アチェの資源開発と紛争に関する一考察

「유라시아연구」, 제8권 제1호(통권 제20호)
2011. 3. pp. 155-185
(사)아시아․유럽미래학회
논문접수일: 2011년 1월 22일
최종수정일: 2011년 3월 4일
게재확정일: 2011년 3월 25일
アチェの資源開発と紛争に関する一考察*
A Study on Long-Staying Korean Viewpoint about Japan
金光男**
1)
<목
차>
Ⅰ. はじめに
Ⅱ.「資源開発と紛争」のアチェ小史
3.4 地域開発
Ⅳ.紛争の激化
2.1 オランダ植民地戦争
4.1 中央集権化と開発
2.2 インドネシア独立戦争
4.2 社会的インパクト
2.3 ダルル․イスラーム反乱1953~1962年
4.3 軍事作戦と人権侵害
Ⅲ.外資と油田開発
Ⅴ.おわりに
3.1 賠償交渉
5.1 地域コンフリクト緩和の可能性
3.2 陸軍石油管理体制
参考文献
3.3 油田開発
Abstract
국문 요약 : 본고에서는 인도네시아 아체(Aceh)의 석유․가스의 자원 개발에 초점을 맞추어서 그것과
관련된 분쟁을 알아보고 장기간에 걸쳐 처참했던 아체 분쟁의 한 가지 요인을 고찰했다.
아체의 석유 개발은 네덜란드가 식민지 영토를 확장하기 위해 유발한 분쟁의 한 가지 요인이었다. 또
한 석유 자원 등을 구하기 위해서 수마트라 섬(Sumatra)에 침공한 일본 군정기를 거쳐 인도네시아에서
는 독립운동이 일어났다. 이 시기에 아체 북부의 수마트라 석유를 둘러싼 인도네시아와 네덜란드의 각축
이 전개되었고 인도네시아 내에서는 아체인과 자바인의 각축이 전개되었다.
인도네시아는 독립 후에도 아체의 지방정부와 자바의 중앙정부 사이에 아체 북부의 수마트라 석유 관
리를 둘러싼 분쟁이 일어났다. 한편 미국․네덜란드 양국 정부가 석유 자본을 주목하는 가운데 아체 북
부의 수마트라 석유의 국유화가 모색되는 과정에서 지방에서 반란이 일어났다. 이 반란을 진압하는 것을
목적으로 계엄령이 발령되어 아체 북부의 수마트라 석유 시설을 포함한 경제 자산에 대한 관리가 육군
의 손에 넘어갔다.
이 육군에 의한 석유 관리는 대일배상 교섭과정에서 일본 자본에 의한 아체 북부의 수마트라 석유부
흥지원과 일본 시장에 의한 매입 계약이 체결된 것과 무관하지는 않다. 일본의 시장․자본의 출현에 따
라 육군이 본격적으로 유전 복구와 원유 수출에 착수하였다. 그러나 육군이 관리하는 국영석유공사는 원
유 수출에 의한 외화 획득을 제일의 목적으로 하고 있었기 때문에 아체 지역사회의 석유 수요에는 적극
* 本稿は科学研究費基盤研究(B)海外学術調査「東南アジアにおける地域コンフリクトの緩和․予防と『共生の知』
の創出」(2007~2010年度、代表;茨城大学․伊藤哲司)による成果の一部である。
** 国立大学法人茨城大学 人文学部 敎授([email protected]).
- 155 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
적으로 부응하지 못했다.
수하르트 신체제가 되고 나서 경제 개발과 정치적 안정의 양립을 꾀하기 위해서 행정과 재정, 산업 정
책이 한층 더 중앙집권화 되었다. 아체에서는 중앙정부에 의해서 풍부한 천연자원의 개발이 실시되었다.
특히 아체현 북부의 천연가스 개발에 의해서 가스를 원료로 하는 새로운 대규모의 공장군, 즉
Lhokseumawe 공업지대가 형성되었다. 이 때문에 자카르타 중앙정부는 막대한 외화 획득을 하였지만
지역 경제에는 아무런 공헌도 하지 못했다.
지역주민에 대한 고용 기회과 현지의 산업 발전에 자극을 주지 못했다. 지역사회와 거리를 둔 공업지
대는 주민의 광대한 토지를 강제적으로 수용했지만 주민들이 납득이 가는 보상을 하지 않았을 뿐만 아
니라 공업지대에 거주하는 비아체인 직원과 지역 주민 사이의 격차는 더욱 커졌다. 1976년부터 2005년까
지 계속된 아체 분쟁은 기본적으로 자바 중심의 경제 개발에 반발하는 사람들의 불만이나 불공평감을
느끼게 하였고 그것을 처참하게 진압한 국군에 대한 공포와 증오가 계속되었다.
주제어: 자원 개발, 인도네시아 개발정책, 이중 경제, 인권 침해
- 156 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
Ⅰ. はじめに
ら考えていく。具体的には「石油․ガス開発」に絞っ
て整理し考察する。なぜなら、石油․ガス開発は歴
ハッサン․ディ․ティロ(Hasan di Tiro)を最高指導者とし
史的にアチェで発生した数々の紛争に無関係ではな
たアチェ独立運動(以下GAMとする;Gerakan Aceh
かったし、その開発規模が大きく従って社会的イン
Merdeka)は1976年から始まり2005年8月にインドネシ
パクトも大きく、インドネシア陸軍との歴史的な関わり
ア政府との間で和平合意に至り終結した。この和
もあり、さらに東アジアなどの国際政治経済の情勢
平合意の中でGAMは独立を放棄しインドネシア共和国
とも関連していると考えたからである。よって本
内の一州としてとどまり、地方自治の拡大深化を
稿の目標は、アチェにおける石油․ガス資源の開発に
目指すことになった。これ以後アチェ州(ナングロー․アチェ․ダ
焦点をあてて、それとの関連において紛争を捉
ルサラーム州)では、GAMの武装解除とインドネシア国軍の
え、凄惨かつ長期的なアチェ紛争の一因を明らかに
派遣部隊撤退が実施され、概ね軍事的対立、暴
することにある。
力、人権侵害などが鳴りをひそめている。組織的
まず2章では石油資源開発と紛争の近現代史を
な暴力が人々の生活を脅かすようなことがほとん
19世紀末から20世紀半ばごろまで整理する。もち
ど無くなった。しかし暴行を受けた人々の身体的
ろん石油資源だけが植民地戦争や内乱に関係して
かつ心理的な傷は未だ癒えたとは云えず、破壊に
いたと云うのではない。むしろ「ダルル․イスラーム反
よる経済的な被害からも十分に立ち直ってはいな
乱」の場合は、少なくとも目に見えるところでは
い。また和平合意後およそ5年間が過ぎたとはい
アチェの自治を確保するための行政単位である省
えアチェ地域紛争の「原因」がすべて解決したとも
(Propinsi)の地位を求めて蜂起したと考えられて
思われない。
いる。さまざまな要因が関係したと思われるが、
アチェは伝統的に稲作農業と胡椒やパーム油などの
アチェ地方と中央政府との間で石油資源を含む経済
商品作物栽培およびそれの交易によって栄えてい
的利害関係において大きな対立が生じていたと筆
た地域であり、森林資源や石油․ガスなどの天然資
者は考えている。よって近現代の石油資源開発と
源に恵まれた「豊かな」地域である。基本的には
紛争の関係史を考えるところから考察を始めた
米も地域内で自給しており輸出可能な余剰米もあ
い。3章ではいわゆるアチェ独立運動の起源をスカルノ
る。アチェでは総人口の9割がアチェ民族で同じ宗教イスラ
の「指導された民主主義」期に求めて議論を展開す
ームを信仰している。
る。この時期、筆者の考えるところでは、戒厳令
一体この豊かなアチェで、なぜ30年の長期にわ
によって軍が石油を管理し、外資を導入して操業
たって何万人もの民間人を含む多くの死者をだす
生産し、生産原油の大規模な輸出市場を確保した
凄惨な紛争が発生したのだろうか。様々な原因が
ことによって、後のインドネシアの石油․ガス開発の原
考えられるであろう。おなじく天然資源の豊かな
型を作ったのではないかと考えられる。4章では
リアウや東カリマンタンでは、アチェの様な長期的な暴力紛争
スハルト政治体制による石油․ガス開発の方法、展開、
は見られない。他方、パプアや東ティモールではアチェと
特徴を見ていき、それがアチェ地域社会に如何なるイ
よく似た長期的かつ凄惨な暴力による犠牲者を沢
ンパクトを与え、さらにまたそれがGAM反乱への軍
山出す紛争が発生している。東ティモールは独立し、
の対応になんらかの影響や関係を持っているかど
現在も資源開発の進むパプアは紛争状態が続いて
うか検討したい。最後に5章で、アチェ紛争の一因と
いる。
して石油․ガス開発のあり方が関係していたかどう
本稿ではアチェの紛争を資源開発という一側面か
かについて結論としてまとめたい。そのあとで、
- 157 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
津波後の復興過程でアチェ紛争解決の模索と地域コンフリク
定とイスラームの原理に立った国家体制を求める内的
トの緩和の可能性についても若干触れておきたい。
精神的要素との結び付きから生じた反乱であると
最後に本章の末節にあたって、アチェの地域紛争
とらえている。こうした論点に、アチェ地域内での
に関する先行研究を整理しておきたい。第二次世
権力闘争、すなわちアチェ人ウラマ(イスラム教師․指導者)
界大戦後のアチェで発生した地域紛争についての研
の改革派イスラーム․グループとアチェの伝統的貴族階層のウ
究は既に長いこと議論されてきた1)。すなわちアチェ
レーバラン階級との対立軸を加えたのが、アチェ出身の
の地域紛争が、パンチャシラ哲学に基づく近代的世俗
政治学者シャムスディンだった。彼は先行研究を整理し
国家に反対するイスラーム宗教国家を目指すものなの
た上でそれぞれの解釈のもつ限界を示しつつ、そ
か、あるいは地域の政治経済的利害関係を反映し
れらの学説の重要な要素を取り込み、折衷的な解
たものなのかという二つの解釈をめぐる議論で
釈を試みている。しかしシャムスディンの取り上げたアチェ
あったと言えよう。ボーランド(B.J.Boland)によれば
反乱は1953年から1961年までのいわゆるダウド․ブ
アチェにおける「反乱」はイスラームの原理に立つ国家樹立
ルエの反乱に焦点を当てて分析しており、アチェのイスラ
を目指すものではなく政治的経済的な利害を背景
ーム改革派と伝統的階層およびそれを反映する政党
とする自治権獲得を求める「反乱」であると解釈す
間での対立を主要な地域紛争の要因として位置付
る。10年後のファン․デァィク(van Dijk)の研究では、ダ
けている。
ルル․イスラーム反乱はインドネシアを一つの統一的領域とす
1990年代に入ってアチェ独立運動が活性化する
るイスラーム国家の樹立を目標とする政治的宗教的運
と、ティム․ケル(Tim
動と見る。もちろんデァィクは中央と地方との経済
序体制の経済政策との関係を重視した研究を発表
的利害関係を無視しているのではなく、中央対地
した。彼は1976年以降からのアチェ独立運動の主た
方の政治経済的利害対立やインドネシア国軍内の合理
る要因を不平等な経済的分配を伴う開発政策とそ
化問題や土地所有形態およびイスラームの地位をめぐ
れを固定化する政治的制度に求めて詳細な分析を
る宗教的な争点などの諸問題が複雑に絡み合い、
行っている。基本的にはケルの研究は既述のボーランド
外的物的要素たるジャワ中心的な政治経済構造の否
の研究を継承したものと思われる。さらに2000年
Kell)がアチェ地域紛争とスハルト新秩
にはアチェの歴史研究者であるスレイマン(Sulaiman)に
1) 主として以下の研究を挙げることができる。Boland,
B.J., The Struggle of Islam in Modern Indonesia, the
Hague: Martinus Nijhoff (VERHANDELINGEN
Van Het Koninklijk Instituut Voor Taal-, Land-en
Volkenkunde, 59), 1971./van Dijk, C., Rebellion under
the Banner of Islam; The Darul Islam in Indonesia,
the Hague: Martinus Nijhoff(VERHANDELINGEN
Van Het Koninklijk Instituut Voor Taal-, Land- en
Volkenkunde, 94), 1981./Sjamsuddin, N., The Republican Revolt, Singapore: Institute of Southeast
Asian Studies, 1985./Kell, T., The Roots of Acehnese Rebellion, 1989~1992, Ithaca: Cornell Modern
Indonesia Project(no.74), 1995./Sulaiman, M. Isa,
Aceh Merdeka; Ideologi, Kepemimpinan dan Gerakan,
Jakarta: Pustaka Al-Kautsar, 2000. / Reid, A.(ed.),
Verandah of Violence; The Background to the Aceh
Problem, Singapore University Press, 2006.
よって、アチェ独立運動の内在的な解釈、すなわちハッ
サン․ディ․ティロをはじめとする独立運動の指導層の理
念および運動の歴史的展開を詳細に跡付けてい
る。この研究は地域紛争の主体がイスラームを奉ずるア
チェ人ウラマ達であったことを強調しつつも、彼らの
民族的理念、宗教的イデオロギーと政治経済的現実と
のギャップを浮き彫りにしたものである。とくに
彼らの行動を地域開発の現状およびそこから発生
する政治的経済的矛盾から説明した実証的研究で
あると評価することが出来るだろう。さらにインド
洋での津波後に出版されたリード(A. Reid)編の論
文集においては、アチェ紛争が長い歴史的な経緯を
もっているとの認識に立ち、アチェ人のアイデンティティを
- 158 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
1873年の植民地戦争の以前に成立していたアチェ․ダ
た石油․ガス開発の研究は極わずかであり3)、今後
ルサラーム王朝国家にまで遡って考察している。この
の研究に期待したい。
論文集では、アチェ紛争のより一層根源的な認識を
歴史研究に求めた上で、2005年の和平合意に至る
までのハッサン․ディ․ティロを指導者とする独立運動を
Ⅱ.「資源開発と紛争」のアチェ小史
1950年代のダウド․ブルエの反乱(ダルル․イスラム反乱)と
2.1 オランダ植民地戦争
の連続性において捉えようとする研究や、アチェ紛
争の長期的かつ根本的原因として経済的搾取と周
1976年「スマトラ․アチェ国」独立宣言を行ったスマトラ民族
縁化を提示しそれを実証的なデータに基づいて検証
解放戦線のリーダーであるハッサン․ディ․ティロが独立の正
しようとする研究が注目される。さらにアチェの大
当性の根拠として挙げている歴史的経緯を説明す
衆がアチェ独立派を支持するようになったのがごく
るなかで、19世紀後半オランダのアチェ植民地化への抵
最近のことであり、しかもそれが歴史的な偶発事
抗戦争を語っている[Djalil, 2009, pp. 38-41]。イギ
件やインドネシア政府による不必要な抑圧や「失敗」、
リスとオランダのマレー半島とスマトラ島の勢力範囲を確定す
すなわちスハルト政権․軍の残虐な抑圧に対する反発
る英蘭協定(1871年)が締結された直後の1873年に
から生じたとする見解に疑問を投げかけている研
オランダがアチェに対して宣戦布告をした。このアチェ․イス
究も含まれている。いずれにせよ、このリードの編
纂した論文集は、アチェ紛争の歴史的視野に立ち、
戦後のダルル․イスラーム反乱、1970年代後半から2005年
までのアチェ独立運動に至るまでの長期的根源的な
理解に達しようとするアチェ研究者たちの努力の成
ラーム共同体とオランダ軍との大規模な組織的戦闘は
1912年ごろには終了した。ところがパンリマ․サギ4)、
ウレーバラン等の指導者に率いられた戦闘が終結して
以降も、ウラマ(イスラーム指導者)と民衆による「聖戦」
が継続してゲリラ戦や個別的襲撃が繰り返された。
果として評価することができよう。
Industry: A Study of Resource Management in a
Developing Economy, Jakarta: Sritua Arief Asso-
一方、アチェの石油․ガス開発についての先行研究
はいまのところあまり見られないが、インドネシアの
石油産業の研究や石油資源をめぐるインドネシア政治
経済史、あるいはインドネシア石油をめぐる国際関係
の研究は既に夥しく存在している2)。アチェに特定し
2) たとえば以下のような文献を参照されたい。
Hunter, A., “The Indonesian Oil Industry,” B.
