歴史地理学 45-1 ( 2 1 2 )3 7~56 2 0 0 3 .1 戦前ハワイにおける日本人の職業と 居住地・出身地分布 飯田耕二郎 しはじめに は耕地労働者中心であったのが,次第に他の I I . 日本人の職業の概観 職業へ転業していく様子,すなわち各地の耕 (1)砂糖耕地の仕事 地からホノルルなどの都市へ移動していく状 ( 2 )u .S.CENSUSにみる職業構成の変遷 (1910年 ~1940年)と主な職業 況については,すでに別稿で明らかにし た1)。 ( 3 )li'海外各地在留本邦人職業別人口表』に みる職業構成の変遷 本報告では,日本人の最初の主要な職業で あった砂糖耕地での仕事の内容について明ら I I I . 日本人の主な職業とその地域分布・出身 地分布 かにし,さらにその後の戦前期における日本 人の職業構成について,その変遷や居住地・ (1)コーヒー(瑚排)栽培 出身地分布との関係について考察することに ( 2 ) 漁業と養豚業 する。利用する主な史料は,職業構成とその ( 3 )1 9 1 0 年頃のホノルノレの主な屈舗および 変遷については, U .S .CENSUS(アメリカ 合衆国国勢調査)の第 1 3次(19 1 0 年)から 1 6 旅館業 次 ( 1 9 4 0 年)までの 1 0 年毎のエスニック別・ N. まとめ 職種別統計および日本の外務省通商局による 『海外各地在留本邦人職業別人口表』であり, 1.はじめに 居住地や出身地との関係についてはli'日布 ハワイにおける最初の集団移民である官約 時事布睦年鑑』の「住所録」である。職業の 8 8 5(明治 1 8 )年より始まった。彼らは 移民が 1 内容については,当時発行された『最新正確 ホノルノレ到着後, しばらくの移民収容所生活 布睦渡航案内」や『布睦実業案内』などによっ を経て,各島の主として砂糖耕地に配耕され た 。 た。したがって当初の日本人社会はこれら主 として砂糖耕地のなかで形成されていった。 I I . 日本人の職業の概観 耕地労働者の割合は当初 80% 以上の高い率で (1)砂糖耕地の仕事 あったといわれている。そして 1 8 9 0年頃か まず当初の主要な産業であった砂糖耕地で 3ヵ年の契約期間を満了した官約移民が 9 0 4 年発行 の仕事のあらましをみてみよう。 1 転業して都市への移動がそろそろ始まり,耕 の『最新正確布珪渡航案内』と 1 9 0 9 年発行の 地とは別個の都市における H本人社会も形成 『布睦実業案内』で、記述されている内容をまと されていった。ハワイの日系人の職業が当初 めると次のようになる。 ら キーワード:ハワイ,日本人,職業,居住地,出身地 -3 7一 砂糖耕地の仕事はi 車水(ハワイ語でパナワ 者のためにこれを置く場合があり,あるいは イ),溝堀,黍の葉むしり(ホレホレ),運搬 賄方を専門に営業する所もあった。これを大 賄方(大コック)と称し,大抵 1 4, 5人から イコー),草取り,黍切,馬使いなど, (ノ¥ノ f 数限りなくある。その中にはずいぶん辛い仕 2,3 0人位までは男あるいは女 1人で営んで 事もあるが,そういう仕事は給料も高くなっ いた。また夫婦者が知人のために 2, 3人の ている。濯水と草取りは女性もできる仕事で 賄をなすこともある。これらの費用は雇主が 0時 いたって容易である。野外の仕事は 1日1 賄方を置く場合 1人当り S ド、ル内外で,賄を 間働いて,ふつう男 1 ヵ月 16 ド、ノレ(1 8~20 ド 営業とするものは洗濯代を合せて 1人当り 7 ノ レ ー1 9 0 9 年),女が 10 ドルで、あった。その他,独身で経済上自炊を ドノレ(1 3~14 ドソレー 1909 年)で、あった。 1ヵ月といえども日曜日は休 する者もいる。 6日労働のこと みなので,つまり 1ヵ月とは2 すます者もあった。なお大コックを営む人 で , 日曜日のほかは日割りで差し引かれた。 は,その土地に永く住み,事情も通じて,多 1セント余,すな したがって 1日の労働賃は6 少人の上に立つ人で、あるから,初渡航で知人 わち日本円に換算して 3銭余にあた 1円2 1 ヵ月 4 ドル40~50セントで のない人は,この大コックを頼って行けば万 事世話をしてくれた 2)。 る。野外の仕事のほかに製造場の労働があ る。これは 2人で昼夜交代して, 1 2時間ずつ 耕地内での副業の中には,理髪業や湯屋業 砂糖焚き,機 など後に日本人が独立営業する萌芽となる仕 働くので,幾分の割増がある O 関助手等で,熟練した者はその技量に応じて 事もいくつかみられた。 次に日本人労働者の数について, 1 9 1 8 年を 月給に差があり,大抵は 30~40 ドルである が,なかには 80~90 ドルを取る者もある O こ 例にして砂糖耕地ごとにみてみよう。表 1で れも日曜日は休みになっている。また,同じ あるが,全体の 2 4, 7 7 3人は同年の日本人人口 耕地の労働でも大工や馬使などは少し日給が 全体に対して 20%強の割合である。この表を 0 セント増し,馬使は 1 0セ 高く,大工は 1日3 みて気のつくことは,男子の他,女子の労働 ント増し程度になっている。 者も多くあり,子供の労働者も存在したこと 婦人も子供のない人は,畑に出れば月給 1 0 である。また総計で普通男子労働者に比べ受 ドル以上を取ることができる。その仕事は濯 黍業者の方が多いことも注目される。ここで 水と草取りなどを普通とし,時にはホレホレ 受黍業と小作業について説明しなければなら をすることもある。また次第に日本人が増え ない。 1 9 0 4 年の『最新正確布睦渡航案内』で るので,労働服の仕立,賄方(コック),洗 は次のようになっている。 濯,野菜売り,パン,鮪,餅,鰻頭などを 「小イ乍」は耕主から畑を無料で借り受け, イ乍って夜間売り歩く者もいた。何れも相当の 1O ~15人あるいはそれ以上集まって 1 組を作 収入があった。 り 男子の副業は,大工として通常に耕地で働 1 人 5~6 エーカーの割当で荒地を聞 き,耕主から種黍をもらってこれを植付けて 成熟するまで 1 8ヵ月要する く以外,余暇を利用して日用器具を作って売 手入れをする る者がいた。また時計の修繕をなす者,薪を が,この間自費で栽培し,成熟後これを刈 取って売る者,あるいは閑地を聞いて野菜や 取って耕主に渡す。耕主はこれを運搬し製造 甘藷を作る者,あるいは理髪をなす者もい して,重さを量って時価の何パーセントかで た 。 O これを買取る。この期間,耕主は品物で食料 また,賄方(コック)というのは独身男子 を貸すのが普通である。また「受黍」は小作 のためにやるもので,耕地により雇主が独身 と同様に組を作り,耕主が土地を開いて植え 3 8 表 1 各砂糖耕地就働日本人労働者 (1918年) 耕地名 ノ¥ 所在地 受業 者 黍 小業 者 作 計 295 4 1 1 1 コノ、フ 3 5 5 7 4 ハマクア・ミル 1 7 7 1 9 5 1 3 5 2 3 7 布睦農業会社 ハマクア 、 フ ノ 、ノ 4 290 3 5 78 407 ノ、ヴィ・ミル コノ、フ 6 1 2 8 2 0 3 1 5 2 3 0 9 ヒロ砂糖会社 ヒロ 2 2 0 1 8 5 1 9 2 4 0 8 ホノカア ホノカア 2 5 8 2 7 4 4 8 562 ホノム ホノム 1 263 4 5 60 3 7 1 ハッチンソン ナアレフ 66 1 6 4 2 3 0 カイヴィキ 9 7 1 9 1 7 1 2 8 7 1 57 2 5 l 1 9 9 283 1 6 1 1 5 6 8 1 3 6 1 9 7 1 8 1 6 2 377 7 0 6 1, U イ クカイアウ タカイアウ ラウパホエホエ ラウパホエホエ ニウリイ コハフ オーラア オーラア オノメア ノfアウノ、、ゥ 69 9 1 3 4 2 0 1 0 3 6 5 1, オノメア 7 3 0 1 1 7 3 6 8 パアウハウ 9 1 4 0 2 7 1 9 4 370 クグイハレエ プアケア ペペケオ コノ、フ ワイアケア ヒロ 布睦商業 プウネネ カエレク ハナ キ ノfフノレ パイア オロワノレ オロワノレ パイオニア ラハイナ ワイ/レク 7 3 1 1 0 5 ペペケオ ウ 馬珪農業 1 7 2 3 1 4 太平洋 キパフル 2 2 1 2 1 7 計 島 子供 ハラワ コハラ砂糖会社 イ 女 ノ、、カラウ ワ 可7 普通労働者 男 ハカフウ オオカラ コノ¥フ 島 労熟働練 者 アポカア エワ エワ エワ 7 4 3 23 83 3 5 2 7 8 3 9 2 1 1 7 6 2 1 7 97 3 0 2 4 1 4 4 3 90 1 0 8 3, 0 9 2 7 844 35 1 3 3 6 5 5 4 1 4, 436 587 6 3 0 8, 3 2 2 684 1 4 3 2, 7 2 7 3 2 1 1 3 80 3 4 7 60 2 5 0 3 6 62 1 3 24 4 1 6 4 2 8 1 7 4 36 3 5 4 1 1 5 1 1 414 1 0 2 1 6 0 473 2 5 4 69 25 1 5 0 1 8 2 680 2 5 2, 0 6 1 6 0 4 2 6 2 1, 750 1 8 9 1, 5, 8 9 1 1 3 1 1 3 6 0 1 3 5 1 1 5 3 4 0 5 1 1, ワイノレク 言 十 50 2 30 , 13 62 7 1 8 2 248 57 408 1, ホノ yレ ノ レ アイエア 7 476 1 8 3 9 469 1, 1 4 4 カフク カフク 8 1 2 2 39 4 1 3 4 307 ア コーラウ農業 カハナ フ オアフ ワイノtフ 1 1 6 2 1 787 6 3 2 1, オ 島 25 2 5 8 7 0 0 1, 357 ワイアルア ワイアノレア 7 5 422 1 7 2 22 6 6 6 ワイアナエ ワイアナエ 6 1 7 3 1 0 0 1 7 64 94 454 マイマナロ ワイマナロ 1 4 5 1 0 1 1 1 5 2, 425 8 4 6 84 6 5 5 2, 9 4 2 1 9 6, 9 5 計 246 906 布珪砂糖 マカヴェリ 1 3 8 5 9 3 27 3 0 5 ケカハ ケカハ 4 3 2 6 2 4 1 8 3 2 7 2 1 9 8 20 328 1 5 3 96 3 9 0 カ キラウエア ウ コロア ア イ リフエ 島 マックブライド ワイメア 1 0 0 8 コロア 1 1 2 1 1 9 リフエ 3 274 3 2 1 5 266 63 6 5 3 1 9 467 1 0 2 1 8 2 2 5 1 0 0 9 3 1 キラウエア エレエレ ワイメア 総 699 計 1 2 9 1 6 6 7 2 2 1 2 6 29 1, 702 2 7 9 8 6 5 4 1 1, 3 9 6 033 4, 2 7 7 9, 2 8 0 2, 0 7 6 492 1 0, 3 8 2 266 2, 2 4, 7 7 3 (布珪新報社, 1 9 1 9年)より飯田作成。 