The purpose of tort law

小塚=森田・不法行為法の目的
不法行為法の目的――「損害填補」は主要な制度目的か1
森田
果
小塚荘一郎
1 問題の所在
不法行為法の目的は何であろうか。日本の実定法の理解としては,「損害の填補」である
という解答に疑問の余地はないかのように見える。最高裁の判例が,次のように,きわめ
て一般的な表現で不法行為法の目的は「損害填補」のみであると述べているからである。
我が国の不法行為に基づく損害賠償制度 は,被害者に生じた現実の損害を金銭的に評価し,
加害者にこれを賠償させることにより,被害者が被った不利益を補てんして,不法行為がな
かったときの 状態に回復させることを目的とするものであり (……),加害者に対する制裁
や,将来における同様の行為の抑止,すなわち一般予防を目的とするものではない。もっと
も,加害者に対して損害賠償義務を課することによって,結果的に加害者に対する制裁ない
し一般予防の効果を生ずることがあるとしても,それは被害者が被った不利益を回復するた
めに加害者に対し損害賠償義務を負わせたことの反射的,副次的な効果にすぎず,加害者に
対する制裁及び一般予防を本来的な目的とする 懲罰的損害賠償 の制度とは本質的 に異なる
というべきである。我が国においては,加害者に対して制裁を科し,将来の同様の行為を抑
止することは,刑事上又は行政上の制裁にゆだねられているのである。2
この判示は,その後,不法行為訴訟の原告が懲罰的損害賠償を求めた下級審の裁判例でも
踏襲され3 ,判例の考え方として確立しているようである。
学説も,基本的にはこの判例と同様に,不法行為法の目的を損害填補に求め,加害者へ
1
本稿の執筆にあたっては,法の経済分析ワークショップおよび東北大学民法研究会の参加
者から有益なコメントを頂いた。深く感謝申し上げる。なお,森田は科学研究費基盤研究(B)
「企業リストラクチャリングの代替的手法」の助成を受けている。
2 最判平成 9・7・11 民集 51 巻 6 号 2573 頁。
3 大阪地判平成 10・11・26LEX/DB28050219(不正競争事件において被告が証拠を捏
造したこと等を理由とする損害賠償請求),東京地判平成 13・12・25LEX/DB28070695
(名誉毀損による損害賠償請求訴訟),大阪地判平成 14・3・19LEX/DB28071836(い
じめの被害に関する損害賠償請求訴訟),長野地裁松本支判平成 14・12・4 判例タイムズ 1147
号 245 頁(いじめの被害に関する損害賠償請求訴訟),名古屋高判平成 15・12・24LEX/
DB28090659(刑事訴訟法を誤解して接見交通を制限した裁判官の判断に対する国家賠償
訴訟),大阪高判平成 18・3・17LEX/DB28111368(商品先物取引業者の違法な勧誘を
理由とする損害賠償請求訴訟)。
1
小塚=森田・不法行為法の目的
の制裁や加害行為の抑止は反射的な機能として位置づけている 4 。詳しく見れば,従来の学
説にも,さまざまなニュアンスのものがあった 5 。第一に,すでに戦前から,社会全体にお
いて損害を公平妥当に分配する制度として不法行為をとらえる考え方が示されていた 6 。こ
の考え方は,戦後,自動車事故に関する米国のノーフォールト制度やニュージーランドに
おける不法行為訴権の廃止などにも触発されながら,保険や社会保障に近い制度を理想と
する方向へと展開した 7 。第二に,米国の「法と経済学」の成果をも視野に入れて,加害行
為の抑止を損害填補と並ぶ制度目的として重視しようとする論者がある 8 。第三に,不法行
為制度の中に,正義の実現あるいは個人の権利の保障という意義を認めようとする立場も
最近では示されている 9 。しかし,これらの学説はいずれも,損害の填補が不法行為法の主
要な目的であること自体を否定するものではない。
これに対して本稿では,そもそも損害填補から出発したのでは,不法行為法の合理的な
制度設計は難しいのではないかという根本的な疑問を提起したい。以下では,そのように
考える理由を,比較法的にも近年は損害の填補が強調されなくなってきていること(2.),
理論的にも損害の填補によっては不法行為制度を合理的に説明できず,むしろ抑止効果―
―ただし,ここで言う「抑止効果」は,単に加害者による加害行為を防止するというだけ
でなく,被害者を含めた全ての行為者に対して望ましい行為を惹起せしめるための適切な
インセンティヴを設定することを意味する――からの方が合理的に説明できること10(3.)
