじめになると 40%、10 世紀には 70~80%に
達したと推定されている。もう、こうなると西アジア、中東、アフリカ(北部)は名実と
もにイスラムの世界となったといえる。 ○バグダードの繁栄 アッバース朝第 2 代カリフ・マンスール(在位:754~775 年)は、新王朝にふさわしい
首都バグダードの建設を行なった。 図 12-50 のように、新都は円形のプランを持ち、直
径は 2.35 キロメートルで、はじめから世界を結ぶ国際都市として建設された。 8 世紀末になると、バグダードの市街地はティグリス川の西岸から東岸へと拡大し、各地
からの移住者は円城外に居住区をつくって住みつき、やがて人口は 100 万近くまでふくれ
あがった。8 世紀前半の盛唐時の長安の人口は 70~100 万人と推定されているので、両都市
の人口はほぼ拮抗していたようである。二つの首都は、多様な民族と文化が交錯する国際
都市であるという点では共通の性格を備えていた。 1089
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-50 アッバース朝時代のバクダード 中央公論社『世界の歴史8』 マンスールの目論んだとおり、バグダードはティグリス、ユーフラテスの両大河が流れ
ているので、バグダードには各種の商品や物資が、陸路および水路を利用して、簡単に運
び込まれるようになった。交易の相手は、東方や西方のイスラム諸国に限らず、遠くイン
ド、中国、チベット、トルコ、ダイラム(カスピ海西南部)、ハザール(黒海とカスピ海
の間)、エチオピアなどであった。 第 5 代カリフのハールーン・アッラシード(在位:786~809 年)は 797 年、803 年、806
年と 3 度にわたって東ローマ帝国と戦い、いずれも勝利をおさめた。このアッラシードの
ころ、アッバース朝は最盛期をむかえ、ペルシア湾ルートを交易路(海のシルクロード)
とする国際貿易の結節点である首都バグダードは繁栄をきわめていた。アッラシードは『千
1090
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
夜一夜物語』などでアッバース朝に君臨した帝王としても語り継がれている。そこには商
人を中心とする中世のイスラム世界が生き生きと描き出されている。 ○「喜捨する」社会システム 都市は権力者によって建設され、そこでは贅沢な消費生活が営まれた。バグダードやそ
の他の都市の市場は、ムスリム商人がもたらす中国の陶磁器・絹織物、インド・東南アジ
アの香辛料・木材、中央アジアの白人奴隷・ルビー・瑠璃、ロシアの琥珀、毛皮、奴隷、
そしてアフリカの象牙・金・黒人奴隷などがあふれかえった。現金さえあれば、何でも手
に入れることができる時代が到来していた。 しかし、そこにはイスラム独特のものも組み込まれていた。イスラムの教え(喜捨すべ
し)のとおり、公共の建物は、カリフや宰相、大商人、地方総督などによって建造された
が、これらの建物には管理・運営に必要な経費を生む店舗や農耕地が寄進された。この寄
進財産をワクフという。これがイスラム社会の町づくりを進めるための根幹のシステムで
あった(ワクフはもともと「停止」を意味するアラビア語で、ある物件から得られる収益が
イスラムの所期の目的に当てられている限り、その物件の所有者が用益権および処分権を
放棄(停止)することである。イスラムでは、モスク・マドラサ(教育施設)・病院・孤
児院などの多くがこのワクフという寄進財産によって運営される。ワクフは、施設を寄進
するだけでなく、その運営費こみであることが立派である。社会システムは本来そうある
べきである。日本の公共事業はハードだけの「箱もの」行政といわれる)。 富裕な特権層(ハーッサ)に対して、都市の民衆はアーンマと呼ばれ、市場の小商人、
職人、賃金労働者がこれに相当した。さらにその下層には荷かつぎ人夫、召使い、奴隷、
死体処理人、道路の清掃人、乞食、放浪者、売春婦など、およそ豊かさとは無縁の人々が
生きていた。イスラムの世界も少数の支配者階級と大多数の被支配者階級からなる社会で
あることに変わりはなかった。ただ、前述したように広域を利用した商業が発達し、裕福
な商人が生まれたことは以前にはなかったことであった。裕福なものが喜捨する仕組みが
つくられていたことは確かであった。 ○イスラム社会の奴隷 イスラム社会は奴隷を否定はしなかったが、コーランでは、「両親にはやさしくあれ。ま
た、近親者、孤児、貧者、血縁の隣人、血縁のない隣人、近くの仲間、旅人、そして自分
の右手が所有する者(奴隷)にも。」と、奴隷に対する親切な扱いを繰り返し説いている。 イスラム法の規定によれば、生まれつきの奴隷と、戦争捕虜による奴隷の 2 つだけが認
められていた。イスラム社会では、子供の身分は母親の身分に従うのが原則であった。し
たがって、たとえ父親が自由人であっても、母親が奴隷であれば、その子供は奴隷身分に
1091
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
属した。ただし父親がその子供を認知すれば、その時点で子供は自由人となることができ
た。 イスラム社会の奴隷も主人の所有物として売買、相続、贈与の対象にされた。しかし、「人
間」としての性格も認められており、男女の奴隷とも主人の許可をえて結婚することが可能
であったし、解放の条件が金額で示されている場合には、その資金を蓄えることが認めら
れていた。奴隷によるイスラムの信仰は、自由人の場合と変わらなかったが、奴隷のムス
リムには、金曜日の集団礼拝、メッカ巡礼、ジハードへの参加についての義務は課せられ
なかった。 ○イスラムの学問 ウマイヤ朝時代にはじまったギリシャ学術の導入は、アッバース朝時代になってから本
格化した。学問の分野でも創造と模倣・伝播の原理通り、まず、模倣それからアラブ独自
の学問が起きるようになった。 第 5 代カリフ、ハールーン・アッラシード(在位:786~809 年)は、バグダードにギリシ
ャ語文献を中心とする図書館を建設し、これを「知恵の宝庫」と名づけた。その息子の第 7
代カリフ、マームーン(在位:813~833 年)は、父の残した「知恵の宝庫」を拡充して「知恵
の館」と改め、ギリシャ語文献の組織的な翻訳を開始した。 このように、中世のイスラム世界は、イスラム帝国が形成され、アラビア語が学問の言
語として広い地域で使われるようになる以前の古代にギリシャ、ペルシア、インドなどで
発展していた学問(科学)を図 12-51 のように、広く吸収した。 このようにしてイスラム世界にもたらされた学問には、哲学、論理学、医学、数学、幾
何学、天文学、音楽、錬金術、地理学、生物学、博物学などがあり、「外来の学問」と呼ば
れた。 1092
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-51 イスラムの学問 中央公論社『世界の歴史』一部改変 やがて 9 世紀には、外来の文化を翻訳する域を脱してイスラム独自の成果が次々と発表
されるようになった。図 12-51 のように、もう一方のアラブの学問、つまり神学、法学、
コーランの解釈学、伝承学、文法学、散文学、書記学なども、この時代にめざましく発達
をとげた。これらの学問を広く修めた者はウラマー(知識人)と呼ばれた。 ○イスラム科学 とくに自然科学関係の学問は「イスラム科学」ともいわれ、中世の世界ではイスラム科学
が最も進んでいたといわれている。なかでもアラブ人が最大の功績を残したのは、数学と
化学の分野であった。 たとえば我々は今でも、「アラビア数字」を使って計算を行っている。アラビア語とと
もに使われていた数字はインドから取り入れられたゼロの数字をもっており、これがアラ
ビア数字としてヨーロッパに伝わり、世界中に使われるようになった(数字の発明につい
ては、【18-10-6】定住社会の成立の【3】文字・数字の発明で記した)。このアラ
ビア数学がもたらした成果は大きく、代数学や三角法はアラビア数学が開拓した分野であ
る。 錬金術の分野でもアラビア科学が果たした役割は大きい。アルコール、アルカリなどの
名称にもその痕跡をとどめているが、そもそも化学という言葉もアラビア語の錬金術
al-Kimya に由来する。 1093
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
それが中世後半のヨーロッパに伝えられ(中世にはイスラムの方がヨーロッパより学問
のレベルが高かった)、17 世紀の科学革命を経てヨーロッパ近代科学につながったのであ
る。 こうした当時のアラブとヨーロッパの文化交流は、ほとんど一方通行であった。中世に
おいてラテン語からアラビア語に翻訳されたテキストは、ほとんど存在しなかった。アラ
ブ人はこの当時のヨーロッパを北方の寒冷地ととらえ、その文明を後進的なものと見なし
ていた。また、当時は事実その通りであった。中世のアラブの学者たちは、もっぱら古代
のギリシャ、ペルシア、インドの文化遺産の研究を行っていたのである。 ○その後のイスラム国家 9 世紀にはいると、経済や文化はますます発展したが、アッバース朝のカリフによる政治
体制はすでに衰えを見せ始めていた。帝国の内部は地方の反乱に悩まされ、アッバース朝
は分裂に向かい始めていた。 821 年には、ホラーサーン(イラン東部の州)総督のターヒルがカリフへの服従を拒否し
てイランに独立のターヒル朝(821~873 年)を樹立した(図 12-52 参照)。ターヒル朝の
あとは、ブワイフ朝(932~1062 年)、サッファール朝(867~903 年)、サーマーン朝(875
~999 年。図 12-53 参照)、ブワイフ朝(932~1062 年)が次々に立てられ消えていった。 図 12-52 9 世紀のイスラム世界 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 1094
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-53 10 世紀中頃のイスラム世界 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 図 12-3(図のオリエント、インド、スペインの黄緑色の部分),図 12-48 のように、
アラビア半島からはじまったイスラム帝国は正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝まで
は統一を守っていたが、その後、多くのイスラム国家に分裂していった。図 12-3 の黄緑
色の範囲がイスラム国家であり続けたが、アラビア半島はもちろん、イラン、トルコ、エ
ジプトを含む北アフリカ、東の方では中央アジア、インド地域(パキスタン)、アフガニ
スタン、東南アジア(インドネシア、マレーシアなど)まで及んでいる。 近世のはじめ、図 12-3 のように、オスマン帝国が多くのイスラム国家を吸収して(ち
ょうど古代の地中海地域の国家を吸収してローマ帝国となったように)アジアとアフリカ
とヨーロッパにまたがる大帝国をつくったが徐々に弱体化していって第 1 次世界大戦後、
完全に解体し、オスマン帝国は現在のトルコ共和国、その他はすべて独立した。 図 12-3 の飛び地のスペインの黄緑色は、ウマイヤ朝の 711 年の春、図 12-24 のように、
ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進出したアラブ軍が、西ゴート王国軍を破って
とったものである。このイベリア半島のイスラム国家については,次に述べる(スペイン
の歴史でも述べた)。 【12-2-4】イベリア半島のイスラム国 ○後ウマイヤ朝の成立 750 年、アッバース朝がイラク全土を制圧したとき、20 歳のアブド・アッラフマーン・
ブン・ムアーウィヤ(731~788 年)がアッバース朝の追手をかわし、イベリア半島に渡り、
1095
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
756 年に後ウマイヤ朝(756~1031 年。図 12-52 参照)を樹立したことはスペインの歴史
で述べたので、ここでは省略する。 1031 年に後ウマイヤ朝は滅亡し、以後アンダルスはイスラムの小王国が乱立する分裂の
時代になった。 ○レコンキスタの高まり ムスリムから国土を回復しようとする運動であるレコンキスタ(再征服)についても、
スペイン(およびポルトガル)の歴史で述べた。 イベリア半島西北部のキリスト教諸国とアンダルスのイスラム国家との攻防は一進一退
を続けたが、後ウマイヤ朝の崩壊(1031 年)を機に事態は流動化しはじめた。 1035 年にはカスティーリャ王国とアラゴン王国が相次いで成立し、その勢いを駆って両
国はイベリア半島南部の攻略を開始すると、レコンキスタの勢力が強くなり、トレド(1085
年)、サラゴサ(1118 年)、リスボン(1147 年)をイスラム側から奪回した。そして、1212
年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いにおけるムワッヒド朝の壊滅後に、コルドバ(1236
年)、セビリア(1248 年)を奪回した。 これによって、グラナダのナスル朝を除くすべてのムスリム勢力がイベリア半島から駆
逐された。そして、ナスル朝はカスティーリャに臣従を誓って 200 年長続きしただけであ
って、事実上、この時点でレコンキスタは終了した。 1479 年、アラゴンとカスティーリャの両王国がスペイン王国として統一されると、キリ
スト教勢力の優位は決定的となった。1491 年、スペイン国王フェルナンドはグラナダを包
囲し、ナスル朝最後の君主アブー・アブド・アッラーフ(在位:1482~83,1490~92 年)
に無条件の降伏を促した。92 年 1 月、アブー・アブド・アッラーフはこの勧告を受け入れ、
アルハンブラ宮殿を明け渡してイベリア半島を後にした。 【12-2-5】アフリカのイスラム国 ○アフリカのイスラム地域政権 アッバース朝の弱体化によって、アフリカでも地域政権の自立が起ってきた。 図 12-52 のドリース朝(イドリース朝。788~985 年)は、西マグリブにおける最初のシ
ーア派サイイド(預言者ムハンマドの直系子孫)によるイスラム王朝であった。王朝を開
いたイドリース・イブン・アブドゥッラー(イドリース 1 世。在位 788~791 年)はアリー
とムハンマドの娘ファーティマの血を引いていた。そのため彼はシーア派のサイイドとし
てアッバース朝から迫害を受けて 786 年にマグリブへ逃亡し、そこでベルベル人に受け入
れられ、フェズを都として王朝を開いた。 1096
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
同じように、アグラブ朝(図 12-52 参照。800~909 年)、トウールーン朝(868~905 年)、
イフシード朝(935~969 年)などがアフリカに自立した。アグラブ朝は、アッバース朝支
配下で現在のチュニジア地方の支配を認められた王朝で、国教はイスラム教スンニ派、首
都はカイラワーンであった。 西方のエジプトでは、トルコ人マムルークの息子イブン・トウールーン(エジプト総督)
が、バグダードへの税の送金を拒否して事実上の独立を達成し、トウールーン朝(868~905
年)と称した。この王朝の樹立によって、イスラム時代以後、はじめて豊かなエジプトの
富がエジプト社会のために利用される体制ができあがった。 アッバース朝は 905 年にトウールーン朝を滅ぼしたが、チュニジアで興ったファーティマ
朝のシーア派イスマーイール派勢力の東進を防ぐため、バグダードからトルコ系のマムル
ーク軍人を送り込み、エジプトの防衛にあたらせた。その総督ムハンマド・イブン・トウグ
ジュは、エジプトの実権を掌握するとアッバース朝から半独立の政権イフシード朝を樹立
したが、結局、969 年にファーティマ朝の大軍が到来するとほとんど抵抗することなくイフ
シード朝は滅んだ。 ○ファーティマ朝の建国 909 年、アッバース朝治下の北アフリカでファーティマ朝(909~1171 年)が建国したが、
ファーティマ朝は図 12-53 のように、北アフリカ全体を治めたシーア派の政権であった。 《シーア派の主流十二イマーム派》 まず、その後のシーア派を説明すると、少数派のシーア派ムスリムは、アッバース朝政
府の弾圧をうけてじっと鳴りを潜めていた。彼らは、イマーム(信者の指導者)の位は、
アリーから二人の息子ハサン、フサインへと伝えられ、その後は図 12-54 のように、フサ
インの子孫が代々イマームの位を継承し、第 12 代目のムハンマドにいたって隠れイマーム
になったと主張する。これが、後にシーア派の主流になり、現代のイランにも受け継がれ
いる穏健なシーア派の十二イマーム派である。 ファーティマ朝の始祖ウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー。934 年没)は、
図 12-54 のように、イスマーイールの子孫と称するイスマーイール派宣教活動の指導者で、
899 年には従来の教理を改めて自らがイマームにしてマフディー(救世主)であると宣言し、
活動を先鋭化していった。 ウバイドゥッラーの指示に従い、イスマーイール派に対する迫害の厳しい本拠地シリア
から離れた北アフリカで活動していた教宣員のアブー・アブドゥッラーは、現地のベルベ
ル人の支持を集めて軍事力を組織化することに成功し、909 年にイフリーキヤ(現在のチュ
ニジア)を中心に北アフリカ中部を支配するアグラブ朝を滅ぼした。 1097
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
彼らはウバイドゥッラーをシリアから北アフリカに迎えカリフに推戴し、チュニジアの
地でファーティマ朝が建国された(909 年)。王朝名のファーティマは、イスマーイールの
先祖である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来
している。 ウバイドゥッラーは王朝建設の功労者アブー・アブドゥッラーを粛清してカリフによる
独裁権力を確立、チュニスの南に新都マフディーヤ(「マフディーの都」の意)を建設して
シーア派国家のファーティマ朝の支配を固めた。同じ時期にはイベリア半島のアンダルス
でスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したので、これでイスラム世界には 3 人のカリフ
が並存したことになる。 図 12-54 アリー家とシーア諸派系図 中央公論社『世界の歴史8』 ファーティマ朝の目的は、そもそもアッバース朝を滅ぼす革命を成就することにあった
ので、初期から東方への進出をはかり、たびたびエジプトへの遠征軍が派遣された。 1098
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
969 年、第 4 代カリフ、ムイッズ(在位:953~975 年)は、エジプトを支配していたイフ
シード朝の内部崩壊に乗じ、遠征軍を派遣してほとんど抵抗を受けることなく、念願のエ
ジプトを征服すると、さらに東西へと領土を広げ、図 12-53 のように、西はモロッコから
東はシリア、ヒジャーズ(メッカ、メディナのあるアラビア半島西部)にいたる広大な領
域を支配した。ムイッズとその子第 5 代カリフ、アズィーズ(在位:975~996 年)の治世
がファーティマ朝の最盛期となった。 《新都カイロの繁栄》 エジプトを征服したムイッズは、フスタートの北に新都カイロ(アラビア語カーヒラ「勝
利の都」がなまった呼び名)を造営し、都をここに移した。ファーティマ朝は、新たに脚光
をあびはじめた紅海貿易の利をえて繁栄し、首都カイロは、混迷を続けるバグダードを尻
目に、イスラム世界の中心都市へと成長していった。 しかし、政治の面ではシリア地方で土着のスンナ派勢力による反ファーティマ朝の動き
が広がり、北シリアから先への拡大は阻まれた。一方、王朝発祥の地チュニジアでは、ズ
ィール朝(973~1148 年)、ハンマード朝(1007~1152 年)が独立し、エジプト以西の領
土が失われていた。 《十字軍とファーティマ朝の滅亡》 11 世紀後半になると、ファーティマ朝は、東方から進出したセルジューク朝によってシ
リアの都市を次々と奪われ、メッカを含むヒジャーズ(アラビア半島の紅海沿岸の地方)
の宗主権もセルジューク朝に奪われてしまった(図 12-55 参照)。 図 12-55 11 世紀のイスラム世界 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 1099
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
11 世紀末、ヨーロッパの十字軍問題が起きたときには、エルサレムを含むシリアの支配
がファーティマ朝とセルジューク朝との間で取ったり取られたりで大変混乱していた時期
であった。このような状況のもとで、スンナ派のセルジューク朝とシーア派のファーティ
マ朝が、十字軍に対抗して同盟を結ぶ可能性はほとんどなかった。 エルサレムの地が十字軍に奪われても、12 世紀にはファーティマ朝はもはやほとんどエ
ジプトのみを支配するに過ぎなくなった。ファーティマ朝に反十字軍をおこす力はなく、
むしろ、ファーティマ朝の衰退に乗じ、エルサレム王国などの十字軍国家や反十字軍を進
めるイスラム勢力のザンギー朝などがエジプトへの侵攻、介入をはかるようになっていっ
た(後の十字軍とエジプトのイスラム王朝で詳述する)。 1171 年、宮廷にこもりきりだった最後のカリフが 20 歳の若さで病死するのに前後して、
宰相サラーフッディーン(サラディン)はエジプトがアッバース朝カリフ(スンニ派)の
宗主権を承認する宣言を行い、シーア派のファーティマ朝は終焉を迎えた。 ○アフリカのその他のイスラム国家 その後も、図 12-56 のように、北アフリカには、ムラービト朝(1056~1147 年)、ムワ
ッヒド朝(1130~1269 年)、マリーン王朝(1195~1470 年)、ハフス朝(1228~1574 年)、
ザイヤーン朝(ジャーン朝。1236~1550 年)などのイスラム国家が起こった。 図 12-56 イスラム諸王朝 中央公論社『世界の歴史8』 【12-2-6】トルコ人のイスラム化とセルジューク朝の西進 ○トルコ人(トルコ族)の拡大 アナトリア(現在のトルコ)で、まだ東ローマ帝国がイスラム帝国と覇権を争っている
ころ、東方のアルタイ山脈の麓では突厥が柔然を滅ぼし、中央アジアに大帝国を築いたが
その後、東西に分裂し滅亡した(図 11-73―⑤参照。中央アジアの歴史に記している)。
1100
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
東西の突厥(トルコ族の国)は消滅したが、その住民つまりトルコ族は、7 世紀に中央ユー
ラシアで遊牧生活を営んでいた。 中央アジアの草原、オアシス地帯は、イラン(アーリア)系民族の居住地であったが、8
世紀以後、北アジアの草原地帯を中心に活動したトルコ人のウイグルは、9 世紀後半、中央
アジアの草原、オアシス地帯に定着した(図 11-73-⑥参照)。 のちにオスマン帝国を建国することになるオグズ族は、草原地帯で遊牧を続けながら、
10 世紀にはマー・ワラー・アンナフル(アムダリア川の向こうを意味するアラビア語で、
アムダリア川とシルダリヤ川(イリ川)に囲まれた地域。現在のウズベキスタン、タジキ
スタン)に進出し、ここでムスリム(イスラム教徒)商人との日常的な接触やイスラム神
秘主義者(スーフィー)の教化を通じてイスラム化した。 こうしてイスラム化した遊牧オグズを、定住したオグズ族や、遊牧だがイスラム化して
いないオグズ族と区別するためにトルコマンと呼んでいる。 ウイグルの定着後、トルコ人が増加し、トルコ人の住地、トルキスタンと呼ばれるように
なった。パミール高原を境に、ブハラやサマルカンドを中心とする地方を西トルキスタン、
タリム盆地などの地方を東トルキスタンという。もと騎馬遊牧民族であるトルコ人は武勇
にすぐれ、アッバース朝のカリフや他の軍事政権に奴隷兵として採用され、マムルークと
よばれた。 アッバース朝は 10 世紀に入ると次々と地方政権が分立して混乱状態になったが、トルコ
系の地方政権も勃興した。 ○カラ・ハン朝 840 年にモンゴル高原を支配する回鶻(ウイグル)可汗国が崩壊した後、アルタイ山脈の
西、天山山脈の北、バルハシ湖の南の草原地帯でトルコマンが自らの王国、カラ・ハン朝
(840?~1212 年)を形成したと考えられている。図 12-53 のように、サーマーン朝領域
の東方に定着したトルコ系の部族が樹立した王国で、トルコ人による最初のイスラム王朝
であった。サーマーン朝の影響下に君主以下多数のトルコ人がイスラム教に改宗し、トル
コ人のイスラム化を促進した。一時、中央アジア全域を支配したが、分裂衰退し、ホラズ
ム朝に滅ぼされた。 ○ガズナ朝 サーマーン朝に仕えるトルコ系マムルーク(奴隷軍人)出身の有力アミール(将軍)だ
った人物が、955 年に自立してガズナ朝(962~1186 年)を立てた。図 12-55 のように、
現在のアフガニスタンのガズナ(ガズニー)を首都として、アフガニスタンからホラーサ
ーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝であった。北インドに遠征してガ
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ズナ朝から独立したゴール朝(1148?~1215 年)とともにインドのイスラム化の基礎を開
いた。ブワイフ朝と争って、トルコ人が西方に発展する態勢をつくった。 ○セルジューク朝(1038~1194 年) その次がセルジューク族だった。スンナ派を奉ずるトルコ系のセルジューク族が西進し、
1038 年にニーシャープール(現イラン東北部)に無血入城して、その支配者に迎えられた。 ここでセルジューク家のトグリク・ベクはセルジューク朝(1038~1194 年)の建国を宣言
し、図 12-55 のように、1040 年にはガズナ朝の軍を破ってホラーサーンの支配を固めた。 《スルタン制のはじまり》 トグリク・ベクは、1055 年にバグダードを占拠してシーア派のブワイフ朝を駆逐し、ス
ンナ派政権を回復した功績により、アッバース朝のカリフからイランを中心とした地域の
政治的な支配権を許され、「スルタン」の称号を得て、西アジアの政治的な主導権を獲得
した。スルタンの名が支配者として金曜礼拝のフトバに詠まれ、貨幣に刻まれることが命
じられ、スルタンという称号がイスラム世界にはじめて公式に称号として認められた。 これがイスラム史におけるスルタン制のはじまりであった。ちょうど、後の西ヨーロッ
パにおける教皇に対する皇帝のように用いられた。しかし、神聖ローマ帝国の皇帝がロー
マ教皇に戴冠されたように必ずカリフの任命を要したわけではなかった。これ以後、「スル
タン」は、アイユーブ朝、マムルーク朝、オスマン朝など、スンナ派イスラム王朝の君主の
称号として 20 世紀初頭まで用いられることになった。一方、カリフは、スルタンの保護下
におかれ、実権をもつスルタンにイスラム法執行の権限をゆだね、自らは「スンナ派ムス
リムの象徴」としての弱い立場に甘んじなければならなくなった。 《マラズギルト(マンジケルト)の戦い》 こうして 1071 年 8 月 17 日に東ローマ帝国の軍隊 7 万とセルジェーク朝の軍隊 3 万がア
ナトリア(現在のトルコ共和国)東部のマラズギルト(マンジケルト)で激突し、東ロー
マ皇帝ロマノス自身も捕虜となって敗北してしまった(図 12-55 参照)。現在、トルコ共
和国はこの年を「トルコ建国の年」としているように、この戦いの勝利によってアナトリ
アはトルコ人の前に開放された。 1072 年、3 代目スルタンのマリク・シャー(在位:1072~92 年)の時代にセルジューク
朝の支配は図 12-55 のように最大領域に広がった。セルジューク朝は出自においてはトル
コ系であったが、行政ではニザーム・アルムルクをはじめとするイラン系(ペルシア系)
の官僚が活躍し、宮廷の公用語はペルシア語であった。 彼らの多くはアナトリアでは、しだいに定住民化していった。アナトリアのトルコ人に
とって幸運であったことは、東ローマ帝国が昔日の勢いを失い、アナトリアはアルメニア
人、クルド人、ギリシャ人などの各勢力によって分裂状態におかれていたことである。こ
1102
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うしてアナトリアはしだいにトルコ人の世界へと変貌していったが、一般に、当時アナト
リアに入ったトルコ人の 10 倍ぐらいの現地人がいたと推定されている。トルコ系遊牧民の
定住民化、現地民との通婚、日常の商業的・文化的交流などを通じてアナトリアの「トル
コ化」と「イスラム化」、トルコ人の「アナトリア化」が形成されていったと考えられて
いる。 《セルジューク朝の地方分権化》 1092 年、宰相ニザーム・アルムルクが敵対するイスマーイール派の凶刃にたおれると、
マリク・シャーも後を追うようにして病没した。マリク・シャーの没後は、一族の間に後
継者争いが発生し、帝国の統一は急速に失われていった。これ以後セルジューク朝は、シ
リア、イラク、イラン南部などに小政権が乱立する地方分権の時代を迎えた。これはそも
そもセルジューク独特の支配形態にあった。トグリル・ベグの時代から大スルタンとよば
れるセルジューク家長を宗主として、各地でセルジューク一族が地方政権を形成して自立
した支配を行う形態をとっていた。 したがって、1099 年に十字軍がシリアに到来してエルサレムを奪ったときにも十分な対
応をとることができない状態であった。その後、シリア・セルジューク朝(1085~1117 年)、
セルジューク宗家の大セルジューク朝(1038~1157 年)、イラク・セルジューク朝(1118
~1194 年)、ニカイアを首都としたルーム・セルジューク朝(1074~1308 年)の順に消滅
した。 【12-2-7】十字軍とエジプトのイスラム王朝 ○中世の文明(宗教)の衝突:十字軍 中世にはヨーロッパはキリスト教、イスラム圏はイスラム教と色分けがされていたが、
宗教を大義名分にして、戦いが行なわれたこともあった。それが 11 世紀末から始まり、200
年間続いた十字軍である。 十字軍はエルサレムをめぐる争いであるが、当時、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、
イスラム教のすべてに共通する聖地であった(これは現在も同じである)。 この大規模な東方への軍事遠征は、キリスト教の聖地であるエルサレムへの巡礼が、現
地を支配するイスラム教徒によって危害が加えられているという認識のもとに開始された
ものだったが、当時、本当にそうだったか。 《エルサレムの状況》 エルサレムは長らくエジプトのファーティマ朝(シーア派)の管理下にあったが、1065
年からエジプトを襲った「7 年の大飢饉」で、ファーティマ朝がすっかり弱体化していた。こ
れに乗じて、セルジューク朝はイラクからシリアへと勢力を拡大していった。 1103
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1073 年にはセルジューク朝の 3 代目スルタンのマリク・シャー(在位:1072~92 年)に
忠誠を誓うトルクメン(トルコ系の遊牧民)の首長アトスズが、図 12-55 のように、エル
サレムを無血のうちに占領した。アトスズは、エルサレムは神の聖地であるので部下が略
奪するのを禁止した。セルジューク朝支配下のエルサレムでは、異教徒を含む住民の安全
は保障され、新しいモスクやマドラサ(学院)の建設が行われた。 1092 年にセルジューク朝の最盛期を現出したスルタン、マリク・シャーが亡くなると、
セルジューク朝は内紛続きで事実上の分裂状態になり、アナトリア方面はセルジューク朝
の分家のルーム・セルジューク朝の統治下にあり、エルサレムがあるシリアはシリア・セ
ルジューク朝の統治下にあって、しかもあとを継いだ兄弟の間で争っていた。 1098 年 7 月、ファーティマ朝はセルジューク朝に 1076 年に奪い取られたエルサレムを再
び奪回することに成功したが、図 12-55 のように、それから 1 年後には十字軍の集団がエ
ルサレム城内になだれ込んだのである。いずれにしても、「トルコ人によってキリスト教徒
の聖地巡礼が妨害されている」という事実はなかったようである。 《東ローマ皇帝の軍事援助要請》 それでは、なぜ、十字軍の遠征になったのであろうか。 東ローマ帝国は、1071 年、小アジアのマラズギルドでセルジューク朝軍に大敗を喫して
からは、図 12-55 のように、徐々に帝国領の縮小を余儀なくされていた。そこで、東ロー
マ皇帝アレクシオス 1 世はローマ教皇に東ローマ帝国への傭兵の提供を要請した(十字軍
のような独自の軍団ではなかったといわれている)。具体的には、1095 年 3 月、東ローマ
皇帝アレクシオス 1 世はピアチェンツアの教会会議に特使を派遣し、ローマ教皇ウルバヌス
2 世(在位:1088~99 年)に対セルジューク朝戦への援助を求めた。 この求めに応じて、1095 年 11 月、教皇ウルバヌス 2 世は、フランス中部の都市クレルモ
ンの公会議を召集した。「神はキリストの旗手たるあなたがたに、私たちの土地からあの忌
まわしい民族(トルコ人)を根絶やしにするようくりかえし勧告しておられる」と教皇が
述べたら、数千人にのぼる群集は熱狂したといわれている。直ちに騎士と雑多な民衆から
なる十字軍が結成され、これらの集団が東方へ出発したのは、翌 1096 年 8 月のことであっ
た。 ○第 1 回十字軍 フランス、ドイツ、イギリスの諸侯に率いられたこの十字軍は、図 12-55 のようにコン
スタンティノープルを経由して小アジアに入り、1098 年、激戦の末にトルコ人の将軍ヤー
ギ・スィヤーンが守るアンティオキアを占領した。アンティオキアから南下した十字軍は、
セルジューク朝の領域とベイルート以南のファーティマ朝の領域を何の妨害もなく通過す
1104
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ることができた。土地の人々は、十字軍を「聖地への巡礼団」と誤解し、彼らに糧食を提供
し、道案内までつけてやった。 しかし、1099 年 6 月、エルサレムに到着した「巡礼団」は凶暴な武装集団へ変貌した。7
月 10 日、十字軍は城壁を乗り越えて市内に乱入し、老若男女を問わず、数え切れぬほどの
ムスリムとユダヤ教徒を殺害した。イスラム側の伝承によれば、このときアクサー・モス
クで殺されたムスリムの数だけでも 7 万人に達したといわれる。 勝利をおさめた十字軍の騎士たちは、聖墳墓教会に集まり、聖地の解放を許し給うた神
に感謝の祈りを捧げた。続いて彼らは、「聖墳墓教会の守護者」としてフランス人のロレー
ヌ公ゴドフロワ・ド・ブイヨンを選出した。これが、およそ 200 年にわたって続くエルサ
レム王国(1099~1291 年)の成立であった。 図 12-57 のように、このエルサレム王国の北には、十字軍によって征服されたエデッサ
伯領、アンティオキア公国、トリポリ伯国などもおかれ、エルサレム王国は、これらの十
字軍国家に対する宗主権も有していた。イタリアの都市国家であるヴェネツィア、ジェノ
ヴァ、ピサがヨーロッパとの海上交通や兵站路を確保するとともにレバント貿易に従事し
た(ここにイタリア諸都市の中東交易の確保という意図がみえる)。またテンプル騎士団、
病院騎士団(聖ヨハネ騎士団)といった騎士修道会が組織されてエルサレム王国を防衛す
ることになった。 1105
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-57 十字軍兵士の建てた諸国 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 キリスト教徒によるエルサレムの攻撃と殺戮の報は、翌月にはバグダードにもたらされ
たが、このときのアッバース朝カリフ(第 28 代)のムスタズヒルに独自の軍隊はなく何も
できなかった。前述のように、エルサレムの支配権も、十字軍の到来直前にセルジューク
朝からファーティマ朝へと変わったばかりであった。異教徒に聖地を奪われ、岩のドーム
を教会に転用されたが、結局、40 年間、イスラムの側からは何の反撃もなかった。 《目的をはたした第 1 回十字軍》 この第 1 回十字軍は、これ以後 200 年近く続く十字軍遠征の中で最初にして唯一最初の
目的がそれなりに達成された遠征だったといわれている。まず、エルサレム王国、アンテ
ィオキア公国などの十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスティナとシリアに成立させて、
巡礼の保護と聖墳墓教会の守護という宗教的目的と領土的野心を満たすことができた。君
主たちは西欧の中世の安定によって久しく失っていた武力の矛先を東方に見出し、占領地
から得た宝物によって遠征軍は富を得ることができた。 1106
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
また、十字軍国家の防衛やこれらの国々との交易で大きな役割を果たしたのはジェノバ
やヴェネツィアといった海洋都市国家であり、これらイタリア諸都市は占領地との交易を
盛んに行い、東西交易(レバント交易)で大いに利益を得ることができた。援軍を要請し
た東ローマ帝国も十字軍国家が設立されたことで、直接にイスラム諸国からの圧力を受け
ることがなくなった。これによってアナトリア(現在のトルコ)地方の支配権を大きく取
り戻し、再び繁栄の時代を迎えることができた。 ○第 2 回十字軍 十字軍に対して最初に反撃ののろしを上げたのは、セルジューク朝のモスルとアレッポ
の太守だったイマード・アッディーン・ザンギー(1146 年没)であった。ザンギーは十字
軍に対する本格的な反撃を開始し、図 12-57 のように、1144 年には、アレッポの北に位置
するエデッサを奪って、十字軍国家の一つであるエデッサ伯国を事実上の崩壊に追い込ん
だ。 このエデッサ伯国の崩壊(1144 年)がヨーロッパに伝わると危機感がつのり、教皇エウ
ゲニウス 3 世の呼びかけで結成されたのが第 2 回十字軍(1147~49 年)であった。フラン
ス王ルイ 7 世と神聖ローマ皇帝コンラート 3 世の 2 人を指導者に、ほぼ第 1 回十字軍と同
じコースで、多くの従軍者が進軍してきたが、最初から目的が明確でなかった。 エデッサ伯領の奪回か、エルサレム(エルサレムはまだ奪われてはいなかった)周辺の
他のイスラム教国の征服か、ザンギー朝の攻撃か、はっきりしなかった。全体として統制
が取れず、大きな戦果を上げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。なんとか
パレスティナにたどり着いた軍勢も、エルサレム王国と同盟していたダマスクスをこの遠
征を正当化する成果として攻撃したが、この攻撃にも失敗し、フランス王らはほうほうの
ていで撤退せざるをえなかった。 このときから、ザンギーの息子のヌール・アッディーンの配下であったサラーフッディ
ーン(サラディン。1137/38~1193 年)はイスラム軍として参戦していた。サラディンは、
14 歳から 31 歳までの青少年時代をヌール・アッディーンのもとで過ごした。この間に、サ
ラディンは主人に従って十字軍との戦いに参戦し、これらの経験を通じて、戦略上の駆け
引き、戦況の判断、軍隊の掌握の仕方などを学び、武将としての素養を身につけていった。 ○エジプト・アイユーブ朝の樹立 その後、エルサレム王国軍がエジプトを攻めたときに、ファーティマ朝のカリフ、アー
ディドがシリアのヌール・アッディーンに援軍の派遣を要請して来た。ヌール・アッディ
ーンは 8500 騎のシリア軍をエジプトへ派遣した。このときサラディンも同行していた。そ
して、ファーティマ朝の宰相が亡くなったとき、後任の宰相には 30 を少し超えたばかりの
サラディンが指名された。 1107
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1169 年 3 月、ファーティマ朝の宰相に就任したサラディン(在位:1169~93 年)はエジ
プトの実権を掌握し、アイユーブ朝(1169~1250 年)を樹立した(このときは宰相になっ
ただけであるので、アイユーブ朝の樹立にはならないという説もある)。 サラディンは政権内の環境を整え、1171 年 9 月の第 1 金曜日にスンナ派の復活を全国に
宣言し(ファーティマ朝はシーア派だった)、アッバース朝カリフのために説教を読むこ
とを命令した。ファーティマ朝カリフの名はフトバ(説教)から削除された。同じ月、フ
ァーティマ朝カリフ(第 14 代)、アーディドは宮殿で没し、ファーティマ朝は滅亡した。
サラディンの基本戦略は、自らスルタンを名乗るのではなく、(バグダードに形だけ残っ
ていたカリフを立て)アッバース朝カリフの宗主権を認めることによって、イスラム世界
の統一をはかろうとした。 サラディンは十字軍の侵攻に備えてフスタートとカイロを取り囲む城壁の建設にとりか
かった。ついで 1182 年、東地中海の制海権を握っていた十字軍に対抗しうる戦艦の建造を
急がせた。この作業はアレクサンドリアの造船所で行われた。このようにして十字軍との
決戦の準備を着々と整えた。 1187 年 3 月、サラディンはバグダードのカリフに「聖戦を遂行するための障害は全て取り
除かれました」と報告した。サラディンは、ダマスクスからムスリム諸侯に向けて、十字軍
に対する聖戦(ジハード)への参加を呼びかけた。これに呼応してエジプト、シリア、ジャ
ズィーラ(北イラク)からムスリム軍が続々と集結し、その数は約 2 万 5000 騎に達した。 《サラディンのよるエルサレムの奪還》 十字軍側もこれに対抗してほぼ同数の軍を結集し、両軍の決戦は、1187 年 7 月 4 日、テ
ィベリアス湖西方のヒッティーンの丘で行われた(図 12-57 参照)。ヒッティーンの戦い
に勝利をおさめたサラディンは、アッコン、カイサーリーヤ、ハイファー、サイダー、ベ
イルートなどの海岸都市を矢継ぎ早に奪回した(図 12-57 参照)。 1187 年 9 月 20 日、2 万騎のムスリム軍がエルサレムを包囲した。守る 6 万の十字軍は、
ムスリム軍が市内に突入すると抵抗をあきらめ、両者の間に身代金の支払いを条件に、キ
リスト教徒の生命の安全を保障する協定が締結された。復讐の虐殺は行われなかった。こ
れはサラディンが預言者ムハンマド以来のムスリムによる征服の慣行をよく守ったからで
あった。城壁にはサラディンの黄色い旗が掲げられ、岩のドームから金の十字架が引き下
ろされた。88 年ぶりに訪れた聖地の解放にムスリムたちは「神は偉大なり」と歓声の叫び声
をあげた。 ○第 3 回十字軍(1189~1192 年)と妥協 サラディンによるエルサレム陥落の報が伝わると、教皇グレゴリウス 8 世は聖地再奪回
のための十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード 1 世、フランス王フィリ
1108
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ップ 2 世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ 1 世が参加した第 3 回十字軍(1189~1192 年)が
結成され、エルサレムに向かって出発した。 フリードリヒ 1 世は 1190 年にキリキア(現在のトルコ南部に海岸地域)で川を渡ろうと
したところ、落馬して鎧の重みで溺死してしまった。イングランドとフランスの十字軍は
1191 年に港町アッコンを奪回した(図 12-57 参照)。 その後、フィリップ 2 世はリチャード 1 世に不満を募らせ帰国し、リチャード 1 世はサ
ラディンと一進一退の戦闘を繰り返し、ついに 1192 年 9 月にサラディンと休戦協定を結ん
だ。その内容は、アッコンを含みティールからヤッファに至る沿岸部のいくつかの港をエ
ルサレム王国の管理下に置き、エルサレムはイスラム教徒の統治下に置く、また、非武装
のキリスト教徒の巡礼者がエルサレムを訪れることを許可するというものであった。 つまり、聖地エルサレムの奪回は失敗に終わったが、アッコンを確保したことでエルサ
レム巡礼の自由は保障された。サラディンは十字軍と妥協し 50:50 で手を打った。疲弊し
ていたリチャード軍は 9 月末にはイングランドに向けて出発し、第 3 回十字軍は終了した。 それから 5 ヶ月、1193 年 2 月、サラディンは高熱を発して倒れ、コーランの朗唱に耳を
傾けながら息を引き取った。享年およそ 55 歳、その遺体はダマスクスのウマイヤ・モスク
の裏手に葬られた。 ○その後の十字軍とアイユーブ朝 サラディンの生涯は、ただ十字軍からのエルサレム奪回ということに絞られていたので、
アイユーブ朝の政治体制を確立することなく病没してしまった。アッバース朝やザンギー
朝との関係など複雑なイスラムの政治情勢のなかで、あえてサラディンはあいまいなまま
にして、全イスラムの力を結集することに注力してきたと考えられる。自らはとうとうス
ルタンを名乗らなかったことからも明らかなように、国家の首長の地位そのものがあいま
いであった。 サラディンの死後、長子アフダルがスルタンを称してダマスクスに自立したが、カイロ
やアレッポのアイユーブ一族はこれを承認しようとはしなかった。結果は、カイロとシリ
アの各都市に一族が自立する王朝の分割支配であった。しかもカイロに有力なスルタンが
登場したときにだけ、エジプト・シリアの統合が復活するという変則的な政治体制が生ま
れた。 サラディンから 80 年にわたって続いたアイユーブ朝は、第 8 代スルタンのトウーラーン・
シャー(在位:1249~50 年)が、1250 年 5 月、マムルーク軍と継母のシュジャル・アッド
ウッル(奴隷出身だった)によって暗殺されて滅亡し、次に述べるマムルーク(奴隷)朝が
樹立された。 1109
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
その後も十字軍は、第 4 回十字軍(1202~1204 年)、第 5 回十字軍(1217~1221 年)、
第 6 回十字軍(1228~1229 年)、第 7 回十字軍(1248~49 年)、第 8 回十字軍(1270 年) と行なわれたが、省略する。結局、ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は 1099 年~
1187 年および 1229 年~1244 年ということになる(以後、20 世紀までイスラムの支配下に
おかれた)。 【12-2-8】エジプトのマムルーク(奴隷)朝 ○女性スルタンとマムルーク(奴隷)朝の誕生 アイユーブ朝第 8 代スルタンのトウーラーン・シャーを殺害したバフリー・マムルーク軍
は、ただちにスルタンの継母であるシュジャル・アッドウッルをスルタンに推戴した(第 7
代スルタン・サーリフの妻。暗殺にかかわっていた。在位:1250 年)。西アジアにおける
最初の女性スルタンの誕生であった。彼女のスルタン位就任によって、エジプトにトルコ
人奴隷兵を基盤とするマムルーク(奴隷)政権が成立した。これ以後、マムルーク朝(1250
~1517 年)は 260 年余りにわたってエジプト・シリアを支配していくことになった。 女性スルタンの登場は、イスラム世界にさまざまな波紋を引き起こした。アレッポに残
っていたアイユーブ家の君主ナースィルは、シュジャル・アッドウッルに反旗をひるがえし、
ダマスクスに独自の支配権を確立した。 内外の情勢を察知したシュジャル・アッドウッルは、同年 7 月、バフリー・マムルーク出
身の軍司令官イッズ・アッディーン・アイバクと結婚し、スルタン位を夫に譲り渡した。
トルコ人のアイバクは、第 7 代スルタンのサーリフに仕えて頭角をあらわし、トウーラー
ン・シャーを殺害すると、自らエジプト軍の総司令官に就任した人物であった。シュジャ
ル・アッドウッルがエジプトのスルタンにあったのは、わずか 80 日間に過ぎなかった。 アイバク(在位:1250~57 年)が第 2 代スルタンに就任すると、今度は上エジプトのア
ラブ遊牧民(ウルバーン)が、よそ者の奴隷であるマムルークの支配には服することはで
きないとマムルーク政権の誕生に抗議して反乱に立ち上がった。アイバクは、5000 騎の鎮
圧軍を向け、反乱に加わった遊牧民を多数殺害し、首謀者のサーラブをカイロで処刑した。
しかし、新生のマムルーク朝にとっては、「政権の正当性」が問われる厳しい反乱であり、
内外に支配の正当性を示すことができなければ、マムルーク政権の安定化はありえない基
本的な問題は残ったままであった。 ○モンゴルの来襲 そのようなとき、モンゴルが襲来した。モンゴル帝国の第 4 代ハーンのモンケ(在位:
1251~59 年)は弟フラグにイランおよびその西方遠征の命をくだした。1253 年、1 万 2000
の前衛隊を率いて西征を開始したフラグは、まずイランのアラムート山城に拠るイスマー
1110
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
イール派を降伏させ、次に 1258 年 2 月、バグダードを陥落させ、最後のアッバース朝カリ
フ(第 37 代)、ムスタースィムを殺害した。バグダードの市街も、モンゴル軍による徹底
的な略奪と殺戮にさらされた。 フラグは、イラクからシリアへと軍を進めた(図 12-58 参照)。ユーフラテス川を渡っ
たモンゴル軍は、1260 年 1 月、シリア北部の要衝アレッポを陥落させ、男子をすべて虐殺
した後、およそ 10 万の婦女子と子供を捕虜として奴隷商人に売り払った。 このとき、アレッポにいたフラグのもとに、モンケの死を知らせる手紙が届けられた。
フラグは次のハーンを選ぶ会議(クリルタイ)に出席すべく、後事を将軍キトブカ・ノヤ
ンに託して帰国した。 図 12-58 13 世紀のイスラム世界 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 エジプト軍とモンゴル軍の戦いは、ヨルダン川西方の小村アイン・ジャールート(図 12
-58 参照)で、1260 年 9 月 3 日の早朝からはじまり、エジプト軍はバイバルス率いるバフ
リー・マムルーク軍の活躍によって、夕方には敵の総司令官キトブカを殺害し、モンゴル
軍に壊滅的な打撃を与えて敗走させた。モンゴル軍にとっては東西の征服戦争ではじめて
味わう苦い敗戦であった。 バイバルスは、エジプトに凱旋する直前にスルタンのクトズを殺害し、自らマムルーク
朝の第 5 代スルタン(在位:1260~77 年)に就任した。 ○アッバース朝のカリフの復活 1261 年 6 月、ダマスクスからカイロのスルタン・バイバルスのもとに、アッバース朝の
最後のカリフ、ムスタースィムの叔父アフマドがバグダードにおけるモンゴル軍の殺戮を
1111
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
生きのびて逃れてきた。バイバルスはアフマドをカリフ、ムスタンスィル(在位:1261~
62 年)として擁立し、自ら彼への忠誠の誓い(バイア)を行った。 そしてバイバルスは、エジプト・シリアばかりではなく、北インドやモロッコのイスラ
ム諸国にも使節を派遣し、カリフ、ムスタンスィルの名による説教(フトバ)の実施を求
めた。 カリフの擁立から数週間後、バイバルスは新カリフをともなってカイロ市中の広場へ赴
き、そこでアッバース家を象徴する黒色のターバンと紫色のガウンをカリフから授けられ
た。こうして奴隷出身のバイバルスは、エジプト・シリアのスルタンであるばかりでなく、
カリフの代理として、イスラム世界全体のスルタンになることができたのである。 こうして、アッバース朝カリフの擁立はイスラム世界の諸君主から好意的に迎えられた
ので、バイバルスの行為はマムルーク政権の正当化に効果があったとみられている。 ○マムルーク朝の最盛期 マムルーク朝にとっての懸案事項はエルサレムに残っている十字軍問題とモンゴル勢力
(イル・ハン国)への対処であった。 1291 年 6 月、マムルーク朝のスルタン、ハリール(在位:1290~93 年)配下のムスリム
軍がエルサレム王国で最後に残っていたアッコンの市内に突入して、これを陥落させると
(図 12-57 参照)、エルサレム王国のアンリ 2 世は、生き残りのわずかな部下をつれてキ
プロス島へと落ちのびていった。これで十字軍の国家はすべてなくなった。第 1 回の十字
軍から数えて、すでに 200 年近くが経過しようとしていた。 イル・ハン国(図 12-58 参照)は、1299 年と 1303 年にシリアに進出してきたが、2 回
ともマムルーク軍との決戦に敗れて撤退すると、その後モンゴル軍がシリアへの進出を企
てることは二度となかった。 こうして十字軍とモンゴル軍の二大勢力を駆逐したマムルーク朝は、スルタン、ナース
ィル・ムハンマドの治世(在位:1310~41 年)に最盛期をむかえた。 《カイロの繁栄》 エジプトはナイルの賜物であるが、いつもナイルが正常でるとは限らない。ナイルの増
水不足から未曾有の大飢饉に見舞われたことも度々あった。ナイルの増水不足による耕作
の放棄と物価高、飢饉と疫病の蔓延、数年後の復活というパターンは、エジプト史で何度
となく繰り返されてきた社会現象であった。 しかしアイユーブ朝中期からマムルーク朝時代へかけてのナイルの増水は比較的順調で
あった。ナイルが順調であると農業も順調であり、それに加えて、紅海と地中海をむすぶ
カーリミー商人の活躍によって、カイロを中心とする経済活動も着実に進展した。 1112
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
カーリミー商人のカーリミーの名称について詳しいことはわからないが、紅海ルートで
「胡椒と香料の商人」として活躍をはじめたのがカーリミーと呼ばれる商人グループであっ
た。その起源はファーティマ朝時代までさかのぼるが、彼らの活動が活発化するのはサラ
ディン時代以降のことであった。 10 世紀に入ってバグダードが政治的混乱に陥ると、東西を結ぶ交易路は、図 12-59 のよ
うに、東のペルシア湾ルートから西の紅海ルートへと大きく転換しつつあった。紅海ルー
トは、イエメンのアデンを起点にして紅海西岸のアイザーブから陸路で上エジプトのクー
スにいたり、ナイル川をへてカイロを通過し、さらに地中海岸のアレクサンドリアまで達
していた(もちろん、スエズ運河はまだないのでナイル川を利用したのである)。 図 12-59 14 世紀後半のイスラム世界 中央公論社『世界の歴史8』 カーリミー商人は、アデンの港で香辛料・木材・絹織物・陶磁器など東方の物産を買い
つけると、これらを首都カイロへ運ぶと共に、アレクサンドリアの商館でヴェネツィアや
ピサなどのイタリア商人に売り渡した。サラディンは、この商人グループの交易活動を保
護し、その商取引への課税によって国庫収入の増大をはかったのである。サラディンが 1174
年、イエメンの港町アデンを攻略させたのも、明らかに東西貿易の利益をおさえることが
目的であった。 シリア南部に拠点をおいた十字軍(エルサレム王国)もこの貿易の利益に目をつけ、1183
年、紅海への軍事的進出をはかったが、もしこの進出を許せば、メッカ・メディナの両聖
都は異教徒の管理下におかれ、貿易の独占体制も崩壊してしまうおそれがあった。これに
対して、サラディンは強力な艦隊を建設し、出動を命令し、エジプト艦隊はアイザーブ沖
でさんざんに十字軍艦隊を打ち破った。このように何回も行われた十字軍はヨーロッパと
1113
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
イスラムの交易路の主導権争いという裏の目的があったといえよう(表の目的は聖地の奪
回)。この面でもサラディンは目的を達成したといえよう。 この勝利によって、サラディンは「イスラムの守護者」としての名声をさらに高めること
ができた。しかもこれを機に、ユダヤ教やキリスト教徒の商人を紅海から締め出す政策を
とり、以後、紅海は文字通り「カーリミー商人の海」となったのである。 マムルーク朝の頃になると、カイロは大いに繁栄した。夏になってナイルの水がアレク
サンドリア運河に流れ込むと、小麦・香辛料・砂糖などの商品を積んだ船が、カイロから
アレクサンドリアへむけて出発するのが毎年の習慣であった。 1326 年、旅行家イブン・バットウータ(1304 年~不詳。モロッコの旅行家)が訪れた頃
のカイロは、繁栄の絶頂期にあった。スルタン、ナースィルのもとでマムルーク体制は安
定し、スルタンやアミール、あるいは大商人によって数多くのモスク、学院、病院、商取
引所、神秘主義者の道場などが建てられた。14 世紀のはじめのカイロの人口は、旧市街と
南北の郊外を合わせれば、約 50 万に達したと推定されている。 ○ペスト(黒死病)の流行 1341 年、スルタン、ナースィルが没すると、マムルーク軍閥の間に権力争いが発生し、
社会を律する法と秩序は急速に失われた。それまでスルタンへの忠誠を守ってきたアラブ
遊牧民も反旗を翻し、隊商やシリアの村々を襲って略奪を繰り返した。 こうしてマムルーク朝国家に亀裂がみえはじめたとき、エジプトにペスト(黒死病)が
忍び寄ってきた。1347 年の秋、流行は地中海に面する港町アレクサンドリアからはじまっ
た。このペストの流行はモンゴル高原にはじまり、東ローマ帝国の首都コンスタンティノ
ープルをへてエジプトやイタリア、あるいはフランスの港町に及んだとされている。これ
らの地域を結ぶ隊商や商船、あるいは各種の商品に潜むネズミやノミが主たる媒介源であ
った。 1348 年、死の影は首都カイロに及び、1 日に 1000 人以上の命が奪われた。生き残った人々
はモスクに集まってコーランを朗唱し、神への祈祷を繰り返した。疫病の蔓延は信者たち
に下された神の罰であるから、これを避けて逃げ出すことはできないと考えられた。にぎ
やかだった市場は人影もまばらとなり、時を告げるアザーン(礼拝の呼びかけ)すら途絶
えてしまった。事態がようやく沈静化したのは 1349 年春になってからのことであった。エ
ジプト・シリアの人口の 3 分の 1 から 4 分の 1 が失われたと推定されている。 しかもこの打撃から立ち直る間もなく、1363 年にはふたたびペストの流行に見舞われた。
その後も数年おきに、飢饉によって人々の体力が落ちると、死の疫病がアレクサンドリア
やカイロの町を襲った。その結果、たとえば 1394 年から 1434 年の間に、アレクサンドリ
アの職人の数は 1 万 4000 人から 800 人に減少したという。商業の分野でも、国内の主要通
1114
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
商路であるカイロ~ダマスクス貿易が衰え、エジプトを中心とする商取引はかつての活力
を急速に失っていったのである。 ○ティムールの来襲 図 12-63 のように、中央アジアにトルコ・モンゴル系の王朝を樹立したティムール(在
位:1370~1405 年)は、1380 年、イランに侵入してイスファハーンの町を席巻すると、さ
らに北インドのデリーへと軍を進め(1398 年)、莫大な戦利品を得て首都サマルカンドに
凱旋した。次の目標は、マムルーク朝治下のシリアと新興のオスマン朝(1299~1922 年)
が支配するアナトリアであった。 インドから帰還したティムールは、ただちに西アジア征服へと出発し、1400 年 10 月には
マムルーク総督が守備するシリア北部の古都アレッポを陥れた。まさにモンゴル軍の再来
襲であった。2 万人を越える死者の頭蓋骨で小山が築かれた。 次いでハマー、ヒムス、バールベックを落としたティムールは、1401 年 1 月、スルタン、
ファラジュ(在位:1399~1405 年)が率いるマムルーク軍を一蹴して州都ダマスクスを占
領した。ダマスクス市内では征服軍による略奪や放火や殺人が容赦なく行われ、モスク、
民家、市場、浴場の全てが無人の廃墟と化し、餓死を待つ数千の子供以外に生き物は残ら
なかったといわれている。 しかもティムールは、アレッポやダマスクスから著名な学者や熟練の職人を数多くサマ
ルカンドへと連行した。これによってサマルカンドでの文化活動は隆盛期を迎えるが、征
服地の住民にとっては、ティムールの遠征は死と地獄をもたらす無意味な殺戮・略奪行動
にすぎなかった。 ○マムルーク朝の滅亡 16 世紀初頭にはインド洋貿易にポルトガル人が参入し、1509 年にはマムルーク朝の海軍
はインドのディヴ沖でポルトガルのフランシスコ・デ・アルメイダ率いる艦隊に敗れた。 陸上ではオスマン朝との対立が深まり、1516 年、北シリアのアレッポ北方で行われたマ
ルジュ・ダービクの戦いでセリム 1 世率いるオスマン軍に大敗を喫した。セリム 1 世は、
アレッポ、ダマスクスを手に入れて、1517 年 1 月、首都の防衛線を簡単に突破してカイロ
入城を果たした。270 年におよぶマムルーク王朝は滅亡し、図 12-60 のように、エジプト
も両聖都メッカ、メディナもオスマン朝のもとにおかれた。 1115
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-60 オスマン帝国の発展 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 セリム 1 世は、1517 年 9 月、カリフ、ムタワッキル以下、数千人におよぶエジプト人の
アミール、行政官、書記、商人、職人、知識人をともなってイスタンブルに帰還した。マ
1116
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ムルーク朝の滅亡とともに、イスラム世界の中心はカイロからイスタンブルへと移り、オ
スマン朝治下のエジプトは再び苦難の時代を迎えることとなった。 【12-2-9】オスマン帝国 ○オスマン朝の起源 10 世紀ごろからの、中央ユーラシアからアナトリアにいたるトルコ人のイスラム化と南
下、西進の状況については、セルジューク朝の歴史で述べた。そして、いくつかのトルコ
系の国がその過程で勃興したことも述べた。これがトルコ人のアナトリアへの移住の第 1
波だった。 13 世紀になると、さらに東のモンゴル高原で強力なモンゴル帝国が勃興し、それととも
に中央アジアから逃れて多くのトルコ人がイラン、イラク、アナトリアへと押し寄せるこ
とになった。これがトルコ人のアナトリアへの移住の第 2 波であった。 モンゴルが 1243 年のキョセダウの戦いでセルジュークの地方政権の一つだったルーム・
セルジューク朝を破ると、以後ルーム・セルジューク朝はモンゴルの藩属国となった。モ
ンゴルが 1258 年にアッバース朝を滅ぼし、イル・ハン国(フレグ・ウルス)として西アジ
アの政権を掌握すると、アナトリアもイル・ハンの派遣する総督の支配するところとなっ
た(図 12-58 参照)。その結果、モンゴル支配を嫌い、新たな牧草地や耕地を求めるトル
コ人が多数、東ローマとの国境に近い西アナトリアへと移った。 彼らは、ルーム・セルジェーク朝やモンゴルの支配から自立し、ガージィ(ジハードに
従事する戦士)たちに率いられてトルコ系の諸侯国(ベイリク)を形成した。オスマン 1
世(1258~1326 年)は、1299 年、ルーム・セルジューク朝から独立を宣言して、オスマン
朝を建国した(図 12-60 参照。在位:1299~1326 年)。 ○オスマン帝国の発展 オスマン 1 世は、1326 年、東ローマ帝国のブルサ(トルコ北西部の都市)攻略中の陣中
で亡くなり、後を子のオルハンが継いだ。オルハン(在位:1326~59 年?)は、ブルサ(図
12-60 参照)を占領し、ここに首都を移した。 オルハンの子ムラト 1 世(在位: 1359~89 年)は、即位するとすぐにコンスタンティノ
ープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ。図 12-60
参照)を占領、ここを第二の首都とした。その後ブルガリアに侵攻し、1385 年にはソフィ
アを征服し、ブルガリアの大半を占領した。 《イェニチェリ(新軍)の創設》 ムラト 1 世は、君主直属の常備軍として歩兵のイェニチェリ軍団を創設した。イェニチ
ェリとは「新軍」の意味で火器で武装した最精鋭軍団であった。君主直属の主力軍団とし
1117
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
て原則的に首都イスタンブルにある兵営に住まわされ、また妻帯することを禁じられたが、
同時に高い俸給を与えられ、免税など様々な特権を享受した。新式の銃を使用してヨーロ
ッパ、アラブ、イラン諸国の旧式軍隊を圧倒し、16 世紀までオスマン帝国の軍事的拡大に
大いに貢献した(17 世紀以降、時代遅れになり旧式軍になった)。 《1389 年、コソヴォの戦い》 ムラト 1 世のオスマン帝国軍は、1389 年 6 月、コソヴォ平原で、セルビア王ラザル、ボ
スニア王トヴルトコ、ワラキア大公ミルチャなどからなるバルカン半島の諸侯軍と戦い、
大勝した。このコソヴォの戦い(図 12-60 参照)でオスマン帝国はドナウ川以南の支配権
を確立し、セルビア、マケドニア、ブルガリアを支配下に置いた。 ところが、ムラト 1 世はセルビア貴族の謁見の際に刺し殺されしまった。オスマン軍は
報復に捕虜のセルビア王ラザルをはじめ多くのセルビア人を処刑した。その結果オスマン
側の報復を恐れたセルビア人が大挙コソヴォ地方を捨てて、北方へ移動したため、やがて
この地方にはアルバニア人が多く入植した(余談であるが、戦地となったコソヴォはセル
ビア王国の聖地となった。1990 年代後半のコソヴォ紛争へとつながっていったことは後述
する)。 《1396 年、ニコポリスの戦い》 ムラト 1 世の死後すぐに息子のバヤズィト 1 世(在位:1389~1402 年)がスルタンに即
位し、バルカン征服事業を継承した。バヤズィト 1 世は、1396 年 9 月にブルガリア北部に
おけるニコポリスの戦い(図 12-60 参照)ではハンガリー国王のジギスムントを中心にし
た対オスマン「十字軍」と戦い、勝利した。この勝利によってオスマン朝のバルカン領土
は一挙にドナウ河畔まで拡大した。 《1402 年、アンカラの戦いで敗北》 バヤズィトがコンスタンティノープルを包囲攻撃していた 1399 年、サマルカンドを首都
に一代 30 年で大帝国を築き上げたティムール(1336~1405 年)がアナトリアへと軍を進め
てきた。ティムール帝国は連戦連勝の戦争マシーンのような集団だった。しかし、オスマ
ン帝国もイェニチェリ(新軍)を誇る新興の軍事国家であった。 両軍は 1402 年 7 月にアンカラ郊外のチュブク平原で激突した。このアンカラの戦い(図
12-60 参照)では、ティムール軍が勝利をおさめた。退却しようとしたバヤズィトは落馬
して捕虜となった。 敗戦によって、オスマン帝国は一時壊滅的な状況となり、滅亡の寸前まで追い詰められ
ていた東ローマ帝国は救われた。
ティムールは、オスマン帝国に征服されたアナトリアのすべてのトルコ系君侯国を復活
させた。ティムールは 8 ヶ月アナトリアに滞在して、バヤズィトを伴ってサマルカンドへ
1118
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
の帰途に就いたが、その道中でバヤズィトは 1403 年死去した。こうしてバヤズィト 1 世の
オスマン帝国は瓦解し、以後 10 年間空位時代を経験することになった。バヤズィトの諸子
4 人の間で後継争いが起こって、それを勝ち抜いたメフメト 1 世がスルタンに即位した。 メフメト 1 世(在位:1403~1421 年)は、1412 年に帝国の再統合に成功して失地を回復
した。 1421 年、メフメト 1 世の死により、その子ムラト 2 世(在位:1421~1444 年、1446~1451
年)が即位した。 1444 年、ムラト 2 世は、ローマ教皇・エウゲニウス 4 世の命により、ブルガリアに侵攻
してきたハンガリー軍をヴァルナの戦いで破って勝利を収めた(図 12-60 参照)。また、1448
年、コソヴォでセルビアをはじめとするキリスト教国の軍と戦って再び勝利を収め、東ロ
ーマ帝国を次第に圧迫していった。 1451 年 2 月にムラト 2 世は死去し、次代は、子のメフメト 2 世(在位:1444~1446 年、
1451~1481 年)が再び継いだ。 ○コンスタンティノープルの陥落と東ローマ帝国の滅亡 1453 年、メフメト 2 世は、コンスタンティノープルを攻略し、東ローマ帝国を滅ぼした
(このときの状況は東ローマ帝国の歴史に記した)。コンスタンティノープルの攻防におけ
るオスマン朝の軍勢は 10 万から 12 万に上ったのに対して、東ローマ帝国は 7000 人であっ
た。すでにコンスタンティノープルは第 4 回十字軍の略奪により荒廃しきっており、かつ
て 100 万といわれた住民もいまや 5 万人前後に減少していた。 メフメト 2 世は、首都をそれまでのエディルネから新たに征服したコンスタンティノー
プルに移し、イスタンブルと命名した。オスマン帝国の中枢となるトプカプ宮殿や、現在、
イスタンブルの観光名所となっているグランドバザールの基礎が築かれたのもメフメト 2
世の治世であった。 ○バルカン半島の征服 その後、図 12-60 のように、アナトリアやバルカン半島に残る東ローマ系の諸侯を征服
していった。1475 年にはクリミア半島に割拠するモンゴル帝国の後裔国家クリミア・ハン
国を服属させ、黒海をオスマンの海とした。16 世紀初頭には、シリアとエジプトを征服し、
ヴェネツィア帝国の主要都市である北イタリアのビチェンツアにまで迫った。 図 11-2 の描き方でみると、中世にアラビア半島から西アジア、北アフリカに興ったす
べてのイスラム国家は、そして中世後半にはバルカン半島も含めて、すべてオスマン帝国
に吸収されていったことがわかる(古代の地中海・ヨーロッパ諸国がすべてローマ帝国に
吸収されたのと似ている)。 1119
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
さらにオスマン帝国は、図 12-60 のように、1526 年にはモハーチでハンガリー王フェル
ディナント 1 世の軍隊を破り、1529 年にはウィーンまで包囲した。1683 年にはまたもウィ
ーンを包囲したが、このときも攻略に失敗した。このころがオスマン帝国の最盛期だった
と考えられている。 1299 年から 1922 年まで存続したオスマン帝国ほどヨーロッパの歴史に重大な影響を及ぼ
した国はない。このイスラム国家との対立によって、ヨーロッパというキリスト教文化圏
の輪郭も明確になっていった。また、オスマン帝国の存在は、ヨーロッパの東部と西部を
大きく分かつ原因でもあった。 オスマン帝国の成立によって、西ヨーロッパはしばらくのあいだ、中東や黒海との行き
来を遮断されてしまった(図 11-73-⑩参照)。つまり、アジアへの陸上ルートをすべて
封じられた。西ヨーロッパは、イスラム勢力圏を迂回してアジアに達するルートはないも
のかとさまざまな方法を模索した。 ポルトガルの船乗りたちは、香辛料を手に入れるための新しい航路を探そうと、アフリ
カの沿岸を南下していった。おそらく南方からオスマン帝国を攻撃することができる同盟
国を見つけたいという思惑もあったのであろう。それがオスマン帝国の勢力がその頂点に
達したとき、ようやく喜望峰をめぐるインド航路が発見された。オスマン帝国の台頭は大
航海時代という新しい時代を開かせることにもなった。 【12-2-10】ユーラシア中央部のイスラム化とティムール帝国 ○モンゴル帝国の西方三王家
モンゴル帝国については、中国の歴史で述べるが、ここではモンゴル帝国の西方三王家
の領土がのちにはイスラム化していったので、それ以降の中央アジアの状況を述べる。
アルタイ山脈の西、現在のカザフ草原と南ロシア草原、中央アジア、そしてイラン、イ
ラクには、それぞれジョチ家、チャガタイ家、フレグ家の所領(ウルス)が形成された(図
12-61 参照)。モンゴルの征服によって、あらたな遊牧民が流入したが、その多数はトルコ
系であり、モンゴル系はむしろ少数であった。
1120
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-61 モンゴル帝国勢力地図(特に 1300 年前後)
これら三王家のモンゴルは、生活習慣も近い多数のトルコ諸族に出会ってしだいにトル
コ化するとともに、イスラムを受容していった。そのため、中央ユーラシアは東の仏教文
化を中心とした世界と西のイスラム世界とに大きく分れることになった。
西方三王家の領内では、モンゴル帝国からティムール帝国の時代にかけて、彼らは一方
で部族組織に属する戦士階級としての性格を維持しつつ、徐々に定住化の道をたどった。
彼らは一層ペルシア的イスラム文化に同化し、トルコ語を文化的言語として洗練し、中央ユ
ーラシアのトルコ族に共有される文章語、すなわちチャガタイ語を発展させた。定住化し
たトルコ系遊牧民と元来の定住民との融合が本格化し、同時に後者のあいだにもトルコ語
の使用が広まった。
《キプチャク・ハン国》
まず、チンギス・カンによってアルタイ山脈沿いに与えられたジョチのウルスは、その
子バトウを総司令官とする遠征の成果をそっくりわがものとして、キプチャク草原全域へと
大きく拡大した(図 12-62 参照)。これをキプチャク・ハン国と呼ぶ。
1121
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-62 モンゴル帝国の発展 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
1359 年にバトウ家の嫡流はとだえ、ジョチ・ウルスは、その後 20 年間に 25 人以上がハ
ン位に就くという混乱に陥った。そうしたなか、ティムールの援助をえて、ジョチ・ウル
ス東部(左翼)の支配権を握ったトカ・テムル(ジョチの第 13 子)家のトクタミシュが、
首都サライ(図 12-62 参照)に進出してジョチ・ウルス全体の再統一に成功した。
後述するように、トクタミシュがティムールと争って敗れたあとは、ジョチ・ウルスに
強力な統一政権があらわれることはなかった。15 世紀にはヴォルガ川中流域のカザン、下
流域のアストラハン、クリミア半島のクリミアの 3 ハン国があいついで誕生した。
《イル・ハン国》
イラン、イラクを領土として成立したフレグ・ウルス(図 12-61、図 12-62 参照)は、
イル・ハン国となり、フレグ没後、第 2 代アバガが後を継いだ。しかし、政権を支える軍
事力を維持するための経済的手段は、支配下のイラン人に頼らざるをえず、歴代の君主(イ
ル・ハン)は確たる財政政策をもっていなかった。それにハン位の継承争いや有力部族長
の権力争いは、国庫の枯渇と遊牧戦士の貧困化を招いた。
ガザン・ハン(1271~1304 年)が第 7 代イル・ハンに即位したとき(1295 年)、国家は
崩壊寸前の状況にあった。彼はまずイスラムに改宗し、チンギス・カン家とモンゴル国家
1122
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
の歴史書『集史』の編集者としても名高い宰相のラシードウッディーンの補佐をえて、反
対する者を容赦なく処刑し改革政治を断行した。徴税制度の改革と遊牧戦士へのイクター
(封邑)の授与によって懸案の解決をはかり、モスクなどの宗教施設を建設して、モンゴ
ルが無秩序な収奪に明け暮れる異教徒ではなく、イランの地を守るムスリム戦士であるこ
とを示した。
しかし、ガザンの治世は 9 年に満たず、やがて、1335 年にフレグの嫡流がとだえると、
国家の統合は急速に失われ、地方政権が各地で自立するにいたった。
《チャガタイ・ハン国》
オゴデイ家の諸王子の中からオゴデイの孫カイドゥ(図 12-79 参照)が台頭してきて、
当時の元政権クビライに対立して、図 12-61 のようにカイドウ・ウルスといわれていたこ
とは中国史の元帝国のところで述べる。そのカイドウも、1301 年、中央アジアでの元軍と
の戦いに敗れ、その戦傷がもとで没すると、彼を盟主とした連盟は崩壊した。つねにカイド
ゥを補佐してきたチャガタイ家のドウア・ハーンは元軍と呼応してオゴデイ勢力を個別に撃
破して、中央アジアのオゴデイ・ウルスを消滅させ、1306 年にドウアを戴くチャガタイ・
ハン国を成立させた(図 12-62 参照)。しかし、同年ドウアが没して、チャガタイの勢力と
それに対抗する勢力との対立が深まり、混乱が続いた。 このころより、マー・ワラー・アンナフルのオアシスに定着し、都市文明に慣れ親しん
でいったチャガタイ人たちはイスラム化・トルコ化が進み、特に言語的には完全にトルコ
化していたので、歴史家に「チャガタイ・トルコ人」と呼ばれることもある。
これに対して、東のセミレチエやイリ渓谷など天山山脈北麓の草原地帯で純粋な遊牧生
活を保っていた諸部族は、自身を「モグール(モンゴル)」と自称してモンゴル帝国以来の
遊牧民としてのプライドを持ち続けた。このように、1340 年頃より後には、チャガタイ・
ハン国はおおよそパミール高原を境界として政治的に完全に東西に分裂していた。
分裂後のチャガタイ・ハン国のうち、イリ渓谷およびセミレチエの草原を中心に東トル
キスタンを支配した東部のモグールたちの政権を東チャガタイ・ハン国、マー・ワラー・
アンナフルを中心に西トルキスタンの南部を支配した西部のチャガタイ・トルコ人たちの
政権を西チャガタイ・ハン国という。
○ティムール帝国
《ティムール朝の建国》
一時的にチャガタイ・ハン国を再統一したトゥグルク・ティムールとは、全く別人であ
るティムールがあらわれた。
そのティムール(1336~1405 年)の系譜によれば、5 代前の先祖カラチャル・ノヤンは
チンギス・ハンの次男チャガタイに仕えた有力な将軍であった。ティムールがシャフリサ
1123
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ブズの近郊で生まれたころには零落し、わずか数人の従者を持つに過ぎない小貴族であっ
た(シャフリサブズは、サマルカンドの南約 80 キロメートルに位置する町。15 世紀ティム
ール朝時代に建築された建物の現存する地区がユネスコの世界遺産に登録されている)。
若い頃のティムールはチャガタイ・ハン国の東西分裂と混乱に乗じて、従者を率いて家
畜の略奪を行う盗賊のようなことをしていたという。しかし徐々に優れた軍事指揮者とし
ての才能をあらわして次第に人望を集め、西チャガタイ・ハン国の有力者へとのし上がっ
ていった。
1360 年、東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のトゥグルク・ティムール
が西チャガタイ・ハン国に侵攻し、一時的にチャガタイ・ハン国の東西統一を成し遂げる
と、ティムールはこれにいち早く帰順して父祖の所領であった旧領を安堵された。
やがてトゥグルク・ティムールが本拠地の東トルキスタンに帰ると、ティムールは東チ
ャガタイ・ハン国から離反し、西チャガタイ・ハン国の諸部族と同盟と離反を繰り返しな
がら勢力を広げ、1370 年までにトランスオクシアナの覇権を確立した。
彼はチンギス・ハンの三男オゴデイの子孫という王子を西チャガタイ・ハン国のハンと
して擁立し、自身はカザン・ハンの娘サライ・ムルク・ハヌムをめとり、チンギス家の婿
の地位をえた。そして、1370 年、遊牧集団の長(アミール)や地方領主、宗教的権威であ
るサイイド、チンギス系統の王子らの支持を受けて王位に就いた。当時チンギス・ハンの
権威がいぜんとして生きていて、彼はその権威を利用して、マー・ワラー・アンナフルに
住むチャガタイ人の諸部族の統帥権を握った。一般に、この年をもってティムール朝の確
立としている。
《ティムールの征服事業》
新王朝の確立後、サマルカンドを中心に、図 12-63 のように、ティムールは東トルキス
タンに遠征してモグーリスタン・ハン国を服属させ、マー・ワラー・アンナフルの西のホ
ラズムを征服した。さらにジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)から亡命してきたトク
タミシュを支援してジョチ・ウルスを再統一させ、北西のキプチャク草原を友好国として
中央アジアの支配を固めた。
1124
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-63 チィムール帝国 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
続いて、1335 年のフレグ王家断絶後、イル・ハン朝が解体して諸勢力の割拠していたイ
ラン方面の経略を開始し、1380 年にはトランスオクシアナからアム川を越えてホラーサー
ンを征服、1388 年までにイランの全域を服属させ、アルメニア、グルジアからアナトリア
東部までを勢力下に置いた。1393 年にはイランのファールス地方を支配するムザッファル
朝を征服してイランの全土を完全に制圧し、さらにカフカスからキプチャク草原に入って、
ホラズムの支配をめぐってティムールと対立した(かつて支援した)トクタミシュを討ち、
ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の都サライを破壊した。
その後も 1398 年、インドにも侵攻し、デリー・スルタン朝の都デリーでは捕虜数万人を
処刑し、デリーを破壊しつくした。1400 年には再び西方に遠征してアゼルバイジャンから
シリア、イラクを席巻し、バグダードを占領したときも徹底した略奪・破壊を加える等、
外征先では冷酷な破壊者であった。エジプトのマムルーク朝を破り、1402 年にはアンカラ
の戦いでオスマン帝国を破って一時的に滅亡させ(図 12-63 参照)、シリア、アナトリア
の諸侯国にまで宗主権を及ぼして 1404 年 7~8 月にサマルカンドに帰還した。
ティムールは、チンギス・カン以来の軍律や 10 進法で編成された騎兵にアジア地域の先
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
進的な技術産業を活かした重装を施し、大砲や各種機械、爆発物、鉄砲を備える歩兵や工
兵を付随させる等、軍備にも意を注いだ。ティムールは軍事にかけては天才的で、生涯に
交えた戦いではほとんど負けたことがなく、また農村や都市の持つ経済的価値をよく理解
しており、彼の帝国に於いてはヤサ法典(慣習法)が施行された。また、彼が科学者や法
学者、知識人、技術者に対して非常に敬意を払っていたこともよく知られている。
征服した町や国から強制的に移住させた多数の石工を中心とした職人に、彼はサマルカ
ンドなどのモスクや記念建造物の建設を命じた。サマルカンドには様々な施設が建設・整
備されて繁栄を極め、チンギス・カンと比較して俗に「チンギス・カンは破壊し、ティム
ールは建設した」と言われる。しかし、敵が抵抗した場合、徹底的に虐殺し破壊しつくし
たことはチンギス・カンと同じだった。 こうしてマムルーク朝も名目的ではあったがティムールに従い、彼の宗主権を認める勢
力も含めて、ティムールは 30 年間で支配領域を旧モンゴル帝国の西方三王家の範囲をこえ
て、西はエジプト及び小アジア半島西端にまでいたった。モンゴル帝国の西半分をほぼ統
一することに成功したティムールは(図 12-63 参照)、東方のモンゴル帝国の大ハン直轄
領(元)回復をこころざし、元に代わって中国を支配した明への遠征に向かうことにした。
1404 年 11 月、中国をめざすティムールは、20 万と伝えられる大軍を率いてサマルカン
ドを出発した。このときティムールはモンゴルから亡命してきたチンギス家の王子をとも
なっていた。モンゴル帝国を再建して彼を帝位に就け、帝国全土に号令する目論見であった
と思われる。しかしキズィル砂漠を横断してオトラル(現在のカザフスタン領南部)に入
ったときティムールは発病し、1405 年 2 月に没した。
《ティムールの後継者たち》
ティムールは生前から、新たに征服した地方は自身の王子たちを知事としその支配を委
ねていたため、ティムールの死後、各地に分封されて勢力を蓄えていた王子たちの間で後
継者を巡る争いが起った。兄弟での後継者争いを制したのは、ホラーサーン地方の知事で
ホラーサーン駐留の軍団を統御することに成功したティムールの四男シャー・ルフ(在
位:1409~1447 年)だった。1447 年、シャー・ルフが没すると再び諸王子たちが各地で自
立して王位を争い始め、ティムール朝の支配は再び揺らいだ。また、北方では遊牧民のウ
ズベクやトルコマンの活動が活発となった。
その後、ティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権の分立の時代に入った。
サマルカンド政権では、王子たちと有力な将軍たちの間で王位を巡る内訌が勃発し急速
に崩壊していった。こうしてサマルカンドは 1500 年、シャイバーン朝のシャイバーニー・
ハンによって征服され、サマルカンド政権は滅びた。ヘラート政権も 1507 年、サマルカン
ドから南下してきたシャイバーニー・ハンに降伏し、こうして中央アジアにおけるティム
1126
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ール朝の政権は消滅した。
○ティムール帝国後のイラン地域 ティムールの帝国の後継者たちは 1 世紀ほど存続したが、ウズベク族のシャイバーニー
朝によって 1500 年にサマルカンド政権が征服され、1507 年にヘラート政権が降伏し、滅亡
した。 《イランの黒羊朝と白羊朝》
1404 年にティムールが没すると図 12-64-①のように、アゼルバイジャン地方を支配す
るティムール朝の王子を破って、黒羊朝(1375 年~1468 年)が力を得て、タブリーズを領
有し、バグダードを占領、イラクまで勢力を広げた。黒羊朝とは、カラ・コユンル(黒い羊
に属する者)と呼ばれたトルコ系遊牧民の部族連合の遊牧国家であった。
しかし 1467 年、ジャハーン・シャーが当時黒羊朝に服属していた白羊朝のウズン・ハサ
ンに急襲され落命すると、黒羊朝はたちまち混乱し、分裂した。その後わずか 2 年の間に、
図 12-64-②のように、黒羊朝の勢力は白羊朝(1378 年~1508 年)により一掃されてしま
った。白羊朝もトルコ系遊牧民の部族連合(アク・コユンルすなわち「白い羊に属する者」
と呼ばれた)をもととする遊牧国家で、東部アナトリアからイラク、アゼルバイジャン、
イラン西部にまで及ぶ大帝国を築き上げた。 図 12-64-① 黒羊朝 1127
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-64-② 白羊朝の最大版図(ウズン・ハサンの時代) しかし、1473 年、ウズン・ハサンはバシュケントの戦いでオスマン帝国の誇る火器で装
備された強力な常備軍イェニチェリ(新軍)の前に敗れた。この敗戦により白羊朝の威信
はおおいに没落し、1508 年までにサファヴィー朝のイスマーイールによって白羊朝は滅亡
した。
《サファヴィー朝の成立》 白羊朝にかわり、新たにアゼルバイジャン・イランの統治を確立したイスマーイールの
サファヴィー朝も、その主力の軍隊はかつて白羊朝を支えた遊牧民たちであった。キズィ
ルバシュと呼ばれた彼らの力により、サファヴィー朝(1501~1736 年)はイラン全域を支
配する王朝に発展した(サファヴィー朝の歴史は近世で述べる)。 《ウズベクとシャイバーニー朝》
15 世紀前半、ジョチ・ウルス東部において、ウズベクと呼ばれる遊牧集団の活動が活発
化してきた。彼らを率いたのがジョチの 5 男シバンの子孫であるシャイバーニー家(シバ
ン家)のアブル・ハイル・ハン(在位:1428~68 年)であり、宗主であったキプチャク・
ハン国のサライ政権からの独立を宣言した。 1446 年、アブル・ハイルは、シル川中流域のオアシス都市スグナク、サウラン、ウズゲ
ンドを占領して、キプチャク草原東部の統一に成功し、政治的・軍事的拠点とするととも
に経済的基盤を固めた(図 12-65 参照)。
1128
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-65 シャイバーニー朝の版図
しかし、1468 年、アブル・ハイルはカザフ族とその援軍オイラトの連合軍と戦って破れ、
息子のシャイフ・ハイダルともに殺されたが、孫のムハンマド・シャイバーニーは逃亡し
た。アブル・ハイルが没すると、ウズベクのウルスはたちまち分裂状態に陥った。
シャイバーニー朝は一度崩壊し、ウズベクのウルスは分裂状態に陥り、その多くはケレ
イ・ハンとジャーニベク・ハンの支配するカザフ・ハン国に流れた。 1496 年/1497 年、生き残ったムハンマド・シャイバーニーがティムール朝の衰退に乗じ
てシル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功した。 1500 年、ムハンマド・シャイバーニーはサマルカンドを征服し、マー・ワラー・アンナ
フルの支配権を奪取した。これから 1599 年まで、一時的な中断はあるものの、アブル・ハ
イルの子孫がこの地に君臨した。この王朝をシャイバーニー朝と呼ぶ。したがって、シャ
イバーニー朝の統治期間は 1428 年~1468 年 、一旦滅亡して、 1500 年~1599 年となって
いる。
《カザフとカザフ・ハン国》
カザフ(現在のカザフ民族の起源となるもの)は、もともと、シル川中流域を根拠地と
していたが、前述のアブル・ハイルによって圧迫を受け、移住をよぎなくされ、ジョチの
13 男トカ・テムルの子孫であるケレイ・ハンとジャーニベク・ハンに率いられてモグーリ
スタン辺境へと移住した。
しかし、前述したように,1468 年にカザフ族はアブル・ハイルを破り、1470 年頃、バル
ハシ湖の南のセミレチエ地方(カザフスタンの旧首都アルマトゥ周辺)でカザフ・ハン国
を建国した。ウルスを構成していた多くの遊牧民は、ジャーニベク、ケレイ両ハンを君主
とあおぎ、その数 20 万に達したという。 カザフ・ハン国はウズベクのシャイバーニー朝が南下してシル川を渡りトランスオクシ
アナ、ホラズムに入った後、16 世紀前半に西に大きく広がり、残余の遊牧民を取り込みな
がら現在のカザフスタンの領域のほとんどを支配するに至った。その後の歴史は省略する
1129
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
が、最終的には現在のカザフスタンになる。 ○中央ユーラシア世界の衰退
ティムール帝国の「輝き」を最後に、中央ユーラシア世界は落日をむかえたと言われて
いる。16 世紀以降徐々に進行した中央ユーラシア衰退の最大要因はなにかということであ
るが、それは、中央ユーラシアの遊牧民がもっていた軍事的優越性が失われたからである。
中央ユーラシアが有史以来他を凌駕しえたのは、最高の機動力を提供する馬に乗り、弓矢
で武装した騎馬軍団を擁していたからである(それに図 11-73 の各図のようにユーラシア
大陸は騎馬軍団がその性能をフルに発揮できるような地形になっていた)。 1453 年、巨砲の威力でコンスタンティノープルを征服したオスマン帝国は、火器の時代
が到来したことを世界に告げた。いち早くそれを学んだヨーロッパが、やがて世界を制覇
していくことになるが(図 11-73-⑩参照)、中央ユーラシアでは、周辺諸地域が火器で武
装した歩兵軍団の導入を進めるなかで、それまで最も成功していた騎馬軍団による軍隊編
成が抜本的に変更されることなく存続した(ここでも成功体験は革新ではなく衰退をもた
らすことを示している)。 そのため、それまで最強だった中央ユーラシアの軍事力は周辺諸国に比べて相対的に低
下し、軍事的優越を前提に成り立っていた繁栄は失われることとなった。図 11-73 でもわ
かるように、人類の歴史(ヨーロッパ、イスラム、中国、ユーラシアの歴史)の中で、中
央ユーラシアはたえず、遊牧国家が盛衰して大陸周縁部に大きな影響を与えてきたが、16
世紀以降(近世になって)、中央ユーラシアは、ロシアと清という二大強国が進出してくる
なかで、周縁化していくことになった。モンゴル、ティムールの中央ユーラシアの時代は
すぎさっていったのである。大陸と騎馬軍団と弓矢の中世は終って、海と海軍と火器の近
世という時代がきたのである。それは近世のヨーロッパからはじまることになる。
【12-3】中世のインドのイスラム化 ○ラージプート王朝の時代(7世紀半ば~1206 年) 古代インドの歴史で、ヴァルダナ朝まで記したが、ヴァルダナ朝はハルシャ王一代で瓦
解し、7 世紀半ば以降はラージプートの諸王朝が分立して北インドは再び小国分立の時代と
なった。7 世紀後半から 13 世紀初頭のムスリム王権が北インドに成立するまでの時代を、
一般にラージプート王朝の時代と呼んでいる。この時代に北インドからデカン地方にかけ
て興亡した大小多数の王朝がラージプートと称したことに由来する。 ラージプートとは合成語「ラージャプトラ(王子)」がなまったもので、自らをヒンドウ
ー教と人民を擁護する義務を負うクシャトリヤ(武人階級)の正統な子孫ラージプートで
あると称し、王権の正当化をはかろうとしたものであった。この言葉の一般化は 7 世紀後
1130
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
半以降であった。彼らのなかには、5~6 世紀にインドに入ってきた中央アジア系の民族や
ヒンドウー社会の周辺に住む部族民などもおり、その起源は在来から外来まで多様であった。 以下、その主要なものを図 12-66 に示す。 そのなかで、代表的なチャールキヤ朝(543~753 年。973~1189 年)、パッラヴァ朝(3
世紀~893 年)、ラーシュトラクータ朝(753~973 年)、プラティハーラ朝(778~1018 年)、
チャンデッラ朝(10 世紀前半~13 世紀末)、チョーラ朝(845 年頃~1279 年)、パーンデ
ィヤ朝(紀元前後~3 世紀、6 世紀~10 世紀初頭、12 世紀~14 世紀)について記す。 《チャールキヤ朝》 チャールキヤ朝(543~755 年)は、図 12-66 のように(図ではチャールキヤ後期が図示
してある)、6 世紀の中葉に西部デカン地方を中心に支配した王朝で、当時北インドの覇者
であったヴァルダナ朝の英主ハルシャ・ヴァルダナをナルマダー河畔で打ち破ってその南
進を阻止した。南方のパッラヴァ朝も破り、その北方の地を併合した。 641 年にこの地を訪れた玄奘は『大唐西域記』に「土地は肥沃で、農業が発展し、家臣は
勇敢で主君に忠誠をつくした」と記している。 チャールキヤ朝はヴィジャヤディーティヤ(在位:696~733 年)、彼の子ヴィジャヤデ
ィーティヤ 2 世(在位:733~744 年)のときに最も安定して繁栄し、デカンに侵入したイ
スラム勢力を破り、南方のパッラヴァ朝に対しては 3 度も首都を陥れた。 図 12-66 中世のインド亜大陸 1131
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ヴィジャヤディーティヤ 2 世は、南インドのパッラヴァ朝の建築文化の水準の高いこと
に感銘を受け、建築家グンダを招聘し、南部の石工や工匠たちを多く駆り集めてパッタダ
カル(インドのカルナータカ州北部に立地する村)に多くのヒンドウー寺院を建設した(こ
のパッタダカルの寺院群は、現在、世界遺産になっている)。これらの寺院には、柱や天
井、壁画に石工や彫刻家たちによって「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」などに題材
をとった様々な場面が彫刻されている。なかでもグラダが設計したシヴァ神を祀った雄大
なヴィルーパークシャ寺院は、エローラのカイラーサ寺院にも影響を与えていることで知
られている。 これらの寺院群が建設されてから 10 年後、この王朝は封臣の一人ダンティドウルガによ
って滅ぼされた。 《パッラヴァ朝》 パッラヴァ朝(3 世紀~893 年。図 12-66 参照)は、カーンチプラムを首都として南イ
ンドの東海岸(コロマンデル海岸)地方を支配したタミル系の王朝であった。パッラヴァ
朝時代に建設された当時の木造寺院を模して、ライオンや象などが刻まれた「5 つのラタ」
と呼ばれる石彫寺院や「海岸寺院」をはじめとするマハーバリプラムの建造物群は世界遺
産になっている。 《ラーシュトラクータ朝》 チャールキヤ朝を滅ぼしたダンティドウルガはデカン地方を中心にラーシュトラクータ
朝(753~973 年)を創始し、プラケーシン 2 世から分かれた東チャールキヤ朝と対立した。 クリシュナ 1 世(在位:756~775 年)は、エローラ石窟群の一つ、カイラーサナータ寺
院を建設した。この寺院はパルテノン神殿の倍ほどの規模があり、石窟というより一つの
高層建築物にしか見えないが、紛れもなく一つの巨大な岩(20 万トン)を彫刻するように
彫り出したもので、100 年の歳月を必要としたというまさに人類の偉業であり、世界遺産で
ある(もちろん、ユネスコの世界遺産になっている)。 チョーラ朝などとの戦いで衰退し、973 年に滅んだ。 《プラティハーラ朝》 ラージプート国家群の中では、778 年ごろから 1018 年まで北インドを支配したプラティ
ハーラ朝(図 12-66 参照)が最大のものであった。ボージャ1世(在位:836~885 年)の
ときには、北インドの大部分を支配するにいたった。この王朝のインド史において果たし
た最大の役割は、イスラム勢力のシンド(パキスタン南部)以東への進出をほぼ 300 年に
わたって阻止し続けてきたことであるといわれている。1018 年にガズナ朝のスルタン、マ
フムードの攻撃を受けて滅亡した。 《チャンデッラ朝》 1132
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
また、10 世紀後半にプラティハーラ朝から独立し、13 世紀末まで北インドのマディタ・
プラデーシュ州にあったチャンデッラ朝(10 世紀前半~13 世紀末。図 12-66 参照)は現
在世界遺産となっているカジュラホの寺院群を築いたことで知られている。 10 世紀初頭から 12 世紀末ごろまでにカジュラホでは 85 ヶ所に及ぶ寺院が建設された。
これらの寺院はヒンドウー教とジャイナ教の寺院であるが、寺院は細い釣鐘状の塔の上部全
体をシカラと呼び、シカラの壁面は細かな文様が施され、小シカラを支える柱状の構造の
側面には、驚くほど多数の裸体の人物像がぎっしりと刻まれている。このミトウナ像(男女
交合彫刻)は豊饒祈願が込められていると考えられている。 《チョーラ朝》 チョーラ朝(845 年頃~1279 年。図 12-66 参照)は、南インドを支配したタミル系のヒ
ンドゥー王朝であった。パッラヴァ朝の封臣であったヴィジャヤラーヤ(在位:846~71)
がタンジャーヴールに興した王朝であった。 チョーラ朝のラージャラージャ 1 世(在位:985~1016 年)はパーンディヤ朝とケララ(現
ケララ州。インド洋に面する南インド)、セイロンの連合軍を破り、セイロンの北半分を
合併し支配した。デカン高原のチャールキヤ朝を破り、東チャールキヤの宗主権を確保し
た。 また、ケララを支配下におさめたラージャラージャ 1 世は、台頭著しいアラブ商人に対
抗して西方貿易の利を確保するため海軍を送ってモルジブ諸島までも征服した。また 1013
年には、北宋に通商のための使者をはじめて送っている。 ラージャラージャ 1 世は、首都タンジャーヴールに多くのシヴァ、ヴィシュヌ寺院を建
設したが、そのうち世界遺産であるブリハディーシュワラ寺院は 1010 年に完成した。 タンジャーヴールを要として扇状に広がるデルタ地帯は「南インドの庭園」と呼ばれる肥
沃な穀倉地帯で、古くから開けた土地であった。ヒンドウー教に帰依した歴代の王たちは、
この地に多くの寺院を建設したが、そのなかで最大のものがブリハディーシュワラ寺院で
ある。 天に向かってピラミッド状にそびえ立つヴィマーナ(本堂)の頂部には、人間界と神界
の間の境界として、80 トンの半球形の冠石が置かれているが、この単一の花崗岩をどのよ
うにして 60 メートルも上げることができたか謎である。いずれにしても南インドや東南ア
ジアの多くの寺院に大きな影響を与えている。 息子のラージェンドラ 1 世(在位:1016~44 年)はガンジス河畔まで遠征軍を送り、ス
マトラのシュリーヴィジャヤ王国に 1017 年と 1025 年に海軍を遠征させるなどチョーラ朝
は勢威を示した。この時代の海軍は、モルジブ諸島、マラバル海岸、コロマンデル海岸、
1133
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ベンガル湾全域、スマトラ島付近までの海域を支配できるほど強力であった。この時代に、
チョーラ朝はインド洋から中国に至るまでの制海権を支配し、貿易の利を独占した。 《パーンディヤ朝》 そのチョーラ朝を倒した王朝は、マドウライに首都をおくパーンディヤ朝であるが(図
12-66 参照)、マドウライを首都とするヒンドウー系王朝は紀元前後から 3 世紀、6 世紀か
ら 10 世紀初頭、12 世紀から 14 世紀とあり、この最後の王朝はそれ以前のものと区別して
後期パーンディヤ朝と呼称する場合もある。このように古来、パーンディヤ朝が繁栄した
のは、インドの南端とスリランカの海岸で行われた真珠の養殖で、当時世界でも最高級の
真珠が生産されていた。真珠の取引を中心としたローマとの交易で、パーンディヤ領内の
遺跡からおびただしいローマ貨幣が出土している。古代のエジプトや中国とも交易があっ
たことがわかっている。 さて、12 世紀末になってチョーラ朝がすっかり弱体化してくると、ジャターヴァルマン・
クラーシェカラ(在位:1190~1216 年)がパーンディヤ朝を再建した。次のパーンディヤ
1 世(在位:1216~1238 年)は、チョーラ朝を打ち破って心臓部のタンジャーヴールまで
侵攻した。そしてマーラヴァルマン・クラーシェカラ 1 世(在位:1268~1309 年)は、つ
いにチョーラ朝に止めを刺してこれを滅ぼし、その版図を併合した。 パーンディヤ朝は海外交易の振興で経済的に繁栄し、元朝の中国などと盛んに交易を行
っていたことが、『元史』などからもわかる。またマルコ・ポーロもそのパーンディヤ朝
の繁栄ぶりについて記述している。 マーラヴァルマン・クラーシェカラ 1 世の晩年になると息子たちの間で王位継承争いが
おき、クラーシェカラ 1 世も殺害され、王国は分裂状態になった。時同じくして北インド
に強力なイスラムのハルジー朝(デリースルタン時代の第 2 王朝)が興った。ハルジー朝
のマリク・カーフールは南インドへ遠征軍を率い、ヤーダヴァ朝、カーカティーヤ朝、ホ
イサラ朝の君主を次々に屈伏させてデリーへ連行した。1310 年、パーンディヤ朝は首都マ
ドウライも侵攻され、チョーラ朝の故地の大半を奪われて、細々と 17 世紀まで小領主とし
て生き残るだけとなった。 《ヴィジャヤナガル王国》 その後、一時、北インドの勢力が南下したが、14 世紀後半から 16 世紀初頭にかけては再
び、ヒンドウーの諸王国が繁栄した。サンガマ朝(1336~1486 年)、サールヴァ朝(1486
~1505 年)、トウルヴァ朝(1505~70 年)、アーラヴィードウ朝(1570~1649 年)の 4 つ
の王朝が交替したが、いずれもヴィジャヤナガル(現ハンピ。図 12-67 参照)に首都をお
いたので、総称的にヴィジャヤナガル王国ということがある(ただし、アーラヴィードウ
朝は、ペヌコンダに首都を置いたために除く場合もある)。 1134
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-67 14 世紀後半頃のバフマニー朝とヴィジャヤナガル朝 ○ムスリム政権の成立(962~1206 年) ラージプートは、尚武の精神を尊び名誉を重んじた。戦場での一騎打ちに武勇の誉れを
見出す彼らの戦い方は、個人としては一騎当千の強者であっても、中央アジアの脚の速い
騎馬による集団戦法の前には時代遅れのものでしかなかった。騎馬戦での敗北によって、
ラージプートは城砦に閉じこもる戦法をとったが、それは玉砕の悲劇を生み出すだけであ
った。結果として、ラージプートは北から迫ってくるムスリム王権になすすべがなかった。
図 12-3 のように(黄緑色の部分、イラン地方からイスラムが浸透)、中世が進むにつれ
て、インドのイスラム化が進んでいった。 《ガズナ朝》 ガズナ(ガズニー)朝はサーマーン朝(875~999 年。図 12-53 参照)のホラーサーン総
督でトルコ人のアルプテギーンが、図 12-55 のように、サーマーン朝の衰退に乗じて 962
年アフガニスタンにあるガズナの地(図 12-66 参照)を奪い独立したことにはじまった。
ガズナ政権の 5 代目の支配者となったサブクテギーン(在位:977 年~997 年)のとき勢力
を拡張し、現在のアフガニスタンの大部分を支配するようになり、南のパンジャーブにも
進出した。 ガズナのマフムード(在位:998~1030 年)は、ラージプートが分立抗争する北インドへ
17 回も遠征し、インドを徹底的に略奪した。彼のジハード(聖戦)の真の目的は、インド
の金銀財宝と奴隷、戦象の獲得であり、略奪した富を中央アジアにおける自己の覇権確立
1135
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
のための戦いに利用し、かつ、またガズナの都を学問と文化の中心にするために役立てる
ためであった。 彼がインド遠征で奴隷として拉致した人数は合計 75 万人とも推計されており、ガズナの
奴隷市場はインド人であふれていたといわれている。彼が残虐、野蛮な行為をイスラムの
名のもとに行ったという事実は、北インドの人々の心にイスラムに対する癒しがたい不信
と恐怖の傷痕を遺すことになり、イスラム教徒にとっても不幸なことであった。 1030 年ガズナのマフムードが死亡すると、1040 年にセルジューク人に敗れて王国の西部
を失うと、ガズナ朝は分解し、トルコ系やアフガン系の豪族たちが各地で自立へと動き始
めた。 《ゴール朝》 トルコ系のゴール朝(1148?~1215 年。図 12-68-①参照)は当初ガズナ朝に従属して
いたが、ガズナの弱体化に乗じて徐々に勢力を拡大し、1173 年ガズナを占領した。現在の
アフガニスタン中部のヘラートの東の山岳地帯ゴール地方に居住しイラン系の言語を話し
ていた人々であったので、ゴール人といい、王朝名はゴール朝といった。 スルタンのギャースッディーン・ムハンマド(在位:1163~1202 年)は、自らはゴール
の地にとどまってホラズム王国の脅威に備えるとともに、弟のシハーブッディーン・ムハ
ンマド(後のムイッズッディーン)にガズナの支配をゆだね、パンジャーブに残るガズナ
朝勢力の征服と北インドへの侵攻をまかせた。 図 12-68 12~16 世紀のインド 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 シハーブッディーンは 1186 年、パンジャーブのガズナ朝を滅ぼし、1192 年にはチュハー
ン朝の都デリーとアジメールを占領した。彼は最も有能な奴隷出身の武将アイバクをこれ
らの征服地の管理責任者に任命した。 1136
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
アクバルは、デリーとアジメールでムスリム支配に対する反乱が起こったとき、これを
鎮圧して、これらの土地を接収し、デリーを事実上ゴール朝インド領の首都とした。そし
て、アイバクなど奴隷出身の武将たちが手分けして、北インドから中央インドを征服して
行った。 このとき東部インドの征服を行ったムハンマド・バフティヤール・ハルジーは、1202~
03 年、インド仏教最後の拠点ウッダンダプリ、ナーランダー、ヴィクラマシーラなどの寺
院と大学を破壊し多数の仏僧を殺害した。生き残った僧たちは近隣諸国に逃れ、ここに教
団としてのインド仏教の活動は終わった。 ゴールのスルタン、ギャースッディーンもアイバクに非常時の助力を見返りとして彼を
ゴール朝インド領を支配するスルタンに任命し、マリク(貴族)の地位を与えた。ここに
北インドはアフガニスタンのゴール朝から切り離され、デリーに都をおく「奴隷王朝(1206
~90 年)」が誕生した。 一方、ゴール朝スルタン、ギヤースッディーンは 1203 年に死去し、弟のムイッズッディ
ーン(シハーブッディーン)がホラーサーンに移ってゴール朝を継いだが、ホラズム王国
との戦いで 1205 年ついに敗北し、1215 年にゴール朝は滅亡した。 ○デリー・スルタン朝の時代(1206~1526 年) 1206 年アイバクによってデリーに都をおく奴隷王朝が建てられたが(図 12-68 参照)、
これより約 300 年間、デリーを都としたムスリム 5 王朝(奴隷王朝、ハルジー朝、トウグル
ク朝、サイイド朝(以上、トルコ系)、ロディー朝(アフガン系))が興亡し、そのもと
でインドのイスラム化が進んだ。この時代をデリー・スルタン朝と称している。 《奴隷王朝(1206 年~1290 年)》 奴隷王朝の創始者アイバクは、少年のときにトルキスタンのトルコ人の両親のもとから
誘拐され、転売されてゴール朝のムハンマドの奴隷となった。奴隷王朝にはアイバクの他
に、3 代目のイレトウミシュ、9 代目のバルバンがアイバクと全く同じような経過でスルタ
ンになった。したがって、この王朝 11 人のスルタンはアイバクとその息子、イレトウミシ
ュとその息子、娘および孫、バンバンとその孫および曾孫(そうそん)という互いに直接
の血縁関係のない 3 人の元「奴隷」を創始者にもつ 3 つの王朝からなっているので、奴隷
王朝というのである。 《ハルジー朝(1290~1320 年)》 ハルジー族の長ジャラールッディーン・フィールーズが奴隷王朝のスルタンのカイ・ク
バードを殺害し、自らスルタンに即位してハルジー朝(1290~1320 年)を開き、奴隷王朝
は滅亡した。 1137
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1303 年のモンゴル軍の侵入はスルタンのアラーウッディーン(在位:1296~1316 年)を
一時窮地に立たせたが、アラーウッディーン・ハルジーも積極策をとり、モンゴルと対決
する覚悟を固め、47 万 5000 騎という膨大なデリー・スルタンとしては最初の常備軍を維持
することになった。 モンゴルからの脅威が減少したハルジー朝軍は、その財政を補うため、図 12-68 のよう
に、南インドへの侵攻を開始した。1307 年、ヒンドウーの改宗奴隷出身の宰相マリク・カ
ーフールが総大将となり、ヤーダヴァ朝、カーカティーヤ朝、ホイサラ朝、パーンディヤ
朝などデカンから半島南部まで征服し(図 12-68 参照)、1309 年までにインド南部の大半
を占領しデリー・スルタン朝の最大版を実現し、インドをほぼ統一した。膨大な戦利品を
得るとともに朝貢をさせることにも成功した。 《トウグルク朝(1320~1413 年)》 マリク・トウグルクは、ハルジー朝のアラーウッディーン家の人々の追悼式で、列席した
貴族・高官・ウラマーたちから満場一致でスルタンに推戴され、1320 年ギャースッディー
ン・トウグルク・シャー(在位:1320~25 年)として即位した。彼もまたハルジーと同様
に「雑種」のトルコ人貴族で、父は奴隷王朝のスルタン・バルバンの奴隷、母はパンジャ
ーブのヒンドウーの出身であった。 ギャースッディーンは、農民の課税があまりにも重かったため手直しをし、新しい地租
を生産物の 3 分の 1 から 5 分の 1 の間に定め、その課税方法は実際の生産高に基づいて取
り分を分け合う一種の刈り分け制とした。請負人に徴税権を与える徴税請負制は、しばし
ば過度な収奪となり農民の生活を破壊するとして禁止した。 また、今後の地租収入の増大は耕地の拡大によるとして、耕作の推進と荒蕪地(こうぶ
ち)の開墾を奨励し、灌漑施設や運河、橋や道路などの土木建設工事を行った。彼の在任
はわずか 4 年半であったので、彼は農業政策の成果は見ることはできなかったが、その農
業政策はその後のムスリム王権によって継続して展開された。彼がその基礎をすえたこと
は確かであった。 ギャースッディーンの次の次にスルタンとなったフィールーズは、できるだけ戦争(遠
征)をおさえて、農業の灌漑施設の建設などを積極的に行った。 農業生産力の増大と商業・取引の発展を民生安定の鍵であると考えたフィールーズは、
しばしば飢饉に襲われた東パンジャーブとデリーの地域に 5 つの灌漑用の運河を建設し、
広大な耕地を開墾した。ラジーワー運河とウルグ・ハーニー運河はとりわけ重要で、東パ
ンジャーブからデリーに至る広大な地域を耕地に変えた。 この他にも灌漑用として、50 のダムと 30 の貯水池を建設し、灌漑と旅人用の井戸の掘削
も 150 を数えた。また、ドアーブ地域だけでも 52 の入植地が開かれた。フィールーズは多
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
数の果樹園をもち、デリー近辺だけでもその数は 1200 ヶ所に達し、その果物は市場をにぎ
わし国庫に多額の収入をもたらした。 フィールーズは「灌漑スルタン」であると同時に、インド史でも有数の公共土木建設者
でもあった。彼は多数の町や村、宮殿(離宮)、モスク、墓廟、学校(マドラサ)、病院、
旅宿、公共井戸、公衆沐浴場、橋などを建設し、数多くの補修工事も行った。灌漑耕地の
拡大と農業の発展、課税の軽減と物品税の廃止、大土木建設工事による雇用の拡大と職人
と職種の多様化、所得の増大などで民衆の購買力は増大し、この王朝に経済的繁栄をもた
らした。 1388 年にフィールーズが死去すると、後継者に凡庸な人物が続いたことと王朝内部で貴
族の反乱、自立が相次ぎ、王朝は衰退してしまった。 そのようなとき、1398 年末に、サマルカンドのティムールがかねがね耳にしていた「イ
ンドの富」を略奪するために来襲してきた。1398 年 12 月 17 日、デリー郊外でスルタン、
マフムードのデリー軍を一蹴して、翌日デリーを占領した。戦いの前には宿営地にいたヒ
ンドウーの捕虜 10 万人を足手まといとして虐殺したティムール軍によって、こんどはデリ
ーが恐ろしい破壊と略奪、虐殺の巷と化した。 ティムールは翌年の 1 月 1 日、膨大な戦利品を得て、多数の捕虜を連れてサマルカンド
へ向かった。帰路もまた往路と同様に略奪と破壊の限りを尽くし、デリーは山なす死体で
空気が汚染し疫病が発生した。デリーとその近辺の食糧難は飢餓となって人々を襲い、デ
リーの人口は激減した。 その上、1414 年初め、デリーはティムール配下のパンジャーブのヒルズ・ハーンに包囲
され降伏して、サイイド朝が始まった。 ◇サイイド朝(1414~1451 年) 1405 年、ティムールは明遠征の途上、中央アジアのオトラルで亡くなったため、1414 年、
ティムールの武将であったヒルズ・ハーンがデリーを占領し建国したのがサイイド朝であ
った。サイイド朝とは、ヒルズ・ハーンが「サイイド」、すなわち、ムハンマドの子孫で
あると称したことに由来している。 サイイド朝は、デリーから半径 320 キロ程度の地域を支配下に過ぎなかったが、周囲か
ら領土を脅かされ、ヒルズ・ハーンは心休まる間もなく、1421 年に疲労困憊して死亡した。 1451 年の 4 代目スルタンのとき、マールワー王国にデリーが攻撃され、サイイド朝は滅
亡し、ロディー朝にとって代わられた。 《ロディー朝(1451~1526 年)》 1139
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
初代のバフロール・ロディー(在位:1451~89 年)は、アフガン人の有力者の一人であ
ったが、マールワー王国の攻撃でサイイド朝が崩壊したのを契機に、時の宰相を投獄・殺
害し、1451 年、スルタンとして即位して、アフガン系のロディー朝を建てた。 1517 年にスルタンとなったイブラヒム・ロディー(在位:1517~26 年)は、弟の反乱を
契機にひたすらスルタン権力の専制化を推進し、貴族たちの言動にいささかでも不信を感
ずれば有無を言わさず弾圧した。このため、イブラヒムの叔父やロディー貴族は、ついに
カブールに後のムガル皇帝バーブルを訪ね、イブラヒム打倒への協力を求めた。 1526 年 4 月、バーブルとイブラヒムは、パーニーパット近郊で激突した(パーニーパッ
トの戦い。図 12-67-③参照)。まず、バーブル軍は、1 万 2000 という兵力でインダス川
を渡河した。イブラヒム・ロディーは、10 万の兵と 1000 頭の象を率いていたという。勝負
をつけようと前進するロディー軍に対し、バーブル軍の鉄砲隊が全面から、いっせい射撃
を行なった。スルタン、イブラヒムは、象軍を使うこともできず戦死した(織田信長の長
篠の戦いの 50 年前だった)。1 万 5000 人以上がこの戦闘で殺されたと推定されている。 ここにロディー朝は滅亡した。デリーとアーグラはバーブルの支配下に入り、ムガル帝
国のインド支配の足固めがなされることになった(ムガル帝国は近世の歴史に記す)。 ○15 世紀のムスリム地方王朝 以上はデリーを中心としたデリー・スルタン朝を述べたが、15 世紀初頭、ティムールの
侵入後のトウグルク朝の廃墟の各地には、トウグルク朝の州総督たちがスルタンを称して独
立した地方王朝やヒンドウーのラージプートの小王朝が簇生していた。なかでもムスリムの
地方諸王朝は、各地にイスラムを浸透させるのに貢献したのみならず、ラージプートの豪
族や小王朝と同盟したり、またヒンドウーを貴族として登用したりするなど、後にムガル皇
帝アクバルによって展開されるムスリムと非ムスリム共生の政策への地ならしとなったと
いう点で歴史的に重要である。 そのようなムスリム地方王朝としては、バフマニー朝、ジャウンプル王国、マールワー
王国、グジャラート王朝、アーディル・シャーヒー王朝などがあったが、ここでは省略す
る。 【12-4】中国と北方の周辺国家 中世の中国は、図 12-3 のように(青色が漢民族系、黄緑が北方民族系)、北方の遊牧民
国家の南方へのはりだしがだんだん強くなり、南北の力関係で歴史が動かされていった面
もあった。 【12-4-1】隋王朝(581~618 年) 1140
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
北朝の北周では、581 年に武川鎮(ぶせんちん)出身の軍閥、楊堅(ようけん)が外戚の
立場で実権を握り、わずか 9 歳の静帝から禅譲されて、文帝となり隋王朝(581~618 年)
を開いたところまで古代の中国で述べた(図 12-69 参照)。 図 12-69 隋の中国統一(7世紀前半の中国) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 ○科挙の採用 隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時
に九品官人法(きゅうひんかんじんほう。九品中正法ともいう。中正官が人材を地方から
推薦するやり方)を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。この科挙は貴族や
地方豪族の世襲的任官ではなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するというきわ
めて開明的な手段であり、これをもって官吏任命権を皇帝のもとへ取り返すことを狙った
ものであった。 これによって、今まで貴族が家柄によって官職につくことのできる特権を保証してきた
九品官人法は廃止された。この文帝による行政改革と科挙の成立は、旧来の貴族たちの行
き方に変化をもとめるものだった。もはや家柄を誇るだけでは、没落への道を静かに待つ
ほかはない時世となった。 この官吏登用試験は、世界史的にみても画期的なことであった。この制度は、途中、手
直しを受けたことはあったが、20 世紀初頭の清末に廃止されるまで 1300 年にわたって、中
1141
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
国社会を特色づけるものとなった。ヨーロッパで最も先進・民主的といわれるイギリスでも、
自由競争を原則とする文官試験制度が一般に採用されるにいたるのは 1870 年以後のことで
あり、そのきっかけは中国の科挙であったといわれている。日本の国家公務員試験のモデ
ルも中国の科挙であった。 このように文帝によって整備された諸制度はほとんどが後に唐に受け継がれ、唐 300 年
の礎となった。これらの文帝の治世をその元号を取って「開皇の治」と呼ぶ。 ○新都(大興城)の建設 文帝は、582 年にこれまでの前漢から北周までの都だった長安城を捨て去って、その東南
にあたる竜首原(りゅうしゅげん)の地にまったく別の新都を建造し、大興城と名づけた。
都城全体の規模は、東西 9721 メートル、南北 8651 メートル、周囲の長さは 36.7 キロあっ
た。宮城の南に幅 220 メートルの広場をへだてて周囲 9.2 キロの官庁街があった。この大
興城と名づけられた新しい長安城が次の唐王朝に引き継がれ、日本の平城京・平安京などの
都市計画の模範となった(図 12-50 参照)。 この大興城とよばれた長安城に建てられた仏寺は 52、道観は 7、つぎの唐代の 722 年に
は僧寺 64、尼寺 27、道観 10 となっており、そのほかにもネストリウス派キリスト教やゾ
ロアスター教の礼拝所が建立されて、宗教都市さながらの景観を呈することになった。 ○大運河の建設 京杭大運河(けいこうだいうんが)は、図 12-70 のように、中国の北京から杭州までを
結ぶ、総延長 2500 キロメートルに及ぶ大運河である。途中で、黄河と長江を横断している。
戦国時代より部分的には開削されてきたが、文帝は、南北問題を解決するために 587 年に
淮水と長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開鑿(かいさく)し、そのあと 2 代皇帝煬帝が 605
年より再び大運河の工事をはじめた。 1142
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-70 隋の運河 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 まず初めに黄河と淮河(わいが)を結ぶ通済渠(つうせいきょ)が作られ、続いて黄河
と天津を結ぶ永済渠(えいせいきょ)、そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河
北から浙江へとつながる大運河が 610 年に完成した。 通済渠の工事には 100 万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて 5 ヶ月で完成した
という。これによって、後の人から暴政と非難された。そのため、大運河の建設に多くの
人々を動員して苦しめたことを隋朝打倒の大義名分の一つとして建国したのが唐王朝であ
ったが、唐王朝こそが実は大運河からの最大の受益者であった。 大運河の建造は南北の統一を確かなものとし、江南の物産を河北にもたらした。地元の
生産力では支えきれなくなった首都長安の食糧事情を安定させることができたのも、実は
大運河による物資の運送能力によるところが大きかった。運河によって政治の中心地華北
と経済の中心地江南、さらに軍事上の要地涿郡(たくぐん。現在の北京)が結合されて、
中国統一の基盤が整備された。大運河が開通したことによって、経済的に優越していた南
が北と連結し、中国全体の流通が高まった。 この煬帝によって開通された大運河は、のちに明代になって水路の一部がずっと東寄り
にかえられただけで、現代まで引き続いて活用されている。その経済的・文化的・政治的
な影響ははかり知れないものがあった。まさに天下 100 年の計どころか 1500 年の計であっ
たといえよう。 ○中国の再統一 1143
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
589 年正月、文帝は長江中流の後梁政権を直轄地とし、ここから水陸両軍を発進させて南
朝の陳を奇襲した。陳の都・建康はあっけなく陥落し、陳は滅亡した。ここに西晋滅亡以
来、273 年、黄巾の乱以来と考えると実に 405 年の長きにわたった分裂時代が終結し、図
12-69 のように、中国は隋王朝によって再統一された。 ○第 2 代皇帝・煬帝と隋の滅亡 文帝が 604 年に没すると後を継いだ次男の煬帝(ようだい。在位:604~18 年)は、対外
政策でも積極策をとった。即位した直後の 605 年に南ベトナムの林邑(りんゆう)に向か
って軍をおこした。そのころはベトナム北部まで中国領で交州といい、そのベトナム南部
が林邑と称する独立国であった。隋は陸軍と海軍の共同作戦でその都を占領し、隋の朝貢
国にした。 607 年には東南アジアの赤土国(せきどこく)に使者を派遣した。この赤土国の位置につ
いては、諸説があって一定しない。同年、煬帝は琉求国(りゅうきゅうこく)にも、使者
を派遣し朝貢をすすめた。日本の小野妹子たちの遣隋使は東都の洛陽において煬帝に謁見
している。 煬帝は、西域方面にも勢力をのばした。そのころ青海地方から吐谷渾(とよくこん。鮮
卑から分かれた部族で 4 世紀から 8 世紀まで青海一帯で栄えたが、チベット系の吐蕃に滅
ぼされた)というチベット系の遊牧民族がおこって、しきりに東西の交通をおびやかして
いた。裴矩(はいく)を西域地方に派遣して外国商人を誘致するとともに、609 年に自ら軍
を率いて吐谷渾を撃ち、その勢力を弱め、西域への交通路を確保することに成功した。 煬帝は吐谷渾征伐の帰途、涼州武威郡(現在の甘粛省武威市)に行幸した。砂漠の中のオ
アシス国家、高昌(こうしょう)など 27 ヶ国の使者が煬帝に拝謁するという盛観を呈した。
このころが隋の最盛期であった。 東都洛陽城には 103 の坊里と 3 つの市があり、なかでも豊都市は周囲 8 里、四面に 12 の
門が開かれ、市のなかに 120 の同業組合があり、3000 余の店舗がひしめいて、各地からの
商人が集まっていた。煬帝は商人たちの希望をききいれて、610 年正月、豊都市で国際見本
市を開催した。これは大運河によって東洋と西洋を結ぶ陸のシルク・ロードと海のシルク・
ロードが初めて結ばれた成果であった。 煬帝が外交上、最もてこずったのは高句麗であり、結局、これが命取りになった。平壌
にみやこする高句麗は、三韓のなかでは随一の大国であり、南の新羅と百済に圧迫を加え
ていた。611 年、大運河の永済渠が開通するのを待って、全国の兵に動員令を下した。南方
の物資をはこばせて、江都揚州から大運河を利用して北上した煬帝は、翌年正月、100 万を
こす大軍をひきいて親征した。この第 1 回高句麗戦争は、遼東城(遼寧省遼陽市)で前進
がはばまれ、退却のさいに莫大な損害をこうむって帰還した。 1144
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
敗戦の報が伝わると、中国各地に反乱が起こったが、煬帝はそのような情勢を無視して、
翌 613 年第 2 回高句麗親征を行った。隋軍が遼東城下に迫っていたときに、背後の兵站基
地の総司令の楊玄感が謀反をおこした。煬帝は直ちに引き返し反乱を鎮圧した。 しかし、こりない煬帝は、翌年第 3 回目の親征をしたが、今度は軍中に飢餓と悪疫が起
こって混乱におちいった。そのうえ国内のいたるところに反乱が続き、なかには王号を称
えるものも多くなったので、高句麗の名目的な降伏で兵をおさめて引き上げざるをえなか
った。 帰ってみると、もはや国内は手がつけられなくなっていた。煬帝が大運河の建設などの
大土木工事で課した過酷な労働と、3 回にわたる高句麗親征の失敗は、急速に民衆の支持を
失わせてしまった。知られるだけでも大小 200 を超す反乱が、全国にとめどなく起こり、
その規模と激しさは、2 世紀末の黄巾の乱を凌駕した。 各地で蜂起した群雄のうちに、李淵(りえん)と李世民の父子がいた。この李氏は、武
川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)のなかの家格では、隋王室の楊氏よりも上位であった。
煬帝が長安を放棄して江都の離宮に逃避したとの報に接した李淵らは、617 年、北方民族に
対する前線基地の晋陽(山西省太原市)で旗揚げし(李淵は隋の太原留守であった)、み
やこの長安に無血入城した。 李淵は、煬帝を太上皇に祭り上げて長安に残っていた煬帝の子、13 歳の楊侑(ようゆう。
恭帝、在位:617~18 年))を即位させて傀儡政権とした。 大運河を南下した煬帝は江都揚州の離宮で酒に溺れ耳をふさいでいたが、618 年、これに
不満をもった近衛軍団に殺害された。煬帝の死の報が伝わると、李淵は慎重に長安の人心
が隋を去ったのを見極めた上で、恭帝にせまって禅譲させ、帝位についた。 【12-4-2】唐王朝 こうして隋に代わって、中国を支配したのが、唐王朝(618~907 年。図 12-71 参照)で
あり、李淵は唐の高祖(こうそ)となった。建国の時点では、依然として中国の各地に隋
末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。 勲功を立てた李世民は、626 年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建成を殺
害し実権を握った(玄武門の変)。高祖はその後退位して、李世民が第 2 代の皇帝(太宗)
となった。 ○律令制の完成 唐は基本的に隋の支配システムを受け継ぎ、太宗は租庸調制を整備し、律令制を完成さ
せた。3 省 6 部の官僚制、税制は北周以来の均田制・租庸調制、兵制は府兵制など国家の骨
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
格をなすようなことは令によって規定されるもので、このような律令を中心の柱として成
り立つ国家体制を律令制と呼んでいる。 唐律令は何度か変更され、玄宗皇帝の 737 年(開元 25 年)にはほぼ完成をみた。この律
令を開元 25 年律令と呼んでおり、後世の律令の手本とされた。 図 12-71 唐の中国統一(7 世紀後半~8 世紀初の中国) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資
料』 太宗は、図 12-71 のように、北方の強国突厥を降してモンゴル高原を羈縻支配(きびし
はい)下に置いた。覊縻とは、特に中国に近い友好的な国王・首長を選び、都督・刺史・
県令などに任じ、彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における官吏である
という名目で行使させたものである。
唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第 3 代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征
伐(唐の高句麗出兵)が成功し、図 12-71 のように、唐の領域は朝鮮から西域までに拡大
し、国勢は最初の絶頂期を迎えた。
○武則天の武周
しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后(武則天)とその一族の武氏によ
る専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子とし
て相次いで改廃した後、ついに 690 年政権を簒奪(さんだつ)し、中国史上唯一の女帝に
1146
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
即位し、国号を周としたが(武周)、705 年 1 月、則天皇帝は譲位を迫られ、中宗が復位し、
国号も唐に復することになった。周は一代 15 年で滅亡した。
○玄宗の時代 712 年に玄宗(在位:712~756 年)は唐を再興させて国内の安定を目指し、彼の前半の
治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。 このころ唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。
長安は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、ゾロ
アスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も唐時
代の詩は最高のものとされる。 しかし、唐の時代に、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統
治に失敗したため、辺境に強大な軍事力を持った節度使を置く必要がでてきた。この節度
使は 710 年の河西節度使の設置を初めとして、当初はあくまで国境警備のためのものであ
り、辺境地域にしか置かれていなかったが、そのうち、節度使は軍権以外にも、後に民政
権・財政権など過度の権力を持たせることになった。玄宗のときに増やされ 10 の節度使が
設置された。 開元の年号が 29 年で終わりを告げ、742 年に天宝(てんぽう)と改元されたとき、玄宗
は 60 歳に近く、いつしか遊惰安逸に流れ、奢侈を好む凡庸な君主に成り下がっていた。玄
宗の息子(皇太子)の妃となっていた楊玉環を女冠としたうえで宮中に召しだし貴妃(きひ)
の称号を与えて溺愛しはじめたのは、745 年のことであった。それ以後、楊貴妃の一族はみ
な高位にのぼった。政治の実権は楊貴妃の従兄楊国忠が掌握した。 ○安史の乱(755~63 年)と唐の衰退 西域の出身の安禄山は貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、玄宗から信任され、
さらに玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、北方の辺境地域(現在の北京周辺)の 3 つ
の節度使を兼任して実力を蓄えていたが、宰相となった楊国忠(楊貴妃の従兄)との対立
が深刻化し、ついにその身に危険が迫ると、安禄山は楊国忠を誅除(ちゅうじょ)するこ
とを標榜して 755 年についに挙兵した。 安禄山の反乱軍は、たちまち洛陽を陥落させ長安に迫った。玄宗はあわてふためいて西
方に逃れ、蜀(四川省成都市)をめざして都落ちした。玄宗は蜀への途中、兵士の要求に
屈して、愛妃の楊貴妃と宰相の楊国忠を殺さざるをえなかった。 唐は名将郭子儀らの活躍やウイグルの援軍によって、763 年に辛うじて乱を鎮圧した。9
年に及んだこの反乱は、安禄山と彼の死後、部下の史思明(ししめい)が引き続き指導し、
安史の乱(755~63 年)と呼ばれる。 1147
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
安史の乱は中国社会に大きな災禍をもたらした。社会の安定度をはかるバロメーターが、
登録人口の多少で示されるとすれば、玄宗治世の 754 年が 907 万戸、人口数 5288 万人に達
していたが、安史の乱が終わった翌年の登録戸口数は、わずか 293 万戸、人口数 1692 万人
に過ぎず、10 年前の 3 分の 1 になってしまった(死亡したというのではなく,流民化した
ということであろう)。いかに中国中が混乱に陥ったかがわかる。 安史の乱鎮圧に助力してもらったウイグルに対し莫大な報酬を与えなけらばならなかっ
た。反乱軍の将軍を味方に引き入れるため節度使に任命していった結果、辺境だけでなく
本国内にまで節度使が置かれるようになった。これらの地方の節度使は、乱の後も領域の
税をとり、それで兵を養ったので小王に等しい権力を保持し続けた。このため、さらに各
地で土地の私有(荘園)が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。
唐は交易でも他国に主導権を奪われて多くの財貨が流出し、大幅な貿易赤字となり、唐
の財政は悪化した。安史の乱は唐の国防力をいちじるしく低下させた。吐蕃(図 12-71 参
照)は安史の乱の混乱に乗じて一時長安を占拠し、西域の交易圏は完全に失われた。結局
政府は土地の私有を認めざるを得なくなり、律令制度は崩壊した。
○黄巣の乱 地方では軍閥がはびこる 9 世紀の後半には、農民の逃亡が相次ぎ、各地で軍隊や農民の
反乱が続いた。875 年に山東で起こった黄巣(こうそう)の乱(875~84 年)は、たちまち
全国に広がり、唐朝の支配体制を根底から揺り動かした。この乱のリーダーであった王仙
芝(おうせんし)と黄巣は、ともに塩の密売商人であった。 塩の専売は当時の国家にとってきわめて重要な財源で、財政が悪化すると値が引き上げ
られた。これに対して塩の密売業者が安い値段で売っても巨額の利益が上がり、さらに民
衆からは感謝されて、政府からの取締り官が来ても民衆がかばってくれることが多かった。
唐は財政が傾くにつれ塩の値段を吊り上げたので、黄巣たちと同じような密売業者がたく
さん出て、反乱はまたたくまに規模が大きくなった。 黄巣の乱は、878 年に広州を落とし、880 年には洛陽・長安を陥落させ、皇帝徽宗(きそ
う)は蜀へと逃げた。長安に入った黄巣は国号を斉として、皇帝と称号した。だが、黄巣
軍には政治を取れるものがおらず、ただ略奪を繰り返し、また黄巣自身も唐の高官を大量
に殺害するなどの悪政が目立ち、民心はしだいに離れていった。 このような状態に見切りをつけた黄巣軍の幹部の朱温は蜀の唐政府に寝返り、その後朱
温は唐側として黄巣軍を諸侯軍とともに長安から追い落とした。この戦功で、朱温は、唐
から感謝されて、唐に忠誠を誓う意味である「全忠」の名前を賜り、朱全忠と呼ばれるよ
うになった。また、突厥沙陀部(とっけつさだぞく)出身の李克用(りこくよう)も参戦
したため、黄巣軍は長安を追われ、884 年、黄巣は王満渡の決戦に敗れ、自殺した。 1148
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
一方、朱全忠は汴州(べんしゅう)開封の節度使になり、黄巣に対して共に戦った李克
用と唐朝内部で主導権を争い、この抗争にも勝利し、唐の実権を掌握した。しかし、この
頃の唐は長安一帯を保持するだけの地方政権に過ぎなくなっており、各地には多くの節度
使らが群雄となって割拠していた。 902 年、昭帝は朱全忠の力を借りて宦官勢力を全滅させた。しかし、その昭帝も 904 年、
朱全忠に殺害された。朱全忠は、昭帝の 9 男である 13 歳の哀帝(あいてい。在位:904~07
年)を帝位につけ、禅譲の準備を整えた。905 年、部下の進言によって、唐の高官 30 余人
を白馬駅で処刑し、その遺体を黄河に放棄した。この事件をもって中国における貴族制は
完全に崩壊したと考えられている。 ○唐の滅亡、朱全忠の後梁王朝 907 年 4 月、朱全忠は、唐の哀帝(あいてい)から禅譲され、後梁(こうりょう)王朝(907
~23 年)を開いて太祖(在位:907~12 年)と称した。ここに唐王朝は滅亡した。 汴州(べんしゅう)を開封府(現在の河南省開封市(かいほうし))に昇格させて国都と
し(図 12-72 の図の「後周」の部分)、東都の洛陽を西都としたが、千年の都と称された長
安が、再び首都に返り咲くことはなかった。都が長安の地を去ったことが、衰えつつあっ
た貴族たちに最後の打撃を与えた。なぜなら、唐の貴族たちは、おおむね官僚貴族に化し
ていて、地方に大土地を有する者はまれだったので、唐朝の終焉とともに、南北朝以来の
貴族制社会も崩壊していった。 図 12-72 五代十国時代(10 世紀半ば) 山東の済陰王に降格された哀帝は 908 年に朱全忠によって毒殺された。その朱全忠も後
継者のことで 912 年息子朱友珪に殺害され、その帝位を奪われた。後梁政権の勢力は河南
1149
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。
後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力はもたず、中国は五代十国の分裂時代に入っ
た。 【12-4-3】五代十国(907~960 年) 五代十国時代とは、図 12-3 のように、唐の滅亡から宋の成立までの間の約 50 年間に黄
河流域を中心とした華北を統治した 5 つの王朝(五代、図 12-72 の「後周」の部分)と、
華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代のことである。最
終的には、960 年に宋によって統一された。 この時代には、中国本土が混乱状態になったので、再び北方民族の進出が特徴となった。
五代のうち、後唐、後晋、後漢の支配者は北方系の突厥の出身であり、宋を苦しめた契丹
もモンゴル系の北方民族であった。これら北方民族の進出もふくめて、東アジアの諸勢力
が独自の特色ある国家をつくっていく時期であった。 また、この時期には、唐の後半から五代十国にかけての戦乱の中で、古くからの門閥貴
族は没落し、地方の豪族や商工業者が進出してきた。彼らは農村では地主階級であり、宋
代には科挙を受験して官僚になり、新しい支配階級を形成した(彼らを士大夫(したいふ)
といった)。 ○後梁 唐末期のところで述べたように、唐の朝廷を掌握した軍閥の朱全忠は、907 年に唐の哀帝
に禅譲させて梁を建国した。国号は単に梁であるが南北朝時代の梁と区別するため後世の
歴史家が後梁と読んでいるのである(以下の国名で「後」がつくものもすべて同じ)。都
は開封で領域は黄河流域の華北の山東・河南の地域に限られていた。 朱全忠が唐を滅ぼしたとき、突厥沙陀(さだ)部出身の李克用(りこくよう)ら唐末の
混乱に乗じて地方で自立していた軍閥(節度使など)が後梁の禅譲を認めずに各地で分裂・
自立を始めた。 一方、後梁と対立することを望まない華南の諸国の中には、後梁に対して臣下としての
礼をとる国もあった。 朱全忠の宿敵となった李克用は 895 年には晋王に封ぜられ、山西一帯を制圧する大軍閥
となっていたが 908 年に死去し、後を継いだ息子の李 存勗(りそんきょく)は後梁に対し
て激しく攻撃を仕掛けてきた。後梁の方でも朱全忠の失政・堕落が重なり、次々と領土を奪
われていった。 病床にあった朱全忠は後継者問題でも失敗し、912 年に実子朱友珪に殺され、その朱友珪
は人望を得ず、弟の朱友貞に殺されて帝位を奪われた。しかし、その朱友貞も 923 年に後
1150
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
唐の荘宗(李克用の息子、李 存勗)との戦いに敗れて殺され、後梁は 3 代 16 年で終わっ
た。 ○後唐 李克用は、黄巣の乱での功績により唐朝廷から李姓を授けられたので、その息子李 存勗
(りそんきょく。荘宗)は自ら唐の後継者と称して、唐皇帝を名乗った。後梁を滅ぼした
あと、岐王や前蜀を滅ぼして領土を拡大した。洛陽に遷都し、軍隊に宦官の監察をつける
制度を復活したことから、武将たちの不満を買い、926 年に禁軍(皇帝直轄軍)に殺された。
武将たちは李嗣源(りしげん。明宗)を擁立した。 即位した明宗は宦官の排除・節約などをはかり、全国の土地の検地を行って不公平の是正
に努め、新たな財務機関として「三司使」を創設した。これは唐の律令下で財政を司る尚書
戸部のほか、律令にない新たな使職である度支使と塩鉄使の三者が財政を司るようになっ
ていたが、この三者を統括する存在として 930 年に三司使を設け、財政の最高職とした。
これは宰相・執政に次ぐ重職とされた。この体制は北宋にも引き継がれた。 また、自分のような有力軍人による帝位の奪取を繰り返させないように、直属の軍であ
る侍衛親軍を創設し、禁軍(皇帝直属軍)の強化をはかった。明宗は、五代の中では後周
の世宗に次ぐ名君と称えられている。 しかし明宗は、933 年に在位 7 年で病死し、三男の李従厚がその後を次いだが、すぐに養
子の李従珂(りじゅうか)によって簒奪された。李従珂が帝位に就くと、明宗の女婿で李
従珂と不和であった石敬瑭(せきけいとう)は、自身の駐屯する晋陽で後唐に対する反乱
を起こした。 ○後晋 この時、石敬瑭は自分の権力確立のためには手段を選ばなかった。北の耶律阿保機(や
りつ あぼき)率いる契丹(国号を遼とした。図 12-72 参照)に援軍を要請し、936 年、自
ら帝位について後晋を建国、同年、後晋は遼軍の力を借りて後唐を滅ぼした。この時、石
敬瑭は援軍の見返りに遼に毎年絹 30 万匹を歳幣として贈ることを約束し、その上、図 12
-72 の燕雲十六州を割譲した。 燕雲十六州の燕は燕京(現在の北京)を中心とする河北北部、雲は雲州(現在の大同)
を中心とする山西北部のことで、燕雲とはこの 2 州を中心として万里の長城周辺に位置す
る漢人の定住農耕地帯で、戦略上もきわめて重要な地域であった。その後、この土地の奪
還は五代の諸王朝とそれを継いだ北宋の悲願となったが、宋代には結局奪還は果たされな
かった。このようなこともあり、以後、図 12-3 のように、北方遊牧民の南下が激しくな
り、遼、金、元の時代へとつながることになった。 1151
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
そのような土地を石敬瑭は割譲して、942 年に死んだ。そのあとを甥の石重貴が継いだが、
彼は絹 30 万匹を拒否したので、946 年、遼の二代目耶律 堯骨(やりつ ぎょうこつ。太宗)
は自ら大軍を南下させ、後晋の首都・開封を攻略し、石重貴を捕虜とし、後晋を滅ぼした。 遼はそのまま中国を支配しようとしたが、開封の住民は抵抗した。また遼の本土でも中
国支配に対する反対意見が強く、困難であるとさとった遼の太宗は北へ引き返し、途上で
病死した。 ○後漢 それを見た石敬瑭のもと側近で節度使であった劉知遠(りゅうちえん)は、自らの任地
である晋陽で 947 年に皇帝に即位して後漢を建て、軍を南下させて遼が引き上げた開封を
占領した。しかし劉知遠は翌年に死去し、次男の劉承祐(りゅうしょうゆう)がその後を
継いだ。 劉承祐は幼帝であり、その側近たちは有力者の排除をはかり、次々と軍人たちを誅殺し
ていった。反乱の鎮圧に出ていた枢密使の郭威(かくい)は自らも粛清を免れることは不
可能と感じ兵を挙げ、開封を攻め落とし、劉承祐を殺害し、劉知遠の甥(劉崇の子)劉贇
(りゅうひん)を皇帝に立てたが、間もなく殺害して自ら皇帝として即位し、後周を立て
た(図 12-72 参照)。 ○十国 北の五代のうち四代まで進んだところで、少し時間を戻して南の十国について触れよう。 十国の中で最も強大だったのは、中国でも最も豊かな地帯に拠った呉であった。建国者・
楊行密(ようこうみつ)は群盗から身を興して、揚州一帯を制圧し、一時は北の後梁と互
角に争うほどの勢力を誇った。しかし呉では楊行密の死後は配下の徐温の力が大きくなり
最終的に徐温の養子・徐知誥(じょちこく)によって簒奪され(937 年)、国号は「唐」と
なった。後世の歴史家は、これを南唐と呼んでいる(図 12-72 参照)。 同時期に南の浙江では呉越(ごえつ)が勢力をはった。建国者・銭鏐(せんりゅう)は塩
徒(塩の密売人)から身を興し、浙江一帯を制圧した。強大な南唐と対峙していたので、
常に北の五代諸国に臣従していた。 その他に、図 12-72 のように、西には湖北には荊南、後蜀、湖南には楚、広東には南漢
が割拠していた。 荊南(けいなん。現在の湖北省)は十国の中でも最小の国で、周辺諸国に対して臣従し
て交易の中継点として栄えた。楚は茶の貿易で栄えた国であったが、951 年に南唐に滅ぼさ
れた。 南漢の統治者の劉氏はアラブ系といわれていたが、後期にはその政治も堕落し、宦官政
治へと変質した。 1152
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
四川に割拠した前蜀の建国者・王建はやはり塩徒だったが、ここを制圧し、当地の豊かな
物産をもとに文人の保護や経書の印刷を行うなど文化的施策を行った。前蜀は 925 年に後
唐によって滅ぼされた。その後この地の統治を任された武将・孟知祥(もうちしょう)が自
立して 934 年に後蜀を建てた。 中原の五代王朝は旧唐王朝の 6 割程度を押さえていたが、国内情勢の不安定さに加えて
北には契丹(遼)などの外敵も抱えており、十国の平定に乗り出せる状況ではなく、不安
定な勢力の均衡が保たれていた。しかし、最後の後周が荊南、南唐領の侵攻を始めると、
その均衡は一気に崩壊することになった。 ○後周 ここで五代の五代目の後周の話に返る。 951 年、開封の後漢を攻め落とした郭威(かくい。太祖)は自ら皇帝に即位し、新王朝の
後周を開いた。太祖は内政に積極的に取り組み、刑罰の緩和、自作農の養成、税制の不公
平の是正などの政策を行い、相次ぐ戦乱で荒廃した中原の復興を行った。 954 年、郭威が死去すると、郭威の甥で養子の柴栄(さいえい)が即位し、世宗となった。
世宗は太祖が行った蓄積をもとに唐崩壊以来果たされなかった中国の再統一をめざした。 世宗は五代の中で随一の名君といわれている。世宗がまず行ったことは自立性の強い軍
人たちを抑えることであった。その軍人たちを抑える目的でつくっていた侍衛親軍が強大
化しすぎていたために一旦これを分割して殿前軍を創設し、これを強化して節度使も禁軍
司令官も皇帝に対抗できないようにした。 その兵力をもとに南唐、後蜀、北漢、遼などを攻め、領土の一部を奪い取った。中でも
南唐から奪った土地は塩の産地としてきわめて重要な地域であり、この地をおさえたこと
で南唐の生殺与奪権を掌握することができた。 また、軍事費を捻出するために、廃仏運動を行った。中国の歴史上、激しい廃仏運動は「三
武一宗の法難」といわれているが、その「一宗」がこの世宗のことである。当時は税金逃れの
ために非課税の僧侶になるものも多く、これらから徴税することで大きな収入が見込めた
のである。また当時は貨幣を鋳るための銅が不足していたが、仏像などを鋳潰して再利用
し「周元通宝」という銅銭を鋳造した。 ○宋(北宋)の建国 後周の世宗は南の十国の南唐、後蜀、北漢、遼などを攻め、統一への道を突き進んでい
たが、959 年に遠征から帰る途上で病死した。世宗の後を継いだのは、わずか 7 歳の柴宗訓
(さいそうくん。恭帝)であった。この状況を見た北漢(図 12-72 参照)は遼の後押しを
受けて後周に対して侵攻してきた。 1153
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
これの討伐に出たのが、世宗一の側近であった趙匡胤(ちょうきょうきん)であった。
ところが、幼帝を戴いて遼と戦うことに不安を覚えた軍人達は、途中で趙匡胤(太祖。在
位:960~976 年)を強引に皇帝に擁立した(陳橋の変)。 首都・開封に入った趙匡胤は、960 年、柴宗訓を保護して禅譲を受け、宋(北宋)を建て
た(図 12-73 参照)。 図 12-73 11 世紀の東アジア・中央アジア 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 【12-4-4】北宋(960~1126 年) 960 年、以上のような事情で、趙匡胤は皇帝(太祖。在位:960~976 年)となり、汴京(べ
んけい。のちの開封(かいほう))を都として、宋(北宋)を建てた。汴京(べんけい。
開封)は河南省の省都で、江南と華北を結ぶ大運河が黄河と交わる交通の要衝であった。
後唐をのぞく五代の 4 王朝もここに都をおいていた。 こうして宋が 960 年に中国を再統一したが、図 12-73 のように宋は北方を遼に西方をタ
ングート(西夏)に奪われていて、出発点で唐の時代より(図 12-71 参照)、はるかに小
さかった。はじめから実質、中国は南北朝の状態になっていた。 960 年に趙匡胤が建てた宋は約 300 年続くことになるが、一貫して北に対して劣勢であり、
1127 年に遼に代わった金に首都開封を追われて南遷した後、臨安(杭州)に再興した。そこ
で前半を北宋、後半を南宋として区別しているが、その南宋も金を倒したモンゴル(元)
によって 1279 年に征服されることになる。 【①宋の文治主義】 1154
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
さて、宋(北宋)の太祖(趙匡胤)は自分も軍人出身であったが、軍人が政治を執る五
代の傾向を改めて、「文治主義」を打ち出した。有力軍人が皇帝に取って代わることは五代
を通じて(あるいは、その前の時代にも)何度も行われてきたが、太祖はこのようなこと
が二度と行われないようにするために武断主義(武人政治)から学識のある文人官僚によ
る文治主義(文人政治)への転換を目指した。 自ら就いていた殿前都点検(軍総司令)の地位を廃止して禁軍(皇帝を護衛する軍隊)
の指揮権は皇帝に帰するものとし、軍人には自らの部隊を指揮するだけの権限しか与えな
いことにした。また、地方に強い権限をもっていた節度使(藩鎮)から徐々に権限を奪っ
ていった。 《科挙制度の強化》 さらに軍人にかわる優秀な人材を供給する科挙制度の重要性を大きく高めた。科挙制度
自体は隋の時代に始まったものであるが、武人万能の五代においては科挙合格者の地位は
低かった。太祖はこれに対して重要な職には科挙を通過した者しか就けないようにし、殿
試(でんし。皇帝臨席の下に受ける試験)を実施することで科挙による官僚任命権を皇帝
のものとした。以後、清代までつづく中国の官僚制の基礎をつくった。 太祖は中央集権の確立をはかった。おもな政治機関はすべて皇帝直属とし、皇帝直属の
禁軍(きんぐん。宋の正規軍。本来は近衛軍の意)を強化するなど、皇帝権をいちじるし
く強め、最終的な決定はすべて皇帝がおこなうようになった。しかし、文治主義の採用で、
軍隊の上層部にも文官が任命されるようになり、宋の軍隊そのものは弱体化した。 976 年に太祖が亡くなり、弟の太宗(在位:976~997 年)が兄の事業を受け継ぎ、太祖に
引けをとらない手腕を発揮し、979 年に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。 太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの 10 人前後
から一気に 200 人まで増やし制度の充実をはかった。監察制度を整えることで、それまで
の軍人政治から太祖が志した文治主義へ急速に変換することに成功した。 【②澶淵の盟(せんえんのめい)】 しかし、軍事力の弱体化は北の遊牧民を刺激するようになった。1004 年、西夏と結んだ
契丹(遼)の聖宗は 20 万の大軍を率いて南下してきた。宋・遼の両親征軍は澶州(せんし
ゅう。現在の河南省濮陽市)で膠着状態となり(図 12-73 参照)、和議を成立させた。こ
れを「澶淵の盟(せんえんのめい)」という。 この盟約では、◎国境は現状維持、◎宋は兄、遼は弟の礼とする、◎宋は遼に対して毎
年銀 10 万両と絹 20 万匹を歳幣(さいへい。幣は対等の贈り物の意)として送る、などが
定められた。宋にとって屈辱的な内容であったが、宋は名をとり、遼は実をとったのであ
る。これによって以後 120 年間にわたって両国は平和的関係をつづけた。 1155
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
また、西夏との間でも 1044 年に「慶暦の和議」が結ばれた。それは、◎西夏は皇帝号を止
めて宋に臣として仕える、◎宋から西夏に絹 13 万、銀 5 万、茶 2 万の歳賜が送られる。そ
の他、西夏国王の誕生日などにも下賜され、合計で絹 15 万 3 千、銀 7 万 2 千、茶 3 万とい
うものだった。 しかし西夏側の最大の要求である塩の販売に関しては、宋にとっても塩の専売制度は最
重要な税収であったので、西夏の要求ははねつけられたため、和議がなったとはいえ西夏
方面はその後も不安定であった。 【③江南の開発】 北宋は出発時点から、図 12-73 のように中国北部を遼と西夏が占めていていて、南北朝
の状態になっていたと述べたが、それであるからこそ、南方の江南の開発に力を入れるよ
うになった。 北宋の時代には、江南の開発が進み、華北は小麦の麺食、江南は稲の米食の基本が定着
してきた。唐から宋にかけて江南の米生産は大きく向上した。江南での米増産を可能にし
たのは、集約農業、新品種の導入、治水灌漑技術の発達などであった。 1012 年に真宗の命令で江南地方へ早稲(わせ)である占城稲(せんじょうとう)が移植
され、後に現地種との交配も進められた。占城稲は、チャンパ(現在のベトナム南部)を
原産地とする収穫量の多い早稲(わせ)で、小粒で細長だが虫害や日照りに強い品種の稲
であり、その米は「占城(チャンパ)米」の呼称で知られた。水害・干害・塩害に強い占城
稲は広く普及し、南宋代には水田の 8~9 割がこの占城稲で占められるようになったという。
これと晩稲を組み合わせ二期作、麦と組み合わせて二毛作が行われるようになった。おお
むね占城稲は廉価なために流通に乗せられて庶民の食するところとなった。 また、江南は低湿地帯が多いため、そのままでは栽培が困難であったが、堤防を築いて
灌漑池をつくり、そこに湖やため池の真水を引き込むことで脱塩し、稲作を可能とした。 このような技術進歩で江南の米生産力は増大し、江南の米は華北にも運河で運ばれ、官
僚、都市住民、軍隊の間では米食が一般的になり、消費社会へと転じた。「蘇湖(蘇常)熟
すれば天下足る」という言葉があるが、蘇州、湖州、常州の作物が実れば天下の食を満たせ
るという意味である。華北も江南の米が支えるようになった。 また、この時代には米麦が出来にくい土地でもその地の特産物を作ることで農業の分業
化が進んだ。主なものは油脂類・蝋燭(ろうそく)・野菜類・染料・果実・桑などであった。 【④都市の繁栄】 宋代になると政治都市から、庶民のための商業都市への転換が起きた。その代表が北宋
の首都・開封(かいほう。図 12-73 参照)であった。没落した農民が流れ込んだこともあ
って、当時の開封の人口は 60~70 万人、官吏や兵士も含めると 100 万人にのぼったといわ
1156
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
れる。ここで消費される莫大な量の物資の多くは大運河で江南から運ばれてきたものであ
った。ここに商業が空前の発達をとげ、都市の庶民文化が花開いた。 開封城内では壮大な建築物が並ぶようになった。宮城や官庁といった政府の建物のほか、
民間の建物が非常に目立つようになった。巨大な伽藍をもつ寺院・道観、庶民が親しんだ酒
楼・劇場などであった。酒楼のもっとも大きいものの廊下は端から端まで 100 歩を要したと
いい、その楼閣から宮城を覗き込むことが出来たというから、かなりの大伽藍であったと
思われる。 道路以上に重要な役割を果たしたのが、城内を貫通する運河であった。開封城内は汴河
(べんが。黄河と淮河 (わいが) を結ぶ運河である通済渠 (つうせいきょ))をはじめとし
た 4 本の川が貫通しており、ここからつながる大運河の使用により江南まで行くことがで
きた。この運河を使用して開封で消費される莫大な量の食料が輸送された。 交通は陸路も首都・開封から放射線状に伸びる 8 本の道路など大いに発達したが、むしろ
それより水路が経済的には重要な位置を占めていた。北宋代、華北は江南からの供給をも
って成り立つ消費経済となり、江南からの食糧などを運搬する大運河をはじめとする水路
が大いに発達した。これに応えるために造船が発達し、大きなものでは積載量が 1 万石(500
トン)を超えるものも作られた。また、水位の違う運河を行き来するために互いの水位を
調節する閘門(こうもん)が設けられていた。これら運河を使うことによって全土の 4 分
の 3 に行くことができた。首都・開封はこのような運河を使用することを前提にした都市で
あり、内部を運河が貫通していた。 また、それまで軽視されていた海運技術が大幅に向上し、頑丈なジャンク船が開発され、
朝鮮・日本から東南アジア・インドまでを舞台とした貿易網が発展していった。広州、泉州
(せんしゅう)、明州(明代以後は寧波(にんぽー)と呼ばれた)・臨安(杭州)が貿易
港として栄えた(図 12-73 参照)。貿易港には貿易を監督する市舶司(しはくし)がおか
れた。市舶司は唐代に広州に設置されたが、宋代には各港に設けられた。この時期になる
と江南の経済力は圧倒的になり、華北は消費社会として江南からの食料によって支えられ
るようになった。 この北宋の時代には、強い経済力をもとに文化の華が開き、印刷術による書物の普及・
水墨画の隆盛・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に
一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市
を開くことが出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。しかし、このよ
うな北宋でなぜ、中世のヨーロッパの歴史で述べたイタリアのように市民層が育たなかっ
たかは、やはり謎ではある。 【⑤中国の保守性と淵源】 1157
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○科挙官僚制と新しい支配層・士大夫の発生 いずれにしても平和が戻り、宋の国勢は頂点を迎えた。この頃になると科挙官僚が完全
に政治の主導権を握るようになった。これら科挙に通過したことで権力を握るようになっ
た新しい支配層のことを、それまでの支配層であった貴族に対して士大夫(したいふ)と
呼ぶようになった。これはこれでまた,新しい支配者階級の出現であった。 宋代は歴代で非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ 3 年に 1 回行われ、1 回につき 3~400
人が合格した。科挙に通過した者は、地方で経験を積んだのち、中央に戻って中央の差遣
(さけん。実際の職掌)と寄禄官(官位)が与えられ、京朝官という高級官僚になった。
そしてこの世界でも類を見ない中国の官僚制度は、きびしい試験を突破した高級官僚たち
に、莫大な富をもたらすことを約束していた。この新官僚が国家権力を握り、その役得か
ら、唐末の没落した貴族のあとを埋めていくことになった。 これまでの中国の歴史は初期の段階では基本的に武力がものをいう社会で不安定であっ
た。しかし中国文明の権力構造には、ある段階から強力な安定装置が組み込まれていった
と考えられる。それが官僚システムであった。王朝の交代は何度も起こったが、社会秩序
が完全に崩壊することはめったになかった。それは科挙にもとづく官僚制度が、各政権に
強い継続性をもたらしていたからであると考えられている。 科挙に合格するためには長い受験期間が必要であった。そのため財力がない者には厳し
い制度であったが、そこには一定の競争原理が働いていたことも事実であった。富裕層で
なくとも、科挙にさえ合格すれば栄達の道を歩むことができた。中国文明においては、武
力ではなく、学歴が社会に流動性を与える役割をはたしはじめていた。 ○新しい特権階級となった士大夫(科挙官僚) 科挙は試験の結果のみを基準とするので能力本意といえるが、しかし、これに合格する
ためには長年にわたって勉学のみに集中できる、つまり生業を行わなくても生活できる環
境が必要であり、また書物や入門のための費用などもかかるため、ある程度以上余裕のあ
る階層でなければ合格は不可能な状態であった。そのため科挙合格者の主な供給源は地主・
商人層が中心となった。 このようなことから士大夫には自らの学識を高め、天下国家を自らが背負わんという気
概をもったものが多かったのは確かであった。士大夫の理想像はすべてのことに通暁した
人物であり、たとえどんなに高い技術を持っていてもそれ以外のことを知らない専門家は
軽侮される傾向があった。そのような人材を育てるために、中国の官僚は一つの部署にい
るのは 3 年ほどで期間が過ぎると全く別分野の仕事に転出することを繰り返した。このよ
うな人材であったので、宋代の士大夫は政治家・軍人・文章家・詩人・書家・画家のすべてを兼
ね備えた存在であった。 1158
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
一方で士大夫は地元に帰れば大地主・大商人としての特権階級であり、その下の貧農や佃
戸からの搾取によって富を築き上げていたし、自分の能力(科挙合格)もそのおかげであ
るし、また、自分の子弟・子孫の繁栄もそれにあることが分かっていたので、非常に保守的
になった。官僚初期における地方勤務、その後の中央官僚として、持つことになる大きな
国家的権限と高い能力を自らの新しい特権階級、つまり、大地主、大商人の利益の保護に
全力を尽くすようになった。士大夫が王安石の新法改革の際に徹底的に反対したのはその
ためだった。士大夫は官僚・地主・商人の三位一体であり、けっして改革派ではなかった。 ○失敗した王安石の改革 神宗(在位:1067~1085 年)の時代には、繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出し
てきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと(朋党の禍)、経済
的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などであっ
た。そこで 20 歳の青年皇帝・神宗は赤字に転落した財政の改善、遼・西夏に対する劣位の
挽回などを志し、それを可能にするための国政改革を行うことのできる人材を求めていた。 このとき、神宗のめがねにあったのが、地方で政務実績に定評のあった王安石(おうあ
んせき)であり、神宗は彼を抜擢・登用して国家再建に乗り出した。 まず、王安石(1021~1086 年)とは何者であったか。王安石の父は地方官止まりの官僚
で、王安石の家は家族が多く、豊かでなかった。1042 年、22 歳のときに科挙 4 位で進士と
なった。これほどの人物であれば、科挙合格後すぐに中央へ入って出世街道を進むのが普
通だったが、王安石は家族たちを養うために、とりあえずの実入りがよい地方官のほうを
選んだ。 1058 年、王安石は政治改革を訴える上奏文「万言書」を出して、大きく注目された。こ
の文章が素晴らしかったので、中央でも王安石を賞賛する声は高まっていた。当時すでに
有名人であった司馬光らもこの時期には王安石を賞賛する声を送っていた。 そして、養育係りの韓琦(かんき)から盛んに王安石の評判を聞かされていた神宗は、
1067 年、皇帝になるとすぐ王安石を知江丁寧府(南京の知事)から皇帝の側近である幹林学
士に抜擢し、さらに 1069 年に参知政事(副宰相)に進めた。神宗はその王安石の理念に同
意し彼に全権を与えた。王安石は若手の官僚を集めて制置三司条例司という組織をつくり、
改革を推し進めた。 1069 年 7 月、新法の第 1 弾均輸法が施行された。以下、新法の各内容をまとめて記す。 《農業に関する新法》 ◇青苗法(せいびょうほう)……1069 年 9 月施行。すでに天災による飢饉に対する備えや
貧民の救済のために穀物を蓄えておく恒平倉というものがあったが、運用がまずく蓄えら
れている穀物が無駄に腐っていくことが多かったので、これを利用して農民に対する貸付
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
を行った。毎年、正月と 5 月に貸付を行い、基本は貨幣による貸付(あるいは穀物による
貸付)・穀物による返済(あるいは貨幣による返済)とするが、利息は 3 割。貸付に当たり、
10 戸が集まって 1 保を作り、この間で連帯保証を行うこととした。これの実施のために、
全国の路ごとに提挙常平司を置いた。 ◇募役法(ぼえきほう)……1070 年から開封周辺で運用、1071 年から全国で施行。農民は
政府の雑用(職役)、州の倉庫管理・租税運搬・官の送迎などを課せられていたが、この負
担が非常に重かった。そこで職役を課すかわりにその分を貨幣(これを免役銭という)で
納めさせ、それを使って人を雇い、職役を行わせる。また、もともと職役が免除されてい
た官戸・寺院・道観・坊郭戸(都市住民)・単丁戸(働き手の男性が一人の戸)、未丁戸(子供
しかいない戸)・女戸(女性しかいない戸)などからも助役銭と称して免役銭の半分を徴
収した。 ◇農田水利法……1069 年施行。路ごとに天災などによって破壊された水田・水路・堤防など
を復興し、農業生産の増大を大規模に行った。 ◇淤田法(おでんほう)……農田水利法の中で行われ、河川の汚水を田に引き込み、栄養
豊富な泥を沈殿させて豊かな土地とするものであった。 ◇方田均税法……1072 年施行。田地を測量(検地)しなおし、税額のごまかしや隠し田を
発見するためのものであった。千歩(15.35 メートル)四方を「方」という 1 単位にし、それ
をもとに課税した。 《商業に関する新法》 ◇均輸法(きんゆほう)……1069 年施行。当時、大商人に握られていた物資の運輸を発運
使という役を使うことで政府の統制の下に置き、中央への上供品の回送を行って財政収入
確保の効率化をはかるとともに物価の調整を行う。旧法派の反対により頓挫し、次の市易
法に吸収されることになった。 ◇市易法(しえきほう)……1072 年施行。この法には二つの面があった。一つは均輸法を
受け継いだ物価調整の面。当時、朝廷に収められる物品は有力者と結託した商人が勝手な
価格をつけることが多かった。それに対して価格の査定を政府が定めた行(ギルド)に登
録された商人に任せ、大商人が勝手な価格をつけるのを抑制した。 もう一つが青苗法の商人版で、政府が中小商人や都市市民に対して低利で貸し付けた。
これははじめはうまくいかなかったが、法律が軌道に乗ると、資金が下流層にも回り景気
拡大に大きく貢献した。 《軍事に関する新法》 1160
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
◇保甲法(ほこうほう)……1070 年施行。弱体化した軍隊と郷村制の再編を目的にした法。
10 戸を 1 保、5 保を 1 大保、10 大保を1都保とし、保の中では互いに犯罪監視を行わせ、
犯罪が起きた場合には共同責任とした。保の中で簡単な軍事訓練を行わせ、民兵とした。 ◇保馬法……1072 年施行。それまで政府の牧場で行ってきた馬の飼育を戸 1 つに 1 頭、財
力のある戸には 2 頭ずつ委託飼育した。委託された馬を損なった場合には補償の責任を負
うが、そのかわり委託されている戸には免税があった。 《科挙改革》 ◇1070 年 3 月から開始。それまでの経書の丸暗記、詩と文の作成能力が主要な課題であっ
た科挙試験を、それにかわって経書の内容的理解とそれの現実政治に対する実践を論文に
まとめる能力を問う進士科一本に絞った。 《その他》 ◇倉法……1070 年施行。下級官吏の腐敗を防止するため、従来無給だった彼らに俸給を支
給するかわり、賄賂を取れば厳罰に処することにした。募役法とともに実施することで効
果を発揮した。 《新法・旧法の争い》 今からみてもきわめて現実的な改革であったが、新法が施行され始めた後は、欧陽脩(お
うようしゅう。唐宋八大家の文人の一人)などの元老たち、若手では司馬光、蘇軾(そし
ょく。書家としても著名。蘇轍は弟)などのそうそうたる顔ぶれが猛烈に反対し始めた。
これらの政策は大地主・大商人たちの激しい反発を受けたが、士大夫たちの多くはこの階層
の出身者であったので、政界でも多くの反対者が出た。反対派は新法に対して旧法派と呼
ばれ、この代表的存在が司馬光であった。 多くの反対に対して王安石は容赦せず、1070~1071 年に蘇軾、蘇轍(そてつ)、欧陽脩、
司馬光など多くのものを左遷、引退させ、反対者を排除していき、新法を次々実行してい
った。 なお、余談になるが、司馬光(1019~1086 年)は祖先が西晋の建国者である司馬氏の子
孫という名門で、祖父も父も本人も進士であった。幹林学士であった司馬光は、改革の当
初は賛成であったが、王安石が官僚の既得権を侵して政治の一新をはかるや、直ちに反対
の立場に転じ、枢密院を根城にした旧法派と連携して強硬に反対を主張した。王安石が譲
歩したにもかかわらず、司馬光は新法すべての撤回を要求したため、ついに朝廷から退け
られ、事実上の隠居生活を送ることになった(司馬光はこの隠居時代に『資治通鑑』を著
わした)。 しかし、あまりの反対の多さに王安石に全幅の信頼を置いていたはずの神宗も動揺し始
めた。1074 年は干ばつに見舞われ、飢えた民衆が巷にあふれた。これは「新法に対する天の
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
怒りである」と上奏され、これに乗った皇太后、宦官、官僚の強い反対により神宗も王安石
を解任せざるを得なくなり、王安石は地方へ左遷された。新法派には王安石以外に人材を
欠いており、新法派内部の分裂を招いた。 このころから神宗は親政を志し、改革を継続し続けた。ようやく新法改革の全国実施の
成果が現れ始め、国庫には潤沢な資金が絶えず入ってくるようになった。その金を市易法
の低利融資や雇用対策費用に充てて彼らを徴税層に還流させることで景気もようやく上向
き始め、治安も改善された。国家財政の大幅な好転と政治の安定化に気をよくした神宗は
1080 年から「元豊の改革」に取り組み複雑な二重官制を一元化した。これによって、官僚機
構の煩雑化の回避・人件費削減ということもようやく解決に向かった。 王安石がいなくても新法(構造改革)は継続され、このまま定着するかに思われていた
1085 年 3 月、神宗が 38 歳の若さで崩御した。 1085 年、神宗の死後、その子、まだ 10 歳の哲宗(てつそう。在位:1085~1100 年)が第
7 代皇帝となり、少年皇帝に代わって政権を執ることになったのが、英宗の皇后であった宣
仁太后(せんじんたいこう)高氏であった。宣仁太后は実家が新法の被害を受けていたこ
ともあり、新法を非常に憎んでいた。そこで宣仁太后は司馬光をはじめとした旧法派を呼
び寄せ、司馬光を宰相とし、保甲法、市易法、方田法を相次いで廃止した。 翌年に残っていた新法派をすべて追放して、青苗法、募役法も廃止した。この募役法の
廃止を江寧(現在の江蘇省南京市)で聞いた王安石は悲嘆にくれて、4 月に亡くなったとい
われている。旧法派の蘇軾などは募役法のように良いものは残そうと主張し、廃止に反対
したが、司馬光の不快を買い、蘇軾は再び中央からしりぞけられた。結局、神宗以来 20 年
余りに実施された新法は全廃され、新法実施以前の政策に回帰する政策転換が行われた。 このように、いつの時代にも改革をつぶすのは、既得権益に安住している支配者階級で
あることがわかる。王安石は青苗法・募役法などの新法と呼ばれるアイデアにあふれた画
期的な政策を行い、中小農民の保護・生産の拡大・軍事力の強化などをはかったが、その
新法は、それまでの兼併(大地主)・大商人勢力の利益を大きく損ねるものであり、兼併を
出身母体としていた士大夫層、つまり官僚層の強い反発を受けて結局頓挫してしまうこと
になった。 現代日本語では「官吏」とひとくくりにされているが、北宋時代には官とは科挙を通過し
た官僚を指し、吏はその官僚の下にあって諸事にあたる実務者集団をさしていた。この時
代のある州では官が 15 人に対して胥吏(しょり)は 466 人であり、胥吏なしでは行政は全
く動かないものであった。この中国の胥吏(しょり)制度は、胥吏は徭役がもとであるか
ら基本的には無給であり、収入は手数料と称した詐取・搾取によっていた。 1162
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
たとえば、王安石は「吏に給料を支給するかわりに収奪を止めさせよう」としたが、(胥
吏を含めて)大きな反対を受けて頓挫した(薄給をもらうより、従来どおりの方が実入り
が多かったからであろう)。官僚改革はいつの時代でも困難であるが、王安石のこのよう
な改革ですら出来なかった。官吏の「吏」は支配層の底辺で甘い汁を吸っていたのである。
これは清朝の終わり 20 世紀初めまで続いたといわれている。 ○保守性の強い儒教 中国の官僚は国内で最も優秀なグループであり、権力をもった役人であると同時に、儒
教の教えをもっともよく知る「学者」であり(科挙の受験勉強で徹底的にたたき込まれて
いた)、また生活のゆとりがあるので芸術においても指導的な役割をはたす「文化人」で
もあった。 中国ではおそらくイスラム世界をのぞく(イスラム世界は国家そのものがイスラム教の
教えと一致した祭政一致)世界では最も特定の教義(儒教)が深く国家運営の中枢に組み
込まれることになった。そして中国の官僚たちは、ヨーロッパのキリスト教の聖職者にも
似た倫理的(儒教的)な行動をとることを求められるようになった。 官僚制度の基盤である儒教は、きわめて保守性の強い教えであり(孔子の思想は必ずし
もそうではなかった)、行政の主な目的は既成の秩序を維持することと考えられていた。
中国で、統治に際して何より優先されたのは、多様性にとんだ広大な帝国(多くの地方行
政官は担当地域に言語の異なる人民をかかえていた)に一定の基準を普及させて、帝国全
土に秩序をもたらすことであった。こうした保守的な目標を達成するにあたって、中国の
官僚制度は実にうまく成功し、その基本的な性格はあらゆる王朝の危機を乗りこえ、その
まま生きのびていったのである。 ○宋代まで進歩的だった中国社会 しかし、この儒教による保守的な官僚制度が中国に徹底し始めた宋代以降、中国の進歩
を止めたのではないかとも考えられている。 古代から宋までの中国は、いろいろな点で世界をリードしていた。唐で発達した木版印
刷(金属活字は高麗の銅活字が最古)が普及し、11 世紀に火薬の製法が知られ、12 世紀に
は羅針盤が発明された。この印刷術・火薬・羅針盤を宋代の三大発明といい、これに漢代
に発明された製紙法を加えて四大発明という。イスラム世界やヨーロッパに伝わり、ルネ
サンスなどに影響を与えた。 さらに宋代は科学技術が前代と比べ著しく発展した。木版印刷が盛んとなり、経典、史
書、個人の文集のほか、医学・薬学・数学等の科学書もつぎつぎに出版され、知識の普及・水
準の向上に貢献した。その他、農業、流通などあらゆる分野で 10~11 世紀ごろまでは、ヨ
ーロッパはもちろん、イスラムの世界よりも進んでいたようである。 1163
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○停滞してしまった中国社会 ところが、印刷術の進歩にもかかわらず、中国の民衆は 20 世紀にいたるまで、ほとんど
読み書きができなかった。また中国の大都市は経済成長をとげ、活発な商業活動を展開し
ていたにもかかわらず、ヨーロッパのように民主的または自由主義的な市民社会を生み出
さなかった。 紀元前の戦国時代に諸子百家と呼ばれるさまざまな新しい思想が開花していたのである
から(古代ギリシャと同じような状況にあったはずである)、素質はあったはずであるが、
その後の中国文明は、ヨーロッパのような啓蒙思想を生み出すこともなかった(ヨーロッ
パが動き出すのも 16 世紀以降のルネサンス、宗教改革以降ではあるが)。 前述したように技術分野でも大きな進歩が起こっていたものの、それが社会に革命的な
進歩をもたらすこともなかった。中国では紀元前 2 千年紀にはすでに青銅器の傑作が生み
出され、またヨーロッパよりも 1500 年も早く鉄の鋳造が行われ(製鉄技術そのものはヒッ
タイトが中国より 2000 年早かった)、多量の鉄を製造していた。しかし、こうしたすぐれ
た冶金術の伝統は、新たな技術の開発に向かうことはなかった。 13 世紀に元王朝をおとずれていたマルコ・ポーロは石炭が燃料になっているのを見てい
た。中国は石炭も鉄もヨーロッパよりはるかに早く産出し利用していたが、蒸気機関が誕
生することはなかった。 宋王朝の時代の船乗りたちは、すでに羅針盤を使用していた。15 世紀の明王朝の武将で
ある鄭和は 7 度の大航海を行って、ペルシア湾から東アフリカなどに艦隊を派遣していた
が、これを最後に遠洋航海は禁止された。ヨーロッパ諸国より 70 年も早く大航海時代を実
現させる能力はあったはずであるが。 ○中国文明がめざすもの=社会の安定性=官僚支配者階層の維持 これらをすべて保守的な官僚制度のせいであるとするのは酷であるが、中国文明は進歩
ではなく、何か別の目標を達成しようとしたのではないかと考えられている。それは継続
性、つまり、社会の安定の維持こそが(それは官僚支配者階層の維持でもあった)、中国
文明がめざした最大の価値であったと思われる。 儒教の思想を中心として、早い時代に確立された官僚制度も社会体制も、社会に変革を
起こさないことを最も大きな目的として生み出されたものだったと考えられている。官僚
制は基本的に改革、変革を忌み嫌う組織である(支配者階級は官僚を含めて現在の支配体
制をできるだけ長く維持することにもっとも価値を置く、それは自分たちがいつまでも支
配者階級でいられるからである。人間がもつ支配欲、統治欲という欲望をもっとも容易に
継続的に満たしてくれるのが官僚制度であったともいえる。このことは、前述したイスラ
ムの世界にも同じことがいえる。イスラム世界も 7 世紀に書かれたコーランから逸脱を許
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
さない祭政一致の世界である。これで一番メリットをうけるのは支配者階層とウラマー層
である。ヒンドウー教でいえば、バラモン層である。祭政一致の古代エジプトの王朝は 3000
年も続いたことは述べた。つまり、人間の本質で述べた安定的に末永く「支配したい」とい
う欲求を満たしてくれるのが官僚制度である)。 中世の前期までは中国は世界でもっとも進んだ社会であったようだが(中世の後期はイ
スラム世界が進み、近世のルネサンス・啓蒙思想以後は西欧がもっとも進んだようだ)、
その後は停滞するようになった。つまり、人間の自由な発想を許さない社会は停滞すると
いう当たり前のことを示していると言えよう。 【⑥靖康(せいこう)の変と北宋の滅亡】 宋の改革が失敗すれば、あとは衰退し滅亡があるのみである。 遼の北方にいた女真族が阿骨打(あこつだ)のもとで伸張し、遼はその攻撃を受けるよ
うになった。そして、阿骨打は女真族をまとめて 1115 年に金を建てた。 この伸張ぶりに着目した宋政府は金と結んで遼を攻めれば国初以来の遼に対する屈辱を
晴らすことが出来るのではないかと考えた。そこで金に使者を送り、1120 年に金とともに
遼を挟撃することを約束した(「海上の盟」)。 ところが、1120 年、江南で方臘(ほうこう)の乱が起き、宋はこの戦線に禁軍を割いた
ことにより、金と密約(海上の盟)した遼を南北から攻めるという作戦に出遅れてしまっ
た。1121 年、金軍は簡単に遼を撃破したが、宋軍は出遅れ、かつ、弱体化していたことも
あって、燕京(現在の北京)にこもる遼軍に敗北してしまった。宋軍の総帥・童貫は独力
での燕京攻略は不可能と判断し金に燕京攻略を依頼した。 1125 年、阿骨打軍は直ちに南下して燕京を落とし、海上の盟を守って、燕京を引き渡し
て引き上げた。ただし、燕京の住民、財産の略奪を行い、北宋政府には必要経費に数倍す
る戦費、銀 20 万両、絹 30 万両、銭 100 万貫、軍糧 20 万石を要求してきた。北宋はこれを
受諾せざるを得なかった。 1125 年、大きな対価を払って、このように燕雲 16 州の一部奪還に成功した宋朝は、金に
占領されている残りの州(もともと海上の盟でも金領になることになっていたところ)の
奪還を計画し、今度は、遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。しかし、この
陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ金の太宗は宋に対して出兵する事態になった。 事態が悪化し、徽宗(きそう。在位:1100~1125 年)はようやく自らの犯した過ちを理解
し、取り巻きたちを完全に追放し、自らは「己を罪する詔」を発して退位し、帝位を長男
の第 9 代欽宗(きんそう。在位:1125~1127 年)に譲った。 1165
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
しかし、すべてが遅すぎた。金軍は総攻撃を命じた。40 日間余りの攻防戦の結果、つい
に 1126 年 11 月、開封が陥落した。この年が靖康元年であったので、これを「靖康(せい
こう)の変」と呼んでいる。 金は徽宗・欽宗以下の王族と官僚など数千人を捕らえて満州へ連行した。彼らはそこで悲
惨な自活の虜囚生活を送り、骨を埋めることになった。こうして宋はいったん滅亡したが、
この変の際、都にいなかった欽宗の弟の趙構が江南に逃れて即位し、南宋がはじまった。 【12-4-5】中世の北方国家の興亡(遼、西夏を含む) 北宋についで、北方にかまえている遼と西夏について述べるつもりであるが、その前に
北方に興亡した草原国家について、さかのぼって述べることにする。 ユーラシア大陸には、図 11-73、図 12-3 のように紀元前から、スキタイ、匈奴、鮮卑
などが遊牧国家を形成してきたことは述べた。彼らは農耕国家とは形態が異なる。中国政
権の強弱によって南下、拡大や北上、縮小を繰り返してきたことも述べた。ユーラシア大
陸は、陸続きであったので(国境がはっきりしてしていなかった)、中国方面だけでなく、
遠く西方のヨーロッパや中東やイラン、インドの方面に南下することもあった。モンゴル
系、トルコ系、イラン系などと呼ばれることもあるが、その境界はかならずしも明らかで
はなかった。 その続きとして、中世における北方の草原国家をみることにする。 図 12-3 のように、9 世紀後半の唐の時代から 10 世紀の五代十国時代にかけて、北方民
族が南に張り出し、再び中国本土は混乱した。そして、契丹族の遼、タングート族の西夏、
女真族の金が華北に建国し、(北)宋は 12 世紀には江南に移り、南宋として生きながらえ
るしかなかった。 そして、13 世紀のはじめに北方で興ったモンゴルは急速に拡大し、南宋を滅亡させただ
けでなく、遠くヨーロッパや中東のイスラム圏やインドまで進出し、ユーラシア大陸の大
部分を支配下におさめ、「モンゴルの世紀」を現出した。この中世に現れた史上最大の世
界帝国を中心にユーラシアの遊牧国家の状況を述べる(図 12-3 のように、中国史の中に
入り込んでくるので、以後、とびとびに中国史に織り込んで記述せざるをえない)。 ○突厥 遊牧民自身がみずから発想して都市をもった例のなかで、比較的早いものとしてわかっ
ているのは、天山山脈の東部の北側の、とある川沿いにあった可汗浮図城(かがんふとじ
ょう)といわれる都城であった。628 年よりあとのことで、当時の草原は突厥のものであっ
た。突厥はここを軍事上の拠点として天山山脈の南のゆたかなオアシス群、トウルファン盆
1166
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
地の支配にかかわった(図 11-73―⑤参照)。ここをおさえることは東西貿易路の掌握に直
結していた。 《トルコ系民族とは》 我々はトルコといえば、現在のトルコ共和国を思い浮かべるが、歴史上のトルコ系民族
はユーラシア大陸の中央部を遊動していたもっと大きな概念の民族であった(結局、その
一部が 20 世紀はじめにトルコ共和国をつくったのである)。 6 世紀、モンゴルの柔然や高車(中国(北朝)におけるトルコ系遊牧民の総称)が滅んだ
あとも、トルコ(テュルク)系遊牧民の勢いは衰えるどころかむしろ活発になり、東はモ
ンゴル高原北部から西はカスピ海北岸あたりにまで広がっていた(図 11―73―④参照)。 552 年、ジュジェン(柔然)にかわって突厥という遊牧国家が登場してきた。突厥はもと
もと金山(アルタイ山脈)のあたりにいて柔然に従属して鉄鍛冶を特技としていたアシナ
(阿史那)という氏族が中心となって独立して遊牧国家突厥を樹立した(図 12-74)。こ
の突厥もトルコという部族名の漢字表記であると思われる。ほんらいの発音にちかいのが
テュルクであるが、我々はトルコといいなれているので、トルコを使うことにする。 図12-74 6 世紀、突厥の最大版図 3 代目の木汗可汗(ぼくかんかがん。在位:553~572)のときに突厥は領域を大きく広げ、 東が遼海(日本海)以西、西が西海(アラル海)に至り、南は沙漠(ゴビ砂漠)以北、北
は北海(バイカル湖)に至る大帝国となった(図 12-74、図 11-73―⑤参照)。木汗可汗
は大可汗としてモンゴル高原中央部のウテュケン山と呼ばれる聖地に本拠を置き、名目上
その下になる数人の可汗とともに征服活動に従事した。トルコ民族による初の帝国を出現
させた突厥であったが、その国家構造は有力部族の緩やかな連合体であった。 しかし、582 年、アルタイ山脈あたりを境として突厥は東西に分裂していった。突厥文字
は、突厥によって 8 世紀から用いられたアルファベットであり、突厥文字で書かれた石の
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
碑文が残されており(オルホン碑文)、それから彼らの歴史を知ることができるようにな
った。741 年頃に西突厥の阿史那氏は滅び、これで突厥の時代は終わった。 ○ウイグル 中国史書においてウイグルの名が初めて現れるのは 4 世紀の高車時代からで、そこでの
ウイグルは袁紇と記されている(「ウイグル」とはトルコ語で「同盟」
・
「協力」の意である)。 やがて突厥が東西に分裂すると、ウイグル部は徐々に勢力を伸ばし、ついにウイグルの
骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が東突厥可汗を滅ぼし、ウイグルカガン国(744 年~840
年。図 12-75、図 11-73-⑥参照)を建国した。 図 12-75 8~9 世紀の中央アジア 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 745 年、唐に遣使して懐仁可汗(かいじんかがん。在位:744 年~747 年)の称号を賜っ
た。以後、彼らウイグルの筆頭氏族であるヤグラカル氏によってカガン位が継承され(12
代続いた)、唐とも友好な関係を築き、絹馬貿易とシルクロード交易を発展させた。 ウイグルは強大な軍事国家であり、十人隊、百人隊、千人隊、万人隊などの単位で軍を
動かしていたが、これは戦争でない遊牧時の構成と同じであり、日常的な社会組織が軍事
組織と近かった。このため、ウイグルの軍事力は強く保たれた。 唐において安史の乱が勃発すると(755 年)、唐の粛宗はウイグルに援軍を求めたため、
第 2 代葛勒可汗(かつろくかがん。在位:747 年~759 年)は、ウイグル軍を派遣し安禄山
討伐にあたった。その後も、唐と吐蕃(とばん。図 12-75 参照)の戦争に際しても何度も
援軍を送り、唐を保護下に置くような状態となった。 1168
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
貿易に際し、西方のソグド人(イラン系)勢力と手を結び、唐の絹を運ぶシルクロード
貿易を行い、莫大な利益を得た。また、ウイグルは西方へと徐々に影響力を拡大し、シル
川、アム川の近郊まで勢力を伸ばした。高昌をその支配下に置き、その結果タリム盆地は
じめ西域諸国がトルコ化していくことになった。 《天山ウイグル王国の樹立》 しかし、840 年頃、連年の天候不順による飢饉や雪害による家畜・遊牧民の大量斃死など
のため、ウイグル王国は崩壊してしまい、ウイグル人たちはモンゴルをあとにしてゴビ砂
漠以南の華北や甘粛方面、天山山脈方面のオアシス都市地域へ大量に流出していった。 西へ移動したウイグル集団は、866 年になると、天山東部北麓と、その南のトウルファン
盆地、東はハミ、西は焉耆(えんぎ)を手中にし、ここに天山ウイグル王国を樹立した(図
12-76 参照)。都はビシュバリクで、東西交易、いわゆるシルクロードの中継地点として大
いに栄えた。 図 12-76 10 世紀の中央アジア 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 12 世紀に入り、東から耶律大石がこの地を征服して西遼(カラ・キタイ)を建て、ウイ
グル族はこれに服属するようになった(図 12-77 参照)。
さらに 13 世紀にモンゴルでチンギス・ハンが勃興すると、1211 年に天山ウイグル国王バ
ルチュク・アルト・テギンはこれに帰順した。『元朝秘史』によるとチンギス・カンは彼の
帰順を大変歓迎して息女の一人アル・アルトンを娶らせ娘婿とし、駙馬(ふーば。娘婿)
1169
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
王家筆頭と称されモンゴル王族に準じる地位を得ることになった。モンゴル帝国および元
朝ではウイグル出身官僚がモンゴル宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになっ
た。 図 12-77 12 世紀の中央アジア 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 ○遼(契丹) その次が契丹族の遼であった。北宋のはじまりのところで述べたように、11 世紀の中国
は実質、南北朝のようなもので、すでに北には遼やタングート(西夏)がどっかりと腰を
下ろしていた(図 12-73、図 11-73-⑦参照)。 遼という国家をつくったのは契丹人(きったんじん)だった。さて、その契丹であるが、
キタン(契丹)の人々は、4 世紀ごろからいまの内モンゴル東部を東に流れるシラムレン河、
つまり遼河上流あたりに現れ遊牧していた。種族として、定説ではモンゴル系とされる。
長い間、唐・突厥・高句麗などに服属していた。 契丹族は半農・半牧生活を営み部族連合を形成していたが、唐の衰退を契機として自立
性を高め、916 年に耶律阿保機(やりつあぽき。遼の太祖、在位:916~926 年)のもとで自
らの国・契丹国を建てた。その後、東丹国などを滅ぼして勢力を拡大し、926 年に東方の強
国・渤海を滅ぼして満州を服属させ、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上
げた。 さらに 2 代目耶律徳光は、五代十国の時代であるが、石敬瑭(せきけいとう)の要請を
受けて出兵し、後唐を滅ぼし、後晋を誕生させ、これを衛星国とし、燕雲(えんうん)十
六州を割譲させたことは述べた(図 12-72 参照)。これによって、遼(947 年、国号を遼
1170
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
とあらためた)は、遊牧民を主とするモンゴルの本拠地を確保しながら、図 12-73 のよう
に、燕雲十六州と渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。
このため、モンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と中国式の定住民統治機構(南面官)
を持つ二元的な国制を発展させた。 このように遼の統治体制は、契丹人が民族的自覚を失って中国化するのを防ぐために、
二面体制のほかにも、民族文化の保存につとめ、独自の契丹文字をつくるなど民族意識の
高揚につとめたが、高度な中国文化に接して、その影響をまぬがれなかった。 1004 年、宋へ遠征軍を送り澶淵の盟(せんえんのめい)を結んだことは述べたが、この
和約条約は、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送らせること
を約束させるものだった。 しかし、宋からの財貨により働かなくても贅沢が出来るようになった遼の上層部は次第
に堕落し、また内部抗争も激しさを増し、武力の低下を招いた。また服属させている女真
族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買っていた。 女真族は次第に強大になり、1115 年には自分達の王朝・金を立て(図 12-73、77 参照。
現在の中国東北地域)、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとしたが
逆に大敗し、遼弱しと見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃した。遼は、最後は 1125 年に金
に滅ぼされた。 この時に皇族の耶律大石は部族の一部を引き連れて、中央アジアに逃れて西ウイグル王
国、カラ・ハン朝を征服して西遼を建てた(図 12-77 参照)。現地ではカラ・キタイと呼
ばれた。 ○西夏(タングート) 次にタングート族であるが、のちに西夏を建国するタングート族は、7 世紀~13 世紀ご
ろに中国西北の四川省北部・青海省などで活動したチベット系民族であった。タングート
の前身は羌(きょう)であるといわれている。
吐蕃(とばん。図 12-77 参照)が衰えると、タングートの時代がやってきた。唐末、黄
巣の乱が起きた際にタングートの長の拓跋思恭(たくばつしきょう)は唐を援助し、この
功績により国姓の李を貰い、夏・綏・銀・宥・静の 5 州を支配した。 タングートの支配地は農業生産に乏しいが、その代わりに塩を産出するのでこれを輸出
し、それと引き換えに食料・茶・絹などを手に入れていた。これは青白塩と呼ばれ、質が高
く値も安いことから宋の買い手にもよろこばれていた。ところが、宋が塩の専売制を確立
し(唐後半から塩専売制は始まっていた)、宋政府が青白塩の輸入を禁止し、自らの官塩を
強制的に民衆に買わせるようになった。タングート側は青白塩の輸出を認めるように何度
も宋政府へ要求したが、これは認められず、しだいに反抗的となっていった。 1171
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1004 年、遼が宋と澶淵の盟を結び和解すると、タングートの李徳明は単独では宋と向か
えないので、翌年に和睦し、宋より西平王の地位を授けられ、宋より毎年、銀 1 万両、絹 1
万匹、銅銭 2 万貫、茶 2 百斤の歳幣を受け取ることになった。しかし、基本的には青白塩
の輸出問題は解決していなかった。 1032 年に李徳明の子である李元昊(りげんこう。在位:1032~1048 年)が夏国公の地位
を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動をとるようになった。李元昊はウイグル
を攻撃して河西方面への進出をはかった。1035 年から、その翌年、200 日余りの昼夜をわ
かたぬ猛攻撃によって、瓜州(かしゅう。甘粛省)、沙州(さしゅう。甘粛省敦煌市)、
そして粛州(しゅくしゅう。甘粛省酒泉市)の 3 オアシスを手中にし、ついに河西地方全
域(シルクロードが通っている西域地域)を領土に収めた(図 12-73 参照)。これで、古
来、中国と中央アジア、そしてヨーロッパを結ぶ東西貿易のもっとも主要なシルクロード
は完全にタングートの支配下におかれることになった。 李元昊は、1038 年には皇帝を名乗り、国号を西夏(せいか。大夏(たいか)。西夏とい
うのは中国側の呼び名)とし、宋からの独立を宣言した。興州を興慶府(現在の寧夏回族
自治区の首都銀川市)として国家の陣容、官制、兵制を整えた。漢字をもとに西夏文字も
創設した。 西夏は建国後、遼と同盟し宋に対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進め、1044
年の和議成立(慶暦の和約)まで続いた。この 1044 年の「慶暦の和議」については、北宋の
ところで述べたように、宋を君、西夏を臣と位置付け、宋は西夏に毎年銀 5 万両、絹 13 万
匹、茶 2 万斤を贈ることなどが約された。ただ、宋との和議成立後もたびたび局地的な戦
闘が続き、宋は西夏との国境に軍隊を常駐させていた。 1048 年、李元昊の死後、2 歳にも満たない息子の李諒祚(りきそう)が即位し、その母
である沒蔵氏による摂政が行われた。この時期、遼による西夏攻撃が行われ、西夏は敗北、
遼に臣従する立場となった。 1115 年に金が成立すると金は遼に対し侵攻し、1123 年、遼を滅ぼした。西夏は金に服属
した。そして金により北宋が滅ぼされると、西夏はこの機会に乗じ広大な領土を北宋から
獲得することとなった。しかし、その西夏も 1226 年、モンゴル帝国のチンギス・カンによ
って滅ぼされた。 【12-4-6】金(1115~1234 年)と南宋(1127~1279 年) 【①金(1115~1234 年)】 中国の東北地方は、10 世紀以後、渤海を滅ぼした遼が支配していたが、11 世紀末ごろか
らツングース系の女真族が強大となった。女真族は、現在の中国東北地区(満州)黒龍江
1172
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
省の松花江の支流アルチュフ川流域(図 12-73 参照)に居住していて、遼に対して服属し
ていた。しかし遼の支配者たちは奢侈が募り、女真族に対して過酷ともいえる搾取を行っ
たので、女真族の完顔部(わんやんぶ)から出た阿骨打(あこつだ。女真音でアクダ。金
の太祖。在位:1115~1123 年)が遼に反乱を起こし、1115 年、アルチュフ川の河畔で即位
して建国し、金を国号とした。 ○金の猛安・謀克制 金が軍事的に強かったのは、軍民一致の組織体制である猛安・謀克制(もうあんぼうこ
くせい)にあった。これは女真の間に元来行われていた社会制度をもとにに、金の太祖阿
骨打によって創始されたもので、兵士となることができる成年男子 300 人を含む 300 戸を
謀克(ぼうこく。ムクン)とし、10 謀克を猛安(もうあん。ミンガン)として、女真族を
編成する社会組織であり、かつ軍事組織であった。 300 戸が 1 ムクン(謀克)に組織され、それが 10 集まって 1 ミンガン(猛安)となった。
ムクンの長もムクン(族長)、ミンガンの長もミンガン(千人長)と呼ばれ、世襲でそれ
ぞれの集団を支配した。軍事組織としてみれば、300 家族から武器と食糧を自ら携えた 100
人の兵士が徴され、その 10 倍の組織から千人隊の軍、ミンガン軍が組織されることになり、
それが同時に行政組織となった。戦闘がないときは、謀克は村長に統御され、日常の狩猟、
牧畜や農耕に従事していた。これらの仕組みは、女真族固有の社会組織に由来するが、モ
ンゴル帝国など北アジアの遊牧民族の間で広く行われた十進法軍事組織とも関係が深いと
考えられる。日常生活が臨戦態勢であったので強かった。 しかし、やがて南下して、金が北宋を滅ぼし、華北に進出すると、女真族も猛安・謀克
の組織編成を保ったまま華北に移住させられ、屯田させられた。漢地に入ると漢民族に比
べて農耕や商売の技術に劣る女真族は積み重なる軍役のためもあって財産を漢族に借金の
担保として取られ、次第に困窮していった。また『金史』を中心とした中国側諸史料によ
れば、彼らは漢文化の影響を受け元来の野性的な女真の武風を失って、金軍は弱くなった
といわれている。 ○靖康の変と北宋の滅亡 1125 年、金は北宋と盟約を結び、遼を挟撃して遼を滅ぼした。このとき、遼の王族の耶
律大石(やりつたいせき)は、中央アジアのトルコ系のカラ・ハン朝を滅ぼし、1132 年、
西遼(カラ・キタイ)を建国した(図 12-77 参照)。 そのあと、1127 年、靖康の変が起こった。つまり、北宋が遼の遺臣と結び燕雲十六州を
取り返そうとしたので、金は約束違反だとして、(北)宋も滅ぼしてしまった。翌年、江
南で南宋が興された(次の南宋で詳述する)。 以後、金は淮河を境に南宋と接し、華北を支配する征服王朝となった。 1173
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
金の政治体制は、遼にならって二重統治体制を採用した。漢人に対しては中国風の州県
制をとり、女真人は部族制を再編成した猛安・謀克(もうあんぼうこく)によって統治し
た。 1142 年の紹興の和議で、歳貢として宋は毎年、銀 25 万両と絹 25 万両を金におくること
になった(次の南宋で詳述する)。金の支配層は働かなくても奢侈生活ができるようにな
り、遼と同じ運命をたどることになった。金は民族文化を重視し、漢字などをもとに女真
文字が作られたが、中国文化に同化された。平和が長引き、女真人の気風が形骸化すると
軍事力の弱体化が問題になってきた。女真族と非女真族(契丹族など)との割合は 1:6 で
あったので、少数支配が不安定になった。 モンゴル高原ではタタールや契丹の反乱が激しくなり、金は鎮圧にケレイトやモンゴル
の助けを借りたため、ケレイトやモンゴルの勢力が増大し、1206 年にモンゴルのチンギス・
カンによる高原の統一を間接的に助けることになった(図 12-77 参照)。 金で第 7 代衛紹王(えいしょうおう)が即位すると、チンギス・カンはこれに対する朝
貢を拒否して、金と断交し、1211 年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した。モンゴ
ル軍は金軍を破って長城を突破し、2 年あまりにわたって金の国土を略奪しまくった。この
ときは、金はモンゴルに対する和議に踏みきり、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳
貢を納めることを約束し、皇族の娘をチンギス・カンに嫁がせる屈辱的な内容の講和を結
んだ。 講和によりチンギス・カンは撤兵したが、金は翌 1214 年にモンゴルを避けるため(現在
の北京から)河南の開封に遷都した。チンギス・カンは金の南遷を和約違反と責めて金に対
する再侵攻を開始した。1234 年についに開封を包囲・占領され、最後の皇帝哀帝は開封か
ら蔡州(河南省)に逃れるところをモンゴルと南宋の連合軍に挟撃されて自殺し、金は滅
亡した。 【②南宋(1127~1279 年)】 北宋最後の皇帝欽宗の弟・趙構(高宗。在位:1127~1162 年)は南に移って、1127 年に
南京(現在の河南省・商丘市)で即位し、宋を再興したが、即位反対派による反乱なども
あり、国内各地を移動する状態が続いていた。1132 年にようやく首都を臨安(現在の杭州)
に定め、南宋の統治体制を確立するに至った(図 12-77 参照)。 はじめは岳飛、韓世忠、張俊らの活躍によって金に強固に抵抗した。とくに岳飛は 1134
年に節度使となり、南宋の中の軍閥勢力を形成し、高宗の信頼も得ていた。 しかし高宗は金軍の南下を恐れ、1138 年に、和平派を代表する秦檜(しんかい)を宰相
に任用し、同年には金と和睦条約を締結することになった。このため主戦派である岳飛と
1174
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
秦檜は対立し、1141 年に秦檜は岳飛らを無実の罪を着せて処刑してしまった(その後、1178
年に冤罪が証明された)。 ○紹興の和議 こうした犠牲を払うことにより、1142 年に宋と金の間で和議が成立した。この「紹興の
和議」により、両国の国境線が定められ、図 12-77 のように、南宋は淮河以北の旧領(か
つての首都開封を含む)を放棄し、その上、宋は金に対し臣下の礼ををとり、1164 年まで
毎年、銀 25 万両と絹 25 万両を金におくるという宋にとって屈辱的なものであった。つま
りこの条約は、形式的にも従来の立場が逆転し、金が上位で南宋が下位ということなった。 しかし、これによって宋と金の政局が安定し、高宗の統治後半は江南の開発が進められ
た。 寧宗(在位:1194~1224 年)の即位を実現させたことにより、その後皇帝の信任を得た
韓侂冑(かんたくちゅう)は宋朝の朝政に 13 年にわたる専権を振ったが、その韓侘冑の独
裁を打ち倒した史弥遠(しびえん。1164~1233 年)は、今度は自分が、1208 年に宰相に就
任し、寧宗の死後は第 5 代理宗(りそう。在位:1224~64 年)を擁立して、26 年間、独裁
権を握った。 この史弥遠の治世に、南宋の民衆は重税による圧政に苦しめられ、文治主義が重んじら
れて軍事力が低下するという、南宋滅亡の遠因が作られた時代でもあった。この時期に北
のモンゴル高原にはチンギス・カンが急速に勢力を拡大し、モンゴル帝国をつくり上げるこ
とになったが、史弥遠はまったく無頓着だった。 ○モンゴルの台頭、金の滅亡 史弥遠が死去した 1233 年にモンゴルは金の首都開封を陥落させた。南に逃げた金の最後
の皇帝哀帝を南宋軍はモンゴルに協力して追い詰めて、1234 年に金を滅ぼした。南宋は、
わが身に返ってくることなど、全く考えてもいなかった(100 年ばかり前の 1125 年に北宋
は金と協力して遼を滅亡させた。歴史は繰り返す)。もっとも、今度の北方からの敵は桁違
い強く、征服されるのも時間の問題であっただろうが。 その後、モンゴルは一旦北に引き上げた。そこで南宋軍は北上して洛陽・開封などを手に
入れた。しかし、これはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は再び南進を
開始し、しばらくは一進一退を繰り返すことになった。 やがて、1260 年、モンゴル第 4 代モンケの親征軍が入ってきた。しかしモンケはこの遠
征途中で病死した。このとき、モンゴルのクビライは鄂州(がくしゅう。湖北省の武昌)
を攻めていたが、南宋の賈似道(かじどう)はクビライ軍を退却させた(クビライはモン
ケの後の大カアンを決めるクリルタイのために退却したのである。この戦いではクビライ
と賈似道との間に密約があったと後にささやかれることになる)。 1175
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
強敵のモンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相にな
り、その後 15 年にわたって独裁政治をおこなった。 ○南宋の滅亡 しかしモンゴル平原でアリク・ブケを倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始
し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽(現在の湖北省襄樊市(じょうは
んし))を、1268 年から 1273 年までの 5 年間にわたる包囲戦で陥落させると、南宋には、
もはや抵抗する力がなかった。 1276 年 1 月、元の将軍バヤン率いる元軍が臨安に迫ると、恭帝自ら城外に出てバヤンに
降伏した。モンゴルのバヤンに首都臨安を占領されて宋は滅亡した。 【12-4-7】元帝国(モンゴル帝国)(1206~1368 年) 13~14 世紀のモンゴル帝国の時代の発端はチンギス・カンから始まるが、チンギス・カ
ンが歴史にその名が知られるようになるのは、1206 年 2 月、クリルタイ(部族集会)で諸
部族全体の統治者たるカン(汗)に即位してモンゴル帝国を開いたときからである。 ○モンゴルの軍事・生産・生活一体型の構造 チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与えた。
この僚友(ノコル)と図 12-77 のようなオングートやコンギラトのようにチンギスと同盟
して服属した諸部族の指導者を加えて、貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。これ
は支配者階級の形成であった。最上級のノヤン 88 人は千人隊長(千戸長)という官職に任
命され、その配下の遊牧民は 95 の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千
人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にも
ノヤンたちが任命された。 中世は封建制の時代、つまり、主従の関係が土地を介して行われてきたといわれいてい
る。ヨーロッパや中国、あるいは日本の歴史でもそうだが、主人が土地を安堵し、従者は
それに応えて軍事面での義務を負うというものであった。モンゴルのように遊牧民の場合
は、土地は土地でも牛や羊を養う牧草地(草の質なども考慮して)を使用する権利(一種
の縄張り)が基本であり、農業地帯の封建制度と異なっていることに注意する必要がある
(しかし、遊牧民にとって牧草地は我々農耕民にとっての水田と同じように大切なもので
あり、いろいろ工夫、手を加えていることは述べた)。この牧草地の使用権と義務となる
軍事義務がセットになり、その上に身分制度などの社会制度が組み立てられていた。いわ
ばこれが遊牧国家の封建制度ということになるのであろう。 モンゴルを特徴づけた強力な軍事制度は、戦時においては、千人隊は 1000 人、百人隊は
100 人、十人隊は 10 人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長た
1176
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても
家族と馬とを伴って移動し、1 人の乗り手に対し 3、4 頭の馬がいるため、常に消耗してい
ない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。つまり、平時においても自領内
を絶えず良好な草地を求めて移動する生活をしているモンゴルでは、戦時にはそのまま戦
場をめざして移動する軍事・生産・生活一体型の構造であった。 《牧草地があるかぎり続けられる征服戦争》 戦時になると(遠征の実施が決まると)、千人隊単位で決められた兵数の供出が割り当
てられ、各兵士は自弁で馬と武具、食料から軍中の日用道具までの一切を用意した。軍団
は厳格な上下関係に基づき、兵士は所属する十人隊の長に、十人隊長は所属する百人隊の
長に、百人隊長は所属する千人隊の長に絶対服従を求められ、千人隊長は自身を支配する
カンや王族、万人隊長の指示に従う義務を負った。軍規違反に対しては過酷な刑罰が科せ
られ、皮袋に詰めて馬で生きたまま平らになるまで踏み潰したり、生きたままで釜ゆでに
したりすることもあったという。 このような態勢であったので、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的
な行動力をモンゴル軍に与えていたと見られる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギ
ス・カン直営の領民集団を(南向きの)中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と
右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の
任を委ねられた。 このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面に、図 12-78 のように、
チンギスの 3 人の弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ
山脈方面にはチンギスの 3 人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれざれの遊牧領民
集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。これはいわば親藩
ということになろう。 チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に
征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定づけた。軍事
的に領土を急拡大した点では、古代ローマも似ているが、ローマ共和国の限界は、健全な
ローマ市民兵が何年も故郷を離れるようになると、厭戦(えんせん)気分が募り、結局、
傭兵制度に変更せざるをえなくなったという問題点があった。 これに対して、軍隊・遊牧生活一体のモンゴルの場合は、牧草地さえあれば、どこまでも
拡大可能であったいえよう。ユーラシア大陸は当時ヨーロッパまで草原が続いていた。し
たがって、モンゴルの限界は草原がつきたところ、南方の多湿地帯や西アジアの沙漠、水
上の戦闘などは機動や兵站に難があって、エジプト、インド、ベトナム、インドネシア、
日本などではことごとく敗れている。 1177
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-78 チンギス・ハンの三極構造 中央公論社『世界の歴史9』 《軍の編成》 おのおのの軍団は先鋒隊、中軍、後方隊の 3 部隊に分けられた。先鋒隊は機動力の優れ
た軽装の騎兵中心で編成され、前線の哨戒や遭遇した敵軍の粉砕を目的とする。中軍は先
鋒隊が戦力を無力化した後に戦闘地地域に入り、拠点の制圧や残存勢力の掃討、そして戦
利品の略奪を行う(先鋒隊は敵軍の粉砕に徹し、絶対に略奪をやってはならない)。全軍
の最後には、後方隊が家畜の放牧を行いながらゆっくりと後に続き、前線を後方から支え
た。 後方隊は兵士たちの家族など非戦闘員を擁し、征服が進むと制圧の完了した地域の後方
拠点に待機してモンゴル本土にいたときとほとんど変わらない遊牧生活を送っていた。前
線の部隊は一定の軍事活動が済むといったん後方隊の待つ後方に戻り、補給を受けること
ができた。部隊の間には騎馬の伝令が行き交い、王族・貴族であっても伝令にあえば道を譲
るよう定められた。 個々の兵士は全員が騎馬兵であり、速度が高く射程の長い複合弓を主武器とした。遊牧
民は幼少の頃から馬上で弓を射ることに慣れ、強力な騎兵となった。兵士は遠征にあたっ
て 1 人当たり 7~8 頭の馬を連れ、頻繁に乗り換えることで驚異的な行軍速度を誇り、軽装
騎兵であれば 1 日 70 キロメートルを走破することができた(中世ヨーロッパの歩兵の行軍
速度は 1 日 20 キロメートル)。また、衰え弱った馬を解体して食糧(肉、内臓、血)、武
1178
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
器(骨、腱)、衣類(毛皮)と徹底的に利用したため、編成や食糧調達に長い時間を割か
れる心配が少なかった。 《戦闘方法》 戦闘ではスキタイ以来の遊牧民の伝統と同じく、最低限の弓矢や刀剣で武装した主力の
軽装騎兵によって敵を遠巻きにし、弓で攻撃して白兵戦を避けつつ敵を損耗させた。また、
離れた敵を引き寄せて陣形を崩させるために偽装退却を行い、敵が追撃したところを振り
向きざまに射るといった戦法もよくとられた。弓の攻撃で敵軍が混乱すると刀剣(サーベ
ル)、鎚矛(メイス)、戦斧、槍を手にした重装騎兵を先頭に突撃が行われ、敵陣を潰走
させた。 追撃の際、兵士が戦利品の略奪に走ると逆襲を受ける危険があったことから、チンギス・
カンは、戦利品は追撃の後に中軍の制圧部隊が回収し、各千人隊が拠出した兵士の数に応
じて公平に分配するようにした。 攻城戦は、モンゴルにはほとんど都市が存在しなかったため得意ではなかったが、撤退
を装って守備軍を都市外に引きずり出すなどの計略をもってあたった。金に対する遠征で
は、漢人やムスリムの技術者を集め、梯子や楯、土嚢(どのう)などの攻城兵器が導入さ
れ、中央アジア遠征では中国人を主体とする工兵部隊を編成して水攻め、対塁(たいるい)
建築といった攻城技術を取り入れた。サマルカンドで火炎兵器の投擲機(とうてきき)、
カタパルト式投石器などの最新鋭の城攻兵器の技術を入手したが、これらはホラズムやホ
ラーサーンの諸都市に対する攻撃で早くも使われた。 都市の攻城にあたっては、あらかじめ降伏勧告を発し、抵抗した都市は攻略された後に
他都市への見せしめのために徹底的に略奪され、住民は虐殺された。その攻撃は熾烈を極
めチンギス・カンの中央アジア遠征のとき、バーミヤーン、バルフなどの古代都市はほと
んど壊滅して歴史上から姿を消した。反対に降伏した都市に対しては法外でない程度の税
金を納めさせ、モンゴルへの臣従を迫り、モンゴル帝国の監察官を置く以外は以前と変わ
らない統治を許し、宗教に対しても寛大だった。 モンゴル軍の残酷さを物語る逸話や記録がユーラシアの各地にとくに初期の段階で数多
く残っていることは確かである。しかしそれらの死者の数を合計すると数十万にもなり、
当時のオアシス都市の人口規模としてはありえないような数になり、壊滅したはずの都市
がそのすぐあとのモンゴル帝国時代に大人口で繁栄しているという矛盾も起きている。 これはとくに初期の段階でモンゴル軍が戦わずして敵を降伏させるために、抵抗すると
皆殺しにするという恐怖のイメージを積極的に広く前宣伝した情報戦術のせいではないか
といわれている。この宣伝がきいたのか、ヨーロッパ遠征途上での広大な地域がほとんど
無抵抗で降伏しており、また、そうであるから短期間に征服できたのであろう。降伏した
1179
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
地域は前述のように、その負担は決して当時としては大きくはなかったという状況もあっ
たが、それらはあまり表に出ずにモンゴルの恐怖の面が歴史記録として強調されてしまっ
たようである。 モンゴルは遠征に先立ってあらかじめ情報を収集した。モンゴル軍の遠征における組織
だった軍事行動を支えたのは、事前に敵に関する情報をとり、分析し、綿密な作戦計画を
立てていたことであった。実戦においても先鋒隊が更に前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵
襲に備えるなど、きわめて情報収集に力が入れられた。中央アジア遠征ではあらかじめモ
ンゴルに帰服していた中央アジア出身のムスリム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われ
て東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役をつとめていたこ
とがわかっている。 ○チンギス・カンの征服事業 天山ウイグルの王バルチュク・アルト・テギンは遼の支配を受けるようになっていたが、
遼を振り切って、1211 年、バルチュクは自らチンギス・カンに会い、第 5 番目の息子、す
なわりチンギス・カンの息子たちと兄弟となり、本領を安堵されることに成功した。これ
は単に儀礼的なものにとどまらず、ウイグル王統の保証という点では 14 世紀になっても継
続された。 チンギス・カンにとって、ウイグルの帰順の意味は大きかった。文字をもたないモンゴ
ルは、自分の言葉を書き表すのに、音表式のウイグル文字は便利であった。このほかにも、