1 1iamH .Dorrance“SugarI s l a n d s "2 0 0 1 などによる。 所在地については、 Wi ホノノレノレ帝国総領事館調査。『布庄日本人年鑑~ 39 ( 2 )U.S .CENSUSにみる職業構成の変遷 付けた後を引受け,成熟まで手入れを行う。 その間耕主より食料として普通の給料が 1 6ド (1 910年 ~1940年)と主な職業 ノレなら 11~12 ドノレを貸与し,後日計算のとき 戦前ハワイにおける日本人の職業構成につ U .S .CENSUSの 10 差引くのである。調査の時点では受黍の方が いては,前述のように 多く,小作はいたって少ない。しかし成功し 年毎の統計によって,その大まかな変遷を知 て財産を持った者は小作業者である。なぜ小 ることができる。表 2に , 1 9 1 0年から 3 0年ま 作に従事しないかというと,小作に用いる土 0 位まで,女は 5位まで, では男が I位から 2 地に制限があり,また小作に従うには初めい 1 9 4 0年のみ男女とも l位から 1 0 位までの日本 くらかの資金が必要で,小遣いが一文もなく 9 1 0年および2 0年では, 人の職業を示した。 1 ては済まず,特に初渡航の人にとっては国元 男女とも砂糖耕地労働者が最も多く,ホノル に送金しなければならない等のためによる。 9 1 0 ル以外がほとんど(女は全部)を占める。 1 受黍や小作は働いただけ賃金が得られるし, 年の男の場合は,砂糖耕地労働者以外にも製 耕主の方も監督者を雇う必要もないので双方 糖工場労働者や砂糖耕地濯瓶者,砂糖農民, とも利益がある 3)。 砂糖耕地御者(馬使い)など先にみた砂糖関 このように,とくに受黍は日本人にとって 係産業の仕事が上位を占めている。またこれ 働きやすい労働形態であったために,多くの らは全就業者に対する日本人の比率も総じて 人が従事したと考えられる。 高い。 次に,島別・地域別にみた特色をあげてみ 9 2 0年では男の砂糖関係産業の人 しかし, 1 よう。表 1でみられるようにハワイ島が2 1カ 数は減少し,女は増加している。代わって男 所で最も多く,ヒロを中心に南はオーラアか 女共,パイナップノレ農場労働者およびコー ら北はコハラまで北東海岸沿いに多くの耕地 ヒー農場労働者(いずれもホノルル以外)へ が存在し,労働者数も一番多い。しかしその の進出が目覚しい。また 19 1O ~30年を通じて 規模は,耕地別の全体で 2位のオーラアを除 使用人と大工が多く,とくに使用人は男女共 き大きくはない。オアフ島は 9ヵ所で,労働 9 1 0年 にホノルルで目立つ。小売商, !吉員も 1 者数でもハワイ島に次ぎ第 2位である。耕地 よりみられるが, 2 0年 , 3 0年でさらに上位に 別全体で 3位のオアフ(ワイパフ)をはじめ 進出し,ホノノレルの人数が増えている。また 1 0 0 0人以上の耕地が 4ヵ所あり,比較的規模 1 9 1 0年の馬車御者に代わる運転手が 1 9 2 0 年よ も大きい。マウイ島は 7ヵ所であるが,耕地 り新たに登場し, 1 9 3 0年でさらに増加してい 別で第 1位の布睦商業(プウネネ)をはじめ る。その他 3 0年では,新たに事務員,簿記 4位のパイオニア(ラハイナ), 5位の馬睦農 係・出納係,そして男女とも学校教師が上位 業(パイア)など大規模耕地が存在する。ヵ に登場するのが注目される。 1 9 4 0年は分類の 000人以上の ウアイ島も 7ヵ所であるが, 1, 仕方がそれまでと異なるため比較しにくい 耕地はなく,全体数も多くはない。また,熟 が,やはり男はホノルノレ以外で農場労働者, 練労働者はオアフ島のワイアノレアに,男子と ホノルルでは職人が,女はどちらの地域も家 女子の普通労働者および小作労働者は布唾商 庭雇用労働者が 1 位を占めているのが分かる。 業(プウネネ)に,子供の労働者はパイオニ 以上の職業のうち,ここでパイナップノレ栽 ア(ラハイナ)に,受黍業者はオーラアにそ 培と大工,使用人(家庭雇用労働者),そして れぞれ最も多くみられる。 初期の頃の商屈について説明しておこう。 パイナップノレ(鳳梨)栽培についてはIi'ハ ワイ日本人移民史』などによると,パイナッ 4 0 ( 1 ) ハワイ日本人職業構成(19 1 0年) 表2 1 裁 男 業 日本人 総数 総数比 ホノルル ホノルル以外 ①砂糖耕地労働者 30, 750人 1 9, 73 1人 64.2% 1 0 7 人 1 9, 624人 ②普通農場労働者 5, 333 2, 756 51 .7 138 2, 618 ③製糖工場労働者 1, 897 1, 642 86.6 @使用人 2, 9 4 1 1, 607 54.6 969 638 ⑤大工 2, 078 1, 062 51 .1 2 8 1 7 8 1 ⑥蒸気・市街鉄道労働者 1, 342 1, 017 75.8 97 920 ⑦建築・手労働者 3, 763 938 24.9 375 563 ⑧小吏商 2, 314 880 38.0 276 604 ⑨砂糖耕地濯瓶者 1, 1 0 2 848 77.0 848 ⑩用水路労働者 948 8 2 0 86.5 820 Q1砂糖農民 954 778 81 .6 ⑫J 苫員 1, 616 718 44. 4 225 ⑬漁師 1, 269 700 55.2 204 700 517 73.9 ⑮砂糖耕地御者 1, 099 485 44.1 4 8 5 ⑮コーヒー農民 576 482 83.7 482 1, 1 0 4 4 8 1 43.6 73 700 480 68.6 352 1 2 8 566 344 60.8 6 5 279 ⑭果樹農場労働者 ⑫庭師 ⑬家事専門サービス労働者 ⑬馬車御者 ⑫床屋・美爪術師 393 回 ー ー ー ー 圃 伺 ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 帽 ー その他共計 8 9, 923 女 ハワイ全体 , 1642 778 493 496 517 408 1 7 7 299 7 6 . 1 1 2 2 ー ー ー ー ー ー ー ー 世 働 問 ー ー ー ー ー ー ー ー ー 骨 旬 ー ー ー ー ー ー ー ー ・ , ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 414 3 8, 44, 1 4 1 4 9 . 1 5, 727 484 2, ①砂糖農耕労働者 2, 996 2, 484 82.9 ②使用人 2, 376 1, 869 78.7 ③普通農場労働者 1 , 146 7 7 1 67.3 3 2 739 718 5 8 1 80.9 1 9 9 382 ④洗濯女 610 259 1, 1 4 7 ⑤洋裁師・裁縫婦 1 8 6 38.0 39 490 岨 伺 ー ー ー ・ ・ ・ ー ー ー ー ー ー ー ー 角 伺 ー ー ー ー ー ー ー ー ー 園 田 ー ー 司 ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ‘ ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー .ー ー ー ー ー ー 6, 1 1 5 7, 337 6 5 . 1 1, 222 その他共計 1 1, 2 7 1 ( 1 )~ ( 4 ) とも日本人には朝鮮系は含まれない。 (出所) U CENSUSの第 1 3次(J9 1 C年)の資料より飯田作成。 . s . プル栽培と缶詰製造に従事する労働者および フ島だけでも栽培面積 5千エーカーに達し, 小作人の大部分は日系人であるが,彼らは砂 白人側を圧迫するほどであった。マウイ島で 糖業と同様に,品種の改良,技術の向上など は1 9 1 0年に最初の日系パイナップル会社が, に貢献した。日系人の栽培者としては, 1 9 0 1 カワイ島では 1 9 3 2年に, ' i . l J I の日系グ、ループが 年オアフ島ワヒアワに借地 1 0 数エーカーの栽 パイナップル栽培業者の缶詰組合を作ってい る4)。 培をした福岡県人手島弥助が最初であると伝 えられている o 独立業者は少数で,大多数は このようにパイナップル産業の発展は 1 9 0 0 白人会社と契約して,これに生果を売り込む 年代になって,耕地の契約労働から解放され ものであった。日系人間にパイナップノレ企業 た人々や女性に新しい仕事を提供したのみで 熱が高潮したのは 1 9 1 3年で,翌日年にはオア なく,急速に発展しつつあった日本人社会に -4 1 表2 ( 2 ) ハワイ日本人職業構成 (1920年) 日本人 職 業 総数 3 4, 1 0 6 人 1 5, 7 9 7人 ②大工 2, 8 9 0 1, 8 3 2 ①砂糖耕地労働者 男 ハワイ全体 46.3% ホ ノ ノ レ ノ レ ホノルル以外 6 0人 6 3 . 4 6 9 3 1, 0 5 3 1 5, 7 3 7 人 1, 1 3 9 a c使用人 2, 8 1 2 1, 5 5 9 5 5. 4 ④製糖工場労働者 2, 0 2 2 1, 2 9 1 6 3 . 8 2 9 1 1, ⑤パイナップル農場労働者 2, 3 8 8 1, 2 6 8 5 3 . 1 2 6 3 1, ⑥小売商 2, 5 8 4 1, 1 5 0 4 4 . 5 4 6 9 6 8 1 ⑦庖員 2, 5 5 5 1, 1 0 3 4 3 . 2 4 3 9 6 6 4 ⑧運転手 1, 7 8 4 9 4 6 5 3 . 0 2 6 4 6 8 2 a砂糖農民 1, 2 1 8 8 7 5 7 1 . 8 6 0 8 1 5 ⑩漁師 1, 2 8 0 8 3 7 4 6 5. 