講演録

2004年(第15回)福岡アジア文化賞 市民フォーラム
ネパール・ミティラー民画の世界
「女性が伝承文化を担い、未来に生かす」
学術研究賞受賞者 ラーム・ダヤル・ラケーシュ
【日
時】
2004年9月19日(日)
13:00〜15:30
【会
場】
アクロス福岡イベントホール(福岡市中央区天神)
【プログラム】
趣旨説明・出演者紹介
応地 利明(滋賀県立大学人間文化学部教授)
パネルディスカッション
<第1部>「民画が描く世界」
・パ ネ リ ス ト : ラーム・ダヤル・ラケーシュ
(学術研究賞受賞者)
蓮沼 ミヨ子(ミティラー美術館学芸員)
・コーディネーター : 応地 利明
<第2部>「伝承してきた女性の世界」
・パ ネ リ ス ト : ラーム・ダヤル・ラケーシュ
(学術研究賞受賞者)
森 淳(ネパール歯科医療協力会理事)
・コーディネーター : 応地 利明
まとめ
※この講演録は、第1部および第2部の中で行われたラケーシュ氏の講演部分のみ掲載しています。
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<第1部>
「民画が描く世界」
ラーム・ダヤル・ラケーシュ
ミティラー地方はネパールとインドにまた
がっていますが、今日はネパールのミティ
ラー民画について解説してみたいと思います。
はじめにアリパンの説明から始めたいと思い
ます。
アリパンとは主として家屋の地床に描かれ
る床絵で、ミティラーの民画を代表するもの
です。これは非常に儀礼的で宗教的な床絵で
あり、精神的な背景をもつものです。絵画というよりは、瞑想の手段でもあり、ヨー
ガの実践の成果とも言えるものです。ミティラーの人々はとても宗教心が深く、とり
わけ女性は非常にあつい信仰心をもっています。人々は毎月なんらかの民俗的祭礼を
祝っており、その際に床や庭や家の敷居や玄関に絵を描きます。宗教心が強いので、
どのような村の祭礼でもアリパンを描かずにすますということはありません。そして
様々なアリパンのデザインが様々な色で描かれます。シヴァ、パールヴァティー*1、
ヴィシュヌ、ラクシュミー*2をはじめとする数多くの神々が、工夫をこらし独創性と
想像力を働かせて描かれるのです。アリパンはミティラー地方におけるシャクティ*3
崇拝のひとつの例です。ミ
ティラーの女性たちのなかで
伝承されてきたものです。ア
リパンは非常におめでたい吉
祥絵で、ミティラー地方のも
のはネパール全体にわたって
有名です。それは、シャク
ティ・アリパンつまり「塗り
付ける」という意味の言葉か
らきています。基本的には空
間を浄めるために、牝牛(=
ヒンドゥー教での神聖な動
物)の糞や粘土を地面に塗り
付けることを意味するものです。つまり、これはマンダラ(曼荼羅)のようなもので
す。このアリパンは、初潮、妊娠、新生児のチャーティハーラ*4(誕生後6日目)、
3ないし5年目のムンダン*5(子どもの結髪式)、ウパヤナ*6(入門式)や結婚式な
どの、様々なお祝い事のたびに描かれます。
この聖なる床絵の名は地域によって異なり、ベンガル地方では「アルポナ」、ラージャ
スターン地方では「メーディ」、マハーラーシュートラ地方では「ランゴリ」、ボー
1
ジプリ地方では「チョーカ
プールナ」、チベット芸術で
は「マンダラ」とよばれ、い
ずれもミティラー地方の「ア
リパン」または「アヒパン」
と同じ性格の民画です。この
アリパンの伝統は、グリヒ
ヤ・スートラ*7にも見られ、
非常に宗教的背景をもったも
のであります。
またブラフマ・プラーナ*8においても、アリパンについて「ブーミ・ショバ(土地の美
しさ)
」という言葉が用いられています。ナイシャダ・チャリタ*9にも、この言葉が使わ
れています。ですから明らかにいえることは、アリパンには古代以来の美しい伝統がある
ということです。もともとの形は半幾何学的で、花の図形をもとにしたものでした。それ
ぞれの図形は明確な中心をもち、儀礼の際にはそこに聖なる壷や皿が置かれるのです。
アリパンは地面の浄化と美化のために描かれるものです。とくに家屋の玄関の門や敷居
や庭に描かれます。また主な居室にも描かれます。女性達は年齢に関係なく、アリパンを
