3. 日子坐王の系譜と室毘古王、 若狭の耳別

あったと見ていいと私は思います。しかし、近長谷寺のような山の上にあるようなお寺と比べる
と、それよりはやはり一回り規模が大きかったでしょう。地方豪族が関与した寺院として、他の
寺院と比べても遜色がない規模をもっている寺院である、と押さえることができるだろうと思い
ます。
3.日子坐王の系譜と室毘古王、若狭の耳別
そこで次には、興道寺廃寺のような寺院をいったいどのような勢力が造ったのか、あるいは造
っただけではなく維持していったのかということが、当然問題になってくると思います。次にこ
の問題を考えたいと思います。
興道寺廃寺の所在は、若狭国の一方郡の弥美郷にあたる耳ノ流域の地域です。この地域の豪族
としては、若狭の耳別という氏が知られています。ただし、若狭の耳別という氏はたった1度し
か史料に出てきません。『古事記』の開化天皇段です。開化天皇は伝説上の天皇で実在した天皇で
はないと思いますが、その開化天皇のところに日子坐王の有名な系譜が記されています。その中
に若狭の耳別が出てくるのです。そこで、日子坐王の系譜を図示したものが、図1の系図です。
もちろん『古事記』では文章で表現されているのですが(史料1)、それを系図の形で図示したの
がナの系図です。
系図の真ん中からすこし左寄りに、日子坐王がいます。ゝの日子坐王を要とする非常に大きな
系譜であるナとが 目で理解できると思います。日子坐王にはたくさんの子供がいて、その子供
たちがいろいろな豪族たちの祖先ということになっています。名前の下に丸括弧をつけて、その
子を祖とする豪族の名前を書いておきました。たとえば系図の一番左端の室毘古王のところに(若
狭之耳別)と書いておきましたが、ナの室毘古王ナそが、まさに若狭の耳別の祖先であることを
表わしています。
このように見ていただきますと、とても多くの豪族の祖先がみな日子坐王の子供であると言い
伝えられていることがわかります。この日子坐王の非常に巨大な系譜の背後に、かつて何らかの
豪族のまとまりがあって、若狭の耳別はその一つに位置づけられている、と理解してよろしいか
と思います。
日子坐王、室毘古王にもうすこし近づいてみましょう。系譜では、日子坐王と沙本之大間見戸売
という女性が結婚し、4名の子供が生まれました。3人が男の子、1人が女の子です。お母さん
の抄本之大闇見戸売は、春日建国勝戸売の子と書かれています。次に、日子坐王の父は若倭根子
日子大毘々命、すなわち開化天皇ですが、母は意祁津比売命で、日子国意祁津命の妹ということ
になっています。この兄の日子国意祁津命が丸迩臣の祖先とされています。丸迩氏は和珂・和迩
と書くことが多いので、以下は和珂氏と表現することにします。
ここまでお話しをしてくると、日本の古代史について詳しい方は、すぐにピ/とくると思います。
日本の古代には和珂氏という大豪族がいたと考えられています。非常に古い段階に大和王権の大王
と婚姻関係を結んで勢力を拡大していったと言われている豪族です。それと何か関係があるのでは
ないでしょうか。
この和珂氏は、もともと大和に本拠がありました。たとえば、奈良盆地の北に行きますと「佐保
川」が流れています。室毘古王の母の沙本之大闇見戸売の「抄本」はこれと関係があると思われま
すし、彼女と日子坐王との間にできた抄本毘古王、抄本毘売命(室毘古王の兄弟姉妹)の「抄本」
もそうです。そして、奈良の春日大社のある「春日」、これも実は和珂氏の一族の拠点で、春日氏
がいました。
53