太平洋戦争後の藤田嗣治とその戦争責任 ―藤田に対する日本美術界の戦後処理と評価― 学籍番号:11152111 氏 名:片桐みなみ 指導教員:田辺清 目次 Ⅰ、はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 1. 問題提起・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 2. 研究の意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 3. 研究の視点と資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 Ⅱ、藤田嗣治の生涯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 1. 誕生よりパリ留学前まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 1)誕生と幼少期 2)尋常小学校から中学校時代 3)美術学校と旅立ち 2. パリ留学より日本帰国前まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6 1)デビュー前の苦闘 2)エコール・ド・パリ 3)彷徨の時代 3. 日本帰国より太平洋戦争後まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10 1)世紀の大壁画 2)日中戦争と太平洋戦争 3)敗戦後の混乱 4. アメリカ行きより晩年まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16 1)苛立ちと不信感 2)アメリカでの孤独 3)寂寥のパリ 4)晩年 Ⅲ、日本での藤田嗣治への評価・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23 1.フランスから帰国後より「作戦記録画」制作前まで・・・・・・・・・・・・・23 2. 「作戦記録画」制作開始より太平洋戦争敗戦まで ・・・・・・・・・・・・・・24 3.太平洋戦争敗戦よりアメリカ渡航まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27 Ⅳ、日本での評価の形成と藤田・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29 1. 内面と行動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29 2. 「日本人」というアイデンティティ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29 Ⅴ、結び・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32 1、結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32 2、今後の展望・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32 注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33 参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37 Ⅰ、はじめに 1、問題提起 2013 年、藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968)の渡仏 100 周年を記念し、渋谷に ある Bunkamura ザ・ミュージアムでの「レオナール・フジタ展~ポーラ美術館コレクシ ョンを中心に~」や、静岡市美術館での「LEONARD FOUJITA レオナール・フジタとパ リ 1913-1931」など、藤田に関する多くの展覧会が各地で開催された。連日、展覧会の広 告が新聞に掲載されていたのは、記憶に新しい。 しかし未だに、藤田の全ての時代の作品を網羅した展覧会は、開かれていない。また藤 田が多くの絵を描き、骨をうずめたフランスでは、カフェに写真が飾られるほどの有名人 であるにも関わらず、日本では一般の人々にはあまり知られていない。その要因は、藤田 が 1938 年から 1945 年の間に、 「作戦記録画」を描いている事にあると思われる。 「作戦記録画」は、第一次近衛文麿内閣(1937-1939)によって「国家総動員法」が発動 された 1938 年から、日本がアメリカとの太平洋戦争に敗戦する 1945 年までに集中的に描 かれた戦意高揚を目的とする一連の絵画群の中で、軍部から画家に対して依頼があったも のを指す。 「聖戦美術展」(注 1)や「大東亜共栄圏美術展」(注 2)などで、この「作戦記録画」 を加えたおよそ 5000 点の戦争画が当時、国民に公開されたという。 このような戦争画は現在、東京・竹橋にある東京国立近代美術館に保管されている。し かし東京国立近代美術館の所蔵ではなく、アメリカからの無期限貸与という形がとられて いる。また、戦争画を集めた展覧会も開催された事は無い。正確に述べれば、1970 年に無 期限貸与という形で日本での保管が許された後の 7 年間程は、公開の機会は何度かあった が、その都度中止されている。特に 1977 年に画家や遺族の了承を得た、50 点近くの戦争 画が公開される運びになったにもかかわらず、直前になって公開は中止された(注 3)。 「戦争 (注 4) 画の公開は東南アジア諸国の感情を刺激する」 という意見が、近代美術館関係者の中で 強まった為である。その実態は政治的、社会的、個人的な思惑が渦巻いているようだが、 全ての根底にあるものは、恐らく「戦争画はタブーである」という意識だろう。またこの 意識は、藤田を始めとする、戦争画を描いた画家達の存在さえもタブー視している。これ が、日本での藤田の評価に繋がる、最も太い「線」ではないだろうか。そしてこの「線」 が、日本美術界での藤田への評価と、世界の美術界の評価とが酷く乖離している要因の一 つである事は、明白である。 ブラ その乖離の最たるものが、藤田に関する数々の書物であると考えている。藤田は『腕一 (注 5) (注 6) 本』 『地を泳ぐ』 等の出版された随筆の他にも、多くのノートや蔵書を保管してい た。五番目の妻である君代氏が、2007 年に藤田の旧蔵書資料 900 点を東京国立近代美術館 に寄贈し公開した事により研究が進み、図版をふんだんに取り入れた、林洋子監修の『藤 田嗣治画集』 (全 3 巻)(注 7)を始め、様々な書物が次々と出版されている。その多くは、君 1 代氏の証言や藤田の記したノート等の資料に基づく研究であるが、その一方で、藤田の存 在に批判的な評価を著したものもある。田中英道の『日本美術全史 世界から見た名作の系 (注 8) 譜』 は、日本における芸術の流れを俯瞰するものであるが、この中で田中はこう述べて いる。 「 (前略)…結局彼が責められるのは、そうした民族主義の問題ではない。十九世紀はじめ のジェリコー*1 に戻ってしまったような緻密な描写―それは「通俗アカデミズム」と批判 された―そのものが問題なのである。それは自分自身、二十世紀の画家である事を忘れた ことによるといってよい。彼は戦後、戦争責任の追及を受けるが、芸術家藤田が責めを負 うべきなのは戦争協力ではなく、その点である。彼が戦争画に類するものを庭先ですべて 焼いてしまったとき、その「通俗アカデミズム」を焼くべきであったのである」(注 9) 太平洋戦争敗戦後、戦争画を描いた画家達は、日本国民から立ち起こった荒れ狂う戦争 責任論の波の中で、日本画壇の混乱にも飲み込まれていった。中でも 1945 年 10 月 14 日付 の朝日新聞の「鉄筆欄」には、宮田重雄*2 が「美術家の節操」を寄稿し、 「通俗アカデミズ ム」という言葉で、藤田の戦争画を激しく批判した。 しかし、藤田が何の為に画壇で不作だとされていた戦争画を数多く描き、何故このよう な「緻密な描写」に至ったかは、どの文献をたどっても、彼の数々の随筆を見ても、答え は書かれていない。これは 1 点 1 点の絵と対峙し、各々が想像するしかないのだが、寧ろ それが答えなのではないかと感じさせる。 この他にも「彼が戦争画に類するものを庭先ですべて焼いてしまったとき、その「通俗 アカデミズム」を焼くべきであったのである」という部分は、田中穣の『評伝藤田嗣治』 に次のような記述がある事から、田中英道がこの文献を参照した可能性があると推測する。 「九月のはじめの朝の事だった。フジタは庭先に掘った穴のなかで、戦争画のためのスケ ッチや資料、写真などを焼いた。朝から午後にかけて昇り続けた煙が近隣の人々に不審を 抱かせた程、証拠の隠滅を計るフジタは徹底していた」(注 10) この記述からは、藤田が戦争画を描いた事を、隠蔽したい程やましい事であると思って いたという印象を受ける。 しかし、君代氏の証言を中心に据えた、近藤史人の『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(注 11) によると、1945 年 10 月 28 日に工兵部から第 8 軍参謀部にあてた電文(注 12)には、 「氏(筆 者注:藤田の事)の様子では、この計画(注 13)に大変乗り気で任務に就くことを熱望してい る」とある。この部分からすると藤田は、戦争画についてやましく思ってはいなかったよ うに思える。 このように、多くの随筆や資料、蔵書などが残っているにもかかわらず、それぞれの文 2 献によって書かれている事が異なっている。この現状を踏まえた上で、特に評価が乖離し ていると思われる太平洋戦争後に焦点を当て、どのような点で書かれている事が異なるの かを整理し、日本での評価がどのように形成されていったのかを検証していく必要がある のではないかと切に感じたのである。 2、研究の意義 前述の通り、戦争=タブーであるという意識が急速につくられていく過程で、藤田を 始めとする戦争画を描いた画家達は厳しい批判にさらされた。その批判やタブー視が、日 本美術史の中での藤田に対する評価としてそのままの形で定着してしまったのは、言うま でもない。そして最後の妻である君代氏は藤田の死後、放送、出版、絵の展示などを厳し く制限した。正当に評価されないような場所でこれらを許してしまえば、事実とは違った 方向へ独り歩きしてしまうからだろう。しかしその結果、日本での藤田への批判を強くす る要因になってしまった事も否めない。こうして藤田の研究は、暗礁に乗り上げてしまっ ていた。 しかし 2007 年、君代氏が東京国立近代美術館へ旧蔵書資料を寄贈し、美術館が目録を整 理・公開した事で、自筆ノートや詳細な資料を使用した研究が可能になった。近年では、 藤田に関する文献が次々と出版され、研究も徐々に進んでいる。 このような中で、最も研究のメスが入っていないのが、戦争画の分野ではないだろうか。 それは即ち、より多くの疑問を含んでいるという事になる。特に太平洋戦争後の戦争責任 論議の過程では、混乱の中で政治、社会、個人の思惑が渦巻き、事実とそうでないものと が混ざり合い、現在の日本的評価が成されたと考える。今、研究が日進月歩であるこの段 階で、長く閉ざされていた歴史にメスを入れ、どのような点で齟齬が生じているのかを整 理していく必要があると強く感じている。 3、研究の視点と資料 ここでは、太平洋戦争後の戦後処理の過程で生じた、藤田嗣治に関する日本での評価と 現在の評価の差異を文献からアプローチし、整理・検証していきたい。「1、問題提起」で 述べた通り、随筆を始めとする資料が多く残っているにもかかわらず、日本での藤田への 評価は一定していないのが現状である。中でも太平洋戦争中に描かれた「作戦記録画」等 の戦争画への評価やそれに伴う戦後処理についての研究は、尽くされているとは言い難い。 ブラ 藤田自身が記した『腕一本』 『地を泳ぐ』等の随筆、日中戦争や太平洋戦争中の美術につい ての資料、藤田に対しての日本的評価が強いと思われる文献、藤田の生涯について書かれ た文献等を、近年出版されたものから過去のものまでを収集して使用しながら、戦争画へ の評価・藤田への日本に於ける美術界の評価の形成について整理・検証する。 3 Ⅱ、藤田嗣治の生涯 1、誕生よりパリ留学前まで 1)誕生と幼少期 藤田嗣治は、1886(明治 19)年 11 月 27 日、東京牛込区小川町(現・新宿区新小川町) つぐあきら で生まれた。父・嗣 章 、母・政の次男である。姉兄には、長姉・きく、次姉・やす、兄・ 嗣雄がいた。親族には劇作家の小山内薫や岡田八千代*3、音楽・舞踊評論家である蘆原英了 などがおり、芸術性に富んだ一族と言える。 東京の下町で誕生した藤田だが、父親の転任の為、熊本県に転居した。しかし 1891(明 治 24)年、そこで母親の政が急逝してしまう。34 歳という若さであった。この事は、幼い 藤田の心に深い傷跡を残したに違いない。人生全般に渡る数々の女性遍歴は、この傷跡が 影響しているのだろうか。その後藤田は祖父母の家に預けられたが、祖父母も亡くなった 為、嗣章は二度目の妻を迎える事にした。藤田は、自分は継母の膝の上に大人しく抱かれ ていたが、姉達や兄は硬い表情を崩さなかった(注 14)、と語っている。しかし藤田自身も姉 達に密着した幼少期を過ごしている事から、継母の存在には家族の誰もが戸惑っていた様 子が分かる。 2)尋常小学校から中学校時代 1893(明治 26)年、藤田は熊本師範学校付属尋常小学校に入学する。しかし藤田は父親 の転任の為、再び東京へ転居し、東京高等師範学校付属高等小学校に転校した。近所の私 立の小学校の児童とはよく喧嘩し、算盤で殴り合ったり、墨汁で体中を真っ黒にしたりと、 小学生らしいやんちゃな一面もあったようである。算術は点数が悪かったが、「図画は級中 第一位その他理科地理など、図入りのものは大得意」(注 15)であった。 1900(明治 33)年、藤田は東京高等師範学校付属中学校に入学した。この時、藤田の人 生の転機となった出来事が起こる。パリの万国博覧会で、藤田の描いた水彩画が日本の中 学生の代表作品の一つとして出展されたのである。この事がきっかけとなり、今まで漠然 と思い浮かべていた画家になるという夢が、鮮明なものとなった。14 歳の時、ついに父親 にその夢を伝える決意をする。 「私はこんこんと私の希望をかいて、画家になりたいと父に願った手紙をかいた。封筒に 入れて切手をはって町角(大久保百人町)のポストに入れた。手紙はその日の夕刻に家に 届いて、父の手に渡った。ランプの光に私の手紙は読まれた。父は一言も言わなかった。 手許の小箱から当時には相当の大金の包み(多分五十円の大金だったと思う)を私に渡し (注 16) て、画の材料を買いなさいと無言の内に私の一生の運命を許してくれた」 4 嗣章は藤田を医者にしたかったようで、藤田も「内科とか外科はやめて眼科歯科くらい が私の器用さに適していると、それとなく暗示した」(注 17)と書いている。しかし藤田の願 いを無言で聞き入れた。この時の嗣章がどのような思いで大金の包みを託したかは、想像 するしかないだろう。翌朝になると藤田はその包みを持って、東京唯一の洋画材料店まで 走って行き、油絵箱、三脚、パレット、油壺など、油彩画を描くのに必要な道具を一通り 購入した。初めて描いたのは、義兄である蘆原信之がドイツから持ち帰った、ビスケット の缶のビスマルクやモルトケ将軍の顔を模写したものであったという。 1903(明治 36)年、17 歳になった藤田はフランスという国を意識し始め、暁星中学の夜 学にフランス語を学ぶ為に通い始めた。中学 5 年のある日、英語の授業中にフランス語の 発音が口を突いて出た。英国人の先生が「フランス語が出来るのか」と聞くので、藤田は フランス語で返事をして旧友をアッと言わせた。藤田自身も「こんな風に人に秘しても勉 強したりするということを非常に好んで、相当に永い間から計画を立て用意万端を整えて 事にかかるというようなことも、私の性分であった」(注 18)と語っている通り、この頃から 周りを驚かせて称賛を得る要素を藤田は持っていた。 3)美術学校と旅立ち 1905(明治 38)年に中学を卒業し、藤田は直ちに渡仏したいと申し出たが、嗣章がこの 事について森鷗外*4 に尋ねた。すると鷗外は、パリに留学する前に一応美術学校を卒業し、 日本洋画壇へ足掛かりが出来てからの方が好都合ではないか、と助言した。渡仏は一度延 期され、藤田は入学準備に彰技堂画塾(注 19)でデッサンを習った後、東京美術学校予備科へ ひとし 入学した。同級には岡本一平*5、池部 鈞 *6 らがいた。しかし藤田は学校を大いに怠け、教 授からの評判も悪かった。卒業成績は 30 人中 16 番目であった。 卒業制作で描いた絵が、図 1 の≪自画像≫である。教授であった黒田清輝は、この絵を 皆の前で悪い例と評した。外光派が嫌う黒色を、ふんだんに使っていたからである。ふて ぶてしい顔つきからは、自分のスタイルを貫きたいという意思と、それを抑圧されてしま う憤まんが感じられる。 1910 年、藤田は東京美術学校本科を卒業した。3 年ほどは日本にとどまり、帝国劇場の 舞台装置や背景画を手伝ったり、文展に絵を出品したりしていたが、文展は三度とも落選 と きた してしまった。憤まんが溜まっていく藤田を見て、嗣章は渡仏を勧めた。そして鴇田とみ と結婚した一年後の 1913 年、藤田は 27 歳で日本郵船の三島丸で日本を離れた。 5 2、パリ留学より日本帰国前まで 1)デビュー前の苦闘 45 日間の航海を経て、藤田はフランスのパリに到着した。日本画壇で流行していたシス レー、モネ、ピサロ、ロダンなどは、雑誌『白樺』で紹介されていて知っていたが、セザ ンヌ、ルノアール、ゴーギャン、ゴッホなどは全く知らなかったという。フランスは印象 派の時代から、キュビスムなどの新しい芸術の時代へと変化していくまさに過渡期であっ た。 藤田は偶然にも、パリ到着後、親しくなった芸術家に連れられ、ピカソ*7 の家を訪れた。 ピカソは藤田にアンリ・ルソーの絵を見せたという。この時の事を藤田はこう述べている。 「着巴早々ピカソの家に於いてピカソからルソーの画を見せつけられて、セザンヌとか ゴッホというような名前すらも知らずしていきなり極端な方に私は眼を開いたのであった。 私は今まで美術学校で習っていた絵などというものは実はある一、二人の限られた画風だ けのものであって、絵画というものはかくも自由なものだ、絵画の範囲というものはいか にも広いもので自分の考慮を遺憾なく自由にどんな歩道を開拓してもよいと言うようなこ とを直ちに了解した。その日即座に私は自分の絵具箱を地上に叩きつけて、一歩から遣り (注 20) 直さねばならぬと考えた」 このように、パリ到着後から 1914 年までの藤田は、パリで広がっていたキュビスムの傾 向にある作品に強い刺激を受けている。