描く際に自分の才能を示すことができます。アリパンの図形やデザインにはタントラ*10
の影響がありますが、これについてはさらなる研究が必要です。従って、アリパンとは単
なる床の絵ではなく、より装飾的かつ宗教的なのです。
様々な目的に応じて数多くの種類のアリパンがあります。ひとつはツサリー・プージャー*11
の祝祭のときに描かれるアリパンです。若い未婚のミティラー女性が、よき夫を得られる
よう願いを込めて描きます。描く期間はマカラ・サンクラーンティ(太陽暦の元旦)から
ファルグン(クンバ)
・サンクラーンティにかけてで、ヒンドゥー教の太陰暦でいいました
ら、ほぼパウシャ月とマーガ月(太陽暦の 12 月から2月)にあたります。このアリパンで
は寺院、月、太陽、ナヴァグラハ(9つの星)を描きます。サンディヤー・アリパンは、
シヴァの配偶神サンディヤー・デーヴィー「宵の女神」を崇拝するために描かれます。全
宇宙が寺院の形で描かれます。パンチャ・デーヴィー「5大女神」とサプタルシ「7聖仙」
もまた蓮の形のアリパンに描かれます。
サスティー・プージャー*12「サスティーの儀礼」は少女の初潮が始まったときの儀礼で
す。このときに描かれるアリパンは宇宙の創造と同時に破壊を象徴します。ガバーハ・サ
ンクラーンティ・プージャー*13 で描かれるアリパンは誕生と死を象徴しており、人生の
様々な段階を示します。コジャガラ・アリパンは、ラクシュミー「豊饒の女神」を歓ばせ
るために、アーシュヴィナ(太陽暦の9〜10 月)の満月の日に行う満月祭のときに、マカー
ン(水草の実)の葉の上に描かれます。チャツー・シャンクー・アリパンは、デヴターン・
エカーダシの際に、つまり各月の 11 日目に描かれます。サンカー(巻貝)の形を四隅に描
くのです。ディーパーヴァリーあるいはディーワーリーというアリパンは、ミティラー地
2
方ではスカーラートリー・アリパンと
して知られており、豊饒の女神である
ラクシュミーを歓迎するために描くも
のです。スワスティク・アリパンは若
い世代の人々を祝福するために描きま
す。
マドゥーシュラマニー・プージャー
*14
・アリパンは、マドゥーシュラマ
ニーのおめでたい機会に描きますが、
これは花嫁と花婿を結婚後にお祝いす
るものです。男性のダシュパット・アリパンは女性が床に描きます。ドワッド・シャー・
アリパンは家族の死後に地面に描きます。ガワハー・サンクラーンティ・アリパンは、カー
ルッティカ*15 の月にクラーデヴァター(氏族の神)の戸口に描きます。カルヤーンカー
リー・デーヴィー・プージャー・アリパンは、カルヤーンカーリー・デーヴィー崇拝(善
の女神)を祝うために描きます。これはミティラーの女性が描きます。ドゥルヴァーチャ
ット*16・アリパンも、また文化的行事の機会に女性が描きます。様々なデザインの蓮の花
がその中に描かれます。最上部の蓮の花は三位一体を、花びらが5枚あるその下の蓮の花
はパンチャ・デーヴィーを示します。花びらが 7 枚ある3番目の蓮の花はサプタルシを表
します。マウハク・アリパンは結婚式の後で描かれ、サスティー・プージャー・アリパン
は、サスティー・デーヴィー*17 を讃えるために描かれます。その主な目的は若い少女たち
の中に母なる力を生み出すことです。シャスター・ダル・アリパンは母なる女神バグワティ
*18
を歓ばせるために作られます。したがって、このアリパンとは非常に宇宙的な性格のも
ので表現が遊び心に富んでいます。また、見た目にも非常に鮮やかで美しいものです。
アリパン・アートに用いる顔料は、米の粉を水
で溶かしたものです。この糊状のものは地元の言
葉でピタールといいます。女性は2本の指をピ
タールにひたしてぬらし、それで自宅の土の床や
庭や敷居に、様々な優雅で幾何学的な図形を描き
ます。また、その図形を美しくするために赤い粉
を塗り付けます。それは母なる女神の存在を目立
たせるためでもあります。
内部の3つの三角形は、
ミティラーの未婚女性たちが好む女神であるガウ
リー(パールヴァティーの別名)を象徴していま
す。アリパンはまたシャクティ崇拝(前出の*3参
照)を示していますが、これがミティラー地方に
強い影響力をもっています。
