意味性認知症の理解とその対応について

前頭側頭型認知症の BPSD とその対応
−意味性認知症の理解とその対応について−
平成 25-26 年度 厚生労働科学研究費補助金 認知症対策総合研究事業
及び 平成 27 年度 日本医療研究開発機構(AMED)研究費 認知症研究開発事業
「BPSD の予防法と発現機序に基づいた治療法・対応法の開発研究」
研究班作成
愛媛大学 前頭側頭型認知症の BPSD 対策グループ編
監修:谷向 知(愛媛大学大学院医学系研究科老年精神地域包括ケア学
教授)
編集:小森憲治郎(財団新居浜病院臨床心理科)
執筆協力者:柴
珠実1),園部直美 2),原
清水秀明2),森
崇明2)
祥治3),豊田泰孝4),吉田
卓2),
1. 愛媛大学大学院医学系研究科老年精神地域包括ケア学
2. 愛媛大学大学院医学系研究科精神神経科学
3. ふじグループ介護事業部
療法担当課
4. 財団新居浜病院
(連絡先)小森憲治郎
財団新居浜病院臨床心理科
〒792-0828 愛媛県新居浜市松原町 13 番 47 号
TEL0897-43-6151 FAX0897-41-8108
E-mail:[email protected]
はじめに
前頭側頭型認知症という名前は、かつてはピック病と呼ばれていた認知症疾
患の新しい呼び名です。ピック病は、アルツハイマー病のようによく知られた認
知症ではありません。しかし、認知症をきたす疾患の中では、アルツハイマー病、
血管性認知症、レヴィー小体型認知症と並んで 4 大認知症に数えられています。
前頭側頭型認知症の発生頻度は、これらの認知症疾患の中でもけっして高い方
ではありませんが、65 歳未満の働き盛りの世代に限っていえば、より頻度は高
まり、けっして稀な疾患ではありません。
この病気には、進行を遅らせることのできるような有効な治療薬がまだ開発
されておらず、医療機関を受診しても、ただちに改善が期待できるような情報は
得られない現状です。しかし、アルツハイマー病とは異なり、保たれる機能と損
傷される機能の差がいちじるしく、保たれる機能を活用することでリハビリテ
ーションの可能性が広がります。早期に正しい診断を受け、リハビリテーション
が開始され、後にあらわれる困った問題の対応に備えるという対応が今のとこ
ろベストの対応法として推奨されます。
これから紹介する意味性認知症(semantic dementia: SD)は、前頭側頭型認
知症の代表的な疾患です。辞書に書かれているようなことばの意味や、よく知っ
ているはずの人の顔など、意味記憶と呼ばれる記憶の一部が選択的に障害され
るのが特徴の疾患です。わたしたちの医療機関を受診されたほとんどの方が、他
の医療機関においてアルツハイマー病とあやまって診断されていました。医療
関係者でもこの認知症の特徴を十分に理解している方は、まだ少ないといえま
しょう。それほど、見過ごされやすく見誤りやすい特徴をそなえています。前頭
側頭型認知症は、適切な治療法がない上に、上記の症状にともなって特徴的な性
格変化があらわれ、さらに激しい行動の異常(BPSD)があらわれる場合が多く、
BPSD への対策は急務です。
わたしたちの研究グループは、この前頭側頭型認知症の BPSD に対して、その
機序(原因)を考え、これに対処する方法についての研究を重ねてきました。そ
こで読者の方々にまず、この前頭側頭型認知症という疾患についての正しい知
識を持っていただき、仮にこの疾患に出会ったときにも、ご本人とそれを支える
介護者の方々がそれまでの生活の質を損なわず、周囲と協調して生活していけ
るような工夫を共に考えていただくため、これまでの研究成果をここに披露い
たします。第1章は、この疾患に関する分類について専門的な用語を用いて解説
します。多くの聞き慣れない単語や略語が登場します。第 2 章以降はなるべく
専門用語を使わず,解説をこころがけました。この疾患についてこれまでほとん
ど耳にしたことのない方の場合には、まず第 2 章から読み始め、ある程度疾患
のイメージを持っていただいた上で、第1章に戻って疾患について整理すると
いう読み方がよいでしょう。
第 1 章.前頭側頭型認知症について
前頭側頭型認知症(frontotemporal dementia: FTD)といわれる疾患は、脳の
前方部である前頭葉(大脳の中で最も広い領域をしめる新皮質)と側頭葉前方部
に強い萎縮があり見られます。また、認知症を引き起こすような大きな脳梗塞や
脳出血のあともなく、脳炎に冒された形跡もなく、ただ萎縮だけがそこに目立つ
という特徴があります。こうした脳の状態は画像所見(CT スキャンや MRI など
の撮影技術)により、明らかとなります。
FTD には、2つの分類の仕方があります。ひとつは、前頭側頭葉変性症
(frontotemporal lobar degeneration: FTLD)と呼ばれる国際的にもっとも包
括的な(一番大きな枠の)とらえ方です。この疾患について詳しく調べた人たち
が中心になって作った国際診断基準です。FTLD の中には、前頭葉に萎縮が集中
し、脱抑制的な(人前をはばからず堂々と自己の欲求を満たそうとする)行動障
害や意欲の低下を主症状とする FTD と、側頭葉前方部に左右差のある強い萎縮
部位があり、ことばや顔(相貌)、あるいは今目の前にある物が何であるか分か
らなくなる意味性認知症(semantic dementia: SD)と、言語中枢がある大脳左
半球のシルビウス裂(側頭溝)周囲に強い萎縮があり、ろれつが回らない、明瞭
なことばが発音できない、そして努力性で途切れ途切れの話しことばが特徴的
な 失 語 が 、 徐 々 に 進 行 す る 進 行 性 非 流 暢 性 失 語 ( progressive nonfluent
aphasia:PNFA)の3つのタイプが含まれます。以前ピック病と言われていたの
は、このうち FTD(前頭側頭型認知症)と SD(意味性認知症)です(図1)。PNFA
の場合には、失語症が生活上の困難の原因であって行動障害や他の認知症の症
状はほとんど現れません。
もうひとつ最近行われている分類法は、ピック病の2つのタイプを、行動障害
型 FTD(behavioral variant of FTD: bvFTD)と意味障害型 FTD(semantic variant
of FTD: sv FTD=意味性認知症 SD)とし、いずれも前頭側頭型認知症(FTD)に
含み、その二つの変異としてとらえます。この FTD の2つのタイプは、最初の症