,
そして日本でも最近の立法論の中では専ら加害行為の抑止が議論の焦点となっていること
(4.),を順次確認することによって説明する。その上で,損害填補を不法行為の主要な制
度目的と考える従来の考え方の転換を提唱したい(5.)11 。
4
山田卓生「不法行為の機能」
『森島昭夫教授還暦記念・不法行為法の現代的課題と展開』3
頁(日本評論社,1995 年),窪田充見『不法行為法』18-19 頁(有斐閣,2007 年)。
5 概観として,潮見佳男『不法行為法』5-13 頁(信山社,1999 年)
。
6 我妻榮『事務管理・不当利得・不法行為』
〔復刻版〕94 頁(日本評論社,1988 年(初版は
1937 年))。
7 この立場を徹底したものが,不法行為による請求権を原則として廃止し,労災補償,健康
保険等の社会保険制度および公害健康被害補償,医薬品副作用被害救済基金(現在の独立
行政法人医薬品医療機器総合機構による健康被害救済業務)等の救済補償制度と統合する
という「総合救済システム」の提案(加藤雅信編著『損害賠償から社会保障へ』1 頁以下(三
省堂,1989 年))である。
8 森島昭夫『不法行為法講義』490 頁(有斐閣,1987 年)
,平井宜雄『債権各論Ⅱ 不法行
為』6 頁(弘文堂,1992 年),内田貴『民法Ⅱ[第 2 版]』(東京大学出版会,2007 年)。
9 潮見・前掲〔註 7〕
・14 頁。
10 なお,抑止効果という観点に立った場合の制度設計のあり方を議論するものとして,藤
田友敬「サンクションと抑止の法と経済学」ジュリスト 1228 号 25 頁(2002 年)も参照。
11 本稿は,不法行為法をどのように理解するかという制度論を論ずるものであり,具体的
な解釈論や立法論は述べていない。しかし,基本的な制度理解の転換が受け入れられれば,
どのような論点について,どのような解釈論・立法論が可能になるかということは,不法
行為法が直面するさまざまな問題に通じている読者には,容易に理解されるであろう。
2
小塚=森田・不法行為法の目的
2 比較法
(1) 米 国
この問題について米国でどのような議論が行われているかを,エイブラ
ハム教授の不法行為法に関する概説書12 によって見てみよう。そこでは,不法行為の機能と
して,①矯正的正義(Corrective Justice),②最適な抑止(Optimal Deterrence),③損失の分配
(Loss Distribution),④損害填補(Compensation),⑤社会不満の吸収(Redress of Social
Grievances)を掲げた上で,不法行為法の目的(goal)をこれらのうちいずれか一つと特定する
ことはできないとされている。複数の目的は並存し,状況に応じてその重要度は変化する
のである13 。
とりわけ④の「損害填補」については,「そのような議論もあり得る」(debatable)という
程度だとされている。その理由は,何らかの損害が発生した場合にそれを填補することが
望ましいというだけでは,どのような場合に責任が肯定され,どのような場合に否定され
るのかの基準とならないからである。もしも他の要因との組み合わせによって責任の成否
が決まるのであれば,その要因こそが不法行為法の真の目的であるというべきであろう 14 。
同様の指摘は,③の「損失の分配」についても妥当する。もっとも,エイブラハム教授の
記述はこれに対して若干好意的に見えるが,それは,損失の分配可能性を理由として大企
業や大規模組織に責任を負わせるような考え方が,米国の不法行為法においてとられてき
たという現実を反映しているようである15 。
(2) 欧 州
欧州でも,不法行為法の経済分析はよく知られるようになっており,そ
れによって制度の機能に関する考察が進められたといわれる。とりわけ,近年ではヨーロ
ッパにおける私法統一への関心が高まっているため,具体的な条文の解釈論を超えた機能
分析が重要性を増しているという事情もある16 。
そのような背景の下で,「ヨーロッパ不法行為法原則」の準備作業をかねて,各国の不法
行為法における過失の意義と機能を比較検討した研究がある17 。その中で,過失を責任要件
とすることの目的(aim)について各国の報告者に尋ねたところ,加害行為の抑止を目的とし
て認める回答は,かなりの割合にのぼっている 18 。ここでは,不法行為制度の目的ではなく
KENNETH S. ABRAHAM, THE FORMS AND FUNCTIONS OF TORT L AW, S ECOND E DITION
(Foundation Press, 2003).
13 Id., at 19.
14 Id., at 18-19.
15 Id., at 17.
16 Michael Faure, Economic Analysis of Tort Law and the European Civil Code, in: ARTHUR
HARTKAMP ET AL . (EDS .), TOWARDS A E UROPEAN C IVIL CODE, THIRD FULLY REVISED AND
EXPANDED EDITION 657-658 (Kluwer Law International, 2004).
17 P. WIDMER (ED .), UNIFICATION OF T ORT L AW: FAULT (Kluwer Law International, 2005).
18 See id., at 335 (Pierre Widmer). この中には,もっぱら抑止または予防が目的であるとす
る回答(id., at 30 (Herman Consy & Dimitri Droshout (Belgium)), 55 (Luboš Tichý (Czech)),
182 (Jorge Sinde Monteiro & Maria Manuel Veloso (Portugal)), 268 (Bill W. Dufwa
12
3
小塚=森田・不法行為法の目的
過失責任主義について尋ねているため,制度目的を損害填補と考える立場からは加害行為
者に損害を回復させるべしという価値判断(矯正的正義)が導かれやすく 19 ,また損失の分
配を制度目的ととらえて無過失責任立法への移行を必然と解する立場では,過失責任主義
は古典的自由主義(企業活動の自由の重視)にもとづくものであるとの評価を受けること
になるが20 ,少なくともそれらと並んで,加害行為の抑止に着目する考え方が,ヨーロッパ
諸国でも支持を広げつつあることは,注目に値するであろう。
(3)
最適な抑止
以上のような欧米の議論が不法行為制度の目的として「抑止」を取
り上げるとき,その意味するところは,正確に言えば「最適な抑止」である21 。その場合に,
「最適な抑止」が何を意味するのかについては,誤解が見られることがままあるので,こ
こで簡単に確認しておきたい22 。
不法行為の制度目的として最適な抑止が掲げられるとき,それは,加害行為を単純に減
少させることを目指すものではない。例えば,二酸化炭素や化学物質を排出する工場の活
動や自動車の利用は,とにかく減少させればよいというものではない。それらの行為も何
らかの利益をもたらしているのであり,それらの行為を抑制することは機会費用という不
利益を発生させる。このような不利益と,被害者に発生する損害という不利益とを総合的
に考慮した上で,「社会的に望ましいレベルの行為」を惹起させることを目指すようなイン
センティヴを設定しようとすること23 が,「最適な抑止」の意味なのである。
「最適な抑止」を実現するための基本的な考え方は,次のようなものである。ある行為に
よって発生する不利益(損害が確率的に発生する場合には期待値としての不利益)と,そ
うした行為を抑制するために必要な負担(機会費用を含む広い意味の費用)との和が,社
(Sweden)))と,他の目的と並列的に抑止を掲げる回答(id., at 13 (Helmout Koziol (Austria)),
67-68 (W.V. Horton Rogers (England)), 129-130 (Israel Gilead (Israel)), 153-154 (Francesco
Donato Busnelli, Giovanni Comandé & Maria Gagliardi (Italy)), 304 (Gary T. Schwartz &