この頃の作品はあまり残っていないが、図 2 の≪ トランプ占いの女≫には、キュビスム的傾向が現れているのではないだろうか。 1914(大正 3)年、第一次世界大戦が勃発した。藤田のファルギエール街の新居は無残 に破壊され、無一文になり、父・嗣章からの送金もこの戦争で途絶えてしまう。この為藤 田は、モディリアーニ*8 やスーチン*9 と一時生活を共にしていた。無論、理髪店などにい く余裕もなく、髪は伸び放題になっていたので、仕方なく前髪にはさみを入れて視界を確 保した。この時生まれたオカッパ頭は苦闘時代の象徴であり、常にこの時代を思い、反省 出来るようにしていたという。またこの頃、500 枚余りの絵をストーブで焼いて暖を取ると いう厳しい生活を強いられていた。およそ一年間ロンドンにも避難した。 再びパリに戻った後、1917 年に 30 歳でフランス人のフェルナンド・バレーと結婚した。 彼女は画家でもあった為、この結婚によってパリ美術界への人脈が広がっていったという。 その後空襲を避ける為、モディリアーニやスーチンらと南仏のカーニュに赴く。最晩年 のルノアールに会ったのもこの時である。ルノアールはリウマチに冒され、ほとんど体の 自由が利かなくなっていた。しかし彼は不自由になった手に包帯で絵筆を巻きつけ、最後 まで絵を描き続けていた。藤田はその姿を「真の美術家」と讃えている。 6 1917 年頃には、図 3 の≪巴里風景≫のような風景画を集中的に描いている。しかし「巴 里」と言っても絵全体のトーンは暗い上、そこには中心部のような華やかさのある風景で はなく、寂れた田舎を思わせる風景が広がっており、見る者に悲哀の感情を呼び起こさせ る。まるで画家アンリ・ルソーのような、素朴な色使いである。しかしルソーの作品と対 照的に、藤田の曇天の風景は何か藤田の内面を醸し出しているように思える。 2)エコール・ド・パリ 藤田について語る上で、 「乳白色の下地」の存在は欠かせない。藤田は 1920 年代初頭に、 この下地の技法を確立した。近年、絵画の修復の必然性から、幾つかの作品に化学的分析 がなされた。それによると、この下地からはタルク(滑石粉)が検出されたという。タル クはケイ酸塩とマグネシウムの水酸化物で、化粧品やベビーパウダーなどに含まれている。 このタルクが、油性地の上に水性である墨で描く為に重要だったと考えられる。 1920 年代のパリは、まさに「狂乱の時代」と呼ぶにふさわしい時代であった。それは 1929 年の世界恐慌で終わりを告げるまでのほんの 10 年程であったが、 第一次世界大戦が終わり、 戦後の好景気を背景にヨーロッパ各地は勿論、アジアからも文化の香りを求めてやって来 た外国人であふれていた。 藤田は 1919 年、大戦の影響で 5 年ぶりに開催されたサロン・ドートンヌ(注 21)で、出品 した 6 点全てが入選した。また 1921 年には、3 点の作品が入選した。人物画、静物画、裸 婦像を描き、特に裸婦像が「乳白色の下地」の技法と共に注目を集めた。人物画は図 4 の ≪自画像≫、静物画は図 5 の≪私の部屋、目覚まし時計のある静物≫であるが、裸婦像は どの作品なのか特定されていない。今の段階ではパリ市立近代美術館に収蔵された、図 6 の≪ジュイ布のある裸婦≫ではないかとされている。 白いという言葉では言い表せない程の、肉厚な白。それと対照的に東洋を思わせる黒。 細かな模様まで書き込まれた布地。これは「ジュイ布」という。 「フランス更紗」とも言わ る手染めの布であり、ロココ風の図柄や東洋風のエキゾチックなものなどがある。藤田は このような裸婦像で、パリの美術界に旋風を巻き起こした。 サロン・ドートンヌに入選後、藤田は大金を得た。どの作品かははっきりしないが、モ ンパルナスのスーパー・モデルであるキキ*10 を描いた裸婦像が、パリの大コレクターに 8000 フランで買い上げられたのである。 「と、ある日のことだ。私のアトリエに思わぬ吉報が舞いこんだ。即ち、出品画が売れ たというのだ。しかも大枚四千フランで! それは、シャンゼリゼーのマロニエの黄色い葉に、冷たい秋雨が啜り泣いている夜だっ た。 外套の襟をたてて、アトリエを訪れたキッキーの前に、私はその手にしたばかりの紙幣 束をさしだした。 7 「まア、四千フラン!」 キッキーは眼を丸くして叫んだ。私は、その紙幣束の中から、百フラン札幾枚かキッキ ーの手に握らせた。 「さあ、キッキー、温かいものを食べにゆこう。美味しいものをウンと御馳走しよう!」 「でも……」 キッキーは、札の束を握ったまま、呟いて私と一緒に室を出ようとはしなかった。 「何をしているんだ。キッキー! サア、行こう。 」 、 、 私は、モウ一度、うながした。が、その時、キッキーは耳たぶまで赤く染めて、いうの だった。 「フジタ!チョット待っててね。このお金で、あたし……着物を買ってくるわ。 」 「着物?」 「でも……あたし、裸なんですもの!」 「キッキー!?」 私は思わずキッキーの手を握りしめた。彼女は、この秋雨の降る夜を、外套一枚の下は 素裸でいたのだった。私のモデルとして勤めている間、一文の収入もないキッキーは、一 枚の着物までも金に代えていたのだ。パンの代にしていたのだ。 「キッキー!すまない……お前を裸にしてまで……」 「かまわないのよ……フジタ……フジタは私のためにモデルにまでなってくれたの。そ して病気を癒してくれたんじゃないの!? 裸になるぐらいなんでもないわ。」 そういって目を閉じたキッキーの睫毛には、真珠のような涙が光っていたのだった。 」 (注 22) 藤田らしい脚色もあるのだろうが、それでもこのエピソードは微妙に形を変えて何度も 登場する事から、よほど強く思い出に残ったものだったのだろう。藤田はキキが病気を患 った際に、彼女の治療や薬の代金を自ら他の画家のモデルをしてモデル料をあてた。キキ は、その事に恩を感じていたのだろう。 1922 年には「サロンの寵児」と呼ばれ、アジア人として初めてサロン・ドートンヌの審 査員に推挙された。この頃の藤田はパーティー三昧の毎日を送っていたようだが、しばし ば当時の藤田を示すエピソードとして歪曲したものが語られる事もある。ある日キュビス ムの画家達が開催したダンスパーティーに、藤田が裸に近い格好で現れた。全身には入れ 墨をし、背中に背負った柳の籠には縛られた妻のバレエを入れていた。その上藤田は左手 に箒を持ち、右手には「女性売ります。政府の保証なし」と書かれた紙を持っていた―と いうものである。藤田は「全くの作り話でデマである。話を面白くかいた丈けのものだ」(注 23) ときっぱり否定している。 1924 年には私生活に変化が訪れた。公然と不倫をしていた妻のフェルナンドとの離婚を 決意し、ユキ*11 との生活を始めた。 「ユキ」は、藤田のつけた名である。彼女はやがてロベ 8 ール・デスノス*12 等のシュルレアリスム(注 24)の詩人達とも交際するようになる。 1925 年には、ナポレオンが制定しフランスで最も権威のあるレジオン・ドヌール勲章や ベルギーのレオポルド 1 世勲章を受章した。とても幸運な出来事であったが、貧しい時代 を共に過ごした画家仲間達にも、幸運が訪れていた。キスリング*13 は明るい色彩の裸婦で 注目され、豪奢な生活を送っていた。日常生活もままならず「シラミ喰い」などと呼ばれ ていたスーチンは、安定した収入を得てエドガー・キネ大通りにアトリエを構えられるま でになった。パスキン*14 は愁いに満ちた裸婦像が人気を博していた。しかし苦闘の時代を 共に過ごしたモディリアーニは、1920 年に体調が悪化して急死していた。 一方で、様々なゴシップが取沙汰されるようになった。それはパリなどに住んでいた日 本人画家達が、特に藤田を取り巻く女性関係の話題を日本に持ち帰った事によって、あま り寛容でない日本人の間に一気に広がっていった。 1929 年には「仏蘭西日本美術家協会展」が、パリとブリュッセルで開かれた。 「仏蘭西日 本美術家協会」は「巴里美術家協会」から分裂したもので、会長の藤田、常務理事の柳亮、 創立者の薩摩治郎八らによって構成されている。2 年程で消滅してしまうが、2 回の展覧会 を行うなど、日本人画家に多くの刺激を与えた。パリで行われた「第 1 回仏蘭西日本美術 家協会展」には、49 人の画家が 114 点の作品を出品した。その中には藤田の影響を大きく み さ お 受けた高野三三男*15 や、後に日本画壇でも活躍する福沢一郎*16、岡鹿之助*17 らもいた。 しかしパリの批評家達からは、あまり評価されなかった。この頃はジャポニスム(注 25)の流 行の名残が残っていたが、もはやそのエキゾチックな香りだけではパリの批評家達を酔わ せる事が出来なかったのである。 8 月には、日本郵船香取丸で日本に向けてユキと共に発った。老いた父親に孝行したいと いう思いがあった。しかしフランス当局から指摘された莫大な税の未払いを、絵を売って 補填しようとも考えていたらしい。イタリアのナポリ、シンガポール等に寄港し、香港に も滞在したが、その時藤田は日本画壇の自分に対する反応を耳にした。日本では次のよう な活字が躍っていた。 「日本画壇に台風の兆し。パリで余り我が儘すぎるとアンチ藤田運動起こる」 「藤田画伯は純パリッ子を携えてくるが、これを利用して大いに秋の日本美術界をアッ と言わせてやろうという藤田一流の宣伝であろうが日本では歓迎されないだろう」(注 26) よしひこ これらは 9 月 12 日の毎日新聞の記事であったが、これに続いて熊岡美彦*18 がパリから 先に帰国し、藤田の暴状について訴えるという事も書かれているという。熊岡はこの年の 春に藤田や薩摩、柳らが尽力した日本人画家展の運営をめぐって対立していたグループの 中心人物で、藤田らが恣意的に作品を選定していると不満を募らせていた。 この事を聞いて藤田はパリに帰ると言い出したが、ユキになだめられるのであった。 9 月 28 日に神戸港に到着し、日本画壇の批判があったにもかかわらず、藤田は熱烈な歓 9 迎を受けた。10 月初めの朝日新聞社主催の展覧会には 70 点を出品し、入場者数 6 万人と いう大成功であった。続いて日本橋三越での個展に 80 点を展示し、そちらも大好評だった が、第 10 回帝展(注 27)の出品は≪自画像≫の 1 点のみであった。 日本滞在中、藤田は母校の東京美術学校で講演を行い、さらに『巴里の横顔』の執筆に 追われた他、交流を求めた画商や政治家達の夜会に出るなど、とても多忙だった。東京を 中心に京都、奈良、朝鮮等にも赴いた。そしてユキと父親と共に、熊本へ行った。熊本は 藤田、父親の嗣章、母親の政をつなぐ思い出の地である。親孝行の出来る、かけがえのな い時間になった。 1930 年 1 月、横浜から大洋丸で出港し、アメリカを経てパリへ戻った。 3)彷徨の時代 久々に戻ってきたパリは、アメリカから始まった世界恐慌の波が波及し始めていた。オ ークションでは絵画の値段が暴落して画商は次々と店をたたみ、藤田も金策の為に個展を 開いたが、半分が売れ残った。さらにパスキンが自殺し、45 歳でこの世を去った。 また私生活では、ユキとの離婚を決めた。酒好きのユキは連日、藤田を残して飲み歩い ていた上、デスノスと恋人のような関係にまでなっていた。 この事もあってか、この頃の絵の色彩は以前の色彩とは全く異なっている。図 7 の≪調 教師とライオン≫や図 8 の≪死に対する生命の勝利≫等は、 乳白色の肌の透明感は失われ、 闇に浮かび上がる色彩の姿は見られない。 夏にデスノス、ユキ、蘆原友信(藤田の甥)とブルゴーニュへ旅した後、新しい妻のマ ドレーヌ*19 を連れて、3 年ほど彷徨の旅に出た。アメリカのニューヨーク、シカゴ、ブラ ジルのリオ・デジャネイロ、メキシコ等に赴いている。ペルーではインカ帝国の都であっ たクスコやマチュピチュ遺跡、メキシコではアステカやマヤ等の古代遺跡を訪ねた。また、 メキシコの画家であるディエゴ・リベラ*20 やホセ・オロスコ*21 らとも交流した。この彷 徨の旅が、後の大壁画や大画面の戦争画にも生かされる事になる。 3、日本帰国より太平洋戦争後まで 1)世紀の大壁画 1933(昭和 8)年、藤田は日本へ帰国した。この頃の日本は、好景気の反動と世界恐慌 の影響が波及し、経済は悪化の一途をたどっていた。また青年将校が内大臣の斉藤実らを 殺害した二・二六事件が起き、武力の色が濃くなっていた。3 年後に最後の妻である堀内君 代と結婚し、翌年には東京市麹町区下六番町(現在の四谷)に純和風のアトリエを新築し た。隣の家には、島崎藤村が住んでいた。 そしてこの 1937(昭和 12)年、藤田は秋田の富豪である平野政吉*22 を訪ねている。大 10 地主の家に生まれた平野は、その豊かな財力で美術品を熱心に蒐集していた。とりわけ藤 ペイピン 田の作品の蒐集には熱意を燃やし、≪眠れる女≫(図 9)、≪北平の力士≫(図 10)、≪カ ーナバルの後≫(図 11)などを買い上げていた。平野が藤田を秋田へ招待した目的は、秋 田市に藤田美術館を造るという壮大な計画を実現する為であった。藤田も大変乗り気であ ったが、藤田が酒の席での「自分は世界一の画家である」と強調する挨拶に腹を立てた平 野は、 「そのように世界一と言うなら証拠を」と言った。藤田は「世界一大きな壁画を最短 時間で描いて見せる」と公言した。ここで絵が描かれたのが、図 12 の≪秋田の行事≫であ る。その大きさもさる事ながら、秋田の原風景から竿灯祭り等の秋田ならではの行事まで、 西洋の人体表現と日本風のタッチを織り交ぜたような雰囲気を持っている。ラテン・アメ リカを訪れ、そこで得た民族色の強いイメージは、オロスコらの壁画運動と完全に符合す るわけではないが、1930 年代後半のこのような大壁画制作の原点になっている。また、 「画 家がいたずらに名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく、大衆のための奉仕も考え なければならないと思う。国民全部に、美術愛好と鑑賞の機会を解放することに努力しな (注 28) ければならぬ」 と語っているようにサロンなどの限られた中での芸術ではなく、広く 多くの人々にそれを開放する事が必要だとも考えていたようだ。 2)日中戦争と太平洋戦争 1937 年、盧溝橋事件と第二次上海事変が立て続けに起こり、日中戦争が拡大していった。 経済統制により外国製の酒や化粧品の輸入禁止、綿の使用も制限された。翌年には近衛文 麿内閣が「国家総動員法」を発令し、軍部は美術家の戦争協力を進める方針を打ち出した。 戦意高揚を目的とした戦争画の政策が開始されたのである。中支那派遣軍は、初めて公式 の「事変記録画」を 10 名の画家に委嘱し、5 月にはそのうち小磯良平、向井潤吉ら 8 名が 現地に従軍した。9 月には海軍省軍事普及部が「事変記録画」制作の為、藤島武二、中村研 一ら 6 名の戦地派遣が発表され、藤田も含まれていた。 藤田は 10 月に上海へ渡り、3 か月前に制圧したばかりの南昌飛行場で、作戦の一部始終 を指揮官や兵士から聞き取った。また漢口では、戦闘直後の生々しい惨状を目にした。そ ナンチャン の後帰国し、≪南 昌 飛行場の焼打≫(図 13)等 3 点の油彩画を制作した。この絵を見てみ ると、一応戦争画らしく飛行機が爆撃している一部始終を描いているが、ただ飛行機を描 いたような印象で、迫力が無い。近藤史人は『藤田嗣治「異邦人」の生涯』の中で、 「この 時点の藤田には戦争画を描こうとする意欲が欠如していたとしか思えない」と書いている が、ただ意欲が無いだけではなく、漢口で目にした惨状から何かを感じ取ったのではない だろうか。 1939 年(昭和 14)年、陸軍美術協会(注 29)が結成される。朝日新聞社と共催で全国を巡 回する「聖戦美術展」を計画するが、藤田は突如パリへ行く事を宣言する。 『藤田嗣治「異 邦人」の生涯』には、4 月 5 日と 6 日の東京日日新聞に掲載された「苦難を求める。再び海 外に出る私の心境」と題した藤田の文章がある。 11 「支那事変が勃発して以来、三歳、日本帝国は未曾有の大事に遭遇して、国を挙げて東 ママ 亜永遠の和平を築く為に、官民共力一致して邁進しているのである。この際に当たって私 は安閑として、単に私の画業を続けるよりも、最も私に相応しい役目は、外国に散在して いる数千人の私の友人を通じて、広く真の日本精神の正義を説き、日本の姿を知らせるこ とで、芸術を媒介として、国際親善の一役を自ら進んで買って出ようというのが、私の今 (注 30) 度の海外旅行の途に上る動機である」 藤田はこのように書いているが、いかにもこじつけているような内容である。詳しくは 後述するが、漢口に従軍した経験が、藤田の内面にフランスに渡る事を決意させる程の作 用をもたらしたのではないかと考えられる。 5 月、藤田は妻の君代と共にパリに到着した。モンマルトルのオルドネ街に居を定め、制 作に没頭する。しかし 9 月になると、ドイツ軍のポーランド侵攻によりイギリスとフラン スがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。これと共に日本大使館は在留邦人 に帰国を勧告したが、藤田はパリに留まった。留まる事を決めた邦人の中には、猪熊弦一 郎*23 や岡本太郎*24 もいたが、パリの空襲は次第に酷くなっていった。 1940 年 5 月にドイツ軍が、フランス国境にあった要塞であるマジノ線を突破した事によ り、藤田を始めとする邦人のもとには、日本人会からは最後の勧告が届く。藤田はパリか らの脱出を決心し、日本に行きの船に何とか乗る事が出来た。6 月 14 日にパリ陥落の電報 が届き、危機一髪の脱出だった事を知った。 日本に帰国後、トレードマークであったオカッパ頭を切り去り、イガグリ頭にした。こ れは、華やかなパリの時代との決別だったのかもしれない。 9 月、藤田の運命を大きく変える人物が、藤田のもとに訪れる。予備役になり、日本に帰 おぎ す りゅうへい 国したばかりの陸軍中将・荻洲 立 兵 である。荻洲は藤田に「戦死した部下の霊を慰める為 に、ノモンハン事件(注 31)の絵を描いて欲しい」と依頼し、自らの見たノモンハン事件の全 容を語って聞かせた。勝利を収めた報道のみが国民の目に触れていた時代であり、藤田も 初めて聞く事であった。藤田は 10 月、依頼された絵を描く為に荻洲の手配で新京(現・長 春)を経て満蒙国境に向かい、ホロンバイル草原、ノロ高地、ハルハ河と戦跡をくまなく 取材した。帰国後も荻洲氏は制作中の藤田のアトリエに足しげく通い、絵に細かな注文を 付けたり、必要な時は若い兵士たちを連れてポーズをとらせたりした。1941(昭和 16)年 1 月には父親の嗣章が死去したが、涙が乾く間もなく制作は続けられた。5 月には帝国芸術 院(注 32)の会員に推挙される。帝国芸術院の会員になる事は、即ち日本美術界から認められ て画壇の大家達と同列の地位を与えられた、という事である。これによって思うがままに 描ける立場になったと言っても過言ではない。