状の現れ方こそ異なりますが、SD の場合にも進行するにつれて bvFTD と比べて
も差がないほどに行動上の問題(BPSD)が強まります。本文では原則的にこの分
類法にしたがって話をすすめてまいります。
以前にとった統計では、わたしたちの専門機関(愛媛大学医学部附属病院精神
科高次脳機能障害専門外来)を訪れた前頭側頭葉変性症(FTLD)の方の比率は、
その年に専門外来を受診した総数(330 名)の 13%であり、そのうち FTD(bvFTD)
と診断された方は 50%、SD と診断された方は 38%でした。また 65 歳以下での
発症に限れば、アルツハイマー病に次いで高い頻度を示していました。そういう
意味では、はたらき盛りの年代をおそう認知症としての注意が必要です。
第 2 章.意味性認知症の症状について
1.語義失語:ことばの辞書的な意味の障害
意味性認知症では、ことばの障害がまず現れます。最初はことばが思い出せな
い症状(喚語困難)があらわれ、それが次第に聞いた言葉もわからない、漢字で
書かれたことばも読めないという理解障害に発展します。以前は聞いたり、話し
たり、読んだりできていた簡単なことばも理解できないというように、症状は広
がります。人の名前や地名といった固有名詞、それに具体的なものの名前から分
からなくなります。ここでは、こころの中の辞書にあたる意味記憶が障害される
のです。意味記憶の障害は、まずものの名前を忘れてしまう、またそのものをあ
らわす名前(単語)の意味(語義)が分からなくなるという現象となって現れま
す。これは語義(ごぎ)失語とよばれる症状です。ところが、ことばを一時的に
保存する記憶力はよく保たれているので、わからないことば、またはわからない
ことばを含んだ文全体を正確に記憶し、再現することができます。そのため、た
とえばあなたの利き手はどちらですか?と問われた場合、即座に「ききてって何
ですか?」と知らないことばの部分だけを正確に切り取った質問が可能なので
す。また、ことばを忘れた場合、その最初の1音節(え)を言われると「あ、え
んぴつです」と即答できる場合には、これを語頭音効果といいます。その語頭音
効果が意味性認知症の方ではなかなか得られません。したがって、
「え」
「えん」
「えんぴ」と語頭音を増やしても、「えんぴつ」は出てこずに「えんぴっていう
んですか」と実在しない語と実在する語の区別がなくなっているような反応が
あらわれます(図2)。
このことばの障害に関してよく聞かれること
は、
「最近耳が遠くなって人の話をきいていない」
と難聴を強く疑われたり、ご本人も耳が遠くな
ったと信じ込んだりしている場合があります。
また同じことばかり尋ねてくるといって、物忘
れのせいにされる場合もあります。いずれにし
ても意味性認知症の方の話すことばを注意深く
聞いていると、音は正確に捉えられているのに、
そのことばの意味がわからなくなっているとい
うことが理解できると思います。
「えんぴつ」という名前はでてきませんが「記入するやつ」といって、むしろ
難しいと思われる抽象的なことば(記入)の方がすんなり出てくるといった奇妙
な現象があらわれます。意味性認知症の方にとって身近な(よく使用している)
単語ほど保たれ、普段あまり使わない単語ほど失われやすいという特徴があり
ます。本当にそんな単純なことがわからないのだろうかと信じてもらえず、
「わ
かっているのに知らないふりをする」と疑われる場合もあります。このような会
話のすれ違いにより、次第に周囲の人と意志の疎通をはかることが難しくなっ
ていきます。
2.相貌失認(よく知っているはずの人の顔の見分けがつかなくなる)
よく知っている人の顔がわからなくなる相貌失認も特徴的な症状です。意味
性認知症の方の行動をよくみていると、顔は全然わかっていませんが、一度会っ
て診察や検査をすると、名前をよく覚えていて、名札をみて「あ、○○さん。こ
の前に検査してくれた人でしょう」と思い出すことができます。顔あるいは声を
聞いても、目の前の相手が誰だか判断できません。それは実の兄妹でもわからな
くなるので、偶然外で会ったのにまったく気づかず通りすぎるということが起
こります。また、街で知人に声をかけられても誰かわからず、呆然と戸惑います。
こうしたエピソードから徐々に周囲の人に気づかれるようになる症状です。顔
だけでなく、見た物を全体で判断することが難しくなるため、有名な建造物や風
景(金閣寺や富士山など)など、以前ならよく知っていたはずの常識的な(視覚
情報としての)知識が失われます。
ことばの障害である語義失語は、左側頭葉に主な萎縮を示す方の典型的な症
状として早くから現れます。一方この相貌失認は、右側頭葉につよい萎縮がみら
れる方に、より特徴的な症状として、語義失語と同時、あるいはそれよりも早く
あらわれます。ことばの障害にくらべご本人には自覚しづらく、また身近な人々
にも意外と気付かれにくい症状です。ご本人にとって昔からよく知っているは
ずの歌手や俳優や政治家など有名人の顔について調べてみると、殆どそれらの
見分けがつかなくなっています。ある意味性認知症の方の場合には、美空ひばり
の写真をみせると、
「女優さん」と即答します。さらに「美空ひばりや石原裕次
郎ならよく知っているけど、最近の俳優さんは知らない」と述べられます。顔の
場合もことばと同様に、ご本人にとって毎日会う身近な人と比べ、長く会ってい
ない人ほど(どれだけ血縁関係が近い間柄であっても、会う頻度が少なくなって
いる人の顔ほど)、わからなくなっている確立が高くなります。
3.対象概念の認知障害
意味性認知症が進行すると、名前を思い出したり、聞いて理解したりすること
ができない段階(語義失語)から、それを見ても本当の使い方がわからない状態
へと進みます。ある意味性認知症の方の場合では、マッチ箱からマッチ棒を取り
出して見せると「こうして火をつけるやつ」と説明できますが、その名前が出て
きません。それでもマッチ箱を渡すと、マッチ棒を箱にこすりつけ火をつける動
作ができました。その 2 年後、まったく同じ状況でマッチを渡しました。すると
やはり名前が出てこないのですが、今度はそれだけでは済まず、使い方をたずね
ても、
「こうするやつ」と耳に近づけ動かしますが、マッチ本来の火をつける動
作にはつながりません。どうやらマッチ棒を綿棒と見間違えてしまったようで
す。
この方の目の前でマッチに火をつけてみせると「え?つくの?へー!?」とと
ても驚いて、
「こうするのか!?」と見本の動作を真似て実際に火をつけられま
した。
