獣医経済疫学 山口 道利 (京都大学大学院農学研究科博士課程) 獣医経済疫学∗1 とは,家畜(群)やペット,野生動物の疾病に関して,さまざまなレベル(家庭,経営,地 域,国,国際的取り組みなど)における獣医衛生上の意思決定を支援するための道具である. 本稿では,先進国であり畜産製品の輸入国でもあるわが国における,家畜に関する衛生管理に対象を限定し て獣医経済疫学の概要を紹介する.したがって,途上国や畜産製品の輸出国における獣医衛生上の関心は必要 に応じて触れるにとどめ,ペットや野生生物に対する獣医衛生上の問題はあつかわないこととする.また,農 場から食卓までの畜産製品の流れのなかでも,農場レベルにおける疾病対策をおもに取り上げることとする. 1 獣医経済疫学の目的 Otte and Chilonda[16] は,獣医衛生上の意思決定に関して経済効率性が求められるようになった背景とし て,次の 4 点を指摘している∗2 . 1. 大部分の先進国においては,社会経済への影響が重大な感染症はすでに制圧下におかれており,残され た感染症は経済への影響がそれほど明らかではないこと. 2. グローバル化にともない畜産製品の自給率が下がったことで,国内の防疫対策の優先度がこれまでほど 高くなくなったこと. 3. 経済発展にともなう一次産業(農業)の衰退により,疾病対策への公的資金配分に関して,他産業との 競争が激しくなっていること. 4. 疾病コントロールの責任が官から民へと委譲されるにともない,疾病対策への投資に収益性が求められ るようになってきたこと. 加えて,わが国においてもみられるように,人獣共通感染症の発生が畜産物消費に与える影響も無視し得な い(小澤 [18]).近年では,地域や国といったマクロレベルでの意思決定だけでなく,生産経営のようなより ミクロなレベルでの意思決定においても,生産物価格への影響に配慮した疾病対策の策定が求められていると いえよう. ∗1 英語では Animal Health Economics あるいは Veterinary Economics と呼ばれ,疫学 Epidemiology という言葉は用いられない(唯 一の例外は Perry et al[19] であり,そこでは Veterinary Epidemiology and Economics という用語が用いられている).しかし,あ る家畜集団のなかの疾病の病因,宿主,環境,行動を総合的に調査し制御するうえでその経済性を問題にするという点では,まさ に疫学的思考に経済学的意思決定を組み合わせたものといえる.一方,Economic Epidemiology という用語は,医療経済学のなか でも特に人の公衆衛生を取りあつかう分野において,疾病に関わる集団の経済合理的な行動モデルを前提とした疫学分析という意 味で用いられている.例えば,Philipson[20] 参照. ∗2 Otte and Chilonda[16] より,筆者が抄訳した. このような背景のなか,獣医経済疫学研究の多くは,特定の疾病に関してひとつ以上∗3 の処方を比較し,費 用対効果という基準からみて最良の選択を提示することを目的として行われている(畠山 [8],寺崎ら [25], 山根ら [32],立花ら [24]).その他に,同じく特定の疾病に関して,適切な防疫措置によって防ぐことができ たはずの経済損失額を算定する研究も少なくない(畠山 [5, 7],堀北・渡辺 [10],山根ら [36] ) .これは,費用 対効果を計測するための材料としてだけでなく,これまであまり重要視されてこなかった疾病への対策の重要 性を明らかにするために行われるものである∗4 . さまざまなレベルにおける経済合理的な意思決定は,しばしば食い違いをみせることがある.例えば,経営 レベルではワクチン接種によって発病を予防することがもっとも効率的であったとしても,地域や国内の防疫 にとっては正常時のワクチン接種は好ましくない場合などである.これは経済学の用語でいえば,個別経営の 行動に(ウイルスの常在化,変異の可能性,疾病検知の困難化などの)外部不経済があるような場合に相当す る∗5 .経済学とは金銭的評価のための学問ではなく,各経済主体の合理的行動にもとづく資源配分を予測した り,その(資源配分の)あり方を議論するための学問である∗6 .