Glassburner(ed.), The Economy of Indonesia, Ithaca:
Cornell University Press, 1971. / Anderson, G.B. Ⅲ,
et al., PERTAMINA: Indonesian National Oil,
Jakarta: Amerasian, 1972. / Carlson, S., Indonesia’s
Oil, Westview Press, 1977. / Aden, J.B., “Oil and
Politics in Indonesia, 1945 to 1980,” Dissertation for
Cornell University, 1988. / Robinson, W., “The
Politics of Japanese-Indonesian Energy Cooperation:
With Particular Reference to the Period 1972~
1976,” Dessertation for Monash University(Australia),
1980. / Arief, Sritua, The Indonesian Petroleum
ciates, 1976.
3) あえて挙げれば、Hassan, Ibrahim, “Masaalah Produksi
Minyak P.T. Permina di Sumatera Utara dan Aceh,”
Thesis for University of Indonesia, 1961./佐伯奈津
子「人びとの平和の実現に向けて:北アチェ県女性の
証言を中心に」高柳彰夫、ロニー․アレキサンダー編『私たち
の平和をつくる;環境․開発․人権․ジェンダー』法律文
化社、2004年。/金光男「北スマトラ石油帰属問題、
1945~57年:軍の石油管理への足がかり」アジア経済
研究所『アジア経済』第32巻第10号(1991年)、があ
る。
4) アチェの伝統的統治領域の単位はガンポン(gampong:村
落)、ムキム(mukim:一つのイスラーム寺院ムスジッドを中心と
して幾つかの村落ガンポンが集まって形成される地
区)、サギ(sagi: 複数の地区ムキムが統合された領域)か
らなる。このサギの軍事行政的リーダーがパンリマ(司令
官)․サギと呼ばれた。サギには、クタラジャ市を流れるアチ
ェ河を挟んで左右、後背地にそれぞれ形成されたも
のが「sagi26mukim」, 「sagi25mukim」, 「sagi22mukim」
と呼ばれていた。Reid, 1969, pp. 4-5.
- 159 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
ファネット․フェールはこの戦争が第二次世界大戦で日本軍
に組み込まれていった。交易の主役はもはやアチェ
がアチェに上陸するまで続いたと解釈している[van’t
のオラン․カヤやウレーバランではなくて、域外からやって
Veer,
1985]。このオランダによるアチェ植民地戦争
来た資本家だった。東アチェで採掘された石油も、パ
は、1873年から1914年にかけて、アチェ側死者(概
イプラインで東スマトラに位置するパンカラン․ブランダンに輸送
算)7万人、アチェ人捕虜の強制労働などによる死者
され、そこで灯油に精製処理されて、近隣のパンカ
(概算)2万5千人で、当時のアチェ総人口の約20%が
ラン․スス港から「クラウン․オイル」の銘柄で東アジア市場(主と
亡くなったことになる(金光男, 2000, pp. 80)。
して中国)などに販売された(金光男, 2000, pp. 80-85)。
ファネット․フェールによれば、1898年から1942年までを
もちろんオランダによるアチェの植民地支配が「石油
アチェ植民地戦争の最終段階である第四次アチェ戦争と
開発の為だけ」であったと云っているわけではな
区分することができる(van’t Veer, pp. 175~)。
い。ヨーロッパへの海上輸送路として重要なマラッカ海峡
この時期は、オランダ植民地経営の求める商品が、
の安全確保、砂糖やタバコやゴムなどのプランテーション経
従来の胡椒、砂糖、コーヒーから石油、錫、ゴム、コプ
営、植民地労働力の食糧確保を進める農業政策な
ラなどに移りつつあった時期だった。丁度この
ど、ヨーロッパ資本の植民地的展開と資源開発を進め
1898年に、メダンを中心とする東スマトラの北西部(アチェ
るために植民地の政治的支配の確立が目指された
王国との境)ランカット地方にある油田(テラガ․サイド)の
のである。こうした文脈において、アチェでの石油
生産が激減し「枯渇」したというニュースがオランタ
開発もオランダ植民地支配を誘引し紛争を招いた大
゙国内に広がった。このテラガ․サイド油田はロイヤル․ダッ
きな一因だったことは確かなことであろう。
チ․シェル社の前身であるオランダ王立石油会社5)が開発
さらにこうした19世紀後半から20世紀前半の植
した最初の生産油田だった。会社は存続を賭けて
民地化への過程で資源開発や農園開発が推進され
新油田の探鉱開発を有望地と見られた東アチェで進
たことにより、アチェ域外から大量の移住者を引き
めようとした。この東アチェのプルラ油田確保を主た
付けることになった。たとえば1930年のアチェ総人
る目的としてオランダ植民地軍部隊による大規模な
口は約100万人強で、そのうち12%が域外からの
軍事遠征(パセ遠征1898年)が始まった。これによ
移民だった。その移民の最大グループはジャワ人の6
り東アチェの油田地帯が開発されていき、石油施設
万人強で、華人の約2万2千人がそれに続いた。彼
やプランテーションなどの経済的資産を守るための軍部
等は油田掘削現場や農園プランテーションや都市部に定
隊の移動を確保するために交通インフラ整備が整えら
住したが、オランダ植民地政庁の人種分離政策によ
れていった (金光男, 2000, pp. 80-82)。
りアチェ地元住民たちとの接点はあまりなかった
長い間、胡椒などの交易によってマレー半島やアンダ
(Sulaiman, 2006, pp. 123)。植民地アチェでのヨーロッパ
マン海域の港市との関係の深かったアチェは、ここに
資本による開発は人種間および経済社会の二重構
きて初めてオランダ領東インドの諸都市と結びつけら
造を生み出した。
れた。アチェ経済は、アチェ地域内の陸上交通網のみな
2.2 インドネシア独立戦争
らず、メダンやバタビアなど東インド植民地の諸都市お
よび中国大陸やヨーロッパまで繋がる海上交通網の中
アチェにおいて「インドネシア独立運動」を指導した中心
的勢力は、改革派イスラーム教師のウラマたちだった。
5) 正式名称はKoninklijke Maatschappij tot Exploitatie
van Petroleumbronnen in Nederlandsch-Indie:オランダ
領インド王立石油開発会社であるが、以後、王立石油
会社とする。
人々は出生、割礼、結婚、死、相続といったアチェ
人の人生のフルコースを規定するイスラームの旗の下に結集
した。アチェの広範な人々を結集させていく素地を
- 160 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
作ったものの一つがウラマによるイスラーム教育であっ
たアチェ沿岸に増派された日本軍部隊への米の徴収
た。当時ダヤ6)と呼ばれた伝統的なイスラーム塾がアチェ農
が強化された(金光男, 1999, pp. 9-10)。
村部に広範に展開した。このイスラーム塾の教師ウラマ
日本軍が連合軍に降伏したという情報が日本軍
は、農民や商人の子弟あるいは村のリーダーの子弟
政支部アチェ州長官からアチェ社会に正式に知らされた
で、日常的に村落民衆との接点を持っていた。植
のは1945年8月25日になってからだった。アチェで
民地アチェの現状を肌身に感じていた彼ら若いウラマた
は、日本軍政の行政機関、報道機関、石油生産施
ちが、イスラーム教育改革運動をはじめた。
設、農園プランテーションなどが、アチェ人職員や労働者に
イスラーム教育の改革運動は、シラバスを統一し一層広
よって「接収」されていった。こうした政治権力機
範なカリキュラムを作り、近代的教育方法を採用し、クラ
構や経済的施設などが、「引き継ぎ」や「接収」、あ
ス制の教室を持つ学校施設を建設していった。彼
るいは強硬手段による「奪還」などを通じてアチェ人
等は学校建設を進める一方で、アチェ民衆の啓蒙や
側に掌握された。1873年以来のことである。
生活改善にも取り組んでいった。この若い改革派
それらを掌握し管理するアチェ人側はおよそ二つ
ウラマたちが中心となり結束して全アチェ․ウラマ同盟(以
の勢力から成っていた。一つはオランダ植民地政庁
後プサと云う.PUSA; Persatuan Ulama Seluruh
と日本軍政に利用された地域の伝統的権力者ウレーバ
Atjeh)を1939年に結成した。プサは評議会、出版メ
ラン階級であり、もう一つは既述のプサに結集したウ
ディア(雑誌『プニュル:Penjoeloeh』)、婦人会、農村
ラマ階級であった。この二つのグループによる権力闘
支部、アチェ人の経済的活動を支援するアチェ繁栄同盟
争の結果、ウレーバランは一掃され地域行政や経済資
(SAKA: Sjarikat Kemakmuran Atjeh)、商業組
産運営などアチェのすべての社会領域から排除され
合(Koperasi Dagang)などを立ち上げて、アチェ民衆
た。まさにアチェではプサによる「自治」がこの時期に
の社会経済的状況の改善に取り組んだ(金光男,
達成されたように見えた。
1999, pp. 6-8)。
アチェから一掃されたウレーバランの財産はすべて没収
オランダ植民地支配からの解放を目指したプサは、
された。ピディエ県では広大なウレーバラン所有の農地
日本軍の北スマトラ上陸(1942年 3月)に積極的に協力
が耕作農民に分配された。当時のアチェ農民は「活
した。それは日本軍のアチェ占領後にアチェの政治行政
気に溢れ仕事に励んだ」(Insider, 1950, p. 23)と
をプサに委ねるという「約束」を日本側から得てい
いう。さらにオランダ植民地期から分断されていたア
たからだった。ところが日本軍による軍事行政
チェとマレー半島との交易もこの時期に復活した。アチェ
(軍政)は基本的にオランダ植民地行政を引き継ぐも
交易商人の組織ガシダ(Gasida:Gabungan Saudagar
のであり、プサとの「約束」は反故にされた。プサは
Indonesia Daerah Atjeh)が組織され独立闘争を支
日本軍政に対して武装反乱に立ち上がった。さら
援するため天然資源など様々な物資をマレー半島と
にアジア太平洋での日本側戦局悪化(とくに1943年
の間で取引を行った。それはアチェの物産を売って
以降)により軍政目的である戦争遂行への全面的
必要とする米などの食糧、衣類、武器弾薬とのバー
協力を得るために、日本軍政はプサ系ウラマの重視、
ター取引だった(RISU, p. 84, 130, pp. 141-144)。
アチェ人の義勇軍創設、インドネシアの独立準備策といっ
石油施設、油田が広がる東アチェおよび州境のランカッ
た政策を行った。かくして飛行場や防衛土木工事
ト(東スマトラ)では、オランダ植民地期から引き続き働い
などにアチェ人が労務者として大量に動員され、ま
6) アチェのイスラーム寄宿塾。日本の寺小屋、韓国の書堂をイメ
ージすると分かり易いかと思われる。
ていた職員や労働者が、それぞれの職場、採掘現
場で日本軍から管理を受け継いで操業していた。
アチェの原油を精製するパンカラン․ブランダン製油所は施
- 161 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
設の三分の二相当が1945年1月から始まった連合
Perkebunan Republik Indonesia)」を設置した (金
軍の空爆により破壊されていた。石油労働者はそ
光男, 1999, pp. 17-20)。
の修理復旧に努め、職員労働者の食糧と衣料を確
この様にすでに独立戦争期において、アチェ地方
保するために石油製品の販売を近辺地域で行って
勢力(プサ)とインドネシア共和国政府との間には経済施
いた。しかし石油製品を流通販売する運搬手段が
設の運営などをめぐって綱引きが生じていたので
無い状況であったためにスマトラ全域への供給は不可
ある。オランダ植民地勢力からの独立という共通し
能だった (RISU, p. 84, p. 92, p. 530)。
た目標の下にアチェ地方勢力と中央政府は連帯して
オランダ軍の軍事侵攻を目前にして、修理復旧し
独立闘争を行った。ところが中央政府は国際社
たばかりのパンカラン․ブランダン製油所がインドネシア共和
会、とくに西側諸国からの支持を得るためにインド
国側によって撤退時に破壊され焼き払われた。オラ
ネシアに残された石油施設やプランテーションなどの資産を
ンダ側に渡さない為の焦土戦術だった。一方、東ア
原則的に接収せずに旧所有権者に返還するという
チェの油田群は、プムダ․プサ議長であり、かつインドネ
ハッタ政治宣言(インドネシア資料集、 pp. 43-47)を発表し
シア共和国軍スマトラ総参謀長のアミル․フシン․アルムジャヒッド
ていた。さらに近代的国民国家の建設をめざす中
(Tgk. Amir Husin Al Mujahid)を責任者とする
央集権化による行政機構の整備と、ナショナリストの考
北スマトラ石油鉱業会社(TMSU: Tambang Minyak
える「国家(中央)」にとって有効な経済政策を追求
Sumatera Utara)によって管理された。独立戦争
した。他方、アチェ地方勢力のプサは80年間におよぶ
の最中において経済資産の管理をめぐる争いは対
外部勢力の干渉と支配を排除することを念願して
オランダのみならず、アチェ側プサとジャワ中央との間で
戦ってきた。この中央地方の対立の芽は地方自治
も生じていた (RISU, p. 530)。
権をめぐって表面化し地方反乱へと発展する。
スカルノ(Soekarno)大統領の演説によれば、「独立
にとって現在最も重要なことは国家としての内容
2.3 ダルル․イスラーム反乱1953~1962年
と組織を建設することであり」また「国民国家の
1949年12月、オランダはインドネシア連邦共和国への主
要件は中央集権と統一戦線であり」、金融、外
権移譲を認めた。1945年8月から4年5カ月間、アチェ
交、国防、経済、その他の小さな問題に至るまで
の人々やプサは「インドネシア独立」の為にジャワのナショナリス
徹底して中央集権化と統一が達成されねばならな
トを支援してきた。インドネシア共和国への支援協力が
いという(金光男, 1999, p. 17)。当時、ジャワ島とス
アチェの「繁栄と自治」に資するものと考えたから
マトラ島、マレー半島の間はオランダ海軍の海上封鎖に
だ。アチェのウラマたちは、インドネシア共和国副首相シャフルデ
よって交易流通․通信は難しかった。この困難に
も係わらず、中央政府の権威を維持するために経
済政策7)を打ち出してアチェの商品流通や輸出入を管
理しようとした。さらに中央政府はアチェ州政府管
轄の「アチェ地方プランテーション事務所( Kan to r
Perkebunan Daerah Aceh)」を廃止して、中央政
府管理 の「国営農園 プランテーション(Perusahaan
7) 物価監視委員会、地域経済改善委員会、国立銀行補
佐監督委員会などの設置、プランテーション商品登録令、
域外商品輸送禁止令、物品輸入に関する法令など。
ィン․プラウィラヌガラ(Sjafruddin Prawiranegara)による
アチェ省(Propinsi: 第一級地方行政区)設立宣言(49年)
とその正式発足(50年1月)を当然のことと受けと
めていた。
ところが、1950年8月には連邦制が解体され、
統一インドネシア共和国となった。統一共和国政府はパ
ンチャシラを国是とする近代国民国家建設を目指すこ
とになった。政治行政機構と経済開発企画․実施
の中央集権化が推進された。アチェの立場はインドネシア
共和国内の一地方に過ぎず、しかも或る程度の自
- 162 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
治権が付与される「省(プロピンシ)」ではなく、省を
宣言し、いわゆるダルル․イスラーム反乱に突入した。プ
構成する州(Keresidenan;第二級地方行政区)とし
サの反乱により、東アチェ油田地帯で操業していたアチェ
て位置づけられた(1951年1月25日)。これで実質
石油事業所の所長アルムジャヒッドもプサ系労働者と共
的にアチェの自治は否定されたと考えられた。
に反乱軍に加わったため、新しくアブドゥルラフマン
スラウェシ島やマルク諸島と同じく、スマトラ島においても
(Abdulrachman)が所長に任命された。当時の中
中央政府管理による開発が志向された。ジャカルタの
央政府は石油が反乱軍の財源になることを恐れて
中央政府は、依然として外国資本に返還されずに
いた。中央政府は主としてアチェに広がる油田地帯
インドネシア側に残っていた石油施設、農園プランテーション
の開発を外国資本との提携によって進めようとす
などの管理運営に着手した。石油部門ではアチェ、
る。それによって当然、中央政府には外貨収入が
東スマトラ、および中部ジャワの油田鉱区、製油所が外
生まれる (金光男, 1991, pp. 18-21)。
国資本(ロイヤル․ダッチ․シェルの子会社BPM)に返還され
アチェ、西ジャワ、南スラウェシでのダルル․イスラーム反乱への
ずにインドネシア側の管理下にあった。ジャワに支持基
対応において、国軍はインドネシア全土に戒厳令を発
盤を持つ国民党(PNI: Partai Nasional Indonesia)
令した。アチェ油田地帯の再開発は、軍自前の燃料
や共産党(PKI: Partai Komunis Indonesia)主導
補給、反乱軍の石油占有の阻止、および軍の資金
による政府がアチェとジャワの油田鉱区、製油施設を
調達という観点から進められた。同時に陸軍はアチェ
統合して国有化しようと模索した(金光男, 1991, pp.