これも戦争画にのめり込んでいった一つの 要因とも言える。 ハ ル ハ 7 月、ノモンハン事件を描いた≪哈爾哈河畔之戦闘≫(図 14)が「第 2 回聖戦美術展」 12 に出品された。この絵は、戦争画という分野でも注目される存在となるきっかけになった ハ ル ハ だけでなく、藤田の戦争画に向かう姿勢を変えたものでもあった。また当時、この≪哈爾哈 河畔之戦闘≫は 2 枚あったという証言もある。もう 1 枚の絵は、凄惨で壮絶な風景が広が っていたという。 10 月、帝国芸術院から文化使節として東南アジアに派遣される。フランス領インドシナ 各地を巡回する「日本画巡回展」に随行した。しかし 12 月 8 日、サイゴンのホテルで太平 洋戦争開戦を知った。 1942(昭和 17)年 3 月には陸軍省よりシンガポール派遣、5 月には海軍省より東南アジ ア派遣、7 月には満州国訪問と、国自体だけでなく藤田の生活も戦争一色となっていった。 12 月には「第 1 回大東亜戦争美術展」に≪シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)≫(図 15) 、≪十二月八日の真珠湾≫(図 16)など 3 点を出品した。≪シンガポール最後の日≫ を見ると、褐色の色をまとった兵士達の向こうには、幾つの筋になった光と分厚い雲が左 右に描き分けられている。日本はどちらに行くのだろうか―という疑問を表す意図があっ たかは定かではないが、青空が広がっている風景に兵士達の姿を描いているという事が、 非常にミスマッチな印象を与える。このような戦争画は全国を巡回する為、今まであまり 絵画に接してこなかった人々の目にも触れる事になる。この事は、サロンの中だけの芸術 ではなく大衆に広く芸術を広めたいという藤田の思いにかなうものであった。 この頃になると、国内でも戦況の悪化を肌で感じるようになっていた。学生の徴兵猶予 を打ち切り、明治神宮外苑を行進した若者達は次々と戦地へ送られていった。 ママ 藤田は 1943(昭和 18)年 9 月、自ら「快心の作」と評価した作品を「国民総力決戦美術 展」に出品する。≪アッツ島玉砕≫(図 17)である。絵の舞台は、現在ロシアの領土とな っているカムチャッカ半島の東にあるアリューシャン列島・アッツ島。この年の 5 月にア メリカの総攻撃にあった際の死闘と玉砕の様子を、藤田は想像力をめぐらせて描いたもの だ。荒い波が押し寄せる褐色の風景に、敵も味方も区別がつかず覆い重なってゆく死体― まさに「地獄絵」である。この絵について、藤田は次のように語っている。 たまたま 「偶々記録画巡回展が青森で催された時の事である。 その前年、札幌で同じく巡回展の帰路海峡で暴風雨に遭遇して青森港に上陸したのは暁 の二時頃だった。やっと駅前の安宿にそれも頼みにたのんで布団部屋に寝かして貰ったそ せんさく の縁故で再びその安宿を選んだ藤田を歓迎委員は血眼になって一流旅館を穿鑿して居る最 中、単独で会場に滑り込んで居た作者はそのアッツ島玉砕の前に膝をついて祈り拝んで居 る老男女の姿を見て生れて初めて自分の画がこれほど迄に感銘を与え、拝まれたと言う事 は未だかつてない異例に驚き、しかも老人たちは御賽銭を画前になげてその画中の人に供 養を捧げて瞑目して居た有様を見てひとり啞然として打たれた。 ママ この画だけは、数多くかいた画の中の尤も快心の作だった」(注 33) 13 資料によってこの≪アッツ島玉砕≫に対する捉え方は様々であるが、藤田がただ人を自 分の絵の前に集まらせるのが目的で、戦争画を描く中で獲得した写実的な技巧を利用した だけにすぎないという意見もある。しかしそのような目的を持って描いただけならば、祈 り拝まれた事で深い感動を覚えるのだろうか。 1944(昭和 19)年、インパール作戦の失敗、マリアナ沖海戦大敗、サイパン島陥落によ る本土空襲の本格化など、益々戦局は悪化していった。国民の生活は極度の切り詰めと労 働力不足によって、生徒や女子までも軍需工場に動員された。この年藤田は東京を離れ、 神奈川県小淵村藤野(現・藤野町)に疎開する。猪熊弦一郎や佐藤敬*25 などの画家仲間達 も、次々と引っ越して来た。 1945(昭和 20)年、藤野のアトリエでは≪薫空挺隊敵陣に強制着陸奮闘す≫(図 18)と ≪サイパン島同胞臣節を全うす≫(図 19)を描き上げた。 3)敗戦後の混乱 8 月 15 日、日本が敗戦したこの日を境に、画家仲間や画壇の藤田への対応が変わると言 っても過言ではない。敗戦は、藤田と共に戦争画制作に尽力していた画家達の心情にも大 きな変化をもたらした。この日玉音放送を聞いた藤田は、妻の君代と共にラジオの無い家 もあるからという親切心で、自転車を 1 時間ほど走らせて猪熊弦一郎を訪ねた。画家仲間 達が集まって何か話し込んでいたが、藤田が入ると静まりかえり、その後は誰も藤田と話 そうとさえしなかった。 ある日、パリ時代の画家仲間でこの時アメリカの従軍画家であったミュラーが、藤田の 家を訪れた。ミュラーと共に東京丸の内の GHQ に出向くと、 「戦争画を集め、 『日本の占領』 をテーマとしたアメリカの展覧会に出品する計画がある。絵を集める為に協力して欲しい」 と提案された。藤田はそれに賛同し、戦争画を収集する事になった。 藤野へ帰ると村では藤田が逮捕された事になっており、大騒ぎになっていた。 「村中の人々や疎開している(私をたよって村に逃げてきた新制作協会の五人の)連中 いよいよ も愈々進駐軍に戦犯で逮捕されたと騒ぎ出した。 それに反して私は GHQ でいろいろと丁重にもてなしに預かって居た。 (注 34) とんでもないデマが直ぐ飛ぶ国だと思った」 しかし田中穣の『評伝藤田嗣治』には、異なるストーリーが書かれている。GHQ に出向 いた藤田は、将校から追及を受ける。藤田はそれを巧みにかわし、戦争画を差し出す代わ りに将校と協力関係を結ぶのである。これを読む限りでは、戦争画を描いた事を藤田はや ママ ましい事と思っていたような印象を受ける。 「快心の作」を描くまでに芸術の力を信じ、そ れを追求した藤田が、本当に戦争画に対してやましい思いを抱いていたのだろうか。 14 藤田は岐阜県高山などで戦争画を収集する傍ら、洋画家の山田新一*26 を協力者として推 薦した。山田は従軍美術課(コンバット・アート・セクション)に配属され、青森や秋田 から大阪、福岡、朝鮮半島に至るまで収集に行き、上野の東京都美術館に運び込んでいっ た。ところがその行動に対して、かつて共に戦争画を描いていた日本の画家達から、非難 や中傷を浴びる事となった。このような事態になったのは、GHQ が戦争画を戦犯の裁判の 証拠物件にするという噂が流れていたからだという。しかし実際は、GHQ はそのような事 を考えていなかったようである。こうした誤解や不安をあおるような噂が、戦争責任論議 に暗い影を落としていく。 1945 年 10 月 14 日の朝日新聞には、 「鉄筆欄」に「美術家の節操」と題する藤田を激し く批判する文章が掲載された。 「まさか戦争犯罪者も美術家までは及ぶまいが、作家的良心あらば、ここ暫くは筆を折 あ ゆ って謹慎すべき時である。自分の芸術資質を曲げて、通俗アカデミズムに堕し、軍部に阿諛 し巧い汁を吸った茶坊主画家は誰だったのだ。その娼婦的行動は彼ら自身の恥ばかりでな い。美術家全体の面汚しだ(中略)新日本の出発のために芸術家の負うべき使命は大きい すべから のだ。 須 く節操あるべし」(注 35) 宮田重雄の記したこの文章に対し、藤田は「画家の良心」と題した文章で反論した。ま た、藤田と同じく戦争画を精力的に描いていた伊原宇三郎*27 や鶴田吾郎*28 も反論を描い た事から、画壇ではニュースになった。宮田は、藤田が進駐軍の為の展覧会に出品しよう としたという誤解について釈明した後、藤田の文章に再度反論した。 1946(昭和 21)年、日本画壇では戦争責任論議が本格化した。3 月の朝日新聞では「文 化人の『蛮勇』期待、粛清、自らの手で」と題し、各文化団体の動向と映画界では東宝従 業員組合が軍国主義者の追放決議を行った事が書かれていた。この事を受けて、美術界で も同様の動きが始まった。4 月に結成された日本美術協会(注 36)で、戦争責任の追及につい て議論する事になり、美術界粛清の為に戦争犯罪者リストを作成する事に取り掛かった。 事務局長であった永井潔*29 は、 「日本美術協会が加盟している日本民主主義文化連盟に、 GHQ からリストを提出せよとの強い要請があった」と話しているというが、事実関係は不 明である。協会の作成した戦争犯罪者リストには、藤田を最も責任を負うべき人物である と記された。しかしこのリストは、美術団体は個人を追及すべきでなく、美術界全体の問 題とすべきだという主張が通った為、公開されずに終わった。 そのような中、練馬の小竹町にアトリエを構えた藤田のもとに、共に戦争画を描いてい た内田巌*30 が訪ねて来た。内田は「戦争画を描いた画家の代表として、当局に出頭して欲 しい」と藤田に言った。藤田はこの時の事を次のように書いている。 「私は内田にこう言った。私は戦争発起人でもなく、捕虜虐待した訳でもなく、日本に 15 火がついて燃え上ったから一生懸命に消し止め様と力を尽くした丈けが、何が悪いのか判 らぬが、私が戦犯と極まれバ私は服しましょう。死も恐れませんが、出来れバ太平洋の孤 島に流して貰つて紙と鉛筆丈け恵んで貰えれバ幸いです。と答へて後は一切その話は打ち 切って、小竹町から駅迄自転車で出かけて何か買って内田に丈け、私は酒は一口も呑まな ど いからすすめて話がいろいろはずんで来た。何んな事があっても私は先生を見棄ては致し ど ません。必ず私一人丈けでお世話をいたします。何うか先生、皆んなに変わつて、折柄降 り出した雨に、私は内田に洋傘さしかけて提灯の火をたよりに小竹町の駅迄送つた。 良寛が、一度忍び込んだ盗賊が苦労して庭から逃げにくかつたらうと、次の日庭の入口 迄丁寧に通路をかたづけて、再び来た時の盗賊が困らぬ様にしてやった気持等を考え乍ら、 雨水の氾濫で歩けない道を下駄を下げて徒歩で家迄帰つたのだった。人は私を馬鹿のお人 (注 37) 好しだと笑つた。中々良寛の気分にはなれない。私のは真似事にすぎない」 後年、これを否定した内田巌未亡人のしづと君代の間で論争が起こり、雑誌は面白おか しく書き立てたが、君代の証言は疑わしい「灰色の証言」として最近まで扱われてきた。 1946 年の夏に戦争画の収集は完了し、8 月には GHQ 関係者対象の戦争画展覧会が開か れた。この頃、担当セクションが従軍美術課から、CIE(民間情報教育局)に変更になった。 戦争画を高く評価していた従軍美術課とは対照的に、担当として来日したデトロイト美術 館の学芸員シャーマン・リーは、非常に冷ややかな反応を示した。 1947(昭和 22)年、GHQ が戦争犯罪者リストを公表した。その中に画家の名前はなく、 藤田の戦争責任の容疑は一応晴れた事となった。 4、アメリカ行きより晩年まで 1)苛立ちと不信感 1946 年、藤田は既にフランスへ渡る為に査証を申請していた。しかし、何故か査証が下 りなかったという。パリではすぐに許可が下りていたのだが、査証は日本の領事館に届い た所で止まっていたのである。また、誰がもらしたか藤田がパリへ渡るというニュースが 流れ、それを否定すると今度は手続きが失敗したというニュースが流れ、新聞や雑誌は盛 んに書き立てた。藤田はさらに苛立ちや不信感を募らせていった。 結局藤田は一度アメリカへ渡ってからフランスへ渡る事にしたが、アメリカの査証が下 りると今度はフランス領事館から、 「何故今更アメリカへ行くのか」と問い詰めるような電 話がかかってきた。さらに出発が迫ると、周囲には動向を探ろうと日本人記者だけでなく 外国人の美術記者達も出没するようになり、九段の外国人向けのホテルに身を隠さねばな らない程だった。 しかし、いよいよ出発という時になり、またトラブルにみまわれた。妻・君代の査証が 16 下りていなかった事が発覚したのである。1949 年 3 月、藤田は一人でアメリカへ向かう事 になった。藤田の見送りは、岡田謙三*31 夫妻などわずかな人達だけであった。「絵描きは 絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって 下さい」という精一杯の日本への言葉を残し、渡米した。藤田はこれ以後、故郷である日 本の土を踏む事は無かった。 この言葉を残して旅立った藤田の姿を見て、日本画壇は「戦争責任を追及される事を恐 れて逃亡したのだ」とう噂するのであった。 「戦時中に何の信念もなくただ技巧に走り、腕 に任せて絵を描き、自らの立場が危うくなると、さっさと日本を捨てた者」というレッテ ルは、その後の日本で長く存在する事となっていく。 2)アメリカでの孤独 1949 年 3 月、藤田はニューヨークに到着した。5 月には妻・君代も到着し、落ち着いた 生活が送れるはずであった。 藤田は日本を発つ前、アメリカで生活する為の手段として、ブルックリン美術館付属美 術学校で週 2 時間の講義を受け持つ事になっていた。美術学校の指導主事であるオーガス タ・ペックと交わした契約書も残っている。しかし、藤田が実際に教職に就いた痕跡は無 い。何らかの理由で藤田の側が断ったのか、学校側が断ったのかは不明である。しかし、 当時アメリカに住んでいた画家・伊達秀男によると、藤田の動きはアメリカに渡っても尚、 妨害を受けていたという。 ある日、伊達がアメリカで開催された藤田の展覧会に足を運んだ時の事だった。入り口 には、画家である国吉康雄*32 ら二人が立っており、展覧会の会場に入ろうとする人を黙っ てひたすら見つめているのである。この現場を目撃した伊達は、その圧力を前にしてそれ 以上足を進める事が出来なかったという。 彼らは絵画の中で、社会的関心をとりわけ強く示した画家であった。中でも国吉は、戦 争が始まっても日本へ戻らず、日本の軍国主義に反対する立場を鮮明にして積極的に活動 していた。 さらに当時の日系人社会は、懸命に「戦争」を拭おうと苦闘していた。戦前、ニューヨー クの日系人はおよそ 3000 人いたが、開戦と同時にそのほとんどがエリス島の収容所入りを 強制された。戦後に入っても、しばらくは「敵性外国人」として蔑視される暮らしを続け ており、画家仲間には、絵を画廊に持ち込んでも日系人であるという理由で拒絶された経 験を持つ者が少なくなかった。そのような状況の中で、藤田が日本からやって来たのであ る。戦争画を多く描いた藤田を、日系人達は複雑な心境で見ていたに違いない。伊達によ ると、藤田の戦争画を見た事のある者はいなかったが、藤田が戦争画を描いたという事は 誰もが知っており、当時は仲間で集まる度にその話題になり、藤田に近づく事を敬遠する ような空気が広がっていたという。国吉とは戦前、ニューヨークを訪れた時に会い、藤田 は国吉の作品を評価して日本美術界への紹介もしていた。藤田は次のように語っている。 17 「先年、ニューヨークに初めて私が巴里から行つた年には、国吉氏は非常に歓待してく れ交遊。ブルックリンのアトリエ等にも遊びに行つたり、日本へその内行き度いとの事で、 日本の有島(生馬)氏に手紙を出して紹介し、二科会に入る様に世話したのも私だつた。 しかし今度は非常に冷淡で、私を嫌つて疎外した。…(中略)…非常に気の小さい用心家 ニューヨーク (注 38) で、 紐 育 でも嫌いな人が多かった。気の毒な人だった」 藤田は孤独を深めていた。近藤史人によると、当時の藤田の日記からは藤田が人と会う 事を避け、絵の制作に没頭していた様子がうかがえるという。 6 月、藤田は朝から深夜の 2 時や 3 時まで制作する日が続いていた。描く絵には戦争画の 影は無く、壁画などの新しい絵画を模索したものでもなかった。1920 年代のエコール・ド・ パリに戻ったような、猫や裸婦であった。また 8 月末には、戦後の代表作である≪カフェ ≫(図 20)が誕生した。カフェの片隅で、黒いドレスの女性が頬杖をついてこちらを見つ めている。色彩や技法はまさにエコール・ド・パリだが、女性の表情には深く強い憂いが 浮かんでいる。その憂いは、この頃の藤田そのものである。 1950 年、藤田はここでも心が満たされぬまま、ニューヨーク港から船でパリへ出発した。 3)寂寥のパリ 2 月 3 日、藤田はル・アーヴル港に入港した船から列車に乗り換えて、パリのサン・ラザ ール駅に到着した。10 年ぶりのパリである。藤田が列車から降りてくるのを待ち切れず、 記者達は列車に乗り込み藤田に次々と質問した。戦争中に大佐として活動していたのは事 実か、と尋ねてきた記者に藤田は「画家として従軍していただけであり、軍人ではない」 と答えた。続いて、戦犯に指名された木戸幸一元内相や寺内寿一元陸軍大臣らとの姻戚関 係について質問が飛ぶ。藤田は「兄が児玉元帥の娘と結婚した為に遠い姻戚関係になった だけだ。直接関係は無い」と言った。インドシナでフランス捕虜数百名の首を刎ねたのは 本当か、という問いかけに、 「とんでもないデマだ!」と激しく抗議した。その場の空気が 殺気立ってきた為、藤田の旧知の仲の美術記者が仲を取り持とうとしたが、今度は美術記 者と質問者が蹴り合いを始め、その様子を撮影しようとカメラマンが群がって行く。藤田 のパリ到着は、文字通り大騒ぎであった。 騒ぎが収まった後に記者会見をし、藤田は妻の君代と共にすぐさまボルドー行きの急行 列車に乗った。友人宅に隠れる為であった。二人は 10 日ほど友人の家で過した後、パリへ 戻ってホテルに宿をとり、その数日後には税関へ行って身の回りの品々や作品を入れた木 箱を受け取った。二人はしばらくホテルで暮らしながら、モンパルナスの部屋を探した。 モンパルナスは藤田が暮らしていた 1920 年代と変わらない風景があり、カフェは相変わ らず賑わいを見せていた。しかし、画家を取り巻く環境は大きく様変わりしていた。 18 藤田はある日、ユトリロ*33 の展覧会のオープニングパーティに招待された。キスリング も相変わらず姿を見せていたし、ザッキン*34 は画商に大声で自分の芸術論を語っていた。 しかし、同時代を共に過ごしたモディリアーニやスーチンはすでにこの世を去っていた上、 かつてのように記者たちに取り囲まれる事も無くなっていた為、藤田は寂しさを覚えた。 さらに戦後になると、抽象的な作品が注目を集めるようになり、美術界の主流もパリから ニューヨークへ移ろうとしていた。その事もあり、藤田の「乳白色の肌」は時代遅れにな ろうとしており、美術雑誌の中には藤田を「亡霊」と書いたものもあったという。 やがて藤田は、モンパルナスのカンパーニュ・プリュミエール通りにアトリエを構えた。 この頃の作品である≪ホテル・エドガー・キネ≫(図 21)には、ホテルの前のマロニエの 木が葉を落とし、少女が一人でいる様子が描かれている。ここは藤田が 20 代の時に滞在し たホテルの一つで、かつては若手の画家達で賑わっていた。しかし人影の無いこの絵から は、藤田の強い寂寥感を感じる。 そんなある日、藤田を酷く憤らせる出来事が起きた。