奈良学ナイトレッスン 第3期 日本神話の女性たち ~第2夜 「生み育てる母──母の乳汁」~ 日時:平成 24 年 2 月 29 日(水) 19:00~20:30 会場:奈良まほろば館 2 階 講師:三浦佑之(立正大学教授) 内容: 1.神の子と聖母 2.生む母、生まない父 3.母と娘──恋する娘と監視する母 4.父と息子──後継問題と親子の対立 5.母と息子──乳汁で守る母の存在 6.揺らぐ家族、失われる乳汁 1.神の子と聖母 前回は神話や古代文学のなかで「姉」と「妹」が果たす役割についてお話ししましたが、今回は、「お母さ ん」です。お母さんというのはやはり永遠の命題で、文学のテーマとしてとても大きい存在です。みなさんの ご家庭ではどうでしょうか、父親の影は薄くて、お母さんが強い、という家庭が多いのではないでしょうか。古 代の作品を見ても、父はほとんど出てきません。これはやはり「生む」という問題が大きく関わっています。 たとえば、日本神話で海幸山幸を生んだコノハナノサクヤビメ(木花佐久夜毘売)ですが、お腹の子の父で あるニニギノミコト(迩々藝能命)に対し、「私は妊娠しましたが天つ神の御子ですので、こっそりは産めませ ん。ご指示ください」と言うと、ニニギは「一晩の契りで孕(はら)むとは、きっと私の子ではない。そのへんの 国つ神の子であろう」と疑います。サクヤビメはニニギの子供であるということを証明するために、出入り口を 塞いだ産屋に火をつけ、その中で出産しました。無事に3人の神を生み出したので、ニニギの子であるとい うことになりました(『古事記』上巻)。 でも、このことで本当にニニギの子であると証明できたのか、どうも疑わしいですね。それでも、こういうかた ちでしか男性は自分の子供であることを証明されない。このあやふやさが父の立場なのです。へその緒ま で自分で処理した女性は、男が誰だろうと生んだ子は自分の子供です。ここにお母さんの確かさがある。と ころが DNA 鑑定もない時代では、父であるという保証はないのです。 2.生む母、生まない父 父という存在はどうも確固たる保証がないので、次のような話も生まれます。5世紀の雄略天皇の話です が、天皇に仕える采女(うねめ)の童女君(ヲミナキミ)を一夜だけ召したところ、妊娠して女の子が生まれま した。天皇は自分の子であることを疑って、養いません。女の子は成長しますが、あるとき臣下の物部目大 連(もののべのめのおおむらじ)がその子を見て、天皇にそっくりだと思います。天皇に問うと、一晩で7回も 召したというので、目大連は童女君の潔白を述べ、一晩中召した相手を疑うべきではないと諌め、天皇も納 得して認知したと言います(『日本書紀』雄略天皇元年3月)。 このくらい、「父」というものはあやふやでした。男の血筋とは証明しにくいものです。古代社会では母系的 な性格が強く、母系制とまで言わなくても、古代の日本列島の親子関係というのは「双系制」または「双方 制」と言って、中心になるのは父母どっちでもいい、非常に曖昧なものでした。しかしあるとき、非常に強い 父系的な社会がどんと覆い被さりました。男系的、男尊女卑的な性質をもつ中国の律令制度というものを 受け入れたため、男中心の社会に転換していったのです。 『万葉集』の巻20には、九州で防備にあたる東国の兵士「防人(さきもり)」の歌が100首ほど掲載されてい ます。彼らの歌を見ていきたいのですが、みなさんはご両親のことを、母父(ぼふ)、母父(ははちち)と言い ますか。言いませんね。『万葉集』では、山上憶良(やまのうえのおくら)のような官人、知識人は「父母」とい いますが、東国の兵士たちは違うようです。 旅行きに行くと知らずて阿母志々(あもしし・母父)に言(こと)申さずて今ぞ悔しけ(巻20の4376) (九州までの)旅になるとは知らず、母父に何も言わないで来たことが今は悔しい、と歌っています。 月日やは過ぐは行けども阿母志々が玉の姿は忘れせなふも(巻20の4378) 玉の姿とはおそらく母(阿母)だけのことで、父(志々)は付け合わせみたいなものですね。思い出している のはお母さんだけでしょう。律令国家が浸透する前のお母さんの優位性は、このような歌を見ただけでわか ります。 3.母と娘──恋する娘と監視する母 古代の親子関係は次のように単純化できます。 