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刊 行 のことば
平成二二年四月、財団法人松山市文化・スポーツ振興財団の設立を記念
し、松山島博覧会「忽那諸島・歴史探訪」事業の一環として展示会・シン
ポジウム等を開催しました。
忽那諸島は、西瀬戸内の伊予灘と安芸灘との間にあり、太古より瀬戸内
海航路の重要な拠点になっていました。その歴史は古く、縄文時代早期の
約八千年前にはじまります。弥生時代には集落が営まれ、古墳時代には古
墳が築かれました。奈良時代には法隆寺(奈良県)の庄倉が置かれ、平安
時代末ごろには忽那氏が領主となり、鎌倉・室町・戦国時代には島々に砦・
口絵
目 次
中山古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
五本松経塚・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
興居島経塚・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3
忽那家文書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4
二神家文書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6
大島(中島)一円の図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
遺跡と考古資料から見た忽那諸島の歴史・・・・・・・・・・・・ 長井数秋 忽那家文書を読み解く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 永村 眞 コラム 京都小笠原氏と伊予忽那氏・・・・・・・・・・・・・・・・ 小林可奈
忽那一族と懐良親王・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山内 譲
・・・・・・・・・・・・・・・ 忽那諸島歴史ツアー「海から見る・歴史の足跡」
・・
・ 古代体験教室「古代人に挑戦」歴史講座「忽那諸島の歴史を学ぶ」
・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ シンポジウム「忽那諸島の歴史を探る」
「発見・忽那諸島の歴史展」
・・・ 展示会「東京国立博物館里帰り展」
写真で振り返る 忽那諸島・歴史探訪
忽那諸島の歴史を伝える・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 金本房夫 コラム 二神家文書の整理作業と文書の性格・・・・・・・・ 田上 繁 コラム 忽那諸島の古絵図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 安永純子 城塞が築かれました。江戸時代になると忽那諸島は松山藩領と大洲藩領と
近世の二神家と二神島・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 関口博巨 コラム
に分かれて統治され、それ以降は海運業で栄えました。
忽那諸島の島々には、これらに関連する遺跡や史跡、先人たちが大切に
守り、後世につなげてきた古文書など、数多くの文化財が残されています。
その中でも国指定の重要文化財「忽那家文書」は、わが国の中世資料とし
て質、量ともに第一級であり、中世伊予の様子を知る上で大変貴重な文書
群です。
本書は、平成二二年七月~一〇月に忽那諸島と松山市考古館で開催した
「忽那諸島・歴史探訪」のシンポジウム等の内容を収めたものです。多く
考古資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 忽那諸島の歴史遺産
ことを目的として作りました。作成するにあたり、ご協力頂きました方々
の方々に忽那諸島の歴史・文化を知って頂き、未来に継承する資料になる
に、心からお礼を申し上げます。
遺跡・文化財・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 施設案内・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
47 46 44 32 30 29 22 10
55 54 53 52
60 58 56
1.箱式石棺の様子
はこしきせっかん
まがたま
左から碧玉(長さ4.0㎝)
・硬玉・メノウ
(東京国立博物館蔵/提供)
お ばま
なか やま こ ふん
中山古墳
なかじま
所在:中島・小浜
なが し
松山市指定記念物(史跡)
せっかん
はこしきせっかん
と長師の境界付近にある直径
中島の小え浜
んぷん
約五mの円墳です。板石を組み合わせて作
られた石棺(箱式石棺)は長さ二・〇〇メー
トル、幅〇・六五メートル、高さ〇・四五
しゅ ぬ
まがたま
くだたま
メートルで、明治三二年(一八九九年)に
うで わ
けん
発掘され、朱塗りの人骨と勾玉三点・管玉
十五点・腕輪二点・鉄製の剣二点などが出
こ ふん じ だい
土しています。出土品は同年に東京国立博
1
物館へ収蔵されました。古墳時代五世紀~
あ い じま
ゆ り じま
中島
ぬ わ じま
つ わ じ じま
鹿島
か しま
睦月島
む づきじま
野忽那島
の ぐつ な じま
二神島
ふたがみじま
釣島
つるしま
興居島
ご ご しま
碧玉製15点(東京国立博物館蔵/提供)
直径6.9㎝(東京国立博物館蔵/提供)
六世紀(約一六〇〇年前~一四〇〇年前)
由利島
なかじま
津和地島 怒和島
くだたま
どうくしろ
うで わ
と推定されます。
安居島
3.管
玉
へきぎょくせい
4.腕輪(銅釧)
こうぎょく
へきぎょく
2.勾玉
5.五本松経塚の発見地
ご ほんまつきょうづか
7.和鏡 日本製・鳥や梅花が見られる わ きょう
直径10.6㎝(東京国立博物館蔵/提供)
ご ほん まつ きょう づか
なかじまおおうら
州との関連が指摘されています。平安時代
へいあん じ だい
九州特有の経筒によく見られるもので、九
の節に似た突出した線があり、この特徴は
されました。経筒は円筒形で、中ほどに竹
京国立博物館へ経筒一点と銅鏡三点が収蔵
土し、明治一七年(一八八四年)一月に東
の初め頃に発見された資料です。銅
明治
きょう づ つ
どうきょう
製の経筒一点・日本製の銅鏡四点などが出
所在:中島・中島大浦
なかじま
五本松経塚
直径9.7㎝(東京国立博物館蔵/提供)
由利島
後期(一一~一二世紀・約一〇〇〇~九〇
津和地島 怒和島
中島
野忽那島
鹿島
二神島
釣島
興居島
〇年前)のものと推定されています。
安居島
睦月島
高さ21.8㎝
(東京国立博物館蔵/提供)
8.和鏡 日本製・鳥や松葉が見られる
6.銅製の経筒
わ きょう
きょうづつ
2
の経筒
10.磁器(青白磁)
わ きょう
こしゅう ろっ か きょう
ご しま
とまり
所在:興居島・泊
ご
ご ご しま きょう づか
興居島経塚
じんじゃ
ふなこし わ
け
ひ
め じんじゃ
昭和一〇年(一九三五年)一月に発見ひさ
めさか
れた資料です。興居島にかつてあった姫阪
じ
き
せいはく じ
きょう づ つ
神社の東、現在の船越和氣比売神社の北西
どうきょう
で、磁器(青白磁)の経筒一点・日本製の
銅鏡二点・中国製の銅鏡二点・鉄製の刀の
破片一点が出土し、直後に東京国立博物館
にしあぶらやま
野忽那島
二神島
釣島
へいあん じ だい
興居島
14.和鏡 わ きょう
日本製・鳥や秋草が見られる
直径15.0㎝(東京国立博物館蔵/提供)
中国・宋時代
直径10.2㎝
(東京国立博物館蔵/提供)
に収蔵されています。陶磁器の経筒は、福
鹿島
睦月島
日本製・山吹や鳥が見られる
直径11.3㎝(東京国立博物館蔵/提供)
中国・宋時代
直径10.6㎝
(東京国立博物館蔵/提供)
岡市西油山経塚に類例が見られ、平安時代
後期(一一~一二世紀・約一〇〇〇~九〇
きょう て ん
3
〇年前)のものと推定されています。
安居島
経塚:後世に伝える目的などで、経典を納め
た場所
経筒:写経を納めた筒形の容器
由利島
中島
津和地島 怒和島
こしゅうきょう
12.銅鏡「湖州鏡」
どうきょう
13.和鏡 11.銅鏡「湖州六花鏡」
どうきょう
きょうづつ
せいはく じ
き
じ
中国・宋時代 高さ26.2㎝
(東京国立博物館蔵/提供)
そう
9.発見地周辺
安居島
16.
「将軍家 政 所 下 文」
承 元二年潤四月廿七日
(1208年)
33.3×43.4㎝
うるう
じょうげん
中島
津和地島 怒和島
鹿島
睦月島
野忽那島
二神島
釣島
興居島
由利島
15.忽那家文書の一部
く つ な け もんじょ
国指定重要文化財(個人蔵)
しょう ぐん け まんどころくだし ぶ み
くつ な け もん じょ
忽那家文書
え
ど
じ だい
(百十三通)九巻 国指定重要文化財(古文書)
かまくら じ だい
の しょう も ん
く つ な い ち ぞ く ぐんちゅう し だ い
の忽那氏
鎌倉時代初期から江戸時代まで
くつ な じま そう でん
関 係 の 一 一 三 通 の 古 文 書 で、「 忽 那 嶋 相 伝
ご だい ご てんのうりん じ
い
よ こくくつ な ふじわら
之 証 文」三巻、
「忽那一族軍忠次第」一巻、
そうでんけい ず
くつ な じまかいはつ き
お
「後醍醐天皇綸旨」一巻、
「伊予国忽那藤原
が さ わ ら りゅう き ゅ う ば ひ で ん
か い ち ゅ う まもりふだ ひ で ん
相傳系図」一巻、
「忽那嶋開発記」一巻、
「小
笠 原 流 弓 馬 秘 伝 」 一 巻、
「懐中 守 札 秘伝」
ぶ
け もんじょ
一巻の計九巻があります。海の武士団とし
ては、数少ない武家文書であり、各時代の
こ もんじょがく
代表的な文章様式を含んだものもあること
し
へいあん じ だい
から、古文書学上にも貴重な資料です。
くつ な
忽那氏:平安時代末期頃に忽那島(現、中島)
りょう し ゅ
じ とうしき
ぶ にん
な ん ぼ く ちょう じ
の 開 発 領 主 と し て 登 場 し、 鎌 倉 時
だい
なんちょう
代には地頭職に補任され、南北朝時
むろまち じ だい
い
よ こくしゅ ご こう の
し
代 に は 主 に 南 朝 方 と し て 活 躍 し た。
めつぼう
き
室町時代には伊予国守護河野氏の配
のう
下に入り、河野氏の滅亡により、帰
農したといわれています。
が推定される。
命からは忽那氏と鎌倉幕府との関係の深さ
武士が任命されることが多く、忽那氏の任
任命状。通常、西日本の地頭職には東国の
じ と う しょく
承 元 二 年 潤 四 月 廿 七 日( 一 二 〇 八 )
か ん と う げ ち じょう か ま く ら ば く ふ
じ とう
関東下知状は鎌倉幕府から出された地頭の
.「将軍家政所下文」
16
4
17.「後醍醐天皇綸旨」
けん む
ご だい ご てんのうりん じ
建武元年十二月廿日
(1334年)
33.2×52.1㎝
18.
「中務大輔某軍勢催促状」
なかつかさたい ふ ぼうぐんぜいさいそくじょう
えんげん
延元二年二月卅日
(1337年)
13.0×17.5㎝
.「後醍醐天皇綸旨」
くつ な しげきよ
後醍醐天皇から忽那氏の当主、忽那重清
に宛てて出された文書。実際には天皇が配
下 の 者 に 書 か せ た も の で、「 天 気 」 と は 天
候 の こ と で は な く、「 天 皇 の 気 持 ち 」 と い
う意味。また、建武の新政以降の後醍醐天
皇の綸旨には、当時としては珍しい灰色の
紙が使われることが多く、俗に「薄墨色の
綸旨」ともいわれ、偽造を防ぐためともい
われている。
.「中務大輔某軍勢催促状」
うじ
なおよし
の中
中務大輔は中務省の役職名。南朝方
あし かが たか
務大輔の役職にある者が北朝方の足利尊
氏、直義を討伐するために軍勢を出兵させ
くつ な よしのり
たかうじ
るよう、忽那義範に要請した書状。現存す
る文書で「高氏」の文字が記されているも
のは非常に珍しい。また、南朝方が発した
文書は小さい紙に書かれたものが多く、密
書として運びやすくするためともいわれて
いる。
5
17
18
安居島
中島
津和地島 怒和島
鹿島
睦月島
野忽那島
二神島
釣島
ふたがみ け もんじょ
興居島
19.二神家文書の一部
(神奈川大学日本常民文化研究所蔵/提供)
由利島
20-3.
「豊前国御城米船證文 覚」
おぼえ
20-1.「豊前国御城米船證文壱通二神村 包み」
いっさつ の こと
ふた がみ け もん じょ
二神家文書
むろまち じ だい
所蔵:神奈川大学日本常民文化
研究所
あ ん ど じょう
にんめいじょう
え
で所蔵されていた室町時代から江
ど二じ神だ家
い
こ もんじょ
こう の
戸時代までの古文書です。河野氏との間に
け ん ち じょうもく
交わされた安堵状・任命状などや、大洲藩
の検地条目もあります。中世から近世へ継
に ほ ん じょうみん ぶ ん か け ん
続する記録が残っていることで貴重な資料
きゅうしょ
で す。 現 在 は 神 奈 川 大 学 日 本 常 民 文 化 研
究所で所蔵され、文書の整理や研究が進ん
ふたがみ し
ながとのくに
でいます。
え
ど ばく
二神氏:長門国(現、山口県)豊田郡の一流
が二神島へ移住し、二神氏を名乗る
せんごく じ だい
ようになりました。戦国時代には村
すい ぐん
上氏などとともに水軍として活躍
え ど じ だい
しょうや
し、江戸時代には二神島の庄屋もつ
とめていました。
こ
て ん りょう
ねん ぐ まい
さ ぐん
量・水主(乗組員)数制限の遵守を届け出ている。
か
乗が二神村庄屋新四郎宛にしたためた覚書。積載
のり
米五五四俵を大坂に廻送する御城米船の船頭と上
うわ
田庄太夫俊惟代官所(大分県日田市ほか)の年貢
(一七四五)四月のこの史料は、豊前国宇佐郡岡
ぶ ぜんのく に う
就 航 す る 御 城 米 船 の 寄 港 地 で あ り、 延 享 二 年
え ん きょう
を指す。二神島は日本海側・九州各地―大坂間を
ことであり、御城米船はその廻送をになう御用船
府直轄領(天領)から江戸や大坂へ送る年貢米の
ふ ちょっかつりょう
.御城米(ごじょうまい・おしろまい)は江戸幕
20
包みには船の積荷に関する2通の文書があり、運搬業者の
申告文「覚」と二神島方の報告分「一札之事」が入っていた。
「覚」と「一札之事」とでは船の積載量について違う記述が
見られ、
「一札之事」には申告文の「覚」と異なり、過積載
であったことが伺える。
20-2.
「豊前国御城米船證文 一札之事」
つつ
ぶぜんのくにごじょうまいぶねしょうふみいちつうふたがみむら
えんきょう
延享二丑年四月十一日(1745年)
(神奈川大学日本常民文化研究所蔵/提供)
6
21.「百合嶋禄」
22.
「油利嶋繪圖」
.「百合嶋禄」
.「油利嶋繪圖」
おう こ
島になってしまったと言い伝えられていた。
ゆ
つの頃か由利島は、「大地震に崩れ」、沈下して小
利千軒」と呼ばれるほど繁栄していたようだ。い
り せんげん
ようだが、「人家」の頁によれば、「往古」は「油
じん か
る。江戸時代、由利島に定住する人は少なかった
方稼ぎ第一の場所」であったことなどを記してい
神村の「付添いの小島」であり、その磯山は「村
記録。由利島(百合島・油利島とも書く)が、二
「百合嶋禄(録)」は、安永七年(一七七八)、二
神村庄屋の二神新四朗種草が旧記をもとに認めた
21
ゆ
り
や
ば
おお ゆ
り
う記載は二神村にとって由利島の帰属を主張する
れたもので、裏書きの「二神村の内由利島」とい
た高札は、享保一二年(一七二七)四月に建てら
きょう ほ
として鹿が放されていた。一般人の鹿狩りを禁じ
もわかる。江戸時代、由利島は松山藩主の狩猟場
た白浜に「なや場」と呼んだ小屋場のあったこと
こ
名が見られる。小油利には鰯網漁者が船着場とし
いわしあみりょうしゃ
失われた「すのなる」「大谷」「ごらや」などの地
おおたに
ほか「豊後崎」「わしがす」などの地名、すでに
ぶん ご ざき
の。現在も伝わっている「小油利」「大油利」の
こ
三月から四月に忽那諸島
寛政五年(一七九三だ)
いかん
を巡見した松山藩の代官に命じられて作成したも
22
根拠となっていた。
7
ず
り しま え
ゆ
り じまろく
ゆ
あんえい
安永七年(1778年)
(神奈川大学日本常民文化研
究所/提供)
かんせい
(神奈川大学日本常民文化研究所/提供)
寛政五丑年四月(1793年)
23.