戦前からの知り合いで個展の準備 を進めていた画商のポール・ペトリデスが、突然アトリエを訪ねて来た。ペトリデスは出 品する絵を見せて欲しいと藤田に言った。訳を聞くと、日本の画商から「藤田の絵は戦争 中にすさんで悪くなり、画風も良くない」と聞いたという。藤田が渋々アメリカで描いた 動物の宴会の絵を見せた所、ペトリデスは安堵の表情を浮かべて帰って行った。戦争画を 描いた事で生まれた日本画壇との軋轢に対して、日本を離れる事で責任をとったつもりで あった。それにもかかわらずその後も自らの作品を中傷し、生活まで危うくしてしまうよ うな日本画壇の態度に、藤田は今までになく憤っていたという。 一方日本では戦後の混乱が収束すると、戦争画を描いた事に非難を浴びせた事など無か ったかのように、藤田の絵は売れていた。無論、戦争画以外であったが、1950 年に大阪の 松坂屋で開催された回顧展は大盛況であった。特に裸婦や猫の絵は、世界的画家の作品と して高値で取引されていたが、パリでは「藤田の絵は荒れた」という評判が立っていた。 この複雑な状況が、後に藤田が「帰化」という選択肢を選ばざるを得なくなった一因にな ったのである。 1950 年 3 月、 ペトリデス画廊で戦後初めての個展が開催された。客の入りはまずまずで、 絵も売れた。また、旧知の仲であるピカソがわざわざ藤田を訪ねて来た。この時藤田の心 は、懐かしさで満ちたに違いない。その後、北アフリカのアルジェやスペインのマドリッ ドでも個展が開催され、大成功を収めた。 藤田はパリへ戻った後、≪私の部屋、目覚まし時計のある静物≫(図 5) 、≪カフェ≫(図 20) 、≪私の部屋、アコーデオンのある静物≫(図 22)のなどを、フランス国立近代美術館 に寄贈した。中でも≪私の部屋、目覚まし時計のある静物≫は、サロン・ドートンヌで初 めて高い評価を受けた作品であり、従軍した際に父親に預けた以外は決して手元から離さ なかった作品である。終戦後、一度だけ上野の帝室美術館(現・東京国立博物館)に寄贈 すると申し入れる手紙を描いた事があったが、拒否された為に手元に残っていた。藤田は 19 この作品について、こう語っている。 「 (前略)…非売品として、紐育の個展に出品、巴里に運んで後、ここの近代美術館が私 の代表作としての懇望で、今は巴里のセイヌ河畔の近代美術館に永遠に飾られて居る。私 の貧乏時代、ブルタイギュのパンの大箱や日常の生活、私の生活をその侭現はした素朴な 私の肖像、一枚の画の壁の小児より、老人、死人になるまでの一生の橋の版画、この画の 出来上りは八月十五日のアソンプション聖母昇天祭の日に落成して居る。私の尤も大事な (注 39) 作品は、宿す可きよき宮殿を得て幸いだ。画にも運命がある」 藤田のアトリエには懐かしい友人のドラン、ブラック、コクトーの他、別れた妻のユキ やフェルナンドなどが訪ねてくるようになった。ユキはこの時、パリの郊外で静かに暮ら していたが、チェコスロバキアの強制収容所でのデスノスの死を語りながら泣き崩れてし まった。フェルナンドは相変わらずおしゃべりで、この時もモンパルナスでエコール・ド・ パリの画家達との思い出を語りながら、酒をせびっていた。またマン・レイと別れたキキ は、ジャーナリストで雑誌の発行者であるアンリ・ブロカの愛人となったが、ブロカはそ の後梅毒に冒され、キキはアルコールとドラッグに溺れていた。藤田がパリへ戻った 3 年 後、キキはパリ市内の病院で息を引き取る。ティエスの墓地に葬られる際、エコール・ド・ パリの仲間で彼女の葬儀に立ち会ったのは、ドンマゲと藤田だけだった。 藤田はこの頃、たまに日曜日の朝早く、妻の君代と二人で蚤の市に出掛ける位でしかア トリエを出る事は無くなっていたという。 1955 年、藤田は妻・君代と共にフランスへ帰化した。2 月 28 日にフランス国籍を取得し、 日本国籍をそのまま保持する道もあったが、3 か月後に日本国籍を抹消している。この事は 日本でも各紙が伝えた。その理由は、これまで様々に噂されてきた。日本では、 「藤田にと っては、フランス人になる方が日本人でいるよりもはるかに好ましい事である」という考 えが大半を占め、藤田はフランス人となる事を自ら喜んだという解釈をした。また流暢な フランス語を話し、パリで市民権を得た事に羨望の眼差しを向ける者がいる一方で、敗戦 に苦しむ日本を捨てて何もなかったかのような顔でフランス人となった藤田に対して怒り を向ける者もいた。アメリカの GHQ のフランク・シャーマンは、藤田は日本人へのあてつ けの為に帰化し、洗礼を受けたと解釈している。 本人は『藤田嗣治芸術試論』の中で、帰化した理由をこのように語っている。 「一番帰化しての大事な目的は、ここに永住して、再び日本へ帰つて渦の中に巻き込ま ママ い つ れる事の愚と、ここで生活し税金も収め選挙権も持ち、何日までも外国人としてのお招き のお客扱いでなく、仏人同等に取りもってくれ、その仏人の画壇に同等に扱ってくれ、又 一番大事な事はここで今迄私の画いた作品が再び生き帰へつた事だった。 (中略)…美術家 20 には国籍はなく世界に通じるものであって、よくここ(パリ)に集まつてる外人画家は殆 んど皆帰化している人許りだ。絵画はもつと広い意味のものだ。一国のものでなく世界の (注 40) 人の宝だ」 藤田は「サロンの中だけの美術ではなく、大衆に広く美術を広めるべきだ」という考え に基づき、絵を制作してきた。戦争という荒波にもまれながらも、また故郷を去らなけれ ばならなくなっても、その意思は捨てる事が出来なかった。そして帰化は、藤田の画家と しての道の終着駅だったのではないだろうか。そして近藤史人が書いているように、たと えフランス国籍でなくとも、自分が画家である為に、日本という足枷から解き放たれる事 が最も重要な目的であったのではないだろうか。 1959 年、藤田は妻の君代と共に洗礼を受け、カトリックの信者になった。洗礼名は、尊 敬するレオナルド・ダ・ヴィンチから取った「レオナルド」であった。こうして藤田は「レ オナルド・フジタ」となったのである。このニュースは多くのフランスのメディアで取り 上げられただけでなく、イタリアやスイス、イギリスなどにも伝えられた。 日本と別れた藤田は、自らの精神世界を追求していくような絵画を制作するようになっ た。1920 年代のような華やかなものではなく、市井の人々を好んで描き、特に浮浪者を描 いたものが多いという。また子供の絵をよく描いている。藤田はこれについて、こう語っ ている。 マ マ 「私の数多い小供の絵の小児は皆私の創作で、モデルを写生したものではない。この世 の中で見た小児の印象は忘れずに画の中には取り入れる事もあるが、本当にこの世の中に マ マ マ マ マ マ マ マ 存在している小供ではない。私一人丈けの小供だ。私には小供がない。私の画の小供が私 マ マ (注 41) の息子なり娘なりで一番愛したい小供だ。肖像画の小児の顔はこれとは別問題である」 藤田の描く子供の顔は、どれも同じように見える。見る者には少し奇妙で、どこか怖さ を感じさせるような事もある。人形のようだからだろうか。この頃の藤田の絵は、内面を 鏡のようにカンヴァスにそのまま映し出したような印象を受け得る。老いながら孤独を深 めていく藤田の姿がそこには映り、見る者の心に投影される。我々はこの孤独の深さに心 を掴まれるのかも知れない。 また藤田は、宗教画も数多く手掛けている。聖書の世界に関心を深めたきっかけは、1959 年に制作が開始された巨大な黙示録である。サルバドール・ダリ*35 やオシップ・ザッキン、 レオノール・フィニ*36 らと共に藤田も絵の描きおろしを依頼された。藤田は『ヨハネ黙示 録』に「新しいエルサレム」 、 「四騎士」、 「七つのトランペット」を描きおろした。その後 は聖母や天使を描いた。≪イヴ≫(図 23)や≪花の洗礼≫(図 24)などは、純粋で透明感 にあふれている。 21 4)晩年 パリから車で一時間ほどの所にあるヴィリエ・ル・バクルの村の古びた農家が、藤田の 終の棲家となった。藤田は子供達や聖母を描き続けており、1962 年には≪礼拝≫(図 25) を描き上げた。向かって左に藤田、右には妻の君代がひざまずいており、それを聖母マリ アが祝福している。 日本では敗戦色も薄くなり、高度経済成長期に向かおうとしていたが、藤田の絵はその 「数奇な運命」が関心を集め、やがて絵の値段も高騰していった。しかしその一方で、贋 作が多く出回るようになっていた。本人が日本にいない為に、真贋を確認出来ないという 環境が影響していた。そのような情報も含め、藤田へたまに届いていた日本からの音信も、 「藤田は日本人が嫌いで会おうとしない」という噂が流れて藤田を訪ねる人も少なくなっ た為か、届かなくなっていた。 藤田は絵を描くのに疲れた時、大工仕事や小物作りを楽しんだ。寝室の衝立を作り、そ こにブリキ細工を貼り付けたり、缶詰の空き缶で如雨露を作ったりしていた。また子供達 にお菓子をあげて笑い話をするひと時は、藤田の心を一瞬だけでも慰めていたのだろう。 1965 年、79 歳になった藤田は最後の仕事に取り掛かった。自らの手で礼拝堂を造り、そ の内部にフレスコ画を描く事である。設計図を描き、建築家のモーリス・クロジェの協力 を得ながら、ミニチュアを幾つも作った。当初、教会は藤田の住むヴィリエ・ル・バクル に建設される予定だったが、スポンサーであり友人でもあったルネ・ラルーがランスの土 地を藤田に提供した事もあり、ランスに造られる事になった。1966 年には礼拝堂の建築が 完成し、藤田はフレスコ画に取り掛かった。画面を描き始めると途中で中断する事が出来 ない上、漆喰から染み出る湿気が、歳の多い藤田を苦しめた。1966 年 8 月 31 日、藤田は フレスコ画を描き終え、礼拝堂は「ノートルダム・ド・ラ・ペ 平和の聖母礼拝堂」と名 付けられた。 3 か月後、藤田はパリへ入院し膀胱癌の診断を受けた。治癒の見込みがたたず、パリの病 院を転々とした後、スイスのチューリヒ州立病院へ移った。そして 1968 年 1 月 29 日、藤 田は 81 歳で死去した。ランス大聖堂で盛大な葬儀が行われた後、ヴィリエ・ル・バクルへ 葬られた。 22 Ⅲ、日本での藤田嗣治への評価 藤田嗣治は 1929(昭和 4)年、パリ留学後初めて日本へ帰国した。パリでの評価とは大 きく異なっている日本での評価に、その生涯を通して翻弄されたと言っても過言ではない。 ここでは、現在の日本での評価がいかにして成されるようになったのかを語る上で重要な、 日本での藤田に対しての評価の変遷を見ていきたい。日本画壇との関わりや戦争と言う劇 的な環境の変化の中で、藤田への評価はどのように変化していったのだろうか。 1、フランスから帰国後より「作戦記録画」制作前まで 1929 年、藤田はユキ(リュシー・バドゥ)と共に帰国した。その際の日本画壇の反応な どは、 「Ⅱ、藤田嗣治の生涯」の中で述べた。新聞には「アンチ藤田」などの活字が躍り、 10 月初めに行われた朝日新聞社主催の展覧会では大成功を収めたものの、第 10 回帝展には 1 点のみの出品にとどまり、日本画壇もほとんど反応を示すことはなかった。 1933(昭和 8)年、中南米放浪の後に再び日本へ帰国した。周辺は藤田の滞在は短期間 であると考えていた。しかし藤田は 1934(昭和 9)年の春には二科会の会員となり、さら に都内にアトリエを新築するなど、日本定住の姿勢を見せて周囲を驚かせた。これには、 1931 年にフランスを離れる際に既にパリでの生活基盤を放棄していた事や、中南米訪問も 経済的効果があまり無かった事が大きく関わっている。 さらに 1930 年代のヨーロッパでは、 不況とナチズムの台頭によって保守化の動き強くなり、排外主義が高まっていた。エコー ル・ド・パリの担い手であった画家達の多くは外国人画家であった為、母国へ戻る者が多 かった。さらに日本は 1931(昭和 6)年の満州国に於ける大陸進出を始め、1933 年国際連 盟脱退などで孤立の色を強めていた。またこの事は、日本とフランスの文化的交流の方面 でもブレーキとなっており、パリ在住の日本人画家達は次々と母国へ引き揚げていた。こ ういった状況を考えれば、藤田の選択もうなずける。 約 20 年ぶりの日本での生活では、新しい受容層の出現と日本画壇の序列が藤田を戸惑わ せた。中南米から帰国した藤田は、まず個展を開催する事が出来る画廊を探すことから始 めた。1933 年 11 月には、東京・銀座の日動画廊を訪れている。1930 年代の末まで、二科 展と日動画廊の個展を基本として、新たな顧客を開拓した。1934 年 2 月に日動画廊で開い た個展には、77 点を出品している。加えて秋の二科会は「藤田嗣治特別陳列」で迎えた。 ≪メキシコにおけるマドレーヌ≫(図 26)や≪チンドン屋三人組≫(図 27)など、風俗画 の色が強い作品が主であった。これは優雅なエコール・ド・パリ流の作風から、現実社会 への歩み寄りを見せたものであったが、評判はあまり良くなかった。日本の顧客層は 1920 年代の裸婦などのスタイルが望まれ、見慣れない中南米の風俗やそれとは逆に見慣れた日 本の風俗は受け入れられなかった。藤田は新しいスタイルを確立しようともがいたが、技 23 術的には優れていても通俗的なものであると見なされていた。さらに日本美術界から外国 人扱いを受けたり、攻撃に遭ったりしていた。顧客は西欧美術を蒐集している華族や財閥 ではなく新興コレクターが中心であり、藤田の停滞ぶりは明らかなものだった。 そもそも近代日本に於ける油彩壁画ブームは、大正期にピークを迎える「第 1 波」と、 1930 年代にピークを迎えた「第 2 波」があるという。 「第 1 波」は、1907 年に黒田清輝らの指揮で完成した赤坂離宮の壁画から始まった。担 い手は、主に 20 世紀初頭にパリで学んだ経験のある、岡田三郎助や和田英作などの官展系 のアカデミックな画家達であった。その制作の中心は公共建築の壁画だった。 一方「第 2 波」の担い手は、野田英夫や寺田竹雄などのアメリカ経験を持つ若者達であ る。移民の家に生まれ、現地で絵画を学んでメキシコの壁画運動を体験し、1935 年前後に 日本へ戻った人材である。彼らの仕事場はカフェや酒場という市民に開かれた場所であっ た為、従来のアカデミックな壁画を否定していた。 藤田はメキシコの壁画運動を体験し、 「画家が、いたずらに名門富豪の個人的愛玩のみに (注 42) 奉仕すること無く、大衆のための奉仕も考へなければならない」 という考えは既に持 っていた。加えて「第 2 波」の作家の中で最も知名度が高い上、最年長で制作実績もある。 この為、藤田は 1930 年代以降の「第 2 波」の動きに同調し、1936 年 10 月には「日本壁画 協会」の顧問に就任するなど、日本の壁画制作の中心人物になった。 しかし、フランス風とメキシコ風の壁画を混ぜたようなものであり、藤田独自のスタイ ルを生み出すには至らなかっただけでなく、建前上は「大衆のためのもの」などとうたっ ているが、藤田の描く壁画には 1930 年代のプロレタリアート思想や反戦思想などの政治 的・社会的なテーマが見られない。その事を考えると、本質は少数の金持ちだけの芸術だ という事になる。これには批判が多く、若い画家達からも孤立していく事になった。 1937(昭和 12)年には盧溝橋事件が起こって日中戦争に突入し、日本は本格的な戦時体 制へ入って行く。藤田の絵は壁画だけでなく、敵国の風俗を扱う絵画として注文も減り始 める。1930 年後半、藤田は日本的なものや日常的なものに視点を変え、壁画の時代は終焉 へ向かっていく。 2、「作戦記録画」制作開始より太平洋戦争敗戦まで 1937 年 7 月、日中戦争が勃発した。これにより複数の画家達が、絵画の制作を目的とす る従軍を自主的に申し出ている。その一方で、藤田の描くモダンな都市の生活を彩る壁画 や、西洋の風俗や風景を描いた作品は、敵性のものとして扱われて注文が激減した。これ を受けて藤田は壁画の政策を断念し、新たなテーマやメディアを模索せざるを得なくなっ た。2 か月後、 「第 24 回二科展」に≪千人針≫(図 28)を発表する。事変に応じて自発的 に短期間で描いたもので、時局への素早い対応で周囲を驚かせた。 24 1938(昭和 13)年 5 月には沖縄を旅行し、この後、現地で制作したデッサンや写真など を使って≪客人(糸満)≫(図 29)などの油彩画を描いた。この年の秋の二科会では、通 常展示に加えて「第五室」に「事変画」の部屋がつくられ、藤田は沖縄からの出征を題材 とした≪島との訣別≫(図 30)を出品した。藤田はいきなり戦争画に着手した訳ではなく、 自発的に銃後の生活を描く事から、戦争という「道」に入っていったのである。 1938 年、9 月末には海軍、10 月には陸軍より戦場を描いた作品を制作せよという命を受 ける。藤田は 1 か月間中国大陸に滞在し、南昌飛行場の空爆地や漢口攻略作戦などを取材 した。帰国後、≪南昌飛行場の焼打≫(図 13)などを描いた。軍部から記録する事を目的 として注文を受けた為、説明的に表現する事を優先している。このような初期の戦争画は、 アカデミックな傾向や構成を示している。完成後に納品され、海軍省が外苑にある海軍館 に献納された。これらの絵が発表されるのは 1941 年 5 月の「第五回日本海洋美術展」であ るが、藤田の「作戦記録画」が初めて発表される機会でもあった。 この後「Ⅱ、藤田嗣治の生涯」の中でも述べた通り、1939 年 4 月にフランス行きを決め、 突如藤田は妻と共にアメリカを経由してフランスへ渡った。 「芸術を媒介として、国際親善 の一役を自ら進んで買って出よう」(注 43)と語って旅立ち、裸婦や肖像画、動物などをテー マとした作品を制作している。また「乳白色の下地」に細い線描というスタイルを再び試 み、1940 年春の「サロン・ドートンヌ、装飾芸術家協会、サロン・デ・テュルリーの合同 展」に 2 点を出品している。しかし 1939 年 9 月には第二次世界大戦が勃発し、1940 年春 にはドイツ軍がパリへ迫ってきた為、この年の 5 月にフランスを脱出して日本へ帰国した。 フランスに渡っていた事もあってか、しばらくは陸軍美術協会の結成や戦争美術展など に主体的には関わっていなかった。しかし 1940 年 9 月半ば、ノモンハン事件の記録画制作 を荻洲立兵氏に依頼され、戦跡を取材した後、1941 年に≪哈爾哈河畔之戦闘≫(図 14)を 完成させた。もともと正式な委嘱画ではなかったが、この後ノモンハン事件の戦没者が靖 国神社に合祀された際に、陸軍に献納されて「作戦記録画」となった。この画に対して富 う い お 沢有為男は最大級の賛辞を送っている。 「今度の聖戦展で藤田氏の「哈爾哈河畔之戦闘」を眺め、実は非常に驚いた。何故かと 言えばこの作品は、日本に油絵が入って以来の最大なる作品であったからである。(中略) この藤田の一作はもはや決定的な結論を日本の次代の絵画に向かって示したものと言い得 (注 44) る」 こうして藤田は、日本美術界でもこの戦争画で高い評価を手にした。