したがって,獣医経済疫学のもうひとつの重 要な目的として,各主体のインセンティブを調整しもっとも効率的な疾病対策をデザインすることが求められ ているといえよう.このような目的で行われる獣医経済疫学研究は,その発生にともなって立地上の周辺や流 通経路上の周辺などに感染が広がるような,いわゆる感染症を対象とする場合が多くなるものと考えられる. 2 獣医経済疫学の対象 獣医経済疫学が対象とする疾病は,動物の疾病および動物由来の人の感染症である.家畜に関してこれを分 類すると,次の表のようにまとめることができる. 人に感染しない 人に感染する 伝染性なし 家畜生体との接触によって感染 食品を通して感染 A – B C – D 表 1: 対象となる疾病の分類 A 群は,外傷や乳房炎など生産農場において日常的に発生する疾病(生産病)であり,個別の生産経営レベ ルで問題となる.B 群は,家畜伝染病のうち人に感染しないものであり,個別の生産経営を超えて経済損失が 発生する場合もあるため,家畜伝染病予防法によって公的な疾病対策プログラムが整備されている.口蹄疫の ように周囲の人の行動に制約を与えるものもあり,経済損失の範囲は必ずしも農場レベルにとどまらない.C 群は,家畜伝染病のうち,人に感染するが,当該畜産製品の喫食によって人が感染するリスクはきわめて小さ く,おもに飼育・運搬中の家畜との密接な接触によって人に感染する疾病である.B 群の疾病と同様,家畜伝 染病予防法によって公的な疾病対策プログラムが整備されている.鳥インフルエンザなどが例としてあげられ ∗3 ひとつの処方についてその費用と効果を比較している研究は,まったく処方を行わなかった場合をベンチマークとして比較してい ることになる. ∗4 畠山 [9] によれば, 「・・・ (伝染病のような)目にみえる損害を与えない生産病(乳房炎や過肥牛症候群など)が意外に大きな経済 損失を与えること,牛の小型ピロプラズマ病や子牛・子豚の複合感染による肺炎のように寒地と暖地で経済損失が異なることが明 らかにできる等多くの利点がある.」 ∗5 Otte et al [17] では,国境を越えてひろがる感染症に対する国際的な疾病コントロールの経済学的な理由づけとして,公共財的特質 および外部性が指摘されている. ∗6 Otte and Chilonda[16] にも同様の指摘がある.家畜疾病による経済損失を金銭的に評価することは,獣医学と経済学が相互補助的 に合体したもの(小澤 [18])というよりは,獣医学と簿記学ないし会計学が合体したものと考えることのほうが適切かもしれない. る.人の健康に関して公衆衛生上重要な疾病であり,フードシステムの中でも比較的生産経営とその周辺地域 における危害管理が重要である.D 群は,食品を通して人に感染する可能性のある感染症であり,直接的な経 済損失の範囲は最も広い.家畜伝染病予防法のほかに,と畜場法や食鳥検査法,食品衛生法によって公的な疾 病コントロールが行われている.O157:H7 や BSE などが例としてあげられる.人の健康に関して公衆衛生上 重要な疾病であり,生産経営に限らずフードシステム全体での危害管理が重要となる. A 群および B 群の疾病は発生頻度が高く,生産経営の収益に直接重大な影響を与えるためこれまで関心が 高かった.現場の獣医師が直接疾病対策を指導する場面の多いことも A,B 群の特徴であり,獣医学者による 研究蓄積は(特に邦文に関して)この分野に集中している.一方,近年報道や消費者の関心は C 群および D 群の疾病にあり,フードシステムの各構成員の利害に重大な影響を及ぼしている.個別生産経営レベルでの疾 病の発生であっても市場への影響が微小であるとはいえない事例が散見されるため,評価の対象となる経済的 影響の範囲は拡がらざるを得ない. 3 獣医経済疫学の方法 疾病による経済損失や疾病対策の費用対効果の評価手法については,すでに優れたレビューや解説が数多く 存在する∗7 .方法の詳細はそれらに譲り,ここでは概要とそれらの位置づけについて述べるにとどめる. 3.1 疾病対策による便益の評価 疾病がコントロールされた状態に対する支払意思額(Willingness to pay, WTP)や疾病発生に対する受入補 償額(Willingness to accept compensation, WTA)を計測した例はない.