3 4 1 4 9 6 ⑪普通農場労働者 1, 9 3 1 7 3 2 3 7 . 9 1 9 7 1 3 ⑫一般建築労働者 ⑬庭園労働者 1, 9 7 4 6 5 8 3 3 . 3 5 6 9 8 9 1, 1 8 1 5 2 9 4 4 . 8 2 9 4 2 3 5 624 5 2 4 8 4 . 5 ⑬コーヒー農民 1, 5 7 2 4 2 0 2 6 . 7 ⑩コーヒー農場労働者 5 2 4 4 0 2 7 6 . 7 ⑮沖仲土 5 0 6 5 2 4 3 6 2 5 8 4 0 2 (i1蒸気鉄道労働者 5 8 3 3 5 9 .6 61 3 9 3 2 0 ⑬果物野菜缶詰等工場労働者 8 2 6 3 5 7 4 3 . 2 1 8 9 1 6 8 ⑩床屋・美爪術師 4 0 6 3 0 2 7 4 . 4 1 3 0 1 7 2 1 6 . 1 5 2 6 3 ⑫米作農場労働者 1, 6 6 1 2 6 8 ー ー , ・ ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 僻 ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 骨 ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ・・ ー ー ー ー ー ー ーー ー ー ー 由 圃 ー ー ー その他共計 9 7, 6 1 9 3 9, 5 8 2 ①砂糖耕地労働者 4, 6 5 1 4, 1 1 6 4 女 総数比 c i使用人 ③パイナップノレ農場労働者 . . . ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 4 0 . 5 8, 2 1 0 3 1, 3 7 2 4, 1 1 6 8 8 . 5 2, 1 5 9 1, 6 6 7 7 7 . 2 5 2 9 4 7 3 8 9 . 4 4 7 1 4 2 4 5 . 3 ④コーヒー農場労働者 4 0 4 9 0 . 3 ⑤洗濯女 5 0 2 4 0 3 8 ー ー ー ー . . 開 閉 園 ・ ー . . . ー ー ー ー ー ー ー ー ー , ー ー ー ー ー ー ー ー ・ ー ー ー ー ー ー ー ー ー , ・ ー ー -ー . ・ ー ー ー ー ー ー 4 . 7 その他共計 1 4, 2 6 3 9, 2 3 3 6 4 0 4 8 8 1 2 5 5 7 8 6 1 4 8 ' ・ 開 園 自 ー ー ー ー ー ーー ー ー ー ー 伊 ・ ・ ・ ー ー ー ー ー ー 1, 8 7 7 7, 3 5 6 (出所) U .S .CENSUSの第 1 4次 ( 1 9 2 0 年)の資料より飯田作成。 投資の機会を与えたのである 5)。 大工が日本から招かれ,ハワイの日本人大工 大工は元来, 日本から来た農民はその心得 に影響を与えたといわれている 6)。表 2によ を持っている者が多く,製糖工場内での工作 ると,大工を職業とする全就業者に対する日 や,増加する耕地の労働者の住居,倉庫,家 本 人 の 比 率 は 1910年 で 5l .1% , 20年 で は 畜小屋等の建設や修理に大工仕事は重宝がら 6 3. 4 % , 3 0年になると 73.6%のように,各人 れ,すぐに役立つものであった。耕地の産業 種中で日本人大工が大半を占め,その人数と の発展や人口増加により,大工の需要が増え ともに割合が急増している。とくにホノノレル ると,多くの日本人が大工を職業とするよう での増加が著しい。このように,大工は日本 になった。またハワイに神社や寺院が建てら 人が特殊な技能で成功した代表例であった。 れるようになると,すぐれた技術をもった宮 また使用人は,前掲の『最新正確布睦渡航 42 - 表2 職 ( 3 ) ハワイ日本人職業構成 ( 1 9 3 0 年) 業 ①農場労働者(賃金生活者) ハワイ全体 5 3, 534 人 総数比 ホ ノ ノ レ ノl ホノルル以外 ノ 9, 41 1人 1 7, 6% 5 3 3人 8, 878 人 4, 4 8 1 3, 3 1 9 7 4 . 1 4 7 1 2, 848 ③大工 3, 795 2, 7 9 3 7 3 . 6 1, 1 9 3 1, 600 ④小売商 3, 218 562 1, 48.5 659 903 ⑤庖員 3, 5 7 1 1, 5 4 1 4 3 . 2 7 6 1 7 8 0 ⑥運転手 2, 8 0 0 1, 3 0 0 4 6. 4 6 2 8 6 7 2 ⑦機械製作・修理工 2, 1 2 8 9 3 9 4 4 . 1 3 8 7 5 5 2 ⑧使用人 1, 9 6 6 9 2 3 46.9 6 5 3 270 ⑨漁師・牡婿取り人 1, 559 8 6 6 5 5 . 5 3 6 3 5 0 3 ⑩家庭・個人雇用労働者 1, 1 6 7 8 4 5 7 2 . 4 585 260 ⑪製糖工場精製所労働者 2, 1 2 0 5 3 3 2 5 . 1 ②農民(所有者と小作人) 男 日本人 総数 ⑫ペンキ工・ガラス工 5 3 3 932 512 54.9 369 1 4 3 ⑬事務員 2, 1 2 2 4 9 1 2 3 . 1 2 2 8 2 6 3 ⑬農場支配人・監督 1, 8 8 1 483 2 5 . 7 ⑬沖仲士 1, 575 448 2 8. 4 277 1 7 1 ⑬簿記係・出納係 1, 362 447 32.8 1 9 4 253 ⑫蒸気鉄道労働者 ⑬果物野菜缶詰等工場労働者 ⑬建築労働者・助手 483 7 7 8 4 3 4 55.8 3 6 3 9 8 1, 3 1 9 4 0 3 3 0 . 6 2 6 4 1 3 9 964 3 4 3 3 5 . 6 246 9 7 ⑫学校教師 332 38.6 255 860 7 7 骨 再 開 . . . ・ ー 骨 骨 ー ー ー . . ・ ・ . . ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 』 ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 四 ー ー ー 自 国 ー ー . .ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 回 国 岨ー ー ー ー ー 岨 柵 ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ・ ー ーー その他共計 8 3 8 2 3, 1 3 6, 5 0 5 3 5, 496 26.0 1 1, 658 女 C I使用人 3, 5 4 0 2, 4 7 2 6 9 . 8 1, 4 0 1 1, 0 7 1 ②農場労働者(賃金生活者) 1, 609 1, 1 9 6 7 4 . 3 47 1, 1 4 9 3 7 7 ③洗濯女 885 658 7 4 . 4 2 8 1 ④洋裁師・裁縫婦 6 0 6 4 5 6 7 5 . 2 1 6 8 2 8 8 1 4 8 3 0 3 ⑤学校教師 幽 凶 ー 惜 ー ・ ・ 『 関 関・ ー 四 ー ー ー ー ー ー ー ー ー 』 ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー p 一 一 その他共計 2, 8 0 7 1 7, 7 5 7 4 5 1 1 6 . 1 . . ー ー ー ー ー ーー ー ・ . 匹 、 ー ー ー ー ー ー 国 ー 働 ー -. ー ー ー ・ 4, 6 6 8 8, 3 2 1 46.9 3, 6 5 3 ( 出 所 )U.S .CENSUSの第 1 5次(l9 3 C年)の資料より飯田作成。 案内』によると,いわゆる奉公人というもの のもあった。その仕事の種類を挙げると,男 で,とくにホノルル市の日本人のうち独立で の仕事では,料理人(コック),給仕(ウェイ 営業する者の他で一番多いのは白人方の奉公 ター),園丁(ガーデンボーイ),馬車使い(ド 9 1 0年および2 0 で、あった。このことは表 2の 1 ライパー),厩の掃除(ステーブノレボーイ)な 年においても男女共あてはまる。たいていの 白人は日本人,中国人,その他各国の奉公人 ど,女の仕事は,子守,掃除,洗濯であ る7)。 を 1人ないし 4, 5人も置いている,とあ 1 9 0 0年頃までの初期の商庖については,ま る。通例は食事付で,中には住む家も貸すの ず砂糖耕地にはたいてい耕地商庖というもの 1ヵ月 があった。耕地の労働者はそこで必要な日用 食事付で 30ドノレ,あるいはそれ以上を取るも 品を通帳で買うことができた。そして毎月の があり,夫婦者が同じ家に住み込み 4 3 表2 職 男 ( 4 ) ハワイ日本人職業構成 (1940年) 日本人 業 総数 総数比 ①農場労働者(賃金生活者)および農場監督 3 5, 0 0 4人 3, 7% 8, 3 0 2人 2 ②職人・職工長および同類の労働者 1 5, 5 2 6 7, 8 9 0 ③工員および同類の労働者 1 4, 4 2 2 ④事務員・販売および同類の労働者 1 2, 3 7 1 ⑤農場・鉱山以外の労働者 ⑥農場以外の経営者・支配人・公務員 ⑦農民・農場支配人 ⑧家庭雇用以外の雇用労働者 ⑨家庭雇用労働者 ①家庭雇用労働者 ホ ノ ノ レ ノ レ ホノルル以外 2 1 7 人 8, 0 8 5人 5 0 . 8 7 5 4 3, 4, 1 3 6 4, 8 6 3 3 3 . 7 2, 0 8 9 2, 7 7 4 8 0 5 4, 3 8 . 8 2, 4 3 7 2, 3 6 8 1 4, 2 5 5 4, 6 4 3 3 2 . 6 3 9 1 2, 2 5 2 2, 9, 5 6 4 2 3 3 3, 3 3 . 8 1, 7 1 1 1, 5 2 2 3, 0 4 8 1 9 5 2, 7 2 . 0 4 9 4 1, 7 0 1 3 2, 6 8 4 2, 0 6 6 6 . 3 1, 2 6 4 8 0 2 2, 0 0 2 1, 4 3 7 71 .8 6 5 4 7 8 3 1 9 8 1, 2 8 . 3 5 0 3 6 9 5 7 5 . 3 2, 7 1 4 1 9 1 2, ⑩専門的労働者 4, 2 2 8 ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー . 