英語 1 第 3 章 NATIONALITY

英語 1 第 3 章
NATIONALITY
Introduction
Clive Collins
チャールズ・ディケンスの小説「互いの友」の登場人物の一人であるヒグデン夫人は、新聞に載っている
刑事裁判所での裁判の記事を、世話を見ているスロッピーという若い少年に読んでもらうのを楽しんでいる。
彼女が言うには、スロッピーは「警察を違った声で演じる」ので「すばらしい新聞の読み手」なのである。
ヒグデン夫人が言いたいのは、スロッピーは新聞を読むとき、裁判中の警察や証人にそれぞれ違った声を
あて、生き生きとした表現を用いているということだ。
スロッピーがしていることは、何かを読む際に私たちのほとんどがしていることである。登場人物が文章
の中で喋る際、私たちは彼らの声を「聞き取り」、その登場人物に対する自分の解釈に応じて声をうまく表
現するものだ。私たちは、スロッピーのように何らかの理由で文章を声に出して読まねばならないのでない
限り、心の中だけにある声を「聞き取る」ことで、言葉を発することなくこれを行っている。
声に出されずに伝達する言語を通じて「話す」あるいは「聞く」というプロセスがどのように達成されるのか
を、少し考えてみる価値はあるだろう。私たち、つまり書き手と読み手が皆了解している決まりとはどのよ
うなものであろうか。
書き手は、読者も使うことができるような言葉の道具を巧みに操ることで、会話、つまり登場人物の話す
言葉を、誰のものかわかる有効な声へと形作ることができる。ではその言葉の道具とは何だろうか。語彙、
つまり書き手による登場人物の喋る語の選び方は重要な道具である。文法、統語、言葉の使用できる範囲も
同じように重要である。これらは登場人物に特定の口調を与えるのに用いられたりする。その口調が特異的
であれば、その声を通して登場人物の独特さを決定づけることができるし、あるいは、口調がいかにもあり
がちなものであれば、読者が元々良く知っている人間、例えば気の強い探偵や、ロンドンのタクシー運転手
などに結びつけるができる。
登場人物が直接話した言葉(実際は登場人物が発した単語であるが)が読者にどのように「聞き取られる」
のかを理解するのは簡単かもしれないが、同じく「聞き取」れてそれが誰のものかわかる声だが、文章の会
話以外の残りの部分から発せられる声が存在するという考えは、おそらく私たちには受け入れがたいもので
あろう。しかし、どんな文章にも見られるいわゆる書き手のスタイルも、登場人物が発する言葉と同じよう
に人為的に作られた「声」であり、物語そのものの言葉から私たちに語りかけてくる「声」である。スロッ
ピーやヒグデン夫人、ヴィクトリア朝イギリスの刑事裁判の証人の声などと同じように、聞き取ることがで
き、特徴を与えている声である。
書くということは自己演出の行為である。数年前、高名なアメリカの文学批評家ウェイン・C・ブースは、
毎朝椅子に座って執筆していたチャールズ・ディケンスは、その前に妻や子供みなと一緒に朝食を食べてい
たチャールズ・ディケンスとは違う人間である指摘した。これはやや理解しづらいことであるだろう。しか
し、「大英博物館が倒れる」(デイヴィッド・ロッジ 1965 年)というまた別の愉快な小説について言及す
ることによって上手く説明ができるかもしれない。ある章では、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェ
イの文章内の「声」で話す登場人物が出てくる。つまり、とても短い文で話すのである。あるものが良い、
あるいは悪い、といった文で話す。しかしヘミングウェイが、彼が書く文章のように話すとは考えにくい。
実に考えにくい。書くこと、全ての書くことは自己演出の行為なのである。
読み書きができる人であれば、色々な機会において作家になるのである。私たちが作家であれば、持って