これは,家畜疾病が消費者の厚生に影 響を与える経路についてのモデルがほとんどの疾病について存在しないことと,関連して消費者が家畜疾病に 関連した自己の利害をうまく想像できない点に理由を求めることができると思われる. 家畜疾病対策による便益は,家畜疾病対策が行われなかった際に発生する経済損失額として計算されること が多い.この便益評価の方法は,疾病費用法(Cost of illness, COI)と呼ばれる.家畜疾病による経済損失評 価は,家畜疾病対策の便益評価額として用いられるだけでなく,疾病による被害発生タイプの類型化にも用い られる.代表的な畜種∗8 についての経済損失の評価法は,畠山 [6] によってマニュアル化されている∗9 .発育 遅延による損失は生産費の増分として把握される(小河・畠山 [13])ため,正常時の生産費も合わせて把握さ れなければならない.死廃損失や有病損失に関する評価減には価格データが必要となるが,どのような価格を 用いるかも考慮されなければならない.死廃損失には本来ならば投入財(労働など)のシャドウプライスが用 いられることが望ましい.山根ら [32] は,疾病対策にともなう乳牛の増体重による便益を,同じ増体重を得 るために必要となる放牧経費や放牧預託料によって計算している.その他のわが国の研究では,標準的な価格 が用いられる例(畠山 [7],小河・畠山 [13],寺崎ら [25] 堀北・渡辺 [10],山根ら [36])や帳簿上の資産価値 で代用される場合(畠山 [8])が多い.短期的な価格の変化を評価に反映させた例はきわめて少ない∗10 が,こ ∗7 ∗8 Ngategize and Kaneene[12],Putt et al[21],Dijkhuizen et al[1],Otte and Chilonda[16] およびそこで挙げられている文献を参照さ れたい.邦文では畠山 [6],山根 [30, 31, 33, 34, 35] がある. 乳用牛,肉用牛(繁殖用,肥育用),豚(繁殖用,肥育用),採卵鶏,ブロイラー 畠山のマニュアルにもとづく研究では,個体損失(疾病発生 1 頭羽あたりの損失額),経営損失(疾病発生農場で飼育されている 1 頭羽あたりの損失額) ,経済損失(疾病が発生しなかった農場も含めて総飼養頭羽数で割った 1 頭羽あたりの損失額)という用語を それぞれ独自の意味で用いている.本稿で経済損失という場合これらとは異なる意味で用いていることに留意されたい. ∗10 堀北・渡辺 [10] では,特定の経営について出荷された枝肉価格の減少を評価に算入している. ∗9 こに農業経済分野の研究成果を適用する余地はあるように思われる.これとは別に,想定した価格の変動によ る推定結果の変動もあわせて考慮されるべきである.次節で述べるように,へい殺による経済損失は,意思決 定の内容次第では疾病対策費用に計上し,便益に参入すべきでない場合がある. 近年畜産物に限らず農産物全般に関して,生産すればある程度安定した価格で販売できるといった環境には なく,むしろいかに販売するかというマーケティング面での経営努力が必要とされている.したがって,疾病 発生にともなう市場アクセスやその他の販路の喪失などといった損失を評価することはその重要性を増してい るものと思われるが,これが評価された事例はない. より集計度の高い意思決定レベル∗11 では,疾病による経済損失の産業連関を通した波及効果も考慮に入れ られることが望ましい.これについても農業経済分野の研究成果が適用される余地がある. 3.2 疾病対策費用の評価 疾病対策費用は,意思決定の内容に依存する.例えば疾病予防のためのワクチネーションプログラムを評価 する場合には,薬剤費や労働費が主な疾病対策費用となるが,疾病発生後にその拡大を阻止するための手段を 評価する場合には,殺処分となる家畜の経済損失もまた疾病対策費用として計上するのが適当である. 同じ疾病対策であっても,どのレベルの意思決定に関する評価を行うかによって計上される費用は異なる. 例えば家畜伝染病の発生にともなって家畜群を殺処分した場合,個別の生産経営レベルでは殺処分となった家 畜の経済価値が疾病対策費用の一部となるが,地域や国レベルの疾病対策担当者にとっては,殺処分となった 家畜に対する手当金などの補償金が疾病対策費用の一部となる(立花ら [24]). 