「大島
(中島)一円の図」(写真1)
文化廿二年(1815年)松山市指定文化財(松山市教育委員会蔵)
8
論考・コラム
忽那諸島の歴史 を探 る
中山古墳出土品
(東京国立博物館蔵/提供)
遺跡と考古資料から見た忽那諸島の歴史
二 弥生時代の遺跡分布と遺物
(一)弥生時代の遺跡分布
約二六〇〇年~約一七〇〇年前 行われた怒和島宮浦遺跡の成果などを中心に、
忽那諸島で発見された考古遺物や、発掘調査の
学的には空白に近い地域の一つと云える。今回、
ので、遺物の出土状況などは明確でなく、考古
開墾や農耕、工事などの際に偶然発見されたも
実施である。忽那諸島の遺跡や遺物の大半は、
開発から免れたためか、発掘調査はほとんど未
になりつつある。それに引きかえ、忽那諸島は
県内各地では、開発に伴って多くの遺跡が発
掘調査され、各時代の文化内容が次第に明らか
器や石器が出土している。この他、縄文時代の
縄文晩期には、田ノ尻遺跡から凸帯文をもつ土
出土した結果、間違いないことが証明された。
われていたが、同じ石器が久万高原町遺跡から
文様を施した石器が出土し、祭祀的な遺物と云
山堂山遺跡から扁平な石の表面に、幾何学的な
縄文前期と中期の遺跡や遺物は発見されてい
ない。約三五〇〇年前の縄文後期になると、泰
物の発見はない。
とむかい山遺跡から発見されているが、他の遺
同時期と見られるサヌカイトの両頭石斧が長師
る。長師と田ノ尻遺跡から早期の押型文土器が、
(二)
縄文時代の遺物
現時点では、忽那諸島の人々の歴史は、約一
万~八千年前の縄文時代早期から始まってい
較すると遺跡数は非常に少ない。
れていたことを示す資料であり、有柄式磨製石
大串からは石製磨製紡錘車や有柄式磨製石剣
が発見されている。紡錘車の発見は織物が行わ
尻、宮浦の各遺跡、後期の馬磯遺跡などである。
大串遺跡、中期の長師、由利島、鷲ヶ巣、田ノ
のうち、時期の明らかなのは、前期と見られる
農耕中に偶然発見されたものばかりである。こ
行った遺跡は皆無である。遺跡、遺物は開墾や
(二)
弥生時代の遺物
弥生時代も縄文時代と同様、他地域に比較し
て遺跡と遺物の発見が遅れており、発掘調査を
立地から見るとやや特異な存在である。
島や田ノ尻、海底の鷲ヶ巣、御手洗遺跡などは、
が分布している。特に平地のほとんどない由利
宮浦西、寺の下、中島吉木、神浦神社、宮野神
愛媛考古学研究所 所長 長 井 数 秋
この地域の歴史の一端に触れて見たい。
サヌカイトの石鏃が発見されているので、縄文
剣は祭祀的遺物といわれ、松山平野南部では支
縄文時代に比較すると、やや遺跡数が増加す
る。西から由利島、津和島竹の浦、怒和島宮浦、
一 縄文時代の遺跡分布と遺物
時代は狩猟が盛んに行われていたようである。
石墓に副葬されており、同じ支石墓が当地にも
存在する可能性がある。
興居島田ノ尻、御手洗、鷲ヶ巣、馬磯の各遺跡
社、大串、大浦油田、大浦さこ、睦月島梅の子、
(一 ) 縄 文 時 代 の 遺 跡 分 布
ただ、他地域に比較して地形的制約から、遺跡
はじめに
約一万二〇〇〇年~約二六〇〇年前 や遺物の発見が遅れていることは否めない。
長師からは緑色片岩の磨製石包丁が発見され
ているので、小さな谷水田や小砂丘背後の後背
忽那諸島は、現時点では旧石器時代の遺跡、
遺物は未発見であるが、将来発見されることは
興居島田ノ尻の各遺跡が、後期から晩期には泰
湿地で稲作が行われたことを示している。大浦
間違いない。縄文時代早期は、長師やむかい山、
山堂山や田ノ尻遺跡が分布するが、他地域に比
10
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
三 古墳時代の遺跡分布と遺物
ある。
しているのも、なんらかの共通点があるようで
→水無瀬千軒→由利千軒などの千軒伝説と一致
い。これら遺跡の立地は、中世の八島古浦千軒
的役割などの機能をもっていたのかも知れな
待ちや風待ち、飲料水補給や、烽火による灯台
であったのかも知れない。恐らく、航海時の潮
ており、瀬戸内海の制海権掌握に深く係る遺跡
弥呼」出現前後の「倭国大乱」の時期と一致し
る。これら臨海性の遺跡は、『魏志倭人伝』の「卑
出現し、後期初頭を最後に、短期で消滅してい
る事が出来る。そのいずれの遺跡も中期後半に
る。恐らく、何か特別な目的をもったムラと見
通常の生活をするには非常に不便な場所であ
はほぼ不可能であり、畑作も自供自足出来ず、
地している。多少の漁撈は可能であるが、稲作
ノ尻、海底の鷲ヶ巣、御手洗池などに遺跡が立
中期後半から後期初頭になると、孤島の平坦
地に乏しい由利島の湾内や、平坦地の少ない田
油田からは磨製石斧が発見されている。
硬玉製勾玉、石英製勾玉、碧玉製管玉、滑石製
伴って鉄剣、直刀、銅釧(銅腕輪)
、碧玉製勾玉、
し て お き た い。 中 山 古 墳 か ら は 若 干 の 人 骨 に
古墳出土であることが明らかとなったので訂正
されていた遺物は、能田筆和氏の調査で、中山
である。今まで、かがり山2号古墳出土と紹介
古墳の代表例が小浜中山古墳や野忽那丸山古墳
諸島と同じである。箱形石棺を内部主体とする
が、多くは箱形石棺であり、そのあり方は芸予
部主体は箱形(箱式)石棺と横穴式石室になる
古墳の分類には色々あるが、忽那諸島内の古
墳を墳丘形態から分けると総て円墳となる。内
期古墳からであり、
その大半は後期古墳である。
見である。現在までに確認されている古墳は中
和王権のシンボルと云われる前方後円墳も未発
から四世紀の前期古墳は確認されていない。大
中頃まで継続している。現時点では、三世紀末
三世紀後半になると、高く盛土した高塚の墳
墓である古墳が構築されるようになり、七世紀
(二)古墳時代の古墳と遺物
ある。
遺跡であるが、須恵器片が出土しているだけで
の遺跡は宮野神社、長師、宮浦、竹の浦西の各
和島、睦月島では確認されていない。古墳時代
野忽那島の丸山の各古墳くらいで、二神島、怒
面、山吹双鳥鏡と秋草双鳥鏡の和鏡二面が出土
青白磁製経筒と中国湖州製の六花形素紐鏡の二
と云われている。興居島泊経塚からは中国宋の
いずれも一一~一二世紀にかけてのものである
大浦五本松経塚からは、銅製経筒と山吹蝶鳥
鏡、松葉双鳥鏡の和鏡二面が出土しているが、
出土している。
古代後半になると、大浦五本松経塚や興居島
泊経塚が発見され、埋納していた多くの遺物が
が、それらについては後述したい。
しだがその当時の様子を垣間見ることが出来る
調査で、古代後半の遺構や遺物が発見され、少
資料は未発見である。将来、何処かで発見され
古代には「骨奈島」の名が見られ、官牧の島
として知られているが、それに関する考古学的
四 古代の遺構と遺物
明は今後に待つべきであろう。
内部主体を確認したものは少なく、これらの究
いるものは、
副葬品である遺物の出土はあるが、
古墳のようである。これ以外の古墳と云われて
副葬品の出土は須恵器のみであり、後期後半の
る古墳は、
小浜瀬木戸古墳と吉木泊古墳だけで、
墳が確認されているのは中島の宮の権現山、小
古墳時代は、墳墓である古墳と、人々の生活
の場所であった遺跡に分けることが出来る。古
横穴式石室を内部主体とする古墳と断定出来
括していた首長的な人物と推定される。
ている。被葬者は、五世紀後半に中島東部を統
東京国立博物館蔵となっており、地元では見る
紀のものと云われている。両経塚出土の遺物は
したが、いずれも平安時代後期の一一~一二世
るかも知れない。ただ、怒和島宮浦遺跡の発掘
(一 ) 古 墳 時 代 の 遺 跡 分 布
垂飾品、玻璃小玉などの豊富な副葬品が出土し
七世紀~一二世紀
三世紀末~七世紀 長師、大串、瀬戸木、吉木泊、かがり山、中山、
11
泊城跡
高木佐渡守館跡
泰山城跡
むかい山遺跡
泰山堂山遺跡
吉木遺跡
大浦さこの奥遺跡
大浦油田遺跡
吉木泊古墳
城の台砦跡
梅の子島砦跡
五本松遺跡
河野積石塚
黒岩城跡
宮野権現山古墳
梅の子本城跡
梅の子遺跡
中山古墳
小長師古墳 長師遺跡
大串遺跡
宮野神社遺跡
本山城跡
御場ヶ嶽城跡
神浦神社遺跡
竹の上城跡
丸山古墳
瀬木戸古墳
大串古墳
馬磯遺跡
稲荷山古墳
山ノ神古墳
鷲ヶ巣遺跡
じんご山古墳
泊経塚
明沢城跡
大池古墳
田ノ尻遺跡
御手洗遺跡
12
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
▲:中世城郭他
図1.忽那諸島の遺跡分布
●:遺跡他(ゴシックは古墳)
はじかみ遺跡
旗山城跡
網代Ⅱ遺跡
宮浦西遺跡
宮浦遺跡
網代Ⅰ遺跡
元怒和寺の下遺跡
熊田城の山城跡
竹の浦遺跡
竹の浦西遺跡
九多児城跡
能磯砦跡
二神城の山砦跡
二神泊遺跡
由利島遺跡
由利島大谷遺跡
由利島長者屋敷遺跡
13
ことは出来なかったが、今回、島博開催で里帰
代後期末の須恵器片があるので、生活の開始は
前者は忽那海賊衆の活躍に伴う二神島城の山、
世の考古資料としては、城郭跡や石造塔がある。
中世になると『忽那家文書』などによって、
当時の様子がある程度明らかになっている。中
一二世紀~一六世紀 五 中世の遺跡分布と遺構・遺物
ことを示している。
来た政治的、経済的に恵まれていた人々がいた
中国鏡が含まれており、これらを容易に入手出
経塚出土品の中には、中国からの輸入陶磁器や
う手掛かりを与えてくれている。特に興居島泊
があるはずであり、当時の人々の精神生活を窺
周辺には、経塚を構築した人々の生活の場の跡
土場所を再発掘して、追跡調査すべきであろう。
うかなどは明らかになっていない。将来は、出
両経塚は、農耕中や工事中に偶然発見された
もので、経塚の構造や、他の遺物があったかど
A区の地山面上の遺構とみられるものは、A
1区で柱穴跡三個、海石による長さ一・四メー
(一)A区出土の遺構
る建造物跡になるのか確定出来ない。
跡などを検出しても、範囲が狭いため、いかな
である。発掘したのが農道幅であるため、柱穴
東西長五〇メートル、南北幅四メートルの範囲
〇メートル、東西幅四メートル、東部のB区が
宮浦遺跡の正確な範囲は確認されておらず、
発掘調査を行ったのは南西部のA区が南北長八
間見てみたい。
一〇世紀から一六世紀の人々の生活の一端を垣
行った怒和島宮浦遺跡の遺構、遺物を中心に、
である。ここでは忽那諸島で唯一、発掘調査を
発見であり、その時期を決めるには極めて困難
古代の土師器ではないかとみられるものが各
地から発見されているが、農耕や工事中の単独
六 古代~中世の宮浦遺跡の遺構と遺物
西山麓斜面からの土石流堆積によるものであ
集石遺構上の土砂は幅六メートル、地山上二
メートル、集石遺構上一・二メートルあり、南
ものかも知れない。
を窺わせるものである。役所は荘園に関係する
硯は識字層存在を、宋銭の嘉祐元宝は貨幣流通
と焼土遺構の出土は鍛冶を、土錘は漁撈生活を、
なく、役所か寺院跡の存在が想定される。鉱滓
入青磁や白磁は、一般庶民の使用するものでは
方、内研土師器や内黒土師器、緑灰釉陶器、輸
土器類は、日常使用するものが多く、土鍋や
土釜、鉢・甕類は日常の炊飯を示している。他
がある。
錘・鉄滓・鉄塊・鎹・嘉祐元宝・五輪塔片など
鉢・砥石・赤間石製硯・滑石製石鍋・円筒型土
緑灰釉陶器・青磁・白磁・備前擂鉢・備前こね
土師器・内黒土師器・瓦器・土釜・土鍋・甕・鉢・
て破壊消滅したようである。出土遺物には弥生
い。
弥生時代中期後半からであり、古墳時代後期末
津 和 地 島 旗 山、 怒 和 島 元 怒 和、 丸 山、 九 多 児、
トルの列石、焼土層と鉱滓層、安山岩と緑色片
る。
集石遺構中の遺物の中で最も新しいものは、
りしている。
中島能磯、熊田城の山、御場ヶ嶽、竹の上、本
岩 の 海 石 と 川 石 に よ る 長 さ 六 メ ー ト ル、 幅 三
一六世紀初頭の備前焼の擂鉢片であることか
から奈良時代初頭にかけても、生活の痕跡が色
山、黒岩、泰山、泊、睦月島梅の子、野忽那島
メートルの集石遺構、A2区の環状集石遺構、
ら、この土石流は一六世紀中葉以降に発生した
見るのが自然であろう。
土器片・須恵器片・土師器碗・土師器皿・内研
濃く残るが、遺構そのものは中世の人々によっ
城の台、興居島明沢城跡などである。特に九多
柱穴跡三個、A3区の溝状遺構、土坑、柱穴跡
ものと推定可能である。B区の二メートルの土
児城跡は、村上海賊衆の能島城跡に対比出来る
一〇個などである。
砂堆積も、恐らく、同時期の土砂崩壊によると
一〇世紀~一六世紀
忽那海賊衆の城跡として、特に重要である。
(二)A区出土の遺物
出土遺物は、中期後半の弥生土器片や古墳時
石造塔は五輪塔、宝篋印塔、板碑などが各島々
に現存しているが、これらについては後述した
14
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
(三 ) B 区 出 土 の 遺 構
供献土器群は、その大半が砂を含む赤褐色土
師器碗と皿であり、帯状に規則性をもって数枚
三、供献土器群遺構一、柱穴跡九個などである。
遺物が出土した。遺構は、溝状遺構二、焼土層
麓下の現地表下二メートルの地山上から遺構や
られる若宮八幡宮が鎮座している。この丘陵西
上に天暦年間(九四七~九五六年)創建と伝え
なる庶民の生活の跡とは思われない。石錘や有
師器、緑釉陶器、青磁などが出土しており、単
われていたと見られるが、内黒土師器や黒色土
土鍋、
鉢、甕、
B区南部から日常使用する土釜、
土師器などが出土しているので、日常生活が行
く、祭祀用と見られる。
あった可能性が高い。大型鉄鏃も実用品ではな
B区北部出土の遺物は、その大半が供献用の
土師器であり、恐らく、一〇世紀の祭祀の場で
活していたことを示している。
期末から古代初頭にかけて、この地で人々が生
で古墳が確認されていない事から、古墳時代後
どが、A区・B区から多数出土しており、周辺
れない。これに続くのが古墳時代から古代初頭
が、量的に少なく、周辺地域からの混入かも知
くのがB区出土の弥生後期後半の土器である
しているにしか過ぎない。
重ねたものや、伏せた状態のものもあり、完形
溝土錘の出土は、漁撈が行われていた事を示し
九世紀代の遺物として黒釉、灰釉、緑釉陶器
など、特殊な陶器が出土しているが、同時代の
較的多く出土しており、遺構に伴ったものでは
ないし完形に近いものばかりであり、その数約
ている。B区では、古墳時代後期末から生活が
遺物が他に出土していないので、一〇世紀代に
ないが、周辺での生活が想定される。
一〇〇個であった。日常の炊飯器である土釜、
始まり、一〇世紀になると祭祀を行う人々が生
なって持ち込み、使用したものかも知れない。
宮浦遺跡から出土した最も古い遺物は、A区
出土の約二千年前の弥生土器であり、それに続
土鍋はわずか三個しかなく、通常生活の土器群
活し、一部、一二~一三世紀にも生活が行われ
B区の東側は、宮浦の平坦地を東西に二分す
る、南から北の海岸に延びる舌状丘陵で、丘陵
とは理解できない。供献土器群の中央に長さ一・
ていたようである。
の須恵器片である。須恵器には各種の壷や坏な
五四メートル、幅八〇センチの楕円形の焼土層
古墳時代後期末に続いて、宮浦の地で人々が
再び活動を開始したのは一〇世紀からのようで
と、北西七〇センチにも七〇×五〇センチの焼
出土遺物として須恵器片・須恵質土器片・土
師器碗・土師器皿・内黒土師器碗・黒色土師器・
(四 ) B 区 出 土 の 遺 物
ある。
や地山上の遺構は、少なくとも一二世紀後半の
云われている。このことからA区三層中の遺物
が国に多く輸入され始めたのが一二世紀初めと
中国宋の嘉祐元年(一〇五六)に鋳造され、我
三層の地山出土の嘉祐元宝である。嘉祐元宝は
宮浦遺跡から出土した遺物のうち、絶対年代
の明らかなものが一つだけある。それはA1区
七 出土遺物から見た宮浦の歴史
土師器、土師質や瓦質の甕、土釜、土鍋などが
の南部には、同世紀の土師器、緑釉陶器、内黒
その祭祀の対象は不明である。この供献土器群
祭祀の場になっていたのもののようであるが、
恵器を使用した七~八世紀に続き、一〇世紀も
用の土師器がほとんどである。このことは、須
器片若干、甕、土鍋、土釜各一個であり、祭祀
火跡とともに供献土器群が検出されている。土
ある。若宮八幡宮の鎮座する丘陵西側から、燔
緑釉陶器・緑灰釉陶器・土釜・土鍋・甕・鉢・
人々の生活の跡であると推定する事が出来る。
出 土 し て お り、 こ れ ら は 北 部 の 祭 祀 を 行 っ た
土層があった。地山上の四層は灰と木炭片を多
瓦器・亀山焼甕・砥石・大型鉄鏃・鉄塊、鉄釘
他の遺物の絶対年代は不明であり、主として出
人々の生活の場であったようである。
燔火的な祭祀行為を行った場所であったようで
く含んでいたので、焼土層は、供献土器に伴う
などがある。
土土器の考古学的編年により、前後関係を推定
師器は碗や皿九五個、内黒土師器一三個、須恵
B区で最も古い遺物は弥生後期の土器片と、
八~九世紀の須恵器片であるが、須恵器片は比
15
黒色(内黒)土師器
二神家1号宝筐印塔
土師(須恵)質土器
長崎4号宝筐印塔
六地蔵宝筐印塔
梅ノ子1号宝筐印塔
16
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
図2.怒和島・宮浦遺跡の土器編年案(1)
土 師 器
内研土師器
黒・灰・緑釉土器
9世紀
10世紀
11世紀
瓦 器
12世紀
13世紀
三好家1号宝筐印塔
17
玉善寺古田家1号宝筐印塔
浄玄寺2号宝筐印塔
図3.怒和島・宮浦遺跡の土器編年案(2)
陶 磁 器
弥生土器
弥生
須恵器
古墳
9世紀
輸入陶磁器(青磁・白磁)
遠州窯
10世紀
11世紀
龍泉窯
12世紀
亀山焼
白磁
13世紀
14世紀
備前焼
15世紀
伊万里焼
16世紀
18
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
錘は一〇世紀のB区からの出土であり、円筒形
錘の出土がそれを証明している。ただ、有溝土
生活の一部であったと見られるが、わずかに土
である。遺跡が海に面していることは、漁撈が
ながら湧水があり、そのため発掘を除外した程
水ではなかろうか。A区とB区の間は島であり
はずである。その一つの原因は、比較的豊富な
宮浦は安芸灘に面しており、原始・古代の瀬
戸内海航路の中継地としての役割をもっていた
く中国から輸入した白磁なども使用している。
初期の亀山焼の甕や瓦器の使用が始まり、新し
一三世紀も引き続いて生活が営まれていたよ
うである。土師器、土釜、鉢、甕などとともに
である。
どから、かなり高度な文化が開花していたよう
磁は中国龍泉窯産である。硯、鉄器、鍛冶跡な
青磁や宋銭の嘉祐元宝なども使用している。青
一二世紀になるとA区を中心に集落が出現
し、その一部はB区まで及んでいる。この時期
れなく、生活の途絶を示すものではない。
ので、人々は別の場所で生活していたのかも知
とは出来ない。発掘地区や面積が限られている
一一世紀の遺物は、発掘調査では確認してい
ないので、発掘範囲内での人々の生活を窺うこ
和や上怒和地区に逃げ延び、以後、無住の地と
もう一つの伝承は、小早川隆景勢の宮浦焼き
討ち事件である。焼き討ちによって人々は元怒
地に寄港した可能性は極めて高いといえる。
潮待ち、風待ち、飲料水補給などを目的に、当
成されていた。瀬戸内海を航海する純友軍団の
前半であり、この時期、宮浦では既に集落が形
が瀬戸内海を中心に活躍したのは一〇世紀中葉
宮浦には古くから二つの伝承が受け継がれて
いる。その一つは、純友伝説である。藤原純友
住の地となったようである。
集落の終焉は一六世紀末であり、それ以降、無
発掘地区から一七世紀以降の遺物は出土して
いないので、発掘の成果だけからすると、宮浦
れている。
ら、土石流発生は一六世紀後半から末と想定さ
残っている。土石流下の集石遺構や出土遺物か
A区のほぼ中央部に、