ウイグルの商圏と商品、技術を含めたオアシス農耕都市文明と、そのなかで育った優秀な
人材が労せずしてチンギス・カンのもとに入った。こうしたウイグルの高い文化基盤が、
金やタングート(西夏)とちがって、ウイグルがモンゴルに武力征服されずにすんだ理由
であった。 着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備を進め、1211 年に
金と開戦した。三軍に分かれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥
深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らした(図 12-77 参照)。しかしここでも
モンゴルは野戦では勝利をおさめたが、主要な都市の攻略には失敗した。チンギス・カンや
モンゴルの指揮官は中国人から攻城戦の方法を学習し、徐々に攻城戦術を身につけていっ
た。 1214 年、万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合したところで、チンギス・カン
は金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河
の南の開封に首都を移したことを背信行為であると咎め(これを口実にして)、再び金を
攻撃した。図 12-77 のように、1215 年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(えんけい。
現在の北京)を包囲、陥落させた。このとき、チンギス・カンはのちに行政で活躍する耶律
1180
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
楚材(やりつそざい)などを見出してその側近とした。燕京を落としたチンギス・カンは、
将軍ムカリを燕京に残留させてその後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らはモン
ゴルに引き上げた。 チンギス・カンは将軍ジェベに 2 万の軍を与え、1218 年までに西遼(カラ・キタイ)を征
服・併合した(図 12-77 参照)。この遠征の成功によってイスラム王朝の大国、ホラズム・
シャー朝に接することになった。チンギス・カンはホラズムに通商使節団を派遣したが、全
て殺されてしまった(この使節団自体が偵察・挑発部隊であって、当初からチンギス・カン
の想定の範囲だったとも考えられている)。 その報復として、チンギス・カンは自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子す
べてを含む 20 万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219 年にホラズムを三手に分かれ
て攻撃し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服した(図 12
-77 参照)。モンゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せ
しめのため破壊された。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220 年ま
でにほぼ崩壊した。 ホラズムの君主アラーウッディーン・ムハンマドが逃げたので、チンギス・カンはジェベ
とスベエデイの追撃軍を派遣し、アラーウッディーンをカスピ海上の島で窮死させた。ジ
ェベとスベエデイはそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで達した。彼らの
軍はキプチャクやルーシ(ロシア)諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅
威はヨーロッパにまで伝えられた(図 12-62 参照)。 一方、チンギス・カンの本隊はアラーウッディーンの息子のジャラールッディーンを追っ
て、南下し、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、バーミヤーンといった古代からの大
都市をことごとく破壊し、住民を虐殺した。山岳部のアフガニスタン、ホラーサーン方面
での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。チン
ギス・カンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰め撃破したが、ジャラ
ールッディーンはインダス川を渡ってインドに逃げ去ったので、追撃を打ち切って帰路に
着いた。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦は無理だった
ようである。1225 年にモンゴルに帰国した。 西征から帰ったチンギス・カンは広大になった領地を分割し、図 12-78 の配置のように、
長男のジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男
チャガタイには中央アジアの西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガ
リア(現在の新疆ウイグル自治区の北西部にある盆地を中心とした土地)の支配権を与え
た。末子トルイにはその時点では何も与えられなかったが、チンギス・カンの死後には末子
1181
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
相続(当時のモンゴルの慣習)により本拠地モンゴル高原(と膨大な軍事力)が与えられ
ることになっていた。 チンギス・カンが遠征に出ている間に、以前から臣下になっていたはずの西夏(図 12-77
参照)の皇帝は、金との間に対モンゴルの同盟を結んでいたので、チンギス・カンはほとん
ど休む間もなく西夏遠征に出発した。1226 年はじめ、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の
諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて、30 万以上という西夏軍を撃破、ここに
西夏は壊滅した。 1227 年、チンギス・カンは西夏の首都興慶(現在の銀川)攻略に全軍の一部を残し、オゴ
デイを金領侵攻に向かわせ、自らは残る部隊で周辺の諸都市を攻略した後、夏の避暑のた
め六盤山に本営を留め、ここで西夏の降伏の報告を受け、金から申し込まれた和平は拒否
した。ところが、ここでチンギス・カンは発病、モンゴルへの帰途についたが、1227 年 8 月
陣中で死去した。彼は末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い渡したという。 ○最大の直属軍を相続したトルイ チンギス・カンの死後、生前の勅命によってモンゴルの全千人隊のうち 8 割を占めるそ
の直属軍は 10 万 1000 戸が四男のトルイ(図 12-79 参照)が相続し、トルイは監国として
モンゴル皇帝である次期大ハンの選出を差配する役割を与えられた。このとき軍才にすぐ
れた長兄のジョチは既に亡く、財産の多寡でいえばトルイが圧倒的に有利であったが、次
兄チャガタイら有力者たちは、兄弟のいずれとも仲がよく、そのためチンギス・カンが生
前に後継者とすることを望んでいたという三兄オゴデイを推した。 こうしてオゴデイが即位し、トルイは帝国の分裂を防ぐために中央軍の指揮権を新モン
ゴル皇帝(大ハン)に譲ったと言われている(ここで最大の実力者トルイが皇帝につかな
かったというねじれ現象は後に尾をひくことになった)。 1182
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-79 チンギス・カン家系図 中央公論社『世界の歴史9』 ○第 2 代オゴデイ 父の死から 2 年後の 1229 年に即位したオゴタイは、トルイ(最大の実力者であることに
は変わりがない)と協力して金朝との最終戦争にあたることになった。1231 年、最大の軍
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
事力をもつトルイ軍は先発させられ、図 12-80 のように陝西に打ち入り、拠点都市の京兆
(唐の長安。現在の西安)を陥落させた。開封(かいほう)の左腕にあたる陝西をまず断
ち切ったのである。 図 12-80 モンゴルの金朝包囲作戦 中央公論社『世界の歴史9』 ここで当時の開封について述べる。宋を興した趙匡胤(ちょうきょうきん)はここを東
京開封府と称して、首都とした。開封府は拡張され、3 重の城壁が都市を取り囲んだ。大運
河の一部も引き込まれ、水運によって米を始めとした大量の物資が江南地方より運び込ま
れ、開封には国中の物資が集まるようになり、ここにおいて開封は空前の繁栄期を迎える
こととなった。 交通の阻害となる区画同士の壁は取り払われ、庶民の夜間通行も許可され、空いている
土地には必ず屋台が立ち並び大道芸、講談などが行われ、昼夜を問わず飲食店には人々が
集い、酒や茶を飲んだ。上流階級や更にはペットにまで食事を配達する事業も存在した。
その繁栄振りは『東京夢華録』、『清明上河図』に記されている。その開封に、宋(北宋)
を征服した金がモンゴル帝国により攻められて領土の大半を奪われた後、遷都して抵抗を
続けていたのである。 開封は背後が天険に囲まれているのですべての防備は黄河の前面に置いている。トルイ
軍はモンゴル軍が最も苦手とするその山岳部で陝西・四川・河南の山岳地帯を大きく迂回し
て背後から突くルートを探ってさまよった。 1184
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ついにトルイ軍は金朝の背後にあたる河南平原に姿を現した。金軍が南へ急行する間に
黄河北岸のオゴデイ軍も渡河した。1232 年 1 月、30 万といわれる金朝軍と 10 万を切るト
ルイ軍が三峰山のふもとで激突した。山を降りたばかでボロボロに疲れていたトルイ軍が
勝った。なんと言ってもモンゴル軍は厳冬期の狩猟や雪中移動に慣れていた。15 万をこえ
る金軍主力が三峰山の戦いで消えうせた。 まったくの裸城となった開封には金軍が膨大な人口(市民)とともに立てこもっていた
が、わずかな兵力しか残っていなかった。2 年後、開封を脱出した金の哀宗が国境線で討た
れ金朝は滅びた。金朝に見捨てられた開封では城中に疫病が発生し 100 万近い死者が出た
と言われている。1233 年、少数のモンゴル包囲軍に開封は無条件開城した。 オゴデイとトルイは、開封の包囲軍を残して、自分たちは大部分の兵とともに北へ引き
上げた。その帰還途上で、トルイは病没してしまった。 最大の実力者トルイが病没したことによって、チャガタイの強い支持を受けたオゴデイ
は皇帝としての地位を固め、1234 年に自らの主導するクリルタイを開いてモンゴル高原の
中央部に首都カラコルムを建設させた。これ以降、オゴデイはカラコルム周辺の草原に留
まり、ちょくちょく訪問してくる兄のチャガタイとともに酒色にふけることが多くなり、
遠征は皇帝ではなく配下の軍隊に委ねられた。 1235 年、建設間もないカラコルムで開かれたクリルタイで、オゴデイは中国の南宋とア
ジア北西のキプチャク草原およびその先に広がるヨーロッパに対する二大遠征軍の派遣を
決定した。南宋に対する遠征はオゴデイの皇子クチュであったが、クチュの急死によって
これは失敗した。 ヨーロッパ遠征軍の司令官はすでに故人となっていたチンギス・カンの長男ジョチの次
男バトウであり、この遠征隊はロシアまでのすべての遊牧民の世界を征服し、遠くポーラン
ド、ハンガリーまで席巻した有名な遠征軍である。オゴデイの治世にはこれ以外にも高麗
やインド、イランに遠征軍が派遣され、モンゴル帝国は膨張を続けた。 ○バトウのヨーロッパ遠征 1236 年 2 月、モンゴル皇帝第 2 代オゴデイの命を受けてヨーロッパ遠征軍はバトウを総
司令官として、帝国全土の王侯、部衆の長子たち、すなわり次世代のモンゴル帝国の中核
を担う嗣子たちが出征するというはなはだ大規模なものだった。兵力は約 1 万人で征服目
標は図 12-78、図 11-73-⑨のジョチ家の所領西方の諸族のすべてであった(ジョチ家の
所領の西の方、ユーラシア大陸の続く限り、ヨーロッパまでという意味だった)。 バトウの軍は、図 12-62 のように、1236 年の夏中を移動で過ごし、1237 年までの冬季に、
アス人(カフカス地方の民族)とブルガル人(ブルガリア)を征服し、1237 年の春、キプ
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
チャク草原全体に囲い込み作戦を実施して、カスピ海周辺からカフカス北方までの諸族を
征服・帰順させた。 1237 年秋、ルーシ(ロシア)に入り、ウラジーミル大公国ユーリー2 世を戦死させ、ノ
ヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガリーチ公ダニールらを帰順させた。まだ小
村だったモスクワも攻略されたとみられている。1240 年春には、ルーシ南部に侵攻し、キ
エフを包囲して同地を攻略・破壊した。 1240 年春、バトウはカルパチア山脈の手前で遠征軍を 5 つに分け、それぞれに進攻させ
た。右翼はポーランド王国に侵攻し首都クラクフを占領し、1241 年 4 月ワールシュタット
の戦い(図 12-62 参照)でポーランド軍を破り、ポーランド王モンリク 2 世を処刑した。
シレジア、モラヴィア地方もバルダイが侵攻した。別の一隊は、カルパチア山間のザクセ
ン人を破り、ワラキア人(現在のルーマニア南部)を撃破した。 1240 年 3 月、バトウの本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入し、ペシュト市を
陥落させ、モヒーへ平原でハンガリー王ベーラ 4 世を破り、1241 年にはトランシルバニア
全域を征服し、クマン人、マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力を掃討した。冬
には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市(現在のハンガリー北部の都市)を包囲攻
撃した。 ここで 1241 年 12 月にオゴデイ皇帝の訃報が届き、1242 年 3 月、遠征軍全軍の帰還命令
を受けると、バトウ本隊はハンガリー支配を放棄して帰国の途についた(ハンガリーなどは
無になったが、バトウの支配したカルパチア山脈以東のルース(ロシア)諸国を中核とする
東欧の領土は、その後のジョチ・ウルスの基盤となった)。 ○第 4 代モンケの粛正 1241 年にオゴデイが急死し、翌年にはチャガタイが病死すると、チンギス・カンの実子
がいなくなり、1246 年、オゴデイの長男グユクが第 3 代カンになったが、わずか 2 年後の
1248 年に病死した。 1251 年、チンギス・カンの末子トルイの長男モンケが第 4 代カンになった(図 12-79 参
照)。モンケは、44 歳、満を持しての帝位であった。チンギス・カンが生前、おそらくは期
待したであろうトルイの即位は、その息子(チンギス・カンの孫)で 24 年後に実現した。 モンケは皇帝になると、第 2 代オゴデイから第 3 代グユクまでの不正・ゆがみ・よごれ・
あか、いっさいの負の遺産を、それにかかわった人間とともに一掃しようとした。オゴデ
イ家とチャガタイ家の反トルイ派は、根こそぎ粛清された。摘発は帝国全域におよび、財
務官・徴税官・書記官などに至るまで、徹底した洗い出しが行われた。 ○モンケの世界征服計画 1186
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
モンケは、また、チンギス・カンの初心に返って、帝国を建てなおし、失われていた中
央権力の威令を取り戻そうとした。正式即位の直後から、次々と新政策を打ち出した。 軍事・政治上については、モンゴル本土は別枠として、他を大きく三つに分けた。図 12
-61、図 12-62 のように、①マー・ワラー・アンナフルから「北廻り」の全域は盟友のバト
ウのジョチ・ウルスに一任し(これはすでにバトウの遠征隊でほぼ実現していた)、②残る
イランからイラク方面の「南周り」の西方に対して第 3 の弟フレグ、③華北・タングート旧
領(西夏)・チベット方面などを含む東方は、次弟のクビライを総司令官とし、あらたなる
拡大戦争を組織することを発表した。 すべてを取り仕切るのは、モンケ自身であった。彼は、明らかに世界を意識して構想を
抱いていた。それは、おそらく世界征服計画であったであろう。彼はそれを可能であると
考えたようである。 ②のイラン方面についてモンゴルは、すでにチンギス西征いらい、30 年ほどのかかわり
と間接統治の歴史があった。そのうえで、さらにモンゴル本土の千人隊より 10 人あたり 2
人を出させる方式で編成された大部隊を派遣することは、イランのむこう、つまり中東全
域からヨーロッパへの道をたどろうとしていたにちがいなかった。①のバトウの西征の、「南
廻り」版をくわだてたのである。そして①の「北廻り」と②の「南廻り」がヨーロッパで出会う
ことで世界征服が完成すると思っていたかもしれない(実際にはモンケの意外に早い死で
これは頓挫することになったと考えられる)。 我々の現在の世界像は近代世界の主力となった海からの目線でつくられている(とくに
ユーラシア大陸の東の島国である日本人はとくにそうである)。しかし、モンゴル帝国を
頂点とするユーラシア世界史は、草原という帯で結ばれて動いていた。陸上帝国であった
モンゴル人には、図 12-62 のような世界(地図)が浮かんでいただろうと考えられている。
もちろん、当時は新大陸(南北アメリカ)やオセアニアは知られていなかったし、アフリ
カも(地中海沿岸以外は)未知の世界だったので、当時の世界は陸続きのユーラシア大陸
で世界のほとんどであると思われていたのだろう(実際、図 11-73-⑨のように、ユーラ
シア大陸にも強力な国は当時存在していなかった)。 結果論を先に述べると、モンケの描いた世界構想は図 12-62 のように、短期間ではある
が概略達成されたようにも思える。バトウの副将として、すでにヨーロッパまで遠征して
きたモンケには、③のクビライなどを使って南宋を征服する、②のフレグのイラン、中東、
南ヨーロッパ遠征を実施すれば、①のバトウの「北廻り」遠征と合わせて世界征服が完成する
と考えていたのだろう。 ○フレグの大遠征 1187
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1253 年、フレグは兄皇帝モンケの勅命により、西征軍総司令に任命され、イラン方面総
督であったアルグン・アカ以下のアムダリヤ川以西の帰順諸政権を掌握し、ニザール派、
アッバース朝、シリア、アナトリア、エジプト諸国を征服すべく出征した。 1256 年にフレグがイランの行政権を獲得し、のちのイル・ハン朝がイラン政権として事
実上成立した。フレグは同年、ニザール派(暗殺教団として恐れられていた)を攻撃し、
教主ルクヌッディーン・フルシャーが投降し、本拠地アラムート城塞が陥落した。イラン
を完全に制圧すると、1258 年イラクに入ってバグダードを征服し、アッバース朝カリフ・
ムスタアスィムを捕縛・殺害して同王朝を滅亡させた(図 12-62 参照)。 1260 年 2 月には中東に入りアレッポを攻略し、同年 4 月にはダマスクスを陥落させるな
ど、快進撃が続き、次々と領土を広げていった。ここで長兄の皇帝モンケの訃報が届いた。
エジプト攻略を部下に任せ(結局、フレグの部下はエジプトに敗れ、フレグ遠征軍の快進
撃はここでストップすることになった)、フラグはモンゴルに帰還することにした。 しかし、途中まで帰って、フレグの次兄クビライと弟アリク・ブケが長兄モンケの後継
皇帝をめぐって争いを始めたことがわかり、フレグはモンゴル帝国には帰還せずに中東地
域(現在のイラン付近)に留まり、ここに自立王朝として前述のイル・ハン国(図 12-62
参照。すでに来るときに建国していた。1256~1353 年)を治めることにした。1264 年に後
継者争いに勝ったクビライが後を継ぐと、フレグはクビライの大カン位を支持した。 ○クビライの南宋攻撃 フレグの西への大遠征隊と並行して、1251 年、皇帝モンケは次弟クビライに、ゴビ砂漠
以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与え、中国方面の領土の征服を委ねた。 クビライは 1253 年に雲南の大理国を降伏させた(図 12-62 参照)。クビライは雲南から
帰還後は、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノールに幕営を移し、
漢人のブレーンを登用して中国を支配する道を模索していた。 しかし、南宋を早急に併合することを望む皇帝のモンケはクビライの慎重策にしびれを
切らしたのであろう、1256 年に南宋攻略を自らの陣頭指揮によって行うことを決定し、ク
ビライをこの作戦の責任者から更迭してしまった。 1258 年、自ら陝西に入って親征を開始したモンケは、翌 7 月末に重慶を攻略した後、長
江上流から首都・臨安を攻めようとしたが、釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかって 1259
年 8 月に死去した。 皇帝モンケの急死により、モンケの弟たち 3 人が後継者となる可能性が生じたが(図 12
-79 参照)、フラグは遠く中東地域で征服事業を進めている最中であったので、皇帝位を
めぐる争いは次弟のクビライと末弟のアリク・ブケに絞られた。 1188
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1259 年、モンケが病死したとき、モンゴル高原の首都カラコルムの留守を預かっていた
末弟のアリク・ブケは、モンケ派の王族を集めてクリルタイを開き、西部のチャガタイ家
ら諸王族の支持を取り付けて皇帝位に就こうとしていた。 これに対し、モンケとともに南宋へ遠征を行っていたクビライは、軍を引き上げて内モ
ンゴルに入り、東方三王家(図 12-78 の左翼のチンギス・カンの弟の家系)などの東部諸
王の支持を得て、翌年の 3 月に自身の本拠地である内モンゴルの開平府(後の上都。現在
の内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)でクリルタイを開き、皇帝位に就いてしま
った。 アリク・ブケは 1 ヶ月遅れて皇帝となり、ここにモンゴル帝国には東西に二人の皇帝が
並存し、モンゴル史上初めて皇帝位を武力で争奪する事態となった。この時点では、モン
ケの葬儀を取り仕切り、帝都カラコルムで即位したアリク・ブケが正当な皇帝であった。
カラコルムに戻らず、葬儀にも出ず、帝国全土の王侯貴族の支持もなく、勝手に皇帝を称
したクビライは、この時点では反乱軍にすぎなかった。 しかし、最後には武力がものをいうモンゴル世界のことである。クビライとアリク・ブ
ケの両軍は何度となく激突したが、もともとカラコルムは中国からの物資に依存していた
ため、中国を押さえたクビライ派に経済封鎖をされ、劣勢を余儀なくされた。1264 年、ア
リク・ブケはクビライに降伏した。勝てば官軍で、この一連の争乱を勝利者クビライの立
場から、アリク・ブケの乱という。 ○第 5 代クビライ クビライはいよいよ南宋討伐に乗り出した。 1268 年、南宋の漢水の要衝襄陽(現在の湖北省襄樊市(じょうはんし)。古くから交通の
要衝等の重要拠点として大きな都市が形成されていた)の攻囲戦を開始した。南宋を落と
すには、その周辺国も整理する必要があった(図 12-62 参照)。そこで、当時、南宋と通
商していた日本にも既に服属していた高麗を通じ、モンゴルへの服属を求めた。しかし、
日本の鎌倉幕府はこれを拒否したため、クビライは南宋と日本が連合して元に立ち向かう
のを防ぐため、1274 年にモンゴル(元)と高麗の連合軍を編成して日本へ送ったが、対馬、
壱岐、九州の大宰府周辺を席巻しただけで終わった(文永の役)。 1273 年になると南宋の襄陽守備軍の降伏により南宋の防衛システムは崩壊した。元は兵
士が各城市で略奪、暴行を働くのを禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇するなど
して南宋の降軍を自軍に組み込んでいったため、各地の都市は次々とモンゴルに降った。 1274 年旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると防衛システムの崩壊した南宋はもは
や抵抗らしい抵抗も出来ず、1276 年に首都臨安(杭州)は無血開城された。恭帝をはじめ
とした南宋の皇族は北に連行されたが、丁重に扱われた。その後、海上へ逃亡した南宋の
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
遺民を 1279 年の崖山の戦いで滅ぼし、北宋崩壊以来 150 年ぶりに中国統一を果たした。こ
れは中国史上はじめての北からの中国統一であった(図 12-3 参照)。 ○元帝国 クビライは 1260 年に即位し、世祖(せいそ)クビライ・カン(在位:1260~1294 年)と
なった。1264 年に都をカラコルムから大都(だいと。現在の北京)へ移した(図 12-62 参
照)。1271 年には国号も中国風に元(げん)と定めた。 漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設した。中書省には 6 部が置かれて旧来の尚
書省の機能も兼ねさせ、華北の行政を取り仕切る最高行政機関とした。続いて軍政を司る
枢密院、監察を司る御史台などの諸機関が相次いで設置されて、中国式の政府機関が一通
り整備された。 地方には路・州・県の三階層の行政区が置かれた。1267 年から大都の郊外に中国式の方形
様式を取り入れた都城大都の建設を開始した。 南宋を滅亡させてから後の元の軍事遠征はほとんど失敗に終わった。多分、前に述べた
ようにモンゴル軍が強いのは独特の騎馬軍団にあるが、これ以降の征服戦はその強みを発
揮できない戦争だったからであろう。 南宋陥落後の 1281 年には再び日本に対して、(南宋滅亡のあとだったので)今度は旧南
宋の降軍を主体にした軍団と高麗からの軍団が押し寄せたが、今度も失敗に終わった(弘
安の役)。 1289 年にはビルマのパガン王朝を滅亡させ、傀儡政権を樹立させた(図 12-62 参照)。
しかし、ベトナムの陳朝やチャンパ王国、ジャワ島のマジャパヒト王国などへの遠征は現
地勢力の激しい抵抗を受け、大きな成功は収められなかった。 アリク・ブケの乱以来、中央アジアのオゴデイ家とチャガタイ家がカンの権威から離れ、
反フビライの動きをみせはじめた。やがてオゴデイ家のカイドウがクビライの統制を嫌って
西方へ逃れてきた王族たちをかくまう形になり、中央アジア諸王の間で盟主としての地位
を確立した。カイドウは自らの所領に加えてチャガタイ家領、アルタイ方面にあったアリ
ク・ブケ家の 3 つのウルスを勢力下に収めることが出来た(図 12-61 のカイドウ・ウルス)。
その後、フビライはカイドウ討伐を何度か試みたが失敗した。 ○第 6 代ティムール 1293 年、クビライは、クビライの次男チンキム(故人)の三男ティムール(テムル。ク
ビライの孫。図 12-79 参照)に皇太子の印璽を授けた。それから間もなく翌 1294 年 2 月、
クビライは大都宮城で病没した。 その年(1294 年)の 5 月、ティムール(在位:1294~1307 年)は上都で、モンゴル帝国
第 6 代皇帝、大元ウルスの君主としては第 2 代カンとして即位した。彼の治世の 1301 年に
1190
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
カイドウが死去し、1304 年にモンゴル皇帝や西方諸王の和睦が行われてカイドウの乱もおさ
まった。やがてオゴデイ・ウルスとチャガタイ・ウルスとカイドウの王国はチャガタイ・カン
国に変貌した。 こうしてモンケの死より 40 年以上にわたった内部抗争は終結し、モンゴル帝国は東アジ
アの大元ウルス、キプチャク草原のジョチ・ウルス(キプチャク・カン国)、中央アジアの
チャガタイ・ウスル(チャガタイ・カン国)、西アジアのフレグ・ウルス(イル・ハン国)の
4 大政権からなり、もとを統べる大カンを盟主とする緩やかな連合国家に再編された。 ○パクス・モンゴリカ 内陸アジア一帯を支配下におさめたモンゴル帝国は、広大な領域内の交通路の安全を重
視し、その整備や治安の確保につとめた。幹線道路に約 10 里ごとに站(たん。駅)をおき、
官用で旅行する者に対して牌符(はいふ。通行証明書)を発行し、周辺の住民に馬・食料
などを提供させた。この駅伝制はチンギス・カンが創設し,元朝で完備された。これは、
商品の流通を重視したことのあらわれであり、また東西文化の交流にも大きな役割をはた
した。 運河整備と海上交通にも力を入れた。江南の米を大都へ輸送するため江南から大都にい
たる運河を整備した。また、南宋滅亡後、泉州、広州などの都市に市舶司(しはくし)を
おいて海上交通路を掌握した。元代には,西アジアとの海上貿易がさかんで、イスラム商
人の往来も活発化した。 いわゆるシルクロード交易は活況を呈し、元の首都、大都は全モンゴル帝国の政治・経済
のセンターとなり、その繁栄ぶりはヨーロッパにまで伝えられた。モンゴルは関税を撤廃
して商業を振興したので国際交易が隆盛し、モンゴルに征服されなかった日本や東南アジ
ア、インド、エジプト、ヨーロッパまでもが海路を通じて交易のネットワークに取り込ま
れた。 モンゴル帝国の成立で,ユーラシア大陸に政治的安定がもたらされ、東西交通路も整備
されたため、多くの旅行者やキリスト教使節が訪れた。マルコ・ポーロ(1254~1324 年)
はイタリアのヴェネツィアの商人で,1271 年から 1295 年まで東方に行き、大都でフビライ
に仕え、帰国後に『世界の記述(東方見聞録)』を著した。 この繁栄の時代をローマ帝国のもたらしたパクス・ロマーナ(ローマの平和)になぞら
えてパクス・モンゴリカと呼ぶ。 ○元の金融・経済政策 南宋の陥落の前から、フビライはアフマドらムスリムの財務官僚を登用し、専売や商業
税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積される
1191
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
システムを作り上げ、モンゴル帝国の経済的な発展をもたらした。その金融・経済政策は
モンゴル帝国独特であった。 元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済
をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興することで達成
された。すなわち、塩の国家専売による莫大な収入と、経済センターとして計画設計され
た都、大都に集中する国際的な規模の物流からあがる商税が国庫を支えた。 元の商税は銀納で、税率はおよそ 3.3%に定められた。元の商税設定の特徴は、都市や港
湾を商品が通過するときにかけられていた関税を撤廃し、最終売却地で、売却時に商税を
支払えばよいようにした点にあった。こうして物流に伴う関税の煩雑な手続きが避けられ
るようになり、しかも実質税額が低く抑えられたので、元では遠隔地交易が活性化し、国
庫に入る商税の総額は非常に莫大なものとなった。 中央政府のもう一つの収入源が専売制度だった。 中国では北宋代には会子と呼ばれる紙幣が、モンゴル帝国でもオゴデイの時代に交鈔(こ
うしょう)と呼ばれる紙幣が流通していた。元ではクビライが即位した 1260 年に中統元宝
交鈔(中統鈔)という交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨として
の価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割
しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。 交鈔は金銀との兌換(交換)が保障されており、包銀の支払いも交鈔で行うことが出来
るようにして、元は紙幣の流通を推し進めた。その上に、元では塩の専売制を紙幣価値の
安定に寄与させるように運用した。生活必需品であった塩は、政府によって独占販売され
ていたが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできな
かった。ということは、紙幣は政府によって塩との交換が保障されているということであ
った。 塩の生産は常に行われているので、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら
行っても政府の兌換準備額は減少しない。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳
入額を保障として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は
進みにくい構造が保たれたのである。 さらに塩の専売制はそれ自体が金融政策として機能した。中国では政府の製塩所で生産
された塩を民間の商人が購入するには、塩引と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とさ
れたが、塩引は塩と交換されることが保障されているため、紙幣の代用に使うことが出来
た。宋では銭貨によって販売されていた塩引を、元ではこれを発展させて、銀・交鈔によっ
て販売した。こうして塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の
額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。 1192
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○王族・貴族がもうかる経済政策 このように塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させること
によって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と商税を銀単位で徴収したことにより、
元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められた。こうして
蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、
少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われた。 元では功臣たちには毎年必ず下賜があり、それ以外にも臨時の下賜があった。この総額
が専売で得られた利益の 2 割にも達したと見られている。王族に対する下賜は、遠く西方
の諸王にまで下されていた。 チンギスの時代の君主は、戦争による略奪をもたらしてくれる軍事指導者であることが
求められていた(したがって、まず、勝たなければならなかった)。元においては、南北
が統一され、いまや戦争による略奪はあまり期待できない時代となった。フビライの元に
なってからは、まず何よりも富を集め、貴族・王族たちに再分配する能力と気前が求められ
る存在に変化していた。皇帝の独裁政権である元の統一を保ち、元を宗主とするモンゴル
帝国の緩やかな連合関係を保つために下賜は不可欠な事業であり、そのために富を集積で
きる経済政策をとることは必要不可欠なことだった。 そして皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトク(共同事業)に投資し、国際交易に
流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこから上がる利益の一部が商税となっ
て再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていた。このようにモンゴル帝国は前半は戦争・略奪
で国が成り立ち、後半の元の時代には商売によって皇族・貴族がもうけることによって国が
成り立っていた。 遊牧民は生活において交易活動が欠かせないため、モンゴル高原には古くからウイグル
人やムスリムの商人が入り込んでいたが、モンゴル帝国になって、モンゴル人の支配者層
はウイグル人やムスリムを統治下に入れ、オルクトと呼ばれる共同事業に出資して利益を
得た。モンゴル人の支配層は国家権力で税金を集めること、ジャムチ(駅伝制)の整備、
運河などの整備、ユーラシア全域をおおう平和な商業環境を整えることが仕事であった。
ウイグル人やムスリムはそれに乗っかってかせぐことが仕事だった。 このように、専売制による歳入は元の経済政策の根幹に関わったため、密売は厳しく禁
止された。しかし、14 世紀に入ると、中央政治の弛緩は塩の密売や紙幣の濫発による信用
の喪失を招き、紙幣の価値が暴落した。この結果、元の金融政策は破綻し、交鈔は 1356 年
に廃止された。中央政府のもうける仕組みが破綻した元の国家は、金の切れ目は縁の切れ
目のとおり、崩壊するのに時間はかからなかった。 1193
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
が、ここでは省略する(本文には記した)。 ○元から北元へ 1307 年、ティムールが皇子を残さずに死ぬと、モンゴル帝国で繰り返されてきた後継者
争いがたちまち再燃し、皇帝の座をめぐって母后、外戚、権臣ら、モンゴル貴族同士の激
しい権力争いが繰り広げられた。ティムールの死後、1333 年に 14 代トゴン・ティムール(図
12-79 参照)が即位するまでの 26 年間に 7 人の皇帝が交代する衰亡期を迎えた。まさに、
3 世紀のローマ帝国の軍人皇帝時代と同じ状態になったということである。ようやく帝位が
安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって死にたえ、そして誰もいなくなっ
たからだった。 1348 年、浙江の方国珍が海上で反乱を起こしたのを初めてとし、全国で次々と反乱が起
き、1351 年には白蓮教徒(念仏を主体とする浄土宗の一派)の紅巾党(紅い頭巾を軍の標
識としていた)が蜂起した。やがて、紅巾党の中から現れた朱元璋が他の反乱者たちをこ
とごとく倒して華南を統一し、1368 年に南京で皇帝に即位して明を建国した。 朱元璋は即位するや大規模な北伐を開始して元の都、大都に迫った。ここに至ってモン
ゴル人たちは最早、中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368 年に元の皇帝トゴン・
ティムール(第 14 代皇帝在位:1333~1370 年)は大都を放棄して北のモンゴル高原へと退
去した。 一般的な中国史では、トゴン・ティムールの北走によって元朝は終焉したとみなされて
いるが、トゴン・ティムールのモンゴル皇帝政権は以後もモンゴル高原で存続した。そこ
で 1368 年以降の元朝は北元と呼んで、これまでの元と区別されている。しかし、トゴン・
ティムールの死後、その 2 人の子供が相次いで皇帝になったが、相次いで殺され、1388 年
にクビライ以来の直系の王統は断絶した(図 12-79 参照。北元ではその後もチンギスの子
孫を称する者たちが元の君主としてモンゴルには立ち続け、元が最終的に終焉を迎えたの
は 1636 年であった)。 その後も東はモンゴルから西はイラクまで大小さまざまなモンゴル帝国の継承政権があ
り、その政治・社会制度の残照はそれよりはるか後の時代になってもユーラシアの広い地域
でみられた。 【12-4-8】明王朝(1368~1644 年) ○明の建国 明王朝は、図 12-3 のように、再び南の漢民族がたてた王朝だった。 明を興した朱元璋(しゅげんしょう。1328~1398 年)は、1328 年に濠州の鐘離(現在の
安徽省鳳陽県)の貧農の家の末子に生まれた。元末の政治混乱に伴い飢饉凶作が頻発して
1194
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
いて、朱元璋の家族は食べるものもなく飢え死にした。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身
を寄せ托鉢僧となり、淮河流域で勧進の旅を続けながら辛うじて生きのびた。 1351 年、朱元璋はいくつかあった紅巾軍のひとつである濠州で挙兵していた郭子興のも
とに身を投じ、1355 年、郭子興が死去し、朱元璋は郭子興の軍を受け継いだ。1356 年、集
慶路(現在の南京)を占領し、応天府と改め、長江下流の一大勢力となった。1367 年に蘇
州の張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。 1368 年 1 月、南京(金陵)で朱元璋は即位し、国号を明(1368~1644 年)とした。また、
年号をたてて洪武(こうぶ)といった。これが明の太祖洪武帝(こうぶてい。在位:1368
~1398 年)であった。一世一元の制が定められ、こののち年号で皇帝を呼ぶならわしとな
った。 直ちに北伐を開始したが、同年 8 月に元の順帝は抵抗を諦め北方へ逃走したので、明軍
は大都(北京)を占領した。明の統一は成功し、漢民族による中国支配が復活した。モン
ゴルに逃れた元は以後、北元といい、モンゴル系部族はタタール(韃靼。だったん)と呼
ばれた。 ○洪武帝の政治 洪武帝の政治の方針は、モンゴル的な要素をなくして中国の伝統的文化を復興させるこ
とを方針とし、宋以来の皇帝独裁体制を強め、中央政権の確立をはかった。元代から最高
行政官庁となった中書省と宰相を廃止し、六部(りくぶ)を皇帝に直属させて、皇帝親政
の体制をつくった。また軍も皇帝直属とし、宦官の専横を抑えるために宦官は学問をして
はならないという布告を出した。中央・地方とも、行政・軍事・監察の 3 権を分立、それぞ
れの長官を皇帝に直属させた。 実情にあわなくなった律令を改編して新たに明律(大明律)・明令(大明令)をつくり、
民衆支配の強化と国家体制の確立をはかった。明律、明令はともに清朝に受け継がれた。 軍制については、兵士を出す軍戸を農民などの民戸から厳格に区別し、軍戸の兵士は家
族とともに兵簿(へいぼ)に入れて世襲とし、これを衛所制(えいしょせい)という独自
の軍制に組織した。 中央集権体制を維持するため、農民の統制に気を配り、財政の確保と地方末端への権力
の浸透をはかった。1381 年に全国一斉に魚鱗図冊(土地台帳)、賦役黄冊(ふえきこうさつ。
戸籍台帳)を作り、里甲制(村落の自治的行政制度)を実施した。 民間人の交易禁止と沿岸防衛(とくに倭寇対策)のために海禁政策(自国民の海外渡航
を禁止する政策)をとり、政府管理の朝貢貿易のみを進めた。 1195
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
総じて、元朝の自由放任的な政策のもとで貧困農民を犠牲にして繁栄していた都市や先
進地域中心の社会経済に対し、洪武帝は強い引き締め政策をとった。それは農民保護政策
であるとともに、農村の秩序を根底から規制しようとする強力な風俗統制策でもあった。 洪武帝は重農政策を打ち出し、大商人を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地
の開拓地への強制移住などを行った。一方で 1380 年には不当な商税を廃して、生活必需品
を扱うような零細な商人の保護も行っている。 ○度はずれの恐怖政治 洪武帝は貧民出身であるから、一見、儒教的正統主義を取り「天命を受けた仁義ある君
主」のイメージを売り込み、下層民に理解があるような言動をとっていたが、実際には彼
の猜疑心は異常で、臣下に対する恐怖政治となって現れた。 1376 年の「空印の獄」では行中書省の地方官吏がささいなことから数千人処刑された。
さらに 1380 年には中書省長官・胡惟庸(こいよう)が謀反の罪で逮捕処刑された胡惟庸の
獄では、1 万 5000 人が処刑された。1385 年には戸部侍郎の郭桓が不正経理を行ったとして
死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件(郭桓事件)で、殺されたもの
は数万にのぼったといわれている。以後の事件は省略するが、なぜ、大量のほとんど関係
ない低い身分の官吏までが処刑されたのか、わかっていない。これが専制独裁政治である
といっても、洪武帝の場合は度がすぎていた。 明の時代の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを
恐れるようになった。いずれにしても、これらの獄が終わったとき、明の建国の功臣はほ
とんど残っていなかった。 ○靖難(せいなん)の変 1398 年、洪武帝は亡くなった。洪武帝の後を継いだのは、彼の長男(故人)の息子、建
文帝(在位:1398~1402 年)16 歳だった。洪武帝には 26 人の男子があったので、全国の
要地に分封されていた。ところが、2 代目の建文帝の直面した最大の難題は、兵権を握って
各地に分封されている多数の叔父たちの処遇であった。建文帝が側近の進言をいれて削藩
(諸王の封地の取り潰し)の方針を決め、5 人の王を廃絶したが、6 番目になったとき、北
平(現在の北京)の燕王と建文帝との緊張は急速に高まっていった。燕王は、洪武帝の子
供たちのうち、もっとも有能で武勇に優れていると評価されていたのである。 1399 年、燕王の謀反準備を理由として逮捕命令が出されたら、燕王は挙兵した。これを
「靖難(せいなん)の変」という。燕王が「君側の難(悪)を靖(清)める」をスローガ
ンとしたことによる。1401 年末、燕王は全軍を率いて北平を出発、1402 年 6 月、燕王は南
京を落とし入れ、建文帝は宮殿に火を放って自殺した。当初、優勢であった政府軍が敗北
1196
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
した理由の一つに洪武帝時代の度重なる大量粛清で有能な将軍がいなくなっていたことが
上げられている。 ○第 3 代永楽帝の政治 燕王は 1402 年 7 月に皇帝の位につき、新しい年号を永楽(えいらく)と定め(永楽帝。
在位:1402~1424 年)、北平(ほくへい。現在の北京)への遷都を決定した。永楽帝は武力
的には勝利したが、大義名分論が厳しい中国では、簒奪者の汚名がつきまとった。 建文帝の側近であった儒学者たちは前皇帝に殉じて自殺したり、逮捕されて新皇帝に従
うことを拒んで殺されたりした。当代随一の学者とされた方孝孺を懐柔しようとした永楽
帝は方孝孺の親類縁者 873 人を彼の面前で 1 人 1 人処刑したが、ついに翻意させることは
出来ないまま、彼を死刑にしたという。永楽帝は簒奪者のうえに残虐な暴君という汚名の
上塗りをすることになった。 そこで永楽帝は建文帝の存在(在位は、1398~1402 年の 4 年間)そのものを抹殺しよう
と、建文の年号を取り消し、永楽帝は直接に洪武帝を継ぐ第 2 代の皇帝として、約 200 年
間、まかり通った(明末になってから建文の元号が復活された)。永楽帝は歴史の改ざん
者という汚名もいただくことになった(その後の専制独裁者もよくやったことではあるが)。 出だしでつまずいた永楽帝は、皇帝直属の錦衣衛(きんいえい。明朝の秘密警察・軍事
組織で、禁衛軍の 1 つ)に建文帝に関する言動を監視させた。また東廠と呼ばれる宦官の
組織をつくり諜報活動を実施させた。洪武帝が行った異常な恐怖政治を永楽帝も自らの簒
奪を隠蔽するために実施するようになってしまった。 ○鄭和の南海遠征隊 永楽帝が行った政治で最も有名なことは鄭和(1371~1434 年)の南海遠征隊の派遣であ
る。これは 1405 年の第 1 次から、1433 年の第 7 次まで 7 回行われた。 永楽帝は洪武帝と同じく、海禁令を継続しているので、鄭和の海外派遣の名目は朝貢貿
易を促進するためということになる。つまり、世界が明の権威を認め、朝貢に来るように、
うながすことが鄭和の海外派遣の目的であった。 鄭和の遠征隊は、1405 年 6 月、永楽帝の命により第 1 次航海へ出発した。『明史』によ
れば長さ 137 メートル、幅 56 メートルという巨艦であり、船団は 62 隻、総乗組員は 2 万
7800 人に上った。蘇州から出発した船団は図 12-81 のように、チャンパ→スマトラ→パレ
ンバン→マラッカ→スリランカ→1407 年初めインドのカリカットに到着した。これらの
国々に寄港して明への朝貢を求め、南方の様々な物産を持ち帰ったようである。この航海
により、それまで明と交流がなかった東南アジアの諸国が続々と明へ朝貢にやってくるよ
うになった。1417 年の第 5 次はアフリカ東岸のマリンディにまで到達し(図 12-81 参照)、
1197
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1419 年に帰国したときには、ライオン、キリン、ヒョウ、ダチョウ、シマウマ、サイなど
を連れ帰っている。 図12-81 鄭和艦隊の航海ルート 鄭和の艦隊はほとんど武力を使うことなく、朝貢貿易の促進という目的は果たし、寄港
した各地の港でも鄭和の評判は非常に高く、ジャワ、スマトラ、タイには三宝廟(三宝は
三保つまり鄭和のもとの名)が建立されて祀られている。この大航海はヨーロッパの大航
海時代に 70 年ほど先んじての大航海であり、非常に高く評価されているが、その後、あい
かわらず、海禁令のもとにあり、高い技術力や多くの成果は、民間貿易などに生かされる
ことはなく、消し去られてしまった。 なぜ、明がその高い技術力を生かして海外発展をしなかったかということについては、
事なかれ主義になってしまった明の保守的な官僚が鄭和の経験や成果を抹殺したからであ
るといわれている(中国官僚が保守的になった理由は宋のところで述べた)。 しかし、鄭和の南海遠征で、中国人の南海に関する知識が深まると、密貿易に従事したり、
国内の生活苦から、海禁をおかして南方各地に移住したりする者がふえた。これが、今日
まで東南アジアに多い中国系住民、つまり華人(華僑)のおこりで、以後、増加の一途を
たどった。 ○土木の変 この永楽帝の子供・第 4 代仁宗洪熙帝(こうきてい。1424~1425 年)と孫・第 5 代宣宗宣
徳帝(1425~1435 年)の 2 代に明は国力が充実し、最盛期といわれている。これを 2 代の
皇帝の名から「仁宣の治(じんせんのち)」という。 1198
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
宣徳帝の後を継いだ第 6 代英宗正統帝(在位:1435~1449 年、1457~1464 年)のときに、
異変が起きた。 北方モンゴルのオイラート部は、遊牧国家の常として、その経済を交易に依存しており、
中国の物産を安定的に入手することがもはや不可欠であり、もともと明との間で朝貢貿易
を盛んに行っていた。しかし、朝貢貿易においては、朝貢の恩賞の名目で与えられる金品
の量は使節の人数に比例するが、オイラートは 50 人の定数をこえて送り込むようになって
いた。 年々多く送り込むようになり、1448 年はついに 3600 人に達したが、明は実際に与える恩
賞は 3600 人の 2 割程度に減らした。その他にオイラート部の首長エセンと明の皇女との結
婚の約束は、単に明の通訳が適当に言っていただけであったということがわかり(明の朝
廷に完全に否定され)、エセンは面目丸つぶれとなった。 1449 年 7 月、エセンは名目上の主君であるモンゴルの大カン、トクトア・ブハと共同し、
陝西・山西・遼東の 3 方面から明領に侵攻を開始した。中央の軍・騎兵 2 万を率いたエセン
は山西の大同へ軍を進めた。 当時、明朝で権勢を掌握した宦官の王振は朝廷の群臣の反対にもかかわらず、22 歳の皇
帝英宗に対し、出陣を勧めた。そして王振を総司令官とし、約 50 万の大軍が急遽、召集さ
れ、多数の高級将校と高級官僚からなる軍隊が構成された。。 これが宣府(現在の河北省)の土木堡(図 12-82 参照)で野営しているところをエセン
の軍に襲われ殲滅させられた。明軍のすべての高級将校と官僚は殺された。すべてを独断
専行した王振は部下の将官に殺された。英宗は捕縛されエセンの陣営に連行された。エセ
ンはもともと明を滅ぼす気はなかったので、明朝廷に皇帝の身代金を要求し、より有利な
条件で講和を結ぼうとはかった。これを「土木の変」という。 皇帝捕縛の報が伝わると、兵部尚書(兵部の次官)于謙(うけん)らは英宗の弟を皇帝
に擁立し、景泰帝(けいたいてい。在位:1449~1457 年)とし、英宗を太上皇とし、危機を
乗り切ろうとした。また、于謙らは、皇帝の身柄のためにオイラート部に譲歩すれば明の
存亡にかかると考え、身代金の支払いを拒否した。エセンは再び明へと侵攻し北京を包囲
した。北京の住民は城塞を固く守り通した。 明の朝廷は、大カンのトクトア・ブハ・ハーンらエセン以外のモンゴル高原の有力者に
働きかけ、エセンを孤立化させた。翌年、エセンは英宗を無条件で明へ帰し、不利な条件
での和平と明との貿易再開を受け入れた。 これをきっかけに大カンとエセンの関係は悪化し、エセンはトクトア大カンを殺し、1453
年に自らカンを称したが、翌年に部下に滅ぼされた。 1199
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
釈放されて明に帰った上皇にされた英宗は実質的な政治的権力はなく、監禁状態にあっ
たが、1457 年、景泰帝の病臥に乗じ、部下を使い、タタール来襲の虚報で夜間に諸門を制
圧し、自ら再び帝位につき、天順帝と称した。これを「奪門の変」という。そして土木の
変で国家存亡の危機をすくった于謙、王文、太監王誠を処刑した。病床にあった景泰帝も
幽閉されて間もなく死去した(暗殺説もある)。 図 12-82 明代の中国 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 ○万里の長城の建設 土木の変の衝撃によって、明の対モンゴル政策はますます守備重視となった。オルドス
地域(黄河が大きく北方に湾曲している部分)から内地への侵入を防ぐため、図 12-82 の
ように、明は急遽この地域に 1200 キロメートルに及ぶ新たな土塁の長城を建設した。さら
にその東方の長城にも補修を加え、東は河北省山海関から西は甘粛省嘉峪関(かよくかん)
に至るまで切れ目のない長城を完成させた。二重になった部分などを入れれば 5000 キロメ
ートル近くに達し、万里という呼称はあながち誇張ではなくなった(明代の 1 里は約 600
メートル)。現在長城として残っている城壁は、ほぼこの明代に作られたものである。清
1200
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
代にはその支配地は長城のはるか北方まで広がっていたので、長城は無用の長物(長城)
となったが、現在は世界遺産となっている。 ○明の官僚制と科挙 明代は官僚の給与が低く、歴代でも最も官僚が不遇だった時代といわれていても、科挙
は高級官僚そして支配者階級への道であったから、相変わらず全国の子弟が殺到した。明
代では科挙を受験するには国立学校に所属する必要があった。彼らは生員と呼ばれた。官
僚になりたがる人数は非常に多く、生員(生員になるには試験があった)だけで 50 万もい
たと言われている。それに対して合格するのは毎回 3~400 人であり、何度も受験している
間に白髪になってしまった者もいたと言われている。とにかく世界一狭き門であったのは
確かである。 そして、この科挙に合格するということは、彼は一般庶民より優れた徳をもつ人間とい
うお墨付きをもらったことになった。その優越性は彼が生きているかぎり彼のものであっ
て、彼が実際に官僚になることはなくとも、また官僚をやめて引退した後でも彼を離れる
ことはなかった。明清時代の中国では、官僚経験者または科挙資格保有者を指して「紳士」
「郷紳(きょうしん)」といった語が使われたが、彼らは地方の有力者として徭役の免除
などの特権を与えられ、また交際の儀礼においても一般庶民と異なる一段高い身分の者と
見なされた。 しかし、当時の高級官僚やその経験者は決して高潔な人間ではなかったようである。「陞
官発財(しょうかんはつざい)」(官僚になって一財産作る)と中国人がよくいうように、
一般的にいって中国では、よほど清廉潔白の評判に執着する人でもない限り、官僚になる
ことは財産をつくることと不可分に結びついていたといわれている。これは時代的な波が
あったともいわれている。 弘治年間(1488~1505 年)以前には、高級官僚になった人でもその財産は一般人の 10 倍
程度で、引退後の生活も生員時代と変わらなかった。正徳年間(1506~21 年)以後、官僚
は競って利益を追求し、10 万両以上の財産を築くようになったという。もっとも、明末の
大商人の蓄財はもう一桁大きかったようである。長江以南の新安の大商人は、魚や塩を扱
い、100 万両もの財産をもつものがいたという。ここで 100 万両という金は、米価を基準に
換算してみると、現在の日本円で 600~700 億円程度になるという。官僚はその 10 分の 1
であるから 60~70 億円の財産を築いたことになる。現在の感覚からは、やはり、これは問
題であるといわざるをえないようだ。 ○明の衰退 16 世紀のはじめに 15 歳で即位した第 11 代正徳帝(在位:1505~21 年)は、父の喪も明
けないうちから皇太子時代から近侍していた宦官たちと狩や音曲などの遊びに耽っていた。 1201
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
16 世紀以降の正徳帝以後の皇帝たちは、政務を顧みず逸楽を追求した愚昧な側面でよく知
られている。16 世紀に入ると、大航海時代となり、世界は大きく動き始めていた。このよ
うな国際的な動きに明政府はまったく無関心、無頓着であった。 明政府の統治力の衰退とともに、中国の地方において、国際交易の利益を吸い上げ、強
大な軍事力を擁して、独立王国のごとき勢力を築き上げるものが出てきた。北方において
は、モンゴルや女真に対する防衛のために派遣された軍人が、往々にしてこのような軍閥
に成長していったが、その代表的な例が、遼東で 30 年近くにわたり勢力を振るった李成梁
(りせいりょう。1526~1618 年)だった。 李成梁は遼東に投下される国家の経常軍費数十万両の半分近くを横領し、また馬市で取
引される馬の価格や塩税・商税などで私腹を肥やしたとされる。さらに李成梁は、その頃、
侵入の激しかった女真族に対する防御に当たることが本来の役割であったが、彼は女真族
を積極的に遼東に入れて彼らのパトロンとなって、彼らからも利益を得ていた。 建州部出身で急速に頭角を現してきた建州女真のヌルハチ(1559~1626 年)は、遼東に
おける当時最大の商品である貂(てん)の毛皮と薬用の朝鮮人参を握って商業利益を得た
首長の一人であった。そして、遼東の市場を支配して彼らの就業活動を保護するとともに
利益の上前をはねた李成梁は、いわばヌルハチのパトロンとも言うべき存在であり、両者
は共生関係にあった。 そのうちに、ヌルハチは女真の中の大勢力となり、1589 年には建州女真 5 部を統一した
(図 12-82 参照)。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えた。李成梁は、
ヌルハチを左都督、龍虎将軍といった地位・称号を与えて彼をバックアップした。ヌルハチ
は、李成梁の庇護の下に、着々と女真諸部の統合を進めた。 ○後金の建国 1616 年、ヌルハチは、貴族や重臣により、女真諸部族の長として「ゲンギェン・ハン(聡
明なるハン)」の称号を奉られ、国号を金とした(在位:1616~1626 年。かつての金朝と区
別するため後金(こうきん)という)。同年、図 12-83 のように、ヌルハチは撫順、清河 を陥落させ、1621 年には遼河以東の最大拠点遼陽・瀋陽を落とした。ヌルハチははただちに
遼陽に遷都した。 1626 年、連戦連勝のヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとした
が、明の将軍・袁崇煥(えんすうかん)の大量のポルトガル製大砲に満州軍は散々に討ち
破られ、ヌルハチも大砲で傷を負い、これが原因で死去したとも推測されている。ヌルハ
チのあとは、第 8 子ホンタイジ(皇太極。在位:1626~43 年)が継ぐことになった。 ○清の建国 1202
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1636 年、ホンタイジは「大清」の国号を定め、あわせて改元を行って崇徳とし、正式に「皇
帝」の位についた。この即位は、満州人、モンゴル人、漢人それぞれが即位を願う上奏文を
ホンタイジに奉り、それをホンタイジが受け入れるという形で行われた。 図 12-83 1621 年ごろの遼東地方略図 中央公論社『世界の歴史12』 儀式は一貫して、新たな皇帝が満・蒙・漢三者の共同の君主であることを強調するもので
あり、単なる女真族の王朝たる金の後継者という意味を込めた国号「金(後金)」を廃止
し、新たに「清」という国号を採用し、即位し直したのも、多民族を包含する大帝国を目指
す彼の意欲を示していたといえよう。このように、1644 年の明朝滅亡に先立って、多民族
国家清朝の基盤はすでに据えられていたのである。 1637 年、ホンタイジは朝鮮を親征してこれを討ち、東北部を完全に掌握した。次にホン
タイジは明の領内への侵攻を目指したが、要衝・山海関の守りは堅く、明の征伐を果たせ
ぬまま 1643 年に急死した。 ○明の滅亡 周縁部の自立勢力の成立によって明の支配は外側から解体しつつあったが、明朝を直接
に倒したのは(中国の王朝末期ではいつでもそうであるが)、内陸部の困窮する農村に根
をもつ農民反乱軍であった。 1628 年 7 月、陝西省東北部延安府の府谷(ふこく)県で王嘉胤(おうかいん。生年不詳
~1631 年)が起こした反乱は、陝西各地に広がった。その最大の首領となった李自成(り
じせい。1606~1645 年)と張献忠(ちょうけんちゅう。1606~1646 年)は、いずれも、陝
西省東北部延安府の出身であった。1639 年から 42 年頃まで続いた連年の全国的な飢饉が、
反乱を拡大させ、反乱軍が官軍を圧倒するようになってしまった。 1203
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1644 年 3 月、李自成は 40 万の大軍を率いて北京に迫った。当時、明の朝廷では南遷の議
も出されていたが、第 17 代皇帝・崇禎帝(すうていてい。在位:1628~1644 年)は決断で
きないまま、この大軍を迎えることになった。崇禎帝は 3 月 19 日未明、手ずから鐘を鳴ら
して百官を集めようとしたが、1 人も集まらなかった。皇帝は妻妾や娘たちを自らの手で殺
傷し、紫禁城裏手の山で、自ら木に首をつって自殺した。 北京に入城した李自成は城内に残っていた明の官僚たちを出頭させ、高級官僚を監禁殺
害し、下級官僚を新政権の官僚に任命した。 ここまで様子を見ていた当時山海関の外で清軍と対峙していた明の将軍・呉三桂(ごさ
んけい。1612~1678 年)は、急遽、清軍と講和し、李自成討伐の援助を清軍に請うた。清
側は前年にホンタイジが亡くなり、その第 9 子福臨が 6 歳で跡を継いでいた(のちの順治
帝)。摂政王として実権を握っていたのは、ヌルハチの第 14 子で順治帝の叔父に当たるド
ルゴン(1612~1650 年)であったが、彼は呉三桂の要請を受け入れ、自ら軍を率いて征服
の途についた。 清軍は「仁義の軍を率いて流賊を滅ぼす」という大義名分を得て、意気揚々と、呉三桂に
山海関内に導き入れられ、迎え撃ってきた李自成軍に大勝し、北京に向けて進撃した。 1644 年 5 月、清の軍隊が北京を占領したあと、9 月には福臨が北京に入城し、皇帝とし
て改めて即位式を行い、初代順治帝となり、年号を順治と定め、北京への遷都を宣言した。
ここに清朝は、明朝を継ぐ中国正統の王朝であることをあらためてアピールしたのである。
それにともない、数十万の満州人たちが北京へと移動してきた。 【12-5】中国周辺の国々 【12-5-1】朝鮮 ○統一新羅時代 朝鮮については、新羅と唐は、羅唐同盟を結び、660 年に百済を、668 年に高句麗を滅ぼ
して、朝鮮半島を統一して、統一新羅が成立したところまで、朝鮮の古代史で述べた。 その後、唐は、百済の地に熊津都督府(ゆうしんととくふ)を、高句麗の地に安東都護
府を、さらに新羅も鶏林大都督府を設け、新羅の文武王自身も鶏林州大都督とし、朝鮮半
島全体を支配しようとしたので、新羅と唐は対立するようになり、羅唐戦争(らとうせん
そう)となった。 この 670 年から 676 年に行われた新羅と唐の戦争で、新羅軍は唐軍を破り,新羅の勝利
に終わり、唐は朝鮮半島から撤退した。この結果、新羅が朝鮮半島の三国統一をはたした。 新羅は朝鮮半島統一後、唐に対して謝罪外交をする一方、引き続き唐との小競り合いが
続いたので関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。しかし、図 12-
1204
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
84-①のように、698 年に渤海が建国し、唐との間に戦端が開かれると、唐と新羅は国境線
を接しなくなった。 図 12-84 8~15 世紀の朝鮮 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 732 年、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃し、唐と新羅の関係は和解へと向かい、735
年に唐から冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。 780 年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位纂奪や王都内での反
乱が頻繁に発生するようになった。また骨品制(こっぴんせい)という身分制度により、
新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せてきた。 地方の村主や王位継承に破れて地方に飛び出した王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を
伸ばし、新興の豪族として勃興し、地方で頻繁に反乱を起こすようになった。 その中でも有力な勢力であった農民出身の甄萱(けんけん)が 892 年に南西部に後百済
を、新羅王族の弓裔(きゅうえい)が 901 年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入っ
た(図 12-84-①参照)。 その中で後高句麗の武将であった王建が 918 年に弓裔を追放して建てた高麗が勢力を伸
ばし、935 年に最後の王・敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順したことにより新羅は滅亡した。 ○渤海の興亡 高麗について述べる前に、696 年に建国した渤海について述べる。 渤海(ぼっかい。698~926 年)は、図 12-84-①のように、高句麗遺臣と遺民が新羅の
北方に建てた国であった。668 年の高句麗滅亡後、高句麗の遺民たちは唐によって営州(現
在の遼寧省朝陽市)に強制移住させられていた。690 年に唐で武則天が即位すると、唐内政
が混乱した。この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。 1205
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
この混乱に乗じて、高句麗遺民らは、靺鞨人(まつかつじん)指導者・乞乞仲象(きつ
きつちゅうしょう)の指揮の下に 696 年に営州を脱出し、その後、彼の息子大祚栄(だい
そえい)の指導の下に高句麗の故地に帰還し、698 年に東牟山(現在の中国吉林省延辺朝鮮
族自治州敦化市(とんかし))に都城を築いて震国を建てた。大祚栄は唐(武周)の討伐
をしのぎながら勢力を拡大し、唐で 712 年に玄宗皇帝が即位すると、713 年に唐に入朝する
ことで独立を認めさせることに成功し、「渤海郡王」に冊封された。 また唐・新羅・黒水靺鞨(こくすいまつかつ。中国東北部に存在した遊牧狩猟民族)と
対抗するために日本へ使者を送った。これは軍事的な同盟の用はなさなかったものの、毛
皮などが交易された。この交流は渤海滅亡まで続き、計 34 回使者が行き来した(渤海使・
遣渤海使)。 第 10 代王・大仁秀(だいじんしゅう。在位:818~830 年)が即位すると渤海は中興し、 遼東半島などをのぞいて旧高句麗の領土をほぼ回復し、「海東の盛国」と称されるように
なった。 10 世紀になり唐が滅びた後、西のシラムレン川流域において耶律阿保機(やりつ あぽ
き)によって建国されたキタイ(契丹国。のちの遼)の強い圧迫を受け、渤海は 926 年に
滅亡した。契丹は渤海の故地を統治すべく東丹国(とうたんこく)を設置して支配したが、
貴族をはじめとする領民が大挙して高麗に亡命して 930 年に自然消滅した。 ○高麗 918 年、新羅末期・後三国時代の群雄の一人で、後高句麗を建国した王・弓裔(きゅうえ
い。在位:901 年 ~ 918 年)の部下らは、弓裔を排除して王建(在位:918~943 年)を新
たな指導者として擁立した。 王建は、松岳郡に遷都し、郡を開州に昇格させ、高句麗の後継者を自称して国号を高麗
(こうらい。918~1392 年)と定め(図 12-84-②参照)、年号を天授と定めた。都は開
城(現在の北朝鮮・開城市(けそんし))であった。 926 年に北方民族契丹の遼(916 年成立)が渤海を滅ぼすと、高麗は高句麗時代の版図を
取り戻す北進政策の一環として渤海遺民を吸収し、鴨緑江以南を支配した。これにより現
在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の西部を合わせた地域を版図とした。 935 年、新羅最後の王敬順王(金傅)が高麗に帰順した。高麗は 936 年に後百済を滅亡さ
せ、朝鮮半島を統一した。 《両班制の成立》 高麗は新羅と同じく唐や宋の制度をとりいれ、官僚を科挙で採用し(文班のみ)、文臣(文
班)と武臣(武班)の 2 つの班からなる両班制(ヤンパンせい)をしき、両班には国から
1206
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
耕作地(田畑)と燃料採取地(柴田)とを地位に応じて支給する田柴科制度(でんさいか
せいど)がとられた。 文班(文臣)は、958 年から科挙制度を採用し、科挙の合格者を官吏として登用する制度
を取った。しかし、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれる蔭叙が行われ、当初
から上級官僚の貴族化を促していた。 武班(武臣)は、基本的に世襲制もしくは兵士からの選抜制になっており、後の軍隊の
私兵化の温床となることになった。高麗時代の両班はこのような官僚機構を指す言葉で、
のちの(李氏朝鮮時代の)両班制度とはやや意味合いが異なっていた。 《契丹(遼)と女真との抗争》 高麗は、中国大陸の戦乱(五代十国)が宋(960 年建国)によって統一される気運となる
と、さっそく宋に朝貢した。しかし、宋は漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制す
る力はなく、遼(契丹)は急速に高麗との国境まで版図を広げ、さらに 993 年から朝貢を
求めて高麗に大規模な侵入を行ってきた。高麗は何度もこれを撃退し、1020 年に講和を結
び、1022 年に高麗は遼の年号を用いて朝貢した。 その後、高麗に接した地域では女真が台頭した。高麗は、遼とともに女真が脅威となっ
たため、1033 年から 1044 年にかけて、北部国境に半島を横断する長城を築くなどして抵抗
した(図 12-84-②参照)。女真の台頭は著しく、1115 年に金を建て、1125 年に遼を滅ぼ
した。そのため高麗は、翌 1126 年に金に朝貢した。その後、金は中華帝国となるべく、宋
への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けずに済んだ。 《庚寅の乱(こういんのらん)》 高麗は、王族と門閥貴族である文臣が国を支配する構造になっており、武臣は文臣の下
に置かれていた(この文臣と武臣の上下関係は李氏朝鮮でさらに徹底された)。これら文臣
による武臣の押さえつけに反発した武臣たちが、1170 年に反乱を起こし、文臣を大量に殺
す事件が発生した。これを庚寅の乱(こういんのらん)という。 この後、武臣勢力が新王を擁立し政権を掌握した。これは、武臣による宰相職兼任と武
臣による軍隊の私兵化・軍閥化を促した。その頂点に立ったのが 1194 年から始まる崔氏政
権であった。崔忠献(さいちゅうけん。1149~1219 年)は、武臣同士の内紛を制して 1194
年に政権を掌握し、独裁体制を固め、高麗が元に降伏した 1259 年まで崔氏一族の世襲で 4
代 62 年の長きにわたって続いた。 《モンゴル帝国の支配下》 1231 年からモンゴル軍の侵入が始まった。崔氏は国王を連れて 1232 年に都を開京から江
華島に移して、徹底抗戦を試みたため、国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。 1207
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1259 年に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に服属し、太子(王子)を人質とし
てモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族がモンゴル皇帝(カン)の侍衛組織であるケシクの
要員に加わるようになった。こうして 30 年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わった。 クビライは次に日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し、1274 年と 1281 年に二度の
日本侵攻(元寇)を行った。このため高麗は前線基地として、兵站の補給と軍艦の建造を
命令され、これらの協力と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた。 14 世紀に大陸で紅巾の乱が起こって元が衰え始めると、恭愍王(きょうびんおう。在位:
1351~ 74 年)は 1356 年に元と断交し、双城総管府など北辺を奪還して蒙古侵入以前の高
麗の領域を回復し、元の年号を止めて独立、さらに鴨緑江西方へ遠征し、これを制圧した。 1368 年に明が中国に興り、元を北に追いやる(北元)と、1370 年に高麗は明へ朝貢して
冊封を受けたが、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。この間に倭寇や元との戦い
で功績をあげ、台頭していた武人李成桂(りせいけい)は、1388 年にクーデターを起こし
て政権を掌握し、1389 年に恭譲王(きょうじょうおう)を擁立し、親明派官僚の支持を受
けて体制を固めた。1392 年に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、李氏朝鮮王朝を興した(図
12-84-③。ここに高麗は 474 年で滅びた。 ○李氏朝鮮(1392~1910 年) 《初代・李成桂》 李成桂(在位:1393~1398 年)は 1393 年に中国の明から「権知朝鮮国事」(朝鮮王代理。
実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられ、国号を朝鮮と改めた。明から正式に朝鮮国王として
冊封を受けたのは太宗の治世の 1401 年であった。 李成桂は、親明政策をとり明の元号を使い、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するな
ど政治制度の改革を始めた。さらに新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽(今のソウル)へ
遷都した。崇儒廃仏政策をとり、儒教を振興し仏教を抑圧する政策をとった。 李成桂の王子たちの間で相続争いが起り(王子の乱)、この争いを制した 5 男・李芳遠
に次男の第 2 代定宗(在位:1398~1400 年)は譲位した。 《第 3 代・太宗》 王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第 3 代太宗(在
位:1400~1418 年)として即位した。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止する
とともに軍制を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策をとった。また、李氏朝
鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などを整備していった。 明に対しては徹底的な親明政策を取り、1401 年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封さ
れることになった。また、倭寇対策に対しても積極的な政策をとり、1419 年の応永の外寇
1208
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
(倭寇撃退を名目にした対馬遠征)を決めて実施した。太宗は、1418 年に世宗に王位を譲
り上王になった。 《第 4 代・世宗(大王)》 次代の世宗(せいそう)は、李氏朝鮮の第 4 代国王(在位:1418~ 50 年)で世宗大王と
も言われる。ハングル(訓民正音)の制定を行ったことで知られ、朝鮮王朝時代の歴代君
主中もっとも優れた君主とされている。 世宗は宮中に学問研究所として集賢殿を設置し、ここに若く有望な儒学者らを採用して
さまざまな特権を与えた。集賢殿は王の政策諮問機関として機能し、朝鮮王朝の文化と文
治主義を発展させる原動力になった。世宗は集賢殿の学士とともに広い分野に及ぶ編纂事
業を主導し、儒学やさまざまな文化・技術を振興した。とくに、集賢殿の鄭麟趾(ちょん・
いんじ)らに命じて創製したハングル(訓民正音)が知られている。このハングル創製に
ついては、次ぎに項をあらためて記す。 1437 年に世宗は、政治制度を王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に
切り替えた。国政運営を協議し、王の裁可を仰いだうえで行政実務を分掌する六曹へ指示
する方式に改めた。世宗在位中には 1428 年・1439 年・1443 年に日本へ通信使が派遣され
ており、室町幕府との修好・倭寇禁圧要請とともに日本の国情視察を行った。 北方では建州女真に対する侵略戦争を行い、豆満江方面を朝鮮の領地に加えた。これら
の地域には支配機構として 6 鎮が置かれた(図 12-84-③参照)。また、東北部(咸鏡道)
の開拓事業を行った。 世宗大王の時代は、王権は強固であり、また王の権威も行き届いていて、李氏朝鮮の中
で政権が最も安定していた時代とされている。 《ハングル(大いなる文字)の発明》 朝鮮語は 15 世紀半ばまでそれを表記する固有の文字を持たず、万葉仮名のように漢字を
借りた表記法により断片的・暗示的に示されてきた。このような状況の下で第 4 代国王の
世宗は固有の文字であるハングルの創製を積極的に推し進めたが、その事業は当初から保
守派から猛烈な反発を受けた。 世宗はこのような反対派を押し切り、集賢殿内の新進の学者らに命じ、彼らの努力の末、
1443 年に制定され,3 年年後に刊行・頒布された。世界の文字史上もっとも新しい文字の
一つであり、しかもいつ、誰によって作られたかがわかる希有の例である。 このハングルの字形がどういう原理にもとづいて作られたかは,訓民正音頒布当時に著
わされた『訓民正音解例』が発見され、これによって、ハングルの子音・母音について、
その作字原理が明快に説明されていた。それによれば、ハングルが発音器官の象形によっ
て作られたことが明らかとなった。 1209
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
朝鮮語の音節は,日本語と違って,子音で終わるものがきわめて多い。すなわち、一つ
の音節が、子音+母音+子音の形をとるものが多いのである。したがって日本語などより
も音節の数がはるかに多くなる。日本語だと 100 足らずの音節しかなく、一つの音節を一
つの文字で表すことが容易であるが、朝鮮語の場合、音節の数は 1 万近くになってしまう。 音節の種類がこのように多いのでは,一音節に一つの文字をあてると、1 万近くの文字が
必要ということになり、これでは漢字と同じく、その習得や使用がきわめて困難である。
漢字を借用して作られたベトナムのチュノムなどはこの方法によっているが、その煩雑さ
のため、広く普及しなかった。 この問題を解決するためには、子音と母音の種類だけ文字を作り、その文字を組み合わ
せて音節を表すという方法がもっとも合理的である。ハングルが子音字と母音字からなる
表音文字とならざるをえなかった理由は、ここにある。したがって日本語などよりもハン
グル文字の制定がはるかに困難だったのであり、その制定のためには,音声学的な緻密な
研究を必要とした。 訓民正音では、まず 17 の子音字と 11 の母音字が定められた。子音字 17 字は、その音を
発音するときの発声器官の形を形象化したものである。これらは大きく 7 種類に分けられ,
似た発音になる文字は,その形も似ている。 母音 11 字は、・(天)、―(地)、|(人)の 3 文字を基礎として、その組み合わせで
作られている。以上 28 字が基本文字となり、さらに合成子音字、合成母音字が作られる。 朝鮮語の音節は子音+母音+子音の形となるものが多数あると述べたが,この場合、最
初の子音を初声、母音を中声、終わりにくる子音を終声と呼ぶ。訓民正音制定時に用いら
れていた字母は、初声 39 字、中声 25 字、終声 36 字であった。したがって、これらを組み
合わせて表現しうる音節の数は、39×25×37,すなわち 3 万 6075 種類という膨大な数とな
る。実際には用いられない組み合わせもあるから,音節数はこれよりも少なくなるが、朝
鮮語を表すにはこのように多数の音節を表記することが必要だったのである。ここに、表
音文字としてのハングルが作られなければならない基本的な理由があったと考えられる。
なお現在用いられているのは基本文字 24 字で、初声 19,中声 21,終声 27 種類となってい
る(19×21×27=10,773)。 歴史的な面から見ると,ハングル制定に先立って、さまざまな民族文字が成立していた
ことが重要であろう。そのなかでもとくに注目されるのは、モンゴルのパスパ文字である。
パスパ文字はアジアではじめての体系的な表音文字とされるが、こうした表音文字という
発想法自体が、ハングルの成立に大きな刺激を与えたと思われる。 ハングルは、また、そのつづり方が独特であった。すなわちアルファベットのように子
音字・母音字を連ねていくのではなく、漢字の偏や旁(つくり)、冠のように、子音字と
1210
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
母音字を組み合わせて一つの音節を表す方式がとられた。表音文字でありながら、漢字の
作字法が取り入れられているわけで、いわば東洋と西洋の作字の原理を融合させているの
である。これは、なかなかの人類の叡智である。 当時の支配者層である両班における公的な書記手段は漢文であり、中人・下級官吏の書
記手段は吏読(りとう。朝鮮語の語順で書かれた擬似漢文)であった。従って、ハングルが
これらの階層において正規の書記手段として受け入れられることはなく、その結果ハング
ルは大体において民衆の書記手段として広まることになった。 1446 年にこの文字が頒布された当時は「訓民正音」あるいは略して「正音」と呼ばれた。
これは「民を訓(おし)える正しい音」の意である。しかしながら、この文字は当初から
「諺文(おんもん)」という卑称で呼ばれていた。「諺」とは本来俗語の意であり、中国
語に対して朝鮮語を指して「諺」あるいは「諺語」と呼んだものである。従って「諺文」
とは「俗語(朝鮮語)を表す文字」という意味である。 この「諺文」という呼称はその後広く用いられ、日本の植民地時代までこの呼称が用い
られた。漢字を正統な文字とし、ハングルを卑俗の文字とするこのような呼称は、あたか
も日本において漢字を「真名」、カナを「仮名」と呼んだことにも通じる考え方である。 とはいえ、実際には民衆のみならず、両班階層の私信や宮中の女子間の公文書などにも
ハングルが盛んに用いられ、その使用はかなり広範囲に及んでいった。 また、国はハングルを普及させるため国家的な出版事業において活用した。国家による
ハングル文献の刊行は続き、中国書籍の翻訳書を中心にその分野は仏典・儒教関連書・実
用書など多岐にわたった。刊行された書籍は各地で復刻され版を重ねることが少なくなか
った。主に民衆の書記手段として用いられたハングルであるが、支配層におけるハングル
の使用も少なくなかった。 「ハングル」という呼称が文献上に初めて現れるのは 1912 年のことであった。この呼称が
一般化したのは、1927 年にハングル社から雑誌『ハングル』が刊行されてからであった。
「ハン」は「大いなる」あるいは「一つの」の意とされ、「ハングル」は「大いなる文字」
あるいは「一つの文字」の意であるとされる。まさにハングルは人類の叡智が生んだ偉大
なる発明であったといえよう。 《両班官僚制の成立》 李氏朝鮮時代の科挙制度は、文人を出す文科と武人を出す武科で構成され 3 年に 1 度行
われていた。それ以外にさまざまな専門技術職を選抜する雑科が存在した(ここで言う技
術職とは、日本語や中国語の翻訳技術、医学・陰陽学などの特殊な技術に長けた者のこと
を指した)。 1211
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
科挙は基本的に良民全体に門戸が開かれていたが、これを受験するためには、本家の中
国のように、それなりの経済力が必要となり、必然と文科や武科の科挙試験を合格し官僚
になれたのは、これら両班階級が大多数だった。こうして李氏朝鮮では、本来は有為な人
材を登用するために誰にも門戸が開かれていたはずであったが、やがて、両班階級が事実
上官僚機構を独占し、本末転倒し、両班階級が特権階級になり、両班階級しか科挙を受験
できないようになってしまった。 つまり、両班は、科挙のうち、文科・武科を受けることが出来、官僚になることができ
る身分制度となってしまった。中人は雑科のみが受けられ、高位に登ることができなかっ
た。常民は科挙を受ける権利を基本的に持っていなかった。 やがて李氏朝鮮では、両班、中人(チュンイン・雑科を輩出する階級)、常民(農民)、
賤民と言う 4 段階の身分制度ができあがっていった。常民以上を良民と呼び、賤民は良民
に戻ることが可能な奴婢(ノビ)とそれも不可能な白丁(ペクチョン)で構成され、居住
や職業、結婚などに様々な制約が加えられていた。奴婢は国が所有する公奴婢と個人が所
有する私奴婢にわかれ、市場で売買などが行われた。白丁は、最下位に位置する被差別民
であった。 とくに両班は兵役の免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役の免除などの特権を獲得し、
さらに社会的特権として、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利やその他、家・衣服・墳墓・
葬礼などに対しても常民に比べ、さまざまな権利を有するようになった。 李朝朝鮮の貴族階級ともいうべき両班階級は官僚制を独占し、やがて朝鮮の病弊ともい
われる派閥抗争(党争)に陥っていった。 《勲旧派と士林派の対立と士禍の発生》 第 4 代世宗は、1450 年、53 歳で崩御した。 第 6 代の端宗(第 5 代文宗の息子)は 11 歳で即位したため、政治に関しては官僚が全て
を決済する形となり王権の空洞化が進んだ。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父
である首陽大君はたくみに勢力を拡大し、1455 年に端宗から王位を強制的に剥奪し、自ら
が王位に就き、世祖(せいそ。在位:1455~1468 年)となった。一種の無血クーデターで
あった。 世祖が王位につくと反対勢力を排除し、王権を自らの元に集約した。軍政や官制の大幅
な改正を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地
方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するようになった。世祖は逆にこの反乱を鎮圧し、
中央集権体制を確立させるのに成功した。また、批判勢力を弾圧し、自らに服従する功臣
達を優遇した。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になった。ま
た、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。 1212
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
世祖の死後、政治の中枢は勲旧派が占め、かれらが政治を壟断していたが、1470 年、成
宗(在位:1469~1494 年)は新興官僚である士林派を積極的に登用することで、勲旧派たち
を牽制し、政治のバランスを取るようにしようとした。士林派(しりんは)は、党派の一
種で勲旧派に対抗して生じてきたので、もともとは、朱子学を修めた新興の科挙官僚で、
大地主が中心の勲旧派に比べて、中小の在地両班がその中核を占めていた。これに脅威を
感じた勲旧派や外戚と士林派勢力の対立が生まれた。 成宗が亡くなり、後を継いだ燕山君(えんざんくん。在位:1494~1506 年)の時代に入る
と、急進してきた士林派勢力に勲旧派は脅威を感じ巻き返しをはかった。1498 年、金宗直
の書いた世祖の王位纂奪批判の書面が引き金となって、多くの士林派が死刑や流罪となっ
た。これを戊午士禍(ぼごしか)という。士禍(しか)とは、李氏朝鮮時代における、士
(官僚)に対する粛清(弾圧)のことである。 その後も燕山君は 1504 年の甲子士禍(こうししか)で士林勢力の大量殺戮を行い、この
勢力を殺ぐことにつとめていたが、徐々に悪行が目立ち始めた。燕山君は多数の妓生を引
き連れて遊興にうつつを抜かし、諫言する功臣たちはことごとく残酷な刑罰で処刑、朝鮮
王朝史上まったく前例を見ない極悪かつ冷酷非情な君主となった。あまりの暴虐な振る舞
いに、燕山君は 1506 年 9 月のクーデターによって失脚し、江華島に追放、王位を剥奪され
た。 次代中宗(1506~1544 年)の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続
いていた。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった趙光
祖の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しも
あって、1519 年に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ、士林派の勢力は大きく後退
してしまった。これを己卯士禍(きぼうしか)という。 その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていった。明宗(1545
~1567 年)が即位した年の 1545 年には乙巳士禍(いっししか)が起きた。これまでに起き
た戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍のことを「四大士禍」と呼ぶ。 1567 年の宣祖の即位により、最終的に勝利を収めた士林派が中心となって政治を行う時
代が始まったが、(今度は)士林勢力が 1575 年には西人と東人と呼ばれる 2 つの勢力に分
裂し、主導権争いを続けるようになった。これを朋党政治という。こうして朝鮮の官僚の
派閥争いは、その後、近世になっても限りなく続いていく。 【12-5-2】日本 古代の歴史で、大宝律令(701 年)などの成立によって日本の統治の骨格ができたところ
までを記した。日本の支配者階級の被支配者階級(農民)の統治(支配)の仕方は主とし
1213
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
て土地を介して行なわれたので(すでにみたように他の国の歴史でもほぼ同じであるが)、
土地支配の仕組みを中心に述べることにする。 【①平安時代】 ○班田収授法の手直し 794 年に桓武天皇(在位:781~806 年)が都を平安京(京都)に移してから平安時代(794
年~1192 年頃)になったが、平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治
が、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承されていた。 やがて大土地所有が進展して班田収授法の実施は困難になった。そこで桓武天皇は 801
年、6 年ごとの班田収授を 12 年に 1 回とした。また、共同利用地である山川藪沢(そうた
く)の利権の寺社・貴族独占を禁止した。また、国司が使用できる雑徭(ぞうよう)を 60
日から 30 日に減らし、出挙(すいこ。播種期に種子を貸与し、収穫期に利子を付けて返済
させる制度)の利率を 5 割から 3 割に下げた。軍制改革も行い、農民の疲弊によって軍団
の維持が困難となっていたので、陸奥・出羽・佐渡・九州を除いて軍団を廃止し、郡司の
子弟を健児(こんでい)として集めて兵とした(健児(こんでい)の制)。このようにして
農民負担の軽減をめざした。 しかし、この程度の班田収授法の手直しでは効果はなく、その後も荘園は増加していっ
た。その後の歴史は、以下のように律令制の崩壊、貴族(支配者階級)による大土地所有
制(荘園)形成の歴史であった。 ○班田収授法から荘園公領制へ そもそも荘園の「荘」とは、本来別宅や倉庫を意味し、のちそれを拠点として開墾された
まわりの墾田をも含む用語となった。その荘園発生の契機は,奈良時代に制定された墾田永
年私財法による墾田の私有化、寺田(じでん)
・神田(しんでん)
・位田(いでん)
・功田(こ
うでん)の私有地化、封戸(ふこ。貴族に対する封禄制度として与えられた)を所有する
ことが封戸の居住する土地の私有にまで変化、農民の零細な墾田の買収や交換などを契機
として荘園は発生していった。これらは主として 8~9 世紀に、開墾を中心として形成され
た荘園であり、これを初期荘園、あるいは墾田地系荘園とよぶ。 しかし、10 世紀初めには、戸籍・計帳に記載された正丁を中心に課税する律令的支配の
方式は完全に崩壊し、国衙支配下の公領では、国司が有力農民に一定期間に限り田地の耕
作を請け負わせ(請作。うけさく)、租税にみあう官物(かんもつ)や臨時雑役(ぞうやく)
などの税を徴収するという新方式が成立した。租税徴収の単位となる田地は、請負人の名
をつけて名(みょう)または名田(みょうでん)とよばれ、請負人は田堵(たと)とよば
れた。 1214
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
荘園は本来、租税を払う輸租田(ゆそでん)であったが、10 世紀以後しだいに大貴族や
大寺院の権威を背景として政府から不輸権(租税免除)を承認してもらう荘園が増加した。
また国司の権限が強化されるにともない、国司の認可(免判)のみで荘園領主の税徴収の
認められる荘園(国免荘。こくめんのしょう)も出現した。荘園の耕作は、公田と同じく
田堵の請作に依存した。 10 世紀後半以降になると、多くの名(みょう)を持つ大名田堵による開発が進んだ。開
発領主とよばれ、開発の拠点として掘ノ内や土居(どい)とよばれる屋敷を構え、隷属民
や一般農民を駆使して付近の土地を開発し、一定の年貢を納入することを条件に、その開
発地を支配した。 中・小の開発領主や勢力の弱い郷司・保司は、自分たちの権益を国衙の収公や他の領主
の侵害から守るため、所領を中央の権力者に寄進して荘園とした。寄進を受けた荘園の領
主は領家とよばれ、彼らはその地位を安定させるために、さらに上級の摂関家や天皇家に
寄進した。こうした荘園は寄進地系荘園とよばれ、11 世紀半ばには各地に広まった。 それらを本家(ほんけ)という。開発領主は、現地で荘園を管理する荘官となり、下司
(げす)・公文(くもん)・預所(あずかりどころ)・荘司(しょうじ)などとよばれ、荘民
(耕作者)から税を徴収して領主に送った。また、荘官は給田(きゅうでん)
・佃(つくだ)
などの直営地を持った。 やがて荘園内での開発の進展にともなって、不輸の範囲や対象が広がり、荘官と国司の
対立が深まると、荘園領主の権威を利用して、国衙の検田使(けんでんし。徴税の目的で、
国内の耕地を調査するために国司が派遣した役人)や警察権の立ち入りを拒否する不入権
を得る荘園も増加した。 11 世紀半ば以降になると、全国の土地は荘園と公領(国衙領)に大別されるようになっ
た。荘園や公領は、いずれも郷や保を基礎に成立したもので、その構造も、領主(本家・
領家、朝廷・国司・目代(もくだい))→開発領主(荘官、在庁官人)→耕作者の 3 階層か
ら成り立っていた。このような土地支配の形態を荘園公領制という。 荘園公領制のもとでは、耕作者の田堵(たと)は耕地(名・名田)への所有権を強めて
名主とよばれ、年貢・公事(くじ。付加税で手工業生産物や特産物を納めた)・夫役(ぶや
く。労働税で、領主の雑役に従事した)などの税を領主に負担したが、下人(げにん)・所
従(しょじゅう)とよばれる隷属民に耕作させたり、作人(さくにん)に請作(うけさく)
させたりして、しだいに力をたくわえていった。 このように荘園は初期荘園(墾田地系荘園)から寄進地系荘園へと発達していった。 《律令政治から摂関政治へ》 1215
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
律令制度の根幹をなす土地制度が、班田制から荘園制に転換したように、律令政治は 9
世紀になると衰えはじめ、やがて摂関政治が律令政治にかわって行なわれるようになった。
摂関政治は,天皇の外戚(母方の実家)としての地位を利用して行なう政治のことである。
その主役は藤原氏であった。 藤原氏の起源は、大化の改新で功のあった中臣鎌足が藤原の姓を賜ったことからである
ことは述べた。鎌足の子の藤原不比等には 4 人の子がいてそれぞれ北家、南家、式家、京
家を開くが、いわゆる摂関家といわれるようになるのは不比等の子の藤原房前が開いた北
家の系統であった。 太政官の行政組織は藤原氏一門に独占され、その頂点に立つ摂政・関白が天皇の権威を
もととして全国を統治した。また地方政治は、国内支配を国司に一任し、税さえ上納され
ればよいという消極的なものであった。 10 世紀末から 11 世紀前半にかけての藤原道長(みちなが。966~1028 年)・頼道(より
みち。992~1074 年)の時代は摂関政治の全盛期であった。道長は娘 4 人を天皇に入内させ
て外祖父(天皇の母方の祖父)として勢力を確立し、摂政となり、30 年間朝廷で権勢をふ
るった。彼の邸宅であった京極第(きょうごくだい)は、長期間里内裏(さとだいり)と
して利用された。道長の子頼道も、後一条・後朱雀(ごすざく)・後冷泉(ごれいぜい)天
皇の外戚となり、52 年間摂政・関白として大きな勢力を維持した。頼道は宇治に平等院を
建立し、宇治殿とよばれた。 中央政界では、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進んだが、これにと
もなって地方政治も変質していった。摂関政治は京都中心の政治であって、中央政界にし
か関心がなかった。地方からは、その活動費となる税収が入ってくればよかった。 《私利の追求のみに走った受領》 地方支配は国司に一任し、国司に一定額の税の納入を請け負わせるやり方であった。こ
うなると元来は一国を治めることを所掌とした国司も、その性格が変化してきた。律令制
度下で一国を治めるということは、徴税だけでなく、その任国の民政・裁判・治安・教化
など、大きな職務権限をもっていたが、このような地方行政はそっちのけとなってしまっ
た。任国での徴税の仕事だけが重視され、自分の収入だけに関心を示すようになった。こ
のような徴税役人化した国司のことを受領(ずりょう)という。 平安時代後期になると、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進んだが、
中央政界では、貴族の最上位では摂関家が独占し、中流貴族に固定した階層は中央におい
ては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領
となって地方行政を担った。これが平安貴族であった。 1216
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
国司は、任国の課税率をある程度自由に決定できるようになった。そのため私利の追求
ができ、京都を離れて現地に赴任せねばならないものの、私財を蓄積できる受領の地位は
京都で出世できない下級貴族とっては魅力的であった。魅力が出てくると、やがて国司の
地位は売買されるようになってきた。これが遥任(ようにん)や成功(じょうごう)・重任
(ちょうにん)といわれるものである。 遥任とは、国司任命後も任国に赴任しないことで、その代わりに派遣された人を目代(も
くだい。代官)という。ふつう現地には留守所(るすどころ)が置かれ、現地の人間を登
用した在庁官人が実務をとった。成功(じょうごう)は,売官の制度で、宮殿や寺社の造
営などに金や物を寄付した者に、国司の地位が与えられた。重任は任期満了後もひきつづ
き実入りの多い同じ官職に任ぜられることで、金品の寄付により再任されることが多かっ
た。 私利の追求のみに走った受領の代表的な国司に尾張国の藤原元命(もとなが)がいた(そ
のような事例は多かったとおもわれるが、たまたま完全な上訴文が残っているので有名)。
元命が悪政を行ったので、989 年に農民や郡司は元命の悪政 31 条を上げて解任を訴えた。
元命はこのため解任されたが、その後、他の国の受領として復活し、子孫も引き継いでい
った。 ○武士の台頭 9 世紀から 10 世紀の地方社会は、法と政治機構の支配力が崩壊し、武力が社会の問題を
解決する力として要請されていた。坂東において、中央へ進納する官物を強奪するといっ
た「群盗蜂起」が頻発した。朝廷はこれに対処するため、受領(現地国司の最高位者)に
広範な軍事上の裁量権を認める制度改革を行った。 具体的には、単に兵動員を許可する「発兵勅符」に代わって群盗を積極的に鎮圧しよう
とする「追捕官符」を発出するとともに、国単位で押領使(おうりょうし。諸国の暴徒平
定のために置かれた役人)・追捕使(ついぶし。暴徒を逮捕するために置かれた役人)を任
命して、国内の武勇者を国衙・押領使・追捕使の指揮下に入ることを義務づけた。 この時期に群盗追討で名を馳せたのが、平高望(たかもち。桓武平氏の祖)、源経基(つ
ねもと。清和源氏の初代)、藤原利仁(としひと)、藤原秀郷(ひでさと)ら、没落した下
級貴族であった。これらの軍事貴族はいずれも、中央で高い地位につく見込みのない中下
級貴族であり、在地に土着し、在庁官人となり、また押領使・追捕使に任命されたりして、
地方政治における軍事力を担った。そして地方の乱れが激化するにともない、自らの所領
を守るために、武装集団(武士団)を形成していった。 武士団は,首長(棟梁)を中心に構成された。首長は軍事上の最高指揮権を持ち,本家
の当主(惣領)が当った。首長のもとに家子(いえのこ。首長の分家や部下の豪族)が従
1217
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
い、家子は郎党(ろうとう。家来=下級武士)や下人・所従とよばれる下層農民をかかえ
ていた。首長の家は,代々武名と武芸を継承し、兵(つわもの)の家とよばれた。 11 世紀中期に見られた体制変化・社会変化は、当時徐々に一円化を進め、著しい増加を
見せていた荘園に対抗するための国衙側(公領側)の対応策であった。この流れの中で、
それまで公田経営請負によって(つまり田堵層となることで)武人としての経済基盤を与
えられていたに過ぎなかった武士が、荘園と公領間の武力紛争の対処能力を期待され、国
の下部組織である郡、郷、保、条、院や、一円化してまとまった領域を形成するようにな
った荘園の管理者としての資格を得て、在地領主としての地位を獲得していった。 武士団は、より有力な中央貴族の末裔(土着した国司の末裔など)を棟梁として仰ぐよ
うになり、大武士団となっていった。やがてこれらの大武士団は、桓武平氏と清和源氏の 2
大棟梁のもとに系列化されていった。 《平氏政権》 12 世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員
された武士の地位が急速に上昇した。 白河上皇は、平正盛(まさもり)を北面の武士として院の警備にあたらせた。正盛の子・
平忠盛(ただもり)は鳥羽法皇に重用され、瀬戸内海の海賊鎮定に功を立てるなど軍事力
を拡大した。 1156 年の保元の乱、1159 年の平治の乱の結果、忠盛の子・平清盛が政治の実権をにぎっ
た。この乱で貴族は政治の実権を失い、武士の世の中となった。 1167 年、平清盛は武士として最初の太政大臣となり、平氏政権の全盛時代を築いた。清
盛は娘の徳子(のちの建礼門院)を高倉天皇に入れ、生まれた皇子が即位して安徳天皇と
なると外戚ともなり、平氏は中央政界へ進出した。 こうして最初の武家政権である平氏政権が登場したが、天皇と外戚関係を結び,知行国
や荘園への依存も強く貴族政権的性格が濃く、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたた
め、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまった。平氏政権を倒
した源氏政権は、時代にあわせて政治の仕組み、土地制度も変革してしまった。源氏政権
は、中央政府である朝廷とは別個に、鎌倉幕府を開き、平安時代に幕を下ろした。 【②鎌倉時代】 鎌倉時代のはじまりは、従来、源頼朝(1147~1199 年)が征夷大将軍に任命された 1192
年であるとされていたが、最近では守護・地頭設置権を認められた 1185 年説が有力視され
ている。当時の国家の基本である土地制度の変更がより重要な意味をもっていたのである。 源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、朝廷から守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)
と並びうる政権へと成長した。 1218
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○鎌倉時代の土地制度……封建制度の成立 1185 年、後白河法皇は頼朝・義経兄弟の不和に乗じ、義経の要請もあって頼朝追討の院
宣を与えた。これに対して、頼朝は法皇にせまり、同年、源義経・源行家が頼朝政権の内
規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、
義経を追討するという口実のもとに守護・地頭の設置を認めさせた。これを文治の勅許と
いう。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、今では、この時期
をもって幕府成立とする説が有力となっている。 この守護は 1 国 1 人、御家人を任命するというもので、その任務は大番催促(御家人を
京都朝廷の警備に動員すること)・謀反人逮捕・殺害人逮捕の 3 つで、これを大犯(だい
ぼん)三箇条という。地頭は、最初は 1 国単位で、のち全国の国衙領・荘園ごとに設置、
御家人を任命する(本領安堵・新恩給与として)、戦時に 1 段あたり 5 升の兵粮米(ひょ
うろうまい)徴収権をもつというものであった(最初はささやかなものだった)。 しかし、この地頭の設置に対して、公家や寺社は猛烈に反対した。頼朝は、やむなく地
頭の設置を平家没官領(没収した旧平氏領 500 余の荘園)と謀反人領だけに限った。この
守護・地頭の設置で幕府の全国支配の足がかりができたとはいえ、幕府が実質的に統治で
きたのは東国中心であり、京都では従来通り院政を軸とする公家政権が存続していた。 武家政権(幕府)の守護・地頭に対して,公家政権側の知行国主・国司・荘園領主らの
力も根強く残っていた。こうように鎌倉時代の初期は、公家政権(京都)と武家政権(鎌
倉)の 2 つの政権が二元的な国土支配を行っていたのである。 ○承久の乱で様変わり 1219 年に 3 代将軍の源実朝(さねとも)が暗殺され、源氏将軍の系統は断絶した。院政
を行っていた後鳥羽上皇は、勢力回復をはかるため、北面の武士のほかに西面(さいめん)
の武士を設置して武力を増強し、機会をうかがっていた。実朝が暗殺されたので、上皇は
幕府の崩壊を期待したが、執権・北条義時は京都から形ばかりの摂家将軍を迎えて、執権
政治を続けた。 1221 年、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下し、諸国に武士の蜂起を求めた。ここに
承久の乱が起った。鎌倉幕府は 19 万の大軍を京都に進軍させ、2 万数千の兵力の上皇方を
敗北させた。この承久の乱の結果、貴族政権は決定的な敗北を喫し、同時に北条氏による
執権政治が確立した。 前述したように地頭の設置について頼朝は平家没官領・500 余の荘園だけに限ったが、こ
の承久の乱後にはこれに上皇方に味方した公家・武士・寺社の所領 3000 余ヶ所の没官領が
加えられた。この没収した所領に地頭(新補地頭)を任命し、田畑 11 町ごとに 1 町の免田
1219
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
(めんでん。11 町のうち 1 町の年貢を荘園領主に納めずに地頭がとる)と 1 段につき 5 升
の加徴米の徴収権を与えた。 このように、後鳥羽上皇らが幕府討伐のため起こした承久の乱(1221 年)は、結果とし
ては、朝廷に対する幕府の圧倒的な優位性を確立させることになった。これにより、多く
の御家人が西国に恩賞を得、東国に偏重していた幕府の支配が西国にも及ぶようになった。
幕府は守護地頭を全国に広げ、ついに初の全国統一の武家政権となった。 ○泣く子と地頭には勝てなかった その後も執権政治の確立によって武士階級の権力が上昇し、地頭などが貴族や寺社の荘
園を侵略して自己の基盤を強めようとした。荘園領主の権力が弱まると、地頭は年貢など
の徴収を行って納入せず、自分のものとするようになった。こうして荘園領主と地頭との
争いが頻発したので、荘園領主は、地頭請(じとううけ)や下地中分(したじちゅうぶん)
によって妥協しようとした。 地頭請とは、あらかじめ年貢の額を荘園領主と定め、地頭の取り分を有利に決めておく
というもの、また、荘園領主と地頭との間に紛争が起ったとき、荘園の領地を半分ずつに
分割してしまうというのが、下地中分であった。一度妥協するとそれが地頭の既得権益と
なって、ますます多くを要求され、荘園領主の領分は浸食されるばかりで、下地中分によ
り互いの支配に干渉しない支配体制(一円支配)に落ち着くことになった。こうなると、
地頭はこれにより,単なる土地の管理者から土地所有者にまで上昇したことになる。この
制度により地頭は荘園・公領の事実上の支配権を握っていった。 13 世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士によ
る荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。経済的には、地方の在地領主で
ある武士の土地所有が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化
が栄えた。文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公
家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた。政
局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な市が立つように
なった。 中国では,13 世紀になると、モンゴル族にチンギス・カンが出て、モンゴル帝国をつく
りあげた。モンゴル族は、各地に遠征軍を送り、またたくまに中国大陸を征服し、さらに
朝鮮半島の高麗をも属国としたことは、中国・モンゴル帝国の歴史で述べた。そしてフビ
ライのとき高麗を仲介として数度にわたってわが国に使者を派遣してきて服属を要求した。
しかし、ときの執権・北条時宗はこの要求を拒否し、九州・中国・四国の御家人に防備を
命じた。 ○元寇 1220
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1274 年 10 月、元軍は元・高麗連合軍あわせて 2 万数千人で、まず対馬・壱岐を侵(おか)
し、北九州の松浦海岸を経て博多湾沿岸に侵攻した。元軍の「てつはう(てっぽう)」とい
う火器に苦戦しながらも、御家人は鎮西奉行の指揮のもとに防戦につとめた。元軍は太宰
府にせまろうとしたが、その戦いの夜に暴風雨が襲って元軍の船はほとんど沈没し、敗退
した。これを文永の役という。 文永の役後、幕府は再度の元軍の来襲を予想して対策をたて、博多湾沿岸に石塁(せき
るい)築造を行うとともに、異国警固番役(いこくけいごばんやく)を大番役に代えて九
州地方の御家人に課した。これは鎌倉時代の末まで続いた。 宋を滅ぼした元は、1281 年、再び 14 万の大軍を東路軍(元・高麗軍)と江南軍(元・旧
南宋軍)の 2 手に分けて博多湾に攻めてきた。御家人の奮戦などにより上陸を防いでいる
間に,再び暴風雨が襲い、元軍は敗北した。これを弘安の役という。その後も、幕府は元
の再来に備え異国警固を続け、鎮西探題や長門探題を設置した。 二度にわたる元寇(げんこう)が暴風雨で阻止されたこともあって、「日本は神国」との
意識が生まれ、後世の歴史意識に深く刻み込まれていくこととなった。また元の侵攻は阻
止したものの、今までの幕府の戦争と違い、外国を相手にした防衛戦であったため、この
戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、御家人は重い軍事負担に苦しんだ。奉公
に対する土地給与などの御恩を期待して戦った御家人に恩賞のなかったことは、「いざ鎌
倉」といった幕府と御家人との信頼関係を損ねる結果となった。御家人の心は次第に幕府
から離れていくようになり、武士全体の不満がくすぶる結果となった。後に鎌倉幕府が崩
壊するひとつの要因となった。 土地の相続に関しては分割相続が採用されていたが、そのため時代を下るごとに御家人
の所領は零細化され、御家人の生活を圧迫することになってしまった。また鎌倉時代中期
から本格的に貨幣経済が浸透し始めたが、これに順応できない御家人が多く、生活が逼迫
した結果、御家人は自分の所領を非御家人や凡下(ぼんげ。高利貸)に売却したり質入れ
したりしてその場をしのいだ。ここから御家人制は崩壊していった。 一方、北条氏は、元寇後も幕府諸機関の重要ポストを独占し、地方でも北条氏一門のも
のを守護に任命するなど、その専制化がはなはだしくなった。北条一門の守護国は、鎌倉
初期の 1200 年頃に 2 国、1250 年頃に 17 国、1285 年頃に 33 国、鎌倉最末期の 1333 年には
38 国(他氏 15 国、不設置 5 国)と鎌倉中期を境に一気に増加していた。こうした事態は、
他の御家人らの不満を潜在化させることとなり、鎌倉幕府滅亡の遠因となった。 このように鎌倉幕府は、元寇以後の社会変動に有効な対応ができず、武士への支配力を
失っていった。このような情勢をみて、皇位継承もからんで挙兵した大覚寺統(だいかく
じとう)の後醍醐(ごだいご)天皇が、楠木正成(くすのきまさしげ)などの反幕勢力を
1221
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
組織し、御家人の足利尊氏(あしかがたかうじ)らも反幕府に転じ、ついに 1333 年、鎌倉
幕府は滅亡した。 【③建武の新政】 鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は、天皇親政を実現した。建武の新政(建武の中興)
である。しかし、その政治は公家と武家の連立政権であり、しかも武士の力を低く見て武
士を軽んじることが多かった。とくに、武士社会では現実にその土地を支配していること
が重要であったが、後醍醐天皇はそれをくつがえし、天皇の命令書である綸旨(りんじ。
軽い指示)による土地所有確認を宣言した。これにより、武士社会で土地所有の確認をめ
ぐり混乱が生じた。また、武士の新政への参加は恩賞が主たる目的であったが、恩賞は武
士よりも公家に有利であったため、多くの武士が不満をもった。 政府部内では公家と武家が対立し,京都の治安すら保てず,混乱した状態となっていた。
このような状況をみて、最後の執権高時の遺子である北条時行は、1335 年信濃に兵をあげ、
鎌倉を奪還したが、足利尊氏に破れ敗走した。これを中先代の乱という。 中先代の乱を平定して鎌倉に入った尊氏は、建武の新政に反対する立場を宣言した。尊
氏は箱根で新田義貞を破り、京都に進撃したが、北畠顕家(あきいえ)の軍に敗れ、いっ
たん九州へ敗走した。 尊氏は、九州で西国武士の援助をうけ、ふたたび京都にせまり、湊川(みなとがわ)の
戦いで楠木正成のひきいる朝廷軍を破り、ついで京都に入った。尊氏は後醍醐天皇に譲位
をせまり、持明院統の光明(こうみょう)天皇を即位させた。ここに、建武新政権は 3 年
あまりで崩壊した。 足利尊氏が光明天皇を擁立すると、後醍醐天皇は京都を脱出して、吉野(奈良県)に逃
れ、京都の朝廷を否定して 1336 年に南朝政権をたてた。これ以後、北朝=持明院統(京都)
と南朝=大覚寺統(吉野)の 2 人の天皇、2 つの朝廷の対立が続いた。 荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分と
する全国的な抗争が展開された。 【④室町時代】 足利尊氏は、1338 年に北朝の光明天皇より征夷大将軍(在位:1338~1358 年)に任じら
れ、京都室町に足利幕府を開き、室町時代がはじまった。 尊氏は幕府を開いたが,足利氏内部の争いが絶えず,その基礎は定まらなかった。1350
年、尊氏とその弟・足利直義の両派は争乱に突入した。これを観応の擾乱(かんのうのじ
ょうらん)という。1352 年、直義が尊氏に毒殺され、乱は終わったが、その後も直義の養
子の直冬には南朝方が加わり、全国の守護・国人(地頭などの小武士団)も在地の支配を
かけて両派についたので、内乱は複雑化し、全国に波及した。 1222
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
第 3 代将軍・足利義満(あしかがよしみつ。在位:1368~1394 年)のときに、幕府は南朝
の後亀山天皇に対して和平を申し入れ、三種の神器が北朝の後小松天皇に譲られて南北朝
の合一がなった。この長い南北朝内乱の間に、幕府・守護・国人・農民らのいり乱れての
対立のなかから、守護・国人は領主化して支配を強めた。貴族・寺社の勢力は次第に失わ
れ、農民は荘園支配の枠を越えて団結するようになった。 ○守護大名の強大化―守護領国制 鎌倉時代に諸国に設置された守護は、国司とちがって任期がなく、南北朝の内乱を通じ
て任国の地元との関係を深めていくとともに、その国の国人(こくじん)や地侍(じざむ
らい)を家臣とし、主従関係を結んでいった。こうして成立したのが守護大名であった。 守護大名は、任国の荘園を守護請・半済(はんぜい)・守護段銭(たんせん)などを介し
て侵略し、その勢力を強めた。守護請とは、荘園領主や知行国主より任国の荘園・国衙領
の経営をまかされて一定額の年貢を守護が請負うことをいう。半済は、荘園や公領の年貢
の半分を兵粮米として守護が徴発することをいう。守護段銭は守護が田畑の段別に課す臨
時税をいう。守護請と半済はいずれも足利氏のとった守護対策で、最初は恩賞として与え
られた。これらは守護大名の成長と荘園制の崩壊を促進していった。 室町期の守護は、当初(14 世紀中葉)、幕府から数年ごとに補任されており、守護職の交
替は比較的頻繁に行われていた。しかし、14 世紀末ごろになると、一定の氏族がその国の
守護職を世襲するという守護職の固定化が見られるようになっていた。 さらに同時期までに、守護職には軍事・警察的職権から経済的利得権まで広範な権能が
付与されるようになった。鎌倉期守護の権能は大犯三ヶ条(大番催促、謀反人の検断、殺
害人の検断)であったが、室町期守護の権能は前述の大犯三箇条に加えて、刈田狼藉(か
りたろうぜき。不法な作物刈取り)の取り締まりや使節遵行(しせつじゅんぎょう。判決
を実力で守らせる)の権限を与えられ,幕府の行政を現地で担当することとなった。そこ
で両者を区別するために室町期守護を特に守護大名という。 このような守護職の固定化および権能の大幅な拡大を背景として、室町期守護は、領国
内の在地領主(国人)、土地、人民(百姓など)に対する一円支配(一元的な支配)を強化
していった。この守護大名による領国の一円支配を守護領国制とよぶ。有力な守護大名の
なかには数ヶ国の守護を兼ねる者もいた。中国地方の大内氏は 6 ヶ国の守護を兼任し、山
名氏は氏清(うじきよ)の代に日本全国 66 ヶ国のうち中国・近畿の 11 ヶ国の守護を兼ね
て六分の一殿(ろくぶいちどの)とよばれた。 《応仁の乱》 最初から弱体だった室町幕府は守護大名の連合政権のようなものであったので、幕府の
権威を確立するためには、有力な守護大名を抑圧し統制することが必要であった。そこで 3
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
代将軍・義満(在位:1368~1394 年)の代からその抑制にのり出した。1390 年の土岐の乱
(土岐氏)、1391 年の明徳の乱(山名氏)、1399 年の応永の乱(大内氏)で、それぞれの守
護大名を滅ぼすか,弱体化させた。 3 代義満、4 代義持(よしもち)のあとは、守護大名の抵抗が強く、たとえば、
(5 代将軍
は夭逝(ようせい))、6 代義教(よしのり。在位:1428~1441 年)は逆に嘉吉(かきつ)の
乱(1441 年)で守護大名・赤松満祐(みつすけ)に殺され、将軍の権威が失墜する始末だ
った。嘉吉の乱(1441 年)で将軍の権力は弱体化し、守護大名の勢力が向上して、将軍と
対立するようになった。 そのようなとき、足利義政が 8 代将軍となった(在位:1449~1473 年)。義政は幼少で将
軍となってから 30 年間その職にあったが、幕府の財政難、連年の飢饉と土一揆もかえりみ
ず、ぜいたくな生活にふけり、無用の出費と遊興を重ねた。義政は政治能力に欠け、幕政
を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは銀閣寺を中心
に東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道にふけった。 義政の在職中には土一揆が頻発したので、1 代で 13 回もの徳政令を出したほどであった。
将軍がこのような状態であったので、管領の細川勝元と、四職(ししき。侍所の長官)の
ひとり山名持豊(もちとよ。宗全)が、幕府の実権をめぐって対立するようになった。 また、単独相続制となり、家督争いが守護大名の斯波(しば)氏、畠山それぞれで生じ
た。これに幕府内の指導権確立をねらう細川勝元と山名持豊が介入、それぞれを援助して
対立した。 その上に将軍家の継嗣争いが加わった。最初、子のなかった義政は、弟の義視(よしみ)
を後継者とした。しかし、のち妻の日野富子に義尚(よしひさ)が生まれると、富子は義
尚を将軍にしようとして山名持豊に頼り、義視は細川勝元に頼って双方の対立は激化した。 このような事情が重なって、1467 年、細川勝元、山名持豊の両者に、それぞれ対立する
勢力がついて、戦乱が起った。これが応仁の乱である。 勝元中心の東軍と持豊中心の西軍とが京都を戦場として戦い、やがて戦乱は全国に広が
り、前後 11 年間におよんだ。1473 年、両軍の総帥の細川勝元と山名持豊が相次いで病没し
たため、京都に出陣していた諸将の多くも帰国して,1477 年に乱は終わった。 応仁の乱のため、平安・鎌倉時代の重要な建造物や街並みがほとんど焼失するなど、戦
乱の中心となった京都は大きな被害をうけた。もはや、室町幕府の支配権は,実質的には
山城一国にしかおよばなくなり、ほとんど有名無実となった。 【⑤戦国時代】 応仁の乱後、室町幕府はほとんど名目的なものとなった。朝廷・公家の勢力も衰え、守
護大名も長期間、領国を離れている時、地元にいる守護代や土豪が農民を支配して実力を
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
蓄え、下の者が上の者を倒す下克上の風潮が支配的となり、戦国大名にとってかわられて、
戦乱が全国的に広まった。このような室町時代後半にあたる時期を戦国時代とよぶ。 ○戦国大名の登場―大名領国制 応仁の乱で、守護大名が領国を離れて京都で戦っているうちに、地元では守護代がこれ
にかわって政治を行い、実力をしだいに伸していった。これらの守護代が守護大名を追放、
または打倒して、戦国大名となった。図 12-85 に 16 世紀後半の戦国大名の分布をしめす。 戦国大名が登場すると、守護大名の存在を前提とした守護領国制は事実上解体されて、
大名領国制と呼ばれる体制へ移行した。 図 12-85 戦国大名の分布(1560 年ごろ) 文英堂『理解しやすい日本史 B』 戦国時代は実力がものをいう世の中であるので、戦国大名は実力を蓄え拡大していくこ
とを支配の中心に置いた。この戦国大名の領国は分国(ぶんこく)とよばれた。彼らは、
現地の武士・土豪を家臣に編成して城下町に移住させ、土地・領民はすべて大名が一元的
に支配する形式をとった。家臣に知行地として領地を給付したが、この領地・人民の支配
権は大名がにぎり、家臣にはその収入のみを与えた。 《戦国大名の富国強兵策》 戦国大名は,強大な経済力を必要としたため、治水事業などを行って農業生産力の増大
につとめた。また、鉱山の開発、撰銭令(えりぜにれい。悪銭を嫌い、良銭を撰ぶ撰銭を
禁止した)、楽市楽座、関所の撤廃などを行って商工業の発展につとめ、経済の活性化をは
かった。楽市楽座の楽市とは、従来の座の特権を廃止することで、新興商人への市場税・
営業税の免除をいう。楽座とは、座そのものの廃止をいう。 戦国の争乱を勝ちぬくには強力な軍事力が必要であった。そのため戦国大名は家臣を城
下に居住させて常備軍とし、足軽を使った集団戦法を採用した。そのうえ、長槍や鉄砲な
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
どの新しい武器を積極的に取り入れた。そこで武器入手や富国強兵のため商工業者を保護
し,彼らを城下町に住まわせた。有力商人は御用商人として武器・弾薬・食料の調達に利
用した。 このようにして、15 世紀末から 16 世紀末にかけて、戦国大名と呼ばれる勢力が出現し、
ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な
支配)する傾向を強めていった。 実際、この前後から武田信玄、上杉謙信、北条氏康、大友宗麟、島津貴久などの戦国大
名の華々しい活躍が始まり全国の戦国騒乱が本格化していった。その結末は(全国統一政
権の成立)は近世の歴史で述べる。 【12-5-3】東南アジア 【①ベトナム】 漢の武帝が紀元前 111 年にベトナム北部にあった南越国を征討し、この地域に7郡を設
置し、そのうち、交シ郡,九真郡、日南郡の 3 郡は、現在のベトナム北部から中部にかけ
ての地域におかれたことは古代の歴史で述べた。その後ベトナム北部は約 1000 年にわたり、
中国の領土の一部としてその支配下にあった。 しかし中国の同化政策はなかなか村落の中まで浸透することがなく、長年にわたる中国
の支配下での搾取と抑圧に対して土豪や農民たちは、各地で反抗や蜂起を繰り返してきた。 ○呉朝、丁朝、黎朝ベトナム ところが、中国唐朝の没落(907 年)が、こうした中国支配の事態を一変させた。そして、
土豪の呉権が、939 年に中国軍を打ち破って王位につき、まがりなりにも独立を達成した。
しかし、ベトナムは、独立したとはいえ,その後約 70 年にわたり呉権(在位:939~944 年)、
丁部領(ディン・ボ・リン。在位:968~979 年)、黎桓(れいかん。在位:980~1005 年)
と短期間の王たちが続いた。 ○李朝ベトナム 李公蘊(りこううん。在位:1009~28 年)は、黎朝の左親衛殿前指揮使に任ぜられてい
たが、1009 年、黎朝の跡継ぎが幼少であるのに乗じて王位を簒奪し、順天と改元して李朝
(1009~1226 年)を建国した。彼は昇龍城(現在のハノイ。図 12-86 参照)に遷都して、
親族を分封し、仏教を国教とした。ここにベトナムにおける長期的な統一政権が成立した。
このハノイはその後 800 年にわたって首都の地位を保ち続けた。 李聖宗(りせいそう。在位:1054~1072 年)は 1054 年に国号を大越と定め、以後 1804
年までこの国号が続くことになる。チャンパには 1044 年と 1069 年に遠征を行い,多くの
チャム人を捕虜にすると同時に財宝を略奪した。 1226
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
1174 年に中国南宋から「安南国王」の称号が与えられた。これは、かつては藩属国であ
ったベトナムが中国から外国の王朝として認知された点で大きな意味があった。 図 12-86 11~12 世紀の東南アジア 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 やがて李朝は過度の租税や賦役を課したため、民心は離れ、反乱が起きた。李朝はこれ
らの動乱を収拾することができなくなり、軍を掌握していた陳氏は、1226 年に李朝を廃し
て王座を奪取した。 ○陳朝ベトナム この陳朝大越国(1226~1400 年)は、中国的な中央集権の新しい体制を目指した長期安
定政権であった。陳朝の主要な成果は、一つ目は紅河デルタの大規模な開拓、二つ目は元
寇の撃退、三つ目は儒教的官僚国家の建設であった。 まず、陳朝中央政府はこれまで李朝の直轄地であった紅河とダイ川に挟まれた西氾濫原
に、鼎耳堤(ディンニー)という総延長 200 キロ近い長大な輪中(わじゅう)堤防をめぐ
らし、現代の紅河大堤防の原型となった(図 12-87 参照)。堤防の維持は堤防専門官と、
地方官吏の任務とされ、農民たちの賦役が動員された。こうして、この地域でもより高い
北半で雨季(夏季)作、南半で乾季(冬季)作が可能となった。 第 2 の元寇は、1282 年から 1288 年にかけて、元軍による本格的な侵攻を受けることとな
ったが、名将・陳興道(チャン・フン・ダオ)らの活躍で、これらを全て撃退することに
成功した。そうした一連の元朝軍への勝利は、ベトナム人の偉業の一つとなっている(図
12-62 参照)。 1227
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-87 陳朝期の江河デルタ堤防建設 山川出版社『東南アジア史①大陸部』 第 3 の儒教的官僚国家の建設については、元朝は撃退したが、中国文化は受け入れたと
いうことである。中国の儒教文化が多く導入され、儒教的官僚国家の建設が進められた。
官職への登用試験(科挙)の受験や国学への入学などは,中国の制度を取りいていた。 1400 年、陳朝は, 胡季犛(こきり。在位:1400 年)によって皇位を簒奪され、完全に
滅亡した。 ○胡朝ベトナム 1400 年、胡李犛は、国号を大虞(たいぐ)、姓を陳から胡に改め、胡朝(1400~1407 年)
を開いた。ところが、明の永楽帝は、1406 年に陳朝復興を口実として明軍 20 万を侵攻させ、
翌年帝都タインホアを陥落させた。胡李犛・胡漢蒼親子は明軍に捕らえられ、南京で斬首
に処された。わずか 2 代 7 年の短命王朝であった。 ○黎朝ベトナム それから明はベトナムを支配下に置いていたが、これに対し、清化地方(ベトナム北中
部。現在のタインホア市(淸化市)の地域)丘陵部の土豪の黎利(れいり)が挙兵した。
長期のゲリラ戦を経て明の勢力を国外へ放逐し、1428 年に現在のハノイで皇帝に即位し、
黎(れい)朝を開き、国号を「大越」とした。黎朝(1428~1527 年、1533~1789 年)はベ
トナム史上でもっとも長期の政権であった。
1470 年にチャンパのバン・ラチャトアン王が化州に侵攻、これに対し第 5 代皇帝・聖宗
(在位:1460~1491 年)は 25 万の軍勢による親征を実施、チャンパの首都であるヴィジャ
ヤ(図 12-86 参照)を攻略、ラチャトアン王を捕虜にし、チャンパ王朝を隷属させた。ま
た、ラオスに存在したランサンの攻略も行った。 1228
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
以後、皇位争いや朝廷内の権臣が私兵を以て抗争を繰り広げるようになり、黎朝は衰退
していった。この状況下、昭宗が海陽出身の武人莫登庸(ばくとうよう)に朝廷軍の指揮
を委ねると、莫登庸は、1527 年に昭宗を殺害するとともに、第 12 代皇帝・恭皇帝から強制
的に禅譲させ、同年に新王朝の莫朝を誕生させた。 ここに黎朝はいったん滅亡したが、黎朝の旧臣であった阮淦は 1532 年に黎寧(荘宗)を
擁立して反莫運動を展開、翌年には黎寧を皇帝に即位させ黎朝の再興となった。この後期
黎朝については近世のベトナム史で述べる。 【②インドシナ半島東部沿岸部・チャンパ王国】 古代史で述べたように、192 年に建国していたチャンパ王国(中国名で林邑国)は、10
世紀に北ベトナム紅河流域を中心にベト族が大越国を建てると、チャンパは都を南中部の
北端のアマラーヴァティー州(現ダナン、クアンナム省)から南中部の南端のヴィジャヤ
州(現クアンガイ省、ビンディン省)に移した(図 12-86 参照)。占城国(せんじょうこ
く)ヴィジャヤ王朝は、この遷都の年(西暦 1000 年)を建国の年としている。 11 世紀以降、ヴィジャヤ王朝は北ベトナムの大越、カンボジアの真蝋・アンコール朝と
しばしば戦争を行った。また、ヴィジャヤ王朝は 13 世紀には元のクビライの侵攻を 2 年間
のゲリラ戦で撃退した。しかし、14 世紀以降、チャンパはベトナム陳朝の圧倒的な軍事攻
勢の前に屈服し、ベトナム(陳朝)が中国の明軍に侵攻されると旧領土を取り返すなどを
繰り返した。 【③メコン川流域(カンボジア地域)】 ○クメール人が建国した真臘 真臘(しんろう)は、6 世紀にメコン川中流域に興ったクメール族の国であった。クメー
ル人は、現在のカンボジアの総人口の約 90 パーセントを占めるほか、タイ東北部、ラオ
ス、ベトナムなどにも住んでいる。現在のラオス南部にあたるチャンパサック地方は、コ
ーラート高原からムーン川がメコン川に流れ込む地域にあり、この地方がクメール人の発
祥の地であると推定されている。彼らの都はワット・プー遺址(図 12-88 参照)の近くに
あったといわれている。 真臘はかつて扶南の属国であったが、しだいに強盛となり、7 世紀に扶南を併合した。 まもなく国内は群雄が割拠する状況となり、中国の史料によると、705 年~706 年に水真臘
と陸真臘に分裂した。水真臘は海岸に近いメコン川デルタ地帯にあり、いくつかの小国に
分かれていた。陸真臘はメコン川中流域、ダンレック山地北方に位置していた。 1229
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-88 インドシナ半島の世界 中央公論社『世界の歴史13』 ○アンコール朝の建設 カンボジアを征服して独立させたのはジャヤヴァルマン 2 世(802~850 年)であった。
彼は、802 年にアンコール平野(図 12-88 参照)の北方約 40 キロのところにある高丘プノ
ン・クレーンに本拠を構えた。そこはメコン川を介して外海とつながるトンレサップ湖に
通じていたし、大人口を扶養できる肥沃で広大なアンコール平野に隣接していた。同時に
陸路で西方のチャオプラヤー川流域へ通じる道に近いなど、地の利を得ていた。 インドラヴァルマン 1 世(在位:877~889 年)は、アンコール地域を開発するために大
規模な水利事業に着手し、王名を冠称した「インドラタターカ(インドラヴァルマン王の
池)」という人工の大貯水池を作った。 次のヤショヴァルマン 1 世(在位:889~910 年)はアンコールの地に最初の都城を建造
したが、その時からアンコールは 5 世紀半にわたってカンボジアの首都として存続してい
くことになった。彼ののもっとも注目すべき実績は、都城の東北に東バライを開削したこ
とである。長さ 7 キロ、幅 1.8 キロのこの大貯水池は、シェムリアップ川の流れを切り替
えて造られた(図 12-89)。 1230
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
結局、アンコールは、東バライと西バライのほかに、2 ヶ所の大きなバライもつくられて、
プノン・クレーン高丘から流れ来るシェムリアップ川を 4 つの貯水池すべてに水がたたえ
られると、灌漑面積は 3 万ヘクタールに及んだという。 図 12-89 アンコールの水の帝国 中央公論社『世界の歴史13』 アンコール朝時代、人々は王の指示のもと、貯水池の堤防を切り、数キロにもわたる田
んぼで一斉に田植えを始めていた。そして一斉に稲刈りを行っていた。稲穂が豊かに波打
つ大地。しかも日本の水田のように年 1 回ではない。年 3 回も稲穂が波打つ。その中心に
そびえるアンコール・ワット(図 12-89 参照)は、まさに「水」の恵みを人類の叡智で十
二分に引き出したクメール人の勝利のシンボルであった。アンコールは水利都市国家で、
これこそが繁栄したアンコール朝を維持する原動力となっていた。 12 世紀はクメール帝国にとって「輝ける世紀」であった。スールヤヴァルマン 2 世(在
位:1113~50 年頃)は 1145 年にチャンパの首都ヴィジャヤを陥れ、その東のチャンパ領域
から西はビルマの国境まで、またチャオプラヤー川中流域からクラ地峡までをその版図と
し、もっとも広い領土を維持した(図 12-86 参照)。国内では、アンコール寺院の中の最
高傑作であるアンコール・ワットを 30 余年かけて建立した。その境内では、王はヴィシュ
ヌ神の姿相をもって神格化され、礼拝されていた。 ジャヴァルマン 7 世(在位:1181~1218 年)は、もっとも壮麗な都城の一つとして、アン
コール・トムを完成させた(図 12-89 参照)。彼はクメール帝国の最盛期をもたらしたが、
同時に各地の大寺院の建立や軍事賦役によって国を弱体化させてしまい、彼の時代には、
カンボジアの凋落の兆しが見え始めていた。1220 年頃に王が死去し、その後偉大な王は出
なかった。 1231
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
アンコール帝国の崩壊が始まった。チャンパ、スコータイ地方、チャオプラヤー川流域、
それにマレー半島からも撤退した。14 世紀後半からタイのアユタヤ朝が真臘を攻略し、1432
年にアンコール王朝は陥落し、プンニーア・ヤート王は南部へ遷都した。その後真臘の名
称は使われなくなり、16 世紀後半からはカンボジア(柬埔寨)と改められた。 【④ミャンマー(ビルマ)地域】 ミャンマー南部の地は、図 12-90 のように、古くからモン族が住み都市国家を形成して
海上交易も行っていた。北部では 7 世紀にピュー人が驃国(ひょうこく)を建国したが、
モン族とピュー族の城砦は 9 世紀に南詔に滅ぼされた(832 年頃。図 12-75 参照)。ビル
マ族は南詔国の支配下の中高原もしくは北ビルマ地帯に住んでいたともいわれている。こ
のビルマ族が無人の地となったエーヤーワディ川流域のエーヤーワディ平原(ミャンマー)
に進出したようである。 図 12-90 10 世紀までの東南アジア半島部 山川出版社『東南アジア史①大陸部』 そしてシャン丘陵から流れくる河川がエーヤーワディ川の合流する地点の広大な扇状平
野のチャウセー地方へ徐々に定住していったようであった。この地方には先住のモン人た
ちなどがまばらに住んでいたが、ビルマ人は混住ののちモン人を追い払い、この肥沃な地
域を中心に北部と西部の両方面にその勢力を伸ばしていった。 モン人との接触からインド起原の文字を学び、ヒンドウー教や仏教などを受容し、同時に
水稲耕作と灌漑の技術を習得したようである。先住民から学んだ灌漑による安定した稲作
1232
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
農業はビルマ人の人口膨張をもたらし、チャウセー平野が名実ともに穀倉地帯であると同
時にビルマ人揺籃の地となったのである。 ビルマ人は「カヤイン」という集団居住村をつくり、そのカヤインの緩やかな連合をつ
くっていた。そうした農業基盤の発展が、やがてパガン朝へつながっていった。遺跡から
ビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11 世紀~13 世紀)以降である。 ○パガン朝 パガン王朝はビルマ人最初の王朝で、首都はパガンであった(図 12-86 参照)。 11 世紀になってアノーヤター王(在位:1044~1077。最初の王といわれる)が登場し、各
地への征討を行い、北はバモー近くから南はマルタバン湾に至る広大な国土を統一した。 アノーヤター王の大きな功績は、モン人高僧シン・アラハンの勧めによりパガンに上座仏
教を導入したことであった。
第 3 代目のチャンシッター王(在位:1084~1112 年頃)は国内の政治的統一を維持し、
パガン朝の最盛期を出現させた王であった。王はモン人とビルマ人の融和統合につとめ、
仏教を篤く信仰し、ビルマ寺院建築の最高傑作アーナンダ寺院を建立した。パガン朝は、
その後も、首都と周辺部を仏教関係の建築物で埋め尽くし、その寺院仏塔こそビルマ芸術
の極致であるといわれている。しかし、パガン朝末期の諸王は、王としての資質を持ち合
わせていず、寺院建立にうちこみ、「仏寺成って国亡ぶ」と民衆からいわれた。 1286 年、元帝国が、イェースティムール(後の成宗)を送り、翌年、パガンは陥落し滅
亡した。現在、点在するパゴダや寺院のほとんどは 11 世紀から 13 世紀に建てられたもの
で、仏塔の数は 3000 を超えるといわれている。 ○ビルマ国内の分裂(アヴァ朝、ペグー朝) その後、国内では各民族に立脚した数多くの土侯・地方政権が分立抗争した。上ビルマ
のシャン人は 1364 年にアヴァに都城を築いて、アヴァ朝を開いた(図 12-91 参照)。 下ビルマのデルタ地帯には、バゴー(ペグー)朝が開かれた。そして下ビルマ沿岸のバ
ゴー(ペグー)、マルタバンなどの港市には、インド、中国、近隣の東南アジアから商船
が来港し、商取引が活況を呈していた。そのマルタバンにポルトガル人が 1519 年に商館を
開設し、ここがビルマで最初にヨーロッパと関係を樹立した場所となった。バゴー朝のこ
うした商取引により繁栄する下ビルマをねらっていたトウングー朝は、バゴーを攻撃し陥落
させた。 ○トウングー朝のビルマ統一 パガン陥落時にビルマ人の一部はシャン人の統治下から逃れ、トウングー地方に避難して
きた(図 12-91 参照)。トウングー都城主のタビンシュエティー王(在位:1531~51 年)
1233
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
はビルマ人による国内統一に乗り出し、トウングー朝(1531~1752 年)を創建し、1546 年
には統一ビルマの王としてバゴーで即位式を行った。 この王はビルマ史上で(パガン朝についで)2 度目の国内統一を成し遂げた王であった。
各地への征討にはポルトガル人傭兵を伴い、火器に助けられたが、ヤカイン(アラカン。
現在のミャンマー北西部のヤカイン州)地方への攻撃とアユタヤ朝への遠征には失敗した。 図 12-91 14~15 世紀の東南アジア(マラッカと東南アジア交易圏) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 【⑤タイ地域】 ○インドシナ半島中央部のタイ系諸族 タイ系諸語を話す人たちは、中国雲南地方からベトナム北部・ラオス・タイ・ビルマ東
北部など広い地域にわたって住んでいた。彼らは先住のクメール人、モン人、ビルマ人の
間に入って雑居していて、むしろ既存の民族が元寇で衰えたところに勢力を伸ばしていっ
たようである。 タイ系諸族は、13 世紀末から 14 世紀にかけて王国もしくは地方政治勢力としてそれぞれ
伸張し、チャオプラヤー川に沿って広大で肥沃な平野へ、そして海近くまで南下していっ
た。 これらタイ系諸族は、北部のチェンマイ王国、中部のスコータイ王国、メコン川上部の
ランサン(ルアンパルバン)、少し時代はあとになるが、14 世紀半ばにチャオプラヤー川
下流のアユタヤ王国、パガン朝滅亡後上ビルマの覇権を握ったシャン人の国々ピンヤ、サ
1234
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ガイン、アヴァなどがあり、それらは広義のタイ系諸族の国々であり(図 12-91、図 12-
92 参照)、インドシナ半島中央部にまさにタイ系諸族の世界をつくり出すことになった。 図 12-92 13 世紀東南アジア(モンゴルの進出) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 ○スコータイ王国、ラーンナータイ王国 最初のタイ人独立国は、シーイントーラティット王によるスコータイ王国の建国で、1220
年代と考えられている(図 12-92 参照)。タイ人はアンコール朝からいろいろな分野の技
術と文化、とくに政治制度と文字を吸収した。スコータイ 3 代目のラームカムヘン王(在
位:1279 年ころ~1299 年)の時代にスコータイ王朝は黄金期を迎えた。スコータイの領域
をルアンプラバンからかつてのカンボジア領を蚕食しつつビルマのバゴー、マレー半島の
リゴールまで拡大した。 同じタイ系諸族の首長マンライは 1291 年ころハリプンジャヤ国を攻略してモン人を駆逐
し、ラーンナータイ王国を建て、チェンマイを首都とした(図 12-92 参照)。チェンマイ
はチャオプラヤー川の支流ピン川に沿って拓けた盆地の中心地である。 ○アユタヤ朝 1235
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
アユタヤ朝はチャプラヤー、ロッブリ、パーサックの 3 河川の交通の要衝に建国され、
そこは以前から物産の集散地であった。アユタヤ朝の創建者のラーマディボディー1 世(在
位:1351~69 年)は、国内および周辺国において転戦を重ね、北方のスコータイ、東方のカ
ンボジアを攻略して勢力の拡大をはかり、マレー半島のマラカ(マラッカ)にまでおよん
だ(図 12-90 参照)。 この王の後継者たちは、チャオプラヤー川の中流域と下流域を完全に押さえ、商港アユ
タヤには中小河川や水路を通じて内陸部の広い地域の物産が集まった。これに加えて自国
でとれる米や獣皮などを取りそろえ、近隣へ輸出していた。同時にシャム湾と南シナ海を
通じて中国南部とつながり、マレー半島の西岸を通じてベンガル湾への通商ルートを確保
していた。 ボロマラーチャー2 世(在位:1424~48 年)治下では、1432 年に東隣国アンコール朝を
壊滅させ、1438 年にスコータイを完全に併合した。 《ヨーロッパとの最初の接触》 ラーマディボディー2 世(在位:1491~1529 年)は、ヨーロッパ人と最初に接触を持っ
た王であった。1509 年にポルトガルがアユタヤに使節をを送ってきた。その 2 年後、ポル
トガルがマラカ(マラッカ)を占領した。ポルトガルは 1516 年にアユタヤと最初の条約を
結び、ポルトガル人は首都やテナセリムなどへの居住が認められ、通商の権利を獲得し、
カトリックの布教が承認された。 【⑥メコン川中流域のラオス地域】 中国の方からメコン川を南下して、メコン川中流域に達していたタイ系諸族の一派であ
るラオ人たちは、13 世紀前半にアンコール朝の支配を脱していたという。そしてメコン川
沿いの河谷平野や山間盆地にいくつもの「ムアン」(小国・地方)をつくていた。 ○ランサン王国 伝承では、これらのムアンを征服したファーグム王が 1353 年に現在のルアンパバーン(=
ルアンパラバン。ラオス北部、メコン川とカーン川が交わる地点にある山間の町)に建国
したのがランサン王国で(図 12-91 参照。1353~1710 年)で、ランサンは「百万頭の象」
の意味であった。 このファーグム王は、かつていたアンコールの地からラオスに帰還してランサンの王位
についた。王は僧侶とクメール人職人をランサンに招いた。彼らは有名なパドーンの金泥
塗り石仏像をつくり、これが国家鎮護の仏像となった。 16 世紀半ばには、この国は最大の領域を保持した。1563 年、セーターティラート王は、
ビエンチャン(現在のラオスの首都)に遷都した。そこはメコン川中流域にあり交通の便
1236
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
もよく、ルアンパバーンよりもラオスの中央部に位置し、大越(ベトナム)およびタイと
の貿易の適地でもあった。また、当時インドシナ半島の中央部を脅かそうと狙っていたビ
ルマに対する戦略的な要衝でもあった。 【⑦インドネシア群島部】 現在のインドネシア群島部は、紀元前 1 世紀の頃からはインド洋を渡ってインドの商人
たちが訪れるようになり、ヒンドゥー教の影響を受けた独自の文化が発展し始め、5 世紀頃
から、ボルネオ島東部にクタイ王国、西部ジャワにタルマ王国が繁栄し始めた。 ○クタイ王国 クタイ王国は、5 世紀初め頃、カリマンタン島東部、マハカム川下流のクタイ周辺に栄え
たヒンドゥー王国であった(図 12-93 参照)。クタイ王国は、インドからマカッサル海峡、
フィリピン、中国に抜ける交易ルートに位置していたためにインドからの船が寄航し中継
貿易の利で繁栄したと思われる。サンスクリット語の使用は、インドの影響が強かったこ
とを示している。 図 12-93 古代の東南アジア群島部 中央公論社『世界の歴史13』 ○タルマ王国(タルマヌガラ王国) タルマ王国は、インドネシア、ジャワ島西部のボゴール付近に 5 世紀初頭頃に栄えたヒ
ンドゥー王国であった(図 12-93 参照)。スンダ海峡の東岸に位置しているので、その交
通路を支配してその交易の利によって繁栄したと推定される。 1237
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
○シュリヴィジャヤ王国 シュリヴィジャヤ王国は、500 年ごろから現在のパレンバン辺りで発展したようである
(図 12-94 参照)。ここには国王が小規模な宮廷をかまえ、軍隊を指揮し(兵 2 万人の動
員が可能であった)、さまざまな職人や奴隷からなる社会を支配していた。さらに王族が
それぞれ独立した首長として国王を補佐し、その他の首長が従臣としてこれに服従してい
るという国家の組織があったようである。 図 12-94 8~9 世紀の東南アジア(ポロブドゥールの時代) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 タイ南部のチャイヤー(図 12-93 参照)が王国の地域的な中心のひとつであった可能性
は高く、シュリヴィジャヤ王国の領域はスマトラ島からマレー半島を含んだかなり広いも
のだったと考えられる。
シュリヴィジャヤ王国の成立は東南アジア群島部の歴史にとって画期的なことであった。
第一にシュリヴィジャヤがインド方面から貿易船が来航し、東南アジア群島部の各地との
間を往復する貿易船との間で貿易を行う中継貿易の基地であり、シュリヴィジャヤ王国の
成立とともに、同地を中心とする東南アジア貿易圏が成立したと考えられている。シュリ
ヴィジャヤの国王の仕事はこのように各地から来航する貿易船の間で行われる取引を円滑
に行わせることであった。 シュリヴィジャヤを起点とする貿易のなかでは中国との貿易がもっとも重要であった。
このためアラブ船、ペルシア船、インド船などはしばしばシュリヴィジャヤから中国に直
航した。このようにアラブ船、ペルシア船などがマラッカ海峡を通過して中国に直航する
1238
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ようになってからは、扶南がおとろえ、オケオの貿易港も放棄されたのである。北部ベト
ナムの重要性も低下し、その結果、唐のベトナム支配も形式的となり、逆にベトナム人が
支配的な地位につくようになり、10 世紀になってベトナムが独立するようになったのであ
る。 《ジャワ島中部地域》 ○訶陵国 ジャワ島ではインドのグプタ文化の影響を受けて、5 世紀ころから西部ジャワで国家の形
成が進んでいた。また 640 年からは訶陵国という現在の中部ジャワ島のプカロンガンにあ
った国がたびたび唐に入貢していたことが中国の史料でわかっている(図 12-93 参照)。 漢文史料で 7 世紀から 9 世紀まで断続的に朝貢している「訶陵国」は、後述するシャイレ
ーンドラであろうとされる。 ○古マタラム王国とシャイレーンドラ朝 訶陵国からやや東の内陸部に中部ジャワの平野があり、その中央にムラピ火山(図 12-
95)がそびえている。その麓のシヴァ教寺院の遺跡から発見された 732 年の碑文から、サ
ンジャヤ王がウキル山頂にシヴァ神の象徴であるリンガを建立させたことがわかった。こ
のサンジャヤ王に始まる王国はマタラム(古マタラム)という名前であったこともわかっ
た。ジャワでは、8 世紀前葉に古マタラム王国とシャイレーンドラ朝が建国された。 図 12-95 中部ジャワの遺跡分布図 中央公論社『世界の歴史13』 図 12-95 のように、ムラピ火山の西側にあるグループと、その東南の地域に密集してい
るグループに大別される。シャイレーンドラ朝は、8 世紀末から 9 世紀初めに巨大な大乗仏
教の石造ストゥーバであるボロブドゥール寺院を建設した。9 世紀半ばには、シャイレーン
1239
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ドラはシュリヴィジャヤと合邦して 11 世紀の滅亡までスマトラ島を本拠地として、政治力
と商業力で周囲に君臨した。 古マタラム王国は、10 世紀初め頃まで続き、壮大なヒンドゥー寺院であるプランバナン
寺院群を建設した。 926 年頃にムラピ火山が大噴火を起こし、中部ジャワの平野が一時的に人が住めないよう
な状況に陥り、人々は東部ジャワに移動したものと考えられる。東部ジャワがジャワの歴
史の舞台となるのはそれからのことであった。一方、中部ジャワの内陸部は 16 世紀の末に
マタラム王国が成立するまで、ほとんど人が住まないような状況であった。 《ジャワ島東部地域》 ○クディリ王国 古マタラム王国のダクサ王の子孫とされるイサナ家のムプ・シンドク王(在位:929 年~
947 年)が、ジャワ東部に本拠地を移して、プナングガン山のふもとに居を定めて 929 年に
クディリ王国を建国した(図 12-86、図 12-96 参照)。この王国は、ヒンドゥー教を奉ず
る古代王朝国家であり、交易の利権をめぐって、ダルマヴァンシャ王(在位:991~1016 年)
がシュリヴィジャヤの覇権に挑んだが、結局 1016 年にダルマヴァンシャが殺害されて、シ
ュリヴィジャヤの勝利に終った。 図 12-96 10~15 世紀の東部ジャワ 中央公論社『世界の歴史13』 ダルマヴァンシャの娘とその婿エルランガはいのちからがら難を逃れて、1019 年、イサ
ナ王朝を継ぐ者として王位に就き、1037 年にジャワ東部の統一事業を完成し、王都をカフ
リパンに遷した。 ○シンガサリ朝
1240
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
その後、ジャワでは、1222 年にケン・アンロクによって、クディリ王国が倒され、シン
ガサリ朝が建国された(図 12-92 参照)。最後の王クルタナガラのとき、元の使者が来た
が、その顔に刺青を入れて送り返したので、元の皇帝フビライは報復として大軍を派遣し
た。ジャワ島は元の遠征で被害を受けたが、やがて元軍を撃退したヴィジャヤが 1292 年に
マジャパヒト王国を建国した。 ○マジャパヒト王国 このマジャパヒト王国は 13 世紀末から 16 世紀始め頃までジャワ島中東部を中心に栄え
たインドネシア最後のヒンドゥー教王国であった(図 12-91)。王国の都はジャワ島東部
プランタス川流域のマジャパヒトに置かれた。マジャパヒトと元朝の関係は当然悪化した
が、クビライ汗が死去すると大きく好転し、1295 年から 1332 年の間に 10 回の朝貢が行わ
れた。 14 世紀から 15 世紀にかけて、親衛隊長から宰相に抜擢されたガジャ・マダのもとにマジ
ャパヒト王国は、繁栄し最盛期を迎えた。宰相ガジャ・マダは 1342 年にバリ島に侵攻した
のを皮切りに、インドネシア各地に対する遠征を行い、スマトラ島のシュリヴィジャヤ王
国を滅ぼして南海の海上交易ルートを掌中におさめた。 最盛期の支配領域はマレー半島のパタニやトゥマシク(シンガポール)、カリマンタン
島に及び、東西交通の要衝であるマラッカ海峡とスンダ海峡を制圧した。またタイのアユ
タヤ王朝やカンボジア、ベトナムとも友好関係を持った。当時のマジャパヒト王国はほと
んど現在のインドネシア共和国に匹敵する地域を支配していたとされている(図 12-91 参
照)。しかし実際にマジャパヒト王国が支配権を行使していたのは東部ジャワとバリ島に
限られていたと思われている。
中国の明王朝は、15 世紀前半、鄭和艦隊を 7 回にわたって南海に派遣し、ジャワのマジ
ャパヒト王国にも来航した。鄭和艦隊の保護下にマラッカ王国が成立すると、南海貿易の
中心はマラッカに移り、マジャパヒト王国はこの趨勢を食い止めることができなかった(図
12-91 参照)。 また 15 世紀以降はイスラム教が浸透して、マラッカ王国がイスラム化したのを始め、ジ
ャワ北岸のトバン、グルシクなどにもイスラム教国が成立した。ジャワの海岸地帯にイス
ラム港市国家が成立し、マジャパヒト王国はしだいに内陸部に閉じ込められるようになっ
た。マジャパヒトの宮廷は東王宮と西王宮に別れ、次第に勢力を争うようになり、16 世紀
に始めにドゥマク王国を中心としたイスラム勢力に滅ぼされた。 【⑧インドネシア群島部のイスラム化】 1241
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
10 世紀の中頃にアフガニスタンでガズニ朝が成立し、それが 11 世紀の初めに西北インド
に侵入してから、インドにもイスラム教徒の王朝が成立し、支配者として人民にイスラム
をおしつけるようになった。仏教のナーランダー僧院も 1200 年頃にイスラム教徒によって
破壊されてしまった。 ナーランダー僧院が失われたことはインド、東南アジアの仏教にとって大打撃であった。
教義を伝承・発展させる場が失われたことによって、東南アジアでは仏教は現地の固有の
信仰と融合したり、あるいはヒンドウー教と融合したりして、いわば現地化が進んだ。 ○スマトラ島のサムドラ・パサイ王国 東南アジアの諸王朝でイスラムの受容がはじまるのは、13 世紀末頃のスマトラ島北部に
おいてであり、その中心地はサムドラ・パサイ王国(図 12-97 のスマトラ島の西端)だった。
これに先だって、すでに 11 世紀頃にはムスリム商人の往来がはじまっており、彼らは現地
の支配者層と密接な関係を築いていた。 図 12-97 15~17 世紀東南アジアの主要港市と内部都市 山川出版社『東南アジア史②島嶼部』 このサムドラ・パサイ王国は 13 世紀から 15 世紀の間にかけて繁栄し、マルコ・ポーロ
(1254 年ころ~1324 年)やイブン・バットゥータなどの旅行家も訪れた。マルコ・ポーロ
1242
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
は、その『東方見聞録』に北部スマトラ島のパサイ王国とサムドラ王国を訪れたとき、そ
の住民はイスラム教徒であったことを記している。 イスラム世界最大の旅行者イブン・バットウータは 1346 年にインドのカリカットから中
国に赴く途中で、サムドラ市を訪れ、その国王スルタン・アルマリク・アッザヒールのこ
とを記している。 こののちサムドラ・パサイは港市国家として繁栄した。この地域の輸出品としては金が
あるが、ほぼこのころからこの地域で胡椒の栽培が開始された。おそらくインドから来航
する商人が胡椒の産地であるインドのマラバル海岸から移植したのであろう。 サムドラ・パサイではこうした経済的な繁栄に支えられて、イスラム的マレー文化が形
成された。こののちサムドラ・パサイは東南アジアにおけるイスラム信仰の中心地となり、
メッカ巡礼の出発点となった。 スマトラ島では、15 世紀末にはすでに独立していたアチェ王国(図 12-97 のスマトラ島
の西端)がイスラム化しており、この海域での交易の中心地として発展を遂げた。また、
16 世紀前半には、マレー半島のマラッカ王国(図 12-91 参照)、ジャワ島のドゥマク王国
(図 12-98 参照)、ジャワ島のバンテン王国(図 12-98 参照)など、マラッカ海峡に面
するスマトラ東岸のほとんどの港市がイスラムに改宗していった。 図 12-98 ジャワ島におけるイスラムの伝播 中央公論社『世界の歴史13』 【⑨フィリピン諸島】 フィリピン諸島では中世までに統一国家はできていなかった。 フィリピンの歴史は多様な民族によって織りなされてきた。まず、出アフリカをして東
南アジアに最初にやってきたホモ・サピエンスが北上してフィリピン諸島に移住してきた
最も古い民族は 2 万 5000~3 万年前のネグリト族であった。次に新石器文化を持った原始
マレー人で、この後が、棚田水田農耕を持った古マレーであった。 1243
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
紀元前 500 年~紀元 13 世紀の間にマレー系民族が移住してきた。900 年頃の日付が記録
されているラグナ銅版碑文などによれば、当時すでにカウィ文字やバイバイン文字など複
数の文化を受容出来る成熟した都市国家を形成していたことが明らかにされている。 14 世紀後半にイスラム教が広まった。中国(明)や東南アジアとの交易で栄えたが、7,000
を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域に統一国家は形成されていなかった。 1521 年、セブ島にポルトガル人の航海者マゼランがヨーロッパ人として初めてフィリピ
ンに到達したが、それ以降の歴史は近世に記すことにする。 【12-6】サハラ以南のアフリカ 中世に成立したアフリカの地中海沿岸の国々については、前項のイスラムの世界に記し
たので、ここでは中世に形成されたサハラ以南のアフリカの国家について述べる。 ○スーダン地域 メロエ王朝崩壊後、4 世紀頃にナイル川流域にヌビア人によってノバティア王国、マクリ
ア王国、アルワ王国という 3 つのキリスト教王国が作られた。これらのキリスト教の浸透
は 1000 年の長きにわたって続いたが、641 年ごろより侵攻をはじめたイスラム教に徐々に
駆逐されていった。そして 13 世紀後半にエジプト・マムルーク朝との戦争に敗れたマクリ
アはエジプトの支配下へ、ノバティア、アルワは 15 世紀にイスラム教徒によって滅ぼされ
た。 15 世紀に入ると紅海沿岸を発祥とするフンジ王国(図 12-99-c参照)が設立され、青
ナイル流域にまで勢力を拡大していった。15 世紀後半にはダルフールの山地にダルフール
王国が築かれた。ともに 19 世紀まで存続していったが、ムハンマド・アリー朝によって滅
ぼされた。 1244
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
図 12-99 9~16 世紀のアフリカ 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 ○エチオピア高原、アフリカの角地域 1245
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
《アクスム王国》 紀元 1 世紀から続いていたアクスム王国(古代の歴史で述べた)と古代地中海世界との
関係は、おそらく 8 世紀までには失われてしまったようである。エジプトへのイスラム教
徒の侵入により、エチオピア(キリスト教コプト派)とエジプトとの関係は、何世紀にも
わたって引き裂かれることになった。アクスム王国は、1137 年頃に、中央クシ系アガウ人
のザグウェ朝によって滅ぼされた。 《ザグウェ朝と岩窟教会群》 アクスム王国を滅ぼしたザグウェ朝は 1 世紀あまりしか存続くしなかったが、ラリベラ
王(在位:1185~1225 年頃)は、アクスムの南方、タナ湖の東方に位置する現在のラリベ
ラの町に、巨大な凝灰岩をくり抜いて 11 の教会を建設したことで知られている。これらは
エチオピア正教会の教会堂群であるが(現在、ユネスコの世界遺産となっている)、保存
状態も良好なベテ・ギョルギア(聖ゲオルギウス聖堂)など世界最大級の岩石聖堂で、世
界の石造建築史から見ても非常に重要な建造物である(インドのエローラの石窟寺院と同
じく岩石くり抜き一体方式である)。 その後いくたびも政権は交代していったが、キリスト教はアムハラを中心とした人々の
間に深く浸透していった。そして教会の数は 1 万 2000 をこえ、今日にいたっている。 《エチオピア帝国ソロモン王朝》 1270 年、アクスム王家の血筋を名乗るイクノ・アムラク(在位:1270~1285 年)がラス
ク地方の南方から挙兵して、キリスト教会の支持もとりつけて、ザグウェ朝を倒し、自ら
皇帝に即位し、ソロモン朝を開いた(ソロモン朝の由来を伝える「ソロモン王朝」の伝承(シ
バの女王とソロモンが交わって生まれた息子が、エルサレムから神との契約の箱を持ち帰って
エチオピアを建てた)は伝説である)。 ソロモン朝は、一時中断するものの 1975 年まで続いたエチオピア帝国である。彼の先祖
をたどると、アクスム王国の最後の王デイルナードに繋がるとされている。 14 世紀前半、卓越した武将でもあったアダム・シヨン皇帝(在位:1314~44 年)は、エ
チオピア各地に軍事的遠征を行い、多民族・多宗教の国家を建設した。その勢力圏は、エ
チオピア高原を中心に、紅海、アデン湾沿岸にまでおよんだ(図 12-99―b 参照)。 しかし、帝国の安定はビイデ・マリヤム(在位:1468~78)の治世までしか維持されず、
後継者争いで衰退の一途をたどり、1679 年~1855 年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代
となった(諸公侯時代)。 ○スワヒリ(東アフリカ海岸)地域 スワヒリ地域は、古代でも述べたように、10 世紀ぐらいまでは、まだアフリカ的環境に
とどまっていたが、島嶼部ではすでにイスラム化が進行していた。かつて東アフリカにお
1246
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
いては、現在のソマリアからケニア、タンザニアを経てモザンビークにいたる 3000 キロメ
ートルもの長い海岸線に沿って、点々と港をもつ交易都市が成立したのであり、中には現
在まで続いているものもある。 9~10 世紀ころには、マリンディ(現在のケニアの海岸都市。図 12-99-b)のやや北
方にあるマンダ島が交易の中心として繁栄した。その他、東アフリカで交易で繁栄した町
としてはキルワ(図 12-99-b、図 12-100 参照)、モガディシオ(図 12-99-b、図 12
-100 参照。現在のソマリアの首都)などがあった。 以上のようなことからわかることは、8~10 世紀がスワヒリ黎明期にあたるとしたら、そ
の後の 13 世紀までの 200~300 年間は、イスラムが広く普及するとともに、織物生産などの
技術的な向上もみられ、スワヒリ文化の展開期にあったといえる。 図 12−100 10 世紀までの東アフリカ海岸 ○南部アフリカ 1247
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
南部アフリカでは、図 12-99-b,cのように、ザンベジ・リンポポ川流域地域でジン
バブエ文化が興ってきた。現在のジンバブエの人口の 4 分の 3 はバントゥー系のショナ人
であり、多数派を形成している。9 世紀ごろ、北方から現在の居住地域に定住したと考えら
れている。 《マプングブエ》 13 世紀につくられたマプングブエ(1220~90 年頃)は、南部アフリカの歴史のなかで最
初の国家であったといわれる。そこでの建築物やその空間配列によって、階層区分があっ
たことや神聖な指導者の存在などが明らかになっている。この都市は次のグレート・ジン
バブエと類似しており、これが起源となってグレート・ジンバブエ文化が生まれた可能性
がある。 《グレート・ジンバブエ》 1868 年にローデシアの白人ハンターが、壮大な遺跡グレート・ジンバブエを発見した。
今日では、こうした石の建造物は各地に 300 ヶ所ほど見つかっている。 グレート・ジンバブエ(ジンバブエとは「石の家」という意味)は、南部アフリカに生ま
れた最初の町であり、交易センターとして王国の首都であったと推定されている。 1270~90 年頃に、グレート・ジンバブエは、花崗岩片を利用した石壁の集合体として、丘
の上に建設された。この町は、中心部に少数の支配者階級の居住区があり、その壁の外に高
密度に小屋がならぶ庶民居住区かある。両者を合わせた面積は 700 ヘクタールにもなり、
全体の推定人口は約 1 万 8000 人と推定されている。 発掘資料のなかには、中国・明朝(1368~1644 年)の時代につくられた陶磁器類やペル
シア製の容器、イスラム・ガラスなどがあり、13~14 世紀の交易活動によって入手された
と推定されている。これらは,アフリカ東海岸とアラビア半島やインドとの海上交易で繁
盛したソファラ(図 12-99-b参照)の港を経由してもたらされたものであろう。 《モノモタパ王国(ムタパ王国)》 グレート・ジンバブエ没落後の 15 世紀、高原の北東部にモノモタパ王国(ムタパ王国。
図 12-99-b、c参照)、南西部にトルワ国、東部にマニカ国が興り、ポルトガルなどヨ
ーロッパの文献にもその名が見られる。 モノモタパ王国(1450 年頃~1629 年)は、ジンバブエを中心にアフリカ南部のザンベジ
川流域を支配した王国で、早い時期からポルトガルとの関係を深め、黄金の国としてヨー
ロッパでその名が知られていた。金だけでなく象牙・ビーズと織物の遠隔地貿易を掌握す
ることで栄えた。 モノモタパ王国も、ポルトガルやイスラム商人などと金の交易を行っていたが、1560 年、
次第に影響力を強くしていくポルトガルに危機感を覚えた保守派がイエズス会宣教師を暗
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第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
殺するという事件が発生した。これを契機としてポルトガルとモノモタパ王国の関係は急
激に冷め、内紛の混乱で主権を失い、1629 年にポルトガルによって征服された。 《トルワ王国》 トルワ王国は、1450 年~1700 年ころにかけて多くの「石の家」(ジンバブェ)と呼ばれ
る街を築いた。そのうち最大のものが、ブラワヨ市の西方 20 キロメートルに位置するカミ
であった。カミは、カミ川の西側東西 500 メートル南北 1 キロメートルにひろがる広大な
街であり、人口は約 7000 人に達したと考えられている。川沿いには、マンボの丘があって
王とシャーマンが住んでいたと考えられている。 ○西スーダン地域 西アフリカは特異な地形・環境にあって、アフリカのなかでは比較的早くから発展して
いた。その舞台となったのは、ニジェール川流域であった。ギニア山地に源を発するニジ
ェール川は、全長約 4200 キロと、アフリカ第 3 の長さをもつ河川である。熱帯多雨林に水
源をもつこの川は、湿潤サバンナ、乾燥サバンナを貫いて流れ、トンブクトウ付近(図 12
-99-a、b、c 参照)でサハラ砂漠に接したところで大きく湾曲して、一路、ギニア湾に向
かう。 サハラ砂漠の南に位置するニジェール川の河畔は,乾燥地帯における、いわば大きなオ
アシスの役割を果たしたと考えられる。サハラ砂漠を縦断して地中海沿岸の地域から,サ
ハラ以南のアフリカを結ぶ長距離交易は,ラクダが導入された 1 世紀頃から急速に発達し
た。砂漠を越えたキャラバンの一行はニジェール川にたどりつき、そこで岩塩など交易の
商品の荷を下ろした。そのため、交易ルートの終着点は商業的な中心地となり、そこから
都市が成立していったのである。 トンブクトウ、ガオ、ジェンネなどの都市がその例であるが(図 12-99 参照)、これら
は現在でもマリ共和国の国内における主要な地方都市となっている。 ニジェール川中流域には、図 12-99 のように、7 世紀頃に始まるガーナ王国およびガオ
王国、13~14 世紀に最盛期をむかえたマリ帝国、15~16 世紀に西アフリカ史上最大の版図
を誇ったガオ(ソンガイ)帝国と、西アフリカ史を彩る諸王国ないし緒帝国があいついで
成立した。その後も、18 世紀のバンバラのセグー王国、19 世紀前半のフルベのマーシナ国
家をはじめ、国家の発展はとだえることがなかった。 《ガーナ王国》 このガーナ王国は、現在のガーナより 1500 キロメートル北にあって、図 12-99-aよう
に、モーリタリアとマリの国境付近の、セネガル川とニジェール川に挟まれた地帯に成立
した。 1249
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
現在ではこの地域は年間降水量 250 ミリ前後と、厳しい乾燥化が進行しているが、ガー
ナ王国が成立した 7~12 世紀は湿潤であり、農業や牧畜が可能であったと推測されている。 また、ガーナでは、製鉄業が著しく発展し、5~15 世紀のブレル遺跡やプチュワル遺跡に
は 500 を超える溶鉱炉の跡が発見されていて、大量の鉄の製造が国家組織の発展に寄与し
た。 さらにセネガル川上流のバンブクやニジェール川上流のブレ、南部のヴォルタ川流域を
主産地とする金は、ガーナを経由してサハラ交易で北アフリカまで運ばれており、「金の国
ガーナ」はサハラの北の住人にとって大きな関心事であった。西アフリカからマグレブに運
ばれた金は、アトラス山脈南部のシジルマーサ(図 12-99-a参照)などの交易都市で鋳
造されたあと、イスラム世界はもちろんヨーロッパでも広く流通するなど、世界規模の商
業の拡大に貢献したのである。 ガーナや後述するマリは、金の交易の独占と、北から運ばれてくるウマを用いた騎馬軍
団の整備によって、アフリカでははじめて帝国と称されるほどの広域支配を実現すること
ができたのである。 《マリ王国》 砂漠の民の圧力によって 12 世紀にガーナ王国が弱体化したとき、そのあとを襲ったのが、
図 12-99-bのマリ帝国であった。 このマリ帝国の発展と拡大は、金の主産地であるニジェール川上流およびセネガル川上
流地帯のすぐ近くに位置していたことが有利に働いていたと考えられている。1307 年にメ
ッカ巡礼におもむいた第 9 代の王マンサ・ムーサ王(在位:1312~37 年)が、そのとほう
もない財力でアラブ世界にセンセーションを巻き起こしたことで有名である。 ガーナ王国についでマリ王国の時代にニジェール河畔では都市はいっそう発達した。 トンブクトウやジェンネなどが都市として拡大した(図 12-99-b参照)。これらの都市
はサハラ砂漠を縦断する交易の南の終結点であったが、さらにニジェール川を行き来する
船運によって結ばれ、トンブクトウからはサハラ砂漠から運ばれた岩塩が、ジェンネからは
森林地帯から運ばれた金が交換された。マリ王国の経済的基盤はこの「塩金交易」にあっ
たといわれている。 このトンブクトウは 1100 年ごろから遊牧民のトウアレグ族が開いた町で、13 世紀後半に
マリ王国に吸収され、マリ帝国(と後のソンガイ王国)の代表的な交易都市として繁栄し
た。この 14~16 世紀の最盛期には、イスラム教の大学や 100 以上のコーラン学校が建てら
れ、商業都市としてだけでなく、宗教と学問の中心地としても名声を博するようになって
いて、地中海世界やヨーロッパにも広く伝わっていたようである。 1250
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
マリ王国は最盛期には図 12-99-bのように、王国の版図を広げ、西は大西洋にまで及
んだ。そのため、初期のポルトガル航海者たちも、その評判を伝えている。 マリ王国はモロッコのサード朝(16 世紀初頭から 1659 年までモロッコを支配した王朝)
と岩塩鉱山の採掘権をめぐり争い、16 世紀末、鉄砲隊をもつモロッコ軍の攻撃を受けて滅
亡した。このマリ王国も前述のガーナ王国も、その名が 20 世紀に成立した国家の名前に受
け継がれている(名前だけで領域は異なる)。 《ソンガイ(ガオ)王国》 マリ王国の衰退後、あらたにソンガイ王国が勢力を拡大した(図 12-99-c参照)。9
世紀頃からニジェール川東岸の地帯に小国を形成していたが、11 世紀には河岸の都市ガオ
に首都をおくソンガイ王国に成長した。それには、ガオが西や北からのびる交易ルートが
出会う要衝であったことが大きな要因となった。 15 世紀後半のソンニ・アリ王の時代にマリ王国の支配から脱し、王朝の交代がありムハ
ンマド王が築いた新王朝の時代に、ソンガイ王国は版図を大きく拡大した。 しかし、北からのポルトガル、東からのオスマン帝国の圧力に危機感をいだいた前述の
モロッコのサード朝は、サハラの交易ルートとタガザ塩山を直接支配することで勢力を維
持しようとし、1590 年にソンガイ王国の首都に軍隊を派遣した。4000 人のモロッコ軍を迎
えうつガオ軍は、1 万 2500 人の騎馬兵と 3 万人の歩兵からなっていたが、鉄砲を備えたモ
ロッコ軍の前にあえなく壊滅した。 《カネム王国、ボルヌ王国》 カネム王国は、9 世紀前半、図 12-99-a、b ように、チャド湖近くに興り、12 から 13
世紀にはイスラム教に改宗した。まず、13 世紀前半に王位にあったマイ・ドゥナマ・ディ
バレミの治世下で版図が最大になった。王国の基盤は交易にあった。交易路は文字通り東
西南北に延び、サハラ交易路を押さえ、トリポリ、エジプトにまで達した。13 世紀にはカ
ネムのいわば「朝貢国」だったボルヌ王国(図 12-99-c 参照)が勢力を伸ばし、カネム
王国は衰退した。 16 世紀にはボルヌ王国のスルタンであったイドリス・アローマ(在位:1571~1603 年)
は、メッカに巡礼を行った際、火縄銃の威力を知り、オスマン帝国と通商関係を結んで鉄
砲を入手し、鉄砲隊を組織して北のカネム地方や東のブララ人、北東のザガワ人、西のハ
ウサ人を打ち破り、チャド湖を取り囲む大帝国を築き上げた。その後、17 世紀に西からハ
ウサなどの侵入があって衰退し、1846 年に消滅した。 ○西アフリカ海岸部(ギニア湾岸地域) 西アフリカではヨーロッパ諸国によって植民地化される前に、いくつかでは王国が成立
した。 1251
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
《イフェ王国》 歴史上においてイフェの存在が確認されるのは 700 年から 900 年ごろからである。10 世
紀~15 世紀頃には、青銅製などのすばらしい彫刻で知られるイフェ王国が栄えた。 現在のイフェは、ナイジェリア南西部、オスン州の都市であるが、ここがヨルバ人の天
孫降臨神話の舞台であり、ヨルバ最古の都市国家でもあった(図 12-99-b、c参照)。今
もヨルバ人の聖地となっている。ヨルバ人の神話によれば、オドゥドゥワという伝説上の
王がイフェに降り立ち、初代のオニ(王)となり、彼の子孫がヨルバランド各地に散らば
って、ヨルバ諸国が誕生したという。 その後も聖権はイフェが握っており、聖権(イフェ)と軍権(オヨ)との二重権力構造
が続くこととなった。そのため、後にイフェ王国が衰えてもイフェの王は祭祀権を相変わ
らず持ち続け、ヨルバ諸国の王は必ず就任の際イフェに出向き、イフェ王の承認を得なけ
れば王として認められなかった。 《ヨルバ王国》 ヨルバは今日のナイジェリア西部を占め(図 12-99-b,c 参照)、その人口は 1400 万
人以上にも達する大民族で、ナイジェリア国内では有数の勢力を築き上げている。彼らは
当初はサバンナと森林の境界の地域に居住して、13 世紀頃からイフェ王国、オヨ王国、オ
ンド王国など 10 あまりの王国を形成した。 オヨ王国は、1400 年ごろから 1905 年まで、ナイジェリア南東部を支配したヨルバ人の王
国で軍事力を蓄えることに成功したが、それはギニア湾岸に登場したポルトガルやオラン
ダ商人と奴隷と銃・火器とを交換することで武力を強化したためである。ヨルバを統一し
たオヨはさらに南へと勢力を伸ばし、1728 年にはダホメ王国を服属させた。このころから
1 世紀間はオヨの黄金期であった。しかし、西のダホメがオヨへと攻め込み、1830 年には
オヨ王国はほぼ滅亡した。 《ベニン王国》 ベニン王国は、図 12-99-b、c のように、12 世紀から 1897 年までナイジェリア南部の
海岸地帯に存在した王国で、首都は現在のベニンシティであった。現在のベナン共和国は
この国の名にちなんで命名されたが、地理的にも歴史的にもつながりは全く無い。 ベニン王国は、12 世紀、この地域の住民エド人によって建国された。西のヨルバ人が建
国した国家ではないが、ヨルバ人と同じ建国神話を持ち、イフェの聖王(オニ)のもとに
ベニン王が認証を受けに行くなど、ヨルバ諸国と強いつながりを持っていた。 1470 年代にギニア湾に入ったポルトガル人もベニン王国を訪れ、コンゴ王国よりも先行
して、ベニンとポルトガルの二国間交渉がもたれ、ベニンは貿易の中心地として発展して
いった。ヨーロッパには胡椒や奴隷、象牙を売り、代わりに火器を輸入して奴隷狩りを行
1252
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
い、ベニンはさらに勢力を拡大していった。当時のヨーロッパ人によって、ギニア湾岸一
の大都市として紹介されたのもこの頃のことである。 ○コンゴ川流域地域 コンゴ川(旧称ザイール川)はアフリカ大陸の中央部をらせん状にまわり、大西洋に流
れ込む大河で、図 12-99 のように、15 世紀頃よりコンゴ王国、ルバ王国、ルンダ王国など
を形成してきた。 《コンゴ王国》 ヨーロッパの大航海時代が始まり、アフリカの大西洋沿岸には、まず、はじめにポルト
ガルの航海者たちが姿を現した。1482 年、ディエゴ・カーンはギニア湾沿岸を航海しつづ
け、ある一つの大きな川の河口(コンゴ川)に達し、さらに、この大きな川を奥へ進むと
コンゴ王国が存在することがわかった。こうしてポルトガルとコンゴの交渉がはじまった。
ポルトガル人が訪れたときには、すでにコンゴ王国は建国以来 150 年は経過していたとい
う。この王国はバントウー系の民族が形成したものである。 コンゴ王国の開祖はマニ・コンゴで近隣の民族を次々と征服した結果、コンゴ川下流を
中心に現在のガボンからアンゴラまでの広い領域の王国を作り上げたといわれている。王
国の内部はいくつかの地方国にわかれていて、それぞれの首長(マニ)が治めていたが、
その首長をマニ・コンゴが任命した。当時のコンゴ王国の領域は 20 万平方マイルで、人口
は 400 万人ないし 500 万人に達していた。 きらびやかな宮殿はなかったが、進んだ工芸技術をもっていた。鉄の精錬技術ももち、
鍛冶師によって鉄製の道具、武器などが製作された。また、銅鉱石の豊富な産地でもあり、
蜜蝋(みつろう)でとった鋳型に溶かした金属を流し込む失蝋法の開発で銅製の彫像や装
身具も製作していた。 ポルトガルと接触するまでは、コンゴ川流域は大陸内部の閉じた世界であったが、急速
に変化していった。新たに未知の大陸から来る産物を川にさかのぼって運搬する西の窓口
として機能するようになった。その窓口よりもたらされた新しい作物キャッサバはバナナ
よりもさらに生産性・生育性が高い作物で、バナナが広がった時と同様、各地の農業形態
に大きな変革を起こした。 コンゴ川源流域においても 1500 年ごろにはルンダ、ルバの両王国が形成されていた。 【12-7】南北アメリカ 【12-7-1】中央アメリカ(メソアメリカ) 中央アメリカのオルメカ文化期と古典期までを古代史で述べた。そこでこの中世の歴史
ではアステカ帝国の時代を記す。 1253
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
アステカ族は、本来はメシカ族と呼ばれる北方の狩猟部族であった。メシカ族が 13 世紀
後半にメキシコ盆地に到達したとき、この地域のほとんどはすでに他の部族によって占領
されていた。やがて 1325 年に、どの部族にも帰属していないテスココ湖中の小島に移動し
た。これが、後にテノチティトラン(現在のメキシコ市)となる地であった。 テスココ湖は、2007 年 5 月現在、5 キロメートル×2 キロメートル程度の長方形の区画を
残すのみであるが、13 世紀頃のテスココ湖は、(衛星写真によれば)図 12-101 のように、
かつてメキシコ中央高原にあった「ひょうたん」型ないしタツノオトシゴのような形状を
した南北約 65 キロメートルにわたる大きな湖であった。アステカの首都テノチティトラン
は、西岸近くの小島に築かれ、テスココ湖のくびれ部分に大きく半島状に突き出た北岸に
堤道が築かれていた。 ○アステカ帝国の建国 アステカ族が周囲のより強大な部族に従属した生活から抜け出して、独自の王国を築き
上げたのは、イツコアトル王(在位:1427~1440 年)の 1427 年から 40 年までの間であった。
イツコアトルは、首都テノチティトランの道路・水路整備、政府や宗教の位階制度の構築
など、大国として繁栄するための礎を築いた。 図 12-101 アステカ時代のテスココ湖 1440 年に王位を継いだモクテスマ 1 世はその 30 年に及ぶ統治期間に、南は現在のメキシ
コ南部オアハカ州から北はベラクルス州北部までその勢力範囲を軍事力によって拡大して
いった。最盛期のアステカは、図 12-102 のようにメキシコ湾から太平洋沿岸にまでを領
1254
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
有し、メキシコ中央部をほとんどその支配下に治め 500 万人以上の人民を支配した。この
間、メシカ族は軍事的勝利をおさめただけでなく、強力な国家機構を組織して、アステカ
帝国を築き上げた。 図 12-102 アステカの版図 アステカは徹底した軍国国家であり、戦士を大切にした。ジャガーの戦士や鷲の戦士を
中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返し諸国民に恐れられた。 しかし、アステカ帝国の異部族支配は、政治的統合によるものではなく、貢納を目的とし
た間接的な統治であった。征服された部族は、租税のほかに、兵力と奴隷を提供しなけれ
ばならなかった。アステカ族は自ら支配する意図を持っていなかっただけでなく、政治組
織も文化も強制しなかった。一般に「帝国」という言葉が使われているが、正確には軍事
力で征服した異部族の都市国家の自治を認めながらそこから租税を取り立てる権利を確立
した、ゆるやかな連合体であった。 アステカは軍隊の迅速な移動を可能にするため道路網を整備し、一定区間に駅所を設け
て管理したのでその周辺の治安が維持され、婦女子でさえ単独で国内を旅行することが可
能であった。この道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。 ○首都テノチティトラン アステカ文明の中心地は、小さな村から発展した首都のテノチティトランであったが、
最盛期には数十万人に達し、当時、世界最大級の都市であった。テスココ湖に浮かぶ島に
建設されたこの都は、数本の湖上の道によって岸と結ばれていた。もっとも大きな道は長
さが 8 キロメートルもあり、8 頭の騎馬が横一列に並んで通れるだけの幅をもっていた。中
心部には神殿がびっしりと建ち並び、巨大なピラミッドがそびえたっていて、市もたって
大いに繁栄した。 テノチティトランの北に位置するトラテロルコには、毎日数千人が集まる市場が開かれ
ていた。基本的な商業活動は物々交換であったが、カカオ豆が貨幣として流通していた。
たとえば、カカオ豆 3 粒で七面鳥の卵 1 個、カカオ豆 30 粒で小型のウサギ 1 匹、カカオ豆
1255
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
500~700 粒で奴隷 1 人と交換できた。市場にはありとあらゆる物産が集まり、物を売り買
いする人々で一日中賑わっていた。 ○アステカの階層社会 アステカ社会の基本的単位はカルプリ(「大きな家」という意味)という父系氏族を中心
とした一定の土地をもつ氏族社会であった。カルプリは必ずしも血縁集団ではなく、血縁
以外の者も含まれ、固有の神と政治組織を持っていた。構成員は土地を私有せず、カルプ
リ全体で所有する土地の中から一定の土地を割り当てられて耕作した。このようなカルプ
リを単位とするアステカ社会は、基本的には貴族・平民・商人と職人層・奴隷の 4 つの社会集
団から成る階層社会であった。 貴族は、王の家族と親族、神官および軍人から成る支配者階級であった。王は神官とカ
ルプリの長で構成される評議会のようなところで選出され、神の代理として神格化された
地位についた。王はアステカ国家の主権者であり、宗教と軍事面における最高の地位を保
有し、強大な権威をもっていた。神官は宗教者であっただけでなく、天文学・象形文字の表
記法・歴史・医術など、アステカ王国の知的活動を独占していた。これらの貴族の子弟は、
カルメカックと呼ばれた学校で特権階級を維持する者としての教育を受けた。 社会の最下層に位置する奴隷は、負債の支払いが不能となった者、罪を犯した者、戦争
の捕虜たちなどがなり、貴族の土地を耕す農奴であっただけでなく、マイエケと呼ばれた
賃金労働者集団、隊商や軍隊の遠征時に重い荷物を背負うトラメメと呼ばれた特殊な集団
および戦争による捕虜など、異なるグループに大別されていた。アステカ社会の奴隷は一
代限りで、家庭を持ち財産を所有することができたほか、生まれた子供は自由民とみなさ
れた。戦争捕虜は神への生贄(いけにえ)とされた。 ○アステカの宗教 アステカ社会では宗教が政治・経済・商業・軍事活動に大きく介入していただけでなく、個
人の生活を広く支配していた。それは、アステカ帝国が軍事的神権国家であり、宗教がア
ステカ帝国を動かす原動力であったからである。 アステカ人の宇宙観によると、世界は現世に先立って 4 つの異なった太陽を有する宇宙
時代を経ていた。そして太陽がその運行を停止し世界が破滅する日が来ないよう、太陽に
人間の血を与え再生させる必要があると信じられていた。その結果、人身御供(ひとみご
くう)は太陽に対する神聖な義務であり、世界を破滅から救い、人類を救済する唯一の道
であると信じられていた。それで生贄の儀式は、1 日も欠かすことのできない最重要な儀式
となっていたのである。 諸々の宗教儀式を司ったのは神官たちであった。これらの神官の中で、太陽神に仕える
神官は、王の権限に劣らぬ重要な決定権をもっていた。それは征服戦争を開始する権限で
1256
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
あり、戦争は神々への生贄とする捕虜を調達するために行われた。捕虜は、神殿の最上段
の石の上で生きながら胸を裂かれ、心臓を取り出された。神殿の階段は、毎日神に捧げら
れる生贄の血で赤く血塗られていた。 1519 年、スペインのコルテスが彼の部下を連れて現れ、ほどなくアステカ帝国は滅亡す
るが、具体的には近世史でのべる。 【12-7-2】南米アンデス 南アメリカのアンデス山脈に興ったアンデス文明については、図 11-88 の初期中間期ま
では、古代の南北アメリカ史で述べた。この中世の南北アメリカ史ではワリ文化以降の時
代を記すことにする。 ○中期ホライゾン―ワリ文化 図 11-83 のように、初期中間期のあと、ワリ文化の中期ホライゾン(共通普及文化)の
時期があったと考えられている。 初期中間期にティティカカ湖南東岸にティアワナクという文化が栄えたが、その影響を
受けて、ペルー中部高地アヤクチョ付近にワリ文化が成立した。 ワリ文化は、西暦 500 年~900 年ごろアンデス中央高地で繁栄したプレ・インカの文化で
あるが、ワリ文化の起源は、はっきりとはわかっていない。ワリの都は、図 11-89-②の
ように、現在のペルー、アヤクチョ県(アヤクチョ市)にあったといわれている。土器はオ
レンジ色を基調とした華やかな彩色が特徴で、神の像を描いた大きな甕(かめ)が残されている。 山間部では、紀元 700 年頃になるとワリのように、ワリ文化が発達し、都市的な様相を
なす建造物群が各地に造られた。また、ワリがアンデス中にテラス状の段々畑(アンデネ
ス)を広げたと言われている。この時期、「正面を向いた神」と「首級を持つ翼のある神」
といったモチーフが土器や織物を媒体にして、ペルー領域に広まった。ワリ文化の特徴で
ある、杖を持って正面を向いた人物が描かれた大型の甕や、黒曜石製の石器類が数多く出
土している。 このワリ文化の影響は、遠く北海岸からボリビアにいたるまで見られ、ワリが征服によ
る帝国的な統一を成し遂げた可能性も指摘されている。ワリのホライゾンは 10 世紀頃まで
続いた。 ○後期中間期 ワリ文化の中期ホライゾンのあとには、再び地方色豊かな地域文化の時代がおとずれた。 《シカン文化》 シカン文化はペルー北部沿岸で 750 年~1350 年頃のプレ・インカ時代に栄えた考古文化
で、「シカン」とは「月の神殿」を意味している。 1257
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
シカン文化は、アドベの大ピラミッドの建造や、金細工などの冶金技術などにおいてモ
チェ文化の衣鉢を継いでいるが、土器、金属器などにあらわれた芸術表象にみるかぎり、
モチェとは異なる新しい宗教イデオロギーを奉じていたようである。モチェは、天体や動
植物など、自然現象の多くを神格化したのに対して、シカンは、双頭の蛇の王冠を戴いた
万能の最高神を繰り返しいろいろな媒体に表現し、強化された王権の確立を暗示している。 シカンは海岸沿いの地域(図 12-103 のシカン)で、ペルー北部からエクアドルとの国
境近くまで広がっていた。遺跡から見つかったナイフや土器等の遺物から、シカン文化の
人々は高度に発達した金属加工技術と土器製法技術を持っていたことがうかがえる。乾燥
地帯の鉱脈から金属類の原料となるものが見つかっており、シカン文化の人々が使用して
いた金属類はこの鉱脈の原料から造られたと思われる。 《チムー王国》 シカンのあとに台頭したチムー王国は、14 世紀頃までにシカンの国家を併合し、モチェ
川流域を中心に、北海岸全域と中部海岸の一部にわたって政治支配を行った(図 12-103
参照)。チムー王国は, ペルー北部の沿岸部で、850 年頃から 1470 年頃まで存在した。後期
中間期(プレ・インカ)最大の王国で、1000 キロメートルの海岸線とアンデスの人口の 3
分の 2 を含んだ。現存する最大の遺跡はチャン・チャンである。 図 12-103 現在のペルーにおけるチムー王国の位置(紫色部分) 1258
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
特徴のあるチムーの黒色土器は、中部海岸のチヨン川流域まで分布している。また、精
巧複雑な金工でも知られ、先コロンブス期で最先端技術の一つだった。チムーがモチェ以
来の北海岸の伝統の延長線上に、国家と呼ぶに値する強固な政治社会を築いていたことは
確かである。 《チャンカイ文化、パチャカマ文化》 また、ペルー中央海岸地帯、現在のリマ市北方のチャンカイ谷では人型を模した素焼き
の土器で有名なチャンカイ文化が花開いた(図 12-103 の緑色部分)。人をかたどった白い土
器が多く残されており、その素朴な芸術性に多くの人が魅了されている。平和志向が強かったためチムー
やインカといった強大な武力を持つ勢力とも共存できていたようである。 さらに、遅くとも 10 世紀頃にはリマ近郊のルリンにあるパチャカマ神殿を中心とするパ
チャカマ文化が花開いた。起源は 600 年ころまで遡るが、栄えたのは 1000 年ころからとされている。
1400 年代にインカに併合され、その支配下で存続した。このため、現在残されているパチャカマ遺跡の主
な建物はインカの影響下で建設されたものである。その後のスペイン人の侵入により都市は破壊され文化
は滅んだ。 《ティティカカ文化》 1259
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
また、ティティカカ湖(標高は 3810 メートルにある。図 11-89-②参照)沿岸では、テ
ィワナク社会が崩壊した 13 世紀頃から、アイマラ族による諸王国が鼎立し、覇を争うよう
になった。中でも、ティティカカ湖北岸のコリャと、ティティカカ湖南西岸のルパカは強
力で、互いに覇を争っていた。インカはこの争いを利用して、両者を征服、さらにティテ
ィカカ湖南岸のパカヘなども征服し、1470 年ころまでにティティカカ湖沿岸を平定した。 以上のように、アンデスはこの時代は、一般的に地方王国期で、それを統一したのがイ
ンカ帝国であった。 ○インカ帝国 クスコ(図 11-89-②参照)を本拠地としたインカ人が、周辺部族を征服し、勢力を拡
大し始めたのは 12 世紀ころであった。アステカ人と同じく、インカ人も最初は周囲の部族
よりも遅れた文化をもつ部族として出発し、その後、征服地の高度な文化や技術を引きつ
いでいった(ここでも創造と模倣・伝播の原理がはたらいた)。 前身となるクスコ王国は、13 世紀に中央アンデス南部高原のクスコ盆地に興り、1430 年
代から急速な拡大を開始して、15 世紀前半から急速に勢力を拡大して各地を征服し、15 世
紀後半にはチムー王国を屈服させ、同時期にティティカカ湖周辺のアイマラ系諸族も平定し、北
はエクアドル、コロンビア国境のアンカスマユ川から南は北西アルゼンチン、およびチリ
中部まで版図を広げた。 《インカの国家構造》 1438 年のパチャクテク(在位:1438~1471 年)即位による国家としての再編を経て、イ
ンカ帝国が成立した。 インカ帝国は、近代世界におけるような、まんべんなく主権のゆきわたる領土国家と考
えることはできない。中央アンデスでは、不毛な砂漠地帯や高山がいたるところにあり、
人間が住める土地は限られていた。そこで、征服の結果できあがったインカ帝国とは、国
境線を厳密に定めてその隅から隅までをもれなく支配する一枚岩の国家ではなく、数多く
の点状の政治社会の総合にすぎなかった。 《インカ王道》 インカ国家を点の集合体とすると、それらの点を国家中枢のクスコ市に結びつけていた
のが、いわゆるインカ王道だった。インカ帝国内の各地は、どんな天気でも通行できる約 1
万 6000 キロメートルにも及ぶ道路網によって結ばれていて、チャスキと呼ばれる飛脚によ
る通信網が確立され、広大な領土が中央集権により統治されていた。この道路網を使って、
飛脚が口頭による伝言や、キープ(後述)による記録を運んでいた。各地にタンボという
宿場兼倉庫を設けて、そこには飛脚を待機させ、駅伝方式で情報や命令を伝達させた。 《キープと人口統計》 1260
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
王道とともに、インカが政治支配の道具として利用したのが、人口統計だった。インカ
王は、毎年各地に巡察使を派遣し、人口調査を行わせた。巡察使は海岸のオアシスや高原
の盆地にかたまって住む人口を調査し、毎年死亡者と出生児を含む人口の動態を詳しくク
スコに報告した。そこで、クスコ政府は、支配下にある全人口を、ほとんど 1 人のもれも
なく統御することができ、それを十進法によって区分して、動員や徴税のために利用した。 この特色ある人口統御は、キープと呼ばれる結節縄の操作によって可能になった(図 12
-104 参照)。インカでは文字はなかったが、その代わりとして、キープによる数字表記が
存在し、これで暦法や納税などの記録を行っていた。近年になって、このキープが言語情
報を含んでいることが研究によって明らかにされている。キープは色分けされて、各種の
統計に利用され、文字を知らなかったインカの国家運営のために不可欠な道具となってい
た。 図 12-104 キープ 《80 の民族と 1,600 万人の人口》 ところで、インカ帝国は、最盛期には、80 の民族と 1,600 万人の人口をかかえていたと
いわれている。この帝国は君主制国家で、近親結婚によって生まれた一族による世襲政治
であった。これは彼らの宗教観から、広く交雑することで、「皇族」の血筋が汚されると考
えたためである。「サパ・インカ(皇帝)」は太陽神インティの化身としても考えられ、当
時の官僚は、同時に神官でもあった。インカの政治は、物理的な軍事力と同時に、より多
く宗教的権威によるものであり、神聖王が、臣下や民衆を畏敬させて支配したのである。 《インカの社会》 インカは、高度な行政組織によって厳しく民衆の生活を支配していた。住民は集団ごと
に編成され、「アイユ」という 10 世帯ごとのまとまりを行政単位として、労役や生産物が
1261
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
とりたてられていた。地域共同体の外部に移動することや、外部の人間と結婚することは
禁じられていた。「知識は庶民のためのものではない」という考えのもと、いわゆる文化
活動は貴族階級だけに許された行為であった。一般庶民はそれぞれの役務に必要なことだ
けを教えられ、それ以上を知ろうとすることは禁止されていた。 インカ文明には貨幣がなく、農作物と手工芸品の物々交換によって経済活動が行われて
いた。税金の代わりに、農産物などを国に献上していた。手工芸品の分野ではすぐれてい
た。プレ・インカ時代の伝統を受け継いで金やトゥンバガ(金と銀・銅あるいは錫の合金)
を精錬する技術を持っていた。貴金属や銅によって美しく飾られたインカ帝国の首都クス
コは、やってきたスペイン人を驚かせるに十分だった。しかし、いわゆるインカ帝国の金
製品は実は合金製であり、そのためヨーロッパ人の侵略により、その大部分が溶かされて
純金の延べ板にされてしまった。一方高温の炉を作れず、鉄の製錬技術は無かった。 《インカの宗教》 インカ人は太陽神を信仰していた。文字がなかったために、インカ人の精神世界を知る
ことは非常に難しい。エジプトのように、死体をミイラにする儀式も行われていた。アン
デス高地の乾燥した空気は、エジプトの砂漠と同じように死体が腐りにくかった。 クスコから約 70 キロメートル北西にある高山の屋根に、インカの都市マチュピチュの遺
跡がある(世界遺産となっている)。東西が断崖であるマチュピチュは、要塞ではなく、
太陽の動きを知るのに絶好の場所であったことや、インカ帝国では太陽を崇拝し、皇帝は
太陽神の子として崇められ、暦を司っていたことから、インカ人が崇めていた太陽を観測
するための建物群と推測されている。 1532 年、わずかの兵隊と火器でもって、スペイン人によるインカ帝国の征服が行われた
が、詳細は近世の歴史に記す。 ○新大陸の人類のもう一つの文明も武力と宗教が支配 新大陸の文明は、旧大陸のそれとまったく異なり、独自に発達してきた文明であった(新
大陸への人類の移動は 1 万年前の農業開始より前の狩猟採集の時代であり、その後も新旧
両大陸の交流はほとんどなかった)。独力で築き上げてきたその文明は、いわば人類の作り
上げたもう一つの文明ともいえる。新大陸の文明は、そのような意味で人類の歴史におけ
る壮大な実験でもあった。 その新大陸の文明は、旧大陸の文明と比べ、かなり特色を持つが、王や皇帝を頂点とす
るピラミッド型の社会構造(底辺に奴隷を持つ)を持つという点(両文明とも物理的なピ
ラミッドも作ったが)、つまり、少数の支配者階級と大多数の被支配者階級で社会は成り立
ち、少数の支配者階級がよってたつ決め手は武力と宗教であったという点で、新大陸の文
1262
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
明は旧大陸の文明と似た様相も持っていたといえよう。つまり人間の本性はどこでも同じ
であり、同じ歴史をたどることが示唆されている。 【12-8】オーストラリア ○アボリジニの世界
世界が中世期にはいっていても、オーストラリアとその周辺島嶼のアボリジニは以前と
あまり変わることはなく、狩猟採集生活を営んでいたと思われる。
オーストラリアは不毛の大陸とされ、農耕に適した種類の食物がユーラシア、南北アメ
リカ、アフリカと比べ遥かに少なく、家畜に適した動物も一切存在せず、また極度の乾燥
地帯で、気候の変動も 1 年周期とは限らず不規則であるなど、他に類をみない過酷な条件
がそろう大陸でもあり、文化的に孤立を余儀なくされた。
その地理的条件から、人種的に他の大陸と隔絶され、それらが混血を繰り返しながらオ
ーストラリア全土に広まる過程で、様々な固有文化が派生したと考えられている。ひとく
くりにアボリジニといっても、言語だけでも 250、部族は 700 を超えていた。今日では言語
的な調査から 26~28 ほどの系統に分類されているが、相互の文化的差異は多い。オースト
ラリア到着以後も、一部の集団ではポリネシア人やパプア人、オーストロネシア人との部
分的混血が見られる。 生活は洞窟等を住居とし、一定範囲を巡回しながら食料を得る採取狩猟型で、ブーメラ
ンや毒物を巧みに利用した狩猟を行い、オーストラリア固有の植物の実を取ったり、乾燥
した地面を掘って木の根等を食べる大型のイモムシの一種を焼いて食べたりする生活をし
ていた。
このような状態で生活をしていたと思われるアボリジニの世界は、隔絶した島大陸であ
ったが、ニューギニアとの接触、おそらく 17 世紀頃から、オーストラリア北部にきたマカ
ッサル(インドネシア・スラウェシ島の南部の都市)のナマコ猟師、また 17 世紀から、そ
の西部やタスマニアにきたオランダ船を除けば、イギリスが植民するまでアボリジニは外
部の世界とは接触しなかったと考えられている。 ヨーロッパ人がオーストラリアを「発見」した段階では、30 万人ほどのアボリジニがオ
ーストラリア内に生活していたと見られている。 【12-9】中世と近世の境目で ○ユーラシア大陸の交流 3 ルート 出アフリカ以来、人類は、狩猟採集の生活をしながら地球上に分散していき、やがて、
その一部が農業・牧畜業を創造・開始して、それが創造と模倣・伝播の原理で図 10-21 の
1263
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ように周辺地域へ人的・物的交流を通して伝播していった。そして各地に特色ある農牧業
と文化を形成していった。しかし、それぞれの文化圏は孤立していたのではなく、それぞ
れの文化圏で新しい物品や新しい仕組みが創造されると、人的(情報を含む)・物的な交
流を通して、たえず影響し合い向上していった。きびしい自然の障害や民族のちがいなど
をのりこえて、たがいに接触・交流しあい、刺激しあって、発展していった。 とりわけ陸続きのユーラシア大陸では、東アジアから中央アジア・南アジア・西アジア
をへてヨーロッパにいたる東西のネットワークが早くから開け、人や文物の交流が活発に
行われてきた。このユーラシア大陸には、人類は狩猟採集のころから使っていた草原の道、
古代にできたオアシスの道、そして古代から中世にかけて新しく切り開かれた海の道の三
つのルートがあった。 ○草原の道 草原の道は、図 12-105 のように、中国の長城地帯からモンゴル高原、アルタイ山脈南
麓、ジュンガル盆地、キルギス草原をへて黒海北部の南ロシア草原地帯にいたる道で、乾
燥した草原地帯が多いためステップ・ロードともいわれる。 図 12-105 東西交流の3つの道 草原の道は、人類がつくったもっとも早い東西の交流の道であった。遊牧民の生活の場
であり、とくに騎馬遊牧民族が東西にわたって活躍した。紀元前 7 世紀から 4 世紀間活躍
したスキタイ人の文化は、草原の道を通って中国に伝わり(図 11-73-①参照)、紀元前
3 世紀末に強力となった匈奴は、その道を逆に西進、その一部はのちのフン族となって(直
接ではなく間接的だったかもしれない)ゲルマン民族大移動の端緒をつくったといわれる
(図 11-73-②参照)。 1264
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
匈奴のあと、鮮卑(せんぴ)や柔然(じゅうぜん)がこの道を支配したが、6 世紀中頃、
東ローマ帝国とササン朝ペルシアがメソポタミアで戦ったために後述する絹の道が衰え、
草原の道が利用された(図 11-73-③参照)。 6~9 世紀にはトルコ系の突厥やウイグルが強力となって隋・唐代の中国北辺をおびやか
した(図 11-73-⑤、⑥参照)。そのほか、アヴァール人、ブルガール人、マジャール人
などのアジア系遊牧民が、この道を通ってヨーロッパに侵入した。10~12 世紀には北アジ
アの遊牧民、契丹族や女真族が活躍し、遼や金を建国して中国に侵入した(図 11-73-⑦、
⑧参照)。12 世紀には、十字軍の攻撃でシリアが戦場と化し、再びオアシスの道にかわっ
て草原が利用された(図 11-73-⑧参照)。 13 世紀にはモンゴル人がユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国を築き、まず、草原の
道の支配をめざして騎馬軍を進めた(図 11-73-⑨参照)。ヨーロッパからは、ローマ法
王から派遣された宣教師のプラノ・カルピニやフランス国王ルイ 9 世の命令をうけた宣教
師ルブルックが、この道を通ってモンゴル帝国の首都カラコルムへやってきた。 ○オアシスの道 図 12-105 のように地中海東部からシリア・メソポタミア・中央アジアやタリム盆地の
オアシス地帯をへて中国にいたる道で,東西を結ぶ最短距離として発展した。古くは西ア
ジアの彩陶技術が中国に伝わったのも、この道であると考えられている。また、アレクサ
ンドロス大王が東征して西アジアにギリシャ文化が伝わると、その文化は中央アジアから
パミール高原をへて東方に伝播された。これに対して、漢の武帝の時に張騫(ちょうけん)
がこの道を通って大月氏(だいげっし)に使いしてから、続けて西域(さいいき)遠征が
行われ、漢の文化は中央アジア一帯におよび、東西交通はいちじるしく発達した(第 1 の
全盛期。図 11-73-②参照)。 この道を通って西方に流れた物資のうち、第一は絹であった。この道がのちに絹の道(シ
ルク・ロード)とよばれたのも、そのためである。絹は漢代から多量に西方へ運ばれたが、
そのほか鋳鉄器や漆器などが、中央アジアや西アジアの商人によって西方へ流れた。これ
に対して、ローマからは宝石・さんご・ガラス器などが、西アジアや中央アジアからは織
物・家具・装身具・楽器などが,インドからは綿布・香辛料がもたらされた。 絹の道はまたインドに通じる道であったから(インド亜大陸にも南下するシルク・ロー
ドがあった)、仏教が中国に伝播すると、中国やインドの僧がこの道を通って往来した。す
でに六朝のころ法顕(ほっけん)はこの道を利用してインドにいき、多くの経典を持ち帰
った(図 11-73-④参照)。唐代になって玄奘もまたインドに求法の旅をし、ヴァルダナ朝
のハルシャ王(在位:606 年 ~ 647 年。古代北インド最後の統一王朝)に面会した(図 11
-73-⑤参照)。 1265
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
そのころ唐の勢力は西方にのびて西突厥を滅ぼしたので、唐はアッバース朝と中央アジ
アで国境を接し、中国の技術者が西アジアへ進出する一方、西方の文化が中国に流れ込み、
唐代の学問・宗教・芸術・音楽などに西方の要素がとりいれられるなど、唐代は絹の道の
第二の全盛期をむかえた。この時代、イスラム帝国と唐との東西貿易では、イラン系のソ
グド商人が中継者として大きな役割をはたした。 唐が衰えてくると、陸上交通は一時衰えたが、10~11 世紀はウイグル商人が活躍し、遼
がおこると再び盛んになった(図 11-73-⑥、⑦参照)。13 世紀にモンゴル帝国が成立す
ると駅伝制が整備され、交通が発達し、第三の全盛期をむかえた(図 11-73―⑨参照)。
とりわけ元が都を大都(北京)に移すとオアシスの道が利用され、マルコ・ポーロをはじ
め多くの西方人がやってきて、色目人(しきもくじん)として活躍した。しかし、元の衰
退とともに陸上交通は衰え、かわって海の道が栄えてきた。 ○海の道 図 12-106 のように、地中海から紅海やペルシア湾をへて、アラビア海を渡って,イン
ドに達し、図 12-105 のように、さらに東南アジアや中国にいたるのが海の道で、古くか
ら開け、船による交易が行われた。インドと西方の海の道では、紀元前 4 世紀、アレクサ
ンドロス大王がインドから海路ペルシア湾に帰航したことが知られている。 図 12-106 古代・中世の地中海交易路 紀元後 1 世紀に季節風を利用する海路が知られるようになると、アラビアからインド洋
への交通路が頻繁に利用された。2 世紀の後半にはローマ皇帝と考えられる大秦王安敦(あ
んとん)の使者が海路日南(にちなん。ベトナム中部、当時中国領)に来航した。インド
と中国を結ぶ「海の道」を利用して,中国から南方海上に出た最初の記録は、漢の武帝の
時、使いを東南アジア諸国に送ったことである。 1266
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
唐代には、多くの中国僧がインドから海路帰国した。また、アラブやイランのイスラム
商人は西方の地中海貿易を独占し、東南アジアや中国にやって来て、唐代には広州や泉州
などに居留地をつくった(図 11-73-⑤、⑥参照)。 宋・元代には中国人も海外進出をするようになり大型船(ジャンク船)に羅針盤をそな
え、多くの乗組員を駆使して、東南アジアからペルシア湾にまで達した(図 11-73-⑦、
⑧、⑨参照)。 宋代には中国で青磁や白磁など陶磁器の生産がさかんになり、絹や銅銭とともに重要な
輸出品となった。そのためこのルートは「陶磁の道」(セラミック・ロード)ともよばれ
る。またイスラム商人は、季節風を利用して東アフリカ沿岸とインド洋沿岸を結ぶインド
洋貿易を独占し、さらに東南アジアを独占し、東南アジアから中国に来て交易した。 明の太祖は、倭寇対策もあって海禁政策をとった。しかし、成祖・永楽帝は鄭和(てい
わ)に命じて南海遠征をさせ、アフリカ東海岸にまで達したので、一時、朝貢貿易が活発
になった(図 11-73-⑩参照)。しかし、永楽帝の後、再び海禁政策が厳しくなった。こ
れが東シナ海と南シナ海交易の接点に位置する琉球王国の中継貿易をさかんにし、琉球王
国は繁栄した。また後期倭寇や江戸幕府の朱印船貿易、日本人の海外進出、中国沿岸の人々
で華人(華僑)として南海地方に移住するものが現れるなど、海の道は民間人の活躍でに
ぎわった。 東西世界を結ぶ交易でのイスラム商人の活躍はインドだけでなく東南アジアのイスラム
化を進め、イスラム王国が建国された。インド洋と南シナ海を結ぶ中継貿易の要所にマラ
ッカ王国が、ジャワ島のマタラム王国、スマトラ島北西部のアチェ王国も香辛料貿易で栄
えたイスラム王国である。イスラム商人はインド・東南アジア産の香辛料・香料、木材、
中国産の絹織物・陶磁器をダウ船に積んで、インド洋をわたり紅海沿岸からカイロやアレ
クサンドリアを通じてヨーロッパへ運んだ。 16~17 世紀初めにかけてヨーロッパ諸国がインド・東南アジア・中国に進出し、世界は
新たな交流の時代に入っていくことになった。それはもう近世の時代であった(図 11-73
-⑩参照)。 ○地中海世界の交流 シルク・ロードの西の端はローマであり、ローマ帝国滅亡後は東ローマ帝国の首都コン
スタンティノープルであった。東西の文物は、図 12-106 のように地中海上の人と物産の
往来となって、東西の文化や物産の伝播・運搬は絶えることなく盛んにおこなわれた。 少しさかのぼることになるが、すでに紀元前 2 千年紀後半からフェニキア人が地中海を
東から西へ航海し、各地に都市国家を建設してオリエントの文化を伝えた。オリエントと
1267
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
の交易はエーゲ文明を生み、紀元前 8 世紀頃からギリシャ人達がポリス社会を植民活動に
より地中海世界に広げていった。 紀元前 4 世紀のアレクサンドロス大王のペルシア征服でオリエント文明に終止符が打た
れ、ヘレニズム王国群にも地中海世界で生まれたポリス的文化が重みをもちつづけた。 紀元前 3 世紀から,ローマが地中海支配に乗り出し、フェニキア人の都市国家カルタゴ
を破って,エジプトを併合し,地中海をローマ帝国の内海として約 400 年間支配した(図
11-73-②、③参照)。ローマは貿易国として栄え、ローマ人は地中海を渡ってエジプト、
ペルシアのホルムズ、アラビアのアデンといった貨物集散地へ行き、インドやセイロンや
中国の宝石や原石、香料、絹、美術品を積み、ローマ帝国へ持ち帰った。さらにインド洋
の季節風を利用して、南インドまで交易をしたことが『エリュトウラー海案内記』(「エリ
ュトゥラー海」とは紅海のこと。ギリシャ語で紀元後 40 年から 70 年ごろに書かれた航海
案内記)に書かれている。ローマは、またアフリカやヨーロッパから金、スペインから銀、
キプロスから銅を輸入し,加工品や織物を輸出した。 5 世紀に入ると地中海の北と西にゲルマン人が進入し、新しい民族文化が交流・融合した。
東に首都を移したローマ帝国は 6 世紀、ユススティニアヌス帝が地中海世界の再統一に乗
り出したがローマ帝国の復活はならなかった(図 11-73-④参照)。 7 世紀にはアラブが出現し、8 世紀までにアフリカ北岸、スペイン、シチリアを占領し地
中海は「アラブ・イスラムの海」となった(図 11-73-⑤、⑥,⑦参照)。イスラムによ
る高度に発達した交易が行われた。しかし、文化的には東ローマ帝国のギリシャ文化がア
ラブに強力な影響を及ぼした。 11 世紀末からの十字軍はヨーロッパのアラブ、イスラムへの反攻であった(図 11-73-
⑧参照)。そして十字軍はキリスト教信仰の産物だけではなく、ヴェネツィア、ジェノバ
などのイタリア商人が商業ルートを確保する狙いから試みられた側面をもった。これ以降
イタリア商人はイスラム商人から香辛料その他を買いつけ大きな利益をあげ、地中海貿易
を独占した。イスラム商人も地中海の各地で、香辛料・砂糖・紙・穀物などの交易を行っ
た。 こうした活発な地中海交易を通して、十字軍とイスラム軍との戦争にもかかわらず、イ
スラム世界の先進的な知識や技術がアラビア語からラテン語に翻訳され、ヨーロッパにも
たらされた。さらにイスラム世界が中国から得た製紙法・羅針盤・火薬などもシチリア島
やイベリア半島からヨーロッパに伝えられた。 15 世紀に東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は 16 世紀に,エジプトのマムルーク朝を
も滅ばし、地中海支配を強めた。スペイン・ヴェネツィア連合軍がこれに対抗したが、プ
レヴェザの海戦で敗れ、地中海の制海権はオスマン帝国が握り東方貿易の利益を独占する
1268
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ことになった(図 11-73-⑩参照)。こうした東方の高価な商業ルートの争奪がのちにポ
ルトガル・スペインを先頭にヨーロッパ諸国の新航路発見への行動を起こさせ、新しい時
代を生み出すことになるのである。 歴史の記述となると、つい戦争や重大事件の羅列となりがちであるが(現実、歴史時代
になって地球上で戦争がなかった期間は 1~2 割の期間しかなかったことも述べたが)、一
方、「創造と模倣・伝播の原則」も絶えず働いていて、人類は前述のような世界の大動脈
を通じて絶えず、人的・物的・文化的交流を行なってきたことも確かであることを忘れて
はならない。 ○1500 年から技術の流れが反転 中世と近世の分かれ目である 1500 年頃をとってみると、図 12-3 のように、西洋(ヨー
ロッパ)も東洋もその中間に位置するイスラム世界も(ユーラシア中央部も)基本的には
農牧業を基本とする社会で文明のレベルに余り大きな差はなかった(すべて政治的には専
制(宗教)独裁国家であった)。 むしろ、文明の発祥の地であるメソポタミアに位置し、東西文明の中間にあって仲介を