に特別な自治州としての地位を与えて反乱派の妥
11-16)。さらに中央政府は貿易輸出入についても
協を取りつけて解決を模索した。プサは陸軍の妥
規制し、アチェとマレー半島などとの「バーター交易」を禁
協案を受け入れる一派と全面的譲歩(連邦制採用)
じた。これによりアチェからの(直)輸出は急に途絶
を求めて徹底抗戦を主張するダウド․ブルエやハッサン․デ
えることになった(RISU, p. 626)。かくしてアチェか
ィ․ティロ達の一派とに分裂した。妥協案を受け入れ
らの物産はすべてメダン近郊の貿易港ブラワンを経由
る一派10)が次第に優勢となり政府と協定を締結し
しなければならなくなり、アチェの交易商人は損害
て、アチェでのダルル․イスラーム反乱は一応収束していっ
を被り地域経済に悪影響を及ぼした(Sulaiman,
た。そして陸軍による治安維持活動を伴ったアチェ
2006, p. 124)。
油田群の復旧再開発が、外国資本と提携して進め
経済開発以外にもイスラーム教育やイスラーム裁判所(シャリ
ーア法廷)の運営財政についての問題も生じた。こ
られ、生産原油の対日輸出へむけた準備が整えら
れていった (金光男, 1991, pp. 22-24)。
れらの財政支出は第一級行政区の省の責任で行わ
れてきた。北スマトラ省かアチェ省かによってアチェ内での
イスラーム学校への交付金配分が影響を受けることに
Ⅲ.外資と油田開発
なる。北スマトラ省となれば、バタック民族のキリスト教系
3.1 賠償交渉
学校やムハマディア8)が有力である為、プサ系のイスラーム学
校の運営に支障をきたすかもしれないと、アチェ人
度重なる破壊で荒廃したアチェ油田群を修復する
の間で不満を引き起こした (Sulaiman, 2006, p.130)。
には多くの資材や技術労働者が必要だった。問題
ついにプサ議長ダウド․ブルエは、1953年9月21日に
アチェ全域が「インドネシア․イスラーム国家」9)の一部であると
8) 都市部を中心とする西スマトラ․近代派のイスラーム教育運
動。
9) Negara Islam Indonesia.このインドネシア․イスラーム国家設
立は1949年8月に西ジャワでカルトスウィルヨ(Kartosuwiryo)
によって始められた武装蜂起の目標だった。
10) たとえばアリ․ハシミィ(Ali Hasjmy)やシャマウン․ガハル(Syamaun Gaharu)等がいる。
- 163 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
はその復旧資材や資金をどこから調達するかであ
の97%が輸入に依存していた。しかもアチェの油田
る。折よくインドネシアと日本との間でいわゆる賠償
は将来相当規模の生産量が期待されていた
交渉が行われていた。この賠償資金によって北スマ
(Nishihara, p. 56, pp. 61-72, pp. 117-118)。
トラとアチェの石油施設を復旧することがインドネシア政府
インドネシアではスカルノ大統領が賠償を経済の立て直
と日本政府財界の合意となった。
しと自らの権威強化を図る為に利用しようとして
インドネシアと日本との賠償交渉はサンフランシスコ講和会
いた。インドネシアでは議会政治が行き詰まり、大統
議(1951年)の年から始まり1958年1月の平和条約
領の強力な権限によって組閣された新内閣(ジュアン
と賠償協定の締結まで続いた。この賠償交渉は当
ダ内閣)があらわれ(1957年4月)、日本では岸信介
初から難航したが11)、日本側の財界実業家や外務
首相が誕生し(1957年2月)、双方とも賠償問題の
官僚および旧日本軍政に関わった経歴を持つインド
早期解決を目指した。スカルノ大統領特使やインドネシア
ネシア地域専門家などが調査、非公式準備交渉、意
政府外相と日本側との折衝が東京やジャカルタで繰り
見調整などで東京とジャカルタ間を行き交った。インド
返された。そして財界人の小林中<コバヤシアタル>が岸
ネシア側からも軍政期以来親しい関係にあった人物
首相の特使としてジャカルタに行き、日本領事やスタッフ
が日本を訪れ、あるいは招待されて、日本側政
および駐インドネシア米国大使との協議において賠償
界、財界のキーマンとの接触を持った。日本政府財界
問題解決への協力を取り付けた。交渉を終えて
の考えるところは、インドネシアとの国交回復、賠償
帰った小林は岸首相および大蔵大臣との協議で賠
協定締結が経済的に日本にとって利益をもたらす
償2億ドル、長期借款2億ドル、経済援助4億ド
形で合意されるべきであり、政治的にもインドネシア
ル、合計8億ドルでの決着案の承認を得た。その後
が非共産主義体制を堅持することが日本の利益(マ
にスカルノ․岸会談がセットされ1958年1月に平和条約と
ラッカ海峡安全保障)となるというものであった。と
賠償協定が締結され、4月には批准文書が取り交
くに財界が注目したのはインドネシアの天然資源開発
わされた(Nishihara, pp. 43-54)。
であり、その中にアチェ北スマトラ石油も含まれてい
3.2 陸軍石油管理体制
た。賠償交渉が行われていた当時、日本は海外で
の石油利権を全く持っておらず、必要とする石油
第一次アリ内閣(ジャワ出身者多数派)の下で、アチェ
北スマトラ石油施設の操業にジャワの共産党労働組合プ
11) 1951年12月半ばから’52年1月半ばまでの初めての
両国代表団による協議で、日本側とインドネシア側の「
戦争に対する認識」および賠償額が大きく隔たって
いることが判明し、交渉は暗礁に乗り上げた。日
本側は、日本軍が 3年半にわたってインドネシアを占領
したがインドネシア人との間で戦争行為が発生した事実
はないとの認識であり、また日本がインドネシアに持ち
込んだ様々な物資はすべてインドネシア側が押収したと
主張した。よって日本は占領を通じてインドネシア人に
与えた精神的ダメージに対して遺憾に思うが故に何
らかの援助を提供しようとするのであり、戦争に
よる損害を償う戦争賠償金としては支払う必要は
ない、との認識を持っていた。これは西原正氏に
よれば交渉団代表のみならず当時の政官界、財界
人の多くが持っていた認識であったという。
Nishihara, pp. 39-41.
ルブム(Perbum)の労働者を大量に動員し、その管
理運営をジャワ出身者(プルブム系)によって行い、アチェ
油田群と中部ジャワのカウェガン․ウォノサリ油田との統合が
試みられた。このジャワ主導による統合計画はアチェ
やランカットの地元労働者たちの不満反発によってな
かなか進まなかった。プサ(Tgk.アルムジャヒッド)が支
配した時期を挟んだ前後にアチェ油田群の管理責任
者だったアブドゥルラフマンが、アチェ北スマトラ石油のジャワ主
導による国有化に反対して解任された直後に中央
政府に書簡を送っている。それによればアチェのダル
ル․イスラーム反乱が起った原因の一つがアチェ․北スマトラ石
油事業の管理上の問題であったと言い、さらに政
- 164 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
府が豊かな油田を抱えるアチェ社会の不満解消に努
年当時約三千人でほとんどが地域の元TMSUの職
めるよう求めている。このアリ内閣の下で進められ
員や労働者だった。彼らはすでに仕事を熟知して
たジャワ主導のアチェ北スマトラ石油の国家管理は、アチェに
おり必要な経験的知識と技術を持っていた。しか
おける武装反乱によって挫折した(金光男, 1991, pp.
しアチェでの原油生産を拡大する為にはさらに五千
18-24)。
名ほどの石油労働者を必要とした為、プルミナは投
地方反乱はアチェのみならず輸出用の商品作物や
降したダルル․イスラーム反乱軍のメンバーを、治安対策を
天然資源を生産する外島(ジャワ島以外の島々)地域
兼ねて受け入れていった。彼等はアチェ石油事業所
で多発した。地方反乱の鎮圧に陸軍中央は忙殺さ
の所長アルムジャヒッドと共に反乱軍に加わったプサ系
れ財政的にも組織合理化を進める上でも困難な状
労働者たちだった。プルミナは彼らに技術教育をほ
況に直面していた。とくに南スマトラでの反乱は中央
どこし、彼らの労働現場を一か所に集中させず分
政府にとって大きな危機であった。南スマトラの石油
散して配置するなどの措置をとった(Hasan,
施設 の安全確 保のため に、イ フ ゙ ヌ ․ ス ト オ ( I b n u
133-135)。
pp.
Sutowo)大佐がパレンバンに鎮圧軍司令官として派
プルミナの油井復旧計画はいわゆる治安問題に直
遣され、プラジュー、スンゲイ․ゲロンの大規模な石油精
面していた。アチェ․ティムールやランタウなど生産油井のあ
製施設を「はかり知れない程の大きな損失をもた
る地域は、油井の多くが復旧作業を中断したまま
らす破壊妨害活動から救出した」[Karma, p. 163]。
であり、原油生産再開が困難だった。依然として
ついに1957年3月スカルノ大統領は全国に戒厳令を布
反乱派など様々なグループによる盗掘、破壊が行わ
告し国軍、とくに陸軍に経済施設の管理を含む社
れていたと云う。この治安問題解決の為に、プルミ
会全般にわたる広範な権限を与えることになっ
ナは「グループ一派のボスに、いくらかの現金、薬品
た。アチェ北スマトラ地域にはアチェ出身将校12)が派遣さ
類、衣類などをしばしば与えて、彼らがプルミナの
れ、地域の治安を維持しつつ懸案のアチェ北スマトラ石
操業を妨害しないようにした」と云う(Hasan, p.
油を軍の一元的な管理の下に置く方針を決定した
105)。さらにプルミナはアチェおよび北スマトラの陸軍部隊
(Karma, pp. 160-163)。
と連携し、軍に必要な物資弾薬などを供給するな
1957年12月、北スマトラ石油鉱業会社(TMSU)は解
どの便宜を与えて油田地帯の治安を確保していっ
散し、新たにプルミナ(Permina: P.T.Perusahaan Minyak
た。陸軍の作戦行動によって次第に地域の治安が
Nasional 国有石油会社)が設立された。イブヌ․ストオ
保たれ、アチェ․ランタウ油田からパンカラン․スス積出港の備
大佐が責任者として任命されジャカルタに本社が置か
蓄タンクまで80㎞の原油輸送が順調に行われるよう
れた。プルミナの経営陣はほとんどが陸軍の軍人に
になった(Hasan, pp. 103-106)。
よって占められていた13)。プルミナの労働者は1960
12) シャマウン․ガハル大佐(Sjamaun Gaharu)。彼は後にプル
ミナ社の経営組織である理事会のメンバーに選任されて
いる。
13) プルミナの経営組織は取締役会、理事会、諮問委員会
の三組織で、そのメンバーは陸軍参謀長の指名によっ
て政府から任命された。たとえば取締役会は全員
が陸軍将校で、総裁イブヌ․ストオ(Ibnu Sutowo)大佐、
第一取締役グドン(S.M. Geudong)少佐(アチェ出身)、
第二取締役シナガ(Mr.B. Sinaga)中佐(北スマトラ出身)、
生産管理取締役パティアシナ(J.M. Pattiasina)中佐(南ス
3.3 油田開発
プルミナが修理復旧した油井の総数はおよそ100ヶ
所で、戦争以前の油井の10%に相当した。しかも
プルミナ設立当初は資材物資の不足、治安上の問題
- 165 -
マトラ․パレンバンの元プラジュー製油所職員)だった。ま
た理事会の8名の理事の内5名が陸軍将校でアチェ出身
のシャマウン․ガハル大佐もアチェ地域代表として含まれて
いた。Hasan, pp. 89-92.