「戦争画のスター」 の誕生である。 しかしその一方で、藤田が日本へ帰国した直後の 1937 年 7 月には「第一回聖戦美術展」 が開かれ、小磯良平や向井潤吉らが大陸での戦争を描いた作品を出品していたが、画壇で は「戦争画は作品としては不作である」と考えられていたようである。戦争画といっても 25 描く事が出来る画家と出来ない画家がおり、特に日本画の画家にとっては難しいものとさ れていた。それでも日本の歴史主題や仏教主題等を描く画家は多く、日本画の大家である 横山大観は皇紀 2600 年を記念する個展を開き、その売り上げを陸海軍に寄贈し、軍用機 4 台を献納するなど軍への協力を惜しまなかった。一方洋画壇でも従軍はするものの、優れ た戦争画は生まれないと多くの画家が戸惑いを隠せなかったという。 1941 年、戦争の波が日本美術界に一気に押し寄せる事となる。2 月には美術雑誌『みづ ゑ』に陸軍省情報部員を交えた座談会が掲載され、当時「日本思想界の独裁者」と呼ばれ くらぞう ていた鈴木庫三は画材を「単なる商品」ではなく「思想戦の弾薬」と定義づけ、言論統制 が日本美術界へ広がった事を宣言した。4 月には画家の福沢一郎と評論家の瀧口修造が、治 安維持法違反の嫌疑で検挙・拘留され、7 月になると内務省の指示による美術雑誌の統制が 決定し、8 つの雑誌が新たな誌名で再スタートした。 この頃藤田は帝国芸術院の会員に任命される。日本美術研究家のミカエル・リュケンは (注 45) 「日本美術界での活躍への正当な認知だった」 と述べているという。10 月には日本軍 が占領した直後のフランス領インドシナに、帝国芸術院と国際文化振興会の文化使節の一 人として派遣される。 「仏印巡回日本画展」に同行し、日本の伝統的な芸術表現についてフ ランス語で講演を行った。12 月 8 日の真珠湾攻撃の一報は、仏印で耳にする事になる。藤 田は一度帰国し、1924 年 2 月に日本軍の総攻撃によって陥落したシンガポールに「作戦記 録画」制作の為に派遣される。この後≪シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)≫(図 15)等を描き、12 月に行われた「第一回大東亜戦争美術展」へ出品した。当時はその他に も宮田三郎の≪山下、パーシバル両司令官会見図≫や、中村研一*37 の≪コタ・バル≫、鶴 田吾郎の≪神兵パレンバンに降下す≫などの代表作が描かれ、戦場での勝利を収めた「戦 勝画」制作はピークを迎えていた。フランスへの留学経験を持つ中堅の画家達が活躍し、 実が伴った完成度の高い絵画が数多く誕生した。 しかし 1942 年の夏頃から、日本軍の敗色が濃くなっていく。それに対して藤田の戦争画 は、大胆、且つ、スペクタクルな面が強くなっていく。敗色が濃厚となる中で戦地への取 材が滞り、想像に頼って描く事が多くなった事が要因の一つだと言える。1943 年 5 月には アリューシャン列島のアッツ島で大規模な戦闘が起き、大本営は初めて「玉砕」と表現し た。この年の 9 月に、藤田は≪アッツ島玉砕≫を「国民総力戦美術展」に出品している。 この≪アッツ島玉砕≫以前の作品は、≪哈爾哈河畔之戦闘≫を除いて全て委嘱画であった。 この側面から見れば、藤田が自らの意志で描いた初めての「玉砕図」という事になる。当 初、軍はこの「玉砕図」が戦意高揚につながるのか懐疑的であったようだが、予想に反し てその効果は絶大であった。手を合わせて拝み、賽銭を投げる観客が相次いだという。 藤田の側もこの≪アッツ島玉砕≫で、何か戦争画制作の核心を掴んだようである。その 後、1943 年 12 月の「第二回大東亜戦争美術展」に並んだ≪ソロモン海域に於ける米兵の 末路≫(図 30)から、1945 年 4 月の≪サイパン島同胞臣節を全うす≫(図 19)までの作 品を次々と発表していく。特に≪サイパン島同胞臣節を全うす≫は、1944 年 7 月のサイパ 26 ン島での玉砕を伝えるものだが、東京大空襲の直後である 1945 年 4 月の「陸軍美術展」に 出品された。会場を訪れた「人々の顔には、目で絵を見ようとするのではなく、心にこれ を摑み取ろうとする真剣さがうかがわれ、人々は悲憤の涙を止め得ないでいた」(注 46)とい う。 そして 1945 年 8 月 15 日に日本は敗戦し、美術界での戦争責任論争が始まる。 3、太平洋戦争敗戦よりアメリカ渡航まで 1945 年 8 月 15 日、日本は敗戦を迎えた。前述の通り、この後藤田はアメリカ人将校と GHQ に出向き、メトロポリタン美術館で計画されていた『日本の占領』をテーマとした展 覧会の為、戦争画の収集を行う事になる。その事で、かつて共に戦争画を描いていた画家 仲間達から誹謗や中傷を受けてしまう。GHQ が戦争画を戦犯の裁判の証拠物件として収集 している、という噂が流れていた為である。しかし鶴田吾郎は次のように述べている。 「それで戦中軍に協力して記録画として戦争画を描いたものの、とりわけ藤田嗣治と鶴 田は、その代表的な人物であるからパージにしてしまへと、GHQ へこの問題を持ちこんだ 美術界の一部の人がいた、これを聞いて、GHQ の見解は、君等はなにをいうのだ、戦争画 もアートじゃないか、これを描いた者をパージにするということは考えが間違っていると (注 47) いわれ、結局この問題は、アメリカ側の一声でおしまいになってしまった」 この事から、GHQ は美術家の戦争責任は考えていなかったと思われる。 この後、 「美術家の節操」問題が浮上する。宮田が問題にしたのは、1945 年 10 月 2 日付 の毎日新聞に掲載された「戦後最初の文化的慰安を都民に贈り、あわせて進駐軍に現代日 本美術を紹介するために」日本橋の三越百貨店で「油絵と彫刻の展覧会」が開催される事 になったという記事である。しかし記事は誤報で、鶴田は出品していたが、藤田と猪熊弦 一郎は出品していなかった。 1946 年になると、戦争責任論議が本格化する。戦争画家達の戦犯問題がジャーナリズム の関心事になり、美術記者は藤田をマークしていた。 そのような中で毎日新聞の記者である船戸洪吉記者が、妻の君代から内田巌が家に訪ね て来た事を聞いた。さらに藤田が画壇から追放され、仲間同士の責任の押し付け合いに嫌 気がさして日本を出たという説を雑誌『画壇』に書いた。この見方は、このエピソードが もとになっているという。この事は無論一切記録に残ってはいないが、内田の真意は日本 美術会が作成したリストの中に藤田の名前があった事を知らせ、しばらく自重するように 促す事にあったかもしれないが、戦犯のリストは公開される事無く終わった。 1946 年夏に、戦争画の収集はほぼ完了した。8 月には GHQ の関係者対象の戦争画展覧 会が開かれた。以前、戦争画を管轄していた従軍美術課は戦争画に対して肯定的な評価を 27 していたが、この頃に管轄していた CIE(民間情報教育局)のシャーマン・リーは次のよ うに書いて、否定的な反応を示した。 「これらの絵はいうまでもなく宣伝の目的で描かれている。その目的から見れば効果的 だと考えられる。陳列画の大部分の手法は今開かれている現代日本絵画展(院展、二科展) (注 48) の高い手法には明らかに劣っている」 1947 年 2 月に GHQ は戦争犯罪者リストを公開したが、画家の名前は無かった。 藤田の戦争画については、後に「ジェリコー論」が語られている。1934 年 12 月に「第 二回大東亜戦争美術展」へ出品された≪ソロモン海域に於ける米兵の末路≫は、これに似 た海や小船、そしてそれに乗って死の淵をさまよう人々を描いたジェリコーの≪メデュー ス号の筏≫(1819)やドラクロワの≪ドン・ジュアンの難破≫(1840)などの 19 世紀前 半の名作群を参考とした可能性が指摘されている。藤田自身も次のように、巨匠と呼ばれ る画家達の戦争画を「勉強」する事の重要性を語っている。 「僕は戦争がなかったら戦争画を描かなかったかも知れぬが、戦争になって戦争画に教 えられるものが多かった。というのは、戦争画になって今までの勉強の幅が狭かった点が 判ったし、ベラスケスやドラクロアという巨匠によって始めて戦争画の傑作が出来るほど である(中略)背水の陣を布いて本当の勉強をしなければならぬと思った。今興りつつあ る美術、将来発展すべき美術が、既に今日この決戦下に生れつつあるような気がする。僕 たちは今までの画をみんなで捨てて此処で本当に勉強しなければならぬと思う」(注 49) この事を受けて、後期印象派を半ば「信奉」していた日本の画家達も歩調を合わせるが 如く、 「戦場のロマン」を表現する為、ロマン派流の写実的なスタイルを取り入れるように なった。その一方で、このような写実的なスタイルを批判する声もある。先に挙げた田中 英道(2012)の著書の中の一節もこの一つであると思われる。しかしこのスタイルは、戦 時中の日本に於ける戦争画に共通する傾向の一つではないだろうか。藤田が戦争画の先頭 に立っていたのは事実だが、藤田のみの傾向として認識する事には疑問を感じる。 28 Ⅳ、日本評価の形成と藤田 1、内面と行動 画家や彫刻家に限らず、芸術面でクリエイティブな人々―いわゆる「芸術家」と呼ばれ る人々は、自らの「内面」の変化によって作風や色調を変えてしまう面があると考える。 そしてその「内面」は「行動」に移り、やがて「評価」が形成される。これを画家で例え るなら、ピカソなどが挙げられるのではないだろうか。スペインのゴシック芸術やエル・ グレコなどの影響が明らかな「青の時代」、抒情的なサーカスや旅芸人を描いた「バラ色の 時代」 、古典主義、そしてキュビスムと続いていき、数多くの名作を生み出している。一方、 藤田も乳白色の下地に線描というスタイルや壁画、戦争画など、次々とその色彩を変化さ せている。この「評価」が形成されるプロセスは言わば「芯」の部分であり、この面では フランスでの評価も日本での評価も共通のものと言える。 しかし同じ「芯」が通っていても、その周囲は非常にアンバランスであると言える。さ らにアンバランスであるが故に、それぞれの角度によって見えるものが全く違う。体の「芯」 の部分が正しくても手先や足先がアンバランスならば目標の見え方も異なり、それを正し く射抜く事は出来ないのである。これは日本での藤田への評価の「形」ではないだろうか。 藤田は日本の為に戦争画を描いたと主張しているが、日本の美術家達は自分の欲望のま まに「戦争」というジャンルを深め、リアリティーのあり過ぎる描写に辿り着いたという 評価が成された。そこに、藤田と日本がすれ違ってしまった重要な理由があるのだろう。 この評価が現代へ踏襲されてしまった事が、このすれ違いを深めていった要因の一つにな ったに違いない。 2、「日本人」というアイデンティティ 一見、西洋を一面に掲げたように見える藤田は、乳白色の下地に線を描くのに日本画の 面相筆を用い、≪秋田の行事≫などの壁画や日本の風俗画を多く描いた画家でもある。 「僕は青年時代から西洋へ行っていて二十余年もいたが、日本の毛筆に不思議な魅力を 感じ、ペンや鉛筆よりも、墨や毛筆を謳歌するようになったのは、習性というか遺伝とい うか、要するに、自分の体内を流れている、東洋人の血のためにもよるかと思うが、それ よりも、自分はもっと頑固に考え、僕は日本人だから、西洋へ行っても日本の筆と、日本 の墨を油絵に使ったのである。而して、徹底的に西洋を理解してしまえば、却って東洋の (注 50) いいところが分かるようになるのである」 29 『地を泳ぐ』の中で藤田はこのように語っており、「パリっ子」の印象が強い藤田だが、 その中核には「自分は日本人である」という事があったのではないかと考える。恐らくそ れを最初に実感したのは、フランス留学の際だと思われる。 加えて藤田は、1939 年に突如パリ行きを宣言した後に渡仏した。これが初めて従軍した 後である事から、この従軍経験で目にした現状がこの頃の藤田の内面に衝撃を与え、司修 が述べているように「日本にいたら、戦争画しか書けなくなるのではないか」(注 51)と思い 悩んだ末の決断であったのではないだろうか。近藤史人の『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 には、藤田が妻の君代に「戦時下の日本を離れた今、もう一度エコール・ド・パリの時代 のように自由に絵を描けるはずだ。そして、このパリで、今度こそ新しい境地を切り開き (注 52) たい」 と語っていた事が記されている。これは一見すれば「自分は日本人である」と いう事を放棄したように映る。しかし 1940 年に日本へ帰国した後、藤田は次のように書い ている。 あたか こぞ 「聖戦すでに四年、今日は 恰 も非常時局下に遭遇し、さらにますます緊張、国民挙って 革新運動に当らねばならぬ謹厳な時代に際し、不肖私も、翻然自粛の意を痛感して、今日、 悔恨哀惜の念なく、二十七年間のオカッパ髪を斬り棄てて、丸坊主になった。私にとって は、相当に大きな異変でなくてはならぬ。(中略)私は、鏡の前におのれの顔を映して見入 るとき、過去二十七年間の風貌は今日消滅して、私の顔が、今日なお健在である八十七歳 の老父に彷彿たるものを見出したとき、はじめて、自己自然の姿に立ち帰り、日本の国土 に根を持つ民草の一本として、生をこの安泰の恵みに浴し得ている有難さに感泣したので (注 53) あった」 これは藤田のトレードマークであったオカッパの髪型を切り落とし、坊主頭になった時 のものである。それまで「パリの困窮時代を反省し、座右の銘とし、当時の苦難を忘却せ ぬための想い出として」(注 54)自らの戒めの象徴であったはずのオカッパ頭を、藤田はどう して捨て去ってしまったのだろうか。 それはエコール・ド・パリ時代との決別を、内外に示す為であったと考える。近藤史人 は『藤田嗣治「異邦人」の生涯』の中で、オカッパ頭を捨て去ったエピソードとして、妻 の君代の証言を書いている。それによると藤田はある日、君代と共に九段の靖国神社の近 くを通りかかった。すると藤田は、道路脇の店で酒を酌み交わしていた若い軍人達に呼び 止められ、 「おいオカッパ、酌をしろ」と怒鳴られたという。若い軍人達は戦地へ向かう仲 間との別れの席で酒を酌み交わしていたようで、皆赤い顔をしており、軟弱そうで奇妙な 風貌の男をからかっているようであった。ところが藤田は、そこから離れるどころか店に 近づき、愛想よくお酌を始めた。君代が「どうしてあんな若い人にまで愛想よくしなけれ ばならないんですか」と嘆くと、藤田は「いいじゃないか。彼らはこれから戦争に行くん 30 だから。命をなくすかもしれない若い人たちなのだから少しばかり我慢してあげたってい いじゃないか」と言ったという。この翌日、藤田は坊主頭になった。 このエピソードには、藤田の「自分は日本人である」という自らのアイデンティティを 再発見するという要素が含まれているように思う。オカッパ頭がエコール・ド・パリ時代 の「戒め」であるとすれば、この坊主頭は日本で生きる為の「覚悟」ではないだろうか。 1929 年にユキと共に帰国した際は新聞などで激しく書き立てられ、その後太平洋戦争な どをはさんで日本から発つまで、本質的には「異邦人」であった。またフランスへ渡って フランス国籍を取得し、日本国籍を抹消した後もまた「異邦人」として生活していたとい う印象が強い。そういった意味では、誰もがまさに「異邦人の生涯」であったと表現する のもうなずける。 戦後以降「戦争=タブー」という意識のもとに、戦争画を描いた画家達は厳しい批判に さらされて口をつぐまざるを得ない者も多くいたに違いない。とりわけ藤田は「戦争画の スター」という言葉が表すように、戦争画制作に於いて中心的な画家の一人であった為、 「評 価されたいという自己の欲を満たす為に戦争画を次々と描いた」という批判や評価が、影 の如くついて回った。藤田は後に『藤田嗣治芸術試論』の中で、パリ画壇にデビューした 原動力となった日本人としての強烈な民族意識が、戦時という事情の下で当時の天皇制国 体と結びついてしまったところに、藤田の悲劇がある―という夏堀の指摘に対し、次のよ うに語っている。 「私はこれを悲劇とは思つてない。特に単に日本国を天皇制国家とは思つて居ない。日 (注 55) 本は我等の日本であつて、吾等が守らなけれバならぬと思つた」 しかし時代は、藤田のこうした「アイデンティティ」を受け入れようとしなかった。敗 戦の波は後に「戦争責任」という荒波に変わり、藤田はこの波に飲み込まれ、すれ違い、 離岸流に流されるように日本を離れていった。 『地を泳ぐ』には、相次いで戦争に出くわす藤田の姿を「戦争を背負って歩いている男」 と表現したというエピソードが書かれている。「戦争を背負って歩いている男」は、最後に はその背に負っていた戦争によって、日本という最も大切にしていたものを手放さなくて はならなかったのである。しかし近藤史人は『藤田嗣治「異邦人」の生涯』の最後に、藤 田が晩年を過ごしたヴィリエ・ル・バクルで出会った、解釈しがたい遺品について書いて いる。 「それは、アトリエにあった藤田の膨大な遺品をまとめて保管する古びた倉庫に埋もれ ていた。倉庫では県の担当者が遺品の整理にあたっていたが、資料的価値が不明だとして 未整理のまま箱詰めにされた品々が倉庫の片隅に積まれていた。 私は担当者に頼み込んでその箱を開けさせてもらうことにした。その箱を片端から調べ 31 ている途中で、古びた日本人形があらわれたのである。 その人形は体長三十センチほどの大きさで、素朴な童女の顔立ちをしていた。若いころ から手もとにおいてきたものだろうか、赤い衣装は手垢にまみれ、すり切れてぼろぼろに なっている。 その日本人形の胸には、フランス政府から授与されたレジオン・ドヌール勲章がしっか (注 56) りと縫いつけられていた」 藤田が生涯大切にしていた「アイデンティティ」は、藤田の心の奥で確かに存在してい た。 Ⅴ、結び 1、結論 太平洋戦争に敗北した事で国の方針自体が 180 度変わってしまったように、日本美術界 での藤田への評価も一変してしまった。やはり藤田と日本の美術界との溝が深まったのも、 やはりこの敗戦という特殊な状況が最も大きな原因であると言わざるを得ない。これによ って日本人の価値観に至るまで劇的に変化し、「戦争はタブーだ」という意識が醸成されて いったのだろう。しかしそれと共に、その戦争やそれに附属する戦争画について踏み込ん で検証する事さえもタブー視され、それが長らく現代まで踏襲されてきた事で、寧ろ戦争 画に限らずあらゆる面で支障が出てきている。今我々は、その事を顧みなければならない 時を迎えているのかもしれない。 藤田の「自分は日本人である」というアイデンティティは、結果的に故郷である日本で は認められないままであった。しかしフランス政府から授与されたレジオン・ドヌール勲 章を縫い付けた人形が示す通り、戦後の日本という足枷が外れた後でも日本への思いは尽 きる事が無かったのだろう。 2、今後の展望 日本の一連の戦争も、そこから生まれた戦争画も、世界史から見れば軍国主義の産物で あり、歴史の一ページでしかない。