するイスラムの世界が、中世においては、革新を受容する社会であり、技術的にも進んだ
社会であったと考えられている。文字を読み書きできる人々の割合も、同時代のヨーロッ
パにくらべてはるかに高く、古代ギリシャ文明の遺産を継承していたといえる。 風車や水車を開発し、三角法を編みだし、大三角帆船を製造していた。冶金技術、機械
技術、そして化学技術を大きく進歩させていた。火薬や紙の製造技術を中国から取り入れ、
それをヨーロッパに伝えていた。中世にあっては、文明の流れはイスラムからヨーロッパ
に向かって流れていた。この流れが反転しはじめたのは、西暦 1500 年以降のことであった。 ○中世ヨーロッパの翻訳学問 中世ヨーロッパの学問は、むしろ、イスラム世界からの翻訳でなりたっていた。十字軍
の遠征があったように、中世のヨーロッパの人々はイスラム文明に対して、長い間強い疑
念と恐れをいだいていた(イスラム側からも同じことが言えたが)。というよりは、当時の
ヨーロッパ人は、イスラム教について、まったく無知で、1100 年以前にヨーロッパ北部に
はムハンマド(マホメット)の名前を知っていた人は一人もいなかったといわれている。 『コーラン』がはじめてラテン語に翻訳されたのは、1143 年のことだった。当時キリス
ト教の文化とイスラム教の文化が共存していたのはシチリアとスペインだけだった。した
がって 12 世紀から 13 世紀にかけて重要な翻訳活動が行われたのも、そのシチリアとスペ
インだった。そのような場所では、修道士たちがラテン語の写本をつくっては、その写本
をまた筆写する作業を続けていた。たとえばユークリッドの著作は、筆写を繰り返した後
1269
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
に印刷され、少なくとも 20 世紀まで聖書をのぞいてもっとも成功した書物となり、19 世紀
まで西ヨーロッパの数学教育の教本であり続けた。 イスラム世界を経由した古代ギリシャ・ローマ文明の受容は、まず占星術や天文学、数
学などの分野から始まった。プトレマイオスの天文学や地理学もこのルートによって西ヨ
ーロッパに伝えられ、16 世紀までの宇宙論や航海術に大きな基盤を提供することになった。 中世の大半を通じて、イスラム世界の地図製作はヨーロッパよりもはるかに進んでおり、
アラブ人の船乗りが航海に磁石を使い始めたのも、ヨーロッパ人の船乗りよりずっと早か
ったようである。アストロラーベ(天体観測器)はギリシャ人の発明でであるが、西ヨー
ロッパで広く使用されるきっかけをつくったのはアラブ人の著作だった。 またアラブ人の文献を通じて、インド起源のいわゆる「アラビア数字」や十進法の表記法
がもたらされたことは、おそらく何よりも重要だったと思われる。アラビア数字を使うこ
とによってはじめて、のちの数学も科学も発達するようになったことは明らかである。 天文学以外の観察科学の中で、イスラム世界から西ヨーロッパに伝わったもっとも重要
な分野は医学だった。アリストテレス、ガレノス、ヒポクラテスが著した医学書(ギリシ
ャ語からの翻訳は 1100 年以後に開始された)が伝えられたほか、アラブの文献や教師たち
が、多くの事例や解剖、薬物に関する知識をもたらした。こうしたアラブの学問や科学が
獲得した高いステータスによって、アラブの哲学や神学もまた、西ヨーロッパで研究され
るようになった。 最終的には、芸術さえもイスラム世界の影響を受けるようになった。ヨーロッパ絵画を
一変させることになった遠近法(透視図法)は、13 世紀にイスラム支配下のスペインから伝
わったと考えられている。そうしたさまざまな知識を受け入れる一方で、逆にヨーロッパ
がイスラム世界に提供したものは、砲術以外にはほとんどなかった。 このように中世ヨーロッパはイスラム文明に大きな恩恵をこうむったが、これと比べる
とアジアや中国文明からの恩恵は限られている。東アジアからヨーロッパにもたらされた
ものといえば、ほとんど絹糸の製法(東ローマ帝国を経由してヨーロッパに伝えられた)
と紙の製法だけだったといえる。紙はすでに 2 世紀に(最近の研究では紀元前から)中国
で作られていたが、ヨーロッパに伝わったのは 13 世紀で、これもスペインのイスラム圏を
経由してヨーロッパにもたらされたものだった。 ○独創的だった中世までの中国 中国の社会もまた、時代によって異なる対応を技術に対して示している。西暦 1450 年頃
まで、中国は、ヨーロッパよりも、中世のイスラムよりも、技術的に進歩した社会であった。
運河の水門、鋳鉄、掘削技術、能率的な家畜の引き具、火薬、凧、磁針、可動式活字、紙、
磁器、印刷術、船尾舵、猫車(一輪の手押し車)などは、すべて中国で発明されたもので
1270
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
ある。社会もきわめて活発なものであった(しかし、その後、中国は革新的でなくなって
しまったことは述べた)。 創造と模倣・伝播の原理で中国、インドからイスラムの技術はゆるやかではあるが(中
世までの技術伝播は、まさに「伝播」であったから数十年、数百年かかった)、一般にヨ
ーロッパの方向に伝播していったというのが中世までであった。 アジアで開発された風車や水車は、紀元 1000 年の時点ですでにかなり広まっていたが、
その後数世紀の間にますます普及していくことになった。水上輸送が人力によるガレー船
から風力による帆船へと移行したように、中世には風車や水車を使って穀物を製粉する製
粉機が発明され、普及するようになった。 中国においては、水力原動機らしきものは漢にみられ、中世宋の時代には水車力を用い
て紡績工場さえ作られたようであるが、不思議なことにその後の発展は見られなかった。 中世の水車は金属加工(冶金)の分野にも大きな変化をもたらした。つまり 13 世紀以降、
水車によって鞴(ふいご)を動かすようになり、それがのちの銃や大砲の製造に大きく貢
献することになった。 中世のヨーロッパでは、水車はまた製紙業にも利用された。製紙技術は東洋、イスラム
圏を介してヨーロッパにもたらされたが、印刷術の発展とともに製紙業は、ドイツやフラ
ンドルの重要な産業になっていった。そこでつくられた紙や印刷物は社会に大変革をもた
らす可能性をひめていた。というのも本が印刷されるようになると職人や技術者の間に、
非常に早く技術が広まるようになったからである。 ヨーロッパ独自の技術ではなく、他の文化圏から輸入し、改良を加えた技術も数えきれ
ないほどあった。たとえば手動の紡(つむ)ぎ車はインドから中世ヨーロッパに伝えられ
たものであるが、その紡ぎ車にぺダルをとりつけて足の力で動かすようにしたのは 16 世紀
のヨーロッパ人だった。 ○孤立したユーラシア大陸以外の地域 西洋と東洋はユーラシア大陸で一体であり、アフリカも中近東でつながっている。つま
り、ヨーロッパ、アフリカ、アジアは陸地でつながっていた。航海技術が進んでいなかっ
た時代には海は技術・新システムの伝播の障壁となった。ユーラシア大陸には、他の大陸
ほど、技術・新システムが伝播するうえでの過酷な障壁が地理的にも生態系的にも存在し
ていなかった。 南北アメリカ大陸は、地理的にも生態系的にも分断されている。パナマのイツマス地峡は、
40 マイルの幅しかなく、事実上、南北アメリカ大陸を地理的に分断している。北メキシコ
の砂漠は、中米の進歩した社会と北米の社会を隔ててしまった。そして、アメリカ大陸が南
1271
第 12 章 中世の世界(西暦 500 年~1500 年)
北方向に縦長であることから、発明や新品種は、同緯度帯を東西方向に伝播するのではなく、
緯度(気候)のちがいに逆らって伝播しなければならなかった。 アフリカ大陸からは、南北アメリカ大陸からよりも、ユーラシア大陸へ人類史の大半を
通じて、はるかに行きやすかった。しかし、サハラ砂漠はいまでも生態系の大障壁となって、 サハラ以南のアフリカを、北アフリカを含むユーラシア大陸から隔てている。アフリカ大
陸が南北方向に縦長であることは、ユーラシア大陸とサハラ砂漠以南のアフリカの間で技
術が伝播する際の障害となった。 サヘル地域(サハラ砂漠の南縁、赤道の北側)では、土器と冶金技術が、西ヨーロッパ
に伝播したのと少なくとも同じくらい早い時期に誕生するか伝播するかしていた。しかし
土器は、西暦 1 年頃になるまで、アフリカの南端に伝わなかった。冶金技術も、船でやって
きたヨーロッパ人が伝えるまで、陸路経由でアフリカの南端に伝わることはなかった。 オーストラリア大陸は、世界でもっとも小さな大陸である。降雨量が少なく、生産性が
低いことは、この大陸の扶養能力をさらに減少させている。さらに、地理的に最も孤立し
た大陸であり、食料生産が独自に起こることがなかった。また、オーストラリア大陸は、
近世になっても、金属製の加工物を持たない唯一の大陸となった。 中世までのサハラ以南のアフリカ、南北アメリカ、オーストラリアは,人類の創造と模
倣・伝播の原理の恩恵をあまり受けなかった世界であった。 1272
第13章 近世の世界(1500~1800年) 第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 10-21 の人類の歴史において、古代の紀元前 8 世紀から紀元前 3 世紀ごろにかけて世
界的に思想・哲学と世界宗教の発生が起きたことは述べた(赤印)。それから古代の専制
国家の形成、1000 年におよぶ中世の専制国家の継続によって、そのような人類の自由な発
想による思想の発達はたえてなかったが、図 10-21 に記したように 14~15 世紀のイタリ
アに再びそれが起こり、「創造と模倣・伝播の原理」により、16~17 世紀にヨーロッパに
伝播した。 それがルネサンス・大航海時代の幕開け・宗教改革・科学革命であった。この思想革命、
人間革命はヨーロッパに限られ、(それまでもっとも遅れていた)ヨーロッパがこのとき
から突出して進歩するようになった。イスラム、中国(およびその周辺国)、中央ユーラ
シアの世界は近世になっても、基本的に中世の延長線のままであった。 やがて、強力な武力を身につけたヨーロッパは,世界に押し出していって、他の中世的
世界を植民地にしていくようになった。 【13-1】近世ヨーロッパのルネサンス・宗教改革・科学革命 【13-1-1】ルネサンス ○なぜ、ヨーロッパだけだったか 【11-12】思想・哲学と世界宗教の誕生で述べたように、人類の発展段階の初期に
おいて、自由な発想で多くの思想や哲学・宗教がおこったと述べたが、それ以降、世界中
で国家体制が確立されていくと、統治者(支配階級)に都合のよい思想・考え方のみが許
されるようになっていった。
それが中世も後半になってくると、ヨーロッパで商業都市が発達し、その都市の中で「都
市の空気は人間を自由にする」ことが起こった。都市が発展し、そのなかである程度自由な
発想が許される環境ができていった。いったん、そのような環境ができると、人間のこと
であるから、創造と模倣・伝播の原理で、つまり、それが人間社会にとって有用(有益)
であるなら、その発想・考え方は生き残り、次々と伝播拡大していくものである(思想の
自然選択。思想の自然淘汰)。
都市の中の市民、「ブルジョワ」とは「城塞都市(ブール)」の住民のことを意味してい
たが、彼らは主従関係の網の目でおおわれた中世のヨーロッパ世界において、自分たちの
権利、つまり、自由に考える権利を自分たちの手で守ろうとする人たちだった。そのよう
な人たちが生まれてきたのである。これが専制政治の世界にポッカリと開いた自由の窓と
なった。 1273
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) しかし、都市は古代文明でも中世のアジアやアラブでも大都市は興っていたが、西ヨー
ロッパのように都市生活の中から新たな政治的・社会的権力が誕生するといった状況は起
きなかった(古代ギリシャ文明は例外とする)。それはなぜだったか。逆にいうと、なぜ、
中世ヨーロッパだけ、都市から自由を求める市民が生まれたか。 それも、中世の都市のところで述べたように、中世ヨーロッパでは都市が略奪の対象と
なることが非常にまれだった。ヨーロッパの政治権力は長く分断されていたため(その根
本原因は個別複雑なヨーロッパの地形だった。突出して強力な国家が生まれない地形にあ
った。権力が分散していて強力なものがいなかったことが幸いした)、権力者たちはライ
バルに打ち勝つために都市という「金の卵を産むガチョウ」を大切にするようになった。 多くの税を支払うことが可能な都市を優遇するために、王や領主たちは都市に自治や特
権を許可するようになった。領主の令状も、城壁にかこまれた都市のなかでは無効であり、
場合によっては都市があからさまに反封建制の立場をとることもあったことは中世のイタ
リアの歴史で述べた。 一方、たとえばアジアやアラブの大半の地域では、戦闘があるたびごとに都市が繰り返
し略奪されていた(中国の各王朝、イスラム、インドやモンゴル,ティムールなどユーラ
シア大陸の周辺部の都市は寄せては返す騎馬軍団に都市は徹底的に破壊さることを繰り返
したことは述べた)。 中世後期になると、ヨーロッパの裕福な都市の商人階級の中からイタリアのコムーネ(自
治共同体)運動に似た動きが起こってきた。彼らはギルドや結社、組合といった独自の新し
い組織をつくり、そのことによって大きな力を手にするようになっていった(人間は個人
では各個攻撃をされ弱いが、組織、つまり、社会の仕組み、社会システムをつくり、権力
(支配者階級)にあたると強いということがわかった)。イタリアだけでなく、フランド
ル地方の都市もかなりの自由を謳歌していたし、ドイツ東部の都市はとくに独立性が高く、
それが 150 以上もの自由都市からなる強力なハンザ同盟の結成となっていった(彼らは具
体的な組織をつくっていた。思想だけではダメで具体的な社会システムにしなければダメ
である)。 ○なぜ、イタリアからルネサンスは起こったか それはヨーロッパの中でも、とりわけイタリアがもっとも早く新商業・新商業技術を生
み出し、それを社会の仕組み、社会のシステムとして実践し、もっとも豊かになっていっ
たからである。 図 12-6 のように、イタリアでは地中海地域と北部ヨーロッパをつなぐ商業が発展し、
(地中海を通して中東・アジアとの貿易も加わり)広域商業を営む新しい商業技術が開発
され、それがまたイタリアの商業を発展させることになった。 1274
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《イタリアは新しい商業と金融業を生み出した》 イタリア商人は、単にモノの流通に専念しただけではなかった。広域商業を効率よくや
るためにどうしたらよいかと考えるようになった。単に旧態の商業ではなく、新しい商業
上の仕組み、ルールをつくり出していった。資金を集めるための会社組織を生み出し、利
益と損失を分配した。その処理のために複式簿記法を案出した。保険制度もそうだった。 遠方での商用の便をはかるるため、小切手や為替手形を導入した。異なった貨幣単位と
の間の両替を保証した。キリスト教会が厳禁する利子付き預金を、複雑な裏操作によって
合法化したのもイタリア商人であった(現在、利子を認めないイスラム金融に対していろ
いろ工夫されているが、それと同じようなことが、キリスト教にもあった)。 ひとことで言えば、イタリアは今でいう金融業あるいは銀行業を生み出したのである。
商品が資本に結実することを、実地に示した。これを「資本主義」と呼ぶには早すぎるか
もしれないが、この時期にその道具の一部が発明されたのは確かであった(これに会社組
織の発明があって資本主義がはじまったと考えられる。それもイタリアだった)。 《イタリアは新しい産業で成り立つ国、産業立国の生みの親》 イタリアは単に金融業を生み出しただけではなかった。毛織物業というもっともヨーロ
ッパでは基本的な産業も生み出した。1320 年代、フランドル毛織物工業の危機を契機に(英
仏百年戦争はフランドルをめぐる英仏の争いがきっかけだったことは述べた)、フィレン
ツェ商人は、商業特権を利用してイングランドがフランドルに輸出していたイングランド
の良質羊毛を輸入して、フランドルの高級毛織物を模倣したフィレンツェ製品を生産し始
め、早くも 14 世紀後半、イタリアおよび地中海世界の高級毛織物市場では、フィレンツェ
製品の独占状態が実現した(フィレンツェも最初はフランドルの模倣からはじめた)。 このようにして、フィレンツェは、短期間に金融業、商業、輸出向け毛織物工業からな
る固有の経済構造をもつ一大経済都市に成長した(金融・貿易・産業の発展(産業立国)
の系譜は、のちにオランダ、イギリスへと引き継がれるが、その前にイタリアで起きたと
いえる)。 《新しい人材の供給があった》 このイタリア都市における商工業の発展は、他に先んじて教育・文化を発展させることに
なり、高い教育・文化に基づく人材の供給があったからである。都市や商業の発展に対応
しうる法律知識の必要から、ユスティニアヌス帝の『法学大全』以来のローマ法の伝統が
存続したラヴェンナに近い交通の要衝ボローニャに、12 世紀後半、ローマ法学を勉強しに
参集していた学生たちが大学を組織した(ボローニャ大学は最古の大学で、のちにダンテ、
ペトラルカ、ガリレオ、コペルニクスなども学んだ)。 1275
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 13 世紀には、イタリアの北部・中部の各地に大学が派生し、多くの人材を供給した。新
しい産業も新しい技術も結局、新しい人材が生み出すのである。逆に新しい人材をつくれ
ば、必ず彼らは何か新しいものを生み出す。これは中世までの人類の歴史ではなかった考
え、人類の叡智であった。 商社などの会計記録には、複雑な貨幣計算をするための高度な算術が必要であり、各種
の公文書には、実践的なラテン語の能力が必要であった。定着商業(店舗をかまえた商業。
中世は移動式商業だった)は、読み書きと計算の能力を要求したが、とりわけフィレンツ
ェでは、大量の商業文書が作成され、多角的な取引について詳細な帳簿が記入された。商
人の間では、帳簿、書簡、公証人文書,訴訟文書などを調べて、家族の記録を覚書として
記録する習慣が普及し、やがてそこには個人的な思いも記述されるようになった。 このようにイタリアの都市には新しい人材を供給する仕組み、システムができてきてい
た。 《「自由」を保証すれば、人間は限りなく発展することを示したイタリア》 ルネサンスはフィレンツェから始まった。15 世紀前半まで、フィレンツェ共和国では賢 明な書記官長によって治められていた(フィレンツェは前半は共和政で自由を謳歌し、後
半、公国となり、ルネサンスは終った)。1375 年にフィレンツェ市政府は、学識ある政務
官コルッチオ・サルターティ(1330~1406 年)を書記官長に任命した。 長期にわたり在職したサルターティは、ジョットとペトラルカとボッカチオとの文化伝
統をフィレンツェに定着させた。何よりも、「自由」という価値をフィレンツェ市政の根
底にすえ、若い学者・芸術家に活動の場を提供した。フィレンツェがルネサンスの先頭をき
ったのは、こうした「自由」の保証のおかげであった。 さらにフィレンツェでは、1400 年前後に、書記官長になった人文主義者ブルーニも、共
和政は君主政に優越するという政治思想を主張した。彼の思想によれば、人間の尊厳は、
自由であることによって実現するが、自由を保障する社会を維持するためには、市民の政
治への積極的な参加が必要である、高貴な人間とは、出自によるものではなく、人間とし
ての在り方によると説いた。 この新興都市では、学問でも、美術でも、思考や様式を束縛する伝統の重圧は希薄であ
った。その政治制度では、美術家の属する職人階層も、同職組合を通じて政治に参加する
ことが可能であった。美術家のこのめぐまれた地位は、大学で学びラテン語で喜劇を書い
た 15 世紀の人、都市貴族出身のアルベルティのように、上流階層の出身者が美術家になる
ことも可能にした。 人文主義の教養と合理的な知性をもつ美術家によって、神学的な真実を象徴的に表現す
る美術から、現実の自然を合理的・科学的な技法で把握する人文主義的な美術への変革が
1276
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 行われた。このような美術家たちは、もはや親方の手法を経験的に学習するだけの職人で
はなく、数学、詩学、歴史学などの知識に基づいて理知的に創作する芸術家であった。 15 世紀前半、フィレンツェでは、写実的人間表現、幾何学遠近法、比例原理による造形
をはじめとする革新的な表現技法が次々に開発された。イタリアの美術におけるこの都市
の地位は、突出したものになったのである。 《産業・商業都市は芸術を競った―芸術家には活動の場が提供された》 また、(新しい産業立国で)豊かになった都市国家は、力と富を誇示するために市壁、
大聖堂、政庁舎、大教会などを建設したが、強力かつ裕福な都市国家は、それをできるだ
け壮麗なものにしようと(芸術で)競い合った(専制国家では支配者階級の贅沢と戦争に
使われた。イタリアでもルネサンス後期になるとイタリア戦争が激しくなり、イタリア・
ルネサンスは終った)。 とくにフィレンツェでは高い経済産業的な発展を背景に、1280~90 年代に、経済の成長,
平民の勝利を記念するような巨大な公共建造物、サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会、新
市壁、大聖堂、サンタ・クローチェ教会、政庁舎(シニョリーア宮殿)があいついで着工
され、芸術家に多くの活躍の場を与えることになった。 フィレンツェでは以前の数倍の面積を囲む新市壁は 1328 年に完成したが、その建設と並
行して都市が計画的に改造され、多数の人口をもつ壮麗な都市に変身した。この過程で建
築、彫刻、絵画など美術の一大中心地になった。上層市民の住宅の部屋数が増え、個人寝
室や書斎が普及すると、そこには書物や書見台がおかれるようになり、この聖域によって
保証された個人生活が、個人の思索や感性の発展をうながした。 要するにイタリア、とくにフィレンツェでは、いわゆる中世の都市を脱して、金融・貿
易・産業の発展、高い商業技術・産業技術の発展、それを支える人材供給の教育・文化基盤
の整備など、のちにオランダ、イギリスなどで定式化された近代金融・産業国家のモデル
がすでにイタリアの都市国家では実現していたのである。以上のようなことでルネサンス
はイタリアの都市国家では興るべくして興きたのである。 ○ルネサンス期のイタリアの政治状況 《多様な政治体制のイタリア》 イタリアでルネサンス文化が本格的に開花したのは、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、
ヴィネツィアなどの都市であったが、その芸術の天才や巨匠の作品からルネサンスの時代
がいかに明るく自由な人間性が発揮できた時代かと思うかもしれないが、現実はその逆で
あった。この時期のイタリアは、マキァヴェッリが『君主論』を著したことでも知られる
ように陰謀、政争、戦乱の続く波乱の時代であった。 1277
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ルネサンス時代の都市国家は古代ギリシャのポリス(都市国家)と同じように(ドング
リの背比べで)戦乱にあけくれした。ルネサンスは古代文化の復興・再生を意味するが、皮
肉な言い方をすると、古代都市国家の復活であり、古代ポリスの「戦争の復活」でもあっ
た。東洋やイスラムの世界のように絶対的な専制君主がいないということは、「金の卵を産
むガチョウ」である都市を大事にする、ほどほどの権力者たちが数多くいてライバル同士で
争っている世界だった。 14 世紀のイタリア半島はローマ教皇派と神聖ローマ皇帝派とに分かれて、争いが続いて
いたが、だんだん整理統合されて 14 世紀末には、図 13-1 のように、ミラノ公国、ヴェネ
ツィア共和国、フィレンツェ共和国、ローマ教皇領、ナポリ王国の 5 大列強が互いに牽制
しつつ君臨するようになった(イタリアのルネサンスにとって、幸運だったのは、これら
の王国を征服してしまうほどの強力な専制国家が現れなかったことである。また、中世の
イタリアで述べたように、対オスマン帝国のために 1454 年に 5 大国でローディの和を結ん
でいたので、このドングリたちは片時の平和の時期をむかえて、この 15 世紀後半にイタリ
ア・ルネサンスの花が咲いたのである)。 図 13-1 1454 年のイタリア 中央公論社『世界の歴史16』 古代ギリシャのポリスもいろいろな政体の見本市のような観を呈していたが、イタリア
の都市国家もその内部の仕組みは様々だった。ナポリは王国、教皇庁国家はこの当時はほ
1278
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) とんど世俗王国の体(てい)をなしていた(歴史上もっとも腐敗していた。だからルネサ
ンスの最大のスポンサーになった。だから宗教改革も起きた)。だが、フィレンツェとヴ
ェネツィアは共和国、ミラノは公国であった。この 5 大国(実際はフランス、ドイツ、ス
ペインなどと比較すれば中堅国)のもとにある小都市国家も(まだ、図 13-1 のように北
から中部のイタリアにかけて、フェラーラ、マントヴァ、ルッカ、ジェノヴァ等々きらり
と光る個性豊かな小都市国家がたくさんあった)、政治の体制は多様だった。 《共和政から「シニョリーア」制に変遷したイタリア政治体制》 イタリアの都市国家では、はじめに中世からの都市領主がおり、やがて、有力者の集団
支配(商人貴族)に移った。このとき、コムーネ(自治)という名のもとで、共和政治が
成り立った。しかし、その共和政治はやがて一部の有力な商人貴族によって形骸化させら
れ、古代ギリシャでは「僭主」政治に陥るのだが(古代ローマでは「共和政の顔をした帝
政」に移ったが)、このイタリアでは「シニョリーア」制になっていった(ここにも時代
は変わっても、人間社会の政治変遷の共通性が見て取れる)。 シニョリーアとは、イタリア語で支配、統治、主権などをさしていて、とくに歴史上、
13~15 世紀頃のイタリア諸国に現れた僭主が支配する政治体制を指す(シニョーレは、紳
士、主人、領主などのこと)。統治組織であるコムーネが十分に機能しないとみるや、争
議のとりしずめをはかる目的で、都市の外から、有能な手腕をみこんで調停官を招致した
のであるが、結局は、最後の切り札がないと治まらなかった。つまり強大な権限をもった
独裁権力(と武力)であった。これは、古代ローマの共和政時代に、戦争など緊急の際に
は臨時に 1 年間独裁官を置いたが、やがてこれが終身化し、のちに世襲化して独裁になっ
たのと同じ道を歩むこととなった。 実にイタリアのルネサンスと当時のイタリアの特殊な政治状況は大いに関係していて、
ルネサンスとシニョリーア制とは表と裏の関係にあった。初期の共和制の時代には前述し
たように共和制政府が芸術家に多くの活躍の場を提供してくれたが、15 世紀も後半となり、
ほとんどがシニョリーア制の時代になり、華やかな表舞台とは別に芸術家は裏の舞台にも
配慮する必要が出てきた。芸術家は自分の生活を立てながら、自分の能力を発揮するため
には、どうしても自分に出資してくれるパトロンに頼らざるを得なくなった。そのパトロ
ンになるのは、裏でフィレンツェの政治をあやつった大財閥のメディチ家とかシニョリー
アとか、世俗化の頂点にあった(腐敗しきった)教皇であった。 しかも、そのパトロンになる権力者が乱世でころころ変わるたびに芸術家の生活も変わ
らざるを得なくなった。あの偉大なルネサンスの作品の一つ一つの中にその芸術家の苦し
み、悩み、苦労が隠されている。学芸を愛好し、芸術家たちを育てたパトロンとして、フ
ィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家などが知られているが、ルネサンス期
1279
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) のイタリアの政治史を切り離してはルネサンスは理解できないといわれるのはこのためで
ある。 ○イタリア・ルネサンス こうしてはじめてルネサンスとなる。我々はルネサンスの天才・偉人の作品に目を奪わ
れるが、なにごとも経済的基盤がなければ、できるものではない。「ローマ(フィレンツ
ェ)は 1 日にしてはならず」は、いつの時代でも同じである。 ルネサンスとは、フランス語で「再生」「復興」を意味する言葉で、一般に文芸復興と
訳されている。14~16 世紀にイタリアを中心にヨーロッパで興った古典古代の文化を復興
しようとする歴史的・文化的運動をさしている。 人類の発展段階ではじめて、自由な思想・考え方が展開されたことは、図 10-21 のよう
に、古代の歴史【11-12】思想・哲学と世界宗教の誕生で述べたが、それ以降、世界
的に新思想・新発想はたえてなかった。西ローマ帝国の滅亡した 5 世紀から 15 世紀のおよ
そ 1000 年間のヨーロッパの中世はキリスト教支配のもとで、古代ギリシャ・ローマ文化の
破壊が行われ、多様性を失うことになり、世界に貢献するような文化的展開をすることは
できなかった(中国、イスラムの世界も同じだった)。 そこでルネサンス期の人々はギリシャ・ローマの古典文化をまずは模範とした。中世に
おいてキリスト教と封建制度によって束縛され、ゆがめられてきた人間性を、本来の姿に
もどそうとするものであり、このような人間回復をめざす古典研究を人文主義(ヒューマ
ニズム)といい、これはやがて、新しい人間性の確立と尊重というヒューマニズム(人間
主義)という考えに発展し,ルネサンスの指導精神となった。その研究者を人文主義者(ヒ
ューマニスト)という(ヒューマニズムもヒューマニストも現代では意味が変わっている
ことに注意)。 ○イタリア・ルネサンスのはじまり 《ダンテ》 ルネサンスの先駆者とされるのはフィレンツェ出身の詩人ダンテ(1265~1321 年)であ
る。 ダンテは、フィレンツェで、金融業を営む小貴族の息子として生まれ、フィレンツェの
市政に参画していくようになった。そのころ、フィレンツェ市政は、フィレンツェの自立
政策を掲げる富裕市民層からなる「白党」と、教皇に強く結びつこうとする封建貴族支持
の「黒党」に分裂、両党派が対立した。小貴族の家柄であるダンテは白党に所属し、のち
に百人委員会などの要職に就くようになった。 1300 年、ダンテはフィレンツェ市の執政官のひとりとなった。しかし、ローマに出張し
ている間に、クーデターが起き、ダンテは反対派によって権力の座から放逐された。欠席
1280
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 裁判で黒党から永久追放の宣告を受け、再びフィレンツェに足を踏み入れれば焚刑に処せ
られることになった。それから戻ることのない亡命の旅に出発し、とどめようもない郷愁
に苦しめられつつ、流浪の生活の中で一大叙事詩『神曲』を書き始め(1307 年)、死の直
前の 1321 年に完成させた。 『神曲』のあらすじは、暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで出会った古代ローマ
の詩人ウェルギリウス(紀元前 70~前 19 年)に導かれ、生身のまま地獄・煉獄と彼岸の国
を遍歴して回る。煉獄の山頂でウェルギリウスと別れ、ダンテは再会した永遠の淑女ベア
トリーチェ(ダンテの小説『新生』の初恋の人)の導きで天界へと昇天し、各遊星の天を
めぐって至高天へと昇りつめ、見神の域(神の本体を感知する域)に達するというもので
ある。ローマの古典文学とキリスト教による救済との調和をはかった一大叙事詩である。 例えば、地獄はアリストテレスの『倫理学』を基本として、それぞれさらに細分化され、
邪淫、貧欲、暴力、欺瞞などの罪に応じて亡者が具体的に地獄の各圏に振り分けられてい
る。地獄の階層を下に行くに従って罪は重くなり、『神曲』の地獄において最も重いとさ
れる悪行は「裏切り」で、地獄の最下層の嘆きの川には具体名の裏切者が永遠に氷漬けと
なっている。数ある罪の中で、裏切りが特別に重い罪とされているのは、ダンテ自身がフ
ィレンツェにおける政争の渦中で体験した政治的不義に対する怒りが込められている。 『神曲』は、「地獄篇」・「煉獄篇」・「天国篇」の 3 部から成ることからはじまって、全 1
万 4233 行の韻文による長編叙事詩であり、あらゆるところが聖なる数「3」で構成されて
いて極めて均整のとれた計算された文体で、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられ
る。単に形態的だけでなく、内容的にも世界文学史上、古典文学の最高傑作、ルネサンス
の先駆となる作品と評されている。当時の作品としては珍しく、ラテン語ではなくトスカ
ーナ地方の方言で書かれていることも特徴である。 《ペトラルカ》 ダンテたち白派が追放の憂き目にあったとき、いま一人の白派の商人がフィレンツェを
脱出して、トスカーナのアレッツォに難をのがれた。これがペトラルカ(1304~1373 年)
の父セル・ペトラッコで、1309 年、アヴィニョンに教皇庁を移したクレメンス 5 世に従い、
フランスに移転した。ペトラルカは、モンペリエ大学、ボローニャ大学で法学を修めた。
1326 年に父の死を受けて、ペトラルカは教皇庁のあるアヴィニョンへ戻り、カトリックの
聖職者のもとで書記として働いた。 しかし、法律を専攻したとはいえ、ペトラルカの主要な関心は詩作などの文筆活動とラ
テン文学にあった。詩人ボッカチオと友人になったのもこの頃である。ペトラルカは中世
にはだいぶん形の崩れていたラテン語を古代ローマの古典的作品にならって純正化するこ
とを考えた。各地へ旅行して、古代の写本を熱心に研究した。 1281
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) その研究の過程でペトラルカは古典古代の時代こそ人間性が肯定されていた理想の時代
であり、キリスト教公認以降のローマ帝国は衰退して中世は暗黒時代であると考えるよう
になった。ペトラルカは古代の文献を収集し、ラテン語による詩作、著述を行ったが、こ
のように古典の教養をもち、人間の生き方について思索する知識人を人文主義者(ヒュー
マニスト)と呼ぶようになった。 ペトラルカの作品で、もっとも知られる作品はラウラと呼ばれる女性へ捧げられた一連
の恋愛抒情詩『カンツォニエーレ』(歌の本)である。 ペトラルカは後半生を北アフリカ旅行しつつ学者として過ごした(ローマ帝政時代の北
アフリカはローマ帝国の領内で大発展していた)。ローマ時代の属州アフリカを題材にと
った壮大なラテン叙事詩『アフリカ』は大成功をおさめた。格調のたかさのゆえに読者た
ちはローマの甦(よみがえ)りを実感した。 ペトラルカは詩人また学者として名声を博し、1341 年、ローマ市によって、桂冠詩人の
栄を受けた。ダンテがローマの詩人ヴェルギリウスを鑑とみなしたように、ペトラルカも
ローマのキケロ(紀元前 106~前 43 年)の演説文の写本をみずから発見するなど、ローマ
文学の研究に打ち込んだ。しかしペトラルカは敬虔なキリスト教徒でもあり、キリスト教
思想の核心ともいうべきアウグスティヌス(354~430 年)にも、執心を示した。異教なの
か、それともキリスト教なのか、ペトラルカは二者択一に悩んだ。 ダンテはラテン語によらぬ文学表現の可能性に挑戦して故郷の言語であるトスカーナ語
をもって、『神曲』を著したが、ペトラルカも抒情詩『カンツォニエーレ』をトスカーナ
語で連作した。いまのイタリア語が、トスカーナ語を母体として形成されたのも、詩人た
ちの努力のたまものであった。 《ボッカチオ》 ルネサンスの詩人、文人の中にペトラルカの若い友人、ボッカチオ(1313~1375 年)が
いた。フィレンツェの商人の父とフランス人の母の間にパリで生まれ、ナポリの銀行に勤
務しながら、文学を学んだ。そのとき恋が筆をわきたたせ、トスカーナ語で恋愛詩を書い
た。 フィレンツェに移ってのち、1353 年、代表作『デカメロン』(ギリシャ語で十日物語)
を完成させた。『デカメロン』は、1348 年に大流行したペストから逃れるために郊外の別
荘に引きこもった男 3 人、女 7 人の 10 人が退屈しのぎに話をするという趣向で、10 人が
10 話ずつ全 100 話からなる短編小説集である。ボッカチオも 35 歳前後で 1348 年のペスト
の大流行を体験しており、物語の冒頭で「天地ともに悲惨に見舞われ、1348 年 3 月と 7 月
とのあいだに、フィレンツェ市内だけで 10 万人の命が失われたと推定される。疫病の被害
の激甚なること、そして、生きのびたものの蛮行は、なんたる様だったことか。・・・ぐ
1282
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) るりと巡回してみるものならば、ことに朝方など、数えきれずおなじ情景を目にしたであ
ろう。玄関前には棺台が設けられたのである。・・・一つの棺台の上に、二つ三つと遺体がお
かれるのも再三のこと、父と子の両遺体というようなこともおこった。」ときわめて悲惨
だったようすがうかがえる。 ボッカチオがいうようにフィレンツェ市内だけで死者が 10 万人にものぼるかどうか、当
時のフィレンツェの人口は多めに見ても 20 万人あまりだったので、疑問ではあるが、とに
かく、凄惨な状況だったことは想像できる。ところが、物語の内容はユーモアと艶笑に満
ちた恋愛話や失敗談、欲望や愛憎にかなしいほどに忠実な男女の人間が描き出されている。
『アラビアン・ナイト』の影響を受けていて、また、この書がその後のイギリスの詩人チ
ョーサーの『カンタベリー物語』などに影響を与えている(いずれも典型的な枠物語(導
入的な物語を「枠」として使うことによってばらばらの短編群をつなぎあわせる物語技法)
である)。 ボッカチオはペトラルカに出会ってからは、古典の文学にこそ、最高の価値があると信
念を固めるに至った。つとめて古い作品の発掘につとめ、西ヨーロッパ人として初めて、
古代ギリシャの大詩人ホメロスを発見した。ホメロスは中世ヨーロッパでは、ほとんど忘
れられていた。ボッカチオはギリシャ語原典の『イーリアス』を修道院写本室から見つけ
出し、なれぬギリシャ語の学習に取り掛かり、訳文を試みていった。そこにはイタリア人
が 1000 年以上ものあいだ手放してきた詩神のことばがちりばめられていることを発見した。 14 世紀にダンテがまいた種は、ペトラルカ、ボッカチオで芽を出し、蕾を付け、トスカ
ーナではたしかに文学の刷新が進行していった。 《人文主義者》 ルネサンスの根底に存在するのは古典文献の影響である。これらの文献はイタリア・ル
ネサンス期の作家、詩人たちに、中世とはちがった視野と意味を与え、彼らとそのパトロ
ンたちを人文主義的な色合いで染め上げたのである。彼らは古典文献を探求し、未知の写
本の探索にも乗り出していった。そして、その理解と模倣に専念するようになった。やは
り、まず、創造の前には模倣とその伝播があった。彼らの究極の目標は古典の中の人間の
考察に学ぼうとしたのである。中世の 1000 年間、忘れ去られた人間性をとりもどすために、
ローマ人やギリシャ人を優秀な生き方の模範としたのである。 このように、ルネサンス期において、ギリシャ・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を
もとに、神や人間の本質を考察した知識人のことを人文主義者といった。英語ではヒュー
マニストであるが、日本語の現在の「人道主義者」とは意味合いが異なる。古典の人文学
研究はペトラルカに始まり、彼は「人文主義者の父」とも呼ばれている。ペトラルカは「暗
1283
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 闇が追い払われたあと、我々の孫たちは過去の純粋な輝きの中に戻って行けるであろう」と
記している。ここで暗闇とは中世を指している。 中世のスコラ学が神学的な概念中心の学問であり、神学や法学等の諸学問における研
究・議論が枝葉末節に陥り、またその本質から逸脱することがしばしば見られたのに対し、
人文主義者は古典研究を通して、神や人間の本質・本道の理解と実践に立ち返ることを求
め、より自由な思考ができた点に特色があった。 初期にはラテン語文献の再発見が主であった。修道院の古写本からキケロの書簡集など
が見つかり、ペトラルカを感激させた。ボッカチオはホメロスを発掘した。 東ローマ帝国
の知識人らを介してプラトンの文献もいくつか知られていたが、メディチ家の支援を受け
たフィチーノ(1433~1499 年)がプラトン全集をラテン語に翻訳し、ネオプラトニズム(新
プラトン主義)はルネサンス期を彩る重要な思想になった。 ペトラルカたちに続いて 100 年間余にわたって古写本の探求が行われ、ヤコポ・アンジ
ェロは、プトレマイオスの『地理学』、ポッショ・ブラッチョリーニは、ルクレチュウスの
『事物の本性について』、グアリーノ・ヴェローナは古代の大医家ケルススの『医学につい
て』の写本を見出した。これらの人文主義者たちの活躍により現存するラテン語文典のほ
とんどが 15 世紀中頃までには探求されていた。 ルネサンス期の人文主義者としては、ペトラルカ、ボッカッチョ、アルベルティ 、ロレ
ンツォ・ヴァラ、ピウス 2 世 (ローマ教皇) 、マルシリオ・フィチーノ、アンジェロ・ポ
リツィアーノ、ピコ・デラ・ミランドラ、マキアベリ、エラスムス、トマス・モア、ルフ
ェーヴル・デタープル、ミシェル・セルヴェ、フランソワ・ラブレー、モンテーニュ 、ジ
ョルダーノ・ブルーノなどが名を残している。 ○ルネサンス美術は第 2 次の人間性復興・人間性発見運動 我々は、文学、古典、文芸復興のつぎに、ルネサンスの成果をこのころ生まれた新しい
タイプの美術作品にみることができるが、その表面的なすばらしさだけでなく、その作者
(人間)の考えを読み取ることが重要である。 15 世紀の時点で確認できるその最大の変化は、芸術がすでに神のためだけのものではな
くなっていたという点である。中世は絵画も音楽も建築(教会)も、日常生活すべてがキ
リスト教、つまり、神の計画に沿うように指導されていたことは述べた。 ルネサンスには古代の歴史(キリスト教が出現する前の時代)の中には自分たちの時代
にとって、人間として、神よりも(お仕着せの神よりも)もっと有益なものが(もっと考
えるべきものが)存在するのではないかと考える人々が現れるようになったのである。こ
の時期にヨーロッパの芸術は、神の世界から分離し始めていたのである。 1284
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ルネサンスの変化が最初に完成の域に達したのが、おそらくルネサンスの芸術表現であ
った。このころの美術はどの文明の美術より活発で創造性に富んだものだったといえよう。
また同じ頃、音楽や演劇、詩などの分野でも、いまだに我々の心をひきつけてやまない優
れた作品が誕生している。ルネサンス芸術は、その新しい表現形式だけでも革命的な価値
を持っていたが、歴史的な意義はそれをはるかに上回るものであった。 つまりルネサンスの芸術が体現していたのは、キリスト教による社会の統合と教会によ
る文化の独占が(人間性をある型に閉じ込めようとする試み)、ついに崩れ始めたという
兆しだったのである。イタリア・ルネサンスは単に芸術(文芸)復興運動ではなく、人類
の歴史からみると、(第 2 次の)人間性復興・人間性発見運動であったといえよう。創造
と模倣・伝播の原理ではないが、いったん、人間は自由にものごとを考えはじめるとそれ
はそれは際限もなく広がるもので、やがて、宗教改革、科学の分野(科学革命)にも及ん
でいくようになったのである。 《ジョットー》 ルネサンス美術のはじまりは、14 世紀のはじめのジョットー・ディ・ボンドーネ(1267
~1337 年)の絵画だったといえよう。ジョットーは、フレンツェ近郊の出身の画家で、平
面的・装飾的なビザンティン絵画の描写法から現実味ゆたかなルネサンス絵画への先鞭を
つけたといわれている。当時、ビザンティン様式が支配的だった西洋絵画に現実的、3 次元
的な空間表現や人物の自然な感情表現をもたらした。 ジョットーの絵画においては人物は背後の建物や風景との比例を考慮した自然な大きさ
で表されている。こうした描写方法は当時の絵画界においては革新的なもので、こうした
点からジョットーは「西洋絵画の父」といわれている。アッシジのサン・フランチェスコ
大聖堂とパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画が代表的な仕事である。ジョットーはす
ぐれた建築家でもあり、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の「ジ
ョットーの鐘楼」などを手がけている。 《彫刻家、金細工師ギベルティ》 ロレンツォ・ギベルティ(1381 年頃~1455 年)は初期ルネサンスの彫刻家、金細工師で、
鋳造技術においては並ぶ者のない腕前を示し、その技量は今日においても賞賛されている。 サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東側の扉は、
リアルな空間表現、迫真の自然描写で特に有名であり、後にミケランジェロが「天国への
門」と呼んで賞賛したことから主にこの名で呼ばれる。 《建築家ブルネレスキ》 イタリアは古代ローマの文化が栄えた土地で、古代の遺物も多く、彫刻家、建築家らは
これらから多くを学ぶことができた。建築の分野ではブルネレスキ(1377~1446 年)がル
1285
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ネサンスの建築家の初めとされる。ブルネレスキはすでに建築開始から 140 年近くもかか
って当時困難とされていたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に大ドームをかける
という課題に合理的な解決をもたらした。この大聖堂は 1294 年にフィレンツェ羊毛業組合
によって企画され着手されたが、ドームの建設に多くの建築家が失敗し、ブルネレスキの
やり方でやっと 1461 年に完成したのである(ブルネレスキが死去したときには完成してい
なかった)。 ブルネレスキは、ローマにたびたび出かけてローマ建築の遺構から正確さと美学を理解
し、構造の解決方法や空間の処理といったローマ建築の工学的な側面に関心をもち、それ
までトスカーナ地方にはなかった全く新しい空間を表現した。また、彼は幾何学に関心を
もち、芸術活動に視覚原理を導入しようとした。彼は遠近法も発見した。 彼の若い友マサッチョ(1401~1428 年)は頼まれて最初の遠近画を描いた。この絵は「ト
リニティー(三位一体)」と呼ばれ今でも聖マリア・ノヴェルラ聖堂の壁にみられ、その背
景は明らかにブルネレスキの古典的建築と遠近法の応用を示している。この遠近法の理論
はブルネレスキ自身によって完成されることはなかったが、アルベルティに引き継がれ、
その著作によって、透視図法の理論が確立された。 《動きと優美の画家ボッティチェルリ》 絵画の世界ではルネサンス初期の 14 世紀初めにジオットー(1266~1337 年)が従来の象
徴主義や写本の押絵の世界をすてて、写実的画法へ独力で踏み出したことは述べた。彼の
作品「キリストの哀悼」は臨場感に溢れており、絵画にも革命が起きていることがうかがえ
る。15 世紀になると先述した遠近法・透視画法、それに解剖学的研究結果が応用され、対
象に対する画家の観察が優先されるようになった。 しかし、15 世紀も半ばを過ぎるとフィレンチェでは立体性や静けさに満ちた偉大さは流
行遅れとなり、絵画に動きと優美さを求めるようになっていった。15 世紀の最後の 4 半世
紀は、メディチ家のサークルが好んだボッティチェルリ(1445~1510 年)が線と動きの様
式を代表する、異教的、官能的なテーマの絵画である「プリマヴェーラ(春)」(1477~
78 年)、「ヴィーナスの誕生」(1480 年)を描いた。 《彫刻家ドナテッロ》 ドナテッロ(1386~1466 年)は、フィレンツェ生まれの彫刻家で、写実的な表現を追求
した。代表作『ガッタメラータ将軍騎馬像』(1444 年~1453 年。 パドヴァのサント広場)
は後世のミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに多大な影響を与えた。 《ルネサンスの万能人、アルベルティ》 1286
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ルネサンスは人間がもつ能力を最大限に発揮することをめざしていた。アフリカで生ま
れたホモ・サピエンスはすでにアフリカで芸術的能力を発揮していたが、それが 2~3 万年
前の南ヨーロッパの洞窟画で大いに発揮されたことは述べた。 それが古代ギリシャ・ローマで蘇り、そしてルネサンスで復活したのである。ルネサン
スは才能の人を要求し「人間は全人的で完全でなければならない」という理想をかかげてい
た。この「万能の人」の中で、最初の偉大な代表者がブルネレスキであったが、次に登場し
てきた万能人がアルベルティであった。 「人間はあらゆるものになる可能性を持っている」と説いたアルベルティ(1404~1472
年)は彼自身が多くの分野で業績を挙げて身をもってそれを示した。彼は、初期ルネサン
スの人文主義者で専攻分野は法学、古典学、数学、劇作、詩作であり、また絵画、彫刻に
ついては実作だけでなく理論の構築にも寄与した。音楽と運動競技にも秀で、両足をそろ
えた状態で人を飛び越したと伝えられる。彼は多方面に才能を発揮し、ルネサンス期の理
想とされた「万能の人」の典型といわれた天才であった。 多くの著作があるが、1436 年の『絵画論』は最も有名で、西洋絵画を確立したものであ
るといっても過言ではない。彼は遠近法(透視幾何学)の手法を構築し、絵画は遠近法と
構成と物語の三つの要素が調和したものであると考え、これによって絵画の空間を秩序づ
けた。彼は、芸術作品について常に調和を重んじ、それを文法化することに腐心した。そ
のため、彼の芸術論は非常に優れたテキストであった。 アルベルティはルネサンスの理想である「万能の天才」の一典型とされるが、15 世紀後
半になるとレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどが絵画、建築、
彫刻など多方面でその才能を発揮した。 《レオナルド・ダ・ヴィンチ》 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519 年)は、イタリアのヴィンチ村のヴィンチ家の
公証人セル・ピエロ・ダ・ヴィンチを父にカテリーナを母に生まれたが、父と母の間には婚
姻関係はなかったので、私生児だった。ヴィンチ家は 13 世紀より続く名の通った血筋で、
家は裕福であった。母は農民あるいは木こりの娘といわれ、詳細は分かっていないが、ヴ
ィンチ家に頻繁に出入りしていたといわれている。カテリーナはレオナルド出産の数ヵ月
後に他家に嫁いでしまった。父も同時期にフィレンツェ出身のアルビエーラと結婚した。 このような生い立ちであったので、レオナルドのその生涯には、見捨てられたものの暗
い影が、いつもつきまとっていた。幼少期のレオナルドは正当な教育を受けず、自然とと
もに暮らしていたようである。14 歳のころ村を出たまま、2 度と故郷にはもどらなかった。
14~16 歳でフィレンツェに移り、画家見習いとして、ヴェロッキオの工房に弟子入りし、
1287
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ボッティチェッリらとともに学んだ。レオナルドは 1472 年にフィレンツェで画家組合に登
録されている。 1482 年から 1499 年にかけて、レオナルドはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(通称
イル・モーロ。1452~1508 年)に仕えながら、自分の工房を開いて独立した。レオナルド
はイル・モーロから7メートルもある巨大なスフォルツァ騎馬像の制作を依頼されたが、
その構想に 16 年もの歳月を費やし計画は頓挫してしまった。 『最後の晩餐』はこの間の 1495~97 年にサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食
堂の壁画として描かれている。福音書を題材に劇的な場面を遠近法技法でリアルに描き、
レオナルドの名声を高めた。 1499 年 10 月、ルイ 12 世率いるフランス軍が侵攻すると、イル・モーロは逃亡し、ミラ
ノは戦わずに陥落した。レオナルドはしかたなしに 1500 年の暮れにはフィレンツェに戻っ
た。1502 年 8 月から、レオナルドは教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサ
ンデル 6 世の庶子。アレクサンデル 6 世の権威をかさに多くの政敵を戦闘、陰謀で倒した
軍人政治家。教皇の死とともに没落した)の軍事顧問兼技術者としてチェーザレ軍と行動
をともにし、ロマーニャ公国の防衛体制や新兵器のデッサンなどを残している。しかし、8
ヶ月程度でフィレンツェに戻り、アルノ川の水路変更計画や、ヴェッキオ宮の壁画などの
仕事に従事した。『モナ・リザ』はこの間の 1503~1506 年に制作されている。 1506 年、スイスの傭兵がミラノからフランス軍を追い払うと、マクシミリアン・スフォ
ルツァが治めるミラノに戻った。レオナルドはミラノとローマを行ったり来たりしていた
ようである。ルネサンスの巨人にもこの時代、安住の地はなかった。 1515 年に即位したフランス王フランソワ 1 世は、同年にミラノを占領した。この時、レ
オナルドはボローニャで行われたフランソワ 1 世とローマ教皇レオ 10 世の和平交渉の締結
役に任命され、フランソワ 1 世に出会った。以後、晩年のレオナルドはフランソワ 1 世の
招きを受け、1516 年からはフランス王の居城アンボワーズ城に隣接し、フランソワ 1 世が
幼少期を過ごしたクルーの館に招かれ、年金を受けて余生を過ごし、1519 年 5 月、この地
で亡くなった。 レオナルドの絵画は『最後の晩餐』、『モナ・リザ』のような精巧な絵画がよく知られ
ている。彼の絵画の特徴はスフマート技法(深み、ボリュームや形状の認識をつくり出す
ため、色彩の透明な層を上塗りする絵画の技法)と空気遠近法(遠近法であるが、風景な
どで遠くのものほどかすんで見える遠近法)である。 画家として非常に有名であるが、現存する絵画は 17 点に過ぎない(それも弟子に描かせ
たものもある)。レオナルドは絵の構想を練りながら膨大な数の素描やスケッチを描いた
1288
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) が、絵は制作されずに、スケッチの山ばかりが残されることも多かった。描き始めたもの
も、未完成のまま放置されたものや、依頼主に渡されなかったものもある。 レオナルドは、遅筆であると同時に、代表作とされるものでも未完の作品が多い画家で
あった。死ぬまで手放さず筆を入れていたといわれているモナ・リザも手の部分が未完成
であったともいわれる。ミラノでは、スフォルツァに依頼された7メートルもある巨大な
騎馬像の構想に 16 年もの歳月を費やし、1493 年に粘土の原型像を完成させその気になった
ときには、用意されていた7トンの銅が 1495 年にシャルル 8 世との戦争が迫って大砲の製
造に転用されてしまい、計画はご破算になってしまった。 しかし、レオナルドは決して遅筆ではなかった。彼は仕事を受けるとトコトン研究する
という性格だったようである。当時のものはおそらく知らなかったかもしれないが、彼は
科学者あるいは技術者として、膨大な時間を 1 人で費やしていたと思われる。その状況は
ルネサンス期の観察科学のところで述べるが、彼は受注した仕事の下調べではじめたこと
に興味がわき、仕事はそっちのけで、ドンドン深くほりさげ、自分で納得いくまで、のめ
りこんだことが、遅筆の原因だったと考えられる。 しかし残念ながら当時の科学技術のレベルから想像すると、レオナルドが納得できるこ
とは少なかったのではなかろうか。いろいろな乗り物や機械類、兵器類のスケッチも当時
の機械技術、部品技術のレベルではほとんど実現不可能なものばかりであった。ただ、彼
は人の理解を期待せず、名声などというものにも絶望し、ひたすら自分の知的好奇心、真
理の究明だけに歓びをみいだそうとしていたのではなかろうか。大変な能力をもった人間
であったことは確かであった。逆に人間とはここまでやれる能力を持っているということ
を実例をもって示してくれた人であった。 《ミケランジェロ》 ミケランジェロ(1475~1564 年)は彫刻家、画家、建築家、詩人で、レオナルド・ダヴィ
ンチとならんでルネサンスの巨匠であるといわれている。 ミケランジェロは判事の息子としてフィレンツェ共和国のカプレーゼで生まれ、幼少の
頃から絵画や彫刻に興味を示し、父親の希望に沿わず、1488 年、13 歳でドメニコ・ギルラ
ンダイオに弟子入りした。ドメニコは彼の才能に感心し、当時のフィレンツェの支配者だ
ったロレンツオ・デ・メディチ(1449~1492 年)に紹介した。ロレンツオはミケランジェロ
を自宅に引き取り学ばせた。 その間にミケランジェロはプラトン・アカデミー(メディチ家の私的な人文主義者が集ま
ったサークル)に集まる人文主義者たちや多くの突出した人々と出会い、芸術に関する着
想を拡げ、大きな影響を受けた。ミケランジェロはこの時期に『ケンタウロスの戦い』、
『階段の聖母』の 2 つの浮き彫りを制作している。 1289
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1492 年、ロレンツオが亡くなり、後継ぎのピエロはミケランジェロへの後援をやめてし
まったので、ミケランジェロはフィレンツェを離れボローニャで 3 年ほど生活した。1496
年、サンジョルジオ枢機卿の招きでローマに行き、ここで『ピエタ』(十字架からキリス
トを下ろすマリア)とバッカスを作った。フィレンツェではメディチ家の追放、サヴォナ
ローラ(1452~1498 年。後述)による神政政治、サヴォナローラの失脚、新たな共和国体
制へと激動が続いていたが、この間、ミケランジェロはローマにいた(ダ・ヴィンチはミ
ラノにいた)。 1501 年、ミケランジェロはフィレンツェに戻り、共和国政府の依頼で彼の代表作の一つ
である 4.17 メートルの巨大な大理石のダヴィデ像を 4 年かけて制作した(メディチ家が追
放され共和政が復活していたので偉大なダヴィデ像が実現したともいえる)。ダヴィデ像
は完成すると市庁舎(のちヴェッキオ宮)前に設置され、フィレンツェの共和政の若い理想
にもえる民衆のシンボルとなった(現在はアカデミア美術館に移され、市庁舎前にはレプ
リカが置いてある)。 1506 年、ミケランジェロはローマ教皇ユリウス 2 世にローマへ呼び戻され、教皇の墓廟
を制作するよう命じられた。結局、この墓廟の制作には 40 年も関わることになり、モーゼ
像などが制作された。このモーゼ像はダヴィデ像に対比される傑作で、崇高な知恵をかた
る英雄の姿である。青年(ダヴィデ)の侠気(きょうき)と老年(モーゼ)の賢明、とも
に偉大さの象徴として、神々(こうごう)しいまでの力にみちている。ミケランジェロは
人間の理想を追求した。 1508 年、ユリウス 2 世から墓廟の制作より先に、今度はバチカン宮殿にあるシスティー
ナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられた。礼拝堂内に足場を組み、横になって天井を仰ぎ
ながらときどき目に絵の具を落としながら苦しい作業を続け、1512 年までの 4 年間をかけ
て西洋で最も巨大な絵画ともいわれる創世記をテーマにした『天地創造』(旧約聖書創世
記の 9 場面、天地創造から大洪水までで構成されている)の大フレスコ画を完成させた。 1513 年にユリウス 2 世が死去し、メディチ家出身のレオ 10 世(在位:1513~1521 年。
ロレンツオの次男)が教皇に即位し、ミケランジェロにフィレンツェのサン・ロレンツオ
教会の外観設計などを命じたが、こまごましたことで、壮大な作品を手がけてきたミケラ
ンジェロはあまり気が進まなかったようである(ルネサンスの巨匠も権力者スポンサーの
命令には従わざるをえなかった)。 1527 年、教皇クレメンス7世(1523~1534 年。レオ 10 世の従弟)のとき、ローマの劫
掠(ごうりゃく。神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール 5 世の軍勢がイタリアに侵攻し、教
皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件)が起きると、メディチ家はフ
ィレンツェから再び追放された。共和政に共感したミケランジェロはフィレンツェ共和国
1290
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の築城長官に就任したが、これはメディチ家に対する背信的な行為であった。それで、1530
年にメディチ家がフィレンツェに復帰すると、ミケランジェロはフランスに逃亡した。 クレメンス 7 世はミケランジェロの行為を不問にしてローマに呼び戻し、システィーナ
礼拝堂の祭壇背後の壁画を依頼した。ミケランジェロは 1536 年から 41 年までかけて壁画
『最後の審判』を完成させた(大きく 4 つの階層に分かれており、上から天使たちの群像、
キリストを中心とした天国、地獄に引きずり落とされる人々、地獄が描かれている。地獄
の描写にはダンテの『神曲』地獄篇のイメージで描かれている)。 サン・ピエトロ大聖堂は、1506 年に起工されて以来、最初のブラマンテ以後、多くの建
築主任が手がけたが、当時、構造上の問題で工事が中断されていた。 1546 年、ついにミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂の建築主任に任命された。彼は
このとき、すでに 72 歳であったが、超人的な能力でこの計画を押し進め、根本的な解決案
を作成した。こうして工事は再開され、ミケランジェロの没年である 1564 年に、工事はド
ーム下部構造のドラムにまで到達していた。この大聖堂の後部と大ドームは彼の死後に完
成したが、大ドームは彼が崇拝したブルネレスキのそれと同じように二重壁構造であり、
要所要所は彼の構想が生かされた。このドームに向かって屹立(きつりつ)する巨大な建
築体系が、落ち着きと調和を示し、ルネサンス期の総決算ともいわれる偉大なる大建築物
がここに完成したのである(1593 年)。これによってミケランジェロは建築家としても偉
大な名を残すことになった。 ミケランジェロはダ・ヴィンチ、ラファエロとともにルネサンスの 3 大巨匠と呼ばれる
が、最も長命で活躍し、作品もルネサンス盛時からマニエリスム(ルネサンス後期の高度
の芸術的手法)の時代への移り変わりを示している。また躍動的な表現は、次のバロック
の時代を準備したといわれる。 《ラファエロ》 ラファエロ(1483~1520 年)も、盛期ルネサンス期を代表する画家、建築家であった。ミ
ケランジェロが偉大な改革者であるのに対し、ラファエロはそれまでの芸術手法を統合、
洗練して、女性的で優雅な様式を確立した総合芸術の天才であるといわれている。 1483 年、宮廷画家の子としてウルビーノに生まれ、父親から絵画の教育を受けた。1501
年のサン・タゴスティーノ教会祭壇画をかわきりに多くの作品を完成させた。1504 年、フ
ィレンツェに拠点を移し、『マッダレーナ・ドーニの肖像』『聖母子(美しき女教師)』
『天蓋の聖母』などを描いた。この頃の作風は、ダ・ヴィンチの様式を吸収しているとい
われる。 ブラマンテの勧めで 1508 年にローマを訪れたラファエロは、教皇ユリウス 2 世に雇われ、
1509 年からバチカン宮殿の署名の間、ヘリオドロスの間を手がけた。ここで特に有名なフ
1291
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ラスコ画『アテナイの学堂』は、バチカン宮殿に 4 部屋ある「ラファエロの間」のうち「署
名の間」を飾る壁画で、古代ギリシャの多数の哲学者、科学者などを描いており、その画
面の中央に立っているプラトンとアリストテレスは、それぞれダ・ヴィンチとミケランジェ
ロがモデルとされている(ラファエロ本人も隅の方にいる)。 彼は、ローマで自らの様式を開花させ、1512 年ごろと推測される『サン・シトスの聖母』
をはじめとする傑作を数多く作成した。また、同時期にサン・エリジオ・デッリ・オレフ
ェチ教会の設計を行い、建築家としての経歴もスタートさせている。彼は従順で仕事をそ
つなくこたしたので多くのパトロンを持ち、多くの肖像画も描いている。1514 年、ブラマ
ンテの死によって、中断していたサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命されたが、未
解決のまま、1520 年、37 歳の若さで亡くなった。 ○フィレンツェ・ルネサンスの終焉 1494 年にフランス王シャルル 8 世が突然、「ヴァロワ・アンジュー家からナポリを継承
した」と主張しイタリアに侵攻した。シャルル 8 世の通り道となったフィレンツェにおい
ても、ロレンツォのあとを継いだ息子のピエロ 2 世は、イタリアを侵略したフランスのシ
ャルル 8 世に屈辱的な譲歩をした。これに憤慨した民衆は、同年ピエロを含むメディチ家
一族をフィレンツェから追放し、共和制をしいた。メディチ派の評議会は廃止され、約 3200
人からなる新設の大評議会が再生した共和国を象徴した。 このメディチ家のフィレンツェからの追放は、フィレンツェのルネサンスの終焉を意味
した。シャルル 8 世の侵略によって、イタリアのローディの和が崩れて、イタリアは再び
戦乱の巷と化した。今度はイタリア内の中堅国家同士の戦いではなく、フランス、スペイ
ン、神聖ローマ帝国などの大国が介入してくるイタリア戦争となり、16 世紀半ばまで続く
ことになる。 1495 年、教皇アレクサンドル 6 世は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン 1 世、スペインの
アラゴン王国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国と神聖同盟を結び、シャルル 8 世のフラ
ンス軍をナポリから撤退させた。 1499 年、シャルル 8 世のあとを継いだフランス王ルイ 12 世(在位:1498~1515 年)は、
イタリアに侵攻し、ミラノ公国のスフォルツァ家のイル・モーロを幽閉、ミラノ公国を征
服した。 しかし 1503 年にスペインのコルドバ将軍(1453~1515 年)がナポリに上陸し、チェリニ
ューラの戦いで火器と塹壕を組み合わせる戦法を実施し、フランス軍を破り、ナポリを征
服した。この戦いによるフランス軍の損害は 3000 人を超え、一方のスペイン軍の損害は 100
人前後に過ぎなかった。このチェリニョーラの戦いは、野戦築城(塹壕の組み合わせ)を
1292
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 効果的に使用し、重装騎兵を野戦において火力で撃破した初期の戦例であった(日本の長
篠の戦いの 72 年前だった)。このことによってコルドバ将軍は塹壕戦の父といわれている。 このようにルネサンスに並行して戦争技術、戦略手法もドンドン進歩して(これを進歩
というのか)、戦争のスケールが一段と大きくなっていったのは確かであった。人間は芸術
に驚くべき才能を見せたが、実は戦争術にも大変な才能をみせはじめていたのである(こ
れ以降、ヨーロッパは芸術でも、技術でも、産業でも、戦争でも,加速度的に進歩し、イ
スラムやアジアなどの他の世界に大きく水をあけることになる)。 いずれにしても、1494 年にメディチ家が追放され、イタリア・ルネサンスを主導したフ
ィレンツェ・ルネサンスは終焉した。16 世紀に入るとローマ(教皇のルネサンス)とヴェ
ネツィアに移っていった。 ○その他の西欧諸国のルネサンス 一般に、15 世紀末~16 世紀には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化は、人類の創造
と模倣・伝播の原理で、まず、陸続きのアルプス以北の西ヨーロッパや一部東ヨーロッパ諸
国にも波及した(北方ルネサンス)。 しかし、ルネサンスを社会形態まで含めた総体的運動としてとらえた場合、ルネサンス
は本質的にイタリア固有の現象であって、絶対王政が確立しつつあったヨーロッパ諸国に
ルネサンスは認められないと考えているものもいる。 以下に、一般に「ルネサンス」と評されている各国の文化の項目だけを挙げる。必ずし
も古典の復興を目指したものとは限らないが、イタリア・ルネサンスに触発され発達した
もので、ルネサンスを第 2 次の人間性復興・人間性発見運動と広く考えればなっとくがい
く。イタリア・ルネサンスにくらべて、①現実の社会や伝統的な権威に対して批判・研究
の眼が向けられ、宗教改革との関係が強い、②国民国家の形成の過程で展開したため、国
民性の強い文芸がうまれたといえよう。 【①ネーデルラント(ベルギー・オランダやその周辺)】 絵画―フーベルト・ファン・エイク(1366~1426 年)、ヤン・ファン・エイク(1387
~1441 年)、ブリューゲル(1525 年~1569 年) 思想―エラスムス(1466 年~1536 年)『痴愚神礼賛』 音楽―デュファイとそれに続くブルゴーニュ楽派 《エラスムス》 新約聖書をギリシャ語から翻訳したエラスムス(1466 年~1536 年)が人文主義者として
著名である。古代ギリシャ語研究は、キリスト教を原点にさかのぼって再検討することに
つながり、次第に中世カトリックの権威を揺るがすものとなった。1511 年、エラスムスは
1293
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 『痴愚神礼賛』でカトリックの堕落を風刺したが、1517 年に宗教改革運動を起こしたマル
ティン・ルターの 6 年前だった。 エラスムスは 1509 年にロンドンを訪れ、親しい友人トマス・モアのもとに滞在している
間、旅行中に着想した諷刺文をわずか 1 週間程度の短期間で一気に書き上げたという。こ
れが『痴愚神礼賛』で、1511 年の出版以来、ヨーロッパ各国で翻訳や海賊版が多数出版さ
れ、何十もの版を重ねて、一説には数十万部も刷られたとされ、当時としては破格のベス
トセラーであった。 その内容は、痴愚の女神モリアが聴衆を前に大演説会を開き、聖書伝説やギリシャ・ロ
ーマの古典からのおびただしい引用、警句を縦横に繰り出して人間社会の馬鹿馬鹿しさや
愚行を饒舌に風刺するというものである。痴愚女神は軽妙洒脱な語り口をもって王侯貴族
や聖職者・神学者・文法学者・哲学者ら権威者を徹底的にこき下ろし(この 10 年前のロー
マ教皇アレクサンデル 6 世の行いなどを想像すればよくわかる)、人間の営為の根底には
痴愚の力が働いているのだ、人間は愚かであればこそ幸せなのだ、と自画自賛の長広舌を
繰り広げる。痴愚女神モリア の名前はギリシャ語で「痴愚」
「狂気」を意味する語であり、
モアのラテン名モルス から連想されたものである。本書はトマス・モアに捧げられている。 ところが、
「キリストの哲学」という言葉にあらわされるエラスムスの思想は、知識重視
と衒学趣味(げんがくしゅみ。学問や知識をひけらかすこと)に走っていた当時の神学に
警鐘を鳴らし、聖書を本来の姿に近づけ、聖書を学んでキリストを知ることを最大の目標
とするものであった。当時の聖職者と信徒の間の格差が広がりすぎていた現実についても、
エラスムスは聖職者と信徒が共に聖書に親しむことで解決できると考えていた。エラスム
スは 1516 年に『校訂版 新約聖書』と 9 巻からなる『ヒエロニムス全集』(ヒエロニムス
(340~420 年)は聖書のスタンダード・ラテン語訳を行った聖人)を出版したが、これは
本格的な彼の仕事で、学識者の間で高く評価され、当時のエラスムスの評価を決定づける
ことになったのである。 ところが、翌年の 1517 年に若き聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターが発表した
『95 ヶ条の論題』は本人の予想も超えるほどの大きな反響を呼び起こした。宗教改革のは
じまりであった。ルターも驚いたであろうが、エラスムスも驚いた。ルターが自分を尊敬
し、自分の著作に影響されていたことを知ったエラスムスは当初、ルターとその「聖書中
心主義」思想に対して好意的な態度をとっていた。このころ、ルターはあの有名なエラス
ムスさんからの励ましを受けて感激している。エラスムスはルターが不当に断罪されるこ
とがないよう手を尽くしながらも、ルターに対して党派を作ったり、教会の分裂を引き起
こさないようアドバイスを与えていた。 1294
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) エラスムスにとっては、ルターがそこで止まればよかったであろうが、ルターが本格的
な宗教改革をはじめたため(ルターはこの本から影響を受けていたので無関係ではなかっ
たが)、『痴愚神礼賛』がエラスムスの意図を離れて、宗教改革の予告編のように見られ、
ルター派からは大歓迎、反ルター派からは反カトリック教会的書物として各国で利用され
るようになった。エラスムスはあくまでキリスト者の一致が最優先事項と考えており、教
会の分裂を望んでいなかった。結果的にエラスムスはルターに反対する立場の人たちとル
ターを支持する立場の人たちの両方から疎まれるという難しい立場に立つことになった。 【②フランス】 絵画―フォンテーヌブロー派 文学―ラブレー(1483 年~1553 年)『ガルガンチュワ物語』 思想―モンテーニュ(1533 年~1592 年)『エセー(随想録)』、パスカル(1623~1662
年)『パンセ』、ラ・ロシュフーコー(1613~1680 年)『箴言集』 《ラブレー》 ギリシャ古典を研究したラブレー(1483 年~1553 年)は『ガルガンチュワ物語』を著し
た。荒唐無稽な巨人の物語だが、既成の権威を風刺した内容で、活版印刷で刊行され、禁
書処分を受けたが広く読まれた。 《モンテーニュ》 モンテーニュ(1533 年~1592 年)は、フランスのルネサンス期を代表する思想家でセネ
カらの引用と自己の考察を綴った『エセー(随想録)』は、社会や人間に対する鋭い批判
精神に満ちている。 モンテーニュは、ボルドーに近いモンテーニュ城で生まれ、トゥールーズで法学を学び、
フランスの法官になった。1557 年、ボルドーの高等裁判所に務めていたときに、人文主義
者エティエンヌと親しくなった。エティエンヌは 1563 年に死去したため、モンテーニュは
深い悲しみに沈んだ。1565 年に結婚、6 人の娘が生まれたが、そのうち成人したのは 1 人
であった。1570 年、37 歳で法官を辞任して故郷に戻り、やがて『エセー(随想録)』の執
筆を始めた。 フランス宗教戦争(ユグノー戦争。1562~1598 年)の時代にあって、モンテーニュ自身
はローマ・カトリックの立場であったが、プロテスタントにも人脈を持ち、穏健派として
両派の融和に努めた。その中で、たがいに自己の価値観を絶対視し、神や信仰の名におい
てすら殺し合う人間の愚かさを痛感した。そして人々の独断や偏見、傲慢さ、不寛容など
がこのような悲惨の事態をもたらすと考え、ソクラテスの「無知の知」の考え方に学び、
「ク・セ・ジュ(私は何を知っているのか)?」という言葉であらわされる懐疑主義の立
場をとった。 1295
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) それは人間の理性は不完全なものであるから断定を避け、謙虚に自己の内面を吟味し、
いまだ真理の探究中であるという自覚を持って、より深い真理を求めて思索するというも
のであった。そして、独断や偏見を排し、人間の生きた経験から学んで、さまざまな価値
観と思想に心を開き受け入れる、寛容の精神をもって生きるべきことを説いた。その思想
は今日でも有効性を失っておらず、人文主義者の一つの頂点といえよう。 1581 年、イタリアに滞在中、ボルドーの市長に選出されたことを聞き、帰還して 1585 年
まで(2 期)務めた。1592 年に死去するまで『エセー』の加筆と改訂を生涯続けた。 これがモンテーニュの一生だった。彼の人生は華々しいことは何もなく地味なものだっ
た。しかし、彼は人間の一生のうちに起きることを深く見つめ、現実の人間を洞察し人間
の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与
えた。その内容は、体系的な哲学書ではなく、自分自身の経験や古典の引用を元にした考
察を語っている。プラトン、アリストテレス、プルタルコス、セネカなど古典古代の文献
からの引用が多く、聖書からの引用はほとんどない点が特徴的である。現在読んでも全く
違和感を覚えず、示唆に富むものである。 モンテーニュのように、とくに 16~17 世紀のフランスで、人間や社会を冷静かつありの
ままに観察し、人間の真の生き方を探求して、随筆や格言などの形で表現した人々のこと
をモラリストという。代表的なモラリストとしては他に、モンテーニュの影響を受けたパ
スカル(1623~1662 年)、『箴言集』で有名なラ・ロシュフーコー(1613~1680 年)などが
いる。こういった人間性探究の姿勢は、フランス文学に脈打つひとつの伝統ともなったと
いえる。 【③ドイツ】 絵画―デューラー(1471 年~1528 年)、ホルバイン(1497 年/98 年~1543 年)『死の
舞踏』 思想―ロイヒリン(1455~1522 年) 《ロイヒリン》 15~16 世紀に、ヘブライ語の研究につくしたロイヒリン(1455~1522 年)らの人文主義
者は聖書の研究をすすめた。ルターの宗教改革は、このようなルネサンスの人文主義者に
よる聖書の原典研究が進んだことが背景にある。 【④イギリス】 文学―ジェフリー・チョーサー(1340 年~1400 年)『カンタベリー物語』、 シェイクスピア(1564 年~1616 年)多数の著作、エドマンド・スペンサー( 1552
年頃~1599 年)『妖精の女王』 1296
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 思想―トマス・モア(1478~1535 年)『ユートピア』、フランシス・ベーコン(1561
年~1626 年)『随想録』 《チョーサー》 早くはジェフリー・チョーサー(1340 年~1400 年)がボッカッチョの影響を受け『カン
タベリー物語』を著している。その内容は、チョーサーはカンタベリー大聖堂への巡礼を
思い立ち、ロンドンのある宿屋(実在の宿屋で 1307 年開業)に泊まっている。そこに、聖
職者・貴族・平民と雑多な構成の巡礼団がやってくる。チョーサーと宿屋の主人も仲間に
加わり一緒に旅することになる。この時、宿屋の主人がある提案をする。旅の途中、全員
が 2 つずつ面白い話をし、誰の話が最高の出来か、競い合おうというのである。全員がそ
れに賛成し、宿を出発する。 以下、ボッカッチョの『デカメロン』と同じ構造で、旅の退屈しのぎに自分の知ってい
る物語を順に語っていく「枠物語」
(より小さな物語を埋め込んだ物語)の形式を取ってい
る。各人が語る物語は、オリジナルもあれば、そうでないものもあり、騎士道物語(ロマ
ンス)、説教、寓話など様々な 83 の物語よりなり、当時の教会用語であったラテン語や当
時イングランドの支配者であったノルマン人貴族の言葉であったフランス語を使わず、世
俗の言葉である中英語を使って物語を執筆した最初の文人と考えられている。 チョーサーは当時のイングランドの裕福な上流中産階級の出身で、廷臣、外交使節、官
吏としてエドワード 3 世、リチャード 2 世に仕えた。外交使節としてイタリアを訪問、こ
の時イタリアの人文主義者で詩人のペトラルカと親交を結んだ。当然、ペトラルカの友人
ボッカチオの『デカメロン』も読んでいる。ペトラルカの影響からチョーサーは彼が用い
たソネット形式(14 行詩)を英文学に導入し、「英詩の父」と呼ばれる大詩人となった。 《シェイクスピア》 エリザベス朝には古代ギリシャ以来とも言われるほど演劇が盛んになり、古代ローマの
思想家でもあるセネカの書いた『オイディプス』等の悲劇が英語に翻訳され、大きな影響
を与えた。イギリスの後期ルネサンスを代表する世界的な劇作家シェイクスピア(1564 年
~1616 年)の存在もこの流れの中にある。ただし、シェイクスピア自身はラテン語・ギリ
シャ語についての知識はあまりなく、イタリアを舞台にした劇を書いてはいるが、実際に
訪れたことはない。 シェイクスピアの戯曲は、古代ローマや古代ギリシャを舞台としたものと近世イングラ
ンドを舞台としたものの 2 種類に大別されるが、これらの作品を執筆するにあたり、シェ
イクスピアが資料として主に用いたテキストは 2 つある。前者の材源はプルタルコスの『英
雄伝』 であり、後者が依拠しているのはラファエル・ホリンシェッドの『年代記』である。 1297
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 最初期の史劇『ヘンリー六世』3 部作(1590~92 年)を皮切りに、
『リチャード三世』
『間
違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』などを発表し、当代随一
の劇作家としての地歩を固めた。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類さ
れる。 1595 年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、
『夏の夜の夢』
『ヴェニスの商人』
『空騒ぎ』
『お気に召すまま』
『十二夜』といった喜劇を発表した。これら中期の作品は円熟味を増し、
『ヘンリー四世』2 部作などの史劇には登場人物フォルスタッフを中心とした滑稽味が加わ
り、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔(かいぎゃく)の色付けがなされるなど、作風は
複眼的な独特のものとなっていった。 1599 年に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、この頃から次第に軽やかさが影をひ
そめていったのが後期作品の特色である。1600 年代初頭の 4 大悲劇といわれる『ハムレッ
ト』
『マクベス』
『オセロ』
『リア王』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、
同じころに書いた『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などの作品は、喜劇作品であ
りながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣
らぬ重さや暗さをもつため、19 世紀以降「問題劇」と呼ばれている。 『アントニーとクレオパトラ』
『アテネのタイモン』などののち、1610 年前後から書くよ
うになった晩期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物
語』
『テンペスト』の 4 作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といった筋書
きの他に、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていた
が、20 世紀以降再評価されるようになった。 シェイクスピアは 1613 年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られ、彼の終の棲家は
ストラトフォード・アポン・エイヴォンにある。1616 年 4 月にシェイクスピアは 52 歳で没
した。 シェイクスピアの戯曲は、時代が古代であろうと近世イングランドであろうと、悲劇で
あろうと喜劇であろうと、その卓越した人間観察眼と内面の心理描写、人間がもつすばら
しさと愚かさを言葉によって的確に表現していることに特徴があり、最も優れた英文学の
作家とも言われている。シェイクスピアの戯曲の多くは、洋の古今東西を問わず世界全体
の中で最も優れた文学作品として評価され、そのすべてが多くの国の言葉に翻訳され、各
地で上演され、様々な映画監督によって度々映画化されている。
「生きるべきか死ぬべきか
それが問題だ」
「ブルータス、お前もか」など名台詞とともにシェイクスピアは今でも生き
ている。 《トマス・モア》 1298
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 『ユートピア』で知られるトマス・モア(1478~1535 年)はイギリスの代表的な人文主
義者であり、前述のように、1499 年以降、エラスムスとも親交があった。エラスムスの『痴
愚神礼賛』は 1509 年、モア宅で執筆された。1504 年、下院議員、1515 年から国王ヘンリ
ー8 世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。 この間に、エラスムスの『痴愚神礼賛』や旅行記『新世界』(アメリゴ・ヴェスプッチが
カナリア諸島からアメリカ大陸までを旅行した記録)に触発され、1516 年にラテン語で『ユ
ートピア』を刊行した。ユートピアは彼の造語でどこにも無いという意味の言葉で「理想
郷」などとも訳されている。 この第 1 巻では、マルクスが『資本論』で引用した有名な個所、イギリスでは地主がフ
ランドルとの羊毛取引のために農場を囲い込んで羊を飼い、村落共同体を破壊し、農民た
ちを放逐する現状を深く慨嘆し、
「羊はおとなしい動物だが(イギリスでは)人間を食べつ
くしてしまう」などイギリスの現状を批判している。 第 2 巻では、ある男から聞いた赤道の南にあるというユートピア国の社会・制度・習慣
を描いている。ところが、今読んでみると、このユートピアは「理想郷」どころか、非人
間的な管理社会の色彩が強いものである。モアのような想像力豊かな人間でもこの程度の
ユートピアしか考え出せないのか、それほど、当時の王権社会が不自由で非人間的な社会
であったか(それほど 16 世紀の世界と現代との間には落差がある)ということがわかる。 当時は、そのような社会であったということは、その後、モア自身が我が身で経験する
ことになった。モアは、1529 年、官僚で最高位の大法官に就任したが、ヘンリー8 世の離
婚問題から大法官を辞任した。ヘンリー8 世が離婚できるようにするため、王の側近トマ
ス・クロムウェル(ピューリタン革命のクロムウェルとは別人)が主導した 1534 年の国王
至上法(国王をイングランド国教会の長とする)に、モアはカトリック信徒の立場から反
対したことにより査問委員会にかけられ、同年ロンドン塔に幽閉、1535 年に処刑された。 なお、ヘンリー8 世の意に従って離婚を主導したクロムウェルも、その後、次々と王妃を
とりかえる王に、3 回目までの離婚は何とか理屈をつけてうまくクリアしたが、王のために
選んだ 4 人目の王妃が事前に王に見せた絵ほどきれいではなかったという理由で彼自身が
処刑され(その日、王は 5 番目と結婚式を上げていた)、モアと同じようにロンドン橋に首
がつらされたのである。その花嫁たちも結局、ほとんど処刑された。当時はそのような世
の中で(専制独裁絶対王政)であった。モアが『ユートピア』を書いた気持ちはよくわか
る。 ユートピアという語はその後一般的となり、理想郷を意味する一般名詞にもなった。そ
こから、架空の社会を題材とした文学作品はユートピア文学と呼ばれるようになった。マ
ルクス主義からは「空想的」と批判されたユートピア思想であるが、理想社会を描くこと
1299
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) で現実の世界の欠点を照らす鏡としての意義を持っている。トマス・モア以降、イタリア
のカンパネッラは『太陽の都』
(1602 年)というルネサンス期のユートピア文学として『ユ
ートピア』に匹敵する重要な作品を書いている。しかし、これも現代からみると、きわめ
て非理想的社会を描いており、当時のイタリア社会の厳しさを反映していたと思われる。
これらを読むと、社会は(現代に向かって)確実に進歩していると確信がもてる。 《フランシス・ベーコン》 フランシス・ベーコン(1561 年~1626 年)もトマス・モアと同じような道を歩んだ。23
歳で国会議員となり、1607 年に法務次長になったことを皮切りに順調に栄達し、1617 年に
国璽尚書、翌年には大法官となったが、汚職の嫌疑を受けて失脚、ロンドン塔に閉じ込め
られもした。幸い、彼はロンドン塔から出ることができ、10 年足らずの余生ではあったが、
きわめて有意義な著作物を残した。 ジェームズ 1 世期の初期の 1605 年に『学問の進歩』を出版していた。もう、このころは
多様化した学問の分野を一人の人間がマスターすることは、不可能であり(ルネサンスの
万能人は不可能になった)、彼は複雑多様化する知(学問)という難問の解決策として学
問の壮大な体系化を構想し、学問分野の膨大なリストも作っていたが、独力では果たせな
かった。彼は「知は力なり」を信じ、人類の知(知恵。学問)の重要性を片時も疑わなか
った。彼のこの体系化の構想は、後のフランス百科全書派に引き継がれたと思われる。 1620 年に書かれた『ノヴム・オルガヌム(新機関)』は、アリストテレスの著作『オルガ
ノン』を考慮して命名したものであり、ベーコンは政界生活の中で得られた哲学的成果を
まとめ、本書で新しい帰納法についての哲学的な基礎を示すことを試みている。 この中で「自然の下僕かつ解釈者である人間は、事実の中に、または自然の過程への思
考の中に、観測できた分だけを、実行・理解可能だ。これを超えては、何も知ることがな
いし、何も行うことができない」「 素手も、理解力も、それだけでは、十分な結果をもた
らすことは不可能だ。道具と補助を利用してこそ、仕事は成されるのだが、それらは手だ
けではなく理解力にも必要とされている。手のうちにある道具が機能をもたらし手を導く
ように、精神の道具も理解力と注意力を補強する」「 人間の知識と人間の力は一致する。
なぜならば、原因を知らなければ、結果を生み出すこともできないからだ」「仕事を成し遂
げるために、人間ができる唯一のことは、自然の本体を、まとめたり、ばらばらにしたり
することだけだ。残りは、自然の性質によって、その内部でなされる」と述べている。 要約すると、ベーコンは、自然を観察・思索し、その結果として得られた知識を精神の
道具として実利に用いることを主張した(自然の叡智に学ぶ人類の叡智を持てといってい
るのである)。ベーコン以前の西洋哲学で主に用いられた演繹法ではなく(へたな考え休
むに似たりではなく)、自然に対する真摯な観測を重視した帰納法を提言したのである。
1300
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ベーコンは「知識は力なり」といっているようでもあるが、日本訳では「知は力なり」、
つまり、日本語の「知」が知識のほかに知恵など広い意味を含んでいるようだ。このフラ
ンシス・ベーコンの思想は経験論を生み出し、現在の科学的方法の基盤の一つとなった(ベ
ーコンの科学的方法論については【13-1-4】17 世紀の科学革命でも記している)。 【⑤スペイン】 絵画―エル・グレコ(1541 年~1614 年) 文学―セルバンテス(1547 年~1616 年)『ドン・キホーテ』 【13-1-2】ルネサンスの 3 大発明と地理上の発見 ○ルネサンスの 3 大発明 一般に火薬、羅針盤、活版印刷術をルネサンスの 3 大発明という(機械時計をあわせ 4
大発明ということもある)。しかし、これらはヨーロッパでは、ルネサンス期に実用化さ
れたのであってルネサンス自体とあまり関係があるわけではない。また発明という点では
羅針盤も火薬も、実は活版印刷術も早くから東洋で実用化されていたので、現在では「3 大
改良」という場合もある。 しかし、「3 大改良」は,その後のヨーロッパで創造と模倣・伝播の原理で急速に普及・
改良が進み、活版印刷術はルネサンスの書類や宗教改革の宗教書に出版革命をもたらした。
火薬は大砲、小銃の発明と攻城技術の変化となり、ヨーロッパの戦争を一変させることに
なる軍事革命を引き起こすことになった(これが将来、ヨーロッパとアジア、イスラムと
の軍事力の大きな差となり、植民地時代への道をひらくことになる)。羅針盤の改良は、
もう少し広い航海術全体の改良となって、大航海時代の幕開けにつながることになる。 ということで、ルネサンスとは直接関係はないが、ここで「3 大発明」についても述べる
ことにする。 《活版印刷術の改良》 ドイツのグーテンベルク(1398 年ごろ~1468 年)が、1447 年にヨーロッパにおいて総合
的な活版印刷技術(具体的には活字合金製の金属活字と油性インクの使用技術)を実用化
した。しかし、グーテンベルクについては、あまりよくわかっていない。実はグーテンベ
ルクのことはある裁判沙汰からわかったのである。 グーテンベルクはドイツのマインツに生まれ育ち、金属加工の腕を磨き、貨幣鋳造職人
としてその手腕を高く評価されていたが、母方の祖父が貴族でないという理由で貨幣鋳造
業ギルドへの加入が認められなったようである。 1434 年以降、ストラスブールに移り、金属活字の研究に打ち込んだようで、彼は金属加
工職人で冶金についても相当経験を積んでいたことも幸いして、一連の思考と実験により、 1301
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 総合的な活版印刷技術を実用化した。グーテンベルクの偉大さは、先行する技術を統合し、
活字合金の製造と活字の製作を行い、油性インクと彼自身がぶどうの絞り器を改良して作
った新型の印刷機を用いることで総合的な印刷システムを完成させたことにあった。 個々の文字に対応するスタンプをつくることを考案し、そういう活字を何百個も箱に入
れておき、綴りに応じて、活字を拾い出して 1 ページ分を組み上げるわけであるが、この
方法はけっして彼の独自の発想ではなかったかもしれないが、少なくとも、これをニュー
ビジネスとして仕上げるところに大きな資金もいるし困難がつきまとったのであろう。 ところが、グーテンベルクの苦難はここからはじまったようである。1450 年ごろ、グー
テンベルクはヨハン・フストなる人物から事業資金をえることに成功した。フストは設備
費として 800 グルデンを貸し付け、2 人は共同事業者として新規事業を立ち上げた。彼らが
新技術をアピールするために選んだプロジェクトがラテン語聖書の印刷・販売だった。後
に『グーテンベルク聖書』(行組から「四十二行聖書」と呼ばれる)と呼ばれる最初の印刷
聖書は 1455 年に完成した。 また、その頃フストがシェッファーという青年をグーテンベルクのもとに連れてきた。
シェッファーはパリ大学の卒業生で写字生の経験があり、グーテンベルクのもとで印刷術
を学んだ(シェッファーはフストの娘クリスティーナと結婚して婿になり、印刷業をビジ
ネスとして成功させることになる)。 これと前後してフストがグーテンベルクを訴えるという事態が起きた。フストの訴えは、
印刷所の設備のためにグーテンベルクに 2 回にわけて 1600 グルデンの資金を貸与した。そ
こで、貸与金額に利子をつけて 2026 グルデンの返済を要求するというものであった。裁判
所はフストの訴えを認め、グーテンベルクに借金の返済を命じた。しかしグーテンベルク
はこの時十分な所持金を持っていなかったため、グーテンベルクの印刷機と活字、印刷中
の聖書などがすべて抵当としてフストの手に渡った。 技術もビジネスも目途がついたところで、、グーテンベルクを追い出す形になったフスト
とシェッファーは事業を順調に発展させ、1457 年 8 月 15 日に出版した『マインツ詩篇』は
世界で初めて印刷日と印刷者名(フストとシェッファー)を入れた書籍として歴史に残る
栄誉を得た。すべてを失ったかに見えたグーテンベルクであったが、印刷術考案の功績を
讃えられて 1465 年にアドルフ大司教の宮廷に従者として召し抱えられ、その 3 年後の 1468
年にひっそりと世を去った。 グーテンベルクの名前は入っていないが、1455 年に印刷された『グーテンベルク聖書』
は完全な形で世界に 48 セット残っている。この聖書は現在は博物館で見ることができるが
(たとえば、日本では東京都文京区水道橋にある印刷博物館で)、それは見事なものでグー
テンベルクの職人的技能と芸術的センスがいかに高かったかがわかる。15 世紀の記録には
1302
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) この聖書の値段は「2 冊で 100 グルデン」で、当時の物価で平均的な労働者の 2 年分の賃金
にあたるほど高価なものだったが、それでも写本に比べれば安価であり、写本 1 冊をつく
るのに 1 年近くかかることを考えれば大量生産につながる画期的な事業であった。 活版印刷術(1450 年頃)がでるまで、書物といえば写本であり、文字通り写字生によっ
て一字一字写されるもので、時間と手間がかかり、高価なものであった。それに対して活
版印刷術により,写本よりはるかに読みやすく、写本とは比較にならないほど大量の刊行
も可能になったのである。 たとえば、16 世紀の初めには宗教革命のきっかけとなる贖宥状(しょくゆうじょう。免
罪符)も大量に印刷されていたし、後述するように 1517 年 10 月 31 日にルターが発表した
95 条の命題(テーゼ)も最初 3 枚しかなかったものが、誰かによって印刷されて頒布され、
2 週間のちにはドイツ中で読まれ、1 ヶ月のちには全ヨーロッパに広がっていた(この活版
印刷機が発明されていなければ、このとき宗教革命にはならなかったかもしれない。つま
り、一つの発明が政治革命につながったことがわかる)。 印刷術は、芸術家や技術専門家に学術論文の発表を促し、学者には実践的な手引書を身
近なものとさせたのである。これで創造と模倣・伝播の原理は、見よう見まねの段階から、
書物の頒布という段階へ進んでいき、その伝播の速さは格段と速くなり、その範囲も広が
ることになり、そして何より正確になった。 この金属活字印刷術は当然のこととして出版革命をもたらし、1450 年から 1500 年までの
50 年間で、ヨーロッパで印刷工場をもつ都市の数は 286 となり(このとき印刷業という新
産業が起こった。一つの発明が新産業を生み出したのである)、約 2000 万冊の書物が出版
された。これはグーテンベルク以前の 1000 年間に出された冊数を超えたと推定されている。 この出版革命は、1989 年の東欧革命を引き起こさせた情報革命に似かよっている(そし
て 2011 年のイスラム革命(アラブの春)のフェイスブックに匹敵する)。ルター自身、「印
刷は神の発明の至高のもの」と述べている。決して神が発明したのではなく、人間グーテン
ベルクが発明(改良)したのである。 ○火薬の普及と銃砲の発明 火薬も中国で発明され、その知識はイスラム世界を経由して、ヨーロッパにもたらされ
たが、ヨーロッパで火薬の応用として銃砲が発明され、これがたちまち、実戦に使われる
ようになった(結局、これは軍事革命を引き起こし、ヨーロッパが東洋、イスラム世界を
軍事的に圧倒する端緒となった)。 《大砲の進歩》 オスマン帝国は、1453 年のコンスタンティノープル包囲戦で大砲(ウルバン砲)を採用
して戦果を上げたといわれているので、中国からイスラムへ技術伝播したことも確かであ
1303
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) る。この後もオスマン帝国は同等の大型大砲を多数鋳造し、ヨーロッパ各国に恐怖を覚え
させた。 戦争の恐怖に絶えず脅かされていたヨーロッパでは、これを凌駕する大砲を開発しよう
と努力した。ヨーロッパ人は火薬の性能を高め、小さくても(同じように強力な)大砲を
つくろうと青銅の合金を使い、砲身や弾丸のかたちや材料、砲台や砲車に工夫をこらし続
けた。 早くも 1494 年にフランスのシャルル 8 世がナポリ征服のために侵攻してきたときに、イ
タリアの都市国家はフランス軍が恐るべき青銅製の大砲を装備していることを知って肝を
つぶした(これがその後、半世紀も断続的に続く仏独のイタリア戦争の始まりであったが、
このような戦争で兵器技術が格段と進歩した)。この牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲が、
旧来の高い城壁を簡単に粉砕してしまった。そして、当然のことながら、為政者は発明家
や学者の尻をたたいて、この大砲に対抗できるものをつくらせようとした。と同時にその
ような大砲で攻撃されても耐えられる築城技術の研究も進められた。 それから 4 半世紀の間に、イタリア人の一部は城壁の内側に更に土塁を設けると敵の砲
撃の効果を減らすのに有効だということを知った。この土塁の前に深い溝を掘り、入りく
んだ稜堡を築いて、そこからマスケット銃や大砲の弾丸を浴びせることができるようにす
れば、包囲した歩兵部隊をほとんど寄せつけない砦ができることがわかった。こうしてイ
タリアの都市国家は再び安全を取り戻すことができた。つまり、強力な矛には強力な盾で
対応できるようになったということである。 また 1571 年のレパントの海戦におけるスペインを中心とした連合軍による地中海の覇者
オスマン帝国の撃破には、大砲の火力も大きく貢献した。その重砲のスペイン無敵艦隊も、
1588 年には、射程が長く弾の再装填がしやすい軽砲を用いたイングランド海軍に撃破され
るなど、海上でも大砲の技術進歩が激しかった(このように戦争のたびに、新兵器(進歩
した兵器)が現れ、それを駆使した側が勝利を収めた)。 17 世紀前半のドイツ三十年戦争(1618~48 年)では、各勢力が野戦に適した牽引砲を使
用し、ドイツの国土や都市を荒廃させた。スウェーデンの王グスタフ・アドルフは大砲の
軽量化を推し進め、効果的に運用し、戦闘のみならず、戦争全体に革命を起こしたといわ
れている。戦争で大砲の比重が高まるにしたがい、都市と人間の被害も大きくなっていっ
た。 このようにヨーロッパでは、戦争の技術が加速度的に進歩するようになったのである
(1500 年から 1945 年までヨーロッパは、ほとんど戦争の連続であり(本末転倒であるが、
新兵器が戦争を惹起することもあった)、戦争技術(兵器技術)が東洋、イスラムを圧倒す
るのは当然であった)。 1304
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《小銃の登場》 銃の誕生には諸説があるが、戦史上初めて登場したのは、1420 年代初頭のフス戦争にお
いて、ボヘミアのフス派の軍隊がマスケット銃を組織的に運用し、ローマ教皇と神聖ロー
マ皇帝の騎士を主体とした軍隊を破ったことが上げられている。これによってヨーロッパ
の戦争に火器が登場し、急速に発達することになった。 戦争技術は、創造と模倣・伝播の原理により、より速く伝播するといったが、オスマン
帝国のイエニチェリ(新軍)は銃を主兵器とする軍団で、1473 年に白羊朝(14~15 世紀の
東部アナトリアのトルコ系イスラム王朝)の遊牧騎馬軍団を、1514 年にはイランのサファ
ヴィー朝のキジルバシ騎馬軍団を破っている(中世のユーラシア大陸を席巻したモンゴル
などの騎馬軍団の時代が去ったのは 1500 年前後の小銃・大砲などの火器の普及に関連する
ことは述べた)。 イタリア戦争のさなか、1503 年のチェリニョーラの戦いでスペイン軍は史上初の塹壕と
小銃部隊でもってフランス軍騎馬軍団に大勝した。1526 年、インド進出を試みたバーブル
は 1 万 2000 という兵力でインダス川を渡河し、パーニーパットの戦いで、10 万の兵と 1000
頭の象軍を率いてあらわれたインド・デリー朝のロディー軍を鉄砲や大砲で迎え撃ち、1 万
5000 人以上をこの戦闘で倒し、バーブルによるムガル帝国建国のきっかけとなった。 ご存知のように日本には、1543 年にポルトガルから種子島に火縄銃と火薬が伝えられた
が、当時の日本は高い鉄の精錬技術と鍛鉄技術(刀鍛冶)を有していたので、またたく間
に、火縄銃の大量生産が行われ、早くも 1575 年の長篠の戦いでは、織田信長が大量の鉄砲
(3000 挺といわれている)を用いることで武田騎馬軍団に大勝している。 このように銃砲による戦争は、またたく間に,ヨーロッパから、イラン、インド、東洋
の島国まで出現し,政治的統合を速めることになった。 銃は従来の武器に比べ、格段に優れた点と欠点をもっていた。兵科としては強力な弾幕
を形成できるが近接攻撃力と防御力および突破力に欠ける弱点があった。日本では徳川幕
府が兵器開発も御法度(ごはっと。禁止)にしたので、その後、銃砲の進歩はなかったが、
ヨーロッパでは、銃の長所を延ばし弱点を補う改良と運用の研究が続けられ、軍隊の中心
武器へと比重を高めていくことになった。 いずれにしても銃の進歩はその後も進み、すでに 1540 年には現在の拳銃の原型が開発さ
れ、1650 年代には火縄式(マッチロック式)から火打ち式(フリントロック式)に変わり、
片手で操作できる方式が発明されると、 馬上射撃用としても普及し、抜剣突撃戦術と併せ
て騎兵は再び打撃力を回復した。 これらの新兵器は、16 世紀初頭から始まったヨーロッパ人による海外進出、いわゆる大
航海時代にも携行され、植民活動や同業者との争いに用いられた。とくに金属製の剣や銃
1305
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) は金属技術をもたない新大陸の文明を圧倒し、征服者側の数的な劣勢をくつがえし、新大
陸のいくつかの文明を短期間に滅ぼす要因ともなった。 これから、新兵器によって脅し、屈服させ支配する、屈服しなければ絶滅させるという
人類の古来からの野蛮な支配方法がヨーロッパから世界に押し広げられていった。 ○羅針盤の実用化 羅針盤が中国で航海に利用されたのは、11 世紀から 12 世紀にかけてであり、この方位磁
石も、中国からイスラム世界を経由して、ヨーロッパに伝わった。ヨーロッパでも羅針盤
自体はルネサンス期より早く 12,13 世紀には用いられていた可能性がある。 最初の羅針盤は磁針だけからなっていたが、その後 32 の方位を書いた図表(カード)と
ともに用いられるようになり,初期の磁気羅針盤ができた。コロンブスもマゼランたちもこ
の種の羅針盤で出発したのである。 大航海時代をもたらした要因は、羅針盤だけではなく、その前に新しい航海術や船の発
明があったが、それは中世の地中海をめぐる激しい交易競争のなかで進められた。少しさ
かのぼることになるが、地中海の商戦ではヴェネツィアとジェノヴァがライバルで、2 つの
シー・パワーの熾烈な競争が、1270 年から 30 年間ほどの間に、航海技術の大変革を起こさ
せた。 その一つが、脊椎動物と同じ仕組みの竜骨船の採用であり、また、ガレー船から帆船へ
の移行であった。13 世紀頃から経済性が重視され、どうやって、こぎ手なしの帆船に改良
できるか模索され、新型の帆船が登場した。船の中央部には、これまでの方形の大帆、そ
れに加えて船尾には三角形の帆が付けられた。三角帆は、ままならぬ風を受けながら船の
進行方向を修正するために用いられるもので、これの採用と習熟によって、逆風のもとで
も航海できるようになっていった。 そして、13 世紀中頃から世紀末になって、羅針盤が船上に現れ、羅針盤と三角帆との組
み合わせで、地中海の航海ははるかに容易になってきた。 さらに 1300 年の直前ごろ、新式の地図(海図)が生まれた。それは羅針盤対応のもので、
北を上にして、南を下にした実用地図であった(実はそれまでの地図というものは、東が
上におかれ、エデンの楽園が最上部を占めているものと決まっていた)。ポルトラーノと
呼ばれるもので、主な港を起点にして、方位を示す放射線が記入され、そこに航海情報が
蓄積されて記載されていた。 つまり、大航海時代の航海技術は、コロンブスが出る 200 年前には完成していたのであ
る。こうした技術革新と船体の構造的な革新のあとは、19 世紀の蒸気船の時代が訪れるま
で、船の改良と航海術の進歩にあまり大きな変化は起きなかった。 ○機械時計 1306
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 機械時計も航海術の進歩に関係している。羅針盤では緯度は測定できるが、現在位置を
把握するため精密な経度測定法が求められ、そのためには正確な時計が必要だった。1735
年イギリス人の木工職人ジョン・ハリソンは頑丈な梁に揺れや温度変化を吸収するバネを
取り付け、ねじを巻いている間も機械が作動し、ねじが巻かれた当初と緩んだ後でも時計
の回転力が一定になる装置を備え、温度や揺れに強い置時計「クロノメーターH1」を発明
した。そのような意味でルネサンスの「4 大発明」の 4 番目の時計もきわめて重要であるが、
その開発の経緯は、ここでは省略する。 ○ルネサンス期の観察の科学 ルネサンスの 3 大(4 大)発明(改良)に限ることなく、あまり注目されていないが、ル
ネサンス期には一般的に科学技術の分野でも大きな前進があった。つぎに述べる 17 世紀の
科学革命へのつなぎの期間と位置づけられる(○○革命というが、その前に必ずつなぎの
期間がある。ダーウィンは進化論で自然は飛躍しないといったが、人類の叡智も飛躍しな
い、飛躍しているように見えてもその前に必ず、つなぎの段階がある、その蓄積があって
次に飛躍が起きるのだ)。 《科学技術者としてのレオナルド・ダ・ヴィンチ》 その代表的な人物としてレオナルド・ダ・ヴィンチが上げられる。 15 世紀後半になるとレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどが絵
画、建築、彫刻など多方面でその才能を発揮したことは述べた。 レオナルドの絵画は『最後の晩餐』、『モナ・リザ』のような精巧な絵画がよく知られ
ている。画家として非常に有名であるが、現存する絵画は 17 点に過ぎない(それも弟子に
描かせたものもある)。レオナルドは、遅筆であると同時に、代表作とされるものでも未
完の作品が多い画家であった。 しかし、レオナルドは決して遅筆ではなかった。彼の膨大なノートは、19~20 世紀にな
って、科学技術の分野の先駆的な研究として注目を集めるようになった。彼の多岐にわた
る研究は、1 万 3000 ページにおよぶノート(これでも 3 分の 1 しか残っていないとされて
いる)に、芸術的な図とともに記録されていた。そのノートはほとんど左手でペンを持ち、
鏡に写った文字のように左右逆転した鏡文字で書かれている(なぜ、そうしたかはわかっ
ていない)。 レオナルドの仕事(あるいは研究)の仕方は、たとえば、騎馬像の場合、最初に、内部
を知り絵や彫刻をより美しく真実に近づけようとする目的から、馬の解剖を行った。興味
をひかれ、後に人体の解剖に立会い、自分自身でも行い、きわめて詳細に書き込んだ解剖
図を多数作成している(もちろん、当時、人体の解剖は禁止されていた)。興味のおもむ
くまま、あるいは、真実を知りたいという好奇心から、次々と密かに研究を続けていった。 1307
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 眼の仕組みについても研究しており、眼球内で光が屈折し、網膜に届く様子を描いてい
る。飛行について、鳥の飛行する様子・・・。4 人の人力で飛ぶヘリコプター、ハンググラ
イダー・・・・落下に備えてパラシュートのようなものも考案している。 水理学の観点・・・アルノ川やロアール川、ソーヌ川といった河川の改修・・・水流の
観察スケッチや気象現象のスケッチ・・・正確な流れの乱流のスケッチ・・・レオナルド
は「水理学の父」であるともいわれる。
橋の研究、軍事関係のアイデア、機関銃、馬や人力によって動く装甲戦車、クラスター
爆弾などのスケッチがある。潜水艦もある。その他の機械類として、歯車を用いた史上初
めての機械式計算機、バネの動力で動く自動車なども構想していた。凹面鏡を用いて太陽
光を集め、水を温める太陽熱温水器、天文学、数学等々、その詳細は省略する。 中世の芸術家たちが,教会の偉大な神話を支えるために抽象的な絵画、あるいは観念的な
絵画を職人的に製作したのにかわって、ルネサンスの芸術家たちは、現実の人間と人間の
住む世界に関心を集中させ、自然を現実的に描こうとした。自然をみつめ、何が真実であ
るか、読み取ろうとした。それは自然観察であり、人間観察、人間復興であり、ルネサン
スの精神と一致するものであった。何もかも、自分の目で、自分の意思で見ると(つまり、
神がおつくりになったという先入観をとりさって見ると)この世は不思議なことばかりだ
った。ダ・ヴィンチもミケランジェロもそしてドイツで活躍したデューラーも画家以上の
存在であった。 視覚を初めとして感覚を総動員して確かめたもののみを真理としようとしたルネサンス
人の典型がダ・ヴィンチであったといえよう。彼は画家の目であったが、同時に科学者の
目でもあった。彼にとって「絵は画家の心を自然の心に変えるものであり、自然と画家の間
の解釈者である。絵は、自然の法則に従って現れる自然の姿の原因を説明する」ものであり、
画家は自然を師としなければならぬとも言っている(自然をあらわすのに数字、数学を使
い始めたのは、ちょうどこのあたりで 40~50 年ばかり後に生まれたガリレオ・ガリレイで
あるが、ダ・ヴィンチは数学を学んでいなかったので自然を絵であらわそうとしたのであ
る)。 彼にとって、観察道具は目であり(望遠鏡も顕微鏡の発明も 100 年後のガリレイの時代
だった)、その記述方法は絵しかなかった。彼にとって、科学と技術は根本的に芸術と一
体となっていたのである。自然の対象を学べば立派な成果があがるともいっている。ここ
に、自然を観察し、それを知ろうとする科学者(芸術家)の原点に立つダ・ヴィンチの姿、
つまり、ルネサンス人がはっきりみえる。ダ・ヴィンチが知ろうとしたのは、自然の本質、
人間の本質ではなかったろうか。ダ・ヴィンチが訴えかけたのは(描こうとしたのは)、
1308
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 自然の本質、人間の本質ではなかったろうか(モナリザの微笑と背景は何を訴えかけてい
るのか)。 ルネサンスは古代の再生・復活といわれるが、ダ・ヴィンチにとっては再生・復活をこ
えた新たなる発見、創造であった。古代ギリシャの代表的な哲人プラトンは現実は仮のも
の、真実は目にみえないイデアにあるというイデア論をとなえ、人類を迷路に誘い込んで
しまいルネサンスまでの 1900 年間はそのイデア論とキリスト教におおわれた時代でもあっ
た。 ダ・ヴィンチはその覆いを取り除き、はじめて自分の目で真実をまず、見るところから
はじめたのである。それは(古代人をこえた)ルネサンス人の目であり、科学者の目であ
った。ガリレオは望遠鏡という観察道具を持っていた。ついにガリレオは自然の法則を数
学で著わしはじめた(後述する)。ダ・ヴィンチは絵で著わした。ダ・ヴィンチは遅筆で
はなく、膨大な研究をメモにし、彼の研究の最終レポートが絵だったのである。確かに彼
の絵は意味ありげな絵が多い。 レオナルド・ダ・ヴィンチだけを述べたが、ルネサンス期には多くの人物が生き生きと
活動を開始していた。人類としてはじめて、自由に自然をみて、自然を発見し始めた人間
の喜びがはじめて記録に残っている。その一分野として観察の科学があった。 《観察の科学としての解剖学》 観察行為の極限が解剖学であり、ルネサンス期の科学を述べるにあたって避けて通れな
いのは解剖学であろう。 中世の間、人体解剖は禁止されていたが、13 世紀になるとそれが復活してきた。ことに
ボローニア大学では解剖が慣例となり、ここで教育上の目的で、定期的に死体の解剖を行
ったのが、モンディーノ(1275~1326 年)であった。彼は解剖中に大声で読まれることを
考えて『解剖学』(1316 年)を完成した。この書はヴェサリウスの書物が 16 世紀に出るま
で、公開解剖の標準的教科書として用いられた。 それまでの学者は死体の解剖は職人にやらせて自分は手をつけないのが普通であったが、
モンディーノは自分で行ったようである。これは医学者自身によって扱われるということ
であり理論と技術の一体化という点から大きな進歩であった。 しかし、彼の医学は、古代から中世を通して 1000 年以上も君臨してきたガルノス的な様
相をもっていた。16 世紀になってもガルノスの伝統は継続しており、1500 年までにガルノ
スの『身体部位の役割』は 7 種類のラテン語訳が出ていた。 では、ガルノスの医学とはどんなものかをまず、みることにする。 ◇古代・中世のガルノスの医学 1309
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ガレノス(129 年頃~200 年頃)は、古代ローマ帝国の時代の人間だった。ペルガモンで
生まれ、157 年、剣闘士の学校で 3 年ないし 4 年間、外科医として勤務した。この時期に、
事故・外傷の手当てに関する多くの経験を蓄積した。ガレノスは、豚はいくつかの観点か
ら解剖学的に人体とよく似ているということを理由に豚を使う旨を強調していたものの、
猿や山羊も解剖に使った。 しかし、ガレノスは、自身では外科のような職人的なことは行わなかった。162 年にはガ
レノスはローマに移り、執筆活動や講義、公開解剖などを行った。彼は名医としての評判
を得て、顧客にも恵まれた。彼は皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスの典医とな
り、のちにはルキウス・ウェルス、コンモドゥスなどの皇帝も診た。 彼は、166 年から 169 年の間にペルガモンに戻り、哲学や文献学や解剖学についても広く
執筆した。彼の全集は 22 巻にも及び、その生涯のほとんどを通じて、執筆を行っていた。
プラトンにも一致するガレノスの理論は、単一の造物主(神)による目的を持った創造を
強調した。 ガレノスは、古代ギリシャのヒポクラテスの四体液説をはるばるルネサンスにまで伝え
た。四体液説は人体が血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁から成るとする説で、それらは古代の
四大元素(物質は、火、水、土、空気の四元素からなるという説)によって定義づけられ、
かつ四季とも対応関係を持つとされた。彼はこの原理を基にして理論をすべて創出した。
しかし、それらは純粋に独創的なものというよりも、ヒポクラテスの人体理論の上に構築
されたものと見なしうるものである。ガルノスが実践したのは外科の一部であった。それ
も動物の解剖によるものであった。その知識をもって、当時の誤った医学知識も含めて検
証もしないで医学を体系化してしまった。 彼の生命に関する根源的原理は「生気」であり、後の書き手たちはこれを魂と結びつけ
た。彼によれば、脳の中の動物精気が運動、知覚、感覚を司る、心臓の生命精気が血液と
体温を統御する、肝臓にある自然精気が栄養の摂取と代謝を司るというものであった。 現代から見れば、ガレノスの理論は部分的には正しく、部分的には誤りである。彼は、
動脈が運ぶものは生気ではなく血液だということを示したし、神経機能、頭脳、心臓に関
する最初の研究も行った。彼はまた、アリストテレスが心は心臓にあるとしたことに対し、
心は脳に宿ることも示した。 しかし、ガレノスの理解の多くは、現代の視点に照らしたときに、誤りも多い。彼は循
環系を認識していなかったし、動脈と静脈がそれぞれ切り離されたシステムであると考え
ていた。この考えの変更には、ズーッと後の 17 世紀のウィリアム・ハーヴェイをまたねば
ならなかった。彼の解剖学的知識の大半は、豚、犬、猿などの解剖に基づいていた。彼は
また、流血の手当てに止血帯を用いることに抵抗し、治療法の一つとして瀉血(血管を切
1310
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 開して人体の血液を外部に排出させること。これは医学としては致命的なこと)を盛んに
宣伝した。 ガレノスの権威は 16 世紀までのイスラムと西洋医学を支配した。ガルノス以後の人々は
ガレノスが全てを書いてくれていたとして、誰一人としてそれを疑うものはいなかった(疑
うものはいたと思うが、ガルノスの権威にあえて異をとなえることはしなかった)。解剖学
の実践は停滞したし、瀉血は標準的な医療行為となった(瀉血は体力を消耗しきわめて危
険なことだった。医学の名のもとにいかに多くの人が命を失ったことか)。これが当時のガ
ルノスの医学であった。 ◇ルネサンス期のヴェサリウスの解剖学 前述したようにレオナルド・ダ・ヴィンチも 10 数年間に 30 体以上の解剖を行い端正な
図を残している。16 世紀になると、イタリアやドイツの芸術家も解剖学に関心を寄せ、観
察の進歩によって解剖に関する図解も次第に正確になっていった。解剖学は画家の科学で
あった。ミケランジェロもサンストピリト教会から死体をもらいうけて 2 年間解剖研究に
ふけっていた。 やがて自身で研究し出すと過去の研究の誤りが発見されだし修正されるようになった。
これが科学・技術を進歩させることになった。16 世紀前半にバーゼルの医学部教授となっ
たパラケルスス(1493?~1511 年)は、「私の教科書はヒポクラテスやガルノスその他から
の寄せ集めではなく、最高の教師である自分の経験が私に教えてくれたことをおさめてい
る」と記している。伝統を捨て去り、自分の観察を信じてよく考えることが彼の主張であり、
彼は医学と錬金術を合体させて医化学を新しい科学とすることに努力した。 伝統医学との決別にあたって決定的な仕事をしたのは、ベルギー生まれの医者ヴェサリ
ウス(1514~1564 年)であった。彼は(独仏戦争がはじまったので)1536 年にパリを去り、
イタリアのパドヴァ大学に移り、博士号を取得し卒業後、すぐにパドヴァ大学で外科学と
解剖学の教授に任命された。 その当時の医学は、講師に仕えた床屋兼外科による動物の解剖にしたがって、古代ギリ
シャのガレノスの古典的な医学教科書を読みながら教えられていた。これが千数百年間の
人類の医学のレベルを示しており、その間、ほとんど進歩しなかった(宗教的医学的権威
となってそれにそむくものははずされたのである)。こうしたガルノスの権威への最初の真
摯(しんし)な挑戦を行ったのが、ヴェサリウスであった。 1539 年、パドヴァの裁判官がヴェサリウスの仕事に関心を持ち、処刑された犯罪者の死
体の解剖を可能としてくれたので、彼は間もなくに細部まで正確な解剖図譜を作ることに
よって、正確な最初のセットを作った。それらの多くは委任された画家によって作られた
ので、それ以前に作られたものよりずっとよいものだった。 1311
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 彼は教育の主要な道具として解剖を行ない、生徒たちの群れがテーブルを取り囲む中、
自分自身で実際の解剖を執り行った。実地の直接の観察が唯一の信頼できる情報源という
考えは、中世的な習慣と大きくかけ離れていた。ヴェサリウスは、生徒のために彼の仕事
を精密に描いた 6 つの大きな解剖図譜を用意していた。 1541 年、ヴェサリウスはガレノスの研究のすべてが人間というよりむしろ動物解剖学に
基づいていたという事実を明らかにした(解剖が古代ローマで禁止されて以来、ガレノス
は、代わりに猿を解剖して、猿は人間と解剖学的に同じであると主張していた)。そして彼
はガレノスの『Opera omnia』の訂正版を出版し、自身の解剖学教科書を書き始めた。しか
し、人々はガレノスを支持しヴェサリウスの説は明らかな間違いだとして憤慨した。 ヴェサリウスは、更に論争を引き起こした。今度はガレノスだけではなくモンディーノ、
そしてアリストテレスに対してさえ論駁(ろんばく)した。これら 3 人が心臓の機能と構
造について考えていたことは明らかな間違いだったといった。たとえば、ヴェサリウスは
心臓は 4 つの室からなり、肝臓は 2 葉、そして血管の始まりは肝臓ではなく心臓であるこ
とに気付いた。その他にもヴェサリウスがガレノスの誤りを指摘した有名な例は、下顎骨
はたった一つの骨から出来ていて、2 つではない(ガレノスは動物解剖からそう思っていた)
ことの発見と、血液は心房間中隔を通過しないことの証明などがあった。 1543 年にヴェサリウスは出版を援助するようバーゼルのヨハネス・オポリヌス印刷所に
頼んだ。彼は自分の論文のイラストが生命であることを知っていた。描画のために彼は一
級の画家と組んだ。そのため出版にも金がかかったのである。こうして出版された 7 巻か
ら成る『人体の構造(ファブリカ)』は、当時としては嘘偽りのない人体解剖の革新的な仕
事であった。この著は、生物学的イラストレーションとして、新しい近代的なそして実際
的な基準となった。科学と芸術のすばらしい結合を示している。彼はこの書の中でガルノ
スの誤りを約 200 ヶ所訂正したといわれている。 彼はその後も研究を重ね、12 年後に 2 版を出版した。彼の徹底した実証にもとづく、自
信ある批判的な態度と観察は、血液の循環という大問題にとりくむ出発点となった。血液
の循環問題は,ヴェサリウスにより明確に提起されたが、その解決はイギリスのハーヴェイ
を待つことになった。このようにいいかげんに辻褄を合わせるのではなく、問題を明確に
提起し、次代の人間がバトンを受け継ぎ、正確な科学的事項を積み重ねていくというのが、
科学的方法であり、それが科学であるということをヴェサリウスは実例で示した。 ヴェサリウスの仕事は、この時代の初めての仕事でもなかったが、なにより当時として
は最も真実に近い解剖図であり、高精細で込み入った図版の作品価値とともに名著となり、
海賊版とともに広く普及した。 ◇鉱業・冶金から化学へ 1312
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 15 世紀のはじめから鉱山の探索と採鉱が組織的にはじめられた。商工業からの需要が鉱
物を求めて鉱業の発展をうながしたのである。鉱業によって富と力を得た著しい例はドイ
ツのフッガー家にみられる。フッガー家は 15 世紀末からアウグスブルグ市で金融業者とし
て頭角をあらわし、その支店網がヨーロッパ全土に及んだだけでなく、拡張主義のハプス
ブルク家に巨額な借款を与える力があった。 鉄砲、建築、通貨になる金属の需要が増大し、それが(金に糸目を付けずに)採鉱法を
発達させ、それが鉱業の分野に多くの発見・発明を引き起こすことになった。まず、なに
よりも鉱内からの水を排出するためのポンプを発展させた。 ドイツ人のアグリコラ(1494~1555 年)は、その著『デ・レ・メタリカ』(1556 年)の
中で吸上げポンプ、ツボ鎖ポンプなど 7 種の型のポンプを記述している。アグリコラはコ
ペルニクス、ヴェサリウスと同じようにパドヴァで医学を学んだ医者だった。1527 年にヨア
ヒミシュタールの鉱山医となって赴任したが、この鉱山町に住んだことが採鉱・冶金への
興味をかきたてることになった。 『デ・レ・メタリカ』には、ポンプのほかにも金属の分析、冶金化学、採鉱地質学につ
いても記されている。最初の章には、人類に奉仕する冶金の効用が述べられている。先駆
者の知見を引用,捕捉し、自己の経験にもとづいて 300 以上の木版画が添えられた明晰な
表現を加え、1 世紀にわたって標準的ハンドブックとなった。医者の観察眼、記述法のしか
た、つまり、科学的方法が鉱業分野に応用されていたといえよう。 シエナに生まれたビリングッチオ(1480~1539 年)はヒ素と硝石工場の監督であったが、
彼が著わした『ピロテクニア(火工術)』(1540 年)は旅行を通して得た観察と自分の経験
から書かれたもので、はじめて現れた技術書であった。彼はこの書の中で,鉱石に上から
直接炎をあてる反射炉のこと、化学元素を同定するのに炎色反応を用いること、金・銀・
銅・スズ・鉄鉱石の処理、合金や炉の作り方、さらには鏡の設計や作り方を述べている。
イタリア、イギリス、フランスで合計 10 版を重ねた。 ラツァルス・エルカーは皇帝ルドルフ 2 世の鉱山監督であったが、彼もアグリコラなど
の本を参照の上、自分の経験を示して若い鉱山家の教育用に『鉱石と分析の書』(1574 年)
を著わしている。このように自分で得た経験と知見を教科書にして次代の人材を育てるこ
とがはじまった。 鉱山業の広汎な発展は,化学の技術や知識を蓄積させた。古代からの7金属以外の新し
い金属、亜鉛・ビスマス・アンチモン・コバルトが手に入った。アンチモンは古くから知
られていたが、よく知れわたるようになったのはこの頃、医化学の治療で薬草の代わりに
処方されたからである。印刷の活字用合金にも使われていた。亜鉛が冶金著作家により初
めて記されたのは 1617 年であった。 1313
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 16 世紀は以上のように,化学の技術的部門の進歩はしたが、理論的知識はかなり不足し
ていた時代であった。それを 16 世紀の後半において,化学の改革者の役割を果たしたのは、
前述したパラケルスス(1493?~1541 年)であった。彼は内科医を父として,スイスに生
まれた。フェラーラ大学で医学の博士号を得ていたが、化学の基礎知識を鉱業から学び,
実際に地下で働いて経験を積んでいた。 そして「化学の真の目的は金銀をつくることではなく(当時は錬金術がはやっていた)、
医薬の効力を研究し,鉱物から新医薬をつくることである」と主張して、その強烈な実践と
影響によって、いわゆる医化学時代を現出した。1520 年代彼は新世界から来た恐ろしい病
気である梅毒(スイスではフランス病と呼ばれていた)に、ガレノス的な古い薬では効か
ないことを聞き、鉱物だけがこの病気に効くことに気づいた。パラケルススは、水銀製剤
をできるがけ精密にはかって処方することをすすめ成功している。さらにはヒ素剤やアン
チモンの適用も述べている。彼の鉱物製剤は、古い薬では効き目のない病気に実際に効能
があった。 1526 年にはバーゼル市の市医として招かれ,バーゼル大学の教授も兼ねた。ここでは,
思索するのではなく経験によって知ることの重要さを説き、公衆の前で伝統医学の一冊、
アヴィケインナの『医学大全』を焚き火の中に投げ込み、「医学のルター」と呼ばれた。17
世紀になると,主としてパラケルススの影響のもとに、ライデン大学のブールハーヴェ
(1668~1738 年)のような指導者のもとで、化学的医薬は確固たる地位を得るようになっ
た。 16 世紀後半に活躍したドイツの医化学者アンドレアス・リバヴィウス(1555~1616 年)
はイエナ大学で医学の学位を得て錬金術に関する多くの著作があるが、中でも重要なのは、
『アルケミア』
(1597 年)である。これは、最初の化学の教科書である。ここでアルケミア
(錬金術)というのは化学という意味で使われており、この書の 2 版では化学は 2 つの部
分に分けられている。その一つは装置と実験室での操作であり、他の一つは金属、鉱物の
分析である。彼の理論や実際的な薬品の処方はきわめて明快であった。17 世紀を通じてそ
の著は広く流布して、医化学を大きく進歩させた。 フランス人ベルナール・パルシー(1510~90 年)は、最初ステンドグラスの工場で訓練
されたが,陶器用の釉薬(ゆうやく)を開発した。また当時よく知られていた飲める金の
治療薬は本当は飲めないこと、300 の成分から成っていた化学治療剤としての解毒剤は無用
だけでなく有害であることを示した。アグリコラやパラケルススと同様、彼の化学的知識
は実地から得たものであった。このように、さまざまな経験の持ち主が 16 世紀の化学に実
地面から貢献したのであった。 1314
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ルネサンス期の科学は、医学、鉱業・冶金・化学の例のように、まず、古代・中世から
の観念論を排して、まず、注意深く自分の目で観察し、考察することの重要性を悟った段
階であったといえよう。その自分の目での観察には限界があったが、そこで発明されたの
が天文学における望遠鏡だった(ほぼ同じ時期に顕微鏡も発明された)。観察のための道具
(望遠鏡、顕微鏡)を発明するようになると科学は加速的に進歩するようになった。 ルネサンスの観察の科学はそのつなぎの役割をはたすものだった。その科学の時代は、
すぐそこまできていたが、17 世紀の科学革命のところで述べる。 ○大航海時代の幕開けと地理上の発見 「ルネサンスの 3 大発明」で羅針盤と船の改良、航海術の進歩を述べたので、それの実
用化という意味で大航海時代の幕開けと地理上の発見についても、ここで述べることにす
る。 《なぜ、ポルトガルだったか》 大航海時代に一番乗りしたのは、イベリア半島の小国ポルトガルだった。前述した船や
航海術の進歩は、一般的にいえることで、決してポルトガルが得意とすることではなかっ
た。当時人口 100 万人ないし 150 万人程度のこの小国がなぜ大航海時代の先駆けをはたし、
15 世紀初めからおよそ 1 世紀半にわたって海外へ進出し、西洋史上はじめてアジア、アフ
リカ、アメリカにまたがる海洋帝国を形成したのはなぜだったか。 ポルトガルは大西洋に面した長い海岸線をもつ国である。その一方で、スペインより 2
世紀半も前にレコンキスタ(キリスト教国の再征服運動)を完了し、陸上の道は、どこへ
むかうにしてもすべて強大な隣国スペインによって行く手を阻まれ、地中海貿易について
もイタリア人から事実上の締め出しを食っていた。 しかし、アフリカへの南下膨張の国是はカトリックの聖戦意識によって正当化されるこ
とだった(つまり、外国の異教徒をキリスト教化するのは神の思し召しであるという大義
名分。ただし、これはイベリアのキリスト教諸国家に共通のことではあったが)。そうし
たポルトガルが大西洋のかなたに可能性を求めたのは、ごく当然のことであったといえよ
う。 《ポルトガルのアフリカ南端・喜望峰到達》 ポルトガルの海外進出の第一歩は、1415 年のポルトガル艦隊によるモロッコの港町セウ
タの攻略であった(図 13-2)。このように、このころのポルトガルのやり方は理屈なしの
(キリスト教化という理屈はあったが)露骨な侵略であった。 セウタ攻略と同じ年の 1415 年に、ポルトガルの王子エンリケ(1394~1460 年)は、地方
総監としてポルトガル最南部のサグレス(図 13-2 参照)に、造船術、航海術、海図制作
術などの専門家を集め、腕利きの航海者を養成する航海学校を設立した。 1315
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-2 大航海時代のポルトガルとスペイン 中央公論社『世界の歴史16』 ここにはポルトガル人だけではなく、スペイン、イタリア、フランス、イングランド、
それに北海、バルト海からも、教師と学生がやってきた。のちに「エンリケ航海王子」の
名がたてまつられるエンリケの学校からは、大西洋から世界の海に雄飛する船乗りたちが、
あいついで輩出することになった。 ポルトガルは、サグレスでの人材育成だけでなく、図 13-3 のように、着実に大西洋へ
の探検航海を行っていった。最初はアフリカ大陸の西岸に沿って南下するだけだったが、
1420 年代にはマデイラ諸島、アゾレス諸島に植民することに成功した。1445 年にはヴェル
デ岬を回り、セネガルに到達した。 ポルトガル国王アフォンソ 5 世(在位:1438~1481 年)は 1455 年、ローマ教皇から大勅
書を獲得した。それはキリスト教の布教を大義名分として、すでに発見され、さらに将来
発見される非キリスト教世界における征服と貿易の独占権と聖職叙任権をポルトガル国王
に「贈与」するというもので、以後の「布教保護権」の原型となった。これによって、こ
ころおきなく、非キリスト教国を侵略できるようになったのは、かつての十字軍のときと
同じであった。 ポルトガルは、図 13-3 のように、さらに南下して 1473 年には赤道を通過し、1482 年に
はギニア湾岸にサン・ジョルジェ・ダ・ミナ商館=要塞を建設した。ミナを拠点とする金、
奴隷、マラゲタ胡椒、象牙の貿易が発展した。金の流入は年平均 800 キロに達した。 1316
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-3 ポルトガル人の西アフリカ海岸南下 中央公論社『世界の歴史16』 1484 年、リスボンを訪れたジェノヴァ人コロンブスは西回りでのアジア航海案を国王ジ
ョアン 2 世にもちかけたが、バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端・喜望峰廻航の知らせ
をもって 1489 年、帰還したため、コロンブスの西回り案はポルトガルでは消えた。 《コロンブスのアメリカ到達》 コロンブスは、その後、スペインのイサベル 1 世とその夫フェルナンド 5 世(アラゴン
王としてはフェルナンド 2 世)にも援助を願い出たが、良い返事は得られなかった。しか
し、1492 年 1 月 2 日に、スペインはグラナダを攻め落としレコンキスタを完遂すると、財
政上の余裕ができ、またポルトガルに対する対抗心も手伝い、スペイン王室は、コロンブ
スに援助を与えることに決めた。1492 年 4 月 17 日、フェルナンドとイザベルは正式にコロ
ンブスと契約した。 1492 年 8 月 3 日、コロンブスの船団はインドを目指してパロス港を出航した。この時の
編成はサンタ・マリア号など 3 隻で総乗組員数は約 90 人であった。図 13-4 のように、一
気に西進し、70 日間の航海の後、1492 年 10 月 12 日早朝、ついに陸地を発見した。その日、
1317
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) コロンブスはカリブ海のどこかの島に上陸し、サン・サルバドル島(「聖なる救世主」とい
う意味)と命名したが、それがどの島であったかは不詳である。実際のところ、コロンブ
スの目論見は外れ、彼はインドではなくカリブ海のある島に到達していた。 図 13-4 大航海時代の世界 中央公論社『世界の歴史16』 その後、現在のキューバ島を発見し(図 13-66 参照)、12 月 6 日にはイスパニョーラ島
を発見したが、そこでサンタ・マリア号が座礁してしまった。しかし、その残骸を利用し
て要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には 39 人の男
が残り、その他はスペインへ帰還した。 コロンブスは航海に先だって、国王と発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上
がる収益の 10 分の 1 を貰う契約を交わしていた。国王との約定により、「発見」された土
地はスペイン領土として認知され、コロンブスは総督に任命された。金銀の財宝は見当た
らなかったが、報告に喜んだ両王は、さらなる探検を命じ、費用の援助を約束した。 《トルデシーリャス条約》 コロンブスの新大陸到達により、1493 年、スペインのカトリック両王は教皇アレクサン
デル 6 世から勅書を引き出し、アゾレス諸島の西 100 レグア(約 550 キロ)の子午線から
西方で発見される土地の独占権を得た。だが、これに反発するポルトガル国王ジョアン 2
世との間で 1494 年 6 月、トルデシーリャス条約が締結され、図 13-5 のように、ヴェルデ
岬諸島の西 370 レグア(1800 キロ)の子午線で線引きが行われ、分界線から東の領域はポ
ルトガルに、西はスペインに与えられるという独占的分配が談合された。 1318
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-5 ポルトガル海洋帝国の拠点 大西洋の中央に境界を設けて、2 国間で分割するとは僭越なことであるが、当時は両国以
外に関心を示すものがいなかったのである。決裁を下したのは、ローマ教皇アレクサンデ
ル 6 世(在位:1492~1503 年)、つまりスペインのボルジア家出身のルネサンス教皇であ
った。 《コロンブスの挫折》 ところで、栄光につつまれたコロンブスの話はよく知られているが、コロンブスは、そ
の後、図 3-6 のように、3 回アメリカへ航海した。 図 3-6 初期のカリブ海の探検(1492~1524 年) ところで、栄光につつまれたコロンブスの話はよく知られているが、その後のコロンブ
スの挫折の話は余り知られていない。1493 年の 9 月に 17 隻・1500 人で出発した 2 回目の
1319
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11 月にドミニカ島に到着し
たが、前回作った居留地に行ってみると現地人により破壊されており、残した人間は全て
殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しくイサベル植民地を築いた。 しかし入植者の間では植民地での生活に不満の声が上り、現地人の間でもヨーロッパ人
の行為に対して怒りが重積していた。1495 年に現地人との戦いに勝利した後、捕らえた現
地人を奴隷として本国に送ったが、イザベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に
対する調査委員を派遣した。驚いたコロンブスは慌てて本国へ戻って釈明し、罪は免れた。 1498 年 5 月、6 隻の船で 3 回目の航海に出た。今度は南よりの航路を取り、現在のベネ
ズエラのオリノコ川の河口に上陸した。その膨大な量の河水が海水ではなく真水であった
ことから、それだけの大河を蓄えるのは大陸であるということをコロンブスは認めざるを
得なかった。しかし彼は、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けた。 その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さ
から反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けたが、入植者たちはこれを中々受け入れ
ず、1500 年 8 月に本国から来た査察官によりコロンブスは逮捕され、本国へと送還された。
罪に問われることは免れたものの全ての地位を剥奪されてしまった。 それでもコロンブスは 4 回目となる航海を企画したが、王からの援助は小型のボロ舟 4
隻というものであった。1502 年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられてお
り、パナマ周辺を 6 ヶ月さまよったが、最後は難破して救助され、1504 年 11 月にスペイン
へ戻った。コロンブスは帰国後、病気になり、1506 年 5 月死去した。 《ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達》 ライバルのスペインは新大陸の発見という成果を上げた。それに対しポルトガルは喜望
峰到達以来、10 年ばかりこれという成果がなかった。 そこでポルトガル国王は若干 28 歳の航海者ヴァスコ・ダ・ガマ(1469~1524 年)を提督
に任じて、遠征隊を派遣した。サン・ガブリエル号を筆頭に出発したガマ隊は、アフリカ
西岸を南下したのち、喜望峰をまわってインド洋に入った。そして 1498 年、ついにヴァス
コ・ダ・ガマがインド洋を渡り、インド亜大陸の西岸のカリカットに到着した(図 13-4、
図 13-5 参照)。こうしてインド航路は完成した。 ガマ隊は、帰りの便で多量の香辛料をもたらした。リスボン港は興奮に包まれた。スペ
インへの巻き返しが奏功した。トルデシーリャス条約でアフリカ・インド航路は、ポルト
ガルの独占が公認されていた。図 13-5 のように、東アフリカのソファラ(現在のモザン
ビーク共和国の中部にある州)、ザンジバル、そしてインドのカリカット、ゴアと交易拠
点を増設していった。ポルトガル国王は、インドの領地に副王(総督)を任命した。 《アメリカ探検の時代》 1320
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 一方、アメリカの方であるが、コロンブスの卵ではないが、後発の探検者は、先駆者の
道をいとも容易にたどることができた。イングランド王ヘンリー7 世の支援を受けたジョヴ
ァンニ・カボット(1450~1498 年、イタリア人)は、1497 年、息子のセバスチャン・カボ
ットを伴って船団を率い、ヴァイキングの航路をたどってカナダ東南岸のケープ・ブレト
ン島に到達し、ニューファンドランド島やラブラドル半島を発見するなどの成果を挙げて
帰国した。 さらにジョヴァンニ・カボットは、1498 年の 2 度目の航海でデラウェアとチェサピーク
湾を発見した。息子のセバスチャンは、1508 年には北アメリカの東海岸を探検した。その
とき、ハドソン湾、ハドソン海峡を発見し、南北をなぞるようにフロリダまで達した。こ
れらはイギリスがフロリダ以北の北米大陸の所有権を主張する根拠となった。 また、ポルトガル王に雇われたイタリア人、アメリゴ・ヴェスプッチ(1454~1512 年)
が図 13-4 のように、1499 年、中米から南米にかけての海岸線を詳しく調査して、これら
の土地がたんなる島の集まりではなく、ヨーロッパとアジアの間に存在する新しい大陸で
あることを証明した。そしてその後、南米大陸が彼の名前にちなんで「アメリカ」と名づけ
られ、やがて同じ名前が北米大陸にも用いられるようになった。 1500 年、ポルトガルのカブラル(1467/8~1520 年)の船隊が方向を誤認してアメリカ
大陸に漂着してみると、後のブラジルで、そこは図 12-5 のように、トルデシーリャス線
の東にある新発見の地であることがわかり、約束どおりポルトガルの植民地に編入された。 スペインの探検家バルボア(1475~1519 年)は、1513 年、先住民の案内でパナマ地峡を横
断し、さらに西に大洋がひろがるのを観察した。これが後の太平洋である。彼の探検によ
ってアメリカ大陸が 2 つの大海に接する大陸であることが明らかとなった。 スペインに雇われたポルトガル人のマゼラン(1480~1521 年)が 5 隻の船を率いて西回
りでアジアへ旅立った(図 13-4 参照)。南米大陸の南端をまわる「マゼラン海峡」を発見
し、その後太平洋の横断という偉業を成し遂げた。マゼランはフィリピンに到着したとこ
ろで住民と戦闘状態になり、殺害されてしまった。マゼランを失ったマゼラン隊は、出発
から 3 年後、当初 200 人以上いた船員のうち 18 人がスペインに帰還し、地球一周をなしと
げた。その結果、地球が球形であることと、世界の海がすべて繋がっていることを実証し
た。 このようにして地球上に住む多くの民族が、船によって一つに結ばれる時代が訪れよう
としていた。しかし、それだけの知識、技術力をもっているのは、スペインとポルトガル
が先行し、続いてイングランド、フランスが競争に加わったが、いずれにしても大西洋沿
岸のヨーロッパ諸国に限られていた。 《新大陸からの土産物》 1321
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) コロンブスの第 1 回航海は、数人のアメリカ先住民を連れて帰国した。彼らは、コロン
ブスの誤認から、今でも「インディオ」と呼ばれるが、ヨーロッパで見られた最初のアメ
リカ系モンゴロイドであった。同じくコロンブスが持ち帰ったものに珍奇な栽培植物にタ
バコがあり、リスボンに移植されたタバコをフランスにもたらしたのがジャン・ニコであ
り、ニコの名から、ニコチンという化学物質名が生まれた。 「新大陸栽培植物」として総称されるものには、ほかに、ジャガイモ、サツマイモ、ト
マト、トウモロコシ、カボチャ、カカオ、トウガラシなどがある。このうち、ジャガイモ
は、コロンブスとともに渡来したことがわかっている。ただし、このときは花を観賞する
ためのもので、塊茎(かいけい)はヨーロッパ人が食用にするほどふっくらとはしていな
かった。トマトも小さかった。サツマイモとトウガラシはヨーロッパの気候に合わず、ア
ジアに運ばれて栽培されるようになった。 ありがたくないものもコロンブス隊の船乗りは持ち帰った。カリブ海の地方病と推定さ
れる梅毒は、ヨーロッパ人にとって、まったく未知の性病であった。1493 年、帰国してバ
ルセロナ港に回航した船員ははやくもそこに病原菌の巣をつくった。スペイン支配下のナ
ポリへは、1493 年のうちに伝わった。1494 年には例のフランス王シャルル 8 世の軍がナポ
リ征服にのりこんできた。このナポリの町は娼婦であふれていたといわれていたので、兵
士たちはたちまち罹患(りかん)した。フランス兵はこのやっかいな病気を「ナポリ病」
と言っていたが、故国にもちかえって、そこにも流行を引き起こした。イタリア人はこれ
を「フランス病」と言っていた。 これが一体化したばかりの世界に伝染するのにあまり時間はかからなかった。中国の港
に足跡をしるしたのち、日本に渡来したのは 1512 年とみられている。カリブ海を出て、20
年しかたっていなかった。種子島にポルトガル人が来るより 30 年も早く病原菌は到達して
いたのである。 はずかしさと後ろめたさをともなうことではあるが、出アフリカの 8 万 5000 年後にも人
類は同じ種であり、世界は一つということを実証する最初の証拠かもしれない。これは創
造と模倣・伝播の原理によるとはいえないが、とにかく、大航海時代になって、伝播時間
がきわめて速くなったことは確かであった。これからわかることは、想像以上に人類の混
血は進んでいたようである(いずれ近く世界中の遺伝子調査が進めばその実態は明らかに
なるであろう)。 《地図上では世界は一つになった》 新しい地理上の発見は、遠洋航海を成功させただけでなく、ヨーロッパ人に、世界を見
る新しい目を与えることになった。 1322
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 中世の時代には世界の中心はエルサレムにあり、世界地図らしきものもエルサレムを中
心にアジア・ヨーロッパとアフリカが繋がっているような絵図であった。古代には紀元 2
世紀に書かれたプトレマイオスの世界地図があった。その世界地図の写本を 1400 年も経っ
たある年、フィレンツェ人がコンスタンティノープルから持ち帰った。この世界地図には、
カナリア諸島やアイスランド、セイロン島などが全て書き込まれて、中世の地図より優れ
ていた(それだけ中世は後退していた)。 プトレマイオスの『地理学』は翻訳され、印刷本によって広く流布されていった(この
時期、印刷機の発明があり、聖書をはじめ多くの本が出版されるようになったことは述べ
た)。『地理学』の印刷本の初版が出たのが 1477 年で、以後 1500 年までに 6 度も版を重
ねた。 フィレンツェの地理学者トスカネリ(1397 年~1482 年)は、1474 年、地球球体説にもと
づく世界地図を作製した。現物は失われたが、後に筆写版を入手したコロンブスは、航海
にこれを携えていったといわれている。トスカネリが地球の直径を小さく見積もる誤りを
犯したことは、コロンブスがアメリカ大陸をアジアと誤解する原因となった。 この分野の発展に大きく貢献したのは、メルカトルというラテン名で知られるオランダ
人の地理学者ゲルハルト・クレメル(1512~1594 年)であった。彼は、現在最も広く親し
まれている「メルカトル図法」を考案した人物である。さらに地球儀をはじめて作った人物
でもあった(1541 年)。16 世紀以降、多くの地球儀が制作されるようになり、地球の概念
が定着したことは、地理学におけるもう一つの重要な出来事だった。 1538 年に出版されたメルカトルの初めての世界図は、北アメリカと南アメリカという地
名を最も早く記載したものの一つであった。またこの地図では、アジアとアメリカが別の
大陸として描かれている。 1569 年には、メルカトルの名を不朽ならしめた世界図が完成した。1.32×1.98 メートル
の大型の地図であり、記載された地名は豊富で、多くの注記も記されていた。さらにメル
カトルは早くから、世界各地の地図を総合した世界地図帖を編纂する計画を持っていたが、
メルカトルは 1594 年に没した。翌 1595 年に息子のルモルドによって、世界地図帖が完成
し、表題はメルカトルの遺志によって、ギリシャ神話の天空を支える巨人の名にちなんで
「アトラス」と名づけられた。以後、地図帖はアトラスと呼ばれるようになった。ここに
地図上では世界は一つになった。今から 400 年ほど前だった。 【13-1-3】宗教改革 宗教改革もイタリア・ルネサンスと関係はなくはなかった。宗教改革は,ルターがロー
マ教皇の贖宥状販売を批判したことが切っ掛けとなって起こった。当時のローマ教皇はル
1323
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ネサンスの最大のパトロンであったが、ローマ・カトリックの堕落・腐敗は極に達してい
た。 ○ローマ教皇によるルネサンス 1494 年、フランス軍がフィレンツェに侵攻し、メディチ家を追放してから以降のイタリ
ア・ルネサンスの担い手(スポンサー)は、フィレンツェではなく、ローマの教皇アレク
サンデル 6 世(在位:1492~1503 年)に移っていった。 《堕落の頂点にあった教皇アレクサンデル 6 世》 中世のローマ・カトリック教会は、ヨーロッパの人々の生活すべてに関わる存在になっ
ていたと述べたが、だんだん堕落し、ルネサンス期にはその極に達していた。そして、つ
いにはアレクサンデル 6 世のような男が教皇になるようになったのである。アレクサンデ
ル 6 世はルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在であり、好色さ、強欲さやネポティ
ズム(ひき)などでは突出した人物であった。 アレクサンデル 6 世の出身地はスペイン・バレンシアで本名はロドリーゴ・ボルジアであ
った(このころ、スペイン・バレンシアの商人は地中海を支配していた)。ネポティズムと
呼ばれる親族登用主義はこの時代のカトリック教会を代表する悪習であったが、ロドリー
ゴは伯父(教皇カリストウス 3 世)の「ひき」で出世し、司教、枢機卿、教皇庁財務部副
院長となった。この過程で彼のモラルは、当時の高位聖職者たちのように、堕(お)ちき
っており、金と女に情熱をかけ、すでに数人の子供が彼の愛人たちから生まれていた(聖
職者になぜ子供がいるのか)。 1492 年、インノケンティウス 8 世が没すると、教皇位は 3 人の有力候補によって争われ
たが、当初、イタリア人の支持を得ていたデッラ・ローヴェレ枢機卿が有利と見られてい
た。ところが、ロドリーゴはもう一人の候補を含む多くの枢機卿を買収し教皇選挙に勝利
し、教皇になりアレクサンデル 6 世と名乗ることになった。この贈収賄は広く世に知られ、
彼が三重冠を金で買ったと非難された。 これまでの教皇がしてきたのと同じように、彼もネポティズムを大々的に行った。愛人
に生ませた息子のチェーザレ・ボルジア(1475~1507 年)はまだ 16 歳でピサ大学の学生で
あったが、バレンシアの大司教に取り立てられた。最終的にはボルジア一族だけで 5 人の
枢機卿が任命され、多くの知人友人が取り立てられた。それから 2 年経つと、教皇は教皇
庁を完全に掌握するため、自分の息のかかった 12 人の新枢機卿を任命したが、その中には
息子のチェーザレや教皇の別の愛人の息子アレッサンドロ・ファルネーゼも含まれていた。 さらに教皇の 2 人の息子ホアンとホフレに教皇領とナポリ王国領を割譲しようとした。
これらの領土をめぐってナポリ王であるフェルナンド 2 世と激しく対立することになった。 1324
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 教皇アレクサンデル 6 世は 1493 年 4 月に反ナポリ王国同盟を結成して開戦準備を始めた。
このとき、教皇はフランス王シャルル 8 世にもナポリ王国の侵攻を示唆していたようであ
る。1494 年にフランスのシャルル 8 世が本気になってナポリを目指してイタリアへ侵攻し
てきたことについては、すでに述べたので省略する。 このころ、教皇の息子のチェーザレの権力は頂点に達していた。暴力的で一度目をつけ
た相手を決して許さない冷酷な男と評されていたチェーザレには父である教皇すら手を出
せなかったともいわれている。しかし教皇が息子をうまく利用している面もあり、チェー
ザレが多くの金を必要とするようになると教皇は目をつけた者から資産の没収を始めた。
そのやり方はきわめて荒っぽいもので、まず、誰かに資産があると噂が立つと、何らかの
罪によって告訴された。告訴されるとすぐに投獄され、しばしば処刑へと進み、そして当
人の資産が没収されたのである。 教皇庁でこのような無法が横行し始めたことに人々はショックを受けたが、どうするこ
ともできなかった。同様に当時横行していた聖職売買も非難されたが、事態はすでにボル
ジア家の悪口を言おうものなら死を覚悟しなければならないほどになっていた。聖職者の
堕落にはそれほど目くじらをたてる時代ではなかったにもかかわらず、アレクサンデル~
チェーザレのボルジア家は悪名をとどろかせていた(1517 年のルターによる宗教改革は起
こるべくして起こったともいえる)。 《フィレンツェ・サヴォナローラの神政政治》 ところがこの教皇を敢然と批判した者があのフィレツェにいた。サヴォナローラだった。
彼は 1482 年、フィレンツェのサン・マルコ修道院に転任するや(のちに修道院長になった)、
説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を
批判し、信仰に立ち返るよう訴え、市民を感激させた。1494 年、フランス軍が侵攻してく
ると、メディチ家はフランスへの対応を誤ったことからフィレンツェを追放され、サヴォ
ナローラが共和国の政治顧問となって政治への影響力を強め、これ以降、フィレンツェで
は神政政治が行われることになった。 サヴォナローラは、そのうち教皇とボルジア家の不正や堕落も批判し、公会議召集を呼
びかけた。教皇は、はじめ、フィレンツェがフランスと同盟していたことにより手を出せ
なかったが、フランス軍が引きげると、サヴォナローラに対して説教の禁止と教会組織へ
の服従を要求し、フィレンツェに対してはフランスとの同盟を破棄するようたびたび迫っ
た。 1498 年 4 月、サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォ
ナローラを拘束した。サヴォナローラは、教皇の意による裁判の結果、5 月、火刑に処せら
れ、遺骨はアルノ川に捨てられた。ルターの宗教改革まで 19 年前のことであった。 1325
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《チェーザレ・ボルジアのシニョリーア征服》 1499 年 1 月、教皇アレクサンデル 6 世は、今度は一転して、フランス・シャルル 8 世の
後を継いだルイ 12 世と同盟を結び、フランスの強力なバックにこの際、自分の教皇領に割
拠している僭主たち(シニョリーア)を一掃しようと考えた。当時の北イタリアは名目上
は教皇領となっていても小君主たちが割拠独立していたのである。すでにチェーザレは枢
機卿をやめていたが、アレクサンデル 6 世は彼を教皇軍の総司令官に任命した。それまで
はチェーザレは教皇の私的用心棒のようであったが、今度は教皇軍の正規軍となって、フ
ランスの支援のもとに都市群を次々に陥落させていった。 1500 年は聖年であったため、多くの巡礼者がローマを訪れた。多くの巡礼者が贖宥状(し
ょくゆうじょう。これを買えば現世の罪が軽減されるというもの。ルターの宗教改革の発
端となったもの)を購入し、教皇は多くの現金収入を得た。教皇はこれを財源に軍を編成
し、再びチェーザレを北部イタリアへ派遣した。チェーザレは 1500 年 4 月、ミラノを落と
し、ルドヴィーコ・スフォルツァを失脚させた。教皇は北部を平定したチェーザレに、十
字軍派遣の名目で今度は中部イタリアの平定作戦を企て、フランスとヴェネツァアの援助
も受けて、チェーザレは 1 万の軍勢をそろえて出陣した。 1501 年にローマに戻ったチェーザレは、イタリア北部を勢力下においたフランスのルイ
12 世とともに今度は南イタリア攻略を検討し、教皇もこれを承認した。フランス軍はナポ
リ領に侵攻したが、教皇自身もこれに従軍し、その不在中、でもどり娘のルクレツィア(1480
~1519 年)を教皇代理としていた。それから間もなくルクレツィアは二度目の政略結婚で
嫁ぐことになった。このころ生まれた子供か確定できないというスキャンダルを生んだが、
まったくこの教皇一族には倫理観が欠けていたようである。 フランスとスペインがナポリ領の分割をめぐって争っている間に、チェーザレは 1502 年、
中世を通じた名家オルシーニ家とコロンナ家を滅ぼし、ただちに教皇によって例のごとく
資産は没収された。 チェーザレは 1503 年 7 月、イタリア中部の残存勢力討伐のための軍事行動を準備してい
たが、突如、父子ともに熱病に倒れた。毒薬に倒れたといわれることもあるが、その根拠
は薄いようである。むしろ当時ローマで流行することが多かったマラリアにかかったとい
われている。1503 年 8 月、アレクサンデル 6 世は死去、チェーザレも病床にあったが、教
皇死去の報が公になる前に教皇の財産を押さえようとした。 アレクサンデル 6 世の悪行を記しているうちに亡くなってしまったが、いずれにしても、 アレクサンデル 6 世はルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在であり、息子チェーザ
レ・ボルジアを右腕とし、一族の繁栄と教皇庁の軍事的自立に精力を注いだことで、イタ
1326
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) リアを戦火の巷に変えた。このため、彼については史上最悪の教皇、カトリック教会の権
威を失墜させた張本人といわれている(そのため、宗教改革への流れを早めた)。 教皇であるから宗教家でなければならないが、その点でアレクサンデル 6 世は「聖書に
全く関心がなかった」が、他の聖職者には儀式や会議に対して誠実で勤勉であることを求
め、自身も宗教儀礼だけはないがしろにすることはなかったといわれている。 もう一つ、実はこのことを述べるためにこの項を立てたが、最後になってしまった。ア
レクサンデル 6 世はルネサンス教皇の例にもれず、多くの芸術家のパトロンとなった。多
くの芸術家が教皇の援助を受けて創作に打ち込んだ。バチカン美術館にある「ボルジアの
間」に彼が愛した美術を見ることができる。 《教皇ユリウス 2 世》 1503 年にアレクサンデル 6 世が没すると、ピウス 3 世が教皇になったが、病にたおれて
急逝し、その後には、1492 年の教皇選挙でアレクサンデルに敗れたローヴェレが(身の危
険を感じてパリに避難していた)、かつての仇敵チェーザレ・ボルジアの支持を取りつけ
るという政治的な離れ業を行って教皇位につき、ユリウス 2 世(在位:1503~1513 年)と
名乗った。 ユリウス 2 世は教皇領をめぐる複雑な権力関係や大国の影響力を一掃したいと考えてい
た。そのために、まず、取り組んだのは教皇領をほぼ我が物としていたボルジア家の影 響力を拭い去ることであった。武力をもつチェーザレの扱いがやっかいだった。教皇あっ
てのチェーザレにとっても、誰が教皇になるかが決定的に重要だった。 チェーザレはユリウス 2 世と教皇軍最高司令官及びロマーニャ公の地位を密約して、彼
の教皇就任を後押ししたが、すぐに教皇に裏切られ捕縛された。いろいろあったが、最後
には脱出して、義兄フアン 3 世が統治していたスペインのナバラ王国へ逃れ、1507 年 3 月、
ナバラ王国とスペインとの戦闘でナバラ軍の一部隊を率いて参戦し、チェーザレは戦死し
た。このとき敗れたナバラ王国はスペインに併合された。 いずれにしても、教皇ユリウス 2 世はチェーザレともボルジア家とも縁をきることがで
きた。 教皇ユリウス 2 世もルネサンス教皇として、芸術の愛好者であり、多くの芸術家を援助
していた。ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロなどがユリウス 2 世の援助を受けて
創作活動を行った。とくにミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂の天井画の制作を依頼
している。また、ローマの補修・美化にもつとめ、サン・ピエトロ大聖堂の新築を決定し、
1506 年に定礎式を執り行ったのもユリウス 2 世であった。このようにユリウス 2 世は、ロ
ーマにルネサンス芸術の最盛期をもたらした。 《教皇レオ 10 世》 1327
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1513 年 2 月、ユリウス 2 世は病没した。ユリウス 2 世の後の教皇にはメディチ家出身の
レオ 10 世(在位:1513~1521 年)がついた。前教皇が着手したサン・ピエトロ大聖堂の建
設を引き継ぎ、また、ミケランジェロ、ラファエロらの芸術家のパトロンとなり、ローマ
を中心とするルネサンス文化は最盛期を迎えた。聖堂や広場、洗礼堂の修復を行い、前教
皇に続きラファエロをひいきにし、自らの肖像画やシスティーナ礼拝堂の壁掛け、バチカ
ン宮殿回廊の天井画・壁画などを制作させた。 そして、教皇レオ 10 世がサン・ピエトロ大聖堂建設資金のために、ドイツでの贖宥状販 売を認めたことが、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった。また、行列や宴会
など、とにかく贅沢が好きで湯水のように浪費を続けた。 1517 年、ルターの宗教改革の火の手が上がり、享楽に満ちた聖都ローマは、「新しきバ
ビロン」と批難された。レオ 10 世は、先代ユリウス 2 世の蓄えた財産と、レオ 10 世自身
の収入と、次の教皇の分と 3 代の教皇の収入を 1 人で食いつぶしたと言われた。教皇庁に
は未曾有の財政破綻が起こった。このようにローマ・カトリックの堕落・腐敗は極に達し
ていて、これがルターの宗教改革のきっかけとなったことは確実である。 ○ルターの宗教改革 マルティン・ルター(1483~1546 年)は、聖アウグスチノ修道会に入り、1506 年には司
祭の叙階を受け、できたばかりであったヴィッテンベルク大学に移って哲学と神学の講座
を持つことになった。 その頃からルターの心を捉えて離れなかったことはパウロの『ローマの信徒への手紙』
に出る「神の義」の思想であった。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、
できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実
に言うことはできない。 この現実を直視していたルターは苦しみ続けたが、あるとき突如光を受けたように新し
い理解が得られた。そこでルターは、人間は善行でなく、信仰によってのみ義とされるこ
と、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという理
解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。ここでルターが得た神学的発想は、の
ちの「信仰義認」(信仰によってのみ義とされる)と呼ばれることになる。 ルターはこの新しい「光」によって福音(キリストの言葉)と聖書を読み直すことで、
人間の義化に関しての理解と自信を増していった。「正しいものは信仰によって生きる」、
かつてあれほどルターを苦しめた「神の義」の解釈を見直したことによって大きな心の慰
めを得るようになったのである。 大学で教えるかたわら、司祭として信徒の告解(こっかい。罪の赦しを得るのに必要な
儀礼や、告白といった行為)を聞いていたルターは、信徒たちもまた罪と義化の苦悩を抱
1328
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) えていることをよく知っていた。そんなルターにとって当時、盛んにドイツ国内で販売が
行われていた贖宥状(しょくゆうじょう)の問題は見過ごすことができないように感じら
れた。 《贖宥状問題》 贖宥状とは、16 世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書であった。
日本ではかつて「免罪符」と訳されていたが、贖宥状は「罪のゆるし」を与えるのではな
く、「ゆるしを得た後に課せられる罪の償いを軽減する」ものであるため、贖宥状という
訳語が適当である。 キリスト教徒でないものにはわかりにくいが、西方教会で考えられた罪のゆるしのため
に必要なプロセスは 3 段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に
司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをするこ
と(償い)が必要であり、西方教会ではこの 3 段階によって初めて罪が完全にゆるされる
と考えられた。古代以来、告解(告白)のあり方も変遷してきたが、一般的に、課せられ
る「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威に
よって罪の償いを軽減できるという思想が生まれてきた。これが「贖宥」である。それが
金で買えるというのが「贖宥状」であった。 このときルターが何より問題であると考えたのは、煉獄(れんごく。現世)の霊魂が、
本来罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって償いが軽減
されるという考え方であった。当時の贖宥状の販売人は「贖宥状を購入してコインが箱に
チャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」と宣伝していたことにはルターも
怒り心頭に達した。 《ヴィッテンベルク城教会に『95 ヶ条の論題』》 1517 年 10 月 31 日(11 月 1 日という説もある)、ルターはアルブレヒトの「指導要綱」
には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、ヴィッテンベルク城教会の扉(図 13-7
参照。ヴィッテンベルク城教会は大学教会を兼ね、その扉は学内掲示板の役割を果たして
いた)にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた。これが『95 ヶ条の論題』
であった。 彼の 95 ヵ条の中には、たとえば、第 21 条:贖宥状の擁護者が、人は教皇の赦免によっ
てあらゆる刑罰からまぬがれるというのは誤りである。 第 27 条:献金箱に投げ込まれた贖宥銭の音と同時に、魂が煉獄より飛び出すというもの
は、神の教えより人間の道を説教するものである。 第 36 条:真実の悔い改めをなすキリスト者は、すべて贖宥状がなくても、こらしめや罪
から完全に開放される権利をもつ。 1329
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-7 ヨーロッパの新旧宗教分布(1560 年) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 このようなことが、95 ヵ条にわたって書き連ねられていた。ルターはこれを一般庶民に
は読めないラテン語で書いていたことからも、純粋に神学的な問題として議論しようとし
ていたことは明らかであった。この一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすことに
なるか、彼にもわからなかっただろう。 ルターが呼びかけた意見交換会は結局行われなかったが、『95 ヶ条の論題』はすぐにド
イツ語に訳され、活字印刷されてドイツ中にばらまかれ、反響を呼んだ(ここで活版印刷
技術が威力を発揮したのである。張り紙程度では大学構内の話題で終っていたかもしれな
い)。 そこでルターは 1518 年に論題を神学的考察の形でまとめなおした『免償についての説教』
を出版した。既存のカトリック教会体制への不満がくすぶっていたドイツ国内の空気にル
ターの論題が火をつけることになった。これに対する反論を記したカトリック司祭ウィン
ピーナは「信仰の問題に関して疑問を投げかけることは、教皇の不謬権(ふびゅうけん)
への疑問と同じ意味を持つ」という指摘を行った。 ここに至って、神学問題の提起を行ったルターがにわかにローマ教皇への挑戦者という
意味合いを持つようになった。しかし、ローマ教皇庁は大きな問題とは考えず、聖アウグ
1330
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スチノ修道会に対し、ハイデルベルクでの総会でルターを諭して穏便に解決するよう命じ
た。 1518 年 4 月のハイデルベルクでの総会でルターが逆に自説を熱く語った。総会後には教
皇レオ 10 世に対し、自らの意見を書面にして送付した。この書面を審査した教皇庁は、こ
れは教皇の権威を揺るがす危険性があると考えたが、ルターはザクセン選帝侯フリードリ
ヒ 3 世(在位:1486~1525 年)の庇護を受けることになり、当時の教皇はハプスブルク家へ
の対抗上、フリードリヒをないがしろにはできなかったので、ルターにも簡単には手が出
せなかった。 1518 年 10 月のアウグスブルクでの審問は、ルターの疑義の撤回を求めたが、ルターは聖
書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められないと主張した。 1519 年 7 月、神学者ヨハン・エックは、ルターと論戦を行った(ライプツィヒ討論)。
この議論の中でルターが公会議の権威をも否定してしまったことで、学問レベルでルター
問題を解決しようという試みは失敗に終わった。ルターは当初、救いの問題を最重視し、
教会の改革までは考えていなかったようであるが、論敵に巧みに誘導されてついにローマ
教会との断絶を宣言するところまできてしまった。事態は政治闘争の様相を帯びてきた。 《ルターの思想がほとばしった 1520 年》 ヴィッテンベルクに戻ったルターは、ローマ教会の最高権威否定の根拠をペテロの言葉
のなかに見出した。平信徒と聖職者の間に本質的な差異は存在せず、一介の平信徒も光明
に達することができるとする「万人司祭説」がここに生まれた。 既存の神学者やローマ教会の大反撃が開始された。神学者やローマ教会から攻撃されれ
ば、されるほど、ルターの信念は深められ固められいって、1520 年に次のような文書を次々
に発表してルターの方向性を確定することになった。 ◎平信徒と聖職者の間に本質的な差異は存在せず、教皇による聖書解釈の独占に代置し
て、一介の平信徒も光明に達することができるとする『万人司祭説』 ◎真の教会とは精神的・内面的な目に見えない教会であると主張する『ローマ教皇論』 ◎君主・貴族がローマに抵抗しつつキリスト教界の改善を行うよう訴えた『ドイツのキ
リスト教貴族に与える書』 ◎ローマ・カトリック教会の 7 つの秘跡のうち、洗礼と聖体の秘跡(プロテスタントで
は聖餐式)のみを残し、他を廃止することを要求する『教会のバビロン捕囚について』 ◎人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるという彼の持論が聖書
を引用しながら主張されている『キリスト者の自由』。 キリスト者は自由に福音(キリストの生涯と言葉)に近づくことができなければならな
い。キリスト者は何人(なにびと)にも服従しないかわりに、すべての人間に奉仕する。
1331
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) キリスト者は愛である神を信じれば、神への愛と隣人への愛とがおのずと生まれる。キリ
スト者はまず信仰あり、つぎに行いあり、とルターは熱く説いている。『キリスト者の自
由』は、ルター最良の作品といわれる。 以上の作品と、修道院制度を糾弾する『修道士の誓願論』とで、ルターの思想の基本的
要素はほとんどすべて出そろった。 ここまでくると、ローマ教会もルターの挑戦をこれ以上見逃すわけにはいかなかった。
レオ 10 世は回勅を発布し自説を撤回しなければ破門すると警告したが、ルターはこれを拒
絶、1520 年 12 月に回勅と教会文書をヴィッテンベルク市民の面前で焼いた。これを受けて
1521 年の回勅によってルターの破門が正式に通告された。 《ヴォルムス帝国議会とヴァルトブルク城》 1521 年 4 月、ルター支持の諸侯たちや民衆の声に押される形で、ルターはヴォルムス帝
国議会への召喚に出席した(図 13-7 参照)。皇帝カール 5 世は何よりルター問題からド
イツが解体へ至ることを恐れていた。ルターは自分の著作が並べられた机の前で、そこで
述べられていることを撤回するかどうか尋ねられ、自説の撤回を改めて拒絶した。 議会が処分を決定する前にルターはヴォルムスを離れ、ザクセン選帝侯フリードリヒ 3
世(在位:1486~1525 年)の元に逃げ込んだ(ルターはすでに破門されてザクセン選帝侯の
庇護を受けていた)。 1521 年 5 月、神聖ローマ皇帝カール 5 世の名前で発布されたヴォルムス勅令はルターを
ドイツ国内において法律の保護の外に置くことを通告し(事実上の国外追放処分。身の危
険があってもやむをえないとした)、異端者としてルターの著作の所持を禁止した。 フリードリヒ 3 世は、皇帝の決定に反して「ルターを誘拐した」という名目で居城であ
るヴァルトブルク城にかくまった。ルターは、ここで有名な新旧聖書のドイツ語訳を行な
った。この二つの訳書は、近代ドイツ語の確立に大きく貢献し、ドイツ文化史における画
期的業績と高く評価されている。 ○ドイツ農民戦争 ルターの改革思想はこの間、フッテンやメランヒトンなどの人文学者、デューラー、ク
ラーナハといった画家をはじめ、多くの人々に受け入れられていくと同時に、より急進的
な改革を唱える人々も出現した。たとえば、トマス・ミュンツァー(1489~1525 年)は、
無自覚な幼児への洗礼に疑問を呈し、長じてから洗礼を受けるべきであると主張し、この
主張に共鳴する急進的改革派は再洗礼派と呼ばれた。 ルターのまいた種は、さまざまな政治的・社会要求とからんでドイツ国内に内乱の嵐を
巻き起こすことになった。騎士の反乱のあと(1522~23 年。ドイツ騎士戦争。没落しつつ
1332
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) あった帝国直属の騎士が聖界諸侯の打倒を唱えて起こした反乱)、西南ドイツを中心に農
奴的諸負担の廃止を要求した農民の大規模な反乱が起こった。 1524 年、ミュンツァーが、大胆な社会改革なしに宗教上の改革は実現不可能だとし、キ
リスト教的共産主義の樹立をめざして立ち上がった。「聖書に書かれていないことは認め
ることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農
民には、そもそも「領主に仕えることも聖書に根拠を見出せない」というのである。 かつてルターの同志であったミュンツァーはこういった人々のリーダーとして社会変革
を唱えたのである。これが 1524 年から 1525 年にかけて起こったドイツ農民戦争であった。
戦いは 1525 年に頂点をむかえ、ドイツ全域の 3 分の 1 を覆うに至った(図 13-7 参照)。 ルターははじめ農民反乱に同情的であったが、ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に
走ると、農民反乱を非難し,鎮圧する諸侯側に味方した。ここに改革を宗教の範囲にとどめ
ようとしたルターの限界がみられた。 諸侯は、ルターの支持に力を得て農民戦争を鎮圧し、ルターを積極的に支持する諸侯が
ふえた。農民戦争は鎮圧されて、ミュンツァーも捕らえられて処刑された。こうして農奴
の解放は進まず、ドイツの近代化が遅れる大きな原因となった。 《ルターの変節》 ルターは以後、民衆が自発的に共同体を作り、自己流の信仰生活を営むことに不信感を
抱き、明確に定義された教理と典礼をもつ制度的教会(領邦教会)の必要性を認識した。
目に見えない教会というルターの理想がこうして崩れていった。 そればかりか、ルターは、以前は猜疑(さいぎ)の眼で見ていた国家を、今度は神の作
ったものと見なし、こうして君主の絶対的な権力を正当化した。最悪の暴君にも服従しな
けらばならない。すべての君主は神の代理人であるからとも言うようになった(これでは
王権神授説である)。このように国家観、君主観を急に変えたことは、ルターの激情家ぶ
りを物語っているといわれている。彼は結婚の意思を直前まで再三否定していたにもかか
わらず、1525 年、突然、元修道女の若い女性と結婚して、世間をあっといわせた。 《エラスムスとの論争》 ルターの思想の根本のところで異義をとなえる人々も現れた。ルターの宗教改革に一時
的に熱狂したものの、ルター派の聖書至上主義の反知性的態度に愛想をつかす人々が現れ
た。こうした人々のなかにいたのが人文主義者であった。その代表がネーデルラントの人
文学者エラスムスで、彼についてはルネサンスのところで、『痴愚神礼賛』を中心に述べ
た。 エラスムスはすでに 1504 年、『キリスト教兵士提要』を刊行し、宗教改革を予告するよ
うな思想を表明していた。信徒はみなキリストの兵士で、その武器は祈りと聖書である。
1333
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 真の信仰生活は福音書のイエスの精神と生き方を模倣することにあり、ローマ教会の外形
的儀式や教理はどうでもよい。こう考えるエラスムスは宗教改革初期のルターに対し、き
わめて好意的であった。 ところが、原罪の後では「自由意志」は空しいと述べるルターをエラスムスは許せなか
った。エラスムスは 1524 年 9 月、『自由意志論』を上梓し、そのなかで「自由意志」を、
永遠の救いにかかわる一切をなすか、なさぬかを決めることができる人間の自由な意志と
定義し、この「自由意志」は原罪の後にも人間の内に残っていると主張した。キリストの
贖罪の後、人間は神の恩恵に助けられた理性により「真の善」をめざすことができる。こ
のようにエラスムスは、救いにおける神の恩恵の意義を認めつつ、人間性に深い信頼を 寄せたのである。 これに対してルターは 1525 年 12 月、『奴隷意志論』を発表してエラスムスに反論した。
「自由意志」があっても、人間はそれによって罪を犯すだけであり、だからそれは罪の奴
隷である。神がすべてで人間は無である。神は、私の努力のせいではなく恩恵と憐みとに
よって私を救う。神の恩恵と「自由意志」との協力に救いを依存させるエラスムスの立場
をルターは承認しなかった。 本質のところで人間をどうみるか(あるいは神をどうみるか)に違いがあるのでルター
もエラスムスも妥協できなかった。論争は平行線をたどり、不毛な幕を下ろした。このル
ターと国際的に著名な人文学者エラスムスの論争の決裂は、そのまま宗教改革とキリスト
教的人文主義の決裂を意味した。 ○シュマルカルデン戦争 農民戦争がおさまると、宗教改革は領邦君主によって遂行されていった。ルターはその
後、各地のルター派諸侯の間を回りながら領邦教会の成立を進めていった。 ルターと宗教改革に敵対的であった皇帝カール 5 世は、この頃オスマン帝国がフランス
と結んでウィーンに迫ったため、諸侯・自由都市(帝国都市)の協力が不可欠とみて 1526
年、シュパイヤー帝国議会でルター派諸侯の領内での宗教改革を許した。こうしてルター
派教会は領邦君主を庇護者、管理者とする領邦教会の形をとって各地に広がった。 しかし、1529 年、神聖ローマ皇帝カール 5 世は再度シュパイヤー国会を開催し、宗教改
革の自由を取り消した。この措置に対して、改革派の諸侯と帝国都市が抗議(プロテスト)
した。これが改革派を指す「プロテスタント」の名称の由来である。改革派諸侯と改革派
諸都市は自分たちの得た財産が奪い返されることを恐れて、帝国議会終了後の 1531 年に中
部ドイツのシュマルカルデンにおいて反皇帝の「シュマルカルデン同盟」を結成した(図
13-7 参照)。 1334
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1544 年になってカール 5 世はフランスとクレピーの和約を結んだ。この和約でフランス
はナポリを放棄、神聖ローマ帝国(ドイツ)はブルゴーニュを返還し、ここに「イタリア
戦争」はひとまず終焉した。それまで、神聖ローマ帝国(ドイツ)は、ずっとフランスと
戦っていたが、この和約の締結に成功したカール 5 世は、身軽になった。 そこでシュマルカルデン同盟と決着をつけるため、カール 5 世は、1546 年、シュマルカ
ルデン同盟を攻撃した。これがシュマルカルデン戦争(1546~47 年)であり、カール 5 世
はこれに勝利した。しかし、その後、カール 5 世はまた敗北し、結局、1556 年、弟のフェ
ルディナント 1 世(神聖ローマ皇帝在位:1558~64 年)に帝国を委ねて、スペインへ戻り
引退した(スペイン王はカール 5 世の息子フェリペ 2 世(在位:1556~1598 年)が引き継い
だ)。 ○アウグスブルクの平和令 カール 5 世が政治から引退したために、帝国の新旧両派の諸侯は和解へと大きく傾いた。
1555 年 2 月、アウクスブルクで帝国議会が開催された(図 13-7 参照)。これはカール 5
世によって開かれたが、実際に議会を運営したのはフェルディナント 1 世であった。同年 9
月にアウグスブルクの和議(妥協)が成立し、「アウグスブルクの平和令」が公布された。
その内容は、 ◇カトリックとルター派に属する人々に、信仰を理由として「暴力」や「傷害」を加える
ことが禁止された。ただし、その他の宗派(カルヴァン派やツヴィングリ派)には、この
「平和」は保証されない。 ◇どの信仰をとるかは諸侯の自由で、領民はそれに従わなければならない。この原理は「領
土が属するところの者に宗教も属する」といわれる。つまり、ルター派は公認されたが、
それはあくまで諸侯本位のものであり、個人の信仰の自由はみとめられなかった。従うこ
とのできない者は、妻子とともにその地を去ることはできる。 ◇大司教などの聖職者は、改宗した場合にはそのすべての権限を失う。パッサワ条約(1552
年。カトリックとプロテスタントの共存が定められたもの)の時点でルター派のもとにあ
ったすべての財産はそのままとする。 というもので、新旧両派の勢力地図の現状維持をはかったものである。 ここではローマ教皇の影はなかった。妥協は神聖ローマ皇帝と新旧諸侯と間でのみ行わ
れた。各領邦の教会は各権力に管理される領邦教会体制となり、宗教は政治に従属するこ
とになった。 それゆえドイツにおける宗教改革の真の勝利者は、領邦国家あるいは領邦君主だった。
中世の普遍的権力としての教皇も皇帝も、領邦国家の自立化を認めざるを得なかった。帝
国と教会は分裂し、領邦国家は政治権力と教会監督権を得たということになる。 1335
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ○スイスの宗教改革と宗教戦争 ルターが宗教改革をはじめると創造と模倣・伝播の原理で、他の地域でも宗教改革が起
きたが、その中でスイスの宗教改革はその後のヨーロッパに大きな影響を与えた「予定説」
を含んでいるのでそれについて述べることにする。 《ツヴィングリのチューリヒでの宗教改革》 1520 年代初頭からスイスにおいても、聖書を信仰の唯一のよりどころとし、キリスト教
会を原始教会の姿に戻そうとする宗教改革が始まった。その最初の舞台はチューリヒで改
革運動の中心的指導者は、人文学者のツヴィングリ(1484~1531 年)であった。 人文主義者で司祭だったツヴィングリは、1518 年、チューリッヒの市参事会に招かれて
チューリッヒ司教座聖堂の説教師の地位についた。自らも人文主義者であり、ギリシャ語
とヘブライ語を学んでいたツヴィングリは、当時一世を風靡していた人文主義者エラスム スから大きな影響を受け、聖書中心主義をとったが、ルターより急進的であった。 彼の改革思想は、「聖書のみ」「信仰のみ」「万人司祭説」を唱える点でルターと共通
しているが、彼はルターからの影響は否定している。道徳主義やのちにカルヴァンに影響
を及ぼすことになる「予定説」の強調など、ルターと微妙に異なる点も少なくない。 聖餐式の意味づけにおいてツヴィングリとルターの差異が際立っていた。その聖餐式の
違いとは、ルターはパンとワインのなかに、それらの実体とともにキリストの身体(から
だ)と血が実在すると説く。これは「共在説」と呼ばれ、パンとワインがキリストの身体
と血に変化すると見なすカトリック教会の「化体説(かたいせつ)」に近い立場である。 一方、ツヴィングリは、聖餐式のパンとワインはあくまでもパンとワインにとどまり、キ
リストの死を象徴するものと解釈する。 のちに、この問題をめぐってツヴィングリとルターは話し合ったが、この点で一致でき
ず、結局、ヨーロッパ規模での宗教改革の統一を妨げることになった。 ツヴィングリはチューリッヒ市参事会に改革への協力を求め、参事会もこれに答えた。
彼は聖書に根拠が見つからないすべての教会制度の破棄を参事会をとおして呼びかけた。
チューリッヒ市はカトリック教会支持派とツヴィングリ支持派に分かれた。数年にわたる
争いのすえ、最終的にツヴィングリの意見が勝利し、教皇制度と教会の聖職位階制度は否
定され、市内の教会の聖画・聖像は破壊、修道院は閉鎖された。改革が十分にすすんだと
見たツヴィングリは 1525 年 4 月にミサを廃止し、自らの考案した「主の晩餐」の式を初め
て行った。他にもルターと違い、典礼音楽も聖書に根拠を見出せないものであったので、
ツヴィングリは礼拝からあらゆる音楽を廃止した。 1336
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 同時にツヴィングリは司祭独身制も不要のものと考えて撤廃したが、これは教義的な理
由というよりもすでに自分がアンナ・ラインハルトという未亡人と同棲生活をしていたか
らであったといわれている。 ツヴィングリはチューリッヒ市で達成された改革を他のスイス諸都市にも波及させよう
としたが、さらに急進的な改革を求めるグループや神学理解で溝が広がっていたルター派
と対立することになった。自らの力を頼むところが多かったツヴィングリは、当時チュー
リッヒとベルンが主導権をとってスイス全域を支配できると考えていた。しかし、同盟者
を必要としないツヴィングリの態度を危惧したベルンはチューリッヒから離れた。 それでもツヴィングリは意に介さず、カトリック諸州の経済封鎖を行った。1531 年 10 月、
ツヴィングリはカトリック側の先手を討とうとチューリッヒの兵力を率いて進軍したが、
チューリッヒ軍は打ち破られ、乱戦の中でツヴィングリも戦死した。その後、数度の戦闘
の後に「カッペル協定」が結ばれてスイス内戦は終焉した。 チューリッヒ改革派教会はツヴィングリが死んでから 16 年後の 1549 年、チューリッヒ
協定を結ぶことで後述するカルヴァン派と合流し、スイス改革派教会の基礎を築いた。 《カルヴァンのジュネーヴでの宗教改革》 ツヴィングリ亡きあと低迷するスイスの、さらにヨーロッパの宗教改革運動にあらたな
活力を与えたのが、ジュネーヴのジャン・カルヴァン(1509~1564 年)だった。 カルヴァンは、1536 年、宗教改革の神学を体系化した『キリスト教綱要』(ラテン語版)
を刊行し、この本は広く読まれ、その名を世に知られるようになった。1541 年、ジュネー
ヴ市会に説得されて、以後 30 年近くにわたって、神権政治(神政政治)を行って同市の教
会改革を強力に指導した(図 13-7 参照)。 カルヴァンの神学は、基本的にはルターのそれの継承である。しかし、カルヴァンの場
合、「予定説」が教理として「信仰義認説」に付け加わる。アダムが原罪を犯して以来、
人間性は堕落した。なすことがことごとく悪に染まっている以上、すべての人間は呪われ
なければならない。だが神は憐れみにより、子イエスを地上に送った。といっても、すべ
ての人間を赦すためではない。恩恵に浴することができるのは一部の人間のみである。誰
を救い、誰を地獄に堕(お)とすかは神が自由に決定する事柄で、しかもアダムの原罪以
前にそれを決めている。これがカルヴァンのいう予定説である。 では決まっている(予定されている)のなら、人間はただ絶望するしかないのか。カル
ヴァンによれば、神の憐れみは無限であり、神を信じ、われわれに説かれている神の教え
を受け入れ、キリストと一体となった信徒は自らが選ばれていることをもはや疑わない。
これを信仰義認説という。われわれの善き行いも、神の憐れみを熱烈に信じるとき、選び
のしるしとなる。日々の営みは信仰を介して聖化される。人生の主要目的は神を知り、神
1337
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) に栄光を帰し、神の命令に従い、祈りを捧げることに存する。自らが営む職業も神が定め
たものであり、「天職」「召命」であるから、これに勤(いそ)しまねばならない、とカ
ルヴァンは説いたのである。 このようにカルヴァンは、職業は神から与えられたものであるとし、得られた富の蓄財
を認めた。この思想は、当時中小商工業者から多くの支持を得、資本主義の幕開けを思想
の上からも支持するものであったとされる。 19 世紀に、社会学者のマックス・ヴェーバーは論文『プロテスタンティズムの倫理と資
本主義の精神」』の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義を発達させた、という論理を
提出した。 その概要は、救済に与れるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないと
すると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われる。しかし人々は実際には、「全
能の神に救われるように定められた人間は、禁欲的に天命(ドイツ語で「Beruf」だが、こ
の単語には「職業」という意味もある)を務める人間のはずである」という思想を持った。
そして、自分こそ救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために、禁欲的に
職業に励もうとした。すなわち、暇を惜しんで少しでも多くの仕事をしようとし、その結
果増えた収入も享楽目的には使わず更なる仕事のために使おうとした。そしてそのことが
結果的に資本主義を発達させた、という論理である。 ルターの宗教改革が信仰の改革に徹していたのに対し、カルヴァンは礼拝様式と教会制
度の改革に着手した。礼拝式文を整え、詩篇歌を採用し、信仰告白・カテキズム(教理指
導書)・教会規則を整備し、牧師職の他に(彼らの理解によれば)初代教会以来の信徒の
職務である長老職と執事職を回復し、長老制の基礎を作った。またカルヴァンは聖餐を重
んじ、毎回の礼拝でこれを執り行おうとしたが、それは市当局の反対により実現しなかっ
た。 カルヴァンはルターと異なり、はじめから目に見える制度的な教会の必要性を認めてい
た。また、ルターが教会をカトリック教と同様に、洗礼を受けた者すべての集まりとした
のに対し、「信仰を告白し、善き生活を営む人々の集まり」として、より狭いものとして
理解した。メンバーは従って、真の信仰と善き道徳を厳しく実践する義務を負わされる。
牧師は神の言葉を説き、公教要理(教理指導書)を教え、聖典礼を行う。聖典礼は洗礼と
聖餐式の二つで、信徒が信仰を強固にするのを助ける。 聖餐式に関し、カルヴァンはカトリック教会の「化体説」やルターの「共在説」と、ツ
ヴィングリの「象徴説」との中間的な立場をとっていた。すなわち、イエスはパンとワイ
ンのなかに実在するが、ただし霊的に、というものであった。 1338
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 信徒の日常生活を監視し、これを正しく導き、信徒同士の紛争を調停するのは俗人の「長
老」であり、貧者の救済は「執事」に任される。道徳的に問題のある信徒は聖餐式への出
席を、行いを改めるまで禁じられる。行状がとくに悪い者、例えば姦通者、盗人、人殺し、
大酒飲みは、悔い改めなければ教会から破門される。そればかりか、世俗の権力者からの、
追放刑を含む処罰も待ちかまえている。 カルヴァンの国家観は、為政者は神の地上の代理人、僕(しもべ)である。信仰の正し
い実践を保ち、人民の安全と財産を守り、正義を行う。このような為政者に対しては、人
民は絶対服従の義務を負う。服従を免除されるのは、為政者が神の命令に背いた時に限ら
れる。この最後の点は、のちに一部のカルヴァン派によって暴君に対する抵抗権を正当化
するものとして解釈されて、たとえば宗教戦争下のフランスで君主政批判の武器となった。
これがカルヴァンの国家観で、「神政政治」そのものであった。カルヴァンがジュネーヴ
でめざしたのは、その実現であった。 カルヴァンは、国家による異端者弾圧をもちろん支持した。父と子と聖霊の三位一体説
を否定したスペイン人医師セルヴェトウスに対して、1553 年、ジュネーヴ市当局が異端と
して下した死刑判決に、カルヴァンとカルヴァン派は賛成した。セルヴェトウスは生きな
がら火刑に処された。この事件に際し、果敢にも寛容を訴えて、宗教上の過ちを国家権力
が罰するのは正しくないとしたフランス人の人文学者カステリオも、ジュネーヴを追われ
た。 カルヴァンは厳格な道徳規律と厳しい統率力でジュネーヴの市政改革に手腕を発揮し、
信仰だけを強調したルターと異なり、人間の社会的活動にも眼を向けた点で後世への影響
も大きい。職業を重視し、勤勉による富を肯定するカルヴァンの職業倫理は、当時おこり
つつあった資本主義の精神的な支えとなり、カルヴァンの教えは、勤労にいそしんだ西ヨ
ーロッパ各国の商工業者を中心に、成長しはじめた新興市民層のあいだに急速に広まった。 カルヴァンは 1564 年、ジュネーヴで没した。その思想はすでに生前から、スイスにとど
まらず、ヨーロッパの隣国に広まっていた。しかし、ルター派の強いドイツではあまり浸
透しなかった。こののち、カルヴァン派は、ヨーロッパ各地で信仰の自由や民族の独立を
求めて勇敢に戦った。イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプ
レスビテリアン(長老派)、オランダではゴイセン(「乞食(こじき)」の意味)、フラ
ンスではユグノー(「同盟者」の意味)と呼ばれた。 ○その他の国の宗教改革 ドイツにおける宗教改革は,その後、創造と模倣・伝播の原理によって、図 13-7 のよ
うに、ヨーロッパ各国に伝播し、混乱と内戦を引き起こしたところもあった。 《信仰の個人化と政治の世俗化》 1339
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 宗教改革とは、中世ヨーロッパ世界に重くのしかかっていた教皇や教会の権威を否定し、
聖書に帰ってキリスト教本来の精神をとりもどそうという運動であった。したがって、古
典に原点を求めたこと、および市民の台頭による中世的束縛からの解放運動であった点で
は、ルネサンスとの共通点がみられる。 ルターの宗教改革の革命的な意義は、信仰を個人の内面の問題とし、権力をあくまで世
俗世界の管轄に限定したことにある。ルターは、「聖」が「俗」を支配し、「俗」に直接
的に介入することを否定した。帝国諸侯相互の妥協としてのアウクスブルクの宗教平和令
もまた、結局はルターが設定した思考法のなかで動いていた。「領土が属するところの者
に宗教も属する」という原理は,なお中世的で、個人の信仰の自由や自律とは矛盾していた。
しかしそれは、個人に信仰を理由にして安全に立ち去ることを認め、宗教の主体(教会)
が政治的世界の主体ではありえないということを明確に表現していた。 教会の業務とされてきた教育や貧者や病者への配慮、結婚や家族の問題でさえ、その多
くが,その後は国家に移管され始めた。信仰の個人化と政治の世俗化は、ドイツにおいて
広く進行し、カトリック陣営のもとにおいてさえ、このことは自明となるにいたった。 《王権の強化と国民国家の形成=絶対王政の方向へ》 ルネサンスが結局は教皇や貴族の保護のもとに繁栄したものであったのに対し、宗教改
革は教皇と教会権力を徹底的に批判した。封建社会と不可分の関係にあり、それ自身封建
領主であったカトリック教会権力者を否定することは,超国家的な存在である教皇の支配
から脱しようとする国民的意識と結びつき、それが王権強化の運動と重なって国民国家が
形成されていくことになった。 また、中世的権威の否定は、必然的に社会改革を要求する運動をよびおこし、改革者の
宗教的な目標をこえて、社会的・政治的な動きに大きな影響をおよぼした。 ヨーロッパにおける宗教改革の結果、1560 年ごろの宗教分布は図 13-7 のようになった。 ルター派教会は、ドイツ国内の多くの領邦と神聖ローマ帝国都市、デンマーク、スウェー
デン、ノルウェーなどの北ヨーロッパ諸国に深く根を下ろしていた。イギリスは後述する
ような事情でイギリス国教会となった。しかし、17 世紀にも宗教戦争は続いたので、まだ、
この続きがあるが、それはそれぞれの国の歴史で述べる(フランスのユグノー戦争やオラ
ンダ独立戦争など)。 【13-1-4】17 世紀の科学革命 【①科学革命とは】 1340
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 科学革命という言葉は、1949 年にイギリスの歴史学者ハーバート・バターフィールド
(1900~79 年)が考案した時代区分の名称で、コペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュ
ートンらによる科学の大きな変革のことをいう。 バターフィールドは『近代科学の起源』(1949 年)でルネサンスや宗教改革ではなく 17
世紀の「科学革命」をもって近代の出発点とする意見を提案した。この科学革命は、科学に
おける中世の権威のみならず古代のそれをも覆したといっている。つまり中世のスコラ哲
学を葬り去ったばかりか、古代ギリシャのアリストテレスの自然学をも壊滅させたのであ
る。したがって、それはキリスト教の出現以来、他に例を見ない目覚ましい出来事であっ
て、それに比べれば、あのルネサンスや宗教改革も、中世キリスト教世界における内輪の
交代劇にすぎないというのである。 この科学革命は物理的宇宙の図式と人間生活そのものの構成を一新するとともに、思想
の領域においても、思考習慣の性格を一変させた。こうして、この革命は、近代世界と近
代精神の真の生みの親として大きく浮かび上がってきたと述べている。 ○天文学における科学革命 ルネサンスの時代には,観測の科学が発達したと述べたが、観測天文学も、航海と関連
して 15 世紀には復活してきていた。また、古いユリウス暦の改良の必要からも、観測天文
学への刺激が与えられ、近代的な観測資料が、かなり貯えられつつあった。さらに、新大
陸の発見、それに続くマゼランの世界一周によって地球も一つの球であるという考えは、
単なる推理ではなく具体的な現実へとかわってきていた(地球儀がつくられたことも述べ
た)。こういう時代にコペルニクスは研究を始めた。 【②コペルニクスと地動説】 コペルニクス(1473 年~1543 年)は、ポーランドに生まれ、1496 年からイタリアのボロ
ーニア大学で法律を学ぶかたわら数学と天文学、それにギリシャ語を学んだ。ポーランド
に帰ってバルチック海岸のフラウエンベルグで大聖堂参事会の委員として、天文学に取り
組むことになった。 彼は惑星の位置に関する古代ギリシャのプトレマイオスの計算を改良するという高度に
技術的な仕事にとりかかった。コペルニクスは作業をやっていて、プトレマイオスの説(地
球を中心に太陽などがその周りを公転しているという天動説)にやがて批判的になってい
った。 彼は太陽のまわりを水星~土星の惑星がまわっているという太陽中心の世界体系を考え
出し、そして地球に①自転、②年周運動、③地軸の方向を一定に保ったままの年周運動を
与えると、よりうまく説明できることがわかり、地動説を考え出した。つまり、宇宙が太
1341
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 陽を中心として回転しているという地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を
唱えはじめたのである。 彼は天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差
による見かけ上のものであると説明するなどの理論的裏づけを行っていった。ただしコペ
ルニクスは惑星が完全な円軌道を描くと考えており(彼は敬虔なキリスト教徒であり、神
が宇宙をお作りになった、その神は当然、完全無欠な円軌道をお選びになったと信じていた
のである)、その点については従来の天動説と同様であり、単にプトレマイオスの天動説よ
りも周転円の数を減らしたに過ぎないともされる(約 80 個の周転円の数を 34 個に減らし
た。実際には惑星は楕円軌道を描いていることは、この後述べるケプラーにより発見され
た)。 コペルニクスは新しい宇宙体系について、1510 年前後にはすでに構想をまとめていたよ
うであるが、出版はしなかった。彼は地動説をもとに、実際に星の軌道計算を行った主著
『天球の回転について』を出版したのは 1543 年の死の直前であった。 さて、その影響であるが、一般の人々にとって、この新説はたいしてアピールしなかっ
た。というのは、長いこと専門的天文学者以外の人々は,新説をたいして理解していなか
ったからである。常識的に「地球が動いているとすれば、この危険な惑星の台からみんな振
り落とされてしまうだろう」と指摘され、それで終わりであった。 このようにコペルニクスの新説は近代科学の序幕と呼べるものであったが、一般大衆に
はほとんどアピールしなかった。新説に対する反対は主に宗教的立場からなされた。当時
は新教徒の方が、この説に激しい反対を唱えた。それは新教の方がより聖書に忠実であり、
聖書は天動説で書かれていたからである。 たとえばルターは、コペルニクスを「地球が動いていることを説明したがっている新しが
りやの占星術師」といって「この馬鹿者は天文学全体をひっくり返そうとしている」とあざ
笑い、カルヴァンは聖書を見よとして「世界はがっちりしていて動かない」としている。こ
れらの人々は学説を理解しての反対ではなく、聖書の教えに反するといって反対したので
あった。聖書が書かれた時代は天動説の時代であるから、当然、天動説で書かれていただ
けのことであった。 その重要性がだんだんとわかってきたのは 17 世紀に入ってからであった。後述するブル
ーノたちが、コペルニクスの地動説の意味を数学的な説明ではなく、一般の者にもわかり
やすくその意味を話すようになって、はじめて地動説はキリスト教義神学に反する教説で
あることが明確になってきたのである。 1616 年、この『天球の回転について』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとら
れた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、聖書に反するとされたためで
1342
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) あった。ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後
に再び閲覧が許可されるようになった。 《ジョルダーノ・ブルーノ》 コペルニクスが逝って 5 年後に、ジョルダーノ・ブルーノ(1548~1600 年)はイタリア
のノーラ(カンパニア州、当時はナポリ王国領内)で生まれ、11 歳のときナポリに留学、
15 歳でドミニコ会に入会した。1572 年、勉学を終えると司祭に叙階された。 ブルーノは哲学を好み、さらに自ら考案した記憶術を駆使して人々を驚かせた。また、
彼はキリスト教の三位一体思想より古代の汎神論に強い影響を受けていたことがわかって
いる。ブルーノの思想に大きな影響を与えたのは、ルネサンス時代に入って再発見された
プラトン思想、およびコペルニクスの宇宙論であった。 1576 年、カトリック教会の異端審問所の追及を逃れようとナポリを離れたブルーノはド
ミニコ会を退会し、ジェノヴァに向かった。しかし同地でコペルニクス説を唱えたことを
責められてカトリック教会から破門された。 イタリア半島を離れたブルーノはフランスへ向かった。フランスでアンリ 3 世などの強
力な庇護者を得たブルーノは7年にわたって同地で活躍し、
『灰の水曜日の晩餐』
(1584 年)、 『無限宇宙・諸世界について』(1584 年)など 20 冊以上の著作を著した。そのなかのでは
コペルニクスの太陽系モデルを支持している。 1583 年、ブルーノはアンリ 3 世の推薦書を持ってイギリスに赴き、オックスフォード大
学での教授職を得ようとしたが、受け入れられず、イギリスで教壇に立つという望みは果
たされなかった。 それではブルーノの宇宙論はどのようなものであっただろうか。ブルーノは地球が宇宙
の中心ではないという点についてはコペルニクスに賛同していた。ブルーノは世界の中心
は地球か太陽かなどという議論を超越し、宇宙の中心などどこにも存在しないという立場
にたっていた。 ブルーノの在世時、コペルニクスのモデルにはまだまだ欠陥が多く、天動説の方が明快
に説明できることが多かったため、コペルニクスの説に賛同した天文学者はほとんどいな
かった。この当時(1600 年前後。日本では関ヶ原の戦いをやっているころ)、ヨハネス・ケ
プラー(1571 年~1630 年)とガリレオ・ガリレイ(1564 年~1642 年)はまだまだ若く無
名の存在だった。 ブルーノは本当の天文学者とはいえないが、もっとも早い時期に地球中心説を退けて、
コペルニクスの世界観を受け入れた著名人であった(彼のすぐれた感でむしろコペルニク
スをこえる宇宙観をもっていたようである)。1584 年から 1591 年にかけて執筆した著作の
中でブルーノは盛んにコペルニクスを擁護している。 1343
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ブルーノの主張でもっとも画期的だったものは「地球自体が回転しており、それによっ
て地球上からは見かけ上、天球が回転しているように見える」ということであった。ブル
ーノはまた、
「宇宙が有限であること」あるいは「恒星は宇宙の中心から等距離に存在して
いる」と考える理由はないとした。彼はその著作の中で惑星が天球の上に階層をなして存
在しているという説を批判した。 ブルーノの宇宙論で特筆すべきことは、地球も太陽も宇宙の一つの星にすぎないと主張
したことにあった。地球だけが特別な星であるという当時の常識に挑戦するかのように、
ブルーノは神が宇宙の一部だけに特別に心を配ることはないと考えた。彼にとって神とは
心の中に内在する存在であって、宇宙のどこかにある天国にいて地球を見ているものでは
なかったのである。 ブルーノは、四元素説(水、気、火、土)も信じていたものの、宇宙が特別な物質でで
きているのではなく地球とおなじ物質からなっているとし、地球上でみられる運動法則が
宇宙のどこでも適用されると考えた(これは現代物理学の基本)。さらに宇宙と時間は無限
であると考えていたことは、宇宙の中で地球だけが生命の存在できる空間であるという当
時のキリスト教的宇宙観を覆すものとなった。 このような考え方に従うなら、太陽も決して特別な存在でなく、あまたある恒星の一つ
にすぎないことになる。ブルーノは、太陽を惑星が囲む太陽系のようなシステムは宇宙の
基本的な構成要素であると考えた。 ブルーノの宇宙論の特徴は宇宙の無限性と同質性の提示、さらに宇宙には多くの惑星が
存在していると考えたことにあったといえる。これがブルーノの宇宙観であるが、彼は観
測などによらず、彼のすぐれた感(思考実験)で描きだしたようであり、後に述べるニュ
ートンなども彼の著作を読んでその見取り図のなかでニュートン宇宙論を展開したと思わ
れる。 このようにブルーノは時代離れした優れた考えをもっていて、その後も各地を放浪した
が、ブルーノはどこへ行っても民衆に人気はあっても、彼の思想から権威者から疎まれ、
教壇に立つことができなかった。 かつて異端審問所の嫌疑を受けたことで離れたイタリアであったが、もう安全だろうと
考えたブルーノは久しぶりにイタリアに戻った。彼の中にパドヴァ大学の数学教授になり
たいという望みが強くなり、はじめに赴いたパドヴァ大学でブルーノは就職活動を行った
が、ガリレオ・ガリレイに教授職を持っていかれてしまった。 夢破れたブルーノはヴェネツィアのモチェニゴの家庭教師を 2 ヶ月つとめた。モチェニ
ゴはどうやら異端審問所の依頼を受けてブルーノを呼んだものと考えられている。ブルー
1344
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ノは異端審問所の依頼によって 1592 年 5 月にヴェネツィアの官憲に逮捕され、ローマ教皇
庁へと引き渡され、6 年を獄中で過ごした。 彼への告発理由は神への冒とく、不道徳な行為、キリスト教義神学に反する教説であり、
ブルーノの哲学と宇宙論が問題とされた。ようやく異端審問が行われると、当時の異端審
問所の責任者であったロベルト・ベラルミーノ枢機卿(後のガリレオ裁判と同じ人物)は
ブルーノに対し、自説の完全な撤回を求めた。ブルーノは断固としてこれを拒絶したため、
1600 年 1 月に異端判決が下った。 1600 年 2 月 17 日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオリに引き出されたブルーノは火刑に
処されて命を落とした。ブルーノの著作のすべては 1603 年に禁書目録に加えられた。 その後、20 世紀になって、ガリレオ裁判と同じように、カトリック教会の歴史における
負の遺産の清算を訴えた教皇ヨハネ・パウロ 2 世のもとで、ブルーノに対する裁判過程も
再検証され、「処刑判決は不当であった」という判断が下され、ジョルダーノ・ブルーノの
名誉は完全に回復された。 《ティコ・ブラーエ》 ティコ・ブラーエ(1546 年~1601 年)は、デンマークの貴族の家に生まれた。13 歳のと
き部分日蝕をみて天文学に深入りすることになった。1572 年、カシオペヤ座に超新星
(SN1572:通称「ティコの新星」)を発見し、肉眼で確認できなくなるまでの 14 ヶ月間観
察を続け、記録を残した。このティコが「ノヴァ」と呼んだこの新星は、アリストテレス理
論が正しくないという証拠の一つとなった(アリストテレスの宇宙論では恒星は不変であ
るとされていた)。 ティコの新星に関する研究に関心を寄せたデンマーク王フレゼリク 2 世(1559~1588 年)
は、ティコの才能を認め、フフェーン島と金を与え、十分に観測するようにすすめた。テ
ィコは、この島に天文台を建設し、優れた器具を用いて、多くの助手とともに空を観測し、
多数の精密な観測データを集積した。 ところが、フレゼリク 2 世が没すると、ティコは次の王クリスチャン 4 世(在位:1588
~1648 年。のちに 30 年戦争に敗れた君主)にうとまれて、天体観測は打ち切られてしまっ
た。結局、1599 年には、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ 2 世の皇室付帝国数学官に迎えられ、
16 年間の膨大な観測結果をもって、プラハに移住した。彼の残した膨大な天体の観測結果
は、望遠鏡が使用される以前の、つまり、肉眼による天体観測としては最高の精度を誇る
ものであった。 ティコは生まれつき身体障害であり、家が貴族で裕福であったので、天文学を天職と決
め、強烈によい目と忍耐力をもって夜な夜な星座観測に打ち込んできた。また、ティコも
やがて理論的な宇宙体系がなければ、観測ができないことに気づき、1588 年に、自分自身
1345
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の体系をつくり出した。それは「太陽は地球の周りを公転し、その太陽の周りを惑星が公
転している」という「修正天動説」ともいうべきものだった。 なぜ、彼がそういう結論に至ったかというと、
(コペルニクスの)地動説が正しければ当
然観測されるであろう年周視差(地球の公転運動による視差のために天体の天球上の位置
が公転周期と同じ周期で変化して見える現象。近い恒星は遠い恒星に対して地球の位置が
変わると位置が変わって見える)が観測できなかったことから、地動説には否定的であっ
た。 やはり、肉眼での観測はここまでが限界であったとみえる。ほぼ同じ時期にガリレイが
手にした望遠鏡を彼が手にしていたならば、結果は大きく異なっていたかもしれない(年
周視差が観測できたかもしれない)。このように、人間が持って生まれた肉眼でやれる範囲
は限られているのである。逆に言うと、人間の肉眼だけでは科学技術はブラーエの段階で
止まってしまっていただろう。 彼の最後の願いは、「歴史に名を残したい」であった。ティコはプラハの北東約 35 キロ
メートルの所にあるベナトキイ城で研究を続けた。1600 年、ティコはケプラーを招いた。
これはケプラーがすでに著わしていた『宇宙の神秘』
(1596 年)を読み、ケプラーに最高レ
ベルの理論的能力のあることを知り、自分の貴重なデータを使ってティコ学説(つまり、
「修
正天動説」)を確立する目的でケプラーを助手としたのであった。ケプラー28 歳、ティコ
53 歳であった。しかし、ケプラー着任の翌年 1601 年 10 月、ティコは死に、ケプラーはた
だちに、ティコの後継者として王室算暦官として任命された。 【③ケプラー】 バトンはヨハネス・ケプラー(1571 年~1630 年)に渡された。ケプラーが受け継いだテ
ィコのデータは約 16 年にわたる火星についてのものであった。そこで,ケプラーに与えら
れた仕事は火星の軌道の計算であった。ケプラーは、その後、ティコのデータに埋もれて 4
年間にわたるデータの研究を通して、900 ページにのぼる計算を完成したあと、1604 年頃、
円軌道を捨てて卵形軌道などを経て楕円軌道へと決定的な一歩を踏み出した。 こうして試行錯誤の末、まず、「第 2 法則」(惑星は太陽のまわりを、太陽を一つの焦点
とする楕円を描いて回転する)を発見し、ついで「第 1 法則」(惑星は、それと太陽を結ぶ
仮線分が、図 13-8 のように、等しい時間内(弧AB=弧CDであれば)に等しい面積を掃
くように回転する。つまりS1=S2である)を発見し、
『新天文学』
(1609 年)に発表した。 その翌年の 1610 年に、後述するようにガリレオが望遠鏡で月や木星を見て、木星に衛星
があることを発見した。ケプラーはこの発見を高く評価した。 1346
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1618 年、ケプラーの「第 3 法則」(諸惑星の回転周期の 2 乗はそれらの惑星の太陽からの
平均距離の 3 乗と一定の比をなす)を『世界の和声』(1619 年)の中で発表した。しかし、
この第 3 法則の重要性はただちに認められたわけではなかった。 図 13-8 惑星の速度と面積速度(ケプラーの法則) ケプラー自身もこの著の序文で「私はいまや、サイを投げよう。同時代の人々のために、
また後世の人々のために 1 冊の本を書こう。いや、同時代とか後世のためとか、そんなこ
とはどちらでもいい、神も自分を観察する者を 6000 年も待たれたように、この本は 100 年
も読者を待つであろう」と述べていたが(6000 年とは、メソポタミアでの天文学の誕生以来)、
100 年でなく、70 年後にこの第 3 法則の重大な意味を解明してくれる者が現れた。それは
ニュートンだった。 これでケプラーの 3 法則はそろった。惑星の軌道を楕円と仮定するとティコ・ブラーエ
の観測した結果を説明できることが分かり、後にケプラーの法則とされた。ティコに招か
れてから 20 年がたっていた。何といってもケプラーの優れた点は、膨大な観測結果の分析
から得られた新事実、惑星は円軌道ではなく楕円軌道であるという自然の事実の発見であ
った。このように科学は観測事実のみが新しい発見をもとらすことを示した。ここに科学
の最も重要な点がある。人間はどんな仮説でも出せる。しかし、観測事実と一致しなけれ
ばならない。逆に観測データが数ある仮説のなかから事実を決めるのである。ここに科学
の本質がある。 これによってようやく地動説は、従来の天動説よりも単純かつ正確なものとなったので
ある。ケプラーの法則によって導かれる結論は、
「距離の二乗に反比例する力によって、惑
星が太陽に引かれている」という事実である。ケプラーの真の功績は、数学的な裏付けを
持った物理モデルを提出するという方法の先駆者だったところにある。結果的にこれはガ
1347
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) リレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンを経て古典物理学の成立へとつながっていっ
た。 確かにケプラーはティコとの約束を守り、ルドルフ皇帝の天文学への功績をたたえて、
1627 年にルドルフ表が出され、その後約 100 年間天文学者必携の表となった。しかし、ブ
ラーエはルドルフ表どころではなくケプラーの法則を生む基礎を作ったことで、
(死後では
あったが)彼の願い通り天文学史に名を残すことができた。彼の長期の(最後の肉眼によ
る)正確な観測データがなければ、ケプラーの法則は生まれず、ニュートンの万有引力の
法則も生まれなかったであろう。 【④ガリレオの力学と天文学】 ニュートンの前に、もう一人、天文学ばかりではなく広く近代科学の確立に重要な役割