ジョティンドラ・ジャインという学者は、著書『ミティラーの表現;伝統と絵画』のな
かで「ほとんどのアリパンは半幾何学的な花の図形という特徴をもっている。各々の図形
3
には明確な中心があり、儀礼の目的のために、そこに聖なる壷や皿や籠や椅子を組み合わ
せて置くのである。複雑な文様が、特定の場所に朱色の点で描かれる。そのほとんどは蓮
の花や植物の図形である」と述べています。
蓮はミティラー芸術に共通のモティーフです。それは普遍的な生命の力と、聖なる意識
の目覚めを象徴しています。それはアリパンに描かれたハリデイ・カマラム、つまり中心
化された蓮のモティーフのことであり、あるいはサハスラーラ・パドマ、つまり「千枚の
花弁をもつ蓮」のことです。蓮はヴィシュヌ、ブラーフマンとも関連がありますが、主に
豊饒の女神ラクシュミーと関連しています。それでミティラーの女性は、豊かさと繁栄の
女神の家への入来を象徴するために、ラクシュミーの足型を家の中に向けて描くのです。
人々は、毎年彼らの家に恵みを与える豊かさの女神であるラクシュミーを崇拝し、再び恩
恵と祝福をもたらすために彼らの家に入るようにと図形によってうながすのです。
また、アリパンではありませんが、ミティ
ラーの女性達が、人の姿や神々の戦いの場面
を描くときの色遣いについて少しお話ししま
す。シヴァ神は赤で描かれます。女神のカー
リー神は黒ですが、それはカーリーとは「黒」
という意味で、ミティラーの人々が宗教の
シャクタ派に帰依しているからです。シャク
タとはシャクティ信仰のことで、シヴァ神の
配偶神である女神パールヴァティー、女神
ドゥルガー、女神カーリーを信仰することです。これらの女神は多くの名前をもって
おり、非常にパワフルで全能遍在の神です。非常に強大な神であり、ミティラーの人々
は、このシャクティ信仰に強く影響を受けています。ですから女神カーリーはエネル
ギーの源なので、黒く塗られています。カーリーはパワーの源なのです。またインス
ピレーションの源でもあるので、女神カーリーには黒が用いられています。ヴィシュ
ヌ神やクリシュナー神には緑色が用いられますが、それはこういった神々が緑色を好
むからです。これらもまたミティラーの人々が好きな神々です。それでヴィシュヌ神
やクリシュナー神は緑に、女神ドゥルガーは黒に、シヴァ神は赤に塗られているので
す。ミティラーの人々は様々な宗教的感情を
もっており、その心の内なる思いを表現した
いと願っています。なぜならアートとは生活
の表現であり、まさにアリストテレスが言っ
たように、アートが人生の模写だからです。
それで、こういった色の組み合わせがミティ
ラー民画では重要であり、人々は絵の中に
様々な色を用いて感情表現をしているわけで
す。
神々に対して、一般的な人々はそれほど重要な意味をもっていないので、彼女たちは
4
自分自身の想像力にしたがって人間を描いています。心のままに、感情のままに描き
ますが、それは固定したものでもなく、前もって決まっているものでもありません。
ですから一般的な人々を描く際には、様々な色を自由に使うのです。宗教的な絵や儀
礼的な絵にかぎっては、決まった色を用いますが、それは特定のモティーフに対して
決められた色なのです。
このように、ミティラー民画は、ミティラー文化と深い関連をもつ民俗的モチィーフを
根本にもっています。その非常に貴重な芸術的な美しさと遺産によって、ミティラー民画
は世界中に知られるようになりました。その人気は世界中で日々高くなっています。この
文化は自然発生した文化であり、長い伝統があるのです。そして女性を通じて世代から世
代へと受け継がれてきました。ここでは次のような表現が適切だと思います。
「民俗芸術と
は人々の間から自然に生まれたものであるが、その共同体の過去からの経験と記憶を保つ
ものであるだけでなく、それでもなおかつ現在においても活力に満ちた存在なのである。
」
したがって、この民俗芸術が近代芸術の数多くの運動に影響を与えてきたのも不思議では
ありません。その力のよってたつところは創作者の
もつ能力であり、自分以前の世代の経験を伝えると
ともに、自分で見て理解したものを、目に見える形
にして提示する創作者の能力なのです。