「初めて見た。こうするとつくのや!」と生まれて初めてマッチを見た人
のように興奮し、しきりに感心されました。このように意味記憶障害が進行する
と名前だけでなく、目の前に現れた対象への既知感がなくなり、それが何である
のか見ても触ってもまったく理解することができなくなります。このような意
味記憶障害では、本来よく知っていて使い慣れているはずの道具や機器につい
て、その操作や手順がまったく分からなくなっていることが増え、うまく対処で
きなくなります。
またこの症状が出現する時期には、周囲のごく常識的な決まり事やルールが
分からなくなり、社会との協調が取れなくなります。脳の萎縮については、左右
差が次第に目立たなくなり、左右両方の側頭葉および前頭葉に強い萎縮があら
われるようになります。このように意味記憶障害は、前頭側頭型認知症の特有の
行動障害(BPSD)の出現に大きく関与していると考えられます。
第 3 章.意味性認知症で保たれる能力(リハビリの重要性)
意味性認知症は、意味記憶の選択的障害といわれていています。前の章で申し
上げたように意味記憶が段階的に障害されてゆくのに対し、その一方で障害を
まぬがれ、進行期まで保たれる機能が存在します。こうした能力の存在は BPSD
を引き起こす力としてもはたらきますが、リハビリテーションの可能性を秘め
ています。ここでは、どのような能力が保たれるのかについて紹介したいと思い
ます。
1.日常生活上の記憶の保存
日常の記憶、日々の生活を送るのに必要な日付や曜日を更新し、約束した日時
に忘れずに出かける、あるいは次のゴミの収拾日がいつで、何を回収する日であ
るかといった予定の記憶について、意味性認知症の方はよく保たれています。テ
レビ番組でも天気予報をチェックする習慣を続けている方が多く、1 週間の天気
は把握していて、昨日の天候についても、たずねるとよく覚えておられます。日
課としておこなう行動は習慣化しやすく、次第にエスカレートし何時何分にこ
れをするといった、スケジュール通りに厳密に日課を実行しようとする「時刻表
的生活」と呼ばれる態度があらわれます。
2.自己の体験する記憶の保存
記憶には、自分自身の生活史上に起こった事がらの記憶と、テレビ・新聞・イ
ンターネット、ご家族や知人など他の人から聞いたり、読んだりして覚えた記憶
とが存在します。とくに自分自身の生活史に関する記憶と社会全般の出来事と
は、異なる機能として考えられています。アルツハイマー病の方々では、自己の
生活史に関する記憶のうち、より古い事がらほど取り出しやすく、最近の記憶ほ
ど思い出しにくいことがわかっています。一方、意味性認知症の方々では、最近
の事がらほど保たれやすく、古い記憶ほど失われやすいという傾向があります。
ちょうどアルツハイマー病とは正反対です。
また、知識として変化することのない意味記憶的な情報も意味性認知症では
障害されるため、このような自己の体験した保たれた記憶に大きく影響される
ようになります。たとえば、毎日使い慣れている電気カミソリは問題なく使うこ
とができるのに、機種の異なる電気カミソリや、T 字型のカミソリの場合、それ
は同じカミソリとは認識されず、まったく使うことができなくなります。このよ
うな現象は、コップや茶碗といった普段何気なく使っている身近な道具にも及
ぶ場合があり、施設や病院で生活するようになって、家庭では問題なくできてい
た、食べたり飲んだりする行動が、突然できなくなる場合があります。このよう
な例では、家でそれまで使っていたなじみの食器に換えるといった対応により、
中断していた食習慣を回復させることが可能となります。
3.視覚性の推理・判断能力の保存
意味性認知症の、とくに典型的な語義失語から始まる左側頭葉に萎縮が強い
タイプでは、言語的な判断を必要としない視覚的情報から判断したり、パターン
を予測したりする能力、あるいは目的から判断して今とるべき行動を割りだし
て、順序よく行動する能力などが保たれます。地図やカーナビゲーションを利用
して自動車を運転し、目的地に迷わず到着し、無事帰宅するといったことも可能
な場合があります。新しい道順もすぐに覚えることができます。迷路やジグソー
パズルなどは、意味性認知症の方がもっとも得意とする分野の課題です。
一方で、右側頭葉優位に萎縮が起こり、ことばよりも人の顔や有名な建造物な
ど視覚的な対象の判断ができなくなる方の場合には、しばしば迷子になるとい
った報告がご家族から聞かれることがあります。よく聞いてみると、明るい時に
散歩にでかけても迷わないが、暗くなって散歩に出て道がわからなくなる、ある
いは、いつも通り慣れている道が工事で通れなくて迂回する必要があったなど、
視覚的な条件が少しでも異なる場合に、正しく元の道に戻ってこれなくなるよ
うです。
4.その他、保たれる認知機能
失語症例ではしばしば障害される、計算能力(とくに加減算)が良く保たれて
います。受診するようになって始めた数独のルールをたちまちに覚え、独学で中
級の問題を解くまでに上達する方もおられます。これらの能力の保存は、しばし
ば間違って診断されるアルツハイマー病との決定的な違いのひとつでしょう。
さらに意味性認知症では、暑さ寒さ、色、味などの感覚刺激に対する判断が繊
細になる方がおられます。こういった方の中には、色の概念が障害され、ポスト
は赤という判断ができなる一方で、ポストの絵を描いた(模写した)場合には、
できるだけ自分が見た色を再現しようと、苦心して特別な色に仕上げられる場
合があります。対象概念の認知障害があらわれるような進行期の意味性認知症
では、既成の概念や常識にとらわれず見たままを忠実に再現しようとされるた
め、ぬり絵や模写を
した場合にも、独特
の美しい芸術作品を
念入りに仕上げると
いった行動が観察さ
れますこともありま
す(図3)。このよう
に意味記憶障害が進
行した段階であって
も、保たれた能力を
利用し興味を伸ばす
ことで、特別な才能として開花する場合もあるのです。前頭側頭型認知症にみら
れるこのような芸術的才能の開花については、海外ではすでに高い関心が払わ
れています。
第 4 章.意味性認知症の方の人となり
ことばの障害が先にあらわれる方々は、こぞって「ことばがわからなくなっ
た」
「頭が悪くなった」
「脳がこわれた」など、ことばの障害についての自覚を持
たれています。また「わからなくてすみません」
「変なこと言ってごめんなさい」
と相手を気づかう反応が頻繁にみられます。こうした状況は、ご本人にとってと
てもつらい事がらのはずです。しかし、案外あっけらかんとされていて淡々と事