一六世紀後半になると、
南部の山麓からの土石流の跡が舌状丘陵として
る。
鉢、こね鉢、伊万里焼碗片などが出土している
一五世紀になると、A区東部から一二~一三
世紀の遺物に混在した状態で、備前焼の甕、擂
一四世紀と見られる遺物は、
一一世紀と同様、
確認していない。
篋印塔で、室町時代初頭の造立のようであり、
最初の宝篋印塔造立は、睦月島の古田家一号宝
ており、考古学的にもその事を立証している。
側に立ち、
大いに活躍したことが知られている。
朝時代の忽那氏は『忽那家文書』などから南朝
(一三七二)の造立紀年銘が残っている。南北
長師真福寺板碑は貞治年間(一三六二~一三
七〇)の造立紀年銘が、小浜の板碑は文中元年
立された石造物は板碑であろう。
篋印塔も、忽那氏一族の活躍に見合うようなも
輪塔が造立されている。五輪塔に続いて多い宝
うであり、南北朝時代になって前述の板碑や五
石造塔造立は鎌倉時代に盛んになるが、忽那
諸島には鎌倉時代と断定出来る石造塔はないよ
篋印塔だけである。
寺の板碑と、同寺の五輪塔、元怒和の六地蔵宝
諸島で造立紀年銘の残るのは、小浜と長師真福
忽那諸島には、中世の五輪塔、宝篋印塔、無
縫塔、板碑などの考古資料が残存している。し
しく、集中豪雨などによる土石流や土砂崩壊で、
土錘は総て一二~一三世紀のA区からの出土
なり、若宮八幡宮だけが取り残されたと云われ
これに続くのが元怒和三好家一号塔で、石質は
小浜の板碑の造立年号は、南朝側の年号を記し
のの造立は見られない。忽那諸島で最も早く造
かし、造立紀年銘の残る石造塔は少ない。怱那
八 中世の石造塔
集落を放棄した可能性も考える必要があろう。
で、時期によって大きく変化している。これが
ている。ただ、A・B区の発掘調査で、火災の
ともに花崗岩である。
ので、周辺一帯で生活が行われていたと見られ
漁法の変化によるものであるのかどうかなど
痕跡が全く検出されなかったので、信憑性に乏
になると内研土師器とともに輸入陶磁器である
は、今後検討すべき課題である。
19
安土桃山時代になると、加工の容易な安山岩
の小型の宝篋印塔が、各島内に多く造立される
ようになる。その最初が安土桃山時代初頭の二
神島の二神家一号塔である。元怒和六地蔵塔は、
「慶長十年」の墨書記入が残る希有の例であり、
中世様式の残る終末期の宝篋印塔である。宝篋
印塔造立の終焉は江戸時代前期の睦月北塔であ
ろう。
この他、塔身に座像仏を刻入した睦月梅の子
一号塔や、格狭間が「鳥」形をした長隆寺五号
塔のような特殊な宝篋印塔もあるが、これらは
対岸の伊予市域との結びつきが強いようであ
る。
(「愛媛県中島町宮浦遺跡発掘調査報告書」2002年)
図4.宮浦遺跡の位置
20
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
わ じま
みやうら
発掘調査の様子
えん とう がた ど すい
ゆう こう ど すい
おもり
と有溝土錘
(右)(漁業の錘) 円筒形土錘(左)
左:長さ5.5㎝
鉄製品 左上段:カスガイ(左6.4㎝)
くぎ
左下段:釘
か
じ
てっさい
右:鍛冶の際に生じる鉄クズ(鉄滓)
しものせき
あか ま いし
すずり
じ き
せい じ
わん
りゅうせんよう
山口県下関・赤間石の硯 中国製磁器(青磁)の碗・龍泉窯
幅8.0㎝
底部径5.5㎝
か へい
中国・北宋時代の貨幣
か ゆう げん ぽう
「嘉祐元宝」
(初鋳は11世紀中頃)直径2.2㎝
21
みやうら い せき
ぬ
い こう
宮浦遺跡
所在:怒和島・宮浦
さい し
祭祀遺構での土器出土の様子
一 「忽那家文書」の全体像
は、文化庁美術学芸課の調査を経て国の重要文
感じた。しかし平成二十一年度に「忽那家文書」
市内でも思いのほか知名度が低いことに驚きを
化財とされていたものの、県内のみならず松山
ないが、この有名な文書群は、愛媛県の指定文
あれば「忽那家文書」の存在を知らぬものはい
家文書」が掲げられている。中世史の研究者で
伝える」とあり、代表的な文書群として「忽那
ついては、「伊予の忽那氏が南朝関係の文書を
と記される。ところで九州と海を隔てた四国に
には、「九州は武家文書の多く残っている地方」
藤進一氏著『古文書学入門』(法政大学出版会刊)
も多くの読者をもつ古文書学の教科書である佐
全国的に見るならば、中世の武家文書が数多
く伝来している地域は九州であろう。今日、最
はじめに
そこで四国が誇るべき中世古文書としての
「忽那家文書」の概要をふまえ、その中の数通
待する。
世武家社会の新たな姿が明らかになることを期
進み、伊予国内における、また同国を通した中
要文化財「忽那家文書」を活用した研究が更に
たな視点と知見が提示されている。今後は、重
史研究』一一号)等には、研究史を踏まえた新
おける河野通元の動向を中心に―」
(
『四国中世
同氏「伊予河野氏と室町幕府―応永二十年代に
奈 氏「 伊 予 守 護 と 忽 那 氏 」
(
「 史 艸 」 四 九 号 )、
中世伊予の人と地域』伊予史談会刊)
、小林可
朋氏「忽那家の海上支配」
(山内譲氏編『古代・
成果があいついで公刊された。たとえば山内治
また近年、この文書群を丹念に読み解いた研究
れており、
容易にその内容を知ることができる。
され、また『愛媛県史』
(史料編)にも収載さ
で『忽那家文書』
(伊予史料集成)として刊行
る。個々の具体的な内容については、前掲の小
ずれも従来紹介されることのなかった史料であ
として知られるのは、AからDまで四件の百九
H 懐中守札秘伝 一巻
の 八 件 で あ る。 右 の 史 料 中 で、「 忽 那 家 文 書 」
G 伊予国忽那藤原相伝系図 一巻
F 藤原俊親像 一鋪
E 小笠原流弓馬秘伝 一巻
D 忽那嶋開発記 一巻
C 忽那一族軍忠次第 一巻(一通)
B 後醍醐天皇綸旨 一巻(一通)
A 忽那嶋相伝證文 三巻(全百七通)
那家文書」とは、
の全点にわたり調書を作成した。現存する「忽
たり原本調査を実施させていただき、下掲八件
のご厚意により、平成一八・一九年の二度にわ
る。また「忽那家文書」を所蔵される忽那肇氏
学芸課刊、平成二一年)からその概要が知られ
忽那家文書を読み解く
松山市中島に現蔵される「忽那家文書」につ
いては、
小林可奈氏「忽那家文書の伝来と特質」
化財に指定され、国民全体の歴史的な宝として
をとりあげ、内容的な特徴や歴史的な役割とと
林氏論考に譲ることにしたい。ここで成巻・軸
日本女子大学教授 永 村
眞
(
「日本女子大学大学院文学研究科紀要」一四号、
認定された。今後は原本を現蔵される忽那肇氏
もに本文書群の性格について、簡単に紹介する
装されているA・B・Cについては、その一部
平成一九年)
、
『忽那家文書目録』(文化庁美術
と文化庁・愛媛県・松山市が協力して、将来に
ことにしたい。
鎌倉時代、巻二(四四通)が南北朝時代、巻三
を除いて正文であり、しかも巻一(二三通)が
通・一巻であり、E・F・G・Hの四件は、い
わたり本文書群の保存が図られるわけで、これ
さて「忽那家文書」は、すでに景浦勉氏の手
は大いに慶賀すべきことである。
22
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
役割を再評価する良き素材となろう。
であり、南朝が西国において果たした政治的な
に成巻される南北朝時代に発給された南朝文書
窺える。加えて本文書群で注目すべきは、巻二
平均しており、中世文書群としての質の高さが
( 四 〇 通 ) が 室 町 時 代 と い う よ う に、 各 時 代 に
し、忽那氏としてのまとまりを保ちつつ、
「忽
江戸時代には帰農して忽那嶋と対岸北条に散在
滅亡した。
この戦乱なかで命脈を保った一族が、
豊臣秀吉の四国征伐のなかで、河野氏とともに
護河野氏の配下に入り、
天正一三年(一五八五)
領を得た。室町時代に入ると、忽那氏は伊予守
那氏はしばしば「忽那水軍」と称されているが、
的な姿を見ることができる。ところで四国で忽
る。そこで「忽那家文書」の中から注目すべき
様式をもつ良質な中世武家の文書群と評価でき
「海の武士団」という性格をもつ忽那氏が伝
えた「忽那家文書」は、古文書学的にも多様な
那家文書」を守りながら今日に至っている。
「忽那家文書」はこの呼称には似つかわしくな
数点をえらび、その内容から忽那氏の足取りを
これらの史料群を一覧すると、そこには鎌倉
時代において登場した地頭御家人の一つの具体
い中世忽那氏の実像を語ってくれる。つまり忽
たどることにしたい。
上交通に深く関わりをもつ「水軍」村上氏より
実態を見いだすことは容易ではない。つまり海
〔1〕承元二年(一二〇八)潤四月廿七日 将
したい。
まず「忽那嶋相伝證文」巻一に貼り継がれた、
整った形式をもつ鎌倉将軍家の発給文書に注目
送られ、これが「忽那家文書」の一通として伝
には「地頭職」に補任された忽那国重のもとに
に「伊予国忽那嶋の住人」と記されるが、実際
(将軍実朝)の意向を受けて、将軍
「鎌倉殿」
家政所が発給した下文は、宛所(宛先)が文中
(原漢文、以下同じ)
承元二年潤四月廿七日 惟宗(花押)
前図書允清原(花押)
も、鎌倉時代に地頭御家人として生まれ、室町
軍家政所下文
えられた。この「下文」は将軍家が発給する文
二 文書を読む
那氏が瀬戸内海に浮かぶ中島(忽那嶋)に本拠
をもったことから、必然的に海に熟達していた
一族であることは言うまでも無いが、同氏はあ
くまで忽那嶋のみならず四国・中国に所領をも
時代以降には守護大名・戦国大名へと成長を遂
書の中で最も格の高いものであり、特に所領の
(付箋)
げた毛利氏に類する一族が忽那氏であったとい
「右大臣実朝公安堵の御下文」
る。この下文は忽那氏にとって、本貫の地(名
給付や安堵にあたり用いられる文書形式であ
える。
する地頭職の事
補任
(忽那)
する最も重要な文書である。また忽那嶋の「地
字の地)である忽那嶋における本領の権利を証
て、 先 例 に 任 せ て 沙 汰 を 致 す べ き の 状、
頭職」に補任された国重は、「親父兼平の譲状」
藤原国重
しき
右人、親父兼平の譲状に任せ、彼の職とし
忽那嶋の地頭として補任され、さらに四国本土
鎌倉殿の仰せに依り、下知すること件の如
に基づいて、その職の継承を「鎌倉殿」に認め
(源実朝)
にも進出し、南北朝時代には南朝方について瀬
し。以て下す。
氏の足跡をたどることができる。鎌倉時代には
世紀)に忽那嶋の開発領主として登場した忽那
さ て「 忽 那 家 文 書 」 か ら、 平 安 院 政 期( 十 二
下す 伊予国忽那嶋の住人
つ陸上の御家人であって、「水軍」と呼ばれる
承元二年潤四月廿七日(1208年)
戸内海沿岸に転戦し、四国・中国の本土側に所
23
「将軍家政所下文」
成巻された時点で付けられたものと思われる。
その筆跡から江戸時代に「忽那嶋相伝證文」が
お「右大臣実朝公安堵の御下文」との付箋は、
本領を占めていたと考えることができよう。な
任に先立つ平安院政期に、その父俊平が同島に
伝が記されており、少なくとも兼平の地頭職補
那嶋開発記」には〔俊平―兼平―国重〕との相
職」に補任されていたことは確かである。「忽
られたわけで、少なくとも兼平の代から「地頭
う。
が重要な役割を果たしていたことがうかがえよ
域の政治的な混乱を沈静化するためにも、同氏
に本領安堵の綸旨が下されていることから、地
は、決して厚礼とは言い難い。とはいえ忽那氏
の書止め文言と、本紙に宛所が記されない形式
天皇綸旨の、
「これを悉くせよ、以て状す」と
化が進んでいることが見て取れる。また後醍醐
てから、百二〇余年を隔て、忽那氏本領の細分
承元二年(一二〇八)に「忽那嶋」を安堵され
は「忽那嶋東浦」であり、その四代前の国重が
延元二年二月卅日
事、馳せ参じ軍忠を致さるべきなり。仍っ
高氏并に直義以下の凶徒等を誅罰するの
輔某軍勢催促状
〔3〕延元二年(一三三七)二月卅日 中務大
書を次に引用する。
う。
て執達すること件の如し。
朝に与する重要な契機となったと考えられよ
そこで南朝側についた忽那氏の活躍を語る文
次に「忽那嶋相伝證文」に連券として貼り継
がれることなく、独立して掛幅装とされた後醍
ところで綸旨を下された忽那氏が、後醍醐天
皇の政治的な立場を如何ほど正確に理解してい
中務大輔(花押)
(忽那義範)
忽那嶋東浦下野殿
醐天皇綸旨に目を向けたい。
後醍
・直義兄弟を「凶徒」
本文書は足利尊氏(高氏)
として、誅伐のための出陣を忽那義範に命じた
〔 2〕 建 武 元 年( 一 三 三 四 ) 十 二 月 廿 日
たのかは明らかではないが、少なくとも綸旨を
もので、縦一三糎、横一七・五糎という小さな
格の高い文書であると認識していたことは確か
醐天皇綸旨
伊予国忽那嶋東浦の地頭職、勲功の賞に募
料紙(小切紙)に書かれている。実は南朝方か
ら発給された文書の多くがこの小切紙に書かれ
である。そして後醍醐天皇綸旨が、忽那氏の南
てへり
ことごと
建武元年十二月廿日(1334年)
り、忽那弥次郎重清をして、元の如く知行
てん ぎ
せしむべし者 、
天気かくの如し。これを悉くせよ、以て状
す。
延元二年二月卅日(1337年)
少納言(花押)
「中務大輔某軍勢催促状」
建武元年十二月廿日 右の綸旨が「忽那家文書」の中でも特別扱い
されてきたことは、成巻された他の文書と一括
されることなく伝えられたことからも明らかで
しゅく し
ある。まず本文 書の料紙は、紙面が 薄墨色の、
宿紙と呼ばれる漉返紙である。この宿紙は、主
に綸旨・院宣など天皇・上皇が発給する文書に
用 い ら れ る。 後 醍 醐 天 皇 は 忽 那 重 清 の「 勲 功 」
に対して、右の綸旨を発給して「忽那嶋東浦の
地頭職」を安堵した。重清が安堵された地頭職
「後醍醐天皇綸旨」
24
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
ているが、これは一つには十分な料紙の備えの
中より寄せ来る、建武二年二月十六日。
一野本式部大夫貞政并に河野四郎通任、府
もとどり
ない戦陣で作成されたため、今一つには「髻の
一当国赤瀧城にて、建武二年三月より五月
に至る。
一井門にて合戦す、延元二年四月より五月
す、延元二年四月廿四日。
一河野彦四郎入道と桑原城に懸け合い合戦
し、追い返し畢ぬ。
一和介浜に、大将細河三位と懸け合い合戦
年三月六日に責め落し畢ぬ。
一足利上総入道代と当嶋に合戦し、延元二
二年二月に至る。
一会原城にて、建武二年十二月廿九日より
に至る。
綸旨」のように使者が密かに宛先に届けるため
であったとも考えられる。
これら軍勢催促状をはじめとする軍事行動の
なかで発給された文書から、忽那氏の戦歴を具
体的に知ることができる。忽那氏は軍勢催促状
を受けると、これに応じる意思を記した請文を
提出して戦場に赴く。戦陣に到着すると直ちに
着到状を呈して證判を受け、さらに戦場におい
て軍功をあげると軍忠状を侍大将に提出して證
判を求め、これらの軍功を賞する感状等をとり
まとめ、改めて南朝方に提出して恩賞を申請し、
その結果として〔2〕のような本領安堵や新恩
一同三年三月、湯築城を責む。
一同年七月十四日、道前の土肥城に後措し
す。
一同九月三日、中道前に懸け合い合戦す。
他国の合戦
一元弘三年、讃岐鳥坂に合戦す、大将河野
通総・通増。
一紀伊国飯森城にて、大将足利尾張守、建
武元年。
一山道・海道に合戦す、大将洞院右大将殿、
時に左衛門督なり。
一山門へ両度の臨幸に祗候し、京都に度々
発向す。
一高井城に、延元三年六月より同七月に至
一京八幡城に籠る。
一淡路に合戦す。
給付がなされた。
一河野城に発向す、同四月廿六日。
一周防国加室に合戦す、延元四年七月七日。
一安芸国波多見に合戦す。
一和泉堺浜に合戦す。
「 忽 那 家 文 書 」 の 中 に、 南 北 朝 時 代 に お け る
忽那氏の軍功が書き上げられた、次掲の巻子仕
一和介浜に合戦す、同年七月十日。河野対
馬入道善恵、同十二日、宮山城に押し寄
一周防国屋代嶋にて、大将中院殿。
り合戦し、責め落し畢ぬ。
立ての注文が伝来する。
せ る も、 即 ち 責 め 落 し 畢 ぬ。 同 十 三 日、
一備後国鞆に合戦す。
〔4〕(南北朝時代)
忽那一族軍忠次第
忽那一族軍忠の次第
道前西条城を責め落し畢ぬ。
一延元五年二月十二日、
大浜城に後措しす。
興国二年(一三四一)に至る間に参戦した戦闘
本書には、忽那一族が伊予国内のみならず中
国・畿内における、元弘三年(一三三三)から
(下略)
一興国元年十月十日、当嶋の泰山城に、安
の記録が列記されている。全四九項の軍功を果
同十三日に左河々原に合戦す。
芸国守護武田寄せ来たる。或いは討ち留
として、讃岐・山城・和泉・紀伊・淡路・周防・
の一一項が列記されるが、特に「他国合戦」分
たした戦場のなかで、伊予国内の二一項、他国
良城に籠る。
一同二年十二月廿日、道後に合戦す。同恵
め、或いは追い返し畢ぬ。
一 延 元 三 年 九 月 廿 九 日、 播 磨 塚 に 合 戦 す。
伊予国所々の合戦
一喜多郡根来城に、宇都宮家人として、元
弘三年二月に発向す。
たち
一府中の 守護参河権守貞宗の 館に合戦す、
うるう
後 二月十一日。
一重ねて喜多郡根来城に、二月一日より同
十一日に至り合戦す。
一周防・長門両国探題上野前司時直の星岡
おわん
城槨の間、数輩を討ち留め畢 ぬ。
25
忽那一族軍忠次第
安芸・備後などの地域への出陣が記録され、そ
の軍事行動の範囲の広さが知られる。
ところで軍忠次第に書き上げられる軍功を一
覧すると、軍忠状などで戦闘の実態を確認でき
るのは一割程度に過ぎない。また軍忠状が極め
て具体的に戦闘や軍功の内容を記した文書であ
るのに対して、軍忠次第の記載は極めて簡略で
あり、しかも年月日のない記事も散見される。
それにも関わらず、忽那一族の国内外での四九
項にわたる軍忠が列記されていることは、軍忠
状等によることなく多分に記憶や伝承等によっ
て本書が書き上げられたと考えざるをえない。
南北朝時代のある段階で、軍忠状のみならず記
憶や伝承によりながら軍忠次第が作成されたの
は、軍功を集約することにより、一族としての
功績を示すためであり、とりわけ南朝に属して
活躍した姿を顕示しようとした強い意思を見過
ごすことはできない。
「 忽 那 家 文 書 」 の 四 通 か ら、
以 上 の よ う に、
平安院政期に忽那嶋に本領を置いた忽那氏が、
鎌倉殿の御家人として地頭職に補任され、島内
から四国本土において重要な政治的立場を占め
るとともに、南北朝時代には南朝方に与して伊
予国内のみならず畿内の戦場に赴き軍功を積
み、一族として発展を遂げた様を確認すること
ができた。後述するが、室町時代に忽那氏は伊
予守護河野氏と連携を取りながら、室町幕府と
も直接に関係を保ち、瀬戸内海西部の政治的な
安定を保つための大内・大友・河野三氏の勢力
26
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
均衡に重要な役割を果たしたことも、鎌倉時代
云い、忠儀と云い、言語に及ばざるもの也。
比類なく、一戦ありて討死し訖ぬ。本儀と
によって「延元二 年二月卅日 一宮中務大輔
親王の令旨を賜る」と記される。このように忽
蔵)を送っており、同氏の滅亡時における忽那
軍功を褒賞する感状(愛媛県歴史文化博物館所
を下し賜る事、関白殿の子孫の故なり」との注
勧賞として左少弁官に任ぜらる。我もまた勅筆
〔 2〕 の「 勅
た だ し「 忽 那 嶋 開 発 記 」 で は、
書 の 御 綸 旨 」 が 下 さ れ る に つ い て、「 父 重 義、
名が列記されている。
れた全百七通のほとんどが参照され、その文書
丑
以来の活躍を考えあわせるならば首肯できる。
那家歴代ごとに、「忽那嶋相伝證文」に収めら
天正七年
卯月廿日 通直(花押)