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
などによりパイプラインも稼働していなかった。この
るための合資会社the Far East Oil Trading Com-
復旧再開発で必要な資金が日本との契約によって
pany が東京に設立された (Nishihara, pp. 118-120)。
賄えるようになった。しかも油井の復旧のみなら
このプルミナとJAPEXとの協定は、1960年4月1日
ず、新たな油田探鉱調査および試掘も日本との協
から10年間にわたって総額188億4,500万円の融資
力により進められた(Hasan, pp. 29, 85-86, 146)。
を実施し、油田の修復拡張のための事業設備、専
賠償協定締結、批准から二ヵ月後、ブリジストン㈱
門技術者や幹部教育養成という形で提供され、プ
はアチェで液化石油ガス(LPG)プロジェクトを立ち上げよ
ルミナ側は生産される原油(Production Sharing)によっ
うとして日本軍政の経歴を持つインドネシア専門家に
て返済するというものだった16)。この請負契約は
委託して調査に乗り出した。さらに木下商店、丸
「生産分与方式」と呼ばれるもので、蘭印政庁が結
善石油㈱もアチェ北スマトラ石油に関心を持っていた。
んできたいわゆる「放任協定」17) とは違って、外国
このアチェ北スマトラ石油をめぐる日本側の会社間、グル
資本の投資や採掘利権などの取り決めではなく、
ープ間での衝突を避けるため、岸首相は小林中を
融資の形態をとり、その返済は生産された原油で
調整․仲裁者とした。いわゆる小林グループ14)が結
決済するものだった。すなわちインドネシア政府は外
成されプルミナとの交渉を始めた。1958年9月、小林
グループはアチェ北スマトラに調査団を派遣し、資本を当
地の石油開発に投下する方途、範囲などを具体的
に調査した。これ以降プルミナ側のイブヌ․ストオ大佐が
東京を訪れるようになり、また小林グループの委託
によりインドネシア専門家などがインドネシアに渡り交渉を
重ねている(Nishihara, pp. 117-119)。
1960年3月、小林中は通産大臣、大蔵大臣、経
団連副会長、自民党海外経済協力委員会委員長そ
して岸首相と協議し、新会社15)設立のために日本
輸出入銀行の融資承認を得た。同年4月7日、小林
グループ構成資本を中心とした企業団である日本石
油開発会社(JAPEX:Japan Petroleum Exploration Co.)とプルミナとの間で生産分与方式による協
定が結ばれた。ノソデコは同年6月に設立され、日本
海外経済協力基金から1961年から’62年にかけて合
計7億5千万円が譲渡され、本格的にアチェ北スマトラ油
田群の修復再開発事業に乗り出した。さらに1965
年5月にはアチェ北スマトラ原油を日本に独占的に輸入す
14) 石油資源開発会社、ブリジストン㈱、木下商店などか
ら成る。
15) 北スマトラ石油開発協力会社(North Sumatran Oil
Development Cooperation): NOSODECO, 以後は
「ノソデコ」という。
16) その具体的な契約内容は以下の通り。1.日本側は
総額188億4500万円の融資を行う(5300万USドル)。
これは事業設備、専門技術者、幹部教育養成と
いった形で提供される。プルミナは北スマトラ石油の改
修、拡張のための現地の資源を供給する。この融
資期間は1960年4月1日から10年間と定む。2.設備
機器や備品という形でのこの融資は北スマトラやアチェで
新たな油井の掘削ボーリングに用いられる。その結
果、プルミナの原油生産が年産250万キロリッターの目標を
達成することが期待される。この目標は1964年末
には達成されることが見込まれ、この目標値は協
力契約の終了まで維持される。3.本融資の返済に
はプルミナは外貨をもって返済せず生産物の形で返済
する(Production Share)。その生産物は本契約に従っ
て、プルミナの現在の生産量すなわち年産80万キロリッター
を超えなければ日本側は原油を取得することは出
来ない。仮に生産量が250万キロリッターを超えれば、ま
たその上下限が230万から260万キロリッターの間である
ならば、日本側は250万キロリッターとして一定の分量を
受け取る。もし継続して250万キロリッターを超過してい
けば契約両当事者は目標値250万キロリッターを超えた増
加分に対して新たに契約を取り交わすこととす
る。4.プルミナは返済の為に日本への原油積み出しの
総額が、日本の融資で提供された資材やサービスの総
額を超えないよう保証する。5.プルミナは日本の請負
業者に対して日本向け原油輸出に関する優遇措置
を与える。6.プルミナの油田開発を促進する為に日本
の専門技術者20名が現場の油田地帯に派遣され、
北スマトラ油田開発の計画推進を支援する。Hasan,
pp. 157-158。
17) 金光男、1991を参照せよ。
- 166 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
国資本の投資を認めず、経営にも参加させず、採
みならずカナダや米国の石油会社との請負による開
掘利権も与えない方針であった。このような契約
発をすでに’60年代初頭から進めていた。
は一般にアルゼンチン方式による請負契約と呼ばれた
かくしてBPMへの返還か国有化かで紛糾して
いたアチェ北スマトラ石油は、アチェの治安対策を担当する
(Hasan, pp. 155-156)。
1960年から’61年頃、プルミナは既存の油井やパイプ
インドネシア陸軍によって管理操業され、原油生産と
ラインを修理復旧して原油の輸出を行った。この時
輸出に必要な油井や積出施設の復旧経費を獲得
期、プルミナが生産する原油のおよそ80%が外国(主
し、かつその生産された原油の「買い手」を獲得し
として日本)に輸出され、パンカラン․スス港からリバータン
たのであった。しかもプルミナによる開発は外資と
カーで沖合の外洋タンカーまで往復して積み込み目的地
の請負契約によって大規模に進められ、生産原油
へ輸送された。その原油輸出量は当時毎月58万バ
の外資への分与による決済とプルミナ分原油の輸出
ーレルで、価格は1バーレル当たり2ドル6セント(us)であり
によって海外への原油持ち出しとなった。
合計14,337,600ドルになったという。この原油の売
3.4 地域開発
却収益がプルミナにとって最大の収入源となった。
原油輸出によって得た外貨はインドネシア外国為替
目を転じて地域の石油需要について見ると、プ
局18)に引き渡され、分割されてその一部がインドネシ
ルミナは生産原油のおよそ2割を製油所で精製してい
ア中央銀行に納められることになっていた。後にア
た。製油所はアチェではランサ、ランタウで、北スマトラではパ
チェ州知事となったイブラヒム․ハッサンによれば、プルミナの
ンカラン․ブランダン、パンカラン․ススにあって、地域市場の
現生産設備では原油輸出量の拡大は望めず、将来
需要を満たしていた。これらの製油所はいずれも
の設備拡張のためには莫大な資金を必要とするた
蘭印時代、日本軍政時代、TMSU時代の旧式蒸留
め、政府国庫に納入することは困難であるとのこ
装置による操業だった。プルミナは1959年にはガソリン
とだ(Hasan, pp. 82-85)。プルミナの原油輸出からの
350万リッター、灯油370万リッター、軽油450万リッターなど
収益は少なくとも1957年から1965年頃までは、政
を生産している。アチェ地域社会にとって大きな影
府国庫に納められることはなかったという(Aden,
響を及ぼしていたのは東アチェ県のランサ製油所だっ
p. 214)。
た。アチェでは、住宅の照明用や調理用として灯油
プルミナの石油開発はマラッカ海域での探査まで展開
の需要が高かった。一部の大都市を除いて農村
していた。カナダのRefining Associates社が1963年
部、小都市などほぼアチェ全域がまだ電化されてお
からプルミナとの請負契約によってその海域での探
らず、石油ランプの燃料として灯油が利用されてい
査を行っていた。のちにこの探鉱開発権はノソデコ
た(Hasan, p. 81, pp. 140-141)
に売却されるが、総額450万ドルであった。生産が
ところがプルミナは日産40トンの小規模かつ旧式のラ
採算ベースにのれば、産油の40%は Refining Associates
ンサ製油所を廃止する予定だった。ランサ製油所の営
社へ、残り60%がプルミナ(残りの65%)とノソデコ(3
業には収益が見込めなかったからだ。ランサ製油所
5%)に配分されることになる。プルミナは海域も含
が取り壊しになれば、アチェでの石油製品の価格は
む相当広範囲にわたって石油開発に取り組んでい
ますます高くなる。アチェで流通販売される灯油やガ
る(OGJ, Feb. 7. 1966)。これを見ても分かるが、
プルミナの操業は極めて大規模なものであり日本の
18) LAAPLN: Lembaga Alat-Alat Pembayaran Luar
Negeri.
ソリンの大部分がランサ製油所で生産されていたから
だ。石油販売商が小さな舟でランサに行き石油製品
を仕入れてアチェ州内各地に販売していた。よって
運賃がかかる分だけ価格が高くなるので、ランサが
- 167 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
廃止となればパンカラン․ススへ行かねばならず価格は
84.]。陸軍がプルミナの経営を掌握していたため、そ
一層高くなった。アチェでのガソリン価格は、ジャカルタの
のプルミナの資金配分に関して陸軍は大きな裁量権
1㍑2ルピアに比べてはるかに高い12ルピアだった。主
をもっていた。1950年代半ばから60年代初頭にお
として供給不足と流通コストが原因で、一般にアチェで
いて頻発する地方反乱を鎮圧する過程で陸軍は油
は物価高となり、生活費が高くついた(Hasan, p. 71,
田地帯やプランテーションなどの経済資産を掌握し、地
pp. 139-140)。プルミナはアチェ地域社会の石油需要を
域の治安維持、すなわち国内向けの暴力装置とし
軽視していたと言わざるを得ない。
ての性格を強めたと言えよう。
プルミナの定款には、プルミナが得た利益を、第一に
アチェと北スマトラの地域開発と福祉に向けることが書
かれている。しかしプルミナの資金が地域社会の福
Ⅳ.紛争の激化
祉に使われたという資料は今のところ見つからな
4.1 中央集権化と開発
い。またプルミナが納めるべき税金も地方財政に貢
4.1.1 中央集権化
献することはなかった。プルミナが納入義務を負っ
ている直接税に関して、不動産税、法人税、輸出
税などが地方政府ではなく、直接ジャカルタの中央政
府に納付されていたのだ(Hasan, pp. 131-132)。
地元社会ではプルミナが設立された1957年から
1966年まで、アチェ州政府、州議会、知識人学生た
ちが、繰り返し東アチェ油田からの石油収入の10%
をアチェ地域社会に還元するよう要求していたとい
う。スカルノの政府がそうした要求に応じることはな
かった(Sulaiman, 2006, p. 134)。むしろプルミナの
得た外貨の一部が陸軍の装備などの購入に使われ
た。またアチェ北スマトラ原油の輸出収入の内から一部
スハルト(Suharto)新体制の目標は「経済開発」と「政
治的安定」だった。中央、地方の軍事機構と行政
機構を両輪として国家統合を推進し、政党、宗教
組織、その他多くの社会組織団体を体制内に取り
込み再編していった。それは公的な権力機構とし
ての国軍と行政機構が一体となって全国隅々にま
で中央集権的管理体制のヒエラルキーを整備し、その過
程で地域社会の広範な団体を新体制の支持組織と
して再編し体制内に組み込み管理していくことに
より「政治的安定」を確保して「経済開発」を進
めることだった。
がシンガポールの外貨預金に貯金され、それが陸軍の
アチェでは州․ 県․ 市․ 郡․ 村の一連の地方行政
資金として振り向けられたという[Aden,p.213.]。
機構(内務大臣統括)に軍から出向派遣された将校
アチェの人々はプルミナの石油がアチェで生産されている
および文民テクノクラートと、軍管区司令部(Kodam)․地
ことをはっきりと知っており、アチェ人がプルミナの開
方司令部(Korem)․県司令部(Kodim)․郡司令部
発から何の利益も受けておらず、当然にアチェ人は
(Koramil)․地区司令部(Babinsa)19)という一連の
不満を抱くようになったと、アチェ出身のイブラヒム․ハッ
命令系統組織(国軍最高司令官統括)を担う軍将校
サンは書いている(Hasan, p. 140)。
団との連携によって統治されていた(金光男、
アチェ地域社会の不満や反発に対して中央政府は
1987)。
力で抑え込もうとした。国軍は油田開発の進むアチ
ェを治安対象として位置付けていた。たとえば軍
の管理するプルミナの会社予算の流動経費の項目に
は治安維持費が含まれており、その合計は1960年
度決算で約200万ルピアとなっている[Hasan, pp. 75-76,
19)これはスハルト新体制初期の国軍組織である。その後幾
度か国軍組織の再編成が行われ若干の変化が見られ
るが、基本的には領域防衛構想による軍の全国組織
的な展開である。
- 168 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
Table 1. Percentage of subsidies
トの決定過程に大きな影響力を発揮することがで
This table shows several provincial subsidies from
higher levels as a percentage of total revenues in
1982/83.
きた。具体的には県議会が県知事候補者リストを州
Province
知事に提出し、州知事が不適切と判断すればそれ
を却下することが可能であり、州知事が新たな候
Provincial Revenues(%)
補者リストを作成して県議会に提起することが出来
Routine
Development
East Java
77
99.2
West Java
77.8
33.6
Central Java
84.8
56.2
North Sumatra
78.3
88.8
35
29.7
South Sumatra
77.1
70.5
Aceh
72.9
96.7
Riau
73.5
71.2
多くが賄われている。その開発予算の総額は
Central Sulawesi
92.1
90.9
1969/1970会計年度から1976/1977会計年度までに
East Kalimantan
66.1
55.5
4倍増となった。それが他の州と比べて特別に優
Irian Jaya
93.4
79.5
遇されていた訳ではなく (Morris, pp. 265-266)、
Jakarta
た。それを県議会が拒めば、その候補者リストは軍
管区司令部を通じてジャカルタの内務大臣に伝えられ
最終決定が下される。この内務大臣の決定を地域
の県議会は拒むことが出来ない。
さらにアチェ地方行政は財政面においても中央政
府に支配されていた。アチェ州開発予算は中央政府
予算からの交付金と各種プロジェクト補助金によって
むしろアチェ州行政が中央に依存する度合いを高め
Source: Hal Hill(ed.), 1991, p. 32.
たと考えることができる。<Table 1>に示されて
陸軍がアチェ地方政治の実権を握るようになった
いる様に、こうした州の中央政府に対する財政的
のはスカルノの「指導された民主主義期」からである。
依存は広くインドネシア全域の地方行政機構に見られ
1950年代末から1960年代初めにかけて全国に戒厳
ることだった。
令が施行されていたころ、アチェ地方州議会の一院、
これに加えて中央政府の産業政策と許認可制度
二院(DPRD GRⅠ、DPRD GRⅡ)ともに軍人議員
が「ジャワ中心的な効果」を生んでいた。重要な開
が就任するようになった。州副知事も軍人(A. M.