しかし我々日本人からすれば、それは思わず目を背け たくなるような真実であると言える。戦争画の場合でも、未だに公開されていない事は大 いにこれに当てはまる。しかし我々はそれを決して美化して都合よく解釈するのではなく、 当時の状況を受け入れ、検証してゆく必要があるのではないだろうか。藤田が最期まで胸 にとめていたアイデンティティは、今日を生きる我々にそれをどのように考えていくのか と問うている気がしてならない。その答えを探しに来ることを、戦争画はじっと待ち続け 32 ているに違いない。これらをいかに多面的に捉えて考え直し、そして未来に生かしていく のかは、我々の手にゆだねられている。これから戦争体験を持つ人は急速に減り、いまよ りさらに実感のないものになるだろう。戦争を忘れ去りまるで無かった事として扱う時、 それは我々の大きな過ちとなるだろう。藤田や日本の画家達が描いた数々の戦争画に触れ、 向き合いながら、その背後にある戦争を見つめ続けていきたい。 33 注 〈凡例〉 ・藤田の日本国籍名は「藤田嗣治」であり、公式には「つぐはる」であるが、文献などに よっては「つぐじ」と読まれる場合がある。また 1959 年にカトリックに改宗し洗礼名 「Lèonard(レオナルド、又はレオナール)」を受け、以後「Lèonard Foujita」という 署名を用いた為「レオナール・フジタ」と表記する文献や展覧会もあるが、ここでは「藤 田嗣治」の表記に統一した。 ・但し、文献に「藤田嗣治」以外の表記がある際は、文献にならう。 [1] 「第一回聖戦美術展」は 1939 年、 「第二回聖戦美術展」は 1941 年に開催された。 [2] 「大東亜共生圏美術展」は 1942 年に開催された。 [3] 「特集 戦争と美術 戦争画の史的土壌」 『美術手帖』美術出版社 1977 年 9 月号 45 頁 [4]針生一郎 「われらの内なる戦争画」『美術手帖』美術出版社 1977 年 9 月号 50 頁 ブラ [5] 『腕一本』は東邦美術協会から 1936 年に出版された。 [6] 『地を泳ぐ』は書物展望社から 1942 年に出版された。 [7] 「巴里」 「異郷」 「追憶」の(全 3 巻)。いずれも林洋子監修 小学館 2014 年 [8]田中英道 『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』講談社 2012 年 [9]同書 538 頁 [10]田中穣 『評伝藤田嗣治』 芸術新聞社 1988 年 207 頁 [11]近藤史人 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 講談社 2006 年 [12]50 年が経過した GHQ の文書は公開が開始され、国会図書館に納められたマイクロ フィルムは誰でも閲覧可能になった。これは姫路市立美術館の平瀬礼太による、GHQ 文書をもとにした戦争画処理問題についての調査に基づいている。(前掲書 295 頁) [13]1945 年当時、GHQ では日本で描かれていた戦争画を接収し、 「日本の占領」をテー マにした展覧会をアメリカで開催し、出品する計画が持ち上がっていた。 (前掲書 296 頁) [14]田中穣 前掲書 33 頁 [15]藤田嗣治著 近藤史人編『腕一本・巴里の横顔 講談社文芸文庫 2005 年 229 頁 [16]同書 234 頁 [17]同書 232 頁 [18]同書 12 頁 [19]彰技堂画塾 34 藤田嗣治エッセイ選 近藤史人編』 彰技堂(しょうぎどう) 明治 7 年(1874)ロンドンより多くの芸術に関する資料を持ち帰った国沢新九郎が、 東京麹町隼町につくった洋画塾。翌年新橋竹川町に分舎を設け、同 10 年国沢の死後 きん きちろう は本多錦吉郎が継承、塾舎も神田今川小路に、さらに同 12 年 3 月牛込区新小川町に 移り、同塾は明治 34 年頃まで継続された。門下に浅井忠、西敬、田崎延次郎 (1862-1932) 、守住貫魚(1809-92)などがいる。 ( 『新潮世界美術辞典』新潮社 1985 年) [20]藤田嗣治著 近藤史人編 前掲書 20 頁 [21]サロン・ドートンヌ Salon d’Automne(仏) 秋展。フランスの美術展の一つ。1903 年にフランツ・ジュールダンをリーダーとし マティス、マルケ、ルオー、ヴュイヤールらが創立したサロンで、ルノワールやル ドン、カリエール等の大家、ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848-1907) 、ヴ ェルハーレン(Emile Verharen, 1855-1916)、ロジェ=マルクス(Claude Roger-Marx, 1859-1913)などの文筆家がこれを支持した。ドラン、ヴラマンク、ヴ ァン・ドンゲン、ブラックなどは 2、3 年遅れて参加する。サロン・ナショナルの保 守性に反撥してつくられたもので、毎年秋にパリで開かれる。数年後にはこのサロ ンからフォーヴィスムやキュビスムが生れ出ることとなる。絵画のほか彫刻、装飾 美術など多くの部門を有しつつ現在にいたる。 (『新潮世界美術辞典』) [22]藤田嗣治『随筆集 地を泳ぐ』 平凡社 2014 年 208-210 頁 [23]夏堀全弘『藤田嗣治芸術試論』 矢内みどり解説 三好企画 2006 年 192 頁 [24]シュルレアリスム Surrèalisme(仏) 超現実主義。20 世紀の芸術思潮の一つ。1924 年、アンドレ・ブルトンの「第一宣言」 によって興った運動だが、美術、詩、文学、政治など広い範囲にわたって、想像力 の解放と合理主義への反逆を唱え、人間自体の自由と変革を目指した点では、永遠 の問いを投げつづける思想である。ダダによる否定と破壊を受けついで、最初、ブ ルトン、スーポー(Philippe Soupault, 1897- )エリュアール(Paul Eluard, 1895-1952)らの詩人やエルンスト、ミロらの画家たちは、オートマティスムの方法 で、狂人、霊媒、夢、幻覚などにあらわれる、意識下の非合理的な領域にメスを入 れた。フロイトの心理学の影響を見逃すことはできない。美術では、コラージュ、 フロッタージュ、デカルコマニーの手法で不安な幻覚を定着したエルンストがこの 時期を代表する。1930 年頃から、コミュニスムの政治に参加するアラゴンらと、内 的世界の優位性を主張するブルトンらが分裂するが、美術では、偏執狂的批判的方 法で、幻想の即物的な表出を表現したダリが、後期の代表的な画家として登場する。 さらに、第二次大戦中アメリカに亡命したシュルレアリストたちが、その想像力の 自由の力によって、抽象表現主義の誕生に大きい影響を与えたことは否定できない。 35 ダリやエルンストを、統制の体制に仕えたといって除名したブルトンは、第二次大 戦後も孤絶した位置で、この運動をとりわけ秘密的側面に展開しつつ、1966 年に歿 した。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [25]ジャポニスム japonisme(仏) ふつう日本主義と訳す。欧米において、日本美術の造形的特質を自分の作品のうち に創造的に生かす態度をいう。これに対して、19 世紀後半以降、日本美術への嗜好 を過去のシナ趣味(シノワズリ)やトルコ趣味(テュルクリ)に倣って、日本趣味 (ジャポネズリ japonaiserie, 仏)と通称する。また欧米で蒐集愛玩される浮世絵そ の他日本美術品や、これらを模写した欧米人の作品をもジャポネズリと呼ぶ。しば しばジャポニスムとジャポネズリの区別の困難なこともある(ファン・ゴッホ、モ ネなど) 。現今はとくにアメリカとフランスで書道や禅画を媒介とするジャポニスム が見受けられる。( 『新潮世界美術辞典』 ) [26]1929(昭和 4)年 9 月 12 日 毎日新聞(筆者未見、参照は近藤史人『藤田嗣治「異 邦人」の生涯』 講談社 2006 年 187 頁) [27]帝展(ていてん) 帝国美術院が主催した官設美術展。大正 8 年(1919)から昭和 10 年(1935)まで 行われた。初期文展の後身で、新文展の前身。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [28]藤田嗣治『随筆集 地を泳ぐ』 194 頁 [29]陸軍美術協会 1939 年に結成された、従軍経験のある作家を中心とした団体。実質的には陸軍の指 示のもと、美術界を統制する為の御用団体。松井石根大将を会長、藤島武二を副会 長に、石井柏亭、川島理一郎、鶴田吾郎、向井潤吉らが名を連ねた。 (参考:針生一郎・椹木野衣・蔵屋美香・河田明久・平瀬礼太・大谷省吾 編 『戦争と美術 1937-1945』国書刊行会 2008 年 258 頁、 針生一郎「われらの内なる戦争画」 『美術手帖』美術出版社 1977 年 9 月号 55 頁) [30] 『東京日日新聞』1939(昭和 14)年 4 月 5 日・6 日(筆者未見、参照は近藤史人(2006) 237 頁) [31]ノモンハン事件 1939 年に関東軍とソ連軍・モンゴル人民共和国(外蒙)軍との間で発生した武力衝 突。5 月に満州国西部ノモンハン付近の国境線をめぐり日本と外蒙軍・ソ連軍が衝突 し、同月末日本軍は敗退(第 1 次ノモンハン事件) 。そのご、関東軍は同地のソ連軍 撃破を企図、7 月に大規模な攻撃を開始したが、8 月末に関東軍は 1 個師団が壊滅す る打撃を受けた(第 2 次ノモンハン事件)。第 2 次大戦が勃発したため大本営は停戦 をはかり、関東軍司令官以下首脳を更迭する一方、ソ連との交渉を進め、モスクワ 36 日時 9.15 に停戦協定を成立させた。 (参考: 『岩波 日本史辞典』岩波書店 1999 年) [32]帝国芸術院 →帝国美術院(ていこくびじゅついん) 大正 8-昭和 12 年(1919-37)文部大臣の管理下に設けられ、美術の発達に関する諮 問に応じて、建議をなし、毎年行われる官設美術展覧会(帝展)を主催した機関。 創立当初は院長 1 名、会員 15 名以内をもって組織されたが、その後数回にわたって 増員された。昭和 10 年(1935)美術界の挙国一致体制を整えるため文相松田源治 (1875-1936)により従来の規定が官制に改められ、在野団体からも補充して一挙に 50 名以内と増員された。しかしこの改組は一時美術界に紛糾を招いたため昭和 12 年新しく帝国芸術院官制を制定し、美術部門のほかに、文学および音楽・演劇の 2 部門を加えることによって落着、展覧会も芸術院から分離して文部省が主催(新文 展)するようにかわった。帝国芸術院は昭和 22 年日本芸術院と改称した。 [33]夏堀全弘 前掲書 322 頁-323 頁 [34]同書 223 頁 [35] 『朝日新聞』1945 年 10 月 14 日(筆者未見、参照は近藤史人(2006)302 頁) [36]日本美術会 戦後に設立された、民主戦線的な活動を目指した団体。書記長の内田巌を始め、様々 な会派の画家 50 人が集まった。 (参考:近藤史人(2006) ) [37]夏堀全弘 前掲書 355 頁 [38]同書 378 頁 [39]同書 200 頁 [40]同書 42 頁-43 頁 [41]同書 396 頁 [42]藤田嗣治『随筆集 地を泳ぐ』194 頁 [43]近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』237 頁 [44] 『朝日新聞』1945 年 4 月 13 日(筆者未見、参照は同書 254 頁) [45]林洋子『藤田嗣治 作品をひらく』名古屋大学出版会 403 頁 [46]同書 429 頁 [47] 『太平洋戦争名画集 続』156 頁(筆者未見、参照は溝口郁夫『絵具と戦争』国書刊 行会 2011 年 258 頁) [48] 『戦争と美術』岩波書店(筆者未見、参照は同書 231 頁) [49]夏堀全弘 前掲書 318 頁 [50]藤田嗣治(2014) 前掲書 174 頁 [51]司修『戦争と美術』岩波新書 1992 年 [52]夏堀全弘 前掲書 299 頁 37 54 頁 [53]藤田嗣治(2014) 前掲書 315 頁-318 頁 [54]同書 316 頁 [55]夏堀全弘 前掲書 301 頁 [56]近藤史人(2006) 前掲書 407 頁 参考文献表 ○文献 2006 年 大宮知信『スキャンダル戦後美術史』 平凡社新書 神坂次郎・河田明久・丹尾安典・福富太郎著『画家たちの戦争』 新潮社 2010 年 木島俊介・内呂博之監修『レオナール・フジタ―ポーラ美術館コレクションを中心に』 TBS テレビ 2013 年 近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社 2006 年 島田紀夫・千足伸行 監修 『世界美術大全集 第 25 巻 フォーヴィスムとエコール・ド・パリ』 小学館 1994 年 ・千足伸行「総論 エコール・ド・パリ」 ・清水敏男「レオナール・フジタ」 ジャン=ポール・クレスペル(Jean-Paul Crespelle) 著 藤田尊潮 訳 『モンパルナスのエコール・ド・パリ』 八坂書房 2013 年 田中穣『評伝藤田嗣治』 芸術新聞社 1988 年 田中英道『日本美術全史 世界から見た名作の系譜』 司修『戦争と美術』 岩波書店 1992 年 夏堀全弘『藤田嗣治芸術試論』 矢内みどり解説 三好企画 2006 年 林洋子監修 内呂博之著 講談社 2012 年 『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい藤田嗣治 作品と生涯』 東京美術 2013 年 小学館 2014 年 林洋子監修『藤田嗣治画集 異郷』 林洋子著『藤田嗣治 作品をひらく』 名古屋大学出版会 2008 年 林洋子監修『藤田嗣治画集 追憶』 小学館 2014 年 林洋子監修『藤田嗣治画集 巴里』 小学館 2014 年 林洋子「藤田嗣治の 1930 年代(1) 裸婦と戦争画をつなぐもの」 『日本美術史の水脈』辻惟雄先生還暦記念会編 ぺりかん社 1993 年 針生一郎・椹木野衣・蔵屋美香・河田明久・平瀬礼太・大谷省吾 編 『戦争と美術 1937-1945』 国書刊行会 2008 年 38 ・針生一郎「戦後の戦争美術―論議と作品の運命」 ・保坂健次郎「イギリスの戦争画とケネス・クラーク」 ・戦中の報道 一般: 「戦争画生れよと『陸軍美術協会』―首途に従軍報告展」 ・戦後の座談会: 「僕等は従軍画家だった」 : 「失われた戦争絵画―二〇年間、米軍にかくされていた太平洋戦争 名画の全貌」 藤田嗣治『随筆集 地を泳ぐ』 平凡社 2014 年 藤田嗣治著 近藤史人編『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選 近藤史人編』 講談社文芸文庫 2005 年 藤田嗣治(原著者。監修者は藤田君代) 『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』 講談社 2002 年 三浦篤 編 『往還の軌跡 日仏芸術交流の一五〇年』 三元社 2013 年 ・今橋映子「日本人のパリ写真―福原信三とビクトリアリスムの転換期」 ・フランソワーズ・ルヴァイアン モデルニテ 「 「美は常に奇異である」 。一九二〇年代末の芸術の近代性―フランスと日本の接触 点と並行関係」 ・柳沢秀行「パリの日本人画家 日本におけるパリ」 溝口郁夫『絵具と戦争 従軍画家たちと戦争画の軌跡』 国書刊行会 2011 年 ○新聞・雑誌記事 林洋子「藤田嗣治 壁画への志向」『朝日新聞』2013 年 10 月 9 日 夕刊 北野輝「戦争画の「芸術的」評価―横山大観の「富士図」と藤田嗣治の「死闘図」」 『季論 21』14 号 2011 年 150 頁-168 頁 「藤田嗣治―″世界のフジタ″ならではの究極の戦争画!?―」 『芸術新潮』 新潮社 1995 年 5 月号 「藤田嗣治が、世界のフジタになるまで」 『芸術新潮』 新潮社 2013 年 5 月号 林洋子「藤田嗣治の「作戦記録画」をめぐって」 『新潮』 新潮社 2014 年 5 月号 『花美術館 vol.34』 「藤田嗣治 鑑定と鑑賞 二つの視点から」 「藤田嗣治の 1930 年代 壁画制作を中心に」蒼海出版 2013 年 佐藤幸宏「藤田嗣治の初期風景画について―1910 年代の作品を中心に―」 『美學美術史論集』第 19 輯 成城大學大學院文學研究科 2011 年 佐野勝也「藤田嗣治の舞台美術作品 1951 年スカラ座『蝶々夫人』に関する一考察」 『美術史』175 号 2013 年 119 頁-133 頁 『美術手帖』 「特集 戦争と美術 戦争画の史的土壌」 「戰爭畫制作の要點」 美術出版社 1977 年 9 月号 39 河田明久監修『別冊太陽』 「画家と戦争 日本美術史の空白」 平凡社 2014 年 『ユリイカ』特集藤田嗣治 青土社 2006 年 〈人名リスト〉 [1]ジェリコー ジェリコー, テオドール Jean Louis thèricault 1791.9.21-1824.1.26 フランスの画家。ルワンに生れ、パリで歿。パリの中学に入り、1808 年より絵画を志し、 カルル・ヴェルネ(Carle Vernet, 1758-1836)の画室に入り、馬の習作に熱中、次いで 1810 年よりゲランのもとに学び、J.L.ダヴィッドの影響をも受ける。他方で、リュッベンス、カ ラヴァッジオたちの作品に学び、古典的格調を保ちつつ激情的な光と影、運動感、鮮烈な 色彩を導入し、徹底した観察に悲劇的情感を加える。1816-17 年イタリア、スイスに遊学し、 特にミケランジェロの影響を受ける。1819 年大作『メデューズ号の筏』(ルーヴル美術館) を、サロンに出品、ロマン派の烽火をあげた。1820-21 年ロンドンに旅行し、石版による風 景画や、 『エプソムの競馬』 (1821、ルーヴル)など競馬に取材した作品を制作している。 ( 『新潮世界美術辞典』 新潮社 1985 年) [2]宮田重雄 梅原龍三郎に師事した洋画家。戦中は軍医として大陸に派遣された体験がある。1938 年 に大同で描いた石仏の作品が、代表作であるとされている。 (参考: 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 講談社 2006 年) [3]岡田八千代 岡田八千代(1883・12・3~1962・2・10) 劇評家、劇作家、小説家。広島生れ。小山内薫の妹、岡田三郎助の妻、筆名に芹影(女) 、 伊達虫子など。父は陸軍軍医小山内健、母は江戸旗本小栗信の長女。父の急死で東京に戻 り母、兄、姉と麹町区富士見町で育つ。東京成女高等女学校卒。兄小山内薫の影響下早く から文学に親しむ。森鷗外の弟三木竹二に認められ三木が主宰する雑誌『歌舞伎』に劇評 を描く。1900 年代にはあらゆる当時の雑誌に芹影の名の小説、評論、劇評が載った。