骨 骨 骨 恒 国 ー ー ー . 戸 時 ー ・ ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー . . . ー ー ー ー ー ー ー ー その他共計 1 4 5, 6 5 9 女 ハワイ全体 6, 5 1 8 4 2, 0 4 5 4, 9 0 5 . ー ー .2 8 . 9 1 5, 9 2 7 2 6, 1 1 8 ②事務員・販売および同類の労働者 6, 3 4 0 4 6 7 2, 3 8 . 9 1, 2 1 1 1, 2 5 6 ③工員および同類の労働者 4, 6 5 9 2, 42 5 5 2 . 0 1, 3 8 4 1, 0 4 1 ④家庭雇用以外の雇用労働者 3, 7 7 6 2, 0 4 6 5 4 . 2 0 4 1 1, 1, 0 0 5 ⑤農場労働者(賃金生活者)および農場監督 2, 2 2 8 9 1 0 1, 8 5 . 7 3 0 1, 8 8 0 ⑥農場労働者(無給の家族労働者) 1, 6 6 9 1, 5 3 9 9 2 . 2 3 8 7 1, 1 5 2 ⑦農場以外の経営者・支配人・公務員 1, 9 5 8 9 5 3 4 8 . 7 4 6 1 4 9 2 ⑧農場・鉱山以外の労働者 1, 2 3 4 7 3 2 5 9 . 3 3 6 1 3 7 1 5 0 6 3 9 2 7 7 . 5 1 1 8 2 7 4 2 0 7 4 4 . 5 ⑨農民・農場支配人 ⑩職人・職工長および同類の労働者 4 6 5 . ・ ・ . . ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー . . . 峰 ー ー ー ー ー その他共言十 3 5, 1 3 7 (出所) ー ー ー ー ー ー ー ー . . . 圃圃 1 8, 9 2 8 5 3 . 9 F 9 1 ー 司 ー ・ . . _ _ . ・ ー 8, 3 7 6 1 1 6 1 0, 5 5 2 u .S .CENSUSの第 1 6次(19 4 0年)の資料より飯田作成。 給料から購入した金額を引かれるのである。 マウイ島ワイノレクに仕立屋,パイアに食唐, また各耕地の付近には日本人や中国人の唐が マハナに雑貨商,ラハイナに理髪庖,ハワイ 2, 3あり,そこでも通帳で買うことができ た8)。 島ヒロに雑貨商 2,ハマクア・ホノカアに雑 貨 商 2,時計商 2,コハラに雑貨商,仕立 そして次第にハワイ第一の都市であるホノ 屋,以上が記されている問。 1893年の総領事 ノレノレやノ、ワイ島の中心であるヒロなどに日本 報告では,官許を得て商業に従事する者とし 人の商庖が立地するようになった。 1885年 10 て,オアフ島に食料品及雑貨 1 6,石炭及酒 月,すでにヒロにおいて鈴木園蔵が食料・雑 1,食料品及雑貨裁縫 1,ハワイ島に食料品 貨庖を聞いている 9)。また,曜日(かがひ)蒼 及雑貨 13,マウイ島に食料品及雑貨 7,菓子 竜という僧侶の著した『布娃紀行』には, 1889 2,カウアイ島に食料品及雑貨 15の姓名が挙 年頃,ホノノレルに日本人が経営する旅亭(旅 げられており,時計直(修理),斬(理)髪屈, 館) 6,商社 2,食匝 1, 理 髪 屈 し そ の ほ 旅宿(館),湯屋,水菓子庖等は少なくないの かカウアイ島リフエにコーヒー唐,コロアに で省略すると述べている 11)。 雑貨商,ケカハに食居,ワイメアに時計商, 1895年頃の報告によると,表 3 にみられる 44 ばら日本人で、あった。そして卸売唐は直接日 表 3 ハワイ島日本商人一覧表 X 食品 及雑貨 時計 修復職 旅館 菓子類 製造 飲食庖 本から商品を輸入し,各島の耕地にある小売 言 十 庖(主に日本商庖)に販売していた 12)。した 1 8 8 5 年 (明治1 8 ) 1 1 がって,各島で販売する日本商品のほとんど 1 8 8 9年 (明胎2 2 ) 1 1 は,ホノルノレの卸売庖より供給され,その価 1 8 9 0年 明治2 3 ) 1 格は,船賃などのためホノルルに比べておお 1 8 9 1年 ( 明i 飽4) l I 1 8 9 2 年 (明治2 5 ) 2 1 8 9 3年 ( 明f 古2 6 ) 4 1 8 9 5年 (抑留8 ) 1 未詳 2 計 2 l 3 1 むね 1割 5分ないし 2割方高くなると報告さ れている 13)。前掲の『最新正確布畦渡航案内』 ( 19 0 4年)によると, どんな品物でもホノノレノレ が一番安心各地はホノルノレから遠ければ遠 1 2 2 l 7 いほど高くなる。日本品は日本で 1円のもの I がハワイまでの運賃,関税,商人の利益等に 2 1 2 1 2 1 8 1円かかり,結局 2円すなわち米貨 1ドルで 売られているとある 14)。 その後ホノルノレでは 1 9 0 0年にペスト予防焼 「布睦島巡回復命書 J (~通商葉纂』第 34号,明治29年 2月 l日発行)より飯田作成。 払事件がおこったが,このとき焼失した日本 ように,ハワイ島では食料品及雑貨が 1 2 名で 7 0軒余で 人の商庄などの家屋数は合計で 1 最も多く,ほかに時計修理,旅館,菓子類製 あった。少なくとも焼失地域となったダウン 造,飲食屈などが存在していたことが確認で タウンの中心部に,当時すでにこれだけの数 8 8 5年 きる。また,創業年では前述のように 1 の日本人商庖が集積しており,その種類もか が最も早く, 1892~93年頃が比較的多かった なり増えている 15)。実は,日本人労働者の転 ことが知れる。ホノルルにおいても同じ噴, 9 0 0年頃だと 業が特に盛んになるのは,この 1 8 8 7年から始まり,この 卸小売を兼ねた庖が 1 いわれている。この年契約労働が廃止され 時までにすでに 2 5軒,小売店が 1 2軒で,その て,耕地労働者の移動が全く自由になったか 他に旅館が 1 5軒と意外に多く存在していた。 らである。多くの日本人商屈は契約期間中に 8 9 2年頃より多くなったの ハワイ島と同様に 1 辛抱して貯蓄した人々が始めたもので, 日本 は,この年より各島の耕地の労働者に醤油, からの資本によるものではなかった。しか 干物,食料品,衣料品,日用雑貨等の H木製 し,契約労働の禁止によって,日本から自由 品を日本商庖より供給できるようになったた 移民として商人も来るようになった附。 8 9 5年頃になると,各耕地で めであった。 1 200~300人以上の在留者がある地区では日本 商庖のないのは極めて稀で,一耕地中に数軒 ( 3 ) Ii'海外各地在留本邦人職業別人口表』に みる職業構成の変遷 の日本商庖が並ぶようにもなった。日本商庄 次に日本の外務省通商局による『海外各地 のある耕地やホノノレノレには同数以上の中国人 在留本邦人職業別人口表』によって,同時期 商庄があり,それまでは中国人商居が日本人 における主要四島の地域別の日系人職業構成 労働者に食料日用品を供給していたのであ をみてみよう。表 4の(1) ~ る Q 別に 1909~36年までの 4 つの年次の男女合わ またこの頃,ホノルル市内の日本商庖の小 せた有職者数の多い順に 1位から 1 0位までを 売客は現地人が最も多く, 日本人・ポノレトガ 並べたものである。 1 9 0 9年とそれ以後の年度 ノレ人がこれに次ぎ,旅館と飲食庄の客はもっ とでは職業分類が異なるが, 1909~36年を通 -4 5 ( 5 ) は,地域 (1)(ホノノレノレ] 順位 1909 年 1 家内労働 ( 2 6 0 0 ) 2 日雇 ( 1 5 8 9 ) 3 会社商庖被雇人 ( 6 4 7 ) 4 漁業 ( 5 0 3 ) 5 養豚養鶏 ( 4 6 6 ) 6 大工 ( 3 7 9 ) 雑貨商 7 ( 2 7 9 ) 8 船乗業 ( 2 5 8 ) 9 野菜商 ( 2 4 3 ) 菓子商 10 ( 2 41 ) 其 他 計 ( 1 0 0 4 6 ) 1919 年 1929 年 順位 1 9 3 6年 家事被雇人 そt他の労働者 家事被履人 2532 2075 3146 商庖員及事務員 家事被雇人 会 t題点航事高見 1 5 2 1 1936 2292 雑種労働者 総量乱高官!事務員 そ¢他の労働者 1 4 5 4 1 3 2 4 1 7 1 9 工場労働者 大工,石工ヘンキ職 大工!石工ペンキ職 394 1270 1086 車牒,自動車運転手 工場労働者 物品販売業 347 917 850 漁業 物品販売業 農耕,畜産労働者 3 4 5 620 809 諸職人 車牒?自動車運転手 車牒?自動車運転手 303 6 0 1 5 3 1 木挽,大工職 農耕,蓄産労働者 工場労働者 299 423 5 2 1 雑貨商 漁業,製塩業労働者 理霊,髪結,浴場業 278 322 454 会社員,銀行員 被班,身廼品製造 世張!染色抗躍業 1 5 3 259 393 9 3 7 1( 2 3 9 5 9 ) 1 1 9 5 5( 3 9 0 5 5 ) 1 5 4 4 0( 5 1 8 0 0 ) 其他計 ( 3 ) (ハワイ島] 順位 1909 年 1 耕地労働者 ( 1 1 3 3 6 ) 2 受黍業者 ( 2 4 1 0 ) 3 効日排栽培 ( 8 1 4 ) 4 会社商唐被雇人 ( 3 8 4 ) 5 製糖手 ( 3 3 3 ) 6 大工 ( 3 1 8 ) 野菜商 7 ( 2 7 8 ) 8 馬車業 ( 2 7 4 ) 9 漁業 ( 2 4 8 ) 1 0 雑貨商 ( 2 0 0 ) 其 他i ( 19 0 4 6 ) 1 9 1 9年 1909 年 l 耕地労働者 ( 6 6 5 3 ) 2 受黍業者 ( 3 8 1 5 ) 3 野菜商 ( 2 5 5 ) 4 漁業 ( 2 51 ) 5 機関手 ( 2 2 8 ) 6 製糖手 ( 1 9 2 ) ルナ 7 ( 1 6 9 ) 8 雑貨商 ( 1 6 0 ) 9 大工 ( 14 9 ) 1 0 会社商庄被雇人 ( 10 2 ) 糖業労務者 4739 農場労働者 1 0 6 0 農業 432 家事被雇人 1 4 0 車馬業日動車運転手 1 0 4 商底員及事務員 96 木挽,大工職 94 雑種労働者 86 漁業 85 鉄道労働者 80 1 9 2 9年 農耕,畜産労働者 3923 工場労働者 904 物品販売業 224 家事被雇人 207 農耕,畜産 204 車 馬 業 , 自 動 車 運 転 手 1 8 5 大工五工ペンキ職 1 8 3 その他の労働者 1 6 5 会札航商E務 事i 1 5 0 漁業,製塩業労曲者 1 0 3 1 9 3 6年 農耕,畜産労働者 3651 その他の労働者 473 農耕,畜産 400 会t 航自~,事務長 292 家事被雇人 254 工場労働者 245 車 馬 主 ! 