そして、
ジャ
ナクプルはまた古くからのミティラー民画や工芸の
復興の中心地にもなっています。ご静聴ありがとう
ございました。
*1パールヴァティー:
「山の娘」の意で、シヴァの配偶神。
*2ラクシュミー:吉祥・幸運と美の女神、ヴィシュヌの配偶神。仏教に入り、吉祥天女となる。
*3シャクティ:もとは「神聖な力・エネルギー」を意味し、女性の姿で神格化され、シヴァの配偶神とくにドゥルガーやパー
ルヴァティーを指すこととなった。後には、その崇拝からシャクティ=「性の力」と解される。
*4チャーティハーラ:誕生後6日の夜になされる儀式。子どもの将来を幸運の神に銘記してもらうための儀式。
*5ムンダン:3ないし5年後に行われる儀式で、サンスクリット語でチューダーカルマンとして知られている結髪式。後頭
部の一部(一握り)を除いて、それまでの髪をすべて切って丸刈りにし、残された髪を髷のように結ぶ儀式。
*6ウパヤナ:ヒンドゥーの上位3カースト(再生族)の男子が師についてヴェーダの学習を開始する入門式。
*7グリヒヤ・スートラ:古代インド文献で家庭経とも訳される。バラモン教の家庭内での祭式を述べた宗教儀礼書。
*8ブラフマ・プラーナ:ヒンドゥー教聖典群(プラーナ)のなかの 18 の大プラーナのひとつで、ブラフマ神に捧げられた
聖典。
*9ナイシャダ・チャリタ:サンスクリット語詩人スリナルサの著作『ナイシャダの生涯』
*10 タントラ:儀礼等を用いて、自己と人格的絶対者(神)が一体となった意識。インド思想史において最も定義の困難な
ものひとつだが、ヒンドゥー教を理解するためには、タントラ研究は不可欠。
*11 ツサリー・プージャー:結婚の前から結婚後1年目にかけて、
女性が幸運の星の下で生涯を送っていけるように祈る儀式。
*12 サスティー・プージャー:ミティラー地方では太陽に向かって祈りが捧げられるが、他の地方では違っている。
*13 ガバーハ・サンクラーンティ・プージャー:イネが稔実しはじめるカールッティカ月(10〜11 月)になされる儀式で、
豊作を神に祈るとともに、田を見まわる。
*14 マドゥーシュラマニー・プージャー:結婚後最初のシュラーヴァナ月(7〜8月)に行われる女性の儀式。
*15 カールッティカ:ヒンドゥー太陰暦の8月(太陽暦のほぼ 10〜11 月にあたる)
。
*16 ドゥルヴァーチャット:有徳の士が若い世代の人に祝福を与える儀式。
*17 サスティー・デーヴィー:クマーラ(軍神スカンダ)の母にあたる女神。
*18 バグワティ:別名、バーギラティー(ガンジス川を神格化したガンガー女神の別名)。
5
<第2部>
「伝承してきた女性の世界」
ラーム・ダヤル・ラケーシュ
第2部では、ミティラー民画を
描いているミティラーの女性アー
ティストたちと、ミティラー社会
の福祉増進において彼女たちが果
たす役割は何かということについ
てお話ししたいと思います。ミ
ティラーの人々の文化遺産は偉大
なものです。はるか昔の時代から
↑ミティラー地方
ジャナクプルは、ミティラー文化
の中心地でした。マイトゥリ*1や
ガ ルジ * 2 の よう な歴史 上の ミ
ティラー女性たちは、世界的にも、哲学の分野で有名です。そして、ミティラーの人々は
生来、非常に芸術的であり、特にミティラーの女性たちは芸術・文化や音楽の愛好者です。
ミティラーの芸術は非常に印象的で革新的であると同時に、長く活き活きとした伝統があ
ります。
12年ほど前にミティラーの歴史上初めての美術展が、カトマンズの米国文化情報局
ホールで開催され、カトマンズの市民たちは様々な種類の芸術作品を堪能することができ
ました。この時、ジャナクプルとその周辺の地域から5人の女性アーティストが美術展に
招聘されました。この美術展は、当時の駐ネパール米国大使ジュリア・チャン・ブロック
女史のもと、米国文化情報局の主催で行われたものでした。その5人の女性たちにとって
は、自分の住む伝統的な家を離れて旅行をしたのは、人生で初めての経験だったかもしれ
ません。この美術展のおかげで、無名の女性アーティストたちは自分たちの創造性を示す
機会を得ることができました。
ミティラーの女性アーティス
トたちは、自分の生活を土のカ
ンバス上に描きます。伝統的に