発政策のほとんどすべてがジャカルタ中央政府で立案
Namploh中佐)が指名された。さらにスハルト新体制
され実施されていた。投資に必要な許認可権もほ
になってからは陸軍の政治的地位は一層強化され
とんどすべてが中央政府機関に握られているので
た。イスカンダル․ムダ軍管区司令官がアチェ地方特別実行
ある。そのうえ開発政策や許認可権以外にも、
委員会(Laksusuda)の委員長に任命され、地方州
数々の規制によってジャワの産業保護が図られ、外
議会の両院とも20%の議席が国軍会派に分与され
島不利な条件が課せられていた。たとえば、ジャワ
た。国軍、とくに陸軍は州知事スタッフ、県知事、州
の消費者に食肉を安定的に供給確保するために外
議会、県議会に現役将校を送り込むことによって
島から家畜の輸出を禁止したり、東部インドネシア諸
アチェ地方政治を支配したのである。したがって上
島と北部オーストラリア(ダーウィン)との貿易についてもわ
意下達の軍事機構をつうじた中央政府․国軍によ
ざわざジャワのスラバヤ港を経由させる規則を定めた
る地方の管理支配が貫徹していく構造が作られた
り、ジャワ以外の外島で生産される籐(トウ)の直接輸
(Sulaiman, 2000, pp. 7-8)。
出を禁じてスラバヤ、ジャカルタ、メダンでの指定された
たとえばアチェ州知事のポストはジャカルタ中央政府(大
業者による加工を経たのちに輸出することが義務
統領)によって任命され、その州知事が県知事ポス
付けられたこと等である (Hill and Weidemann,
- 169 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
さく、1979年にはその年間生産量はわずか97万8
pp. 49-50)。
千KLとなった。これは同年のミナス油田1、955万4千
4.1.2 新秩序体制下の開発
KL、アルジュナ油田572万4千KL、ハンディル油田968万1
ジャワ島以外のパプア、東カリマンタン、リアウ、アチェ、南ス
千KLなどと比較すれば極めて小さな生産量であ
マトラなど外島地域においては天然資源が豊富であ
ることが分かる(インドネシアの石油統計<第13版>、p.
り、大規模な開発がエネルギー資源と森林資源に集中
5)。東アチェ県の石油生産は頭打ち減少傾向にあった。
した。もちろん西パプア等では、金․銅鉱山開発な
ところが北アチェ県のロスマウェ近郊のロスコン地区で、
どエネルギー資源以外の鉱山開発も大規模に行われて
1971年にモービル․オイル社が天然ガス田を発見した。こ
いる。地域社会からの視点で見れば、天然資源豊
れは後にガス埋蔵量が巨大であること(見積20兆立
かな地域(外島)であっても、生業としては依然と
方フィート)が判明した。それは6基建設されることに
して農業や漁業が重要な産業であることに変わり
なったLNG採掘液化工程ユニットへ供給するに充分な
ない。アチェも例外ではない。アチェはもともと米作を
量であり、さらに5つの化学肥料プラントなどへ40年
中心とする農業と胡椒やゴムなど商品作物の栽培
以上にわたって原料ガスを供給することができる
が盛んであった。過去、アチェ地域経済はそうした
規模であった。1977年にプルタミナ(55%株)、モービルオ
商品作物のマレー半島との交易を通じて繁栄した時
イル(30%株)、日本の企業団ジルコ(15%株)による合
代もあった。
弁会社アルン社(PT
地域社会の大部分が農業人口で、なおかつエネルギ
Arun)を設立して本格的に開発
が進んだ。
ー資源などの天然資源豊かな地域、すなわちパプ
早くも1973年には、日本の公益事業団との協定
ア、リアウ、東カリマンタン、アチェに共通して見られる特徴
によって年間総量750万㌧20)を東カリマンタンのバダック․
は、資源開発による経済的「飛び地」の形成であ
ガス田と北アチェ県アルンのガス田と合わせて売却するこ
る。この「飛び地」を作る大規模開発がインドネシアの
とが決められた。このうち、アルンからの供給は総
輸出収入を増やし、中央政府の歳入に大きく貢献
量の約半分を少し超える量であった。北アチェ県アルン
していた(Hill and Weidemann, pp. 44-45)。
では日本向けに5つのLNG採掘液化工程ユニットが年
アチェでは1970年代から80年代にかけて石油․ガス
を追って建設されていった。アルンLNGが日本に初
開発ブームが起った。これによりアチェ経済と東北アジ
めて輸出されたのは1978年のことだった。さらに
ア․東南アジアとの結び付きが強くなった。たとえ
1986年には6つ目の採掘液化工程ユニットが操業を開
ば、日本や韓国はアチェから莫大な量のLNGや石油
始して韓国に年間200万㌧を20年間にわたって供
製品を輸入しているし、材木もアチェから日本やシンガ
給することになった(Dawood and Sjafrizal, p. 115:
ポールに輸出されてきた。さらに北アチェのLNGを原
インドネシアの石油産業<第16版>、 p. 83)。
料とする化学肥料や尿素がアセアン諸国に輸出されて
このアルンLNGガス開発は中央政府․国軍、プルタミナ、モ
いる。アチェ経済は隣接するインドネシア国内諸州との関
ービル社、日本企業団に莫大な利益をもたらしたと
係よりも東アジア経済との関係を一層深めることに
考えられる。ダウッドとシャフリザルの研究によれば、
なったと言えよう。
1980年以降アチェからの輸出によって年間およそ20
1970年代初頭には既にプルタミナの東アチェ県(ランタウ、タ
億~30億usドルの外貨を獲得したという。インドネシア
ミアン)での石油生産が全生産量のおよそ半分を占め
にとってアチェはリアウ、東カリマンタンに次ぐ大規模な輸出
る規模となっていたが(Sulaiman, 2000, p. 4)、東
収入源となった。このアチェの石油․ガス収入は原則
アチェ県の油田開発は歴史も古く、比較的規模も小
20)1983年には総計820万㌧に増量した。
- 170 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
的にはすべて中央政府に納められる。モービルとプル
タミナとの間の生産分与契約に基づいて、プルタミナ側
の収益は国庫に納められることになっていた
(Dawood and Sjafrizal, p. 115)。
4.1.3 工業地帯(ZILS)
アルン天然ガスを原料および燃料として利用する新
たな大規模工場群がPTアルン社に隣接する地域で建
設された。これはロスマウェ工業地帯と呼ばれ、ジャカル
タの国家経済企画庁(BAPPENAS)が企画した大
規模製造業育成策の一環であった。これは天然ガ
スを利用する基礎化学工業、すなわち尿素アンモニア肥
料工場、LPG精製工場、オレフィン炭化水素21)工場、
セメント袋用製紙工場などの大規模資本集約型の工場
算の20~25%を稼ぎ出しているとも言われている
である。中央政府は北部スマトラに産業振興地域22)を
[佐伯、2010、 p. 25]。それほどの大金を稼ぎ出すロ
五ヵ所23)設けて脱石油経済化を進め製造業の育成
スマウェ工業地帯は、「ムスリムの多い貧しい農村地域の中
に取り組んでいた。その一つとして選定されたの
で、資本集約的、都市的、非ムスリム的で域外の非アチェ
がロスマウェ工業地帯だった(Laporan Khusus, p. 85)。
人の多く集まった飛び地的性格が色濃いもの」
かくしてロスマウェ工業地帯では、LNG液化工場の
(Emmerson, p. 1234)であった。アチェのジャーナリストが
PTアルン社、PTイスカンダル․ムダ肥料工場(PIM)、アセア
指摘するところによれば、ガス開発の利益はプルタミ
ン․アチェ肥料工場(AAF)およびPTアチェ製紙工場
ナ、モービル、日本輸入事業団の間で分配され、アチェ
(KKA)、LPG工場、PIM第二工場などが次々に
人自身はジャカルタの決めたローヤリティ以外は何も得るも
建設された。AAFは1981年に生産を開始し年間
のはないという[Vatikiotis, pp. 12-13]。さらに工
33万5,000トンの尿素肥料を生産し、PIMは1983年か
業地帯で製造される液化天然ガスや肥料など以外
ら生産を始めて年間に尿素57万トン、アンモニア1,000トン
は、アチェのすべての物産がメダン近郊のブラワン港を通
の生産が可能だった。KKAは1989年に生産を開
じて輸出される為、輸送費など諸経費がかさみアチェ
始して年間セメント袋13万トンを生産することができ
の地域収入は減った(Sulaiman, 2006, pp. 134)。
た。このセメント袋を作る材料として中部アチェの松が
北アチェの人々は工場が地元の資源を利用しなが
伐採され運ばれた(Sulaiman, 2000, p. 45)。
ら、自分たちの生活には恩恵をもたらしていない
こうした北アチェ県のLNG開発を中心とする大規
と考えていた。
模工業地帯は、国家財政に大きく貢献した。ロスマウェ
それもそのはずで、もともと国家経済企画庁は
工業地帯からの収益は年間31兆ルピアとも、国家予
ロスマウェ工業地帯の開発目標をアルンの天然ガスを利用
して製造された中間財を海外に輸出することにお
21) エチレン系炭化水素で化学工業の中間原料として重要
である。
22) WPPI: Wilayah Pusat Pertumbuhan Industri.
23) Lhok Nga, Lhokseumawe, Medan, Kuala Tanjung,
Batamの五ヵ所である。
いていた。すなわち中央政府はロスマウェ工業地帯の
開発によって外貨を獲得していくことを目指して
いた。中央政府は地域経済の発展を刺激するよう
な産業の多様化や投資․雇用機会の創出を意図し
- 171 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
てはいなかったのである(Soegijoko, p. 61)。
れた一部住民は補償金を受け用意された移住地へ
移り住むこととなった。立ち退きを迫られた住民
4.2 社会的インパクト
が全部で何人なのか今のところ分かっていない
が、かなりの人数の住民が強制的に立ち退かされ
4.2.1 土地収用
ていることは事実だ。たとえば、現在のアルン社の
ロスコンでの天然ガスの発見はロスマウェの町を大きく変
敷地内にあった4ヵ村542世帯が1974年に強制的に
えてしまったという。工場やガス採掘ユニットや道路、
立ち退かされている。彼等はLNGプロジェクトの説明
パイプラインなどの用地として広大な土地が収用され
を受け、民族と国家の為に土地と家屋の提供を求
た結果、またその土地を収用された人々が移住を
められた。会社と県の役所はLNGプロジェクトが立ち
迫られた結果、人々の暮らしは破壊されてしまっ
上がると地域住民に仕事を与えると云った。また
た。PTアルン社はおよそ200億ルピアを土地の買収費
代替地での住宅、ムスジッド、学校などを用意する
にあててアルンLNG液化プラントを建設した。大金が地
とも云った。しかし住民側は納得がいかず約半年
域住民の生活を揺り動かした。さらに1980年から
間拒み続けたという。とうとう軍を動員して村人
は工業地帯の新しい工場プラントが建設されるよう
を強制的に立ち退かせた。補償金は土地1㎡当た
になり「お金が洪水のように溢れた。ロスマウェはま
り250ルピアだと言っていたが、実際受け取ったの
すます熱くなり社会の調和はほとんど失われた」
は1㎡90ルピアになっていた。さらに地域住民にトレー
(Laporan Khusus, p. 84)。
ニングを行って仕事を与えると云う約束も果たされ
当初、ロスマウェ工業地帯が東南アジア最大の工業地
ていない26)。
帯になると期待されて、その建設用地に北アチェ県
1980年にプラントの建設工事が始まったアセアン․アチェ
の総面積108,526ヘクタールの55%に相当する広大な土
肥料工場(AAF)の場合、400世帯の住民が立ち退
地が予定されたという。実際にはロスマウェ工業地帯
きを迫られ、ロスマウェから数キロ内陸に入ったチョッ․マンボ
の用地となったのはそれでも北アチェ県総面積の2
ン(Cot Mambong)に移り住んだ。住民の中には沿
2%に相当する土地であった。その中には五つの
岸漁業で暮らしを立ててきた人もいたが、彼等は
郡域が含まれていた24)。この五郡には、水田8746
会社から提供された簡易住宅(25x75㎡)に住んで
ヘクタール、畑地などの乾燥地9608ヘクタール、養魚池782ヘ
農業をせざるを得なくなった。補償金は住民の所
クタールがあった。水田面積の内5160ヘクタールが灌漑さ
有していた土地1㎡当たり350ルピア、非耐久性の簡
れていた。また乾燥地にはヤシ(クラパ)、ピナン、
易建築物1㎡当たり12,500ルピア、耐久性の建築物1㎡
パチョーリ(香油の樹)、トウモロコシ、キャッサ
35,000ルピアだった。これに加えて1ヘクタールの農地と1
バ、サツマイモなどが植えられていた。ここで暮
らす住民は北アチェ県総人口の約26%25)を占め、村
落(desa)は228ヵ村だった(Laporan Khusus, pp.