自 動 車 運 転 手 220 鉄道労働者 1 5 0 大L石Lペ ン キ 職 1 2 3 物品販売業 1 1 4 2 2 7 5 3 ) 6933( 2 4 0 5 8 ) 7366( 1 8 7 9 3 ) 6793( ( 13 4 8 9 ) ( 4 ) (マウイ島] 1 9 1 9年 1 9 2 9年 1 9 3 6年 糖業労働者 1 0 1 5 4 農業 2115 家事被雇人 716 農場労働者 700 商庖員及事務員 416 雑種労働者 3 0 1 漁業 280 車 馬 業 , 自 動 車 運 転 手 243 雑貨商 1 6 5 木挽,大工職 1 4 8 農耕,畜産労働者 5545 農耕,畜産 1349 t豊氏自血事務員 会 455 工 ベ ン キ 職 大L石 452 工場労働者 4 0 1 物品販売業 352 家事被雇人 247 その他の労働者 1 9 1 掃業,製塩業労園者 1 5 0 鉄道労働者 1 2 9 農耕,畜産労働者 4236 農耕,畜産 1 2 8 8 その他の労働者 1 0 6 2 会 t盟j,自民事綴 568 家事被雇人 476 大工石Lベ ン キ 職 285 物品販売業 2 6 1 車 馬 業 ! 自 動 車 運 転 手 230 工場労働者 228 融 業 製塩業労働者 1 8 0 1 1 1 6 4 0 4( 3 4 4 3 4 ) 1 0 3 8 5( 3 6 7 7 2 ) 1 0 2 4 2( 3 6 2 5 8 ) 順位 1909 年 l 耕地労働者 ( 7 8 2 3 ) 2 受黍業者 ( 1 7 07 ) 3 玉萄黍ポフト ( 2 9 3 ) 4 大工 ( 2 3 0 ) 5 野菜商 ( 2 2 9 ) 6 会社商庄被雇人 ( 2 0 4 ) 7 湯屋業 ( 1 6 6 ) 8 機関手 ( 1 3 0 ) 9 雑貨商 ( 1 2 5 ) 1 0 旦腐販売 ( 1 2 3 ) 其 他 計 46 - ( 1 2 2 2 0 ) 1919 年 糖業労働者 6105 農場労働者 695 農業 605 家事被雇人 276 雑種労働者 1 4 1 商厄員及事務員 1 3 3 漁業 1 2 0 車 馬 業 自 動 車 運 転 手 1 0 8 木挽,大工職 76 雑貨商 59 1 1929 年 1936 年 農耕,畜産労働者 農林畜産労働者 2224 2938 工場労働者 その他の労働者 411 7 0 1 農耕,畜産 農耕,畜産 410 474 その他の労働者 ~lt,担行1 自目。事務E 322 300 大 工 , 石 工 ペ ン キ 職 家事被雇人 275 318 物品販売業 物品販売業 254 1 6 1 腕 事 務 員 工場労働者 会 社 , 量j, 250 1 6 0 車 馬 業 自 動 車 運 転 手 車 馬 業 自 動 車 運 転 手 217 1 1 8 家事被雇人 大L石 工 , ペ ン キ 職 1 7 8 1 0 1 融業製塩業労働者 教育関係者 65 99 1 1 1 1 8894( 2 0 5 5 5 ) 5795( 2 0 5 7 0 ) 5489( 2 1 9 3 2 ) よびカウアイ島のノレナ,ハワイ島の瑚排栽 表 4 のつづ、き 培,マウイ島の玉置黍ポテト,カウアイ島の 米耕作である。このうちノレナというのは砂糖 ( 5 ) [カウアイ島] 順位 1 9 0 9年 1 9 1 9 年 1 耕地労働者 糖業労働者 ( 7 1 1 0 ) 4 6 8 7 2 受黍業者 農業 ( 4 0 0 ) 5 1 7 3 米耕作 農場労働者 ( 3 8 6 ) 2 5 4 4 会社商居被雇人 家事被雇人 ( 1 3 9 ) 2 1 3 5 ルナ 漁業 ( 13 5 ) 1 4 9 6 野菜商 商居員及事務員 ( 1 2 9 ) 1 1 8 漁業 車馬業,自動車運転手 7 ( 12 3 ) 1 1 4 8 雑貨商 雑種労働者 ( 1 1 4 ) 7 9 9 大工 木挽,大工職 ( 1 0 2 ) 6 5 1 0 旦腐販売 教育関係者 ( 1 01 ) 4 6 其 他 言 ( 9 5 4 7 ) 1 9 2 9年 1 9 3 6年 耕地の現場監督で,たいていは白人であった 農耕,畜産労働者 農耕,畜産労働者 が,日系人もいたのである。給料は 34~35 ド 2 5 0 7 1 7 0 9 農耕,畜産 その他の労働者 2 3 8 4 1 5 物品販売業 農耕,畜産 2 2 8 工場労働者 ノレ以上 1 0 0ド、ル位まで取る者もいた刊。 米作については,ハワイにおいては 1 8 5 7 年,中国人によりはじめて行われた。それが 2 8 5 会 社1航商E事 務 員 1 9 0 0 年頃から次第に日本人の手に移り,用具 2 2 1 2 5 1 総理月!航事務員 物品販売業 家事被雇人 や生産様式にも日本様式が取り入れられ品種 1 8 0 1 3 0 家事被雇人 工場労働者 からは全く日本人の独占事業となった。米作 2 1 6 車馬業?自動車運転手 1 6 6 その他の労働者 は,一一時ハワイ島やオアフ島の一角でも行わ 1 2 0 教育関係者 1 6 5 1 0 4 大L石 工1ペ ン キ 職 車馬業,白動車運転手 1 6 0 8 0 融業,製塩業労骨者 7 1 9 1 0 年頃 も日本種が用いられるようになり, 1 a 側 ,身廻品製造 7 4 れたが,鳥虫害のため全滅し,カワイ島のハ ナレイ地方の水田に限られるようになった。 9 0 9 年を中心とする前後 1 0 年 その最盛期は, 1 間でその後次第に哀えた 1 8 )。 6 7 0 6 ( 1 6 5 4 2 ) 4 5 0 4( 1 4 8 9 2 ) 3 9 9 0 ( 1 5 1 3 2 ) 」 ー (注)数字は本業者数(男女計),ただし括弧内の数字は家族を 含む本邦人数。 オアフ島はホノルノレ市を除く地域。 1 9 1 9 年およひや 1 9 2 9 年は,マウイ島にモロカイ島,ラ十 イ島,カホロラウエ島の分,カウアイ島にニイハウ島の 9 3 6 年では,いずれも含まない。 分をそれぞれ含むが, 1 (出所) 1 9 0 9 年は r 通商葉纂』明治4 2年第5 5号(外務省報告課, 1 9 0 9年 1 0月 s日 ) 。 1 9 1 9年は「海外各地在留本邦人職業別表(大正 8年 6 月末現在調 ) J (外務省通商局)。 1 9 2 9年は「海外各地在留本邦人職業別人口表(大正 4 年1 0月 1日現在調 ) J (外務省通商局)。 1936年は「日布時事布佳年鑑~ (日布時事社, 1 9 3 7 年 ) 。 m . 日本人の主な職業とその地域分布・出身 地分布 日本人の当初の主要な職業で、あった砂糖耕 地労働者が減少し,次第に他の職業に移るな かで,いくつかの産業が日系人の手によって 形成されていった。そのうち日本人の独占事 業となったコーヒー栽培,漁業,養豚業など の職業について,その発展過程と地域分布・ じて都市のホノルノレとそれ以外の地域(島) 出身地分布を考察したい。 で大きく異なるのは,先ほどみたように第 1 (I)コーヒー(蜘排)栽培 位がホノルルでは家内労働(家事被雇人),つ , 1 9 2 0年には男女ともパイ さきに表 2で まり前記の使用人(奉公人),それ以外では耕 ナップノレ農場労働者とともにコーヒー農場労 地(糖業)労働者である。また,ホノノレルで 働者の進出が目覚しいことを指摘したが, 9 0 9 は商唐・事務員が,それ以外の地域では 1 コーヒー農民も 1 9 1 0 年で 1 6 位 , 1 9 2 0 年では 1 4 年は受黍業者, 1 9 1 9 年では農業または農場労 位といずれもホノノレル以外の男の職業でかな 9 2 9 年以後は農耕・畜産あるいは工場 働者, 1 り上位を占めており,当初から主要な職業で 労働者がこれに次いでいる。このほかu.S . あったことが知られる。また全コーヒー農民 CENSUSで も 上 位 に み ら れ た 大 工 , 運 転 に占める日本人の比率は 1 9 1 0年が83.7%,2 0 手,さらに漁業などが,ほとんどの地域・年 年が 8 4.5%,コーヒー農場労働者が 2 0年で s系人の主要な職 業であった。また 1 9 0 9 年の職業分類で特色が 76.7%と,当時は日本人が独占していた格好 9 0 9 である。次に表 4をみると,ハワイ島の 1 あるのは,ホノルノレの養豚養鶏,オアフ島お 年のところで瑚排栽培が 3位となっており, 0 位以内に登場する 代で 1 -4 7 コーヒー栽培とともに, ハワイ島でこの頃から主要な産業であったこ 日本人が独占して いたといわれる漁業と養豚業について,同様 とが分かる。 l( 1 9 1 0年)の「人 ここでは『布睦日本人年鑑 d に年鑑の人名録を使って居住地・出身地を調 名録」でハワイ島のコーヒー栽培業者を拾い べてみた。居住地や出身地でも特色があると 出して,居住地別・出身地別に表にしてみ 予想、されたためである。 た。その結果が表 5である。居住地別では, 9 1 0年では漁業は 1 3位 , 2 0年では 1 0 表 2の1 ほとんどがコナ地区で表中に・をつけた居住 位 , 3 0年では 9位,全漁業従事者に対する日 3分の 1強が熊 本人の比率は1 9 1 0年 が 55.2%, 2 0年 が 地である 19)。出身地別では 6 5. 4 % , 3 0年が55.5%と,いずれも日本人が 本でかなりの偏りがみられる。 9 0 0年にコーヒーの世界的相 ハワイでは, 1 過半を占めている。養豚業については養豚業 場が暴落した際,白人の業者が見切りをつけ だけで分類されていないので,いずれの年に たコーヒー栽培が,当時砂糖耕地を離れつつ 9 0 9年の も登場しない。表 4でも,養豚業は 1 あった日本人労働者に格好の機会をあたえ ホノルノレのみに 5位で養豚養鶏と出てくるだ 0 0人余の日本人がハワイ島オーラアで た 。 1 けである。他の年度では農業や農耕,畜産に 土地を借りてコーヒーの栽培を始めた。しか 分類されていると考えられるため,詳細な数 漁業の場合,表 4ではホノ し雨の多いこの地方には適さず,島の反対側 字は不明である のコナ地区で発達するようになった 20)。