Michael D. Green (US)))とが含まれる。
19 See id., at 334 (Pierre Widmer).
20 Id., at 103 (Ulrich Magnus & Gerhard Seher (Germany)).
21 Abraham, supra note 12, at 15; Michael Faure, Economic Analysis of Tort Law, in: WIDMER
(ED.), supra note 17, at 313.
22 「最適な抑止」についての邦語による簡潔な説明としては,藤田・前掲〔注 10〕
・27 頁,
ロバート・D.クーター=トーマス・S.ユーレン(太田勝造訳)
『新版 法と経済学』321
頁以下(商事法務研究会,1997 年)を参照。
23 このような判断は,裁判官の思考様式とは相容れないのではないかと考える向きがある
かもしれない。しかし,公共的な施設の運用について受忍限度論がとられる場合には,「侵
害行為の態様と侵害の程度,被侵害利益の性質と内容,侵害行為の持つ公共性ないし公益
上の必要性の内容と程度等」を比較衡量することになるし(最大判昭和 56・12・16 民集 35
巻 10 号 1369 頁,最判平成 5・2・25 民集 47 巻 2 号 643 頁),「権利侵害」の成否(たとえ
ば特許権侵害における均等論をどこまで認めるか)や「因果関係」の認定(とりわけ環境
訴訟や医療過誤訴訟などの現代型訴訟の場合。米村滋人「法的評価としての因果関係と不
法行為法の目的(2・完)」法学協会雑誌 122 巻 5 号 858-864 頁(2005 年)参照)において,
このような事情が実質的には考慮されている例は少なくないように思われる。
4
小塚=森田・不法行為法の目的
会全体としてみたときのコストである。それをその行為が社会全体に対してもたらす利益
と比較する。この社会的な利益と社会的なコストとの差を最大にするような行為が,「社会
的に望ましいレベルの行為」である。分析を簡単にするために,社会的な利益は一定であ
ると仮定するならば24 ,社会的なコストが最小になる場合が「最適な抑止」であると言って
もよい25 。なお,以上の説明からも明らかなとおり,最適な抑止の視点は,必ずしも「加害
者」についてのみ妥当するのではなく,「被害者」についても妥当することに注意しなけれ
ばならない。
3 理論的考察
以上のような比較法的な背景を念頭に置きながら,本節では,不法行為法の果たすべき
目的について理論的な考察を試みる。
(1) 損害填補から不法行為法を合理的に説明できるだろうか
まず,不法行為法が被害
者に発生した損害の填補を目的としているものと仮定してみよう。このような立場から,
現行の不法行為法を合理的に説明できるだろうか?
この問いに対する回答は,二重の意味で否定的である。第一に,そもそも現行不法行為
法は,被害者の損害の填補という理由によっては説明不可能な構造を多く採用している。
第二に,損害填補を目的として設定するのであれば,不法行為法を用意する必要はなく,
他の制度によった方が,より望ましい損害填補を実現できる26 。以下,順に見ていこう。
まず,現行不法行為法の規定は,被害者の損害填補という視点からは説明できない。例
えば,不法行為の基本要件を定めた民法 709 条は,加害者の過失を成立要件の一つとして
要求しているが,もしも不法行為法が損害填補を目的としているのであれば,加害者の過
失は要件とすべきではないはずであろう。使用者責任(民法 715 条)や責任無能力者の監
督義務者等の責任(民法 714 条)のように,厳格責任ないし無過失責任27 を原則とし,過失
責任は例外としていたはずである。同様に,損害填補を目的とするのであれば,被害者に
24
これは,行動水準を問題とせず,注意水準の調整のみを念頭に置くことに等しい。
日本でもよく知られている「ハンドの公式」(United States v. Carroll Towing Co., 159 F.2d
169 (2nd Cir. 1947))は,望ましい過失の水準を,損害発生の確率と損害の大きさの積と損害
回避のための費用とを比較して決定しようとするものであり,本文に述べた「最適な抑止」
に一見よく似ているが,文字通りにこれを適用すると,結果は最適な抑止水準と一致しな
い。社会的なコストの最小化を考えるならば,コストの限界的な増分(注意水準をわずか
に増やした場合に追加的に必要となるコスト)を考えなければならないのに対して,ハン
ドの公式はコストと損害(の期待値)を絶対値で比較するように読めるからである。See
William M. Landes & Richard A. Posner, The Positive Economic Theory of Tort Law, 15 GA. L.
REV. 851, 884-885 (1981); Faure, supra note 21, at 315.