85-87)。
ロスマウェ工業地帯の開発により、立ち退きを迫ら
24) すなわちバンダ․サックティ(Banda Sakti)郡、ムアラ․ドゥア
(Muara Dua)郡、デワンタラ(Dewantara)郡、クタ․マクムー
ル(Kuta Makmur)郡、ムアラ․バトゥ(Muara Batu)郡で
ある。
25) これは1971年現在で約12万2千人に相当する。
26) 2010年8月、およそ300人の人がPTアルン社の正門入
り口へ通じる道路を閉鎖してテントを張って2カ月以上
も座り込みを続けていた。彼等は強制的に立ち退
かされて、ばらばらに親戚を頼って生活してきた
という。政府と会社は代用地を用意するという約
束を37年たっても未だ果たしていない。さらに立
ち退かされた旧村には彼らのお墓があったが、い
まだにどこに移転されたのか分からない。その墓
がどこかに捨てられたのか、移されたのか、いま
だになんの説明もない状態だと憤っていた。2010
年8月聞取り: 北アチェ県ロスマウェのアルン社前。
- 172 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
ヘクタールの農園が用意されるとのことだった。しか
入によって人口が急増し、就業の機会は狭くなっ
し約束の農地と農園は提供されることはなかっ
ている。1971年から1980年で移住者人口はおよそ
た。彼等は工場建設ブームにわくロスマウェ工業地帯で
32,000人に達している。こうした工業地帯の周辺
日雇いの賃金労働者となって働き、建築工事が終
地域に移住してくる人々は北アチェ県内およびアチェ州
われば仕事を失い、彼らの多くが生活を破綻させ
内から就労機会を求めてやってくる人が多いと考
ていったという(Laporan Khusus, pp. 87-88, pp. 96-97)。
えられている。ロスマウェ市で仕事を探している人は
1979年で7,296人、1981年では15,644人となってい
4.2.2 雇用問題
る(Soegijoko, pp. 62-63)。さらに1987年には北アチェ
ロスマウェ工業地帯は地域住民に対して雇用の創出
県求人登録事務所で、14,361人の求職者が登録さ
を生み出さなかった。資本集約的な大規模化学工
れていた[Sulaiman, 2000, p. 48]。そして1991年
業では、労働者の雇用は限られていた。1984年現
から’94年にかけてプルタミナの新設の石油化学プラント
在27)モービル社、アルン社、アセアン․アチェ肥料工場、イスカンダ
建設工事の際に、北アチェ県労働監督庁に雇用申請
ル․ムダ肥料工場で働く職員の合計は4,441名だった
した人は約15,000人にのぼった。このプラント工事完
(Laporan Khusus, p. 100)。労働者職員への雇用
成の後も雇われた人は3,800人だった。これは州知
が極めて少なかったことはロスマウェ工業地帯に対す
事の要請によりプルタミナがアチェ州内から従業員を募
る地域社会の不満と失望を深めた。とくにアチェ域
集することを約束したことによるものであるとい
外から多くの職員を雇用することが分かってから
う(Kell, p. 20)。
以上みてきた様にロスマウェ工業地帯で就労機会が
は地域住民の不満はますます高まった。
公式的にはロスマウェ工業地帯のアチェ人職員は80~90%
与えられるアチェ人は少数であり、就労目的で北アチェ
だと報じられている。しかしそれは職員の身分証
県内や州内から工業地帯に流入してくる人口も決
明書(KTP)に記載されている名前と住所に基づい
して少ないとは言えない。なぜなら基本的にアチェ
た数字だ。採用された非アチェ人は、わずか5,000ルピ
は土地に頼って暮らす農民が人口の大半を占めて
アでロスマウェ市の身分証明書を買っているという。アチェ
おり28)、飛び地的な工業地帯を除いては、地域の
人労働者はプラントの建設工事の際には日雇いや臨
製造業部門はまだ小規模で家内工業の域を出てお
時雇用として仕事を得ていたが、工事が終了する
らず、流入してくる求職者を吸収する余地が小さ
と彼等のほとんどが解雇された。彼等アチェ人の若
いからだ。
者は工場で必要とされる技能を持っていないため
4.2.3 社会的格差
に、域外からの雇用にならざるを得ないと言われ
ている。域外から雇用された非アチェ人職員は、会
こうした求職者の増加とともに、北アチェでは住
社に勤めだしてから自分の血縁関係などの縁者
宅、飲料水、道路、学校などの生活基盤の整備が
を、特別な技能を必要としない未熟練労働者とし
立ち遅れていることも問題であろう。たとえば、
て運転手や事務所補助員などの仕事に、域外から
アチェはエネルギー資源の豊富な州であるにも関わら
呼び込むこともある。これがまたアチェの若者に
ず、農村部での電化率は10%以下(1991年現在)で
とって仕事の機会を狭めることになった(Laporan
ある(Dawood and Sjafrizal, p. 122)。また南東方
Khusus, p. 99)。
向のメダンまでの220㎞と北西方向のバンダアチェまで
ロスマウェ工業地帯の周辺地域では求職移住者の流
27) 当時の北アチェ県総人口は約69万6千人だった。
の250㎞の沿岸部を走るアスファルト舗装の幹線道路か
28) 1990年代初頭で農民人口は約7割を占めた。
- 173 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
ら一歩内陸方向の農村部へ入ると、晴れた日には
いる。たとえばアルン社の職員居住施設は高い壁で
土埃のたつデコボコ道で、雨の日には泥濘となり
周囲と隔てられた300ヘクタールの敷地に250軒ばかり
車も立ち往生するほどである。2010年現在では筏
の住宅があり、その中には運動スタジアム、ゴルフ場、
にのって河川を横断したことはないけれども、と
プール、テニスコート、映画館、スーパーマーケット、幼稚園から
にかく農村部での交通網はまだまだ未整備のまま
高校までの学校、そしてヘリコプター発着場まで備
である。ジャワの各地と比較してアチェは明らかに生
わっていた。もちろん居住施設内での道路はすべ
活基盤の整備が遅れていると感じる。
てアスファルト舗装である。住宅も一律ではないが概ね
さらに、アチェの農村部はまだまだ貧しい人が沢
中流以上の建物で衛星放送受信のパラボラアンテナもた
山いる。1987年アチェ州全体でいわゆる貧困線以下
くさん見かけた。居住施設の正門は警備員によっ
にいる人はおよそ55万3千人で、これは州の総人
て守られていた(1999年8月、インドネシア民主化支援ネッ
口の18%に相当するという(Sulaiman, 2000, p. 49)。
トワークのエクスポージャー参加)。
彼らの多くが北アチェ県とピディエ県に集中してい
こうした周辺地域とは別世界の居住施設は、実
る。この二つの県は人口密度が高く水田稲作地域
は相当以前から各地の大規模な資源開発地域で作
である。先に見たように北アチェ県やピディエ県では
られていたようだ。筆者は1993年に東アチェ油田お
住民の多くが水田稲作を中心とする農業を営んで
よびパンカラン․ブランダンなどを訪れた際、プルタミナ職員
いた。アチェ州の籾生産量は州内での消費を超えて
用の居住区を見て驚いた経験がある。パンカラン․ブラ
おり、余剰米を生み出しているほどである。とこ
ンダンにあるその居住区はやはり周囲を高い壁で囲
ろが籾の価格はインドネシア政府(食糧庁)の管理の下
まれており、敷地内には住宅、来客用宿泊施設(ホ
にあって低く抑えられている。アチェの米生産農家
テル)、プルタミナ病院、学校、プール、映画館、カラオケ施
は低い収入によって生活向上が望めない状況にあ
設まであった。やはり正門には武装した警備の人
ると言えよう。ちなみに1993年の中央統計局の調
がいた。
査では、アチェ州の5,643ヵ村の内、40%以上が貧困
職員居住区と隣接する地域は、泥濘に足をとら
と分類された。アチェは天然資源開発によって豊か
れる道をベチャ(人力車の一種)で往来する普段の風
になるどころか、インドネシアでも最も貧しい10州の
景だ。家屋も職員居住区の住宅とはまるで異なっ
中に入っている(Kompas, August 19, 1993)。
た「あばら屋」も沢山ある。居住区の緑地帯のよう
元来ロスマウェ近郊は米の穀倉地帯であり、人々は
な緑も外にはなくて、普段見ることのできる生活
農業、家畜や養魚池の飼育、沿岸漁業を営んでい
の喧騒とさまざまな臭いの感じられる庶民の生活
た。そこに突然1兆5,000億ルピア29)の大金を投資し
圏である。ロスマウェの住民はこの高い壁で隔離され
て工場プラント、事務所、職員用居住施設などを
た広大な居住施設やその中にあるゴルフ․コースなどを
作った。この職員居住施設(コンプレックス)は周囲を高
見て「我々にとってそれは外国そのものだ」と
い壁で囲まれ広大で緑の多い閑静な空間である。
言った(Vatikiotis、 pp. 12-13)というが、外から
筆者の感覚では「高級住宅街」そのものだった。
やって来た旅行者ですらそこはアチェではなく別世
この広大な敷地を占める職員居住施設は、ロスマウェ
界であった。
工業地帯に進出している各社それぞれが整備して
29)1971年の投資額は650億ルピアだった。1986年までの
投資総額は1兆5,000億ルピアである。Laporan
Khusus, p. 87.
- 174 -
4.3 軍事作戦と人権侵害
4.3.1 GAM独立宣言
1976年12月4日、ピディエ県ティロ郡の山奥ブキット․チョ
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
カンで、ハッサン․ディ․ティロはスマトラ․アチェ国家独立宣言
この初期の武装蜂起は、武器、食糧などを調達
(Djalil, pp. 109-112)を発表した。宣言の中で、ハッ
するための資金不足に苦慮した。そのためアルン天
サンはアチェ人の民族自決権を強調し、外国勢力である
然ガス․プロジェクトの請負外国企業や華人系の森林開
ジャワ人の権力にアチェが占領されており、アチェを解放
発企業などに「課税」と称して資金調達をしばしば
しなければならないと主張している。さらにハッサン
試みた。しかも1977年の総選挙を控えインドネシア国
はオランダ植民地戦争からの歴史的な経緯によりジャ
軍による鎮圧作戦が激しくなり、多くのGAM指
ワ人の支配するインドネシア国家の不当性を述べた後
導者が殺害または逮捕された。1979年頃までには
で、アチェの現状(1976年)を次のように訴えてい
GAMの勢力は弱体化した。1979年3月、ハッサン․デ
る。スマトラ、アチェ人はここ30年間、祖国がジャワの新
ィ․ティロはいったんアチェを出て海外で資金調達するた
植民地主義者に搾取され続け、壊滅的状態に追い
めにシンガポール経由でヨーロッパに亡命した。あとに
やられているのを目の当たりにしてきた。ジャワ人
残った幹部指導者はその後国軍に追われて殺害さ
は我々の財産を盗み取り、我々の生活の糧を奪っ
れたり、マレーシアに逃亡したり、あるいはハッサンを
ており、我々の子供たちの教育を台無しにして損
頼ってスウェーデンに亡命し、1982年以降はアチェでの
ねている。彼等は我々アチェ人を専制的圧政と貧困
GAM闘争を指導する初期のころのリーダーはいなく
と放置状態に縛り拘束している。彼等はアチェの大
なった(Sulaiman, pp. 31-41)。
地から富を毎年150億USドルも奪い取り、それをジ
4.3.2 軍事作戦
ャワ島とジャワ人の為に利用しているのだと。
ハッサン達のアチェ․スマトラ民族解放戦線30)は上記独立宣
しかしアチェでGAMは完全に一掃されてはいな
言の直後から武装蜂起した。独立宣言にも見られ
かった。1980年代、GAMの組織編成が徐々に立
るごとく、豊かな天然資源をもつアチェがインドネシア軍
ち直り、アチェの若者が大勢GAMの訓練に加わるよ
の占領下にあってジャワ人の政府から搾取されてい
うになった。彼等はリビアでの軍事訓練に参加する
る状況の中にあって、先祖から受け継がれたアチェ
者もいた。当時のリビア政府はアチェ紛争に巻き込ま
の民族的な権利であるイスラームによる自由で繁栄し
れることは望んでいなかったが、反米的立場から
たアチェ独立国家を獲得することを目標として、彼
GAMの軍事訓練を援助したという。こうして
等は武装ゲリラ闘争に突入していった。31)
GAMの軍事力は強化され1989年からピディエ県、
北アチェ県でインドネシア軍や警察軍の駐屯地などを攻撃
30) 後に自由アチェ運動GAMと称す。以後は一括して
GAMとする。
31) ハッサン․ディ․ティロは1974年にビザを得て合法的にアメリカ
合衆国とアチェを3回往復している。当時、彼はメダン
でもアチェでも様々な人々から熱烈に歓迎を受けた。
ムザキル․ワラッド(Muzakkir Walad)州知事、アチェ州議会
議長マッダニ(A. Mahdani)大佐、MUI(インドネシア․ウラマ․
協議会;Majelis Ulama Indonesia)議長アブドルラ․ウジ
ョン․リンバ(Tgk. H. Abdullah Ujong Rimba)、その
他の親戚や仲間たちから歓迎された。彼はバンダ․ア
チェ市で改めて州知事と会見し、アルン天然ガス開発プロ
ジェクト建設工事に参入しようとして、自分の経営す
る会社をプルタミナの請負会社だったベクテル社に代えて
請負企業とするよう要請している。これに対して
州知事はハッサンの申し出を認可する立場に無いと
した。これに東アチェ県を加えた三県での「治安悪化」
により、政府は東アチェ、北アチェ、ピディエの三県を軍事
作戦地域( DOM) に指定してGAM掃討作戦
(Operasi Jaring Merah)を再開し、新たに6千人
- 175 -
いって、プルタミナ社と直接交渉するよう助言してい
る。結果的にはアルン․ガスのプラント工事を請け負った
のはベクテル社だった。その後、ハッサンはピディエ県を中
心とした知人知識人ウラマ達と幾度か会談を重ねてい
る。彼らはGAM初期の指導者となった人たちで
あった。またGAM反乱後、アルン․ガスのプラント請負
会社のベクテル社はGAMの襲撃を受けるようになっ
た。Sulaiman, 2000, pp. 18-19, p. 26, p. 37.