情を語り、
「仕事はもう 1 年くらいで辞めて実家の農業をします」とか、
「カラオ
ケに通っています」、
「近くの温泉に行くことにしています」など、日々の予定を
楽しみにしている方が多いことに驚きます。私たちのもとを受診された方々の
多くは、他の楽しみに興味をシフトして、新しい生活に積極的に取り組まれてい
ます。こうした初期の意味性認知症の方々が示される従順さや、柔和さは、疾患
によって生じた性格変化ととらえることができますが、これは介護する立場に
とっては有り難い現象のひとつです。意味性認知症の方に認められる気質・情
動・行動パターンの特徴は、この疾患特有の認知症に伴う行動異常や精神症状
(behavioral and psychological symptoms with dementia: BPSD)が出現する
以前の診断の目安となる特徴であると思われます。気分や感情の波が激しくな
る方も、いないわけではありませんが、自覚はあるがそのことを深刻にとらえす
ぎず、あらたな活動や習慣に迷いなく進むようすは他の認知症の初期にあらわ
れる態度とは大いに異なります。
こうした性格変化は周りの人たちへの配慮というよりは、自分自身の関心が
限られた事がらに集中し、それ以外の特に古い事がらへの関心が薄れていくた
めであるように感じられます。また心配事や楽しみにしていることの内容は包
み隠さず話され、従順さとともに裏表のなさ、プライバシー感覚の乏しさもま
た、初期の意味性認知症の方から受ける独特の印象として残ります。同じ、前頭
側頭型認知症(FTD)の中でも、早期から衝動的で他者への配慮を欠いた「わが
道を行く(Going My Way)」行動をとる傾向が強い行動障害型 FTD(bv-FTD)の
方たちが、相手の存在に対しまるで無関心で、診察の間にも鼻歌をうたったりあ
くびをしたりして真剣さが感じられない態度をとるのとは対照的です。また途
切れ途切れのたどたどしい発語になる進行性非流暢性失語(PNFA)の方の場合に
は、ことばの症状に対する自覚は意味性認知症とは比較にならないほど深刻で、
そのため落胆や気落ちの程度は、はるかに重い場合が多いようです。
意味性認知症では、いったん身につけたルールや習慣は厳格に守られます。こ
だわりといってよいほどの執着を示します。特定のテレビ番組、病院の受診、趣
味のカラオケやグランドゴルフ、食事の時間、ゴミ出しの日、デイサービスへの
通所曜日、買い物、水やりなどのスケジュールへの遵守は何よりも優先され、休
日や行事、天候などによる変更を受け入れる事が難しくなります。従事した事が
らへの固執性や強迫性は次第に、変更不可能で何よりも優先され、それを阻止し
ようとすると激しい抵抗が生じて、周囲とトラブルになる場合がしばしばあら
われます。過度な従順さから、強迫的・固執的なスケジュールの遂行へと意欲を
燃やし、そのために周囲を省みない「わが道を行く」行動へと突き進む過程は、
意味性認知症の BPSD を理解する上で、必須の過渡的な現象として念頭において
おく必要があると思われます。
第 5 章.困った行動(認知症にともなう行動障害:BPSD)
1.不安、過度な従順性から生じる問題
前の章で、意味性認知症の方の語義失語と呼ばれる初期症状があらわれるそ
の人となりについて解説しました。病気に対する一応の自覚をもち、
「ことばが
わからない」
「頭が悪くなった」と話されますが、明らかに性格変化があり、ク
ヨクヨしない代わりに、素直で周囲に対する警戒心も薄れています。ただ、でき
ないことへの不安はありますから、それを解消しようとする行動をとることは
容易に想像がつきます。この時期には、できないこと(喚語困難や対象の意味記
憶障害)に対して頭を抱えて悩まれるよりも、健康増進や貯蓄、資格取得など
「○○に良い」とされることへの関心が高まります。そこでことば巧みなセール
スや勧誘に簡単にひっかかってしまうのです。日中ひとりで過ごすことの多い
主婦だけでなく、会社では役職についている男性もその例外ではありません。
不安に対処するように始めた(すすめられておこなう場合もある)行動は、次
第に強迫性や固執性を帯びてきます。常同行動といわれる前頭-側頭葉の抑制が
はずれたことから生じる行動障害が共通してみとめられるようになります。一
日に何時間も決まったコースを散歩にでかける、毎日決まった時刻に家庭で取
り組みはじめた新たな活動や習慣に歯止めがかからなくなる現象です。これは、
「わが道を行く」行動の前ぶれと考えられます。
2.
「わが道を行く(Going My Way)」行動
①職場で:職に就いていた A さんは、次第に強まる語義失語のため、会議に出て
も書類に書かれている事がらや、会議で話される内容が理解できず、簡単な事務
作業中心の仕事へと配転されましたが、それでもミスが多く、仕事に対応できな
くなり、人事の方と相談した結果、休職の手続きを取ることになりました。A さ
んご自身も、家業の農業に精を出そうと張り切っています。頻繁に田んぼにでか
けて耕運機で休耕田をならします。何ヶ月に一度でよいところを毎週 2 回耕す
という念の入りようです。しかし実際の田植えの時期には、どうしてよいかわか
らず作業に加わることができませんでした。畑に行っては、沢山苗を植え、大量
の野菜作りにはげみますが、間引きをせずにすべて収穫するまで育ててしまう
ので、大量に収穫できた野菜はどれも小さすぎて市場に出すことができません。
忘れてわからなくなってしまったことばを取り戻そうと、単語リストを書いて
覚えるドリルと、字を忘れない目的で毎日の簡単な日記(日課表)の記入を始め
ていただきました。自宅でおこなうドリルは何週間も、何年も先の分まで仕上げ
ます。朝早くから休職中の職場に出かけ、職場のコピー機を独占するという迷惑
行動が出現しました。結局その行動を阻止するため、早期退職の手続きをとらざ
るを得ませんでした。
②家事で:60 歳代後半の B さんは、若い頃から子育てや家事を一手にこなす働
き者でした。身体の弱い夫を支え、自ら軽自動車を運転し、買い物や夫の受診の
送迎までひとりでこなすスーパー主婦です。この疾患にかかり、味覚(味の意味
記憶)が障害され、甘辛いもの以外食べなくなりました。最近ご自身は煮豆とス
ーパーの惣菜以外のおかずは食べられません。そして夫に作る料理は一週間分
作り置き、すべて冷蔵庫で保存するようになりました。夫の好きな魚料理です。
味噌汁の具はすべてアサリです。作って何日もたった食卓に出される味噌汁を