26 例えば,CHARLES FRIED AND DAVID ROSENBERG , MAKING T ORT L AW: WHAT S HOULD BE
DONE AND WHO S HOULD DO IT 1 (The AEI Press, 2003,)は,被害者の損害填補は不法行為法
の目的として一番考えにくいものであると言う。
27 これらの規定は,文言上は立証責任の転換された過失責任の形をとっているが,わが国
の判例法上は,事実上厳格責任に近い形で運用されている。
25
5
小塚=森田・不法行為法の目的
過失があった場合の過失相殺(民法 722 条 2 項)についてもこれを設けるべきでなく,被
害者に過失があろうとも損害賠償を満額認めるべきことになる。現行不法行為法がそのよ
うな建て付けをとっていないということは,現行不法行為法が被害者の損害填補を,少な
くとも,「主要な」制度目的としてはいないことを示していると言えよう。
第二に,仮に被害者の損害填補を目的としてゼロから制度設計をしようとするのであれ
ば,不法行為法はそもそも不要である。私的保険メカニズム28 や社会保障法が存在していれ
ば足りる。社会保障法が存在していれば,例えば,交通事故によって損害を被った被害者
は,政府に対して救済(損害の填補)を申請する。政府は,被害者の損害を審査した上で
その損害を填補する。同様に,利用しやすい私的保険メカニズムが普及していれば,被害
者は予め保険を購入しておけば,保険会社から損害填補を受けることができる。
その上,私的保険メカニズムも社会保障法も,被害者の損害填補という目的を実現する
ためのツールとしては,不法行為法よりもはるかに優れている 29 。まず,被害者の損害填補
に要するスピードが違う。私的保険メカニズムや社会保障法によれば,被害者の申請によ
って比較的早期に救済が受けられるが30 ,不法行為法によった場合,長い訴訟を経て勝訴判
決を得た上でないと救済が受けられないことが多い。さらに,私的保険メカニズムにおい
ては保険会社,社会保障法においては政府,という豊富な資力を有する主体から填補がな
されるのに対して,不法行為法では資力に限界のある一主体からしか填補がなされないか
ら,十分な損害填補がなされない蓋然性がはるかに高い。
もちろん,私的保険メカニズムが十分に発達していない社会においては,これを潜在的
28
ここで問題にしている保険は,不法行為法が存在しない世界を仮定しているのであるか
ら,責任保険(third party insurance)ではなくて損害保険(first party insurance)である。
29 FRIED AND ROSENBERG , supra note 26, at 73-75.
30 もっとも,私的保険メカニズムと社会保障法とは,被害者の損害填補を目的とする点で
は共通しているものの,私的保険メカニズムの方が一般的には優れている。なぜなら,被
害者側のモラルハザード(損害拡大の防止や損害の正直な報告のインセンティヴ付与)に
対する対処が,社会保障制度においては困難だからである。
私的保険メカニズムにおいては保険会社が被害者に対して支払を行うから,保険会社は,
保険金支払額を抑制するために,不正な保険金請求がなされた場合にはこれを審査して拒
もうとするインセンティヴがある。もしそのような行動をとらなければ,その保険会社は,
他の保険会社との競争に敗れて市場からの退出を迫られるであろう。これに対し,社会保
障法においては政府が被害者に対して支払を行うところ,政府の担当者には不当な支出を
抑制しようというインセンティヴが十分に働かない。もちろん,政府の予算が無制限では
ありえない以上,政府は支払を削減しようとするインセンティヴを持つであろうし,制度
上,被害者側のモラルハザードを防ぐような仕組みを社会保障法に組み込むことは可能で
ある。しかし,私的保険メカニズムの場合と違って市場における競争が存在しないので,
どうしても政府のインセンティヴは過小になりがちである。実際にも,不法行為訴権を廃
止して社会保障型の制度に一元化したニュージーランドでは,1990 年代末に,制度運営を
独占してきた公的機関(事故補償公社)の効率性が問題とされるに至った(一旦は一部業
務が民間に開放されたが、政権交代に伴って公社の独占体制に復帰した。参照、佐野誠「ニ
ュージーランドにおける事後補償制度の最近の動向」交通法研究 28 号 76 頁(2000 年),同
『世界のノーフォールト自動車保険』55-63 頁(損害保険事業総合研究所,2001 年))。
6
小塚=森田・不法行為法の目的
被害者が利用することはできない。また,国家の徴税権が強力ではない社会においては,
社会保障法という形で被害者の損害填補を実現するための財源を確保することは困難であ
ろう。そのような社会においては,加害者に被害者の損害を填補させる不法行為法という
スキームの方が,訴訟制度の整備だけで損害填補を実現することができ,社会保障法より
も低コストで被害者の損害填補を達成できるかもしれない。
しかし,今日の社会を考えた場合,これらの前提条件はいずれも当てはまらない。今日
の社会においては,多くの保険会社が活動しており,潜在的被害者が保険を予め購入して
おくことは容易である。また,今日の国家は強力な徴税権を有しており,社会保障制度の
実現に必要な財源を調達することは十分に可能である。
このように,現行不法行為法の規定は,被害者の損害填補という観点からは合理的に説
明することは困難であるし,被害者の損害填補という目的を実現したいのであれば,不法
行為法よりも優れる,私的保険メカニズムや社会保障法を利用すれば足りる。それゆえ,
不法行為法の主要な制度目的は,被害者の損害填補にはないと言うべきである。
もっとも,以上のような議論に対しては,「被害者の損害填補」とは,単に被害者に発生
した損害を填補することを意味しているのではなく,被害者に発生した損害を加害者に填
補させることによって正義が回復される,という矯正的正義を意味しているのだ,という
反論がなされるかもしれない31 。そして確かに,このような矯正的正義の視点を持ち出すの