をはたし、「科学の父」とも「天文学の父」と言われるようになったガリレオ・ガリレイにつ
いて述べよう(ニュートンはガリレオの業績をすべてマスターしていた。やはりガリレオ
なしでは,ニュートンの万有引力の法則は生まれなかっただろうから)。 ガリレオ・ガリレイ(1564 年~1642 年)は、ケプラーより 7 年早くイタリアに生まれ、 1581 年、ピサ大学に入学し、1589 年にピサ大学数学講師となり数学を教えた。1592 年 、
28 歳の時、ヴェネツィア共和国のパドヴァ大学教授となり、ここでは主に力学関係の研究
をした。後述するように天文学は 1610 年に望遠鏡をつくってから研究するようになったの
で、ガリレオの前半生は力学の創設、後半生は天文学の創設と考えてよい。 パドヴァはヴェネツィアの西 40 キロメートルにあって(図 13-1 参照)、パドヴァ大学
は今から 800 年前にでき(1222 年創設。ボローニア大学に次いで世界第 2 に古い大学)、「自
治と自由」の気風が溢れており、ヨーロッパ中から学生が集まった。ポーランドのコペルニ
クスもその 100 年前に学んでいた。 ガリレオが業績を上げることができたのは、ヴェネツィア共和国はカトリックから距離
をおいていて、パドヴァ大学では自由に研究することができるという研究環境もあった。
当時はパドヴァ大学では古代ギリシャのアリストテレスの学説が教えられていたが、ガリ
レオは自分の研究成果を講義したので、人気があり、600 人の講義室に 1000 人も集まって立
ち見がでるほど人気があった。 《力学の創造》 ガリレオは体系的な実験を行い、自らの理論を構築していった。彼は、運動に関するア
リストテレスの説にますます批判的になって、1590 年代から運動学の研究を行っていた。
アリストテレスは、重い物体は自発的運動として地上に落下するが、その場合、重い物体
は軽い物体よりも速く落下すると言っていた。ガリレオは、このようなアリストテレスの
1348
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 運動理論に疑問をもち、実験装置の工夫と精密な実験によってアリストテレスの運動論を
検証しようとした(まず、アリストテレスの理論に疑問をもち、検証しようとした者がそ
れまでいなかった)。 よくガリレオはピサの斜塔の頂上から大小 2 種類の球を同時に落とし、落下の法則を発
見したといわれるが、この有名な故事はガリレオの弟子の創作で、実際には行われていな
い。ピサの斜塔程度ではその差を正確にはかる時計はなく、やったとしても、肉眼ではわか
らない(空気の抵抗や風の影響もある)。 ガリレオは、落下速度を直接測定することは速すぎてできないので、角材で斜面をつく
り、青銅球をその斜面上の溝に落として、水時計で計時して確かめた。斜めに転がる物体
であれば、ゆっくりと落ちていくので、この程度の速度であれば、当時の技術でも計測で
き、その計測データを分析することによって法則を発見できたと後に『天文対話』や『新
科学対話』の中で述べている(このように科学では、どのような実験を設定するかが重要
になる。直接測定できない場合、工夫をこらして,別の方法で測定し、それでもって目的
のことを論証するはきわめて重要である)。 その結果、静止状態から出発した球の走行距離が、時間の 2 乗に比例して増大していく
ことに気づいた(この運動を等加速度運動という)。そこで、まず、彼は落下距離は時間の
2 乗に比例すると仮定した。それから実験を何度も繰り返し、データをとった。そこから落
下距離は時間の 2 乗に比例することを導き,その結果をまた実験により証明したのである。 こうしてガリレオは 2 つからなる落体の法則を発見した。1 つは、物体が自由落下すると
きの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2 つめは、物体が落下
するときに落ちる距離は、落下時間の 2 乗に比例するというものである。 彼はさらにこの斜面の実験で落ちていった球が,斜面の終点で水平面上を進むときの運
動を考えることにより、彼は慣性の法則に接近しており、「その運動体は、上りも下りもし
ていないその表面の長さの続いている限り運動を続ける」としている。ガリレオはこの水平
方向の等速運動(慣性)とさきの自由落下を合成して、放射体はおなじみの放物線を描い
て運動することを示した。 ガリレオは、この結果から慣性の法則、加速度の概念を発見し、力、加速度、速度、時
間、距離の関係を方程式で表わし、簡潔で美しい落体の法則を定式化した(v=gt、s
=1/2gt2)。こうしてガリレオは、落下という物理現象に数学を導入して簡潔に表現した。 放物体の運動(投擲(とうてき)運動)の研究は、当時、大砲の照準の問題と関係する
実用的な課題であった。ガリレオは、落体の法則の理論に基づいてこれを解明し、投擲運
動の軌道は放物線を描くこと、発射角度が 45 度のときに射程距離が最大になることも証明
した。このようにガリレオは理論とその応用を実地に示した。 1349
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《画期的な物理学への数学の応用》 ここでガリレオの方法は,仮説と実験結果に対して数学を併用したということはきわめ
て大きな意義をもっていた。数学を自然研究のための科学的道具として(はじめて)用い
たのである。人類は定住社会の成立【10-6-3】文字・数字の発明で述べたように、
数字を生み出し、貨幣を生み出し、数字や数学は経済面では大いに発展したが、ガリレオ
によって、はじめて(多分、もっと前からやった人はいただろうが、明確な記録として残
っていない)、数字や数学が経済分野とまったく異なった科学分野に利用されるようになり、
科学が独自に大きく発展していくことになった。これは人類の大いなる飛躍で人類の叡智
賞ものである。 この数学を物理学に応用するということで数学も発展したし(ニュートンが微積分学を
創造し、アインシュタインも相対性理論のとき新しい数学を創った)、物理学も(後には広
く科学一般も)発展した。 ガリレオが数学を物理学に応用することがなかったら、もちろん、ニュートンもありえ
なかった。科学が定性的議論に終わっていたら(つまり、数学が使われなかったら)、哲学
(自然哲学)の段階で終わっていて、現代文明は生まれていなかったであろう(17 世紀の
レベルのままであっただろう。つまり、検証できないから、人の恣意で学問が動かされる、
科学が科学にならないのである)。 《科学の再現性(検証)は科学の生命》 ガリレオは斜面による落体の法則の発見のように同一の実験をうながして検証させるこ
とによって、自説の正しさを証明するという手段をとった最初期の科学者であった。ただ
し、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもウイリアム・ハーヴェー(後述)、
ウィリアム・ギルバート(後述)などがいる。また、ガリレオは自著の中でたびたびギル
バートに言及している。このようにして、誰がやっても(ただし、実験の条件を同じにし
なければならない)同じ結果が出るという科学の再現性、あるいは検証という行為が科学
の生命であることがガリレオなどによって確立されていったのである。 《それに考える自由が不可欠》 ガリレオは近代力学を生み出した天才だったか、それとも近代力学は時代の流れでガリ
レオでなくても自然に生み出されるものであったか。それはコペルニクスやギルバートな
どいろいろな研究者が出て、時代が熟していたときに(科学的知見がたくさん蓄積されて
きて)、ガリレオのような人間が現れ、パドヴァのような「誰にも考える自由がある、誰に
もそれを表現する自由がある」という環境におかれたときには、飛躍が生まれるということ
を教えている。 1350
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) これからの科学の歴史のなかで(ニュートンでも、マックスウェルでも、アインシュタ
インでも)、たびたび再現されることであるが、時代が熟して、いろいろなことがわかって
くると、そして、「誰にも考える自由とそれを表現する自由」があれば、誰にでも飛躍のチ
ャンスがあるということが人類の永遠の真理であることを示している(もちろん、ニュー
トンも、マックスウェルも、アインシュタインも天才であったことは確かだが)。 《ガリレオと天文学》
彼が天文学者となっていった直接のきっかけはティコの場合と同様に、新星の観察(1604
年)であった。この新星の出現に関して,彼はアリストテレス流の説(天は不変で,変化
界は月より下の世界で起きるから、新星もこの範囲のものとされた)に反対して、新星は
惑星界の彼方の恒星の間にあると考えた。しかし、彼がほんとうに天文学に入っていった
のは、オランダでの望遠鏡のニュースを耳にした 1609 年以降のことであった。 1609 年 5 月、オランダの望遠鏡の噂を聞き、ガリレオは屈折理論にもとづいて、ガラス
を磨きレンズを工夫して作り、自分で望遠鏡を作り上げた。30 倍にみえる望遠鏡を天空に
向けたとき(1610 年初め)、新たにみえる星の数の多さに驚いた。彼の手書きの『星界の報
告』
(1610 年)が現在のフィレンツェ中央図書館に残っている。ただちに天の川の本性を知
り、「銀河は無数の星が群れをなして集合している」と述べている。これは肉眼ではけっし
てわからないことだった。 このように望遠鏡の威力は絶大だった。科学はまず、肉眼で丹念に観察するところから
始まったと述べたが、それでは限界があった(ティコのレベルが限界だった)。つぎに肉体
(肉眼)の能力をおぎなう道具を作ることが科学を進歩させた(これは人間の計算力の限
界をコンピュータが破ったと同じことである)。 ガリレオは月に望遠鏡を向けながら、月のスケッチをした。「山や谷があって、地球とな
んら変わりがない」と書いている。続いて木星に向けた。木星のまわりの 4 つの小さな星を
調べた。その数が 3 つになることもあって、木星のまわりを回っている衛星であることに
気がついた。、「木星は地球と同じ月を持っている」そして太陽のまわりを大きく回っている
と気がついた。 次に金星を数ヶ月観察した。満ち欠けをしていることを発見し、スケッチしているが満
ちると小さくなっていく様子から金星が太陽の回りを地球の内側で回っているからだと考
えた。さらに、ガリレオは望遠鏡での観測で太陽黒点を観測した最初のヨーロッパ人とな
った。形や位置を変える黒点は、天は不変で、月より遠い場所では永遠に変化は訪れない
とする天動説には不利な証拠になった。 このように、ガリレオは、洪水のようにあふれ出る発見を『星界の報告』
(1610 年)とい
う小冊子に著わした。この自分の望遠鏡を使って自分の目で月や木星(及びその衛星)を
1351
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 見て、主にこれら 3 点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が
正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。 ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊し、ガリレオを擁護した。このころはケプ
ラーも第 1,第 2 法則を発表し名が知られるようになっていた。 1613 年 『太陽黒点論』
を刊行した。 1613 年頃、2 人の娘を修道院に入れた。当時の大学教授は聴講にきた学生から直接学費
をもらう方式であったが、彼は実験道具を製作する費用も多くかかっていた。ガリレオの
家計簿がわかっているが、彼の家庭は決して豊かではなく、彼は 3 人の子供をかかえてか
なり苦しい生活をしていた。いろいろな発明もして、たとえば、自分で作った望遠鏡などを
売ろうとしたがあまりうまくいかなかった。 ◇1 回目の宗教裁判 1615 年、地動説をめぐりドミニコ会ロリーニ神父と論争となった。ガリレオは 2 回宗教
裁判を受けることになったが、これが第 1 回目のものだった。ガリレオが地動説について
言及しはじめると、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたも
の)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズ
ス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿(ブルーノ裁判を行った異端審問所の責任者と同一
人物)であった。 ベラルミーノはガリレオをフィレンツェからローマに呼び出した上で無罪の判決を下し、
署名入りの判決文をガリレオに手渡した。教会の布告は教会の敷地内でのみ有効であると
いう解釈だった。神や天地創造と地動説を結びつける発言をしなければ問題はないという
意味であった。ベラルミーノはこの直後、他人を刺激するような言動は控えたほうがよい
と、友人として忠告した(ガリレオとベラルミーノはかねてからの知り合いだった)。 この直後、1616 年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペル
ニクスの『天球の回転について』は一時、閲覧禁止の措置がとられた。この後、コペルニ
クスの著書は、単に数学的な仮説であるという但し書きを付けて、教皇庁から閲覧が再許
可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。 1623 年にフィレンツェでの友人で保護者でもあったマッフォ・バルベリーニ枢機卿が教
皇に選出されウルバヌス 8 世(1623~1644 年)となった。ガリレオは翌年、ウルバヌス 8
世を表敬訪問し丁重にもてなされた。万事がうまく運ぶかにみえたが、コペルニクス説の
禁止は解かれなかった。 ただし、ガリレオは潮汐の理論に関する著作の出版許可を得る気になり、教皇にその概
要を申し出た。教皇の神学顧問の検討も行われ、地球の回転は単なる仮説であること、そ
1352
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) して、いかなる宇宙体系も地上の実験や天体の観測では物理的に証明しえないことを明記
することという条件つきで、出版は認可された。 1631 年、娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に一人で住む
ようになった。 ◇2 回目の宗教裁判 1624 年から 1630 年にわたる断続的な研究の結果、1632 年 2 月に有名な『プトレマイオ
スとコペルニクスとの二大世界体系についての対話』が世に出た。簡単には『天文対話』
と呼ばれるこの書はシンプリチオという名のアリストテレス信奉者、ヴェニスの紳士ザグ
レド(実際にはガリレオの昔の親友であった)、それにガリレオ自身の代弁者サルヴィアチ
の 3 人による対話形式をとっており、反対の意見には著者がコミットしなくてもすむよう
に工夫されていた。この書は、天動説と地動説の両方を、あくまで仮説上の話として、そ
れぞれを信じる 2 人による対話によって紹介する形をとり、地動説のみを唱えて禁令にふ
れることがないよう、注意深く書かれていた。 対話は 4 日間の形に分けられており、機知に富む論争のもとに 2 つの説に対する支持と
反対の論争が述べられているが、大部分はアリストテレス物理学への攻撃でありコペルニ
クス説に合致する地動説擁護の書であった。 また、この本はラテン語ではなくイタリア語で書かれ、ローマ教皇に捧げられていた。
ガリレオは熱心なカトリック教徒であり、実際のところ、カトリック教会を批判するよう
な気は全くなかった。彼は、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、そ
の説に全面的に賛同すると書かなければ(あくまで仮説の議論として書けば)問題はない
と考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与
えた。 『天文対話』は、1632 年 2 月、フィレンツェで印刷、発行された。この『天文対話』は
賞賛をもって迎えられ、たちまちのうちにイタリア中にひろまり、国外にも現れた。 しかし、ウルバヌス 8 世は,『天文対話』の内容を知って、ガリレオは自分をだましたの
だとして烈火のごとく怒ったといわれている。1632 年 8 月、この書の販売が禁止され、10
月ガリレオはローマ教皇庁の検邪聖省(異端審問所)に出頭を命ぜられた。 前述したように、ウルバヌス 8 世は、1616 年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友で
もあったバルベリーニ枢機卿であったので、ガリレオは気安く考えていたところもあった
ようだが、教皇の保護はいっさいなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプ
リチオ(「頭の単純な人」という意味)は当時の教会の立場の意見(天動説)を持っており、
シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じ
たともいわれている。この説には物証がないが、当時から広く信じられていた。 1353
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については
教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱した
ことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス 8 世が手のひらを返したようにガリレオ
を非難するようになった要因とされている。そして結果的にはガリレオ裁判に於いて、ガ
リレオを異端の徒として裁かせる結果につながったようである。 いずれにしても、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。 ガリレオは病気で 69 歳と年老いており、目もほとんどみえなくなっていたが、トスカー
ナ大公がかつぎ輿を提供してくれたこともあり、1633 年 1 月彼はペスト流行中 320 キロメ
ートルの道のりをローマに向かった。 容疑は、1616 年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもか
かわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。裁判で、ガリレオは
ベラルミーノ枢機卿の前回の無罪の判決文を提出して反論した。しかし、検邪聖省は、
(前
回の裁判で)ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記
録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった。 しかし、この 2 回目の裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた判
決文は無効とされた。第 1 回の裁判の担当判事ベラルミーノは 1621 年に死去しており、無
効の根拠を覆すことはできなかった。この結果、ガリレオは有罪となった。 検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオの
持つ無罪の判決文には教えることの是非についての記載はなかった。裁判ではこの命令が
実際にあったという前提で進められた。1533 年 4 月から 6 月にかけて尋問が行われ、絶対
服従を強いられた。 そして、1533 年 6 月 22 日、ローマの中心に立つミネルヴァの聖マリア聖堂にある大きな
会堂において、居並ぶ枢機卿たちの前にひざまずき「私ことガリレオ・ガリレイ 70 歳は、
地球は世界の中心でなく動くという偽りの説と異端を放棄し、のろい、忌み嫌うことを誓
います」と宣誓して、コペルニクス説破棄を承服した。 ガリレオはこの時は「それでも地球は動いている」とは声を出しては言わなかった(心の
中で、つぶやいたであろうが)。このときは数ヶ月にわたる圧力で精神的に混乱し彼は廃人
のようであった。ローマ教会はガリレオの自説撤回をヨーロッパ中に公表し、人間を変節
させる力を誇示した。 ガリレオはローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡されたが、直
後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑された。その後一生、監視付きで、散
歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。
『天文対
1354
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 話』は禁書目録に載せられ、1822 年まで撤回されなかった。死後も名誉は回復されず、カ
トリック教徒として葬ることも許されなかった。 《ガリレオが生み出した科学の神髄》 その後、ガリレオはフィレンツェ郊外のアルチェトリの家に帰ることを許可された(た
だし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。彼にはまだ、やるべきことが残っていた。 アルチェトリの農園の家に帰ったガリレオは、蟄居(ちっきょ)の身ではあったが、ここ
で力学と運動に関する著作を書いた。 1634 年、ガリレオを看病していた修道院の長女マリア・チェレステが死去した。ガリレ
オは 1637 年、片目を失明し、翌年、両眼を失明した(太陽観測が災いしたといわれている)。
以後、口頭筆記は弟子のトリチェリ(トリチェリの真空実験で有名)が行った。 晩年、振
り子時計を発明し、図面を息子ヴィンツェンツィオに書き取らせた。 1638 年、ついに力学と運動に関する著作を完成した。この『新科学対話』には、彼が生
涯をかけて見出した様々な法則を書き記していた。ガリレオの原稿が何者かによって持ち
出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されてしまったということにして、
アムステルダムで出版された。 「重要なことは、広大な科学への道を開くことであり、私のしたことは、ただ、その端緒
に過ぎない。やがて私より優れた新鋭たちが次々に現れ、この道を通ってさらに奥深くま
で真理を探究していくだろう」と記していた。1642 年、ガリレオはアルチェトリにてその生
涯を終えた。享年 77 歳だった。彼の言葉どおり、この年にイギリスにニュートンが生まれ
た。 いつでも誰でも、実験や観測をすれば、自分の目で確かめられること、実験で再現でき
ること、自分の目で確かめられることが真理である、この考え方こそ、ガリレオが生み出
した科学の神髄である。これがガリレオによって確立されたから、現代の世界がある(本
当の科学が誕生してから、まだ、400 年ばかりしかたっていない)。 400 年後の 1971 年、アポロ 15 号の宇宙飛行士は月面で、ガリレオが述べた「自由落下の
法則―真空なら鉛の玉も毛糸も同時に落ちる」を実験した。ハンマーと鳥の羽を同時に手か
ら離したら同時に月面に落ちた。宇宙飛行士は「ガリレオは正しかった」と叫んだ。 1992 年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ 2 世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、
ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に 350 年後のことであった。 【⑤ニュートンによる近代科学の完成】
1355
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) さて、いよいよニュートンの登場である。ニュートン(1642~1727 年)は、ガリレオが
亡くなった 1642 年、クリスマスの夜にイングランドの東海岸の小村落ウールスソープに生
まれた。 1661 年 6 月聖職者になるためにケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学した。当時大
学での講義はアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンはデカルトやガリレオ、
コペルニクス、ケプラーといった物理学者の著書を好んで学んだ。 ケンブリッジにおいて 1663 年に開設されたルーカス数学講座の初代教授にアイザック・
バローが赴任してきた。バローは数学者であり、ギリシャ語をはじめとした語学の大家で
あり、光学の研究者であり、イギリス国教のもっとも重要な聖職者でもあった。彼はニュ
ートンの鋭敏な精神と知的才能を見出し,世間離れしたニュートンの人柄にも好感を覚え
た。彼はニュートンの思想にも大きな影響を与えた。 バローのもとでニュートンの心に火がついた。バロー赴任の翌年、奨学生にえらばれた
(1664 年)。このことが聖職者の道を捨てて、アカデミックな生活を送ることにつながった。 バローとの出会いによってニュートンの才能は開花し、1665 年に数学の二項定理を発見、
さらに微分および微分積分学へと発展することになった。1667 年、
『無限級数の解析』を書
いた(刊行 1671 年)。また論文『流率の級数について』を発表した。 この頃、デカルトの新幾何学を読み始め、コペルニクスの理論についてのノートはすで
につくられていた。同時に,バローに従って光学の理論と実験にも関心を寄せていた。ケ
プラーの『光学』を読み、刺激されてのちに反射望遠鏡を仕上げることになった(1668 年
頃)。 ○1668 年、奇跡の年 学位を取得した頃(1668 年)にロンドンでは腺ペストが大流行し、その影響でケンブリ
ッジ大学も閉鎖された。このときロンドンでは 5 分の 1 がその犠牲になり、死体を埋葬で
きる健康な人も少なくなっていた。8 月、ケンブリッジの大学もペストで閉鎖された。 故郷のウールスソープへと戻ったニュートンは、その後 2 年間この地で微分積分学、光
学、万有引力(ニュートンの 3 大発見といわれている)などの研究に没頭した(5 分の 1 も
死ぬような中で平常心で思索に没頭した)。この 1 年半ほどの間にニュートンは彼の主要な
業績を発見および証明しており、この期間は「創造的休暇」とも称されている(天才とい
う言葉があるとしたら、まさにニュートンのこの時期であり、奇跡の年ともいわれている)。 この奇跡の年にニュートンは何をどう考えたのであろうか。ケプラーは、太陽を中心と
する惑星の運動法則を発見したが、太陽と惑星との間に働く力、すなわち引力の説明がな
いため、その法則を数学的に証明することができなかった(ケプラーは、惑星の運動を惑
星の磁力によるものと考えた)。ガリレオは、落体の法則を発見したが、落体の法則の前提
1356
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) である重力の存在にきづかなかった(数式にはしていた)。このため、落体の法則を天体の
運動に適用することができなかった。ケプラーとガリレオに欠けていたのは、物体間に働
く力、引力であった。 この当時まで、ある物体が他の物体に作用する(力を及ぼす)ためには、2 つの物体の間
に力を伝達する物質が必要であると考えられていた。アリストテレスはこの考えを根拠に、
惑星天球はエーテルからなり立っていると考え、真空を否定した。デカルトはこの考えを
引き継ぎ、太陽の周囲には充填されたある物質の巨大な渦巻きがあり、この渦巻きの渦動
によって惑星が太陽の周りを回転するという渦流(渦動)理論を主張した。しかし、一方、
磁力は伝達物質がなくても作用する。磁力が羅針盤に応用され、地球磁場が発見された。
この結果、地球は巨大な磁石であると考えられるようになった。 このようなこの時代までのあらゆる研究の成果はニュートンの頭にインプットされてい
た。さあ、これだけの事実がニュートンの前にならべられた。そのいくつかは事実でなく、
誤りである。それをどう解釈して、矛盾なく説明できるか。その仮説を数式で説明できれ
ば誰でも納得する。そして、そのニュートンの頭から、ニュートンは引力を引き出した。 ニュートンはあらゆる物体間に働く力、すなわち、万有引力に基づいて、物体の運動を 3
つの法則に定式化した(厳密な定式化には、その後時間がかかったと思われるが、基本的
な考えは奇跡の年にできあがっていたようである)。第 1 法則は慣性の法則、第 2 法則は運
動方程式、第 3 法則は作用・反作用の法則である。 ニュートンはケプラーの第 3 法則に運動方程式を適用することによって、万有引力の法
則を定式化した(そのような意味でケプラーの第 3 法則が決定的に重要だった。それはテ
ィコの正確な観測データが決定的だった。ということは自然の中の事実(法則)をつかみ
取ることが決定的に重要だということである)。万有引力の法則は「2 つの物体間に働く引
力は、2 つの物体の質量に比例し,2 つの物体間の距離の 2 乗に反比例する」という法則で
ある(F=G・Mm/r2である)。このとき、ニュートンは力学研究を通して微積分法の
原理を発見した。微積分法によって運動方程式は、任意の力が作用する場合の運動を解明
できる完成した理論となった。 以上のような思考を行なって、ニュートンは地球上の運動と天体の運動を一つの方程式
で説明し、アリストテレスの自然学に代わる物理学の体系を構築したのである。 彼はケプラーの学説とガリレオの学説を同じ法則で説明できることを示し、地球に関す
る法則と天体に関する法則を、はじめて一つの体系にまとめ上げることに成功した。その
ために今日の微分積分法のもとになった新しい数学を考案し、それを物理学の諸現象に応
用して、運動中の物体の位置を計算することに成功したのである。しかし、彼はその内容
を 1687 年まで 20 年近く公表しなかった。 1357
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ○近代物理学の誕生 奇跡の年の翌年の 1669 年、バローは神学の研究に専念することもあって、ルーカスの数
学教授職をニュートンに譲った。ニュートン 27 歳のときである。彼の最初の講義題目は光
学に関するものであった。ニュートンは光学の分野でのいろいろな研究を行ない、光の粒
子説に到達した。これはこれで重要な説であったが、ここでは省略する(なお、光の粒子
論と波動論があって、その本性の研究と論争はその後もずっと続く科学の大テーマであっ
た)。 1671 年、ニュートンが発明したニュートン式反射望遠鏡が、王立協会で有名になり、1672
年 1 月、王立協会の会員に推薦された。 1680 年頃には物体が引き合う力は距離の 2 乗に反比例するという考え方は広まっており、
フック、ハレー、レンといった王立協会の会員は、この逆 2 乗の考え方はケプラーによっ
て発見された惑星の楕円軌道に帰着するものと推測していた。しかし、誰もその数学的証
明を与えられなかった。 そこで,1684 年、エドモンド・ハレー(1656~1742 年。ハレー彗星の軌道計算を行い 1758
年に回帰することを予言したことで有名)が、意見を聞くためにケンブリッジのニュート
ンを訪ねた。ところがハレーが驚いたことには、ニュートンはそれより数年前に楕円軌道
に関する逆 2 乗の数学的証明をしていたというのである。しかし、証明を書きつけておい
た紙をしまい忘れていたことを知り、ハレーは後日送ってもらうことを約束して帰り、
『運
動について』(1685 年)が公表された。 ハレーは、これは画期的なことと思い、ニュートンに運動論全体についてまとめて出版
するように説得した。ニュートンもその気になり、それからニュートンは 18 ヶ月かかって、
まさに寝食をを忘れて執筆したのが『プリンキピア』
(完全な表題は『自然哲学の数学的原
理』1687 年)であった。このプリンキピアの刊行をもってニュートンの研究者としての業
績は終了した。 この中で万有引力の法則と、運動方程式について述べ、地球と天体の運動を初めて実験
的に示し、太陽系の構造について言及した。また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に解
明し、天体の軌道が楕円、双曲線、放物線に分かれることを示した。(古典)数学を完成さ
せ、(古典)力学(ニュートン力学)を創始した。観察と計算によって発見した法則をたっ
た一つ用いるだけで、これほど多くのことを説明できるという事実は、新しい科学の無限
の可能性を見せつけるものだった。 (古典)力学は自然科学・工学・技術の分野の基礎となるもので近代科学文明の設立に
与えたその影響ははかり知れない(ここで「古典」をつけたのは,20 世紀のアインシュタイ
1358
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ンの相対性理論の発見によって、力学が書き換えられたが、それ以前の力学という意味で
ある)。これによってニュートンは近代物理学の祖と言われている。 【⑥新しい科学の方法論】 科学の世界に新しい動きが起こったのは、17 世紀になってすぐのことであったが、それ
はヨーロッパで生まれた新しい方法論に基づくものであった。つまり、体系だった実験を
通して自然を理解し、さらには操作する方法をみつけだそうという動きが起こった。 ガリレオの前にも、ウィリアム・ギルバートやウイリアム・ハーヴェーが、そのような
手段をとった科学者であったと述べた。 ○ギルバート ウィリアム・ギルバート(1544 年~1603 年)は、イギリス・エセックスに生まれ、1569
年にケンブリッジ大学で医学博士号を得て、1581 年にはロンドン王立医科大学のスタッフ
となり、1600 年、エリザベス 1 世の侍医の一人に任命され、女王の前で磁石の実験をして
みせた。 それ以前にギルバートは航海に使われるコンパスに関心を寄せ、医師としての仕事のか
たわら、約 20 年にわたって磁石についての実験を行った。それらの実験的事実に基づいて、
『磁石について(磁石及び磁性体ならびに大磁石としての地球の生理)』(1600 年)を著わ
した。この書において、天然磁石とその性質についての系統的研究は、地球自体が一つの
天然磁石であるという彼の偉大なる仮説と磁気をおびた物体は引き合うという一般理論に
もとづいて展開されている。コペルニクスの地動説を早くから受け入れ、惑星の公転や自
転は磁気的な引力に起因するものと考えた(これは誤っていたが)。 地球は巨大な磁石であり、そのことが、方位磁針が北をさす原因であること、鉄が磁石
によって磁化されること、磁化された鉄を赤熱すると磁力が失われること、などを実験に
よって示した。 この『磁石について』は、イギリス歴史上はじめての、近代的な形式で著わされた科学
論説書であり、科学革命へ至る道の第一の里程標であった。その序文で,「この書を真の学
者、すなわち文献ばかりでなく実地に知識を求める人々に贈る」といっているように,ギル
バートの見解は論証と実験を用いて示されており、その経験的帰納法的研究方法はケプラ
ー、ガリレオ、フックらに影響を与えた。たとえばケプラーは、自分が最も恩恵をこうむ
った 3 人の人物の一人にギルバートをあげているし、ガリレオは『天文対話』の中で,ギ
ルバートについて述べている。 ギルバートはこれらの研究に 5000 ポンドもの私財を投じたとされている。琥珀を示すギ
リシャ語名エレクトロンからエレクトリシティ(電気)という言葉を初めて作った。CGS 単
1359
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 位系における、磁位・起磁力の単位ギルバート[Gb]はウィリアム・ギルバートの名にちな
んでいる。 ギルバートの静電気、磁石の研究は、実験を用いた近代的な科学の先駆けとして、その
後の科学者に多大な影響を及ぼした。 ○ハーヴェー 実験的生理学において、ガリレオにも匹敵する重要な仕事を行ったのは、ハーヴェーだ
った。 ウィリアム・ハーヴェー(1578 年~1657 年)は、イギリス・フォークストンに生まれ、
ケンブリッジ大学に学んだのち、イタリアのパドヴァ大学で解剖学者ファブリキウスに師
事して医学の学位を取得した。パドヴァでは、ヴェサリウスのあとを一代おいて、ファブ
リキウスが継いで,解剖学を教えていた。 ファブリキウスはとくに静脈を研究しており、ハーヴェーが到着して間もなく『静脈の
弁』という研究を発表している。ファブリキウスは発生学の研究もしていた。ハーヴェーは
ファブリキウスに師事し彼の助手の一人として研究した。ファブリキウスは、静脈の弁が
心臓の方に向いていることに気づいており、血液の流れを説明するのに水道給水の原理を
援用した。 1602 年パドヴァの学位をたずさえて,帰国したハーヴェーは、ロンドンのセント・バー
ソロミュー病院の医師として実務につき(1609 年)、すぐに頭角をあらわした。エリザベス
女王の侍医の娘と結婚し、彼自身もジェームズ 1 世とチャールズ 1 世の侍医となった(1618
年と 1625 年)。フランシス・ベーコンも彼の患者であった。 彼は王立医科大学で講義をし、また、パドヴァで手がけた研究を続けた。この時期に、
心臓と血液の運動をより詳しく知るために、80 種類にのぼる動物の解剖を行った。この成
果をまとめて出版したのが『心臓と血液の運動に関する解剖学的論文』(1628 年)である。 この中で、まず心臓の運動をとりあげて論じたあと、血液は「右心室→肺臓→左心室」と
肺循環することを主張し、さらに,血液の流量を思索または実験によって計算し、血管の
止血、血管の切断などの実験により体循環を証明した。静脈内の血液の流れは、いつも心
臓に向かっていることを、静脈に沿って指をあてて押さえることで示した。そして、「すな
わち動物においては、血液は不断の巡回路をめぐって一種の循環運動によって押しやられ
ている。そして、これこそは、心臓の活力、あるいはその機能であって、これ(循環)は
心臓の拍動の力によって実現するものである」と結論を下している。 この血液循環説は、血液は心臓から出て動脈経由で身体各部を経て静脈経由で再び心臓
へ戻るという説であるが、この現代の人間にとって当たり前とも思える血液循環の仕組み
は、この説をハーヴェーが唱えるまでは人類に知られていなかった。 1360
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 前述したように医学の分野では、古代ギリシャのガレノスによって現在とは異なる内容
の生理学理論が集大成されていた。それにより 1600 年代初頭の段階でも、通気系なるもの
が、空気由来の動脈血を全身に運んでおり、栄養配分系なるものが栄養を運んでいる、と 2
系統に分けて考えられていた。肝臓で発生した血液は人体各部まで移動し、そこで消費さ
れるとされ、循環は想定されていなかった。 この血液循環説が発表されたら、激しい反論を呼んだ。特に、アリストテレスの説を信
じる学者からの否定意見が多かった。しかし、彼のとった実証的な態度は、ガリレオらに
よりさらに豊富な事例が積み重ねられ、さらには、彼のことを知っていた王立協会の人々
に受け継がれ実験科学の基盤が築かれて行ったのである。 1642 年に勃発したピューリタン革命に際し、ハーヴェーはステュアート朝(王党派の側)
を支持した。そのため、王党派の敗北が決定的になるとロンドン郊外に退いた。 同説発表の 21 年後の 1649 年に、反論に対する再反論の冊子をハーヴィーが発行した。 そ
の後、血液循環説は多くの人々によって様々に実験・検証され、その正しさは次第に受け
入れられることになった。また、この血液循環説が後に心臓や血圧の正しい理解へと繋が
ることになったが、その循環の仕組みが本格的に解明されたのは、前述した顕微鏡によって、
血液が血管を流れていく様子(毛細血管を含めて)を実際に観察することができるように
なってからのことであった。 ○フランシス・ベーコンと帰納法 実験や観測によって確実な知識や自然の法則を把握しようとする経験論はイギリスで展
開された。初め、経験論は自然の理解を課題としたが、次第にその関心は自然を理解する
人間の能力に移り、「知ること」を哲学的に考察する認識論を生み出した。 イギリス経験論の祖となったフランシス・ベーコン(1561~1626 年)は、経験を重視する
中世以来のイギリスの学問的伝統と、ルネサンスの科学・技術の発展を踏まえて、近代的
な経験論を展開した。 フランシス・ベーコン(1561~1626 年)は、イギリスのジェームズ 1 世のとき、1618 年
に大法官にまで登り詰め、その後、ロンドン北郊に隠居し、若い頃から気にかけていた哲
学(当時の哲学は今の科学も含んだものだった)に取り組んだ。残された 5 年余り、旺盛
に著述にとりくみ、新しい学問とその方法を打ち出した『新機関(ノヴ・オルガヌス)』や
『随想集』『ニュー・アトランティス』などを著わした。 ベーコンは「知は力なり」という言葉とともに知られ、彼の主張の核心が簡潔に表明され
ている。彼によれば,真の知識とは、人間の生活を改善し人類に幸福をもたらす力をもつ
ものである。この意味で「人間の知識は,人間の力と一致する」。いいかえれば,知識を獲
1361
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 得することによって、人間は自然を征服するための力を増大させていくのである。ここに、
自然は人間を幸福にするための道具・手段であるという発想が見られる。 ベーコンによれば、中世の学問は事実を軽視し、論理を過剰に重視したので、空理空論
をもてあそび(スコラ哲学の『神学大全』を見よ),人間の現実生活になんらの貢献をする
こともできなかった。ベーコンはこのような中世の学問の不毛性を打破して,学問の性格
と方法を検討して,新しい学問を樹立することをめざした。 では、その自然を正しく解明する方法として、彼は中世のスコラ学的な議論のように一
般的原理から結論を導く演繹法よりも、現実の観察や実験を重んじる「帰納法」を提唱し
たが,その前提として、主な著作の『ノヴム・オルガヌム(新機関)』において、人間の陥
りやすい偏見、先入観、誤りを 4 つのイドラ(幻想・幻影ないし偶像。人間が抱いている
偏見のこと)として指摘し、このイドラを排除しなければならないと説いている。 そしてベーコンはこうようなイドラをとりのぞき、自然についての正しい解明を可能 にし、経験的に確認できる自然法則の確立への道を準備するものが、新しい学問の方法・
機関(ノヴム・オルガヌム)=「帰納法」であるとした。つまり、帰納法とは、観察や実験
によって得られる多くの事例から、基礎となる原理や法則を見出そうとする方法であると
いえる。 ベーコンはさらに通則的帰納法、すなわち身近な少数の事例から単純に普遍的法則を結
論するのを防ぐ方法を述べている。まず、観察や実験によって得られた事例を蒐集する。
つぎに、これらの事例を整理し秩序づけ,事例の一覧表をつくる。それは、ある性質が存
在する肯定的事例の「存在表」、その性質があらわれない否定的事例の「欠如表」、その性質
が状況によって変化する場合を示す「程度表」の 3 つである。この 3 つの表を見ながら、偶
然的で本質的でないものをしだいに排除する方法(排除法)を用いて一般的結論を引き出
すというものである。 しかし、集められた事例はすべてをつくしていないし、排除も完全ではないから、この
結論をさらに悟性によって批判・検討しなければならない。このような過程をへて普遍的
法則は発見される。このような方法がベーコンの説く帰納法である。 ベーコンは、それまでの思弁的(観念的)な法則から物事を演繹する方法に代って、観察
と実験からの帰納という方法論を強く主張し、帰納法に基づく自然研究を提唱し、経験論と
いう立場を確立した。 ○ルネ・デカルトと演繹法 イギリスのベーコンが帰納法を確立したのに対し、フランスのデカルト(1596 年~1650
年)は、すべてを疑い(方法的懐疑)、「われ思う、ゆえにわれあり」という確実な真理に到
達し、この絶対に確実な前提から,論証によって真理を導く演繹法を確立した。 1362
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 彼の主著『方法序説』の冒頭は「良識はこの世で最も公平に配分されているものである」
という文で始まるため、思想の領域における人権宣言ともいわれている。ここで「良識」と
は、「よく判断し真なるものを偽なるものから区別する能力、すなわち理性のこと」である。 彼によれば、人々の間には生まれつき記憶力のすぐれた人や劣る人、想像力に富む人や
乏しい人などがいるが、良識(理性)はすべての人にもっとも公平に分配されている。と
ころが、人間がまちがったり、迷ったりすることが多い。それは,人々が理性を多くもっ
ていたとか少ししかもっていなかったということによって生じるのではなく、理性を正し
く用いることを知らないことから生じることであるとした。デカルトはこうして理性を正
しく用いることが重要であることを指摘し、その方法を論じたのである。 以下、『方法序説』に沿って述べると(自伝的に第 6 部まである)、第 1 部は,デカルト
は学校で語学・歴史・雄弁・詩歌・数学・神学・スコラ学・法学・医学などの全課程を修
了し、有益な学問ではあるがどれも不確実で堅固な基盤を持っていないことが分かり、文
字の学問をすっかり、なげうつことにした、と語っている。 第 2 部では、デカルトが会得した方法論を述べている。デカルトは数学を学問の典型と
みなし、哲学(当時の哲学は自然科学も含む)も数学と同じように明白で普遍的な認識の
体系でなければならないと考えた。そこで,絶対に確実な真理をもとめるために、あらゆ
ることを「疑う」ことから始めた。これが、「方法的懐疑」である。 デカルトは、方法的懐疑によって確立された理性を原理として、世界(神・人間・自然)
を論理的・数学的に証明することは可能であり、それには厳格に定義された言葉(範疇、
カテゴリー)が必要だと考えた。この厳格な定義を明晰判明という。
デカルトは,理性を原理として明晰判明な言葉によって、数学の証明のように、世界のす
べてが証明できると考えた。この原理を公理(定理や命題の証明の前提となる根本命題で、
証明を必要としない自明の事柄)として、定義された言葉や記号によって自然現象などを
論証する方法を演繹法という。
そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しう
るという還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の 4 つの規則を定めた。 ①明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れないこと(明証)。 ②考える問題を出来るだけ小さい部分にわけること(分析)。 ③最も単純なものから始めて複雑なものに達すること(総合)。 ④何も見落とさなかったか、全てを見直すこと(枚挙 / 吟味)。 という方法論を述べている。
1363
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 以上、デカルトは、当時の保守的思想であったスコラ哲学の教えであるところの「信仰」
による真理の獲得ではなく、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこ
うとする哲学者であり数学者であった。デカルトは「近代哲学の父」と称されている。 《デカルトの「機械論的自然観」》 デカルトは、また、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、
抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること
(運動量保存則)など、
(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されると
いう力学的な法則の支配する客観的世界観を持っていた。 デカルトは『哲学原理』で「職人が作る機械と自然が作る物体のちがいは,前者の形状や
運動が肉眼で見えるほど大きいのに対して、後者の物体をつくる管やバネが肉眼で見えな
いほど小さいということだけであり、作用はそのどちらも力学的である」として、人工物と
自然物の区別をとりはらい「力学のうちの理論で自然学にも属さないものは何もない」と断
言している。 また、「人体は,神の手によってつくられたので,人間がつくり出しうるどの機械よりも、
比較にならぬほどすぐれた秩序をもち、かつ見事な運動をなしうるところの機械の一つ」と
みなしたのである。ケプラーやガリレオも宇宙を一つの巨大な機械として認識したが、宇
宙だけでなく人間や生物も機械とみたてて、それが力学の法則で動いていると考えたデカ
ルト以後、この「機械論的自然観」が大きく発展して、科学に大きな影響を与えた。 ○ニュートンの近代科学の定式化 コペルニクス、ケプラー、ガリレオなどが天文学で行なってきたことを集大成したニュ
ートンは科学の方法について次のように定式化した。 まず、観察や実験を通して一般的な結論を導き出す。次に、導き出された一般的な結論
を原理と仮定し、この原理によって諸現象を説明する。そして、その説明の正しさが証明
された場合には一般的な結論を原理とする。一般的な結論を求める方法は帰納法、仮定し
た原理によって諸現象を説明する方法は演繹法(えんえきほう)とよばれるが、ニュート
ンは両者を統一し、それを科学の方法として確立したのである。 ニュートンによって確立された科学の方法は、観察や実験に重きを置くものであるが、
その観察や実験は次の条件を満たすものでなければならないとした。 第 1 は観察や実験によって導き出す結論を事前に明確にするすること、そして、結論を
出すのに必要な観察や実験の手順を明確にし、その手順を一歩一歩進めることである。 第 2 は、たとえば、「重力の原因は何か」というような、現象(観察、実験)から導き出
すことのできない事柄を科学の対象にしないことである。このことをニュートンは「私は
1364
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 仮説を作らない」と述べた。この「仮説」とは、作業仮説のことではなく、デカルトの渦
流理論などの空想的なもののことである。 17 世紀の科学革命はさまざまな点で大きな業績を残すことになったが、そのもっとも大
きな成果は新しい世界観(宇宙観)を生みだしたことだった。 ヨーロッパでは古くから、あらゆる事象は神によって生みだされたものであり、予測不
能なものであると考えられていた。こうした伝統的な世界観に代わって、宇宙を機械にた
とえる新しい世界観が生まれ、世界のあらゆる事象は普遍的な法則にもとづいて起こって
いると考えられるようになったのである。
しかし、この新しい世界観は、決して神の存在を否定するものではなかった。個別の事
象は普遍的な法則にもづいて起こると考えられた一方で、その法則が存在する宇宙という
「偉大な機械」をつくりだしたのは、あくまで神であると信じられていたからである(その
意味で、神はしばしば「偉大なる時計職人」にたとえられた)。
つまり、17 世紀の科学者の多くは、宗教や神を否定したわけではなかったのである(ガ
リレオもニュートンも敬虔なキリスト教徒だった)。実際に天文学に革命をもたらした人々
でさえ、そのことをそれほど重大な問題とは考えていなかったのである。当時の科学者た
ちは、自分たちが構築した新しい世界観もキリスト教の体系内におさまることを信じて疑
わなかったのである。 【⑦科学機器の開発(望遠鏡、顕微鏡の発明)】 ガリレオが地動説を確信したのは、望遠鏡を通して自分の目で木星の衛星、金星の満ち
欠け、太陽黒点を発見したからであった。このように人類が長いあいだ信じていた天動説
を地動説に転換させた最も大きな力は肉眼で見えなかったものを見えるようにした望遠鏡
であった。実証する手段として望遠鏡が発明された。同時期に発明された顕微鏡がその威
力を発揮するにはしばらく時間がかかったが、これは肉眼では見えないミクロの世界を見
えるようにした。望遠鏡と顕微鏡の発明がなかったら、人類の科学技術は 16 世紀の段階で
とどまっていたであろう。 ○望遠鏡の発明 望遠鏡の発明者にはいくつかの説がある。 オランダ、ミッテルブルフの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイ( 1570 年 ~1619 年)が
2 枚のレンズを組み合わせた望遠鏡について 1608 年 10 月 2 日、特許申請をオランダ総督に
出した。それから 12 日後の 10 月 14 日にはフラネカー大学教授アドリアンスゾーン・メチ
ウス(1571 年~1635 年)が同じく望遠鏡の特許申請を行なった(2 年間改良していたとい
う)。この同時申請のため特許はどちらにもおりなかったといわれている。 1365
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) リッペルスハイが望遠鏡の着想を得たいきさつについては彼の店で遊んでいた 2 人の子
供が 1 枚のレンズの前にもう 1 枚のレンズをかざした時に物がはっきり見えることに気付
いたからであるといわれている。 リッペルスハイは、特許を得ることはできなかったが、双眼望遠鏡も作り、また、オラン
ダのマウリッツ総督の命により軍用望遠鏡を作り、肉眼の 3 倍の距離を見ることができた
といわれている。リッペルスハイはオランダの政府から報酬を得ることができ、最初の実
用的な望遠鏡を製作し普及させた人物とされている。ガリレオはリッペルスハイの発明を
知った後、1609 年 5 月に独自に望遠鏡を作ったようである。 歴史上最初に作られた望遠鏡は屈折式で、凸レンズを対物レンズに、凹レンズを接眼レ
ンズとして使用したものだった。1608 年にオランダで特許申請がされた記録が残っている
ため、この方式の望遠鏡はオランダ式望遠鏡と呼ばれている。ただ日本などではこの方式
の望遠鏡で多くの発見をしたガリレオの話と共に伝来したからかガリレオ式望遠鏡と呼ば
れることが多い。 ケプラー式望遠鏡はケプラーが考案した屈折望遠鏡で、対物レンズ、接眼レンズの両方
に凸レンズを用いるものである。高い倍率にしても視野が狭くならないという利点がある。 ところが、光の研究を進めていたニュートンは 3 センチの凹面鏡を使い長さ 15 センチの
反射望遠鏡を製作した(図 13-9 参照)。凹面鏡であるから光は分散しない。光は筒の凹面
鏡で反射され、中ほどの平面鏡に反射して、接眼レンズで焦点を結ぶが、画像に色収差を生
じず、また大口径の望遠鏡を作ることが可能という利点があった。 図 13-9 ニュートン式望遠鏡 《望遠鏡の技術進歩とともに進んだ天文学》 望遠鏡は天文学の分野で進歩していった。1781 年にはイギリスの天文学者ウィリアム・
ハーシェル(1738~1822 年)は、錫と銅の合金をたんねんに磨いて過去最大の凹面鏡をつ
1366
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) くり、これで反射望遠鏡をつくって、天王星を発見した。また、天の川を観測し、銀河系が
円盤状の星の集団だと考えた。 100 年間、銀河系の外は未知のままであったが、20 世紀の初め、カリフォルニア・ウィ
ルソン天文台の直径 2.5 メートルの当時世界最大の反射望遠鏡を使って、研究員のエドウ
ィン・ハッブルは星雲を観測したり、宇宙が膨張していること(ハッブルの法則)などを
発見した。このように望遠鏡の進歩とともに、天文学は発展していった。 19 世紀から 20 世紀にかけて発達した写真技術が併用されるようにようになり、より客観
的な天体観測が行われるようになった。20 世紀に入って、電子工学の発展に伴い、光学系
としての望遠鏡に附属する観測装置の開発が進んだ。現在では CCD イメージセンサを冷却
して撮像する冷却 CCD カメラによって 100%近い光子を検出できるようになった。また、電
磁波領域におけるレーダーや宇宙通信等の測定装置開発から、電波望遠鏡が誕生した。そ
して、宇宙技術の進展に伴い、人工衛星として宇宙空間に設置する宇宙望遠鏡へと発展を
遂げた。 それらの要素技術との組み合わせによって、ニュートリノ望遠鏡、重力波望遠鏡等も生
まれ、21 世紀初頭の現在、全ての波長に対する観測装置が出揃うことになった。現在では、
全電磁波の波長領域を観測する装置全体を一般には望遠鏡と呼ぶ。いずれにしても、広い
意味の望遠鏡の技術進歩と天文学の発展は歩調を合わせて発展してきた。 しかし、最初の宇宙のところで述べたように、ダークマター、ダークエネルギーの問題
も発生し、これを解明するための新たな方法が模索されていて、人類の科学探究には限界
はないようである。 ○顕微鏡の発明 光学顕微鏡も、望遠鏡とほぼ同じ時期に、オランダの眼鏡屋のヤンセン父子によって発
明されたようであるが、この顕微鏡は望遠鏡と違って(望遠鏡はガリレオが天文学の分野
で使ったが、それだけでなく軍事面、航海などでもすぐ実用になった)、最初は実用的な利
用分野がなかった。つまり、今で言うところのニーズがなかったのである。 イギリスの科学者たちは、王政が復古した 1660 年、ロンドンに王立協会を作ったが、物
理学者のロバート・フック(1635~1703 年。1660 年、フックの法則を発見したことで有名)
もこれに参加し、1662 年、協会の実験係となった。彼は月一度、王立協会で一般人にもわ
かりやすく、いろいろな科学の実験をして見せ好評であった。このとき、フックは自作の
顕微鏡を用いて生物を観察して見せたが、そのスケッチを掲載した本『顕微鏡図譜(ミク
ログラフィア)』を 1665 年に発刊した。 この書でフックが名づけたさまざまな生物学用語は、現在も使われている。たとえば、
この時にコルクを観察したところ、中に小さな部屋のような構造を発見した。これを小部
1367
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 屋という意味のセル(cell。細胞)と名づけた。しかし、彼が実際に見たものは細胞その
ものではなく細胞壁であったが、現在も細胞のことを英語でセルと言っている。 フックはまた、オランダのアマチュア科学者レーウェンフック(1632~1723 年)の業績
を評価し王立協会で彼の顕微鏡観察記録を紹介し続けていた。 レーウェンフックも顕微鏡を製作し、その強い好奇心で様々なものを覗き、新しいもの
を発見した。当時、微細な昆虫は植物種子などから自然発生するものと考えられていたが、
レーウェンフックは観察によりこれらの生物も親の産む卵から孵化することを発見した。
1674 年、池の水を観察していて、奇妙な動く物体を発見し、微小動物(animalcule)と名
付けた。このとき顕微鏡の倍率は約 200 倍に達していた。微生物にも誕生や死があること
を確認したりしている。1677 年には精子を発見している。赤血球が毛細血管を通ることも
示した。 レーウェンフックは 1723 年 8 月 26 日、気管支肺炎のため 90 歳で亡くなったが、歴史上
はじめて顕微鏡を使って微生物の世界を見た人物であり、
「微生物学の父」とも称せられて
いる。つまり、微生物の世界についてはこの時まで、人類はまったく知らなかったわけで
(ということは病気をひきおこす病原菌のことはまったくわからず医療が行われていた)、
顕微鏡という道具が発明されてはじめて、微生物の世界が出現してきたのである。 このように最初は何に役立つかわからなかった顕微鏡も、フックやレーウェンフックの
活躍で、最初は微生物学の世界できわめて有効であることがわかり、その微生物学の延長
上で医学の分野で有効であることがわかるのに、もはや時間はかからなかった。 《顕微鏡の技術進歩とともに進んだ生物学、医学、科学》 医学の分野で顕微鏡を用いて多くの研究を行った最初の人は、ボローニア大学のマルチ
ェロ・マルピーギ(1628~94 年)であった。マルピーギの研究成果の大部分はイギリスの
王立協会の報告書に論文として出版された(彼はイタリア人で最初の会員となった)。 皮膚の層(マルピーギ層)、二つの異なった構造(腎臓と脾臓)に与えられたマルピー
ギ小体の名、昆虫の排出器官であるマルピーギ管など、多くの顕微鏡レベルの解剖学的な
構造が彼にちなんで名付けられているが、その詳細は省略する。マルピーギは顕微鏡解剖
学の創設者、最初の組織学者と見なされている。マルピーギは顕微鏡を片手に、多くの新
しい学問を切り開き、顕微鏡が生物学、医学の分野でいかにその有効性を発揮するかを示
した。 考えてみると人類は古代ギリシャの時代から医学をもっていたことになるが(ヒポクラ
テスなどのことは古代ギリシャの歴史で述べた)、それまでは肉眼で見える範囲の医学にす
ぎなかった。人類の歴史において伝染病が猛威を振るったことはたびたびあったが(その
代表的なものが 14 世紀のペストの大流行だった)、一体なぜ伝染病が起きるのか(神のた
1368
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) たりか天罰か)、得体のしれない敵を相手に医療をやっていたことになり、これでは有効な
手が打てないばかりか、呪いや神頼みと五十歩百歩ということになるのは当然だった。 顕微鏡という科学の道具が発明されたことによってはじめて科学的な医学がはじまるこ
とになったといえよう(この延長線上で 19 世紀、パスツールやコッホなどによって近代細
菌学が確立される。それは 19 世紀の科学に記す)。 単に顕微鏡というと、光学顕微鏡を指すことが多いが、現代では、顕微鏡は光学的もし
くは(20 世紀になって)電子的な技術を用いることによって、微小な物体を視覚的に拡大
し、肉眼で見える大きさにする装置であるとしている。この顕微鏡も科学や医学の進歩と
歩調を合わせて進歩して、現在では、光学顕微鏡、電子顕微鏡、走査型プローブ顕微鏡、X
線顕微鏡 、超音波顕微鏡、バーチャル顕微鏡のような顕微鏡が随所に使用されている。 以上、望遠鏡と顕微鏡について記したが、この他にも温度計、気圧計、それに測定器具
の改良を含めて、17 世紀に登場した新しい科学器具は、実験的方法の確立に大きな役割を
演じるようになった。今では当たり前のことであるが、科学が定量的になりはじめたので
ある。 【⑧科学的活動の組織―学会】 1600 年頃のヨーロッパで,科学に大きく関心を寄せていた人々は、おそらく 1000 人を越
すことはなかったといわれている。これらの人々は,パドヴァやライデン(オランダ)の
ような進んだ大学に籍を置かないかぎり、1 人 1 人が孤立して研究していただろう。 しかし、研究がさかんになるにつれ、彼らは交流する必要に気づくようになり、お互い
に連絡をとるようになっていった。ここに組織体としての学会が成立してきた。ここに科
学の公共財としての意識が生まれてきた。これが逆に科学を大いに進歩させることになっ
た。人類の進歩のために科学をやっているのだという共通の認識が醸成されるようになっ
たのである。 イギリスではエリザベス女王時代のロンドンに大商人グレシャムが科学を教える場所と
してグレシャム・カレッジを設立した。このカレッジには 7 つの教授職があり、そのうち 3
つが科学であった。1645 年頃からこのカレッジの中やその付近で、科学技術に興味をもつ
人々が毎週非公式の会合をもつようになった。しかし、その後、清教徒革命が起こって中
断した。 王政復古によりロンドンが落ち着くと,彼らはグレシャム・カレッジに戻ってきた。1660
年グレシャム・カレッジの天文学教授であったレンの講演をきっかけに科学者たちは「物理
的数学的実験学習のためのカレッジ創設」を提案した。2 年後の 1662 年国王チャールズ 2 世
はこの学会を承認し、「自然的知識改良のためのロンドン王立協会」が創設された。その目
1369
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 的は、憲章にも述べられているように「実験による自然認識の改良」であった。これはまた、
ベーコン主義にのっとった計画された科学を発展させることでもあった。 初代の会長には廷臣ブロンカー卿、実験主任にはフックが選出された。協会の会合は実
験の公開を目玉にしていたが、中でもフックは実験主任として、のちには幹事として実り
ある仕事をした。発明の才に恵まれていた彼は,研究のための新しい実験技術を考え出し
た。彼は、顕微鏡、天文学、地学、光学、それに自分の前でおこるすべてのことに関心が
あった。彼は器用貧乏ともいわれるほどで、大きな業績は残さなかったが(バネに関する
フックの法則はある)、とくにニュートンやボイルに刺激を与えたほか、他の人々の発見に
も間接的な閃きを与えている。このことは、協会はメンバー間のコミュニケーションを行
う制度としての会でもあったから、フックはきわめて適任であった。ニュートンも 1703 年
に会長に任命されて 1727 年の死にいたるまでその任にあった。 王立協会とはなっていたが、これは英語表記の Royal は、国王の許可を得て設立された
ことを示すもので、もともとは会への不当な干渉を防ぐためのものであった。チャールズ 2
世は協会に金を与えたことはなかったので、協会はいつも経済的に困っていた。会員は 1
人当り毎週 1 シリングの分担金が課せられていたが、これも滞りがちであった。 王立協会が科学者共同体として機能するために、科学者間のコミュニケーションを促進
する機関紙として,1665 年 3 月『フィロソフィカル・トランザクションズ』が刊行された。
最初は最新の科学ニュース、数年後からは論文をのせたが現在までその発刊は続いており、
世界最初で最古の学会誌でもある。 このようにして発足した王立協会は、現在も続いていて最も古い科学学会である。この
会は任意団体ではあるが、イギリスの事実上の学士院(アカデミー)として、現在もイギ
リスにおける科学者の団体の頂点にある。 モットーはラテン語で「言葉によらず」(古代ローマの詩人であるホラティウスからの引
用)で、(聖書、教会、古典などの)権威に頼らず証拠(実験・観測)を持って事実を確定
していくという近代自然科学の客観性を強調するものである。 王立協会は最初期から開かれた組織であった。協会は、世界中を連結し、得られた科学
的知識を共有することを目指した。協会は秘密を排除し、会員間のコミュニケーションを
促進させた。また、言語による他国人とのコミュニケーション不足がなくなるようにも努
力した。 このイギリスにおける最初の学会の発足は、ヨーロッパの他の国々にも、創造と模倣・
伝播の原理により、伝播したが、ここでは省略する。いずれにしても、科学の分野では、
ロンドン王立協会がよい前例となって、科学情報の公開(公共財的意識の確立)と科学的
手法の伝播が進んで、以後、急速に科学技術が進歩するようになった(これに対し、のち
1370
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) に述べる社会科学の分野では方法論の確立の問題もあるが、人類社会において社会科学が
遅れており、これが現代の問題を引き起こしている一因ともなっているといえる)。 【⑨近代自然科学の成立】 今日、自然科学とは、科学的方法により一般的な法則を導き出すことで自然の成り立ち
やあり方を理解し、説明・記述しようとする学問の総称である。自然科学という時の「自
然」とは、基本的に人為的ではないもののことである。大きくは宇宙から小さくは素粒子
の世界まで含まれ、生物やその生息環境も対象となっており、そこには生物としてのヒト
も含まれている。 現在、自然科学は、狭義には、物理学、化学、生物学、地学、天文学など自然科学全体
の基礎となる理論的研究をする部門を指し、これを「理学」とも呼ぶ。また、この狭義の
自然科学に数学を含む場合もある。自然科学は、広義には、医学、農学、工学などの、「応
用科学」と呼ばれる分野を含む。 自然を対象とした学問としては、確かに古代ギリシャ時代以来「自然学」があった。ま
たヨーロッパ中世にはスコラ学があり、
「自由七科」という学問分類の内の「クアドリウム
(四科)」には、天文学も含まれていた。だがそれらの方法論は基本的に近代自然科学のそ
れとは異なっていたと言えよう。 近代自然科学の方法論は、仮説と実証―今では近代科学として広く認知されているこの
方法論の萌芽は、ヨーロッパで近代西洋科学が成立する以前から、各国の伝統的科学・技
術の中に、分散的にではあっても、すでに存在していた。たとえば、実際の有用性・有効
性を経験的に確認して、それを合理的に改善していくことをしなければ、火薬や羅針盤の
発明・発達は不可能だっただろう(中国の科学)。 しかし、現在考えられているような自然科学(近代自然科学)は、17 世紀のヨーロッパ
の自然哲学者(ケプラー、ガリレイ、ニュートン等)の天文現象などとの格闘により確立
された。 実証を支える精密な実験、実験解析方法の進展、理論を展開する土台となる数学手法の
構築、オープンに科学の成果を交換しあえる場の登場(ロンドン王立協会、フランス科学
アカデミー等)などが 17 世紀のヨーロッパに実現した。また同時期に学術雑誌が登場し、
ジャーナル・アカデミズムが確立したのである。こうした科学の方法論、科学の公開の原
則、科学機器の発達、学会組織の確立などがあって、我々人類の科学(技術)は一貫して
進歩発展してきている。のちに社会科学が生まれてくるが、この分野では自然科学ほどの
方法論が確立していないので問題が多いことは後に述べる。 1371
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 【13-2】ヨーロッパ絶対王政 【13-2-1】絶対王政とは 図 13-10 のように(ヨーロッパのだいだい色)、近世のヨーロッパ諸国にみられた政治
形態は、絶対王政(あるいは絶対主義ともいう)であった。スペイン帝国のフェリペ 2 世、
イギリスのエリザベス 1 世、フランスのルイ 14 世などが現れ、絶対主義が全盛期をむかえ
た。続く 17,18 世紀にイギリスやフランスのように市民革命が起こり、絶対主義の時代に
終わりを告げる国も現れた。 ヨーロッパでは中世の後半に貨幣経済が進展し、社会の変動が起こった。商人たちが力
を得て台頭した。一方で貨幣経済が進展すると、自給自足の地方経済に基礎を置く封建領
主の力が衰え、没落する者も現れた。貨幣経済の進展により広域流通圏が成立すると、そ
の保護を名目に国王が力を得て、絶対主義が誕生した。 絶対主義とは、国王が常備軍と官僚とによって広域流通圏を一元的に支配する、中央集
権体制である。絶対主義は封建領主が分権的に支配する中世社会を破壊し、広域流通圏を
基盤とする新たな国家を創出した。 この国家を主権国家という。没落する封建領主と新興の市民(商人、資本家)の勢力均
衡の上に成立した絶対主義は、過渡的な政治形態で、やがて、市民の力の増大により均衡
が崩れると(イギリスは 1688 年の名誉革命、フランスは 1789 年のフランス革命)、その
歴史的役目を終える。すなわち、市民を主体とする市民革命によって、絶対主義は滅亡し
たのである。 ○絶対王政国家=主権国家であり、主権は国王にある=王権神授説 つまり、絶対王政国家は、図 13-10 のように、封建社会がくずれて、近代資本主義社会
が確立するまでの過渡期の社会構造を背景として生まれた。国家が無制限に近い権力をも
った中央集権の国家体制で、主権国家の起原であり、封建制国家と近代国家の中間に位置
した。主権国家とは、国家という広い枠組を治める最高の権力(主権)で支配された国で
あり、絶対王政の国家はその原型であった(主権は国王にあった)。 絶対王政を正当づける政治理論は、王権神授説であった。フランスの経済学者・法学者
ジャン・ボダン(1530~96 年)は『国家論』を著し、(主権)国家の本質は主権であると
主張した。(主権)国家では、主権の及ぶ範囲が領土であり、主権が支配する人々が国民
である。絶対主義の主権者は国王であるが、なぜ国王は主権者なのか。 ボダンは、国王の主権は神によって与えられたもので、国王は地上における神の代理者
であるから、国民はこれに絶対的に服従しなければならないとした。国王は国民に対して
ではなく、神に対してのみ責任を負うものとした。この理論の根底には、トマス・アクィ
1372
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ナス以来の社会秩序は人間の批判を許さない神の定めであるという考え方がある。これが
王権神授説である。 絶対主義は、国内的には主権国家の一元的な支配を、対外的には国家の独立と勢力の拡
張を行なった。このため、絶対主義時代には主権国家がたがいに対立し、国際戦争が起こ
った。 1373
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13−10 近世の世界 1374
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 戦争は平和条約の締結によって終結したが、それらの条約に基づきヨーロッパには主権
国家を単位として、国家間の勢力均衡を基礎とする国際社会(国際関係)が誕生し、国際
法が生まれた(後述する三十年戦争を終結させたウェストファリア条約は、ヨーロッパの
主要国によって締結され、国際社会(国際関係)成立の画期とされる)。国際法とは国家
間の慣習や条約によって国際社会の秩序を維持するものである。 ○国民諸階層と王権 国民諸階層と王権の関係は、次のようになった。 ◇封建制度の崩壊によって、貴族は領主として農民を支配することができなくなり、王権
をたよってその地位の保全をはかろうとした。国王は、それらの貴族の特権を保障する一
方、彼らを官僚・常備軍の中に編入して王権強化に役立たせた。 ◇都市市民は、従来から封建的地方分権に不便を感じており、とくに大商人は、商業・貿
易の規模の拡大や外国商人との競争などから王権の後援を必要とし、国王もまた財政上の
必要性から彼らを保護し、財源とした。 ◇農民は、封建勢力を抑えるものとして国王に期待し、国王は農民を兵として雇い、直接
の税負担者として保護した。 ○官僚制度の発達 広大な領土と多くの国民を集権的に統治するには、国王に忠実で専門的知識をもった有
能な官僚=王の官吏を必要とした。そのような官僚は、封建貴族や市民、とくに上層市民
から多く登用された。上層市民出身で高級官職を得たものは貴族の称号を許され、新貴族
(法服貴族)と呼ばれた。王の権威を全国すみずみまで行き渡らせるために、地方行政組
織も整備された。 国内の統一と治安確保、外敵からの防備、植民地獲得などのために、おもに傭兵からな
る国王直属の軍隊=王の軍隊が常設された。農民が主力をなしたが、身分制が強く、将校
以上は貴族が独占した。なお、常備軍は、市民革命を経て、徴兵制を中心とする国民軍に
変質した。 ○絶対王政の経済政策 王室財政の基礎は土地所有にあったが、巨額の財政出費をまかなうために(官僚・常備
軍の維持費や戦争出費・宮廷貴族の豪奢な生活のためその出費は大きかった)、全国的徴
税制度を整えて一般人民から種々の租税をとり(徴税は官僚の重要な仕事となった)、輸
出入関税などの経済上の特権を設け、発展しつつある商業資本に独占権を与えて財政援助
を得たほか、重商主義政策によって国富をたかめた。 ポルトガル、スペインでは、国家が取引所や商船隊をととのえ、これを大商人に利用さ
せた。イギリス、フランス、オランダなどでは,東インド会社のように、国家が特許を与え
1375
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) て貿易会社を作らせ、貿易事業を独占させた。イタリアやドイツの商人が海外市場から駆
逐されたのも、こうした国家権力の援助を得ることができなかったことが主因となってい
る。 ○重商主義政策の展開 絶対王政時代、国の富はその国の保有する貨幣や金・銀の量に比例すると考えられてい
た。初期には、直接に金・銀を獲得しようとする重金政策がとられた。そのため、国内や
植民地の金・銀の鉱山の開発に力がそそがれた。絶対王政時代初期にスペインが繁栄した
のも、「銀船隊」によって新大陸から大量の銀を持ち帰ったからである。 のちには、輸入をおさえて輸出をさかんにし、輸出超過による貨幣の獲得をはかる貿易
差額主義がとられるようになった。貿易差額の増大をはかるために、輸入税の引上げ、輸
出税の引き下げなどの関税政策がとられた。また、輸出を増大させるためには、国内産業
の発達をはかる必要があり、産業の保護・育成策がとられた。そのため産業は発達したが,
一部大商人の利益のみが優先された。 ○植民地政策 重商主義において、植民地政策はきわめて重要であった。ヨーロッパの絶対王政政権は、
南北アメリカやアジアを植民地にして、最初は貴金属を得るために、ついで本国への安価
な原料供給地あるいは本国生産品の販売市場、さらに貿易上の拠点を確保するために、植
民地開発を行なった。このため、絶対王政国家の間に激しい植民地獲得競争が展開され、
ヨーロッパの戦争に連動して植民地でも戦争が行なわれた。 ○絶対王政の経済的基礎 絶対王政時代は、封建的荘園制社会より近代的資本制社会への転換期、いわゆる前期資
本主義社会を基盤とし、経済面でも著しい変化と発展がみられた。大航海時代以降、西ヨ
ーロッパが世界商業の中心的地位に上昇した。そのため、商業とそれを支配する商業資本
が、他の産業部門に優越した。 16 世紀以来の商業の世界的拡大の結果、中世的生産様式がしだいにくずれ、問屋制度や
マニュファクチュアとよばれる新しい生産様式がおこってきた。これらは、産業革命まで
の支配的な生産様式となった。 問屋制度は、資本をたくわえた大商人が、都市の手工業者や農村で副業をいとなむ農民
などの直接生産者に原料や道具を前貸しし、わずかな加工賃を支払ってその製品を独占的
に買い上げるやり方であり、問屋制家内工業ともいう。大商人によるギルド支配のあらわ
れでもあった。 マニュファクチュアは、経営者が一定数の賃金労働者を一ヶ所に集めて、手工業的道具
によって分業による協同生産作業をおこなわせるしくみで、まず都市の大商人やギルドの
1376
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 支配のおよばない農村工業としておこった。工場制手工業ともいう。生産手段を所有する
資本家(経営者)と、それをもたない賃金労働者との関係が明確化したため、資本主義生
産のはじまりといえる。 イギリスで、この経営にあたったのは、ジェントリなどの地主や富裕な独立自営農民(ヨ
ーマン)および小親方層で、彼らは産業資本家に成長し、近代資本主義の担い手となった。
最初は規模も小さかったが、分業による協業という新しい生産様式の結果、しだいに発達
し、大商人はその社会的・経済的地位をおびやかされた。やがて、そこから産業革命が生
まれてくることになる。 【13-2-2】スペインとポルトガル ○ポルトガルのアジア海上帝国 1498 年、インド西岸のカリカットで遠来の目的を訪ねられたヴァスコ・ダ・ガマ(1469
~1524 年)一行は、「香辛料とキリスト教徒を求めて」と答えたが、ポルトガル人は魅力
ある商品を持たなかったので、イスラム商人が支配的なインド洋の交易ネットワークに有
利な条件で参入する余地はなかった。そこでポルトガル人は軍事力を背景にインド洋沿岸
に交易拠点を樹立する道を選んだ。 図 13-5 のように、まず、1510 年、インドの胡椒生産の中心地マラバル海岸のゴアを征服
してポルトガルのインド領の首府とした。さらに東進して東南アジア最大の交易拠点マラ
ッカを 1511 年に攻略して要塞化し、最も高価な香辛料クローブ(日本では丁子(ちょうじ)
ともいう)の原産地マルク(モルッカ)諸島のテルナーテ島にも 1522 年に要塞をおいた。
シナモンの産地セイロン島のコロンボも重要な拠点となった(1518 年)。西では 1503 年、
アラビア半島の沖ソコトラ島に要塞を構えて紅海への出入りをにらみ、1515 年には商業都
市ホルムズの実権を握ってペルシア湾を支配した。 この間にポルトガルとスペインとの間にモルッカ諸島(図 13-5 参照)の領有権問題が生
じたが、1529 年のサラゴーサ条約によってスペイン王は 35 万ドウカードおよびフィリピン
の確保と引き換えにモルッカ諸島への領有権主張を放棄した。 ポルトガルの中国への進出は、1530 年代に始まった。ポルトガル船は南シナ海を進み、
寧波(ニンポー)、泉州、マカオと寄港した。1542 年、琉球へ、1543 年には九州の種子島
へ到来した(このとき鉄砲がもたらされた)。 こうしてポルトガルはインド洋の制海権を握った。既存の香辛料ルートは寸断され、そ
のルートの末端に位置したヴェネツィアの中継貿易は大きな打撃を受けた。こうして以後
ポルトガルは半世紀にわたって、ほかのヨーロッパ諸国から挑戦を受けることなく交易拠
点帝国のもたらす利益を享受した。 1377
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1540 年までにインド洋の重要拠点にとどまったヨーロッパ人とその子孫の数は 1 万人に
達した。ポルトガル人の進出はキリスト教の布教活動と連動していた。ゴアなどの重要拠
点には司教座がおかれ、セミナリオ(初級・中級の神学校)やコレジオ(上級の学院)が設
立された。とりわけフランシスコ・ザビエルをはじめとするイエズス会士はポルトガル国王
の支援のもとでアジアにおける布教に邁進した。 《ポルトガルの繁栄》 ポルトガル王室はリスボン王宮内の「インド商務院」を通じて海外交易を統括していた。
香辛料、金、砂糖などがフランドルの商館でヨーロッパ市場向けに売却された。とくに金、
銀、香辛料の取引は王室独占とされ、莫大な収益をもたらした。1519 年までに海外交易に
よる収益は国家収入の 6 割をこえていた。 ポルトガルが中央集権化に成功し絶対王政の名に値するようになるのはジョアン 2 世(在
位:1431~1495 年)以降、とりわけマヌエル 1 世(在位:1495~1521 年)とジョアン 3 世
(在位:1521~57 年)の治世であった。むろんその財政的基盤はアジア海上帝国がもたら
した莫大な収益であった。ジョアン 2 世は大貴族の力をそぎ、多くの中小貴族に本国や拠
点帝国の官職を与え宮廷貴族としてその庇護のもとにかかえ込んだ。マヌエル 1 世治世の
宮廷人は約 4000 人にまで膨れ上がっていた。リスボン郊外に建立されたジェロニモス修道
院などの過剰にかざられたマヌエル様式がこの時代の豪華さを残している。 また、ポルトガル国王は 1550 年代以降、王室貿易の一部を、特権として大貴族や騎士団
に譲渡するようになった。喜望峰航路による王室の香辛料貿易は 16 世紀半ば以降しだいに
減退したが、インドやペルシアの宝石・ダイヤモンド・絹、インドのグジャラートやベンガ
ルの綿織物、中国の陶磁器などの取り扱いが増えたため、アジア貿易自体は 17 世紀半ばま
で好調を維持した。とくに 1543 年、日本の種子島に漂着し、1547 年、明からマカオを賃借
すると、中国の生糸・金と日本の銀を取引する中継貿易で多くの収益を上げるようになった。 ○スペインの絶対王政 《スペインの新大陸植民地支配》 最初に海外に発展しアジア海上帝国を築いたのはポルトガルであったが、それについで
スペインも海外に発展し、図 13-11 のように、南北アメリカにスペインの植民地帝国を築
いた。 新大陸では、コロンブスに続く発見者・征服者たちも香辛料、真珠、貴金属を追い求め
た。1521 年には、スペイン人将軍コルテス(1485~1547 年)によってメキシコのアステカ
帝国が征服された(具体的な征服の状況などはアメリカの歴史に記している)。これに刺
激されて新たな黄金の国を求めて、多くの征服者(コンキスタドール)が殺到し、中南米
1378
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の地域がくまなく征服されていった。ピサロ(1471 年/1478 年~1541 年)も 1533 年、ア
ンデスのインカ帝国を滅亡させた。 図 13-11 フェリペ 2 世の支配地域 コロンブスのときには、活動資金をスペイン王が拠出し、収奪収益の一部を国に納める
という形をとっていたが、その後の新大陸での遠征・征服は王権の許可をえて(王権と征
服者との契約で)、資金は征服者(コンキスタドール)自身が工面し、征服者個人の事業
として行われた。成功したら獲得財宝の 5 分の 1 は王室のものとされた。 当時、スペイン王室が植民者に与えた先住民支配の方式はエンコミンダ制(信託制)で
あった。これは、コロンブスのあと、1502 年に総督として赴任したニコラス・デ・オバン
トがイサベラ女王に提案してその許可を受けた制度であった。征服者や入植者のその功績
や身分に応じて一定数のインディオ(先住民)を割り当て、一定期間その労働力として使
役する権利を与えるとともに、彼らを保護しキリスト教徒に改宗させることを義務づける
というものだった。 王権は先住民インディオの奴隷化を禁じていたが、それは建前だけで、実態はアメリカ
の歴史で述べるように、エンコミエンダ制度のもとで、征服者(コンキスタドール)らに
インディオが委ねられたので、苛酷な労働力搾取が行われていた。そのうち、疫病の蔓延
もあり、ほとんどの先住民が死に絶え、アフリカから輸入された黒人奴隷によって労働力
が補われるようになった。 やがて、総督制を廃止し、スペイン王権が直接支配するようになった。征服領土の統治
のために、インディアス会議が本国に設けられ、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)とペ
ルーに副王が任命され、さらに新大陸各地には司法行政機関として聴訴院がおかれ、都市
1379
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) には市参事会が設けられた。それにみあってスペイン王室には膨大な収奪収益がころがり
こんでくるようになった。 《カール 5 世(カルロス 1 世)の普遍帝国》 スペインが急速に巨大化した理由は、もう一つあった。それはカトリック両王の結婚政
策の成果が出てきたことだった。 スペイン発展の基礎となったのは、カスティーリャ王女イサベル(在位:1474~1504 年)
とアラゴン王太子フェルナンド(のちに国王。在位:1479~1516 年)の結婚(1469 年)、
それに続くカスティーリャ王国とアラゴン王国の合同によるスペイン国家の成立にあるこ
とは述べた。 両王は自分たちの子どもについても,結婚政策をとり、次女フアナと神聖ローマ皇帝マ
クシミリアン 1 世(ハプスブルク家)の息子フィリップ(当時、ネーデルランドの領主だ
った)の間にできた長男がカルロスであり(したがって、ネーデルランドで育った)、次
男がフェルナンドであった。そして 1516 年にカルロスはスペイン王国の国王カルロス 1 世
となった。 その後、1519 年、カルロスの祖父である神聖ローマ皇帝・マクシミリアン 1 世が没して、
その領土を引き継ぐと共に、神聖ローマ皇帝選挙が行われると、ハプスブルク家の嫡流で
あるカルロスは国際金融業者フッガー家の資金援助を受けて(スペインの宗教騎士団・鉱
山などの収入を担保とした)、対立候補フランス国王フランソワ 1 世を抑えて、神聖ロー
マ皇帝にもなった。 これによって、ヨーロッパの地政図は、がらりとその様相が一変した。カルロスがスペ
イン国王カルロス 1 世であると同時に、ハプスブルク家当主であり、神聖ローマ皇帝のカ
ール 5 世となったので、図 13-12 のようにヨーロッパ中に領地を持つようになった。ヨー
ロッパに突如として巨大な「ハプスブルク帝国」が誕生したのである。このころは国家が
王家に属していて、婚姻その他によって、オセロゲームのように様変わりすることがあっ
た(とくにハプスブルク家は歴史的にそれを繰り返して大きくなったことは述べた)。そ
れとともに、スペインの運命も、ハプスブルク家の国王のもとで、辺境の国から一大帝国
の道を歩むことになった。 スペイン王としてのカルロス 1 世は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール 5 世とし
て、ヨーロッパの帝王道の追及に忙しく、カスティーリャにはめったにやってこなくなっ
た。自らは「神の旗手」と称したカール 5 世は、キリスト教世界を率いる戦士として、東
の異教徒オスマン帝国に聖戦を挑み、足元のドイツではルターを信奉する異端の徒と戦っ
た(これについては宗教改革のところで述べた)。 1380
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-12 カルロス 1 世の帝国 カール 5 世はまた、ヨーロッパの覇権を賭けて、フランソワ 1 世のフランス軍とひっき
りなしに戦った。主な戦場は北イタリア(イタリア戦争)とネーデルラントであった。 とくに 15 世紀末のフランス軍侵攻に端を発するイタリア戦争は、皇帝カール 5 世の登場
とともに、ヨーロッパの二つの「超大国」ハプスブルク家とフランス・ヴァロワ家の間の
果てしない闘争の場と化した。カール 5 世は新大陸から上がってくる銀をハプスブルク家
のためにヨーロッパ大陸で湯水のように浪費した。 ◇対オスマン カルロス 1 世は、キリスト教普遍帝国(普遍とはカトリックという意味)を再興しよう
とし、この理念に敵対する勢力には戦いを挑んだ。それらは、キリスト教世界を脅かすイ
スラム勢力、帝権を認めようとしないフランス王権、そして帝国内部のプロテスタント勢
力であった。 当時、地中海ではオスマン帝国艦隊が制海権を握り、陸上では、スレイマン 1 世治下の
オスマン帝国は 1529 年にウィーン包囲を行うなどヨーロッパにとって直接の脅威となった
(第一次ウィーン包囲)。オスマン軍はハンガリー方面では退却したものの、地中海に積
極的に進出し、北アフリカではバルバローハを首領とするベルベル人海賊と手を組んで強
力となった。。 カルロス 1 世は 1535 年にチュニス遠征を行い勝利した。1536 年には宿敵フランソワ 1 世
と対オスマン帝国同盟を結んで、オスマン帝国にあたったが、フランスはやがてオスマン
帝国と単独講和してしまった。カルロス 1 世は和睦せず、1538 年のプレヴェザの海戦では
ローマ教皇、ヴェネツィア共和国と結んでオスマン帝国にあたったが、敗退し、地中海の
制海権を失ってしまった。1541 年のアルジェ攻略も失敗に終わった。戦費の増大のために
1381
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) オスマン帝国とも講和せざるを得なくなり、オスマン帝国との決着は息子のフェリペ 2 世
に引き継がれることとなった。 ◇対フランス カルロス 1 世と神聖ローマ皇帝の座を巡って争って敗れたフランスのフランソワ 1 世は、
その後もカルロス 1 世の覇権にことごとく対抗した。この間のことは、ルネサンスのイタ
リア戦争のところで述べたが、1525 年、イタリアのパヴィアの戦いでカルロス 1 世はフラ
ンソワ 1 世自身を捕虜にした。翌年、釈放されたフランソワ 1 世は約束を破って教皇クレ
メンス 7 世を引き入れてコニャック同盟を締結して対抗してきたので、1527 年、皇帝軍は
ローマに侵攻し「ローマの劫略」を行い報復した。 このためフランソワ 1 世は 1529 年、カンブレーの和を結んでカルロス 1 世のイタリア支
配を認めた。しかし、フランソワ 1 世はその後も対抗をやめず、カルロス 1 世を抑えるた
めにはオスマン帝国との同盟も辞さなかった。1544 年にはクレピーの和が結ばれたが、フ
ランスの新王アンリ 2 世は 1551 年に戦闘を再開して、トウール、メッツ、ヴェルダンを奪
取した。 ◇対国内(スペイン) カルロス 1 世の独裁に対して、1520~21 年、スペイン都市民は反乱を起こしたが(コム
ネロスの反乱という)、鎮圧された。都市を背景にできたスペイン王国の議会コルテスも、
王によってないがしろにされた。質の良い羊毛や毛織物で得られた富、それにアメリカか
らもたらされる膨大な銀は、いずれも国庫に収納され、ハプスブルクの「絶対主義国家」
のたび重なる戦争によって費やされてしまった。 ◇対宗教改革 神聖ローマ皇帝カール 5 世として対宗教改革について行なったは、ルターの宗教改革の
ところで述べたが、スペインのカルロス 1 世としては、スペイン国内からイスラム教徒と
ユダヤ人とを追放したのちも、疑念にかられた王室は異端審問をやめなかった。ルター改
革が起こると、今度はプロテスタント狩りに奔走しだした。 カルロス 1 世は、自らをキリスト教会の守護者であると意識し、教会を分裂させるルタ
ーの改革運動に対しても妥協しなかった。1558 年にバリャドリーとセビーリャでルター派
グループの存在が発覚すると、カルロス 1 世は異端の芽をつみとるように激しく勧告し、
同年 5 月には 15 人が火刑に処された。 しかし政治状況の悪化から、宗教改革のところで述べたように、1555 年のアウグスブル
ク宗教和議で、「領土の属する者に宗教も属す」の原則を認めざるを得ず、プロテスタン
ト諸侯領ではルター派信仰が認められた。各君主がそれぞれの宗旨をとることが合意され
1382
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) たわけで、ここにヨーロッパを一つのキリスト教=カトリック普遍帝国とするカルロス 1
世の夢はついえたのである。 1556 年、カルロスは、失意のなかで退位し、息子フェリペ 2 世には神聖ローマ帝国以外
のすべての領土を継承させ、神聖ローマ帝国の帝位は自分の弟フェルナンド 1 世に譲った。
1558 年 9 月にはカルロスは没したが、フェリッペ 2 世が統治することになったスペインと
ネーデルラントでは、信仰の統一をゆるがす動きに対して厳しい弾圧が続けられた。 《スペインの「黒い伝説」》 新大陸では、征服者(コンキスタドール)の略奪と同業者間の競争が激化した。奪える
財宝がなくなると、原住民を徴用し、農場や鉱山の経営から富を得ようとした。王権は先
住民インディオの奴隷化を禁じたが、前述のように、エンコミエンダ制度のもとで、征服
者(コンキスタドール)らにインディオが委ねられたので、実際のところは、エンコミエ
ンダ制度のもとで、先住民のキリスト教化と保護という名目で正当化されて、苛酷な労働
力搾取が行われていた。 この後、インディオはこのエンコミンダ制に支えられた強制労働による鉱山やプランテ
ーションでの酷使や、ヨーロッパから入ってきた疫病により激減した。 コロンブスの航海からわずか 40 年で、ひとつのヨーロッパ国家が、新大陸の文明、つま
り 2 つもの帝国(アステカ帝国、インカ帝国)や多くの民族を滅ぼし、数千万人の先住民
を服属させ、植民地帝国を建設した。これほど短い期間にこれほどの偉業(?)をなした
のは、進歩したヨーロッパの火器を中心とした武力とコンキスタドール(征服者)の残虐
無慈悲な殺戮をともなった支配政策があったからである。 バルトロメ・デ・ラス・カサス(1484 年~1566 年)はスペイン出身のカトリック司祭で
あったが、当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」におけ
る数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発し、エンコミンダの廃
止とインディオ虐待の即時中止、平和的なキリスト教布教などを主張していた。 ラス・カサスが 1552 年に発表した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、ス
ペイン人自身によるアメリカ征服の深刻な反省と自己批判の書であり、この書物の翻訳が
各国で読まれたために、スペインのアメリカ征服にまつわる「悪行」は、ヨーロッパ中に
知れわたることになった。とくにプロテスタントの間では、この「悪行」がカトリックと
結びつけられて、カトリックは殺伐と拷問を好む狂気の信仰であり、スペインはその体現
者だという「黒い伝説」が広まっていった。 1550 年、カルロス 1 世(カール 5 世)は、スペイン中北部のバリャドリードに識者を集
めて討論会を開き、王室としての公式見解をまとめた。カルロス国王が出した結論は、イ
ンディオは人間であり、奴隷として扱われてはならないが、しかしキリスト教を知らない
1383
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ので、国王の特段の保護のもとにおかねばならない、この「特段の保護」とは、入植者に
よる露骨な搾取を抑え、インディオの労働を王室の管理下に置くということであった(ス
ペイン王権は、強力なコンキスタドールの世襲領主化・王国化を恐れたのが本音であった)。 こうして、16 世紀後半にはスペイン王が、副王を任命するなど直接統治に乗り出したた
め、コンキスタドール(とその後継者たち)はたびたび反乱を起こしたが、最終的には鎮
圧された(それについてはアメリカのスペイン植民地の歴史に記している)。 ○フェリペ 2 世の「太陽の沈まぬ帝国」スペイン カルロス 1 世(カール 5 世)が不在のスペイン国王だったのに対して、後を継いだ息子
のフェリペ 2 世(在位:1556~98 年)は純然たるスペインの国王であった。 しかし、フェリペ 2 世は、16 世紀後半、あいもかわらず、アメリカ銀の産出をたよりに、
多くの傭兵をかかえて強力なスペイン歩兵連隊を組織し、ヨーロッパを舞台にスペイン優
位の時代を築こうとした。 フランスに対しては、イタリア戦争の延長である 1557 年のサン・カンタンの戦い、58 年
のグラヴリーヌの戦いに勝ち、59 年のカトー・カンブレジ和約でフランスのイタリアに対
する要求を放棄させた。その後フランス国内が新旧両派間のユグノー戦争(1562~98 年)
に陥ると、カトリック側を支援して干渉した。 オスマン帝国に対しては、教皇庁、ヴェネツィアとともに神聖同盟を結成して、1571 年
のギリシャのレパントの沖の海戦でオスマン帝国艦隊を破った。1580 年にはオスマン帝国
とスペインの間に協定が結ばれ、長年の戦いに終止符が打たれた。 《スペイン、ポルトガルの同君連合》 1580 年にポルトガル国王ドン・エンリケが死去すると、フェリペ 2 世は、ここでもカト
リック両王以来の婚姻政策の成果が現れて、自身がもっとも有力な後継者であるとして、
王位を要求してポルトガルに侵攻した。結局、翌年 4 月にポルトガルはフェリペ 2 世の王
位継承を認め、7 月にフェリペ 2 世はリスボンに入城した。ここにポルトガル併合が実現し
たが、これはフェリペ 2 世がポルトガル王位をかねるという同君連合にすぎず、ポルトガ
ルの自治や制度は尊重された。 しかし、スペイン・ハプスブルク家としてみれば、図 13-11 のように、スペインに先行
してポルトガルが築いてきたアジアとアフリカの海洋商業帝国と、ポルトガル領ブラジル
も、スペイン帝国の一部になり、アジア、アフリカ、アメリカへと海外領土を拡大し、つ
ねに領土のどこかに太陽が昇っている植民地帝国となった。こうしてフェリペ 2 世の治世
の 16 世紀のスペインは、ヨーロッパ史上、いや世界の歴史上はじめて、「太陽の沈むとこ
ろのない帝国」となった(のちに 19 世紀のイギリスが再び「太陽の沈まぬ帝国」を実現す
る)。 1384
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) このポルトガルとスペインの合体によって、対外的にみると、ポルトガルの権益は、ス
ペイン帝国の一員として擁護されるとともに、スペインを敵とする諸国からの攻撃にさら
されることにもなった。 《オランダ独立戦争》 ポルトガルの併合とは逆に、フェリペ 2 世は、父カルロスの故地であるネーデルラント
の統治には苦しんだ。ネーデルラントでは、フランドルを中心に毛織物工業が発達し、中
世から諸都市の発展も著しく、中でもブルッヘ、ついでアントウェルペンが国際的中継港
となった。この地方には、ドイツからルター派と再洗礼派、フランスからカルヴァン派が
浸透した。 フェリペ 2 世はアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(1507~1582 年)をネ
ーデルラント総督として派遣し、多くの新教徒を処刑したが、その恐怖政治もオラニエ公
ウィレム 1 世を支持する北部ネーデルラントの市民階級の反抗をくじくことができなかっ
た。 こうした中で、1568 年、ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレム 1 世がオランダに侵攻
した。ここに「八十年戦争」ないし「オランダ独立戦争」(1568~1648 年)が始まったが、
最初からオランダの独立が意図されていたわけではなく、ネーデルラントの特権回復が目
的であった。 旧教徒の多い南部諸州(現在のベルギー地域)は、一時は反乱に参加したものの、1579
年には離脱した。同年、北部 7 州はユトレヒト同盟を結んで戦いを続行し、1581 年にはフ
ェリペ 2 世の統治権を否認した。これは、事実上のオランダ独立宣言であった。 イングランドはネーデルラントの戦争のせいで、唯一の輸出産業であった毛織物業が、
大不況に陥っていた。戦争勃発から 20 年近くたった 1585 年、それまでずっと及び腰だっ
たエリザベス女王は、ようやく「プロテスタントの大義」を掲げ、ネーデルランドの反乱
に武力支援を約束する条約に応じ、7000 人の派兵を決め、正式にスペインに宣戦した。 これに驚いたのは当のフェリペ 2 世で、7000 という兵力数は、6 万のフランドル駐留ス
ペイン軍にとっては大した数ではなかったが、問題は「大スペイン王国」の国内紛争に、
外国の(小国の)君主が、なまいきにも反徒と正規の条約を結んで、介入してきたことに
あった。フェリペ 2 世はイングランドとの直接対決に臨む決意をし、イングランド上陸作
戦の計画を 2 年をかけて練り上げた。これが「無敵艦隊(アルマダ)」だった。 こうして 1588 年 7 月末、「無敵艦隊(アルマダ)」は、英仏海峡に姿を現し、7 月末か
ら 8 月初めにイングランド艦隊と断続的に砲火を交えていたが、悪天候によって大損害を
蒙ってしまい、結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の 67 隻で、死傷者は 2 万におよ
んだ。このスペインの敗北は何よりも「太陽の沈まぬ帝国」の威信の失墜につながった。 1385
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ただし、この戦いの後イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、
スペインは艦隊を再建して制海権を守り通し、スペインとイングランドの間の戦争は、そ
れから 16 年も続いた。イギリス(=イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い
年月を必要とした。 《アメリカからの莫大な銀と借金帝国スペイン》 1545 年、南米チチカカ湖南東のポトシに、銀の大鉱脈が発見され、1560 年代にポトシ銀
山(図 13-68 参照。ボリビア南部)の本格的な採掘が始まった。これとともに、スペイン
は、銀の輸送船団を組織して、大西洋を往復する定期航行を軌道に乗せた。 ポトシ銀山が産出する銀は、フェリペ 2 世時代のスペインの国力の象徴となったばかり
か、ヨーロッパの経済をも左右するようになった。16 世紀から 17 世紀半ばまでの 160 年間
で、ヨーロッパの銀の保有量の 3 倍に匹敵する銀が、アメリカからセビーリアに運ばれ、
そのうちスペイン王室が吸い上げた銀の量は、セビーリアの銀の総量の 40%であった。い
ずれにしてもスペイン王室は莫大な利益をアメリカ植民地から上げていたはずであった。 ところが、フェリペ 2 世の脳裏を年から年中悩ましたのは、帝国の財政事情であった。 フェリペ 2 世は、カール 5 世から広大な領土を継承したが、帝国政策の結果生まれた莫大
な借金も受け継いだ。1556 年に即位したフェリペ 2 世は、この先 5 年分の王室収入の全額
が、銀行家に差し押さえられているのを知って驚愕(きょうがく)した。そこで早くも即
位の翌年の 1557 年に、王室の「破産宣告(国庫支払停止宣言)」を行って、ほとんどの債
務をその額の 5%の年金支払いとする長期公債に切り替えた。 しかし、フェリペ 2 世の対外政策は、国家の借財をさらに増やした。このような支払い
停止措置は、1560 年、75 年、96 年と繰り返されて、1557 年から 98 年に公債の総額は 3600
万ドウカードから 8500 万ドウカードへと膨れ上がった。 いったい、それだけのお金を何に使ったのか。16 世紀の君主たちが、自分の収入をルネ
サンス的な美と栄華を追求するため、美術品の蒐集や壮麗な宮殿建築につぎ込んでいたの
は事実であるが、それより何より大きな支出は戦争だった。当時の君主の支出項目のトッ
プは、いつでも「戦費」、「軍事費」であり、それは常に収入をはるかに超える莫大な額
に達した。大きな軍事作戦を一回取りやめれば、立派な宮殿が 2,3 は楽に建っただろうと
いわれている。それほど戦争は費用を費やしたのである。 国家財政の窮迫からフェリペ 2 世は、あらゆる手段で増収をはかった。フェリペ 2 世の
治世期に税収は約 3 倍に増えたが、これは人々に重い負担を強いるものであった。1580 年
代から不順な天候が続き、農業生産の落ち込みは明らかとなった。1596 年から 1602 年にか
けては深刻な疫病に襲われて、この間に人口の約 1 割が減少した。さすがの大スペインも
衰退期に入っていった。 1386
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ○同君連合時代のポルトガル 1581 年、ポルトガル王室につながるスペイン国王フェリペ 2 世が、コルテス(議会)で
ポルトガル国王フィリーペ 1 世(在位:1581~98 年)として即位し、ポルトガルはスペイ
ンと同君連合になったことは述べた。 ポルトガルは同君連合となっても、大幅な自治が許され、海洋帝国の統治もポルトガル
人に委ねられた。財政と通貨も分離されていた。公用語は引き続きポルトガル語であった。
ポルトガルは重荷となっていた宮廷の維持費から解放されて財政状況は好転した。関税障
壁は撤廃され、ブルジョワジーは新しい市場が開かれたことを歓迎した。 しかし、同君連合の時代、アジアにおけるポルトガルの海洋拠点帝国はスペインの敵と
戦うことをよぎなくされた。1596 年以降オランダ人が、1602 年にはイギリス人がインド洋
に進出し、ポルトガルの交易独占に挑戦してきた。オランダとイギリスの攻撃はとくに 1630
年代以降激化した。本国からの支援はポルトガルであれスペインであれ、ほとんど期待で
きなかった。 こうして、1630~60 年代、ポルトガル人は、かつて図 13-5 のようにもっていたマラッ
カ、セイロン、インドの多くの拠点、インドネシアの大部分を失い、ペルシア湾や日本か
ら追われ、1665 年ころ、わずかにゴアなどのマラバルの一部の拠点、マカオ、東ティモー
ルを保有するにすぎなくなっていた。 こうしてリスボン当局はアジアにおける権益を守るよりも、ブラジルを中心に大西洋で
足場を固めるほうが得策であるという認識を深めた。 《ブラジル植民地の開発》 ブラジルはガマに続いてインドをめざしたペドロ・アルヴァレス・カブラル(1467/78
~1520 年)の艦隊によって 1500 年に発見・踏査され、1494 年のトルデシーリャス条約に
よってポルトガル領となっていた(図 13-5)。しかし、金・銀などのめぼしい産物が得ら
れなかったために植民は遅れていた。 植民が本格化するのは 16 世紀半ばごろからであった。それを促進したのは大西洋諸島か
ら持ち込まれたサトウキビを栽培し製糖する農園(プランテーション)であった。当時ヨ
ーロッパでは急速に砂糖の需要が増大していた。ブラジルのサトウキビ農園は急増し、砂
糖生産量は世界最大になった。砂糖の貿易は国王に 10%の租税をおさめるだけでよい自由貿
易であったため、比較的小資本であるが広範な参入がみられた。 サトウキビ農園の労働力として、カソリックのイエズス会士は、先住民の奴隷化を禁止
する法令を発布させたが、代わりにアフリカ人を労働力として供給することには反対しな
かった(それどころか、アフリカからの奴隷輸入はイエズス会士の提案だったといわれて
いる)。アフリカからの奴隷輸入は 1570 年代以降増大し、主としてギニア、のちにアンゴ
1387
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ラ、コンゴ、モザンビークから搬入された。その総数は 1570 年から 1670 年までに 40 万人
を上回ったと推測されている。 奴隷労働に支えられたサトウキビ農園はブラジルに大土地所有制度をもたらし、農園主
は封建領主のような存在となっていた。国王は 1548 年ブラジルに総督府をおき、民間人(世
襲のカピタン)に開発をまかせるカピタニア制をやめて王領地として取り込んでいった。
国王の収入は 1588 年から 1640 年までに 10 倍以上に増大した。このようにポルトガルの植
民地支配はブラジル中心になっていった。 ○スペインの覇権喪失 1598 年にフェリペ 2 世が死去し、息子のフェリペ 3 世(ポルトガルではフィリペ 2 世。
在位:1598~1621 年)が後を継いだ。 17 世紀に入ると、スペインは衰退の色が濃くなり、耕作地の放棄や離村などの荒廃が進
んだ。カスティーリャの穀倉地帯は、1580 年と 1640 年を比べると小麦生産は約 4 割の落ち
込みをみせた。1606 年、15 年、31 年と大きな食糧危機にみまわれ、47~54 年にはペスト
が蔓延した。17 世紀中ごろまでに、カスティーリャは、人口の 20~25%を失い、アラゴン
でも 15~20%の喪失があった。そして手工業・商業活動は衰退し、宮廷のおかれたマドリー
ドを除くほとんどの都市で人口が著しく減少した。とくにブルゴス、セゴビア、トレード
といった 16 世紀に繁栄したカスティーリャ中央都市の衰退ははなはだしかった。 さらに、オランダやイギリスの海賊船の活動が強まり、大西洋貿易のルートは頻繁に脅
かされた。不足する王室収入を増大させるために政府は、官職や領主権の売却を進める一
方、安易な貨幣操作(改鋳)や破産宣告を繰り返し(1607 年、27 年、47 年、52 年、62 年
に破産宣告)、そのたびに、貨幣価値の混乱からインフレが加速し、国際金融業者はスペ
イン王室から撤退していった。 そして、一連の対外戦争も敗戦が目立つようになってきた。 《三十年戦争の敗北とオランダの独立》 1618 年に勃発した三十年戦争へ介入して、主としてフランスと戦った。1643 年のロクロ
ワの戦いでフランスに敗れた。フランス軍の主力は、槍兵からマスケット銃と大砲に移っ
ていた。150 年間にわたって無敵を誇ったスペイン歩兵連隊が敗れたのである。時代が変化
しつつあった。 1648 年に三十年戦争は終了し、スペインは、ウェストファリア条約でオランダの独立を
承認した。しかし、三十年戦争終結後も、スペインとフランスの戦争は継続した。スペイ
ンはイングランド・フランスの同盟軍に 1658 年のデューンの戦いにおいて敗れ、1659 年の
ピレネー条約で終結した。この条約により、スペインは、カタルーニャ領土の 5 分の 1 に
1388
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) あたるルシヨンとルクセンブルクの一部とフランドルの一部をフランスに割譲した(図 13
-13 参照)。ここにスペインの優位は完全に失われ、「フランスの時代」が始まった。 図 13-13 スペイン領土の喪失 《ポルトガルの独立》 三十年戦争の最中の 1640 年 6 月に発生したカタルーニャの反乱では、スペイン宰相オリ
バーレス伯爵は、その鎮圧に手を焼いて、ポルトガル最大の領主ブラガンサ公ドン・ジョ
アンにポルトガル軍の指揮権を与えカタルーニャ鎮圧に送り込もうとした。ところがポル
トガル独立派の一部の貴族がブラガンサ公の担ぎ出しに成功し、1640 年 12 月、リスボンの
王宮を占拠した。 5 日後にリスボン入りしたブラガンサ公ジョアンはポルトガル国王ジョアン 4 世(在位:
1640~56 年)として即位し、翌 41 年のポルトガルのコルテス(議会)でこの独立のための
反乱は正当化された。 ここにブラガンサ朝ポルトガルは独立を宣言し、スペインとの独立戦争に入った。この
独立戦争をポルトガル王政復古戦争という。以後、ポルトガルは、独立をスペインに認め
させ再独立を確固たるものとするまでには 30 年近い苦しい歳月を要した。 スペインは内外の戦争で力をそがれていたが、1659 年にフランスとピレネー条約を結ぶ
と、ポルトガル問題に専念できるようになり、ポルトガル独立派への攻勢を強めてきた。
しかし 1663 年から 65 年のスペインの大攻勢をポルトガルはすべて勝利し、イギリスの仲
介によって 1668 年、スペインとリスボン条約を締結、ついにポルトガルはスペインから独
立の承認を得た。ポルトガルはアフリカ大陸のセウタ(図 13-2 参照)をスペインに割譲
したものの、その他のポルトガル植民地全てを保持した。 ○その後のスペイン 1389
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スペインは,その後も、フランドル戦争(1667~68 年)、オランダ独立戦争(1672~79
年)、プファルツ戦争(1688~97 年)、スペイン継承戦争(1701~13 年)などの戦争に巻
き込まれたり、起こしたりしたが、もはや主役を演じることはなく、そのたびにスペイン
帝国の領土は次々と奪われていった(図 13-13 参照)。 スペイン継承戦争(1701~13 年)は、スペイン国王カルロス 2 世が世継ぎをもたぬまま
若くして死去したが、カルロスは、遺言によりルイ 14 世の孫のアンジュー公フィリップを
後継者に指名したことによって起こったものである(ルイ 14 世の策謀ともいわれている)。
ヨーロッパ諸国は、当初、フィリップがフランスの王位継承権を放棄することを条件とし
て、フィリップのフェリペ 5 世としてのスペイン国王即位を承認した。 ところが、その後ルイ 14 世が、フェリペ 5 世のフランス王位継承権の放棄を撤回したこ
とから(フランス王位継承者がスペイン王となればフランスとスペインが将来同君連合と
なってしまう恐れがあるため)、1701 年、神聖ローマ皇帝、イギリス、オランダの三国は
「ハーグ同盟」を結んでこれに対抗、翌年 5 月フランス、スペインに宣戦したことからス
ペイン継承戦争(1701~1713 年)が始まった。戦いはおおむね同盟国側に有利に進み、フ
ランスは各地で敗戦を重ね、苦しい戦いを強いられた。 ヨーロッパで戦争が繰り広げられている間、アメリカ大陸ではイギリスとフランスの間
で植民地を巡るアン女王戦争が開始された(イギリス国王はウィリアムからアンにかわっ
ていた)。イギリスはフランス領カナダのケベックを狙い、フランスはニューイングラン
ドのイギリス植民地を狙ったが、いずれも成功しなかった。ただイギリスは、フランス領
アカディアの占領に成功した。 1713 年、各国はユトレヒト条約を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。このユトレヒ
ト条約で、図 13-14 のように、スペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント(ベ
ルギー、ルクセンブルク)、ナポリ王国、ミラノを割譲し、サヴォイア公国にシチリア(後
にサルデーニャと交換)を割譲した。イギリスはジブラルタルとメノルカ島をスペインか
ら、ニューファンドランド島とハドソン湾地域をフランスから獲得した。反フランス同盟
はその代償としてルイ 14 世の孫フィリップ(フェリペ 5 世)のスペイン王即位を承認した。
いずれにしてもスペインは大変な犠牲をはらって、ルイ 14 世の孫を後継者としたのである。 その後も、4 ヶ国同盟戦争(1717~19 年)、ポーランド継承戦争(1733~35 年)、オース
トリア継承戦争(1740~48 年)、七年戦争(1756~63 年)と、さらにスペインの戦争参戦
は続いた。 七年戦争(1756~63 年)では、1763 年のパリ条約で、スペインはフロリダ割譲などイギ
リスへのさらなる譲歩を迫られた。この七年戦争の結果、イギリスの世界商業における優
位は動かしがたいものとなった。もはやスペインの出る幕はなくなった。 1390
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) いずれにしても、もっとも早く絶対王政を確立して,武力(戦争)によって「太陽の沈
まぬ帝国」を築き上げたスペインは、あまりにも多くの戦争をやったために、ほとんどの
植民地を失い、もっとも早く世界の覇権争いから脱落していった。 図 13-14 スペイン継承戦争とユトレヒト条約 ○独立後のポルトガル ブラジルでは 17 世紀末まで貴金属は発見されなかったが、1693 年、ミナス・ジェライス
でついに金鉱が発見された(図 13-70 参照)。リスボンに運び込まれた金は、1720~42 年
には年平均 30 トンに達した。1727 年以降ダイヤモンドもミナス・ジェライスで大量に発見
された。王室は金とダイヤモンドから 5 分の 1 税を徴収した。1716 年までに財政収入は 1680
年の 2 倍まで増大、その後も 19 世紀初頭まで増加し続けた。 《ポルトガルの黄金期》 この間に即位したジョアン 5 世(在位:1706~50 年)の治世はブラジル金の威力をもっ
て文字通りポルトガル近世の黄金期を現出し、華やかなバロック文化が花開いた。ジョア
ン 5 世は国内ではフランス国王ルイ 14 世を模して絶対君主として振る舞い、リスボンにヨ
ーロッパ有数の歌劇場を開設し、王立歴史学アカデミーを創設するなど学芸を保護奨励し
た。リスボンに飲料水を供給する大水道の建設という社会基盤工事もこの時代に行われた。 国外ではスペイン継承戦争への参加によってアマゾン川両岸とラ・プラタ川東岸(サク
ラメント)を獲得して金を産み出すブラジルの周辺が固まった。ジョアン 5 世はスペイン
とマドリード条約(1750 年)を締結し、サクラメントをゆずるかわりにトルデシーリャス
条約の分界線をこえて西側へ大きくふくらんでいた南米ブラジルの領土を認めさせた。こ
れによって現在のブラジルの境界線がほぼ画定した(図 13-70 参照)。 《リスボン大地震とポンバルの改革》 1391
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ジョアン 5 世の後を継いだジョゼ 1 世(在位:1750 年~1777 年)の治世の初めの 1755
年 11 月 1 日、突如未曾有の激震がリスボンを襲った。地震とそれに続く津波と大火災は多
くの命を奪い、首都に甚大な被害をもたらした。当時リスボンは 27 万 5000 人の人口を数
えたが、最大 9 万人が死亡した。リスボンの建物の 85%は破壊され、宮殿や図書館、16 世
紀の独特のマヌエル様式の建築も失われた。地震の揺れで壊れなかった建物や被害が少な
かった建物も、火災で焼失した このとき秩序の回復とリスボン再建に辣腕をふるったのが下層貴族出身の、のちのポン
バル侯であった。ポンバルがめざしたのは廃墟と化したリスボンの復旧ではなく、全く新
しい都市の構築であった。テージョ河口の王宮広場はコメルシオ(商業)広場と名をかえ
てここに官庁が集められ、そこを起点に街路が碁盤目状に整備された。建築物の高さに制
限が加えられた。 1758 年にジョゼ 1 世とポンバル侯の暗殺未遂事件が発生すると、これを口実にポンバル
侯は政敵を排除して専制を強めた。さらに陰謀に加わったとしてイエズス会をポルトガル
から追放し、莫大な教会財産を没収した。その一方で経済的には対英依存が深まり、対英
輸入は輸出の 2 倍に達していた。ポンパルはこの状況を打開するためイギリスから最新の
機械を導入するなど、ポルトガルの初期的工業化も進めた。 外交はイギリスとの同盟が基軸となった。七年戦争(1756~65 年)ではブルボン家が対
イギリス宣戦をポルトガルに迫ったが、ポンバルはこれを拒否したので、1762 年スペイン
とフランスに侵略の口実を与えた。ポンバルはイギリス、ドイツ、スイスの支援を得て短
期間で軍を再編・強化し、侵略者を駆逐した。 1777 年にジョゼ 1 世が死去し、娘のマリア 1 世(在位:1777~1816 年)が即位すると、
ポンバルの専制政治は終焉した。マリア 1 世はポンバルを追放して政治犯 800 人を解放し、
ポンバル侯のゆきすぎた独裁を是正した。しかし、ポンバルが進めた工業化を継続し、道
路、運河の開設、鉱山の開発、織物業の技術改良などを行った。1740 年以降、イギリスを
始めとする諸国との貿易収支は黒字になり、1789 年各国と結んだ通商条約の結果、ポルト
産ワイン、ブラジル産砂糖などの輸出が増加した。 【13-2-3】フランス 【①フランスの宗教改革とユグノー戦争】 フランスにも宗教改革の動きは波及してきた。フランスはジュネーヴの至近距離にある
ため、カルヴァンの思想は簡単に侵入した。アンリ 2 世(在位:1547~59 年)の治世にな
ると、異端弾圧は一層激しさを増し、異端者を裁くためにパリ高等法院内に設けられた特
別法廷は、1547 年から 49 年の 2 年間で 61 人に追放刑、39 人に死刑を科した。 1392
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) しかし、フランスのプロテスタントは、1559~65 年に大きく拡大した。改宗者の総数は、
フランス全体で総人口の 10%を少し上回る約 200 万と推定されていた。ドイツと異なって、
都市の宗教、そして知的水準が比較的高い人々の宗教だったといえる。フランスのカルヴ
ァン派は、「ユグノー」と呼ばれた。この呼称はドイツ語の「誓約仲間」を意味する言葉
に由来するといわれる。 厳しい取締りにもかかわらず、カルヴァン派の教えは下火になるどころか、改宗者のな
かには貴族も多く含まれ、プロテスタントが大きな政治勢力となったことを意味していた。
1561 年には、2150 もの改革派の教会ないし集団が全国に存在していた。 ○ユグノー戦争 1562 年、ヴァシーでプロテスタントの虐殺事件が起こり、これ以降ナントの勅令(1598
年)までの内乱状態を一般にユグノー戦争と呼んでいる。およそ 36 年にわたって断続的に
戦闘が行われた。 1562 年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシ
ーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。 聖バルテルミーの祭日に当たる 1572 年 8 月 24 日、新教徒の有力な指導者の一人、アン
リ・ド・ナヴァル(のちの国王アンリ 4 世)とカトリーヌ・ド・メディシスの娘マルグリ
ット(国王シャルル 9 世の妹)の婚礼に参集したカルヴァン派貴族数 10 人がパリのルーヴ
ル宮で殺害された。 その後 3 日間にわたってパリのカトリック教徒の民衆が、2000 人とも 3000 人ともいわれ
るプロテスタントを襲い、虐殺した。ニュースは国中を駆け巡り、オルレアン、トロワ、
リヨン、・・・で同じ残虐行為が繰り返された。この聖(セント)バルテルミーの虐殺は
プロテスタントの間に大恐慌を引き起こした。彼らの一部はジュネーヴに亡命し、他の一
部はカトリックに改宗した。 ユグノー戦争は、宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギー
ズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いでもあった。加えて、この戦争はカト
リックのスペイン王フェリペ 2 世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス 1 世と
の代理戦争の性格も有していた。 1585 年以降、アンリ 3 世(在位:1574~89 年)とカトリック同盟のギーズ公アンリ、プ
ロテスタントのナバラ王アンリの 3 者が争う状況となった(3 アンリの戦い)。1589 年に
ギーズ公アンリ、次いで国王アンリ 3 世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶した。 この結果、王国基本法の定めるところによって王位継承者となっていたアンリ・ド・ブ
ルボン(ナバラ王アンリ)が、アンリ 4 世(在位:1589~1610 年)として即位を宣言した。
しかし、パリではカトリックの勢力が強く、プロテスタントの王を認めなかったため、ア
1393
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ンリ 4 世はカトリックに改宗した。1594 年 3 月、パリを開城させることに成功したアンリ
4 世は、シャルトル大聖堂で正式に戴冠式を行った後、パリに入った。 ○ナントの勅令 さらに 1598 年にナントの勅令を公布した。同勅令はカトリックをフランスの国家的宗教
であると宣言しつつも、プロテスタントにカトリックと同等の権利を認め、フランスにお
ける宗教戦争を終息させた。 このナントの勅令によって、フランスのプロテスタントは、公的礼拝が一定の都市と領
地に制限されたり、カトリック教会の祝日の遵守、10 分の 1 税の納税などの義務を負わさ
れたりはしたが、一定の「信仰の自由」を獲得した。しかも「安全保障地」と軍事力、政
治集会をもつことを許され、寛容な処遇を受けることになった。 アンリ 4 世は、ユグノー戦争をおさめ、カトリックとプロテスタントとの国内融和に努
めたので、彼のもとで宗教戦争の内乱で傷ついた秩序と治安の回復がはかられた。 【②ルイ 13 世とリシュリュー】 しかし、1610 年、アンリ 4 世は熱狂的なカトリック信者に刺殺された。有能な国王の突
然の死は、フランスにとって痛手であった。まだ 9 歳のルイ 13 世(在位:1610~43 年)が
即位し、母后マリ・ド・メディシスが摂政となったが、リシュリュー(1585~1642 年)が
1622 年に枢機卿に任じられ、1624 年に国務会議に入ると、すぐに事実上の宰相の地位を確
立した。 三十年戦争(1618~1648 年)では、リシュリューはハプスブルク家の皇帝フェルディナ
ントに敵対する勢力を巧みに束ね支援する外交政策を展開、1635 年、ついに三十年戦争に
直接参戦に踏み切った。その状況は、三十年戦争のところに記している。 海外進出は、フランスの場合、王権による海外進出の試みは、フランソワ 1 世(在位:
1515~1547 年)のとき、セント・ローレンス川流域の探検と植民を試みていたが、その後
は、ハプスブルク家とのヨーロッパ内部における覇権争いや 16 世紀後半には、ユグノー戦
争(1562~1598 年)によって、海外に目を向ける余裕がなかったりして、そのままになっ
てしまった。 《植民地の獲得》 新大陸の重要性を理解していたリシュリューは、1626 年、海運・商業長官の職を創設、
自らその職に就き、ようやく、植民地政策が国家の総合的な政策の中に位置づけられた。 具体的な植民地建設では、カリブ海域に進出し、サン・クリストフ島(図 13-15 参照。西
インド諸島の小アンティル諸島)を 1627 年よりイギリスと分割領有、ついで、35 年にグア
ドループ、マルチニック両島(同じく小アンティル諸島)を領有した。また、1640 年まで
1394
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) には、サン・ドマング(カリブ海のイスパニョーラ島の西 3 分の 1)についても実質的にフ
ランス人が支配するにいたった。そのほかにも、1640 年代から南アメリカのギアナにも植
民を開始した。 図 13-15 北米・西インド諸島のフランス植民地 山川出版社『フランス史』 【③ルイ 14 世の時代】 リシュリューは 1642 年に死去し、その翌年には、彼に支持を与えていたルイ 13 世も没
した。ルイ 14 世(在位:1643~1715 年)はこのときまだ 4 歳であったため、母后アンヌ・
ドートリッシュが摂政を務めたが、政治を実際に動かしたのは、リシュリューに後継者に
指名されていたイタリア出身のマザラン(1602~1661 年)であった。辞令そのものは出て
いないが、実質的な宰相であった。 マザランは、内政、外交いずれの面でもリシュリューの政策を引き継いだ。彼は、三十
年戦争継続のための重税を課したため、貴族と民衆のいっそうの反発を買った。 パリ住民、
官職保有者の不満が高まり、やがてフロンドの乱(1648~53 年)へと発展していった。フ
ロンドとは当時流行していた子供の投石おもちゃで、パリの民衆がマザラン邸をめざして
投石したことから呼ばれるようになった。大貴族も含めた反乱に拡大したが、反乱側は諸
階層の利害の対立から、内部分裂による自滅の道を歩み、これに乗じたマザランが鎮圧に
成功した。 フロンドの乱が始まった 1648 年 10 月、ウェストファリア条約が結ばれ、三十年戦争が
終結した。この条約では、フランスはオーストリア・ハプスブルク家からアルザスの領有
権を獲得した(図 13-22 参照)。 フランスはその後もスペインとの戦争を継続したが、マザランはイギリスと同盟を結ん
でこの戦いを優位のうちに終わらせ、1659 年ピレネー条約を結んだ。この条約においてフ
1395
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ランスは、1640 年以降占領下においていたアルトワ(フランス北部)の大部分を獲得した
だけでなく、このときまだ男子後継者をもっていなかったスペイン国王フェリペ 4 世の長
女マリ・テレーズとルイ 14 世との婚姻を取り付け、フェリペ死後のスペインに対する権利
を獲得した。当時は政略結婚が領土拡大の手段と考えられていた時代であった。 マザランが 1661 年に死去すると、22 歳のルイ 14 世(在位:1643~1715 年)が親政を開
始した。 ○ヴェルサイユ宮殿の建設 ルイ 14 世はフロンドの乱での苦い経験があるパリを嫌い、1661 年に狩り場の小館があっ
たヴェルサイユの地に宮殿の建設を開始した。一応の完成を見て宮廷が移り住むのは 20 年
後の 1682 年のことになった。これがルイ 14 世の治世を象徴するヴェルサイユ宮殿となっ
た。以後、1715~22 年の期間を除いて、フランス革命までヴェルサイユに国王政府機能の
中心がおかれた。 ルイ 14 世は聖職者や大貴族を抑制するためにブルジョア層出身者を重用した。そうした
重臣のなかでも、ルイ 14 世はいずれもブルジョワ出身のコルベール、陸軍担当国務卿ル・
テリエ、ルーヴォワ父子、外務担当国務卿ユーグ・ド・リオンヌを重く用いた。ルーヴォ
ワ侯は傑出した軍政家で、軍制の改革を行ってフランス軍の質量両面の増強を成し遂げ、
彼の作り上げた軍隊がルイ 14 世治世下で行われた幾多の戦争を支えることになった。 ○コルベールとフランス型重商主義 コルベール(1619~1683 年)は、1665 年には財務総監に就任したが、しだいに財務のみ
ならず、軍事と外務を除くほとんどの部門を実質的に取り仕切ることになった。彼は国家
の強力な介入をともなう重商主義体制をつくりあげ、リシュリュー期以降悪化していた国
家財政の再建にいったんは成功した。 17 世紀の半ばになると、国際商業の分野では、中継貿易を通じて経済的覇権を築いてい
たオランダと、国内毛織物産業を基盤としてオランダの商業的独占を打ち破ろうとするイ
ギリスが激しく対立していて、フランスもこの両国を追って、経済競争に加わろうとして
いた。 当時の主流的な経済観念は重商主義で、信用制度がまだ十分な展開を見せておらず、経
済活動が貴金属に多く依存している現実を反映して、国家の強さと豊かさは、その国の保
有する貴金属の量によって決定されると考えられた。このため、ヨーロッパ諸国はいずれ
も、国内の産業を育成し、輸出を増やし輸入を抑えることによって、他国からできるだけ
多くの貴金属を獲得することを目指す政策をとった。フランスではコルベールのもと、国
家が他国よりも強力に介入することによって、重商主義が極端な形まで推し進められた。 1396
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 具体的には、国内産業については、財政的優遇、資金援助、市場の独占権などの特権を
与えられた特権的会社が設立、育成された。これらの会社は、オランダやイギリスと異な
り官製的性格が強かった。コルベール主義と呼ばれるこうした施策は、繊維製品輸出の拡
大と、それまでオランダ商人の支配下におかれていた対外貿易からこれを排除することに
は成功したが、当初の狙い通りの十分な成果を上げることはできなかった。
○ルイ 14 世の侵略戦争 だが、戦争を第一と考えるルイ 14 世は、1672 年のオランダ戦争以降、財政を優先させよ
うとするコルベールを遠ざけ、軍政を担当するルーヴォワを重用するようになった。 三十年戦争後の 17 世紀半ばからのヨーロッパの国際関係は、積極的に対外戦争を行うル
イ 14 世のフランスを軸に展開された。そして、その対外戦争の前半においては、フランス
は依然としてハプスブルク家を主敵とみなしていた。 ルイ 14 世は 62 年間という長期間、王位にあったが(親政をはじめてからも 54 年間)、
その治世の後半は、下記のように(図 13-16 参照)、ほとんど対外戦争についやされた。
ルイ 14 世がしかけた戦争の期間を累積すると 40 年間にもなる。ほとんどどこかで戦争を
やっていたことになる。 《ネーデルラント継承戦争(フランドル戦争。1667~1668 年)》 1667 年、ルイ 14 世は、スペイン領南ネーデルラントの相続権を主張して、この地に軍を
進め、スペインとネーデルラント継承戦争(フランドル戦争ともいう)を開始した。現在
のベルギーに当たる南ネーデルラントは当時スペイン領であったが、1665 年にスペイン王
フェリペ 4 世の死後、ルイ 14 世は王妃マリー・テレーズがフェリペ 4 世の王女だったこと
から継承権を主張し、南ネーデルラントに侵攻した。この侵攻に脅威を感じたオランダが、
イングランドとの戦争(英蘭戦争)を終わらせ、イギリス、スウェーデンと三国同盟を結
びフランスと対峙した。フランスは、フランドルを部分的に領有したものの、南ネーデル
ラントを確保出来ず、1668 年、アーヘンの和約によって講和した。 《オランダ侵略戦争(1672~78 年)》 ルイは、1672 年 4 月にオランダに宣戦布告、理由はあまりない、とにかく侵略戦争とし
かいいようのない戦争だった(英蘭戦争中だったので、今攻めればオランダが落ちると考
えた)。今度はイギリスと同盟を結んで、圧倒的な陸軍力によって一時は首都アムステル
ダムを脅かしさえした。 1672 年 8 月オランダで政変が起こり、オラニエ家のウィレム 3 世がオランダ総督(統領)
の地位に就くと、スペインと神聖ローマ皇帝がオランダと同盟を結び、イギリスが第 3 次
英蘭戦争を中止してオランダと単独講和し、開戦当初とは逆にフランスは孤立した。 1397
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-16 ルイ 14 世の侵略戦争(第 1 回~第 4 回) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 1677 年、イングランド王弟ヨーク公ジェームズ(後の王ジェームズ 2 世)の娘メアリー
(後の女王メアリー2 世)とウィレム 3 世(後にイングランド王ウィリアム 3 世として即位)
の結婚により、フランスのオランダ侵略失敗は決定的となった。 1679 年、オランダのナイメーヘンで交戦国がナイメーヘンの和約を結び、和解した。ル
イ 14 世は、オランダの併合を断念する代わりにフランドルの各都市、フランシュ・コンテ
などを得た。オランダは総督ウィレム 3 世のもと、オランダ領全土の奪回に成功し、以後
イングランドとの関係を重視していくことになった。 《ファルツ継承戦争(アウクスブルク同盟戦争。1688~1697 年)》 その後もフランスはフランドルやライン左岸への進出を企て、このことが諸国の警戒心
を呼び、1686 年、オランダ、スペイン、神聖ローマ皇帝、スウェーデン、ドイツ諸侯の間
に対仏防衛の「アウクスブルク同盟」が結ばれた。 1688 年、ファルツ選帝侯カール 2 世が死去し、ルイ 14 世は王弟オルレアン公フィリップ
1 世の妃エリザベート・シャルロット(カール 2 世の妹)のファルツ継承権を主張して、ラ
1398
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) イン地方に侵攻し、アウグスブルク同盟にも宣戦布告し、ファルツ継承戦争(アウクスブ
ルク同盟戦争ともいう)を開始した。 当時、フランス王国はヨーロッパ最強の軍隊を有しており、神聖ローマ皇帝がオスマン
帝国とバルカン半島で死闘を繰り広げているのを見たルイ 14 世は、イングランド王ジェー
ムズ 2 世を抱き込み、ヨーロッパ侵略のチャンスが訪れたと考えたようである。 ところが、同年末イングランドで名誉革命が勃発し、ジェームズ 2 世はフランスに亡命、
ネーデルランド連邦共和国(オランダ)統領として反フランスの先頭に立っていたオラニ
エ公ウィレム 3 世が 1689 年、イングランド王ウィリアム 3 世としてイングランド王に推戴
された。ウィリアム 3 世のイングランドは直ちにアウグスブルク同盟に参加(イングラン
ドを加えた同盟は大同盟とも呼ばれた)し、参戦した。 ルイ 14 世は亡命してきたジェームズ 2 世を先頭に立て、フランス軍をアイルランドに送
り込み、アイルランドの反イングランド反乱を煽った。1690 年、ウィリアム 3 世はイング
ランド軍を率いてボイン川の戦いでフランス・アイルランド連合軍を破った。ジェームス 2
世は再びフランスに逃れた。1692 年にはイングランド艦隊がラ・ホーク岬の海戦でフラン
ス艦隊に対して大勝利をおさめた。 だがヨーロッパ大陸ではフランス軍が善戦していた。フランス軍はスペイン領ネーデル
ラント(現在のベルギー)の諸都市を陥落させ、1693 年には同盟側のサヴォイア公国を破
り、スペイン北東部のカタルーニャにも侵入した。劣勢に追い込まれたサヴォイア公ヴィ
ットーリオ・アメデーオ 2 世が 1696 年、ルイ 14 世と秘密条約を結んでアウグスブルク同
盟から離脱すると、和平機運が広がり、1697 年オランダのライスワイクでライスワイク条
約が締結され、戦争はようやく終結した。 なお、この戦争は北アメリカやインドにも波及し、北米では英領ニューイングランドと
仏領ヌーヴェル・フランス(現在のケベック)の最初の交戦であるウィリアム王戦争とな
り、フランス東インド会社のインドにおける根拠地ポンディシェリが 1693 年、オランダ東
インド会社に占領された。 ライスワイク条約でフランスは大幅な譲歩を余儀なくされたが、この戦争ではっきりし
たことは、フランスがこれ以後イギリスと常に敵対する陣営に位置することになったこと
である。これは、ヨーロッパの覇権をイギリスとフランスが争う時代に入ったことを意味
していた。そして、両国はこの戦争以降、植民地においても戦争を繰り広げるようになっ
た。 《スペイン継承戦争(1701~1713 年)》 スペイン継承戦争については、スペイン絶対王政のところで述べたので省略する。 《20 万人のユグノー逃亡》 1399
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) なお、ルイ14 世は、宗教の面でも厳しい統制策をとっていたが、1685 年には、フォン
テーヌブロー勅令により、1598 年に出されたナントの勅令の廃止を宣言し、プロテスタン
トのすべての拝礼を禁止し、教会の破壊と牧師の追放を命じた。 この結果、フランスから約 20 万人のプロテスタント(ユグノー)がオランダ、イギリス、
ドイツ、スイスなどに逃亡したが、この国外逃亡による労働力、技術、資産の流出は、停
滞していたフランス経済に一層の打撃を与えた。 国内に残ったプロテスタントに対する迫害も厳しく、各地で反乱が起こった。1702~04
年に南フランスのユグノー農民によるカミザールの反乱はその最大のものであった。これ
もフランスにとって大きな痛手であった。 ルイ 14 世は親政開始以来、ほとんど連続して一連の戦争を行ってきたが、ほとんど領土
拡大に成功しなかった。植民地における戦争もイギリスの優位のうちに推移した。しかし、
彼にとって、国民などは眼中になく、戦争は自らの権威を内外に示す重要な手段であると
思っていた。戦争に勝利したルイ 14 世の姿がヴェルサイユ宮殿の壁や天井をかざっている
のは、そのためである。ルイ 14 世は戦争を通じて偉大な君主のイメージを作り上げること
にだけは成功したといえよう。 まさにルイ 14 世の時代はフランス王権の絶頂期で絶対王政の典型的な例であるが、それ
は、また、為政者の国王の恣意によって好んで侵略戦争を行なうという絶対王政の性格を
もっともよくあらわしていた。こうしてルイ 14 世は、ルイ 13 世の時代を含めて築いてき
たフランスの富と国力をすべて戦争に費やし、その上に多大な借金を残し、フランス革命
の遠因をつくることにもなった。 多くの場合、フランスは孤立した戦いを強いられたが、それを何とか持ちこたえられた
のは、ほかの諸国に比べて人口が多く、それが国家に、兵士を数多く調達し、多くの税収
を確保することを可能にしたということである。 17 世紀後半、イギリスは 500~600 万人、スペインは 600~800 万人、オーストリア・ハ
プスブルク家の全領土内は約 800 万人であるのに対し、フランスは 2000 万人の人口を擁し
ていた(前記の 3 国分に匹敵した)。絶対王政の国王にとって、国家も国民も国王の所有
物にすぎず、しぼればしぼるほど、税金も兵士も出てきたのである。しかし、スペイン継
承戦争末期には、国力も限界に近づいていた。 【④ルイ 15 世の時代】 1715 年、ルイ 14 世は 76 歳で世を去った。彼は、晩年に子や孫に次々に先立たれ、まだ
5 歳の曾孫がルイ 15 世(1710~74 年。国王在位:1715~74 年)として即位した。そのため、
祖父の従弟に当たるオルレアン公フィリップ 2 世が摂政の座について政務を取り仕切った
1400
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) が、その摂政時代も期間も入れるとルイ 15 世の治世は 60 年近くの長きにわたった(ルイ
14 世は 72 年間だったが)。 ルイ 15 世は成人後に親政を開始したが、ルイ 14 世の積極政策を継承し、ポーランド継
承戦争(1732~35 年)やオーストリア継承戦争(1740~48 年)に参加して領土を得たが、
度重なる戦争で財政を逼迫させた。さらに七年戦争(1756~63 年)ではアメリカ大陸にお
けるフレンチ・インディアン戦争や、インドにおけるカーナティック戦争、プラッシーの
戦いなどイギリスにことごとく敗れ、1763 年のパリ条約によって、アメリカ大陸・インド
からの事実上全面撤退を余儀なくされた。長期にわたる対イギリス植民地抗争は、フラン
スに多大な負債を残しただけであった。 ルイ 14 世の末期にすでに国家は破綻寸前であったのに、その後も戦争続きで、フランス
の国家財政はどうにもならないところに来ていた。閣僚は財政改革を目指したが、ことご
とく失敗した。次代の国王がどのような人物であっても建て直しは不可能であると言われ
ていた。これがフランス革命の直接の原因となっていく。 ところでルイ 15 世の治世は非常に長かったが、成人後に親政をしたといっても、実は政
治にも全く無関心で(戦争をするよりましだったかもしれないが)、実際の政治は愛妾のポ
ンパドゥール夫人(1721~1764 年)と(ポンパドゥール夫人の)寵臣のショワズールに任
せきりであった。 1745 年、フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、湯水のようにお金
を使って、あちこちに邸宅を建てさせ(現フランス大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅のひ
とつ)、やがて政治に関心の薄いルイ 15 世に代わって権勢を振るうようになった。ポンパ
ドゥール夫人に推されて 1758 年外務大臣となったリベラル派のショワズールは戦争大臣な
ども兼務し、およそ 10 年にわたって事実上の宰相となった。フランスの重農学派ケネー(後
述)も彼女の主治医であった。 ポンパドゥール夫人は自分の容色が衰えると、ルイ 15 世のためにフォンテンブローの森
にいわゆるハーレムにあたる「鹿の園」を開設し、若い美女を絶えず供給いていたが、や
がて王の寵愛が本当にデュ・バリー夫人に移っていった。 1769 年、ルイ 15 世の愛妾がデュ・バリー夫人に移ると、宮廷はデュ・バリー夫人派とシ
ョワズール派に分かれて対立し、ショワズールは 1769 年末に失脚した。その長い治世の間、
このようにルイ 15 世は国政どころか、国政を弛緩させるだけであったが、1774 年 5 月、天
然痘で亡くなった。 ○フランス絶対王政の財政 ルイ 14 世の没後から財政改革をしななければならなかったが、ルイ 15 世の 60 年近くに
及ぶ長い治世が前述のように、目先のきらびやかさだけで何ら改革はなされなかった。 1401
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) フランスの絶対王政の国家財政は、図 13-17 のように収入、支出ともに急速に膨張して
いった。リシュリュー期の 1620 年代末、30 年代初めが重要な転換点で、急速に支出が増え、
それに対応して増税策がとられた。とくに直接税タイユ(人頭税)の徴収強化は著しく、
1620 年代の前半と三十年戦争(1618~1648 年)に参戦したあとの 30 年代後半を比較する
と、およそ 2 倍、豊かな地域では 3 倍に達している。 図 13-17 フランスの 17~18 世紀の歳入と歳出 山川出版社『フランス史』 この増税にもかかわらず国庫の赤字は拡大し、ルイ 14 世親政期にはいって、コルベール
による財政再建がいったん成功したかにみえたが(1660 年代)、ルイ 14 世のあいつぐ対外
戦争は、リシュリュー、マザラン期よりもさらに巨額の赤字を生み出すことになった。ル
イ 14 世の死後、対外的に平和な時期が続いたことと赤字削減の努力により、財政状況は好
転するが(1720~40 年)、これも長続きはせず、オーストリア継承戦争が開始された 1740
年代初頭から再び赤字をかかえることになった。 こうした収支の不均衡、その改善策の失敗は、やがてアンシャン・レジーム末期の財政
危機に至り、フランス革命の遠因となった。 また、国家財政の上で最重要となった直接税の割り当て・徴収の仕組みは図 13-18 のよ
うになっていた。直接税の徴収は教区に依拠していた。各教区(農村部においては、ほぼ
農村共同体単位)の割当額が決まると、これの納入については、各教区が国王に対して連
帯責任を負うものとされていた。そして、この責任を果たすために、教区で住民のなかか
ら「割当人」が選ばれ、彼が割り当て台帳をつくり、それに基づいて各戸に割り当てる。
1402
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 次に、これも住民から選ばれた「徴収人」が各戸から徴収した(割当人と徴収人は 1660 年
以降、一本化された)。 図 13-18 フランスの直接税の割当・徴収機構 山川出版社『フランス史』 官僚制度は、その規模をみると、16 世紀初めに約 4000 人であったものが 1665 年には約
4 万 6000 人に増加、地方行政機構を中心に発展した。この近世の官僚のほとんどは、官職
売買を通じてその職に就任していたので、近・現代のフランス官僚とは質的に大きく異な
っていた。 官職売買は、中世末には民間で行われていて国王はそれを黙認していたが、フランソワ 1
世の時代に、国王が自ら官職を創設し、売却することを始めた。そして、1604 年にはポー
レット法により、官職世襲税の創設とひきかえにして私人間の売買も公認された。こうし
て、数多くの富裕な平民が官職を買って国王役人となった。 王権から独立的な傾向の強い貴族にかわってブルジョワ層を国王役人とすることは、官
僚機構に対する国王の統制を強化したし、支配領域の拡大にともなう統治組織の拡充にも
役立った。官職にはさまざまな特権が付随していたし、高位の官職は貴族への道を開くも
のであったから、金をたくわえたブルジョワたちは、それを商業や工業に投資するよりも
官職の購入に振り向けた。 ○フランス絶対王政の軍隊 ルイ 14 世に典型的にあらわれているように絶対王政の時代には、軍隊の仕組みが大きく
変り、それによって連続的に大規模な戦争が可能となったのである(中世には連続する戦
争は無理だった)。 フランスにおいては、近世にはいると、軍事権の国王への集中が進んだ。中世において
は、有力貴族はそれぞれ封主として軍役奉仕義務をもつ封臣を召集し、また金で兵士を雇
い、戦闘を行っていたが、絶対王政の時代になると、そうした権利は国王に固有のもので、
国王のみが軍隊をもつことができると主張されるようになった。また、一つの戦役が終わ
1403
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) っても解散せず訓練を継続する常備軍が形成されていった。常備軍は 1445 年に創設された
王令部隊に始まるが、16 世紀以降は志願兵(傭兵)よりなる部隊の常備軍化が進んだ。 こうした変化は、火器の使用による中世末からの武器や戦術の発達とも連動していた。
というのは、火器を使用する、あるいはそれを防御するための戦闘や戦術は、訓練された
大量の歩兵と糧秣や武器をあがなう巨額の資金を必要とし、それを遂行できるのは国家以
外にありえなくなったからである(このように強力な軍隊によって絶対王政が成立し、絶
対王政しか強力な軍隊を維持できなかった)。 1630 年代から、戦争はますます国家の管理下におかれるようになった。リシュリューは
1627 年に元帥職を廃止し、文官である陸軍卿を軍隊の最高責任者にした。1643 年から 91
年まで陸軍担当国務卿のポストにはル・テリエ、ルーヴォワ父子があったが、彼らは軍隊
に対する統制の強化を精力的に進めた。 《絶対王政は絶えず戦争をして国を維持していた》 こうした絶対王制のもとで、兵士の数も増加した。国王が動員できた兵数は、15 世紀末
に 4~4 万 5000 人であったが、ルイ 14 世時代には、10 倍の 40 万人前後に達した。 絶対王政期の過半は対外戦争におおわれていた。イタリア戦争がはじまった 1494 年から
1789 年のフランス革命までの 296 年間に 159 年間の戦争の時期、つまり、54%の期間が戦争
であった。戦争が常態化し、それが財政をはじめ国家の基本的な部分を規定していた。そ
の意味で、この時期には国家は税金を集める、それで戦争という事業を行なうことを仕事
としていた、つまり戦争が国家をつくっていたともいえよう(常に外に敵をつくって(大
義名分はいろいろあった)、絶えず戦争をして、国民を結集させて国を維持していた)。 財政がひっ迫すると増税し、財政が大きくなると、より多くの兵員をということになっ
て軍事費の増大はとどまることがないことは図 13-17 がよく示している(後述するイギリ
スのように、これを均等化する財政の仕組みもフランスではなかった)。 《国民民兵制(徴兵制)の導入》 志願兵(傭兵)よりなる常備軍では、志願兵に応募する層は限られていたから、兵士の
徴集には数に限りがあった。そこで 1688 年、各教区から兵士を強制的に徴集する国民民兵
制を導入した。この国民民兵制は、発足当初は臨時的なもので戦争が終われば解散するも
のとされていたが、1726 年から常設化された(実質、徴兵制のはじまり)。この制度は、
兵員の増加には寄与したが、徴兵の主たる対象とされた農民からは恐れられ嫌われ、代理
人を立てたり逃亡したりという形で抵抗を受け、十分に機能しなかった。 農民たちの間には祖国の観念は存在せず、軍役の義務が正当な負担とみなされていなか
ったからである。つまり、近世の軍隊は国民的基盤に立っていなかったといえよう(絶対
王政の国王の恣意的な軍隊では、農民(兵)がついてこなかったが、農民(兵)に国家意
1404
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 識をもたせて精神面を強化(洗脳)して国民的基盤に立った軍隊を最初に作りだしたのが、
後述するプロシアであった)。 【⑤ルイ 16 世の時代】 問題の多かったルイ 15 世の長い治世を受け継いだのは、ルイ 15 世の孫ルイ 16 世(1754
~1793 年。国王在位:1774~92 年)であった。神聖ローマ皇帝フランツ 1 世と皇后マリア・
テレジアの娘マリー・アントワネットと結婚したのは 1770 年、16 歳のときであった。長い
間、犬猿の仲であったブルボン家とハプスブルク家の典型的な政略結婚であった。 ルイ 14 世、ルイ 15 世の積極財政の結果を受け継いだため、即位直後から慢性的な財政
難に悩まされ続けた。それにも関わらず、即位するとすぐ、イギリスの勢力拡大に対抗し
てアメリカ独立戦争(1775~1783 年)に関わり、アメリカを支援するなどしたため、財政
はさらに困窮を極めた。 18 世紀のヨーロッパ各国では、自然権や平等、社会契約説、人民主権論など理性による
人間の解放を唱える啓蒙思想(後述)が広まっていた。責任内閣制を成立させ産業革命が
起こりつつあったイギリス、自由平等を掲げ独立を達成したアメリカ合衆国(後述)は、
他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた(図 13-10 において、アメリカ合衆国は民主
国家で赤、イギリスは名誉革命後、立憲君主政として、赤の斜線を入れている)。プロイセ
ンやロシアでも、絶対君主制の枠を超えるものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実
践しようとした啓蒙専制君主が現れた。 しかしフランスでは 18 世紀後半に至っても、君主主権が唱えられブルボン朝による絶対
君主制の支配が続いていた。絶対王政は、封建的身分制を保持したが、そうした社会を旧
体制(アンシャン・レジーム)という。 アンシャン・レジーム下の 18 世紀後半のフランスの人口は約 2800 万人と推定されてい
る。そのフランス社会は、図 13-44 のように、3 つの身分によって構成されていた。第 1 身
分である聖職者が 14 万人、第 2 身分である貴族が 40 万人、第三身分である平民がその他
の大部分を占めていた。絶対王政が破綻するフランス革命が近づいていた。 【13-2-4】イングランド(イギリス)絶対王制 【①絶対王政テューダー朝の成立】 1485 年にヨーク朝のリチャード 3 世を破って、テューダー朝をを開いたヘンリ 7 世(在
位:1485~1509 年)は、多くの王位僭称者たちを倒して、王権を安定させた。百年戦争、
バラ戦争で多くの貴族の家系がすでに戦乱の中で絶えていたが、ヘンリ 7 世が王位を脅か
すような大貴族の出現を、私兵の制限や婚姻相続の規制によって阻止したため、その勢力
1405
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) は凋落した。このテューダー朝の成立をもって、イギリスでは絶対王政の成立とみなされ
ている。 ヘンリ 7 世は統治の仕組み自体は、それ以前と変えなかったが、国王評議会のメンバー
には、法律などの実務に明るいジェントリ出身者を多用し、貴族の影響力をできるだけ弱
めようとした。この身分を重視しない実力主義の人材登用は、その後も受け継がれ、テュ
ーダー朝の統治組織の特徴となった。 ヘンリ 7 世が特に努めたのが財政基盤の強化であった。貴族の廃絶によって、多くの所
領が王の手に帰していたという幸運もあったが、王領の経営にも注意をはらい収入を増加
させた。貿易振興策を打ち出し、関税収入の増加をもたらした。円滑な貿易活動のために
は平和の維持が第一の条件と考え、可能なかぎり戦争を回避することがヘンリ 7 世の外交
の基本であった。 ヘンリ 7 世の即位当時、イングランドはヨーロッパの 2 大国フランスとスペインに挟ま
れた小国に過ぎなかった。そのなかで生き残りをはかる必要があったが、ヘンリ 7 世が選
んだのはスペインとの同盟であった。1501 年に皇太子アーサーとスペイン王女キャサリン
の縁組に成功したことは、おのずとイングランドの地位を高めるものであった。翌年、ア
ーサーが急死したのちも、ローマ教皇の特赦を得てまで、次男ヘンリをくどいて兄嫁で年
上の未亡人と結婚する約束をとったのも、スペインとの結びつきを維持しようとしたため
であった。 また、スコットランド対策も負担の大きい戦争よりは交渉による解決をめざし、娘マー
ガレットをスコットランド王ジェイムズ(在位:1488~1513 年)に嫁がせるという婚姻政策
でスコットランドとの和平を確実なものとした。 【②イングランドの宗教改革―ヘンリ 8 世の離婚問題】 1509 年、父の死により即位したヘンリ 8 世(在位:1509~47 年)が受け継いだ王国は平
穏で、国庫も豊かであった。即位した 2 ヶ月後に例のキャサリンとの結婚式をあげた。し
かし、テューダー朝の安定のために男子の王位継承者が必要であるとの理由で、ヘンリ 8
世が妃キャサリンとの離婚を問題にし始めたのは 1520 年代の半ばからであった。 キャサリンとの間には娘メアリがいたが、男の子はいなかった。女王でも法的には問題
はないものの、前例がないので国内の混乱は必至であると考え男子の後継者を望んだとも
いわれている。いや単にキャサリンの侍女アン・ブーリンに目移りがしたから離婚を言い
出したともいわれているが真相はわからない(両方だったかもしれない)。 いずれにしても、キャサリンとの結婚は聖書が禁じる「兄弟の妻との婚姻」にあたるの
で無効であるとのヘンリ 8 世の主張に対し、1527 年、教皇クレメンス 7 世はこれを却下し
1406
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) た(以前、父ヘンリ7世は、ローマ教皇に息子とキャサリンの結婚を特認してくれるよう
頼んで許されたが、今度はそうはいかなかった)。 教皇への働きかけが失敗に終わると、ヘンリ 8 世は態度を変え、さまざまな古代以来の
文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめ、
教皇に送付した。1529 年に離婚問題の打開をはかるために議会を召集(「宗教改革議会」
と呼ばれる)、ローマ教会の権限を制限・否定する一連の法律を成立させ、教皇に圧力を
かけていった。 ○イングランド国教会の設立 1533 年には、その前文でイングランドが他の勢力から完全に独立した国家であることを
宣言し、教会問題に関しても国王が最終決定権をもつことをうたった「上告禁止法」が議
会で成立し、離婚問題についてキャサリンがローマ教皇庁へ上告を行う道が閉ざされた。
それにより、問題はカンタベリ大司教の法廷で最終的に決着されることとなった。ヘンリ 8
世の意を受けた大司教トマス・クランマはヘンリ 8 世とキャサリンとの婚姻の無効、アン
との結婚の合法性を認めた。ローマ教皇はこれに対してヘンリ 8 世の破門をもって応じた
が、もはやイングランドの離反をとめることはできなかった。 1533 年 9 月に生まれたアンの子供は、男子ではなく女子(エリザベス)であったが、イ
ングランドのローマ教会からの分離の動きはさらに進んだ。1534 年には「国王至上法」が
成立、国王を「イングランド教会の唯一の地上における最高の首長」と規定し、ローマ教
皇の権威は否定された。ここに「イングランド国教会」が成立した。 これら一連の宗教改革立法の背後で、ヘンリ 8 世の片腕として活躍したのがトマス・ク
ロムウェル(ピューリタン革命のクロムウェルとは別人)であった。これに反対した大法
官トマス・モアは処刑された。 このようにイングランドでは、教義の内容ではなく、ヘンリ 8 世の離婚問題が直接原因
で宗教改革がはじめられたが、次に述べる政治的・経済的な動機も強かったと考えられて
いる。 ○修道院の解散・土地の売却 ヘンリ 8 世は、ローマ教会からの独立のつぎに修道院の解散に着手した。はでなヘンリ 8
世によって破綻していた王室財政の建て直しの手段として、修道院の財産没収がはかられ
たのである。当時のイングランドには 800 以上の修道院が存在し、全土の 4 分の 1 ほどの
土地を所有し、その年間収益は当時の国家の経常収入に匹敵した。修道院が保有していた
全国の 5 分の 2 ともいわれる教会聖職禄への推挙権も国王の手に落ちた。この推挙権も売
却によって収入をもたらすものであった。 1407
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) こうして獲得された土地は、その直後から売却され始め、ヘンリ 8 世治世末年には旧修
道院領のほぼ 3 分の 2 が貴族、ジェントリ、大商人などの所有に帰していた。ヘンリ 8 世
が修道院の解散によって手にした額は総計 130 万ポンドにもなったが、ヘンリはその全て
を使い尽くしてしまった。 その後も売却は続き、エリザベスの即位までに全体の 4 分の 3 以上が国王の手を離れて
いた。これはノルマン征服時以来の大規模な土地の移動であったが、ここで獲得された土
地がジェントルマン階級のその後の台頭の経済的基盤となっていった歴史的意味は大きい。 なお、ヘンリ 8 世はその後も離婚・結婚を繰り返し、つごう 6 人の王妃と結婚した。こ
うなると男子後継者を望んではじめたという説もあやしくなる。とにかく、お坊ちゃん王
のわがままから、イングランド国教会は生まれたのである。 ヘンリ 8 世は 1547 年に死去したが、男児で唯一存命していたエドワード(母は 3 番目の
王妃ジェーン・シーモアであった)が跡を継いでエドワード 6 世(在位:1547~1553 年)
となったが、エドワード 6 世は生まれつき病弱だったので 15 歳で亡くなった。 その後は、ヘンリ 8 世が 1543 年に制定した法律では、継承順位はエドワード、メアリ(後
のメアリ 1 世)、エリザベス(後のエリザベス 1 世)の順であった。 【③メアリ 1 世のカソリックへの復帰運動】 そこでヘンリ 8 世の法律のとおり、キャサリンの娘メアリ 1 世(在位:1553~1558 年)
が王位に就いた。イングランド初の女王であった。彼女はヘンリ 8 世とエドワード 6 世の
時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、再びイングランドをカトリックに戻そうとした。 ローマ・カトリック教会と和解し(1555 年)、没収した教会財産の返還も行った。彼女
はこれに反対する者への徹底的な弾圧や処刑すら辞さなかったため(273 人が処刑された)
「ブラッディ・メアリ」(血染めのメアリ)と呼ばれた。しかし、この復帰運動も過激す
ぎたため、メアリ 1 世の死後、カトリックへの強制的な復帰運動は消えた。 【④イングランド教会を確立したエリザベス 1 世】 真の意味でのイングランド国教会のスタートは、1558 年に即位したエリザベス 1 世(ヘ
ンリ 8 世の 2 番目の王妃アン・ブーリンとの間に生まれた子。在位:1558~1603 年)のも
とできられることになった。 即位翌年の 1559 年に再び成立した「国王至上法」と「礼拝統一法」がエリザベスの宗教
政策の基本となったが、結果的には今日に至る国教会の出発点ともなった。ただ、ヘンリ 8
世、エドワード 6 世時代の法律とは、名称は同じでも内容は多少異なっていて、1552 年版
に比べてカトリック色を強めたものとなっている。 1408
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) このように、エリザベス 1 世の選んだ道は「中道」とよばれるもので、イングランドに
混在するプロテスタントとカトリックがお互いを否定し排除することなく、共存できる道
を選んだ現実的な政策であった。 1570 年に教皇ピウス 5 世は正式にエリザベスを破門宣告し、イングランドのカトリック
教徒に反エリザベスの活動をうながした。以後エリザベスは何度となく、国内のカトリッ
ク勢力による暗殺の危険にさらされた。 エリザベスにとって最大の脅威となったのはスペインであった。当初大陸への軍事介入
には消極的であったエリザベスも、1585 年にはスペインからの独立戦争を戦っていたオラ
ンダ支援のためにレスタ伯指揮による 7000 人の兵士派遣に踏み切った(当時、オランダは
毛織物の重要な貿易市場でもあった)。このため、英西戦争となり、ついにスペイン無敵
艦隊の侵攻を受けることになった。 ○スペイン無敵艦隊(アルマダ)を撃退 1588 年 5 月、約 130 隻のスペイン無敵艦隊(アルマダ)がリスボンを出発し、7 月末か
ら 8 月初めにかけてイングランド軍と一連の海戦を行なった。無敵艦隊はグラヴリンヌ沖
海戦でイングランド艦隊に敗北して作戦続行を断念し、北海方向へ退避した。無敵艦隊は
スコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指したが、悪天候によって大損害を蒙
ってしまい、結局スペイン本国に帰還できたのは約半数の 67 隻だった。死傷者は 2 万にお
よび、スペイン衰退の予兆となった。 そかし、無敵艦隊の敗北によって一気にイングランドが制海権を掌握したわけではなか
った。スペインはこののちも、再度のイングランド攻略を計画したし、西インドなどを舞
台に両国艦船の衝突は続いた。そのため、以後もイングランドは対スペイン防衛のために
多大の出費継続を余儀なくされ、財政のさらなる悪化を招くことになった。イギリス(=
イングランド)が海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした。 エリザベスの時代は、華やかな繁栄の時代というイメージがもたれているが、それは無
敵艦隊撃退といった劇的な事件のほかに、シェイクスピアをはじめとするルネサンス文化
の輝きの中に、時代の暗部が霞んでしまったためであろう。 ○救貧法と新産業の模索 実際には、1590 年代のイングランドは、不況が続き、社会・経済面でも危機的状況にみ
まわれた時期であった。長期化した戦争、深刻な凶作と飢餓、インフレの進行、疫病の流
行、各地での食糧暴動が起きていた。その解決策として制定されたのが 1601 年の「救貧法」
で、教区ごとに救貧税を徴収し、貧民対策にあてることが規定されていた(しかし、懲罰
的な色彩が濃いものでもあった)。これは初めての福祉法であった。 1409
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) かつてイングランド人の海外への「雄飛」と表現されてきた植民地建設の試みも、こう
した社会問題を背景によぎなくされた解決策の一つにほかならなかった。オランダのアン
トウェルペンにかわる貿易市場を求め、東インド会社などの東方貿易の会社が設立された
(1600 年)。また、新たな北東航路などの新交易路の開拓や北米での植民地建設の試みな
ども続けられ、後の植民地帝国形成への出発点となった。 更に、地方のジェントリの中には、自らの領内の産業育成と雇用確保のためにさまざま
な「実験企業」を起こしていく者もあらわれた。それらから、靴下編み産業、薄手の新毛
織物、石鹸、製紙などの新しい産業が(ときには国王の独占特許を得て)、成長していく
ことになった。まさに時代は曲がり角にきていたのである(このようなどん底での模索か
ら、オランダにつぐ新産業国家が徐々に生まれてきた)。 【⑤ステュアート朝の開始、ジェームズ 1 世の専制政治】 1603 年にエリザベス 1 世が亡くなると(独身で通したので子供はいなかった)、テュー
ダー朝の血を引き、メアリ・ステュアートの息子であったスコットランド国王ジェームズ 6
世(スコットランド王として、在位:1567~1625 年)がイングランドにむかえられ、ジェ
ームズ 1 世(在位:1603~1625 年)として即位して、スチュアート朝を開いた。これによ
ってイングランドとスコットランドは、別々の議会をもちながらも同じ国王によって統治
される「同君連合」となった。 このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻
化していた。ピューリタンとは、イギリス国教会の改革を唱えたプロテスタントの大きな
グループであり、清潔、潔白などを表す purity に由来する(puritan で厳格な人、潔癖な
人を指すこともある)。もともと蔑称的に使われていたが、自らもピューリタンと称する
ようになった。その中には国教会から分離せずに教会内部を改革しようとする者と、国教
会から分離しようとする者(分離派)までがいたが、とくに前者のことをピューリタンと
呼んだ。 ジェームズ国王は、ピューリタンの教会改革の継続の要求をしりぞけ、国教会体制の堅
持を表明した。また、ジェームズ 1 世は、王権神授説を信奉していた。この王権神授説は、
絶対王政を正当づける政治理論で、君主権は神から授けられたもので、国王は地上におけ
る神の代理者であるから、国民はこれに絶対的に服従しなければならない、君主は国民に
対してではなく、神に対してのみ責任を負うという考えであった。 そして、このジェームズ 1 世は、一部の特権商人と結んでその独占権を保護し、当時、
力を伸しつつあったジェントリや商工業者を抑制した。このジェームズ 1 世の治下、ピュ
1410
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ーリタンの中には祖国での弾圧を逃れ、1620 年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住し
たものもいた(ピルグリム・ファーザーズ)。 ○イギリスにおける市民階級の形成 イギリスでは中世から近世に移るころに社会層に大きな変化が起って、ジェントリとか
ヨーマンという中間層が育ち、それらが政治的に重きをなすようになってきていた。 当時のイギリスは、すでに農村にも貨幣経済が浸透し、封建的な荘園経済がくずれ、ヨ
ーマンと呼ばれる独立自営農民(富農層)が多数生じていた。ヨーマンは集合名詞として
はヨーマンリーという。下層貴族と小農民の中間に位置し、農業経営者・牧羊業者として
近世イギリス社会の富と繁栄の基礎をなした。17 世紀には、イギリス人口の 6 分の 1 を占
めた。下層貴族出身の農業経営者もジェントリとして台頭してきた。単数はジェントルマ
ンという。 《第 1 次囲い込み(エンクロージャー)》 このヨーマンリーやジェントリは、毛織物工業が発達して羊毛の価格が上がると、農地
の囲い込みを盛んに展開した。分散している所有地や農民の共同地・放牧地を柵や垣で囲
ってしまい、まとまった牧羊地としたのである。囲い込みが進んで羊毛生産が増大し、ジ
ェントリやヨーマンリーに富をもたらしたが、一方で土地を追われた多くの無産農民をう
み、農民層の分解を促進した。 16 世紀には封建家臣団の解体、ヘンリ 8 世の修道院領没収もあって、農民層の分解が早
まった。この当時の囲い込みは第 1 次囲い込み(エンクロージャー)であった(18 世紀に
おこる、さらに大規模な第 2 次囲い込みとは区別される)。 《マニュファクチュア(工場制手工業)の発達》 このような農民層の分解はマニュファクチュアを発達させることになった。社会的分業
の進展と農村市場の形成により、問屋制手工業にかわってマニュファクチュア(工場制手
工業)が発達し、土地を失った貧農は賃金労働者となってやとわれた。マニュファクチュ
アの経営者は、一部のジェントリ、富裕なヨーマンリー、都市から移住してきた小親方な
どで、彼らは農村の織元(おりもと)といわれた。 これに対して都市の問屋制度のもとで生産を支配していた商業資本家を都市の織元とい
う。次に述べる革命の際、農村の織元が議会派を形成したのに対し、都市の織元は王党派
を形成した。 ジェントリはもっとも実力のある社会階層として、議会とくに下院に多く進出した。ヨ
ーマンや都市市民とともに中産階級を形成するようになった。 《「法の支配」の源》 1411
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 新しく興ってきた市民階級は、議会を軽視するジェームズ1世に対し、イギリス固有の
法体系であるコモン・ローをよりどころにして、イギリス人の「古来の自由」に対する国
王の侵犯に抵抗していった。 このコモン・ロー闘争の先頭に立ったのは、著名な法学者として知られるエドワード・
クック(1552~1634 年)であった。彼は中世ゲルマン法に由来するコモン・ローの法思想
を理論化し、近代の法思想として継承させることに成功し、
「法の支配」という憲法原理を
確立し、イギリス法の発展に大きく貢献した法律家の一人であった。 クックは、マグナ・カルタ(大憲章)をコモン・ローを明文化したものの 1 つと解釈し、
コモン・ローの確認・再生であるとした。また、マグナ・カルタを、貴族を保護するため
だけではなく、全ての臣民を等しく保護するために用いられると解釈した。それは実質的
に大憲章を、議会や王から全ての臣民を守る保証人だと定めたことになる。彼は「大憲章は、
その上に王を持たない存在である」と主張した。 《「国王といえども神と法の下にある」》 国王ジェームズ 1 世が王権神授説をもって国王主権を主張したのに対して、クックが「王
権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないので、王の判断が法律家の判断
に優先することはない」と主張したところ、気分を害したジェームス 1 世が「王である余
が法の下にあるとの発言は反逆罪にあたる」と詰問したのに対し、
「国王といえども神と法
の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺(ほうげん。法律に関する格言(法格言)
やことわざ)を引用して諫めたとされる。 ヘンリー・ブラクトン(生年不詳~1268 年)とは、13 世紀のイギリスのローマ法学者、
聖職者で、『イングランドの法と慣習法』を編纂した人物であり、ブラクトンの「王は人の
下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法の下にある。なぜなら、法が王を
作るからである。」との法諺が有名である。 註釈学派(ちゅうしゃくがくは。11 世紀から 13 世紀にかけて、古代ローマ法の主要文言
に註釈つけて解釈を行った法学者の一派でボローニャ学派ともいう)のアーゾ・ポルティ
ウスは、法の源泉は人民の同意にあるとした上で、人民を個人の集合体としての人民と個々
の人民に分け、個々の人民は皇帝に立法を委ねたがゆえに皇帝の下にあるが、なお個人の
集合体としての人民は立法権を保持するとしてイタリアの都市国家の皇帝に対する独立を
主張した。ブラクトンはアーゾの影響の下、ローマ法の概念を借用してイングランドの慣
習の体系化を試みたのである。 いずれにしても、王権神授説をかかげて国王主権を主張するジェームズ 1 世に対して、
法学者のエドワード・クックは、論理的に法を解いて、コモン・ロー闘争に一歩も引かな
かったのである。 1412
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 【⑥チャールズ 1 世の専制政治】 1625 年 3 月、ジェームズ 1 世が死去すると、彼の息子であるチャールズが即位した(在
位:1625~49 年)。チャールズ 1 世は、前王と同じく王権神授説を信奉しており、議会の
同意を得ないで外交を行い、臨時の課税を強行したりした。 ○「権利の請願」 こうした国王大権の行使に対して、議会は 1628 年 3 月、エドワード・クック(ジェーム
ズ 1 世の裁判干渉に抗議したため、高等民事裁判所首席判事の地位を追われ、その後、下
院議員となっていた)を中心にして「権利の請願」を起草し、国王に提出した。 全 11 条からなるこの文書は、13 世紀の大憲章(マグナ・カルタ)以来の「イングランド
の自由」を根拠にしながら、援助金の強制、恣意的な税金、不法な逮捕・投獄、兵士の民
家宿泊強制、一般市民への軍法の適用などを禁止するよう、国民の基本的権利と議会の機
能を要求した。大憲章は封建貴族による王権の制限であったが、権利の請願は、中産市民
階級を指導者とする国民による王権の制限であった。 ところが国王は、いったん「権利の請願」を受諾したものの、トン税・ポンド税などで
議会と対立し、翌 1629 年 3 月には議会を解散し、反対派の議員を投獄して、以後 11 年に
わたり議会を開催しない専制政治を行った。また、財政難を解決するために、議会の同意
を得ない課税に踏み切った。 これらの専制政治に加えて、チャールズ 1 世の政府に対して、国民が決定的に離反する
ようになったのは、国王の宗教政策であった。チャールズ 1 世は、1625 年、フランスから
カトリックの王妃アンリエッタ・マリアをむかえただけでなく、さまざまな親カトリック
的政策を展開し、その過程でピューリタンを弾圧し、カトリック復活を思わせるに十分で
あった。 ○ピューリタン革命 ピューリタン革命の発端は、隣国スコットランドの暴動から始まった。1639 年 4 月、チ
ャールズ 1 世は兵を北に進め、スコットランドとの間に戦争(第 1 次主教戦争)が生じた
が、国王軍は抵抗にあい撤退をよぎなくされた。スコットランド問題に固執する国王は、
戦費調達のため、11 年ぶりに議会を開会することにした。1640 年 4 月に開催された議会は、
課税を拒否したので、国王はただちにこれを解散した(短期議会)。 しかし、チャールズは、なおもスコットランド問題にこだわり、1640 年 7 月、再び戦争
(第 2 次主教戦争)となったが、スコットランド軍に敗北し、賠償金の支払いを迫られた。
国王は、その支払いのために再度、議会を開かなければならなくなった。1640 年 11 月に開
会された議会は、その後、12 年半継続したので長期議会と呼ばれる。 1413
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《長期議会》 約 500 人の庶民院議員(イングランドとウェールズから選出)を中心にした長期議会は、
国王の意向とは裏腹に、様々な改革を断行した。議会は、まず専制政治を推し進めたスト
ラフォード伯と大主教ロードを逮捕・処刑した。つぎに議会は、専制政治を阻止し、絶対
王政の支配機構を打破する諸立法を制定していった。少なくとも 3 年に一度の議会召集、
議会の同意なき課税の禁止、星室裁判所と高等宗務官裁判所という二つの弾圧機関の廃止、
船舶税の不法宣言などがほぼ満場一致のかたちで決められた。 《内戦勃発》 1642 年 1 月、国王は急進派の 5 議員を逮捕しようとして議会に乗り込んだが、失敗した。
国王は、ロンドンを離れ北へ向かい戦闘準備を始め、同年 8 月末、ノッティンガムで挙兵
した。ついに国王派(騎士派)と議会派(円頂派)の間に内戦が勃発したのである。これ
がピューリタン革命(清教徒革命)の勃発であった。 国王派は貴族やジェントリの大部分と彼らの家臣・従者などから、議会派は貴族やジェ
ントリの一部と商工業者やヨーマンなどからなった。地域的には、図 13-19 のように、国
王派は北部・西部・南西部を、議会派は東部・南部・中部を基盤としており、宗教的には、
国王派の多くが国教会を、議会派の大半がピューリタニズムを信奉していた。 図 13-19 ピューリタン革命当時のイギリス 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 議会派は、1643 年 9 月、庶民派議員として長期議会で活躍していたオリヴァー・クロム
ウェル(1599~1658 年)を議会軍司令官とした。そして、1645 年 6 月、ネーズビ-の戦い
1414
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) で王党軍に決定的勝利をえて、国王を逮捕した。翌年 6 月、国王派の本拠地であったオク
スフォードの陥落によって第 1 次内戦は終結した。 国王の逮捕後、革命の方向をめぐり議会派内で対立がおこっている間に、1648 年 4 月、
逃亡・再起したチャールズ 1 世はスコットランド軍と手を組んで、第 2 次内戦を起こした。
しかし、独立派(議会派は独立派と水平派に分裂した)のクロムウェルは 1648 年 8 月のプ
レストンの戦いによって国王軍を撃退した。 《チャールズ 1 世の処刑、共和政(コモンウェルス)宣言》 1649 年初め、捕らえられた国王チャールズ 1 世を裁くための高等裁判所が設置された。
そして 1649 年 1 月末にチャールズ 1 世は、「専制君主、反逆者、殺人者、国家に対する公
敵」として死刑の判決を受け、公衆の面前で処刑された。3 月には君主制と貴族院を廃止す
る法が発布され、イギリスは歴史上ただ一度の「国王なき時代」になった。 今や革命の勝利者となった独立派は、国王を処刑する一方、同年 3 月には水平派の指導
者を逮捕し、水平派兵士の反乱も鎮圧して独裁的な体制を作り上げていった。5 月には正式
な共和政(コモンウェルス)宣言が出された。 【⑦】ピューリタン革命政府の政治 クロムウェルは、共和政を樹立するにあたって、市民層に対立する貴族の上院を廃止し、
さらに、ピューリタンの信仰を堅持するためにイギリス国教会を廃止した。これはピュー
リタン革命が,政治的革命と宗教的革命という二元性をもっていたことを示している。
イングランドとスコットランドは同君連合であったので、イングランドによって勝手に
自国の王を処刑されたスコットランドはチャールズ 2 世(チャールズ 1 世の息子)の即位
を認める方針を示したのでチャールズはスコットランドやアイルランドを足場に王政復古
の運動を行うことができた。
1649 年 8 月、クロムウェルを司令官とする 1 万 2000 人のイングランド軍はアイルランド
のダブリンに上陸し、翌年 5 月まで各地で非戦闘員を含む多くの市民を虐殺した(図 13-
19 参照)。これにより、アイルランドはイギリスの植民地に転落し、アイルランド農民の
悲惨な運命がはじまった。
つぎに、クロムウェルの軍隊は、1650 年 7 月からスコットランドに侵入し、9 月のダン
パーの戦い(図 13-19 参照)、1651 年 9 月のウースタの戦いでスコットランド軍を破り、
長らく続いた内戦は終結した。 次にクロムウェル政府は、1651 年 10 月にクロムウェル航海法を制定した(この航海法は
クロムウェルがスコットランド遠征中に制定されたもので、クロムウェルはタッチしてい
なかったが、クロムウェル航海法といわれている)。これによってオランダとの間で第 1
1415
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 次英蘭戦争(1652~54 年)が起きたがオランダの歴史で述べる(クロムウェルは、本来プ
ロテスタントの同盟国オランダとの争いを望んではいなかった)。 ○植民地帝国建設の端緒 1654 年 4 月にオランダとの平和条約が締結されると、クロムウェルは、宿敵スペインへ
の攻撃を開始し、1655 年 5 月にはジャマイカを占領し、英西戦争へと発展した。ジャマイ
カを中心にしたカリブ海植民地には、イギリス移民が入植し、黒人奴隷制も導入され、砂
糖プランテーションが発達した。イギリスは革命期には、このようにオランダやスペイン
と対抗して、製品市場を拡大し、原料・食糧供給地を獲得することに成功しており、その
意味で革命は後の植民地帝国建設の端緒となった。 ○軍事的独裁政治 クロムウェルは、軍幹部の用意した成文憲法「統治章典」に従って護国卿という地位に
就いた。護国卿は、イングランドの国益を護るだけでなく、スコットランド、アイルラン
ド、植民地やヨーロッパのプロテスタント保護をも目的とした官職であった。厳格なピュ
ーリタニズム(清教徒主義)を実施、軍事的独裁政治によって、中産市民階級を擁護する
ための秩序の回復につとめた。さらにクロムウェルは 1655 年 8 月、全国を 11 の軍管区に
分けて軍政官制を敷き、軍事独裁色を強めていった。 しかし、クロムウェルの政策は、あまりにも厳格であり、独裁的であった。多くの中産
市民階級は富裕なブルジョワとなって保守化し、クロムウェルの禁欲的独裁政治に不満を
もちはじめた。排除された左右両派の不満はさらに大きかった。 保守化した議会は、王政復古によって事態を乗りきろうととした。1657 年 3 月、議会は
ロンドン商人らが作成した「謙虚な請願と提案」によって、クロムウェルを王位に就けよ
うとした。王冠を拒否したクロムウェルは、再度護国卿職に就いたものの、1658 年 9 月、
マラリアで帰らぬ人となった。クロムウェルは少なくともナポレオンになる野心はそもそ
も持っていなかったと思われる。 オリヴァー・クロムウェルの息子のリチャード・クロムウェルが、父の後を継いで護国
卿に就任したが、もはや混乱した状態を収拾することはできなかった。1659 年 5 月、彼が
職を退き、護国卿政権はあえなく崩壊した。 これからは、時計の針が反対に回るように進んでいった。ステュアート朝の王政復古へ
の道が開かれていったのである。 【⑧王政復興とチャールズ 2 世】 1660 年 5 月、チャールズ 2 世(在位:1660~85 年)は、歓喜の声に迎えられた亡命先か
らロンドンに帰ってきた。これによって 1714 年まで続く後期ステュアート朝が開始された。 1416
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1661 年 5 月、旧国王派を多数含む議会が開会され、クラレンドンらが中心となって、国
教会の保護と再建、そして非国教徒を抑圧する「クラレンドン法典」と総称されるピュー
リタン弾圧立法を制定していった。これらによって、議会と国教会を尊重し、ピューリタ
ンとカトリックという非国教徒を排除する王政復古体制の根幹が出来上がった。地方社会
では、革命前から実力をつけていたジェントリ層の支配が浸透していった。 また、外交政策でも、親スペイン・反オランダの勢力が台頭し、ロンドン商人の支持を
得て、1660 年と 63 年に航海法が再公布され、65 年から 67 年まで第 2 次英蘭戦争が行われ、
さらに 1672~74 年に第 3 次英蘭戦争が起こされたが、この経緯もオランダの歴史で述べる。 チャールズ 2 世はカトリック教徒であることを否認したものの、彼の言動は国民の疑惑
を招いていた。そうした折の 1670 年 5 月、チャールズ国王がルイ 14 世と「ドーヴァーの
密約」を結んだことが発覚した。これは、チャールズ国王がカトリックへの改宗を宣言す
ることを条件に、フランスが軍事援助と年金をチャールズに贈るというものであった。 そのルイ 14 世は根っからのカトリック君主というだけでなく、大陸侵略政策を露骨に実
行する絶対君主で、1667 年のオランダ侵略の次にイギリスが標的になるかもしれないとい
う危機感が広がっていった。 こうした国王の動きに対して議会は、反ピューリタンや反オランダから、反カトリック
や反フランスの方針を採るように変化していった。議会は 1673 年 3 月には「審査法」を成
立させ、公職に就く者を国教徒に限定し、カトリック教徒を官職から除外しようというも
のだった。次期国王の有力候補で海軍長官の王弟ヨーク公ジェームズまでがカトリックで
あると判明し、官職から追放された。1679 年 1 月、国王によって議会は解散された。こう
して「カトリックの陰謀」を阻止するために、議会と王権が争うというピューリタン革命
前と類似した構図が出現した。 ヨーク公ジェームズを王位継承者から排除する「王位継承排除法案」の提出が最大の焦
点となった。排除法の成立を求める請願運動は全国規模で展開された。この運動を繰り広
げた人々は「請願派」と呼ばれ、これに反対した人々は「嫌悪派」と呼ばれた。 ○政党の誕生、「請願派」=「ホイッグ」、「嫌悪派」=「トーリ」》 この王位継承をめぐって、議会内部に二つの政党が生まれた(これが政党のはじまりと
なった)。 シャフツベリ伯を中心とする「請願派」は、1670 年代前半の「地方党」の流れをくみ、
やがて「ホイッグ」(「謀反人」とか「馬泥棒」という意味)といわれた。ホイッグは、王権
の制限と議会主権を原則にし、宗教的な寛容を主張してピューリタン系非国教徒の支持を
取りつけていった。ブルジョワ的市民階級が支持していた。ジェームズの王位継承権を否
定した。 1417
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 他方「嫌悪派」は、やがて「トーリ」(「山賊」という意味」)と呼ばれ、国王に対する
服従と国教会体制の堅持を原則にした。貴族や保守的な地主を代表しており、国教徒以外
のピューリタンを排斥したが、カトリック教徒に対しては寛大でジェームズの即位を承認
した。 【⑨カトリック国王ジェームズ 2 世】 1685 年 2 月、チャールズ 2 世が死去すると、結局、弟のヨーク公がジェームズ 2 世とし
て即位した(在位:1685~88 年)。国民の多数が忌避したカトリックの国王が実現したの
である。 ジェームズ 2 世は、1687 年 4 月、信仰自由宣言を出し、審査法の適用除外を主張し、カ
トリック教徒を官職に登用する道を開いた。さらに国王は 7 月には異議を申し立てる議会
を解散に追い込んだ。ジェームズの背後には、1685 年にナントの勅令を廃止してユグノー
を追放したフランスのルイ 14 世がひかえていた。今やイギリス人は、カトリック化と絶対
王政への復帰という二つの危機に直面することになった。 1688 年 4 月、国王は二度目の信仰自由宣言を出し、これを国教会の説教壇から読み上げ
ることを聖職者に強要したが、カンタベリー大主教をはじめとする 7 人の主教は朗読を拒
否したため、投獄された。王権に対する無抵抗の原則を掲げるトーリ系の国教聖職者です
ら、国王からの離反を始めた。この離反を決定的にしたのは、同年 6 月の皇太子誕生であ
った。ジェームズの後継者誕生によってイギリス人は、半永久的にカトリックの国王をい
ただく可能性が生じたのである。 ○ウィリアム 3 世と名誉革命 ここにいたって、ホイッグとトーリの指導者は提携し、両派の貴族ら 7 人が、オランダ
総督のオレンジ公ウィリアム(オラニエ公ウィレム)に向けてイングランドを武力によっ
て解放する招請状を送ったことにより、イギリス名誉革命へと発展することになるが、そ
れはイギリス市民革命でもあり、項を改めて記すことにする。イギリス絶対王政はチャー
ルズ 2 世で終わりを告げることになった。 【13-2-5】神聖ローマ帝国と三十年戦争 ○戦争への道 三十年戦争への道は、ドイツ(神聖ローマ帝国)の宗教改革の「その後」からはじまっ
た。神聖ローマ帝国、ドイツには強大な王権による統一国家は生まれず、諸侯割拠の状態
が続いていた。そのような中で、宗教改革の結果生じたプロテスタントとカトリックの対
1418
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 立は、1555 年のアウクスブルクの和議(宗教平和令)によって解決されたかにみえたが、
それは一時の妥協に過ぎなった。 ヨーロッパの宗教分布は,図 13-7 のように、プロテスタントはその後も勢力を北ドイツ
に拡大し、それに対抗してカトリックのほうもトリエントの公会議(1545~63 年)で教会
の刷新を行って陣営を立て直して、巻き返しをはかった。 その際、アウクスブルクの和議のもつ「聖職者に関する留保」条項が最大の争点であっ
た。それは、聖界諸侯がプロテスタントに改宗すれば、その聖職と所領を放棄せねばなら
ないというのであるが、プロテスタントは、これは帝国等族(帝国議会を構成する聖俗の
諸侯と帝国都市)の同意を得ていないとして、その条項の無効と、既成事実の尊重を主張
した。 神聖ローマ帝国、ドイツの帝国議会は紛争を収める力をもたずに麻痺状態となり、事態
は軍事力により決着せざるを得なくなった。 《「新教同盟」と「旧教連盟」の対立》 カルヴァン派のリーダーであるプファルツ選帝侯(現在のドイツのラインラント=プフ
ァルツ州)のイニシアティヴのもとに 1608 年「新教同盟」が結成されると、それに対抗し
て翌年にはバイエルン侯マクシミリアンによって、オーストリアを除く多くのカトリック
陣営をまとめた「旧教連盟」が結成された。さらに新教同盟の背後には西欧のカルヴァン
勢力とくにオランダ(独立戦争中)があり、旧教連盟に対してはヨーロッパのカトリック
の盟主を任ずるスペインが後押ししていた。 ○三十年戦争の勃発 ボヘミア王に選出されたカトリック強硬派のフェルディナンド 2 世は、新教徒に対する
弾圧を始めたので、1618 年、弾圧に反発した新教徒の民衆がプラハ王宮を襲い、国王顧問
官ら 3 人を王宮の窓から突き落とすというプラハ窓外投擲(とうてき)事件が起った。フ
ェルディナンド 2 世は、これを受けてボヘミアへ派兵した。これが三十年戦争の始まりと
なった。 この三十年戦争は、アウグスブルクの和議から、半世紀近くたった神聖ローマ帝国の一
角でこの新旧教徒の争いから、三十年も続く前代未聞の国際戦争となってしまった。その
戦争は、主として神聖ローマ帝国を舞台として、4 つの段階に区分することができ、後にな
るほど凄惨さを増していった。この 4 段階にわたる戦争はそれぞれハプスブルク帝国に対
抗する勢力ないしは国家の名前をとって下記のように呼ばれている。 《第1段階:ボヘミア・ファルツ戦争(1618~23 年)》 プラハ窓外投擲(とうてき)事件の後、1619 年、皇帝マティアスが死去し、ボヘミア王
フェルディナント 2 世が神聖ローマ皇帝も兼任するようになると、ボヘミア諸侯は議会で
1419
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 国王を廃し、プロテスタント諸侯連合の中心的存在だったプファルツ(ドイツ西部のライ
ン地方を支配)選帝侯フリードリヒ 5 世を新国王に迎え、皇帝に対抗しようとした。 皇帝フェルディナント 2 世はスペイン・ハプスブルク家やバイエルン公マクシミリアン 1
世などのカトリック諸侯の援助を受け、ティリー伯を司令官とする軍を派遣した。プロテ
スタントのボヘミア諸侯は、諸侯連合から援軍を得られず、1620 年、白山の戦い(図 13-
20 参照)で大敗し、反乱は鎮圧された。フリードリヒ 5 世はわずか 1 年で王位を追われた。
ボヘミアの反乱貴族は処刑あるいは追放され、その土地・財産は没収され、ボヘミアは従
来の体制を大きく変えてしまうことになった。 図 13-20 三十年戦争(1618~29 年) 中央公論社『世界の歴史17』 1621 年、スペイン・ハプスブルク軍がプファルツに侵攻したため、さらにフリードリヒ
5 世は 1622 年にネーデルラントへ逃れた(彼はここで客死した)。1623 年、フェルディナ
ント 2 世はバイエルン公マクシミリアン 1 世にプファルツを与え、選帝侯の地位につけた。
これは金印勅書に反するものであったため、諸侯の怒りを買うことになった(三十年戦争
が長期化した一因とも言われている)。スペインはこの戦いで図 13-20 のように、対オラ
1420
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ンダ戦争(オランダ独立戦争)にとって重要なルート、つまり北イタリアとネーデルラン
トを結ぶいわゆる「スペイン街道」の確保に成功した。 これ以後、ハプスブルク家のボヘミア支配は強固なものとなった。とりわけ 1627 年の新
領邦条例によって議会は権力のほとんどを奪われ、ボヘミアはハプスブルク家の属領とな
った。これにより、多くのボヘミア貴族や新教徒が亡命し、ヨーロッパ各地に散らばった。
しかし、ハプスブルク家による財産の没収や国外追放といった苛烈な戦後処理は他の新教
徒諸侯の離反を招き、戦争が長期化する原因となった。 《第 2 段階:デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625~29 年)》 1624 年、ハプスブルク家の勢力強化を恐れたフランスのリシュリューがフランスならび
にオランダ、イギリス、スウェーデン、デンマークと「対ハプスブルク同盟」を結成し、
ハプスブルクとカトリック連合を牽制した。またフランス、サヴォイ、ヴェネツィア がスペインのハプスブルク家への支援ルート(スペイン街道)を阻んでいた(図 13-20 参
照)。ここに三十年戦争は国際化するようになった。 これを受け、1625 年 5 月に直接行動にでたのは、ホルシュタイン侯として帝国議会にも
議席があり、プロテスタントの危機を感じていたデンマーク国王クリスチャン 4 世(在位:
1588~1648 年)であった。しかしプロテスタントのクリスチャン 4 世はカトリックに対抗
することが表向きの参戦理由であったが、実際のところは、神聖ローマ帝国のニーダーザ
クセンの区長として、長らく空位になっている 2 つの帝国内の司教職に自分の息子を就任
させる要望を出したところ、皇帝フェルディナント 2 世に拒絶され、ティリー伯の皇帝軍
がニーダーザクセンに進駐してきたことが真の理由であった。 デンマーク王の参戦に対してイギリスは資金を提供し、マンスフェルト、ブラウンシュ
ヴァイクの二人の傭兵隊長の軍を援軍として派遣した。デンマークの参戦を受けたフェル
ディナント 2 世は、常備軍による応戦が不可能と判断し、ボヘミアの傭兵隊長ヴァレンシ
ュタインを登用し、彼の軍隊に新教徒軍と戦うよう依頼した。ヴァレンシュタインはマン
スフェルト、ブラウンシュヴァイクを各個撃破した。さらにクリスチャン 4 世も 1626 年の
ルッターの戦いで、ティリー伯の皇帝軍に敗れてしまった(図 13-20 参照)。 クリスチャン 4 世が戦力を失うと、ヴァレンシュタインとティリー伯の軍はデンマーク
の神聖ローマ帝国における公爵領ばかりか、ユトランド半島をも蹂躙した。クリスチャン 4
世はスウェーデンに支援を求め、同盟が成立し、からくもヴァレンシュタインをデンマー
クから退けた。1629 年、「リューベックの和約」が皇帝との間で成立し、デンマークはひ
とまず三十年戦争の舞台から退場した。 1629 年、皇帝は帝国等族にはかることなく単独で、懸案の「復旧勅令」を発布した。こ
れは 1552 年以降没収された教会領をカトリック側に返還することを命じたもので、皇帝権
1421
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) のピークと皇帝絶対主義を意味するものであって、三十年戦争は新たな問題をかかえるこ
とになった。 《第 3 段階:スウェーデン戦争(1630~34 年)》 この皇帝権の未曾有の強化は、ドイツ国内外に不安をもたらした。外国勢力では、フラ
ンスはもとより、いまやスウェーデンがバルト海の覇者としての地位が脅かされると感じ
た。ヴァレンシュタインが皇帝から、「バルト海、大西洋の提督」に任命されたからであ
る。スウェーデン国王グスタフ・アドルフ(在位:1611~32 年)率いるスウェーデン軍 3
万はフランスの資金援助を受け、新教徒を解放するべくドイツに侵入した(図 13-21 参照)。
ここからスウェーデン戦争が始まった。 図 13-21 三十年戦争 1630 年 中央公論社『世界の歴史17』 食料難に苦しむ皇帝軍が略奪・虐殺を行ったことから、皇帝軍に失望したザクセン公と
同盟を結んだスウェーデン軍は、1631 年 9 月、ライプツィヒの北方、ブライテンフェルト
の戦いで皇帝軍に圧倒的勝利を得た。翌 1632 年 4 月、スウェーデン軍は砲兵の効果的な運
用で皇帝派のバイエルン軍を圧倒し、総司令官ティリー伯の戦死など大きな損害を与えた。 1422
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1632 年 11 月、ライプツィヒ郊外のリュッツェンで、破竹の進撃を続けるグスタフ・アド
ルフのスウェーデン軍 1 万 6000 とヴァレンシュタイン率いる皇帝軍 2 万 6000 が会戦した。
この戦いでグスタフ・アドルフは戦死した。スウェーデン軍はベルンハルト将軍が指揮を
引き継ぎ、結局、スウェーデン軍はこの戦いにも勝利した。「国王戦死」の報を受けたス
ウェーデンは、クリスティナ王女が国王に即位し、ドイツのプロテスタント諸侯との間に
「ハイルブロン同盟」を締結し、「防衛戦争」という形で戦争を続行した。 グスタフ・アドルフの死はプロテスタント諸侯を動揺させ、皇帝軍の士気を高めること
となった。1634 年、皇帝は要求が増大したヴァレンシュタインを暗殺させ、嫡子フェルデ
ィナントを総司令官に任命し、スペインの援軍を得て、ネルトリンゲンの戦いで、スウェ
ーデン・プロテスタント諸侯軍(ハイルブロン同盟)を撃破し、主導権を奪い返した。ス
ウェーデン軍は重大な被害を受け、三十年戦争の主導権を失ってしまった。 スウェーデン軍はかつての勢力を失い、ハイルブロン同盟が崩壊する危機がありながら
も、スウェーデンの宰相オクセンシェルナの手腕によって、フランスを直接介入させるこ
とに成功した。フランスのリシュリューはプロテスタント諸侯へのフランスの影響力を保
持するためスウェーデンと取引をし、カトリック国であるにも拘わらずフランスもこの同
盟に参加した。三十年戦争は新しい局面を迎え、第 4 段階へと突入することになった。 《第 4 段階:フランス・スウェーデン戦争(1635~48 年)》 この第 4 段階では、今まで背後にひかえていたカトリックのフランスが前面に出てきて、
スペインとオーストリアのハプスブルクに対抗すべく進軍してきた。ここにいたって、宗
教的な要素はまったく影を潜め、ことはすべてヨーロッパの政治問題となった。フランス
は後に名将と呼ばれるテュレンヌ将軍をドイツに送り込んだ。皇帝軍は一方的な守勢に立
たされるようになった。さらにスウェーデンも巻き返しをはかった。ここにフランス宰相
リシュリュー、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、神聖ローマ皇帝フェルディナント 2
世の戦略がぶつかり合うことになった。フランス軍は主にスペイン軍と、スウェーデン軍
は神聖ローマ皇帝軍と戦った。 1636 年、攻勢に出た皇帝軍はヴィットストックの戦いでスウェーデン軍に敗れ、勝利し
たスウェーデン軍は再びドイツへ侵攻した。これ以降、反ハプスブルク勢力の情勢は好転
した。また、ネーデルラントではオランダがスペインを破り、ブレダの要塞を陥落させた。
この勝利はオランダの独立を確実なものとし、逆にスペインの覇権のかげりを示すもので
あった。 こうした情勢の中、皇帝フェルディナント 2 世が死去し、新皇帝には嫡子フェルディナ
ントがフェルディナント 3 世(在位:1637~1657 年)として即位した。スペイン軍は 1640
年ごろからフランス・オランダの前に敗退を重ね、没落の兆しを見せていた。なおこの年、
1423
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スペインのくびき(スペイン・ポルトガル同君連合)を脱したポルトガル王国が独立を宣
言し、刃(やいば)をスペインへ向けた。 1642 年、皇帝軍はブライテンフェルトで再びスウェーデン軍に敗れた(図 13-22 参照)。
これで皇帝はさらに逼迫し、和平の道を模索し始めた。この頃になると、帝国全体で厭戦
気分が蔓延するようになった。1642 年の暮れには和平会議が設置されたが、1644 年によう
やく交渉が開始された。戦争は、交渉を優位に運ぶために、戦いが激化するという矛盾し
た状況になっていった。 図 13-22 三十年戦争 1640 年 中央公論社『世界の歴史17』 この時期フランスでは、1642 年に宰相リシュリュー、翌 1643 年にフランス王ルイ 13 世
が相次いで死に、リシュリューの政策は、新宰相マザランに引き継がれた。1643 年にフラ
ンスがロクロワの戦いで、スペインを殲滅、さらに 1644 年のフライブルクの戦いで、カト
リック軍の中心バイエルン公を破ったことで、フランスは三十年戦争における勝利を確実
なものとした。 一方、スウェーデンは、ドイツで転戦していたが、背後からデンマークに脅かされ、1643
年、戦端を開いた。この戦争は三十年戦争の局地戦でスウェーデン軍の指揮をとっていた
1424
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 将軍トルステンソンの名前からトルステンソン戦争(スウェーデン・デンマーク戦争)と
呼ばれるが、スウェーデンはオランダ海軍を味方につけて、デンマークを屈服させ、三十
年戦争によって中断されたバルト海の制覇をついに成し遂げた。これによってデンマーク
の覇権は失われた。ついでスウェーデンは三十年戦争を確実にするために、再びボヘミア
へ侵攻した。 1645 年、プラハ近郊のヤンカウの戦いで、またしても皇帝軍は大敗した。この時、プラ
ハにいた皇帝フェルディナント 3 世はウィーンへ逃亡したが、これはハプスブルク家の敗
北を決定的なものとした。同年、バイエルン軍もスウェーデン軍に敗れた。バイエルン公
はフランスとよりを戻し、孤立したザクセン公もスウェーデンと休戦条約を締結した。 1646 年、皇帝軍がヤンカウの敗戦から驚異的な復活を成し遂げ、バイエルンに合流する
恐れが生じた。そこでスウェーデンがバイエルンに再度侵攻した。フランスもテュレンヌ
将軍を派遣した。1618 年にボヘミア・ファルツ戦争が勃発した地で最後の戦闘が行われた。
1648 年、スウェーデン・フランス連合軍は、皇帝・バイエルン連合軍を敗り、大勢は決し
た。スウェーデン軍はプラハを包囲し、これを占領した後、帝都ウィーンを攻める態勢を
固めた。皇帝はついに 10 月 24 日、和平条約への署名を決断した。ついに旧教の皇帝側が
敗れた。 ○ウェストファリア条約とウェストファリア体制 和平条約の国際会議は、現在のドイツのノルトライン・ウェストファリア州にあるミュ
ンスターに(図 13-22 参照)、イングランド、ポーランド、ロシア帝国、オスマン帝国を
除いた全てのヨーロッパ諸国が参加していた。ヨーロッパ諸国とドイツの諸邦の君主が総
計 194 人、全権委任者が 176 人が集まり、ヨーロッパの諸問題とドイツの国内問題が協議
された。まさしくそれはヨーロッパで最初の国際会議であった。3 年にわたる交渉の結果、
1648 年 10 月 24 日にウェストファリア条約が結ばれ、ここに 30 年、1 世代にもおよんだ世
紀の大戦争が終結した。 三十年戦争は図 13-23 のように、ヨーロッパのほとんどの国をまきこんだ最初の国際戦
争だった。 ウェストファリア条約は、近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖と
もいわれている条約である。その主な内容は、以下のとおりである。 ドイツの国内問題としては、宗教問題と帝国国制の問題が重要であった。 ◇そもそも戦争の発端となった宗教上の結論は、アウグスブルクの和議の内容を再確認し、
カルヴァン派を新たに容認した。宗派的対立の原因であった「聖職者に関する留保」条
項は破棄され、1624 年を標準年と定め、その時点での宗派の分布が基準とされた。 議会及び裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が規定された。 1425
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ◇神聖ローマ帝国内の領邦は主権と外交権を認められた。皇帝と帝国等族の二元主義は大
きく後者に傾き、「ドイツの自由(すなわち帝国等族の自由)」が国是となった。 一方、皇帝は、法律の制定、戦争、講和、同盟などについて帝国議会の承認を得なけれ
ばならなくなった。 図 13-23 三十年戦争の参戦国 戦争で勝利した側では、 ◇フランスは、アルザス地方と、ロレーヌ地方のメッツ、トウール、ヴェルダンを獲得した
(図 13-22 参照。これから延々と続く独仏の争いの種がまかれた)。フランスの勢力
は部分的にはライン川まで進出した。 ◇スウェーデンは、フォアポンメルン公位、ヴィスマール市、ブレーメン公位、フェルデ
ン公位などを獲得して、オーデル川、エルベ川、ヴェーザー川の河口をおさえ、帝国議
会の議席を得た(図 13-22 参照。スウェーデンは大陸に進出した)。 ◇スイス、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、独立を承認された(神聖ローマ帝
国からの離脱を確認)。 ◇ブランデンブルク選帝侯(のちのプロイセン)は、ヒンターポンメルン公位を獲得し、
ザクセンとならぶ北ドイツの雄として登場することなった。 このウェストファリア条約の結果は、神聖ローマ帝国という枠組みを超えて全ヨーロッ
パの情勢に多大な影響を与え、その後のヨーロッパの国際情勢を規定することになった
(1789 年のフランス革命に至るまでの約 150 年間)。 1426
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 三十年戦争がヨーロッパ史上最初の近代的な国際戦争であったとすれば、それを終結さ
せたウェストファリア条約(1660 年のピレネー条約も含めて)は、ヨーロッパ史上最初の
多国間の国際条約であったといわれる。その意義を強調するかのように、たとえば 20 世紀
のヴェルサイユ条約と対比して、ウェストファリア条約が作り出したヨーロッパの新しい
国際秩序を、「ウェストファリア体制」と呼ぶことがある(三十年戦争後のウェストファリ
ア体制、次がナポレオン戦争後のウィーン体制、第 1 次世界大戦後のヴェルサイユ体制、
第 2 次世界大戦後のサンフランシスコ体制(国際連合体制)となる)。 ○三十年戦争の影響(ウェストファリア体制) 《最後の宗教戦争だった》 ウェストファリア条約後のドイツ地方は、大国はもちろん、都市国家規模の自由都市や
小国までもが独立国としての権威を獲得した。三十年戦争はカトリック派諸国、とりわけ
ハプスブルク家の敗北によって終わった。この条約で新教徒(とくにカルヴァン派)の権
利が認められ、帝国議会や裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が定められ
たこと、またカトリックの皇帝が紛争を調停する立場にあるわけではないことが確定した
ことで、ドイツでは紛争を平和的に解決する道が開かれた。このため最後の宗教戦争とも
言われている。 《ドイツ領邦国家の分立が確定した》 ドイツは、帝国内の領邦に主権が認められたことにより、300 におよぶ領邦国家の分立が
確定した。また皇帝の権利は著しく制限され、いわば諸侯の筆頭という立場に立たされる
こととなった。これにより、ハプスブルク家は依然として帝国の最有力諸侯として帝位を
独占したものの、帝国全体への影響力は低下し、自らの領地であるオーストリア大公国や ボヘミア王国、ハンガリー王国などの経営に注力せざるを得なくなった。 神聖ローマ帝国は、皇帝・8 選帝侯・96 諸侯・61 自由都市の連合体となり、この後も、
実態のない名ばかりの国家として亡霊のごとく生き続けることとなった(1806 年にナポレ
オン・ボナパルトによって滅ぼされるまで存続しつづけた)。神聖ローマ帝国の組織は保
存され、それら領邦国家の保存・平和的な紛争解決手段として活用されることとなった。 《戦争の規模も被害も拡大し、その性格も変った》 三十年戦争の社会・経済的影響は甚大なものがあった。何よりもそれを顕著にあらわし
ているのが、人口の減少である。ドイツ全体では戦前の約 1600 万人からいまや 1000 万人
となり、約 3 分の 1 減少した。図 13-24 のように、メクレンブルク、ボメルン、テューリ
ンゲン、プファルツ、ヴュルテンベルクなどでは被害がとくに多く、半分以上の減少であ
った。もとより人口減は、死亡者の数をあらわしているとは限らず、他地方への逃散もそ
1427
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) こには含まれているが、それにしても人口減の割合は第 1 次、第 2 次の世界大戦の犠牲よ
りも大きかった。 直接的な戦闘による被害は、確かに戦線が北上・南下しドイツの大部分が巻き込まれた
ので大きいものがあったが、これがすべてではなかった。むしろ軍隊による課税(実質的
には略奪)が人々を苦しめた。当時の軍隊は傭兵軍で、その維持は多分に現地での課税(略
奪)によっていた。しかも、その際、敵・味方の区別なしに現地で課税され、物資が暴力
的に徴発された。当時の傭兵は,国籍を問わず、ただ給料のみによって雇われたもので、
軍人としての規律に欠け、戦場では略奪・暴行・強姦のかぎりをつくした。 図 13-24 三十年戦争による人口の増減 山川出版社『ドイツ史』 この戦争をまのあたりにしたオランダのグロティウスは、「わたしはどのキリスト教国
でも、野蛮人も恥じるような無軌道な戦争をみる。戦争がはじまると人間は何の抑制もな
く、どんな罪を犯してもよいと考える」と、今日にも通じる平和を訴え、平時および戦時
を問わず国家が守らなければならない法の存在することを指摘して『戦争と平和の法』を
著わし,近代国際学の樹立を主張した(このグロティウスについては、【13-3-1】
啓蒙思想のところに記す)。 《国家間の覇権戦争だった……フランスとスウェーデンが勝利した》 三十年戦争は、新教派(プロテスタント)と旧教派(カトリック)との間の宗教戦争と
してはじまったが、その後、宗教戦争はこの戦争の単なる一側面に過ぎなくなった。戦争
の第 2 段階から徐々に国家間の宗教闘争に名を借りた民族対立の側面が露わになり、ヨー
1428
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする勢力
間の国際戦争として展開されることになった(この三十年戦争以降の戦争は、宗教を同じ
くするからといった抽象的な大義名分ではなく、政治的決定に際しては現実政策が重視さ
れるようになり、極端にいえば、戦争ごとに組み合わせを変えて戦争が行われるようにな
る)。 この反ハプスブルク勢力の中にはカトリック教国であるフランス王国も加わっていた
(つまり、旧教国のフランスが新教国側に加わったのである)。ブルボン朝の支配を確立
し、フランスの勢力拡大をねらう宰相リシュリューは、デンマークとスウェーデンのドイ
ツ情勢への介入を裏で手引きし、第 4 段階には直接軍事介入によって実力でハプスブルク
帝国をねじ伏せようとした。 もし,ドイツでハプスブルク家の支配が確立されれば,ハプスブルク家が支配するスペ
インとドイツに挟まれたフランスにとって大きな脅威となり,ブルボン朝の支配が揺るが
される危険性があった。ブルボン朝の安泰のためには,ハプスブルク家のドイツ支配は何
としてでも阻止しなければならなかったのである。 《覇権国家となったフランス……ルイ 14 世の侵略戦争時代》 フランス王国はカトリックでありながら戦勝国となった。ハプスブルク家の弱体化に成
功した上、アルザス・ロレーヌを得た(ここで戦争による領土獲得の味をしめた)フラン
スは、以後ライン川左岸へ支配領域の拡大をはかり、侵略戦争を繰り返すことになる(す
でにフランス絶対王政の侵略戦争の数々については記した)。 《バルト帝国となったスウェーデン》 スウェーデンもこの条約でバルト海沿岸部に領土を獲得し、その一帯に覇権を打ち立て
た。この時代のスウェーデンはバルト帝国とも称される。スウェーデンは帝国議会に席を
持ち、オーバーザクセン、ニーダーザクセン、ニーダーライン・ヴェストファーレンの 3
つの帝国クライス(領邦)に席を占めた。 ○ウェストファリア体制下のヨーロッパ(17~18 世紀) これからのウェストファリア体制の 100~150 年を概観してみると、中世の時代よりも、 明らかに戦争は増大した。中世の戦争の大義名分は神のため、つまり、キリスト教にしろ
イスラム教にしろ、十字軍にしろ、ジハードにしろ、神をかたって、自派の支配者階級の
勢力を拡大する、あるいは維持するために戦争をした。 しかし、三十年戦争後、つまり、宗教改革戦争の総決算後には、もはや、宗教的な大義
は影をひそめ(誰の目にも、それはいつわり(大義名分にすぎない)であることがわかっ
てしまったから)、今度は絶対王政の各国がそれぞれの「国益」(このころの国益は支配
者である絶対王政の国王の利益である)にもとづいて行動する(戦争をする)ようになっ
1429
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ていったということである。絶対王政の「国益」とは何か。自国の支配者階級の利益(欲
望)のために、できるだけ自国民を動員して(被支配者階級を動員して)、他国の領土・
資源を獲得し、商業(交易)圏を広げることであった。それはヨーロッパの外の世界では、
植民地の獲得競争、あるいは植民地間戦争となった。 《まず、スペイン、ポルトガルが脱落》 中世から近世に移って、大航海時代にもっとも早くのりだしたスペインとポルトガルが、
16 世紀に先頭を走っていたが、あまりにも多くの戦争を(カトリックの名のもとに)しま
くって息絶え絶えになっていたのに三十年戦争に突入し、敗者となってしまった。ポルト
ガルは、スペインとの同君連合として含まれていたが、三十年戦争中にポルトガルが独立
戦争を起こして独立したので、ポルトガルは勝者とみなされるかもしれない。 スペインはそれまで 1 世紀半余り、イタリアで、ネーデルラントで、地中海で、英仏海
峡で、ドイツで、フランスで、戦い続けてきたが、ついに力尽きて敗れた。これらの戦争
でのしかかってきた莫大な戦費をやりくりして、危機的な財政を何とかしのいできたのは、
アメリカ植民地から送られてくる大量の銀であったが、それも 16 世紀末から 17 世紀初頭
にピークを迎え、その後は急速に減少してしまった。金の切れ目はスペインの運の尽きる
ときであった。かつてスペインとともに世界へ最初に乗り出したポルトガルもスペインか
ら独立したが、ともに衰退する運命にあった(スペインは前述したように,その後も戦争
をし続け、衰退の一途をたどった)。 《一流に踏みとどまったオーストリア(ハプスブルク家)》 また、中世から婚姻政策などでのしあがってきたハプスブルク家が統治していた神聖ロ
ーマ帝国(というより神聖ローマ帝国をかついできたハプスブルク家)も 16 世紀にはフラ
ンスとイタリア戦争でしのぎをけずり、オスマンと戦い、宗教戦争では帝国内で激しく戦
い、その上に三十年戦争であるから、これまた敗者となった。 しかし、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)は、このあと奇跡の復活をとげる。30 年も
の長い戦争で、人口は激減し、経済的に麻痺してしまい、立ち直れないほどの打撃を受け
たが、オーストリアのハプスブルク家は、いろいろな変遷はあったが(それはこれから述
べることであるが、隣に弱体化したオスマン帝国があり、これを攻撃して、くいつないだ
面もあった)、その後、オーストリア帝国というコンパクトな国家で立ちなおり、結局、
一流国の地位にとどまった。 《勝者フランスの奢り》 三十年戦争の勝者、フランスは、ウェストファリア条約で西ヨーロッパにおける優位を
決定づけたといわれていた。確かに 1660 年以後、フランスがすみやかに軍事力を増強して
1430
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ヨーロッパの最強国にのし上がった。フランスはヨーロッパ西部と中部を支配しており、
かつてのハプスブルク家の勢力と同じく圧倒的なものがあったかもしれない。 しかし、成功体験は結局、奢り、そして失敗につながるというのは真であるようだ。 ルイ 14 世に代表されるように、フランスはその後、露骨な侵略戦争を繰り返し、手もつけ
られないようなヨーロッパの暴れん坊になったが、周辺国の対仏同盟によってそのつど
(1689~97 年、1702~14 年、1739~48 年、1756~63 年)陸と海で阻止され、国民から搾
り取った血税をやたら使い果たし、最後にはフランス革命で倒された(スペイン・ポルト
ガルと同じように戦争のやりすぎで自滅した)。 その後、軍事独裁のナポレオン帝国は次々と勝利をおさめていくが、やがて他の 4 大国
の同盟によってやはり行く手を阻まれた。これだけ長く戦争をやり続けたフランスの底力
には驚嘆するが、当時、2800 万人という西ヨーロッパをすべてあわせたほどの人口を持っ
た被支配者階級の国民がいたからできたことであった。結局、しわよせはすべて被支配者
階級の国民にいくことはいつの時代も同じだった。 《勝者スウェーデンも脱落》 三十年戦争で勝者となった、もう一つの国スウェーデンは、ウェストファリア条約で、
念願だったドイツ北部への進出を果たした。成功は失敗のもとというが(「失敗は成功の
もと」の逆もまた真である)、スウェーデンもその通りとなった。スウェーデンが獲得し
た西ポンメルンはバルト海の対岸にあり、戦略上の要衝に位置する。だが、安全保障上の
切り札を手に入れたスウェーデンに、周辺諸国は黙ってはいなかった。ブランデンブルク
(プロイセン)、デンマーク、ポーランド、そして最後にはロシアが出てきた。 一度はバルト海帝国を完成させたスウェーデンは(フランスと同じように)度重なる戦
争でついには力つきてしまうことになる。その前にデンマークもスウェーデンとの戦争の
連続で力つきてしまう(現在の北欧を見ている我々からは、信じられない気もするが、北
欧の国々も一度は覇権を追った時期もあり、海外に植民地をもった時代もあった。しかし、
その覇権を捨てて、はじめて平和の、豊かさの、福祉のモデル国家となることができた)。 《5 大国にのし上がるプロイセン》 三十年戦争の小さな勝者がいた。この神聖ローマ帝国の北のほうに散らばっていた小国