彼女たちは自分の家の床や壁に
美しい活き活きとしたデザイン
の民画を描くのです。いろいろ
な機会に様々なものを描きます。
ディーパーヴァリー*3やチ
ャート*4といったおめでたい
機会に象や家、馬、孔雀などを
描くのです。
6
彼女たちは非常に深い宗教心を持っています。それでシヴァやラーマ、クリシュナー、
ハヌマーン、カーリー、ガネーシャ、ヴィシュヌといった自分の好きな神々や、その乗り
物を描きます。こういった神々は繁栄と幸運のシンボルです。また結婚式の集りで人々に
囲まれた籠の中の花嫁花婿を描いたりもします。また、オウムやカッコウ、竹や木々など
のイメージも描きます。第1部で説明しましたように、アリパンは芸術的な表現の手段で
あり、おめでたい機会に描かれます。この芸術様式はとても古いものです。そして彼女た
ちは自分の心に永く刻まれたものや自分の生活圏でお馴染みの物や出来事を数多く描きま
す。家の壁は土でできており、その上に近くの川でとれる粘土を塗ってカンバスとし、絵
の具は植物や粘土で作ります。そのため描いた絵は長持ちしません。せいぜい一つか二つ
の季節の間もつ程度です。彼女たちは、毎年ディーパーヴァリーの際に家の壁を白く塗っ
た後で、そこに芸術的なデザインを描きます。
こういった絵は現在では消えつつありますが、それは年配の女性が亡くなり、若い女性
たちは政治的変化や近代化のために生地から都会へと移住していくからです。従って、数
年前に開催された美術展は、女性アーティストたちの芸術に正統性と自信を与え、率先し
て制作しようとするインセンティブになりました。また自分たちの消滅しつつある伝統に
ついて正統性を信じ、それを復興するよう奨励されたのです。このような床や壁に描かれ
た装飾的な絵は、彼女たちの小さな村落をとりまく厳しい環境の中に美をもたらすもので
す。家に絵を描くことはミティラーの女性アーティストたちにとっては地域ぐるみの作業
なのです。何世代にもわたって母親から娘へと受け継がれてきた伝統にしたがって、友人
たちも参加することがよくあります。自分たちが屋内ですごす長い時間のなかで、集中的
に描いています。祭礼の機会には壁にジグザグ模様を描くために多様な顔料を用います。
このようなアーティストたちは、ジャナクプルの神話や伝説からインスピレーションを得
ています。そのため、ラーダー*5とクリシュナーや、シーターとラーマの生活などをよく
描きます。
また、彼女たちは、ラーマーヤナやマハーバーラタ、ギーター*6の様々なエピソードや
出来事、ミティラーの村落社会のなかの文化的生活、移り変わる自然の姿などを熟練した
指使いで描きます。
7
蓮はヒンドゥー教と仏教の双方
に、よく普及した強力な伝統的イ
メージです。そして蓮は泥水の池
という汚れた環境の中からも抜き
ん出た純粋さや忠誠心を女性にも
たらすものと考えられ、女性のす
ばらしい創造性を象徴するものと
されています。ヨーニ*7は通常、
蓮の花の形に描かれます。これは
セックスとエネルギーのシンボル
です。この絵は、結婚の蜜月期間
を祝うためにコーバール(花嫁花
婿の部屋)に描かれます。またク
リシュナーはより感覚に訴えるものと考えられていますので、クリシュナーとラーダーの
夫婦生活も壁や紙に描きます。またラーマとシーターの様々な場面も描きます。
ミティラーの女性が屋外の壁や庭の地面に描いた絵は、雨期には洗い流されてしまいま
す。ほとんどのミティラーの女性にとって、紙に描くというのは比較的新しいことです。
現在では彼女たちは、自分たちの絵画技法や伝統的なデザインを、陶磁器や縫い物、衣服
にプリントするようにと教えられています。また、ノートや写真立て、文房具セット、再
生紙のカード、鏡、セラミックのバッグ、クッションカバー、スクリーン、テーブルクロ
ス、灰皿、T シャツ、壁掛けなどにも描きます。このように彼女たちは、日常の生活に役
に立つ数多くのものを作り出しています。そうやって美しく描かれ装飾された籠などは、
地元のバザールで高価な値段で売られています。また、彼女たちはその豊かな感性を伝統
的な絵画から、国内だけでなく海外の市場でも大きな需要がある商業的な絵へと転換して