コナ 9 0 9年の 4位を筆頭に,他の地域を含 ルノレの 1 地区の日本人のコーヒー栽培については別 9 3 6年以外はほとんどすべて 1 0 めていずれも 1 稿 21) でもふれたが,コーヒ一事業が盛んに 位以内にみられる。 O なるにつれて,各耕地の労働から逃れた日本 まず漁業については, 日本人移住者が増加 人が続々とコナ地区にやって来て,コーヒー するに従い急激に魚の需要も増したため,耕 またはその他の独立農業に従事したのであ 地労働者から漁業に転ずるものが現れた。 る。そして日本人独立業者の建物住宅が至る 1 8 9 2年頃よりいわゆる沿岸漁業が始まり, 所に散在し,他のほとんどの耕地でみられる 1 9 0 2年に近海漁業となり, 1 9 0 9年頃より遠洋 日本人の状態とは異なっていたという 22)。 漁業をみるに至った。こうしたハワイ漁業発 展の過程で,山口県出身の西村亀太郎と和歌 ( 2 )漁業と養豚業 山県出身の中筋五郎吉らがその功労者となっ 表 5 ハワイ島における瑚排栽培業者の居住地・出身地別分布表 居住地¥出身地 宮城福島千葉東尽福井和歌山広島山口愛媛高知福岡佐賀熊本不明 計 ラウパホエホエ 2 ポハケア -カイノレア 6 .ホノレアロア 2 -カイナリウ 6 1 5 2 1 2 1 2 3 3 4 2 4 9 1 4 2 1 0 1 2 4 8 3 7 3 5 2 4 8 77 1 2 1 3 -ケアラケクア 4 .ホナウナウ 2 1 4 2 5 1 4 2 1 3 7 1 7 8 オーラー 1 2哩 出身地計 4 3 -印はハワイ島コナ地区の居住地 布唾新報社編『布睦日本人年鑑~ ( 19 1 0年)の「人名録」より飯田作成。 48- た。西村は 1 8 9 7年当時最新の日本式方法を採 用して,遅れていたハワイの近海漁業を発展 た24)。 1 9 1 0 年の年鑑の「人名録」で漁業関係者(漁 9 0 7 させた。中筋は帆船による不便を感じ, 1 業会社員,鮮魚仲買人など含む)を拾うと, 年にガソリン・エンジンを採用して漁域をひ 表 6にみられるようにハワイ全体で 1 6 1名 , ろめ,遠洋漁業の発展に寄与した 23)。そして 0 6 名で全体の 3分 そのうちホノノレノレだ、けで 1 1 9 0 7年のヒロ水産株式会社から始まって, 1 9 0 8 年に布畦水産株式会社, 1 9 1 0 年には太平 で全体の 56%,それに広島 3 5 名,和歌山 2 6 名 洋漁業株式会社および布睦島漁業株式会社, と,この 3県だけでほとんどを占めている。 1 9 1 4 年にホノルノレ漁業株式会社という 5つの ホノルルだけをみると,山口 6 0 名,和歌山 2 4 主要漁業会社が日本人によって設立され 名で,和歌山県出身者はほとんどホノノレノレに 0 名 の 2を占めている。出身地別では,山口 9 表 6 ハワイにおける漁業関係者の居住地・出身地別分布表 居住地¥出身地 -キング橋詰 .キング街 .ホテル街 .リバー .ヌアヌ -べレタニア ."ウナケア -ヶカウリケ アアラレーン イヴリー パラマ カリヒ カカアコ ワイキキ 宮城山形新潟東京和歌山広島山口福岡熊本鹿児島 6 1 1 1 6 2 l 1 1 3 9 l 1 l 3 1 1 1 1 1 l 8 4 5 1 l 1 1 1 1 ー『二L l 1 l ホノノレル計 l 1 1 1 2 4 1 5 6 0 2 1 アイエア 1 へイア 2 ワイアノレア l 1 ワイアナエ 1 ワイノfフ 3 2 7 オアフ島計 4 ヒ口市 1 1 6 ハヴィ 2 ホヌアポ 1 ククイノ、ェレ l ラウパホエホエ 1 l ナポーポー 1 パパイコウ、オノメア 1 カワイハエ 1 l 1 ハワイ島計 1 5 1 0 1 ハナ 2 カフノレイ 1 キヘイ 1 ラハイナ 1 2 4 アラエア 2 1 プウネネ l パイア l マウイ島計 l 6 1 0 アナホフ l ハナベペ 3 ククイウラ l 2 ワイメア 1 1 カウアイ島計 3 l 5 ハワイ総計 1 2 3 1 1 1 l 2 6 3 5 9 0 -印はホノノレノレのダウンタウン地区の地名。 布唾新報社編『布珪日本人年鑑~ ( 19 1 0 年)の「人名録』より飯田作成。 唱 -4 9 計 7 2 6 2 1 2 3 1 0 1 4 2 2 5 6 3 3 1 0 6 l 2 2 1 5 1 1 8 2 l I 2 1 l 2 1 8 3 1 1 7 3 1 1 1 7 1 3 3 2 9 1 6 1 個人では,オアフ島の北部海岸にあるハレイ 集中していることが分かる。 居住地別ではホノルノレ市のカカアコ 5 6 名と 8,マウイ島のラハイナ 1 9,キへイ 3,マ ワ1 0 名,そしてヒロ市 8名と,この ケカウリケ 1 ラエア 2,カフノレイ 9,カウアイ島のパカラ 3ヵ所に集中している。最も多いホノノレノレの 5,ハナペペ 1 0,ワイメア 1 0,カパア 1, ク カカアコはホノノレ/レ港の東側にある地域で, クイウラ 1 4,コロア 1,ワヒアワ 5,ハナレ ケカウリケはその西側の,いわゆるダウンタ イ 2,モロカイ島 2で合計99となり,総計で ウンとよばれるホノルル港の北側の地域内に 3 2 7である。やはりホノノレノレとヒロにある会 ある通りの名称で,魚市場,布睦漁業会社, 社所属のものが約70%と多数を占め,個人で 太平洋漁業会社がある地区である(図1)。居 はカウアイ島が目立つが,各島に広く分布し 住地別・出身地別の相関では,漁業関係者で ていたことが分かる。 6名中 4 5名が山口出 カカアコ居住の日本人 5 ホノルノレにおける漁業と養豚業に関して 0 名中 9名が和歌山 身,ケカウリケ居住の者 1 は , 1929年の「日布時事布睦年鑑』の「人名 出身,さらにその周辺のいわゆるダウンタウ 録」でも拾ってみた。表 7であるが,まず漁 ン地区内に住む和歌山出身者はホノルノレ全体 , 業については,出身地ではやはり山口 1位 名中 22 名と,両県出身者ともその居住地 の24 和歌山 2位,広島 3位で,この 3県が圧倒的 ごとのつながりはかなり強く,出身地ごとの 9 1 0年で明らかになった山口県 に多い。次に 1 住み分けがみられるように思われる。 出身者がカカアコ地区に多いかどうかを調べ 19 2 7年)の「各 次にIi'日;布時事布睦年鑑 J( たところ,この地区にある通りの居住者が58 会社個人所属漁船」数でその分布を調べると 名,和歌山県出身者の場合はケカウリケ街の 次のようである。会社ではホノルルにあるホ 0 名を あるダウンタウン地区に居住する者が5 9 隻(以下同じ),布唾水産会 ノルノレ漁業会社2 数え,いずれも半数以上が 1910年の場合と同 社6 3,太平洋漁業会社55,ハワイ島ヒロの布 じように住み分けをしていることがわかる。 睦島漁業会社26,ヒロ水産会社55で合計228。 次に養豚業については,漁業と同様に 1910 (熊本) 西海屋旅館 至カカアコ 。 O . 1 m i l e T 100m ホノルル港 図 1 アアラ公園周辺と旅館の分布 5 0 表 7 漁業・養豚業の出身地別・居住地別分布 j 魚 業 山口出身居住地 養豚業 出身地 7 8 熊本 3 9 広島 3 7 福岡 3 5 山口 3 2 鹿児島 1 大分 1 島根 1 和歌山 1 新潟 1 福井 1 計 2 2 7 沖縄 居住地 5 Kam. NRd. (カリヒ) 4 O i l i iS t . (ワイアラエ) 4 3 Waialae 3 6 Kapaakea (モイリイリ) 1 9 K a l e iLane (マノア) 1 6 Wailupe (アイナハイナ )11 出身地 1 0 7 9 8 広島 6 8 熊本 1 7 沖縄 1 4 9 福岡 新潟 5 静岡 3 千葉 2 東京 2 その他 6県 各 1 言 十 3 3 1 山口 和歌山 和歌山出身居住地 [カカアコ地区] [ダウンタウン地区] 2 1 . CookeSt 1 3 t . KoulaS PohukainaSt . 9 4 OneLane t . 4 PunchbowlS 4 t I la n i w a iS . 3 HalekauwilaSt KananuwaiLane R i v e rS ι . KekaulikeSt . MaunakeaSt C o l l e g eWalk t PauahiS 2 3 1 8 3 2 2 2 『日布時事布睦年鑑』日:布時事社(19 2 9年), r布庄日本人人名住所録J より飯田作成。 年の『布睦日本人年鑑』の「人名録」で養豚 業者は日本人または中国人で、あった。また, 業者を拾ってみると,表 8にみられるよう 地方では各耕地の賄方(コック)および独立 に,ハワイ全体で 3 7名 , うちホノノレルだけで、 農家の副業であった。そして前者は食料の残 合計35 名と, この時期ホノノレノレに集中してい 飯で,後者はパパイアやバナナで飼育してい ることがわかる。出身地別では山口 1 3名,熊 た25)。同書の「布唾在留日本人名鑑」では, 本1 1名と 2県が圧倒的に多い。居住地別で やはり養豚業者はホノルノレ郊外に多く,例え 1名,その は,ホノルル最西端のカリヒ地区2 名 ばカリヒ地区に 38名,モイリイリ地区に 52 南のカリヒプハレ地区 8名,ワイキキの北側 (兼業も含む)など 26) 上記より多くの業者が にあり当時 H系人の新興中心地であったと思 記載されており,実際はかなり多数の業者が われるモイリイリ地区 4名など,当時日本人 従事していたと考えられる。 1 9 1 5年においても,ホノノレルを含むオアフ が最も集中していた,いわゆるダウンタウン 島が特に養豚業が盛んで 73ヵ所に日本人の養 からいずれも離れた郊外に分布している。 1 9 0 9年発刊の『布睦実業案内』によると, 豚場があった。その多くが山口,熊本,広島 ホノノレル近郊はその飼料を厨房の残飯を得る 県の出身者によるもので,他に 3人の沖縄県 のに便利なために養豚業が発達し,当時その 人と少数の福岡県人がみられた 27) との記述 があり先の傾向を示している。 