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
の兵力が投入された。これにより、アチェは大量殺
持していると思われる。たとえば積極的に支援し
害の現場となり1989年半ばから1991年までに
なくても軍の民間人に対する暴力暴行を体験ある
20,000人もの人が殺されたという(Djalil, pp. 51-52)。
いは目の当たりにして恐怖を感じ、軍と対抗する
陸軍のスポークスマンによれば、「問題は敵を見分ける
GAMに対する心情的な「沈黙の支持」を抱いて
ことにある。GPK-Aceh32)は普通の市民から支援
いると言われる(Kell, p. 70)。実際、治安作戦に
を受けている。彼等は農民、村長、学生、その
よる軍部隊の農村部への展開により、逃げてきた
他、アチェ東岸部での反乱分子に対して程度の差は
多くの避難民の中に次のように訴える人がいた。
あるがある種のシンパシーを抱いている人間だ」とい
「豊かなアチェにあれこれ多くを望むことはない。
う。したがって陸軍はピディエ、北アチェ、東アチェにお
私たちが望むのは独立だけだ。アチェは長い間搾取
いてはアチェ人全部を「疑いの目」で見るようにな
されてきた。企業は沢山あってもそこで働くアチェ
り、脅しの域を超えたレベルの暴力․軍事力を使う
人は少ない。ウィラントやハビビ、州知事、県知事が何
ようになったという。アチェではGAMを支援した「
を言おうが、われわれは何も言うことはない。欲
疑い」をかけられると、その人は超法規的に処刑
しいのは独立だけだ。数十年間だまされてきたの
されたり拷問にかけられたり家を焼かれたりし
でインドネシア政府はもう信用できない。われわれが
た。北アチェ県知事ラムリ(Ramli)によれば「軍が人々
指導者として考える条件は第一にアチェ人であり第
を荒々しく扱うために、アチェ人は反乱分子以上に
二にムスリムであることだ」33)。この発言はアチェの人
軍人を恐れている」という(FEER, 25 July 1991)。
びとの心情を代弁していると思われる。 1990年にGAMの活動が激化した時、北アチェ県の
4.3.3 人権侵害
現場の軍司令官(Sofian Effendi大佐)は、ロスマウェと
北アチェでの厳重な警備を保つ必要があると言っ
1998年5月にスハルト大統領が辞任してもなおアチェで
た。なぜなら「この地域には国家の経済成長に
は軍による人権侵害が止むことはなかった。むし
とって重要な五大工場があるからだ」と言ってい
ろスハルト退陣後は東ティモール、カリマンタン、アンボン、パプア
る(Kell, p. 43)。この発言は「国有財産としてのロ
など地方での紛争が激化し顕在化した。スハルト退陣
スマウェ工業地帯」を国軍が「地元アチェ人から守る」と
後も依然として国軍は支配的であり大きな影響力
いう軍の意識がにじみ出ている発言だ。
を維持していた。選挙で選ばれたワヒドを大統領の
この時期は、職を得られない若者や軍の暴行に
座から引きずりおろしたのは、有力な政党政治家
より家族を失った人たちが大勢GAMに参加して
と国軍だと考えられている。その後を継いだメガワ
いったのであり、そのGAMを密かに支援する人
も沢山いただろう。さらに住民投票によってインド
ネシア軍がアチェから出ていくようになることを願って
いる人びとも大勢いた。1999年11月にはバンダアチェ
市で数十万人の民衆が集まって住民投票による平
和的解決を訴えた集会が開かれている。
アチェではGAMにシンパシーを抱いている人は知識人
だけではない。アチェ人の大多数が何らかの形で支
32) アチェ治安撹乱分子。これはGAMに対する軍の呼称
である。
33) 1999年8月ロスマウェ市のシャー․クアラ大学工芸学部キャンパスで
の避難所にて聞取り。そこにはおよそ7,000人の人
びとが避難生活をしていた。ほとんどの人は農民
だった。彼らは油ヤシを売った金でGAMを支援す
るのではないかと軍に疑われるのでヤシを取りに行
くことも、農地に出ることも難しくなったという。
避難生活は衛生状態も悪くトイレも14ヵ所しかなく、
食糧、燃料の薪、医薬品などが不足している状況
だった。地元NGOによれば、農村部から大勢の人
びとが幹線道路沿いの学校やモスクに避難している。
その数は流動的だが東アチェ県で約3万7千人、北アチェ県
で約2万5千人、ピディエ県で約5万5千人である。
- 176 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
ティ政権になって国軍の権力はますます強化されて
のアチェ侵略戦争によって始まった。このアチェ植民地
いるように見える。スハルト政権崩壊後の犠牲者の正
化を企図したオランダの戦争は1873年から1912年ま
確な数は不明だが、アチェでは約5,000人、その他マリ
での大規模な戦闘と、その後1942年までゲリラ戦や
ク、カリマンタン、東ティモールなどを合わせて1万数千人の
個別襲撃34)によって続く長期に亘る戦争だった。
人々が犠牲となり、100万人近くの避難民を出し
この戦争の目的は砂糖、タバコ、ゴムなどのプランテーショ
ている (Nindja、 pp. 5-9)。
ン経営および石油、錫などの資源開発といった経
アチェが軍事作戦地域に指定された1989年から津
済的利益の確保であった。とくに1898年から始ま
波による大被害を受けた2004年12月までの15年
るオランダ植民地軍の「パセ遠征」は、オランダ王立石油
間、暴力の連鎖により夥しい人々が殺された。佐
会社による東アチェの油田開発の為に行われた大規
伯の『アチェの声』には、理不尽にも暴行を受けた
模な軍事遠征だった。かくしてアチェはオランダの植民
り、家族が惨たらしく殺された庶民の声を包み隠
地となり、外部世界へと繋がる資源開発や農園開
すことなく伝えている。夫を連行され殺された女
発(近代セクター)は地元社会経済(伝統セクター)と何らの
性たちの証言の中で、「兵士たちは言ったの。わ
相互関係や接点を持たない、いわゆる社会経済の
たしの夫は間違っていなかったと。間違っている
二重構造を生み出した。1942年から始まる日本軍
かどうかが問題なのではない、ほかの人々に恐怖
政期を経て、行政機関、プランテーション、石油施設な
を与えるために、夫は死ななくてはならなかった
どが、アチェ人職員․労働者によって接収管理され
のだ、と彼らは言ったのよ。人びとが捕まり、殺
た。日本軍政後の独立戦争の最中に東アチェの石油
されるのに、理由はないのね」とある。このよう
施設の管理をめぐる綱引きが全アチェ․ウラマ連合とジャ
に「国軍に拷問されたり発砲されたりした遺体を
ワ․ナショナリストとの間で生じていた。そしてインドネシアの
遺棄するのは、アチェで日常的におこなわれている
独立後徐々にアチェの自治が否定され中央による開
暴力のひとつである。この手法は『ショック․セラピー』
発が着手された。石油部門ではアチェとジャワの石油
と呼ばれ、まだ生きている人びとに恐怖を与え、
施設を統合して国有化する試みがなされた。社会
政府や国軍に対していかなる抵抗もしないよう沈
経済全般にわたるジャワ中心主義的な国家運営に対
黙させるのに有効であると考えられてきた」。
してプサは他地域で発生した反乱ダルル․イスラームに加
「しかし、暴力による圧力はいつまでも効果があ
わった。これによりインドネシア陸軍がアチェ․北スマトラ石
るものではない。98年5月のスハルト退陣を契機とし
油を管理し、復旧再開発を外国資本と提携して進
て、アチェの人びとは、これまでの人権侵害に対す
める素地を作った。
る調査と裁判を求めて立ち上がり、逃亡先から
スカルノ中央政府は外島各地での地方反乱によって
戻って、みたび武装蜂起したGAMへの支持を強
全国に戒厳令を布告し、それにより陸軍が地方の
めていく。暴力や恐怖支配によって問題は解決で
経済施設の管理を含む社会全般にわたる広範な権
きず、むしろ人びとをより過激化させ、出口のな
限をもつようになった。アチェ北スマトラ石油も陸軍の
い暴力の連鎖を生み出すこととなるのである」
一元的な管理の下におかれ新たにプルミナが設立さ
(佐伯, 2005, pp. 59-60)。
れた。ところがプルミナによるアチェ北スマトラ石油復旧は
治安と資金の二つの問題があった。治安は陸軍が
プルミナと連携して担当した。アチェ北スマトラ石油の復旧
Ⅴ.おわりに
「資源開発と紛争」の歴史は19世紀後半のオランダ
34) これはアチェ人から見ると「テロ」ではなく民族解放と
信仰擁護の為の「聖戦」だった。
- 177 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
に必要な資金は、日本からの賠償資金の一部を充
出す環境が苗床となり、スカルノ期を起源として燻
てることでスカルノ政権と日本政財界の利害の一致が
ぶっていたアチェの不満が1976年に武装蜂起とな
みられた。日本からの融資を受けてプルミナは生産
り、1990年代には再び激化していった。アチェ全域
分与方式による原油の輸出を行った。この原油の
において社会的「不公正」が顕在化しそれに対する
買い取り先も主として日本であった。まさにアチェ
人びとの不満も高まり、しかも軍の超法規的な処
反乱を鎮圧する陸軍がアチェ北スマトラ石油を管理し、
刑や拷問など人権侵害を経験するに及んで、
日本の賠償資金を用いて復旧した施設から日本向
GAMが多くの人びとから積極的に支持されるよ
け原油を輸出し、巨額の外貨を獲得していった。
うになった。あるいは積極的な支持とまでは言え
その外貨収入がアチェ北スマトラ地域の福祉と発展に還
なくても、GAMに対する何らかの「共感」は相当
元されることはなかった。アチェ地域社会の不満は
広範囲に及んでいる。アチェでは2000年11月に100万
軍によって押さえられ治安対策が実施されていっ
人近い人びと35)が集まり、東ティモールのような独立
た。これがスハルト政権以後も引き続き行われたインド
の是非を問う住民投票を求める集会が開かれてい
ネシアの石油ガス開発の原型であると言えよう。
る。
スハルト新体制は軍事と行政の中央集権的統治機構
したがってアチェ紛争の一因として考えられるこ
によって「政治的安定」をはかり「経済開発」を推進
とは、中央にのみ利益を生む二重経済を促進する
してきた。天然資源豊かなパプア、東カリマンタン、リア
石油․ガスの「飛び地的」開発が地元の人びとに生活
ウ、アチェなどでは、エネルギー資源と森林資源の大規模
破綻と社会的格差を強いてきたことである。アチェ
開発が中央政府によって行われた。それは地域住
社会で「不公正」に対する不満と反発が蔓延してい
民の産業である農業や漁業あるいは小規模工業と
る故に、軍の鎮圧行動がアチェ社会全体に対する猜
何らの繋がりを持たない「飛び地的」な開発だっ
疑心と偏見に基づき、凄惨な暴力のエスカレートに至っ
た。これはオランダの植民地期に見られた二重経済
ている。アチェを犠牲にしてジャワを優遇する中央政
と類似している。この大規模な飛び地的開発すな
府の資源開発を政治軍事機構が支えているのであ
わち近代的セクターは、地域の農․漁業や家内工業な
る。まさにアチェ社会はオランダ植民地時代からインドネシ
どの伝統的経済分野との関係よりも、むしろ東アジ
ア独立後のスカルノ期、スハルト新秩序体制、そして2005
ア経済と一層深く結び付けられていた。とくにアチェ
年8月の和平合意に至るまでずっと中央国家権力
では1980年代半ばに脱石油経済を目指す製造業育
から「治安対象」として扱われてきたと言えよう。
成の一環として天然ガスを原料とする大規模工場
5.1 地域コンフリクト緩和の可能性
群、すなわちロスマウェ工業地帯が出現した。この工
業地帯の開発目的はアルン天然ガスを利用して中間財
エリック․モリス(Eric Morris)によれば、スハルト体制下の
を製造し海外に輸出することだった。したがっ
政治経済社会の広範な領域にわたる支配機構は陸
て、この石油․天然ガス開発およびロスマウェ工業地帯
軍の手に掌握されているという。陸軍はかつて見
がアチェ社会に与えたインパクトは否定的なもので時に
られなかったほどの強制力と経済的資産を手にし
は破壊的であったとさえ言いうる。それは強制的
た。まさに中央政府の強権は、陸軍の増大する
な土地収用による住民生活の破壊、深刻な雇用問
題の発生、さらには資本集約的な「飛び地」で働く
非アチェ人と地元アチェ社会との社会的格差をますます
広げた。こうした社会的経済的な二重構造が生み
35) アチェ住民投票情報センターが中心となりバンダ․アチェ
市のバイトゥラフマン․モスクで、住民投票を求める’99年民衆
総会の一周年を記念して開催された。佐伯、 2005、
pp. 95-100.
- 178 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
富、軍の中央集権化された命令系統、統一的な部隊
た頃とは対照的だった。
編成、軍人の専門的技能、これらの相関関係で決ま
国軍出身のユドヨノ政権は「アチェ問題」の平和的解決
るという(Morris, p. 257)。たしかにスハルト政権以後
を模索した。国内に問題が山積するインドネシアに
においても依然として陸軍の権力は強大である。
とって「アチェ問題を平和的に処理する」ことで国内
しかしインド洋での地震と津波の発生(2004年12
的․国際的イメージを好転し、「必要な」改革を進めて
月)以降、状況が変化しつつあると思われる。アジ
経済の早期回復に繋げていきたいという計算が
ア通貨金融危機とジャカルタでの学生市民の抗議行
あったのかも知れない。いずれにせよ元フィンランド
動、そして政治経済の鎮静安定化をめぐる政府․
大統領の仲介によってカラ副大統領と亡命GAM指
軍首脳部の不一致によりついに1998年5月スハルト政
導者がヘルシンキで和平合意に達し、GAMの武装解除
権は崩壊した。以後、ハビビ(Habibie)政権、ワヒド
と社会復帰および国軍派遣部隊の撤退が実行され
(Wahid)政権、メガワティ(Megawati)政権、ユドヨノ
た。
(Yudhoyono)政権と続いた。この間インドネシア全土
2006年12月にはアチェで州知事․県知事․市長選挙
で長期スハルト政権の「負の遺産」とも言える開発政治
が何事もなく平和裡に実施された。しかも元
の生み出した諸矛盾が噴出した。深刻な人権侵
GAMの地方政党への再組織化や政党無所属候補
害、汚職․癒着․縁故主義、対外債務の膨張、地域
者の地方首長選への立候補が容認された。選挙の
間格差、強引な移住政策、土地をめぐる争い、民
結果、州知事にはアチェでGAMを指導していたイルワン
族間対立、宗教間対立などが全国にわたって吹き
ディ․ユスフ、副知事にはアチェ住民投票情報センターの代表
荒れ、大勢の人びとが犠牲となった。同時に、中
ムハマッド․ナザルが選ばれた。県知事市長選挙でもピデ
央․地方行政の改革、国軍の改革、選挙政党法な
ィエ県、北アチェ県、東アチェ県、西アチェ県、アチェ․ジャヤ
どの政治改革、出版言論の自由化、不良債権処理
県、ロスマウェ市、サバン市でそれぞれGAM出身の候補
と経済の立て直しなど紆余曲折を経ながらも着手
者が当選している。これはアチェの民意が反映され
され、部分的にはそれなりの成果をあげてきた。
た、恐らく史上初めての民主的選挙であろう。
そして現在もなお改革は進行中である。
2010年8月、北アチェ県、ロスマウェ市などを訪れた筆
アチェの分離独立運動をめぐっても交渉妥協派と
者の第一印象は「緊張感」を感じなくなったことで
既得権益擁護派との綱引きが見られた。話し合い
ある。人びとの顔が1993年や1999年と比べて格段
による解決の模索と「敵対行為停止合意(CoHA)」
に明るくなったと感じた。戒厳令施行時に軍の駐
の挫折、そして軍事戒厳令施行(2003年5月)へ
屯地ポストがあった或る村では、「紛争中は農園に
と、和平と紛争の間で行きつ戻りつの状態だっ
仕事に出かけることも、お店に買い物に行くこと
た。そして戒厳令から非常事態令となって軍によ
も出来なかった。今では自由に外出できるので、
るGAM掃討作戦が継続しているところに津波が
はるかに良くなった。GAMがいる森の中に働き
襲い、アチェで17万人もの犠牲者を出した。津波は
に行って、GAMを追っている軍に出会えば自分
一般大衆、GAM、国軍に壊滅的な打撃を与え
たちが軍の標的にされる」と云っていた[2010年8
た。しかもアチェは世界の注目を浴びて、国際援助
月、北アチェ県での聞き取り]。泥濘の道を入って農
活動が活発に展開された。政府機関、NGO、ボラン
村部を訪れても確かに「平和」を感じた。まず何よ
ティア、報道機関など世界中から人びとが集まって
りも暴力の無い平和な暮らしが第一である。アチェ
来た。戒厳令施行と同時に外国人入域を禁じてアチェ
紛争の解決にとって必要不可欠な「平和」を後戻り
を世界の眼から覆い、いわば密室状態にされてい
不可能な状況にしていくことが重要であろう。そ
- 179 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
れは軍が兵舎に帰り国防機能に専念し、インドネシア民
OKなんだ。武器の所持について自分たちはダメ
主化が達成されることによって実現するだろう。
で彼ら(インドネシア国軍<筆者>)は持っている。いま
他方、次のような声も聞こえてきた。軍事作戦
の自分の最大の希望は和平の合意事項をキチンと
の被害を受けた或る女性は「近所では家を焼かれ
守って欲しいということだ。ほとんど守られてい
た人が多い。これに対するアチェ再統合庁36)からの
ないので、人びとは失望している」と語ってい
援助は、実際に被害を受けた人にではなく、被害
た。こうした失望、懸念は彼ら元GAM兵士だけ
を受けていない人に対して補償が出された。、、
ではない。主として北アチェ県で取材をしているジャ
<中略>、、援助として苗や殺虫剤などの支援がある
ーナリストのA氏によれば、和平合意後にもまだまだ
が不十分である」と云う。さらに別の村で元
問題が残っているという。たとえば中央地方間で
GAM兵士だった男性から話を聞いた。「アチェ再統合
の資源分配問題や真実和解の為の具体的ステップ
庁からの支援(弔慰金か?<筆者>)は4,000万ルピアと
が未だに進まないことがある。現状ではアチェ州政
家を一軒もらった。また再統合資金として元
府は天然ガスからの総収入を把握していないし、プ
GAM兵士一人当たり2,500万ルピアがアチェ全体で
ロジェクト周辺の住民はそのコミュニティ․ディベロップメントの
3,000人程に支給された。この再統合資金は元兵士
予算額すら知らされていないと云う(2010年8月、
だけでなく自由アチェ運動に参加した人びとみんな
北アチェ県での聞き取り)。
に分配することになり一人当たり140万ルピアと
アチェの人びとのジャカルタ政府に対する不信感は簡
なった。分配方法はだいたいどの地区でも同じ
単には拭えないだろう。しかし地域コンフリクトを潜在
で、GAMのアチェ総司令官から各地の地域
化させないためには、アチェの人びとが求めている
(wilayah)司令官へ配分され、それが今度はサゴ
人権侵害の真相を調査し法的に被害者を救済する
(Sagoe)司令官、さらにムキム司令官へと人数に合わ
ことが必要であろう。さらにアチェでの石油․天然ガ
せて分配された。この和平後の5年間で変わった
スがすでに枯渇しつつあるとはいえ[佐伯, 2010, p.