であれば,被害者の損害填補という視点からでは合理的な説明の難しい現行不法行為法の
規定を説明することが可能になるようにも見える。しかし,矯正的正義という観点から不
法行為法を基礎づけようとすることは,問題点をはらむ。
まず,抑止の観点からは,例えば「望ましい」過失のレベルがどのようなものであるの
かについての議論を行うことができるが,矯正的正義の観点からは,責任の成否に関する
具体的な解釈論上の基準を導くことができない32 。また,矯正的正義の観点は,故意による
不法行為には妥当しやすいが,過失による不法行為における「矯正」を必ずしも正当化す
ることはできない33 。加えて,被害者の損害填補を越えた矯正的正義は,応報的要素を多分
に含むことになるが,そのような要素を不法行為法に取り込むべきであるというコンセン
サスがこれまで成立していたと言うことは難しいように思われる34 。
31
不法行為法が損害填補のためのルールであるといっても,損害のすべてが填補されるわ
けではなく,いかなる損害が填補されるべきかを判断する基準を不法行為法が提供すると
いう意味であると説明する見解もある(山田・前掲〔註 4〕・9 頁)。そのように考えるので
あれば,「損害填補」という表現は,填補の範囲を決定する実質的な考慮要素をも併せて指
し示す概念として用いられていることになろう。しかし,「損害填補」という一つの概念に
複数の意味を込めて使用することは,そのように使用された用語をマジック・ワードと化
してしまい,議論の明確性を失わせることになるから,望ましいことではない。
32 FRIED AND ROSENBERG , supra note 26, at 32.
33 Id., at 31.
34 日本では,被害者の救済を目的とする不法行為法と,制裁を目的とする刑法とのが峻別が,
「近代法」の特質として理解され,徹底されてきた,と指摘されている(窪田充見「不法
7
小塚=森田・不法行為法の目的
(2) 抑止から不法行為法を合理的に説明できるだろうか
不法行為法の主要な制度目的
が被害者の損害填補でないとしたら,それは前述した「最適な抑止」(社会的に最も望まし
い行動を惹起するためのインセンティヴの設定)にあるというべきであろう。以下では,
この視点によれば不法行為制度の存在意義が合理的に説明できること,および,現行不法
行為法の規定も整合的に説明できることを見ていきたい。
まず,私的保険メカニズムや社会保障法と不法行為法との最大の違いは,私的保険メカ
ニズム35 や社会保障法が加害者に対して何らの影響も与えないのに対し,不法行為法が加害
者に対して,被害者に発生したコストの内部化を要求していることにある。不法行為法が,
加害者によるコストの内部化をこのように要求していることは,不法行為法の目的が損害
填補にあるのではなく,抑止にあると考えた方が合理的に説明できる。不法行為法は,加
害者にコストの内部化を要求することで,加害者が不法行為を惹起しないように行動を修
正するインセンティヴを設定することを目的としているのである。
このことは,「不法行為法しか存在しない社会」と「私的保険メカニズムまたは社会保障
法しか存在しない社会」とを想定してみればよりよく実感できよう。「私的保険メカニズム
または社会保障法しか存在しない社会」では,各人の行動がもたらすコストは,自らが負
担するのではなくて社会全体で平等に負担することになるから,モラルハザードが発生す
る。各人は,十分な注意を払わず,行動水準を制約することもない。その結果,「不法行為
法しか存在しない社会」に比べてはるかに多数の不法行為が発生することになり,社会構
成員全体の保険料や税の負担も雪だるま式に増加するという,皆が不幸な状態が実現する
結果が導かれてしまうであろう。
もっとも,このように不法行為法の存在意義は抑止という視点から説明することに対し
ては,そのような説明では,やはり抑止を目的としている刑法が存在する以上,不法行為
法の存在意義を説明できないのではないか,という疑念が呈されるかもしれない。
しかし,この疑念はあたらない。刑法と不法行為法の最大の違いは,イニシアティヴを
とる主体の違いにある。刑法においては検察官=国家が訴追を担当するのに対し,不法行
為法においては被害者が加害者を提訴する。しかるに,よく知られているように 36 ,検察官
には全ての不法行為を訴追するインセンティヴが十分にあるとは限らない。このため,刑
法だけに頼ったのでは十分な抑止が達成できないことになってしまう。
これに対し,不法行為法においては,加害者が被害者に発生した損害を内部化する過程
行為と制裁」『石田喜久夫先生古稀記念・民法学の課題と展望』699 頁以下(成文堂,2000
年),同・前掲〔註 4〕・22-24 頁。ただし,それは日本法とそれに影響を与えたある時期の
ヨーロッパのある地域における考え方であり,普遍的とは言えないのではないかとの疑問
も提起されている)。
35 ここでは,責任保険ではなく損害保険を問題としていることに注意。前掲注 28 参照。
36 例えば,竹内昭夫=田中英夫『法の実現における私人の役割』
(東京大学出版会,1987 年)
を参照。
8
小塚=森田・不法行為法の目的
で発生した損害賠償金は,被害者に対して支払われる。それゆえ,被害者は,受け取る損
害賠償金が訴訟コスト(これには敗訴可能性も含めて考えてよい)を上回る限り,常に提
訴するインセンティヴを持つ。もっとも,私人の方が国家よりも常に優れているわけでは
なく,情報収集・評価能力の点ではむしろ国家の方が優れていることも多い。そうすると,
刑法にも不法行為にも,抑止のためのメカニズムとしては一長一短があり,両者を同時に
併用することが望ましいのだということになる37 。
もっとも,このような説明に対しては,さらに,被害者への損害賠償金の支払が,被害
者に提訴インセンティヴを与えるためになされているのであれば,損害賠償金の支払を被
害者に対して行う必然性はなく,無関係な第三者に損害賠償金を支払ってもよい――懸賞
金制度のようなものになるのであろう――はずであり,不法行為法が被害者に対する賠償