いるのはただ一つの声だけではなく、必要に応じて組み立てて使うことのできるたくさんの声を持っている。
なぜ、どのように私たちがこのような考えを持つのかということは、以下に続く文、父による娘の誕生の記
録を読む際によく考えるべきことである。作者の個性や信条が与える印象は、実際の出来事の主人公の一人
によって書かれた感動的な記述により正しく伝わる。しかし、このような現実の日常のことを書くときでさ
え、書き手は話の内容と自分の感情を読者に伝えるために使われる声を選ぶ。この声は、子供、親、生徒、
教師、当事者、観察者、調査者といった作者が使うことのできる声の一つである。このような声は意識的に、
あるいは無意識になされる語彙、文法の選択によって成立する。この文では、瀬地山教授は距離を置いた大
学教官としてではなく、伝えるべき話の重要な参加者である父親として書いている。
Miyon
Kaku Sechiyama
私が研究休暇でアメリカへ発つことになっていたとき、私と妻は一人目の子どもの誕生を待っていた。最
初のうちは、私が先にアメリカに行き、その間に妻が日本に留まり出産しようと考えていた。アメリカでの
言語の問題やその他の生活での点について心配していたのだ。しかし最終的に、一緒にアメリカに渡りそこ
で出産することに決めた。このことによって、子供は三つの国籍を持つことになる。というのも私の妻は韓
国人(いわゆる「在日」)であり、アメリカで生まれる子供はみな自動的にアメリカ国籍となるからである。
様々な手続きで面倒なことになるのは目に見えていたが、私は社会学者として、なかなかおもしろいことに
なると思ったのだ。
国籍という概念が広く受け入れられるようになる前、人々は今日の「世界は国境で分断されている」とい
うものとはまた違った見方で世界を見ていた。三つの国籍を持つということはきっと、「日本人」である、
または「韓国人」である、「アメリカ人」である、といった窮屈な考えから少し解放されたものの見方を子
供に与えてくれるだろうと思った。
私たちは八月の半ばにアメリカに到着した。妻にとってこの旅を楽なものにしようと、東海岸へ飛行機で
直行するのではなくて西海岸に一泊することにした。翌日私たちはボストンに到着した。子供が旅路の真っ
最中にそろそろ生まれようと思ってしまうようなことがなくてほっとしていた。私たちは真っ先に大学の医
療センター内の産婦人科に診察してもらいに行った。受付の中年女性は私たちを見てにっこりして言った。
「妊娠 34 週になって日本からやってきたの?なかなか勇気があるねえ。」私は、二人がこれまで医師と英語
で話したことがないことに気がついた。妻は私より落ち着いていた。「大丈夫!だって出産は病気ではない
んだから」妻がこう言うのを聞いて私は嬉しく思った。
私たちは母親の出生地や母語といった様々な情報を提供するよう言われた。妻は英語を喋るのに自身が
なかったので、私が代わりに答えた。「私の妻は韓国人ですが日本で生まれました。彼女の母語は日本語で
す」さらに、「私は日本人で、彼女は韓国人です。でも子どもはアメリカ人になるんですね。」受付の人は
笑ってから、実に驚くべきことを言った。「その通りです、典型的なアメリカ人ですね。私の祖母はアイル
ランド人で、祖父は…」私は喜びのあまりその後彼女が何を言っていたのかよくわからなかった。私たちの
子どもは日本人の父と日本で生まれ育った韓国人の母を持つことになる。この子は日本だったら「典型的な
日本人」にはなれないだろう。ところがアメリカでは、ここに着いたばかりで英語もほとんど喋れないアジ
ア系の両親を持つこの子が「典型的」だと言われるのだ。私はこの移民の国に感銘を受けた。
しかし感動してばかりもいられなかった。私たちは医学的な質問にも答えなければならなかったのだ。
「腹痛」や「風邪」といった言葉くらいしか知らない者にとって、「喘息、貧血、発作」のような専門用語