父と母と子、という単純な核家族をもっと分裂させると、「母—息子」「母—娘」「父—娘」「父—息子」という4つ の関係に分けることができます。親子で性が違う関係を便宜上「交叉(こうさ)親子」と呼び、性が同じ関係を 便宜上「平行親子」と呼びます。 まず、性が同じ「平行親子」であるお母さんと娘の関係を見てみましょう。 『万葉集』の歌によれば、お母さんは娘の監視をする役割であることがわかります。そのような内容の歌は、 東歌や作者未詳歌という地方または古層の歌に多いようです。 魂(たま)合はば相寝むものを小山田の鹿猪田(ししだ)禁(も)る如(ごと)母し守らすも(巻12の3000) タマというのは魂のことで、魂が通じ合ったら一緒に寝ることもできるのに、山の田を鹿や猪から守るように 母が監視してる、と詠む娘の歌です。 垂乳根(たらちね)の母に申さば君も吾も逢ふとは無しに年は経ぬべし(巻11の2557) お母さんに二人のことを言ってしまえば、あなたも私も会うことのないまま年をとっちゃうよ、と詠んでいます。 そして大胆になっていく娘もいました。 玉垂れの小簾(をす)の隙(すけき)に入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ(巻11の2346) 玉を垂らした簾の隙間から入って、通ってきてください。母が咎めたら、風だと申しましょう、という意味で す。 思い切って母に告白してしまう人もいます。 かくのみし恋ひば死ぬべみ足乳根(たらちね)の母にも告げつ止まず通はせ(巻11の2570) これほど恋をしていたら死んでしまう。母にも打ち明けてしまったので、絶えずお通いください──。ハッピ ーエンドですね。 このように、娘を悪い虫から守るのがお母さんの役割でした。こういう場面に父は一切顔を出しません。歌と いう性質の問題もあるかもしれませんが、どうも父はこういうところには口を出さないようです。 財産についても、母の財は娘へ、父の財は息子へと受け継がれたようです。娘はお母さんの奴隷や、乳母 を連れて嫁入りをしたりしたようです。『万葉集』で財産に関係する歌は次の一首のみです。 つぎねふ 山城道を 他夫(ひとづま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し 歩(かち)より行けば 見るご とに 哭(ね)のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し 垂乳根の 母が形見と わが持てる 真澄(ますみ)鏡に 蜻蛉領巾(あきづひれ) 負ひ並め持ちて 馬買へわが背(巻13の3314) 奈良の都から山城(京都)に向かうのに、他の夫は馬で行くのに、私の夫は馬がないので徒歩で行く。そ れを見れば声をあげて泣かれるし、心も痛む。私の母の形見である曇りのない鏡と、羽根のように薄い高価 な布を背負いもって、馬を買ってください、と詠んでいます。これは戦国時代の山内一豊の妻の逸話とほと んど同じで、よく尽くす妻の話のパターンが古代からあったことがわかります。ここでは、妻の財産は「母の 形見」とありますから、母の財が娘に譲られるということがわかります。女性の血筋が強く意識されているの でしょう。 4.父と息子──後継問題と親子の対立 同じく平行親子である「父」と「息子」の関係について考えてみましょう。父が権力をもってくると、「相続」と いう問題が大きくなってきます。 『日本書紀』には、崇神天皇が後継者を決める場面があります。天皇はトヨキノミコト(豊城命)とイクメノミコト (活目尊)という2人の皇子を呼び、「2人に対する慈愛の気持ちは等しく、どちらを跡継ぎにしてよいか決め かねている。そこでそれぞれが見た夢を占って決めよう」と告げます。2人の皇子は体を浄めて眠り、それぞ れ夢を見ました。これは「祈誓(うけ)ひ寝」といい、神が夢を見させて、お告げをするのです。 兄のトヨキノミコトは、御諸山(三輪山)に登り、東に向かって8度槍を突き出し、8度太刀を振りまわす夢を 見ました。一方、弟のイクメノミコトもやはり御諸山に登りますが、縄を四方に巡らし、粟を食べに来る雀を追 いはらう夢を見たと言います。天皇は相夢(いめあはせ)つまり夢判断をして、東に向かって槍や太刀を振り まわす兄を東国の支配者にして、天皇の位は弟に譲ることを決めました。これが垂仁天皇です。