金の支払というスキームを採用していることを説明できない,という批判が加えられるか
もしれない。しかし,不法行為の抑止は加害者によってのみ実現されるとは限らず,被害
者側の行為に同時に依存していることも多い38 。過失相殺(民法 722 条 2 項)やいわゆる損
害軽減義務はそのような状況に対して,不法行為法が抑止効果の実現を目指して行った対
応の現れの一つである。被害者のインセンティヴを調整するためには39 ,無関係な第三者に
損害賠償金を支払うのではなく,被害者に対して損害賠償金を支払う必要があるのである。
以上のように,不法行為法の主要な目的は抑止にあると考えることが合理的であるが,
FRIED AND ROSENBERG , supra note 26, at 39-42. 要は,望ましい行動を惹起するための適切
なインセンティヴを設定することが重要なのであり,刑法と不法行為法とが共同して適切
なインセンティヴを設定できればよいのである。
かつてわが国にも存在した附帯私訴の制度は,このような観点から説明できるし,刑法
において故意犯処罰の原則が採用されていることもこのような観点から説明することがで
きる。すなわち,過失犯については,不法行為法によって実現される損害の内部化によっ
て,抑止のために十分なインセンティヴが既に設定されているから,これを刑法で重ねて
処罰する必要性はない。これに対し,故意犯の場合には,例えば殺人によって追加的な心
理的な満足を得ているといった特殊な状況が存在するので,これについて適切な抑止を実
現するためには,不法行為法による損害の内部化では足りず,刑法の処罰による追加的な
抑止効果が要求されるのである。
38 例えば,単純な交通事故の場合を考えてみても,加害者である運転者がどれだけ注意し
て運転をするか,どれくらい頻繁に運転するかのみによって交通事故の発生確率が左右さ
せるわけではない。被害者である他の歩行者等がどれだけ注意して行動するか,事故発生
確率の高い場所にどれくらいの頻度で進出するか,によっても左右される。このような場
合に,いずれかの当事者が注意を払いさえすれば完全に事故の発生を防ぐことができるの
であれば,いわゆる「最安価費用回避者」(cheapest cost avoider)を探求し,その者に事故
を回避する行動をとらせるような制度設計が望ましい(平井宜雄『法政策学[第 2 版]』90
頁(有斐閣,1995 年),森島・前掲書〔註 8〕・481 頁)。しかし,多くの場合は,両当事者
の行動(注意の程度)は相互に関連しあっているので,単独の最安価費用回避者は存在せ
ず,むしろ両者の行動の均衡点が問題となる。S TEVEN S HAVELL, E CONOMIC ANALYSIS OF
ACCIDENT L AW 9-10, 17-18 (Harvard U.P., 1987).
39 前述のように,
「抑止」という目的は,加害者の行動の調整だけでなく,被害者の行動の
調整をも含んでいる。
37
9
小塚=森田・不法行為法の目的
では,現行不法行為法の個別の規定は,抑止という観点から説明できるであろうか。読者
が懸念を抱かれるかもしれないいくつかの規定――ここでは無過失責任と代位責任――に
ついて検討してみたい。
まず,過失責任ルールは,行為者に対して「過失」を犯さないように注意を払うインセ
ンティヴを与えるのに対し,無過失責任ルールにおいては「過失」の有無にかかわらず責
任が課されるから,無過失責任ルールは被害者の損害填補という観点からの方が合理的に
説明できるように,一見思われるかもしれない。しかし,これは明白な誤りであり,イン
センティヴの設定という点ではむしろ無過失責任ルールの方が望ましい結果をもたらしう
ることはすでに知られている40 。
すなわち,無過失責任ルールの下では,行為者はその行為によって発生した全ての損害
を無条件に内部化することになるから,望ましい行動はどのようなものかということを行
為者自身が判断しつつ採用することになる。これに対し,過失責任ルールは,この望まし
い行動の決定を,行為者ではなく裁判所が行うルールである。そうすると,望ましい行動
とはどのようなものであるかについての情報を,裁判所よりも行為者の方が安価に収集で
きる場合には,過失責任ルールよりも無過失責任ルールの方が好ましいルールだというこ
とになる。
このことは,無過失責任ルールのもう一つの潜在的優位性につながっている。抑止の目
的である「社会的に望ましいレベルの行為」は,よく見ると 2 つの要素からなっている。
注意水準についての決定(自動車事故の例で言えば,「どれだけ注意しながら運転するか」)
と行動水準についての決定(自動車事故の例で言えば,「どれだけ自動車を利用するか」)
とである。これらのうち,行為者自身は両者を観察することができるけれども,裁判所は,
注意水準については観察できても行動水準については観察できないことが多い。そうだと
すると,不法行為による損害の発生が注意水準のみならず行動水準にも大きく依存してい
るような場合には,行動水準についても望ましい行動を惹起することのできる無過失責任
ルールの方が,過失責任ルールよりも好ましいことになる。
以上のように,抑止(望ましい行動を惹起するためのインセンティヴの設定)という観
点からすると,過失責任ルールよりも無過失責任ルールの方が好ましくなることが多いの
である。現代社会における過失責任ルールから無過失責任ルール(ないし中間責任ルール)
への移行の拡大は,被害者の損害填補の要請の拡大というよりはむしろ,適切なインセン
ティヴ設定の要請の拡大ということから合理的に説明されるのである。
同様に,他人の行為に対する不法行為責任(民法 714 条・715 条)についても,資力のあ
る使用者や親にも責任を負わせることで,被害者の損害填補を確保しようという制度であ
る,と一見思われるかもしれない。しかし,これらの代位責任制度も,抑止という観点か
らの合理的な説明が可能である。
すなわち,使用者責任のケースを考えれば,他人(エージェント)に一定の行為を委ね
40
S HAVELL , supra note 38, at 21-26.