1 9 2 9年については表 7で,総計 227名を数 表 8 ハワイにおける養豚業の居住地・ 出身地別分布表 居住地¥出身県 宮 崎 新 潟 広 島 山 口 福 岡 熊 本 2 9 1 l 8 カリヒ カリヒプハレ 3 3 1 l 1 カリヒマオカ リリハ l 2 1 モイリイリ l ホノノレノレ計 2 2 5 1 3 2 1 1 ヒ口市 I ハワイ島計 1 モロア 1 1 カウアイ島計 ハワイ総計 2 2 7 1 3 2 1 1 布睦新報社編『布庄日本人年鑑~ 名,広島 え,出身地別では沖縄78名,熊本39 計 3 7名,福岡 3 5名,山口 3 2名で,その他 1名の 2 1 8 1 1 4 3 5 1 1 県が 6県である。ここで沖縄県出身者の著し い進出がみられるが, 1 9 2 0年頃に養豚業を始 めて他県出身者をしのぐようになったといわ れているお)。また沖縄以外も,西南日本の 4 県出身者に集中していることがわかる。居住 カリヒ地区内) 4 5 地別では, Kam. NRd. ( 1 3 7 名 , O i l i iS t . (ワイアラエ地区内) 4 3名 , ( 19 1 0年)の「人名録」より飯 Waialae(ホノノレノレの東端)3 6名 , Kapaakea 田作成。 5 1 (モイリイリ地区内)1 9 名 , K a l e iLane(マノ 内容の文章がある。 名 , ア地区内,現在ハワイ大学のある辺り)16 日本人は手先が器用でしかも資本が少ない ため,散髪業を営むものはすこぶる多い。家 Wailupe(アイナハイナ地区内,ホノルルの 東端の地域)11名で,やはりホノルノレの中心 が小さくてしかも一人にて事足るため本国に 在って多少この道に経験あるものは他の労働 部より離れた東西の端の方に分布していたこ とが分かる。 に従事するよりも遥かに優る所あり,とのこ とである。これを始めるのに通常 104~ 5ド 、 / レ 9 1 0・2 9 年 このように養豚業に関しては, 1 の居住地・出身地いずれの場合もかなりの偏 ほどででき,主な器具は椅子,鏡,鉄,その 他の装飾品である。またこの頃,ホノルル市 りがみられる。ただし,漁業のように出身地 ごとの住み分けはなかったようである。 内で理髪底を営むもの 50 余軒のうち 4~5 軒を除くほかはことごとく日本人であった 31)。 ( 3 )1 9 1 0 年頃のホノルノレの主な居舗および 他国人は白人や中国人で,各々自国人のみ 旅館業 9 1 0 年頃のホノルルの日本人の主 主として 1 を顧客としていたが, 日本人の場合は外国人 な盾舗について,その地域分布と出身地につ 9 0 0 年 , をも相手としていた 32)。また彼らは 1 いてみてみよう。当時は呼寄移民が始まり, すでにホノルル理髪業組合(後に理髪同盟会) 日本人(一世)が永住の基礎を築こうとした を組織している 33)。日本語新聞『日布時事』 時代で,ホノルノレやハワイ島ヒロという主要 の1 9 1 3年の記事によるとホノノレル市に於 都市に人口が急激に集中し,各種自営業が多 ける同胞理髪業者は実に其数百三十軒あり他 数出現して,それらが次第に発展しようとし 国人十数軒に比し著しく優勢を占め居れ ていた時代と考えられる。当時の日本人の著 34) とあり,前述の 1 0 5軒をさらに上回っ りJ 1 1年)掲載の分 わした「ホノル¥繁自記.!l( 19 ていた。 1 9 1 0 年発刊の『布珪日本人年鑑』の「人名 布図を見ても,特にダウンタウンに多数の日 本人庖舗がならんでいるのが分かる。まず, 録」で理髪業者の出身地を探すと,表 9のよ 本書の統計からホノル/レにおける日本人庖舗 うに,居住者の多い山口・広島両県出身者が 苫が最も多く 1 0 5, の数を調べてみると,理髪f 多数を占めている。その分布地域を前掲の 商庖8 4,水庖6 5,玉突場5 1と続いている 29)。 『ホノノレ¥繁昌記』でみると,やはり日本人の 一般商居についてはすでに述べたので,ここ 集中するダウンタウンに多いが,マキキ,モ では,数の多い理髪庖,水居,玉突場と,分 イリイリ地区など全市に散らばっている。 布地域・出身地などで特色のみられる自転車 ②水唐あるいは水屋 業,湯屋および旅館業について,その特色を これは他の国にない珍しい名前の屈だと思 明らかにしたい。 われるが,ソーダ水をはじめ,アイスクリー ①理髪庖 ム , ミノレクセーキ,ケーキ,キャンデー,煙 いわゆる床屋については砂糖耕地社会の中 草,果物等を販売する居である。利益はキャ から最も早くから出現した職業のーっといわ ンデーが最も多く 4割,アイスクリーム 3 れ,先述のように各耕地で労働のかたわら副 割,煙草 2割強であり, 1 9 1 3 年ではその数約 業として床屋を営む者もいた。そして,耕地 7 0 軒とある 35)。統計上では,一応菓子商に含 の契約を終えて独立しようとする人々の間で まれると考えられる。出身地は表 9のよう これを営業する者が多かった 30)。その理由と に,やはり広島・山口両県が多い。分布地域 9 0 0 年に発行された『新布睦』に次の して, 1 は,アアラ公園より東のダウンタウンに集中 5 2- 表 9 ホノノレノレの主な庖舗営業者の出身地別表 出身府県 理髪庖 岩手 1 宮城 1 福島 1 水底 玉突場 湯屋 顧客とする最も着実なる商売であって布畦の 自転車業は約七割日本人に依って占められて 吉 自転車j いる。宮本氏がこの有利なる事業に着目した 2 群馬 1 東京 l 神奈川 1 新潟 5 I 和歌山 1 3 鳥取 l 9 0 2年のことでホテノレ街に同県人佐藤, のは 1 1 吉川の両氏と三人共同にて自転車庖を開設し た。之恐らくホ府同胞斯業の元祖であらう。 1 1 9 0 3 年 5月,氏は独立して現在の位置(キン 1 グ街リバー近く)に開業し爾来引続き営業 3 し 」 36) とあり,たまたま自転車業を始めた宮 1 本才八という人物が熊本県人だ、ったというこ l 島根 とで,その人物と岡県出身者が多数を占めて 岡山 2 2 l 広島 3 5 1 8 1 3 2 1 山口 3 6 1 4 1 6 4 5 愛媛 4 いるという典型的な例と考えられる。 1 9 0 9 年 にホノルノレ自転車業組合が設立され, 1 9 1 8 年 の領事館調査では 1 5 名の組合員がいた 37)。 1 l 福岡 9 2 4 熊本 1 6 7 6 6 1 1 いわゆる銭湯であるが,これも理髪と同様 大分 2 5 0 4 9 1 4 1 7 である。この場合は余暇で営業という訳にい 高知 1 1 5 言 十 ⑤湯屋 に耕地の労働者の副業として始められたもの 布陸新報社編『布唾日本人年鑑~ ( 1 9 1 0年)の「人名録J かず,妻やその他の助けによって行うもので より飯田作成。 9 0 9 年当時 1カ月の入湯料2 5 セント あった。 1 しているが,西のパラマ地区に 9人,イヴ 9日年の新聞記事によると,ホノ とある 38) 1 リーに 6人が確認できる。 ルルでは「湯屋業者十五軒あり組合を組織し ③玉突場 一回五仙(セント)と定め(中略)平均一晩 これに従事している人も意外に多い。先の 入湯者百五十名」 39) とあり,表 9の軒数とほ 9 1 0 年には 『布唾日本人年鑑』で,玉突業者は 1 4 9 名あり(表 9 ),[j'日布時事』によれば 1 9 1 3 年に 5 7軒を数えた。また 8・9・1 0月の 3ヵ ぼ同じである。分布はやはりダウンタウンお 月が盛んとあり,当地におけるとくに夏の娯 原因は不明である。 よびその周辺がほとんどで,湯屋主の出身地 は,熊本県人が約半数を占めているが,その 楽施設で、あったと推測される。業者の出身地 ⑥旅館業 は,水底と同様,山口・広島両県が多く,分 ハワイにおける日本人旅館は, 1 8 8 9 年に山 布地域はもっとダウンタウンに集中してい 口県人の小島定吉がホノノレルのベレタニア街 に開業したのが最初といわれている 40)。前掲 る 。 ④自転車庄 の F布睦紀行』には,この小島を含め 6名の これは熊本県人が多数を占めていて,表 9 ホノノレノレ日本人旅亭の経営者の名が記されて にみられるように, 1 7人の自転車業のうち 1 1 お り , そ の う ち の 4名 が 山 口 県 人 で あ っ 5人が山口県出身者で,偏りが た41)。またハワイ島においては, 1 8 9 1年,広 2 1年) みられる。『布睦同胞発展回顧誌Jl ( 19 島県人の沖野芳松がヒロに最初の旅館を始め によるとその主因は我が宮本才八氏の如 8 9 3 年 た42)。これも表 3にみられるように, 1 き自転車業界の元勲が熊本県人であり,郷党 創業の福岡県人の村井園平とともにその名が の之に倣らふた為であらう,斯業は内外人を 残されている 43)。そして「ホノノレノレ日本人宿 人が熊本県 5 3 屋組合」が,日本人の商業団体としては最も 位置で気のつくことは,山口県出身者の旅館 早く 1 8 9 3年に組織された。 が小松屋を除きヌアヌ川│から主として東の地 域,広島県出身者がアアラ公園の周辺,そし その当時の日本人旅館は岸本旅館(山口), 吉野屋(広島,後の山城旅館),水羽屋(広 て熊本県出身者を中心とする九州の旅館が全 島),布庄屋(広島,後の小林旅館),小松屋 てそれより西に位置していることである。 (山口),川崎屋(山口,後の川崎ホテノレ),大 これらホノルノレの日本人旅館は, 日本より 島屋(山口県大島郡),広島屋,福岡屋,肥後 到着したばかりの移民が各島の砂糖耕地に向 屋(熊本),熊本屋,九州屋(熊本),中国屋 かうまでの船待ちの宿として利用された。そ (山口,後の米屋ホテノレ),菊屋,太田屋,長 の間,総領事館や移民会社の手続きを助けた 谷氏の宿屋の計 1 6軒あった 44)。先に紹介した り,就職の世話もした。耕地で働いた後,日 1 9 0 0年発行の「新布珪』では,ホノルノレの日 本へ帰る人やアメリカ本土へ移住する人々も 1軒,ハワイ島ヒロには沖野旅 本人旅館は 1 泊まり,その人達の旅行手続きも行った 46)。 館,熊本屋,山口屋,今回屋の 4軒,その他 要するに,旅館は単なる宿泊施設としてだけ ハワイ島ノ fノfイコウ,オーラア,コハラ,ラ でなく,日本人移民に対していろいろな世話 軒の ウパホエホエ,マウイ島ラハイナの各 1 をしたようである。なお,アメリカ本土への 名が掲載されている明。 9 0 1" ' 0 6年頃には, 転航が最も盛んであった 1 1 9 1 0年の『布睦日本人年鑑』の人名録で旅 ホノルノレにはさらに多数の旅館があったとい 館業者を調べると,ハワイ島ではヒロの 9名 われており,その後間もない 1 9 0 8年の総領事 をはじめ各地に 1" '3名あって計 3 2名と多 3軒を数えた 47)。 