います。この現代的傾向は、ミティラーの女性アーティストの能力開花(エンパワーメン
ト)にとっては喜ばしいことです。
ミティラーの女性たちの手はいつも忙しく動いています。ちょっとした暇があれば彼女
たちはシキの葉で籠をつくります。それは象や魚、人間の形のものまであります。また大
胆な幾何学的デザインで丈夫な葦の籠もつくります。バザールで買ったものを家に持ち帰
る買物籠として用いるものです。
ミティラーの女性アーティストたちは、言葉の真の意味において、この慣習的な芸術の
庇護者です。
女性たちは、
ミティラー民画のパトロンであり保護者であり推進者なのです。
彼女たちは伝説を生み出しているのであり、その結果として自分たちが現代における生き
た伝説となっています。その未来は明るく輝かしいもので、ミティラー女性の創造的で建
設的な手があるかぎり、途絶えることはないでしょう。彼女たちは伝統芸術の灯火をかか
げる人たちです。それは、女性と自然と芸術作品との間に深く根ざした関係を反映してい
ます。一言で言えば、それは不滅の芸術なのです。それは、はるか昔からミティラー女性
の豊かな心の中に流れ続けているのです。伝統の一環として、ミティラー女性はいつも故
8
郷の家の壁からジャナクプルの中心地にいたるまでを装飾し
てきました。そこではオリジナリティを失うことなく、ヒン
ドゥー教の神話の神々や人物を描いたり、ときにはチベット
のマンダラに似た抽象的な図形を描いたりして自分の家を装
飾してきたのです。今やジャナクプルはカラフルな紙の絵で
有名になりましたが、この手法はジャナクプル女性能力開花
センターでエラ・ライマン・キャボット財団*8の補助金で開
始されたものです。才能のある一群の女性たちが選ばれ、壁
のデザインを紙に移し替える方法を学びました。
彼女たちは、
構成や色遣いや線の描きかたについて技能を向上させていき
ました。ジャナクプル女性能力開花センターは、ミティラー
女性の能力開花と発展のために伝統的絵画を活用する目的で、ネパールで最初の NGO とし
て1989年に設立されました。このグループが制作した絵は、ミティラーの女性たちが
世代から世代へと受け継いできた伝統に根ざしています。結婚式や祭礼などの特別な機会
に、ミティラーの女性たちは自分の家の土壁に、美しく活き活きとした文様やシンボルを
描きます。ディーパーヴァリーの際には、繁栄の象徴である象や虎や孔雀などのデザイン
を描きます。これは、豊饒と富の女神ラクシュミーを引き付けるためです。また彼女たち
は、神々や伝統的な民話の場面を描くことも楽しみます。
ミティラーの民俗芸術では、女性は慈悲深く慈愛に満ちた存在として、また逆に恐ろし
い悪魔的な存在としても描かれます。パールヴァティーとラクシュミーは母性あふれる女
神であり豊饒の精神を示す存在ですが、一方、黒い女神カーリーは怒りに溢れる伝説の女
性のイメージを、また時代を食い尽す強力な女神ドゥルガーは恐怖を与える女性のイメー
ジを、ともに表現しています。
ミティラーの女性は古くから学者であり芸術家でもありました。第2部の最初にお話し
ましたマイトゥリやガルジは世界的に有名な哲学者でありました。美の模範ともいえる
シーター自身も芸術や音楽、絵画、詩を愛好しましたし、ヴァールミーキ*9、トゥルシー
ダース*10、バーヌバクタ*11、チャンダ・ジャー*12といった世界的に有名な詩人たちにとっ
て、シーターは永遠のインスピレーションと想像力の源でした。ミティラーの女性たちは
洗練された趣味をもっていますが、過去から現在に至るまで彼女たちが芸術を勉強できる
ような特定の学校はありませんでした。それは世代から世代つまり母から娘へと相子相伝
の形で受け継がれてきたものなのです。
アリパンは、儀礼や家庭内の宗教儀式のために魔術的に浄化された空間を示す魔法の円
形で、チベットのマンダラと同様のものです。それは、マンダラと同じく宇宙を表現する
もので、そこに描かれたシンボルはタントラの宇宙観を表現しています。アリパンは、儀
礼に際して、
家庭内の女性が、
庭をきれいに掃き清めた地面や家の壁や床に描くものです。
瞑想とヨーガを通じて、女性アーティストがアリパンのデザインの啓示を受けるのが、理