10
小塚=森田・不法行為法の目的
て事業を展開する本人(プリンシパル)は,そのような他人を使用するか使用しないか(行
動水準の調整),そのような他人に対してどの程度のモニタリングを及ぼすか(注意水準の
調整)を判断するインセンティヴを持つ。同様に,責任無能力者の監督義務者責任のケー
スでも,親は,子供に対してどの程度しつけ等を行うかという注意水準の調整を行うこと
ができる41
そして,直接の行為者本人から損害填補を達成することができない責任無能力者の監督
義務者責任については,監督義務者に責任を負わせることによる抑止効果からの説明が一
層有効である。責任無能力者の加害行為について当該責任無能力者が責任を負わない制度
の下では,当該責任無能力者は,過度にリスクの大きな行動を取るインセンティヴを持つ42 。
このような望ましくない行動を抑制するためには,責任無能力者に対するコントロール能
力を持つ監督義務者に代位責任を負わせることが必要である。監督義務者(典型的には親)
は,責任無能力者(典型的には子)に対して,両者間に存在する社会的関係――これは第
三者には直接利用不可能である――を活用することで,責任無能力者に対しても実効的な
コントロールを及ぼすことができると期待されるからである43 。
このように,現行の不法行為法のさまざまな規定は,抑止(望ましい行動を惹起するた
めのインセンティヴの設定)という視点によって,被害者の損害填補という視点と,少な
くとも同等かそれ以上に合理的に説明することができるのである。
(3)小括
以上のように見てくると,現行法の解釈としては,不法行為法の目的は抑止
にあるのであり,それを実現するために加害者から徴収した損害賠償金を被害者に与える
ことで被害者に提訴インセンティヴを設定するスキームが採用されている,と捉えること
が素直であろう。不法行為法は,確かに,被害者の損害填補をも実現しているけれども,
それはあくまで,抑止という目的を実現する過程で付随的な結果として出てくるものと位
置付けることで十分である。仮に損害填補を規範的な「目的」と位置付けるにしても,抑
止に続く二次的なものに過ぎないと位置付ける方が,現行不法行為法の説明としてはより
41
この場合,親が行動水準の調整(子供を持つか持たないか)をすることは通常期待でき
ないのは確かである。しかし,過失責任ルールと無過失責任ルールとの違いで指摘したよ
うに,注意水準の調整をするインセンティヴを設定するだけでも大きな効果がある。
42 このことは,責任無能力者が免責される場合だけでなく,直接行為者の資力が限定的で
ある場合にも当てはまる。資力が限定的である場合には,その有限責任(=マイナスの責
任は負わない)ゆえに,モラルハザードが発生するからである。企業金融(コーポレート・
ファイナンス)理論について知識のある読者であれば,資産代替(asset substitution)と呼
ばれるエージェンシー問題との共通性に気付くであろう。
43 未成年者の行為に対する親の責任を定めたフランス民法 1384 条 4 項について,
19 世紀の
判例は,しばしば「家庭のしつけのゆるみ」を責任の根拠としていたと言われる(久保野恵
美子「この行為に対する親の不法行為責任(1)」法学協会雑誌 116 巻 4 号 540-541 頁)。この
ように,フォーマルな法制度がインフォーマルな私的秩序を取り込みつつ機能する様を分
析するものとして例えば,森田果「みんなで渡れば怖くない――第三者保証をめぐる私的
秩序と法制度の相互作用――」ソフトロー研究 9 号 115 頁(2007 年)を参照。
11
小塚=森田・不法行為法の目的
説得的であると言えよう。
4 日本法の再検討
改めて考えると,不法行為法による加害行為の抑止は,日本でもまったく等閑視されて
いるわけではない。とりわけ立法論・制度論が問題となる場合には,事実上,抑止を目的
として意識した議論が行われる場合が,次第に増えている。
最初に問題となったのは,知的財産権の分野であった。侵害が見つかった場合にのみ権
利者に発生した損害を賠償し,見つからなければ利益をそのまま保持することができるよ
うでは,侵害を行った方が有利になってしまうと指摘されたのである。これは,知的財産
権の侵害に対する抑止効果が不足しているという主張にほかならない。この問題に対処す
るため,特許法の損害賠償額に関する規定が平成 10 年に改正され,[侵害者が販売した侵
害物品の数量]×[特許権者にとっての利益額]が損害額とみなされるようになった(特
許法 102 条 1 項。他の知的財産権法にも同様の規定がある)。ここでは,損害額をきわめて
観念的に擬制するという法技術によって,不法行為は損害填補のための制度であるという
一般論との抵触が回避されている。しかし,[侵害者が販売した侵害物品の数量]はいわば
実績値であり,侵害がなければ特許権者がそれと同量の特許製品を販売できたという仮定
は,当然に成り立つわけではないから,実質的に見れば,抑止効果の向上を目的として,
損害の填補を超える賠償制度が認められたというべきであろう44 。
やや遅れて,名誉毀損にもとづく損害賠償についても,従来認められてきた金額は低額
にすぎるのではないかとの批判がなされ45 ,平成 13 年の司法制度改革審議会「最終答申」
にも盛り込まれた。そして,これに対応して,裁判実務の側から,名誉毀損の事案におけ
る損害賠償(慰謝料)の金額を低額に抑制することなく,各事案の特性に応じて合理的に
認定するための提言が相次いで発表された 46 。それらの提言は,現行制度の改正ではなく,
沖野眞已「損害賠償額の算定――特許権侵害の場合――」法学教室 219 号 58 頁(1998 年)
は,この規定が一般不法行為に較べて特別の扱いを与えていることを認めながら,それが