館報告では2 く,マウイ島はラハイナ 4名,ワイノレク 3名 また, 1 9 0 3年発刊の『ハワイ移民史』には など計 1 1名,カウアイ島はハナペペ,コロ 「熊本屋旅館は熊本県人唯一の旅館なり」と ア,ワイメア各 l名で計 3名,オアフ島はワ か新潟屋は新潟県人第一の旅館なり」など イパフ 1名 , ホノノレノレが 1 3軒で 2 6 名が従事し と書かれた広告もみられる 48) 1 9 0 4年に発行 ている。ホノノレルやノ、ワイ島のヒロをはじめ された『最新正確布睦渡航案内』には日本人 として,当時の日本人が集中していた地域に 旅館は「その取扱方から宿料等も皆同一であ 日本人経営の旅館が多かったことがわかる。 るから,いずれの宿屋に投宿するも相違はな またホノルノレ以外では,旅館を専業としてい いが,大抵県別により岡県人宿屋に投宿する た者もいたが,馬車業,理髪業,料理業,料 ことになっている,さすれば知人の捜索にも " ' 3軒ずつみ 理業などとの兼業もそれぞれ 2 便利で言語も同じく事情も通じて万事調法で 5名,山口 1 0名,熊本 s られ,出身地は広島 2 あります」酬とある。これらの事実から,初 名などやはり出身者の多い県が多数を占めて 期の時代ほど,移動のはげしい出稼ぎ移民に いた。 対して旅館の果たす役割が大きいため,その さて, ホノノレルの日本人旅館はホノルノレ港 数も多く,また出身県と旅館との結びつきも に近いアアラ公園を中心とした下町に集中 強く,旅館が出身県ごとの情報交換の場所で し , 1 3軒中の 1 2軒が図 1の中に含まれてい あったことが考えられる。つまり,旅館業は る。旅館名も明らかに出身地を示す名前が多 ホノルノレという都市の人口増加に比例して, く,尾道屋,肥後屋,九州屋,西海屋,福岡 他の商庖より早く発展し,新しい社会的結合 屋,小松屋(山口県大島郡小松町)などであ の場となった訳であるが,後に移民が定住す る。しかし,軒数および出身地を示す名前の るにつれてその数は停滞・減少し,代わりに ものは 1 8 9 3年当時のほうが多かった。旅館の 貸ノレームやキャンプといわれるものがホノル 5 4 ルに増え,出身県ごとの情報交換という役割 ホノノレルにおいては 1 9 1 0年頃多数の日本人 も次第に県人会などの同郷人団体組織に移っ 経営による庖舗が出現したが,いずれもダウ ていったものと考えられる。 ンタウンに集中していた。そのうち数の多い 理髪庖,水底(水屋),玉突場と分布地域,出 N. まとめ 身地などで特色のみられる自転車業,湯屋お 日系人の職業は砂糖耕地の労働から始まっ たが,その内容もさまざまであった。耕地内 よび旅館業について,その特色を明らかにし た 。 での副業には,理髪業や湯屋業など後の H系 日本人旅館は早くから存在し,ホノルルの 人が独立営業する萌芽となる仕事もいくつか みでなく日本人の集中していた地域にみられ みられた。また受黍業や小作業もあり,とく た。ホノルノレにおいては宿屋組合が日本人の に受黍業は日本人にとって働きやすい労働形 商業団体として最も早く組織され,旅館名は 態であったために多くの人が従事したと考え 出身地を示すものが多かった。旅館は単なる られる。ホノノレル以外の地域では,長く受黍 宿泊施設としてだけでなく,日本からやって 業など糖業や農業労働者が主要な職業で、あっ 来た移民に対して総領事館や移民会社の手続 たが,都市のホノルノレで、は家内労働いわゆる きを助けたり,就職などいろいろな世話をし 奉公人が主な仕事で,商庖,事務員がこれに た。また同郷人の情報交換の場所として,初 次いで多く,その数も次第に増加していっ 期の頃とくに重要な役割を果たしたのであ た。また大工,漁業,運転手などがすべての る 。 地域での日本人の主要な職業であった。 (大阪商業大学総合経営学部) また,いくつかの産業が日本人の手によっ て形成されていったが,そのうちコーヒー栽 〔 注 〕 培,漁業,養豚などは日本人の独占事業と なった職業であり,その発達の歴史や居住地 域や出身県を調べた。コーヒー栽培について は最初ハワイ島のオーラアで栽培が始められ 1)飯田耕二郎「戦前ハワイにおける日本人の人 口と居住地 J,大阪商業大学論集 1 2 4,2 0 0 2, 19~42 頁。 2 ) ①木村芳五郎・井上胤文『最新正確布唾渡航 たが,次第にコナ地区で発達するようにな 案内.!l,博文館, 1 9 0 4,90~94頁。および② り,各耕地から逃れた労働者がやって来て独 林 立業者となり, 1 9 0 9,24~25 頁。 日本人集中地区を形成した。 三郎『布睦実業案内山コナ反響社, 出身地では熊本がかなりの比率を占めてい 3) 前掲 2) ①98~99 頁。 る。漁業はその発展の過程で功労者が現れ, 4 ) ハワイ日本人移民史刊行委員会編「ハワイ日 本人移民史.!l,布唾日系人連合協会, 1 9 6 4, 1 9 1 0年頃ホノノレノレとハワイ島ヒロに相次いで 漁業会社が日本人によって設立された。漁業 関係者もホノノレルとヒロに集中し,出身地も 山口,和歌山,広島の 3県が圧倒的に多く, とくにホノルノレ市内で、は山口県人と和歌山県 人が住み分けをしていたことが分かる。養豚 業はその飼料を得るのに便利なためホノノレル の近郊に集中し,出身地は当初,山口と熊本 の 2県が多かったが,次第に沖縄県が多数を 占めるようになった。 - 5 5 205~206 頁。 5 ) フランクリン王堂・篠遠和子『図説ハワイ日 本人史 1885~1924 .!l,ビショップ博物館, 1 9 8 5,1 5 6頁 。 6 ) 前掲 5 )1 5 4頁 。 7) 前掲 2) ①67~68頁。 8) 前掲 2) ①95~96頁。 9 ) Ii'通商棄纂』第 3 4号 ( 1 8 9 6年 2月 1日)の「布 唾島巡回復命書 J 2 6頁 。 1 0 ) 曜日蒼竜『布睦紀行.!l, 1 8 8 9,4 5頁 。 3 0 ) 前掲 5 )1 5 2頁 。 3 1)藤井秀五郎『新布睦心大平館, 1 9 0 0年 , 1 1 ) Ii'通商葉纂』第 2号(18 9 4年2 月)の「二十六 年九月中布庄国貿易景況 J1 3 6~140頁。 1 2 ) Ii'通商葉纂』第 3 7号 ( 1 8 9 6年 3月 1 6日)の「布 555~556 頁。 3 2 ) 前掲 2 ) ①6 2頁 。 3 3 ) 森田 栄『布珪日本人発展史~,真築館, 1 9日年, 5 0 7頁 。 3 4 ) Ii'日布時事』第4 0 6 0号 ( 1 9 1 3年 1月 1日) iホ 睦国ノ商況並本邦出稼人ノ情況 J 1~ 2頁 。 1 3 ) 前掲 9 )2 5頁 。 14) 前掲 2) ①61~62 頁。 1 5 ) Ii'殖民時報~ 7 5, 1 9 0 0,71頁。および相賀渓 府日本人職業生活状態」。 芳『五十間年のハワイ回顧~,同刊行会, 1 9 5 3,8 5頁 。 1 6 ) 前掲 5 )1 5 3頁 。 3 5 ) 前掲3 4 )。 36) 日布時事編輯局『布喧同胞発展回顧誌~,日 布時事社, 1 9 2 1,5 8頁 。 17) 前掲 2) ①88~89頁。 1 8 ) 前掲 4 )2 0 7頁 。 1 9 ) 前掲 1 )2 4頁の図 1では 2-8, 2-9, 2 55%以上の日本人集中地区である(同 2 5頁の 3 7 ) Ii'布庄日本人年鑑(第十六回)~,布畦新報社, 1 9 1 9, 1 5 0頁 。 3 8 ) 前掲 2 ) ②2 5頁 。 3 9 ) 前掲3 4 )。 表的。 40) 鷲津尺魔『在米日本人史観~,羅府新報社, 1 0区に当たり,いずれも日本人人口比率が 1 9 3 0, r 在米在布日本人歴史の源 J6 9頁。な 2 0 ) 前掲 5 )1 5 7頁 。 2 1 ) 飯田耕二郎「ハワイにおける日本人の居住 地・出身地分布一 1 8 8 5年と 1 9 2 9年一 J,人文 地理4 6 1,1 9 9 4,9 4頁 。 2 2 ) 前掲 2 ) ②2 6頁 。 23) 木原隆吉『布睦日本人史~,文成社, 1 9 3 5, お,同書などによると,小島は東京出身で 1 8 8 5年に渡布,病弱で労働に堪えずホノル ル市に出て旅館業を始めたが,これを川崎 喜代蔵に譲り,雑貨・食料品を販売した。 41)前掲1 0 )4 5頁 。 4 2 ) 前掲4 0 )r 在米在布日本人歴史の源 J ,6 9頁 。 4 3 ) 前掲 9 )2 6頁 。 4 4 ) Ii'官約日本移民布珪渡航五十年記念誌~,日 布時事社, 1 9 3 5, 1 1 6頁 。 4 5 ) 前掲3 1 ) 612~614 頁。 4 6 ) 前掲 5 )1 5 6頁 。 4 7 ) Ii'通商葉纂』第2 9号 ( 1 9 0 8年 5月2 8日)の「海 207~208 頁。 2 4 ) 前掲 4 )2 0 9頁。なお, 1 9 4 1年にもアイラン ダー漁業株式会社がマウイ島ワイルクに設 立されている。 2 5 ) 前掲 2 ) ②8 5頁および 1 2 8頁 。 26) 前掲 2) ②2 1O ~214頁。 2 7 ) 前掲 5 )1 5 3頁 。 2 8 ) 沖縄県出身者の養豚業については,下嶋哲 朗『豚と沖縄独立~,未来社, 1 9 9 7の ilIウチ 外各地在留並木邦人職業別表・北米合衆国 ホノルル及其付近(明治4 1年 3月 6日附在ホ ノルノレ帝国総領事館報告)J 5 1頁 。 ナンチュウのハワイ移民 J (37~77 頁)に詳し し 、 。 48) 斎藤万水『ハワイ移民史~, 29) 武居熱血『ホノノレ\繁昌記~, 1 9 1 1 0 4 9 ) 前掲 2 ) ①3 8頁 。 A Studyont h eO c c u p a t i o n,R e s i d e n c eandB i r t h p l a c eo f t h eJ apanesei nt h ePrewarHawaii IIDAK o j i r o Keyw o r d s :Hawaii,J apanese,O c c u p a t i o n,R e s i d e n c e,B i r t h p l a c e 5 6 1 9 0 3,
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