はとても難しかった。幸いなことに妻は体調がよく、何も心配はいらなかった。しかし私は、もし出産の最
中に予期しないことが起きたらどうしようかと心配になりだした。そのあと私は医療ドラマの「ER(救命病
棟)」を辞書を片手に観て、医療用語の勉強を始めることにした。
実際の出産は大学の医療センターではなく近くの大きな病院で行われることになっていた。そこの医療設
備はアメリカでトップ10に入るほどだと言われていた。私は出産の際に妻を病院に連れて行くときの準備
として、病院まで車を運転する練習をした。しかしアメリカに着いたばかりなので、私は左折するたびに道
の反対側にそれてしまった。妻が「右!右に寄って!」と何度も何度も言って助手席から運転を助けなけれ
ばならなかったので、私はとてもばつが悪かった。予定日の二週間前、私たちは病院を下見に行った。そこ
は確かに見事な施設だった。妻は個室で出産をし、そのあと別の個室に移ることになっていた。ホテルのよ
うだった。
私たちは顔を見合わせてにっこり笑った。「素晴らしい!」きっとおなかの子も私たちの興奮を感じた
のだろう。その夜から断続的な痛みが始まり陣痛の間隔がだんだん短くなってきた。私は辞書を引きながら
メモを書いて、その日の朝4時に大学の医療センターに電話し、医師と連絡を取り状況を説明した。医師は
私たちにすぐに病院へ来るように言った。私たちは夜道を急ぎ、昼間かかる時間のおよそ半分の時間で病院
に着いた。
私たちは病院に着いて間もなく分娩室に入った。多くのスタッフが出入りしていた。もちろん私は妻のす
ぐ隣にずっといて、彼女のために通訳をしたりお茶をいれたりしていた。私は子どもの誕生のときにすぐ側
にいられることをとてもうれしく思った。私は、このような状況におかれたらどうしていいか分からないと
言う男性がいたのを知っている。私の場合、通訳としてそこにいる必要があったし、事実私がするべきこと
は山のようにあった。日本では出産に立ち会うことは決意がいるものであり、大変なことだと考えられてい
る。しかし私たちが行った病院では、私が立ち会って当然だと思われていた。考えてみれば、自分の子がま
さに生まれようとしているとき、親の片方は分娩室の外で立っていなければならないのは非常におかしなこ
とだ。家族の一員が誕生する瞬間、その痛みや興奮を共有することはとても大事だと思う。さらに、子供の
誕生の瞬間に両親が一緒にいることが一般的であれば、男性がその後の子育てにより積極的に関わる習慣を
確立する助けになるだろうと思っている。妻が出産のために実家に帰るしきたりは過去のものにするべきだ。
この変化を実際に可能にするには、子供が生まれるときに夫が仕事を休める制度があるとよい。私は常々こ
のことが必要だと思っていたが、自分の子供の誕生後はより強く考えるようになった。
新生児がアメリカ国籍を得るための事務手続きは比較的簡単だった。子供が生まれた日、病院の出生証明
の責任者が私たちの部屋にやってきた。私は母親と父親についての情報を提供するよう言われ、子供が社会
保障番号を必要とするかどうかも尋ねられた。翌日、私は用紙に子供の名前を記入するだけだった。アメリ
カでは子供の名前をすぐに決めなくてはならないので、前もって考えておく必要がある。私は病院で用紙に
署名をした。それでその用紙は市役所に送られそこで出生証明書が発行される。社会保障番号はアメリカで
法的に職を得るために必要なもので、約2週間後に私たちに送られてきた。私たち自身の社会保障カードに
は「雇用にて無効」と書かれているが、娘はアメリカ国籍なのでそのカードにはそういった制限はない。彼
女は「典型的な」アメリカ人なだけである。娘のパスポートをもらう際には、私は郵便局に行って出生証明
書とともに申し込み用紙を提出するだけでよかった。そして娘は、日本でも韓国でも同様に参政権のない母