仍て状す件の如し。
忽那氏が帰農した江戸時代に、忽那家に伝来
する文書を素材として、同氏の歴史をたどる「忽
氏当主であったことが知られる。本書の奥書か
記が加えられ、
後醍醐天皇の綸旨を受けたのは、
三 「忽那嶋開発記」の編集
那嶋開発記」が編集された。この「忽那嶋開発
ら、亀寿丸は同一三年の秀吉軍による攻撃のな
重清が「関白殿」
(藤原道長)の子孫であるか
忽那亀寿殿
として、伊予花瀬の合戦で討死した忽那通著の
記」は、その奥書に、
かで命を保ち、同一五年に本書を編述したこと
八五)豊臣秀吉の四国征伐のなかで焼失し見る
け寺社を建立した。それらも天正一三年(一五
二三代にわたり忽那嶋を本拠として、城館を設
時に天正十五 年
とあり、忽那氏は藤原道長の末葉親賢を祖とし、
き次第なり。
崩れ落ち、末世に智る者希なる事、口惜し
嶋 の 所 々 の 堅 城、 郷 内 の 館・ 神 社・ 仏 堂、
てより廿三代、都べて五十九代なり。忽那
白の裔孫右大臣藤原親賢朝臣、忽那を称し
そ も そ も 当 家 は、 天 児 屋 根 命 よ り 廿 一 世
(藤原道長)
大織冠藤原内大臣より十四代桂皇子御堂関
をもつ編者の手になるものであろう。
とられ、また人物比定の正確度も高く、高い見識
の編集には伝来文書に依拠した合理的な手法が
丸に仮託して編述されたものと考えられる。そ
「 忽 那 嶋 開 発 記 」 は そ の 書 名 が 語 る よ う に、
同島に忽那氏の足跡を後世に伝えるため、亀寿
れたものと判断される。
が、その筆跡から推して江戸時代前期に作成さ
印が添えられており、本書は自筆の正文となる
書には、本文と同筆の亀寿丸の自署・花押・黒
になる。ただし現存する「忽那嶋開発記」の奥
きであろう。そして中世以来の日本の地域社会
に関わるのみならず、広く鎌倉時代以来の武家
しても、江戸時代前期の伊予国にあって、地域
このように異を唱えるべき見解は見られると
も当を得たものとは言えない。
とし、また文書名も「令旨」とするが、いずれ
えがたい。また〔3〕では、軍勢催促状の発給
であり、とうてい「関白殿の子孫の故」とは考
予国内における政治的な役割を配慮してのこと
綸旨の発給は忽那氏の「勲功」とあわせて、伊
らであると解釈している。
しかし前述した様に、
(マヽ)
忽那亀寿丸謹んで書す。(花押)(黒印)
影もなくなり、これを歎いた忽那亀寿丸(通充)
〔1〕を
たとえば本書の忽那兼平の項には、
(鎌倉右大将源実朝卿)
参照して、
「一同御所の御下文 承元二 戊辰年閏
四月廿七日」と記されており、編者は原本を確
がもつ文化的な素地の高さを、ここにも確認す
が、一族の隆盛を後世に伝えるために、同一五
ところで同じく江戸時代前期には、伝来した
文書の正文が時代順に配列され、鎌倉・南北朝・
て本書を編集した学問的な水準は高く評価すべ
政権に関する知識を持ち、一定の合理性をもっ
者である「中務大輔」を「一宮中務大輔親王」
年に本書を編述したという。本書の編者とされ
認した上で、
この下文に「
(実朝)御所の御下文」
亥
る亀寿丸については、天正七年(一五七九)に
ることができる。
建武元甲戌十一月 十 日
[廿]
との呼称を与えている。また忽那重義の項に、
弥次郎重清頂戴す」とし、
忽那重勝の項に、〔3〕
〔2〕を「後醍醐天皇勅書の御綸旨
河野通直が、
去る十五日、花瀬の合戦において、味方利
を失い敗北の処、親父式部少輔、則ち扶助
27
り成巻と編集は江戸時代前期における「忽那家
踏まえて「忽那嶋開発記」が編集された、つま
跡は同筆とは言えないが、文書の配列・成巻を
になろう。なお付箋と「忽那嶋開発記」との筆
付箋と成巻は当時の歴史研究の成果ということ
考慮した上で、花押の記主が推定されており、
り付けられ、個々の文書を解釈してその役割を
所々に文書名や花押の記主などを記す付箋が貼
三巻として成巻された。成巻された文書には、
室町時代に三分された上で、「忽那嶋相伝證文」
め、管領細川満元の意向を受けた通元が忽那氏
伊予国東部の支配をめぐり細川氏と対立したた
六年(一四一六)
、
河野通元と対立する同通久が、
らぬ助力をもとめたものである。これは応永二
から芳恩がなされたことを慶賀し、今後も変わ
河野通元を軍事的に支援した忽那氏へ、将軍家
直接「久津那殿」のもとに届けられた書状は、
意味をもつことは言うまでもない。使僧の手で
三宝院満済は、将軍足利義持・義教の信頼を
受け幕政に参画しており、その書状が政治的な
久津那殿
改めて「忽那家文書」を見直すことによって、新
となるはずである。このような構図のなかで、
のなかで果たす役割を考え直す上で重要な条件
り京都からの視線は、忽那氏と伊予国が中世史
も重視されることの少なかった幕府の眼、つま
の足跡であるが、従来の研究史のなかで必ずし
地域史のなかで検討が重ねられてきた忽那氏
接触を続けたのであろう。
持に積極的な役割を果たすと確信し、同氏との
定には不可欠であり、満済は忽那氏を均衡の維
な環境が想定される。つまり大友・大内・河野
文書」をめぐる一連の検討作業の成果と考える
の支援のもとで、通久追伐のため出陣した事態
たな伊予と瀬戸内海の中世史が描き出されよう。
河野六郎方の事に就きて、忠節を致され候
書状である。
において検討された、以下の醍醐寺三宝院満済
予 守 護 と 忽 那 氏 」 と「 伊 予 河 野 氏 と 室 町 幕 府 」
いる。その一つが、前掲の小林可奈氏の論考「伊
研究のなかでも新たな視角や知見が提示されて
「忽那嶋開発記」が江戸時代前期における「忽
那家文書」の研究成果であるとすれば、近年の
おわりに
那氏の立場を、京都からの視線で捉え直すこと
忽那嶋を本拠として伊予国内に影響力をもつ忽
政治情況を広域でとらえる、
その一つの方法が、
過ごされてきた史実である。そして伊予国内の
渉をもつ立場にあったことは、従来の研究で見
前から続いており、同氏は幕府要人と直接に交
状の文面から、忽那氏と満済との接触はこれ以
氏へ直接送られた満済書状といえる。しかも書
ここで注目すべきは、伊予国内の河野・細川
両氏の対立が、国内のみならず幕府にとっても
のような場がもたれ、地域の皆様が守ってこら
豊富な内容を持っています。今後も継続的にこ
ける拙稿で語り尽くすことなど到底できぬほど
は、シンポジウムにおける報告や、本論集にお
いことです。しかし「忽那家文書」のもつ魅力
ささかなりとも関わる立場として大変に悦ばし
探る」が開催されたことは、文化財の保存にい
今回、松山市当局により「忽那家文書」の展
示とともに、シンポジウム「忽那諸島の歴史を
三氏により形作られる勢力均衡がこの地域の安
べきであろう。
に関わるとされる(小林氏前掲論文)
。
の由、伝え聞くの間、始めての事ならず候
であり、ここに同氏をめぐる従来とは異なった
れた文化財の価値を、常に問い返されるよう心
[付言]
といえども、今時分殊に芳恩の至り、悦喜
評価が生まれることになる。
影響力をもつ瀬戸内海西部の政治的かつ経済的
関心の対象であり、それを象徴するものが忽那
せしめ候。いよいよ事毎に等閑を存ぜられ
より願っています。
(通元)
ざれば、本意たるべく候。委細はこの僧申
さらに何故に満済が忽那氏と直接に接触を
もったのか、その背景には忽那・河野氏が強い
すべく候也。謹言。
(満済)
(花 押)
五月廿八日 28
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
ていたことがわかる。その後、同氏一
鎌倉期より弓馬術の名手として知られ
長清」の名が挙げられており、同氏は
なる御家人の一人として「小笠原次郎
よ れ ば、 将 軍 家 に 仕 え る「 弓 馬 堪 能 」
着く。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に
ま ず 京 都 小 笠 原 氏 の 由 緒 を 辿 る と、
甲斐源氏の一族である小笠原氏に行き
が重んじられたことに始まる。
武家社会において同氏家伝の武家故実
て著名であるが、その由来は、かつて
は「小笠原流」は礼儀作法の流派とし
り、その所在が再確認された。現代で
近年の「忽那家文書」の原本調査によ
れた弓馬術の故実書である。
当史料は、
京都小笠原氏より伊予忽那氏へ伝授さ
「 忽 那 家 文 書 」 所 収 の「 小 笠 原 流 弓
馬 秘 伝 」 は、 文 明 一 七 年( 一 四 八 五 )
このように「小笠原流弓馬秘伝」の
伝来は、同氏の弓馬故実が伊予国の在
れる。
していることから、その近親者と思わ
政清の「聞き書き」を「かたみ」と称
る 人 物 は 未 だ 明 確 に で き て い な い が、
お忽那氏に伝授を行った小笠原宗之な
勝カ)に伝授したと考えられよう。な
文明一七年に同宗之が忽那藤次郎(通
授された「聞き書き」を写したものを、
と記される。つまり小笠原政清から伝
公〈ヨリ〉忽那通勝 江御譲、文明之頃」
候べし、しん上 忽那藤次郎殿」とあ
り、表紙見返には別筆で「小笠原宗之
きを移しおわんぬ、かたみ ニ御らんじ
十一日、小笠原備前入道宗 信の聞き書
し て 当 史 料 の 奥 書 に は「
法など、当書は図解を交えながら弓馬
さて「小笠原流弓馬秘伝」の内容に
目を向けてみると、例えば弓替えの作
担っていった。
七月
故実の礼法を詳細に記述している。そ
なり、武家故実において中心的役割を
室町幕府の公式儀礼を差配するように
(
『親元日記』)。以後、京都小笠原氏は
小笠原持清が「御師範」を務めている
記』)、七代将軍義勝の弓始に際しては、
小 笠 原 持 長 が 登 場 し(『 満 済 准 后 日
政弘―元長―元清 満長
【小笠原氏略系図】
ある。
「武家」忽那氏の姿が見えてくるので
伝来から、武家の有識故実を重んじる
な か ろ う か。「 小 笠 原 流 弓 馬 秘 伝 」 の
なものにする手立となっていたのでは
方武士が中央政権との関係をより強固
は、自らの地位向上だけではなく、地
笠原氏より弓馬故実を会得すること
要視されていたことを踏まえての行動
小笠原氏の武家故実が中央政権より重
ていない。しかしその背景には、京都
については、現段階では明らかになっ
笠原流弓馬秘伝」の伝授を受けた場所
所蔵「陶弘護画像賛」)。忽那氏が「小
は周防国山口へ下向し、陶弘護に対し
あったようである。その一方で、元長
に弓馬故実の教えを請うことが多々
地領主が上洛した折に、京都小笠原氏
事記』)。室町中期になると、地方の在
事例に注目されたい(「『大乗院寺社雑
の古市氏らに弓馬故実を伝授している
コラム
族は京都や信濃など各地へ派生してゆ
【参考文献】
弓馬故実 の 伝 授 を 通 し て
日本女子大学大学院
小林 可奈
−
京都小笠原氏と伊予忽那氏
くが、足利将軍家の弓馬師範としての
地領主層にまで受用されていたことを
・二木謙一氏『中世武家儀礼の研究』
清)
持長―持清―政清―尚清
とみて間違いなかろう。つまり京都小
て弓馬故実を伝授したという(竜豊寺
地位を確立したのが京都小笠原氏であ
示しており、大変興味深い。そこで同
(吉川弘文館、一九八五年)。
文明十七
る。 そ の 時 期 に つ い て は 諸 説 あ る が、
じく文明一七年、小笠原元長が大和国
(政
六代将軍足利義教の「御弓師」として
29
前書
本文
奥付
−
一方忽那氏側では、同じ事件について
書」
) と、 そ の 軍 忠 を 報 告 し て い る。
を射られ候ひおわんぬ」
(
「吉川家文
〇月)一一日防戦のところ、道覚左足
う武士が、「海上手久津那島合戦、
同
(一
寄手の中にいた武田方の河内道覚とい
が 忽 那 島 に 来 襲 し た。 こ れ に つ い て、
懐良親王滞在中の興国元年(一三四
〇)一〇月に安芸国の有力武士武田氏
る。
歴史の一齣を紹介してみることにす
る。忽那一族が懐良親王とかかわった
て、その護衛の任にあたったからであ
後醍醐天皇の皇子懐良親王を島に迎え
南 北 朝 時 代 だ っ た の で は な か ろ う か。
が、
一族の人々が最も熱く燃えたのは、
長い歴史を有する忽那氏は、それぞ
れの時代に特色ある活動を展開した
「忽那島において城郭を構え」という
(一三三八)の「忽那家文書」の中に、
続したかは明らかでないが、延元三年
がいつ誰によって築かれ、いつまで存
あろうことがよく理解される。この城
前に開けるその視野の広さにあったで
害の地であるというばかりでなく、眼
地として選ばれた理由が、ただ単に要
ことができる。泰ノ山の山頂が城郭の
動海域であった忽那七島をも一望する
城跡からは島内各地を眼下に望むこ
とができるばかりでなく、忽那氏の活
重なものである。
く、その意味でも泰ノ山城の遺構は貴
期までさかのぼりうる例は極めて少な
郭の中でも確実な文献によって南北朝
確認することができた。数ある中世城
きには、二段に削平された曲輪配置を
ちに案内してもらって山頂に登ったと
に地域史研究の仲間である地元の人た
ながら何とか登ることができた。以前
ているが、かつては雑木等を切り払い
山に登るのはかなり困難な状況になっ
である。現在は雑木等に阻まれて泰ノ
山の山頂に構えられた中世城郭のこと
この時戦場になった泰ノ山城は、島
の東北部の標高二八九メートルの泰ノ
る。激戦であったことが想像される。
との戦いも熾烈であった。すでに懐良
泰ノ山城における安芸の武田氏との
合戦もさることながら、伊予の河野氏
漕ぎ寄せてきたことであろう。
徴ある山容を目印にして北方から船を
いる。おそらく武田氏の軍勢はこの特
ンドマークであったことをよく示して
く、近海を航行する船舶にとってのラ
島の中心をなす山であったばかりでな
この眺めは、当時も泰ノ山が単に忽那
な い と 思 う が、 そ う で あ る と す る と 、
当時のものとそう大きく変わってはい
の私たちがフェリー上から見る景観は
ができた。これが泰ノ山である。現代
きわ高く突き出しているのを見ること
やや丸みを帯びた三角形の山容がひと
方面を遠望すると、島の山並みの中に、
フェリーに乗って北方海上から忽那島
は、忽那島近海を通過していた。この
に 廃 止 に な っ て し ま っ た )。 こ の 航 路
念なことにこの航路は平成二一年六月
行き来するフェリー航路があった(残
ところで、以前には松山市堀江港と
呉市阿賀港を結んで瀬戸内海を南北に
戦に備えたのであろう。
には、この泰ノ山城に拠点を移して合
侵入など、軍事的緊張の高まったとき
あったと伝えられているが、武田勢の
範 の 拠 点 は、 島 の 南 西 部 の 神 ノ 浦 に
軍)宮鎮西下向、御出立ならびに路次
の時の自分たちの功績を「同(征西将
果たした。彼らは「軍忠次第」に、こ
て い る。 こ の 九 州 渡 海 に あ た っ て も、
年には薩摩に着いたことがはっきりし
の頃であろうか。いずれにしても翌三
す れ ば、 出 立 は 興 国 二 年( 一 三 四 一 )
延元四年(一三三九)の春であったと
かでないが、仮に忽那島来島の時期が
立って九州へ向かった。この時期は定
このような多難な三年間であった
が、 や が て 懐 良 親 王 一 行 は 忽 那 島 を
促状であった。
うな、親王一行から発せられた軍勢催
件 の 如 し 」(「 忽 那 家 文 書 」) と い う よ
て は、 別 し て 抽 賞 を 行 わ る べ き の 状、
向せしめ、彼の輩誅伐せしむるにおい
の聞こえあり、しかれば早く島々に発
入 道 善 恵( 通 盛 )、 当 国 乱 入 の 由、 そ
し た の が、 例 え ば、「 朝 敵 人 河 野 対 馬
われる。そしてそのような士気を鼓舞
気がとみに高まっていたことがうかが
る。懐良親王の一行を迎えて一族の士
て知られるところであるが、忽那一族
た。道後湯築城は、河野氏の本拠とし
郡恵良城(松山市北条)等で合戦をし
と翌三年には伊予の道後湯築城や風早
交 え て い た が、 興 国 二 年( 一 三 四 一 )
コラム
「忽那家文書」
中の
「忽那一族軍忠次第」
文言がみられることからすれば、この
親王一行の来島以前にも、和気浜や道
供 御 の 事 」「 勘 解 由 次 官( 五 条 頼 元 )
山内 譲
松山大学教授
泰ノ山合戦
く
ご
か
げ
ゆ
の すけ
忽那義範の率いる水軍が大きな役割を
はそこまで攻め入ったものと思われ
えりょう
に、
「 当 島 泰 山 城、 安 芸 国 守 護 武 田 寄
前後に、南朝勢力の拠点として築かれ
前西条城(西条市)等で何度も干戈を
忽那一族と懐良親王
せ来たり、あるいは討留め、あるいは
たことまちがいないであろう。忽那義
くるわ
追返しおはんぬ」と記録にとどめてい
30
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
時は薩摩南朝方の拠点として重要な役
時代まで遡るのかはわからないが、当
いたから遺構のどの部分が懐良親王の
れる。谷山城は戦国時代まで存続して
下の腰曲輪の傍らには深い空堀も見ら
それを取り巻く土塁の一部が残り、崖
は、
三〇×五〇メートルほどの曲輪や、
る。千々輪城とも呼ばれる本城部分に
かれた城は、今も遺構をよく残してい
かって延びるシラス台地の先端部に築
端に位置する城である。西から東に向
入った。谷山城は、鹿児島市街地の南
方の中心人物谷山隆信の拠る谷山城へ
助けた。親王は薩摩到着後、同国南朝
渡海後も熊野海賊と連携しつつ一行を
ない。忽那一族は、懐良親王らの九州
九州へ渡ってから後も懐良親王と忽
那氏との縁が切れてしまったわけでは
に無事渡ることができたのである。
戸内の諸勢力に守られて目的の地九州
めている。こうして懐良親王一行は瀬
父子鎮西渡海の事」などと記録にとど
する。城の規模は広大で、丘陵上に点
湾に面した南北に細長い丘陵上に所在
の北端に当たり、城の遺構は、鹿児島
氏の拠点である。ここは鹿児島市街地
メートルの地点に位置する北朝方島津
海賊衆の攻撃の対象になった東福寺
城 は、 先 の 谷 山 城 の 北 方 約 一 三 キ ロ
ものと思われる。
賊」すなわち忽那一族も含まれていた
下数千人」の中には当然「四国中国海
福寺城を攻撃した。この「熊野海賊以
野海賊以下数千人」が島津氏の拠点東
と合戦に及んだ。同じ六月、今度は「熊
勢して、島津氏をはじめとする北朝方
さ ら に 六 月 に は い る と、「 四 国 中 国
海賊等」は谷山城の懐良親王一行に加
であったことがわかる。
朝方の武将にとって容易ならざる事態
すれば、この海賊衆の襲来が九州の北
すべし」と諸将に命じていることから
に対して島津貞久が「急速に用意を致
した(「旧記雑録前編」巻二二)。これ
肝 属 郡 ) に か け て の 沖 合 い を「 奔 通 」
南郷町)から大隅の肝付郡(鹿児島県
三十余艘」が日向の飫肥南郷(宮崎県
と、 ま ず 同 年 五 月、「 四 国 中 国 海 賊 等
朝方の守護島津氏の関係記録による
けめぐったのである。
の瀬戸内海や九州周辺海域を縦横に駆
忽那氏は、このように地理的、人的
ネットワークを駆使して南北朝内乱期
巻二二)。
まじさを伝えている(「前編旧記雑録」
て防戦」したと、海賊衆の攻撃のすさ
野海賊以下数千人、海陸共に寄来るの
の一人渋谷氏は、島津氏に対して、
「熊
もしれない。このとき城中にいた武士
も海からの攻撃には弱点があったのか
は隙があるようには見えない東福寺城
攻撃したに違いない。陸からの攻撃に
ちは、この東側斜面をよじ登って城を
の膝下まで船を漕ぎ寄せてきた海賊た
本丸あたりから東方を望むと、眼下
に は 鹿 児 島 湾( 錦 江 湾 )、 そ の 向 こ う
に想像できる。
の重要拠点であったらしいことは十分
い知るべくもないが、それでも北朝方
いるので、南北朝時代の様相はうかが
ことによって大幅に改変が加えられて