を、機会あるごとに、つなぎ合わせて、100 年後にはブランデンブルク・プロイセンが姿を
現し成長して列強の仲間入りをすることになる(5 大国の一つとなる)。 以上、17~18 世紀のヨーロッパ大陸を総括すると、おおまかにいって西にフランス、東
に形骸化した神聖ローマ帝国の中の二つのゲルマン国家(ハプスブルク帝国とプロイセン)
という 3 国の勢力均衡状態が 18 世紀のヨーロッパ大陸の大勢を占めるようになった。 その外にイギリスとロシアがひかえていた。 1431
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《一貫して海外植民地を拡大したイギリス》 イギリスは海外進出では、スペイン、ポルトガルに大きく遅れをとった。この 16 世紀か
ら 18 世紀にかけてヨーロッパ列強の勢力は、アジア、アフリカ、アメリカなどの地域に広
がっていったが、これらの植民地経営で最も成功したのがイギリスで、1688 年の名誉革命
で国内の安定をはたしたのちは、一貫して海外植民地帝国の形成に邁進したのである(こ
の過程でフランスの海外植民地はほとんどイギリスに奪われた。また、世界最初の産業国
家オランダも 3 回の英蘭戦争で弱体化された)。これは 1770 年代にアメリカ合衆国に独立
され、一頓挫したが、これもイギリスの成長を一時的に停滞させただけで、その後もイギ
リスは世界的な影響力をもった国家として成長し続けた。 《一貫して陸の植民地を拡大したロシア》 イギリスがヨーロッパの西端で独自の発展をとげたのと同じように、ヨーロッパの東端
で発展をとげたのがロシアであった。ロシアは国家形成が遅かったが、ピョートル大帝以
降、急速に西欧化を進め、18 世紀を通じてアジアの草原地帯の東と南に勢力を拡大してい
った(ロシアの場合はユーラシアという陸続きの大陸であったので、目立たなかったが侵
略・植民という点ではイギリスの植民地帝国の形成と同じであった)。 このヨーロッパの両端のイギリスもロシアも中央のヨーロッパ大陸に無関心・無関係で
はなかった。この両国ともヨーロッパ大陸で力の均衡が崩れないこと(突出した強国が現
れないこと)を望んでおり、この均衡を維持して自国の利益をはかるためには介入も辞さ
ない考えであり、事実、ほとんどすべての戦争に介入した。 以上のようなことで、ウェストファリア体制下のヨーロッパは、その前の大国であるオ
スマン帝国、スペイン、ポルトガル、オランダ、スウェーデンなどが衰退し、結局、5 つの
大国(フランス、ハプスブルク帝国、プロイセン、イギリス、ロシア)が台頭してくる過
程とみることができる(結局、この 5 大国が次のナポレオン戦争で激突することになる)。 【13-2-6】オーストリア ○フランスの侵略 三十年戦争が終わったばかりの 17 世紀の後半、ヨーロッパは、今度は三十年戦争で最強
となったルイ 14 世(在位:1643~1715 年)治下のフランスの対外的進出に悩まされた。1659
年のピレネー条約から考えると、ほとんど間をおかずに、1667~68 年のスペイン支配下の
南ネーデルラントへの侵略(ネーデルラント継承戦争)に始まって、18 世紀初頭のスペイ
ン継承戦争(1701~13 年)まで、オーストリア(ハプスブルク家)はその矢面に立たされ、
ひっきりなしに戦争が続いた。その詳細は、フランス史で述べたので省略する。 ○第 2 次ウィーン包囲後のオスマン帝国の後退 1432
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1683 年、ハプスブルク家領の北西ハンガリーでハンガリー人による反乱が起こり、反乱
者たちはオスマン帝国に対して支援を要請した。これを 16 世紀のスレイマン 1 世の第 1 次
ウィーン包囲(1529 年)以来 150 年ぶりのオーストリア占領の好機と考えたオスマン帝国
の大宰相(首相)カラ・ムスタファ・パシャ(1634~1683 年)は、15 万からなる大軍を率
いて、第 2 次ウィーン包囲を敢行した(図 13-47 参照)。 1683 年 8 月初頭、オスマン軍はウィーンに到達し、この町を完全に包囲した。そしてオ
スマン軍は、町の西部から城壁の突破をはかって攻撃を仕掛けた。しかし最新の築城法で
要塞化されて第 1 次包囲の時代よりはるかに堅固になったウィーン市の防備を破ることが
できず、攻城戦は長期化した。9 月 12 日、オーストリア・ポーランド・ドイツ諸侯の連合
軍がウィーン郊外に到着し、ポーランド王ヤン 3 世は到着したその日の夕刻に連合軍に総
攻撃を命じた。戦闘はオスマン軍の惨憺たる敗北に終わった。 第 2 次ウィーン包囲でオスマン帝国を撃退したあと、連合軍の側ではローマ教皇がオス
マン帝国に対する同盟結成の呼びかけを行い、オーストリア、ポーランドにヴェネツィア
共和国を加えて神聖同盟が結成され、引き続きオスマン帝国の支配下にあった東ヨーロッ
パの各地に侵攻した。これに対しオスマン帝国では、政府内に指導者を欠き、混迷するオ
スマン軍は連合軍の前になすすべなく連敗を重ねた。 ○カルロヴィッツ条約 結局 16 年間にわたって戦闘が続き、1699 年、ハンガリー南部のカルロヴィッツでカルロ
ヴィッツ条約が締結された(図 13-47 参照)。この条約は歴史上初めてオスマン帝国がヨ
ーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られている。ロシアとは別途、
翌 1700 年に首都イスタンブルでコンスタンティノープル条約を締結し、戦争を終結させた。 カルロヴィッツ条約でオスマン帝国はベオグラード周辺を除くハンガリー王国の大部分
(ハンガリー中央部、トランシルヴァニア、クロアチアなど)をオーストリアに、アドリ
ア海沿岸の一部をヴェネツィアに、ポドリア(ウクライナ)をポーランドに割譲すること
を認めた(図 13-47 参照)。翌年にはロシアと個別の講和を結んでアゾフ(黒海北部)の
割譲を認めた。 この第 2 次ウィーン包囲に続くオスマン帝国の敗退と後退は、ヨーロッパに大きな影響
を与えることになった。 第 1 に、第 2 次ウィーン包囲は、16 世紀後半以来徐々にではあるが衰退していたオスマ
ン帝国のヨーロッパにおける軍事的優位を決定的に崩す事件となった。また、第 2 次ウィ
ーン包囲からカルロヴィッツ条約に至る 16 年間の戦争によってオスマン帝国の版図はバル
カン半島および東ヨーロッパから大幅に後退し、オスマン帝国の衰退を決定づけた。 1433
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 第 2 に、オーストリア・ハプスブルク家が自信をとりもどし、復活するきっかけとなっ
た。オーストリアは 16 年にもわたる戦争の結果、ハンガリーの全域をオスマン帝国から奪
取し、ここに帝国の版図をこえて、面積・人口ともにずばぬけたオーストリア・ハンガリ
ー連合君主国(ハプスブルク帝国)が出現するとともに、ヨーロッパの強国となったので
ある。 第 3 に、ロシアは、ウクライナ(ポドリア)の領有をめぐってオスマン帝国と潜在的敵
対関係にあったので、途中から、ポーランドの誘いにより参入し、コンスタンティノープ
ル条約でその目的をはたし、黒海・バルカン半島を目指す南下政策の第一歩となった。 第 4 に、バルカン諸国は、オスマン帝国のバルカン支配を抑圧であるとみなし、第 2 次
ウィーン包囲とその後の戦争の勝利はその解放とのちの民族自立への第一歩となった事件
であったと評価している。 ○オーストリア帝国の復活 オーストリアは、1699 年のカルロヴィッツ条約でベオグラード周辺を除くハンガリー王
国の大部分を取り返し、図 13-25 のように、オーストリア帝国を復活させ、ドナウ帝国と
いわれた。 図 13-25 17 世紀末のドナウ帝国 中央公論社『世界の歴史17』 1700 年、スペイン・ハプスブルク家が断絶すると、レオポルト 1 世は次男のカール(の
ちのカール 6 世)を新たなスペイン王として擁立しようと、イギリス・オランダと手を結
んでルイ 14 世と再び敵対し、スペイン継承戦争が起こったが、このスペイン継承戦争につ
いては、フランスの歴史のところで述べたので省略する。 結局、イギリスとフランスは 1713 年のユトレヒト条約で、オーストリアとフランスは 1714
年のラシュタット条約で講和を結び、スペイン継承戦争は終結した。ラシュタット条約で
1434
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) は、オーストリアがスペイン領ネーデルラント(現在のベルギー)、ミラノ、ナポリ、サ
ルデーニャを領有した(フランスとスペインとが併合されないことを条件として、ブルボ
ン家のフェリペ 5 世の即位を認めたので、その代償としての取り分は大きかった)。 オーストリアは、その後もオスマン帝国のアフメト 3 世と戦ってこれに勝利し、1718 年
のパサロヴィツ条約でオスマンからベオグラードを奪い(図 13-47 参照)、ハプスブルク
帝国の最大版図を築き上げた。 また、1733 年にポーランド継承戦争に参戦し、ロンバルディアを得たが、スペインにシ
チリアを奪われた。 ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわ
れてきた。そのためカール 6 世(在位:1711~1740 年)は 1713 年、国事詔書を出して領土
の分割禁止と長子相続を決定した。しかし、唯一の男児レオポルトが夭折し、その後は女
児しか誕生せず、長女のマリア・テレジア(テレサ)を後継者にするしかなくなった。 このため 1724 年、再び国事詔書を出してマリア・テレジアを家領の相続者に定めた。い
くらかの譲歩を行ってフランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせた。またハプスブル
ク家は伝統的に神聖ローマ皇帝を世襲してきたが、女性は帝位に就けないので、マリア・テ
レジアの夫ロートリンゲン(ロレーヌ)公フランツ・シュテファンが皇帝に即位すること
にした。 ○マリア・テレジアの時代 1740 年、カール 6 世は死去し、国事詔書に基づいて、そのあとを継いだのは 23 歳の若く
て美しい娘のマリア・テレジア(1717~1780 年)であった。このときマリア・テレジアは
結婚しており、夫のフランツ 1 世が 1745 年から神聖ローマ皇帝になり(在位:1745~65 年)、
したがって、マリア・テレジアは皇帝の皇后となった(マリア・テレジアは女帝とよく言
われるが、彼女は皇帝になったことはない)。しかし、ハプスブルク家の領国と家督を継
いでオーストリア大公になったのは、マリア・テレジアであって、これがすべての実権を
握っていたのである。 ◇オーストリア継承戦争 1740 年、神聖ローマ皇帝カール 6 世が没すると、プロイセン王フリードリヒ 2 世は、皇
帝選挙でマリア・テレジアの夫ロレーヌ公フランツ・シュテファンに投票することを条件
にシュレージェン(シレジア)地方のいくつかの領地の割譲を求めた(図 13-25、図 13-
26 参照)。要求に対してオーストリアは拒否した。プロイセン軍はバイエルン、フランス、
ザクセンなどの支持のもとに 1740 年 12 月 16 日オーストリアの不意を突き、シュレージェ
ンに侵攻した。 1435
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) マリア・テレジアはフリードリヒ 2 世の侵略に激怒し、主力軍を転進させてシュレージェ
ン地方の奪回を目指したが、1741 年 4 月にモルヴィッツでプロイセン軍約 2 万とオースト
リア軍約 2 万が戦い、火力に勝るプロイセン軍にオーストリア軍は撃退された。こうして、
以下のような一連の戦争が起こったが、これらをオーストリア継承戦争と言っている。 図 13-26 プロイセンの発展 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 《オーストリア・ザクセン戦争》 1436
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1741 年、ザクセン選定侯ポーランド王アウグスト 3 世はハプスブルク家領の相続権(妃
マリア・ヨーゼファはカール 6 世の兄ヨーゼフ 1 世の娘だった)を主張してボヘミアに侵
入したが、和平交渉により間もなく撤退した。 《オーストリア・バイエルン戦争》 神聖ローマ皇帝位を狙うバイエルン選定侯カール・アルブレヒト(妃マリア・アマーリ
エもヨーゼフ 1 世の娘だった)は、1741 年チロル地方など上オーストリアとボヘミアを占
領し、1742 年には神聖ローマ皇帝カール 7 世として戴冠した。背後にフランスがついてい
た。 《フランス・オーストリア戦》 フランスは、1744 年、オーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー)に侵攻し、オ
ーストリア・イギリス・オランダ連合軍を破った。 反撃に出たオーストリアは上オーストリアとボヘミアからバイエルン・フランス連合軍
を撃退した上、バイエルンまで占領した。領地を奪われたカール 7 世は 1745 年、失意のう
ちに死去した。 《第 2 次シュレージェン戦争》 すでにシュレージエン割譲をオーストリアに認めさせたプロイセンのフリードリヒ 2 世
であったが、オーストリアとイギリスがフランス軍とバイエルン軍を駆逐してライン川領
域に勢力を進出させので、これらをプロイセンへの脅威と判断して、6 万の主力部隊を率い
てボヘミアに侵攻した。そして 1745 年 6 月にホーエンフリードベルグにおいてプロイセン
軍 6 万とオーストリア連合軍 7 万が会戦して再びプロイセン軍が勝利をおさめた。 プロイセンは、1748 年にはアーヘン条約によってイギリス・フランス・オーストリア・
サルデーニャと和平を結び、シュレージジェン領有を再度承認させた。 《オーストリア・スペイン戦争》 当時スペインはフランスから迎えたブルボン家の王を戴いており、先のスペイン継承戦
争でオーストリアに割譲した北イタリアのミラノ公国を奪回すべく、1744 年に参戦した。
スペイン軍は一時ミラノを占領したが、サルデーニャ王国がオーストリア側で参戦したた
め、目的を達成できなかった。 《植民地カナダとインドでの戦い(英仏)》 戦争は 1744 年から、カナダとインドでも英仏間の植民地戦争となった。北米ではイギリ
ス植民地ニューイングランドがイギリス提督の指揮下でカナダ東部に出兵し、フランス側
のルイブール要塞(現在のカナダ・ノヴァスコシア州ルイスバーグ)を陥落させた。北ア
メリカでの局地戦はアメリカでジョージ王戦争(当時のイングランド王ジョージ 2 世にち
なむ)と呼ばれている。 1437
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 一方、インドではフランスのインド総督デュプレクスがインド諸侯を傘下におさめ、英
領マドラスを占領するなどイギリス東インド会社に対して有利に戦いを展開したが、アー
ヘン和約によりマドラスは返還された。デュプレクスは財政負担の大きいインドでの拡張
主義を嫌う本国フランス政府によって、後に解雇された。 以上の一連の戦争が、オーストリア継承戦争であった。もはやヨーロッパは一つの爆発
が次々と引火してヨーロッパの大戦争に発展していく体質を組み込んでしまっていた。一
連の戦争は、1740 年にはじまって 1748 年のアーヘン和約によって終結した。 オーストリアはシュレージェンと北イタリアのパルマ公国など一部の領地を奪われたが、
上オーストリア、ボヘミア、オーストリア領ネーデルラント(ベルギー)、ミラノなどは
すべて奪い返してハプスブルク領の一体性を保持し、神聖ローマ皇帝位も確保した。主に
オーストリアを支援したのはフランスと対立するイギリスとオランダであった。のちにザ
クセンとサルデーニャもオーストリアの側にたって参戦した。 これに敵対する側にたったのはプロイセン、フランス、スペイン、バイエルンであった。 この一連の戦争は、1740 年にはじまって 1748 年のアーヘン和約によって終結したが、最も
得をしたのは、プロイセンであり、プロイセンのフリードリヒ 2 世のみがシェレージェン
をオーストリアから奪い、数々の戦闘で軍事的才能を発揮し、大王と謳われることになっ
た。しかしこのプロイセンの一人勝ちは、オーストリアのマリア・テレジアなどの深い恨
みをかい、のちに報復戦争とも言うべき七年戦争が再び同じ場所が戦場となり、ほぼ同じ
メンバーで戦われることになる。 ○1756 年の「外交革命」 この戦争は、ウィーンの政府にとって改革の必要性を痛感させた。とりわけ強力な常備
軍の創設は急を要した。1748 年から翌年にかけて、10 万 8000 人の常備軍を設け、その資
金の一部は貴族所領への課税によって賄われた。外交面においては宰相カウニッツを登用
してフランスに接近した。また、フランス王ルイ 15 世の愛妾ポンパドゥール夫人(政治上
でも重要な地位を占めていた)、ロシアのエリザヴェータ女帝、そしてマリア・テレジアと
3 人の女性が反プロイセン包囲網を結成したことから「3 枚のペチコート作戦」ともいわれ
ている。 プロイセンがイギリスと同盟したことが最終的なきっかけとなって、フランスはオース
トリアと同盟を結ぶことになった。16 世紀末以来続いてきたブルボン家とハプスブルク家
との敵対関係を放棄して同盟関係に入ったのである。この 1756 年の「外交革命」が新しい
戦争のはじまりとなった。いわゆる七年戦争である。 ○七年戦争 1438
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1756 年、プロイセンとオーストリアの間で再び戦争が勃発した。後に七年戦争と呼ばれ
るこの戦争は、前回と違ってフランスやロシアとの同盟を得たオーストリアが優勢に戦争
を進めた。 1760 年から翌年にはベルリンが占領された。もうひと押しでフリードリヒ 2 世のプロイ
センは壊滅するところであった。 ところが、1762 年、ロシアでオーストリアとの同盟を推進してきたエリザヴェータ女帝
が死去し、甥でフリードリヒ 2 世の信奉者のピョートル 3 世が即位した結果、ロシアが最
終的に戦争そのものから離脱、そのためオーストリアが敗戦したことで、マリア・テレジア
はシュレージェン奪還を諦めざるを得なくなった。1763 年のフベルトゥスブルク条約で、
プロイセンのシュレージェン領有が確定した。 こうしてマリア・テレジアの執念は達成されることはなかった。だがブルボン家との協力
関係は、その後も続けられた。そして両家の婚姻政策によって強められた。1770 年、マリ
ア・テレジアの娘マリー・アントワネット(1755 年~1793 年)がフランスの王太子ルイ(の
ちの 16 世)のもとに嫁いだのである。 マリア・テレジアはよく啓蒙君主であったといわれるが、マリア・テレジアは敬虔なカト
リック教徒であり、保守的であり、空論をきらったので、彼女自身が「哲学」、すなわち
啓蒙思想に心を動かされたことはなかったといわれている。 ○啓蒙専制君主ヨーゼフ 2 世 母マリア・テレジアが死去して(1780 年)ヨーゼフ 2 世(在位:1765~90 年)の時代が
くると、大胆な改革を性急にはじめ、彼こそ啓蒙的専制君主の典型であるといわれている。 1781 年、農奴解放令を発布し、農民の人身的隷従を撤廃した。農民には移動と結婚の自
由が与えられた。もはや領主の許可をまたずに息子に嫁をもらい、町に働きにやることが
できるようになった。しかし賦役の義務は買い戻さなけければ従来通りという問題は残っ
ていた。 外交についてみると、彼は、こともあろうに母の宿敵プロイセンのフリードリヒ大王の
賛美者であり、1772 年には母の危惧と反対を押しきって、大王の提唱するポーランド分割
(第 1 次)に加わった。これによってオーストリアはガリツィア地方の一部を手に入れた
(図 13-33 参照)。 ヨーゼフ 2 世は大胆に改革を進めたが、その多くは挫折してしまった。彼はことを急ぎ
すぎ、大きな成果を上げるために必要な熟練を欠いていた。そして 1789 年 7 月には妹マリ
ー・アントワネットの嫁ぎ先のフランスで大事件が勃発した。フランス革命である。1790
年 2 月、妹の身の上を心配しながら、失意のヨーゼフは 49 歳で世を去った。帝位は弟レオ
ポルト 2 世が継いだ。 1439
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 【13-2-7】プロイセン ○ブランデンブルク・プロイセンの同君連合 プロイセンは、1157 年に設置されたブランデンブルク辺境伯領(図 13-26 のように、現
在のドイツ・ブランデンブルク州の大部分とベルリン、およびポーランドの一部)にはじ
まる。 17 世紀初頭にプロイセンを獲得したブランデンブルクは、さらにウェストファリア条約
によってミンデンなどを獲得した結果、支配領域が東西に広がり、ようやくザクセンとな
らぶ東方の雄邦として表舞台に登場してきた(図 13-26 参照)。しかしそれとても、オー
ストリアとは格段の差があった。 それを三十年戦争後の約 100 年の間にヨーロッパの強国に変貌させたのは、フリードリ
ヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯、在位:1640~88 年)とフリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世(軍
人王、在位:1713~40 年)であった。 ○フリードリヒ・ヴィルヘルムの政治 フリードリヒ・ヴィルヘルムは、1640 年、父の死去にともなって弱冠 20 歳でブランデン
ブルク選帝侯となった。権力国家への発展の出発点は、常備軍の創設であった。 《まず、常備軍を設置》 1653 年、フリードリヒ・ヴィルヘルムは地方議会から課税権の承認を受け、常備軍の設
置に必要な税制の整備を始めた。クレーフェやプロイセンでも反対を受けつつ課税は成功
し、この後の戦いを勝ち抜くための基礎となった。 戦争のための動員以上に重要なことは、その戦争が終結したのちにも、動員された軍隊
を解散せずに常備化することであったが、フリードリヒ・ヴィルヘルムはそれを実現しよ
とした。それは常備軍を維持するための領邦等族の財政援助を恒常化することを意味し、
当然、ブランデンブルク・プロイセンのどの地方においても、フリードリヒ・ヴィルヘル
ム大選帝侯と領邦等族の間で激しい争いが起こったが、フリードリヒ・ヴィルヘルムはこ
の対等族闘争に勝利し君主権を著しく強化した。 常備軍の設置、恒常的な税制の導入、徴税機関ならびに行政機関としての官僚制の集権
化、国民の担税能力強化のための重商主義的経済政策などが連鎖的に発生し、フリードリ
ヒ・ヴィルヘルム大選帝侯はそのいずれに対しても精力的に取り組んで、その後の発展の
基礎を築いた。その際、彼が模範にしたのはフランスの絶対王政であった。 《同盟の相手を変えて自立を図る》 1655 年、バルト海の覇権をめぐる第 1 次北方戦争(1655~60 年)が起きた。 1440
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) バルト海は中世以来豊かな通商圏であり、そこは小規模な諸国家が存在していたが、その
覇権をめぐって、いまやスウェーデンとポーランドが争うことなったのである。このバル
ト海に面するプロイセン公国は、ホーエンツォレルン家に相続されたのちも依然としてポ
ーランド王の宗主権のもとにあった。1655 年、プロイセン公国の宗主国をポーランドから
スウェーデンへと替えたフリードリヒ・ヴィルヘルムは翌 1656 年、ワルシャワの戦いでス
ウェーデンとともに戦ってポーランド・ロシア連合軍を破り、リビアウ条約でプロイセン
の主権を獲得した。 しかしプロイセンの支配権を安定させるため、選帝侯はこのあともしばしば同盟の相手
を変えながら、ユトランドやポンメルンを転戦した。1660 年のオリヴァー条約でフリード
リヒ・ヴィルヘルムはプロイセンの最終的な支配権を獲得し、ケーニヒスベルクで起こっ
た暴動も鎮圧して住民に忠誠を誓わせた。この時点でプロイセンはポーランドとスウェー
デンの宗主下から脱し、プロイセン公国として自立した。選帝侯としては神聖ローマ皇帝
の臣下だが、すでにブランデンブルク・プロイセンは北東ヨーロッパにおいて確固たる地
位を築いた。 1675 年、フリードリヒ・ヴィルヘルムはルイ 14 世と結んでスウェーデンと戦い、ベルリ
ン近郊のフェールベリンでこれを破った。これに続いて 1676 年から 1679 年までスウェー
デンと戦った。そして 1679 年にフランス主導のもと、スウェーデンとサン・ジェルマンの
講和を行い、スウェーデンのドイツにおける影響力を排除させることに成功した。 《次ぎに入植者、移民、難民を積極的に受け入れる》 フリードリヒ・ヴィルヘルムのもとで、オランダ人やフランス人など外国人の入植政策
が精力的に進められた。1685 年 10 月、フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ポツダム勅令を発
し、ナントの勅令廃止によってフランスから流入したユグノー難民に避難所を与えた。こ
の勅令によってブランデンブルクには 2 万人の難民が移住し、そのうち 5000 人はベルリン
に住み、フランスの高度な技術や文化をブランデンブルクに伝えた。 また、これはもう少し後になるが、1723 年にザルツブルクを追放されたプロテスタント
の招聘を大規模に行なった。彼らには土地の貸与、一定期間の税の免除などの特権を与え
て優遇したが、そのための国土開発が必要であった。荒廃地の開墾、沼沢の排水、運河の
建設などが進められた。運河に対してはとくにオランダ人の技術が貢献した。 《「プロイセンの王」フリードリヒ 1 世》 フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は 1688 年 5 月にポツダムで没し、フリードリヒ 3
世(プロイセン公在位:1688~1701 年。プロイセン王在位:1701~1713 年)が後を継いだ。
フリードリヒ 3 世は、1700 年に、スペイン継承戦争でハプスブルク家に味方することを約
束し、その代償として神聖ローマ皇帝レオポルト 1 世から王の称号を許され、「プロイセ
1441
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ンの王」フリードリヒ 1 世となった。このとき以降ブランデンブルク選帝侯領をはじめと
するホーエンツォレルン家の雑多な所領は王の下に統一され、近代国家としてのまとまり
を形成していくことになった。 ○フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世の軍事改革 1713 年、初代プロイセン国王フリードリヒ 1 世が死去し、息子のフリードリヒ・ヴィル
ヘルム 1 世が後を継ぎ、第 2 代プロイセン国王(在位:1713 ~40 年)となった。 フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世が取り組んだのは、なによりも強力な軍隊を作り上げ
ることで、軍事・財政の全般的な改革に乗り出すことになった。のちに「兵隊王」と呼ば
れるほどに強力にその実践を進めたのである。 《カントン(徴兵区)制度の創設》 そのころ行われていた募兵の実態は、誘拐まがいの強引なやり方が横行していた。詐欺
によって兵士にする、つまり、兵士に知らせぬまま騙して連れてくるのはまだいいほうで、
部隊の兵員充足を任務とする将校は手段を選ばず、無防備に道を歩いていた農夫を無理や
り連行するというやり方だった。このようなやり方は地域住民の反感をかい、暴動騒ぎや、
若者の国外への集団逃亡といった事態を引き起こしていた。 そこで、フリードリヒは、1733 年にカントン(徴兵区)制度を創設した。全国は 500 戸
単位の徴兵区(カントン)に分けられ、各徴兵区はそれぞれ特定の連隊に対して兵役義務
を負う、というものである。徴兵対象者は農村および都市の若い男子で、とくに貧しい農
村出身者が実際に徴兵されることが多かった。徴兵者が連隊から逃亡して村に逃げ帰った
場合、見せしめのために村全体が罰を受け、また逃亡兵の穴埋めは、必ずその出身の村か
ら代わりの者を徴兵することによって行われた。 最初の 1 年間に基礎訓練を受け、その後は年に 2 回ずつ、2 ヶ月間の軍事教練に服した。
兵士の勤務年限は平時においては 20 年とされた。今、我々が見る軍隊の行進、軍事訓練な
どはこのプロイセンの軍隊で発明さたもので、軍事教練はプロイセン人によって完璧の域
にまで推し進められた。2 年目からは 2 ヶ月のみ、という「賜暇(しか)制度」(帰休兵制
度)によって農業に与える打撃は最小限に食い止められた。やがて連隊に地域性が生まれ、
そこへ同じ土地の出身者がたくさん集まって所属したことは、連隊の士気と団結に優れた
効果をもたらした。 地方貴族の長たる郡長は軍隊や軍事アカデミー(士官学校)に郡の貴族の子息を送らね
ばならなかった。また、外国の軍隊に仕えることは禁止された。やがて貧困な中小貴族に、
身分にふさわしい「仕事」と生計の手段を提供する軍隊に貴族たちはしだいに順応してい
って、かつての「義務」は貴族にとっては軍幹部になるという「特権」になった。 1442
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 帰休兵についての裁判権は、基本的に、その兵が農民として所属する土地の領主ではな
く、兵士として所属する連隊にあった。結婚、移住の許可についても同様である。毎年の
世代交代、そして連隊に欠員が生じたとき迅速に補充を行えるように、あらかじめ連隊が
徴兵義務者を把握しておく登録制度がもうけられた。登録されたものは赤いネクタイであ
るとか、赤い房飾りとかを身につけて一目でそれとわかるようにすることを求められた。
これによって連隊は安定した定員の充足を保ち、戦争によって多くの損害を被った場合で
も比較的短期間で戦力を回復することを可能にした。 村では徐々に軍事的な規律が根をおろしていった。「時間厳守、従順、そして服従」と
いう軍隊の方針が農民兵士を通して村々にも浸透したのである。近代ドイツに特徴的な「臣
従気質」の根源がここで生まれたといわれている。 このようなカントン制度によって、フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世の治世にプロイセ
ンの兵力は 3 万 8000 人から 8 万 1000 人へと大幅に増強され、総人口(220 万人)の 30 分
の 1 が軍人(将兵)という軍事国家となった。フリードリヒは、ほとんど戦争がなかった
この時期、たえず国家歳入のほとんど 3 分の 2 をつぎ込んで軍隊の拡充につとめたのであ
る。 《ヨーロッパ軍隊のモデルとなったカントン制度》 このカントン制度により、プロイセンはその後も、その規模に不釣り合いな大きさの軍
隊を構築していくことになった。次代のフリードリヒ 2 世(フリードリヒ大王。在位:1740
~1786 年)没時には兵士数は 19 万人を数えた。これはドイツにおけるどの大領邦よりも抜
きんでて多く、オーストリアの 10 万人も超えていた。当時のプロイセンの人口はヨーロッ
パで 13 位であったが、兵士数は第 4 位であったという。しかもその軍隊は質も優秀であっ
た。これがフリードリヒ大王の軍事的活躍の基盤となったのである。 強力な軍事制度ができれば、創造と模倣・伝播の原理で、対抗する他国もそれを見習う
のがこの世界である。当然、プロイセンの成功は他国にも影響を与え、前述したオースト
リアなどはプロイセンとの戦争のあと、これに類似した制度を導入して軍事力の増大をは
かった。そしてカントン制度は、フランス革命で国民皆兵制が生まれ(フランス革命のと
ころで述べる)、ナポレオン戦争ののち、シャルンホルストらがプロイセンに一般徴兵制
を導入するまで続いた(19 世紀のプロイセンの歴史のところで述べる)。近代的な軍国国
家はこのカントン制度からはじまったといえよう(つまり、軍事的天才といわれたフリー
ドリヒ 2 世にしても、ナポレオンにしても、その前に徴兵制を創設して,当時の常識とは
桁違いの兵を動員できたということがまずあった)。 《軍人階級の出現》 1443
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) カントン制度は純粋な軍事上の貢献にとどまらず、社会の様相にも変化を与えた。その
第一は、カントン制度によって王国がその国民を把握できるようになったことである。当
時のプロイセンでは、貴族の土地に属する農民は貴族の全面的な支配を受けていて、国王
やその官僚はその国民を直接把握することが難しく、王領地以外で実際にその権力が及ぶ
のはせいぜい郡長までと言われていた。しかし、このカントン制度の発足によって、国の
力の及ぶ範囲が拡大し、それまでの国王-貴族-農民という重層構造に変化が生じた。プ
ロイセン国王は軍隊を通じて初めて国民を把握したと言われている。 第二は、貴族と農民との関係に変化が生じたことである。徴兵者は、帰休制度で畑に帰
ったあとも、「国王陛下の兵隊」(日本でいえば天皇陛下の兵隊)であるという意識と立
場から、それまで隷属していた貴族に対して、しばしば公然と反抗するようになった。と
いうのも帰休兵についてはその連隊に裁判権があったからである。 また徴兵されておらず名簿に登録されているだけの者でも、ことあるごとに連隊が口を
出して支配の優越を主張したため、農民はそれを後ろ盾と思うようになり、それまで当然
と思われていた貴族の支配力が揺らぐことになった。庶民の間に、何々という貴族の領民、
ではなく自分たちはプロイセン王国の臣民(日本でいえば天皇陛下の臣民)であるという
意識が広まった。同時に、彼らはそれまでの貴族の支配に異議申し立てをするようになっ
た。ただしこれとは逆に、軍隊における将校-兵士関係は、命令する者と命令に従う者と
しての役割、身分意識はかえって強化されていった。 また、当時フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世やフリードリヒ大王がすべての臣民に求め
た美徳、すなわち勤勉、倹約、忠誠といった価値観が、このカントン制度によって成り立
っていた軍隊を通じて人々の間に浸透し醸成され、それが 19 世紀に「プロイセン人意識」
としてドイツ人に知られるようになったとも考えられている。 このようにプロイセンで生み出されたカントン制度による常備軍は、多様な社会層を吸
収して、新しい社会集団を形成するようになった。17 世紀の前半までは、国の危機存亡の
折に君主によって雇われる一時的な傭兵軍が支配的であったが、17 世紀の後半になると、
有力な諸領邦において、平時にも維持される常備軍が形成され、時代と共に膨張していっ
て、兵力は 18 世紀末には神聖ローマ帝国(ドイツ)全体でみると(オーストリアを含む)
約 62 万 5000 人であったので、全人口のおよそ 2%強を占めていた。大きな社会集団になっ
てきた。 したがって軍隊は、貴族から下層民に至るまで、家督相続者以外の多くの人間を吸収し、
巨大な労働市場をも意味した。その内部構造をみれば、将校団は主として貴族から、兵士
の多くは農民や市民の次・三男、あるいは下層民からなっており、それゆえ軍隊は身分制
的な特徴をもっていた。 1444
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世が参加した戦争は大北方戦争のみであった(大北方戦
争については、スウェーデンの歴史参照)。スウェーデン軍を相手に戦ったこの戦争でプ
ロイセンは勝利を収め、1720 年のストックホルム条約で、前ポンメルン、シュテッティン、
ウーゼドム島などの領地を獲得した(図 13-26 参照)。 フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世は、国土、資源、人口ともに比較にならないほど弱小
のプロイセンを、絶対主義的な軍事・官僚国家の強化によって、オーストリアの実力に匹
敵するほどの国に作り上げた。プロイセンの国家体制は、やがて他領邦にとってのモデル
となった。 ○フリードリヒ 2 世(大王)の政治 フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世は 1740 年に亡くなりフリードリヒ 2 世(在位:1740~
1786 年)があとを継いだ。 その年 12 月、フリードリヒはいきなり軍隊をオーストリアの宝庫ともいうべきシュレー
ジェンに侵攻させ、オーストリア継承戦争を引き起こしたことは、オーストリアの歴史で
述べたとおりであるが、プロシア軍が強いはずである。 フリードリヒ 2 世は、1745 年 12 月のドレスデンの和議で、マリア・テレジアがオースト
リア大公位を始めとするハプスブルク家領と君主位を相続することを認めるのと引き換え
に、シュレージェン領有権と 100 万ターラーの賠償金を得た。こうして国王となったフリ
ードリヒは、父に劣らぬしたたかな権力政治家であることを実証してみせた。 しかし、ウィーンも簡単にはあきらめず、1756 年の七年戦争(1756~73 年)になったこ
ともオーストリアの歴史で述べたので省略する。この戦争も一度爆発すると、たちまちヨ
ーロッパ全体に引火するという近世の戦争の性格から、たちまちヨーロッパ全体を巻き込
む大戦争となった。 この七年戦争は、イギリスの財政支援を受けたプロイセンと、オーストリア、ロシア、
フランス、スウェーデン、スペイン(1762 年参戦)及びドイツ諸侯との間で戦いが行われ
た。敵国の人口は 8,000 万にもなり、人口 400 万のプロイセンにとって絶望的かと思われ
る戦いだった。イギリスだけが資金援助の形でプロイセン側についたという戦争だった。 フリードリヒ大王も今度ばかりは危機一髪だった。1760 年 10 月にはとうとうベルリンは
ロシア軍に占領され、敗色が濃くなった。プロイセン王国は瓦解寸前というところまで追
いこまれ、イギリスの軍資金援助も打ち切られ、フリードリヒ 2 世は自殺を覚悟した。 だが、ちょうどそのとき、連合国側に異変が起こった。1762 年 1 月、ロシアの女帝エリ
ザヴェータが亡くなり、あとを継いだピョートル 3 世が、一方的にベルリンから兵を引き
上げたのである。その理由は、ピョートル 3 世がフリードリヒ 2 世を崇拝していたからで
1445
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) あるといわれている。敵将を崇拝していたから兵を引いたというのは前代未聞のことであ
ろうが、プロイセンにとっては、全く思いがけない僥倖であった。 奇跡的にロシアとの講和が成立すると、疲れ果てていた列強はこれを機に兵を収めてし
まい、七年戦争は終結した。講和条約により、プロイセンのシュレージェン領有が確実な
ものとなった。九死に一生を得たプロイセンはまた強国となった。 さすがにフリードリヒ 2 世はこれ以降大きな戦争を起こすことはなかったが、1772 年の
第 1 回ポーランド分割で西プロイセン(図 13-26 参照)を獲得して領土をさらに広げ、1778
年から 1779 年まで続いたバイエルン継承戦争ではオーストリアと再び交戦してその強大化
を阻止した。また外交面では特にオーストリアの復興を強く警戒し、ザクセンやバイロイ
トなどと君侯同盟を結成して対抗した。フランスやロシアとの関係改善に努めて、再び七
年戦争のような孤立に陥らないよう細心の注意をもって臨みはじめた。 《初等教育の普及》 のちの軍事大国プロイセンの出現にとって注目すべきことは、前述したカントン制度な
どの軍事制度の充実とともに、その兵隊の質を高めるという点で、初等教育が広く農村に
まで普及したことである。ドイツでは、就学義務がヨーロッパ諸国のなかでも、もっとも
早く法制化されたことが注目される。プロイセンで発布された 1763 年の「一般ラント学事
通則」は世界史的な意義を有しているし(就学義務令はプロイセンでは 1717 年に出されて
いた)、ザクセンでは同じ 1763 年、オーストリアでは 1774 年に義務教育が導入された。 その初等学校の密度に関する研究によれば、1800 年ごろのブランデンブルク・プロイセン
では、図 13-27 のように、西高東低で、西方のハルバーシュタットでは 100%、ベルリン周
辺のブランデンブルクでは 84%、東方の東プロイセンでは 28%であった。この初等教育の
普及はさらに軍隊の質の向上に大きな効果があった。 ○ドイツのその他の領邦 三十年戦争後のドイツには当時 300 余りの帝国等族がいた。多くの帝国等族は、帝国議
会に参加する権利を有し、帝国と皇帝以外のいかなる上位機関ももたずに(帝国直属)、
それぞれ独立した支配領域、つまり領邦国家を形成していたのである。 1446
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-27 1800 年ごろのプロイセンにおける初等学校の分布 山川出版社『ドイツ史』 諸領邦のなかで最高の位階を有していたのは選帝侯国であった。金印勅書で定められた 7
つの選帝侯国に加えて、1623 年にバイエルン、1692 年にハノーファーが選帝侯位を得て 9
つとなっていたが、そのうちのいくつかは、オーストリアやプロイセンのようにかなり強
力になりつつあった。 バイエルンは南ドイツの雄邦で、三十年戦争中はマクシミリアン 1 世が「旧教連盟」の
指導者であったし、その君侯家であるヴィッテルスバハは、ケルン大司教職を長期にわた
って保持していた。ザクセンの君主はヴェッティン家で、アウグスト強健侯以後ポーラン
ド王もかねることになり(1697~1763 年)、首都ドレスデンは北方バロック文化の中心で
あった。またハノーファーはエルンスト・アウグスト公の治世にヴェルフェン家の分裂し
ていた諸邦を統一し、その後イギリス王位の継承権を得て 1714~1837 年までイギリスと同
君連合をなしたのである。 これらの選帝侯国の次に聖俗の諸侯領、さらに帝国都市と続くが、そのなかでも多少と
も自前の常備軍をもっているのが有力な領邦といえる。それはおよそ 20~30 に過ぎずなか
った。あとは弱小の領邦ということになる。 三十年戦争のあと、ハプスブルク家がおちぶれ、前記のとくに名門選帝侯国にはすべて
チャンスがあったが、やがてオーストリアは広大な多民族国家として復活し、北方の辺境
にあったプロイセンがこつこつと落ち穂拾いのように小国を集めて軍事大国として登場し
てくることになった。両国はナポレオンによって国家解体の瀬戸際まで追い込まれたが,
再生して 19 世紀の後半に雌雄を決することになる。 1447
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 【13-2-8】ロシア 【①モスクワ大公国、イヴァン 4 世の時代】 ロシアの基礎はモスクワ大公国の時代にあった。
モスクワ大公国のイヴァン 3 世(在位:1462~1505 年)は、1480 年にキプチャク・ハン
国からの独立を宣言し、図 13-28 のように、領土の拡張をはかりはじめ、イヴァン 3 世を
継いだ次男ヴァシーリー3 世(在位:1505~1533 年)も多くの近隣地域を征服してモスク
ワ国家に組み込んだところまで、中世の歴史で述べた。 図 13-28 ロシアの発展(Ⅰ) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
1533 年ヴァシーリー3 世が没し、3 歳のイヴァン(つまりイヴァン 3 世の孫)がその跡を
継いで、イヴァン 4 世(在位:1533~74 年、1576~84 年)となった。 ○イヴァン 4 世の領土拡大戦争 イヴァン 4 世は、対外政策では東西に領土拡大をはかった。まず、東のカザン・ハン国
(図 13-28 参照)であるが、モスクワ大公国はすでにイヴァン 3 世期からカザンと戦って
いた。イヴァン 4 世は 2 度の失敗ののち、1552 年 10 月、3 度目のカザン攻撃でこれを陥落
させることができた。4 年後にはヴォルガ川下流域のアストラハン・ハン国も征服し、ヴォ
1448
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ルガ川を完全に支配した(図 13-28 参照)。カザンの東方バシキーリヤも併合された。カ
スピ海の北域とウラル川流域に勢力をはるノガイ・ハン国もモスクワの権威を認めた。 カザン征服により、ロシアはイスラム教徒であったタタール人などのさまざまな民族を
支配する本格的な多民族国家となり、このとき帝国への道を歩み出したといえる。そして 東についてはロシアの前に、ウラル山脈、さらにはシベリア方面への進出が日程にのぼる
ようになった。 《泥沼化したリヴォニア戦争》 西方ではバルト海のリヴォニアがロシアの進出目標となった。白海のアルハンゲリスク
経由によるイギリス・モスクワ会社との貿易は、1 年のうち短期間しか通れない北極海航路
であり、どうしてもバルト海への出口がほしかった。この地をおさえるのはドイツ騎士団
の残党のリヴォニア騎士団が治めるリヴォニアであった。 1558 年 1 月、ロシアの大軍がリヴォニアに侵攻し、ここにリヴォニア戦争(1558~1583
年)が勃発した。夏にはリヴォニアの東半分を占領、バルト海沿岸のナルヴァ(図 13-28
参照)を獲得し、ロシアの勝利は疑いないものにみえた。ところが、事態は思いがけない
展開をみせた。ポーランド、スウェーデン、そしてデンマークが介入してきたのである。
そして、ロシア・ツァーリ国と主にポーランド、スウェーデンが、リヴォニアを主戦場に
して、1558 年から 1583 年まで続く泥沼戦争となった。 1564 年にウラ川の戦いでポーランドに大敗したモスクワ側の大貴族は、スウェーデンと
7 年の和平協定を結び、ポーランドとも休戦交渉に入った。しかしイヴァン 4 世はこれに納
得せず、全国会議を招集して戦争継続を支持させ、交渉を打ち切らせた。 イヴァン 4 世は、イヴァン雷帝ともいわれるように、きわめて残虐・苛烈な性格であっ
たためロシア史上最大の暴君であるといわれるようになったが、最初からではなく、リヴ
ォニア戦争が長期化しはじめた 1560 年代ごろからであった。このころには、最愛の妻アナ
スタシヤ、信頼する府主教マカリーを次々に亡くし、顧問団も失脚してイヴァンを支えて
いた主な人物が消えてしまった。ツァーリはだんだん凶暴で残虐な性格を現し、非理性的
な振る舞いが目立ち始めた。 イヴァンの政治姿勢にも変化が生じた。彼はすべての不首尾をアダーシェフら改革政府
の責任に帰した。イヴァンはアダーシャフを前線に追放した(やがて逮捕され獄死した)。
ツァーリの怒りの前にその他の要人も自ら修道院に隠棲して、改革政府は崩壊した。諸公
のリトアニアへの亡命、逮捕、弾圧がはじまった。1564 年 4 月、有能な軍司令官アンドレ
イ・クールプスキー公がリトアニアへ亡命し、ツァーリの圧政を非難する書簡を送ってき
た。 ○イヴァン 4 世の恐怖政治と奇行 1449
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《ツァーリのモスクワ退去》 1564 年からイヴァン 4 世の奇行と恐怖政治がはじまった。 1564 年 12 月、彼は家族とともにあらかじめ選抜した多数の貴族、士族、廷臣らを伴い、ク
レムリンを立ち去った。イコンや十字架、貴金属など宝物を満載したおびただしい荷馬車
がつき従った。ツァーリの首都退去にモスクワの人々は狼狽(ろうばい)した。1565 年 1
月、ツァーリは落ち着き先のアレクサンドロフスカヤ村(現在はモスクワから北東へ約 120
キロメートルのロシア・ウラジーミル州の都市)から 2 通の書状をモスクワに送り届けた。
1 通は貴族や高位聖職者にあてられたもので、イヴァンは彼らが敵と戦うことをいとい、
「裏切り者」をかばっていると非難し、自分は多くの裏切り行為に耐えかねて国家をすて
「神の示したもうところに移り住むつもりである」と述べていた。 他の1通はモスクワ市民にあてられたもので、彼の怒りは彼らに対するものではないと
記されていた。モスクワ住民は貴族と高位聖職者を突き上げ、ただちにツァーリのもとへ
代表団を派遣させた。イヴァンは復位を乞(こ)う彼らの嘆願を受け入れ、「裏切り者」
を自由に処罰し、「望むがままに」支配するという条件で帰還を承諾した。 《皇室特別領(オプリーチニナ)の暴君》 大変な条件で御帰還いただいた結果、設立されたのが、皇室特別領(オプリーチニナ)
であった。イヴァン 4 世は国家をオプリーチニナと国土(ゼームシチナ)に二分し、オプ
リーチニナではツァーリが専制的に支配することを望んだ。オプリーチニナに編入された
のは、貴族・士族の私有地が発達した国の中央諸地方、またリトアニアに接する西部・南
西部地方、国有地の多い北部沿岸地方、さらに各地の皇室御料地などであった。モスクワ
にもオプリーチニナ地区が設定された。 オプリーチニキ(オプリーチニナ隊員)に選抜されず、なおかつオプリーチニナ内に領
地を有する者は領地を没収され追放された。彼らはゼームシチナ内に代替地を与えられた
が、オプリーチニナから実際にどれだけの者が追放されたかは不明である。 オプリーチニキに抜擢(ばってき)された勤務人は 6000 人にのぼり、彼らは修道士のよ
うな黒の長衣を着て、ツァーリの私兵としてその専制的支配を実現しようとした。オプリ
ーチニナ地域では独自の貴族会議・行政組織・軍隊が設けられ、ゼームシチナとは違う命
令系統を持った。オプリーチニキは富裕層の財産を狙って没収し多くの犠牲者を出した。
またイヴァン 4 世の命令に従って、次々に要人の粛清を実行した。主な標的としては、モ
スクワ府主教フィリップ、ノヴゴロド大主教ピーメンらの高位聖職者、ツァーリの従弟で
有力なライバルであったスターリツァ公ウラジーミルなどが犠牲となった。 1450
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) しかし 1569 年ルブリン合同でポーランドとリトアニアが連合体制に入ってポーランド・
リトアニア共和国となり強大化し、リヴォニア戦争はますますモスクワに不利な方向へ向
かっていった。
イヴァン 4 世の猜疑心はますますつのり、1570 年には、ノヴゴロドがリトアニア側につ
こうとしていると思い込み、市の有力者とその家族全員に対する大虐殺を実行した。モス
クワからの行軍は途上の町々で略奪と暴行を繰り返した。ノヴゴロド到着後は、6 週間にわ
たり徹底した破壊と殺戮、略奪が行われ、数千、数万の市民が犠牲となった。 1571 年にはクリミア・ハン国がリトアニアとの同盟に基づきロシア領に侵攻、首都モス
クワを焼き払った。このクリミア軍のモスクワ攻撃を、オプリーチニキ軍は阻止できなか
った。モスクワはこのとき破壊され火を放たれ、数万あるいは 10 万人をこえる住民が犠牲
となったといわれている。 1572 年、イヴァン 4 世は突然オプリーチニナの廃止を宣言し、その存在そのものを抹消
した。きっかけは 1571 年のクリミア軍のモスクワ侵略をオプリーチニキ軍が阻止できなか
ったことだった。暴力的手法で国家を統治することが不可能であることが明らかになった
からであろう。 オプリーチニナは廃止されたが、イヴァン 4 世のテロはやまなかった。廃止後もオプリ
ーチニナ的手法で有力な貴族らが処刑された。 《1 年の退位と代理皇帝》 1575 年、イヴァンはまたもや奇妙な行動に出た。彼は玉座をおり、自らはモスクワ公を
名乗って、モスクワ大公位にはシメオン・ベクラートヴィチというチンギス・ハンの直系
のタタール人を就けたのである。しかし、わずか 1 年でツァーリは再び大公位に復帰し、
シメオンはモスクワから追い払われた。この謎の退位事件は後世の歴史家もいろいろな説
を出しているが、あまり合理的な説はないようである。 このようなツァーリの正気とは思えないような行動は、もともとリヴォニア戦争が泥沼
化してから起きたのであるが、そのリヴォニア戦争はまだ続いていた。 1575 年、イヴァン 4 世は再びリヴォニアに攻勢をかけてその大半を占領ししたが、スウ
ェーデン、ポーランド両国は反ロシア同盟を結んでロシアに反撃し、1581 年にナルヴァが
スウェーデンに落とされた。イヴァンは 1582 年にポーランドと、1583 年スウェーデンと休
戦した。ロシアの国境線はリヴォニア戦争開始時まで後退し、バルト海交易ルートも失っ
た。
○シベリア遠征の開始 さらに東をめざして、イヴァン 4 世は、死去する少し前の 1581 年に、ストロガノフ家(製
塩業でロシアの大貴族となる)に資金を出させて、コサックの隊長イェルマーク(1532~
1451
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1585 年)と約 800 人の部隊をシビル・ハン国征服に派遣した。イェルマークに率いられた
コサック軍はシビル・ハン国の首都(図 13-29 参照。現在のトボリスクの付近)を占領し
たが、1585 年にイェルマークは戦死した。しかしロシアのコサック軍の攻撃は続き、シビ
ル・ハン国は 1598 年に滅亡し、ここにシベリア併合の第一歩が築かれた。 図 13-29 ロシアの発展(Ⅱ) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 ○イヴァン 4 世後に亡国の淵に立たされたロシア このイヴァン 4 世の奇行と恐怖政治をどう解釈すべきか歴史家も頭をひねているが、い
ずれにしても恣意的な独裁専制政治の典型例であるといえよう。この独裁者の恣意的な恐
怖政治と戦争によって、ロシアは大混乱に陥り、多くの農民が増大する負担を嫌って領主
のもとを離れ、国家と領主の締めつけのきかない南方、東方辺境地帯へと去った。 労働力を失った領主層、とりわけ軍務を担う中心的存在である士族層の多くが困難に陥
った。政府としても彼らに労働力を確保してやる必要性に迫られ、政府は農民に認められ
ていた移動の権利を撤廃し、1581~82 年が「禁止年」と定められ、移動が禁止された。 1584 年、イヴァン 4 世が死去したあとのロシアは極度の混乱に陥り、ポーランドにモス
クワを占領されたり、ロシア皇帝位が空位になったりした。まさにロシアは暴君によって
亡国の淵に発たされることになった。
1452
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1611 年ロシア人は、国家を上げて国民軍を結成した。クジマ・ミーニンらの率いる国民
軍は瞬く間に 10 万を超える大軍となり、1612 年 9 月、激戦の末、やっとポーランドを撃退、
モスクワは奪還された。 【②二代目皇帝アレクセイの時代】 ○ロマノフ朝の開始 1613 年 2 月、ポーランド人の支配から解放されたモスクワで、空位となっていたツァー
リの座に新しい君主を選ぶ全国会議が開催された。会議は、イヴァン 4 世の最初の妃を出
した大貴族ロマノフ家のまだ 16 歳の若い後継者ミハイル・ロマノフをツァーリに選出した。
ここに 1917 年のロシア革命まで続くロマノフ朝が成立した。 ロマノフ朝は 1613 年にスウェーデン、1618 年にポーランドと和睦し、ここに大動乱は終
結した。しかしポーランド、スウェーデンに領土を削られ、国力はますます衰微してしま
った(スウェーデンは、このすぐあと三十年戦争でも戦勝国となりドイツからも領土を獲
得し、このときから約 1 世紀にわたってバルト海の制海権を握った)。 ロマノフ家の初代ミハイルは 1645 年に没し、16 歳の息子のアレクセイ(在位:1645~76
年)がツァーリの座に着き、ツァーリの座は世襲された。 ○農奴制の確立 1648 年全国会議が召集され、新しく発布された「会議法典」で逃亡農民の捜索期限が撤
廃され(ということは無期限に捜索されるので農民には非常に厳しくなった)、今後、逃
亡農民を隠す者には高額な罰金が定められた。この法典によって農民と都市民は移動の自
由を奪われ農奴制は法的に完成に至った。ロマノフ政府は農民ではなく、貴族や士族の側
に立って農奴制を確立した(結局、ロシアがヨーロッパでもっとも遅くまで農奴制が残る
ことになった)。 ○ツァーリによる専制政治体制の確立 さらにロシアの国家・社会体制に大きな変質がもたらされた。貴族会議や全国会議の存
在感が急速に薄れ、官僚の補佐を受けたツァーリが自ら専制政治を行うようになった。ア
レクセイは旧来の大貴族層の影響力を骨抜きにする方向で政治を進め、ツァーリによる専
制政治体制が確立されていった。 ○ロシア・ポーランド戦争(北方戦争の一環) ウクライナのドニエプル川流域のコサック(ロシアのドン・コサックとは別)は、ポー
ランド政府からクリミア・タタールに対する辺境守備をゆだねられていた(キプチャク・
ハン国時代のタタールがときどきやって来て、略奪をした)。ところが、ポーランドから
1453
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 進出してきた大領主(貴族)たちの一方的な収奪にされされ、1648 年、コサックはウクラ
イナの農民とともにポーランド国王に対して反旗をひるがえし、反乱に立ち上がった。 そして、コサックたちはロシアのアレクセイ皇帝に支援を頼みにきたが、コサックへの
支持はポーランドとの戦争を意味し、まだ、ロシアにはその力がなかったので、アレクセ
イは慎重であった。 ところが、コサック軍団は、ポーランド・リトアニア共和国の国王ヤン・カジミェシュ
(在位:1648~68 年)を包囲したところ、ポーランドの貴族たちは戦場を放棄して逃げて
いき、ポーランド軍が思ったより弱いことがわかった。これを知ってアレクセイがコサッ
クの支持に踏み切ったのは、1653 年のことであった。 1654 年 1 月にコサックの長老会議はロシアのツァール、アレクセイに臣従の対象を切り
かえることを決議した。かくてドニエプル左岸はロシア領に編入された(図 13-30 参照)。
このためにポーランドはロシアとの戦争に突入することになったが、モスクワ軍は 1655 年
にはミンスク、首都ヴィルノ、リヴォフなどを次々にを陥落させた。 図 13-30 ポーランドの 17 世紀半ばの戦乱 しかし、このロシアによるポーランド・リトアニア共和国に対する進撃は、これを好機
と見たスウェーデン王カール 10 世グスタフによる北方戦争を引き起こすことになった。三
十年戦争の戦勝国であり、着々と「バルト海帝国」を築きつつあったスウェーデンは、1655
年夏、図 13-30 のように、4 万の兵でポーランド西方から攻め込み、またたく間にポーラ
ンドのほぼ全域をその支配下においた。ワルシャワは一発の弾丸も発射することなく、そ
してクラクフも降伏を余儀なくされた。貴族の大部分も、侵略したスウェーデン軍に屈服
してしまい、国王はシロンスク(現在のポーランド南部の県)へ逃れたのである。 1454
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ○ポーランドの大洪水時代(1648~68 年) ここで非常に複雑になるが、要約すると、大洪水時代(1648~68 年)といわれるポーラ
ンドの内乱にロシアが介入したら、それをチャンスとみたスウェーデンが進攻してきた。
そしたら次に周辺の国々が覇権国家スウェーデンの独走を許さずとスウェーデンに次々と
戦争をしかけたということになる。それがすべてポーランドの地で戦われたのである。こ
のポーランドの大災難のことを大洪水時代といっている。 スウェーデンの相手国は、ロシア(1655~58 年)、ブランデンブルク・プロイセン(1657
~60 年)、神聖ローマ帝国(1657~60 年)そしてデンマーク(1657~58 年、1658~60 年)など
があって、これらを一纏めにして北方戦争(1655~1661 年)といっている。まさにポーラ
ンドはハイエナに襲われたように食い散らされたのである。 ポーランド・リトアニア連合の内乱(大洪水時代という。1648 年~1668 年) ポーランド←→ロシア(ロシア・ポーランド戦争またはウクライナ争奪戦争。 1654 年~1667 年。13 年戦争) スウェーデン←→ロシア(1656 年~1658 年) スウェーデン←→ブランデンブルク・プロイセン(1657 年 ~1660 年) スウェーデン←→神聖ローマ帝国(1657 年~1660 年) スウェーデン←→デンマーク・ノルウェー(1657 年~1658 年、1658 年~1660 年) 北方戦争とは、これらの戦争を一纏めにした時に使われ、個々にはそれぞれの国で名前
がつけられている。 そこで、ロシアのことを述べると、ロシアは強国スウェーデンの脅威を恐れ、1656 年 4
月にポーランド側と休戦したが、ついに 1657 年 5 月からはスウェーデンと交戦状態に入っ
た。ロシアはフィンランド、エストニア、ラトヴィアなど広大な領土の占領に成功した。
しかしウクライナでロシアの親ポーランド派が反旗を翻し、ポーランドもロシアとの停戦
を破棄してきたため、この危機に対応する必要からロシアはスウェーデンと 1658 年末に休
戦した。1661 年のカルディス講和条約では占領中の全スウェーデン領の放棄を余儀なくさ
れ、現状維持が確認された。 1660 年にスウェーデン王カール 10 世が没したため、スウェーデンと各対戦国は、翌 1661
年までに講和条約を結び終戦した。一方、この戦争で一番利益を得たのは、ブランデンブ
ルク・プロイセンであり、最終的にはポーランド・リトアニア連合王国下から離脱し正式
に独立した(それまでポーランドはプロイセン公国の宗主国であった)。 《ロシア・ポーランド戦争の結末―左岸ウクライナの獲得》 ロシアのアレクセイ皇帝は、スウェーデンと休戦すると、ポーランドとの戦争を再開し
た。しかし、和平が保たれていた 2 年間のうちに、ベラルーシの貴族と多くのコサック指
1455
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 導層はポーランド支持へと立場を変え、ベラルーシ地方においてロシア軍を迎え撃つポー
ランド人を支援した。ポーランド軍は 1661 年にヴィリニュスを奪回した。他のリトアニア
大公国内の諸都市も一つずつポーランド軍によって解放されていき、ロシアの旗色が悪く
なったが、1667 年 1 月にアンドルソヴォの和約が締結された。この和約により、ポーラン
ド・リトアニア共和国はロシアに対し、スモレンスクの要塞およびキエフを含む左岸ウク
ライナを割譲した(図 13-30 参照)。 この戦争で東ヨーロッパにおける覇権国の地位はポーランドからモスクワ・ロシアに移
り、ロシアは「帝国」としての威容をととのえていった。 これに反して悲惨だったのは農民だった。長引く戦争は農村により大きな被害をもたら
した上に、臨時税の導入は多くの農民の零細な経営を根底から揺さぶり、将来への展望を
奪った。村を上げての集団的逃亡(移住)が頻発するようになった。もとよりそれは不法
であり、無期限の捜索・送還の対象となった。にもかかわらず、1650 年代後半には逃亡農
民はそれまでの 4 倍に達したと推定されている。 このような中で、1670 年、ラージンに率いられた大反乱がヴォルガ川流域(図 13-28 参
照)で起こったが、ロシア政府は最新の装備の大軍を送り出し鎮圧した。反乱ののち旧来
のドンの自治権はすべて失われ、コサックはロシア政府軍の指揮下におかれた。 2 代目ツァーリ・アレクセイは 1676 年に死去したが、彼はロシア専制政治の確立者であ
った。 1676 年に即位した 3 男フョードル 3 世(1676~1682 年)は若く病弱であり、1682 年 4 月
に亡くなると後継者をめぐる対立が表面化した。フョードルには子供がいなかった。ミロ
スラフスキー家(先妻の実家)が推す弟のイヴァンがいたが、心身ともにやんでいた。他
方でナルイシキン家(後妻の実家)が推すピョートルという頑丈な子供がいたが、まだ 10
歳であった。結局、弟イヴァン 5 世をツァーリに立てた上で、ピョートルをその共同統治
者とし、イヴァンの姉ソフィア・アレクセーエヴナを摂政(在任:1682 年 ~89 年)とし
た。こうしてソフィアが事実上の女性君主として君臨する時代が 1689 年まで続いた。 【③ピョートル大帝の政治】 1695 年、ピョートル・アレクセエヴィチ(在位:1682~1725 年)は 22 歳のときから親政
をはじめたが、ピョートル新政府の最初の仕事はクリミアのアゾフ遠征(図 13-28 参照)
で、アゾフ要塞はロシアの支配するところとなり、ロシアは黒海への進出という積年の課
題を手にとどく近さまで引きよせた。 1697 年 3 月、約 300 人からなるロシアの大使節団がヨーロッパへ派遣された。その中に
身をやつしたピョートルも紛れ込んでいた。ピョートルの第 1 の関心は海事にあった。オ
1456
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ランダのアムステルダム(4 ヶ月半)とイギリスのロンドン(3 ヶ月)に長期滞在し、プロ
イセンのケーニヒスベルク、ドレスデン、ウィーンにも立ち寄った。アムステルダムでは
造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働いた。病院・
博物館・植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学した。 ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台・王立協会・大学・武器庫などを訪れた。
また貴族院の本会議やイギリス海軍の艦隊演習も見学した。ピョートルは沢山の物産品や
武器を買い集め、900 人を越える軍事や技術の専門家を連れ帰って、その知識をロシア人に
教え込ませた。 ○大北方戦争 ピョートル 1 世の親政が始まったとき、バルト海を中心とする北東ヨーロッパ地域を制
していたのはスウェーデンであった。三十年戦争の戦勝国として大国となり、バルト海南
岸にも領土を飛び地として広げたスウェーデンは、17 世紀末にはその強大な軍事力によっ
て周辺諸国に脅威を与えていた。スウェーデンに大幅な領土の割譲をよぎなくされたデン
マーク、ポーランド、そしてロシアは領土回復をねらって機会をうかがっていた。 こうして 1699 年 11 月までにポーランド、デンマーク、ロシアとの間に「北方同盟」が
結ばれた。ピョートル 1 世は、1700 年 8 月にスウェーデンの要塞ナルヴァへの攻撃を開始
した(図 13-28 参照)。これをもってロシアは大北方戦争(1700~1721 年)に突入したが、
スウェーデン王カール 12 世の動きは機敏で、彼の軍隊はただちにコペンハーゲンに上陸し
て、まずデンマークを同盟から脱落させた。ついで 11 月末、彼の 2 万たらずの精鋭の軍隊
は、ナルヴァ包囲中のロシア軍の前に現れ、規模の上で遥かに凌駕するロシア軍に壊滅的
な打撃を与えた。ロシア軍は大勢の死傷者を出し、すべての大砲を失い、ピョートルはア
ゾフ遠征で得た名声を 1 日で失った。 ナルヴァで勝利したカール 12 世は、ポーランドに入り各地で転戦した。この間ピョート
ルは軍隊の建直しを急いだ。大砲の鋳造のために全国の町や村の教会から鐘が集められた。
1705 年には徴兵令が出され、毎年 2 万人の新兵を確保した。スウェーデン軍がポーランド
で苦戦している間にピョートルのロシア軍はナルヴァの敗戦から立ち直ることができた。 カール 12 世は、1707 年 1 月にポーランド国王アウグストから王位の放棄と同盟からの離
脱を約束させた。8 月、カール 12 世の 4 万の軍隊はザクセンからロシアに入っていった。
ピョートルは進攻が予想される地域住民を立ち退かせ、一帯を焼き払った。そしてスウェ
ーデン軍の大補給部隊を襲い、これを壊滅させた。カール 12 世はロシア領に侵攻し、ウク
ライナの分離・独立を画策するウクライナ・コサックの首長マゼーパと連合した。 1457
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1709 年 6 月、ウクライナの要塞ポルタヴァで両軍は衝突した(図 13-28 参照)。スウェ
ーデン軍はほとんど解体され、カール 12 世はわずかの軍勢とともにドニエプル川を越え、
かろうじてオスマン帝国に逃れた。ロシア軍の圧勝であった。 オスマン帝国に逃げこんだカール 12 世は故国に戻れず、ピョートルはこの機に乗じて親
露派のアウグスト 2 世をポーランド王位に復帰させ、カレリアとリヴォニアを征服した。
一方イスタンブルにいるカール 12 世はアフメト 3 世を説き伏せ、1711 年オスマン帝国をロ
シアとの交戦に踏み切らせた。ピョートル率いるロシア軍はプルト川河畔でオスマン軍に
包囲され敗北し、カール 12 世の帰還、アゾフなど 1696 年にオスマン帝国から奪った領土
の返還を承認させられた。 しかし翌 1712 年からロシアは攻勢に転じ、バルト海のハンゲ半島沖のハンゲの海戦でス
ウェーデン海軍に歴史的勝利をおさめ、ロシア海軍の成長を見せつけると同時にバルト海
の覇権を獲得した。 カール 12 世は帰国後も和平に応ずることはなかったが、1718 年 12 月ノルウェーの要塞
で急逝した。1721 年イギリスの調停でフィンランドのニスタットでニスタット条約が結ば
れ、スウェーデンとロシアがバルト海の覇権を争った大北方戦争は、ロシアの勝利に終わ
った。 この条約で、ロシアはイングリア、エストニア、リヴォニア、そしてカレリアの一部と
いうバルト海沿岸の広大な地域を手に入れ、ロシアは北欧第一の強国となった(図 13-28
参照)。バルト海への出口の確保だけではなく、北東ヨーロッパにおける覇権を掌握した
のである。他方「バルト海帝国」スウェーデンは完全に崩壊した。 ロシアはオスマン帝国ともパッサロヴィッツ条約を結んで決着をつけた。また 1722 年に
はサファヴィー朝ペルシア(イラン)を攻め、中央アジアに影響力を及ぼそうとした。1725
年には 20 余りのヨーロッパの主要国に外交官を常駐させた。 ロシアの新首都サンクト・ペテルブルク(ピョートルは戦争中に新首都を建設した)で
は、1 ヶ月にわたって勝利の祝典が続いた。その祝賀会で元老院はピョートルに「皇帝」
「祖
国の父」そして「大帝」という名誉ある称号を授けた。ここにモスクワ大公国から、皇帝
が統治する「ロシア帝国」が誕生した。 ○ピョートル大帝の内政改革 たしかに大北方戦争の勝利が後進国ロシアにもたらした経済的・精神的な意義ははかり
しれないものがある。だがそれだけがピョートルが大帝といわれる理由ではなかった。彼
は困難な戦争を戦う中で、国の根本的な改造を行い、その成果があらわれていたのである。 ◇軍事改革 1458
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 17 世紀末のロシアの軍事力は、海軍こそ欠いていたが、その規模と装備においてヨーロ
ッパ諸国にさほど遜色はなかった。中小貴族層を主要な構成員とする騎兵部隊ならびに銃
兵隊からなる旧来の軍隊にかわって、歩兵部隊を中心とする「新軍」が主力を形成してい
た。北方戦争の前夜、ピョートルのロシア軍は約 16 万人の規模を誇っていた。 だがナルヴァの敗戦は、ピョートルに新たな軍事改革を迫った。1705 年 2 月、全国の町
村に住むあらゆる階層の担税民に対して、20 世帯につき 1 人のの若者を徴兵するという勅
令が出された。これによって約 3 万 7000 人の新兵を徴用しようとしたのである。 1725 年末の段階で、ロシア軍将兵は約 21 万人の規模に達した。コサックなど非正規軍
10 万人を加えると、ロシアはヨーロッパ最大の軍事力を擁したのである。 海軍は零からの出発であった。ピョートルは北方戦争を戦うなかでバルト艦隊を創設し、
その増強になみなみならぬ力を注いだ。1713 年にはペテルブルクの海軍工廠で約 1 万人の
労働者が造船などの仕事に就いていた。若いバルト艦隊は、1714 年 7 月にハンゴー沖海戦
でスウェーデン海軍を撃破した(「海のポルタヴァ」といわれている)。1724 年にバルト
海艦隊は 60 隻以上の大艦船とガレー船を擁するにいたった。 ◇税制改革―部隊による人頭税の徴収 軍事力の強化には、なによりも税収の増加をはからなければならない。1718 年 1 月、全
国の農村住民の調査が指示された。翌年から実施された人口調査の目的は、課税の基礎単
位を「世帯」から「人間」に変えることにあった。「人間」を対象とする新しい人頭税は、
平時における軍事費(年間 400 万ルーブル)として位置づけられたのである。人口調査と
その点検の結果、1724 年春に担税人口は 540 万人と集計された。かくて軍事費を人口でわ
った数字、74 カペイカが 1 人当たりの税額とされた(国有地農民と都市住民は 1 ルーブル
20 カペイカ)。 以上のように税制改革は軍事費と一体であったが、農民にとってとくに重荷になったの
は、軍隊の農村配備という新しい体制であった。農村部に建てられた宿舎に入った部隊は、
管轄下の村々に出向いて直接人頭税を取り立てた。慢性的な不作、宿舎建設などで疲弊し
ていた村にとって、新しい徴税方法はあまりにも過酷であった。農民逃亡が頻発し、人頭
税の滞納は大きく膨れ上がった。人頭税の導入は、ホロープと呼ばれる非課税の家内奴隷
をも農民と同じく調査・課税することによって、長い歴史をもつポロープ制度に終止符を
打った。このことは間接的に農民の地位の低下をも招いたのである。 ◇サンクトペテルブルクの建設 ピョートルは、1703 年、大北方戦争の間にイングリア地方(ネヴァ川流域)を占領する
と、ネヴァ川の河口にあるデルタ地帯に港湾都市の建設を開始した。ピョートルはこの都
市に、「聖ペトロの街」を意味するサンクトペテルブルクというドイツ語名を付けた(図
1459
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 13-28 参照)。ピョートルはペトロのロシア語形であり、この都市名は事実上、自分の名
を冠したものとなった。 この都市は白海のアルハンゲリスクに代わる新しい貿易港として、バルト海交易ルート
の中継地点の役割を期待されていた。しかしこの一帯は湿地で、地盤が弱く洪水も頻発し
たため、年間数万人の労働力と大量の石を徴集して大規模な基礎工事に当たらせた。1712
年に工事が完了すると、ピョートルはこの町に遷都し、大貴族や裕福な商人・職人を移住
させた。1725 年には人口 4 万人に達し、都としての威容をととのえていった。 ◇工業化と外国貿易の振興 ピョートル 1 世は、工業化と外国貿易の振興をはかった。戦争とそれにともなう軍備の
増強は、工業化にとって大きな刺激となった。高品質で、採掘も比較的容易な鉄鉱床をも
つウラルに着目し、製鉄業を開始した。はじめ官営企業であったが、まもなく鍛冶工ニキ
ータ・デミドフへの払い下げを契機として、ウラルの製鉄業はデミドフの独占的な事業と
なった。労働力は国有地農民を利用することで解決された。ウラルはこうして短期間でロ
シアの製鉄業つまり武器産業の中心地となった(図 13-28 参照)。そのほかコルィヴァニ、
ネルチンスクでは銀・銅鉱石の採掘が始まった。 重工業と同じく、軽工業も軍需物資の生産と結びついていた。その中心は原料と労働力
にめぐまれていたモスクワ地方の繊維工業であった。ここでは海軍向けの帆布、軍服用の
ラシャ布、鋼などを製造する 30 をこえる工場が操業していた。その多くは 8~10 台の織機
を備え、20~30 人が働いている中小規模の工場だった。そのほかロシア各地で製材、火薬、
皮革、ガラス、製紙など全体で約 230 の工場が操業していた。そのうち約 200 はピョート
ル期になって建設されたのである。 ピョートルの工業化政策が軍事的性格をもつことは明らかであったが、そこにはヨーロ
ッパ先進国で支配的な重商主義思想も反映されていた。国家の富は金銀の貨幣蓄積にあり、
そのためには積極的に国内の産業振興をはかり、その製品を輸出する。他方では輸入は高
額関税を設けて、できる限り抑制するという保護主義的な経済政策である。ルイ 14 世治下
の宰相コルベールのとった政策(コルベール主義)が典型であるが、その思想がロシアに
も導入された。 前述のサンクトペテルブルクは、「ロシアのアムステルダム」として、外国貿易におい
て中心的役割をはたすようになった。「西方への窓」とよばれ、西欧文明をとりいれる基地
でもあった。その期待は彼の治世末に達成された。バルト海に平和が戻った 1722 年、ペテ
ルブルク港に入港した外国船は早くも白海のアルハンゲリスクを上回り、以後ペテルスブ
ルク経由の輸出入は飛躍的に伸びた。外国商品の輸入も増えたが、1724 年には最高 75%と
いう高額の輸入関税が設けられた。サンクトペテルブルクは 1712~1918 年まで首都であっ
1460
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) た(1924 年以来、レニングラードと改名され、ソ連解体後の 1991 年、サンクトペテルブル
クと改称された)。 貴族や教会に対しては、改革を通じてツァーリと国家への従属を要求していった。貴族
に対しては、まず爵位制度が導入されて、古い大貴族が持つ称号は廃止された。1714 年に
慣習であった領地の分割相続制を禁じて長子相続制に移行させたため、長男以外の貴族子
弟は生活のために軍か政府で勤務するのを事実上強要された。国家勤務者は官等表で 3 種
14 等級にランクづけられた。国家奉仕のためには教育が必要不可欠であり、彼ら貴族の子
弟のために、実業学校など様々な教育の場がもうけられた。 またロシア正教会に対しても、国家による管理を徹底させた。イングランド国教会の制
度に倣ったと考えられる。1700 年以降、モスクワ総主教座は空位とされ、教会が持つ免税
特権も奪われた。1720 年には総主教座の廃止に踏み切り、教会を宗務院という国家の世俗
機関の管轄下に置いた。 ○ピョートル 1 世の対外政策 ピョートル 1 世が手がけた対外政策は、その後のロシアの一貫した対外政策の基本とな
った。 ①バルト海への進出……これは北方戦争の勝利によって、ロシアは北欧第一の強国となり
ほぼ目的を達成した。 ②しかし、西欧諸国とならんで発展するには、常時使用できる不凍港が必要であり、ピョ
ートル 1 世の対外侵略も、その目標に向けてすすめられた。その一つが南下政策であり、
オスマン帝国を圧迫してアゾフ海から黒海へ進出した。その後、地中海方面への南下政策
は、ロシアの伝統的国策となり、オスマン帝国との恒常的対立をまねいた。 ③東方への発展もロシアの伝統的国策となった。イヴァン 4 世以来のシベリア経営をさら
にすすめ、要所に都市を建設した。中国の清朝と衝突し、1689 年のネルチンクス条約で東
アジアへの南下は阻止されたが、カムチャッカ半島を占領して太平洋岸へ進出した。 《後継者の育成で失敗したピョートル》 ピョートルは戦争にも内政改革にも成功したが、後継者の育成には失敗した。ピョート
ルは 1689 年下級貴族の娘エウドキヤ・ロプーヒナと結婚し、3 人の息子をもうけたが、成
長したのは長男アレクセイだけだった。ピョートルはこの敬虔なだけで何の取り柄もない
妻を疎んじ、1698 年には彼女を修道院に追放してしまった。このやり方が幼いアレクセイ
を傷つけ、反父親の感情をもつようになったといわれている。 成人した息子はアレクセイだけだったが父親が進める西欧化に反発し、彼の周囲には反
体制派が集まって、無視できない勢力となっていった。ピョートルは息子が政府転覆の意
1461
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 思を持っていたと信じ込み、彼の支持者を粛清したうえでアレクセイの継承権を奪った。
アレクセイは 1718 年に死刑を宣告され、その直後に獄死した。 ピョートルは 1703 年にはメーンシコフの家の召使マルファ(後のエカチェリーナ 1 世)
を愛人とし、1707 年にはこのマルファと秘密結婚、1712 年に正式に結婚して皇妃とした。
マルファはもともと戦争捕虜で召使になっていたが、そのもとはリヴォニア地方の農民の
娘だった。改宗しエカチェリーナと名乗ったマルファとの間には 12 人の子供が出来たが、
成人したのはアンナ・ペトロヴナとエリザヴェータ(後の女帝)の娘 2 人だけであった。 ピョートルの後継者の地位は、エカチェリーナが産んだ息子ピョートル・ペトロヴィチ
に移ったが、この幼い息子は 1719 年に死亡した。男子が一人も居なくなった皇帝は 1722
年、君主が後継者を生前に指名する形式の帝位継承法を定めた。しかし 1725 年 1 月、ピョ
ートルは 53 歳で死去したが、後継者を選定しないままだった。 【④ピョートル大帝の後継者たち】 ピョートルが後継を決めないで亡くなると、ピョートル時代に台頭した新しい貴族たち
は、自分たちにとってもっとも都合のよい後継皇帝として、ピョートル妃を推し、ロシア
最初の女帝エカチェリーナ(在位:1725~1727 年)が誕生した。そのあと、ピョートル 2 世
(1727~1730 年)、女帝アンナ・イヴァーノヴナ(1730~1740 年)、女帝エリザヴェータ・
ペトローヴナ(在位:1741~1761 年)と続いた。エリザヴェータ・ペトローヴナは、ピョー
トル大帝の実の娘で、これで女帝が 3 人目となった。 女帝エリザヴェータの治世は 20 年におよんだが、観劇や舞踏会に明け暮れ、実際の政治
を担ったのは貴族であった。治世中には対外戦争が頻繁に行われた。1741 年にスウェーデ
ンが係争地帯のフィンランドに侵攻したが、ロシアはこの戦いに勝利し、1743 年にオーボ
条約で、フィンランドはスウェーデンへ戻されたが、国境は変更されてロシアが西へ拡大
し、カレリア地方(フィンランド南東部)を獲得した。オーストリア継承戦争ではオース
トリア、イギリスの側にたって 1748 年に参戦したが、何の見返りも得られなかった。 1756 年からの七年戦争ではオーストリア、フランスと連合してプロイセンと戦い、1761
年 12 月までにベルリンを陥落寸前まで追い込んだ。ここで(1761 年 12 月)、女帝エリザ
ヴェータは没した。あとを継いだのは甥のピョートル 3 世(在位:1762 年 1 月 5 日~1762
年 7 月 9 日)であった。 プロシア絶対王政のところで述べたように、ここで前代未聞の異変が起きた。ピョート
ル 3 世はプロイセンのフリードリヒ大王の崇拝者であり、1762 年 3 月、勝利目前のロシア
軍を占領中のベルリンから一方的に引き上げることをやってのけた(ピョートル 3 世は、
もとはドイツ生まれのドイツ育ちで、ドイツで 22 年間、ホルシュタイン・ゴットルプ公位
1462
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) にあってプロイセン国王の崇拝者だったのである)。これによって、プロイセンのフリー
ドリヒ大王は九死に一生を得たことは述べた。 これでは同盟国はもちろん、ロシア軍、ロシア国民も憤慨することは当然だった。この
度の過ぎた親プロイセン的な政策のために、ピョートル 3 世は、その年の 6 月、クーデタ
で倒され、殺害された(これにはピョートル 3 世の皇后エカテリーナ・アレクセーヴナも
からんでいたようである)。 【⑤エカテリーナ 2 世の時代】 ピョートル 3 世のあとに、1762 年 6 月、ピョートル 3 世の皇后エカテリーナ・アレクセ
ーヴナ(1729~1796 年)が皇帝エカテリーナ 2 世(在位:1762~96 年)として迎えられた。
エカテリーナは、1729 年にプロイセンの一将軍の娘として生まれ、15 歳のときに帝位継承
者ピョートル(3 世)に嫁ぐためにサンクトペテルブルクにやってきており、エカテリーナ
2 世にはロシア人の血が一滴も流れていなかった。 エカテリーナ 2 世は多くの愛人をもったが、有能な愛人は公務にも使った。その一人が
ポチョムキンであり、のちのポーランド王になったポニャトフスキであった(ポーランド
分割で関係する)。 ○プガチョフの乱と貴族強化 エカテリーナ 2 世は、啓蒙主義君主といわれることもあったが、それは初期の段階ある
いは表面的なものであって、実際の政治はきわめて現実的で厳しいものであった。 ピョートル 3 世のときにさかのぼるが、彼の前に女帝が 3 代、30 年続いていたので、宮
廷の実情やクーデターの経緯を知る由もない一般庶民には、ピョートル 3 世は待望久しい
成人男子の皇帝であった。その非業の最期に対する同情と「簒奪者」の女帝に対する反感
があったらしく、その死の直後から「ピョートル 3 世」の僭称者が何人も現れた。そのよ
うな中で、1773 年にドン川流域で発生した大規模な農民反乱であるプガチョフの乱はその
最大のものであった(図 13-28 参照)。 ピョートル 1 世は農奴制を強化、エカテリーナ 2 世も貴族の支持を取りつけるために農
奴制を推し進めた。そのため、農民の反乱が頻発した。1762 年から 1769 年の間だけで、ロ
シア中で 50 を越える農民暴動が発生した。エカチェリーナ 2 世が女帝であり、夫の先帝・
ピョートル 3 世が謎の死を遂げた、とされたことも、事態を悪化させた。 1773 年 9 月にはじまったプガチョフの乱はその最大のものだった。プガチョフは、
「自分
はピョートル 3 世である」と僭称し(偽皇帝)、農奴制からの解放を宣言した。オスマン帝
国との戦争で疲弊した農民の不満を背景に成功し、プガチョフの反乱軍は、オレンブルク
1463
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) を包囲、サマーラを制圧した。図 13-28 のように、1774 年の初めにはヴォルガ川とウラル
山脈にまたがるほぼ全域を掌握した。 1774 年 6 月、名高いカザンの戦いが、ヴォルガ川の町・カザンで行われ、プガチョフ率
いる 2 万 5000 人の反乱軍は初戦で皇帝軍を撃破し皇帝軍からは造反者も続出、プガチョフ
軍はカザンを占領した。しかし、増援部隊が到着した皇帝軍は体制を立て直し、反乱軍を
敗走させた。プガチョフはウラル山脈に逃げたが、仲間の裏切りに遭い捕らえられ、プガ
チョフとその仲間は 1775 年 1 月 21 日にモスクワで公開処刑された(プーシキンの小説『大
尉の娘』はこの反乱を背景としている)。 ○2 度の露土戦争 ロシアの南下政策のことは述べたが、18 世紀に入るとロシアの圧力はさらに強まり、1736
年には初めてクリミア半島本土へ侵攻した。このとき、16 世紀以来のクリミア・ハン国(図
13-28 参照)の首都バフチサライと宮殿はロシア軍の手によって放火、破壊された。 それ以後も、ロシアは勢力の弱まっていくオスマン帝国に以下のように圧力を加え、南
下政策を押し進め、エカチェリーナ 2 世の治世に 2 度、露土戦争を行なった。 露土戦争 (1768 年) (1768 年~1774 年):キュチュク・カイナルジ条約で講和。 露土戦争 (1787 年) (1787 年~1792 年):ヤシ条約で講和。 まず、1768 年に始まる露土戦争の後、ロシアは 1774 年のキュチュク・カイナルジ条約に
よって、クリミア・ハン国をオスマン帝国から独立させた。そしてオスマン帝国は、帝国
内に住む正教会信徒の保護権をロシアに与えたため、以後これが内政干渉の口実となった。 1779 年、ロシア軍はクリミア・ハン国から撤退したが、すると翌年には反乱が勃発して
親ロシアのハンであるシャヒンが追い出された。エカチェリーナ 2 世はポチョムキンに反
乱の鎮圧を命令し,結局、1783 年 4 月、クリミア・ハン国をロシアに併合した。 エカチェリーナは、ポチョムキンを旧クリミア・ハン国地域の県知事に任命し、黒海北
部沿岸およびクリミアの開発を行なわせた。この時代、ポチョムキンの尽力により、今な
お黒海沿岸の主要都市であるオデッサ、ニコラーエフ、ヘルソンなどが建設された。また、
ポチョムキンはクリミアをロシアの膨張政策の突端とすべくセヴァストーポリ要塞を築き、
黒海艦隊を設立した。これに抗議したオスマン帝国との間で 1787 年、またも露土戦争が起
った。ロシア軍がイズマイルを陥落させ、1791 年、ヤシ条約で黒海北部沿岸を完全にロシ
ア領とした。 その後もロシアは弱り目のオスマン帝国をいろいろな理屈をつけて露土戦争を起こし、
南下政策を推し進めて行く。19 世紀にヨーロッパで東方問題といわれるものであるが、そ
れは 19 世紀の歴史で述べる。 ○ポーランド分割 1464
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) エカテリーナ 2 世は、もう一つ、ポーランド分割という大事業(?)をオーストリア帝
国、プロイセン王国とともに行なった。この分割は図 13-33 のように、①1772 年 8 月 5 日、
②1793 年 1 月 23 日、③1795 年 10 月 24 日の 3 段階にわたって行われ、とうとうポーラン
ドは地上から消滅してしまった。 このポーランド分割の着想そのものは、プロイセン王フリードリヒ 2 世によるものであ
ったが、ポーランド王位継承に介入して、かつての愛人でポーランドの有力貴族家門に属
するスタニスワフ・ポニャトフスキを推挙・即位させたことが遠因であった。 中世のポーランド・リトアニア共和国(以下ポーランド)はヨーロッパ有数の大国であ
ったが、ヤギェウォ朝(1386 年~1572 年)の断絶後、選挙王制をとり、外国の干渉と貴族
間の争いが頻発するようになり、国力が衰えた。
17 世紀中葉には「大洪水時代」
(北方戦争)を迎え、スウェーデン王国主導による分割(未
遂)の脅威を受けたことは述べた。
18 世紀に入ると、ポーランドは、スウェーデンとロシアの大北方戦争(1700~1721 年)
に巻き込まれ、双方の傀儡政権にされてしまった。まず、スウェーデンのカール 12 世によ
って親スウェーデン派のスタニスワフ・レシチニスキ(スタニスワフ 1 世)が王位につけ
られた。その傀儡王権がロシア帝国によって倒されると、今度はポーランドはロシアの影
響力の下に置かれるようになった。さらにポーランド継承戦争(1733~1735 年)が起こる
に至って、ポーランドは近隣列強の干渉を受けるようになった。 ロシアのエカチェリーナ 2 世は、アウグスト 3 世が死去した 1763 年に、親露派の貴族で
ある元愛人のスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(スタニスワフ 2 世、在位 1764
年~1795 年)を王位につけ、さまざまな内政干渉を行うようになった。 プロイセン王フリードリヒ 2 世はこのロシアの動きを見て、ポーランドがロシアに奪わ
れることを警戒、
(まるまるロシアに奪われるのなら,その前に分割しようと)オーストリ
アの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ 2 世を誘ってポーランド分割を提唱した。 この提案に、エカチェリーナ 2 世は、近年、ポニャトフスキ(スタニスワフ 2 世)が自
分のコントロールを離れ(ポーランド国王としての自覚から)ポーランド側に立った復興
への改革の兆しが表れたことに不安を感じ、プロイセンとオーストリアの提案に乗ること
にした。こうして、プロイセン・オーストリア・ロシアの 3 国によって第 1 回ポーランド
分割(1772 年)が行われ、3 国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得した。 その後の第 2 回、第 3 回の分割の詳細については、ポーランドの歴史で述べている。エ
カチェリーナ 2 世は、第 1 回分割は受け身であったが、第 2 回、第 3 回(後継皇帝が実施)
のポーランド分割は彼女が主導し、ポーランド王国及びリトアニア大公国を消滅させてし
まった。 1465
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ○コーカサス地方の獲得 さらにエカテリーナ時代のロシアは、イランのサファヴィー朝との境のコーカサス地方
にも侵攻し、これを併合した。この地方をおさえていたサファヴィー朝(1501~1736 年)
は、16 世紀にイランを中心に興り、シーア派の一派十二イマーム派を国教とし、最盛期に
はホラーサーンからメソポタミアに至る広大なイラン地域を支配したが、17 世紀のオスマ
ン帝国の進出、18 世紀はじめのアフガン人の反乱などにより、急速に衰退していった。 1722 年、サファヴィー朝軍は、アフガン軍に惨敗し、首都イスファハーンを失った。サ
ファヴィー朝はこれにより事実上滅亡した。サファヴィー朝の崩壊をみてオスマン帝国と
ロシア帝国がイランへの侵攻を開始し、サファヴィー朝領を分割していった。特にロシア
は南下政策の一環としてこれ以降もイランに干渉を繰り返し、イランの混乱に拍車をかけ
ることになった。現在まで続くチェチェン紛争などの原因となっているチェチェン地域や
グルジア地域なども、このころ、ロシア領に組み入れられた。 ○シベリア・アラスカへの進出 1440 年代にキプチャク・ハン国が分裂して、成立した 4 つの国のうちの一つに、シビル・
ハン国(この名にちなんでシベリアというようになった)があったことは述べた(ほかに
カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、クリミア・ハン国)。ジョチ・ウルスの流れを汲
みトルコ系民族を中心とするもので、シベリア中央部のオビ川流域周辺を支配し半遊牧国
家を形成した(図 13-29 参照)。 最初にロシアからシベリアに侵入したのは、イヴァン 4 世の命で東進したコサックの隊
長イェルマークであったが(イェルマーク自身は途中戦死した)、その後もシベリア征服が
進められ、ついに 1598 年シビル・ハン国は滅亡した。その後ロシア人は東進を続け 1636
年にはオホーツク海へ至り、シベリア全土を征服した。これ以後この地はロシア人の植民
地となった。 オホーツク海に達したロシアの進出先は、海を越えたアメリカ方面とシベリアを南下す
る南下政策であった。 ロシア海軍聖ピョートル号に乗ったデンマークの航海士ヴィトゥス・ベーリングがアラ
スカを「発見」し、ベーリングらの探検によって、北アメリカが世界でもまれに見る良質
の毛皮の産地であることが分かり、ロシア人は早速アザラシ漁を始め、アラスカ沿岸に植
民をした。 アラスカを南下したら、イギリスの植民地だったアメリカがあった。エカテリーナ 2 世
の治世には、イギリスの植民地が独立戦争の最中だった。1780 年、ロシアはアメリカ独立
戦争に際し中立を宣言してアメリカへの輸出を推進した。また、ヨーロッパ諸国に働きか
け、武装中立同盟を結成させた。 1466
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ここからエカテリーナの時代のあとの 19 世紀となるが、ロシア国内の財政事情の悪化、
アラスカがクリミア戦争を戦ったイギリスの手に落ちることへの恐れ(ロシアはクリミア
戦争で 1856 年イギリスらに敗れていた)、居留地が大して利益を上げないことなどから、
ロシアはアラスカをアメリカへ売却することにした(図 13-29 参照)。1867 年 4 月、アメ
リカ国務長官のウィリアム・H・スワードが 720 万ドルでアラスカを購入した。720 万ドル
は 2005 年現在の価値に換算するとおよそ 9075 万ドルである。 ○清国との衝突 シベリアからの南下政策の結果、領土が近接することとなった清とはたびたび武力衝突
した。ロシア帝国はコサック兵ではなく、今度は正規ロシア兵を送りアルバジン、ネルチ
ンスクの両要塞を建設したが、清の康熙帝は対抗して 1685 年に武力をもってアルバジンを
破壊した。事態を重く見たロシア帝国は 1689 年に清とネルチンスク条約を締結し国境線を
外興安嶺に制定した(図 13-29 参照。このときは、清は康熙帝の時代で国力も隆盛であり、
条約も対等であったと考えられる)。以後は 19 世紀の歴史に述べるが、ロシアの南下政策
は続く。 日本とも関係し、1792 年、エカテリーナ 2 世はアダム・ラクスマンを大黒屋光太夫とと
もに日本の江戸幕府に使わし交易を求めた。日本との北方領土を巡る外交戦の始まりでも
あった(図 13-29 参照)。 そのいきさつは、1783 年、伊勢国白子(現在の鈴鹿市)の船頭である大黒屋光太夫が、
江戸への航海途中に漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。その後ロシ
ア人に助けられ、シベリアの首府イルクーツクに滞在した。ここで学者のキリル・ラック
スマンの援助で、帰国請願のためサンクトペテルブルクに向かい、1791 年、エカテリーナ
女帝に拝謁して、帰国の儀を聞き届けられた。キリルの長男アダム・ラックスマンが、鎖
国状態の日本に対して漂流民を返還することと、シベリア総督の通商要望の信書を手渡す
ためにロシア最初の遣日使節として日本に派遣され、1792 年、光太夫らは根室に帰着した。 1796 年 11 月、エカチェリーナ 2 世は死去し、パーヴェル 1 世(在位:1796~1801 年)
が即位した。エカチェリーナ 2 世は啓蒙専制君主といわれることもあるが、それはジェス
チャーだけで、本質は前述したように徹底的な領土拡張主義者であり、植民地主義者であ
った。 【13-2-9】スウェーデンとデンマーク ○激しくなったバルト海の覇権を争い スウェーデンとデンマークがバルト海で覇権を争うようになったのは、スウェーデンに
エーリック 14 世(在位:1560~68 年)、デンマークにフレゼリク 2 世(在位:1559~88 年)
1467
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) が即位してからだった。それまでの両国は、国づくりの内政に専念し、対外的には概して
静穏の維持に徹してきたが、エーリック 14 世、フレゼリク 2 世のもとでは、両国とも積極
策に転じることになったのである。その後のスウェーデンとデンマークの関係は互いに「宿
敵」と呼び合い、果てしない戦争に突入することになった。 ○北方七年戦争(1563~70 年) 1563 年 9 月、デンマークのフレゼリク 2 世は、スウェーデン王位を請求して、スウェー
デン領内に侵入し、北方七年戦争(1563~1570 年)が起こった。戦況は一進一退の繰り返
しであった。しかし戦争による国土の荒廃と経済情勢の悪化は両国内に不穏な情勢を生み
出した。 1568 年スウェーデンの貴族たちはエーリックの弟ユーハンを担いで反乱を起こし、エー
リックを廃位し、1569 年ユーハン(在位:1569~92 年)を国王に擁立した。デンマークに
おいても、フレゼリクは戦争のため、貴族からも市民からもしだいに孤立していった。 1570 年、両国はシュテティーン条約により、ようやく戦争を終結させた。デンマーク側
がスウェーデン王位請求権を放棄し、スウェーデン側が被占領地返還の代償を支払う痛み
分けの講和であった。北方七年戦争は、双方にとっていたずらに人命と富の犠牲を強いた
だけでなく、そこで育まれた相互の憎悪感は後の時代まで非常な悪影響を残すことになっ
た。 ○スウェーデン・ロシア戦争(1562~81 年) 当時、北極海にしか開けていなかったロシアはバルト海への進出が急がれ、1558 年ロシ
アのイヴァン 4 世はドイツ騎士団の残党が治めるリヴォニアを支配下におくため、リヴォ
ニア戦争を開始したことは述べた。当初戦争はロシアに優位に進み、バルト海沿岸のナル
ヴァを獲得した(図 13-28 参照)。 しかし、スウェーデンとポーランドは、反ロシア同盟を結んでロシアに反撃した。スウ
ェーデンとロシアとの戦争は、1575~77 年の休戦期間をはさんで、延々と続いていたが、
1581 年にナルヴァがスウェーデンによって落とされた。イヴァン 4 世は 1581 年スウェーデ
ンと、1582 年にポーランドと休戦したが、ロシアの国境線はリヴォニア戦争開始時まで後
退し、バルト海交易ルートも失った。スウェーデンはナルヴァを獲得し、フィランド湾沿
岸をほぼ支配下に置いた。 ○カルマル戦争(1611~13 年) スウェーデンでは、新国王グスタフ 2 世アドルフ(在位:1611~1632 年)が 17 歳で即位
すると、デンマーク王クリスチャン 4 世(在位:1588~1648 年)は、1611 年王国参事会の
反対を押しきってスウェーデンとカルマル戦争を開始した。デンマークはカルマル地方を
領有は出来なかったが、スウェーデンの主要な要塞エルブズボルイを陥落させることには
1468
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 成功した。そして 1613 年のクネレド条約でグスタフ・アドルフは譲歩し、スウェーデンは、
多額の賠償金を支払うことで要塞とイェータ川河口を返還された。 カルマル戦争後、デンマークのクリスチャン 4 世の治世は最盛期を迎えることになった。
彼は豊かな国家財政を基礎に、重商主義政策などを推進した。国内産業の保護や自国商人
の育成をはかる一方、1616 年「東インド会社」を設立し、インド南東部で植民地を獲得し
た。 ○三十年戦争(1625~1629 年) 得意絶頂にあったクリスチャン 4 世は、さらなる飛躍を試みた。 1618 年にドイツを舞台として起った三十年戦争をデンマークの北ドイツへの勢力拡大の
絶好の機会とみなしたクリスチャン 4 世は、1625 年王国参事会の警告や反対を無視してこ
れに介入していった。しかし、三十年戦争のところで述べたように、1626 年、クリスチャ
ン 4 世は、ヴァレンシュタインに率いられた旧教諸侯・神聖ローマ皇帝軍に敗れてユトラ
ンド半島を占領され,1629 年「リューベックの講和」で、ドイツへの不介入を約束させら
れた。これによってデンマークの軍事的弱体が露呈し、北欧の覇者としてのデンマークの
地位がゆらぐ結果となった。 一方、「北方の獅子」とよばれたスウェーデンのグスタフ・アドルフの方であるが、 1618 年から始まった三十年戦争でプロテスタント側として参戦することを期待されていた
が、時期がくるのを待っていた。 皇帝軍がバルト海沿岸に進出してきた 1630 年、自ら兵を率いてドイツへと侵入し、三十
年戦争に加わった。スウェーデン軍は、精強で、かつ当時としては軍紀が比較的厳正であ
り、新教側の主軸として大いに活躍し、ポンメルンからバイエルンまで破竹の進撃をした
が(図 13-21 参照)、1632 年 11 月の、リュッチェンの戦いでは、戦いには勝ったが国王
グスタフ・アドルフが戦死してしまった。 グスタフの死後、彼の唯一の嫡子であった娘のクリスティーナ(在位:1632~54 年)が、
わずか 6 歳で王位に就き、宰相のオクセンシャーナはドイツにあって戦争の指揮をとりな
がら、内政をも指導することになった。 ○トシュテンソン戦争(デンマーク戦争。1643~45 年) スウェーデンのはなばなしい活躍に危機感をいだいたクリスチャン 4 世は、神聖ローマ
皇帝に接近したり、海峡税の引き上げなどによってスウェーデンの動きをけん制したため、
1630 年代末に両国の対立は再び尖鋭化し、1643 年トシュテンソン将軍率いるスウェーデン
軍がユトランド半島に進攻し、トシュテンソン戦争(スウェーデンではデンマーク戦争と
いう)が始まった。 1469
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1644 年 10 月にはデンマーク艦隊がスウェーデン・オランダ連合艦隊に大敗し、1645 年 8
月、デンマークは極めて厳しい内容の和平条約に調印せざるをえなかった。スウェーデン
はこの戦いに勝ち、ゴットランド、イェムトランドを獲得すると共に、エーアソン海峡で
の免税特権を得た。デンマークは北欧やバルト海における覇権を奪われた。 1648 年、三十年戦争のウェストファリア条約ではスウェーデンは戦勝国となった。しか
しグスタフ 2 世アドルフの後継者クリスティーナは、この条約で西ポンメルンの獲得など
に大幅な譲歩をした。 クリスティーナは政治より学問に関心があり、デカルトなどを宮廷に呼んで哲学的思惟
に耽ったりした。そして財政危機などを招いて 1654 年退位し、イタリアでサロンの「女王」
として生きることになった。クリスティーナの退位によって、プファルツ選帝侯家の傍系
プファルツ・クレーブルク家から、このクリスティーナの女系の従兄であるカール 10 世(在
位:1654~60 年)が王位についた。 ○カール 10 世と北方戦争 ロシアの歴史で述べたように、数年前に勃発したコサックの反乱によりポーランド・リ
トアニア連合が巻き込まれた大洪水時代という内戦に突入していた。スウェーデン王位に
ついたばかりのカール 10 世は、ポーランドの混乱をチャンスとみて、図 13-30 のように、
ポーランドに進攻し、北方戦争(1655 年~1661 年)となった。 この戦争は、当初はスウェーデンが圧倒したが、スウェーデンによる脅威からポーラン
ド・リトアニア連合の徹底抗戦と周辺諸国の対スウェーデン戦争を呼び起し、戦域は拡大
し、多大な犠牲を強いられることとなった。スウェーデンが戦った相手国は、ポーランド・
リトアニア連合、ロシア、ブランデンブルク・プロイセン、神聖ローマ帝国、そしてデン
マーク・ノルウェーとであり、これらを一纏めにして北方戦争と呼んでいる。 ○スウェーデンの絶頂期 1660 年にスウェーデン王カール 10 世が没したため、スウェーデンと対戦国は翌 1661 年 までに講和条約を結び終戦した。スウェーデンはこの戦争で軍事的成功はほとんどなかっ
たが、デンマークからは、1658 年のロスキレ条約により、スコーネ、ハッランド、ブレー
キンゲ、ボーンホルム島、それにノルウェー中部のトロンヘイム地区を割譲させた(図 13-31
参照)。これにより、スウェーデンの領土拡大は頂点に達した(1660 年のコペンハーゲン
条約では、ボーンホルムとトロンヘイムを返還しなければならなかった)。しかし、この
戦争は、スウェーデン財政に多大なプレッシャーを与え、戦後のスウェーデンの国力弱体
化を招くことにつながった。 1470
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スウェーデンは、スカンディナヴィア半島の南端部に至るまでの領土化が達成され、バ
ルト海をほぼ完全に包み込む形のバルト帝国が形成され、以後約半世紀にわたり持続する
ことになった。この時代が、スウェーデンの絶頂期とも言われている。 このようにスウェーデンはバルト海世界での優位を保ったが、植民地はオランダによっ
て奪われ、スウェーデンの植民地帝国への道は絶たれた(スウェーデン海軍の更新はなく、
スウェーデンの植民地であった北米のニュースウェーデン及びアフリカのゴールドコース
トを喪失した)。 図 13-31 スウェーデン版図の変遷 ○デンマーク絶対王政の成立 1660 年、経済的危機を打開するために、身分制議会がコペンハーゲンに召集された。こ
こで市民の代表が選挙王制から世襲王制への政体変更の提案を行い、それが同意された(ポ
ーランドの逆の流れだった)。どこの国でも王権に制限をつけ、その権限を狭めるのが議
会の流れであったが、ここでは貴族の力を弱めるため、むしろ絶対王政を市民の側が望む
という提案であった。 1665 年には世界でも珍しく絶対王制を法的に規定した「国王法」が成立した(絶対君主
制は、1848 年まで行われた)。また、絶対王制を支える軍事力についても 1664 年に徴兵令
が公布された。また 1683 年には絶対主義社会を支えることになる「デンマーク法」が制定
された。このようにデンマークでは国王を頂点とする中央集権体制が 17 世紀後半に整備さ
れていった。 《デンマークの植民地活動と奴隷貿易》 デンマークはヨーロッパ列強ともに、植民地活動に手を出した時期もあった。そしてデ
ンマークは他のヨーロッパ列強と同じように、植民地間で三角貿易を行った。アフリカか
1471
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ら西インド諸島へは奴隷も輸送した。その数は 1733~1802 年の 70 年間に約 5 万人で、世
界的に見るとその規模は数%と小規模であった。しかし、イギリスやフランスで啓蒙主義
の普及と呼応して出てきた奴隷貿易廃止の動きをにらんで 1792 年 3 月にデンマークは、世
界に先駆けて 10 年後には奴隷貿易を廃止する勅令を公布した。 結局デンマークの奴隷貿易は 1807 年まで存続した。そして、1848 年、奴隷暴動を機に奴
隷制が廃止された後、1917 年の国民投票により西インドの 3 島ともにアメリカに売却され
た(アメリカではヴァージン諸島と呼ばれる)。またアフリカのデンマークの貿易拠点、
インドの貿易拠点、ニコバル諸島なども 19 世紀の半ばにイギリスに売却され、デンマーク
は植民地経営から足を洗った。 ○スウェーデン王カール 12 世と大北方戦争(1700~1721 年) 1697 年にスウェーデンにカール 12 世(在位:1697~1718 年)が即位すると、バルト海の
出口を求めるロシアのピョートル 1 世、デンマーク、ポーランド連合軍と 1700 年に始まる
大北方戦争(1700~1721 年)を戦った。 スウェーデンはナルヴァの戦い(図 13-28 参照)に勝利し、カール 12 世は「北方のア
レクサンドロス」の異名をとり、一時ポーランドを傀儡国家にすることに成功した。1709
年、絶頂期にあったカール 12 世はピョートル 1 世と対するべく、ザクセンからロシアへ突
き進んでいった。 しかし、このロシア遠征はポルタヴァの戦いでスウェーデン主力軍が壊滅させられた。
カール 12 世はほうほうの体でオスマン帝国領ベンデルへ逃げた。ロシア軍の追撃はオスマ
ン帝国軍の介入によってプルト川(プルト条約)で頓挫した。 その後、スウェーデンの劣勢は覆せず、バルト海の南と東のスウェーデン軍残余は追い
払われ、スウェーデン本国は西からデンマーク、ノルウェー、東方からはロシアに侵入さ
れた。デンマークの攻撃はヘルシングボリの戦いで撃退されたが、ロシアはフィンランド
を占領し、スウェーデン海軍と沿岸要塞に深刻な打撃を与えた。帰還したカール 12 世はノ
ルウェーに戦線を開いたが、1718 年にフレデリックスハルドで戦死した。 スウェーデンは 1721 年のロシアとのニスタット条約でリヴォニア、エストニア、カレリ
アなどを失いバルト海沿岸の覇権を喪失した。ハノーファーはブレーメン、フェルデンを
獲得し、ブランデンブルク・プロイセンはオーデル川河口域を併合し、デンマークはシュ
レースヴィヒ・ホルシュタインを確保した。 この戦争は北方ヨーロッパで 21 年間も戦われた、まさに国際的な大戦争であった。結果
的には、スウェーデンが過去の戦争で勝ち得たものをこの戦争ですべて失い、ロシアがヨ
ーロッパの大国として登場してきた戦争であった。 ○スウェーデン「自由の時代」 1472
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スウェーデン絶対君主制はカール 12 世の死によって終焉し、王権は弱体化し、貴族によ
る議会が国政を取り仕切るいわゆる「自由の時代」となった。 1730 年代になると、フランスとの同盟による対ロシア復讐戦を主張する勢力がしだいに
台頭してきた。一方、ロシアを含む周辺諸国と友好関係を保ちながら経済の復興をはかろ
うとするグループはメッサ党(縁なし帽で臆病者を意味した)と呼ばれ、復讐戦グループ
はハット党と呼ばれた。 1738 年に政権を奪っていたハット党が推し進めた対ロシア戦争(ハット党戦争)が 1741
年から 1743 年にかけて、フィランドを舞台に行われた。最初からロシアは優勢で、まもな
く、全フィンランドを占領した。1743 年のオーボ条約でフィンランドはスウェーデンに返
還されたが、国境はキュミ川近くへと西方に移動された。更に、ハット党の主導のもと、
1757~62 年には「七年戦争」に介入してプロイセンと戦ったがうるところなく終わった。 1760 年代になると、両党間の政争は激化し、政局は安定を失ったが、比較的平和な時代
が続き、生物学のリンネなどが活躍し、学芸が大いに発展した。しかしスウェーデンの対
外的国力は低下していき、かつての「バルト海の覇者」の面影はなくなってしまった。こ
のようなスウェーデンの没落を憂慮したグスタフ 3 世(在位:1771~92 年)は、クーデター
によって絶対君主制を復活させ、外交ではフランス王国と提携し、エカテリーナ 2 世時代
のロシア帝国と対抗したが、1792 年、暗殺された。 あとは息子のグスタフ 4 世(在位:1792~1809 年)が継いだが、フランス革命が起こり、
ナポレオン 1 世が登場すると、スウェーデンは第 3 次、第 4 次対仏大同盟に参加し、敗北
した。1809 年にはフランス帝国ナポレオンの強制でフィンランドをロシアに譲渡すること
になった。この年、国王グスタフ 4 世が廃位され、立憲君主制に体制を改めた。 1810 年にナポレオンの元帥ベルナドットを王太子に迎えた。後のカール 14 世ヨハン(ベ
ルナドッテ王朝初代のスウェーデン国王・ノルウェー国王。在位:1818 年~1844 年)であ
る。スウェーデンはナポレオン戦争において最終的には戦勝国となったが、フィンランド
の奪還はかなわず、
(デンマークから)ノルウェーを得ただけで、フィンランドやポンメル
ンなど、大陸側の領土を失った。 しかしフランス人であるベルナドットの合理的な思考の元で、スカンディナヴィア半島
の統一を幸運にも成し遂げ、以後のスウェーデンは保守主義に転じ、北欧はより一体化し
ていった(スウェーデン・ノルウェー王国)。 【13-2-10】ポーランド ○ポーランド・リトアニア連合王国 1473
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) リトアニアとの連合により国力を飛躍的に増大させたポーランドは、1410 年のタンネン
ベルクの戦いでドイツ騎士団を破り、ドイツ騎士団国家をなかに取り込んで、ポーランド
の版図はバルト海沿岸に達した。ポーランドとリトアニアの両国は、ヤギェウォ朝を通じ
た同君連合というゆるやかな連合関係であったが、1569 年にルブリン合同を結び、正式に
合邦し、ポーランド・リトアニア連合王国となった(図 13-32 参照)。 図 13-32 1564~1648 年のポーランド・リトアニア王国の『共和国』 またヤギェウォ朝のもとで特権を獲得していたポーランドの貴族(シュラフタ)たちは
リトアニアの貴族たちと一体の階層を形成して力をつけ、1572 年のジグムント 2 世アウグ
ストの死によりヤギェウォ朝が絶えると、ポーランドは貴族による議会である「国会(セ
イム)」による選挙王制に移行することになった。 ○選挙王制時代 貴族の影響力が選挙で選出された国王をも左右するようになり、上級の貴族である大貴
族(マグナート)による寡頭政治が行われた。このため、その体制は貴族共和制といい、
この時代のポーランド・リトアニア王国は「共和国(ジェチボスポリタ)」とも呼ばれる。
「共和国」の版図は、図 13-32 のように、西では神聖ローマ帝国の境まで、東では現在の
ベラルーシ全域にウクライナ中西部をあわせたものにほぼ等しく、当時のヨーロッパにお
いて屈指の大国であった。 国会(セイム)による政治は当時としては民主的であったが(民主的といっても、それ
は貴族の間だけのことである)、その議決は全会一致の原則に基づいていたうえ、国王は
全ての決定にセイムの承認を求められたので、17 世紀以降次第に硬直化していった。いま
1474
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) でこそ、この身分制議会の役割は見直され再評価されているが、当時にあっては、どの国
も国王権力によるより強力な統治に向かっていた時期に、特定の階層、とくに貴族や地域
のもつ様々な特権を守ることに汲々としていた全会一致の身分制議会では、統治にとって
障害物以外のなにものでもなかった。この国政の弱体化は具体的な出来事となって現れて
きた。 《大洪水時代の到来》 このようにポーランド・リトアニア王国は大国ではあったが、弱体であったので、17 世
紀には、図 13-30 のようにウクライナ・コサックの反乱、新興国スウェーデン王国、ロシ
ア帝国の侵攻が相次ぎ、「大洪水時代(1648~67 年)」と北方戦争(1655~1661 年)が起
こったことはロシア絶対王政とスウェーデンの歴史で述べたので省略する。 このコサックの反乱のはじまった 1648 年からスウェーデンの侵略がおさまる 1660 年ま
で、ポーランド全域で絶え間ない戦乱が続いた。そして疫病が蔓延した。この間、共和国
は全体として人口の約 4 分の 1 を失った。とりわけ都市の被害は大きく、スウェーデン戦
争期に都市人口の 60~80%が減少した。 20 年にわたる戦乱「大洪水」で、ポーランド共和国は豊かな穀倉地帯ウクライナの半分
を喪失し(ロシアに割譲)、甚大な被害を受けて 1648 年以前までの経済的繁栄を 2 度と取
り戻せなかった。1 世紀余りのちに完成する「東欧の大国ポーランドの解体」は、このとき
から始まったのである。 この戦争で東ヨーロッパにおける覇権国の地位はポーランドからモスクワ・ロシアに移
り、ロシアは「帝国」としての威容をととのえることになった。 《大北方戦争》 18 世紀に入ると、またもやポーランドを舞台に大北方戦争(1700~1721 年)が起きたが、
ロシア、スウェーデンの歴史で述べたので省略する。 この戦争は、実際のところ、ロシア皇帝ピョートル 1 世とスウェーデン王カール 12 世の
事実上の一騎打ちであった。この戦争の結果、ロシアはスウェーデンのバルト海における
覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となった。 ポーランドの王権はスウェーデン、ロシアの傀儡政権となって揺れ動いた。ポーランド
の親スウェーデン派のスタニスワフ・レシチニスキ王権(在位:1704~1709 年、1733 年)
が 1709 年、ロシア帝国によって倒されると、今度はポーランドはロシアの影響力の下に置
かれ、アウグスト 2 世(在位:1697~1706 年、1709~1733 年)が復位した。この大北方戦
争によってポーランドの国境線の変更はなかった。しかし激しい戦争の舞台となったポー
ランドは飢餓と伝染病にみまわれ、国土は荒廃した。政治的には、国王の選出は大国の意
向に大きく左右されるようになってしまった。 1475
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《ポーランド継承戦争》 1733 年にポーランド王アウグスト 2 世が死去すると、ポーランド議会(セイム)は再び
スタニスワフ・レシチニスキを選出し、スタニスワフが国王に即位したが、一部の反対派
はザクセン選帝侯をポーランド王アウグスト 3 世と宣言した。これはアウグスト 2 世が、
もともとザクセンのほうを向いており、ポーランドをかえりみなかったからだといわれて
いる。 しかし、これにはロシアもオーストリアも黙ってはいなかった。アウグストの息子(3 世)
をかついだのである。このため、ポーランドは関係国を巻き込んで内戦に発展した。これ
がポーランド継承戦争(1733~35 年)である。 まずザクセン選帝侯・アウグスト 3 世を支持するロシア軍がポーランドになだれ込んだ
が、自前の兵力がないスタニスワフはロシア軍の攻勢に抗し得ず、1734 年にダンツィヒが
陥落するとフランスに亡命した。 ここでポーランドとはおよそ関係ないところに戦争は飛び火した。スペインとサルデー
ニャ王国がフランス側で参戦したことによって、戦争はライン川流域とイタリア半島で継
続した。スペインはかつてユトレヒト条約でオーストリアに割譲したナポリとシチリアの
回復を求め、新興のサルデーニャ王国はオーストリアの勢力をロンバルディアから駆逐す
ることを求めていた。 1734 年、スペイン軍はシチリアとナポリの占領に成功し、フランスはロレーヌ公フラン
ツ・シュテファン(後の神聖ローマ皇帝フランツ 1 世)の領土を占領した。 1735 年にウィーン予備条約で領土再編がはかられ、平和が回復した。結局、アウグスト
派が勝利をおさめた。ポーランドの王位はロシアが支持したアウグスト 3 世が獲得し、ス
タニスワフはそれまでの王号を認められたが、以後ポーランド王位は放棄し、ロレーヌ公
国とバール公国を補償として与えられた。これらの領土はスタニスワフ 1 代限りで、その
死後はフランス王に返還することが定められた。 領土を奪われたロレーヌ公フランツ・シュテファンはメディチ家の最後の君主ジャン・
ガストーネの没後にトスカーナ大公国を与えられることが約束され、1737 年にトスカーナ
大公に即位した。 スペインはナポリとシチリアを獲得し、代償としてパルマ公国をオーストリアに割譲し
た。オーストリアのロンバルディア地方領有は認められ、サルデーニャは特に得るところ
はなかった。この予備条約は長い交渉の後 1738 年に調印された。いずれにしてもこれらは
ポーランドとは関係のないことで、ポーランドの王位はロシアが支持したアウグスト 3 世
が獲得したということである。 ○貴族民主主義ポーランドの政治システム 1476
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) その後、ポーランド国政の無政府化はさらに進行した。アウグスト 3 世(在位:1734~
63 年)は、ザクセンの地にあり、ポーランドの政治は貴族の権力争いの場と化していた。 1652 年にはじめて行使された「自由拒否権」が濫用されるようになり、18 世紀前半には
議会はほとんど成立しなくなった。「自由拒否権」とは、黄金の自由、貴族共和国または
貴族民主主義といわれ、ポーランド・リトアニア共和国(一般に「ポーランド」と呼ばれ
る)において機能した、貴族支配による民主主義の政治システムであり、このシステムの
下では、領地を有する全ての貴族(シュラフタ)が法的に平等であり、きわめて多くの諸
特権を享受していた。この特権に基づき、貴族階級は立法府であるセイム(ポーランド議
会)を支配し、国王を選挙によって選出していたのである(選挙王政)。 この政治体制は、貴族身分(シュラフタ)がニヒル・ノヴィ(1505 年)、ヘンリク条項(1573
年)、そしてその後に結ばれた数多くのパクタ・コンヴェンタ(選出時における国王と貴族
との契約)を通じて諸特権を集積していき、君主が彼らの特権に手出しすることは許され
なかった。これは「国王は君臨すれども統治せず 」といわれるが(現代のイギリスなどの
政体についていわれるが)、歴史上初めて述べられたのは、ポーランドの政体のあるべき姿
について述べたのであった。 その政治システムは、 ◇国王自由選挙……国王は投票を希望する全てのシュラフタによる自由選挙によって選
ばれる。 ◇セイム(下院議会)……議会であるセイムは国王によって 2 年ごとに召集される。 ◇パクタ・コンヴェンタ(議会に関する契約)……即位時に国王と貴族(国政参加者)
とが取り決める契約。諸権利の請願も行われる。国王の政治行動を束縛する。 ◇ロコシュ(抵抗権あるいは強訴権)……シュラフタは、彼らに保障されている諸特権
が国王によって脅かされた場合、反乱(強訴)を起こすことを法的に認められる。 ◇リベルム・ヴェト(自由拒否権)……個々の地方代表が、セイムでの決議において多
数派の意見に反対出来る権利。セイムの会期中、法案をことごとく廃案にしてきた「無制
限の拒否権」といったニュアンスで語られることが多い。 ◇コンフェデラツィア(政治連盟)……共通の政治目的のために団体(政党や会派)を
結成する権利がある。 この政治形態は、寡頭制かというと、シュラフタのみが参政権を持っていたと言っても、
彼らの階層は人口の約 10%を占めていたのであり、少数者による支配というものではなか
った。共和国は当時のヨーロッパ諸国の中で最も高い、約 10%の参政権者を抱えていた。
フランスでは 1831 年の時点で人口の約 1%、1867 年のイギリスでは約 3%に参政権が与え
られているに過ぎなかったのとは対照的である。 1477
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 全てのシュラフタに等しい権利と特権が与えられる民主政治ということになる。シュラ
フタの間では当然のことながら財産の多寡はあり、ヨーロッパで最も裕福とも言われた大
資産家からまったくの無産者までさまざまな者がいたが、彼らの間に法的な身分の上下は
一切なく、法的には全てのシュラフタが平等の政治的権利を有していた。彼らの拠るセイ
ム(国会)が立法、外交、宣戦布告、課税(既存の税制の変更、新しい税の制定)といっ
た重要な事項について国家の主導権を握り、国王の政策に反対することもできた。これで
は意見の集約はできなかった。 セイム(国会)はしばしば国王の政策に反対し、それを阻止してきた。シュラフタがし
ばしば国王による戦争計画を廃案にしたことは、民主的平和論に関する論議に相当するも
のとさえ見なされる。「黄金の自由」システムは民主制、立憲君主制、連邦制の先駆的存在
とさえ評価されることがある。 共和国の「市民」たるシュラフタは、抵抗権、社会契約、個人の自由、合意に基づく政
治運営、独立心の尊重といった価値を称賛したが、それらは世界的に見れば、近代になっ
て広く普及したリベラルな民主政治の概念である。19~20 世紀のリベラルな民主主義者の
ように、シュラフタは国家権力に対して強い不安を抱いていた。ポーランド貴族は国家の
権威主義については強い反感を持っていた。これでは国家としてまとまることはできなか
った。 それでは、民主主義かといえば、黄金の自由の受益者は貴族に限られていて、小作農や
都市民はそこから排除されていた。人口の大多数を占める彼らは何の法的自由も保障され
ず、貴族の横暴から身を守ることも出来ず(平民が幸福な生活が送れるかどうかはまった
く各領主の人徳と能力次第であった)、都市の発展は停滞し、地方では農奴制が一般的にな
ってしまった。後の時代の人々は当時のポーランドを振り返って、共和国が「貴族の天国、
ユダヤ人の楽園、農民の地獄」だったのだと批判している。 当時のヨーロッパ世界は、絶対主義と国民国家(同化政策の制度化)という、民主主義
に対抗する「(当時の感覚で)近代的」な政治システムの建設に進んでいたが、ポーランド・
リトアニア共和国は、「リベルム・ヴェト(自由拒否権)」の行使を繰り返しながら国家機
能を麻痺させて徐々に衰退を続け、無政府状態の瀬戸際まで追いやられた。 巨大化する領域国家同士が戦う弱肉強食の時代において、民主主義と多文化主義は圧倒
的に不利な要素となった。共和国は「内戦と侵略、国家の弱体と優柔不断や愛国心の欠乏」
を招き、国家としての生き残りに失敗することになった。 一応、
「大洪水」で外国軍の撃退に成功した体験が、より改革のコンセンサス形成を遅ら
せた。シュラフタは近代的な常備軍とその強化のために税を支払うことを拒み、シュラフ
タ自らの個人的利益を追求するために諸外国の勢力と結びついて共和国の政治システムを
1478
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 麻痺させたために、共和国は着々と軍事力および能率性(つまり官僚制)を構築していく
近隣諸国に対抗することが出来なくなっていったあげく、ポーランドを狙う諸外国の野心
の標的になったのである。 そして 18 世紀後半、近隣の絶対主義諸国による領土分割によって民主主義と多民族主義
の国家「ポーランド」そのものを失ってしまった。 ○国家の消滅、ポーランド分割 《第1回ポーランド分割》 1763 年 10 月、国王アウグスト 3 世が亡くなり、後任に選ばれたのはチャルトリスキ家一
門のスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(スタニスワフ 2 世。在位:1764~95 年)
であった。32 歳の新国王は、前述したように実はロシアの女帝エカテリーナのかつての「愛
人」であった。 スタニスワフはブジェシチ(現在のベラルーシ西部のポーランドとの国境近くに位置す
る都市)近郊のヴォウチンに生まれた。1752 年、20 歳になったばかりのスタニスワフは国
会議員に当選し、その雄弁さによって注目を集めたが、スタニスワフが若くして国政に進
むことが出来たのは、チャルトリスキ家一門「ファミリア」の伯父たちの支援に負うとこ
ろが大きかった。 スタニスワフは、1755 年、リトアニア大膳官の地位を手に入れ、ロシア駐在のイギリス
大使の秘書としてサンクトペテルブルクに赴任した。スタニスワフはエリザヴェータ女帝
と宰相アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン伯爵の覚えもよく、ザクセン公使とし
てロシア宮廷に出入りする資格を得た。 スタニスワフはロシア宮廷で後に女帝エカテリーナ 2 世となるエカテリーナ・アレクセ
ーエヴナ大公妃と知り合った。エカテリーナはこのハンサムで有能な若いポーランド貴族
に入れ込み、他の愛人たちをすべて捨ててしまうほどだった(エカテリーナについては、
ロシア史参照)。スタニスワフとエカテリーナとの間には娘まで生まれたが、スタニスワ
フは 1759 年、ロシア宮廷の陰謀事件に巻き込まれて帰国せざるを得なくなった。 1763 年、クーデターによってエカテリーナ 2 世が即位し(夫のピョートル 3 世を廃位し
た)、その直後にポーランドでアウグスト 3 世が没すると、女帝は元愛人のスタニスワフ
を王位につけてポーランドへの影響力を強めようとした。派遣されたロシア軍を後ろ盾に
したチャルトリスキ家の「ファミリア」がクーデターによって政権与党となり、1764 年 9
月 7 日に 32 歳のスタニスワフがワルシャワ郊外のヴォーラでポーランド・リトアニア共和
国の国王に選出された。スタニスワフは先代の 2 人の国王の名前を採って「スタニスワフ・
アウグスト」と名乗った。 女帝はスタニスワフを王位につけると、さまざまな内政干渉を行うようになった。 1479
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) プロイセン王フリードリヒ 2 世はロシアの動きを見て、ポーランドがロシアに奪われる
ことを警戒、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ 2 世を誘って先手を打ってポーラン
ド分割を提唱した。ポーランド側に復興への改革の兆しが表れたことに不安を感じたエカ
テリーナ 2 世はプロイセンとオーストリアの提案に応じ、プロイセン・オーストリア・ロ
シアの 3 国によって第 1 回ポーランド分割(1772 年)が行われ、図 13-33 のように、まず、
3 国はそれぞれ国境に隣接する地域を少しずつ獲得した。 かくてポーランドは国土の 30%と人口の 35%を失った。翌年、召集されたポーランド・
リトアニア共和国の国会はザクセンとロシアの党派が主流だったので、この分割を承認し
た。 図 13-33 ポーランドの分割 《第 2 回分割》 ポーランドの第 1 回分割後、スタニスワフ 2 世はエカテリーナ 2 世の意にそぐわず、ポ
ーランド王国の再興を目指すようになり、1791 年 5 月 3 日、国内の民主化勢力を糾合して
ヨーロッパ初の成文憲法「5 月 3 日憲法」を制定し、王権を世襲制とし世界初の立憲君主制
に踏み出した。 従来のシュラフタによる国王選挙や「自由拒否権」などを否定した。それにかえて世襲
的な立憲君主政、三権分立、一般兵役義務などを制定した。農奴制は廃止されず、したが
って農民や一般市民(上層市民は別にして)の参政権は認められていなかったが、その内
容においてアメリカ合衆国憲法(1788 年に発効した)につぐ先駆的なものであったといわ
れている。 ところがポーランド王国内では、これに反対し、王国中央政府の縮小とこれまでの貴族
の権力維持を狙う抵抗勢力がタルゴヴィツァ連盟を結成し、エカテリーナ 2 世と結託して
改革勢力に対抗した。 ロシア帝国は宣戦布告をせずにポーランド王国との戦争に踏み切った(ポーランド・ロ
シア戦争)。ロシアとプロイセンは第 2 回分割の交渉を始め、1793 年 1 月に調印した。オ
ーストリアはマリー・アントワネットが帝室出身であった関係からフランス革命に巻き込
まれてしまい、第 2 回分割(図 13-33 参照)には参加できなかった。この 2 回目の分割に
よってポーランドは事実上、国家としての機能を停止した。 1480
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1794 年、ポーランドの愛国者コシューシコは、義勇軍を結成してロシア軍と戦ったが、
当てにしていたフランス革命軍からの救援がえられずに敗北した。 《第 3 回分割とその後のポーランド》 1795 年、プロイセン・オーストリア・ロシアの 3 国は第 3 回ポーランド分割を行い、ポ
ーランドは残った領土をすべて奪いつくされて、ヨーロッパの地図から消滅してしまった
(図 13-33 参照)。3 回の分割で奪われた領土の割合は、ロシア 62%、プロイセン 21%、
オーストリア 17%であった。 ポーランド分割に加わったのはプロイセンのフリードリヒ 2 世、ロシアのエカテリーナ 2
世、そしてオーストリアのマリア・テレジアとヨーゼフ 2 世などであり、いずれも「啓蒙
専制君主」としてヨーロッパにその名を知られた君主たちであった。 だがよく言われるように、啓蒙的専制主義は啓蒙的である以上に専制的であったといえ
る。とくに対外関係において、「啓蒙君主」たちは極めて攻撃的であり、彼らが先任者た
ちと異なるのは統治のスタイルであり、本質は同じであったといわざるをえない。彼らは
衣の下のよろいを隠す啓蒙的知恵を身につけていたのである。 ポーランドが独立を回復するのは、第 1 次世界大戦後のことであった(1919 年)。しか
し第 2 次世界大戦が起きると、再びナチス・ドイツとソヴィエト連邦に分割され消滅し、
第 2 世界大戦後、ポーランドは独立した(現在のポーランドは,図 13-32 のように、西に
移っていて、かつてのプロイセン、オーストリアの分割部分で成り立っていることがわか
る。つまり、ロシアの分割部分はソ連領のままであった)。 【13-2-11】オランダ ○ネーデルラントの宗教改革と独立戦争 ネーデルラントは 15 世紀末までにハプスブルク家領となり、1516 年、カール 5 世(カル
ロス 1 世)のスペイン国王即位により、スペインの支配下に入った。早くから毛織物工業
と中継貿易で栄え、アントワープ(アントウェルペン)は当時のヨーロッパ国際商業の中
心地の一つとして栄えた。 ネーデルラントは、もともと宗教改革の気運も高かく、ルター派がいたし、急進的な再
洗礼派の運動、カルヴァン派の新教徒(ゴイセンといわれた)などが次々と登場した。カ
ルヴァン主義はここではとくに、神中心主義と予定説の宗教として人心をとらえ、都市部
の商人や手工業者を中心に勢力を広げていった。 1556 年、カール 5 世(カルロス 1 世)からフェリペ 2 世がスペイン王位を継承すると、
ネーデルラントの自治権を奪い、きびしいカトリック政策のもとで、カルヴァン派を弾圧
するとともに、重税を課してネーデルラントの商工業を圧迫した。また、フランスでは、
1481
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) カトリックとプロテスタントの抗争で 1562 年以降は内戦状態(ユグノー戦争)になった。
このため、多くのユグノーが周辺国へ亡命した。 1566 年、ネーデルランドのフランドル州で、カトリックの教会や修道院を標的にした「聖
像破壊」や打ち壊しが発生し、他の州にも広がっていった。1567 年、フェリペ 2 世は事態
を収拾するためにアルバ公を指揮官とする 1 万人の部隊をスペインからネーデルラントに
派遣した。総督アルバ公の弾圧は残虐を極め、カルヴァン派に多数の犠牲者と亡命者が出
た。処刑されたり、財産の没収処分を受けた人は 1 万人をこえたと見られている。アルバ
公は 1569 年には悪名高い 10 分の 1 税を導入し、経済的にもネーデルラントをしめつけた。 一方、ネーデルラント諸州の貴族の中でも最有力者であったオラニエ公ウィレム 1 世
(1533~1584 年)は、アルバ公が来る前にドイツに逃亡していたが、アルバ公はオラニエ
公およびそれに付き従った貴族たちの財産と所領を没収するという強硬策をとった。 《ネーデルラント独立戦争》 1568 年、オラニエ公ウィレム 1 世はネーデルラントに侵攻し、マース川の河口にあるブ
リーレを根拠地に周辺の港町を幾つか攻略し、ホラント州およびゼーラント州内の水上交
通網を押さえる戦略に出た(図 13-34 参照)。この結果、多くの都市がオラニエ公側に寝
返り、7 月までに 26 都市がオラニエ公側につくこととなった。この月、ホラント州議会は
オラニエ公ウィレムを州総督に任命した。 アルバ公側も反撃に出たが、オラニエ公側の守りを崩すことはできなかった。1574 年 10
月のライデン(レイデン)の攻防戦に勝利を収めたオラニエ公は、ホラント州およびゼー
ラント州を実効支配するに至った。その後、各地からプロテスタントがホラント州および
ゼーラント州に逃げ込み、この 2 州の政治の実権はプロテスタントが握るようになった。
南部 10 州(現在のベルギー)はやがてスペインに服従したが、北部 7 州は、1579 年ユトレ
ヒト同盟を結んで結束を固めた。 1581 年には独立を宣言してネーデルラント連邦共和国を建設した(ネーデルラントは低
い土地の意である)。北部 7 州のうちもっとも有力なホラント州の名をとって、一般にオ
ランダとよばれる。 1584 年 7 月にはオラニエ公ウィレムが暗殺され、ユトレヒト同盟は指導者を欠く状態と
なってしまったが、1585 年にオラニエ公ウィレムの次男のマウリッツ・ファン・ナッサウ
(1567~1625 年)がホラント州およびゼーラント州の総督に任命された。1596 年にはフラ
ンスとイングランドが北部 7 州を国家として事実上認める条約(グリニッジ条約)を締結
した。独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争にもつれ込んだ。 《ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立》 1482
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1648 年、三十年戦争を終結させたウェストファリア条約の一部であるミュンスター条約
で、スペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、80 年にわたる戦争は終
った。 図 13-34 独立戦争期のネーデルラント 中央公論社『世界の歴史17』 このようにネーデルラント(オランダ)の独立は、旧教に対する新教の抗争という宗教
戦争であると同時に、絶対王政に対する市民革命の先駆ともみなされている。 独立戦争中に南部の毛織物業者がオランダに移住し、オランダに毛織物工業が発展し、
海外へも進出した。17 世紀前半には、オランダはヨーロッパ第一の貿易国となり、首都ア
ムステルダムは貿易・金融の中心として繁栄するようになった。 ○イギリスの航海法と第 1 次英蘭戦争(1652~1654 年) オランダは 1651 年 1 月、イギリスの清教徒革命で成立したクロムウェルの革命政権を承
認していたが、10 月、イギリスは有名な航海法を発し、オランダに真っ向から挑んできた。
その内容は、植民地およびヨーロッパ諸港との貿易を、①乗務員の 4 分の 3 以上がイング
ランド人であること、②イングランド製の船であること、③所有者がイングランド人であ
1483
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ることの条件を満たす船に限定し、それ以外の入港を禁止した。ただし、植民地の船の乗
り入れは許された。 明文化はされていないが、この条例の目的は露骨な重商主義にもとづき、フランスや当
時中継貿易の主役であったオランダの排除が狙いであることは明白であった。 オランダは、急きょ使節団をイギリスに派遣して、航海法の撤回とオランダの年来から
の主張である「自由航行、自由貿易」の原則の確認を求めたがイギリスに拒否されてしま
った(このようにオランダが自由貿易、イギリスが保護貿易、19 世紀になるとイギリスが
自由貿易、ドイツ、アメリカが保護貿易、20 世紀になるとアメリカが自由貿易を主張した)。 1652 年 5 月オランダ海軍とイギリス海軍がドーヴァー沖で衝突したのがきっかけで、宣
戦布告のないまま、第 1 次英蘭戦争(1652~1654 年)が始まった。1653 年 6 月にニーウポ
ールト沖で史上まれにみる激戦があったほか、8 月にはイギリス艦隊がオランダ沿岸を封鎖
し、テル・ヘイデの海戦で大きな損害をオランダ側に与えた。 軍事的にはイギリスが押し気味で、1653 年 9 月からロンドンで和平交渉が始まり、1654
年 4 月、ウェストミンスター条約(第 1 次)で和平が成立した。しかし航海法の撤回など
両国の懸案は解決されないままであった。 この航海法の実施と英蘭戦争は、英蘭に大きな影響を与えることになった。それまで同
じプロテスタントとして比較的友好状態にあったオランダとの関係が決定的に悪化してい
った。この英蘭戦争の勝利により、イギリスは世界帝国の形成および重商主義政策に向か
うことになった。 1660 年 5 月にイギリスは王政復古となり、チャールズ 2 世(1660~1685 年)が新国王と
なったが、オランダとの関係に改善をもたらさなかった。1660 年 9 月には航海法が再制定
され、植民地貿易の独占をめざして列挙品目制があらたに導入された。これによってイン
グランドは植民地との交易を完全に掌握するに至った。 ○第 2 次英蘭戦争(1665~1667 年) 1664 年には両国の緊張が高まり、再び宣戦布告なしの武力衝突が起き始めた。イギリス
は 1664 年 7 月、西アフリカのギニア沿岸にあるオランダの要塞を次々と攻略した。オラン
ダは 8 月に反撃に出て、奪われた要塞を奪回した。9 月イギリスは今度はオランダのアメリ
カ植民地(ニュー・ネーデルラント)を攻撃し、ニュー・アムステルダムを占領してニュ
ーヨークと命名した。これを受けてオランダは 1665 年 1 月、やっとイギリスに宣戦布告し
た。ここに第 2 次英蘭戦争(1665~1667 年)が起こった。 イギリス優勢で進んでいたが、1667 年 6 月、オランダ海軍はテムズ河口のチャタム軍港
を攻撃しイギリス海軍に大きな打撃を与えた。その結果 7 月、ブレダー条約で和平が成立
した。イギリスはオランダに対して航海法の適用を部分的に緩めたほか、オランダの主張
1484
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) した「自由航行、自由貿易」の原則を認めた。オランダは北アメリカ植民地を最終的に放
棄しただけで、ほかの植民地はほぼ現状を維持することになった。 なお、その後、イギリスの航海法は、密貿易を取り締まる目的で 1672 年に改訂され、1696
年航海法は、商務植民地庁(商務省の前身)を設置し、貿易の統制・監督を行わせるため
のものになった。これら諸航海法は、19 世紀に入って自由主義経済とその思想が広まりを
見せると、それにあわせて 1854 年にやっと廃止された。 《フランドル戦争(ネーデルランド継承戦争。1667~1668 年)》 1661 年 3 月からフランスのルイ 14 世が親政をはじめ、コルベールの重商主義がはじまり、
1664 年 9 月と 67 年 4 月にあいついで禁止的高関税をオランダの重要な輸出品であった(各
種)毛織物に対して導入して、オランダの貿易に大きな脅威を与えた。 さらに、オランダがイギリスと第 2 次英蘭戦争(1665~1667 年)を戦っていると、1667
年 5 月、ルイ 14 世は突然スペイン領フランドル(現在のベルギー)に侵攻した(図 13-16
参照。フランドル戦争またはネーデルランド継承戦争)。これはルイ 14 世の対外侵略の第
1 弾で、ルイがなにをめざしているかを内外にはっきりとしめすものとなった。 これに危機を感じたオランダはイギリスとの和平(ブレダー条約)を急いでまとめ、オ
ランダは 1668 年 1 月、イギリス、スウェーデンと三国同盟を結びフランスに圧力をかけた
ため、フランスも 1668 年 5 月にアーヘン条約でスペインと和平し、フランドル戦争は終結
した。 ○第 3 次英蘭戦争(1672~1674 年)とオランダ侵略戦争(1672~1678 年) ところが、1670 年 6 月、イギリスのチャールズ 2 世とフランスのルイ 14 世は「ドーヴァ
ーの密約」を結び、翌年 2 月にはこれを対オランダ攻撃同盟として具体化した。 1672 年 4 月、英仏はあいついでオランダに宣戦布告し、海と陸から同時に攻撃を加えて
きて、第 3 次英蘭戦争(1672~1674 年)とルイ 14 世のオランダ侵略戦争(図 13-16 参照。
1672~1678 年)がはじまった。 1672 年 6 月にフランス軍が東部国境をこえユトレヒトを占領する事態になると、ホラン
ト州にも不安が広まり、民衆の間にはウィレム(陸軍最高司令官)を今度は州総督に推す
声が高まった。その結果 7 月にはゼーラント州とホラント州が彼を州総督、さらには終身
の陸海軍最高司令官に任命した。こうして 1650 年以来続いた無州総督期はここに終わりを
告げ、再びオラニエ家が政治の表舞台に登場することになった。 英仏連合艦隊はオランダ上陸を目指して結集したが、オランダ艦隊の奇襲にあい、敗退
し、その後も再々オランダ海軍に敗れ、イギリスは早々に戦線から離脱し、1674 年 2 月に
ウェストミンスター条約(第 2 次)を単独で結んで講和した。イギリス側の主張は多くは
認められず、大筋では戦前の関係に戻った。 1485
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 一方、イングランド議会では、オランダがフランスの手に落ちればイングランドはフラ
ンス重商主義によって経済的に屈服させられる、と言う声が高まり、チャールズ 2 世に親
仏路線撤回を求めるようになった。このため、1677 年にチャールズ 2 世は弟ヨーク公(後
のジェームズ 2 世)の娘メアリ(後のメアリ 2 世)をウィレム 3 世に嫁がせて同盟を結び、
国内の不満の沈静化に努めることになった。こうしてオラニエ家はイングランドのスチュ
アート家との結びつきを強めた。翌 1678 年 3 月、両国はフランスをけん制するために防衛
同盟を結んだ。 陸上においては、1672 年、フランス軍はオランダに侵攻して国土の大部分を占領したが、
オランダ側は堤防を決壊させて何とかフランス軍によるアムステルダム占領を防ぎ、フラ
ンス軍を撃退した。 1678 年 8 月、オランダとフランスの間でネイメーヘン条約が成立し、オランダはすべて
の領土を回復し、1667 年のコルベールの禁止的高関税を 64 年の線に引き下げさせることに
も成功した。国家存亡の危機をこうして乗り切ったウィレム 3 世は大いに声望を高め、1675
年には 5 州の州総督となり、連邦議会も陸海軍最高司令官の職務をオラニエ家の世襲と認
めることになった。 ○イギリス名誉革命、イギリスとの同君連合 1685 年 2 月、チャールズ 2 世が世を去り、カトリックかもしれないと考えられたジェー
ムズ 2 世(在位:1685~1688 年)が即位し、イギリス史で述べたように、フランスのルイ
14 世に急接近し、今度は英仏の同盟関係さえささやかれるようになった。1685 年 10 月ル
イ 14 世はナントの勅令を廃止し、新教徒(ユグノー)への弾圧を強めていった。ヨーロッ
パではすでに新教徒のリーダーとして名声を博していたウィレムにとって、これは座視し
えない危険な事態であった。 1688 年 6 月、イギリスの反国王派(ホイッグ)から極秘にウィレムに渡英の招請状が届
けられた。ただし、手ぶらではなく、オランダ軍を引きつれて、やってきてくれというも
のであった。ただ、この時点ではウィレムにはっきりと王位が約束されていたわけではな
かった。ウィレムはこれを受諾した。連邦議会も 9 月ウィレムを支援していくことを全会
一致で決定した。 準備は急ピッチで進められ、10 月末までに大遠征部隊が編成された。戦列艦など 63 隻、
騎兵・歩兵約 1 万 5000 人、馬 6000~7000 頭、輸送船・上陸用漁船など約 400 隻、乗組員・
水夫約 1 万 9000 人というものであった。これは規模として、ちょうど 100 年前の 1588 年
のスペイン無敵艦隊(アルマダ)を遥かにしのぐもので、イギリスにとっては(立場によ
って異なるが)、再び大侵略艦隊が襲ってきたということになる。 1486
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 部隊は 11 月 15 日にイギリス南部デヴォンシャーのトーベイ湾に上陸、ジェームズ 2 世
はフランスに亡命、入れ替わりにウィレムは 12 月にはロンドンに入った。イギリス史で述
べたように、翌 1689 年 2 月ウィレムは正式にオレンジ公ウィリアム 3 世として即位した。
こうして名誉革命は成功し、ウィレムとメアリの共同統治、イギリスとオランダの同君連
合が始まった。オラニエ家が長年いだいてきた王家の仲間入りは異国の王という形ではあ
ったがついに実現を見た。イギリス人の血を流すことなく成功したという意味で名誉革命
となずけられているが、外国のオランダの大部隊の威圧によって成し遂げられた革命であ
って、立場によっては、あるいはことによっては、不名誉な事態になっていたかもしれな
い。 名誉革命後のイギリスについては、【13-3】ヨーロッパの市民革命と産業革命に記
しているので、オランダについて記すことにする。 ○アウグスブルク同盟戦争(ファルツ継承戦争。1688~1697 年) フランスの歴史でも記したように、当時、ルイ 14 世はヨーロッパで次々と侵略戦争をし
かけていたが、1688 年、ファルツ選帝侯カール 2 世が死去すると、ファルツ継承戦争(ア
ウグスブルク同盟戦争。1688~1697 年)を引き起こした。フランスの侵略に対抗するため
に、オーストリア、ドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデンなどの諸国は 1686 年、
アウクスブルク同盟を結成していた。 ネーデルランド連邦共和国(オランダ)統領として反フランスの先頭に立っていたオラ
ニエ公ウィレム 3 世は、1689 年、イングランド王ウィリアム 3 世としてイングランド王に
なると、ウィリアム 3 世のイングランドは直ちにアウクスブルク同盟に参加し、ウィレム 3
世もたびたび大陸に渡り戦争の指揮をとった。 1697 年、レイスウェイク条約が成立し、フランスはウィレムをイギリス国王として承認
し、ストラスブール以外のほとんどの占領地から撤退した。逆にオランダはネーデルラン
ト南部(現在のベルギー)の七つの都市に軍隊を駐留させることが認められ、フランスか
らの脅威に備えることになった。 ○世界最初の産業国家オランダの繁栄 オランダ(オランダ連邦共和国)は、単なる中継国家、商業国家ではなく、世界最初の
産業国家でもあった。 16 世紀後半、西ヨーロッパ最大の国際貿易都市はアントウェルペン(アントワープ。図
13-34 参照)であったが、これが宗教的に厳しく統制的であるスペインの支配下におかれ
たとき、そこで活躍していた多くの大商人、ユダヤ人などが続々と自由を求めてアムステ
ルダムに移っていった。彼らは膨大な資本とともに手広い貿易のネットワークをもそっく
1487
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) り持ち込んだため、アムステルダムは一挙にアントウェルペンの後継者となってしまった。
イギリス、地中海、ドイツ内陸部との貿易がこれにより大きく前進した。 17 世紀に入るとすぐ今度はこれに東インド(現在のインドネシア)貿易が加わり、1630
年代にはさらに西インド、ブラジルとの貿易も加わった。16 世紀末以降国内では毛織物工
業や亜麻(麻)織物工業が発展したことにより、その関係の原材料(羊毛、亜麻)の輸入、
その製品の輸出も大きく伸びていった。 アムステルダムはこうしたさまざまな貿易部門の中心地として君臨し、西ヨーロッパ最
大の貿易都市に成長した。これにともない取引所、振替銀行、保険業務などが整備され、
毎週発行される「市況新聞」が取引情報を発信した。世界市場アムステルダムの名は世界
中に知れわたった。 これと同じ役割を工業都市で果たしたのがレイデン(ライデン。図 13-34 参照)だった。
レイデンがスペイン軍による包囲に耐えて解放された 1574 年 10 月以降、南部のフランド
ルやブラーバントの毛織物生産者が続々と難民として流れ込んできた。1622 年には市の人
口(約 4 万 5000 人)の 60%以上が難民で占められていたとみられる。 彼らはそれまでレイデンでは知られていなかった新しい毛織物技術を伝えたことにより、
16 世紀末以降市内では新しいタイプの毛織物工業が急成長した。高級品から低級品まで約
190 種の毛織物が大量に生産され、レイデンは 17 世紀には西ヨーロッパ最大の毛織物工業
都市になった。レイデンはアムステルダムにつぎオランダ第 2 に大都市に成長した。 また第 3 の都市になったハールレム(現在の北ホラント州の州都)も 16 世紀末以降、フ
ランドルから多数の麻織物生産者が難民として入り、1622 年には市の人口(約 4 万人)の
ほぼ半分を占めていた。彼らもまたさまざまな新しい技術を伝え、ハールレムを麻織物工
業都市として蘇らせた。彼らはさらに市の郊外に広がる砂丘の清水を利用して、麻織物や
麻糸の漂白業も発展させた。ドイツやフランドルからも大量の製品が漂白のために送られ
てきて、ハールレムはヨーロッパ最大の漂白地になった。ここで漂白された麻製品はハー
ルレム・ブリーチとしてヨーロッパでは人気を博した。 アムステルダム近郊のザーン地方では造船業が大きく発展した。ここでは 17 世紀に約 600
基の風車が立ちならび、これを動力に製材がなかば機械化され、造船業の発展に貢献した。
建造されたのはフライト船という一種の規格船で、かなり効率的に建造された。造船業の
発展は大規模な漁業(北海のニシンや鱈(タラ)、北氷洋での捕鯨)の展開を可能にした。
ドイツ東部やポーランドなどから主食穀物を安定的に輸入したので、オランダの農業は利
潤の大きい商品作物(野菜、果物、アカネ、ホップ、菜種、亜麻、麻)や酪農などに特化
し、高い生産性を誇っていた。とくにホラント州のあらたな干拓地ではこうした新しいタ
イプの農業経営が進められた。 1488
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) このようにオランダはすでに産業革命の一歩手前までのレベルに達していたと考えられ
る(機械化だけが行なわれていなかった)。機械化を伴う産業革命は 100 年後のイギリス
で起きるのであるが、特徴的な産業技術で産業を興して、都市を興す、国を興すという発
想は、すでにオランダで生まれていたと考えられる(その前にルネサンス期前のイタリア
における新金融、貿易、産業の振興があったことは述べた。それを入れると 2 番目の産業
国家であった)。 17 世紀はオランダの黄金時代といわれている。とくに 1625~75 年ごろにオランダは圧倒
的な経済力でもって周辺諸国に対して相対的に優位に立った。そして驚くべきことに、前
述したように 16 世紀後半からの宗教戦争、そのうち独立戦争、その後、英仏とのあいつぐ
覇権戦争と周囲の大国との戦争のさなかにあって、オランダのような小国が経済的な優位
を長年にわたって築くことができたということは産業力がいかに重要な役割を果たすかを
示している。 ○オランダの海外進出と植民地経営 オランダの黄金時代の繁栄は、国内の産業振興と中継貿易だけでなく、海外の植民地経
営からの富によっても、もたらされた。 オランダ人がアジアやアメリカ新大陸に目を向け始めたのは 16 世紀末で、スペイン・ポ
ルトガルに比べると約 100 年も遅かったが、これも驚くほど急速にスペイン・ポルトガル
に代わって主導権を握るようになった。その発展の端緒は東インド会社の設立にあった。 1600 年にイギリスが東インド会社を設立したことがオランダには脅威になり、オランダ
も 1602 年にオランダ連合東インド会社を設立した(以下東インド会社と呼ぶ)。東インド
会社の資本金はイギリス東インド会社の約 10 倍であった。しかも現在の株式会社とまった
く異なって,国家にかわって武力で植民地経営を押し進め、利益を本国に還元するという
ものであった。この会社は総督を任命したり、必要に応じて要塞を築いて兵士を駐留させ
たり、アジア各地の王侯と条約を結ぶことも認められた。 これからもわかるように会社は単なる貿易会社ではなく、外国の拠点を攻撃し、場合に
よってはその奪取をねらった戦争遂行のための国策会社という側面も強くもっていた。 結果的に述べると、この会社は 17 世紀末には、1 万 2000 人を直接雇用するにいたった。
およそ 200 年ほどのその全史において,東インド会社は,100 万人ほどの人間をアジアに送
り込み、ふつう 5 年ほどで帰国するはずであったが、生きて帰れた者は 3 人に 1 人ともい
われている。 東インド会社が 1602 年に送り出した重装備の船団は初めからモザンビーク(アフリカ東
岸)とゴア(インド西岸)のポルトガルの拠点を攻撃するよう命じられていた。しかし攻
撃は思うようには成功せず、1605 年にやっとアンボン島(図 13-35 の 18。インドネシア
1489
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 東部のモルッカ諸島の島)、1609 年にバンダネイラ島(同 17。インドネシアのバンダ海の
島)をおさえたが、これらはアジア内貿易の拠点には向いていなかった。 やっと 1619 年 5 月、現在のインドネシア・ジャカルタに目をつけ、バンテン王国の内紛
に乗じてここに要塞を築き、イギリス人を排除するとともに、バタヴィアと命名して東イ
ンド総督府をおき、オランダのアジア貿易のもっとも重要な拠点とした(同 15)。 図 13-35 オランダのアジアへの進出 当時のヨーロッパはアジアに送り出す重要な輸出品をもっていなかったので、アジア内
貿易を多角的に進めて、その利益でもって香辛料をはじめとするアジアの物産を購入する
という方法をとるしかなかった。そのためには東南アジアを中心にアジア人による広範な
貿易のネットワークがすでに出来上がっており、オランダ人はこれを利用するのが得策と
考えた。 そこで東インド会社がとった第 1 の方法は、会社がある地域を武力でもって支配し、そ
この貿易を独占する方法である。この方法がもっとも徹底されたのがマルク諸島南部のバ
ンダ諸島(図 13-35 の 17,18 など参照)で、ここの特産のナツメグ(にくずく。図 13-59
参照)を独占するために 1621 年には東インド総督クーンは島民の大虐殺を行った。 またシナモン(肉桂)の特産地セイロン(現在のスリランカ)にはポルトガルがすでに 6
つの要塞を築いていたが、総督ファン・ディーメンは 1638 年から攻撃を続け、58 年にいた
り島の沿岸部のシナモンの生産地をほぼ手中におさめた。以後 1796 年まで会社はセイロン
を事実上支配し、バタヴィアにつぐ会社の第二の重要な拠点とした。 また会社はタイオワン(同 21。台湾)にも 1624 年進出し、ゼーランディア城を築いて、
1641 年までにスペイン人を追放し、完全に島を支配した。会社は中国本土に進出できなか
1490
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ったため、ここを対中国貿易の拠点とした。しかし 1662 年に国姓爺(こくせんや。鄭成功)
に追放され、以後中国貿易は一時縮小をよぎなくされた。 また会社は 1641 年にポルトガルよりマラッカを奪い(同 14)、1663~68 年には数次に
わたる戦争でマカッサル(同 16。スラウェシ島)を制圧し、他のヨーロッパ商人のマルク
諸島への進出をくいとめることに成功した。会社の膝元のジャワでも東部のマタラム王国
の内紛に乗じて 1679 年にこれを、1684 年にはバンテン王国をそれぞれ属国化し、ここにい
たイギリス人を追放した。この方法はポルトガルやスペインがやったと同じようなあらっ
ぽい方法で武力にものをいわせてのっとってしまう方法だった。 東インド会社が行った第 2 の方法は、同じように武力を背景とはするものの領土の支配
はせずに、その地方の支配者を会社の庇護のもとにおき取引を進める方法である。マルク
諸島北部のテルナテ島(同 20)、ティドーレ島(同 19)、中部のアンボン島、セラム島な
どでのクローブ(丁子。図 13-59 参照)取引やスマトラ東海岸のジャンビ、パレンバン(同
K、L)などとの胡椒の取引はこの方法によった。 そして第 3 の方法は、武力を使わず平和的に支配者と条約や協定を結んで貿易を進める
方法で、インド、ペルシア、ベンガル、日本などではこの方法がとられた。 東インド会社は以上の 3 つの方法を使い分けて、西は紅海入口のモカからペルシア、イ
ンド、セイロン、ベンガルをへて、ビルマ、シャム、マレー、インドネシア各地、台湾、
日本にいたる広大な海域に図 13-35 のように、約 20 ヶ所の要塞と数多くの商館をおいて手
広い貿易活動を展開した。会社が進出しなかったのはフィリピン諸島と朝鮮半島だけであ
った。 ほかのヨーロッパ人は 1680 年代までにインドネシアの島嶼部からほぼ追放され、胡椒以
外の香辛料の取引はオランダ人がほぼ独占するにいたった。その結果、東インド会社の経
営は 1730 年代までは安定していた。しかし 18 世紀に入るとヨーロッパでは香辛料よりも
アジア産の綿布や茶、コーヒーのほうが珍重されるようになった。これらの産品は香辛料
とは異なりオランダ東インド会社の独占するところとはならず(イギリスが主導権をとる
ようになった)、会社の経営は 1730 年代を境として赤字に転じていった。そのときはオラ
ンダが衰退した時期でもあった。 オランダはアジア地域だけでなく、南米地域(西インド会社)、北米地域(ニーウ・ネ
ーデルラント会社。ニーウ・アムステルダム)、南アフリカのカープスタット(ケープタ
ウン)などでも植民地活動を行なった。 ○18 世紀のオランダ イギリス国王にしてオランダ 5 州の州総督であったウィレム 3 世は、1702 年 3 月、落馬
の怪我がもとで死去した。ウィレムには子供がなかったので、イギリスでは亡き王妃の妹
1491
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) アン女王(在位:1702~1714 年)が即位し、オランダとの同君連合はここに解消された。オ
ランダは再び無州総督期(第 2 次)に入った。しかしオランダとイギリスの同盟関係は基
本的に変わることがなかった。 ウェレム 3 世が亡くなった直後にはじまったスペイン継承戦争、1740 年に始まるオース
トリア継承戦争でもオランダはイギリス側について戦った。 1747 年 5 月州総督が復活し、ウィレム 4 世が共和国史上はじめて全州総督に就任した。
ちなみに現在のオランダ王室はこのウィレム 4 世の直系になる。 その後ヨーロッパを二分した七年戦争(1756~63 年)でもオランダはイギリスとの同盟
関係を維持したまま中立を守った。しかし、オランダとイギリスの関係は大きく変化して
いた。オランダの経済成長は緩慢になってきた。オランダの大商人達はロンドンを新たな
貿易拠点として使用するようなった。1720 年頃より、オランダ経済は発展しなくなってき
た。1780 年頃には、イギリス王国の総生産量は、オランダ共和国のそれを上回るようにな
った。 ○第 4 次英蘭戦争(1780~1784 年) 1778 年 2 月、フランスがアメリカの独立を承認して、英仏間に戦端が開かれると、オラ
ンダはイギリスから援軍を求められたが、これを断り中立を守り続けた。しかし、アムス
テルダムの代表がアーヘンでアメリカ代表と秘かに接触し、通商条約を準備していること
が知れると、イギリスは直ちに 1780 年 12 月、オランダに宣戦布告し、第 4 次英蘭戦争(1780
~1784 年)が勃発した。 オランダ海軍は、以前のときと違い、20 隻程度の船しか保有しておらず、艦隊はなかっ
た。戦争が始まると、オランダは 18 世紀の最後の 25 年間に、95 隻の戦艦を建造したが、
イギリスはそれに倍する艦隊を保有しており、数的優勢を維持していた。イギリスは西イ
ンドのオランダ植民地やセイロンを攻撃し、東インド帰りの船舶をもあいついで拿捕し、
オランダに甚大な被害を与えた。 1784 年 5 月のパリ条約で戦争は終結したが、オランダはインド大陸最後の貿易の拠点ナ
ーガパッティナム(図 13-35 の 6)をイギリスに割譲し、マルク諸島もイギリス人に開放
した。オランダの対外政策の破局は今や誰の目にも明らかとなった。ウィレム 3 世以来 100
年以上にわたって続けてきたイギリスとの同盟関係の最終的結末がこれであった。オラン
ダにとって、イギリスとの同盟の喪失は、すなわちフランスからの侵攻を促すことに繋が
った(18 世紀末からオランダは、フランス革命軍、ナポレオン軍に占領されることになる)。 ○18 世紀のオランダ産業の凋落 オランダの衰退はまず、産業面にあらわれた。 1492
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 毛織物の生産などの分野では、オランダは早くも 17 世紀末にはイギリスにぬかれた。1620
年代から深刻な輸出不振を経験したイギリスは,毛あしの長い羊毛でつくる厚手の「旧毛
織物」をやめ、薄手の「新毛織物」に転換した。この「新毛織物」もまた、ほんらいはネ
ーデルラントで開発された商品であったが,労働集約的な性格をもっていたために、救貧
法が必要なほど多数の浮浪者を抱え、安価な労働力に恵まれたイギリスで、その生産は成
功したのである。逆にライデンの毛織物工業は,豊かな資本力と技術力によって、「旧毛
織物」の生産に専門特化していった(これはその後の産業国家の交代時も現れた現象で、
労働集約的な産業では人件費の安い国が(この場合イギリス)、先進国(オランダ)より
有利であるということが起きたのであろう)。 また、アジア産の繊維製品が,強烈に中・上流階級からなるマーケットにアピールしは
じめた。この現象は,イギリスでも「キャラコ狂い」とか「インド熱」などと呼ばれたが、
それは全ヨーロッパ的な現象でもあった。アジア産キャラコ(綿織物)や絹織物の流行は、
いわば色鮮やかな,軽い衣料の流行を意味した。このように時代の流行が圧倒的に薄手の
繊維品に傾いていったことは、旧毛織物に専門特化したオランダにとっては、不幸であっ
た。いずれにしても、オランダの産業体質が、急速に「陳腐化」していったのである(こ
の安いアジア産(インド産)キャラコの流行による打撃はイギリスも同じで、これの打開
策が機械化であり、イギリス産業革命の発端となった)。 ポルトガル人にかわってオランダ人がアジアで独占することに成功した香料は、急速に
人気がなくなり、茶や砂糖がもてはやされるようになった。香料に対する需要がなくなっ
たことはオランダにとって痛手だった。農業革命が進行して、冬期に家畜が飼えるように
なったため、食肉保存の必要性が少なくなった結果、「臭い消し」に胡椒や香料を使用す
る必要が少なくなった、という説もある。 《自由貿易と保護貿易》 つぎにオランダ産業衰退は,英仏両国の重商主義のせいであるともいわれている。つま
り,「イギリスの航海法とフランスのコルベール」である。1667 年、フランスはオランダ
商品に禁圧的関税を課した。これをめぐる交渉が決裂し、1672 年にはフランス・オランダ
戦争が勃発したことは述べた。最近はたとえでよく貿易戦争といわれるが、このときは、
正真正銘の「貿易戦争」だった。1651 年にオランダ人の中継貿易を排除しようとするイギ
リスの航海法が原因となって、ほぼ同じ時代に,オランダはイギリスと三度にわたる貿易
戦争(航海法をめぐる英蘭戦争。4 回目はアメリカ独立戦争にからむから意味合いが異なる)
を戦い、いずれも敗北した(結局、武力が勝敗を決めた)。 これもその後の歴史で再現されている。いずれも自由主義を標榜する産業覇権国家オラ
ンダに対して,遅れてきた英仏が重商主義、すなわち保護主義をふりかざしてチャレンジ
1493
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) したというのが実態であった(このように産業覇権を握ると自国に有利であるから自由貿
易を主張するものである。17~18 世紀のオランダが自由貿易でイギリスが保護貿易だった。
19 世紀になるとイギリスが自由貿易に変身し(産業革命で完全に主導権をとったので)、
アメリカ、ドイツが保護貿易だった。20~21 世紀にアメリカは自由貿易を主張し、今、日
本は TPP をどうするか。歴史は繰り返している)。 《GNP でイギリスがオランダを追い越したのは 1780 年代》 とわいえ、オランダの衰退は一挙におこったわけではない。はるかのちになっても、ア
ムステルダムによる世界金融の支配は揺るがず、海運・保険などのサーヴィス部門やイギ
リス国債からのそれも大きかったからである。アムステルダムの金融市場が世界の中心で
なくなるのは,1770 年代のいくつかの金融パニック以後のことである。 バルト海貿易はヨーロッパの生命線といわれ、とくに重要な意味をもっていたが、そこ
では 18 世紀はじめになっても、オランダのフライト船がイギリス船の 10 倍は活躍してい
た。フランス船舶にいたっては,その姿をみることはなかった。 なおオランダの経済は、決して絶対的に「衰退」したわけではない。オランダは相変わ
らず、ヨーロッパでももっとも賃金水準の高い国であり、したがって福祉の水準もヨーロ
ッパでトップ・レベルにあったことはまちがいない。しかし、徐々にイギリスにとってか
わられつつあったことは確かであった(オランダより、人口が数倍多いイギリスが 1780 年
代に GNP でオランダを追い越したのは当然のことである。人口が 10 分の 1 の日本が中国に
GNP でぬかれて 3 位になったのは、過去の英蘭の交代、米英の交代(19 世紀後半)からも
当然のこと、米中の交代も時間の問題であろう)。 【13-2-12】スイス スイスでは、すでに中世にハプスブルク家を追い出して、1353 年に「八州同盟」を結成
し事実上、独立を達成していた。1470 年代にブルゴーニュ戦争でスイス領内へ侵攻したブ
ルゴーニュ公国のシャルル突進公の軍勢を破り、スイスの国際的な地位は向上した。また、
1499 年に皇帝マクシミリアン 1 世がスイスを勢力下に収めようと侵入したが、これもスイ
ス軍は打ち破り、スイスは神聖ローマ帝国からの事実上の独立を勝ち取った。 このようにスイスの軍勢は無敵を誇り、支配地域の拡張を目指してイタリア戦争などの
周辺地域の紛争に干渉したが、1515 年のマリニャーノの戦いでフランソワ 1 世率いるフラ
ンス軍に大敗を喫したことで、拡張政策の放棄を余儀なくされた。 1517 年からルターの宗教改革がはじまったが、宗教改革のところで述べたように、スイ
スでは宗教改革者ツヴィングリがチューリッヒで政教一致の宗教改革運動をはじめた。こ
1494
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の改革運動は他の州にも拡大したが、森林 5 州とよばれる 5 つの州は従来のカトリック信
仰の保持を表明した。 プロテスタント諸州とカトリック諸州は戦争になり、ツヴィングリ自身も戦死した。1531
年に和平協定であるカッペル協定が結ばれ、スイスにおいてカトリックとプロテスタント
は互いを攻撃することなく共存していく体制を作ることで合意した。ここでは各邦が宗教
問題に対応すると決められ、アウクスブルクの和議の先取りとなった。 三十年戦争(1618 年~1648 年)の間、ヨーロッパ全土が戦乱によって荒廃したが、スイ
スは直接の戦場とならなかったため国土は被害を受けなかった。しかし傭兵として戦った
多くのスイス人の血が流された。 列強がスイスを戦場としなかった最大の理由は、スイス人傭兵の戦力が重要だったから
であった。とりわけ、三十年戦争で勇名を馳せたスウェーデン王グスタフ 2 世アドルフの
軍には、多くのスイス人傭兵が参加していたと言われている。グスタフ・アドルフの死後、
フランスでもスイス人の傭兵を得るために同様の政策をとり、スイスの独立を後押しした。
(スイス人傭兵が多かったのは当時、スイスは山ばかりで貧しく、出稼ぎに頼っていたが、
その後、時計産業などを興し、ヨーロッパ有数の豊かな国となり、傭兵はなくなった。こ
のように産業さえあれば、人間好んで兵になろうとはしない)。 三十年戦争の最中、スイスは「武装中立」という立場を初めて公式に宣言した。そして、
中立を維持するための国境防衛軍として連邦軍が創設された。1648 年のウェストファリア
条約でスイスは法的にも神聖ローマ帝国から独立した。 【13-3】ヨーロッパの市民革命と産業革命 【13-3-1】啓蒙思想 【①啓蒙思想とは何か】 16 世紀の大航海時代以降の地理上の発見によって、ヨーロッパ人は異なった思想や社会
の仕組みにふれ、社会の制度や道徳は相対的なものであることに気がついた。また、17 世
紀の科学革命による地動説などの世界観の転換を受けて、17~18 世紀のヨーロッパに一つ
の新しい思想が生まれ、それまでの時代とは一線を画する新しい時代が始まることになっ
た。
この新しい思想を表す言葉として、ヨーロッパのほとんどの言語で「啓蒙」や、それに類
する言葉がもちいられている。「啓蒙」=「蒙(くら)きを啓(あき)らむ」=「光で照ら
されること」で、ヨーロッパ各国語の啓蒙にあたる単語を見て分かるように原義は「光で
照らされること」である。この「光」とは「理性の光」にほかならない。「理性」で無批判な伝
統墨守や権威への盲従・迷信・無知・不寛容を照らし出すという意味である。 1495
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ドイツの哲学者カント(1724~1804 年)は有名な論文の中で、「啓蒙とは何か」という問
いかけに対し、それは「自らがもつ未成熟な状態からの脱却である」と答えている。この答
えの核心には、あきらかに権威を疑う姿勢が存在している。啓蒙思想が残した最大の遺産
とは、そうしたすべての物事を批判的に見る懐疑的な態度だったのである。 16 世の宗教改革によって、ヨーロッパの伝統文化を支えたカトリック教会の権威は深刻
な打撃を受けていた。17 世紀になると科学革命により、新しい時代の啓蒙思想家たちは、
神は万物の創造主であり宇宙の法則を定めた「偉大なる機械職人」であったとしても、いっ
たん宇宙が「動き出したあとは、いかなる形にせよ、神が宇宙の動きに関与する余地はない」
という結論に達した。 その結果、啓蒙思想はヨーロッパ社会の知的・道徳的権威を自認してきたキリスト教会と、
真っ向から対立することになった(14~16 世紀のルネサンス・宗教改革・科学革命を推進
した芸術家・科学者はいずれも敬虔なキリスト教徒であった)。このように既存の権威を
否定することが 17~18 世紀に活躍した思想家たちの大きな特徴だった。 啓蒙思想が席巻したあとでは、社会の中に神や神学がしめる場所はほとんど残されてい
ないように見えた。ヨーロッパ人が神や神学をそれほど求めなくなったことに加えて、様々
な社会的な苦しみが、実は人間によって作り出されたものであると考えられるようになっ
たからでもあった。 ○神よりも人間について考えよう この社会のほとんどの苦しみが人間によって作り出されたものであり(神が人間に試練
を与えているとか、神の罰がくだったとかではなくて、人間そのものの行いによってこの
世の苦しみが生まれていることがわかった)、それが知識の拡大によって克服できるとす
るならば、さらにある思想家が言ったように、「人間は幸福を求め、不幸を回避するべき」
であるとするならば、神による救済と断罪を基本とするキリスト教の教義には、関係のな
いことになるのである(意味のないことになるのである)。意味のないことを考えるので
はなく、もっと意味のあること、人間の幸福とか、不幸を回避することを考えるべきだと
いうことになった。 神や神学に対する信頼がなくなるのと反比例して、啓蒙思想の根底には、何よりも知性
に対する信頼があった。啓蒙思想家たちがベーコンをとくに尊敬した理由の一つは、「知
は力なり」というベーコンが誰よりも知性の力を信じていたからである。啓蒙思想家たち
は人間の知性がもつ無限の力を信じ、人類は永遠に進歩し続けると考えていたのである。 《科学の進歩、「楽観主義(オプテイミズム)」の誕生》 その一般的な傾向ははっきりしていた。科学は人間の役に立つ知識を見つけ出し、人間
が暮らす世界を進歩させてくれる、そして自然界に存在するすべての現象は、やがて物理
1496
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 学や化学の法則によって合理的に説明できるようになると考えられていたのである。この
ような考え方を、「楽観主義(オプテイミズム)」と呼ぶようになったが、世界はつねに進
歩しており、将来も無限に進歩を続けるという考え方が根底にあった。 彼らは自然を操作し、人間の心の奥底に記された真理を理性の力で解き明かすことによ
って、人類はよりよい未来を実現できると確信していたのである。楽観主義者たちは行く
手にいくつかの障害が存在するという意識はもっていたが、それらはすべて克服可能なも
のであると考えていた。代表的な障害は無知であるが、無知は理性と知識をあわせもつこ
とで克服できるという自信をもっていたのである。 そうした目的のもとに出版されたのが、啓蒙思想の代表的な著作として名高い『百科全
書』であった。フランスのディドロとダランベールの編纂によって、科学・芸術・技術など、
同時代のあらゆる「知」の集大成をめざした全 28 巻(本文 17 巻、図版 11 巻)の『百科全書』
が、1751 年から 72 年にかけて出版されている。 啓蒙運動の成果は、文明世界に属するすべての人々が共有すべき財産であると、啓蒙思
想家たちは考えていた。中世以来、ヨーロッパの知的エリートたちのあいだで、これほど
までにコスモポリタニズム(世界市民主義)が浸透し、共通の問題が議論された時代はな
かったといえるであろう。無知などに代表されるいくつかの障害を取り除きさえすれば、
理性によって見いだされた法則によって社会が自然に発展し、過去の特権に盲目的にしが
みついている人以外は万人が恩恵を受けられるようになる、啓蒙思想家たちはそう考えて
いた。 【②政治に関する啓蒙思想】 啓蒙思想はイギリスにおいて,最も早くあらわれた。初期の啓蒙思想家を代表する人物
は、イギリスのニュートンとロックであった。ニュートンについては、すでに科学革命の
ところで述べた。ロックは政治思想と認識論において活躍したが、政治思想についてはホ
ッブスが提唱した啓蒙主義の国家論をさらに発展させたので、まず、ホッブスの国家論か
ら述べることにする。 ○ボッブスの社会契約国家論 トマス・ホッブズ(1588~1679 年)が思想を形成する時期はイギリスにとって立憲政治
が成立する過渡期であった。1603 年にスチュアート朝が成立し、国王によって国教会の批
判と王権神授説が主張されると議会から大抗議が起き、国王と議会の対立が深刻化した。 この王権神授説は、
「王権は神から付与されたものであり、王は地上における神の代理人
であるのだから、王は人民に拘束されることがなく、王のなすことに対して人民はなんら
1497
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 反抗できない」とする政治思想である(16 世紀フランスの法学者・経済学者ジャン・ボダ
ン(1530~1596 年)の『国家論』(1576 年)で唱えられた)。 この王権神授説に新しい観点から肉付けをしたのがホッブスであった。清教徒革命が起
きるとホッブスは 1640 年からフランスへ亡命し、王太子(チャールズ 2 世)の家庭教師を
務め、著作『リヴァイアサン』を亡命中に執筆し、1651 年帰国の年に刊行した(リヴァイ
アサンとは旧約聖書に登場する海の海獣。地上の最強の権力で、絶対主義国家を意味する)。 ホッブスは、人間は利己的な動物であると考えた。人間の本性は自由であり、自由はす
べての人に平等に与えられている。ホッブスの考える自由とは、自己の生存のためには何
をしてもよい、無制限な自由であり、これを自然権であるとした。
ホッブスは、自然状態とは何の規則もない状態であると考えた。無制限な自由をもつ人
間が自然状態に置かれると、人間はたがいに自由を主張し、利害が衝突する。このため、
自然状態では争いが絶えず、戦争状態になる。ホッブスはこれを「万人の万人に対する闘争」
とよんだ。 自然状態では、生命を維持できない事態に直面するとき、人間には理性が働き、戦争状
態を回避して生命を維持しようとする。 では、どのようにしたら戦争状態を回避することができるか。戦争状態を生み出した原
因は人間の自由、すなわち自然権にあった。そこで「人間が天賦の権利として持ちうる自
然権を政府(この政府を指してリヴァイアサンと言っている)に対して全部譲渡(という
社会契約)」して主権者の命令に従い,その代わりに、主権者によって自己の生命を保障し
てもらうことにする。こうような契約を相互に結ぶことにより主権者の支配する国家が成
立する。 こうして成立した国家で、主権者(国王または合議体)が絶対的な権力をもつ。これに
対して、国民は何の権利ももたず、主権者に絶対に服従しなければならず、それにより自
己の生命が保障されるのである。 ホッブスの社会契約論は、絶対主義国家を理論的に正当化するものであった。ホッブス
の考え方の背景にあったのは、清教徒革命をめぐるイギリス社会の混乱であった。ホッブ
スは,社会の混乱の原因は不安定な主権にあると考え、主権の絶対性の確立により社会の
安定を求めた。ホッブスの社会契約論は、王権神授説を否定し、人間の本性から国家の成
立過程を論理的に説明した、最初の合理的な社会理論であった。 ホッブスは絶対君主や独裁者の擁護者だとする批判を生んだ。しかし、平等な個人の自
然権から出発し社会契約を通じて国家を設立するという理論は、国家とはほんらい国民の
安全と平和を保持するためにつくられたものであるという主張をその中核とし、国家主権
1498
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の絶対性も国民一人一人の自然権にもとづくと考えられている。これは近代民主主義の基
本原理として、ロックやルソーに継承されていった。 ○ジョン・ロックの社会契約論 ホッブズの理論を批判的に発展させたのがイギリスの哲学者で社会契約論者のジョン・
ロック(1632~1704 年)であった。 ロックは、1688 年の名誉革命後の 1689 年に『市民政府二論』
(あるいは『統治論』)を発
表し、ホッブスにあってなお不十分であった主権の分析を徹底した。すなわちホッブズに
おいては主権は国家の構成員たる国民との契約で形成されているのにもかかわらず、国民
と直接の関係性をもたない第三者的存在であった。 ロックは国家を基礎づけるためにホッブスと同じように自然状態についての考察から始
めている。ロックによれば、自然状態とは人間が自然法の範囲内で自分の行動をなし、自
分が欲するままに所有物と身体を処理できる自由で平等な状態である。人間は自然状態に
おいてこのような権利をもっているが、その権利の享受は極めて不確実で、つねに他人の
侵害という危険にさらされている。 なぜなら、すべての人が王であり、しかもほとんどの人は公正と正義を厳格に守ろうと
しないからである。つまり、自然状態においては、人間の生命・自由・資産(これらを所有
する権利を所有権という)の保全のために、次の三つのものが欠けている。 第 1 に、正邪の基準としてあらゆる紛争を裁決する尺度としての一定の「法」である。 第 2 に、確立された「法」にしたがって紛争の解決をはかる権威ある公平な「裁判官」であ
る。 第 3 に、正しい判決がくだされた場合、この判決を適正に執行させる「権力」である。 自然状態では,この三つのものが欠けているため、相互に敵対するようになり、恐怖と
危険という悪条件のもとにおかれる。 このような状態から,人は生命・自由・資産を保全するために、他の人々と社会をつくる
ことを求めるようになる。人々はこのように所有権の保全のために,自然状態におかれて
保持していた自由を放棄(自然権の一部放棄)して契約を結び,その権利を共同社会の代
表者にゆだねる。ここに国家が成立するのである。 ロックは、自然状態や自然法についてホッブスとは異なる考えをもっていたが,人々が
自己の安全を保持するために社会契約によって国家をつくると説く点では一致している。
ところが、ロックはここからボッブスの絶対主権の考えとは異なる結論を導き出した。 ロックは人々が社会契約によって国家(政府)をつくった場合、そこでは多数派の人々
が残りの人を動かし拘束する権利をもつとして、多数決の原理を主張している。また、権
力をもつ者が国民からゆだねられた信託に反して行動した場合、すなわち為政者が国民の
1499
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 生命・自由・資産を侵害する場合には、その権力は、はじめにそれを与えた人々の手にもど
さなければならないとした。これは、為政者がゆだねられた範囲をこえたことを国民に強
制した場合には、国民はこれに抵抗する権利(抵抗権)や為政者を変える権利(革命権)
をもつという主張である。 このようなロックの政治思想は名誉革命の理論的根拠づけとなり(この『統治論』は名
誉革命の翌年に出された)、フランス革命やアメリカの独立運動に多大な影響を与えた。 また、名誉革命期、ハリントンの提唱した権力分立制を発展させ、ロックは自然権を保
護するために、国家は自然法に基づいて実定法を制定する役割(立法権)、法を守らせ違反
者を罰する役割(執行権)、外国に対して国家の権益を守る役割(外交権)をもつ必要があ
るとしている(ハリントンは清教徒革命で処刑されたチャールズ 1 世の王室執事で 1656 年
に共和国論『オセアナ』を出版し、執政官と議員を無記名投票・任期制で選ぶよう述べて
いる)。 しかし、ロックは、専制政治を防ぐためには、これらの役割を別々の人が担当しなけれ
ばならないと考え、権力の分立を主張した。ロックの権力分立論は各権が平等でなく、立
法権が優越していた。これがのちのフランスのモンテスキューによる三権分立論(司法権・
立法権・行政権)にまで発展した。 また、ロックは清教徒革命の宗教性を批判して宗教的寛容を主張し、国家論においても
その立場を主張している。その他、家父長的政治に対する批判や、政教分離を説くなど、
現実主義的な考えを展開している。 こののちフランスのジャン・ジャック・ルソー(1712~ 78 年)によって啓蒙主義的な国
家論が大成された。そこで引き続いて、フランスのモンテスキューによる三権分立論とル
ソーの社会契約論を述べるとこにする。 ○モンテスキューの『法の精神』 シャルル・ルイ・ド・モンテスキュー(1689~1755 年)は、フランスのボルドー近郊で
生まれ、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位とボルドー高等法院副院長の官職を
継いだが、37 歳で辞職し、以後、学究生活に入った。1731 年から約 20 年をかけて『法の
精神』を執筆し、1748 年に出版し、イギリス憲政とロックの影響のもとに立憲君主制と「三
権分立」の理論を展開した。 彼によれば、「法」とはもっとも広い意味においては「事物の本性から生じる必然的関係」
である。この意味において、あらゆる存在者は法をもつのである。神には神の法があり、
獣類には獣類の法があり、人間には人間の法がある。 彼は『法の精神』で、まず、3 つの政治システムを採り上げ、その政体の本質と原理を述
べている。彼によれば、法の精神とは法的・政治的制度を動かす人間の情念のことで、政
1500
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 治体系に由来するという。政治体系には共和政(民主政と貴族政を含む)、君主政、専制政
の 3 つがある。共和政を動かす精神は美徳であり、君主政を動かす精神は名誉であるが、
専政政を動かす精神は恐怖であるという。 共和政は人民全体あるいは人民の一部が主権をもつ政体、君主政は一人の人間が制定し
た法律にしたがって統治する政体、専制政は一人の人間が法も規律もなくすべてを自分の
意思と気まぐれによって行う政体である。 共和政的システムは、彼らがどのように市民的諸権利を拡張していくかに依存して、目
まぐるしく変わる。相対的に広く権利を拡張していく場合には民主主義的共和政となるし、
より狭く束縛しようとする場合には貴族政治的共和政となる。 君主政と専制政の区別は、統治者の権力を拘束しうる中間勢力(貴族、聖職者など)が
存在するか否かに依存し、存在する場合には君主政、存在しなければ専制政となる。モン
テスキューは専制政体を維持するとすれば恐怖心によるほかはないとして、専制政を批判・
攻撃した。 ○三権分立論 『法の精神』の二つ目の大きなテーマは、政治的自由とそれを保持するための最良の手
段に関するものである。「政治的自由」とモンテスキューが言うとき、それは大要「個人の
安全」もしくは「各人がその安全の内に持つ見解から生じる心の平静」を意味している。 政治的自由は専制政のもとでは実現できないものであり、保証されたものでないとはいえ、
共和政や君主政では可能になるのである。一般に、確固たる土台の上に政治的自由を確立
するには、次の二つのものが必要になる。 まず一つ目が統治権力の分立である。モンテスキューは、ジョン・ロックの『統治二論』
(立法権、行政権の分立を述べている)を基礎において修正を加えつつ、立法権、行政権、
司法権はそれぞれ分有されるべきであることを論じた(三権分立論)。これらの権力が同一
の人間または団体の手に集められるならば、そこに権力の濫用が生じ、人民の自由は失わ
れる。それゆえ、三つの権力がそれぞれ別の人間または機関に属するようにして、権力を
もって権力を抑制することが肝要であると主張した。 彼はイングランドの政治制度を広く論じた中で、どのようにすれば君主政の中において
さえも、これが達成され自由が保証されるのかを示そうとした(当時はフランス革命前で
フランス絶対王政であり、彼も支配者層に属していたが、立憲君主制がお目当てだった)。
同時に彼は、権力が分立していなければ、共和政においてさえも自由は保証されえないこ
とも述べた。 二つ目は、個人の安全のために民法と刑法が適切に制定されることである。ここで彼が
思い描いていたのは、現在の我々が言うところのデュー・プロセス(法に基づく適正手続
1501
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) のこと)に関する諸権利、すなわち公正な裁判を受ける権利、有罪が確定するまでは無罪
である権利、罪科と刑罰の均衡などである。これとの関連において、モンテスキューは奴
隷制の廃止や言論・結社の自由についても論じている。 『法の精神』の三番目の大きなテーマは、法社会学の領域に関わるものであり、多かれ
少なかれ彼がその創始者と位置づけられることもある。事実、論考の大部分は、地理や気
候がどのように人々の「精神」を生み出す特有の文化と作用しあっているか、関わってい
るかを述べているが、それは省略する(モンテスキューは「社会学の父」といわれている)。 『法の精神』は三権分立を定式化した著書として有名だが、以上のように、その中で、
彼は立憲主義、権力分立、奴隷制廃止、市民的自由の保持、法の規範などを主張し、さら
には政治的・法的諸制度はそれぞれの共同体固有の社会的・地理的特質を反映したもので
あるべきだということも主張した。非常に広範にわたって論じており、社会学の父といわ
れるゆえんである。 出版以降 2 年間だけで 20 以上の版を重ね、大きな反響を巻き起こした。すぐさま保守勢
力や教会勢力からの批判を呼び、1751 年には禁書目録に加えられた一方で、ダランベール
が賛辞を寄せたように、百科全書派からは賞賛された。 彼の権力分立論は、貴族の役割を重視するものであったが(そして、イギリスの政治体
制である立憲君主制を理想としていたが)、その骨格は民主主義政治においても適用可能な
ものであった。そのため、アメリカ合衆国憲法の枠組みや、フランス革命中の 1791 年憲法
の制定にも多大な影響を及ぼしたのである。 ○ルソーの『社会契約論』 モンテスキューからディドロにいたる啓蒙思想家たちはいずれも、文明の進歩を肯定し、
理性の全能と理性にもとづいて人間を完成できるという確信をもち、社会制度や政治の改
革を考えた。ところが、ルソーは文明の進歩こそあらゆる不幸の原因であり、社会的不平
等を促進したと考え、人間があらゆる外面的なものをすてて自己自身にもどること、すな
わち自然に返る必要性を強調している。それゆえ、ルソーは啓蒙思想家のなかでは異色の
啓蒙思想家であった(それは彼の自叙伝『告白』からもわかるように,彼の生い立ち、人
生が関係していると思われるが、ここでは省略する)。 ルソーは、
『社会契約論』に先立って、1755 年に著わした『人間不平等起源論』によって、
すでにロックやホッブスによって使用された「自然状態」という概念をつかって、人間の
良心ならびに徳、そしてその変質の過程を考察した。これが『社会契約論』の前提になっ
ているので、まず、これを述べる。 《『人間不平等起源論』》 この過程は 8 段階に分けることができる。 1502
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) その第 1 段階は人間関係が全く欠如している状態であり、純粋自然状態と呼ぶことがで
きる。そこでは「自然人」は、野獣のような生活をし、その本能が求める以上の欲求を持
たない孤独な野蛮人として描かれている。ここで注意すべきは、ルソーがこのような自然
人を完全に幸福なものとして描いていることである。なぜならば、彼は独立しており、満
たされているからである。さらに重要なことは、このように概念化された自然状態が本質
的な平等の状態だということである。 第 2 段階は各自がお互いに一時的に関係を結ぶのにとどまるが、第 3 段階では、人口の
増大、土壌・気候などの相違、そして幾多の偶然による火や石器、金属器の発明、さらに
は固定した住居・家族そして財産の発生によって、人間の平等の危機は本格化した。すな
わち、社会組織の始まりであった。諸個人の交流が一般化し、それを通して競争と優越の
観念など、様々な悪徳が生まれた。しかし、これはまだ社会の原初的段階にすぎなかった。 人間をしてこの原初的社会状態から更に発達した社会状態(第 4 段階)へと移行させた
のは、農業と冶金の技術の発明であった。そして、これらによって分業が生まれ、その中
から不平等が発生した。この不平等はその諸形態の中でも最も有害なもの、貧富の差へと
帰着した。やがて人類の不幸は一つの極点に達した。
「或る土地に囲いをして『これは俺の
ものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信じたものが、政治社会の真の創始
者であった」のである。 終わりなき戦争そして恐怖、すなわち第 5 段階がこれに続いた。富者と貧者とは容赦な
く憎しみあった。悪徳は今や普遍的なものとなった。そして、そこから逃れるために政治
社会が設立され、第 6 段階へと至った。やがてこの政治社会から政府が生まれた(第 7 段
階=政治社会の第 2 段階)。そしてこの政府は専制政治へと転化し、個人が無となることに
よって諸個人間の平等が再建される(第 8 段階=政治社会の第 3 段階)。しかし、これこそ
が不平等の最終段階であり、「自然状態」への回帰なのである。 注意すべきは、以上のようなルソー描くところの人類の「発達」が歴史的事実ではなく、
抽象的な概念設定であるということである(歴史的事実としては、本書で 10 章までに、つ
まり、農業の開始と定住社会の成立、国家の成立までに記したことである。結局、すべて
の地域で専制国家が生じて、すべての被支配者階級が「不平等」という平等に落とされた
のである)。自然人は、理性に先立つ 2 つの原理、すなわち自己愛と憐憫の情に従って行動
するというのである。そして、自然権と自然法は、これらの原始的な感情の作用から生ず
るのである。 ルソーは結論として、元来人間は自然状態においては言語、教育、階層は何もなかった
ために、不平等は存在しなかった。しかし人間が改善能力を発揮し、相互に協力するよう
な理性を獲得すると社会に不平等な階層が生じるようになった。なぜなら人間が法律や所
1503
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 有権の制度を発明、導入することによって家族、農業の実現による不平等が発展すること
になったからである。また為政者の職業が確立されると不平等は固定化され、為政者は武
装しながら社会制度や法制度を整備することで被治者(被支配者階級)を組織的に支配す
る専制的権力を準備した。このように社会制度が整備されると自然状態で感じていた不便
よりも大きい不便を感じるようになった。 不平等とは人間にとって自然な結果である。しかし法律によって人為的に許容される不
平等が自然な不平等よりも大きいならばそれは容認できない。なぜならそれは不自然な不
平等であり、自然法に反するものであるからであるといっている。ここまでがルソーの『人
間不平等起源論』である。 このような過程でできてきた社会で、政治はどうあるべきかを論じたのが 1762 年に発表
した『社会契約論』であり、教育はどうあるべきかを論じたのが同じく 1762 年に発表した
『エミール』であった。ここでは『社会契約論』についてのみ述べ、『エミール』について
は省略する。 《『社会契約論』》 ルソーは『社会契約論』で、自然状態における人間(自然人)は、自然の恵む食物で空
腹を満たし、小川の水で渇きをいやし、樹の下で眠る幸福な未開人であった。それゆえ、
悪徳を知らない無垢(むく)の人であり、肉体的不平等は別として、社会的不平等は存在
せず、完全な自由・平等・独立を享有していた。また、社会的関係によって生じる正・不正も
なく、無垢であるから善・悪の観念ももっていなかった。ただ自己保存の感情と他人に同情
し憐れむ心である憐憫の情をもっていた。やがて人口の増加や外的原因の干渉にうながさ
れて社会状態に移行しはじめた結果、「道徳的または政治的不平等」が生じたのである。 ルソーによると、一つの土地に囲いをして、これは自分のものだと宣言することを思い
ついた最初の人間こそ,政治社会の創始者であった。自然状態は、人々が土地・私有財産・富
を持つにつれて崩れていった。ここから人間の不平等が生じ、支配と隷属の関係が生まれ
た。 こうして金持ちと貧乏人、主人と奴隷、圧政と反抗がおこり、敵対関係が強まって、人々
はホッブスのいう戦争状態におちいった。人々はこの無政府状態から脱却するために、金
持ちのためにつくられた法律や政治制度を是認する。これが従来の社会契約であるが、そ
れは金持ちの不当な権利を正当化し、人類を労働と隷属と悲惨に投げ込ませただけであっ
た。この最後の段階、すなわち社会的不平等の極点こそ専制主義である。ルソーはこのよ
うに、人間がいかにして不平等と悲惨・隷属の状態におちいったかを解明し、当時の社会を
痛烈に批判した。 《ルソーの一般意志と特殊意志》 1504
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) それでは人間がこの悲惨な状態を脱して、自然人がもっていた自由と平等を再現するに
は、どうすべきだろうか。ルソーによれば、人間は自然状態にとどまることのできない障
害に直面したときに、滅亡しないために生存様式を変え、より大きな力をつくりだす必要
にせまられる。この力の総和は多くの人々の協和によって生まれる。 しかし、各人の力と自由は自己保存のための最も大切な手段であるから、協和を実現し
ようとして各人の力と自由を害してはならない。そこで問題は、各構成員の身分と財産を、
共同の力すべてで防御し保護する結合形態を見出すことである。この問題に解決を与える
のが社会契約である。 この社会契約は「各構成員は自分をそのあらゆる権利とともに共同体の全体に譲渡する
こと」というもので、すべての人が共同体に全面的に没入するならば、自己と共同体とは一
体となり、完全な自由が確保されるとともに、完全な協和が実現されるのである。このよ
うな社会契約の本質は、「我々のだれもが、身体とすべての力を共同のものとして一般意志
の最高の指導のもとにおく。そして我々は各構成員を全体の不可分の一部として受け入れ
る」ということである。ルソーの社会契約論の大きな特徴は、この一般意志の考え方である。 ルソーは、人間は利己的(自己愛)であると同時に理性的(憐憫の情)でもあり、2 つの
本性をもつというものである。ルソーは利己的な感情を特殊意志、知性的な感情を一般意
志とよんだ。一般意志とは、つねに公共的利益をめざず誤りのない意志のことである。 彼によれば、一般意志とは、個々人の意志(特殊意志)の総和である全体意志とは異な
り、つねに公共的利益をめざす誤りのない意志のことである。人民が十分な情報をもち、
党派を組まないで討議するならば、大多数の個人の特殊意志から全体の共通意志としての
一般意志が生じる。したがってこの意志は、つねに人民の意志である。 《主権者の一般意志が執行期間の国家を指導する》 こうして、個人にかわって、一つの精神的・集合的な団体がつくられる。この団体は投票
者(有権者)と同じ数の構成員からなり、統一性、共同の自我・意志をもっている。また
この公的人格は、構成員によって、受動的に法にしたがうときには「国家」、能動的に法を
つくるときには「主権者」と呼ばれるものである。こうして、人民の自発的意志によって国
家が成立し、人民がその主体、すなわち主権者となるのである。このように、ルソーはつ
ねに人民の意志である一般意志のみが国家を指導できると主張することによって、従来、
絶対的権威をもつとみなされていた政府が、人民の意志の執行機関にすぎないことを明ら
かにしている。 ルソーは一般意志の考えからロックの民主主義を批判した。ロックの主張する代議制は
多数決を採用するが、ルソーは多数決原理を否定する。その理由は、多数決は個々人の特
殊意志に基づくもので、その結果は特殊意志の総和(全体意志)であり、一般意志に反す
1505
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) るからである。また、主権は分割できないものであるから権力の分立は成立しないとして、
権力の分立を否定し、ロックの間接民主主義に対して直接民主主義を主張した。 ルソーは、
「…イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由
なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷と
なり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかをみれ
ば、自由を失うのも当然である」(『社会契約論』)と述べて、間接民主主義の問題点を指摘
している。 《政治的存在である国家は必ず堕落する》 また、ルソーは、ロックよりも分析をすすめ、国民と政府を機構的に分離させ、主権を
国民に設定した。そのためルソーにおいては主権に対する抵抗権は存在しない。政府は主
権を保持していないので、国民はよりラディカルな姿勢で政府を替えること(政府転覆)
が可能である。またルソーの理論に特徴的なことは、ロックにおいて見られた永続的な立
法機関が存在しない。立法は人格を備えた立法者によっておこなわれるとされ、このよう
な人格的な立法はライフ・サイクルを伴う。つまり政治的存在である国家は必ず堕落する
と考えられていたのである。 ホッブスやロックも社会契約説を打ち立てていたが、ルソーはもっとも明瞭に社会契約
説を主張して、ホッブスの絶対主義やロックの立憲主義とは異なった、全人民を主権者と
する直接民主主義の思想を唱えた。 一定以上の財産を有するなどの特別の資格を持つ「国民」ではなく、その国の国籍を有す
るもの全てを意味する「人民」にこそ主権があると宣言したことは、その後の普通選挙制の
確立や民主主義の進展に大きく貢献した。ルソーの政治思想の特徴は、従来の価値観や伝
統などの慣習から解放された個人を理想とするところにあるといえる。 ルソーの政治思想はフランス革命に直接的に多大な影響を与えただけでなく(発表から
27 年後にフランス革命が起きた)、ヨーロッパ諸国はもちろんのこと、(発表から 100 年以
上後のことであるが)遠く中国や日本にも影響をおよぼし、日本ではとくに自由民権運動
に大きな影響を与えた。他方で、ルソーの一般意志や主権論は、ロベスピエールやナポレ
オンの独裁を正当化する役割を果たしたという批判もある。 【③国際法の誕生】 オランダでは自然法(人為的に制定された法ではなく,人間の本性に基づく法)に基づ
く国際法の基礎をつくり、「国際法の父」と称せられているグロティウスが現れた。 1506
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) フーゴー・グロティウス( 1583 年~1645 年)は、八十年戦争(オランダ独立戦争)が
展開されていたオランダのデルフトに生まれ、1599 年、デン・ハーグで官職を得て、1601
年には、ホラント州の史学史研究員となった。 1603 年、スペイン・ポルトガル連合とオランダが交戦しているさなかに(オランダ独立
戦争)、オランダ東インド会社の子会社であるアムステルダム独立会社がポルトガル船サン
タ・カタリーナ号を拿捕した。もちろん、ポルトガルも貨物の返還を望んでいた。オラン
ダ東インド会社の代表は、グロティウスにこの拿捕における論証を依頼してきた。 ○『自由海論』 グロティウスは、東インド会社による拿捕の妥当性を自然法に求め、1609 年、
『自由海論』
を著した。グロティウスはこの本により、海は国際的な領域であり、全ての国家は、海上
で展開される貿易のために自由に使うことができると主張した。この著作は、スペイン・
ポルトガルとオランダの戦争という中で起きた具体的な国際紛争を処理する過程で生まれ
たものであるが、当時の国際法的思考に大きな影響を与えた。 17 世紀以降、国家間の紛争、戦争は頻発するようになったが、そこに国際法というルー
ルをもちこんだグロティウスは高く評価された。ウェストファリア条約(1648 年)以降、
国家間の紛争、通商および外交関係を規律する法として成立、発展していった。 その後、1635 年、イギリスの法律家ジョン・セルデンは、
『封鎖海論』において、海は原
則として、陸地の領域と同じ適用を受けるものと主張した。海事法をめぐる論議が成熟す
るにつれて、海洋国家は海事法の整備を推進することとなった。オランダ人の法学者であ
る Cornelius van Bynkershoek が自著『De dominio maris』(1702 年)において、陸地を護
るために大砲が届く範囲内に海の支配権(領海)はその沿岸の国が保有すると主張した。
この主張は各国で支持され、領海は 3 マイルとするとされた。このように、徐々に海洋に
ついての国際法的思考が定着していった。 グロティウスに返ると、その後のグロティウスの後半生は、オランダの国内の神学論争
に巻き込まれて、1621 年、グロティウスはフランスのパリに亡命した。パリに滞在中、グ
ロティウスは、様々な分野で執筆作業を行った。その中に『戦争と平和の法』があった。 ○『戦争と平和の法』 この著作でグロティウスは、戦争が法による規制を受けるものであることを明らかにす
る「自然法論」を展開した。この著作は、同時代において、またそれ以後の時代のヨーロ
ッパにおいて、戦争と平和に関する法や諸権利を考察する際の原点となり、グロティウス
に「国際法の父」という位置づけを与えることになった画期的なものだった。 そこでは、単に戦争状態における法について論究されているだけでなく、その名の通り、
平和時における法や権利が、一国法の枠組みを超えた普遍的なものとして考察の対象とな
1507
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) っている。
『戦争と平和の法』が、単に戦争や講和の法を考えるために役立つというだけで
はなく、近代自然法概念の成立を探るうえで欠くことのできない著作とされている。 【④認識論に関する啓蒙思想】「 ○ロックの認識論 認識論について、ロックはベーコンを継承・発展させて,イギリス経験論を確立した。彼
は形而上学に反対して認識の問題を究明し,近代認識論の創始者といわれる。 ロックは認識の起源についてはホッブスの機械論的運動論の立場を継承して経験論的見
解をとり、1689 年に著わした『人間悟性論(人間知性論)』では最初にデカルト的な生得観
念(生まれながらに人間に備わっている基礎的知識)をとりあげ、これを痛烈に批判した。 ロックによれば、そのような生得観念(生まれつきの観念)は存在しない。たとえば、
神の観念は生まれつきでないことは幼児のなかに神の観念を見出すことができないことや、
宗教すらもたない民族があることから明らかである。また、道徳律を考えてみても、それ
が時代や社会が変ると異なることから、生得的なものとは考えられない。正義や信義は生
得的道徳とするが、ロックはこれらを知らない人がいるから犯罪が起こると主張し、生得
的道徳も否定する。彼は人間の心に生まれつき刻印された生得観念があるという見解を否
定する。
彼は、われわれの心は,生まれたときには何も書いていない「白紙(タブラ・ラーサ)」
のように何も知らず、「いっさいの知識(観念)は経験から得られ」ていくものであるとし
た。「白紙」のような人間の心に文字を書き込むことができるのは経験だけなのである。
この経験には 2 種類のものがある。一つは外部の刺激によって起きる感覚で、これによ
り色、味、寒、暖などの観念が生まれる。もう一つは心の動きによって起こる内省で、こ
れにより表象、感情、意志などの観念が生まれる。これらの観念の一部はそのまま単純観
念となり、一部は知性によって確定、区別、比較、結合、抽象という操作が加えられ、複
合観念となる。複合観念は多数あるが、様相(姿形・状態)、実体、関係という観念に帰着
する。これがロックの考える、経験から観念が形成される一連の過程である。 さまざまな観念がある中で、ある観念どうしが一致するか否かを判断することが認識で
ある。ロックが考える認識には、 *直観的認識(観念と観念の一致・不一致の判断) *論理的認識(直観的認識により真理とされたある命題と他の命題との一致・不一致の
判断) *感覚的認識(信念や意見など感覚的な事実の確かさの判断) 1508
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の 3 種類がある。このようにロックは経験論の立場から観念の獲得や認識の仕組みについ
て一貫した論理的な理論を展開し、近代認識論を創設した。 これによると、感覚的観念から知りうるものは、外観の客観だけであるから、われわれ
は事物の本質を知ることはできない。物自体を知ることは不可能なのである。ここに、自
然について知ることに関する経験主義の矛盾や限界が生じることになる。
即ち、我々はあくまで経験的、実験的に外的事物の観念を得る以上、既知の性質はそれ
によって判明したもののみであって、本来的にどれだけの性質がそのものに属しているか
は分からず、全ての性質を遺漏なく知ることはできない。
このようにロックは経験主義を唱え、経験論の代表的人物の一人に数えられるが、彼は
経験はあくまで観念の供給源でしかないとみなしており、その点では彼の哲学における経
験の役割は限定的である。 ○ヒュームの経験論(懐疑論) デイヴィッド・ヒューム(1711~76 年)は、イギリス経験論をいっそうおしすすめ、懐
疑論に到達した。 ヒュームは、最初の哲学的著作『人性論(人間本性論)』(1739~40 年)で、まず人間が
どのように世界を認識しているかを検討した。ロックは感覚と内省の 2 つの経験(感覚)
によって 2 種類の観念が生まれるとしたが、ヒュームによれば、人間の観念の源泉は「印象」
であるという。印象とは感覚に生き生きあらわれてくる表象(目をつぶればなんらかの形
で思い浮かべられるもの、認識内容)であり、この印象が想起されて観念となる。すべて
の観念はこのように印象から、すなわち直接の経験に由来するものである。 複雑観念を派生させる連想律には類似連想、接近連想律、因果連想律の 3 つがある。類
似連想律は類似または対照によって、近接連想律は時間的空間的な近接によって、因果連
想律は因果関係によって複雑観念を派生させる。ヒュームはこれらの連想律によって複雑
な知識や学問が派生すると考えた。 ロックは因果律を自明な原理として無批判に導入したが、ヒュームは経験論によってそ
れを説明し、因果律は習慣に基づくものであると主張した。ヒュームによれば、原因の観
念の中に結果の観念は含まれていないため、因果律は生得観念ではなく、経験的なものだ
という。 では、因果律はどのようにして生まれるのか。たがいに無関係な 2 つの現象が時間的に
前後して起こるとする。このことが繰り返し起こると、人間は 2 つの無関係な現象を、次
第に因果関係があるものと考えることを経験する。この経験を繰り返すと、2 つの現象は前
後関係にあるという習慣が生まれ、因果関係という観念が生まれるのである。 1509
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 彼によれば、人々は 2 つの対象が続けておこるのをしばしば観察すると、その印象から
その対象間に必然的な結合があると確信する。しかし実際に見出すのは、接近と継承の 2
つの関係だけであり、必然的結合と見なされるのも結局は習慣(くりかえし)にもとづく
主観的な確信なのである。ヒュームはこうして、事物間の因果関係は理性による必然的関
係でなく、それを探求する科学も確実性をもつことはできないと主張した。 一般に因果関係といわれる 2 つの出来事のつながりは、ある出来事と別の出来事とが繋
がって起こることを人間が繰り返し体験的に理解する中で習慣によって、観察者の中に「因
果」が成立しているだけのことであり、この必然性は心の中に存在しているだけの蓋然性
(確率)でしかなく、過去の現実と未来の出来事の間に必然的な関係はありえず、あくま
で人間の側で勝手に作ったものにすぎないのである。 では「原因」と「結果」といわれるものを繋いでいるのは何か。それは、経験に基づい
て未来を推測する、という心理的な習慣である。あるできごと他のできごとの間に、ある
規則的な継続を何度も知覚すると、我々は、ある種の精神的な習慣を形成し、あるできご
との上に、他のできごとを期待するようになる。われわれは、このことを結びついたと呼
ぶと彼はいう。しかし、この結びつき(連合)の考えは心理的な現象の結果、つまり、習
慣に基づく期待であるにすぎない。したがって、この考えは現実世界に応用できる経験的
な概念ではない。 それまで無条件に信頼されていた因果律について、単なる連想の産物であると見なした
ことで、彼のこの考えは「懐疑主義的」だと評価されることになった。 しかしヒュームのこのような懐疑的立場は、人間の有限性と誤りやすさを直視すること
から生じる適度な懐疑論であって、どんな場合も真の知識を拒否する全面的懐疑論ではな
い。だが、ヒュームのいうことが、正しければ、過去から未来を推論することや科学的方
法に対する論理的根拠は何もなくなることになる。 こうようなヒュームの主張は、カントに大きな影響を与えたといわれ、ヒュームの行き
詰まりを解決したのは、カントであった。カントについてはドイツの啓蒙思想で述べるこ
とにする。 【⑤教育に関する啓蒙思想】 ○ルソーの人格尊重の教育論 ルソーがその自然状態と自然人の概念を、教育論として知られる『エミール』の中で最
も精巧に展開しているということは、ルソーの思想の全大系を理解する上で重要なことで
ある。 1510
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ルソーは『エミール』のなかで、彼の思索の出発点である「自然人」(思いやりがあって
善意に満ちた存在としての人間。歴史的に本当にそうだったかは疑問であるが、思索のう
えで)を実現する方法、つまり新しい人間形成の理論的探求を試みている。 『エミール』は、エミールという男の子が生まれてから成人するまで理想的な教育者に
教育されるという物語であるが、近代教育史上の不朽の名著であると同時に文明評論の書
でもあるといわれている。彼によると、人間は自然的には、すなわ、その本性においては
善である。この自然の善性をおしつぶすのが、社会を構成しているすべてのもの、権威・
慣例・習俗・制度などである。従来の教育は、社会的不平等の状態に適応できるように子供
を育てることであった。 それに対して本当の教育とは、悪い感化をおよぼす従来の教育と悪影響をおよぼす社会
に由来するすべてのものをしりぞけて、子供が生まれながらにもっている自然の善性を守
り育てていくことである。つまり、子供の心身の発達に応じたものでなければならない。
このようにルソーは、理性を重視し不完全な人間としての子供の人格を無視した古い教育
観に対して、子供の人格を尊重する新しい教育観を展開している。 「自然に帰れ」という訓戒が意味するものは、現存する社会状態を破壊して野蛮状態に戻
るということではなく、
「自然」が社会の中に生きる人間にとっての基準でなくてはならな
いということである。当時の都市の生活の退廃に反発したルソーは、
「自然に帰れ」と人間
の自然本性に立ち戻る自然主義の実験教育を『エミール』の中で描いて見みせたのである。 ルソーによれば,自然状態にある自然人は自己愛(=自己保存の欲望)だけではなく,
あわれみの情(同情心)をも備えている。しかし人間が集まり社会ができると,不自由や
不平等が発生する。ルソーは自然状態から社会が堕落(不自由・不平等の発生)した原因
を、私有財産に求め、「自然に帰れ」のスローガンのもとで文明社会を痛烈に批判したの
である。 当時のイギリスでは、経験哲学のジョン・ロックが、生得的な観念への妄信を戒め、人
の心は白い板上のものであるとし、経験とそれについての正しい反省こそが人を育ててい
くと、形式陶冶の考え方を表明していた。 ルソーやロックの啓蒙主義時代の教育論は、フ
ランス革命後の公教育の始まり、イギリスで早くも始まった産業革命の推移の中で、子ど
もの工場労働と児童福祉の考え方の萌芽となった。また、ルソーの教育思想はドイツのカ
ント(ドイツ啓蒙思想)に大きな影響を与えた。 ○フェミニズム運動の先駆者ウルストンクラフト イギリスのメアリ・ウルストンクラフト(1759~1797 年)は、イギリスの社会思想家・
作家で、フェミニズム(性差別に反対し女性の解放を主張する思想・運動)の先駆者であ
った。 1511
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ウルストンクラフトはロンドンで、イングランド系アイルランド人の家庭に、6 人の子供
の第 2 子として誕生した。19 歳でメアリは自活するため家を出た。1783 年に、メアリは重
病の姉妹イライザを看護し、乱暴者の夫から助け、離婚が成立するまでかくまった。メア
リとイライザたちは学校を設立した。 1787 年、
『少女の教育についての論考』という 162 頁のパンフレットを執筆した。この著
作はメアリに利益をもたらし、彼女は文筆で身を立てることを決意した。 メアリは、
『人間の権利の擁護』を著し、機会の均等に基礎を置く社会のヴィジョンを提
示した。彼女が描いた社会では、悪弊に満ちた上層階級の特権は否定され、個人の才能こ
そが、成功の必須条件であるとされた。彼女の盟友トマス・ペインも、メアリに遅れるこ
と数ヶ月、同様の主張のもとに著作『人間の権利』を発表し、土地貴族、世襲君主制を批
判した(トマス・ペインはアメリカに渡り 1776 年に『コモン・センス』を書いて有名人と
なっていた)。2 人は、イギリス社会の秩序を紊乱(ぶんらん。乱すこと)する者として批
判され、否定された。 《『女性の権利の擁護』=人間(女性)における「不可譲の権利」》 しかし、メアリは、1792 年に『女性の権利の擁護』を完成し、この中で論じた機会の平
等が、無条件で女性に対しても適用されることを主張した。 「わたしは、みずからのかたく信じてやまないところを述べる、すなわち、女性の教育と
礼儀を主題として扱った著作家たち…ルソーからグレゴリー博士に至るまでのすべての
人々が、女性なる存在を、彼女ら自身が本来ある姿よりも、人工的で、脆弱な性格を持つ
存在であるとみなし、このような間違った女性像の更なる流布に加担し、結果的に、女性
なる存在は社会の成員として無価値に等しいという誤謬を広めたのだと、宣言する」と述べ
ている。 これは部分的には、ルソーの教育論『エミール 』(1762 年)において、少女に対する教
育は、少年のそれとは別であり、少女を従属的で従順な者へと馴致(じゅんち)する教育
が望ましいとしたことへの反論でもあった。 彼女は、人間における「不可譲の権利」が、当然ながら、女性に対しても与えられるべ
きであることを主張し、男性による、社会的・政治的な女性価値判断における二重規準を
断罪した。彼女は、すべての人は、男性、女性、子供に関係せず、独立精神に対する権利
を持つことを、大胆に宣言した。女性が妥当な教育を受け、男性と同等な立場で労働する
社会を描写した。
男女の同権、機会の均等、教育を通じての女性の地位の向上、女性なる存在の社会的存
在としての価値の称揚と道徳的責任主体の確立、教育制度の改革によって女性の地位向上
1512