ことは沢山ある。敵対関係から友好関係に変わっ
35.]、アチェの資源開発からの収益を地元地域に還元
た。しかしまだ完全な解決に至っていない。和平
していくことも必要だと思われる。この人権侵害
合意の決定事項と現実が異なっているからだ。た
の救済と富の再分配によって、多くのアチェ人は
とえば(地域資源開発の利益の<筆者>)30対70の分
「公正」が保たれ、「正義」が実現すると考えてい
配問題だ。またGAMの旗は禁止だがアチェ党の旗は
るようだ。
36) 正式にはアチェ․ニアス再建復興庁(BRR)という。本文で
は「アチェ再統合庁」とする。
- 180 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
in Indonesia(16th edition).
参考文献(References)
ファーイーストオイルトレーディング株式会社(1989),『インドネシアの
Aden, Jean Bush(1988), Oil and Politics in Indone-
石油統計』(第13版), 論文中では書名[イント
sia, 1945~1980, Dissertation of Cornell
University.
゙ネシアの石油統計]とする。
(Translated in English) The Far East Oil Trading
Alfian, T. Ibrahim, et al.(1982), Revolusi Kemer-
Company(1989), The Petroleum Statistics
dekaan Indonesia di Aceh, Departemen
Ibrahim, et al.(1982), Indonesian Inde-
in Indonesia(13th edition).
Hasan, Ibrahim(1961), Masaalah Produksi Minjak
PT Permina di Sumatra Utara dan Atjeh,
pendent Revolution in Aceh, Departemen
Jakarta: Fakultas Ekonomi Universitas
Pendidikan dan Kebudayaan.
Indonesia(Skripsi). (Hasan, Ibrahim(1961),
Pendidikan dan Kebudayaan.(Alfian, T.
東佳史(2008),「インドネシア、アチェ独立運動除隊ゲリラ兵
士とその再統合」, 独立行政法人国際協力
Questions of the oil production by PT
Permina in Northern, Sumatra and Aceh,
機構(客員研究員報告書)。
Jakarta: A thesis presented to the Faculty
(Translated in English) Azuma, Yoshifumi(2008)
of Economy, National University of Indonesia.
The Reintegration of discharged guerrilla
for Acehnese Independent Movement in
Indonesia, JICA Research Report.
Crouch, Harold(1978), The Army and Politics in
Indonesia, Cornell Univ. Press.
Hill, Hal(ed.)(1991), Unity and Diversity: Regional
Economic Development in Indonesia since
1970, Oxford Univ. Press.
Hill and Weidemann(1991), "Regional Development in Indonesia," in Hal Hill(ed.),Unity
Dawood and Sjafrizal(1991), "Aceh: The LNG
and Diversity, Oxford Univ. Press.
Boom and Enclave Development," in Hal
Hutajulu, Iwan(1987), "Tumbuhnya Pengusaha
Hill(ed.), Unity and Diversity, Oxford
Aceh: Studi Kasus Pengusaha Kontraktor
Univ. Press.
dan Leveransir di Lhok Seumawe," Analisa,
Djalil, Munawar A.(2009), Hasan Tiro Berontak;
16(12), Jakarta.(Hutajulu, Iwan (1987),
Antara Alasan Historis, Yuridis dan Realitas Sosial, Banda Aceh: Adnin Found-
"The growing up Acehnese Business-
ation Publisher.(Djalil, Munawar A.(2009),
Insider(1950), Atjeh Sepintas Lalu, Djakarta: Fa
Revolt of Hasan Tiro, Banda Aceh:
Archapada(Insider(1950), On the Face of
Adnin Foundation Publisher).
Emmerson, Donald(1983), "Understanding the
men", Anasisa, 16(12), Jakarta).
Aceh, Jakarta: Fa Archapada).
Iswandi(1998), Bisnis Militer Orde Baru, Band-
New Order," Asian Survey, 23(11).
ung: PT Remaja Rosdakarya. (Iswandi
ファーイーストオイルトレーディング株式会社(1989),『インドネシアの
(1998), The Military Business in the New
石油産業』(第16版), 論文中では書名[イン
ドネシアの石油産業]とする。
Order, Bandung: PT Remaja Rosdakarya).
Karma, Mara(1979), IBNU SUTOWO; Pelopor
(Translated in English) The Far East Oil Trading
Company(1989), The Petroleum Industry
- 181 -
Sistem Bagi Hasil di Bidang Perminyakan, Jakarta: Gunung Agung.(Karma,
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
Mara(1979), IBNU SUTOWO; A Pioneer
of the Production Sharing System in the
Petroleum sector, Jakarta: Gunung Agung).
Kell, Tim(1995), The Roots of Acehnese Rebellion,
1989-1992, Cornell Modern Indonesia Pro-
The Journal of Political science and Economics, 68).
金光男(2000),「第4次アチェ戦争とアチェ植民地経済に
関する一考察」, インドネシア勉強会『indonesia2』(1998/1999), 上智大学アジア文
化研究所․村井吉敬研究室。
ject.
Kementerian Penerangan(1953), REPUBLIK
(Translated in English) Kim, Kwang-Nam(2000),
INDONESIA: Propinsi Sumatera Utara.
"An Essay on the Fourth War and the
論文中では[RISU]とする。(The
Colonial Economy in Aceh, 1898~1942,"
Department of Information, Republic of
Indonesia2 (9/10), Indonesian Study Club,
Indonesia(1953), THE REPUBLIC OF
the Institute of Asian Cultures, Sophia
INDONESIA: The Province of North
Sumatra).
University).
Kingsbury, Damien(2003), Power Politics and the
金光男(1987),「インドネシア国軍の二重機能と世代交
Indonesian Military, London: Routledge
代に関する一考察」, 早稲田大学大学院政
治学研究科(修士論文)。
(Translated in English) Kim, Kwang-Nam(1987),
"A Study on Dual-Function of Indonesian
Army and its Rising Generation," A
Curzon.
Kompas(Indonesian Newspaper).
Morris, Eric Eugene(1983), Islam and Politics in
Aceh: A Study of Center-Periphery Relations in Indonesia, Dissertation of Cornell
Master’s thesis presented to the Graduate
University.
School of Waseda University for the
日本国際問題研究所インドネシア部会編(1972),『インドネ
Degree of Master of Political Sciences).
シア資料集(上)1945~1959年』, 日本国際問
金光男(1991),「北スマトラ石油帰属問題、1945~1957
題研究所, 論文中では[インドネシア資料集]と
年」, アジア経済研究所『アジア経済』(第
32巻第10号)。
する。
(Translated in English) The Japanese International Research Institution(1972), The Docu-
(Translated in English) Kim, Kwang-Nam(1991),
ments of Indonesia(Ⅰ) 1945~1959).
"North Sumatran Oil and Politics in
Indonesia, 1945-1957," Ajia Keizai(Monthly
Nindja(インドネシア民主化支援ネットワーク)編(2003), 『失
Journal of Institute of Developing Econo-
敗のインドネシア』, コモンズ(ニンジャ․ブックレット
mies), 32(10).
No.7)。(Nindja; Network for Indonesian
金光男(1999),「アチェにおけるインドネシア独立運動」,
Democracy, Japan(2003) Unsuccessful
茨城大学政経学会,『茨城大学政経学会雑
Indonesia, Tokyo: Commons).
Nishihara, Masashi(1976), The Japanese and
Sukarno’s Indonesia; Tokyo-Jakarta Relations, 1951~1966, Honolulu: The University
誌』(第68号)。
(Translated in English) Kim, Kwang-Nam(1999),
"The Indonesian Independent Movement
in Aceh," The Political Science and
Economics Association of Ibaraki University,
Press of Hawaii.
The Oil and Gas Journal論文中では[OGJ]とす
- 182 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
る。
Aceh: Corporate Complicity in Human
Redaksi(Laporan Khusus)(1987), "Zona Industri
Rights Abuses," Development, Natural
Lhok Seumawe," Prisma (7, Juli), Jakarta.
Resources, Conflicts and Terror in Southeast Asia, Institute of Asian Studies,
論文中では[Laporan
Khusus]とする。
(Editorial staff(the special report) (1987),
"The Lhokseumawe Industrial Zone,"
Prisma(7, July), Jakarta).
Reid, Anthony(1969), The Contest for North
Sumatra; Atjeh, the Netherlands and
Britain 1858-1898, Oxford Univ. Press.
Reid, Anthony(2006), Verandah of Violence; The
Background to the Aceh Problem,
Waseda University).
Serambi Indonesia(Indonesian Newspaper).
Sjamsuddin, Nazaruddin(1985), The Republican
Revolt; A Study of the Acehnese Rebellion, Singapore: Institute of Southeast
Asian Studies.
Soegijoko, Budhy T.S.(1985), "Dampak Pembangunan Proyek Industri Besar; Kasus Zona
Industri Lhok Seumawe," Prisma(12),
Singapore Univ. Press.
Ross, Michael L.(2003), Resources and Rebellion
Jakarta.(Soegijoko, Badhy(1985), "The
in Aceh, Indonesia, Prepared for the
Impact of the Development for the Big
Yale-World Bank project on The Econo-
Industrial Project; A Case of Lhokseumawe Industrial Zone," Prisma(12), Jakarta).
mics of Political Violence.
Sulaiman, M. Isa(2000), Aceh Merdeka; Ideologi,
佐伯奈津子(2005),『アチェの声』コモンズ。
(Translated in English) Saeki, Natsuko(2005),
Kepemimpinan dan Gerakan, Jakarta:
The Voice of Aceh, Tokyo:Commons).
Pustaka Al-Kautsar.(Sulaiman, M. Isa
佐伯奈津子(2008),「グローバル援助の問題と課題; ス
(2000), Freedom of Aceh, Jakarta: Pustaka
マトラ沖地震․津波復興援助の現場から」, 幡
谷則子ほか編『貧困․開発․紛争;グローバル
Al-Kautsar).
Sulaiman, M. Isa(2006), "From Autonomy to
/ローカルの相互作用』上智大学出版。
Periphery; A Critical Evaluation of the
(Translated in English) Saeki, Natsuko(2008),
Acehnese Nationalist Movement," in A.
"Problems awaiting solution for the Reid(ed.), Verandah of Violence, Singa-
Global assistance," in Hataya Noriko et pore Univ. Press.
al.(ed.), Poverty, Development, Conflict;
van’t Veer, Paul(1985), Perang Aceh; Kisah
the Interaction with the Global and the
Local, Sophia University Press).
Kegagalan Snouck Hurgronje, Jakarta:
PT. Grafiti Pers.(原典)De Atjeh-Oorlog,
佐伯奈津子(2010),「アチェにおける天然ガス開発と紛
Uitgeverij De Arbeiderspers/Wetenschappelijke
争」,『東南アジアの開発、資源、紛争․テ
Uitgeverij, 1979.(van’t Veer, P.(1985),
ロ』, 早稲田大学アジア研究機構(現代東南アシ
The Aceh War; The Story of Snouck
Hurgronje’s Failure).
Vatikiotis, Michael(1990), "Ancient enmities," Far
Eastern Economic Review, 28 June 1990.
゙ア研究グループ報告書)。
(Translated in English) Saeki, Natsuko(2010),
"Natural Gas Exploitation and Conflict in
- 183 -
유라시아연구 제8권 제1호(2011.3)
金光男
The Journal of Eurasian Studies․Vol. 8, No. 1 ․ March 2011
A Study of the Resource Exploitation and the Conflict in Aceh
Kwang-Nam Kim*
Ibaraki University, Ibaraki-Ken, Japan
37)
Received 22 January 2011; Revised 4 March 2011; Accepted 25 March 2011
Abstract
This paper investigates the basic cause of the frightful and prolonged conflict in Aceh, Indonesia, by
looking at the history of the country and its petroleum and natural gas resources development.
At the end of the 19th century, the Dutch colonial government began a large-scale military campaign
in order to secure oilfields in East Aceh. At that time, the Dutch was interested in not only products
such as coffee and spice, but also natural resources including petroleum, rubber, and tin. Thus, the development of natural resources in Aceh fueled the Dutch to expand their colonial territory. During the Japanese
military administration period, the Japanese army tried to benefit from Aceh’s natural resources. After
the surrender of the Japanese army, an Indonesian independence movement broke out. Also, the conflict
escalated over the control of Aceh-North Sumatran oil between the Dutch army and Indonesian nationalists,
as well as infighting between Acehnese and Javanese.
After Indonesia became independent, the struggle between the Acehnese local power and the Javanese
central government continued over control of the Aceh-North Sumatran oil fields. Rebellions against the
Aceh-North Sumatran oil nationalization arose while the U.S. government and the Dutch oil companies
monitored the nationalization process. Finally, through the institution of martial law, the Indonesian army
took control of economic properties including the Aceh-North Sumatran oil facilities. This action of the
Indonesian army was related to the reparation agreement made with the Japanese government. The agreement included provisions that the Japanese government would invest in the Aceh- North Sumatran oil
facilities and purchase their oil. Thus, the Japanese market and its capital assistance facilitated the restoration of the Indonesian oil fields and the oil export to Japan. But this did not help meet the Acehnese
local society’s needs for petroleum products. The main purpose of the national oil company was just to
obtain foreign currency by their crude oil.
During the time of the Suharto administration, the government strongly promoted the centralization
of power for both economic development and political stabilization. In Aceh, the central government focused
on the development of natural resources, especially natural gas exploitation in North Aceh, and built
large-scale industries called the Lokhseumawe Industrial Zone. These industries yielded huge foreign currency for the Jakarta government, but they did not contribute to the local economy. In other words, there
was no positive impact on other industries and employment in the local society. Moreover, the government
* Corresponding Author. Address: Professor, College of Humanities, Ibaraki University, 2-1-1 Bunkyo, Mito,
Ibaraki, 310-8512, Japan ; (E-mail)[email protected] ; (Tel) +81-228-8167.
- 184 -
アチェの資源開発と紛争に関する一考察
expropriated the local habitants of their vast land without enough compensation for building the industrial
zone. Thus, the gap between non-Acehnese workers in the enclave and habitants in the local society
rather widened.
This paper concludes that the long and intolerable conflict in Aceh from 1976 to 2005 was due to two
main factors. First, the Acehnese were extremely dissatisfied at the Java-centric and unjust policy for
economic development. And second, the Acehnese harbored fear and hatred for the brutal national army.
Keywords: Natural Resources Exploitation; Conflicts; Development Policy; Dual-Economy;
Human Rights Abuses
- 185 -