多くの場合,疾病対策費用は薬剤費と労働費(獣医師に支払う診療代など),検査費用からなるが,上記の 理由から殺処分となった家畜の経済価値を加える場合や,さらには生産設備の改変にともなう物財費が加わる 場合もある. 3.3 疾病対策の費用対効果の評価 疾病対策の費用対効果を評価する手法は,入手可能な情報の範囲によってほぼ規定される.もっとも単純な ものとしては,代替案の採択によってネットの利益(代替案による便益に不要となる費用を加えたものから, もとの案における遺失利益に追加的な費用を加えたものを控除したもの)が発生するかどうかを基準に疾病 対策選択を行う方法がある.これは部分査定法 partial budgeting∗12 と呼ばれる.疾病対策が生産システム全体 の改変をともなったり,効果を対策ごとに切り分けることが困難な場合などには,経営全体で追加的な粗利 gross margin が生じるかどうかを決定基準とする場合もある.さらに疾病対策が数年間に渡って影響を持つと 予測される場合,各年のキャッシュフローを割引率で調整する必要が生じる.獣医経済疫学では,この調整を 行ったものを費用便益分析 cost-benefit analysis と呼んでいる∗13 .おもに正味現在価値法による調整が行われ るが,内部収益率法が用いられる場合もある. 疾病対策による効果を金銭換算せずに物的単位のまま用いる方法は,費用効果分析 cost-effective analysis と 呼ばれる.具体的には,目標となるワクチン接種率を最も少ない費用で達成する方法を探索する場合などに用 ∗11 産業レベルあるいは社会的・公的レベルなど 経営管理論においては,全体予算 whole-farm budgeting と組み合わせて用いられることから部分予算と訳するのが通例である. ∗13 経済学においては,外部性の存在のために市場ではうまく供給されない可能性のある財・サービスについて,それを公的プロジェ クトとして供給することが望ましいかどうかを決定する物差しとして費用便益分析が用いられるが,獣医経済疫学では必ずしも公 的な意思決定のレベルが想定されていない場合がある. ∗12 いられる. 疾病対策に関連する投入財の水準と組み合わせが可変であるときには,数理計画法を用いて最適なポリシー ミックスを導くことも可能である.部分査定法や費用便益分析は,離散計画法のなかでももっとも単純な場合 の特殊例として位置づけることもできる.疾病対策とその効果に関する逐次的な動学過程が特定化されれば, 動的計画法 Dynamic Programming によって最適な対策を決定することもできる.疾病の発生や制御のメカニ ズムが明らかになっている場合には,システムシミュレーションによる評価も可能になる. 得られる情報が少なく,かつ結果が確率的に変動する場合には,決定樹分析 decision (tree) analysis が用い られる.決定基準には期待値のほかミニマックス基準やマキシマックス基準が用いられるが,どれを用いるべ きかは自明でない. 以上の全ての分析方法について,疫学データや価格データの不確実性を評価するために,感度分析が行われ ることが望ましい. 以上で述べた獣医経済疫学の対象および方法を,意思決定のレベルとその目的ごとに整理したものが次の表 である. 意思決定レベル 目的 対象 方法 個別経営 利潤 A,B,C 部分査定法 全体予算(粗利益)法 数理計画法 動的計画法 シミュレーション 決定樹分析 国内地域 社会厚生 B,C,D 費用便益分析 国 国益 費用効果分析 国際地域 社会厚生 シミュレーション 決定樹分析 表 2: 意思決定レベルごとの目的・対象・方法 ここで述べた分析手法は,たとえ費用便益分析のように時間の経過を評価に取り入れたとしても,静態的な 評価を導きがちである.社会経済における各主体の行動がモデル化され,より動態的な評価が行われることが 望まれる. 4 獣医経済疫学の現状 疾病による経済損失の評価と疾病対策の費用対効果の評価に分けて紹介する.英文の文献については, Ngategize and Kaneene[12],Dijkhuizen et al[1],Otte and Chilonda[16],Perry et al[19] によるレビューに委ね ることとし,ここでは Preventive Veterinary Medicine 誌における Perry et al[19] 論文以降の文献についてのみ 触れることとする∗14 . ∗14 2004 年 2 月現在,Preventive Veterinary Medicine 誌に掲載された論文のうち”economics”というキーワード検索条件に合致する論 文は 169 件存在する. 