蘆花 作の「灰燼」の脚色は 1906 年 1~2 月の『歌舞伎』に載った。同じ年はじめての短編集『門 の草』を如山堂から出版後、鷗外の勧めで佐賀出身の画家東京美術学校教授岡田三郎助と 結婚、渋谷伊達町に住む。女性の人権や生き方に執着していた八千代は結婚後も小山内姓 で小説「葡萄酒」 ( 『新小説』明治 40、1)、 「画像」 (『早稲田文学』同年)を発表し、二冊目 の著書『新緑』 (同年堺屋書店)も出す。らいてう等の『青鞜』の創刊に参加。さらに 1923 40 年には時雨と「女人芸術」も始める。夫三郎助の帝国美術展覧会出品作のモデル画「支那 絹の前」は有名。三郎助と別居、同居を繰り返す新しい女でもあった。小山内について書 いた『若き日の小山内薫』は名著といわれている。戦後は日本女流劇作家界の設立に努力 する。 ( 『20 世紀の戯曲―日本近代戯曲の世界』 社会評論社 1998 年 126 頁) [4]森鷗外 森 鷗外 もりおうがい 文久 2・1・19―大正 11・7・9(1862-1922) 小説家、軍医。本名は林太郎。鷗外はそのいくつかの雅号の一つで、これが最も有名。 石見・鹿足郡津和町に津和野藩の典医静男と妻峰子との間に森家の長男として生まれた。 弟に篤次郎(三木竹二) 、潤三郎、妹に喜美子があり、弟妹それぞれ世に名が知られている。 明治 4 年廃校になるまで藩校養老館で三年間漢籍を学び、5 年父に従って上京し、同郷の先 あまね ぐう 輩で先覚的な哲学者だった西 周 の邸に寄寓して本郷の新文学舎に学び 7 年東京医学学校予 科に入学、14 年 7 月、東大医学部の最年少の卒業生として医学士になった。大学入学には、 俊が若すぎたため、これをいつわって入学したという逸話もある。 鷗外は大学卒業後ただちに軍医として陸軍にはいったが、その閲歴は表面的には平板で あり、長い軍医生活の末、大正 5 年 4 月に軍医総監と医務局長の職を退き予備役に編入さ ずしょのかみ れ、翌 6 年 12 月に帝室博物館長兼宮内省図書頭に任ぜられ、この職にあったまま 11 年 7 じん 月 9 日に萎縮腎のために没した。 ( 『新潮日本文学小辞典』 新潮社 1968 年) [5]岡本一平 岡本一平(おかもといっぺい)明治 19.6.11-昭和 23.10.11(1886-1948) 漫画家。函館に生れ、岐阜県古井町で歿。明治 43 年(1910)東京美術学校西洋画科卒業。 この年大貫カノ(岡本かの子、1889-1939)と結婚。藤島武二に師事。帝国劇場の舞台装置 に従ったが、明治 45 年東京朝日新聞に入社、漫画を描き始め、鋭い描写と警句により従来 の漫画の形式を一変させ、政治漫画に一時期を画した。 『一平全集』(1929-30)がある。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) ひとし [6]池部鈞 池部鈞(いけべひとし)明治 19 年~昭和 44 年(1886~1969)洋画家。東京生まれ。錦城 中学卒業。渡部審也に師事。1910 年東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科卒業。1928、 1930 年帝展特選。日展評議員、一水会委員。1965 年日本芸術院恩賜賞受賞。長男は俳優の 池部良。 ( 『世界芸術家辞典 2010 年改定版』 エム・エフ・ジー 2010 年) [7]ピカソ ピカソ, パブロ Pablo Ruiz Picasso 1881.10.25-1973.4.8 41 スペインの画家。ブラックとともにキュビスムの創始者。マラガに生れ、南フランスの ムージャンで歿。初め父を死とする。1897 年首都マドリードのサン・フェルナンド王立ア カデミーに入学したが間もなく退学し、世紀末のバルセローナの“モデルニスモ”運動に 身を投じる。1900 年パリに行き、トゥルーズ・ロートレックの影響を強く受ける。1901 年から“青の時代”を開始し、パリとバルセローナを何度か往復する。 “青の時代” (-04 末) は一つの表現主義的象徴主義で、スペインのゴシック芸術およびエル・グレコからの直接 的影響が顕著で、主題の表現は凄絶である。1904 年にはパリの“バトー=ラヴォワール(洗 濯船) ”に定住、翌年から“バラ色の時代”(-06 末)に入り、“青の時代”の厳しさを和ら げ、抒情的なサーカスや旅芸人を主題に描くが、1906 年から古典主義的傾向に移行する。 1906-07 年に 20 世紀絵画の出発点とされる『アヴィニョンの女たち』(ニューヨーク近代 美術館)を描く。翌年よりブラックと共にセザンヌの芸術の暗示を受けてキュビスムを創 始し、三次元的現実の概念を二次元的絵画に翻訳する「概念のリアリズム」の造形的研究 を開始する。第一次大戦までに“分析的”および“総合的”段階を経て、1921 年の『三人 の音楽師』 (ニューヨーク近代美術館、フィラデルフィア美術館)においてその探求の完結 をみる。1917-24 年コクトー(Jean Cocteau 1889-1963)の『バラード』を手はじめにデ ィアーギレフを団長とするバレエ・リュッスの装置や衣裳のデザインに協力。その後はキ ュビスムによる対象解体および再構成のイディオムを借り、また第一次大戦中に行ってい た新古典主義的主題の両方からシュルレアリスムに近づく。1937 年の『ゲルニカ』 (プラド 美術館)は最大の傑作の一つである。第二次大戦中は人間性の危機感を作品に反映して描 いたが、戦後は様式や形式にとらわれない自由な制作を続けた。1944 年から、マネの『草 上の食事』など過去の巨匠たちの絵画を改作した作品をしばしば描く。1953 年以降晩年ま で、版画や素描を中心に自己表出的な「画家とモデル」のテーマに集中し、版画の『347 シリーズ』等多くの作品を生んだ。早くから夏を南フランスで過すのを習慣としたが、1955 年からヴァロリスに住み、58 年からはエクス=アン=プロヴァンスに買ったヴァーヴナル グ城とヴァロリスを往復、1960 年にはムージャンに移った。かれが遺した絵画・素描は厖 大な数にのぼるが、彫刻、版画、ポスター、陶芸の作品も多く、各領域にすぐれた独創性 を発揮した。また詩や戯曲などの文学作品もある。バルセローナに、そして小規模だが南 フランスのアンディーブにもかれの個人美術館がある。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [8]モディリアーニ モディリアーニ、アメデーオ Amedeo Modigliani 1884.7.12-1920.1.25 イタリアの画家、彫刻家。リヴァルノに生れ、パリで歿。エコール・ド・パリを代表す る画家の一人。ユダヤ系の名門に生れ、フィレンツェやヴェネツィアの美術学校に学ぶ。 1906 年にパリに出、はじめモンマルトル、のちモンパルナスで貧困と飲酒の生活を送り、 数多くの伝説を残す。1909-14 年、ブランクーシに勧められて彫刻に専心、黒人芸術などの 42 影響による簡潔で鋭い造形感覚を示す。病弱や経済的理由から彫刻制作を断念するが、 1915-16 年頃までかれの真の情熱は彫刻にあった。数点の風景画を除けば、人物(肖像と裸 婦)しか描かなかったが、人体の描き出す優雅な曲線と、憂愁に満ちた表情には、ボッテ ィチェㇽリやティーノ・ディ・カマイーノにも通じるトスカーナの伝統が感じられる。代 表作には『クッションの裸婦』 (1917-18)、 『キスリングの肖像』 (1918-19)など。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [9]スーチン スーチン、ハイム(シャイム)Chaim Soutine 1893-1943.8.9 リトアニア出身のフランスの画家。ミンスク近郊のスミロヴィッチに生れ、パリで歿。 ヴィルナの美術学校に学び、1911 年にパリに出、貧困な生活を送りながら、モディリアー ニと親交を結ぶ。1919-22 年、南フランスのセレやカーニュに滞在して風景画を制作し、鮮 烈な色彩と対象をデフォルメする悲劇的な画風を樹立する。エコール・ド・パリの一人に かぞえられ、激しい表現主義的な作風で死んだ動物、風景、人物などを描き、とくに血を 想わせるような赤で知られる。代表作『皮を剥がれた牛』(1926 年、グルノーブル美術館) など。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [10]モンパルナスのキキ 本名、アリス・プラン(Alice Ernestine Prin 1901-1953)。フランスのブルゴーニュ 出身。モンパルナスのカフェに出入りしていた為画家達と出会い、16 歳の時から絵画や写 真のモデルを務め始め、後にスーパー・モデル「モンパルナスのキキ」と呼ばれる。色白 で豊満な体に、真っ直ぐな髪で知られる。 (参考: 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』) [11]ユキ 本名はリュシー・バドゥ(1903-1964)。パリ・パンチェーブル町生まれ。伯母が北フラ ンスで大規模農場を経営していた為、裕福な家庭で育つが、15 歳を過ぎた頃に母と祖母を 失い、パリの下町で一人暮らしをする。遺産を相続した為働く必要が無く、モンパルナス のカフェに入り浸っていた。やがて藤田と出会い、藤田は彼女に日本語の「ユキ」の名を 付けた。やがてロベール・デスノスなどのシュルレアリスム詩人たちと交際するようにな った。二人はモンスーリ公園の家で豪奢な生活を楽しんだが、婚姻した時には既に二人の 仲は破綻していた。 (参考: 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 ) [12]ロベール・デスノス デスノス ロベール ROBERT DESNOS (1900-45) 43 フランスの詩人。パリに生れる。第二次大戦中にゲシュタポに捕えられ、チェコスロヴ ァキアのテレジヌ収容所で死亡する。シュルレアリストとして出発したが、30 年には運動 を離れ、伝統的な詩形式と、彼の愛したパリ下町風の、庶民的な美しい詩の世界にもどる。 ネルヴァルとゴンゴラを愛する彼は、夢の世界に生き、 「幻影の哀唱」をうたう。そこには 人間の意識下からわき出てくる夢の近代神話というべきものがある。初期のシュルレアリ スト時代の作品に詩集『自由か愛か!』 (27)などがある。代表的な詩集としては、19 年以 後の約 10 年間の作品を集めた『肉体と資産』(30)や、彼の絶唱の一つ『愛なき夜ごとの 夜』(30) 、 『首のない人々』(34)を収録した『財産』(42)などがある。詩選集としては、 46 年に『深夜叢書』の 1 巻として出たもの、あるいは『今日の詩人双書』の第 16 巻『ロ ベール・デスノス』がある。 ( 『新潮世界文学辞典』 新潮社 1990 年) [13]キスリング キスリング、モイズ Moise Kisling 1891.1.22-1953.4.29 ポーランド出身のエコール・ド・パリの画家。クラクフに生れ、サナリーで歿。クラク フの美術学校で、印象派の流れを受けたパンキェヴィチ(Jozef Pankiewicz, 1866-1943) に学ぶ。1910 年パリに出、1912 年よりモンマルトルの“バトー=ラヴォワール(洗濯船) ” に住む。マックス・ジャコブ、モディリアーニ、スーチンらと交わり、1912 年サロン・ド ートンヌとアンデパンダン展に出品。第一次大戦中外人部隊に参加、フランスに帰化する。 第二次大戦中はアメリカに亡命し、戦後ふたたびフランスに戻る。明るい新鮮な色彩で風 景、静物、肖像を描いたが、特に異国的官能性に満ちた裸婦像で知られる。代表作は『モ ンパルナスのキキ』 (1925、ジュネーヴ、プティ=パレ) 。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [14]パスキン ジュール・パスキン Jules Pascin(本名ユリウス・モルデカイ・ピンカス Julius Mordecai Pincas)1885.3.31-1930.6.20 ブルガリア生れのアメリカ国籍の画家。父はスペイン系ユダヤ人。ヴィッディンに生れ、 パリで自殺。生涯を旅に送った典型的なボヘミアンで、足跡はドイツ、フランス、イギリ ス、アメリカ、アルジェリア、イタリア、スペインその他に及ぶ。1920 年代、パリを足場 として、哀愁とデカダンスの匂いにみちた女たちの絵に特色を示した。デッサン、水彩、 エロティックな絵画でも知られる。代表作に『寝台の上の 2 人の女』 (1917、グルノーブル 美術館)がある。エコール・ド・パリの一人。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [15]高野三三男 高野三三男(こうのみさお)明治 33 年-昭和 54 年(1900-1979) 44 洋画家。東京都生まれ。本郷洋画研究所で学ぶ。東京美術学校(現・東京藝術大学)入 学、1924 年中退、渡仏。1940 年帰国。二科展出品、二科賞受賞。のち一水会創立に参加。 戦後日展参与、審査員等も務めた。 ( 『世界芸術家辞典 2010 年改定版』) [16]福沢一郎 福沢一郎(ふくざわいちろう)明治 31.1.18-平成 4.10.16(1898-1992) 洋画家。群馬県富岡に生れる。東京帝国大学文学部中退。彫刻を志したが、大正 13 年(1924) 渡仏し、絵画に転向。昭和 6 年(1931)帰国、シュルレアリスムを移植。独立美術協会の 創立に参加、前衛美術の闘将として活躍。昭和 14 年、美術文化協会を結成。戦後は昭和 32 年毎日美術賞を受賞、メキシコその他の国に赴く。スケールの大きな作風で、壁画、ステ インド・グラスの下絵なども多い。代表作『牛』 (1936、東京国立近代美術館)、 『敗戦群像』 (1948、群馬県立近代美術館) 。 ( 『新潮世界美術辞典』) [17]岡鹿之助 岡鹿之助(おかしかのすけ)明治 31.7.2-昭和 53.4.28(1898-1978) 洋画家。東京に生れ、同地で歿。岡田三郎助に師事したのち大正 13 年(1924)東京美術 学校西洋画科を卒業。同年から昭和 14 年(1939)まで滞仏し、サロン・ドートンヌの会員 となった。帰国後は翌昭和 15 年春陽会会員となり、明快な秩序感と新印象主義の点描につ たい せん ながる精緻な筆触によって代表作『滞船』 (1927)、 『遊蝶花』 (1951)や『雪の発電所』 (1956、 東京、ブリヂストン美術館)などに静かな詩情を表現した。昭和 39 年日本芸術院賞受賞、 昭和 44 年同会員となり、昭和 47 年文化勲章受章。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [18]熊岡美彦 熊岡美彦(くまおかよしひこ)明治 22 年-昭和 19 年(1889-1944) 洋画家。茨城県生まれ。1913 年東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業。1913、1918 年光風会展、1915 年文展で受賞。1919 年新洋画会結成。1921 年光風会会員。1924 年槐樹 会創立。1927 年パリに滞在、1929 年帰国。1931 年槐樹会解散、1932 年東光会結成。熊岡 洋画研究所開設。 ( 『世界芸術家辞典 2010 年改定版』) [19]マドレーヌ マドレーヌ・ルクー(1906-1936)。カジノ・ド・パリの踊り子。気性が荒く「女豹」と 呼ばれるほどだった。アルコールとドラッグに溺れ、1936 年 6 月にコカイン中毒で急死。 (参考: 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 ) 45 [20]ディエゴ・リベラ リベーラ、ディエーゴ Diego Rivera 1886.12.8-1957.11.25 メキシコの画家。グァナファトに生れ、メキシコ市に歿。メキシコ市のサン・カルロス 美術学校に学ぶ。1907 年渡欧、キュビスムに影響される。1921 年帰国後は土着文化に接近、 民衆の芸術を追求し、ダイナミックな構図によって社会表現を謳っている。とくに自国と アメリカでの壁画制作によって知られる。『社会主義と資本主義の岐路にある男』(1934、 メキシコ市、パラシオ・デ・ベラス・アルテス)など、多数の壁画がある。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [21]ホセ・オロスコ オロスコ、ホセー・クレメンテ José Clemente Orozco 1883.11.23-1949.9.27 メキシコの画家。ハリスコ州サポトランに生れ、メキシコ市で歿。メキシコ市のサン・ カルロス美術学校に学ぶ。民主主義者のアトル博士(Dr.Atl, 本名ヘラルト・ムリーリョ Gerardo Moulillo, 1877-1964)、反近代的な大芸術を目指すポサーダらに感化される。 1929-34 年アメリカに滞在、カリフォルニア州クレアモントのポモナ大学などの壁画を手が ける。帰国後、メキシコ市のパラシオ・デ・ベラス・アルテス(1934)やグァダラハラ市 の大学(1936)をはじめ多数の壁画を制作、メキシコの壁画運動の推進者の一人となる。 油絵の代表作に『サパタの同志たち』(1931、ニューヨーク近代美術館)がある。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [22]平野政吉 秋田の富豪。平野家は江戸時代から続く大地主で、政吉は家業である米穀商の跡継ぎだ った。青年時代に画家を志したが挫折し、豊かな財力で美術品の蒐集に熱意を燃やしてい た。藤田と共に秋田に「藤田美術館」を計画していたが頓挫し、さらに終戦の際に農地改 革で資産の多くを失った。その後財団法人を設立し現在の秋田県立美術館の基礎を作った。 (参考: 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』) [23]猪熊弦一郎 猪熊弦一郎(いのくまげんいちろう)明治 35.12.14-平成 5 年.5.17(1902-1993) 洋画家。香川県高松市に生れる。藤島武二に師事、昭和 3 年(1928)東京美術学校西洋 画科を中退して渡欧、同 15 年帰国した。大正 15 年から帝展に入選、昭和 13 年新制作派協 会設立に参加した。在仏期にはアンデパンダン展に出品、マティスに師事した。都会的で 洒脱な人物像を描いてモダニズム絵画の代表的な画家として知られたが、昭和 27 年以降ア メリカに在住、抽象絵画に転じた。同 39 年日本現代美術展で国立近代美術賞を受賞。同 51 年帰国。代表作は『Entrance A』 (1964 年、東京国立近代美術館)。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) 46 [24]岡本太郎 岡本太郎(おかもとたろう)明治 44.2.26-平成 8.1.7 (1911-1996) 洋画家。