の祇園之洲に砲台が設けられたりした
時代まで存続し、しかも幕末には崖下
の曲輪が点在している。この城も戦国
辺には、さまざまな段差を設けて多数
ち
ぢ
わ
きもつき
び なんごう
割を果たしていたことが推測される。
在する曲輪をすべて合わせると南北一
お
懐良親王はこの谷山城近辺で五年ほ
ど過ごし、やがて九州制圧をめざして
キロメートルにもなろうかというほど
九州へ向かう忽那氏
北上を始めるが、それに先立つ貞和三
である。城の中心は現在城跡碑が建て
【参考文献】山内 譲『中世の港と海賊』
(法政大学出版局、二〇一一年)。
間、無勢たるといえども、身命を捨て
には桜島を目にすることができる。城
=正平二年(一三四七)夏、ふたたび
られているあたりであろうが、その周
31
南朝方の海賊衆が大々的に動いた。北
泰ノ山城跡
近世の二神家と二神島
系はここに断絶した。
主君を失った二神宗家は、
二神通範・通種を経て家種の代までに本貫の二
神島に戻り、近世の行政村「二神村」を庄屋と
して差配することになる(図1)
。
海の島で百姓の村の庄屋として、それぞれの近
同じ二神一族でありながら、片山二神氏の一
流は海を捨てた武士として、二神宗家は瀬戸内
後森二神家は廃藩置県までこの久留島家に仕
世を生きていく。両家は主君がたどった運命の
明暗によって、いわゆる「兵農分離」の分かれ
え、なかには伊予の名族「得能」姓を許された
神奈川大学日本常民文化研究所 客員研究員 関 口 博 巨
一 二神島の近世を探る
。
と二神宗家(以下、二神家とする)を中心に、
(2)
一方、二神宗家が仕えた河野通直(一五六四
~一五八七)は、来島通総ら恩顧の家臣たちに
海と島での暮らしぶりを解き明かし、各地に広
者もいる
瀬戸内海域を転戦した「海の領主」二神氏は、
裏切られ、天正一三年(一五八五)の小早川隆
がった二神一族との交流についてもあわせて展
道を進んだわけだが、本稿では、近世の二神島
豊臣秀吉や徳川家康による天下統一後の「近世」
景を主将とする豊臣秀吉の四国征伐で降伏し、
望してみたい。
中世後期、伊予国守護の河野氏や海賊衆の領
袖であった来島村上氏に従って、戦乱の四国・
をどのように迎え、どのように生き抜いたのだ
所領を奪われた。安芸竹原に隠遁した通直は、
2 典拠「豊田二神藤原氏子孫系図」
「二神村新
ろうか。瀬戸内海に浮かぶ二神島に視点をすえ、
1
4
7
注1 当主名右傍の算用数字は近世の歴代数。
同一五年七月に病死し、伊予の名族河野氏の正
種式(慶応三年十月没) 種倫
司郎
図1.近世の二神家歴代
近世という時代を問い直してみたい。
中世から近世にかけての二神氏の一族は、忽
那諸島の二神島に暮らした二神氏の宗家のほ
3
… 二神通範(元和二年七月没) 通種 家種(近世初祖、寛永五年四
2
6
月没) 種長(明歴三年九月没) 種忠(貞享五年六月没) 種次(享保
5
9
十年正月没) 種永(延享四年七月没) 種信(明和二年二月没) 種章(中
8
興、
寛政六年八月没) 種福(文政三年十二月没) 種五(慶応二年五月没)
四郎由緒親類附」
「過去帳」等参照。
か、各地に進出 して土井二神氏、片 山二神氏、
常竹二神氏、余戸二神氏、吉木二神氏、小川二
神氏、城辺二神氏などの諸流に分かれ、その内
)
部にさらに独自の「家」を形成していった (1。
このうち、片山二神氏の一流が従った来島村
上氏は、戦国時代には河野氏の重臣であったが、
来島を名乗った村上通総(一五六一~一五九七)
が豊臣方に通じるなど幾多の曲折を経て、慶長
六年(一六〇一)に日田・玖珠・速見三郡の内
陸部に領地を有する豊後国森藩一万四千石の大
名に収まり、通春の時代の元和二年(一六一六)
には久留島を称するようになった。片山流の豊
11
32
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
立 し た 複 数 の「 家 」 が 形 成 さ れ、 や が て「 衆 」
)
な し た が (3、
近 世 に か け て は、 そ の 内 部 に 独
並二神衆」や「風早二神衆」のような「衆」を
川一徳氏が指摘するように、諸流に分かれて「宅
野氏の被官となった二神氏は、石野弥栄氏や福
も所領を与えられていたことを伝えている。河
など、河野氏直轄領に近い伊予本土の風早郡に
神四郎左衛門尉が粟井安岡分・宮崎分・友包分
一二月一三日付けの河野教通宛行状などは、二
確認できる。たとえば、文明一一年(一四七九)
二神氏と河野氏との関係は、古文書によっても
二神家に伝わる系図類によれば、二神氏は、
一四世紀中葉には河野氏に従っている。実際、
違いないといえよう。
神氏が二神島(松島)に上陸していたことは間
善)の名がみえるので、一四世紀初頭には、二
若経の奥書には、大願主として種家の子吉種(法
堂)に伝わる元徳二年(一三三〇)六月の大般
真偽は不明だが、二神島の安養寺(当時は浦御
「二神氏系図伝書略記」の伝承では、伊予に
はじめて居住した二神氏は種家とされる。その
(一 ) 中 世 の 二 神 氏 と 二 神 島
二 中世から近世へ
の領主」として、島の
る家子衆を従える「海
警固所とし、家臣であ
山」と呼ばれた出城を
を構えた。さらに「城
るように居屋敷
(城郭)
両集落に睨みをきかせ
宇 佐 八 幡 宮 を 背 景 に、
は安養寺(浦御堂)と
集落があり、
「二神殿」
島には浦と泊の二つの
向けた。永禄年間の同
網野善彦氏は、二神
島の内部構造にも目を
)
いる (4。
ではないかと推測して
分かれて争っていたの
き残りをかけて両派に
時期、二神氏もまた生
村上氏が対立したこの
景浦勉氏は、河野氏と
予の地域史料を渉猟し
たことも知りうる。伊
名主や百姓・小百姓た
注1 西和夫『建築史研究の新視点二』
(中央公論美術出版、2000年)図9(16頁)に加筆のうえ引用。
知行分が設定されてい
的結合自体は消滅していくものと推察される。
ちのうえに君臨してい
2 囲みが現在の集落。丸印は井戸の位置
て詳細な研究を行った
また、二神氏が河野氏から二神島作職を安堵
される一方で(天文二〇=一五五一年二月二八
)
た(図2)(5。
33
日河野通直安堵状)、永禄年間(一五五八~六九)
の複数の文書から、この島に村上氏と今岡氏の
図2.二神島集落図
し、必要に応じて加工して公事としていたこと
れている。百姓たちは、海や山から産物を採集
き木」「ひじき」「かき」「くず」などが徴収さ
節 料 等 注 文 に よ れ ば、「 た わ ら こ( 海 鼠 )」「 た
目しよう。永禄二年(一五五九)の二神島成物・
納められた公事(年貢・所当以外の租税)に注
どのようなものであったのか。まずは二神氏に
は、その負担をになった島の百姓たちの生業は、
二神氏のほか今岡氏と村上氏は、領主として
年貢・夫銭・公事を徴収していたわけだが、で
戸時代三百年への「苦しい第一歩」にほかなら
とっては、戸田検地は高率の年貢を収奪する江
農民によって構成された」忽那諸島の村々に
られたという。しかしながら、
「非常に零細な
世の村」が設定され、
「小農民の自立」がはか
町誌によれば、天正一五年(一五八七)の戸
田勝隆による太閤検地によって、
忽那諸島に
「近
島の姿を、
まずはかいつまんで紹介しておこう。
誌』
(以下、町誌)に描かれた忽那諸島と二神
忽那諸島の歴史を集大成した基本文献『中島町
うなイメージでとらえられていたのだろうか。
ねばならない。
だけで評価しようとするところにある、といわ
し、瀬戸内海の島の暮らしを水田農耕の物差し
囲わずか一〇キロほどの島の百姓を農民と理解
しい違和感がある。町誌の記述の問題点は、周
の活力ある姿と、あまりにかけ離れている。二
こうした近世二神島の「極貧の農村」
しかし、
というイメージは、先に示した中世後期二神島
の二神家は、
この村へ「帰農」したというのだ。
神家の里帰りを「帰農」と表現することにも著
がわかる。
つぎは二神島に刻まれた海と島の物語を紹介
し、そのうえで「島の近世」の意味を考えるこ
居通幸(一五五七~一五九四?)は、村上通康
にも携わっていたことが推測されよう。なお得
とがわかる。二神氏が何らかの形で木材の生産
幸らから依頼された船材百本を用立てていたこ
「土地の生産性の低さと農業生産の停滞により
ら商人や職人として出稼ぎを行っていたのは、
産力の低い農村」であり、当地の百姓が早くか
作であるので、近世の米中心の経済の中では生
江戸時代の土地台帳の分析から、忽那諸島の
村々は「大きな河もなく、天水を利用しての耕
二神家文書のなかに、文政一三年(天保元、
一八三〇)九月付けの「寅歳風早島二神村現船
(一)文政一三年の船改め
二 海と島の物語
ないと評価されている。
の子で、来島通総の兄にあたる。山内譲氏によ
貧窮化していく農民が、再生産を維持していく
)
改 帳 」 と い う 史 料 が 残 さ れ て い る (7。
二神村
とにしよう。
れば、通幸の海城である鹿島城(北条市沖)の
必要から展開せざるをえなかったもの」と性格
に船籍を有する船の船主、帆の大きさや積載石
また、年不詳六月三日付けの得居通幸らから
の書状によれば、二神修理進と同弥五郎は、通
)
城代は二神豊前守が勤めていたという (6。
づけている。
活動を展開していたことも確認しておきたい。
と島という条件を活かした生産や流通などの諸
た、二神氏が掌握していた二神島の住民は、海
予における権力機構の一翼をになっていた。ま
ないことがあげられている。町誌が描く二神村
三斗余に過ぎず、しかもその半数は一石に満た
と、二神村百姓一人当たりの平均所持高が一石
力を示すとされる石盛が忽那諸島で最も低いこ
とも指摘している。その根拠として、米の生産
さらに町誌は、これほど生産力の低い忽那諸
島のなかでも、
「もっとも低位は二神村である」
船(橋船)が書き上げられている。この時期の
が五艘、さらに太兵衛らが所有する四三艘の端
る六反帆、およそ二〇石積くらいの三枚帆の船
八端船、橋船付)のほか、弥右衛門らが所有す
武平が所有する活船「永君丸」
(九反帆、五五石、
この帳面によれば、長左衛門が所有する活船
「永徳丸」(九反帆、五三石積、八端船、橋船付)
、
数、用途などが書きとめられた調査書である。
(二 ) 従 来 の 〝 近 世 の 二 神 島 〟 の イ メ ー ジ
は「極貧の農村」にほかならず、河野氏滅亡後
以上のように、中世後期の二神氏は、瀬戸内
海を舞台とする「海の領主」として活躍し、伊
では、近世以降の二神島は、これまでどのよ
34
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
たことがわかる。
二神村には、登録分だけでも五〇艘の船があっ
み込まれていった。
完成する。統一政権の覇権によって安全が約束
運が整備されるなど、列島中心の海上交通網が
由利島
図3.二神村の海域支配
図5には、御城米船の上坂航路を示した。御
城米とは幕府直轄領から江戸や大坂へ送られる
年貢米のことであり、御城米船はその廻送をに
なう御用船である。この図からは、二神島が出
羽酒田・豊前―大坂間を就航する御城米船の寄
港地であったことがわかる。二神村庄屋であっ
た二神家は「御城米改役」を勤め、寄港した御
城米船が法定の積載量や水主(乗組員)数を遵
守しているかどうかを検査していた。
そのほかにも二神家文書からは、薩摩藩の参
勤交代の一行や、下向途中の豊後日出藩木下大
和守俊泰の一行が、二神村浦に「仮停泊」して
。 さ ら に ま た、 津
( )
あわせて、行政村たる二神村の領域が、二神島
根付いていたとみるのが自然だろう。船の数と
を通過しなければならず、二神島や由利島は古
九州から兵庫・大坂方面へ赴くには、防予諸島
明神)の神威に感じ、「二神の島」に祈っている。
によれば、乗船の面々は
同年の義弘書状
「遊る島」
(由利島)の「矢たての神」
(矢立大
のための宿泊・休憩施設である「御茶屋」が設
津和地島は二神島の北隣りに位置する島で、
その浦には参勤交代の大名をはじめ公用通行者
)
地になっていたことも明らかである ( 。
いたことなどが判明する
のみならず由利島・小市島・中島・鴨脊島など
くからの経由地であったとみられる。義弘らの
けられていた。そして、注目すべきことに、二
ば、二神村浦が朝鮮通信使や幕府巡見使の経由
和地島浦に着目した鴨頭俊宏氏の研究によれ
の無人島を含んでいた点にも注目しておきたい
のんびりした船旅は、海賊停止令の発布直前の
神村の庄屋であった二神新四郎種章(寛政六=
ていたものと推察される。
こうした事実から、近世の瀬戸内海交通に占
める二神村浦の重要性と、一村の庄屋にとどま
)
用船通船御用掛」などを勤めていた ( 。
(9)
(8)
(図 3 )
。忽那諸島の近世村のなかで二神村は、
ことだが、中四国・九州の平定が終わったこの
一七九四年没)は、津和地村の「預庄屋」や「御
最大級の海域支配を実現していたのである。
海上において、すでに「豊臣の平和」が実現し
たことを考えるなら、船は古くから生活の中に
されたその交通網のなかに、瀬戸内海交通も組
「 活 船 」 と は「 生 け 船 」 で、 魚 類 を 活 か し た
まま廻漕する「生簀船」のことと思われる。こ
の船は比較的大きく、端船が付属している。鮮
魚を大坂などへ運んだものであろう。二神村の
百姓の生業の一端が垣間見える。
端船は橋船とも書き、「はしけ船」とも言う。
本船に対する小回り船をさす言葉である。大型
船の積み込みや積み下ろし、陸地との連絡用に
使用される。百姓たちは、島々を結ぶ交通手段
として、こうした船を現代の自家用車のように
使用していたに違いない。
小市島
秀吉に謁するため上坂した島津義弘がたどった
こうしたクルマ社会ならぬフネ社会とも呼ぶ
べき状況が、近世後期になって突如出現したと
中島
鴨脊島
は考えにくい。前述のように、二神島の人々が、
横島
航路を地図におとしたものである。
二神島
中世以来、海を舞台に多様な活動を展開してき
忽那島
江戸開府以降になると、いわゆる「鎖国」政
策がとられるとともに、東廻り海運や西廻り海
11
12
(二 ) 瀬 戸 内 海 交 通 と 御 城 米 船 改 め
近世の二神村浦は、瀬戸内海交通の中継港と
しても機能していた。
図4は、天正一六年(一五八八)五月、豊臣
35
10
怒和島
津和地島
図4.天正16年 島津義弘上坂航路
典拠:
『島津家文書之三』1493
図5.御城米船上坂航路
典拠:二郎司郎家文書 第一次24「御城米船諸写控」
36
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
らない二神家の役割の大きさをうかがうことが
負っていた。このうち二神村の御誂高は五〇〇
売上指定高である「御誂高」を二九か村が請け
(一八一五)の松山藩領では、公儀からの生産
作成した表によると、寛政一二年~文化一二年
より居リ来ル」
鰯網についての記述がみられる。
島における「村方稼ぎ」の一端を示す、「古来
利島関連文書の書写記録も残されており、由利
) い う、 由
同じく種章が整理した「油利島」( と
と山は「村方稼ぎ第一の場所」とされている。
できよう。
斤にのぼり、松山藩領内では和気郡岩城村の一
中世の二神島で「たわらこ」と呼ばれた海鼠
が水揚げされていたことはすでに述べた。その
(三 ) 煎 海 鼠 の 請 負
)
三〇〇斤に次ぐ大口出荷であった ( 。
由利島における鰯網は、紀州塩津村の者が引
いたのが始まりであった。その時期は特定でき
の対清交易を背景として、加工した煎海鼠(海
政策がとられていた近世中期以降には、長崎で
組み込まれるという、他の時代にはない特質を
いては、
「鎖国」政策のもと長崎貿易の一環に
二神島の海鼠漁は、中世から近世、さらに近
代へと続く伝統的な水産業であるが、近世にお
り、それが後の「源三郎(二神種次)網」に繋
二神村の者もこの先進的な紀州網を見習ってお
ないが、近世のごく早いころの話と思われる。
後 も 海 鼠 の 採 集 は 継 続 さ れ る の だ が、「 鎖 国 」
鼠を煮て干したもの)の需要がとくに高まって
がっているという。
由利島の鰯網引きはいったん「中絶」
その後、
したが、いつのころか塩津村の者が再訪し、鰯
列島における鉱物資源の不足をうけて、江戸幕
木・ 香 木・ 獣 角 な ど を 輸 入 し て い た。 し か し、
ロッパ産の綿織物・毛織物、南洋産の砂糖・蘇
いる。
には「油利島」とも「百合島」とも表記されて
由利島は二神島の南約一二キロのところに浮
かぶ周囲五キロほどの小島である。近世の記録
には各地の漁民たちが訪れては、鰯網の操業を
(一六三三)から正保元年(一六四四)にかけて、
させた。この八右衛門網は、さらに寛永一〇年
網」の名目で操業させ、松山藩に運上銀を上納
(四)由利島の鰯網漁と他国の漁民
府は元禄一〇年(一六九七)に長崎会所を設立
旧記をもとに安永七年
(一
前出の二神種章が、
七七八)に認めた「百合島詠(録か)
」による
申し入れるようになった。ちなみに、八右衛門
網を改めて希望したので、「八右衛門
(二神種忠)
し、銅に代えて俵物三品(煎海鼠・干鮑・鱶鰭)
)「 往 古 」 の 由 利 島 は「 油 利 千 軒 」 と 呼 ば
と(、
あったため、寛 政一一年(一七九九 )、勘定方
し、それでも煎海鼠の集荷・買い付けは不振で
産地へ派遣する直買い方式へと転換した。しか
が、天明五年(一七八五)からは会所役人を生
長崎会所による俵物の集荷は、延享元年(一
七四四)以来、請負商人を通じて行われていた
)
はその関係を確認できていない ( 。
ものと推測されるが、現在のところ中世文書で
利島と二神氏とのかかわりは中世にさかのぼる
ような小島になったと言い伝えられていた。由
二七八~八七)の大地震で沈下したため、今の
れるほどの繁栄ぶりであったが、弘安年中(一
種忠の嫡子の二神種次による源三郎網から
は、「寄合網」という共同出資による操業形態
た人物である。
拭し、正保年中に二神村の庄屋役を初めて勤め
八年没)は、父の種長まで続いた武士意識を払
網を始めた二神種忠(貞享五=元禄元、一六八
をとっている。正保二年の塩津村勘兵衛を皮切
の公儀役人「煎海鼠奉行」平岩右膳親庸が伊予
りに、寛文六年(一六六六)には伊予国和気郡
「百合島詠」が成立した安永年中、由利島に
定住する者はほとんどいなかったものの、二神
諸藩の村々を廻り、煎海鼠販売を督励している。
興居島村堀内家文書を紹介した菅原憲二氏の
村の「付添いの小島」
岩城村孫右衛門が「一年切」に借用し、同九年
播州福留浦十兵衛が引いている。以来、由利島
を対清交易の支払いに充てるようにした。
て、中国産の生糸・絹織物・書籍のほか、ヨー
中世後期から近世前期までの対明・対清交易
においては、いわゆる日本銅や日本銀を輸出し
帯びていた。
16
いく。
13
属島として、その磯
37
14
15
として、網引の順番や運上銀について取り決め
右衛門の裁許にかかり、いったんは両村の入会
由で断っている。このときは、島代官石田次郎
が、二神村は「村網障りに相成り候」という理
年には伊予国和気郡苅屋村が申し入れてきた
によって対応を変えていた。たとえば、寛文二
島庄屋網を雇い入れている。
七〇)には、種次の曾孫の種章が、讃岐国息吹
定」を取り交わしている。また明和七年(一七
屋長師村杉野五右衛門との間に寄合網の「網議
には二神種次が音戸瀬戸町の加藤太兵衛・大庄
なお、由利島での鰯網が紀州網に由来するこ
とに関連して、和気郡岩城村や同郡苅屋村の漁
争いの舞台にもなってきたのである。
利島は絶好の鰯猟場だったため、たびたび漁場
た り、
「 寄 合 網 」 と し て 操 業 さ れ た。 ま た、 由
たが、多くの場合は他所からの出漁者に委託し
た。その網は二神村の者が自ら引くこともあっ