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) をウルストンクラフトは主張した。当時としては、あまりにも先進的な展望であり、主張
であると批判された。
1797 年、メアリは結婚制度を否定することで知られた無政府主義の思想家ウィリアム・
ゴドウィンの子を身ごもった。結婚制度をともに否定して来た 2 人だったが、生まれてく
る子が私生児ゆえに社会で差別されることを恐れ、同年 3 月 29 日、ロンドンの教会で結婚
式を挙げた(子供の幸せを願って自分の信念を曲げざるを得なかった)。同年 8 月 30 日、
ロンドンで娘メアリ・ウルストンクラフト・ゴドウィンを生んだが、出産からわずか 11 日
後の 9 月 10 日、38 歳で産褥熱のため死亡した(娘メアリ・ウルストンクラフト・ゴドウィ
ンは長じて小説家となり、『フランケンシュタイン』で有名)。 【⑥フランスの『百科全書』派】 啓蒙思想の精神をもっとも広く普及させた書物は、ドゥニ・ディドロ( 1713~1784 年)
とダランベール(1717~1783 年)の共同監修による『百科全書』であった。1751 年に第 1
巻が出てから完成までに 20 余年の長い年月を要し,項目の執筆者として、2 人の監修者自
身をはじめフィロゾーフ、学者、芸術家、行政官、技師など 150 人以上の人々が協力して
いる。さらに投下資本の額、職人の動員数を思いあわせれば,世紀最大の刊行事業であっ
たと言っても過言ではない。 ダランベール(1717~83 年)は、フランスの数学者・物理学者・哲学者で、1743 年に『動
力学論』を刊行し、その知名度が高かった。そのダランベールが執筆した『百科全書』の
『序論』によれば、これは、「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、
そして、ただ自分自身のためにのみ自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために
働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つような」事典をめざしているという。 企画の狙い通り、当時の技術的・科学的な知識の最先端を集めたこの書物は、古い世界
観をうち破り、合理的で自由な考え方を人々にもたらすのに大きく貢献した。しかし、1752
年の第 2 巻の刊行以後、カトリック教会と高等法院が不敬神の書として激しく糾弾し、1759
年には『百科全書』の出版許可そのものが取り消され、ディドロは非合法的に編集作業を
続けた。 事業は再三危機を迎えたが、読者の期待がディドロを絶えず勇気づけ、彼はついに本文
17 巻、図版 11 巻を完成させたのである。このように、『百科全書』は、そこに記された思
想によって意味をもつだけでなく、その刊行自体が、一つの政治的な意味をもっており、
18 世紀のフランス啓蒙思想が成し遂げた成果といえる。 『百科全書』の執筆に参加した人々は通常「百科全書派」と呼ばれており、そのなかに
はヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどの有名人も含まれていたが、むしろ必ずし
1513
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) も有名ではない知識人がその大半を占めた。
『百科全書』の意義は、そうした大規模な知識
人の結集・共同作業を実現した点にもある。 『百科全書』刊行の意図は、記憶、理性、想像力・・・という人間能力に基づいて分類
された同時代の知識の総決算書を作成することであったが、その出来栄えは、分野によっ
て項目の質の高さにムラがあることは否めない。また、教会や高等法院の弾圧をかわすた
めに版元のル・ブルトンが印刷直前に自己検閲を加え、表現を訂正したため、フィロゾー
フの間から不満の声があがったこともあった。 にもかかわらず、『百科全書』は、キリスト教と教会を婉曲にではあれ批判し、寛容を唱
え、フランス産業振興のために経済活動の自由化を訴えるなど、啓蒙思想の主な主張を集
約している。オリジナル版と外国製の小型版をあわせて 2 万 4000 部ほど刷られ、そのうち
約 1 万 1500 部がフランス国内に流布した。当時としては大成功であり、フランス国内でも
好評であった。中心となった予約購買者は新興のブルジョワ階級で、これはフランス革命
の推進派とも一致していた。 【⑦カントの思想】 ドイツは啓蒙思想の発展が遅れたこともあって、国際的に評価される人物をあまり生み
出さなかった(言語的な理由もあった)。そのなかで特筆すべき人物が、偉大な哲学者イ
マヌエル・カント(1724~1804 年)だった。カント自身は啓蒙思想の枠組みを超えた人物だ
ったが、その初期の道徳的な提言のなかには啓蒙思想の影響が数多く現れている。 カントは東プロシアの政治・経済の中心地の港町ケーニヒスベルク(現在はロシア領でカ
リーニングラードという)に貧しい馬具職人の子として生まれた。1740 年にはケーニヒスベ
ルク大学に入学し、当初、神学をこころざしたが、ニュートンの活躍などで発展を遂げつ
つあった自然学に関心が向かい、ライプニッツやニュートンの自然学を研究した。31 歳の
時(1755 年)、母校ケーニヒスベルク大学に職を得て,哲学および自然科学の研究者として
出発した。 カントは初期には自然科学系の研究発表をしていた。カントは太陽系は星雲から生成さ
れたと論証し星雲説による太陽系の形成過程を論じ、神の力をかりないで、物質のもつ諸
力によって宇宙の秩序を説明した。カントの星雲説はのちにラプラスによって基礎づけら
れ、カント・ラプラス説として有名である。 大学教授としてのカントは、哲学のみならず、地理学、自然学、人間学などさまざまな
講義を担当した。彼は非常に規則正しく,質素で,靜かな学究生活を送った。それは彼の
道徳思想を地でゆく厳粛なものであった。カントが大学で講義するさい、学生たちにもっ
1514
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) とも強調したことは、「わたくしのところで哲学ではなくて哲学することを学ぶこと、単に
暗記するための思想ではなくて思考することを学ぶこと」であった。 ○カントの批判哲学-認識の成立 話題は多様であっても、穏やかなカントの学者生活の日々は 1781 年(56 歳)『純粋理性
批判』の出版で劇的に変化した。これに続く『実践理性批判』
(1788 年)、
『判断力批判』
(1790
年)は 3 批判書といわれ、これらによって批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆ
る「コペルニクス的転回」をもたらし、ドイツ観念論哲学の祖といわれるようになった。 批判哲学の「批判」とは、あるものの正しさや根拠を原理にさかのぼって吟味すること
をいう。カントは理性の正しさの根拠や理性の能力の及ぶ範囲・限界を批判的に検討した。
カントの批判の対象は理性であった。したがって、理性のよる理性自身の批判であった。 デカルトにはじまる合理論は理性による推論で展開されるが、経験に基づかない独断論
におちいることがある。一方、経験論は経験を重視するが、ヒュームが出て、一般的な法
則の確かさに疑問を呈し、懐疑論におちいることがある。この 2 つの立場を総合したのが
カントの哲学であった。 カントの思想は,それ以前のあらゆる思想(経験論・合理論・啓蒙主義)の要素が批判
され(考え直され)統合されたものであるといえる。ニュートンから法則性を学び、ヒュ
ームによって「独断のまどろみ(経験の結びつきは習慣に基づく期待にすぎない)」をさま
され、ルソーによって人間性への尊敬を教えられた(『エミール』を読んで感動し散歩も忘
れたといわれている)。 カントは哲学を自然哲学と道徳哲学に分ける。自然哲学は出来事を原因と結果の必然関
係として捉え、そこに法則を見いだすものである。一方、道徳哲学は人間の行為に関わる
もの、また自由の法則について研究するものである。自然哲学は自然(事物)がどのよう
にあるか(sein 、ザイン、存在のこと)を研究し、道徳哲学は人間がどのようにあるべ
きか(sollen,ゾレン、「~すべき」を意味する語)を研究するともいわれる。 カントはまず『純粋理性批判』で人間の知識はどのようにして成立するのかということ
を説明した。 カントによれば、自然(事物)がどのようにあるかを認識するためには感性と悟性が必
要である。認識に至るには、まず感性が対象を受容する。次に、感性が受容した対象を概
念によって構成する(思考して組み立てる)。つまり外から与えられる印象が自我の普遍的
な考える力(純粋理性)によってまとめられ、枠づけられ、秩序づけられるところに、自
然や経験的世界の正しい知識が成り立つのである。 ものごとの認識能力としての理性である理論理性(科学的認識)が対象とできるものは、
感性によって対象として与えられたもの、すなわち経験できるものだけである。神や自由、
1515
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 霊魂といった経験を超えたものについては、理論理性は扱うことはできず、これらは実践
理性(道徳)の扱う問題である。 認識は通常、我々の外にある対象(自然や事物)をそのまま受け取ると考えられていた。
これに対して、カントは「人間が自然の立法者であり、認識が対象に従うのではなく、対
象が認識に従う」のだと主張し、従来の考えを逆転させた。カントのこの転回はコペルニ
クスの地動説への転回になぞらえてコペルニクス的転回とよばれた。つまり、経験的素材
を人間の純粋理性が能動的に整理・構成することにより知識が成立するとするカントの考
えは、従来のただ受動的にのみ知識が成立すると考えた立場を逆転させた革命的なもので
あった。 このようにカントは,認識がすべて経験から発現するわけではないとし、認識の構成要
素であるのに経験より前のものか、心の中に生まれつきあるものを「ア・プリオリ(先天的)」
とよび、経験によって得られる認識を「ア・ポステリオリ(後天的)」であると呼んだ。こ
こまでが純粋理性批判、つまり、純粋理性の見直し(吟味)であった。 ○カントの批判哲学―人格主義 カントの当初の構想では、『純粋理性批判』は単独でその批判(見直し)の全貌を示す
ものになるはずであった。しかし、構想の大きさと時間の制約により理論哲学の部分のみ
を最初に出版した。残る実践哲学および「美と趣味の批判」は後に『実践理性批判』およ
び『判断力批判』として出版された。 ところで、カントによれば、人格とか自由とか神とかは、科学(いいかえれば、純粋理
性)によってはとらえることができない、科学をこえた領域であるとして、これを『実践
理性批判』の中で探求したのである(つまり、実践理性を見直した)。 自然や事物の認識に関わる理論理性に対して、人間の行為や道徳に関わる(道徳的判断
を行なう)のが実践理性である。我々が行為の際に従わなければならない法則を道徳法則
という。カントは、道徳法則は絶対的必然性、あるいは普遍妥当的なものでなければなら
ないと考えた。つまり、必ずそのようにしなければならないとか、いついかなる時にも、
誰にでも当てはまるものでなければならないとした。カントは「普遍妥当的」を道徳原理
の条件としてかかげている。 行為をなすときには動機が必要である。行為の善悪を決定する基準を行為の動機に置く
考え方を動機説というのに対し、その基準を行為の結果に置く考え方を結果説という。カ
ントは、行為が善いものであるためには動機が善いものでなければならないとして行為の
結果よりも動機を重んじ、動機は結果(目的)を達成するためになされてはならないと説
いた。なぜなら、結果をめざした行為は自己愛(自分のためをはかること)を原理として
1516
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) おり、常に正しい行為とはいえないからである。結果に左右されるから普遍妥当性に欠け
るのだとカントは指摘した。 行為は道徳法則に従うものでなければならないが、その行為によって何らかの目的を達
成しようとするものであってはならない。この場合、「もし~ならば、~せよ」という条
件付きの理性の命令となるが、これは言い換えれば「~したくなかったら、~しなくても
よい」という命令となり、普遍妥当な法則とはいえなくなる。たとえば「幸福になりたいな
ら、いまのうちに一生懸命努力せよ」というような、条件つきの命令(仮言命令)、すなわ
ち目的のための手段という形をとるようなものは道徳律にいれない。 道徳法則は無条件に「~せよ」と命じるものでなければならない。この無条件に命じる
法則を定言命法よいう。たとえ富や名声や権力などの世間的幸福を失うことがあっても、
「人間としてなすべき義務であるがゆえになせ」という無条件の絶対的命令の形をとって
我々にせまってくるものがカントのいう道徳的義務の声=(実践)理性の命令である。 道徳法則は自分の目的を達成するためになされるのではなく、「なすべき」であるから
なされるのである。カントは道徳法則のこうした絶対的・無条件的命令を「なんじの意志の
格律が、つねに同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ」(あなたの
やることが、いつでも同時に、だれにでもあてはまるように、またそのような基準に従っ
て行為せよ)と表現した。このような道徳法則の意識を当為(とうい)という。 カントは人間が動物と違うところは、自己の欲求や意志の対象や行為の目的とはかかわ
りをもたない普遍的な道徳法則を、理性の声として自ら立て、それに従うところにあると
考えた。つまり、理性的・感性的人間が理性を感性に優越させるところにこそ人間の尊厳
がある。そこに自然的・感性的なものに屈しないで、それを克服しようとする人間の「自由」
がある。このような自由をもつ人間は,理性の声に従って道徳法則を自己立法し、それに
従うことのできる「自律」的人間である。こうした自由で自律的な人間をカントは「人格」と
呼び,単なる物とは区別する。 だから人格として尊敬されるべき人間は,「自分を、また他人を単に道具としてのみ扱っ
てはならず、相互依存のなかでいつも他人の人格を尊敬し、人間らしく接しあわなければ
ならない」。それ自身において価値あるもの、尊厳を有するもの、それ自身目的であり、け
っして手段として扱ってはならないもの、それがカントのいう人格であり、カントの人格
主義の道徳思想の核心をなすものである。 このようにカントの偉大さは、人格尊重の精神である。彼は人間の尊重の根拠を、普遍
的な道徳法則をみずから立法する自律的・理性的人格にみる。人間はあらゆる欲望や誘惑
にもかかわらず、自己の内面から呼びかける良心の声、すなわち「そうしてはならゆ。人
間は断固こうすべし」という絶対的な道徳の声のためには命をなげうつこともできる。こ
1517
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) うした道徳的義務の命令を発することのできる人間だからこそ、物とは違って、尊厳を有
し、「人格」として尊ばれるのである。このカントの道徳思想=人格主義が,カントの名を
不朽のものにしている核心の一つである。 ○カントの永遠(恒久)平和論 カントの『永遠平和のために』(1795 年)は、のちの国際連盟、国際連合にも関連する
のでそれについて、述べる。 カントにとっては、人間が追求しなければならない最高の目的は、道徳的・理性的な人格
であった。けっして手段とはならず、つねに目的として扱わなければならない人格どうし
の理想的社会を、カントは「目的の王国」と呼んだ。すべての人格が、たがいに尊敬しあっ
て交渉するような道徳的社会、徳と幸福とが結合して最高善が実現する理想社会、これが
カントのいう目的の王国である。 カントはこの目的の王国の理想を国際社会に適用し、すべての国家がたがいに目的とし
て尊敬され、手段として利用されることのない平和で理想的国際社会を構想した。彼は著
作『永遠平和のために』
(1795 年)のなかで、国家間の紛争を武力によってではなく、国家
間の協力と協定によって解決してゆくことを強調している。永遠平和という理想を目標に、
最終的には万民国家が、現実的には民主的な国家間の協定による紛争解決のための国際機
関がつくられなければならないとした。 しかし,カントはこの『永遠平和のために』を現実には、フランス革命戦争中の第 1 次
対仏大同盟でフランスとプロイセンがバーゼルの和約を締結した 1795 年にケーニヒスベル
クで出版しており、理想論の哲学だけを述べていたわけではない。バーゼルの和約は戦争
の戦果を調整する一時的な講和条約に過ぎず、このような条約では平和の樹立には不完全
であると考え(10 年ほど後に再び戦火を交えることになる)、カントは永遠平和の実現可能
性を示す具体的な計画を示そうとした。この著は当時のカントが現実的な戦争をどう考え
ていたかがわかり興味深い。 カントがこのように考えたとき、その念頭には,18 世紀初頭に永遠平和の実現のために
ヨーロッパ諸国連合を提唱したサン・ピエールの平和構想があって、彼を「理想の空想家」
と呼びながらも、彼の構想を評価していたのである。 《サン・ピエールの「ヨーロッパ永久平和論」》 18世紀のフランス人のアベ・ド・サン=ピエールは「ヨーロッパ永久平和論」において,
国家間の秩序が勢力均衡によって保たれる状態は戦争を生じさせ,平和を実現することは
できないとして,戦争状態を永久の平和に変えるために,ヨーロッパ諸国の同盟による国
際組織の創設を説いた。 この同盟は永久に続くものであり,一度締結すると取り消しはできない。加盟国は全権
1518
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 委任の代表を集めた定期的あるいは常設の会議を開催し,加盟国当事者の紛争はそこで調
停され解決される。それぞれの加盟国は,その会議において決定される分担金を出資し,
この諸国家連合による国際組織はこの分担金により運営される。 この会議において,構成各国に利益をもたらすための諸規定が作成され,多数決によっ
て可決される。諸国家連合は構成国の所有権と統治権を保障し,構成国家同士が武力によ
って相手国との問題を解決することを決して許さない。同盟の条約に違反する構成国は,
ヨーロッパ社会において関係を築くことができず,公共の敵とみなされる。 もしもある構成国家が戦争の準備をし,他の構成国家に武力を行使した場合は,全構成
国家が協力して,その武力行使をおこなった国家に対して攻撃的行動をとる。この点から,
従来の正戦論を放棄し,武力の行使は戦争廃止のための「国際的法組織」による制裁戦争
のみ認められるとした,集団安全保障の理論を展開させていることがうかがえる。これら
は諸国家連合の基本条項であり,全構成国家の合意がなければ変更は不可能であると説か
れている。 この国家連合による国際組織は加盟国の主権を否定するものではなく,加盟国を内外の
侵略から守るものであると考えられた。軍隊は国家連合への割り当て分のみ必要であり,
そのため軍事費は大幅に削減できる。従って,統治者は軍事以外の面での政策に力を入れ
ることができ,国内の人民の納税負担を軽減できる。また,統治者たちは,自らの国内に
対しては絶対的な権力を持ち続ける。 国家間は対等であり,紛争が生じた場合は連合議会が裁定する。この連合議会の議長は,
加盟国の輪番制とする。それ故,一部の支配者がいるわけではない。加盟国の自由は連合
諸国によって確立されるのである。これらは,ウェストファリア条約後の国家の勢力均衡
によるウェストファリア体制と,その結果もたらされる不断の戦争を批判し,「国際的法
組織」構想をその解決方法として提示したものであった。 《カントの永遠平和論》 カントの『永遠平和のために』は、永遠平和実現のための具体的プランだけでなく、そ
れが実現可能であると考える論拠を示し、そこからさらに政治と道徳の関係を扱っている。 本書の内容は永遠平和を確立するための予備条項と確定条項から構成されている。 第 1 章の予備条項では、人類が殲滅戦に突入するのを防止するための諸条項が掲げられ
ている。 ◇第 1 条項―将来の戦争の種をひそかに留保して締結された平和条約は、決して平和条約
とみなされてはならない。 1519
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ◇第 2 条項―独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問
題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得でき
るということがあってはならない。 ◇第 3 条項―常備軍は、時とともに全廃されなければならない。 ◇第 4 条項―国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない。 ◇第 5 条項―いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはなら
ない。 ◇第 6 条項―いかなる国家も,他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信
頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。 以上を禁止するための条項が列挙されている。 これら予備条項は平和をもたらすための準備的な段階であり、確定条項では具体的な平
和の条件が示されている。 ◇第 1 確定条項―各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。 ◇第 2 確定条項―国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。 ◇第 3 確定条項―世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければなら
ない。 予備条項の中でも常備軍の全廃を示した第 3 条項は、常備軍の存在そのものが諸外国に
対して戦争の恐怖を与え、したがって無制限な軍備拡張競争が発生する。そしてその軍拡
によって国内経済は圧迫されるとその状態自体が攻撃の動機となる。つまり常備軍は時期
とともに全廃されなければならないとカントは考えている。 また国家が人を殺したり人に殺されたりするために人間を雇うことは、人間性の権利に
反するといっている。カントが倫理学の原理とした定言命法によると、人間は自他の人格
をつねに目的それ自体として扱うべきであって、たんなる手段としてのみ扱ってはならな
いとしている。これは国家についても言えることで、国家は国民といえども戦争のための
たんなる道具として手段的に扱ってはならないのである。常備軍の廃止は、カントの倫理
学からも帰結する条項である。 ただし、
「だが国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外か
らの攻撃に対して防衛することは、これとはまったく別の事柄である」と、今日のスイス
に見られるような国民が自発的に軍事的な教育訓練を実践して外敵に対する自衛手段を確
保することについてはカントは認めている。 予備条項は、殲滅戦を防ぎ、永遠平和への展望を開くための諸条件であったのに対して、
確定条項では、永遠平和が実現するための具体的な諸条件が提出された。つまり永遠平和
を実現するには、国内体制に関しては共和制の確立が(第 1 確定条項)、国際体制に関して
1520
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) は自由な諸国家の連合制度の確立が(第 2 確定条項)、世界市民法に関しては普遍的な友好
権の確立が(第 3 確定条項)、それぞれ必要とされるのである。 カントのいう共和制とは、自由と平等の権利が確保された国民が、共同の立法にしたが
っている国家体制で、しかも代表制を採用し、国家の立法権と執行権とが分離している国
家体制である。カントによると共和制は人間の法にもっともよく適合した国家体制である
が、カントのこうした考えの背後には、前述したロックに代表される啓蒙主義的な国家観
ある。 ところでカントは共和制が永遠平和のためになぜ望ましいと考えているかというと、こ
の体制の下では、戦争をすべきかどうかを決定するには国民の賛同が必要であるが、国民
は戦争のあらゆる苦難を引き受けなければならないから、戦争という「割りに合わない賭
け事」を自分からすすんでは求めはしないであろう、というのがその理由である。 当時のヨーロッパは(世界はもちろん)、図 13-10 のように(アメリカだけが民主国、
イギリスは立憲君主国、フランスは革命中)、すべて専制君主国であった。国家の所有者で
ある専制君主にとっては、戦争はありふれた世間事であって、自分は労することなく、臣
民を戦争の道具として使役できたのである。このような専制君主国が戦争を放棄するとは
考えられないことであろう。 第 2 確定条項では、国家間の永遠平和を保証するものとして、自由な諸国家の連合が提
唱されている。カントは、かつてのローマ帝国のような、諸国家を征服した一世界王国(世
界帝国)の出現による世界平和の維持を望まないのはなぜか。彼によると,法は統治範囲
が広がるとともに重みを失い、「魂のない専制国家」が支配し(ローマ帝国や中国、イスラ
ム、モンゴル、ロシアなどの世界帝国の後半をみよ)、世界王国(世界帝国)は最後には無
政府状態に陥るからである。 これに対して、理性の立場からすれば、諸国家がそれぞれ独立した単位として、1 国内の
共和的体制に似た世界共和国を形成することができれば、それが永遠平和の維持にとって
もっとも望ましいことである。しかし、それぞれが国家権力をもつ諸国は、理性が正しい
と認めることでも、具体論としては斥(しりぞ)けるから、そこで世界共和国という積極
的理念の代わりに、独立した諸国家の国際連合という「消極的な代替物」が、実現可能な
世界平和維持の手段とされたのである。国際法も、平和連合とも言えるこの国際連合を土
台とする法でなければならない。したがって、それはどのような形であれ、戦争を正当化
するような法を含んではならない。グロティウスは『戦争と平和の法』を書いたが(戦争
と平和に関するルールを決めただけ)、国際法は「平和の法」に徹すべきとしている。 第 3 確定条項は,人間は世界市民として、どの外国でも訪問することができ、その地に
住む住民と交際を試みることが出来る権利、すなわち訪問権をもつことが示される。現在
1521
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) では当たり前のようなことをなぜ、カントがいうのか。また、カントによると、人間は訪
問権をもつが,世界市民法は、この権利を保障する範囲に限定されなければならないとし
ている。当時は、訪問することは征服することだぐらいに考えているヨーロッパ列強諸国
による植民地獲得は、原住民を無に等しいものと扱う点で、世界市民法に対する明白な違
反である。カントは当時、中国や日本が鎖国政策をとったのは賢明な措置であったと語っ
ている。 カントは永遠平和がたんなる空想ではなく、それが実現可能であると論証しているが、
その部分が予備条項や確定条項に続く第 1 補説である。 カントのこの理念は、のちに国際連盟や国際連合として一部具体化された。彼はこの構
想を 150 年以上も前に提唱していたのである。 カントはケーニヒスベルク大学総長にもなったが、生涯、生まれた町ですごした。その
臨終(80 歳)の言葉は「これでよい」であった(1804 年)。市の墓地の墓碑銘には「我が上
なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」と刻まれ
ている。 【⑧経済に関する啓蒙思想】 ○最初の経済学・ケネーの『経済表』 フランソワ・ケネー(1694~1774 年)は、24 歳でパリ大学医学部を出て、外科医を開業
した。外科医としてのケネーの名声は高まり、1749 年にルイ 15 世の愛人ポンパドウール侯
爵夫人の主治医となってヴェルサイユ宮殿で生活するようになり、1752 年には国王の顧問
医をかね、王太子の天然痘を治療した。そして同年、医学上の業績と国王ならびに王太子
への医学上の奉仕のゆえに貴族に列せられた。 ヴェルサイユ宮殿におけるケネーは一群の哲学者たちを招いて自由な談話を楽しんだ。
ディドロ、ダランベール、ビュッフォン、ミラボー、デュポンらがヴェルサイユ宮殿のい
わゆる「中 2 階」のケネーのサロンで自由大胆に所説を吐露した。大陸旅行中のイギリスの
アダム・スミスもこのサロンに立ち寄ったことがある。こういう談話のなかでケネーは社会
哲学、とくに経済問題に関心を寄せていった。 ケネーは 1756 年に前述の『百科全書』に「借地農論」を書いたのが経済学者としての初登
場だったが、そのとき彼は実に 60 歳を越える晩年に入っていた。翌 57 年に『穀物論』、58
年に『経済表』をヴェルサイユ宮殿の印刷所で印刷して出版した。 この『経済表』でケネーは「主権者および国民は、土地こそ富の唯一の源泉であり、富を
増加させるのは農業であることを決して忘るべからざること、何となれば、富の増加は人
1522
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 口の増加を保証し、人間と富の増加は農業を栄えさせ、商業を拡大し,工業を活気づける。
この豊富なる源泉に国の行政のあらゆる部分の成功がかかっている」と記している。 ケネーは『経済表』でまさにその名の通り、図表を導入した。そこには生産階級、不生
産階級、地主階級から成り、各階級間における生産・交換・分配・消費が一国の経済循環を
規定していること、農業だけが純生産物を生産すること,地代や国家収入はこの純生産物
を超えてはならないこと、もしそのようなことが起これば経済は農業における前払いの侵
害によって縮小再生産に陥らざるをえないこと、したがって農業資本は国民経済の大切な
元本として確保さればならないこと、商工業階級の活動は地主や主権者の獲得した収入か
らの支出に依存していることなど、ケネー学説が簡潔に図示されている。 ケネーは『経済表』において、財貨の再生産過程を図式化し、富は商業によって得られ
るという伝統的な重商主義的立場を批判して、富は生産により本当の意味で増産されるこ
とを示した。 彼のいう生産は農業を念頭においており、その意味で重農主義と呼ばれる。重農主義と
いう名称自身はは彼の弟子のデュポンの著作『重農主義』に基づいているが、ケネーは重
農主義経済学の祖と仰がれるようになった。また、彼は経済学者第 1 号ともいえるし、重
農主義は、歴史上最初の経済学派の誕生でもあったといえる。 この『経済表』はまったくケネーの独創で、多くの後世の経済学者たちに大きな遺産と
なった。ミラボーは『経済表』は文字と貨幣の発明に並ぶ人類の大発明であり、「国家統治
の羅針盤」と賞賛したが、のちにマルクスも「最も天才的な着想」と呼び、レオンチェフは彼
がなした産業連関表において根本的示唆を受けたといっている。 彼の思想はテュルゴー、デュポンらに継承された。とくにケネーの直弟子であるテュル
ゴー(1727~1781 年)は実際にフランスの財務総監(在職:1774~1776 年)として重農主
義政策を推進してギルドの廃止や囲い込みの禁止、流通の自由化などをはかったが、穀物
取引の自由化や土地課税は王宮や地主階層の抵抗を受けて彼自身失脚してしまった。 重農主義派は当時の重商主義を批判し、レッセフェール(自由放任)を主張した。この
考え方はイギリスのアダム・スミスらの古典経済学派の思想に大きな影響を与えることに
なった。 ○アダム・スミスの『国富論』 アダム・スミス(1723 年~90 年)は、スコットランドの出身の経済学者・哲学者で主著
は『国富論』で、「経済学の父」と呼ばれている。 アダム・スミスは、わずか 14 歳でグラスゴー大学に入学し、その後、オックスフォード
大学に留学した。1750 年、グラスゴー大学教授に迎えられ、はじめ論理学を、次に道徳哲
1523
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 学を担当した。1759 年にはグラスゴー大学での講義録『道徳感情論』を発表し、名声を確
立した。 スミスが『道徳感情論』で明らかにしているように、経済活動の前に道徳があり、市場
メカニズムを信奉する前に市民が守るべき基本的倫理が存在しなければ、社会は長期的に
は機能せず、「不正義の横行は社会を崩壊させる」と考えていた。 1764 年 41 歳の時、バックルー侯の子息の外国旅行付き添い教師として大陸旅行をして、
ケネー、チュルゴー、ダランベールをはじめとするフランス知識人と親交を結んだ。多く
の刺激と成果をもってスミスは 1766 年にスコットランドに戻り、『国富論』の執筆にとり
かかり、イギリスの産業革命がはじまったころの 1776 年に出版された。 《重商主義の国富=貴金属、外国貿易》 スミスに先行する時代、あるいはスミスの時代の支配的な経済思想や政策は重商主義で
あった。重商主義は富の本質を貴金属に求める傾向が強く、国内に金銀鉱山が存在しない
場合には、富を増加させる原因は外国貿易に求めるほかはなく、これが重商主義は経済的
余剰を流通過程に求めたといわれるゆえんであった。 《重農主義の国富=農業生産》 フランスで重商主義を批判した重農主義は富を生産必需品や便益品に求めたが、あらゆ
る必需品や便益品は究極的に農産物であるとして、農業労働による生産物のみを富の本質
とみなした。この重農主義によって富の原因は生産過程にまで広がったが、その生産過程
はまだ農業に限定されていた。 《『国富論』(『諸国民の富』)=富の本質は労働生産物一般》 これに対してスミスは、
『国富論』において、富の本質を労働一般がつくりだす生活必需
品や便益品に求めた。『国富論』(『諸国民の富』とも呼ばれている)の原題は『諸国民の富
の性質(nature=本質)および諸原因に関する一研究』であり、その書き出しで「あらゆ
る国民の年々の労働は、その国民が年々消費するいっさいの生活必需品および便益品を本
源的に供給するファンドであって、この必需品および便益品は常にその労働の直接の生産
物か、またはその生産で他の諸国民から購買されたものかのいずれかである。」とずばり、
結論を述べている。 労働を富の源泉としたスミスは、労働価値説の基礎を築いた理論家でもあった。生産物
の価値は希少性とそれに費やされた労働によるとし、労働価値を根拠づけた。労働投入量
が価格を左右するという考えはのちのリカードやカール・マルクスに支持された。またス
ミス以前の低賃金論に反対して、その成員の圧倒的多数が貧しい社会が隆盛で幸福であろ
うはずはないとして高賃金論を展開した。 1524
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 富の本質が労働生産物一般であるとすれば、富の増加の原因は、労働生産性の向上、つ
まり労働をする際の技巧、熟練、判断の向上に求められる。そしてこれらの向上は分業に
依存するから、富を増加させる第 1 の原因は分業であるということになる。分業の拡大・深
化は資本蓄積の大きさで規定されるから国富増大の第 2 原因は資本蓄積である。また資本
蓄積はその社会における総労働に占める生産的労働・不生産的労働の比率によってきまる
ので、国富増大の第 3 原因は生産的労働と不生産的労働の比率にあるともいえよう。 スミスはピン製造工場を実例として、分業は①職人の技巧の増進、②作業の連続性によ
る時間の節約、③労働の単純化にともなう機械の発明を促進して労働生産性を著しく向上
させることを説いた。これはいわば工場内の分業であるが、スミス体系のなかで一層重要
なのは社会的分業に関する記述である。たとえば、社会に肉屋や酒屋やパン屋が存在する
のは社会的分業の結果であるが、人々がこのようなある職業に分化する動機は自分自身の
利益に対する顧慮、すなわち利己心である。 自己にもっとも有利と思われる職業に人々が分業化していくと、自己の消費をこえる剰
余物が必ず生産される。自己の剰余生産物を他の分業者の剰余生産物と交換することにな
る。社会的分業が支配する社会では労働生産物の交換が必然化する。分業が社会全体を支配
するようになれば、労働生産物を交換するさいの交換比率が人々の関心の的となる。そこ
で交換価値の問題が登場する。このようにスミスは価値論、分配論、蓄積論を述べていく
がその詳細は省略する。 《投資の自然的順序論》 さらにスミスは投資の自然的順序論を述べている。蓄積された資本は、農業、製造業、
商業に投資される。自由競争のもとでは各産業部門の利潤率は均等化する。しかしリスクや
確実性などの点からスミスは各人が自己の労働や資本を利己のおもむくままに自由に使用
する「自然的自由の体系」のもとでは、投資に農業→製造業→商業の順序が自然と生まれ
るという。商業部門の内部にも投資順序があり、国内商業→外国貿易(外国との消費物の
直接取引)→迂回貿易→中継貿易の順序であるとしている。 彼は個人が安全性と確実性から自分の資本をまず国内産業の維持に使用していくと、そ
のことが結果的にはその社会の年々の生産物価値(価値は生産的労働によってつくられる)
を増大させることがわかる。彼は「外国産業の維持よりも国内産業のそれを選好すること
によって、あらゆる個人は自分自身の安全だけを意図し、またその生産物が最大の価値を
もちうるような仕方でこの産業を方向づけることによって、彼は自分自身の利得だけを意
図しているのだが、しかも彼はこの場合でもその他の多くの場合と同じように、見えざる
手に導かれて自分が全然意図してもみなかった目的を促進するようになるのである。」この
1525
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スミスの「(神の)見えざる手」(invisible hand)」の話は有名であるが、実はこの投資の
自然的順序論に関連して一度登場してくるだけである。 したがって、スミスの「富裕の自然的コース」は、まず農業への投資で農業剰余が生ま
れ、それを素材的市場的基礎とする製造業が形成され、農業と製造業の取引を媒介する国
内商業が発展するという経路を意味している。そしてこのような国内市場の形成と発展を
土台に外国との取引へと展開していくことが、もっとも自然にかつ急速に国富を増進する
方法だとスミスは主張したのである。 《重商主義政策を批判》 ところがスミスのみるところでは、現実のヨーロッパの歴史ではこの自然のコースが誤
った人為的政策によって転倒されてきた。一つは農業への投資を阻害する要因が存在して
いたためであり、もう一つは国家の保護と統制政策によってある特定部門における投資が
促進されたためである。前者が中世封建制に、後者が重商主義に関連するが、両者は密接
に結びついている。 こうしてスミスは重商主義政策を徹底的に批判した。重商主義は、絶対王政のもと、貿
易によって財貨を得ることで一国の富を増大させようとしたが、その政策の結果として、
逆に金貨幣が大量に国外に流出し、軍事支出の増大とともにイギリス経済を疲弊させる原
因となっていた。スミスの批判は、貨幣の改鋳であり、自由主義の立場からの関税の撤廃、
そして、租税改革と戦費の調達のための国債の発行の停止であった。 スミスの経済学はレッセフェール(自由放任主義)の経済学であると誤解されることが
あるが、スミスは『国富論』の中で「自由放任主義」という言葉は一度も使っていない。
レッセフェールの語を最初に用いたのはフランスの重農主義者であり、この用語は重商主
義に反対する立場からの「スローガン」(標語)として用いられた。レッセフェールとは、
フランス語で「なすに任せよ」の意味で、経済学で頻繁に用いられており、その場合は特
に「政府が企業や個人の経済活動に干渉せず市場のはたらきに任せること」を指している。 スミスの真意は「なすに任せよ」ではなかった。当時の貧者は国民を構成する多数者で
あるから、彼らの利益のために営まれる産業は広範な国内市場を確保することとなるはず
であり、スミスはそういう国民経済のあり方を農業を基礎とする製造業の発展という順序
で描いたのである。ところが重商主義は広範な国内市場の発展を促すような部門にではな
く、反対に国内市場の犠牲において(または国内市場が狭小であるがゆえに)外国市場向
けの部門に資本を集中させた。 また、スミスは、重商主義は、ある国の貿易差額の黒字は貿易相手国の赤字を意味する
ため、
「個人の間と同じように諸国民の間でも当然、和合と親善の紐帯であるべきはずの商
業」を不和と敵意の源にしてしまったと考えた。貿易差額主義の総括的表現は植民地とい
1526
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) う独占市場の獲得競争であった。重商主義時代がたえまない植民地争奪戦争を特徴とした
のはこのためであった。しかし、植民地建設は不生産労働者である軍人と行政官を大量に
必要とするため、そうでなければ資本として利用されただろう資源を浪費し資本蓄積を阻
害した。従来ヨーロッパ大陸や地中海沿岸諸国との貿易に使用されていた資本を回収速度
の遅い遠隔地貿易に転用し、さらに資本を植民地物産の迂回貿易や中継貿易へと向かわせ
てしまった。 《そこで、まず国内産業に投資する》 そこでスミスは重商主義政策の廃棄と投資の自然的順序が実現するような経済制度を主
張した。それは保護奨励の体制ではなく自由競争を原理とする社会である。自由競争のも
とでは各人の利己心から資本はまず国内産業の維持に投下されるが、このことが生産物価
値の増大や資本蓄積を最大に促進し、国民経済を富裕の自然的コースに導くことになる。 しかもこのコースで国民経済が発展するかぎり、外国市場をめぐって諸国民が抗争する
必然性はなくなるから、商業は諸国民の「和合と親善の紐帯」となるはずである。こうし
てスミスは各国が自然的順序にしたがって国内産業の維持というナショナリズムを堅持す
ることが平和的国際秩序を実現させると考えたのである。この内需拡大論は現代にも通ず
るところがある。 《市場法則=需要と供給のバランスは自然に調節される》 スミスは、個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさない
ように見えるが、社会における個人全体が利益を追求することによって、社会の利益が神
の「見えざる手」によって達成されると考えた。スミスは、価格メカニズムの働き、最適
な資源配分をもたらすもの、つまり需要と供給のバランスは自然に調節されると考えた。 スミスはそのために、国家は国防・警察・教育等の必要最小限以外の経済活動への参入
を否定し、あとは市場機構による経済の発展を重視すべしとの立場をとり、国家の経済へ
の介入を批判した。スミスの国家観は「夜警国家」
(国家の機能を安全保障や治安維持など
最小限にとどめた自由主義国家を目指すべきとする考え方)のそれであったということが
できる。その後、1870 年代にマーシャルによって体系化された新古典派経済学にもこの考
え方は引き継がれていった。 その後、急速に進展した産業革命によって、できてきた自由競争社会の中でスミスは「自
由放任主義」経済学の父のように見られるようになったが、彼の真意は決して「自由放任
主義」ではなく、その前提としては『道徳感情論』でいう道徳をもった市民であった。 事実、産業革命で急展開する経済社会を見て、その先行きを懸念したスミスは『道徳感
情論』第 6 版で急遽、新第六部を追加し、初版から約 30 年後の経済発展の目覚しいスコッ
トランド社会のため、「富と徳」問題で慎慮、慈恵、自己規制の 3 つを考察の中心として
1527
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) いる。しかし、もはや経済は道徳(慎慮、慈恵、自己規制)で律される社会ではなくなっ
ていたかもしれない。 このまさに外部環境の変化によって、まさに、その後の経済学は発展していくことにな
った(環境の変化に応じて適応するのが人類であり、それを経済学でなしたのがケインズや
その他の経済学者たちであり、市場の失敗、外部不経済等々の問題を克服していくことに
なる) 。 『国富論』は啓蒙思想の時代に出版され、経済学者のみならず政府および各種団体に影
響を与えた。本書は経済学における画期的な書物であり、後世、多くの経済学者が国富論
に影響され、自らの著作の出発点としてこれを用いた。セイ、リカード、マルクスも国富
論を出発点として彼らの経済学を発展させた。 ○ベンサムの功利主義 イギリスの産業革命期には、アダム・スミスの経済学とともに、産業革命の経済的・社会
的大変動を背景としてベンサムの功利主義が生まれ、産業資本家たちの立場を代弁する現
実的な思想となった。それは、自分たちの利己的な快楽追求がどうしたら他人のそれと調
和するかを探求し、個人の幸福を社会全体の立場から考察したものである。 ベンサムは 1789 年主著『道徳および立法の諸原理序説』を著わし、功利主義の原理を明
らかにした。功利(utility)とは役立つこと(有用性)を意味し、功利主義は行為の正し
さや道徳性を、その行為が幸福をもたらすのに役立つかどうかによって判断しようとする
ものである。 ところが、日本語で「功利」という言葉は一般的には「功名」と「利得」を意味している。
そこで「功名的」とは行為が自分の利益になるかどうかを第一に考える態度を意味し、
「打
算的」という言葉と同じ意味に用いられている。したがって、「功利的」という言葉は、日
常生活においてはしばしば低級な人間の欲求と活動のいやらしさを連想させるかたちで用
いられる。 《「最大多数の最大幸福」=社会全体の幸福を最大化する》 ところが、ベンサムがいった本来の功利主義はけっして自分だけの幸福や世俗的繁栄を
求めるような思想を意味するのではない。 人間は快楽を求め、苦痛を避ける存在である。幸福とは快楽のことであり、不幸は苦痛
である。ベンサムが示した功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を
増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によってすべての
行為を是認し、または否認する原理のことである。ベンサムは幸福(快楽)を増大あるい
は不幸(苦痛)を減少させるものは善であり、幸福を減少あるいは不幸を増大させるもの
は悪とした。 1528
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) そして「最大多数の最大幸福」こそ人生の目的であると主張した。「最大多数の最大幸福」
とは、
「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」
という意味である。 さらにこのことは、個人的な行為だけでなく、政府のすべての政策にも適用される。ベン
サムは個々人の幸福だけでなく、社会全体の幸福ということをつねに念頭においていた。
社会は多くの個人によって構成されているから、社会全体の幸福を増大させるということ
は、個々人の幸福の総計を増大させることである。 功利主義でいう「功利」(utility)という言葉は、現在では「福祉」とか「福利」とい
う言葉でおきかえることが適当かもしれない。 《ベンサムの量的功利主義》 ベンサムによれば、快楽の増大と苦痛の回避ということが政治の目的である。そこで立
法者(為政者)は、快苦の価値を理解しなければならないが、快苦の価値の測定はどのよ
うにしてなされるのか。そこでベンサムは、幸福計算(快苦計算)と呼ばれる手続きを提
案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪
の程度を決定するものである。もちろん、ベンサムは厳密な快苦の計算が可能であると考
えたわけではないが、彼は政治学や倫理学が厳密な科学として樹立するには、快楽や苦痛
の質などを考えないで量に還元し、快苦の量の計算を基礎にする学問にしなければならな
いと考えた(量的功利主義)のである。 幸福を最大のものにするためには制裁(サンクション)が必要だとベンサムは指摘した。
制裁とは人々が「最大多数の最大幸福」に一致した行動をとるように外部から働きかける
力、すなわち人間の行為にはたらく強制力のことである。制裁は次にあげる 4 つからなる。 ① 物理(自然)的制裁……本人の不注意によって自然的かつ自発的に受ける災難のこと。
たとえば不注意から火事をおこし、身体に傷を受けたり財産を失うなどした場合。 ② 政治(法律)的制裁……政治権力から法律によって加えられる刑罰や賞賛のこと。 ③ 道徳(社会)的制裁……道徳的に好ましくないことしたために、人々から非難されたり、
援助を受けられないといった苦痛のこと。 ④ 宗教的制裁……神によって現世または来世において加えられる快楽または苦痛のこと。 《ミルの質的快楽主義》 しかしベンサムの理論には、公正さの原理が欠落している、としばしば言われる。この
功利主義への批判は、ベンサムの門弟であるジョン・ステュアート・ミルによって、19 世
紀の半ばに修正され拡張された。ベンサムは快楽・苦痛を量的に勘定できるものであると
する量的快楽主義を考えたが、ミルは快苦には単なる量には還元できない質的差異がある
1529
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) と主張し質的快楽主義を唱えた(ただし、快楽計算は放棄しなかった)。量的功利主義とは
異なり、質的快楽主義では快楽の種類による質的な区分を求める立場を取った。 ベンサムは 40 年近くウェストミンスターで静かに暮らし、80 歳になっても民主主義的諸
改革のため民間の学者として幅広く活躍していた。 救貧法の研究をはじめ、『ウェストミ
ンスター評論』の創刊に協力して啓蒙活動を展開し、世の中のために法や社会の改革につ
いて多くの提案をし、「哲学的急進派」の中心であった。 その思想はイギリスのみならず
各国に影響を与えた。 【13-3-2】イギリスの名誉革命 ○ウィリアム 3 世と名誉革命 イギリス国王のジェームズ 2 世は、1687 年 4 月、信仰自由宣言を出し、審査法の適用除
外を主張し、カトリック教徒を官職に登用する道を開いた。さらに国王は 7 月には異議を
申し立てる議会を解散に追い込んだ。ジェームズの背後には、1685 年にナントの勅令を廃
止してユグノーを追放したフランスのルイ 14 世がひかえていた。今やイギリス人は、カト
リック化と絶対王政への復帰という二つの危機に直面することになった。 1688 年 4 月、国王は二度目の信仰自由宣言を出し、これを国教会の説教壇から読み上げ
ることを聖職者に強要したが、カンタベリー大主教をはじめとする 7 人の主教は朗読を拒
否したため、投獄された。王権に対する無抵抗の原則を掲げるトーリ系の国教聖職者です
ら、国王からの離反を始めた。この離反を決定的にしたのは、同年 6 月の皇太子誕生であ
った。ジェームズの後継者誕生によってイギリス人は、半永久的にカトリックの国王をい
ただく可能性が生じたのである。 ここにいたって、ホイッグとトーリの指導者は提携し、両派の貴族ら 7 人が、オランダ
総督のオレンジ公ウィリアム(オラニエ公ウィレム)に向けてイングランドを武力によっ
て解放する招請状を送った。オレンジ公は、1677 年にジェームズ 2 世の長女メアリと結婚
していただけでなく、ルイ 14 世のフランスに対しても果敢に抵抗を試みており、プロテス
タント勢力の代表者としてふさわしい人物であった。 招請状を受けたウィリアムは、慎重に熟慮して、彼の遠征の目的を「プロテスタントの
宗教」擁護に限定し、「この王国の法と自由の維持」に関してはイギリス議会に委ねるこ
とを明言してから、旅立った。オランダ軍を率いた彼は、これによって「侵略者」という
非難をさけることができた。プロテスタントの擁護者として、1688 年 11 月、イギリス南西
部に上陸した。膨大なオランダ陸海軍を引き連れての渡英であった。ウィリアムは、圧倒
的な支持を集め、各地から貴族やジェントリが参集してきた。 1530
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 他方、ウィリアムを迎え討つはずのジェームズ 2 世は、軍隊のほとんどが戦う意志を持
たないことを知り、深く絶望し、同年 12 月にフランスへ亡命した。1688 年 12 月、ジェー
ムズと入れ替わりに、ウィリアムがロンドンに入り、議会の召集を約束した。こうして大
きな武力衝突もないままイギリス議会とプロテスタンティズムを護る「革命」が達成され
たので、この事件は「名誉革命」と呼ばれるようになったことはオランダの歴史で述べた。 ○権利章典 1689 年 1 月に開催された仮議会は、ジェームズ 2 世が国民との契約を破って国制を覆そ
うとし、国家の基本法を侵害し、しかも逃亡して統治権を放棄した、よって王位は空白に
なっていると宣言した。そして議会は、イギリスの法と自由の保全を明記した「権利宣言」
を作成した。1689 年 2 月、ウィリアムと妻メアリは、この「権利宣言」に署名し、ウィリ
アム 3 世(在位:1689~1702 年)とメアリ 2 世(在位:1689~94 年)として共同王位に就
いた。 同年 2 月、仮議会は正式の議会となり、1689 年中に名誉革命体制を規定する「権利章典」
(12 月)と「寛容法」(5 月)を成立させた。 まず「権利章典」は憲法に匹敵する重要な法律であり、「権利宣言」を基礎にして、正
式名称「臣民の権利及び自由を宣言し、王位継承を定める法律」として発布された。 そこでは、国王といえども否定できないイギリス国民が古来から相続してきた以下のよ
うな諸権利を確認するというものである。 ◇議会の同意を経ない法律の適用免除・執行停止の禁止。 ◇議会の同意なき課税、平時の常備軍の禁止。 ◇議会選挙の自由、議会内の発言の自由、国民の請願権の保障。 ◇議会を召集すること。 ◇国民の請願権、議会における議員の免責特権、人身の自由に関する諸規定。 ◇王位継承者からカトリック教徒を排除すること。 これにより国王の地位は「議会のなかの国王」という限定されたものとなり、立憲君主
制の原則が確立した。この原則は、常備軍や軍事予算を議会の統制下においた軍罰法(1689
年 5 月)や少なくとも 3 年に 1 回の選挙を定めた 3 年議会法(1694 年 12 月)などによって
補強されていった。 もう一つ重要な点は、王位継承におけるカトリック排除の原則である。そこでは、カト
リックの君主またはカトリックを配偶者とする者を王位継承者から排除するという明確な
方針が打ち出されている。この方針は 1701 年 6 月の王位継承法によって、さらに具体的に
明文化されていた。 1531
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) この法典は現在も有効であり、イギリスでは憲法同等の根本法となっている(それゆえ
イギリスには成文憲法はない)。これ以降、イギリス国王は「君臨すれども統治せず」の
原則に従う立憲君主であることが確定した。名誉革命は単なる政権交替にとどまらず、以
後の 100 年以上にわたって続く名誉革命体制の出発点となったのである。 つぎに「寛容法」は、国王に忠誠を誓えさえすれば、ピューリタン系の非国教徒は宗教
的罰則の適用から除外されるというものであった。ただし、すべての非国教徒が寛容の対
象となったのではなく、カトリック教徒と「無神論者」は例外であった。また、寛容の対
象となったピューリタンであっても、「自治体法」や「審査法」が存続していたので、公
職に就くことはできなかった。この寛容法は、ピューリタン系非国教徒にも信仰の自由を
認めようとするホイッグ系とあくまで国教会中心の体制を護ろうとするトーリ系の妥協の
産物であった。 イングランドの宗教をめぐる政治上の争いは、名誉革命、権利章典でやっと終止符が打
たれた。 権利章典はそれまでに獲得してきた市民的自由と議会主義とを再確認し、さらに徹底化
したものであり、マグナ・カルタや権利の請願とともに,イギリス憲政史上もっとも重要な
意義をもつ。こうしてイギリスでは、ヨーロッパ大陸では絶対王政が支配的であった 17 世
紀に、はやくも議会政治・立憲政治の基礎が確立した。ピューリタン革命と名誉革命によ
ってイギリスの絶対王政を打倒したので、あわせてイギリス革命とよばれる。 ○政党政治のはじまり 1688 年の名誉革命でイギリス王位についたウィリアム 3 世は、初めのうち、トーリ、ホ
イッグ両党から有力な政治家を選んで内閣を組織し、自ら閣議を主催した。しかし対仏戦
争が勃発し前王ジェームズ 2 世が復位を狙ってカトリックの地盤であるアイルランドに上
陸すると、1690 年、王は自ら現地に渡って戦闘を勝利に導くとともに、対仏戦争(ファル
ツ継承戦争および北米植民地でのウィリアム王戦争)の続行も決めたため、軍事費の膨張、
増税をきらうトーリ党と対立した。 ホイッグ党が有力な地主貴族を中心に対仏戦争を推進する国王ウィリアムの政策を支持
していたのに対して、トーリ党は、中小地主を中心に地方の勢力を代表する側面がみられ
た。こうして、1694 年には、ホイッグ党のみによる内閣が成立し、名誉革命体制の擁護を
掲げ、次に述べる「財政革命」を推し進め、対フランス戦争を積極的に推進した。 しかし、対仏戦争が 9 年間も終結せず、戦費確保のために地租負担が重くなったため、
厭戦気分が強まり、1698 年の選挙ではトーリが圧勝した。オランダ出身の国王がオランダ
の利害を引きずって、対フランス戦争に深入りすることへの、地方勢力の警戒感があらわ
れたものと考えられた。やむなく国王もトーリ党の内閣を構成した。こうして、ホイッグ
1532
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 党もトーリ党も、なお明確な綱領や党員名簿をもつ近代政党にはほど遠かったが、すでに
17 世紀末には、いちおう政党政治に近い形が成立していた。 ウィリアム 3 世は、1694 年 12 月に妻メアリを失うと単独で王位に就き、引き続き対フラ
ンス戦争を指導した。しかし、1702 年 3 月、ウィリアム 3 世は、落馬事故が原因で死去し
た。かわって即位したのは、メアリ 2 世の妹アン女王(在位:1702~14 年)であった。 ○スペイン継承戦争―第 1 次植民地帝国の形成 引き続き 1701 年からは、スペイン継承戦争が起こったが(フランスの歴史で述べた)、
イギリスはこれに勝利して、1713 年のユトレヒト条約では、ルイ 14 世の孫をスペイン国王
フェリペ 5 世として(将来、フェリペ 5 世はフランスの国王となることはないという約束
のもとに)承認したが、その代償として、イギリスは、北米大陸のニューファンドランド
やノヴァ・スコシア、ハドソン湾をフランスから獲得し(図 13-15 参照)、ジブラルタル
とミノルカ(バレアレス諸島北東部にある島)という地中海の 2 拠点をスペインから得る
ことができた。 さらにスペイン領アメリカ植民地への黒人奴隷供給権(アシエントという)もイギリス
のものとなり、アメリカを中心にした第 1 次植民地帝国が形成され、商業や貿易の拡大に
貢献することになった。この戦争を契機に、イギリスはヨーロッパでも屈指の強国となり、
国際政治の場でも発言力を増すことになった。 ○財政革命と財政・軍事国家イギリス このようにイギリスが膨大な戦費を確保して、名誉革命後の長い対仏戦争やスペイン継
承戦争を続けることができたのは、名誉革命後の議会制度と政党に裏打ちされた財政革命
があったからである。 今までにみてきたように、世界の大国になったスペインやフランスの絶対王政は、多く
の戦争をやりすぎ、膨大な戦費を結局、国家破産などで棒引きにしてしまい、国家的信用
を失い、資金の提供者がいなくなってしまったところに衰退の原因があった。 イギリスも好むも好まざるも多くの戦争に参入したことは同じであったが、いち早く市
民革命を成し遂げたイギリスは、資金を集める方法に知恵を出した、つまり、新しい財政
の仕組み、システムをつくったところが他の国とは違っていた。 すなわち、名誉革命の直後に起こった対仏戦争(ファルツ継承戦争)は、1697 年にライ
スワイク条約をもって終結し、1701 年に始まったスペイン継承戦争は、1713 年に終戦をむ
かえた。こうような戦争に要する膨大な費用を調達するために、1693 年に国債制度が導入
され、翌年 7 月には国債の引き受けを主な業務とするイングランド銀行が設立された。こ
れらの制度改革は、国家による長期の借入を可能とし、国家財政に安定した基盤を提供し
1533
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) たので、「財政革命」と呼ばれている。イギリスは、この「財政革命」の成功がその他の国
と異なっていた。 図 13-36 に 18 世紀の財政状況を戦時と平時に区分して表示した。歳出の山が三つあり、
A:スペイン継承戦争、B:オーストリア継承戦争、C:七年戦争に相当するが、国債の
発行によりこのような戦時の膨大な支出も可能となったことがわかる。公債費も以前の戦
争に際して発行した公債の元利の支払いにあてられたものだから、「過去の軍事費」という
ことができる。図 13-17 のフランスと比較すれば、その歳入の波が均一化していることが
わかる。 図 13-36 イギリスの公債累積 「財政革命」がイギリスのみ成功した理由は、フランスのような徴税請負人に頼らず、
きわめて効率のよい国家官僚による徴税がなされたうえに、納税者の階層の利害を反映し
えた議会による保障があったことが上げられている。議会による保障(ということは国民
による保障)は、この時代、なお世界金融の中心となっていたアムステルダムの資金がイ
1534
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ギリス国債に大量に流れ込むことをも可能にした。英仏戦争の帰趨を決めた一つの要因は、
オランダの資金がフランスにではなく、イギリスに流れたという事実にあった。こうした
国債の大量発行による対仏戦争の継続、植民地の拡大は、証券ジェントルマンを生み出す
一方、大地主と大商人にとっても有利な状況(安定した投資先)を生み出した。 《証券ジェントルマンとシティの誕生》 この一連の動きは、ロンドンのシティに、国債や抵当証書の本格的な取引市場を生み出
した。土地ではなく、金融・証券に基礎をおく「証券ジェントルマン」ともいうべき人々
を大量に生み出した。19 世紀には本来の地主以上に、支配者階級としてのジェントルマン
階級の中核をなすことになる人々である。地主ジェントルマンでも、中央にコネクション
をもち、資金的な余裕のある大地主は、国債を購入し、有利に利子を稼ぐことができた。 この国債は、世界の覇権をめぐるフランスとの断続的な戦争のための戦費調達を目的と
して発行されたものであった。18 世紀のイギリスでは「財政・軍事国家」といわれるほど、
重い租税を課しつつ、そのほとんどを対仏戦争に注ぎ込んでいた。戦争のために発行され
た国債の利子支払いと元金の償還のため、平時にも財政負担はきわめて重くなった。 こうして「財政革命」は、植民地拡大のための対仏戦争を背景としつつ、イギリス人を
二つのグループ、つまり戦争と植民地の拡大によって有利な商取引の機会を得たり、国債
を所有してその利子収入を享受した大地主や貿易商・金融関係者と、重税にあえぐことに
なった中小地主や製造業者のグループに分裂させていった。植民地の拡大はイギリス製品
の市場拡大の意味もあったから、製造業者の立場は微妙であったが、彼らとしても消費税
には全面的に反対した。 ○ハノーヴァ朝の成立 1714 年、アン女王が継嗣のないままに没すると、王位継承法に従ってハノーヴァ選帝侯
がジョージ 1 世として即位(在位:1714~27 年)、ハノーヴァ朝(のちにウィンザー朝と
改称して現在にいたる)が成立した。 ジョージ 1 世は、即位したときすでに 54 歳であったため、イギリスの政治事情にも不慣
れなうえ、英語も話せなかったためほとんど議会に出席しなかった。このため、国王はホ
イッグ党スタナップら有力閣僚に内閣をゆだね、内閣が国政を指導するようになった。閣
議を司会した大臣が首相的な立場に立ち、議会を通過した法案に国王は反対できないとい
う慣習が確立した。 ○南海泡沫(バブル)事件―公認会計士制度及び会計監査制度の誕生 1720 年 1 月、南海会社の株価は急成長をとげ、わずか数ヶ月の間に株価が 10 倍にも高騰
し、それにつられて空前絶後の投資ブームが起こり、イギリス史上最初のバブル事件「南
1535
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 海泡沫事件」が起こった(すでにオランダでチューリップ・バブル、フランスでミシシッ
ピ計画バブルが起きていた)。 これで重要なことは、いち早く原因が究明されて、二度とそのようなことが起きないよ
うな具体的な仕組みとして公認会計士制度及び会計監査制度が導入されたことである。こ
の「南海バブル」という危機によって問題が表面化し、一般大衆からの資金調達による事
業形態には公正な第三者による会計記録の評価が不可欠であることが指摘され、世界では
じめて公認会計士制度及び会計監査制度を誕生させることになった。その経緯は省略する
が、問題を先送りすることなく、そのような問題を二度と起こさせない具体的は社会シス
テムを導入することが肝要である。公認会計士制度及び会計監査制度は、創造と模倣・伝
播の原理で現在では世界中に伝播していることは勿論である。 ○ウォルポールと議会制民主主義政治の確立 このバブルの混乱の中、事態の収拾にあたったのが財政の専門家として名をあげていた
ホイッグ党のロバート・ウォルポール(1676~1745 年)であった。ジョージ 1 世のもとで
1721 年に第一大蔵卿(今日の蔵相にあたる)に就任し、南海泡沫事件で政治家としての力
量を発揮した。1721 年までにはこの南海泡沫事件の事務的な処理方針を確定させ、再び経
済も回復軌道に戻った。彼は、以後、1742 年まで長期政権の維持に成功し、事実上の「首
相」となった。 ウォルポールは、ジョージ 1 世時代に政治の実権を握り、閣議を主宰(しゅさい)し、
内閣を国王の諮問機関から行政権の執行者に格上げした。さらに、内閣は国王に対してで
なく、議会に対して責任を負うという責任内閣制を明確にし、議会内閣制の確立につとめ、
いわゆる「国王は君臨すれども統治せず」という政体ができあがった。 イギリス議会は二院制をとるが、上院は世襲貴族および国王が任命する高官や聖職者で
占められた。下院は選挙によったが、それは普通選挙ではなく、地方の貴族や都市の富裕
市民だけの制限選挙によっていた。したがって、議会は貴族政治的な性格が強かった。 1727 年、ジョージ 1 世が死去し、皇太子がジョージ 2 世として即位したが(在位: 1727~60 年)、引き続き新王の信任をえたウォルポールは、買収などあらゆる手段を弄し
て選挙に勝利した。 ウォルポール政権の安定は、中央でホイッグ党の圧倒的優位を保ちつつ、平和政策によ
って「地方」派の利害にも配慮しえたことにあった。1713 年に終了したスペイン継承戦争
から,次の戦争がおきる 1739 年までの間、イギリスでは例外的に戦争のない時期だった。
これを「ウォルポールの平和」といっていた。 しかし、「ウォルポールの平和」は、いつまでも続くものではない。1739 年、スペイン
のイギリス船拿捕をめぐって、ついにウォルポールも対スペイン戦争の開戦に同意せざる
1536
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) をえなくなり、ここに「ウォルポールの平和」は終焉を迎えた。この戦争は「ジェンキン
スの耳の戦争」といわれた。 この奇妙な名前の戦争が起きた経緯を述べると、イギリス南海会社はスペイン領西イン
ド諸島と貿易をやっていたが、密貿易などの嫌疑からスペイン当局が拿捕をしはじめた。
拿捕の件数は 1 年あたり数件~10 件程度であったが、イギリス国内では次第にスペインに
対する反感が強まっていった。 そのようなとき、1738 年、レベッカ号船長ロバート・ジェンキンスが拿捕されたときに
切り落とされたという耳を議会に証拠として提出すると、世論はスペイン報復論に沸き立
った。これまで対外宥和政策をとってきたウォルポールも、この世論に押し切られる形で
1739 年 10 月、スペインに宣戦布告せざるをえなくなったというわけである。 この戦争は、翌 1740 年にオーストリア継承戦争(1740~1748 年)が勃発すると、戦火は
ヨーロッパ全域に広がった。これによりイギリスとフランスの覇権争いは再燃し、七年戦
争(1756~1763 年)、アメリカ独立戦争(1775~1783 年)、フランス革命期(1789~1799
年)の戦争とイギリスは(フランスも)再び戦争の連鎖のなかに入っていったのである。 いずれにしても、戦争への参加は、平和を公約とするウォルポール政権の終わりを意味
し、1741 年における総選挙ではスコットランド、コーンウォールなどで敗れ、与野党の差
が縮まった。そのため、当時の国王ジョージ 2 世の慰留にもかかわらず、ウォルポールは
翌 1742 年に第一大蔵卿を辞任し、21 年間続いたウォルポール政権は幕を閉じた。 ウォルポールの長期政権のもとで、大臣の中でも少数の有力閣僚が真の内閣を形成し、
その長が主導して政治を行う内閣制度が生まれたほか、内閣は議会に対して責任を負い、
議会の支持がえられなくなれば交代するという近代的な議会制民主主義政治の原則をウォ
ルポールは最後に身をもって示してくれた。 ○七年戦争とイギリス植民地帝国の確立 オーストリア継承戦争後のヨーロッパの国際関係は安定せず、その戦争でシュレージェ
ンを失ったオーストリアのマリア・テレジアが、その奪回をめざして、1756 年、七年戦争
に突入した。イギリスはオーストリア側にたって参戦し、主としてフランスと海外の植民
地を舞台に戦った。その戦争の経過は、アメリカ、インドの歴史に記したので省略する。 1763 年、終戦にともなうパリ条約では、イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以
東のルイジアナを、インドではシャンデルナゴルとポンディシェリの 2 都市を除く全域で
イギリスの優位を承認させることになった。世界の商業・植民地の覇権争いは、フランス
が敗れて、ここにイギリスの完勝となって終わった。 ○ジョージ 3 世の時代 1537
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) そのようになかで、1760 年、ジョージ 2 世が死去し、弱冠 22 歳のジョージ 3 世が即位し
た(在位:1760~1820 年)。半世紀以上におよんだ彼の治世下では、国内では、いわゆる産
業革命が進行して社会構造が変化した。植民地では、アメリカ独立戦争が起こって、イギ
リス帝国支配体制の転換をよぎなくされた。さらに、外からはフランス革命の深刻な影響
が及んで、イギリスの政治も実質的な変質を迫られた。 ○アメリカ 13 州植民地の独立 七年戦争が終わってみると、イギリス政府は、18 世紀初めの 10 倍、当時の歳入のざっと
1.7 倍という負債を抱えていたのである(図 13-36 のC参照)。そこで戦争が植民地の防
衛や拡大のための戦争であった以上は、負債の一部は植民地人にも負担させるべきだとす
る見方が生まれてきた。こうして、グレンヴィルの政府はアメリカ植民地に対する一連の
抑圧政策を展開し、結局は、大陸の 13 植民地の独立を引き起こすことになった。 1773 年、ボストン港に停泊中の東インド会社船が積んでいた茶を、夜陰に乗じてゲリラ
隊が投棄したボストン茶会事件などで対立が強まっていた。1774 年には、イギリス側が「強
圧的諸法」として知られる強硬な政策によってボストン港を封鎖し、オハイオ川以北をケ
ベックに編入した。植民地側は、フィラデルフィアにおいて第 1 回大陸会議を開き、本国
との通商を断った。 その結果、ついに 1775 年、レキシントン・コンコード間において戦闘の火蓋が切られ、
ここにアメリカ独立戦争が始まった。翌年には独立宣言が発せられ、1778 年には独立派と
フランスの同盟が成立し、ついでスペインも参戦したため、国際紛争に発展した。1781 年
にいたってイギリスの敗色が明白となり、1783 年にはパリ講和条約によってアメリカの独
立が承認された。このアメリカ独立戦争の具体的な展開については、アメリカの歴史に記
している。 これにより、18 世紀を通じて進められてきた北アメリカと西インド諸島を中心とするイ
ギリス帝国の建設は挫折することになった。 ○小ピットと 2 大政党制の確立 1783 年 12 月、ジョージ 3 世は、王権をおさえようとするホイッグ党のフォックス・ノー
ス連合政権を更迭して、後任の首相に小ピットを任命した。ウィリアム・ピット(1759~
1806 年)は、七年戦争で北米やインドでフランスに大勝利をもたらしたチャタム伯ウィリ
アム・ピット(元首相。通称大ピット)の次男で通称小ピットと呼ばれていた。1783 年に
24 歳の若さで首相に就任したが(トーリ党)、この記録はもちろん史上最年少である。 小ピットは 1784 年の総選挙に大勝して、以後 17 年間政権を保つことになった。これか
ら議会では 2 大政党制的な状況が出現するとともに、政界における対立は最終的には総選
挙で示される民意によって解決されるという考え方が生まれた。小ピットはイギリスの保
1538
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 守勢力を糾合し、野党でホイッグの指導者フォックスとともに政党政治の確立に貢献して
イギリスの 2 大政党政治の土台を築いた。 【13-3-3】イギリスの産業革命 【①産業革命とは】 産業革命とは、18 世紀の後半からイギリスの特定の地域で「工業化」が進んでいって、
明らかにその産業的、社会的影響があらわれるようになった 19 世紀になって、あとから名
づけられた現象であった。それは 1760 年代から 1830 年代にかけてイギリスで起こった「最
初の」産業革命を指した言葉であったが、市民革命と並んで、近代とそれ以前を分かつ分
水嶺とされた。 イギリス産業革命は 1760 年代に始まるとされるが、七年戦争が終結し、アメリカ、イン
ドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられたのは 1763 年のパリ条約によ
ってである。イギリスで産業革命が始まった要因として、原料供給地および市場としての
植民地の存在、名誉革命による社会・経済的な環境整備、蓄積された資本ないし資金調達
が容易な環境、および農業革命によってもたらされた労働力、などが挙げられている。 18 世紀末から 19 世紀前半にかけて、大陸ではフランス革命とナポレオン戦争が起きて大
混乱となっていたが、この間にも、イギリスでは産業革命は進展していた。そして産業革
命は鉄道建設など輸送産業の革新で最高潮に達するが、それは 19 世紀の半ばであった。 したがって、イギリスの産業革命は 18 世紀から 19 世紀にまたがって記すべきであるが、
便宜的にこの 18 世紀の歴史にまとめて記すことにする。 ○産業革命の経営者人材―イギリスの下層貴族(ジェントリ) 16 世紀に中間層と呼ばれる人々(やがて中流階級を形成する)の勃興が始まると、商業
的に成功した彼らは名誉と尊敬を求めるようになった。彼らに地主への仲間入りの機会を
提供したのはヘンリ 8 世による宗教改革であった。宗教改革によって修道院は解散され、
その領地は(全国土の 2 割に達していた)王領地へと編入されたが、その後売却された。
この旧修道院領を買い取り所領とすることで、成功した中間層の人々は念願のジェントリ
となることができた。 このように、イギリスでは「ビジネス」で成功した人間が成功の仕上げとして、土地を
買い取り地主になるということが定着した。立身出世の手段が交易から植民地経営に変わ
っても続けられることとなった。このことは社会に流動性を持たせるとともに、成功した
人間を既存体制への挑戦者ではなく、ジェントリという体制側に取り込むことによって地
主支配体制により一層の安定をもたらした。 1539
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) このようなジェントリは地主として土地経営を本分としていたが、これは必ずしも経済
活動に消極的であったわけではない。のちに産業革命に必要な資本を蓄積したと言われる
毛織物産業の推進役となったのも彼らジェントリたちであった。南ネーデルラント諸州(現
在のベルギー地域)から多数亡命してきた新教徒を受け入れて、輸入に頼っていた奢侈品
などの国産を開始したが、これらの「実験企業」の活動は、ジェントリたちの指導によっ
て進められた。 ○農業革命と商業革命 産業革命の原因をたずねると、それに先行して国内の社会経済構造を作り出した農業革
命と広大な海外市場を確保した商業革命があった。 《農業革命》 ◇ノーフォーク農法(輪栽式農業) まず、農業革命とは、従来の三圃制にかわって、ノーフォーク農法あるいは輪栽式農業
といわれる高効率の農法が発明され、農業生産性が高まっていったことを指している。 従来の三圃制は、冬作の穀物→夏作の穀物→休耕地(放牧地)と、ローテーションを組
んで農地を区分して耕作するもので、休耕地では家畜が放牧され、その排泄物が肥料にな
り、土地を回復させる手助けとなった。ただ、これでは、飼料が不足する冬季に家畜を飼
うことが困難という欠点があり、冬を前に保存食料へと加工する必要があった。 ところが 18 世紀より飼料用の根菜植物(カブ)を導入し、大麦→クローバー→小麦→カ
ブの順に 4 年周期で行う 4 輪作法を行なうと、休耕地がなくなり、牧草栽培による家畜の
飼育が可能になった。この農法は、牧草や冬期の飼料としてのカブを導入することで家畜
を年中飼育し、休耕地をなくす一方、糞尿による施肥効果で穀物の生産性を著しく高めた。 それを最初になしたのが、イギリス東南部のノーフォーク州であったので、ノーフォーク
農法あるいは輪栽式農業といわれている。 このような新農法を行うためにはより集約された労働と広い耕作単位が必要であったた
め、従来の開放耕地と混在地制を排し、効率的な農地利用を行う囲い込みが進められた。 この囲い込み(かこいこみ。エンクロージャ)は細かい土地が相互に入り組んだ混在地制
における開放耕地を統合し、所有者を明確にした上で排他的に利用することで、中世まで
の小規模な入り組んだ農地を効率よく使用するためには、どうしても必要なことであった
(日本などアジアの農地が現在でも小規模で混在的なのは、歴史的にこの過程がなかった
ことにもある)。 イギリスにおいては、16 世紀と 18 世紀の 2 回行われ、第 1 次囲い込みは牧羊目的で個人
主導で行われたのに対し、第 2 次囲い込みはノーフォーク農法などの高度集約農業の導入
のために議会主導で行われた。 1540
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) この農法の普及によって農業生産が増加した結果、図 13-37 のように 18 世紀半ばから人
口革命といわれるほどの人口増加をもたらした。そのため、産業革命に必要な労働力は直
接的に農村から移動したというよりも、むしろ全体的な人口増加により労働力供給自体が
大きくなったことによって賄われたと考えられている。 図 13-37 16~18 世紀のイギリス人口(イングランドとウェールズの総人口) かつては第 2 次囲い込みのため農村で職を失った農民が都市に流入し、工場労働者とな
ったと言われたが、最近の研究では、囲い込み後も以前と変わらないか、より多くの労働
力が農作業に必要とされたことがわかっている(まだ農業の機械化、省力化はされていな
かったので、高効率農業は生産量も多かったが労働力も多く必要であったのである)。 ◇農業経営の革新―「三分割制」 この農業革命はまた、農業の経営形態にも変化をもたらし、「三分割制」とよばれる土
地制度が確立した。三分割制とは、大土地所有者である地主、地主から土地を借り受けた
借地農、借地農に雇われる農業労働者からなる制度である。地主はイギリス各地に複数の
領地を持つことが多かったため、直接農業経営に参画することはほとんどなくなっていた。
そこで借地農が地主から土地を借り受け、農業労働者を雇い上げ耕作を行った。このよう
な借地農はしばしば農業資本家ともみなされた。このようにイギリスでは農業革命によっ
て産業革命の前に、すでに農業分野での資本主義的経営方式が出現していたのである。 《商業革命》 海外植民地の拡大にともない、18 世紀のイギリスの海外貿易は図 13-38 のように一貫し
て増大して商業革命といわれた。とくに 1780 年代から成長率が急上昇した。植民地物産を
大量に輸入したことでイギリス人の生活は一変したが、同時に、植民地においても、タバ
コや砂糖の輸出で利益を得た植民地人は、イギリス風の生活文化をするため、大量のイギ
リス商品を輸入した。 1541
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-38 18 世紀のイギリスの海外貿易(再輸出を除く純輸入と輸出) このため植民地市場はイギリス産業にとって、国際競争力の強かった毛織物だけでなく、
雑工業製品の輸出にとって重要であった。とくに、産業革命の端緒となった綿織物業は、
奴隷貿易の主要な商品としてリヴァプールから輸出され(図 13-39 参照。リヴァプールの
綿織物→アフリカの奴隷→カリブ海の砂糖、綿花→リヴァプール)、カリブ海の砂糖、綿
花が同じ港リヴァプールに戻ってきたことから、その後背地マンチェスタに根づいたもの
である。この意味で大西洋奴隷貿易こそは、イギリス産業革命の起源そのものであったが、
さらに、奴隷貿易が生み出した利潤が産業革命の資金源として、決定的に作用したという
見方もある。 図 13-39 産業革命時代のイギリス 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 1542
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《プロト工業化の段階》 産業経営者の人材としてのジェントリについては前述したが、産業革命は突然、現れた
のではなく、産業革命の前の段階をプロト工業化と名づければ、このプロト工業化の段階
がかなり長期間、イギリスの農村部であった。このプロト工業化には、①家内制手工業 →
②問屋制家内工業→③工場制手工業(マニュファクチュア)→(④工場制機械工業)の段
階があったと考えられている。この最後の④工場制機械工業の段階に移ったときが、まさ
に産業革命であったと考えられている。この工程全体は、「工業化」という言葉が適切であ
ろう。 この産業革命に至る①~④の工程の説明は省略するが、のちの産業革命を積極的に推進
することになる資本家的、あるいは企業家的ジェントリがイギリスでは育っていたという
ことがいえる。 【②なぜ、綿織物産業から産業革命がはじまったか】 ○保護・規制過剰の毛織物産業 イギリスの産業革命は,繊維産業の分野から起きたが、繊維産業といっても間口が広い。
毛織物もあれば絹織物、綿織物もある。実は産業革命は,当時、イギリスでもっとも伝統
があり、もっとも強いメインインダストリーでもある毛織物からではなく、もっとも新し
く、かつ、まだ確立されていなかった綿織物業から起きた。どうしてそうなったであろう
か。 イギリスは産業革命が起きるまでは,毛織物業は、ヨーロッパの中ではもっとも遅れて
いた地域であった。まわりのオランダ、フランス、スペインの方が栄えていた。イギリス
は牧場の国でヒツジを飼育して羊毛をまわりの国々に輸出し(16 世紀には第 1 次囲い込み
を行い、羊毛生産の効率を上げ羊毛の輸出に特化していたことは述べた),ほかの必要な
ものを輸入していた。つまり、原料の羊毛を輸出して、毛織物製品を輸入していたという
ことは、イギリスには加工技術がなかったのである。イギリスは,今でいうところの発展
途上国であった。 そのような時に,イギリスにとっては都合がよかったことには、毛織物産業の技術を持
っているフランスのユグノー(カルヴァン派の新教徒)が大挙してイギリスに亡命してき
たのである。17 世紀の後半にルイ 14 世はナントの勅令を廃止し、新教を再び禁止したため、
17 世紀の 100 年間に結局、合計 100 万人近いユグノーが国外に出たといわれている。フラ
ンスのユグノーは金融・商業・工業を掌握し、毛織物業などの産業技術を持っていた。 そのユグノーがイギリスへも 5 万から 9 万人移住してきた。毛織物産業にもユグノーは
浸透し,半製品しか作れなかったイギリスに、高級なベルベット織りや軽い帽子の織り方
1543
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) を教えた。毛織物や絹に限らず,高級麻布や綿布の分野にもユグノーは入っていって、イ
ギリスへ技術移転した。 こうしてイギリスの毛織物産業は、原料の羊毛はもちろん、製品まで一貫生産ができる
ようになり、全国民的な産業になった。このように毛織物産業はイギリスでもっとも手塩
にかけて育ててきた重要な産業となったので、そのうちに優先的に保護と規制を受けるよ
うになっていった。織物の長さ、幅、重量、織物の伸ばし方、染色方法、原毛準備の原料、
毛織物の仕上げ、たたみ方、販売のための荷造り、けば立て機の使用などに関する規定を
もつ法令が沢山出来た。この規則を守らせるために、多数の専門官吏、すなわち、計量検
査官、監督官、会計検査官などが設置された(戦後、日本で食糧管理法によって米作農業
が保護され、全国に何万人もの食糧管理事務所員がいたことが思い出される)。 これらの規制の主目的は消費者の保護ということであったが、それは全く達せられなか
った。一方、不正な製法と必要な改良の見境もなく、いずれも禁止してしまったので、い
っさいの技術進歩もほとんど不可能になってしまった。 1776 年にアダム・スミスが著わした『諸国民の富(国富論)』で自由主義経済を強調し
て、このような厳しい規制や重商主義的な保護制度を批判したが,毛織物産業のこの極端な
保護制度はびくともしなかった(現代の日本でも規制緩和や撤廃が叫ばれているが、あま
り進展がないのと同じだった)。特権はいつでも創意と進歩にとって致命的であった。イ
ギリスの毛織物産業はあまりにも保守的になり、技術革新によって、自己変革を自分の手
で成し遂げることができなくなっていた。そこで、産業革命はこのような規制がない部門
から始まったのは当然といえよう。 ○綿織物産業からはじまった産業革命 イギリスの国民的産業となった毛織物産業に対して、綿織物産業はなきに等しいもので
あった。まず、そもそも原料の原綿がイギリスでできなかった。それに対しインドは木綿
の原産地といわれ、綿布は古くからインドの主要輸出品であった。すでに 17 世紀には、東
インド会社がインドから大量に綿織物(綿花ではなく、綿織物であった。機械化する前は
インド人の手工業綿織物が安かったのである)を輸入して、消費ブームを引き起こしてい
た。ヨーロッパの中・上流階級で「インド熱」といわれるほどの大ブームとなり、既存の
毛織物業や絹織物業をピンチに陥れた。イギリス議会は 1700 年(キャラコ輸入禁止法)と
1720 年(キャラコ使用禁止法)に、あいついで二つのキャラコ禁止法を出した。 しかし、このブームはやむところがなく、国内の需要は増す一方であった。このような
強力な需要を背景にして国産綿織物が躍進することが期待されたが、しかし原料輸入で、
しかも安価で良質な製品がそう簡単に国内で(人件費の高いイギリスで)生産されるわけ
がなかった。 1544
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) しかし、この綿製品については、これといった国内の規制はなかったので、ここに技術
革新が入りこむ余地はあった。はたして技術革新で生産コストを徹底的に安く、つまり、
インド産キャラコより安く生産できるようになるだろうか。 ここで初めて産業革命の技術革新が登場することになる。従来の産業革命論では、まず
発明ありきであったが、最近の研究では、やはり「必要は発明の母」ということを証明し
ている。この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスで、ジョン・ケ
イの飛び杼(ひ)にはじまる技術革新を促し、産業革命の発端になったと考えられている。
しかし、なぜ、技術革新であったかということに関しては、当時、もう一つ、イギリス独
特の事情があったと考えられている。 ○イギリスの近代的特許制度 イギリスでは世界でもっとも早く近代的な特許制度が確立されていたという事情も技術
革新を呼び起こした原因のひとつとみなされている。 特許は、有用な発明を公開した発明者または特許出願人に対し、その発明を公開したこ
との代償として、一定期間、その発明を独占的に使用しうる権利(特許権)を国が付与す
るものである。特許制度は、特許権によって発明の保護と利用をはかることにより、発明
を奨励し、また産業の発達に寄与することを目的としている。 中世ヨーロッパにおいては、絶対君主制の下で王が報償や恩恵として特許状を与えて、
商工業を独占する特権や発明を排他的に実施する特権を付与することがあった。イギリス
でもエリザベス 1 世のときに,多くの特許が認められていた。しかし、これは恣意的なも
ので、制度として確立したものではなかった。 イタリアのヴェネツィア共和国では、1443 年には発明に対して特許が与えられていたと
いわれている。そして 1474 年には世界最古の成文特許法である発明者条例が公布された。
このことから、近代特許制度はヴェネツィアで誕生したとされている。 1623 年にイギリス議会で制定された専売条例は、それまで国王が恣意的に認めてきた特
許を制限し、発明と新規事業のみを対象として、一定期間(最長 14 年間)に限って独占権
を認めるとともに、権利侵害に対する救済として損害賠償請求を規定した。この条例の制
定によって、近代的な特許制度の基本的な考え方が確立されたとされる。 これから述べるように 18 世紀に入って、イギリス綿織物産業では相次いで発明家があら
われた。とにかく技術革新は発明者が何らかの発明をしなければ、ことは始まらない。発
明家は産業革命の主役の一人であった(もう一人はそれを企業化する企業家が必要だった。
もちろん、両方あわせた起業家もいたが)。これらの発明家の発明の動機には二つあった。
一つは、金持ちになりたいという経済的理由、もう一つは、何か世の中のためになること
1545
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) をしたい、名を残したいといういわば名誉欲であった。そのほかにも、ただ、発明や技術
が好きでやっていたら、できてしまったというような例もないわけではない。 この産業革命初期の発明家には、貧しい人が多く、金持ちになりたいという動機で発明
に入っていった人が多かった(発明家をバックアップした人たちはジェントリ出身の裕福
な人が多かった)。このような人は、どうしようもない貧困の中にあり、この惨めな境遇か
ら一発、発明を行って、そこから脱したいというやむにやまれない気持ち(ハングリー精
神)が、結果的に、偉大な発明を生み出したという例が多かった(日本でも 1885 年(明治
18 年)特許制度ができたことを聞いた 18 歳の豊田佐吉は「教育も金もない自分は、発明で
社会に役立とう」と決心し、手近な機織機(はたしょっき)の改良を始めたといわれてい
る)。 しかし、こう考えるには、発明をすると儲かるという仕組みがなけねば、このようなこ
とは考えられない。発明家の経済的利益を合法的に満足させるのが、この特許制度であっ
た。 これから述べるようにイギリスでは綿織物産業などで発明が相次いで起こった。その背
景には、イギリスには近代的な特許制度がすでにあって、特許をとれば、金持ちになれる
ということが広く知れわたっていたことが(実際にはそんなに単純ではなかったが)、他に
先んじてイギリスで産業革命が起きた理由の一つとも考えられている。産業革命期は特許
戦争のはじまりでもあった。 【③産業革命の開始―綿織物産業】 ○一連の繊維機械の発明 《飛び杼の発明、ジョン・ケイ》 ジョン・ケイ(1704~80 年)は、ランカシャー地方の農夫の子供として生まれ、はじめ
は毛織物業者のもとで織工として働き、のちに織機用の杼(おさ)の製造に従事した。つ
まり、ケイは機械を使う立場と作る立場の両方を経験したこともあり、発明にはうってつ
けの人間であった。 当時のこの分野の問題は、広幅の織物を織る場合、杼を一方から他の手に移すので、二
人かそれ以上の労働者が必要であった。そこで、1733 年、ケイは杼(おさ)に小さな車を
つけ、一種のすべり溝の上を走るようにして、織布工が片手で紐を引くと杼が杼箱(両端
にある)の中のバネで叩かれて織物の一端から他端へとタテ糸の間を走るようにしたもの
であった。この左右の往復運動をするような仕組みを考案し特許を得た。これが飛び杼(と
びひ)の発明であった。 1546
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) これによって織幅の広い反物を織ることができるようになったばかりでなく、飛び杼の
発明で織機が高速化され、織布速度が以前より遙かに高くなった。飛び杼は織物の生産性
を 3 倍に高め、産業革命を引き起こすきっかけとなったといわれている。ケイは毛織物業
で飛び杼を発明したが、この飛び杼は 1760 年代になって綿織物業にも普及していった。 しかし、この効率のよい飛び杼の導入は、毛織物業の織布工たちの職場を奪うことにな
りケイは非難された。彼らはケイの飛び杼を使用しながら、ケイの要求した特許料の支払
いをしなかった。ケイは特許違反として訴訟に持ち込んだが、毛織物業者は,シャトル・
クラブ(杼のことをシャトルという)という同盟を結成して訴訟を続行した。ついにケイ
の方は裁判費用がかかり過ぎて破産してしまった。 そればかりか、1753 年には,暴動が起き、群衆は彼の家を包囲し侵入してきた。不幸な
発明家はマンチェスターに逃れ、羊毛の袋に隠れて同市を脱出し、乗船してフランスに逃
れ、そして間もなく貧乏のうちに亡くなってしまった。 一方、飛び杼の使用は毛織物業だけではなく、綿織物産業を含む全繊維産業に普及して
いった。飛び杼の普及によって、綿布生産の速度が向上したために、旧来の糸車を使った
紡績では綿糸生産能力が需要に追いつかなくなった。今度は糸の生産部門、つまり、紡績
(繊維・織物産業において、原料の繊維から糸の状態にするまでの工程)の分野での生産
性の向上が必要であった。紡糸の価格が高騰しただけでなく,必要量を確保することもし
ばしば困難になってきたので、この不均衡を直すことは緊急に必要となってきた。 《ジェニー紡績機の発明、ハーグリーブス》 そこで 1761 年、イギリス技術工業奨励協会は一度に一人の人間が(羊毛、麻、綿、絹を
問わず)、6 本の糸を紡ぐことができる機械を発明したものに賞を与えることにした。 ランカシャー出身で、織布工と水車大工をかねていたハーグリーブス(1720~1778 年)
は密かにこれに挑戦した。1762 年から試作に取りかかり、1764 年に完成させることができ
た。従来の手挽車(てひきぐるま)が 1 本ずつ糸を取る代わりに、8 本(のちに 16 本に改
良)の糸を同時に紡ぐことのできる多軸紡績機を発明し、ジェニー紡績機と命名した(娘
の名前から名付けられといわれている)。彼が最初に作った手動試作機は、8 本(錘)しか
備えていなかったが、動力さえ増加させれば、いくらでもその数は増加させることができ
た(ハーグリーブスの生存中でさえ 80 錘あるいはそれ以上の錘数のジェニー機が製造され
た)。 はじめは自宅で自分の手で試験するだけであったから問題はなかったが、販売しようと
して、数台の機械を製作しはじめたところ、たちまち、ケイと同じように苦しめられはじ
めた。労働者たちが彼の家に押し入り、機械を破壊してしまった。そこでノッティンガム
に移住し,特許を取り,発明の組織的利用に乗り出そうとした。しかしジェニー機の試作
1547
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 機は特許を取る前に売り出されていたことがわかり、彼の権利は無効とされてしまった(特
許制度について熟知した人も必要である)。 彼も不幸な一生を終わってしまったが、彼が発明したジェニー機は、一番小さいもので
も、労働者の 6 人から 8 人分の作業をすることができた。機械も簡単で値段もあまり高く
なく、あまり場所もとらず、特別の作業場の設置も必要としなかった。そこで、ハーグリ
ーブの死後 10 年で(1790 年代に)、イギリスには 2 万台以上のジェニー機が普及していた。 手工業の親方の小作業場でも農場でも、ジェニー機はどこにでも見られた。昔からの家
内工業を破壊するのではなく、むしろ、そのような工業を強化していた。最初、ジェニー
機を目の敵にした人々にもっとも役だっていた。工業化がどういうものか、発明がどうい
うことかがまだわからない生まれ出る悩みの時代であった。 このような機械の大衆的普及は,生産費の低減を招き,その結果、綿織物の価格が下が
り,綿織物の需要が増大した。そして、最初のうちは紡績工の賃金を高いものにした。こう
して、農作業に従事する職工は、農業を捨てて労働賃金にのみ頼って生活する労働者(プ
ロレタリアート)になっていった。 しかしながら、ジェニーの紡ぐ糸は細く軟らかく、横糸にしか適さなかったので、アー
クライトの発明まで、縦糸は亜麻糸が手紡車で紡がれていた。 《水力紡績機の発明、アークライト》 リチャード・アークライト(1732~1792 年)はランカスター地方の貧しい大家族の末子
として生まれ,少年のときから理髪師(かつら師)のもとに徒弟に出された。何とか貧し
い境遇から抜け出そうと必死に働き、1750 年頃から独立し、理髪店をもった。それも、は
じめは地下室の小さな店だったが、そのうち一戸建の店を持つに至った。 二度結婚したが,二度目の妻の持参金を元手に彼はもっと,もうけの多い毛髪取引に乗
り出した。当時はかつら全盛の時代で、かつら師は毛髪を多量に必要とした。彼は農村の
娘から頭髪を買うために,農村をかけずり回った。その頭髪を自分で調製した染料で処理
し、かつら師に売った。このあたりに、すでに旺盛な起業家の資質が現れていたといえよ
う。とにかく上昇志向の強い意欲的な企業家であった。 1763 年、彼は 36 歳にして突然、大発明家として登場してきた。画期的な紡績機を発明し、
翌年 1769 年に、14 年間有効な特許をとったのである(実際は、ジョン・ケイ(飛び杼を発
明したジョン・ケイとは別人の時計師)が発明したが、資金的に援助したアークライトが
自分の名で特許を取ったようで、のちに訴訟を起こされアークライトは敗れている)。 この機械の詳細は省くが,馬を使った大規模な紡績機であった。すぐに水力によって運
転する方法に変更した(1771 年)。水力さえ得られれば、いくらでも大きくできること、
また、非常に強い糸をつむぐことができるという特徴を持っていた。今まで糸が弱かった
1548
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ので、麻、綿の交織物しかできなかったものが、この糸を使えば,正真正銘の綿織物をつ
くることができるようになった。つまり、輸入品のインド綿布に劣らないものが出来るよ
うになったのである。 アークライトは、さっそくノッティンガムに最初の工場を建設した。これは綿をローラ
ーで引き延ばしてから撚り(より)をかける機械で、ジェニー紡績機のように小形のもの
ではなく、人間の力では動かない大型の機械であったので、水力を利用したものであった。
個人の住宅ではできないので別に工場を設け、機械を据えつけて数百人の労働者を働かせ
て多量の綿糸を造り出すことに成功した。これは本格的な工場制機械工業のはじまりとな
った。 大量生産が可能になり、当初は水力を使ったので水力が得られるところという制約はあ
ったが、紡糸作業に熟練した労働者を必要としなくなったため、失業を恐れる労働者や同
業者などから妨害を受けたが、次々に工場を作り、品質の優れた綿糸を大量に生産して、
アークライトは大富豪の 1 人になった。1786 年、国王ジョージ 3 世よりナイトの称号を受
けた。のちに特許訴訟に敗れ、アークライトの特許は無効となったが、すでに出来上がっ
ていた彼の社会的地位は不動で、アークライト 1 人の功績と称えられた。 《ミュール紡績機の発明、クロンプトン》 アークライト紡績機でつくられるのは太糸であった。細くて丈夫な糸に挑戦したのがク
ロンプトン(1753~1827 年)であった。 クロンプトンは 10 歳の頃から織工として働いていた。16 歳の頃に,ジェニー紡績機を使
い,その欠点を体験し、1774 年頃から紡績機の改良にとり組むようになった。実験に必要
な道具、その他の材料を買うためにアルバイトをして貯めた金で自宅の小作業場で 1774 年
頃から開発にとりかかり、1779 年にはミュール紡績機を発明した。ミュールとはラバ(馬
とロバの雑種)のことで、要するにウマとロバの長所(ジェニーと水力紡績機の長所)を
採ったという意味であった。 彼は自分で試作した機械を使って糸を紡いで満足していた。ところが、この糸の細さが
評判になり、例のごとく近隣の製造業者の好奇心、嫉妬のまとになった。人々は窓下には
しごをかけたり、壁に穴を開けたりして、のぞいた。彼は部分的には,アークライトがま
だ権利を持っている水力紡績機を単に改作したものに過ぎず、特許は取れないものと思い
こんでいたので、特許を取っていなかった(彼も特許制度をよく知らなかった)。 紡績業者は自発的な寄付で賠償するから公開してくれるように頼んだので、クロンプト
ンは公開することにした。しかし、寄付はたった 67 ポンドにしかならなかった。試作機が
いったん手渡されたら、約束を守らなかった紡績業者が多かったのである。クロンプトン
1549
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) は失望し,全く厭世的になってしまった。数年のち、彼は梳綿機(綿をくしけずる機械)
を発明したが、この時は「あの連中には、これはやらないぞ」と叫んで粉砕してしまった。 しかし最初の発明のミュール紡績機は、ハーグリーブスの発明したジェニー紡績機とリ
アークライトの開発した水紡機の両方の長所を取り入れて、細い良質糸の大量生産を可能
にした。これにより、インド産に匹敵する品質の綿織物が大量生産されるようになった。 1812 年になって、議会はクロンプトンの功績を認め、5000 ポンドの賞金を与えたが、彼
はその大部分を借金の支払いに費やし,1827 年、貧困のうちにこの世を去った。発明者が
不幸になっても、いったんこの世に生み出された機械はどんどん改良されていくものであ
る。ミュールの最初の型のものは、動力運転に向かなかったが、1825 年には熟練工がつい
ていなくても動力で運転できる型のものが現れた。また、1820~1830 年にミュール機は 900
個の紡錘をもつようになった。 以上述べたジェニー、アークライト、ミュールといった紡績機の動力源は 18 世紀の末頃
まで、馬力車輪や水力によっており、繊維産業の盛んな州の川岸のいい場所には、水力を
求めて工場がすぐ建てられた。しかし、1790 年に後述するワットの蒸気機関がミュール紡
績機に適用される頃から、大工場を都市に設立することが可能になった。こうして、その
生産性はますます高くなっていったのである。 《力織機の発明、カートライト》 紡績部門の発明が相次ぎ、良質で大量の糸が供給されるようになったので、今度はその
糸を織る織布部門が追いつかなくなった。この紡績、織布 2 部門間の不均衡は頂点に達し、
早急に対策を打たなければならなかった。 そのような時に登場してきたのが、エドモンド・カートライト(1743~1823 年)であっ
た。彼は、ノッティンガムのジェントリの家柄に生まれ、牧師になるつもりでオクスフォ
ード大学を出て地方まわりをしているうちに、この綿織物産業の問題点を知って、力織機
の開発に取り組むようになった。 最初の試作機は、ぎこちない機械であったが、1785 年に特許を取ることが出来た。その
後も次々と改良を重ね、操作しやすい力織機に仕上げていった。1787 年にドンカスター(イ
ングランド中北部サウス・ヨークシャー州の都市)に工場を建て、踏み車で動く力織機を
20 台設置した。1789 年、彼は自分の機械にワットの蒸気機関を応用した。このように、ち
ょうどワットの蒸気機関が実用化されたので、この力織機は、はじめから蒸気機関を動力
にでき、生産速度は非常に高く普及も速かった。力織機の普及台数は 1813 年 2400 台、1820
年 1 万 4000 台、1829 年 5 万 5000 台、1833 年 10 万台であった。 カートライトはドンカスターとマンチェスターに工場を設立したが、後者は 1792 年に焼
き打ちで焼失した。彼は年を重ねるごとに力織機を改良していくだけでなく、力織機以外
1550
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) にも 1789 年に梳毛機(そもうき。羊毛をそろえる機械)、1792 年にロープ製造機、1797
年にアルコール機関を発明した。当時の発明家は発明だけではほとんど収入はなかったが、
イギリス議会庶民院はカートライトの功績を称え 1 万ポンドを贈った。 《綿繰機の発明、アメリカ人ホイットニー》 ここまではイギリス人が発明した繊維機械であったが、アメリカのイーライ・ホイット
ニー(1765~1825 年)は 1793 年に綿繰機(わたくりき)を発明し、アメリカでの原綿の生
産も急増し、以後、アメリカ南部の棉花(黒人奴隷の労働によるものであったが)がイギ
リスへ大量に輸出されるようになった。 ホイットニーはマサチューセッツ州生まれで 1792 年にイェール大学を卒業し、サウスカ
ロライナ州の教師に就いたが、任地に赴く途中に滞在したジョージア州で木綿栽培を見た
ことがきっかけで、綿花の種とり作業の工夫に熱中しはじめた。そして、針を打ちつけた
二つのローラーの間に綿花をはさみ、それにより種をとりのぞく、という着想を得て、1793
年に綿繰り機を発明した。これにより、作業能率が従来の 50 倍も向上することになった。 余談になるが、ホイットニーの発明家としての声望は高まり、1795 年に、銃の国産化を
目指すアメリカ軍から 1 万 5000 丁あまりのマスケット銃製造の依頼を受け、その生産を成
功させたが、この過程で彼が編み出した互換性部品製造の発想と公差の発想は機械産業の
大量生産に道をひらく極めて重要な方法であった(アメリカの歴史で述べる)。 ホイットニーの銃製造は別として、イギリス産業革命の初期の発明家はむくいられるこ
とが少ないものが多かったが、発明された機械は偉大でイギリスに、そして世界に綿工業
ひいては工場制機械工業を生み出していった。 ○綿工業の繁栄 このように産業革命期の工業化を主導したのは綿工業であった。この工業部門では前述
したように 18 世紀の後半に、次々と発明が行われ、生産の機械化と能率化の技術革新があ
った。 そして、この間に後で述べるようにジェームス・ワットが蒸気機関の往復運動を回転運
動に転換する技術をつくり出し(1781 年)、それがミュール紡績機や力織機に取りつけら
れるようになると、綿工業は渓流沿いの山間部から立地条件のよい平野部へと進出し、マ
ンチェスターを中心とするイングランド北東部のランカシャー地方が綿工業王国に成長し
た(図 13-39 参照)。 1833 年のランカシャーには 151 の綿工場があり、その大半は雇用者 200 人以下の規模で
あったが、1000 人を超えるものも 7 つあった。 結果的に 19 世紀がはじまるころには、技術革新(産業革命)によって、イギリスの綿製
品が遙かにコストが安くなり(機械生産は人の数百倍の効率だったので勝負にならなくな
1551
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) った)、インドは製品としてのキャラコではなく、原料の棉花をプランテーションで栽培
してマンチャスターに供給する立場に変えられたのである。 かつて世界最大の綿業地帯であったインドは、(イギリスの産業革命後には)ただ綿花
を輸出し、イギリス製綿布を輸入する地域に「低開発」化された。機械化が綿業でできた
なら、毛織物でできないはずなない、毛織物でできれば…以下、右ならえとなって機械化・
低コスト化が次々と連鎖反応的に広がっていったのが産業革命であった。 綿製品の最大の輸出国であったインドへイギリス綿製品が逆襲をかけ、綿製品の「東か
ら西へ」の流れに逆流する時期は 1823 年頃であるといわれている。この逆転の過程は、ち
ょうどイギリスによるインド植民地化の時期に合致しているため、単純な自由競争の結果
では必ずしもないと思われる。 インドは単なる綿花の輸出国になったが、それもアメリカ産の黒人奴隷がつくる綿花に
とってかわられるようになった。こうしてインドは自立した経済を維持しえず、いまやイ
ギリスの覇権が確立しはじめた近代世界システムの「周辺」として位置づけられるように
なった。 ところで、このように工場制機械工業によってつくられるようになった綿製品は、その
当初からすぐれて輸出志向的な商品であり、綿製品は、奴隷貿易の対貨としても利用され
た(アフリカから奴隷を輸入する見返りとして綿製品をアフリカに輸出した)。 図 13-39 のように、最大の奴隷貿易港はリヴァプールであり、その後背地がランカシャ
ーであったことも、ランカシャーが綿業王国になった理由であるといわれている。貿易の
対貨としての綿製品を必要とする奴隷貿易商人にとって便利だったからである。 さて、新興の綿工業は、国内産の羊毛という供給に限度のある毛織物工業とはちがって、
18 世紀の後半には西インド諸島の、19 世紀にはアメリカ合衆国南部のプランテーションか
ら奴隷制生産による安い綿花の供給を、ほとんど無制限に輸入することができた。18 世紀
の末葉にすでに世界最大の商業帝国であったイギリスの海運が、一手にこの綿花をランカ
シャーにもたらした。 また、綿製品はその軽さと通気性に優れていたので寒帯から熱帯にいたるすべての地域
に、その商品のコストを工場制の大量生産によって切り下げることができたので、イギリ
スは世界全体に対し、広大な需要を見込むことができた。イギリスの綿工業は、すぐれて
輸出産業の性格を与えられ、1840 年代にはその全生産額の半分以上を海外に輸出した。こ
うして綿工業は、以後、産業革命の主導部門として工業化の牽引車となったのである。 【④製鉄業】 ○深刻な木材不足を起こしていた製鉄業 1552
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 綿工業とならんで、イギリスの産業革命を推進したものに製鉄業があったが、近代的製
鉄業を興したのが、ダービー父子であった。 その前に製鉄業を振り返ってみると、14 世紀末にドイツのライン川流域ジーゲルランド
に始まるとされる高炉法は、15 世紀までにイギリスに上陸し、バーミンガム、ダッドレー、
シェフィールドといった地域はイギリス製鉄業の中心地となっていた。溶鉱炉が徐々に普
及したおかげで、鉄は 1600 年ごろには大量に用いられるようになった。 製鉄の工程は、鉄鉱石を溶鉱炉(高炉)で熔解して銑鉄をつくる製銑工程と、その銑鉄
を鋳鉄や鋼に鍛えて鉄材とする精錬工程からなっている。イギリスは幸い鉄鉱石には恵ま
れていたが、銑鉄をつくるにはどこでも木炭が使われており、このことが 17 世紀にはイギ
リス製鉄業発達の大きな隘路(あいろ)となっていた。 というのも木材は、製鉄と、くわえて建築・造船用材としても需要が高く、そのため小
さな島国のイギリスは、木材を使いすぎてこの時期にすでに「森林の枯渇」という深刻な事
態に陥ってしまったからである。当時のイギリスの山林はほとんどはげ山になりかけてい
た。 16 世紀以降は木炭の欠乏から製鉄所の多くは閉鎖され、イギリスはドイツとスペインの
鉄を、さらに後にはスウェーデンとロシアの鉄を年々増やして輸入しなければならなかっ
た。 18 世紀になっても鉄を加工する二次産業は、バーミンガムやシェフィールドを中心に活
況を呈していたが、これはスウェーデンやロシアから輸入した鉄を使用していた。イギリ
スには鉄鉱石も石炭も比較的豊富にあったが、石炭の硫黄分が邪魔をして製鉄には使えな
かったのである(硫黄分を含んだ鉄はもろかった)。この豊富な石炭を利用して鉄を溶融
する試みは何度も繰り返されたが、成功しなかった。 ○ダービーの石炭(コークス)製鉄 しかしこの問題を解決して近代的製鉄業を興したのが、ダービー父子であった。 1709 年、シュロップシャーの製鉄業者エイブラハム・ダービー(ダービー1 世。1677~
1717 年)が、コールブルックデール工場でコークスに木炭くずと泥炭をまぜて高炉による
最初の溶融に成功した。そこで石炭からコークスをつくり、これを木炭に代えて製銑工程
に用いるコークス製鉄法を開発した。 コークスとは、石炭を乾留(蒸し焼き)した燃料のことで、蒸し焼きにすることで、石
炭から硫黄、コールタール、ピッチなどの成分が抜け,残ったコークスは燃焼時の発熱量
が高くなり、鉄鉱石を溶かすことができたのである。こうすることによって、外見は石炭
に似ているが、多孔質で、乾留(1,300 度以上)の際に石炭中の揮発分が抜けているので、
1553
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 結果的に炭素の純度が高まり高温度の燃焼を可能とするのである。高温を得ることができ
るので鉄鋼業などには好都合な燃料となった。 アイデア自身は簡単でコロンブスの卵みたいなところがあったが、これを産業に仕上げ
るには大変な努力が必要だった。彼のあとを継いだ同名の息子ダービー2 世(1711~63 年)
は、1735 年に完全にコークスだけによる溶融に成功した。 他の高炉もまたコークスを使う
ようになって、高炉は木炭から解放された。しかし、高炉におけるコークスの着火性が悪
く、逆風力の強化が要求された。ダービーはニューコメンの機関を活用してこの問題を解
決した。 19 世紀に入るとワットの蒸気機関もこれに導入され、更にその方法に改良を加え
てコークス製鉄法を完成させた。イギリスには石炭が豊富に存在していたので、このコー
クス製鉄法の開発によって、安価で大量の鉄が生産されるようになった。 ○ヘンリー・コートのパドル法 製銑工程の生産能率が上がると、今度はそれに応じた精錬工程の革新が要請されてきた。 この要請に応えたたのがヘンリー・コート(1740~1800 年)で、1783 年に発明したパド
ル(攪乱)法という反射炉による方法でこれを解決した。この方法は、炉内を流れる空気
の脱炭作用を利用して、銑鉄が鍛鉄になるまで(とけている炭素分が減少する)、これを
人力でかきまわすのである。コートはまた、熱い鉄塊を直ちに溝型ロールによって圧延す
る方法も発明した(1783 年)。その動力には蒸気機関を導入した。パドル法と圧延法を結
合することによって、製鉄工程が単純化され、効率が高まった。 このコートの発明以後、イギリスの製鉄業は急速に発達し、今までかなりの量の錬鉄を
スウェーデンやロシアからの輸入に依存していたが、イギリスは 19 世紀の初頭からは、鉄
の輸出国に転じた。銑鉄生産高は 1770 年代は年 4000 トンほどであったが、1820 年代には
33 万トンとなり、40 年代には 130 万トンを超えた。 ○ウィルキンスン、鉄鋼の父 ダービー父子やヘンリー・コートの後にも,多くの製鉄分野の発明家・企業家が現れた
が、ウィルキンスンは鉄鋼の父と言われるように、鉄の用途開発を積極的に進めていった。
木造・レンガの橋を鉄橋に,木造船を鉄船に、石製木製水道管を鉄製水道管へと実験・実
証しながら鉄の時代を切り開いた大企業家であった。 彼は徹底的に鉄のニーズをきわめ、鉄鋼業という産業を作り出したのであった。ちなみ
に、彼の遺言により、彼の棺は鉄製であったが、これだけは彼の予想に反して、あまり普
及しなかったようである。 この様な鉄の需要は、はじめのうちは生活革命によって使用されるようになった軽工業
製品によって牽引されたが、やがて産業革命が進むにつれて、工業用機械や鉄道のために
1554
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) さらなる鉄が必要となっていった。イギリスで作られた工業用機械は、海外へ輸出され、
ドイツなどの工業化を進めることになった。 【⑤蒸気機関の発明】 ○ジェームス・ワットの蒸気機関 ジェームズ・ワット(1736 年~1819 年)は、スコットランドの造船町グノーリックのに
生まれた。父は船大工の親方兼商人だったので、ワットは、幼いときから、父の作業場の
中に自分の作業台や一組の道具、それに小さな炉まで持っていて、ここで豊かな経験を積
んだ。13 歳の時には、すでに機械のひな形をつくっていた。 14 歳の時にロンドンに出て、化学器具製造会社で修行に励み、1757 年に当時、教授をし
ていたアダム・スミス(1723~1790 年)のはからいで、グラスゴー大学構内で実験器具製
造・修理店を開業することができた。グラスゴー大学は大学の構内に彼が自由に働ける仕
事場を与えてくれた。 このころスコットランドのグラスゴー(図 13-39 参照)は西インド諸島やアメリカとの
砂糖とタバコの交易で繁栄していた。富裕なグラスゴーの商人たちはクラブをもっており、
そこへグラスゴー大学の道徳哲学教授アダム・スミスを招き,自分たちのビジネスの原理
を説明したりした。スミスがこれらの説明を苦心して仕上げたのが『諸国民の富(国富論)』
(1776 年)であった。 グラスゴーにはサトウキビや原皮といった輸入品を食料品や衣料品に加工するための工
場が建てられた。ヨーロッパ最大の皮なめし工場があったし、砂糖精製用のボイラーをつ
くる工場もあった。これらの産業の発展は化学や物理学の知識を必要とした。こういう雰
囲気の中で医学志望であったジョゼフ・ブラック(1728~1799 年)も化学に方向転換し、
1756 年にはグラスゴー大学の化学講師となった。1757 年ジェームズ・ワットが大学の器具
管理人として任命された。時にワット 21 歳、先のブラック 29 歳、アダム・スミスは 36 歳
であった。 1750 年頃までにグラスゴーやエジンバラに代表されるスコットランドの科学はかつてな
いほど栄えており、他の国の最良の科学と比肩できた。 エジンバラでは 1738 年に哲学協
会が,1783 年にはエジンバラ王立協会として引き継がれた。この会員の中には哲学者デヴ
ィット・ヒューム、経済学者アダム・スミス、初めグラスゴー、のちにエジンバラの教授ブ
ラック、地質学の進化論を発表したハットン、それに自然科学者ジョン・プレイフェアが
いた。彼らはイングランドの科学者より理論的科学に関心があり、その急進主義により啓
蒙主義的色彩の濃いスコットランドの黄金期を築いたのであった。 1555
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) そのような学究的雰囲気のなかで、ワットも仕事をはじめたのである。彼は大学を出て
いなくて、専門は器具製作であったが、前述したように多くの学者たちとの交流で経験・知
識も豊かな人物になっていった。とくに物理学教授のジョゼフ・ブラック(潜熱の発見で
有名)の知遇を得て,彼が大学で熱力学の理論を講義したときには、ワットも聴講させて
もらった。 ワットは外国で刊行された科学書が読めるように、フランス、イタリア、ドイツ語を徹
底的に学習した。その後、彼は一生を通じて、科学に関するいっさいの動向に通暁し、彼
自身もいくつかの重要な科学上の発見・発明に参与することになった(それまでの工業は
主として経験からなる技術でなりたっていたが、ワットから科学と技術の連携がはじまる
最初の人間といわれている)。 そのような中で、彼の好奇心は以前から提起されていた蒸気機関の問題に引きつけられ
ていった。1761 年から 62 年にかけて,ワットはパパン(1647~1712 年)の圧力汽罐を使
って、蒸気圧に関する一連の系統的な実験を開始した。そして、1763 年から 1764 年にかけ
て、グラスゴー大学で物理学講義の実験用に使われていたニューコメンの蒸気機関(図 13
-40 参照)の模型を修理するという機会があった。これらを通じて、彼はこれまでの蒸気
機関における問題点、改良点を見抜いた。単なる経験の積み上げだけでなく、原理的な理
論面を学んでいたことと(大学で自由に聴講できたので)、多くの教授たちとの議論が彼の
思考を助けたのである。 図 13-40 ニューコメンの蒸気機関 1556
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 従来のニューコメン蒸気機関は、生成された熱の 1%程度しか動力に転換していなかった。
ワットは、まずシリンダーから冷却機を分離した蒸気機関を発明することに成功し、より
多くの熱を動力に転換できるようにし、1769 年に支援者のローバックと「火力機関におい
て蒸気と燃料の消費を減少させるためにあらたに発明された方法」で特許を取得した。 ○上下運動から回転運動へ この特許をとるのは比較的やさしかった。しかし、これを実用化するとなると、大変な
困難が予想された。とても中世以来のような機械技師、時計師、ブリキ工、水車大工など
の手におえるようなものではなかった。精密な円筒形シリンダー(それがなければ、蒸気
がもれてしまう。それをつくるには工作機械の精密な中ぐり盤が必要だったが、そのよう
なものは、まだ、この世に存在していなかった)、過度の摩擦を生じないシリンダーに密着
して動くピストン、時計のように正確な歯車伝道装置などをつくらなければならない。 まさに、非常に多くの部品や機構部品(モジュール)で成り立つ機械産業すべてを作り
上げるようなものであった。とてもワット一人で手におえるものではなかった。幸い彼に
は、
(前述した綿工業のかわいそうな発明家とは違って)ローバックという企業家がついて
いて、資金的にも生活面でも精神面でも支えてくれた。しかしワットの最初の支援者であ
る鉱山主ローバックは鉱山浸水のためにほどなく破産し,ワットは他の援助者を探さなけ
ればならなかった。 ワットは別の工業中心地のバーミンガム(図 13-39 参照)のマシュー・ボールトン(1728
~1809 年)と手をくむことになった。両者は,ワットの発明の才とボールトンの企業的セ
ンスが補完しあうことに気づいたのである。この協力者ボールトンと 1774 年にボールト
ン・ワット社を作り、ワット式蒸気機関の製造を開始した。 ワットとボールトンが実用機関をつくるのに最大の問題となったのは、円筒シリンダー
の製作であった。これを解決してくれたのはジョン・ウィルキンソンであった。彼は 1775
年に中ぐり盤を開発し、これがワットに利用されたのであった(図 13-40 参照)。 図 13-40 シリンダー用中ぐり盤 1557
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) また、1775 年から 1790 年までかかってワットは自分の蒸気機関をさらに改良するととも
に、1781 年に遊星歯車装置の特許を取得し、翌 1782 年に複動機関、1789 年に遠心調速器、
1791 年にボール調速器などを開発した。 この過程で、シリンダーで押された力をクランクやカム、はずみ車等といった機械部品
(あるいはモジュール)を利用して軸の回転運動に変換し、
「熱から回転運動を生み出し」、
これで機械装置を駆動させる動力などに利用する仕組み、これは機械工業の核心ともいう
べきもので、ワットはそれを緻密に作り出していったのである。 とくにニューコメンまでの機関が上下(前後)運動(ピストン運動)に限られていたも
のを回転運動にしたことは、もはや揚水に使われるだけではない万能蒸気機関の出現であ
った。この回転運動への転換は 1785 年で、このときから様々な機械に蒸気機関が応用され
るようになっていったのである。こうして蒸気機関の利用範囲を大幅に拡大し、産業に多
大な影響を与えることになった。 ○ワット式蒸気機関と特許紛争 1775 年、ボールトン・ワット商会が設立され、蒸気機関の製造が始まった。石炭消費量
はニューコメン機関に比べ機 関 に 4 分 の 1 程 度 ま で 下 が り( そ れ で も 熱 効 率 7 %
程 度 だ っ た )。こ の 低 コ ス ト は 各 分 野 の 工 場 で 注 目 さ れ 、注 文 が 殺 到 し た 。
当時の動力としては馬を用いることが多かった。そこでワットは馬の力を
「 1 頭 の 馬 は 1 分 間 に 3 万 3000 ポ ン ド を 1 イ ン チ 上 げ る こ と が で き る 」 と
定 義 し 、 蒸 気 機 関 の 料 金 を 算 出 し た 。 ち な み に 1 馬 力 は 746W で あ り 、 初 期
の 蒸 気 機 関 は 5 0 馬 力 程 度 で あ っ た 。 ボールトン・ワット社は、このワット式蒸気機関(初期には、まだ回転運動型ではなか
った)の製造・販売にあたり、会社が提示する契約条件はきわめて合理的で明解であった。
つまり、ワット式蒸気機関の制作費、設置費と同等の仕事をする機関(ニューコメン機関)
と比較して、燃料費の面で実際に節約された額の 3 分の1を支払うことを機関の購入者に
要求していたのである。しかし,この分野でも相変わらず特許の使用料を支払おうとしな
い者が多数あらわれた。 とくにコーンウォールの鉱山所有者たちは、契約した使用料の支払いを拒否するととも
に、1780 年には,特許権の廃止を議会に請願する運動を起こした。この運動はすべての州
に波及していった。こうして数年の間、彼らとボールトン・ワット側とは絶えず紛争を続
けた。 発明家ワットはこの期間もボールトン・ワット社で前述のような画期的な開発研究を続
けることができた。もし、繊維工業の発明者のようにワット個人であったら、このような
特許紛争にとても耐えられず、とっくに破産し,その後の蒸気機関の完成はみられなかっ
1558
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) たであろう。これも特許に対する社会的認識が確立されていなかった初期産業革命期の生
まれ出る悩みであったといえよう。 特許権が廃止されるようなことになれば、今後の発明(開発)そのものにとって一大事
である。ワット自身もコーンウォールに出かけて説得に当った。この時のことをワットは
「彼らは,我々が独占を確立したと言って非難している。しかし、それが(一時的な)独占
であるとしても、この独占が彼らの鉱山を以前よりも、はるかに生産的にしたのである。 ・・・彼らは蒸気機関の使用料を支払わねばならないのは、迷惑だと言っているが、それ
は私の財布を抜き取ろうとする者にとって、私が内ポケットのボタンをかけておくのが迷
惑であると言っているのと同じことである。・・・」とその悩みを述べている。 しかし、1799 年になって,ボールトン・ワット社は訴訟に勝ち、未払いの使用料 3 万ポ
ンド余を一括して受け取ることができた。 こうして、ワットとボールトンは最後までがんばることができ、蒸気機関と機械産業の
確立という偉業を成し遂げることができた。それには 1775 年から 30 年近くがかかってい
た。 ○蒸気機関開発の意義 ワットの蒸気機関の改良の意義はきわめて大きい。紡績機械・織布機械と結びついて、
イギリスの綿工業を著しく発達させただけでなく、その他の多くの機械工業の動力源とな
り、産業革命は綿工業から重工業部門へと発展していった。それまでは水力をおもな動力
としたから、工場の建設は河川の流域に限られていたが、蒸気機関の普及によって工場立
地の制限が少なくなり、石炭・鉄の産地の近くに工場が建てられ(図 13-39 参照)、新興
工業都市に人口が集中するようになった。蒸気機関は、また、後述するように交通機関に
革命的な変革をもたらした。 ワットの功績は、蒸気機関の改善のみではなく、蒸気機関の出力を表わす単位として「馬
力」(ワット)という単位を作っている(なお、この単位が設けられたのは、ワットに対す
る特許料支払い基準を作る必要があったからである)。 1790 年にワットとボールトンはその仕事のほとんどを息子たちに譲り、1800 年までには、
ワットは事実上引退したが、死ぬまで研究を続け、晩年には彫刻をコピーする機械を創案
した。1819 年、産業革命が一層進展し、イギリスが「世界の工場」と称される繁栄へ向かう
中、ワットはバーミンガム近郊のヒースフィールドで死去した。 《工作機械の誕生》 蒸気機関分野での技術革新は機械をつくる機械―工作機械に支えられたものであった。
工作機械の中でも特にに重要であったのは旋盤である。18 世紀の中頃まで使われていた旋
1559
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 盤は主に木材用のものであったが、スイスのマリッツが 1740 年改良中ぐり盤を設計した。
これは鋳物から大砲を中ぐりする能力があった。 ウィルキンソン(1728~1808 年)は、フランスのハンツマンが 1740 年代につくった「ル
ツボ鋼」を用いて、1775 年までには、シリンダー用中ぐり盤をつくった(図 13-40 参照)。
これはガイド棒の両端を支柱にのせて、棒はシリンダーの軸線を貫通し、シリンダーは固
定してあった。これにより 2~3 ミリメートルの誤差でシリンダーが削られた。この旋盤(中
ぐり旋盤)によりワットはシリンダーの内径の難問を解決できた。 1779 年にヘンリー・モーズレー(1771~1831 年)が旋盤に大きな改良を加えた。このモー
ズレー型旋盤には,送り台(スライド・レスト)が備えられており、これによりあらゆる
機械の細部を精密に仕上げることが可能になった。送り台は親ネジの原理によって作動し、
所望のネジ山は右はしにみえるギアで調整された。この送り台は改良されて他の工作機械
にも波及していった。 フライス盤の発明は、アメリカのホイットニーが、1818 年にアメリカで銃器の部品を作
るため、旋盤にカッタを付けたものが始まりのようである。現在、残されている最古のフ
ライス盤は、1820 年にアメリカのホイットニーが作った小型の横フライス盤である。 このように機械をつくる機械―工作機械もワットの蒸気機関の開発にあわせて実用化さ
れていって、産業革命と共に精密な金属製の機械が作られるようになった。 【⑥輸送産業での技術革新】 産業革命期の輸送業の革新は、蒸気機関を応用した蒸気機関車や汽船の発明と普及によ
って本格化するが、それは 19 世紀に入ってからであった。 ○トレビシックの蒸気機関車 軌道を走る蒸気機関車の最初の開拓者はリチャード・トレビシック(1771~1833 年)で
あった。一般にはジョージ・スチーブンソン( 1781 年~1848 年)が発明者と思われてい
るが、後述するようスチーブンソンは蒸気機関車を改良し実用化したのである。 トレビシックは、1803 年にマーサー・ティドビルにあるペナダレン製鉄所に雇われ、は
じめは製鉄所の蒸気機関の製作にたずさわっていたが、馬の代わりに蒸気機関を用いた車
をレール上に走らせて運搬に使用できないかと考えた。 1804 年には鉄製レール上を走る蒸気機関車ペナダレン号を製作した。1804 年 2 月 21 日
に、マーサー・ティドビルからアバーシノンまで約 14.5 キロメートルの距離を、鉄 10 ト
ンと 70 人の乗客を乗せた 5 両の車両を牽引して走行することに成功した。速度は時速約 8
キロメートルほどだったようだ。 1560
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 蒸気機関車の走行には成功したものの、いくつかのトラブルに見舞われたが、一番の問
題はレールだった。当時のレールは馬車鉄道用に作られており、もろい鋳鉄製レールを用
いていた。そのため、機関車の重量に耐えられず、ほどなくして破損した。この時代には、
まだレールや蒸気機関車の開発で多くの課題を抱えており、本格的な鉄道の実用化までに
は至らなかった。 1808 年にトレビシックは新たな機関車を製作した。キャッチ・ミー・フー・キャン(「捕
まえてごらん」)号と名付けられた。この機関車は、ペナダレンで走ったそれとは異なり、
動力伝達は歯車ではなくロッドであった(図 13-42 参照)。トレビシックはこの機関車を
ロンドンで円形に敷いたレールの上を走らせ、見せ物として金を取った。ただし、名前に
反して速度は時速 8 キロほどで、走れば楽に追いつけるほどであったという。 この試みも実用化には至らず、トレビシックは蒸気機関車開発から身を引いてしまった
(トレビシックの孫 2 人は明治の日本にお雇い外国人として招かれ、鉄道技術の指導に当
たった。その一人であるリチャード・フランシス・トレビシックは、初の日本国産蒸気機
関車となった国鉄 860 形蒸気機関車の製作を指導した)。 図 13-42 ロッド式蒸気機関車 ○スチーブンソンの蒸気機関車の実用化 その後、多くの技術者が蒸気機関車の改良に従事したが、この頃、馬の飼料が高騰して
いて、鉱山主は軌道の上を走る蒸気機関車を考えざるをえなくなっていた。 キングワースの炭鉱で機械の責任者になっていたジョージ・スチーブンソン(1781~1843
年)も雇用主に蒸気機関車をつくることを委任された。 スチーブンソンはニューキャッスル近郊の炭坑の貧しい鉱夫の息子として生まれ、17 歳
の時には、父と同じ炭坑で揚水ポンプの係として働いていた。18 歳の時、読み書きを習い
始め、仕事の合間をみては工学の勉強をした。21 歳の時に結婚してその年に息子ロバート
が生まれた。彼はそのうち、父も妻も娘も鉱山の落盤事故で失うという悲劇にみまわれた
(当時、貧しさのため、女、子供も含めて炭坑掘りをしていることはめずらしくなかった)。
失望したスチーブンソンは,この時、アメリカに移民しようと迷ったが、息子のロバートの
1561
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 教育のためにキングワースに留まり、前述したように炭坑の機械の総責任者になったので
あった。 彼はジェームズ・ワットの蒸気機関を改良し、1814 年に最初の炭坑用蒸気機関車「ブリ
ュヘル号」を完成させた。ブリュヘル号の車輪には、フチがついており、軌道にはツバが
ついていた。この技術革新のために、脱線しにくくなり、スチーブンソンが近代的な軌道
用蒸気機関車を最初に走らせたことになる。距離は 4.6 キロメートル、450 分の 1 の勾配を
時速 4 マイルで 8 つの貨車に 30 トンの荷物を積んでいた。 イギリスでは 1820 年までに国家的な軌道網としての公共鉄道という考えが登場し、スト
ックトン~ダーリントン間の鉄道建設のための法案が出され、1822 年には建設が始まった。 スチーブンソンは前述のように初めてフランジが 1 方向のみである車輪を用いた機関車
を開発し、この実績が認められて、1821 年、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の
技術者に任命された。彼は錬鉄製のレールを使用することにした。 トレビシックが蒸気機関車の実用化に失敗し、スチーブンソンが成功したもっとも大き
な理由は、レールにあった。蒸気機関車レールは 1793 年に鋳鉄による L 型のレールが用い
られ始めたが、壊れやすいという欠点があった。1820 年頃から、錬鉄(炭素分が少なく鋳
鉄より強かった)によるレールが導入されるようになったのである。このように技術革新
には周辺技術がそのレベルに達しているかどうかも成功の大きな要因である。 スチーブンソンは鉄道会社の技師長として、
「ロコモーション号」を製作した。この鉄道
は 1825 年、総延長 40 キロのストックトン~ダーリントン間の営業を開始し、蒸気機関車
で営業運転を行う世界初の鉄道となった。 1824 年~26 年はイギリスでは鉄道建設がブームとなり、約 60 のプロジェクトが提案さ
れ、そのうち 17 が法案として通過した。この時、マンチェスター~リバプール間でも、綿
工業の発展で水運では間に合わなくなり鉄道建設の機運が高まった。1826 年にその建設が
決定されたが、このリバプール・アンド・マンチェスター鉄道に使用する機関車はコンテ
スト(レインヒル・トライアル)で決定されることになった。 ジョージ・スチーブンソンは、息子のロバート・スチーブンソンと共同で設計・製作し
た「ロケット号」で参加することにした。彼を手助けしたロバート・スチーブンソン(1803
年~59 年)は彼の一人息子で、ジョージの業績とされているものの多くは、実際にはジョ
ージとロバートの共同作業によるものであった。苦労して育てたロバートは親の期待通り、
エディンバラ大学で機械工学を専門に勉学し、在学中から、ストックトン・ダーリントン
間に最初の鉄道を引く父親のプロジェクトに参加した。父が経験から作り出した機関車を
息子のロバートは最新の機械工学技術で見直しし、改良を加えていった。機械工業を高め
1562
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) るには、経験技術だけではなく、それなりの高度の専門技術が必要であることを示してい
る。 ロバートは、蒸気機関車のコンテストであるレインヒル・トライアルに出場するロケッ
ト号の大部分を設計した。レインヒル・トライアルは、1829 年 10 月にリヴァプール~マン
チェスター 間のマージーサイド州レインヒルで開催された蒸気機関車史の初期に名を残
す競争選考会となった。これは公開競争として実施され、候補となる機関車全てが動く状
態で見ることができるようになっていた。 機関車は 1 日に 2~3 回の走行を行い、数日間にわたっていくつものテストを受けた。参
加した 5 台は、次々と事故を起こし脱落していったが、最後に脱落したノベルティ号は、
軽量で他の機関車よりも高速であり、群集が最も好んだ機関車であったが、ボイラーの配
管に問題が生じて競争を断念せざるを得ないほど機関車が損傷してしまった。やはり、当
時の機械部品は耐久性に問題があったようで、周辺技術の向上がなければ、機械工業は成
り立たないことを示しているようだ。 このため、ロケット号が競争の条件を満たした唯一の機関車となった。ロケット号は 13
トンの負荷を牽引して平均 12 マイル毎時、最高 30 マイル毎時で走行し、500 ポンドの賞金
を獲得した。これによりスチーブンソンはリバプール・アンド・マンチェスター鉄道と蒸
気機関車製作の契約を交わすことになった。同機はその後 150 年にわたって製造された蒸
気機関車の基本設計をほぼ確立しており、スチーブンソン(多分、父親のジョージ・スチ
ーブンソン)はその功績から今でも「蒸気機関車の父」として尊敬されている。 このレインヒル・トライアルで旅客の長距離輸送にも蒸気機関車が、他の馬車や蒸気船
より優れていることが明らかになった。 ロバートは 1823 年には、父親やエドワード・ピース(裕福な羊毛商人)と共に、蒸気機
関車を製造する会社である「ロバート・スチーブンソン会社」を設立していたが、「ロバー
ト・スチーブンソン会社」は、さらにリバプール・アンド・マンチェスター鉄道やレスター・
スワニントン鉄道などの新設路線に向けて蒸気機関車を製造した(のちに同社は初期の蒸
気機関車の大半を製造し、20 世紀中盤まで活動を続けた)。 ロバートは 1833 年には最初にロンドン市内まで敷設された鉄道であるロンドン・バーミ
ンガム鉄道の主任技術者となり、キルスビートンネルなど土木上の難工事が多かったが、
1838 年には開通させた。ロバートは有名な橋をいくつも建造した。ニューカッスルアポン
タインにあるハイレベル橋、メナイ海峡を横切る鍛鉄でできた箱型断面構造を採るブリタ
ニア橋、コンウェイにある同様の橋、ベリックアポントウィードにあるロイヤルボーダー
橋などが彼の製作である。 ○鉄道時代の到来 1563
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 鉄道は、当初は、小規模事業者による地方路線が散在していたが、その後、鉄道の建設
が加速した。1840 年代はとくに鉄道が発展し、この 10 年間で、主要都市を結ぶ鉄道網が形
成された。投機的な資金が集まり、一種のバブルともいえる熱狂的な投資がなされたこと
から、鉄道狂時代(レールウェイ・マニアと言われた。日本の鉄道ファンと意味が異なる)
とも称された。 そのピーク時である 1846 年には、新たな鉄道会社の設立に関する 272 もの法案が可決さ
れた。これによりイギリスでは、同じ区間に重複して鉄道路線が敷設されたり、およそ採
算の取れる見込みのない地方にも敷設されたりすることになった。 一介の布地商人の徒弟であったジョージ・ハドソンは投機で成功して鉄道王となり、こ
のバブルの象徴的存在となった(しかし、後にはバブルがはじけて没落した)。この鉄道
バブルは間もなくはじけて、イギリスの鉄道会社は次第に集約されていった。 ブリテン島の営業線の総延長は急速に延び、1843 年までに 200 マイル(約 320 キロ)、
1850 年までには 6000 マイル(約 9600 キロ)を超え、世紀の中葉までには、全国の主要都
市はすべて鉄道で結ばれた。 ○蒸気船の発明 蒸気船の発明はアメリカ人のフルトン(1765~1815 年)ということで、産業革命期の発
明者が大部分イギリス人である中にアメリカ人とはめずらしい(アメリカで発明家が活躍
するようになるのは 19 世紀の終り頃からで、それまではアメリカは模倣の時代であった)。
しかし、これも発明のもとはイギリスにあった。 ロバート・フルトンは、ペンシルヴァニア州ランカスターで生まれ、肖像画家をしてい
たが、22 歳の時に,絵の勉強でイギリスに渡った。しかし産業革命による社会の変革期の
イギリスで、彼の興味は絵から産業技術へと移り、結局、運河建設を学んだ。 この頃、スコットランドのウィリアム・サイミントン(1763~1831 年)は、自分のつく
った蒸気機関を据えつけた「シャルロット・ダンダス号」を完成し、1803 年 3 月、風にさか
らって 2 隻の帆船を引いて、フォースークライド運河をグラスゴーまで 19.5 マイルを 6 時
間で航行した。船の動力として蒸気の実用性が示された。そして彼はフォースークライド
運河ではしけの運搬に使っていたが、運河の堤防を壊す恐れが出てきてやめてしまった。 これを見たフルトンは、蒸気船の将来性を確信し、フランスで知り合った駐仏アメリカ
公使ロバート・R・リビングストンの援助を得て、ボールトン・ワット社の蒸気機関を買い、
これを携えて 19 年ぶりにアメリカに帰国した(1806 年)。 これを 2 本のマストも備えた新造蒸気船「クラーモント号」に据え付け、完成させた。こ
の船は船長 43 メートル、船幅 4.3 メートル、喫水 1.2 メートル、排水量約 80 トン、直径
1564
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 約 4 メートルの二つの外輪を持っていて、蒸気機関は内径 61 センチにストローク 122 セン
チのピストン・シリンダーから 20 馬力の出力が得られた。 この船は 1807 年 4 月ハドソン川をニューヨークからアルバニーまで 240 キロメートルを、
32 時間かけて処女航行した。32 時間は驚くほど速いわけではなかったが、向かい風でも無
風でも蒸気機関さえ動けば確実に汽走出来ることが示された点で大成功であった。 公開実験の成功後、直ちに船内の宿泊設備などを整えて、土曜にニューヨーク発、水曜
にアルバニー発の週 1 往復のスケジュールで営業運行を開始した。1814 年にはクラーモン
号が引退し、より大きなリッチモンド号が登場した。その後はさらにカー・オブ・ネプチ
ューン号、パラゴン号、ファイアフライ号の 3 隻も加わり、蒸気船時代になっていった。 最初に大西洋を横断した蒸気船(といっても部分的には蒸気機関が使われ、帆が主に使
われたが)は、サバナ号であった。1819 年にアメリカ東岸のサバンナからイギリスのリバ
プールへ,27 日と 11 時間で航海した。しかし、初期の蒸気船による長距離航海には,石炭
を大量に積んでいかなければならず、スペース効率が悪く不利と考えられていた。 この当時、エンジン(蒸気機関)の効率アップと鋼製の船体とスクリュー式推進機の 3
つの問題を解決する必要があった。1843 年、これらの 3 技術がイギリスのブルネル(1806
~59 年)が設計したグレート・ブリテン号に結実した。この船は 1100 馬力、長さ約 107 メ
ートル、幅 17 メートル、3443 トンで、252 人の乗客、130 人の乗組員、荷物 1200 トンの容
量があった。 蒸気船の出現は世界の海を半分か 3 分の 2 ぐらいに縮めた。当時、東インド会社はイギ
リスからインドのブンバイ(ボンベイ)までの往復は最低 1 年、普通は 1 年半ぐらいかか
っていた。グレート・ブリテン号の平均速度 9.3 ノットならば、途中で 3 回の石炭積み寄
港を入れ、向かい風であっても、1 年半で 3 航海はできた。 もちろん、これは大型汽船時代の競争の始まりに過ぎず、その後、この記録はもっとも
っと縮められていった。その後も汽船の進歩発展は著しく,大西洋で華々しい速度競争の
幕が切って落とされた。近代船時代は、このあとタービンとディーゼル機関の発明をまっ
て始まった。 ○産業革命の歴史的意義 産業革命によって、物資が豊かになり、人々の生活が便利になったこと、資本の蓄積に
よって産業資本主義が確立したこと、資本家と労働者の階級対立という新たな社会問題が
生じたこと、など、産業革命はその後の歴史の新しい展開の出発点となり、近代史上もっ
とも重要なできごととなった。 産業革命は 18 世紀の後半から、まず、イギリスで最初にはじまったが、その規模が大き
くなり、社会的な影響があらわれるようになったのは 19 世紀になってからといえよう。 1565
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-43 のように,石炭や鉄の生産も 1790 年代から急増していることが見てとれる。工
場制度の発達により人口の都市集中がおこり、図 13-39 のように、マンチェスター、バー
ミンガムなどの工業都市、リヴァプールのような商港都市が新しく発展した。とくに、綿
織物工業地帯や石炭の豊富なイギリス中部の黒郷(こくごう)地帯(ブラック・カントリ
ー)や製鉄業地に工業都市の発展がみられた。 図 13-43 石炭と鉄の生産 イギリスの工業は世界に優越し、自由貿易を発展させて「世界の工場」としての地位を
しめた。アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどは市場として組み込まれ、従属的な地位
におかれることになった。 また、人口の都市集中の結果、工場の周辺にはスラム(貧民街)ができ、その不健康な
環境は疫病や犯罪の巣となった。新興都市へ人口が流出し、いわゆる腐敗選挙区(後述)
の問題も生じた。産業革命の影響とその効果については、それが明瞭になった 19 世紀の歴
史で述べることにする。 【13-3-4】フランス革命 【①旧体制の矛盾…3 身分制のフランス社会】 18 世紀のヨーロッパ各国では、自然権や平等、社会契約説、人民主権論など理性による
人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていったことは述べた。責任内閣制を成立させ産業
革命が起こりつつあったイギリス、自由平等を掲げ独立を達成したアメリカ合衆国(後述)
は、他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた。プロイセンやロシアでも、絶対君主制
の枠を超えるものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようとした啓蒙専制君主
が現れた。 ○フランスの旧体制(アンシャン・レジーム) しかしフランスでは 18 世紀後半に至っても、君主主権が唱えられブルボン朝による絶対
君主制の支配が続いていた。絶対王政は、封建的身分制を保持したが、そうした社会を旧
1566
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 体制(アンシャン・レジーム)という。 アンシャン・レジーム下の 18 世紀後半のフランスの人口は約 2800 万人と推定されてい
る。そのフランス社会は、図 13-44 のように、3 つの身分によって構成されていた。第 1 身
分である聖職者が 14 万人、第 2 身分である貴族が 40 万人、第三身分である平民がその他
の大部分を占めていた。 図 13-44 フランスの旧制度下の身分構成 全国人口のわずか 2%を占めるに過ぎない聖職者(第 1 身分)と貴族(第 2 身分)の支配
者階級が、国土の 3 分の 1 以上の広大な土地を所有し、絶対王権に寄生して官職を独占し、
しかも、年金支給や免税などの特権をもっていた。 第 3 身分は、人口の 95%以上を占める平民(農民と市民)であり、そのほとんどは農民
で重い税と封建的負担に苦しんでいた。具体的には国王が接収する租税と領主の徴収する
貢租および領主裁判権に服するなど二重の負担に苦しんでいた。 一方でアンシャン・レジームに対する批判も、ヴォルテールの社会批判、モンテスキュ
ーの専制政治批判、ルソーの自然権にもとづく合理主義・自由思想など、啓蒙思想が広く
社会に普及、革命の精神的基盤が準備されていた。イギリスの立憲政治の確立、とくに、
自由と平等を謳ったアメリカ独立宣言(後述)は、自由の勝利、啓蒙思想の実現として、
フランス革命に大きく影響した。 ○ルイ 16 世の改革の試み 1780 年代、フランスでは 45 億ルーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。
赤字が膨らんだ主な原因は、ルイ 14 世時代以来の対外戦争の出費、アメリカ独立戦争への
援助、宮廷の浪費であった。当時の国家財政の歳入は 5 億ルーブルであり、歳入の 9 倍の
赤字を抱えていたことになる(現在の日本は国家収入が 50 兆円に対し、1000 兆円の国債が
1567
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) あるから、20 倍の赤字ということになり、フランス革命時をはるかにこえている)。 そこで当時の国王ルイ 16 世(在位:1774~1792 年 8 月 10 日)は、啓蒙思想家の一人で
重農主義経済学者のチュルゴ(1727~81 年)を財務長官に任命し、財政改革を行おうとし
た。第 3 身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたので、テュ
ルゴーは聖職層と貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとした。貴族と教会聖職者
がもっていた免税特権の廃止は、宮廷費の削減と並んで、財政改革の重要な柱であった。し
かし貴族達は猛反発し、テュルゴは十分な改革を行えないまま財務長官を辞任した。 チュルゴのあと財務長官になったネッケル(1732~1804 年。財務長官在位:1776~1781
年)は、アメリカ独立戦争の支援の経費を、またしても国庫借入でまかなったので、1788 年
には、ついに負債利子だけで総額 3 億 1800 万ルーブル、実に歳出の 50%相当にもおよんだ
のである。従来の税制ではもはや国庫の赤字をおぎなうのはおろか、その増加をとめるこ
とさえ不可能な状況だった(図 13-17 参照)。 残された道は、従来、免税特権をもっていた人々からも税をとることしかなかった。ネッ
ケルは、王妃マリー・アントワネットとその寵臣(ちょうしん)に質素倹約を進言したた
め、マリー・アントワネットと保守貴族達に疎まれフランスの財政再建は進まないまま、
1781 年にルイ 16 世 によって罷免されてしまった。 そのあとのカロンヌ(財務長官在位:1781~1788 年)も 1787 年 2 月には新税の導入をは
かるが、失敗、1788 年にそのあとの財務長官となったブリエンヌは貴族の牙城であった高
等法院に対決し立ち往生した。その都度、ルイ 16 世は財務長官の首をすげかえてきたが、
タマがつきたと見えて、1788 年、再びネッケルのところにお鉢が回ってきた。 ネッケルはそこで、世論を味方につけて財政改革を行おうと考え、三部会( 各身分の代
表から構成される身分制議会)の開催を就任の条件とした。貴族らの特権階級は、この機
会に王権を制限してみずからの政治的発言権を強めようとした。パリ高等法院は、全国三
部会のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第 3 身分の広い範囲から支持を受
けた。そこで国王は 1788 年 7 月に全国三部会の開催を約束した。 ○三部会と国民議会の開催 1789 年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5 月 5 日、ヴェルサイユで開会式が行
われた。国王は三部会を主導しての問題解決、つまり増税を目論んでいたが、当時のフラ
ンスは財政を再建するにはこれまで課税を免れてきた第 1 身分(僧侶)と第 2 身分(貴族)、
つまり、支配者階級にも課税を行なうしか方法はなかった。 しかし、これに反発した第 1 身分と第 2 身分は三部会で分離審議と身分別投票を主張し
(分離すれば第 1・2 身分は 1+1=2 であるのに対し第 3 身分は 1 であるから第 1、第 2 身分
が有利と考えていた)、合同審議と個人別投票を主張する第 3 身分(平民)と激しく対立し
1568
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) た。 議決方法をめぐって紛糾した三部会に対し、独自に審議を進める第 3 身分にパリの一般
市民や下級僧侶らが合流し始め、国民議会を名乗った。ついに第 1 身分の議員は第 3 身分
の審議に合流することを決定したが、これに脅威を感じた王弟アルトワ伯は議場を閉鎖す
るという断固たる措置を講じた。 この結果、議場から締め出された第 3 身分代表たちは、6 月 20 日に議場に隣接する庭球
場(テニスコート)で、憲法を制定することと国王が国民議会を正式な議会と認めるまで
解散しないことを誓った。ミラボー(1749~91 年)やシェイエスが指導した。テニスコー
トの誓いとも呼ばれている。 6 月 24 日には聖職者 151 人と 25 日にはオルレアン公など貴族 47 人が国民議会に合流し、
流れは、国民議会になってきた。第 1 身分、第 2 身分代表中にも、アンシャン・レジームに
無理があることを理解している者がおり、そうした者たちも国民議会に参加したのである。 6 月 27 日に国王は「わが忠実なる僧侶と、わが忠実なる貴族」に対し、第 3 身分代表の会議
への合流を指示した。7 月 7 日、憲法制定委員会が設置され、9 日には、議会は「憲法制定国
民議会」と称することに決定した。 【②バスティーユ牢獄の襲撃―フランス革命の勃発】 このような政治的緊張が続くなか、国王政府は 1789 年の 7 月 11 日には 2 万の兵をパリ
に集結させ、その武力を背景に、民衆の期待を集めていた財務大臣ジャック・ネッケルを
罷免した。後任は強硬派のブルトウイユ男爵であり、あわせて、パリとヴェルサイユに集結
した軍隊の総司令官には、生粋の軍人ブロイ元帥が任命された。 これは王妃マリー・アントワネットや王弟アルトワ伯らの独断であった。国王はパリ民
衆に対する武力鎮圧には消極的であったが、もはや国王政府は強硬派で占められ、ルイ 16
世の意向が通らないほどになっていたのである。 かねて財政整理が不調なうえに、1788 年から続く凶作による麦価高騰と食糧危機におそ
われ、そのうえ失業がかさなって、社会不安が高まっていた。改革を求める民衆運動が都
市でも農村でもおこっていた。 「ネッケル罷免」の報がパリに届いたのは 12 日の朝、この午後には改革派を任じたオルレ
アン公の所有地、パレ・ロワイヤルの中庭やチュイルリの庭園に議論の輪が広がり、人の群
れができた。中庭でかわるがわる立った弁士たちは、「ネッケル解任は国民への攻撃の開始
である。この攻撃に続いて、サン・バルテルミの虐殺がある。今こそ武器を取れ、武器を
取れ」と檄を飛ばした。 民衆とブルジョワジーたちは憤激し、7 月 12 日には数千とも数万ともいわれる人々が廃
1569
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 兵院(アンヴァリッド)に押しかけて、自衛と秩序保持を名目に武器と弾薬を引き渡すよ
うに要求した。図 13-45 のように、セーヌが左にカーブを切りはじめるところに、アンヴ
ァリッドがある。この建物は現在はナポレオンの遺骸が安置されて墓廟となっているが、
この当時は、あの太陽王ルイ 14 世が、退役した傷痍軍人のための施設として設置したもの
であった。 図 13-45 革命期のパリの中心部 12 日深夜に市門の焼き打ちが起こった。市の入り口に設置された門で、入市税が取り立
てられ、それが物価高に苦しむ民衆の反感の的になっていたからである。54 あった市門の
うち、40 が次々と放火された。別の群衆は武装のための武器を求めて、武器商店を襲った。 13 日のパリも騒然としていた。もう一つの動きもあった。裕福な市民たちが中心になっ
た展開であった。これは国王軍に対抗すると同時に、群衆の無秩序な動きを抑えて、市内の
治安を自分たちの手で確保しようとする試行であった。1 月に実施した三部会議員選挙のた
めの選挙人集会が市政を掌握していくための「常設委員会」として位置づけられ、そして、こ
こで治安確保のための市民軍結成が決定された。 以上のような展開があって、そして、いよいよその時、7 月 14 日がきた。 ○バスティーユ牢獄の襲撃 7 月 14 日、朝 10 時半、群衆が廃兵院で 3 万丁の小銃を奪い、さらに弾薬の調達のために
バスティーユ牢獄へと向かった(図 13-45 参照)。これはもともと中世にパリの東を防衛す
るための要塞として建てられ、高さ 30 メートルの 8 つの塔をそなえた堅固な石造りの要塞
であった。ルイ 13 世の時代から牢獄としても使われるようになっていた。 廃兵院から回ってきた人々で人数は膨らみ、要塞内部に通じる主門の跳ね橋が下ろされ、
1570
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 群衆がなだれ込み、激しい銃撃戦が展開された。最終的にバスティーユ全体を群集が制圧、
牢に入れられていた 7 人の囚人が解放された。同牢獄には民衆が考えていたような政治犯
はいなかった。かくして、バスティーユ牢獄は陥落した。攻め込んだ群集側には 98 人の死
者、対する守備隊側は、敗北後に虐殺された者を除くと、死者 1、負傷者 3 であった。 群衆は市庁舎に着いたところで、群集の中に引き込まれたバスティーユ司令官ド・ロー
ネーは、首をはねられた。3 人の士官と 3 人の守備兵も、司令官と同じ運命をたどった。さ
らに市長のフレッセルも、この日の出来事への対応を「裏切り行為」として咎められ、市
庁舎から出て来たところを射殺され、首をはねらた。 彼らの首を槍の先に刺して高く掲げ
た群集は、市庁舎前の広場を練り歩いた。 「バスティーユ襲撃」の知らせは直ちにパリの西南 20 キロほどのヴェルサイユ宮殿にい
る国王ルイ 16 世の元にもたらされた。この事件は国王政府を驚愕させ、方針の変更をうな
がした。 ルイ 16 世は軍のパリ撤退とネッケルの復職を決定し、さらに自らパリに赴き、新たなパ
リ政府当局とブルジョワジーの民兵である「国民衛兵」を承認した。この市民軍の司令官
にラファイエットが着任し、フレッセルの後の市長には天文学者のバイイがついて、市政
革命が宣言された。この市政革命により、フランス各都市ではブルジョワジーからなる常
設委員会が設置され、市政の実権を掌握するようになった。 一方、ルイ 16 世のパリ行きとネッケルの復職は、第 1・第 2 身分及び王族たちにとって
は、民衆への譲歩ととらえられた。王族や貴族たちは革命に対して武力行使も辞さない姿
勢をとり、国王へ圧力をかけていった。武力行使に消極的であったルイ 16 世は国民議会と
国王政府の板挟みとなり、さらに無力になっていった。 ○農村暴動 パリでの事件が伝えられると、7 月後半から 8 月にかけ、多くの都市でバスティーユ攻略
現象が起き、実力行使で旧市政を追い払うというような争乱が起きた。多くの都市がパリ
にならって、自分たちの国民衛兵組織を形成していった。 1787 年、88 年と続いた不作にあえぐ農村では、89 年の春から各地で農民一揆が起こるよ
うになっていた。小作料や地代の減免を求める声は、多くの貧農にとって切羽詰まったも
のになっていた。パリの争乱が伝わると、争乱はフランス全国に飛び火し、7 月 20 日から
8 月 6 日にかけて、暴動を起こした農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨て
るという事件が各地で発生した。出動した国民衛兵による鎮圧はときに熾烈をきわめ、多
くの死者が出た。 ○1789 年 8 月 4 日、封建的特権の廃止 ヴェルサイユの国民議会も、予想もしなかった農村の大パニック現象に、どのように対
1571
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 処すべきか困惑した。農民を代表できるものは、ここには一人もいなかった。 結局、第 3 身分代表と貴族代表は妥協の案を考え出した。身分的な領主特権は廃止され
るが、地代あるいは年貢の権利は、農民によって買い取られることによってはじめて廃止
される(農民にはとても買い取れないという背景がある)、すなわち領主の土地経営に関す
る権利は正当なものと認められる、となった。 8 月 4 日の夜、国民議会の聖職者・貴族は、貴族の封建的特権だけでなく、都市の特権、
あるいは州の特権も、みずから次々と廃止を宣言していった。①免税特権の廃止、②農奴
制の廃止、③領主裁判権の禁止、④教会の 10 分の 1 税の無償廃止などが宣言された。しか
し年貢の負担はなお続き、農民が土地を買いとるためには、年貢の数十倍の金を支払わね
ばならない有償のものであった。また、国民はすべて出生(家柄)に関係なく国家のあら
ゆる官職に就くことができることなどを宣言した。 ついこの間までは考えられなかったことが、自己犠牲の感激と興奮に満たされつつ、決
議されていったので、この夜は「魔法の夜」と呼ばれた。この「魔法」は、農民たちにも
きいたようで、現実には、貧しい農民には買い取れないほどの条件がつけられているのだ
が、封建的特権の廃止を無条件なものと受け取った農民は満足して、農村の混乱は急速に
おさまっていった。 いずれにしても、身分的な特権は廃止された。これは画期的なことであった。ある一つ
の世界が終わりを告げつつあったことは、まちがいない。これは、同時代の人々もそう感
じたようである。次はどのような憲法をあらたに制定するかであった。 ○8 月 4 日、人権宣言の採択 国民議会は前述のように 8 月 4 日の夜に封建的特権の廃止を宣言し、8 月 26 日には人権
宣言を採択した。バスティーユ襲撃後のほんの 6 週間、そして封建制度の廃止後のわずか
に 3 週間で人権宣言は国民主権と機会均等の教義を押し出した。このように短期間に人権
宣言ができあがったのには、その起草者のラファイエットの働きが大きかったといえよう。 ラファイエット(1757~1834 年)はフランスの貴族の子に生まれたが、1776 年、アメリ
カ独立戦争が勃発すると、支援を求めて来仏したベンジャミン・フランクリンに会ってそ
の考えに共鳴し、自費を投じて船を購入し、義勇兵としてアメリカへ渡り、アメリカの独
立を決定的にした 1781 年のヨークタウンの戦いに、彼は重要な役割を果たし、「両大陸の
英雄」と称えられ、一躍名声を得ていた(アメリカ独立戦争で記す)。彼はアメリカ独立宣
言を起草したジェファソンをはじめ、当時の啓蒙思想家、政治家などに通じており、今後
のフランスがどうあるべきかは人一倍考えてきていた。 1789 年、ラファイエットは三部会の第 2 身分(貴族)代表として選出された。しかし、
アメリカ独立戦争(1775~1783 年)を戦った彼は、フランスの絶対王政を立憲君主制に変
1572
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 革するべきだという構想を持ち、第 2 身分でありながら第 3 身分の側に立って、議会政治
の実現に向けて行動した。ラファイエットは、バスティーユ牢獄襲撃後に新設された国民
軍司令官に任命されるとともに、封建的特権が廃止されると、彼はフランス人権宣言の起
草に着手した。 国民議会(憲法制定国民議会)が「人間および市民の権利の宣言」、いわゆる「人権宣言」
を採択したのは、8 月 26 日だった。この宣言は近代民主主義発展史上に記念碑的な位置を
占めるもので、これほど短期間にこれほどの人権宣言をまとめたのは、ラファイエットに
よる人類の叡智である。 通常は人権宣言と呼ばれているが、1948 年に国連で採択された「人権に関する世界宣言
(世界人権宣言)」などのその後できた他の人権宣言と区別するために「フランス人権宣言」
とも呼ばれている。 前文と 17 条からなるこの宣言は、憲法全体の前文にあたる原則の確認である。 第 1 条……人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である。社会の区
分は広く一般的な有用性にもとづく場合にのみ存在しうるという〔人間の自由・平等〕か
らはじまり、 第 17 条……所有権は侵すべからざる神聖な権利であるから、何びとも、適法に確認され
た公共の必要が明白にそれを要求する場合で、事前の公正な補償の条件のもとでなければ、
それを奪われることはないという〔所有権の不可侵〕まで、この人権宣言は、人間の自由・
平等、主権在民、思想・言論の自由、私有財産の不可侵などを主張し、市民革命の原理を
高らかに表明したものである。 宣言で述べられた諸原理は、啓蒙思想のところで述べたロックの抵抗権の考え方、ルソ
ーによって理論化された社会契約、モンテスキューによって支持された権力分立といった
啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来している。また、このフランス人権宣言に先行
して、ジョージ・メイスンによって進められ、1776 年 6 月 12 日に採択されたバージニア権
利章典や 1776 年 7 月のアメリカ独立宣言があった(アメリカの歴史で詳述する)。 ただし、きわめて重要なことであるが、この宣言において保障されていた人権は、
「市民
権を持つ白人の男性」に対してのみである。これは、当時の女性や奴隷、有色人種を完全
な人間として見なさないという観念に基づくものであった(古代ギリシャ・アテナイの民
主政と同じだった)。また、こうした理念も植民地には適用されなかった。 ○10 月 5 日、ヴェルサイユ行進 革命勃発当時のフランスでは、前年の凶作や政情不安のため穀物の売り渋りが横行し、
パンをはじめとする食料品の価格高騰にパリ市民は苦しんだ。 1789 年 10 月 5 日、雨の中、民衆街区から女たちが、ぞくぞくと市庁舎前のグレーヴ広場
1573
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) に集まってきて、「ヴェルサイユの王様に、パンを頼みに行こうじゃないの」と気勢を上げた。
女たちは槍や剣で武装し、大砲までひっぱっていた。こうして女たちは、国王と議会にパン
の供給を求めるために、ヴェルサイユに向けて出発した。その数は増え続け、6000 人とも
7000 人ともいわれた。ラファイエットの率いる 2 万人の市民軍が後を追った。 翌 6 日未明、武装した市民の一部がヴェルサイユ宮殿に乱入し、スイス傭兵の近衛兵数
人を殺害した。これを見た民衆は暴徒と化し、ヴェルサイユ宮殿に雪崩れ込んで略奪を行
うとともに、国王を拘束した。民衆は国王に対しパリへの帰還を迫った。 午後 1 時、王を乗せた馬車を 3 万人の武装した群衆が取り巻いて、隊列はパリへむかって
出発した。銃剣の先にパンを刺した国民衛兵が、隊列を先導した。王宮の小麦を満載した馬
車、議員たちの馬車、王家の馬車が並んで続いた。群衆は「国王万歳」を叫んでいた。 こうして宮廷と、それに続いて議会も、ヴェルサイユからパリに移動し、政治の中心はパ
リに一元化されることになった。国王はパリのテュイルリー宮殿(図 13-45 参照)に家族
と共に移り住んだ。これ以降、ルイ 16 世一家はパリ市民に監視されて暮らすことになった。
「封建的特権の廃止宣言」や「人権宣言」を国王が承認したことから、政局の混乱は一応
沈静化した。 【③国民議会(憲法制定国民議会)】 1789 年の穀物収穫は好調だったので、秋も深まりと食糧危機は遠ざかり、社会にもやっと
落ち着きがみられるようになった。そのような状況のなかで、どのような憲法を制定する
のか、政局の中心は議会に移った。 1789 年から 91 年にかけて、立憲王政の憲法実現に向かって議会が動いていた。この時期
を代表する人物に、ラファイエットとミラボーがいて、彼らは国王と民衆の間を仲介する
役割で注目された。 ○1971 年 6 月 21 日、ヴァレンヌ逃亡事件 ところが、1791 年 6 月 21 日朝 7 時、チュイルリ宮の国王の寝台がもぬけの殻になってい
るのが発見された。王妃や王子もいなかった。ただちにラファイエットやバイイが対応に
動いた。国民議会にとっては、立憲王政の憲法でまとまりかかっていた時期だった。とりあ
えず立憲君主制でまとまれば一段落するとみんな思っている矢先だった。国王が亡命した
ということになれば、すべてが振り出しにもどって再び混乱するのは目にみえていた。 今までも、ルイ 16 世は、隣接するスペインやオーストリアに密使を送って、国外からの干
渉戦争で革命をつぶす計画の実現をくりかえし模索していたが、優柔不断の性質からまだ
踏み切れなかった。そのルイ 16 世も立憲君主派のミラボーの死(1791 年 4 月)を機に(ミ
ラボーは革命勢力と反革命勢力との調停役をしていた)、革命の先行きに悲観したとみえて
1574
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 王妃マリー・アントワネットの実家であるオーストリアへ逃亡することを決心したようで
あった。 6 月 21 日夜 10 時半頃、国王一家の大型馬車がヴァレンヌに到着したとき(図 13-46 参
照)、先回りした追跡隊と住民の追及で、それが国王一家であることが露見した。一帯の国
民衛兵が続々駆けつけた。 図 13-46 革命時のフランス 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 国王逃亡の情報は 21 日から各地に伝わった。この事件は、フランス国民に多大な衝撃を
与え、同時にルイ 16 世の反革命思考が暴露されることともなった。結果、それまでは比較
的多数を占めていた国王擁護の立場をとっていた国民も含めて革命は急進化し、共和政の
樹立へと流れを変えるきっかけとなった。 さっそく弁護士ロベスピエール(1758~1794 年。後述)は「国王は、王国筆頭の公務員と
して、法にしたがわなければならない」として、国王の裁判を求めた。ダントンがリーダー
となっていたコルドリエ・クラブでは、共和政樹立を要求する方針が打ち出された。しか
し、立憲王政の憲法をほとんど仕上げていた憲法制定国民議会は、これらの動きをなんとか
かわして、政局を立憲王政の道に引き戻そうとした。 国王の逃亡未遂事件は、保守派の貴族たちの国外脱出を加速させた。軍の士官となって
いた貴族のあいだでも、亡命があいついだ。彼ら亡命貴族たちは,国外で反革命勢力の結
集をはかりだした。8 月 27 日には、亡命に成功したルイ 16 世の弟アルトワ伯が仲介し、マ
リー・アントワネットの兄の神聖ローマ皇帝レオポルト 2 世とプロイセンのフリードリヒ・
ヴィルヘルム 2 世がピルニッツ城(現在のドレスデン市内にある)で会見し、必要があれ
1575
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ばフランス革命に干渉する用意があることを共同で宣言した(「ピルニッツ宣言」)。これは
後のフランス革命戦争への号砲となっていった。 ○1791 年 9 月 3 日、1891 年憲法の制定 国民議会で続けられていた論議は、やっと 1791 年 9 月 3 日に成立した憲法に結実した。
市民が人民から権力を委任されて憲法を制定する権力をもったことは、まさに重大な革命
行動であった。フランス最初の憲法であった。すでに出来上がっていた人権宣言がその前
文をなした。 憲法は三権分立、1 院制の立憲王政を採用していた。旧来の州は解体され、83 の県が行
政区分の基本となった。人権宣言では国民主権が明言されたが、参政権は能動市民に限られ
るとして、25 歳以上のフランス人男性で、少なくとも 1 年間、同一の地に住み、3 日分の
労賃に該当する直接税を納入していること、これが選挙権の条件であった。 奉公人や使用人、女性は、はじめから排除された。しかもこの能動市民は、議員を選ぶ
のではなく選挙人を選ぶのでしかなかった。選挙人に選ばれるには、さらに 10 日分の労賃
にあたる額の納税者であるという条件がついた。しかも、この選挙人が議員を選ぶのだが、
議員への立候補の資格はさらに厳しい納税条件で縛られていた。 能動市民は約 430 万人(当時の人口を 2800 万人とすれば 15%)、選挙人は約 4 万 3000 人
と見積もられている。確かに身分による差別は否定されたが、とってかわったのは、財産
による政治、有産者寡頭政治であった。当然、排除された多数には不満が残った。 ○1991 年 10 月、立法議会の出発 1791 年 6 月から 9 月にかけて、「1991 年憲法」の成立を前提に、新しい議会へむけての選
挙が行われていた。10 月 1 日、新憲法のもとで立法議会が出発した。選挙はまったくの制
限選挙であったが、再選が禁止されていたため、議員の顔ぶれはそれまでの国民議会とは
一新された。全議員は 745 人で保守的な貴族は姿を消した。 立法議会の最初の段階では、右翼に位置し立憲君主制をめざすフイヤン派が 260 人、左
翼に位置し国王なしの共和政をめざすジャコバン派(ジロンド派を含む)が 130 人ばかり、
中間には、クラブによる色分けはきかないが,憲法体制と革命の原則を支持する約 350 人
の議員たちが存在していた。 クラブを基盤とするジャコバン派は、1991 年憲法体制では不十分だという点では一致し
ていたが、せまりくる周辺諸国からの干渉戦争のおそれを前にして,開戦の立場をとるか
どうかでは内部で対立した。ジャコバン派の院外の実力者ロベスピエール(再選が禁止さ
れたので議員でなくなった)は、旧貴族が放棄した軍は統制が取れていないから,勝ち目
が薄いので,開戦には反対していたが、ジャコバン・クラブでは少数派であった。ジャコ
バン・クラブのジロンド派は、対外戦争を利用して国王の真意を明確にしようとし、主戦
1576
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 論を展開した。 ○1792 年 4 月、フランス革命戦争の開始 つまり、このころのジャコバン・クラブには、主戦派=穏健共和派(ジロンド派)、反戦
派=急進共和派(ジャコバン派)という構図で,主戦派が多数を占めていた。急進共和派
議員の多くは議会で議場後方の高い位置に陣取ったため、山岳派(モンターニュ派)とも
呼ばれた。 1792 年 3 月、国王から新たに組閣を命じられたのは、開戦論のジロンド派が強い内閣だ
った。1792 年 4 月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告し、フランス革命戦争が勃
発した。しかしロベスピエールの予想どおり、破産状態のフランスは戦備が整っておらず、
兵士も未訓練で、指揮系統が機能しないフランス軍は敗戦を重ねた。フランス軍の士官達
は貴族階級であるので革命政府に協力的ではなく、指揮命令系統はないに等しかった。ま
たマリー・アントワネットは敵方にフランス軍の作戦を漏らしていた。 戦局は,オーストリアの同盟国プロイセン軍がフランス国境に接近しているという報が
伝わると、7月 11 日、議会は「祖国は危機にあり」と議会の主導権を握っているジロンド派
は非常事態宣言を発した。一方、7 月 14 日の記念祭典にむけて、各地の国民衛兵たちはパ
リにのぼりはじめていた。彼らは連盟兵と呼ばれていて、祭典のあと義勇兵として前線に
出発していく手筈になっていた。このときマルセイユの義勇兵が歌っていた歌『ラ・マル
セイエーズ』は後のフランス国歌となった。 【④1792 年 8 月 10 日事件、蜂起コミューンと王権停止】 そのころのパリは、もともと三部会議員選挙のために区分された 60 の「ディストリクト」
という地区が 1790 年から 48 に再編されたものであった。パリの民衆運動もこうしたセク
ションを基盤に組織されるようになった。パリの民衆運動は、サン・キュロット運動とい
われ、貴族など支配階級がはくようなキュロット、つまり膝までのズボンをはかず、職人
に代表されるような長ズボンをはいている民衆という意味であった。 このパリのセクションを基盤とするサン・キュロットは、王権の停止と議会の刷新をか
かげて,蜂起の準備に入った。連盟兵たちも,マルセイユからの部隊と西フランスのブレ
ストからの部隊を中心に同調した。 1792 年 8 月 10 日朝 6 時、各セクション代表が市庁舎に集結し,既存の市議会にかわって
「蜂起コミューン」を宣言し、ときの国民衛兵司令官マンダは王宮から市庁舎に召喚され、
逮捕後に殺害された。かわって、セクション代表のサンテールがその任についた。各地区
からサン・キュロットと連盟兵とが、チュイルリ宮へと進撃を開始した。 国王側が頼れるのは,スイス傭兵 900 人しかいなかった。国王一家は議会に避難した。
1577
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 銃撃戦は 2 時間で終わった。守備隊のスイス傭兵死者 600 人、蜂起側死傷者 400 人、こう
してチュイルリ宮は武力制圧された。 1792 年 8 月 10 日に成立した蜂起コミューン、すなわちパリ市の実権を握ったのは,武装
したサン・キュロットだった(これは国民や市民をまったく代表しないものだった)。48 セ
クションの代表 288 人で構成されたコミューンは、その成立の経緯からもわかるように、
市政だけに満足するわけではなかった。議会に逃げ込んでいた国王一家を拘束して,旧タ
ンプル修道院の陰鬱な塔に幽閉したのは、コミューンであった。 ○革命の中の革命、1 種のクーデター 蜂起コミューンの代表に武力でうながされて,国民を代表する立法議会は王権を停止し、
新憲法を作成するための国民公会を決定した。これは明らかに非合法な武力による強制で
フランス革命のなかでも大きな節目になる段階と考えられる。革命の中の革命で、まった
く武力による脅しで革命の流れをねじ曲げるものだった。 コミューンの圧力のもとにおかれた議会は、王権停止を受けて,6 人のジロンド派からな
る「臨時行政評議会」が設置された。法務大臣には、パリの民衆運動とも近いダントンが就
いた。 1792 年 8 月 11 日、立法議会がパリ・コミューンの圧力によりフランス国内全土の反革命
容疑者の逮捕を許可し、17 日に反革命であったものを裁くための「特別重罪裁判所」が設置
され,26 日には,宣誓を拒否していた聖職者を国外退去処分にし、従わないものはギアナ
流刑にする法令が出された。いずれもコミューンの圧力のもとに、議会が可決したものだ
った。こうしてパリの牢獄は反革命主義とみなされた囚人で満員になった。 現在では、この 8 月 10 日の出来事は、誰かが画策してやらせたという証拠はなく(ダン
トン、ロベスピエールあるいはジャコバン派の指導などの説があるが)、あくまでセクショ
ンのサン・キュロット、すなわち地区の小ブルジョワや民衆が連携して中核となり、一部
の連盟兵とともに蜂起したものだったといわれている。武力革命のはずみがそのようなこ
とを引き起こさせることはないとはいえなかもしれない。いずれにしても、またしても一
部の民衆の運動(武力)が,革命のあらたな展開をうながしたのであった(バスティーユ
牢獄の襲撃、ヴェルサイユ行進につぐ 3 度目の民衆の武力行使)。 ○1792 年 9 月の虐殺 パリ・コミューンの暴走は大虐殺事件を引き起こした。きっかけは革命戦争において、
オーストリア軍がヴェルダン要塞を陥落させ、その敗報がパリに衝撃をもたらした際に行
なわれたダントンの演説であった。ダントンは「いま必要なのは大胆な勇敢さだ。そうすれ
ば祖国は救われるのだ」と演説したが、それがその後のテロを招いたと考えられている。 9 月 2 日の朝から反革命派狩りが始まり、パリ・コミューンの監視委員会は全ての囚人を
1578
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 人民の名において裁判することを命じた。
「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇
軍の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂が流れた。コミューンは防衛
を固め、警鐘を乱打し、市門を閉じた。やられる前に、やれ。こうして、その日の午後か
ら、民衆による牢獄の襲撃が始まった。牢獄は次々と襲われ、囚人は手当たり次第に引き
ずり出された。問答無用の殺害、あるいは略式裁判のまねごとの後、虐殺された。 虐殺は数日間続いた。この結果パリ市内の牢獄は空になった。数日間吹き荒れた暴力で
犠牲になったものは、推計 1100 人から 1400 人だった。のちになって、犠牲者のうち本来
殺害の対象となる反革命主義の政治犯は全体の 4 分の 1 で、4 分の 3 はありふれた通常の犯
罪者だったことが判明している。また、似たような虐殺が、前後して各地の都市でも起こ
った。その犠牲者の総計は 1 万 4000 人とも 1 万 6000 人ともいわれている。 9 月の虐殺の後、パリの民衆は大挙して義勇兵として志願し,各地の義勇兵とあわせ革命
軍の兵力は数万の増加をみせた。東部国境地帯では,ヴェルダン要塞が落ちたあとも戦闘
は続いていた。9 月 20 日、義勇兵で強化された革命軍は、ヴェルミの丘でプロイセン・オ
ーストリア連合軍を撤退させた。これで戦局がすぐにフランス革命軍側に有利になったわ
けではなかったが、義勇兵で立ち直りつつあったのは確かだった。 ○1792 年 9 月 21 日、国民公会の発足 1792 年、パリ市民がテュイルリー宮殿を襲撃した 8 月 10 日事件で王政が打倒されたこと
で、立法議会は法令を発してルイ 16 世の王権を停止したことは述べた。誕生を予告された
新議会はロベスピエールの事前の提案で「国民公会」という名称に決まり、選挙もフラン
ス革命中では唯一となる男子普通選挙で実施された。国民公会議員の選挙は,21 歳以上の
男子による間接普通選挙であった。フランス史上最初の普通選挙といわれているが実態は
きわめて不十分なものであった。約 700 万人の有権者が誕生したが,投票数は約 70 万人に
すぎなかった。普通選挙といってもきわめて偏った形式だけの選挙といわざるをえなかっ
た。 従って、選出された 749 人の議員は、すべて革命の支持者であった。 1792 年 9 月 20 日、ヴェルミで革命軍がはじめて勝利したその日、立法議会は幕を閉じ、
翌 9 月 21 日、国民公会が開廷した。 これらの議員の議場では、だれもが共和政を否定しないなかで、右派に立ったのはジロ
ンド派であった。彼らは、コミューンや民衆運動とは一線を画し、できればそれらの動き
を抑えようとする警戒心は変わらなかった。 左派は、ジャコバンの「山岳派」であったが(議場の左翼上方に席を取ったので、この名
がつけられることになったが)、ロベスピエール、ダントン、マラーがリーダーとして再び
議会に登場してきた。彼らは,民衆運動との連携と革命の先鋭化に積極的であった。 1579
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 両者の中間に、どちらにも特定されない「平原派」がいて、この投票行動の行方が、議事
の審議では大きくものをいうことになった。 国民公会発足当初は,ジロンド派が 150 人から 200 人くらい、山岳派は数十人だった。
このように秋の国民公会発足の当初は,ジロンド派が圧倒的に優勢だった(これが 1793 年
春には、ジロンド派は 137 人から 178 人、山岳派は 258 人から 302 人になる)。 1792 年 9 月 21 日、国民公会が開廷し、さっそく王政の廃止が決定され、22 日には「フラ
ンス共和国の第 1 年」であると布告された。ついで 25 日、「フランス共和国は単一にして不
可分なり」という布告が行われた。 ジャコバン・クラブにはジロンド派、ジャコバン派両派閥の議員が混じって在籍してい
たが、ブルジョワを支持基盤とするジロンド派と、民衆を支持基盤とする山岳派との対立
が深刻になり、ブリッソーを指導者とするジロンド派は、10 月以降次々とジャコバン・ク
ラブから脱退した。こうしてジャコバン・クラブに残ったのは急進共和派だけとなり、よ
うやくジャコバン・クラブ=ジャコバン派=山岳派(モンターニュ派)と呼べる状況とな
った。 ここで先走ることになるが、国民公会のアウトラインを述べておこう。国民公会は、フ
ランス革命期の 1792 年 9 月 20 日から 1795 年 10 月 26 日まで存在したフランスの 1 院制の
立法府で、諸委員会を通じて執行権をも握っていたので、同時に行政府の役割も担った革
命政治の中央機関である。これからフランス革命は激しくなるが(悪名高いフランス革命
の大虐殺も)、それはすべて国民公会のもとでなされたことになる。 国民公会は、会期 2 日目の 9 月 21 日に共和国宣言を行って第 1 共和政に移行し、王政は
廃止された。ルイ 16 世は国王裁判にかけられて処刑された。1 年後に革命暦が創設された
とき、振り返って 1792 年 9 月 22 日が共和元年元日と定められた。当初は前憲法の修正を
目的として召集されたが、フランス革命戦争とヴァンデの反乱などの内戦という危機的状
況にあって、超法規的体制を維持する必要が出て、人民主権を称して革命独裁の権力とな
った。 そこで、国民公会は大きくわけて 3 分される。 ⅰ)1792 年 9 月 21 日~1793 年 6 月 2 日(ジロンド派追放) ジロンド派とジャコバン(山岳)派の抗争の時期 ⅱ)1793 年 6 月 2 日~1794 年 7 月 27 日(テルミドールのクーデター) ジャコバン(山岳)派独裁の時期 ⅲ)1794 年 7 月 27 日~ テルミドール派の反動政治 クーデター以後は末期国民公会などとも言い、行政府は解散同日に総裁政府に、立法府
1580
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) も新たに誕生する二院制議会に、それぞれ引き継がれた。 ○1793 年 1 月 21 日、国王処刑 やがて、ルイ 16 世が外国と画策したとされる文書がテュイルリ宮殿内から発見された。
また、王妃マリー・アントワネットの外敵通牒(つうちょう)も伝えられた。山岳派は、
国王や王妃の裏切り行為に対し裁判を要求したが、これ以上の革命の推進を望まないジロ
ンド派は、裁判の実施に消極的であった。しかし、ロベスピエールやサン・ジュストとい
った山岳派の演説により、国王裁判が開催されることになった。 1793 年 1 月 14 日、国民公会はルイ 16 世の処遇を決定する投票を行った。判決は、傍聴
席に民衆がつめかけるなか、議員ひとりひとりが口頭で賛否を明言し必要なら意見を開陳
するという方式がとられた。民衆監視の下に、議員全員が態度表明をせまられた。 各議員はまず賛成 693 対反対 28(棄権 5)で有罪を認定した。ジロンド派は、国民公会
の判決は人民投票(国民投票)で可否を問われなければならないと主張したが、ロベスピ
エールや、サン・ジュストといった山岳派の主張が勝り、これは 292 対 423(欠席 29、棄
権 5)で否決された。 そして、刑罰を決める投票が行われ、387 対 334 で死刑が決まった。もっとも、死刑に賛
成した 387 人の内 26 人は執行猶予を求めており、この 26 人を死刑反対票に加算するとす
れば、賛成 361 対反対 360 となり、1 票の僅差で死刑が確定した(なお、このとき国王に死
刑票を投じた議員たちは、民衆監視の下で賛否を表明させられたので、「国王殺し」とし
て後の復古王政において、権力の座に復帰した王党派から仇敵として白色テロの標的とさ
れた)。 結局、20 日午前 1 時、裁判の結果、ルイ 16 世の死刑が決定した。ジロンド派は多数であ
りながら裁判においては、まとまりを欠き、死刑に賛成するものや反対するものなど、一
致した見解を出すことができず、国王死刑という決定になってしまった。 1793 年 1 月 21 日朝、革命広場(現在のコンコルド広場)でルイ 16 世はギロチンの露と
消えた。処刑された首がかかげられると、広場につめかけていた約 2 万人の群衆から「国
民万歳」の叫びが一斉にあがった。 ○第 1 次対仏大同盟 1793 年 1 月 21 日の革命政府によるルイ 16 世の処刑はヨーロッパ中を震撼させた。ニュ
ースは,ヨーロッパの王侯貴族の間を走り抜けた。これは当時、すべてが王制をとってい
るヨーロッパにはきわめて大きな衝撃であった。フランス革命政権の王制否定の革命思想
の波及を恐れた諸王国は、主要国間で第 1 次対仏大同盟を結成し、フランス包囲網を形成
した。この第 1 次対仏大同盟に参加した国家は、オーストリア、南ネーデルラント(オー
1581
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ストリア領ネーデルラント),プロイセン、イギリス、ナポリ王国、サルデーニャ王国、
スペイン王国であった。 第 1 次対仏大同盟軍は、フランス軍をフランス国内へ押し戻し、内部崩壊一歩のところ
まで追い込んだ。危機に陥ったフランスは崩壊するか、あるいは、さらに強力な政治力で
この困難を突破するかの瀬戸際に立たされた。 ○1793 年 3 月 10 日、革命裁判所、公安委員会の設置 国民公会はまだ、ジロンド派が多数派であったが過激化して、1793 年 3 月 10 日、国内の
反革命分子を裁くための革命裁判所を設置した。革命裁判所は上訴審のない簡略にして強
力な決定権をもった、つまり権力の凶器にもなりうる機関であった。また、国民公会法令
は、各市町村に、反革命分子を取り締まるために同じ委員会を作るよう命じた。 1793 年 4 月 6 日、革命裁判所の最初の法廷が開かれたのと同じ日、議会内で強力な権限
をもつ公安委員会の設置が決定された。これは政治・戦争指導の最高機関であり、1973 年
末から 12 人の委員が各部門を担当した。 このころ、ジロンド派、山岳派、民衆運動の 3 者がしのぎを争い、そのうち山岳派が民
衆運動にすりよって連携することでジロンド派追い落としをはかる準備をしたようである。 4 月末にロベスピエールは、あらたな人権宣言案をジャコバン・クラブや国民公会で説明し
て、所有権の制限や、社会の構成員への食糧供給の義務について言及した。 つまり自由経済の原則から一歩踏み出し、過激な民衆運動の要求に身を寄せる発言であ
った。さらに 5 月 4 日には、小麦粉の価格統制令が国民公会で決まった。これは、かねて
から民衆運動が要求していた課題であった。5 月までに山岳派は、民衆運動の要求を認める
方向に転換してしまった。これはジロンド派の意向にはそわないものであった。 【⑤1793 年 6 月 2 日、ジロンド派の敗北、ジャコバン(山岳)派の独裁開始】 戦いは、1793 年 4 月 5 日、マラーが議長となってジェコバン・クラブが、国王裁判のさ
いの「人民投票派」(ジロンド派は、国民公会の判決は人民投票(国民投票)で可否を問
われなければならないと主張していた)を「根絶」せよと声明を出したところから始まっ
た。 4 月 12 日、ジロンド派が、逆襲に出て、マラーを革命裁判所に告発した。マラーは逮捕
され、裁判が開始された。しかし結果は、ジロンド派に裏目に出た。マラーは無罪放免(無
罪かどうかではなく、論戦に勝つか、負けるかであった)、山岳派の勢いが増した。より
重要なことは、革命裁判所への「議員の告発」という前例をジロンド派自身がつくってし
まったことだった。このやり方、つまり、革命裁判にかけて、有無をいわさず(論戦に勝
って)処刑してしまうというやり方を作り出してしまった。これは、のちの人類の諸々の
1582
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 革命や革命戦争で見習われたことであった。現にジロンド派自身がこのやり方で、間もな
く一掃されてしまう。 5 月 31 日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。国民
公会では、ロベスピエールやマラーがジロンド派追放をせまるが、議論が果てしなく続い
ていた。 ふたたびパリのセクションに集うサン・キュロットは、ジロンド派打倒に蜂起し、武力
による実力行使は、6 月 1 日夜半から始まった。2 日、議場のまわりには、前夜から集まり
はじめた群衆が人垣をなし、国民公会は完璧に包囲されてしまった。逃亡しようとする議
員に議事の進行を要求し、大砲の圧力のもと、ついに議会は、ジロンド派首脳 29 人と大臣
2 人の逮捕拘束を決議させられた(このように、フランス革命は、節目、節目で市民大衆の
武力行使で展開された。これはバスティーユ牢獄の襲撃、ヴェルサイユ行進、1792 年 8 月
10 日事件、1792 年 9 月の虐殺、国王処刑につぐ 6 度目の民衆の武力行使であった)。 あの 1792 年 8 月 10 日の国王逮捕のように民衆の実力行使による排除ではなく、ジロン
ド派が多数派の国民公会自身によってジロンド派排除は議会で決定された。一見、合法的
に見えるが、それは院外の武装した民衆運動の圧倒的圧力によって、はじめて可能になっ
たことは、だれの目にも明らかであった。ジロンド派は国民公会から追放され、のちにす
べて逮捕・処刑された。こうして山岳派は、ついに議会からジロンド派を排除することに
成功し、6 月 2 日からジャコバン派(山岳派)独裁が開始された。 ○ロベスピエールの独裁政治 1793 年 7 月、ジロンド派の排除をうけて、春に発足していた公安委員会の組み替えが行
われた。ダントンがしりぞき、ロベスピエール(1758~94 年)がいよいよ委員となった。7
人がジェコバン・クラブの会員だった。リーダーシップをとったのは、ロベスピエールで、
サン・ジュストとクートンが補佐する位置についた。 新政府は革命政策を実施した。まず、①1793 年 7 月、領主が農民に課していた封建地代
を無償で廃止した。②国外に逃亡した亡命貴族や教会の土地財産を没収し、それを分割売
却して自作農の成立をうながした(この農民の自分の土地を持ちたいという夢を実現させ
るということで革命に引き込むというやり方も後の人類の諸々の革命で見習われた)。そ
の他、③革命暦の制定、④重要物資の最高価格令による経済統制、④徴兵制度による近代
的国民軍の編成、⑤キリスト教を排斥して理性崇拝の宗教の創設、⑤普通教育の開始など
を行った。 独裁政治は外部の敵をかたずけると、今度は内部の争いになるものである(のちのスタ
ーリン、毛沢東の革命でもそのように進行した)。ジャコバン派内部での派閥闘争の段階に
入った。反革命派の粛清により、一応の安定をみたフランス国内であったが、ジャコバン
1583
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 派内部で恐怖政治に対する見解の相違から、恐怖政治の緩和を求める寛容派(ダントン派・
右派)と、恐怖政治をより強化するように求める過激派(エベール派・左派)が中間の山
岳派から分裂した。両派の間に立つ山岳派内の中道左派(ロベスピエール派)は、分裂し
た双方の派閥をそれぞれ粛清し、自らの影響力を強化させていこうと考えた。ロベスピエ
ールは、まず、役割が終わった過激派をこれ以上、跳ね上がらせないため、1793 年 9 月に
逮捕・処刑し、過激派のクラブや出版物も禁止した。 ○ギロチンの嵐 つぎに革命政府が着手したのは、革命裁判の強化であった。1793 年 10 月からギロチンが
フル稼働し始めた。 10 月 16 日には王妃マリー・アントワネットが処刑された。粗末な服を着せられ、両手を
後ろ手に縛られた彼女は、群衆の中を刑場に送られ、断頭台の露と消えた。ついで、ジロ
ンド派の粛清が行なわれた。国民公会は 3 日間しか弁論の期間を与えず、21 人のジロンド
派全員が死刑判決を受け、10 月 30 日にギロチンで処刑されたが、処刑に要した時間はわず
か 38 分であった。11 月 8 日にはロラン夫人(ジロンド派のサロンの女主人)が処刑された。
彼女は「ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!」と叫んだとい
う。 革命裁判所が死刑を宣告した数は、1793 年 9 月中旬から 10 月中旬までに 15 人、次の 1
ヶ月間には 65 人,1794 年の 2 月中旬から 3 月中旬には 116 人、3 月中旬の 1 ヶ月では 155
人、4 月中旬からの 1 ヶ月では 354 人にというように漸次増加していき、それに合わせて裁
判手続きは簡素化された。 これはパリで行われただけではなく、その何倍かが全国で実施された。これに対する反
革命派の抵抗により、フランス全土は内戦状態に陥った。内戦により、ヴァンデ、リヨン、
トゥーロンで革命軍による虐殺が起きた。 ロベスピエールのジャコバン派内のダントン派(右派。宗教の寛容派)、エベール派(左
派。無神論)の追い落とし闘争はいよいよ最終段階に入った。1794 年 1 月 8 日、ロベスピ
エールは、ジャコバン・クラブで、両派を激しく非難する演説を行なった。1 月にダントン
派の指導者、2 月から 3 月にかけてエベール派の指導者が逮捕・処刑された。最後にダント
ンも 4 月 4 日に死刑判決が出され、翌日執行された。 パリで革命裁判所が設置された 1793 年 4 月から 94 年 6 月 10 日までに、1251 人が処刑さ
れたのに対し、審理を経ない略式判決が許された 94 年 6 月 11 日から 7 月 27 日(テルミド
ール 9 日)までの僅か 47 日間で、パリの断頭台は 1376 人の血を吸い込んだ。 1584
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 恐怖政治のために反革命容疑で逮捕拘束された者は全国で約 50 万人、死刑の宣告を受け
て処刑されたものは約 1 万 6000 人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれ
ば約 4 万人にのぼるとみられる。 恐怖政治は疑心暗鬼の悪循環を生み出すものであるが、もう、あらかた処刑するものは
しつくしたようで、やがて、最後の残ったロベスピエールらの番がやってくることになる
(テルミドール反動)。 ○国民皆兵による徴兵制度―革命戦争の行方 その前に対外戦争の行方をみると、1793 年春、第 1 次対仏大同盟軍がフランス軍をフラ
ンス国内へ追い込んで危機的状況になったので、フランス国内はジャコバン(山岳)派が
ジロンド派を一掃して独裁体制を固めたということであったが、それで戦争のほうはどう
なったか。 1793 年 7 月ロベスピエールは権力掌握を行なうと、8 月 23 日、国民公会は「国家総動員」
を発令し、徴兵制度を施行した。各階層の国民を平等に徴兵し、新たに 120 万人の兵士が
軍に加わった。これは傭兵を軍の主力としていた当時のヨーロッパの君主制国家では前代
未聞の想像できないほどの大兵力であった。 表 13-1 に各国の人口と兵力数を示すが、フランスが国民徴兵制をしいてから、桁違い
に多い兵力を得ることができるようになったことがわかる。 表 13-1 大国の人口と軍隊の規模 ポール・ケネディ『大国の興亡』 1585
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 後にナポレオンという軍事的天才が現れるが(もちろん、彼の軍事的才能は非凡なもの
であったことは確かであるようだが)、フランス軍が強くなったのは、国民皆兵による徴
兵制度という新しいシステムの導入による豊富な兵力、しかも初期の段階では革命意識で
高揚した士気の高い兵力が、豊富に得られたということが、もっとも大きな理由であった
と考えられる。ナポレオンも後半、兵力が不足するようになると負けがこんできたのであ
る(ナポレオンは基本的に多勢のときにしか戦闘をしなかった)。同じく後半、プロイセ
ンなどがフランスの制度を見習って兵制改革を行うと、やはり彼らも見違えるほど強くな
ってきたのである。 この国民皆兵による徴兵制はフランス革命の時代からから始まった(その前にプロイセ
ンのカントン制があることは述べた)。フランス革命以降、国家は王ではなく国民のもの
であるという建前になったため(絶対王政から国民国家への転換)、戦争に関しても王や
騎士など一握りの人間ではなく、主権者たる国民全員が行なう義務があるということにな
った。 このフランス革命期に国民皆兵の徴兵制度をつくったのは、ラザール・カルノー(1753
~1823 年)だった。カルノーは、1773 年、工兵士官学校を優秀な成績で卒業し、技術将校
として任官していたが、余暇は数学や機械研究や著述にあて、軍人であり、数学者であっ
た。文学サークルでフーシェやロベスピエールと同席したこともあった。革命が起きると
国民公会の議員として選出され、戦争が起きたら、その経歴から前線各地に出向き活動し
ていたが、8 月、カルノーは前線から呼び戻されて公安委員会の委員となり、軍事に疎いロ
ベスピエールや戦争大臣ブーショットを助け軍事問題を担当すことになった。 いよいよ才能を発揮するときがきたようで、この時期のカルノーは 1 日 16 時間以上を執
務にあてたという。徴兵制度の整備、軍需工場の整備、軍制改革を指揮して総力戦体制を
確立し、当時史上空前の規模であった 14 個軍団の創設にあたった。また、10 月 16 日のワ
ッティニーの戦いでは、ジュールダンとともに実戦部隊を率い、自ら陣頭に立って勝利を
おさめた。フランス軍は再び優勢に立ち、カルノーは一連の功績から「勝利の組織者」と
称えられるようになった。 そのうちカルノーは恐怖政治や戦略をめぐって同じ公安委員会のサン・ジュストと対立
し、ロベスピエール派全体とも対立するようになった。これが幸いしてテルミドールのク
ーデターではギロチン行きを免れた。 ラザール・カルノーの子孫たちは各分野で業績を残した。彼自身、『無限小算法につい
ての哲学的考察』など数学では趣味を超えた研究をたくさん残したが、熱力学で有名なカ
ルノーサイクル(後述)は、長男のニコラ・レオナール・サディ・カルノー (1796~1832
1586
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 年) の考案であった。孫のマリー・フランソワ・サディ・カルノー (1837~1894 年) はフ
ランスの大統領になった。 カルノーについては、これぐらいにして、その大量に徴兵されたフランス軍はさっそく、
その成果を上げ始めた。 1793 年 9 月、フランス軍はヨーク公の率いるイギリス軍をオンドスコートの戦い(9 月 8
日)で破り、ダンケルクを包囲から解放した。10 月にはワッチニーの戦いでオーストリア
軍に勝利した。 国内でも、8 月 25 日にはマルセイユ、10 月 10 日にはリヨンの反乱が鎮圧された。だが
トゥーロン(図 13-46 参照)はイギリス軍の支援を受けていたため攻略に難航した。フラ
ンス軍は 10 月 30 日と 11 月 15 日の 2 回の攻撃に失敗し、司令官が罷免された。後任の司
令官に就任したデュゴミエは、当時まだ 24 歳の砲兵士官ナポレオン・ボナパルトの立てた
作戦を採用し、12 月 19 日にトゥーロンの奪回に成功した(トゥーロン攻囲戦)。 ナポレオン・ボナパルトは、やたら砲撃を繰り返すのではなく、まず、砲兵将校として、
市の港を制圧するための理想的な砲兵陣地の場所を 2 ヶ所見つけ出した。イギリス側もま
た脅威と見ていたその地点をナポレオン軍が激しい突撃により攻略すると、そこに大砲を
据え付けられて眼下の艦隊を狙い撃ちされるので(日露戦争の 203 高地と同じだった)、
フッド提督の指揮するイギリス艦隊は港からの脱出を余儀なくされ、反乱は鎮圧された。
その功績によって 24 歳のナポレオンは一気に砲兵隊司令官(准将)となり、国際的な注目
を浴びることとなった(これがナポレオンのデビー戦だった)。 いずれにしても、国民徴兵制度の創設によって第 1 次対仏大同盟軍は突破され、フラン
ス軍は再びヨーロッパに押し出していったのである。 【⑥テルミドール 9 日(1794 年 7 月 27 日)のクーデター】 すでに参政権を得た下層市民、無償で土地をえて保守化した農民、さらにはインフレに
よって生活を圧迫された人々は、もう革命はたくさんだと思うようになっていた。また恐
怖政治によって自らの生命をも脅かされていた反ロベスピエール派は、密かにその打倒を
計画するようになった。そして恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行って
いた地方派遣議員(ジョゼフ・フーシェ、ジャン・ランベール・タリアンら)も、ロベスピ
エールに追及されるようになると、その粛清を恐れて、どうせやられるなら、先にやろう
と先制攻撃を画策していた。 1794 年 7 月 27 日(フランス革命暦 2 年テルミドール 9 日)にクーデターは起きた。午前
11 時、ロベスピエールらは国民公会に臨んだ。しかし、議長のジャン・マリー・コロー・
デルボワ(公安委員会のメンバー)やタリアンらはロベスピエールらの発言を阻止し、ロベ
1587
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スピエール派の逮捕を要求し、午後 3 時、ロベスピエール、クートン、サン・ジュスト、
ル・バ、オーギュスタン・ロベスピエール(ロベスピエールの弟)らを逮捕する決議が通過
した。これがテルミドール 9 日のクーデターであった。 しかし、その後、パリ市のコミューンが蜂起し、その隙にロベスピエールらはパリ市庁
舎に逃げ込んだ。この間に、国民公会では、議員達がロベスピエールらコミューンに従う
ものを法の外に置くことを決定した。深夜になって市庁舎でロベスピエールらを守ってい
た国民衛兵は引き上げてしまった。ポール・バラス率いる国民公会の派遣軍はあっさり市
庁舎を占領した。ロベスピエールは自殺をはかったが、失敗し、顎に重傷を負い、その場
で逮捕された。 翌 7 月 28 日、かつてロベスピエールの指示に従って反対派を断頭台に送り込んでいた革
命裁判所の裁判長アントワーヌ・フーキエ・タンヴィル(彼自身も最後にはギロチンにか
けられたが)はロベスピエールらに死刑判決を下し、午後 6 時、ロベスピエール兄弟、サ
ン・ジュストら 22 人は革命広場でギロチンにより処刑された。翌日には 70 人のコミュー
ンのメンバーが処刑され、その翌日には 12 人が同じ罪状で処刑された。 なお、その他のジャコバン派の生き残りも、その後同年から翌年にかけてほとんど逮捕・
処刑された。 このクーデターによって、ロベスピエールとその一派が失脚、処刑または自殺した。こ
の事件をもってフランス革命の終焉とする説もある。事実として、市民革命の終わりと言
えるだろう。 ○テルミドール派のテルミドール反動の政治 このテルミドールのクーデターを起こして権力を掌握した者らはすべてテルミドール派
と呼ばれた。ただ、ロベスピエール派と対立する集団というだけの関係であり、政策上は
必ずしも一致しているわけではなかった。これ以後のフランス政府は、革命の理想に燃え
る革命派と、急激な改革を嫌う王党派との 2 派が対立することとなった。 最初に政権を握ったテルミドール派は、革命派と王党派の中間にあって、事情によって
どちらでも左右に揺れた。ロベスピエール派抹殺のあとに起こった事態は,一般にテルミ
ドール反動といわれている。恐怖政治はもうたくさんだという人々の気持ちが現れていた。
反革命容疑者の大量釈放、革命裁判所の改組、公安委員会の権限縮小と革命政府の編成替
え、政府によるパリ市の直接管理が 8 月に矢継ぎ早に打ち出され,1794 年末までにはジャ
コバン・クラブは閉鎖された。 経済では 1794 年 12 月 24 日までにかけて、輸入自由化、統制価格の撤廃が徐々になされ
た。ただし、このため猛烈なインフレが起こって国債アッシニアの暴落を招き、後の総裁
政府破綻の原因の一つとなった。 1588
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) パリの民衆にとって、経済統制が解除されたあとの 1794 年から 95 年にかけての冬は,
インフレが昂進し、飢饉と失業の危機が民衆をとらえて革命勃発以来最悪といわれるほど
であった。1795 年春,パリの民衆は 2 度にわたって「食糧を何とかしてくれ。93 年憲法を
施行せよ」とサン・キュロットが国民公会の議場になだれ込んだが、国民衛兵によって追
い払われた。2 度目の 5 月 20 日に国民公会議場や市庁舎を占拠した蜂起も軍隊によって蹴
散らされてしまった。もはや議場内には呼応する議員はいなかった。1000 人を超える活動
家が逮捕されて,パリの民衆運動はついに息の根をとめられてしまった。これで 1830 年に
至るまで、パリの大規模な民衆運動は復活しなかった。 ○第 1 次対仏大同盟と戦争の行方 テルミドール派が政権を取ってからも、戦争はしばらく続けられた。フランス軍は巨大
化し、兵力で対仏大同盟軍を圧倒したが、一方でそのような大軍は補給物資の多くを敵国
の領土からの徴発に依存するようになった。つまり、以後のフランス軍は革命の大義名分
をかかげながらも略奪しながら戦うという侵略戦争の様相を帯びていった。 1794 年、ジュールダンがフルリュスの戦い(6 月 26 日)でオーストリア軍に勝利した。
この結果、対仏大同盟軍はライン川以西からの撤退を余儀なくされ、フランス軍は南ネー
デルラントとラインラントの大部分を制圧した。 1795 年初頭、河川の結氷によりオランダの要塞の防御力が低下する冬季を衝いて、ピシ
ュグリュの率いるフランス軍はオランダへ大挙して攻撃をかけた。オランダではフランス
革命に賛同し協力する人々も多く、都市は次々と陥落し、オランダ総督ヴィレム 5 世は逃
亡、オランダ艦隊は接収された。オランダにはバタヴィア共和国が成立し、ブラバント(現
在のベルギーとオランダにまたがる地名)とマーストリヒト(オランダ南東端部の都市)
がフランスへ割譲された。 オランダの陥落を見てプロイセンもフランスとの講和を決め、バーゼルの和約(1795 年
4 月 5 日)を結んだ。和約によってプロイセンはフランスのラインラント併合を認めたが、
これでプロイセンはポーランド分割に集中できるようになった(このときプロイセン、ロ
シア、オーストリアは第 3 次ポーランド分割中で多くの兵力をそちらに集中させていた)。 同年、フランス軍はスペインでも進撃を遂げ、スペインも和平に応じた。第 2 次バーゼ
ルの和約(1795 年 7 月 22 日)において、スペインは占領地の回復と引き換えに革命政府の
承認とサントドミンゴの割譲を認めた。プロイセン、スペイン両国との講和によってフラ
ンスは当面の窮地を脱することができた。 ○共和暦第 3 年憲法(1795 年憲法)の制定 テルミドール右派が、やり過ぎた革命を着地させようとしていた先は,ブルジョワ的な
共和政であった。そこで所有権の絶対を明記した新憲法が作られることになった。 1589
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1795 年 8 月 22 日にこの憲法の採否を問う普通選挙制による投票が行われ、投票数 105 万
に対し、反対はわずか 5000 票だった。 これが 1795 年月に発布された「共和暦第 3 年憲法(1795 年憲法)」であった。この憲法
は権力分立を旨としており、立法権、行政権、徴税権それぞれの独立が謳われた。選挙権
に関しては、普通選挙が廃止され、一定の税を納めている者にのみ認められた。これによ
り、成人男子 700 万人のうち有権者は 500 万人となった。立法権は 500 人会議と元老会議
(250 人)の二院制とされた。 行政権は、5 人の総裁に委ねられた。任期は 5 年とされ、毎年 1 人ずつ改選されことにな
った。総裁は、500 人会議が 1 人のポストにつき 10 人の候補のりストを作り、その中から
元老会議が選んで決められるようになっていた。選任後の総裁は議会に罷免されることは
ないとされた。総裁の権限は行政と外交にあり、立法権はなかった。また、各官庁の長官
が総裁を補佐したが、長官は内閣や議会の一員ではなく、政府全体を動かす権限がなかっ
た。 このような憲法を受けて行われた最初の選挙では、テルミドール派よりも王党派の方が
有利と予想されていた。そのため、テルミドール派は「退職後の議員の職が保証されてい
ないため、新たに議員に立候補する者は少ないであろう」と主張して、国民公会から 3 分
の 2 の議員を留任させる法案を提出し、憲法と合わせて採択された。つまり、3 分の 1 しか
改選しないで、3 分の 2 は留任にしたのである。 1795 年 9 月に行われた国民投票の結果、「三分の二法」は約 20 万票対 11 万票で可決さ
れた。選挙で勝つ予定の王党派はこの結果に激怒した。こうなると既存の党派が、つまり
テルミドール派が俄然有利となった。 ○王党派の反乱とナポレオンによる鎮圧 この採決を受けて 1795 年 9 月 23 日、新憲法が公式に発足した。王党派は敗れた。これ
に対して各派、とりわけ王党派は選挙妨害があったとしてパリで集会を開いた。1795 年 10
月 20 日、これがヴァンデミエール(革命暦の露月)の反乱(王党派の反乱)と呼ばれる暴
動に発展したため、政府はテレミドール派で軍人出身のポール・バラスに事態の解決を命
じた。 バラスは、トゥーロン攻囲戦であざやかな活躍をした若きナポレオン・ボナパルトを副
官としていた。ナポレオンは 2~3000 の政府軍とよく訓練された大砲隊をつれてパリ市街
に現れた。ナポレオンの指揮する砲兵はパリの市街地で大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ
散弾)を撃つという前代未聞のあらっぽい戦法で、抵抗する王党派をあっさり鎮圧した。 1590
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 暴徒は文字通り撃退され、翌日抵抗は止み、10 月 25 日、国民公会はナポレオンを国内軍
の総司令官に任命した。流血の場であった「革命広場」は「融和」を意味する「コンコル
ド広場」と名前を変えた(図 13-45 参照)。 以後、パリは国内軍司令官の命令に絶対服従することを余儀なくされ、完全に軍の制圧
下に置かれた。ナポレオンはこの時の成功から「ヴァンデミエールの将軍」と異名を取っ
た。ナポレオンはトゥーロン攻囲戦についで、二つ目のポイントを上げた。 【⑦総裁政府の政治】 新憲法にもとづく選挙によって、5 人の総裁と上下 2 院の立法府による総裁政府(ブルジ
ョワ共和政府)が成立した。1795 年 10 月 31 日に総裁が選出され、総裁に選ばれたのはル
ーベル、バラス、ラ・ルヴェリエール、カルノー、ル・トゥルヌールであった。 バラスは公金横領など様々な汚職でロベスピエールからパリに召喚された。このままで
は、いずれロベスピエールにやられれると思い、同じ境遇のジョゼフ・フーシェらと協力
して、テルミドールのクーデターを引き起こした。国民公会軍の総司令官として市庁舎を
襲撃し、ロベスピエールたちを逮捕、翌日全員を処刑したが、その主役を演じていた。そ
の後テルミドール派の有力者にのしあがり、政変のどさくさにまぎれて有力な銀行家や御
用商人と結託して暴利を貪った。その腐敗ぶりから「悪徳の士」とよばれた。 総裁政府が発足すると筆頭総裁となり、しかもバラスは 5 年間、総裁職を保持し続けた
唯一の人物で、総裁政府に君臨し、リュクサンブール宮殿に居を構えて豪勢に暮らした。
バラスの愛人の一人であったジョゼフィーヌは 1796 年、ナポレオンと結婚した。やがてナ
ポレオンはイタリア遠征で成功し、英雄として人気のなかった総裁政府の足元を揺るがす
ようになった。 さて、総裁政府に返ると、総裁政府の成立で、革命は終結したかに見えた。亡命中のル
イ 18 世とアンシャン・レジームの復活を望む国民は少なく、その逆の恐怖政治も好まれず、
総裁政府は中道路線として支持された。国民は革命の傷を癒すため、事態がおさまること
を望んでいた。 ○バブーフの陰謀 1796 年 5 月 25 日に土地公有化などを主張するバブーフ(1760~1797 年)が、政府転覆 の陰謀を企てていたため逮捕され、翌年 5 月に処刑された。バブーフは、私有権の絶対を
確認する総裁政府に対して、私有権制限の主張にとどまらず、最終的には私有権を廃止し
て共産主義にいたらなければ問題は解決しないと唱えた。これは、それまでの革命家たち
にはなかった思想であった。のちのレーニンたちの共産主義的革命運動につながる思想で
もあった。 1591
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1793 年からフランス西部のヴァンデ地方の農民たちによってはじまった王党派の反乱、
ヴァンデの反乱も指導者フランソワ・ド・シャレットが 1796 年 5 月に処刑され、事実上終
結した。正確な数は不明だが 30~40 万ともいわれる死者を出した。 ○ナポレオンのイタリア遠征 1796 年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司
令官に抜擢された。フランス革命へのオーストリアの干渉に端を発したフランス革命戦争
が欧州各国をまきこんでいく中、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をも
ってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこのうちのイタリア
側からの軍を任されたのである。 ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦
連勝であった。 1797 年 4 月にはウィーンへと迫り、同年 4 月にはナポレオンは総裁政府に
断ることなく講和交渉に入った。そして 10 月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約
を結んだ。フランスはオーストリア領ネーデルランド(ベルギー)、ライン左岸などの富
裕地を獲得し、また、オーストリアにはヴェネツィア以外のイタリアに干渉しないことを
約束させた。 これによって第一次対仏大同盟は崩壊し、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得
して、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得た。 このイタリア遠征の勝利をもって、フランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点と
みる見方もある。フランス革命、あるいはフランス革命戦争とナポレオン戦争を一体とす
る見方もあるが(歴史書はそのように取り扱っているものが多いが)、実際には、あまり
関係なく、このあとで述べるように、別の戦争とするのが妥当であるようだ。 つまり、それまでの戦争はフランス革命への周辺諸国からの干渉に対抗する戦争、ある
いはフランス革命精神を周辺諸国へ及ぼすという大義名分があったが、これ以降のナポレ
オン戦争は明らかにその域をこえて、いわばルイ 14 世の周辺諸国への侵略戦争と変るとこ
ろがなくなった。ルイ 14 世時代とは戦争技術も向上し兵力も大規模化していたので、その
およぼす影響力はルイ 14 世時代の比ではなくなっていた。 1796 年 12 月、パリへと帰還したナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられ、国民的英
雄となった。これでナポレオンは 3 つ目のポイントをかせいだ。 このナポレオンの勝利はいくつかの意味を持った。まず、ナポレオンがもはや並び立つ
ものがいない英雄としてフランス国民の尊敬を集めていた。また、占領地からフランスに
送られた戦利品は総裁政府の財政を助けた。このため、ある意味でナポレオンに財政を握
られた形となり、総裁政府はナポレオンを恐れ始めた。ナポレオンの強さはいちいち本国
1592
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の訓令を待たずに即断することにもあり、その点でも総裁政府はナポレオンに不安を持つ
ようになった。 ○ナポレオンのエジプト遠征 オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し
制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった(表
13-2 参照)。 そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つ
ことを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さ
えること(エジプト遠征)を総裁政府に進言し、これを認められた。 しかし、ナポレオンのこのエジプト遠征については、その意図に疑問の点が残っている。