東京に生れる。岡本一平とかの子(1889-1939)の長男。昭和 4 年(1929)に 渡欧、 パリでアブストラクシヨン=クレアシヨンなどの前衛運動に参加し、 昭和 15 年帰国。 初期の代表作に『傷ましき腕』 (1936)がある。一時二科会会員だったが、旧套な画壇に叛 旗を翻し、モダニズムを一貫して批判しつづける。1950 年代までは社会的諷刺のイメージ の強い作品を制作するが、1960 年代からは原色と激しい筆触で人間の原型のような抽象形 態を描く。1970 年日本万国博覧会の『太陽の塔』 、1976 年パリの国際会議センターの壁画 など、工芸的な仕事や彫刻にも意欲的で、また縄文土器をクローズアップした『日本の伝 統』 (1956)ほか、 『私の現代芸術』など著書も数多い。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [25]佐藤敬 佐藤敬(さとうけい)明治 39.10.28-昭和 53.5.8(1906-78) 洋画家。大分県大分町に生れ、別府市で歿。昭和 6 年(1931)東京美術学校西洋画科卒 業。昭和 5-9 滞仏。はじめ官展に出品、どう 11 年文展無鑑査になったが、同年新制作派協 会の結成に参加して、創立会員になる。同 27 年以降パリに住み、マティス、ピカソの影響 から、独自のモダニズムの画境をつくった。代表作は『ノートル・ダム』(1952)、『表面』 (1961) 。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [26]山田新一 山田新一(やまだしんいち)明治 32 年~平成 3 年(1899~1991) 洋画家。台北生まれ。1923 年東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業。1928 年渡仏、ア マン・ジャンに師事。帰国後、日展、光風会展に出品。1948 年光風会会員。1955 年日展会 員。1976 年京都市文化功労者。 ( 『世界芸術家辞典 2010 年改定版』) [27]伊原宇三郎 伊原宇三郎(いはらうさぶろう)明治 27 年~昭和 51 年(1894~1976) 洋画家。徳島県生まれ。1920 年帝展に初入選。1921 年東京美術学校(現・東京藝術大学) で藤島武二に師事。帝展入選を経て 1925 年~1929 年渡仏、量感ある裸婦像を制作。帰国 後は帝展などに出品。帝国美術学校、東京美術学校で教えたあと、従軍画家として中国、 東南アジアに赴いた。1949 年美術家の社会的環境を整えようと日本美術家連盟創設に尽力。 47 代表作は『室内群像』 『椅子によれる』『二人』『トーキー撮影風景』『滑り台のある風景』 など。 ( 『世界芸術家辞典 2010 年改定版』 ) [28]鶴田吾郎 鶴田吾郎(つるたごろう)明治 23 年~昭和 44 年(1890~1969) 洋画家。東京生まれ。倉田白羊に入門。その後、白馬会洋画研究所を経て太平洋画会研 究所で中村彝と交友。1917 年から 20 年に大連、シベリアなどを遍歴。帰国後は『盲目の エロシェンコ像』を帝展に出品。太平洋画会会員としてその運営にも尽力。1942 年従軍画 家として戦地に赴く。戦後は日展を中心に発表 ( 『世界芸術家辞典 2010 年改定版』 ) [29]永井潔 永井潔(ながいきよし)大正 5 年 8 月 24 日-平成 20 年 9 月 8 日(1916-2008) 画家。1916 年群馬県に生まれる。日本美術会の創立に参加し、事務局長などを務めた。 (参考:永井潔『反映と創造 芸術論への序説』新日本出版社 1981 年) [30]内田巌 内田巌(うちだいわお)明治 33 年~昭和 28 年(1900-1953) 洋画家。東京都生まれ。1926 年東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業。1930~1933 渡仏。アカデミー・ランソンに学ぶ。帝展、光風会展出品。1936 年同志らと新制作派協会 創立。 ( 『世界芸術家辞典 2010 年改定版』 ) [31]岡田謙三 岡田謙三(おかだけんぞう)明治 35.9.28-昭和 57.7.25(1902-82) 洋画家。横浜市に生れ、東京で歿。大正 11 年(1922)東京美術学校に入ったが中退、大 正 13-昭和 2 年(1924-27)パリに留学、昭和 4 年から二科展に出品し、抒情的な作風によ って同 12 年会員に挙げられた(1958 年退会)。昭和 25 年渡米してニューヨークに住み、 ヴェネツィア、サンパウロの両ビエンナーレ展で受賞、同 42 年毎日芸術賞を贈られた。渡 米後非具象的傾向を強め、柔らかく優雅な色感のうちに日本的感性を盛ったものとして、 アメリカ画壇でユーゲニズム(幽玄主義)の名のもとに高く評価されている。代表作は『元 禄』 (1958、東京国立近代美術館) 。 ( 『新潮世界美術辞典』) [32]国吉康雄 国吉康雄(くによしやすお)明治 22.9.1-昭和 28.5.14(1889-1953) アメリカで活躍した日本人画家。岡山市に生れ、ニューヨークで歿(終生日本国籍)。岡 山市の工業学校で染織を学び、17 歳で渡米。ロサンゼルス美術学校、ニューヨークのアー 48 ト・ステゥーデンツ・リーグで学び、のち同校教授となる。2 度渡欧し、1929 年ニューヨ ーク近代美術館の〈19 人の現存アメリカ作家展〉に招待出品。昭和 6 年(1931)一時帰国 し、東京と大阪で個展。アメリカ美術家会議副議長、美術家組合会長となる。1943 年カー ネギー国際展で『誰かが私のポスターを破った』が 1 等賞、1950 年メトロポリタン美術館 の〈現代アメリカ美術展〉で『鯉のぼり』が 3 等賞、1952 年ヴェネツィア・ビエンナーレ 展にアメリカ代表の一人として出品。風景、女、静物を題材として、社会的な意識と一種 の郷愁を秘めたユニークな作風を築いた。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [33]ユトリロ ユトリロ、モーリス Maurice Utrillo 1883.12.26-1955.11.5 フランスの画家。パリに生れ、ダクスで歿。ヴァラドンの私生児であったが、1891 年に、 同情した二流のスペイン人の画家・建築家・美術批評家ミゲル・ウトリリョ(Miguel Utrillo) が認知したため、以後モーリス・ユトリロと名のる。早くから異常な飲酒癖を示し、1900 年にはアルコール中毒で入院するようになった。それを治すために、母は医者のすすめに 従い、かれに絵を描かせる。しかし飲酒癖は治らず、入院がたび重なった。ほとんど独学 で、画壇からも孤立し、哀愁に満ちたパリの街角など身辺の風景画を数多く描いたが、特 に 1909-12 年頃の“白の時代”の作品に秀作が多い。1935 年コレクターの未亡人と結婚し、 晩年は裕福な生活を送りながら、絵はがきをもとにパリの風景を描きつづけた。代表作は 『モンマルトルのサン=ピエール聖堂』 (1914 年頃、個人蔵)など。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [34]ザッキン ザッキン、オシップ Ossip Zadkin 1890.7.14-1967.11.25 ロシア出身でフランスで活躍した彫刻家。スモレンスクに生れ、パリで歿。ロンドンの 工芸美術学校で学んだのち、1909 年パリのエコール・デ・ボザールを半年で退学。黒人彫 刻の影響を受け、対象を平面の集まりとして再構築し、キュビスムの彫刻家として目され る。プリミティヴな感覚に幻想性を加え、独自のスタイルを生みだした。1940-45 年アメリ カに滞在。代表作にロッテルダムの『破壊のための記念碑』 (1954)などがある。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [35]サルバドール・ダリ ダリ、サルバドール Salvador y Dali 1904.5.11- スペインの画家。カタルーニャのフィゲラスに生れた。1921-25 年マドリードのサン・フ ェルナンド王立美術アカデミーに学ぶ。当時の友人にロルカ(Federico García Lorca, 1899-1936)ルイス・ブニュエル(Luis Buñuel, 1900-83)がいる。在学中にフロイトの『夢 49 診断』を読み、夢の精神分析に啓示を受け“偏執狂的批判的方法”と称する技法を発見す る。 「絵画とは具象的非合理性またはあらゆる想像的世界の、手づくりの色彩写真だ」とい い、極度に精密な写実と、偏執狂的幻覚と直結する。1927 年パリに行き、ピカソとブルト ンに会う。1929 年はなばなしくパリでデビューし、シュルレアリスム後期の代表的画家と して知られた。当時の作品に『記憶の固執(柔らかい時計)』(1931、ニューヨーク近代美 術館)など。しかしブルトンと対立し、1934 年シュルレアリスム運動から除名される。こ の間 1930 年頃、ポール・エリュアール(Paul Eluard, 1885-1952)夫人だったガラ(Gala, 1893-1982)と結婚。1940 年渡米して古典主義への復帰をとなえ、1948 年スペインに帰り ポルト・ガリトに定住したのちも妻ガラをモデルにした『ポルト・ガリトの聖母』(1950) などの“聖画”を描き、たえずスキャンダルをふりまく。版画、宝石デザイン、映画など も手がけ、著書も多い。フィゲラスにダリ美術館がある。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [36]レオノール・フィニ フィニー・レオノール Leonor Fini 1918.8.30-1996.1.18 アルゼンチン出身でパリで活躍する女流画家。ブエノス・アイレスに生れた。両親はト リエステ人。仮面をかぶったあやしげな女や沼から生れる神秘的な女など、頽廃的な色の 濃い幻想を描く。1935 年シュルレアリスムに参加。1937 年以来パリに住むことが多い。代 表作は『猫のマニュエル』 (1943、個人蔵)。とくに 1945 年以降仮面の制作、バレエや劇の 装置・衣裳に特異な才能を示した。グラフィックの作品も多い。 ( 『新潮世界美術辞典』 ) [37]中村研一 中村研一(なかむらけんいち)明治 28 年~昭和 42 年(1895~1967) 洋画家。福岡県生まれ。1914 年鹿子木孟郎の内弟子となる。1919 年光風会展初入選。 1920 年東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業。岡田三郎助に師事。1920 年帝展初入選、 大正博覧会特選。1923 年渡仏。1928 年帰国。1927 年サロン・ドートンヌ会員。1927、1928 年帝展連続特選。1929 年帝国美術院賞。1941 年野間奨励賞。1950 年日本芸術院会員。 ( 『世界芸術家辞典 2010 年改定版』) 50 〈図版リスト〉 図 1 ≪自画像≫ 1910 年|油彩・カンヴァス 60.6×45.5cm|東京藝術大学 (林洋子『藤田嗣治画集「巴里」』より) 51 図 2 ≪トランプ占いの女≫ 1914 年|水彩・紙 30.5×22.5cm|徳島県立近代美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「巴里」』より) 図 3≪巴里風景≫ 1918 年|油彩・カンヴァス 55.5×81.0cm|三甲美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「巴里」』より) 52 図 4≪自画像≫ 1921 年|油彩・カンヴァス 99.0×81.0cm|ベルギー王立美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「巴里」』より) 図 5 ≪私の部屋、目覚まし時計のある静物≫ 53 1921 年|油彩・カンヴァス|130.0×97.0cm|パリ国立近代美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「巴里」』より) 図 6 ≪ジュイ布のある裸婦≫ 1922 年|油彩・カンヴァス|130.0×195.0cm|パリ市立近代美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「巴里」』より) 図 7≪女調教師とライオン≫ 1930 年|油彩・カンヴァス 147.0×91.0cm|プティ・パレ美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 54 図 8≪死に対する生命の勝利≫ 1930 年|油彩・カンヴァス|161.0×183.5cm|パーフェクト リバティー教団 (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 図 9≪眠れる女≫ 1931 年|油彩・カンヴァス|74.4×125.0cm|公益財団法人平野政吉美術財団 (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 55 ペイピン 図 10≪北平の力士≫ 1935 年|油彩・カンヴァス|180.9×225.4cm|公益財団法人平野政吉美術財団 (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 56 図 11≪カーナバルの後≫ 1932 年|油彩・カンヴァス|98.5×79.0cm|公益財団法人平野政吉美術財団 (秋田県立美術館 開館記念特別展 「壁画≪秋田の行事≫からのメッセージ 藤田嗣治の 1930 年代」カタログより) 図 12≪秋田の行事≫全景 1937 年|油彩・カンヴァス|365.0×2050.0cm|公益財団法人平野政吉美術財団 (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 57 ≪秋田の行事≫部分 図 13≪南昌飛行場の焼打≫ 1938-39 年|油彩・カンヴァス|192.0×518.0cm|東京国立近代美術館(無期限貸与作品) (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) ハ ル ハ 図 14≪哈爾哈河畔之戦闘≫ 1941 年|油彩・カンヴァス|140.0×448.0cm|東京国立近代美術館(無期限貸与作品) (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 58 図 15≪シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)≫ 1942 年|油彩・カンヴァス|148.0×300.0cm|東京国立近代美術館(無期限貸与作品) (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 図 16≪十二月八日の真珠湾≫ 1942 年|油彩・カンヴァス|161.0×260cm|東京国立近代美術館(無期限貸与作品) 59 (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 図 17≪アッツ島玉砕≫ 1943 年|油彩・カンヴァス|193.5×259.5cm|東京国立近代美術館(無期限貸与作品) (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 60 かおる く う て い た い 図 18≪ 薫 空挺隊敵陣に強制着陸奮闘す≫ 1945 年|油彩・カンヴァス|194.0×259.5cm|東京国立近代美術館(無期限貸与作品) (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 図 19≪サイパン島同胞臣節を全うす≫ 1945 年|油彩・カンヴァス|181.0×362.0cm|東京国立近代美術館(無期限貸与作品) (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 図 20≪カフェ≫ 1949 年|油彩・カンヴァス 76.0×64.0cm(藤田手製額、1949) パリ国立近代美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「追憶」』より) 61 図 21≪ホテル・エドガー・キネ≫ 1950 年|油彩・カンヴァス 27.0×22.0cm|カルナヴァレ美術館 (『藤田嗣治画集「追憶」』より) 図 22 ≪私の部屋、アコーデオンのある静物≫ 1922 年|油彩・カンヴァス 130.0×97.0cm|パリ国立近代美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「追憶」』より) 62 図 23≪イヴ≫ 1959 年|油彩・カンヴァス|61.0×38.0cm ウッドワン美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「追憶」』より) 図 24≪花の洗礼≫ 1959 年|油彩・カンヴァス 130.5×97.5cm|パリ市立近代美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「追憶」』より) 63 図 25≪礼拝≫ 1962~63 年|油彩・カンヴァス|114.8×147.0cm|パリ市立近代美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「追憶」』より) 図 26≪メキシコにおけるマドレーヌ≫ 1934 年|油彩・カンヴァス 91.0×72.5cm|京都国立近代美術館 (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 64 図 27≪チンドン屋三人組≫ 1934 年|水彩・紙|165.0×93.0cm 公益財団法人平野政吉美術財団 (林洋子『藤田嗣治画集「異郷」』より) 図 28≪千人針≫ 1937 年|所在不明 (林洋子『藤田嗣治「異郷」』より) 65 図 29≪客人(糸満)≫ 1938 年|油彩・カンヴァス|114.5×89.5cm|公益財団法人平野政吉美術財団 (秋田県立美術館 開館記念特別展 「壁画≪秋田の行事≫からのメッセージ 藤田嗣治の 1930 年代」カタログより) 図 30≪ソロモン海域に於ける米兵の末路≫ 1943 年|油彩・カンヴァス|193.0×258.5cm|東京国立近代美術館(無期限貸与作品) 66
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