ら前期にかけてスタートした新たな生業であっ
以上のように、由利島の鰯網は、紀州塩津村
の者から「見習」って、本格的には近世初期か
項を改めて説明したい。
漁撈特権を主張していた。この点については、
も「漁業勝手たるべし」という、広域的な自由
系譜に属する人々と推察され、近世にいたって
松前浜村の漁師は、中世の「職人」的な海民の
村の由利島権益が認定されている。なお、この
ことも窺えよう。詳しくは後で述べるが、その
しかしながら、上述の事例をみるかぎり、近
世の二神村が漂泊漁民を排除する傾向にあった
である。
漁民たちが集まり、交差する場となっていたの
系の漁民や中世の「職人」的海民の系譜をひく
世的な百姓たちはもとより、漂泊性の高い家船
この島は、二神村の宗門人別帳に登録された近
を結ぶ海上交通の拠点に位置した。それだけに
由利島は小島とはいえ、海と山の産物に恵ま
れた経済的価値の高い島であり、豊後と伊予と
いえる。
軒」とを結び付ける、きわめて興味深い伝承と
転した儀光寺、そして由利島ひいては「油利千
る三津浜
されている。家船が朝市を開いたことで知られ
新苅屋(高浜付近)に移住したという伝承も残
ている
(
) 寛 文 四 年 に は、 あ る「 牢 人 」 が 網
。
引きを希望したが、島代官石田が難色を示した
苅屋村と、ごく至近の古三津に移
ため立ち消えとなっている。近世後期になって
師が網代を希望していたことも注目される。な
せめぎ合いの様相に、近世という時代の特質が
(五)由利島石の採掘
鮮やかに投影されている。
―
も、文政五年(一八二二)に備中白石島佐五右
ぜならば、それらの村々には、船を家として海
しかし、二神村は網代希望者をすべて受け入
れたわけではなく、時期や状況、希望する相手
衛門らとの間に「由利島網さしもつれ一件」が
家船の拠点たる安芸
上生活を営む漂泊漁民
地漁民をはじめとする瀬戸内海の家船の親村も
国能地の枝村があったからである。そして、能
そのほかの注目すべき事件としては、伊予郡
松前浜村との争論がある。元禄一六年(一七〇
を尊重した。さらに覚右衛門は、種次の嫡子種
れを完全に拒絶し、代官谷崎善助らもその意向
二神村庄屋に就任したばかりの二神種次は、こ
院の創建で、弘安年中の地震・津波を機に現在
音像を背負って由利島に庵を結んだのがこの寺
二九~七四八)に儀光上人が行基作の十一面観
現在、松山市古三津に真義真言宗の儀光寺と
) よれば、
いう寺院がある。寺伝 ( に
天平年中
(七
用された事例がある
浜御船場御普請、郡方川筋急難御普請などに使
入用石」として、西垣生村沖新田御普請、三津
近世後期の二神英左衛門種式(慶応三=一八
六七年没)の時代には、この石が「郡方御普請
由利島では「油利島石」と呼ばれる石も産出
した。
永の代の 享保三年(一七一八) にも、「押して
地に移転したとされる。ともに避難した島民た
( )
。 そ し て、 由 利 島 石 の
油利島へ入り込」む騒動を引き起こす。しかし、
20
ち は、 苅 屋( 三 津 浜 の 神 田 町・ 住 吉 町 付 近 )
、
19
翌年の裁許で松前浜村は敗訴し、結果的に二神
村の猟場にすべく、代官所に出願したのである。
)
また紀州にあった ( 。
18
三)、松前浜村庄屋覚右衛門らが、由利島を自
―
)
発生している ( 。
17
搬出のために、「石船」と称される船が、由利
21
38
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
島と伊予本土の御普請場との間を頻繁に往来し
)
ていたことも確認できる ( 。
面を正しく把握していく必要がある。
飢饉が、松山藩領に全国でも最悪の被害をもた
らしていた。体面を失った松山藩は、年貢・諸
ふりかまわぬ財政再建策を断行した。その結果、
役の増徴や新田開発などを強引に推進し、なり
三 松山藩と二神村
百姓約二八〇〇人が大洲藩領へ逃散してしまう
ちなみに、由利島の西の「大由利」は安山岩
でできている。大成経凡氏は、中世から近世初
)
同年八月には久万山二六か村のうち二五か村の
(
(一)由利島「肥草山」化計画
) そのな
。
頭の忽那諸島の一石五輪塔や家型石廟の材質が
(
という、前代未聞の大失態を招いた。いわゆる
かには由利島石で造られたものも少なくないの
安山岩であることを報告している
ここでは前出の「油利島」 やそのほかの史
料を参考に、由利島の帰属をめぐる、二神村・
) 由利島の肥草山
「久万山農民一揆」である ( 。
かも知れない。
化計画は、藩のそうした政策の一環をなす政策
二神島・由利島のほか、複数の無人島の領有を
いわねばならない。二神家と二神村の百姓は、
の伐り出しや製材は、近世になっても続けられ
材一〇〇本を調達したことは前述したが、材木
とがわかる。中世に二神氏が得居通幸へ船の用
加工した木数〆二四本を船で積み出していたこ
未年七月二日付けの書付によると、さまざまに
二神村庄屋源三郎(種次、享保一〇=一七二
五年没)が長野源右衛門宛てに認めた年未詳の
由利島を草山や柴山にして、松山藩領伊予郡の
このたびの申し渡しは郡方直々のものであり、
年間、
伊予郡の肥草山にすると申し渡してきた。
ところが元文六年(寛保元、一七四一)二月
には、郡奉行の穂坂太郎左衛門が、由利島を十
ものといえよう。
たという。島方代官らしく島寄りの判断をした
また「先規の通り何らの故障なし」と聞き入れ
一の稼ぎ場所」であるとして撥ねつけ、柳瀬も
する。だが二神村側は、由利島は「百姓ども第
は松山藩、とりわけ郡方役所の意向が見え隠れ
伊予郡からの出願を受けたもので、その背景に
らの申し付けがあったのである。柳瀬の打診は
代漁場」にするという、島方代官柳瀬勘兵衛か
由利島を伊予郡の「肥草入付山」ならびに「網
屋の長師村五右衛門・宮野村半左衛門らを動員
島方大庄屋の畑里村濱田政右衛門のほか、改庄
に通達してきた。
しかも今回の計画は念入りで、
太の御益筋」であるから召し上げると、一方的
きた庄屋新四郎に対して、由利島は「御上、莫
しかし、二七年後の明和五年(一七六八)正
月、松山藩は由利島の収公をみたび計画した。
二月、由利島を断念せざるを得なかった。
断固拒否した。穂坂を筆頭とする郡方は、同年
稼ぎ方第一の場所」であるとして、召し上げを
忠蔵・四郎右衛門は、由利島は「磯山とも村方
いだろう。庄屋の新四郎(二神種章)と組頭の
他の水産業に影響をおよぼすことは避けられな
木材や石材の伐り出しはもとより、漁業やその
十年間という期限付きとはいえ、いったん肥
草山にしてしまえば、由利島の林相は一変し、
にほかならなかった。
根拠とする、広域の海域支配を維持することで、
田地を養う刈敷の一大供給源にしようというね
して、周囲からも揺さぶりをかけている。
して、「極貧の農村」のイメージとは程遠いと
以上の事実から明らかなように、近世の二神
島や二神村の現実は、これまでの思い込みに反
ていたのである。
海と島の暮らしを継続、発展させていた。
らいであった。
通達を受けた新四郎は口上書を認め、由利島
郡奉行手代岡宮九助らは、年始礼に松山へ出て
忽那諸島全体の近世史像を理解するために
も、二神島の歴史事実を曲げることなく、中世
実はこの少し前、西日本全域を襲った享保の
(六 ) 材 木 の 伐 り だ し
い。
二神家と松山藩との駆け引きに着目してみた
24
松山藩が由利島に初めてその食指を動かした
のは、明暦二年(一六五六)のことであった。
25
23
から近世への連続面と断絶面、そして変容の局
39
22
ある。二か月にも及んだ厳しい交渉の末、①下
いただきたい、と反対に大庄屋らに迫ったので
それでも新四郎は引き下がらなかった。「命
を惜む心底」は毛頭ないので口上書を提出して
いと、脅迫まがいの説得を試みた。
えで、このままでは「人痛みなど」も出かねな
のは不届きだという郡方役人の苦言を伝えたう
方ばかり」の「意味がましき儀」を申し立てる
書を奉行所に取り次がず、「大益」を顧慮せず「村
たと主張した。ところが大庄屋らは、この口上
由利島は二神村「専要の場所」と認められてき
あると訴え、これまでの出入の裁許においても、
の海と山は二神村で暮らす四五〇人の生命線で
を形成した中予地方随一の港町であったと指摘
を利用した天然の良港で、織豊期以前から集落
世の松前は旧伊予川(重信川)河口のラグーン
た、歴史地理学の立場にたつ富田泰弘氏は、中
する起源はここにあると推測している
の松前浜村漁師の広域的な自由漁撈特権を主張
に奉仕する神人、
「職人」的海民であり、近世
確認できる。網野氏は、松前浜の住人は八幡宮
中世の松前には石清水八幡宮の玉生荘があ
り、一五世紀後半には「松前浦衆中」の存在が
中世まで話をさかのぼらねばならない。
) ま
。
全面展開にある。
この問題を理解するためには、
が、その本質は松山藩による「農業の論理」の
進出は、一見、海と海との対立のように思える
この大土木工事においては、松前から伊予灘
に注いでいた旧伊予川の河道が付け替えられ、
城下町の建設に取り掛かったのである。
あたらせ、あわせて松山城(勝山城)の築城と
湯山川の改修・治水工事と大規模な新田開発に
立重信に命じて、暴れ川であった旧伊予川と旧
ような状態であった。そこで嘉明は、家臣の足
は湯山川の氾濫原で、一雨ごとに流路が変わる
新城下に選ばれた土地は、いうまでもなく現
在の松山市の中心部であるが、ここもまた当時
ろう。
が頻発したことも、考慮しておく必要があるだ
連動して中央構造線上の活断層帯で地震・津波
義が低下したこと、文禄五年の慶長伊予地震に
以上のような由利島をめぐる松山藩と二神
村・二神家の駆け引きに、網野氏は「農業の論
二神村の領有権は事実上維持されたのである。
決めで決着した。新四郎らの主張がほぼ通り、
分」と認め磯稼ぎなどは現状通り、という取り
びえる勝山に新城を築き、その麓に新たに城下
と戦功による加増を機に、道後平野中央部にそ
が、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦の終結
交通の便と水軍力の充実にあったと思われる
た。松前城を居城に選んだ嘉明の意図は、海上
文禄の役の戦功で伊予に六万石を加増された
加藤嘉明は、
文禄四年
(一五九五)
、
松前城に入っ
規模な新田開発が進められ、道後平野は伊予随
〇〇〇余町歩におよんだといわれる。以後、大
堅牢な堤防で固められ、水害を免れた土地は五
伊予川と旧湯山川の流れを合わせた重信川は、
旧伊予川に合流させ、石手川と改称された。旧
戸村鎌太(のちにここを「出合」と称する)で
ていた旧湯山川は流路を南に押し曲げられ、余
(
草は伊予郡御田地の刈敷に差し出す、②二神村
)
している ( 。
松前の北方に河口を移して現在の重信川となっ
は「苫稼ぎ」減少分として米四五〇俵を三か年
理」と「海と山の論理」の対抗を看取し、後者
町を建設することにした。
た。また、道後の石手寺門前から勝山にぶつかっ
が前者に負けずに貫徹された希有なケースであ
)
一の広大な水田地帯に変貌していった ( 。
間受け取る、③由利島は「そのまま二神村持ち
)
ると指摘している ( 。
27
大石慎三郎氏は、松前が放棄された理由とし
て、直接海に面していて「風波」が荒く城が破
28
損しやすいこと、また絶えず伊予川が氾濫して
た商人・職人が、松山城下に新たに「松前町」
築城なった松山城へ嘉明が移ると、
慶長八年、
松前は城下町の機能を失った。そのさい移住し
「農業の論理」と「海と山の論理」の対抗の
事例は、ほかにも容易に見出すことができる。
の覇権が決し、軍事的理由で城地を選定する意
そのほかにも、関ヶ原の戦いによって徳川家康
あとに残された松前浜村であった。
を形成した。そして、その割りを食ったのが、
(二 ) 松 前 浜 漁 師 の 由 利 島 進 出
)
城 下 町 に 被 害 が お よん だこ と を あ げ ている ( 。
30
たとえば、先に触れた伊予郡松前浜村の由利島
29
26
40
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
を主張する松前浜村の漁師と米湊・尾崎・本郡・
藩領に編入されると、中世以来の自由漁撈特権
一二年(一六三五)に米湊村周辺の諸村が大洲
松前浜村の漁師たちは、同じ伊予郡内の米湊
沖にも慣習的に出漁してきた。ところが、寛永
ことは前述したとおりである。
神村庄屋新四郎種家が、この申し出を拒絶した
なり、漁場が破壊されてしまったのである。二
が浅くなってしまったことによる。海が遠浅に
すようになり、一里余りも「洲出」して、網場
は、大工事を経た重信川が大量の土砂を吐き出
元禄一六年(一七〇三)に松前浜村の漁師た
ちが猟場を求めて由利島に進出した契機は、実
ていたのである。
かえって彼らのおかれた状況の過酷さを物語っ
師の「漁業勝手たるべし」という声高な主張は、
が読み取れる事例といえるだろう。松前浜村漁
理〟によって否定され、飲み込まれていくさま
( )
「 中 世 の 海 と 山 の 論 理 」 が、 水 田 農 業 中 心
の論理や境界線の論理を内容とする〝近世の論
る。
によって実質的に封殺されてしまったのであ
の漁撈特権も、松山・大洲両藩の境界線の論理
て破壊され、さらに中世以来の「職人」的海民
開、いわば近世的な農本主義政策の強行によっ
松山藩による大規模な治水・新田開発事業の展
考察が可能であろう。松前浜村漁師の漁場は、
)
応なく組み込まれていったのである ( 。
度へと、それぞれが近世的な制度のなかに、否
る。安養寺は本末制度、二神村の村人は寺檀制
寺の末寺とされ、二神村の檀那寺に変わってい
期の延宝四年(一六七六)以降は、道後の石手
る。初代の庄屋役を勤めた二神種忠の時代、中
政村二神村の庄屋へと転身していったのであ
の領主」から近世の「島村の庄屋」
、つまり行
亡とともに二神島へ帰った二神家は、中世の「海
その領有は近世の村を前提としており、中世
のような領主支配では決してない。河野氏の滅
いわば近世にふさわしい領有であった。
世には二神氏の氏寺であった安養寺が、近世前
森各村の漁師との間に小競り合いが繰り返され
るようになっていった。そして万治元年(一六
五八)八月、松前浜村が武装船団を組んで出漁
したことから、米湊沖合で大乱闘事件が発生し、
ついに大洲側に死者一名を出すいわゆる「網代
争論」と呼ばれる紛争にいたったのである。こ
近世の各時期の二神家当主とその子息は、二
神村の庄屋に就任しただけでなく、時に応じて
四 「二神村荘官」という意識
一七六五年没)は、二神村庄屋のほかに島方の
特権を許された。たとえば二神種信(明和二=
島方の改庄屋や大庄屋をも勤めて、苗字御免の
海域・伝統・由緒
改庄屋、大庄屋格を歴任して二神姓の公称を許
示した調停案を両藩が受け入れ、ようやく解決
の漁場とをともに入会とするという、忠義が提
尾崎・本郡・森各村の漁場と松山藩領松前浜村
す騒ぎとなった。同年一二月、大洲藩領米湊・
幕府の指示で土佐藩主山内忠義が調停に乗り出
二神島・由利島に加えて複数の無人島を属島
として領有することで、二神村は忽那諸島のな
あった。
が は ら っ た 努 力 に は、 も ち ろ ん 相 当 な も の が
かも知れない。そのために二神家や島民
(村人)
とに成功したのが、あるいは二神村であったの
中世の論理を近世の論理へと比較的うまくア
ジャストさせ、
「海と山の論理」を貫徹するこ
た。
に適応し、間違いなく新たな存在感を示してい
あるいは郡役人代まで勤めた。中世という時代
承後は津和地村の預庄屋、御用船通船御用掛、
和地村の庄屋並として活躍し、居村庄屋役を継
の存命中から朝鮮人来朝御用や御茶屋のある津
その嫡子の種章(寛政六=一七九四年)は、父
され、御巡見様御通船御用の大任も果たした。
)
にいたっている ( 。
かでも最大級の海域支配を実現してきた。それ
二神島は行政村「二神村」となり、松山藩か
の荒波を乗り越えた二神家は、近世という時代
この網代争論が発生したのは、松前浜村漁師
が由利島へ進出するわずか五年前のことであっ
の事件は、松山・大洲両藩の対立にまで発展し、
33
32
は土地の論理や境界線の論理に基づくもので、
た。これらの一連の出来事から、つぎのような
41
31
みせた。一八四〇枚にもおよぶ明・清・ベトナ
たすことでいわゆる「鎖国」政策にも適応して
生産を請け負い、朝鮮通信使の来朝御用をも果
自らを位置づけ、長崎貿易に不可欠な煎海鼠の
航に関与することで近世の海上交通網のなかに
種類もの系図や由緒書にまとめられている。
孫系図写」
「 二 神 新 四 郎 由 緒 親 類 附 」 な ど、 何
原氏子孫系図略」
「藤原氏嫡流并豊田二神之子
るこうした研究や交流の成果は、
「豊田二神藤
の諸家とも交流をもつようになった。種章によ
さらに種章は、豊後森藩の二神家や饒村の豊
田家をはじめ、各地に散在していた二神氏諸流
(
(
(
)
(『歴史と
網野善彦「伊予国二神島をめぐって」
民俗』第一号、一九八六年)。
(
(
も庄屋・百姓身分も超えていこうとするもので、
(
とも確認しておくべきであろう。
(
(
(
(
近代以降の
「家」
や親類中の人間関係へと繋がっ
註
(
配」意識を焼き直していた。二神新四郎種章が、
)
に
「二神村荘官」と肩書きして
安永四年(一七七四)付けの由利明神(矢立大
(
(
(
(
(
(
(
)
二神系譜研究会の会誌『海の民 ふたがみ』を
参照。
(
(
(
第六号、二〇〇一年。また、二神英臣「二神通
(
(
(
範とその周辺」
(『海の民 ふたがみ』第一一号、
) 景浦勉「二神氏の出自とその動静について」(『大
山積神社関係文書』伊予史料集成刊行会、一九
七七年)。
) 二神司郎家文書 第一次五。
)
景浦勉「農民騒動構造の変遷」(同編『伊予近
) 二神司郎家文書第二次三、三四、三九など多数。
) 大成経凡「石造物が語る海民ロマン」
(『海の民
ふたがみ』第三号、二〇〇一年)。
) 二神司郎家文書第二次七‐一四五‐四。
〇〇一年)も参照。
神氏ゆかりの地を訪ねて №3 由利島(愛媛
県 中 島 町 )」(『 海 の 民 ふ た が み 』 第 三 号、 二
)
二神司郎家文書第一次九四~九七。
) 河岡武春『海の民』(平凡社、一九八七年)。
) 明 治 三 〇 年「 当 山 明 細 帳 」
(儀光寺蔵)ならび
に筆者の聞き書きメモによる。また、豊田渉
「二
)
二神司郎家文書第一次五。
) 二神司郎家文書第一次六。
)
二神司郎家文書第一次七一。
)
網野「伊予国二神島をめぐって」。
第三七号、二〇〇八年)。
)「二神氏末家之次第」(第一次七六)ほか。
) 菅原憲二「伊予国和気郡興居島村(現愛媛県松
山市)堀内家文書(三)」
(『千葉大学人文研究』
(上)」(
『伊予史談』三三九号、二〇〇五年)
。
同「公儀浦触山陽ルートと松山藩の情報ルート
)
「二神村新四郎由緒親類附」。
) 鴨頭俊宏「近世前期における瀬戸内海交通と津
和地」
(『 伊 予 史 談 』 三 四 四 号、 二 〇 〇 七 年 )、
)
『島津家文書之三』一四九三。
年)参照。
) 山内譲『海賊と海城』
(平凡社、一九九七年)。
) 二神司郎家文書第一次九九。
) 豊田渉「二神氏ゆかりの地を訪ねて №2 二
神島」(
『海の民 ふたがみ』第二号、二〇〇一
5
(
6
二〇一〇年)も参照。
民 ふたがみ 』第三号、二〇〇一年 )、福川一
徳「伊予二神氏と二神文書」『四国中世史研究』
媛県歴史文化博物館 研究紀要』第一号、一九
九六年)、 同「河野氏の時代と二 神氏」(『海の
書」
(『海の民 ふたがみ』創刊号、二〇〇〇年)。
)
石野弥栄「河野氏の守護支配と伊予海賊衆」(『愛
)
関口博巨「日本常民文化研究所と二神司朗家文
(
1
明神)棟札
いることは、そ れを象徴的に示して いる。「二