想的とされています。実際には多様なアリパンの詳細については、母親や祖母や他の親戚
や近所の女性の作業を娘が見て学んでいくのですが、ここで一つ申し上げたいことは、ア
9
リパンのデザインは幾何学的に描かれるということです。長方形や円形、四角形、三角形
などです。これには41の形があります。最も有名なのはサルヴァトブハドラ*13です。これ
はトゥルシという聖なるシソ科植物のまわりに描かれるおめでたいシンボルです。これは
最もパワフルな四角形のヤントラ*14です。ヤントラとは宇宙の創造力を意味しており、一
般的には儀礼をする場所の中心に描きます。これは5色で装飾します。大地を表す黄色、
水の白、火の赤、大気の緑、宇宙の黒です。16の四角形のサルヴァトラ・ブハドラ・ヤン
トラは、異性を引き付けるお守りとして身につける人もいます。このヤントラはマスト・
サフランと雌豚を用いて樺の樹皮の上に描きます。一般的にヤントラは金や銀また銅の板
に彫りつけられ、それを拝んだり、護符として身につけたりします。紙や樹皮に描いたり、
護符に入れたりして首や腕にかけるのです。最も複雑なパターンの図形は特定の部分を朱
色の点で描いたものです。これらのほとんどは蓮の花や植物の形をしています。手早く描
いて伝統的な形を機械的に繰り返すことは、
その図形のもつ数学的な純粋さとあいまって、
アリパンに様式上の(主観的)確実性と魔術的な意味合いを与えているのです。
次に、ミティラー社会を取り巻く現在の新しい変化が、ミティラー女性の心にどのよう
な変化を芽生えさせているかについてお話します。ミティラー民画は、女性だけが描くの
で、ウーマン・ペインティングとも呼ばれています。男性はまったく参加していません。
そして現実の状況としては、女性はあまり教育を受けていません。識字率も非常に低く、
そのために女性は家の中にだけいるように
強いられているのです。女性は若くして結
婚させられ、家の四方の壁の中に閉じ込め
られます。
創造的な活動をする時間もなく、
こういった民画を贈り物として描くのです。
未婚の女性は絵を描いて、それを将来の夫
となる男性に贈ります。そうしたことが女
性たちにとって絵を描く動機になっている
のです。
現在では女性たちの考え方に非常に劇的
な変化が起こりつつあります。それは、自
分たちが期待していたほどには経済的水準
が上がらないにもかかわらず、生活費がか
かるという問題があるからです。彼女たち
の経済的水準はそれほど満足のいくもので
はないので、女性たちも何かを生み出す仕
事をせざるをえないわけです。それで民画
の販売が可能となるにつれて生計の助けと
して絵を描くことを彼女たちは選んだのです。そうすれば生活水準を高めることができる
からでした。女性も収入源をもつことができるということで、彼女たちは変化してきたの
です。こういった芸術活動に関してジャナクプル女性能力開花センターは調査を行い、そ
10
の結果を発表しています。ジャ
ナクプル地域全体で、約2,000
人から3,000人の女性が直接的
間接的に芸術関連で仕事を得て
おり、他の女性たちもこの分野
に参入したがっています。生活
水準を上げるために他の手段が
ないからです。それでジャナク
プルの数多くの女性アーティス
トたちは作品をもってカトマン
ズへ行き、いろいろな店を訪れ
ています。彼女たちには自分の
作品のための適切なマーケティ
ングの経路がわからないのですが、それでも現在はマーケティングに努力すべきときなの
です。彼女たちの問題は、女性の社会的経済的状況の改善と関連しています。したがって、
そのために彼女たちはミティラー民画を描こうという気持ちになったのであり、それが生
計をたてるための適切な手段なので、
女性たちは変化していかざるをえなくなったのです。
次に、カースト制度との関わりのなかでミティラー社会に起こっている変化についてお
話します。まず皆さんに知っていただきたいのは、ネパール社会全体の中に差別があると
いうことであり、ミティラー社会にも差別があるということです。なぜならばミティラー
社会にもネパール社会にも、両方に階級制とカ−スト制度があるからです。ですから下層
カーストの人々は、女性も含めてあらゆるレベルで搾取されています。平等な機会は与え