というのは、ナポレオンはこのエジプト遠征にあわせて、人類文明発祥の地の一つエジプ
トの学術調査をやらせたのである(彼が個人的に歴史に強い興味を持っていたことはわか
っているが、趣味にしては度がすぎていた)。 表 13-2 大国の海軍(戦列艦)の規模(1689~1815 年) ポール・ケネディ『大国の興亡』 実際、ナポレオンは 100 人以上の一流の学者、技術者をこの遠征に同道させて、ロゼッ
タ・ストーンの発見やピラミッドの詳細な調査など、のちにエジプト学といわれる学問が
起きるほどの成果を上げたのであるが、これから戦争に行くものがなぜ、これほどの規模
の学術調査団をつれていったか、ナポレオンの意図にはよくわからないところがあった。 いずれにしてもナポレオンは 1798 年 5 月 19 日に兵 5 万人と船舶 232 隻を率いて、7 月 1
日にはエジプトのアレクサンドリアについた。 近代兵器を有するフランス軍はピラミッドの戦いでエジプト軍に勝利して早くも 7 月 24
日にカイロに入城した。 しかし、イギリスは地中海におけるフランス軍の不穏な動きを察知し、ネルソンを指揮
官とする艦隊を派遣し、アブキール湾に停泊していたフランス艦隊と 8 月 1 日の日没前に
1593
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 砲火を交えた。イギリス艦隊(戦列艦 14 隻、砲 938 門)は北から 1 隻ずつ順番にフランス
艦隊(戦列艦 13 隻、フリゲート艦 4 隻、砲 1,026 門)を袋叩きにしていった。 フランス艦艇のうち戦列艦 2 隻とフリゲート艦 2 隻は戦場から脱出したが、残余は 8 月 2
日朝までに炎上するか捕獲された。イギリス艦隊には撃沈された艦は 1 隻もなかった。ネ
ルソンは常勝の名声を高め、各国の海軍からの畏怖の対象となった。軍事の天才ナポレオ
ンも海では手も足も出せないことがわかった。 この勝利でイギリスは地中海の制海権を決定的にし、エジプトのフランス軍はまったく
動けなくなった(学術調査団は活動できただろうが)。海軍がなくなり、ナポレオン軍は
エジプトに孤立してしまった。その結果としてナポレオンがエジプトに「閉じ込められた」
ことがヨーロッパ各国に伝わっていった。 ○第 2 次対仏大同盟 ナイルの海戦でのイギリスの勝利は、フランス周辺国の同盟を促進し、イギリス首相小
ピットがロシア、オーストリアとはかって 1798 年年 12 月 24 日、第 2 回対仏大同盟を結成、
フランス国境にせまった(第 2 回対仏大同盟には,その他ナポリ王国、オスマン帝国が加
わった)。 これに対し、フランス軍はオーストリアでも、イタリア戦線でも敗れた。フランス軍は
フランス周辺の各戦線で敗北を続け、占領地が奪還されていった。これに対し、総裁政府は
なすすべを知らず、国民の信頼を失った。 ○ブリュメール 18 日のクーデター ナポレオンはエジプトで苦戦していた。個々の戦闘では勝利をおさめていたが、本国か
らの救援がなく、風土病に悩まされている状態では、エジプトからの撤退しかありえなか
った。しかし地中海の制海権をイギリスに握られているため、簡単には撤退できなかった。 一方でフランス軍は本国周辺で敗れ、フランス本国の政治は混乱を極めており、ナポレ
オンが政権に入り込む絶好のチャンスとなっていた。そこで、1799 年 10 月 9 日、ナポレオ
ンは総裁政府の命令を待たずに、軍をエジプトに残したまま側近だけをつれフランス本土
へ舞い戻った。フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。 このころ、総裁政府の実権を握っていたのはシエイエスであった。1799 年 3 月から 4 月
にかけての選挙で、共和派が躍進し、エマニュエル・ジョゼフ・シエイエスも議員になっ
たのである。このシエイエスは、かつて『第 3 身分となにか』を書いて注目され、革命初
期に活躍したあと後景にしりぞいていた。そしていま、総裁の一人として返り咲いたので
ある 1594
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 長い混乱に苦しんだ国民の多くは,旧制度の復活にも反対し、革命の進行もこばみ、ただ
社会秩序の安定を望んだ。そのためには強力な政権が必要であった。当時この混乱を収拾
できるのは軍隊だけであり、国民の秩序回復への期待は、軍隊の指導者の地位を高めた。 シエイエスは政局を安定させるべく、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた。憲法
改正を支持する元老会議を通過させることはできても、憲法擁護派の多い 500 人会議を説
得するのは無理と思い、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事ク
ーデターを画策した。 1799 年 11 月 9 日、クーデターは成功し(ブリュメール 18 日のクーデターという)、シ
エイエスとナポレオンは執政政府を樹立した(統領政府ともいう)。ここに総裁政府の時
代は終わり、3 人の執政からなる執政政府が建てられた。シエイエスはナポレオンの軍事力
を利用したつもりだったが、執政政府を押さえて実権を握ったのはナポレオンだった。 バラスはナポレオンに追いつめられてブルボン家のプロヴァンス伯(後のルイ 18 世)と
の交渉を開始し、王制の復活を画策していたが、このブリュメールのクーデターでバラス
は辞職に追いやられた。その後、バスラは、それまでに貯めた巨額の富を手にモンペリエ
で隠遁生活を送った。フランス革命では、名があるものはほとんど処刑されて死に絶えた
が、バラスはほとんど例外的に生き残った一人だった。 実際のフランス革命は、前述したように 1794 年のテルミドールのクーデターによって終
わっており、惰性で続いていたブルジョワによる革命がナポレオンによって息の根を止め
られたと言うべきであろう。 【⑧執政政府の時代】 内外に問題は山積していた。 1799 年 12 月 15 日、「共和暦第 8 年憲法(1799 年憲法)」が発布され,翌年 2 月の人民
投票もこれを追認した。発布の日、ナポレオンの執政政府は「市民諸君、革命は開始当初
の原則に固定された。これで革命はおわった」と宣言した。 軍事力を背景としたナポレオンの権威は,行政システムの安定化をもたらしていった。
財政再建は、徴税機構の中央集権化、中央銀行としてのフランス銀行の設立によって、大
いに好転した。政治の安定は,経済活動の活性化の条件となった。革命下になされた国有
財産の分割売却も追認され,土地を得ていた農民たちは、ほっと胸をなでおろした。 王政復古をねらうプロヴァンス伯からの申し出は、断固として拒否した。革命の成果を
継承しつつ、革命の終結を鮮明にした。テルミドール右派にも総裁政府にもできなかった
ことが、いまナポレオンのもとでなされつつあった。 ○第 2 次対仏大同盟の崩壊 1595
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) まず、第 2 次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。
そこでイタリアの再獲得を目指し、ナポレオンは当時の常識ならば軍は地中海側のルート
をとるしかないと思われていたところにアルプス山脈を越えて北イタリアに入る奇策をと
った。 しかし兵の配置の失敗もありオーストリアの大軍の前に大敗寸前まで追い込まれたが、
別働隊の到着で 1800 年 6 月のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に辛くも勝利した。 1800 年 12 月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでジャン・ヴィクトル・マリー・
モロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年 2 月にオーストリアは
和約に応じて(リュネヴィルの和約)、ライン川の左岸におけるフランスの支配権を再確
認し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。 この和約をもって第 2 次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリス
のみとなった。しかし当時イギリスでも戦争に疲れて和平論が高もまって、小ピットが失
脚し、ナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたこ
となどにより、1802 年 3 月にはアミアンの和約で講和が成立した。これにより、革命戦争
以後のヨーロッパの戦争がおさまり、つかのまの平和がおとずれた。 ○執政ナポレオンの内政 ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制制度、行政制度の整備を進める
と同時に、革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力
をそそいだ。 1800 年にはフランス銀行を設立し通貨と経済の安定をはかった。 1802 年には有名なレ
ジオンドヌール勲章を創設した。 《ナポレオン法典=「フランス民法典」の公布》 さらには国内の法整備にも取り組み、1804 年には「フランス民法典」、いわゆるナポレ
オン法典を公布した。この法典は 2281 条からなり、その基本原則は、個人の自由、法の下
の平等、家族の尊重、私有財産の不可侵、契約の自由などにあるとされ、革命の成果を固
め、近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。 このナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ、
ポルトガルや日本などの現在の民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至る
までナポレオン法典が現行法である。かつてフランスの植民地であったアメリカ合衆国ル
イジアナ州の現行民法もナポレオン法典である。 また、教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している。交通網の整備を精力的に推
進した。 1596
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) フランス革命以後敵対関係にあったローマ教会との和解も目指したナポレオンは、1801
年に教皇ピウス 7 世との間で政教条約(コンコルダート)を結び、国内の宗教対立を緩和
した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を
問わず軍隊や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする
者は容赦せずに弾圧した。 社会の安定は銀行家や商工業者などブルジョワジーの支持をうけ、土地所有者となった
農民は旧制度の復活をおそれてナポレオンの軍事力を支持した。当時のヨーロッパで、自
由な市民と農民とからなる近代的国民軍を有するのはフランスだけであった。 《フランス海外植民地の反乱》 一方、アメリカ・西インド諸島のフランスの植民地(図 13-15 参照)では 1801 年 7 月 7
日に、トゥーサン・ルーヴェルチュールがサン・ドマングの支配権を確立し、スペイン領
サント・ドミンゴに侵攻して全イスパニョーラ島を統一し、さらに自治憲法を制定して黒
人奴隷の解放を行っていた。ナポレオンはサン・ドマングを再征服するために、義弟のル
クレール将軍をサン・ドマング植民地に送った。ルクレール将軍は熱病、ゲリラ戦に苦戦
しながらもだまし討ちでトゥーサンを捕え、フランス本国に送り、トゥーサンは獄死した。 しかし、ナポレオンが奴隷制を復活したことにサン・ドマングの黒人は強く怒り、1803
年 11 月にフランス軍は大敗を喫した。1804 年 1 月 1 日、ジャン・ジャック・デサリーヌが
指導するフランス領サン・ドマングはハイチ共和国として独立した(ハイチ革命)。 さらにナポレオンは、1803 年 4 月アメリカ合衆国にルイジアナ植民地を売却し、その金
でヨーロッパに専念するようになった。 ○ナポレオン終身執政制 そのナポレオンのヨーロッパにおける野心はだんだん膨らんでいった。ナポレオン暗殺
計画が何回か繰り返された。1800 年 12 月の爆弾事件は,死者 22 人、負傷者 56 人を出すに
及んだが,ナポレオン本人はあやうく難を逃れた。 1802 年 8 月、「共和暦第 10 年憲法」は終身執政制を制定し、ナポレオンがその職につい
た。終身執政就任は、実質的には独裁権力の集中を意味していた。 ナポレオン暗殺の計画は 1803 年にも、1804 年にもあった。後者の場合はでっち上げに近
く、フランス王族アンギャン公の処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び
覚ますのに十分であった。ナポレオンは、王党派の策謀が革命の成果を脅かしていると、
たくみに情報を流した。「余の命を狙う多くの陰謀には、余はなんらおそれを感じない。
だが、もし先般の陰謀が成功していたら、この偉大な民がおかれたであろう状況を考える
と、余は深く耐えがたい気持ちにとらわれざるをえないのだ」と。 1597
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) こうして、世襲皇帝のみが革命の成果を守る力をもっているという彼の主張(論理)が
受け入れられていった(王政を廃した革命の成果を帝政で守るということには矛盾がある
が)。「共和国政府は、フランス人の皇帝、という称号をとる皇帝に委ねられる」。この
称号をとるのは、ナポレオン・ボナパルトである。この皇帝位は、皇帝の直系子孫によっ
て世襲される。1804 年 5 月 18 日、ついに「世襲皇帝ナポレオン」、ナポレオン 1 世(在位:
1804~14,15 年)が誕生した。国民投票は、圧倒的多数で皇帝ナポレオンの誕生を歓迎し
た。 旧王政を思わせる国王ではなく、中世ヨーロッパの覇者カール大帝を思わせる「皇帝」
の称号があえてとられた。自らのもとで革命フランスがヨーロッパを制圧する、というイ
メージがナポレオンにはあった。フランス革命は名実ともに過去のことになった。以下、
皇帝ナポレオンの時代については、19 世紀の歴史に記す。 ○フランス革命の意義と評価 1789 年にはじまり、10 年以上続いたフランス革命とはなんであっただろうか。 ◇旧制度の打破 旧制度をくつがえすことによって絶対王政を倒し、市民による政権を打ち立てた点で、
まさに典型的な市民革命であった(ナポレオンの帝政によって、その意義は減じてしまっ
たが)。 ◇革命思想の普及 革命の急進性は、当時の全ヨーロッパに賛否両論の対立をひきおこし、19 世紀以降の政
治改革運動に多くの理論と教訓を提供した。人権宣言にみられる自由・平等の高い理念は
全ヨーロッパに普及した(後述のナポレオンの大陸支配に対して、諸国で民族意識が高揚
し、国民国家の形成がはかられるようになった)。 ◇無産市民の台頭 フランス革命は結局、中産市民の勝利に終わるが、(革命が過激化して)一時は急進派
の支配もみられ、中産階級も下層市民や農民の台頭の前には大幅な妥協をせざるをえなか
った。 ◇国民戦争の展開 フランス革命戦争は、従来の絶対君主による戦争と異なり、はじめての徴兵制による国
民を大々的に動員した国民戦争の性格を持った(徴兵制は他国にも伝播し戦争の性格が変
った)。 ○フランス革命が激化した理由 フランス革命が,イギリス革命やアメリカ独立革命にくらべて、とくに激しくなったのは、
以下のような理由が考えられる。 1598
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ◇イギリス革命(名誉革命など)はイギリス人特有の革命思想にもとづくものであったが、
フランス革命はアメリカ独立革命の系譜をついで、人間一般の解放という普遍的な革命思
想にもとづき、諸国にその影響をおよぼした(しかし、その後のナポレオンの帝政やブル
ボン王政の復活によって、フランス革命のその革命的意義はかなり薄らいでしまった。そ
の後、王制も帝政も復活され、1870 年の普仏戦争に敗れてはじめて本格的な共和政になっ
たように,フランスの民主制は非常に遅いものとなった)。 ◇イギリス革命は国内だけのもので、アメリカ革命はヨーロッパ外での事件であったが、
フランス革命は全ヨーロッパに関係し、諸国の覇権争いが加わった。また、パリという下
層市民の勢力の強い都市が革命の中心であった(下層市民の突飛な武力蜂起が何度もあっ
た)。 ◇イギリスでは早くから封建制が弱まり、アメリカでは封建制の伝統がなかったが、フ ランスでは封建制が強く残り、そのため封建勢力の抵抗が激しかった。 当時のヨーロッパはフランスのみならず、スペイン、ロシア、北欧、ネーデルラント、
オーストリアなどでは、王政(絶対王政)であり(イギリスだけが名誉革命のあと、立憲
君主制に近くなっていたが、これは例外的存在だった)、アンシャン・レジームは依然と
して存在していた。では、なぜ、フランスだけで革命が起こったのか。 王宮の浪費や戦争による財政破綻などによる国民の不満もあるにはあったが、これもフ
ランスだけというもではなかった。スペインなどは何度も財政破綻し、オーストリア、プ
ロイセン、ロシアなど、どこも財政破綻の危機にあった。だから、フランスが最初に体制
転覆にまで至ったのは財政破綻だけが原因ではなく、フランスが啓蒙思想家のヴォルテー
ルやルソーなどを輩出したことや、国民がその思想に大きく影響されたことなどにも原因
があると考えられている。財政破綻は、それはそれで大きなきっかけとはなったが、それ
だけが原因ではなかったといえる。 「国の財政難の状況から貴族も税金も払うべき」と主張し、国の財政難を救うために始
まった革命が、革命末期には「どのような手段を用いても革命を守るべき」と、革命その
ものを目的とするようになった。つまり革命が「手段」から「目的」に変わってしまった
ことで当初の目的が失われる結果となった。実際、耐え難い経済的困窮が生じたのは革命
後であり、革命によってフランスの GDP は革命前の 3 分の 1 が急速に失われたと推測され
ている。 フランス革命の影響を受けて、オランダにおいてもオラニエ・ナッサウ家の専制政治に
不満が高まり、フランス革命戦争期にオラニエ家がオランダから追放された(しかし、オ
ランダはのちに王制が復活した)。フランス革命はこうしたヨーロッパの古い体制や思想
を破壊する役割を果たし、ヨーロッパ史のみならず世界史を揺るがすほどの大事件であっ
1599
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) たといえる(19 世紀のはじめにおきたナポレオン戦争は文句なしにヨーロッパ中を巻き込
んだ大戦争であり、大事件であったといえる)。 しかし、フランス革命はフランス本国において当初は高い評価がなされてきたが、近年
では研究が進むにつれ否定的な意見が増加している。とくに後半の赤色テロの原形とも言
うべき恐怖政治については賛否両論がある。 のちのロシア革命とボリシェヴィキ独裁による恐怖政治、カンボジアにおけるポル・ポ
トとクメール・ルージュによる大量虐殺など、共産主義政権による独裁体制はフランス革
命における恐怖政治に発祥していること、テロリズムの語源がフランス革命のテロル(恐
怖政治のこと)であることなどから、今日では歴史家のみならず哲学者などの多くの知識
人でフランス革命に否定的な態度をとるものも多くなっている。 また「革命の元凶」とされたルイ 16 世やマリー・アントワネットの再研究と再評価が行
われるようになった。ルイ 16 世は、財政のみにとどまらず様々な分野で改革を試み、国家
の立て直しをはかってきたのであり、ルイ 16 世の失政のみが革命の原因であるとする意見
には疑問が呈されている。同様に王妃マリー・アントワネットに関しても、一般に言われ
ている過度な浪費などは後世の誇張である可能性が高まっている。 現在の欧米でのフランス革命の評価は、おおむね単なる「人民叛乱」との位置づけとな
っているようである。かつてフランス革命を肯定的に記述する研究者はマルクス主義者が
多く、その著作はマルクス史観で描写されることが多かったが、マルクス主義が衰退した
現在においてはそうした傾向は影をひそめている。 左派の中では、直接的に行動をおこしたのは民衆であれ、主に革命を主導したのは当時
育成されつつあった中間層などいわゆるブルジョア階級であり、そういう意味でロシア革
命などその後の共産主義革命と異なる「ブルジョア革命」ではないかという研究がなされ、
マルクス主義左派からも否定的に見られることがある。 フランス革命によって「貴族が根絶された」と誤解されているが、そのようなこともな
かった。貴族達の中にも革命側に加わったものや一旦は亡命したもののナポレオン時代以
後には、王政復古も行なわれ、フランスに復帰した貴族も多い(王政復古ののち、ナポレ
オン 3 世の時代には再び帝政になり、1870 年の普仏戦争に敗れて、本格的な共和政になっ
た)。 革命前の栄華こそ戻ることはなかったものの、19 世紀中頃以後は彼らの多くは地主や資
本家への転進をはかり、今日でもフランス各界においてその子孫達は活躍している。ド・
ゴールやジスカール・デスタン、ド・ビルパンは、革命以前からの貴族の家柄の出身であ
る。結局、人間の歴史も進化論と同じように、長い目でみると飛躍(革命)はありえず、
人間社会の自然(社会)選択によることがわかる。 1600
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 【13-4】近世のイスラム世界 【13-4-1】オスマン帝国 ○オスマン帝国の発展 1453 年、メフメト 2 世(在位:1444~46 年、1451~81 年)は東ローマ帝国の首都コンス
タンティノープルを攻略し東ローマ帝国を滅ぼし、図 12-60 のようにオスマン帝国が拡大
の一途をたどった過程はすでにヨーロッパの歴史で述べた。 イスラムの世界では、1501 年にはイランにトルコ系サファヴィー教団のリーダー、シャ
ー・イスマーイールによってシーア派の十二イマーム派の立場に立つサファヴィー朝が創
建された。イスマーイールは 1508 年にはバグダードを占領してアクコユンル(白羊朝)を
滅亡させるなど、オスマン帝国に脅威となりつつあった。 《チャルディラーンの戦い(イラン・サファヴィー朝を撃退)》 そこでセリム 1 世(在位:1512~20 年)は、1514 年 8 月、サファヴィー朝の首都タブリ
ーズの西北方のチャルディラーン(図 12-60 参照)でイスマーイールとの歴史的な戦闘に
入った。結果は大砲とイェニチェリの鉄砲の威力の前に、イスマーイールの騎兵隊は総崩
れとなった。セリムはイスマーイールを追ってダブリーズに入城し、帰りにタブリーズの
有能な工芸職人と商人の中から優れた者を選んでイスタンブルへ移住させた。この処置は
建築やミニチュール(細密画)、装飾美術などを通じてイラン文化をオスマン帝国に移植
させるうえで大きな意味をもった。 《エジプト・マムルーク朝の滅亡》 オスマン帝国は 1515 年からアラブへの遠征を開始し、翌 1516 年にアルジェを占領した。
また同年 8 月には北シリアのアレッポ北方のマルジュ・ダービクの戦いでエジプトのマム
ルーク朝軍を下しシリアを獲得し、1517 年 1 月、カイロを陥れ、マムルーク朝を滅亡させ
た(図 12-60 参照)。ヨーロッパではルターが宗教改革ののろしをあげた年のことであっ
た。 マムルーク朝の滅亡によって、オスマン帝国は全世界のイスラム教徒にとっての二つの
聖都メッカとメディナを保護下におくことになった。このときセリム 1 世がマムルーク朝
の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン・カリフ制を
創設したとする説は 19 世紀の創作で史実ではないが、セリム 1 世は以後、カリフ政治の後
継者を自任し、18 世紀以降にスルタン・カリフ制を用いるようになった。 このスルタン・カリフ制は、イスラム世界の政治的支配者(スルタン)が、ムハンマド
の後継者(カリフ)の地位、すなわち宗教的権威をも兼ねる政教一致の支配制度であった
(ヨーロッパでいえば、皇帝と教皇を兼ねるということであった)。 ○スレイマン 1 世の時代 1601
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 16 世紀の「国際関係」は、オスマン帝国を中心にながめると、ハプスブルクとオスマン
帝国との対決を軸としている。ハプスブルクの神聖ローマ帝国とスペインに挟まれたフラ
ンスのフランソワ 1 世は、異教徒と手を結んだとの批判を覚悟でスレイマン 1 世(在位:
1520~66 年)と同盟した(敵の敵は味方の論理)。両国は終始、同盟関係のもとにハプス
ブルクにあたることになった。 ハンガリーを落として、スレイマンが最初にウィーンを包囲したのは 1529 年 9 月末であ
った(図 12-60 参照)。このように,ヨーロッパは絶えずオスマン帝国からの脅威にさら
されるようになった。 地中海の制海権もオスマンの手に帰すようになった。1538 年、オスマン艦隊とスペイン、
ヴェネツィア、ローマ教皇のキリスト教徒連合艦隊とは、プレヴェザの海戦(現ギリシャ
沖。図 12-60 参照))で衝突し、オスマン側の大勝利によって決着がつけられた。 インド洋方面についても、スレイマン 1 世は、ポルトガルによって多大な損失を受けた
インド・グジャラートのムスリム君主の要請を受けて、1538 年にインドのディウに向けて
艦隊を派遣した。また、スレイマンはインドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラー・
ウッディーンの要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行ったと
いわれている。 インド洋方面ではあまり成果を上げることはできなかったようであるが、紅海のアデン、
イエメン、マスカット(現オマーン)といったアラビア半島の南岸にオスマン帝国の版図
を拡大したことは、オスマン帝国がインド洋・紅海とを結ぶ伝統的な貿易路を「オスマン
の平和」のもとに包み込む結果をもたらした。 このインド洋貿易が「海の道」であるとすれば、いま一つの黒海から中央ユーラシアを
経て中国にいたる「陸上の道」があった。1580 年代以後は、オスマン軍がカスピ海の西岸
を制圧したため、マー・ワラー・アンナフルとオスマン帝国との交通は一層盛んになった。
サファヴィー朝の領域をさけて、北方に中国にいたる「陸上の道」ができ、オスマン帝国
製の銃(ルーミー銃)が中央ユーラシア経由で明王朝に伝来したと考えられている。 以上がスレイマン 1 世の征服事業であるが、このときオスマン帝国の国力はもっとも充
実して軍事力で他国を圧倒するに至り、図 12-60 のように、その領域は中央ヨーロッパ、
北アフリカにまで広がった。 1566 年、ハンガリー遠征中にスレイマン 1 世が陣没すると、その指揮を引き継ぎ、ハプ
スブルク軍を撃破、遠征を成功させたのは、大宰相のソコルル・メフメト・パシャ(1506~
79 年)であった。スレイマン 1 世の後を継いだセリム 2 世は凡庸な人物であり、これ以降、
帝国の舵取りはソコルル・メフメトの手に握られることとなった。 1602
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スレイマン大帝の死から 5 年後の 1571 年 10 月、レパントの海戦でオスマン艦隊は教皇・
スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊に敗北し、地中海の覇権を失った(図 12-60 参照)。
結果は、オスマン帝国の壊滅的敗北に終わった。 ○オスマン帝国の最大版図達成-キョプリュリュ時代 もっとも、しばしば言われるように、ここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対
して劣勢に転じたわけではなく、オスマン海軍は半年で再建され、1573 年にはキプロス島、
翌年にはチュニスを獲得し、地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われること
はなかった。1672 年にはウクライナのコサック達からの救援要請に応じてポーランド軍を
ポドリア(図 12-60 参照。現在のウクライナ南西部)で破り、この地域の支配権を獲得し
た。この時、オスマン帝国は最大版図を達成し、大宰相のキョプリュリュ時代が最盛期で
あった。 この時,オスマン帝国は 3 大陸にまたがる人類史上屈指の巨大帝国であり、地中海の 4
分の 3 を制覇した。版図(はんと)は、西がアルジェリア、ドナウ川から、東がカフカス、
ペルシア湾におよび、北はクリミア半島、ルーマニアから、南はスーダン、紅海に至る広
がりを誇示していた。 そこには,イスラムだけでなくキリスト教やユダヤ教などの多彩な宗派に属する人々が,
アラビア語、トルコ語、セルビア・クロアチア語、ギリシャ語など数えきれないほどの言
葉を話していた。しかも、イスラムの 3 大聖都メッカとメディナとエルサレムのうち、エ
ルサレムはキリスト教とユダヤ教の聖地でもあった。それは、ヨーロッパと中国のライバ
ル強国に劣らない世界帝国に成長したのである。 この後述べるオスマン帝国による 2 度のウィーン包囲に象徴されるように、イスラム世
界とキリスト教世界の双方の力関係は互角というよりも、むしろイスラム世界の方が勝っ
ていた。 《「コーランか、税金か、剣か」のオスマンの世界》 イスラムの世界秩序観によれば、世界はシャリーア(イスラム教に基づく法体系)によ
る秩序のもとにおかれている「平和の家」と、いまだその秩序が成立していない「戦争の
家」とに分けられる。そして、「戦争の家」はいずれ「イスラムの家」に組み込まれるこ
とが理想とされている。しかし、よく誤解されるように「コーランか、剣か」といわれる
ような武力行使や改宗の強要を意味するわけではなかった。 オスマン帝国の世界は、あくまで「コーランか、税金か、剣か」の現実的な世界であっ
た。オスマン朝の征服事業の過程でみられた戦略は、税の支払いを条件にイスラムの支配
を受け入れさえすれば、改宗を強要されることはなく、従来の宗教的自治を完全に認める
というものであった。 1603
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 相手側がオスマン帝国の提示する条件を拒否し、交渉が決裂した場合のみ、スルタンは、
武力による総攻撃を命じた。これによって町や城が陥落したときには、徹底的な略奪が行
われた。コンスタンティノープル陥落後の略奪がその一例であった。 オスマン帝国内の非ムスリムは、ギリシャ正教徒が最大多数を占めたが、アラブ地域の
マロン派、ネストリウス派などのキリスト教徒諸派など多数の非ムスリム集団が存在した。
もともと、イスラム諸王朝においては、その支配を受け入れた、すなわち「イスラムの家」
に参加した非ムスリム、とりわけ「啓典の民」と呼ばれたキリスト教徒とユダヤ教徒は、
「保護民」と位置づけられ、ジズヤ(人頭税)の支払いを条件にほぼ完全な宗教的自治を
認められていた。オスマン帝国においても、この伝統が踏襲された。ジズヤ収入はオスマ
ン王家にとっても最大の収入源の一つであったから、改宗を強要することは決して得策で
はなかった(非ムスリムがムスリムに改宗すると、国家収入が減るという問題があること
は述べた)。 しかし、帝国内の非ムスリム「保護民」は、それぞれの教会組織のもとで宗教的な自治
を享受したが、かといって彼らは国政レベルでの政治的な権利は持てなかったから、ムス
リムと平等だとはいえなかった。しかし、オスマン帝国は、当時宗教的にきわめて非寛容
であったヨーロッパ諸国とは比較にすらならないほど寛容な国家であり、その下で人々は
自由に交流した。 《ハレム制度などイスラムの社会システム》 ハレム(トルコ語)とは、イスラム社会における女性の居室のことである。ハレムは、
イスラム教の説く、性的倫理の逸脱を未然に保護するための仕組み、社会システムであり、
男女は節理ある隔離を行わなければならないとの思想を直接の背景としている。 アッバース朝の衰亡後、アラブ人にかわってイスラム世界屈指の大帝国を築いたオスマ
ン帝国においてもハレムはきわめて大規模なものが形成された。 いずれにしても、イスラム世界の仕組み、社会システムについては、現在の世界の主流
となっているヨーロッパ世界(キリスト教世界)からみると(もちろん、日本人にも)、
なじみがなく、誤解されている面が多い。ハレムのほかにも、このオスマン帝国時代に形
成されたものがいろいろある。 ○オスマン帝国の衰退 しかし、イスラムとヨーロッパとの力関係は,オスマン帝国が 1682 年から 99 年にかけて
ハプスブルク朝オーストリアとの戦争に敗北した後に、急激に変化し衰退がはじまった。 そのきっかけとなったのが、第 2 次ウィーン包囲(1683 年)であった。 《第 2 次ウィーン包囲(1683 年)》 1604
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 当時、オーストリアは三十年戦争の余波から、まだ国勢が低迷しており、1683 年、ハプ
スブルク家支配下のハンガリー西部において反乱が発生し、これをスレイマン 1 世以来 150
年振りのオーストリア攻略の機と考えた大宰相(首相)のカラ・ムスタファ(1634/35~
1683 年)はオスマン勢力下のクリミア、モルダヴィア、トランシルヴァニア、ワラキア諸
侯らとともに 15 万人の軍勢を起し、オーストリア領内に侵攻を開始した。 1683 年 8 月初頭にウィーンに到着したオスマン軍は直ちにウィーンを包囲したが、堅固
な城塞と籠城軍の抵抗の前に攻めあぐね(オーストリアはその前にウィーンの城壁を大改
造していた)、疲労が重なり包囲は 1 ヶ月に及んだ(図 13-47 参照)。 9 月 12 日、オーストリアが要請したポーランド、ドイツ諸侯の援軍7万は、到着したそ
の日の夕刻に突撃を開始した。ポーランド王のヤン 3 世はカラ・ムスタファのいる本陣め
がけて突進、オスマン軍は大混乱となって包囲陣は崩壊、かくして第 2 次ウィーン包囲は
失敗に終わった。 図 13-47 オスマン帝国の縮小(1683~1914 年) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 この包囲戦を契機に中央ヨーロッパの諸国はローマ教皇の呼びかけを受けて大同団結し、
教皇領、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィアからなる神聖同盟を結成、イスラム勢
1605
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 力のキリスト教世界からの追放を旗印に、オスマン帝国との長期戦に突入した。のちには、
ポーランドの誘いにより、非カトリックのロシアもウクライナ(ポドリア)の領有をめぐ
ってオスマン帝国との争いに参入した。 《カルロヴィッツ条約とコンスタンティノープル条約》 カラ・ムスタファの死後、指揮官を失ったオスマン軍は同盟軍の前に敗戦を重ねた。多
正面での戦闘を余儀なくされたオスマン帝国は各方面で領土を奪われ、ヨーロッパにおけ
る勢力の大幅な後退を余儀なくされた。 16 年に及ぶ戦争の末、オスマン帝国は、ロシアを除く各国と 1699 年にハンガリー南部の
カルロヴィッツで講和条約を締結、ロシアとは翌 1700 年に首都イスタンブルでコンスタン
ティノープル条約を締結し、戦争を終結させた。 カルロヴィッツ条約では、オーストリアにオスマン帝国領ハンガリー、トランシルヴァ
ニア、スラボニア(クロアチア東部)を割譲、ヴェネツィアにダルマチア(現在のクロア
チアのアドリア海沿岸地域一帯)を割譲、ポーランドにポドリア(西ウクライナ)を割譲
した。コンスタンティノープル条約では、ロシアにアゾフ(現在のロシア連邦南部・ロス
トフ州の都市)を割譲した(図 13-47 参照)。 オスマン帝国は初めてヨーロッパ諸国に領土を割譲し、またオーストリアは三十年戦争
以来の長期の低迷を脱して中ヨーロッパへの拡大を開始する契機を得た。いずれにしても、
オスマン帝国にとって、これほどまで大規模な領土の喪失は初めてであり、ここからオス
マン帝国の衰退がはじまった。これ以降ヨーロッパに対するオスマン帝国の脅威は薄れ、
東欧では再びヨーロッパ諸国が支配的となった。ロシアの南下政策がはじまり、後に述べ
る東方問題がここに芽を出してきたといえよう。 オスマン帝国が敗退し始めた理由は、軍事技術レベルの逆転にあった。ヨーロッパは軍
制改革に成功し、火砲、用兵、築城、兵站補給の方法においても面目を一新していた。も
はやオスマン帝国のイェニチェリ(新軍)は、旧軍にすぎなくなっていた。 《大北方戦争とパッサロヴィッツ条約》 スウェーデン王カール 12 世はロシアのピョートル 1 世と大北方戦争を戦っていたが、
1709 年、ポルタヴァの戦い(図 13-28 参照)でロシア軍に壊滅させられ、命からがら、オ
スマン帝国領に逃げ込んできたことはロシアの歴史で述べた。カール 12 世の逃亡を受け入
れたオスマン帝国は、ピョートル 1 世の治下で国力の増大著しいロシア帝国との苦しい戦
いを強いられた。このとき、オスマン帝国はプルート川で勝利し、ピョートル 1 世の捕縛
まで成功したにも関わらず、それを逃がしてしまったことは、オスマン帝国としては致命
的な失敗であった。 1606
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) しかし、オスマン帝国は、ロシアとは、この 1711 年のプルート川の戦いで有利な講和条
約を結んで、1700 年のコンスタンティノープル条約で失った黒海沿岸のアゾフ を奪還した。
これによってロシアの圧迫は一時的に緩和され、オスマン帝国はしばらくの間安定した時
期を迎えた。 しかし、その後、調子に乗ってオーストリアやヴェネツィア共和国と争って逆に大敗を
喫し、1718 年のパッサロヴィッツ条約(パッサロヴィッツは現・セルビアのポジャレヴァ
ツ)でワラキア西部・セルビア北部・ボスニア北部などをオーストリアに割譲した(図 13-47
参照)。これでセルビアの重要拠点ベオグラードを失った。 ○東方問題の発生 衰退していくオスマン帝国をめぐってヨーロッパの大国が様々な外交をするようになっ
たが、その中心をなすのが、ロシアの南下政策であり、それを勢力均衡の観点から阻止し
ようとしたのが英仏であるという構図が多くなっていった。これをヨーロッパ外交からみ
て「東方問題」というようになるが、それが発生しはじめた。 《露土戦争(1736~39 年年)とベオグラード条約》 ロシアが再び黒海沿岸のアゾフを求めて 1736 年にオスマン帝国に開戦し、露土戦争が起
きた。ロシアの同盟国オーストリアは、開戦の 1 年後にロシアを支援する形で参戦した。 この戦争の結果、1739 年のベオグラード条約でロシアのアゾフ領有が確定し、ロシアの黒
海進出を招いた。オーストリアは、そのうちロシアの影響力の拡大を恐れて、休戦交渉に
おいてはロシアの敵国フランスの懸念を利用してロシアの主張を抑え込もうとした。 つまり、この戦争では、ヨーロッパの勢力均衡が著しく損なわれるのを防ぐために紛争
の当事者以外が「東方」をめぐる紛争に介入するという「東方問題」の基本的な構造が現
れてきた。 《露土戦争(1768~74 年)とキュチュク・カイナルジャ条約》 ロシアの歴史で述べたように、ロシア帝国とオスマン帝国の戦争(露土戦争)は、たび
たび起こったが、1768~74 年の戦争は、1774 年のキュチュク・カイナルジャ条約によって
講和が結ばれた(図 13-47 参照。ブルガリアのキュチュク・カイナルジャ で結ばれた)。 ロシアはキュチュク・カイナルジャ条約によって、商船のボスポラス・ダーダネルス両
海峡の航行権(ロシアは黒海から地中海へ進出できるようになり、ロシア南部に不凍港を
得たということである)、イスタンブルにおけるギリシャ正教の教会建設と保護の権利を
獲得した(その後、この特権は、オスマン帝国領土全体のギリシャ正教会教徒の保護権に
拡大され、内政干渉への口実となった)。また、最大の屈辱は、キリスト教国ではない、
イスラムの同信者のクリミア・ハン国に対する政治的保護権を放棄したことであった。 1607
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) このようにオスマン帝国は 18 世紀に入るとほぼ一方的に後退の一途をたどることになっ
たが、その急先鋒は南下政策を推し進めるロシアであった。 【13-4-2】イラン・サファヴィー朝 ティムール朝の解体後、その支配を脱したイラン人は、イラン民族国家としてサファヴ
ィー朝(1501~1736 年)を建てた。サファヴィー朝は、ササン朝以来 8 世紀半ぶりのイラ
ン民族国家であった。イランの伝統を尊重し、スンナ派のオスマン帝国に対抗してシーア
派を国教とした。皇帝はアラビア風の称号であるスルタンをやめて、イラン風のシャーを
称し、帝王思想の復活をはかった。 このようなサファヴィー朝の性格を知るためには、その起源となったサファヴィー教団
を知る必要があるので、12 世紀のサファヴィー教団の発足にさかのぼって述べる。 《サファヴィー教団の誕生》 イスラム神秘主義教団とは、12 世紀ごろからイスラム世界の各地で成立しはじめた宗教
組織で、スーフィー教団とも呼ばれた。教主の指導の下で、神の真の姿を知ることを最終
的な目標として修業に励む人々の集まりであった。 サファヴィー教団は、聖者サフィー・アッディーン(1252~1334 年)とその弟子たちが、
14 世紀の初めにイラン西部(アゼルバイジャン地方)のアルダビールの町で設立したもの
であった。サフィー・アッディーンは、神秘主義の師シャイフ・ザーヒドの娘婿となって
師の教団を受け継ぎ、サファヴィー教団を興した。 サフィー・アッディーンの祖先に関しては、シーア派第 7 代指導者(イマーム)、ムー
サー・アルカージムの血を引くサイイド(図 12-54 参照。預言者ムハンマドの一族)、後
裔であると宣伝されるようになったが、本当のところはわからない。そして、少なくとも
王朝創建以後、一般の人々はそれを信じるようになった。今日のイランに住むこの家の子
孫はサイイドとして遇されている(アゼルバイジャンではサファヴィー家はトルコ系だと
いっているし、クルド系だという説もある)。 サフィー・アッディーンは清貧の生活の中での瞑想によって神との対話を試みる聖者で、
その生活態度や人徳、学識によって近隣に多くの信者を獲得した。このため、彼の時代に
教団の規模は大きく拡大した。教団独自の儀礼が次第に制度化され、弟子たちの位階が定
まってくると、組織としての教団を維持、発展させていくために多額の資金が必要になっ
た。そこで、サフィーは早くから土地経営に手を染め、寄進や購入によって相当量の不動
産を所有するようになった。これらの不動産が教団の共有財産ではなく、ほとんどが教主
であるサフィーとその一族の個人財産とされた。教団ではなく、サファヴィー家が大地主
になったのである。 1608
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) サファヴィーとは、サフィーに従う者たちという意味である。その教主の座はサフィー・
アッディーンの子孫によって世襲され、歴代の教主は信徒からの寄進によって富を蓄えて、
サフィー廟のあるアルダビールを中心に隠然たる勢力を築きあげていった。 15 世紀前半までのサファヴィー教団は、師匠である教主のもとで、神の真の姿を知り、
神と一体化することを目指して修行に励むスーフィーたちの集団と、それを取り巻く多数
の在家の信者からなるごく一般的な神秘主義教団の形態をもっていた。またサフィー・ア
ッディーン自身はスンナ派に属していたといわれるように、サファヴィー教団は本来はス
ンナ派に近い立場の教義をもっていた。 しかし、15 世紀の中ごろ、教主の座を巡ってサファヴィー家の中で起こった争いに敗れ
たジュナイドが、いったん教団の本拠地アルダビールを去り、今日のトルコ東部、アナト
リア高原に分け入った。その地で遊牧生活を送っていた主としてトルコ系の遊牧民の間に
新たな支持者を開拓しようとしたのである。シーア派の中でも特に過激とされる「極端派
(グラート)」に類する教説を唱え、スンナ派の教えに飽き足らない、シャーマニズム的
な要素を色濃く残した東アナトリアやアゼルバイジャンのトルコマンたちを信者に取り込
もうとした。この目論見は成功し、ジュナイドの信奉者となったこれら遊牧民の武力を背
景に、ジュナイドはアルダビール(図 13-48 参照)に舞い戻り、1447 年、教団教主の座を
獲得した。 図 13-48 1510 年ごろのサファヴィー朝の領域 以後、サファヴィー教団はその性格を変えた。自らに敵対する政治勢力への敵意をあら
わにし、信者のトルコ系遊牧民の軍事力を利用して、「戦う教団」になっていった。世俗
権力との軍事的な対決はすなわち、教団が世俗権力そのものの獲得を目指すということに
ほかならなかった。サファヴィー教団は、神との一体化を目指すという宗教的な目的とは
1609
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 別に、世俗権力の獲得というきわめて政治的、現実的な目的を合わせて有することとなっ
たのである。 現世のしがらみを捨てて修行に励むはずの宗教集団が、世俗の権力獲得を目指すという
この現象は、イスラム世界ではとりたてて珍しいことではない。そもそも、ムハンマドに
よるイスラムの運動自体がそうだったのである。 この信徒の遊牧民たちは、のちにジュナイドの子ハイダルが、12 人のイマームを象徴さ
せて白い布を十二巻きした赤い長い角のような棒のついた帽子を着用させ始めたことから、
トルコ語で「紅い頭」を意味するキジルバシの名で呼ばれるようになった。 その教説は「キジルバシ的シーア主義」と呼ばれるもので、12 人のイマーム崇拝と救世
主の到来を信じるメシアニズムである。そして教団の教主が救世主と考えられていた。キ
ジルバシが死を恐れずに教主とともに勇敢に戦う理由の一つは、救世主のもとでの死が直
ちに殉教死になるという点にあった。 「キジルバシ的シーア主義」の第 2 の特徴は、スンナ派に対する異常なまでの憎しみで
ある。もちろんシーア派の人々一般に、スンナ派への敵愾心があったことは事実であるが、
サファヴィー教団の場合はやや度が過ぎていた。 第 3 の特徴は、およそイスラム的とは言えないような呪術的宗教儀礼の実行である。例
えば、戦いで打ち破った敵の大将の髑髏(どくろ)で勝利の酒を飲むことなどがそれにあ
たる。 キジルバシの指導者として政治権力化したサファヴィー教団は、タブリーズを都として
アゼルバイジャンを支配する世俗権力、白羊朝(はくようちょう)の利害と関りあうこと
になり、サファヴィー朝のジュナイドとその息子ハイダル、さらにその息子のシャイフ・
アリーは、白羊朝やその同盟勢力との戦いで相次いで命を落とした。 シャイフ・アリーの弟で彼を継いで教主となった7歳のイスマーイールは、厳しい捜索
の手を辛うじて逃れ、カスピ海南岸のギーラーン地方に身を隠さざるをえなかった。 雌伏 5 年、1499 年、イスマーイール 12 歳の時、祖父の代からの夢だった世俗権力獲得を
目指し、信者のトルコ系遊牧民を糾合するためにラシュトの町を出た。アナトリア各地の
遊牧部族の牧地に使者が立ち、教主イスマーイールから檄(げき)が伝えられた。集合の
地に指定されたエルジンジャン(現トルコ東部の町。図 13-48 参照)郊外の草原には熱気
に溢れた 7000 人のキジルバシが集結し、イスマーイールへの無私の忠誠を誓った。ここに
16 世紀サファヴィー朝の軍と国家体制を特徴づけるトルコ系遊牧民キジルバシの部族連合
の祖型が組織されたのである。 イスマーイール(1487~1524 年)はサファヴィー教団の教主であると同時に優れた資質
をもった詩人でもあり、トルコ語で詩作してキジルバシの宗教的情熱をかきたてた。こう
1610
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) してサファヴィー朝は宗教的情熱に支えられ、キジルバシの軍事力により、イランの中部
から西部に出撃していった。 ○サファヴィー朝国家の成立、初代イスマーイール イスマーイール指揮下のキジルバシ軍は、その後、東へ向かい、各地で白羊朝やその同
盟軍と戦って勝利したのち、1501 年の秋には、ついに白羊朝の都だったアゼルバイジャン
の首都タブリーズ(図 13-48 参照)に入城した。このときをもって、「サファヴィー朝」
が成立したとされている。「戦う教団」はついに天下を取ったのである。 《メルヴの戦い》 1510 年、イスマーイール率いるキジルバシ軍は、ティムール朝最後の政権を滅ぼして、
イラン東部のホラーサーンに勢力を伸ばしつつあったシャイバーン朝軍とホラーサーンの
メルヴで衝突した。この戦いはサファヴィー朝の圧勝に終わり、英主シャイバーニー・ハ
ンを失ったシャイバーニー朝の南下は挫かれることになった。 《チャディラーンの戦い》 一方、急成長をしたサファヴィー朝の成功は、西方のオスマン帝国と必然的にぶつかる
ことになり、1514 年 8 月、チャディラーン(図 13-48 参照)の野で、激突してサファヴィ
ー朝軍が大敗したことはオスマン帝国の歴史で述べたとおりである。 チャルディラーンの戦いの敗戦によりサファヴィー朝は多くの将兵を失い、宗教的情熱
に支えられた軍事拡大の時代は終わりを迎えた。教主に忠実な教団員だったキジルバシの
有力者は、権力と富を有する世俗的な領主へ分封されていった。 分封の結果、新領土からあがる税収は、一部が中央政府に送られる以外は大部分キジル
バシのものとなった。政権の基盤が固まるにつれて、彼らの行動には次第に自らと自らの
部族の権益を守ろうとする姿勢が目立つようになってきた。両者の関係は、教主と弟子の
関係から国王と臣下の関係へと次第に変質していった。 以後、政権の基盤が固まるにつれて、多くのタージーク(イラン系都市定住民)が政権
に加わるようになった。それまでの東方イスラム世界の国家と同様、サファヴィー朝でも、
軍事はトルコ系遊牧民、行政はタージークといういつものパターンに落ち着いた。 ○シーア化促進政策 十二イマーム派を国教として採用したが、その教義は当時のイランではなじみ深いもの
ではなかったため、それを社会に根づかせるために、イスマーイール以後歴代の王や政府
は次々と手を打った。モスクの金曜礼拝の説教では、教義が分かりやすく説かれ、必ず 3
人の正統カリフの名を呪うことが繰り返し実行された。神秘主義教団に対する取り締まり
が厳しくなり、16 世紀の末にはサファヴィー教団以外の神秘主義教団はサファヴィー朝の
1611
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 領域から姿を消した。住民がこぞってシーア派となった都市や地域の税が軽減され、逆に
スンナ派の人々に対しては増税が実施された。 これらの種々の措置によって、17 世紀の初めごろまでには、サファヴィー朝治下の社会
における住民のシーア化が進んだ。第 3 代イマーム、フサイン(ムハンマドの娘ファーテ
ィマとアリーとの間の子)の殉教死を悼むアーシューラーの諸行事が盛んに行われるよう
になり、シーア派に属する人々の間での一体感が強くなっていった。今日のイランやアゼ
ルバイジャンなど旧サファヴィー朝の領域では、シーア派を信じる人々が多数を占めてい
る。これはサファヴィー朝の時代のなみなみならぬシーア派促進政策の成果であるといえ
よう。 ○サファヴィー朝の中興―アッバース 1 世の改革 サファヴィー朝は、東からシャイバーニー朝(ウズベク人)、西からオスマン帝国の 2
大強国から挟み撃ちにあい、たえず危機にさらされるようになった。そのうち、オスマン
帝国にはサファヴィー朝発祥の地タブリーズを含むアゼルバイジャンを、シャイバーニー
朝には東部ホラーサーンの大部分を奪われた。 17 歳で第 5 代シャーになったアッバース 1 世(在位:1587~1629 年)は、オスマン帝国、
シャイバーニー朝と和平を結んで軍事活動を中断して、改革に取り組んだ。アッバース 1
世の改革のポイントは、軍事をトルコ系遊牧民キジルバシにだけ頼る体制を改め、支配下
にあるさまざまな出自の人々を軍人として活用することであった。 10 年後、アッバース改革が試される時がきた。1598 年、攻勢に出たアッバース 1 世はシ
ャイバーニー朝を破ってホラーサーンを回復した。1603 年、宿敵オスマンと開戦してアゼ
ルバイジャンを回復した。さらに 1622 年、イギリスと結び、ポルトガルと戦ってホルムズ
島を奪った。 1624 年には 100 年ぶりにバグダードを再征服して創建当時のサファヴィー朝の領域を取
り戻し、サファヴィー朝の領域はほぼ創建時のイスマーイール 1 世の時代のそれにまで回
復した(図 13-48 参照)。 1597 年、アッバースは都をイラン中部のイスファハーンに移し、イスファハーン旧市街
の郊外に王宮を中心に庭園に囲まれた新都が造営された。イスファハーンの人口は 50 万人
に達した。この当時 50 万人以上の人口を有する町は、ロンドン、パリ、江戸、北京、それ
にイスタンブル程度で、17 世紀の世界では有数の大都会だった。アッバース 1 世の治世の
もとでイスファハーンは壮大華麗、大いなる繁栄を遂げたため、「世界の半分」とまで称
された。 その成功の秘訣は、征服によって広がった領土の住民をも積極的に体制内に入れて活用
し、政治、軍事、経済の各分野で従来の枠組みを越えた人材登用を行った点にあった。ア
1612
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ッバース 1 世の時代は、サファヴィー朝国家の「国際化」と「多民族化」の時代だったの
である。この間に彼が断行した一連の政策は「アッバースの改革」と総称されている。 ○サファヴィー朝の衰退と滅亡 アッバースが亡くなった後、無能な君主、とくに政治への関心をもたない君主が続いた
ことは、君主権力が絶対的な専制国家となっていたサファヴィー朝の活力を急速に失わせ
た。早くも 1638 年には、反撃に出たオスマン帝国によってイラクを失い、17 世紀を通じて、
サファヴィー朝は次第に衰退していった。 18 世紀に入ると衰退は決定的となり、クルディスタンのクルド人、バローチスタンのバ
ローチ人など辺境の民族が相次いで反乱を起こした。とくにアフガニスタンでアフガン人
(パシュトゥーン人)のカルザイ部族に属するミール・ヴァイスが 1709 年に起こした反乱
は、カンダハールにアフガン政権を自立させるに至った。1722 年 3 月、サファヴィー朝軍
は数において勝るにもかかわらずアフガン軍に惨敗、同年 10 月、都イスファハーンを失っ
たサファヴィー朝は事実上滅亡した。 ホラーサーンにいたキジルバシのアフシャール部族を率いるナーディル・クリー・ベグ
が、一時、サファヴィー朝領の大半の回復に成功し、ナーディル・シャー(在位:1736 年
~1747 年)を称してアフシャール朝を開いた。きわめて短い期間だがアナトリア東部から
イラン、中央アジア、インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れた。しかしナーディル・
シャーは 1747 年に暗殺され、アフシャール朝の勢力はあっけなく衰えた。ナーディル・シ
ャーの没後、イランは群雄割拠状態となり、カージャール朝に取って代わられた。 ○サファヴィー朝の性格 サファヴィー朝は、16 世紀から 18 世紀前半にかけて現在のイランを中心に支配したイス
ラム王朝(1501 年~1736 年)で、かつてはアラブ、トルコ、モンゴルなどの異民族の支配
を脱して数百年ぶりにイラン人が建設した民族王朝としばしば説明され、十二イマーム派
の採用もイラン人の民族意識の高揚によるとの理解が一般的であった。 しかし、現実にはサファヴィー朝の勃興はトルコマンと呼ばれるイラン、アゼルバイジ
ャンの一帯に遊牧していたトルコ系遊牧民の軍事力によって興り、初期の国制もセルジュ
ーク朝から白羊朝までのイランの諸王朝にみられたのと同様に遊牧民の有力部族が地方の
封建領主として実権を握り、ペルシア人の官僚が文官として君主を支えるという体制から
外れるものではなかった。 そもそも、初代君主であるイスマーイール 1 世自身も祖母をトルコ系王朝白羊朝の英主
ウズン・ハサンの妹、母をウズン・ハサンの娘とするきわめてトルコ系の血筋の濃い人物
であった。 1613
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) しかし、この王朝が十二イマーム派を採用したことでイラン、アゼルバイジャンなどに
シーア派が根付き(根付かせられたが)、これらの地域が他の地域から政治的・文化的に
分離した地域として、イラン国家、アゼルバイジャン国家に繋がる民族意識の基礎が築か
れたことは否定できない(現在では宗教、国民性と言っているようなことでも、歴史をさ
かのぼれば偶然が作用したことも多い)。 【13-4-3】アフガニスタン・ドウッラーニー朝 ○ドウッラーニー朝以前のアフガニスタン パシュトゥーン人は、アフガニスタン内で最大の人口を持つ民族で、アフガニスタンと
は、ペルシア語・ダリー語で「アフガン人(パシュトゥーン人)の国」という意味である。 このアフガン人(パシュトゥーン人)がはじめてつくった国は、18 世紀に現在のアフガニ
スタンに存在したドゥッラーニー朝で、首都はカンダハールであった。 その前はどうかといえば、16 世紀と 17 世紀の 200 年間は西のサファヴィー朝、東のムガ
ル朝、そして北のウズベク人勢力という三つどもえのの争奪戦が繰り広げられる舞台とな
っていた。とくに、カンダハール地方は、東のムガル朝と西のサファヴィー朝が激しい攻
防を展開する最前線であった(図 13-49―①参照)。 図 13-49 アフガニスタン・ドゥッラーニー朝 《ムガル朝とサファヴィー朝の狭間の時代》 1558 年にサファヴィー朝のタフマースブ 1 世がカンダハールを攻略すると、1594 年には
ムガル朝のアクバルがこれを奪還した。これに先立つ 1584 年にはウズベク人勢力がバダフ
シャーン(現アフガニスタン北東部の州)の大部分を支配下にいれた。 1622 年にはサファヴィー朝のアッバース 1 世がヘラートからウズベク人を放逐し、カン
ダハールを再度奪還したが、1638 年になると、ムガル朝のシャー・ジャハーンが再びカン
ダハールをサファヴィー朝から奪い返し、その息子ムラートがバダフシャーン方面をウズ
1614
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ベク人から奪回、バルフおよびその北方方面にまで支配域を広げた。しかし、1648 年には
サファヴィー朝のシャー・アッバース 2 世がまたもやカンダハールを併合、この時をさか
いにムガル帝国側は当地に対する支配権を永久に放棄することとなった。 《アフガン人(パシュトゥーン人)意識の形成》 まさにこうした時代に、アフガン人意識の萌芽が起こったといわれている。ムガル朝の
支配に対抗して繰り広げられた抵抗運動は、アフガン人意識の形成を大きくうながし、「ナ
ング(誇り)なき生よりは死を」を合言葉に、「同じ言葉つまりパシュトウー語を話す者」同
士の連帯を訴え、ムガル朝の侵攻に立ち向い、ついに侵攻を断念させた。今度はサファヴ
ィー朝に対してであった。 1709 年、パシュトゥーン・ギルザイ部族の長ミール・ワイスがサファヴィー朝相手に反
乱を起こした。ミール・ワイスは、サファヴィー朝が任じていたカンダハール総督を殺害
し、サファヴィー朝の中心部へ進出した。その後、ミール・ワイスの息子ミール・マフム
ードがサファヴィー朝の首都イスファハーンを攻略し、実質的に王朝を崩壊させて王位を
奪った。しかし、サファヴィー朝皇太子タフマースブを支援したナーディル・シャーが、
1729 年に彼らアフガン人をサファヴィー朝領内から駆逐した。これにより、ギルザイ部族
の勢力は弱体化していった。 一方、パシュトゥーン人のなかで、ギルザイ部族の対抗勢力だったアブダリー部族は、
ヘラートを攻略してマシュハドに侵攻したが、1732 年、ナーディルによりヘラートまで押
し戻され、そこを陥落させられた。そして、アブダリー部族はナーディルの軍隊に組み込
まれた。1736 年、ナーディルは王位に就いて、アフシャール朝が成立した。 しかし、ナーディル・シャーは 1747 年、自身の部下により、ヘラート近郊で暗殺され、
その支配地であるイラン一帯は混乱、分裂した。その不安定な情勢の中で、ナーディル・
シャーのアフガン人部隊であったアブダリー部族は、シャーが遺した財宝を携えて故郷カ
ンダハールに帰還した。 ○アフガニスタン・ドゥッラーニー朝の建国 ここでアブダリー族のアフメド・ハンは、1747 年、アブダリー族の 9 つの亜属が集まっ
たジルカ(長老会議)によってシャーにえらばれた(在位:1747~1772 年)。その後、アブ
ダリー族はドゥラーニーと名乗るようになり、アフメド・ハンは、アーメッド・シャー・
ドゥラーニーとなった。「ドゥッラーニー」はパシュトゥーン語で「真珠の時代」を意味す
る。ここにはじめてパシュトゥーン部族を中心とする、アフガニスタン(ドゥッラーニー
朝)を建国したのである。首都はカンダハールであった。 1615
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1748 年にガズニとカーブルを攻撃し、続いてペルシャワールを襲った。次ぎに、デリー
へ兵を進め、領土を拡げた。1750 年ヘラートに進撃し、さらにアフガニスタン中央部のバ
ーミッヤンをおさえ、広大な領域を支配することになった(図 13-49―②参照)。 1772 年のアフマド・シャー死去後、後継者争いの末にティムール・シャー(在位:1772
~1793 年)が王位に就き、首都をカーブルに定めた(冬の拠点はペシャワル)。このカンダ
ハールからカーブルへの遷都は、ヒンドゥークシュ山脈の北側とインダス川の東側を、支
配しやすくするためだった。 ドゥッラーニー朝は、清がジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するように
なり、清の皇帝から朝貢を要求され、以後清の朝貢国となった。またこの時代には弱体化
したムガル帝国にも何度も侵攻し、一時期デリーを領有したこともあった。 外交面では好戦的な一面も見せたが、周辺の遊牧国家とは親善をはかった。1842 年に王
家が分裂し分家が本家を滅ぼす形で王朝が交代し、バーラクザーイー朝が創始された。ド
ゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、続くバーラクザーイー朝もあわせてド
ゥッラーニー朝ということもある。 【13-5】近世のインドとインドの植民地化 【13-5-1】インド・ムガル帝国 ○初代バーブルとムガル帝国の誕生 バーブル(1483~1530 年)はティムール帝 5 代目の子孫として 1483 年中央アジアのフェ
ルガーナ地方アンディジャーン(現ウズベキスタン)に生まれた。父は同地方を支配して
いたウマル・シェイフ・ミールザー、母はチンギス・ハーンの次男チャガタイ・ハーンの
子孫ユーヌス・ハーンの娘である。従って、父からトルコ人の血を、母からモンゴル人の
血を受け継いでいた。 12 歳で父を失ったバーブルは、伯父や従兄たちと領地争いを繰り返し、また、サマルカ
ンドの支配をめぐる中央アジアの覇権をウズベク人(シャイバーニー朝)と争って敗れ、
1504 年アフガニスタンへ逃れた。アフガニスタンのカーブル(図 13-50 参照)を占領して
バーブルは、「スルタン」ではなく、「パードシャー」(「皇帝」「王」の意)と称して
いた。 1616
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-50 16 世紀のインド 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 バーブルは 1512 年サファヴィー朝ペルシア軍の助力を得てブハラの奪回に向かったが、
グジュドウヴァーンの戦いで主力のサファヴィー朝ペルシア軍がシャイバーニー朝軍に敗
北してしまった。そこで、彼は、その後はインド征服に目を転じるようになり、数年間は
カーブルを中心にアフガニスタン周辺の支配を固めつつ、インド方面への遠征を行うよう
になった。バーブルはカーブル占領後、ずーっと、オスマン帝国出身の砲術師ウスタード
アリーと火縄銃師ムスタファーを雇い、来るべきインド侵攻に備えていた。 《パーニーパットの戦い》 1526 年、ロディー朝のスルターン・イブラーヒームが 10 万人の兵と象の大軍を率いて侵
攻してきた。このパーニーパットの戦い(図 13-50 参照)ではロディー朝軍の騎馬隊を巧
みにおびき寄せ、鉄砲でもってその隊列を崩し、戦象を迷走させるとともに、味方の騎兵
にこれを撃破させ、バーブル軍の数倍を擁するロディー軍はスルタンを含めて 3 万人の死
者を戦場に残して壊走した。 こうしてバーブルはデリー・スルタン朝最後の王朝ロディー朝を破り、デリー、アグラ
を制圧してムガル朝を建国した(在位:1526~1530 年)。インドでは、それまでラージプ
ート政権(ヒンドウー政権)や他のムスリム政権では銃や大砲などの使用がほとんど知られ
1617
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ていなかったようであるが、パーニーパットの戦いに代表されるバーブルの積極的な使用
以降、インドでの戦闘に銃火砲が多く投入されるようになった。 しかし即位の翌 1527 年、ラージプート族の藩王連合軍が攻めてくるなど、ムガル帝国の
治世は多難を極め、またバーブル自身が在位わずか 4 年で死去したため、王朝の基礎固め
は 2 代目のフマーユーン帝の時代ではなく、バーブルの孫・3 代目のアクバル(大帝)の時
代に果たされることとなった。 2 代目フマーユーン帝(在位:1530~40 年、1555~56 年)は、スール朝を開いたシェー
ル・シャーに 1539 年のチャウサの戦いならびに翌 40 年のビルグラーム(ガンガー)の戦い
で敗北し、ヒンドスターンの王位をおわれ、ペルシアに逃げざるをえなかった。その 15 年
後、フマーユーンは 1555 年 2 月にラーホール、6 月、スィルヒンドでスール朝の第 3 代目
のスィカンダル・シャー・スールを激戦の末破り、7 月アグラを衝き、7 月 23 日父バーブ
ル帝の玉座に 15 年ぶりに復帰した。 ○第 3 代アクバル大帝の時代 フマーユーンを継いだ第 3 代皇帝ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバル(在位:
1556~1605 年)は、アラビア語で「偉大」を意味するアクバルの名にふさわしく、中央ア
ジアからの流入者であった祖父バーブルの立てたムガル朝を真に帝国と呼ばれるにふさわ
しい国家に発展させ、アクバル大帝とも呼ばれた。 1562 年、ラージプートの中で最初に臣従したラージャスターン(現在、西はパキスタン
に接するインドで一番大きい州)のアンベール王の娘と結婚してアンベール王国と同盟し
たのを皮切りに、アンベールをはじめとするラージプートの王侯を次々に連合・平定して
傘下に加えて中央アジア伝統の部族制に支えられた軍隊から土着のヒンドゥー教徒を含め
た新しい軍隊を作り上げ、この軍事力を背景に 30 代の頃までに、図 13-50 のように、イン
ド北部の大部分を併合して大版図を実現した。 こうして広大な版図に多くの非イスラム教徒を抱えるようになった帝国を支えるため、
アクバルはムガル帝国の制度の確立に乗り出した。 イスラム法上、異教徒に対して課されていたジズヤ(人頭税)を廃止するなど税制を改
革し、軍人や官僚に、平時から準備していることを義務づけた兵馬の数に応じた位階(マ
ンサブ)を与えて官僚機構を序列化するとともに安定した軍事力を確保するマンサブダー
リー制を導入した。32 段階の官位(マンサブ)が定められ、この官位に応じて俸禄が支給
された。 軍人、官僚を問わず、帝国に仕えるものに対してマンサブが与えられ、功績を重ねるご
とにマンサブを昇進させることが可能であった。貴族の給与地は軍役の提供を条件に与え
られるものであり、規定数の軍馬の維持を厳格に守らせるために、貴族の規定数の軍馬に
1618
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 焼印を押すことによって、彼らの不正を防止するとともに、国家の軍事力の確保をはかっ
た。 アクバル帝はマンサブダーリーの入念な運用によってとりわけ貴族と高官を支配し統制
した。皇帝権力の専制化はこの制度の確立をもって完成した。 アクバルはイスラム以外の宗教に対しても寛容であったことが知られている。まず、ム
スリム以外に課せられるジズヤ(人頭税)の廃止を行った。アクバルは、宗教的には、中
央アジア系・イラン系のムスリム(イスラム教徒)のみならず、土着のムスリムやヒンド
ゥー教徒から、ポルトガル人がインドで宣教するキリスト教に至るまで、多様な宗教に対
して関心を寄せていたといわれる。 ○第 4 代ジャハーンギールと第 5 代シャー・ジャッハーン 1605 年、アクバルがアグラで死ぬと、ジャハーンギール(在位:1605~27 年)が継いだ。 ジャハーンギール帝は、父の宗教的に寛容な政策を引き継ぎ、版図拡張につとめたが、
領土の拡大に関しては、各方面で一進一退を繰り返した。 外交面では、主にサファヴィー朝とウズベク、そしてオスマン帝国と外交をかわしてい
た。その他にもポルトガルのみならず、イギリス東インド会社のムガル帝国内での活動を
許可した。ヨーロッパ諸国は、当時ムガル帝国の征服をもくろんでいたが、強大な軍事力
をもつムガル帝国の前に断念した。 第 5 代のシャー・ジャハーン帝(在位:1628~58 年)の時代はムガル帝国の黄金時代で
あるといわれているが、同時に帝国の分解をもたらす要因が用意されつつあった。という
のは、皇帝はおのれに対するマンサブダーリーの忠勤と帝国への貢献に対して、支配者と
しての度量の広さを示すため、禄位を安易に引き上げる傾向にあり、またデカンのムスリ
ム諸王国への政治工作とその征服を行っていくために、給与地が著しく増大し、帝国直轄
地の地租高が帝国全体の総地租高に占める割合が、シャー・ジャッハーン帝の治世を通じ
て 10%以下になってしまった。 また、シャー・ジャハーン帝は愛妃ムムターズの死をいたく悲しみ、1632 年以降ムムタ
ーズ・マハルの廟墓タージ・マハルの建設事業に取りかかり、実に 20 年前後の歳月をかけ、
1653 年ごろ完成したとされる。タージ・マハル自体はとてもすばらしく美しい建物である
が、多大の費用がかかり、その裏では多くの民衆が働かされていた。 ○第 6 代アウラングゼーブ 敬虔なスンナ派ムスリムの 6 代目アウラングゼーブ帝(在位:1658~1707 年)の即位は、
アクバル帝以来、国家の宗教としての地位から外されてきたイスラムを復権させようとし
てきたイスラム正統派神学者たちの期待と歓呼で迎えられた。皇帝自身その期待に応え、
ムガル帝国を「異教徒の国」から再び「イスラムの国」に変える決意で帝位に就いた。 1619
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) アウラングゼーブ帝は、コーランの教えに従ったムスリムの行動規範を復活する多数の
条例を発布した。大都市ではコーランに禁止されている行為を取り締まる風紀監察官が置
かれた。ヒンドウー商人とムスリム商人への差別関税、ヒンドウーの寺の建設・再建・修復
の禁止、ヒンドウー寺院の破壊命令(1669 年)、ヒンドウーの祭礼の禁止、公の場でのヒン
ドウーの教育や宗教的行為の禁止、聖地巡礼税の復活が行われるようになった。 1679 年 4 月のジズヤ(非ムスリムに対する人頭税)の復活は、こうした一連の非ムスリ
ムへの迫害政策(アウラングゼーブ帝にとっては、イスラムの宣布と改宗政策)の総仕上
げだった。 しかし、ジズヤの復活などの宗教政策は保守反動的なものとなり、他宗教に厳しい弾圧
を行ったため、マラータ族、シク教徒、ラージプート族などの反乱が激化していった。 《マラータ同盟の反乱》 アウラングゼーブ帝をデカン高原に釘づけにし、ムガル帝国のデカン支配を掘り崩して
いったのは、シヴァージーを中心とするマラータの豪族たちの活動であった。 チャトラパティ・シヴァージー(1627~80 年)は、マラータ族のリーダーであったシャ
ーフジー・ボーンスレーの息子として生まれた。国をもたず、インドのデカン高原を中心
に分散していたマラータ族をまとめ、ヒンドゥー教を一族の精神的支柱とした。 マラータ族はマハーラーシュトラを郷里とし、その大半が農業に従事するカーストで、
彼らのなかの豪族層はこの地方を支配していたアーマドナガル王国(図 13-50 参照。ニザ
ーム・シャーヒー王朝)、ビージャプル王国(アーディル・シャーヒー王朝)などデカン
のムスリム王国に仕えていた。 アグラでアウラングゼーブとの交渉を行ったが決裂し、1674 年にラーイガドでマラータ
王国(1674~1818 年)を建国し、アウラングゼーブ帝のイスラム化政策に抗してヒンドウ
ーの信仰と自由を守ることを鮮明にした。そして長期間のゲリラ戦でムガル帝国皇帝のア
ウラングゼーブを苦しめた。 1680 年にシヴァージーは亡くなると、シヴァージー直系の王の力が弱まり、それに代わ
って宰相が実権を握るようになった。この独特の政体を確立したのはバージー・ラーオ
(1700~40 年。宰相在位:1720~40 年)であった。彼は王国の有力諸侯とゆるやかな政治
連合を形成し、ムガル帝国に抵抗しつづけた。これを一般にマラータ同盟(1708~1818 年)
と呼んでいる(図 13-51 参照)。バージー・ラーオは、ムガル帝国が衰退していることを
見抜き、積極的に遠征を繰り返した。マラータ軍の主力は軽騎兵隊で、各地で重装備のム
ガル軍を翻弄し打ち破った。 1620
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-51 分裂するインド(18 世紀のインド) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 《シク教徒の抵抗》 シク(スィク)教徒も反乱を起こしたが、シク教は、16 世紀にグル・ナーナク(1469~
1539 年)がインドで始めた宗教で、シク(スィク)とはサンスクリット語の「シシュヤ」
に由来する語で、弟子を意味する。それによりシク教徒たちはグル・ナーナクの弟子であ
ることを表明している(グルとは師匠という意味である)。 総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサル(図 13-51 参照。現パキスタンのラホ
ールの東 50 キロメートルにある)に所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄
金寺院)である。 教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる 1430 ページの書物であり、現在では英
語に翻訳されインターネットでも公開されている。ヒンドゥー教と同様に輪廻転生を肯定
しているが、イスラム教の影響でカーストを否定している。 シク教は、神は一つであるとして、唯一神を標榜している。神には色々な呼び名があり、
それぞれの宗教によって表現のされ方の違いはあるが諸宗教の本質は一つであるとしてい
る。ただし、ナーナクは、ヒンドゥー・イスラム両教の形骸化、形式化した面については
激しく批判をしている。その一方で、「聖典に返れ」と主張しており、宗教家によって形
づくられた宗教に立ち返るべきだとの信念を持っていた。この時期は「聖書に返れ」とド
イツのルターが宗教改革を唱えはじめた時期とほぼ同じである(ルターが宗教改革をはじ
めたのは 1517 年)。 1621
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 儀式、偶像崇拝、苦行、ヨーガ、カースト、出家などを否定し、世俗の職業に就いてそ
れに真摯に励むことを重んじている。戒律は開祖のときはなかったが、第 10 代グル・ゴー
ヴィンド・スィング(1675~1708 年)によってタバコ・アルコール飲料・麻薬が禁止され
た。肉食に関しては自由で、食べる人も食べない人もいる。 第 6 代ハルゴーヴィンド(1606~44 年)の下で武装化を推進したスク教団は、ムガル帝
国と軍事的衝突を繰り返すようになった。アウラングゼーブ帝の偏狭なイスラム化政策と
第 9 代グル・テーグ・バハードウルの斬首(1675 年)は、ムガル・スク関係をもはや修復
不可能なものとした。 次の第 10 代グル・ゴーヴィンド・スィングは、神と真理と宗教のために生命を捧げるス
ク教徒の集団をハールサーと命名し、その戦士には名前にスィング(獅子)をつけ、教団
の軍事的姿勢を一段と明確化した。グル・ゴーヴィンド・スィングの 4 人の息子はムガル
帝国との戦争で親より先に死んだため、遺言により、この後は前述の教典がグルとされた。
アウラングゼーブ帝の死後、パンジャーブはスク教団の支配下に入った。 《ラージプートの反乱》 ラージプート(図 13-51 参照)はサンスクリット語の「王子」を意味する言葉で、11 世
紀以後、北インドや西部インドのヒンドウー系の王侯、戦士集団であった。メワールやマー
ルワールなど版図は小さいが強力なヒンドウー王国を築いていた。 1678 年ラージプートの武将ジャスワント・スィングがジャムルードで死亡すると、アウ
ラングゼーブ帝は直系の子孫がいないことを理由にその王国マールワールを接収した。翌
1679 年ジャスワント・スィングの家臣たちは国王の死後その妃から生まれた王子アジー
ト・スィングを皇帝から奪い返してマールワール(都ジョードプル)に戻り、30 年にわた
るゲリラ戦を展開する「ラージプート戦争」を開始した。 メワール王国では王ラージ・スィングが急逝し、国土がムガル軍の焦土作戦によって荒
廃し、これを憂慮した新王ジャイ・スィングはムガル皇帝に降伏した。 一方、マールワール王国ではゲリラ戦が続行され、戦いは長引くことになった。1707 年
アウラングゼーブ帝の死亡を知るや、アジート・スィングは王都ジョードプルを奪回し、
ムガルの新しく皇帝となったバハードウル・シャー1 世と和睦した。ムガル皇帝はアジー
ト・スィングをマールワールの国王と認めた。しかし、ムガル皇帝はこの戦争によって、
ラージプートの信を決定的に失うことになった。 《泥沼化したデカン高原》 アウラングゼーブ皇帝は、マラータ勢力の背後には異端シーア派の 2 王国ビージャプル
とゴールコンダがあるとみて、デカン高原を攻撃して、1686 年ビージャプル王国を、翌 87
年ゴールコンダ王国を征服し帝国に併合した(図 13-50 参照)。さらに、アウラングゼー
1622
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ブ帝は 1689 年にはマラータを奇襲し、シャンブージーを虐殺し、これでデカンの支配を完
了したことにした。こうしてムガル帝国は、図 13-51(ムガル帝国の最大版図)のように、
その支配が北はアフガニスタンから南は半島の先端近くにまでおよび、史上最大の版図を
実現した。アショーカ王以来約 2000 年ぶりにインド亜大陸の統一がほぼ達成されたかに見
えた。 しかし、それはムガル帝国の終りの始まりであった。シャンブージーの死はかえってマ
ラータの人々を団結させることになり、彼らはシャンブージーの異母弟ラージャーラーム
を王として各地でゲリラ戦で抵抗し、1690 年代以降マラータは各地でしだいにムガル軍に
勝利し、戦局の主導権をにぎるようになっていった。 アウラングゼーブ帝は、1707 年アーマドナガルで 90 歳の生涯を終えた。アウラングゼー
ブはアクバル帝以来ムガル帝国で進められてきたイスラム教徒と非イスラム教徒の融和政
策と、その結果として一定程度実現された信仰の自由と宗教間の平等を破壊し、シャーリ
アの厳格な適用によってイスラムの優位に基づく秩序を復活させた。 そにためにイスラム復古主義者の間ではアウラングゼーブを「護教者」とする見解が主
流である。一方リベラリストの間では、アウラングゼーブはイスラムの中からムスリムと
非ムスリムを越えた真の多元主義が生まれる芽を摘んだという意見が強い。その後のイン
ド、パキスタン問題の遠因をつくったとも考えられている。 しかし、これは立場によって異なる。イスラム教のパキスタンでは建国の経緯からアウ
ラングゼーブは国民的英雄とされており、インドでアクバルが尊敬されている。 ○ムガル帝国の衰退 アウラングゼーブ帝の死後、いつものように皇帝の息子たちの間で後継者戦争があり、
カーブルから急いで帰国した長男が勝ち残って皇帝の位に登り、バハードウル・シャー1 世
(在位:1707~12 年)と称した。しかし、バハードウル・シャーが死んでからは、帝位は
安定せず、ムハンマド・シャー(在位:1719~48 年)が即位するまでの 7 年間に、4 代の
皇帝が目まぐるしく交替した。ムガル帝国はゆっくりと解体し始めた。 《ニザーム、アワド、ベンガルの独立》 宰相の職にあったアーサフ・ジャーはムガル帝国の行政改革を試みようとしたが果たせ
ず、ムガル帝国に見切りをつけてマラータ同盟の宰相バージー・ラーオの助けを借りて、
1724 年、デカンに事実上の独立国・ニザーム王国(図 13-51 参照。首都はハイダラーバー
ド)を樹立した。これは有力者がデリーを捨て、地方を志向するようになったことを示す
象徴的な事件であった。 1623
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 同じように 1727 年、アワドの知事サーダト・ハーンはデリーから独立して行政を行い(ア
ワド王国。図 13-51 参照。首都はファイサーバード)、ベンガルの総督ムルシド・クリー・
ハーンも独立して、1740 年代以降、デリーへの税の送金を大幅に減らしていった。 これら 3 つの政権は、支配権を父から子へと世襲したので、もはやムガル帝国の官僚で
ではなく事実上新しい王朝の形成が始まっていたといえよう。このように重要な地方に
次々と離反されたムガル帝国は、デリー周辺を統治するにするにすぎない一地方権力に転
落していった。 やがてこういうムガル帝国の窮状を知った外部勢力が侵入してきた。ペルシアでサファ
ヴィー朝を倒したナーディル・シャーが、1739 年、ムガル帝国軍を蹴散らして、デリーを
占領、略奪した。この事件でムガル帝国の権威は地に落ちた。 スク教徒はグル・ゴーヴィンド・スィングの下で改革を行い、教団の組織を固め(1699
年)、そしてパンジャーブで勢力を伸ばし、18 世紀末にはスク王国を建国するに至った。 マラータ同盟がデリーに入城してムガル皇帝の保護者となった時(1752 年)、マラータ
の権勢は頂点を極め(図 13-51 参照)、一時はインド全域の覇者になるかと思われた。し
かしマラータ同盟の最盛期は 1750 年代までで終わった。 アフガニスタンでアブダーリー族の首長、アフマドシャー・ドウッラーニーがカンダハー
ルに入って王位に就いたあと、1758 年にはデリーにまで進出して、一時占領し、北インド
一帯を略奪した。このため南方から北インドに進出しようとするマラータ同盟とアフガニ
スタンからデリーに向けて南下しようとするアフガン勢力は、1761 年、デリーの北方の古
戦場、パーニーパットで戦い、マラータ同盟は惨敗した。これでマラータ同盟は優れた指
導者を戦場でたくさん失っただけでなく、インド政治における威信もことごとく失った。 アフガン軍もパンジャーブ地方で独立の動きを強めていたシク軍やデリー南方をおさえ
ていたジャート軍などに阻まれて、北インド占領を続けることができず、アフガニスタン
に引き返した。 大敗北の後、マラータ同盟は有力者が独立傾向を強め、求心力を失っていった。その後、
マラータ同盟は、インド全域に勢力を伸ばしてきたイギリス東インド会社との 3 度のマラ
ータ戦争で消滅し、イギリス東インド会社の直接支配下に入り一部は藩王国に編成された。
結局、インドはヨーロッパ勢力に浸食されていった。 【13-5-2】ヨーロッパのインド進出と植民地化 ○ポルトガルの海上帝国 ポルトガル国王に派遣されて、ヴァスコ・ダ・ガマがインドの南部、マラバール海岸の
カリカット港に到着したのは、1498 年 5 月のことであった(図 13-50 参照)。そのころイ
1624
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ンド洋を股にかけて活躍していた商人は、ヒンドウー教徒もいたが、しかし、なんと言って
も重要な役割を果たしていたのはイスラム商人であった。船主や船員、あるいは水先案内
人として、彼らはインド洋貿易を支配していた。 ポルトガルの海上帝国建設の基礎を築いたのは、アルフォンソ・アルブケルケ(インド
総督在任:1509~15 年)であった。彼は 1510 年にビジャプールのイスラム王国(アーディ
ル・シャーヒー朝)からゴアを奪ったのに続き、図 13-5 のように、マラッカ(1511 年)と
ホルムズ(1515 年)を占領し、インド洋の要衝をおさえるのに成功した。 ポルトガルの膨張はその後も続き、最盛期には、ポルトガルはアジアにおよそ 50 の拠点
を持ち、インド洋に 100 隻の艦船を配備するに至った。それは、西はアフリカ東岸のソフ
ァラから東は日本の長崎にまで広がっていた。ゴアがこの帝国の首都であった。 アジアにおけるポルトガルの帝国は、海の帝国であり、それはインド洋貿易の中継ぎ港
を結んだネットワークであり、内陸部を支配したわけではなかった。ポルトガルは海軍力
を背景にインド洋の制海権を掌握し、インド洋貿易の重要地点に要塞を築いて拠点とし、
すでに繁栄していたインド洋貿易の莫大な利益の分け前にあずかったのである。 しかし、ムガル帝国は、ポルトガルの活動にまったく無関心であった。当時の支配層は
陸の支配を志向していて、ポルトガルからほとんど影響を受けなかったから、関心をもた
なかった。影響を受けたのは、カリカットの王のようにインド西海岸で海上貿易に力を入
れていた小支配者に限られた。これは、1600 年のインドの人口約 1 億人に対して、ポルト
ガルの人口わずか 150 万人、という数字を考えても、わかることであろう。要するに、イ
ンド史においては、ポルトガルの「帝国」も、「黄金のゴア」とポルトガル人が呼んだゴアの
繁栄も、まだ、周辺的な意味しか持たなかったのである。 ○オランダの進出 ポルトガルの海上帝国は、1560 年ごろには全盛期を過ぎたと考えられる。ポルトガルは
紅海の入口のアデンを取ることができず、紅海と地中海を経由したヨーロッパへの胡椒輸
出が息を吹き返し、ポルトガルの独占体制に風穴が開けられたこと、1580 年にはポルトガ
ルはスペインに併合され(同君連合)、ポルトガル人の活動はスペインの利害に従属させ
られるようになったこと、オランダの活動がポルトガルに大きな打撃を与え始めたことな
どがポルトガルのインド洋貿易の衰退の原因と考えられている(オランダはスペインから
の独立戦争を戦っており、以後、同君連合のポルトガルに対しても積極的に攻撃を開始し
た)。 17 世紀に入ると、ヨーロッパ諸国の設立した東インド会社が活動を始めた。イギリスが
1600 年末に「ロンドン東インド会社」を、オランダが 1602 年に「連合東インド会社」を、ま
たフランス、デンマークもそれぞれ 1604 年と 1611 年に東インド会社を設立した。これら
1625
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の東インド会社の中で、一番重要だったのはオランダ東インド会社であった。この会社は
規模もずば抜けて大きく(資本金はイギリス東インド会社の 10 倍あった)、またポルトガ
ルの帝国やイギリス東インド会社に比べるとはるかによく組織されていた。 オランダはその優れた軍事力・組織力・経済力をもってポルトガルを追い落とし(ポルト
ガルは 1666 年までには、ゴア、ディウ、マカオなど 9 つの拠点を持つ小さな勢力にすぎな
くなっていた)、香料と胡椒貿易の支配権を手中にした。オランダはこの二つの商品の主
要産地である東南アジアを主な活動の舞台とし、ジャワのバタヴィア(図 13-5 参照。旧
称ジャカトラ。現ジャカルタ)を東インド経営の根拠地と定め、ポルトガルよりもはるか
に徹底した独占体制をしいた。 ポルトガルが中継ぎのネットワークの支配、つまり点と線の支配にとどまったのに対し
て、オランダは内陸部の人と土地、つまり面の支配を行い、香料その他熱帯の物産の生産
そのものを掌握することに乗り出したのである。図 13-5、図 13-35 のように、オランダは
ジャワ島のバタヴィアを根拠地としてセイロン島・マラッカ・モルッカ諸島をポルトガル
から奪い、モルッカ・西イリアン地方からアンボイナ事件(後述)をきっかけにイギリス
勢力を追い出して、香辛料の主産地を独占的に支配した。 1609 年に日本の平戸に商館を設置し、1624 年には台湾を占領し、中国とも貿易を開始し
た。1652 年には、南アフリカ南端にケープ植民地を建設して、東方貿易の中継地とした。 ○イギリスの進出 17 世紀のはじめ、イギリスもオランダとポルトガルの間に割って入って、インド洋貿易
に足場を確保しようとしたが、イギリスは、軍事力でも経済力でも、この時期にはオラン
ダのはるか後塵を拝する国に過ぎなかった。イギリスは、オランダと抗争と休戦を繰り返
しながら、だんだん当時最も利益の上がる貿易が行われていた東南アジアから次第に締め
出されていった。1623 年の「アンボイナの虐殺」(図 13-35 の 18 参照。香料諸島のアン
ボイナでオランダ当局が、イギリスの商館員 10 人を拷問し殺害した事件)をきっかけにイ
ギリスは香料諸島を去り、当時のインド洋貿易では副次的な位置にあったインドに活動の
中心を移さざるをえなかった。 イギリスは、前述したように他のヨーロッパ諸国に先駆けて東インド会社を発足させて
いた。しかし、この会社の活動は、オランダ東インド会社とは違って、なかなか安定した
軌道に乗らなかった。このころイギリスはスペイン・ポルトガルと戦争をしていたので(イ
ギリスはエリザベス 1 世の時代でオランダ独立戦争を支援していた)、インドに近づくと
ポルトガルに攻撃されるおそれがあった。 イギリスは、インドのスーラト(図 13-51 参照。現在のインド北西部にあるグジャラー
ト州南部の港湾都市)で交易関係を開く方針に変え、ムガル当局からスーラトで貿易する
1626
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 権利と恒久的な商館を設けることを許可された。イギリスは、アグラ、アフマダーバード、
ブローチにも商館を開設し、スーラトを中心とした商館網を作り上げて、西部インドで発
展の基礎を築いた。 《マドラスの建設》 西部インドに続いてイギリス東インド会社が拠点を作ったのは、インド東岸のコロマン
デル海岸であった。まずマスリパタムを中心に商館網を広げた。 しかし、当時の主要商品である綿布の産地はもっと南にあったので、1639 年、イギリス
はヒンドウーの支配者と交渉して、ポルトガルの拠点サントメの北側の海岸の土地を授与し
てもらうことに成功した。イギリスは、ここに要塞をつくり、セント・ジョージ要塞と名
づけた。この要塞を中心に発達した町がマドラスである(図 13-51 参照)。マドラスはや
がてマドラス管区の中心都市となり、カルカッタに追い越されるまで、インドにおけるイ
ギリスの最大の拠点として急速に発展した。 《カルカッタの建設》 ベンガル湾の奥のベンガル地方では、イギリスはフーグリ、カシムバジャルなどに商館
を設けた。イギリスはムガル帝国に対して戦争を起こし、アウラングゼーブ帝の怒りをか
ったため、1690 年、フーリグを追い出され、この町から南に下がった不健康地に拠点を移
さざるをえなくなった。ここに建設した町がカルカッタである(図 13-51 参照)。ここに
1696~1702 年にウィリアム要塞を完成させた。カルカッタはベンガル管区の管区都市とな
り、フーグリやムルシダーバードのような昔からある都市をしのいで、ベンガル地方の中
心都市に発展していった。 《ボンベイの建設》 ボンベイはもともとはポルトガル領であった。それをイギリスは、チャールズ 2 世と結
婚したポルトガルの王女の持参金の一部として譲り受けた(1661 年。図 13-51 参照)。そ
して西部インドの管区都市が、スーラトからボンベイに移されたのは 1687 年のことであっ
た。ボンベイ港は外海に直接面していて、当時の帆船の寄港地としては不向きだったし、
後背地との連絡を西ガーツ山脈によって遮られていたので、カルカッタやマドラスに比べ
ると、ボンベイの発展は遅れた。 このようにして 17 世紀末までには、イギリスはインドにおける拠点を増やし、ベンガル、
マドラス、ボンベイの三つの「管区」からなる行政組織を完成させた。しかしこのときイ
ギリスは、町が建設された土地を、さまざまな形で保有するにすぎず、領土といえるよう
なものはまだ何も持っていなかった。 16 世紀から 17 世紀の前半まで、ポルトガル、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国
は、要するに、ヨーロッパへ香料と胡椒を輸出するためにインド洋貿易を行っていたと考
1627
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) えてよい。従って地理的にみれば、アジアでもっとも重要な地域は香料諸島であった。オ
ランダ東インド会社の場合、1650 年ごろになっても、東インド(現在のインドネシア)か
らの輸入品の 3 分の 2 は香料と胡椒からなっていた。 《インド産綿布の洪水輸出》 ところが、17 世紀後半になると、このようなインド洋貿易の構造にはっきりとした変化
が現れた。それまで香料や胡椒を手に入れるための手段だった綿布が、ヨーロッパに販路
を見出し始めたのである。イギリス東インド会社は香料諸島から締め出されたために、初
めからインド綿布の取引に積極的だった。イギリスのインドからの綿布輸出は 1621 年の 12
万反が、1664 年には 27 万反、1684 年には 170 万反を越すに至った。 インド綿布の産地は大別して 3 つあった。インド西部のグジャラート、インド東岸のコ
ロマンデル海岸、そして東部のベンガルである。イギリスは前述したようにそれぞれにボ
ンベイ、マドラス、ベンガルの 3 つの管区が対応していた。 ここで注意すべきことは、この 17~18 世紀はインドからイギリスへ綿布が大量に流れた
ことである(産業革命後の 19 世紀になると、これとは全く逆に大量機械生産の安価な綿布
が、イギリスからインドへ大逆流を起こして、インド繊維産業を壊滅させたのである(そ
れについては、イギリスの産業革命のところで述べた)。 インドから洪水のように入ってくる綿布が、ヨーロッパで大きな問題となり、イギリス
の織物業者は、インド綿布の輸入に反対する運動を大々的に展開した。貿易摩擦のはじま
りであった。この「キャラコ論争」の結果、1685 年、イギリスに輸入される綿布に 10%の
従価税(従来の関税に追加して課税された)をかけ、1700 年にはイギリス議会は、キャラ
コ輸入禁止法を制定したこともイギリスの歴史で述べた。確かに、この措置は、一時的に
は、イギリスへの綿布の輸入を抑制する効果を持った。それと同時に、イギリス東インド
会社が中国貿易に目を向けるきっかけともなったのである(また、イギリス本国では、安
く綿布をつくれないかと産業革命の模索がはじまったことは述べた)。 以上のように 17 世紀のインド洋貿易においては、ヨーロッパへ輸出する商品の主役が香
料と胡椒から綿布へ、主要な輸出品の産地が東南アジアからインドへと大きく転換した。
それに伴って、オランダの比重が低くなり、代わってイギリスが台頭したのである。そし
て、このときフランスも参入してきた。 ○フランスのインド進出 フランスは、1604 年にアンリ 4 世が東インド会社の設立を試みたが、結局、これは長続
きせず、撤退した。その後は、マダガスカル島に拠点を築き、この島を中心にしてペルシ
ア(イラン)やインド、さらには東南アジアと交易していた。 1628
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) そしてようやく 1664 年になって、コルベールの主導でフランス東インド会社が再び設立
されたのである。このフランス東インド会社は、1674 年、ビジャプールの支配者からコロ
マンデル海岸のポンディシェリーの土地を購入した(図 13-51 参照)。フランスは後にこ
こを要塞化し、インドにおける首都とした。またベンガルのシャンデルナゴル、コロマン
デル海岸のマスリパタムなどにも商館を置き、インド洋上のモーリシャスを領有するなど、
徐々にインドにおける足場を固めていった。 しかしフランス東インド会社は初めの 50 年間は経営が不振であって、1723 年に改革を行
い、やっと本格的にインド貿易を行う態勢が整い、その後はインド貿易を伸ばしていった。
しかし 1740 年の時点で、フランス東インド会社の輸出額はイギリス東インド会社の半分に
しか達しなかった。 《フランス・デュプレックスの活躍》 ところが、東インド会社総督となったジョセフ・フランソワ・デュプレックス(1697~
1764 年)のもとで勢力を拡大して、イギリスに対抗しはじめた。デュプレックスは、先住
民を利用して軍隊を組織、1754 年に本国に召還されるまで、インドにおけるフランスの優
位を維持した。 ◇第 1 次カーナティック戦争 ヨーロッパでオーストリア継承戦争(1740~48 年)が勃発し、イギリスとフランスは敵
味方に分かれて戦ったが、戦争はヨーロッパの枠を越えて拡大した。開戦の報がインドに
届いたとき、フデュプレックスはインドのポンディシェリー知事に就任したばかりであっ
た。 彼は戦争を望まなかったが、1744 年に海戦が始まってしまった。これを第 1 次カーナテ
ィック戦争(1744~48 年。カーナティックとは南インドの地名。図 13-51 参照)という。
デュプレックスの率いるフランス軍はイギリス軍を破り、マドラスを占領した。 第 1 次カーナティック戦争はヨーロッパ本国におけるオーストリア継承戦争の終結とと
もに終わり、アーヘンの和約でマドラスはイギリスに返還されたが、この戦争で南インド
におけるフランスの威信は大いに高まった。 この戦争中にカーナティックの太守の伝統的な装備の軍隊が、ヨーロッパ式の訓練を受
けたフランスの傭兵隊と戦い、破られてしまったが、全く太守はお手上げだったというの
が実状だった。第 1 次カーナティック戦争中に起きたこの小さな衝突が示したヨーロッパ
式軍隊の優位という事実は、これから本格的になっていくイギリスのインド征服にとって、
大きな意味を持つことになった。 ◇第 2 次カーナティック戦争 1629
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1748 年、ムガル帝国脱官僚としてインドの政治に大きな影響力をふるったニザーム王
国・ハイダラーバードのニザーム・アーサフ・ジャーが死去し、後継者争いが起こり、こ
れが南インドの政治的混迷を招く発端となった(図 13-51 参照)。他方、第 1 次カーナテ
ィック戦争で名をあげたデュプレックスはイギリス東インド会社に対抗しつつ、南インド
でフランスの影響力をさらに強めようとしていた。 焦点は、デカンのハイダラーバートのニザームの後継に誰をつけるか、また、南インド
のカーナティックの太守に誰をつけるかであった。英仏はそれぞれ自分に有利な人間をこ
の重要な地位につけようとして争った。また南インドの支配層も、イギリスやフランスか
ら支持を取り付けて、自分たちの権力闘争を有利に運ぼうとした。 この複雑な駆け引きを勝ち抜いたのは、またしてもフランスのデュプレックスであった。
彼は自分の傀儡をこの二つの地位の両方につけることに成功したのである。これはデカン
と南インドがフランスの勢力圏になることを意味した。 これにはイギリスは耐えられない、イギリスはお決まりの最後の手段を使うことにした。
イギリス東インド会社がしかけた戦争が、第 2 次カーナティック戦争(1750~54 年)であ
った。インド支配層の権力闘争は、いまや英仏の闘争にすり替わり、両国が前面に躍り出
てきたのである。 この戦争は、フランス側のデュプレックスに対して、イギリス側でロバート・クライブ
(1725~74 年)が軍事的才能を発揮した。クライブは 19 歳のときにイギリス東インド会社
に書記として入り、マドラスで勤務を始めた。たまたまマドラスがフランス軍に占領され、
彼は捕虜となったが、脱出に成功、1747 年イギリス軍将校に任命された。軍人としてイン
ドの覇権をめざすフランス東インド会社と戦い、1751 年にはマドラス西方のフランス要塞
アルコットを占領した。彼は 1753 年にイギリスに帰国すると英雄として迎えられた。 この戦争は本国同士が戦争状態にないのに、東インド会社が現地の都合で勝手に起こし
た戦争であり、独断で南インドの覇権を求める政策を推進するデュプレックスの動きを憂
慮したフランス東インド会社の本社が、デュプレックスを解任したことで終結した(1754
年)。失意の内に帰国したデュプレックスは 1763 年パリで貧窮のうちに亡くなった。 この戦争の結果、フランスはハイダラーバードにおける特別の地位を維持したが、カー
ナティックを失ってしまった。一度フランス優位に傾いた南インドにおける英仏の力関係
は、この戦争でまたイギリスの側に傾き始めた。また英仏の傀儡がインドに枢要な地位に
就く道を開いたという意味で、この戦争の結果は重要な意味をもっていた。 ◇第 3 次カーナティック戦争 その後、ヨーロッパで七年戦争(1756~63 年)が起こると、それと連動して、インドの
英仏両東インド会社はもう一度南インドを舞台にして戦うことになった。これが第 3 次カ
1630
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ーナティック戦争である。このときイギリスはクライブが帰ってきた。しかしフランスに
はもうデュプレックスはいなかった。 クライブは 1756 年セント・デーヴィッド要塞知事として再びインドに赴いたが、この年
フランスと同盟したベンガル太守がカルカッタを奪取したため、1757 年クライブは 600 人
のイギリス兵、800 人のセポイ(インド人雇用兵)、500 人の水兵を率いて 3 万 4,000 人の
ベンガル太守軍とプラッシーで戦った(図 13-51 参照)。 その日、1757 年 6 月 23 日、ひどく暑くじめじめした日の朝 7 時頃にベンガル太守側の砲
撃で開始された戦闘は、昼になって大雨に見舞われて小休止し、イギリス東インド会社軍
は素早く装備を雨から防いで雨が上がるまで待機した。しかしベンガル太守軍の兵士達は
日頃の訓練不足と、情況の変化に柔軟に対応できないヒンドゥー教徒特有の性質から豪雨
の中に火薬樽や銃・砲を放置し、水浸しとなった火薬は着火しなくなってしまった。雨が
止んだ午後 2 時頃から反撃を開始したイギリス東インド会社軍を前にして、ベンガル太守
軍の部隊は火薬が水浸しで着火せず火器が使用できない状態のままイギリス東インド会社
軍に一方的に攻撃されて惨敗した。この戦いでのイギリス軍の損害は、セポイ 22 人が戦死
し 50 人が負傷したのみで、ベンガル太守軍は 500 人が死傷した。 この敗北に反撃するためにフランスは、ラリー侯爵を送りイギリスの南インドの拠点マ
ドラスを包囲した。しかし人員と弾薬の補充を受けたイギリスが持ちこたえた。海軍の援
護を受けたイギリスが逆に反撃にでて 1760 年 1 月、ヴァンデヴァッシュの戦いでフランス
軍に決定的な勝利をおさめた。 フランスはヨーロッパ大陸での七年戦争でプロイセンの反撃にてこずり、十分な増援兵
力を送ることができなかった。イギリスはフランスの南インドの拠点であるポンディシェ
リーを兵糧攻めにして 1761 年 1 月、陥落させた。この勝利によってベンガルにおけるイギ
リスの覇権が確立した。 この戦争をもって英仏抗争時代はイギリスの勝利で終わったといえる。その後のクライ
ブについて一言。クライブは 1760 年再び帰国して下院議員の席を買い、1764 年にはナイト
に叙爵された。1765 年にはベンガル知事(在位:1765~67 年)として再びインドに赴き、
ムガル帝国皇帝からイギリスのベンガル支配を公認する勅書を受けた。これによって英領
インドの基礎は完成した。クライブは 1767 年帰国すると、インドで私腹を肥やしたとして
議会で弾劾を受け、1773 年ようやく無罪の決定を受けたが、相当な屈辱を受けた。健康が
悪化したうえ、アヘン中毒にかかり、1774 年自殺した。今はウェストミンスター寺院に葬
られている。 ○イギリスのインド植民地化 1631
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) イギリスの傀儡としてベンガル太守になったミール・カーシームはやがてイギリスから
離れ独立政権を模索し始めた。彼は 1763 年に蜂起したが、彼の新式軍隊はイギリス東イン
ド会社軍にもろくも敗れ、彼はアワド太守(図 13-51 参照)シュジャーウッダウラーのも
とに逃れた。 1764 年、ムガル皇帝シャー・アーラム 2 世(第 15 代。在位:1759~1806 年)とシュジ
ャーウッダウラーとミール・カーシームの 3 人が協力してイギリスに対する戦争「バクサ
ルの戦い」を起こした。この戦いに加わった軍勢は 3 者連合側 4~6 万人、東インド会社側
7000 人であったが、3 時間で 3 者連合は完敗した。 《ベンガル、ビハール、オリッサの植民地化》 バクサルの戦いに勝ったイギリス東インド会社は、1765 年 8 月、東インド会社を代表す
るクライブとムガル皇帝シャー・アーラム 2 世が締結した条約で、ベンガル、ビハール、
オリッサの 3 州の「ディーワーニー」が、ムガル皇帝から授与された。 「ディーワーニー」というのは、ディーワーンつまり財務大臣の職権という意味である。
ムガルの制度ではディーワーンは、税の徴収、国庫への税の送金、財政関係の裁判権など
多方面にまたがる広い権限を持っていた。この権利をベンガル、ビハール、オリッサとい
う広い地域にわたって、東インド会社は獲得したのである。このためには人と土地を実効
的に支配しなければならない。 つまり「ディーワーニー」の獲得という回りくどい形式をとりながら、東インド会社は
ベンガル、ビハール、オリッサを「領土」として獲得し、植民地化したということである。
この条約によってムガル皇帝は、260 万ルピーを受け取った。 《マイソール戦争》 ベンガルの植民地化に成功し、味をしめたイギリスは同じような手法を使って、他の地
域に干渉し植民地化することを狙いだした。そのようなイギリスが次に目をつけたのが、
マイソール王国であった。 図 13-51 ように、マイソール王国のある南インドは古来、季節風貿易での莫大な利益に
より潤っていて、当時のインドでベンガルについで二番目に豊かな土地であった。イギリ
ス東インド会社は、次にこの地を支配するべく準備を開始した。 第 1 次マイソール戦争(1767~69 年)は、1767 年マイソール王家の一人であるウォディ
ヤールが、藩王ハイダル・アーリーの専横に対し近隣のマラータ同盟に救援を求めたこと
が発端だった。この内紛をイギリスは逃さず、マラータ同盟、ハイデラバード藩王国(マ
イソールの北に隣接)とマドラス条約を結びマイソールに対する共同戦線を敷いたが、マ
イソール側の抵抗に同盟軍は各個撃退されていった。焦ったイギリスは態勢を立て直すた
めに 1769 年に一時講和条約を結んだ。 1632
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) その後も第 2 次マイソール戦争(1780~84 年)、第 3 次マイソール戦争(1792 年)、第 4
次マイソール戦争(1799 年)の 4 度におよぶマイソール戦争を繰り返し、相手国の内紛に
乗ずるとか、相手が有利なときには和睦するなど、執拗な戦略をとり、ついに 4 度目でマ
イソール王国のティプー・スルタンを敗死させ、これで南インドの植民地化に成功した。 このときイギリスはすでにハイダラーバードを軍事保護条約によって保護国化したが
(1798 年。イギリスでは「保護国」といわず「藩王国」と呼ぶ)、イギリスがあと、かたず
けなければならないのは、めぼしいところではマラータ同盟と、パンジャーブに勃興した
スク王国の 2 つのみとなっていた。 《マラータ戦争》 そこで再びマラータ同盟が狙われることになった。第 1 次マラータ戦争(1775~82 年) は、マラータ連盟の内紛がイギリスに乗じる隙を与えたものだが,どちらも決定的勝利は
得られなかった。 1798 年に着任したベンガル総督ウェルズリは、徹底した膨張主義者で、壮大な植民地帝
国をつくることを狙っていた。 マラータ同盟は再び後継問題が起き、マラータ有力諸侯のスィンディヤー家とホールカ
ル家の軍事対決になってしまった。窮地に陥った宰相バージー・ラーオ 2 世がイギリス東
インド会社にに保護を求める事態となった。 そこで、1803 年 8 月、第 2 次マラータ戦争(1803~05 年)が起き、ウェルズリのイギリ
ス軍はマラータの有力諸侯を破っていったが、膨大な戦費を伴う膨張政策を続けるウェル
ズリの強引なやり方に不満を募らせていた本国政府が、ウェルズリを本国に召還してしま
ったので、第 2 次マラータ戦争は、最終決着をまたずに終結した。しかし、イギリスは、
マラータの有力諸侯に軍事保護条約を結ばせ、保護国(藩王国)化し、北インドの中枢部
を手に入れ、戦争の目的はほぼ達成した。 マラータの側には屈辱感と反英感情が渦巻いており、1817 年末、第 3 次マラータ戦争(1817
~18 年)が勃発した。だがもはやマラータ同盟はイギリスの敵ではなく、戦争は数ヶ月で
あっけなく終わった。マラータの領地はボンベイ管区に編入された。これでボンベイもよ
うやく広い後背地を持ち、植民地都市として本格的に発展する道が開かれた。 第 3 次マラータ戦争が終結した 1818 年で、イギリスによるインド征服は基本的に完了し
たことになる。インドの重要な地域は、イギリス東インド会社の直轄領(英領インド)か、
あるいは軍事保護条約で宗主権をイギリスに譲り渡した藩王国か、いずれかになった。残
るのは、パンジャーブのスク王国だけであった。 《スク戦争》 1633
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スク王国は、マラータ同盟と同じく、農民=戦士によって支えられ、地方の社会と文化
に根ざした政権であった(図 13-51 参照)。ムガル帝国が衰退すると、スク教は 1765 年に
はパンジャーブの主要都市ラホールを確保し、1770 年代にはヤムナー川からインダス川の
間の地域に、60 余りのスク小王国が林立するようになった。 ランジト・スィング(1780~1839 年)は、1799 年、19 歳のときにラホールを占領して首
都とし、それ以降 10 年間に 20 以上の小王国を征服してスク王国を築き上げた。イギリス
は、1809 年、アムリトサル条約でランジト・スィングをパンジャーブの唯一の支配者と認
め、サトレージ川をスク・イギリス両勢力の境界線と定めた。この後さらに彼は領土を広げ、
カシュミール(1819 年)とペシャーワル(1834 年)を加えた。 ランジト・スィングは 1839 年、ラホールで死去し、長男のカラク・スィングが継いだが、
2 年後に死に、スク王国に混乱が起きると、イギリスは、国境に大軍を展開してスク王国を
徴発し、彼らに戦争を始めるよう仕向けた。 スク軍は、1845 年、サトレージ川を越えたために第 1 次スク戦争(1845~46 年)となっ
たが、イギリス軍はソブラーオンの戦いで決定的な勝利をおさめ、スク戦争に勝った。 その後、ムルターンで起きた小さな反乱事件から第 2 次スク戦争(1848~49 年)が起き、
スク軍はグジャラートの戦いで完敗し、第 2 次スク戦争は終結した。当時のインド総督ダ
ルハウジーはパンジャーブがアフガニスタンに連なる戦略的な要衝であること、また、2 度
と大反乱を起こさせないようにしなければならないこと、の 2 点を考慮して、パンジャー
ブを直轄支配することにした。 こうしてパンジャーブを最後に、カーナティック戦争やプラッシーの戦いから数えてお
よそ 1 世紀に及んだイギリスの粘り強いインド征服戦争は終わり、インドはイギリスの植
民地になった。 【13-6】近世の中国・清朝と周辺諸国 【13-6-1】中国・清朝 ○明―大順―清へ 1644 年 3 月に李自成率いる順軍が北京を陥落させ明を滅ぼしたことは述べた。李自成は
明を滅ぼしてから清が北京を占領するまでの 41 日間と極めて短期間ながら順(大順)王朝
を建国し、皇帝を称していた。清軍はドルゴンの主導の下に、山海関を開城して清に下っ
た呉三桂を先頭に北京へ向かった。北京の大順軍は明を滅ぼした後、各々の官職を決めた
り、明の高級官僚を処罰したりに忙しかったが、山海関の中に入ってきた清軍を 4 月に迎
え討った。清軍は大勝し、さらに敗走する李自成を追って通城(現在の湖北省)まで南下
し、大順を滅ぼした。 1634
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1644 年、明が滅亡すると、逃れた明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝竜たち
は唐王・朱聿鍵を擁立し、清に対しての抵抗運動を始めた。朱聿鍵は隆武帝(りゅうぶて
い)と呼ばれた。隆武帝軍は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝竜
はこの軍に将来なしと見て清に降った。 鄭芝竜の息子・鄭成功(1624~62 年)は父と袂を分けて、その後、広西にいた万暦帝の
孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の
正統と奉じて、抵抗運動を続けた。鄭成功は、日本の平戸で父の海上軍閥・鄭芝竜と日本
人の母・田川松の間に生まれて、7歳の時から、父の故郷・福建で育った。 1658 年、鄭成功は 17 万 5000 の北伐軍を興したが、途中で暴風雨に会い、300 隻のうち
100 隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、1659 年 3 月に再度、南京をめざして進
軍を始め、途中の城を簡単に落としながら進んだが、南京では大敗してしまった。 鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、台湾を占拠していたオランダ人を追放し、
本拠地としたが直後に死去した(1662 年)。これで明の遺臣による抵抗はなくなり、清の
国内平定がなった。 清朝は、その前の 1650 年、ドルゴンが死に、13 歳の順治帝による親政が始まっていた。 ○初代皇帝・順治帝 清の愛新覚羅 福臨は後金の第 2 代ホンタイジの第 9 子として生まれ、6 歳で皇帝・順治
帝(在位:1643~1661 年)となり、叔父のドルゴンが摂政となった。1650 年、ドルゴンが
死に、13 歳の順治帝による親政が始まった。 順治帝は「朕は今日官民の苦を均しく知る」と宣言し、内政の改革を始めた。質の悪い
官僚を追放し、官職の合理化を進め、税金逃れのために僧や道士になっている者を還俗さ
せた。また宦官が政治に関与することを厳重に禁止し、破れば即座に死刑になった。歴代
の王朝の衰退の大きな原因となった宦官悪は清代ではほとんどその姿を現さなかった。順
治帝は漢文化に心酔していて非常な読書家であり、自らだけでなく臣下にも積極的に漢文
化の習俗を取り入れさせた。 順治帝は中国に入った後の清の土台を確固たるものとし、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆
帝の三世の黄金時代を導く役割をした。三世の影に隠れてはいるが、三世に負けない名君
であったとされている。 ○康熙帝の時代 康熙帝は、順治帝の第 3 子として生まれ、1661 年に 8 歳で即位して以来 1722 年に死去す
るまで、61 年間という中国史上空前の長期間、帝位にあった(在位:1661~1722 年)。 1673 年、雲南、広東、福建の 3 人の藩王が反乱を起こした(図 13-52 参照)。これを三
藩の乱という。 1635
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-52 清の全盛と 1800 年前後の東アジア 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 そもそも呉三桂は順治帝に山海関を明け渡して投降し、皇族でないにもかかわらず親王
に立てられていた。この呉三桂を筆頭として尚可喜、耿精忠(こうせいちゅう)の 3 人の
藩王はそれぞれ雲南、広東、福建を領地としてしており、領内の官吏任命権と徴税権も持
っていたので半独立国家のような体をなしていた。康熙帝は中央集権体制を確立するため
にこの三藩を廃止することを決めたので反乱となったのである。1683 年には反乱勢力は一
掃され、康熙帝による君主独裁が完成した。 その後、国際情勢の安定と清朝の国力強化とは相互に支えあいながら、「清朝の平和」あ
るいは「満洲人の平和」とも称される百数十年間の比較的静穏な時期を出現させることにな
った。 《ロシアとの遭遇、ネルチンスク条約》 清朝は満洲族であったから、北方民族に対しては強かった。モンゴル族との関係でいえ
ば、すでに中国征服以前に、ヌルハチはホルチン部と婚姻を結んで同盟関係を結び、さら
にホンタイジはリンダン・ハンの死に乗じてチャハル部を服従させ、内モンゴルを支配下
に入れていた。こうして、1644 年の本土征服の時点で、清朝の支配領域は、明代に整備さ
れた万里の長城のはるか北方に広がり、シベリアの無人地帯に連なっていたのである。 ところが、それが無人地帯ではなくなりつつあった。ロシアのアジア進出であった。ロ
シア人は、16 世紀後半に毛皮を求めてシベリア進出を始め、1638~39 年に太平洋岸に到達
1636
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) し、ついで黒竜江(アムール川)沿岸に至った。黒竜江岸でのロシアと清朝との小競り合
いは 1650 年代初めから始まっていたが、1685 年頃からその争いは激化し、黒竜江沿岸の拠
点をめぐって攻防戦がくりひろげられた。 清が討伐軍を本格的に動かし始めたため、ロシアはゴロビーンを特使として派遣し、1689
年にネルチンスク(図 13-52 参照)で清の索額図(そんごとう)と交渉を開始した。ロシ
アは清との交易を望み、清はモンゴルのジュンガルを孤立させることを望んだため、利害
関係が一致し、交渉が成立し、1689 年にネルチンスク条約を結んだ。 その内容の主な点は、◎国境をアルグン川・ゴルビツァ川と外興安嶺(スタノヴォイ山
脈)の線に定める、◎ウディ川と外興安嶺の間は未確定部分とする、◎アルグン川以南か
らロシア人は退去する、◎不法越境を禁止する、◎旅券をもつものは交易を許される。 これは清朝とヨーロッパ国家との間で結ばれた最初の条約であった。この条約は、その
後 19 世紀の清朝がヨーロッパ列強に受け入れさせられる一連の不平等条約とは異なり、両
国が対等の立場として結ばれたものであった。むしろ、ロシアにとっての念願であった不
凍港を獲得できなかったので、内容的には清にとって有利なものとなったといわれている。
また、その後の対ロシア関係は朝貢貿易を扱う理藩院によって処理されており、ロシアは
清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていたようである。 ロシアとは、続く雍正帝(ようせいてい)の時代の 1727 年にはキャフタ条約が結ばれ、
より西方(外モンゴルにおける支配領域)の国境線が画定されるとともに、キャフタ(図
13-52 参照)に交易市場が開設され、露清間の貿易は、とくに 18 世紀後半急速に増大して
いった(しかし、19 世紀になると、1858 年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、
1860 年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄されてしまった)。 《康煕帝とチベット問題》 現在にも尾を引いているチベット問題は、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の 3 代にわたる問題
だった。 清朝の統治が進んで行って、ジュンガル(図 13-52 参照)にカルダン・ハン(1644~97
年)が出て、清朝とぶつかるようになった。カルダン・ハンはジュンガル・ハン国の 3 代
目ハン(在位:1671~97 年)となり、オイラト内のライバルたちを次々に屈服させ、全オ
イラトの支配権を握る有力な支配者に成長した。 1688 年、カルダンは清朝の膨張に対抗するためにモンゴルを統一しようと考え、タリム
盆地に支配を拡大するとともに、ゴビ砂漠北部のハルハ(モンゴルの多数派民族)を攻撃
した。ハルハ数十万人は南方に逃げ、清朝に保護を求めた。 ハルハの反ガルダン勢力は雪崩(なだれ)を打って内モンゴルに逃れ、清の康熙帝に服
属したため、モンゴル高原の支配権をめぐってオイラトと清朝の全面戦争となった。1696
1637
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 年、康熙帝はゴビ砂漠北部を回復するために、自ら大軍を率いて遠征の途につき、ガルダ
ン軍を破った。ガルダンは大半の兵士を失い翌年に自殺した。 ハルハ諸侯は従来、清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様、内政
自主権を行使していたが、これ以後、清の盟旗制(めいきせいど。旗ごとに牧地が指定さ
れる制度)におかれることになった。17 世紀末期以降、清朝の勢力範囲の拡大にともない、
ハルハ、ホショード、トルグードなどのモンゴル部族でも実施された。 康煕帝のジュンガル遠征で倒されたガルダンの死後、ジュンガルでは、ガルダンの甥の
ツェワン・アラブダン(在位:1697~1727 年)がジュンガルの支配者となっていた。その
ツェワン・アラブダンが青海のグシ・ハン王家(グシ・ハンの子孫が 4 代にわたってチベ
ット・ハン位を継承していた)の傍系王族の一部と同盟を組み、1717 年、ジュンガル軍が
チベットに侵攻し、ラサを制圧し、第 5 代目チベット・ハンのラサンを殺害した。 康熙帝はラサンの救援要請に応じて 1718 年、チベットに出兵したが、この第 1 次派遣軍
はジュンガル軍によって壊滅させられた。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主だっ
た者たちを、当初ジュンガルと同盟した者達を含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側に
つけることに成功、1720 年の第 2 次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道(ダライ・
ラマを擁するチベットのハン)」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢ととも
に進軍したら、ゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て戦わずし
て中央チベットから撤退していった。 康熙帝は「グシ・ハンの立てた法の道」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回
復をチベット介入の旗印にしていた。康熙帝は、1721 年には、グシ・ハン一族にハン位継
承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は 18 世紀初頭以来、内紛の極みに達し
ており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなか
った。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封しないまま没し、チベットの戦後処理は、雍正帝
の手に委ねられることになった。 《第 3 代雍正帝とチベット問題》 1722 年、康煕帝が死去し、第 3 代雍正帝(ようせいてい。在位:1722~35 年)にかわっ
たが、ただちにチベット問題に対処し決断しなければならなくなった。雍正帝は、今回、
チベットのグシ・ハン王朝の一部ががジュンガルと結びついて反乱を起こしたが、将来、
またそのような可能性がないともいえないと、強い不信感をもつようになり、父帝の方針
を変えて、即位後ただちにチベットのグシ・ハン一族を打つことにした(康煕帝は大目に
見てグシ・ハン一族が後継を出せば冊封しようとしていた)。 そこで皇帝は、18 世紀初頭以来続いていたグシ・ハン一族の内紛を、懸案解決の好機と
みなし、1723 年、内紛の当事者ロブサンダンジンを「清朝に対する反乱者」と決めつけ、
1638
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 遠征軍を青海地方に派遣し、グシ・ハン一族を一挙に制圧するにいたった。青海地方に居
住していた傍系王族たちも、1723~24 年に清朝の征服を受け、チベット各地に保有してい
た権益はすべて没収された。 雍正帝はグシ・ハン一族がチベット系・モンゴル系の遊牧民たちに対して有していた支
配権を接収し、チベットをタンラ山脈からディチュ川の線で二分し、この線の北部は青海・
甘粛・四川・雲南の諸省の間で分割、この線の南に位置する地域は「ダライ・ラマに賞給」
し、その支配をガンデンポタン(ダライ・ラマを長とし、ラサを本拠とするチベットの政
府)に委ねた(つまり、現在の中華人民共和国の、チベット民族の自治区をチベット部分
のみに限定し、その他のチベット各地を「内地(中国本土)」諸省に組み込む行政区画は、
この分割の際の境界を踏襲したものである)。 モンゴルと交流のあった女真族(満州族)から出た清朝は、モンゴルの諸ハン王朝の後
継者としてチベット仏教の保護者を以て任じ、雍正帝によるグシ・ハン王朝絶滅後は、ダ
ライ・ラマ政権の直接的バックボーンとなった。結局、清朝はグシ・ハン王朝が果たして
いた役割を、清朝が果たすことにして、1728 年以降、清朝の駐蔵大臣(チベット駐在大臣)
とチベット側の支配者(1750 年代からはダライ・ラマ)が協力してチベット統治を行う体
制を確立したのである。 《第 4 代乾隆帝とチベット問題》 雍正帝のあとは乾隆帝(けんりゅうてい。在位:1735 ~95 年)となった。清朝にとって
もっとも重要であったのは、引き続き、ジュンガル問題とチベット問題であった。 ジュンガルでは、オイラト勢力は相続争いによって分裂抗争を始めた。抗争に敗れた勢
力は続々清朝に投降してきたが、ガルダン・ツェリンの外孫アムルサナが来降すると、乾
隆帝はその機会をとらえて 1754 年~1755 年にジュンガルに出兵、たちまちタリム盆地を制
圧し、グシ・ハン王朝とジュンガル帝国をともに征服・解体し、その領土と部族民を清朝
の支配体制に組み込んだ。 1760 年にはイリ川渓谷(図 13-52 参照)にあったジュンガル帝国本領の故地で反清反乱
が勃発したが、乾隆帝はこれに激しい弾圧をもって応え、清軍の持ち込んだ天然痘の流行
もあってイリ川渓谷にいたジュンガル部族はほとんど絶滅した。新疆及び西モンゴルの多
数派は、オイラト人だったが、百万以上のオイラト人が死んだといわれている。現在イリ
川渓谷に住んでいるのは、その後、清が入植させたカザフ人や満州軍人たちの子孫である。 また天山南路のウイグル族が反乱を起こしてイスラム王国の建設を目指したが、いずれ
も清朝に平定され、東トルキスタン全域が清朝の支配下に入った。清朝はこの地域を「新
疆(新しい土地)」と称し、これが現在の新疆ウイグル自治区の名の由来となっている。 1639
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 「新疆」の住民は主にトルコ系ムスリムの人々であったが、清朝は、主なオアシスに満
州人・漢人の官僚や軍隊を置くほかは、漢民族の植民を抑制する方針をとった。「ベグ」
と呼ばれるトルコ系の有力者が在地の支配者として任命され、住民を統治した。漢字や儒
教も浸透せず、人々は主にトルコ語で話し、読み書きしていた。ムスリム支配層から見て、
清朝皇帝は異教徒ではあったが、ジハード(聖戦)を行って打ち払うべき対象とは必ずし
もとらえられず、「塩とパンを与えてくれる」公正な支配者として、その恩義を重視すべ
きであるとする見方も強かった。 以上、康煕帝のチベット問題の扱いから、その後の清朝におけるチベット問題をまとめ
て述べたが、ふたたび康煕帝に返る。
《康煕帝の内政》 康煕帝の時代には、北方民族のハンと中国の皇帝という二つの顔があった。三藩の乱と
台湾鄭氏という二大反清勢力がほぼ片づいた 1683 年以後、康煕帝はほとんど毎年、旧暦 7、
8 月ごろに木蘭囲場(もくらんいじょう)と呼ばれる内モンゴルの猟場に赴き、モンゴルの
王侯貴族とともに狩猟を行った。 この広大な猟場で 10 数日間、皇帝とモンゴル貴族、臣下たちは、純モンゴル風のテント
生活を送り、モンゴル相撲や暴れ馬乗りといった余興つきの宴会や、大規模な巻狩りなど
を楽しんだ。こうした行事は、単なる楽しみというばかりではなく、軍事訓練でもあった。 そもそも清朝の軍事組織である八旗はヌルハチが巻狩りの方法から発想したように、狩猟
とは、君主の手足として忠義をつくす臣下たちの働きを、目に見える形で表現する重要な
行事であった。 北京の紫禁城(故宮)は、康煕帝が主に中国風の皇帝として生きるところであった。紫
禁城は元朝がつくったものを明の永楽帝が改築して明朝で使われていたが、1644 年の李自
成の乱によって焼失した。それを清朝が再建して再び宮殿として使うようになったもので
ある。 紫禁城は面積が 72 万平方メートルあり、日本の皇居(御苑含む)の約 3 倍である。大き
くいって、皇帝が公的な政務・儀式などを行う外朝部分と皇帝一家の居住区たる内廷部分
とに分かれている。 図 13-53 のように、南半分が外朝部分である。南側中央にある午門から入り太和(たい
わ)門を経て(普通は東西にある東華門、西華門から出入りしていた)、大きな広場に行
きあたり、その先に太和殿、中和殿、保和(ほうわ)殿、の三つの大宮殿がある。これら
が皇帝権力の象徴ともいえる建物で、皇帝の即位や誕生日、元旦などの儀式・宴会、およ
び科挙の殿試などに使われた。 1640
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) さらに北に行くと、乾清(けんせい)門があり、これが外朝と内朝との境目であった。
乾清門の北に、皇帝の寝室がある乾清宮と皇后の住む坤寧宮(こんねいきゅう)があり、
これが内廷の主要部分をなしている。 康煕帝は 1667 年に親政をはじめてから毎朝かならず乾清門に出御し、政務をとるのがつ
ねであった。官僚組織は明朝時代とあまり変わらなかった。内閣大学士をはじめとする各
級官僚を集め、目前の問題を討論し、裁定を行って命令を出すのであった。このような「聴
政(ちょうせい)」を嫌ってほとんど行わなかった明末の皇帝たちとは大きな違いであっ
た。 清朝は、明朝の制度・政策を基本的に踏襲しているので、康煕帝の独自の政策はあまり
なかったが、執務には熱心であり、自ら倹約に努め、明代に 1 日で使った費用を 1 年間の
宮廷費用としたと言われるほどである。また使用人の数を 1 万人以上から数百人にまで減
らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は豊かになり、減税も度々行った。 また、丁銀(人頭税)の額を 1711 年の調査で登録された人丁(16 歳~59 歳の成年男子)
の数に対応した額に固定し、1711 年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。
これは雍正帝のとき正式に地丁銀制(ちていぎんせい)に制度化された。 この地丁銀制とは、明代以来の一条鞭法に代わって実施された清代の税制で、地銀(田
畑の所有に対して課された税。地税とも言う)の中に丁銀(人丁、すなわち 16 歳~59 歳の
成年男子に課された人頭税。丁税とも言う)を繰り込み、一括して銀納さるものであった。 1641
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-53 紫禁城平面図 前述のように、康煕帝のときに、一部で行われていた丁銀の地銀への繰り込み、つまり
事実上の丁銀の廃止を雍正帝のとき全国で実施したのである。 康煕帝は、『康煕字典』、『大清会典』、『歴代題画』、『全唐詩』などの編纂事業に
おいても、中国の伝統的学問のパトロンとして貢献した。『古今図書集成』の編纂を命じ
たが、これの完成は雍正帝の時であった。この『古今図書集成』は広く古来の典籍から同
類の関係する記事を抽出して集めた百科事典(類書)で、現存する類書としては中国史上
最大で、巻数 1 万巻である。明の成立から滅亡までについて書かれた明史の編纂にも力を
入れて大部分を完成させた。これの編纂開始を命じたのは順治帝で完成は乾隆帝期の 1739
年であるが、大部分は康煕帝期に編纂された。 また、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらに命じて実測による最初の中国地図
『皇輿全覧図』を作成させた。ジョアシャン・ブーヴェ(1656~1730 年)はフランス生ま
1642
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) れで、1688 年に北京に到着し、中国に数学、天文学などの学術も伝えた。彼が著した『康
煕帝伝』は、中国の事情をヨーロッパに伝えることになった。 康煕帝の学問に対する興味は、数学・天文学のみならず、音楽や地理など広い範囲に及
んだ。宣教師たちは彼の学問の師として優遇され、皇帝の左右にならんで腰かけることを
許されるなど、一般の臣下の及ばぬ厚遇を受けた。しかし、彼はキリスト教の教義やキリ
スト教内部の争いなどには冷ややかな態度をとった。彼の関心はあくまで西洋の進んだ学
問に限られていて、宗教的な帰依という人生そのものの指針へとおよぶことはなかった。 《キリスト教の禁止》 明代末に中国に入り、初期キリスト教布教の中心となったマテオ・リッチが 1610 年に北
京で死去した時、中国人の信者は、2500 人ほどであったといわれている。その後、信者数
は急速に増え、17 世紀の半ばには 15 万人にも達していた。とはいえ、17 世紀初めの日本
でキリスタンの数が 60~70 万人であったといわれるのに比べると、中国でのカトリック布
教は、人口比からみても限られた範囲にとどまっていたといえる。 1630 年まで、中国でのカトリック布教はイエズス会の独占状態であったが、その後ドミ
ニクス会、フランチェスコ会など、多くの会派が中国で布教を始めた。いろいろな会派が
入ってくると、イエズス会の中国での布教の仕方について、他の会派が批判を行うように
なった。 1704 年にローマ教皇クレメンス 11 世は、①中国の天主教徒(カトリック教徒)が皇帝や
官僚に跪拝(きはい)したり、祖先の位牌を祭ったり、孔子を尊崇する儀式を行ってはな
らない、②カトリックの「デウス(神)」を「天」「上帝」など儒教的な用語に翻訳して
よいかどうかについては、「天主」のみ使い、「天」「上帝」などを使ってはならない、
との決定を行った。 この決定が清朝に伝わると、康煕帝は激怒して、特別に許可を受けた宣教師以外の布教
活動と入国を禁止した。天主教徒(カトリック教徒)による孔子や祖先の祭祀を禁止する
というこの命令が、清朝政府によって、中国の基本的倫理に挑戦するものと受け取られた
のである。 ついで雍正帝の時代にはカトリックの布教は全面的に禁止されることとなった。その後
も宣教師や信者は中国各地方に相当数存在し、また、技能をもつイエズス会士は相変わら
ず宮廷で珍重されはしたが、キリスト教に対する清朝政府の禁止政策は、清末に列強の圧
力によって布教が認可されるまで、変わることはなかった。 ○清朝の統治構造 乾隆帝の時代に清朝の領土は、図 13-52 のように、その広さは明代のそれをはるかに凌
駕して最大となった。その統治構造は図 13-54 ように、東北から西南に向けて引かれた分
1643
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 割線によってあらわされる。東南の半円が中国皇帝としての顔であり、西北の半円が北方
民族のハンとしての顔に相当するといわれている。 図 13-54 清朝の統治構造 《清朝の東南方面》 まず、東南方面について中心から外側に向かう形でみてみると、皇帝の住む北京には中
央政府機関が置かれており、だいたい明の支配領域に相当する本土には、18 の省が置かれ
た。省を置いた地域(直省という)では、明代とだいたい同様の地方官制により、科挙官
僚が地方官として派遣されて統治した。その大部分は漢民族の居住地である。 ただし、18 省のなかでも、西南(貴州、雲南、広西など)に相当数居住していたミャオ
族、ヤオ族、チワン族その他少数民族については、その有力者を「土司(どし)」に任命
して、世襲の統治を行わせる制度があった。しかし、漢人が奥地まで移住していくにした
がって、少数民族は圧迫されて山中に入り人口を減少させていくか、あるいは漢民族と経
済的・文化的に交流して、漢語を話し漢民族の風習を身につけるなど、漢化してくる人々
も出てきた。そうした動きにともなって、しだいに「改土帰流(土司を廃止し中央から地
方官を派遣する)」が進行していった。 その外側には、礼部の管轄する朝貢の国々があった。1818 年に編纂された行政規則集『大
清会典』に載せられている朝貢国は、朝鮮、琉球、ベトナム、ラオス、タイ、スールー(フ
ィリピン南部)、オランダ、ビルマ、西洋(ポルトガル、ローマ教皇庁、イギリス)があ
った。この中には、朝鮮や琉球などのように貿易の利益を求めてかなり恒常的に朝貢を行
っていた国々もあれば、王朝交代や隣国との紛争の際に清朝の庇護を求めて朝貢した国々
(スールーなど)があった。さらに、ただ使節を派遣したために朝貢と受け取られてしま
った国々(ローマ教皇庁、イギリス)もあった。 1644
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) さらに、朝貢国の外側の「互市(ごし)」の国は、ヨーロッパ諸国や日本のように、使
節を派遣していなかったので朝貢国のなかには入っていないが、民間の貿易を通じて接触
のある国々であった。これらも、清朝の目から見れば、天子の徳を慕って天朝の物産を欲
しがってやってくると見られていて、潜在的な支配関係の枠組みのなかで認識されていた
と考えられる。 《清朝の西北方面》 さて、西北の半円であるが、その中で準中央ともいえる特別地域が東北である。清朝発
祥の地である東北地域は特別行政区域とされ、奉天(現在の瀋陽)には首都北京の中央官
制に準ずる官制(6 部から吏部を除いた 5 部など)が敷かれたほか、奉天・吉林(きつりん)・
黒龍江の三将軍が地域を分けて統治した。清末にいたるまで、この地域には、漢人の入植
が制度上禁じられていた。 その西から時計と逆回りに、内外モンゴル、新疆、青海、チベットといった非漢民族の
支配地域がならんでいた。これらの地域は、その統合の経緯からして、同じ非漢民族とい
ってもミャオ族やヤオ族などとは異なり、もともと相当に自立的な権力があった者が、征
服や投降などによって清朝の支配下に入ったのである。これらの地域は、「藩部」として
理藩院の管轄区域とされ、清朝の監督のもとで、固有の社会制度が維持された。 すなわち、モンゴルではモンゴル王侯が、新疆ではトルコ系有力者「ベグ」が、チベッ
トではダライラマなどが、現地支配者として存続したのである。 その外側には理藩院の管轄する朝貢国があった。ネパールや中央アジア諸国、さらにロ
シアもここに入った。 以上が 18 世紀半ばの乾隆帝の時代が清朝の最大領土であり、図 13-52 のとおりであるが、
それと現在の中華人民共和国の領土と比較してみると、沿海州など東北の北部がその後ロ
シア領となり、外モンゴルがモンゴル国となり、また福建省の一部であった台湾が中華人
民共和国政府の支配の外にあるほかは、ほぼ重なり合う。「藩部」にあたる地域は現在で
は省級の「自治区」となっているところが多い。西南少数民族の「土司」支配地域には、
自治県・自治州が置かれているところもある。 以上のような違いはあるが、現在の中華人民共和国の領土的骨格は、ほぼこの清代中期
に形成されたといえる。それから 250 年ばかりがたっているが、現在この範囲の中で、新
疆の民族運動やチベットのダライ・ラマの亡命政府の運動など中華人民共和国政府の支配
から離れようとする動きがあるのも事実である。政府はこれらを、歴史的に形成されてき
た「中華民族」を分裂させようとする動きとして批判している。 ○清の統治体制 1645
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 18 世紀前半、雍正帝のとき臨時に軍機処が設置され、これが常設機関となり、内閣にか
わって、政治の最高機関となった。数名の軍機大臣で構成され、皇帝からの命令系統が簡
便になり、皇帝独裁が強化された。 軍制では、満州人(女真)の八旗が中核となり、モンゴル人・漢人も八旗を編成した。
17 世紀後半から約 130 年間、康煕帝(在位:1661~1722 年)・雍正帝(在位:1722~35 年)・
乾隆帝(在位:1735~95 年)の治世が清の全盛期であった。 清の広大な領土には、満州人・モンゴル人・チベット人・ウイグル人・漢人の 5 民族が
ふくまれ、清朝は 5 民族共通の君主として五族協和をとなえた。 清は中国(漢民族)の支配に懐柔策と威圧策とによって中国を統治した。懐柔策では、
中央政府の要職の定員を偶数にして満州人と漢人の両方を登用する満漢併用制を行い、官
吏登用のために科挙を実施し、大規模な編纂事業などによって中国文化を尊重する態度を
示した。 威圧策では、満州人の辨髪(べんばつ。頭髪を一部を残して剃り、編(むす)んでたら
す)を強制し、排満・反清の思想を弾圧して文字(もんじ)の獄(文書に書いた文字や内
容が皇帝や体制を婉曲に批判しているとして、当該文書を作成した者を罰する粛清)をお
こした。乾隆帝は思想的に危険な書物の販売禁止や焼却を命じた禁書令を出したことで知
られる。また、白蓮教などの民間宗教も弾圧した。 ○清朝衰退の萌芽 拡大・膨張基調にあり、三世の春といわれた 18 世紀の状況とは大きく異なり、19 世紀の
清朝は内外ともに多難の時期に入っていった。 乾隆帝中期以降の清は綱紀弛緩が甚だしかった。乾隆帝を継いだ嘉慶帝(かけいてい。
在位:1796~1820 年)はこれを修繕しようと試みたが、あまり芳しい結果は得られなかっ
た。 この頃の中国の人口は 100 年前が 2 億ほどだったのに対して 4 億を突破していた。しか
しその一方で農業耕地はわずか 1 割ほどしか増加しておらず、必然的に 1 人当たりの生産
量は低下し、民衆の暮らしは苦しくなっていった。 図 13-55 に、清代の水田価格と米価の推移を示すが、18 世紀半ばから米価が高騰しはじ
めた。中国全土にわたる米価高騰により、中国の中部・南部では食糧暴動が頻発するにい
たった。ふだんから穀物の足りない江蘇・浙江・福建・広東などの東南沿岸地帯のみなら
ず、むしろ沿岸地帯に米を移出する穀倉の湖南・広西などで盛んに起こった。これは産地
で大量の米が買いつけられる結果、移出地帯の米が足りなくなっていることを示していた。 1646
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-55 清代の水田価格と米価 中央公論社『世界の歴史12』 《「中国のマルサス」洪亮吉」 乾隆帝の治世も末期に近づいた 1793 年、江南出身の学者洪亮吉(こうりょうきつ)は、
当時の物価高と 50 年前の物価の安さと比較して、人口増加による物資不足であると警鐘を
鳴らした。彼は生産資材の増え方と人口の増え方の相違に注目した点で、洪亮吉を「中国
のマルサス」と呼ぶ人もいる。 イギリスの経済学者マルサスの『人口論』初版が 1798 年であるのでほぼ同時代人である。
ユーラシアの東の端と西の端で同時代に相似た議論が出てきたことは、18 世紀半ば以降の
長期的な経済上昇局面に伴う人口増大とその圧力がはじめて深刻に感じられる時期になっ
ていたのであろう。 人口の増大がはげしい中部、南部の沿岸地帯には、図 13-56 のように穀物が輸送された。
穀物の不足する東南沿岸地帯に穀物を供給した穀倉地帯は、長江中上流域の、湖南や四川
であった。この穀倉地帯で白蓮教の反乱も起きた。 清朝中期の人口増加の時代は、同時に移住と開墾の時代であった。清代中期における主
な移住先としては、四川盆地や長江流域の山地、さらに東北地方や台湾などをあげること
ができるが、18 世紀末の白蓮教の反乱の舞台となった漢江上流の四川・湖北・陝西の省境
地帯も、主要な移住地域の一つであった。 一般に、山地の開発を担ったのは移住者であった。彼らは森林を伐り倒して畑を作り、
麻や藍などの商品作物を栽培した。彼らの食糧となったのは、痩せた山地でもよくできる
トウモロコシやサツマイモなど、16 世紀に新大陸から導入された新作物であった。農業技
1647
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 術の面からいうと、明清時代にはあまり大きな技術革新はなかったにもかかわらず、急速
な人口増加を支えることができたのは、この新作物の導入によるところが大きかった。 図 13-56 清代の穀物流通 中央公論社『世界の歴史12』 トウモロコシは山地でも比較的よくとれるが、いつも豊作とは限らなかった。山地経済
は、豊作で景気のよい時はよいが、凶作や不景気に弱い不安定な性格をもっていた。森林
を切り開いてどんどん耕地を広げていく人々の行動は、長期的にみれば土壌の流出といっ
た環境破壊の原因にもなった。実際、このころには、洪水がしばしば起き、開発の行き詰
まりが感じられていたのである。 《白蓮教の乱》 このような時に起こったのが、白蓮教(びゃくれんきょう)の乱だった(図 13-56 参照)。
白蓮教は、南宋代から清代まで存在した宗教であった。1775 年に清朝は白蓮教の教主であ
る劉松を捕えて流刑に処したが、白蓮教徒たちは弥勒下生を唱え、死ねば来世にて幸福が
訪れるとの考えから命を惜しまずに戦った。 この反乱の戦費は、合計 1 億両以上に上った。乾隆年間後半に 8000 万両もあった戸部銀
庫の蓄積は、1000~2000 万両程度に落ち込み、これ以後、清朝は慢性的な財政難に苦しむ
1648
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) こととなった。この反乱に費やした巨額の費用は国庫を空にしてまだ足りず、増税へと繋
がり、さらに社会不安を醸成していった。 また、それを鎮圧するべき清朝正規軍八旗やそれを補助する緑営は長い平和により堕落
しており、反乱軍に対しての主戦力とはならず、それに代わったのが郷勇(きょうゆう)
と呼ばれる義勇兵と団練(だんれん)と呼ばれる自衛武装集団であった。このように、清
朝の治安を漢民族の軍隊である郷勇、団練に頼らざるを得なくなったということは清朝の
威信を失墜させた。 しかし、白蓮教徒たちも組織的な行動がなく、各地でバラバラな行動を取っていたため
に次第に各個撃破され、1798 年に王聡児・姚之富が自害、1800 年に劉之協が捕らえられ、
1801 年には四川の指導者の徐天徳などが自害するなど次第に下火になっていき、1802 年頃
にはほぼ鎮圧された。 この反乱の鎮圧過程に見られた地方の武装化ということも重要な点であった。反乱を鎮
圧した郷勇が発展して、のちに曽国藩や李鴻章によって作られる軍閥となり、満州族の地
位を危ういものとしていった。 また、この頃からイギリスから密輸入されるアヘンが急激に増大していた。鎖国の夢を
破る西欧諸国の足音がひしひしと迫ってきていたのである。アヘンがのちのアヘン戦争を
引き起こし、郷勇から発展した軍閥政権が清を滅ぼしたことを考えると、清の滅亡の萌芽
はまさにこの時代にあったと言えよう。 【13-6-2】モンゴル ○北元の分裂 中国を支配したモンゴル帝国(元)がモンゴル高原に北走して北元となった後(1368 年)、
北元のクビライの王統に従った諸部族と、これから離反してオイラト族を中心に部族連合
を形成した諸部族の二大集団に分かれた(図 12-82 参照)。 後者はドルベン・オイラト(四オイラト)と呼ばれるようになり、前者はこれに対して
ドチン・モンゴル(四十モンゴル)と称される部族集団となった。明は、四十モンゴルを
韃靼(だったん。タタールの漢訳名)と呼んだため、この時代のモンゴルのことはタター
ルと呼ばれることが多いが、自称はモンゴルのままであり、清代には蒙古(モンゴル)の
呼称が復活した。 ○オイラト さて、オイラトは、モンゴル高原の西部から東トルキスタン(新疆)の北部にかけて居
住する民族で、15 世紀から 18 世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合であった。
このオイラトは、15 世紀のエセンの時代に強盛を誇り、1449 年に明の正統帝の親征軍を撃
1649
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 破して、正統帝を捕虜し(図 12-82 参照。土木の変)、1453 年に自らハンに即位したが、1
年ばかりのちの 1454 年に殺害され、オイラトの覇権は挫折した。 ○モンゴルのダヤン・ハン オイラトが衰えると、モンゴルに 1487 年、ダヤン・ハンが即位するとモンゴルの再編統
一が行われ、1488 年には早くも大軍を率いて中国の北辺を侵したのを始め、たびたび明を
脅かした。1510 年にはモンゴル高原西部で勢力を持っていたオイラトを破り屈服させた。 しかし、1524 年にダヤン・ハンが死去すると、後継者の地位を巡って王族の間に混乱が
起こり、早くもモンゴルの統一は揺らぐことになった。 ○モンゴルのアルタン・ハン やがて、ダヤン・ハンの孫のアルタンは、1551 年には正統ハン位に推戴され、即位した
(在位:1551~1582 年)。その後も明・モンゴルで積極的な活動を続けて勢力を拡大し、1552
年からはオイラトに侵攻してカラコルムを支配下に置き、チベットやカザフスタン方面に
も進出した。 アルタンはチベットのゲルク派(黄帽派)の法王ソェナム・ギッツォをモンゴルに招い
てダライ・ラマの称号を授けた。ダライとはモンゴル語で大海の意であり、ダライ・ラマ
とは「大海のごとき徳をもつ上人」ということになる。ソェナム・ギッツォに先立つ 2 人
の僧にさかのぼって 1 世、2 世の称号が与えられ、ソェナム・ギッツォはダライ・ラマ 3 世
と呼ばれた。元朝以来のモンゴルとチベット仏教との関係が復活したのは、このときから
であった。このため、モンゴル全土にチベット仏教が広まり、アルタンの孫は第 4 代ダラ
イ・ラマとなった。 しかし、アルタン・ハーンの全盛期は長くは続かず、1570 年に孫のパカンナギが明に投
降し、1571 年に明との和平条約を締結した。このとき、明から順義王に封じられ、一族の
者や配下にも明の官職が与えられた。そして朝貢を許され、その地位に応じて年金が与え
られた。しかしアルタンの死後、モンゴルは分裂していった。 ○オイラト 今度はオイラトの出番となった。モンゴル全体を統一する権力が消滅した結果、1623 年
になってオイラトはモンゴルより独立を果たした。この時代のオイラト人の間ではモンゴ
ルとは別個の集団としての自意識の形成が進んだ。 同じころ、満州に勃興した後金(こうきん)が内モンゴルの諸部族を服属させ、国号を
大清と改め、やがて、南下していった。これに対して清の脅威にさらされた外モンゴルの
ハルハとオイラトの各部は同盟を結び、1640 年に「オイラト・モンゴル法典」を制定して
部族間関係を調整、ハルハとオイラトの抗争はやんだ。 1650
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 17 世紀のオイラトは、モンゴル高原の西部からアルタイ山脈を経て東トルキスタン北部
のジュンガリア(現在の新疆ウイグル自治区の北西部にあるジュンガル盆地)にかけての
草原地帯に割拠し、ホショート部族が有力となっていた(図 13-52 参照)。 ○オイラトのグシ・ハンによるチベット征服 オイラトのホショート部の首長となっていたグシ・ハン(1582~1654 年)は、帰依して
いたダライ・ラマの宗派ゲルク派(黄帽派)がチベットにおいて政治的に危機に陥ってい
るのを救うという名目で、1636 年にオイラト軍を率いて出動、1642 年までにチベットの大
部分を制圧、ホショート本領は兄の子で正統継承者のオチルトに譲り、チベットにおいて
グシ・ハン王朝を樹立した。 グシ・ハン率いるオイラト軍はアムド(青海)を主としてチベット各地に配置されたが、
彼らのうちアムドに居住する者たちがのちに青海モンゴル族と呼ばれるようになった。ま
た、一部のオイラト部民はラサ北方 100 キロ付近のダム地方に移り住み、グシ・ハン王家
に仕える直属部隊となったが、これらの人々の後裔がチベットのオイラト人として現在も
続いている。 ○清朝によるグシ・ハン王朝、ジュンガル帝国の征服 オイラトにおいて、カルダン・ハン(1644~97 年。グシ・ハンの孫)はジュンガル・ハ
ン国(図 13-52 参照)の 3 代目ハン(在位:1671~97 年)となり、オイラト内のライバル
たちを次々に屈服させ、1679 年までにウイグル族の東トルキスタン及びカザフ族の中央ア
ジアの一部をも支配下にした。 1688 年、カルダンは清朝の膨張に対抗するためにモンゴルを統一しようと考え、タリム
盆地に支配を拡大するとともに、ゴビ砂漠北部のハルハ(モンゴルの多数派民族)を攻撃
した。清朝の康煕帝のところで述べたように、このためモンゴル高原の支配権をめぐって
オイラトと清朝の全面戦争となった。1696 年、ガルダンは康熙帝の軍に敗れ、大半の兵士
を失い翌年に自殺した。 この抗争の結果、ハルハは内モンゴル諸部と同様に清に服属し、オイラトは清に朝貢す
ることになった。ハルハ諸侯は、これ以後、清の盟旗制に組み込まれた。旗ごとに牧地が
指定され、その地域を越えた遊牧は禁止された。 しかし、歴代のジュンガル部族長たちはガルダンの地盤を引き継いでオイラトを支配し
続けていたが、中国・清の歴史で述べたように、清は、1723 年~1724 年にチベット、1754
年~1755 年にジュンガリアに出兵、グシ・ハン王朝とジュンガル帝国をともに征服・解体
し、その領土と部族民を清朝の支配体制に組み込んだ。 さらに 1760 年にはイリ川渓谷にあったジュンガル帝国本領の故地で反清反乱が勃発した
が、乾隆帝はこれに激しい弾圧をもって応え、清軍の持ち込んだ天然痘の流行もあってイ
1651
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) リ川渓谷にいたジュンガル部族はほとんど絶滅した。新疆及び西モンゴルの多数派は、オ
イラト人だったが、百万以上のオイラド人が死んだといわれている。現在イリ川渓谷に住
んでいるのは、その後、清が入植させたカザフ人や満州軍人たちの子孫である。 ○現在のモンゴル人 この時代の歴史がその後もモンゴルの動向に大きな影響を与えているので、少し先走っ
て、その後を述べることにする。 20 世紀の初頭に清が崩壊すると、清朝末期の辺境への漢人殖民政策に苦しんでいた内モ
ンゴル人が外モンゴルのハルハ諸侯に働きかけ、まず、もともと清の支配が比較的緩かっ
た外モンゴルでボグド・ハン政権が樹立された。そして北方から進出しつつあったロシア
帝国に援助を求めた。内モンゴル各部族も帰順の動きを見せたが、露中蒙の協議の末、内
モンゴル地域の中華民国帰属、外モンゴルの中国宗主権下の自治へと後退した。 ロシアが共産主義革命を経てソヴィエト連邦となると、外モンゴルではその混乱に乗じ
て中華民国、ロシア白軍が侵入したが、外モンゴルが今度はコミンテルンの援助を得て再
独立した。ハンの死後、共産主義国家のモンゴル人民共和国を建てた。これが現在のモン
ゴル国となった。 一方、内モンゴルの諸部族は外モンゴルへの帰順や自主独立の動きがありながら、結局
中国の領内に残り、現在の内モンゴル自治区となった。 また、新疆ウイグル自治区や青海省に多いオイラトは、中華人民共和国の成立にともな
って蒙古族の民族籍を与えられ、モンゴル民族の一部とみなされるようになった。 モンゴル人の現在の大ざっぱな人口の内訳は、モンゴル国では人口約 253 万 3,100 人の
うち 95%(約 241 万人)がモンゴル人(2004 年)であり、中国には約 1,000 万人(内モン
ゴル自治区に約 400~500 万、それ以外の中国内に約 500~600 万)、ロシアのブリヤート共
和国に 20 万人である。 モンゴル人は、 遊牧民族として知られているが、いずれの地域でも、現在は牧畜をやめ
て都市や農村に居住する割合がかなり多い。また、中国やロシアでは、モンゴル語を話せ
なくなった人も少なくない。 主な宗教はチベット仏教の流派で、文化的にチベットとの関
わりが深い。また、シャーマニズムも存在している。 【13-6-3】朝鮮 李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392 年に高麗の武将・李成桂が恭譲王を廃して、自ら
即位したことで成立し、1392 年から 1910 年まで続いた朝鮮半島の最後の王朝であった。そ
の間、500 年続いたので、本書では便宜上、中世、近世、19 世紀の歴史に分割している。 1652
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 李氏朝鮮の歴史は、国内政治的には、①建国から端宗までの王道政治の時代(1393 年~
1455 年)、②世祖の王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1455 年~1567 年)、③士
林派などによる朋党政治(1567 年~1804 年)、④安東金氏・閔氏などの外戚による勢道政
治(1804 年~1910 年)の区分に分けられる。 そこで,便宜上、中世の歴史で①、②を述べたので、この近世の歴史で③を、19 世紀の
歴史で④を記すことにする。 ○朋党政治の始まり 李朝朝鮮の貴族階級ともいうべき両班階級は官僚制を独占し、やがて朝鮮の病弊ともい
われる派閥抗争(党争)に陥った。その状況は、近世になるとともにますます激しくなっ
ていった。 1567 年の李氏朝鮮第 14 代国王・宣祖(せんそ。在位:1567~1608 年)の即位により、
勲旧派(くんきゅうは)と士林派(しりんは)の党争は、士林勢力が最終的に勝利を収め
士林派が中心となって政治を行う時代が始まった。しかし、今度は官職の任官権を巡り士
林派の沈義謙と金孝元による党争が始まった。その中の沈義謙派のことをその領袖が漢陽
(ソウル)の西側に住んでいたので西人(せいじん)と呼んだ。これに相反する金孝元派
のことを東人と呼んだ。このように士林勢力は 1575 年には西人と東人(とうじん)と呼ば
れる 2 つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。 この時代に見られる派閥に分れて論争を繰り広げる政治体制のことを朋党政治と呼んだ。 しかし、1591 年に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後 30 年に
渡って政権を掌握した。しかし東人は、西人勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強行
派の李山海を中心とした北人と穏健派の禹性伝を中心にした南人の 2 つの派閥にさらに分
裂してしまった。このように朋党政治は、東人、西人、南人、北人と官僚派閥がうまれ、
たがいに党争を際限なく続けた。 ○日本軍の侵略(倭乱) その頃、日本を統一した豊臣秀吉は更なる勢力拡大の野望を持っており、大陸への進出
のために、1589 年、対馬を通じて、李氏朝鮮に対し、日本に服属し明征討のための先鋒と
なり道を貸して欲しいと言ってきた。これが壬辰倭乱(文禄の役。図 13-57 参照。1592~
1593 年)と丁酉倭乱(ていゆうわらん。慶長の役。1597~1598 年)に発展した。 1592 年 4 月、文禄の役(朝鮮では壬辰倭乱(じんしんわらん)という)が勃発し、体制
の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。先祖の李成桂以来、
平和な時代が続いて軍が有名無実となっていた朝鮮軍は戦国時代を生き抜いてきた日本軍
に太刀打ちできず、一時は首都の漢城府(現在のソウル)から追われ、平壌さらには義州
まで落ち延び明に救援を求めた。 1653
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-57 16 世紀の朝鮮半島 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 豊臣軍は数ヶ月で朝鮮の咸鏡道(かんきょうどう)北辺まで進出した。当時、朝鮮政府
は有効な手立てを打てず治安悪化により全土は疲弊した。それに対して日本への反感を持
った義勇兵が民衆より立ちあがり、抵抗を開始した。戦局に決定的な影響を与えたのは、
李舜臣(りしゅんしん。1545~1598 年)に率いられた水軍の活躍と、それによる制海権の
確保であった。 舜臣は亀船といわれるものを創造した。これは船の上を板で張りつめ、その形が亀に似
ており、戦士や漕ぎ手はみな船内におり、左右前後には火砲を多く載せ、縦横に動き回り、
敵船に遭遇すればいっせいに大砲を放ってこれを打ち砕くものであったといわれている。 その後、明からの援軍を得て平壌、開城を回復し、続いて漢城府(ソウル)の回復を目
指したが、 碧蹄館(へきていかん)の戦いで日本軍に破れたため、王都への復帰は頓挫し
た。明の援軍が進出すると戦線が膠着し、日本と明は和議交渉に移り、日本軍は朝鮮南部
の沿岸へ一旦兵を引き上げた。 和議は失敗に終わり、1597 年 1 月、日本は再び朝鮮半島へ侵攻した。これが慶長の役で
ある(朝鮮では丁酉倭乱(ていゆうわらん)という)。2 回目の侵攻では全羅道と忠清道へ
の掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領のために休戦期の 3
倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極
1654
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去(1598 年 9 月)によってようやく終結し、
日本軍は引き上げた。 ○倭乱後の党争再開 この 7 年に及ぶ戦乱により、朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、また経済的
にも破綻寸前の状態に陥った。そのため朝鮮王朝は増収案として「納粟策(のうぞくさく)」
を提案した。これは、穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策であ
った。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれることと
なった。この制度によって李氏朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変
化した。古い体制は崩れ新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には再び
活気が蘇った。 1608 年、宣祖が亡くなり、光海君(こうかいくん。宣祖の次男・庶子)が王位についた。
光海君(在位:1608~1623 年)は、即位すると破綻した財政再建と現実的な外交施策を展開
し、また、党争を終結し王権を強化するために大規模な粛清を行った。その範囲が反対派
閥、兄弟にまで及んだ粛清は 1615 年まで続き、大北派と光海君は一応の政権の安定を確保
することになった。 一方で弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた後金(清)の間に挟まれ、朝鮮は、二
極外交を展開することになった。 光海君の性急な財政再建策や粛清は民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極
外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになり、1623 年、クーデターによ
って廃位に追い込まれた。 光海君のあとは、甥にあたる仁祖(じんそ。在位:1623~1649 年)が即位した。仁祖と
西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、西人を主とし南人を副とする党派体制を
確立することで政局の安定を試みた。一方外交政策は、明と後金(清)の二極外交から、
親明外交に転換した。しかし、この政策が裏目に出てしまった。 ○胡乱と清朝への属国化 和乱戦争に明は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異
民族への明の抑えが効かなくなるということでもあり、女真族の勢力伸張をもたらしたが、 二極外交を破棄された後金は、まず 1627 年、3 万の兵力で朝鮮に侵入した(丁卯胡乱。て
いぼうこらん)。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時
江華島へ避難することになったが、後金を兄、朝鮮を弟とすることを条件に講和した(丁
卯約条)。講和が成立すると、一旦金軍は撤収した。 1636 年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する
兵 3 万を要求してきた。朝鮮がこの条件を拒むと、同年、清は太宗(ホンタイジ)自ら 12
1655
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入(丙子胡乱。へいしこらん)、朝鮮は江華島が攻め落と
されたため、45 日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。この和議の内容は、清に服従
すること、明との断交、朝鮮王子を人質として送ること、莫大な賠償金を支払うことなど
11 項目に及ぶ屈辱的内容であった。 ○どこまで続く党争 清の中国での覇権が確立した李氏朝鮮第 18 代顕宗(1659~1674 年)の時代に入ると、社
会的には平穏な時代が続くこととなった。しかし、もはや朝鮮の病弊となってしまった党
争が再びはじまった。発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる
朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が再び政局の混乱をもたらした。その中でも服喪
期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた。1674 年に孝宗妃の仁宣
王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が
朝廷を掌握する様になった。 次代、第 19 代粛宗(在位:1674~1720 年)の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、
その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行うこと
で、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。 西人は、1680 年の庚申換局の時に少論派(しょうろんは。ソロンは)と老論派(のうろ
んは。ノロンは)に分裂した。そのもともとの意見の差は粛宗の外戚に対し妥協的なもの
が老論派、粛宗の外戚に対し批判的なものが少論派であった。 1720 年に粛宗が亡くなり、景宗(在位:1720~1724 年)が即位すると、主力勢力であっ
た老論派(ノロン派)が権力争いに敗れ、少論派(ソロン派)が政局を握った。政権を奪
った少論派は 1721 年から 1722 年にわたって、老論派の粛清を行った(辛壬士禍)。 第 21 代英祖(在位:1724~76 年)は、登極するや少論を追い出して老論を登用したもの
の、徐々に老論と少論の均衡をとる蕩平策(とうへいさく)に努力するようになった。 ○第 22 代正祖の政治 1776 年、第 22 代正祖(在位:1776~1800 年)は王位につくと反対勢力の排除を始め、 自らの側近で朝廷内を固めた。父の死を招いた仇であり、与党でもあった老論派(ノロン
派)を嫌悪した正祖は、祖父・英祖が生涯の課題とし基本政策とした蕩平策を継承し、党
争を避けるよう努力した。封建的特権を弱体化し中央政府の地方統制力を高め、王権を強
化するための政治・経済改革に着手した。 1776 年 4 月には首都漢城に文芸、学問の振興のための奎章閣(けいしょうかく。王立図
書館)を設置した。ここには、中国、朝鮮の典籍が収蔵され、正祖を支持する文官の精鋭
を選んで親衛勢力を形成し、朋党の肥大を抑制し、人君を補佐できる強力な政治機構とし
て育成しようとした。 1656
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 更に、特に優秀な人材を選び抄啓文臣と称して毎月 2 回ずつ試験を行って賞罰を直接下
す「抄啓文臣制」を実施し、疎外されていた嶺南系人士(朝鮮半島南東部)も科挙を受け
させるようにした。また、従来の思弁的な朱子学から現実的な実学重視の風潮が高まり、
「実
学派」と呼ばれる人々が登用されるようになった。この流れの中で、従来は官吏になれな
い庶子も官吏として認められるという新しい動きもあった。 このような治世の雰囲気は中人(両班と常民の間の中間層)以下の平民まで影響を与え、
正祖時代には両班はもちろんのこと、中人、庶子とその子孫、平民層に至るまで文化に関
心を持ち、文化が大きく花開いた時代となり、正祖はハングルを創始した世宗と並ぶ好学
の王としての誉れが高い。 正祖は暗行御史をしばしば派遣して地方の問題点を直接把握し解決に努め、これをもっ
て地方士族の郷村支配力を抑制し、百姓に対する政府統治力の強化をはかった。また王室
直属の親衛隊である壮勇営を新設し、王の最高統帥権を実質的に行使することができるよ
うにした。1791 年には商業活動の自由を大きく拡大し、過酷な刑罰を制限した。 しかしこのような正祖の政策に賛成した南人派(ナミン派)と少論派(ソロン派)、一部
老論派臣下たちが時派を、他方の最後まで党論を固守した大多数の老論派臣下たちが僻派
(時流に逆らう派閥という意味)を形成し、結局、党争は時派と僻派の対決という新しい
形で展開していくこととなった。正祖の治世には、政治は当然時派中心に運営されたが、
危機感を抱いた僻派は更に一致団結して政局主導権を奪う機会を摸索し、僻派と時派によ
る政治的党争は続いたままであった。 このように正祖は、老論派の攻勢を乗り切って王権を強化するためにさまざまな改革を
行なったが、1800 年 6 月、病が悪化して 49 歳で予期せぬ死にたおれ、彼が推進してきた改
革の大部分はその後、ほとんど無に帰した(なお、韓国テレビドラマ『イ・サン』のモデ
ルは正祖である)。 1800 年、正祖が亡くなると、純祖(在位:1800~1834 年。正祖の次男)が 10 歳で即位
したため、英祖の継妃であった貞純王后が純祖の即位直後より、垂簾聴政を行い、死没ま
での 5 年間、権力を振るった。貞純王后は正祖の蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優
先する政策を採った。そのために蕩平支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用
して僻派政権を樹立させた。 一方で、貞純王后は、1801 年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した。
この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われて
いる。カトリックへの弾圧はこの後も 1815 年、1827 年、1838 年など、断続的に行われた。 ○安東金氏の勢道政治 1657
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1802 年、金祖淳の娘が純祖の王妃になり、1804 年、14 歳になった純祖による親政が始ま
った。1805 年貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようにな
り、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放した。その一方で、王の政治を補
佐するとの名目で、自分の本貫(ほんがん。氏族集団の発祥の地)である安東金氏(あん
とうきんし)の一族から大量に人材を登用した。これにより金祖淳を筆頭にした安東金氏
が政治を独占する勢道政治の時代が始まった。 安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された両班があぶれ、また政治綱
紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり、農民反乱が頻発するようにな
った。そのなかでも大きな反乱が、1811 年に起きた洪景来の乱であった。これは農民だけ
でなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規
模な反乱となったが、ほどなく勢いを失い、1812 年に鎮圧された。 安東金氏は次代、わずか 7 歳で即位して 22 歳で崩御した憲宗(在位:1834~1849 年)、
次々代王哲宗(在位:1849~1863 年)にも王后を送り込み、外戚として権勢を振った。勢
道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59 年にわたって李氏朝鮮の政治を牛耳っていた。 【13-6-4】日本 ○戦国時代後半―西洋との接触 室町時代の後半、つまり、15 世紀後期から 16 世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。
この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大
名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一
円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。地域国家
間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決がはかられた。 この戦国時代の後半である 16 世紀には、東洋の東端にある日本にも、ヨーロッパの大航
海時代の影響がおよんできた。この西洋との接触は日本の政治的統一(日本は一度統一さ
れていたものが分国化したので再統一ということになる)にも少なからず影響を与えるこ
とになった。 《鉄砲の伝来》 この群雄割拠の戦国時代におおきな影響を与えたのは鉄砲の伝来であった。1543 年、ポ
ルトガル人をのせた中国船が種子島(鹿児島県)に漂着した。これが、日本人とヨーロッ
パ人との接触の最初であった。 この中国船に乗っていたポルトガル人が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島
島主である種子島時尭(ときたか)がそのうち 2 挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶に命じ
て複製をつくらせた。当時の鉄砲はマッチロック式であり、火縄銃と呼ばれた。その頃、
1658
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 種子島に在島していた堺人と紀州根来寺(ねごろじ)の僧が本土へ持ち帰り、さらには足
利将軍家にも献上したことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土
に伝えられた(創造と模倣・伝播の原理は武器の場合はより速いことは述べた)。 鉄砲はすぐに戦場における新兵器として導入され、実戦での最初の使用は、薩摩国の島
津氏家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めであるとされる(1549 年)。実戦で威力
を発揮することがわかると、戦争にあけくれていた戦国大名は、きそって鉄砲を求めた。
鉄砲は伝えられるとまもなく、和泉(大阪府)の堺や近江(滋賀県)の国友(くにとも)、
紀伊(和歌山県)の根来(ねごろ)・雑賀(さいか)などで大量に生産された。この大量生
産を可能にしたのは、当時の日本の鉄砲鍛冶(刀鍛冶が転換)が持っていた製鉄・鍛造・
鋳造技術などの水準の高さであり、戦国時代の技術革新の結果であった。数年後には、畿
内で鉄砲を利用した戦いが行われ,10 数年後には、全国的に鉄砲が普及した。
やがて天下統一事業を推進していた尾張国の織田信長が甲斐・武田氏との長篠の戦い(な
がしののたたかい)で鉄砲の有効性をいかんなく実証した。長篠の戦いは、1575 年 6 月 29
日、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍 3 万 8000
人と武田勝頼軍 1 万 5000 人との間で行われた戦いで、織田信長は鉄砲を 3000 丁も用意、
さらに新戦法の馬防柵(ばぼうさく)での三段撃ち(連続射撃)を実行し、当時最強と呼
ばれた武田の騎馬隊をなすすべも無く殲滅させた(死者 1 万 2000 人とされる)。この戦い
で、初めて鉄砲が集団戦法に用いられ、その威力を発揮した。 鉄砲伝来の影響はすぐに現れた。まず、①戦術が、一騎討ちの騎馬戦から足軽の鉄砲隊
を中心とする集団戦法へと変った,②集団戦法による機動性を高めるために家臣が城下に
集中されるようになった、③戦争の勝敗が短期間につくようになり、統一を早めた、④鉄
砲に対応するため、城壁が堅固になった。 こうして、日本でも鉄砲が戦争における主力兵器として活用される軍事革命が起こった。
武器を知り、戦争を知っているものからすれば、鉄砲の威力とその発展性は明らかだった。
これによって天下統一事業も早まることになった。 西洋との接触は、キリスト教の伝来、南蛮貿易などの開始となったが、ここでは省略す
る。 ○安土桃山時代 戦国大名の争乱は約 1 世紀におよぼうとした。彼らの中から織田信長が天下統一に乗り
だし、各地の戦国大名を倒して、京都をめざした。1568 年には、足利義昭を奉じて入京し、
義昭を将軍職につけ(義昭は、13 代将軍義輝(よしてる)の弟だった),自ら「天下布武」
の印章を用いて天下統一の意志を示した。 《織田信長の政策》 1659
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 信長の政策はきわめて斬新であった。まず、軍事面では兵農分離を行い、常備軍を城下
に集め、毎日、厳しい戦闘訓練をつませた。鉄砲隊と槍隊を徹底的に強化した。槍は従来
の 2 倍の長さの 6 メートルの槍にした(古代マケドニアのフィリッポス 2 世も従来の 2 倍
の 6 メートルの槍をもった重装歩兵軍団をつくりだしたことは述べた)。当時の鉄砲の弱
点を補うために数千挺用意し、それを 3 段構えで連射できるようにした。従来の戦国時代
の戦争は兵農未分離で、農繁期には戦争を中止して農業を行う地侍の集まりであったが、
信長軍は常備軍で常時、訓練を繰り返し戦争に徹していたから強かった。 常備軍を持つには金がかかるが、信長は 1 人の兵に 50~100 石を保障した。数千単位の
常備軍を持つには経済力を強化する必要があり、信長は各種の経済力強化の政策をとった。 ◇指出検地(さしだしけんち)の実行……信長は入京以来、検地を行った。その方法は,
各地域の領主に土地の面積・作人・年貢量などを申請させる指出法をとった。 ◇道路の整備・関所の撤廃……戦国大名は戦時のことを考えて、道路の整備はしなかった
が、信長はできるだけ商人・物資を集めやすく商業・都市を発展させるため、道路などを
整備した。関所を撤廃し、人と物資の通行の妨げを取り除いた。 ◇楽市楽座……信長は、城下町の安土などに自由な売買を保障する楽市令を出し、新興商
人(新儀商人)を集める楽市楽座(座などを排除した自由取引市場)を行った。これによ
って城下を発展させ、上納金をとった。 ◇鉱山の掌握……信長は、但馬(たじま。兵庫県)の生野(いくの)銀山を直轄地として、
その鉱産物を財源とした。 ◇都市の掌握……信長は都市の経済力に早くから注目し、堺には矢銭(やぜに。軍資金)
を要求し、これが拒絶されると武力を行使してその自治を奪い、さらに堺・大津・草津・
京都を直轄地とした。 信長は、今後の戦争は経済力の戦いになることを見通して、このような政策によって、
徹底的に経済力の強化をはかり、それを新しい武器(鉄砲)の調達とよく訓練のゆきとど
いた常備軍の強化につぎ込んだ。 信長は,1570 年に姉川の戦い(滋賀県)で浅井長政・朝倉義景(よしかげ)を破った。
15 代将軍となった足利義昭は、実権がもてないことに反発し、武田・毛利・上杉氏や本願
寺と結んで信長を除こうとしたので、1573 年、信長は義昭を京都から追放し、ここに室町
幕府は滅亡した。1575 年に信長は、前述した長篠の戦いで武田勝頼を大敗させ、1576 年に
京都・東海・北陸をにらむ要衝、近江(滋賀県)の安土に 5 層7重の天守閣をもつ安土城
を築いて居城とした。 1582 年、信長は中国の毛利氏を討つため(中国攻め)、京都に入り、本能寺に泊まった
が、ここで家臣の明智光秀に襲われて自殺した。これが本能寺の変であった。 1660
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《豊臣秀吉の天下統一と政策》 信長の家臣・豊臣秀吉は、明智光秀を山崎の合戦で破り、信長の後継者として天下統一
に着手した。その経過は省略するが、1590 年、小田原の北条氏政(うじまさ)を滅ぼし(小
田原攻め)、伊達政宗(だてまさむね)ら東北地方の諸大名を服属させ(奥州平定)、さ
らに徳川家康を関東に移らせた。ここに、秀吉の天下統一は完成した。 秀吉の政策は,太閤検地、それに伴う政策の実施が,まず、上げられる。 ◇検地の実施……秀吉は,新しく獲得した領地に役人を派遣して面積や年貢量などを調べ
る検地(太閤検地)を実施した。天皇に献納するためと称して,全国の大名に国郡別に石
高を書上げた御前帳と郡絵図の提出を命じた。検地帳では、石高で統一することが求めら
れ,その結果、全国の生産力が米の量で換算された石高制が確立した。さらに、すべての
大名の石高が正式に定まり、大名はその領知(りょうち。土地を領有して支配すること)
する石高にみあった軍役を負担する体制ができあがった。 ◇長さ・面積などの統一……検地にあたって、これまで不統一だった長さや面積の単位を
統一した。また、枡(枡)の大きさも京枡(現在の枡)で計るようにして、計量を統一し
た。段あたりの標準収穫量を石盛(こくもり)というが、田畑の等級を上田(じょうでん)・
中田(ちゅうでん)・下田(げでん)・下々田(げげでん)に分けて石盛をし、その石高
によって年貢を負担させた。 ◇一地一作人の原則を確立……一地一作人の原則を確立して、作人を年貢納入の責任者と
決めた。これまでの荘園では、土地の権利(職。しき)が何人もの人に重層的に所有され
複雑化していた。しかし、太閤検地の一地一作人の原則によって、1 つの土地を保持・耕作
するのは、1 人の農民のみとなった。これにより、中世の複雑な権利関係を清算した。この
ようにして、村ごとに年貢の負担額が決定され、原則として収穫の 3 分の 2 を生産物地代、
つまり米で徴収した。これはきわめて厳しいものであるといえる。 この太閤検地はきびしく、これまでの地方の慣習を無視することもあったので、国人や
農民などがしばしば一揆で抵抗した。しかし、秀吉は武力でおさえ、検地を強行していっ
た。 この太閤検地の結果、検地帳に耕作者として記載された者(名請人。なうけにん)は、
年貢納入の責任を持つかわりに土地に対する権利が保証された。これにより残存していた
荘園制は完全に解体されるとともに、名請人は百姓身分となり、兵農分離が確定していっ
た。 ◇刀狩(かたながり)の実施……刀狩も秀吉の独創でなく、すでに柴田勝家も行っていた。
しかし、秀吉が全国的に行ったことは重要である。1588 年に、京都の方広寺の大仏殿を造
営するという口実で農民の持つ武器を提出させ、没収する刀狩令を出した。これによって
1661
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 百姓が刀を持つ権利は奪われていった。百姓の一揆を防止し、百姓の身分の者に農業に専
念することを求めたのである。 ◇身分統制令の実施……1591 年、秀吉は 3 ヵ条の朱印状を出して,武士に仕える武家奉公
人が都市や村に居住して町人や百姓になることや、百姓が町人になることを禁じた。さら
に翌 1592 年、朝鮮出兵に動員する武家奉公人や人夫確保のために、関白豊臣秀次(ひでつ
ぐ)が人掃令(ひとばらいれい。人別改めともいう)を出し、戸口調査を実施し戸数・人
数を調べた。これらの法令や調査により、武士・百姓・町人身分の確定が進んでいった。 ◇経済・商業政策……商業政策は、信長の政策を継続させたものが多く、楽市楽座の設置、
関所の撤廃などを行った。そのほか、街道に一里塚(1 里=約 4 キロメートルごとに設けら
れた路程標)を創設して交通を便利にした。 秀吉は、直轄地(蔵入地)220 万石を主要財源とした。また、京都・大坂・堺・伏見・長
崎を直轄都市として豪商を統制下においた。さらに、石見銀山・佐渡金山・生野銀山など
の鉱山を直轄にし、天正大判などの貨幣を鋳造した。 ◇秀吉の外交政策 秀吉は,海外貿易の利益にも着目し、1592 年から正規の商船に朱印状を与える朱印船貿
易を始めた。朱印船貿易は、江戸時代に入って 17 世紀初めに全盛期を迎えた。 秀吉は,当初、信長と同じくキリスト教の布教を黙認していたが、九州に出陣し島津氏
を降伏させた 1587 年、教会がキリシタン大名を通じて力を持ちはじめていることを知り、
キリスト教を禁止し、宣教師(バテレン)に国外退去を命じるバテレン追放令を出した。 この戦国時代末期には日本は 50 万挺以上の銃を所持していたともいわれ、当時世界最大
の銃保有国となっていた。天下統一をなした秀吉は、その余力をかって朝鮮・明に打って
出て、文禄の役(1592~93 年)、慶長の役(1597~98 年)となったことは、朝鮮の歴史で
述べたので省略する。 秀吉が朝鮮侵略を行った理由は、①諸大名の領土的野心を海外に向けさせようとした、
②戦争にかり立てて諸大名の統制を強めようとしたことなどが考えられているが、本当の
ところはわからない。戦国武士の目を海外に向けさせ、これ以上の日本国内での戦乱を起
こさせないようにしたのではないかとも考えられている(海外に敵をつくれば、国内は団
結できる)。 この朝鮮出兵の最中に秀吉は死去し、後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化した。 ○江戸時代 秀吉の死後、1600 年、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると、1603 年、
江戸に幕府を開いた。 《大坂夏の陣と元和偃武(げんなえんぶ)》 1662
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 戦後(関ヶ原の戦いの後)の家康の政策の最重点は「戦争のない世」の実現であった。1605
年、家康は将軍職を子の秀忠(在位:1605~23 年)に譲り、みずからは駿府(静岡県)で
大御所(隠居した将軍)として政治をとった。これは、徳川氏が将軍職を世襲することを
天下に明示するためであった。家康・秀忠は大規模な改易(かいえき。取潰し。とりつぶ
し)・減封(げんぽう)などを行って諸大名を圧倒した。 改易された大名 90 人=440 万石、減封された大名 4 人=221 万石にのぼった。これらの
地は徳川氏が直轄地にしたり(これによって徳川氏が圧倒的に強くなった)、関ヶ原の戦
いで武功のあった家臣に与えたりした(徳川氏の一族や親藩は江戸の防備をかためる配置
にされた)。また、秀吉の子・豊臣秀頼を摂津・河内・和泉 65 万石の一大名に落とした。 これに不満な秀吉の子・豊臣秀頼は大坂城に拠って、大坂冬の陣、大坂夏の陣の戦争と
なったが、1615 年 5 月、大坂城は陥落して、淀殿・秀頼の母子は自殺し、豊臣氏は滅んだ。 ここに平和が回復したので、家康は同年 7 月、元号を慶長から元和(げんな。和のはじ
まり)に改めさせ、天下の平定が完了したことを内外に宣した。これを「元和偃武(げんな
えんぶ)」という。偃とは、とめる、やめるの意である。偃武とは、中国古典『書経』周書・
武成篇の中の語「乃偃武修文(乃ち武を偃(ふ)せて文を修む)」に由来し、武器を偃(ふ)
せて武器庫に収めることを指している。家康の思いには、応仁の乱以来、日本で 150 年近
くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突(戦争)を大坂夏の陣を最後に終了させる
決意がこめられていた。これは織田・豊臣と続いた国内統一と海外発展という趨勢を大き
く変える転換点となった。 《諸国鉄砲改め…銃器所持・輸出禁止》 火器の歴史について、カリフォリニア州立大学のライチェン・サンは、東アジアで「火
器の時代」があったことを論じている。 火器の時代が始まったとされる 1390 年には、中国の火器技術(中国の火薬発明はもっと
古い)はすでに朝鮮や、東南アジア北部に伝播し、また鄭和の遠征により、東南アジア海
域部にも拡散したという。この時代には、中国由来の火器がアジア史において重要な役割
をはたし、全般的な趨勢としては、大陸アジア(中国・朝鮮・東南アジア北部)が、海洋
アジア(日本・台湾・チャンパ・東南アジア海域部)を押さえ込んでいた。 このことは、元寇(げんこう)のとき(1274 年の文永の役、1281 年の弘安の役)、元軍
は毒矢・てつはう(鉄火砲)など、日本側が装備しない武器を活用したことにより、各地
で日本軍は圧倒されたといわれていることからもわかる。 このアジアにおける中国による最初の火器技術の波が、
(創造と模倣・伝播の原理で中国
の技術がイスラムを通じてヨーロッパに伝わり)16 世紀になると逆転し、改良されたヨー
ロッパの火器技術が((大航海を通じて)アジアに広がり、第 2 の技術波及が始まったとし
1663
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ている。この 16 世紀の第 2 の波において、ヨーロッパ人(ポルトガル人・オランダ人・ス
ペイン人)の到来によって、先進的な火器技術が普及、この時期には、海域アジア(低地
ビルマ・アユタヤ・コーチシナ・南ベトナム・台湾・日本)が、大陸アジア(アッサム・
東南アジア北部・明清中国・朝鮮)に挑戦し、第 1 の時期の趨勢を逆転させていたといっ
ている。世界史的にみると、秀吉の文禄・慶長の役は、まさにその流れにのっていたとも
いえる。 しかし、日本は軍事大国・武器輸出大国の道は歩まなかった。秀吉のあとを継いだ徳川
家康は武器輸出を禁止した。第 5 代将軍徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟
及び銃の原則所持禁止、銃器の移動制限がなされた。 確かに、それ以後、江戸幕府による全国支配体制の基礎が確立して、以後幕末に至るま
で(一揆由来の島原の乱と慶安の変(由比正雪の乱)を除く。これらは戦争という性格の
ものではない)大規模な軍事衝突(戦争)が発生しなかった(この近世の 300 年間のヨー
ロッパの歴史と比較してみると日本がいかに平和であったか。逆に絶対王政のヨーロッパ
はいかに戦争に明け暮れしていたことか。武器があれば戦争は起きるものである。武器が
なければ戦争のしようがないのは真である)。 明治以降も(西南の役を除けば)、日清・日露の戦争が起きるまで、大坂夏の陣以来 300
年間、戦争をおこさなかった例は、世界史的にもめずらしい。そのような意味で大坂夏の
陣と元和偃武の歴史的意味はもっと強調されてもよい。 諸国鉄砲改めによって、禁止されて以来、幕末に実戦を前提として新式銃が輸入される
まで、日本の銃器は(300 年間)火縄式のままであった(要するに江戸幕府は最強力な武器
の製造・輸出を禁止した。武器技術は禁止されれば進歩しないという世界史的に希有な例
である。現在の戦争放棄(自衛権はある)の日本国憲法と武器輸出禁止の国策をとる戦後
の日本も現代世界では希有な例といえる)。 1615 年、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼして天下統一を完成し、家康が江戸に幕府を開いた
1603 年から、大政奉還の 1867 年までは江戸時代と呼ばれたが、その歴史は省略する。 【13-6-5】東南アジア 【①ベトナム地域】 《黎朝ベトナム》 中国の明はベトナムを支配下に置いていたが、これに対し、ベトナムの清化地方丘陵部
の土豪の黎利(れーろい)が挙兵した。長期のゲリラ戦を経て明の勢力を国外へ放逐し、
1428 年に現在のハノイで皇帝に即位し、黎(れー)朝を開き、国号を「大越」とした。黎
1664
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 朝(1428~1527 年、1533~1789 年)はベトナム史上でもっとも長期の政権であった(図 13-58
参照)。 図 13-58 東南アジア諸国の繁栄(16~17 世紀の東南アジア) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 4 代目黎聖宗(1460~97 年)の治世で、黎朝は最盛期を迎えた。農業振興のために堤防
や灌漑施設を新しく造り、耕地を広げた。さらに、軍人移民(屯田)が中部および南部地
方の未開地開墾のために組織的に実施された。大土地の所有は禁じられた。 その後、黎朝には無気力で堕落した皇帝たちが続き、そのことが諸侯間に抗争を招いて
いった。1527 年には武人の莫登庸(ばくとうよう)将軍が王位を簒奪した。ここで黎朝(1428
~1527 年、1532~1789 年)はいったん中断した。 《黎朝(鄭氏)と広南朝(阮氏)》 その後、黎朝は再興されたが、その皇帝の地位は名目的存在であり、政権の実権は武人
の鄭氏に握られていた。ちょうど日本の天皇と将軍の関係に似ていた。首都ハノイが鄭氏
に助けられてもとの黎朝の手に帰したのは 1592 年であった。 しかし、黎朝皇帝の手による国内の統一は実現されなかった。莫氏は中国に支援されて
1677 年までカオバン地方(ベトナム東北部)で抵抗した。 1665
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) その後、阮氏(げんし)は黎朝再興派内から抜けて、ベトナム中部のフエに移った。 鄭氏(トンキン)は北部、阮氏(コーチシナ・広南)は南部で対抗して、ソンザン川を両
氏間の国境として承認し、この暗黙の休戦は 1 世紀間続いた(図 13-58 参照)。北部の黎
朝は明と朝貢関係を結び、明の制度をとりいれ、支配をかためた。この時期のベトナム北
部社会は村落の自律化が一段と進み、中国文化に深く影響されたベトナムの伝統が完成し
つつあった。 中・南部の阮氏の勢力は、17 世紀初め頃から現在のベトナム南部に入植し、17 世紀から
18 世紀にかけてカンボジア王国の内紛を利用して、サイゴン(現在のホーチミン市)など
をカンボジアから略取してしまった。 《西山党の反乱》 1771 年、西山(せいざん)村の阮文岳ら 3 兄弟が蜂起し、ハノイの黎朝を滅亡させ、フ
エの阮氏一族も滅ぼし、天下を取ったが、たちまち西山党は分裂し、13 年間でその支配を
終えた。 タイ(シャム)に亡命していた阮氏一族の後継者・阮福映(げんふくえい)は 1788 年に
再びコーチシナ(ベトナム南部)を奪回した。阮福映はフランス人神父たちの助けを借り
て、最新式の武器で敵を圧倒した。敵船隊をクィニョンで爆破し、1801 年にフエを陥れ、
1802 年に昇竜(ハノイ)に入城した。 《阮朝ベトナム》 阮福映はフエで即位して嘉隆帝(ザーロン。在位:1802~1820 年)となった。この皇帝
は阮朝の創建者であり、ベトナムの南北統一者となった。この嘉隆帝は、中国の国境から
シャム湾までの現在のベトナムの国土を分割することなく統治した最初の王であった。 1804 年には中国の清から嘉隆帝は越南国王に封ぜられ、同年越南(=ベトナム)を正式
の国号とした。阮朝は清に朝貢を行って形式上従属したが、国内や周辺の諸民族・諸国に
対しては皇帝を称し、独自の年号を使用し、「承天興運」を国是として、ベトナムに小中
華帝国を築き上げた。 【②カンボジア地域】 現在のカンボジア地域には、9 世紀から 15 世紀までクメール王朝(アンコール王朝とも
いう)が栄えたことは中世の歴史で述べた。13 世紀にはいると中国・元の侵攻が始まり、
後半からは、アユタヤ王朝の侵攻が始まった。15 世紀前半にはアユタヤ王朝にアンコール
の都城も攻撃され、衰退していった。クメール王朝のポニャーヤット王は、1431 年にアン
コールを放棄し、翌年シャム族がアンコールを占領し、栄光の時代は終わりを告げた。 1666
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) その後、首都は転々とし、現在のプノンペンのあるチャドモックに遷都した。図 13-58
のように、17 世紀から 18 世紀は、隣のシャムやベトナムの侵略や干渉がつづき、国内は混
乱した。1845 年に即位したアン・ドゥオン王は、ひそかにシンガポールのフランス領事を
通じてナポレオン 3 世に援助を要請したが、事前にシャムに情報が漏れ、失敗に終わった。 【③ラオス地域】 ラオスの歴史は、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔国)
の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まった。王国滅亡後の 1353 年に、
ラオ族のファー・グム王による統一王朝ランサン王国が建国され、支配領域をメコン川流
域からコーラート台地(タイ北東部)やカンボジア北部にまで広げた(図 13-58 参照)。
ランサンとは「百万頭の象」という意味で、ランサン王朝は、メコン川中流域に 14 世紀か
ら 18 世紀にかけて展開した。 ランサン王朝は、16 世紀半ばには最大の領域を保持した。1563 年、セーターティラート
王は、ビエンチャン(図 13-58 参照。現在のラオスの首都)に遷都した。そこはメコン川
中流域にあり交通の便もよく、ルアンプラバンよりもラオスの中央部に位置し、大越(ベ
トナム)およびタイとの貿易の適地でもあった。また、当時インドシナ半島の中央部を脅
かそうと狙っていたビルマに対する戦略的な要衝でもあった。王は首都にレンガ壁をめぐ
らせて防備を施し、エメラルド仏陀を安置するワット・プラ・ケオ寺院を建立して、都城
の体裁を整えた。 その隆盛にもかかわらず突然ビルマに攻撃され、ランサン王国は崩壊を起こし、ビエン
チャンは 1574 年に陥落した。この国が再び平和を取り戻したのは英傑スリニャ・ウォンサ
ー王(在位:1637~94 年)のもとで 1637 年のことであった。このスリニャ・ウォンサー王
の時代には上座部仏教を始めとする文化・文芸の隆盛期を迎えた。王は、黎朝の王女と婚
姻して大越と同盟をむすび、ラオ人社会は発展した。 スリニャ・ウォンサー王の死後(1694 年)、王朝は王位継承を巡って内紛で北部のルア
ンパバーン王国、中央部のビエンチャン王国、南部のチャンパサック王国の 3 つに分裂し、
最終的には 1779 年、ルアンパバーン王国もトンブリー王朝(タイ)の宗主下に入ることで
ランサン王朝は姿を消した。 【④タイ地域】 《アユタヤ王朝》 1667
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) アユタヤ王朝(1351 年~1767 年)は現タイの中部を中心に展開したタイ族による王朝で、
タイに起こった各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する
地の利を生かし、貿易が国の富として重要であり、繁栄していた。 ヨーロッパとの接触も、1509 年にポルトガルがアユタヤに使節をを送ってきて、1516 年
にポルトガルとアユタヤは条約を結び、ポルトガル人は首都やテナセリムなどへの居住が
認められ、通商の権利を獲得し、カトリックの布教が承認されていた。 西のビルマ(現ミャンマー)は、16 世紀ごろから執拗にアユタヤへの攻撃を繰り返し、
ビルマ・トウングー朝の 2 代目バインナウン王(在位:1551~1581 年)は、ついに 1569 年
にはアユタヤを陥落させた(図 13-58 参照)。ビルマは、都城アユタヤの財宝を手に入れ、
アユタヤからは数千人の住民を下ビルマへ連れ去り、アユタヤは 15 年間にわたりビルマの
属領となった。 やがてアユタヤのナレースエン王(在位:1590~1605 年)は、ビルマの内紛に乗じてア
ユタヤを再び独立へと導いた。王は 2 度ビルマへ遠征して勝利をおさめ、マレー半島西岸
のタヴォイとテナセリムを攻略してベンガル湾通商ルートを再開した。同じく、隣国のク
メール王国の首都ロヴィック(図 13-58 参照)も 1594 年に陥落させた。 アユタヤ朝は、17 世紀は、ヨーロッパおよび中国との活発な通商関係が発展した時代で
あった。アユタヤを訪れた外国人たちは国王をその富裕ぶりから商人王として述べている。
商港アユタヤには後背地から皮革・漆・染料の樹皮・錫が集荷され、さらに日本や中国か
ら多くの交易品が届いており、来航のヨーロッパ人たちにとって絶好の貿易商業港であっ
た。都城内の外国人にあてられた街区には、中国人・ムーア人・マラヤ人・ヨーロッパ人
が居住していた。日本人町もあった。 アユタヤ朝は 1732 年から 1762 年が絶頂期であった。多くの仏教寺院が建立された。この
王国の富によって、都城内のどの河岸にも点在する 500 あまりの立派なパゴダ・寺院によ
って壮麗な景観がつくられ、その中には金泥塗りの仏像が安置されようになった。そこに
は金銀細工師(精巧に金銀を象嵌(ぞうがん)する人や錦状細工を上手に仕上げる人)、
鋳物師、銃工、鍛冶屋、建築工、金銀色の絹職工などが住んでいた。 しかし、ビルマのアラウンパヤー王(在位:1752~1760 年)が 1752 年にコンバウン王朝
を創設するとアユタヤはその侵略の脅威にさらされ、1767 年アユタヤは陥落した。あの輝
ける都城は一瞬にして焦土と化し、王宮や寺院は焼け落ち、住民約 1 万人が捕虜としてビ
ルマに連行された。このビルマの攻撃によって都城が徹底的に破壊され、約 400 年のアユ
タヤ王国の栄華の跡は瓦礫の山となった。 《トンブリー朝》 1668
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 破壊し尽くされたタイ国は、タークシン将軍によって救われた。残存兵力を糾合した将
軍は、ビルマ軍を追い払い、チャオプラヤ川下流のトンブリーに都を定め、自ら王位(在
位:1769~82 年)についた。王は祖国の再建を掲げ、タイ国内各地の地方勢力を懐柔し、
治世の初期 3 年は戦闘で明け暮れていた。さらに再来襲したビルマ軍勢力を撃退し、カン
ボジアやラオスなどとも戦争をした。 しかし、長く続いた戦争の結果、王は精神錯乱に陥り、常軌を逸した王の暴政は武将た
ちを憤らせ、チャクリ将軍がクーデターを起こし、王位につく結果となった。タークシン
王の治世は 15 年で滅びた。 《バンコク朝(チャクリ朝)》 現在の王朝の創始者チャクリ将軍はラーマ 1 世(在位:1782~1809 年)となり、トンブ
リーから対岸のチャオプラヤ川左岸のバンコクへと遷都した。この王朝は別名チャクリ朝、
またはバンコク朝とも呼ばれる(図 13-58 参照)。 ビルマは 1785 年に再び約 10 万の大軍をもって侵攻してきたが、ラーマ 1 世はこれを撃
退した。タイの歴史はここから港市バンコク時代へと入っていくのである。 19 世紀の初期には、タイはやっと繁栄を取り戻した。ラーマ 1 世は、カンボジア、ラオ
ス、そしてマレー半島諸国に対して領土拡張政策を再び取り始め、宗主権を確立した。 タイは素晴らしい富の源である広大で肥沃なチャオプラヤ川デルタを持っており、この
平野こそ、住民を扶養するばかりでなく米を中国やマラッカへ輸出することができた。そ
の米穀は、山林の産物(チーク材、香料、樹脂)、綿花、コーヒー豆、砂糖と並んで重要
な商取引の商品の一つとなった。 この首都バンコクは大きな貿易都市であった。当時の人口は約 40 万人といわれている。
その半数は中国人であり、タイ人は 3 割にすぎなかった。ほかにベトナム人、カンボジア
人など近隣の人たちが来航していた。この港は諸外国に開かれていたために、タイ人に対
して当時の国際政治情勢がどのように動いているかの情報をもたらし、同時にどのように
対応していくかの政治的順応性を身につけるのに役立った。隣接国のビルマやベトナム、
ラオス、カンボジア、マラヤなどが順次植民地化されていく中で、タイ国だけは別の道を
歩み始めていた。 【⑤ビルマ地域】 ビルマ地域でのはじめての王朝は、チベット・ビルマ語系のビルマ族がエーヤーワディ
ー平原(ミャンマー)に侵入して樹立したパガン王朝だったが、パガン王朝は 13 世紀にモ
ンゴルの侵攻を受けて滅びた。 《トウングー朝》 1669
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) トウングーは先行のパガン王朝の時代は小さな村に過ぎなかったが、パガン王朝の首都パ
ガンが陥落すると、ビルマ難民が流れ込んできた。トウングー王朝の最初の王、ティンカバ
ー(在位:1347 年~ 1358 年)はこの地に王宮を建設し、パガン陥落以来、ビルマ人の王
朝を再興した。 トウングー都城主のタビンシュエーティー王(在位:1531 年~1551 年)はビルマ人によ
る国内統一に乗り出し、トウングー朝(1531~1752 年)を創建した。王は 1538 年モン人の
都バゴーを陥れ、下ビルマ・中部ビルマを瞬く間に平定し、1546 年には統一ビルマの王と
してバゴー(ペグー。図 13-58 参照)で即位式を行った。この王はビルマ史上で 2 度目の
国内統一を成し遂げた王であった。 2 代目バインナウン王(在位:1551~81 年)は、国内を再統一した後、チェンマイ、ビ
エンチャンなどを征服し、今度は難攻不落と言われたアユタヤを 1556 年に陥落させ、ビル
マの版図を最大限に広げた。都バゴー(以前はペグーといっていた)は光輝の頂点に達し
ていた。繁栄した当時のバゴーの寺院には、宝石をちりばめた黄金の仏像が立ち並んでい
た。 しかし、打ち続く戦役と限りない兵員の動員と召集に民衆は疲弊してしまい、戦争や病
疫による死者が増加し、肥沃なデルタ地帯では耕作する農民の姿もなく稲田は荒蕪化(こ
うぶか)してしまった。バインナウン王の死後にはトウングー王朝の勢力は衰え、国は分裂
し、ビルマは再び 16 年間無政府状態となった。
しかし、アナウペッルン王(在位:1605~28 年)が登位して、トウングー王朝を再興さ
せ、平和と法秩序を回復した。再建されたトウングー朝の治下ではイギリスとオランダが商
取引を求めて来航し、シリアム、バゴー(ペグー)、アヴァなどに商館を開設した。ター
ルン王(在位:1629~48 年)は 1635 年にアヴァへ遷都した(図 13-58 参照)。ビルマ人
が退いた下ビルマではモン人が独立を求めて蜂起し、1752 年にアヴァの王都はモン人軍に
よって陥落してしまった。 《コンバウン朝(アラウンパヤー朝)》 18 世紀のビルマは群雄が割拠する混沌とした政治情勢であったが、上ビルマのシュエボ
ー地方の首長アラウンパヤー(1714~60 年)が近隣 46 ヵ村を糾合し、兵を集めて蜂起した。
アラウンパヤーはアヴァ都城を占拠したばかりのモン人を撃破して、1757 年にはモン人の
主邑バゴーを陥れた。そして王はビルマ史上 3 度目の国内統一を成し遂げ、コンバウン朝
(1752~1885 年)を創建した。王はバゴー攻撃の途中の 1754 年に聖地ダゴンを占拠し、こ
れをヤンゴン(「戦争の終わり」の意味。ラングーン)と改名した。 1670
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 3 代目のシンビューシン王(在位:1763~81 年)はタイの王都アユタヤを攻囲し、1767
年この華麗な都城を焼き打ちした(図 13-58 参照)。416 年続いたこの都城はことごとく
灰燼に帰してしまった。そのとき、約 10 万人のタイ人がビルマに連行されたという。 6 代目のバドン王(在位:1782~1819 年)は 1785 年にヤカイン(現ミャンマー西部のヤ
カイン州)を征服し、この地方を新しくビルマ王国に加えた。このヤカイン遠征に際して
多数の住民がベンガル地方へ越境亡命し、それが第 1 次英緬戦争の遠因ともなった。この
バドン王の治下で最大の版図となり、今日のミャンマー連邦の原型がつくられた。 【⑥マレー半島】 《ポルトガルのマラッカ占領とジョホール王国の建国》 ポルトガル人が初めて東南アジアに姿を現したのは,1509 年にディオゴ・ロペス・デ・
セケイラが 5 隻の船隊を率いてマラッカ港に来港した時のことである(図 13-58 参照)。 当時のマラッカ国王マフムード・シャー(在位:1481 年頃~1527 年頃)はポルトガル人
に対して貿易と商館の建設の許可を与えたが,ポルトガル人がインドでイスラム教徒商人
に対して敵対的な行動をしていたので(武力占領)、ポルトガル人を奇襲して彼らを追い
出した。 ポルトガルの第 2 代目インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケ(在位:1509~15 年)
は 1511 年に大小 16 隻の船隊を率いてマラッカに来て、部下を率いて上陸し攻撃をかけ、
マラッカ市を占領してしまった。 ポルトガル軍がマラッカを占領すると、マラッカ国王マフムード・シャーは隣のムアル
に移り、マラッカを奪回しようと試みたが失敗した。マフムード・シャーの息子アラウッ
ディーン・リアヤット・シャー(在位:1529~64 年)はスマトラのカンパルからジョホー
ル川の上流プカン・トウアに移り、王国を再建した。以後、王国はジョホール王国(図 13-58
参照)と呼ばれるが、首都の位置が変わっただけで、実質的にはマラッカ王国そのもので
あった。 その後、ジョホール王国は、首都のバトゥ・サワールを中心として旧マラッカ王国の版
図をほぼ支配下に置き、マレー半島南部からスマトラ中部にまたがる大勢力となったが、
1666 年から 1679 年に至るジャンビ(スマトラ南東部)との戦争、王位をめぐる争い、ブギ
ス族傭兵の介入などで、しだいに分裂状態に陥った。ジョホール王国はスマトラ各地に対
する支配権を失い、マレー半島の各地の領主が錫の採掘と輸出を基盤として勢力を持つよ
うになった。 【⑦インドネシア群島部】 1671
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《アチェ王国》 ポルトガル人はマラッカ港の支配を通じて東南アジアの貿易圏を支配しようとしたが、
その試みはポルトガル人の拙劣な行動によって失敗に終わった。ポルトガル人に苦しめら
れたイスラム教徒商人の多くはパサイ、あるいはジョホールに移ったが、やがてスマトラ
北端のアチェにも集まるようになった(図 13-58 参照)。 アチェ王国の建国は 15 世紀にさかのぼる。その起源はチャムにあったことは中世の歴史
で述べた。1471 年、チャンパ王国ヴィジャヤ王朝の首都ヴィジャヤがベトナム人によって
陥落した際、チャンパ王シャー・パウ・クバが、彼の息子シャー・パウ・リンをアチェの
統治へと送り出したのが王国の始まりであった。 その後、15 世紀中頃、アチェの支配階級はイスラム教に改宗した。アチェ王国はさらに
スマトラ西海岸をも支配下に置き、その地域で産出する胡椒の輸出を支配するようになっ
た。 アチェ王国のイスカンダル・ムダ(在位:1607~36 年)の時代はアチェ王国の最盛期で
あった。イスカンダル・ムダはスマトラ、ジョンホール、マレー半島の各地を攻撃し、さ
らに 1629 年に全力をあげてマラッカを攻撃したが、ポルトガル軍はパハン、パタニ両王国
と連合して、これを迎撃して、壊滅的な打撃を与えた。以後、アチェ王国は戦争と商業に
基盤を置く時代から、農業に基礎を置く時代に移行した。そして貿易から上がる利益はス
ルタンのものに、そして農業から上がる利益は貴族(ウルバラン)のものになる制度が生
まれた。 やがて、従来、オランダがアチェを手にしないようにアチェの独立を守ってきたイギリ
スが、政策を転換してオランダと英蘭協約を結んで(1824 年)、イギリスがマラッカを含
むマレー半島側(インドのコーチンを含む)、オランダがアチェを含むスマトラ島側(バン
カ島、ブリトゥン島を含む)を領有するという形の植民地交換が決められた。つまり、マ
ラッカの利権と北アチェでの平等な交易権と引き換えに、スマトラ島におけるオランダの
支配権を認めた。 こうしてアチェに対するイギリスのバックアップはなくなり、オランダは 1873 年にアチ
ェ戦争をしかけた。1874 年、スルタンは王都を捨て山間部に撤退し、一方オランダはアチ
ェの併合を宣言した。1903 年にはスルタンは降伏し、1907 年にスルタンが死去した後、後
継者は指名されなかった(現在はインドネシア共和国スマトラ島のアチェ特別州になって
いる)。 《マタラム王国》 中部ジャワの内陸部の平野は 926 年頃のムラピ火山の噴火によって放棄され、約 600 年
にわたってほとんど人が住まないような状況が続いていたが、この地を開拓し始めたマタ
1672
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ラム王国はスルタン・アグン(在位:1613~46 年)のとき、スラバヤ、トウバン、マドウ
ラを征服し、1625 年にジャワ語で「皇帝」に相当する称号であるススフナンと称した(図
13-58 参照)。 彼は 1628 年と 29 年の 2 回にわたってオランダのバタヴィアを包囲したが,結局、攻略に
失敗し大きな損害を出して撤退した。このあとも彼はさらに征服を続け、彼はマジャパヒ
ト王国の後継者としてジャワを支配するマタラム王国を作り上げた。彼はメッカに使節を
派遣して、スルタンの称号を認められ、スルタン・アグンとして知られるようになった。 港市に住んで農業に従事しない人々の数が増加し、米の需要が増大し、中部・東部ジャ
ワの海岸地帯が東南アジア貿易圏のなかでは米の輸出地として重要になった。中部・東部
ジャワの海岸地帯では、マタラム国王が米を輸出する権利を独占し、国内で圧倒的な権力
を握るようになった。 スルタン・アグンの息子アマンクラット 1 世(在位:1646~77 年)の高圧的な支配は国内
に強い緊張をを生み、1677 年にマドウラの王族が反乱を起こし、国内が大混乱に陥り、オ
ランダ東インド会社の介入を招くこととなった。その結果、海岸地帯は実質的にオランダ
東インド会社の支配下に入った。 《バンテン王国》 西部ジャワ、スンダ地方には 15 世紀の前半に現在のボゴール地域にパジャジャラン王国
が成立した。さらにその西のほうにバンテン王国(図 13-58 参照)があった。 スンダ地方からスマトラの南端にかけての地域は胡椒の産地であったので、1567 年に明
が海禁令を緩和すると、胡椒を求める中国船がバンテン港に多数来航し、国際貿易港とし
て繁栄するようになった。 1638 年にアブルマファキル王(在位:1596~1651 年)はメッカに使節を派遣し、アチェ
王国に続いてスルタンの称号を使用することを許された。彼の後を継いだティルタヤサ王
(在位:1651~82 年)はたまたま彼の即位とともに始まった第 1 次英蘭戦争を利用してイ
ギリスと手を結び、オランダに対抗しようとした。 彼はさらにマタラム王国で反乱を起こしたトウルナジャヤと同盟してバタヴィアを攻撃
しようとした。オランダ東インド会社はトウルナジャヤの反乱のかたがつくと、ティルタ
ヤサ王と皇太子の対立につけこんで 1683 年にバンテン王国を占領し、イギリス東インド会
社の商館を追放した。バンテン王国はオランダ側の管理下に置かれ、スルタンは単なる傀
儡に過ぎなくなった。 《マカッサル王国》 1673
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 東南アジア群島部でマレー半島、大小スンダ列島以外の地域で貿易上の重要な地点とし
てはカリマンタン北端のブルネイ、スラウェシ島南西のマカッサル、それにマルク諸島が
あった。 スラウェシ島は図 13-58 のように、K のような変わった形をしている。この地域では稲作
が行われ、各地に小王国が分立していた。1530 年頃からマカッサル族がゴワ(現在のウジ
ュン・パンダン)を中心としてマカッサル国家を形成した。マカッサル族はイスラムに改
宗するようになった。 17 世紀に入ると、ポルトガル人のほかにイギリス、デンマーク両東インド会社、それに
フランスもオランダ東インド会社に対抗してゴワに進出した。1641 年にオランダ東インド
会社がマラッカを占領すると、マラッカに住むポルトガル人の多くがゴワに移動し、ここ
を基地として活動するようになった。 オランダ東インド会社はマカッサル族に敗れたブギス族の指導者アルン・パラッカと同
盟を結んでゴワを攻撃し、激しい戦闘の後にゴワ王国を撃破し、要塞を占領し、すべての
ヨーロッパ人、マレー人をゴワから追放した。オランダ東インド会社が擁立したアルン・
パラッカは 1696 年に死去するまで、独裁者としてこの地域に君臨した。 《マルク諸島》 図 13-58 のように、現在のインドネシアとニューギニア島の間のバンダ海には 1000 以上
の島々があり、香料諸島として知られているモルッカ諸島(マルク島)などもそこに含ま
れている。山がちであり、いくつかの活火山がある。気候は湿潤で農業は小規模で行われ
ているが、米、サゴヤシの他、ナツメグ、クローブなどの香辛料など価値の高い農産物を
生産している。中央マルクの中心は、バンダ諸島を含むアンボン島のアンボンである。 バンダ諸島はナツメグの原産地で、日本語では「にくずく」といっている。にくずくは
ニクズク科の常緑の高い木で高さ 10 メートルに成長する(図 13-59 参照)。梅の実ほどの
大きさの果実をつける。その種子がナツメグで、その種子をおおう紅色の外皮を乾燥させ
たものがメースで、いずれも香辛料として用いられる。 クローブは日本語で丁字といい、フトモモ科の熱帯常緑の高い木で、高さ数メートルに
成長し、この木に咲く花のつぼみを乾燥したものを丁香と呼び、古来より香料や生薬に利
用していた。 胡椒はコショウ科コショウ属のつる性の植物で生長すると 7~8 メートルになり、果実を
乾燥させ、香辛料として用いる。果実はひと房に 50~60 個で 7~8 年で最盛期を迎え、以
降 15~20 年間収穫できる。 1674
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 図 13-59 香辛料植物 モルッカ諸島の島々で王国が形成されるようになったのはほぼ 1460 年頃からで、それは
ジャワのイスラム港市国家からイスラム教徒商人によって伝えられたイスラム・ジャワ文
化の影響によるものであった。テルナテ、ティドレなど 5 つの島々に王国ができたが、そ
のなかでも丁字の生産量がもっとも多いテルナテ島のテルナテ王国が最も有力で、隣のテ
ィドレ王国と対立していた。 オランダ東インド会社は 1605 年にアンボンを占領し、ここに要塞を建設し、テルナテ島
にも進出した。ポルトガル、スペイン、イギリスも進出したが、オランダ東インド会社が
この地域で唯一のヨーロッパ勢力となった。 オランダ東インド会社は利益を上げるために丁字の生産を制限し、監視のための艦隊を
巡航させて、その制限を越える丁字の木を切り倒させた。こうして物資の輸入をオランダ
に制限されたテルナテ、ティドレ両王国はしだいにその勢力を失うことになった。 【⑧フィリピン群島部】 《先スペイン期》 スペイン人来航直前の頃のフィリピンは、中国や東南アジアとの交易で栄え、イスラム
教が広まったが、7,000 を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域では統一した
国家は形成されていなかった。 16 世紀後半のフィリピン諸島の人口は、75 万人から 100 万人程度と推測されている。16
世紀当時、人々の多くは、海岸や湖の周囲、そして河川の流域に小さな集団をなして居住
していた。この居住集団は、一般にバランガイと呼ばれた。もともと「小舟」を意味する