神村」という近世の行政村名の下に、中世の荘
園を預かる役職である「荘官」という言葉を連
ね て い る と こ ろ に、 再 解 釈 さ れ た「 海 の 領 主 」
の矜持が垣間見えるのである。
松山藩との命を賭けた駆け引きのなかで、二
神島と由利島の歴史に向き合った種章は、安永
年間以降、二神家・二神一族の由緒に関心を深
めていった。大友義統書状、河野通直仮名書出、
豊臣秀頼書状などの古文書類のほか、「予陽河
野盛衰記」「予陽河野家譜人」「忽那開発記」と
いった記録類にいたるまで、彼が歴史学習のた
2
11 10 9
らの年貢を村請けし、御城米船などの御用船通
ムなどの古銭が二神家に伝来しているのは、そ
)
うした事実と無関係ではないだろう ( 。
中世の「衆」は解体したが、近世中後期には
「家」あるいは一族の新たな結合の形が育まれ
7
ている。
ていた。その一族のネットワークは、武士身分
8
近世行政村の庄屋となった二神家は、藩権力
に対抗することで、由利島あるいは海域への「支
しかしながら、近世の二神家のこうした姿が、
中世の全否定のうえに存在したわけではないこ
34
めに書写収集した文献はまことに多い。
3
13 12
20 19 18 17 16 15 14
23 22 21
25 24
4
35
42
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
(
(
(
世社会の研究(上)
』関奉仕財団、一九九三年
など)
。奉行の穂坂太郎左衛門はこの一揆の責
任をとらされ二神島に流罪となっている。偶然
であろうか。
) 網野善彦「二神島の調査から見えてきたもの」
(
『海の民 ふたがみ』第一〇号、二〇〇六年)
。
) 網野善彦「中世前期の瀬戸内海交通」
(
『海と列
島文化9 瀬戸内海の海人文化』小学館、一九
九一年)
。
) 富田泰弘「伊予松前城下町の復原に関する歴史
地理学的研究」
(足利健亮先生追悼論文集編纂
委員会編『地図と歴史空間』大明堂、二〇〇〇
年)
。
二神家伝来古銭の調査を中心として」
) 西和夫「二神島と由利島の建築
一九九五年
度の調査結果について」
(
『歴史と民俗』第一三
―
(
『歴史と民俗』第一四号、一九九七年)
。
流通
―
三号、一九九六年)
、永井久美男「近世銭貨の
) 網野「伊予国二神島をめぐって」
、白水智「二
神家伝来の古銭について」
(
『歴史と民俗』第一
末関係の形成」
。
研究」
(
『海の民 ふたがみ』第五号、二〇〇三
年)のうち、関口「石手寺と二神島安養寺の本
) 橘川俊忠・関口博巨「二神司朗家文書の整理と
する。
) 『松前町誌』
(一九七九年)
。
)〝中世の論理=海と山の論理〟と言っているわ
けではない。中世においても農業の論理は存在
媛県史 地誌Ⅱ(中予)
』
(一九八四年)など。
( ) 大石慎三郎
『江戸時代』(中公新書、
一九七七年)
。
) 土木学会編『明治以前日本土木史』
(岩波書店、
一九三六年)
、
『松前町誌』
(一九七九年)
、
『愛
(
(
(
(
(
(
号、一九九六年)
。
43
26
27
28
30 29
32 31
33
34
35
1995年3月、神奈川大学日本常民文化研究所による
二神島の古文書と民家の予備調査
写真は右から二神司郎、網野善彦、西和夫の諸氏
空から見た二神島
香月洋一郎氏撮影
2011年8月 神奈川大学日本常民文化研究所による
二神島調査の現地説明会
1995年8月、由利島を巡検する神奈川大学日本常
民文化研究所の調査団
官民を総動員して、人足・船・宿・食
ら御用測量になった。
受け入れる藩は、
に命じられたため、第五次中国測量か
府から日本全国の実測地図を作るよう
の距離を測るためだったが、途中で幕
した。最初の測量の目的は、緯度一度
八一六)までの間、十回に分けて測量
政十二(一八〇〇)年から文化十三(一
書やテレビなどで紹介されている。寛
沿海與地全図」を作った人物で、教科
伊能忠敬とは、今から約二百年前に
日本で初めて全国の実測地図「大日本
ような伝承が残ったのだろうか。
降、寛治とする)である。なぜ、この
大洲藩絵図方東直眞(通称は寛治。以
ら、この図は伊能図ではなく、作者は、
(写真1・P8)がある。残念なが
忽那諸島の古絵図の中に「伊能忠敬
の絵図」と伝えられる「大島一円の図」
忽那諸島は、松山藩と大洲藩、天領の
れ た の べ 人 数 は 約 八 百 人 に の ぼ っ た。
した。忽那諸島の松山藩領から動員さ
忽那諸島の測量を終えて、三津に移動
村上市郎左衛門宅に宿泊し、翌日には
泊した。十日、無須喜(睦月)村庄屋
日には、大浦庄屋堀内吉左衛門宅に二
庄屋忽那柳(龍)太郎宅に宿泊し。翌
忽那島(中島)に上陸した。吉木村大
地 島 で 杉 田 雄 五 郎 宅 に 泊 ま り、 七 日、
よる)の本を借りている。五日、津和
際に、忠敬に入門して暦学(天文学に
が忽那諸島測量の後に道後に泊まった
わりに案内した。この五兵衛は、忠敬
ため病に伏しており、息子五兵衛が代
門宅に宿泊したが、五左衛門は疲労の
月二日、興居島に渡った。堀内五左衛
忽那諸島から三十五艘が用意され、八
が集められた。そのうち、松山藩領の
て垣生村(現松山市)に七十五艘の船
日に、松山藩では、受け入れにあたっ
和島、大洲の順に測量した。七月二七
得ながら、淡路島から徳島、高知、宇
勢十六名が中心となり、地元の協力を
行われた。忠敬率いる伊能測量隊員総
第六次となる四国測量は、文化五(一
八〇五)年一月から約一年間にかけて
出した絵図だった。しかし、ただの参
え る。「 真 の 図 」 と は、 伊 能 忠 敬 に 提
写真1・2も下図の参考図であるとい
万六千分の一であり、写真3と同様に
写真1・2・3はともに縮尺約六千
分の一である。伊能図の下図は縮尺三
を寛治が持っていたことがわかる。
行われる以前に正確な絵図を描く技術
点に注目してもらいたい。伊能測量が
ぶ三角点が国土地理院作成図と重なる
1のようになる。恕和島と二子島を結
の国土地理院作成地図と比較すると図
)
写 真 3) で あ る 。 写 真 2 ・ 3
図」 (3(
絵図を松本氏が写したものが「恕和島
命じられていた。その時に提出された
地元で実測した地図を提出するように
いる。伊能測量では、測量に入る前に
の写真2と同じ図が恕和島に残されて
る「 恕 和 島 図 」
( 写 真 2) で あ る。 こ
)
全十七枚)に含まれ
洲領沿海図」 (2(
同様の描き方で、寛治作の絵図が大
洲藩主から伊能家に贈られている。「大
る。
正された真の図を写した」と記してい
(一八一五)年に忠敬によって地理改
藩主から特別な許可を得て、文化十二
写真1の端書には、絵図作成の理由
は、「島民からの懇望があったためで、
は、ともに大洲藩の私塾古学堂の門人
られている。なお、堀内五兵衛と寛治
入りしてくる」と家族に告げたと伝え
随行のため家を出る際に「忠敬に弟子
だったのである。寛治は、伊能測量に
測量技術を習得するための絶好な機会
る。伊能測量とは、伊予の測量家にとっ
際には忠敬とともに測量を行ってい
五郎兵衛は、伊能測量の宇和島入りの
家小川五兵衛に入門した。五兵衛の子
享和二(一八〇二)年に宇和島藩測量
九九)年絵図方に命じられた。その後、
藤九郎の門人となり、寛政十一(一七
寛治は、阿蔵村(現大洲市)に生ま
れ、同村の私塾古学堂に学んだ。岡田
評価されている。
寛治作成の絵図の精度は非常に高いと
された参考図も含まれる。その中でも、
たが、その中にさまざまな藩から提出
一昨年、伊能忠敬記念館に保管され
ている伊能忠敬関係資料は国宝となっ
天 の 助 け だ っ た。 そ こ で、「 伊 能 忠 敬
ことは島民にとっては願ってもみない
こうして、島全体の実測図が描かれた
に は 海 岸 線 だ け 写 す こ と が 許 さ れ た。
伊能測量によって事前に提出する絵図
と は 禁 止 さ れ て い た。 し か し な が ら、
料 等 を 提 供 し た。 こ の 時、 松 山 藩 は、
支配が入り混じっており、大洲藩と松
考 図 で は な か っ た。 当 時 の 中 島 に は 、
だった。近年、伊能忠敬の偉業の背景
コラム
準備にあたって情報を得るため、芸予
山 藩 双 方 が そ れ ぞ れ に 船 団 を 組 ん だ。
大洲藩と松山藩、天領に支配が分かれ
(1)
伊能 測 量 と 忽 那 諸 島
かん じ
安永 純子
愛媛県歴史文化博物館専門学芸員
忽那諸島の古絵図
諸島測量の見学に、興居島門田浦庄屋
大洲藩領の領民を加えると、千人以上
には、地方の優れた測量家が存在した
田雄五郎の二人を派遣した。
て、忠敬から天文学を利用した新しい
の地図」として伝承されたのである。
堀内五左衛門と津和地村島方大庄屋杉
ていたために、他領の実測図を描くこ
−
もの人々が、動員されたことになる。
−
44
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
大洲領沿海図「怒和島部分」
(伊能忠敬記念館蔵)
図1.怒和島比較図
(4)安永純子「伊予における伊能測量につ
いて」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀
国土地理院作成地図
要第9号』(二〇〇四年)
・同「大洲藩
「怒和島図」
(中村忠一氏蔵)
ことが報告されている。寛治もその一
(4)
。
(文化5年)松山市指定文化財 中村忠一氏蔵
絵図方東寛治作成図と伊能図の比較に
ついて」(『愛媛県歴史文化博物館研究
紀要第 号』(二〇一一年)
。
「怒和島測量図」
(写真3)
人として注目されている
註
2
( )松山市教育委員会蔵・松山市指定文化
財。
(
)
伊能忠敬記念館蔵・国宝。
)
中村忠一氏蔵・松山市指定文化財
(
45
16
大洲領沿海図 怒和島部分(写真2)
(年不詳)国宝 伊能忠敬記念館提供
1
3
の目録の編集、刊行に向けて精力的に
れてきた。現在、研究所では同家文書
された一九八二年以降も断続的に行わ
れており、常民研が神奈川大学に移管
究所(以下「常民研」
)時代から着手さ
二神家文書を中心とする二神島の調
査、研究は、すでに㈶日本常民文化研
世文書を中心とする文書群である。
訪文書に分類される約一〇〇〇点の近
研委託を依頼された。これが第一次採
際、ご当主より改めて同家文書の常民
所員の網野氏が返却に赴いたが、その
含まれている事実が発覚した。直ちに
継資料の中に返却漏れの二神家文書が
研が神奈川大学に移管されたとき、引
ていた。ところが、一九八二年に常民
一九六八年頃に返却されたことになっ
が、 借 用 中 の 同 家 文 書 は そ の 後
た。月島分室は一九五五年に解体した
島分室において整理、分類作業を進め
訪した二神家文書を借用し、東京の月
を実施している。当時、常民研では採
り決めた「集会定書」など、二神家文
係文書、明治二三年を初出とする枯木
早嶋二神村現船改帳」と題する廻船関
の年貢一括文書、文政一三年「寅歳風
歳二神村御物成米払勘定帳」やその後
などの土地関係文書、享保一五年「戌
水 帳 」「 風 早 嶋 二 神 村 田 畑 坪 地 組 帳 」
書、元禄二年の「風早嶋二神村田畑坪
保期の由利島の漁業権をめぐる一連文
第」などの系譜関係文書、寛文期や享
家系譜や安永一〇年「二神氏末家之次
まったく未見のものである。各種二神
ているが、近世以降の文書については
野氏などによってその内容は紹介され
世 文 書 に つ い て は、『 愛 媛 県 史 』 や 網
書の全容も明らかになりつつある。中
要があろう。
料集』などの成果を世に出していく必
ら、『目録』の刊行に続き、『研究編』
『史
以上に地域の方々との連携を強めなが
研究を結実させるためにも、これまで
査、研究が本格化している。この共同
コラム
取り組んでいる。二神家文書は、これ
また、一九九六年から再開された網
野氏を代表とする二神島の本調査に先
書は、同家および二神島の歴史を解明
とし、ここでは各調査に伴う二神家文
しているので参照にしていただくこと
採訪の経緯や文書の性格を詳しく紹介
ぐって」
(
『歴史と民俗』1)で、その
は、網野善彦氏が「伊予国二神島をめ
別される。これら二神家文書に関して
一次採訪文書と第二次採訪文書とに大
がある。それらは、採訪時期により第
に四冊に分けて『二神家文書目録』を
ほ ぼ 終 え、「 中 世・ 近 世 編 」 を 皮 切 り
については、現在、目録の点検作業を
合わせた総点数七〇〇〇点余りの文書
文書および第一次・第二次採訪文書を
採訪文書として整理、分類した。中世
六〇〇〇点余りを数え、これを第二次
近代文書を主体とするこの文書群は
近世・近現代文書が新たに発見された。
こうした研究条件を背景に、常民研
では二〇〇八年度から共同研究「瀬戸
といえる。
して深化させていく条件が整っている
果などがあり、今後、総合的な研究と
神家の中世・近世墓地の発掘調査の成
で古銭や安養寺の大般若経の分析、二
文書も残存しており、加えて、これま
文 書 」「 青 年 団 関 係 文 書 」 や 他 家 所 蔵
島には、このほか「二神漁業協同組合
神奈川大学日本常民文化研究所
田上 繁
二神家文書の整理作業と
文書の性格
まで、戦国期を主体とする巻子仕立て
立って、一九九五年に予備調査が実施
する上で不可欠な文書群である。二神
の五三点が知られていたが、このほか
されたが、そのときに諸帳簿類を含む
書の整理作業の内容を中心に述べてお
順次編集、公刊していく予定である。
でに二神島を中核とした瀬戸内海の調
や網代等村の共有財産の入札内容を取
にも約七〇〇〇点の近世・近現代文書
きたい。
この目録作成作業を通じて、中世か
ら近現代までつながる膨大な二神家文
内海の歴史民俗」をスタートさせ、す
まず、常民研では、一九五一年から
一九五四年にかけて二神家文書の調査
寛文2年 由利島鰯網等につき覚
安永10年 二神氏末家之次第
46
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
忽那諸島の歴史を伝える
―学校教育の実践からー
ひ
と
える 小さき者への情愛か ああふるさとの
偉人 語り継ぐ海武士のうたよ 声たからか
に祈りを込めて 私たちは歌う
忽那の領主義範は 土居・得能氏・村上氏
いさお
たい
共に心を合わせつつ 義兵やこそは挙げに
けり
その勲しはち雄よ々しくも 緑色濃き泰の山 変わらぬ姿千代かけて 仰がぬ人のあるべし
中島の中学校で勤めた。
この島はダメだといい、島に住むことを宿命的
域)に住む大人が、ふるさとに誇りを持てず、
過疎・少子化は、政治・社会的課題であるが、
そのことが即、
教育課題ではない。ふるさと
(地
未来を歌った。
一番の歌詞で、瀬戸内の忽那諸島の海を、三
番では、ミカンを基幹産業とする中島の明るい
(三) 略
や
いつも心の中に、われは海の子・島の子とい
う思いがあった。島文化(海文化)のよさを根
にとらえる、いわゆる「心の過疎化」
「心の僻
一 「ふるさと中島讃歌」の制作と学校
行事への位置づけ
元中島総合文化センター所長 金 本 房 夫
私は、瀬戸内海の忽那諸島の中島で生まれ、
この島々の中学校の社会科教師を勤めてきた。
中島中学校で二〇年間、野忽那中学校・怒和中
底にすえ、ふるさと中島に誇りを持ち、ふるさ
地化」が子どもの心に投影し、子どもたちがふ
二番が中島の歴史。 本日の基調講演1 永
村眞氏の「忽那家文書を読み解く」の忽那水軍
学校でそれぞれ四年間、計二八年間をふるさと
とをよりよくしていこうとする生徒の育成を念
るさとに希望を抱くことができにくい現実があ
の領主・忽那義範を、中島の歴史を代表する人
4
じ て き た。「 瀬 戸 内 海 人 た れ 」。「 僻 地 に 光 を 」
るとするなら、それは私たち教師が取り組むべ
物として取りあげ歌ったものである。
4
ではなく、「碧地から光を」の教育の実践を心
き教育課題なのである。
4
がけてきた。
私は、ふるさと中島に誇りを持った生徒を育
成するため、若い頃から願い続けていた「ふる
である懐良(かねなが、または かねよし)親
王のこと。後醍醐天皇は、懐良親王を南朝の征
4
唐突だが、周防大島出身の民俗学者・宮本常
一の晩年の口癖は「郷土をよくしようと思う人
さと中島讃歌」をふるさとの母校の校長になっ
西大将軍に任じ、西日本における南朝方の勢力
4
間をつくらない限り、日本がよくなることはな
たときにつくった。一・二番の歌詞は次の通り。
その当時、忽那水軍の船団は、東は紀伊水道、
西は周防灘、南は日向灘にまで勢力を及ぼして
ある。
懐良親王一行が忽那島に到着したのは、
一三三九(延元四)年。懐良親王一〇歳のとき。
間を忽那島(現中島)の忽那義範に託したので
の回復を図ろうとし、九州へわたるまでの三年
「いとけなき皇子」とは、後醍醐天皇の皇子
い」であった。私は宮本のこの言葉を心に刻み
との海 母なる忽那の海よ まぶしい海面の
光を浴びて 私たちはつどう
うしお
今日まで生きてきたと言ってよい。
(一)瀬戸内の春の潮に ぬくもりを分かち
あえる いのちの声が聴こえる ああふるさ
くつ な
うな も
これから述べることは、中島の歴史教育を核
とした、ふるさとに誇りを抱く生徒の育成を目
指した「ふるさと教育」の実践である。
よし のり
(二)いとけなき皇子を迎え 義範の心ふる
47
いたと記録にある。
しかし、日本全体では、はるかに北朝方に勢
いがあった。そのうえ懐良親王は幼少の身。し
かるに義範は、なぜ後醍醐天皇(南朝方)の要
請を受けいれたのだろうか。 そこに私は義範
の弱き者・幼き小さき者への愛があったととら
えたいのである。
その思いを「義範の心ふるえる 小さき者へ
の情愛か」と表現してみたのである。このよう
な義範の心情を読みとる史料はない。
しかし、すべてに強者の論理を貫くのではな
く、小さき者・弱き者への思いを忘れない共生
し
すい ぐん
の思想こそ求められているとの願いもあり、こ
うみ ぶ
のような表現にしたのである。
「語り継ぐ海武士のうた」は、「水軍のうた」
でもよいのだが、海武士の方が格調高いと思い、
海武士とした。
地域の歴史素材の教材化を図る
二 足許を掘れ そこに泉湧く
歴史学習の最初の単元は「日本のあけぼのと
世界の文明」である。その最初のページに大陸
と陸続きだった頃の日本のことがかかれてい
る。ナウマンゾウがオオツノジカなどの大型動
物を追って大陸から渡ってきた云々とある。実
は中島周辺(特に津和地島、怒和島周辺)の海
はナウマンゾウの化石・骨の宝庫なのである。
漁師さんの網にかかったナウマンゾウの骨の破
片を分けていただき、生徒に提示し触れさせる
ことから、私の歴史の授業は始まるのである。
シンポジウム「忽那諸島の歴史を探る」での
長井数秋氏による、中島から発掘された豊富な
考古資料の解説からも分かるように、日本の原
始時代を学ぶための豊かな教材が中島にはあふ
やまがたおしがたもん ど
き
れているのである。たとえば、中島から出土し
た山形押型文土器(縄文式土器)から、今から
碑」(写真1)のまえに島のこどもたちが集合
亜戦争が終わるまで、神浦の「忽那義範公表忠
のあとの挿入歌は、景浦勉の父 景浦稚桃が作
詞した「忽那義範公の歌」の一部である。大東
日本史の学習につながる史実がいくらでも湧き
また「足許を掘れ そこに泉湧く」という言
葉もあるが、足許(地域)を掘れば掘るほど、
注いできた。
料を日本史の授業の中に位置づけることに意を
し「聖徳太子の国づくり」を例に、その教材化
地域素材の教材化の実践をすべて述べるとす
ると、一〇〇時間あっても足りないが、今、少
8千年以上昔に、この中島に人が住んでいたこ
し斎唱していた歌であり、その歌を「ふるさと
でてきた。地域の素材を授業の中に教材として