られず、それはまた男女間の不平等の問題でもあります。ミティラー社会は男女平等では
ありません。生まれてくる子どもも女児は好まれず、男児が好まれます。男児の方が愛さ
れ、最大限の便宜を与えられますが、女児はそういったものを奪われています。これは現
在でも私たちが直面する社会学的問題です。現在は男女平等また女性の能力開花の時代と
いわれていますが、
ネパール社会の中では女性は尊重されていません。
これが私たちの知っ
ている苦い真実であり、皆さんにもご理解いただけたらと思います。ミティラー社会のな
かには生まれるとすぐに葬られる女児がいると知れば、皆さんは驚きかつ不思議に思うこ
とでしょう。経済的状況が許さないために、女児は誕生すると意図的に殺されてしまうこ
ともあるのです。
親には育てるお金もなく、
結婚の際にもたせる持参金もないために、
時として女児は殺されてしまうのです。非
常に不幸なことですが、実際に行われてい
ることで、ミティラー社会で起きているこ
とです。非常に胸の痛むことです。とても
無慈悲なことだと私は思います。これがミ
ティラー社会での女児の位置付けでしたが、
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現在ではそれも変化してきています。
日々変化が見られるので、
そういった面でミティラー
社会もすぐに大きく変化することを私は願っていますし、期待もしています。また私たち
も数多くの社会活動を行い、
ミティラーの共同体の意識啓発をしていくことで、
ミティラー
社会の向上のための努力を続けています。女児も男児と同じようにすばらしいのです。そ
れで私たちはミティラーの発展が遅れた地域社会で意識啓発に努めています。ミティラー
社会も都市化し近代化してきていますので、この傾向は長くは続かないと思います。 ご静
聴ありがとうございました。
*1マイトゥリ:ここでは人名であるが、サンスクリット語のマイトレーヤに由来。AD270年頃のインドの仏教哲学者で唯識
説を説く唯識派の開祖。後に弥勒菩薩(マイトレーヤ)と混同された。
*2ガルジ:これも人名ではあるが、古代の自然哲学者に由来。サンスクリット語のヴェーダ(古代バラモン教の聖典)のな
かにその名が見られる。
*3ディーパーヴァリー:ヒンドゥー教で冬作の播種期を迎える祭ディーワーリーのサンスクリット語源で「光の列」を意味
する。毎年カールッティカ(8月)の新月の日に行われる。戸口などに灯明をともしてラクシュミーな
どの神を迎え入れる。
*4チャート・プージャー:ディーワーリー7日後に行われる儀式で、前述のサスティー・プージャーと同じく、ビハールの
人々がガンジス川の土手で太陽神に対し儀式を行う。ミティラーでは、もっとも盛大に祝われる
祝祭の一つ。
*5ラーダー:英雄クリシュナーは牧女(ゴーピー)たちのあこがれの的であり、牧女ラーダーは彼の愛人として有名である。
*6ギーター:古代叙事詞『マハーバーラタ』第6巻にあたる宗教・哲学的教訓詩編『バガヴァッドギータ』
(
「神の歌」の意)
の略称。
*7ヨーニ:ヒンドゥー教での女陰像。シャクティ(性力)の表象として崇拝する。
*8エラ・ライマン・キャボット財団:米国の有名な財団。米国の大学や海外でフェローシップや芸術活動などに対し助成活
動を行っている。
*9ヴァールミーキ:
『ラーマーヤナ』の作者とされる古代インドの伝説上の詩人。
*10トゥルシーダース:インドのヒンドゥー宗教詩人(1532〜1623)
。
*11バーヌバクタ:ネパール最初の詩人と言われ最も尊敬される詩人でネパール語による定型詞を確立した(1814〜1868)
。
*12チャンダ・ジャー:中世のマイティリー語詩人。
*13サルヴァトブハドラ:四角の図形上に28の星宿などが配置されたマンダラやチャート。
*14ヤントラ:タントラではすべての存在は震動音をもち、その音は形と対応している。これを図形化したものがヤントラ(
「助
け」の意)で、瞑想の助け、また神への接近の助けとして描かれる。多くは象徴的幾何学図形で表現される。
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