4.1 疾病による経済損失の評価 疾病による経済損失の評価については,方法論や実務的手続きについての整備が進んでいる一方で,具体的 な評価結果の蓄積はわが国ではそれほど進んでいない.畠山 [5] は,牛(乳用子牛,乳用育成牛・未経産牛, 搾乳牛,肉用子牛,肉用育成牛,肥育牛(肉専用種,乳用種) ,繁殖牛)について生産病を中心とした広い範囲 の疾病が網羅され,それらが患畜 1 頭あたりの損失額の大きさによってランクづけされており,それ自身とし て貴重なデータベースとなっている.小河・畠山 [13] は,豚生殖器呼吸器症候群(Porcine Reproductive and Respiratory Syndrome, PRRS)発生にともなう特定の 3 農場における繁殖雌豚,哺乳豚,育成(肥育)豚,肥 育豚のそれぞれの損失額を報告している.畠山 [7] および小河 [14] は,仮想的な鶏疾病発生にともなう経営レ ベルでの損失額を試算している.堀北・渡辺 [10] は,ある 1 農場における肥育豚に集団発生した salmonella Typhimurium 感染症による損失額を計算している.山根ら [36] は,乳牛に発生するネオスポラ症によってわ が国全体で年間に発生する損失額を推計している.これらはすべて独立した研究であって,畠山 [5] を除いて, 評価結果を蓄積し,容易に検索可能な形で提供し,現場の意思決定に供するという発想はみられない. 最近の海外文献では,van der Fels-Klerx et al[27] が,オランダの酪農経営において発生する牛の呼吸器症候 群 bovine respiratory diseases による未経産牛への損失を計算している.このほかに海外では,公的に行われ る能動的サーベイランスの一環として家畜疾病による経済損失の評価をデータベース化している事例もみられ る.例えばアメリカでは,National Animal Health Monitoring System によって家畜疾病に関する疫学データ の収集が行われており,例えば Ott et al[15] は,このデータを用いて牛白血病ウイルス bovine-leukosis virus によるアメリカ酪農経営の飼養群単位での生産性損失を計算している.この種の経済損失評価研究もデータ ベースに反映されることがあり,収集されたデータを農業者や獣医が利用可能なように分析・整理したリーフ レットは Center for National Animal Health Surveillance のホームページ∗15 より閲覧が可能になっている. 4.2 疾病対策の費用対効果の評価 個別経営レベルでの疾病対策評価を行った論文は,邦文では山根ら [32] が放牧衛生上の問題である小型ピ ロプラズマ病に関してフルメスリン製剤とイベルメクチン製剤の比較を行っているほか,畠山 [8] は豚コレラ のワクチン接種に関して想定経営における経営レベルでのシミュレーションを行っている. 最近の海外文献では,van Schaik et al[28] が牛の 1 型ヘルペスウイルス(BHV1)などによる損失を,より 閉鎖的な生産システムによってどれだけ改善できるかをシミュレーションしている.Gröhn et al[4] は,酪農 経営において乳腺炎などの疾病の影響を考慮に入れた淘汰計画を,動的計画法によって導出している.Stott et al[23] は,スコットランドの繁殖牛経営における牛ウイルス性下痢(BVD)に関して,経営主体のリスク回避 を考慮した最適投入を,線形計画法の応用によって導出している. 公的介入を必要とするレベルでの疾病対策評価を行った論文は,寺崎ら [25] がめん羊の内部寄生虫駆除対 策の評価を費用便益分析∗16 によって行っているほか,立花ら [24] は黒毛和種のヨーネ病清浄化事例の評価を 費用便益分析によって行っている. 