親とは違って、大人になってしまえば日本でもアメリカでも投票する資格を持つことになる。
興味深いことに、出産を登録するとき韓国の書類にも日本の書類にも父親の名を先に書かなければならな
かったのだが、アメリカの書類では母親の名前の方が先だった。実際私たちが病院から受け取ったお祝いメ
ッセージには、父親の名前は書かれてすらいなかった。おそらくこれは、特にシングルマザーにとっては、
より良い制度なのだろう。さらに、日本では子供は誕生地に関わらず親の戸籍に登録されるのだが、アメリ
カでは子供の出生証明書を作るのは病院がある町の地方自治体である。私たちは本当はケンブリッジに住ん
でいたのだが、病院が川を挟んだボストンにあったので出生証明はボストンで登録された。このことは、国
家全体のレベルと同様に地域のレベルでも、どこで生まれたかが重要であるというアメリカの姿勢を表して
いる。
私たちは子どもに三つの名前を付けた。三つの異なる登録制度で別々のものを付ける必要はなかったのだ
が。娘の日本名は「瀬地山美瑛」だ。これは北海道中央部の丘の多い町である美瑛(「びえい」と発音する)
から取った。私が北海道大学で教えていたとき、私と妻はそこを訪れるのが好きだった。いつか娘が、彼女
自身の名前を愛するのと同じくらい、季節が変わるごとに美しさを変えるそこの空や丘や農園を愛するよう
になってくれることを願う。その町にちなんだ名前を付けた理由を理解できるくらいに娘が成長するまで、
その地域の風景がそのままであれば良いと思っている。
娘の韓国名、「金美瑛」は韓国語でとても自然にきこえる。娘の名前は日本語でも韓国語でも「みよん」
と発音する。私は韓国語の発音をそのまま使うことにした。なぜなら彼女には日本社会での少数派としての
アイデンティティーを認めることができるくらい強く育ってほしかったからだ。ちょうど彼女の母親がそう
であったように。私は娘の名前の英語の綴りを考えるのにとても苦労した。もし「Miyong」としたら、英語
を話す人は「My Yong」と読んでしまいがちだと考えたので、「Meayong」に決めた。ミドルネームは母親
の名字、「キム」になる。だから娘のアメリカ名は「Meayong Kim Sechiyama」である。おそらく娘は成長
したら「Kim」しか使わないだろう。なぜなら「Meayong」は発音が難しい名前だからだ。この正式なアメ
リカ名は、
日本名をローマ字にしたもの
(Miyon)とも韓国名をローマ字にしたもの(Miyoung または Miyung)
とも異なっている。韓国政府はアメリカの出生証明書に登録されているスペルに合わせて娘のパスポートを
発行する際、伝統的な韓国のスペルを変えた。しかし日本のパスポートでは娘の名前は Miyon と綴られてい
る。このことは、例えばいつか娘が日本と韓国の機構から成績証明書をもらわなければならなくなったとき、
混乱を招いてしまうだろう。娘の名前は二つの書類の中で違う綴りになるからだ。しかし娘は言語に関係な
くいつも「Miyon」である。このことが彼女のアイデンティティーとなってほしいと思う。
私が Miyon に言いたいのは次のことだ。
お前の名前が Miyon と発音されるのは、そうすることでお前が在日朝鮮人の直面している問題に対して気
を配ってほしいと思ったからだ。そしてお前がきっとこれらの問題を社会的な問題として認識することを望
んだからだ。私たちがお前の取りうる三つの国籍全てを正式なものにしたのは、お前自身の人生のうちでこ
の国籍という現代的な制度のばかばかしさに向き合ってほしかったのと、国籍という狭い枠組みからお前を
解放したかったからだ。ある意味では、お前の誕生は世界の人口が三人増えることを意味している。私はこ
れからの人生で、日本の、アメリカの、韓国の Miyon という、共に世界に立ち向かって協力し合う三人の
Miyon を支えていくつもりだ。