この語は、転じて一隻の小舟にのって移住してきた人々の集団をさす言葉となった。 1675
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) バランガイは通常 30 戸から 100 戸程度の家族で構成されていた。人々は基本的に焼畑耕
作を営んでいたが、水上交通を通じて、ほかのコミュニティとの交流や交易も行われてい
た。 バランガイには、統率者のダトとその家族、自由民、そして隷属民が存在した。ダトの
主要な役割は戦争を指揮し、構成員を敵から守り、また係争を解決することであった。ダ
トの地位は世襲される傾向にあったが、彼は政治的な支配者ではなく、バランガイをとり
まとめる同等者中の第 1 人者にすぎなかった。隷属民は、債務によるものと、戦争捕虜や
略奪によるものがあった。彼らは、債権者や主人の要求に対し労働力を提供せねばならな
かった。 15 世紀以降、フィリピン諸島と周辺のカリマンタン、マルク諸島、ジャワ、スマトラ、
マラッカ、中国南部との交流は以前に増して活発なものとなっていた。海上交通の要衝の
マニラやスルー諸島のホロ島(図 13-58 参照)は、貿易港として発展をとげ始めた。中国
側の記録によれば、すでに 15 世紀初めにスルーが明朝に入貢していた。マラッカとのあい
だを中継したブルネイにより、スルーには 15 世紀後半スルタン王国が成立し、マラッカに
も前述のようにイスラム王国が誕生していた。そして 16 世紀にはミンダナオ島のダトのあ
いだにもイスラムが広まりつつあった。 《スルー王国》 1450 年代、マレー半島のマラッカ王国・ジョホール生まれのアラブ人、シャリフル・ハ
セム・シェド・アブ・バクルがスルー諸島に到来した。彼は 1457 年にスルーに王国(図 13
-58 参照)を築き、スルタンに就任した。 ホロ島の都市ホロを都とするスルー王国は、アラビア語を公用語としたほか、マレー語
や現地のタウスグ語・バンギギ語・バジャウ語などを使い、中国と東南アジア・西アジア
を結ぶ海上交易の一端を担って栄え、最盛期にはスルー海の島の多くを支配した。とくに
中国には朝貢使節を送った。東はミンダナオ島の西部(サンボアンガ半島)、南はボルネオ
島北部(現在のマレーシアのサバ州)、北はパラワン島までその支配は及んだ。スルー諸島
やミンダナオ島西部といったかつての支配地域は、現在もムスリムの多く住む地域になっ
ている。 16 世紀後半にスペイン人がフィリピンに来航しセブやマニラを征服したが、スルー王国
はスペイン勢力と戦い独立を維持した。スペインは長年、スルー諸島からミンダナオ島に
至る「モロ人」
(フィリピン諸島のムスリム)の地に対する領有権を主張したが実効支配す
ることはできなかった。各地に割拠するムスリムの領主たちの力が強く、スペインによる
征服や改宗の試みは失敗し続けたため、スペインは海岸部の都市や要塞を確保するにとど
まった。 1676
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《マギンダナオ王国》 16 世紀、マレー半島南端のジョホールの人物であったシャリーフ・ムハンマド・カブン
スワンはフィリピン諸島南部に来航してイスラム教を宣教した。彼は地元のマギンダナオ
人の姫と結婚し、マギンダナオにスルタン国であるマギンダナオ王国(図 13-58 参照)を
確立した。マラウィを首都としたスルタン国はコタバト・バレーに拠点を持ち、その農業
力を背景に繁栄した。アラビア語を公用語として使用したほか、交易用語であるマレー語、
地元の言語であるマギンダナオ語やマラナオ語などを使用した。 スルタン・クダラットの時期(在位:1619~1671 年)、マギンダナオ王国はミンダナオ島
の北部、および周囲の諸島やヴィサヤ諸島の一部までを征服し、ミンダナオ島全域および
周囲の諸島を支配する最盛期を実現した。クダラットはミンダナオを征服しようとしたス
ペインの軍を破り、スペイン人およびオランダ人と交渉してミンダナオにおけるマギンダ
ナオの主権を認めさせた。 1645 年には時のフィリピン総督アロンソ・ファハルドと講和条約を交わし、マギンダナ
オ王国内のキリスト教徒に対する聖職者派遣や教会建立、スペイン植民地とスルタン領の
間の貿易などを認めた。スペイン人に負けなかったクダラットは、現在ではフィリピン史
の英雄のひとりとみなされている。 しかしながら王国はミンダナオ島を植民地化しようとするスペイン人の勢力に押され、
やがてコタバト周辺に細々と存続するまでになり、19 世紀後半にはスペイン領フィリピン
の一部となった。 《スペインのフィリピン進出》 1521 年、フィリピンのセブ島(図 13-60 参照)にマゼランがヨーロッパ人として初めて
到達した。マゼランはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死した。彼の
部下はインド洋を渡ってヨーロッパに帰還し、はじめて世界一周に成功した。 1543 年にはルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがスペインの艦隊を率いてメキシコから太
平洋を横断し、これらの島々に到達し、当時のスペイン皇太子フェリペを称え、フェリペ
ナスと名付け、これがフィリピンという名前の由来となったのである。この時、彼はイン
ド周りで航海するポルトガル人によって、これらの島々が先に征服されようとしているこ
とを知った。 1565 年にはスペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲ
ル・ロペス・デ・レガスピがセブ島に到達し領有を宣言した。この時、同行したアンドレ
ス・デ・ウルダネータが翌年メキシコに帰航する際に,フィリピン群島から日本海近海ま
で北上し、偏西風を利用してメキシコにもどる航路を発見した。これによってメキシコと
1677
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) フィリピンの間を定期的に往復することができるようになり、スペインのフィリピン支配
が可能になった。 図 13-60 フィリピン諸島 レガスピはセブ、パナイに都市を建設したのち、1569 年末、300 人のスペイン兵、騎兵、
数名の現地人の兵士たちがレガスピの配下のマルティン・デ・ゴイティに率いられセブ島
を出発し、フィリピン中部、ヴィサヤ諸島北部の探検を開始し、1570 年 5 月にマニラに到
達しマニラ湾に入った(図 13-60 参照)。彼らは中国や東南アジアと交易するマニラ港の
規模や豊かさをその目で見て圧倒された。5 月 24 日、スペイン人たちと現地人たちの間に
争いが起こった。 これを契機に、スペイン兵たちはマニラ近郊のトンドにあったムスリム居住区とマニラ
の街に進軍し戦闘を開始した。重武装のスペイン兵はマニラの兵を破り一帯を制圧した。
こうして、マニラはスペインによって征服された。 ロペス・デ・レガスピはマニラで地元のムスリム共同体の評議会、ラジャ・スリマン、
マタンダ、ラカンデュラら、有力者たちと平和条約を結んだ。両者は、2 人の市長、12 人
1678
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の評議員と 1 人の書記からなるマニラ市評議会を形成することで合意した。ロペス・デ・
レガスピは 1571 年 7 月 24 日、ついに恒久的な入植地をマニラに成立させた。そして城壁
都市イントラムロスの建設も指示した。彼はこの街がフィリピン諸島の首都であり、西太
平洋におけるスペイン政府の恒久的な領土になったと宣言した。 フィリピン群島ではすでにミンダナオにはジャワからイスラムが伝わっていたが、それ
以外にはまだイスラムの影響が及んでおらず、キリスト教の布教に絶好の条件をそなえて
いた。聖アウグスチノ修道会およびフランシスコ会の宣教師の助力により、彼はフィリピ
ン諸島に政府を樹立した。 彼は最初のフィリピン総督になり、現地人をローマ・カトリックに改宗させていった。
彼の支配に反抗する者たちは拷問され処刑されたが、彼らを支援した者たちは功績を称え
られ、メキシコやペルーのように、エンコミエンダ制(後述)によりエンコメンデロに任
命された。彼らは土地と現地人を委託され、現地人のキリスト教化や保護をする代わり、
彼らを労役のため徴発し税を取り立てる権利を得ることができた。 その後、徐々に植民地の範囲を広げ、1571 年にはマニラ市を含む諸島の大部分を征服し、
スペインの領土とした。ロペス・デ・レガスピの死までに、フィリピンを構成する 3 大地
域(ルソン島周辺・ヴィサヤ諸島・ミンダナオ島周辺)のうち、ミンダナオ島南部以外は
スペインの支配下に入っていた。 しかし南部への侵攻は 18 世紀と遅く西南ミンダナオ島、スルー諸島、南パラワン島では、
前述したマギンダナオ王国、スルー王国などのイスラム勢力の抵抗にあい、最後まで征服
できなかった。 《マニラ・ガレオンの貿易》 マニラ・ガレオンの貿易は、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ麾下のアンドレス・デ・ウ
ルダネータによって創始された。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン
製の大型帆船がたくさん建造されていた。16 世紀、ガレオン船は平均 1700~2000 トンで、
フィリピンの木材で建造され、1000 人の乗客を運ぶことができた。ほとんどの船はフィリ
ピンで建造された。 1 年ないし 2 年をかけて、太平洋を渡り、フィリピンのマニラとヌエバ・エスパーニャ(現
在のメキシコ)のアカプルコを行き来した。マニラ・ガレオンは香料諸島の香辛料、中国・
東南アジアの磁器、象牙、漆器、絹製品を南米に運んだ。中でも中国産の絹織物が多くの
割合を占めたため、アカプルコ行きの船は「絹船」と呼ばれることもあったという。 ヨーロッパでは中国製品が珍重されたが、中国は自給自足していたので、中国市場で求
められた唯一のものが、サカテカスとポトシで産出するアメリカの銀だった。銀はアカプ
1679
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ルコからマニラに運ばれ、マニラ行きの船を「銀船」と呼ぶこともあったという。新大陸
の銀のおよそ 3 分の 1 が、この航路で中国に運ばれたと考えられている。 日本が 1638 年に鎖国するまでは、日本との貿易もあった。積荷はアカプルコからメキシ
コを横断し、カリブ海に面した港ベラクルスまで陸送され、そこからスペイン財宝艦隊に
積み込まれスペインに至った。この航路では、インド洋を渡り喜望峰を回るという危険な
行程を避けることができた。喜望峰は当時、オランダ制海権下にあったのでスペインにと
って危険であった。 マニラはメキシコ・中国間の貿易の中継基地としての役割を果たすようになった。すぐ
に中国商人が進出し,中国人町を作った。貿易はマニラのスペイン人移民に職を与えた。
マニラ・アカプルコ・ガレオンは 250 年間(1565 年~1815 年)で合計 110 隻に達した。マ
ニラ・ガレオンは 1821 年のメキシコ独立で終焉を迎え、以後フィリピンはスペイン王の直
接統治領となった。 また、布教を目的とした宣教師が多く乗り込んでいたため、「ガレオン船は銀と宣教師
を運んでいる」ともたとえられた。マニラから太平洋を渡ってアカプルコに着くまで、4 ヶ
月を要した。マニラ・ガレオンはフィリピンとメキシコ副王領の首都メキシコシティとを
結ぶ連絡経路の中心だった。フィリピンのスペイン人の多くはメキシコの流れをくみ、ま
た実際フィリピンにおけるスペイン文化はメキシコのそれに近い。メキシコ独立後も、米
西戦争中を除いて、貿易は続けられた。マニラ・ガレオンは 3 世紀近くにわたり太平洋を
行き来し、財宝、利益、文化をスペインにもたらした。 《プランテーションの開発》 フィリピンはヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王領の一部となった植民地時代に、
布教を目的の一つとしていたスペイン人はフィリピンでローマ・カトリックの布教を進め
た。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産する
プランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多く
はその労働者となった。 支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さ
な局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。 独立運動が本格的になるのは、19 世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサール
の活躍によるところが大きい。 【⑨インド洋貿易圏と東南アジア貿易圏】 1498 年にポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマの船隊がインドのカリカットに到達してから、
ポルトガル人などヨーロッパ人が、進出してきて当時の諸国に関してかなり詳しい記録を
1680
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 残すようになった。それらによって当時の国際貿易活動も総合的に把握することができる
ようになった。 その状況は、図 13-61 のようになっており、西はアフリカ東海岸、アラビア半島、ペル
シア湾沿岸の地域から、東はモルッカ諸島に至るまでの地域、つまりアラビア海、ベンガ
ル湾、南シナ海、ジャワ海とそれを取り囲む地域が一つの大きな貿易圏を形成しているこ
とがわかる。これをインド洋貿易圏と呼ぶ。 図 13-61 インド洋貿易圏 中央公論社『世界の歴史13』 その中心はインドのグジャラート地方であって、この地域で生産される各種各様の綿織
物がこの貿易圏のすみずみまで流通していた。しかしそれだけではこの地域における綿織
物の需要を満たすことができなかったので、同じインドのベンガル地方とコロマンデル海
岸が二次的な綿織物の生産センターとして機能していた。 このインド洋貿易圏の西に接してアフリカ貿易圏があった。アフリカ貿易圏からインド
洋貿易圏に輸入される商品は金、象牙、奴隷が主であった。これに対してインド洋貿易圏
からアフリカ貿易圏に輸出されるのは綿織物が主であった。 また、インド洋貿易圏の西北には地中海貿易圏があった。地中海貿易圏からインド洋貿
易圏に輸入される商品は金、銀(貨幣、地金、金銀製品)、銅、鉄(銅、鉄材とさまざま
な製品)、武器を含むさまざまな工芸品、それに奴隷であった。これに対してインド洋貿
易圏から地中海貿易圏に輸出される主要な商品が香料、すなわち胡椒、肉桂(につけい)、
丁字、肉ズク、ズク花などであった。地中海貿易圏の商品の中で、インド洋貿易圏で需要
1681
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) のあるものは少なく、したがって地中海貿易圏はその需要を満たすだけの香料を輸入する
ことが出来ず、香料の価格が極めて高かった。 インド洋貿易圏の東北には中国を中心とする南シナ海・東シナ海貿易圏があった。この
貿易圏の主要な商品は中国産の生糸、絹織物、陶磁器、及びその他の工芸品であった。日
本もこの南シナ海・東シナ海貿易圏に含まれており、これらのものを得るために、金、銀、
銅などを中国に輸出していたのである。 図 13-61 のように、インド洋貿易圏と南シナ海・東シナ海貿易圏は東南アジア地域で重
なりあっている。南シナ海・東シナ海貿易圏、つまり中国からインド洋貿易圏への輸出品
としては生糸、絹織物、若干の金銀、銅銭あるいは錫、鉛などで作られた私鋳銭が重要で、
そのほかに銅材、鉄材、さまざまな銅製品、鉄製品、火薬の原料である硫黄と硝石、箱,
扇,針などの工芸品、薬種としての麝香(じゃこう)、樟脳、明礬(みょうばん)、大黄
(だいおう)などがあった。これに対してインド洋貿易圏から南シナ海・東シナ海貿易圏
への輸出品としては胡椒、丁字、肉ズク、ズク花などの香料のほかに、薬種、香、象牙、
錫、赤色の染料である蘇木などがあった。 インド洋貿易圏はさらにアラビア海・ベンガル湾貿易圏と東南アジア貿易圏の二つに分
かれる。16 世紀の初めにはこの二つの地域をつなぐ中継点がマラッカであった。もっとも
東南アジア貿易圏といっても、そこで流通して基本的な商品はグジャラート、ベンガル、
コロマンデル海岸で生産される綿織物であって,インド洋貿易圏の一部であることに変わ
りはなかった。 なお、こうした貿易に必要な船は、それを必要とする人々が木材の豊富なペグー(ビル
マ南部)やチレボン(ジャワ島西部)といったところに赴いて、そこで現地の住民を使役
して、木材の切り出しから始めて,建造していた。 東南アジア貿易圏内部の貿易はこのようにマラッカを起点としてきわめて効果的に組織
されたネットワークを通じて行われていた。具体的にどのようなやり方をとったかといえ
ば、資本はすべて米とか胡椒とかいう商品の形をとっており、寄港した港市でそれを売却
しては現地の貨幣を手に入れ、それを用いて必要な品物を購入している。つまり、港市に
おける取引は物々交換で行われるわけでなく、貨幣を媒介として行われるが,東南アジア
貿易圏全体で通用するような「国際通貨」というようなものはなかったのである。 そうした局地的な通貨としては,インドの各地から輸入された貨幣、中国から輸入され
た銅銭、あるいは錫、鉛などで作った私鋳銭などが使われたほかに、子安貝、あるいは金
属の破片なども用いられていた。こうした方法では、富を「蓄える」ということはできな
いし、少なくとも富を「保つ」ためには、たえず取引を続けることが必要であった。 1682
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 【13-7】近世の南北アメリカ 【13-7-1】南北アメリカの植民地時代 【①フランスの植民地】 ○カナダ植民地 イタリア人のジャック・カルティエ(1491~1557 年)は、フランス国王フランソワ 1 世
の命により、1534 年 4 月に 2 隻の船で図 13-62 のように、現在のニューファンドランド島
およびカナダの沿海部を調査し、セントローレンス湾を横断してプリンス・エドワード島
を発見した。ガスペ半島の東端に到達し、東端に高さ 30 フィート(約 9 メートル)の十字
架を立て、フランソワ 1 世のために一帯を「ヌーベル・フランス」と命名し、セントロー
レンス川の河口付近を探検した。 図 13-62 1697 年の北アメリカ 16 世紀半ば、この地はフランス領となった。1608 年フランスの探検家サミュエル・ド・
シャンプランがセントローレンス川中流域に永続的なケベック植民地(図 13-62 参照。現
在のケベック・シティ)を建設した。フランスの植民目的はインディアンとの毛皮交易の拠
点を作ることで、ルイ 13 世の宰相リシュリュー枢機卿は 1627 年、ヌーベル・フランス会
社を設立し、植民地経営を会社に委ね、同時にカトリック教徒以外の者が植民地に入植す
ることを禁止した。1642 年、ケベック・シティ初の市長が選出された。 1642 年にはモントリオール(図 13-62 参照)にも植民拠点が建設されたが、植民地経営は
なかなか発展せず、ルイ 14 世のもとで植民地再編の任に就いたコルベールはヌーベル・フ
1683
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ランス会社を廃止して、植民地を王領とし、総督と軍隊を送り込んだ。これによって入植
は拡大しヌーベル・フランスは 5 大湖周辺からミシシッピ川流域にまで拡大し、1671 年に
は、ルイジアナもヌーベル・フランスに含まれた。 1672 年にはルイ・ド・フロントナク伯爵が知事として赴任し、長年フランスと対立して
いたイロコイ族と和約した。1674 年ラヴァル司教がケベック植民地に赴任し、聖職者養成
のためにケベック・セミナリーを創設した。このセミナリーは北米最古の大学ラヴァル大
学に発展した。 ○ルイジアナ植民地 17 世紀後半には多くのフランス人がルイジアナを探検したが、1682 年、フランス人の探
検家ロベール・カブリエ・ド・ラ・サールによって、フランス国王ルイ 14 世に因んでルイ
ジアナと名づけられた。もともと、その領域は、東は、アパラチア山脈でイギリス領アメ
リカ植民地と境を接していた。西はグレートプレーンズとロッキー山脈の境界であったが、
そこから先はアメリカの先住民族が支配する「ワイルド・ウエスト」であった。南の境界
はメキシコ湾であり、植民地の港を提供していた。現在のアメリカ合衆国ルイジアナ州は、
このフランス領ルイジアナのほんの一部に過ぎない。 ラ・サールがこの地域を探検して、フランスが領有権を主張したものの、人も財源も不
足していたために大きな発展はしばらくの間なかった。 1701 年、フランス人アントワーヌ・ド・ラ・モトは 100 人の人々、半分は開拓者、半分
は兵士、それに 2 人の宣教師と共にモントリオールを出発し、現在のミシガン州デトロイ
トの地にポンシャルトラン砦を建設した。 1702 年、ジャン・バティスト・ル・モワン・ド・ビエンビーユ知事がルイジアナ植民地
の首都としてモービルを建設した。 1713 年のユトレヒト条約でスペイン継承戦争が終結し、ルイジアナはフランス領として
残ったが、アカディア(図 13-62 参照。北米東部大西洋岸のメイン州東部とカナダのノバ
スコシア州)と西インド諸島の植民地が幾つかイギリスへ譲渡された。 1718 年、ビエンビーユはニューオーリンズ市を建設し、建築家のアドリアン・ポージェ
がニューオーリンズのフレンチ・クオーターの都市計画図を作った。 18 世紀中に 7,000 人のヨーロッパ人がルイジアナに移民したと想定されているが、これ
は大西洋岸のイギリス植民地人の数の 100 分の 1 に過ぎなかった。フランス人植民者につ
いてみると、西インド諸島の方がルイジアナよりかなり多かった。 植民地人はフランスの港やパリで志願者を集めた若い男性であった。多くの者が年季契
約の奉公人であり、契約書で定められた年限をルイジアナに留まることが求められた。こ
の期間は「一時的な奴隷のようなもの」であった。植民地の人口を増やすために若いフラ
1684
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ンス女性が国王が手配した持参金を与えられ植民地に送られ、そこの兵士と結婚した。売
春婦、路上生活者、法を犯した者、あるいは家族のいない女性が「国王の親書」を持って
ルイジアナに行くことを強制された。とくにルイ 15 世治世初期の摂政時代はこれが甚だし
かった。 ○ロワー・ルイジアナのプランテーション経済 ロワー・ルイジアナの経済は、奴隷を所有し働かせるプランテーションだった。プラン
テーションの所有者はニューオーリンズ市内に居を構え、農場の監督は会計係りの者に任
せていた。穀物は気候や地形に合わせて栽培された。生産物の一部はルイジアナで使われ
たが(トウモロコシ、野菜、米、家畜)、残りはフランスへ輸出された(タバコやインディ
ゴ)。 ○先住民と黒人奴隷 人口統計学者のラッセル・ソーントンによれば、1500 年頃の北アメリカの先住民族人口
は約 700 万人であった。16 世紀以降、この人口が急減した。主にヨーロッパから持ち込ま
れた疫病によるものであり、インディアンは免疫力がなかった。17 世紀の末に、ロワー・
ルイジアナに住むインディアンは 10 万人から 20 万人程度に過ぎなくなったと推測されて
いる。 1717 年、フランスの財務大臣ジョン・ローはルイジアナに黒人奴隷を輸入することを決
めた。その目的はロワー・ルイジアナのプランテーション経済を発展させることであった。 1719 年から 1743 年にかけて、およそ 6,000 人の奴隷がアフリカから輸入された。これら奴
隷の一部はイリノイに送られ農場の耕作や鉱山労働に使われた。ロワー・ルイジアナの経
済は結果的に奴隷に頼るものとなった。 他のフランス植民地と同様に、奴隷の条件は「奴隷法」によって規定された。奴隷の住
まいは質素で、単純な藁(わら)布団で眠った。多くの者はいくつかのトランクと台所用
品を持っていた。奴隷の条件は主人から受ける待遇によって変わった。主人が残酷な場合、
しばしば逃亡し沼地かニューオーリンズの市内に隠れた。一方で、カリブ海地方で見られ
た奴隷の反乱はあまりなかった。自由になれる確率が低く、また自由を買うこともできな
かった。 ○ルイジアナは結局、アメリカ合衆国へ 1763 年 2 月に調印された七年戦争の講和のパリ条約では、フランスの北アメリカからの
撤退が決まった。次に述べるように、カナダとミシシッピ川の東の領土はイギリスに譲渡
された。ニューオーリンズとミシシッピ川の西の領土はスペインに渡された。この決定に
よって植民地を離れたフランス人開拓者もいた。しかし、スペインが新しい領土に本格的
に進出したのが遅かったので(1766 年)、スペイン人の移民はそれ程多くはならなかった。 1685
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1800 年 10 月に調印されたサン・イルデフォンソ条約では、パルマ侯爵領と引き替えにス
ペインがフランスに西部ルイジアナとニューオーリンズを戻すことになった。 しかし、ナポレオン・ボナパルトは直ぐにこの広大な領土(スペイン領ルイジアナ)を
手放すことにした。植民地の占領のためにナポレオンが送った軍隊はまず、サン・ドマン
グ(今日のハイチ)の反乱を鎮圧することに使われた。サン・ドマングで失敗し、イギリ
スとのアミアンの和約締結にも失敗したナポレオンは、新興のアメリカ合衆国にルイジア
ナを譲渡する決心を早めることになった。1803 年、このルイジアナは 8000 万フラン(1500
万ドル)でアメリカに売却され、アメリカの主権は 1803 年 2 月に確立された。 アメリカとイギリスの間の国境を定めるために結ばれた 1818 年の条約で、北緯 49 度線
より北にあった部分をイギリス領カナダに編入し、今日ではアルバータ州とサスカチュワ
ン州の一部となっている。以上のような経過でフランス領ルイジアナの大部分は結局、ア
メリカ合衆国の中央部を構成することになった。 【②イギリスのカナダ植民地】 ジョン・カボット(1450~1498 年)は、1496 年に国王ヘンリ 7 世の特許状を受けて、ブ
リストルを出航したものの失敗し、翌年、息子のセバスチャン・カボットを伴って再び船
団を率い、ヴァイキングの航路をたどってカナダ東南岸のケープ・ブレトン島に到達し、
ニューファンドランド島やラブラドル半島を発見するなどの成果を挙げて帰国した(図
13-62 参照)。 ジョン・カボットは、1498 年にも探検隊を組織し、グリーンランド東西沿岸の調査航海
を行ったものの船員の叛乱によって南下を余儀なくされ、その途上で没した。息子のセバ
スチャン・カボットはその遺志を継ぎ、1508 年には北アメリカの東海岸を探検した。そこ
では後のハドソン湾、ハドソン海峡を発見し、図 13-62 のように、南北をなぞるようにフ
ロリダまで達した。これによって、イギリスがフロリダ以北の北米大陸の所有権を主張す
る根拠となった。 ヨーロッパでの戦争と連動して、アメリカ植民地でも戦争が起きた。 1688 年、名誉革命によってイギリス王となったウィリアム 3 世もアウクスブルク同盟側
にたってフランスと戦端を開いた(アウクスブルク同盟戦争)。このため、北アメリカでも
英領アメリカと仏領カナダが戦端を交えたが(イギリスでは、ウィリアム王戦争という)、
決定的な結果を得ることができず、1697 年のレイスウェイク条約によって鉾をおさめた。
条約締結によってフランスはアメリカ植民地についてはサン・ドマング(カリブ海のイス
パニョーラ島の西 3 分の 1。現在のハイチ)を獲得し、カナダのノヴァスコシア(現在のノ
ヴァスコシア州)を回復した。 1686
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ヨーロッパのスペイン継承戦争に呼応して開始された北米植民地戦争(1702 年~1713 年。
イギリスではアン女王戦争という)で、イギリス軍は仏領アカディア(図 13-62 参照。現
在の米・メイン州とカナダ・ノバスコシア州)のポートロワイヤルを占領し、1713 年のユ
トレヒト条約によってカナダ東部のニューファンドランド島とハドソン湾地域を獲得した。 ヨーロッパのオーストリア継承戦争に呼応して始まった北米植民地戦争(1744 年~1748
年。イギリスではジョージ王戦争という)で、イギリスのニューイングランド植民地軍は
フランスのカナダ東部の要衝ルイズバーグ要塞を陥落させたが、アーヘン条約(エ・ラ・
シャペル条約)によって要塞をフランス側に返還した。 この一連の抗争の最後となる七年戦争(1756~63 年)が勃発するとニューイングランド
のイギリス軍はケベックを襲撃し、1759 年英仏両軍はアブラハム平原で激突したが、フラ
ンス軍の大敗に終わり、イギリス軍はケベック・シティやモントリオールを占領した。こ
の七年戦争は、植民地ではフレンチ・インディアン戦争といわれたが、1763 年のパリ条約
でフランスはカナダ(ヌーベル・フランス)とミシシッピ川以東の領土をイギリスに割譲
し(図 13-62 参照)、サンピエール島とミクロン島及びニューファンドランド島沖の漁業
権のみがフランスに残された。 これらの一連の北アメリカ植民地における戦争によって、現在のカナダの地はすべてイ
ギリスのものとなった。これ以後、イギリスはカナダ植民地と称するようになった。しか
し、皮肉にもこのイギリスの圧倒的勝利は、10 数年後にはニューイングランド植民地の喪
失(アメリカ合衆国の独立)を招いた。 ○ケベック法とケベック州 新たにイギリスの支配下に入ったフランス系住民は約 6 万 5000 人に達し、すべてカトリ
ックであった。新教国・イギリスはこれら新住民をイギリス国教会(アングリカン)に改
宗させることもできたが、イギリス議会はより穏健な政策を取り、1774 年ケベック法を制
定して、フランス民法典とカトリック教会の存続を容認した。イギリスはフランス系カナ
ダ人の究極的同化を望みながらも、1774 年段階ではその強行は非現実的と判断したのであ
る。これは今日までケベック州にフランス色が残る決定的な役割を果たした。 なお、図 13-62 のハドソン湾会社は、イングランド王チャールズ 2 世から勅許されたも
ので、ハドソン湾及びハドソン湾に注ぐすべての河川の流域を含む 390 万平方キロメート
ルの広大な土地(現在のカナダの 3 分の 1 にあたる)に対する独占権を得たが、1821 年に
はモントリオールを拠点とした北西会社とハドソン湾会社は合併し、この土地はさらに北
極海及び北太平洋まで拡張された。 しかし、1870 年、独占交易権は撤廃され、この土地は起業家に公開された。ハドソン湾
会社はこの土地をカナダ政府に譲渡し、ノースウェスト準州となった。準州はその後、マ
1687
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ニトバ州ほか多くの州が創設され分割されたり、ケベック州など周辺の州に領域を削られ
たりして、現在の領域になっている。 ○アメリカ独立戦争後のカナダ 1775 年、アメリカ独立戦争が勃発し、アメリカ大陸議会がカナダ住民に革命への参加を
呼びかけてきたが、フランス系住民は応じなかった(本国フランスはアメリカ革命軍を支
援していたにもかかわらずである)。この年、モンゴメリー将軍率いるアメリカ革命軍はモ
ントリオールを占領し、ケベック市に迫ったが撃退された。 1783 年、アメリカ独立戦争が終結し、パリ条約によって、イギリスがアメリカの独立を
承認し、ミシシッピ川より東をアメリカ領とした(図 13-63 参照)。アメリカの王党派は
国内に残ることを嫌い、カナダのノバスコシアやケベック東部に大挙して移住してきた。 図 13-63 アメリカ独立戦争(1775~83 年) 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 ノバスコシアに移住したアメリカ人は 3 万 5000 人と見られ、新たにニューブラウンズウ
ィック植民地が設置された。またオンタリオ湖西方のセントローレンス川上流部に移住し
た者は約 5,000 人で、カナダの人口が増えたため、イギリス議会はアッパー・カナダ(上
カナダ・現在のオンタリオ州)とローアー・カナダ(下カナダ・現在のケベック州)に分離
する措置を取った。 1688
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1793 年にはアレキサンダー・マッケンジーがロッキー山脈を越えてフレーザー川流域に
達する大陸横断に成功し、イギリス領カナダの領域は西方にも拡大していった。1812 年の
米英戦争が勃発するとカナダは再びアメリカ軍の占領の脅威を受けたが、上カナダにおけ
るアメリカ軍の侵攻は撃退された。 ○イギリスの 13 州植民地 《インディアンの世界》 ヨーロッパ人が訪れた 16,17 世紀には、南北アメリカ大陸に居住するインディアン(ネ
イティヴ・アメリカン)が合わせて 1500 万人、現在の合衆国の領土内にも 100 万人以上が
住んでいたと推定されている。 1815 年までの時期にヨーロッパからの入植者と接触したおもな部族を図 13-64 に示す。
北のセントローレンス川からニューヨーク北部や 5 大湖沿岸にわたる地域にはイロクォイ
族連邦が存在した。このイロクォイというのはワイアンドット族の言葉で「黒い蛇」とい
うのであるが、6 つの部族が連邦を形成して、初期の国家形態までになっていたと考えられ
ている。1794 年の独立直後のアメリカ合衆国と平和友好条約を結んで、現存している(日
本は国家として承認していない)。 図 13-64 東部におけるおもなインディアン部族 アメリカ・インディアンと言っても、言葉や生活様式も違い、狩猟を主たる生活手段と
するものから農耕にも携わるものまで様々であった。 ただ、インディアンの宗教は多神教であることに共通性があった。農耕を行う部族では、
大地を母なるものと崇拝し、トウモロコシやカボチャなどの農作物はその母なる大地が生
み出すものと考えられていた。とくに女性は超自然的な力と地上を仲介する能力を持つも
1689
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) のとみなされ、植え付けや刈り入れの季節に行われる祭りでは、祭司の役割を務めた。 インディアンの土地所有の考えも、ヨーロッパ人ときわめて異なっていた。インディア
ンにとって土地は住む人すべての共有財産であり、売買で所有する権利が誰かの独占にな
ることなどありえなかった。譲り渡されるのは単に土地を使用する権利であり、先祖代々
狩猟を行ってきた地域は居住していなくても使用権が認められるのが当然だった。 《ヨーロッパ人のアメリカ進出》 イギリス人ジョン・カボットが北アメリカ大陸の東海岸を探検しイギリスが領有(ニュ
ーイングランド植民地)、フランス人ジャック・カルティエがセントローレンス川をさかの
ぼってフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、ヨーロッパ人による南北アメリカ大
陸の探検と開拓がはじまったことは述べた。 アメリカ合衆国地域は当初から多民族国家となる運命をたどるような多民族による植民
活動が行われた。主となる民族はイギリス人とフランス人だが、ヴァージニアやカロライ
ナにはイギリス人(ヴァージニア、ニューイングランド)が、ルイジアナにはフランス人
が(フレンチルイジアナ)、ニューヨークやニュージャージーにはオランダ人(ニューネー
デルラント)が、デラウェアにはスウェーデン人(ニュースウェーデン)が、フロリダに
はスペイン人(ヌエバ・エスパーニャ)が、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の
範囲に植民地を築いた。アメリカ東部には、すでに 17 世紀半ばに現在のアメリカ文化に繋
がる欧米文化が移植されていた。 宗教的にも、当初の移民はカトリックであったが、16 世紀にヨーロッパでプロテスタン
ト(新教徒)の出現と宗教改革、続いて宗教戦争が起こると、ピューリタン(清教徒)に
よる 1620 年の移民(メイフラワー号)をきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次い
で入植し、先発のカトリックや先住民と敵対しながら勢力を伸ばした。 ヨーロッパ人は植民地で砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどの農作物を農園で作り出し
たが、労働者の不足に悩まされた。ヨーロッパ人はこれと同じ時期にアフリカ大陸の大西
洋沿岸にも進出し、現地のアフリカ人有力者に住民の徴発を命じて、それを買い取り、南
北アメリカ大陸に輸出した(奴隷貿易)。それと交換に進んだ火器や、当時進出していたイ
ンド産の木綿をアフリカ人有力者に売った。 ただ、当初は植民地時代の奴隷需要はカリブ海地域および中南米が圧倒的であり、北米
への奴隷輸出は多くはなかった。奴隷制度によって維持されるアメリカ南部の広大なプラ
ンテーション農業が盛んになったのは、アメリカ合衆国が独立して 19 世紀に入ってからで
あった。 ○イギリス人の 13 植民地 イギリスの場合、北アメリカへの進出もスペインに比べてかなり遅かった。1607 年のヴ
1690
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ァージニアのジェームズタウン植民地をはじめ、国王の特許状による植民地もつぎつぎに
建設された。一方、1620 年、ピルグリム・ファーザーズとよばれるピューリタンの一団が、
信仰の自由を求めてプリマスに上陸し、ニューイングランド建設の基礎をつくった。こう
して、18 世紀前半までに、図 13-63 のように、北アメリカ東岸一帯にイギリス領の 13 植
民地が成立した。 しかし、イギリスの植民地はほかの国の植民地と違って、定住の農業社会を作り上げた
点に大きな特徴があった。また、それゆえに、単なる毛皮貿易の段階であれば、先住民で
あるインディアンとの商取引による共栄共存がはかれたと考えられるが、農耕になると、
インディアンとの間で土地の奪い合いが始まり、深刻な「文明の衝突」を引き起こさずに
はいられなかったのである。 イギリスからの入植者はニューイングランド植民地を建設したが、カナダに植民したフ
ランスとの対立が生じ、17 世紀から 18 世紀にかけてヨーロッパで起きた戦争に連動して 一連の北米植民地戦争が続いたことは述べた。この戦争中にイギリスは次々とフランス・
スペインの植民地を獲得、また南部に広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得た。こう
してイギリスは北米大陸の大西洋沿岸(13 州地域)をほぼ全て手中に収めた。 北米東海岸を一手に握ったイギリスは、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大
した。この段階で 13 州の植民地を建設し、州によっては白人の人口が先住民を上回る地域
が生まれた。 18 世紀にはいると、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造、造船、運輸な
どの産業が発達し、イギリス本国の経済を圧迫するようになった。元々、新教徒が多数派
を占める植民地とイギリス国教会の本国は軋轢(あつれき)があったが、この頃には精神
的に本国と分離しており、経済的にも自立できる力を持ち始めていた。 13 州の最後の州となるジョージア植民地が建設されたのは、1733 年のことであった。こ
のジョージア植民地の設立により、13 の植民地がそろうことになったが、そのころには植
民地の人口は 200 万人に達していたといわれている。 一般に、北部は、政治や信仰の自由を求めてやってきたピューリタンが建設したところ
が多く、農業のほか商工業や漁業に進出するものが多かった。南部は特許会社や貴族が設
立した植民地が多く、奴隷労働によるプランテーションが営まれた。いずれも植民地議会
をもち、自治的な政治体制を発展させた。 ○イギリス本国の植民地政策 イギリス本国の植民地政策は、13 植民地に対して本国製品の販売市場および原料供給地
とする重商主義政策をとった。本国経済をおびやかす産業の発展や自由な貿易はおさえら
れた。たとえばイギリス本国は、つぎのような法令によって植民地経済を圧迫した。 1691
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 羊毛品法(1699 年)……植民地の羊毛製品の輸出を抑圧した。 糖蜜法(1733 年)……ラム酒の原料である砂糖や糖蜜の輸入を抑えた。 鉄法(1750 年)……植民地の製鉄業を禁止した。 また、航海法により、植民地人の貿易は、イギリス船か植民地人自身の船によらなけれ
ばならなくなった。これは一方でアメリカの造船業を発達させたが、他方では植民地人の
自由な貿易が抑えられた。このような制限に対して、植民地の商工業者は密貿易によって
三角貿易を行うこともあった。 しかし、イギリス本国は、政治的には、本国の経済発展に役立つかぎり放任の態度をと
り、自治を認めた。 ○北アメリカ植民地の三角貿易 18 世紀、イギリスの航海法のもとで、北アメリカ植民地では、図 13-65 のような貿易が
行われた。1 つは北アメリカ植民地つまり新大陸・西インド諸島・イギリスとの間の三角貿
易、つまり、新大陸の木材・肉→西インド諸島の果実・砂糖→イギリスの工業製品→新大
陸であった。もう 1 つは、新大陸・西インド諸島・アフリカの間の三角貿易、つまり、新
大陸のラム酒→アフリカの奴隷→西インド諸島の砂糖・糖蜜・奴隷→新大陸であった。 図 13-65 北アメリカ植民地の三角貿易 いずれにしても黒人奴隷が新大陸に入り、アメリカ南部のプランテーションの発達とと
もに増大し、不可欠の労働力として使われた。 1619 年にヴァージニアにはじめて黒人奴隷が輸入され、同じ年に最初の植民地議会がヴ
ァージニアに設置された。この事実はアメリカの民主主義を考えるうえで忘れてはならな
い(奴隷貿易については後述)。 ○西部開拓 1692
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 植民地建設の過程でインディアンの土地を侵略していったのはすでにみたが、18 世紀の
中盤になると、植民地人は不動産会社を設立し、大規模な西部開発に乗り出した。その最
初のものが、1747 年にヴァージニアの農園経営者が創設した西部の土地への投機を目的と
したオハイオ会社であった。その後 1753 年にはサスケハナ不動産会社が設立され、ジョー
ジ・ワシントンも参加したミシシッピ会社などが相次いで設立された。 北アメリカ植民地は、図 13-63 のように、西へ西へ膨張して行ったが、それにともない
植民地内部に発展段階の違う地域を作り出していった。それらは 4 つの段階があった。 第 1 は、人口の集まった海港の都市であった。ボストン、ニューヨーク、フィラデルフ
ィアはその代表的な例だった。第 2 は、市場向け商品作物の生産地域、第 3 は、自給自足
の農業地域、第 4 は開拓途上のフロンティア地域であった。第 2 以下は、人口が多くても
1000 人に満たない小規模な社会からなり、時間が経つにつれて第 4 から第 3、そして第 2
へと移ることが繰り返されいていったのである。 ○南部奴隷社会の形成 北アメリカ植民地の発展をはかるためには、労働力が必要であった。初期の段階では、
イギリスやヨーロッパ諸国から下層の民衆が年季奉公人として送り込まれたが、その数は
1580 年から 1775 年までの 200 年足らずの期間に 35 万人に及んだと推定され、同じ時期の
白人の移民のおよそ半分に当たっていた。1670 年代以降はその年季奉公人に加えて、しだ
いに黒人奴隷の導入が促進されていった。 北アメリカ植民地の商人も奴隷貿易に参入した。とくに盛んになったロードアイランド
のニューポートでは、商人がラム酒をアフリカに運んで奴隷を買い、その奴隷を西インド
諸島に連れていって売り飛ばし、そこで買い求めた糖密を持ち帰ってラム酒を製造すると
いう、大西洋を股にかけた三角貿易を展開した(図 13-65 参照)。アフリカから南北アメリ
カ大陸まで奴隷を運ぶ航海は、奴隷船の航行中の衛生状態が悪く、伝染病に感染すること
も多くて、15%前後が目的地にたどり着く前に死亡するのが普通だった。1676 年から 1780
年までの約 100 年間に輸入された奴隷の数は、約 25 万 7000 人にものぼると見積もられて
いる。 タバコの栽培がしだいに大きなプランテーションによって行われるようになったヴァー
ジニアでは 1675 年ころまでに、200 から 300 の家族の農園経営者層が形成され始めた。こ
れらの農園経営者層は出身もロンドンのイギリス政界や商人層の資産家の次男以下で、ヴ
ァージニア会社の株式や相続権や土地の請求権をもっていた。つまり、イギリスのジェン
トリ(郷紳)層をそのままアメリカ植民地に移植した形になっていた。 これらの農園経営者の下で働く労働力の主体は、17 世紀のプランテーションでは年季奉
公人であった。そのうち、年季奉公人が確保しにくくなった。年季奉公人がペンシルベニ
1693
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) アやカロライナなどチャンスのある他の植民地に入植する機会が開けたからである。 また、最初は黒人奴隷の購入価格は年季奉公人の 2,3 倍も高く、平均寿命が短いことか
ら投資に見合わないと考えられていたが、そのうち、平均寿命が延びてこの点が改善され
ると、女性や子供も働かせられるのでむしろ効率がよいとみなされるようになり、採算に
合うようになっていった。 ○奴隷法による黒人奴隷の境遇悪化 黒人奴隷が採算にあうとみられるようになった転換点として、1676 年にヴァージニアで
起きた植民地時代最大の反乱、ベイコンの反乱であったと考えられている。 ことの起こりは、ヴァージニアの西部地域でサスケハノック族と、民兵を動員した植民
地軍とが戦闘に入ったことであった。それが 76 年にはインディアン政策をめぐる総督のウ
ィリアム・バークリーと西部地域の農園経営者のナサニエル・ベイコンとの対立に発展し、
ベイコンがバークリーを破って、バークリーは逃亡してしまった。ベイコンは人民宣言を
発してヴァージニアの支配層を糾弾する一方、年季奉公人や黒人奴隷を解放して勢力を拡
大し、ジェイムズタウンを攻撃して焼き打ちするに至った。しかし、バークリーの総督派
の軍隊もしだいに形成を逆転し、ベイコンが病死すると反乱軍も降伏した。 反乱を起こしたのは、奴隷、奉公人、および貧しい農夫(その多くが元は年季奉公人で
あった)が大半だった。 反乱前のヴァージニアでは、アフリカ人奴隷はまれであった。また多くのアフリカ人は
年季奉公として連れて来られ、年季が明けたあとは自由の身になった。ところが、反乱の
あとでは、新しい法律・奴隷法が制定されて(法律によって奴隷の境遇が下げられて)、奴
隷は終生のものとなり、その子供にも及ぶようになった。それまで黒人奴隷も年季奉公人
も扱いが同じであったが、反乱のあとでは、アフリカ人を最下層とする人種に基づく階級
性が作られ、ヨーロッパからの最貧の年季奉公者でもその上の階級となった。 こうして 1680 年代以降黒人奴隷の輸入が増加していった。またそれと歩調を合わすかの
ように、イギリス人が自らを「白人」と言い表すようになった。その後黒人に対する人種
偏見を深めながら、1705 年に「奉公人・奴隷法」が制定されて集大成されるまで、一連の
奴隷法が相次いで立法されていったのである。 つまり、黒人が存在することによって(白人の最下層の下に黒人を置いた)、白人の間に
貧富を問わず、「われら白人」であるという一体感が生まれ、貧富は大きくても、かえって
安定した秩序がもたらされるようになった。その後、農園経営者と小農民との人間関係も
打ちとけて気安いものとなった。 人類が古くからやってきた人間の階層化(階層間の反目を生み出させることによって最
上層の支配者階級は統治しやすくなる)という新しい社会システムを自由の国であったは
1694
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ずのアメリカも導入したのである。このように人類は歴史の流れに逆行して自分たち支配
者階級に都合のよい社会システムをつくっていくものである。 【③スペイン植民地】 コロンブスの新大陸発見は、スペイン王との契約によって行なわれたので、南北アメリカ
での征服・植民活動は、まず、スペインが先行した。現在でいえばラテン・アメリカとい
われるメキシコ、カリブ諸国、南アメリカの地域である。 ○西インド諸島 コロンブスの西インド諸島到達後、スペインがはじめに征服・植民したのは、図 13-66
のカリブ海の大アンティル諸島だった。 図 13-66 カリブ海世界 中央公論社『世界の歴史18』 ○エンコミエンダ制という名の奴隷制 1501 年 9 月、スペイン王室は(先住民の扱いに失敗したコロンブスを罷免して)ニコラ
ス・デ・オバンドを総督に任じた。オバンドは、1503 年に出された勅令によって、「エン
コミエンダ制」という制度で先住民を植民者のスペイン人に分配する方法の許可をスペイ
ン王室から得た。 このエンコミエンダとは国王が先住民を「預ける」という意味である。何のために預か
るか、それは預かったスペイン人は国王に代わって、「彼らを外敵から保護し、キリスト教
に改宗するように宗教教育を授ける責任を引き受ける」というものであった。ただし、これ
は大義名分で、実際、スペイン人がやることは、その骨折り賃として国王に代わって先住
民から貢納や賦役を徴することを許されるのである(実際は、コロンブスがやったことと
同じであったが、大義名分があって、見栄えがよかった。船乗りだったコロンブスは、こ
1695
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) のような狡猾な知恵を出すことは無理で、官僚だったオバンドの得意とするところであっ
た)。 彼は王室の要望に応えて金の増産につとめ、そのためスペイン人植民者たちに、現地住
民を分配して、デモーラと称する強制労働に、1 年につき 6~8 ヵ月従事させることを許し
た。オバンドはこれに抵抗する先住民の首長や住民たちを容赦なく軍事的に制圧して、金
の産地に駆り立てた。彼らに過重な労働を賦課して自己目的のために使用することができ
た。実際のところ、保護や教育などではなく使役の権利が強調され、住民の生活に破壊的
な影響をおよぼした。 住民たちは、不衛生な環境で苛酷な条件のもとに働かされて、栄養不良に陥り、また旧
世界からもたらされた細菌やウィルスにおかされて(彼らに免疫力はなかった)死亡した
ため、人口の激減が起こった。この事態は、金の生産量を落とす危険があった。オバンド
は、イスパニョーラ島の労働力を補うため、1509 年王室の許可を得て、バハマ諸島(図 13
-66 参照)の住民狩りを行い、5 年間に 4 万人以上の住民をイスパニョーラ島に移したが、
まもなくすべての島に人がいなくなってしまった。これがスペイン人いうところのキリス
ト教布教の実態だった。 プエルトリコも同じだった。イスパニョーラ島同様人口の激減が起こり、60 万人いた原
住民は数年で絶滅してしまった。ジャマイカでは金が見つからなかったので、マニオック、
トウモロコシ、綿などを生産して、イスパニョーラ島、キューバなどに供給させることに
したが、ここでも住民に対する苛酷な使役が行われ住民のアラワク族は消滅してしまった。 残ったキューバも、少しの金が発見され 1518 年まで短いゴールドラッシュが続いたが、強
制労働が住民に課せられて、人口が激減したことは他の島と同じだった。 これで大アンティル諸島の 4 島のインディオはスペイン人の課した鉱山や砂糖プランテ
ーションでの重労働や、ヨーロッパからもたらされた疫病により、すべて絶滅してしまっ
た。その他、小アンティル諸島、クラサオ、ボナイレ、アルーバ島は残らずスペインの人
間狩りの場となった。これらの島々は無人島として放置され、やがて 17 世紀に他のヨーロ
ッパの勢力に占拠されることになった。 ○アフリカ黒人奴隷の輸入 カリブ海諸島で先住民が死んで不足する労働力をアフりカからの奴隷で補おうという発
想はオバンド総督のときからであり、スペイン王室の許可のもとに、1505 年に 17 人の黒人
奴隷がイスパニョーラ島に送られてきた。1510 年には 250 人が到着し金山に送られた。そ
の後、先住民の絶滅により、大量のアフリカ人奴隷が輸入されるようになった。 アフリカ人奴隷貿易はポルトガル王室が独占の許可制でやっていて(アフリカはポルト
ガルの権益範囲だった)、アシエント制(許可制奴隷貿易)といっていたが、そのうち、
1696
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スペイン王がポルトガル王を兼ねるようになった(同君連合となった)。アシエント制に
よる公式なアフリカ奴隷輸送と売却のほかに、奴隷の密輸入もさかんに行われるようにな
った。 密輸入を行ったのは、ポルトガル人、スペイン人だけでなく、イギリス人、フランス人
そして 16 世紀末からオランダ人やデンマーク人も行い、アシエントによって輸入された数
を遥かに上回っていた。 エンコミエンダ制にしてもアシエント制にしても、コロンブスをはじめヨーロッパ人が
最初に植民した大アンティル諸島で発明された悪しき制度で、その後の南北アメリカに普
及し人類の歴史に大きな汚点を残すことになった。創造と模倣・伝播の原理は良きことに
も悪きことことにも適用される人類共通の原理で、何が良きことで何が悪きことかは時代
の人類がきめることであった。 ○メキシコと中央アメリカ地域 1517 年にフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバによってユカタン半島が「発見」
され、メキシコの征服が始まった。 キューバの総督ベラスケスは、コルテスというエンコメンデーロ(スペイン人入植者)
に、600 人と 11 隻の船隊を託して、メキシコを探検させた。 コルテスは現在のメキシコのベラクルス付近で上陸して(図 13-66 参照)、ベラクルス
を建設した。そして、彼は先住民からアステカ帝国の情報を聞き出すと、秘かにこれの征
服に賭けることにし、キューバ総督からの自立を宣言し、この地の征服のためのカピトウ
ラシオン(国王との征服の「協約書」)を得るために腹心の部下をスペイン宮廷に派遣し
た。 1519 年 8 月、約 300 人、15 騎を率い、メキシコ中央高原に向かって出発したが、途中で
トラスカラ族の領域を侵したため、トラスカラ族は数万の人数を繰り出して攻めかかって
きた。ところが、このスペインの小部隊は鉄製武器と騎兵という武器を持っていた。彼ら
アメリカ先住民の最も鋭利な刃物は黒曜石の剥片にすぎなかった。彼らにとって肉を切り
骨を砕き四肢を切り落とす鉄製武器の威力は衝撃的であった。また、コルテス部隊のわず
か 15 騎ですら、彼らの陣列を混乱させるに十分だった。 トラスカラ族は、味方に損害が出るばかりでこのスペインの小部隊を屈服させられない
ことがわかると、トラスカラ人はすっかりコルテス部隊におそれ感じ入って和を講じ、両
者は同盟してアステカ帝国転覆をめざすことになった(トラスカラ族は、かねてからアス
テカ帝国に敵対していた)。このトラスカラ族を味方につけたことが、その後の成功の鍵
になった。 1697
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) アステカ帝国の首都テノチティトランには 1519 年 11 月に到着し、コルテスは、テノチ
ティトランを見学し、アステカが思いのほか強力であることに気づき、このときは思いと
どまり、アステカ征服軍を強化して出直すことにした。その間にも、スペイン軍が持ち込
んだ天然痘が蔓延して(はからずも一種の生物兵器となって)、王クイトラワックをはじ
め多数が死亡し、アステカ側に大きな打撃となった(もちろん、その原因が何か、双方と
も知らなかっただろうが)。 1521 年初め、コルテスは 5 万余のスペイン兵、トラスカラ、テスココ(テスココ湖の東
岸の町)の連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して 4
月 28 日にテノチティトランを包囲した。3 ヶ月以上の攻防の末、8 月にアステカ帝国は滅
んだ。征服されたテノチティトランは破壊され、その瓦礫の山のうえにスシウダー・デ・
メヒコ(メキシコ市)が建設された。 ○カピトウラシオン―征服契約 さて、この時期までに、スペインは、新大陸の征服植民の方式・制度を整えてきた。ス
ペイン人のアメリカ征服植民の基幹をなす制度には、エンコミエンダ制、カピトウラシオ
ン、都市自治体の 3 つがあった。エンコミエンダ制についてはすでに説明した。 カピトウラシオンとは、「協約書」という意味で、スペイン国王と個々の征服者の間に
交わされる征服植民の請負契約である。征服者は、実施のめどが立ったところで、国王と
交渉してカピトウラシオンを締結する。この契約で国王は征服者に、遠征で得られる戦利
品などの収益から 5 分の 1 を上納することを約束させる。それと引き替えに国王は征服者
をこれから征服するはずの地方の総督にあらかじめ任命するというものであった。 このカピトウラシオンによれば国王は征服のために一銭の金も出さず、1 人の兵隊も動か
さずに、成功すれば金が入るという仕組みであった。その代わり、民間人である征服者は
企画立案から、資金調達、物資購入、仲間の募集に至るまでいっさいを自腹で行う必要が
あった。 コルテスやピサロなど征服企業家は、オバンド着任前後にヒスパニオラ島に渡って来て、
キューバやパナマなどの征服に従軍してエンコミエンダを獲得し、そこで先住民を搾取し
て資金をためて、これという新たな征服対象を見つけると、スペイン王とカピトウラシオ
ンを結んで新事業(新征服事業)を起こすというベンチャー企業家であったといえる。ま
だまだ、新大陸には無限ともいえる土地が(もちろん、先住民を含めて)存在していた。 さて、遠征隊が当該地域を制圧し、征服が完了したとしよう。戦利品は上納分 5 分の 1
を差し引いたうえで各人の出資分に応じて仲間に分配され、これで征服企業は清算される。
このとき仲間たちは身の振り方によって 3 集団に分かれた。 まず、これで満足した帰国組はスペインの故郷の町に錦を飾る。 1698
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) これで味をしめた続行組は新しい遠征隊を編成し、国王と新規のカピトウラシオンを結
んでさらに奥地へ進む。そして両者を見送った後で、残留組がこの地(征服地)に定着す
る。そしてレコンキスタの伝統に従えば、定着とは、すなわち都市自治体の結成であった。
スペイン人のアメリカ征服植民の基幹をなす制度の 3 番目がこれである。その都市周辺の
農村部でエンコミエンダを得て先住民を搾取して、末永く都市で貴族的な生活をするとい
うのが当時のスペイン人の考え方であった。 征服企業清算後もカピトウラシオンによる総督任命は有効であった。総督の最初にして
最大の仕事は、植民地の骨格をなす都市自治体群を紛糾なく発足させることであった。あ
る地点に都市を建設すると決めると、総督は残留組の征服者の中からその市民団をえらぶ。
総督は市民団を人選すると、各市民にその都市の周りの地方の先住民首長国や村をエンコ
ミエンダとして授与する。逆からいうと、総督からエンコミエンダをもらった者だけがそ
の都市の市民団構成員なのである。それ以外はただの居住者か一時滞在者にすぎない。 ○スペイン植民地都市の建設 征服された先住民にとっては、たまったものではないが、スペイン国家は新大陸にこの
ような社会システムをつくったものだから、スペイン植民地は、コルテスのような征服者
たちによって、先を争って好き勝手に征服されることになった。 1496 年にコロンブスの弟バルトロメがヒスパニオラ島にサント・ドミンゴ市を建てて以
来、スペイン人は、このようにして都市を次々と建設していった。今ここにコルテスはア
ステカ帝都テノチティトランを破壊して、1521 年、その廃墟にスペイン人の都市自治体メ
キシコ市を建てた(図 13-67参照)。コルテスの部下アルバラドはチアパス・グアテマラ
高地のマヤ系先住民を征服し、1524 年にグアテマラ市を建てた(図 13-67 参照)。同様に
かつてコルテスの部下であったモンテホはユカタンのマヤ人を制圧し、1542 年にメリダ市
を建てた。 1519 年には、あの太平洋を発見したことで有名なバルボアを処刑した総督ペドラリアス
がパナマ市を建てた。ペドラリアスの部下のコルドバはニカラグアへ進出し、1523~24 年
にグラナダ市とレオン市を建てた。 パナマ市民でありながらバルボアの頭目と目されて冷や飯を食わされたピサロは、自分
で太平洋岸南下の企画を立ててインカ帝国を打倒したのち(後述)、1534~35 年にクスコ
市とリマ市を建てた。 ピサロの部隊長のひとりベナルカサルはエクアドル高地を制圧し、1534 年にキト市を建
てた。さらに北へ進んでムイスカ人の領域に入ったベナルカサルは、そこでカリブ海サン
タ・マルタ(現在はコロンビア)から来たヒメネス・デ・ケサダと、ベネズエラを開発し
1699
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ていたヴェルザー商会の駐在員フェーダーマンとはち合わせし、3 者は手を結んで 1538 年
にボゴタ市を建てた。 図 13-67 スペイン領アメリカの統治機構(16~17 世紀) 中央公論社『世界の歴史18』 一方でペルー植民地から南へ進んでチリ地方の制圧に着手したバルディビアは、1541 年
にサンティアゴ市を建てた。 こうようにドンドン欲得で征服者が競ってやってくれるものだから、自分は一銭も身銭
を切らずに巨大な領土を手に入れたスペイン王権は、1540 年代になって一段落すると、こ
の制度的枠組みが邪魔になってきた。このままでは、白紙委任同然のカピトウラシオンを
盾にとった征服者総督の強大な権限のもと、王権の制約をうけない自治都市や、エンコミ
エンダに名を借りた強力な領主権がアメリカ植民地に出現するかもしれない。そのような
事態はスペイン王権にとって容認しがたい(土地は広大であるから本国より強力な国家さ
え出てくるかもしれない)。 そこで、スペイン王権は、征服者もエンコミエンダも役割を終えたなら、消えてもらう
にこしたことはないと考えはじめ、方針を変えた。つまり、たたき上げの征服者総督を廃
して、スペイン王権が(副王によって)直接支配することにしたのである。 1700
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) メキシコについてみると、コルテスはメキシコの総督になっていたが、スペイン王権は
総督コルテスの職務遂行状況を審査する裁判官を派遣してきて、1528 年、ささいなことか
らコルテスを職務停止に処して、1535 年に大変、家柄の良いアントニオ・デ・メンドーサ
という貴族がヌエバ・エスパーニャの初代「副王」に任じられ、メキシコは国王の名代が
おさめる「王国」となった。以後 3 世紀にわたりメンドーサを筆頭に 62 代の副王が、最高
の当局者としてメキシコの統治にあたった。 ○南アメリカ―インカ帝国の滅亡 南アメリカのスペイン植民地も基本的にはメキシコなどと同じ扱いで植民地化されてい
った。1531 年はじめ、南米にあるというインカ帝国を探して、フランシスコ・ピサロ(1470
~1541 年)ひきいる 200 数十人の歩兵・騎兵は、3 隻の船にわかれて第 3 回目の航海にパ
ナマを出航し、現在のエクアドルに上陸した(図 13-68 参照)。 そして、ピサロの軍勢は、インカ帝国を目指して進んで行き、1532 年 11 月には、インカ
王の待ち受けるペルー北部のカハマルカ盆地に入った(図 13-68 参照)。 1532 年 11 月 16 日、ピサロはインカ王アタワルパの陣営に使者をやり、ピサロたちの待
つカハマルカの広場へやって来るよう誘いかけた。アタワルパはそれに応じ、数万もの軍
勢をゆっくりと、陣営から広場へ移動させ始めた。アタワルパはインディオの肩に御輿を
高々と担がれて静かに進んできた。ピサロは冷静に兵士を広場の周辺に潜ませた。火器は
インディオの兵士たちに向けて照準が合わされた。 やがて片手に十字架、片手に聖書を持った従軍司祭のドミニコ会士バルベルデが、イン
ディオ通訳を伴いアタワルパのところへ進み、スペイン人と友誼(ゆうぎ)を結ぶことが
神の御心であると伝え、その教えが書かれた聖書をアタワルパに手渡した。皇帝は聖書を 5,
6 歩先に投げ捨て、そしてキリスト教徒がそれまでインディオに対して行った非道なふるま
いを糾弾した。アタワルパは輿から立ち上がり、戦闘の準備を部下に促した。 その時ピサロはインディオの間を突進し、輿のアタワルパの腕をわしづかみにするや、
「サンティアゴ」と叫んだ。用意されていた軽砲が火を噴き、潜んでいた歩兵・騎兵が躍
り出た。輿を囲んでいたインカの要人や兵士はバタバタと無残にも虐殺された。アタワル
パは輿から引きずり落とされた。広場に入っていたインディオ 4000 人のうち、2000 人の命
が奪われた。アタワルパは捕縛され、事態が飲み込めないまま立腹していた。 捕虜になったアタワルパはピサロに対して、身代金として膨大な量の金と銀を約束した。
インカ皇帝は即座に使者を各地に送って、アンデスの財宝は帝国中からカハマルカに続々
届きはじめ、翌年の 3 月には皇帝の身請け金・銀が積み上げられた。こうしてピサロの懐
には、莫大な財宝が転がり込んできた。だがインカ皇帝は釈放されることはなかった。 1701
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 結局、ピサロは形だけの裁判を開かせて、アタワルパをスペイン国王に対する反逆罪、
および兄弟殺しの罪で絞首刑にしてしまった(アタワルパは前王の死後、兄弟で後継者争
いを起こし、異母兄を倒していた)。1533 年 7 月のことであった。 図 13-68 征服者たちの道程 中央公論社『世界の歴史18』 アタワルパを処刑したピサロは、インカ王族のトウパク・ワルパを傀儡の皇帝として擁
立し、帝都クスコへ向かった。インカ帝国の首都クスコに入ったピサロたちは新たにスペ
イン式の伝統に則ってクスコを建設した(図 13-68 参照)。 1533 年から 34 年の半ばにかけて計 4 隻の船がセビーリャの港に入った。金製・銀製の容
器を除いて荷下ろしされた金 70 万 8580 ペソ、銀 4 万 9008 マルコ、実に 3 トン以上もの金
1702
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) がこの時スペインに到着した。カルロス 1 世は、これらの宝物も、ただちに熔解するよう
財務官に命じた。当時、財政的に逼迫していたスペイン王室は(何度も王室は破産宣言を
出していた)、直ちに、貨幣に鋳直されて国王の底なしのような国庫に吸い込まれていっ
た。 1538 年にピサロは弟のゴンサーロ・ピサロ(1502~1548 年)をティティカカ湖の東へ遠
征させた。ゴンサーロ・ピサロはインディオの首長アヤビリを破って現ボリビアに相当す
る地域を征服した。以降この地はチャルカスやアルト・ペルーと呼ばれ、1540 年にはチュ
キサカ(後のスクレ)が建設され、1548 年にはアロンソ・デ・メンドーサによってラ・パ
スが建設された。 フランシスコ・ピサロのペルー支配権は確立したように見えたが、1541 年 6 月、リマに
滞在していたピサロは暗殺された。 ○スペイン副王による直接統治 1542 年にカルロス 1 世によって、植民地に関する「新法」が発布され、国王の代理人た
る「副王」制度や、司法・行政を司る最高機関アウディエンシアの導入がはかられた。第 1
代副王ブラスコ・ヌニェス・ベラが任命された。 新法でエンコミエンダ制も廃止されることになったが、これに反対するエンコメンデロ
層はゴンサーロ・ピサロを中心に反乱を起こしペルーの自立化をはかった。しかし、最終
的には、ゴンサーロ・ピサロの反乱軍は 1548 年までに壊滅され、ゴンサーロも処刑された。
ゴンサーロの反乱はスペイン王室に対する植民地史上最大の反乱であった。 1549 年にエンコミエンダの再配分が王権によってなされたことにより、メキシコにおけ
ると同じように、ペルーにおけるスペイン王権の支配は確立した。南アメリカのスペイン
領全てを統括するペルー副王領の首都にリマが選ばれると、以降、19 世紀のラテンアメリ
カ諸国の独立までリマはスペインによる南アメリカ支配の中心地となった。 ○その他の南米地域 南米地域でもインカ帝国だけではなく、多くの先住民がスペインの征服者たちによって
征服され、都市が建設されていった。 1508 年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始め
た。1510 年 11 月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエンが今のチョコ県に
建設され、南アメリカ初のヨーロッパ人による恒久的な植民都市となった。 その地域の先住民族は、チブチャ系とカリブ系(今のカリブ族)が多数を占めていたが、
最大の王国だったムイスカ族のバカタ王国が征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダに
より征服された結果、病気、搾取などにより著しい人口減少が起こった。 1703
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ケサーダはエル・ドラード伝説に基づいてサンタ・マルタから出発し、オリノコ川流域
の探検を続け、現コロンビアに相当する地域に存在した最大のムイスカ人の王国を征服し
た。1538 年にムイスカ人の首都バカタの跡にサンタフェ・デ・ボゴタ(図 13-68 参照)を
建設し、以降スペイン人の拠点とした。 ベネズエラ地域では、1567 年に征服者ディエゴ・デ・ロサーダがアンデス山中のグアイ
レ渓谷中心部にサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスを建設した(図 13-66 参照)。 ラプラタ地方(図 13-67 参照。現在のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ)では、
1516 年にフアン・ディアス・デ・ソリスが現在のウルグアイの地に上陸した。ラプラタ地
方の大西洋側にはチャルーア人やグアラニー人が居住していたが、ソリスはインディオの
チャルーア人に殺害された。 1536 年にバスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサがラプラタ川の西岸にヌエストラ・セ
ニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレを建設した。メンドーサの部下のファ
ン・デ・アヨラたちはパラナ川をさかのぼるうちに、農耕を行っているグアラニー農民の
集落を発見し、その地方で食料が得られることを知って、1537 年、川岸にアスンシオンを
建設した(図 13-70 参照)。 このアスンシオンは 1620 年まで、ラプラタ地方の首都となった。ファン・デ・ガライが
ラプラタ川を下って、1580 年、河口にラ・トリニダーを建設した。この町はやがてブエノ
スアイレスと改名された。ブエノスアイレスは飢えとインディオの攻撃により、1541 年に
放棄されたものが再生されたのである。 ピサロの部下セバスティアン・デ・ベナルカサールは、1534 年に現エクアドルを征服し
てサン・フランシスコ・デ・キト(図 13-68 参照)を建設した。 ペドロ・デ・バルディビアはペルーからチリを南下して、1541 年 2 月にピクンチェ人の
協力によってサンティアゴ・デ・チレを建設した(図 13-68 参照)。1549 年にチリに戻っ
たバルディビアは 1549 年にラ・セレナを、1550 年にはビオビオ川の北岸にコンセプシオン
を建設した(図 13-68 参照)。 ○スペイン植民地社会の特徴 16 世紀からヨーロッパ人が世界に出ていって植民地をつくるようになったが、それをみ
ると、2 つのタイプ、定住植民地と行政植民地があった。 図 13-69 の A のように、定住植民地とは具体的には、イギリス領北米植民地やオースト
ラリアなどであり、インディアンなどの先住民は入植者社会から排除されフロンティアの
彼方へ退去させられた。フロンティア自体もまた時を追って前進していった。その特徴は、
先住民を植民者の社会のいとなみに参加させることなく、フロンティアの彼方へ追いやっ
てしまった。そして最終的にはインディアン特別区などに隔離してしまった。植民者はそ
1704
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の代わり、自らの手を労して土地を耕すなど直接生産に従事した。したがってフロンティ
アの内側の入植者社会は比較的階級差の小さい単一階級社会となった(黒人奴隷を輸入し
たため白人、黒人の階級差はできたが)。 図 13-69 植民地のタイプ 中央公論社『世界の歴史18』 図 13-69 の B、行政植民地とは、イギリス領インド、オランダ領東インド(現在のインド
ネシア)、フランス領インドシナなどであり、先住民の大衆はそのままで、エリートだけ
が宗主国民エリートにとって代わられた。旧エリートは排除されるか、もしくは中間管理
者に格下げになった。外部から異民族が中間管理者として導入された場合もあった。 この宗主国民は植民地社会の中で少数エリートの地位にあり、行政的・管理的な仕事だ
けに従事して、手を労して働く仕事は先住民にやらせた。従って先住民は排除されるどこ
ろか、植民地社会において人口的には多数者であった。植民地社会は階級差の顕著な多民
族社会となった。 1705
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ある植民地がこの二つの類型のどちらになるかを決定づける条件は、事前に先住民が階
級社会を発達させているかどうかであった。階級社会ができている場合は、その頂上にい
る先住民エリートを押しのけてとって代われば先住民大衆は言うことを聞くから、その植
民地は行政植民地になる(アジアの植民地は主にこれだった。すでに多くは専制国家がで
きていた)。階級社会ができていなければこの手は使えず、いうことをきかせる方法がな
い先住民はただの障害物であるから、彼らは排除され定住植民地ができたと考えられる(ア
メリカのインディアンは主にこれだった)。 それではスペイン領アメリカ植民地はどうかというと、図 13-69 の C のように、両者の
ハイブリッド(あいのこ)であり、ここにスペイン植民地の特徴があった。スペイン領メ
キシコを例にとっていえば、第 1 にピラミッドの頂点のスペイン人行政官・商業専従者の
下に、定住スペイン人(クレオール)の分厚い層ができ、とくに都市社会において確固た
る定着性を示したこと、そして第 2 に彼らと先住民との間に「混血」層が生まれ、時を追
って厚みを増していったことにある。 レコンキスタの伝統を持つスペイン人に定着志向がきわめて強く、分厚い定着スペイン
人(クレオール)層が生まれたこと、旧大陸の伝染病に抵抗力のない先住民が、人口を大
幅に減らしてしまったこと、両者の間に混血と文化混交が進行したことなどが、スペイン
領植民地で進行し、必ずしもスペイン人が少数者、先住民が多数者とは決められなくなっ
てしまったのである。 この特徴は 19 世紀に起きた独立の性格の形態にも表れることになった。もはや少数者と
はいえないクレオールを大西洋のかなたに追い返す力量は、どこの先住民共同体にもなか
った。それだから最終的には、定着スペイン人がてっぺんに居座っているこの多民族成層
社会全体が、そのまま独立してメキシコやペルーになった。 定住植民地の独立とは、アメリカ合衆国の独立のように、先住民インディアンを排除し
て成立した植民地社会の側がイギリスに対して独立国の看板を掲げればよかった。行政植
民地の独立とは、インドの独立のように、多数者であるインド人が少数者の宗主国民エリ
ートのイギリス人を追い出して、多数者による民族自決を回復することであった(インド
の場合、宗教的に最終段階でパキスタンと分裂したが)。この植民地の 3 パターンは、の
ちの独立戦争と社会構造の 3 パターンにつながるものであった。 ○スペイン植民地の後世に及ぼした影響 スペインの中南米征服によって広大な中南米社会は、図 13-10 のように(図の黄色の部
分)、スペインの植民地となった。これによって中南米社会の様相は一変し、現在に至る
まで続く白人優位の下にメスティーソ、インディオ、黒人といった社会構造が形成された。
1706
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スペインによって征服された地はインディアス、または、イスパノアメリカと呼ばれるよ
うになった。 イスパノアメリカのポトシやサカテカス(現メキシコのサカテカス州都)、グアナファト
(現メキシコのグアナファト州都)の鉱山では銀が、ベネズエラではプランテーション農
業でカカオなどが、インディオや黒人の奴隷労働によって生産され、生産された富はスペ
インでは蓄積されずに戦費や奢侈に使われ、西ヨーロッパ諸国に流入して価格革命や商業
革命を引き起こしたことは述べた。 この重商主義的過程は、大西洋三角貿易によるイギリス領バルバドスやジャマイカ、フ
ランス領サン・ドマングでの砂糖プランテーションによる収益や、18 世紀のゴールドラッ
シュによりポルトガル領ブラジルからイギリスに大量に流出した金と共に、西ヨーロッパ
諸国の資本の本源的蓄積を担い、オランダやイギリスにおける産業資本主義の成立と、そ
れに伴うヘゲモニーの拡大を支えた。 一方、ヨーロッパの繁栄とは対極にラテンアメリカ現地では逆に資本流出により経済の
従属と周辺化が進み、僅かに残った資本もスペイン同様奢侈に使われ、蓄積されることが
なかった。 また、ヨーロッパからアメリカ大陸にもたらされたもので重要なものには、世界宗教と
してのキリスト教、コムギ、サトウキビ、コーヒーなどの農産品、馬・牛・羊などの家畜、
車輪、鉄器があった。また、天然痘、麻疹、インフルエンザなどの伝染病もヨーロッパか
らアメリカ大陸に持ち込まれた。 一方アメリカ大陸からヨーロッパには、メキシコ原産のトウモロコシやサツマイモ、カ
ボチャ、トウガラシ、アンデス高原原産のジャガイモや西洋種のカボチャ、トマト、熱帯
アメリカ原産のカカオなどが伝えられ、スペイン料理やイタリア料理などのヨーロッパ諸
国の食文化に大きな影響を与えた。その他にはタバコや梅毒も伝えられたことは述べた。 イスパノアメリカは同時期のポルトガルによる植民地化と併せて、19 世紀半ばからこの
地域はラテンアメリカと呼称されるようになった。 【④ポルトガル植民地(ブラジル)】 ○カブラルが発見したブラジル 15 世紀末のヨーロッパ人が到達する前のブラジル地域は、インカ帝国の権威は及ばず、
この地には原始的な農耕を営む、トゥピ・グアラニー系の、後にヨーロッパ人によって「イ
ンディオ」
(インド人)と名づけられる人々が暮らしていた。16 世紀前半の時点でこうした
先住民の人口は、沿岸部だけで 100 万人から 200 万人と推定されている。 1707
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1500 年 4 月 22 日、インド洋に向かっていたポルトガルのカブラルの船団は、未知の陸地
に漂着し、これを「ベラクルス島」と名付けた。しかし、カブラルの船団に同行していた
貿易商たちは、「ブラジル木」(パウ・ブラジル:赤色染料の原料となる植物)を見つけ
て、この地を“ブラジルの地”と呼び、これが今日の呼び名「ブラジル」の語源となった。 カブラルが上陸したのは現在のバイーア州南部のポルト・セグーロだとされている(図
13-70 参照)。トルデシリャス条約に基づいてポルトガルに帰属することになったが、暫く
はパウ・ブラジル(ブラジルの木)以外には開発が進むことはなかった。 図 13-70 ブラジルの発展(17~18 世紀) 1503 年、ポルトガル王は、パウ・ブラジル(ブラジルの木)を王室専売品とし、パウ・
ブラジルの貯蔵と積み出しのためのフェイトリア(武装交易基地)を設置することからポ
ルトガル人のブラジル植民が始まった。1530 年までに、多くのポルトガル船がブラジルの
海岸を訪れ、インディオ(先住民)にビーズ、織物、刃物などを与え、パウ・ブラジルの
巨材を切り出させた。 しかし、パウ・ブラジルは 16 世紀前半頃までに枯渇した。パウ・ブラジルが枯渇すると、
ポルトガル人は貴金属の採掘にブラジル植民地の目的を変え、1532 年にはパラグアイやペ
1708
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ルー方面に存在すると考えられた鉱山を探すために、ブラジルで初めてサン・ヴィセンテ
とピラチニンガの二つの町が建設された。こうして渡来したポルトガル人の多くはインデ
ィオと婚姻し、マメルーコと呼ばれる多くの混血者が生まれることになった。 ○カピタニア制の導入 ポルトガル王ジョアン 3 世は、1534~36 年にかけて、ブラジルの開発と防衛のために、
ポルトガル本国でのレコンキスタ後の入植やマデイラ諸島の開発の経験に基づき、ポルト
ガルのセニョリオ制とセズマリア制を結合させたカピタニア制を導入した。 セニョリオは、王が臣下に対し、新領土の入植、開発、防衛を条件として、無償で一定の
領域の支配権を譲与するもので、セズマリア制は、被分譲者が新領土への入植促進のため、
入植後 5 年以内にその地所を開拓利用するという条件で、その土地を適切と考える人物に
分譲することができるという制度であった。被分譲者は、収穫から 10 分の 1 税を支払う義
務を負った(国王から封建領主が分封されたようなものだった)。 ところが、具体的には、広大なブラジルは 15 のカピタニアに分割され、一つのカピタニ
アは幅 50 レグア(約 300 キロ)の海岸をもち、トルデシャス条約により内陸に想定された
理論的な国境線までの奥行きをもつと定められた。実際には 12 人のドナタリオ、すなわち
カピタンに譲与された。広大なブラジルが 12 に分けられたのであるから、個々のカピタニ
アも広大なものだった。 結局、カピタンはいずれも裕福な貴族で、ポルトガルにとどまりブラジルに赴こうともし
ない姿勢や農業にとっての地理的悪条件やインディオの襲撃などのため、ほとんどのカピ
タニアは失敗し、経済的な開発方式としてはあまり成果を上げなかった。しかし、スペイ
ンと異なり、ポルトガルは南アメリカの植民地を分割しなかったので、独立時にブラジル
は複数の国に分裂するということがなかった。 ○総督制の導入 1548 年に相続人を失ったバイーアのカピタニアが廃止・接収されたのを皮切りに、王室は
徐々にすべてのカピタニアに対する規制を強化しはじめ、1549 年、ポルトガル王室はバイ
ーア(図 13-70 参照)のサルヴァドールに総督府を置き、初代総督にはトメー・デ・ソウ
ザが任命された。このとき約 1000 人の入植者が同行した。これにより、パウ・ブラジル開
発、カピタニア制の導入についで、ブラジルの開発は第 3 段階に入った。また、同じ年、
イエズス会士が初めてブラジルを訪れた。 1600 年には民間人の手に残されたカピタニアは 11 になった。しだいにカピタニアは、王
に任命される長官に統治される行政単位になっていった。 ○サトウキビの移植―砂糖の時代 1709
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) パウ・ブラジルの枯渇後に商品として注目されたのは、鉱物の他には砂糖だった。サト
ウキビがマデイラ諸島からがペルナンブーコ(図 13-70 参照。現在はブラジル北東部の州)
に移植され栽培された。 1516 年に、ブラジルにおいて最初のエンジェニョ(製糖工場つきサトウキビ農園)がペ
ルナンブーコにつくられ、急速に拡大した。初代総督トメー・デ・ソウザは、1548 年の基本
法規で糖業を奨励した。この製糖業はインディオとアフリカの黒人を利用した奴隷労働に
より北東部で栄え、一気に主要産業となっていった。16 世紀半ばには、6 つのエンジェニ
ョがあったが、1600 年には、その数は 120 に達し、図 13-71 のようにブラジルの最大の輸出
産業となった。独立までのブラジル植民地の輸出累計額の半分以上が砂糖によるものであ
ったとされる。 図 13 - 71 ブラジルの金と砂糖の輸出 ○インディオの奴隷化と内陸進出 イエズス会士たちは現在のパラグアイ、アルゼンチン北東部、ボリビア東部、ウルグア
イ、ブラジル南部に居住するグアラニー族に布教を行ったが、サンパウロのエントラーダ
(遠征隊)たちは好んでこれらのイエズス会の布教村を襲い、数十万人のインディオを捕
獲し、奴隷として砂糖農園に売却した。 インディオ奴隷は、ポルトガル民間人が組織した遠征隊が内陸部に送り込まれ、まさに
動物狩りのように人間が捕獲された。ブラジル全土で行われたが、とくにサンパウロのエ
ントラーダ(遠征隊)が華々しく活動し、有名であった。彼らの多くは、マメルーコという
ポルトガル人とインディオの混血で、質実剛健さと冒険心によって知られていた。 1710
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ノブレガなどのイエズス会士は、王室に働きかけたので、1570 年以後インディオの奴隷化
を禁止する勅令が再三出されたが、入植者は無視した。パウリスタ(サン・パウロ人)た
ちは、奴隷狩りのために、多くのインディオの集落や教化集落を破壊したが、内陸部に交
通網を形成し、それによって多くの集落を発生させるとともに、トルデシャス条約が定め
た理論的国境線より西へはみだして開発していった。 そのエントラーダ(遠征隊)の途上、金、ダイヤモンド、エメラルドなども探し、1693
~95 年にフェルナン・ディアスがミナス地方で金を発見するなど、多くの鉱床を発見した。 インディオの奴隷化の問題をめぐってイエズス会と入植者は長期間対立していたが、結局、
入植者が王室に働きかけたため(王室もメリットが大きい方になびき)逆に 1759 年にはイ
エズス会はポルトガル領から追放されてしまった。 戦闘、旧大陸起源の伝染病、奴隷化などの要因によって、ブラジルのインディオの人口
は激減し、増加率が低下した。今日のブラジルの全人口に占めるインディオ人口の比率は、
1%以下(数十万人)程度であり、その大部分が(エントラーダがこない)国土の半分を占
めるアマゾンの未開ないし半未開人口であることを考えれば、ブラジルの国土の約半分に
おいては、インディオは、混血による吸収があるとはいえ、ほぼ消滅したということがで
きよう。 ○アフリカ人奴隷の導入 砂糖生産の拡大につれて、農園における労働力の需要が増大し、インディオ奴隷の供給は
不十分であることが明らかになった。キリスト教布教の対象であるべきインディオの奴隷
化に反対したイエズス会の提案もあり(イエズス会はアフリカ黒人奴隷の輸入を提案した)、
1570 年王室は、アフリカ人奴隷の輸入を本格的に奨励し始めた。確認できる最初の勅許は、
1539 年、ペルナンブーコ初代総督ドウアルテ・コエリョに対して与えられた。 ブラジルに対するアフリカ人奴隷の供給源は、ポルトガルのアフリカ植民地で、ルアン
ダが奴隷の積み出し港であった。17 世紀後半まで、西アフリカの現ガーナ、ナイジェリアや
コンゴ、アンゴラ、モザンビークから黒人がブラジルに送られた。 奴隷船は、奴隷たちを信じられないほどの密度でつめこみ、熱帯の海上をブラジルへ送っ
た。アンゴラからペルナンブーコまで 35 日、同じくバイーアまで 40 日、リオ・デ・ジャ
ネイロまで 50 日かかった。 男子奴隷 1 人(品物のように個と呼ばれた)が当時の通貨で 100 から 500 ドルで売られ
た。当時、砂糖はヨーロッパでグラム単位で取引されるほどの貴重品であったため、高い
奴隷を購入しても採算がとれるほど、糖業の収益性は高かった。女性や子供は半人前以下
に評価された。夫と妻、親と子が別々の農園に売られることも珍しくなかった。また、同
一種族の奴隷が一定の農園や地区に集中しないように配慮された。 1711
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1585 年イエズス会士アンシェッタの記録によれば、ブラジル植民地の人口 5 万 7000 人の
うち、1 万 4000 人が黒人であり、インディオが 1 万 8000 人、白人が 2 万 5000 人であった。 この時期にはエンジェニョ(サトウキビ農園と製糖工場を併せたもの)と農村が発展した。 アフリカから連行された奴隷たちはただ服従して過ごしたわけではなかった。奴隷たち
の抵抗は宗教儀式や自殺、堕胎、不服従などの形で絶え間なく続けられた。より直接的な
形として脱走や反乱も行われ、16 世紀から 17 世紀にかけてはキロンボと呼ばれる逃亡黒人
奴隷とインディオの共存する集落が内陸部の奥地に多数生まれた。 ○牧畜業の開始 サトウキビ産業と共に牧畜も開始され、北部、中央部の牧民はヴァケイロと呼ばれたが、
現在のリオ・グランデ・ド・スル州のような最南部の牧民はスペイン、ラプラタ地域の影
響を受け、ガウーショ(スペイン語ではガウチョ)と呼ばれるようになった。 ○ブラジル国境の西進 図 13-70 のように、サンパウロから出発したエントラーダ(遠征隊)は、インディオを
奴隷化し、黒人奴隷のキロンボを征服していったが、前述したように、同時にサンパウロ
人はその事業の過程でブラジルを探検、開拓し、多くの都市を建設していった。1750 年に
ブラジルがトルデシリャス条約で定められたスペインとの国境を越えてアマゾン地域の奥
深く領有を認められたのは、この探検隊による征服の既成事実化によるものだった。 ブラジルの領土拡張を試みたポルトガルは、密貿易によるブエノスアイレス市場への参
入を望んだために 1680 年にトルデシリャス条約の境界線を越えてラプラタ川河口にコロニ
ア・デル・サクラメントを建設した(図 13-70 参照)。このことがきっかけとなって、ブ
エノスアイレスのスペイン植民地政府との長い戦いが始まった。最終的に 1750 年のマドリ
ード条約によってコロニア・デル・サクラメントはスペインに割譲されたが、その代わり
にポルトガルは実効支配の既成事実に基づいてアマゾン川奥地の国境を大幅に西進させる
ことができた(図 13-70 の点線のトルデシリャス条約の線を大きく越えて西側に出ている)。 ○金の発見―黄金の時代 1693 年から 1695 年にかけてサンパウロから探検を行っていた遠征隊がミナス・ジェライ
ス(図 13-70 参照)で金鉱脈を発見すると、ゴールドラッシュが起こり、既に開発されて
いた北東部からも多くの人々が移住して金採掘に当たった。これによりブラジルの重要性
は増し、1720 年には総督の呼称が副王となった。 さらに 1729 年にはミナス・ジェライスのセロ・ド・フリオ地方でダイヤモンドが発見さ
れた。この金とダイヤモンドの発見により南部の開発が進み、ブラジルの中心が北から南
に移動した。これによって、北東部の糖業の衰退による景気後退は、図 13-71 のように金の
1712
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 輸出で克服された。1711 年に建設されたヴィラ・リカ・デ・オウロ・プレットは「黄金の
ポトシ」と呼ばれてミナス・ジェライスの中心となり、独自のバロック文化が栄えた。 一方でこのゴールドラッシュにより、多数の労働力が必要とされたためにブラジルのイ
ンディオは奴隷化されて酷使され、それでも労働力が足りなかったために多くの黒人奴隷
がアフリカから連行され、悲惨な生活が続いた。18 世紀中には一攫千金を求めて約 30 万人
のポルトガル人がブラジルに移住した。 この結果、植民地の経済的・政治的中心地は、北東部から南に移動した。植民地の首府
は、1763 年にミナス地方の外港として、重要性をえたリオ・デ・ジャネイロに移された。鉱
山地帯を取り巻くリオ・デ・ジェネイロから、サンパウロまでの地方で、鉱業人口に食料
品・家畜などの生活必需品を供給するための農牧業の発達がみられた。 ○ポンバルの重商主義改革 1750 年にポルトガルのジョゼ 1 世によって任命された宰相ポンパル侯(1699~1782 年)
の重商主義改革により、インディオの奴隷化禁止、世襲制カピタニアの廃止、人頭税の廃
止、イエズス会の追放などが行なわれた。 ブラジル植民地では、1750 年にフランス領ギアナからコーヒーがもたらされた。ポンパ
ル侯は砂糖やタバコなどの伝統産業と共にコーヒーや綿花などの商品作物の栽培に力を入
れ、ブラジルの農業はゴールドラッシュ以来の衰退から立ち直ることになり(図 13-71 の
ように、1760 年以降、金の輸出は減っていった)、さらには綿織物や製鉄業など一部の工業
も成長した。 ポンバルは、本国での改革に際して、イエズス会に代表される保守勢力の妨害を受けた
ため、同会の勢力を弱めるため、同会の管理下にあったブラジルの教化村の制度が廃止さ
れ、インディオは、ポルトガル語とポルトガル的風習を教えられることになった。これに
伴い、インディオが一般入植者によって直接搾取されることが多くなった。さらに 1759 年
イエズス会を全ポルトガル領から追放した。この先例は、1767 年にスペインによって踏襲
された。 また、ポルトガルでは、奴隷制が廃止されたが、奴隷制を経済の基盤としていたブラジ
ルでは、それは廃止されなかった(ブラジルの奴隷制の廃止はアメリカ合衆国よりも遅く、
結局、世界で最も遅く 1888 年になった)。 【13-7-2】アメリカ独立戦争とアメリカ合衆国 【①イギリス植民地政策の強化】 1763 年 2 月のフレンチ・インディアン戦争(ヨーロッパでは七年戦争)の終了後、イギ
リス本国では植民地政策を転換し、イギリス政府の歳入を確保するためにアメリカ植民地
1713
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) に課税することにした。このように方針を転換したのは、フレンチ・インディアン戦争の
戦費負担などから、イギリス政府の負債総額が 1763 年末に 1 億 3400 万ポンドに達したか
らである。しかも、北アメリカに駐留させる軍隊の関係経費も 25 万 4000 ポンドかかる予
定になっていた。 その最初のものが 1764 年に制定された砂糖法(1764~66 年)で、1733 年の糖蜜法を改
正・強化したものであった。しかし、アメリカ植民地に負担させろということで制定され
た砂糖法などから期待できる関税収入は、せいぜい 1 年に 4 万ポンドか 5 万ポンドに過ぎ
なかった。 植民地で最初に反対に立ち上がったのはサミュエル・アダムズで、代表的な知識人たち
がただちに抗議の論陣を張り、砂糖法に激しく反対した。彼は代表権のないイギリス議会
で制定された法律が今後も植民地の経営を脅かすものと訴えて、植民地人の支持を得るこ
とに成功し、砂糖法を廃止に追い込んだ。 しかし、1765 年 3 月には大衆課税である印紙税法(1765~66 年)が制定された。さっそ
くヴァージニアの植民地議会代議院の新人議員であった弁護士パトリック・ヘンリーが、
アメリカ植民地が本国議会に代表を送っていないので、植民地は本国で勝手にきめた税を
負担する義務はないと抗議の先頭を切った。この「代表なくして課税なし」という主張は、
当時の植民地の反イギリス運動のスローガンとなった。 ニューヨーク市の商人を皮切りに、フィラデルフィアやボストンなどの商人がイギリス
本国製品の輸入禁止に踏み切った。この措置がイギリス本国の商人にも痛手となって、イ
ギリス本国でも印紙税法廃止に向けて商人がアメリカ側を支援した。イギリス政府は 1766
年 3 月に印紙税法を廃止した。 次は 1767 年に、ときのイギリス蔵相タウンゼンドによって発令されたタウンゼント諸法
で、茶、ガラス、紙、酒、塗料などに対する輸入税の設定などを内容としていた。植民地
側は、イギリスに対する不輸入協定(不買同盟)などによって激しく抵抗した。イギリス
政府は 1770 年 4 月に茶税を除いてタウンゼンド諸法を撤廃するに至った。 その後も課税をめぐる紛争が続いたが、1773 年、イギリスは新たに茶法を制定した。こ
れは、茶税を逃れようとして植民地側がオランダ商人から茶を密輸入していたのを禁じ、
大量の茶の在庫を抱えて財政的に行き詰まったイギリス東インド会社に植民地での茶の販
売独占権を与えるものであった。 ○ボストン茶会事件 各地でいろいろな形での反対運動が展開されたが、その中で「自由の息子たち」と称す
るグループが、北はニューハンプシャーから南はサウスカロライナに至るまで少なくとも
15 結成され、多いときは数千人を動員していた。 1714
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ボストンの「自由の息子たち」を指導したのは急進派の知識人サムエル・アダムズであ
った。1773 年 11 月にイギリス東インド会社のダートマス号が茶を満載してボストン港に寄
港したとき、サムエル・アダムズたちは、荷揚げせずにボストンからイギリスに退去する
よう期限を切って求めた。 1773 年 12 月 16 日の期限切れ、アダムズはボストンのオールド・サウス教会に集まった
8000 人余りの人々に対して「くにを救うためにこの集会でなすすべはもはやない」と宣言
した。これを合図にインディアンの戦闘開始を告げる雄叫びが上げられ、モホーク族の格
好をした若者や水夫、それに商人も交じって行進し、3 隻の船に押し入って茶箱を海に放り
投げた。これがボストン茶会事件であった。 イギリス政府はこれらの事件に激怒して、翌 1774 年 3 月からボストン港の閉鎖や、選挙
で選ばれていた参事会の総督による任命制への転換、兵士宿営のための民家の徴発など、
植民地人の権利を制限する一連の「抑圧的諸法」を出してボストンを軍政下に置いた。こ
のため植民地側との対立は緊迫した。 植民地のなかで最も古く人口も多かったヴァージニアでは、代議院が抗議運動の主導権
を握り、通信連絡委員会を結成して、それを他の植民地と連絡する機関とした。この委員
会のメンバーには、パトリック・ヘンリーやジェファソン、リチャード・ヘンリー・リー
などの議員が登用された。雄弁家のパトリック・ヘンリーは、1775 年のヴァージニア議会
演説を有名な「自由を与えよ。しからずんば死を」という言葉で結んだ。 ○第 1 次大陸会議 フィラデルフィアで第 1 次大陸会議が、ジョージア以外の 12 植民地の代表が集まって、
1774 年 9 月 5 日から 10 月 22 日まで開催された。 植民地側にも、独立を主張する愛国派(パトリオット。独立派)と、独立に反対し本国
と和解しようとする王党派(ロイヤリスト)、それに中立派の 3 勢力があった。愛国派は、
独立自営農民・商工業者・プランター(農園経営者)らが中心で、王党派は植民地官僚・
大商人・大地主らの本国の特権を得ていた人々が中心であった。 ヴァージニアの代表として参加したパトリック・ヘンリーは、植民地はいまやイギリス
政府の支配から離脱した自然状態にあり、「もはやヴァージニア人、ペンシルヴェニア人、
ニューヨーク人、ニューイングランド人といった区別はなくなっている。私はヴァージニ
ア人でなく、アメリカ人だ」と発言し、アメリカ人として全植民地的な視野で審議するよ
う求めた。 この会議では、まず、イギリス政府のマサチューセッツに対する政策を批判し、イギリ
スとの貿易停止を敢行する方針が決まった。これはボストンのサムエル・アダムズら急進
派が支持されたことを意味した。ついで大陸会議は、ディキンソンの起草した「植民地の
1715
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 権利と苦情の宣言」を採択して、イギリス議会が植民地に対する立法権を確認した 1766 年
の宣言法を否定して、
「耐え難き諸法」が撤回されなければ、イギリス製品をボイコットし、
また輸出も止めるという植民地間の盟約を盛り込んだ。また、第 2 次大陸会議を 1775 年 5
月 10 日から開催することも決めた。 【②アメリカ独立戦争の勃発―レキシントン・コンコードでの武力衝突】 1775 年 4 月 19 日、イギリス軍がレキシントンとコンコードで、マサチューセッツの民兵
隊と武力衝突に突入した(図 13-63 参照)。これは双方、戦争を意図してはいなかったが、
結果的にアメリカ独立戦争に発展することになった。その夜からイギリス軍をボストン市
内に追い込み、ボストン市が位置する半島の付け根を占領したボストン包囲戦が翌年 3 月
まで続いた。マサチューセッツの植民地協議会は 1775 年 4 月 23 日イギリス軍との戦争を
遂行すべく 1 万 3600 人の民兵を動員した。 ○第 2 次大陸会議 第 1 次会議で決められていたように、第 2 次大陸会議は 1775 年 5 月 10 日から、今度は
ジョージアも加わって、アメリカ 13 植民地の代表によって、フィラデルフィアで開かれた。
結局、これから 1781 年 3 月 1 日まで何回も開かれることになったので、これらを総称して
第 2 次大陸会議といっている。 まだ、会議で独立するなどとは誰も言っていなかったが、このイギリスという遙かに強
力な敵との戦争に直面して、どうするか、どう対抗するか、軍事同盟の意志決定をせざる
を得なかった。イギリス軍に対抗するため、6 月 14 日に大陸軍の創設を決定し、翌日ヴァ
ージニアの大農園経営者のジョージ・ワシントン(1732~99 年)を最高司令官に任命した。 つぎに、この第 2 次大陸会議でも、ディキンソンら穏健派の指導者がイギリス政府との
和解を追求し、平和を象徴する「オリーヴの枝」と名づけた請願を出すことが決まった。
しかし、結局、ジョージ 3 世は 8 月にこの請願を受け取ることすら拒否したばかりか、北
アメリカ植民地が反乱状態にあると宣言した。しかも、翌 1776 年 1 月にはドイツ人傭兵隊
の北アメリカへの派兵に踏み切り、植民地人の抱いていたジョージ 3 世への期待もついえ
去ったのである。 こうなると、もう、戦争以外に道はなかった。1775 年 4 月、レキシントンとコンコード
で武力衝突が起き、マサチューセッツの民兵が正規軍たるイギリス軍を打ち破ったとはい
え、イギリスは七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)の勝利によって、今やヨーロッ
パで最強の国家になっていることは間違いなかった。 1775 年 7 月、新しく指名されたワシントン最高司令官がボストン郊外に到着し、植民地
軍の指揮を執り、大陸軍を組織化した。ワシントンは自軍に弾薬が不足していることを認
1716
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) め、新しい入手源を求めた。武器庫を襲撃したり、また、製造も試みられた。1776 年末ま
での軍需物資の 90%は輸入に頼っていた。輸入元の大半はフランスであった。 カナダのケベックからイギリスの支配を取り除くために、1775 年 9 月、カナダ侵攻作戦
を決行したが、これは失敗した。 ボストン包囲戦はその後も続いていたが、1776 年 3 月、イギリス軍から捕獲した大砲を
高地に運び上げたら、大砲がイギリス軍を見下ろす形になったので、イギリス軍のハウ将
軍は防衛できないと判断し、3 月 17 日にボストン市を明け渡した。ここにボストン包囲戦
は終わった。その後、ワシントンはニューヨーク市を守るために大陸軍の大半を移動させ
た。 ○自由はコモン・センス、独立は『コモン・センス(常識)』 イギリスとの戦争に入ったといっても、そもそも独立が当初から目的ではなかったし、
当時は、独立派はむしろ少数派であったと考えられていた。イギリスの不当な茶税などを
撤回させれば、今後もイギリス本国との貿易を通じてアメリカ植民地は発展していくと考
えていたのである。 そうしたなかで 1776 年 1 月に出版されたのが、トマス・ペインが執筆した政治パンフレ
ット『コモン・センス(常識)』であった。これは、3 ヶ月で 12 万部を売り切り、その年の
末までに 56 版を数え 50 万部が売れたという。全人口が 230 万人のアメリカでは全く前代
未聞の本であったようである。 植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱し、アメリカが独立するという考えは全
くもはや「Common sense」(常識)であるという。彼は『コモン・センス』で、植民地人が
イギリス本国と和解する頼みの綱と考えていた国王のジョージ 3 世を、人民の父どころか
「大ブリテン宮廷の野獣だ」とののしり、旧世界(ヨーロッパ)のどこもが弾圧に満ち溢
れているので、アメリカは、人類の避難所を、間に合うように準備しようではないかと説
いた(図 13-10 のように、そのころの世界は東洋(中国)もイスラム(黄緑色の部分)も
専制国家であり、ヨーロッパもすべて絶対王政であり(橙(だいだい)色の部分)、黄色の
部分は植民地であった)。自由を確保できる共和国の存立はアメリカをおいてほかにないと
熱っぽく説いたのである。 確かにヨーロッパは絶対王政が普通(コモン・センス)であった時代に(ましてやアジ
アもイスラム、つまり世界中が封建的独裁国家であった時代に)、人間が本来持つ自由(そ
れはもはやコモン・センスである)を確保できる国をとにかく世界に一つ作ろうというペ
インの訴えは説得力があった。 「・・・イギリスが我々を独占してきたことは事実だ。またイギリスの費用だけでなく我々
の費用も使ってアメリカを守ったことも認める。しかしイギリスは同じ動機すなわち貿易
1717
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) と支配のためならトルコでも守ったであろう。イギリスがアメリカの祖国なら、イギリス
の行動はいっそう恥ずべきものだ。鳥や獣でも我が子を食いはしない。私は、はっきりと、
良心から次のことを確信する。イギリスから分離独立することがアメリカ大陸の利益であ
ることを。」このペインのコモン・センスがベストセラーになると、住民の間でも植民地代
表者の間でも、独立論は最高潮に達した。 【③アメリカ独立宣言】 このような情勢のなかで、ヴァージニアのジョン・アダムズとリチャード・ヘンリー・
リーは大陸会議で独立を推進する方針を取り、まずヴァージニア議会ではかり承認された。 1776 年の大陸会議ではリチャード・ヘンリー・リーが、6 月 7 日、独立などに関する提
案を行い、この提案をめぐって白熱した論議が戦わされた。しかし、6 植民地の代表が独立
に消極的だったことから、独立に関する最終的な決定を 7 月 1 日まで延期する妥協がはか
られた。ただし、すでに戦争も始まっていることだし、遅滞を避けるために、独立宣言を
起草する委員会が、ジョン・アダムズ、フランクリン、ジェファソンら 5 人をメンバーに
して設置され、とりあえず、独立宣言案を並行して作成することになった。 ジェファソンは北アメリカ植民地の独立を、ジョン・ロックの社会契約論に依拠しなが
ら、政府を設立するのは個人の自由や権利を守るためであるので、政府が権力を乱用しそ
の目的を破壊する場合には、人民に政府を改廃する革命権があることを根拠にアメリカ独
立を正当化した。ジェファソンは個人の権利の内容を、ロックの「生命、自由、財産」か
ら「生命、自由、幸福の追求」へと変更した。それによって独立宣言は、財産権にとどま
らない時代を越える価値を付与されたのである。 「我々は次のことが自明の真理であると信ずる。 すべての人は平等に造られ、創造者によって一定の譲ることのできない権利を与えられ
ていること。それらの中には生命、自由および幸福の追求が含まれていること。そしてこ
れらの権利を確保するために人々のあいだに政府がつくられ、その正当な権力は被支配者
の同意にもとづくこと。もしどんな形の政府であってその目的を破壊するものとなれば、
その政府を改革し、あるいは廃止して新しい政府を設け、人民の安全と幸福をもたらすに
もっとも適当と思われる原理にもとづいて権力を形成することは人民の権利であること。
以上である。」これは大きな人類の叡知だった。 ジェファソンが宣言案を起案(起草)し、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委
員会案とされた。7 月 1 日に大陸会議で独立を宣言することに関する審議が始まったが、こ
の日の表決では 9 植民地が賛成したにとどまったので、2 日、3 日も討議が続けられ、13 植
民地中ニューヨークを除く 12 植民地の賛成で独立が決定され、独立宣言の文章も 7 月 4 日
1718
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の夕刻まで推敲が重ねられて成文の完成をみた。 その独立宣言は直ちに 1776 年 7 月 4 日大陸会議によって採択された。その後、7月 19
日にニューヨークが独立宣言に賛成したことによって、その名称には「全会一致の」とい
う言葉が付け加えられた。その結果、独立宣言の正式名称は「大陸会議における 13 のアメ
リカ連合諸州(ユナイテッド・ステイツ)による全会一致の宣言」となったのである。 ○連合規約 このあと、大陸会議は独立をした(この独立戦争もふくめて)
「ユナイテッド・ステイツ・
オブ・アメリカ」がよってたつ「連合規約」の検討にはいったが、この討議に 16 ヶ月もか
かり、やっとまとまったのは、1777 年末であった。 この連合規約は、アメリカ独立戦争において 13 植民地の相互友好同盟を定めた規約で、
連合の名称を「アメリカ合衆国 (United States of America)」と定め、13 州を統括する連
合会議の設置を定めていたが、すべての州で批准するまでには、それからまた 3 年半を要
した。最終的に連合規約は 1781 年 3 月 1 日にすべて批准されたが、その間は、つまり、1776
年 7 月の独立宣言から 1781 年 3 月までは(つまり、独立戦争のほとんどの間)、この大陸
会議という単なる「会議」が国家の役割を果たして、ワシントンはこの会議の意思決定に
もとづき戦争を遂行しなければならなかったのである。この間、戦争は乏しい金と乏しい
戦力のままで、やらざるを得なかったのである。 ○後退を続けるワシントン軍 ワシントン軍のボストン包囲戦に敗れたイギリス軍のハウ将軍はボストンから撤退した
後、ニューヨーク市の奪取に焦点を絞った。ワシントンはニューヨークの防衛のためにロ
ングアイランドとマンハッタンの間に 2 万人の軍隊を分けた。1776 年 7 月 4 日、大陸会議
はアメリカ独立宣言を採択した。ワシントンは新しく発行されたばかりのアメリカ独立宣
言を兵士達に読み聞かせた。もはや妥協の余地は無くなっていた。しかし、戦争はまだ始
まったばかりだった。戦争の行方は全く分からなかった。 1776 年 8 月 27 日、ロングアイランドに上陸した 2 万 2000 人のイギリス軍は、独立戦争
の中でも最大の会戦となったロングアイランドの戦いで大陸軍を駆逐し、ブルックリン・
ハイツまで後退させた。10 月、ホワイトプレインズの戦いでワシントン軍は後退を繰り返
した。ハウはマンハッタンに戻りワシントン砦を占領して約 2000 人を捕虜にした。捕虜の
数はロングアイランドの戦いの時と合わせて 3000 人に上った。 ハーレム・ハイツの戦いでハウがワシントン軍を囲むように動いたとき、ワシントン軍
はさらに後方に退いた。この後、ニューヨークで悪名高い「監獄船」(流刑のために植民地
に囚人を送る船)が始まり、この監獄船で独立戦争のどの戦いよりも多くのアメリカの兵
士や水夫の捕虜がほっておかれたまま死んだ。アメリカ独立戦争ではアメリカ側戦死者よ
1719
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) り多くの死者をイギリスの監獄船は出した。ニューヨーク市の公園とレクリエーション課
によれば「1 万 1500 人が過密さ、水の汚染、飢え、そして病気のために船上で死に、死体
は迅速に沿岸に埋葬された」という。 ワシントンの相次ぐ撤退は続いた。ワシントンは、その戦略を「拠点戦争」戦略と名づ
けていたが、敗北する危険のある大規模な戦闘は回避することを旨としていた。元来、ワ
シントンは攻撃型の戦略を重視していた。しかし、イギリス軍の軍事的優位や大陸軍兵士
の脆弱さを認めざるをえない状況に立たされて、イギリス軍に正面から戦いを挑むのは得
策ではないと判断するに至った。一旦、大敗を喫すれば、それで終わりである。ワシント
ンは自分の責任の重さをひしひしと感じていた。 ワシントンは、そのかわりに、アメリカの広大な地の利を活かして、イギリス軍の動静
を見きわめながら兵力を温存しておいて、辛抱強く好機の到来を待ち受けて勝負に出る戦
略に転換したのである。 チャールズ・コーンウォリス将軍がワシントンを追ってニュージャージーまで進軍し、
大陸軍は 1776 年 12 月早くにデラウェア川を渡ってペンシルベニアまで後退した。このニ
ューヨークからニュージャージーと続いたイギリス軍の方面作戦も冬に入って一旦停止し、
ニュージャージーで冬の宿営に入った。ハウは何度も消耗を繰り返す大陸軍を潰す機会が
ありながらしくじってはいたが、5000 人以上のアメリカ兵を殺すか捕虜にしていた。 大陸軍の前途は多難であった。使える兵力は 5000 人足らずになっていた。兵士は 1 年で
就役期間が終わるので 12 月末がくれば、1400 人まで減ることになっていた。大陸会議は絶
望のうちにフィラデルフィアを捨てた。 撤退続きのワシントンは年が改まる前に攻撃することに決め、1776 年 12 月 26 日、トレ
ントンの戦いで 1000 人近いヘシアン(ドイツ傭兵)を捕虜にした。コーンウォリスはトレ
ントンを再度奪取しようと進軍してきたが、ワシントンはその裏をかき、1777 年 1 月のプ
リンストンの戦いでイギリス軍の後衛部隊を打ち破った。ワシントンは一矢を報いた。こ
の勝利は、それまで敗走が続いていた中でアメリカ側の士気を高めた。イギリス軍はニュ
ーヨーク市周辺まで撤退することになった。 ○サラトガの戦い 1777 年、イギリスのジョン・バーゴイン将軍に率いられたカナダからの遠征隊は、アメ
リカのニューイングランドを孤立させるために、南下してきた。バーゴイン自身は約 1 万
人の兵士、もう 1 隊はバリー・セントリージャーに率いられる約 2000 人で、両軍はオール
バニで合流するというものだった。 アメリカ軍の将軍ホレイショ・ゲイツは 8000 人の部隊を率いて、現在のニューヨーク州
のサラトガの南約 10 マイル の地点に陣地を築いた(図 13-63 参照)。9 月、バーゴインは
1720
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) アメリカ軍の側面を衝こうとしたが、フリーマン農場の戦いで反撃され、バーゴイン軍は
苦境に陥った。しかしニューヨークのハウ軍がオールバニに(救援に)向かっていると思
い、持ちこたえていたが、ハウ軍は船でフィラデルフィアの奪取に向かっていてやってこ
なかった。 そのうち、アメリカ軍には民兵が続々と集まり、10 月の初めには総勢 1 万 1000 人に達し
ていた。次に挑んだベミス高地の戦いでも撃退されたバーゴインはついに 10 月 17 日に降
伏した。サラトガ方面作戦において、ドイツ人を含めたイギリス軍全体の損害は捕虜や脱
走を含めて 9,000 人に達した。これはアメリカ軍にとっては、はじめての大勝利だった。 ○再び後退、また、後退 イギリス軍のハウ将軍は、ニューヨーク市を占領したのち、当時の革命勢力の首都であ
るフィラデルフィアの占領をめざして、チェサピーク湾の北端に 1 万 5000 人の部隊を上陸
させた。ワシントンは 1 万 1000 人の兵士をフィラデルフィア防衛のために配置したが、1777
年 9 月のブランディワインの戦いで敗北して後退した。9 月 26 日、大陸会議は再びフィラ
デルフィアを捨てざるをえなかった。ハウはさらにワシントン軍を打ち破ってフィラデル
フィアを抵抗もなく占領した。 ワシントンは 10 月初めにハウ軍とジャーマンタウンの戦いを、さらに 12 月初めにはホ
ワイトマーシュの戦いを行ったが、どちらも決定的な勝敗には至らなかった。 ○バレーフォージの冬 ワシントンはバレーフォージを冬の宿営所とした。そこはフィラデルフィアから約 20 マ
イル (32 キロメートル)の所にあり、次の 6 ヶ月間を過ごした。 その年の冬はことに厳しい冬だった。数日後にはスカイルキル川に氷が張った。ワシン
トンの 1 万 2000 人の軍隊は食料に乏しく、装備も満足になく、長い行軍で疲れ切ってバレ
ーフォージに辿り着いた。行軍によって靴は傷んでいた。毛布の数が足りなかった。ぼろ
ぼろになった衣類でも交換するものがなかった。宿営の場所を選び、防御線が計画され配
置についた。積雪量は 6 インチ (15 センチ) であった。1000 戸以上の小屋が建設されたが、
絶対数が不足していた。食料も不足していた。 兵士達は小麦粉と水を混ぜた味のない「ファイアケーキ」で栄養補給していた。ワシン
トン軍の砲兵隊長ノックス将軍は何百頭もの馬が餓死するか疲労死したと書き残した。さ
すがのワシントンも、その時の状態が最悪だったので、
「何か大きな変化が突然起こらなけ
れば、 ... この軍隊はきっと ... 飢えて、解体され、日々の糧を得るための最善の方法
として散り散りになってしまうに違いない」と悲観的に述べていた。 栄養不足で着るものはぼろぼろ、宿舎は混み合い、湿気が多かったために、兵士は病気
や疫病に襲われた。発疹チフス、腸チフス、赤痢、それに肺炎が蔓延した。ワシントンは
1721
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 繰り返し救済策を求めたが、大陸会議は何もできず、兵士達は苦しみ続けた。徴兵された
兵士の親族の女性達が、軍が最も必要としていた洗濯や看護などの奉仕活動を行い、その
苦しみを和らげた。みんな必死だった。しかし、どうすることもできなかった。冬の間に 1
万 2000 人いた軍隊の 2500 人が病気と寒さで死んだ どんな厳しい冬でも必ず春は来る。1778 年春、プロイセンの陸軍大尉シュトイベン男爵
の訓練の甲斐あって大陸軍は蘇った。冬の間にも、シュトイベンはプロイセンの近代的な
戦法を教え、訓練され規律ある軍隊を築き上げていた(プロイセンがカントン制度なども
っとも進んだ軍事制度を作り上げていたことは述べた)。日々激しい訓練が行われ兵士達に
新たな自信を植え付け、完遂能力を与えていた。 【④国際戦争となった独立戦争】 ヨーロッパでは、イギリスの弱体化を望み、啓蒙思想の普及もあって、アメリカ植民地
に好意をよせるものが多かった。とくに、フランスのラファイエット(フランス革命参照)
やポーランドの愛国の志士コシューシコ(1746~1817 年。ポーランドの軍人)らは、義勇
軍をひきいて個人的に独立軍に参加した。 外国との同盟関係に慎重だった大陸会議も、ニューヨーク市でのワシントン軍(大陸軍)
の敗北で方針を変え、フランスやスペインを参戦させるために、フランクリンらパリ駐在
の使節団に交渉するよう訓令した。そのような可能性を開いたのは、1777 年にサラトガの
戦いで勝利したことだった。 サラトガの戦いで大陸軍が勝利したことを知ったフランスは 1778 年 2 月にアメリカ合衆
国と同盟条約を結んだ。これで北アメリカの反乱は国際的な戦争に変わった。 1779 年 6 月には、ブルボン家のよしみでスペインがフランスの同盟国として参戦した。
しかし、スペインは当初フランスとは異なり、アメリカ合衆国の承認を拒んだ。中南米に
多くの植民地をかかえた植民地帝国スペインは、アメリカの独立は同じような反乱を助長
するのではないかと神経を尖らせていた。しかし、イギリスを叩くことが優先された。 オランダも 1780 年に参戦した(第 4 次英蘭戦争)。3 国ともにイギリスの力を削ぐことを
期待して戦争の初めからアメリカを密かに財政的に援助していたのである。 1780 年イギリスの対アメリカ海上封鎖に対し、ロシア(当時、アラスカまで進出してい
た)のエカテリーナ 2 世の提唱下にスウェーデン・デンマーク・プロイセン・ポルトガル
が武装中立同盟を結成し、アメリカの独立を側面から援助した。イギリスは国際的に孤立
していった。 ○最後の戦場…ヨークタウン 1778 年 12 月から、戦線は南部に移った。ニューヨークから転進したイギリス軍はジョー
1722
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ジアのサバンナを占領し(図 13-63 参照)、続いてサウスカロライナのチャールストンを包
囲し、1780 年 5 月に陥落させた。イギリス軍のクリントン将軍は比較的少ない損失で南部
最大の都市と港湾を確保し、南部制圧への道を切り開いた。 1981 年 7 月、南部で勝利したイギリスのコーンウォリス将軍は海軍と連携を取ってニュ
ーヨークへ戻る道を切り開くためヴァージニアのヨークタウンに軍を進めた(図 13-63 参
照)。北部、南部および海上の戦いは 1781 年のヨークタウン 1 点に収束した。 フランス艦隊はヴァージニアに向かった。同時にワシントンはニューヨークから軍を南
下させた。フランス艦隊がチェサピーク湾に到着し、そこでイギリス海軍とチェサピーク
湾の海戦を行い、フランス艦隊が勝利し湾の制海権を確保した。18 世紀、19 世紀の 200 年
を通じてイギリスの艦隊が負けたのはこの海戦のみであるといわれている。これでコーン
ウォリスの海上への脱出の道は閉ざされた。 1781 年 9 月 28 日、ワシントンとロシャンボーはヨークタウンに到着し、ラファイエット
の部隊およびグラスの 3,000 人と合流した。結局、コーンウォリスと対峙したのは 1 万 7000
人となった。これは 2 対 1 の戦力差であった。ワシントンが長く辛抱強く待ち望んでいた
チャンスがついにやってきた。1 万 7000 人の大部隊で 10 月初めにヨークタウンを包囲した
(図 13-63 参照)。 ヨークタウンは攻囲され銃火に曝された。米仏両軍が砲撃で優位に立つなかで、コーン
ウォリス軍の立場は急速に耐え難いものになり、コーンウォリスはその窮状をニューヨー
クのクリントン将軍に知らせた。クリントンは援軍 5,000 人を載せた艦隊が 10 月 5 日まで
には到着すると約束した。しかし、救援は来なかった。 米仏連合軍はイギリス軍の鼻先わずか 400 ヤードから 2 回目の総攻撃を開始した。3 日後、
連合軍はイギリス軍の堡塁 2 つを占領し、前線をイギリス軍の目前まで進めた。10 月 16 日、
イギリス軍はフランス軍の砲兵隊に攻撃を挑んだが失敗した。連合軍の砲火はイギリス軍
の陣地の中にも直接降り注いでいた。 その夜、ヨーク川を渡って脱走が試みられたが、ひどい嵐のために失敗した。コーンウ
ォリスの軍は食料も弾薬も底を尽き、1781 年 10 月 17 日、遂に降伏を申し出た。約 7,000
人のイギリス軍が捕虜となった(救援部隊を載せた英艦隊が到着したのはその 5 日後の 10
月 24 日であった)。 捕虜となったイギリス兵は大陸にいた兵士の約 4 分の 1 であった。イギリス軍はまだニ
ューヨークやチャールストンのようなキーとなる港を占領していたので、その時点ではヨ
ークタウンが戦争のクライマックスであるとは認識されていなかった。ワシントンもまだ
しばらくは戦争が続くものと信じていた。 しかし、イギリスの首相フレデリック・ノースはヨークタウンの降伏の報せを聞いて辞
1723
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 任した。彼の後を受けたロッキンガム首相は戦争を続けることは得策ではないとして、和
平の交渉に入ることを決めた。主戦派のイギリス国王ジョージ 3 世は休戦の方向に進む議
会への支配力を失い、この後は陸上での大きな戦闘がなくなった。 【⑤独立承認―パリ条約】 米英間の最終的な平和条約(パリ条約)が、1783 年 9 月 3 日にパリで調印され、アメリ
カの独立が正式に承認された。 平和条約の発効をもって大陸軍は一部を除いて解散した。共和主義思想が説くように、
平時に常備軍を保持しない方針が実施に移されたのである。それにともないワシントンも
1783 年 12 月に最高司令官を辞任した。こうしてアメリカには第 2 次世界大戦への参戦まで
続く、戦争の勃発と共に動員し、戦争が終結すれば動員を解除するという軽武装国家の伝
統が生まれたのである。 アメリカ独立戦争によって失われた人命の総数は正確なところは分かっていない。当時
の戦争の常として、病気による死者が戦闘による死者の数を上回っていた。推計ではアメ
リカ大陸軍側の従軍中の死者は 2 万 5000 人とされている。このうち 8000 人が戦死で、残
りの 1 万 7000 人が戦病死であった。戦病死の中には捕虜として収容されている間に死んだ
者 8000 人が含まれていた。重傷を負った者、あるいは障害者となった者は 8500 人から 2
万 5000 人と推計されている。つまりアメリカ側の損失は高々5 万人ということになる。 イギリス海軍には約 17 万 1000 人の水夫が従軍したが、そのうち 25 ないし 50%は強制徴
募によるものだった。約 1240 人が戦死し、1 万 8500 人が病気で死んだ。一番多い死因は壊
血病であった。当時この病気を避けるための一番簡単な方法は、水夫にレモンジュースを
与えることだった。約 4 万 2000 人の水夫は脱走した。 ○イギリスが敗れた要因 今のアメリカを知っている我々からみるとアメリカが勝つのは当然だと思うが、この時
代は、イギリスがヨーロッパ最強でしかも 18 世紀のすべての戦争に勝っていたことを考え
ると、なぜ、アメリカは勝ったのか、あるいはイギリスはなぜ敗れたのかと思うのは当然
である。 一貫してイギリスは軍事力において相当に優勢であった。ただし、距離の問題がイギリ
スを苦しめた。援軍も物資も大西洋を越えて運ばねばならなかった。そのため、イギリス
には港湾都市から一歩離れれば兵站の問題が常について回ることなった。 一方アメリカは地方に行けば兵や食糧を補充でき、その環境に順応できた。また、大西
洋を越えるということは情報も 2 ヶ月やそこら遅れて伝わるということであり、アメリカ
にいるイギリス軍の将軍がロンドンからの指令を受け取るとき、軍事的な情勢が変わって
1724
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) しまっていることが多々あった。 また、当時、ヨーロッパでは首都を制圧することが戦争の終りを意味していたのに対し、
アメリカでは、イギリスがニューヨークやフィラデルフィアなどの都市を占領したのにも
かかわらず(当時はアメリカの首都はニューヨーク、フィラデルフィアであった)、戦争を
終らせることができなかった。 ある地域を占領したとして、イギリス軍が占領のための兵を置いておかねば、革命軍が
そこを再び支配してしまうことになった。占領を維持しようとすれば、次の作戦行動には
移れないことを意味していた。イギリス軍は戦場でアメリカ軍をたたくには十分な兵力を
保持していても、同時に占領を続けるには足りていなかった。この兵力の不足はフランス
とスペインが参戦した後は特に重大な問題となった。何故ならばさらに兵力を幾つかの戦
線に分散させざるを得なかったからだった。 ○アメリカ独立戦争の意義―世界初の民主主義国家の誕生 アメリカ独立戦争は、イギリス本国からの植民地の独立という政治革命であると同時に、
①次のアメリカ合衆国憲法の成立をもって、いえることであるが、世界ではじめての民主
主義国家が生まれたという点では人類の歴史で画期をなすものである、②植民地支配と結
びついた旧特権層の没落に代って、新興の商工業ブルジョワジーが台頭し、ゆるやかでは
あるが、政権の地盤となる社会層の交替がみられた、③封建的諸制度の撤廃、信仰の自由
の確立などがはかられた、という点で市民革命でもあった。 封建的諸制度の撤廃としては、独立後、王党派の領主制や長子相続制などの封建的立法
は廃止され、特権社会は実質的に解体された。また、1774 年の大陸会議で奴隷輸入禁止協
定が成立し、1789 年までにほとんどの植民地で奴隷貿易が禁止された(奴隷貿易が禁止さ
れただけで、南部では奴隷制度はその後、むしろ拡大し、これが 19 世紀の最大の問題とな
っていった)。 しかし、独立といっても、それは移住した白人の独立であって、黒人やインディアンの
人権は無視され、独立宣言にも奴隷解放についてはふれられていない。 アメリカの独立と新国家の誕生は、啓蒙思想の実現として、フランス革命に大きな影響
をおよぼし、ラテンアメリカ諸国の独立にも結びついていった。 アメリカの独立は、イギリスの植民地支配に打撃を与えた。北米植民地の大部分を失っ
たイギリスは、以後、植民地支配の中心をインドにむけた。 【⑥連合会議と連合規約の問題点】 1783 年、パリ条約が締結され、独立戦争は終わった。イギリス軍という外部の脅威は去
ったが、いろいろな重要な問題が起き、連合会議で決定すべきことは山積していたが、決
1725
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 定できなかった。この時は、アメリカ合衆国憲法はなく、アメリカ連合規約と連合会議で
アメリカを運営していけると考えていた段階であった。しかし、アメリカ合衆国をしばら
く運営してみたら、連合規約と連合会議に多くの問題点があることがわかってきたのであ
る。 連合規約はアメリカ合衆国を独立・自由・主権を有する州の恒久的同盟と規定し、宣戦
と講和、外交使節の交換、条約の締結など対外関係に関する権限を連合会議に与えた。連
合会議における議決は各州 1 票とし、13 州のうち 9 票の多数をもって可決されることとし
た。大州と小州の間には、大陸会議発足当初から代表権について対立があったが、当初か
らとられてきた各州 1 票の方式がそのまま採用されてきた。 連合会議には国防、外交、通貨などの権限は認められていたが、課税権を持たず、対外
通商および諸州間の通商を規制する権限、常備軍を保持する権限もなかった。また各州か
らの拠出金によって運営されていたために、連合規約の時期のアメリカ合衆国の財政基盤
は脆弱なものであった。輸入税が独自の歳入源として挙げられたが、それを実現するため
の各州の賛成は得られなかった。外交的立場も弱いものであった。 この財政基盤の脆弱さは、1776 年から 1777 年にかけての時期に、連合会議に課税権や通
商規制権を与えることを主張した共和主義の指導者がいなかったためである。共和主義の
指導者はそれぞれの植民地議会のみが人民に対する課税権を持ち、本国議会には課税する
権限はないと主張してきた。そして連邦に外交権を与えたとしても、通商について連邦か
ら規制されることは好まなかったのである。 しかしながら、その後、やってみると連合会議にある程度の課税権が必要であることは、
1780 年までには多くの大陸会議の代表によって認識されるようになった。1777 年には連合
規約の審議において州の権限を守ることに必死だったノースカロライナのトーマス・バー
クは、3 年後には大陸会議に輸入税徴収の権限を与えることを提案するほどに変わっていた。 このように社会システムは事前にすべて予測できるものではなく、ともかく少し動かし
てみて、不具合を手直ししていくことが大事である。 ○連合規約、連合会議の問題点 《北西地方問題―北西部条例で解決》 連合規約の批准に 3 年以上もの時間がかかったのは、主としてオハイオ川以北の西部領
土の領有権について複数の州がその領有権を主張したためだった。この西部領土の問題は
連合会議でも引き続き問題となり、結局、1787 年の北西領土の帰趨を決める条例(北西部
条例。図 13-63 の北西地方)として決定された。これは 13 州のあとにできる新しい州を
どのような原則で作るかを決めることで、きわめて重要なことであった(当時、13 州の姿
はあったが、現在の合衆国全体の姿はどこにもなかった。新しい州をどうつくるかで、ア
1726
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) メリカ合衆国の姿は大きく異なったものになったであろう。もし、13 州でとどまっていた
らアメリカは現在のような大国にはなっていなかったであろう)。 七年戦争のパリ条約(1763 年)でイギリスはフランスから北西部領域を獲得した。この
領域は一般にオハイオ領土と呼ばれ、イギリスは 1763 年宣言によって白人の入植を制限し
てきた。アメリカ独立戦争を終結させる 1783 年のパリ条約で、アメリカ合衆国はこの領域
をイギリスから領有することになった。 開拓者たちは以前からこの領域の開拓移民を嘱望していたが、イギリスの統治がなくな
ったことにより、この領域の領有権と入植を主張する州、マサチューセッツ州、コネチカ
ット州、ニューヨーク州、およびヴァージニア州がこの地域への拡大・領有を主張するこ
とになり、緊急にその統治方法を取り決める必要があった。 1784 年、連合会議でこの問題を担当したのは、ヴァージニアのジェファソンだった。 彼は、アパラチア山脈の西の全ての領土に対する各州の主張を取り下げさせ、将来、既
存の州と対等の権限を持つ新たな州を建設するよう提案した。そして、それは準州であろ
うと正式の州であろうと、以下の原則を守らねばならないとした。 *連合諸州の一員にとどまり、独立することは求められない。 *準州および州政府は共和政体にする。 *1800 年以降奴隷制を認めてはならない。 などというものであった。このうち第 3 の奴隷制の導入禁止は、ジェファソン自身が多く
の黒人奴隷を所有する農園経営者であったにもかかわらず提案した。このジェファソンの
提案は人類の叡知であった。 この条例の最も意味ある目的はこの地域に新しい州を創る条件を定めたことだった。こ
の領土の特定地域の人口が 6 万人を超えた時、新州を創立することを定めた。実際に新州
を創立するやり方は 1802 年の権限付与法で定められた。1803 年にこの法に基づく初めての
州、オハイオ州が誕生した。いずれにしても、この北西部条例は、連合規約、連合会議で
うまく処理できた唯一の大きな問題だった。 ○ミシシッピ川航行権問題と関税問題 北西部領土問題のような州間の利害がからむ重大な問題がたくさん生じていた。1785 年
スペインから派遣されたディエゴ・デ・ガルドキと連合会議の外務大臣ジョン・ジェイが
友好条約の締結に関して交渉したときも、スペイン側はミシシッピ川の航行権を放棄する
ようアメリカ側に強く求めた(ミシシッピ以東が合衆国で以西がスペイン領だった)。 ジェイは独立後の不況のアメリカ経済を立て直すためにスペインとの通商交渉を成功さ
せたかった。そして彼は、連合会議に、ミシシッピ川の航行権を 25 年間放棄する譲歩案に
同意するよう要請したが、ニューイングランドなど貿易振興を急務とする 7 州と西部の開
1727
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 発に利害関心を抱く南部の 5 州がまっこうから対立する形となった。 ヴァージニアの代表として出席していたジェイムズ・マディソンは、ミシシッピ川の自
由航行問題は、単に周辺の農園経営者の利益としてだけでなく、州間の連合存続との関連
においても考えていた。当時、南北アメリカ大陸に広大な植民地を領有するスペインはア
メリカ合衆国の独立も共和政の近隣地域への波及も望んでいなかった。スペインは連合会
議の分裂(アメリカ合衆国の分裂)という深刻な問題につながるような提案をしてきてい
るとマディソンはミシシッピ川航行権問題をとらえていた。 また、連合会議は独自の財源を確保するために、以前から連合会議に関税権を授けるよ
う各州政府に勧告していたが、とくに関税収入の多いロードアイランドとニューヨークが
反対だった。この間、ヴァージニアのマディソンは 1785 年にニューヨークに旅行して、各
州が単独で実施した関税が、いかに州間の軋轢を生じさせているかを目の当たりに見てい
た。彼はヴァージニアにもどると、こうした事態を打開するためにヴァージニア州議会に
働きかけた。その結果、ヴァージニア州議会は 1786 年 2 月に、商業問題の協議のために 9
月にメリーランドのアナポリスで会議を開催することを、他の州に呼びかけるに至った。 しかし、9 月のアナポリス会議には 5 州しか集まらず、マディソンやニューヨークのハミ
ルトンは、あらためて 1787 年 5 月にフィラデルフィアで「連合規約の改正」を目的にして
会議を召集する旨、各州政府に呼びかけた。12 の州がフィラデルフィアに代表を派遣する
ことを決定した。 【⑦フィラデルフィア憲法制定会議】 《憲法を仕掛けた男マディソン》 この会議がアメリカ合衆国憲法をつくることになるとは、その仕掛け人の一人であるマ
ディソン以外には思ってもいなかったであろう。 マディソンはヴァージニアの大農園経営者の息子で、ニュージャージー大学(現在のプ
リンストン大学)卒業後、定職に就かず政治に専念できた数少ない人物の一人だった。36 歳
とはいえ、すでに連合会議の運営には習熟しており、知的な関心も高く、独立後のアメリ
カに安定した秩序を実現することは政治的課題であるばかりでなく、彼自身の思想的・知
的な挑戦と受け止めていた。 彼の問題意識は、主権を持つ州間の連合をいかなる形態にするのがもっとも良いか、共
和国は小さい領土でしか存続しえないという当時の一般的な見方をいかに克服できるか、
であった。 マディソンは 1787 年 4 月、「政治制度の欠陥」と題する覚書を作成し、各州政府が連合
会議の政策に従わないのは、連合会議に政策を執行する強制力がないという連合制度の内
1728
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 在的欠陥に由来していると結論した。この点を克服するのは連合政府を創設する手続きで
あり、州議会ではなく、直接人民の批准を得なければならないと考えていた。彼にとって、
共和政とは、多数者が文字通り権力を握って正義を実現することであり、共和政への脅威
は逆に少数者が多数者を支配することであった(これまでの人類の歴史の大部分は、専制
政治にしても絶対王政にしても少数者が多数者を支配した歴史であった)。 これをどうやって防ぐか。共和政の実現に必要と考えたのは、第 1 に権力の乱用を防ぐ
ために連邦政府に権力分立制を導入することであり、第 2 に各州政府で野心や私的利害を
追求する議員が派閥を作ることによって、多数派を占める状態を打開することであった。
しかし、この第 2 の点は、共和国は小さい領土でしか存続できないという共和主義の見方
に深くかかわっていた。それをマディソンはスコットランド人の思想家デイヴィッド・ヒ
ュームの論文に依拠しながら、広大な領土で共和国を実現するのは難しいが、いったん実
現できれば公共善はむしろ達成しやすくなるという結論に達した。 このマディソンの結論は、広大な領土では社会の利益が多元的になり、容易に多数派が
形成しにくくなることや、
「有徳かつ開明的な」人物が主導権を握る連合政府がさまざまな
利害に対して中立的な立場に立ち、公平な法律を制定しやすくなると想定していたのであ
る。これはその後の政治の歴史でも実証されており、マディソンの人類の叡知である(こ
れは 220 年ばかりたった現代の地球世界を考えるにあたっても有効であると思う)。 ○1787 年 5 月フィラデルフィア会議―ワシントンの出馬 マディソンは思想・思索家だけではなかった。フィラデルフィア会議を成功させる周到
な準備もした。ワシントンの出馬が不可欠と考え、マウント・ヴァーノンに引きこもって
いたワシントンに丁重に働きかけて、了承を得たのである。ワシントンもまた連合会議が
機能不全に陥って混乱と暗黒に向かっていると感じていた。 ペンシルベニアからは大御所フランクリンが選ばれた(当時、81 歳だった)。こうして、
アメリカ全土で政治とはかかわりなく尊敬を集める 2 人の巨人がフィラデルフィア会議に
出席することになったのである。 会議はペンシルベニア州議会議事堂(インデペンデンス・ホール)に招集され、ジョー
ジ・ワシントンが全会一致で会議の議長に選出された。 フィラデルフィア会議が、
「連合規約の改正」という目的を超えて、合衆国憲法案の起草
へと向かう審議の基調を作り出したのは、1787 年 5 月 29 日の会議の冒頭で提案を行ったヴ
ァージニアの代表エドマンド・ランドルフであった。ランドルフは、現下の情勢は北はニ
ューハンプシャーから南はジョージアに至るまで不満が充ちていて戦争の前夜であり、こ
のままでは各州内部の民衆や民衆を扇動する勢力によって、共和政は崩壊してしまうと危
険性を訴えた。それは出席者すべてに共通する思いであった。 1729
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ランドルフが提案したヴァージニア案はマディソンが会議のために作った非公式な叩き
台であり、彼は会議に先立ってヴァージニア代表など主だった人を集めて勉強会をやって
いた。この叩き台は会議で本当によく叩かれたが、終始、議論の中心となった。このため
にマディソンは、あとで「アメリカ合衆国憲法の父」と見なされている。 まず、ヴァージニア案が提案された(当時、ヴァージニアが最大の人口だった)。連邦議
会の上下両院の議員定数をともに州の人口の数に応じて配分し、各州に対等な代表権を認
めず、連邦立法府には州政府の立法を拒否する権限も与えているなど、文字通り国家的な
政府の設立を目指すものであったので、中小州の代表が反対し、激しい論戦が戦わされた。 マディソンらはヴァージニア案の議員定数の配分方式は連合会議が機能不全に陥りやす
かった弊害を改善する措置だと主張した。それに対して、中小州の代表は、州の主権を規
定した連合規約の原則を踏みにじり、大州の犠牲にされる危険があると反論した。 中小州は休会を要求し、その間に中小州の対案をとりまとめた。ニュージャージー代表
のウィリアム・パタソンは 6 月 14 日に、中小州を代表して、各州 1 票を原則とし、連邦政
府の立法権を、連合会議の権限を受け継いで列挙した項目の範囲に限定するというニュー
ジャージー案を対抗提案として提出した。 7 月 2 日に至って各州 1 人の代表からなる委員会が設置された。フランクリンを中心とす
るこの委員会は 3 日後、連邦の立法府である連邦の議員定数を、下院については人口に応
じて、上院については各州平等に配分する調停案を提案した。 この提案はその後も激しい論議を経た上で、7 月 16 日に 5 対 4 の僅差で可決されたので
ある。この決定は「偉大な妥協」と称されるが、文字通り薄氷を踏むような妥協であり、
偉大なる人類の叡知だった。ここでは 81 歳のフランクリンが、物静かながら熟達した調停
の才を遺憾なく発揮していた。また連邦政府の立法権も、ニュージャージー案が提案した
ように州政府の立法を拒否する権限を持たず、独自の財源や外交、軍事、課税、州際など
の国家の中核にかかわる権限を確保したとはいえ、憲法に明記された列挙項目に限定され
たのである。 その後も個別的な利害調整を通じて、連邦政府による輸出税の禁止や 1808 年以降の奴隷
輸入の禁止、あるいはまた下院議員の議員定数や直接税を各州に割り当てる基準となる人
口について、黒人奴隷を自由人の 5 分の 3 と数える規定などが設けられたのである。 ○奴隷制の扱い 奴隷制の問題は今後にも尾を引く重要な問題であるので以下に記す。 アメリカ植民地には人口の約 5 分の 1 の奴隷がいた。その大半は南部植民地に住んでお
り、人口の 40%に達していた。新しい憲法の下で奴隷制が許され存続するか否かが北部と
南部の間の論点になり、南部の幾つかの州は奴隷制が認められなければ合衆国に加入する
1730
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ことを拒むとしていた。 奴隷制に関連して最も論争を生んだ問題点の一つは奴隷の数が議会における代表数を決
めるための人口の一部として数えられるか、あるいは代表を送れない資産と考えられるか
という疑問だった。奴隷人口の多い州からの代議員は代表数を決めるときは奴隷を人間と
して考えるべきであるが、新しい政府が人口を基に州に課税するならば資産と考えるべき
と主張した。これでは虫がよすぎる議論である。奴隷制が消滅あるいは消滅しようとして
いる州(アメリカ北部)からの代議員は奴隷が課税の根拠に含まれるべきであるが、代表
数を決めるときは含まれるべきではないと主張した。 最終的に代議員のジェームズ・ウィルソンが「5 分の 3 妥協案」を提案した。たとえばあ
る州に自由人 30 万人、奴隷 20 万人がいるとすれば、30+20×3/5=30+12=42 万人の州
とするというものである。5 分の 3 に合理的なる理由があるとは思えないが、やはり、ここ
でも合衆国憲法を成功させるために、
「偉大な妥協」がなされて、この案が会議で採用され
のである。 会議におけるもう一つの問題は奴隷貿易に関するものだった。10 の州は既にそれを違法
としていた。多くの代議員は熱烈に奴隷貿易を非難したが、残りの 3 州、ジョージア州と
両カロライナ州は、もし奴隷貿易が禁止されるならば、会議の場から立ち去ると脅した。
それを言われるとみんな弱かった。会議の代議員たちは奴隷制に関わる論争のために、憲
法が批准されないことを望まなかった。この問題の決着は延期された。しかし、その後の
連邦議会は奴隷貿易を禁止する権限があったはずだが、実際には 20 年以上経った 1808 年
に禁止した。 ○アメリカ合衆国憲法の批准 1787 年 9 月 17 日、憲法草案はフィラデルフィアの連合会議で完成され、その後、ベンジ
ャミン・フランクリンが演説を行って、憲法が発効されるには最低 9 つの州の批准があれ
ばよいことになっているが、全州一致を呼び掛けた。会議は憲法草案を連合会議総会に提
出し、連合規約第 13 条に従って承認されたが、連合会議が各州の批准を求めて憲法草案を
9 月 28 日に各州に送付した。アメリカ合衆国憲法案は各州で驚きをもって迎えられたこと
は当然である。しかし、もっと驚くべきことは、今度は約 10 ヶ月でそれが発効したことで
ある。 9 つの州の批准で有効となるという条件は連合規約第 13 条に反していたが、結果的に 13
州すべてが憲法草案を批准した。それは憲法発布の後であった。 多くの州で批准を巡って激しい議論が行われた後、ニューハンプシャー州が 1788 年 6 月
21 日、9 番目の批准州となった。連合会議はニューハンプシャー州の批准完了の報せを受
け取ると、新しい憲法の下での運営を始める日程を決め、1789 年 3 月 4 日、新政府が新憲
1731
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 法の下で動き始めた。 ○憲法修正―権利章典の付加 合衆国憲法が「偉大なる妥協」の産物であったということは、各州における批准でも多
くの反連邦派を生み出した。連邦議会の下院でこの問題に取り組んだのは、引き続きミス
ター憲法のマディソンだった。彼は各州の合衆国憲法の批准の際に付けられた付帯決議の
中で、権利章典がないのを批判する意見が多いことを配慮して、1789 年 6 月に憲法修正条
項案を提案し、第 1 回の合衆国議会は、アメリカ合衆国憲法に権利章典(Bill of Rights)
と呼ばれる第 1 修正から第 10 修正を付け加える件を審議し可決した。 現在のアメリカ合衆国憲法は、前文、本文、修正条項の大きく 3 つの部分からなる。本
文は 7 条からなる。ここでいう「条(Article)」は、日本の法律でいうところの「章」に
相当し、多くの条は、いくつかの「節(Section)」に分かれている。現在の修正条項は 27
条ある。このうち、最初の第 10 修正までがマディソンのときに付加されたのである。 こうして合衆国憲法が立法、行政、司法の三権の間の牽制均衡によって、連邦政府の権
力の乱用を防止しようとしていたうえに、信仰、言論、出版、結社や武装など、市民の権
利を積極的に保護することを目指す権利章典がつけ加えられることになったのである(普
通、基本的人権といわれているもので日本国憲法では憲法本文のなかにふくまれている)。 ○アメリカ合衆国憲法の思想的背景 この憲法は、世界最初の民主的な成文憲法で、各州の広範な自治を認めた連邦制、3 権分
立制などを特色とした(民主的な憲法による民主主義国家としては、人類社会でアメリカ
合衆国が最初である)。 この憲法に最も影響を与えたヨーロッパ大陸の思想は、専制政治を防ぐために互いに対
して行使する力の平衡を保つ必要性を強調したモンテスキューからのものである(啓蒙思
想のところで述べたように、この思想自体が共和政ローマの規約にある抑制と均衡を成文
化した紀元前 2 世紀のポリュビオスの影響を受けていた)。ジョン・ロックも大きな影響を
与えたことで知られており、またこの憲法にある適正手続条項は 1215 年のマグナ・カルタ
にさかのぼる慣習法に一部基づいている。他の先例と言えば、イロクォイ連邦(ニューヨ
ーク州北部のオンタリオ湖南岸とカナダにまたがる 6 つのインディアン部族により構成さ
れる部族国家連邦。現存する)の制度があり、アメリカ合衆国憲法や連合規約の基になっ
たと言われている。 また、権利章典の修正条項は、憲法が制定される過程で憲法の支持者たちが反対者に対
する取引として約束したものであった。これもイギリスの権利章典がアメリカの権利章典
に影響を与えた。例えば、陪審制による裁判を要求し、武器を携帯する権利を含み、また
過度の保釈金や残酷で異常な罰を禁じている(現在では、修正第 2 条の武器を携帯する権
1732
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 利は問題となっている。修正第 2 条(人民の武装権):規律ある民兵は、自由な国家の安全
にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはな
らない)。 さらに州憲法やヴァージニア権利章典で保護されている多くの自由はこの権利章典にも
盛り込まれている。このようにアメリカ合衆国憲法は、それまでの人類の叡智が総合され
て「大いなる妥協」をもって,出来上ったのである。 【⑧ワシントン政権】 第 1 回連邦議会は 1789 年 3 月 4 日に、ニューヨーク市のウォールストリートにあるニュ
ーヨーク市庁舎で開催された。誰もが予想していたように、4 月 6 日にワシントンが大統領
に選出された。 新しい合衆国憲法の下で初代大統領となったワシントンは当時のアメリカ合衆国政治史
で最も人気ある人物であり、「建国の父」と宣言され、1789 年の第 1 回大統領選挙は実質
上反対なしで当選した。議会の選挙人投票では全会一致で選ばれたが、全会一致というの
はそれ以後一度もない。ワシントンの選出に一般投票はなかった。 57 歳で大統領に就任したワシントンは、就任演説で広大な領土に連邦共和国を建設する
ことは「偉大な実験」であると決意を表明した。人類史上初めての試みであったことは確
かである。 副大統領にはマサチューセッツのジョン・アダムズが選出され、ローマの例にならって
元老院と名づけられた連邦議会の上院で議長を務めた。政権の閣僚には国務長官にジェフ
ァソン、陸軍長官にノックス、財務長官にハミルトン、郵政長官にマサチューセッツのサ
ムエル・オズグッド、それに司法長官にランドルフが任命された。閣僚の半数近くが 30 代
だった。連邦最高裁判所の首席判事には、ジェイが任命された。 行政省庁の官僚機構は、本省が最大の財務省でも 39 人の本省職員と 1000 人前後の徴税
人および税関職員からなっていた。陸軍省も 5 人の職員と約 3000 人の軍隊、国務省にいた
っては 4 人の職員と 1 人の通訳がいるに過ぎなかった。あとも推して知るべしであった。
本省職員数はその後増加したものの、1801 年の時点でも 130 人にとどまっていた。連邦政
府は中央政府としてきわめて規模の小さいアメリカ型国家で出発した。 ○財政をめぐる対立 1790 年 1 月、財務長官ハミルトンは連合会議から引き継いだ債務の償還問題を検討して、
「公信用に関する報告」を連邦議会に報告した。 そのとき、ハミルトンは、アメリカでは正貨が不足し、連邦政府の財政運営にとっても
支障をきたす恐れがあるのを考慮して、1790 年 12 月に第 1 合衆国銀行の創設を提案した。
1733
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ハミルトンは独立戦争のときのロバート・モリスの北アメリカ銀行の運営にも関与してい
た経験から、連邦政府の公信用を確立し、それを通して連邦政府の債権者や商人など、連
邦政府の財政運営に利害関心を抱く人々の支持を獲得しようと考えたのである。 これに対してジェファソンやマディソンは反対を唱えた。農園経営者のジェファソンや
マディソンは、金融問題にそれほど通じていたわけではない。しかし彼らはイギリスのウ
ォルポール内閣を批判した在野派の共和主義者思想を受け継いでおり、ハミルトンが連邦
政府への支持を獲得する手段として利用しようとしている銀行や投機家と政府の結びつき
が、政治的な腐敗をもたらすことを警戒していた。 このハミルトンとジェファソンらの対立は 200 年前のアメリカの現状にたってみなけれ
ば理解できない。このころのハミルトンとジェファソンにはアメリカの将来の展望につい
て、大きな違いがあった。ハミルトンは製造業の振興に意欲を燃やし、その展望には黒人
奴隷制に頼らないアメリカの発展という意味もあった。 それに対してジェファソンは、経済的に自立的な農民こそ共和政にふさわしい公徳心の
持ち主だとみて(ジェファソンももちろん、もはや奴隷制なしの農業の自立を考えていた
と思う)、アメリカが農業国として発展することを望んだのである(この当時は、イギリス
の産業革命ははじまったばかりで、まだ、工業というものが姿をあらわしていなかった。
産業発展と言えば、農業しかなかった)。 アメリカのその後の 200 年の発展史を知っている我々にはハミルトンもジェファソンも
正しかったことが分かっている。19 世紀にはアメリカは農業国として力強く発展し、アメ
リカ国民の教育向上と産業革命の進展にともなって 20 世紀には世界最強の工業国にもなっ
た(もちろん、農業も最強であるが)。これは何もアメリカだけのことではなく、人類共通
の発展過程であったのだが、200 年前のハミルトンもジェファソンも、それを経験していた
わけではなかった。 ジェファソン派のマディソンは、合衆国憲法は連邦政府に、銀行創設のための特許状を
発行する権限を認めてはいないと、いかにもミスター憲法らしく、憲法の厳格解釈の立場
から反対した。 この 2 人の反対に直面してワシントン大統領は慎重な姿勢を取り、ジェファソンや司法
長官のランドルフとも相談した。しかし、両者が否定的な意見を述べたにもかかわらず、
大統領は結局、ハミルトンの政策を支持したのである。これは、多分、ワシントンの感で
あったろうが、ワシントンの偉大なる叡知だった。ワシントンも新興国家アメリカの独立
という公共善を実現するために、経済的自立を重視していた。 ワシントンの決断で第 1 合衆国銀行問題は決着した。その後の第 1 合衆国銀行はハミル
トンが期待したとおりに、連邦政府の財政運営を支え、アメリカ経済の発展に対しても金
1734
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 融上促進的な効果をもたらした。 ○政党の発生 ジェファソンやマディソンは、ハミルトンの財政政策に対する不信から、1791 年以降あ
る程度まとまった党派活動を開始して、自らをリパブリカン(共和主義者)と名乗った。
ハミルトンを支持する人々はそれに対してフェデラリスト(連邦派)と自ら称し、リパブ
リカンとフェデラリストの対立は、しだいに政党制へと発展していった。 その後、ハミルトンらのフェデラリスト(連邦派)は中央集権と産業保護主義をとなえ
た。これに対してジェファソンやマディソンらのリパブリカン(民主共和派)は、アンチ・
フェデラリスト(反連邦派)であり、州権論にたって各州の自治と主権を主張して、南部
や西部の農民、小商工業者の支持を得て、連邦派に対立した。連邦政府と州政府のどちら
に重点をおくか、これはアメリカ憲法作成の過程でも大問題だった点で(憲法ではいろい
ろ「妥協」がはかられたが)、両者の意見対立はその後も続き、これが政党のもととなった。 ○ワシントン政権第 2 期 1792 年にワシントン大統領は再選され、第 2 期にはいった。 1789 年に始まったフランス革命が民衆革命へと発展し、1793 年にフランスがイギリス、
オランダ、スペインの 3 ヶ国に宣戦布告して、ヨーロッパが戦争状態に陥ったことにより、
アメリカもまたその戦争がひき起す不安定な国際情勢にさらされることになった。 《フランス革命と中立宣言》 アメリカの独立がなったのも、フランスの助勢があったらばこそ、それを一番知ってい
るのはワシントンだった。ワシントン政権は 1793 年 4 月に中立宣言を発してヨーロッパの
戦争から一線を画する方針を取った。しかし、イギリスは中立国の権利を認めず、第 1 次
対仏同盟の一環として、フランス領西インド諸島さらに対仏通商を目指すアメリカ合衆国
商船を臨検に及んだとき、ワシントン政府内の議論は揺れた。 合衆国船舶に乗る旧イギリ
ス人船員を逃亡者として投獄する措置までとったイギリス政府の強引な行動に対して対抗
策を打つのか、それともイギリスとの妥協をはかるのか。 対抗手段といってもとくになく、自らの弱さをあらためて知らされたワシントン政府の
中枢は、対英貿易の維持を期待して妥協を求めた。大統領ワシントンのほか財務長官ハミ
ルトン、そして副大統領ジョン・アダムズが妥協を支持した。 しかし、初代国務長官ジェファソン、さらには議会のマディソンらは、中立国の通商の
自由を主張する立場に加えて、当初はフランス革命に共感を寄せる姿勢から、政権主流の動
きを不快とした。 ジェファソンはその主張を広げるべく、独自の党派リパブリカンを支持
者の間に形成していった。 この合衆国政府内の対立は閣僚から議会へ、さらにその周辺へと広がっていった。この
1735
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ハミルトンら政権主流グループ(フェデラリスト)とリパブリカンとの葛藤は、財務長官
ハミルトンが展開した国内財政・経済政策をめぐる対立とも絡んで、その後も容易に解けな
かった。 イギリスはフランスと貿易する中立国の船舶を拿捕する指令を 1793 年 11 月に発し、こ
の指令で 250 隻以上のアメリカ船が拿捕されたのに対して、マディソンの率いるリパブリ
カンは連邦議会で 1794 年 3 月に、合計 60 日間のアメリカ船の出港停止措置を決定し、農
産物をアメリカからの輸入に依存するイギリスに報復しようとした。 ハミルトンらフェデラリストは、リパブリカンの強硬措置がイギリスとの貿易を阻害す
るのを恐れて、連邦最高裁判所の首席判事ジェイをイギリスに特使として派遣し、1794 年
11 月、イギリスとの間でジェイ条約を調印した。イギリスはいろいろ妥協をしたが、フラ
ンスへの農産物の輸出などに関しては、中立国としての権利を認めなかった。しかし、こ
のジェイ条約の締結によって、その後 10 年間にわたってイギリスとの関係は安定化をもた
らした。 しかし、このワシントン政府がイギリスの戦時処置を事実上容認したジェイ条約は、条約
成立に至った交渉の秘密性もあって、フェデラリストとリパブリカンの対立を一気に爆発
させた決定的事件であった。1795 年、ジェイ条約批准の争いのなかでジェファソン、マデ
ィソン支持のリパブリカン閣僚はすべて政権を去り、以後ワシントン政府は、フェデラリス
トが一党的に支配する政権へと変貌した(さらに、ワシントン後のジョン・アダムズの政府
(97 年 3 月発足)も一党的支配になったことは不幸なことであった)。 ○ワシントンの引退 ワシントンはすべてのことで先例を作ってきたが、最後にも、大統領が権力に固執せず、
2 期を限りに引退するという先例も作ったのである(合衆国憲法は、最初は大統領任期に制
限はなかったが、1951 年、修正第 22 条で 2 期までの制限が追加された)。 1796 年 12 月の大統領選挙をひかえて、9 月にワシントンは告別演説を行った。アメリカ
全体の連帯を確保することがいかに重要であるか、党派対立がいかに弊害であるか、ヨー
ロッパから遠く隔たっている利点を活かして同盟を結ばず中立に徹する必要性などを強調
した。 「ヨーロッパが重視している利害や関心事は、われわれにはまったく関係がない。また
は、ごくわずかな関係しかない。(略)われわれは外国からへだてられた環境にあるため、
ヨーロッパとは異なる道を歩むことができる。
(略)どの国とも恒久的な同盟関係を結ばな
いことが、われわれのとるべき政策である」と。このワシントンの告別演説がその後のア
メリカ外交の伝統となる孤立主義の方針を表明したものと受け止められている。 1797 年 3 月、ワシントンはマウント・ヴァーノンに帰ってきた。その年は多くの時間を
1736
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 農園で過ごし、農園のなかにウィスキーの蒸留所を造った。その日、ワシントンは馬に乗
って雪と雨の中を数時間、農園の見回りに過ごしたが、これが急性の喉頭炎と肺炎に変わ
り、1799 年 12 月 14 日、ワシントンは帰らぬ人となった。67 歳だった。 【13-8】近世のアフリカ 【13-8-1】サハラ以南の国家と都市の形成 近世のアフリカはヨーロッパの進出で、中世以来、芽が出かけていた都市や国家の形成
は阻害され、最終的にはほとんどの国や都市がヨーロッパの植民地になってしまった。 【①ナイル川流域】 15 世紀に入ると紅海沿岸を発祥とするフンジ王国が設立され、青ナイル流域にまで勢力
を拡大していった(図 12-99―c参照)。15 世紀後半にはダルフールの山地にダルフール
王国が築かれた。ともに 19 世紀まで存続していったが、エジプトのムハンマド・アリー朝
によって滅亡させられた。 【②スワヒリ(東アフリカ海岸)地域】 1498 年、喜望峰をまわったヴァスコ・ダ・ガマの船隊は,東海岸を北上しモザンビーク
を経由して、キルワにやってきた。ガマはモンサバ(現在のケニアの海岸都市)に寄港を
試みたが拒否され、インドに向かう前に最後にマリンディに入港した。ポルトガルの船隊
があらわれるのを見て,アフリカの人々は少しも驚かなかったといわれている。むしろ、
ちっぽけな船と見下した。インド洋をわたる航海がすでに成熟していた東海岸の住民は、
ずっと大きくて立派なアラブや中国の船を見慣れていたのである。ただし、彼らがその小
さな船には大砲という恐ろしいものが積まれているということを知るのに余り時間がかか
らなかった。 このポルトガルの航海者は東海岸におけるスワヒリ都市の繁栄をつぶさに観察し、その
基盤であるインド洋の交易をポルトガルの手中に入れることを王室に進言した。やがてポ
ルトガルのやり方はスワヒリ都市に破壊的な結末をもたらした。その船隊は小規模であっ
たが、装備した大砲の威力の前には、都市の抵抗は無力だった。ポルトガルはモンバサに
フォート・ジーサス砦を構築し、東海岸におけるポルトガルの要衝となった(図 12-99-
c参照)。 ところが、東アフリカにおけるポルトガルの支配は長くは続かなかった。17 世紀には,
アラビア半島東南部でマスカトを拠点とするオマーン王国(図 12-100 参照)が,ポルト
ガルの勢力を駆逐して,スワヒリ諸都市に総督を派遣し、関税の徴収や軍隊の統率など都
1737
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 市の統治を委任した。そのなかでも、モンバサがインド洋交易の拠点の地位を占め、オマ
ーンから総督に命じられたマズルイ家が勢力を拡大し,オマーンからの独立の気配を示し
た。 19 世紀に入って,オマーンのマスカトでサイード王が政権を握ると,モンバサのマズル
イ家に対抗して支配に力を入れ、1830 年代にザンジバル島(図 12-100 参照。現在のタン
ザニアの沖合)に王都をつくったのがストーン・タウンであった(ストーン・タウンは現
在、世界遺産になっている)。 【③ザンベジ・リンポポ川流域地域】 ○トルワ王国・モノモタパ王国・マニカ国 グレート・ジンバブエ没落後の 15 世紀、高原の南西部にトルワ国、北東部にモノモタパ
国、東部にマニカ国が興ったことは中世の歴史で述べた(図 12-99-c参照)。 トルワ王国とポルトガルは金の交易を通して交流を深めていったが、やがて 17 世紀中盤
になるとポルトガルの影響が次第に強くなり、王位継承権にすら介入されるようになった。
その混乱で、17 世紀末に、高原北東部で発生したチャンガミレ一族の侵攻を受けてトルワ
王国は滅亡した。 また、モノモタパ国も同様、ポルトガルやイスラム商人などと金の交易を行っていたが、
ポルトガルが次第に影響力を強くしていって、1629 年、ポルトガルの支配を受けることと
なった。マニカ国でも同様の事態が起こり、ポルトガルの支配下となった。 ○チャンガミレ国 1680 年代、新しくチャンガミレ一族という勢力が台頭し始めた。もともとはムタパ国の
ウシ監督官であったチャンガミレは同志を率い、1684 年、マニカ国のポルトガル人を攻め
始め、翌年にはトルワ国を滅ぼし、チャンガミレ国を建国した。1690 年代に入ると国王が
代わり、主権奪回を狙うモノモタパ国と協力し、ポルトガル商人を領内から追放すること
に成功した。その後、平穏を取り戻したモノモタパ国とチャンガミレ国は警戒しつつもポ
ルトガルとの交易を再開し、以降 200 年の長きにわたり、外来の脅威を排除していた。 18 世紀以降はそれまでのような大きな国家の勃興はなかったが、小さな首長制をとる国
家が無数に割拠する時代となった。この「戦国時代」の荒波に抗うことができなかったモ
ノモタパ国はみるみると弱体し、19 世紀末に消滅した。チャンガミレ国も分裂、統合を繰
り返しながら小国家の中へと消えていった。 【④ギニア湾岸地域】 1738
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) この地域に興った国家は、以下に述べるようにヨーロッパ諸国に自国民をとらえて奴隷
として売りはらい、一時的に繁栄したが、最後には自身もすべてヨーロッパの植民地にさ
れてしまった。 ○ベニン王国 ベニン王国は、12 世紀から 1897 年までナイジェリア南部の海岸地帯に存在した王国で首
都は現在のベニンシティであった(図 12-99-b、c参照)。現在のベナン共和国はこの国
の名にちなんで命名されたが、地理的にも歴史的にもつながりは全くない。 1486 年には、ポルトガル王国の使節がベニン王国に入り,外交および通商関係が結ばれ
た。その後、オランダなどヨーロッパ諸国との交易も開始された。この取引は象牙、胡椒、
奴隷などと銃・火器とを交換するものであって,ベニンは銃・火器を取り入れ軍事力と王
権を強化し、また、この銃・火器により(自国民の)奴隷狩りを拡大し繁栄した。 18 世紀に入ると、西のヨルバ人のオヨ王国が力を伸ばし、また奴隷貿易の中心も西のダ
ホメ王国やアシャンティ王国方面に移り、ベニンは衰退した。 1897 年、イギリスとの間に紛争が起こり、イギリスはベニンを占領し、街を焼き払い、
王国の文化財を破壊し略奪した。ベニンのブロンズ像はこのときに略奪され、世界各国へ
と流れていった。 ○オヨ王国 ヨルバ人は、主に現在のナイジェリア南西部に居住し、ヨルバ諸国(図 12-99-b、c
参照)は熱帯雨林やサバンナの中に点在する城壁に囲まれた都市国家群であり、都市を中
心に周辺地域を支配した。その中でイフェ王国は 1100 年ごろから 1700 年ごろまで栄えて
いたが、やがてより西方のオヨ王国が実権を握り、軍事力でヨルバ諸都市に覇を唱えた。
しかし聖権は引き続きイフェの王の下にあり、聖権(イフェ)と軍権(オヨ)との二重権
力体制が確立した。 オヨは、ヨーロッパ人がやってくると奴隷貿易によってさらに力をつけ、富を蓄えてい
った。その富で騎兵隊を作り軍備を増強して、16 世紀末にはイフェをしのぎ、ヨルバ諸国
を支配下に収めた。ヨルバを統一したオヨはさらに南へと勢力を伸ばし、1728 年にはダホ
メ王国を服属させた。このころから 1 世紀間はオヨの黄金期であった。 しかし 19 世紀にはいると、西のダホメがオヨへ攻め込み、1830 年にはオヨ王国はほぼ滅
亡し、住人は四散した。その後細々と続いていったものの、往時の盛況を取り戻すことは
ついになく、1905 年にイギリスに併合されて滅亡した。 ○ダホメ王国 ダホメ王国は現在のベナンにあったアフリカの王国で(図 13-72 参照)、17 世紀に創建
された。歴代の王たちの主要な収入源は奴隷貿易であり、西アフリカ沿岸の奴隷商人との
1739
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 関係であった。ダホメ王国の王たちは戦争をして領土を広げるに伴い、とらえた捕虜たち
と火器を交換し、捕虜たちは南北アメリカ大陸に奴隷として売られた。しかし、奴隷貿易
においてダホメ王国の最大のライバルであったのは隣国のオヨ王国であった。ダホメ王国
は最終的にフランスに 1892 年から 1894 年にかけて征服された。 ○アシャンティ王国 ヨルバ王国のあと、現在のガーナにおいて,18 世紀ごろに強大になったのがアシャンテ
ィ王国(1670~1902 年。図 13-72 参照)であった。当時は交易ルートの転換期で、北のサ
ハラ交易から南のヨーロッパ人との奴隷貿易へとこの地の経済構造が変化してきていた。
その流れに乗り、海岸部のエル・ミナ砦やアクラにいるヨーロッパ人への奴隷貿易で力を
つけた。 図 13-72 18 世紀のアフリカ 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 しかし、1824 年、海岸部のイギリス人とアシャンティ商人との紛争が起こり、第 1 次ア
シャンティ戦争が勃発した。交易によって手に入れたヨーロッパ製の銃火器により、1873
年~1874 年、1893 年~1894 年、1895 年~1896 年と対英戦争を続けたが、最後の戦争でア
シャンティは独立を失い、イギリスの属国となった。1900 年、アシャンティ全土でイギリ
1740
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) スへの大反乱が起こり、1901 年にイギリスに併合され、イギリス領ゴールドコーストの一
部となった。 【⑤コンゴ川流域地域】 ○コンゴ王国 ヨーロッパの大航海時代が始まり、アフリカの大西洋沿岸には、まず、はじめにポルト
ガルの航海者たちが姿を現した。1482 年、ディエゴ・カーンはギニア湾沿岸を航海しつづ
け、ある一つの大きな川の河口(ザイール川)に達した。さらにカーンは、この大きな川
を奥へ進むとコンゴ王国(図 12-99-b、c参照)が存在することがわかった。こうして
ポルトガルとコンゴの交渉がはじまった。ポルトガル人が訪れたときには、すでにコンゴ
王国は建国以来 150 年は経過していたという。 コンゴ王国の開祖はマニ・コンゴで近隣の民族を次々と征服した結果、コンゴ川下流を
中心に現在のガボンからアンゴラまでの広い領域の王国を作り上げたといわれている。王
国の内部はいくつかの地方国にわかれていて、それぞれの首長(マニ)が治めていたが、
その首長をマニ・コンゴが任命した。当時のコンゴ王国の領域は 20 万平方マイルで、人口
は 400 万人ないし 500 万人に達していた。 ポルトガルと接触するまでは、コンゴ川流域は大陸内部の閉じた世界であったが、急速
に変化していった。新たに未知の大陸から来る産物を川にさかのぼって運搬する西の窓口
として機能するようになった。その窓口よりもたらされた新しい作物キャッサバはバナナ
よりもさらに生産性・生育性が高い作物で、バナナが広がった時と同様、各地の農業形態
に大きな変革を起こした。 その他ヨーロッパからは銃、火薬、衣服などの工業製品や銅細工、鉛細工などの工芸品、
肉や魚の燻製などがもたらされ、生活水準が飛躍的に向上していった。一方コンゴ王国か
らは木材や土器、象牙、奴隷などが交易品として取引が行われていた。 さて、ポルトガルとコンゴ王国の関係であるが、当初は対等の相互交流的な関係を持ち、
1490 年、当時のマニ・コンゴ(王)であったンジンガ・ムベンバはキリスト教へ改宗し、
ドン・アフォンソという洗礼名も授かっていた。彼はポルトガル人との間で奴隷貿易も行
っていた。しかし、奴隷貿易の弊害があらわれ、アフォンソ王はポルトガル王に奴隷貿易
を禁止するよう書簡を送ったが、聞き入れられず、コンゴ王国はやがて衰退していった。 ○ルバ王国 コンゴ川源流域においても 1500 年ごろにはルンダ、ルバの両王国が形成されていた。コ
ロンゴという人物によって建国されたルバ王国は、首長を頂点として複数のクラン(父系
民族)と奴隷が合体する社会構成をとっていた。彼らは農業・漁業を生業とし、さらには
1741
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 鉄・銅・塩などを交易品として東アフリカのインド洋沿岸地域民族と通商していたようで
ある。 ○ルンダ王国 また、チビンダ・イルンガによって建国されたルンダ王国もルバ王国と同様の形態を持
っており、アフリカ東部やアンゴラなどと交易をしながら生活していた。特に銅を多く産
出し、主要な交易品となったようある。 以上、アフリカの中世から近世の時代には、アフリカ大陸の各地にかなり高度な文化が
存在していたが、そこで暮らす人々が独自の文字を生み出すことはなかった。文字が誕生
しなかった理由の一つは、定住型の農耕社会とはちがって、正確な土地台帳や貯蔵作物に
関する記録をつける必要がなかったからだと考えられている。 文字が無かったことは、情報のやり取りには不便だっただろうし、行政上の障害にもな
ったはずである。もちろん、文化的な進歩も阻害されたことであろう。その結果、アフリ
カには学識のある「賢者」から科学や哲学についての知識を学ぶという習慣が、長らく生
まれなった。 それに対してアフリカの民族芸術は、まさに傑作とよべる素晴らしい作品を数多く残し
ている。後世のヨーロッパ人を魅了してやまないジンバブエの石造建築や、ベニンのブロ
ンズ像、無数の彫像や仮面などである。 【13-8-2】ヨーロッパ人の到来と奴隷貿易 ○奴隷貿易のはじまり 1441 年にはポルトガルのアンタム・ゴンサルヴェスが、今日のモーリタニア北部の海岸
に達し、現地のベルベル系住民を捕らえて本国に連れ帰った。これが、その後の奴隷貿易
の最初だった。最初の時期、アフリカからポルトガルに運ばれた奴隷は、大西洋のマデイ
ラ諸島で開始された砂糖プランテーションで農業労働力として使用された。すでにヨーロ
ッパでは砂糖の需要が急増していたという事情があった。 ポルトガル人航海者は、1466 年にはアフリカ大陸最西端からはるか沖合のヴェルデ岬諸
島のサンティアゴ島に砦を築き、さらにギニア湾沿岸に入って、次々拠点を築いていった。
これらの砦の建設には、地元の政治的首長との合意が必要であった。 1481 年には、ポルトガルは黄金海岸にサン・ジョルジュ・ダ・ミナ砦、通称エル・ミナ
を築いた(図 13-72 参照)。エル・ミナとは鉱山の意味で、ここは背後のアカン地方に産
出する金を集めるのに格好の港であることに着目したのである。エル・ミナから運び出さ
れた金は、1506 年にはポルトガル王室の歳入の 4 分の 1 の額に達した。その後、この海岸
1742
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) は黄金海岸(ゴールド・コースト)という名称で呼ばれた(ポルトガルはその後、奴隷貿
易も行なうようになった)。 1500 年には、ポルトガルはギニア湾のサン・トーメ島(現在のガボン共和国に属する)
を占領した。海抜 2000 メートルの火山の山麓の肥沃な土壌にめぐまれたこの島に砂糖プラ
ンテーションを作り、その労働力として奴隷を送り込んだ。 ポルトガルでは 1510 年に、西インド諸島で売却するために奴隷を輸送する許可が与えら
れた。さらに、ポルトガルはリスボン奴隷局を設立した。その目的はアフリカから運んだ
奴隷の価格を決定し売却することにあった。この時点では、まだ、新大陸やカリブ海地域
における砂糖プランテーションへの奴隷貿易は成立していなかった。 ポルトガルに追随して、ヨーロッパ諸国はギニア湾岸における金や象牙といった産物の
交易にあらそうようにして参加した。ポルトガルが築いたエル・ミナ砦は、1642 年にオラ
ンダによって占拠され、オランダ・ゴールドコーストの首都となり、オランダは大西洋奴
隷貿易を継続した。このエル・ミナ砦は 1871 年にイギリスが占領し、1957 年、イギリスは
ゴールドコーストの独立を承認した(エル・ミナ砦はガーナ政府により改修され、現在は
世界文化遺産になっている)。 同じようにポルトガルが現在のセネガルの首都ダカールの沖合 3 キロメートルのコレ島
を奴隷貿易の拠点としていたが、スペインから独立したオランダが、1588 年にゴレ島の基
地をポルトガルから奪った。コレ島は、さらにイギリスやフランスなどといったぐあいに
支配は転々と移ったが、現在はフランスから独立したセネガルのものとなっている(奴隷
貿易の拠点は世界遺産に登録されている)。 イギリスの場合にも、はじめアフリカへの関心は、象牙のような特産品にあった。1530
年、西アフリカへイギリス人として最初に航海を行ったウィリアム・ホーキンズは象牙を
持ち帰った。当時のヨーロッパ諸国の関心は、入手した産物にちなんで命名した胡椒海岸、
象牙海岸、黄金海岸、穀物海岸、奴隷海岸などの名称に示されていた。そのうちヨーロッ
パ人は、とくに奴隷貿易に大きな利潤を見いだし、その規模を拡大していったのである。 ○奴隷貿易の拡大 ポルトガルは、1576 年には、ロアンダ(現アンゴラ共和国のルアンダ)に新しい港を建
設したが、これは新局面を開くもので、直接的な奴隷貿易の開始を告げるものであった。 アフリカの奴隷貿易について議論する際、欧米の歴史家からは自己弁護というわけでは
ないだろうが、しばしば言及されることは、アフリカにはすでに奴隷制度が存在していた
という事実である。つまり、ヨーロッパ諸国による奴隷貿易の開始以前に、アフリカの社
会のなかには階層による区分があって、その階層の下部に奴隷の存在があったという点で
ある。確かに、北アフリカへの奴隷の搬出は早くからあった。イスラム時代にもアラビア
1743
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 半島にはアフリカから奴隷が運ばれ、王宮などで使用されたが、その規模は小さいものだ
った。それらの事実があったとはいえ、ヨーロッパが行った大規模で非人間的な奴隷貿易
を正当化したり免罪したりすることにはならないであろう。 ○大西洋三角貿易 16 世紀まではヨーロッパからもたらされる加工品と西アフリカの産物(金や象牙)など
の交易が平和裏に行われ、友好な関係が築かれた。しかし、ヨーロッパ各国が西インド諸
島やアメリカ大陸で鉱山の開発やヨーロッパ市場に向けた大規模な農場経営に乗り出すと、
大量の労働資源確保の必要性に駆られ始めた。 スペイン人は新大陸で金や銀の鉱山における採掘労働に大量のインディオを使役した。
さらに、1530 年頃から、サトウキビ農場を開き、インディオ奴隷や白人の年季奉公人を労
働力とする砂糖生産を開始した。 アメリカ大陸などの現地住民には限りがあり、また、インディオが大量に病死するよう
になった。そこでインディオの人口激減による労働力不足をアフリカに求めた。また、ア
フリカの奴隷の価格はインディオの奴隷の価格の 3 分の 1 だったうえに、酷使に耐えると
いわれていた。 大西洋を横断する奴隷貿易に最初に着手しはじめたのはスペインであった。スペイン人
によって新大陸にアフリカ人奴隷が送り込まれたのは、カリブ海のエスパニョーラ島が最
初で、1505 年のことであった。まだアフリカからではなくスペインからの導入であった。 1513 年にスペイン王室が初めて奴隷供給契約許可証(アシエント)を発行した。許可証
を手にしたスペイン商人は新大陸から砂糖を持ち帰ると 1518 年に初めて「商品」として奴
隷を積み込み、アフリカ西海岸を発った。アシエント制度の成立は、以後、各国の商人が
競って奴隷を新大陸へ大量に導入するきっかけとなった。 彼らは三角貿易と呼ばれる航海サイクルで莫大な利益を手にしていった。図 13-65、図
13-72 のように、ヨーロッパ諸国から綿布、羊毛、ガラスのビーズ、ラム酒、鉄砲、火薬な
どの工業製品がアフリカに輸出され、アフリカからは奴隷を「商品」として新大陸に移送
し、新大陸で生産された砂糖やコーヒー、ワタなど熱帯産品をヨーロッパへ送るという、
いわゆる「大西洋三角貿易」が成立したのである。 このような三角貿易は特にイギリスに莫大な利益をもたらした。産業革命の確立期にあ
たり、マンチェスターなどの綿織物産業は原料の供給と生産物の輸出先を確保できたので
ある。このように世界資本主義は初期段階において、まず、アフリカの人間を「商品」と
し、アフリカをヨーロッパ工業製品の「市場」に組み入れた大西洋三角貿易という世界資
本主義システムを形成したのである。 ○過酷な中間航路 1744
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) アフリカから新大陸にいたる奴隷という「積み荷」を運んだ奴隷船の航路は、三角貿易
の悪名高い「中間航路」と呼ばれた。人間ではなくモノ扱いを受けた奴隷は狭い船内に多
数収容され、病気などで途中死亡するものも多数出た。 アフリカ西海岸から新大陸に至る約 40 日から 70 日の奴隷の運搬は過酷を極め、航海中
の奴隷の死亡率は 8%から 25%に上るとされ、平均して 6 人に 1 人が死亡した。全裸で鎖に
繋がれた奴隷は剃毛(ていもう)され、会社の刻印を焼き付けられ、船倉に詰め込まれた。
食事は 1 日 2 回で少量の水とともに与えられるだけであった。不潔な船内ではマラリア、
天然痘、赤痢などの感染症がはびこることも多々あり、病気にかかった奴隷は生きたまま
船外へ投げ捨てられた。 奴隷の需要はとどまるところを知らず、17 世紀後半にはアフリカ大陸内で奴隷獲得のた
めに戦争が頻繁に行われるようになった。また、人さらいも横行し、その被害を受けた者
も多数にのぼった。奴隷貿易によって大量の労働力を失ったアフリカの諸都市は急激に力
を弱め、ヨーロッパ人による略奪と支配が横行するようになった。また、ヨーロッパ製品
が大量に氾濫し、現地の工芸や産業も停滞して低開発化が進んだ。このような状況が先進
国からの目で「自立が不可能」との評価につながり、後の大規模な植民地化へと繋がって
いくことになった。 また、アフリカ人に対する差別主義も深く根付き、当時アフリカに滞在したヨーロッパ
人の日誌や記録をもとに、それらの思想は哲学者や生物学者の手によって、学問に組み込
まれていった。植物学者カール・フォン・リンネ(1707~1778 年)は人類をホモ・サピエ
ンス(知恵をもつヒト)とホモ・モンストロスス(奇怪なヒト)の 2 種に分類し、アフリ
カ人らを後者に分類した。また、モンテスキューなどの哲学者も「極めて英明なる存在で
ある神がこのような漆黒の肉体に善良なる魂を宿らせたという考えに同調することはでき
ない」(『法の精神』1748 年)と語るなど、庶民にアフリカ=野蛮という認識を植えつけ
ていった。 しかし、19 世紀に入るとヨーロッパ諸国はアフリカに対する接触の仕方を変化させた。
産業革命を迎え、人格を拘束する奴隷制は次第に時代遅れになり、自らの意思で労働力を
切り売りする労働者が求められる時代へと変革していったからである。ヨーロッパの都合
で激化した奴隷貿易はヨーロッパの都合により次第に終息し、アフリカ人不在のまま、植
民地化の時代へと突入していくこととなった。 ○アフリカ社会が被った影響 この奴隷貿易でアフリカ社会はどのような影響を被ったであろうか。 1745
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) まず、人口学的な面では、奴隷狩りによって多数の人口が失われた。これは、農村にお
ける農業労働力の流失や各種の手工業生産に従事する職人等の流出を意味した。奴隷の男
性対女性の比率は 3 対 1 という具合に、男性の比率が高かった。 具体的に失われた人口数については、フィリップ・カーティンはアメリカに上陸した奴
隷の記録などを利用して大西洋奴隷貿易の奴隷数を推計し、1451 年から 1870 年までに 939
万人余の奴隷がアメリカに送られたとしている。別の研究では、この数字は増加して 1886
万人と倍も異なっている。通説では、1500 万人ないし 2000 万人とされている。いずれにし
ても、多量の人口流失がアフリカ社会に壊滅的な打撃を与え、現在までに続く貧困の原因
となっていると考えられている。 アフリカ奴隷は、どの地域に運ばれたかを図 13-73 に示す。ブラジルが 3 分の 1、つぎ
にフランス領であったことがわかる。 図 13-73 1451~1870 年の奴隷貿易人数と割合 帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』 【13-9】近世のオセアニア ○オーストラリア
《タスマンの探検》 オランダ人のアベル・タスマンは、オランダ東インド会社の命令により、1642 年 8 月に
バタビア(現在のジャワ島)を出航し、南緯 50 度近くまで南下して、まっすぐ東進した。
その結果タスマニアを発見したが、オーストラリア東部の形状を探ることなく東進を続け
た結果、1642 年 12 月、ニュージーランド南島の南端に到着した。タスマンはそれから北東
に進んでトンガ諸島に到達した。 《クックの探検》 1746
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 1768 年 8 月、イギリスのプリマスから、ジェームズ・クック(1728~79 年)が指揮する
368 トンのエンデバー号が出帆した。この船は、王立協会の要請により、1769 年 6 月 3 日
に予定されていた太陽面の金星通過を観測するために、王室海軍が派遣するものであった
が、イギリス海軍本部はクックに秘密の訓令―イギリスの領土を獲得するよう命じていた。 ジェームズ・クックはこの訓令を忠実に履行し、図 13-74 ように、1768 年から 1780 年
までの間に、3 回の航海を行い、太平洋をくまなく探検航海し、はじめてその全貌を明らか
にした。その間の 1770 年 4 月 20 日、結果として、クックの探検隊はオーストラリア大陸
の東海岸に到達した史上初のヨーロッパ人となった。 図 13-74 キャプテン・クックの航海 エンデバー号は海岸線に沿って北上を続け、1770 年 4 月 29 日に、クック一行がオースト
ラリア大陸に初めて上陸した。現在ではカーネルとして知られている場所であった。この
最初の上陸の際に、クック一行はオーストラリア先住民のアボリジニとあっているが、乗
組員と当地のアボリジニの人々との遭遇はおおむね平和的であったといわれている。 《オーストリア、流刑植民地の時代》
それから 18 年後、1788 年のはじめに、前哨基地と囚人の入植地を設置するためにアーサ
ー・フィリップ艦長率いる第 1 艦隊がオーストラリアに到着し、総督アーサー・フィリッ
プと士官たちは、3 隻のボートに分乗し、現在のシドニー空港があるあたりに上陸した。こ
れがイギリスによるニューサウスウェールズ植民の始まりであった。イギリス政府は、そ
れまで流刑囚をアメリカ植民地へ送っていたが、アメリカが独立し、送るべき流刑囚が監
1747
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 獄にあふれたので、ニューサウスウェールズ植民地を建設したのである。約 1000 人(約 750
人は囚人)をのせた囚人輸送の第 1 船団は、ポートジャクソン湾のシドニー入り江に移住
した。 初期のニューサウスウェールズ植民地は、主に囚人や解放囚人とそれを監督する役人と
兵士によって構成されていた。1805 年のセンサスでは、総人口は約 7000 人、そのうち約
30%が女性であった。約 2000 人の囚人に対し、約 600 人の役人と兵士がいた。穀物の自給
に成功し、羊の数も約 2 万頭に達したが、植民地の経済は本国政府の流刑地維持のための
支出に依存していた。 イギリス政府は、若くて健康な囚人をオーストラリアに送った。流刑囚の 80%は 16 歳か
ら 35 歳であり、いかなる移民集団よりも移民として最適とされる年齢に属する割合が高か
った。熟練労働者の割合は、イギリスの一般的な労働者とほぼ同じか、それよりも高く、
識字率もイギリスの約 58%に対し、約 4 分の 3 とかなり高かった。流刑囚の犯罪をみると、
約 8 割が窃盗犯であり、約半数は初犯であった。つまり、流刑囚は、特殊な犯罪集団とい
うよりはむしろ、一般的なイギリスの労働者と異なることはなかったといえよう。 イギリスは近世には、まだ、オーストラリアを流刑植民地として利用したにすぎなかっ
た。 ○ニュージーランド
《マオリ人の島》 ニュージーランドには、9 世紀頃、ポリネシア人開拓者が島々にやってきていて、彼らの
子孫は マオリ人と呼ばれる。マオリ人は、アオテアロア(ニュージーランド)にイギリス
人が入植する前から先住していた人々である。形質的・文化的にはポリネシア人の一派で
あった。マオリとは、マオリ語で人間という意味である。 マオリ人はニュージーランド北南島(特に北島)を「アオテアロア」
(長い白い雲の土地)
と呼んでいた。最初の居住者はモアというダチョウに似た飛べない大きな鳥の狩猟者たち
で、乱獲によりモアを 15 世紀までに絶滅させた。モアを餌としていたハルパゴルニスワシ
(ハースト・イーグルともいう。鷲の仲間で、羽を広げると 3 メートルもある史上最大の
猛禽類)もモアと共に絶滅している。 マリオ人は、熱帯であるクックやタヒチと違い、ニュージーランドは温帯であり、狩猟
採集に加え農耕を始め、住居もポリネシア風住居を基にそれより小さめの住居を建て始め
た。人口が増えると各々が「イウィ」と呼ばれる部族を作り、部族同士の衝突も起こるよ
うになった。 人々はイウィを守るため、丘の上や峰など戦略的に大切な部分に柵や堀など
を置いてイウィを防衛した。これは要塞で守られた村の意味で「パ」と呼ばれた。 《ヨーロッパ人の到来》
1748
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ヨーロッパ人として初めてこれらの島を発見したのは、前述のようにオランダ人のエイ
ベル・タスマンで、南島と北島の西海岸に投錨した。マオリとの争いがあったために西岸
をトンガへ北上した。
1643 年にヘンドリック・ブラウエルによって改めて調査され、チリの南ではないと分か
ると、オランダの知識人はオランダのゼーラント州に因み、ラテン語で "Nova Zeelandia"
(「新しい海の土地」という意味)と名付けた。 タスマンが訪れてから 100 年以上後、ジェームズ・クックがエンデバーで 1769~1770 年
に訪れた時に、英語で "New Zealand" と呼んだ。彼は島全体および周辺の調査を行い、こ
の調査の結果、ヨーロッパ人の捕鯨遠征が始まった。ジェームズ・クックはその後の第 2
回・第 3 回航海でもニュージーランドを訪れた。その時に北島・中島・南島と名付けたが、
中島が今の南島に、その時の南島が今のスチュアート島になった。 その後、イギリスを始めヨーロッパ各地からの移民流入が始まった。 【13-10】近世と 19 世紀の境目で
○ほぼ同じレベルだった中世までの世界 近世の 300 年間を通じていえることは、1500 年の時点では世界のレベルは経済的にも軍
事的にもほぼ同じであったものが、1800 年の時点ではヨーロッパが突出していたというこ
とである。 1500 年の時点では、図 11-73 のように、東洋の広大な帝国が莫大な富を蓄え、強力な軍
隊を保有していることと比較すれば、むしろ、ヨーロッパは弱点ばかりが目立って、影が
薄れてしまう状態だった。 ヨーロッパは地味の豊かさでも人口でも、世界最高というわけにはいかなかった。その
どちらの点でも、胸を張れるのは中国とインドだったのである。地政学的にも、ヨーロッ
パの「大陸」はあまり恵まれてはいなかった。北側と西側は氷と水に閉ざされ、東側は開
かれていたものの、陸づたいにしばしば侵略を受け、南側を包囲する戦略をとられればお
手上げになりかねなかった。古代にはフン族に、中世ではイスラムやモンゴルに攻められ
たことがあった。 スペインのイスラム領の最後の拠点であったグラナダが落ちたのはわずか 1492 年のこと
だったが、これは地域紛争が決着したということでしかなく、キリスト教文明圏とイスラ
ム勢力圏との大規模な対決はまだ終わるどころではなかった。西欧世界の多くは、1453 年
のコンスタンティノープル陥落のショックからまだ覚めきっていなかった。この事件がさ
らに大きな意味を含んでいたとみられるのも、図 12-60 のように、15~17 世紀までオスマ
ン帝国が大きくヨーロッパに食い込んで進出したからである。 1749
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) そのうえ 1520 年代には、オスマン帝国の恐るべき常備兵の軍団イエリチェリ(新軍)が
ブダベストとウィーンをうかがうという危機的な事態となっていた(1529 年、1683 年のウ
ィーン包囲)。南側では、オスマン帝国のガレー船がイタリア各地の港を襲い、教皇はロ
ーマが間もなくコンスタンティンノープルと同じ運命をたどるのではないかと不安にから
れていたのである。 こうした脅威が、メフメト 2 世とその後継者たちの壮大な世界制覇戦略から生じていた
のに対し、ヨーロッパ側の対応はばらばらで散発的であった。オスマン帝国や中国とちが
って、また間もなくインドで樹立されるムガル帝国ともちがって、統一ヨーロッパという
ものはなく、万人が認める世俗の、あるいは宗教的な指導者もいなかった。ヨーロッパに
は小さな王国や公国、辺境の領主国家、都市国家などが乱立していた。西のほうでは、ス
ペイン、フランス、イギリスなどいくつかの強力な絶対君主国家が興隆しつつあったが、
どれも内部は安定せず、たがいに力を競いあっていたため、一致協力してイスラム圏と戦
える状態ではなかった。 さらに、中世の歴史で述べたように、ヨーロッパの文化や科学遺産のほとんどはイスラ
ム圏からの導入したものだったし、イスラム圏のそれもまた中国からの借りもので、何世
紀も前からの通商と征服・侵略の繰り返し、人々の交流のなかで獲得してきたものだった。 ただ、ヨーロッパはイタリアを中心に 15 世紀末に商業の面で目覚ましい発達をとげていた
ことは述べたとおりであった。 つまり、中世末の世界にいくつかあった文明の中心は、いずれもほぼ同じ発達段階にあ
り、それぞれが、よそより進んでいるところもあれば、遅れているところもあるという状
態だったといえる。 それが近世の 300 年でヨーロッパが突出するようになったのはなぜか。 ○ヨーロッパが伸びた理由 1500 年の時点では、東洋やイスラム世界と同じかむしろ劣勢であったヨーロッパが近世
の間にそれらを凌駕した理由は、次のように考えられている。 《複雑・多様性に富んだ地形》 ヨーロッパは地理的に複雑・多様性に富んでいて、騎馬民族が迅速に大帝国を打ち立て
られるような広大な平原は存在しない。ヨーロッパには、ガンジス、ナイル、チグリス・
ユーフラテス、黄河、長江などの大河がなく、したがって、大河の流域に肥沃な地帯が発
達していることもなく、食料が豊富で、征服しやすい勤勉な農民が多く住んでいる地域で
もなかった。 ヨーロッパは地形的に分断されていて、人々は山や広大な森林によって隔てられた谷あ
いのあちこちにかたまって住んでいた。こうした地理的な特性のために、いかに強力な領
1750
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 主が努力しても統一的な支配を確立することが困難であった。あのローマ帝国も統治しや
すい地中海側には帝国を立てたが(地中海に面していたから、広大な帝国をつくるのに海
軍力が使えた)、ライン・ドナウの北には、とうとう入れなかった。これはカール大帝も
オットー大帝も同じだった。あのモンゴルも何度か侵入・掠奪まではできたが,ヨーロッパ
全土が蹂躙・統治される可能性は小さかった(たとえモンゴル皇帝の死によるバトウ軍の撤
退がなくても)。 つねに権力の中心が各地に分散し、地方の王国や辺境の領主国家、高地地方の氏族、低
地の都市同盟が存在して、ローマ帝国崩壊後のヨーロッパの政治地図はつねにパッチワー
クのキルトにも似ていた。このキルトの模様は世紀によってさまざまだったが、一つの色
が全体を染め上げて統一的な帝国をつくることはついぞなかったのである。 《覇権に手をかけたハプスブルク家も引きずり下ろされた》 1500 年からほぼ 1 世紀半、ヨーロッパ大陸各地にスペインとオーストリアのハプスブル
ク家に支配された王国、公国、領地が広がり、ハプスブルク家の政治および宗教上の影響
力がヨーロッパ全土を支配しそうな勢いをみせたことがあった。はじめてヨーロッパの覇
権に手をかけたときがあった(たとえば、図 13-12 参照)。 しかし、これに対する他のヨーロッパ諸国の同盟による挑戦は激しく、1494 年からのイ
タリア戦争、ドイツの数々の宗教戦争、80 年続いたネーデルランドの反乱(オランダ独立
戦争)、1618 年から 48 年まで続いた 30 年戦争など、入れ替わり立ち替わり、この間、ほ
とんど連続的に戦争が続けられ、ハプスブルク家の拡張政策はついに挫折した。 しかし、いずれもオーストリアとスペインのハプスブルク家が戦争の一方の当事者で相
手方は時代時代によって、戦争戦争によって異なるが、ハプスブルク家以外のヨーロッパ
諸国がほとんどすべて参加した。ヨーロッパ以外のオスマン帝国もハプスブルク家に水陸
で挑戦した。 ハプスブルク家ほどではないにしても、フランスのブルボン家も積極的に周辺国へ侵略
戦争を繰り返したが、結果的にはほとんんど領土を拡張することはできなかった(たとえ
ば、ルイ 14 世の図 13-16 参照)。19 世紀のはじめにナポレオンが大陸部をナポレオン色
で染めかけたが(図 14-6 参照)、それも数年でスペインのゲリラ戦によってほころびを
みせ、ロシア遠征で完全に破綻した。 《商業活動が盛んになった》 ひるがえって、この地理的な多様性が成長をうながしたともいえる。ヨーロッパは地方
によって地形も気候もちがうことから、生産物は量は少ないが多様であり、ここで生きぬ
く人々は古来、知恵をしぼり、森林を切り開いてつくった街道づたいに物資を運び、交易
にはげんだ。政治と社会の中心があちこちに分散していたため、商業活動が自由に発展し、
1751
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 商人や港、市場に対する管理が厳しくなかったことが重要なことであった(これは地理的
条件で強力な専制国家(帝国)が出なかったことと裏腹の関係にある。つまり、一円に統
制するものがいなかったということである)。権力者もこれをまったく押さえつけること
は自分の首をしめるようなもので、ある程度自由にさせることしかなかった。 ヨーロッパには統一的な権力が存在せず(存在できず)、したがってそれぞれの商業活
動の発展が力づくで妨害されることがなかった。事業家や企業家を広範囲にわたって組織
的に収奪する徴税人もいなかった(図 13-10 のように、中国(明、清)、イスラム(オス
マン帝国、サファヴィー朝)、インド(ムガル帝国)などの絶対専制君主国の強力な官僚
制度ではそれをやった)。こうした徴税制度が東洋やイスラムの世界の経済の発展を大幅
に遅滞させたのである。 ヨーロッパには多様性があった。一方に商人を掠奪し追放する領主がいても(フランス
のユグノー追放、フランドルの織物職人の移住など)、他方にはそれを歓迎して受け入れ
る国もあった(とくにイングランドやプロイセンが歓迎した)。ラインラントの領主が行
商人に高い税金をかければ交易路がよそに移ってしまい(ヨーロッパ大陸の交通路は図 12
-6 のように地形上ネットワーク状になっていた)、領主の懐に入る金もなくなってしまう
だけだった。 絶対君主といえども(スペインの歴代王やフランスのルイ 14 世など)、借金を踏み倒せ
ば、次の戦争に備えるため、すみやかに資金を調達して軍備をととのえ、艦隊を整備しな
ければならなくなったとき、どこからも金が借りられなくなってしまう。銀行家や武器商
人、職人は社会に不可欠の成員であって、余計な存在ではなかった(イギリスでは海外の
銀行も含めて国債発行をはじめ、資金(軍事費)調達をはじめた)。ヨーロッパではあた
りまえのことがあたりまえとして通ったが、東洋やイスラム世界では専制君主にとって都
合の悪いものは存在できなかった。 ヨーロッパ各地の政権はしだいに市場経済と共存することを学び(つまり、自分の恣意
的な政治信条にあわせるのではなく、現実の実態にあわせて政治をするほうが得策である
ことを学びはじめていた)、公平な法律制度を保証し、税金というかたちで貿易の繁栄の
分け前にあずかるようになっていった。アダム・スミスが、国富論で「遅れた野蛮な段階
から脱して,豊かな繁栄した社会を築くために必要なことは、平和、低い税金、そして寛大
で公正な行政のみである・・・」と述べているのは、まさに実態がそうであったのである。 ヨーロッパで唯一かなり大きな国土をもっていたスペインとフランスの絶対専制君主ら
しい君主であったブルボン王朝などは、(東洋の専制君主とおなじように)金の卵を産む
ガチョウを殺してしまうこともあったが、そんなことをすれば、富が減り、軍事力も低下
することは、目に見えていた(現にそうなった)。 1752
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《多様な軍事勢力》 ヨーロッパの(地理的・地形的・国家的)多様性が商業の多様性を生んだが、多様性は
商業だけではなかった。ヨーロッパには経済力および軍事力の中心がいくつも存在した。
イタリアのある都市国家が繁栄すれば、かならず他の国が登場してきて傾いた秤を元にも
どしてしまう。「新しい絶対君主国家」が領土を広げれば、きっと競争相手があらわれて
その行く手を阻もうとするのである。 30 年戦争の大義名分は宗教戦争だったが、真の理由は、結局のところ、競争者が存在し
たことであった。そして、ヨーロッパの特異なのは、対立するすべての勢力がいずれも新
しい軍事技術を獲得するチャンスをもっていたことで、そのうちの一つの勢力が決定的な
優位を占めるわけにいかないことだった(これは前述のネットワーク的商業と関連し、武
器・兵器・傭兵・軍事技術がそれを必要とするところへどこでも流れた)。 たとえば、スイスの傭兵隊は金を支払ってくれれば、誰のためにも戦った。また十字弓
の生産地は一つでなかったし、大砲にしてもマスケット銃にしても同じだった。初期の青
銅砲にせよ、もっとあとの安い鋳鉄砲にしろ、あちこちで製造されていた。こうした火器
はウィールド地方(イングランド南東部)、中央ヨーロッパ、マラガ(スペイン南部の都
市)、ミラノ、リェージュ、そしてのちにはスウェーデンなどの鉱山の近くでつくられて
いた。 同様に、造船業もバルト海や黒海をのぞむ各地の港でさかんだったから、一つの国が海
軍力を独占するとことは困難だったし、海の向こうにある武器製造の中心地を征服し、滅
ぼすことも難しかった。ヨーロッパでは多くの政権が競いあっていて、たいていの国が独
立を維持するだけの軍事力を所有するか、所有する力があったのだが、そのうちどれをと
っても、大陸全土を制圧するほどに突出した力を獲得することはできなかったのである(そ
れだけの軍事力を得るには、まず、経済力を得る必要があったが、前述のように経済力・
商業力はヨーロッパではネットワーク的・分散的であった。史上初めてそれだけの経済力
をもったのは,産業革命後(19 世紀)のイギリスであった。そのときイギリスは世界の覇
権を握った)。 結局、ヨーロッパ諸国が分立し対立しあっていたために(1500~1800 年のヨーロッパが
相互にいかに多くの戦争をしあったかは、本書で縷々述べたが)、統一された「武力によ
る帝国」が生まれなかったが、その戦争の過程で軍事技術は飛躍的に進歩していった。 もし、16 世紀から 17 世紀のはじめまでにヨーロッパの専制君主が、明帝国の大部隊やス
ルタンの強大な軍隊とぶつかれば、たちまち蹴散らされるほどのものではなかったかと考
えられる。だが、その後は、軍事力のバランスが急激に西欧へと傾いていったのである。
それはどうしてか。 1753
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) 《ヨーロッパ絶対王政国家の軍拡競争》 図 13-10 のように、東洋やイスラムの専制君主国には周辺に競争相手がいなかった。そ
れに対してヨーロッパでは、図 13-10 のように(橙色の部分)、10 ヶ国ぐらいの絶対王政
国家があって、いずれも優るとも劣らぬ競争相手が分立していた。都市国家や、更に大き
な王国同士が原始的なかたちで軍拡競争をはじめたのである。これには社会経済的な原因
も働いていただろう。たとえば、都市国家はできるだけ早く勝利をおさめられる武器と戦
略を要求したのであり、それは戦争の費用をできるだけ安くあげるためだった。 このいわば自由競争体制のもとで、各傭兵隊長は競って仕事にありつこうとし、同時に
職人や発明家は製品を改良して、新しい注文をもらおうと必死になった。 (火薬が中国からイスラムを通してヨーロッパに伝播し)15 世紀初め、大砲が初めて用
いられたとき、西欧とアジアでは設計にも有効性にもほとんどちがいがなかった。巨大な
鍛鉄の筒から轟音とともに石の弾丸を発射すれば、たしかに脅威を与えただろうし、それ
なりの効果もあった。これは、1453 年にオスマン帝国がコンスタンティノープルの城壁を
攻撃させたときに使った大砲であった。だが、つねに武器を改良しようと努力する意欲が
あったのは、ヨーロッパだけだったようだ。 ヨーロッパ人は火薬の性能を高め、小さくて(同じような強力な)大砲をつくろうと青
銅や錫の合金を使い、砲身や弾丸のかたちや材料、砲台や砲車に工夫をこらしつづけたの
である。この努力のおかげで、武器の能力と移動性は大幅に向上し、その所有者は非常に
強力な要塞でさえも攻め落とすことできるようになった。たとえばイタリアの都市国家は、
1494 年にイタリアに侵入してきたフランス軍が恐るべき青銅製の大砲を装備していること
を知って肝をつぶした。そして、当然のことながら発明家や学者の尻をたたいて、この大
砲に対抗できるものをつらせようとした。 これに対して、明では政府が大砲を独占していたし、インドのムガル帝国で権力を握っ
た支配者たちも武器を独占していたから、いったん覇権が確立してしまえば、ムガル帝国
の軍隊の指揮者は、周辺の遅れた人々(槍で立ち向かってくる相手)を相手にしていたの
で、武器を改良する必然性がなくなった。 オスマン帝国のイエニチェリ(新軍。トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」
を意味する。世界初の火器で武装した先鋭部隊だった)が、中世と近世の境目であった 1453
年にコンスタンティノープルを大砲で陥落させたときは、東洋,イスラム、ヨーロッパを
通じて、最新鋭の部隊だった。中東からバルカン半島、地中海を征服すると、イエニチェ
リは昔ながらの戦闘方法に固執してあまり武器に関心をもたず、気づいたときにはすでに
手遅れで、ヨーロッパに追いつくことができなくなっていた。 1754
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ロシアもヨーロッパであるが、16~17 世紀の政治的統一と成長の段階では、地理的に西
欧からはるかに離れたところにあった。そのロシアもスウェーデン、デンマーク、ポーラ
ンド、リトアニアなどの北欧諸国との衝突を繰り返し、何度も痛い目にあって(たとえば、
ピョートル大帝が証人である)軍事力が強化された。ここでマスケット銃と大砲を手に入
れたので、ロシアは、長い間の懸案だったアジア平原の騎馬民族の脅威を永久に排除でき
るようになった(中世までモンゴルなどの騎馬民族にたびたび侵略された)。 ロシアは、スウェーデンやポーランドのように同じ武器をもっている西側への進出は難
しかったが、火器をもっていない軍事力の劣る南(バルカン、オスマン)と東(中央アジ
ア、シベリア)の部族や諸汗国への領土の拡大ははるかに容易だったのでもっぱらこの方
面の侵略を進めた。 《ヨーロッパの兵器開発競争―兵器革命》 政治の世界で武力が最後にものをいうのは、古今東西同じであった。近世の軍事力に変
化のきっかけがあったとすれば、それは画期的な火器の発明であったことは容易にわかる。 この「兵器革命」については、ルネサンスの発明で述べたように、大砲とマスケット銃の
出現と進歩だったことは述べたが、その後について述べる。 青銅製の大型大砲製造技術は、伝統的にイタリア人が握っていた。そして、同じハプス
ブルク家統治下のドイツやベルギーもその技術を学び、質の高い大砲を生産していた。な
ぜイタリア人が青銅鋳造技術を独占していたのか、それは、長らく教会の鐘を作り慣れて
いたからであった。 しかし、その後、小型の鉄製大砲の鋳造技術は完全にイギリスに握られるようになった。
イギリスの鉄製武器の製造は、15 世紀の終わり、チューダー朝の開祖ヘンリ 7 世によって
初めて試みられた。彼はバラ戦争で白バラのヨーク家を武力で破り、王位を奪取したこと
は述べたが、その後も反乱が多く、彼は人一倍、武器開発には熱心で、フランスの技術者
を招き、技術導入しながら鉄製武器の生産を奨励した。このころのイギリスにはまだ森林
が多く、木材燃料が豊富で、かつ鉄鉱脈にも恵まれていた。ヘンリ 7 世は高価な青銅から
安価な鉄製品に代用させようとした。 ヘンリ 7 世を継いだヘンリ 8 世(イギリスの宗教改革のところで述べた)の時代になっ
てから鋳鉄砲が初めて試作された。ニューブリッジの王立製鉄所のラルフ・ホッジという
職人が溶鉱炉から銑鉄を作る技術を開発し、上質の鋳鉄砲を作ることに成功した。これが
サセックスの鉄鋼業のルーツとなった。 当時、私掠船の発達によって大砲の需要は増し、これに対抗する商船も大砲で重武装す
るようになり、大砲の需要は一挙に増大した。この大型砲の需要で、各地に溶鉱炉が建設
1755
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) され、エリザベス朝の 1570 年代には合計 9 つの溶鉱炉がフル稼働していた。イギリス製の
大砲は、鉄製大砲にありがちな砲身の炸裂がなく、小型で威力が高かった。 確かに、もろさの点で鉄製武器は、青銅製武器におよびもつかなかったが、値段が安く、
青銅製の 3 分の 1 ないし 4 分の 1 であった。武力衝突を繰り返す大陸諸国家にとって、消
耗品となった武器が大変安いということは魅力で、売れに売れ、鉄製武器は次第にイギリ
スの重要な貿易品となった。 こうして、イギリスは 16 世紀の後半、突如として武器大国に変貌した。そして、それは
新たな武器技術の幕開けであった。鉄製武器はイギリスの軍事海洋大国への道であり(1588
年にスペイン無敵艦隊を破った)、軍事産業への、また、産業革命への兆しでもあった。 イギリスの鍛冶職人が引っ張りだこになり、かなりの技術者が大陸に渡ったので、エリ
ザベス女王は、ラルフ・ホッジに鉄製大砲製作の独占権を与え、他の鍛冶職人の密造を禁
じた。しかし、他の鍛冶職人が密造し、その製品をスウェーデン、デンマーク、フランス、
スペイン、フランドルへ密輸するのを防ぐことができなかったので、1574 年、エリザベス
女王は、大砲の輸出禁止令を布告した。これが最初の戦略物資の禁輸措置であったといえ
る。 そのため、各国はそれぞれ模倣製造を行わざるを得なくなった。このころ海洋貿易の覇
者であったオランダは(オランダ独立戦争中でもあった)、イギリスから安い鉄製の大砲
を大量に輸入していたが(イギリスをはじめ各国の私掠船から自らを防衛しなければなら
なかった)、1574 年の無差別の大砲禁輸令で大いに困り、オランダは自国内に大砲鋳物工
場を建設することを余儀なくされた(このように、オランダは、エリザベス女王の特許を
受けたドレークなどの私掠船と特許を受けた鉄製大砲の両面でいじめられていた)。 そもそも、技術的にはイギリスより、オランダの方が先輩であり(オランダが最初の産
業国家となったことは述べた)、イギリス人にできて我々にできないはずはないと考えた。
その結果、たくさん武器製造会社がアムステルダムなどの主要都市に林立し、それを統括
するための方策が必要になってきた。オランダが考えた手は、近代的な特許状の発行であ
った。こうして、オランダでも近代的な特許法が成立した(近代的な特許法もイタリアで
創造されたことは述べた)。 オランダの武器工場は、青銅製銃器の製作と鋳鉄製のものの試作をおこない、二面作戦を
とることにした。オランダ本国では高級で付加価値の大きい青銅製銃器を製作し、海外で
鉄鉱石が豊富で燃料材が潤沢なところに鋳鉄職人を派遣し技術指導して、安価で大量生産
が可能な鉄製大砲を作ることにした(製鉄には大量の薪炭が必要だった)。オランダが最
もふさわしい海外生産地として目をつけたのはスウェーデンであった(スウェーデンには
豊富な薪炭があった)。こうしてオランダはスウェーデンに直接投資を行い、スウェーデ
1756
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ンで鉄製大砲の半製品をつくり、それをオランダ本国へ運んで、加工をほどこし完成品とし
て売った。 しかし、創造と模倣・伝播の原理で、スウェーデンは、またたく間に技術吸収を終え、
17 世紀には急激な技術革新に成功し、ヨーロッパきってのハイテク国として急浮上した。
とりわけ、1648 年に終わった 30 年戦争で戦勝国になり(グスタフ 2 世アドルフの活躍もこ
の大量の大砲に支えられていた)、北欧における軍事強国の地位も揺るぎのないものとし
た。 これでイギリス、オランダ、スウェーデンが武器産業国となった。スウェーデン製鉄製
大砲のほとんどはオランダに輸出された。しかし、製鉄には膨大な木材燃料が必要であり、
イギリス製は燃料費が高騰したため採算があわなくなった(すでに 16 世紀末、エリザベス
女王は森の無秩序な乱伐採を禁止した)。そこで、イギリスもスウェーデンから大砲を輸
入するようになった。 環境問題には勝てず、かつての独占生産国イギリスでさえも、鉄製大砲を輸入するよう
になった。当初はアムステルダムを経由して輸入されていたが、次第にスウェーデンから
直接輸入されるようになった。1670 年頃には、スウェーデン製大砲は、イギリス製とまっ
たく品質の点で差がなくなったといわれるようになった。 このように技術は状況によって変わってくる。どこかの国が独占できるものでもなく、
どこかの国のみが得意とするものではなく、状況によって変わってくるのである(30 年も
すれば変わってしまう)。逆にいえば誰でもやればできるのである。要は人間の問題であ
り、人間はみな同じである。この話はまだ続くが、続きはイギリスの産業革命のところで
述べることにする。イギリスのエネルギー危機をダービー父子が豊富な石炭(コークス)
をつかった新しい製鉄法を発明することによって救われたという話である。危機は技術に
よって突破できるのである。要は創造的な人間である。 ここでフランスでも、創造的な人間が出てきた。砲兵士官で技術者のグルボーバル(1715
~1789 年)が出て、大砲に改良を行い、野戦での機動性が飛躍的に増したグリボーバル・
システム(1765 年制定)を生み出してから、フランスは陸軍大国となった(このお陰を最
も受けたのが砲兵隊からのし上がったナポレオンだった)。当時、砲身は粘土の鋳型で作ら
れていたが、出来上がった内腔は完全な円筒ではなかった(これでは爆発ガスがもれてし
まう)。 そこで、砲身全体が固定された強大なドリルビットに対して回転し、重力と歯車を利用
して切削部を前進させ、内側を切削した(これは後の工作機械の中ぐり盤の原理)。製造さ
れた砲腔と砲弾の公差は十分に小さく、砲身も薄く作成できたが射程を犠牲にすることは
なかったし、正確さを犠牲にすることなく砲身を短く出来た。短く、かつ薄い砲身は大砲
1757
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) の軽量化をもたらした。グリボーバルは砲車の改良も行い、野戦での機動性を著しく高め
た。グリボーバルは、大砲をいくつかのサイズに標準化し、のちの製造技術に大きな影響
を与えることになった(互換性の考えの導入)。 この大砲が威力を発揮した最初は、アメリカ独立戦争の帰趨を決めたヨークタウンの戦
い(1781 年)であった(フランスはアメリカと同盟していたことは述べた)。その後のフラ
ンス革命やナポレオン戦争でも大いに使用された。 いずれにしても、このようにヨーロッパでは兵器(武器)の開発競争が起こって、兵器
(武器)の進歩が加速されていって、近世後半には東洋やイスラムの世界とは別次元の世
界に入っていった。 《海の上の兵器革命》 海の上でも、中世後半には造船業も海軍力も北部ヨーロッパとイスラム世界、そして極
東で大したちがいがなかった。鄭和の大航海やオスマンの艦隊がすみやかに黒海や東地中
海へ進出したことを考えれば、1400 年から 1450 年頃の人々は、この二つの大国の海軍力の
発展を予想するのは当然だっただろう。それに対して、ポルトガルの探検家は 1490 年代に
インドに達してはいたが、その船はまだ小さく(300 トンくらいのものが多かった)、すべ
てが武器を装備していたわけでもなかった。 しかし、西欧の世界進出が始まったとたんに、海軍の技術進歩が始まった。先行するポ
ルトガルとスペインの 2 国だけで全世界を独占することはできず、1560 年代にはすでに、
オランダ、フランス、それにイギリスの艦隊が大西洋を越えているし、それから少しのち
には、インド洋から太平洋に達している。熾烈な競争は海の上での軍事技術の競争をもた
らし、東洋やイスラムの海軍力をはるかに超えるようになるのは時間の問題であった。 海の上の兵器革命は、結局、小型で強力な大砲の性能と数によるので、前述したように
イギリス、オランダ、スウェーデンなどが強力となっていった。 たとえば、イギリス(スコットランド)のカロン社で 1776 年に開発されたカロネードと
呼ばれる射程の短いずんぐるした艦砲は軍艦の破壊力を飛躍的に高めた。近距離用として
設計されたカロネード砲は砲身が半分以下であったので、従来のものと比べ軽量になって
おり、1 台あたりの砲員が少なくすみ、砲弾の装填速度も向上した。また、大きい砲弾が打
てるように口径が大きめに作られていたので、従来よりも強力な重砲弾が撃てて、その威
力はすさまじく「粉砕者」のあだ名が付けられた。 通常、運搬の際にだけ取り付けられた砲車が軽量化により取り付けたまま船体に固定す
ることも出来るようになり、運搬が容易になった。そのため、より多くの砲を軍艦に積載
することが出来るようになり、カロネードは導入当初はその圧倒的な火力が魅力となり、
イギリス海軍に積極的に配備されていった。1805 年のトラファルガーの海戦では、イギリ
1758
第 13 章 近世の世界(1500~1800 年) ス海軍の戦列艦に載せられ、フランス・スペインの連合艦隊を撃破する大勝に貢献した。
このように戦争とはネルソンとかナポレオンとかの軍事的天才だけで勝てるものではなく、
ましてや、
(のちの日本国のように)神風に頼るものではなく、それを裏付ける軍事技術な
り装備なりがなければならない時代(つまり、それだけの経済力、ということは国民の支
持が必要)になってきたのである。 《防御技術の革新》 ルネサンスの時期はイタリア戦争(神聖ローマ帝国とフランスがイタリアを舞台にたび
たび戦った)の時期でもあったことは述べた。そのためイタリア人は防御技術にも創造力
を発揮した。 1494 年に大砲を持ってフランス軍がイタリアに侵入してから 4 半世紀のあいだに、ある
いはそれ以前に、イタリア人の一部は城壁の内側にさらに土塁を設けると敵の砲撃の効果
を減らすのに有効だということを知った。土塁にぶつかると、外の壁にぶつかったときと
ちがって砲弾の威力は大幅にそがれる。さらに、この土塁の前に深い溝を掘れば(のちに
は、入りくんだ稜堡を築いて、そこからマスケット銃や大砲の砲丸を浴びせることが出来
るようになった)、包囲した歩兵部隊をほとんど寄せつけない砦ができるようになった。
おかげでイタリアの都市国家は再び安全を取り戻すことができたのである(矛と盾の関係)。 こうした複雑な砦を築いて守らせるだけの人力を動員できた国家の防衛力は向上した。
これによってオスマン帝国の攻撃もかわすことができたし(ウイーン包囲戦は 2 度ともオ
スマン帝国を撤退させたことは述べた)、マルタや北部ハンガリーのキリスト教騎士団も
攻められなくなった。たとえば、開けた平野で歩兵隊が圧勝したとしても、敵が防備の固
い要塞に立てこもってしまえば、勝敗を決することは容易ではなくなった。包囲戦では攻
める方に戦争が長引き多大の費用がかかるようにようになったのである。 アレクサンドロス大王やジンギスカンのところで述べたように、一般的に武器技術や戦
法に飛躍的な変化があれば、それを握ったものによって、対立するすべての集団や国が蹂
躙され、一気に平定されてしまうのが普通だった。現に 1450 年から 1600 年までの期間