最近の海外文献では,比較的大規模なシミュレーションによる評価が多くみられる(オランダとアメリカ のヨーネ病制御の比較研究(Groenendaal et al[3]),オランダにおける豚コレラと地域における飼養密度との ∗15 http://www.aphis.usda.gov/vs/ceah/cahm/index.htm ∗16 単年度の部分的な費用便益の比較を行っているので,実際には部分査定法と同じである. 関連に注目した研究(Mangen et al[11]),アメリカにおいて口蹄疫が発生したと想定した場合の対応策の評価 (Schoenbaum and Disney[22]),海外からの仮想的な疾病輸入についての情報の価値を計測したもの(Disney and Peters[2]),オランダのヨーネ病に関する認証−モニタリングシステムを評価したもの(Weber et al[29])) ほか,口蹄疫の初動防疫に関する決定樹分析(Tomassen et al[26])がある. 5 獣医経済疫学の課題 数ある家畜疾病のうち評価の優先度の高いものはどれかということが,とくに農業経済学サイドの研究者に とって情報不足である.しかし,本稿冒頭で述べたように,先進国において日常問題となるような疾病はその 多くが一見些細な生産病であって,経済損失の評価を行わなければ優先度を決めることができないという逆の 状況もまた存在する.経済学的にも支持できるような費用対効果の評価に先立って,一時的接近として疾病に よる経済損失の概略がデータベース化される必要がある. その際に問題となることだが,農場における疾病の疫学データは決定的に不足している.そのうえ,疾病の 発生は複合的である場合もあり,その記帳は,ともすれば原因となった病気ではなく臨床的な症状(下痢,仙 痛など)にとどまることも少なくない.病名分類と診断法の標準化の必要性については,小河・畠山 [13],畠 山 [9] において指摘されており,そこでは家畜共済事業の共済事故病類別表にもとづくコード化と,共済加入 対象外の家畜に関する体系化・標準化が提唱されている. 評価の優先度が明らかになったのち,疾病対策の費用対効果を評価する際には,疫学的に望ましい疾病対策 に必要な直接・間接の費用に加えて,それを履行するための費用が考慮に入れられなければならない.これは 特にわが国では無視されている.生産・販売サイクルが速く利益率の低い経営では,短期的な移動制限や出荷 停止が資金ショートに直結するおそれがあるため,社会的に最適な行動と各個別主体の行動とが整合しない可 能性が高くなる.世界的な潮流として疾病対策への公的関与が減少する傾向にあるのは,私的なインセンティ ブによる疾病対策のほうが効率的な場合が多いからだけではなく,私的なインセンティブによる帰結を考慮し なければ公的関与による目的がうまく達成されないからでもあることに注目すべきである. 私見であるが,獣医経済疫学において今後経済学による貢献が最も大きいと思われるのが,この種の外部性 を考慮した制度・主体間関係のデザインである.地域や国といった集計された意思決定レベルにおける,疾病 対策に関わる公的介入の経済学的正当化という視点が,現在のわが国における獣医経済疫学には決定的に欠け ている.さらにいえば,公的介入の際追求されるべき社会的価値についても議論が必要であろう.例えば,食 糧輸入国であるわが国が家畜伝染病に関して清浄国となることの意義については,いま一度吟味する価値があ る.たとえワクチン接種によってあるウイルスの常在国となったとしても,それによって発症を防ぐことのほ うが人の公衆衛生上有益である場合がないとは言い切れない. 以上の諸点は,獣医学者と農業経済学者の協働の必要性を喚起するものである.獣医学者のなかには,疫学 的知見をもとにした疾病対策の個々の費用(薬剤費,労働費,検査費など)を調べることが(農業)経済学者 の仕事であるという理解もあるように思われるが,それらはむしろ獣医師の持つ情報であって,(農業)経済 学者に対して提供されるべき情報である.(農業)経済学者が目的関数を定式化するにあたって必要となる知 識や論理もまた,獣医学者によって提供される必要がある.それらのデータや知識のもとで,農業経済学者は より広い視点から個々の疾病対策の実行可能性について示唆を与えることができると思われる. 参考文献 [1] A. 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