このときは 平和な時代だったようで、野蛮な兄よりは、畑を守る地道な天皇のほうがふさわしいと父が判断したのでしょ う。 しかし、跡継ぎを決めるということは危険な状態を生み出すことが多く、時に父と子が対立します。有名な 話がヤマトタケルです。 景行天皇がヲウスノミコト(小碓命・ヤマトタケル)に、「お前の兄は朝夕の食事になぜ参じないのだ。お前 が教え諭しなさい」と言いましたが、5日経っても兄は食事に参上しません。天皇が重ねてヲウスに聞くと、 「すでに教え諭しましたよ。明け方、兄が厠に入ったのを捕まえて、つかみつぶし、手足をもぎとり、菰(こも) に包んで投げ捨てました」と言います。息子の荒い気性を恐れた父は、ヲウスを遠ざけるために西国のクマ ソタケル(熊曽建)の追討を命じます。ヲウスはクマソタケルからヤマトタケル(倭建命)という名をもらい、無 事征伐すると、さらに出雲のイズモタケル(出雲建)も倒して天皇に報告します。しかし天皇は「次は東の方 にある12の国の荒れすさぶ神々と服従しない者たちを平定せよ」と言って大和から追い払います。ヤマトタ ケルは伊勢の大御神を祀る叔母のヤマトヒメノミコト(倭比売命)のもとに立ち寄り、「天皇は私に死んでしま えと思っているにちがいない」と泣きます。『日本書紀』ではだいぶ内容が異なりますが、この『古事記』のヤ マトタケルの話は、父と息子の破滅的な関係を描き出していると言ってよいでしょう。ヤマトタケルは東国征 伐ののちに命を落としてしまいます。 5.母と息子──乳汁で守る母の存在 このように、平行親子、つまり母と娘、父と息子は対立的な関係となることが多いのですが、交叉親子つまり 父と娘、母と息子はきわめて親密な関係となります。たとえば先ほどもお話しした『万葉集』巻20の防人の 歌では、お父さんだけが歌に出てくるのは1首しかないのに対し、母は30首ほど。防人は母しか詠まないと 言ってよいでしょう。 時時の花は咲けども何すれそ波々(はは・母)とふ花の咲き出来ずけむ(巻20の4323) 時々に花は咲くけれど、どうして母という花は咲かないのだろう、と詠んでいます。 阿母刀自(あもとじ・母)も玉にもがもや戴きて角髪(みづら)のなかにあへ纏(ま)かまくも(巻20の4377) 母上も玉であってほしい。捧げもって、私の束ねた髪の中に一緒に巻き込めるのに、と詠んでいます。「ゲ ゲゲの鬼太郎」だと、お父さんつまり目玉おやじが鬼太郎の髪の毛の中で鬼太郎を守りますが、防人はお 母さんを髪に入れてお守りにしたいと思うのです。防人というのは21歳から60歳までの「正丁(せいてい)」 という成年男子から集められますが、多くが20代の男性で、結婚している人もいたでしょう。そんな若者が 別れに際して、母を歌に詠むのです。当時の成人男性の母への崇拝が強く、古代の母の力をそこに読み 取れます。 母の役割は母が子に与える乳汁が大きく関係してきます。 『古事記』上巻にあるお話ですが、オオナムヂノカミ(大穴牟遅神)は彼の命を狙う兄弟の八十神たちに、 「この山の赤い猪を、我々が上から追い下ろすので、お前は下で捕まえろ」と言われて、そのとおりに下で 捕まえると、それは猪ではなく大石を焼いたものだったため、オオナムヂは身を焼かれて死んでしまいます。 それを知った母の御祖神(ミオヤノミコト)は嘆き哀しみ、出雲の大地母神である神産巣日之命(カムムスヒノ ミコト)の指示を仰ぐと、カムムスヒはすぐにキサガヒヒメ(□〈「刮」の下に「虫」〉貝比売)とウムギヒメ(蛤貝比 売)という赤貝と蛤の女神を地上に遣わします。キサガヒヒメは赤貝の粉を削り、それをウムギヒメが蛤の汁で 練り、「母(おも)の乳汁」としてオオナムヂに塗ったところ、立派な男子として蘇えりました。実際には貝のカ ルシウムで作った薬であるようですが、オオナムヂは大地母神の乳汁によって再生したことになり、母によっ て守られていることがよくわかります。 母の役割というのは子を守ること。娘を監視して悪い虫から守り、息子は成長の節目節目で助けます。で すから防人のようにいつまでも自立できない男の子ができてしまうというのは、現代でも変わらないのではな いでしょうか。 6.揺らぐ家族、失われる乳汁 7世紀ごろの律令制以前の古い社会では、どちらかといえば母子関係が強かったようです。父がいないと 子供ができませんが、その父は実はだれでもかまわない。