を簡潔に記してみる。
「知即愛」という言葉がある。知ることすな
わち愛である。ふるさと中島をよりよく知ろう
中島讃歌」に挿入し、復活を図ったのである。
位置づけることーそのことを「地域素材の教材
とが分かるのである。
作曲は中田勝博氏(元 東雲女子大学教授)。
この「ふるさと中島讃歌」(混声3部合唱)は、
化」と呼ぶが、私は毎時間、歴史学習で教材化
法隆寺は瀬戸内海の伊予の国だけでも一四の
庄を持っていた。庄は平安時代の荘園とは違っ
と努めることが、ふるさと中島への愛をはぐく
私が校長退職後も、校歌に準ずる歌として、入
が図れる郷土資料を探索し続けてきたのであ
むことにつながるとの思いから、中島の歴史資
学式・少年式・卒業式等で式典のオープニング曲
る。それは実に楽しい作業であった。
て、法隆寺の支配下にある一定の地域の意。伊
むことにつながったに違いないのである。
り歴史に興味を抱き、ふるさとへの愛をはぐく
として位置づけられ、現在も歌い継がれている。
「声たからかに祈りを込めて 私たちは歌う」
写真1.「忽那義範公表忠碑」(神浦)
−
このような中島に残っている文化財等を日本
史の学習で教材化することによって、生徒はよ
−
48
論考・コラム 忽那諸島の歴史を探る
ではないか。
喉部に位置し、海上権を握る重要な島だったの
味している。忽那島(中島)は、瀬戸内海の咽
子)が瀬戸内海の海上権を握っていたことを意
ることが分かる。このことは、法隆寺(聖徳太
部にあること、それが鎖のようにつながってい
国々の庄を調べてみると、これらはすべて沿岸
予 の 国 の 一 四 の 庄 を は じ め、 瀬 戸 内 海 に 臨 む
寇を学習するとき、河野水軍の
たとえば、み元
ちあり
頭領・河野通有の部下として、忽那水軍の忽那
は可能だと思われる。
りめぐらせておけば、いくらでも、その教材化
史と日本史をつなげるべく、鋭いアンテナを張
このような地域素材の教材化は毎時間できる
ものではないかも知れない。しかし、中島の歴
たのである。
これらの資料を「聖徳太子の国づくり」の学
習の際に生徒に配布して、授業を展開していっ
たことから始まっている云々。
築に努めてきた。
材化を図り、ふるさとの子どもたちに、ふるさ
に高い文化を創出してきたことなど、多くの教
割を果たしていた頃の島の海運業の隆盛や質的
したこと。瀬戸内海が日本最大の高速道路の役
小さな島と言えども、日本史の流れの中で、た
中島の先人たちの歩んできた足跡は、日本の
先人たちの歩みと合致していること。瀬戸内の
が語るものを教材として活用してきた。
とへの誇りが育つことを念じて歴史の授業の構
とえば忽那水軍が瀬戸内海をステージに大活躍
かも知れない。また斑鳩へ帰られる船上で、忽
重俊も参加し、長崎の鷹島付近で大手がらをた
では不吉な感じがするから、「クツナ島」と呼
表 記 を 改 め た だ け で な く、 発 音 も「 コ ツ ナ 島 」
ため、のちに「骨」を「忽」に改めた。漢字の
奈嶋の骨は、死を連想するイメージが含まれる
れたのが「法隆寺縁起資財帳」なのである。骨
ふるさとの地名「骨奈嶋」が最初に文書に記さ
代。忽那島 の元の表記は「骨奈嶋」。 私たちの
今の中島という島名の元は、「忽那島」。忽那
島から中島に呼び名が変わった最初は南北朝時
とに思いを馳せてみることは、意味のあること
たちの学習する日本の歴史の影が宿っているこ
が、ふるさとのちっちゃな島の名まえにも、私
元寇を学習する際の中心になる教材ではない
ること等を「元寇」の授業の導入で語りかけた。
て「高島」と答え、それが今日にまで至ってい
られたとき、島人がその鷹島の表記をあやまっ
したこと。伊能忠敬が全国測量のため中島によ
(姫が浜)の沖の小島を「鷹島」と呼ぶことに
『中島のわらべうた』
(昭和五九年刊)
『中島の歴史物語』
(昭和六二年刊)
『中島のむかし話』
(昭和五七年刊)
(写真2)
を先生方に呼びかけた。
れようが、すぐ授業で活用できる資料集の作成
えというのは無理。そこで、どんな先生が来ら
材の教材化を図って、地域に根ざした教育を行
中島の小中学校に赴任された先生方は平均三
年間の勤務をおえて転任する。これでは地域素
聖徳太子が道後(伊予の湯)に遊ばれたこと
が事実なら、法隆寺の庄である中島を視察した
那諸島の法隆寺の庄をみつめていたかも知れな
てたこと。しかし恩賞は鎌倉幕府からはもらえ
ぶようにしたのではないか。忽那の忽は、訓は
と思われる。
しげとし
い。中島は聖徳太子ゆかりの地なのである。
「たちまち」、音読みは「コツ」、たとえば粗忽(そ
右記の三冊の原稿、資料の収集は、地元の教
師がすべて行い、当時の中島町教育委員会が発
ふるさと読本の作成
こ つ ) の よ う に。 忽 那 の と き の み、「 こ つ な 」
近現代史の学習にいたっては、資料が豊富す
ぎて教材の選択に困るほどである。
つとめた。
三 記録しなければ活用できない
ではなく「くつな」と読む。
四民平等では、赤穂浪士の名字が多くある野
忽那島を、地租改正では、島に残っている地券
き ごう
また、中島中学校の校長のとき、『ふるさと
行した。そのコーディネーター、執筆等を私が
−
ず、戦勝記念として、トライアスロン水泳会場
私たちのふるさとの島々を忽那諸島と言い、
そ の 中 の 一 番 大 き な 島 を 忽 那 島( 現 在 の 中 島 )
を、日露戦争では、秋山好古が揮毫した忠魂碑
というのも、もとは法隆寺の庄が骨奈嶋であっ
49
−
跡めぐり」「文中の板碑と貞治の板碑」「伊能忠
「古代の中島・古墳めぐり」「忽那水軍の歴史
を伝える忽那家文書」「海の王国・忽那水軍城
一五一ページ。内容は五部構成。中村草田男の
中島』(平成七年刊)を発行した。B5変形版、
ぶものがあると思ったからである。
を掲げて立ちあがった、この「七島文化」に学
戦後の混乱の時代に、島の先人たちが中島の
未来をどう構築すればよいのか、高い文化の旗
たのである。
島文化」をガリ刷りそのままのかたちで復刻し
機関誌の一三号まで(昭和二二~二五年)の「七
化の創造につとめていきたい。
私は島民の一人として、ふるさと中島の先人
の築かれた文化を継承しながら、新しい島の文
突如出現するものではない。
積から生まれてきたものであり、新しい社会も
在のふるさとの中島の社会は、過去の歴史の累
第1号の句碑の内容を解説した 「中島の文化・
ゆかりの人々」のもくじの一部を紹介する。
敬が中島に来た」「桑名神社の絵馬」(写真3)「長
か。」
人 は 生 き 残 れ る の か。 文 化 は 産 業 足 り う る の
るさとの文化を大事にしたい。しかし文化で島
私の教え子の一人が、私に次のように迫った
ことがあった。
「ふるさとを大事にしたい。ふ
州征伐と本陣跡」などである。
平成一六年には『七島文化』(四一六ページ)
(写真4)を復刻した。「私は世界を思ふ 故に
写真4.復刻「七島文化」
この教え子の問いは重い。しかしながら、現
写真3.桑名神社の絵馬
島を思ふ 私は村を思ふ 故に人を思ふ」を会
員募集のスローガンとして掲げた七島文化会の
写真2.ふるさと読本
50
写真で振り返る
忽那諸島・歴史探訪
シンポジウム「忽那諸島の歴史を探る」
「発見・忽那諸島の歴史展」
会期中の展示解説
展示会
忽那諸島の考古資料と歴史資料を取
り上げた展示会。松山市中島総合文化
センター所蔵品を主体に約五〇点を展
示する。八月一日(日)~一〇月三一
の歴史資料に触れることで、故郷の歴
絵馬(写真)の紹介
史に親しむ機会になりました。
で開催し、三三三九人が見学し、地域
日
(日)
に松山市中島総合文化センター
古絵図の紹介
特別企画
「東京国立博 物 館 里 帰 り 展 」
全国的にも貴重な忽那諸島の考古資
料と歴史資料を取り上げた展示会。明
治期以降に中島・興居島で出土し東京
国立博物館で所蔵されている考古資料
(1P~3P)が約百年ぶりに里帰り
し、 国 指 定 重 要 文 化 財「 忽 那 家 文 書 」
や神奈川大学日本常民文化研究所所蔵
の「二神家文書」などを展示しました。
九月四日(土)~九月一二日(日)に
は松山市中島総合文化センター(観覧
者九八四人)で、松山会場九月一五日
( 水 ) ~ 一 〇 月 一 七 日( 日 ) に は 松 山
市考古館(観覧者一三二二人)開催し、
二神家文書の展示
中山古墳の展示
二千人を超える市民が、郷土の貴重な
歴史資料を堪能しました。
東京国立博物館里帰り展
松山市中島総合文化センター
52
写真で振り返る 忽那諸島・歴史探訪
永村 眞先生の基調講演
関口博巨先生の基調講演
パネルディスカッション
長井数秋先生の発表
パネルディスカッション
金本房夫先生の発表
シンポジウム
304人の参加者
「忽那諸島の 歴 史 を 探 る 」
九月四日(土)松山市中島総合文化センターで忽那諸島
の考古資料や歴史資料を調査研究する県内外の研究者四名
を招いてシンポジウムを開催しました。当日は三〇四人の
参加者があり、松山市立中島中学校生の水軍太鼓の演奏に
はじまり、基調講演やパネルディスカッションを実施しま
した。シンポジウムでは、全国的に貴重な歴史資料が多く
残る地域であることなどが発表され、地域の歴史遺産を大
53
切に思い、
継承していくことの大事さなどが語られました。
オープニング・中島中学校生の水軍太鼓の演奏
睦月島・三輪田米山書の柱連石
二神島・安養寺
中島・長隆寺
フェリーでのお土産抽選会
怒和島・港の販売市
忽那諸島歴史ツアー
昼食の「しまめし弁当」
「海から見る ・ 歴 史 の 足 跡 」
九月一二日(日)貸切フェリーで睦
月島、中島、二神島、怒和島を巡り、
「東
京国立博物館里帰り展」等を見学する
ツアーを開催しました。当日は八時半
に松山観光港を出発し、史跡や文化財
を 見 学 し て、 昼 食 は「 し ま め し 弁 当 」
でした。参加者二三六人は一日、島の
歴史・文化・食を満喫していました。
貸切フェリーでの島巡り
54
写真で振り返る 忽那諸島・歴史探訪
古代体験教室
「古代人に挑 戦 」
九月四日(土)松山市中島総合
文化センターで主に子どもを対象
にした勾玉作り・火おこし体験・
古代衣装体験の各教室を開催しま
した。当日は五四人の参加者があ
歴史講座
「忽那諸島の歴史を学ぶ」
忽那諸島の歴史広く市民の方々に
知っていただくことを目的として九
月一九日・二六日・一〇月三日・一
〇日・一七日(日)に計五回の歴史
講座を松山市考古館で開催しまし
た。考古学・歴史学・文化財学など
の分野から講師を招き、延べ一六八
55
人の参加者があり、忽那諸島の歴史
遺産に触れました。
山内譲先生
「文献に見る忽那諸島の歴史」
能田筆和先生
「忽那諸島の文化財」
安永純子先生
「伊能忠敬の測量と忽那諸島」
長井数秋先生
「忽那諸島の遺跡」
勾玉作り
考古館キャラクター「ふんどうくん」
勾玉作り
り、体験を通じて古代史や地域の
歴史に親しみました。
火おこし体験
忽那諸島の歴史遺産
考古資料
じょうもん じ だいそう き
おお たち ば じま
縄 文時代早期の土器片(中島)
ナウマンゾウの化石(大館場島沖)
松山市中島総合文化センター保管
おの
松山市中島総合文化センター保管
やじり
石の斧・石の鏃(中島)
松山市中島総合文化センター保管
やよい ど
き
おおつぼ
弥生土器の大壺(由利島)
懐古館保管
石の斧(中島)
松山市中島総合文化センター保管
ほ
つ
穂摘み具(石庖丁)
松山市中島総合文化センター保管
56
は
じ
き
穴のあいた土師器(中島)
松山市中島総合文化センター保管
は
じ
き
東海地方から運ばれた土師器(鹿島)
松山市北条ふるさと館保管
す
え
き
たかつき
須恵器の高坏(中島)
松山市中島総合文化センター保管
つき
ふた
す
え き
坏の蓋にした須恵器(中島)
松山市中島総合文化センター保管
は
じ
き
わん
土師器の椀(怒和島)
松山市中島総合文化センター保管
せっきょう
石経(中島)
松山市中島総合文化センター保管
は
じ
き
さら
土師器の皿(中島)
松山市中島総合文化センター保管
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安居港
安居島
大館場島
津和地島
❶
怒和島
上怒和港
津和地港
元怒和港
❷
菊間
❹
西中港
懐古館
中島総合文化センター
中島
中島港
❺
神浦港
❸
❻
睦月島
❼
野忽那港
野忽那島
釣島水道
由良港
❽
泊港
堀江港
高浜港
松山空港
しろ
だいとりであと
❼城の台砦跡(野忽那島)
じょうさいあと
❷クダコ城塞跡(クダコ島)
市指定史跡
もとやまじょうあと
❺本山城跡(中島)
市指定史跡
あけざわじょうあと
❽明沢城跡(興居島)
石手川ダム
高浜
松山市考古館
市指定史跡
北条ふるさと館
松山観光港
松山城
三津浜港
由利島
たいのやまじょうあと
伊予北条
堀江湾
興居島
釣島
❹泰山城跡(中島)
❾
北条港
睦月港
釣島港
たかやま
鹿島
二神港
二神島
❶高山(津和地島)
遺跡・文化財
広島県
県庁
JR松山
松山市駅
ふたがみじょう
やまとりであと
❸二神城の山砦跡(二神島)
うめ
こ ほんじょうあと うめ
こ じまとりであと
❻梅の子本城跡・梅の子島砦跡(睦月島)
市指定史跡
か しまじょうあと
❾鹿島城跡(鹿島)
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忽那諸島の歴史遺産
ぶんちゅう
いた び
じょうじねんかん
文中の板碑
[文中元年・1372年](中島)
県指定有形文化財
「板碑(文中の板碑)」
ふた がみ け
ぼ
ち
二神家の墓地
[鎌倉・室町時代~現代](二神島)
いた び
貞治年間の板碑
[1362~1368年]
(中島)
市指定有形文化財
「貞治年間の五輪塔残欠と板碑」
ちゃ や あと
ほうきょういんとう
宝 篋印 塔
[鎌倉~室町時代]
(睦月島)
じょうとう
お茶屋跡
[江戸時代]
(津和地島)
市指定史跡「お茶屋跡」
つる しま とう だい
[江戸時代]
(津和地島)
市指定史跡「常燈の鼻」
きゅうかんしゃ
釣島灯台・旧官舎 あ
い じま かい そ
安居島開祖 大内金
佐衛門の碑
[江戸時代](安居島)
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はな
常燈の鼻
[明治6年・1973年]
(釣島)
市指定有形文化財 「釣島灯台吏員退息所及び倉庫」
やなぎはら
柳原郵便局
−
−
松山市南斎院町乙六七
六
−
松山市考古館
松山総合公園
丸山バス停
南環状線
松山市北条ふるさと館
−
松山市河野別府九九五
文化の森
公園
かい こ かん
北条支署
松山市立歴史民俗資料館・懐古館
−
施設 案 内
−
一
(正賢寺)
P
JR松山駅
フライブルグ通り
千舟町方面
新空港通り
自動車
松山市内の土器・石器などを展示
し、講演会・出前教室などを開催す
る。
開館時間:九時~十七時(入館は四
時半まで)
休館日:毎週月曜日(祝日を除く)
・
祝日の翌日・年末年始
観覧料:常設展示室は一般一〇〇円
電 話:〇八九 九二三 八七七七
総合公園第4駐車場
北条の土器・石器などを展示する。
開館時間:歴史民俗資料展示室・九
時~十七時
休館日:毎週月曜日(祝日を除く)
・
祝日の翌日・年末年始
観覧料:無料
電 話:〇八九 九九三 三二六六
北条ふるさと館
JR予讃線
自動車
岩子山トンネル
高島
フェリー
待合室
−
NTT
研修
センター
松山市
考古館
姫ヶ浜
海水浴場
JA
41
朝日八幡神社
東之池
−
松山市熊田甲六五二
中島分校
松山市中島総合文化センター
−
松山市中島大浦二九六二
中島商工会
商工会館
忽那島八幡宮
大串
キャンプ場
中島中
中島小
−
大浦港
松山北高
中島分校
忽那諸島の民俗資料などを展示す
る。見学する場合には事前連絡が必
要。
開館時間:不定
休館日:不定
観覧料:無料
電 話:〇八九 九九七 一〇八七
中島総合
松山市役所支所
文化センター
フェリー
待合室
松山北高
JA
忽那諸島
の土器・化
石などを保
管する。見
学する場合
には事前予
約が必要。
中島総合
文化センター
長善寺
フェリー
発着所
懐古館
中島郵便局
NTT中島
電話交換所
41
松山市役所
支所
JAえひめ中央
中島撰果場
開館時間:平日九時~十八時
(土・日・
祝日は九時~一七時)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日
の場合は火曜日以降の最初の平日が
休館日)
・年末年始 観覧料:無料
電 話:〇八九 九九七 一一八一
大浦公民館
60
著者紹介
(掲載順・所属は平成二三年度)
一 九 三 五( 昭 和 一 〇 ) 年 生 ま れ。 考 古 学。
愛媛考古学研究所・所長。主要著書『松山の
主要著書『海と非農業民』(共著)岩波書店、
一 九 六 〇( 昭 和 三 五 ) 年 生 ま れ。 日 本 史。
神奈川大学日本常民文化研究所客員研究員。
関口 博巨(せきぐち ひろお)
歴史』
(共著)松山市、
『愛媛の考古学』愛媛
『村の身分と由緒』(共著)吉川弘文館ほか。
長井 数秋(ながい・かずあき)
文化双書刊行会ほか。
一 九 四 八( 昭 和 二 三 ) 年 生 ま れ。 日 本 史。
文学博士。日本女子大学教授。主要著書『醍
「伊予における伊能測量について」『愛媛県歴
安永 純子(やすなが じゅんこ)
一 九 七 二( 昭 和 四 七 ) 年 生 ま れ。 日 本 史。
愛媛県歴史文化博物館専門学芸員。主要著書
永村 眞(ながむら・まこと)
醐寺の歴史と文化財』勉誠出版、
『中世寺院
史文化博物館研究紀要第9号』、「大洲藩絵図
田上
繁(たがみ
しげる)
号』愛媛県
16
るさとが好き 人が好き』松栄印刷所ほか。
員長。主要著書『一洵がゆく』青葉図書、『ふ
金本 房夫(かなもと ふさお)
一 九 四 二( 昭 和 一 七 ) 年 生 ま れ。 教 育 学。
元中島総合文化センター所長、松山市教育委
著)青木書店ほか。
員。主要著書 『奥能登と時国家』(共著)平
凡社、『中世・近世土地所有史の再構築』(共
一九四七(昭和二二)年生まれ。日本経済
史。神奈川大学教授・日本常民文化研究所所
歴史文化博物館ほか。
媛県歴史文化博物館研究紀要第
方東寛治作成図と伊能図の比較について」『愛
史料論』吉川弘文館ほか。
小林 可奈(こばやし かな)
一 九 八 四( 昭 和 五 九 ) 年 生 ま れ。 日 本 史。
日本女子大学大学院生。主要著書「忽那家文
書の伝来と特質」
『日本女子大学大学院文学
研究科紀要』日本女子大学、
「伊予守護と忽
那氏」
『史艸』日本女子大学ほか。
村上武吉の戦い』講談社、
『中世瀬
山内 譲(やまうち ゆずる)
一 九 四 八( 昭 和 二 三 ) 年 生 ま れ。 日 本 史。
文学博士。松山大学教授。主要著書『瀬戸内
の海賊
戸内海の旅人たち』吉川弘文館ほか。
−
事業目録
平成二二年度 財団法人松山市文化・スポーツ
振興財団設立記念事業・松山島博覧会関連事業
『忽那諸島・歴史探訪』
特別企画「東京国立博物館里帰り展」
九月四日~九月一二日
松山市中島総合文化センター
(観覧者九八四人)
九月一五日~一〇月一七日
松山市考古館(観覧者一三二二人)
展示会「発見・忽那諸島の歴史展」
八月一日~一〇月三一日
松山市中島総合文化センター
(観覧者三三三九人)
シンポジウム「忽那諸島の歴史を探る」
九月四日 松山市中島総合文化センター
(参加者三〇四人)
古代体験教室「古代人に挑戦」
九月四日 松山市中島総合文化センター
(参加者五四人)
忽那諸島歴史ツアー「海から見る・歴史の足跡」
九月一二日 忽那諸島(参加者二三六人)
歴史講座「忽那諸島の歴史を学ぶ」
九月一九日・二六日・一〇月三日・一〇日・
一七日 松山市考古館(参加者一六八人)