食べ続ける夫は、下痢の症状が収まりません。一方、ご本人は夫のために作った
料理にはまったく手をつけず、買ってきた惣菜で簡単に済ませています。長年の
主婦としての習慣、それに意味記憶障害が重なり、非常に危険な調理行動となっ
てあらわれた例です。
③趣味で:カラオケに行くのが趣味の C さんは、家の斜め向かいのカラオケ喫茶
の常連客です。毎日、カラオケ店に出かけて陽気に得意のレパートリーをうたい
ます。歌詞は自分でノートに書き込んで毎回持参します。趣味のカラオケはカラ
オケ教室でも発揮されます。歌いたい方がたくさん集まる地域の公民館でのカ
ラオケ教室では、1つの曲目の 1 番だけを順番に歌うルールでできています。
ところが C さんは、得意なレパートリーを必ず 3 番まで歌い大得意になります。
順番も待てなくなり、他のメンバーからもう来ないようにとご家族へ苦情が寄
せられました。
登山同好会のメンバーである D さんは、毎回約束の日時や場所を間違えるこ
となく、待ちあわせの場所にも 30 分以上前から到着します。しかし、いったん
登山が始まると、D さんはものすごいスピードで、みんなのはるか先を歩いて目
的地に早々と到着してしまいます。心配したメンバーが、もっとゆっくりみんな
と一緒に歩きましょうと勧めると、「はい、はい」と機嫌良く答えられますが、
まるで聞く耳をもちません。このように趣味の活動については、規則正しく積極
的に参加することができますが、集団で決められたルールを守れることができ
なくなり、グループで行動することが次第に難しくなります。
④運転で:50 歳代後半でことばの症状があらわれ、早期に会社を退職された E さ
ん(男性)の楽しみは若い頃から親しんだ社交ダンスでした。週末には、県内の
各地で行われるダンスの催しに出かけるのが習慣となりました。はじめは奥さ
んを連れ添って出かけられましたが、しだいに遠いところまで自動車をひとり
で運転し、出かけるようになりました。とても楽しみにして、受診のたびに、地
図で調べて何時間もかけてその会場に出かけたことを嬉しそうに報告されます。
ところが、次第に自動車運転に異変がみられるようになりました。同乗している
奥さんからは、以前よりもずっと車間距離が縮まり、前のクルマは何でも追い抜
かそうとすると報告されました。ある日、高速道路を走っていると、後ろからパ
トカーがサイレンを鳴らして、速度を落とすように警告しますが、E さんはまっ
たく意に介さず、遂にクルマを止められてしまいました。それでも E さんは、
「前のクルマがあんなに走っているのにどうして自分だけが止められるのか」
と怒りが収まりません。元々温厚で控えめな性格であった E さんが、このよう
に激変しているのを知って奥さんはびっくりすると同時に、もう運転を止める
時期がきていることを認識されました。次の受診時には、主治医がきびしく説得
し、鍵をかくす、自動車を廃車にするなど、かなり強引な方法で、運転をできな
くする手段を講じました。最初の受診から 4 年(発症から約 7 年)を経過した
時点でした。それ以来 E さんは受診しても主治医に背を向け、奥さんにも笑顔
をみせることが一切なくなりました。E さんは元来とても穏やかな紳士であった
だけに、こうした「わが道を行く」行動に対する対応が遅れてしまい、危険な運
転行為の実態が明らかになってあわてて運転中止の対策を探りました。この症
例を通じて、SD の初期の穏やかな人格変化から徐々に高まる「わが道を行く」
行動への移行を察知し、早めの対策を立てることの重要性を痛感しました。この
症例以降では、かかわりの早期から運転の問題を重くとらえ、その危険性をご本
人やご家族に伝え、できるだけご本人自身が判断できる間に、自動車運転をやめ
ていただくよう説得につとめています。
標識を使った検査を実施してみると、運転技術に問題がない時期にもすでに
多くのよく知っているはずの交通標識(一方通行や進入禁止、横断歩道など)の
理解ができなくなっています(図4)。車間距離など書かれていないルールにつ
いてはなおさらです。この他、自
動車運転の中止に関しては、鍵
にカバーをつけて鍵とわからな
くさせる、運転免許の更新時に
診断書を添えて中止を提言する
などの方法で、強制的にやめて
いただく方法をとらざるを得な
い場合があります。
⑤食事場面で:食行動の変化は早い段階からあらわれます。はじめは好みのかた
よりが起こります。おそらく味の判断力が低下し、甘いものと辛いものというカ
テゴリー以外の味(酸っぱい、苦いなど)がわからなくなるためであろうと思わ
れます。コーヒーに 10 杯以上砂糖を入れる、缶ビールを必ず夕食時に飲む習慣
があったのにすっかり飲まなくなった、ビールや酒にジュースを混ぜて飲むと
おいしいと不思議なカクテルを作るといった報告がご家族から聞かれます。ま
た、しょうゆが必要なさしみに何もつけずに食べる、骨付きの唐揚げを骨ごと食
べてしまうという対象の意味記憶障害によってもたらされる常識的には考えら
れない食行動に関する異常が観察されます。食行動に関しては味の意味判断の
著しいかたよりと、対象そのものの意味記憶障害に加えて、食事マナーの問題が
あります。たとえば三角食べは、われわれの普通におこなっている食事マナーの
ひとつですが、ご飯だけ先に食べ、おかずも一皿ずつたいらげてゆくという順序
になります。また食事マナーの異変は、会食時により明らかとなります。法事や
結婚式で、あいさつや乾杯などを待つことができず、先に食べてしまうといった
マナー違反が起こり、久しぶりにあった親戚の方たちは大いに驚かされます。ま
た、食べた食器を舐めるといった行動や隣の人に出されたコップの水を飲むと
いった行為もここに含まれます。
第 6 章.各症状への対応
1.保たれた機能や症状を利用したリハビリテーション・ケア
ここまで読まれてきたみなさんは、前頭側頭型認知症という疾患の特徴をず
いぶん理解されるようになったのではないでしょうか?認知症といえばアルツ
ハイマー病が連想されますが、最近ではレヴィー小体型認知症という病気が知
られるようになりました。その一方で、ピック病というと、ご存じの方の中には
暴力を振るう、軽犯罪をくり返す(無銭飲食や万引き)などと、とんでもなく恐
ろしい病気といったイメージで誤解されている方も少なくないでしょう。しか
し実際はどうでしょう。意味性認知症の方の中には、真面目を絵に描いたような
方が多く、自分自身のことばの障害にも気づかれ、不安や抑うつという感情に悩
まされる方もおられます。しかしクヨクヨとされている方は少なく、障害に対し