現在の不法行為の法理を逸脱するものではないとするが,窪田充見「損害賠償」ジュリス
ト 1228 号 64 頁(2002 年)は,そのことを裏返しに評価して,損害の意味は,近時の議論
においてきわめて流動化していると述べる。
45 従来の裁判例には「100 万円の賠償ルール」があるなどと指摘された(升田純「名誉と信
用の値段に関する一考察(1)〜(3・完)」NBL627 号 40 頁・628 号 41 頁・634 号 48 頁(
(1997-1998 年))。
46 東京地方裁判所損害賠償訴訟研究会「マスメディアによる名誉毀損訴訟の研究と提言」
ジュリスト 1209 号 63 頁(2001 年),司法研修所「損害賠償請求訴訟における損害額の算定」
判例タイムズ 1070 号 4 頁(2001 年),大阪地方裁判所損害賠償実務研究会「名誉毀損によ
る損害賠償額の算定」NBL731 号 6 頁(2002 年)。個人によるものとして,井上繁規「名
誉毀損による慰謝料算定の定型化および定額化の試論」判例タイムズ 1070 号 14 頁(2001
44
12
小塚=森田・不法行為法の目的
その運用によって事態の改善を図ろうとするものであったため,不法行為の制度目的は損
害の填補にあるという最高裁判例を前提としている。しかし,いずれの提言においても,
金額の算定において考慮されるべき要素の中には,加害行為(名誉毀損表現)を行う側の
動機や態様,結果として得られた利益の有無など,被害者に発生する「損害」と直接には
関係がないように見える加害者側の事情が含まれる。その背景には,商業的メディアが安
易に売上を伸ばす目的で行うスキャンダル等の報道を抑止する必要性が,問題意識として
抱かれていたようである47 。
さらに,最近では,独占禁止法および景品表示法違反行為に対する団体訴訟制度の導入
を検討した研究会の報告書が,
「損害賠償請求の抑止力」に明示的に言及した48 。報告書は,
結論としては,団体訴訟制度の対象を,当面,景品表示法違反行為の差止に限定している
が,損害賠償請求権を対象とすることについても,「将来的には,……検討すべきものと考
えられる。」と述べている。そして,そのように考える根拠として,損害賠償請求が違反行
為による利得を吐き出させ,違反事業者に対する抑止効果を持ち得るという点を挙げてい
るのである。
5 結
語
不法行為の制度目的は損害填補であるという命題に対して,現在の日本では,あまり疑
問が抱かれていないように見える。しかし,それが他の制度目的,とりわけ社会的な損失
を発生させる行為の抑止という目的を一切排除する趣旨であるとしたら,理論的な根拠も
薄弱で,また比較法的にも極端な見解と言わざるを得ない。そして,日本においても,実
質的には抑止効果を強く念頭に置いて不法行為にかかわる制度が論じられる場面が,次第
に観察されるようになっている。
正面から制度目的を論じなくとも,実質的に抑止効果を考慮に入れることができるので
あれば,なんら問題はないように思われるかもしれない。しかし,現行法を離れて,不法
行為法の制度設計を論じるときには,制度目的が損害の填補に限られるという一般論は,
議論の幅を不必要に狭めてしまうであろう。現に,わが国の議論の中では,損害の填補以
外の制度目的である抑止と制裁(矯正的正義)が明確に区別されず,一定の行為の抑止を
実現しようとする際に,行為者の得た利益を奪うような制度設計が考えられる傾向にある49 。
年),塩崎勤「名誉毀損による損害額の算定について」判例タイムズ 1055 号 4 頁(2001 年)。,
47 これらの提言が公表された後に,裁判例において認められる損害賠償額の水準は顕著に
上昇した(升田純「名誉毀損・信用毀損の実務の変貌(1)〜(3・完)」NBL777 号 28 頁・
786 号 59 頁・787 号 39 頁(2004 年))。
48 団体訴訟制度に関する研究会「独占禁止法・景品表示法における団体訴訟制度の在り方
について」7 頁(平成 19 年 7 月 12 日)。
49 本稿4で取り上げた特許権侵害や名誉毀損に関する議論がそうであり(窪田・前掲〔註
34〕・688-693 頁参照)
,最近では,消費者被害に関しても同様の主張がなされることがある
13
小塚=森田・不法行為法の目的
しかし,抑止を正面から制度目的として位置づけるならば,制度設計の目標は「当該行為
を一切許さないこと」ではなく,「適正な水準にコントロールすること」でなければならな
い。そのために考慮されるべき要素は,行為者に発生する利益ではなく,当該行為によっ
て発生する損害の大きさと損害を発生させないために必要とされるコストのはずである 50 。
翻って考えれば,不法行為は制裁や抑止を目的とするものではないという最高裁判決の
一般論は,判決理由(ratio decidendi)と傍論(obiter dicta)を区別した場合の傍論にすぎない。
平成9年判決は,懲罰的損害賠償を命ずる米国の判決がわが国において承認・執行されな
いと述べたのであるが,その結論は,不法行為の制度目的が抑止にあると考えた上で,懲
罰的損害賠償の抑止効果が適正な水準よりも大きいと評価したときにも,導き得るもので
ある。「民事責任の機能を,被害者の救済,損害の填補だけに限定してしまうのは,……一
つのドグマティズムであ[る]」51 と田中英夫・竹内昭夫両教授が指摘されてから30年余,
そろそろドグマを捨てて,柔軟な制度論に対して門戸を開くときなのではなかろうか。
(後藤巻則「損害賠償と制裁」法律時報 78 巻 8 号 54 頁(2006 年))。
50 藤田・前掲〔註 10〕は,さまざまな場面を設定して制度設計の詳細を論じている。
51 田中=竹内・前掲〔註 36〕
・166 頁。初出は法学協会雑誌 89 巻 9 号(1972 年)。
14