親子は母からつながっていく関係でした。ところ が奈良時代に入り、律令制という社会に転換していくと、父系的な社会ができあがっていきます。血筋を守 るために、外部の女性を入れて子を産ませ、他の男との関係を遮断させます。そして男の子が生まれるとそ こにまた女を入れて、女の子が生まれると外部に出して誰かと結婚させる。交叉親子である「父」と「娘」の関 係は、父が娘を守る一方で、娘を外に出して結婚させ、家と家の結びつきを強くします。父はそのような対 外的な役割を果たしました。そのような父系的な社会になると、始原的な関係の「お母さん」は家の構造か らはじき出されてしまうのです。 8世紀末から9世紀初頭にかけて成立した『日本霊異記』には、母が捨てられるという話が見られます。か つて子供を守っていた母が、父系的な論理によって説明されなおすことによって、これらの話が生まれたよ うです。 越前国加賀郡の横江臣成刀自女(よこえのおみなりとじめ)は生まれつき多情多淫の女で、数多くの男性 とみだりに交わり、女盛りを過ぎないうちに亡くなって長い年月が経っていました。あるとき諸国を遍歴して 加賀郡に住み着いた寂林法師が夢を見るには、大和国斑鳩の聖徳太子の宮殿の前を歩いていると、草む らの中で太った女が裸体に近いかっこうでうずくまっている。見ると二つの乳房は大きく腫れ上がり、膿汁も 垂れ、その痛みに女はうめき苦しんでいます。事情を聞くと、彼女は横江臣成人(なりひと)の母(=成刀自 女)だが、幼い我が子を捨ててみだりに男たちと交わり、乳を与えることもせず、成人はひどく飢えました。そ の報いを受けて、いま乳の腫れる病に苦しんでいる。しかし成人がこのことを知れば、罪は許されるだろう、 と言います。そこで寂林法師は成人を探しあて、母親の死後の苦しみを伝えました。成人は「怨みには思っ ていない」と言って、母の追善供養をしたところ、母は罪を免れたといいます。 養育を放棄した母の物語ですが、母を中心とした家族が崩壊したということだけでなく、みだりに男と交わ ったという仏教的な観念によって排除された母が描かれます。「母の乳汁」はオオナムヂを助けますが、与 えることを放棄した母は乳の病によって苦しめられる、と言う話です。 そもそも「チ」という言葉には、「乳」という白い「チ」と、「血」という赤い「チ」があり、白いチは母の象徴であり、 母と子は乳でつながっています。赤いチは父の象徴で、血筋を表しています。血筋の問題は女性にとって あまり意味がありませんが、男にとってはここにこだわる以外には関係をつけられません。現在なら DNA 鑑 定でわかりますが、古代では血筋なんて幻想です。だから父との関係はあやふやで危ういのですが、乳は 確かです。だから母は自信があって、強い。 これも『日本霊異記』の話ですが、大和国に瞻保(センポ)という男がいて、儒教を学びながらも母に孝養を 尽くさず、自分の母に貸した稲の返済を厳しく要求しました。母は土下座しているのに、瞻保は朝床であぐ らをかいて母に迫るので、友人たちもあきれます。すると母は自分の乳房を出し、「お前を育てるのに休む 暇もなく、そのうち恩返しもしてくれるだろうと頼みにしていたが、それどころか私が借りた稲の返済をとりた てる。だから私もまた、お前に飲ませた乳の代価を要求しよう」と言います。それを聞いた瞻保は貸し付けの 証文をすべて焼き、その後は狂ってすべて財を失い、飢えて死んでしまったといいます。 この親子は母ひとり子ひとりのようですが、息子には妻子がいて三世代家族で暮らしていますが、お母さん には夫がおらず、古層にある母系的な性格をみせています。律令制ではこのとき田も一人一人に分けられ ていたので納税の義務も一人一人が負っていました。いわば個人主義の時代であり、老いた母ははじき出 されているのです。律令制によって父系社会がどんと上にかぶさってくると、今までの共同体的な家族関係 が壊されてしまいます。せっぱつまった母がおっぱいの代金を請求し、家族は崩壊する──。時代の変化 に人々はうまく対応できなかったのでしょう。これが平城京の時代に現れた社会のひずみであり、ひょっとし て今の社会までずっとつながっている問題なのかもしれません。
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