ても何とかしたいと前向きに捉えられている場合がほとんどで、わたしたちの
アドバイスにも驚くほど素直に応じてくださいます。
ただ、その一方で修正のききづらい習慣や、一度走り出すと歯止めがきかなく
なる「わが道を行く」行動が次第に強まります。では次にこうした症状にどう対
応していったらよいかについて話を進めたいと思います。基本となるのは、病気
の特徴を知り、保たれた能力を最大限利用することですが、それだけではなく前
章で取り上げたような困った症状(BPSD)の特徴をつかんでそれを利用すること
も必要な場合があります。
2.各症状の出現時期
その前に、意味性認知症では、どのような順序で症状があらわれるかをお伝え
したいと思います。わたしたちがこれまで比較的長期にわたって経過を観察で
きた方々の記録から、各症状のあらわれはじめる時期をしらべました。すると、
言いたいことばが出なくなる、聞いたことばが分からなくなる症状、すなわち語
義失語がもっとも早くあらわれます(2〜3 年以内にあらわれます)。また、生活
上の困った行動のひとつである決まった時刻・決まったコース・同じものを毎日
買うなどの常同行動は 3.3 年と比較的早い段階であらわれます。またほぼ同じ
時期から食の好みの変化がみとめられました。3〜4 年の間に出現しやすい症状
は、人前では言えないようなことばや、慎みを欠いた振る舞いを示す脱抑制とい
う症状(3.8 年)、次第に頑固となり他人の忠告や助言を聞き入れなくなる症状
(4.1 年)、あるいは焦っていらだつ傾向(4.4 年)など、
「わが道を行く」行動
への傾向が強まってきます。また意欲の低下(4.4 年)や、身なりへの関心がな
くなる(4.6 年)、何度も食事を要求するという食欲の異常な高まり(5.2 年)な
どが次々とあらわれはじめ、日常生活そのものへの介助が必要となる段階へと
進んでいきます。大きく捉えると、初期の語義失語や相貌失認などの認知機能障
害、わが道を行く BPSD、生活機能の低下という順序です(図5)。このような経
過をふまえた上で、主要な症状への対応を考えていきましょう。
3.初期:ことばの障害(語義失語)への対応
語義失語は、意味性認知症のもっとも早い時期にあらわれ、多くの方が自分自
身でも気づくことのできる症状です。まだ、初期の段階であれば、残された学習
能力や理解能力を利用して、思い出せなくなった単語を学習することができま
す。ただし、この学習によって失った語彙(ことばの辞典)をとりもどすことが
できるわけではありません。理解はできているが、名前を思い出せない単語や、
ときどき名前が出にくくなるような比較的保たれた単語を訓練によって補強す
ることができると考えていただくとよいでしょう。
初期の段階で障害の存在に気づかれ、専門機関を受診された方には、画像診断
やある程度詳しい言語の検査を受けていただき、このご病気であることを確認
した上で、慎重に言語の訓練を受けていただくようにおすすめします。どのよう
な課題を学習すればよいかは、言語聴覚士や臨床心理士の指導をあおいでくだ
さい。私たちがおすすめする方法は、その方がもっとも困っておられる日常よく
出会う頻度の高いものに限って、少しずつ学習してもらうようにしています。そ
のものがわかり易いような絵やカラー写真のカードが用いられます。どのよう
な単語を強化してゆくのかについては、ご家族やご本人とよく相談してきめて
ゆく必要があります。
このような課題をおこなっていただく目的は、まず課題を通して学習が可能
であるという事実を確認していただき、ご自身がまったく無力ではないという
実感をもっていただくことと、家庭で毎日わずかの時間でも課題に取り組む習
慣を身につけることの 2 点にあります。課題が容易であると感じることができ
たならば、すぐになじんで熱心に取り組んでもらえます。わたしたちも最初はど
のように課題を選ぶべきか分からず手さぐりでしたが、何例もの方々に実施し
ていただくうちに、このような手ごたえを感じることができました。その一方
で、何度練習しても覚えられない時には、嫌気がさして練習をやめてしまった
り、もうつらいから来ないと受診そのものを拒否したりするケースもあらわれ
ました。練習して覚えられるという実感をもっていただくことが、次の学習への
意欲すなわちリハビリへの高い動機づけになります。いかに認知症の方たちに
興味をもっていただける課題を用意できるかが重要です。訓練の無理強いはむ
しろ受診への動機づけを低下させる危険性もあります。
ドリルは読んだり書いたりする課題が中心です。書くことは、言語機能のある
程度の強化や維持に役立ちますが、意味性認知症において比較的保たれる道具
を操作する能力や、視空間的に対象を把握する能力を活用するため、意味性認知
症の方たちには習慣化しやすい課題であると思われます。この他、計算やジグソ
ーパズル、数独(ナンプレ)、絵画(模写)など、得意な認知機能を利用した課
題では、習熟されるにしたがって、技能が上達する場合もあります。また、この
ような家庭での自主的活動の習慣は、集団行動が苦手な FTLD の方々が介護サー
ビスへの利用をはかる上でも大いに役立つといえましょう。
4.中期:「わが道を行く(Going My Way)」行動への対応
意味性認知症が進行すると、分からない対象が単語から、知人の顔や標識、道
具などありふれた身近な視覚的対象へと広がり、聞いても見ても触ってもその
対象が何であるかわからなくなる本格的な意味記憶障害へと進んでゆきます。
その過程の中で、話すことばに始まり、聞くことば、読むことばが分からなくな
り、会話の機会がぐっと減ってきます。しかし習慣的な活動は減ることはなく、
お決まりの行動(ルーチン)へのこだわりはむしろ強まります。そして、次第に
周囲に対して無関心となり、その習慣化した行動をおこなうために他者の存在
を省みない、いわゆる「わが道を行く」行動があらわになります。
この時期を家庭だけで介護することは難しい場合が多いと思われます。また
この時期になって介護保険のサービスを利用しようとしても、誘導は難しい場
合が多いため、かなり初期の段階から早めに介護保険制度の利用を促し、デイサ
ービスなどの施設利用を勧めます。受診から 2 年目 3 年目あたりの初期の常同
行動が出現しはじめる頃から時間をかけ、サービス利用を開始します。最初はデ
イサービスでは、
「年寄りばかり」
「自分と同じ年代の人は一人もいない」と不満
をもらされます。そこで、ケアマネージャーやデイケアのスタッフの方にお願い
して、できれば担当者をきめていただき、決まった曜日・決まった時間に・決ま
った場所で・決まった人と・決まったことをするという習慣づくりを準備しても
らいましょう。また、位置や時刻へのこだわりを理解していただき、座る椅子や
席を固定して確保してもらうことが可能であれば、かなり進行した例でも落ち
着いて過ごすことができます。同じことを繰り返すことで安心が得られ過ごし
やすくなるという点と、その一方で同じことをするのを阻まれたときに、その阻
む力に対抗していさかいが起こり、それが BPSD として取り上げられてしまうと
いう点の両方を知っておいていただきたいと思います。
アルツハイマー病の方とはちがい、行った場所やその行動を覚え、会う人とな
じみの関係を作ることに関してはほとんど問題がありません。同じ誘導でもな
じみの方からの指示は受け入れやすく、また活動の一環として、ボランティアの
ような役割を受け持っていただく方法もよいアイデアです。うまくいくと配膳
や、片付けの仕事を分担していただいたくという習慣が長期にわたって定着し
ます。集団の中で役割を果たすことができ、他の利用者さんたちからも喜ばれる
という体験は、また活動への参加の動機づけを高めることに役立ちます。こうし
た施設などでの対応に関しては、リハビリテーションの専門家である作業療法
士に相談し、調整してもらうとよいでしょう。
意味性認知症の方たちの場合には、言語によるコミュニケーションの能力が
低下するにしたがって、人への対応がむずかしくなり、集団行動になじむことが
できないという特徴があります。また常同行動というのは、同じことを繰り返す
ことによって安定を得るというメカニズムですから、常同行動が保証されれば
安心し、落ち着いて穏やかに過ごすことができます。家の外で穏やかに一定の時
間を過ごし、活動に参加できることは、日中の活動性を維持し、家庭での安定し
た生活の基盤となります。この点は、他の認知症の場合となんら相違はありませ
ん。
早い段階(まだ障害についての自覚を持つ段階)からサービスの利用を開始
し、種類のことなる別のサービス機関、あるいはショートステイなど様々な介護
サービスを利用し、入浴や就床といった習慣についても体験できるとよいでし
ょう。徐々に慣らしながらサービスを拡大してゆく方法は、次々とあらわれる難
しい問題に対応し、できるだけ長く在宅生活を続けるための秘訣です。
5.進行期:生活機能障害への対応
進行期には、ほとんど言語機能は失われ、着替え、入浴、摂食嚥下、排泄、そ
れに睡眠・覚醒のリズムなど、いわゆる日常生活動作(ADL)にも障害が広がっ
てきます。気づかれて 5 年以上を経過した例では、着替えをいやがる、同じ服
(下着を含む)を着続けようとする。入浴をいやがる、排泄する場所を間違えた
り、失禁したりするなどの行動、食の好みの変化がさらにエスカレートし、何度
も食事を要求する大食や、冷蔵庫をあけて冷凍食品や生の肉や魚や野菜をたべ
る異食傾向、また皿なめなど口唇傾向とよばれる症状があらわれる場合があり
ます。
生活機能障害が明らかになってきた段階で、初めて認知症の方の問題に取り
組むことはとても難しいと思われます。着替えに関しては、早い時期から用意さ
れた着替えを朝晩必ず着替えるという習慣を確立させることが重要です。入浴
や排泄に関しては、家庭での介護が困難になる最大の原因でもあるため特にそ
なえが必要です。早い時期から介護サービスを利用し、そこでの入浴をすすめる
などの準備が必要です。排泄については、定期的な誘導と介護用パンツなどの段
階的な導入が必要となります。進行期の口唇傾向を背景とする食行動異常への
対応は困難をきわめており、これまでに有効な手立てはほとんど報告されてい
ません。
第 7 章.口唇傾向にもとづく激しい食行動異常に対する対応
最後の章では、進行する激しい食行動異常による誤嚥(ごえん)やむせといっ
た危険な食習慣を改善できた 1 例について紹介します。この例では、精神科病
院の認知症病棟に入院して 2 年を経過したころから、日中服を噛んでよだれで
服をぬらす、指を口にくわえて吸う、床に落ちたゴミを拾って食べる(異食)口
唇傾向と呼ばれるこの疾患の進行期にあらわれる症状が認められました。食事
場面では、給食を配膳するカートをみつけて、それにかけ寄り、われ先に食事ト
レイを取ろうとする、他の認知症の方に配られた食事トレイをうばって食べる
(盗食)、おかずを茶碗に盛って、丼にして掻きこむ、食べこぼす、むせるとい
った一連の食行動異常があり、看護スタッフは対応に苦慮していました。
これに対して、次のような段階をもうけて、食習慣の改善をこころみました。
まず第1段階として、他の人の食べ物にかけ寄ることを防止するため、視覚的・
聴覚的な誘発刺激(配膳の準備や他者の食器など)を遠ざけようと試みました。
すなわち、椅子と食卓を集団の席から離し、単独の席を用意しました。皆の座席
とは反対に背をむけて座り、前には長いカーテンを引き、小さい机の正面に車椅
子を固定しました。また食事中(昼食)は、作業療法士が 1 対 1 で給仕をしまし
た。同じスタッフが給仕することでなじみの関係ができることを期待しました。
その結果、盗食や異食あるいは、それを阻止しようとするスタッフに抵抗すると
いう問題行動を防ぐことができました。しかし、この段階では、激しく皿や机を
なめる行為が出現しました。
次の第2段階は給仕方法の変更です。トレイのおかずをすべてお茶碗に入れ
丼めしをつくり、それを掻きこむという行動が出現した原因を考え、それを防ぐ
ために、まずご飯やおかずを小皿に少量ずつつぎ直し、1皿ずつ給仕しました。
これにより丼づくりができなくなり、掻きこみが減り誤嚥の危険性はなくなり
ました。しかし執拗な皿なめとともに、今なめている食べ終えた小皿を手渡そう
としないという介助への抵抗が出現しました。
そこで、第3段階として、1皿目を食べ終わりそうな時をみはからい、次の皿
への注意を喚起するため、コンと音をたてて、次の皿を認知症の方の目の前につ
き出しました。するとそちらに関心が移り、新しい皿を取ろうとします。その瞬
間に先の皿を回収します。一瞬のタイミングですが、うまく回収し、皿交換に成
功しました。このタイミングで次々と小皿を換え、最後お茶を渡して、ゆっくり
お茶の時間を楽しんでいただきました。
このペースに慣れてきたため、第4段階として 2 皿を同時に提示しました。
するともう一方の皿に関心を示しましたが、やはり1皿ずつ食べ進んでいきま
した。そこで次に3皿を提示しました。すると最初は、1皿ずつ食べていたのが、
3つの皿を交互に食べる三角食べが復活しました。
ここまで来たあとは、この介入前の通常の配膳に戻してみました。するとどう
でしょう。丼はおろか、復活した三角食べを維持しながら最後まで食べ終え、ゆ
っくりお茶を飲みくつろぐ姿が観察されました。この時期からは、給仕も作業療
法士ではなく、病棟の看護スタッフが担当しました。席も皆といっしょの席に戻
しましたが、今のところ盗食や異食はなく、配膳されるのを待ち、ゆったりと食
事を楽しむ姿が続いて観察されています。
このような方法は、20年以上前からわたしたちの研究グループを指導し、意
味性認知症の存在を世界に先駆けて発信してこられた、故田邉敬貴先生(前愛媛
大学精神科教授)と池田
学先生(現熊本大学精神科教授)が共同で発案された
「ルーチン化療法」とよばれる非薬物的治療(対処)法を応用したものです。ル
ーチン化療法の原理は、前頭側頭型認知症の特性を考え、まず激しい BPSD を引
き起こす刺激をできるだけ遠ざけます。また前頭側頭型認知症の方が得意とす
る作業(カラオケや裁縫などの)に従事し、一定時間それをして過ごすことで、
異食や盗食などの常習化する BPSD を、適応的な習慣(ルーチン)へと換えてゆ
く方法です。前頭側頭型認知症では「被影響性の亢進」と呼ばれる外からの刺激
に対して行動を抑制できずに、刺激されるがままに反応してしまう特徴的な症
状がみられます。ルーチン化療法では、保たれた能力だけではなく、認知症の方
が立ち去りそうになった時には次の課題に注目させて、再び作業への集中を促
すといった「被影響性の亢進」を利用した工夫が推奨されます。
わたしたちの今回の試みを、ルーチン化療法の観点から整理してみましょう。
まず、BPSD を引き起こす配膳車や食事ののったトレイなどの誘発刺激を遠ざけ
る環境を整えました(個別対応・環境調整)。まずなじみの関係ができるように
特定の人が給仕を担当します(個別対応)。離れたところに認知症の方の食卓を
設け、刺激から遠ざけました(環境調整)。さらに皿を小皿一枚ずつ順に提示し、
トレイに並んだおかずの丼作りを防止しました。これにより安全な量が供給さ
れ、喉つめや誤嚥の危険性が減ります。少量ずつ時間をかけて食べることによ
り、満腹中枢を満たす効果もありました。この方法は、これまでのルーチン化療
法にはみられない新たな試みです。日本の伝統的な懐石料理も、優雅な様式で1
皿ずつ給仕されます。ここから、わたしたちの方法を「懐石個別介入法」と名付
けることにしました。
しかし執拗な皿舐めを誘発してしまったので、次に皿を給仕する際の仕掛け
を工夫し、食べ終わる直前に次の皿をみせ小さい音を鳴らし関心を引くという
方法を試みました。これは、
「被影響性の亢進」を利用して、次の料理の入った
皿に関心を向ける工夫です。これにより、当初の目的であった BPSD の防止と、
安全な食習慣の獲得が可能となりました。しかし、このまま続けてゆくことは、
個別の対応を継続することが求められます。介護の現場では、マンパワーの制限
により、できる限り元の食事場面に戻して応用してゆくことが求められます。
そこで、さらに皿を増やすと、亢進した注意は新たに出された皿、自分が取っ
た皿へと交互に注意が働き、なんと三角食べまで復活させてしまいました。一
旦、できあがった適応的な行動が定着し習慣化するのは、この疾患の特徴ですか
ら、一度優雅な食事の習慣が身につくと、通常の配膳に戻してもその習慣は維持
されました。個別に介入して獲得した食事マナーを、より一般的な食事場面へと
般化させる試みは、これまでに報告されていません。最初の介入から、通常の食
事トレイに戻すまで6週間を要し、また以前同様、看護スタッフによる通常の配
膳に戻すまでにはさらに2週間を要しました。その間に、刺激の制限、被影響性
の亢進を利用した皿交換、複数の皿提示(制限解除)といった段階を経て、さら
に元の配膳に戻すところまで介入を進めました。その結果、通常の配膳でも当初
みられた BPSD が解消され、安全で平和な食事場面が復活しました。今回の介入
の結果、あわてて掻きこむ食習慣から、給仕される皿をゆったりと待つ食習慣へ
と、比較的短期間で変更させることに成功しました。今回の介入の成果には、な
じみの関係という給仕される側と、給仕する側との関係性もまた大いに役立っ
たと思います。認知症の方のニーズの根幹に気づき、適切な対応をこころがける
ことで、困難をきわめた激しい食行動の異常に対しても、安定した食事場面へと
導くことが可能であった例を紹介しました。この事例はまた、言語によるコミュ
ニケーションが途絶えた進行期の前頭側頭型認知症においても、なじみの関係
によって新たなコミュニケーションが成立したということを証明している貴重
な証拠です。
おわりに
前頭側頭型認知症(FTD)と呼ばれる認知症のうち、意味記憶障害により問題
が明るみに出る意味性認知症(SD)の症状とその対応について、できるだけ詳し
く具体的に解説しました。これは、わたしたち医療や福祉の関係者が、認知症の
方、ご家族、また介護施設の方々と協同して実践してきた意味性認知症に対する
専門的なケアの方法について、専門家・一般を問わず少しでも多くの方々に理解
していただくために作成した手引きです。まだまだ不十分な点も多いですが、少
しでも早くこの疾患に気づき、進行の過程であらわれる各症状への対応を早期
から準備することで、進行の途中から次第に明らかになる「わが道を行く」行動
に対応することの重要性について述べました。また意味記憶は、ヒトが進化の過
程で獲得してきた他人をおもいやるというヒト以外の動物にはみられないここ
ろのはたらきに大きな影響を与える認知機能です。この機能が失われることに
よっておこる共感的な能力の喪失をおぎなうためにも、なじみの関係という絆
を維持し、認知症の方を安全な習慣へと導くことが、社会生活を維持する上で重
要であると考えています。そのためには、認知症の方がわからなくなっているこ
とを理解し、どのような手をさしのべるべきかを専門機関の方々とともに検討
していただくとよいでしょう。そのときにこの拙文が少しでもお役に立てるこ
とを望みます。
本文の作成において、平成 25-26 年度厚生労働科学研究費補助金 認知症対策
総合研究事業 及び 平成 27 年度 日本医療研究開発機構(AMED)研究費 認知症
研究開発事業「BPSD の予防法と発現機序に基づいた治療法・対応法の開発研究」
の援助をいただきました。